:エピグラム
- 「傷口をとおしてでなければコミュニケーションは果たされず、分離するものによってしか人は結ばれない」──ドゥニ・オリエ
:課題の発生
- 「弁証法とは首尾一貫した非同一性の意識である。」(アドルノ『否定弁証法』)
自意識と無意識との弁証法を小説の文体の根幹に据えることにどんな意味があるのか、という問いにまず答えよう。
自意識と無意識の拮抗関係を虚構することまで射程に入れなければ、小説によって人生の実相を描き切ることはできないと考えられるからだ。小説の物語は登場人物たちの行動と行為(の回想)によって組み立てられるが、それらの運動が生まれて来る登場人物そのものの意識存在が一元的である場合、行動と行為の組み合わせがいかに精巧に出来ていたとしても物語のリアリティとしては弱い。物語のリアリティとして弱いということは、まだ未経験な人間にしか訴求力を持たないということだ。おそらく我々が幾多の物語に感銘を受けながらもそれらにまだ何か足りないと感じてしまうところから、もう一段視野を深めて自意識と無意識との弁証法を小説の文体として敷衍するという課題が生まれる。
:無意識=現実のキャパシティ
- 「無意識」とは、ここでは自意識が予期できないものすべてを指す術語として用いる。したがってそれは「他者」といった用語とは一致しない。他者が自意識の思い通りにならないものだとしても、その思い通りにならなさをも自意識は予期して予め反省したり物語化したりすることが可能だからだ(予期可能な困難というのはしばしば単なる遊戯である)。だが、無意識はさらにその自意識の予期を裏切る形で自意識に作用して来る。自意識が如何に活発に動き回っても予期し尽くせない現実のキャパシティを無意識は示唆する。たとえば「TO BE OR NOT TO BE」は単なる自意識上の葛藤・選択だが、現実はこの二者択一の深刻さを恣意的にしてしまうほどに多様に流動して個人の自意識を呑み込んでいくことがある。あたかも我々が能動的に意思決定する以前から、すべてがもっと大きな偶然的出来事の連鎖として受動的に運命づけられていたかのように。その無意識的なものの作用の小説における表現として、『罪と罰』のラスコーリニコフの殺人を挙げたい。ラスコーリニコフは殺すか/殺さないかの二者択一を決め切ったから老婆殺しに及んだのではない。彼が老婆を殺すのは能動的な意志が空転した果てに偶然に受動的に翻弄されてのことだった。「で、どんなふうに殺したと思う?……あんな殺し方ってあるものだろうか?……あのときぼくがでかけて行ったように、あんなふうに殺しに行く者があるだろうか?……果してぼくは婆さんを殺したんだろうか?……ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ……あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!……あの婆さんは悪魔が殺したんだ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、たくさんだ、ソーニャ、よそうよ! ぼくをほっといてくれ!」(第五部第四章)
現実のキャパシティは人間の予期を裏切る。現実のキャパシティは自意識の予期を軽々と超える。我々がどれだけ自意識で能動的に行動しているつもりでも、現実のキャパシティは我々を受動的にし翻弄するほどに広く強力である。それでもなお、我々は自分の運命を作り出して行こうとする倫理的な意志を諦めることがない。そのような人間の闘争を描くには、個人の自意識と現実のキャパシティ(とのズレ=遅れ。それは主体にとっては自己関係的なズレ=遅れとして触知される)を同時的に描ける文体を必要とする。それが一人称の範疇を超え出る語り手という第三者の分析的介入を伴う文体となることはほぼ自明だ。
無意識が現実のキャパシティとして現われる簡潔な例。「彼はいつの間にかオレンジ・ジュースの缶を買っていた。別に喉が渇いていたわけではなかった。陽光のぎらつく、延々と郊外を縫うアスファルトの舗道を歩いていて、左手側に自動販売機が見えた時、まず彼の注意を惹いたのは、その自販機のパネルに四種類のジュースしか並んでいないことだった。普通自動販売機と言えば前面に所狭しと様々な種類の飲料を並べているはずなのに、その自販機のパネルは抽象的なまでに簡素だった。しかもそのうちの一つは「驚くほどずっしり濃い味! 夏みかんジュース」という名称で、まったく味の予想が付かなかった。不意に彼はポケットの小銭を探って、自動販売機に百十円を投入し、その夏みかんジュースのボタンを押していた。その一連の動きの中で自分のやっていることを疑問に思った瞬間はなかった。彼が自分が何をやってしまったかに気付いたのは、ジュースの取り出し口に手を入れて、濃紺色のその缶の冷たさに触れた時だった。《俺は何をやっているんだ? 別に喉なんて渇いていなかったのに》。」──このように無意識=現実のキャパシティがもたらす細部が圧倒的であるがゆえに自意識が置いてきぼりになるような瞬間(無意識と自意識の自己関係的なズレ=遅れが生じる瞬間)、だがこのような瞬間こそが人生において決定的でありプロットにおいても重要な役割を果たすという洞察から、「小説」をふたたび研究し直さねばならない。
:「無意識」として想定されるもの
- ここではフロイトの精神分析における「無意識」には触れない(関連づけることも可能かもしれないが今はまだやらない)。ここで言う「無意識」は自意識が予期できないもの全般を意味している。それはまた自意識では操作し尽くすことが元から不可能な現実のキャパシティと等価でもある。それはどちらかと言うとスピノザ的な無意識に近似する。
まずこの「無意識」の性格を理解するために空想と夢の相違を考えてみるといい。空想においてはその一切の要素が望みどおりイメージ操作可能であり自意識の内部から生産される。そこではそれが空想にすぎないという意識さえも踏まえた上で遊戯的に消費され得る。対して、夢の中では実は一人称視点だとしても意識的に操作可能なものはほとんど生じない。単に荒唐無稽という意味ではなくて、そこでは意識が望むようには物事は生起せず、むしろ意識の期待を裏切るような形ですべての出来事が進行していく。時たま意識の欲求を満足させるように事態が推移するとしても、それは空想における操作的な満足の獲得ではなくて、意識のあずかり知らない偶然によってもたらされることでしかない(しかもそれは恥の感情を伴ったり身体的変調を伴ったりした上での満足である場合が多い)。夢は、我々の自意識を翻弄する点においてまさに現実のキャパシティの広さの変形された別の現われであるかのようだ。いや、むしろ我々の日常生活の方が、自分の自意識の能動性を錯覚している分夢の中でよりも遥かに現実のキャパシティを過小評価していると言えるかもしれない。予期しない出来事が連続するために夢の中で注意力と判断力が研ぎ澄まされるのは、明らかに日常において以上ではないだろうか?
「無意識」は心理の深層に隠された謎めいた欲情のようなもの、ではない。そんなものはいくらでも自意識によって予期可能である(予期できないとしたら、単に自己分析が足りないだけだ)。無意識とは、自意識だけによっては解決できない何か、作り出すことのできない何か、だ。あまり良いたとえではないが、自意識は言わばマジック・ミラー張りの部屋に閉じ込められているような実存形態だと言える。マジック・ミラーの向こう側の空間は隠されているのではなくちゃんと空間的な広がりを持っているということは、マジック・ミラーの構造を知ってその両側を見通すことのできる視点からは自明なのだが、部屋の内部からはその構造は──隠されているのではなく──目前にあるのに自己の鏡像としてしか見えないようになっている。そしてマジック・ミラーの構造を知ってその両側を見通すことのできる視点とは、小説の場合は主人公=「彼」の挙動を描き出す「語り手」の位相となる。
身体と精神を備えた一人の人間を「個人」として指定した時、無意識はその個人の内部にも存在して自意識との拮抗関係を形成する。たとえば身体の運動性はしばしば自意識の予期を裏切って、自意識を置いてきぼりにする。自意識は自分の身体が何をやっているかを完全に知っているわけではない。そこでやはり自意識と身体との間に自己関係的なズレ=遅れが生じ得る。同様に、実は精神も自意識の操作可能性を超えている。一つ挙げれば、感情は自意識の内部だけでは生産不可能なものの代表だ。感情は自意識によっては排除し切れないものの作用によって惹き起こされる。それは「個人」の範囲からすれば内的でもあるし外的でもある。過去の屈辱的な記憶の無意志的な甦りによって苛立ちを覚えるのは内的なものの作用から感情が惹き起こされるケース、自意識では操作不能な現実の出来事によって悲しみや苦しみの念を抱くのは外的なものの作用から感情が惹き起こされるケースである。いずれにせよ、感情の生起は精神と自意識との自己関係的なズレ=遅れを示唆する。小説の中で自意識と無意識(自意識によっては予期不可能なもの)とのズレを前提とせずに主人公の感情が描かれる場合、それはまったく浅薄な内面描写に堕す。
また、よく考えるまでもなく「他の人間」は自意識にとって完全に予期不可能な、現実のキャパシティの豊富さを告げる「無意識」的なものとして立ち現われるだろう。しかし他の人間が私(の自意識)にとって予期できないとはどういうことか。その他人の行動が予期できないということか? その他人が何を言い出すか、何を考えているかが予測つかないということか? だがもっと言えば、他人における自意識の予期不可能性はその他人が自分にとってどういう意味を持つかが分からない場合に最大となるはずだ。もし相手と自分の役割が固定していれば、相手の予期できなさはかなり軽減されることになるだろう。たとえば相手が主人であり自分が奴隷であるのならば、相手が自分に対して何をしてくるかはほとんど予測可能であり、逸脱も少ないことを期待できる。逆に、相手が自分にとって予測不能な、無意識的なものとして立ち現われてくるのは、相手が自分にとってどういう意味を持つのか分からなくなってしまった瞬間──以前は分かっていたつもりになっていたがその自明性が喪失してしまった瞬間──においてこそだろう。自意識はしばしば他人に対する評価を変更したり翻さざるを得なくなったりするが、その変化を促すものこそ他人という無意識=現実のキャパシティの豊富さにほかならない。
ところで、自意識と無意識との弁証法の舞台となる「個人」は一つの小説内では原則として複数の登場人物の中から一人しか選び出すことが出来ない。或る一個人からすれば別の個人は現実のキャパシティの豊富さを構成する一要素になり、逆もまた真だからだ。もし複数の「個人」の自意識と無意識との弁証法を描きたければ、章を隔てて主人公を切り替えるような便宜的な措置を取らなければならない。
:無意識と「社会」
- 人間は社会的存在であるがゆえに自意識と無意識との弁証法と言った場合、無意識=現実のキャパシティには「社会」も当然含まれることになる。では無意識としての社会とは何か。
論証抜きで断言する。もちろん社会は自分自身をも含んだ「他の人間」の集団によって成り立つが、その社会が個人に無意識的なものとして立ち現われるとしたら、それは「他人の欲望」の予測不可能性を契機としてだ。なぜ或る対象(時に自分自身も含まれる)への欲望が発生したり消滅したり変化したりするのか、それをまったく予期し得ないことが社会的存在である「個人」を受動的にさせ翻弄する。欲望、という言い方が強過ぎるならば「或る対象に優しい好意の感情を持ったり、逆に不信や嫌悪の感情を持ったりすること」と言い換えてもよい。あるいは「或る対象を深く理解して同情したり、逆にそれを歪曲して貶めたりすること」と言い換えてもよい。なぜ他人が或る対象(自分)に好意を持つのか、不信の念を持つのか、それが個人の自意識にとってはまったく予期できずに違和感しかもたらさないような時、我々は無意識としての社会の無気味さに突き当たっているというわけだ。
他人の欲望の予期できなさは、幾らかは程度問題である。他人が或る対象を欲望しているという時、その欲望の志向性とその対象の質的価値が安定した関係を持っているならばそれはまったく予期不可能であるとは言えない。たとえば飢えという欲望(欲求と言うべきだが)と食物という対象の関係は、それがなぜ欲望されるのかはきわめて明瞭であって予期は可能であるし、だからこそ欲望が暴走しないように対象の生産と消費を調整することも容易であるだろう。だが、そのような欲望と対象の調和的な関係が維持されるのは前資本主義的な社会形態においてだけだ。巨大な商品の集積としてあらわれる近代資本制社会においては、「他人の欲望」は対象の質的価値との調和的な関係を保っておらず、社会内で生産と消費が自覚的に調整されるということは本質的にあり得ない。つまり、集団としての他人の欲望も、単一の個人としての他人の欲望も、ほとんど予期不可能な混沌とした現象として立ち現われることになる。他人の欲望のできなさは、歴史的な経済構造に相関する。そして二十一世紀においても、現代を舞台に虚構を作り上げるならば、無意識としての「社会」の本質である資本制を無視できない。
近代資本制社会では、他人がなぜ或る対象を欲望するのか、なぜ或る対象が人気があり、なぜ或る対象が愛されるのか、そしてなぜ別の対象が欲望されないのか、なぜ或る対象が不人気であり、なぜ或る対象が貶められるのか、その原因が対象の質的価値に直接に結び付くということはない。だから単独者としての個人にとっては、自分が欲望されようが愛されようが、その相手の欲望に対して自意識で操作可能な要素はほとんどなく、つねに他人の欲望に対し受動的であることを強いられる。『罪と罰』で、ラスコーリニコフが母と娘の自己犠牲的な愛をネガティヴに感じながら追い詰められていくことが、彼を非-能動的に殺人に赴かした要素の一つだったことを思い起こしてみてもいい。予期不可能なものとして、無意識的なものとして切迫してくる他人の欲望は、それが優しさや好意や愛情といったものであっても「個人」にとっては無気味なものであり得る──「暴力的」であり得る。しかもそれがいつ消滅し変化するかも分からないのだ。他人の欲望に対して、我々の自意識は置いてきぼりにされるほかはない。
もっと穿った言い方をすれば、他人の欲望の理由は「他人が欲望しているから」と表現できるだろう。他人が欲望しているから、我々もそれを欲望するというわけだ。つまり欲望の対象の使用価値(質的価値)よりも交換価値の方が過大に見積もられるということ。そして資本制社会でそのように欲望されるものの最たるものは、もちろんフェティシズム的性格を帯びた「貨幣」である。逆に、欲望の理由として対象の使用価値を持って来る時、賃金の支払いという場面でそれを考えるならば「労働価値説(商品の価値は、それに投与された労働力によって決定される)」のようなフィクションが生まれて来ると言ってよいだろう。だがそれは自意識が空想するフィクションに過ぎない。
他人の欲望は予期できない。ところで、自分の欲望なら予期できるのだろうか。自分が何を欲望しているかを自覚できないという人間はいないだろう。だが、そのなぜ自分がその対象を欲望しているかを答えるという段になると、近代資本制社会においてはやはり困難が生じることになる。或る場合には対象の質的価値によって説明できるだろうが、多くの場合はそうではない。なぜその対象に優しい感情を持つのか、なぜその対象を愛するのか、なぜその対象を買うのか、真剣に問えば問うほどその理由は拡散していってしまうはずだ。つまり、他人の欲望だけではない、自分の欲望の原因もまた、無意識的なものとして自意識と自己関係的なズレ=遅れを孕むということだ。
他人(ロゴージン)の欲望と同様に自分自身の欲望の原因もまた不透明であり無意識的なものとして自意識と拮抗関係を形作ってしまう、という状況を小説として表現した一例として、『白痴』の第二部第五章・第六章を挙げておく。
ここで参照されるべきはあくまで小説であって、社会科学ではない。無意識としての社会は個々人の自意識の自己関係的なズレ=遅れを通してしか思考できないからだ。
:主人公(ないしは登場人物)の問題
- 他人の欲望の不可測性に対して完全に受動的であることに充足するならば、その人物は単なる消費者であって小説で描くに足りない。人気取りゲーム(プロパガンダ競争)に翻弄され右往左往するだけの人物もまあどうでもいい。社会的存在として無意識的なものの強いる受動性に翻弄されながらも、辛うじて能動的な意思決定を行なおうとする個人の倫理的行動を描かなければ、わざわざ自意識と無意識との弁証法という面倒臭いものを仮構してまで小説を書く意味がない。L.ゴルドマンの言葉を引こう。「小説は、一方においてはまさしくすべての叙事詩的形式が前提条件とする主人公と世界との基本的な共同性にかかわりをもち、また他方においては、この両者のあいだの克服しがたい決裂にかかわりをもっているという意味において、弁証法的な性質をもつものである。主人公と世界の共同性は、この二つのものがどちらも真正な価値との関係において毀損されていることによって生じ、対立性のほうは、この二つの毀損のそれぞれのあいだにおける性質の相違によって生じるものである。」「ルカーチが書いているように、小説は、小説家の倫理が作品の美学的問題となる唯一の文学形式である。」(L.ゴルドマン『小説社会学』)
したがって小説の主人公は──必ずしもそうでなければならないということではないが──少なからずアンチ・ブルジョワジー的な要素を持ち、資本制のメカニズムから逸脱し、市民社会において過剰なものを帯びることにならざるを得ない。その過剰性はポジティヴなものでもネガティヴなものでもあり得る。犯罪者や狂者や孤児といった類型はしばしば近代小説の古典で用いられてきた。そこに我々は芸術家や禁治産者や愚者や放蕩者や殉教者やサディストやマゾヒストやファシストといったタイプを付け加えることもできるかもしれない。リュシアン・ルバテの『ふたつの旗』という近代小説史上最大の傑作が、文学志望者を主人公に据え、しかも作者のルバテ自身がナチズムに加担したファシストであったことはきわめて示唆的である。小説における主人公の問題は、反ヒューマニズム的な思想の系譜としてジョルジュ・バタイユの聖社会学などともクロスさせることのできる射程を備えている。
だが、まだこの問題の掘り下げは暫定的なものにとどまる。一つ言えることは、社会の中で経済構造からまったく無縁ではあり得ない以上主人公は必ず敗北することになるのだが、その敗北・毀損・頽落の痛覚がある限りで、我々はまだ何かしら高貴なもの、毀損されていないものが秘かに持続していることを触知ことができるということだ。この希望は、単に無自覚に毀損されていない真正な価値(愛・正義・純粋・信頼)をなぞり書きして体現することができると信じている通俗的な自意識の物語=紋切型のエンターテイメントとは区別されなければならない。「しかし小説はうわさ話と同じことで、人間心理にたいして機械的であり破壊的でもある、偽の同情や反感をそそることがある。腐敗した感情でも、それが因習的に「純粋」なものとされていたりすると、小説というものは、ひどく腐敗した感情をも美化し去ることがある。そういう小説はうわさ話と同様、堕落したものとなる。そしてまたうわさ話と同様、外面的には天使の側に与しているがために、いっそう堕落したものとなる。」(D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』)
:無意識とダイアグラム
- 小説のダイアグラムの原動力は主人公の自意識から独立している。個人の意志や動機はダイアグラム全体に対しては副次的な意味しか持たない。無意識は身体においても精神においても社会においても自意識の予期を圧倒的に凌駕しており、現実のキャパシティに受動的に翻弄されるのが自意識の第一の運命である以上、主人公が目的に沿って行動したり意を決したりすることは小説のダイアグラムで大きな意味を持つことはない。むしろ、小説のダイアグラムを推進するものは、判断も意志も通過せずに決定付けられてしまう主人公の行動(ニーチェ「主要な行動の大半は無意識的になされている」)、予期し得ないものへのリアクションの連続である主人公の動線、そして明確な目的ではなく主人公の周囲で事態が偶然的に展開するにつれて次第に形を取り始める欲望-暴力、なのである。
無意識としての社会を考える場合、主人公の自意識は無数の他人の欲望の網目の上を偶然的に漂っているに過ぎない。主人公の自意識そのものは何も変わっていなくても、他人の欲望の網目が変動することによって自意識の自分に対する価値も変わってしまう(突然に職を失うような場合を考えてみるといい)。そのように受動的に自分に強いられて来るものを、あえて自ら能動的に選び取った宿命のように受け入れていくことが人間の悲劇の源だ。自意識は、予期せず訪れた自らの不可避的な恥辱や敗北や破滅や死さえ宿命として受け入れることができる(予期し得た敗北を受け入れることは容易である)。自分を否定するものを同時に保持することが弁証法における「止揚」だとするならば、自意識と無意識との弁証法の結末は、悲劇的なものにほかならない。「……すでに述べたとおり、我々は自分自身の行為すら完全に意識して自己決定下に置いているわけではないし、ましてその帰結ともなれば予想外の事態が多く生じることになる。だがそれでも、発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受けるとき、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体としてではなく、積極的に自由な選択をした主体として立ち現われるのだ。」(大屋雄裕『自由とは何か』)
:バフチンのドストエフスキー論の読み替え
- 我々の文脈からするとバフチンのドストエフスキー論には誤謬がある。ドストエフスキーの創作における主人公の形象化について、バフチンは自意識という契機を強調し過ぎているように思う。我々の文脈からすればそれは「自意識」ではなく「自意識と無意識との弁証法」と表現すべきなのだが、それだけではなくドストエフスキーの作品そのものに即しても、バフチンの見解には彼が自意識という契機を重要視し過ぎるあまりに導かれた誤りが幾つか存在しているように思うのだ。たとえば「彼〔ドストエフスキー作品の主人公〕は最後の言葉は自分のものだと知っており、何としてでもその自分に関する最後の言葉、自分の自意識の言葉を自らに留保しようと努めている。それはその言葉によって、あるがままの自分から解放されるからである」といった見解については、それは「解放」どころか単なる自意識の空想的な勝利に過ぎないのではないかと疑義を呈したくなるし、主人公に関する最後の言葉はむしろ無意識の側に委ねられているのではないかと問いたくなる。あるいはバフチンは「生きた人間を、当事者抜きで総括してしまうような認識の、もの言わぬ客体に帰してしまうことは許されない。人間の内には、本人だけが自由な自意識と言葉という行為をもって解明することのできる何ものかが存在しており、それは人間の外側だけを見た本人不在の定義ではけっして捉えきれないものなのである」と言い、その主張の射程を「資本主義という条件下における人間および人間関係、さらにはあらゆる人間的な価値の物象化現象に対する闘い」にまで延ばしていくのだが、果して「(本人の)自意識」というのはそれほどに「自由」なものなのだろうか? むしろそれは無意識という現実の圧倒的なキャパシティの前につねに受動的であらざるを得ず、その受動性を恣意的に無視して自らを能動的で自由だなどと思い込むことは単なるロマン主義的反逆に過ぎないのではないか? ここでイポリットのヘーゲル論から次の一節を引こう。「自己意識は、他の欲望、他の自己意識を見出すことによってしか自分自身に到達することができないことになるのである。……欲望とは、他なるもののなかに自分自身を求めることであり、人間によって人間が承認されることへの欲望なのである」。自意識はそれ単独でメタレヴェルに位置しているかのように存在できるものではない。自意識はつねに自意識ならざるもの──無意識──との拮抗関係においてのみ存在することができ、しかも無意識的なものを社会に求めた場合、それは他人の欲望の予期不可能性に対して受動的足らざるを得ないものなのだ。
バフチンがそのドストエフスキー論の中で「自意識」と呼んでいるものを、「自意識と無意識との弁証法」と正確に読み換える必要があると思われる。そして無意識には身体的なものも精神的なものも社会的なものもあるわけだが、ドストエフスキーの小説に関連する限りでは社会的なものとしての無意識が当然考察の対象になる。以上を踏まえた上であればバフチンのドストエフスキー論が提示する洞察は我々にとって大いに有益だ。
たとえばバフチンは次のように書く。「主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、世界と自分自身に対する特別の視点としてであり、人間が自身と周囲の現実に対して持つ意味と価値の立場としてである。……したがって主人公像を形成する要素となっているのは、現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴ではなく、それらの特徴が彼自身に対して、彼の自意識に対して持つ意味なのである。主人公の確固とした客観的資質のすべて、すなわち彼の社会的地位、社会学的・性格論的に見た彼のタイプ、習性、気質、そしてついにはその外貌まで──つまり通常作者が《主人公は何者か?》という形でその確固普遍のイメージを形成する際に役に立つすべての事柄が、ドストエフスキーにおいては主人公自身の内省の対象となり、自意識の対象となる。いわば作者の観察と描写の対象とは、主人公の自意識の機能そのものなのである。」──我々はここに出て来る「自意識」の言葉を「自意識と無意識との弁証法」と置き換えればこの主張をほぼ受け入れることができる。さらに言えば「主人公自身の内省の対象」というのは、「主人公自身の自己関係的なズレの要因」と置き換えるべきだ。ドストエフスキーにおいて主人公の現実的な諸特徴は、それが彼の自意識と無意識との弁証法に対してどのような意味を持つかだけが重要である。他人の欲望は、主人公に対して優しい好意を差し向け、かと思うと不信の念を抱き、あるいは主人公のことを深く理解し同情しようとし、かと思うと彼のイメージを歪めて貶めようとする。その予期不可能性と操作不能性に対して主人公がいかに内省しようとどうにもならず、彼はただ自分の自意識がそれらの無意識によって翻弄されるという苦痛(情動的アレルギー)の中でのみ自分自身の輪郭を掴むことができる。だがその自分自身が掛け替えのないものであることもまた確かなことだ。作者の観察と描写の対象が「主人公の自意識と無意識との弁証法の機能そのもの」である限りで、そのような掛け替えのなさもまた形象化可能となるのである。
バフチンはまた次のようにも言う。「創作活動の初期にあたる、いわゆる《ゴーゴリ時代においてすでに、ドストエフスキーが描こうとしていたものは《貧しい役人》そのものではなく、(デーヴシキン、ゴリャートキンやさらにプロハルチンの場合でさえ)貧しい役人の自意識であった。ゴーゴリの視野においては客観的な特徴の総体として、主人公の確固たる社会的・性格論的風貌を構成していたものが、ドストエフスキーによって主人公自体の視野に導入され、そこで主人公の苦悩に満ちた自意識の対象となったのである。ゴーゴリが描いた《貧しい役人》の外貌そのものをも、ドストエフスキーは自らの主人公が鏡の中に見ることを強いている。しかしそのおかげで主人公の確固たる特徴のすべてが、内容的には何ら変わらぬままに、一つの描写次元から別の次元へと置き換えられ、まったく異なった芸術的な意義を獲得した。それらはすでに主人公を完成させ、完結することも、彼の一貫した全体像を構成することも、《彼は何者か?》という問いに芸術的な解答を与えることもできないのである。我々が目にするのは、彼が何者かということではなく、彼がいかに自分を意識しているかということであり、我々の芸術的視線の先にあるものは、主人公の現実ではなく、その現実を知覚する彼の意識の純粋な機能なのである。」──ここでもバフチンは事の半面しか見ていないように思われる。『貧しき人びと』で描かれているのはむしろデーヴシキンの自意識と無意識との弁証法だ、と言わなければならない。デーヴシキンが「いかに自分を意識しているか」ということはほとんど問題ではない。そのような自意識による自己像の操作は幾らでも空想的に変形が可能だし、それこそデーヴシキンの自意識は自分自身を「確固たる社会的・性格論的風貌」を備えた安定した人格として思い描き、それにナルシシックに耽ることも可能である。その自意識のリアリティとは別のリアリティを突き付けられ、彼が動揺せざるを得ないのは、彼の自意識にとってはまったくその原因が理解できない他人の欲望-暴力の複数的な作動(=無意識としての社会)が彼を翻弄するからだ。ドストエフスキーが描こうとしていたのはもちろん《貧しい役人》そのものではないが、貧しい役人の自意識だけでもないのであり、『貧しい人びと』に関連して言えば、主人公のデーヴシキンの自意識と、他の登場人物たちの欲望、デーヴシキンには予測不能な形で彼を不意打ちしてくるワルワーラやフェドーラやゴルシコーフやラタジャーエフやエメリヤン・イワーノヴィッチやブイコフやアンナ・フョードロヴナやマルコフや女主人やチモフェイ・イワーノヴィチや閣下たちの欲望-暴力の絡み合い(さらには、デーヴシキン自身が他人に向けている自分でも根拠不明な欲望-暴力の作動)との拮抗関係こそがそれなのだ。我々が目にするのは、彼の自意識がいかに無意識に翻弄されるかということであり、どこまでも受動的に追い詰められていく彼の苦悩に満ちた自意識とその運命である。とはいえ、バフチンがドストエフスキー作品の主人公を「世界と自分自身に対する特別の視点」と見做しているのは、我々の文脈からしても正しいことだ。つまりドストエフスキーは、「作者および語り手という存在を、彼らの視点の総体、および彼らが主人公に与える描写、性格づけ、定義といったものすべてとともに、主人公自体の視野の中に導入し、そのことによって主人公の完結した現実をまるごと、彼の自意識と無意識との弁証法の素材にしてしまった」わけだ(元の引用文では「彼の自意識の素材」)。ドストエフスキー作品においては、「主人公自身の現実のみではなく、彼を取り巻く外的世界や風俗も、この自意識と無意識との弁証法のプロセスに導入され、作者の視野から主人公の視野の中へと移し換えられる」(元の引用文では「この自意識のプロセス」)。
バフチンはまた次のようにも言う。「あらゆる人間の描写において自意識をその主調音とすることは可能である。しかしすべての人間がひとしなみにそのような描写にふさわしい素材であるわけではない。ゴーゴリ風の役人は、その意味ではあまりにも狭い可能性しか提供し得なかった。ドストエフスキーは意識を主たる活動としているような人間、つまり生活のすべてを自己と世界を意識するという純粋な機能に集中させているような人間を捜し求めていた。そこで彼の創作の中に《夢想家》や《地下室の人間》が出現するのである。」──ここにもバフチンの誤謬があるように思う。自意識という契機を強調し過ぎるあまりドストエフスキーに特徴的な主人公を単なる自意識過剰な人間という類型に落とし込んでいるような嫌いがある。だが、《夢想性》や《地下的性格》もまたあまりにも一元的な解釈ではないか? むしろ我々は「自意識と無意識との弁証法」を主たる活動としているような人間とは誰か、を考えてみよう。その場合、因習的なステレオタイプな物語に自らをなぞらえて、どう考えても無意識に翻弄されているだけなのに自分を自由で能動的な主体だと思い込んでいるような通俗的なヒーローは、そのような人間ではあり得ないことは自明だ。そうではなく、鋭敏に自分の受動性を自覚し、それに苦痛(情動的アレルギー)を覚えるような人間、自意識の予期し得ない無意識的なものの衝迫に対して激しい発作を起こすような人間、さらに言えば自意識と無意識の自己関係的なズレ=遅れをちゃんと察知できる人間、こそが第一にドストエフスキーに特徴的な主人公であり得る。彼は無意識的なもの(たとえば他人の欲望-暴力の複数的な作動)に自分が翻弄されることに鋭い自覚を持ち、それを苦々しく思いつつ、自意識と無意識との緊張関係を維持し得るほどに知性が高い。それでいて彼が資本制の社会に対する一種の不適合者であることは間違いない。さらにそこに自分自身の身体に対するズレ=遅れや、根拠不明の感情や想起への違和感が重なる。それは到底《地下室の人間》といった類型で捉えられるような単純なものではないだろう。
だが《地下室の人間》についてはバフチンは興味深いことも書いている。「《地下室の人間》はもっぱら自分が他人にどう思われているか、どう思われ得るかについて考え、それぞれの他者の意識、他者の自分に関する意見、自分への視点のすべてに先回りしてしまおうとしている。その告白の重要な瞬間瞬間において、彼は自分に対してなされるであろう他者の定義や評価を先取りし、その評価の意味やニュアンスを推察することに努め、自分に関してあり得べき他者の言葉を丹念に検討しようとするので、彼自身の言葉は想定される他人の言葉によって絶えず中断させられてしまう。……地下室の主人公は自分についての他者の言葉の一つ一つに耳を傾け、いわば他者の意識の鏡をすべてをのぞき込み、ありとあらゆる形に歪められた自らの像を認識している。」──幾らか不正確だが、ドストエフスキー作品の主人公に特徴的なことを抽出するとしたらこのアスペクトに注目することこそ重要だろう。つまりドストエフスキー作品の主人公にとっては「自分に対してなされるであろう他者の定義や評価」を無視できないことが決定的なのだ。それは彼の自意識によって精査し内面に取り込むことができるものとしてではなく、その作動を自意識ではまったく予期できない無意識の衝迫(たとえば他者の欲望-暴力の予期不可能性)として彼を翻弄する。この関係をバフチンはしばしば「対話的」と表現するのだがこれもまた不正確だ。「ポリフォニー小説の作者は、極度に張りつめた大いなる対話的能動性を要求される」というような意味不明の表現もある。あたかも作者と登場人物が対話的に付き合うことが可能であるかのように。だがこの関係はあくまで自分を否定するものを同時に保持するという意味での弁証法と類比的に捉えるべきであり、その関係に入るのは、主人公の自意識と、それを翻弄する現実のキャパシティ=無意識という二つの項であって、二人の登場人物(の意識)の関係のことだったり、まして主人公と作者の関係のことを意味するのではない。そしてこの弁証法的関係を描くにあたっては、主人公の視野だけにとどまるのではなく、その周囲で絡み合って彼に受動性を強いる現実(の編成・遭遇・変動)をまるごと虚構しなければならず、したがって主人公自身でも分からない・予期できないものをも徹底的に明瞭にして描き尽くさなければならないということが、主人公≠語り手ではない第三者的な分析的介入を必要とするのであり、これがドストエフスキーの小説における新しい作者の立場なのだ。バフチンが「対話」の一例として挙げているラスコーリニコフの内的独白も、その前提となっているラスコーリニコフの母の欲望・ドゥーネチカの欲望・ルージンの欲望(さらには間接的にはマルメラードフの欲望)の絡み合いと、それらに対するラスコーリニコフの自意識による否認ではどうにもならない無力さという受動性の苦痛(情動的アレルギー)をまるごと虚構しない限り、描き得ないもののはずだ。あまりにも「対話」という用語を恣意的に用いるバフチンの論述に我々が付き合う必要はないだろう。
「問題は単数の暴力ではなく諸暴力にある。闘争の機軸は暴力と無垢の間ではなく、そう考えさせられることと個々の具体的な暴力を具体的に分析することとの間にある」(鎌田哲哉「知里真志保の闘争」)。バフチンはしばしばドストエフスキーのモティーフが物象化に対する批判であるなどということを主張するが、その時諸暴力の分析を停止して暴力と無垢(自由な主体性の解放)というロマン主義的な構図に彼が陥ることは避けられまい。
:ジル・ドゥルーズ『スピノザ──実践の哲学』からの引用
- 「……身体をモデルにとりたまえというスピノザは、それによって何を言おうとしているのだろう。
それは、身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれについてもつ意識を超えているということだ。身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を超えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみうからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。……いいかえれば身体というモデルは、スピノザによれば、なんら延長〔私たちの物質としてのありよう〕に対して思惟をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられる〔意識本位が崩される〕ことだ。無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。
それというのも、意識はもともと錯覚を起こしやすくできている。その本性上、意識は結果は手にするが、原因は知らずにいるからだ。原因の秩序は、明確にいえば次のようなかたちをとる。すなわちまず、すべての身体または物体は延長において、すべての観念ないし精神は思惟において、それぞれその体、その観念のもつ諸部分を包摂する個々特有の構成関係をもって成り立っている。ある体が他の体に、ある観念が他の観念に「出会う」とき、この両者の構成関係はひとつに組み合わさってさらに大きな力能をもつあらたな全体を形成することもあれば、一方が他を分解してその構成諸部分の結合を破壊してしまうこともありうる。こうして、それら個々も生きた諸部分の集合体であるひとつひとつの身体や精神が、もろもろの複雑な法則にしたがってたがいに合一をとげ、分解をとげるということ、まさにそこにこそ身体の不思議があり、精神の不思議がある。原因の秩序とは、したがってそうした個々の構成関係すべての形成と解体の秩序であり、全自然がその無限の変様をとおしてとる秩序にほかならないのだ。だが私たちは、意識をそなえた私たち人間は、どこまでもそうした合一や分解の結果を手にしているにすぎない。ある体〔身体または物体〕がこの私たちの身体と出会いそれとひとつに組み合わさるとき、ある観念がこの私たちの心と出会いそれとひとつに組み合わさるとき、私たちは喜びをおぼえ、また反対にそうした体や観念によってこの私たち自身の結構が脅かされるとき、悲しみをおぼえる。私たちは、みずからの身体に「起こること」、みずからの心に「起こること」しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇におかれているのだ。そもそも自身の身体や心が、その固有の結構関係のもとにどのように成り立ち、他の身体や心または観念が、それら個々の構成関係のもとにどう成り立っているのか、またそうしたすべての構成関係がたがいにどのような法則にしたがって合一や分解をとげるのか──そうしたことは、私たちがみずからの認識や意識の所与の秩序にとどまっているかぎり、何ひとつわからない。要するに、そのままでは私たちは、ものごとの認識においても自身の意識においても、本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもてないようにできているということだ。……」
「それにしても、意識には意識それ自身の原因がなければならない。スピノザはときに、欲望とは「自意識をともなった衝動」であると定義することがある。しかしこれは、続けて彼が明らかにしているように、欲望のあくまでも名目的な定義にすぎず、意識をともなおうとともなうまいと衝動であることに変わりはない(「私たちは、あるものがいいと〔意識的に〕判断するからそれを求める〔欲望する〕のではない。反対に、私たちはあるものを求めている〔欲望する〕からこそ、それがいいと〔意識的に〕判断するのである」)。意識は衝動の過程でいわば穿たれるのであり、私たちはそうした意識の「原因」をも同時に示すような実質的な欲望の定義に到達しなければならないのだ。ところですべてのものは、身体や物体であれば延長において、心あるいは観念であれば思惟において、どこまでもそれが存在するかぎりその存在に固執し、それを保持しようとしつづける。衝動とはまさにそうした個々すべてのものがとる自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない。けれどもこの努力は、出会ったその対象に応じてさまざまに異なった行動に私たちを駆り立てるから、そのありようは、対象が私たちに引き起こす変様によってそのつど決定されているといわなければならない。私たちのコナトゥスを決定するこうした触発による変様こそ、このコナトゥスに意識が生じる原因でなければならない。しかもこうした変様はその出会いの相手が私たちとひとつに組み合わさるか、それとも反対にこの私たちを分解してしまうようなものであるかに応じて、より大きなあるいは小さな完全性へと私たちを移行させる動き(喜びや悲しみ)と不可分に結びついているために、意識は、そうした〔完全性の〕より大きな状態から小さな状態への、より小さな状態から大きな状態への推移の、連続的な感情の起伏として現われてくる。意識は、他の体や観念との交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定をものがたっているのである。私の本性と合う対象は、それ自身と私の両者をともに含む高次の全体をかたちづくるよう、私を決定する。私に合わない対象は、この私自身の結合を危うくさせ、私という集合体を部分へと解体してしまうおそれがあり、極端な場合には、それらの部分がもはや私の構成関係とは相容れない構成関係のもとにはいってしまうこと(死)もありうる。意識は、力能のより小さな全体からより大きな全体への、またその逆の、そうした推移というか推移の感情として現われてくるのであり、どこまでも過渡的なものなのだ。けれども意識は〈全体〉それ自体の特性ではないし、個別的などんな全体のもつ特性でもない。意識は情報としての価値しかもたないし、その情報にしても混乱した断片的なものであらざるをえない。……」
:無意識と会話
- 個体は或る無意識のからくりを強いられている。その個体がたとえば犯罪行為に手を染めなかったとしても、それは別段主体的に犯罪行為を選択しなかったことを意味しない。単に彼は犯罪を実行した人間が強いられていた無意識のからくりとは別の無意識のからくりを強いられていただけだ。自意識上でどんなに苦闘しようともそのからくりから身をもぎ離すことはできない(ということの自覚を通過しない「小説」に我々は興味を持つことはできない)。
この観点から「会話」について考察する。まず見逃せない洞察は、会話において何が語られたかよりもそれがいかに語られたかの方が遥かに重要だということだ。もう少し詳しく言えば、その文言がどのような構造(=諸関係)の下で出て来たものであるかということが、その文言の内容の理解よりも遥かに重要だということ。この構造、というのは現前的な態度や口調に限られないので、たとえばメールの文章であってもこの「何が語られたか/いかに語られたか」の分裂は生じ得る。そしてこの構造を作り出しているのが自意識によっては汲み尽くせない無意識=現実のキャパシティだ。
この構造は当然社会的なものである。そして社会的な構造(社会的諸関係)すなわち他人の欲望-暴力の複数的な作動にのっとった会話の流れに対しては、自意識はつねに受動的であるほかはない。場合によっては自意識は会話の中で自分が言いたくなかったことさえ、うっかり口をすべらせて言うことを強いられる──しかもそれはしばしば自意識がまったく予期しなかったような形で相手に解釈される。もちろん自意識の思惑通りに予定調和に終わる会話というのもあるだろうが、そうした会話が小説のプロットにおいて重要な役割を果たすことはない。自意識が辛うじて自分の予期通りに会話を終わらせることができたとしても、それはつねに傍に自分が思わぬ形で翻弄されるという危険を感じながらのことだ。つまり、会話は自意識とって危機として到来する。自意識=自意識という静的な同語反復を破壊する危機として。
したがって、会話は単に言葉のやり取りとしてのみ構想されるべきではなく、それがのっかっている社会的な構造(社会的諸関係)──主人公の自意識にとっては操作不可能な構造──をもまるごと虚構した上で、そこから必然的に出て来る人物の姿態や声の抑揚までを具体的に作り出す必要がある。だから会話場面だけを取り出した文体分析は無意味である。加えて言えば、登場人物の一人を単独で取り出す分析も無意味である。
会話が小説にとって重要なのは、言い換えれば主人公が誰かと言葉を交わすという「行動」が特に重要なのは、それが主人公の自意識の能動的な運動が無意識との弁証法に巻き込まれて自己関係的なズレ=遅れに苦しむ(情動的アレルギーを出す)という具体的な様相として、あまりに決定的なものだからだ。だから場合によっては会話場面の構想がそのまま小説のプロットの発案と重なりもする。
ところで、「構造」というと空間的な諸関係だけが問題であるかのように響くが、実際には無意識=現実のキャパシティの豊富さのことなのだから、もちろんそこには時間的な(歴史的な)構造というものも含まれる。たとえば対話相手がどのような人生を生きて来てどのような経験を不可逆的に持っているかということも自意識にとっては操作不能であり、場合によっては不可知であり得る。表面的な言葉のやり取りは操作できても、そうした時間的なからくりの広さまでは到底自意識では汲み尽くせないから、会話の流れに対して自意識が及ぼし得る影響など所詮ほんのわずかなものに過ぎない。会話の多くの要素はすでに会話の始まる以前に構造によって決定されてしまっていると言っていい。また、言うまでもなく時間的な(歴史的な)構造に身を貫かれているのは主人公自身もそうである。作者は現実認識をそこまで広げて虚構を作り上げることになる。
:出会いという契機
- 自意識と無意識との弁証法があるとして、なぜそれは作動したのか。主人公の自意識が置いてきぼりにされるとして、その端緒には何があったのか。
受動的偶然としての「出会い」が、その答えだ。出会いと言っても別に他人との出会いとは限らない。或る物体との出会いでもあり得るし、或る状況との出会いでもあり得るし、或る場所との出会いでもあり得るし、或る言葉との出会いでもあり得る。出会いである以上は、それは自意識がまったく予期しないものとの遭遇でなければならない。ただしここで言う「無意識」には精神的なものも含むので、主人公の自意識はその出会いを予期していなかったが、無意識ではその出会いを望んでいたというふうに言うことも場合によっては可能だ。
自意識の予期し得ないものとの出会いという契機を含まない小説のダイアグラムはあり得ない。しかしその出会い=受動的偶然は作者によって作為されたものではないのか、という疑問に対しては、それは自意識の虚偽を浮び上がらせるための別種の嘘なのだ、と答えよう。処女的に一切の嘘を退けようとする態度は端的に不毛だ。
小説の作者にはダイアグラムとしては出会いを、設定としては(身体的な、精神的な、社会的な、etc...)無意識=現実のキャパシティをまるごと創作するという義務が課せられる。
:登場人物たちの欲望偏差表
- 自意識と無意識との弁証法を小説システムの根幹に据え、他人の欲望-暴力の複数的な作動(=無意識としての社会)を描き尽くそうとするならば、いわゆる登場人物相関表というものはまったく役に立たなくなる。登場人物の一人一人が何者であるかを固定的に書き込み、さらにそれぞれの登場人物の間にどういう関係が成り立つかをこれまた固定的に設定する登場人物相関表は、自意識と無意識のズレを把握できない点で小説の構想段階では何の有用性も持たない。
自意識にとって操作不可能なのは他人の欲望である。どういうことか。たとえばここに一人の登場人物がいて、彼女は美人だということになっているとする。しかしその美貌を肉体的なもの、すなわち物質的かつ感性的なものであって誰の目にも同じような価値を帯びる「美しさ」として固定的な属性と見做すならば、そこに弁証法も社会性も一切生じない。実際には彼女が美人と見做されるために物質的に美形である必要はないのだ。社会の全成員が彼女を美しい女性として欲望するならば彼女がどんなに物質的には不器量であろうとも彼女は美人であるという命題が真実となる。つまり彼女が自然において美人であるかどうかはともかく、彼女が社会的に美人であるかどうかは他人にそのことを承認させることによってはじめて成立する。それは物質的には単なる紙切れに過ぎない紙幣が社会的には価値や意味を帯び得ることと類比的だ。そして自意識にとっての操作不可能性=無意識を考える場合には、そのように彼女が欲望されたり欲望されなかったりということが何故起こるかを予期できないことが決定的なのだ。確かに彼女の物質的かつ感性的な美しさというのも自意識には操作不可能だが、そんな美しさは「飢え」と同様単に自然的な本能の欲求の対象であるに過ぎない──「欲望」の対象にはならない。彼女が物質的かつ感性的に如何に美貌であろうとも、社会の全成員がそれを承認せず無視するならばその価値は完全にゼロになるからだ。イポリットのヘーゲル論から一節を引こう。「人間は、人間であるかぎりにおいて、それぞれに異なっており、強いひとも、弱いひとも、器用なひとも、そうでないひとも存在している。しかし、これらの区別は本質的なものではない。これらはたんなる生命の区別にすぎない。人間の精神的性向は、すでに、万人の万人に対する争いのなかにあらわれている。なぜなら、この争いは生命のための争いではなくて、承認をうるための争いであるからである。」(『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』)
或る登場人物において、彼が恵まれている部分と欠乏している部分とがあり、財産、性的卓越、知性、人脈、経歴、性格の良さ、身体的能力、若さ、知識、といったパラメーターのアンバランス加減が彼という個人の個性になっていて、それが社会内では他人から欲望されたり欲望されなかったりする要因になっている──という捉え方は間違っている。そうしたパラメーターの価値も意味も彼自身に固定的に属しているのではなく、他人の複数的な欲望の作動によって高められも低められもする不定形なものとしてあるからだ。さらに言えば自分自身にとっても固定的な価値を維持しつづけられるとは限らない。彼自身で自分をどういう人間と思っているかと実体としての彼自身にズレがある場合(無い場合の方が稀だ)、そのズレに気付けば彼自身でも自分がどういう人間であるかのイメージを根底から覆さなければならなくなることは当然あり得る。したがって、一人一人の登場人物がどの点で「持つ者」でありどの点で「持たざる者」であるかを網羅して、その束生的特性に基づいた登場人物間の複雑な関係性──友人関係、恋愛関係、血縁関係、敵対関係、権力関係──を設定するという「人物相関図」作成の作業はおよそ人間の欲望の本質を理解していない無意味な労苦でしかないと言える。そのような相関図からはいかなる小説のリアリティも生まれはしない。
登場人物間に張り巡らされているのは、欲望の偶然的な偏差である。この偏差があってはじめて自意識の弁証法のドラマが駆動する。この欲望の偶然的な偏差を一枚の「人物相関図」のようなものでまとめることはできない。代わりに必要なのは「欲望偏差表」を何枚も重ね書きすることだ。簡潔な「欲望偏差表」の書き方を以下に記す。たとえば主人公と登場人物αという二人の或る時点での欲望偏差をまとめると、次のようになる。
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▼主人公が自分自身をどう思っているか
→「俺は頭が良い」
●主人公がαをどう思っているか
→「凡庸な、嫌な奴だな」
●主人公がαにどう思われていると思っているか
→「仕事はできる奴だと思われているらしいな」
→実際にαが主人公をどう思っているかとのズレ(「暗いひとだな」)
●主人公が、αが主人公にどう思われていると思っているかを、どう思っているか
→「自分はなぜか好かれているとαは勘違いしてそうだな」
→実際にαが主人公にどう思われていると思っているか、とのズレ(「僕は先輩として尊敬されているみたいだな」)
○主人公がαに何をしたいか
→「先輩面を止めさせたい」
○主人公がαに何をして欲しいか
→「職場に不可欠な人間だと評価して欲しいのだが」
→実際にαが主人公に何をしたいかとのズレ(「もっと話し掛けて心を開いてあげよう」)
○主人公が、αが主人公に何をして欲しいかを、どう思っているか
→「どうも俺がα自身よりもつねに下の立場にいて欲しいらしいな」
→実際にαが主人公に何をして欲しいか、とのズレ(「職場の女の子との間でも僕への敬意を語り合って欲しいな」)
▼αが自分自身をどう思っているか
→「僕は善人だ」
●αが主人公をどう思っているか
→「暗いひとだな」
●αが主人公にどう思われていると思っているか
→「僕は先輩として尊敬されているみたいだな」
●αが、主人公がαにどう思われていると思っているかを、どう思っているか
→「暗くて協調性ないのに、自分には高い能力があると評価されてると思い込んでそうだな」
○αが主人公に何をしたいか
→「もっと話し掛けて心を開いてあげよう」
○αが主人公に何をして欲しいか
→「職場の女の子との間でも僕への敬意を語り合って欲しいな」
○αが、主人公がαに何をして欲しいかを、どう思っているか
→「僕ともっと仲良くなりたいみたいだな」
※「 」の中は状況としてもっと具体的なものでなければならない
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この例ではあからさまに単純な格差を設定したが、いずれにせよすべての登場人物間でこのような「自分が相手をどう思っているか」「相手が自分をどう思っているか」「自分が相手をどう思っているかを、相手がどう思っているか」といった相互認識のベクトルを逐一構想していくことで小説空間に社会性を導入することが手続的に可能になるだろう。当然だがこの「欲望偏差表」は物語の進展如何によって大いに流動し得るし、二人の相互認識のズレを書き込むだけでなく、三人以上の登場人物を並べて、たとえば人物αに対する人物βと人物εの認識がまったく異なるというような設定を書き込むことによってさらに欲望の複数的な作動と連結を立体的に構想することができる(『カラマゾフの兄弟』における兄イワンに対するアリョーシャとスメルジャコーフの認識の分身的相違を想起せよ)。つまり、欲望偏差表は人物相関図のように一枚の「結果」だけで済むものではなく、何枚も重ね書きすることで少しずつ小説空間の具体性を固めていくための分析的創作ツールである。
そして欲望の偶然的な偏差は、登場人物たちの行動によって変化する。とりわけ登場人物間の批評的なコミュニケーション(批判・懐柔・籠絡・挑発・要求・告発・同意・迎合・嘲弄・はぐらかし・労り・慰め・訓示・攻撃的議論・告白・言い訳・弁明・反省・吟味・嘘)によって自分のものも他人のものも含め欲望の作動は変化する。反対に、物質的な変化によっては欲望の作動はほとんど変わらない。変わらないというより、物質的な変化そのものよりも、その変化が人間にとって持つ価値と意味の方が遥かに重要だ。その価値こそが自己と他人を連結させる。
逆側からこのことを表現しよう。欲望の偶然的な偏差、複数的な欲望のズレが生み出すうねりと出会いこそが、登場人物の、とりわけ主人公の行動の引き金となる。その行動は今ある欲望の偏差を変動させることができるという不分明な、執拗な、抗い得ない希望に取り憑かれている。偏差の大きさ、変動への希望の大きさこそが欲望の強さを電撃的に決定する。だが他人の欲望は本来自意識には操作不可能なのだから、むしろ主人公の欲望が強ければ強いほど彼は不幸になると言えるかもしれない。自意識と無意識とのズレ=遅れの受動性(受苦性)に耐えられなくなって、そのズレを暴力的に無化しようとし状況を良くも悪くも変えようと情熱的かつ衝動的に行動すればするほど、却ってさらに状況を絶望的に悪化させ、受け取らずただ与えるのみとなる。そうやって他人と交流しつづけて主人公が自らを見失い切ることが、小説の一つの結末のパターンであるかもしれない。「フロイトは本能と衝動と区別している。衝動とは、“欠如”からくるものであり、それはすでに表象であり、「意味するもの」なのである。意味作用の根源は、「衝動」にある。むろんわれわれは、マルクスのいう“情熱的存在”を、この意味における「衝動」だと理解してもよい。」「目的意識性それ自体が、遅延化にもとづく受苦性に発している。人間の「意識」は自発性・主体性とあるとき、そのことに気づかない。しかし、「意識しないがそう行う」のであり、人間は「考えている」のとはちがったことをやってしまうのだ。革命とは、新しいものを創出することではない。それはすでにおこっている「変化」に追いつくことである。人間は目的的にたちむかうとき、実は「遅れ」を過剰にとりもどそうとしているのである。」(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』)
したがってあまりにも愚鈍であるがゆえに欲望の偏差に気付かないような、たとえば『ボヴァリー夫人』におけるシャルル・ボヴァリーのような存在は絶対に小説の主人公になることはできない。永遠に脇役に甘んじるほかはない。とはいえ、ドストエフスキーの長篇においてはどんな脇役にもこの欲望の偏差への鋭い自覚が取り憑いているかのようだ。たとえば『白痴』のイヴォルギン将軍のような人物にさえも。
欲望偏差表を作るのは意外と面白い作業なので、もう一例付け足してみよう。
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▼βが自分自身をどう思っているか
→「どうしようもなく醜くブザマな人間だが、良いところもある」
●βがεをどう思っているか
→「ちょっと無愛想だが人付合いの良い人だな」
●βがεにどう思われていると思っているか
→「率先して仕事を肩代わりしてあげたりしているので、少しは頼りになると思われているのでは」
●βが、εがβにどう思われていると思っているかを、どう思っているか
→「もしかして俺に惚れられていると思っているかもしれない、実際にはそこまで好きじゃないが」
▼εが自分自身をどう思っているか
→「自分は凡庸なのでこんなところで燻っている」
●εがβをどう思っているか
→「ロリコンでハゲでネトウヨとか最悪」
●εがβにどう思われていると思っているか
→「なんかあたしのこと友達だと思ってないか? 冗談じゃない」
●εが、βがεにどう思われていると思っているかを、どう思っているか
→「クズ野郎なのに仕事ではたまに出来るところも見せるので(実際にはそれほどでもないが)、好印象を持たれてるとか勘違いしていそう」
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ところでこの欲望偏差表において、一つの項が一人の登場人物だとして、別の項が単独の人物ではなく「或る集団の成員」「不特定多数の人間」である場合も考えられる。したがってたとえば或る人物ωが特殊な性癖を持っているということは、当の人物がそれを「人からどう思われているか、と想定しているか」という意識と切り離した、客観的な属性のように構想すべきではない(その上で人物ωが人々の視線に迎合するか嘲弄するかは、状況によったり人それぞれであったりする)。つまりそれもまたω対不特定多数の人間という構図の欲望偏差表の一枚として書き込まれる必要があるわけだ。
:欲望の偏差とイデオロギー
- 自分と他人との相互認識と欲望のベクトルの格差は、イデオロギーのヘゲモニー闘争の問題とも関わってくるはずだ(たとえばすぐ上で示したβとεの欲望偏差表には、すでにフェミニズム的見解や論争が生成する微細な力動の震えが窺える)。そしてドストエフスキーの小説の登場人物たちがみな一人のイデオローグであることを端的に指摘したバフチンの小説論は、やはり参照に値する。バフチンの言うモノローグを解体する「ポリフォニー」とは、あらためて欲望の偶然的な偏差、複数的な欲望のズレが生み出すうねりと出会いの観点から捉え直される必要があると思われる。バフチンの分析はポリフォニー──「他者の言葉との生き生きとした緊張した対話的相互作用」──が何故生成するかの構造を問わずにほとんど最後的な結果だけを分析しているという欠陥があるが、「対話」の代わりに「欲望」の語を導入することによって我々はポリフォニーの生成を記述することができるようになりはしないか。バフチンはどうも「言語」や「声」だけにしか焦点を合わせたがらない嫌いがあり、「ポリフォニー」の比喩もそこから来ているわけだが、その嗜好はドストエフスキーの小説における「欲望の偶然的な偏差」の分析によって取って代わられねばならないのではないか。
とりわけ我々はバフチンが「多元」「多様」という用語を用いる時にはそれを注意深く「複数的」の意味に読み替えなければならない。でなければその多数性は一つの(作者の!)自意識の中での単なる多義性=自由な解釈可能性に堕してしまうだろう。結果だけを分析して前提条件に遡行することのないバフチンの理論のこの瑕疵を我々は絶対に看過すべきでない。
この問題は後により重点的に扱う。
:ミハイル・バフチン『小説の言葉』からの引用
- 「小説とは言葉遣いの社会的多様性や、ある場合には多言語の併用や、また個々の声たちの多様性が芸術的に組織されたものである。単一の国語はその内部で様々に──社会的諸方言、集団の言葉遣い、職業的な隠語、ジャンルの言語、諸潮流の言語、権威者の言語、サークルの言語や短命な流行語、社会・政治的に一定の日やさらには一定の時刻にさえ用いられる諸言語(毎日が自らのスローガンを、語彙を、自己のアクセントを持っている)等に──分化しているが、このようにあらゆる言語がその歴史的存在のあらゆる瞬間において、内的に分化しているということが、小説というジャンルの不可欠な前提なのである。なぜなら、言語の社会的多様性とその基盤の上に成長する様々な個人の声たちによって、小説は自分のすべてのテーマを、描写され表現される自分の対象的意味の世界のすべてをオーケストレーションするのだから。作者のことば、語り手たちのことば、挿入的諸ジャンル、主人公たちのことば──これらはすべて、言語的多様性を小説に導入するための基本的な構成上の統一体にすぎない。そのどれもが社会的な声たちの多様さと、(常に程度の差はあれ対話化された)それらの結びつきと相互関係の多様さを認めているのである。複数の言表と言語におけるこの独特な結合と関係、複数の言語と言語活動にわたるテーマの運動、矛盾をはらんだ社会的言語の流れとるつぼの中でのテーマの細分化、テーマの対話化──小説の文体の基本的特徴とは、このようなものである。
伝統的文体論は、より高次の統一における諸言語・諸文体のこのような種類の結合を知らない。伝統的文体論では小説に内在する諸言語間の独特な社会的対話を扱うことはできない。文体論的分析が定位されるのが小説の全体ではなく、それを構成する二次的ないずれかの文体論的単位でしかないのはまさにこのためである。研究者は小説のジャンルの基本的特性を看過し、研究の対象をすり替え、小説の文体のかわりに、本質的には全く異なるものを分析している。彼は(オーケストレーションされた)交響曲のテーマをピアノ用に編曲しなおしているのだ。
…………
……小説の文体を小説家の個性化された言語にすり替えることは、二重のごまかしであり、小説の文体論そのものを歪曲するものである。そのようなすり替えが不可避的に招くのは、単一の言語体系の枠内に収まるような諸要素や、その言語の中で直線的に、直接に作者の個性を表現している諸要素のみを分離するという事態である。小説の全体とこの全体の構成、言語的に多様で、多声的・多文体的な、またしばしば多言語的な諸要素からなる構成の特殊な課題は、このような研究の枠の中には収まらない。」
「芸術的散文の作家にとっては、逆に対象はまず何よりも、その名称、定義、評価が、それを語る社会的なことばによって千差万別であることを開示する。その対象そのものの無垢な完全さと究め難さのかわりに、散文作家に開示されるのは、その対象の中に社会的意識によって切り開かれた様々な広さの道である。対象そのものにおける内的矛盾と共に散文作家に対して開示されるのは、それをとりまく言語の社会的多様性、あらゆる対象の周囲で生じる諸言語の混淆である。対象の弁証法は対象をとりまく社会的対話と絡みあっているのである。散文作家にとって対象とは互いに矛盾した声たち──それらの間には彼の声も響いていなければならない──の集中する点である。これらの声たちは、その外では芸術的散文としてのニュアンスを捉えることはできないし、そのニュアンスが〈響きとなることができない〉ような、散文作家の声にとって不可欠の背景を作りだす。
芸術的散文作家は、対象をとりまくこの社会的な言語の多様性を、完成されたイメージ、この矛盾しあう重要な声たちと調子のすべてに対する対話的な反響、芸術的に考慮された共鳴が十分に響きわたっているイメージへと高めようとする。しかし、既に述べたように、あらゆる芸術外的散文の言葉も──日常的な、修辞学的な、また学問的なものを含めて──〈既に語られたもの〉、〈周知のもの〉の中に、〈一般世論〉等の中に定位されないわけにはいかない。対話的な言葉の定位は、もちろんあらゆる言葉に見られる現象である。これはあらゆる生きた言葉の自然な志向〔欲望〕である。対象へのどのような途上においても、あらゆる方向で言葉は他者の言葉と「出会い」、その他者の言葉と生き生きした緊張した対話的相互作用に入らないわけはいかない。……」
「……(共通言語の)社会的分化は、しばしばジャンル的・職業的分化と一致する可能性を持っているが、しかし、本質的に、それは完全に独立した独自の分化である。……社会的分化は、……まず何よりも視野の、対象的意味および表現の相違によって規定されている。つまり、社会的分化は言語諸要素に意味とアクセントを付与する仕方の典型的な差異の中に表現されるのであり、それは標準語の抽象的言語としての方言学的な統一を破壊するとは限らない。
…………
それら分化を促すすべての諸力の活動の結果、言語の中にはいかなる中性の、〈誰のものでもない〉言葉も形式も残されない。言語は諸々の志向〔欲望〕に全面的に自己を奪われ、貫かれ、隅々までアクセントを付与されている。その中に生活する者の意識にとって、言語は規範的諸形式の抽象的な体系ではなく、世界についての矛盾しあう具体的な見解である。すべての言葉に職業、ジャンル、潮流、党派、一定の作品、一定の人間、世代、年齢、一定の日付、時刻が感じられる。どの言葉にも、そこで言葉が、自己の社会的に緊張した生活を営んでいる一つの、あるいは複数のコンテキストを感受することができる。あらゆる言葉と形式には、志向〔欲望〕が住みついているからである。……
生きた社会・イデオロギー的具体性としての、矛盾をはらんだ見解としての言語は、本質的に個人の意識にとっては、自己と他者の境界に存在するものである。言語の中の言葉は、なかば他者の言葉である。それが〈自分の〉言葉となるのは、話者がその言葉の中に自分の志向〔欲望〕とアクセントを住まわせ、言葉を支配し、言葉を自己の意味と表現の志向性〔欲望〕に吸収した時である。この収奪の瞬間まで、言葉は中性的で非人格的な言語の中に存在しているのではなく、(なぜなら話者は、言葉を辞書の中から選びだすわけではないのだから!)、他者の唇の上に、他者のコンテキストの中に、他者の志向〔欲望〕に奉仕して存在している。つまり、言葉は必然的にそこから獲得して、自己のものとしなければならないものなのだ。そして、あらゆる言葉を、誰もが同じように、容易に収奪し、自分のものとして獲得できるとは限らない。頑強に抵抗する言葉〔情動的アレルゲン?〕は多いし、相変わらず他者の言葉にとどまり、その言葉を獲得した話者の唇の上で他者の声を響かせ、その話者のコンテキストの中で同化することができず、そこから脱落してしまう言葉もある。……言語とは話者の志向〔欲望〕が容易にかつ自由に獲得しうる中性的な媒体ではない。そこにはあまねく他者の志向〔欲望〕が住みついている。……
…………
小説家としての散文作家は、他者の志向〔欲望〕を自己の作品の矛盾を含んだ言語から放逐したりはしないし、矛盾しあう多様な諸言語の背後に開示される社会・イデオロギー的視野(世界および小世界)を破壊したりはしない。彼はそれらを自己の作品の中に導入するのだ。……」
「……小説家は彼が導入する他者の言語の経験的現実の言語学的(方言学的)な、正確で完全な再生をめざしたりはしない。彼が追求するのは、ただそれらの諸言語のイメージの芸術的一貫性のみである。
芸術的混成物〔の創造〕は、莫大な労力を要する──それはあまねく様式化されつくし、考え抜かれ、考量され、〔諸言語との間に〕距離を置かれている。この点で芸術的混成物は、その根本において、軽薄で無思慮な、非体系的な、しばしば単なる文法的誤謬と紙一重の差しかない平凡な散文作家における言語の混淆と異なっている。そのような混成物の中では、一貫した言語諸体系が結合されるのではなく、単に諸言語の諸要素が混淆するにすぎない。それは言語的多様性によるオーケストレーションではなく、多くの場合、単なる不純で推敲されていない直線的な〔屈折を知らない〕作者の言語である。」
:ドストエフスキーの中篇小説『賭博者』(第一章)の試験的分析
- 『賭博者』を自意識と無意識との弁証法、欲望の偶然的な偏差、自己と他人と相互認識の格差、複数的な欲望のズレが生み出すうねりと出会い──といった視座から読むとどうなるか。
まずこの小説は主人公が「二週間ぶりにみんなのところへ帰ってきた」ところから始まるが、最初から自分がみんなにどう思われているか、ということを主人公自身がどう判断しているかが網羅的に語られる。主人公は何はともあれまず自己と他人の相互認識のズレを精査することによって今現在自分が置かれている立場を理解しようとし、それによって個々の登場人物に対してどのような態度を取るかを決定しようとしているかのようだ(それが結果的に読者に対する設定の開示となっている)。「みんなが首を長くしてさぞや私の帰りを待っていたことだろうと思っていたが、それはとんだ私の思い違いだった。将軍はまったく自分には関係がないというような顔をして、ふたことみこと横柄なことばをかけてから、私をその妹の部屋へさがらせた。」「ここでは私が将軍のお供のひとりであることが、もうみんなに知れていたのだ。」「あらゆる点から見て、彼らは早くも自分たちを売り込むことに成功しているようだった。ここでは誰もが将軍を大金持ちのロシヤの大貴族だと思い込んでいるのだ。」「これでわれわれを百万長者扱いにすることは間違いない。すくなくともまる一週間ぐらいは大丈夫だ。」これらの引用から分かるように、他人にどう思われているか(という推測)を羅列することによって設定の説明に代えている。まだここでは主人公が将軍家の家庭教師であることも明示されない。せいぜいホテルの従業員に主人公が将軍一行の一人であることが知れ渡っているらしいことが告げられるだけだ。
一番最初に出て来る会話は主人公と将軍のものだ。ここですでに将軍が主人公に対し或る先入見を──将軍は主人公を見下しつつも主人公の空気を読もうとしない独善的な行動の可能性を恐れてもいる──を抱いており、それに基づいて主人公に或る振舞いを要求しようとする、という欲望の角逐が現われている。「『しかし、君にはまだかなり軽はずみなところがあって、どうかした拍子に、ひと勝負やりかねないのが私にはよくわかっているのでね。いずれにしても、私は別に君の監督者というわけでもないし、それになにもそんな役目をわざわざ引き受ける気もないがね、しかしすくなくとも、言わばまあ、私の体面にかかわるようなことだけはしないでもらいたいと希望する権利はあるわけだ……』」「『どうか、私の言ったことに腹を立てないでもらいたいね、君。君はひどく怒りっぽいから……。私があんな注意をしたのは、言わばまあ、君に警告しただけの話で、それに、もちろん、私にもそうする多少の権利はあるわけだからね……』」。欲望の複数性と自他の相互認識のズレが会話に反映されている。
主人公以外の登場人物についても、その人物が実際に何者であるかよりも、その人物がとりあえず周囲からは何者と思われているか(と主人公が推測しているか)という角度からの記述がまず先行している。「マドモアゼル・ブランシもやはり、母親と一緒にこのホテルに泊まっている。例の妙なフランス人もこのホテルのどこかにいるらしい。ボーイたちはこの男を『伯爵』と呼び、マドモアゼル・ブランシの母親は『伯爵夫人』と称している。なに、ことによるとふたりは実際に伯爵であり伯爵夫人であるかのかもしれない」。ところでこのフランス人は主人公のライバル的な役回りだが、さらにこのフランス人が主人公のことをどう思っているか、さらには他のすべての人物をどう思っているかの推測が語られて、それによってこの人物の肖像を描き出すという記述の展開になっている。「食事のとき一緒になっても、伯爵は私などは無視して知らん顔をするにちがいないとは、私にもちゃんとわかっていた。将軍にはふたりを引き合わせようとする気などはこれっぽっちもないだろうし、相手はともかくとして私を彼に紹介する気もないことはもちろんである。それに伯爵はロシヤにいたこともあるので、ロシヤ人のいわゆる住込み家庭教師なるものが──はなもひっかけられない存在であることをよく知っている」「食事の席でのフランス人の会話をひとり占めにする態度は異常なものであった。彼はすべての人を無視して、いやにお高くとまっていた。モスクワでも、やたらにくだらない気焔をあげていたのを、私は覚えている」。さらにもう一人の主要登場人物としてイギリス人のミスター・アストレイの紹介が来るが、これもまた過去に出会った経緯を語りながら彼がポリーナのことをどう思っているか、そして私のことをどう思っているかの描写が決定的なものとして出て来る。「私がはじめてこの奇妙なイギリス人と会ったのは、プロシャの車中でのことであった。将軍の一行に追いつこうとしていたとき、偶然ふたりは向かい合いの席に乗り合わせたのである。……彼がどこでどうして将軍と知り合いになったのか、私は知らない。だがどうやら彼は、ポリーナにすっかり首ったけになっているように思われた。彼女が入ってくると、彼は夕焼空のようにぱっと顔を赤らめたものである。私が彼と並んで食卓についたのをひどく喜んで、どうやら、早くも私を無二の親友と思っているようだった」。当の人物の客観的な外貌描写などまったく出て来ないことに注意せよ。
つまり『賭博者』冒頭においては、登場人物たちの間に重層的に設定されている複数的な欲望の偏差と相互認識のズレ(思い違い)とが多角的に乱反射して敷衍されているわけだ。各々の登場人物に属している固定的な特徴や彼らの相関関係よりも、「相手をどう思っているか」「自分がどう思われているか」の内面外面の齟齬と葛藤を孕みながらの偏差の分布からこの小説は始まっているのである。
そして主人公が一番最初に行なう衝動的な行動はフランス人のお喋りにいきなり食ってかかることだったが、それの前駆をなす心理描写は以下のようなものとなっている。「私は妙な気分になっていた。そして食事がまだ半分もすまないうちに、早くも例によってこんな場合にはお定まりの疑問を自分の胸に投げかけたことは、言うまでもない──『なんだっておれはこんな将軍などを相手にぐずぐずしているのだ、とっくの昔にこんな連中とは縁を切るべきじゃなかったか?』ときどき私はポリーナ・アレクサンドロヴナのほうをちらりと見た。彼女は私のことなどはまったく気にもとめていなかった。そこで結局、私は癇癪を起こして、ひとつ暴言を吐いてやろうと決心した」。将軍も、フランス人も、ポリーナも、彼の望むようには彼のことを欲望してはくれず、互いが互いに持っている認識は苛立たしいほどにズレている。その偏差を鋭敏に感じるからこそ、彼はその欲望のズレを暴力的に変動させたいという衝動に駆られる。それが「妙な気分」から「癇癪」へと解消不能なエネルギーを生む。この「暴言を吐く」という行動は完全に社会的なものであり、複数的な欲望のズレが生み出すうねりによって主人公の自意識に強いられたものである。これによって、確かに将軍もフランス人もポリーナも彼に対する態度を変えざるを得なくなる──とはいえ彼の望むようにではなく、さらに彼に対する警戒と不信の念を募らせるという悪い方向への変化が惹き起こされるのだが。それがこの後の主人公とポリーナの対話へと繋がっていく。「将軍は私に大いに不満のようだった。私がフランス人を相手にほとんど大声でどなり合わないばかりの勢いだったからである。しかしミスター・アストレイには、どうやら、私のフランス人の言い合いが非常にお気に召したようであった。食卓から離れると、彼は私にふたりで一杯やりに行こうじゃないかとすすめたのものである。その晩、当然のことながら、私はポリーナ・アレクサンドロヴナと十五分ばかり話をする機会をつかむことができた。ふたりの会話は散歩の途中でつづけられたのである」。
この主人公とポリーナとの対話の中では、登場人物たちの欲望のベクトルの相関が語られ、将軍がマドモアゼル・ブランシュと結婚したがっていること、そのために「おばあちゃん」の死を望んでいること、ポリーナがお金を欲しがっていること、そして何より主人公がポリーナを絶望的に愛していることなどが読者に分かるのだが、これらの相関関係自体は何ものでもない。彼らの欲望のベクトルがどんなに強いものであろうとも(主人公のポリーナに対する愛は特に常軌を逸している)、そのベクトルに基づいて生じている登場人物間の関係の認識は単なる結果でしかないからだ。本質的なのはそれらの欲望が生じる原因として登場人物間の相互認識に複雑なズレが幾重にも生じていることであり、ドストエフスキーはこの時点でもうあらかじめ「相手をどう思っているか」「自分がどう思われているか」という登場人物間の思惑の偏差の分布を徹底して具体的に構想していると断言していい。たとえば将軍はマドモアゼル・ブランシュに惚れているのだが、マドモアゼル・ブランシュが将軍のことをどう思っているかと、将軍自身がマドモアゼル・ブランシュとの関係をどう考えているかのズレは実は相当大きく──というのもマドモアゼル・ブランシュは実は伯爵夫人の娘どころではなく、かなり如何わしい女だからだ──だがそのズレこそが「おばあちゃん」の死を不謹慎に望むほどに将軍の欲望を切羽詰まらせているという構造こそが、将軍とマドモアゼル・ブランシュとの間に擬似的な婚約が成り立っているという「相関図」よりも決定的に重要だ。それは主人公とポリーナの関係にも言えることであり、「相関図」的に言えばこれは主人公のポリーナに対する片想いなわけだが、対話を通じて明らかになるのは二人にとって互いが互いをどう認識し評価しているか、数多くの点で致命的な齟齬と無理解が生じているということであり、それは単なる思い違いといったものではなく、幾つも幾つも質問を投げ掛けて受け答えを重ねたところでますます相手が何を考えているかは分からなくなり、自分がなぜ相手を愛しているかさえ分からなくなり、衝動的に対話を打ち切ったり自分でも言おうと思わなかったことを口にしてしまう羽目に陥る、そのような自己と他者の抜き差しならない不一致の露呈なのだ。「不思議なことに、ほかによく考えなければならないことがあったにもかかわらず、私はポリーナに対する自分の感情の分析に、すっかり夢中になってしまったのであった。正直なところ、私は旅行中まるで気違いのようにもだえ苦しみ、逆上したようにあがきまわり、夢の中でさえも絶えず彼女の姿が目の前にちらついてならなかったのに、留守にしていたあの二週間のほうが、ここへ帰ってきたこの日よりもずっと気が楽なくらいだった。一度などは(それはスイスでのことであったが)、車中で眠っているうちに、どうやら、大きな声でポリーナに話しかけたらしく、同じ車内に乗り合わせていた旅客を、ひとり残らず笑わせてしまったほどである。そこで私はもう一度あらためて、お前は彼女を愛しているのか?と自分の胸にきいてみた。するとまたしても私にはそれに答える勇気がなかった。いやむしろ、おれは彼女を憎んでいる、といままで百ぺんも繰り返したことばを、また改めて自分に言い聞かせたと言ったほうがいいだろう。そうだ、彼女は私にとっては憎悪の対象であったのである」。この自分自身の感情さえも謎であり操作不能となってしまうような宿命的な受動性と不自由、しかしそれでいて自分が彼女から愛されるという期待はなぜか根強く抱いている、という奇妙な主人公の(社会的)情熱が、金銭欲、さらには賭博熱へと通じていくことになる。
第一章の分析は以上だ。
:中井久夫「『踏み越え』について」のレジュメ
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「踏み越え」transgression とは聞き慣れない言葉だろうが、広義には思考や情動を実行に移すことである。抽象的に言えば「パフォーマンスモード」の切り替えと定義してよかろう。対義語は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。
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萌芽的な情動が言語化、意識化、イメージ化を介さずにいきなり行動化コースに入る(「踏み越え」が起こる)ことは、あり得る。日常生活においても社会的事象においても、しばしばわれわれが行動の説明責任 accountability が果たせないのは、このコースがあるからである。「よかれと思った」といわれるような場合、はっきり言語化され、葛藤を経てから行動に移ったのではなさそうである。
別に破壊性だけではない。キスなどのエロス的行動化も、この経路がむしろ普通であり、自然である。それに相応する雰囲気があらかじめ存在することもあるが、ムードが一挙に生まれることもある。むしろ明確なイメージ(表象化)や言語化をとおる計画的行動化にはどこかウソくさいところがある。無記名の情調性の高まりの後は「火花」である。多くの人が経験してきたさまざまな「踏み越え」の複雑微妙で多様な要素のほとんどは一見きわめて単純で無邪気にみえる「最初の接吻」に至る過程に含まれているといえるかもしれない。この種の移行は、さまざまな局面で個人的、社会的な重要性を持つだろう。多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)が後を追う。このコースが決定する人生と社会の幸不幸は大きく、しかも取り返しがつきにくい。
そして戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由せずに行動化される最たるものである。
戦争へと「踏み越える」際の「引き返し不能点」は政治的よりも心理的に決定されると私は思う。
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行動化そのものに、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、カタルシス感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。すべては単純明解となる。世界の単一感は、精神統一感、心身統一感、自己の唯一無二感にもつながる。さらに逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、もっともな因果関係からそうしているのだ、という感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。その時限りではあるが精神衛生上よいのだとさえ言えるだろう。
DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、もちろんその場かぎりであり、それも始まりの時にもっとも高く、次第に減る。戦争の昂揚感は一ヵ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。
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事故学的に犯罪を考える必要もあるだろう。私が分析した高学歴初犯の殺人例において、終局的には殺人に至るその一つひとつのステップは、落差が小さく、誰でも「踏み越えられ」そうなものであった。またステップのきっかけとなったり、ステップを踏み越えやすくする事態は直接殺人につながるようなものではなく、殺意は、ほとんど最後の時点で状況にうながされて顕在化する。そうしたケースでは、「踏み越え」は偶然あるいは確率という因子がかなり大きい。
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踏み越えに至る過程にも多様性がある。
多くの場合、倫理の枠外への踏み越えに近づくと、逡巡によって過程は減速され、延期される。あるいは、空想の中に移される。一般に、殺人の場合、殺意と殺人の実行との距離は非常に大きい。実際、殺人計画をそのまま長く維持することを初め、一般に、踏み越えの少し手前で長期間維持することは非常なエネルギーが必要である。
異性間の友情を友情のままに維持することでも、かなりの自己規律を必要とする。だが、おそらく実行か中止かの分岐点があるのであり、そこを越えて先にゆくと、中止するほうが困難になるのではないか。また、ある瞬間、ふっと敷居が低くなることがありうる。おそらく、それには生理的基盤もあり、社会的規定の日内変動もあり、クリスマスなどの特異日もあるのだろう。
さらに誤算もあるだろう。下流に滝があることを知りつつボート遊びをする場合に似て、まだまだ大丈夫と思っているが、気づいた時にはもう遅いということがありうる。ぎりぎり引き返せるかどうかの地点をみとおすのは、社会経験もあり成熟した人柄の人でも、なかなか困難である。しかも、人間は必ずしも合理的に行動するものではない。先に挙げた密かな自己破壊衝動というくせものも出馬の機会を待っている。それにある程度、先が見えないから人生を何とか生きてゆけるのだという面もある。
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踏み越えと踏みとどまりは対称的ではない。それは他の多くのことにも言い得る。戦争と平和の非対称、不幸と幸福の非対称、悪(規範の侵犯)と善の非対称、病いと健康の非対称。
戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。
これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない戦争、不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。世間はその反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。
一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者は破壊性とは時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。
サリヴァンは、前青春期体験を、これらすべてに拮抗する人間的体験とした。今、前思春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。
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米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚している──ということである。私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。米国の心理学者ウィリアム・ジェームズは「悲しいから泣くのではなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。
リベットは、この主張の根拠を、脳全体の情報処理能力(自分 Self の機能)と、意識の情報処理能力(私 I の機能)との格段の差に帰している。脳全体が判断して行動を起こしつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は「自分・セルフ」が「私・アイ」に処理をまかせている時に起こる。瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。あるいは、階段がもう一段あるつもりで足を踏み出した時に起こる不愉快な当て外れ感覚は「パニック」の例によく挙げられるものであるが、パニックを起こしているのは「アイ」だけであろう。段差に気づかずに転倒する時、気づくと受け身の姿勢をとって身体の要所を庇っていることがある。これなどは「セルフ」がよく働いた場合ではないか。
欧米のように意識 conscientia を非常に重視する哲学的風土においては、この説はショッキングであろうが、私にはむしろ、リベットのように考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達(恋人)になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は熱情はいったんヤマを越していて、改めて、深くキスしなおすということになるのであろう。プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、frigid であろう。意識が精神全体の、さらには心身の専制君主であるわけではないということだ。
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リベットの説が正しければ、「踏み越え」の問題は新しい局面を迎える。意識による「踏みとどまり」は、むしろまちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。犯罪・非行への対処も、「アイ」もさることながら、「セルフ」すなわち脳全体ということになる。
踏み越えは脳/精神の全体が決め手であり、自己決定、自己制御のみに集中する現在の行き方は限界があるだろう。小は些細な買い物に始まり、エロス的行動や犯罪を経て、戦争に至る「踏み越え」のパターンが、人格というもののプラグマティックな輪郭を示すとすれば、その過程に臨床的な接近をすることは多くの問題を解決する糸口になるのではないだろうか。
敬愛する神経心理学者・山鳥重によると、知情意というが、順序は情知意であるという。知や意は情の大海に浮かぶ船、中に泳ぐ魚に過ぎないということであろう。
:行動化に到る弁証法
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中井久夫が言うように主体が衝動的な行動化に到るプロセスには偶然的な出来事が幾つも積み重なった上で状況に促されて、という側面があり、行動の能動性の意識はむしろ(偶然的状況へのリアクションとして)脳=身体の方が先に動いているのを遅れて自意識が自らの意図によるものだと錯覚しているだけだというのは、確かだろう。だから自意識のコントロールを越えたところで「火花」のように後先見ない行動化が身体が先行する形で生じ、その取り返しのつかなさについては後から悔やんでも追い付かないし、自分でもなんでそんな行動をしてしまったのか分からないけれどもそこには熱を帯びたカタルシス感も共在している、という事態にもなるのだろう。中井久夫の洞察は行動化の瞬間を描写する際には非常に有用だし、「状況による促し」が必然性を持つように確率的な誘惑=好機を主人公の動線の上に配置するという作為が作家に必要だということも再確認される(以前「出会い」について書いたことの繰り返しになるが)。そうした「踏み越え」が些細な買物、或いはインターネットを巡回中にちょっとしたリンクを踏んでみるといった行為の中でも生じているという洞察も、興味深い。
ところがだ。中井久夫の洞察は「踏み越え」に到るまでの前駆の段階で何が起こっているのかの具体的な分析を欠いている。行動化が受動的偶然によってもたらされること、行動化における自意識の自己関係的なズレ=遅れ(能動性の錯覚)の顕現ということはよいとして、ではその行動化は何のために行なわれるのだろうか、主体は行動化の前と後とで何が変化することを期待して「踏み越え」るのだろうか? 我々の考えでは、行動化の前駆段階において主体は自己と他人たちとの間の相互認識の格差に、複数的な欲望の偏差に非常な居心地の悪さを感じつづけているのであり、その苦しみ(精神的アレルギー)が耐え難いほどに募った時に、その不一致や矛盾を暴力的に解消したいという衝動が生まれて行動化へのエネルギーが発散する、ということになる。つまり「相手が自分をどう見ているか」「相手の中で自分がどう思われているのか」「それが自分の期待とどうズレているのか」といった見通しがたい認識と他人との弁証法的な関係という受苦性がなければ、自意識の自己規律を越えた取り返しのつかない非合理な行動化などという劇的なものは、そもそも生じ得ないはずなのだ。
ドストエフスキーの中篇小説『賭博者』の第八章で主人公は次のような衝動的な行動化(告白)に到る。「私はミスター・アストレイを訪ねようとはしたが、ポリーナに対する自分の恋のことなどはひとつも打ち明ける意図は持っていなかった。それどころか口が裂けてもそんな話はしないつもりだった。この何日かのあいだずっと、このことは彼にはほとんどひとことももらしたことはなかった。おまけに彼は非常なはにかみ屋であった。ポリーナが彼に強烈な印象を与えたことに、私は最初から気がついていたが、彼は一度も彼女の名前を口にしたことがなかったのである。ところが不思議なことに、突然、いまこうして、彼が椅子に腰をおろし、そのじっと動かない生気のない目つきで私の顔を見つめるが早いか、なぜかは知らないが、この男になにもかも、つまり私の恋愛感情を残るくまなく、そのニュアンスの端々にいたるまで、すっかり話してしまいたいという気がむらむらと、私の心の中で頭をもたげた。私はまる三十分間も話しつづけた。そしてそれが私にはしごく愉快でならなかった。このことを人に話すのはこれがはじめてのことなのだ! たまたま話の途中で、あまりにも熱がはいりすぎるような場所になると、彼が困ったような顔をするのに気がついて、私はわざと自分の話の生きのよさに拍車をかけた。ただひとつ悔やんでも追いつかないのは、ひょっとして、フランス人のことでなにか余分なことを言ったのではないかといいうことである……」。主人公がまったく無計画に恋愛感情の告白という行為──後になったら心理的に元に戻ることが非常に難しい行為──「悔やんでも追いつかない」!──に踏み切ってしまい、それが主人公の自意識にとっても「なぜかは知らないが」とおよそ操作不可能なものとして認識され、しかもその欲望が「むらむらと私の心の中で頭をもたげた」というふうに完全に衝動として描写されているのは、そしてまた、その衝動的行為の中で主人公が「しごく愉快でならなかった」「わざと自分の話の生きのよさに拍車をかけた」という自己中心的なカタルシスを感じているのは、まあ、中井久夫の洞察を応用する形で分析できもする。だが小説の状況として考えれば、主人公がこのような突然の行動化に到った前段階がどのようなものだったかを踏まえなければこの場面の構想の深部までは分析できない。第八章の前の第七章の最後の段落に次のような記述があることを我々は見逃すべきではない。「二分ほどして、やっとはっきり思案をめぐらすことができるようになるが早いか、ふたつの考えがくっきりと私の頭に浮かび上がった。第一のそれは──あんなくだらないことから、きのう通りがかりにふと口にした小僧っ子の、小学生のいたずらじみた二、三の、まるで嘘みたいな威し文句から、よくもまあこんな世間全体を騒がすような大事件が起きたものだ、ということであった。そして第二のそれは──それにしても、このフランス人のポリーナに対する影響力はなんて大したものなんだろう?という考えであった。あの男がたったひとこと言っただけで──彼女は相手に必要なことをなんでもやってのけ、手紙も書けば、この私に頭をさげて頼むことさえいとわないのだ。もちろん、このふたりの関係は、私が彼らを知るようになったそもそものはじめから、私にとってはつねにひとつの謎であった。ところがこの数日来、彼女の心の中に彼に対するいちじるしい嫌悪感、いやそれどころか侮蔑感すらもひそんでいることに、私は気がついたのである。それなのに彼のほうでは彼女などに目もくれず、彼女に対してむしろ無作法としか言いようのない態度を取っているではないか。私はそれに気がついたのだ」。──これを読むと、主人公が告白という引き返し不能な情熱的な行動への一挙の加速に乗じたのは、ポリーナ、フランス人、ミスター・アストレイ、私、という四者関係に張り巡らされた緊張の硬直状態の中で主人公だけがほとんど情報を与えられず、他の人物たちの欲望について息苦しいほどの謎めいた不透明性をじりじり感じており、その苦しさにいよいよ耐えられなくなって弁証法的な否定性のエネルギーが蓄積された上での、状況を自己破壊的に打破するための、突然の行動化、と見做せる。まさに損得勘定の白熱する「賭博」。そして実際この告白によってミスター・アストレイの彼に対する働きかけが変化し、主人公の認識が大幅に刷新され、物語が進展するのである。これを作家が物語の進展のために必要な情報を読者に開示する機会として、ミスター・アストレイと主人公の会話場面を虚構した、と考えるべきではないだろう。作家が虚構したのは何よりもまず主人公の衝動とそれが生成される複数的な欲望の偏差という具体的な状況だったはずだから。
:小説の「行動-物語」の起源としての「出会い」
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ここでは無意識(=個体を強いる現実のキャパシティ)ということで主に社会的なそれを想定した上で、考えを敷衍する。
小説の「行動-物語」の起源には「出会い」がある。我々の文脈では「出会い」とは無意識における電撃的な関係性の謂いだ。「出会い」を誘発するのは「偏り」である、というのはここでは登場人物たちの間の複数的な欲望の偶然的偏差と相互認識のズレを意味する。我々はアルチュセールの言葉をもじって小説にとって〈「偏り」は起源であってなにかから派生するものではない〉と断言しよう。幾ら一人一人の登場人物についてその様々な束生的特性──当の人物において恵まれている部分と欠乏している部分の凸凹、財産、性的卓越、知性、人脈、経歴、性格の良さ、身体的能力、若さ、知識、といったパラメーター──を細かく設定したとしても、そのままでは登場人物(の自意識)は抽象的なモナドに留まるだろうから。自意識の複数性を設定するだけでは意味がない。登場人物たちという凝集したモナドの平面に複数的な欲望の偏差が挿入され、隣り合ったモナドの間での出会い=無意識レヴェルでの他者性の作用が誘発される、そしてさらに出会いが連鎖的に出会いを重ねる玉突き衝突が沸騰的に生起することによって、初めて小説空間は社会的実在性を帯びることになるのだ。逆に言えば偏りと出会いがなければ小説空間が高度な実在性を獲得することはない。
既に記したように「偏り」と「出会い」を具体的に構想するには欲望偏差表というツールを用いるべきだ。無意識から無意識への潜在的伝達の要因を精緻化すること、個体と個体を翻弄する社会的諸力の衝突を精緻化すること、登場人物各々を拘束・制約する相対的諸関係を精緻化すること、もっと俗な言い方をすれば登場人物間の「疑心暗鬼」を精緻化すること、それにはそれら力動的な関係性の物語的一貫性とオーケストレーションを志向しつつ、欲望偏差表を何枚も何枚も連想的に重ね書きするアプローチが有益である。欲望偏差表の精緻化は心理的ディティールの精緻化に通ずる。作品の構想段階において注力すべきは、取材をしたり資料を読み込んだりするよりもしぶとく地道にこの欲望偏差表を空間的にも時間的(歴史的)にも多重にオーケストレーションすることだろう。読者にとって小説空間の実在性、および感情・内語・身振り・表情・知覚といったディティールの襞は一挙に同時に与えられるのだが、それは作家の地道な創作の努力の散文的・継続的な積み重ねによってしか実現することはできない。
ドストエフスキーもまた長篇の創作ノートの中で、勿論「欲望偏差表」という用語は使ってはいないものの少なからず志向を同じくする精緻化の努力について書き記している。引用しよう──「病気のあとその他。かならず事件の進行を現在点でとらえて、あいまいな点を完全になくすこと、すなわち、あらゆる方法で、殺人のすべてをあきらかにし、彼の性格とさまざまな関係を明確に定めること。傲慢、個性、不遜。それからはじめて第二部に移る。現実との衝突と、自然の法則と義務への論理的帰着。」(「『罪と罰』創作ノート)
実際、小説の「行動-物語」に対して所与としての「偏り」と「出会い」が先行することは、例えば『罪と罰』で主人公ラスコーリニコフが母親の手紙にどんな反応を見せたか(第一部第四章)を欲望偏差表の視座から分析することによっても分かる。というのもラスコーリニコフは、犯行以前の段階での母親/妹/ルージン/スヴィドリガイロフ/ソーニャ/マルメラードフらとの無意識レヴェルでの関係性に潜在的に拘束された上で、自分の犯罪についての思考を展開してしまっているからだ。以下かつて『罪と罰』の当該の箇所を分析研究した時のメモを断片的に引用しよう。http://trounoir.ohitashi.com/intensive_final_D.html#typeD15
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・「まず第一に思うのは何故ラスコーリニコフはこんなにもまわりくどく、意地悪な喜びに憑かれて内語を発しているのかということだ。まあそれがラスコーリニコフの独自性ではあるのだが。確かにここでラスコーリニコフは自分を知的に高いものとして位置づけている。「あまりにも見えすいている」「あんた方にはおれはだませないよ!」「おれはすっかり見通しだ」──そのような立場が彼に必要以上に意地悪にさせるのか? そもそも、母親の手紙には、ルージンを好意的に、ドゥーニャの婚約を肯定的に見せようという意図はあったかもしれないが、それほどラスコーリニコフを騙すような要素はなかったと思われる。母親に対してはどうもラスコーリニコフが勝手に邪推していきり立っているところがあるようだ。実際、「〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉」──こんな言葉は母親の手紙には出てこない。これはラスコーリニコフの内語の中での敵対的想像的対話によって勝手に歪められた相手の言葉の「復唱」なのだ。敵意によって歪められてしまった他者の言葉の「復唱」!」
