タイプ【D-1】「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相
タイプ【D-2】不意に・ふと・突然(直感・衝動・無意識による不意打ち)
タイプ【D-3】冒頭、段落モンタージュ
タイプ【D-4】現前的-要約法
タイプ【D-5】記述的-情景法
タイプ【D-6】批評的/情動的ディエゲーシス
タイプ【D-7】想像的対話のディエゲーシス
タイプ【D-8】肖像・空間描写
タイプ【D-9】登場人物の身体性(身振り・仕草・目線・ニュアンス・相互反応の演出)
タイプ【D-10】緊迫した対話・情景法
タイプ【D-11】再現的自己対話的長広舌
タイプ【D-12】何かを否定・非難する(→反動)ことが中心の科白
タイプ【D-13】内面・内語が表白された(抑圧された)科白
タイプ【D-14】内なる声による(分裂的・屈曲的)対話
タイプ【D-15】内的対話ストリーム(無意識の衝迫)
タイプ【D-16】絶望的醜態・内的葛藤の破裂
タイプ【D-17】非凡な人格/自分の自意識の倫理
タイプ【D-18】臆病な攻撃性
------------------------------------- タイプ【D-1】「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相 ▲
●『白痴』上506-508頁
第二篇第五章
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三時半どころか四時になっても、コーリャはあらわれなかった。公爵は外へ出ると、気のむくまま機械的に歩きだした。初夏のペテルブルグには、ときどきすばらしい天気──明るくて、からりと暑くて、静かな日和がつづくことがある。その日もちょうどあつらえたように、こうしたまれにみる日和の一日であった。しばらくのあいだ公爵は、これという目的もなくぶらぶら歩いていった。この市は彼にとってほとんど馴染みがなかった。彼はときどき誰かの家の前の十字路や、広場や、橋の上などに立ちどまった。また一度は、とある菓子屋へ寄って、ひと休みした。ときには、大きな好奇心にかられながら通行人をながめまわしたりした。しかし、通行人にも気づかず、自分がどこを歩いているのかも知らずにいるときのほうが多かった。彼は苦しいほど緊張した不安な状態にあったが、それと同時に、たったひとりでいたいという並々ならぬ欲求をも感じていた。彼はたったひとりだけになって、たとえどんな小さな出口すら求めず、この悩ましいまでの緊張感に、受身の態度で没入したいと願った。自分の心と魂にどっとふりかかってきた多くの問題を嫌悪して、それを解決しようという気にもなれなかった。《それがどうしたのだ、なにも自分が悪いわけじゃないじゃないか?》彼はほとんど無意識のままひとり心の中でつぶやくのであった。
もう六時になろうというころ、気がついてみると彼はツァールスコエ・セロー鉄道のプラットホームに立っていた。たったひとりでいることがじきに耐えがたくなったのである。新しい衝動が激しく彼の心をとらえ、その魂が閉じこめられて憂鬱に悩んでいた暗闇が、一瞬にして輝かしい光明に照らしだされたのであった。彼はパーヴロフスク行きの切符を求め、耐えがたい思いで一刻も早くそこへ行こうと急いだ。しかし何ものかが彼につきまとって悩ませていたことはもちろんである。しかも、その何ものかは彼が考えたがっていたかもしれぬあの幻想ではなく、現実の世界であった。彼はもう汽車へ乗りこんで席につこうとしたとき、いきなりたったいま買ったばかりの切符を床へたたきつけ、当惑した物思いに沈んだ様子で、また停車場を出てしまった。しばらくたってから彼は往来で、ふいに何事かを思いだしたふうであった。何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体を思いおこしたみたいであった。彼は自分がある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識したのである。それはもう長いことつづいているにもかかわらず、いまのいままですこしも気づかないでいたのだった。もう何時間も、まだ《はかりや》にいた時分から、いや、ひょっとしたら《はかりや》へ行く前から、彼は自分のまわりに、何ものかを捜しはじめたのであった。ときには長いこと、半時間も忘れることがあったが、やがていきなり不安そうにあたりを見まわして、身のまわりを捜しまわすのであった。
この引用部で主人公は作中もっとも強烈な心理の激動を経験しているにもかかわらず、文体としては沈着だ。それを可能にしたのは登場人物から目を離さずにしかし微妙な距離を取り続ける語り手の位相による。
第一段落におけるムイシュキンの描き方を見てみよう。一貫しているのはまるで他人事のような描き方だ。あたかも語り手は興信所の人間としてムイシュキンを秘かに尾行しながらムイシュキンの様子をリアルタイムで報告しているかのようだ。「しばらくのあいだ公爵は、これという目的もなくぶらぶら歩いていった。」「彼はときどき誰かの家の前の十字路や、広場や、橋の上などに立ちどまった。」「ときには長いこと、半時間も忘れることがあったが、やがていきなり不安そうにあたりを見まわして、身のまわりを捜しまわすのであった。」この三人称を一人称に直してしまうと違和感がある。「しばらくのあいだ」「ときどき」「ときには長いこと」という指標が外部からの観察の報告のような印象を与えるためだろうか。ムイシュキンが自分で意識している自分の姿というよりも、他者がこっそり観察しているだけでムイシュキン自身では意識していないないし意識できない(記憶にとどめない──一瞬意識することがあるとしてもすぐ忘れてしまう)仕種・行動を報告している風に読めるからだろうか。しかしそれでいてこの尾行者は、ムイシュキンの内面まで見透かして観察できる能力を持っているかのようなのだ。「彼は苦しいほど緊張した不安な状態にあったが、それと同時に、たったひとりでいたいという並々ならぬ欲求をも感じていた。」──こんな事態まで報告することのできる尾行者とは一体何なのか? この超能力の尾行者の位相こそ、登場人物の心理描写のための徹底したリアリズムを突き詰めた末に、「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせたドストエフスキーの文体の到達点か? この尾行者の報告する「《それがどうしたのだ、なにも自分が悪いわけじゃないじゃないか?》」というムイシュキンの内語も、ムイシュキン自身の自意識が自己対話の末に排出したものというよりも、彼の無意識に強いられて「思わず」飛び出したもののように読める。それも文体の効果か。ちなみにここでこの尾行者がリアルタイムな観察=情景法だけでなく「初夏のペテルブルグには、……静かな日和がつづくことがある」「この市は彼にとってほとんど馴染みがなかった」と括復法的記述で介入していることにも注目しよう。