・「しかしラスコーリニコフがここで実際敵対しているのは、母親ではなくてラスコーリニコフと同様の知性を持っていてしかるべきドゥーニャに対してだろう。母親の方がルージンを「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人」と言い切っているのに対して、あくまで「善良らしい」という推測にとどめているのはドゥーニャの方なのだ(「ドゥーニャが、あの人は教育はあまりないけど、頭がよくて、性質もいいらしいと、わたしに説明してくれました」)。この「善良らしい」が絶対に「善良」そのものにはならないと見抜いているからこそ、ラスコーリニコフは憤慨し、それを同じく分かっているはずのドゥーニャに対して挑発的な意地悪な内語を向ける。《フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、……》《あのドゥーネチカがこのらしいと結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……》」
・「また、ラスコーリニコフは想像力も旺盛である。母親が全部書いているだけに(ドゥーニャが一言も書かない口実は、「おまえと話すことがあんまりたくさんありすぎて、いまはとてもペンをにぎる気になれない……」)ドゥーニャの振る舞いは手紙の中で兆候的にしか現れないが、そこはそれ、わずかな兆候的描写からでも多くのものを思い描き得るのが想像力が過剰な人間の本領だ。たしかに、数々の兆候からしてルージンは碌でもない人間のようであり、ドゥーニャもそれに気付いている(母親は明確に気付いていなけれども兆候はすべて感受して描き切った)、だからこそドゥーニャは「言葉はまだ行いじゃないわ」などと言って腹を立て、決意の前に母親の寝間にあるカザンの聖母の像のまえで祈るわけだ。そして、彼女が腹を立てた理由(「もう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている」)も、ドゥーニャが何を祈っていたのかも(「娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられている……」)、手紙にわずかに記された兆候から、ラスコーリニコフはありありと想像してしまえる。これが「兆候的描写」を前にした時の想像力過剰な人間の能力発揮のさまか。まあ先に述べたようにラスコーリニコフは邪推(=陰性想像)しすぎて一人相撲になっちまっているところもあるが。作者は無論それとは距離と取っている。」
・「なんというか、これこそまさに「解釈学」ではないのか。/もちろんラスコーリニコフの内語は必ず形式的に想像的対話のスタイルとなる、それはそうでなければならないだろう。しかしその中で、母親がルージンに対し受動的であるがゆえに構築してしまった「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人です」という意味レベルを完全に粉砕してしまっているという内容の方が、形式よりも重要な意味を持っている(「おそらく、いわゆる親切な男が何かのはずみにうっかり口をすべらして、生地を出し、……」)。これぞ人間を対象とした解釈学の肝だ。すでに成立した意味レベルの上にさらに別の意味レベルを架すること。関係性と兆候の乱反射によって。確かに母親の手紙の中にははっきりと明言されていない兆候が満ち満ちていた。だがラスコーリニコフは、ルージンの振る舞いの端々からルージンの卑劣さを、母親の想像力によって盲目になった手紙の文面の「意味」を解きほぐす=解釈する形で抉り出しただけではなく、手紙の言葉のかすかなブレから、母親の真意にまで洞察力を働かせているのだ。実際の文面では、「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人ですから、きっと自分からわたしに同居をすすめ、もうこれからは娘とわかれわかれになんて暮さないようにと言ってくれるにちがいありません、わたしはそう信じこんでいます。いままでそれを言いださないのは、むろん、言わなくてもわかっているからでしょう。でも、わたしはことわります。姑が婿とあまり気持がしっくりしない例を、わたしはこれまで何度となく見てきました。」──となっているのだが、ラスコーリニコフの知性はその真逆の真意を読み取る、つまり《母さんはいったい何をうきうきしているのだろう?……だって、もうどんな理由があったのか知らんが、結婚後は、その当座だけでも、ドゥーニャといっしょに暮すことはできないだろうと見ぬいているじゃないか?》──というわけで、母親はルージンの善意を信じ込んでなどいないのだ! 母親は想像力が行為に全然追い付いていないために、自ら相手の都合の良いように振舞ってしまうのだと思われるのだが、その自己欺瞞をも完璧にラスコーリニコフは見通している。まあ、実際正解かどうかは分からないけれども、そこまで知性と想像力を働かせる能力があるからこその、このラスコーリニコフの苛辣な内語になっているわけだ。」
・「重要なのは、《ああいうシラーの劇の人物みたいに美しい心の持ち主はいつもそんな目にあうんだよ。いよいよというときまで相手を孔雀の羽でかざり立て、ぎりぎりまで悪くはとらないで、よいことだけを当てにしている、そして事の裏側をうすうす感じても、そうなるまえに自分に本当の言葉を聞かせようとは決してしない。》と見事な表現で母親の心理を見抜いてみせるラスコーリニコフの洞察力に驚くことではない。そのように、見抜く-見抜かれるという関係性をラスコーリニコフと母親の間で虚構した作者の手腕こそ重要だ。なぜラスコーリニコフは母親の構築した意味レベルよりもさらに高次の意味レベルを構築することができるのか。或る意味ではこの二人の関係性で母親が受動の側になっており、同時にラスコーリニコフがルージンに対しても能動的に攻めかかっているからか。しかし解釈可能にするためには、解釈対象の素材を作り出さなければならない、ルージンのケチな振る舞いや卑猥な失言を、母親の自己欺瞞的言説を、作り出さなければならない。それを作り出さなければ、解釈学は何も始まらない! 作者は、ルージンや母親がそこを突かれることを前提の上でこうした細部を作り上げたのか。そうとしか思えない……。表面上は隙がないと見える言葉のレイヤーの中に致命的な矛盾やねじれを見出すこと。ラスコーリニコフの母親の言葉にはねじれがある。自分では完璧のつもりのルージンの自意識には不整合がある。だからこそそこを攻められる。」
・「ところで、ルージンが勲章を持っているか否かという「想像」は、いわゆる想像的顔貌化描写、性格の視覚化ってやつだ。さすがのラスコーリニコフの想像力だ。そしてまた、あたかもルージンを挑発するかのように展開している想像的対話のスタイルについても、やはり注目しておくべきだろう。《荷物を引き受け、大きなトランクを自分の負担で運んでやるのは、たいへんなことだろうさ!》《おれも何度か乗ったがね。それはまあいいよ!》《ところでルージンさん、あんたはどういうつもりですかね?》《母が自分の年金を担保にして旅費を前借りしていることだって、知らなかったでは通りませんよ。》《そりゃもちろん、あんたにはこんなことは普通の商取引みたいなもので、儲けもお互い、分け前も平等だから、支出も半々だというでしょうよ。》《なるほど、実務の腕にものを言わせて女たち二人をちょいとだましましたな。》──疑問形や皮肉を多彩に駆使しての矢継ぎ早の攻撃的対話。ルージンとまだ対面もしたことがないのに、「あんた」とかもう想像の中で呼びかけている。」
・「ここで重要なのは、ドゥーニャの本質、金銭や安楽な生活のために尊敬もしていない男と結婚することなどありえない娘としてのドゥーニャを描いてみせ、ドゥーニャの婚約の、母親の手紙には書かれなかった本質──愛する兄のために自分を売る!──をラスコーリニコフの内語によって開示した、ことだけではない。ドゥーニャだったら絶対に分かっているはずだ、という形でルージンの人格の「穴」を見事に虚構してみせたこと、それをラスコーリニコフの「洞察」の中で利用し切ってみせたことにこそ注目しなければならない。母親の手紙の中では「すこしぶっきらぼうすぎる」という形容のみで語られた「妻は貧しい家からめとって、良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にする」というエピソードが、ここまで決定的な意味レベルを担うとは! 無論これだけでルージンの本質を見抜き、あり得べきドゥーニャとルージンの結婚生活の顛末まで想像してしまうラスコーリニコフの知性は凄いのだが、そもそもルージンに見抜かれるような穴を──しかもラスコーリニコフの母親が騙されてしまうほどに巧妙で、ドゥーニャが兄への愛のためなら見てみぬ振りができるほどの、微妙な位置づけの穴を──属させた作者の手腕も、それ以上の驚きと言わねばならない。ドストエフスキーは鋭い分析だけではなくて、分析される対象そのものまで自分で創り出してしまうのだ。」
・「そしてまた、ここではドゥーニャがラスコーリニコフに対して「穴」を見せていることに注目しよう。というより母親の手紙の叙述の時点で、「穴」が空いていた(それを作者が虚構していたわけだ)。シュレスイッヒとホルスタインを全部やると言われたって自分を売るような女ではないはずのドゥーニャが、何故かどう考えても尊敬に値しない男と結婚し、それがどうやら「このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ」という一言からしても、愛する兄のために自分を売っているに等しいという、その自己矛盾だ。《自分のために自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!》── このドゥーニャのあからさまな「穴」は確かにラスコーリニコフを憤らせるに値する。しかし真に問題なのは、このようにあらゆる面でラスコーリニコフはドゥーニャや母親の「穴」を攻撃している一方で、自ら一方的に攻められているのだということだ。ラスコーリニコフは、長男であるにもかかわらず社会的には失敗者になりかかっているという「穴」を、二人から家族愛という情動で、攻められている。攻めていながら、一方では攻められている! ラスコーリニコフにも「穴」があり、母親の手紙は、ドゥーニャの決意は、その「穴」がなければ起りえなかったという意味で、ラスコーリニコフをも始終攻めているのだ! それが改行後に突然内攻しはじめる内語の流れの変化の要因である。《ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。……》──ここでラスコーリニコフが攻められる側にまわらざるを得なくなる重大な契機として「金銭」が用いられていることに着目しよう。別に資本主義に反抗せよってのは、小説が担うべきテーマじゃない。そうではなくて、金銭のやり取りは必ず「攻める(責める)-攻められる(責められる)」の関係性・攻撃性を誘発するということこそが小説にとっての金銭の根本的意味だ。だからこそお金は軽々しく扱うことができないのだ、小説においては。」
・「攻めつつ攻められているという加害と被害の錯綜が関係性をドライヴさせる。その攻めつつ攻められるという二重性はラスコーリニコフの内語の文体にも反映されている。想像的対話? いや、そんな生易しいものではない。ドゥーネチカに「おまえ」と想像上で呼びかける。ほとんど当人を前にしての挑発的会話と同等。《だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。》《わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。》こうした敵対的な想像上の内的対話がどんどん展開してしまうというのは、まさにドゥーニャに「穴」があるからだと考えるべきであろう。また、自問自答による叙述の展開もあるが、ほとんどこれは「作家の日記」と同じ「公開自問自答」のような演劇性がある。「攻める」という志向性はやはり平常な平和な関係から見ると自ら駆り立てているような演劇性を帯びるということか。《それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!》そしてこれらの特徴の進化形として、「内語の中での演劇的一人三役」というアクロバティックな技法が出てくる。つまり、想像上の他者の言葉を、自分自身のアクセントで「復唱」し、それにリアルタイムで注釈=解釈してみせるという内語の運動だ。これはまさしく分析対象を「(攻められつつ)攻める」最も効果的なレトリックかもしれない。《だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうしえ犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか!》──ここで復唱されている母親の声が一種の攻撃になっていることに注目せよ。やはり、われわれの内語を熱烈に分裂させるのは「攻める-攻められる」の衝動か。それにしても内語で「一人三役」をやっているほどの個性なんて、ドストエフスキーの登場人物だけじゃねぇか? そしてついには、彼は自分が攻められざるをえない「穴」を自覚して、自分の中の他者の言葉によって自分を責め苛むに至る! 凄まじい分裂的饒舌。《それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?》」
・「もちろん単にラスコーリニコフの個性的な内語の表現だけがこの箇所の面目ではない。少々強引だが、前々章のマルメラードフの話に出て来たソーニャの売春とドゥーネチカの身売りを重ね合わせることで、ソーニャをふたたび伏線として強調している。こうした丁寧な伏線の仕掛けと、「マルメラードフがたまたまラスコーリニコフの前で馬車に轢かれる」(第二部第七章)偶然が重なって、ソーニャがラスコーリニコフ──およびドゥーニャとルージン──に深く関わってくることになる。この物語と関係性の運動は、見事だ。」
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こうしたラスコーリニコフの意地悪な内的饒舌による鋭い「解釈学」を可能にしているものは何だろうか。上の引用部では、「見抜く-見抜かれるという関係性をラスコーリニコフと母親の間で虚構した作者の手腕こそ重要だ」「ドゥーニャだったら絶対に分かっているはずだ、という形でルージンの人格の「穴」を見事に虚構してみせたこと、それをラスコーリニコフの「洞察」の中で利用し切ってみせたことにこそ注目しなければならない」「そもそもルージンに見抜かれるような穴を──しかもラスコーリニコフの母親が騙されてしまうほどに巧妙で、ドゥーニャが兄への愛のためなら見てみぬ振りができるほどの、微妙な位置づけの穴を──属させた作者の手腕も、それ以上の驚きと言わねばならない」「攻めつつ攻められているという加害と被害の錯綜が関係性をドライヴさせる」、等々、攻める(責める)-攻められる(責められる)という攻撃性を誘発する関係を登場人物間に虚構した作者の手腕を再三再四評価しているのだが、この虚構された関係性は「欲望偏差表」のような自分と他人との相互認識と欲望のベクトルの格差を記述するツールによって精緻化できることは、間違いない。そして、ラスコーリニコフの解釈学的饒舌を可能にしているのはまさにこの攻撃性・関係性の精緻化による。例えば──ごく一部分についての言及になるが──母親がドゥーニャの許婚であるルージンに期待していること、および母親ほど楽観的ではないがドゥーニャがルージンに期待していることは、ルージン自身の欲望とはまったくズレている(ラスコーリニコフは手紙の文面の細部からすぐさまそれを見抜いたし、後にはルージン自身の振舞いによって母親やドゥーニャにもそのズレは明らかになる)。のみならずそのルージンへの楽観的な期待を踏まえて、母親がラスコーリニコフに対して「息子にこうして欲しい」「こうすれば息子は喜ぶに違いない」「息子の将来はこうなって欲しい」という形で抱いている具体的かつ状況的な欲望も、ラスコーリニコフ自身の欲望とは決定的にズレている、すなわちラスコーリニコフが母親や妹が自分に対して期待して欲しいと願っていることと、実際に母親と妹がラスコーリニコフに対して抱いている期待は、あまりにもズレている。そこから妹が自己犠牲的に良かれと思ってした婚約(それによってルージンから学費が出てラスコーリニコフは学業を続けられ、やがてはルージンの法律事務所で働くことになってまた家族は一緒になれるはずだ……)がラスコーリニコフを憤激させ、容赦ない洞察力を発揮してその裏にある母親と妹の真の動機=欲望を見抜かせることにもなる。しかも忘れてはいけないのは、その母親と妹の欲望(と自分の欲望とのズレ)は、ラスコーリニコフにとっては完全に操作不可能だということだ。ラスコーリニコフはあたかも自意識の内省の純化によって状況を変えられると信じているかのように母親の手紙の文面の解釈学的分析に没頭しもするが、現実には、彼は他人の欲望-暴力の複数的な作動をどうすることもできず、彼の自意識は母親の欲望、ドゥーニャの欲望、ルージンの欲望の絡み合いにひたすら翻弄されるほかはない。その受動性の苦痛からの出口として彼が強制されるように志向したのが、ほとんど絶望的かつ自殺的であるような犯罪行為であったわけだ。「《しかし、いったいどうしてあの人たちはおれをこんなに愛してくれるんだろう、おれにはそんな価値はないのに! ああ、もしおれが一人ぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、おれも決して人を愛さなかったとしたら、こんなことはいっさい起こらなかったかもしれない!……》」──第六部第七章に出て来るこの苦しくて辛い想念は、ラスコーリニコフの犯罪行為に対し母親や妹たちの諸欲望(愛)が潜在的に先行していたことを明白に示している。つまり彼の殺人がドストエフスキーの中で虚構されていく始点において、欲望偏差表に近いものが構想されていたと思しい。
したがって、原則は以下の通りだ。小説において諸欲望の偶然的な偏差は正しく起源であって、何かから派生するものではない。複数的な欲望のズレが生み出すうねり以前には、小説空間には何ものも存在し得ない。
:「出会い」に対する自意識の恐怖・屈折・遅延・摩擦・渋滞・荒廃
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注意せよ。我々は小説の「行動-物語(小説の物語は登場人物たちの行動と行為によって組み立てられるがゆえにこういう言い方をしているのだが)」の起源には「偏り」と「出会い」があると述べた。しかしこの出会いはミンコフスキー時空における原子と原子のぶつかり合いのような純粋に確率論的な出会いではない。なぜなら、この原子は自意識を備えているからだ。そしてジル・ドゥルーズがスピノザに即して述べているように、自意識は己れの能動性と支配力を錯覚し易いように出来ている。しばしば自意識は自分の力の及ばない無意識のレヴェルで生起してしまった関係性としての出会いを、あたかも自分でコントロール可能なものであるかのように歪曲し錯視して受け取り直す。自意識は自分の自由と能動性という好都合な表象に耽って、しばしば自分を翻弄し分裂・拘束・制約をもたらす受動的偶然の侵襲を否認する。「意識は、文字どおり目を見開いたまま見ている夢にすぎない。……こうして乳呑み児は自分の自由で乳を欲していると思い、腹を立てた子は仕返しを、怖がりの子は逃げ出すことを、自分の自由でそうしたいのだと思っている……」。つまり、自意識は出会いを出会いとして即時に認識するとは限らない。いや、むしろその出会いをまるで大したことでもないかのように否認して受け流したがることの方が、自意識の常だと言っていい。
だが、さらに注意しよう。自意識はそれほど愚かではないということに。というのは、自意識は己れが無意識のレヴェルでは出会いを通過してしまったことに、そして己れが出会いを歪曲し否認することを強いられていることに薄々気が付いてもいるのだ。自意識が耽る自由と能動性の錯覚は間違っているが、しかしその錯覚を意志的・理知的に否定できるかのような単純な発想もまた、間違っている。我々は、自らの能動性を基礎づけようと必死に詭弁的内省に耽ることが一種の逃避だと頭で分かっているにもかかわらず、内省を純化し自分の自律性を証明したいという誘惑を断ち切れないものだ。言わば、自意識は無意識における電撃的な関係性=出会いを恐れている(不快)と同時に、それに憧れてもいる(誘惑)。それだから自意識は必ず何ものかへの「遅れ」としてしか「出会い」に到達することができない。そして、我々が小説のリアリティのユニークネスとしてこれまで思考して来たことこそ、この自意識にとって操作不可能な無意識レヴェルをコントロールしようとすればするほどそれに翻弄され遅延していくという逆説、或る水準での完全な能動性がそのまま別の水準での絶対的な受動性へ反転してしまうという矛盾、すなわち、アドルノ的な意味での「弁証法」を、人間精神の深部の顕現と見做すという視座であった。アドルノの言葉を引こう──「主体的態度としての弁証法とは、いったん事態のうちに矛盾を経験したら、その矛盾のために、それにあれこれ異論を唱えながら思考をすることを意味する。もし矛盾が現実の中にあれば、弁証法はこの現実に対する異論となる。/だが、こういう弁証法はもはやヘーゲルと手を組むことはできない。この弁証法の運動は、個々の対象とそれらの概念との差異の中に同一性を求めようとするものではない。それどころか、この弁証法は同一的なものを疑ってかかっている。この弁証法の論理は崩壊の論理である。すなわち、認識主観がさしあたりすぐ直面している諸概念の、整然と組織され、対象化された姿が崩壊する論理である。」「弁証法的矛盾が端的に「存在する」のではない。むしろそれは、何と言われても自分は矛盾であることをやめないぞという拒否のうちにその志向を──つまりその主観的契機を──秘めている。弁証法というものは、この志向を感じて異質的なものへと向かうのである。」(『否定弁証法』第二部)──したがって我々の思路は第一段階での自意識への批判においてスピノザと共有するところもありながら、或る地点からはスピノザのエチカではなくてアドルノのミニマ・モラリアの方へと逸れていくことになる(スピノザ(ドゥルーズ)は、バフチンとは別の意味でやはり事の半面しか見ていないと思われる)。頭での理解では自意識の錯視を退けることはできない。自意識はその転倒を批判的に吟味されてもなお回心せず、無意識のレヴェルに対し非親和であることを止めないぞ、という拒否の姿勢のまま共存しつづける。それが小説の主人公(の自意識)の運命である。『罪と罰』でラスコーリニコフがシベリアへ送られても何故回心できなかったかを考えてみるといい。
「出会い」を自意識は恐怖する。「出会い」に対して自意識は屈折し、渋滞し、荒廃する。「出会い」に対して自意識は常に遅れ(自意識に対する無意識の先行性)、それが漠然とした不安に帰着する。既に「出会い」を通過しているにもかかわらず、あたかも自意識の水準では小説の主人公には何ももたらされていないかのようである……少なくとも主人公の内省が緊張している間は。
例を挙げる。例えばフロイトが『日常生活の精神病理学』の中で挙げている「陰性幻覚」の事例は、自意識の「出会い」に対する感覚的遅延の一ケースだと言っていい。長くなるが引用してみよう──「ある人物のことを思っていると、まさにその人と遭遇するというのは「奇妙な出会い」として良く知られているが、私は自分自身で、それの、たやすく解釈できる単純な事例をひとつ観察したことがある。おそらくこれは似た事例に対する模範的な例と言えるだろう。君主制の国では教授という称号にはそれだけで多大の権威が伴うが、私がこの称号を与えられて数日後のことである。市の中心部を散歩していて、私の想念はふと脇にそれて、ある夫婦に対する子供じみた復讐空想にふけり始めた。この夫婦は、その数ヵ月前、自分たちの幼い娘のことで私を呼んだのだが、この娘には、ある夢を見てからそれに連関して興味深い強迫現象が生じていた。私は、この症例にたいへん興味を覚え、それが生じた経緯を見抜いたと信じた。ところが子供の両親は私の治療を断り、外国の催眠療法の権威筋に頼ることを考えている旨をほのめかした。私が空想していたのは、権威筋による試みが完全に失敗に終わり、そのあと両親が、私に、今では先生のことをすっかり信頼しています、どうぞ先生の治療法を試してくださいと泣きついてくる、というものだった。だが、それに対して私は、こう答えるのだ。ええ、私も教授になったから信頼してくださるのですね。この称号は、私の能力を何ひとつ変えたわけではありません。講師だった私がお呼びでなかったのなら、教授になった私もやはりお役に立てそうにはありません。──ここで私の空想が、大きな声の挨拶で中断された。「こんにちは、教授」。顔を上げて見ると、今しがた私が依頼を拒否して復讐した当の夫婦とすれ違うところだった。一見不思議に見えるが、少し考えてみれば、何の不思議もないことが分かった。私は、ほとんど人通りのない真っ直ぐな広い通りを、その夫婦と対向する形で歩いていて、二十歩ばかり離れたところで一瞬、顔を上げた際にその恰幅のよい夫婦の姿を目に留め、彼らであるのが分かっていたのである。ところが、この知覚は──陰性幻覚の常として──私の感情的な動機のゆえに脇へ追いやられ、ついで一見おのずと生じたかに見える空想の中で勢いを盛り返したのだった。」──おわかりだろうか。フロイトは街中を歩いている時に或る夫婦のことを考えていたのだった。すると不意にまさにその夫婦とばったり遭遇した。フロイトの自意識はこの遭遇をあまりにも奇妙な偶然として受け取るが、事後のフロイトの分析によれば、彼は既に遠く離れたところからその夫婦の姿を知覚していてその存在に気付いていたのであり、だがその出会いを不愉快なものと感じた彼の自意識はその予期せぬ・操作不可能な「出会い」に対して屈折し、逃避し、夫婦の知覚を消去した。つまり「出会い」という無意識レヴェルでの関係性は、出会った時点では意識にのぼらなかった。だがこの「出会い」は、マジック・ミラー越しにこちらを眼差す視線(こちらからは見えない)のように不透明なまま一方的に憑きまとい、彼を拘束する。というのは、「出会い」そのものはフロイトの「何を意識しているか」にとって不在であるにもかかわらず、それは不在として彼の内省の在り方(無意志的な連想の系によってその夫婦のことを心にのぼらせ、彼らに対する架空の感情的なやり取りを思うがまま空想する)を規制してしまうのだ。そしてそれは、大きな声で挨拶されて、もはや自意識が「出会い」を否認しきれなくなった時点で初めて、あたかもその夫婦のことを考えていたちょうどその時に当人にばったり遭遇したかのように自意識を驚かせた、という次第だ。これは自意識が必ず遅れて出会いに到達する、という自意識と無意識(=現実のキャパシティ)との弁証法的動態を端的に示してくれる事例である。ついでに言うと、『日常生活の精神病理学』の同じ箇所に触れて、東浩紀はフロイトの身に起こったことを一つの情報が意識の回路と無意識の回路と二つの回路で処理されたという事態だと、『存在論的、郵便的』の中で分析している。「ここでは「不気味なもの」の経験、つまり非世界的存在についての経験が、情報を処理する複数の回路(目-意識と目-無意識、さらに耳-意識)の衝突、あるいは速度のずれの効果として見事に説明されている。以上のフロイトの分析はそのまま、『マルクスの亡霊たち』でデリダが「目庇効果」──向こうからは見えるがこちらからは見えない──と呼んだ幽霊特有の性質、つまり声-意識に一方的に侵入する幽霊の能動性についてのすぐれた解説にもなっていると思われる」(第三章)。さらに付け加えて言うなら、フロイトのケースで目-意識と目-無意識のズレを、目庇効果を、幽霊の能動性をそもそも生み出しているものとして、欲望-暴力の偏差(「偏り」!)が先行している点を指摘するべきだろう。言うまでもなく、フロイトのその夫婦に対する欲望と、その夫婦がフロイトに対して抱いている欲望が決定的にズレていて、その夫婦が娘の治療のために「講師」に過ぎなかったフロイトを脇に除けて「外国の催眠療法の権威筋」を欲望したことがフロイトに受苦性をもたらし、「講師」の立場から「教授」の地位へ昇格した今、彼はその権威筋の治療が失敗することを復讐心混じりに欲望することを強いられる──という複数的な欲望のズレが生み出すうねりの中で、この「不気味なもの」の経験は生起しているのだ。我々の分析としてはその欲望-暴力への着目の方が重要だ。
(小説にとっての重要性ということで言えば、上記の目-意識と目-無意識のズレは文体としては「兆候的描写」を要請するだろうことを指摘しておこう。他人たちの関係における複数的な欲望の偶然的偏差と相互認識のズレを、例外的な表情の変化や声音の抑揚から主人公が知覚したにもかかわらず(目-無意識)、それが否認され意識にのぼることがなく(目-意識)、それでいて主人公がよく分からないまま相手に対する態度を調整していく、という自意識と無意識との弁証法的動態を描くには、登場人物の表面に現われる兆候を掬い取ってそれを語り手の位相から明晰に記述しなければならないだろうということだ。この「相手に対する態度を──意識を介さずに!──調整していく」というプロセスは当然ながら一人称によっては絶対に記述することはできない。しかし主人公の自意識が無意識に対していかに屈折したかという痕跡の分析を欠いたあまりにも客観的な立場でもまた、この弁証法的動態は描けない。必要とされるのは場面を常に自意識のレヴェルと無意識のレヴェルで共時的・分裂的に注視する語り手の仮構だ。それはドストエフスキーが『罪と罰』の創作ノートに記している「作者」の立ち位置に関するアイディアと軌を一にする。「目には見えないが、すべてを知っている存在としての作者からの物語。しかし作者はいっときも彼から目をはなさず、『これはみなあまりにも思いがけぬことだった』という言葉さえ聞き逃さぬほどだ」。このような作者=語り手にとって、自意識と無意識のズレから生じる例外的事象に目を向ける兆候的描写は写生のための一つの武器となる。のみならず、この兆候的描写はそのままで、自意識が「出会い」に遅れて到達することの「伏線」となるだろう。)
自意識が「出会い」に対して遅延するという事態のさらなる具体例として、90年代に問題になった「催眠商法」を挙げよう。催眠商法とは消費者の購買意欲を煽って必ずしも必要でない商品、不当に高額な商品を売りつけるというイベント開催型悪徳商法の一つだ。手口は以下の通り。まず、比較的安価な品物の特売や無料プレゼントという餌で客(女性や高齢者が主に標的にされる)を特定の場所(ビルの一室等)に集める。次に司会者が口舌巧みにこの素晴らしい商品を購入するチャンスは今だと擦り込み、さらには逸早く手を挙げた客にはより一層のサービス価格で購入させたり、積極的に返事をする客には特別にタダで商品を手渡したりといったことをして、客が競い合って挙手をするような雰囲気を作り出していく。最初は低額の商品ばかり出てくるが、やがて会場内に我先に購入しようとする空気が満ちるのを見計らって、販売する商品の値段はつり上げられていく。ついには、早い者勝ちとばかりについ手を挙げてしまった客に、数十万円の羽毛布団や健康器具が売りつけられるという事態が発生する(この商法は現在では「特定商取引に関する法律」によって規制されている)。ここからは、まあ消費者の自己決定というものがいかに周りの空気に流されるか、いかに根拠のあやふやなものかという教訓を導くこともできるが、本質的な問題はそこにはない。容易に分かる通りこの催眠商法は客が(中井久夫が言う意味で)「踏み越え」し易いように、自意識の葛藤を経ず意識下の身体が先に動いてしまうような多様な契機をその場に醸成することを目指している。つまり「催眠商法」とは、客の自意識のコントロール下の変化に訴えるのではなく、もはや一切悩む暇を与えずに無意識レヴェル≒欲望-暴力のレヴェルで小さな衝撃を加え、客の衝動的な行動化を促そうとする詐欺的な仕掛けだということだ。或る意味では、この商法で客を誘惑しようとする悪徳商人の立場は、現実のキャパシティ≒他人の欲望の偶然的偏差をまるごと虚構して、その中で主人公(の自意識)を翻弄するというプロットを設定する小説の作者の立場に類比的である。
さらに、この催眠商法によってまったく必要でない高額の商品を買わされた消費者(の自意識)が、その事態を事後的にどのように反省するかを考えてみると非常に興味深い。思うに、そうしてまんまと騙された人も、高額商品を購入した瞬間──予期せぬ自分の衝動に自分自身が不意打ちされてしまった瞬間──から即座に後悔するということはないのではないか。むしろ、高揚を感じつつ颯爽と手を挙げて、他の客たちとの競争に勝利して高額商品を購入する権利を見事得たことに関して、ふわふわした能動感、躁病的な心身統一感、祝祭的なカタルシス感の微熱が購入後もしばらく続くのではないか、と想像される。彼は、自分はしっかりとすべてを見通した上でもっともな因果関係から購入したのだ、購入に際しては直観的かつリーズナブルな意思決定をしたのだ、と誇らしく感じ続けるかもしれない。数日くらいはずっとそう考えているかもしれない。いや、薄々は自分が自己規律を失って完全に金を無駄にしたのだという「現実」に本当は彼は気付き掛けてもいるだろう(自意識は無意識における「出会い」を恐れもし、憧れもする!)。だが彼の自意識は己れの能動性の錯覚に固執して、そのためにいよいよ屈折し荒廃していくことだろう。「なんで羽毛布団を買ってはならないのか?」という事前の行動化はそのまま「なんで羽毛布団を買ったのがいけなかったのか?」という事後の正当化に変わり、催眠商法に騙された事実そのものは両者の間に挟まれて消える。実際には彼自身購入の目的さえ全然分かっていないし、明確な意思決定があったわけでもないのだが……(付け加えて言えば、催眠商法の現場で羽毛布団を買わなかった者も、「モノはよく考えて購入する」という規則に意志的に従ったから買わなかったわけではない)。そのことに盲目であった自意識がついに「現実」を認め屈服する時、気付きまでの遅れが大きければ大きいほど、それまで詭弁が積み重なっていればいるほど、彼の後悔の念は激しくなるだろうと思われる。それが宿命だ。自意識は必ず何ものかへの「遅れ」としてしか「出会い」に到達することができないのだから。フロイトの『日常生活の精神病理学』の事例は自意識の「出会い」に対する感覚的遅延だった。それに比して催眠商法のケースを、自意識の「出会い」に対する意思-行動的遅延とかりそめに呼んでおく。言うまでもなく、この意思-行動的遅延も一人称や内的独白で描出することは不可能である。
そしてこの意思-行動的遅延の唯一無二の具体例こそ、『罪と罰』におけるラスコーリニコフの殺人(の反省)なのだ。早速分析してみよう。ちなみに以下の考察は──ここまでの考察も──鎌田哲哉「ドストエフスキー・ノートの諸問題」(『批評空間』第II期第24号掲載)の圧倒的な影響下にある。
ラスコーリニコフの殺人は実際どのようなものだったろうか? 思い出して欲しい、ラスコーリ二コフが殺人に到る過程で一度も「殺そう」という意思決定をしていなかったことを。彼の自意識は殺人の実行の手前で永遠に渋滞することを強いられていた。「ああ!……いったい、いったいおれはほんとに斧で頭をわり、頭蓋骨をたたきわって……あたたかいねばねばする血に足をとられながら、鍵をこわし、金をぬすむつもりなのか? そして返り血をあびて、がたがたふるえながら、身をかくすのか……斧をもって……おお、果してそんなことができるだろうか?」「いや、おれは堪えられぬ、堪えられぬ! たとえこのすべての計算には一点の疑いさえないにしても、この一月の間に決められたことがみな、白日のように明らかで、算術のように正しいとしても、だめだ。ああ! おれはやっぱり思いきれぬ! だっておれは堪えられぬ、堪えられぬのだ!……」(第一部第五章)。しかし彼の周囲で偶然的かつ例外的な小さな出来事──彼を欲望-暴力のレヴェルで刺激する小さな契機──が積み重なっていき、時間的な切迫も重なって、彼は彼自身でも目的も要因もはっきりしないまま殺人に踏み切ってしまう。「彼はまるで死刑の宣告を受けた人のように、自分の部屋へ入った。何も考えなかったし、ぜんぜん考えることができなかった。しかし不意に全身で、もう考える自由も、意志もなくなり、いっさいが決定されてしまったことを、直感した」(第一部第五章)。「まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用した。まるで誰かが彼の手をつかんで、超自然的な力で、有無を言わさずひっぱったようであった。彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていったのである」(第一部第六章)。それでいて彼は、殺人に向けて行動している間はあたかも自分の能動性を信じ切っているかのように重度の興奮と心身統一感の熱狂の最中にいた。「不意に彼はぎくッとした。二歩ばかりしかはなれていない庭番小舎の中で、腰掛けの右下のあたりでピカッと彼の目を射たものがある……彼はあたりを見まわした──誰もいない。彼は爪先立ちで庭番小舎へ近づき、石段を二つほど下へおりて、小声で庭番を呼んだ。《案の定、いないぞ! だが、どこかそこらにいるにちがいない、戸が開けっ放しだからな》彼はすばやく斧へとびついて(それはたしかに斧だった)、腰掛けの下の二本の薪の間からとり出した。そしてその場で、例の輪へしっかりさしこむと、両手をポケットへつっこんで、庭番小舎を出た。誰にも見られなかった! 《理性じゃない、悪魔の助けだ!》──彼は奇妙な笑いをうかべながら、ふと思った」(第一部第六章)。ラスコーリニコフのこのふわふわした興奮と錯覚は犯行の後にも続く。彼は一体何が自分に殺人を犯させたのかはっきりと意識にのぼらせることができない。殺人という最も困難な行動計画を実行に移したのだからそこには何らかの手応えがあって良いはずなのに、彼の中には一切の達成感がなく、しかもその達成感の不思議な空虚さの所以をなかなか自己反省によっては見出すことができずにいる。彼が、自分の殺人が彼の自意識にとってはまったく不透明な“もののはずみ”のからくり(=現実のキャパシティ)に強いられて何の目的も確信もなしにやってしまった馬鹿げた愚行であることをようやく認める──催眠商法で高額商品を買ってしまった客が後日ようやく自分が騙されて金を無駄にしたことを自覚して、後悔し始めるのと類比的に──のは、犯行の日から約一週間経ってのことなのだ。しかし、彼の自意識は犯行を計画していた最初の頃から、こんな殺人がおよそ馬鹿げたことを十分に自覚していたはずだった。このことからも、彼が内省を純化させた上で「自分には老婆を殺す権利があるのだから殺そう」と決意したのでは全然ないことが知れる。「《……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとでそれを自分に言うだろうとは、まえから予感していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……》」(第三部第六章)。「……ソーニャ、わかってくれ、ぼくは同じ道を歩んだとしても、おそらくもう二度と殺人はくりかえさないだろう。ぼくは他のことを知らなければならなかったのだ。他のことがぼくの手をつついたのだ。ぼくはあのとき知るべきだった、もっと早く知るべきだった、ぼくがみんなのようにしらみか、それとも人間か? ぼくは踏みこえることができるか、できないか! 身を屈めて、権力をにぎる勇気があるか、ないか? ぼくはふるえおののく虫けらか、それとも権利があるか……」(第五部第四章)。すなわち、彼の自覚や信念は彼の行動に圧倒的に「遅延」する。彼の自意識は、無意識(=現実のキャパシティ≒社会的な現実の諸力)を性急な行動化によって従属させたつもりでありながら、その偽りの能動感によって徐々に衰弱し荒廃していき、むしろ反復強迫的に無意識(=現実のキャパシティ≒社会的な現実の諸力)に対する自らの受動性を累積させていく。この主人公の「遅延」については、小林秀雄がそのドストエフスキー論の中で次のように卓抜に描写しているので引用したい。「老婆の殺害は、ラスコーリニコフの妄想の結論という、謎めいた事実であったが、彼は、同時にもう一人リザヴェエタという女を殺したのであり、この方はまことにはっきりしている。……無論、これは主人公には、少しも鮮やかな事柄ではない。作者に呪いを掛けられた、ラスコオリニコフの事後の反省は、不思議な自然さでこの点を避けて通る。なるほどラスコオリニコフには、あの事件を決して忘れる事は出来ない。が、又、決して本当には思い出す事が出来ない」(「『罪と罰』についてII」)。自意識は無意識のレヴェルで起こった「出会い」を恐怖しつつも、憧れる。自意識はその「出会い」を決して忘れることは出来ないが、また決して本当には思い出すことができない。
ところで自意識は何に「出会う」のだろうか。もちろん、自意識にとって予期し得ないもの、操作不可能なものと衝突するのだ。そして自意識は「出会い」の倍音に翻弄されることを強いられる。『罪と罰』の読者ならラスコーリニコフが犯行に及ぶ過程で一つ決定的な「出会い」があったことを覚えているだろう。それは彼が自分の自由意志とは無関係にもはや自分が老婆を殺すことは避けられないという直感を受け入れた、最後の一押しとなった受動的偶然だ。母親からの手紙を読んで苦しい想念に追われるように彼は散歩に出掛けたのだった(ちなみにこれは散歩というよりラズミーヒンに会うための外出だったのだが、その目的を彼が自覚するのにも遅延がある──「《ところでおれはどこへ行こうとしているのか?……おかしい。おれは何か目的があって出かけて来たはずだ。手紙を読みおわると、すぐに出た……ワシーリエフスキー島のラズミーヒンのところへ行くんだった。そうだ、やっと……思い出した。しかし、何のために? それにしてもラズミーヒンのところへ行くなんて考えが、どういうわけで、それも今日、頭にうかんだのか? 実に不思議だ》」)。このままでは、彼の窮迫した状態を救うなどという許し難い動機から妹が結婚をしてしまう、その時間的な切迫感も、彼を強盗殺人という空想に駆り立てていくが、どうしてもその空想が現実になるとは彼には確信を持つことができないのだった。「彼が考えていたのは大筋で、自分ですべてに確信がもてるようになるまで、枝葉末節はのばしておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。少なくとも自分ではそう思っていた。いってみれば、いずれは考えをおわって、みこしをあげ──あっさりとそこへ出かけて行くときがくるなどとは、彼は想像することもできなかった」(第一部第六章)。彼にとって、考えれば考えるほどその犯行計画は荒唐無稽に思われ、決行の機会を間近に感じようとすればするほど現実性は遠離っていくかのようだった。だが、その散歩の帰り道に、なぜか彼は全然立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場を回っていって、その往来での会話を偶然立ち聞きしてしまう。そして彼は明日の夜七時に例の老婆は家に一人きりだということを幸か不幸か知るのだ。「彼はあとになっていつも自問するのだった。いったいなぜあんな重大な、彼にとってあれほど決定的な、同時にめったにない偶然のめぐりあいが、(通る理由さえなかった)センナヤ広場で、ちょうどあの時間に、彼の人生のあの瞬間に、それもあんな心の状態のときに、しかもこのめぐりあいが彼の全運命にもっとも決定的な、最後的な影響をあたえるには、いまをのぞいてはないというような状況のときに、起ったのか? まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!」「むろん、このような計画を持ちながら、何年間も適当な機会を待ちつづけたとしても、それでさえ、いま思いがけなく彼のまえにあらわれた機会以上に、この計画の成功への確実な一歩は、おそらく望めなかったにちがいない。いずれにしても、明日のこれこれの時間に、謀殺をねらうこれこれの老婆が、たった一人で家にいるということを、その前夜に確実に、ほとんど危険をおかすことなく、いっさいの危ない聞きこみやさぐりをせずに、詳細につきとめるということは、難かしいことにちがいない」(第一部第五章)。彼はただ、老婆の妹でたった一人の同居人であるリザヴェータが明日の晩七時には家に居ない、という情報を耳にしただけだった。だがそれは彼にはまったく予期し得ない、マジック・ミラーの向こう側の中有の闇から突き出された脅迫(「幽霊の能動性」!)のように感じられ、彼の惑乱した不安定な心はこの現実に対する圧倒的な受動性に押しつぶされてしまう。人間の心とはこれほどにも動かされ易いのか。これは、殺人計画を練りに練りつつも老婆が一人でいるという時間帯の情報を探り出すことができずにいたところ、この好機に運良くその不備を解決できたぜというようなことではないのだ。彼は意志的かつ能動的にその情報を取り込んだのではない。そうではなく、その情報をもはや適切に吟味する心の余裕さえなく、ひたすら不可測かつ操作不能な外的な衝撃として感じ、彼はその情報に「強制」される(これは逆から言うと、仮にラスコーリニコフが老婆を殺さなかったとしてもそれは彼が「殺さない」という規則に意志的に従ったからではないということを、意味する)。彼の自意識はもはや完全に置いてきぼりにされる。彼の自意識はもはや現実のキャパシティに抵抗できない。そして根拠不明の兇行が勃発する。「時計が鳴る、彼は、ハッとわれに還り、自働人形の様に動き出す、婆さんの素頭に、斧が機械的に下りて来るまで。──再び言うが、読者はじっと息をこらしている、主人公の心理の動きの必然性のうちに閉じ込められて。読者は、兇行の明らかな動機も目的も明かされてはいない。そんなものが一体必要か。そんな事はどうでもいい事ではないか。よくなくっても後の祭りだ。」(小林秀雄「『罪と罰』についてII」)
言うまでもないことだが、このラスコーリニコフのセンナヤ広場での決定的な「出会い」をそれ単独で取り出して出来事として分析しても無意味だ。この出会いの電撃性はそれまでのラスコーリニコフの自意識と無意識との弁証法の屈曲の積み重ねを抜きにしてはあり得ない。殺人の実行はもう避けられないという強迫観念が彼に取り憑くに到る契機は、単一ではない。前日老婆の家を下見に行ってその場でふと色々考えたこと(その際部屋が綺麗に掃除されていたことから《リザヴェータの仕事だな》と彼が思い付くのは如何にも「兆候的」だ)、酒場でたまたま下級官吏のマルメラードフと知り合ったこと、そしてマルメラードフの娘ソーニャの、家族の貧窮のために売春を強いられている悲惨な境遇を知ったこと、母親からの手紙によって妹の婚約話が勝手に進んでいるのを知ったこと、散歩に出た往来でどこかで陵辱されて放り出されたらしい小娘に遭遇したこと(その小娘から彼はソーニャとドゥーニャの「身売り」のことを連想する)、原因不明なままなぜかラズミーヒンのところへ行こうという考えが自分に浮かんだこと(「いまなぜラズミーヒンのところへ行くのか、という疑問は、自分で思った以上に、彼を不安にした。このすこしもなんでもなく思いたい行為の中に、彼はびくびくしながら自分にとって不吉なある意味をさぐっていたのである」──これも兆候的!)、そして疲れ切って灌木の茂みで寝込んでしまった時に恐ろしい夢=虐待される馬の夢を見たこと、これらの偶然的かつ例外的な出来事が積み重なることによって、彼は徐々に荒唐無稽な強盗殺人を実行するしかないという切迫に追い込まれていき……ついには往来でたまたま明日の晩老婆が一人きりだという情報を不意打ちに得て、それは純粋な偶然だったにもかかわらず、あたかも彼自身がそれを望んでいたかのごとく「まるで実際にそこに宿命とでもいうか、指示のようなものがあ」って「もう考える自由も、意志もなくなり、いっさいが決定されてしまったことを直感」したのであった。この過程において絶対的に重要なのは、ラスコーリニコフの自意識が、自意識にとっては操作不可能なこれら無意識レヴェルでの「出会い」の受動性・不自由さに対して、苦しみを感じながら必死で逃避しようとしつづけていることだ。彼は無意識レヴェルでの関係性によって徐々に自分の自律性が奪われつつあることに、強盗殺人という強迫観念が自分に取り憑きつつあることに、自意識の上では不快感という形で拒否反応を示す。「《ああ! なんといういまわしいことだ! いったい、いったいおれは……いや、こんなことはたわけたことだ、愚劣だ!……それにしても、よくもこんな恐ろしい考えが、おれの頭にうかんだものだ! おれの心は、なんというけがらわしいことに向いているのだ! なんとしても、けがらわしい、きたない、ああいやだ、いやだ!……それなのにおれは、まる一月も……》」(第一部第一章)。彼は予測不能な他人(含自分)の欲望-暴力の複数的な作動が、社会的現実の諸力が、段々と自分を愚劣な殺人計画へと追い込んでいっていることに──そのことの兆候が周囲で明滅するのに、嘔吐し、怯え、不安がりながらも(上述のように、彼は自分が無意志的にラズミーヒンのところへ行こうと思い立ったことに何か不吉な意味を探ろうとする)、なんとか自意識的な内省を駆使して、その不快な宿命を回避しようとする。小林秀雄も指摘していることだが、ラスコーリニコフはセンナヤ広場での最後的な一撃を受けて犯行はもはや避けられないと直感する直前には、すべての受苦性から俺は自由になった、犯行はついに避けられたと意識的に信じているのだ。「……顔は蒼白で、目は熱っぽくひかり、身体中に疲労があったが、彼は急に呼吸が楽になったような気がした。彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》/橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!」(第一部第五章)。無論、ここでこの事態を主人公の自意識の水準と無意識の水準という複数のレヴェルで見ている作者=語り手にとっては、ラスコーリニコフが口にする「自由」など単なる錯覚でしかない。自分が自由である、自分は殺人の空想を断ち切った、という彼の性急な自己規定は、無意識レヴェルで起こっている社会的諸力の作用の単なる自意識による否認でしかない。だがこの「自由」の錯覚、受動性からの解放の錯覚にすがりたくなるほど、この時のラスコーリコフは不快に疲れ苦しんでいたとも言える。だが、鎌田哲哉も指摘するようにここで彼の否認=逃避の叫びが「祈り」として表れているのは、彼自身やはり自分がどうしても操作不能な社会的現実の諸力に追い詰められて押し潰されかかっていることに、自分の「もう殺さない」という信念が根拠薄弱なものに過ぎないことに、薄々気付いていて、今自分が意識しているのとは別の仕方で行動してしまう予感に怯えているからこそなのだ。「……彼はもう、何かおそろしい重荷から不意に解放されたように、晴やかな顔になって、親しげにあたりの人々を見まわした。だが、その瞬間でも彼は心のどこかで、こう何でもよいほうにとりたがる気持も、やはり一種の病気なのだと、かすかに感じていた」。すなわち、彼は「出会い」を恐怖しながらそれに憧れてもいる。「出会い」そのものは彼の「何を意識しているか」にとって不在であるのに、それは不在として彼の内省の在り方を規制してしまう。それだからこの直後に発生する反転──「婆さんは明晩一人でいる」という情報の衝撃に堪えられずにラスコーリニコフの中で「殺さない」から「殺す」への刹那の反転が起こるのは、ほとんど宿命的に予定どおりとさえ言えるわけだ。自意識が薄々抱いている最悪の予想は、大抵正しい。
さて、自意識の受動性、致命的な遅れ、反転、他人の欲望の複数的な作動の不透過な兆候への屈服……といった関係性全体の例として、ラスコーリニコフの殺人はあまりにも特異過ぎて参考にならないかもしれない。ので、それとはまた別の簡潔な例をここで敷衍してみよう。とりあえず、適当に主人公の周りに疑心暗鬼の状況を設定してみる。例えばだ。或る一つの目的を志向してまとまっている集団があるとして、そこの成員として新たに主人公が加わることになるという状況、しかし実はその集団が目指している目的とは背反する別の目的を主人公は秘かに抱いていて(秘密Ψ)、自分個人の私的な目的のためにその集団に属することで得られる利益を存分に利用してやろうという利己心が彼にはあり、だから彼はその集団が士気高く向かおうとしているベクトルに表面上は従いつつも、同時に巧く立ち回って自分の目的を優先的に満たすというアクロバットを演じなければならない──。そういう状況があるとする。そこで疑心暗鬼として立ちのぼるのは、他のメンバーが主人公のことをどう思っているのか、本当に表面的な愛想の良さのとおりに彼のことを快く受け入れているのか、それとも彼が異質な目的を抱いている(秘密Ψ)ことに気が付いていて彼に不信の念を抱いているのか、その不透明性だ。本当に彼らは主人公の上辺の演技に騙されているのか。それとも騙されている振りをしているのにこちらが騙されているのか。彼らは主人公が隠している秘密Ψを見通しているのか。それとも見通せていないのか。つまり、欲望偏差表として主人公を結節点にした無意識レヴェルの関係性を、主体からは透過することができない(「目庇効果」!)ということが、彼にそのつど現われる何かの兆候に対し不吉な意味を探ろうとさせ、逆に不快な受動性を強いることになるだろう。欲望偏差表が、無数の他人の欲望の網目が、主人公の望まない方向にズレて変化していったとしても、それは主人公の自意識にはどうしたって操作不可能だからだ。如何に内省を純化しようと、如何に自らを能動化しようと、「彼ら全員が俺に対して不信の念を抱いているのかもしれない、上辺だけの笑顔など何の事実も保証しない」という疑心暗鬼の作用は除去できない。しかもこの疑心暗鬼は一方では、「彼ら全員は実際俺に対して親しい感情を抱いているのかもしれない、俺の演技は見透かされず巧くいっているのかもしれない」という期待・希望とコインの裏表である。したがって場合によっては、主人公は──不意に自分が悪魔の誘惑から解放されたと信じて「自由だ!」と軽やかに叫んだラスコーリニコフと同様に──自分にとって都合の良い兆候を精査して、自分の思考によって自分を勇気づけるかのように「間違いない、俺は確かに彼らから信頼されている、もしかしたら秘密Ψがバレてるかも、なんて動揺する必要はもはやない!」と叫ぶこともあるだろう。だが、ラスコーリニコフのケースと同じく、この自己規定もまた弱さ=逃避の表われでしかなく、彼の確信には真に疑心暗鬼を退けた人間の持ちうる冷静な沈着がない。自意識で自分に言い聞かせる言葉の強度を幾ら増そうとも、それは「俺は動揺しない」ことを基礎づけ疑心暗鬼を除去する条件にはならないのだ。いや、そのことを主人公も分かっている、だから彼は俄に獲得された「自由」に躁病的に興奮しながらも、実際には彼自身が今意識しているのとは別の仕方で衝動的にふるまう予感に怯えている(対人恐怖=対人憧憬)。そこへ不意に、欲望の偶然的な偏差、自己と他人と相互認識の格差、複数的な欲望のズレに由来する決定的な「出会い」の一撃が訪れれば、彼の能動性(「秘密Ψはバレていないに違いない/俺は動揺しない」)はそのまま完全な受動性(「秘密Ψがバレていないわけがない/俺は動揺させられる」)へと一挙に反転していくだろう。人間の心はそれほどに動かされ易い。そこから彼が惑乱した不安定な心のまま、考える自由も意志も失ったまま、自働人形のようにふらふらとみなの前に出て自分の秘密Ψを告白してしまうという「行動化=踏み越え」も生じるかもしれない。
いずれにせよ我々は主人公がどのような人間であるのか(事後的な判定であれ)よりも、主人公がどのような人間であることを無意識から強いられているのか、を構想しなければならない。付言しておけば、「踏み越え」は、欲望の偶然的な偏差による出会いの衝突の発熱が積み重なったところに、さらに「時間的な切迫・急き立て」が加わって、初めて具体化するものなのかもしれない。そしてその踏み越えた行動の方こそ、遡行的に主人公の何であるか=主人公の相対的な宿命を決定してしまうことになるわけだ……。
:語り手の位相と兆候的描写
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ここまでの考察を踏まえると、自意識と無意識との弁証法を根幹に据えた小説形式において主人公とは区別される三人称の語り手の介入は、必須だ。確かに語り手が主人公の自意識の受苦性に寄り添うかぎりで語り手/主人公の距離は無限小に到る。だが無意識レヴェルで生起する事態に対する自意識の決定的な屈折・荒廃・遅延を注視するためには、すなわち自意識と現実との間に広がる深淵を──主人公の「いかに意識しているか」と主人公の「いかに行動してしまうか」との間の深淵を注視するためには、語り手は常に事態を複数レヴェルで見る認識に立たなければならない。自意識と無意識との弁証法をそのまま写し取り、主人公が自意識で考えること(動機や目的を事後的に偽造して無意識の先行性に目を閉ざしてしまうこと)に惑溺せずに言文一致的な内面を再構成しない文体、それが、小説的リアリティにとって必要な文体だ。
ただ一点、小説の語り手による注視が「否定」を意味しないことを強調しておこう。小説の語り手は、主人公の自意識が能動性の錯覚の中で陥っていく逆説的な受動性を注視するが、その錯覚を理知的に解決すべきもの(回心=治癒)として描き出すわけではない。なぜならその主人公の自己絶対化は主意的なものではなくて現実から強いられたものであり、小説は主人公を不安なまま翻弄する現実のキャパシティそのものをリアルに虚構することを目指すからだ。自意識の自由と能動性の錯覚に陥っていくからくりを、いかに頭で理解・批判したとしても、「個人」は社会的現実の諸力そのものを退けることはついにできない。主人公の自意識にとっていかに無意識の先行性がまざまざと認識されようとも、現実に対する彼に固有の違和感は依然として残り続ける。「ラスコーリニコフは自分の小さな部屋に入ると、その中ほどで足をとめた。《なんのためにここへもどってきたのだろう?》彼は黄色っぽいぼろぼろの壁紙、つもった埃、寝台代わりのソファを見まわした……庭のほうからものを叩くような、鋭いたえまない音が聞えていた。どこかで釘でも打ち込んでいるらしい……彼は窓辺へ行って、爪先立ちにのびあがり、神経を極度にとぎすましたような様子で、長いこと庭の中を見まわしていた。しかし庭は人気がなく、釘を打っている男の姿は見えなかった。左手の脇屋にいくつか開け放された窓が見えて、窓台にやせたゼラニウムの鉢がおいてあった。窓の外には洗濯ものが乾してあった……こうした光景は彼はもうそらでおぼえていた。彼は窓のそばをはなれて、ソファに腰を下ろした。/これまで、彼がこれほど痛切に身の孤独を感じたことは、まだ一度もなかった!」(第五部第五章)。「奇妙な話で、おそらく誰も信じないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった。彼を苦しめていたのは、それとは別な、はるかに重大な、並々ならぬもの──彼自身のことで、他の誰のことでもないが、何か別なもの、何か重大なものだった。それに、彼の理性が今朝は最近の数日に比べてよくはたらいていたとはいえ、彼は限りない精神の疲労を感じていた」(第六部第三章)。主人公の根底的な錯覚を分析してみせた上でそれを「否定」して彼に(ないしは読者に)精神的自立を迫るなどということは、エヴゲーニイやポルフィーリイといった登場人物の役回りではあるかもしれないが、小説の語り手≒作者の仕事ではない。小説はただ主人公の受苦性に対し、語り手の位相という近傍で一緒に歩き続けることを義務とするだけだ。
ところで既に記したことがあるように、このような語り手≒作者にとっては、「兆候的描写」という方法が写生のための一つの武器となる。ドストエフスキー「『罪と罰』第一稿」の欄外の書き込みに「物語は、あらゆる瞬間に、不必要な、意想外な細部によって、中断されていなければならぬこと」という言葉があるのだが、これを「(自意識にとって)不必要な、意想外な細部」と読み替えれば、それは兆候的描写によって描き出される兆候的細部のことだと考えられる。自意識が予測不能な他人(含自分)の欲望-暴力の複数的な作動(=無意識としての社会)に対して屈折し荒廃し遅延することは、これまで論じて来た通りだ。それゆえに自意識は自分が無意識レヴェルで生起した出来事に翻弄されていることをはっきりとは自覚することが、できない。主人公の自意識はそれを何かの兆候として感受するだけだ。兆候的描写という方法論は、無意識レヴェルでの「出会い」の必然性を仮構しつつそれが自意識にとっては兆候としてしか現われないという感覚的遅延ないしは意思-行動的遅延の「目庇効果」を、その関係性全体をまるごと創出することを目指す。それは主人公が見たものを直接描写するのではない(主人公の自意識の能動性は常に現実を稀釈する)。むしろそれは主人公の目-意識と目-無意識との自己関係的なズレを描写する。ここで重要なのは、自意識の水準ではまったく偶然的で、不必要で、意想外だと思われることが、無意識の水準では少なからず必然性を持っているということだ(この点小林秀雄が「『罪と罰についてII」の中で「ラスコオリニコフというこの極めて不安定な存在にとっては、一切が偶然である。従って作者はどの様な必然性を彼に附与しても差支えない」と書いてしまっているのは、分析が浅いのではないか)。
兆候的描写の目庇効果の例は『罪と罰』の中では枚挙に暇がない。例えば、ラスコーリニコフが老婆を謀殺するために老婆の住むアパートへ足を運んでいく間、どのような想念=「不必要な、意想外な細部」が彼の自意識の能動性を「中断」しているか見るがいい。「何気なくちらと横目を小店へなげると、柱時計がもう七時十分をさしていた。急ぐことも必要だが、同時にまわり道をして、向う側から建物へ近づかなければならなかった……/まえには、たまたま頭の中でこの計画をすっかりたどったりすると、よくいざとなったらすっかり怯気づいてしまいそうな気がしたものだ。ところがいまはそれほど恐ろしくなかった。ぜんぜん恐ろしくないといってもいいくらいだ。いまここへきて、彼の心をとらえたのは、かえってつまらないよそごとだった。ただどれも長つづきはしなかったが。ユスポフ公園のそばを通るときなど、高い噴水をつくったら、広場という広場の空気がどんなに爽やかになることだろうと、真剣に考えこんだほどだ。そして彼の考えは、しだいに、夏公園を練兵場までひろげ、さらにミハイロフスキー宮庭園にまでつづけたら、市にとっては実に美しい、そして有益なものになるだろう、という確信に移っていった。すると不意に、一つの疑問にひっかかった。どこの大都会でも人間は、やむを得ない事情からばかりではなく、どういうわけかことさらに、公園もなければ噴水もなく、ぬかるみや悪臭やあらゆるきたないものが吹きよせられているような、ごみごみした場所にかたまりたがる傾向があるが、それはいったいなぜだろう? とたんに、センナヤ広場をさまよい歩いたことが思い出されて、彼はハッとわれにかえった。《何をつまらないことを》と彼は考えた。《いや、それより何も考えないことだ!》/《きっとこんなふうに、刑場へひかれて行く者も、途中で目にふれるすべてのものに、考えがねばりついてゆくにちがいない》──こんな考えが彼の頭にひらめいた、が、稲妻のように、チカッとひらめいただけだった。彼は自分ですぐにその考えを消した……」(第一部第六章)。さて、このラスコーリニコフの想念の記述はいかにも不必要なものに違いない。彼は狙いの老婆の住む建物へ向かっているところであり、自分がこれから行なおうとしている殺人の計画について思惟を集中させるべきなのに、なぜか無意志的に公園や噴水や大都会の人間のことを考え始めてしまっている。しかも彼自身でもその思索の流れをほとんど自覚できていない。これらの考えは彼の頭に「チカッとひらめいた」とたんに消え去ってしまう。つまり、彼は決して公園や噴水や大都会のことを能動的に考えようとして考えているわけではないのだ(そのような描写になっている)。問題は、何故作者は作為的にあえてこんな想念をラスコーリニコフに思い浮かべさせたかということだ。ここで、ラスコーリニコフが目にしたはずのユスポフ公園の噴水についての細かな描写は一切ない。一つの考えは、ここで描写の対象となっているのが主人公の自意識と無意識との自己関係的なズレだという解だろう。まず、ラスコーリニコフの脳裏が無意志的な連想に満たされてしまうということ自体が、彼が今実行しつつある行為の根本的な受動性を示唆していると言える。彼がもし「殺す」ということに関して自律性を獲得しているのだとしたら、こんな「不必要な」想念に侵襲されるはずはない。そして、彼の想念の内容もまた暗示的だ。特に「《きっとこんなふうに、刑場へひかれて行く者も、途中で目にふれるすべてのものに、考えがねばりついてゆくにちがいない》」という想念は偶然ではなくて明らかに無意識のレヴェルでの必然性がある。今は瞬間瞬間の対応-行動に追われて冷静に洞察できなくなっているラスコーリニコフの自意識だが、これから彼自身が行なうことが、自意識が期待し想定している結果とはまったく別の結果をもたらすだろうことを、無意識レヴェルでは既に予感=憧憬しているのだ。だが彼の自意識はその明確な自覚にまで到ることはなく、明らかに彼に規制的に作用している宿命的な現実──「(愚かしい犯罪の実行の結果)刑場へひかれて行く」──をマジック・ミラーに取り囲まれているかように彼は見通せずにいる(目庇効果)。つまり、ラスコーリニコフにとっては「つまらない」これらの偶発的想念は、作者の作為上でははちきれんばかりの兆候的な意味を帯びているということだ。
もう一例、長篇『未成年』から兆候的描写の例を挙げたい。主人公のアルカージイが初対面のソコーリスキー若公爵に会った時の人物描写がそれだ。「『……おや、セリョージャ公爵だ!』/若い美しい士官が入ってきた。わたしはむさぼるように彼を見つめた。これまでまだ一度も会ったことがなかったのである。といって、わたしが彼を美しいと言うのは、世間一般に彼をそう評しているからだが、しかしこの若い美しい顔にはどことなく人の心を突きはなすようなところがあった。わたしは最初の一瞬に、はじめて彼になげたわたしの目がとらえて、その後永久にわたしの心にのこった印象として、それを指摘するのである。彼はやせ気味で、ほどよい背格好で、栗色の髪をしていて、顔色はつややかだが、いくぶん黄色みをおび、決意に充ちた目つきをしていた。黒みがかった美しい目は、気分がすっかりなごんでいるときでさえ、いくぶんけわしかった。しかしこの決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえるためであった。だが、どうもうまく言いあらわせない……もちろん、その顔はきびしい表情から一瞬にしておどろくほどやさしい、おだやかな、柔和な表情に変ることができた、しかもおどろくことは、その変り方の露骨な正直さである。この正直なところが人の心を惹きつけた。もうひとつ特徴を指摘すれば、やさしさと正直さがあるのに、その顔が決して明るく晴れないことである。心底から呵々大笑しているときでさえ、見ている者にはやはり、この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられるのである……。しかし、こんなふうに顔を描写するのはひじょうにむずかしいことで、わたしにはとてもその力がない。/老公爵はすぐに立ち上がって、その愚かしい習慣にしたがって、わたしたちを引合せた」(第一部第十章第二節)。複雑な描写だ。直接的な顔貌描写に加えて主人公が感じた心理的印象も書き添えている、という程度の複雑さではない。物語をずっと先まで読むと分かるが、実はこの時点で既にアルカージイとソコーリスキー公爵との間で「自分が相手をどう思っているか」「相手が自分をどう思っているか」「自分が相手をどう思っているかを、相手がどう思っているか」というアスペクトでズレがあり、それがお互いの視線に対する相互的な疑心暗鬼となって微細なリアクションに基づく奇妙な「目」の描写(「この決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえる……」)、奇妙な「表情」の描写(「この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられる……」)を生み出していると考えられる。つまり、ここではアルカージイが主体、ソコーリスキー若公爵が客体、という構図で描写が生産されているのではなく、二人の間に設定されている複数的な欲望の偶然的偏差(一対一の関係でも欲望の偏差は複数的・多角的であり得る)と相互認識の格差が微妙に目-意識を屈折させて、それがアルカージイの語りの中で兆候的描写として結実したと考えられるわけだ。特にソコーリスキー若公爵の「目」に描写が集中していることは重要だろう。というのは「目」とは単に視覚を司る器官ではなく、意識・想像力が宿る場所として外貌において決定的な役割を果たすからだ(鼻や耳にはそのような機能はない)。繰り返せば、この引用部を、対象=客体としてのソコーリスキー若公爵が主体としてのアルカージイの語りの中でその外貌を描き出されている、という静的な構図で考えてはならない。明らかにここでの描写の文体には「相手の見ている自分(→相手からは見えない自分の析出)」「自分の自覚している自分自身」「自分の見ている相手(→自分からは見えない相手の析出)」「相手の自覚している相手自身」という眼差しの交換とイメージのすれ違いとが振動しており、すなわち無意識レヴェルの関係性が兆候として文体を動揺させており、アルカージイの視点を不安がらせ戸惑わせているからだ。欲望偏差表は主体からはついに不透明であり続ける(目庇効果)。彼が「こんなふうに顔を描写するのはひじょうにむずかしいことで、わたしにはとてもその力がない」と、ついに描写を消極的な──受動的な──形でしか終わらせることができないのはそのためだ。安定的な観察を破断してしまう関係性の謎。
というわけで、欲望偏差表の精緻化がディティールの精緻化につながるというのは、或る意味では兆候的描写と関連してのことである。その兆候的描写は伏線としての効果を持ち得るが、といっても因果関係的な直線的な伏線を示唆するわけではない。曲線的な伏線=兆候?
最後にフロイトの言葉を引こう。「ひとつの出来事が成立するのに自分の心の生活が何ら関わっていない場合、私は、その出来事が自分に、現実が将来どう形成されてゆくかについて何か秘密のことを教えてくれるとは信じない。しかし、自分自身の心の生活が意図せぬまま表出したものは、それ自体ほかならぬ私の心に属していながら何か隠されているものをやはり私に暴露してくれている、と信じる。私は、外的な(現実的)偶然は信じるが、内的な(心的)偶然性は信じないのである」(『日常生活の精神病理学』)。心的偶然性=必然性、これが兆候的描写の原理の一つだろう。
:無意識と「対話」
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我々はこれまで自意識は無意識レヴェルでの出来事を恐れている(不快)と同時に、それに憧れてもいる(誘惑)と述べて来た。というのは、無意識のレヴェルは、自意識にとってはそれを避けたいと同時に触れたいという矛盾した距離感において「不在として存在している」だろうからだ。もし主人公の自意識が自分がイメージするものによってすっかり満足してしまうのなら、つまり現実はおおむね操作可能だと勘違いしてナルシスティックな万能感に酔っているのならば、いかなる無意識も存在しないしいかなる弁証法も作動しない。そのような幼稚な主人公にとっては、自分と他人との相互認識と欲望のベクトルの格差などはまったく存在せず、他者は主人公の自意識の投影、主人公の本性を映すのに好都合な鏡でしかなくなるだろう。いわゆるドストエフスキーが『白痴』の中で提示した「枠にはまった平凡な人」だ。「枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないからである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。またある者は何かしら人類共通の善良な心もちを、ほんのすこしでも心の中に感じたら、自分のように感ずる人間なんてひとりもいない、自分こそは人類発達の先駆者であると、たちまち信じこんでしまうのである」(第四編第一章)。そのような人物を主人公に据えた小説が他人の欲望-暴力の複数的な作動(=無意識としての社会)を描き切ることなど到底望み得ない。我々がここで対人恐怖=対人憧憬という等式を出すのも一応は根拠があってのことだ。
所詮、自意識という一元的な視野に限定されまったく無意識のレヴェルを感知できない(恐れも憧れもしない)ような人物については、まあどうでもよかろう。我々は以下小説内での「対話」を考察するけれども、その対話に参与する人間というのは勿論自意識と無意識との弁証法的動態に貫かれている人物である。それは対話者両者ともにそうである。
「対話」とは小説の主人公が他人と直接に向き合う決定的な機会だ。あらゆる対話は小説において欲望偏差表を基盤にして構成される。というのは、あらゆる対話は互いに独立した両者の諸欲望から構成され、諸欲望のそれぞれの作動はその独自の歴史の結果であり、それらの複数の歴史の間にはいかなる予定調和な関係も存在しない(互いに予期不可能であり操作不可能である)というその前提は、登場人物の平面に複数的な欲望の偏差を挿入する欲望偏差表の空間的かつ時間的=歴史的な精緻化によって虚構される、というほどの意味だ。そして当然ながら対話に参与する主体はその欲望偏差表をじかに見通すことはほとんどできない。「相手が自分をどう思っているか」「自分が相手をどう思っているかを相手がどう思っているか」という認識は、作者にとってはともかく自分=主体にとってはどこまでいっても不可測であり──どんなに親しい間柄であってもそうだ──、その関係性の障害が対話者の自意識に分裂と不安、および能動感の低下をもたらす。対話において、まだ欲望の偶然的な偏差や相互認識のズレが感知されていない段階では、互いの眼差しの交錯も言葉のやり取りも楽しげでなめらなか調和の中にまどろんでいる。しかし、一度でも自他で危機的な欲望のベクトルないし認識のズレ(の兆候)が感知されれば、その不可測性を無意識として襞のように折り込む形で自意識に分裂が穿たれることになる。例えば、眼差しの交錯において自他の間に広がるズレが感知されれば、それは相手から見られることを通じて「相手に見えている自分」と「相手からは見えない自分」との分裂を招来する(同時に対話相手も「自分に見えている相手」と「自分からは見えない相手」に分裂する)。同様に、言葉のやり取りにおいてこの危機的なズレは「何が語られているか(相手にメッセージとして伝わっていること)」と「いかに語られているか(相手にメッセージとしては伝わっていないこと)」の分裂を招来するだろう。そして注目すべきは、この分裂が生じてしまって以後は後者の「見えてないもの(=目-無意識)」「メッセージとして伝わっていないもの(=声-無意識)」の方が潜在的な力を帯びて対話に作用してしまうということだ。そうなるともはや「対話」とは、単なる能動的な意図に調和したメッセージの相互伝達ではなく、むしろ言いたくないことを言ってしまったり思いも寄らないような感情的反応を出してしまったりというような、個体と個体を翻弄する衝動が非親和的にぶつかり合う場所と化す(闘争態勢)。結果として、自意識が事後的に自覚する以上に二人が互いに理解し合って影響を与え合ってしまうという事態も、起こり得る。
自意識は基本的に無意識レヴェルでの関係性を忌避するので、対話の流れで危機的な自他のズレを感知した際には、大抵そのズレの調整に動くのが普通である。例えば或る知人との会話中に、私がちょっとした近況を語った言葉に対して、まったく思い掛けなく相手が淡い嫉妬を向けて来た(という兆候を私が感知した)とする。この場合、私はこの不可測な他人の欲望の作動にこれ以上動揺させられないために急いで自分の言葉の効果を計算して発言の調整と修正に入るだろう。同様に、もし相手も相当の鋭敏さでもって相手自身が衝動的に匂わせた嫉妬の感情を私に悟られたと感知したならば、自身のそのわずかな態度変化・表情変化を打ち消すために何らかの弁明的な行為を強いられるだろう。そして勿論これらの「自分が相手をどう見ているか」「それを相手がどう感受したか」「相手が自分をどう見ているか」「それを自分がどう感受したか」というレセプションとリアクションの弁証法的動態は、ほとんど自意識上の自覚をともなわずに進行するに違いない。つまり我々はしばしば事前の意図とは関係無しに相互リアクションに基づいて自分の発言を計算・調整してしまう。しかし言い換えればこれは、自意識が受動性を強いられて「屈折」していくというプロセスに等しい。もしそのまま「屈折」を放置して、無意識レヴェルでの真実を避けて自他の齟齬が致命的なまでに広がっていけば、後々(遅延!)二人の関係に深刻な破綻がもたらされる可能性もある。
繰り返せば、「対話」において、自意識が事後的に自覚する以上に我々は互いに透過的に理解し合ってしまうものだし、影響を与え合ってしまうものだ。そのことがさらに「対話」が終わった後で各人に予想外な「行動-物語」を生み出させることにもなる。自意識上では上手くいったと評価できた対話の後でも、随分経ってから、なぜかよく分からないままに突然相手に弁明のメールを送りたくなったりするということは往々にしてある。そうではないだろうか。つまり自分と他人との予期せぬ欲望のベクトルの齟齬に翻弄される形で、後で弁明したくなるような恥ずべき振舞いを対話の中でしてしまっていたのだが、対話の最中(喋り続ける能動感の錯覚に軽く興奮している最中)にはそのことを自覚できなかったというわけだ。我々は無意識には嘘をつけないのだ! フロイトの言う「人間は他人の無意識の表現を解釈できるような道具を、自分自身の無意識のうちに誰もがもっている」という言葉を、そういう意味に理解してもいいと思う。これを「各人は自己自身の秘密Ψのうちに、それを用いて他人の秘密δの表われを解釈することができる」などと敷衍してみるのも啓発的だろう(他人の秘密を「秘密η」などではなく「秘密Ψ'」と表記しているのは自意識の自覚なしに我々が透過的に理解し合ってしまうことを表記上で表現するためだ。ここで言う「秘密」は完全に単独的で主体の内面に抑圧されているものではなく、他人との関係性の中で兆候として死角にありながら相互的に作用しているものを意味する)。
:フロイト「強迫神経症の素因」からの引用
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「……この女の患者は、病気になるまでは幸福で、まず完全に満たされた夫人であった。彼女は幼児らしい願望定着の動機から、子供を望み、彼女がぞっこん惚れこんだ夫から、子供が得られないこと〔性機能障害としての男性不妊症? それとも子供を持つことの単なる拒否?〕を知ったときに病気になった。彼女はこの要求阻止に対して、不安ヒステリーという反応を示したが、これは、彼女がまもなく自ら了解できたように、誘惑の空想を拒否するという意味をもち、この空想のうちには、子供を求める根づよい願望が浸透していた。彼女は、夫があたえた拒否のために病気になったことを、夫にさとらせまいとして、そうなったのであった。だが、人間は他人の無意識の表現を解釈できるような道具を、自分自身の無意識のうちに誰もがもっていると、私は主張してきたが、それは理由のないことではない。この例でも夫は、妻から打ち明けられたり、説明されたりしないでも、妻の不安が何を意味するかを理解し、それを表面に出さずに悩み、こんどは彼の方が神経症的に反応し、彼は──はじめて──夫婦の契りを拒んだ。それからすぐ、彼は旅に発った。妻は彼がそれっきり性不能症になったと思いこんでいたが夫が予定どおり帰宅する前日に、最初の強迫症状をおこした。
彼女の強迫神経症の内容は、苦痛な洗浄強迫と潔癖強迫、他人に加えるかもしれぬ危害に対する甚だきびしい防御手段から成りたっていた。つまり、肛門愛的およびサディズム的衝動に対する反動形成なのであった。彼女はこういうかたちで、性的要求を示さざるを得なかった。それというのも彼女の生殖器的な性生活は、彼女にとって唯一人の夫の性不能症によって全く無価値のものになった後だからである。」
:欲望偏差表の改訂
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以前我々が提示した分析的創作ツールとしての「欲望偏差表」を以下のように改訂する。一番の変更点は主人公の自己認識に「主人公が自分自身を実際どうであると思っているか」「主人公が自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と思っているか」という自己関係的なズレを持ち込んだこと、そして「主人公とαの幻想承認要求の自意識的交換の図式」「主人公とαの幻想承認欲望の無意識的交換の図式(不透明)」を記入できる欄を加えたことだ。言うまでもなくここで「主人公」「人物α」と書いているのは便宜的で、主人公以外の「人物β」「人物ε」(さらには三人目の「人物ω」)との間に成り立つ欲望偏差表としてもいいし、「主人公」と「或る集団の成員」の間に成り立つ欲望偏差表としてもいい。また、欲望偏差表の地平を共有する項は、必ずしも時空間を共有しなくていい。
この改訂の意義は後に解説する。
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▼主人公が自分自身を実際どうであると思っているか
▼主人公が自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と思っているか
●主人公がαをどう思っているか
●主人公がαにどう思われていると思っているか
(→実際にαが主人公をどう思っているかとのズレ)
●主人公が、αが主人公にどう思われていると思っているかを、どう思っているか
(→実際にαが主人公にどう思われていると思っているか、とのズレ)
○主人公がαに何をしたい〔したくない〕か
○主人公がαに何をして欲しい〔して欲しくない〕か
(→実際にαが主人公に何をしたいかとのズレ)
○主人公が、αが主人公に何をして欲しい〔して欲しくない〕かを、どう思っているか
(→実際にαが主人公に何をして欲しいか、とのズレ)
▼αが自分自身を実際どうであると思っているか
▼αが自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と思っているか
●αが主人公をどう思っているか
●αが主人公にどう思われていると思っているか
●αが、主人公がαにどう思われていると思っているかを、どう思っているか
○αが主人公に何をしたい〔したくない〕か
○αが主人公に何をして欲しい〔して欲しくない〕か
○αが、主人公がαに何をして欲しい〔して欲しくない〕かを、どう思っているか
◆主人公とαの幻想承認要求の自意識的交換の図式 …
■主人公とαの幻想承認欲望の無意識的交換の図式(不透明) …
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:幻想承認要求の自意識的交換
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自意識と無意識との弁証法を文体の根幹に据えた小説は、登場人物のキャラクター性(自意識過剰とか容姿とか気質とかトラウマとか)よりも世界設定(諷刺とか時代性とか思想とか戦争とか)よりも、「関係性」のダイナミズムをこそ物語の主要な動因として導入する。「関係性」は単に設定として与えられるようなものではない。多角的かつ複数的な欲望の偏差を、相互認識の格差を孕みながらも了解の地平が成立して、相手を問題にせざるを得ないし拘束もされ葛藤を微妙に促されもするというような動態を想定してとりあえずここでは「関係性」と言っている。少なくとも自他で欲望偏差表の地平を共有するという前提がなければ「関係」はない。そうした前提を欠いて点と点を結んだ直線を命名しただけの「職場の同僚」「学生時代以来の友人」「恋人の元上司」「近所に住んでいる女の子」「常連客の知人」「かつての婚約者」といった静的な状態を取り出しても、それは事後的に矛盾なく理解された関係、関係性の墓場に過ぎず、そこからはいかなる物語も生成されはしないだろう。
さらに断言する。「関係性」の本質とは相手の欲望を考察-推測しながら互いに欲望を投げ掛け合いそれを無意識レヴェルで交換するということに存する、と。ここで無意識レヴェルの、と言っているのは、自他の欲望の不等価交換、欲望の強制・譲歩・角逐・懐疑・挑発・受容・遮蔽といった契機が例えば対話場面においても「見えてないもの(=目-無意識)」「メッセージとして伝わっていないもの(=声-無意識)」のレヴェルで生起することを重視するからだ。そうした互いの欲望の無意識的不等価交換を欠いた相関図的な“関係”など何の意味もない、と我々は考える。そして登場人物たちが互いに相手の不分明な欲望を見抜こうとし、互いに欲望を投げ掛け合いながら曲線的に欲望を交換するという「関係性」が重層的に増殖することによって小説空間が変質し、物語にドライヴが掛かって(モティーフに関する連続的な内省とは無関係に)非連続かつ興味深い飛躍が生じる(それは機械論的因果性に汚染されないがために結末が分かっていても繰り返し楽しむことができる!)という点に、「関係性」のダイナミズムに即した物語のリアリティの精髄がある、と考える。
しかし欲望の無意識的交換とは何だろうか。これを具体化するために我々は「要求の自意識的交換」という事態との対比を用いることにしたい。ちなみにここで「交換」というのはあくまで不等価交換を意味する。等価交換とは相互に不等価交換を折り返した時に錯覚される偽の均衡に過ぎないと考えるからだ。
対峙し合っている自己意識の間の争い──すなわち支配と隷属に関する一切の弁証法ということに関してJ・イポリットは次のように言っている。「欲望とは、他なるもののなかに自分自身をもとめることであり、人間によって人間が承認されることへの欲望なのである」。「人間的な欲望が自分自身を見出すのは、他の人間の欲望を直観する場合においてのみである。もっとはっきりいえば、その欲望が他の欲望を目標とし、承認されたいという欲望──したがって自分自身を承認したいという要望──になる場合においてでしかない。人間の使命は、自分自身を存在のなかに見出し、自分を存在させることにあるが、この人間の使命が現実化されるのは、自己意識のあいだの自他の関係のなかにおいてのみなのである」。我々はさらに「欲望」と「要求」を区別したいと考えているが、細かい議論はともかく、他人を前にした時に主体を衝き動かす内部的な刺激が「承認」というベクトルに収束することは、間違いないと思われる。我々としてはそれを、さらに「幻想承認」を求めることと敷衍してみたい。というのも、実際我々が「何の」承認を求めているかと考えるに、単純に自分自身の価値等を他人に認めさせたいと考えているのではなくて、「自分がどういう人間か」「相手がどういう人間か」さらには「今世界はどのようになっているか」といった多角的な点に渡る自分自身の「世界がこうあって欲しい/世界はこうあるべき」という幻想を他人たちに認めさせ、社会的コミュニケーションの中でそれを現実化したいと考えているようだからだ。卑近な例を挙げよう。ここに一組の父親と息子がいるとする。父親の方はまだまだ息子が精神的に自立出来ていないと考えており、息子がやっているITベンチャーのビジネスも先行きの見えない浮薄なものだと思っていて、それが息子を独り立ちできない人間として見下させることに拍車を掛けている。対する息子の方は父親のことを物わかりの悪い旧世代の人間だと思っており、結婚していないくらいで自立出来ていないと見做されるのは心外だと思っているし、自分のビジネスの将来性について正確に評価できない以上その点で上からものを言う権利など父親にはない、と考えてもいる。要するに、この二人の自意識が抱いている「幻想」、世界観は大幅に異なっている。そしてこの二人のコミュニケーションにおいて「幻想承認」を巡る争いがどのように推移したかを見るには、どちらがどれだけ相手に自分の幻想(「息子はこういうやつだ」「父親はこういう人間だ」「時代はこうなっている」「常識はこうなっている」等々)を強制し、対する側がどれだけ相手の幻想に譲歩したかという度合いを跡付ければよい。原則的に言って、幻想承認の角逐は一方が幻想承認要求を実現=強制させればその分だけ他方が幻想承認要求を毀損=譲歩するというシーソー的な関係にある。また、この強制と譲歩のシーソーゲームは、或る点では相手に譲るけれども別の点ではこちらの幻想を強制するというふうに多角的に争われ得る。例えば、金を稼ぐ能力においては現段階で息子も父親の方が優れていることを認めざるを得ないのだが(「そりゃサラリーマンとしての父さんは尊敬しているよ……」)、時代の先を見通して現代社会のことをよく分かっているという点では息子は譲らない(「さすがにビジネスの情報はネットの方が遥かに速いんで、父さんみたいに新聞だけ見たって何も分かりゃしないよ……」)、といった曲線的な綱引きも行なわれることだろう。そして或る部分で幻想を強制した分別の部分で同じ程度に譲歩をするという予定調和の「幻想承認」の等価交換(お世辞の交換!)が、一般的には社交上の礼儀と呼ばれる。そんなふうな分析も可能だ。
注意すべきは、自ら進んで卑下することもまた「幻想承認」の強制である点だろう。私が「あなたは私より馬鹿だね」と言うことと、あなたが「僕は君より馬鹿だな」と言うことは事実言明としては同じでも自己意識間の争いにおいて帯びる意味はまったく異なる。他人の言う「あなたは私より馬鹿だね」を認めることは相手の幻想を承認することであり同時に自分の幻想承認要求を毀損することに等しいが、後者はそうではない、つまり自ら「僕は君より馬鹿だな」と言うことは自分の価値を下げるように見えてむしろ自分の幻想を強制しているのであり、それによって状況を支配できたり取り乱さずに済んだりすることもあるのだ。少なくともそれは相手からの幻想の強制に対する防衛手段ではある。これを言われた側は、相手が自らを低めているにもかかわらず機先を制されたような、何故か相手の方が優越しているかのような、不満足な感じが生まれるはずだ。自分の幻想承認の要求を満たす機会を奪われてしまったのだから。もう一つ別の例を考案すると、私が「私は天才だ」と言って相手に同意を求めることと、あなたが「君は天才だ」と言って私が同意すること、これもまたまったく異なる二つの事態である。なぜなら後者の場合、私の能力の判定についてあたかもあなたの方にその権利があるかのようだからだ。もし私にとってあなたが気に食わない人間であるならば、「あなたに言われたくない」ということで天の邪鬼に「君は天才だ」の言葉に不同意を示すかもしれない──自ら「私は天才だ」と言って相手に同意させた場合には、その言明を無邪気に肯定するかもしれないにもかかわらず。このケースについてはドストエフスキーが知人に宛てた書簡の中で面白い表現をしているので引用しよう──「ついでですから、ちょっとした比較をしてみましょう。キリスト教徒、といっても、完全な、高潔な、理想的なキリスト教徒なら、「私は自分の貧しい兄弟に私の財産を分かち与え、彼ら一同に奉仕しなくてはならない」と言うでしょう。ところが共産主義者は、「そうだ、おまえは貧しい兄弟であるおれに財産を分かち与え、おれに奉仕しなければならない」と言うのです。キリスト教徒は正しいですが、共産主義者は正しくありません」。
したがって、コミュニケーションの場面を分析する際には、単にどちらの人間が高いステイタスに立っているかという点ばかりでなく、どちらの人間がより相手に自分の幻想を強制できているか(どちらの人間がより相手の幻想に譲歩しているか)という承認を巡るシーソーゲームの様態にも我々は着目しなければならない。例えばウェイターと客という関係であれば、ステイタスの高低がそのまま幻想承認を巡る争いの強弱に直結するだろうが──ウェイターはほとんどの場合客の幻想を壊さないように振る舞わなければならない──、無能な上司とあまりにも有能な部下という組み合わせでは、ステイタスの如何にかかわらず上司の方がまったく部下のことを制御できず、つまり部下が上司の「幻想」を容認せず、表面上は従っている振りをしながら勝手に行動する(先手を打って自分の幻想承認要求をどんどん現実化していく)というような事態も起こるだろう。しかもこの幻想承認の強制⇔譲歩のバランスは、ほんのわずかな傾きであっても非常に重要な意味を持つことがある──いや、我々のコミュニケーションにおいては、そのバランスの傾きが微細であればあるほど相手との関係性の変動に注意深くならざるを得ないことがしばしばだ。ステイタスの差異以上に幻想承認を巡るバランスを精密に測る必要がある所以である。
ところがだ。以上は人間の関係性の分析としてはあまりにも分かり易い。「自分がどういう人間か」「相手がどういう人間か」さらには「今世界はどのようになっているか」といった多面的な幻想の承認を巡る争い(不等価交換)というのは、実は、自意識レヴェルでの出来事に過ぎないからだ。そのレヴェルでの、自意識の能動性の錯覚を微塵も動揺させない出来事に、小説として興味を持たなければならない謂れはない。欲望偏差表で言えば、幻想承認要求を巡る自意識レヴェルでの交換というのは、せいぜい「▼主人公が自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と思っているか」「●主人公がαをどう思っているか」「▼αが自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と思っているか」「●αが主人公をどう思っているか」といった限定された項目に関わる現象でしかないのだ。先程の父親と息子の例で言えば、父親が息子にどんな幻想を強制したがっているかも、それに対抗して息子がどんな幻想を父親に認めさせたがっているかも、双方にとってはほとんど自明で、二人の間で交わされるメッセージには謎めいた要素はまるで無く、彼らの意識的な角逐は何ら予想外の展開へ折れ曲がっていくことがないだろう。このレヴェルでの承認を巡る争いにおいては、父親にとっての息子も、息子にとっての父親も、相手は予期可能性の範囲に留まる己れの自意識の投影、すなわち己れの本性を映すための似姿としての「敵」でしかない(「対立を意識することによって相手との相違を意識的に追求するためだけでも、結果的には微妙な相似性を帯びるようになる」──中井久夫)。その分かり易さにはとどまっていられない。我々はさらに「▼主人公が自分自身を実際どうであると思っているか」「○主人公が、αが主人公に何をして欲しいかを、どう思っているか」「▼αが自分自身を実際どうであると思っているか」「○αが、主人公がαに何をして欲しいかを、どう思っているか」といった無意識レヴェルでの不透過な「欲望」まで視野に入れたコミュニケーションの様相を分析しなければならない。
:幻想承認欲望の無意識的交換
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対峙し合っている自己意識の間の争いは承認を巡る争いである。その前提を受け入れたとしても、例えば相手が「俺はこの職場で一番偉いのだからおまえは進んで俺にコーヒーを淹れるべきだ」というオファーを出しているのに従うべきか/従わないべきか、或いは相手が「僕はこの中で一番無能でゴミ屑なので放っておいてください」というオファーを出しているのを看過すべきか/看過すべきでないか、といった明示的な意思決定をすることがその争いのすべてではないことに、我々は気付く。なぜなら人間の幻想承認の強制は輪郭の明確な「オファー=要求」という形を取るとは限らず、不透明で鬱勃とした「欲望」という形も取り得るからだ。我々がこれまでしばしば「他人の欲望-暴力の複数的な作動(=無意識としての社会)」と言って来たのは、この不透明であるがゆえに予期不可能で操作不可能な無意識レヴェルでの幻想承認の強制⇔譲歩の角逐のことを含意していたと考えていい。そう、我々はコミュニケーションにおいて往々にして相手の欲望を考察-推測した上で読み違える。相手の欲望(幻想承認の強制)に譲歩したつもりで行動してみたところまったく相手の望まないような結果を招来してしまう、といった悲劇も人間には常態だ(欲望偏差表で言えば「主人公が、αが主人公に何をして欲しいかを、どう思っているか」と「実際にαが主人公に何をして欲しいか」とのズレ)。逆側から考えてもこの事態は特異な悲劇だ。つまり自分の欲望を読み違えられた側から考えると、読み違えた結果相手が起こした行動について自分が命令・強制したのではないかどうか、まったく責任がないとは言えないと感じられるだろうから。個体と個体の間に生じる幻想承認欲望の無意識レヴェルでの不等価交換は、自意識の誇る“コミュニケーション能力”などでは到底手に負えるものではない。たとえ他人の欲望を読み違えずに正確に読み取ってしまった場合でも、自意識がどうしてもそれを認めたがらない、直視することができない、そのようなものとして無意識レヴェルの「欲望」はある。
幻想承認欲望の無意識的交換の小説的な典型例として、我々は『カラマゾフの兄弟』におけるイワンとスメルジャコーフのミスコミュニケーションのことを知っている。この「関係性」の分析は、イワンの第一の声と第二の声の内的対話、と表現されているのを自意識のレヴェルと無意識のレヴェルの分裂的共存(実際には「第一の声」も「率直な言葉」も「真摯な声」もそのように定位できるものとしては存在しない、存在しているのは自己関係的なズレだけである)と読み替えれば、大体バフチンの『ドストエフスキーの創作の問題』の第二部第四章での分析で代用できる。ので、引用しよう。
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イワンとスメルジャコフの相互定位はひじょうに複雑である。すでに述べたように、父の死にたいする願望は、イワン自身にとって眼に見えない、なかば隠された状態で、この長篇小説のはじめあたりのイワンのいくつかのことばを規定している、しかしながら、この隠された声をスメルジャコフは感じとっている、それもすっかり明瞭になんらの疑念もなく感じとっている。
イワンは、ドストエフスキーの構想によれば、父の殺人を望んでいるが、それを望んでいるのは、かれ自身が外的だけでなく内的にもそれに参加しないという条件においてである。かれは、殺人がかれの意志と関係ないだけでなくかれの意志に反して、宿命的に避けがたいものとして起こることを望んでいる。「おぼえといてくれ、俺はいつだって親父を守ってやる。ただ、その場合も、自分の希望の中には十分な余地を確保しておくがね」。イワンの意識の内的対話的な分裂は、たとえばつぎのような二つの応答で示すことができる。
「俺は父親の殺人を望まない。もしそれが起こるならば、俺の意志に反してである」
「だが、殺人がこうした俺の意志に反して起こることは望む。というのも、そうなれば俺はそれに内的に参加しておらず、その点においても自分を非難することはできないからである」
イワンと自分自身との内的対話はこのように構成されている。スメルジャコフは、この対話の第二の応答を見抜いている、もっと正確には、明確に聴いているのだが〔耳-無意識!〕、かれはそこにふくまれている逃げ道を自分なりに解釈する。すなわち、逃げ道を、犯罪にともに参加していることを証明するいかなる証拠もかれにあたえまいとするイワンの意向として解釈し、また、摘発されかねない直線的な言葉を一切避けており、したがってほのめかすだけで話を通じさせることができるがゆえに「ちょっと話してもおもしろい」〈賢いひと〉の極端な外面、内面双方の用心深さとして解釈している。イワンの声は、スメルジャコフには、殺人が起こるまでは、完全にひとまとまりで分裂していないように思われている。イワンが父の死を望んでいるのは、スメルジャコフには、イデオロギー的見解や「すべては許されている」との主張からの単純で自然な結論に思われている。イワンの内的対話の最初の応答をスメルジャコフは耳にせず、イワンの最初の声は父の死を実際に真摯に望んでいなかったことを、スメルジャコフは最後まで信じない。ドストエフスキーの構想では、この声は実際に真摯であって、まさにそのためアリョーシャはイワンを正当化するようになっていた。アリョーシャ自身はイワンのなかの第二の〈スメルジャコフ的な〉声も明確に知っていたにもかかわらずである。
スメルジャコフは、イワンの意志を自信たっぷりにしっかりと占有している、より正確には、この意志に一定の意志表明の具体的な形式を付与している。イワンの内的応答は、スメルジャコフをとおして、願望から実践へと変わる。チェルマーシニャへの出発前のイワンとスメルジャコフの対話は、スメルジャコフの公然たる意識的な意志(ほのめかしだけで暗号化されている)と、イワンの隠された(自分自身から隠された)意志との、いわばイワンの公然たる意識的な意志の頭越しにおこなわれる会話を具現化したものであるが、得られている芸術的効果には驚くべきものがある。スメルジャコフは、自分のほのめかしやあいまいな言い方を使ってイワンの第二の声に話しかけながら、直接に自信をもって話しており、スメルジャコフの言葉はイワンの内的対話の第二の応答と交錯している。スメルジャコフに答えるのはイワンの第一の声である。まさにそれゆえに、スメルジャコフが反対の意味をもった寓意的表現として理解しているイワンの言葉は、実際にはけっして寓意的ではない。これはイワンの率直な言葉である。けれども、スメルジャコフに答えるかれのこの声は、随所で、かれの第二の声の隠された応答に遮られてしまう。遮りが生じ、まさにそれがゆえに、スメルジャコフはイワンの同意を完全に確信したままにとどまっている。
イワンの声におけるこうした遮り合いは、きわめて繊細であり、言葉のなかよりもむしろ、かれのことばの意味の視点からは不適切な休止のなか、かれの第一の声の視点からは理解できないトーンの変化や意外で不適切な笑い、等々のなかに表現されている。もしもイワンがスメルジャコフに答えている声が、イワンの唯一で単一の声であったならば、つまり純粋にモノローグ的な声であったならば、これらすべての現象はありえなかったであろう。それらは、ひとつの声のなかでの二つの声の遮り合い、干渉、ひとつの応答のなかでの二つの応答の遮り合い、干渉の結果なのである。……
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どれほど高圧的なものであっても他人からの明白な幻想承認の強制は恐ろしくない。慇懃な態度の下で他人の欲望がまったく見通せないことの方が恐ろしい。同様に、自分の幻想承認の要求が他人に受け入れられないことは恐ろしくない。自分の欲望がコミュニケーション回路の中をどのように伝わったかがまったく見通せないことの方が、恐ろしい。この恐怖──無意識に対する恐怖および憧憬は、「見えてないもの(=目-無意識)」「メッセージとして伝わっていないもの(=声-無意識)」に対する反応であるだけに、小説においては兆候的描写(そして兆候を感知した自意識の分裂と不安と能動感の低下)を通じて描き出されることになるだろう。
ところで我々は既に、「関係性」の本質とは相手の欲望を考察-推測しながら互いに欲望を投げ掛け合いそれを無意識レヴェルで交換するということに存する、と述べた。そしてこの関係性のダイナミズムこそ、登場人物のキャラクター性や世界設定に先んじた小説の物語の動因であるべきだ、とも述べた。要するに、例えば各登場人物の性格が鮮やかに描き分けられているから一人一人が印象的に読者に感銘されるのではなく、各人物間での幻想承認欲望の無意識的交換における読み違い/読み違えられ/読み破った上での否認といった契機、推測の空転や疑心暗鬼や考察の決定不能性といった契機が、人物と人物を隔てる明暗を浮彫りにするからこそ、その後に初めて各登場人物のキャラクター性が個体化するということだ。読み違いや欲望の不可測性が何故生まれるのか?──その必然性を遡って行けば、我々は相対的で歴史的で社会的でイデオロギー的な諸関係という地盤に行き着かざるを得ない。小説の構想はそこから始まる。
:法則/原則
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ここまでのメモから次のような法則が導ける。「自意識は関係性を殺す」と。
もっとソフトな言い方をすれば、自意識は関係性に積極的でない。個体においては身体の内の自意識を超えた部分、精神の内の自意識を超えた部分の方が関係性に積極である。
とはいえ自意識と関係性どちらがどちら以上に真実に近いということはない。自意識の活動を削げば自我の身の内の邪悪さを亡ぼせるわけではない。いずれにせよ関係性の苛烈なダイナミズムに対して個体の自意識が内省する「自分は何者であるか」は非定形であらざるを得ず、それは関係の変動とともにいくらでもその解釈を変えさせられ変質を強いられる。関係性を無視し得ないのであれば、固定した自分というものは幻想に過ぎない。だが、その(ついには死に至る)個体の苦しい変質に継ぐ変質を通じてのみ見出されるような「関数的」な単独性・一回性というものはある。心理分析の構えを超えた逐次的な絶対的批判によってのみ辛うじて見出されるような、唯一性が。容赦ない現実のキャパシティに翻弄されながらも、自分の身体の内にも他人の身体の内にも、如何にそれを見出し、如何にそれに向き合うことができるか(ここでわざわざ「身体」と言っているのは、おそらく人間は身体抜きでは関係することができないだろうからだ)。
小説が「生きる」ための原則的課題はそこにしかないのではないか。
:『白痴』(木村浩訳)第二篇第三章からの引用
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……あんたはさっき、おれがモスクワであの女を捜しだしたと言ったね。そりゃ嘘だよ、だってあの女は自分からおれのところへ逃げてきて、『式の日どりを決めてちょうだい、あたし、もう覚悟ができていてよ! シャンパンをちょうだい! ジプシー女のいるところへ遊びにいきましょうよ!』とわめいたんだから……いや、おれという男がいなかったら、あの女はとっくに身投げをしていたろうよ。いや、ほんとだとも。まだ身投げをしないでいるのは、きっと、おれが水よりもこわいからなんだろう。おれのところへ嫁に来るのも、腹だちまぎれの末なのさ。もしほんとに嫁にやってきたら、それこそ間違いなしに、腹だちまぎれってわけだよ」
「そんならなんだってきみは……なんだってきみは……」公爵は叫んだが、終りまで言いきらなかった。彼は恐ろしそうにロゴージンをながめた。
「なんだって終りまで言わないんだい?」ロゴージンはにやりと笑いながらつけくわえた。「なんなら、このおれがあんたの腹の中の考えを言ってやろうか。《ああ、いまとなってしまっては、あの女をこの男といっしょにするわけにはいかん。どうしてそんなことをあの女にさせられるものか!》なあに、あんたが何をかんがえてるかぐらい、ちゃんとわかってるのさ……」
「私はそんなことのために来たんじゃないよ、パルフョン、はっきり言っておくけれど、私はそんなこと考えちゃいなかったよ」
「そりゃ、きっとそんなことのために来たんじゃなかったろう、そんなことは考えてもみなかったろうよ。でも、たったいま、たしかにそれをしにやってきたのさ。へ、へ! しかし、もうたくさんだよ! なんだってあんたはそんなにびっくりするんだり。まさかほんとにそれに気づかないわけじゃないだろう? まったく人さわがせじゃねえか!」
「それはみんな嫉妬だよ、パルフョン、みんな病気のせいだよ、きみがやたらに誇張して考えてるからだよ……」公爵はすっかり興奮しながらつぶやいた。「きみはどうしたんだ?」
「やめろよ」ロゴージンは言って、公爵が本のそばにあったのを取りあげて持っていたナイフをすばやく取りあげて、もとの場所へ置いた。
「私にはさっきペテルブルグにはいってきたときから、なんだかそんな気がしたんだよ……」公爵は言葉をつづけた。「だから私はここへやってくるのが気が進まなかったんだ。私はこの土地であったことを何もかもすっかり忘れてしまいたいんだよ。胸の中からえぐりだしてしまいたかったんだよ。じゃ、さようなら……おい、きみ、どうしたんだい!」
公爵は放心したような様子でこんなことを言いながら、またもや例のナイフを取りあげようとしたが、ロゴージンはまたそれを彼の手からもぎとって、テーブルの上へほうりなげた。それは折畳みのできない鹿の角の柄がついた、ありふれた形のナイフで、刃わたり十三センチばかり、幅もそれに似合いのものであった。
公爵が二度もこのナイフをもぎとられたことに特別の注意を払っているのを見てとったロゴージンは、憎々しげないまいましさをあらわしてそれをひっつかむと、本のあいだへはさんで、それをぽんとほかのテーブルへ投げだしてしまった。
「きみはあれで本のページを切るのかい」公爵はたずねたが、その声の調子はなんとなくぼんやりしていて、相変らずふかい物思いにふけっているみたいだった。
「ああ、ページをね……」
「でも、これは園芸用のナイフじゃないか」
「ああ、園芸用だよ。でも、園芸用のナイフでページを切っちゃいけないって法があるかい?」
「それに、あれは……まだ新品じゃないか」
「新品ならどうだっていうんだ? まさかおれはいま新しいナイフを買っちゃいけないとでもいうのかい?」ひと言ごとにいらいらしながら、ロゴージンは妙に興奮して叫んだ。
公爵はぎくりと身を震わせて、じっとロゴージンを見つめていた。
「いやはや、私たちは二人ともどうしたんだろうね?」彼は急にわれに返って、笑いだした。「いや、勘弁してくれたまえ。私はいまみたいに頭が重くなってくると、例の病気が出て……さっきみたいにぼんやりしてきて、おかしなふうになるんだよ。あんなことをきこうなんて気はまったくなかったんだよ。……何をきこうとしたのか、覚えてもいないくらいだもの。じゃ、さようなら……」
「そっちじゃないよ」ロゴージンが言った。
:山城むつみ『ドストエフスキー』からの引用(※強調引用者)
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「では、その無意識とは何か。たとえば、父親殺しは何ら無意識の欲望ではない。無意識はそもそも欲望ではないし、また主体の中に秘められているものでもないからだ。無意識は常に或る主体と別の主体との間で作用している。それは関係概念であって実体概念ではない。たとえば、イワンとアリョーシャとの関係に伏在している無意識はイワンの内面に《俺は親父を殺したい》として書き込まれるというだけの話で、それが無意識なのではない。むしろ、イワンはそれを明瞭すぎるくらい意識している。だからこそ、父親が殺されたとき、《親父を殺したのは俺じゃない》と自分自身に言い聞かせねばならず、それで苦しまねばならなかったのだ。《俺は親父を殺したい》も《親父を殺したのは俺じゃない》もともにイワン自身に過剰に意識されている。重要なのは、にもかかわらずアリョーシャが《父さんを殺したのは兄さん、あなたじゃない》とイワンに告げると、イワンはアリョーシャのこの洞察的な言葉に激しい反撥を感じざるをえないということだ。無意識はそこにこそある。イワン自身のうちにある《親父を殺したのは俺じゃない》にではない。イワンのこの内的発話と、《父さんを殺したのはあなたじゃない》というアリョーシャの発話との間にあるのだ。無意識は、言葉だけを取り出せば全く同じである二つの言明の差異(全く同じものの差異)としてイワンに作用しているのである。……この無意識は、人間が複数の他者と結ぶ諸関係の結節としてあるだけなのだ。」
「ナスターシャはトーツキイに辱められたことに苦しんでいるのではない。……ナスターシャは、トーツキイのことをその抜きがたい淫蕩さにもかかわらず愛そうとしている。……ナスターシャもまた「何も要求せず、何の打算もなく彼に身を捧げ」ようとしていたのである。にもかかわらず、トーツキイはそのようには彼女を愛そうとしなかった。ナスターシャが恥辱を感じているのはそのような「関係」になのだ。……ナスターシャの顔には、トーツキイとの「関係」としてあるこの無意識が刻印されている。
ナスターシャの顔とアグラーヤの顔との真の差異はそこに存するのだ。ムイシュキンがアグラーヤの顔を鑑定して言ったとおり、彼女は「ほとんどナスターシャ・フィリポヴナのように」まれに見る美人として描かれている。実際には顔立ちはまるで違うが、かりに二人の顔が全く同じであったとしてもいい。じじつ、ナスターシャは、昔は内気で女学生風にとりとめがなく、どうかするとお転婆をしたり、罪のないことを言ったりして愛くるしいかと思うと物思いにふけって疑り深く涙もろくなるという具合に落ち着きのない娘だった。このナスチャがエパンチン家でそのまま順調に育てばアグラーヤになっていただろう。それが写真に、「陽気そうな」ところ、「何か人を信じきったようなもの、何かびっくりするくらい素朴で馬鹿正直なもの」として現像されていたのだ。しかし、たとえ二人の顔が瓜ふたつだったとしても、全く同じその二つの顔は全く違っているだろう。ナスチャにはトーツキイとの「関係」としてある無意識が染み付いているからだ。それが彼女の写真には、眼の下、頬の上にある二つの小さな骨が形成している「二つの点」(ドゥヴェ・トーチキ──これについては冨岡道子『緑色のカーテン』を参照)として現像されていた。それが、「はかりしれない矜持と、ほとんど憎悪と言っていいような侮蔑」として、いやそれと「何かびっくりするくらい素朴で馬鹿正直なもの」とのコントラストによって「その苦しみを共にしたくなる類の憐憫」を喚起する何かとしてムイシュキンに直覚されるのだ。……
…………
誤解のないよう言い添えておけば、ナスターシャのモデルはスースロワだと考えているのではない。スースロワとドストエフスキー自身の関係がナスターシャとトーツキイの関係と類比的だと考えているだけだ。同様に、マリヤとドストエフスキーの関係はナスターシャとムイシュキンの関係に類比的になるだろう。スースロワがモデルなのではないようにマリヤもモデルではない。そのアマルガムがモデルなのでもない。ナスターシャは、単数であれ複数であれ、誰か特定の人物をモデルにして描かれているのではないのだ。ドストエフスキーの主人公たちは、実体ではなく関係の関数なのだ。たとえば、『白痴』には濃厚なキャラクターの人物が多数、登場するが、彼の世界で重要なのは登場人物のキャラクターではない。キャラクターとキャラクターの関係なのだ。森〔有正〕の言うとおり「この作品においては、すべての人物は相互の間の偶然的関係のなかに現われる」のである。ドストエフスキーは、たとえば自分とスースロワとの関係に内在していた無意識をトーツキイとナスターシャとの関係という夢として表象している。だから、トーツキイがドストエフスキーに似ているということ、スースロワがナスターシャに似ているということは二義的なことにすぎない。大事なのは、トーツキイとナスターシャとの関係がドストエフスキー自身とスースロワとのあいだの無意識のアレゴリーになっているということなのだ。同じことが、マリヤについても言える。すなわち、ドストエフスキーは自分とスースロワとの関係、マリヤとの関係、等々、複数の関係が交叉する地点に、ナスターシャとトーツキイとの関係、ムイシュキンとの関係、等々の諸関係が結節するようにナスターシャという人物を造形しているのだ。ナスターシャの輪郭がまずくっきりと造形されていてこの人物がトーツキイ、ムイシュキン、ロゴージン、等々と関係するのではない。逆に、これらの様々な関係の束としてナスターシャが造形されてゆくのである。彼女がトーツキイ、ムイシュキン、ロゴージン、ガーニャ、エヴゲーニィ等々、相手によって全く異なった「カラフルな」顔を見せ、単色の輪郭線で捉えようとすると常にそこからはみ出て捉えがたくなるのはそのためだ。
同じことはムイシュキンについても言える。ムイシュキンとは、彼とナスターシャとの関係、ロゴージンとの関係、アグラーヤとの関係、イッポリートとの関係、レーベジェフとの関係、リザヴェータ夫人との関係、ヴェーラとの関係、等々、これら諸関係の束なのである。『白痴』の結末にはただムイシュキンとロゴージンがナスターシャとともにいる。だが、ムイシュキンとロゴージンがナスターシャとともにいるということは、ムイシュキンとロゴージンが存在しナスターシャが存在することよりも深いところで先に起こっているのだ。ムイシュキンとロゴージンがいてその彼らがナスターシャを愛しているのではない。それ以前に彼女と《ともに在る》というそのことが彼らには彼女を愛しているというそのことであり、彼女に愛されているというそのことなのだ。……」
「〔第二篇第三章について〕心理家は注釈するだろう。《ナスターシャがロゴージンのもとに来れば、彼はこのナイフで彼女を殺すだろうとムイシュキンは直覚している。だから、それを何としてでも阻止したいが、そう思ってふたりの間に入ろうとする自分をまずロゴージンは嫉妬心からやはりこのナイフで殺そうとするだろうとも公爵は感じている。だから、無意識のうちにナイフを取り上げたのだが、純粋な彼はそう感じている自分を恥じてもいる》と。じじつ、この後、ロゴージンはこのナイフを公爵に振り上げる。……第二編第五章のほとんど全部を割いて叙述されるムイシュキンの懐疑と自問自答と内的葛藤はたしかに右の心理をほぼ裏書きしていると言っていい。しかし、ドストエフスキーがその程度の心理を描写するために仄めかしに仄めかしを重ねてあれだけの紙数を費やしたと考えるのではこの作家を見くびっていることにはならないか。
……彼らの手は心理以上のことを考えている。右の対話でもすでにロゴージンは自分の手が公爵にナイフを振り上げるであろうことを知っているし、ムイシュキンもそれを意識しすぎるくらい意識している。そんなことは何ら《無意識》ではない。無意識なのは彼らの手そのものなのだ。ロゴージンとナスターシャとムイシュキン──この三人はまるで運命によって、二人分しかない場所に振り当てられてしまっているかのようだ。多重に決定された彼らの関係性において彼らの手は意志と関係なく動く瞬間がある。かつてナスターシャの手がナイフをロゴージンに突きつけたことがあったように、やがてロゴージンの手もナイフを公爵に振り上げナスターシャに突き立てる。そして、公爵もまたその同じナイフを今、握ったのだ。むろん、ロゴージンは自分の手がどう動くかを明瞭すぎるくらい意識している。しかし、彼の意志はそれをとめることができない。手は関係の中で「関係そのもの」(森有正)によって動くからだ。彼に出来たのは、公爵と十字架を交換し自分の老母に会わせることだけだった。そうすることで自分の手を抑えようとすることができただけだ。しかし、それでもなお手はナイフを公爵に振り上げたのだ。《誰も俺たちの考えなどきいていやしない、一切は俺たちに関係なく決められてしまっているんだ》というロゴージンの悲痛な叫びを聞き逃すべきではない。……」
「〔第二篇第五章で〕作者がムイシュキンを或る店先に立ち止まらせひとつの商品をじっと見つめてその値段を確認させたのは《ロゴージンは銀六十コペイカ相当のこれと同じ鹿の角の柄のナイフによってナスターシャを、あるいは自分を殺そうとしているのだ》と彼が感じているというただそれだけの心理を暗示するためであるはずがない。このとき公爵に背後にロゴージンの「二つの眼」を確認させたのは右の推理が思い過ごしでないと裏書きするためなどではないのだ。この朝、ペテルブルクの駅に降りた瞬間にも感じたこの「二つの眼」について公爵が問い質したときロゴージンは「さぁ、そいつはいったい誰の眼だったんだろうね」と答えたが、その口もとに浮かぶ「ひき歪んだ、氷のような微笑」は彼が思っている以上のことを語っていた。《俺の眼じゃない》と単に白を切っていたのではない。《それはおまえ自身の眼じゃないのか》と言ってしまっていたのだ。じっさい、ナスターシャを殺しかねない者の「二つの眼」とは、それをひしひしと背中に感じている公爵自身の眼なのではないか。そうでなければ、どうしてその眼をもう一度見たいと考えてまるでロゴージンを挑発するようにナスターシャの住まいを訪ねたりするだろうか。それも発作的に、なのである。この《突発的な考え》は長い心理描写に断裂線を幾筋も走らせている。……たとえば、ムイシュキンはロゴージンの手が実際に彼にナイフを振り上げたその寸前にも全く同じ「二つの眼」を、ロゴージンの顔をひき歪める「狂暴な微笑」とともに見出すが、彼がその眼に覗き込んだのがロゴージンの嫉妬や殺意ではなくナスターシャに対する彼自身の欲動だったとすればどうだろう。その場合、この直後ナイフの直下で起こる癲癇の発作の意味するところも変わって来る。それは、もはや自分の死との直面によるものではない。むしろ、他者の死に関わる。心理描写にしばしば顔を見せる「悪魔」とは単に、ロゴージンの殺意を邪推する彼の猜疑心の文学的表現なのではあるまい。心理を追って納得してしまってはならない。心理描写の「断層」に明滅する「二つの眼」や「悪魔」や「手」は心理より遥かに敏捷に動いており、ドストエフスキーはひたすらそれを追っている。だからこそ心理描写はあのように紆余曲折し深い亀裂を走らせているのだ。」
「引用した対話〔第二篇第三章〕に戻ろう。ここでも心理はムイシュキンの心がそう考えているということにすぎない。しかし、対話の淵に二度ひらめく彼の手は、心のように自問自答していなかった。手は反省などしない。ただナイフを取っただけだ。重要なのは、このとき公爵の手は心とは全く別のことを考えていたということなのだ。ムイシュキンの手が心とちがう何を感じ、何を考えていたか。この対話において脈を取るべきなのは手の条理なのだ。心理ではない。本文に書かれていない手の思考に耳をすまそう。そこには結末のあの驚くべき出来事の物音がかすかに聞こえて来るはずだ。いや、勿体ぶった言い方はやめてはっきり言おう。彼の手は、自分はこのナイフでナスターシャを刺すかもしれないと感じているのだ。ナスターシャに対する「限りのない憐れみ」の果て彼が「恐怖」を感じたのがなぜなのかに思いを凝らすべき地点はここなのである。自分と一緒にいると彼女が破滅してしまうということをムイシュキンが確実に知っているのはなぜなのか。思うに、空白の六ヵ月、とりわけ公爵が彼女と毎日のように会っていた田舎でのひと月のあいだに、彼女を殺そうとしている自分の手を見出した瞬間が公爵にはきっとあった。ロゴージンはムイシュキンが辿ったことのある途をあとから反復しているのかもしれない。右に引いた対話で公爵は「恐怖」をすでに経験したことのある者としてロゴージンと語っているのかもしれないのだ。……
ナイフを弄ぶムイシュキンの手の思考をロゴージンは凡百の心理家よりも鋭敏に察している。彼はここでも公爵にくり返してよかった。《きっとそんなことのために来たんじゃなかったろうし、そんな考えは毛頭なかったろうよ。だがな、たった今、そんなことのためにそうしたということになっちまったんだよ》。たしかに、公爵の心は自分の手が感じていることを知らない。全くの無意識だ。しかし、それは、ナスターシャを殺したいという欲望が彼の意識下に秘められているというような浅薄なことではない。何度も言うように、無意識は彼のうちにあるのではない。彼とロゴージンとの間にある。ロゴージンとナスターシャとの間にある。そして、ナスターシャと公爵との間にあるのだ。今、この関係性の無意識によって過剰決定された公爵の手がナスターシャのことを思ってナイフを取ったのだ。この手の動きに則って心の動きを修正したとき、ムイシュキンの心はそれを心底、恐れねばならなかった。公爵の心も叫んでいただろう。《誰もわたしたちの考えなどきいてやしない、一切はわたしたちに関係なく決められてしまっているんだ》と。ここでは最初から殺意など問題になりようがないのだ。やるのがロゴージンかムイシュキンか、それを決めているのは彼らの意志でも欲望でもない。多重に決定されたこの関係の中でそれは、いわばルーレットの球が黒か赤に落ちるように決まるのだ。他方、同じ関係性の無意識においてロゴージンの手もそれを察している。だから、公爵の手からナイフをもぎ取るのだ。このとき彼の手が考えているのは《やるのはおめえじゃない、俺だ》だろう。公爵はその結果としてやらなかっただけだ。自分の心が正しくよいものだったから自分は殺さずにいられたなどと考える余地は微塵もなかったはずである。……」
:関係性の増殖、「出会い」の多重決定性、非意識的欲望の賭場
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「貧困などどうでもいい。弱者などどうでもいい。神など虚構に過ぎない。世界にはわけのわからない暴力があった。今もある。あり続けるだろう永久に。このある意味で正しい命題が人間の肉体に受肉された瞬間、もう一つの声が体内に鳴り響く。「おまえはそれを本当に心の底から認めることができるのか?」と。この分裂においてつかまれたリアリティから出発しなければ、他人は他人、自分は自分という現時点でのリアリティに主体は最終的に足を掬われ、世界が新たな段階に入ることはない。」(大澤信亮「組合文学論 第一回」)
我々は幻想承認欲望の無意識的交換──欲望の強制・譲歩・角逐・懐疑・挑発・受容・遮蔽といった契機が「見えてないもの(=目-無意識)」「メッセージとして伝わっていないもの(=声-無意識)」のレヴェルで生起すること、登場人物たちが相手の欲望を考察-推測しながら互いに欲望を投げ掛け合いそれを無意識レヴェルで交換するということ──を小説における「関係性」の本質だと定義した。これは登場人物間に設定された複数的な欲望の偶然的偏差と相互認識のズレによって主体には予測不可能な無意識レヴェルでの「出会い」が誘発される、と以前述べたことを別の形で言い換えたに等しい。そしてこれらの「出会い」に対して自意識はつねに受動的たらざるを得ず、「関係性」の作動から生じる「行動-物語」に対して自意識はつねに置いてきぼりにされるというのも以前述べた通りだ。
この考察をさらに精緻にするために山城むつみ氏のドストエフスキー論、とくにその『白痴』論を参照したいと思う。山城氏は第二篇第三章でムイシュキンとロゴージンが会話をしながら会話の流れとは無関係に「無意識に」ナイフを取り合う場面を注釈して、そこでは彼らの手の方が彼らの心理以上のことを考えている、と述べている。ほとんどの読者がこの場面をムイシュキンの心理、すなわちロゴージンに対する邪推や猜疑心や内的葛藤が抑圧された上で思わず「無意識に」手の動きとなって現れてしまったと解釈するだろうから、公爵の手が心とは別のことを感じていた、公爵の手は抑圧された深層心理によってではなく「関係そのもの」によって衝き動かされていたのだ、と主張する山城氏の読みは凄まじく独創的だ。山城氏のこの独創性は「無意識」という言葉の使い方に由来する。要約すれば彼はそれを「自意識によっておぞましいものとして垂直方向に抑圧され隠されているもの」という意味ではなく、「水平方向の他者との複数的・多角的・歴史的関係の中を主体の“意識を介さずに”偶然的に作動しているもの」という意味で用いている。この“意識を介さずに”という契機は決定的のように思われる(事態の混同を避けるために以後これを無意識的ならぬ「非意識的」と呼びたい)。すなわち、我々には意識的に考えたり欲したり懐疑したり邪推したり反省したりすることとは別に、“意識を介さずに”──非意識的に──考えたり欲望したりすることがあるということだ。一見常識に反するが、ドストエフスキーの小説(についての山城むつみ氏の深い読み込み)を真実と受け取るならば我々の生はそのような非意識的なレヴェルによって決定されていることもまた認めざるを得ない。そして重要なのは、その非意識的なレヴェルで生起する事態が個体と個体の間の(「出会い」を端緒とした)関係性の増殖によって過剰決定されるという点である。
「何度も言うように、無意識は彼のうちにあるのではない。彼とロゴージンとの間にある。ロゴージンとナスターシャとの間にある。そして、ナスターシャと公爵との間にあるのだ。今、この関係性の無意識によって過剰決定された公爵の手がナスターシャのことを思ってナイフを取ったのだ」。なぜこのように“意識を介さずに”致命的な手と手の動きの交叉という事態が生じるのだろうか。問題はムイシュキン公爵の内に抑圧されているナスターシャへの殺意などというものではないのだ。そのような内的葛藤の心理描写は自意識が勝手に深刻だと思っている似非文学的なドラマに過ぎない。真に本質的なことは、ムイシュキンという人物がナスターシャとトーツキイの関係、ナスターシャとロゴージンの関係、ナスターシャとガーニャの関係、そしてムイシュキン自身とアグラーヤの関係、イッポリートとの関係、レーベジェフとの関係、リザヴェータ夫人との関係、さらに当然ナスターシャとの関係、ロゴージンとの関係、といった諸関係の網の目の中でどのような結節点として存在しているかということだ。このような関係の過剰性、我々の文脈で言えば幾枚もの欲望偏差表を描いてそれらを重ね透かして初めて見えて来る欲望の流れの先在によって、暗闇の中での飛躍のように「彼らの手が意志と関係なく動く瞬間がある」。しかもその意味をお互いに“意識を介さずに”──半透明な事態として──理解する。しかもその手の動き、手の思考に対してお互い(の自意識)はつねに置いてきぼりにされて受動的たらざるを得ない(「《誰もわたしたちの考えなどきいてやしない、一切はわたしたちに関係なく決められてしまっている》」)。手の動きに限らない。自分の思わぬ視線の動き、自分の表情の変化、自分の声音のブレ、ひとりでに飛び出す言葉、すなわち(深層心理の露頭というようなことではなくて)非意識的な関係性によって過剰決定された欲望のゆえに飛び出す兆候すべては、我々の意識的な意図や意志や希望に断裂線を走らせるだろう。
我々はここで「欲望」という言葉を敢えて使っている。もちろん内面のドラマの主役になるような抑圧された情欲や殺意という意味で使っているのではなく、予期しないもの、操作不可能なこととの偶然的な「出会い」の重ね合わせによって作動する社会的諸力・関係概念としての「欲望」の意味で使っている。例えば『白痴』の第二篇においては、ムイシュキン公爵は「ナイフ」という物体とも“意識を介さずに”決定的な出会いを果たしている。関係性の重ね合わせの中でなぜか致命的に欲望を媒介するように働いてしまう道具というものがある。「欲望」は社会的関係の網目の中で物質的にも情報的にも情緒的にもさまざま媒介され得る。ここでは行なわないが、すでに分析したことのあるラスコーリニコフが殺人に到ったプロセスを、非意識的な関係性による過剰決定の視点から記述し直すことも可能だろう。その場合でも、老婆の謀殺の意図などをラスコーリニコフの──無意識的な?──欲望であるというふうに考えるべきではなく、「彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていった」という彼が兇行を強いられたプロセスそのものが、「出会い」に多重決定された非意識的な欲望の作動だと考えるべきなのだ。
上述のような非意識的な関係性を徹底的に構想するために、改めて欲望偏差表を以下のように再改訂する必要があると思われる。以下、「意識を介さずに」「本当はどう思っているか」「(※関係の多重性によって決定される)」という契機を新たに追加して、幻想承認要求の自意識的交換/幻想承認欲望の非意識的交換の分離がさらに明瞭になるようにした。
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▼主人公が自分自身を本当はどうであると意識を介さずに思っているか(※関係の多重性によって決定される)
▼主人公が自分自身を想像的にどうありたい〔ありたくない〕と意識を介さずに思っているか(※同上)
▼主人公が自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と意識を介さずに思っているか(※同上)
●主人公がαをどう思っているか
●主人公がαにどう思われていると思っているか
(→実際にαが主人公をどう思っているかとのズレ)
●主人公が、αが主人公にどう思われていると思っているかを、どう思っているか
(→実際にαが主人公にどう思われていると思っているか、とのズレ)
○主人公がαに何をしたい〔したくない〕か
○主人公がαに何をして欲しい〔して欲しくない〕か
(→実際にαが主人公に何をしたいかとのズレ)
○主人公が、αが主人公に何をして欲しい〔して欲しくない〕かを、どう思っているか
(→実際にαが主人公に何をして欲しいか、とのズレ)
▽主人公がαに本当は何をしたいと意識を介さずに望んでいるか(※関係の多重性によって決定される)
▽主人公がαに本当は何をして欲しいと意識を介さずに望んでいるか(※同上)
▽主人公が、αが主人公に本当は何をして欲しいと望んでいるかを、意識を介さずにどう思っているか(※同上)
▼αが自分自身を本当はどうであると意識を介さずに思っているか(※関係の多重性によって決定される)
▼αが自分自身を想像的にどうありたい〔ありたくない〕と意識を介さずに思っているか(※同上)
▼αが自分自身が他人からどう思われたい〔思われたくない〕と意識を介さずに思っているか(※同上)
●αが主人公をどう思っているか
●αが主人公にどう思われていると思っているか
●αが、主人公がαにどう思われていると思っているかを、どう思っているか
○αが主人公に何をしたい〔したくない〕か
○αが主人公に何をして欲しい〔して欲しくない〕か
○αが、主人公がαに何をして欲しい〔して欲しくない〕かを、どう思っているか
▽αが主人公に本当は何をしたいと意識を介さずに望んでいるか(※関係の多重性によって決定される)
▽αが主人公に本当は何をして欲しいと意識を介さずに望んでいるか(※同上)
▽αが、主人公がαに本当は何をして欲しいと望んでいるかを、意識を介さずにどう思っているか(※同上)
●○ 主人公とαの幻想承認要求の自意識的交換の図式 …
▼▽ 主人公とαの幻想承認欲望の非意識的交換の図式(半透明) …
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ところで欲望の作動はなぜ意識を素通りして、自意識を置いてきぼりにするのだろうか。なぜ非意識的なレヴェルでの出会いを自意識は恐怖するのだろうか。論証抜きで答えよう。非意識的な関係性によって個体が衝き動かされることは「他者の破壊」という悪に通じているからだ。我々がこれまでそのようなケースとして例示して来たラスコーリニコフ、イワン、ムイシュキン公爵いずれのケースでも、その非意識的欲望の作動を押し止めることができなくなった結果他者の死に至っている(老婆とリザヴェータの死、フョードル・カラマゾフとスメルジャコフの死、ナスターシャ・フィリポヴナの死)。つまり、幻想承認の究極の達成は今まで多くのものを殺して来て、今も殺しており、これからも永久に殺し続けるだろう人類の暴力謳歌の実相と軌を一にする。我々が「欲望」の語を回避しなかったのはそのためだ。だから欲望を読むことと欲望を読まれることは恐ろしい。それが充血した性器のように(あくまで比喩だが)恥ずべきもので隠すべきもので平常の生活を攪乱するアンコントローラブルなものだから、ではない。それが社会的諸関係の網目を巡回しつつ他者の破壊を目指しているにもかかわらず、その理由も目的も分からないから、恐ろしいのだ。人間の非意識的欲望の賭場では私が加害者になったりあなたが被害者になったりすることはあたかもルーレットの球がたまたまどこに落ちたかによって決定されるかのようのだが、そんな無意味に邪悪なリスクが我々全員に課せられている理由は、まったく分からない。単に人間の欲望とはそういうものだという説明より先には遡行することができない。他人を助けたい、救いたい、愛したいという気持でさえ破壊欲動であり得る。あなたの隣人はつねに他者破壊を望む「欲望」の悪臭を放っている。そのような人類の一員として生きざるを得ないということ。「人間とは、攻撃された場合だけに自衛するような柔和で、愛を求める存在ではないし、人間に与えられた欲動には、多量の攻撃衝動が含まれる。とかく否定されがちではあるが、これが背後に控えている現実なのである。そのために隣人は援助してくれる人であったり、性的な対象となりうる人であったりするだけではない。わたしに自分の攻撃衝動を向け、労働力を代償なしに搾取し、同意なしに性的に利用し、その持ち物を奪い、辱め、苦痛を与え、拷問し、殺害するよう誘惑する存在なのである」(フロイト「文化への不満」)。
ムイシュキンの非意識的な手の思考が「自分はこのナイフでナスターシャを刺すかもしれないと感じてい」たこと、それ自体は偶然ではない。非意識レヴェルでの関係性の重ね合わせはそのような破壊的なベクトルへと彼を過剰に強制していく。自意識はその欲望の胸をむかつかせる悪臭──いや、時には我々を過度に誘惑する甘美なアロマ──を前にして尻込みする。だが自意識には自身を拘束して来る社会的諸力の複数的・多角的・歴史的な作用をどうすることもできない。自意識にとってはその過剰決定が何に由来しているかまったく見通せないからだ。その衝動の由来を心理描写として直線的に辿れるような衝動は恐ろしくない。つまり、事後的にヒューマニズムの共感の枠に調整されるような内的葛藤に裏打ちされた「欲望」(実際にはそれは欲望の名に値しないが)は恐くない。それよりも心理とは別の、欲望偏差表を幾枚も重ね透かした果てに浮び上がって来る非意識的な条理、多重に決定された偏差と関係性の強制によって「たとえ不合理のように見えようとも、すでに斬りつけたときでさえも、自分は本当に斬り殺そうとしているのかどうか、またその目的でこうして斬りつけているのかどうかは、まだ自分でもわからないでいたのかもしれない……おそらく、斬りつけた瞬間には、自分が斬りつけたことを彼女は知っていたに相違ないのだ……しかし意識的にそれを自分の目的として、自分のライヴァルの命を奪うつもりであったかどうか、それは自分にも分からなかったというのはきわめて大いにありうることである……」(「裁判所とカイーロヴァ夫人」)といったような形で人間の攻撃衝動が成就してしまうこと、そのことの方が恐ろしい。恐ろしいというか、徹底したリアリストの目線で描き出された小説的事件としては相応しい。そして我々はもはや愛や正義をめぐるごまかしやお喋りを望みはしないのだ。
欲望の実相において我々は嬉々として骨肉相食む。その事実を認めた上で必要なのは欲望の相対的な批判(→回心)ではないだろう。むしろ停止すれすれの圧縮或いは逆に寸断に至りかねないほど加速された時間性の中で、関係性の加速度的増殖と諸欲望の高密度・高速度のぶつかり合い/すれ違い/読み合い/読まれ合いを引き起こしつつ、それらを超遠心分離的に破砕すること。
人間の欲望に対する絶対的批判という物語契機の必然性。そこまでやって初めて小説によって世界を変える可能性を語ることができるだろう。
:夢=非意識的欲望のアレゴリー
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ドストエフスキーは『白痴』第三篇第十章で、我々が夜寝ている間に見る夢について次のように述べている。「どうかすると、……夢からさめて、すっかり現実の世界に戻ってからも、いつも何かしら自分にとって不可解な謎を残してきたような気が、夢の後味となってかすかに残るように感ずるものである。いや、ときには、それが並々ならぬ迫力となって感じられるのはなぜであろうか。人間は夢の愚かしさを笑いながら、それと同時に、こうした愚かしさの錯綜したところに、何かしら一つの思想が、それもすでに現実のものとなって、自分の生活に即し、自分の心の中につねに潜んできた一つの思想が、含まれているような気がするものである。その夢によって何か新しい予言的な、待ちこがれていたものを聞かされたような気持になるのである。この印象は、それが心を喜ばせるものか、苦しめるものかは別として、とにかくじつに強烈なものである」。
どうだろうか。ここでドストエフスキーが日常生活では抑圧されている願望を満足させてくれるものとしての睡眠中の夢のことなど、一切語っていないことに注目しよう。そのような夢の「心理」的解釈などどうでもいい。それよりも極度に緊張した異常な夢の「条理」に目を凝らさなければならない。我々はすでに非意識的なレヴェルでの力動を「自意識によっておぞましいものとして垂直方向に抑圧され隠されているもの」ではなく「水平方向の他者との複数的・多角的・歴史的関係の中を主体の“意識を介さずに”偶然的に作動しているもの」と定義した。我々のこの文脈からすると、夢を抑圧された願望の実現だとするような俗流フロイト主義的な解釈を断然斥けるドストエフスキーの夢に対する態度を補助線にして、夢という非意識の現象に新たな照明を当てることができるように思われる。
ドストエフスキーは夢には「何かしら一つの思想が、それもすでに現実のものとなって、自分の生活に即し、自分の心の中につねに潜んできた一つの思想」が含まれていると述べている。例えばだ。あなたが今日今まで自分とは全然関係ないと思っていた人物δと恋人関係になるという奇妙な夢を見たとしよう。これをあなたが潜在意識で欲望していたものの実現不可能として抑圧されていた事態が、睡眠中抑圧を解除された精神の場で心像として実現をみた、というふうに解釈するべきではないだろう。むしろあなたにとっては人物δとあなたとがあまりに関係がなさ過ぎるため、人物δと恋人関係になるという事態を具体的に想像することすらして来なかったのでそれを欲望するなど端からあり得ないことだった、というのが正確だろう。しかし一旦そのような夢を見てしまうと、確かにそんな欲望を自分は無意識的に抱いていたのではないかと反省してしまうのは、それが(自分の内面からではなく)現実の多重性の切迫によってもたらされているからではないだろうか。あなたはそんな欲望を実際意識的には抱いていなかった。しかし人物δと恋人関係になるという幻想承認(「世界はこのようになっている」)を強いられるような関係性の多重な変質というものがあなたの現実にあったはずなのだ。しかもそれは単線的なものではなく、複数的かつ曲線的で容易には見通し得ないジグソーパズルのような位相の共時的な組み替えだった。その複雑な痕跡は夢の中で人物δ以外の登場人物たちの役どころおよびそれに対するあなたの感情関係(優しい感情を抱いたり、恐怖を覚えたり、溜飲を下げたり、ステイタスが上下したり)として表れているに違いない。夢は抑圧された願望の解放ではない、しかし単なる荒唐無稽なのでもない。夢とは、現実において意識を介さずに複数的・多角的・歴史的な関係性によって過剰決定された欲望のアレゴリーが、自意識にはまったく予期しない心像として内面のスクリーンに投影されたものなのである──我々はそのように考える。
一言で言えば、夢とは強制された幻想だ。自意識が得手勝手に想い描く幻想は大抵感情の角度が狭過ぎて浅薄なものだが、夢においては感情の強度も理性の緊張も人間理解も「予言的」なまでに透徹かつ独創的であり得る。だから、悪夢もあり得る。現実の対象以上に夢の中の鮮鋭な対象に興味を持つということも起こり得る。さらには、自意識に引き蘢れずにいるうちに現実の他人たちとの関係性の力線の回路に過剰に絡まれた挙句、恐怖と切迫感から、覚醒時にも悪夢の中を「強制されたように」生き続けるということも起こり得る。それは夢が自意識(心理)とは別のリアリティ、非意識的なリアリティを帯びているがゆえのことだ。
もちろん我々は心理とは区別された夢の条理を、ムイシュキン公爵の手の条理や、イワン・カラマゾフの「いいか……俺はチェルマーシニャへ行くからな……」(第二部第五篇第七章)というひとりでに飛び出した発語の条理と類比的に考えたいと思っている。
:「偏り」と奇蹟
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しかし現実はドストエフスキーの小説で描かれたようにはなっていないじゃないか!という抗議があり得るだろう。それはドストエフスキーの生前からあった抗議だ。例えば或る評家は『罪と罰』のラスコーリニコフについてこんな男に殺人が実行できるわけがない、主人公は架空の人物だ、この長篇はまるごと架空な話だと断じた。別の評家はこれをドストエフスキーの癲癇に由来する病的な空想だろうと揶揄した。ドストエフスキーの天才を前にしたらこんな無名の評家連の抗議など無効だろうとは我々は考えない。そう、「出会いの多重決定性」といい「非意識的欲望」といい「夢の条理」といい、我々の現実において到底見出し得ない異常なものを基礎にして、果して実在性のある虚構を作り上げられるものだろうか? 確かにこの抗議は半分は当たっていると思われる。ドストエフスキーは自身を心理学者だと呼ばれることを嫌って敢えて現実主義者(リアリスト)だと名乗っていたが、『罪と罰』のラスコーリニコフの犯した殺人は現実でも起こる蓋然性の高い兇行を精緻に塩梅し虚構して迫真性を描き出したというようなものではなかった。ラスコーリニコフは当時のロシアに棲息していた犯罪者たちのどの一人にも似ていないし、彼の起こした事件も当為のロシアで発生した強盗殺人事件のどれにも似ていない。つまり、当時のペテルブルグの社会状況と犯人の置かれていた境遇を掛け合わせれば確率的にラスコーリニコフの起こしたような事件が発生するという「現実的」な見方は『罪と罰』には当て嵌まらない。それではなぜ、『罪と罰』の虚構にはリアリティがあると言い得るのか。これは大真面目に言うのだが、彼の事件が発生したプロセスが一つの奇蹟だからだというのが、その答えだ。
ルーレットを回して十回連続でゼロ(約5兆分の1)が出たら我々はそれを奇蹟だというだろう。確率論的に言えば世界中の賭場を何世紀にも渡って監視し続けるのでもないかぎり我々がそんな奇蹟にお目にかかれることは到底ありそうにない。確率論的に言えば、だ。もし実際にその奇蹟が起こった時点から振り返れば、我々はそこに確率論の現実性では掬い切れない様々な現実のキャパシティを見出していくことになるだろう。別にオカルトめいた話がしたいわけではない。それは回転盤に細工されていた物理的な偏りかもしれないし、ボールを投げ入れるディーラーの手の動きの偏りかもしれない。「いかさま」を考慮に入れたら確率論は成り立たないというのであればむしろ確率論が相手取っている現実が「いかさま」を排除した抽象に過ぎないのだと答えよう。小説について語るなら、確率論的なリアリティから一歩踏み込んでルーレットで十回連続でゼロが出るような奇蹟をいかに地上に実現させるか、その「いかさま」の手技を徹底的に思考するという十重二十重の現実観が必要だ。確率論的心理主義で現実を包括している限り、この世界では「恋愛」すら真の意味で起こらないと言っていい。ラスコーリニコフの殺人についても同じことが言える。確率論的に言えばあんな青年があんな事件を起こすということは到底ありそうにないことに違いない。だが、以前「偏り」と「出会い」について述べたことを敷衍すれば、そもそも確率論の平面における「自分は自分、他人は他人」というリアリティにいつまでも留まっているならば登場人物たちは永遠に抽象的なモナドのままで彼らが破壊的に結び合うような「奇蹟」が起こらないことは自明過ぎるほど自明だ。ならば? 「いかさま」を用いることも辞さずに、ルーレットで連続で十回ゼロが出るように彼らの間に露骨なまでの「偏り」を虚構してやるしかない。実際、ちょっとでも「出会い」のタイミングが違えばラスコーリニコフの殺人は起こらなかった。のみならず、ナスターシャ・フィリポヴナの殺害もスタヴローギンの自殺もヴェルシーロフの殺人未遂もスメルジャコーフの謀殺も自殺も起こらなかっただろう。それらはいかさますれすれの「偏り」の構想に先行されていなければ、確率的にはおよそ起こる見込みのない、例外に例外を重ねた出来事だった。そこにこそドストエフスキーの作家的な努力はあったと言える。つまり、賭博におけるゼロの連続のような奇蹟を小説に降臨させるために、確率論的な現実観の地盤を破砕し、例外的な事象の濃度を高め、登場人物たちの間に入念過ぎるほど入念な関係性の偶然的な偏差を導入してひたすらそこで何が生起するかを目を凝らしつつ筆によって追い掛けること──その点にこそ、ドストエフスキーの芸術的創造は賭けられていた。そして彼は彼自身の賭けに五回連続で勝ったのであり、結果として我々にあの後期の傑作長篇群が残されたというわけだ。「そう、時としてきわめて奇怪な、一見およそありえそうもない考えが、しっかりと頭にこびりついてしまって、ついにはそれを何か実現可能なものと思いこんでしまう場合があるものだ……ことによると、そこにはさらに何かが、なにか予感の組合せとか、並みはずれた意志の努力とか、自分自身の空想による中毒とか、あるいはさらに何かがあるのかもしれないが──わたしにはわからない。だが、その晩(わたしはその晩のことを終生忘れないだろう)、わたしには奇蹟的な出来事が起ったのだった。それは算数で完全に証明されるにせよ、それでもやはり、わたしにとってはいまだになお奇蹟的である。それにしてもなぜ、いったいどうして、そんな確信があのころ、あんなに深くしっかりとわたしの内に根づいていたのだろう、それももうあんなに以前から? たしかに、わたしはそのことを──くり返して言うが──何回かに一回起りうる偶然としてではなく、絶対に起らぬはずのない何かとして、考えていたのだった。」(『賭博者』第十四章)
どんな手を使ってでも「奇蹟」を書物の中に封じ込めようとする狂的な努力。だが、そのような奇蹟への確信に震えているのでなければ、確率論的現実を転回させる希望が結晶しているのでなければ、今なお誰が小説などという絵空事を読もうとするだろうか?
(余談。ただしドストエフスキーも最初からその確信があったわけではないだろう。それは初稿『罪と罰』がラスコーリニコフの殺人を犯した後の時点からの回想として書かれていたことにはっきり示されている。初稿を書いた時点ではドストエフスキーにも自分の主人公が殺人を犯すということは「架空」の話のように思われ、そこに到るまでの主人公の行動のプロセスを描いてまさに彼に「奇蹟的に」老婆の頭に斧を振り下ろさせることは不可能だと考えられていたのだ。いくら殺人と犯人のその後を描きたいからといって、強引にラスコーリニコフが殺人を実行する場面をでっち上げるわけにはいかない。この困難は、トルーマン・カポーティがやったように実際に殺人を犯した人間に綿密な取材を重ねて、確率論的リアリズムの地平でいかにも現実にありそうな話として物語のディティールを埋めていくことによっては克服されない。問題は蓋然性を高めて読者を納得させることではなくて、絶対にあり得ないようなしかし致命的に起こってしまった奇蹟的な「罪障」で読者を震撼させることに存するのだから。だが、ドストエフスキーが初稿の──あるいは『地下室の手記』の──回想形式で満足することはもうあり得なかった。そして初稿から定稿に到る過程で付け加えられていったものは、もちろんラスコーリニコフの育った家庭環境や同時代のペテルブルグの社会状況といった細部の精確さではなくて、マルメラードフ、ソーニャ、スヴィドリガイロフ、ルージン、ドゥーニャ、リザヴェータといった人物たちとラスコーリニコフとの多重の関係性であり、その非意識的な関係性に過剰に決定された、彼の自意識では追い付けない、確率論的心理主義を破断する犯行の必然性であったのだ。我々はすでに完成されたものとして『罪と罰』を受け取っているのでラスコーリニコフ=殺人者だという等式を自明とすることに慣れている。しかし作者ドストエフスキーにとってラスコーリニコフが殺人を犯すことはまったく自明ではなかった。彼の殺人を描くためにはルーレットで十回連続ゼロが出るような極端な「偏り」が世界に生まれている必要があり、しかもその偏りがあってさえ、ぎりぎりまで本当にラスコーリニコフが老婆の頭に斧を振り下ろすかどうかは分からなかった。この小説内で起こる事件の非意識的関係によって過剰決定された不可逆性と奇蹟性というのは、『罪と罰』のみならず『白痴』についても『未成年』についても『カラマゾフの兄弟』についても言える(『悪霊』については微妙)。物語を書き出すより先に「奇蹟」が起きる沸点すれすれまで登場人物たちの平面を非意識的な「偏り」と「出会い」によって加熱しておくこと。「病気のあとその他。かならず事件の進行を現在点でとらえて、あいまいな点を完全になくすこと、すなわち、あらゆる方法で、殺人のすべてをあきらかにし、彼の性格とさまざまな関係を明確に定めること。傲慢、個性、不遜。それからはじめて第二部に移る。現実との衝突と、自然の法則と義務への論理的帰着。」──「『罪と罰』創作ノート」より。小説を書くことおよびドラマを書くことの可能性と地平を安く見積もったりタカを括ったりしないかぎり、ドストエフスキーの実行した芸術的創造の努力を現代においても反復することは可能である。)
:ジョルジョ・アガンベン「身振りとしての作者」からの引用
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「作者は作品のなかでひとつの生が賭けられている点をマークする。それは賭けられているのであって、表現されているのではない。賭けられているのであって、かなえられているのではない。このため、作者は作品のなかで満たされず言葉にされないままにとどまらざるをえない。それは読むことを可能にする読解不可能なものであり、そこからエクリチュールと言説が進行する伝説的な空虚である。……」
「しかし、生にとって、自らを賭ける、または賭けられる、とは何を意味するのだろうか。
ナスターシャ・フィリポヴナは──ドストエフスキーの『白痴』のなかで──、彼女の人生を決することになる夜、彼女の家の客間に入る。彼女は、自分を辱め、そのときまで自分を愛人としてきた男、アファーナシ・イワーノヴィチ・トーツキイに、若いガーニャと結婚すれば七万五千ルーブルを代償として与えるという彼の申し出の返事をする約束をしていた。客間には彼女の友人や知人が皆そろっている。……
フェデルシチェンコの提案した、全員が自らの卑しい行為を告白するという社交界の鼻持ちならないゲームに同意したナスターシャは、その夜会の命運をすべてゲームに託す。そして、トーツキイへの返事を、彼女がほとんど面識のないムイシュキン公爵に決めさせることになるのは、たわむれから、あるいは気まぐれからである。しかし、それから事態は急転直下する。突然彼女は公爵との結婚に同意するが、すぐにそれを取り消して、夢ごこちのロゴージンを選ぶ。そこで興奮した彼女は、十万ルーブルの包みをつかんで火のなかに投げ入れ、欲深いガーニャに約束する。金を火のなかから自分の手で取り出せば、その金はあなたのものだ、と。
ナスターシャ・フィリポヴナのこの一連の行動を導いたものは何だろうか。たしかに、彼女の身振りは度を越してはいるが、その場にいたほかの誰の打算とふるまいに比べてもはるかにまさっている(ムイシュキンを唯一の例外として)。しかしまた、その身振りのなかに、理性的な決定や道徳的原則といったものを見出すことはできない。また、復讐のための(たとえば、トーツキイにたいしての)行動とも言えない。最初から終わりまで、ナスターシャは譫妄状態にあるように見え、彼女の友人たちも執拗にそのことを指摘する(「いったいきみは何を言ってるんだ、発作が起きたのか」、「彼女が理解できない、正気を失ったんだ」)。
ナスターシャ・フィリポヴナは自分の生を賭けたのだった。あるいはおそらく、ムイシュキン、ロゴージン、レーベジェフによって、そして、つまるところは彼女自身の気まぐれによって、それが賭けられるままにしておいたのだ。このため、彼女のふるまいは説明しがたいものとなる。このため、その生は完全に手付かずのままであり、その行動すべてにおいて理解されないままにとどまる。倫理的であるのは、単純に道徳律に従う生ではなく、その身振りにおいて取り消しがたく留保することなく自らを賭けることを受け入れる生である。たとえ、このようにして、その幸福と不幸が一度かぎり永遠に決定されてしまうという危険を冒してもである。」
:非意識的な誘引力とその摩擦係数
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金銭について考える。金銭そのものの意義は保険であったり威力であったり価値の尺度であったりフェティシズムの対象であったりと色々だが、小説の中でのその本質的な意味は登場人物間においてそれがどのように作用するか、にしかない。すると、どれだけの多寡の金銭を個人が所有しているかということはあまり重要ではなく、その時点で人物αが状況的にどれほど金銭を必要としているか、そしてそれを人物αに贈与し得る(獲得させ得る)のは誰か(何か)という問いこそが重要になって来る。同じ三十万円でもそれを自分の生死の分水嶺を決するものとして欲している人間にとってのその意味と、それを容易に手放しても惜しくないと考えている人間にとってのその意味はまったく異なるし、その上そうした二人が社会空間的に近接した場合には、二人の間に自由で自立した個人という観念を無効にするような奇妙に相互浸透的な誘引力が働くだろうことは想像に難くない。つまり金銭の価値もまた一種の関係概念であるということだ。
簡潔に言えば、現時点で紛れもなく金銭を必要としている人間には誘蛾灯に惹かれる我と同じに、彼に金銭を与え得る人間への誘引力が働く。或る個人に穿たれた金銭的な欠如と、それを備給し得る力を持った別の個人とが接近することは、自由で孤立した主体たちの平面に強烈な誘引力の磁場の偏りを生み出す。しかもおそらくその力は、個々人の“意識を介さずに”働く。なぜかは分からないがこの誘引力を正面切って認めることは我々の精神にとって激痛を伴うようなのだ。例えば似たような誘引力によってムイシュキン公爵に惹かれていったブルドフスキーは、あくまで自分たちは金銭を無心しているのではなくて良心的に絶対に正当なこととしてムイシュキンはブルドスキーに財産を分け与えるべきだ、という「誇りにみちた自由な要求」を掲げてやって来たのだと主張しつづけたものだ。この非意識的な誘引力+摩擦力の作用を『罪と罰』のこんなふうな一節によって象徴することができるかもしれない──「彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていった」。誘引力が大きければ大きいほど主体の感じるアレルギー=摩擦係数も激しくなるだろうが、それに対する主体の無力さも痛感されることになるだろう。そして苛烈なまでにこの誘引力の偏りを設定しそれに対する登場人物たちの精神的失調・発作を虚構することが、小説空間に「奇蹟」を導入するための一つの条件であり得る。
以上の考察は金銭以外の私的所有のエレメントについても敷衍できる。或るモノを必要としている人物αと、彼の周辺にいて彼にそれを与え得る人物βとの間には“意識を介さずに”誘引力が働く。しかもそれは人物αがその可能性を漠然とでも認識するだけで(人物βの方は認識しなくてもいい)作動し始める。その或るモノは知性でも徳でも美でも性的魅力でも若さでも権力でも名誉でもよいだろうし、或る映像作品の或る役へのキャスティング権というような具体的なものだったり、人物αを失脚させるに足る或る情報を記した書類といったような人物αにしか意味をなさないものだったりしても、よいだろう。重要なのは、そのような偏差や誘引力の苛烈な作用から解放されて、何らの摩擦も精神的アレルギーも経験することのないなめらかで自由な自立した主体たちの平面においては、決してルーレットで十回連続でゼロが出るような奇蹟は生じないだろうということだ。
私的所有は他人との関係性の中でおぞましい誘引力を帯び得る。だがその力を露悪的なまでに直視することは、むしろ世間一般の私的所有の確率論的な捉え方(蓄積・保険)を危機に曝すことになるだろう。
:非意識的な疑心暗鬼と奇妙な恋愛
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『罪と罰』のポルフィーリイという人物について考えてみよう。彼はラスコーリニコフとの判事VS殺人犯という組合せでの知的でスリリングな駆け引きにおいて有名だが、それをもし彼の事件解決への道徳的な情熱によって裏付けるのであれば、彼は単なる刑事コロンボ的な役の一種でしかないことになる。そしてラスコーリニコフの彼に対する疑心暗鬼も自分が殺人犯であることの確証を握られているのかどうかという二択を巡って循環するだけの心理的な不安に過ぎないことになる。だがポルフィーリイのラスコーリニコフに対する執着は、それだけでは説明できない。というかそのような心理的な駆け引きなど、もとより作中ポルフィーリイ自身の口から「例の心理的方法」という言葉で瑣末なものとされているのだ。
もしラスコーリニコフを事件解決を困難ならしめる狡猾な犯人としてだけ見ているのなら、予審判事である彼にとってラスコーリニコフは「敵」にほかならない。確かに或る意味ではそうだ。「予審判事」という社会的地位に就いていなければ彼がラスコーリニコフ=容疑者に出会うことはなかった。一応ラズミーヒンの友人であるという補助線もあるが、ラズミーヒンの友人の誰もがラスコーリニコフと敵対関係に入るわけではない以上、予審判事×容疑者という社会的関係はポルフィーリイとラスコーリニコフとの対話を考える上で大前提だ。しかしポルフィーリイの情熱は単なる予審判事×容疑者という関係性を超え出ているように思われる。彼はこんなことを口にする。「……いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ! これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です、──山から転落するか、鐘楼からとび下りるようなつもりで決意したが、犯罪に赴くときは足が地についていなかったようです。入ったあとドアをしめるのを忘れたが、とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って。殺したが、金をとる勇気がなかった、しかもやっと盗んだものは、石の下に埋めた。ドアのかげにかくれて、外からドアを叩かれたり、呼鈴を鳴らされたりしたとき、苦痛に堪えたが、それだけでは足りなかった、──そして、もう空き家になった部屋へ、なかば熱に浮かされながら、呼鈴の音を思い出しにやって来る、そして背筋の冷たさをもう一度経験したい気持になったわけだ……まあ、それは病気のせいだとしよう、だがそれだけではない。殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている、──いやいや、とてもミコライなんかのできることじゃありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃない!」(第六部第二章)──犯人について「人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている」と言うことで非難するような素振りも見せながらも、実際にはあの事件は到底ミコライなんぞには成し遂げられないと再三再四くり返すことで、彼はあたかもあんな事件を起こした殺人犯への敬意を語っているかのようだ。そう、むしろポルフィーリイはラスコーリニコフがこの事件の犯人だと確信した時から、この若い犯罪者の成し遂げた悪に──非意識的に!──魅了されていったと言っていい。例えばピョートル・ヴェルホーヴェンスキーがスタヴローギンに魅入られたように、或いはスメルジャコーフがイワン・カラマゾフに魅入られたように。ポルフィーリイがラスコーリニコフに対して示した理解力は並みの予審判事の社会的正義感を超えている(「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはもともとひじょうに怒りっぽい。あなたの性格や心情の他のあらゆる主な特徴──これはもうある程度わかったつもりで、自惚れているんだがね──に比べると、すこしひどすぎるようにさえ思える……」)。ポルフィーリイがラスコーリニコフとの対話で洩らした次のような一言を聞き逃すべきではないだろう。「あなたを知ると、妙にあなたに惹かれるものを感じたんです。わたしがこんなことを言うと、あなたはきっとお笑いでしょうな?」。「あなたに悪人と思われたくないんですよ、まして、信じようが信じまいが、とにかくあなたには心から好意をもっているんですから、なおさらですよ」。
この奇妙な「好意」は予審判事という彼の社会的地位からは明らかに演繹されない。しかし一方でこの好意は彼に予審判事の仕事を放棄させる──好意のゆえにラスコーリニコフを殺人犯として追求することを止める──ほど意識的に強く彼を左右するわけではない。だがこの「好意」が初発になければポルフィーリイがあれほどラスコーリニコフに執着しなかっただろうこともまた事実なのだ。第四部第五章で彼がラスコーリニコフを追い詰める時にあれほど陽気であったことも、この好意無しには説明できない。この好意は犯罪者の境遇に対する同情のようなものとは完全に異なる。いや、この好意はもう彼の次のような科白からしてもラスコーリニコフに対する(性欲抜きの)恋愛感情のようなものだったと言って差支えない。「わたしはあのときはからかいましたが、いまははっきり言いましょう、ああした若々しい熱のこもった最初の試作というものが、わたしは大好きなんです。なんと言いますか、その、恋人みたいに好きなんですよ。けむり、霧、霧の中からひびいてくる弦の音色とでも言いましょうか。あなたの論文は不合理で空想的ですが、そこにはなんとも言えないひたむきな誠意がひらめいています。毅然たる青年の誇りがあります。必死の勇気があります」。この奇妙な恋愛感情が彼を刑事コロンボ的な役回りから飛躍させる。
この恋愛がどのような「出会い」によって始まったか。彼自身の口から語られたそのプロセスを読むと、彼が最初からラスコーリニコフを能動的に付け狙っていたわけではなく、或る種の非意識的な関係性の偶然的な積み重ねの結果そのようになっしまったらしい、と考えるほかはなくなる。つまり、ポルフィーリイ自身その感情に熱中してしまうことに対して受動的だったのであり、彼もまた現実のキャパシティに翻弄された側の人間の一人だったのだ。「あのときどうして急にあんなふうになったか、一々順序を追って話す必要は、まあないでしょう……そんなことは、むしろ余計なことだと思いますね。それに、とてもできそうにもありませんし。だって、どうしたらあんなことが詳しく説明できるんです?……わたし個人の場合は、ある偶然からはじまったのです。それはまったく文字どおりの偶然で、まあ大いに起こり得るかもしれませんし、めったに起こり得ないかもしれません。どんな偶然かって? フム、まあこれも話すほどのこともない、と思いますね。そうしたすべてのことが、噂も偶然もですね、そのときわたしの頭の中で一つの考えに融け合ったわけです。率直に白状しますが、だってどうせ白状するからには、すっかり白状しなきゃね、──あのときあなたに攻撃をかけたのは、わたしが真っ先だったんですよ。まあ、老婆の質草のおぼえ書きとか、その他いろいろありましたが、──あんなものはみなナンセンスですよ。あんなものは何百となく数え立てられます。あのときこれも偶然ですが、警察署での一幕を詳細に知ることができました。それもちらと小耳にはさんだなんていうんじゃなく、あるしっかりした人の口から聞いたのですが、その人は自分でも気付かずに、あの一幕をびっくりするほど詳しくおぼえていたんですよ。そうしたことがみな一つまた一つと、次々と重なっていったわけですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、どうです、どうしたってある考えに傾かざるを得ないじゃありませんか? 兎を百匹あつめても、決して馬にはなりません、嫌疑を百あつめたところで、証拠にはならんものです。たしかイギイリスの諺にこんなのがありましたがね、でもそれは単なる分別というものですよ。頭がかっとなって、熱中しているときは、とてもそんなのんびりしたことは言っておられません、判事だって人間ですからな。そこでわたしはあなたの論文を思い出したんですよ、あの雑誌にのった、ほら、はじめてあなたが訪ねて来られたときかなり突っこんで話しあいましたね、あれですよ。あのときわたしはからかうようなことを言いましたが、あれはあなたを誘いこんで口を割らせるためだったのです。……あなたの論文もなつかしい気持で読みました。ああした思想は、眠られぬ夜など、胸がはげしく高鳴り、圧しひしがれた熱狂に焼き立てられながら、熱くなった頭の中から生れるものです。で、青年のこの圧しひしがれた尊大な熱狂というやつは危険です!……あれは暗い論文です、だがそれもいいでしょう。わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして……しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、《さて、この男はこのままではすまんぞ!》とね。さあ、どうでしょう、え、こうした前置きがあったあとで、その後に来るものに熱中せずにすむでしょうか?……」(第六部第二章)。順不同に積み重なっていった偶然の「出会い」によって本人にももはやどうしようもないほど多重決定された或る人物への「熱中」。このようにポルフィーリイ自身の口で由来を具体的に語られると、偶然の積み重ねの果てに非意識的に他人の中にかけがえのなさを見出してしまう奇妙な恋愛感情があり得ることを、我々は認めざるを得なくなって来る。だが、ラスコーリニコフにとっては別だろう。この感情はポルフィーリイからラスコーリニコフへの片想いに過ぎないから(「最初の一瞥からあなたがわたしを好いていないことは、知ってますよ。だって、ほんとうのところ、好きになる理由がひとつもないですものな」)、いくら由来を具体的に知ったとしてもそんな感情の実在はラスコーリニコフにとっては不気味なだけだ。それが、ラスコーリニコフがポルフィーリイに対して抱いている疑心暗鬼の本質だと言える。ラスコーリニコフはポルフィーリイが自分の犯罪の確かな証拠を握っているのかどうかを猜疑しているのみならず、そもそもポルフィーリイが何故自分にここまでこだわるのかということの不透明性にも不安を抱き翻弄されている。「そんなこと〔ラスコーリニコフの母と妹が今ペテルブルグに来ていること〕があなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれを知ってるんです? どうしてそんなに気になるんです? なるほど、あなたはぼくをつけまわしているんですね、それをぼくに見せたいんでしょう?」(第四部第五章)──これこそラスコーリニコフの疑心暗鬼の本質を直接科白に表わしたものだろう。なぜこの男は予審判事という立場に必要とされる振舞い以上の熱心さで自分に執着するのか? なぜいつの間にか奇妙な連帯関係が自分とこの予審判事の間に生まれてしまっているのか? まるでこの男は自分の秘かな共犯者みたいではないか! この本質的な人間関係の謎に比べれば、ポルフィーリイが彼に殺人の嫌疑を掛けているかどうかの疑問など二義的に過ぎない。
だが注意しよう。この非意識的に見出されたかけがえのなさ、奇妙な恋愛感情──非意識的な幻想承認欲望!──も、「出会い」の偶然的かつ具体的な重ね合わせによって初めて可能になったということを。したがってそれもまた作家の意志的な作品構想の範疇なのだ。これは「ポルフィーリイはラスコーリニコフに対して奇妙な強い関心を抱いている」とたった一行の設定で済ませられるようなことではない。現時点でのラスコーリニコフとポルフィーリイの性格を注視したって何も生まれては来ない。あのような奇妙な感情関係を生み出しそれを描き出すためには、登場人物間の多重に決定された偏差と関係性を複数的・多角的・歴史的に構想する必要があった。ポルフィーリイがいかにラスコーリニコフに対する関心を強めていったか、その(順不同の)プロセスを逐次具体的に創造する必要があった。近代文学がつねに依拠してきた心理描写、確率論的心理主義(打算、理性的な決定、道徳的原則、嫉妬、復讐、etc.)を破断するために、現実に対するパースペクティヴを無限に深化させて新たな芸術的創造の努力を重ねることが、必須であったのだ。
我々はそのように考える。
:欲望偏差表という方法論は本当に正しいか?(まとめと補遺)
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(ここで言う「小説」とは、個々の登場人物の欲望の社会的分化が芸術的に組織されたものの謂いである。欲望の社会的分化はジャンル的・職業的分化とは必ずしも一致しない。そして登場人物たちの言葉遣いは、諸々の欲望に全面的に自己を奪われ、貫かれ、隅々までアクセントを付与される。)
欲望偏差表という方法論は、登場人物のキャラクター性や世界設定ではなく「関係性」を物語のダイナミズムに据えるという志向から要請されたものだ。関係性のダイナミズムに即した物語の面白さは、関係が重層的に増殖することによって小説の時空間が変質し、物語に非連続的かつ興味深い飛躍(それは機械論的因果性に汚染されないがために結末が分かっていても繰り返し楽しむことができる)が生じる点に存する。関係の過剰性、すなわち幾枚もの欲望偏差表を描いてそれらを重ね透かして初めて見えて来る欲望の時間的-歴史的構造によって、暗闇の中での飛躍のように登場人物たちの衝動が意志と関係なく発する瞬間が生まれる。或いは、確率論では処理できない、社会的立場によっても説明できない、非意識的な関係性の偶然的加算、順不同に積み重なっていった偶然の「出会い」の履歴によって、本人にももはやどうしようもないほど多重決定された奇妙な感情関係というものが生じ得る。
そのような小説の主人公は、非意識的なものに自分が翻弄されていることに鋭い自覚を持ち、それを苦々しく思いつつ、自意識と非意識との緊張を維持し得るほどに知性が高い人物でなければならない。彼は根拠不明の自分の感情に対してさえ違和感を持つ。主人公はあたかも自意識の内省の純化によって状況を変えられると信じているかのように現状分析に没頭しもするが、実際には、彼は他人の欲望の複数的な作動をどうすることもできず、彼の自意識は他人の欲望の複数的な絡み合いにひたすら翻弄されるほかはない。
欲望偏差表という方法論──すべての登場人物間で「自分が相手をどう思っているか」「相手が自分をどう思っているか」「自分が相手をどう思っているかを相手がどう思っているか」といった相互認識のベクトルを逐一構想していくこと。「相手の見ている自分(→相手からは見えない自分の析出)」「自分の見ている相手(→自分からは見えない相手の析出)」という眼差しの交換とイメージのすれ違いを虚構すること。登場人物間の「疑心暗鬼」を精緻化すること。つまり、主人公についても、主人公以外の登場人物についても、その人物が実際に何者であるかよりも、その人物がとりあえず周囲から何者と思われているか(と主人公が推測しているか)という角度からの記述の方が重要だということだ。各々の登場人物に属している固定的な特徴や客観的な外貌描写や彼らの相関関係よりも、「相手をどう思っているか」「自分がどう思われているか」の内面外面の齟齬と葛藤を孕みながらの偏差の分布から小説は出発すべきだ。そして、欲望偏差表として現われる主人公を結節点とした非意識レヴェルの関係性の変動──複数的かつ曲線的で容易には見通し得ないジグソーパズルのような位相の共時的組み替え──を、主体からは透視することも操作することもできないということが、彼にそのつど現われる何かの兆候に対し不吉な意味を探ろうとさせ、逆に、彼に不快な受動性を強いることになるだろう。如何に内省を純化しようと、如何に自らを能動化しようと、非意識的な疑心暗鬼の作用は除去できない。対人恐怖=対人憧憬。
我々はコミュニケーションにおいて往々にして相手の欲望を考察-推測した上で読み違える。相手の欲望に譲歩したつもりで行動してみたところまったく相手の望まないような結果を招来してしまう、といった悲劇も人間には常態だ。たとえ他人の欲望を読み違えずに正確に読み取ってしまった場合でも、自意識がどうしてもそれを認めたがらない、直視することができない、そのようなものとして非意識レヴェルの「欲望」はある。
非意識的なレヴェルで生起する事態は、個体と個体の間の「出会い」を端緒とした関係性の増殖によって多重に決定されていく。強制された幻想(幻想承認欲望)というものさえあることを我々は忘れてはならない。
とはいえ、まったくのゼロから抽象的な人物α、人物βといった記号だけを手掛かりに欲望偏差表を書くのは無理だろう。したがって着手したばかりの頃は一種のコードネームを登場人物たちに割り振ることも必要かもしれない。例えば『白痴』の創作ノートでドストエフスキーがやっていたように登場人物に性格を要約した名前を付したりしてみてもいい。ムイシュキン=「白痴、謙虚さ、臆病、無邪気」。ロゴージン=「直情的な嫉妬」。ガーニャ=「虚栄心」。レーベジェフ=「無秩序」。アグラーヤ=「羞恥癖」。ナスターシャ・フィリポヴナ=「運命の犠牲者」。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ=「ロシアの最後の紳士」。リザヴェータ夫人=「荒々しい潔白さ」。コーリャ=「新しい世代」。或いは「ファシズム美学」といった思弁的なコードネームを用いたり「有島武郎」といったモデルになった固有名をコードネームに用いたりしてもいいだろう。いずれにせよ幾枚も欲望偏差表が重ね描きされていくうちに登場人物間の関係性を過剰に決定する時間的・歴史的構造が見えて来るようでなければならない。(余談だが、欲望偏差表は一対多としても書けるし、二つの項のうち一方が欠けたものとしても書ける。例えばラスコーリニコフとまだ面識がない段階でのポルフィーリイの関係性など。)
実際、ドストエフスキーは小説を書き始める以前にあらかじめ「相手をどう思っているか」「自分がどう思われているか」という登場人物間の思惑の偏差の分布を、時間的・歴史的構造として具体的に構想していたと思しい。たとえば『賭博者』の将軍はマドモアゼル・ブランシュに惚れているのだが、マドモアゼル・ブランシュが将軍のことをどう思っているかと、将軍自身がマドモアゼル・ブランシュとの関係をどう考えているかのズレは実は相当大きく──というのも後に明らかになるようにマドモアゼル・ブランシュは実は伯爵夫人の娘どころではなく、かなり如何わしい女だからだ──だがそのズレこそが「おばあちゃん」の死を不謹慎に望むほどに将軍の欲望を切羽詰まらせているという構造こそが、将軍とマドモアゼル・ブランシュとの間に擬似的な婚約が成り立っているという「設定」よりも重要なものとなっている。
読者にとって小説時空間の実在性、および感情・内語・身振り・表情・知覚といったディティールの襞は一挙に同時に与えられるのだが、それは作者の地道な創作の努力の散文的・継続的な積み重ねによってしか実現することはできない。
言い換えれば、作者は主人公の主観的視野にとどまるのではなく、その周囲で絡み合って彼に受動性を強いる現実(の編成・遭遇・変動)をまるごと虚構しなければならず、したがって主人公自身でも分からない・予期できないものを徹底的に明瞭にして描き尽くさなければならない。それが主人公≠語り手ではない第三者的な分析的介入を必要とする。
そのような作者にとっての文体的な武器の一つが「兆候的描写」だ。それは主人公が見たものを直接描写するのではない。むしろそれは主人公の自意識と非意識との自己関係的なズレを描写する。それは物語をあらゆる瞬間に中断する「不必要な、意想外な細部」を導入する描写でもある。例えば長篇『未成年』における、主人公のアルカージイが初対面のソコーリスキー若公爵に会った時の人物描写は、複雑な描写だ。直接的な顔貌描写に加えて主人公が感じた心理的印象も書き添えている、という程度の複雑さではない。物語をずっと先まで読むと分かるが、実はこの時点で既にアルカージイとソコーリスキー公爵との間で「自分が相手をどう思っているか」「相手が自分をどう思っているか」「自分が相手をどう思っているかを、相手がどう思っているか」というアスペクトでズレがあり、それがお互いの視線に対する相互的な疑心暗鬼となって微細なリアクションに基づく奇妙な「目」の描写(「この決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえる……」)、奇妙な「表情」の描写(「この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられる……」)を生み出していると考えられる。つまり、ここではアルカージイが主体、ソコーリスキー若公爵が客体、という構図で描写が生産されているのではなく、二人の間に設定されている複数的な欲望の偶然的偏差(一対一の関係でも欲望の偏差は複数的・多角的であり得る)と相互認識の格差が微妙に目-意識を屈折させて、それがアルカージイの語りの中で兆候的描写として結実したと考えられるわけだ。
:キース・ジョンストン『インプロ』第二章のレジュメ
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ステイタス・エクササイズの出発点は、「なぜ俳優たちが普通の日常会話を再現できないか」という問いだった。スタジオで俳優たちに普通に喋る場面を即興で演じてみろと指示しても、ウケ狙いやジョークに走るばかりで、まったくリアリティのあるものにならなかったのだ。
そこで私はシェイクスピアの作中ように劇的なものではなく、我々の日常会話を差配している微細な動機は何かということを考えてみた。日常会話もまた単なる偶然の産物でないのならば、そこに参加している人物たちが持っている内的衝動があるはずだ。それは何か。私が見出した答えは、「ステイタスの交流」だ。
「相手よりもほんの僅かだけ自分のステイタス(立場)を上か下に置くように。そして相手との差は最小限に抑えるように」。このような指示によって俳優たちのやることががらりと変わり、会話場面は俄にリアルになり、俳優たちがすばらしく注意深くなったという経験からステイタス・エクササイズが生まれた。言葉の抑揚、目線、仕草、相手との距離、これらの要素が決して恣意的でなくすべてステイタスを暗示しステイタスの変化を意味するならば、会話場面は素晴らしく緊張感のあるものになるのだ。ステイタスの複数的な衝突は社会的なものだから、ステイタス・エクササイズ以前の即興会話には「社会」が欠けていたのだと言ってよいだろう。実際、ステイタスの交流は我々が他者と会話する時に常に行われ続けている。
次の会話例はステイタスの交流を典型的に示すものである。
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A:この前、映画の列に並んでたらひどく目眩がしてぶっ倒れそうになったよ。思い出しても恐ろしいくらいの発作だった。〔Aは自分の体験の独自性を強調しながら、自分のステイタスを上げる。〕
B:映画に行く暇があるだけマシじゃねえの。〔BはAを出し抜く。〕
C:いや、Aには同情するね。俺も映画の列で並んでいて、途中で列を離れなきゃならなくなったくらい調子が悪くなったことがあるからね。吐気がして汗がだらだら出てさ。〔CはBに対してAを守りつつ、自分の方に興味を向けようとする。〕
D:そういう時はしゃがめばいいのよ。どうせちょっと目眩がしただけでしょ? しゃがめば頭に血が戻って来るからね。〔Dはこの話題自体を矮小化することで全員のステイタスを下げる。〕
A:ちょっと目眩がしたって程度ではなかったけど。〔Aは自己防衛する。〕
B:そういう時には色々運動してみればよいのは確かだ。いや、Dが正確に何が言いたいのかはよく分からないけど。〔BはDと協力しようとしているが、Dにもっと喋らせるために回りくどい言い方をしている。露骨にDを持ち上げると却って自分のステイタスを下げてしまいかねない、という防衛意識も働いている。〕
C:いいや、必要なのは意志の力だろ? 我慢強さだろ? いや、俺にまさに欠けているものがそれなんだけどね。でもそれこそそういう場合には一番重要なんだよな。〔Cは全員のステイタスを下げ、その直後に自分自身も下げて反撃を交わす。〕
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ここにはかなり繊細なステイタスの攻撃や競争や協調が見られる。陳腐に見える人たちの内面にもこれほどの鋭敏さが隠されているのだ。
ステイタスを上げたり下げたりしてみよう、という試みの本質は支配と服従の関係性の操作にある。ただし、暴力による直線的な支配/服従ではなくて、演技力によって操作される支配/服従の関係のみをここでは問題としている。これは必ずしも演劇だからというわけではない。我々は現実でも自分の(相手の、第三者の)ステイタスを自由に「演じて」変化させるということをやっている。社会的ステイタスが低い人が高いステイタスを演じるという例──
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浮浪者 よう! どこへ行くんだい?
公爵夫人 失礼、おっしゃることがよく分かりませんが……
浮浪者 耳も悪い上に頭も悪いのか、あんた?
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本人が本来持っているステイタスと別のステイタスを演じることができるということ。というのは、ステイタスにおける支配/服従はコミュニケーションを通じて操作されるということだ。そして、ステイタスの交流を含むコミュニケーションというのは当たり障りのない会話の真逆である。たとえば自分の家に泊まった人間に朝のお茶を出す時に、「昨夜は良く眠れましたか」と中立的な無難な言葉を使いながら出すのと、声や姿勢や視線の当て方を工夫しつつ「起きろ、寝坊助!」「旦那様、お茶でございまする」とステイタスを上げたり下げたりしながら出す場合の違いを考えてみよ。後者の方がより濃密な人間関係を想起させるだろう(また、このステイタスの上げ下げがふざけて行われているのだとしたら、自分と客とは明らかに友人関係にあるということだ。友人関係の一つのメルクマールは、ステイタスを上げたり下げたりする遊びができることである)。
ところで、ステイタスの変化においては、自分のステイタスを下げることと相手のステイタスを上げることはほぼ同義だ。従って、ステイタスの交流は常にシンプルとは限らない。ステイタスの変化には様々なヴァリエーションがあるのは間違いなく、時として人は自分の演じているつもりのステイタスとは全然異なった効果をもたらしてしまうこともある。なぜか謙虚に振る舞っているつもりが相手を侮辱しているように受け取られたりというふうに。
どんな仕草も声の抑揚も姿勢も、目的(或るステイタスの表現)無しではあり得ない。視線、見る⇔見られるという関係性からステイタスの交流について考えてみよう。支配被支配の関係にアイ・コンタクトは大いに関わっている。しかもこちらが相手を見る見つめ方が問題なのではなくて、相手がこちらの視線をどのように受け止めたかがはるかに重要となっている。簡単に言うと、向けられた視線を無視するならばステイタスは上がる。向けられた視線を見返さなければと思うとステイタスは下がる。例えば或るグループに、ぐるぐると歩き回りながら互いに挨拶をさせてみる。それだけではわざとらしくて何の面白味もない。そこでグループの半分には相手をじっと見つめるように指示し、残り半分には他人と目が合ったらすぐに逸らし、それから直ぐに見返すように指示した。するとグループの内部に支配被支配の関係が生まれ、先程と同様のぐるぐる歩き回って挨拶をするという単純なメソッドが突然多彩で面白いものになった。じっと見つめる側のグループからは権力を握ったような気がするという感想があり、他方からは服従している感じがするという感想があった。実際、傍から見ていてもそういう印象を得られた。
視線の差異だけでなく、どもりながら喋る、躊躇するような短い「え」を科白の前に付ける、喋っている間やたら息を継ぐ、すらすら喋る、首を動かさずに喋る、首をたくさん動かしながら喋る、爪先を内側に向ける、口元に手をやる、ぎこちなく歩く、だらしなく腰掛ける……といった要素の組み替えによって多様にステイタスを演じ分けることができるだろう。
さらに極端なことを言えば、喋る内容は演じるステイタスに比べればさほど重要ではない。
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A「どうも。」
B「どうも。」
A「ずいぶん待ちましたか?」
B「かなり。」
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というやり取りでもAは高いステイタスを保ってまるで遅刻などしなかったかのように厚顔に振る舞うことができる。もちろん愛想笑いを浮かべてお辞儀をしまくる低いステイタスを演じることもできる。Bの方も同様。
ついでに、ステイタスの高低を逆手に取って相手の攻撃を交わす「無防備作戦」について説明しよう。たとえばAがBから明らかに非難される状況にいるとする(AはBが大切に取っておいたデザートを食べてしまった)。通常の解釈ではBはAに対して高いステイタスにあることになる。ところが、ここでAに必要以上に低いステイタスを演じ続けさせると──「怒るのも無理はないよね、僕は最低だ!」「君が正しい、本当に君の言うとおりだ!」などと言いまくる──却ってBは怒り続けることができなくなってしまうのだ。AがBに逆らって自分のステイタスを上げようとすればBはそれを打ち返すだけで無理なく怒り続けることができるのだが、Aが元の低いステイタスからより低いところへ留まろうとし続けると、Bは意識的に頑張って怒る必要が出てくる。AがBの支配を受け入れれば受け入れるほどBはますます力を削がれていく。この場合、むしろAの方が関係性を操作して相手をやり込めていると言えるだろう。
いずれのエクササイズでも重要なのは、相手がどうなるのか、だ。相手に働きかけることが重要なのではなく、働きかけられた相手がどうなるか、それによってステイタスが劇的にないしは微細に変化するか否かに着目しなければならない。
ステイタスを調整する(自分のステイタスを上げようとする、下げようとする、逆転させようとする)ためには、自分の行動をより正確に相手に関係づけなければならない。それゆえに、ステイタス・エクササイズをやると生徒は相手のことをよりよく見るようになる。何かの「役」を演じる時よりもはるかに相手をよく見て、自分から自動的に生まれるステイタスのサインと相手の俳優の反応とを連結させるように動くのだ。初期状態でステイタスを相手よりごく僅かに高いか低いかに置いておくと、さらに彼らは注意深く相手を見るようになる。
ちなみに、ステイタスはどんなものに対しても演じることができる。とりわけ空間に対してどのようなステイタスを演じるかは意外と重要だ。自分の書斎にいる人間だったら、その空間に対して高いステイタスを保ち続けるはずだ、客に対しては低いステイタスを演じるとしても。鳩に餌をやるというマイムでも、鳩に対して低いステイタスを取るか高いステイタスを取るかすれば、ニュートラルにやるよりもずっとそれらしく、面白くなる。
空間ということで言えば、他人との距離感の中にもすでにステイタスの交流、ステイタスのサインの暗示と相手のステイタスへの挑戦があることに注目しよう。知人に話し掛ける時の距離感と見知らぬ他人に話し掛ける時の相手との距離感は異なるだろう。しかも相手との距離感はそこが社会的にどのような場所であるかに相関する。見知らぬ他人との距離感は、図書館の中でと満員電車の中でとを比べればまったく異なる。集団の場合にもこれは当てはまる。喫茶店での人の集団から、誰かが去った時、誰かが加わった時に集団内の一人一人の位置関係がどう変わるかをよく観察してみるといい。我々は常に互いに相手に上手くはまるように動きや位置(社会的距離感)を調整しているものなのだ。
〔※小説の記述はすべてステイタスの問題に関わっているという仮説。たとえば単なる情景描写でさえ、焦点人物の視野に映っている物が彼にとってどういうステイタスにあるかを反映している。会話もまたステイタスの上下のために行われる。自分と相手だけでなく、会話の中で話題になる人物、対象、集団、領域もひっきりなしにステイタスを問われ、ステイタスを上げたり下げたりされる。その本質にあるのは各登場人物の根底にある権力欲だ。どんなに謙虚と見られる人物も少なからず権力欲を持っており、小説の空間は複数の権力欲が多角的に衝突し矛盾し渦巻く場として存在する。ステイタスの交流の感覚のない小説の記述──ステイタスの操作に踏み込もうとしない当たり障りのないニュートラルな文体──は端的に言ってつまらないだろう。〕
:欲望偏差表という方法論は本当に正しいか?(2)
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「……この戯曲はピンター作品らしく“人物たちの間のパワーゲーム”という側面も持つ。謎めいたケイトの“所有”を巡る、アンナとディーリィの情熱的なそして時に残酷な、競い合い。」(デヴィッド・ルヴォー)
一つの会話の流れの中で自分と相手とのステイタスが短いスパンで変化していくような場面、場合によっては一つの科白ごとに・一つの仕草ごとに・瞬間ごとにステイタスが変動していくような目まぐるしい場面を描こうと思えば、欲望偏差表という静態的な方法では対応できないのではないか?という疑問があり得る。ここではハロルド・ピンターの『昔の日々』(http://trounoir.ohitashi.com/theater09.html)のみならず、『罪と罰』におけるラスコーリニコフとポルフィーリイの対話、ドゥーニャとスヴィドリガイロフの対話の過敏で微細なステイタスの交流のことを念頭に置いている。
しかし互いに相手の優位に立とうとして繊細に角逐する“人物たちの間のパワーゲーム”はそもそも何故生じるのだろうか。それが単なる会話に起伏を付けるための遊戯でないならば。論証抜きで答えを出すが、我々のコミュニケーションが、人と人との接近と接触が本質的に他者の破壊と自己の破壊という欲望に通じているからだ。こういうことだ。ステイタスの優位・劣位が微妙に変動し交錯していくようなスリリングな瞬間のまったくない会話、参加している双方が徹底して安全なままにやり取りを回転させているような会話を想定してみれば、それはほぼ完全に透明な合意に基づく性行為に類比的だが、そのような性行為が相手の身体を利用した自慰以外の何ものでもないのと同様に、絶対的に安全な(功利主義的な?)コミュニケーションというのも何らの障害もない快適なモノローグに類比的だ。したがって、我々がモノローグではなく敢えて優位・劣位の差異的なダイアローグを求めるとすれば、モノローグの完結性を揺るがす自己/他者の一種の暴力性を欲望しているからだと考えられる。相手を見ることは自分を見られることでもあり、相手に話し掛けることは自分が話し掛けられることでもあり、相手に触れることは自分が触れられることでもあり、相手を傷付けることは自分が傷付けられることでもある。そのような相互的で開かれた危険性が何かしらの欲望を満たすことに通じているからこそ、我々は自意識に引き蘢らず敢えてコミュニケーション──「恋愛」をも含む──の中で“パワーゲーム”を試みる。我々の生命は、ありふれた他者を間近に感じつつの「加虐的でもあり被虐的でもあり、主体的でも受動的でもあり、苦痛でも快楽でもあるあの不気味な感覚」(大澤信亮)をなぜか渇仰しているかのようなのだ。非意識において人間たちは殺すか殺されるかののっぴきならない二者択一=ゼロサムゲームを望んでいく。恋の告白でさえ呪いであり得るし、穏やかな表情は無関心の誇示で相手を追い詰めるサディスムであり得る。
くり返せば、これは死や暴力と地続きの破壊欲動である。他者の尊厳の核心を蹂躙し破壊してやりたいという邪悪さ。「『邪魔物は殺せ』」。たとえそれを否定しようとしたって、反作用で折り返されて内向した自己破壊=自己懲罰=自己放棄=自分のステイタスを下げることの欲動が増幅していくだけだ。ベクトルはどちらでもあり得る。ただ方向性を与えられることを待っている純粋に破壊的な力動が我々の相互作用の基盤にある(孤立した、閉ざされた自我はそのような力動とは永遠に無縁である)。その破壊的力動を、我々はありふれたコミュニケーションにおいて他人と“意識を介さずに”分かち合う。何を語るかよりも如何に語るかの方がはるかに重要なのはそのためだ。
自意識のレヴェルで考えているかぎりステイタス・エクササイズは、我々のコミュニケーションの一切は、文字通り“パワーゲーム”すなわち無邪気な遊戯にとどまるだろう。欲望偏差表で非意識と兆候のレヴェルを可視化することによって、初めて我々のコミュニケーションが鬱勃とした自己破壊欲動と他者破壊欲動に通じていることが見えて来る。おそらくは相手と自分とでステイタスが目まぐるしく変化するような過敏で微細なコミュニケーションの「不安定さ」は、我々のコミュニケーションの欲望が備えている自己破壊と他者破壊の二河白道に由来する。分析的な態度を取りながら、我々が非意識的に暴力性を望んでいることに、我々のコミュニケーションが死の衝動に関係していることに鈍感であり続けるならば、愛や同意といった言葉で他者を前にしての不安や苦痛を取り繕う(遊戯にする)こともまあ可能だろうが、それはもちろん現実の根底的な理解を閉ざす道にほかならない。
:『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』の簡易レジュメ(実践メモ)
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【1】
・目を使って、隣りにいるパートナーを観察して、観察したことを数え上げる。それは、何かの役になってやるのではなく、自分自身の自発的な行為として行なう。やるべきことは具体的なのだから、ただやればいいだけだ。頭を使う必要はない。
・同様に、今度は耳を使って、相手が言ったことを正確にくり返す。或いは逆に自分が何かを言って相手にそれをくり返させる。相手を見て目につく特徴をそのまま口にすればいい。考え込む必要はまったくない。「黒いセーターを着ている」。その程度のことでいいのだ。そしてその言葉を二人で交互にくり返す。聞いて、口にする。それをくり返す。単調に思われるかもしれないが、これは頭を使わずにただお互いに相手の言うことを聞き、それに反応することによって生まれる関係の端緒なのだ。この端緒が最後には感情を含んだ会話となる。
・次に、言葉の繰り返しをもう少し人間的なものにする。相手から「君はペンを持ち歩いている」と言われたら、「ええ、僕はペンを持ち歩いています」と内容を変えずに同意の形で応える。それをやはり交互にくり返す。重要なのは、何も考えずに、自分の言うことを操作しようとせずに、単純にやること。そうすれば自意識はなくなり、自分が具体的に実行していることに集中できる。それが役というものなのだ。役とは、何かを演じるということではない。具体的に行動していればそこには確実に役が現われるのだ。
【2】
・ふたたび、相手を観察して出て来た言葉(或いは相手の何かの行動から反射的に出て来た言葉)を同意の形に直して内容を変えずに二人でくり返すということをやる。しかし今度は、そのくり返しをやっているうちに本能的に・瞬間的に衝動が起こったら、言葉のやり取りを変化させてよいものとする。何か相手の言い方や態度(や沈黙)が自分の本能に働きかけてくる瞬間を待つのだ。注意しなければならない。本能による変化が起きないとしたら、それはあなたが「上品でなければならない」「理性的でなければならない」「礼儀正しくなければならない」といった自意識に縛られて、自分の言うことをコントロールしてしまっているからだ。頭を使い過ぎるな。言葉の受け答えを操作しようとするな。頭の中で会話を勝手に書き上げるな! 本当の本能的な発言を抑えようとするな。抑えようとするから顎に緊張が起こる。それは俳優にとって良いことではない。だからこそ、くり返しによって自意識を稀薄にしようというのだ。勝手に頭で考えて何かを作り出してはいけない。礼儀正しくないことでも、大人のやるべきことでなくとも、あなたはそれを衝動に従ってやらなければならない。
・くり返しは、頭による操作をすべて取り去り、リラックスして、感情と衝動が自由に働くようにするためのものだった。作り物でない感情と衝動がだ。だからこそくり返しは退屈な練習ではない。
・わざと感情を出したりする必要はない。衝動はそれが起こればもはや隠すことはできないのだから。
【3】
・台本を使ったエクササイズ。だがテキストをこの感じとか気分とか、あなたが考えたものに従って読んではならない。頭を使わないこと。すべての注意を相手役だけに向け、リラックスして相手役に感応し、次から次へと感情的に移って行く。そして自分の衝動と本能だけを使うこと。「演技とはすべてお互いに影響を与える衝動のやり取りだ」。これは本質的には即興だ。
・台本は一切の抑揚を付けずに、機械的な精密さでまずは覚える。科白を勝手に感情的に把握するな。解釈せず、固執せず、リラックスして覚えること。そのように透明なものとして科白を覚えてしまえば、あとは感情はパートナーが与えてくれるものから出て来るのだ。
・科白を使って相手役と会話する。その時、自分の行動を起こすきっかけの相手の科白を待つのではない。相手の話を聞きながら衝動を拾い上げるのだ。そしてその衝動を相手が話終わるまで保つ。拾い上げるべきは科白ではなくて衝動だ。自分の科白のための衝動や感情が起きるかどうか? 衝動とうまく同調するためには、もっとよく台本を覚えていなければならないだろう。次の科白のことを考えてしまうと、感情の流れが止まってしまう。
・原則は「あなたに何かをさせることが起こるまで、何もするな」だ。
【4】
・科白も覚えた。相手役を前にして本能と衝動を使いこなせるようになった。次は感情準備だ。自分が登場するシーンに「空っぽのまま出て来る」ことをしないために、シーンを生き生きとした状態で始めるために、そこに想像力によって感情的な状況を付け加える。科白も何も変えずに、感情的状況だけを付け加えるのだ。なぜなら演技にとって意味のあることは、何か感情的なものだからだ。想像のもの(例えば劇場の壁に向かって降りしきる雪を見るとか)を見るという問題は、その見た時の感情が自分の中にあれば簡単に解決できる。
・ただし感情の準備はシーンの最初の瞬間しか続かない。
・感情準備のために想像する状況は、抑制もなく、礼儀作法にも捕われず、個人的かつ私秘的なものとして空想されるべきだ。空想することは恥ずかしいことじゃない! フロイトは我々の空想はすべて性欲と野心に関係していると述べたが、これはヒントになるだろう。空想の内容はそのシーンの必要性と必ずしも関連している必要はない。できるだけ感情を揺さぶられた状態で、感情準備をいっぱいにして舞台に出て行くことが重要なのだ。一度手に入れたら、感情はあなたとパートナーと観客に感染するだろう。しかしあなたが持っていない感情を無理に見せようとしたら、最低の結果となるだろう。
※マイズナー・テクニックはフロイトの自由連想法における分析者と被分析者の「無意識が意識を迂回して他人の無意識に反応する」動的関係=転移に近いのではないか? 自己の注意力からすべての意識的影響を遠ざける「平等に漂う注意」の状態の重要性。
《……他者の無意識的表明を意識を介さず理解するこの能力は、また精神分析技法を支える重要な柱でもある。一二年のテクスト「精神分析治療における医師への諸注意」を見てみよう。そこではフロイトは、患者が与える情報の処理方法について語っている。医師はときに複数の患者を同時に扱う。しかしそのとき、「ひとりの患者が何ヵ月、何年にもわたり持ち出す無数の名前、日付、想起の細部、思いつき、治療中の症状生産物をすべて記憶にとどめ、さらにそれらの記憶を、それと同時あるいはそれ以前に分析したほかの患者が呼び出した類似の材料と混同しないようにする」ことは明らかに不可能だ。ではどうするか。フロイトの助言はきわめて簡潔だ。医師は患者の話を聞くだけでよい。「自己の注意力からすべての意識的影響を遠ざけ、自らの『無意識的記憶』に完全に身を委ね」れば、「医師の無意識は自分に語られた無意識の派生物から、患者の諸々の思いつきを決定している無意識を再構成することができる」だろう。……あらゆる意識的注意を排したその純粋な聴取状態を、フロイトは「平等に漂う注意」と呼んでいる。そしてその分析者の技法は、「思いついたことをすべて、いかなる批判も選択もなしに語れという被分析者への要請」に構造的に対応するものだった。ここで主張されていることは明確である。分析状況においては、分析者の意識も被分析者の意識も大きな役割を演じてはならない。彼らの無意識は直に、媒介によらず応答しあう。一五年の論文「無意識」ではフロイトは、その状態を「UbwがBwを迂回して他人のUbwに反応する」と表現している。無意識が声-意識、つまり自己の固有性から遠いのは、この迂回、他者の無意識との連結可能性のためである。そしてその連結は具体的には、夫婦関係や分析状況、つまり転移において生じる。》(東浩紀『存在論的、郵便的』第四章)
※山城むつみの『ドストエフスキー』からの次の一節も啓発的かもしれない。やはり何故リピティションによって本能的に・瞬間的に衝動が起こるのかは謎だからだ。そもそも我々は相手の言葉を聞いてそれをくり返す、自分の言葉を相手が聞いてそれをくり返される、という耳と口とを使って身体的に生じてしまう生まの関係性に対してアレルギーを持っていて、普段は礼儀や自意識の強度でその違和感を抑え込んでいるのだが、一旦その抑圧が除去されると、そのアレルギー反応が衝動として俄然不気味に賦活されてしまうということだろうか。つまり相手の意識によって自分の生み出した言葉が模写されると、物凄い気持悪さを感じるということ。自分一人で自分の言葉を聞いているかぎり命題A=命題Aの同一性は揺るぎないが、それが他人の口によって模写されると命題A≠命題A'のように同一性が揺るがされ始め、他者性の光が破壊的に差込んで来る。「言葉が同じなら他人の口から発せられても全く同じニュアンスで響くという人はいないだろう」。それが──普段のなめらなか日常会話の中では見えて来ない──対人コミュニケーションの本源的な不思議さというものだろうか?