この「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相の効果は、第二段落ではさらにはっきりする。ここではムイシュキンの内面の変化がさらに追及され、「何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体」「自分がある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識した」──といった形で、黙説法的にサスペンスを作り出しているのだが、やはり語りの他人事めいた沈着な調子は一貫している。たとえば「何ものかが彼につきまとって悩ませていたことはもちろんである」の一文など、ムイシュキンの一人称に変換することは不可能だ(「……ことはもちろんである」と読者を説得させようとしているのは、ムイシュキンであるはずがない)。だがもっと端的なのは「ふいに何事かを思いだしたふうであった。」「正体を思いおこしたみたいであった。」「いや、ひょっとしたら《はかりや》へ行く前から、彼は自分のまわりに、何ものかを捜しはじめたのであった。」という文にあらわれる「ふうであった」「みたいであった」「ひょっとしたら」というムイシュキン自身のことに関する概言のムードだ。これはあからさまに(ムイシュキンとは別人の)語り手がムイシュキンを外部から眺めて推測していることのメルクマールではある。とはいえ注意すべきは、ここで語り手が推測しているのはムイシュキンの内面の変化についてであることだ。だからさらに考える必要がある。この第二段落全体の流れとしては、ムイシュキンの自意識にとっては未知の「新しい衝動」「(彼につきまとって悩ませていた)何ものか」「何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体」があたかも「ふいに」つまり不意打ちに彼を襲って彼を動揺へ巻き込んでいくといったものになっている。それは、彼の自意識ではなく無意識に照準を合わせて観察・報告する尾行者だからこそ物語得た主人公の心理の変化だと言えるけれど、まさにそれが無意識上の変化であるがゆえに、もともとムイシュキンの自意識に入って来られるものではない領域での変化がゆえに、ムイシュキン自身にとっても自分が「思い出し」たり「思いおこし」たりしていることが確かなこととして断定できない状態に陥ってしまっている。現に、ここで彼は、いまのいままで自分が「すこしも気づかないで」(=無意識に)「ある仕事」に没頭していたことをようやくはっきり意識するのだが、それがいつからのことなのかは、断定できないのだ。したがって、ここで語り手があくまで他人事のようにムイシュキンの内面を語らざるを得ないのは、ムイシュキン自身にとっても自分(の無意識)が他者のように感じられていることからの必然の帰結なのかもしれないということ。
「その登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相は、自分自身にとってさえ自分が他者のように感じられるという主人公の「分裂」をリアルに描くため要請された小説的技法であるか。この尾行者が超能力によって見通しているのは主人公の心理のすべてではなくて、彼の自意識と無意識が引き起こす分裂の軋みをこそ特に見ているのか。そしてその無意識というのはしばしば、「彼が考えたがっていたかもしれぬあの幻想ではなく現実の世界」──すなわち、「現実」そのものである。
小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか?
●『罪と罰』上185-188頁
第二部第二章
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彼は石の上にかがみこむと、石の上部に両手をかけてしっかりとつかみ、身体中の力をふりしぼって、石をひっくりかえした。石の下には小さなくぼみができていた。彼はすぐにポケットの中のものを全部そこへおとしこみはじめた。財布がいちばん上になったが、それでもまだくぼみはいっぱいにはならなかった。それから彼はまた石に手をかけると、ひところがしで元のところへ押したおした。石はほんの心持ち高くなったようだが、いいぐあいに元の場所におさまった。彼は土を足でかきよせて、石のまわりを踏みかためた。跡はぜんぜんわからなくなった。
そこで彼は門を出て、広場のほうへ歩きだした。またしても、さっき署で経験したように、がまんできないほどのはげしい喜びが、一瞬彼をとらえた。《証拠はいん滅した! この石の下をさがそうなんて、まさか誰も思いつくまい! あの石は、おそらく、あの家を建てたときからあそこにあったにちがいない、まあこれからもそれくらいの年月はあのままになっているだろう。よしんば見つかったところで、誰がおれを怪しもう? すべては終った! 証拠がない!》そこで彼はにやりと笑った。そう、彼はあとで思い出したのだが、それはひくひくひきつったような、小きざみな、音もない長い笑いだった。彼は広場を通りすぎる間、のべつ笑いつづけていた。ところが一昨日あの少女に出会ったK並木通りに入ると、彼の笑いはさっと消えた。別の考えが彼の頭にしのびこんできたのである。あのとき、少女が立ち去ってから、坐りこんで、あれやこれやもの思いにふけったベンチのそばを通るのが、急にむかむかするほどいやなことに思われた、そしてあのとき二十コペイカ銀貨をやったあのひげの巡査にまた会うのも、たまらなくつらい気がした。《あんなやつ、くたばっちまえ!》
彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、歩いていた。彼のすべての思考がいまはある重大な一点のまわりをまわっていた、──そして彼は自分でも、それがたしかに重大な点であり、そしていま、ほかならぬいま、その重大な一点とまともに直面したことを感じていた、──しかもそれはこの二ヵ月来はじめてのことでさえあった。
《何もかも、だめになっちまえ!》彼は不意に限りない憎悪の発作にかられて考えた。《ふん、できたことは、できたことだ、あんな婆ぁや新生活なんか、勝手にしやがれだ! ああ、これはなんと愚かしいことだ!……おれは今日、どれほど嘘をついたり、卑劣なまねをしたことか! さっきはあの犬畜生にもおとるイリヤ・ペトローヴィチにこびたり、へつらったり、なんという恥知らずだ! だが、しかし、それもさわぐほどのことはないさ! あんなやつらはどいつもこいつも、唾をはきかけてやりゃいいんだ。おれがこびたり、へつらったりしたことだって、そうさ。けたくそ悪い! そんなことじゃない! ぜんぜんそんなことじゃないんだ!……》