《私はバカだと思う、そう思うばかりでなく、そう人に言いもする、そういう謙虚な人も、人から「おまえはバカだ」と言われるとカチンと来る。どうしてだ、私はバカだと言いながら、実は本気でそう思っておらず、ただ人前ではへりくだってそう言ってみただけだからか。そういう場合もあるだろう。だが、では、私はバカだと本気でそう考えていれば、他人から「おまえはバカだ」と言われても、カチンと来ないものなのか。そんなことはない。言葉が同じなら他人の口から発せられても全く同じニュアンスで響くという人はいないだろう。自分で私はバカだと言うのと、他人が「おまえはバカだ」と言うのと、指している事柄、言わんとしている意味は全く同じなのにニュアンスは反対になってしまうはずだ。では、どうしてそういうことになるのか。言った言葉の内容のためではない。言い方のためでもない。意味(内容)も言い方(形式)も全く同じであってさえ、その言葉を発するのが自分の口なのか他人の口なのかによって全く別の価値を持ってしまう。考えてみると、これはフシギなことではないか。誰かこのフシギを解いてくれているのだろうか。言語学は、むしろ、それを切り捨てることで学として成立してはいないか。些末なことにこだわるようだが、生の言葉が、文学において、いや、すでに日常生活において、魅惑なり眩惑なり、あるいは困惑なり迷惑なり、あるいは笑いなり嘲りなりを振り撒きながら人々の間を往来する理由を考えつめてゆくとこのフシギに行き当る。》(山城むつみ『ドストエフスキー』序章)
:マイズナー・ワークショップの内的体験
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●人間感情的になったら何をやりたくなるか? 或いは感情的になっている相手に何をやりたくなるか? そのことに気付く重要性。しかもその「……したい」というのが役の人物のまま出て来るならそれが最善だ。役の状況に自分の感情を使ってみる。
●「感じる」とは? 自分の中からポンプを押して汲み出そうとしても単純には出てこない、感情は。基本的には周囲(主に人間)から何かの影響があると、感情は惹き起こされる。舞台上でも、最初の状況でその役として持ち込まなければならないものはあるが、相手を忘れて自分勝手にはやらない。それが基本。舞台上で感情のダイナミズムが欲しいのなら、相手に興味を持って、相手を感じ、相手を受けることができるかがポイントとなる。
●「感情」について。感情に理由はない。あなたが相手を前にして真実何を感じ取るかについては、もはや礼儀正しいもクソもない。近付きたいと感じようと離れたいと感じようと、好意を抱こうと嫌悪を抱こうと、自分が感じたことにだけは嘘を吐くことはできないものだ。何も感じないならば感じないでいい。感情は動く時は動くし、動かない時は動かない。芝居を観ている時だって、周囲が爆笑しているのに自分にとっては全然笑えないこととか、逆に他の観客が誰一人笑っていなくても自分にだけウケているということとかあるだろう。自分の感じていることに嘘は吐けない。
●とりあえず相手と向い合って、相手のことをよく観察するというエクササイズ。最初は距離を置いて椅子に座ったまま向い合って。次には膝がくっつくくらい近付いて。さらにお互いの膝に手を置いて。次には立ち上がって間近で向い合って。さらに互いの肩に手を置いて。最後には抱き合って。そのように相手を観察し続けている間、感じたこと、思ったことを言葉には出さずに、しかし何らかの形で表現してみる。喚いてもいいし、身体を揺すってもいい。ただし本当に感じたことを表現しなければならない。良い感情ばかりでなくとも、「こいつの服ダサいな」みたいな嘲りでも、相手にとって失礼だとか考えずにそのまま表現すること(また逆に、相手からそういう感じを出されたら自分がどう感じたかも、ストレートに表現すること)。なぜなら役者は、作られたキャラクターを演じる時ではなくて、本当に自分らしい自分の感情が出た時が最も魅力的なはずだからだ。見目麗しいとか背が高いといったファクターとは関係無しに。感受性が強い人ほど、「これ以上感じてはならない」という限界付けを早々とやってしまうものだが、しかし型に嵌まらないためにも色々曝け出していく方が面白い。
●リピティションのエクササイズ。さしあたり自分が出し難い感情を出してみましょう、という練習。そして相手と感情を交流させてみましょう。感情を使って相手と交流してみよう。社会人としてはこれ以上踏み込んだら駄目なんじゃないか、というところも敢えて一歩越えてみましょう。演技の練習なのだから。嫌悪の情を露骨に出したら相手が傷付くかもしれない? いや、もしかしたら相手は嬉しくなるかもしれないよ。或いは逆に、相手が楽しそうなのを見てこちらに怒りが生じたりするかもしれない。感情というのは本当に予測付かないから。感情に理由はない。何を切っ掛けにしてどんな感情が出て来るかは予測不能。しかし、だからこそ、どんな感情でも受け入れて表現してみましょう。相手に合わせようとしてはいけない、相手の機嫌を損ねるかどうかとか気にしてはいけない。いや、そういう不安を感じたのなら、それをも表現してみてどうなるかを試してみよう。それをさらに行動にも繋げてみよう。自分が何を感じているかについては、頭による判断よりも身体の反応の方が正しい。感情は感じるものであって考えるものではない。「これは失礼じゃないか」「もっと婉曲にしなければ」とか考えないこと。まあリピティションをやり始めたばかりだとどうしてもそうなってしまいがちではあるけれど。目に付いた相手の良いところばかり交互に言ってるだけとか。
●リピティションのルール。相手と向き合う。自分の知覚したもの・感じたことを短いフレーズにして交互に口にする。瞬間的に自分が感じたことが特に無ければ、相手のフレーズをそのままくり返す。また、何か行動したくなったら行動してよい(相手を肉体的に傷付けることは厳禁)。ルールはそれだけ。相手の言葉をくり返すというのは、要するに反復するという反射的に出来る行為の中で「考え込む」過程を排除するためのもの。短いフレーズしか使っていけないというのもそのためで、自分の感じたことについて一切「説明」「言い訳」などをしてはならない(例えば相手に苛立ちを感じて顔を顰めたとしても、我々は「いや、ちょっと腹の調子が悪くて嫌な顔をしてしまっただけです」などと遠慮深い言い訳をしたがるものだ)。頭で考えたことは口にしない。何度も言っているように感情とは感じるものであって考えるものではないのだから。そして理想としては、あたかも幼稚園児のように感情の赴くまま振る舞える状態に到達したい。実際現実で幼稚園児と同じように振る舞ったら、特に男性は社会的に抹殺されますがね。だがこれは演技の練習なのだ。劇の中では、役になりきって素晴らしい変質者として立ち振る舞えることは賞賛に値することだ。むしろ普段だったら言えないことや表現し難いものを敢えて見つけていこう。そして感情を使ったコミュニケーションをする。あなたを前にして相手がどんな感情を持っているかもきちんとキャッチして欲しい。
●何かを表現するのが俳優の仕事なのだから、自分の感情を表現にまで持っていく道筋を見つけるのが重要だ。あられもなく泣いたり子供みたいに駄々をこねたり大人気なく言い返したりすることには、男性の方が抵抗があるようだけれども。それは、自分の感情を感じ取らない習性を、普段から身に付けてしまっているということだ。
●我々は普段感情の表出を身体によって止めているというところがある。腕を組んだり、足を抱えて座ったりするのは外からの影響を守るポーズであり、他人との感情の交流を避けるポーズでもある。だからリラクゼーションというのも感情を思う存分出すためには必要なことだ。
●リピティション中は、感じたことはどんどん口に出して行くこと。嘘っぽいと思っても、この表現は間違っていると思っても、どんどん言葉にして行こう。何か違うと感じたら次の瞬間に変えればいいだけだし。考え込んではならない。相手が怒っているのに対してこちらも怒り返さなきゃいけないんじゃないかな、怯えなきゃいけないんじゃないかな、とか考えるのも不要。相手が怒っているのに対して「どうしたらいいんだろう」と困ってしまうのは、それはもうすでに相手への対処を考え始めているという意味で思考が入っている。どう対処したらいいか、とか考えるな! また当然ながら「なんで怒ってるの?」と相手に質問することも禁止。思考してはいけない。相手が怒っているのが面白いと感じたら、それを表現して相手を嘲弄してもいいのだ。それでさらに相手を怒らせてしまったら今度は怖くなった、そしたらその恐怖を表現してみればいい。そういう直観的で素直な反応をどんどん表出していくこと。
●リピティション中、言葉のやり取りが会話みたいになってしまうと失敗。「なんでそんなこと言うの」「それは違うんじゃないの」「こう言えばいいんじゃないの」という思考が入って来てしまっているということだから。鸚鵡のような脳味噌で、ただ短いフレーズだけをくり返しましょう。感じたこと、見てたこと、やりたいことを口にする。短いフレーズしか使えないことで、取りこぼすものもあるかもしれないのだが、「あ、『ムカつく』じゃなかった」「この感じの正確な表現は何だろう」と思考が入って来てしまっては駄目で、むしろとにかく感じたことを言ってみることで、自分の感情が方向付けられていくという内的な変化を見るべき。
●リピティションは、どれほど稽古でくり返した科白でも相手との関係性の中で初めて言ったようなフィーリングで言えるようになることも目指している。単に感情をどんどん出して行くというだけが目的のエクササイズではない。
●先生「身体は何を感じているのか言ってみてごらん!」
●リラクゼーション中のイメージ・トレーニングで、もし自分の中に何かの感情があるのに気付いたら、それを吐く息とともに(言葉ではなく)声に出して表現してみてください、という指示。やってみると、最初は微細な苛立ちのようなものであっても、声に乗せていくことによって、「ア〜〜〜」「ウ〜〜〜」だの言ってるうちに段々感じたことが増幅されていき、声が波打つぐらいのヴォリュームにまで達すればそれはもう絶望的な怒りのごとき感情になっていたりした。つまり、単に声に出して(吐く息に乗せて)感じたことを表現して確定させる=方向付けることで、それだけで、感じたことが増幅されていき非常に膨れ上がった感情になった。それは、ほとんど身体的な変化で、克明な想像力とか精確な読解力などとははまったく関係なく、そうなる。
●台本を使ったエクササイズ、1トライ目の失敗。シーンに入る前の感情準備において、精確な状況の理解(「姪が病院に運び込まれている。何人も死んでいる。もうギリギリ。ほぼ助かる見込みはないが、ともかく一刻も早く血清を打たなければ。……」)、灼熱の鉄板の上に自分が乗っているイメージ、「おいおいおいふざけんなふざけんなふざけんな」というサブテキスト、頭の中で救急車のサイレンを鳴らしてみる、漫画みたいに腰から下が渦巻き状になってわたわたするイメージ、……色々やってみたがすべて役に立たなかった。全部。それらはあまりにも感情準備として弱過ぎて、シーンが始まった途端に消えてしまうし、そのため相手の感情も入って来ないという羽目になる。2トライ目でも、結局感情準備は何の役にも立たなくて、意識的に「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」を最大ヴォリュームで出すことによって、続くリアクションの流れの感情のダイナミズムを無理矢理作り出したのだった。なんというか、想像力・イメージの役に立たなさ──ステラ・アドラー的な方法論の役に立たなさ──が驚きだ。神経心理学者の山鳥重氏が言うように「感情とは経験される全心理過程から表象性の心理過程を引き去ったもの」なのだとしたら、感情を惹き起こすのにイメージは役に立たないのは当然で、むしろイメージの底にある感情を直接探り当て、それを「表現する」ことによって増幅することの方が有用なのかもしれない?
●相手役との生き生きとした感情の交流を作り出すために1トライ目でやったことは、相手の話に耳を傾けて食い入るように聞くこと、相手を食い入るように見ること、そして相手の科白を情緒をトレースするように心の中で反復してみること、まあ色々意識してやってみたが全部無駄だった。相手役との感情の交流さえあれば、科白が自然に変わることもあるし、ミザンスも身振りも自然に変わることもあるのだが、そんなことはまったく起きずに、台本の一義的な解釈どおりに部分的に動揺したりしただけ。いや、確かにリピティションというエクササイズの主旨からして相手を見ることは必要なのだけれど、それだけで相手の感情がこちらに入って来る、相手の感情が乗り移ってくるということは起きない。だから1トライ目では、例えば「喚くな!」のトーンを大ヴォリュームで出す時に「この大仰さは嘘くさい」という歯止めが掛かってしまう。やっていても面白くない、やり辛い。1トライ目の超絶的失敗はそのことを学ぶためにあった。つまり、俺のリピティションの理解自体が間違っていたということだ。
●1トライ目の反省。相手を食い入るように注視してたって駄目。相手の科白を集中して聞いていても駄目。相手の出している感情が自分に入って来ることが最重要なのにもかかわらず、相手の科白の内容だけに捕われて自分の科白を出すきっかけを拾っても、それで発した自分の科白に感情が乗ることはない。感情は出ない。感情を口の中でもごもごやっているだけになってしまう。──簡単な対処法は、とにかくシーンの入りの感情のヴォルテージを上げて科白に乗っけること(という先生からの指示)。そして2トライ目では、初っ端「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」の科白で、先日のリピティションの中で出した自分の人生最大の怒りを無理に乗っけて出した。脚本読解上あり得ないが、シーンを芝居としてまとめる稽古をしているわけではないので、そうやってみた。すると、自分が強く出した分だけ、相手の感情が自分に強く入ってく来る(実際1トライ目から相手役の人は涙粒をこぼすほど感情が一杯一杯だったのだから後はこちらがそれを入れるだけで「感情の交流」は成立するはずだったのだ)、そういうノリになる。それで初めて強烈でダイナミックな感情の交流、相手との即興的な感情の出し入れが可能になった。
●(ところで先生の「あなたは感情を口の中でもごもごやっているだけ」という指摘について自覚があったか否かについてだが、自覚はなかった。しかし、演技として感情を出すというのはせいぜいこのレベルでいいのだろう、というようなタカを括っていたところはあり、その自覚はあった(また、「感情の量が少ないからといって無理矢理引き出そうとするのは悪手ではないか」という考えもあった)。その自分で勝手に納得しているレベルが、先日のリピティションで出した最大レベルの怒りに比べれば過小なものだということも分かっていた。「もっと感情を出して科白に乗っけて」と言われて2トライ目ですぐに対応できたのはそのためだ。脚本の理解は全部ぶん投げて人生最大レベルの感情を科白に乗っけることだけを考えた。それでようやく「余裕」が出来て2トライ目では相手の感情がこちらに乗り移ってくるまでになったというわけだ。)
●感情の交流において、科白の精確さおよびその意味内容は重要ではない(リピティションのエクササイズで「言葉を使わずに声だけで表現する」「鸚鵡のごとき脳味噌で短いフレーズだけを使う」という制限があったのは、まさに科白=言葉の意味の知的な理解を遠ざけるためだったのではないか?)。1トライ目ではむしろ相手の科白を集中して聞いていたために、相手の科白が(抜けて)崩れた時に、こちらの科白を出すタイミングを見失って、完全な棒読みで、相手役と全然繋がりもなく噛み合わない感じで「何言ってんだ、こんな時に」を言う羽目になった。「相手のこの科白がこういう意味内容だから、それに対して自分はこういう意味内容の科白で返す」という知的な理解でシーンを演じようとしていたゆえの、失敗だ。もちろん意味内容の読解は重要なのだが、それだけに捕われて感情の出し入れがまったくないのでは、観ていて面白くもなんともない。台本通りに右に行ったり左に行ったり折り目正しく進んでいるだけなのだから。それでは即興的な、その時一回限りの感情のダイナミズムなど起こりようがない。
●(上記の洞察と関連して山崎彬氏の次の言葉を想起せよ──「言葉でのやり取りがいくら精巧に構築されていても、イメージとリアクションで芝居がつながっていないと、なんか退屈さが出てしまう。逆に、イメージとリアクションで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ。そして、もしリアクションでしか喋らないような状態に持って行ければ、テキストは消える。自分が何を言ったかさえ覚えていない感じになる(細かい言い回しなんか絶対覚えてないはずだ)」。ただし、「イメージ」については脇に置いて。むしろ氏の言葉を「感情の出し入れで芝居が完璧につながっていれば……」と読み替えてみたい。マイズナーも言っているが、例えば窓の外の雪を眼差している時の感情が自分の内にあるなら、役者は別にその雪を舞台上で脳裏に克明にイメージする必要はないのではないか?)
●《「……私がリハーサルで机に座って台本を読んでいるとしよう。『もし雪が降り止まなければ、ニューヨークに戻れない。私は職を失ってしまう!』」彼のせりふの読み方は静かだが、うろたえているようすが明らかだった。「だから君が見て感じるものは、座って台本を読んでいるときにすでに君の中にある。雪を見ようとしてはいけない。……結局、つきあたりには背景があり、その前方には窓付きの壁がある。だから、約束ごととして君は起き上がり窓まで歩いて、外を見ているのだと観客を信じさせる。それは観客のためだ。君のためじゃない! 君にとって意味のあることは、何か感情的なものだ。『私は失業してしまう!』わかるか。アクターズ・スタジオでは、雪を見ることに六ヵ月をかける。それから君たちはやっといえる。『見ろ、雪だ』。私の方法は、俳優から森や雪を見なければいけないというひどい重荷を取り除く。……物を見るという問題は、その見たときの感情が自分の中にあれば、簡単に解決できる。窓まで歩いていくのは、ただの約束ごとだ。」》(『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』邦訳130頁)
●で、実際2トライ目で何が起こったかというと、脚本読解上(演技プラン上)は絶対にあり得ないことだが、「何言ってんだ、こんな時に! そんなこと今、関係ないだろ!」以降で泣きたいような感情が湧き上がった。入りのヴォルテージを上げて、感情を出した分入り易くなるという状況を作り上げると、相手役との感情の交流でそんなことになってしまうのだ。もちろんこれは一回限りのことで、再びやって同じ感情が湧き上がるとは限らないだろう。なぜって、自分でもなんでそんな感情が起こったのか理由が全く分からないし(姪の死ははっきり言って俺にはどうでもいい)、明らかにその時その一回限りの相手役の演技の影響でそうなったのだから。いずれにせよ、この時俺が科白の意味内容を集中して聞いていたかどうかは、泣きたい感情が沸き起こったこととほとんど関係がないはずだ。なぜなら、2トライ目でも相手役の人は台本を手に持ってそれに目を落として読んでいたし、一行科白が抜けてたし、ところどころ言葉が違ってるし、感情が思いっきり乗っている分意味内容が支離滅裂になっていた箇所もあったからだ(「あたしが結婚もしないで子供産むって、お兄ちゃんさんざん反対したもんね。だから……」の辺り)。もし俺の姿勢が1トライ目と同じようだったらやはり、相手の言っている意味が理解できない場合、こちらから自分の科白を出す切っ掛けを拾えずに真っ白になってしまったところだが、2トライ目では、相手の感情が相手の様子と相手の声音を知覚しているだけでガバガバ入って来たので──実際相手役の人は1トライ目の時から涙ボロボロで感情出しまくっている演技だった──、その入って来る感情から衝動を拾って、相手の感情的で支離滅裂な言葉に対して適切なタイミングでこちらの科白をぶつけることができた(と思う)。つまり、或る意味では科白の精確さ(科白という切っ掛け)なんてどうでもいいということだ。或る意味ではキャラクターの理解(「医者だからもっと毅然としていなければならない」等)なんてどうでもいいということだ。科白に乗っける感情のヴォリュームこそが重要だ。それだけでやり取りは成立し得る。相手役の感情がガバガバ入って来るだけでシーンは毎回即興的にこんなにも面白くなる。21日の二回目のリピティションで自分が出した人生最大レベルの怒りを想起せよ。あのヴォリュームの感情を自分が出せるのだということは認識しておくべきだ。そして、「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る(相手の感情に感応できる)」、感情は自分が強く出した分だけ自分に強く入って来る。それが原則だ。まずは「開放」がないと幾ら熱心に相手の科白に耳を傾けても感情が全然入って来ないということ。
●2トライ目、「何言ってんだ、こんな時に! そんなこと今、関係ないだろ!」の科白以降で自分に泣きたいような感情が沸き起こったということは、やはり驚きだ。なぜなら完全に根拠不明だからだ。台本上泣く理由はまったくない。つまり泣きたくなったという事実に対して、その理由を後からでも言語化できない。全然できない。まさに「感情に理由はない」だ。だが原因は分かっている。相手役の人の感情が入って来て自分に感染したのだ。だから強いて言えばそれは相手への「同情」だ。しかしそれも別に相手役(妹)のことを殊更に可哀想と考えてのことではないから、相手役の人がボロボロと感情を多量に零していて、こちら側も最大レベルの怒りを放出した後で感情に感染し易くなっていて、そこで二人の間で感情の交流が起こったことを便宜的に「同情」と呼べるというだけのことだ。……或いは「泣きたいような感情が沸き起こった」ことについて、もう少し別の分析をすると、2トライ目ではシーン冒頭から自分自身の感情のヴォルテージを上げて、所謂激烈に「感情的な」状態になっていたので、ちょっとした刺激で強烈な怒りが強烈な悲しみへとブレて、わけもなく泣きたくなるということが起こったとも考えられる。シンプルに言えば、感情を出しましょう=感情的になりましょう、ということらしい。
●「最大レベルの感情」という言い方をしたが、最大レベルというのは、或る意味自分ではほとんどコントロールできない強度の感情でもある。逆に言うと、1トライ目は自分でほぼコントロール可能な水準に科白に乗っける感情をセーブしていたということだが。思うに、半分くらいはコントロール可能だがもう半分はコントロール不可能、というくらいのレベルには「感情的」にならないと、相手と感情の交流を始めることはできないのかもしれない。
●或る意味科白の精確さはどうでもいい、というのは、例えば台本上、相手役の「じゃ、どうすんのよ! 麻衣のこと、このまま見殺しにするって言うの! アンタ、それでも医者なの!」に対して「喚くな!」とこちらが返すことになっているのは、意味的には「アンタそれでも医者なの」という理不尽な詰りを受けてムカッと来たから返したものと理解するならば、「それでも医者なの」を最後まで聞いてから「喚くな!」を出さなければならなくなる、逆に言うと「アンタ……」の段階で「喚くな!」と言ってはいけないということになるのだが──とりあえずそのような知的なコントロールは外そうということ。っていうかそんなこと考えないでいい。とにかく「開放」して相手と感情の交流をガンガンやるのが第一。そのダイナミズムの中で、相手の科白の意味内容の理解をきっかけにしてではなく、相手の凄い表情や痛々しいトーンや全身でこちらにぶつかって来る感じを知覚することで「喚くな!」を出すタイミングが、自然に分かるから。さらに言えばその「喚くな!」をどんなふうに発語すればいいかも、分かる。究極的には相手が何を言っているか拾わなくてもいいかもしれない。感情の交流さえあるならば、相手が外国語で喋っていても芝居は成立するのかもしれない。……おそらくは観ている方もその方が面白いのだ。戯曲をテキストとしてのみ読んだり小説を読んだりすることの延長線上で考えると間違えてしまうが、観客は別に科白の内容を律儀に、丁寧に追っているわけではないので、そうではなくてまさに俳優の様態(における感情の表出)を注視しているわけなので、舞台上では感情の交流・感情の出し入れこそが第一義的でなければならない、ということか。山崎彬氏の言葉を引用しよう。「そもそも、科白なんて観客は誰も正確に聴いてはいない。むしろ観客は科白じゃないところを掬い取っている。科白は、とりあえずなんか科白のやり取りをしているなっていうことを示すためだけにあると言ってもいいくらいだ」。
●ところで、そう言えば一日目の初っ端の台本を使ったエクササイズ(0トライ目)では、俺とは真逆に「あなたは感情に頼り過ぎている。感情は十分あるのだから、感情のことはそんなに気にせずに、もっと相手と対話しよう」というアドバイスを貰っていた人がいた。つまり、感情を出すことは出来ても、自分のその感情ばかりにかまけて相手の感情を入れることが出来なくなる失敗パターンもあるということだろうか。興味深い。
●これは俺個人の考えだが、リピティションと感情準備を踏まえた台本へのアプローチは、スタニスラフスキー・システム的な知的な戯曲分析の方法論をほとんど必要としないのではないか。役者は台本の言葉に添いつつ自分自身の感情の精髄(人によってそれぞれ異なる)を掴んで、それを表現する道筋を見つければ良いだけであり、後はもう演出家の仕事なのかもしれない、ということ。
●2トライ目でシーンの最後に起こったことは面白かった。シーンの末尾は、兄の懇願に負けて妹が承諾書にサインするというト書きになっているが、1トライ目ではどう考えてもそれまでの芝居の流れで相手役の人がサインしそうになかったので、無理矢理相手の手を掴んでサインさせるということをせざるを得なかった。もちろんそんなのは嘘の芝居だ。ト書きにそう書いてあるから強引にそうさせたというに過ぎない。しかし2トライ目では、俺が最後の科白を言ってから相手役の人が承諾書を受け取ってサインするまでのあいだに気の遠くなるほど長い間を取った。観ていた人がどう感じたかは分からない。が、自分ではその長さはまったく気にならなかった。2トライ目では、相手役の人は言うまでもなく、自分の方も感情が一杯一杯になっていたので、無言のままさまざまな感情の交流(懇願、諦観、同情──たぶんサインしたくないんだろうな──、自責、絶望、希望、不安、悲哀、家族愛、後悔、疲労、切迫感、等々)を成立させることができるとお互いに確信していたと思うし、別にただ突っ立っていたのではなくてめまぐるしく感情を変化させながら、立っている姿勢の差分だけで相手に(互いに)働きかけようとしていたわけで、その限りでこの長い間は成立すると思っていた。ラストの肩を掴む行動も、それまでの無言の感情の交流からして、妹がついにサインしたらそういう身振りが一種の感謝(「ごめんよ、ありがとう」)の表われとして出るのが自然だと直観したので、それをやった。この点は先生に分析・評価された通りだ。……すなわち、山崎彬氏の言葉をもじって言えば、「感情の交流=感情の出し入れで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ」。実際あの長い間が観ている人間にどう感じられたかは分からないが、早くシーンを終わらせなければならないなどという自意識的な焦りは一切なく、平気の平左で「全然舞台上にいられる」状態だった。自分自身でも感情で一杯一杯になっていることが新鮮に感じられた。「相互リアクション」よりも「感情(自分が強く出した分だけ開放され、強く入ってくる。そういうノリでやる)」に重点を置いた方が毎回毎回演じるたびに新鮮に感じられ、演っていても面白いという域に到達できるわけだろうか。……余談だが、2トライ目の最後には何故か二人して壁際に移動していたが、なんでああいうミザンスになったのかまったく覚えていない。感情の赴くままに移動していただけだからか。
●先生「素敵な感情を持っているんだからそれを出さないと勿体ない」「次はもっと場面崩壊してもいいから、科白は若干置き気味でもいいから、もっともっと感情を交流させていきましょう」「芝居としてちゃんとまとめなくていいから、相手と感情を交流させて、そこ結果自分の身体にどんな反応が起こるか楽しんでみましょう」「芝居が崩壊してもいいから相手に全部ぶつけてください」
●こちらの感情が出るのが弱いと、相手が強く出してくれても入れられない。そのことの体験的実感は、テキストからは得られない。とにかく感情に対し開放された状態に自分を持っていき、あとは相手役との感情の交流次第だ。ならば、畢竟一人きりでは本質的な稽古は絶対にできないということだ。相手役の人に科白に感情を乗せて言ってみないかぎり何も分からない。相手から入って来るものなしでシーンをシミュレーションしてもまったく不毛。自分としても、感情をどこに向かっても出せないから、感情が自分に入って来る感じ易い状態を作れない。だから一人きりでできることなんて、科白を覚えることと、そのシーンにおける役の動機・目的(WSで使った台本では「非常事態。もはや時間がない、姪を助けるために妹を一刻も早く説得して承諾書にサインさせる」)を整理して把握しておくことぐらいではないか。練りに練った演技プランを持ち込んだりしたって──「どんなに演技プランを練っていても、相手との関係性の中で納得できるタイミングでやるのではなく、あなた一人でのやりたいタイミングでやってしまうなら、それはまったくひとりよがりなパフォーマンスに過ぎない。観てる側としては『なんでそこでそうするの?』という印象を持たざるを得ない」(広田淳一氏)──という羽目に陥るだけだ。
●あと、1トライ目でやったように相手の話をぐっと聞き込むのは必要ではあるのだが、しかし科白の内容から衝動を拾うのではなく、相手が声に乗っけている感情をぐっと入れて自分をブレさせることの方こそ重要であり、そのためにもリピティション中にやったようにホールド・抑圧せずに自分からも感情を出していかなければならない。そして相互に感情の交流があれば、どんなやり取りも舞台上で維持できる──相手役の人が科白ぼろぼろで何を言っているんだかわけ分からなくなっても、シーンは成り立つ(その芝居の凸凹をトリムするのは演出家の仕事だ)。というか間の取り方や呼吸のタイミングの方がむしろ感情の交流のあり様に左右されるのだ。感情の交流のダイナミズム次第で、台本とは無縁なところで間が取れたり息が吸えたりする。
●先生「自分の演技プラン通りにやってしまうというのは、自分にとって感情のエネルギーを出し易いやり方というのが自分でも無意識に分かっていて、毎回そのやり方でやってしまう、科白を同じ言い方をしてしまう、ということかもしれない」
●3トライ目に向けて。2トライ目では初っ端「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」の科白で感情のヴォルテージを無理に上げて、あとはその感情に乗って相手役と即興的に交流を作っていったわけだが、それよりもシーンに入る前に状況を想像している段階で、もう感情を準備してぐるぐるぐるぎゅるぎゅるぎゅると動揺を作ることができればそれが最善ではないのか。そしてシーンが始まったら向こうが全部ぶっ放してくるのをガバガバ入れて、相手役との相互作用で感情のノリを維持して行けばいい。つまり特定の科白に意識的に最大の感情を乗っけてヴォルテージを上げるのではなく、いつでもヴォルテージを上げられるようにシーンのドアタマから自分をすでに「感情的」にしておく。与えられた状況の動機に基づき、しかしその状況の細かな知的な理解は捨てて、単純に「人生で一番焦って切羽詰まっている!」という最大ヴォルテージの感情を準備する。
●先生「感情を出してください! 女子プロレスみたいになってもいいから、どんどん動いてもいいから」「相手のテンションが弱過ぎて直接感情をぶつけられないという状況でも、その役として内部に苛立ちなり焦りなりの感情があるのなら、それを科白に乗せないでも、握り拳をドンドンやったり、どっかと坐ったり、そういう身振りによって表出する=感情を出すことも自然に可能になるはず」
●《「君に言っておく。感情の衝撃からはだれも逃れられない。大劇場にいようが、小劇場にいようがだ。一度手に入れたら、感情は君をふくらませる──訂正。ふくらませるというのは、適切な言葉ではない。一度手に入れたら、それは君と観客に感染する。……」》(『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』邦訳148頁)
●では感情準備としてどうやって最大ヴォルテージの感情を自分に備給すればよいか。既記の通り俺は姪に冷淡なので「姪が死ぬかもしれない」という状況を幾ら具体的に想像しても切羽詰まった感じは湧かない。「こりゃ駄目だな。諦めなさい」みたいなトーンになる。「情緒の記憶」(スタニスラフスキー)も「イメージの仕掛け」(山崎彬)もあまり自分には利かない。ならばどうするか? ……3トライ目の準備段階で自分がぶっつけでやってみたのは、クラス前半のリラクゼーション中にやった「(台本の非常事態に近い状況の)イメージトレーニングをして、そこで自分の内に起こった感情に気付いたら、それを(息を吐く時に)声に出したり身体を動かして表現してみましょう──ただし言葉は使わないで」というエクササイズの応用で、そのエクササイズ時、どうもあまりイメージに刺激されることが無くて大した感情は湧かなかったのだが、それを「ア〜〜〜〜」ととりあえず声に乗せて表現してみたら、確かにそのフィードバックで自分の感情が増幅されるということがあり、さらに声を出している最中に先生に軽く胸(そして額)を抑えられ揺さぶられて、それによって、ただそれだけの身体上の変化によって、さらに感情がブレて増幅されるということが起こったので、これを試してみることにした。つまり、シーンに入る前、状況を信じるための前置きの時間に、しかし具体的状況(「姪が病院に運び込まれている。何人も死んでいる。もうギリギリ。ほぼ助かる見込みはないが、ともかく一刻も早く血清を打たなければ……」)をイメージしてみることはちょっと脇に置いて、ただ単純に、声には出さないが自分の心の中で呼吸の吐息につれてシーンに必要な感情=焦りを乗せた「ア〜〜〜〜」を叫んでみた。するとそれが呼吸の度に確かに増幅されていって、ついには心の中でのみ「アーーーー!!!!!!!」と絶叫している状態までになった時にはこれまでの人生で最大に切羽詰まっているような感情状態になり、身体反応として背中がブルブル震え出したので、それを利用して、シーン冒頭の相手役に対峙した瞬間から、自分の姿勢の勢いのみで相手に感情をぶつけていったのだった。(実は、シーンが始まった直後は少し手が痺れていた。酸欠状態になっていた? やり過ぎだったかも。)
●結果的には、3トライ目もそこそこ上手く行ったと思う。少なくとも演じていて2トライ目と同様に面白かった。そしてとりあえず1トライ目みたいに感情を口の中でもごもごやっているだけという状態ではなかっただろう。2トライ目では「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」を意識的に最大ヴォリュームで出す──21日の2回目のリピティションで個人史上最大レベルの怒りは出していたので、それをまた出せば良いだけだったのだが、台本の解釈上そこまで怒ることはあり得ないと思って1トライ目ではセーブしていたのを、先生に「入りの感情を大きくしてください、とにかく感情を出してください。自分が感情を出せば相手の感情も入って来るので」と言われたので「どうなるか分からないが昨日の最大レベルの怒りをまた出してみよう」と臨んだ結果が2トライ目──出すことでヴォルテージを上げて、それ以降はその感情のノリでやったわけだが、シンプルに「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る(相手の感情に感応できる)」ことが原則であるならば、すでに準備段階で強烈な感情を自分に備給できれば、科白に意識的に無理矢理感情を乗せるなんてことをしなくても相手役との感情の交流は起きるはずだ、という目算だった、3トライ目は。それは、相手役の人がこちらの感情準備に敏感にリアクションしてくれたこともあり、上手くいったと感じる。シーンが終わってからもしばらく切迫した興奮状態はつづいて、背中の震えが収まらなかった。あたかも冒頭で準備した感情が、相手役との感情の出し入れの流れでさらに予想もしなかった方向へ増幅されたかのようだった。
●マイズナーの使っている「感染」という言葉は面白い。増幅されるという言葉よりも良いかもしれない。感情を声に出して表現してみる(心の内の声でもよいからとにかく表現してみる)ことで、その感情が自分に感染する。それによって自分が開放されて、相手の感情にも感染し易くなるということ。
●3トライ目終わった後の相手役の人のコメントでも、シーンの冒頭から──まだ俺の科白が来ないうちから──こちらの佇まいがさっき(2トライ目)とは全然違って、滅茶苦茶深刻そうだという感じが全身から溢れていたので、俺が凄まじいものをまとって出て来たので、事前に自分が想定していた演技プランはご破産になって、一番最初の科白「お兄ちゃん……」から既に2トライ目とはまったく異なった情緒になっていた、そしてそれ以降は自分でもどうなるのか全然予想がつかないまま感情の奔流に翻弄されるようにやっていた、とのことだった。裏を返せば、相手役の人がこちらの準備した切迫感を過敏に感じ取ってくれたからこそ、こちらが準備してきた感情もずっとヴォリュームが途切れることなく、自然なダイナミズムで生き生きとした即興的な感情の交流を最後まで続けることができたわけだろう。その結果、3トライ目でもまた最後に面白いことが起こった。今度は別にサインするまでの無言の間はそんなに長くなかったが(短くもなかったが)、相手役の人がサインした後に俺がその承諾書をひったくるように取ってつかつかと退場しようとする、そしてその取られた瞬間に相手役の人が「あっ」と声を出したので、こちらもそれへの反応で一瞬だけ振り返りそうになる(完全には振り返らなかった)──そういう流れが何の打ち合わせもなしに生まれた。やはり後の相手役の人のコメントで、「サインしてしまった後に、『本当にサインしてしまって良かったのか?』という不安が生じたので、自然と恐怖が『あっ』という声として出た」みたいなことを仰っていたが、それに応じたこちらのコメントとしては、「『この承諾書にサインしてくれ!』の科白に対して相手が拒絶的な態度になったので、相手に『姪(娘)を助けてやる、とにかく俺を信頼してくれ』という感じを伝えるためにそれ以降の科白に誠実っぽい感情を乗せていったが、本当の感情としてはずっと焦っていて、『さっさとサインしろよ』という苛立ちが内部には充満している、だがそれを露骨に見せたら相手はさらに頑なになるだろうからそれは押さえ込んで、相手に誠実そうに訴えかけていくということをやる、相手に承諾書を渡した後も『さっさとしろ!』と手が出そうになって苛々しているのだが、絶対にそれは相手がサインするまでは塞き止めて我慢する、だが相手がサインしたらもうこっちのもんだから、憎々しげに承諾書をひったくる、という行動が起こるのは自然だった」ということになるだろう。だから相手役の人が承諾書を取られた後に「本当にサインして良かったのか?」と不安になったのは感情の相互作用の結果として圧倒的に正しい反応のはずだ。まあ観ている人にどう映ったのかは分からないが。いずれにせよ、何の打ち合わせもなしにこういう自然な反応と行動が生まれたというのは、感情の交流のダイナミズムを途切らせることなく(準備した感情のヴォルテージが消えることなく)、最後まで感情に基づいた直観に従って演技したからだというのは、間違いない。
●ちなみに3トライ目では最後のミザンスでも自然な流れができた。台本で「(無言で首を横に振る)」というト書きで相手役の人がこちらに完全に背を向けてしまったので、まず相手と相対するように向こうに回り込んで、さらに相手が俯いてこちらを見ようとしないので、腰を低くして下から相手の顔を覗き込みながら語り掛ける(「この血清が利いたとしても、麻衣はまだ4つだ。体力が持つかどうか分からない。……」)というミザンスは、その時自分の内部にあるもの、尋常でない焦燥感や「誠実っぽく振る舞わないと相手を説得できない」という想いからすれば、当然そうするよね、という直観的判断で自然に出て来たことだった。意識的に「こうしよう」と計算したところは一切ない。同様な細部として、3トライ目のシーン前半で、時々手に持っている承諾書を強く握りしめるという自分の行動(主に相手の科白を聞いている時間に)があったが、それもまた、その時自分の内で一杯一杯になっている苛立ちの感情からすれば当然それくらいやるだろう、という直観でやったに過ぎない。それだからだろう、その行動のフィードバックでさらに苛立ちが増幅される・苛立ちに感染するということも、自然に起こった。1テイク目だったら、承諾書を握りしめるのも「これは苛立っている演技としてやっているのである」という意識が入っただろう。或いは「流石にそこまでやると大袈裟ではないか」という意識の働きで行動を抑制していたかもしれない。
●ところで、3トライ目後の相手役の人のコメントで「2トライ目とまとっている雰囲気が最初から全然違った」と言われたわけだが、そのことを演じている最中に分かっていたか?というとそうでもない。つまり相手役にどのような変化が起きていたか俺が明確に認識していたわけではなかった。だから実際起こったことは、「相手を変化させよう」「相手が変化している」という意志や認識とは関係無しに、ただ向こうの側も冒頭から感情を入れられる状態になっていて、こちらが準備して出した感情が向こうに入った(感染した)、その結果2トライ目とはまったく違った感情の即興的交流が生まれたということだ。それだけのことに過ぎないが、それこそが重要なのだ。
●いずれにせよ相手役に感情を乗せた科白をぶつけてみないと分からないことが多過ぎる。あらゆる意識的な「こうやろう」というプランよりも、感情の奔出の方が第一義的である。実際、相手役との感情の交流次第でシーンは無限に変わり得る。相手とのやり取りで感情がどんどん増幅されて行くこともあるだろうし、その感情が全然別ベクトルの方向に逸れて行くこともあるだろうし、おそらくは逆に、感情のヴォルテージがやり取りの中で消失する(そして意外なほど落ち着いて息が吸える)ということもあり得るだろう。つまり、自分は、相手役との感情の出し入れに対して受動的であらざるを得ないわけだ。相手の感情が自分に強く入って来た結果どうなってしまうかは、事前には分からない。
●(以前アマヤドリのWSに参加した時に、台本を使ったエクササイズで「全身を演技に参加させること。言葉のやりとりと身体をつなげること。全身が参加してないから声量も小さい。姿勢として腰が落ちている。腰が引けている。やたら相手の肩をポンポン叩いても全然作用していない。腰で押していけば相手に触らなくても相手を動かせるのに。腰が引けていて、手先だけで触れて、演技しようとしている。それでは無責任な関わり方にしかならない」──というようなダメ出しをされたことがある。しかしこれは「じゃあ今度は全身を演技に参加させてみよう」と意識すれば達成できるものではなくて、足りなかったものは単に、自分の内の生き生きとした感情ではなかったか? 22日にやったリピティションでは相手を怖がらせて逃げさせる(のを追い掛ける)という流れになった瞬間があったが、そのように自分の身体を使って相手を動かす(相手役を翻弄する?)こと、全身を演技に参加させるダイナミズムは、まさに「感情」の瞬発力によって、意識しなくても達成できてしまうのではないか。)
●(同じく以前アマヤドリのWSに参加した時に「あなた本位で動かない。相手本位で動くこと。どんなに演技プランを練っていても、相手との関係性の中で納得できるタイミングでやるのではなく、あなた一人でのやりたいタイミングでやってしまうなら、それはまったくひとりよがりなパフォーマンスに過ぎない。観てる側としては「なんでそこでそうするの?」という印象を持たざるを得ない」──とダメ出しされもしたのだが、そして確かに例えば「お庭で遊んでたみたいで……」という相手役の科白の後のこちらの溜息とか、腕組みとかを、直接的な演技プランとしてやっているだけだとやり辛さ、無理矢理感がどうしてもあるが、それも最初から感情の出し入れが出来ていれば、自然にやれる。やり辛さもクソもない。あと、「あなたの癖として、首を動かしすぎる。また、脚を踵を浮かせてしょっちゅう重心を左右に揺らしている。これはおそらく、人前で演技することのストレスをそういう仕種で逃しているということだと思う」──という指摘もされたのだが、とりわけ3トライ目ではその癖は出ていなかったと思う。演技のための生き生きとした感情があれば、人前であっても幾らでも平気で居られる。人前で演技として突っ立っている、という自意識はなかったし、強い感覚で演技スペースに立っていられた。科白を言うタイミングを測るという意識もなかった。)
●3トライ目の準備段階では、焦りを増幅するために(心の)声に出して反復的に表現してみるということを試みた。そのやり方が正しかったかどうかは分からない。「状況を信じる」ことは無視したし。だが感情のヴォリュームが大きくなればなるほど、相手役との感情の出し入れ、感情の交流ができやすくなるというのは間違いない気がする。これをさらに敷衍すると、感情準備は感情の交流、感情の出し入れを発動させるためのものに過ぎないから、「背中の震え」のような準備したものがいつしか消えてしまうのではないか?と心配する必要はない。相手役との感情の交流、科白のやり取り、そのフィードバックによって「背中の震え」はまた予想外な形で方向付けられて増幅されていくはずだから。まだ何のフィードバックもない冒頭においてだけその備給が必要だというに過ぎない、感情を入れ易くするために。(それは単純に感じ易い状態を作るということではないだろう。やはり「出す」感情のヴォリュームということが第一に重要なのだろう。感じ易くなっていても相変わらず口の中でもごもご言ってるようでは、何も面白くはないのだろう。)
●今「予想外」という言葉を使ったが、言い換えれば科白に乗っける感情を決め打ちすべきではないということだ。相手役から入って来る感情で幾らでも自分の感情も変化するのに、あらかじめ決め打ちすると、折角即興的に生まれた感情を「これは科白に乗せるべきでない」と判断して捨象してしまうことになるから。加えて言えば、役作りも相手次第なのだから、硬性のものと考えてはいけない。台本通り交通整理された道筋を行ってもつまらない。右に行くのか左に行くのかまったく分からないような状況で役者自身も感情の奔流に翻弄されるからこそ、毎ステージ毎ステージ新鮮で面白く演れる。2トライ目とか3トライ目とか、自分が科白をどんなニュアンスで言ったかほとんど覚えていないからな。
●ただ表現するだけで感情は増幅される。声に出して表現するだけでなく、例えば握りしめた拳の震えとして表出するだけでも、そのフィードバックでやはり増幅される。
●(相手役との科白のやり取りではなく、モノローグにおいてもこの感情準備の重要性は変わらないかもしれない。最初に感情準備をして、科白を言う頭からそれを出して行けば、自分の声へのフィードバックでどんどん感情が増幅され変化していく、そういうことを起こせるかもしれない。自分一人でやる感情の出し入れ?)
●自分がやるべきことは、ただ相手の感情が入って来易い(感情の交流が生まれ易い)状態を作っておくこと。そうすれば相手役がどう変わっても対応できる。相手役の感情のヴォリュームが小さくてもとにかく何かが起きるはずだ。上手く行かないのは相手のせいではない。自分がやるべきことをやっていればいける。1トライ目だって居たたまれなくなって強引に承諾書にサインさせるという行動をしてしまったのは俺だったし。相手役の人は涙粒までこぼして感情を出しているのに、それをこちらが入れることが出来なかったのが最大の問題なのだ。
●先生「感情を出して行こう。それはものを書く上でも役に立つはず。もちろん科白の意味も大事ではあるのだが、あなたはいい感情を持っているのだからそれを出して行こう」
●(すべて終わった後から考えると、今回体験したリピティションは使える言葉を制限した上で何でもいいから瞬間瞬間で自分の内にある感情を表現していく──それによって感情がどんどん変化していくのを実感する──ためのエクササイズだったように思える。比喩的に言えば、普通は128色くらいで色分けされてどれが突出することもなく、身体反応も惹き起こさず揺れとしても感じられない、日常的に瀰漫している曖昧な常在性の感情が、リピティションの最中には原色だけで色分けせざるを得なくなって、そしてそれが「怒っている」「楽しい」「悲しい」「怖い」「面白い」等々短いフレーズで表現されることによって、曖昧な感情のベクトルが一つに定まり、そのフィードバックで増幅されてしまうということが起こる。すると日常では、まあ社会生活の中でそんなに感情を出すわけにはいかないという抑圧もあるけれども、それ以上に日常では水彩画のような淡さでしか経験できていない「感情」というものが、真っ赤、真っ青、真っ黄色、真緑、といったヴィヴィッドな色で経験されて、普段だったら絶対に出さないようなレベルの狂喜、憤怒、恐慌、悲嘆、多幸感が自分に感染し、放出される、そのような状態を目指すためのエクササイズだったような気がする。すなわち自分の感情の可能性に気付くためのエクササイズだ。……さらに言うと、リピティション+呼吸の吐息と一緒に感情を声に出して表現する(心の内でも)によって単に強烈な感情だけでなく、極端にダラダラした呑気でリラックスした感情なんかも最大レベルで出せそうだ。声に出すと「あああううあうあうああああううあああああ〜〜〜〜♪」みたいな感じの感情も。声に乗せられる情緒ならどんなものでも増幅できる?)
●(また、今回のリピティションは、相手とのやり取りの中で感情を生成変化させることの体感学習でもあったように思う。目の前の相手役を知覚した時に起こる自分の中の変化に気付いて、とにかくそれを表出してみる(長いフレーズは使えないので直観で表現してみるより他はない)。おかしな方向に進んでもいいからとにかく表出してみる。そして上手く行けばそれが自分に感染してさらにあり得ないような感情が出て来る。この一連の過程はリピティションという方法論の下でしか中々体験できないことのように思える。)
●(以前アマヤドリのWSで、「相互リアクションの重要性ということで言えば、『相手の見ているものを見ろ』と忠告したい。劇中のやりとりのさなかでも、相手が自分をどう見ているかをちゃんと気づき、感じなければならない。リアクションの前にまずレセプションがある。相手の中で自分がどう思われているのかを感じることができれば、それによって態度を変化させざるを得なくなるはずだ(レセプションがちゃんとしていれば、リアクションも出てくる)。そのようにして関係性が生まれてくる」──というようなことを言われていて、相手役の存在に対して瞬間瞬間で感応していく=レセプションの重要性は頭では理解していたのだが、実際には台本を使ったエクササイズの1トライ目では、相手を注視していようが相手の言葉を食い入るように聞こうが、自分が相手に感応出来ていた=レセプション出来ていたとは到底言い難かった。端的に言って「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る」ことについての理解がなかったからだろう。相互リアクションの重要性の前提として感情の交流がなければならないことの体験的理解がなかったからだ。レセプションとは、相手役の振舞いに依存する話ではなく、第一には自分自身の感情の問題だったのだ。)
●「感情的」になることはしんどい。とりわけそれが負の感情である時には、収まりつかないドス黒いものが自分の内を駆け巡るのに(放出するまで──しばらく)翻弄されることになるから。しかしそのしんどさを嫌って自分をヴォルテージの低い状態にとどめておくと、他人との感情の交流は起こらない。私は単なる孤立した一つのモナドであり続ける。今回のWSで学んだのは、通常のモナド的な他人との距離感を脱するために感情を励起させることの重要性だ。
:「間違った-感情」の根源性
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「四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。」(中井久夫「「踏み越え」について」)
一つの仮定。自意識と非意識との弁証法ということを小説の本質に置くなら、物語を駆動させるためのダイナモは主人公に備給された「間違った-感情」だと考えられるのではないか。ここで言う「間違っている」とは単純に道徳的に間違っているということではなく──その意味に重なる場合もあるが──現実原則に沿わないとか、よくよく考えたら割に合わないとか、まったく理不尽であるとか、自己撞着に陥っているとか、他人に対して不当であるとか、愚かなほど思い上がっているとか、後先のことを全然考えていないとか、反問に耐えない因果性に基づいているとか、概念やイデオロギーに支配されているとか、職業柄不合理だとか、不確実な小さな利益のために確実で大きな損害をもたらそうとしているとか、取り返しのつかないものを失う羽目になるのにそのことを等閑視しているとか、そういった意味での「間違っている」だ。犯罪的情動も普通に考えたら割に合わないので道徳的不正も部分的にこの意味で「間違っている」と言えるわけだが。例えばラスコーリニコフは殺人罪で八年のシベリア流刑の刑に処されるが、その行為と引き替えに彼が手にしたものは何だったろうか?
「間違った-感情」は突発的なものではない(傘を持ってない時に突然夕立に降られたりといったことによって起こる八つ当たり的な苛立ちなどとは別)。それは強迫観念のように主人公に取り憑いて持続する。自意識ではその「間違った-感情」の蠢動を完全に封じ込めることはできない。一時の抑圧ができる程度のことだ。むしろ自意識はその間違った-感情を「自分は間違っていない」という自己欺瞞のお墨付きを与えることで強化しがちだと言った方がいい。とくに他人から「あなたは間違っている」と指摘された場合にはそうだ。その時「そうだ、自分は間違っている」と相手の言葉に同意することは自意識に深刻な分裂と精神的アレルギーを惹き起こすだろう。それどころか逆に、自意識は「いいや、自分は間違っていない!」という態度を硬化させより急進的になっていくはずだ(そして「あなたは間違っている」という言葉を投げ掛けた人間もむしろ、相手の同意を望むよりもそのように背反が先鋭化するよう挑発しようとしていたのかもしれないのだ)──それが自分自身の真実を自分でとらまえることのできない自意識の限界である。しかも「自分は間違っていない!」と自分に言い聞かせて「間違った-感情」の熱量と圧力を高めていくことは、皮肉なことに、もはや矛盾や葛藤に悩む必要のない軽躁感や能動感や心身統一感を主体にもたらしてくれさえする。まさに「或る水準での完全な能動性がそのまま別の水準での絶対的な受動性へ反転してしまうという矛盾」。「間違った-感情」に受動的に屈服することが却って短期的には能動性とカタルシス感を生むという矛盾。「間違った-感情」を行動に移す=踏み越えることへの恐怖と憧れ! そこから、物語の動因としての「間違った-行動」「間違った-生き方」の引き金がひかれる。さらにその後に来るのは行動の追想であり、後悔であり、自己処罰、現実からの復讐、他者による審判だ。
「間違った-感情」を根絶するにはどうしたらいいだろうか。一つにはそれを際限なく加速して「間違った-行動」にまで推し進めて最終的な自己破綻をもたらして破砕すること。これは「間違った-感情」が本質的に自己破壊衝動に近似するために避けられないベクトルの一つだ。自意識でいくら「自分は間違っている」と内的対話で客観的に自己批判したとしても──内省を純化したとしても──、一度坂を転がり始めた球が坂を逆走して上がることができないように、それはついに「間違った-感情」のスピードを断つことがない。反省は無力だ。思考は無力だ。ラスコーリニコフ(の犯罪)、ガーニャ(の汚辱)、ナスターシャ・フィリポヴナ(の破滅)、イワン・カラマゾフ(の精神錯乱)の例を我々は典型的なものとして考える。自意識にできるのはその間違った-感情が明後日の方向へ逸れてくれるか何かの僥倖で消滅してくれることを祈るだけでしかない。
「間違った-感情」がどんな場合にも必ず「間違った-行動」に転化していくわけではないが、転化し易い背景というものはある。「踏み越え」を容易にする沸騰的状況やイデオロギー的昂揚の存在、ないしは時間的な切迫性、マキアヴェッリの言う「正義の要求が緊急性の要求によって割り引きされるような極限状態」。さらには主人公自身の自尊心が低下し脆弱になるような酷薄な現実との直面。そして、そのような状況下において「自分は間違っている」「自分は間違っていない」を巡って言葉は一人一人の主体に受肉し、バフチンの言うところの「生きたイデオロギー的記号」として流通していくだろう。「だが実際には、どの生きたイデオロギー的記号もヤヌスのようにふたつの顔をもっている。広く使われているどんな罵言も賞讃の言葉となりうるし、通用している真理が他の多くの人びとにとってたいへんな虚言にひびくことはさけられない。記号が内部にはらむこのような弁証法的性質は、社会的危機や革命的変動の時代にのみ徹底的にあばかれる」(『マルクス主義と言語哲学』)。
「間違った-感情」は特定の人物や対象に向けられているというより、その対象との関係性に向けられていると言っていい。特定の人物αに対する愛憎ではなくてその人物とのそれまでの関係性の歴史に対する感情が「間違った-」ものとして励起する。主人公と複数の人物たちとの関係性では、その集団の成員の織り成す状況(の歴史)に対して主人公が抱く「間違った-」感情となる。それは感情関係に限らず──それが最も主立った関係で、優しい感情を抱いたり、恐怖を覚えたり、溜飲を下げたり、優越感が上下したりとそのあり様も最も多彩であることは疑い得ないが──金銭関係だったり権力関係だったり職業的関係だったりするだろう。
「間違った-感情」はなぜ主体に備給されるのか。上記の理路からすれば、その由来はその人物の個人史と他人との関係性の歴史とを辿って具体的なものでなければならない(「間違った-感情」が突発的であり得ないのはそれだからこそだ)。おそらくはその由来を構想するために使うことのできる分析的創作ツールの一つが「欲望偏差表」である。「間違った-感情」を物語のダイナモに据えた時、構想されるべきは「間違った-感情」が主人公に取り憑いた由来・歴史の精密な設計と、それが具体的な事件を通じて「間違った-行動」「間違った-生き方」へ発展していくその様態のダイアグラムだが、「欲望偏差表」は、前者に関わるということになる。以前欲望偏差表の目的を「無意識から無意識への潜在的伝達の要因を精緻化すること、個体と個体を翻弄する社会的諸力の衝突を精緻化すること、登場人物各々を拘束・制約する相対的諸関係を精緻化すること、もっと俗な言い方をすれば登場人物間の「疑心暗鬼」を精緻化すること」と記したが、この「疑心暗鬼」を「自分は間違っているのか否か?」という形で読めば、「間違った-感情」の構想と欲望偏差表という方法論の繋がりが見えて来るだろう。例えばラスコーリニコフの「間違った-感情」の由来は、犯行以前の段階での母親/妹/ルージン/スヴィドリガイロフ/ソーニャ/マルメラードフらと関係性、疑心暗鬼の揺らぎにすでに潜在していたと考えられる。──まとめると、幾枚もの欲望偏差表を描いてそれらを重ね透かして初めて見えて来る、主人公に装填された破壊的かつ致命的に「間違った-感情」の強度、というものがあるということ。しかもその「間違った-感情」の条理に対して主人公の自意識は受動的足らざるを得ない。
自己破壊性と他者破壊性に通じる「間違った-感情」に基づいた物語は、もちろん悲劇だ。それは「賭博」に似て強烈な輪郭と色彩を持った出来事を生むが、主人公ないしは主要登場人物にとっては往々にして不幸なことになる。
ところで或る感情を「間違った-」ものにするのは基本的には現実原則であり、つまりは人間の感情や興奮などまったく意に介さない非意識=現実のキャパシティである。したがって、自意識と非意識との自己差異的な弁証法の中でこそ「自分は間違っている」「いや、自分は間違っていない」という分裂的でジグザグな「間違った-感情」の迷走が駆動する、そう考えていいだろう。
小説の主人公たる資格はこのような「間違った-感情」を担うことができるか否かに掛かっている。言い換えれば、自己破壊衝動に最終的にコントロールを掛けることができない人間というわけで、それは通常の意味で社会的に尊敬されるべき人間ではない。しかし自分自身の感情に歯止めを掛けて、自分の感情を感じ取らない習性を常体身に付けている大人しやかな人間、「感情的」になることを終始回避する人間は、結局のところ、自分の愚かさや弱さのせいでどうしようもなく追い詰められた窮地の中でなおしぶとく生きようとする悲劇的な生の強度を帯びることがない。そんな自己抑制に長けた人物の運命に誰が興味を持つというのか? 「間違った-感情」によって主人公が挫折し失敗しましたという結果ではなく、主人公の「間違った-感情」の過剰によって不幸の中にさえ充溢があることを逆説的に現実のキャパシティとして発見させられるという認識の転回にこそ、悲劇の生きた魅力があるというのに。
少なくとも「間違った-感情」によって興奮を励起されている状態の人物は、感情のヴォルテージを凡庸なレベルにとどめているために他人との感情の交流が起こらず、孤立した一個のモナドであり続ける──という退屈さとは無縁だ。
:感覚描写をすべて「“間違った-感情”に基づく兆候的描写」に置き換えること
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フォークナーの感覚描写は素晴らしい。『八月の光』第十四章から一節を引く。
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ついにやかましい音や声に満ちた追跡の空騒ぎは遠くなり、彼の耳には聞えなくなる。保安官の推察どおり、一隊と犬どもが通りすぎたときにはもう彼は綿倉庫の中にいなかった。そこではただ仕事靴、黒人臭のする黒靴の紐を結びなおす間ちょっと休んだだけだった。その靴は鈍い斧で鉄鉱石から割りとられたといった感じだった。その無骨で粗野で不格好な様子を見おろし、彼は歯の間から「くそ!」と言った。いわばそれは自分が白人たちに追いこまれた黒い淵を象徴するかのようであったのだ──その淵はこの三十年間彼を溺らせようと待ちかまえ誘い寄せていたのであり、いまついに彼はそこへ踏みこんだのだ、その証拠に彼の踝の高さまでその決定的な拭いえぬ黒いものがはまりこみ、それが次第に上へとのぼってこようとしているのだ。
ちょうど夜明け、明るくなる頃だ、灰色の寂しいたゆたいはようやく、目覚めた小鳥たちの試し鳴きする低いつぶやきに満ちている。空気は、吸いこむと、泉の水のようだ。彼は深くゆっくり呼吸する。そして呼吸のたびに自分がこのくすんだ灰色の世界に融けこみ、怒りや絶望を知らぬ孤独や静寂とひとつになるように感じる。『俺の欲しかったのはこれっきりだというわけか』と彼は静かな、鈍い驚きとともに考える。『この三十年間欲しがっていたものはこれだったのか。これは何も三十年も尋ねまわるほどのものじゃあなかったようだぜ』
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だが主人公の「間違った-感情」を物語の根幹に据え、自意識と非意識との弁証法を形式的な基盤として採用する小説においては、単なる感覚描写の鮮鋭を肯定してばかりはいられない。そうした小説においては感覚描写もまた、「間違った-感情」に対する自意識の自己関係的なズレを暗示する兆候的描写として機能しなければならないはずだからだ。現に『罪と罰』はそうなっている。冒頭にラスコーリニコフがペテルブルグの街路の暑苦しさに感じる不快感は、彼が胸中に秘めている「間違った-感情」に対する神経質な違和感と感覚的に重ね合わされている。文体上、その感覚描写の前駆状態としてすでに、作者が構想した主人公の「間違った-感情」の歴史的・社会的・潜在的な由来が微細に蠢いている。以前にも書いたことだが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、自意識では操作不可能な「間違った-感情」が非意識的なレヴェルでの出来事の作動によって徐々に育っていくことに戦慄し、周囲に明滅する様々な兆候に不吉な意味を探りつつ、自意識上は不快感という形で抵抗を示していくのだが──「《ああ! なんといういまわしいことだ! いったい、いったいおれは……いや、こんなことはたわけたことだ、愚劣だ!……それにしても、よくもこんな恐ろしい考えが、おれの頭にうかんだものだ! おれの心は、なんというけがらわしいことに向いているのだ! なんとしても、けがらわしい、きたない、ああいやだ、いやだ!……それなのにおれは、まる一月も……》」(第一部第一章)──こうした「間違った-感情」に主導される記述が、文体から純粋な感覚描写の美しさというものを排除する結果になっている。つまり、ドストエフスキーの小説の中には体感を鮮明に浮び上がらせるためだけの感覚描写というものは、存在しない。ドストエフスキーの小説の中の感覚描写とは典型的には次のようなものだ。それをフォークナーの描写と比べてみるがいい。これは単なる「写生」ではない。中核にあるのは常に「感情」だ。「物を見るという問題は、その見たときの感情が自分の中にあれば、簡単に解決できる」(マイズナー)。
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通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルク人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、──こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰鬱な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
彼はひどい服装をしていた。ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった。センナヤ広場に近いし、いかがわしいあそび場が多く、特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて、奇妙な服装が街の風景をいろどることは珍しくなかった。だからへんな風采に会ったからといって、びっくりするほうがおかしいようなものだ。しかも青年の心には毒々しい侮蔑の気持がいっぱいにつまっていたから、だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、いまはぼろをまとって通りを歩いていることがすこしも気にならなかった。しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……ところが、そのとき大きな駄馬にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、どういうわけでどこへ運ばれて行くのか、その上にのっかっていた一人の酔っぱらいが、通りしなにだしぬけに、彼のほうを指さしながら、《おいこら、ドイツのシャッポ!》とありたけの声でどなったとき、青年は思わず立ちどまって、あわてて帽子へ手をやった。それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた。だが、彼をとらえたのは、羞恥ではなく、驚愕にさえ似たぜんぜん別な感情だった。
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他者との複数的・多角的・歴史的な関係性によって宿命付けられている「間違った-感情」は、そのことゆえに、説明できない。言い訳できない。「間違った-感情」の条理は反省などしない。だからそれはヘンリー・ジェイムズ的な心理小説には馴染まない。それは兆候的にしか描き出すことができない。ドストエフスキーの文体におけるそれももはや「心理描写」の対象ではない。
:「間違った-感情」とコミュニケーション
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これは「間違った-感情」が主人公に備給されて以後の話だ。「間違った-感情」がまさに間違っていることは主人公にも薄々気付かれていることなので、行動化に繋がる前にそれがコミュニケーションの中で表われるということはほとんどないはずだ。つまり「間違った-感情」は隠される。「間違った-感情」は表出し難い。主人公にとって、露骨な感情的反応は避けられる。そのため、対話相手から眼差しを受けることによって分裂する「相手から見えている自分」/「相手からは見えない自分」において、「間違った-感情」は後者に属することは確実だ。そして単に表現するだけで感情は増幅されてしまうという特性を持つので、「間違った-感情」に取り憑かれている人間は身体(ポーズ)を使ってでもその感情の表出を塞き止めている、というところがあるかもしれない。
ただし対話中相手からは見えない──メッセージとしては伝わっていない──「間違った-感情」が、兆候を介して相手に伝わってしまっている可能性は、十分ある。対話相手もまた「感情を感じ取らない習性」とは無縁な、コミュニケーションの最中の感情の流れに過敏な人間であるならば。そのような感受性の強い相手との対話においては、表面的な言葉のやり取りの背後で非意識としての「間違った-感情」が潜在的な力を帯びて、対話の流れに作用して、ほとんど二人の自意識上の自覚をともなわずに「言いたくないことを言ってしまったり思いも寄らないような感情的反応を出してしまったりというような、個体と個体を翻弄する衝動が非親和的にぶつかり合う」闘争が生じるだろう。「結果として、自意識が事後的に自覚する以上に二人が互いに理解し合って影響を与え合ってしまうという事態も、起こり得る」。実際にそうではないか? 何かしら重要性を帯びた対話の後では、言葉のやり取りで交換した以上のことを互いに理解にしたという印象が残るものだ。幸か不幸かそのような対話は我々の人生上稀だが。
要するにこういうことだ。「間違った-感情」(と自意識との自己関係的なブレ)が登場人物に備給されることによって、平生はあまり露骨になされない──大抵の大人は相手の「間違った-感情」に気が付いた時点でそれを感じ取らなかった振りをする習性を身に付けているので──感情の出し入れ、感情の交流、ということが大いに可能となる。というのも、「間違った-感情」が潜在している状態はすでに人物の感情準備が出来ている状態に等しいからだ。その状態からアンコントローラブルな感情に揺さぶられて、相手との感情の交流はいつでも開始できる。そして、「相手役から入って来る感情で幾らでも自分の感情も変化する」。相手との感情の交流、科白のやり取り、そのフィードバックによって「間違った-感情」はまた予想外な形で方向付けられて増幅されていきかねない、そういうリスクも予感される。感情というのは本当に予測が付かないのだから! 感情的反応に理由はない。何を切っ掛けにしてどんな感情が出て来るかは予測不能だ。例えば『カラマゾフの兄弟』におけるイワンとスメルジャコーフの対話。或いは『罪と罰』のラスコーリニコフとマルメラードフの対話。あれはヤバい。
対話の前駆状態としての「間違った-感情」の備給の重要性。我々にとって、「間違った-感情」というコンセプトは新しくもあり、古いものでもあるようだ。以前「「関係性」の本質とは相手の欲望を考察-推測しながら互いに欲望を投げ掛け合いそれを非意識レヴェルで交換するということに存する」と書いたことがあるのだが、これを「「関係性」の本質とは相手の「間違った-感情」を考察-推測しながら互いに感情を投げ掛け合いそれを非意識レヴェルで交換するということに存する」と書き換えてみてもいいと思う。そうした互いの「間違った-感情」の非意識的不等価交換を欠いた相関図的な“関係”など何の意味もない、と言ってみてもいい。いずれにせよこうした言い換えが可能なことが示すのは、「間違った-感情」とは「間違った-(非意識的な)幻想承認欲望」と捉えてもそれほど当たらずとも遠からずだということ。ただ、今回新たに「間違った-」感情という形容のベクトルを見出すことで、今までのコミュニケーション分析を、人間の悲劇や踏み越えの問題として位置づけ直してみたという次第である。憤りや悲しみや狂喜や恐慌といった情動のいずれかが重要なのではなくて、それが「間違った-情動」であることが小説の物語にとって本質的だと考えられるわけだ。
「間違った-感情」……。興味深い着眼のように思われる。例えば小林秀雄が「現代文学の不安」の中で次のように言っているのをどう考えるべきだろうか。「……欺瞞は、情熱の世界にも感情の隅々にも、愛情にも憎悪にも、さては感受性の端くれにまで、その網の目を張っている。いくら社会を眺めても、本を読んでも、政治行動の真似事をしても、自分の身を省みなければこの謎はとけぬ。私の貧しい体験によれば私の過誤は決して感情にはなかった、自他を黙殺して省みぬ思想の或は概念の過剰にあった。ものの真形を見極めるのを阻むものは感情ではなかった、概念の支配を受けた感情であった。今日の新文学ほど青年のあらゆる意地の悪さ、虚栄心を誇示した文学はない」。欺瞞、概念の過剰、概念の支配を受けた感情、意地の悪さ……。それと対比される、ものの真形を見極める感情の過剰……。だが我々の着眼は、むしろ前者の方に小説の本質があるかのように思考を導いていくようだ。自分自身の「間違った-感情」を抑制することができずに受動的とも能動的とも付かない形で悲劇の必然を成就する過程の中にこそ、のっぴきならない自己批評・自己処罰によって「自分の身を省み」て人生の「謎」をとく瞬間はあるように思われるから。「間違った-感情」の過剰がものの真形を見極めるのを阻むことは疑い得ないが、それは人間の悲劇の根底、徒手空拳の生の不気味さを直接開示するものでもあると思う。そうではないだろうか。
そもそも「間違えていない」感情というものがあるのだろうか? 正しい感情、そんなものは存在しないのではないか。正しい殺し方、というのがあり得ないように。おそらくは「自分は間違っている」「いや、自分は間違っていない」という分裂と葛藤の嘔吐感の中にのみ辛うじて「間違っていない」人間が救われる道がわずかにあるように思われる。もはや自分は根底的に間違っていて救いようがない、という痛覚の中にのみ救いの可能性はある。同様に、これは正当防衛であるという自覚に基づき何の後ろめたさもなしに揮われる暴力は永遠に間違い続けるが、この正当防衛すら間違っているのではないかという息苦しさの中で、しかし切羽詰まって不安なまま実行される殺人においてのみ、「正しく殺さなければならない」という戒律を見出してそれに従い得る可能性がわずかに、ある。ラスコーリニコフの「間違った-感情」に基づいた殺人の両義性。
:ラスコーリニコフの夢
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周知のように『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフは奇妙な夢を見る羽目になる。以下のような夢だ。
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……彼は病気の間にこんな夢を見たのである。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパにひろがっていくある恐ろしい、見たことも聞いたこともないような疫病の犠牲になる運命になった。ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。それは人体にとりつく微生物で、新しい旋毛虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は知恵と意志を与えられた魔性だった。これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことがないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになるのである。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対だと信じた人々は、かつてなかった。全村、全都市、全民族が感染して、狂人になった。すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、一人一人が自分だけが真理を知っていると考えて、他の人々を見ては苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。誰をどう裁いていいのか、わからなかったし、何を悪とし、何を善とするか、意見が一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とするか、わからなかった。人々はつまらないうらみで互いに殺し合った。互いに軍隊を集めたが、軍隊は行軍の途中で、とつぜん内輪もめが起った。列は乱れ、兵士たちは互いに躍りかかって、斬り合い殴り合いをはじめ、噛みつき、互いに相手の肉を食い合った。町々で警鐘を鳴らし、みんなを招集したが、誰が何のために呼び集めたのか、それが誰にもわからず、みんな不安におののいていた。めいめいが勝手な考えや改良案を持ち出して、意見がまとまらないので、ごくありふれた日常の手工業まで放棄されてしまって、農業だけがのこった。そちこちに人々がかたまり合って、何かで意見を合わせて、分裂しないことを誓い合ったが、──たちまち何かいま申し合せたこととまったくちがうことが持ち上がり、罪のなすり合いをはじめて、つかみ合ったり、斬り合ったりするのだった。火事が起り、飢饉がはじまった。人も物ものこらず亡びてしまった。疫病は成長し、ますますひろがっていった。全世界でこの災厄を逃れることができたのは、わずか数人の人々だった。……
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自意識と非意識との弁証法の契機の一切断ってしまい、「間違った-感情」に取り憑かれて完全に受動的にそれに従いながら自意識では「自分の信念は正しい」というファナティックな能動性を強烈に発揮して他者と骨肉相食む地獄へと突き進んでいく、そんな人類の寓話。のように読める。
おそらく本質的な区別は「間違った-感情」と「正しい感情」の間にあるのではなく、自意識と非意識との弁証法の契機を断ってしまうことと断たずにおくこととの間にある。
:「間違った-感情」よりさらに間違った“何か”
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先に我々は小説の主人公が他者との多角的・複数的・社会的・歴史的関係性に由来する「間違った-感情」を抱き──この場合の「間違った-」とは現実原則に反するとか自己撞着に陥っているとか損得勘定でまったく割に合わないとか後先のことを全然考えていないとか不毛な概念やイデオロギーに支配されている等々の意味だ──、自意識ではその感情を間違いを修正できないどころか、むしろ自分で「俺は間違っていない」と言い聞かせることによってその不当さに盲目にさせ、或いは自分は間違っていると薄々勘付いているからこそますます視野狭窄的に間違いを認めないことに固執し、感情を昂揚させ、神経を高ぶらせ、ついに「間違った-行動」の賭けに打って出て自己破壊+他者破壊の取り返しのつかない事態を惹き起こすまで情動の加速を止めることがない。というヴィジョンを示してみた。このヴィジョンだと主人公が「間違った-感情」を抱いた由来はすべて欲望偏差表によって構想されることになり、それに加えて主人公が自己破壊的な事態を招くまで「間違った-感情」に翻弄され続けることはほぼ疑問の余地がないことになっている。「間違った-感情」が表出され「間違った-行動」に移行する過程で、別に外的な事実が強いて来るわけでもないのに(背景的な情況による後押しはあるが)、主人公は自意識と非意識との自己関係的なズレに苦しみながら、最後まで自分の過剰な感情に忠実であり続け悲劇に到る、ということになっている。……これは奇妙な決定論ではないか?