彼は不意に、立ちどまった。新しい、まったく思いがけぬ、きわめて単純な一つの疑問が、一時に、彼を惑乱させ、苦しいほどの驚愕につきおとしたのである。
《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、意識的になされたとしたら、実際に一つの定められた確固たる目的があったとしたら、いったいどうしていままでおまえは財布の中をのぞいても見なかったのだ、何を手に入れたか知ろうともしないのだ? なんのためにすべての苦しみを引き受けて、わざわざあんな卑劣な、けがらわしい、恥ずかしい真似をしたのだ? そうだ、おまえはついいましたがあれを、あの財布を、やはりまだ見ていないほかの品々といっしょに川へ捨てようとしたのではなかったか……それはいったいどういうことだ?》
そうだ、そのとおりだ。すべてそのとおりだ。しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない。しかも昨夜川に捨てようと決めたときは、なんのためらいもひっかかりも感じなかった、そうするのが当然で、ほかに方法があり得ないような気がしたのだった……そうだ、彼はそんなことはすっかり承知していたし、すっかり理解していたのだ。しかもそうきめたのは、おそらく昨日はあそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ……たしかにそうだ!……
《これはおれが重い病気にかかっているせいだ》結局彼は暗い気持でそう決めた。《おれは自分で自分をおびやかし、苦しめながら、自分のしていることが、わからないのだ……昨日も、一昨日も、このところずうっと自分を苦しめつづけてきた、──病気が直ったら……自分を苦しめることもなくなるだろう……だが、すっかりは直りきらないとしたら、どうだろう? ああ! こんなことはもうつくづくいやだ!……》彼は足をとめずに歩きつづけた。彼はなんとかして気を晴らそうとあせったが、どうしたらいいのか、何から手をつけたらいいのか、自分でもわからなかった。ある一つの、抑えることのできない感覚が彼をとらえて、刻一刻ますます強くなっていった。それは目に見えるまわりのいっさいのものに対する限りない、ほとんど生理的といえる嫌悪感のようなもので、かたくなで、毒々しく、憎悪にみしていた。行き会う人々がことごとくいやだった、──顔も、歩く格好も、動作も、何もかも虫酸がはしった。もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はものも言わずに唾をはきかけるか、もしかしたらかみついたかもしれぬ……
語り手はどのように登場人物を描き出すべきか。この引用部にドストエフスキーの独創性はほぼ出揃っていると言っていい。
簡潔に言うと「その登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相こそドストエフスキーの文体の精髄だと思う。引用部の叙述のすべてを支配しているのは、ラスコーリ二コフの内面まで見通すことができるが、あくまでラスコーリニコフとは別の匿名の観察者=尾行者として存在する語り手のポジションだ。詳しく見て行こう。
まずは「そこで彼はにやりと笑った。そう、彼はあとで思い出したのだが、それはひくひくひきつったような、小きざみな、音もない長い笑いだった。」の一節。ここでラスコーリニコフの自意識においては自分はにやにや笑ったということしか意識されていない。ところがその笑いは、匿名の観察者=尾行者からすればひくひくひきつった笑いとして描写されるものなのだ。このラスコーリニコフ自身の自意識に映っているものと実際の表情描写との分裂を描くために、一工夫して「彼はあとで思い出したのだが……」という回顧的な距離感を導入しているが、これは単に尾行者の視点を加えるための文体的詐術と考えていい。
このようなラスコーリニコフ自身の自意識⇔観察者・尾行者の視点という二つの側面の分裂を持ち込むことによって可能になるのは、無意識によって翻弄される主人公というプロット展開である。実際、この引用部の一連の情景でラスコーリニコフがやっていることは歩いたりちょっと立ち止まったりしているだけだ。しかしラスコーリニコフが意図したことではないが、つまり事故として彼の無意識からさまざまな「別の考え」が浮び上がってはぶつかってきて、ついに或る重大な一点が引力を増して彼の思考力をすべて引き付けてしまう、そしてまた事故的に(「不意に、新しい、まったく思いがけぬ……」)それからの連想である一つの疑問が浮かび、それが彼を苦しいほどの驚愕に突き落とす、そこから立ち直ることができず、根拠不明の「抑えることのできない感覚」「目に見えるまわりのいっさいのものに対する限りない、ほとんど生理的といえる嫌悪感」に強制的に彼の意識が支配されてしまう、……というドラマこそがこの引用部の肝である。このドラマを描き切るために内面を見通す観察者・尾行者の位相が要求されたわけだ。単なる神の視点からでも客観的視点からでもこんなダイナミズムは描けない。
観察者・尾行者? そう、この引用部でラスコーリニコフ自身の内語はどんどん激しくなっていくが、語り手(地の文)はつねに沈着で冷静にラスコーリ二コフの状態を観察しつづけていることに注目せよ。例えば「彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、……」といった「……したように」の概言は明らかにラスコーリニコフとは別の観察者からの視点を表しているし、この観察者=尾行者は、わざわざ「しかもそれはこの二ヵ月来はじめてのことでさえあった」と時間幅を過去へ広くとった文脈にまで言及して──時間的な前後関係も正確に把握した上で──丁寧に説明してくれるのである。或いは「もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はものも言わずに唾をはきかけるか、もしかしたらかみついたかもしれぬ」と想像的仮定をして観察対象の心理状況を敷衍してくれたりもする。随分と有能な報告者ではないか。引用部でのラスコーリニコフは《ふん、できたことは、できたことだ、……》《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、……》と長い内語を連発していて、しかもそのどれもが「不意に」発作的に湧き出てきたもので内容に繋がりがないどころか方向性がバラバラなのだが、それが綺麗につながって読めるのは、彼の無意識の蠢きが自意識にどのように作用してくるかを逐一観察している冷静な超能力者=尾行者=語り手がいるからにほかならない(この手法は、同じように内語において饒舌な主人公を扱うルバテ、セリーヌには見られないもの)。
それだけではない。「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の信じられないような独創性が発揮されるのは、第七段落目の地の文だ。すべてを再引用しよう。「そうだ、そのとおりだ。すべてそのとおりだ。しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない。しかも昨夜川に捨てようと決めたときは、なんのためらいもひっかかりも感じなかった、そうするのが当然で、ほかに方法があり得ないような気がしたのだった……そうだ、彼はそんなことはすっかり承知していたし、すっかり理解していたのだ。しかもそうきめたのは、おそらく昨日はあそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ……たしかにそうだ!……」──これは一体何か。一見すると、その直前にあるラスコーリニコフの内語に似たような言い回しが出てくるので(《そうだ、おまえはついいましがたあれを……》)ラスコーリニコフの内語がそのまま地の文に体験話法的に流し込まれたもののように感じられる。だが果してそれだけだろうか。「無意識に照準を合わせた」ドストエフスキーの語り手の性格から判断するに、この地の文は、ラスコーリニコフの自意識の思惟をそのまま追ったものではなく、むしろラスコーリニコフが自分に「言語化して」言ってきかせた思考ではないが、無意識が瞬時に処理してしまった「たしかにそうだ!」に至る思考のプロセスを敢えて地の文で展開してみせたということではないか。それゆえにこの第七段落は、ラスコーリニコフの肉声そのままと考えると若干違和を感じさせる「しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない」といったくだくだしい論理的な文や、「しかもそうきめたのは、おそらくは昨日あそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ」という思弁的推論の文が組み込まれているのではないか。すなわち匿名の観察者による沈着で冷静なアクセントが!
地の文で登場人物の無意識の思考のプロセスを観察し言語化して展開する? 前代未聞。ドストエフスキーの語り手=観察者=尾行者、ヤバすぎる。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
ところで、「彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、歩いていた。」という文章の中の「放心」について。放心状態とは生活者の注意からはかえって漏れ落ちる兆候的現象に「不意打ち」されやすい状態だと言える。つまりは自意識の外部から侵入してくる何ものかに対する無防備を表わす。ラスコーリニコフやムイシュキンがたびたび放心状態に陥るのは、プロット上の必然と言っていい。
●『罪と罰』下141-144頁
第四部第六章
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「へ、へ! 頭が鋭いですからな、炯眼というやつですな。なんでも気がつく! ほんとの軽妙な知恵ってやつですな! そしてもっとも滑稽な弦をちょいとつまむ……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリだそうですな、この天分が最高に恵まれていたのは?」
「そう、ゴーゴリです」
「そうです、ゴーゴリですよ……じゃ、いずれまた」
「じゃまた……」
ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった。彼はすっかり頭がもつれ、混乱していたので、家へかえると、すぐにソファの上に身を投げて、息を休め、すこしでも考えをまとめようとつとめながら、そのまま十五分ほどじっとしていた。ニコライのことは考える気になれなかった。彼は敗北を感じていた。ニコライの自白の中には、説明のできないおどろくべき何ものか、いまの彼にはどうしても理解できない何ものかがあった。しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった。この事実の結果は彼にはすぐにわかった。嘘がばれないはずがない、そうなればまた彼の追求がはじまるにちがいない。しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、どうしても何か保身の策をしなければならぬ。どうせ危険はさけられぬからだ。
しかし、それはどの程度だろう? 事態ははっきりしだした。先ほどのポルフィーリイとの一幕を、ざっと、荒筋だけ思いかえしてみただけで、彼はおそろしさのあまり改めてぞっとしないではいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目的の全貌は知らなかったし、先ほどの彼の計算をすっかり見きわめることはできなかった。しかし作戦の一部は明らかにされた。そしてポルフィーリイの作戦におけるこの《詰め》が彼にとってどれほどおそろしいものであったかは、もちろん、誰よりも彼がいちばんよく理解できた。もうちょっとで、彼はもう完全に、実際に、本音をはいていたかもしれぬ。彼の性格の病的な弱点を知っていて、しかも一目で彼の人間を見ぬき、確実にとらえて、ポルフィーリイはあまり意気ごみすぎたきらいはあるが、しかしほぼ正確に行動した。ラスコーリニコフは先ほど自分の身をかなり危うくしたことは、たしかだが、それでもまだ証拠をにぎられるまでにはいかなかった。いずれもまだ相対的なものにすぎない。しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか? 何か見おとしてはいないか? 今日のポルフィーリイはいったいどのような結果に導いていこうとしたのだろう? 実際に彼には何か準備があったのか? とすれば、それは何か? ほんとに彼は何かを待っていたのだろうか、それともただそう思われただけか? ニコライによって思いがけぬ幕切れが来なかったら、今日はいったいどんな別れ方をしていたろう?