一つの着眼。実は、主人公が「間違った-感情」に自らを委ねるのはもっと深い動機があるゆえではないだろうか。これまでの考え方だと、自意識と非意識との弁証法を通じて主人公は自分が「間違っている」ことに気付かざるを得ず、そのことに不安を感じ嘔吐感を覚えさえするのが必然だった。だから主人公が「間違った-感情」に主導されてしまうのは彼の本心に反してのことなのだ、と我々は考えて来た。彼は「間違った-感情」を備給されて急斜面を転げ落ちるように破滅的事態へと進んでいくが、本当は彼はその間違った如何ともしがたい運命を誰かに逸らして欲しいと祈っている、と我々は考えて来た。しかし。実は彼はむしろその急斜面を転げ落ちていくことを自ら望むこともあるのではないか? それも、自意識の自己欺瞞によって「俺は間違っていない!」という虚偽に固執するためにそうするのではなしに、だ。言わば、主人公は自分の「間違った-感情」を何か別の目的のために利用することもあるのではないか。
思うに、その深い動機というのは「何かを破壊すること」に他ならないはずだ。「間違った-感情」の不当な自己破壊性と他者破壊性はそうした目的にしか利用しようがない。何を破壊するのか。仮説として述べてみる。「間違った-感情」よりもさらに間違った“何か”を、だ。そのように主人公が無意識に、ではなく──無意識にと言ってしまうとそれはシンプルに主人公の感情をまさに「間違った-」ものにするための現実原則、現実のキャパシティのことを意味してしまうから──、直観的に、真に間違っていると感じている“何か”を、破砕すること。そのために、理不尽で客観的には割に合わない損得勘定を越えた「間違った-感情」の、取り返しのつかない過剰な破壊性を利用すること。それほどに根底的に間違った“何か”が他にある。「間違った-感情」と「間違った-行動」に頼らない限り決して扼殺することができないほどに主人公に巣食ってしまっている真に間違った“何か”が。主人公はその“何か”と手を切るためには「間違った-生き方」の悲劇的受難をことごとく受け入れさえする。
以上は、まだまだ曖昧な着想に過ぎない。せいぜいあのナスターシャ・フィリポヴナの運命の渦中に真に間違った“何か”を扼殺する瞬間を垣間見ている程度の話だ。『白痴』の第一篇ラストの、想い描いていた理想の人物に近いはずのムイシュキン公爵からの結婚の申入れを拒絶して、トーツキイがお膳立てをしたガーニャとの結婚話を蹴るのはもちろんロゴージンが彼女を買い上げるために持参した十万ルーブルをも簡単に放り捨てて、洗濯女にでもなるか貧民窟に行くかでもするように身一つで飛び出ていく彼女の「間違った-行動」は、現実原則からすれば端的に荒唐無稽と言うよりない。単純に問う。なぜナスターシャ・フィリポヴナはムイシュキン公爵の申入れをはね除けたのか? 自尊心が極端に低い人間に特有の手の付けようのない精神錯乱? いや、ここで出せる一つの推測は、ムイシュキンとの結婚を拒絶するという割に合わない「間違った-行動」よりも遥かに間違った“何か”を、彼女がムイシュキンとの結婚に予見していたからではないかということだ。しかもその間違った“何か”は彼女自身に巣食っており彼女自身に由来するものだった。「あなたはちっともこわくはないでしょうけれど、あたしはあなたをだめにして、あとで責められるのがこわいのよ!」という彼女の言葉(第一篇第十六章)を、我々は自意識から出たアド・ホックな言い訳でなく、掛け値無しに素朴な直観的真実として聞く必要があるかもしれない……。(自意識で辿れるような一貫性でもなく現実原則で評価できるような一貫性でもない、直観的にのみ見出されるナスターシャ・フィリポヴナの倫理的綜合-一貫性を批評するために。)
:子供人間
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「間違った-感情」が主人公に備給されることの物語にとっての重要性は充分認識された。しかしその本質的な意義についてはいまだ明らかになっていない。
だから我々は「間違った-感情」の由来を問う。「間違った-行動」であれば何でも悲劇として面白いという考えを斥ける。「間違った-感情」が単にあえて現実原則の逆を行こうとする天の邪鬼に過ぎないのだとしたら、何一つ興味深い点などないだろう。「間違った-行動」が誰にでもすぐ反省して直せるような小さな必然性しか持っていないのなら、主人公の苦しい努力もちっぽけなものと映るだろう。そうではなく、小説において「間違った-感情」「間違った-行動」がクローズアップされることによって初めて明らかになる現実の相があるのでなければならない。思うに、それは子供の視点である。
空想や想像や抽象抜きに周囲にあっておかしいと感じたことを無秩序にそのまま「おかしい」と口に出来るのは子供だけだ。知識量によって惑わし口舌巧みに説得を仕掛けてくる相手に対して「おまえは信用できない!」と率直で確固たる態度を取ることが出来るのも子供だけだ。子供でない人々が不和や世間体──現実原則──を慮って口を閉ざすところで子供はおのずから発した感情をそのまま表出する。おかしいと感じることはおかしいのだ。気持悪いと感じることは気持悪いのだ。信用できないと感じることは信用できないのだ。嫌だと感じることは嫌なのだ。たとえそのように感情を表出することが自分にとって損だと分かっていても、いくら複雑に手の込んだ現実主義的な説明を受けたとしても、子供の感受性は自己を裏切ることには堪えられない。感情に折り合いを付けることができない。もちろん社会において平和に生活し続けるということを考えるならば子供の直情は「間違っている」。もっと言えば当人自身の幸福や周囲の人間の幸福を考えても子供の直情は「間違っている」。結果、頭脳によってこねくり上げられたのではない直観的な愛情や嫌悪といった子供の感情は、現実原則によって処罰される。しかしそれによって我々は、世間のしきたりといったものがどれほど人間の感受性に枷を嵌めているかということを逆説的に知ることになるだろう。
ここで言う「子供」に年齢は関係ない。教養の過多も能力の有無も関係ない。たとえ現実原則の復讐によって致命的に自分が損なわれると分かっていても、自分自身を十重二十重に取り巻いている世界の「おかしさ」を打破するためならいくらでも自分の直観的感情(「間違った-感情」)を激発させることが出来る存在、それが「子供」だ。政治的計算を度外視して自分の無垢な感情に忠実であること。「おかしい」と感じたら「おかしい」と言えること(ただし、その感情的反応について自意識は常に詭弁論を重ねて自己正当化しようとするのではあるが……)。
:フェアネスを巡る悲劇
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「間違った-感情」「間違った-行動」をフェアネスという観点からも捉え返してみる。フェアネスを単純に「自分が他人を批判して言った言葉が自分自身に突き付けられた時に、それを受け入れることができる」ことと定義すると、「間違った-感情」「間違った-行動」には一貫してこれが欠けていることが分かる。例えば『白痴』のガーニャはナスターシャ・フィリポヴナについて「あれは陳腐な女の復讐というやつですよ。それ以上のことはありませんね。あれはおそろしく癇癪持ちの、疑いぶかくて、しかも自尊心の強い女なんですから。まるで昇進もれとなった役人みたいなものですよ!」などと興奮気味に、悪し様に言うが(第一篇第十一章)、彼がナスターシャとの結婚を目論んだ理由を考えるに──「ガーニャの結婚はただ金ほしさのためであり、ガーニャは腹黒く欲ばりで、癇癪持ちの羨望家であるばかりか、比べものがないほど自尊心が強く、ガーニャもはじめのうちこそ夢中になって、ナスターシャをわがものにしようとあせっていた……」(第一篇第四章)──彼がナスターシャを批判して言った言葉はそのまま彼自身に当て嵌まるのだ。したがって彼の言葉はフェアネスを欠いたままに、しかもその自覚がなくあたかも自分の言葉が正当であるかのように義憤に駆られて口にされている。いや、ガーニャも自分の「間違い」に薄々気付いてはいるのだが、それを率直に認めることがどうしてもできずにいる。そこに彼の自己関係的な受苦性がある。「……いや、しかし、ぼくはいかなる点で卑劣漢なんでしょう、公爵、どうか正直に言ってみてください。なぜあの女をはじめとして、みんながぼくのことを卑劣漢と呼ぶんでしょう? しかも、みんなのあとについて、あの女のあとについて、ぼくまでが、自分で自分を卑劣漢と呼んでるんですからねえ! これこそ卑劣というものです、卑劣きわまることです!」。長篇を通じて明らかになるガーニャの「間違った-生き方」の根底にはこのアンフェアネスがあるように思われる。
結局のところ、アンフェアな人間が他人に揮った言葉の暴力は自分にそのまま返って来る。それを真直ぐに受け入れることを拒んだ時、恐ろしく手の込んだ自意識の自己欺瞞が展開される。というか、アンフェアな人間が口にする他者批判は、それがそのまま自分に突き付けられたら悶死せざるを得ないくらい酷いものなので、致命傷を避けるためにはどれだけ「俺は卑劣漢だ」という自覚があっても自己欺瞞の加速度はいやがおうにも増すことになるのだ。加速度が増す、つまり「間違った-感情」は、そのアンフェアネスを認められないことから生ずるアレルギーによってますます昂揚させられるということ。
ナスターシャ・フィリポヴナの悲劇もフェアネスということを巡って生じているように思われる。ナスターシャ・フィリポヴナはトーツキイが手配した七万五千ルーブルの持参金を付けてのガーニャとの婚約話を持ち掛けられた際に、あくまでも外見のフェアネスにこだわって次のような条件を主張していた。「……なにあともあれ、あたしとしてはガヴリーラにもまたその家族にも、自分ついて隠れた思惑がないことを見きわめるまでは、どんなことがあっても彼とは結婚しない。それがなんであろうと、あたしは決して自分が悪いとは思っていないのだから、自分がどういう条件のもとにこの五年間をペテルブルグですごしてきたか、トーツキイさんとはどんな関係にあるか、財産は十分ためているかどうか、こうしたことをガヴリーラによく知ってもらいたい。それから……自分がお金を受けとるのは、自分自身すこしも罪のない、辱められた処女の純潔のためなどではなく、ただ単にゆがめられた運命にたいする賠償としてである……」(第一篇第四章)。だがこの婚約話が一挙に大金を獲得して資本家として世間に打って出たいガーニャの思惑とナスターシャ・フィリポヴナを厄介払いしたいトーツキイの思惑が一致した打算ずくめの計画であることは明らかであって、「決して自分が悪いとは思っていない」という彼女の必死のフェアネスの取り繕いも、ガーニャの腹黒さ──金のために他人の情婦とおおっぴらに結婚しようとしている──の前には無意味なものとならざるを得ず、彼女は、婚約の返事をする日が近付くより先にもうガーニャに対して《辛抱強くない乞食》という悪口を言って謀反の態度を取ることになる。しかも、彼女はさらにロゴージンに自分を買うための値段をつり上げさせたりする(十万ルーブル)ことによって自らガーニャの腹黒さを非難できないアンフェアネスに落ち込みもする。もとより、トーツキイの情婦だったという過去と手を切らないまま彼女がフェアに振る舞おうとすること自体に、無理があった。孤児となった彼女がトーツキイの金で養育され、途中から淫猥な目的が加わったとはいえ二十代になるまで何不自由ない暮しをさせてもらっていたことは否定しようがない。だから彼女が憎しみによってトーツキイを脅したことは初めからアンフェアだったし、その状態のまま他者を批判しようとする言葉を口にすればいずれはそれが自分に突き付けられるのも不可避だった。現に、ガーニャの「金銭への強欲さ(……こんな男なら、お金のために人殺しでもするでしょうよ。ねえ、いまじゃ人は誰でもお金に眼がくらんで、まるでばかみたいになっているんですからねえ……)」を辛辣に公然と批判してしまったがゆえに、巡り巡って、彼女は彼女のことを「フェア(……あなたにはいかなる点でも罪はないのです。あなたの人生がもうすっかりだめになったなんて、そんなことがありますか……)」な人間として扱ってくれた金持ちの公爵からの結婚の申入れを皆の前で拒絶せざるを得ない羽目になるのだ。自分のアンフェアネスに、卑劣さにもはや堪えられないがために。「あたしは恥知らずの女ですからね! あたしはトーツキイの妾だったんですからね……」。トーツキイやガヴリーラに対する憎しみという「間違った-感情」が逆流して、彼女をアンフェアネスの汚辱の中で溺死させる。せめて公爵の申入れを受け入れることの卑劣さに盲目でいられるほど彼女が鈍感であればよかったのだが──しかしその場合はやはり「あいつ、『自分がきみと結婚するのは、きみの高潔なる心と不幸のためだ』なんて言いくるめる男に簡単に手懐けられて、結局金目あてで結婚しやがった!」というガーニャの後からの嘲弄を免れ得ないだろう──、彼女の聡明さが、フェアネスを求める心と自分のアンフェアな行動との矛盾に持ち堪えられずに、身投げするように自らを破滅へと導いて行くことになった。『白痴』第一篇を通じて起ったナスターシャ・フィリポヴナの悲劇は、彼女のフェアネスへの固執と彼女のアンフェアな感情・行動を巡るものだったように思われる。
「『なぜ人は自分の言葉を真直ぐに自分自身に突きつけられないのか』という問いこそが普遍的なのだと、僕は確信しています。」(大澤信亮)
:「恥ずべき-行動」、偏向の触覚(的描写)
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「間違った-行動」を「恥ずべき-行動」と表現し直してみることで、小説について新たな視座が得られるだろう。
主人公の行う「恥ずべき-行動」が小説の物語の核心にある。情況がそのように主人公に強いるように作家は小説世界を虚構する。主人公はその恥を甘受する。とはいえ、「恥」とは何かを明らかにしないかぎりこうした規定の本義は明らかにならない。そして、実際には何を「恥」と感じるかや何を「卑劣」と見做すかは人によって大きく異なる。同一の「恥ずべき-行動」を観察していたとしても、或る人物と別の人物とではその行動が何故恥ずべきなのか判断の理由が異なるということもあり得る。我々は恥を知っているからこそ恥知らずという非難の言葉を用いることができるのだが、その知っていると自分で思っている「恥」の内実が人によってまったく違うという現実の複雑さは無視できない。これは「間違った-行動」を「恥ずべき-行動」と表現し直したために生じた新たな論点だ。
例えばラスコーリニコフの強盗殺人が「恥ずべき-行動」だったとして、それが「恥」である理由は、ルージンのような登場人物にとっては元大学生による強盗殺人など「わが社会の文化的階級の頽廃ともいうべき現象」だからということになるだろう。しかしポルフィーリイのような登場人物にとっては違う。彼がラスコーリニコフの強盗殺人を「恥」だと見做すのはそれが「病的な頭脳が生みだした暗い事件」であり、「生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだした出来事」であり、その犯人が「殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている」からなのだ。ここでは明らかにルージンよりもポルフィーリイの方がラスコーリニコフの「恥ずべき-行動」が恥ずべきである所以を正確に理解している他者であり、そして逆説的なことだが、ラスコーリニコフの恥の感覚を残酷なまでに正確に見抜く存在の方が逆接的に彼にとっては救いとなる。ラスコーリニコフはポルフィーリイに自分が断罪されることは相対的に認めるかもしれないが、ルージンに自分の犯罪が断罪されることは絶対に許さないだろう。ルージンには彼の「恥」を理解するだけの力がないから。現にそのような言葉は彼自身の口から飛び出している。「ぼくは彼らに対して何の罪があるのだ? なぜ行かにゃならんのだ? 彼らに何を言うのだ? そんなことは妄想にすぎんよ……彼らだって何百万という人々を死滅させて、しかもそれをりっぱな行為と考えているじゃないか。あんなやつらはずるがしこい卑怯者だよ、ソーニャ!……行くものか。それになんと言うのだ、殺しましたが、金をとる勇気はなく、石の下にかくしましたとでも言うのかい?……それこそやつらがぼくを嘲笑って、言うだろうさ。金をとらなかったとは、あきれたばかだ! 阿呆な腰ぬけだと! やつらはなんにも、なんにもわからないんだよ、ソーニャ、わかるだけの力がないのさ。なんのために行かにゃならんのだ? ぼくは行かんよ。……」(第五部第四章)。また、ラスコーリニコフが自分を断罪する権利──「あなたは恥ずかしくないんですか?」という他者からの審問──を認めた人間がもう一人いる。ソーニャである。同様にナスターシャ・フィリポヴナにとってはムイシュキン公爵が彼女の断罪し審問する権利を認めた人間だった。
もちろんラスコーリニコフはまっさきに自分で自分の行動を断罪する──「そこまで俺は恥知らずで卑劣な人間なのか?」という自問の形で。自分の恥の痛覚は自分がもっとも直接的に認識できるのだから当然だが。思うに、『罪と罰』の作中強盗殺人よりも精妙な恥の感覚に裏付けられた「恥ずべき-行動」をラスコーリニコフは行っているのだが、その後でもやはり彼はまっさきに自分を断罪している──しかも他の誰にも(大部分の読者にさえ!)その恥の感覚は理解されなかったように見える。というのは、ソーニャに罪を告白する行為のことだ。あの行動はどう考えても良心の呵責に堪えかねてというような公明正大な行為ではなかった。彼自身の断罪の言葉を聞こう。「「でも、なんのためにおれは、なんのためにこの女に言ったんだ、なんのためにこの女に打ち明けたんだ!」一分ほどすると、限りない苦悩にぬれた目で彼女を見まもりながら、彼は絶望的に叫んだ。「いまきみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと坐って、待っているんだね、ぼくにはそれがわかるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ? 説明したって、きみには何もわかるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ……ぼくのために! ほら、きみは泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。──ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ? ぼくが一人で堪えきれないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみをわかつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」」「ソーニャ、ぼくはずるい心がるんだよ。それを頭においてごらん、いろんなことがそれでわかるから。ぼくがここへ来たのも、ずるいからだよ。こうなっても、来ない人々だっているよ。だがぼくは臆病で……卑怯な男なんだ!……」」(第五部第四章)。「そうだ、彼は、自分がほんとうにソーニャを憎んでいるかもしれない、それも彼女をますます不幸にしたいまになって、ますますそうなのかもしれない、と改めて感じたのである。《なぜ彼女に泣いてもらいに行ったのか? なぜ彼女の生命をこれほどむしばまなければならないのか? おお、なんという卑怯なことだ!》」(第五部第五章)。彼自身の言うとおり、あの告白はソーニャを苦しめ彼女の生命を蝕むことをもたらす「恥ずべき-行動」に他ならず、ラスコーリニコフは行為が終わった後にあらためて自分の卑劣さを深刻に自覚せざるを得なくなる(行動の追想、後悔、自己処罰)。廉恥心から彼は告白したのではなかった。その行為によって彼はいよいよ(彼自身の目にとって)恥知らずな裏切り者へと落ち込んだ。あまりにも複雑な恥の感覚の持ち主は、大抵の人々が痛痒を感じないところで自分を残酷なまでに断罪する。似たような特異な人物として我々は『カラマゾフの兄弟』のイワン・カラマゾフを知っている。
ところで、ラスコーリニコフは自分の「恥ずべき-行動」によって結局苦しむ羽目に陥っているのだが、こんなに苦しむことになるのならなぜ彼は恥知らずな振舞いに及んでしまったのだろうか? なぜわざわざ苦労して自分を苦しめる方へと向かうのだろうか? 答えは、彼の「恥ずべき-行動」が動機の言語化によってではなくほとんど非意識的な兆候への反応だけで、自意識を置き去りにする形で「もののはずみ」で実行されてしまったからだ。しかも彼の自意識はその恥ずかしさ・卑劣さを偏向的な触覚の下に置いて、あたかもそれが価値のある必要な正当な行為であるかのように彼自身に見せ掛けた。だから彼の苦しみはその偏向の触覚、すなわち自意識と非意識との弁証法に由来している(「間違った-感情」のケースと類比的に)。彼は意志的な計算によって──何らかの効果を狙って──「恥ずべき-行動」に及んだのではない。非意識においては恥ずべき行為だと分かっていることを自意識が空疎に正当化するという悪循環の中で、他者と社会と現実に翻弄されながら、彼は打算なしに(小林秀雄の言い方を借りれば、「無私」に──「もしマルメラアドフという意気地のない酔漢にも、ポルフィイリイという狡猾な判事にも、スヴィドリガイロフという絶望した漁色家にも、凡そ常識を超えた、一種言い難い、恐ろしいような無私を感得出来る眼があるなら、ラスコオリニコフの自意識も、殆ど無慙とまで形容したいような真率さに貫かれているのが見えるだろう。彼は、ニイチェアンとしては、単なる道化に過ぎまいが、ニイチェアンになるにはあんまり烈しく無垢であり過ぎた」)殺人と告白に及んだ。偏向=自己欺瞞の能動性こそが彼を不可解に受動的に「恥ずべき-行動」の方へ押し流したと言えなくもない。そしておそらく、彼が偏向の触覚によって荒廃し苦しんでいることを見抜くことのできる人間こそ、彼にとっての救いだ。ソーニャは直覚的にそれを見抜いたと思われる。
余談。いわゆる「兆候的描写」を「偏向の触覚的描写」と言い換えることが出来る。どちらも内省に先立つ点共通している。非意識の触覚に自意識が置き去りにされる感覚。ドストエフスキーの文体に独特なゆっくりと場面がスクロールしていく感覚はこれに由来するのか。
余談2。「恥ずべき-行動」の具体例。例えば秘かに虐めに加担すること。公然と虐めに加担することは恥の感覚としてあまりに単純過ぎるが……。
余談3。以前我々はナスターシャ・フィリポヴナやラスコーリニコフの「間違った-感情」に直観的にのみ見出される倫理的一貫性を認めたが、それは彼らの繊細で独特な恥の感覚を証立てていると言えるのではないか。だからこそラスコーリニコフはルージンよりも倫理的なのだ。「……卑劣な結果に終ったこと、それは確かだが、でもやはりあなたは望みのない卑怯者ではない。決してそんな卑怯者じゃない! 少なくともいつまでもぐずぐず逆らっていないで、ひと思いに最後の柱まで突進した。わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです、信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸をえぐりとられようと、毅然として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていきなさい」(『罪と罰』第六部第二章、ポルフィーリイの科白)。
:半初対面を可能にする情報空間と「空想」
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一つの着眼。ドストエフスキーの小説内では登場人物間の関係が久し振りの対面であったり、前々から名前は知っていたけれどまともに話すのが初めてだったりというふうに、「半初対面」とでも言うべき形で結び付けられているパターンが非常に多い。純粋な初対面というパターンも少なくない。そして日常的に主人公と接している友人・知人が重要な役割を果たすことはほとんどない。とにかく小説の物語の始めから終わりまでの時期に「半初対面」という例外的契機で登場人物たちが出会うというパターンが多過ぎる。
具体例を挙げれば、『罪と罰』ではラスコーリニコフとマルメラードフは初対面、マルメラードフとの対話で名前を知るので、ラスコーリニコフとソーニャは半初対面。同じく、ラスコーリニコフとカテリーナ・イワーノヴナは半初対面。ラスコーリニコフと妹ドゥーニャ、ラスコーリニコフと母プリヘーリヤとの作中の出会いは久し振りの対面だから半初対面。すでに母の手紙で名前を知っていたのでラスコーリニコフとスヴィドリガイロフは半初対面(しかもスヴィドリガイロフは前々からドゥーニャの兄であるラスコーリニコフに興味を持っていた)。同じく、ラスコーリニコフとルージンは半初対面。友人ではあるけれどもそれまでまともな付き合いをして来ず、小説内の物語時間で初めて深い関係になったので、やはりラスコーリニコフとラズミーヒンは半初対面。ラズミーヒンの親戚として間接的繋がりはあった(しかもポルフィーリイの方では事件の前後からラスコーリニコフに興味を持っていた)ラスコーリニコフとポルフィーリイも半初対面。リザヴェータのことはラスコーリニコフの方で前々から知っていたのでラスコーリニコフとリザヴェータは半初対面。
『白痴』の場合は主人公のムイシュキン公爵にとってすべての人物が初対面となる。『未成年』では、最も重要なアルカージイとヴェルシーロフの関係が、久し振りの親子の対面ということで半初対面に設定されている。また、クラフト、ソコーリスキー若公爵、アンドレーエヴナ、カテリーナ・ニコラーエヴナといった重要な脇役と主人公の関係はすべて半初対面だ(前々から主人公の方で興味津々だったという関係)。『カラマゾフの兄弟』では厳密には小説内の時期における半初対面というわけではないが、ドミートリイもイワンもアリョーシャも兄弟なのにほとんど一緒に暮すことなく、第一部第一篇第五章で書かれている通りに──「それまで顔も見たことのなかったふたりの兄の帰郷は、アリョーシャにきわめて強烈な印象を与えたらしい。長兄のドミートリイに対しては、──彼はあとから帰って来たのに、──同腹のすぐ上の兄イワンに比べてずっと早く打ちとけることができた。ところがイワンに対しては、アリョーシャは非常な興味を抱いて早くこの兄のことを知りたいと思っていたのに、もうこの町へ来て二ヵ月にもなり、かなりしばしば顔を合わせていたにもかかわらず、ふたりはいまだに親しくなれなかった」──すなわち十九歳になってアリョーシャは初めて二人の兄と対面したのであり、しかもその後もイワンとは一緒に暮らしながら半初対面的な疎遠の関係にあったことが分かる。さらに言えばアリョーシャが父フョードルの元へ帰郷したのもつい最近であり(それまでは亡き母の縁戚のポレーノフ家で育てられていた)、従ってこのカラマゾフ一家は家族でありながら全員がほぼ半初対面といった仲に近いのだ。その他ドミートリイにとってゾシマ長老が半初対面だったり、アリョーシャにとってグルーシェンカが半初対面だったりと、この長篇にはさまざまな半初対面関係が張り巡らされている。重要な関係であるイワンとスメルジャコーフも会ってまだ二ヵ月しか経っていない。或いは、アリョーシャとコーリャの出会いも次のような具合に半初対面的だ。「「すばらしい! やっぱり僕の目に狂いはなかった。あなたは人を慰めることのできる方です。ああ、どんなに僕はあなたに心を引かれていたことでしょう、カラマゾフさん、どんなに長いあいだあなたに会える日を待っていたことでしょう。それじゃあなたも僕のことを考えていてくれたのですね? さっきそう言われましたね、あなたも僕のことを考えていたって」/「そうです、僕は君のことを聞いて、やっぱり君のことを考えていました。……君が今そんなことを聞いたのが、それもまた多少は自尊心のためだとしても、そんなことはかまいません」」(第四部第十篇第六章)。またさらに、中篇小説では、『永遠の夫』はヴェリチャーニノフとトルーソツキイという二人の半初対面関係(久し振りに会った)を物語の前提に置いているし、『白夜』は主人公とナースチェンカとの出会いが物語の全てとなっている。
なぜドストエフスキーの小説ではこのように半初対面や初対面といった契機が重要視されるのだろうか。逆に、ずっとそれまで親密な関係を続けて来たといった契機が軽視されるのだろうか。一つには、半初対面的な間柄だからこそ小説内の物語時間で習慣を逸脱した濃密な対話が生起し得る、ということもあるだろう。例外的事象は例外的な人間関係を前提とする。ここから小説空間の設定についても一つの視点を提示できる。相手のことを知ってはいるけれどまだ会ったことはない関係性、或いはもう長いこと会っていない関係性、というのを実現するためには、相手の情報は伝わっているけれども相手の身体は接近していないという距離感を可能にする小説空間が必要だと思われるからだ。半初対面を可能にする情報空間。その情報空間は主人公の自意識にとっては非意識──というか前意識──の領域に属するだろう。そして前意識における潜在的知人との出会いにはまず前触れとして兆候としての情報の接近があるだろう(完全な初対面の場合は別)。
半初対面の相手との間でこそ濃密な対話、というか印象の鮮明な対話が可能になるというのは本当だ。事前に他者に対して抱いていた過剰な空想や幻想や憧憬や恐怖がそこで炸裂するからだ。アリョーシャに対するイワンの謎めいた立ち現れ方も、兄弟でありながらまだ初めて顔を合わせてから間もないということが前提になっている。空想や幻想が働き得る距離感というものの設定が非常に重要だろうということ。また、初対面のケースでも最初に受けた印象があまりにも謎めいて解きがたいものである場合、事後的に相手への空想や幻想が過剰になるということはある。その時期の相手との関係性もまた半初対面的と言ってよいだろう。欲望偏差表とはまた幻想偏差表の謂いでもある。(付け加えて言うと、単純に、初対面に近い間柄だからこそより貪欲に相手のことを観察し=描写し認識しようとする動機が生まれるというところもある。『貧しき人びと』における引っ越したばかりの時のジェーヴシキンのラタジャーエフやゴルシコーフに対する関心など。ムイシュキン公爵やアルカージイといった主人公にもこれはよく当て嵌まる。)
しかし以上は形式的な分析に過ぎない。半初対面という契機の本質的な意義は何なのだろうか。おそらく、半初対面の距離感が生む「自分が相手に対して抱く幻想」「相手が自分に対して抱く幻想」「相手が第三者に対して抱く幻想(を自分がどう思うか)」「自分が第三者に対して抱く幻想(を相手がどう思うか)」という幻想の相互格差が自意識と非意識との弁証法に繋がる時に、小説世界に例外的な事件──「間違った-感情」「恥ずべき-行動」!──の種が蒔かれる。それが決定的なのだろうか。いや、そもそも幻想の相互格差が生まれるためには現実的な条件が必要だが、「半初対面」という契機はそうした現実的な条件の一つに過ぎないかもしれない……。
結局「半初対面」という契機は小説に何をもたらすのだろうか? 登場人物たちの幻想がぶつかり合う機会、だろうか。例えばムイシュキン公爵はエパンチン家の人々に出会う前に次のような幻想を抱いていた──「まだベルリンにいた時分、《あのかたたちはほとんど親戚みたいなものなのだから、あのかたたちからはじめてみよう。ひょっとすると、私たちはおたがいに役にたつかもしれない、あのかたたちは私に、私はあのかたたちに。もしあのかたたちがいい人たちだったら》なんて考えたものですから。それに、私はあなたがたがいい人だとお聞きしましたので」(第一編第三章)。確かに、すでに初対面とは言えないような間柄の人間に対してはこのような出会う前からの幻想や空想を育てることはあり得ないし、それが現実に烈しくぶつかるということも起こらない。だが、それだけのことだろうか?
ここで今我々は「空想(幻想)」という言葉を使った。考えてみると、この言葉はドストエフスキー作品の要所要所で用いられている。「《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》」(『罪と罰』第一部第五章)。「あなたの言うとおりよ。あたしがまだ田舎のあの人のところに養われて、五年間もまったくのひとりぼっちで暮していたころ、あたしはよくあなたみたいな人を夢見てたんだわ。よくよく考えて考えぬいて夢にえがいてみると、正直で、人が好くて、親切で、そしてやっぱりすこし間の抜けた人を想像したの。そんな人がいきなりやってきて『ナスターシャ・フィリポヴナ、あなたには罪はありませんよ、私はあなたを尊敬しています』と言うのよ。ええ、よくそんな空想に苦しめられて、気が変になりそうになることもあったわ……」(『白痴』第一編第十六章)。「白状すると、わたしはこの空想をぎりぎりまでおしすすめて、しまいには教育をまで抹消したほどだった。わたしには、もしこの男が字も読めないような人間なら、もっとすばらしかろうと思われたのである。この誇張された空想がそのころでさえすでに中学七学年のわたしの成績に影響をもったのだった」(『未成年』第一部第五章第三節)。「「まあ待て、待ってくれ」と言ってイワンは笑いだした。「馬鹿にいきり立つじゃないか。お前が幻想と言うなら幻想でもいい。むろん幻想さ。……」」(『カラマゾフの兄弟』第二部第五篇第五章)。「なにか新しい願望が誘惑するように彼をくすぐり、その空想をいらだたせ、自分でも気がつかないうちにまた無数の新しい幻想を呼び集める。小さな部屋の中には静寂がたちこめている。孤独と怠け心がやさしく彼の空想を撫でさする。すると空想はかすかに燃えあがり、やがて老女中マトリョーナのコーヒー・ポットの中の水のように、しだいに湧きたってくる」(『白夜』第二夜)。──しかもこれらの「空想」はすべて主人公ないしは主要登場人物から彼と「半初対面」的な関係性にある人物に対して打ち明けられる形になっている。ラスコーリニコフが自分の犯罪企図を自白するのはソーニャに対してであり、ナスターシャ・フィリポヴナが自分の狂おしい過去の空想を吐露するのはムイシュキン公爵に対してだ。アルカージイの場合は微妙だが、次の一節を考えると彼が自分の理想=空想の一端をカテリーナ・ニコラーエヴナに洩らしたことは間違いない。「ところがおぼえてらっしゃる、わたしたちビスマルクの話であぶなく喧嘩になるところでしたわね? あなたはあのとき、ビスマルクの理想なんかよりは『はるかに純粋な』自分の理想をもっていると、さかんに強調なさいましたわね」(『未成年』第二部第四章第二節)。イワンの場合、大審問官の劇詩がまるごと彼の空想だとして、彼がそれを曝したのはまだ初めて会ってから二ヵ月にもならない弟のアリョーシャの前でなのだ。『白夜』の主人公が彼の空想癖を饒舌に語るのもまだ会って二日目の少女に対してである。いずれのケースでも、主人公は自分が長年秘密のように抱えていた空想、ほとんど彼自身の人格と一体化しているかのような空想を、半初対面の相手に対して吐露する。さらに言えば、いずれのケースでも、主人公の空想の中において、それを打ち明けられる相手は《つねに・すでに》間接的な登場人物となっているかのようだ。主人公たちにとって自分の空想を露呈させられる相手との出会い──半初対面的な遭遇──は決定的な意味を持っている。
つまり、半初対面的な出会いという契機は主人公の過剰な空想を開示させ現実的な力を帯びさせる──ことがある。出会った相手次第なわけだけれど。逆に言うと、そのような出会いが生じる可能性のない小説空間は退屈だ。例えば職場の同僚しか出て来ないような小説空間。そこでは空想が他者に作用するということがないし、空想が現実に復讐されるということも起こらない。空想は悪魔的でも天使的でもあり得る。無邪気なものでも恥ずべきものでもあり得る。主人公たちは苦しいくらいに空想を膨らませている。そこから現実的な何かが生じることを求めている、密かに。だが、それには他者と「半初対面」的に出会うことが必要なのだ。というわけか。
いや、半初対面ないし初対面の関係性における空想の吐露、というのはそこまで幻想的で過剰なものでなくても、ドストエフスキーの長篇のあらゆるところに見出せるように思われる。別パターンとして、マルメラードフはむしろ初対面のラスコーリニコフの中に自分の空想──「そしてその御手をわしらのほうへさしのべる、わしらはひれ伏して……泣き出す……そしてすべてがわかるようになる! そこではじめて目がさめるのだ!……みんな目がさめる……カテリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝の王国の来たらんことを!」──を打ち明けるに足る相手を見出したのかもしれない。『白痴』では、まずロゴージンがムイシュキンの中に自分の妄執を打ち明けてかまわない相手を見出すのだし(「公爵、なぜかわからんが、おれはあんたにほれちまったよ」)、さらにムイシュキンがエパンチン家の召使の中に自分の想像(「ところが私はそのときふと、こんなことを思いついたんです」)を語る相手を見出すのだ。今挙げた三つの例はすべて完全な初対面のケースである。初対面にもかかわらず、なのか、初対面だからこそ、なのか。
とはいえ、誰構わず吐露される空想よりも、相手を選び、しかもその相手があらかじめ間接的に登場人物となっているかのような空想こそが物語にとって重要なのは間違いない。そのような相手というのはおそらく主人公と「恥の感覚」の繊細を共有できる人物だろう。さらにまた、そのような他者を相手とした対人幻想も物語にとって重要である。それが一方通行のものではなく、互いに互いが半初対面の人間だからこそ相互にひとりよがりな相手に対する幻想を持ち合っているという状況であればなお興味深く、重要となる。実際、ソーニャはラスコーリニコフの空想を受容するだけでなく自分もまたラスコーリニコフに対して幻想を抱いていた。同じように、ムイシュキン公爵もまたナスターシャ・フィリポヴナに幻想を抱いた。同様に、カテリーナ・ニコライエヴナも初対面の前からアルカージイに対して空想を膨らませていた(若干悪魔的に)。アリョーシャが同じく謎めいた兄に対して幻想を抱いていたことは無論だ(それ以外の例では、ポルフィーリイがラスコーリニコフに出会う以前から彼に対して抱いていた幻想など──「わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして……しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、《さて、この男はこのままではすまんぞ!》とね」──を挙げられよう)。つまり、主要な登場人物は相互に空想家であってよい。ニーチェの言う「詩人的性質」の持ち主であってよい。「先まわり屋──詩人的性質の特徴でもあり、また危険でもある点は、彼らの消耗性の想像力である。将来起こること、起こるかもしれぬことを先まわりして考え、先まわりして享楽し、先まわりして悩み、そこでいよいよ事がはじまり行動するという段になると、もうすでに疲れはてている想像力である」(『曙光』第四書254)。
それぞれでベクトルの相違するひとりよがりな幻想と関心を抱いた登場人物たちとの半初対面的な関係性が、主人公に多重に折り重なって来るという状況。それを可能にする情報空間=郵便空間。小説はそこから出発すべきか。
:「空想」の間違い
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相手の情報は伝わっているけれども身体は接近していないという情報空間で育まれる「半初対面」的他者への空想・幻想は、現実から乖離しているという意味で「間違っている」。その空想が他者破壊を目指す悪魔的なものであれ他者を無闇に持ち上げる天使的なものであれ、それは現実からすれば、他者に対してアンフェアで偏向的なものにならざるを得ない。空想・幻想は自分に対するものの場合もあるが(自分の他人に対する影響力を想像的に誇大視したり)、いずれにせよそれは現実の自己や他者を無視してしまっている。結晶作用のような愛情に基づく空想でさえアンフェアで「間違っている」のだ。
自意識は自己欺瞞的にその空想を促進する方向に働く。だが同時に自意識は非意識との自己関係的なズレにおいてその空想が間違っていること(卑劣であること・恥ずべきものであること)に薄々気付いている。とはいえ自分自身の気付きだけでその空想が膨らんでいくことを止められるわけではない。そこで空想家は奇妙な分裂的な苦しみに苛まれる。その苦しみを理解出来るのは同じように過敏な別の空想家だけだろう。
対人幻想は端的に言えば「自分が相手をどう見ているか」が結晶化したものだが、それは「半初対面」のような相手への理解がまだ深まっていない段階でこそより誤謬の比率が高い。しかもその誤謬はさらなる「間違った-行動」の引き金となり得る。第一に、その空想を現実に作用させようとして当人が行ってしまう行動において。第二に、その空想が現実に作用してしまった結果引き起こされる行動において(空想は意識的にであれ無意識的にであれそれが他者に伝われば何らかの作用を相互にもたらさずにはいない)。その後に来るのは行動の追想、後悔、そして非常に複雑な自己処罰だ──「そこまで俺は恥知らずで卑劣な男なのか?」。いや、自分自身の断罪さえさらに空想的で偏向的で「間違っている」こともあり得る。そこまで空想は主人公を苦しめる。おそらく、主人公は自分一人の力だけではその空想の苦痛とアンフェアネスから逃れることができない。鎌田哲哉+小林秀雄は次のように書く。「……〔『罪と罰』の〕主人公のなかにもがいてでも身を裂いてでも現実(外界)を感じたいという衝動があり、それがこの「実験」を招いた決定的な理由であることは確かだ。「殺人は、ラスコオリニコフの『何処でもいい、何処かに行くところがなければならぬ』、そういう場所であった」。だが、……内省は、何故殺しては(殺したのが)いけないのか(いけなかったのか)、という抽象的な水準だけで循環し、彼が希求する現実を決してもたらすことがない。正確には、ある現実を内省するその内省のあり方が「現実」を抹消してしまう。だから小林は書く、「何故婆さんを殺してはいけないのか、という悩ましい事前の空想が、そのまま、何故婆さんを殺したのがいけなかったかという事後の苦しい反省に変り、事件そのものは、両者の間にはさまれて消えるのである。(略)そうだ、確かに彼は外に飛び出した。が、気が附いてみるとやはりこちら側にいた。ガラスは壊れなかった。斧の一撃は、完全に彼を裏切った。彼には、成功はおろか、失敗さえする事が出来なかったのである」」(「『ドストエフスキー・ノート』の諸問題」)。
小説家は主人公の空想の過誤を正確に測定してそれを虚構しなければならない。
:ドストエフスキー読解格子 その2
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●ドストエフスキーの小説内において、登場人物間の関係が久し振りの対面だったり、前々から名前は知っていたけれどまともに話すのが初めてだったり、出会ってからまだ間もなかったりというふうに、「半初対面」とでも言うべき形で結び付けられていることが多いことに注目。純粋に初対面というパターンも少なくない。そして日常的に主人公と接している友人・知人が重要な役割を果たすことはほとんどない。常から主人公に近しい知人よりもむしろ半初対面の他人を優先させるということ。
●「半初対面」という契機を可能にする小説空間=情報空間=郵便空間に注目。それは相手のことを知ってはいるけれどもまだ会ったことはない関係性、或いはもう長いこと会っていない関係性、まだ出会ったばかりで相手のことをよく知らない関係性、というのを実現する空間でなければならない。つまり、相手の情報は伝わっているけれども相手の身体は接近していないという距離感を可能にする小説空間。
●「半初対面」という契機によって、登場人物間で、他者に対する過剰な空想や幻想や憧憬や恐怖が働く距離感が可能になっていることに注目(疑心暗鬼!)。しかも登場人物それぞれでひとりよがりな幻想・空想はそのベクトルにおいて格差があり、それらは相互にすれ違いながら交錯する。また単純に、初対面に近い間柄だからこそより貪欲に相手のことを観察し=描写し認識しようとする動機が生ずるというところもある(もはや初対面とは言えないような間柄では出会う前からの幻想や関心が育つなんてことはないだろう)。「彼は、すべての出来事を必ずしも全部解釈できないから、それだけいっそう注意深く出来事を描写し、重要な細部を細大もらさず描きだそうとする」(『欲望の現象学』50頁)。そして、こうした幻想や関心が主人公の上に多重に折り重なって現実に烈しくぶつかり合うという点が物語の要だ。
●半初対面的な出会い以前に登場人物たちがどのように情報を受け取り幻想を育んでいるか、その順不同のプロセスに注目。半初対面という契機で結ばれた人物間には関係性の歴史というものは存在しないが、代わりに、多角的で偶然的で偏向的な情報解釈の歴史が双方に存在する。例えば人物αは人物βが金持ちであるという情報をどこから得て、それをどのように解釈したか? その構想も作者の芸術的創造の努力に含まれる。そのプロセスがどのように叙述されているかよく読むこと。
(情報についての偏向的な過剰解釈の例として次を引用しておく。「《だめだよ、ドゥーネチカ、おれはすっかり見通しだ。おまえはおれに話したいことがたくさんあるそうだけど、それが何だかおれにはわかっているんだよ。おまえが一晩中部屋の中を歩きまわりながら、何を考えていたかも、母さんの寝間にあるカザンの聖母の像のまえで、何を祈っていたかも、おれにはわかるんだよ。……》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●半初対面を可能にする情報空間の中で登場人物たちが抱く空想や関心が、兆候的描写へと結実するさまに注目。客観的な描写は意味がない。なぜなら登場人物たちの眼差しは彼ら自身の空想や関心によって偏向を被っているはずだからだ。しかも同時に彼らの知覚器官としての目や耳は対象の現実を直に捉えてもいるので、彼らが現前的に受け取る印象は必ず空想と現実とで二枚重ねになっている。従って彼らの眼差しはつねに動揺しており(不必要な、意想外な細部による中断)、客体とそれを観察する主体といった静的な図式には決して収まらない。
●小説空間内で情報の位相が変化することによって主人公の空想・幻想・憧憬・恐怖にどのような変化が起こるかに、注目。とくに半初対面的な関係で相手の情報が限られている状態では、スライディングブロックパズルのように情報の位相が組み替えられることによって、主人公の空想は大幅に変化してしまう。当人の想像力が過剰であればあるほど、その変化はほとんど強制されたように起こる。しかも、その新たな空想(の過誤)によってさらに間違った行動への切迫性が生まれることもある。
●登場人物たちの空想・幻想・憧憬・恐怖がどのようにコミュニケーションに影響しているかに注目。それがあからさまに打ち明けられるまでは、空想や幻想は基本的に「見えてないもの(目-無意識)」「メッセージ内容として伝わってないもの(声-無意識)」として兆候的にのみコミュニケーションに現われるが、とくに空想における相手とのベクトルの格差が言葉のやり取りの背後で作用する場合には、「言いたくないことを言ってしまったり思いも寄らないような感情的反応を出してしまったりする」ような闘争がほとんど自意識上の自覚をともなわずに、生じ得る。空想は単独的に主体の内部に抑圧されているのではなく、他人との半初対面的な関係性の中で死角にありながら相互的に作用する。
(言葉としてあらわれた空想=声-無意識の例として次を引用しておく。「「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人ですから、きっと自分からわたしに同居をすすめ、もうこれからは娘とわかれわかれになんて暮さないようにと言ってくれるにちがいありません、わたしはそう信じこんでいます。いままでそれを言いださないのは、むろん、言わなくてもわかっているからでしょう。……」「ドゥーニャはおまえに会える喜びで、まるでそわそわしていて、一度なんか冗談に、このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ、なんて言いました。……」(『罪と罰』第一部第三章)。)
●小説空間=情報空間内でのコミュニケーションによって登場人物間でどのように空想・幻想が変化したかに注目。というか批評的コミュニケーション(批判・懐柔・籠絡・挑発・要求・告発・同意・迎合・嘲弄・はぐらかし・労り・慰め・訓示・攻撃的議論・告白・言い訳・弁明・反省・吟味・嘘)は必ず情報量の漸進的増加をともなうはずだから、作者がいかに情報と空想の相関性を考慮しながら対話場面を構想しているかを注目して読むこと。当然、変化は相互的に起こり得る。
●主人公にとって自分の空想を露呈させられる相手との出会い──半初対面的な遭遇──が決定的な意味を持っていることに注目。ドストエフスキーの小説においては、主人公が自分が長年秘密のように抱えている空想、ほとんど彼自身の人格と一体化しているかのような空想を、半初対面の相手に対して吐露することが重要な事件となることが、よくある(それは恋の告白に似る)。相手は誰でも良いというわけではなく、もともとの空想の中でその特定の相手が間接的な登場人物となっていたというケースが多い。そこに上述の対人幻想が加わるとさらに事態は興味深いものとなる。空想は悪魔的でも天使的でもあり得る。無邪気なものでも邪悪なものでもあり得る。主人公たちは苦しいくらいに空想を膨らませていて、そこから現実的な何かが生じることを求めている、密かに。もちろん、主人公が「半初対面」的な他者から過剰な空想を打ち明けられるというパターンもある。空想・幻想の相互作用。
●半初対面を可能にする情報空間の中で登場人物たちが抱く空想が「間違っている」ことに注目。悪魔的なものであれ天使的なものであれ、それは現実から乖離しているという意味で間違っている。対人幻想──自分が相手をどう見ているか──の場合は他者(の現実)に対してアンフェアで偏向的であるという意味で間違っている。当然「半初対面」のような相手への理解がまだ深まっていない段階でこそより空想の過誤の比率は高い。結晶作用のような愛情に基づく空想でさえアンフェアで「間違っている」のだ。
(他者に対するアンフェアな空想の実例として次を引用しておく。「《ところで、ルージン氏は勲章をもっているだろうか。賭けをしてもいい、ぜったいに聖アンナ勲章が襟穴についている、そして請負人や商人のところへ食事に招かれて行くときは、それを胸に光らせて行くことはまずまちがいない。ひょっとしたら、自分の結婚式にもつけかねない!……》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●ただし空想・幻想は「嘘」ではないことに注目。つまり空想・幻想が間違っているとしても、それは意図的に虚偽なものとして構築されているのではない。むしろ空想している本人にとってそれは真実と同じくらい強い感化作用を帯びている。これもドストエフスキーが言っていることだが、「真理というものは──この世のいかなるものよりも詩的なものである、それが最も純粋な状態におかれているときにはことにしかりである。いやそればかりではない、とかくふらつきやすい人間の頭が捏造したり勝手に想像したりするどんなものよりも、ずっと幻想的であると言ってもよい」。打算的な嘘には幻想性はない。だが真理はほとんどつねにまったく幻想的なのだ。
●間違った空想によってその空想を抱えている人物自身が苦しんでいることに注目。というのも自意識の自己欺瞞はその空想を促進する方向に働くが、だが同時に自意識は非意識との自己関係的なズレにおいてその空想が間違っていること(卑劣であること・恥ずべきものであること)に薄々気付いているからだ。しかし自分自身の気付きだけでその空想が膨らんでいくことを止められるわけではない。そこで空想家は奇妙な分裂的な苦しみに苛まれる。その苦しみを理解出来るのは同じように過敏な別の空想家だけだろう。
●間違った空想の誤謬がさらなる間違った行動の引き金となる点に注目。第一に、その空想を現実に作用させようとして当人が行ってしまう行動において(この場合他者との空想ベクトルの格差が問題となる)。第二に、その空想が現実に作用してしまった結果引き起こされる行動において(空想は意識的にであれ無意識的にであれそれが他者に伝われば何らかの作用を相互にもたらさずにはいない)。その後に来るのは行動の追想、後悔、現実からの復讐、そして非常に複雑な自己処罰だ──「そこまで俺は恥知らずで卑劣な男なのか?」。いや、自分自身の断罪さえさらに空想的で偏向的で「間違っている」こともあり得る。
●間違った行動が大抵の場合失敗することに注目。失敗するのはそれが情報空間内での偏った不充分な認識(失念も含む)に基づいているからで、仮に成功したとしてもすべての状況を吟味した上での沈着な行動だったからではなく、賭事のように僥倖に依ったに過ぎない。だから、そこには賭事と同じく短絡的決断によって現実を手懐けようとする非意識的な享楽も含まれている。それは読者をハラハラさせる。そしてその失敗は当人に後になって泣きたいような屈辱をもたらすことだろう。
●主人公の空想の過誤と間違った行動を審問する他者の存在に注目。主人公の間違いとアンフェアネスに対しては他の登場人物が──ときには無言のまま──「あなたは恥ずかしくないんですか?」と審問する存在として立ち現われることがある(やはりそれも「半初対面」の相手だろう)。その他者はあたかも鏡のように主人公に己の間違いをまざまざと見せつける。ただし人によってその鏡の曲率は異なり、主人公の「恥知らず」を断罪する理由はそれぞれ異なる。従って主人公はすべての他者に自分を断罪し審問する権利を認めるわけではない。主人公の廉恥心の方がそれを非難する人間よりもはるかに繊細で深いということはあり得るからだ。何より自分の空想の過剰に最も苦しんでいるのは彼自身なのだから。
●空想家の主人公が自らの空想と現実との乖離を痛感し、その遅れを過剰に取り戻そうとしてますます現実から置き去りにされる、という瞬間に注目。情報の接近にせよ物質の接近にせよ身体の接近にせよ、自意識の期待を裏切る形でほとんどの出来事は進行していくので、己の空想の能動性に固執すればするほど彼は遅延していくのである。そこから生まれる「間違った行動」も自意識が翻弄された果ての不自由なものでしかない。そのパラドックスをどう文体化・物語化しているか。
●主人公が自分と他人との相互認識の格差、および空想ベクトルの格差を痛感し、しかしそうした他人の空想の複数的な作動をどうすることもできずに苦しむさまに、注目。他人たちの空想もまた彼自身の空想が現実から乖離して間違っているのと同様に、アンフェアで間違っていることがしばしばだ。しかし、その過誤を彼はどうすることもできない。彼の自意識はそれに抵抗できない。そのため彼は苦しみ、動揺する。
(主人公が他者との空想ベクトルの格差に苦しむ例として次を引用しておく。「《ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●主人公が自分自身についても幻想を抱いていることに注目。その自己の現実から乖離した空想は、大抵自分自身の言葉ではなくて他者の言葉によって鎧っている。しかもそれは強制された空想であり、自分でもそれが間違っていることに薄々気付いている。だが主人公は内省によってはその幻想を除去できない。その自己関係的なズレの受苦性がいっそう彼を衝動的な間違った行動へ使嗾することもあるだろう。
●主人公が間違った行動の最中に却って自己中心的なカタルシスを感じていることに注目。いずれにせよ突然の行動化の中には、葛藤や苦悩を超克したという能動感がある。たとえそれが間違っていたり恥ずべきものであったり自己破壊的なものだったり取り返しのつかないものだったとしてもだ。さらに言えば、その行動が自意識のコントロールを離れた──「なぜか知らないが……してしまいたいという気がむらむらと私の心の中で頭をもたげた」──空想と現実に翻弄されただけの受動的な行動に過ぎなかったとしてもだ。
:過剰な空想や幻想や憧憬や恐怖や自己欺瞞に関する、ニーチェの箴言
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◆「人間の運命。──一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている。」(『人間的な、あまりに人間的な』1-518)
→→→主人公としての空想家はただ空想に盲にされているわけではなく、それが現実から乖離したアンフェアで間違ったものであることに薄々気付いている。逆に言えば、一段深く考える人でなければ小説の主人公足り得ない。彼は虚栄心の強い人物ではない。
◆「虚栄心における自己享楽。──虚栄心の強い男が願うのは実際にすぐれることよりは、自分をすぐれたものと感ずることだ、だからどんな自己欺瞞や自己謀略の手段も斥けない。彼の心にかかっているのは、他人がどう思うかではなく、他人の思うところを自分がどう思うかということだ。」(『人間的な、あまりに人間的な』1-545)
→→→空想家にも程度の低い者がいる。自分自身についての幻想をそれが幻想と気付かないような人間で、小説内では脇役の位置が相応しい。『罪と罰』のルージンや『カラマゾフの兄弟』のミウーソフなど。そこには自分の空想の間違いをとどめ得ないことへの受苦性がない。
◆「情熱から意見が生ずる、精神の怠惰がこれを信念に硬ばらせる。──しかし自分が自由な、絶えず生き生きした精神を抱いているのを感ずる者は、不断の変転によってこの硬化を防ぐことができる。……混合した実質を持っていて時には火に熱しとおされ或いは精神に冷やし徹される我々は、自分の上に承認する唯一の女神として公正の前に躓こう。我々の内の火は我々を通常不公正にならせ、あの女神のいう意味で不潔にならせる、我々がこの状態で女神の手をとることは決して許されない。……我々がすっかり燃えつくして炭となりきらないように我々を救ってくれるものは、精神である。精神は我々を時折公正の供物壇から引きさらい、或いは石絨の網の中へ包んでくれる。火の中から救い出されて、我々はそれから、精神に駆りたてられ、意見から意見へ、さまざまな党派の変転を通り抜けて歩いて行く、凡そ裏切られ得るあらゆる物の高貴な裏切者として──それでいながら罪の感情なしに。」(『人間的な、あまりに人間的な』1-637)
→→→これは全面的に同意するわけではない。これを読み替えればまず情熱から過剰な空想が生まれ、その火が我々を不公正にすると言えるだろう。そして情熱に駆られて次から次へと不公正を重ねることは裏切りの痛覚と罪の感情を我々にもたらす。精神以上に情熱と想像力・空想力・妄想力を重視するならばニーチェとは違ってそのような結論がもたらされる。
◆「不正をやるのは馬鹿げている。──自分が加えた不正は、自分に加えられたひとの不正よりも、ずっと堪えがたいものだ(よく注意して貰いたいが、別に道徳的理由からではない──)、悪行者は本来いつも悩む者である、つまり彼が良心の呵責を感じ得るか、それとも彼が自分の行為によって世間を自分に対して武装させ、自分を孤立させてしまったことを見ぬける人であるとすればのことだ。だから宗教や道徳の命ずるあらゆることはまるで別問題としても、ただ彼の内心の幸福のため、つまり彼の快適さを失わないためだけにも、不正を働くことは用心せねばならないだろう、不正を蒙ることよりももっと用心せねばならないだろう、なぜなら後の方のことは晴れやかな良心とか、復讐の希望とか、正しい人びと、それどころか悪行者を恐れる全社会の同情と喝采とかいう慰めをもっているからである。──自分の不正をみな彼等に加えられたひとの不正に贋造し、彼等自身のしたことに対して釈明として正当防衛の例外的権利を自分に保留しておくという不潔な自己欺瞞に長けている者が少くない、こうしてずっとらくにその重荷に堪えるために。」(『人間的な、あまりに人間的な』2-52)
→→→ここでも二種類の空想家の区別が見られる。「悩む者」、すなわち自分の空想のアンフェアネスによって自分の幸福を損なった、損ないつつある事実を見抜いて苦しむことのできる人間と、逆にその事実を見舞いとして不潔な自己欺瞞を展開する人間と。
◆「密偵としての怒り。──怒りは魂を洗いざらい汲みつくして、底の沈殿物まで明るみにさらす。だからその他にはっきりさせようがないようなときには、本当のところ私たちに対してどういうことがやられたり考えられたりしているのかすっかり知るために、自分の環境、味方や敵を怒りにおとしいれることを心得なくてはならない。」(『人間的な、あまりに人間的な』2-54)
→→→空想や幻想は普通私秘的なものなので他人に吐露されることは滅多にない。それが曝け出されるのは当人が何らかの感情に取り憑かれてのことだろう。ニーチェに従えばそれは魂を洗いざらい汲みつくすような怒りだ。おそらくそれは、自分自身に対して向けられた怒りの汚辱でもあるだろう。そしてその後に来るのは慙愧だ。「世間には自分のひどく激しやすい性質の中に異常な快感を見いだす人間がいるものだ。そうした感情的な人間は、後で慙愧のためにおそろしく苦しめられるものだが、これはもちろん彼らが聡明な人間であって、自分が必要以上に十倍も感情的になったことを悟ることができる人たちの場合に限っての話である」。
◆「不正直な賞賛。──不正直な賞賛はその後で不正直な非難よりもずっと強い良心の呵責をおこす、大方そのわけは、ただ強すぎる賞賛によって、強すぎる不当でさえある非難によるよりも、われわれの判断力をずっと強くさらけ出してしまったせいである。」(『人間的な、あまりに人間的な』2-87)
→→→不正を行うことは不正を蒙ることよりも有害、というテーゼの応用。アンフェアな空想や幻想に憑かれた行為はそれが相手を賞賛する=理想化するものであっても、フィードバックで行為者に罪悪感をもたらす。
◆「正直さの誤算。──これまでわれわれの隠していたこと、まさにわれわれの一番新しい知り合いが真先に聞き知ることが時折ある、われわれはその際愚かにも、われわれの信頼の証拠を示すことが彼等をしっかり繋ぎとめておける何より強いきずなだと思うのだ、──ところが彼等はわれわれが口に出すことの犠牲をそれほど強く感ずるだけわれわれのことを知ってはいないで、裏切りなどとは思いもせずに、われわれの秘密を他の人びとに洩らす、その結果、われわれは恐らくそのためにわれわれの旧知を失ってしまう。」(『人間的な、あまりに人間的な』2-254)
→→→なぜ登場人物たちが「半初対面」の人間に対して自分の最も重要な秘密を告白してしまうのか、という問いへの一つの解。言うまでもなく「半初対面」の人間相手の方が、「自分が他人からどう思われるか」という印象を操作し易い。それが良いものであれ悪いものであれ何かしらの印象(空想)を与えることができるというだけでも、人は半初対面の人間を相手にして、旧知の友人に対しては絶対言わないようなことさえお喋りしてしまうのかもしれない(無論そこには罪悪感が伴う)。そういう無責任な欲望がわれわれにあることを否定できない。旧知の友人との親密さは、もはや何も新しい印象を惹き起こすことができないという退屈さと紙一重だ。
◆「心にもない理想的人物。──凡そこの世で最もやりきれない感情は、いつも自分が何か実際より高いものと見られるのを発見することだ。というのはその際こう自認せねばならないからだ、お前の身の何かしらがまやかしなのだ、お前の言葉、お前の表情、お前の身振、お前の眼、お前の行為が──そしてこのごまかしの何ものかがお前のいつもの正直と同じほど必然なのだが、しかしその正直の作用と価値を始終帳消しにしているのだと。」(『人間的な、あまりに人間的な』2-344)
→→→自分が抱くものであれ他人が抱いているものであれ、アンフェアで間違った空想・幻想は「やりきれない」。所詮それは情報空間の不完全さや非対称性によって可能になっているに過ぎない「まやかし=偏向」なのだから。その自覚が当人にあればあるほど、なおやりきれない。そして不完全な情報空間において情報が出揃うまで相手についての判断をどこまでも吟味し続ける慎重で謙虚な「公正の天才性」(1-636)は稀だ。
◆「無感情の者の残酷さは同情の反対である。感情豊かな者の残酷さは同情のいっそう強められたものである。」(『生成の無垢』上-859)
→→→「感情豊か」を「想像力豊か」と読み替えたい。想像力過剰な者の攻撃性は同情のいっそう強められたものである。
◆「強さの悪──……強さの悪は、そのことを考えずに、他人に苦痛を与える、──それは外に出ずにはすまない。弱さの悪はひとに苦痛を与えて、その苦悩のしるしを見ようと欲する。」(『曙光』371)
→→→ここで言う強さの悪というのは、筋肉運動による突発的な暴行のことをおおむね意味する。対する弱さの悪は、思うに想像力の悪のことだろう。空想家の悪行とアンフェアネスの攻撃性は、他人に苦痛を与えるだけでなく、その苦悩のしるしが表われるのを見ようと欲する。「半初対面」の相手にどんな空想の変化が起こったかを確認しようとして。
◆「中心──「自分が世界の中心だ!」というかの感情は、われわれが突如として恥辱感に襲われたとき、非常に強く起こる。そのときわれわれは奔騰するもののまん中に茫然佇立して、四方八方からわれわれを見下ろし、かつ見透す一個の巨大な眼によって眩暈に陥る思いがする。」(『曙光』352)
→→→一段深く考えることのできる人間=悩む者なら、自分自身のアンフェアネスの証拠を自分自身の記憶に探り当ててはそれに恥辱の灼熱を感じずにはいないものだ。この繊細さは愚鈍で虚栄的な脇役にはない。「『……あっ!』と俺は思わず真っ赤になって叫んだ、『自分こそ、自分こそ今なにをしたのだ? 俺こそ彼女をあのタチヤナのまえに引きずり出したのではないのか?……』」。
◆「他人と世界に対する不満。──実のところは自分に不満を感じていながら、よくあるように、他人に不満を発散させるような時、我々は結局自分の判断をぼかし幻惑しようと努めているのだ、我々はこの不満を他人の過失や過誤によって後天的に動機づけようとし、こうして我々自身から眼をそらそうとする。──自己に対して容赦ない裁判官である宗教的に厳格な人々は、同時に人類一般に対して誰よりひどく悪口を言った、罪は自分のものとし、徳は他人のものとしてとっておくような聖者は、未だかつて生きていたことがなかった。……」(『人間的な、あまりに人間的な』1-607)
→→→過剰な空想・幻想が世界全体に及ぶ黙示録的なヴィジョンにまで膨れ上がることがある。最初はただ自分自身に対する思惟の厳格さに端を発していたとしても。「しかし、僕には時折あの限りない力が、あの冷酷でもの言わぬ暗愚な存在が、何か奇怪なこの世のものと想像もできないような形となって、眼の前にあらわれたように思われるのだった」。
◆「本当の本当の本当!──人間はおはなしにならぬほどしばしば嘘をついている。しかし彼らはそのことをあとで考えもせず、また総じてそんなことは思ってもみない。」(『曙光』302)
→→→これは究極の真理だろう。
:ルネ・ジラール『欲望の現象学』からの引用
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「二重の媒介、あるいは相互的媒介は、第一章であらかじめ記しておいたいくつかの記述を補足してくれるであろう。われわれはレナール氏が、ヴァルノの架空的な欲望から、家庭教師をやといたいという欲望を写しとってきたのを見た。こうした想像力は、完全に主観的不安の結果である。ヴァルノはジュリヤンを子供たちの家庭教師にしようなどと考えたことはなかった。老ソレルは《よそにもっと良い口があるで》という言葉を使う抜け目のない者でしかない。誰も彼にそんな申し出をしはしなかった。市長がのらくら息子に関心を持っているのを知って、最初に彼がびっくりしたのだ。
けれども少し後で、われわれは、ヴァルノがジュリヤンに自分のところに奉公しないかと提案するのを見る。スタンダールは、ジュリヤンのことを考えもしなかった本当のヴァルノと、レナール氏が想像したヴァルノを混同しているのだろうか? スタンダールは何にも取りちがえてなぞいない。セルバンテスと全く同様に、彼は形而上的欲望の伝染する本性をときあかしたいと思っているのだ。レナールはヴァルノの欲望を模倣していると思っていたのが、今となってはレナールの欲望を模倣するのはヴァルノの方である。」
「レナールとヴァルノという取り合わせ……レナール氏は一八二七年の選挙以前に過激王党主義を放棄する。彼は自分の名を自由党の名簿に候補者としてのせるのだ。ジャン・プレヴォは、この突然の転向の中に、スタンダールにおいては端役さえも読者の《不意を襲う》ことができるのだという証拠を見つけたと信じている。たとえジャン・プレヴォが普段はどんなに洞察力の鋭い者としても、この点では、小説的自由というものの有害な神話に屈服しているのだ。
ジュリヤンは、かつての主人のこうした政治的変貌を知ってニヤリとする。彼は何も変わらなかったということをきわめてよく理解しているのだ。こんどもまた、ヴァルノを一杯くわせることが問題なのだ。ヴァルノはコングレガションに取り入った。したがって、彼は過激王党派の候補者となるはずだ。もはやレナール氏には、数年前だったら恐ろしいものに思われたはずのあの自由党に向きをかえることしか残されていない。小説の終わりの方でわれわれはふたたびこのヴェリエールの町長に出会う。彼は大袈裟に《裏切りの自由党員》と名のるが、二言目にはヴァルノの名前を口にするだけである。他者への服従は、それが否定的な形をとった場合でも、依然として緊密である。繰り糸がもつれても、繰り人形は依然として繰り人形であるわけだ。スタンダールは、対立のおよぼす効力については、ヘーゲルのごとき哲学者や我が国の実存主義哲学の楽観主義と意見を共にしてはいない。
ヴェリエールの二人の実業家が形成する図形は、この二人が二人とも同じ政党に所属していた限りでは完全ではない。レナール氏の自由主義への転向は二重の媒介によってひきおこされたものだ。そこには、いまだ満たされなかった対称性への要求があったのである。……」
「ドストエフスキーの世界では、偏流した超越性はもはや宗教のうしろにかくれてはいない。けれども、『悪霊』の作中人物たちがそれぞれ無神論となることによって彼らの真実の顔をわれわれに見せていると思ってはなるまい。「憑かれた人々」は、スタンダールの信心家たちが信仰者ではないのと同様に、無神論者ではない。形而上学的欲望の犠牲者たちが、政治的、哲学的、宗教的観念を採用するのは、いつも憎悪の結果なのだ。思想はもはや侮蔑された意識をまもるための武器でしかなくなる。思想がこれほどまでに重要視されたことはなかったように見える。けれども実際のところ思想など物の数ではないのだ。思想は完全に、形而上的競り合いの奴隷と化してしまっているのである。」
:山城むつみ『ドストエフスキー』からの引用(※強調引用者)
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「「どうだい……俺はチェルマーシニャへ行くからな……」とスメルジャコフに言ったとき、イワンはこの言葉で《俺の不在中に親父が殺されるように塩梅しろ》と暗に「そそのかす」つもりでそう言ったのではない。しかし、スメルジャコフとのあいだに無意識のうちに築かれた「連帯関係」のなかにひとたびそのような意味が彼に対して現実に発生してしまえば、その意味に対してイワンも受身にならざるをえないのだ。……
他方、スメルジャコフも「どうして若旦那さまはチェルマーシニャにお出かけになりませんので?」とイワンに訊いてなれなれしく微笑んだとき、《チェルマーシニャにお出かけになって留守にしてくださりさえすれば、そのあいだに旦那さまが殺されるように取り計らいしますよ、いざとなれば、わたくしめがあなたさまの代わりに旦那さまを殺ってもいいですし》と促すつもりでそう言ったのではない。彼は、目的も理由もわかっていない(それは神が知っている)のだ。ただ、イワンとのあいだに生じている「連帯関係」を守り、それに忠実であろうとしただけなのだ。しかし、イワンにはこのときスメルジャコフの左目が《なんでわたしが微笑んだかは、賢い方なら、ご自分でおわかりにならないといけませんよ》と言っているように感じられたのである。やりとりされている左右ふたつの意味にはギャップがある。考えるべきは、どちらが本音か、ではない。その左右のギャップが何を意味しているか、である。「連帯関係」におかれているイワンには、スメルジャコフの言葉は、同じひとつの言葉でありながら、右目で意味していることと左目で意味していることが全く違って聞こえる。文字どおりの意味と言外の裏の意味と二重に響いているのだ。イワンの無意識は、右目の意味するところと左目の意味するところのどちらかにあるのではない。
…………
スメルジャコフにとって「賢い人」とは左目でコミュニケーションができるという人だが、これは意識的に言外の意味をやり取りする能力がある人ということではない。そのようなやりとりを可能にしている「連帯関係」はスメルジャコフが意識して作り出したものではなく、逆に彼自身はそれに受動的に従属しているからである。言い換えれば、「賢い人」とは「連帯関係」にある人という意味なのである。「賢い人とはちょっと話すだけでも面白い」という言葉を彼が口にするとき、彼は、イワンが「賢い」と言いたいのでもなければ、自分自身も「賢い」と言いたいのでもない。彼はただ、ふたりのあいだに理由も目的もわからず生じてしまった「連帯関係」をイワンにも認知して欲しいのである。イワンにとってスメルジャコフの言葉が、その右目で意味していることと左目で意味していることとが全くちがって聞こえるのは、スメルジャコフが兄弟的な「連帯関係」の認知に主眼をおいてイワンと対話しているがイワンにはそれが受け容れられないからなのだ。スメルジャコフが確認したいのは、イワンがチェルマーシニャに行かない理由(右目の意味)ではもちろんないが、イワンが不在にしたらフョードルが殺害されるよう自分がお膳立てするという約束(左目の意味)でもない。彼はただイワンとのあいだで「賢い人」どうしの会話を可能にしている無意識の兄弟関係を確認したいだけなのである。スメルジャコフにはそのことが何よりも大事だった。フョードルを殺害することよりも、イワンとのあいだに結ばれた無意識の兄弟関係を確かめることのほうが大事なのだ。スメルジャコフは、運命とフョードルに復讐するために、イワンとの「連帯関係」を利用したのではない。逆である。父親殺しは無意識の兄弟愛の確認のために行われるのだ。」
「イワンは「俺はチェルマーシニャへ行くからな」と言った直後からすでに、《父親が殺害されることを自分は強く望んでいる》と感じ、《自分は最低の男だ》と感じていた。のみならず、実際にフョードルが殺されると、《もしスメルジャコフがやったのだとしたら、その場合には、殺したのは自分だということになる》と感じて苦しんでさえいた。注目すべきは、そうであるにもかかわらず、イワンは、スメルジャコフがやったとは寸毫も信じていなかったということである。これは驚くべきことではないか。我々は、イワンが右のように感じ苦しんだあげく良心の呵責から自分を責めさえする以上、イワンには無意識のうちに父殺しの欲望があったのだと考えることに慣れているが、父親の死を期待する願望自体は何ら無意識のものではないのだ。彼の場合、無意識は、彼がそのように感じ自責の念に苦しんでいるにもかかわらず、スメルジャコフがやったのだとはいささかも信じられないという点にこそある。「そうさ、俺は望んでいた、たしかに殺人を望んでいた! でも、俺は殺人を望んでいただろうか、ほんとうに望んでいただろうか?」。《俺は父殺しを望んでいた》。そして、《俺は父殺しを望んでいなかった》。イワンの苦しみは全く矛盾する二つのことを同時に感じている点にある。無意識は二律背反の命題を隔てる差異にあるのだ。《俺は父殺しを望んでいた》にはない。
次に読みすごすべきでないのは、イワンの震撼ぶりを見て今度はスメルジャコフが「度胆を抜かれて」いることだ。「じゃ、あなたはほんとうに何もご存知なかったんですか?」と、彼はそれこそ信じられないといった面持ちでつぶやくのである。……
スメルジャコフはすでに事前のあのきわどい左右の対話の末、「どうだい……俺はチェルマーシニャへ行くからな……」とついにイワンが彼に言ったとき、この「賢い人」もまた自分の左目で《だから、親父が殺されるよう塩梅しろよ》と伝えて来たのだと信じていた。これでイワンが「連帯関係」、すなわちあの無意識の兄弟関係を認知してくれたのだと思っていたのである。彼はこの秘密の兄弟愛の確認のためだけにフョードルを殺害したと言っていい。それなのに、イワンが何もかも承知の上で今さら芝居を打って彼一人に罪を被せようとするのは兄弟的連帯関係に対する裏切りだと思えたから、三度の対面でイワンに対してことさらに不敵で横柄な態度を取ったのだが、しかしながら、今さらのように彼に歴然となったのは、イワンが「連帯関係」を認知していたわけでは必ずしもなかったという事実なのである。イワンが「賢い人」ではなかったとなれば、一切の大前提は崩れる。スメルジャコフは何のために「実行」したのかわからなくなってしまうのだ。彼が「度胆を抜かれ」たのはそのためである。」
…………
イワンは、スメルジャコフが「実行」したということを知っていたわけではなかった。他方、スメルジャコフは、イワン自身は言外にフョードル殺害を教唆したなどと思ってもいないということに気づいていなかった。無意識は「連帯関係」においてこの二つの無知が交差する奇妙な地点に露頭する。……」
「スメルジャコフが「あなたじゃない」とイワンに言ったとき彼はその左目でイワンの右半身に《殺したのはあなただ》ということを伝えていた。しかし、彼は事後に罪をイワンになすりつけようとしてそう言ったのではない。また、悪意からあるいは復讐心からイワンを苦しめるためにそう言ったのでもない。彼が言いたかったのは、《「二人きり」で殺ったじゃないですか、今さら兄弟的な連帯関係を否認しないでくださいよ》ということなのである。
…………
イワンの不幸はスメルジャコフと関わったことにあるのではない。この下男ときちんと関わることができなかったことにあるのだ。イワンが向き合うべき問いは《親父を殺ったのは事実上、俺なのか》ではない。《スメルジャコフを弟として愛せるか》なのだ。アリョーシャが「あなたじゃない」という言葉によってつきつけているのは究極的にはこの問いなのだ。スメルジャコフの呪縛から解放されるとは彼からの糸を断ち切ることではないのだ。」
:『未成年』(工藤精一郎訳)第二部第四章第一節からの引用
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「ぼくはあなたのその笑いががまんできない!……」
そしてわたしはまたしゃべりだした。わたしはまるでふわふわと宙に浮いているような気がした。わたしはなにかに押しまくられているような気がした。わたしは今まで、一度も彼女にこんなにしゃべったことはなかった。いつもびくびくしていた、今もおそろしくびくびくしてはいたが、それでもしゃべっていた。わたしは、おぼえているが、彼女の顔についてしゃべっていたのだった。
「ぼくはもうあなたのその笑いががまんできない!」とわたしは不意に声をうわずらせた、「なぜぼくはまだモスクワにいたころ、近づきがたい威厳のある、おそろしく華麗な、そして辛辣な社交界の言葉を話す貴婦人として、あなたを想像していたのだろう? そう、モスクワでです。ぼくはあちらでよくマーリヤ・イワーノヴナとあなたの噂をして、あなたをきっとこのような貴婦人にちがいない、と二人で想像したものです……おぼえておいでですね、マーリヤ・イワーノヴナを? あなたは彼女を訪ねましたものね。ぼくはペテルブルグへ来る途中、汽車の中で一晩じゅうあなたの夢を見ました。こちらへ来ても、あなたが現われるまで、あなたのお父さまの書斎でまる一月というものあなたの肖像写真を眺め暮しましたが、どうしても察しがつきませんでした。あなたの顔にあらわれている表情は、子供っぽいいたずらっ気と、限りない純朴さです──それなんです! ぼくはあなたの部屋を訪ねるたびに、いつもこれにはおどろかされたんです。おお、それはあなたは傲然と相手を見すえて、ちぢみあがらせることもできます。あなたがモスクワから出ていらしたとき、お父さまの書斎でじろりとぼくをにらんだ目は、ぼくは忘れることができません……あのときぼくはあなたを見ましたが、でも部屋を出てすぐに、あなたがどんな人だった? と訊かれても、ぼくはなにも言えなかったでしょう。背丈が大きいか小さいかさえ、言えなかったでしょう。ぼくはあなたを一目見たとたんに、それっきり目がくらんでしまったのです。肖像はまるであなたに似ていません。あなたの瞳は暗い色ではなく、明るい色です、睫毛が長いために暗く見えるだけです。あなたはふとっています、背丈は中位です、でもかたぶとりで、軽やかで、健康な若い村娘のような肉づきです。それに顔もまったく田舎ふうです。村の美人の顔です──怒らないでください、それがいいのです、そのほうがいいんです──まるくて、血色がよくて、明るくて、鼻っぱしらが強くて、にこにこしていて、しかも……羞じらいをふくんだ顔! そうです、羞じらいです。カテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマコーワが羞じらいをふくんだ顔をしてるんです! 羞じらいをふくんだ、そして清純な顔です、ほんとうです! 清純というよりももっと清らかな──子供の顔です!── これがあなたの顔なのです! ぼくはいつもびっくりして、いつも自分に訊いたものです、これがあの女だろうか? と。ぼくは今はあなたがひじょうに聡明なことを知っていますが、最初のうちは、すこし単純すぎるのではないかと思っていました。あなたの知性は陽性で、なんの粉飾もありません……もうひとつぼくが好きなのは、あなたの顔から笑いが消えないことです。これは──ぼくの天国です! それからさらに、あなたのおちつきも、あなたのものしずかさも、ぼくは好きです、そしてあなたのなだらかな、ゆったりした、いっそものうげなようなしゃべり方も──このものうげなところこそ、ぼくは大好きなのです。おそらく、足下の橋がくずれても、あなたはあれまあとか、なだらかに折目正しく感想を述べることでしょう……ぼくはあなたを高慢と情熱の頂点のように想像していましたが、あなたはこの二月のあいだぼくと、まるで学生同士のように話をしてくれました……ぼくはあなたがこのような額をおもちだとは、夢にも思いませんでした。それは彫刻のそれのように、いくぶん低目ですが、まるで大理石のように、真っ白く、きめがこまかく、豊かな髪の下に輝いています。胸は高く盛り上がり、足さばきは軽やかで、まれに見る美しい容姿をもちながら、すこしも高慢なところがありません。ぼくはずっと信じられなかったのですが、今はじめてそれをはっきりと確信したのです!」
彼女は明るい目を大きくみひらいて、じっとこの奇妙な長談義を聞いていた。わたし自身がふるえているのを、彼女は見ていた。何度か彼女ははらはらして、美しいしなをつくって手袋につつまれた小さな手を上げて、わたしを制止しようとしたが、そのたびに迷いと恐怖におびえたようにそれをひっこめた。ときには急いで体ぜんたいをうしろへひいたこともあった。二度三度それでも微笑が顔に透けて見えた。彼女は一度顔をさっと赤らめた、がしましにはすっかりおびえきって、しだいに蒼ざめていった。わたしがちょっと言葉を切ると、彼女はすぐにおしのけるように片手を突きだして、祈るような、それでもやはりなだらかな声で言った。
「そんなことは言わないものです……そんな言い方はいけませんわ……」
:二つの非意識的関係──(1)相互非意識過剰(昇華)
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ここまでの考察を綜合しつつさらにそれを小説分析に応用可能なものにするために、登場人物間の非意識的な関係を次の二種類におおまかに分類しよう。一つは、相互非意識過剰ないしは昇華(水平的)。そしてもう一つは分身との関係ないしは内的媒介だ(垂直的)。非意識的な関係──自意識がそれに対して受動的たらざるを得ない、自意識によっては操作不可能な関係──というと大抵は後者の方ばかりが注目され、場合によっては前者も後者の関係性の派生型と見做されがちだが、後者から前者を明確に区別することによってたとえば『カラマゾフの兄弟』におけるイワンとスメルジャコーフの水平的関係、それと『永遠の夫』におけるヴェリチャーニノフとトルーソツキイの垂直的関係(こちらはルネ・ジラールによって典型的に分身との関係と目されたもの)、この二種類の関係の相違を把握することも可能になるだろう。その際、前者の水平的な非意識的関係の分析のために導きの糸となるのは、ラカン派の女性批評家ジョアン・コプチェクの次の言葉だ。「たしかに『あなたのなかのあなた以上のなにかをわたしは愛する』というラカンのフレーズは、これだけを取り出せば二通りに解釈できる。すべては『それ以上のなにか』をどう解釈するかにかかっている。絶対的他者性を擁護する者は、これを『接近不可能なもの』と考える──あなたのなかにある到達できないもの、接近不可能なものをわたしは愛する──、しかしラカンは、この『それ以上のなにか』は愛を通じて手に入れられるといおうとしているのだ。もしもたんなる知人と最愛の人の両者から、まったく同じ贈り物、同じ知らせを受け取るとすると、最愛の人のほうからより多くを、剰余満足を受け取るだろう。最愛の人からの贈り物は、それ自身と一致しなくなり、最愛の人から贈られたという事実が贈り物自身にプラスされる。これと同じことが、最愛の人から受け取るものすべて、その人のあらゆる特質、その人の存在すべてについている。いいかえれば、最愛の人の「存在 is」が分裂し分割されるのである。最愛の人はつねに、自分自身から少しずれている、あるいは自分自身を超え出ている。こうした超えている部分、過剰こそが、最愛の人を、わたしが注意を向けるありきたりの対象以上のものにしているのだ」(『〈女〉なんていないと想像してごらん──倫理と昇華』)。ちなみにここで「水平的」という形容を用いるのは、超越や外部を志向することの否定、さらにはホモソーシャルであることの否定を或る程度含意している。
非意識的関係としての相互非意識過剰、というのがここでのテーマだ。相互非意識過剰と名付けられることで想定されているのは次のような状況である。仮に人物Aと人物Bが同一の空間において互いに向い合わずに存在しているとする。ここで人物AがBの方に視線を向けずに、しかし彼が「俺は実際見ていないのだが、B自身では俺がBのことを見ていると意識しているだろう」と考えること、そして人物BがAの方に視線を向けずに「私は実際自分が見られていると意識していないのだが、A自身では、私がAに見られていると意識している、と想定しているだろう」と考えること、この二つが同時に成立した場合、眼差しの交錯がないのに、見えていないものの領域=目-無意識の領域でAとB二人の間に眼差しの関係が成り立つことになる。これは単に相手に見られていることを意識しているのではない(通常の自意識過剰)。そうではなく、実際に自分が見ていない(見られていることを意識していない)のに相手によって自分が見ている(見られていることを意識している)ことにされているのを、自分が意識しているというのだ。つまり、通常の自意識過剰ならば自分に向ってくる直線をそれぞれに意識してそれぞれに自己愛の中に閉じこもっているだけだが、このケースでは、相手から発して自分に向ってきてさらにまた相手に返っていく曲線を意識することによって相手との幻想的な関係性が自乗されているのだ。しかもそれが相互に同時に発生するならば、AとBの間で直接的な接触よりもよほど濃密かつ不可解な関係が生じているということになるだろう(その不可解さは、たとえばAとBが互いに自分が相手の夜見る夢の中に登場しているにちがいないと同時的に考えているような、そんな状況の不可解さに等しい)。見えていないものの領域での眼差しの交錯、これがもっとも簡潔な相互非意識過剰のモデルとなる。そしてこれは「深層心理」のような垂直的な意識外の領域の仮定をまったく必要としない。
すれ違いがそのまま対話であるような非意識的関係性。これをバーバルなコミュニケーションの次元に移して考察してみよう。バーバルなコミュニケーションの場ではよほどのことがないかぎり相手の目線を見交わしつつの交流になるだろうし、相手の言葉も互いに聞いて理解しているし、メッセージは相互に伝達されているということが前提になる。ならば、その次元で非意識の領域で成立している関係性とは何だろうか? 思うに、一つひとつのメッセージに潜在している第二の意味の非意識的伝達だ。たとえばそれは、イワンの「いいか……俺はチェルマーシニャへ行くからな……」という言葉がスメルジャコーフに対して帯びた意味(俺の不在中に親父が殺されるように塩梅しろ)のことを指す。眼差しのケースと同様に定式化するとこうなる。人物Aと人物Bが会話している。このとき、人物Aは特に言外の意味を匂わさずに、しかし会話しながら「実際に俺は何も暗示していないが、B自身では俺の言葉がBに向けた第二の意味を持っていることを察知したつもりになっているだろう」と考える、それと同時に人物Bの方でも、会話しながら「実際に私は何の暗示も受け取っていないが、A自身では、自分の言葉の私に向けた第二の意味を私が読み取ったという想定をしていることだろう」と考える、──すると、Aの言葉の第二の意味は完全な空白なのでそこにBが如何なる意味でも代入できてしまうが、結果的には、もともとAが言葉に第二の意味を帯びさせてそれをBが受け取った=AとBが「意識的に」共犯の関係を結んだのと、ほとんど同じことになってしまうのだ。つまり、非意識のまま共犯が成立してしまう。しかもAは、(A自身が想定している)Bの誤解を正さずにいたのだから、意図的に暗示を込めた場合と同様の責任をこの生じてしまった第二の意味に負うことになる。このような非関係の関係とも言うべき非意識的なコミュニケーションによって、たとえばイワン・カラマゾフの自問自答の内攻は衝き動かされていた、と考えてもいいはずだ。「そうだ、おれはあの時あのことを期待していたのだ、確かにそうだ! おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ! だが、はたしておれは殺人を望んでいたのだろうか、ほんとうに望んでいたのだろうか……」。
このような相互非意識過剰の関係性が成立するための条件とは何だろうか。人物Aも人物Bも、この非意識の共犯関係によって、自意識で自分が思っていたのとはまったく別のものへと変貌させられてしまう。この変貌を、ジョアン・コプチェクが「愛(欲動/昇華)」の現象において人と人との間で生じていると見做したことに等しい、と考えるならば──「昇華は、対象自身の変化であると考えるべきなのだ」「愛は他者の特質を愛すべきものに変える力を持つのである」「最愛の人の「存在 is」が分裂し分割される……最愛の人はつねに、自分自身から少しずれている、あるいは自分自身を超え出ている」「欲動の対象である「在るもの」は、自分自身とつねに少しずれているものとして、変形可能性の流れから区別できないものとして描き出される。……欲動は対象の周りを循環し続ける。なぜなら、欲動の対象はけっして自分自身と同一ではなく、それ自体が分裂して自分自身からずれているからである」「自分自身からずれているのは欲動の対象だけではない。主体も、欲動の反復を通じて、自分自身からずれる」──そう考えるならば、人物Aと人物Bの間の非意識的共犯の前提となっているのは、二人の間での対象リビドーの備給の最高の段階、すなわち「恋愛」である、と言うべきだ。そもそもありきたりで平凡な赤の他人に対して「俺は実際見ていないのだが、相手の方では俺が相手のことを見ていると意識しているにちがいない」というような想定が発動するはずがないだろう。相互非意識過剰が〈私〉と〈あなた〉との間で循環するのにもっとも多大な役割を果しているのは、愛という情動である。余談ながら、あらためてこの「愛」が垂直的な、恋愛対象のプラトニックな崇拝という意味での「純愛」とはまったく異なることを指摘しておこう。
ただし──だからこそ──注意しよう。ここで「愛」という言葉を使ったからといって、この相互非意識過剰の関係がとりわけ麗しくロマンティックになるとは限らない。いや、むしろその逆であることがつねだというべきかもしれない。イワンにとって、卑近な他者との非意識的な関係によって自分が「父親の殺人を望んでいた男」へと変貌させられることは耐え難いことだった(しかし彼は、その変貌を否定しようとしても──自分がスメルジャコーフに殺人を唆したつもりはなかったことを内省によって確証して否定ようとしても、ついに否定しきることはできない。つまり彼は非意識的な共犯関係=スメルジャコーフとの奇妙な恋愛関係を否定できない)。なぜならそれはイワンを彼自身の自意識的な努力によってはどうにもできないレベルで変貌させ、分裂させ、彼が望まない形で彼自身を彼自身からズレたものにさせてしまうからだ。ニーチェの洞察を引こう。「凡そこの世で最もやりきれない感情は、いつも自分が何か実際より高いものと見られるのを発見することだ」。したがってイワンには、スメルジャコーフの向けてくる「愛(欲動/昇華)」は、優しげな信頼どころか憎しみや嘲弄に近いもののように感じられていたにちがいない。あるいは一つ前で引用した、『未成年』第二部第四章第一節における主人公アルカージイがカテリーナ・ニコラーエヴナに向けた情動を参照してみてもいい。そこでアルカージイはほとんど恋の告白と言っていいような長広舌をふるうが、その強烈に表われた対象リビドーの備給に対して、相手の女の方は「そんなことは言わないものです……そんな言い方はいけませんわ……」と心底恐怖を感じるだけなのだ。つまり「愛」は、その献身によって恋愛対象をありきたりの存在以上のものにしてしまうため、却って相手を相手自身の意に反して変貌させ分裂させ、苦しめることがあり得る。ならば互いに愛し合うとは、場合によっては、互いに相手を分裂させ互いに不幸にさせ合うことを意味するのか?……この問いに、肯定的に答えていけない理由はないだろう。ジョアン・コプチェクの論考にはこの「愛」の負の側面への洞察は欠けていたようだが。
ところで、相互非意識過剰はあくまで見えていないもの・聞えていないものの領域で成立する非意識的な関係であって、意識的な把握を逃れるために、ただ互いの非対称性がすれ違うときのズレの兆候を感知するくらいしか、その関係性を見出すすべはない。つまり、この非意識的共犯の実証は決してできない(「いったい誰があなたの言うことを真に受けるでしょう、せめてひとつでも証拠があるんですか」)。それだから、この関係を確実なものにしたり、あるいは切断したりするためには、何らかの具体的な行為が必要だ。たとえそれが自分の意志(自意識の自己規定)からは異和的に逸れていく行為、自分が考えていたのとは全然別のことを実現してしまう矛盾した実践であったとしても、だ。たとえばスメルジャコーフにとっては殺人の実行がそれであり、イワンにとってはスメルジャコーフを問い詰める行為がそれに当たっていた。これらは自意識的な利害を計算した上での行為では、ない。スメルジャコーフは金銭の強奪や社会的な復讐のためにフョードルを殺したのではないし、イワンも自分に殺人の嫌疑がかからないようスメルジャコーフを言い包めるために彼を詰問したのではない。スメルジャコーフにとって殺人は、イワンとの相互非意識過剰の関係、すなわち非関係の関係を明白に触知可能なものにするための行為だった──それは意図的な共犯関係ではない、意図的な共犯というのはせいぜいスメルジャコーフと検事の間で成立したこんなやりとりのことにすぎない──「もっともわたしは、こうした考えを取調べの時にはっきり検事さんに言ったわけではなく、反対に自分でも気のつかないふりをしてそれとなくほのめかしたんです。検事さんご自分で思いついたことで、わたしが入れ知恵したことじゃないというようにね、……それで検事さんはわたしのこのほのめかしを、よだれを垂らして喜んでいましたっけ」。対して、イワンにとって真実を突きとめようとする行為は、スメルジャコーフとの間で成立してしまっていたかもしれない非意識的な関係性を、明白に破断するための行為だった。そしてイワンは、真実をすべて知ったあとに、自分が殺人をそそのかしたか否かにかかわらず、明日スメルジャコーフと一緒に出廷して自白することを決意するのである──それはほとんど彼自身でも思いもよらなかった決断として、彼におとずれる。「しかし誓って言うが、おれはお前が考えているほどあの事件に罪はないのだ、ことによると、全然お前をそそのかしたりしなかったかも知れないんだ。いいや、そうだとも、おれはそそのかしはしなかった! だが、どっちでも同じことだ、おれはあした法廷で自分のことをすっかり告白するつもりだ、そう決心したんだ! 何もかも、全部、話してしまうんだ。だが、お前も一緒に出るんだぞ! そうしてお前が法廷でおれのことを何んと言おうと、どんな証言をしようと、おれはそれを甘んじて受ける、お前を畏れはしない。おれは進んですべてを認めよう、だが、お前も法廷で自白しなければならないのだぞ! 必ず、ぜひともそうしなければならないのだ、一緒に行くのだ!」。相互非意識過剰によって関係付けられることが、登場人物を進退きわまった地点へ追い込んでしまうという悲劇的なケースを、ここに見出せる。
──当然ながら以上の考察は、山城むつみ氏のドストエフスキー論におけるイワンとスメルジャコーフの「連帯関係」の考察に大部分拠っている。それをあえて「恋愛関係(昇華)」と読み替えたのは、ルネ・ジラールが二重媒介として記述する恋愛的関係との対比を明確にするためだ。ルネ・ジラールが描く三角形的欲望(形而上学的欲望)の現象もまた自意識によって認知不可能という意味で非意識的と言えるが、それはジョアン・コプチェク=ラカンが描いた愛の現象とははっきりと区別されなければならない。実際、具体的な分析を踏まえればそれは別種のものであるはずだ。しかしドストエフスキーに関する浩瀚な著述をものしてもいるジラールが、イワンとスメルジャコーフの恋愛関係(昇華)すなわち相互非意識過剰を見逃していたとすれば、それはジョアン・コプチェクが言うように、男性批評家が女性批評家よりも「超越性という誘惑」に引っ掛かりやすいからではないだろうか。そうわれわれは考える。
ついでに、ルネ・ジラールが描いた欲望の現象が、非意識的関係のヴァリエーションの一つに過ぎないと主張することで、ジラールが人間総体に対して下したペシミスティックな予見もまた相対化できるのではないか、と言い添えておく。ジラールはヘーゲルの主人と奴隷の弁証法を踏まえつつ、次のように言う。「人間に課することに成功する政治的社会的制度がどんなものであれ、人間たちは、革命家が夢みる平和と幸福にも、反動家がおぞけをふるうめそめそした調和協調にも、けっして到達することがないであろう。人間たちはいつも、理解し合わないために十分な程度で、ぐるになるだろう。彼らは、不和反目するのにもっとも都合悪いと思われるような状況にも順応して、倦むことなく反目葛藤の新しい形態を創案してゆくであろう」(『欲望の現象学』第四章)。われわれが言いたいのは、人間にとって三角形的欲望が普遍であるという認識において人類の永遠の反目葛藤という結論は不可避だろうが、その認識には、確率的に予期せぬ出会いによって生じる「愛(欲動/昇華)」の行為によって──イワンとスメルジャコーフのケースのように必ずしもポジティヴなものではないにしても──人間が自分自身を超え出たものに変わっていく可能性が、完全に見落とされているということなのだ。すべての人々が必ず堕落するとは限らないとしたら、倦むことのないロマネスク的弁証法の連続の中で何故か堕落しなかった人がいるとしたら、それは「あなたのなかのあなた以上のなにかをわたしは愛する(ことによって愛される自分自身を受け取り直す)」可能性が、われわれに許されているからではないのか。この水平的な非意識的関係への可能性は、垂直的な超自我の心的審級や形而上学的欲望とは、何の関係もないはずだ。
:二つの非意識的関係──(2)禁欲する分身(内的媒介)
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ルネ・ジラールの三角形的欲望の理論についてはすでに有名だろうから説明は省く。『欲望の現象学』(古田幸男訳、法政大学出版局)参照。ここではその理論の応用でロマネスクの主人公たちの苦行精神を分析している箇所のみ、取り上げる。
なぜロマネスクの主人公たち──『赤と黒』のジュリヤン・ソレルや『罪と罰』のラスコーリニコフ──は必要以上に自己の欲望を抑制しているように、禁欲主義者のように見えるのだろうか? 簡潔に答えを言うと、自分の欲望を他人の目にさらすこと、たとえば他人に自分の嫉妬を見せてしまうことは、彼の自尊心にとって耐え難い恥辱となるからだ。とりわけこの他人が彼にとってのライバルである場合にはなおさらである。このことを逆に言うと、もし自尊心が他人と競り合って他人の目を終始気に掛けることがなければ、この禁欲精神はまったく意味を持たない。それは無私無欲の境地とはおよそ関係がない。「自分の姿を人に見せるすべての欲望は、ライバルの欲望をひきおこしたり倍加したりする。したがって対象を手に入れるためには欲望をかくさなければならない。スタンダールが偽善と名づけるのはこうした隠蔽のことである。偽善は、外から見得る一切のもの、つまり、対象に向う激情の一切を、その欲望の中で抑制する。……欲望のためのこうした欲望の隠蔽だけが《主人と奴隷の弁証法》を創り出すことができる。通常のイポクリジー、事実や信仰を相手にする偽善といったものはここでは問題にならない」(『欲望の現象学』第七章)。この禁欲主義は他人からのささやかな愛情や親切を理由なく拒むほどに徹底している。たとえばラスコーリニコフの親友ラズミーヒンに対する冷酷を考えてみよ。この禁欲の徹底性は或る種の宗教的な贖罪、すなわち超越性への拝跪とほとんど区別がつかないほどだ。
ジラールが二重媒介と呼ぶライバルとの関係においては、〈私〉の欲望の対象はすでにライバルが欲望していたものないしはライバルの所有物である──つまり、〈私〉の欲望はライバルの欲望の模写である。〈私〉は自分自身の欲望のその屈辱的な姿をライバルに見せることを極端に恐れる。なぜなら、そんなことをすれば、ライバルの所有物を欲望している事実を白日の下にさらすことによって、ライバルに対する〈私〉の敗北=ライバルが〈私〉に向ける軽蔑を決定付けてしまうからだ(あまりにも自尊心の強い人間はしばしば自分自身に満足していないので、自分の所有物を欲望するような相手を秘かに軽蔑しないわけにはいかない)。しかもそれ以降、ライバルは勝利を永遠のものにするために、もはや絶対にその所有物を手放そうとはしなくなるだろう。したがって〈私〉は、無関心を装うことによってしか欲望の対象を自分の方に引寄せることができない。欲望へのこうした抑圧は、奇妙な貴族主義の姿勢を〈私〉にとらせる。〈私〉は感嘆したり、欲望をあられもなく公言したり、大声をあげて哄笑したりすることを注意深く避けようになるが、それはライバルの所有物に対する自分の病的な関心を隠すための計算された冷たさであり、他人・ライバルに向って「私は自分だけでこと足りています」と絶えずくり返すための無感動な冷たさなのだ。
だが、以上と同じことがライバルの側にも当てはまる。〈私〉が「私は自分だけでこと足りています」と公言するのは、外見上は〈私〉が自分の所有物に満足していることにほぼ等しい。「無関心とは、よく観察する者にとっては、自己自身への欲望の外側に向いた顔なのである。そして、内部に推定される欲望が、自己を模倣させるのだ」(『欲望の現象学』第四章)。ここからライバルの方が〈私〉の所有物を欲望する=ライバルの方が〈私〉の欲望を模倣することに端を発する、ライバル自身の内的な禁欲主義的闘争が開始される。こうなると〈私〉とライバルとは一切の相互性を失った排他的関係を形成することになる。二人が水平的に対等の立場に立つという可能性は一切消滅し、どちらがより自分の欲望を巧みに隠して相手の欲望を操ったかという垂直的な競い合いだけが、すべてになる。「二重媒介においては抑制は常に、二人のパートナーのうち自己の欲望をもっともよく隠した者にその報償をあたえる」。「勝利は、もっともうまく自分の嘘を持ちつづける二人のうちの一方に帰する」。自分の欲望をあからさまにすることは許しがたい過ちとなる。互いに相手の所有物に対して無関心であるという態度を相手に見せつける、対抗する二つの自尊心が互いに挑みつづける、仮借ない戦いが、無限にくり返される。だが〈私〉とライバルは完全に似た者同士だ。〈私〉が自分自身について満足しているという態度、自分の所有物を偏愛しているという態度を示すのは、もっぱらライバルの欲望をたえず惹き付け焚き付けるためであり、しかし実際には〈私〉が自分に与える満足は他人・ライバルの欲望にもとづいている。どちらが卵でどちらが雛かを確定することは意味がない、〈私〉とライバルとの間で循環しているのは初めから同一の欲望なのだ。
こうした二重媒介におけるライバル=禁欲する分身というのは、実際に存在しない想像上のライバル(超自我!)でもよいので、このような鏡像的な競合関係が発生する条件は〈私〉の自尊心の強さだけで十分だ。このライバルとのロマネスク的弁証法こそ、「愛(欲動/昇華)」とは区別されるもう一つの非意識的な関係性である。そこでは不可解なことに、実際の対象・所有物の奪い合いではなく、いかにそれを自分が欲しがっていないかを戦術的に見せつけ合うことだけが関係を濃密にしているのだから。これもまたねじれた非関係の関係だ。
最後に、『罪と罰』のスヴィドリガイロフについて一言。スヴィドリガイロフもまたラスコーリニコフの分身の一人と考えられるにもかかわらず、彼はおよそ禁欲的ではない。彼は自身の淫蕩な性格を隠さない。しかし、それは見掛けだけだ。実際には彼はそれほど性的に放縦な人間ではないし、彼はラスコーリニコフの前で彼自身の生命にも等しいドゥーニャへの切実な情欲を徹底して隠蔽している。「このことについてひとつ心理上の不思議な変化を打ち明けましょう。さっきわたしは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに対する自分の愛を弁解して、自分のほうが犠牲者だと言いましたね。ところがはっきり言いますが、わたしはいまぜんぜん愛というものを感じていないのですよ、ぜんぜん、自分でも不思議なほどです」。彼はあたかもドゥーニャへの情熱が過去の話であるかのように語るし、それが過去のことであることを証立てるように現在の放蕩について饒舌に語る。それを自分でも信じ込んでいるかのように。ラスコーリニコフから、今もあなたはドゥーニャに対して卑劣な目論みを抱いているはずだと指摘されても、「なんですと! わたしがそんな言葉を洩らしましたか?」と子供のようにびっくりするほどだ。彼は本当に自分でも嘘をついているという意識はなかったのかもしれない? だが、スヴィドリガイロフが現に今もドゥーニャに対して切羽詰まった情欲を抱いていること、しかも読者にとって意外なほどに真剣な情欲を抱いていることは後の場面(第六部第五章)で明らかになることだから、彼が決定的な一点では自分の欲望をラスコーリニコフに隠そうとしていたことは、確かだ。その欲望をラスコーリニコフに曝け出して、ラスコーリニコフに対して弱い立場に立つことは、自分の欲望を達成するための致命的な障害になると無意識にも理解していたからこそ、彼は、自分の最奥の欲望を隠す。彼の饒舌は真の欲望をまぎらわす煙幕として機能する。その煙幕をつらぬくラスコーリニコフの鋭い洞察力は、まさに、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの分身=内的媒体であることを示している。似たような関係に見えながら、イワン・カラマゾフとその父のフョードルとの間では、このような分身の関係はない。フョードルがイワン=ライバルの洞察力を恐れているというような契機はそこにはないからだ。
:相互非意識過剰の稀少性
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スメルジャコーフはイワンに向って「利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い」と言う。この「話をする」とは、相互非意識過剰の、お互いの自意識によってはどうにもならない相互規定性を帯びたコミュニケーションのことを指すと考えるべきだが、加えて指摘したいのは、そうした相互非意識過剰のコミュニケーションを交わすことのできる「利口な人」は、世間に必ずしも多くはないということだ。『カラマゾフの兄弟』の作中でも、「利口な人」はイワンとスメルジャコーフ以外にはアリョーシャくらいしか見当たらない。われわれはこのコミュニケーションを普遍なものと考えることはできない。ましてそれが人間の生存条件と何かかかわりがあるとは考えられない。相互非意識過剰のコミュニケーションなど一切経験せずとも人間は幸福に/不幸に生きていくことができるし、平和な家庭を築くことも、反社会的な犯罪者になることもできるだろう。相互非意識過剰のコミュニケーションを通過しなくても、人間は言語的存在の主体となることができるし、精神分析的な欲望の主体となることもできるだろう。もう一方の垂直的な非意識的関係(三角形的欲望)が「羨望」という形で世間のそこかしこに見られるのとは対照的に、水平的な非意識的関係は、例外的な少数者しか経験することがないようだ。
なぜだろうか。考えられる答えの一つは──相互非意識過剰のコミュニケーションが、明示的で目的を持ったコミュニケーションによって掻き消される傾向にあるから、というものだ。見つめ損なうことによって見つめ合う、理解し損ねることによって理解し合う、伝え損なうことによって伝え合うとしか表現しようのないパラドキシカルな相互非意識過剰の関係は、直接に見つめ合う、直接に理解し合う、直接に伝え合う「通常の」関係が前景化することによって、消え去ってしまう。たとえばイワンとスメルジャコーフの非意識的な関係は、彼らが意図的に父親を殺すという約束を交わさなかったことを抜きにしては、成立しない。「「賢い人とはちょっと話すだけでも面白い」という言葉を彼が口にするとき、……スメルジャコフが確認したいのは、イワンがチェルマーシニャに行かない理由(右目の意味)ではもちろんないが、イワンが不在にしたらフョードルが殺害されるよう自分がお膳立てするという約束(左目の意味)でもない。彼はただイワンとのあいだで「賢い人」どうしの会話を可能にしている無意識の兄弟関係を確認したいだけなのである。」(山城むつみ「カラマーゾフの子どもたち」)。ところで、われわれは相互非意識過剰の関係を奇妙な恋愛関係として読み替えたから、以上を敷衍して、明示的な恋愛関係の前景化によって相互非意識過剰の関係は失われてしまうのだ、とも考えられることになる。明示的な恋愛関係、すなわち現実世界の整合化と目的論的な関連化を前提とした、性愛→生殖→夫婦関係→子育て(社会的再生産)という連携があらかじめ予期されているような関係、のことだが。そのように漠然とであれ或る目的へ方向付けられた関係・コミュニケーションというのは、その目的意識ゆえに、非意識的な要素をおよそ持たない。したがって、相互非意識過剰の稀少性の原因は、それがそもそも現実世界の整合化および目的論的な関連化と相容れないという点に求められそうだ。つまり、生殖、社会的再生産へ方向付けられた身体は、イレギュラーかつ目的を持たずに生きている非意識的身体とその関係性を、淘汰してしまう。
そう、われわれはしばしば恋愛関係・性愛関係を目的論的に──志向性の枠組みの下に──理解する傾向にある(そして非意識的な恋愛関係を消去する)。なぜか? 簡単な話だ。言語的存在=社会的存在としてのわれわれは──少子化云々ということは別に関係なく──社会の成員が、新たな世代が、生殖によって再生産されることなしには社会が維持できなくなることを意識的にせよ無意識的にせよ知っている。この事実について無知であることはあり得ない。どんなに孤高気取りの文学者であれ、自分の作品をそれによって書いた言語(母国語)の使い手が再生産されなければ自作の価値の永続を信じることなどできない。社会的再生産の必要という目的論的強迫を逃れられるのは、完全に自給自足で生きている人間だけだ。また、現今の資本主義の世界では、生殖して子供を育てることは、資本が労働者を雇用する生産関係を再生産するということ、すなわち子供を労働力商品として育てることと等価だが、そこから革命なり何なりを起して家族や育児の意味を根本的に変える=別の社会形態を構想するにしても、やはりそこで新たな世代の再生産という課題が別の形で表われることは避けられない。なにしろ生殖と再生産が停止してしまえば、どんなユートピア社会も壊死してしまわざるを得ないのだから。つまり、どのような形の人生であれ、社会に依存して生きているのであれば、それは過去から現在に到る社会的再生産の継続に規定されている。そして、「社会」を前提にしてわれわれが生きている以上は、生殖を度外視し恋愛関係を単なる恋愛関係としてのみ取り出すことは、自分がその恩恵を受けて生きて来たはずの「社会」の再生産に責任を負うことの回避を同時に意味してしまうのだ。その後ろ暗さゆえに、社会的存在としてのわれわれは、自ずと恋愛関係を性愛→生殖→夫婦関係→子育て(社会的再生産)に連なるものとして目的論的に考えることを「自然」と見做しがちなのである。
しかしくり返せば──明示的で目的論的な恋愛関係は、相互的非意識過剰という奇妙な関係性と相容れない。いや、水平的な非意識的関係は、「社会を維持しなければならない」という強迫と無縁なだけではなく、およそどのような目的や志向とも端から無縁だ。たとえばスメルジャコーフの行動について山城むつみ氏が「彼には理由も目的もわかっていない」と形容しているのは、完全に正当だと思われる。引用しよう。「他方、スメルジャコフも「どうして若旦那さまはチェルマーシニャにお出かけになりませんので?」とイワンに訊いてなれなれしく微笑んだとき、《チェルマーシニャにお出かけになって留守にしてくださりさえすれば、そのあいだに旦那さまが殺されるように取り計らいしますよ、いざとなれば、わたくしめがあなたさまの代わりに旦那さまを殺ってもいいですし》と促すつもりでそう言ったのではない。彼は、目的も理由もわかっていないのだ。ただ、イワンとのあいだに生じている「連帯関係」を守り、それに忠実であろうとしただけなのだ。……彼はただ、ふたりのあいだに理由も目的もわからず生じてしまった「連帯関係」をイワンにも認知して欲しいのである」。──もしスメルジャコーフが明確にフョードルを殺して三千ルーブリを手に入れるという目的を持っていたのならば、そんな明示的な目的に彼が従属していたのならば、彼とイワンとの間で奇妙な「連帯関係」が生じる余地はない(その場合彼は明示的にイワンに協力を求めるか、単独で殺人を実行しただけだったろう)。またイワンの方も、あらかじめスメルジャコーフと明示的に言葉を交わしておけば、「いいか……おれはチェルマーシニャヘ行くんだぜ……〔モスクワではなくて。モスクワに行く、と告げたならそれはスメルジャコーフとも家族とも縁を切って新しい生活を始めるという意志の暗示になり得る〕」などとささやいた後に、「なぜおれはあの男にチェルマーシニャへ行くなんて報告したのだろう?」と息が詰まりそうになりながら悩む羽目になどならなかったはずだ。理由も目的もなく、イワンの側で「実際に俺は何も暗示していないが、スメルジャコーフの方では俺の言葉がやつに向けた第二の意味を持っていることを察知したつもりになっているだろう」と考え、他方スメルジャコーフの側で「実際に私は何の暗示も受け取っていないが、若旦那の方では、自分の言葉の私に向けた第二の意味を私が読み取ったという想定をしていることだろう」と考える、そのような理解し損ねることによる理解し合いという非意識的な関係が成立した結果、(あたかも社会的に意味があるかのような)父親殺しという事件が生起したのだ。そこに事後的に社会性や志向性を読み込むことは、彼らの偶然的な非関係の関係を見逃すことになる。
たしかにわれわれは歴史的に社会が維持されてきたことの恩恵を受けて生まれ、その事実に依存して育ち、今なお生き延びていると言えるのだが……思うに、生殖や社会的再生産にどうしても意味を見出すことができない人間というのは一定数はいるのではないか。数は少ないにしても。唐突だが、夏目漱石の『道草』で、三女が産まれた後に主人公の健三が洩らす次のような興味深い感慨がある。引用しよう(八十一)。
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「男かね女かね」
「女の御子さんで」
産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。
「又女か」
健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのも亦女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。然しそれを生ませた自分の責任には思い到らなかった。
…………
三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。
「ああ云うものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」
彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気に交っていた。
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異性と生殖なんかして必竟どうするんだろう。社会的再生産なんか維持して必竟どうするんだろう。このような、社会的再生産の目的論的強迫から逃れてぽかんと行間に浮かんだ感慨は、しかしそれが非意識的関係の成立する条件の一つであることも考え合わせれば、単純な無常観とは言えない。社会的生産を無意味だと思いつつ、それでも社会の中に生きてしまわざるを得ないちぐはぐな人間、生殖を無意味と思いつつそれでも偶然的に恋愛してしまう人間というのが、少数ながら存在する。生殖と社会的再生産に知らず識らず方向付けられた目的論的関係とは所詮自意識と自意識の関係に過ぎないだろうが、それとは別に、人間と人間の関係をお互いの自意識ではどうにもならない非意識的な相互規定性、非関係の関係として感受する人間というのが、少数ながら、存在する。生殖と社会的再生産を逸脱していく非意識的関係……、そして相互非意識過剰の関係にある人間は、目的も意味も分からぬまま、後ろ暗さを抱いたまま行動し生き延びつづけてしまうことになる……。しかしそのような関係性の方が、明示的で目的論的な関係性よりもはるかにリアルなのではないか? むしろ社会的再生産の継続の自明視にもとづく関係の方にこそ何かしらの摩耗と鈍感があるのではないか?