ポルフィーリイは手のうちをほとんどすべて見せてしまった。もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた、そして実際にもっと何かにぎっていたら、それも見せてくれたにちがいない(ラスコーリニコフはそんな気がしてならなかった)。あの《思いがけぬ贈りもの》とは何だろう? ただからかっただけだろうか? それとも何か意味があったのか? あのほのめかしのかげには、何か証拠のようなもの、有力なきめ手のようなものがかくされていたのではあるまいか? 昨日の男か? あいつはどこへ消えてしまったのだろう? 今日はどこにいたのだろう? たしかに、ポルフィーリイが何か有力な手がかりをにぎっているとすれば、それはきっと、昨日のあの男が一枚かんでいるにちがいない……
彼はうなだれ、膝に肘をつき、両手で顔をおおったまま、じっとソファに坐っていた。神経質そうな小刻みなふるえがまだ彼の全身につづいていた。とうとう、彼は立ちあがると、帽子をつかみ、ちょっと考えてから、戸口のほうへ歩きだした。
彼はどういうわけか、少なくとも今日だけはまず危険がないと考えてよさそうだ、という予感がした。不意に彼は心の中にほとんど喜びといえるような感情をおぼえた。彼は早くカテリーナ・イワーノヴナのところへ行きたくなった。葬式には、むろん、もうおくれたが、法事には間に合うだろう。そしてそこで、もうじき、ソーニャに会える。
彼は立ちどまって、ちょっと考えた。病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた。
「今日だ! 今日だ!」と彼はひそかにくりかえした。「そうだ、今日こそ! ぜったいに……」
まずは最初の方、現前的な会話から一切の過程を圧縮して「ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった」で場面を飛躍させるのは巧い。そしてこのスピードに乗って、以降は非現前とも現前ともつかない不思議に迫力のある文体へと移り変わって行く。
これは一見ディエゲーシスのように見えるが、「彼」という三人称を用いつつもほとんどラスコーリニコフの内語を地の文で再構成しているような文体となっている。
なぜそのように言えるかというと、「しかし、それはどの程度だろう?」「しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか?」──これらの文に明らかなように、上記の引用部中頻出する逆接の接続詞「しかし」は、大体「しかし……ではなかろうか」という形で前文までの内容を疑念にさらすないしは詳細化を求める疑問形とセットになった「しかし」になっているからだ。「しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった」は要するに「しかしニコライの自白はまちがいのない事実だったではないか?」という疑問形にして読んでも同じことだし、或いは「しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、……」は要するに「しかし少なくともそれまでは彼は自由ではないか。ならば……」という疑問形で読んでも同じことなわけだ。このように疑問形とセットになって前文の内容を問い直すタイプの接続詞「しかし」の頻出は、当然、この地の文がラスコーリニコフの思考過程に擬態しているからこその現象だろう(ただしそれ以外の用法の接続詞「しかし」もあるのでそこは注意。「もちろん、彼は……することはできなかった。しかし……は明らかにされた」「もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた、……」──これらの文における「しかし」は直前の平叙文とセットになって、段落全体の流れを切り替えるというより部分否定の役割を果たす逆接である。「もちろん……(ではあるが)しかし……」というパターンはほとんどこの形の逆接。いずれにせよ、これも具体的な内省を記述していくためには必須のスタイルだと考えてよいだろう)。言わば、思考過程擬態のディエゲーシス? まあ、地の文における疑問詞頻出の「体験話法」的な言語使用とも言ってもよいわけだが。
内容に目を向けるなら、ここで展開されている思考がきわめて具体的であることが重要だ。しかも、描写休止法のようにたっぷりと(無時間的に?)息長く論理的に展開していく。先程のポルフィーリの謎めいた態度に侵襲されて、その全貌が明らかになっていない小説のこの現時点でラスコーリニコフが抱かざるをえない疑問・解釈・危険性の計算・推理・今後の予測……すべてをあますことなく含んでいる。つまり彼は手に負えない現実に強制されるように思考する。それを素早く高密度で写し取るために、語り手による思考過程擬態のディエゲーシスなんてものが必要とされたのだろうか。
ところで言うまでもなく、このディエゲーシスは「彼はうなだれ、膝に肘をつき、……」の段落で終わっている。だが、語り手の位相はそれほど変化していないと考えるべきだろう。思考過程擬態のディエゲーシスはあくまでラスコーリニコフの内的独白として虚構されているのではなく、彼とは別の語り手が駆使するエクリチュールである。「彼はうなだれ、膝に肘をつき、……」以降の段落でも、ラスコーリニコフとは別でありながら、しかし彼の内面や無意識まで見通すことのできる(例えば「病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた」ことは彼の能動的自意識に映った自分の姿ではあり得ず、彼の自覚しない彼の姿を観察する視点からでしか描写できない。ラスコーリニコフの中に沸き起こる「不意」の感情に照準を合わせていることについても同様のことが言える)匿名の尾行者のような語り手が報告しているというエクリチュールであって、その叙法に本質的な変化はない。
●『罪と罰』上136-137頁
第一部第七章