少なくとも「小説」は、利己的遺伝子論みたいなしょうもない生物学や、合理主義的道徳の物語を信奉するより、非意識的な関係性のリアルの側に付くべきだとわれわれは考える。
「この五秒間のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ。ぼくの考えでは、人間は子供を生むのをやめるに相違ないね。目的が達せられた以上、子供が何になる、発達が何になる? 福音書にも、復活のときには子を生まず、天にある御使たちのごとし、と言われている。」(『悪霊』第三部第五章第五節、キリーロフの科白)
:相互非意識過剰の関係の描き方
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相互非意識過剰の関係は明示的な契機を持たない。したがって、小説においてそれをどう描けばよいのかという課題はかなり解決困難なものとしてある。ドストエフスキーの長篇を手掛かりにこの問題を考察してみよう。
まず、他者との関係のなかで非意識的な相互規定性を敏感に感受する人間が主人公でならなければならないことは、前提だ。だがもちろんこの主人公が他の登場人物を思い浮かべつつ、「俺はあいつと相互非意識過剰の関係にある」などと明確に自覚できるはずはない。「実際に俺は何も暗示していないが、相手の方では俺の言葉がやつに向けた第二の意味を持っていることを察知したつもりになっているだろう」(ないしは「「実際に私は何の暗示も受け取っていないが、相手の方では、自分の言葉の私に向けた第二の意味を私が読み取ったという想定をしていることだろう」)という思考は、言葉にしてしまえばあまりにも馬鹿らしいので──何らの証拠も存在しない──主人公がこの思考をはっきり吟味するということも、ほぼあり得ない。ならば、主人公に焦点化しつつこの主人公が巻き込まれている非意識的関係をどう描けばいいのか。われわれは先に非意識的関係は目的論的構図から逸れていくものとしてある、という結論を導いた。ならば、一つの仮説は──主人公が非意識的関係に巻き込まれているという事実、主人公が誰かとの非意識的関係に固着しているという事実は、主人公の目的論的な行動フレームを揺るがす兆候として描写できるのではないかということだ。「物語は、あらゆる瞬間に、不必要な、意想外な細部によって、中断されていなければならぬこと」(「『罪と罰』第一稿」の欄外の書き込み)。
非意識的関係は明確に自覚することはできない。だがそれは、主人公自身の自分とのズレの中で兆候的に察知される。主人公自身の自分とのズレというのは、目的もはっきりしていて動機も把握しているはずの一つの行動のフレームの中で、なぜか不意にそのフレームを逸脱する言動をしてしまうという自分自身の自意識と実践の齟齬を意味する。そしてその逸脱は自分と誰かとの間で非意識的関係が成立しているのか成立していないのかという不透明な不安と関心によって引き起こされている。そう考えてみてはどうか。そのような多層的な状況の中で「兆候的描写」を紡ぎ出すこと。
具体例を示そう。『カラマゾフの兄弟』の第二部第五篇第六章から。
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門のそばのベンチには、下男のスメルジャコーフが腰をおろして夕すずみをしていた。イワンはひと目彼を見た瞬間、自分の心のなかにもこのスメルジャコーフが居座っていて、そうして自分の心が他ならぬこの男にどうにも我慢ができないでいることに気づいた。と、急にすべてがぱっと明るく照らし出されて明瞭になった。さっきアリョーシャからスメルジャコーフと会った話を聞いた時、とつぜん何か陰気ないまわしいものが彼の心にぐさりと突き刺さって、それが反射的に憎悪を呼び起こしたのである。その後、話に夢中になって、スメルジャコーフのことはずっと忘れていたが、しかし心の奥には残っていて、アリョーシャと別れてひとりで家路をたどりはじめると同時に、忘れられていた感覚が不意にまた素早く表面へ浮かび上がって来たのである。『それにしても、こんな下らない男がこうまでおれを不安な気持にさせるとは!』と彼は堪えあたい憎悪の気持で考えた。
実を言えばイワンは、ほんとうにこの男が近頃、とりわけこの二、三日、嫌で嫌でたまらなくなっていたのである。彼は自分でもこの男に対する憎悪が、しだいにつのって行くのに気づきはじめていた。……(略)……しかしイワンはそれでもしだいにつのってゆく嫌悪の本当の原因がなかなかつかめず、つい最近になってやっと問題のありかを探り当てることができたのである。今も彼は嫌悪といらだちを覚えて、無言のまま、スメルジャコーフのほうを見ずに木戸をくぐろうとしたが、その時スメルジャコーフがつとベンチから立ちあがった。その動作ひとつで、イワンは瞬間、相手に何か特に話したいことがあるのに気づいた。彼はちらりと下男に目をやって立ち止まった。すると、自分がたった一分前に望んだようにそのままそこを通りすぎないで急に立ち止まったことが、体のふるえるほど癪にさわって来た。怒りと嫌悪をこめて、彼はびんの毛に櫛を入れ、前髪をちょっと立てたスメルジャコーフの去勢的なやつれた顔をにらみつけた。心もち細めた相手の左目が、薄笑いを浮かべてウインクした。それはまるで、『どうです、そのまま通り過ぎないところを見ると、われわれ利口な人間にはお互い何か話がありますな』とでも言っているように見えた。イワンはぞくっと身ぶるいした。
『どけ、ろくでなしめ、おれはお前の仲間じゃないぞ、馬鹿!』こんな言葉が口を突いて出かかったが、われながら驚いたことに、口から出たのは全く別の言葉だった。
「親父さんは眠っているかい、それとも起きたかい」自分でも思いがけなく、静かにおだやかな口調でこう言うと、不意に彼は、これも全く思いがけなくベンチに腰をおろしてしまった。その瞬間、彼はほとんどぞっと恐怖に襲われたのを、のちになって思い起こした。スメルジャコーフは両手を背中に組んで彼の真っ正面に立ったまま、自信たっぷりな、ほとんど厳しい目つきで見下ろしていた。
「まだお休みになっておられます」と彼は落ち着いて答えた(それは、『お前さんが先に口を切ったんで、わたしじゃありませんぜ』と言わんばかりだった)。「あなたには驚きますね、若旦那」と彼はしばらく黙っていてから言い足した。そのあいだ彼は妙に取り澄まして目を伏せ、右の足を前へ出して、エナメルを塗った靴の先を動かしていた。
「何だって驚くんだい」とイワンは必死に自分を抑えながら、ぶっきらぼうな、けわしい口調で言ったが、突然、自分が激しい好奇心を覚えていて、それを満足させないうちは決してここを立ち去るまいと気づいて嫌悪に襲われた。
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もしイワンが目的論的な行動フレームから逸れずにいたならば、彼はスメルジャコーフの前を無言で通り過ぎたはずだし、あるいはすぐさま罵ってスメルジャコーフとの会話を打ち切ったはずだった。だが彼は自分でも思い掛けなくスメルジャコーフの前で立ち止まり、自分でも思いも寄らなかった穏やかな言葉を掛けてベンチに腰を下ろし、会話を継続することを選択する。このように彼自身でも思い掛けなかった自分自身の逸脱、自意識と行動との齟齬によって、彼がスメルジャコーフとの非意識的な関係──奇妙な恋愛関係!──に瞬間的に固着したことが間接的に示されているというわけだ。
ここでさらに視野を広げれば、イワンのケースと同様に主人公の目的論的な行動フレームを揺るがすことができるものならば、大抵のものが非意識的関係の兆候と(当人にとっては・幻想的に)考えられるから、人物ではなくて単なる物体、対象──不必要な、意想外な細部──であっても兆候的描写に用いることができる。そういう結論も導ける。ここから『罪と罰』のラスコーリニコフの行動フレームについて考えてみたい。ラスコーリニコフもまた他人との間で非意識的な関係性を過敏に感じ取る感受性の持ち主だが、その結果彼の行動の軌跡には意想外な逸脱が数多く見出せるようになっている。老婆の謀殺からしてそうだ。彼は自分の中で己れの犯罪行為の正当性を徹底的に吟味して、計画を実行に移す過程でためらったり逡巡したりする余地のないように行動のフレームを固めていたが──「彼は、例のしごとに際して自分にだけはそのような病的な転倒はあり得ない、理性と意志が計画遂行の間中ぜったいに彼を見すてるはずがない、と断定した。なぜなら……彼の計画が《犯罪ではない》からである……」──また彼自身ではっきりと強盗殺人を行う目的を見据えていたはずだが、実際の計画遂行の過程においては、さまざまな非意識的な兆候が侵襲し、彼の実行は「理性と意志」の一貫性から見放されてぶざまに跛行することになる。もちろんラスコーリコフには(殺人の時点では)イワンに対するスメルジャコーフのように相互非意識過剰関係にある特定の他者というのはいない。しかし犯罪計画のような「秘密」を抱えている人間にとっては、あらゆる行きずりの他人が「俺は実際何も暗示していないが、相手の方では俺の振舞いが第二の意味──犯罪企図──を帯びていることを察知したつもりになっているかもしれない!」という疑心暗鬼の対象になる。彼が何も暗示していないのに彼の「秘密」が見透かされるという不安の感覚は、あらゆる対象に、ゼラニウムの赤い蜘蛛や、カーテンから射す夕陽の斜光にさえ、彼の行動のフレームを揺るがす力を帯びさせてしまう。そしてそんなラスコーリニコフの前に「利口な人」が出現し急迫すれば、彼の猜疑心は、決定的に泥沼化することになるだろう。『罪と罰』の中で分かり易い形でその「利口な人」のポジションを占め、ラスコーリニコフと相互非意識過剰の関係に入るのは、ポルフィーリイ・ペトローヴィチである(ソーニャもまた独特の形でこの「利口な人」のポジションを占める)。とりわけ、次のポルフィーリイの科白はかなり赤裸々に二人の非意識的な相互規定性について語っているものと読める。「……そこで考えましたね、いまにこの男はやって来る、とね。他の者なら来ないが、この男は来る。……それから待ちました! ありたけの力をはりつめてあなたの来るのを待ちました……ザミョートフはあなたにまんまとしてやられたんです……だって、困ったことに、このいまいましい心理ってやつはどっちともとれるんですよ! でまあ、わたしは待ったわけです。するとどうでしょう、天の助けか──あなたが来たじゃありませんか! わたしは胸がどきッとしましたよ。ええ! さて、あのときあなたはなぜ来なければならなかったのか? そしてあの笑い声、あなたが入って来たときのあの笑い声です、おぼえてるでしょう、あれでわたしはとっさにガラス越しに見るように、すべてをさとったのです、でも、あれほど張りつめた気持であなたを待っていなかったら、あなたのあの笑い声の中に何も気付かなかったでしょう」(第六部第二章)。当然ながらラスコーリニコフが自分でも目的が分からぬまま、わざわざ二度も予審判事のところへ自ら出向いたのもまた、目的論的な行動フレームを完全に逸脱した、非意識的関係の不透明性に惹き付けられての行為だったのだ。以前に一度示したように、ラスコーリニコフとポルフィーリイ(ラスコーリニコフとソーニャ)の関係を奇妙な恋愛関係と解釈できるのは、それ故である。
──余談。ここで非意識的関係と相容れない目的論的な行動フレームについて「目的もはっきりしていて動機も把握している一つの行動のフレーム」と表現したが、実際にはわれわれの普段の生活において目的への志向性は別にはっきり意識されているわけではないことを付言しておく。性愛が社会的再生産を志向しているという枠組みがまさにそうだけれども、この「目的」はむしろ慣習や常識として意識下で働いていることがほとんどだ。法律の言葉で犯罪を記述する際に現われるように──『罪と罰』の「エピローグ」において法廷でラスコーリニコフの犯罪がどう解釈されたかを想起せよ──われわれが社会的存在であることそのことのうちに目的論的な行動フレームを自明とするような慣性がある。したがって、「これが俺の人生の目的だ!」などという明確な目的を持って行動していない時でも、われわれが知らず識らず相互非意識過剰のような非意識的関係の芽を摘んでしまっていることは、あり得るわけだ。
:性格と想定
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軽い思考実験だが、登場人物の気質は彼のコミュニケーションの内容ではなく形式によって表現されるという仮定から出発してみよう。たとえば、間違いを指摘されたり、認めたくないことを強いられて認めさせられたり、他人を叱ったり、他人に約束を破られたりしたときの振舞いや言葉の用い方(内容自体ではなく)にこそ当人の性格はよく表われる、と考える。「周りを見ろ、そんなことは誰もやっていないから止めなさい」と叱るか、「そんなことやっているとおまえが不幸になるから止めた方がいい」と叱るか、「そんなことをやっていると俺はもう帰るぞ、止めろ」と叱るか、「それは不味いんじゃないかね? それは止めた方がいいんじゃないかね?」と叱るか、「俺もこれを止めるから君もそれを止めることにしたまえ」と叱るか、「何と言おうと、とにかくそういうことをやってはいけない!!!!」と叱るか──このように、内容的に相手の目に余る行為を止めようとしていることは共通していても、敢えて相手に関わろうとしていくその形式は、多種多様であり得る。当人がどういった内容のことを喋っているかより、こうした突発的で感情的なコミュニケーションの中で彼がどういう態度を見せてどういう言葉の用い方をしていることにこそ──すなわち「何を言うか」ではなく「どのように言うか」という点にこそ──登場人物の性格の本質は表われるのではないか。「怒りは魂を洗いざらい汲みつくして、底の沈殿物まで明るみにさらす」(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)。まずはそう考えてみよう。
それから、ラスコーリニコフのように「他人との間で非意識的な関係性を過敏に感じ取る感受性の持ち主」が、どのようなコミュニケーションの形式を用いがちなのか?についてさらに考えてみたい。相互非意識過剰といった関係を他者と結び得るような人間にとくに見られるコミュニケーションの形式とは? まあ仮説でしかないのだが、そういう人間は、自分自身の内語、口には出さない自身の内的な意識の流れが、他人に伝わってしまっている、他人に読み取られているという前提でコミュニケーションに臨むのではないか、と思う。つまり普段から他人を必要以上に心理的に鋭い人物と想定して掛かっているというわけだ。『罪と罰』から何気ない一節を引用してみる(第一部第七章)。
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「今日は、アリョーナ・イワーノヴナ」と彼はできるだけぞんざいにきりだしたが、声が意にしたがわないで、ふるえて、とぎれた。「ぼくはその……質草をもってきたんですよ……とにかく、あちらへ行きましょうよ、……明るいほうへ……」そう言うと、老婆にかまわずに、彼は入れともいわれないのにいきなり部屋へ通った。老婆はそのあとを小走りに追った。舌がやっとほぐれた。
「あきれた! いったいなんの用だね?……あなたは誰だえ? どうしたというんだね?」
「ごめんなさい、アリョーナ・イワーノヴナ……あなたのご存じの……ラスコーリニコフですよ……ほら、質草をもって来たんですよ、この間の約束の……」そう言って、彼は質草を老婆のほうへさしだした。
老婆は質草へ目をやりかけたが、すぐにまた押しかけ客へけわしい視線をもどした。老婆は注意深く、意地わるく、うたぐり深そうに見すえていた。一分ほどすぎた。ラスコーリニコフは老婆の目に何かしら冷笑のようなものを見たような気がして、もうすっかり見ぬかれてしまったのではないかと思った。彼はうろたえを感じた。ほとんど恐怖といってよかった。あまりの恐ろしさに、老婆がもう三十秒ほど何も言わずに、こんな目で見つめていたら、彼はここを逃げだしてしまったかもしれない。
「どうしてそんなにじろじろ見るんだね、まるで見おぼえがないみたいに?」と彼は不意にいつもの嫌味たっぷりな調子でつっかかった。「とる気があるのかね、ないなら──ほかへ行くよ、時間がないんだ」
彼はそんなことを言おうとは思いもよらなかった。突然、ひとりでに口をついて出たのである。
老婆はわれにかえった、そして客のはっきりした態度を見て、急に元気がでたらしい。
「でも、びっくりするじゃないの、こんなにだしぬけに……それは何だね?」と老婆は質草を見ながら、尋ねた。
「銀のシガレットケースですよ。この間言ったでしょう」
老婆は片手をさしだした。
「でもまあ、いったいどうしたんだね、真っ蒼な顔をして? 手もふるえてるじゃないの! 悪いことでもしたのかえ?」
「熱がひどくあるんですよ」と彼はとぎれとぎれに答えた。「いやでも青くなりますよ……何も食べていないんですからねえ」と彼は口をうごかすのもやっとのように、つけ加えた。また力が彼を見すてた。しかしその返事はいかにももっともらしく聞えて、老婆は質草を手にとった。
「何だねこれは?」老婆はもう一度けわしい目でラスコーリニコフを見まわすと、掌の上で質草の重味をはかりながら、尋ねた。
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この引用部でラスコーリニコフは老婆に必要以上の心理的な鋭さを想定した上でコミュニケーションのモードを変えている。彼の俗流ニーチェ主義的思想よりもこのような細部に仄見える彼のコミュニケーションの仕方にこそ、彼の気質は表われているのではないか、というのが一つ指摘したい点。もう一つは、このように相手に「すっかり見ぬかれてしまったのではないか」という猜疑を痛いくらいに過敏に抱いてしまう人間でなければ、「実際に私は何の暗示も受け取っていないが、相手の方では、自分の言葉の私に向けた第二の意味を私が読み取ったと考えているだろう」といった非意識過剰に陥ることもないのではないか、と指摘したい。つまり、上の引用部でラスコーリニコフがコミュニケーションのモードの中で見せている特異な感じ易さは、相互非意識過剰の関係の必要条件であるように思えるのだ(もちろん相手の老婆の方にそうした資質がないので、二人の間でその関係が成立するまでには至っていない。ラスコーリニコフの前に現われるそうした資質の持ち主とは、まずは、ポルフィーリイ・ペトローヴィチである)。
いずれにせよ、小説内の会話を分析する際にはコミュニケーションの(内容自体ではなく)形式に着目する必要がある。
:非意識的な物語の条件
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非意識的な要因が物語のダイナモとなっているタイプの小説では、表面的で客観的な事実が物語の展開に果す役割は比較的小さなものとなる。例えばイワンとスメルジャコーフが主人と召使の関係にあり、もしかすると腹違いの兄弟かもしれないという事実は、二人の間に成立している非意識の関係性に比べれば『カラマゾフの兄弟』のドラマに小さな寄与しかしていない。『カラマゾフの兄弟』の物語のスリルは、そうした客観的な要因には由来していない。あるいはイワンやスメルジャコーフの意図的ないし意識的な行動フレームにも由来していない。われわれが登場人物間の非意識的な関係性に着目している以上、こうした結論はトートロジーのように自然である……。
だがこの自然な結論は、非意識的な要因が物語のダイナモとなっているタイプの小説がどう面白いのか、ということについて何の解答も与えてくれない。非意識的な関係性を中核に据えた小説というのは、面白いのか? それは読み物として単につまらないかもしれないではないか? 意識的で客観的な因果関連によって巧緻に組まれた物語とは違った非意識的な物語の面白さとは、何なのか? このような問いに対しドストエフスキーの長篇小説のような実例を持って来ることなしに、答えることは可能だろうか。駆け足で思索してみよう。
面白い物語とは何か、という問いにまつわる思考はさまざまあり得るだろうが、ここで無難な考えを示しておけば、読者の予期を良い意味で裏切って行く物語は一応面白いものだと言えるだろう。そして非意識的関係を中核に据えた物語においては、人物Aと人物Bの間で成立する客観的な出来事ではなく、人物本人と自己関係的なズレを孕んだ人物A’、人物B’との間で生動する出来事が、表面的な人物Aと人物Bのやりとり以上に大きな意味を持って来ることになるから、たしかに、そこではミスリードと予期せぬ展開が同時的に存在することができる。しかしもちろんその予期せぬ展開は恣意的なものではなく、複雑な因果連鎖と同程度に必然性を持って組み立てられたものでなければならない。ならば、非意識的な出来事の進展を必然的にするものとは何か。
暫定的に答を出すとすれば──それは登場人物の自意識の強さだ。非意識的な出来事の予測不可能性とは、暗闇から何者かが襲って来ると感じて360度にくまなく注意を払って極度に警戒していたところに、足許で物音がして必要以上に驚いて飛び上がる、という類いのブザマさに似ている。自意識を旺盛に働かせて、あらゆることを計算に入れてあらゆる兆候を警戒して何もかも徹底的に観察しようと目を凝らしているからこそ見逃してしまう「対象」に、不意打される──それが非意識的な物語のスリルだ。非意識的な物語に加速度がつくのは(つまり面白さ=牽引力が生れるのは)、旺盛な自意識によってはつねに見逃してしまう死角からの不意打によるのであり、作者の努力はそうした登場人物間での死角の仮構の不意打の巧緻な配置に傾注されることになる。「イワンは、スメルジャコフが「実行」したということを知っていたわけではなかった。他方、スメルジャコフは、イワン自身は言外にフョードル殺害を教唆したなどと思ってもいないということに気づいていなかった。無意識は「連帯関係」においてこの二つの無知が交差する奇妙な地点に露頭する」(山城むつみ「カラマーゾフの子どもたち」)。だが何より、言うまでもなく非意識的な物語の第一の設定条件は、主人公・主要登場人物たちの頭の回転の速さ、情動の敏さ、自意識の強さ、(自分自身の内語、口には出さない自身の内的な意識の流れが他人に読み取られていることを計算に入れてコミュニケーションするほどの)計算高さ、だ。まったく警戒心がなく何もかも受動的に受け入れて、重要な兆候にまったく引っ掛からないような人物が非意識的な関係に巻き込まれたとしても、それは、単なる偶発的な誤解ゆえでしかないからだ。凡庸で鈍感な人間を主人公に据えた時点で、それは非意識的な物語としては失敗する。「特性のない男」を主人公に選択することはできない。この不可能性は意外と忘れられがちである……われわれは非意識的な関係は稀なものだとすでに結論したが、その原因を、自意識が或る水準以上に強い人間──単なる自意識過剰とは別。それはむしろ頭の悪さと鈍さの表徴ですらある──がそれほど多くないということにも求められるだろう。
結論。複数の登場人物の自意識の強さの掛け合いが、そこから遠心分離されるように非意識的な出来事の必然性の動線(単数とは限らない。登場人物間の非意識的関係の数だけそれは存在する)を析出している、というのが、非意識的な要因が物語のダイナモとなっているタイプの「面白い」小説の一つのモデルである。
付け加えるに。登場人物の、わけても主人公の自意識の強さは、彼が自分自身を能動的で注意深い主体だと思い込むほどに饒舌な「文体」において示される。「二週間留守にしていて、やっと帰ってきた。うちの連中がルーレテンブルクに来て、すでに三日になる。どんなにわたしを待ちわびているかわからぬと思っていたのだが、見込み違いだった。将軍はまるきり他人事みたいな顔をして、尊大な口調で少し話してから、わたしを妹のところへさし向けた。連中がどこかで金をせしめたことは明らかだった。将軍のわたしを見る目が、いささかうしろめたそうだったような気さえした。マリヤ・フィリーポヴナはひどくてんてこ舞いの様子で、わたしともろくに口をきかなかったが、それでも金は受け取って、勘定し、わたしの報告をすっかりききとった。正餐にはメゼンツォフと、例のフランス野郎と、そのうえなんとかいうイギリス人まで、くるという話だった。いつものお定まりで、金ができると、すぐさま客を招いて食事、モスクワ式もいいところだ。ポリーナ・アレクサンドロヴナは、わたしを見ると、なぜこんなに手間どったのかと、たずねたが、返事を待たずに、どこかへ行ってしまった。もちろん、わざとやったのである。それにしても、じっくり話し合う必要がある。いろいろ積りかさなることがあるのだから。」(『賭博者』第一章)
:本心とは逆のことを言う(振舞う)ことを強いられること
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(以下では夏目漱石『明暗』の内容を或る程度前提にして話を進める。)
非意識的関係をさらに分析するために、「嘘」と「本心とは逆のことを言うことを強いられること」とを区別する必要があると思われる。
「嘘」とは或る功利的な目的のために用いられるコミュニケーションの一技法に過ぎない。最も卑近なところでは、仕事を休むために仮病を使うのが「嘘」の典型的な例だ。あるいは、『明暗』で津田が温泉宿に付いて来ようとするお延の追及を躱そうとして吐いた「嘘」を引き合いに出してもいい。「せっぱ詰った津田はこの時不思議に又好い云訳を思い付いた。/『そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。然し時一人を置いて行くにした所で、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまり可くないじゃないか』/『そんなら吉川の奥さんから頂かないでも構わないわ。あの小切手があるから』/……/津田は又行詰った。そうして又危い血路を開いた。/『少し小林に貸して遣らなくちゃならないんだぜ』」(百五十一章)。こうした「嘘」は吐いた瞬間からすぐに成否が明らかになる類いのものであり、したがって目的論的な行動フレームの枠内にあるものであり、相互非意識過剰のような関係性とはほとんどかかわりを持たない。実際、『明暗』では津田の側からはお延に対して非意識的関係に由来する固着を抱えることはない(お延の側からは別)。
対して、「本心とは逆のことを言うことを強いられること」とは、目的論的行動フレームから逸脱する、自分と自分自身とのズレにおいて生じるコミュニケーションの契機だ。たとえば、スメルジャコーフの前で「たった一分前に望んだようにそのままそこを通りすぎないで急に立ち止まっ」てしまったイワンの振舞いがその例だ。あるいは、後になってなんでそんなことを言う必要があったのか自分でも訳がわからない科白、イワンのスメルジャコーフに対する「知りたけりゃ教えてやるが、おれは明日モスクワへ立つぜ、明日の朝早く。それだけだ!」(第二部第五篇第六章)という叫びが、その例だ。さらには、もっと複雑な例になるが、ポルフィーリイが二度目のラスコーリニコフとの会見で、ラスコーリニコフに向かってあたかも彼を疑っていないかのように「病気ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、病気ですよ! あなたは自分の病気を軽く見すぎますよ。経験ある医者に相談してみることですね。あなたの友人のあのふとったの、あんなのじゃだめですよ!……あなたは幻覚にとらわれています! あなたのしていることはみな幻覚のせいなんですよ!……」(第四部第五章)と告げたシーンを挙げてもいい。この科白は単に検事が容疑者を釣ろうとして吐いた「嘘」と見做すにはあまりにも巧緻すぎるのだ。津田の「云い訳」とは次元が違う。あるいはまた、津田との対比で言うならば、ラスコーリニコフがザミョートフに対してあたかも自分が犯人であることを確信させるかのように言った「本心とは逆」の科白、「老婆とリザヴェータを殺したのが、ぼくだとしたら、どうだろう?」(第二部第六章)を例に出してもいい。これは「彼は自分のしていることを、知っていたが、自分を抑えることができなかった。恐ろしい一言が、あのときのドアの掛金のように、はげしく彼の唇の上におどった」という形で、ほとんどラスコーリニコフの自意識の自制を離れて飛び出てしまった言葉、すなわち津田なら絶対にやらないようなコミュニケーションのモードから出た言葉である。そして最後に、スメルジャコーフがイワンに対して語った「本心とは逆のこと」を挙げよう。「たといわたしが癲癇の真似の名人だといたしましても、もしあのときほんとうにあなたのお父様に対して何らかの企みを持っておりましたなら、前もってあなたに癲癇の真似なんて朝飯前だなどとお話しするはずがないじゃございませんか。もしああいう人殺しを企んでおりましたならば、いくらわたしが馬鹿でも、そんな不利な証拠を前もってお話しする、それも実の息子さんにお話しするはずがない」(第四部第十一篇第六章)。──これらの例に共通している点は何だろうか。これらは、何かしらの功利的な効果を狙って吐かれた「嘘」ではない。むしろこう言うべきだろう、これらは対話相手にできれば本心を見透かしてほしいと半ば恐れつつ半ば期待して吐かれた言葉なのだ、と。これらの言葉は何らの利害も計算していない、したがってこれらの言葉が吐かれた結果コミュニケーションがどう変化していくか、それについての明確な予断は「本心とは逆のことを言(振舞)」っている当人も、持ち得ない。彼らに出来ることは、自分の言葉によって相手の言動がどう揺動するかを固唾を飲んで見守るだけだ。言い換えれば、彼らは相手との関係をより濃密にするために、まさにそれだけのために、これらの嘘を吐いている。この場合、この「関係」とはもちろん純粋に非意識的関係と見做されるべきだ。相手に自分の本心を見透かしてほしいがために吐く嘘、が実際にどのような効果をもたらすかは、意識的には、まったく操作不可能なのだから。しかも相互にそんな嘘を付合っているのだとしたら……。「『……誓って言うが、おれはあの時お前が何か醜悪なことをやりそうな予感がしていた、……あの時の感じは今でもありありと覚えている』/『わたしもあの時、ちょいとそんな気がいたしましたよ、あなたがこのわたしのことも当てになさっておられるような』スメルジャコーフはあざけるようににたりと笑った」(第四部第十一篇第七章)。
彼らが「本心とは逆のことを言うことを強いられ」ているのは、他人との間に成立している奇妙な(非意識的な)恋愛関係に対して彼ら自身も受動的にならざるを得ないからだ。そこで、自分自身を能動的な主体だと思い込んでいる彼ら自身の自意識との「ズレ」が発生する。場合によっては、他人が目の前に現前していなくても、その相手のことを気に掛けているだけでこの「ズレ」は発生する。兆候的描写の可能性の中心はこの「ズレ」にある。
ところで、『明暗』の津田が状況を自分の都合の良いように変えて相手に対し優位に立つために吐く「嘘」とは別に、「本心とは逆のことを言うことを強いられる」瞬間というものが、作中存在する。言うまでもなく清子を相手にした時だ。百八十八章から引用しよう。
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眼で逃げられた津田は、口で追掛けなければならなかった。
「なんぼ僕だって唯吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立して此処へ来ようと思ってる所へ、奥さんに会って、始めて貴女の此処にいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そう貴女のように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
津田はつい「此方でもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。然し何にも其所に頓着していないらしい清子の質問は正直であった。
「それで貴方も何処かお悪いの」
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ここで「僕は僕で独立して此処へ来ようと思ってる所へ、奥さんに会って……」は明白な嘘だが、この嘘は彼がお延に対して吐いた嘘とは異なったものだ。津田は清子がこの宿に逗留していることを知った上で彼女がかつて自分を捨てた訳を問う目的でここに来た。それが彼の本心だが、彼はそれを直接言い表わさずに表面的には筋の通った別の理由(嘘)を語る。それはむしろ、その嘘の裏面にある彼がこの宿に来た真の理由を清子に推察してほしいという期待と恐怖の入り交じったものだと考えるべきだろう。もし、二人が別れる前に津田が信じていたように、二人の間に或る種の「恋愛関係」が成立していたならば、そしてそれが今もなお通奏低音のように持続しているならば、清子は彼の嘘の裏面にある本当の意図、なぜ彼がここへ来たのか本当の理由を鋭敏に察知してしかるべきだ。もし二人の間にまだ恋愛感情が通っているならば、清子は津田の言動の二重性を読み取ってしかるべきだ。すなわち清子も「頓着」してしかるべきだ。そのような見通しがあるために、津田は直接自分がここへ来た理由──「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それが貴女の本音ですか」「それは貴女の美くしい所です。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」と問い質しに来た──を語らずに、本心とは逆のことを語ってしまうことを、どうしようもないほどに強いられている。つまり彼は非意識的な関係性に対して受動的になっているというわけだ。彼は自分の言葉の裏にある本心を見抜いてほしいと望んでいると同時に恐れている。彼の言動の優柔不断さはこの点に由来する、すなわち彼が抱いている恋愛感情に由来する。津田が清子に対して吐く嘘は、したがって、自分の弱味を握られないためにお延に対して吐いた意識的な嘘とはまったく審級が異なっている。
(余談だが、清子に接近した時に、津田が能動的であろうとすることと受動的であることを強いられているということとの「ズレ」は、たとえば次のような述懐に「兆候的」に示されていると言える。「おれは今この夢みたようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、──それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもう既にこの夢のようなものに祟られているのだ。そうして今丁度その夢を追懸けようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。従って夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。然しそれは果して事実だろうか。自分の夢は果して綺麗に拭い去られるだろうか。自分は果してそれだけの信念を有って、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電燈の影、傾むきかかった藁屋根、黄色い幌を下した一頭立の馬車、──新とも旧とも片の付けられないこの一塊の配合を、猶の事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗、──すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分が此所まで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出掛て来たのだ。畢竟馬鹿だから? 愈馬鹿と事が極まりさえすれば、此所からでも引き返せるんだが」(百七十一章)。「今のうちならまだどうでも出来る。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由は何処まで行っても幸福なものだ。その代り何処まで行っても片付かないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放り出そうとするのか。では自由を失った暁に、お前は何物を確と手に入れる事が出来るのか。それをお前は知っているのか。お前の未来はまだ現前しないのだ。お前の過去に合った一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議を有っているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」(百七十三章)。)
:状況志向性の競合
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これまでは個人と個人の関係性にとくに着目し過ぎていたので若干視野を変える。「状況志向性」という簡潔な語をここで導入してみよう。これは或る登場人物が、その時点での小説内の「状況」をどのように変化させたいと考えているか(それを「成功」させる力があるかどうか)に対応する語だ。状況志向性は複数の登場人物で部分的に重なることもあるし、競合することも対立することもある。ドストエフスキーの長篇から具体的な例を挙げると、たとえば『白痴』におけるナスターシャ・フィリポヴナの結婚をどうするかという件に関わる各登場人物の「志向性」を考えてみるといい。彼女をガーニャと結婚させようという点ではトーツキイとエパンチン将軍とガーニャは部分的に状況志向性を共有している。これはナスターシャ・フィリポヴナに激しい情欲を抱いて大金を積んでナスターシャ・フィリポヴナを手に入れようとしているロゴージンの状況志向性と明白に対立する。また、ガーニャの人格に不審の念を抱いており、逆にロゴージンにはなぜか親しみを感じているムイシュキン公爵もこの件ではガーニャの志向性に微妙に反対しているが、さらに公爵自身もナスターシャ・フィリポヴナに惹かれているためロゴージンの志向性と相容れない部分を持っている。もっと細かく見ていけば、歪んだ自尊心からナスターシャ・フィリポヴナをものにしようとしているガーニャと、単に穏便にナスターシャ・フィリポヴナの身持ちを固めたいと考えているトーツキイおよびエパンチン将軍の間にも志向性において微細な不和がある。また、ガーニャの家族であるワーリャ(ガーニャの妹)やニーナ夫人(同母)は、ナスターシャ・フィリポヴナという女性に対する偏見からガーニャの志向性に反対している。ガーニャの父であるイヴォルギン将軍もわけの分からない矜持の念からこの結婚に反対している。或いはまたリザヴェータ夫人は夫のエパンチン将軍が噛んでいるらしい隠微な企て全般に対する嫌悪から、やはりこの結婚に反対するが、それは同時にムイシュキン公爵がナスターシャ・フィリポヴナのような女性と関わることへの違和感の表明にもなっている。或いはまた、レーベジェフやケルレルのようなロゴージングループのならず者たちはロゴージンと状況志向性を一応共にしているが、強い結び付きがあるわけではないので、第一編終盤にはかなり道化た行動を取る。そして最後に、ナスターシャ・フィリポヴナ自身のこの件に関する状況志向性がある。──とくに『白痴』の第一編はナスターシャ・フィリポヴナの結婚をどうするかという一点をめぐって物語が展開するので、上述のように状況志向性の競合という観点から分析し易い構造を持っている。
要するに「状況志向性」の競合とは、各々の登場人物が別個の目的論的な行動フレームを持って動いていることの言い換えに過ぎない。とはいえ、そうやって誰がどのようにして状況を支配するかという陣地取りゲーム的な視座を導入することで、わざと自分の志向性を隠したり、志向性が近い者と共闘したり、或いは共闘すると見せ掛けて裏切ったり、二重スパイをしたり、互いに猜疑心を極限まで研ぎ澄ましたり、といった戦略面からプロットを分析することが可能となるだろう。或る登場人物の視点から表面的に見えている状況とはまったく別の状況が裏で進展していた、というプロットの多層性も分析可能となるだろう。
だが重要なのはその先だ。やはり『白痴』を例にすればナスターシャ・フィリポヴナの行動、ムイシュキン公爵の行動に典型的だが、複数の状況志向性の競合によって物語が動いているように見えながら、そこから逸脱する行動の契機が何人かの登場人物の中に宿る(それが逆説的に状況を苛烈に支配することもある!)ということの方こそ、注目しなければならない。われわれのこれまで思索してきたことの連続で言えば、それこそ目的論的意識・計算可能性からはぐれていく非意識的な契機である。逆に言うと、プロットとダイアグラムの構築においてできるだけ複数の状況志向性の競合、その戦略性の観点を精緻にしておかないと、その後にいくら非意識的な関係の特異性を描こうとしてもまったく説得力を持てないのではないかということだ。スメルジャコーフのフョードル殺し/イワンとスメルジャコーフの相互非意識の関係との相関がまさにそうだが、一件推理小説と見紛うほどの登場人物たちの志向性の巧緻な戦略性を前提として、初めて不可解な非意識的関係のリアリティを描くことができるのではないか。つまり、状況志向性にあまり関わりのない登場人物を造形してもプロット上はほとんど意味を持たない──それは非意識的な関係性をプロットの中心に据える場合にもそうなのだ。
:対話の極限
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対話の極限。対話というのは描写や説明と並ぶ小説の一要素ではない。対話には、それを継続するということにおいて人間をまったく別のところへ連れて行くことがあり得る。対話は参加者の意図を大幅に超えて、ヤバいくらい剣呑な瞬間へ不可避的に人間を巻き込んでいくことがあり得る。自分が今まで信じていたものをすべて喪失するかのような、ひりひりするような苛烈な危機へと。もちろん主体が自分自身の個性やセンスといった固定したサイズを維持したままでなされる対話には、そんな危機は訪れないけれども。しかし残念ながら、われわれが通常「対話」や「コミュニケーション」ということで意味しているのは、自分に危機が訪れる前にいつでも随意に切り上げられる、価値観が合わない、相手の態度が気にくわないという理由で自由に打ち切ってしまえる、そして相手のことを与しやすい卑近な同類と見做すことを「理解」と取り違えるような、つまり、自分が自分自身と矛盾していく実存の危機からあくまで逃避しながらなされる《楽しい》《良い気分になれる》《興味深い》お喋りに過ぎないというのも、また事実ではある。これをハイデガーに倣って「空談」と呼んでもよいだろう。このような空談のなかには、ハイデガーの定義からしても、「このまま人口が減少していけば日本社会はどうなってしまうのか」「近代文学は本当に終わったのか」「私の性格のどこが悪いのか」といった一見真剣さを装った、言葉の権威的・道徳的アクセントに振り回されているだけのお喋りも含まれる。
「空談」を超えて、自分にとっての重要性や自分にとっての価値という規準を超えて、ただ或る極限をのみ目指して行われる対話というものがある。それは端的に、初発に「相手が感じ考えていることは何なのか」という徹底した「理解」に向けた問いを強い促しとして持つだろう。だが実際、相手の考えていることを根源的に理解することなど可能なのだろうか。相手の真意を見極めるラインをどこで引いたらいいのか? もし相手がすでに三十歳の人間ならば、相手のことを本当に理解するためにはそれと同等の、三十年にもおよぶ時間が必要になるのではないか? それだけではない、そもそも私において、自己理解と自分自身の実存というのはどこまで一致していると言えるだろうか? そこに認識と実体の齟齬があり、しかもそのズレを無意識に自分自身に対する嘘であいまいにごまかしてしまっているとしたら──そんな惰弱な人間がさらに他者のことを真に理解することなど、可能だろうか? 可能だ、と肯定的に言い切ってしまうにはそこにはあまりにも不可視の深淵があり過ぎる。むしろ相手を徹底的に理解しようとして、認識と実体の齟齬を埋めようとどこまでも追求しようとすればするほど、相手のことも自分のこともますます分からなくなってしまう、ますます自己と他者と世界の不連続性があらわになっていってしまう、というのが「対話」の宿命ではないのか。
まさにそうだ。だからこそわれわれは、日頃「対話」「コミニュケーション」を実践していると言いながらも、相手の理解も自分の自己理解をも適当にあいまいにしたところで煙幕を張って身を隠して、自惚れた平均的理解のうちに、自分を見失わずに、冷静に生きている。そして《楽しい》《良い気分になれる》《興味深い》相互理解の域を超えて突っ込んで獰猛に真実を求めようとする人間が出てくると、「答えを求めるなんて野暮だよ」「人によって考えはそれぞれだからね」といって相対化して、脂下がる。その程度の情熱でも結構立派に尊敬される人物として生きて行けたりするので、多くの人間はそこから自分を変えようという必然性を感じない。相手のことを本当は理解できていないことに、他者の本来的な他者性をつねに受け取り損ねていることに、大して痛痒を感じない。探究の必要性を感じない。それが普通なのだ。誰もがドストエフスキーの小説中の人物のように生きねばならないわけではないから。
しかし小説は、その「普通」を突破することができる。このまま対話を続けていたらどうなってしまうんだろうか、こうして噛み合ないままレスポンスし続けていたらお互いヤバくないか、というような、自己も他者も見失われて変化していってしまう不気味な深淵をのぞかせてくれる恐ろしい対話相手に、現実において巡り会えることがなかったとしても、そんな対話を、小説上では登場人物のあいだに、虚構することができる。現実においてはそんな情熱を感じる相手に出会えなかったとしても、「相手が感じ考えていることは何なのか」という徹底した理解に向けた物狂わしい情熱を二人の登場人物に備給することができる。そして、そのような小説をこそ、言葉の正しい意味で「恋愛小説」と呼ぶべきだろう。ここで言う「恋愛」は生殖=社会的再生産という哺乳類的連結とはまったく何の関係もない。証明抜きで言うが、恋愛の優しさも厳しさも、自己の固定されたサイズを超えて、愛されるべき自己という幻想を超えて、他者の本来的な他者性を真に感じられるかどうかという探究の問題として存する。
補足。この項は演出家・広田淳一氏の次の発言に啓発されて書かれた。http://twilog.org/binirock/date-141018
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2014年10月18日(土)
広田淳一@binirock
何かを理解しようと思ったら興味を持たなければ。興味を持つってのは、素敵だなあとか、わかるわかる、と感想を漏らすことじゃない。相手に投げかける質問をもっているか? が問題だ。何も「質問」が持てないなら、多分、大した興味を持てていない。私ってどうですか? これは「質問」じゃない。(posted at 06:12:23)
対人関係でもそうだろう。相手に聞いて欲しいことがある、って気持ちも大切だろうが、相手に本当に聞きたいことがある、ってなって、初めて関係性が生まれたと言えるんじゃないか? つまりは、わかるわかる、じゃなくて、わからない、を対象に持っているか。(posted at 06:14:52)
インタビューのWSをやっていて発見したことだが、インタビュアーが「ああ、わかります!」と言ってしまうと、そこで質問は終わる。理解したという思い込みは、疑問・質問・興味の停滞をもたらす。下手をすると、「私の場合はね…」といってインタビュアーが語り出す。そこにはもはや質問はない。(posted at 06:21:04)
そして肝心なのは「わからない」を「わかるわかる」に変えることじゃない。そう簡単にはわかりそうもない、本質的な、根本的な「わからない」を対象に発見できるかどうか? これだろう。……(posted at 06:16:37)
そのためにこそ言語は使われるべきだ。こう解釈できる、ということをなるべく明確に言語にしていくことによって、その先にある、ここからは解釈できない、ということが明らかになっていくはずだ。言語を使って、言語では辿り着けない場所に、なるべく近づいていけるように。(posted at 08:00:58)
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:非意識再考(1)
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《『こころ』は人間の「心」を描いたが、心理小説ではない。それは、ドストエフスキーの小説が無限に人間の心理を剔抉しながら心理小説でないのと同じである。人間の心理、自意識の奇怪な動きは、深層心理学その他によっていまやわれわれには見えすいたものとなっている。だが、『こころ』の先生の「心」は見えすいたものであろうか。見えすいたものが今日のわれわれを引きつけるはずがないのだ。おそらく、漱石は人間の心理が見えすぎて困る自意識の持主だったが、そのゆえに見えない何ものかに畏怖する人間だったのである。何が起るかわからぬ、漱石はしばしばそう書いている。漱石が見ているのは、心理や意識をこえた現実である。科学的に対象化しうる「現実」ではない。対象として知りうる人間の「心理」ではなく、人間が関係づけられ相互性として存在するとき見出す「心理をこえたもの」を彼は見ているのだ。》(柄谷行人「意識と自然」)
さて、このサイトの「自意識と無意識の弁証法」と題した一連の考察は、「自意識と無意識の拮抗関係を虚構することまで射程に入れなければ小説によって人生の実相を描き切ることはできない、と考えられる」という洞察からスタートしたのだった。言い換えれば、自分の──主人公の──同一性を掻き乱す非同一性の契機を見据え描き切ることが現代小説のリアリティにとって必須ではないか、という考えから出発した。そして、そこから長々と一年間にわたり継続してきたこの考察は、「無意識」の概念を「非意識」と呼び換える紆余曲折をも経て、或る一定の里数にまで達したと思う。以下、その道程を簡潔に記述しなおすことを試みたい。
まず最初になぜ「無意識」を「非意識」と呼び換えたのかについて説明が必要だろう。これは、考察をすすめるうちに、小説の登場人物の心理と行動を組み立てる「自意識⇔無意識」の構造を、われわれ自身も当初そうとらえていたような一元的に閉じた自意識を複層にした二元的な意識構造、というふうな図式で考えては駄目だということが判明したからだ。駄目だ、というのは、そんな図式ではドストエフスキーの小説のヤバさはまったく分析できないぜということである。「自意識/無意識」の概念対を意識の二元的な構造ととらえるというのは、喩えれば「仮面/素顔」のような二重性として小説の主人公の意識存在を規定するということに近い。この場合「仮面」が表層の意識で、「素顔」が真の動機をあらわす深層心理というわけだ。自分が今どう振る舞っているかの動機が、自分の考えているようなものではなくその奥に実は本当は別の動機がある──というこの構造は単純に「自己欺瞞」と呼んでよいものだろう。例としては、自分の手のとどかないところにぶら下がっている葡萄について、あれはどうせ酸っぱい葡萄なのだ、自分はもとから欲しくなかったのだ、さらには葡萄なんか食べない方が正しい生き方なのだ!などと自分に言い聞かせる狐の寓話などを思い起こしてもいい(この狐の仮面下の「真の動機」に分かり難いことは何一つない)。
しかしこの「自己欺瞞」の構造が、われわれが目指している物語のリアリティにとって段々と些末なものに見えてきたのである。なぜなら「自己欺瞞」の剔抉においては、自分が自分の同一性の根拠だと思っているものとは別の根拠があった、ということが指摘されるだけで、自分の同一性そのものは疑われていないからだ。それは主人公の素朴なナルシシズムを傷付けることはあるかもしれないが、本質的な意味で「同一性を掻き乱す非同一性の契機を見据え」たことにはならない。そして実際、「自己欺瞞」のレベルで病んでいるドストエフスキーの登場人物というのはせいぜいが脇役にすぎない(イワン、ラスコーリニコフ、スタヴローギン、ないしそれに準ずる主役級の人物なら、自己欺瞞の意識構造を戦略的に利用して、自分の欺瞞をみずから人前で分析・告白してみせて相手の信用を得ようとするくらいのことはやるだろう)。結局のところ表層と深層、仮面と素顔、という対立項を呼び込みがちな、自己欺瞞や隠された真の動機の暴露につながりやすい「自意識/無意識」という概念のカップルを用いることは一切止めて、われわれは、「非意識」という語を新たにつくり出すことにした。この「非意識」の「非」には、無意識とはちがって容易く一人の人物の精神のなかに内面化され得ない──だがそれでいて精神的な要素である──という意味を込めている。
かりそめに「非意識」を何かに喩えてみれば、それは仮面と対比される素顔ではなく、「匂い」のようなものだと言い得るかもしれない。「非意識」は、目に見える仮面の裏側に想定された深層ではなくて、すでにそこに表層にあるにもかかわらず、主体に気付かれないうちは非存在にとどまっているという、不安定な存在論的位格を有している。そして「匂い」はフィジカルなものの知覚でありながら、なぜかその匂いを発している対象(相手)の本質を表現しているというふうに受け取られることがある(逆に、自分の匂いを嗅ぎ付けられたという感じは、自分の本質を相手に悟られてしまったような恐怖──恥じらい──をもたらす)。フィジカルなものがそのままに本質的で精神的なものへと変ずるという、「匂い」の帯びる──深層の暴露ではなくて──変位的な性格は、とりわけわれわれが考えている「非意識」の特徴に似つかわしい。言わばそれは、主人公の自意識を匂いのように不意打ちに侵襲し、覚醒させ、誘惑し、畏怖させる、しかも匂いと同様、それは自意識にとって意志的に操作することがほとんどできない。
能動性を発揮しているつもりが受動性を強いられていた、あるいは受動性に屈した自己放棄の果てに自分でも思い掛けない能動性を獲得した、というねじれたユーモアと痛覚を小説で描き切るためには、すなわち「人生の実相を描き切る」ためには、「非意識」という物語装置はほとんど不可欠であるように思われる。われわれは──というかドストエフスキー的な人物は──自意識において徹底して意志的かつ能動的でありながら(自分の欺瞞を内省によって完全に分析しつくすほど能動的であろうとしながら)、にもかかわらず同時に、非意識において何かに強いられて受動的に行動せざるを得ないという羽目に、しばしば陥る。この非同一的でダブルバインディングな生存感覚を手放さずに、どのように小説の形式の可能性を追求することが可能か。これが中途からわれわれの新しい課題となったのだった。
:非意識再考(2)
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ではさらに問おう。「無意識(というか俗流深層心理学で言うところの深層心理)」とは区別された、それでいて小説の登場人物に力動的に作用する「非意識」とは、何なのか? 残念ながらこれを筋道立てて定義することはおそらく不可能だと思われるので、以下、小説における「非意識」について断片的な考察メモを羅列するにとどめる。
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●「非意識」は欲望[desire]ではなくて欲動[drive]の領域に属する。前者の欲望[desire]というのはつねにその対象と対をなしている、世間的かつ線的に理解可能な、人間を行動へと駆り立てる動因の謂いだ。金銭欲、保身欲、権力欲、報復欲、姦淫欲……というふうにそこで求められている対象=目的を見れば欲望というのは容易に理解可能であり、またわれわれが他人のそれを我が身に引き付けて共感することも可能である。他方、後者の欲動[drive]はそれとはちがって、(欲望と絡み合いつつも)特定の対象を目掛けずにうごめいている不透過な行動の動因である。ただしそれは恣意的な行動の動因なのではない。欲動の刺激は主人公にとってはあらかじめ予測不可能だとはいえ、それはまったく因果関係を持っていないわけではないのだ。ただ、欲望の因果にくらべて欲動の因果関係はより複雑なのだとは言える。したがって、欲動によって《不意に》《思わず》《もののはずみで》衝き動かされている主人公の行動のなかにも、注意深い読者なら何らかの必然性を見出すことができる。
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●「非意識」は主人公の自意識に対して、すなわち主人公の内的なモノローグ(一人称的内景)に対して絶縁体のように沈黙している。すなわち、非意識は主人公の「何を意識しているか」にとって不在である。主人公の自己批評性は動機=欲望にまでしか到達しない。現在の自分の行動を支配していると現在自分が信じてている動機とは、別の動機がじつは存在していた──という「深層心理」の発見などは、自意識の内部での弁証法(同一性への止揚)に過ぎない。にもかかわらず、非意識的欲動は主人公の行動に規制的な作用を及ぼす。とはいえ、その動因、欲望とは異なり自意識の弁証法によっては決して止揚されない動因は、実際に行為してしまった後からしか主人公には触知することができない。行為──目的論的フレームから逸脱する行為──としてあらわれ出てこないかぎり、自意識は、その非意識的動因に気付けない。事前にはせいぜい、やがて自分が今意識しているのとは全然別の仕方でふるまってしまうのではないか?という予感に怯えることができる程度だ。逆に言えば、非意識は、自意識の視野において漠たる不安としては「見える」。ちなみに、非意識的欲動を主人公の「前からの意志・隠していた動機」として解釈してしまうのは、時間的順序を転倒させた誤謬である。
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●非意識的欲動の作用の必然性、その「より複雑な因果関係」は、主人公の置かれている身体的-社会的諸関係によって決定される。他者の存在をつねに・すでに不可欠の契機とする欲動のポテンシャルは、主人公のまわりに或る種の磁場をつくり出す。物理学の喩えを用いるなら、欲望があくまで慣性系のなかを等速度ですすむ力なのだとしたら(だから或る個人の欲望=或る座標軸における法則的現象は、他者によって共感可能=別の座標系へ変換可能なのだ)、非意識的欲動は、重力の作用によって加速度を生む非慣性系の場を可能にする。複数の他者たちとの社会的布置、社会的な諸関係が、情動の重力場として主人公の身体に非意識的に作用してくる、というイメージだ。ところが主人公の自意識はあくまで世界を等速度の慣性系としてしか把握できないので、主人公が世界を知的に認識しようとすればするほど、加速度をつけて動いている情動の重力(に左右されている自分の身体)を見逃してしまい、主人公の内省と行動が致命的にズレていく、焦れば焦るほどどんどんそのズレが大きくなっていく、という仕儀になる。この情動の重力場は、社会空間内で、金銭のやり取りという形でも、言語コミュニケーションという形でも、セックス・アピールによる誘惑という形でも、主人公の周囲で明滅し変動する。まあ非意識的欲動=重力というのは比喩に過ぎないのだけれど、それが他者との位置関係にしたがって非対称的に作用するという意味では、そんなに間違ったイメージではないだろう(ただし主人公はその作用を事前には予測できず、その作用によって何らかの決断・行為をしてしまってから、事後的かつ受動的に気付くことができるのみである)。
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●非意識的欲動を必然とする身体的-社会的諸関係とは、フロイトの精神分析学の術語では、転移および転移切断の関係というやつに近似する。対人コミュニケーションからこの関係性を捨象してしまうと、小説の対話はどうしようもなく痩せ細ってしまうだろう。
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●さらに言うと、主人公に非意識的に作用してくる複数の他者たちの社会的布置というのは、社会的地位の格差や所得格差といった要素のみならず、登場人物たちが棲息している社会形態が織り成す価値体系や、機関や制度や、テクノロジー環境(とくに人びとの生体を管理する医療技術)といったものも関係してくると考えるべきだ。或る一つの時代の或る社会形態においては、多様な力関係の網目が不規則な(その時代に特有な)かたちで社会空間に配分されており、或る価値観にもとづく生存が称揚される一方で、別の価値観にもとづいた生存は抑圧されるということが隠微に起こっている。主人公の背後の身体的-社会的諸関係を描くには、作家が、その時代に対する鋭い批評精神を備えている必要があるかもしれない。……ところで、主人公のまわりに非意識的欲動の磁場をつくり出す「複数の他者たちの社会的布置」──この他者たちのなかには「死者」も含まれると考えてよいだろう。ゾシマ長老の死体が放った「臭い」の作用について考察してみよ。
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●「非意識」は、自意識が徹底して欺瞞や抑圧を内省によって駆逐しようとすればするほど見逃されてしまう。われわれは欲動から離れることはできない、しかしまた、決して本当には欲動に気付くことができない、少なくとも自意識が旺盛に活動しているあいだは。われわれは非意識的欲動の対象に「意識的に」出会うことは絶対にできないし、それを予測もできない。「非意識」とは第二次の意識ではなく、非意識的欲動の対象との出会いは、つねに出会い損ないである。自意識が非意識の作用(の兆候)を捜そうとすればするほどそれは逃げ去り、しかし、自意識が非意識の作用を認めまいとすればするほど、それは(不意打ちに)彼を捉える。しかも非意識が主人公を捉えるとき、それは抽象的な認識主体ではなくて血と肉とセクシュアリティを備えた主体として捉えるのだ。「非意識」は、つねに匂いや眼差しや響きのような感覚的な形の出現と結びついている。「非意識」の作用は、意識には吸収されない苦痛=享楽を覚えるはめになった身体の「恥じらい」の証言である。
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●物語を通じて、非意識的欲動の作用がいちじるしく現れるのは主人公の言語コミュニケーションにおいてである(一つの発話がすでに一つの決断・行動だ)。主人公の発言をそれが置かれている非意識的欲動の磁場からの強制作用──誘惑あるいは不安──を無視し、その意味内容だけを取り出してしまえば空疎になる。ならざるを得ない。たとえばラスコーリニコフやイワンの思想を、ポルフィーリイやスメルジャコーフといった対話相手との論争的ニュアンスを無視してニュートラルに検討しても、大して面白くはないはずだ。とまれ、小説内のあらゆる発話は、複数の他者たちとの身体的-社会的な布置関係──転移・転移切断関係──に由来する非意識的作用の影響を受けている。ところが、くり返せばその作用を主人公は「事前には予測できず、その作用によって何らかの決断・行為をしてしまってから、事後的かつ受動的に気付くことができるのみ」である。これを言い換えると、言語コミュニケーションの場において、非意識的欲動に緊張した発語は、主人公が自意識で意図している意味から分裂・転倒し、しばしばダブルバインディングに響いて、対話相手と自分とを事後的に(自意識では意図しなかった形で)拘束してしまうことがあるということだ。対話相手だけでなく、自分自身も、自分が口にした言葉の意図しなかったダブルバインディングな響き=耳-非意識に拘束されてしまうのだ。それを「そんなつもりではなかった」とは拒絶できない。自意識では「そんなつもりはなかった」としても、非意識のレベルにおいて必然性があったからこそ、そのようなダブルバインディングな発語=行動が自分から《不意に》飛び出したことは否定できないからだ。主人公はそれが恣意ではなかったということを事後的に承認する。そう、われわれはときに、「私にはあなたなんて必要ない」という言葉によってしか愛を伝達できないような状況に絶望的に追い込まれることさえ、あり得る。これは「いやよいやよも好きのうち」という表層(発話)と深層(本音)の食い違いの悲劇ではない。彼女をとりまいている具体的かつ社会的かつ身体的な諸関係がつくり出す情動の重力場が、彼女に、自意識を突き抜けて、《思わず》そう口にすることを強いるのだ、愛の表現として。そしてこの言葉を真剣に受け止めた相手は、「愛していない」と同時に「愛している」の響きを聞くことで、相手に対する態度が二つに引き裂かれることを体験せざるを得ないだろう。さらにそれが、彼のダブルバインディングで非意識的な決断・行動による間接的応答へとつながっていくだろう(それは今度は相手=彼女にとって、思い掛けない形で使嗾された恐ろしい実践として立ち現われるだろう!)。自己欺瞞の二重性ではなくて、他者とのダブルバインディングな言葉のやりとりこそが、悪循環的に予測不能なダブルバインディングな行動の加速度を生むということ。「自分の──主人公の──同一性を掻き乱す非同一性の契機」が見出されるのは、そこにおいてだ。
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●惟うに──ここから新しい非意識的な三角関係の分析的定義が可能かもしれない。ジラール的な定義とは異なる三角関係、『白痴』におけるムイシュキン/ナスターシャ・フィリポヴナ/アグラーヤの三角関係の新しい分析。
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●他者とのダブルバインディングなやりとりが悪循環的にダブルバインディングな行動を生む、という非意識的な物語のダイナモは、具体的な言語コミュニケーション(ミスコミュニケーション)のみならず、金銭、性愛、労働、といった交換の場面でも当然駆動する。それらの場合でも、やはり自意識が意図したことと、非意識的な磁場のなかで、他者との相互規定性において現実に実践され実現することとは、致命的にズレていくだろう。たとえば善意のつもりで贈った金銭がおそろしく邪悪な結果を招来してしまったり、など。非意識的な力は、われわれの自意識にとって容赦ない外部性としてある。
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●かような自意識と非意識の分裂的共存を記述しつくすことは、小説という形式によってしか不可能なように思われる。
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●くり返せば、非意識的欲動は身体を介して作用する。身体と身体の出会いの唯物性は決定的である。言語コミュニケーション(ミスコミュニケーション)が非意識的な過剰性と緊迫感をともなうことがあるとしても、初発にある身体と身体とのフィジカルな遭遇を、抜きにはできない。たとえば書簡体小説であるドストエフスキーの『貧しき人びと』においても、マカール・ジェーヴシキンとワルワーラは近所に住んでいるのであり、手紙を交わす以外のところでも生身で顔を合わせていて、贈物を渡し合ったり、あるいは共通の知人に遭遇したりしていて、そのことが手紙の内容にも反映され、二人のあいだで非意識的欲動がめまぐるしく循環しているさまを、自意識が横溢した饒舌な文面から読み取ることができる。これが仮にもっと遠隔の地に住んでいる者同士の書簡だったら、かなり味気ない内容──性的関係の脈搏をほとんど連想させない内容──の文面になっていたはずである。以前書いた「「非意識」の作用は身体の「恥じらい」の証言だ」とはそういう意味でもある。……余談だが、相手のハンドルネームしか分からないような完全に身体性を欠いたネットコミュニケーションでは、非意識的欲動の作用も、情動の重力場もいきおい稀薄にならざるを得ないだろうが、逆に言えば、それは非意識的欲動を回避したい自意識肥満児には快適なコミュニケーション環境なのかもしれない。ネット上の論争が相手の「(不純な)動機」を勘繰り合うだけの解釈合戦に終始しがちな所以だろう。
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●一体に、非意識的欲動の作用は、社会的な弱者や、人生上の選択の余地が奪われている苦境にいる人物の上に、より強くはたらきかけるものだと考えられる。非意識的欲動の作用は、上述のとおり他者たちとのあいだの動かし難い身体的-社会的諸関係から生み出されるのだが、相対的に金銭や権力を多く保持している人間は、その諸関係をいくらか思いどおりに(能動的に)コントロールして合理化できているという幻想に酔いがちだからだ。だが、そんな幻想は所詮ナルシシックな自己欺瞞にすぎない。そのような欺瞞の戦略とは徹底して無縁でありながら、自分が現実的には弱者であり、ドレイでしかあり得ないという自覚と覚悟を抱いて生きつづけなければならない者のなかで、非意識的欲動は、単なる意志では逆らえない、身体も逃れることのできない激しい息苦しさとして、作用するだろう。そこから、次のような行動のベクトルが発する──「自分がドレイであるという自覚を抱いてドレイであること、それが……夢からさめたときの状態である。行く道がないから行かねばならぬ、むしろ、行く道がないからこそ行かなければならぬという状態である。かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが……絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる」(竹内好)、「殺人は、ラスコオリニコフの「何処でもいい、何処かに行くところがなければならぬ」、そういう場所であった」(小林秀雄)。主人公の飛躍した行動の、発話の、受動的-受苦的必然性……。今すぐ逃げ出したいという躍動感と、どこにも行く場所はないという焦燥感……。この受苦性は主人公にとって、かえがえなく絶対的で偶然的な「陥穽」として知覚されることだろう。それは恋愛においてさえそうである。
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●これは証明抜きで言うのだが、「非意識」を物語装置として活用した小説を読むと、登場人物の動機の未決定性と行動の唯一性とが同時に混交的に成立しているかのような、あたかも一つの現実世界のなかに複数の可能世界(彼はああも行為し得た、或いはこうも行為し得た、或いは……)が圧搾されてブレながら畳み込まれているかのような、不思議な生存感覚を読者は味わう。それは、世界が単数ならば世界は複数ではあり得ない/世界が複数ならば世界は単数ではあり得ない、という常識的な排中律をくつがえす、小説にしか描けない感覚だ。言わば、多様体への単独的な飛躍。複数的な超越論性。
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●「罪」について。これも証明抜きで言うが、非意識的磁場の作用によって生起した出来事については、無実と罪を分離しておくことが難しい(これは無実でありながら罪を負おうとする自虐、或いは有罪でありながら無実であろうとする欺瞞──といった自意識の劇とは全然別の意味で言っている)。非意識の作用が去来させる身体の「恥じらい」は、個人の懺悔と罪の弁証法によっては決着をつけることができない。
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●非意識的な行為がなされる事前と事後で「罪」に関してダブルバインディングな「断絶」が生じてしまうことについては、山城むつみ氏『ドストエフスキー』内の次の一節も参照。ただし小説家にとって重要なのは、何よりもまず主人公が非意識的作用に強いられてまさに行為をしてしまう過程であり──「物語とは、完結した劇的行為である。優れた物語の中ではその行為をとおして人物が示され、行為は人物によって統制されるのだが、そこから結果として出てくるのは提示された経験全体から発する意味である」(フラナリー・オコナー)──その後に自分自身のなしたことについて簡単に・自意識的に・整理も決め込むことができず受動性に翻弄されることに耐えなければならない、という要請は、二次的である。しかし「行為」にせよ「空白に耐える」ことにせよ他者たち=社会的諸関係の先在性が主人公に強いてくるものだということは山城氏も強調するとおりだ。「……ラスコーリニコフは悪を為そうとしたのではなく、むしろその逆だったのである。にもかかわらず、そこから結果したのは愚劣で醜悪きわまる悪業だったのである。事前と事後との間、動機と行為との間には、時間の結び目が断たれる瞬間が必ずあり、現実がその死角を捉えて「善を為さんと欲する我」(パウロ)を否応なく「悪」に結び付けてしまうことがある。歴史の真の恐ろしさはそこにある。ラスコーリニコフは動機を明晰に記憶している。そこから結果した悪業も判然と認識できる。ただ、両者の間にあって、前者を後者に結びつけたものが何だったのか、思い出すことも反省することもできない。ただ、その空白の恐ろしさに耐えるほかなかったのである。それに耐えることに比べれば、動機の理論的な正当性を強弁し力説することも、結果の愚劣な醜悪さを反省し懺悔することも容易なことだ。油断すれば正当化の斜面か懺悔の斜面か、いずれかを滑落してしまう。この尾根に身を保持して、自分の内部のあの死角の空白を正視しそこに露頭している危険なものの尖端に堪え続けることだけが難しい。それに堪えてその空白に秘密を見出すことだけが難しいのだ。《私は殺した》が蔵している或る秘密を認知し承認することだけが難しいのだ。それが、ほとんど不可能なまでに難しいのは、この認知と承認が単に彼ひとりの心の内〔自意識による自己批評〕で処理し始末できるような問題ではないからだ。自分の秘密を認知し承認するとは、実際には、彼の外からその秘密を凝視しているソーニャの、あの「おとなしい眼」の奥を彼自身が覗き込んで、その底に沈む危険なものを正視するそのことでしかあり得ないからである。」(「ソーニャの眼──『罪と罰』)
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●当然の前提として。他者から孤立した個人は非意識とは永遠に無縁である。或る種の「共同体」を想定しないかぎり小説によって非意識を描くことはできない。しかし、たとえば生殖と子孫への配慮という目的論に従属するかぎりでエロス的行動の捌け口が与えられる「結婚の共同体」は、非意識の器としてふさわしくないこともまた、付け加えて指摘しなければならない。「結婚の共同体」は、社会内で交換や贈与の結節点となることにおいて合理的な生産性にもつらぬかれており、生命主義と経済主義の奇妙なアマルガムをつくり出す(その上位に結婚を合法化する国家の共同体が位置する)。対して、先に使用した比喩をくり返すならば、非意識的欲動は、個々人の内奥にあって個々人のなかで収束せず、他者=他の天体に重力質量として影響を及ぼすブラックホールの作用のようなものであり、徹底して反生命主義的である。そんな非意識的欲動によって露呈する非生産的な共同体は、普遍的で具体的な特定のかたちを持たないであろう。或いはそれをバタイユにならって「恋人たちの共同体」と呼んでみてもいいかもしれない。
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:十川幸司「「不可能なもの」をめぐって──バタイユと精神分析」からの抜書き
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「フロイトの「否定」というテクストは、無意識の次元における否定がいかにヘーゲル的論理から逃れうるものであるかということを厳密に描き出している。このテクストから引き出せることは数多くあるだろうが、ここでは私たちの文脈において重要な二点に限って検討してみる。
[1]フロイトは、「この夢の人物は誰かとお尋ねですが、母ではありません」と言う患者の例を挙げ、抑圧された表象の内容や思考の内容は、それが否定されるという条件でのみ、意識に到達できると論じた後、「否定は、抑圧を取り除く(Aufhebung)ものだが、当然ながら抑圧されたものを受け入れることではない」と言う。さらに「我々は抑圧を克服することに成功し、患者に抑圧されたものを知的に完全に認識させることができるのである。しかしそれでも抑圧プロセス自体は取り除かれない」と述べている。ラカンとイポリットは、この「否定」という現象に、知的なものと情動的なものの乖離があることをまず指摘している。さらにこのフロイトが使った Aufhebung という表現に、フロイトがヘーゲルを読んでいないことを承知のうえで、そこにヘーゲル的ニュアンスを読み取っている。そして、その点にフロイトの否定とヘーゲルの否定の大きな違いの現われを見ている。ヘーゲルにおいて否定は止揚(Aufhebung)への契機となるものだが、フロイトの「否定」において、患者は否定の意味を「意識化」しても抑圧はやはりそこにある。「否定の否定」(イポリット)は単なる知的な肯定であり、止揚へと導かれない。これを言い換えるなら、ヘーゲル的止揚は非知を既知化し、全体性のなかに取り込まれるのに対して、フロイトのそれは、知に還元されない何かを常に取りこぼしていく。このような構造は、ラカンが同日のセミネールで論じたエルンスト・クリスの症例に(形は異なっているが)範例的に示されているように思える。クリスの患者は、学者であり、自分の書いたものすべてが剽窃であるという考えのため、何も出版できないという「症状」に苦しんでいた。そしてある日、クリスに勝ち誇ったように、やはり自分の主張がすでに出版された印刷物の中にあるということを報告する。これを聞いたクリスは実際に患者の書いたものと、その印刷物を詳細に確かめ、患者の主張が剽窃ではなく独創的なものであることを告げる。この解釈の後に患者は、あるレストランに入り、生の脳味噌(これはヘーゲルを連想させる)を食べる……。この症例において否定はヘーゲル的止揚へと向かわない。一切が既知化されたと思ったときに、取りこぼされていた何かが患者を「行動化」(acting out)へと駆り立てる。」
:鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」および「山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」について」からの抜書き
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「私の考えでは、それ〔「『罪と罰』についてII」が切り開いた、戦前の「『罪と罰』についてI」にはない決定的な認識上の種差〕は主人公の意識を貫く固有の忘却、事件についての内省の悪無限的な徹底性にもかかわらず(実はそのゆえに)彼に付きまとうリザヴェータについての記憶の不在である。「事件直後の、主人公の錯乱状態を活写した後、作者は、まるで主人公に呪いでも掛ける様に、『彼はあの事件をとんと忘れて了っていた。その代わり、何かしら忘れてはならぬ事を忘れている、という事を絶えず思い起すのであった』と書いているが、この呪縛は、落着きを取戻したラスコオリニフの心底にも、主調低音の様に鳴り続けるのである」(二二九頁、傍点小林)。この「呪縛」としての忘却とは何か、それが主体の対他的な関係にいかなる仕方で反復強迫してくるか、それこそが「ソーニャの眼」を通しての以後の考察の核心になる。しかもノートを熟読すると、明らかにこの忘却は「犯行は主人公に何をもたらしたか(もたらさなかったか)」という、潜在的だがより本質的な問いの内部で提起されている。だが、これまでの小林論は秋山駿のものも含めてこの種差に殆ど気付いていない。……」
〔※小林秀雄からの引用の頁数指定は新訂小林秀雄全集第六巻〕
「(a)(二二七頁一六行目─二二八頁一一行目)山城が引用する部分。ラスコーリニコフは夢の中で老婆殺しを反復する。だが小林が本来示したいのは、主人公が目覚めてもなお「夢」にとらえられているという事実である。
(b)(二二八頁一二行目─二二九頁七行目)目覚めようとする試みをも自らに繰り込む「夢」の悪無限的な過程が同時にある現実の抑圧に帰着する(「彼はあの事件をとんと忘れて了っていた。その代り、何かしら忘れてはならぬ事を忘れている、という事を絶えず思い起すのであった」)ことが示唆される。
(c)(二二九頁八行目以下)この「忘れてはならぬこと」が具体的には「リザヴェエタの顔」であること、にもかかわらず主人公が反省的なレベルにいる限り、「何故婆さんを殺してはいけないのか」という問いを「何故殺したのがいけなかったか」という問いに置換するだけで、この記憶を決して回復できないことが示される。
つまり、小林はここで理論的認識の源泉となる主人公の現実の核心を記述したのである。それは、主人公の夢(内省)がそのまま、ある現実(犯行そのもの、とりわけリザヴェエタを殺したこと)についての記憶を抑圧するからくりとしてあるのを示すことである(他方、抑圧されたものの回帰あるいは犯行の反復強迫は「『罪と罰』についてII」の三節で主題的に扱われている。詳細な分析は批評空間II-24を参照)。……筋の流れに遮られて表面的に見えにくくなってはいても、小林による小説の再構成には一貫して強固な目的意識がある。注意深く読めば、それらはすべてラスコーリニコフの忘却の丹念な析出にかかわることがわかるはずだ。……」
:山城むつみ「マリヤの遺体とおとなしい女──『作家の日記』」からの抜書き
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「……我々はおそらく《真実》をそもそもの初めから知っている。にもかかわらず、それを自分自身から隠そうと努める。我々が熟知しているもの自体において我々が知らずにいる秘密(不気味なもの)があり、我々はそれを、知っているのに知らぬままでいようとするのだ。だから、最初からすでに知っているそれを「自分自身に気づかせ認めさせる」ことを嫌い、それを回避しようと「絶望的な試み」を繰り返すのだ。「意識的な無知」とはこの無意識の抵抗のことだ。知っているのに知らぬふりをすることではない。無意識とは、我々の意識自体に内在している自己関係的な差異のことである。意識の下にある暗く恐ろしい欲望などではない。……『おとなしい女』における《真実》も、すでに知っているものの分裂的差異としての無意識、知そのものに内在している自己関係的な差異としての無知にほかならない。それを認知すること、同じものをそれ自身の差異において受け取りなおすことは容易ではない。すくなくとも自分ひとりでは不可能である。『おとなしい女』の主人公も、《真実》を最初から知っているにもかかわらず、単に「内的対話」によってはその認知に至り得ない。内的独白はおろか、独白者の内的対話をも刺し貫く語りが必要なのだ。「幻想的な速記者」が要請されるのはここにおいてだ。その独白をこの速記者が秘かに記録するとき、この幻想的速記の影響を通じて主人公が《真実》の認知に導かれ得るのだ。『未成年』のアルカージィは、この速記者の機能を代行するナラティヴによって、最初に持っていたイデーと全く同じものを全く違うものとして受け取りなおすだろう。
作者が「真理」と考えるものへと主人公を都合よく誘導してゆくということではない。むしろ逆だ。ドストエフスキーは一文ごとに賭けねばならなくなっている。彼が幻想的速記者を想定したのは、作中人物に対する作者の関係に或る原理的《不確定性》を直観していたからだ。彼は主人公の内的モノローグを、作者である自分が書いているというそのことが主人公に及ぼす不確定な擾乱を想定に入れて書かねばならなくなっているのだ。具体的には、ルーレットのようなこの確率性の領野で、主人公のモノローグが最後に「真理」に乗り上げるように賭けることだ。……」
〔※コメント。ここで言われていることに補足と若干の修正をするならば、作家は、ときに自分が書いてしまったことの不確定性に図らずも事後的に拘束されてしまうことがある──と言った方が正確だろう。作家が「ルーレットのようなこの確率性の領野」で、一行ごとにのるかそるかの賭けをせざるを得なくなるのはそのためだ。その不確定性は、別に主人公の内的モノローグを主人公ならぬ作者が速記しているという形式上の事実から生じるのではないと思う(この点、山城氏はバフチンの主張に引っ張られすぎ)。不確定性は、作者が書きしるす主人公の動機の未決定性と行動の唯一性という分裂的差異に由来する。一寸先には主人公がどんな行動をしてどんなことを語り出すか分からない、という状態に不可避的に主人公が陥るように書く、それが「事後的に」作家の作為となってしまうような多重決定的な書き方から、作家が自らを賭けるような不確定性が、生まれる。〕
「注意すべきは、「おとなしい」という言葉がドストエフスキーのいわれなき罪責感と一対になっていることだ。……『おとなしい女』というタイトルにもかかわらず、ドストエフスキーはクロートカヤをそのまま直接に描写しない。その死に対して「責め」を感じている男のナラティヴを通して描くのだ。この中編では、クロートカヤも質屋も死に肉迫するが、作者はユーゴーの『死刑囚最後の日』やトルストイの『イワン・イリッチの死』のように、死を間近にした主体が死へとどのように追いつめられてゆくのか、その動機や心理を追い、間近に迫った死を内側から描いて「最後の言葉」に至ろうとはしない。作の力点は作中人物の主観の内部にはもはやなく主人公とクロートカヤとのあいだにある「絶対的な《閾》」へと移動しているのだ。なるほど、この小説を読んで、クロートカヤはなぜ窓から身を投げたのかという問いから自由になることは不可能だ。しかし、ドストエフスキーは彼女の自殺の原因や動機を追っているのではない。それならば、クロートカヤ自身の一人称の語りか、あるいは彼女を主人公とする三人称の語りで書いてもよかったはずだ。ところが、ドストエフスキーは、彼女の死に責任を感じている質屋の内的モノローグ越しにクロートカヤを描くのだ。主題であるおとなしい女に、いわばヴェールをかけているのである。ヴェールは透明ではない。そこに写ったクロートカヤは質屋の主観と偏見によって当然、歪んでいる。しかし、そのひずみを補正して、ヴェールによって覆われていない真のクロートカヤを再現しても何にもならない。作者自身がこのヴェールを必要不可欠としたのだからである。ドストエフスキーは、質屋の偏見に満ちた主観というヴェールによって歪められていない真のクロートカヤなどに関心を持っていない。いや、そのような真のクロートカヤが存在し得るとさえ考えていないだろう。……質屋の主観と偏見のヴェールによってクロートカヤの真の姿が歪曲されているという見方をここできっぱりと棄てよう。「真のクロートカヤ」はむしろ、質屋の偏見に満ちた主観が彼女の肖像にもたらす歪曲と屈折にこそあらわれるのだ。以上のことは、ボリーソワの死に対して作家自身が感じていた「責め」の感触に直結している。ドストエフスキーがクロートカヤの死の理由を問うのは、ただこの感触のうちにおいてなのだ。彼は主人公の奇妙な罪責感に発する特異なモノローグなしにクロートカヤを描けなかったのである。」
:ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』からの抜書き
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「木村敏は、『存在と時間』のうちで癲癇的な時間性に対応するものを挙げていない。しかしながら、それは決意の瞬間であると想定することができる。その瞬間において、先駆と既在、分裂病的な時間性と鬱病的な時間性が一致し、自我は、とりかえしのつかない自分の過去を本来的に引き受けることによって、自己自身のもとに到来する(「究極のもっとも固有な可能性へと先駆することは、みずからの既在のもとへ還帰することである」〔ハイデガー『存在と時間』第六五節〕)。沈黙のうちの、不安に満ちた決意は、みずからの終末を先取りし、引き受けるのだから、現存在の癇癪的なアウラのようなものだろう。そのアウラにおいて、現存在は、「生の横溢であるとともに源泉でもある過剰としての死の世界に触れる」〔『木村敏著作集 第二巻』〕のである。いずれにしても、肝心なのは、この日本の精神医学者にとって、人間は不可避的に自己自身とその祭の日からの隔たりのうちに住んでいるように見えるということである。生物学的な生を生きている存在は、言葉を話す存在になったがゆえに、「わたし」と言ったがゆえに、いまや根本的に分割されており、時間はこの分離の形式にほかならないと言わんばかりである。その分離は、癲癇の発作、ないしは本来的な決意の瞬間においてのみ埋められるのであり、本来的な決意は、時間という脱自的、地平的な建造物を支え、現存在の空間的な状況、すなわち現存在(Dasein)の現(Da)のもとへと、その建造物が粉々に崩壊するのをさまたげる、隠れた土台のようなものである。」
〔※コメント。ここでアガンベンが言っている、人間が不可避的に孕まざるを得ない自己自身の分割というのを、我々は自意識と非意識のズレの露出として解釈したい。〕
:ジョアン・コプチェク「視覚の筋かい──見ることの支えとしての身体」「ザプルーダーの見たもの」からの抜書き
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「要するに、精神分析は、現実あるいは世界を自明のものとは考えない。それは、主体はいかにして現実あるいは世界を構築し、その結果、現実あるいは世界を「持つ」ことになるのかを問うのである。この構築は前提とされるべきものというより説明されるべきものであるために、またそればかりか、主体は主体の産屋である喪失によって、外的な対象に愛着をおぼえるのではなく、〔それによって〕失われた対象を切望するようになるために、この構築は不安定なものになる。現実構築の審級を自我から欲動に置き換えることによって、フロイトは、世界に対する愛着が形成される際の、身体と快楽の役割について再考した。自我は、フロイトの言葉でいえば「身体表面の投影」──主体の「わたし」はこの投影と一致し、そこから世界と対峙する──として捉えられた。それに対し、欲動は、身体化された主体性という新しい概念に通じており、その概念においては、主体と世界は分離しているというより、複雑に絡み合っていた。
いうまでもなく、この説明は大ざっぱすぎるものだが、その妥当性を手早く確認するために、それとは逆の事態を立証している精神病患者のことを考えてみてもよいだろう。というのも、精神病は、一般的には現実の喪失を引き起こすといわれるが、同時に、それが身体の喪失を引き起こすことも明らかだからである。……みずから苦悩を癒そうとする精神病患者の試みは、代用となる世界を手早く妄想によって「奇跡的に作り上げる」ことだけでなく、代用となる身体──精神病患者が世界とあらためて結びつこうとする際に用いる、「箱、クランク、レバー、車輪、ボタン、ワイヤー、バッテリー」でできた機械の身体──を「奇跡的に作り上げる」ことからも成り立っている。この〔ヴィクトル・タウスクの〕分析から明らかなのは、そして、タウスクがフロイトから読み取った、精神病患者における心気症あるいは「身体的トラブル」の症候の重要な性質にかんするヒントから明らかなのは、現実の崩壊はかならず身体の崩壊をともなっている、ということである。現実と身体との結びつきは、精神分析にとってきわめて重要な事実である。精神分析は、いかなるときも、現実の超越的あるいは非身体的な構築に手を貸すことはない。
ラカンが次の引用のような批判をするとき念頭に置いていたのは、まちがいなく、精神病患者の生み出すこの不安定な構築物である。……「フロイトにくらべれば、哲学の伝統に属する観念論者たちは実につまらない存在です。というのも、彼らは分析の最終段階において、誰もが知っているあの現実なるものに異議を唱えず、ただそれを飼い馴らすだけだからです。観念論とは、われわれは現実に形を与える存在であり、それ以上詮索するのは無駄である、ということです。これは楽な立場です。フロイトの立場は、あるいは、誰であれ賢明なひとの立場は……それとは違います。現実はぐらついているのです。そして、まさに現実がぐらついているからこそ、現実の進む道をたどることを命じる命令が専制的なものになるのです」。……」
〔※コメント。ここで批判されている観念論者にとっての「現実」とは、欲動という重力の非慣性系的な作用を考慮せず、あくまで慣性系としてのみ捉えられたそれと考えてよいだろう。観念論者は(己れの)身体に作用する欲動の反生命主義的な切断性を度外視する。〕
「……〈他者〉を、超越的に手の届かない、したがって感知しうるいかなる感覚的な内容も持たないものとして捉えるのではなく、サルトルは、〈他者〉は偶然の出会いを通じて直接にわたしの前に姿を現すのだ、と論じている。観念論哲学者にとっての〈他者〉の場である、無限に後退していく経験の地平は、当然後退を止める。わたしは、感覚しうるかたちをとった〈他者〉の眼差しに、直接躓くのだ。とはいえ、感覚的なかたちをとるのは眼差しではない。眼差しは、ふつうの意味の対象ではないからだ。眼差しはつねに他の対象のあいだで出会うもので、見られ(たとえばホラー映画でそっと開く窓のカーテン)、開かれ(ドアの軋み)、匂いを嗅がれ(エキゾティックな香水)といったように、つねに「感覚的なかたちの出現と結びついて顕在化する」のだが、眼差しそのものは、これらの感覚的な引っかかりが明確な観察者を指し示すやいなや、つまり、眼差す〈他者〉が明確な人物、小さな他者になるやいなや、雲散霧消するのである。……
〈他者〉の存在をわたしは感覚で捉えるという事実を、もう少し詳しくみてみよう。一見するとこの事実は、こうした眼差しの経験を通して直接感知されるのは、「そこに誰かがいる」ことではないという主張に、ぴったり合うようにみえる。感知されるのは「わたしは危険にさらされている。わたしには身体があり、傷つけられることがある」ということのほうなのだ。眼差しがわたしに対して現れるとしたら、それはわたしが身体を欠いた、純粋な認知の主体であるときではない。感覚的な兆しを通してわたしが〈他者〉の眼差しに出会うのは、身体を備えた主体としてであるのだ。……」
:十川幸司「城の外に出ること──アルチュセールと精神分析」からの抜書き
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「《私が直接的にまた個人的にスピノザに負っているもの、それは彼の身体についての驚くべき考えである。身体は「私たちの未知の力」を持っていて、mens(精神)は、身体がその conatus(努力)、その virtus(力能)、fortitudo(力強さ)を展開させればさせるほど自由になるのだ。スピノザが私に与えてくれた身体の考えは、身体の思考であり、さらには身体とともに考えること、身体そのものの思考なのである。この直感は私が、私の思考や知的関心の発展と直接関係を持ちながら、自分の身体を獲得する経験、身体を「組み立て直す」経験と一致した。》(アルチュセール『未来は長く続く』)
ここにアルチュセールの思考の秘密がすべてあるといってもいいほど重要な一節である。アルチュセールの思考は、身体を獲得するための思考である。この哲学者にとって概念とは、そして理論とは何にもまして自己の身体であった。彼の「理論主義」とは、いっそう具体的で物質的な身体を得るための実践だったのである。ヘーゲル、マルクス、そして何よりもスピノザ、と彼はより具体的で力強い身体を獲得するために自らの哲学を展開させていく。彼にとって唯物論とはこのような身体の別名に他ならない。……
《マルクス主義と「出会った」とき私はそこに私の身体によって入っていった。というのも、マルクス主義があらゆる「思弁的」な幻想に対する根本的な批判を表わしていたからだけではなく、それはあらゆる「思弁的」な幻想に対する批判によって、私に裸の現実との真の関係を生きさせてくれ、また思考そのものにおいて身体的な関係を生きることを可能にしたからである。》(同上)」
「彼は母の欲望どおりに学校では常に優秀な成績をとる。また性的に潔癖性であった母はルイの絶対的純潔を望む。アルチュセールは二七歳まで自慰を知らなかった。また彼がある日、夢精をしてその跡を発見した母は「あなたは男になったのよ」と言う。アルチュセールはこの言葉を、「あなたは私の男になったのよ」と聞き取り、こう書いている。「私はこのように母に犯され、去勢された。彼女がまさに夫に犯されていると感じたように。(でもそれは彼女の問題で私には関係ない)」。ルイ・アルチュセールには性的な身体を持つことが許されない。しかし性的でない身体とは一体何だろうか。しかも、身体をつき動かすコナトゥス(力)というスピノザの概念がフロイトのリビドーを先取りした概念であると言ったのは他ならぬアルチュセール自身であることを考えてみるならば……。そして彼が口癖のように「厄介なのは身体があるということで、さらに厄介なのは性器があることなんだ」と言っていたことを思い起こすなら……。
彼が最初の性関係を持ったのは三〇歳のとき、相手はエレーヌである。彼はエレーヌの体臭に嫌悪感を覚える(というのもそれが母の体臭を思い起こさせるからである)。行為のときイニシアティヴを取ったのはエレーヌだった。彼はこのように女性にイニシアティヴを取られることを嫌った。彼女に「抱かれ」、彼女が立ち去ると彼は不安の深淵の中に飲み込まれる。翌日彼はエレーヌに「もうお前とは二度と寝ないぞ」と電話で怒鳴りつけるが、もはや手遅れで、闇は耐えがたいほどに口を開いている。このときに、彼は最初の本格的な鬱病に陥り、精神病院への入院を余儀なくされる。彼はこの体験をエレーヌによって(母によって)犯されたと考えている。そして自分の身体を愛されることは恐怖でもあったと言う。以降彼は、彼と身体の関係が問われるときに、必ずといっていいほど鬱病に陥るのである(「事件」前の重症の鬱病は食道裂孔ヘルニアの外科手術によって生じている)。」
「例えば「偽物」という考えが劇的な形で見られるのは、六五年の秋のことである。アルチュセールは『マルクスのために』と『資本論を読む』を出版するが、その直後、自分が裸になって人前に晒されたような恐怖を感じる。「わたしは哲学史をあまり知らない、マルクスだって資本論の一巻を精読しただけだ、私は偽物なのだ……」。この考えは、さらに自分がこの世界には存在しない人工物ではないかという考えにまで発展し、彼は激しい鬱状態に陥り再び入院することになる。……「身体を持たない」アルチュセールにとって理論とは自分の身体そのものである。それが世に問われるときになると、彼はその理論が全く空虚な作り物としか思えなくなってしまう。自分の頭の中で思考しているときはそれは具体的なものであったがそれが現実に触れると、全く具体性を欠いたただの観念に思えてしまう。彼は再び「身体」を失うのだ。鬱病の発作とは、彼の理論=身体である唯物論哲学が現実の力に対して敗北したことを意味している。」
:ジョアン・コプチェク「ザプルーダーの見たもの」からの抜書きと、山城むつみ「黄金時代の太陽──『悪霊』」からの抜書きの、併置
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〔※この二つを並べることによって見えてくるものがあるだろうという考慮の上で、併置する〕
「……フロイトでは、自分自身を外にある対象という仲介物を通して見る行為と、自分自身を外にある人物を通して見る行為が区別されるのである。前者は、自分が属する文化や自分が喜ばせたいと思う誰かの枠組みで自分を把握するという再帰的回路にかかわるもので、この結果、人は自分自身を、知りうる、あるいはすでに知られた対象とみなす。後者は、まったく違った回路、自分のまわりをぐるぐる回る能動-受動的欲動の回路にかかわっている。この場合、わたしは明確な他者の視線に自分をさらすわけではないので、わたしの明確なアイデンティティに関して戻ってきたメッセージを受け取ることはない。視線の欲動の再帰的回路は、知りうる対象を生み出さない。これは、そこに穴を穿って、快楽原則の侵犯を生み出すのである。視線の欲動が生み出すのは、最初の回路によって作られる自我アイデンティティを破砕する、途方もない快楽である。いいかえよう。欲動において、主体は〈他者〉を通して自分を見ることで自分を見るのではなく、フロイトのことばでは、「自己は性器において見られている」。欲動の途方もない快楽において、恥じらいの感覚、他者なるものによって見られているといいう感覚を引き起こすのは、この「自分の性器において自分を見る」ことである。」
(『〈女〉なんていないと想像してごらん──倫理と昇華』第八章)
「汚らしいとは、文字どおりには、美しくないということだが、チホンはスタヴローギンの告白を美学的に批評しているわけではない。おぞましい醜さを通りこして滑稽だと笑っているのである。恐ろしい醜悪さには、まだしも「印象的な、いわば絵画的なもの」が残っている。敢えて言えば、自分で受け容れることのできる美、悲劇的なものが残っている。悪が思い知らされるべきはそのおぞましさ、醜悪さではない。それを通り越したところにある恥ずべきもの、いささかの美も悲劇性もない滑稽なものである。『罪と罰』における老婆/リーザ殺害、『白痴』におけるナスターシャ殺害、『悪霊』におけるシャートフ殺害、『カラマーゾフの兄弟』におけるフョードル殺害と、殺人はドストエフスキーの長編小説においてオブセッションのように繰り返し描き出されており、いずれも読者に鮮烈な印象を与える。……しかし、その一線を超えて、それと違った犯罪、滑稽な恥ずべきものが問題となるような犯罪もある。ドストエフスキーがスタヴローギンにおいて描こうとしたのはそれだ。
恥ずべきものは、生殖器のように人性(人間的自然)に組み込まれている。スタヴローギンの悪は文字どおりそこから生まれたのだが、しかし、同時に考えよう、生殖器の滑稽さというものがある。この悪魔的放蕩家の「全官能機能の崩壊過程」、「無力化した男性本能」を最初に指摘したとき、ウォルィンスキーはリーザとともにこの事実にスタヴローギンにおける「滑稽なもの」を洞察していたのである(『偉大なる憤怒の書』)。……
封印されていたこの章〔「スタヴローギンの告白」〕を読んだ我々が悪のこの根源的滑稽さに関しウォルィンスキーに加えて注記することがあるとすれば、この喜劇性は主人公の内的対話の内側では決して認識しえないということだろう。それは現実の卑近な他者が外から介入して来るときにのみ痛感しうるのだ。ドストエフスキーの、いわゆる残酷な才能の真の恐ろしさは、たんに人間における悪を容赦なく暴き出して来る点にあるのではない。いわば長い斜めの光線に沿って、その悪の内側から滑稽なものを引き摺り出して来る点にある。……」
(『ドストエフスキー』第一章)
:ルネ・ジラール『欲望の現象学』第十章からの抜書き
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「《感情をかくし、言葉を示す》ことで成り立つ手法は、もはや単に考え得るだけのものではない。その方法は、マルセル・プルーストが語る《奇妙な変転》が、『失われし時を求めて』の結末におけるよりもなおいっそう目まぐるしく激しいものである場合、そして、作中人物を動かすイメージがいっそう晦渋になりいっそう複雑にからみ合って、いかなる分析もその本性を見誤らせるだけだということになった場合には、採用するにふさわしい唯一の手法となる。こうした情況がまさしく、大部分の作品においてドストエフスキーが立たされた情況である。
ドストエフスキーの根本的手法は、小説中のさまざまな作中人物たちの間にある可能な一切の関係を呑みこんでいる対決を、巧みに按配することになる。作品は一連の場面場面に分割されて、その場面から場面への移行を作家が目立たせないように気をつかう必要はほとんどない。これらの場面の一つ一つで、登場人物たちはわれわれに、心中の万華鏡の、一つあるいはいくつかの模様面を見せる。どの場面も一つではわれわれに、一人の登場人物の全真実を解き明かすことができない。読者は、小説家が読者に一切まかせた比較考証の末に、そうした全真実をつかむことができるのだ。
記憶しておかなければならないのは読者の方だ。読者のために記憶している者は、もはやプルーストにおけるように小説家ではない。ロマネスクのこうした発展は、トランプの勝負に比較できる。プルーストでは勝負はゆっくりおこなわれる。小説家は絶えず勝負をしている人たちの中に割りこんで、前にめくったカードを思い出させ、次に来るカードを見越して言うのだ。ドストエフスキーでは、逆に、カードがきわめて速く打たれるので、小説家は割り込むことなく、一切、勝負の進行にまかせておく。読者はできれば自分の記憶のなかに、一切を保存しておかなければならない。
プルーストにおいては、複雑さは言葉の段階に位置しているが、ドストエフスキーにおいては小説全体が複雑をきわめる。人は『失われし時を求めて』をどこでもかまわずひろげてみることができるし、そうしていつでもそこの意味を理解できる。けれどもドストエフスキーの作品は最初のページから最後のページまで一行もとばすことなく読まなければならない。《永遠の良人》にたいするヴェリチャーニノフの注意力、つまり理解することに自信がない証人の注意力、啓示的な細部を見落としてしまうのではないかと恐れる証人と同じ注意力を、小説に向けなければならないのだ。
この二人の小説家のうち、理解されないかもしれないというもっとも重大な危険をおかしているのは、あきらかにドストエフスキーの方だ。こうした恐れにつきまとわれて、この作家は啓示的な身振りをいっそう強くし、コントラストをいっそう強調し、矛盾の数をいっそう多くする。……プルーストはそうした危険を、われわれが少し前に引用した一節の中でたいへん良く予見している。彼はこう言うのだ。自分が読者に言葉と行動をあきらかに示しておきながら自分の感情をかくしておいたならば、人は彼を、ほとんど気がちがったと思うだろう、と。ドストエフスキーの登場人物たちが、それをはじめて読んだ西欧の読者たちにあたえた印象は、そうした狂気の印象がある。……」
〔※コメント。ここで言われている《感情をかくし、言葉を示す》という手法を、われわれは《主人公への非意識の作用をかくし、主人公の自意識の運動を示す》という手法のことだと、まさにドストエフスキーの長篇の読解に臨むときにこそ読み替えてみたい。もちろんこれはジラール的な「欲望の現象学」を精神分析の欲動の理論の方向へ曲解することだが……。〕
:非意識再考(3)
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(以下の考察は山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社)の影響下にある。)
「非意識」概念を再検討する思索メモのつづき。ここであらためて、一旦小説を書くということの前提の前提にまでさかのぼって問題を再検討してみたいと思う。……思うに、「非意識的領野」を小説という芸術形式のなかに導入しようとしているわれわれにとって、どうやらどうしても外すことのできない小説の可能性の条件は、「主人公」の存在であるということになりそうだ。まあ視野を広げれば、本当に小説には問題的主人公が必要なのか、主人公を中心とした物語が必要なのか、そもそも小説に「人物」が登場する必要はあるのか……等々さまざまに小説の前提を疑えるのだろうけれども、それらはわれわれにとっての問題ではない。われわれにとっては、「主人公」がいなければ何もはじまらない。非意識という或る種精神的なものを導入するにあたって、その非意識の作用を受ける人物がどういう人間でなければならないかは、それ以外に出発点はあり得ないほどの小説創作上最大の問いだ。言わば、自意識と非意識との弁証法を中心に据えた小説を書くということは、或る特殊な主人公の運命を描くこととほぼ等しいということだ。
われわれは小説の「主人公」がどういう人物であるかという問いを避けては通れない。では、「主人公」は実際どういう人物であるべきなのか? それは、これまでずっと色んな形で再三再四記述してきた。たとえば自意識が自分のイメージするステレオタイプによってすっかり満足してしまっているような、「枠にはまった人間」(ドストエフスキー『白痴』第四編第一章)は、脇役にはなれても主人公になることは決してできない。ナルシシックな自己欺瞞に陥ってみずからを疑おうとしない因習的な人間は、自意識の予期できないものに対する警戒心がまるでないので、彼が非意識的な欲動の磁場に巻き込まれたとしても、すべては単なる偶発的な出来事としてしか通過されない。これでは物語の牽引力は生まれようがない。「主人公」に要求される資質はそれとは真逆だ。われわれの「主人公」は、非意識的な力動に自分が翻弄されることに鋭い自覚を持ち、それを苦々しく思いつつ、自意識と非意識との緊張関係を維持し得るほどに感じやすく知性が高い人間である(はずだ)。自意識と非意識との緊張関係を維持し得る──というのは言い換えれば、自意識内部での自己欺瞞とそれに対する批判や葛藤というドラマなどとっくに通過済みで、すなわち自己分析と自己処罰については自意識を旺盛に働かせて完璧に済ましていて、あらゆることを計算に入れてあらゆる兆候を警戒して何もかも徹底的に観察しようと360度に目を凝らしている、にもかかわらず=だからこそ非意識的な出来事に不意打ちされてしまう、そのような物語のサスペンスの中心人物であり得る、ということだ。ちなみに「主人公」の自意識の強さ、頭の回転の速さ、感覚性の高さ、情動の敏さ、(自分自身の内語、口には出さない自身の内的な意識の流れが他人に読み取られていることを計算に入れてコミュニケーションするほどの)計算高さは、その能動性を、主人公自身が自負するのを読者も認めざるを得ないほどの「文体」の強度によって示される必要がある。
(ところでさらに付け加えておこう。そのように最初から自己欺瞞の陥穽を突破している「主人公」は、そもそも「枠にはまった人間」たちが日頃自己の生命の安全を保持するため小心翼々と守っている社会的規範をも、突破してしまう可能性を帯びている。これは、その「主人公」は自意識においてはすべてを計算し自覚し尽くしているにもかかわらず=だからこそ非意識的欲動に強固に突き動かされてしまうということを意味する。そして非意識的欲動は、人間と人間が共同体をつくって生きているという空間においては、あまりにも純粋で率直な「邪悪」を帯びてしまうことが往々にしてある。だがそこで道徳に屈して自分の破壊衝動にリミットを掛けてしまうような人間は、やはり小説の主人公ないしは主要登場人物としてはふさわしくない、と言うべきだろう。「主人公」は通常の意味で社会的に尊敬されるような人間ではないのだ。──この件については以前の次のような考察も参照せよ。「一体に、非意識的欲動の作用は、社会的な弱者や、人生上の選択の余地が奪われている苦境にいる人物の上に、より強くはたらきかけるものだと考えられる。非意識的欲動の作用は、上述のとおり他者たちとのあいだの動かし難い身体的-社会的諸関係から生み出されるのだが、相対的に金銭や権力を多く保持している人間は、その諸関係をいくらか思いどおりに(能動的に)コントロールして合理化できているという幻想に酔いがちだからだ。だが、そんな幻想は所詮ナルシシックな自己欺瞞にすぎない。そのような欺瞞の戦略とは徹底して無縁でありながら、自分が現実的には弱者であり、ドレイでしかあり得ないという自覚と覚悟を抱いて生きつづけなければならない者のなかで、非意識的欲動は、単なる意志では逆らえない、身体も逃れることのできない激しい息苦しさとして、作用するだろう」。)
「主人公」はその高度な知性と感覚性によって限界まで注意深くあろうとし、みずからの能動性を基礎づけようと鋭敏に自意識を働かせるにもかかわらず、そのことによって却って、現実における不可視の受動性に苦しみ、自意識の予期し得ない非意識的なものの不意打ちに対して激しい発作を起こす羽目になる。──これがわれわれの考える小説の原型だ。その方が面白いぜ!という単純な理由からそう考えている。逆に言うと、自意識と非意識とのズレと拮抗を前提とせずに主人公の心理を描いているような小説はつまらない。自意識と非意識との弁証法とは一切関係なしに主人公が社会的・性格論的な風貌をまとっているような小説はつまらない。「主人公」の自意識は、単に愚かで凡庸であってはならない。一体に、「主人公」の自意識が耽る自己イメージと能動性の錯覚はたしかに間違っている。しかしその錯覚を意志的・理知的・反省的に否定できるかのような単純な発想もまた、間違っている。頭の良い人間ほど、自らの能動性を基礎づけようと必死にモノローグに耽ることが一種の逃避だと頭で分かっているにもかかわらず、内省を純化し自分の自律性を証明したいという誘惑を断ち切れないものだ。それによってさらに己れの現状が不可視し、分裂し、渋滞し、荒廃して、もう色々と致命的に手遅れになってしまうことを知りながら。実のところ、主人公の自意識は非意識的領野における電撃的な関係性=出会いを恐れている(不快)と同時に、それに憧れてもいる(誘惑)。われわれの考える小説のリアリティのユニークネスは、この、自意識にとって操作不可能な非意識的領野をコントロールしようとすればするほどそれに翻弄され遅延していくという逆説、或る水準での完全な能動性がそのまま別の水準での絶対的な受動性へ反転してしまうという主人公の矛盾を、人間精神の深部の顕現と見做すという視座に、基礎づけられている。このことを再度確認した上で、次の考察に進もう。
思うに、もし「主人公」が小説空間にたった一人で孤立しているなら物語は何も起こらないに相違ない。もっと正確に言えば、主人公が一人でいるだけなら、彼の旺盛な自意識が見逃してしまう死角の非意識的な力動に、不意打ちされ、強いられるように切羽詰まった行動化が矢継ぎ早に生ずるというような事件の連鎖は、起こらない。つまり、非意識的領野を想定した物語の動因として、複数の他者たちの社会的諸関係は、必須である。これは自明だが、その場合どのような「関係性」がわれわれの考える小説にとって必要なのかをさらに問わなければならない。各登場人物のキャラクターが印象的に描き分けられていればそれでよい、で済むはずがないのは明らかだ(むしろ非意識的領野を小説形式に導入した場合、登場人物たちの諸関係の布置によって様々に変化していく非意識的な磁場のありようによって、誰しも、そのつどそのつど相手次第でまったく異なった相貌を見せるのだと言った方が、あたっていよう)。「同居人」「職場の同僚」「学生時代以来の友人」「恋人の元上司」「近所に住んでいる親戚の女の子」「常連客の知人」「かつての婚約者」といった静的な設定をいくら構想しても、主人公をとりまく非意識的な作用は生まれそうもない。いや、勿体ぶらずに結論を言おう。「恋愛」だ。性的身体を介した「恋愛」という関係性こそが、主人公を翻弄する非意識的で不可視の磁場を強力に立ち上げるのだ。言うまでもなくこの「恋愛」は異性愛にかぎられず、同性同士の友人関係や敵対関係をも含んだ概念でなければならない。
この「恋愛」の関係性の本質は何か? この関係性によって主人公は、自己欺瞞さえ徹底的に解析しつくすほどの高度の知性と自意識の強度をそなえながら(あるいはそれゆえに)、現実から感覚的に侵襲され、現実によって受動的に翻弄されて、思わず意識していたのとは全然別のことを実現してしまったりする。われわれの考えでは、おそらく、目的論的で明示的な恋愛関係においてはそのような非意識の作用は起こらない。ましてそれが「子供たちや孫たちが生きる社会を良くしよう」という晴れやかな意義を帯びた、性愛→生殖→夫婦関係→子育て(社会的再生産)という連携があらかじめ予期されているような恋愛関係であれば、自意識と非意識のズレと拮抗の要因となるような要素など、何もないと言っていい。そうではなく、われわれがここで小説に必須の登場人物間の関係性と目している「恋愛」とは、直接的な愛情のコミュニケーションをつねに迂回しつづける、永遠にお互いに“片想い”でありつづけるような関係性、の謂いなのだ。もちろんこの“片想い”もまた一般的なそれではなくて、たとえば、ラスコーリ二コフが金貸しの老婆に抱いた「殺意」ですら一種の“片想い”と見做しうる、そのような類いの“片想い”を想定している。この“片想い”は単に甘やかなものであるとはかぎらず、むしろ一方において吐気をもよおさせる欲動であり、かつ他方において不可避的で主体が積極的にのみ込むほかないような、個々人のなかで収束し得ない欲動であるだろう。そして、この永遠にお互いに“片想い”でありつづける関係性においてこそ、複数の主体が、それぞれの抱えているブラックホールのような「秘密(忍ぶ恋!)」を用いて意識を介さずに相手の「秘密」を透過的に理解してしまうという、非意識的な相互規定が、生じうる(複数の他者=他の諸天体に重力質量として影響を及ぼすブラックホールの反生命主義的な力能を想起せよ)。フロイトの言葉をもじれば、「人間は他人の非意識的な“片想い”の表現を解釈できるような道具を、自分自身の非意識的な“片想い”のうちに持っている」というわけだ。このような「秘密」を装填されることで、小説の主要登場人物たちは自分の“片想い”が意識を介さずに他者に漏れてしまっているのではないかということに怯え、或いは複数の他者たちとの不可避的な相互規定性において、現実にひらめく他者の「片想い=秘密」の表現であるような力動的兆候をさまざまに解釈することを強いられる(それは快いばかりでなく、おぞましかったり、恐怖を催すような解釈をも生むだろう──「イワンにとって、卑近な他者との非意識的な関係によって自分が「父親の殺人を望んでいた男」へと変貌させられることは耐え難いことだった。しかし彼は、その変貌を否定しようとしても、自分がスメルジャコーフに殺人を唆したつもりはなかったことを内省によって確証して否定ようとしても、ついに否定しきることはできない。つまり彼は非意識的な共犯関係=スメルジャコーフとの奇妙な恋愛関係を否定できない。それはイワンを彼自身の自意識的な努力によってはどうにもできないレベルで変貌させ、分裂させ、彼が望まない形で彼自身を彼自身からズレたものにさせてしまうのだ」)。それでいて彼らには、“両想い”という目的=終末を目指して“想い”を明示的に確認することは、禁じられている。主人公が「非意識的契機によって翻弄される」というのは、このままならない“片想い”のアンコントローラブルな重力-運動が、主人公の自意識のこざかしい計算や戦略などを超え出て、「不意の」「もののはずみの」絶望的な行動化を招来し、不可避的に彼の精神に分裂と荒廃と違和感を生んで彼を苦しめる、ということより以外ではないだろう。なぜかは分からないが……われわれの自意識にとって、この永遠に未達で狂おしい“片想い”という非意識的誘引力を認めることは、それを他者によって身体的に認知させられることは、激しい摩擦をともなう精神的アレルギーをきたすようなのだ。それはつまるところ、この“片想い”という欲動が、最終的には一種のいやらしい「邪悪さ」──死肉に密集してそれをむさぼる野太い蛆の群れのような残忍やいやらしさ──に通じているからであろうか?(それはむしろ“片想い”という距離感こそが可能にするファンタジックな邪悪さだろうか?) その邪悪で荒廃した破壊性を、自意識によっては穏当に希釈して削ぎ整えることが不可能だからであろうか?