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彼はひどくあわてて、いきなり鍵束をつかむと、またせかせかとひねくりまわしはじめたが、どういうわけかどれもうまくいかない、どれも鍵穴に合わないのだ。手がそれほどふるえていたというわけではないが、彼はさっきからまちがいをおかしていた。というのは、この鍵はちがう、合いっこないと知りながら、さしこもうさしこもうとしていたのだ。そうこうするうちに不意に、彼は、他の小さな鍵にまじってぶらぶらゆれている、ギザギザのついたこの大きな鍵は、きっとタンスの鍵ではなく(これはこのまえのときも頭にうかんだことだが)、長持のようなものの鍵にちがいない、その長持の中にこそいろんなものがかくされているはずだ、と気がついた。彼はタンスをすてて、すぐに寝台の下をのぞきこんだ。年寄りというものはたいてい長持を寝台の下においておくことを、知っていたからだ。思ったおりだった。りっぱなトランクがでてきた。長さが一メートル近くもあって、蓋がまるくもりあがり、赤いモロッコ皮がはられて、鉄鋲がうってあった。ギザギザの鍵がぴったり合って、蓋があいた。上からかぶせてある白いシーツをめくると、赤い絹裏のついた兎の毛皮外套があった。その下には絹の衣装、それからショール、さらにその下は底までこまごました衣類ばかりらしかった。彼は先ず赤い絹裏で血によごれた手をふきにかかった。《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい》──彼はこんなことを考えたが、不意にわれにかえった。《おれは何を考えているのだ! 気が狂うのではあるまいか?》──彼はぞうッとしながら考えた。
とりあえず最後の部分に注目しよう。ここでのラスコーリニコフの内語を地の文を省略してそのまま繋げてしまうと、当然意味をなさなくなる。《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい。おれは気が狂うのではあるまいか?》──意味不明。何故そうなってしまうかと言えば、この二つの内語の間にはラスコーリニコフが「不意にわれにかえった」という無意識の衝き上げによる自意識の刷新という契機が存在し、途中で完全に彼の自意識が動揺して反転してしまっているからだ。その感覚は刷新前の以前の自分(の自意識)を異常なものと思う、「ぞうッ」という直感として描写されてもいる。
何が言いたいかというと、ドストエフスキーの主人公の内語=自意識というのはほとんどの場合安定して一貫して延長していくということができず、必ずどこかで無意識の衝き上げをくらって方向転換してしまうという、ジグザグの運動をせざるを得ないということ。それは主にドストエフスキーの語り手が「主人公の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の位相をとるが故のリアリティの在処と、相即する。
そして思うに、このジグザグの運動性は内語だけでなくドストエフスキーの作中人物の「科白」「発話」一般についても言えることではないか。ドストエフスキーのリアリズムからすれば、自意識とぴったり一致したまま続いていく科白は却ってリアリティがない。無意識の衝き上げによって中断・屈曲を孕む科白こそが真実というわけだ。ラズミーヒンやイヴォルギン将軍をこの観点から分析してみても面白い。
余談。もう一点注目すべきは、「長さが一メートル近くもあって、蓋がまるくもりあがり、赤いモロッコ皮がはられて、鉄鋲がうってあった。」──このトランクの描写。よく考えると、ここでのラスコーリニコフの切迫した精神状態からして、こんなに細かくトランクの特徴をはっきり掴むことができるだろうか。いや、掴んだとしても、それは無意識で一瞬のうちに処理されたと考えるべきではないか。この考えに、「主人公の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」としての語り手の位相をクロスさせると、次のようなアイディアがさらに生まれてくる。
・描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。説明的ディエゲーシスの中での描写(主人公の住居について等)もそうである。
・通常の小説は描写にせよディエゲーシスにせよ無理矢理登場人物の自意識・認識に一致させて語ろうとしているので、不自然になる=ドストエフスキーからするとリアリティを欠くのである。
どうであろうか。要するに、一般的に言って「描写」とは主人公の自意識に属さないものなのではないか。つまり登場人物の無意識によって一瞬で処理されるか、或いは観察者=尾行者によって報告される彼の自意識と無意識の分裂、それこそが「描写」なのか。
●『罪と罰』上474-475頁
第三部第六章
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ラスコーリニコフが自分の家まで来たとき、──こめかみは汗でぬれ、息づかいも苦しそうだった。彼は急いで階段をのぼると、鍵をかけてない自分の部屋に入り、すぐに内側から掛金をおろした。それから、ぎくっとして、気でもちがったように、あのとき盗品をかくした片隅の壁紙の穴のところへかけよると、いきなりその穴へ手をつっこんで、ややしばらく入念にすみずみまでさぐりまわし、壁紙のしわや折れ目までしらべた。何もないことをたしかめると、彼は立ちあがって、ほうッと深く息をついた。さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙間にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。
彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇の上をさまよっていた。やがて、彼は帽子をつかんで、しずかに部屋をでた。頭の中はいろんな考えがもつれあっていた。考えこんだまま彼は門の下へ入っていった。
「おや、ほらあのひとですよ!」と甲高い声が叫んだ。彼は顔をあげた。
「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相から、主人公の心理をいかに描写できるかを示す一例。
基本的に引用部の一連のラスコーリコフの行動と心情は「さっき……ふと気になった」ことに由来しているということ、すなわち意志的というよりは無意志的に発動したものだということを抑えよう。だからこそここでラスコーリニコフの「不安」に膚接してそれを追っていても、一人称的ではなくて外的な距離感を語り手は保っているのだ(ラスコーリニコフへの焦点化が強い一人称的な文体だと、無意志的な心理の契機を充分に把捉できないため)。この外部からの記述は、第二段落でのおそらくは彼自身意識しないままに表れ出ているおぼろな表情の描写においてその面目を最大限発揮する。「彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇の上をさまよっていた。」──この表情は彼の無意志的な行動と心情に合致したものにほかならない。
もちろんこの語り手は外部にいながらラスコーリニコフの内面を完全に見透かしている。「さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。」──この説明自体がすでに語り手によるラスコーリニコフの心理の透明化だが、さらにそれにつづく体験話法的なラスコーリニコフの「もつれあった考え」の地の文での言語化もまた、ドストエフスキーに特有の語り手からの主人公の心理の敷衍である。「何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙間にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。」あたかも語り手が疑問形を用いて自問自答しているかのようではないか。
この引用部には色々基本的な技術が詰まっている。
●『カラマゾフの兄弟』2巻242-245頁
第五篇第七章
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もうかなり遅かったが、イワンはまだ眠らずに物思いにふけっていた。その夜、彼が床についたのは大そう遅く、二時すぎだった。しかし、筆者はここで彼の思考の流れを伝えるのはやめておこう。それに今はまだ彼の心の内部へ立ち入るべき時ではない。やがてそうする時期が来るはずである。第一、いまそれを伝えようと試みたところで、そうするのは容易ではない。なぜならば、それがまだ思想ではなくて、何か非常な漠然たるものであり、──何よりも、度はずれに興奮したものであるからだ。彼自身、自分が冷静を失っているのを感じていた。そのうえ奇妙な、ほとんどまったく意外なさまざまな欲望が彼を苦しめていた。例えば、もう真夜中すぎだというのに、とつぜん階下へおりて行って戸を開け、別棟に飛び込んで行ってスメルジャコーフをぶちのめしてやりたい気持がむらむらと沸き起こるである。そのくせ、何のためにと聞かれても、あの下男が憎らしくてたまらないのだ、あれはこの世にふたりといない無礼千万な男だという以外には、いかなる正確な理由も述べられなかっただろう。一方この夜の彼は、ある正体不明の屈辱的な臆病風に一度ならず胆をひやされ、そのために突然、肉体的な力まで失ったかのような感じがしていた。頭がずきずき痛んで、目まいがしていた。まるでこれから復讐でもしに行くように、憎悪に胸をしめつけられていた。さっきの会話を思い出すとアリョーシャまでが憎らしくなり、時々は自分さえも憎悪した。カチェリーナのことは、考えることさえ忘れていた。このことは後に思い出して非常にふしぎな気がしたが、それはきのうの朝カチェリーナの家で明日モスクワへ発つと大見栄を切った時、心のなかで『嘘つけ、行くものか。いま大口をたたいているようにそう簡単には別れられまい』と自分にささやいたのをはっきり覚えていたからである。ずっと後になってその夜のことを思い出すたびに、イワンは自分が何度か突然ソファから立ちあがって、人に見られるのをひどく恐れるようにこっそりとドアを開けて階段の上に出たのと、とくに激しい嫌悪を感じながら思い起こした。階段へ出ると、彼は階下の部屋で父親が身動きしたり歩きまわったりする物音に耳をすましていた。それもかなり長いあいだ、五分ほどもある奇妙な好奇心にかられて、息を殺し胸をどきどきさせながら耳をすましていたのだが、何のためにそんなことをしたのか、何のために耳をすましていたのかはもちろん自分にもわからなかった。この《行為》を彼はその後、一生のあいだ《醜い行為》と呼び、一生涯心の奥底で、魂の秘密の部分で、わが生涯の最も卑劣な行為と考えていた。父のフョードルその人に対しては、その瞬間、彼は何らの憎悪もおぼえず、ただなぜか激しい好奇心を抱きながら、父がどんな姿で階下を歩いているのか、いま父が何か居間でするとしたら何だろうか、どんな顔をして暗い窓の外をのぞき、また急に部屋の真ん中で立ち止まって、どんな様子でノックの音を今か今かと待ち受けているだろうかなどと、いろいろ推測したり想像したりしたものである。イワンはそんなことをするために二度ほど階段の上へ出た。ようやく二時すぎになって家の中が静まり、フョードルが床についた時、イワンは恐ろしい疲労を感じていたので、一刻も早く眠りたいと思いながら横になった。そうして実際、彼はたちまち深い眠りに落ち、夢も見ずにぐっすり眠ったが、翌朝は朝早く七時ごろに目をさました。あたりはもう明るくなっていた。目を開けると、驚いたことに彼はとつぜん何か異常なエネルギーが体内にみなぎっているのを感じ、急いで飛び起きると手早く服を着替え、それからトランクを引っぱり出してさっそく荷作りをはじめた。下着類は折よくきのうの朝、ぜんぶ洗濯屋から届いたばかりだった。万事がこんなふうに都合よく運んで、突然の出発に何ひとつ支障がないことを考えると、イワンは思わずにやりと微笑まで浮かべた。彼の出発はほんとうに突然だった。