われわれは『罪と罰』のラスコーリニコフとポルフィーリイ、『カラマゾフの兄弟』のイワンとスメルジャコーフの不安な関係をそのような「永遠にお互いに“片想い”でありつづけるような」恋愛関係と見做している。ところでこのような恋愛関係を(主体が認めようと認めまいと)とにもかくにも成立させる条件とは何だろうか。言い換えれば、小説家はどのようなフィクション上の構想によって、そうした関係性を登場人物間に設定することができるのか? ここまで記述してきたように、何よりもまず主人公の、主要登場人物の造型が決定的な要因であることは言うまでもない。自己欺瞞とは無縁のところで、不可視の「秘密=片想い」をどうしようもなく抱え込んでしまい、あらゆる行きずりの他人に対し自分の秘密を見抜かれてしまったかのような猜疑心を抱き、ゼラニウムの赤い蜘蛛や、カーテンから射す夕陽の斜光(といった兆候)にさえ彼の「秘密」を透過するかのような痛覚を感じ、コミュニケーションの場面では相手に「すっかり見抜かれてしまったのではないか」と恐怖にちかいうろたえで過敏に動揺し、複雑な「恥じらい」の念から、大抵の人間が痛痒を感じないところでも自分自身をまっさきに純潔に断罪する──そのように痛ましいほどに感じやすい(「無私な」?)人間でなければ、われわれの想定している「恋愛」関係に入り込むことはなさそうだ。……しかし、さらにその先を考えよう。平凡な人物のあいだで成立する客観的な関係ではなくて、自意識と非意識との緊張関係を生きている、つねに自分自身と自己関係的なズレに苦しんでいる行為者A&行為者Bとの間でまさに生動する関係、というのは、当人たち(厄介なことに性器をそなえた主体)をもその関係性の引力に対して受動的にさせてしまうような、複雑で、歴史的な(そして身体と身体の出会いの唯物性を絶対に抜きにできない)多重の因果連鎖を背後に持っていると考えられる。つまり、相手に好意を抱いて意図的にアプローチを仕掛けるなどというのとはまったく別様な恋愛の「経緯」が、そこにはあるはずだ。登場人物の造型だけはなく、そうした背後の有無を言わさぬ歴史的・社会的な因果連鎖のリアリティもまた、作家が霊感を尽くして虚構しなければならない大きな作業課題であろう。結局のところ、主人公の自意識の打算をはるかに超えた現実のキャパシティの豊富さこそが、不透過な非意識的「恋愛」関係に主人公が巻き込まれざるを得なくなる、という必然性を生むわけだ。その現実のキャパシティの増殖をどこまで虚構できるか?──作家の背負っている最も困難な課題は、それだ。ところでわれわれは以前、その「経緯」をラスコーリニコフとポルフィーリイの関係に即して簡潔に分析してみたことがある。以下引用しよう(「:非意識的な疑心暗鬼と奇妙な恋愛」より)。
(ちなみに補足として言うが、ポルフィーリイやソーニャのように、ラスコーリニコフが、自己欺瞞・自己批評・懺悔といった自意識の劇のレヴェルではなくて、自意識と非意識の分裂という兆候のレヴェルで苦しんでいることをちゃんと理解できるような、繊細な観察眼と羞恥心の持ち主でなければ、かような不可視の恋愛関係に引き入れられることは、ない。たとえばルージンやラズミーヒンはそうした人物ではあり得ない。「ぼくは彼らに対して何の罪があるのだ? なぜ行かにゃならんのだ? 彼らに何を言うのだ? そんなことは妄想にすぎんよ……彼らだって何百万という人々を死滅させて、しかもそれをりっぱな行為と考えているじゃないか。あんなやつらはずるがしこい卑怯者だよ、ソーニャ!……行くものか。それになんと言うのだ、殺しましたが、金をとる勇気はなく、石の下にかくしましたとでも言うのかい?……それこそやつらがぼくを嘲笑って、言うだろうさ。金をとらなかったとは、あきれたばかだ! 阿呆な腰ぬけだと! やつらはなんにも、なんにもわからないんだよ、ソーニャ、わかるだけの力がないのさ。なんのために行かにゃならんのだ? ぼくは行かんよ。……」(『罪と罰』第五部第四章)。あるいはまた、たとえばナスターシャ・フィリポヴナにとってガーニャやエパンチン将軍やワルワーラはそうした人物ではあり得なかった。)
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この「恋愛」がどのような「出会い」によって始まったか。彼自身の口から語られたそのプロセスを読むと、彼が最初からラスコーリニコフを能動的に付け狙っていたわけではなく、或る種の非意識的な出会いの偶然的な積み重ねの結果そのようになっしまったらしい、と考えるほかはなくなる。つまり、ポルフィーリイ自身その感情に熱中してしまうことに対して受動的だったのであり、彼もまた現実のキャパシティに翻弄された側の人間の一人だったのだ。「あのときどうして急にあんなふうになったか、一々順序を追って話す必要は、まあないでしょう……そんなことは、むしろ余計なことだと思いますね。それに、とてもできそうにもありませんし。だって、どうしたらあんなことが詳しく説明できるんです?……わたし個人の場合は、ある偶然からはじまったのです。それはまったく文字どおりの偶然で、まあ大いに起こり得るかもしれませんし、めったに起こり得ないかもしれません。どんな偶然かって? フム、まあこれも話すほどのこともない、と思いますね。そうしたすべてのことが、噂も偶然もですね、そのときわたしの頭の中で一つの考えに融け合ったわけです。率直に白状しますが、だってどうせ白状するからには、すっかり白状しなきゃね、──あのときあなたに攻撃をかけたのは、わたしが真っ先だったんですよ。まあ、老婆の質草のおぼえ書きとか、その他いろいろありましたが、──あんなものはみなナンセンスですよ。あんなものは何百となく数え立てられます。あのときこれも偶然ですが、警察署での一幕を詳細に知ることができました。それもちらと小耳にはさんだなんていうんじゃなく、あるしっかりした人の口から聞いたのですが、その人は自分でも気付かずに、あの一幕をびっくりするほど詳しくおぼえていたんですよ。そうしたことがみな一つまた一つと、次々と重なっていったわけですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、どうです、どうしたってある考えに傾かざるを得ないじゃありませんか? 兎を百匹あつめても、決して馬にはなりません、嫌疑を百あつめたところで、証拠にはならんものです。たしかイギイリスの諺にこんなのがありましたがね、でもそれは単なる分別というものですよ。頭がかっとなって、熱中しているときは、とてもそんなのんびりしたことは言っておられません、判事だって人間ですからな。そこでわたしはあなたの論文を思い出したんですよ、あの雑誌にのった、ほら、はじめてあなたが訪ねて来られたときかなり突っこんで話しあいましたね、あれですよ。あのときわたしはからかうようなことを言いましたが、あれはあなたを誘いこんで口を割らせるためだったのです。……あなたの論文もなつかしい気持で読みました。ああした思想は、眠られぬ夜など、胸がはげしく高鳴り、圧しひしがれた熱狂に焼き立てられながら、熱くなった頭の中から生れるものです。で、青年のこの圧しひしがれた尊大な熱狂というやつは危険です!……あれは暗い論文です、だがそれもいいでしょう。わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして……しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、《さて、この男はこのままではすまんぞ!》とね。さあ、どうでしょう、え、こうした前置きがあったあとで、その後に来るものに熱中せずにすむでしょうか?……」(第六部第二章)。順不同に積み重なっていった偶然の「出会い」によって本人にももはやどうしようもないほど多重決定された或る人物への「熱中」。このようにポルフィーリイ自身の口で由来を具体的に語られると、偶然の積み重ねの果てに非意識的に他人の中にかけがえのなさを見出してしまう奇妙な恋愛感情があり得ることを、我々は認めざるを得なくなって来る。だが、ラスコーリニコフにとっては別だろう。この感情はポルフィーリイからラスコーリニコフへの片想いに過ぎないから(「最初の一瞥からあなたがわたしを好いていないことは、知ってますよ。だって、ほんとうのところ、好きになる理由がひとつもないですものな」)、いくら由来を具体的に知ったとしてもそんな感情の実在はラスコーリニコフにとっては不気味なだけだ。それが、ラスコーリニコフがポルフィーリイに対して抱いている疑心暗鬼の本質だと言える。ラスコーリニコフはポルフィーリイが自分の犯罪の確かな証拠を握っているのかどうかを猜疑しているのみならず、そもそもポルフィーリイが何故自分にここまでこだわるのかということの不透明性にも不安を抱き翻弄されている。「そんなこと〔ラスコーリニコフの母と妹が今ペテルブルグに来ていること〕があなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれを知ってるんです? どうしてそんなに気になるんです? なるほど、あなたはぼくをつけまわしているんですね、それをぼくに見せたいんでしょう?」(第四部第五章)──これこそラスコーリニコフの疑心暗鬼の本質を直接科白に表わしたものだろう。なぜこの男は予審判事という立場に必要とされる振舞い以上の熱心さで自分に執着するのか? なぜいつの間にか奇妙な連帯関係が自分とこの予審判事の間に生まれてしまっているのか? まるでこの男は自分の秘かな共犯者みたいではないか! この本質的な人間関係の謎に比べれば、ポルフィーリイが彼に殺人の嫌疑を掛けているかどうかの疑問など二義的に過ぎない。
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かような意図しない「順不同に積み重なっていった偶然の「出会い」」の歴史によって、主体が目的論的な行動フレームから逸脱し、非意識的な力動──イデオロギー的なもの・金銭的なもの・権力的なもの・神経症的なもの・テクノロジー的なもの・性欲的なもの・感覚-快楽的なもの等々を含む──に翻弄されていってしまうという様相を、われわれは、イワンとスメルジャコーフの関係や、ムイシュキンとナスターシャ・フィリポヴナの関係、或いはラスコーリニコフの謀殺行為のなかにもまた見出すことができるだろう。作家が粋をこらして虚構しなければならないのは、こうした「意識を介さない」欲動的な出会いの積み重ね+距離感の調整によって過剰決定される歴史性だ。追記──この歴史性の虚構ために「半初対面」という距離設定がかなり有用だということは、以前分析したことがあります(「:半初対面を可能にする情報空間と「空想」」)。
ついでながら、ここで形式の問題に触れておこう。「非意識的領野」を小説という芸術形式に導入し、旺盛な自意識と批判精神を持ちながら(=持つがゆえに)不意の感覚的兆候に過敏な「主人公」を造型し、そして登場人物たちの対他的諸関係の網目に不可視で相互的な「片想い=秘密」の引力と斥力が生じる規定性を設定しようとする──のであれば、その構想によって排除されざるを得ない小説の技法上のヴァリエーションというものがあるはずだ。たとえば、一人称であれ三人称であれ、焦点人物を複数多元的に登場させるようなスタイルは、自意識と非意識との弁証法を描こうとする小説にはおそらくなじまない。『カラマゾフの兄弟』の第四部で、イワンとスメルジャコーフ(とアリョーシャ)とのあのスリリングでダブルバインディングなコミュニケーションが、イワンだけでなくスメルジャコーフの側から見た(スメルジャコーフの内語も地の文に流し込まれるような)視点を挟み込んでいくスタイルで描かれたらどうなったか、考えてみるがいい。その芸術的成果は、どうしたって浅薄なものにしかなるまい。なぜなら、それは行為者Aの側から見ても行為者Bの側からみても永遠に“片想い”でしかないはずの身体的-社会的関係性を、登場人物の意識のメタレヴェルに立つ立場から傍観して、実は彼らが“両想い”であることを(或いは最初から“想い”がすれ違っていることを)読者に対してネタバレしてしまうようなものだからだ。それは重ったるい単独的な肉体を持って欲動につらぬかれているはずの登場人物を、一種の純粋な認知の主体=変換可能な座標軸へと抽象化してしまうことに等しい(欲動の問題を、自意識の認識の問題へと矮小化してしまう!)。しかも或る一つの出来事を別の人物の視点から語り直すというのは、形式としては複雑になるかもしれないが、小説内の時間の流れは重複し拡散してしまうことを避けられない。われわれは次のように確信している。主人公の自意識の強度が、非意識的で予測不能な出来事に拮抗しながらもそれに翻弄されていく、という物語の逸脱したスリルを描くためには、物語のすべてが一人の主人公の身体-視点から一つの時間軸上で一挙にリアルタイムに描き尽くされなければならない、と。『カラマゾフの兄弟』の第四部第十一篇も、イワン一人の身体-視点から、彼の主体性において、すべてが集中的に描き尽くされているがゆえに、彼が抱いている彼自身にとっても不可視の「秘密」が対他的諸関係のなかで透過的に作用してしまっていることにアレルギーを感じ、現実にひらめく非意識的な“片想い”の感覚的兆候をさまざまに解釈することを彼が狂おしく強いられ、ついには「もののはずみで」思い掛けなく使嗾されたダブルバインディングな内省、ダブルバインディングな対話、ダブルバインディングな行動を彼が実現してしまうという苛烈な悲劇が、リアルに虚構できているのだ。
(イワンのダブルバインディングな実践……というのは、たとえば次の記述を参照。「:相互非意識過剰の稀少性」より。「もしスメルジャコーフが明確にフョードルを殺して三千ルーブリを手に入れるという目的を持っていたのならば、そんな明示的な目的に彼が従属していたのならば、彼とイワンとの間で奇妙な「連帯関係」が生じる余地はない(その場合彼は明示的にイワンに協力を求めるか、単独で殺人を実行しただけだったろう)。またイワンの方も、あらかじめスメルジャコーフと明示的に言葉を交わしておけば、「いいか……おれはチェルマーシニャヘ行くんだぜ……〔モスクワではなくて。モスクワに行く、と告げたならそれはスメルジャコーフとも家族とも縁を切って新しい生活を始めるという意志の暗示になり得る〕」などとささやいた後に、「なぜおれはあの男にチェルマーシニャへ行くなんて報告したのだろう?」と息が詰まりそうになりながら悩む羽目になどならなかったはずだ」。──或いはまた、次の記述も参照。「:相互非意識過剰の関係の描き方」より。「具体例を示そう。『カラマゾフの兄弟』の第二部第五篇第六章から。(中略)もしイワンが目的論的な行動フレームから逸れずにいたならば、彼はスメルジャコーフの前を無言で通り過ぎたはずだし、あるいはすぐさま罵ってスメルジャコーフとの会話を打ち切ったはずだった。だが彼は自分でも思い掛けなくスメルジャコーフの前で立ち止まり、自分でも思いも寄らなかった穏やかな言葉を掛けてベンチに腰を下ろし、会話を継続することを選択する。このように彼自身でも思い掛けなかった自分自身の逸脱、自意識と行動との齟齬によって、彼がスメルジャコーフとの非意識的な関係──奇妙な恋愛関係!──に瞬間的に固着したことが間接的に示されているというわけだ」。)
言い換えれば、見つめ損なうことによって見つめ合う、理解し損ねることによって理解し合う、伝え損なうことによって伝え合うとしか表現しようのないパラドキシカルな非意識的“片想い”の相互規定性は、焦点人物を複数多元的に登場させるスタイルの小説では、絶対に描けない(往復書簡のスタイルを取った『貧しき人びと』はその例外と思われるかもしれないが、「書簡」は結局は対話的に加工された言葉であって、決して単独的な視点からの「内語」そのままではないことに注意せよ)。似たような理屈で、自意識と非意識との自己関係的なズレと拮抗が過熱する地平を認識論的に俯瞰してしまうような、メタフィクショナルな作為もまた、排除されなければならない。知的な操作では非意識の作用を退けることはできないのだ。というか、そのようなものだけが「非意識」の名に値する。以前にも書いたことだが、「「非意識」は主人公の自意識に対して、すなわち主人公の内的なモノローグ(一人称的内景)に対して絶縁体のように沈黙している。すなわち、非意識は主人公の「何を意識しているか」にとって不在である。主人公の自己批評性は動機=欲望にまでしか到達しない」のである。
さて、われわれは以前、さらに次のようにも書いている。「行為──目的論的フレームから逸脱する行為──としてあらわれ出てこないかぎり、自意識は、その非意識的動因に気付けない。事前にはせいぜい、やがて自分が今意識しているのとは全然別の仕方でふるまってしまうのではないか?という予感に怯えることができる程度だ。逆に言えば、非意識は、自意識の視野において漠たる不安としては「見える」。ちなみに、非意識的欲動を主人公の「前からの意志・隠していた動機」として解釈してしまうのは、時間的順序を転倒させた誤謬である」。……そう、主人公一人の身体-視点からすべてを一挙にリアルタイムに描き尽くそうとするならば、非意識的領域の生々しい露頭は、実際には、主人公の「行為」、ダブルバインディングな内省、ダブルバインディングな対話、ダブルバインディングな行動としてしかあらわれ出てこないし、それらを通じてしか描けないのだ。しかもそれらは「ただし主人公はその(非意識の)作用を事前には予測できず、その作用によって何らかの決断・行為をしてしまってから、事後的かつ受動的に気付くことができるのみである」──というような様態でしか描かれ得ない。それらを描き切ることの困難については、また日をあらためて考察することにしよう!
:非意識再考(4)
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「物語とは、完結した劇的行為である。優れた物語の中ではその行為をとおして人物が示され、行為は人物によって統制されるのだが、そこから結果として出てくるのは提示された経験全体から発する意味である」(フラナリー・オコナー)。
オコナーを参照するまでもなく、「主人公」が何かしらの「劇的行為」をしないかぎり物語が駆動することはない。「非意識的領野」を導入したわれわれの小説の「主人公」もまた、鋭い自意識と感覚性を持ち非意識的な“片想い”に翻弄されながら、何かしらへの行動へと踏み越えていく。ただしその行動の描き方は、通常の小説とは異なったアプローチが必要になってくるはずだと思われる。たとえばわれわれの主人公たちは自分がドラマティックな葛藤の末に何かの行為を「意図的に」選択した、というような悲劇的ヒーローの自負心とは、ほぼ完全に無縁であるだろう。そもそもそういう自意識内部での苦悩にはわれわれは一切興味を持っていない。
非意識的領野を導入した物語は、自意識のリアリティとは別の身体-欲動のリアリティにもとづいて展開する。くり返せば「非意識的領野」は、“意識を介さずに”、主人公を取り囲む対他的諸関係のなかでまるで重力線のように主人公の内省と欲望と身体と行動に規制的な作用をおよぼしてくる動因すべてを含む。それはイデオロギー的なもの・金銭的なもの・権力的なもの・神経症的なもの・テクノロジー的なもの・性欲的なもの・感覚-快楽的なもの、諸々の特性を帯びたものを含んでいるが、決定的なのは“意識を介さずに”という点だ。それゆえに、非意識的な力動は主人公がどんなに旺盛に自意識を働かせようと(働かせているがゆえに)主人公の主観にとっては絶縁体のように不在でありつづける。いくら主人公が自己批評性を発揮して自分の欺瞞を反省しつくし自分を客観視しようとも、自意識が非意識を触知しそれを操作することは、永遠にできない。“意識を介さずに”働きかけてくるその力動に主人公が気付くのは、それが、不意打ちのように、自分の自意識の志向を別方向にねじり切るように飛び出す自分の行動(身体的行為および発語)としてあらわれ出てから後のことだ。主人公が非意識的領野に直面するのはつねに事後的にである。行為する事前の段階では、主人公はせいぜい、やがて自分が今意識しているのとは全然別の仕方でふるまってしまうのではないか?という予感に怯えることができる程度だ。逆に言えば、非意識は、自意識の視野において漠たる不安としては見える(内省のなかに連想的に示される)。
この「非意識的領野」の特性から小説のスタイルに一定の制約がかかることは、すでに述べた。復習すると、自意識と非意識との拮抗とズレは、主人公の自意識(内的モノローグ)に徹底して寄り添いながらもそれと同化してしまわず、主人公の「いかに意識しているか」と主人公の「いかに行動してしまうか(いかに連想してしまうか)」とのあいだの深淵を注視する、すなわち終始事態を複数レヴェルで注視する語り手を必要とする。これは単純に主人公に焦点化する一元描写でも、小説内の現実すべてを透過的に見通す神の視点からの描写でも、実現不能だ。喩えるならば、マジック・ミラーで四方を囲まれた部屋に居ながらその事実=外側から透過的に見られている事実を知らない主人公を、まさにその主人公の内的なモノローグに寄り添って完全に彼の立場に立ちながら(語り手は主人公の「これはみなあまりにも思いがけぬことだった」という言葉さえ聞き逃さない)、同時にマジック・ミラーの外部にも立って彼の側からは不可視な諸動因をディスクールに繰り込んでいくような、そんな幽霊的な語り手が、構想上必要とされるのだ。この語り手は主人公から一時も目をはなさず、また同時に、彼の身体を取り囲んで巧みに配置されている非意識的な対他的諸関係の(場面ごとの)不意の変化をも見逃さず、《主人公への非意識の作用を隠し、主人公の自意識の運動を示す》──これはルネ・ジラールがドストエフスキーの小説について《主人公の感情を隠し、主人公の言葉を示す》と評したののもじり──というディスクールで、物語を語るだろう。今のところ、われわれにとってそれ以外の「語り手」の方法論的選択肢はないように思われる。(追記──ちなみにドストエフスキーは主人公と語り手が同化してしまわないこの疎隔を生み出すために、しばしば「あとになって考えてみるに」「あとからでもはっきりと想い出せるが」「あとから思い返すと」といったメルクマールを地の文に仕込み、物語全体が事後的な回想であるかのような仮構をしている。)
そしてこの、決して主人公の内的独白に純粋に惑溺することのできない「語り手」にとって、最大の武器となるのが、「兆候的描写」である。対他的諸関係の網目を通じて複数的に自分の身体に作用してくる力動の変化を、主人公が五感で受容しているにもかかわらず(非意識)、それがアレルギー的に否認され意識にのぼることがなく(自意識)、それでいて主人公がよく分からないまま相手に対する態度を調整していく→何らかの行動化に踏み切ってしまう、というような自意識と非意識との弁証法的動態を描くには、主人公の主観的視野に現れる「兆候」を掬い取ってそれを語り手の位相から明晰に記述することが必要だ。それらの(非意識の作用の)「兆候」は主人公が意志的に捜そうとすればするほど逃げ去っていき、しかし、自意識がアレルギー的に非意識の作用を認めまいとすればするほど、それは不意打ちに主人公を捉える。しかも、非意識の兆候が主人公を捉えるというとき、それは抽象的な認識主体ではなくて血と肉とセクシュアリティを備えた主体として彼を捉えるのだ。非意識の「兆候」は、つねに匂いや眼差しや響きのような感覚的な形の出現と結びついている。
「兆候的描写」という手法は、非意識レヴェルでの動因の必然性を仮構しつつ、それが自意識には兆候としてしか現われないという感覚的遅延および内省-行動的遅延の“マジック・ミラー効果”を、その関係性全体をまるごと創出することを目指している──とも言えよう。それは、主人公が見たものを直接描写するのではない(主人公の自意識の能動性はつねに現実を偏向的にゆがめる)。言わばそれは、主人公の自意識と非意識との自己関係的なズレを描写する。たとえば、『罪と罰』の第一部第六章では、これから老婆を謀殺しにペテルブルグの通りを歩いていくラスコーリニコフが、途中で目にふれるすべてのものに食い入るように視線を向けながら、だがその対象の姿をほとんど観察せずに、なぜか出所不明の連想ばかりにとり憑かれているさまが、描かれている。「まえには、たまたま頭の中でこの計画をすっかりたどったりすると、よくいざとなったらすっかり怯気づいてしまいそうな気がしたものだ。ところがいまはそれほど恐ろしくなかった。ぜんぜん恐ろしくないといってもいいくらいだ。いまここへきて、彼の心をとらえたのは、かえってつまらないよそごとだった。ただどれも長つづきはしなかったが。ユスポフ公園のそばを通るときなど、高い噴水をつくったら、広場という広場の空気がどんなに爽やかになることだろうと、真剣に考えこんだほどだ。そして彼の考えは、しだいに、夏公園を練兵場までひろげ、さらにミハイロフスキー宮庭園にまでつづけたら、市にとっては実に美しい、そして有益なものになるだろう、という確信に移っていった。……」──ここでは、いよいよ殺人という重大な行為に踏み切ろうとしているにもかかわらず、その行為の能動性になぜか集中できず、殺人とは無縁なつまらない余所事を連想することを、むしろラスコーリニコフは受動的に強いられているかのようだ。そしてこれこそが、「兆候的描写」の典型例だ。要するにわれわれが言いたいのは、自意識に徹底して寄り添いながら主人公に作用する非意識的力動をも描写に掬い上げるには、このように、主観の自己関係的な「違和」を通して描くほかない、ということである。主人公の知覚の客観性を詳細にするのでもなく、主人公の内的独白の自在さに惑溺するのでもなしに。(追記──ドストエフスキーの小説のなかには、フォークナーのそれのように体感を鮮明に浮び上がらせるためだけの直接的な感覚描写というものは、存在しない。)
そして、当然ながら「兆候」の描写は、それが「非意識的領野」を小説の芸術形式に導入するという美学的な作為の一部である以上は、作家によって作為的になされなければならない。ドストエフスキーもまた、『罪と罰』の第一稿の欄外に「物語は、あらゆる瞬間に、不必要な、意想外な細部によって、中断されていなければならぬこと」というメモを書き込んでいる。これを「(自意識にとって)不必要な、意想外な細部」と読み替えれば、われわれの兆候的描写という手法と芸術的企図において大体同じところを目指すものと言えるだろう。そこで啓発的なのは、自意識の水準ではまったく偶然的で、不必要で、意想外だと思われることが、非意識的領野の水準では少なからず必然性を持っているということだ。この点、『罪と罰』の文体に頻々に出てくる、ラスコーリニコフの内的モノローグの能動性を不必要に・意想外に中断する種々の「兆候的描写」は、つねに、彼の現実において“意識を介さずに”複数的・多角的・歴史的な諸関係によって先行して過剰決定された、欲動と受苦性のアレゴリーとなっている。
…………
われわれの主人公/主要登場人物たちは、つねに今自分が意識しているのとは別の仕方で行動してしまう予感に怯えている。われわれの主人公/主要登場人物たちは、自意識のスクリーンの表面には兆候としてしか明滅しない、対他的諸関係の網目を通じて過剰決定された非意識的な力動に突き動かされて、目的論的な行動フレームを逸脱し、異形の「劇的行為」へ踏み切ることを、不可避的に強いられていく。その「行為」の性質もまた、通常の小説における劇的行為とは異なったものにならざるを得ない。最後に、その「行為」の性質を特徴づけることによって、今回の考察を暫定的に休止することにしよう。
結論から言おう。われわれの小説において主人公/主要登場人物たちの「劇的行為」が異形のものとなってしまうのは、彼らが日常のレベルでは理解不能な動機に憑かれているからである。もっと言えば、彼らは順不同に積み重なっていった偶然の「出会い」に由来する、永遠に未達の“片想い”の誘引力に、とらわれている。そして彼らの自意識は、この非意識的な“片想い”を他者によって身体的に認知させられることに対し、激しい精神的アレルギーの発作をきたす。なぜか? なぜなら、この“片想い”にはおそろしく邪悪な要素があるからだ。そのことを敷衍するためにわれわれは、ここで仮初に「加虐-愛/被虐-愛」という概念を導入したいと思う。「加虐-愛」とは、相手を無惨に虐げたげてやりたいという情動に憑かれることが同時に相手に対する痛切な愛情であるような感情の様態のことを指す。「被虐-愛」とは逆に、相手から虐げられて抹殺されたいという自己破壊衝動が同時に相手に対する切実な愛着であるような感情の様態のことを指す。常識的に考えれば、そんなものは愛情でもなんでもない。実際そうであり、この「加虐」と「被虐」が実際に暴力として現実化してしまえばそれは単なるDVかレイプ以外の何ものでもなくなる。だから、それは永遠にファンタジー、すなわち永遠に現実化しない“片想い”であるかぎりで、辛うじて「愛」であり得るものだ。以前も書いたことがあるが──「この“片想い”は単に甘やかなものであるとはかぎらず、むしろ一方において吐気をもよおさせる欲動であり、かつ他方において不可避的で主体が積極的にのみ込むほかないような、個々人のなかで収束し得ない欲動であるだろう」。この「加虐-愛/被虐-愛」の吐気をもよおすような性質は、たとえば「ユダヤ人たちは実はアウシュヴィッツでガス殺されることを自ら嬉々として望んでいたのだ」というふうな破廉恥なジェノサイド・ファンタジーに言い換えてみれば、容易に理解されるだろう。言うまでもなく、主人公の自意識が鋭敏で純潔であればあるほど、この種の“片想い”のファンタジーの破廉恥さは、より耐えがたいものとして感じられるはずだ。それは蠅や寄生虫の交尾を見たときの拒否感にも近似するかもしれない。
「加虐-愛/被虐-愛」が主人公に作用する非意識的動因として重要だということについては、われわれは実は、或る哲学者の断片的な覚書から強力な示唆を受けている。引用してみよう。《私は彼女を殺さなくてはならない。さもなければ彼女は死ななくてはならない。これは、命じられた日時をまえにして避けられない強制、良心的な責務とも言えるものだ。しかも彼女の了解のもとで殺すこと。供儀のさいの悲愴な聖体拝領のごとく。……どうして夢の中で彼女を殺さなくてはならないのだろうか。おそらく、性行為によって他者を殺す恐れ、……性行為を遂げることは、他者を殺すことだ。感情の吐露と熱気における犯罪。そこから抜け出す唯一の方法は、相手の承諾を得ること、彼女が死ぬことに同意した殺人をなすこと、彼女が死ぬことが避けられないものとすること。死の運命が必要なのだ。そうすれば、私は罪責感から解放され、彼女は満足して僕の手の中で死ぬのだ……》(アルチュセール「未発表資料」)。性愛の名のもとに相手の女性が死ぬことに同意した殺人を実行すること……。もしそのファンタジーが現実に実行されればそれは狂的な犯罪以外のなにものでもあるまい(余談だが、山城むつみ氏は『小林秀雄とその戦争の時』のなかで、ラスコーリニコフによるリザヴェータの殺人を、このような「加虐-愛/被虐-愛」の不幸な具現化と見て分析しているように思われる)。だがここで確認すべきなのは、「加虐-愛/被虐-愛」という他者破壊と自己破壊の欲動のおぞましい交錯が、自意識にとって完全にアンコントローラブルなものでありつづけるだろうということだ。そもそも、“片想い”という志向のうちには初発から自己を脱していく衝動が埋め込まれているわけだが、この異形の「愛情」は、その破壊性によって、自意識の自己像(他者像)をまったく未知の物へと変化させてしまう予感を濃厚に孕んでいる。この「加虐-愛/被虐-愛」は、主人公の自意識にとっても思いがけず理解不能な未知の自分=秘密=主人公自身に対してさえ秘密であるような秘密を、えぐり出す。そしてその予測不可能性が主人公を惹きつけ、──「実のところ、主人公の自意識は非意識的領野における電撃的な関係性=出会いを恐れている(不快)と同時に、それに憧れてもいる(誘惑)」、といった仕儀になるわけだ。不快と誘惑の分裂的共存、すなわち、狂おしい“片想い”のファンタジーが描く邪悪な破廉恥さ(の予感)に対する拒絶感=恥辱感=罪悪感と、きわどい秘めやかな未知の享楽(の予感)に対する直覚的な憧憬と。ついでながら注記しておくが、この悲喜劇的な分裂は、主人公の内的モノローグの内部では決して生起せず、現実に卑近な他者たちの身体(の感覚的兆候)が外部から侵襲してくるときにのみ、深刻に作用することになる。また、もはやそんなものは恋愛とは呼べないじゃないか?という疑義に対しては、われわれの視座では自意識を超克し非意識的領野を経由しないものはそもそも恋愛の名に値しない、と答えておこう。
以上が小説内の「劇的行為」が異形なものになってしまう内的な要因だが、これが実際行動となってあらわれると、主人公自身にとっても思いがけない、不意の、もののはずみの、突発的な「ダブルバインディングな内語・ダブルバインディングな対話・ダブルバインディングな行動」という外形をまとうことになる。上述のように非意識的な“片想い”はそれを抱えている主人公の自意識にとって、理解不能な未知の自分=自分自身に対してさえ秘密であるような秘密をえぐり出し、そしてまた「:非意識再考(3)」でも書いたように、非意識的な“片想い”を抱く複数の主体のあいだでは、それぞれの抱えているブラックホールのような「秘密」を用いて不安なまま相手の「秘密」を透過的に理解してしまうという相互規定性が生じうる。これを言い換えれば、半初対面的な対他的諸関係の網目の上の偶然的な「出会い」において、「加虐-愛」と「被虐-愛」は、複数の主体のあいだで“意識を介さずに”感応してしまうということだ(フロイトの言葉をもじれば、「人間は他人の「加虐-愛/被虐-愛」の表現を解釈できるような道具を、自分自身の「加虐-愛/被虐-愛」のうちに持っている」)。だがそれを自意識は徹底して嫌悪し否認する。言い換えれば、主人公の自意識は、“片想い=加虐-愛/被虐-愛”のことを詐術にかかったように忘却しつづける。主人公および主要登場人物たちは「加虐-愛/被虐-愛」のことを決して忘れることはできない、だが、また決して本当に想い出すことができない。そこからダブルバインディングな行動化=物語のダイナモが各種生まれるのだ。
ダブルバインディング、というのは、現前的な流れのなかで突発的に生じる内語(内的モノローグのなかで突然ひらめく観念。たとえば『罪と罰』第一部第五章で、ラスコーリニコフは不意になぜかラズミーヒンのところへ行こうという考えつくが、そのこと自体が彼を不安にする──「いまなぜラズミーヒンのところへ行くのか、という疑問は、自分で思った以上に、彼を不安にした。このすこしもなんでもなく思いたい行為の中に、彼はびくびくしながら自分にとって不吉なある意味をさぐっていたのである」)や対話や行動が、しばしば主人公の自覚や信念の志向性とは真逆の方向にふり切れるからだ。主人公の自覚や信念は、彼の行動に対し圧倒的に遅延する。彼の自意識は完全に置いてけぼりにされる。主人公の自意識は、現実を性急な行動化によって従属させたつもりでいながら、それによって却って反復強迫のように現実に対する不安と受動性を累積させていってしまう。言わば、彼は現実の多重な契機に対し意志的かつ能動的に対応するのではなく、あの非意識的な“片想い=加虐-愛/被虐-愛”に、まさに「強制」される(そう、ファンタジーであるとはいえ、その“片想い”は悪夢のように強制されているファンタジーなのだ)。「時計が鳴る、彼は、ハッとわれに還り、自働人形の様に動き出す、婆さんの素頭に、斧が機械的に下りて来るまで。──再び言うが、読者はじっと息をこらしている、主人公の心理の動きの必然性のうちに閉じ込められて。読者は、兇行の明らかな動機も目的も明かされてはいない。そんなものが一体必要か。そんな事はどうでもいい事ではないか。よくなくっても後の祭りだ」(小林秀雄「『罪と罰』についてII」)。──しかし主人公は、その強いられるようにして実行してしまった、時々刻々と決断を迫られて自律性を失ったまま実行してしまった行為の結果を、引き受けなければならない。なぜなら彼は、感情を害するようなその危険なアンコントローラブルな“片想い”に根源的に魅惑されてもいたからだ。これは心理分析として言うのではない。彼が深層心理で加虐/被虐の願望を抱いていたなどという話ではない。行動に踏み切る前から存在していた「隠された動機」などというものは存在しない。「そうさ、俺は望んでいた、たしかに殺人を望んでいた! でも、俺は殺人を望んでいただろうか、ほんとうに望んでいただろうか?」(『カラマゾフの兄弟』第四部第十一篇第七章)。こういうことだ。彼は“片想い=加虐-愛/被虐-愛”を本当に思い出すことはできないという意味で、その行動化について責任はない。同時に、彼は“片想い=加虐-愛/被虐-愛”を決して忘れることはできないという意味で、その行動化について責任がある。その行為=犯罪については無実と罪を分離しておくことが難しいのだ(というのは、無実でありながら罪を負おうとする自虐、或いは有罪でありながら無実であろうとする欺瞞、みたいな自意識の劇とは全然別の意味で言っています)。非意識的欲動の磁場の強制作用は、主人公/主要登場人物たちにかような深刻なパラドックスを不可避的にもたらす。
したがってダブルバインディングな内省、ダブルバインディングな対話、ダブルバインディングな行動が生起したあとには、主体は、自意識においては「そんなつもりはなかった」はずのその致命的な結果に、拘束される。主体は、「非意識的欲動の作用を事前には予測できず、その作用によって何らかの決断・行為をしてしまってから、事後的かつ受動的に気付くことができるのみ」というわけだ。主人公はその行為が恣意でなかったことを事後的に承認する。この劇的行動のダブルバインドが苛烈な形で露頭するのは、やはり他者を前にして主人公が言葉を交わす、コミュニケーションの現場においてであろう(一つの発話がすでに一つの決断・行動である)。場合によっては、会話場面の構想がそのまま小説のプロットの発案と重なりもする。とはいえ、もちろんそれは──自意識が自分の思っているのとは真逆のことをうっかり口にしてしまったり、それがまた自意識が全然予想しなかった形で相手に解釈されたりというような断裂線のない──予定調和で平凡な会話のことでは、ない(そんな会話が小説のダイアグラムにおいて重要な役割を果たすことはない)。作家が二人のあいだで虚構すべきは、まるでお互いに相手に主導権を握られているような、関係の中央で心臓がむき出しになっているかのような、不安と誘惑に憑かれて互いに互いの言動を固唾をのんで見守らざるを得ないような、「一寸先は闇」のコミュニケーションだ。……そう、われわれはときに、「私にはあなたなんて必要ない」という言葉によってしか愛を伝達できないような状況に絶望的に追い込まれることさえ、あり得る。これは「いやよいやよも好きのうち」という表層(発話)と深層(本音)の食い違いの悲劇ではない。彼女をとりまいている具体的かつ社会的かつ身体的な諸関係がつくり出す情動の重力場が、彼女に、自意識を突き抜けて、《思わず》そう口にすることを強いるのだ、“秘密=片想い=加虐-愛/被虐-愛”の間接的表現として。そしてこの言葉を真剣に受け止めた相手は、「愛するな」と同時に「愛せ」という切迫した響きを聞くことで、相手に対する態度が二つに引き裂かれるのを体験せざるを得なくなるだろう。さらにそれが、彼のダブルバインディングで非意識的な決断・行動による間接的応答へとつながっていくだろう。そしてそれは今度はまた相手=彼女にとって、なお思い掛けない形で使嗾された恐ろしい実践として立ち現われてくるだろう! 「「どうだい……俺はチェルマーシニャへ行くからな……」とスメルジャコフに言ったとき、イワンはこの言葉で《俺の不在中に親父が殺されるように塩梅しろ》と暗に「そそのかす」つもりでそう言ったのではない。しかし、スメルジャコフとのあいだに無意識のうちに築かれた「連帯関係」のなかにひとたびそのような意味が彼に対して現実に発生してしまえば、その意味に対してイワンも受身にならざるをえないのだ」(山城むつみ『ドストエフスキー』)。自己欺瞞の虚実ではなくて、他者との分裂共存的なダブルバインディングな言葉のやりとりこそが、さらに悪循環的に予測不能なダブルバインディングな行動の加速度を生むということ……。くり返すが、この過程を描くにあたって「深層心理」のような隠された真の動機などを仮定する必要は、一切ない。そうではなくて、必要なのは、そのようなダブルバインディングで過敏な対話が両者のあいだで交わされる必然性を、彼らの人物造型の彫琢と、彼らの背後にある複数的・多角的・社会的・歴史的な因果連鎖=“意識を介さない”欲動的な「出会い」の積み重ねの過剰決定性の文脈によって、リアルに虚構することである。追記──実際『罪と罰』の物語においては、ほんのわずかでも「出会い」のタイミングが違っただけで、ラスコーリニコフの殺人は起こらなかったはずである。のみならず、ナスターシャ・フィリポヴナの賭けもスタヴローギンの自殺もヴェルシーロフの殺人未遂もスメルジャコーフの謀殺も自殺も起こり得なかっただろう。この困難は、確率論的リアリズムの地平でいかにも現実にありそうな話として物語のディティールを埋めていくという作為によっては克服されない。
さて、われわれは今「悪循環」という言葉を使った。おそらく、「加虐-愛/被虐-愛」が主体の精神にもたらす苦しい矛盾を断ち切ろうとして、対他的諸関係のなかで渇えるように行動に踏み切ることが、さらにまた主体の分裂を飛躍的に深刻にしてしまうという「法則」は、かなり普遍的に見出せるのかもしれない。まあ、そこまで言い切ってしまうのはやや抽象的にすぎるかもしれないが。いずれにせよ、主体の抱える「分裂」が物語を通じてずっと同じ位相にとどまりつづけるのではないことは確かである(それでは「劇的行為」という物語のダイナモが生じないから)。
:私的身体と自殺(の禁止)
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「身体は二面的な存在であり、主権権力への隷従の保有者であると同時に、個人の自由の保有者でもある。」(ジョルジョ・アガンベン)
世界最古の刑法であるハンムラビ法典の時代から近代的なヨーロッパ刑法の時代に至るまで、法の適用される政治空間の内部で人を殺すこと──殺人罪──はつねに犯罪性を異論の余地なく認められてきたが、実は殺人罪を犯さずに容易に殺人を行う例外的可能性は一つ、存在している。言うまでもなく、自分で自分の身体を処するケース、すなわち自殺である。
自殺することの自由は、プライヴェートな領域では何らかの犯罪を構成せずにドメスティックな暴力を揮う自由があるという「私的自由」のもっとも極端なケースとして考えられるだろう。つまり、公的な拘束を受けない私的な領域へと自分の身体を露出することのできる可能性が、公的な殺人罪を構成しない暴力を身体の上に揮うことの可能性も保証している。しかし、私的な領域へ自分の身体を露出することが、つねに当人の自由でなされているかどうかを見極めるのはかなり難しい。自殺のケースでも、もし周囲から経済的困窮に追い込まれてしまったことが彼が自ら命を断つことの大きな原因となっているのだとしたら、その死について、彼の私的自由の行使であるからには周囲に何の有責性もないと言い切ることはためらわれるだろう(しかし周囲に明白な有責性があると断言することもためらわれる)。明確に自由意志でなされた行為/明確に奴隷的に強制された行為との区別は両極ではっきりしているとしても、私的な領域においては、公的な監視のとどかないグレーゾーンに特有の不分明さがしばしばつきまとってくる。たとえば自殺のケースと類比的に、私的な領域へ身体を露出して行われる恋人同士の性愛は、公的な強姦罪を構成しない暴力(デートレイプ)を身体の上に揮うことの可能性も開いてしまう。あるいはまたそれと類比的に、「家庭」という私的な環境へ身体を捉えられて行われる労働は、公的な強制労働罪を構成しない使役(家事・介護・障害者ケア)の可能性と通底している。思うに、自由の名においてもっとも強制されてしまうという身体の二面性は、このような不分明なグレーゾーンでその危機を先鋭化させる。自分で自分の身体を自由に処してよいという私的身体に関する自由──究極的には「自殺」の自由──は、近代民主主義の社会においては個人の健康・幸福・欲求充足を最大限可能にするものとみなされているが、それは同時に公的な歯止めの利かないプライヴェートでドメスティックな暴力空間、言わば「私的内戦」のグレーゾーンへと主体を締め出す条件ともなっているのだ。いかなる内部性よりも内密でありいかなる外部性よりも外的である「私的内戦」の空間。
…………
ところで、われわれの思路においては、私的身体が露出されるプライヴェートでドメスティックな暴力空間、例外的な私的内戦のグレーゾーンが、そっくりそのまま非意識的欲動の領域と重なる、という点が重要である。私的身体とは殺人罪を犯さずに殺害することのできる・強姦罪を犯さずに強姦することのできる・強制労働罪を犯さずに使役することのできる内密な身体のことだが、そのような身体を露出させる公的/私的の境界線は、主人公の自意識では決して見通すことのできない領域=非意識の領域を動いている。ざっくり言うとこういうことだ。たとえば、恋人たちのあいだで生起する「私的性愛」においては──明らかな合意のある夫婦の生殖とも、明らかな強制である性奴隷の状態ともちがって──、それが自由意志で望まれたものなのか相手に強制されたものなのか、どこまでが加虐でどこまでが被虐なのか容易には見極めることができないし、見極めることができないことがむしろその行為の本質となっている(だからこそセクシュアルな事象はわれわれの“意識を介さずに”身体的にも精神的にも強く働きかけてくると言える)。われわれの自意識は、その境界線を気付かないうちに乗り越えてしまうがゆえに、プライヴェートでドメスティックな「私的性愛」の最中に起こったことについて、はっきりと責任を感じることができない。非意識的欲動に突き動かされた“意識を介さない”このような自由な行動化においては、無罪か有罪かを明確に見定めることができない。実際、往々にしてそこに人間の法に対応する罪はない。したがってもし、われわれがその行為の結果を全面的に引き受けるとしたら、それは私的自由とコインの裏表の「私的有責」の名において、加虐とも被虐ともつかない非意識的領域において罪を引き受けるということよりほかではないだろう。アガンベンの言い方をもじるなら、強姦罪を犯さずに強姦することのできる私的身体のあるところに「私的有責」をあらしめねばならない。これは非意識的コミュニケーションの果てに相手を自殺や奴隷化に追い込んでしまうような「私的殺害」(ドストエフスキーの短篇「柔和な女」における飛び降り自殺をした妻のケースを考えよ)や「私的使役」の場合にも当てはまる。以前にも書いたことだが、「彼は“加虐-愛/被虐-愛”を本当に想い出すことはできないという意味で、その行動化について責任はない。同時に、彼は“加虐-愛/被虐-愛”を決して忘れることはできないという意味で、その行動化について責任がある。その行為=犯罪については無実と罪を分離しておくことが難しい」。
さらに敷衍しよう。その極限において私的自由は個人の「自殺」する自由として表われる。ならばそのコインの裏面としての私的有責は、最後的には個人の「自殺の禁止」として表われることになると言えるのではないか。考えるまでもなく明らかなことだが、人間の法における最大の刑罰は死刑以外ではあり得ないから、実は自殺を覚悟している犯罪者にはいかなる公的な歯止めも利かない──彼にはいかなる悪をも許容する最高度の私的自由が解放されてしまっている。そこでさらにその最高度の自由を制限し得るものがあるとしたら、決して自殺してはならない、自殺によって勝手に自分で自分の行為にケリを付けてはならない、という自己処罰の拘束の痛覚以外にはないように思われる。結局のところ、『罪と罰』のラスコーリニコフも、『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナ(およびイポリート)も、『カラマゾフの兄弟』のイワン・カラマゾフも、一旦身体が公的な責任を逃れて私的な領域へ露出されてしまえば「いかなることも許されるはずだ」という思想を抱いていたとおぼしいが、しかし、物語を通じて、実際には彼らのいずれもその私的自由を極限まで押しすすめることをせずに、すなわち自殺へと逃避せずに、自分自身の私的な頽落を最後まで耐え抜くことを選んだのだった。つまり公的/私的の不分明なグレーゾーンをさまよいながらも、絶望的な逃げ場のなさにおいて現実と闘うことを彼らは選んだ。どちらかと言えば、小説が描くべき出来事は、スタヴローギンの自殺よりも彼らの耐え抜きの側にあるように思われる。むろんこれは、自意識のリアリティとは別の身体-欲動のリアリティにもとづいて展開する非意識的領野(「私的内戦」のグレーゾーン)を導入した物語を評価しようぜ、ということの言い換えにすぎないが。
:ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』第三部からの抜書き
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「この本〔『生きられるに値しない生の抹消の認可』〕が我々の興味を惹くのには二つの理由がある。まず、自殺が罰せられないということを説明するために、ビンディングが自殺を、生きている人間が自分自身の実存に対してもつ主権の表現として構想している、ということがある。ビンディングは次のように議論を展開している。自殺は、犯罪(たとえば自分自身に対する何らかの義務の侵犯)とも見なされず、法と無関係な行為とも見なされえない以上、「法権利には、生きている人間を、自分自身の実存に対する主権者として考慮する以外の可能性は残されていない」。生けるものが自分自身に対してもつ主権は、主権者の例外状態に対する決定のように、外部と内部の不分明な境界線をなしているが、法的秩序はこれを排除することも包含することもできず、禁止することも許可することもできない(ビンディングは次のように書いている。「法的秩序は、自分に関して重大な帰結をもたらすにもかかわらず自分に対しておこなわれる行為を許容する。法的秩序はこれを禁止する権力をもとうとはしない」)。」
「……生政治の流れは、今世紀に突如として出現するよりも前から、ホモ・サケルの生を流れに乗せ、いわば地下を流れていたが、その流れが途切れたことはなかった。それはまるで、ある決まった時点から、あらゆる決定的な政治的出来事がつねに二つの面をもつようになったとでもいうかのようだ。諸個人が中央の権力と衝突することで獲得する〔私的な〕空間や自由や権利は、そのつど、諸個人の生が国家秩序の内に記入されることをも準備してしまう。その記入はひっそりと、だがしだいに広範になされるようになる。それによって、諸個人の乗り越えたいと思っている当の主権権力に対して、新たな、さらに怖ろしい土台が提供されてしまう。フーコーは、政治的衝突の主題として性が引き受けた重要性を説明するために、次のように書いている。「生への権利、身体、健康、幸福、欲求充足への権利、あらゆる弾圧や「疎外」の向こう側にありのままの自分やありうべき自分を見いだす「権利」、この「権利」は、古典的な法体系にとってはこのように理解不可能なものであったが、これが、新たな権力手続きに対する政治的な応答なのだった」。事実はこうである。剥き出しの生を要求することは、ブルジョワ民主主義においては、公的なものに対する私的なものの優位、集団的義務に対する個人の自由の優位へと人々を導くが、これが全体主義国家においてはその反対に、決定的な政治的判断基準となり、主権的決定の場そのものになるということである。生物学的な生とその諸欲求がいたるところで政治的に決定的な事実となったからこそ、今世紀に議会主義的民主主義が全体主義国家へと転倒したあの迅速さ、全体主義国家が断絶のないままに議会主義的民主主義へと転換されたあの迅速さが理解できるのであって、さもなければこのことは説明がつかない。……
実のところ、生政治が自己肯定するのと並行して、我々は次のような状況に立ち会っている。すなわち、それまでは主権の成立要件であった剥き出しの生に関する決定が、例外状態という限界を超えて移動し、徐々に拡大しているという状況である。すべての近代国家に、生に関する決定が死に関する決定になり、生政治が死の政治へと転倒しうる点をしるしづける線があるが、今日ではその線はもはや、はっきり区別された二つの地帯を分ける固定された境界という姿を呈してはいない。それはむしろ、徐々に拡がっていく社会的な生の地帯のなかで位置を変えていく、動きをもった線であり、そこでは主権者は法律家とだけでなく、医師、科学者、専門家、司祭とも親密に共生するようになっている。……」
:危機的ダイアローグについての覚書
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危機的なダイアローグに参加する人間は、つねに複数の欲望に憑かれて複数の声を聞いている。表面的には発話された言葉だけのやりとりしか見えないが、実際にはどの人間のどの発話も一義的におさまらず両義的、ないしは多義的にひびいて受け取られている。そのような複数の声の交わし合いがつみ重なった結果、ダイアローグの進行中に、売り言葉に買い言葉という単線的な応答とはちがった、場合によっては当人にとっても思いがけない言動や態度が不意に露頭することになる。
危機的ダイアローグ中の複数の声というのは、基本的には受け取る側の問題なのだが、その受け取る側にすでに複数の声を先取り的に聞き取ってしまうための危機的欲望というか猜疑心がなければならない。その欲望は、第一には一種のマゾヒズムと言っていい。相手に言ってほしくないこと、相手の口から聞きたくないこと、自分が知りたくないことを相手の発話の上に重ねて先取り的に読み取ってしまうということが起こるのは、抑圧したいものをこそ認めたいという屈折した欲望が受け取り手にそもそも存在するからにちがいない。また、その欲望は、第二には一種のサディズムと言っていい。相手に言わせたいこと、相手の口から聞きたいこと、自分がそうであってほしいと望んでいることを相手の発話の上に重ねて先取り的に読み取ってしまう場合には、相手に何かしらの威力を揮い意のままにしたがわせたいという欲望がそこに脈づいていると考えられよう。そして興味深いことに、わたしたちにとってはしばしばマゾヒズムという被虐=サディズムという加虐、相手に言ってほしくないこと=相手に言わせたいこと、この両極が一致してしまう。危機的ダイアローグのさなかには、この「聞きたいこと」と「聞きたくないこと」とのねじれたせめぎ合いと膚接によって複数の欲望の力動の場がつくり出される。耳-無意識。
注目すべきは、危機的ダイアローグに中心的に参加している人間には、上記のように「聞きたいこと」ないしは「聞きたくないこと」を先取り的に聞き取ってしまうという抑圧と強制の感覚があるので、対話の流れのなかで反応時間にかなりのブレが生じるということだ。つまり相手の発言や態度が帯びる複数の意味を読み取りすぎてそれに翻弄され、間、言いよどみ、葛藤、戸惑い、感情の溜め、言い直し、言語化の失敗、思っていることの逆を言う、等々の遅れが発生することもあれば、或いはまた相手の言動のわずかな兆候に決定的な意味を見出して、それにしたがってあり得ないような思い切った言動に出ることもある(そのような言動は当人にとっても「自分でも動機がよく分からない」ものとなるだろう)。そして危機的ダイアローグ中のこうした「ブレ」において、その人間がどういう人物であるか、他人に対してどういうスタンスを取っているか、その文脈や関係性がはじめて触知可能になるのだと言えよう(或る意味、この「ブレ」は主体の対人関係におけるエゴイズムと自己犠牲という両極の振幅だろうか)。逆に言うと、人物や関係性から発する感触や予感や雰囲気が前提として存在していないかぎり、危機的ダイアローグは単なるコミュニケーションになってしまうにちがいない。
だが、もう少し思考をすすめてみる。危機的ダイアローグを可能にするこの複数の欲望はいったいわたしたちのどこからくるのか? 後ろめたさからだ、というのがその答えだ。ここで言う後ろめたさとは、単なる罪感情ではなくて、何かしら恥じるところがありそれを内に秘め隠しているという程度のことを指す。おそらくそのような対人関係における弱味、秘密の傷つきやすさが、対話のなかで複数の声を強いられるように聞き取ってしまうという過敏性を主体にもたらすのだ。同様に対人関係における強味、相手を傷つけることもできるという優位が、相手が聞きたがっていることをあえて言わずにとどめるようなダイアローグの時間差戦略を主体に可能にする。そして、危機的ダイアローグによってわたしたちに明らかになるのは、等価交換のようになめらかに噛み合い意思疎通がなされるコミュニケーションなど、怠惰な慣習、ないしは幻想にすぎないということだ。コミュニケーションではなく危機的ダイアローグを描くというのは、徹底したリアリズムの立場に立つことに等しい。
補足。危機的ダイアローグの終わったあとにはあらゆる印象が渾沌としてまとまりがつかず、明快な意味付けを拒否する。その厄介な対話の結果何が起こったのか参加者の誰もが容易には飲み込めないままとなる。
:小島信夫「思想と表現──ゴーゴリ・ドストエフスキー・カフカ」からの抜書き
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「いったいドストエフスキーというこの大作家は、何げなく事件の結末は語りますが、作者はあずかり知らぬような顔をしています。二、三の作を除いて、作者は人物ばかりわれわれの前に圧倒的に登場させて、擬態ばかり演じさせます。こんな擬態ばかり演じているくせに、困ったことに、各登場人物は、読者より、相手の擬態の本質をつかんでおるらしく、その擬態のおくにかくしているところをもとにして、事件は展開してゆくように思われます。
いってみれば、これこそリアリズムの極地なのでしょうが、私の申したいのはそういうことではありません。同じ穴のムジナともいうべき連中が見ぬいていて、それをもとに相手に入りこもうと思うと、たちまち擬態で防いでしまう。いったい彼らは何もこんなにムリをしてまでかくさなければならないのでしょうか。それは『貧しき人々』の場合にしたってそうです。
人を愛したいと思うことは、どうも愛されたいと思うことらしい。この老官吏は、愛されたいと思っていると見せることは、恥ずかしい。自分が恥ずかしい。自分が恥ずかしいということは、自我が傷つくばかりではない。もう一つのもののために恥ずかしいのです。もう一つのものとは、一口にいってしまえば神です。絶対者のくせに、キリストを通して、個々の行為に、変転自在な具体的方法をさししめした、このガンジガラミの、生き方です。底の底で全人類の精神世界をいっきょに包んでしまうもの。
たとえば、「隣人を愛せよ」という言葉が聖書にあります。この言葉の重みが、隣人との交際に、影のごとくよりそって監視しているという立場にたったものでなければ、「神」がどんなに言葉的であり、それだから、自在であり、見ているものであるか、わからないと思います。一方にまた、この重みの中にもぐりこんでしまえば、甘美な世界がひらけるということが、身をもってわからなければ、この重みの感じもわかりません。
愛したいと思う時、すでに「神」が介入してくる。しかるに自分は、自分ふうに「神」と関係なしに愛しようとする。「神」を裏切ることになる。こうなると、「神」をふっとばすか、自我をふっとばすかである。人間はこの両極をもっているとすれば、この両極の間で一方になるか、あるいは、その間で揺れなければなりません。
こういう揺れを感じている人が、(感じ始めたら、かた時も休むことなく、人はこの揺れを続けなくてはならないことになる。生きるということ、そのことが、このように揺れることでさえあります)他人の中に、この揺れを見ぬくことがないはずはありません。
こうした揺れは、かた一方の方に揺れた時はもう一つの方から見れば擬態であります。スタヴロギンが少女に信じられぬほどの精神的打撃を与えて、首をつらせる。少女を愛することが擬態だと思うからこそ、こんどは少女を残虐な方法で殺す、という別な擬態にたちまちうつってしまう。
どの人間も秘密をもっている。秘密というのは別の極のことなのですが。ドストエフスキーの場合は小説の全体にまたがっている。作者の精神の構造は、それぞれの人間が秘密をもつことで人間像を作りあげているということです。……」
「いったいこの作家の『カラマーゾフの兄弟』にしても、章を一つ一つたどって、この長篇の骨格なり、構成なりを見てみますと、何か非常に単純な、といった感じさえうけます。幸いこの作家はいつも章ごとに物語り作者ふうな見出しをつけてくれますので、しらべてみることはさほど困難ではありません。「無作法な会合」などはどっちかといえば、登場人物も多くて、複雑といえば、複雑な章のようですが、実際に注意深く読んでみると、おどろくことは、ここでは特に父親のフョードル・パブロヴィッチの渾沌とした厚みばかりです。行を追うごとに、ますますその感じは深くなり、同時にハッキリとこの人物がわかってくるということだけです。渾沌と明晰さとが同時に存在する。妙ないい方ですが、影のごとくつきまとう明晰さこそが、作者の「精神構造」です。すなわち作者の言いたいことの構造です。私は今、「影のごとくつきまとう」といいました。言いかえるとこうです。この人物が、次の章で現われるとすると、全く何を話すともわからない。話してしまえば、ああそうか、いつものあの男の手口だ。正にフョードル・パブロヴィッチだと思うに決まっていますが、話すまではわからないし、話しているその瞬間には、おどろくだけで、よくつかめない、わかってしまうのは彼が退場して後姿を見せる時です。どの人物もこのように実にやっかい千万な連中ばかりで、彫刻のように一瞬においてはその一面しか見えません。
…………
……ディッケンズは空間小説といわれ、人物の造型に卓抜で、彼の小説を読むと、人間がそれぞれの空間をもってひしめいているようだ、と英国のある批評家が申していますが、むしろゴーゴリに近いものでしょう。ドストエフスキーの人物は一巻の小説を閉じた時に、初めて人物として完成するもので、人物はどの一ページにおいても現在を歩いていて、周囲に一つの空間などもっているようなものではありません。」
:隠された自己嫌悪と、社会と小説
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小説は社会を描く。とりわけ近代小説は近代社会の成立ちを無視してはリアリティを獲得できない。と言ってしまえば簡単だけれど、小説においてどのように社会が描きうるのか、社会が小説のなかにどのように表われているのかという問題の答えはいっこうに明らかではない。事実について取材を重ねて社会意識を客観的にすればいいというものでもない。内面に閉じこもることを批判し三人称小説を書けばいいというものでもない。〈私〉のなかの反省や否定では片付けることのできない現実の手触りを見い出せ、そこにこそ真に厄介な〈社会〉があるのだ──と言うだけでもまた不十分だろう。小説によって社会空間を虚構しなければならないという実作上の課題に取り組むためにはおそらく、言葉としての主人公の〈私〉のなかにどのように言葉としての〈社会〉が織り込まれているべきか、その点についての作業仮説が不可欠だ。
さて、ここでの仮説は、小説において〈社会〉は主人公の自己嫌悪を介して触知される、というものである。ここで言う自己嫌悪とは単にナルシシズムが傷付いたという程度のライトなものではない、苦しみのあまり涙が出るということすら通り越して心をひきちぎられる痛苦をひたすらもたらすような酷薄な自己嫌悪、を想定している。しかもそれはまさに自己が自己を嫌悪しているということだから決して誰のせいにもできない。他人に転嫁することもできない。自分ひとりで抱え込むしかない。逆に、この自己嫌悪、と言うよりかもはや自己憎悪と言っていいような狂おしい劣等感や罪悪感や絶望を、もし他人の前ではばかりなく吐露したりなどすればはた迷惑な最低の厄介者とみなされることは必定だ。つまり、社会性を欠いたろくでなしと見なされる。だからこそ〈私〉はその自己嫌悪を、心のいびつさを徹底して隠そうとする──何に対してか?──〈社会〉に対して。このようなプロセスをたどって、隠された自己嫌悪の過剰に苦しむ主体の内景から外側へと析出されるかたちで〈社会〉の存在があらわになる。自己嫌悪の受動性がそのまま〈社会〉の強制性となって表われる。客観的で公平な観察者などを導入するのではなく主観にやどる心を内破するかたちで〈社会〉の実在が触知される。
小説の主人公だけにかぎらない。この場合、作中のすべての登場人物が何らかの自己嫌悪を秘密にして抱いていると想定すべきだろう。その秘密を誰もが〈社会〉に対して容易に明かそうとはしない。そしてそれぞれの登場人物の隠された自己嫌悪の深さが、〈社会〉という機構の圧倒的な重圧に転換される。もっと言えば他者という契機の恐ろしさに転換される。というのも、わたしが上辺は相変わらずを気取って自分の社会的地位に同一化しているふうに見せ掛けているとき、自分の秘密を読まれまいとしているのは、まさに近くにないし遠くにいる他者(べつの登場人物)に対してだからだ。しかも、同時にそこには自分の厄介な秘密をくまなく相手に理解してほしいという欲求も併存している。その自己嫌悪が心をひきちぎられるような痛苦をともなうものであればこそ、誰もがそこから癒されることを願わずにはいられない。「誰だってどこかへ行っていいところがなきゃ、やりきれませんよ。なぜって、どうしてもどんなところへでもいいから行かなければならないようなときが、あるものですよ……」。こうして〈社会〉という機構を介して、自己嫌悪を隠しとおしているがゆえに互いに背後の秘密を探り合って、ますます登場人物たちの不安が深まっていくという矛盾と循環が渦巻く小説空間の渾沌が立ち現われる。まるで切迫した自己嫌悪という無意識が登場人物のあいだで次々リレーされていくかのように。──以上が、ここでの小説の社会性にかんする仮説だ。(→過去の考察「本心とは逆のことを言う(振舞う)ことを強いられること」「相互非意識過剰の関係の描き方」も参照せよ)
くり返せば、各個人の自己嫌悪は〈社会〉に背を向けるかたちで隠されている。或る意味それらの秘密は、読まれるべき、批評されるべきテクストとして各個人の内部に〈社会〉から強いられるようにやどってしまったものと言っていい。そして思うに、それらは同程度に(社会に対しての)自己嫌悪の深さを抱えている誰かにしか読み取ることができないはずだ。つまりわたしたちは自分の自己嫌悪の鋭敏さのレベルにおいてしか他者の自己嫌悪を理解することはできないはずだ。たとえば、『罪と罰』のラスコーリニコフの自己嫌悪=秘密というテクストを正当に読解することができたのは、ルージンでもポルフィーリイでもなく(もちろん「自分はもうおしまいになった人間です」と自称するポルフィーリイの方が、うぬぼれた中年男にすぎないルージンよりラスコーリニコフのテクストを読み取る能力に長けている)、ラスコーリニコフと同様に絶体絶命のところまで追い詰められて生きているソーニャだった。「ラスコーリニコフはその目の中にすべてを読みとった。つまり、実際にソーニャ自身にすでにこの考え〔自殺〕があったのだ。おそらく、何度となく真剣に、どうしたらひと思いにかたがつけられるかと、絶望にしずみながら思いめぐらしたにちがいない」。「ソーニャはラスコーリニコフを見つめていたが、何のことやらさっぱりわからなかった。彼がおそろしく、限りなく不幸だということだけが、わかった」。また逆も然りだ。読まれることを拒否してただひたすら他人の秘密を読むことにこだわるという態度では、大して相手の心に踏み込むことはできはしない。しかしそんなふうに社会性や世間の次元を突き抜けてしまうほどの苛烈な二者関係を求める人間はおそらく稀であろう。〈社会〉に対して隠している自己嫌悪を(同じ社会に属しているところの)他者に読まれてしまい、またこちらからも相手の秘密を読んでしまうという相互性は、同病相憐れむということではなく、また相手の自己嫌悪を除去してやろうという善意の交換でもなく、むしろ凍り付くような恐怖を分かつ経験だと言った方が当たっているだろうから。それは、相手の自己嫌悪を看て取ることを通じて自分自身の自己嫌悪を嘘いつわりなく正視することに直結する。わたしの自己嫌悪という醜悪なテクストは、わたし自身の反省によっては読解することができず(それは自意識の手の込んだ合理化=自己防衛にしかならない)、他者の自己嫌悪というテクストの向こう側に峻厳に記入されている。たぶん、わたしたちは卑近な他者を、その人のうちにその自己嫌悪の痛苦に値するものを看て取るようなかたちで理解することがなければ、自分の自己嫌悪とさえ真実直面できはしないのだ。他者なしの自己分析はどんなに高度に知的なものであっても空想にすぎない。だが、大抵の「社会人」は『罪と罰』のルージンのように自分の社会的地位に満足しほどほどの自己分析で脂下がっている。本当の意味で他者を信頼し他者と交流しようというひとは稀だ。
まとめると、〈社会〉に背を向けて自己嫌悪という難問を抱え込んだ登場人物たちが、批評を介して相互に感情を転移させ合い交流する──これが小説空間の社会性の原型なわけだが、ところで、なぜそれが小説によって書かれなければならないかというと、物語世界を虚構するにあたって、人物の内的な感情と外面の行為との分裂をもっとも丹念に描くことができるのが小説という形式だからだ。自己嫌悪は、それが深ければ深いほど〈社会〉に対しては徹底的に閉鎖され隠される。表向きはまったく何の動揺もしていない人間が内部では休みなく死ぬほど傷付いているということはあり得る。人目に映る外面にほとんど対応し得ないような内面性の深さというものはあり得る。そのように現実-社会感覚が揺らぎかねないほどの内面性の深さや激しさを、外界の事物と同じほどの重さで描くことができるのは内的独白という手法を導入できる小説の文体をおいてほかにない(ということにしておこう)。この点、小説空間の社会性を保ちながら主人公の精神の運動がすっきり浮びあがってくるように、彼の内面にふつふつと生じる言葉を躍動感を損なうことなく誕生の瞬間に捉えるということに文体上成功した点では、いまだにスタンダールとドストエフスキーの達成したことは乗り越えられていない。彼らの長篇小説において緊迫した孤独に身を置いている個人が逆説的に色濃い社会性を帯びるということが起こるのは、むろん偶然ではない。
最後に。特定の他者の秘められた自己嫌悪というテクストを読もうとし、また自分の自己嫌悪というテクストも相手に読まれてしまうという経験は恐怖心の交感に近いと、上で書いた。なぜか。相手のうちにその自己嫌悪の痛苦に値するものを看て取る読解能力はまた、自分自身の自己嫌悪に直面しないために、相手の自己嫌悪の傷をさらに刺激し、相手を誘惑し支配し操作する暴力的な殺傷能力にもなり得るからだ。自己嫌悪を隠さないでいる、ということはかけがえのない裸の自己をさらす天真爛漫で幸福な状態であるどころか、むしろ社会性の歯止めがなくなった他者の精神攻撃に対してもっとも無防備で危機的な状態であると言った方がいい。秘密を読み、読まれるという二者関係は容易に心を奪い、奪われるといういびつな二者関係に転化してしまう。自己嫌悪からの解放を求めての行動は、往々にして自分の自己嫌悪からさらに血を流すことに帰結してしまう。だが、その心理の恐慌においてまた逆説的に〈社会〉が色濃く見い出されているとも言えるかもしれない。そんな剣呑な関係が望ましいかどうかはともかく、小説がそれを書くことを避けることはできないというのは確かである。
補遺。おそらく個人が〈社会〉に対して隠しているのは自己嫌悪だけでなくそれと裏表の自己陶酔でもあると思われるが、ここでは考察を自己嫌悪にかんするものにとどめた。しかしたとえば『罪と罰』の端役ルージンですらひそかな自負心を〈社会〉に対して隠していたことは周知のとおりである。「最大の誤算は、彼は最後の瞬間までこのような幕切れをぜんぜん予期しなかったことである。彼は二人の貧しい頼りのない女が俺の支配下からぬけだすことができるなどとは、そういうことがあり得るということすら予想しないで、最後までいばりかえっていたのだった。その確信を大いに助長したのは虚栄心と、自惚れとよぶのがもっっともいいほどにこうじた自己過信だった。ピョートル・ペトローヴィチ〔ルージン〕は、貧から身を起しただけに、病的なまでに自惚れのくせがつき、自分の頭脳と才能を高く評価していて、ときには、一人きりのときなど、自分の顔を鏡にうつして見惚れていることさえあった」。
補遺その2。秘められた自己嫌悪というテクストは、知的な青年の場合、社会変革の思想やあいまいな社会批評という精緻な欺瞞のかたちを取ることもある。大抵それらは身体の生理的作用によって裏切られることになるが。たとえば、撲殺した老婆が流す血を見た途端に悪寒がとまらなくなってしまったラスコーリニコフの予想外の身体の震え。
:キルケゴール『死に至る病い』からの抜書き
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「この種の絶望は世間では稀なもので、本来ただ詩人のもとでのみ、すなわちその作品中の人物にいつも「悪魔的な」観念性(この言葉の純粋にギリシア的な意味において)を賦与するところの真実の詩人のもとにおいてのみ見出される。とはいうもののそのような絶望に現実のなかで出会われることも実はありはするのだ。しからばその場合かかる絶望に対応している外面はいかなるものであるか! しかり、そういう「対応しているもの」が実は存在しないのである。秘められたる状態に対応している外面などというのはそれ自身において矛盾であろう、──対応しているものは実は顕わにしているものなのである。むしろここでは外面は全然人目を惹くものを持っていない。しっかりと錠のおろされている閉鎖性(或いはこれを内面性と呼んでもよかろう)だけが、ここでわれわれの注目せねばならぬ要点なのである。絶望の最低度の諸形態のもとには本来いかなる内面性も存在していないし、或いはともかくもそれについて語るに足るほどのものは何もない。そこでそういう形態を叙述する場合には、そういう絶望者の外面を描写するか或いは少なくともそれについて何か語るところがなければならない。ところが絶望が漸次精神的になり、閉鎖性のなかで内面性が漸次独自の世界を形成するにつれて、絶望がそのかげに隠れるところの外面はそれだけまた漸次人目につかないものになってくる。というのは絶望が精神的なものになればなるだけ、それだけまた絶望者は自ら悪魔的な巧智をもって絶望を閉鎖性のなかに秘めておくことに心を配るので、したがってまた外面をことさらに無造作に装い、それをできるだけ無意味な人目につかないものにするのである。童話のなかの妖魔が誰も見ることのできない割目をくぐって姿を消すように、絶望も、精神的になればなるだけ、そのかげに絶望が潜んでいようとは普通なら誰にも思いつかないような外観のなかに住むように心を配るのである。隠れているというこのことはたしかに何かしら精神的なものであり、いわば現実の背後にひとつの密室、全くの自分だけの世界、を確保するためのひとつの手段である、──この世界のなかで絶望せる自己はあたかもタンタロスのように休みなく自己自身であろうとする意欲に没頭しているのである。」
「ところで最後に、自分のなかに閉じ籠っている人間──彼は閉鎖性のなかで足踏みしている──の内部をもう一度少しばかりのぞいてみることにしよう。この閉鎖性が絶対的に保たれている場合には、あらゆる点において絶対的に完全に保たれている場合には、彼に最も近く迫っている危険は自殺である。自己自身に閉じ籠っている人の内面に何が秘められてありうるかということについて、大抵の人達は無論何の予感ももっていない、──もしも彼等がそれを知ることがあったら、きっと恐愕するであろう。それに反しもしそういう状態にある人が誰かに、たった一人の人にでも、ことをうちあけるとしたら、彼はきっとそのために緊張がぐっと弛むかぐったりと深く気落ちするかしてもはや自殺というような行為を遂行する力がなくなるであろう。絶対の秘密に比較すれば、一人でもそれを一緒に知っていてくれる人のある秘密というものは一音階だけ調子が柔らかくなっている。そこでおそらく彼は自殺をまぬかれることでもあろう。けれどもその場合絶望者は自分がほかの人に秘密をうちあけたというちょうどそのことに絶望することがありうるのである。もしも彼がずっと沈黙を守りつづけていたとしたら、きっとその方が、いま一人のそれを与り知っている人をえたよりも遥かに限りなく良かったのではないか? 自分のなかに閉じ籠っていた人が、自分の秘密を与り知っている人をえたというちょうどそのことのために絶望にもたらされたといういくつかの実例がある。そこでまた結局帰するところ自殺ということになる。詩人はこのような破局を、主人公が自分の秘密を与り知った人を殺させるといったふうに描きだすこともできよう。……このような結末に終る悪魔的な人間の苦悩に充ちた自己矛盾──自分の秘密を知っている人を持たないでいることも持っていることもどちらも耐えられないというような──を描写することはけだし詩人に課せられた一つの仕事であろう。」
:小林秀雄「『未成年』の独創性について」からの抜書き
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「この手記に描かれた出来事はすべて青年の心の中の出来事である。青年の情熱であり、青年の思索であり、青年の観察である。作者は何処にも顔を出していない。作者は完全にこの青年を自分の傀儡として、この早熟な天才的な青年の持っている鋭さ、美しさと共にその頑固、鈍感、醜さを憚るところなくさらけ出させている。作者は青年を捕えて瞬時もはなさない、瞬時もこの小説がドルゴルウキイの手記であり、作者或は他の誰の手記でもない事を忘れない。これは青年の徹底した客観化である。私は青年の本性というものをこれ程強く深く描いた小説を他に知らない。読者はこの小説の溌剌とした筆致に魅せられてしばしばこれが青年の手記である事を忘れる。忘れる時に不自然を感ずる、誇張を感ずる。言うまでもなく誤りは読者の側にある。……
青年が己れを語った小説はある、青年を上から観察した小説はある。しかし作者が青年を完全に虜にして、青年の内心に滑り込み、青年をそののかし一切をさらけ出させた「未成年」の如き小説を私は知らないのである。
…………
罪は読者の側にあると行ったが、枝未熟な作家は論外だが、一流作家は、こういう余計な錯覚なぞを読者に起させぬものだ。例えばトルストイのあの整然たる描写を考えて見ればいい。「戦争と平和」や「アンナ・カレニナ」は、その累々と重なる複雑な構成にもかかわらず、与えられる印象は大へん静かな統一したものである。トルストイの小説には読者を惑乱させる様な出来事が描いてないのではない。そういう出来事が、すべて作者の沈着なリアリズムの作法の中でしか起らぬのだ。丁度芝居の観客が、舞台で何が起ろうが安心している様なものだ。ところがドストエフスキイの劇場では、幕がかわる毎に観客は席を代えねばならぬ様な仕組になっている。しかも幕はなんの警告もなくかわる。
彼は、多くの写実派の巨匠等が持っていた手法上の作法を全然無視している。彼の眼は、対象に直かにくっついている、隙もなければゆとりもない。作中人物になりきって語る事は、最も素朴なリアリズムだが、この素朴なリアリズムが対象に喰い入る様な兇暴な冷眼と奇怪に混淆している。こういう近代的なしかも野性的なリアリズムが、読者の平静な文学的イリュウジョンを黙殺している。
「カラマアゾフの兄弟」で、アリョオシャがカチェリイナの依頼をうけてスネギイレフ二等大尉の家を訪ねる時の場面を、たとえば取って見よ。狭い一室に雑居しているスネギイレフ一家六人、六人がことごとく異常な人物であり、読者は勿論、アリョオシャにも未知の人物である。まるで何が居るか解らない部屋の扉でも開ける様に、彼は大尉の家を訪問する。作者は、アリョオシャの子供の様な眼に映った奇怪な光景を、何んの膳立もなくそのまま跳りかかる様に描き出す。無比な大胆さ、無類の率直さである。この秩序なく雑然と眼にとび込むものを、遅疑することなく雑然と描出する徹底したリアリストは、一と度作中人物にのり移れば、未だ形をなさない生育中の心理のはしくれまでも捕えつつ、どんな奇怪な行動も彼と共にすることを辞さない。」
「作者は、ドルゴルウキイの眼をもって観察し、心をもって感動している。私達は殆ど活字に眼を直につけて読まねばならぬ想いがする。いや読むのではなく、ドルゴルウキイと一緒に歩かねばならぬ想いがする。しかし「未成年」の問題はここに終わらぬ。こういう表現上の素朴性だけの問題ならば、彼の様に精緻と兇暴とを併せ持った強い性質のものは無いとしても、他のリアリストに見附け得るのだ。例えばスタンダアルを見よ。」
:ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「被知覚態、変様態〔affect〕、そして概念」からの抜書き
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「一個の偉大な物語作家は、何よりもまず、未知の、あるいは〔一般には〕誤解されているようないくつかの情動[affect]を考案する芸術家なのであって、彼は、それら情動を、おのれの人物たちの生成として明瞭に描写するのである。……プルーストが嫉妬をたいへん細かく描写しているように見えるとき、彼が考案しているのは実はひとつの情動なのである。というのも、彼はオピニオン〔=一般的見解〕が感情について前提としている秩序を、すなわちそれに従えば嫉妬は愛情の不幸な帰結になるであろう秩序を、絶えずひっくり返そうとしているからである。嫉妬は、プルーストにとっては反対に、目的因、目的地であり、愛する必要があるのは、嫉妬することができるためなのである。」
〔※コメント。嫉妬もまた一種の自己嫌悪と考えられよう。物語作家は、一般的な矩を突き抜けたあまりにも深い自己嫌悪を登場人物たちの生成として──「たいへん細かく」──描き出すこともできるだろう。深い自己嫌悪は生きることの不幸な帰結ではなくてむしろそれこそが人生の目的であり、どんな苦境にあっても生きつづけねばならないのはわたしが自己嫌悪できるようになるため、というわけだ。〕
:自己嫌悪の容量
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自己嫌悪にかんする考察のつづき。
自己嫌悪とは何かを考えるにあたってこんなふうな角度から考察してみることもできるかもしれない。自己嫌悪とは或る何か「納得がいかない」理不尽な事柄に対してそれを他人のせいにもせず環境のせいにもせず、当然自分のせいでもないと分かっているのだがひとまず自分のせいということにして引き取って呑み込むときに生じる負の感情だ、と。そのとき、「納得がいかない」事柄について抗議の声を上げてそれを「納得がいく」状態へと変えることができれば自己嫌悪は生じないだろうが、その機会や勇気がない場合、さらには自分の感じる理不尽がごく個人的なもの(例えば容姿の差異)であって到底公的な正論として提起できないような場合には、抗議という手段は取り得ない。『罪と罰』のラスコーリニコフが自分の窮迫を「昨今のペテルブルグの大学生の貧困」という社会的な問題としては決して提出しようとしなかったことを想起せよ。
もちろんその「納得がいかない」理不尽な事柄についてはどうしようもないからあきらめる、忘れるという対応も可能だし、過剰に理不尽を自己の罪として引き取って自己嫌悪を蓄積するような生き方よりはよっぽど健全な生き方である。ただヘンリー・ジェイムズも言うように、人間はスープを啜って生き延びなければならない状況になってもスプーンを探すのをあきらめはしない。もうあきらめましたなどとさっぱり言えるような境地にいたるために人間はどれほど苦しまねばならないだろう。おそらくあきらめるべきことについては迅速にあきらめて自分のやれることに集中できるひとであれば自己嫌悪とはほとんど無縁だろう。ただここではそういう無邪気で天真爛漫なひとたちについては扱わない。
どうしても納得のいかない理不尽な事柄に見舞われたとき、しかしそれでもそれを単にどうしようもないことだったとして割り切ることができないとき、しかもどうしてもあきらめのつかないとき、ひとまずは自分の理不尽な苦しみについて他人のせいにしたり環境のせいにしたり時流のせいにしたりするというのが、おおむね普通の対応だろう。そうやって憂さ晴らしをすれば胃の病いも少しは治まるというものだ。自分は世の中を憂う正義の人間だぜという錯覚に酔うこともできるかもしれぬ。しかしそれは間違いなく直接的にであれ間接的にであれ他人に対する暴力として作用する。もとよりその事柄が理不尽だと感じているのには「個人的」な理由が大きかったのだから、忘れるというのでなければ自分の身に引き受けるというのが対応としては正当なはずだった。だからこそ、その間接・直接の暴力をよしとしない人間であれば納得のいかない理不尽な事柄を自分のせいとして引き取ろうとするだろう。しかしそれによって、人生の上で理不尽な事柄に見舞われるたびに自己嫌悪の感情が個人のなかに蓄積されていく……。
思うに、一人の人間が自分の上に引き受けることの自己嫌悪の容量は限界がある。きわめて納得がいかない理不尽な事柄をつねに自分のせいだとして抗議もせず他人のせいにもせず沈黙のままぐっと呑み込んで、自分の精神に病むことを許さず自己嫌悪の感情を蓄積させつづけていれば、いつかはもう納得のいかないことを自分で引き取って無理に納得することができなくなってしまう瞬間が、くるだろう。つまり人がどれだけの納得のいかない事柄に耐えて生きて行けるかにはそれをどれだけ自分で消化できるかという自己嫌悪の器量に比例するのであり、たぶん、その器量には個人差がある。わが身に降りかかってくる理不尽をほとんど自分の身に引き受けず手当たり次第他人のせい環境のせい時流のせいにするひとの器量は、当然浅い。器量の深いひとであれば、他のひとでは耐えられないような精神的苦境でもその苦しみを周囲にまったく匂わせずに丸呑みすることが可能だろう。そう、前回の考察で「ひとは自己嫌悪というテキストを社会に対して隠す」といったときのこの「隠し通す能力」こそが、自分の精神に安易に病むことを許さない自己嫌悪の器量(深さ・鋭敏さ)に相当する、と言える。とはいえ、やがていずれは容量の限界がくる。こざるを得ない。もはやあと一撃で自己嫌悪の器が完全に決壊してしまうというそのとき──そのとき何が起こるだろうか。そのときまでに蓄積されていた自己嫌悪の量が大きければ大きいほど結果どのような言動が引き起されるかも激越で予測のつかないものになるだろう、と思う。そしてそれは強烈な感情の色彩を帯びているだろうとも、また思う。
なぜなら蓄積した自己嫌悪の深さはそのまま感情の強度に転換され得ると思うからだ。自分がずっと秘密にして耐えに耐えてきた精神的に苦痛についていよいよ訴えるとき、感情を掻き乱されない人間がはたしているだろうか。しかもそれはあまりにも個人的すぎて誰にも理解されないだろうと鬱屈させてきた苦痛の結晶なのだ。だが、たぶんそこに人間が生きることの危険と魅力のすべてがある。ということは、文学が描くべきことの精髄が。「私は長い不幸に耐えた情熱しか情熱と呼ばない。小説が描くのを避け、また描くことができない、そういう不幸。」(スタンダール)
:フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』からの抜書き
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「悲しみは自分自身を解き放つことができるの。自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ。愛していなければ悲しみを感じることはできないわ──悲しみは愛の終局よ、失われた愛だものね。あなたはわかってるのよ、わかってると思うわ。でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。それで愛のサイクルが完結するのよ。愛して、失って、悲しみを味わって、去って、そしてまた愛するの。ジェイスン、悲しみというのはあんたがひとりきりでいなければならないと身をもって知ることよ。そしてひとりきりでいることは、生きているものそれぞれの最終的な運命だから、その先はなにもないってことなの。死とはそういうことなの、大いなる寂寥ってことよ。……でも悲しむというのは、死んでいると同時に生きていることなの。だからわたしたちの味わうことのできるもっとも完璧で圧倒的な体験なの。でもときどきね、人間はそんなことに耐えきれるようには作られていないのにと、悪態をつきたくなることもあるわ。そんな波やうねりを受ければ受けるほど、人間の体なんてガタガタになってしまうもの。それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの」
「なぜだい?」ジェイスンにはその気持ちがはかりかねた。彼からすればそれは避けるべきことだった。そんなものは味わうにしても、さっさとすませてしまうことだ。
「悲しみはあんたと失ったものをもう一度結びつけるの。同化するのよ。離れ去ろうとする愛するものや人とともに行くのね。なんらかの方法で自分自身を分裂させて、その相手と同行して、その旅の道づれになる。行けるところまでついていくの。……」
:見えるはずのものが見えないということ
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「そこに、あるはずのものが、見えない。/実際、人間の悲劇の多くは、そういうことだろう。」(大澤信亮)
なぜわたしたちの認知においてそこにあるはずのものが見えないということが起こるのか。まず、この「見えない」ことついて急いで注釈すると、これは実際に視界から対象が消えるということではなく、感覚においてその対象の存在を受け取っているとしても無意識のうちにそれを無化してしまうということだ。またもう一つ付け加えて言えば、この「見えない」が或る領域において働いているときにべつの領域ではすさまじいほど「見える」鋭敏な観察眼が発揮されていることも稀ではない。まるで、そのすさまじい分析能力と観察眼が高速で回転しているのは他方の「見えない」ものからずっと意識を反らしつづけるためででもあるかのように。いずれにせよこの「見えない」はわたしたちの自己意識にまつわることであって、物理的な感官への刺激の問題ではないというのが、考察の出発点だ。
そこにあるはずのものが見えなくなるということ。他方で、視界のべつの領域はことさらな重大性を帯びて見え過ぎるほどに見えたりするということ。思うに、そこにあるはずのもの──手近な対象から空間全体まで、相手の表情や身振りから相手との関係の歴史全体までと、その見えなくなる存在はさまざまであり得るが、おそらくそれらの存在に対する盲目はわたしのわたし自身に対する盲点に、対応している。つまりわたし自身の人格・生活のなかに部分的にわたしから見えなくなっている領域があり、それに対応してわたしの視野のなかでの注意の歪みが生じている。むろんこれは仮説に過ぎない。だが、この仮説を敷衍するならば、見えるはずのものが見えなくなるのは単なる相手に対する誤解や知識の不足や見落としではなく、まさにわたし自身に原因があるということになる。それが単なる見落としや誤解であったのなら認知の修正は容易だろう。しかしその「見えない」ことの原因が最初からわたし自身にあったのなら、わたしが真に根底的に変化しないかぎり見えないものはいつまでも見えるようにならない。さらに言えば、そもそも今・ここで現実の何かが見えていないということにわたしが独力で気づくことは、たぶんできない。自分が無意識のうちに無化していた現実存在から不意打ちをくらい、復讐されることによって、「今まで自分が見ていたものは何だったのか?」と認識が動揺し、初めてその盲目の原因として自分自身の盲点が遡行的に気づかれる。しかもあくまで気づかれるだけであってそれによって見えないものが見えるようになるとはかぎらないのだ。自分自身の盲点に気づかされることの不愉快さから、さらに視野を歪ませて閉ざしてしまうということも十分あり得るだろうから。むしろ見えないものを見えないままにして見たいものしか見ないでいるために、恣に知的能力と言語能力(自己正当化)を総動員して当たるというのが、わたしたちの自己意識の常体ではないか。自分自身に疑問を持たないでいるほうがおおむね生活というのは上手く効率良く回るものだ。また、たとえ自分の盲点に気づいていても、一種の怯懦からどうしても見えないものを直視することができないという場合もあるにちがいないだろう。
さて、次の問いに進もう。では、一体どこからわたし自身のなかのその盲点は生じたのか。これは──明らかに感情的な問題であると思う。つまりわたし自身のなかに絶対に認められない、絶対に受け入れることのできない或るおぞましい感情の蠢きがあり、それを抑圧し無理矢理なかったことにする心の働きによって、わたしの視野においてもそれに対応する対象の、相手の、世界の受け入れがたい様相が見落とされるようになるということだ。或いは歪曲されるようになるということだ。では、そのおぞましい感情とは一体何か。論証抜きで断言するが──殺意である。拡大すればテロリズムの欲望にもつながるような、高熱を帯びたぐちゃどろに脈打つ破壊衝動だ。それを苛立ちと言っても劣等感と言っても嫉妬と言っても憎しみと言ってもふさわしくない。端的に息が詰まるほどに他者を殺してやりたいと思うこと。しかしわたしたちは、自分自身が明白に他者の生存を否定しようとしているというその血なまぐさい手応えを、容易には引き受けることができない。実際に殺害という行為に踏み切るのを自分に禁じるだけでなく、そのような衝動を抱いたこと自体によって、いち早くわたしたちは鬱屈してしまう。そして、わたしのなかのその殺意への怯えこそが、わたしの視野における偏差をつくりだす。べつに複雑なことではない。たとえばわたしは相手の振る舞いや表情においてこちらの殺意を触発してくるものを麻痺的に無視しつつ相手を遇することで、「優しい」「礼儀正しい」人間だなどと評価されることもあるかもしれない──相手と互いに和やかに理解し合うことさえ可能かもしれない。その場合、わたしは自分の殺意を否認するために相手の好意を利用しているわけだ。また、自分が殺意を受け入れていないことを自分自身にあらためて証明するためにわざと殺意を触発してくる相手に接近するということもあるかもしれない。わたしは殺意を触発してくる相手をいかにも冷静に分析してみせることによって、自分でもこれは殺意ではないなどと思い込む。いずれにせよそのときわたしは対象を、相手を、世界をまっすぐあるがままに見ていない。そこにあるはずのものが見えなくなる、というのは、わたし自身では絶対に受け入れることのできない痙攣的な破壊衝動の強引な抑圧によって認知の磁場が歪んでしまうことの結果の盲目だ。──簡潔ながら、それがここでの仮説である。
では、そういう殺意を抱いてしまった心が果たして救われうるのか。それがさらなる問いだ。
くり返せば(無意識に無視していた現実存在から不意打ちをくらって)自分の視野の偏差と、その原因である抑圧された殺意に気づいたとしても、わたしがその殺意を素直に受け入れたことにはならない。むしろ、気づいているにもかかわらず感情的にどうしても受け入れられないという葛藤が、一種の自己嫌悪に似た長い精神的苦しみをもたらす場合がほとんどだろう。といって、単に自分の殺意を人前で隠さず吐露してみせればよい、というものでもない。自分には犯罪者気質がある、世界は暴力に満ちている、などとうそぶいて開き直ることも無意味だ。それは盲点にべつの盲点を重ね書きすることにしかならないから。それは言わば、右回りにねじれている歪みを左回りにねじって戻そうとするようなもので、結果的に元に戻るどころかますます複雑な歪みをつくりだす。つまりはますます自己意識が巧緻に自分のドス黒い感情との直面を回避するようになるだけであり、こういうときに、わたしたちの知的能力と言語能力はいかんなくその欺瞞性を発揮する。わたしたちは人類の攻撃欲動の由来についていくらでも生物学的な、政治学的な、文明論的な破廉恥なおしゃべりを重ねることができるだろう。いや、そんなことをするくらいならまだ自己嫌悪にとどまっている方がいい。しかし、そこにとどまっているばかりでもむろんどうにもならない。いつまでもわたしは見えないものを見る視力を取り戻すことができない。ならば、どうするか?……
ここまでですでにいくつもの仮説を重ねてきているので、ここから先も、あくまで暫定的な考察になる。その前提で言うならば──おぞましい殺意を抱きながらそれを自分では到底受け入れらずに苦悩している「わたし」の心が救われるとしたら、自分以外の、他者の殺意を肯定することによってでしかないと思う。きみはひとを殺してよい。きみはわたしを殺してもよい(物理的にも、精神的にも)。きみが何をしようとわたしはそれを受け入れる。きみの殺意も苛立ちも劣等感も嫉妬も憎しみも憂鬱も不安も冷酷さもすべて肯定する。そのようにわたしが誰かの存在を全的に肯定できたときに──それを愛ないしむき出しの信頼と呼んでいけないわけがあろうか──そのときにだけわたしは、自分自身の殺意を許すことができる。自分自身が抱いていたドス黒い感情をなかったことにせず受け入れ見つめ直すことができる。もちろん、誰も彼もをそのように全的に愛さなければならないということはない。福音書の言うように汝の敵=自分が殺意を抱いた当の相手を愛さなければならないというわけでもない。しかし、そのように人生上自分が(物理的にも、精神的にも)殺されることさえ肯定できるほどに根底的に愛せる相手に一人でも出会うことができたか、できないかは、決定的な差異であるように思う。そしてそれを人類全体に広げることは不可能だとしても、一人でも多くの他者をそのように全的に肯定しようとする努力は決して無駄ではないと思う。それが自己意識によってグロテスクなまでに歪んでしまったわたしの視野の偏差を少しずつほどいていくための、おそらく唯一の道なのであろうから。
たとえば。なぜドストエフスキーには邪悪な人間の内面をあれほど自在に描き出すことができたのだろうか。それをわたしは彼が他の誰よりも、すべての邪悪な人間たちの殺意を肯定するほどに世界を愛そうとしていたからだと考えたいのだ。
以下は補遺。ここまで善意や無邪気さということについてはまったく考察してこなかった。その必要がないと思われたからだ。つまり善意に満ちた人間であれば、無邪気で天真爛漫な人間であれば、視野の歪みも少なくて見えるはずのものがまっすぐ見えている、というわけではない。いや、そういう人たちはむしろ、自分のなかの殺意に気づいてすらいないという段階にいる人間がほとんどだろう。薄々それに気づいている人間でも、とくに善意に満ちた人間は、自分のなかのドス黒い感情に直面しないために善行をほどこす相手を利用しようとする。そのとき相手は自分が善行をほどこすに値する人間として観念化されるわけだが、相手もまたその善意を当てにして振る舞いに気を配っているのだとしたら、そこで生じているのは両者とも見たいものを見るためだけに互いに相手を利用し利用されるという関係だ。たしかにこのような欺瞞さえ人間関係の端緒になりうる(精神分析で言うところの「転移」)。というより対象を、相手を、世界をあるがままに見ることから始まる関係性の方がよほど珍しい。愛を欠いた善行はむしろ視野の盲点を増大させる。しかしこの点については、あらゆる善行が盲目なわけではないという認識の方がずっと重要だ。自分のなかの殺意の切実な自覚から出発する、自分が他者から殺されることさえ肯定するほどの愛をともなう善行というものは、世界に少なからず存在する。それが見掛け上は一般的な善行に見えなかったとしても、そうなのだ。わたしたちはそうした行為の意義をもまた見えるようにならなければならないが、それは、おそらく子供らしい無邪気さにとどまっていては永遠に見ることはできないのである。
:見えるはずのものが見えないということ(2)
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よく言われるドストエフスキーの「残酷な才能」「徹底したリアリズム」とはいったい何だろうか。
ここでの仮説は、まず第一にそれは現実の人間の弱さに対する洞察力ということなのだが、そう言うと「では人間の弱さとは何か」という問題がさらに浮かび上がってくる。この問いに対し早急にコンパクトな結論を出すことは不可能だけれど、おそらく、力が無かったり貧しかったり醜かったりという単なる欠陥だけが「人間の弱さ」をかたちづくっているのではない。そういった欠陥を抱えながらも調和した人生を送るだろうひとはいくらでもいるだろうし、想像も可能だからだ。つまり、そのありふれた欠陥が「人間の弱さ」に変化しヴァルネラブルなはたらきを有するには、+αの何かが必要となる。それは何か。思うにそれは──自分自身へ向けた毒舌、ではないだろうか。たとえば不器量なひとがその「ブサイク」という欠陥を背負って生きていくということは、もちろん不器量でないひとに比べれば重荷を負っていることになるが、まだ弱さではない。しかしそのひとがたえず「おまえはブサイクだ」という毒舌をあたかも他人から吹聴されつづけているように感じながら生きるとすれば、それは弱さになる。それはそれとしてそのまま受容すればいいはずの自分の欠陥──無力さ、貧しさ、醜さ、等々を異常に重視して、現実認識が歪むほどにその自責に中毒してしまうこと。おそらく、そこに「人間の弱さ」の由来がある。そこまで固執する必要のないはずのない欠点に呪いにかかったように固執して、自分自身への毒舌を折に触れ反芻すること。それが弱さの核心だ。だからそれは根本的には意志の弱さかもしれない、というのもそこでは、当人自身でもそれが大した欠陥ではないと分かっているにもかかわらずその欠陥のことを忘れられず毒舌を体内化してしまう、ということが起こっているのだろうから。
この「おまえは◯◯◯だ」という自分自身に向けた毒舌の起源は、もとは他者からの自分への価値評価かもしれないが、他者からの価値評価がかならず有毒化するとはかぎらない。というか、ドストエフスキーの小説のなかにはそれだけではまったく説明のつかない、常識レベルでは考えられないほど自己への毒舌に中毒した「弱い」人物が数多登場する。たとえば──「と申しますのは、あたしゃ人様の中へ出ますと、自分が誰よりも卑劣で、みんなから道化者と思われているような気が始終いたしまして、『そんならひとつ本当に道化者になってやろう、お前たちの思惑なんざ恐れるものか、お前たちはみんなおれより卑劣な連中ばかりなんだからな』とこう思う。それであたしゃ道化者になったんでございます。恥ずかしさがもとで道化者に、偉大なる長老様、恥ずかしさがもとで。」──「貧は罪ならず、これは真理ですよ。飲んだくれることが、善行じゃないくらいのことは、わたしだって知ってますよ。そんなことはきまりきったことだ。しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは──罪悪ですよ。貧乏程度のうちならまだ持って生れた美しい感情を保っていられますが、どん底におちたらもうどんな人でもぜったいにだめです。どん底におちると、棒で追われるなんてものじゃありません、箒で人間社会から掃きだされてしまうんですよ。これだけ辱めたらいいかげんこたえるだろうってわけです。それでいいんですよ。だって現にこのわたしがどん底におちたとおき、先ず自分で自分を辱しめてやろうと思いましたものね。そこで酒というわけですよ!」──「アリョーシャ、おれは堕落の底にいるんだよ、今も堕落の底に沈んでいるんだ。地上の人間は恐ろしくたくさんの辛い目に会わなければならない、恐ろしくたくさんの災難に。このおれを、ただ将校きどりの、コニャックを飲んで放蕩にふける人間の屑だと思わないでくれ。こう見えてもおれは、四六時中このことばかり、堕落した人間のことばかり考えているんだ。嘘じゃないとも。今さら嘘をついたり、空威張りをしても仕方がない。おれがそういう人間のことを考えるのは、自分がそういう人間だからだ。……おれはけがらわしい淫蕩のどん底にはまり込むたびに(しかもおれはそこへはまり込んでばかりいるんだよ)、いつもケーレースと人間とを歌ったこの詩〔シルレル『エレウシス祭典』〕を読んで来た。この詩はおれを真人間に返すのか。とんでもない! なぜかと言えば、おれがカラマゾフだからだ。どうせ奈落の底へ落ちるなら、いっそひと思いに、真っさかさまに飛び込んでやれと思うからだ。しかもそういうあさましい境涯に落ち込むのがむしろ満足で、おれから見ると美的だからだ。」──「わたしが何者かって? もう終ってしまった人間、それだけのことですよ。おそらく、感じもするし、同情もするでしょう、いくらか知識もあるでしょう、だが、もう完全に終ってしまった人間です。……へ! へ! へ! あなたは、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしの言葉なんか、まあね、信じなくていいんですよ、これからだって、決して信じることはありませんよ、──これがわたしの習癖なんだから、まあいいでしょう。一言だけつけ加えておきますが、わたしがどれほど程度の低い人間で、同時にどれほど正直な人間か、あなたは判断できるはずですよ!」──「《そうだよ、おれはたしかにしらみだ。……理由はかんたんだよ、第一に、現にいまおれは自分がしらみだということについてあれこれ考えているじゃないか。第二に、この計画は自分の欲望や煩悩のためではない、りっぱな美しい目的のためだなどと称して、ありたがい神を証人にひっぱりだし、まるまる一月もいやな思いをさせたことだ、──はッは! 第三に、実行にあたっては、重さと量と数を考えて、できるかぎりの公平をまもろうときめて、すべてのしらみの中からもっとも無益なやつをえらびだし、そいつを殺して、多くも少なくもなく、おれが第一歩をふみだすためにかっきり必要なだけをとろうときめたことだ。(のこりは、つまり、遺言状どおりに、修道院行きってわけだ──はッは!)……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとでそれを自分に言うだろうとは、まえから予感していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……》」──
あらためて引用してみるとすさまじいな……。かように、ドストエフスキーの小説中のほとんどの主要登場人物は自分の「弱さ」の自家中毒に陥っているかのようで、自分の欠陥を素直に受け入れるくらいなら自分を毒した方がよいと考えているかのようで、その「弱さ」の多彩さには、驚かされる。その多彩さは、それぞれの人物がどのような欠陥を抱えていてそれにどのように中毒しているかの多様性、さらにはその欠陥の有毒性に対してどのような反応をしているか──たとえばその毒性を忍耐づよくずっと否認しているか、むしろその毒性をもっと激化するように演技性を重ねるか、その毒性を一挙に解毒するために何か破壊的な行動に出る(そして失敗する)か、その毒性に順応しつつある自分の矛盾を苦々しく自己嫌悪しつづけるか、その毒性に苛まれていることを他人から隠蔽することに血道をあげているか、といった数々の反応の描き分けによっているのだが、それらすべては、おそらく作家自身が観察した「人間の弱さ」のパターン化されないマテリアルの数多くの蓄積に由来していると思う。現実の観察から脈絡なく記憶されたもの、そしてもちろん、作家自身の「弱さ」をじかに見つめることから記憶されたもの。分析をほどこされないままの、「人間にはこういう弱さがあるのか」というひとかたまりの具体的なディティール。大量のそれらが立体的に組み合されて、何ら結論が出ないまま生き生きとした珍らかな予感を帯びはじめたとき、そのときドストエフスキーの物語が走り出す(のだろう)。
ところで、こうした「人間の弱さ」に対するドストエフスキーのすさまじい洞察力、記憶力をどのように考えたらいいだろうか。『カラマゾフの兄弟』のなかでイワンが考案した叙情詩の主人公「大審問官」は、キリスト=神に向かって「人間はお前が考えていたよりも弱くて卑しく作られているのだぞ」「人間というのは弱くて浅ましいものだ」と口にして、そんな人間どもをおどしつけながら甘やかしてやりつつ快楽を味わわせることこそ、人類への「愛」なのだと主張する。この場合全世界的にまで拡大された人間の弱さへの直観は、人間存在に対する冷笑と化している。この冷笑はイワンのものであり、彼もまた無意識に自分への毒舌に中毒している男だが──「晩の七時にイワンは汽車に乗って、一路モスクワへ向かった。『これまでのことはみんな忘れるんだ。これまでの世界とは永久におさらばだ。何の知らせも聞かないようにするんだ。新しい世界へ、新しい土地へ行くんだ。後ろを振り返らずに!』ところが、歓喜の代わりに突然、彼の心は黒々とした闇におおわれ、胸のなかで今まで一度も味わったことのない深い悲しみがうずいた。彼はひと晩じゅう物思いにふけっていた。汽車はひた走りに走り、明け方ちかくモスクワの市街にさしかかった時になって、ようやく彼ははっと我に帰った。/『おれは卑劣な男だ!』と彼は心のなかでつぶやいた。」──しかし、イワンと似たように人間存在に幻滅していながら、「人間の弱さ」を観察してそのまま生き生きと記憶に蓄積するということができるとは思われない。作家がそれをその具体例に独自の「人間の弱さ」として抜き出し描き直して記憶にとどめるためには、「所詮人間は弱いものだ」という判断(幻滅)を一旦捨て去って、脈絡なく頭に保管しなければならないだろうから。もちろん同様に「人間はそれほど弱いものではない」という正反対の判断(希望)も、具体的細部の観察と記憶のためには何ら役に立ちはしない。したがって、小説家としてのドストエフスキーには、人間への幻滅や信仰への渇望があったというより──そういう結論づけはどうでもいい──ただ「人間の弱さ」への皮肉をまじえないへのリスペクトがあった、と言うべきだろう。現に、ドストエフスキーの思想的・哲学的素養は大したことがなかった。つまり、思想的結論を出すための鋭利な思考能力が彼にあったわけではなかった。だとしても、「人間の弱さ」に対する正直な興味とその膨大なマテリアルを器として受け入れる深く普遍的な記憶力と、それに由来するナチュラルな予見の能力こそが、彼を偉大にしたのだろうと思う。
わたしたちはついうっかり彼の小説から「所詮人間は弱いものだ」という結論を引き出したくなるのだが、それが(その逆も)作家自身の結論ではなかったことは肝に銘じておくべきだろう。
補遺。ここで言う自分の欠陥に自家中毒したゆえの「人間の弱さ」を、場合によっては「罪」とも言い換えることができるかもしれない。上に挙げた例で言えば、フョードル・カラマーゾフは自分が到底真剣になれないふざけた人間であることを「罪」と感じていた。マルメラードフは自分の貧しさと惰弱を「罪」と感じていた。ドミートリイ・カラマゾフは自分の淫欲と過去の行為を「罪」と感じていた。ポルフィーリイは自分が卑小な人間であることを「罪」と感じていた。ラスコーリニコフは自分の無力さと、それにもかかわらず大胆な行動をしてしまったことを「罪」と感じていた。つまり彼らは自分が過去に行ったこと、或は現にある欠陥をことさら重視して自家中毒を起こしているわけだが、そのときにありありと痛覚されているのが後悔の念、すなわち「罪悪感」だということだ。これを再度作家に即して言い直せば、小説家としてのドストエフスキーは人間の罪悪感についての深く多様な洞察力をそなえていた、ということになるだろうか。そして脈絡のない数多くの後悔・痛恨の念が複雑に組み合わさってそれ自体の動力を帯びた(と予感された)ときに、新しい「罪」が生まれ、物語が始まる、と彼は考えていたのではないか。なかなかに不穏な話ではあるが。「人を殺すのは記憶の重みである」──サマーセット・モーム。
:金銭と労働
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●ラスコーリニコフ
小説冒頭ではぎりぎりの貧乏暮らし。ペテルブルグの薄汚い一隅にある五階建ての建物の屋根裏の部屋に賄い付き・女中付きで住んでいて、ずっと家賃は滞納している。父親の形見の品を質屋で生活費に変えねばならないほどの逼迫。二週間前から食事は出されなくなっている。下宿のおかみは金を払わない彼を警察に訴えて追い出そうともしている。以前は彼は家庭教師の仕事をやっていたようだが、着ていく服も靴もなくなり、それも止めてしまった(「というのは家庭教師に行くには、靴も買わにゃならんだろうし、服も直さにゃならんからな……フム……さて、その先は? 五コペイカばかりでいったい何ができるのだ? いまのおれにそんなものが必要だろうか?」)。生活が立たなくなってしまったためすでに数ヶ月前に大学を離れている。大学を卒業するという見込みがないわけで、就職の当てもない。田舎の母親も恩給でほそぼそと暮らしている身なので、仕送りには期待できない。母親からは四ヵ月前に十五ルーブリを受け取っただけで、それも母親が自分の恩給を担保にして商人から借りたものなのだ。このような状況がずっとつづけば彼だけでなく母親も妹も落魄することは目に見えている……。彼の言葉を聞こう。
「ところで、きみも知ってるだろうが、ぼくの母は財産らしいものはほとんど何もない。妹は偶然に教育を受けたので、家庭教師をするようなことになった。二人のすべての希望はぼく一人にかかっていた。ぼくは大学に学んだが、学資がつづかなくなって、やむなく一時学校をはなれた。あのままつづけられさえすれば、十年か十二年後には(事情がよくなってくれればだが)ぼくはとにかく俸給十ルーブリくらいの教師か官吏になる望みはもてたはずだ……(彼は暗誦しているようにすらすらと言った)、しかしそれまでには母は気苦労やら悲しみやらで老いさらばえてしまうだろうし、やはり母を安心させることはできそうもない。じゃ妹は……いや、妹はもっとひどいことになるかもしれない!……とすると、何を好きこのんでぼくは、一生すべてのものに顔をそむけて、すべてのもののそばを素通りし、母を忘れ、妹の屈辱をおとなしく忍ばなければならんのだ? 何のために? 母と妹を葬って、新しいもの──妻をめとり、子供をもうけ、やがてはそれも一文の金も、一きれのパンもない状態でこの世に置き去りにするためか? そこで……そこで、ぼくは決意したんだよ、あの婆さんの金を手に入れて、ここ何年間かのぼくの生活に当てよう、そうすれば母を苦しめずに、安心して大学に学べるし、大学を出てからも第一歩を踏み出す資金になる──これを広く、ラジカルにやってのけ、完全に新しい形の立身の基礎をきずき、新しい、土壙率自尊の道に立とう……まあ……まあ、こういうわけさ……」
「(もうこうなったらかまうものか、ひと思いにすっかりぶちまけてやれ! 発狂のことはまえにも噂になっていた、おれは気付いていたんだ!)さっき、学資がつづかなかったって、きみに言ったね。ところが、やってゆけたかもしれないんだよ。大学に納める金は、母が送ってくれたろうし、はくものや、着るものや、パン代くらいは、ぼくが自分で稼げたろうからね。ほんとだよ! 家庭教師に行けば、一回で五十コペイカになったんだ。ラズミーヒンだってやっている! それをぼくは、意地になって、やろうとしなかったんだ。たしかに意地になっていた。そしてぼくは、まるで蜘蛛みたいに、自分の巣にかくれてしまった。きみはぼくの穴ぐらへ来たから、見ただろう……ねえ、ソーニャ、きみもわかるだろうけど、低い天井とせまい部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ! ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか! でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ! 何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。ナスターシャが持って来てくれれば──食うし、持って来てくれなければ──そのまま一日中ねている。わざと意地をはって頼みもしなかった! 夜はあかりがないから、暗闇の中に寝ている、ろうそくを買う金を稼ごうともしない。勉強をしなければならないのに、本は売りとばしてしまった。机の上は原稿にもノートにも、いまじゃ埃が一センチほどもつもっている。ぼくはむしろねころがって、考えているほうが好きだった。だから考えてばかりいた……そしてのべつ夢ばかり見ていた、さまざまな、おかしな夢だ」(第五部第四章)
彼は下宿のおかみに百十五ルーブリの借用証書を入れている。この百十五ルーブリはおかみの娘と結婚する約束の下におかみからちょくちょく借りていた金の総額で、娘が病死したときに(もはや身内として面倒を見てもらう理由がなくなったので)それまでにおかみに借りた金の分を借用書に書き込んだもの。後にこの借用証書をたてにラスコーリニコフは借金の返済を要求される羽目になる(第二部第一章)。これはチェバーロフという悪達者な七等官がおかみに入れ知恵したことで、ラスコーリニコフの母親による支払いを当てにしていた。しかし、この借用書はおかみからラズミーヒンが買い取って口約束での借金に変えてくれた。
第二部第三章、ドゥーネチカの結婚によって信用が上がった母親からの送金がある。三十五ルーブリ。そのなかの十ルーブリでラズミーヒンが着るものをそろえてくれた。残りの金はほとんどマルメラードフの葬式の費用にとカテリーナ・イワーノヴナに渡してしまう。
エピローグにおいて、ラスコーリニコフが大学に在校していた頃、自分のなけなしの金をはたいて一人の貧しい肺病の学友を助け、半年にわたってその生活の面倒を見てやっていたという事実が明らかになる。
補遺。金銭は必ずしもニュートラルなものではないという感覚をラスコーリニコフは抱いているように思われる。言わば、金銭には呪術的にきれいなものと汚いものとがある。たとえばルージンからドゥーネチカが得るであろう金銭を彼は極端に「いやらしく、きたない」ものと見做している。また彼が老婆から強奪した品を一度は運河へすべて捨ててしまおうと決意したのはそれを無色透明の財貨だと受け取れなかったからにちがいない。「《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、意識的になされたとしたら、実際に一つの定められた確固たる目的があったとしたら、いったいどうしていままでおまえは財布の中をのぞいても見なかったのだ、何を手に入れたか知ろうともしないのだ? なんのためにすべての苦しみを引き受けて、わざわざあんな卑劣な、けがらわしい、恥ずかしい真似をしたのだ? そうだ、おまえはついいましたがたあれを、あの財布を、やはりまだ見ていないほかの品々といっしょに川へ捨てようとしたのではなかったか……それはいったいどういうことだ?》」。ちなみにこの不潔さへの感度はソーニャも共有していて、ラスコーリニコフが強盗殺人をやったことを知った後、ソーニャは彼が葬式の費用にくれた金の出所について恐怖を抱く。「あッ!……カテリーナ・イワーノヴナにやったあのお金……あのお金は……おお、まさかあのお金が……」「ちがう、ソーニャ、あのお金はちがうよ、安心したまえ! あのお金は母が送ってくれたんだよ、ある商人を通じて、ぼくは病気でねているときに受け取ったんだ、くれてやったあの日だよ……ラズミーヒンが見ていた……彼がぼくの代りに受け取ったんだから……あのお金はぼくのだよ、ぼくのものだよ、まちがいなくぼくのものだよ」。ついでに言えば、ソーニャが家族のために身を売って稼いだ金銭は逆説的な神聖さを帯びるかのようだ(だからこそマルメラードフはその金銭をこそ飲酒に蕩尽してしまう)。このように或る種の過敏さゆえに金銭をニュートラルな流通形態で扱えない感性というのは、ルージンのような厚顔な自由主義者には永遠に無縁だろう。そして、おそらくこの金銭の呪術的な不潔/神聖に対する過敏さこそが、登場人物たちを行為が動機を追い抜く瞬間へと駆り立てる。
●プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ
ラスコーリニコフの母、四十三歳。未亡人。年百二十ルーブリの恩給暮らし(部分的にはドゥーネチカにも面倒を見てもらっている模様)。その恩給を担保に商人からお金を借りてラスコーリニコフに四ヵ月前に仕送りを十五ルーブリ送った。それだけしか送れなかったのだ。しかしドゥーネチカの婚約後には彼女の信用も上がって、さらに恩給を担保に七十五ルーブリは借りられる見込みで、そのなかから二十五ルーブリから三十ルーブリはラスコーリニコフに送ることができるだろうと手紙で告げた。残りはドゥーニャと一緒にペテルブルグへ行く旅費、そしてペテルブルグに着いて当座の費用に消えることになる。それも三等車で約千露里を列車で揺られるという節約をしてぎりぎりといったところなのだが、ドゥーニャの許嫁のルージンはそうした費用を立て替えてやるという素振りも見せない模様。「ところでルージンさん、あんたはどういうつもりですかね?……だってこれはあんたの花嫁じゃありませんか……母が自分の年金を担保にして旅費を前借りしていることだって、知らなかったでは通りませんよ」。
ところでペテルブルグへ出て来てからどのように生計を立てるのかについて本人は具体的な見通しを持っていない。恩給の年金百二十ルーブリからは借金をさし引かなければならないし、何らかの内職をしたとしてもせいぜい百二十ルーブリに二十ルーブリを加える程度にしかならない。結局はルージンを当てにしている。
「スヴィドリガイロフたちやアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンとやらから、おまえは二人をどうして守るつもりだね、未来の百万長者さん、二人の運命をにぎるゼウスさん? 十年後に? その十年の間に母さんは襟巻編みの手内職で、いやもしかしたら涙で、目をつぶしてしまうだろうよ」(第一部第四章)
●ドゥーネチカ
ラスコーリニコフの妹。偶然教育を受けていたので家庭教師で生活費を稼いでいるが、年二百ルーブリの金のために県から県にわたり歩く暮らしで、母親とは一緒に住めない。小説がはじまる一年前にスヴィドリガイロフの家に家庭教師として入ったが、そのとき俸給から毎月返済する約束で百ルーブリを借りている。それは兄のラスコーリニコフが当時欲しがっていた六十ルーブリの金を工面するためのものだった。その百ルーブリを返済するまでスヴィドリガイロフ家から容易に離れられなくなってしまい、主人のスヴィドリガイロフにセクハラまがいに言い寄られたときにもすぐに抜け出すことができなかった。その事件が過ぎてから、ルージンに結婚を申し込まれる。ルージンにラスコーリニコフの学費の援助をさせるだけでなく、ルージンのペテルブルグの法律事務所に秘書としてラスコーリニコフを雇わせることも空想している。ドゥーネチカは気質として黒パンだけかじる生活になっても自分の魂は売らない女性だが(スヴィドリガイロフからも「あの方は、疑いもなく、どんな苦難にも堪え得た女性たちの一人になれたでしょうし、真っ赤に焼けたコテを胸に押しつけられても、にっこり笑っていられたにちがいありません」と言われる)、兄を大学に学ばせ、事務所でルージンの片腕にし、兄の生涯を保証してやるためにルージンの合法的なかこい者になることを承諾したわけだ(表面上は自分でもそのことを認めてはいないが)。「でもいまはロージャが第一だ、かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ!」。
スヴィドリガイロフの妻のマルファ・ペトローヴナの遺言によって三千ルーブリを贈られたことが後に判明する(第四部第一章)。マルファ・ペトローヴナはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがちょうどラスコーリニコフに手紙を送った頃に亡くなった。ちなみにこのことはルージンも早くから知っていたらしい。ルージンはマルファ・ペトローヴナの遠戚にあたる。ルージンとドゥーニャの縁談の口ききをしたのも彼女である。設定上、マルファ・ペトローヴナは無尽蔵な金持ちとされていて、可愛がっていたドゥーニャにはこれだけの金を遺贈はするし、夫のスヴィドリガイロフの放蕩もほとんど彼女がバックアップしていたという次第だ。
●マルメラードフ
九等官の官吏。五十すぎ。自分から「どん底の貧乏暮らし」と言っている。飲酒癖がひどく、妻の着るものさえ質に入れて、その金で飲んでいる。「だから飲む、飲めば飲むほど、ますますそれが気になる。飲めば、あわれみと同情が見つかるような気がして、それで飲むんですよ……飲むのは、とことんまで苦しみたいからさ!」。かつては死んだ妻にのこされた十四歳の娘と田舎で二人暮らしをしていたが、そこでカテリーナ・イワーノヴナと再婚し、一年ほどは酒も飲まずにまじめに勤めてていた。しかし定員が改正になって失業、さんざんな目にあったあげく一家でペテルブルグにたどりつく。そして一度はペテルブルグで職につくのだが自分の落度のためにまた失職。一家はアマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の醜悪な家に間借りして住んでいるが、どうやって妻が家賃をひねり出しているのか彼にはさっぱりわからない。とうとう生活が逼迫したあげくに、彼はもう一度官職に復帰するために高官に頼み込んで、見事に受け入れられて、一ヵ月はまじめに働く。ラスコーリニコフに出会うちょうど六日前には二十三ルーブリ四十コペイカの月給を家に持ち帰って、一家はみな喜びにつつまれていた……。しかし翌日になって俸給ののこりを全部持ち出すと、飲み屋でもう五日も飲み明かしている。新しく整えた制服も早々質に入れた。さらにソーニャのところへ三十コペイカの酒代をねだりに行ってもいる。「とことんまで苦しみたい」がために? 行為が動機を追い抜く瞬間。
スヴィドリガイロフがソーニャとラスコーリニコフに興味を持っていたことから、カテリーナ・イワーノヴナの死後、ソーニャの三人の弟妹は相応の金をもらった上で孤児院に入った。またスヴィドリガイロフは自殺する前に三千ルーブリをソーニャに贈っている。アマリヤ・イワーノヴナに対する借金の支払いも含めさまざまな約束や義務を片っぱしから彼女が引き受けてしまうのを見かねてのことである。
●ソーネチカ・マルメラードワ
マルメラードフと前妻のあいだの娘。父親の失業に振り回され、きちんとした教育は受けていない。「そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能ななけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ!」。最初は仕立ての内職をしようとしていたようだが、顧客が因縁を付けて金を払おうとせず、一家の生活の支えるどころか、自分の生活資料を購入できるだけの稼ぎにもならなかった。飲んだくれの父、継母、自分の含む四人の子供という一家が暮らしていくために、売春に足を踏み入れることになる。最初の日に稼いだのが三十ルーブリ。その後黄色い鑑札(性病に罹っていないという証明の医療券)を受けてマルメラードフらとは一緒に住めなくなり、仕立屋のカペルナウモフの家に引っ越すことになるが、仕送りとカテリーナ・イワーノヴナの手助けはつづけた。将来の見通しは暗い。たとえばソーニャが病気になって病院に収容されてしまえば、保険もなにもないのだから、一家は路頭に迷う。貯金ができるほどの収入があるわけではない。いずれはソーニャの妹のポーレチカも同じ道に入るだろう、とラスコーリニコフは予言する。
●スヴィドリガイロフ
「わたしは無為で淫蕩な男です」。五十歳。七年前に年上の金持ちのマルファ・ペトローヴナに惚れられて結婚、その後はマルファ・ペトローヴナの家のある田舎にこもっていた。結婚する以前の生活の縁でペテルブルグには知人が色々いるらしいが、詳しくは不明。三万ルーブリの借金をためて監獄にぶちこまれかけたこともあるが、それを身請けしたのがマルファ・ペトローヴナで、死ぬまで三万ルーブリのスヴィドリガイロフの借用書は他人の名義にして握られていたらしい。といってもスヴィドリガイロフはそんな束縛がなくてもマルファ・ペトローヴナの下から逃げるつもりはなかったらしいが。ドゥーネチカに情欲を抱いていた関係で、ルージンとドゥーニャの縁談が破談になることを願っている(これはラスコーリニコフの利害と一致する)。ルージンとの縁談が破談になったら、その損害の埋め合わせのためにドゥーニャに一万ルーブリを提供してもいいとまで言う。マルファ・ペトローヴナとのあいだの子供は、彼女の死後に伯母にあずけている。「子供たちにはそれぞれ財産がありますし、わたしなんかいないほうがいいくらいのものです。ろくな父親でもありませんしな! わたしが持ってきたのは、一年まえマルファ・ペトローヴナにもらったものだけです。わたしにはそれで十分ですよ」。無為徒食だが、マルファ・ペトローヴナから莫大な財産を受け継いだというわけでもないらしい。それでも一万ルーブリほどの遊んでいる金があるわけだが……面白い暮らしぶり。出自はよくわからない。「まあご心配なく、わたしは退屈な男じゃありませんよ。インチキカルタの仲間たちとも結構仲よくやりましたし、遠い親戚で高官のスヴィルベイ公爵にもあきられなかったし、プリルコーワヤ夫人のアルバムにラファエルのマドンナを讃える詩を書きこむ小才もありましたし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも七年間こもりきりの生活をしてきましたし、昔センナヤ広場のヴャゼムスキー公爵の邸宅(木賃宿)に泊まったこともありますし、おまけに、もしかしたら、ベルグといっしょに気球にも乗りかねない男ですよ」「わたしが何者かって? ご存じでしょう、貴族で、騎兵連隊に二年勤めまして、それからこんなふうにペテルブルグでのらくらしていて、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎で暮らしました。これがわたしの履歴ですよ!」「わたしはこう自分を紹介しました、──地主で、妻に死なれ、由緒ある家柄で、これこれの親戚があり、財産がある、とね」。文字通りの極道者でまともに働いたことはないらしい。ルージンのスヴィドリガイロフ評は次のとおり。
「彼は放蕩のかぎりを尽くし、悪事に身をもちくずした連中の中でももっともたちの悪い男です。わたしは十分な根拠があって申しあげるのですが、マルファ・ペトローヴナは不幸にもあの男を熱愛して、八年まえに借金の肩代わりをしてあの男を救ってやりましたが、それだけじゃないのです。もうひとつ別なことでもあの男に尽くしているのです。と申しますのは、もうまちがいなくシベリア送りになるような、残忍で、しかもいわば怪奇な殺人〔少女を自殺に追い込んだ?〕という付録までついたある刑事事件が、ひとえにマルファ・ペトローヴナの尽力と犠牲のおかげで、ほんの初期のうちにもみ消されてしまったのです。まあ、あれはこういう男なんですよ」「わたし個人の考えとしては、あの男はまた借金をつくって留置場にぶちこまれることはまちがいないと、確信しています。マルファ・ペトローヴナは子供たちのことを考えていましたから、あの男にいくらかでも財産を譲渡するつもりは毛頭もっておりませんでしたし、よしんば何かのこしたにしても、どうせさしあたって必要なものだけで、まああまり値打ちのない、ほんの一時しのぎのものでしょうから、あの男の生活態度では一年ともたないでしょうな」(第四部第二章)
以前、ペテルブルグに来る前にドゥーニャに有り金全部を提供しようと狂った申し出をしたことがあるらしいが、そのときの金額が三万ルーブリ。これが彼の自由になる金のおおよそらしい。「わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! アヴドーチヤ・ロマーノヴナがほんとうは貧しい娘で、要するに、自分で働いて暮らしているし、それに母とあなたの生活までみていることを計算に入れて、わたしは有金を提供する決意をしたわけです、ただしこのペテルブルグへでもいいから、いっしょに逃げてくれるという条件で。そこでわたしは永遠の愛、幸福等々を誓ったことは、言うまでもありません。信じられないでしょうが、わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう!」──愛情関係のなかで生じる経済麻痺的な感覚。
自殺する前に十六歳の許嫁に一万五千ルーブリを遺贈した。
補遺。スヴィドリガイロフはドゥーニャに提供しようと申し出ている一万ルーブリを、できるだけ無色透明な金銭だを思い込ませようとしている。もちろんそんなはずはないのだが。ラスコーリニコフもその裏の意図を無意識に察知する。「第一、わたしは金持ちじゃありませんが、この一万ルーブリは遊んでいる金です。つまりわたしにはまったく、まったく不要のものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナが受け取ってくれなかったら、わたしは、おそらく、もっともっとばかなつかい方をするでしょう。これがひとつです。第二に、わたしの良心にはこれっぽっちもやましいところはありません。わたしはいっさいの打算をぬきにして提供するのです。信じなさろうがなさるまいが、いずれはあなたにも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにもわかっていただけるでしょう。要するに、わたしは尊敬するあなたの妹さんに実際にかなりのご迷惑をおかけしたし、いやな思いをさせたためなのです。つまり、心底から後悔していますので、心をこめて望んでいるわけです、──何も罪のつぐないとか、不快の代償とかじゃなく、ただ妹さんのために何か利益になることをしてあげたいだけです。底を言えば、悪いことをするばかりが能じゃないことを、事実によって証明したいだけですよ。もしわたしの申し出にたとえ百分の一でも打算があったら、わたしは一万ルーブリ程度を申し出はしませんよ。つい五週間まえにはもっと多額の金を提供すると申しあげたんですからねえ」。
●ラズミーヒン
ラスコーリニコフの大学での(元)学友。ラスコーリニコフと同じく貧しくて学資がつづかず大学から離れているが、ラスコーリニコフとは違って大学に戻るため生活の立て直しに懸命になっている。「彼は屋根の上にでも暮らせたし、どんなにひどい飢えも寒さもしのぶことができた。彼はひじょうに貧しく、何やかや仕事らしいことをしては金をかせぎながら、完全に独力で生活を支えていた。彼はかせぎを汲みあげることのできる泉が、その気になりさえすれば無限にあることを知っていた」。商才があり、ラスコーリニコフも彼から仕事を斡旋してもらえることを期待していた。ラスコーリニコフがたずねて来たときには翻訳出版の事業をやる計画を立てていて、ラスコーリニコフもそれに引き込もうとした。三十ページほどのドイツ語の論文を十五ルーブリの翻訳料で翻訳する算段(それ以外にも彼の頭のなかには翻訳したら売れるだろうテキストの候補が幾つかある)。ラスコーリニコフがその論文の半分を翻訳してくれるなら、前金で三ルーブリを渡そうと申し出た。こうしたところから見ても、彼が自活するための世間知をふんだんに持っている磊落な人物だと分かる。ラスコーリニコフの着替えを十ルーブリだけで用意したときの機転も優れたもの。ドゥーネチカがマルファ・ペトローヴナから遺贈された三千ルーブリの使い道についてもすぐにプランを立ててみせた。ドゥーニャは母娘二人で田舎に帰るよりもここで暮らせばいい。ラズミーヒンも自分に援助したがっている伯父がいて、二年前から千ルーブリほど六%の利息で貸してやると言っている。ドゥーネチカもその三千ルーブリから千ルーブリを出資してほしい、それらを元手にここで出版業の共同経営をやるのだ。「もっとも肝要な手段の一つである自分たちの資本ができたのに、どうして、いったいどうしてせっかくのこの機会を逃がす必要があるのです?」。一般に出版は割に合わないと言われているが、それは何を出版すればいいか、何を翻訳すれば当たるかをひとびとが分かっていないからだ。その点についてドゥーネチカと、ラズミーヒンと、ラスコーリニコフと、三人で勉強していこうじゃないか。少なくともラズミーヒンには二年近く出版社をわたり歩いた経験がある、すでに翻訳出版の案を提供するだけで一冊につき百ルーブリはもらえるという作品を二、三点自分は知っている、最初はささやかなところからはじめて、そのうちに事業を大きくしていこう、どうまちがっても食うだけの稼ぎは得られるはずだ……。ヨーロッパの三ヵ国語に通じているラズミーヒンにとって出版業をやることは夢だったのだ。この直後、すぐにドゥーニャと母のための住居を見つけてやってもいる。高い実務能力をそなえた男。
●ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン
ドゥーネチカの婚約者。七等文官。四十五歳。生活は安定していて、勤めは二つ持っていて、かなりの貯蓄がある。自分で自分のことを実際家と言っている。教養がないが、独力で財産を築き上げたことを誇りにしている。「嫁にもらうなら持参金のない娘がいい、その理由は、良人は妻に対してすこしの借りもあってはならないし、妻に恩人と思わせた方がはるかにいいから」などと言う男。マルファ・ペトローヴナがドゥーニャに三千ルーブリを遺贈したことを彼が黙っていたことからも分かるように、ドゥーニャの立場が弱ければ弱いほど自分にとって都合がいいと考えていたフシがある。いろんな訴訟事件の弁護を引き受けていて、ペテルブルグに法律事務所を開こうと計画している最中で、思い切って職場を変え、もっと広い活動の場に踏み出そうとしていた。しかし言動から仄見える卑しさからして、彼がラスコーリニコフを自分の秘書に雇うことはありそうにない。それどころかドゥーネチカとプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがペテルブルグへ行く旅費さえ彼女たち自身で支払わせ、彼女たちがペテルブルグに着いてからの費用についてもまったく無関心だった。「なにしろ、多忙なもので!……それにわたしの弁護士としてのしごとの面で元老院に、のっぴきならぬ重大な用件がありましたものですから」。功利主義的な経済学説を自分の好みに合うからという理由だけで愚直に信奉している。やがて彼は「結局は、そのためにわたしは、いわば、金をつかわされたんだ……」「もちろん、わたしは至極当然の権利として、報酬を期待していいはずだし、あなたの感謝を要求することだってできるはずですがねえ……」だのと死ぬほど見苦しい非難をドゥーニャに向かって口にすることだろう。
「しかし彼がこの世でもっとも愛し、そして大切にしていたものは、苦労をし、あらゆる手段をつかってたくわえた財産だった。それが彼に自分よりも上のすべての人々と肩を並べさせてくれたのである。」(第四部第三章)
●アリョーナ・イワーノヴナ
六十歳前後の金貸しの老婆。全体が幾つもの貸間に別れている運河沿いの大きな建物の四階に住んでいる。足が痛むので年中部屋にこもりきり。それほど贅沢な暮らしをしているわけではないが、金持ちではあるらしい。「便利な婆さんだよ。いつだって借りられるよ。ユダヤ人みたいに金持ちで、一度に五千も貸してくれるし、一ルーブリの質でもいやな顔をしない」というのが或る客が語った彼女の商売の評判。ただし期限を一日でもすぎたらたちまち質草を流してしまうし(「もう一月分の利息を入れますから、こらえてくださいよ」「さあ、こらえてあげるか、いますぐ流してしまうか、それはわたしの勝手ですよ」)、利息は月に五分、ひどいときには七分もとるという具合で、借りるハードルは低いがその分返すハードルが高い悪徳な商売をしている模様。三十五歳になるリザヴェータという腹違いの妹と一緒に暮らしている。しかしすでに書いてある老婆の遺言状によればリザヴェータに死後遺されるものはテーブルや椅子などの家財道具ばかりで、金は一文もなく、遺産はほとんどN郡の或る修道院に寄付されて、末代まで供養してもらうことになっているらしい。「社会全体から見た場合、こんな愚かな意地わるい肺病の老婆の死なんて、いったい何だろう? たかだかしらみか油虫の生命くらいのものだ。いやそれだけの価値もない。あの老婆は有害だからな。あいつは他人の生命をむしばんでいる。この間怒ってリザヴェータの指にかみつき、危なくかきみるところだったよ!」。
●リザヴェータ
アリョーナ・イワーノヴナの腹違いの妹。料理や洗濯や掃除など、老婆の身のまわりの世話をしている。ラスコーリニコフは老婆の部屋から清潔な印象を受けるが、それはリザヴェータがきれいに掃除していたおかげであろう。商人の生まれ。当然ながら独身(「いじけたおとなしい売れのこりの娘」)。老婆のために夜も昼も働いているだけでなく、針仕事や床洗いやちょっとした商い(「彼女は手数料をおらって、得意先をまわって商いをしていたが、ひどく正直で、いつも掛け値なしの値段を言い、一度言ったら、もう絶対にまけないので、なかなか評判がよく、方々で重宝がられていた」)を下請けでやっていたが、それも大体老婆の監督下のことであって、老婆の許しがなければ一つの注文も受けられず、仕事で得た金はすっかり姉に渡している。その上老婆から常日頃暴力までふるわれている。老婆なんていなくても一人立ちして生活していけるくらいの人脈と器用さはありそうだが、気が小さすぎて彼女はまるで老婆に頭があがらないようだ。
●カテリーナ・イワーノヴナ
マルメラードフと再婚したときは三人のこぶつきの寡婦だった。最初の結婚が駆落ちに近いものだったので、その夫に死なれた後ですさまじい貧しさに陥ってしまっても身寄りのものからはそっぽを向かれ、もはやどうにもならないというところでマルメラードフが見かねて手を差し伸べたのだった。「あれの窮状がどんなにひどいものであったかは、教養もあり、教育もうけ、名門の出のあれがですよ、わたしのような者の申し出を受けたことでも、察せられるというものですよ。後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら──来たんですよ! どこへも行くところがなかったからです。わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか?」。実際、由緒ある県立の貴族学校で教育を受けたらしい。肺を悪くしている。きれい好きなのでどんなに逼迫しても着る物の洗濯は欠かさない。
最後には気が狂って道ばたで公開物乞いの大騒ぎをやらかす。「いいんだよ、見せてやるんだ、ペテルブルグ中に見せてやるんだ、一生まじめに陰ひなたなく勤めて、殉職といえるような死に方をしたりっぱな父親〔嘘〕の子供たちが、もの乞いをして歩いている姿をさ。……わたしたちだったらじきに別扱いしてもらえますよ、あわれにも乞食にまでなり下がったりっぱな家庭なみなし子ってことは、すぐにわかりますものねえ。そしたらあの将軍め、きっと失職しますよ、見てらっしゃい! 毎日あいつの窓の下へ行ってやるんだよ、そして皇帝さまがお通りになったら、わたしはひざまずいて、子供たちをまえにならばせて、《お守りください、父よ!》っておすがりします。皇帝さまはみなし子たちの父ですもの、情け深いお方ですもの、きっと守ってくださいますわ、そしてあの将軍めを……」。貧者のやぶれかぶれの大逆襲。
●ポルフィーリイ・ペトローヴィチ
三十六歳。職業は予審判事。法律家。警察署の捜査課に勤めている。ラズミーヒンの遠い親戚。懐疑論者。利口な男。優秀なので出世頭かと思われるが、自分では「わたしが何者かって? もう終ってしまった人間、それだけのことですよ。おそらく、感じもするし、同情もするでしょう、いくらか知識もあるでしょう、だが、もう完全に終ってしまった人間です」などと言う。官舎に住んでいるが、小説本編最中には官舎は修理中で実家から職場に通っている。
エピローグで、ラズミーヒンとドゥーネチカのつましい結婚式に出席した。
●レスリッヒ夫人
作中名前しか出てこないが、人と人とをつなぐ奇妙な仲介屋。同じく現前的に姿を現わさないがドゥーニャの縁談の口ききをしたりドゥーニャに重要な三千ルーブリを遺贈したりするマルファ・ペトローヴナに近い存在。こういう「暗躍する大人」はドストエフスキーの長篇でしばしば設定上必要とされている。外国人。金貸しなどをやっていたらしい。スヴィドリガイロフはペテルブルグへいるあいだこの夫人のところに間借りしている。スヴィドリガイロフに十六歳の許嫁を世話したのもレスリッヒ夫人。「あのレスリッヒという女はしたたかな悪党ですよ。はっきり言いますが、こんなことを考えているんです。つまりわたしが飽きて、妻を捨てたらですね、妻をひきとって、よそへまわす、つまりわれわれの階級か、その少し上の誰かを見つけて押しつけようというわけです。あの女の言うのには、父親は老衰しきった退職官吏で、安楽椅子に坐ったきり、もう三年も足を動かしたことがないそうだし、母親は、なかなかもののわかった婦人で、いいお母さんだそうですよ。息子が一人どっかの県に勤めているが、仕送りはしてくれない。娘は嫁に行ったきり、訪ねて来ない。それでいて、自分の子供だけで足りないで、小さな甥を二人もひきとっている。末娘は女学校を中途でやめさせて、家へ連れもどした。この末娘が一ヵ月すると満十六歳になる、つまり一月すれば嫁にやれるというわけで、それをわたしの嫁にというんですよ」。彼女はマルファ・ペトローヴナの生前からスヴィドリガイロフと親しくしていた。
●ドミートリイ・フョードロヴィチ・カラマゾフ
二十八歳。「この郡」(と小説中表記される)の地主フョードル・パーヴロヴィチの長男。兄弟のなかで彼だけが先妻の子供。多くのひとびとが自明視している金銭のニュートラルな流通形態への違和感をふんだんに持っている男。つまり金銭がときに魔術的に帯びてしまう汚らわしさや不可侵性に対してひどく過敏であるということ。放蕩者の父親からはずっと顧みられずに育ち、母アデライーダの従兄にあたるミウーソフに引き取られたが、ミウーソフ自身が自分の家庭を持っていなかったために、そのままミウーソフの遠戚のモスクワの或る名流夫人の家にあずけられて少年時代をすごした。青年になると陸軍の学校へ入って、やがてコーカサスへ赴任したが、かなりだらしない放蕩ざんまいの暮らしをして多額の金を浪費した。ほとんど教育らしい教育は受けていない。ミーチャは成年に達すると、父親から自分の相続する分の財産を先に仕送りとしてもらうようになって、その収入を当てにして無節操に暮らしていたが、この取り決めの際にフョードルが詐欺的な知恵をはたらかせて搾取におよんだので、今=小説の冒頭時点ではミーチャはもう自分の財産に相当する金額は父親から引き出してしまっており、ことによると逆に負債があるくらいだと言い渡されている。この相続と財産の算定をめぐる不和を話し合うために軍隊を辞めて、今現在「この町」に帰郷している。実家で暮らさずに町の反対側のはずれに別に住んでいる。この町でもやはり放縦な落ち着きのない生活にふけっている。というのは、彼はこの町にいるグルーシェンカという女性に惚れ込んでしまい、その女の心情を金で掴もうとしているのだ。しかし、もう父親からは金を引き出せないので、その放蕩のための金をなんと許嫁のカチェリーナから拝借している。飲酒のための金を娘のソーニャからもらっていたマルメラードフの汚辱に類比的。「アリョーシャ、このおれを、ただ将校きどりの、コニャックを飲んで放蕩にふける人間の屑だと思わないでくれ。こう見えてもおれは、四六時中このことばかり、堕落した人間のことばかり考えているんだ。嘘じゃないとも。今さら嘘をついたり、空威張りをしても仕方がない。おれがそういう人間のことを考えるのは、自分がそういう人間だからだ」。
許嫁のカチェリーナとは軍隊時代の勤務地で出会っている。カチェリーナは彼の上司の中佐の妹娘で、母親の方は立派な将軍家という名門の出で、名家の令嬢といったところだが、さきざきに相続の見込みはあるものの当時はとくに財産があるわけではなく家柄が優れているというだけだった。そのカチェリーナが貴族女学校を卒業した後、父の家で暮らすようになった。ドミートリイが父から六千ルーブリを受け取ったのはその頃だ。ミーチャの方から「もうこれ以上は請求しない」という権利放棄の証文を送って、それと引き換えに受け取った金だ。それからしばらくして或る事件が起こる。カチェリーナの父の中佐に辞表を出せという命令が来る。中佐は官金に四千五百ルーブリの穴を空けてしまっていて、それを引き渡さないかぎり軍法会議に掛けられ破滅するという危機が切迫する。そこへミーチャはもし「美人のなかの美人」であるカチェリーナをこっそり自分のところへ寄越したら、中佐のために四千ルーブリほど提供しようと姉娘にもちかける。一旦は「まあ、あなたって人はなんて卑劣な人でしょう」と拒絶されるが、中佐が猟銃で自殺をやりかねない瀬戸際までいたって、或る夜、カチェリーナが単身彼の部屋までやってくる。「姉からうかがいましたが、わたくしがこちらへ……ひとりで頂戴にあがったら、四千五百ルーブリ下さるそうで、……わたくしまいりました。……お金をお渡し下さい!……」。ミーチャは淫蕩なことは何もせずカチェリーナに額面五千ルーブリの五分利づき無記名債券を渡して、帰す。その後、中佐は病気になって寝込み、三週間後に死亡。カチェリーナとその姉と叔母は、モスクワへ引っ越す。そこからまた矢継ぎ早に出来事が起こり、カチェリーナの主な親戚筋にあたる将軍未亡人が近い相続人である姪を一挙に二人も無くしてしまい、遺言状を実の娘のように可愛がっていたカチェリーナに有利なように書き変えた。それと同時に当座の費用としていきなり八万ルーブリをカチェリーナに手渡した。ミーチャは四千五百ルーブリの金と、「わたくしは気違いのように恋しております」という彼女からのプロポーズの手紙とを郵便で受け取る。「おれはその時すぐに彼女に返事を書いた。涙ながらに返事を書いた。ただいまだに恥ずかしくてならんのは、彼女が今は金持ちになって持参金まであるのに、おれが一文なしの貧乏士官にすぎないと書いたことだ。──金のこと書いたことなんだ! 我慢すべきだったのに、ついペンが滑ったんだ」。例の将軍未亡人に祝福されつつドミートリイとカチェリーナは婚約を交わす。
ところが父のフョードルと財産の問題で話をつけにこの町へ帰って来たとき、グルーシェンカに出会ってしまって、事態が一変する。最初は父親の代理人である二等大尉(スネギリョフ)がグルーシェンカにミーチャに対する訴訟を持ち掛けたのを止めさせるよう、おどしにいった彼だったが、そのままグルーシェンカに魅了されて彼女の家に通うようになってしまった。「で、グルーシェンカのところへ通いはじめるが早いか、おれはたちまち婚約者でもなければ、誠実な男でもなくなってしまった。……雷に打たれたんだ、ペストにかかったんだ、感染したっきり今だに感染しつづけているんだ」。彼はここから二十五キロ離れたモークロエ村へ繰り出して、何千ルーブリという金をばらまいて彼女と一緒にどんちゃん騒ぎをやったりもした。その金はどこから来たかというと、カチェリーナからモスクワの姉娘に送るようにと頼まれて渡された三千ルーブリを着服したもの。まさに汚辱というほかはない。こうして三千ルーブリの借りが許嫁のカチェリーナに対してある(しかもその金をグルーシェンカとの狂宴のために蕩尽してしまった)ということが彼をして「自分は恥辱の底に落ち込んだ」と言わせている。彼の意識としては、この三千ルーブリを返済しないかぎりグルーシェンカと一緒になることはできない。その三千ルーブリをどこから見付け出せばいいのか。アリョーシャも二千ルーブリくらいなら持っているが、それをいつ引き出せるかは分からない。「何しろおれはもうこれ以上のばすわけにはいかない。事態はそこまで切迫しているんだ」。というのは、同じくグルーシェンカに惚れ込んでいる親父の方が先に彼女と結婚してしまうかもしれないから。この三千ルーブリを親父に出させるか? 彼の言い分は以下のとおり。
「そりゃ親父は法律的には一ルーブリも払う義務はない。すっかりおれが引き出しちまったんだからな、すっかり。それはおれも承知している。しかし道徳的に言えば、親父はまだおれに借りがある。そうじゃないか。だって親父はおふくろの二万八千ルーブリをもとでに、十万からの金をもうけたんだ。とすれば、その二万八千のうちからたった三千ルーブリをおれに寄越して、たったの三千ルーブリをだぜ、そうしておれの魂を地獄から救い出してくれたっていいじゃないか。」(第一部第三篇第五章)
ドミートリイの金銭感覚はたぶんに幻想的なものを含んでいる。彼には泥棒のように着服したカチェリーナの金を返すだけでは十分ではなかった。グルーシェンカと一緒になったとして、その後の生活のための費用はどうするのか。それまでの何年かフョードルから出ていた彼の全収入はもはや尽きた。グルーシェンカも金は持っている。しかし彼の矜持が「新生活」のためにその金を借りることなど断乎として拒否させた。もちろん、カチェリーナに金を返さずに「新生活」に赴くということは彼にはあり得なかった。彼はすべての金銭的な汚辱の魔術から解放されて、今度こそ《善行にみちた》新生活をグルーシェンカとはじめるつもりでいたのだ。「しかしすべては失敗して水泡に帰してしまう、それもただ金が足りないという理由だけで。ああ、何という恥辱だ!」。この袋小路状態が彼を狂乱させて、「たとい誰かを殺して強奪してでも、カチェリーナにだけは借金を返さなければならない」とさえ彼に思わせるのだが、他方で彼は完全に絶望していたわけではなかった。「ここにふしぎなことがひとつある。こういう決心を固めた以上、もはや絶望以外何ひとつ彼には残されていないと思うのが当然であろう。なぜならばそのような大金を、彼のような一文なしの男がどこで急に手に入れることができるというのか。ところが彼は、最後までその三千ルーブリはきっと手にはいる、ひとりでにはいって来る、いざとなれば天からでも降ってくるだろうと期待していたのである。もっともこういうことは、ドミートリイのようにこの歳まで親の遺産を湯水のように浪費して来て、金もうけの方法をまったく知らない人々にはえてしてありがちなことである」。
ミーチャは第三部第八篇第五章で突然浪費癖を炸裂させるが、それは欲望の放埒というよりも自己処罰であるかのようだ。盗んだ金を使ってしまったという汚らわしさの痛覚が彼にここまでの自暴自棄を強いたらしい。
:ヴェルシーロフとカテリーナ・ニコラーエヴナ
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以下、長くなるがドストエフスキー『未成年』の第三部第十章第四節(下巻494-509頁)を全文引用する。ヴェルシーロフとカテリーナ・ニコラーエヴナの最初で最後の正面からの対話を描いた一節。主人公の「わたし」がそれを盗み見するという視点から書かれている。
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わたしと彼が昨夜彼の『復活』を祝して乾杯したあのテーブルをはさんで、二人は対坐していた。わたしは完全に二人の顔を見ることができた。彼女はシンプルな黒い衣裳を着ていた、そしてまぶしいほど美しく、見たところ、おちつきはらっていて、いつもとすこしも変らなかった。彼がなにかしゃべっていて、彼女はひどく注意深く、警戒の色をうかべてそれを聞いていた。だが、そこにはいくぶんか怯気も見えたかもしれない。彼はおそろしく興奮していた。わたしは話の途中で来たので、しばらくはなんのことやらわからなかった。おぼえているのは、彼女が不意にこう問いかけたところからである。
「じゃ、わたしが原因でしたの?」
「いや、それはわたしが原因だったのです」と彼は答えた「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ。ご存じですか、罪のない罪びとというものがあることを? これは──もっとも許しがたい罪で、必ずといっていいほど罰を受けるものです」と彼は奇妙な笑いをうかべて、つけくわえた。「だがわたしは、あなたをすっかり忘れてしまったと考えて、自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったときもありました……それはあなたもご存じのとおりです。しかし、それだからといって、あなたが結婚なさろうとする人間に、わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです? わたしは昨日あなたに結婚を申し込みました、このぶしつけをお許しください、これは──ばかげたことです、だがしかしそれに代る方法がまったくないのです……このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」
彼はこう言うとなげやりにうつろな声で笑って、不意に相手に目を上げた。それまで彼は相手を見ないようにして話していたのである。もしわたしが彼女の立場にいたら、この笑いにぎょっとしたにちがいない。わたしはそれを感じた。彼は不意に椅子から立ち上がった。
「だが、どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」彼はもっともかんじんなことを思い出したように、不意にこう訊ねた。「わたしの招きも、あの手紙ぜんたいも──実にばかげています……お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、どのような心理の経過をたどってあなたがここへ来ることを承諾なさったかくらいはね、だが──なぜあなたが来たのか?──これが問題です、まさかただ恐怖心からだけで来たのではないでしょう?」
「わたしはあなたにお会いするために来たのですわ」と彼女はすこし気おくれぎみに用心深く彼を見まもりながら、言った。二人は三十秒ほど黙っていた。ヴェルシーロフはまた椅子に腰を下ろした、そしておだやかだが、感動のこもった、ほとんどふるえをおびた声で言いだした。
「わたしはもうずいぶん長くあなたにお会いしてませんね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、あまり久しいので、いつかこうしてあなたのそばに坐って、あなたの顔に見入り、あなたの声を聞いたことがあったなどとは、もうほとんど考えられないほどですよ……わたしたちは二年会いませんでした、二年話をしませんでした。あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ。まあ、いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです、そして今あることは──明日は消えてしまうのです、煙みたいに、──それもいいでしょう! わたしは認めますよ、だってこれもまたほかにどうしようもありませんからねえ、だが今日はうやむやで帰らないでください」と彼はほとんど哀願するように、不意につけくわえた、「もうここへ来るという、施しをしてくださったのですから、うやむやに素手で帰しては申し訳ありません。わたしのひとつの問いに答えてください!」
「どんな問いかしら?」
「わたしたちはもうこれで二度と会うことはないのですから、こんな問いくらいあなたになんでしょう? どうか最後に一度だけわたしにほんとうのことを言ってください、聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが。あなたはいつかほんのちょっとのあいだでもわたしを愛してくれたことがありましたか、それともわたしの……思いちがいだったろうか?」
彼女はさっと顔を赤らめた。
「愛しておりました」と彼女は言った。
わたしはそう思っていた、彼女がそう言ってくれるものと──おお、なんという誠実な、素直な、正直な心であろう!
「それで、今は?」と彼はたたみかけた。
「今は愛しておりません」
「笑っていますね?」
「いいえ、わたしが今思わず口もとをほころばせてしまいましたのは、今にあなたが、『それで、今は?』とお訊きになるものと、心待ちにしていたからですの。だから思わず微笑んでしまいましたの……だって、そう思っていたことがあたると、人はいつもにやにやするでしょう……」
わたしは異様な気さえした。わたしはまだ一度も、ほとんど臆病とさえいえるほどのこんな用心深い、こんなどきまぎした彼女を見たことがなかったからである。彼はなめまわすような目で彼女を見つめていた。
「あなたがわたしを愛しておられないことは、知っています……でも──ぜんぜん愛していないのですか?」
「でしょうね、ぜんぜん愛していないと思いますわ。わたしはあなたを愛しておりません」と彼女はもう笑顔も見せず、顔を赤らめもしないできっぱりとつけくわえた。
「そう、わたしはあなたを愛しましたわ、でも短いあいだでした。わたしはあのとき、もうすぐにあなたがきらいになってしまいました……」
「知ってますよ、知ってます、あなたはあの愛の中に、あなたに必要なものでないものを見てとったのです、でも……それではなにがあなたに必要なのでしょう? それをもう一度おしえてください……」
「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら? なにがわたしに必要なのですって? そうね、わたしは──ごく平凡な女ですわ。わたしは──しずかな女です、だからわたしは……陽気な人が好きなんですわ」
「陽気な人?」
「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたしは思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」彼女はまた臆病そうに微笑した。
彼女のこの言葉にはすこしのいつわりもない赤裸な心が輝いていた、そしてはたして彼女は、これが二人の関係のいっさいを説明し、そして解決するもっとも決定的な解答であることを、理解できなかったのだろうか。おお、彼こそそれがいちばん理解できるはずであった! ところが彼はじっと彼女を見つめたまま、異様な薄笑いをうかべていた。
「ビオリングは──陽気な男ですか?」と彼は問いをつづけた。
「彼はすこしもあなたの気をわずらわさないはずですわ」と彼女はいくらかあわて気味に答えた。「わたしが彼と結婚しようと思うのは、ただ彼だとわたしがいちばん心のおちつきを得られそうに思うからなの。わたしの心はすっかりわたしのもとにのこりますもの」
「あなたはまた社交界が好きになった、とかいう噂ですね?」
「好きになったわけじゃありませんわ。どこでもそうですけど、わたしたちの社交界にもやはり秩序のみだれのあることは、わたし知っておりますわ。でも表から見た形はまだ美しいわ、だから、ただそばを通るだけの生活をするなら、どこかよそよりは、そちらのほうがいいと思うだけですわ」
「わたしも『無秩序』という言葉はよく聞くようになりました。あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」
「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」
「じゃなんです? おねがいですから、正直に言ってくださいませんか」
「じゃ、正直に申しますわ、だってわたしはあなたをこのうえなく聡明な方だと思っておりますから……わたしいつもあなたになにか滑稽なところがあるような気がしてなりませんでしたの」
彼女はこう言うと、不意に、とんでもない粗相をしてしまったことに気づいたように、かっと真っ赤になった。
「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」と彼は妙なことを言った。
「わたしはまだおしまいまで言ってませんわ」と彼女はますます顔を赤らめながら、急いで言った、「これはわたしが滑稽だからですわ……だってあなたと話をすると、ばかみたいなことばかり言いだすんですもの」
「いや、あなたは滑稽じゃない、あなたは──ただ放恣な社交界の婦人なだけですよ!」彼は気味わるいほど蒼白になった。「わたしもさっき、なぜあなたが来たのかと訊いたとき、おしまいまで言いませんでした。お望みなら、言いましょうか? ここに一通の手紙がある、証書といいますかな、あなたはそれをひじょうに恐れている、というのはあなたのお父さまが、この手紙を手にしたら、あなたを呪って、法的に遺産相続権を抹消するおそれがあるからだ。あなたはその手紙を恐れている、だから──その手紙をとりもどすために来たのだ」彼は全身をふるわせ、ほとんど歯をがちがち鳴らさんばかりにして、こう言いきった。彼女は愁いに充ちたいたましげな表情をうかべてその言葉を聞いていた。
「あなたがわたしにいろいろいやなことを言うにちがいないとは、わたし覚悟していましたわ」と彼女は彼の言葉をはらいのけるようなしぐさをしながら、言った、「でもわたしがここへ来たのは、わたしにつきまとわないでくれとあなたにたのむことよりも、むしろあなたにお目にかかりたかったからですの。わたしはもうまえまえからあなたにお会いしたいと強く望んでさえいました、わたしのほうから……でも今お会いしたのは、あのころのままのあなたでした」彼女はなにかきっぱりと決意するところがあり、しかもあるふしぎな思いがけぬ感情に魅せられたかのように、不意にこうつけくわえた。
「じゃあなたは、別なわたしを期待していたのですか? それは──あなたの放恣をなじったわたしの手紙のあとですね? おっしゃってください、あなたはここへ来るときなんの恐怖も感じなかったのですか?」
「わたしはまえにあなたを愛してたから、来たのですわ。でも、ねえ、おねがいですから、今ここにいっしょにいるあいだは、どうか、なにも恐ろしいことを言わないでくださいね、わたしのよくない考えや感情のことを、わたしに思い出させないでくださいね。もしなにかほかの話を聞かせてくださったら、わたしほんとに嬉しいと思うわ。脅迫めいたことは──あとにしてね、今は別なことを話しましょうよ……わたし、うそじゃなく、ちょっとあなたにお会いして、あなたの声をお聞きしたくて来ましたのよ。もしそれがおできにならなければ、いきなりわたしを殺してください、でも脅迫だけはなさらないで、わたしのまえで自分を責めさいなむようなことだけはなさらないで」と彼女は、彼が殺すかもしれないと本気で予想したのか、なにかを待ち受けるように異様に光る目で彼をじっと見つめながら、言葉を結んだ。
彼はまた椅子から立ち上がって、そして熱っぽく光る目で彼女を見すえながら、しっかりした口調で言った。
「あなたはすこしの侮辱も受けずにここからお帰りになれるはずです」
「あっ、そうでしたわね、あなたのお約束でしたものね!」と彼女はにっこり笑った。
「いや、手紙の中でしたからばかりではありません、今夜一晩中あなたのことを考えたいと思うし、またどうせ考えるはずだからです……」
「自分をお苦しめになるの?」
「わたしは一人きりのとき、いつもあなたのことを考えています。あなたと対話しているだけが、わたしのしごとなのです。わたしが場末のきたない居酒屋へ逃れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑うのです、今もそうですが……」彼はまるで放心しているようにこう言った。
「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と彼女は涙のにじんだ声で叫ぶように言った、そしてその顔には深い憐憫の情があらわれたように見えた。「どうせここへ来たんですもの、あなたにぜったいに屈辱をおぼえさせたりしてはいけないと、わたしそればかり気をつかっていましたのよ」と彼女は不意につけくわえた。「わたしここへ来たのは、ほとんどあなたを愛していることを、あなたに言いたかったからですのよ……あら、ごめんなさい、わたし、なんだか、言い方をまちがえたみたいだわ」と彼女はあわてて言い添えた。
彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの──だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません──どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いいんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
彼女は立ち上がって、彼のそばへ歩みよった。
「アンドレイ・ペトローヴィチ!」と彼女は片手を彼の肩にふれて、言うに言われぬ表情を顔にうかべて、言った、「そのような言葉は聞くに堪えませんわ! わたしは生涯、このうえなく貴い人として、高潔な心をもった人として、愛と尊敬を捧げることができるなにものにもすぐれた神聖な人として、あなたの思い出を大切にすることでしょう。アンドレイ・ペトローヴィチ、わたしの言葉をわかってくださいね。だってわたし、その気持があるからこそここへ来たのじゃありませんか、やさしい、昔も今も変りなくやさしいお方! わたし、はじめてお会いしたとき、あなたがわたしの知性にはげしい衝撃をあたえてくだすったことを、終生忘れませんわ! 親しい友だちとしてお別れしましょう、そして生涯わたしのもっとも厳粛な、そしてもっとも愛しい思い出となって、わたしの心の中に生きつづけてくださいね!」
「別れましょう、そしたらあなたを愛してあげます、ですか。愛してあげます──ただし別れましょう、とおっしゃるんですか。ねえ」と彼はすっかり蒼白になって言った、「どうかもうひとつ施しをあたえてください。わたしを愛してくれなくてもかまいません、わたしのそばに暮してくれなくてもかまいません、もうこれっきり会えなくてもかまいません。わたしをお呼びくだすったら──わたしはあなたの奴隷になります、見るのも聞くのもいやだとおっしゃるなら──即座に消えてなくなります、ただ……ただ誰の妻にもならないでください!」
この言葉を聞いたとき、わたしは胸のつぶれる思いがした。この素朴な屈辱的な哀願が、あまりにもむきだしで、考えられぬものであっただけに、なおのことみじめに、そしてはげしく胸を刺した。そうだ、たしかに、彼は施しを請うた! だがしかし、彼女が承知してくれるなどと、彼は考えることができたのだろうか? にもかかわらず、彼はためしてみるまでに自分をおとした。哀願をこころみてみたのである! このぎりぎりまでおちた心のみじめな姿は見るに堪えなかった。彼女の顔中の線が不意に苦痛にゆがんだかに見えた。しかし彼女が口を開くまえに、彼ははっとわれに返った。
「わたしはあなたを亡ぼしてやる!」と彼はいきなり異様な、ゆがんだ、自分のものとも思われぬ声で言った。
ところが彼女も異様な、やはり自分のものとも思われぬ、まったく思いがけない声で答えたのである。
「もしわたしがあなたに施しをあたえたら」と彼女は不意にしっかりと言った、「あなたはあとで今の脅迫よりももっとひどいお返しを、わたしにするでしょう。今こうして乞食みたいにわたしのまえに立ったことを、決して忘れるような人じゃありませんもの……わたしはあなたの脅迫を聞くわけにはまいりません!」と彼女は挑みかかるような目できっと彼を見すえて、憤然として言ってのけた。
「あなたの脅迫、つまり──このような乞食の、ですか! わたしは冗談を言ったのですよ」と彼は苦笑しながら、しずかに言った。「わたしはあなたになにもしません、ご安心なさい、さあお帰りなさい……それからあの文書はなんとかおとどけするように努力しましょう──いいからお行きなさい、お帰りなさい! わたしがあなたにばかげた手紙を書き、あなたはそのばかげた手紙に応えて、わざわざ来てくれました──これでわたしたちは貸し借りなしです。こちらからどうぞ」と彼はドアを示した。(彼女はわたしがカーテンのかげにかくれていたその小部屋を通って出てゆこうとしたのだった)
「もしできることなら、わたしをお許しくださいね」彼女は戸口に立ちどまった。
「そうねえ、わたしたちがもしいつか親友として会って、はれやかに笑いながら今日のこの場面を思い出したとしたら、どうでしょう?」と彼はだしぬけに言った。しかし顔は、発作におそわれた人のように、はげしくふるえていた。
「おお、そうありたいわ!」と彼女は胸に腕を組みあわせて、嬉しそうに叫んだ、しかし彼の顔に目をやると、彼の言おうとしたことを読みとったらしく、はっとして顔をこわばらせた。
「お行きなさい。わたしたちは二人ともずいぶん利口な人間なんだが、しかしあなたも……まったくわたしによく似た人間ですねえ! わたしが常軌を逸した手紙を書けば、あなたはそれに応えて、『わたしをほとんど愛している』なんて言いに、わざわざ出かけてくる。まったく、わたしもあなたも──同じ常軌を逸した人間ですよ! いつまでもこのままの常軌を逸したあなたでいてください、変らないでください、そしていつかまた親友として会いましょう──これをわたしはあなたに予言します、誓います!」
「そのときこそ、わたしはきっとあなたを愛しますわ、だって今もその予感がするんですもの!」彼女の中の女がこらえきれなくなって、戸口のところからこの最後の言葉を彼になげた。
彼女は出ていった。わたしは急いでそっと台所へもどると、わたしを待ち受けていたダーリヤ・オニーシモヴナにほとんど目もくれずに、裏階段を下り、庭をぬけて通りへ出た。しかしわたしは、玄関に待たせておいた辻馬車に乗りこんだ彼女の姿を、ちらと見ることができただけであった。わたしは通りをかけだした。
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対話について考察する。──対話、というのは、そもそも二つのまったく異なった意識がそこに参与しつつ対手のことを相互に理解し合おうということだから、実際、現実には信じ難いぐらい複雑なことがそこで行なわれているはずだ。しかし、われわれは普段その複雑さを見過ごしているように思われる。
たとえばインタビュー(の書き起こし)。よくあることだが、インタビュアーとして「案外上手くいった」と顧みて自負するようなインタビューを収録できたとしても、録音した音声だけ聞いてみると、まるで噛み合わない、支離滅裂なやり取りをしているようにしか思えないという場合がある。こういう時には(インタビュアー=書き起こし担当者であれば)、音声に忠実に書き起こすのを諦めて、往々にして「上手くいった」という主観的な印象に合わせて、言葉を整序して読み易いように均して書き起こしてしまうものだ。つまり、元々は二つの相容れない主観が参与して織り上げられたはずものを、一つの視点からの理解で我有化してしまう。もちろん読者を配慮してのことだが、したがって出来上がったそれは、二人のうちの一方(インタビュアー)の意識のなかで捏造された記憶としての対話のテキストとなる。インタビュイーがそれを読んで「これはたしかにわたしが言ったことだが、わたしが言ったことではない」という違和感をしばしば抱くのも、理由なしとしない。
では、なぜ言葉の上では噛み合わないやり取りが現実に対話として成立し得るのか。その「上手くいった」という印象は何に由来するのだろうか。実際の対話の際には、二人の表情、身振り、しぐさ、目線、目の光り、そしてそれらがお互いの意識に呼び覚ますさまざまな過去の想念や感覚など多くの要素がその場に入り交じることによって、二人の相互理解のズレが強引に埋められているからだ、というのがひとまずの答えだ。しかもこれらの多くの要素は、それがズレを埋める分豊富であればあるほど長く記憶にとどまることがない。親しい人と会って話をする幸福がはっきり記憶にとどまらないことが、人生における不幸の一つだ、とスタンダールも戯れに言っている。コミュニケーションの努力とは畢竟、互いの相違を前提としながらその場で豊富に受け取るもの、その場で豊富に生成するものを駆使しつつ自分と相手の心を架橋しようとする不可能な試みに他ならないが、その努力は、明確な記録に残ることはなく、残るのは、ともかく或る一定の時間対話を続けたという事実にすぎない。場合によっては何を話したのかの内容すら残らない。分かり合えた/分かり合えなかった、という実感らしい実感もいずれ淡雪のように消え去る。
そして、一般的な小説のなかに置かれている「会話」のほとんどは、読み易く整序され書き上げられたインタビューのテキストと同様、現実の実際の会話のリアリティに肉薄しない、一人の主観から振り返ってまとめ上げられた、捏造された記憶としての会話である。大抵の場合その一人の主観とは、作者だ。作品の全体構想ないし物語の進捗の障害とならないように対話の言葉は削ぎ整えられ、対話に参与する複数の人物の主観のズレ(とそれを埋めようとする努力)と、支離滅裂な言葉をぎりぎりつなぐ鋭敏な感覚とは、はじめから無かったかのように扱われる。所詮記憶にとどまらないものは小説にとって重要でないと言わんばかりに。上手く書かれた小説のほぼすべてが、このお約束のなかで休らっている。実際の対話としては死んでいる言葉の群れが、個性的でウイットとユーモアに富んだ対話(という体裁をとった作者の趣味の投影)として読者に喜んで読まれたりもする。……例外と見なせるのは、ドストエフスキーの小説における対話ぐらいだろう。
長篇『未成年』第三部のヴェルシーロフとカテリーナ・ニコラーエヴナの長い対話は、ドストエフスキーが書いた対話のなかでも白眉の一つだ。そこで起こっていることを分析することはほぼ不可能だが、とにかく長篇のクライマックスに置かれているこの対話が、物語的にはほとんど何の意味も持っていないということにまず驚く。そこではただ、長年一人の女を愛しつづけてきた男、そしてその愛を拒絶した女、が何の打算も陰謀も立場の葛藤もなしに、互いの積年の想いを交えながら、その場で豊富に受け取られるもの、その場で豊富に生成するものに従って支離滅裂な言葉を交わしているだけだ。この対話によって、何か物語が前進するというのではない。この対話の前後で二人の関係性はほぼ変わらない。まるでただこの二人の対峙を実現するために長篇の大部分が必要だったかのように、この対話は置かれている。もちろん現実にこんな対話を交わすロシアの男女はいなかっただろう、だがこの対話は、われわれの人生上とどまりがたい幸福と感動の記憶の真実には迫っている。『未成年』は物語としては上手くいっているがコミュニケーションとしては失敗している多くの小説群の真逆に位置する。そして今、虚飾をまじえないコミュニケーションの真実という理念が、世界の頽落を前にして文学的営為をつづける真っ当な動機の一つだと、くり返し主張してみてもいいかもしれない。
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