なるほどイワンはきのう(カチェリーナと、アリョーシャと、それからスメルジャコーフに)あした立つとは言ったものの、しかしゆうべ床につく時には、自分がその瞬間、出発のことなど考えもしなかったのをはっきりと覚えていた。少なくともあくる朝目をさまして、真っ先に荷造りに取りかかろうとは夢にも思わなかったのである。やがてトランクと旅行袋の用意ができた。九時前になると、マルファが二階へあがって来て、「お茶はどちらで召しあがりなさいます、こちらでございますか、それとも階下で?」という毎朝のおうかがいを立てた。イワンは階下へ下りた。言葉にも身ぶりにも何かそわそわとせわしげなところがあったけれども、顔つきはほとんど楽しげだった。父親に愛想よく挨拶をして、ことさら体の具合までたずねると、彼は相手の返事が終わるのも待たずに、一時間たったらモスクワへ出発して二度と帰らないつもりだから、馬車を呼びにやってもらいたいと一気に宣言した。老人はいささかも驚いた様子も見せずにその言葉を聞き、あきれたことに息子の出発を悲しむ気配も見せなかった。それどころか、折よく自分のある緊急な用事を思い出して、とつぜん大あわてにあわてはじめた。
奇妙な記述の仕方。「しかし、筆者はここで彼の思考の流れを伝えるのはやめておこう」という文にも見られるように、語り手は登場人物イワンに過度に接近することなく距離を保つことが宣言される。実際、この段落でイワンの内語が登場することはなく、彼自身でも理由の分からない=無意識の行為に描写が集中している(「息を殺し胸をどきどきさせながら耳をすましていたのだが、何のためにそんなことをしたのか、何のために耳をすましていたのかはもちろん自分にもわからなかった」「イワンは思わずにやりと微笑まで浮かべた」「言葉にも身ぶりにも何かそわそわとせわしげなところがあったけれども、顔つきはほとんど楽しげだった」)ため、イワンそのものが謎めいた対象と化している。
しかし語り手は単に外側から延々とイワンを観察して描写しているわけではない。イワンの心理的死角にある本当の核心だけには触れずに、イワンの外側からやはり「心の内部へ」も或る程度立ち入った叙述を行っている。「まったく意外なさまざまな欲望が彼を苦しめていた。例えば……」「この夜の彼は、ある正体不明の屈辱的な臆病風に一度ならず胆をひやされ、……」「憎悪に胸をしめつけられていた」「アリョーシャまでが憎らしくなり、時々は自分さえも憎悪した」。その中では「……と聞かれても……述べられなかっただろう」と語り手が勝手に想像的仮定をしてイワンの心理状態を忖度する記述さえも現われる。さらにはこの場面より以前のところでイワンが自分自身にささやいた内語の記憶さえ呼び出されている(「このことは後に思い出して非常にふしぎな気がしたが、それはきのうの朝カチェリーナの家で明日モスクワへ発つと大見栄を切った時、心のなかで『嘘つけ、行くものか。いま大口をたたいているようにそう簡単には別れられまい』と自分にささやいたのをはっきり覚えていたからである」)。ここまで──イワンが「非常にふしぎな気がした」理由まで──描き出せる語り手の位相というのは単に外的焦点化の技法にはおさまらない特異性をもっている。
もっと注目すべきは、やはり時間の経過をある程度追っているとはいえ時間幅の広い記述になっている点、そしてそれが括復法的な記述や習慣的記述によって達成されているのではなく、「ずっと後になってその夜のことを思い出すたびに……したのを、とくに激しい嫌悪を感じながら思い起こした」「この《行為》を彼はその後、一生のあいだ《醜い行為》と呼び、一生涯心の奥底で、魂の秘密の部分で、わが生涯の最も卑劣な行為と考えていた」と未来時点からの回想による二重化に拠っている点だろうか。これはこの場面のイワンの振る舞いが後々決定的な意味を持つからこその二重化だろう。さらに言えば、この決定的な意味が後になって明かされるということは、ここでは触れられずにいるイワンの無意識の核心が後には明かされるだろうということと等値だ。イワンが無意識にどきどきしたりそわそわしたりすることも含め、隅々まで非常に周到に企まれているわけだ。
余談。イワンがソファに寝ている、イワンの寝室が二階にある、ドアを開けると階段の上、という空間設計はわりと重要。
●『罪と罰』上284-287頁
第二部第六章
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ラスコーリニコフはむっとしたような顔になった。
「わかる! そんなら捕えたらいいだろう、行きたまえ、さあ!」と彼は声を荒くして、意地わるくザミョートフをせきたてた。
「なあに、捕えますよ」
「誰が? あなたが? あなたが捕えるって? せいぜいやってみることですな! まあ、あなた方の最大のねらいは、金づかいが荒いとかどうだとか、そんなとこだ。いままで金のなかった男が、急に金をつかいだす、──きっとあいつにちがいない? そんなことだからあなた方は、つまらん子供にでもてもなく欺されるんだよ!」
「ところが、やつらはみなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「うまいこと殺して、危ない橋をわたるが、そのあとですぐに居酒屋にはまりこむ。金づかいがもとで捕まる。誰もがあなたみたいに利口とはかぎりませんからねえ。あなたなら、むろん、居酒屋へなんかはいかないでしょうがね?」
ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見すえた。
「どうやら、食指をうごかしてきたようですな。ぼくならその場合どういう行動をとるか、知りたいのでしょう」と彼は不興げに尋ねた。
「知りたいですね」ザミョートフはきっぱりと真顔で答えた。そのしゃべり方や見る目になんとなく真剣すぎるほどの力がこもっていた。
「ひじょうに?」
「ひじょうに」
「よし。ぼくならこうしますね」とラスコーリニコフは、また急に顔をザミョートフの顔に近づけ、またじっと相手の目を見すえて、またさっきのように声を殺して囁きはじめた。今度はさすがにザミョートフもぎくっとした。
「ぼくならこうしますね、金と品物をとって、そこを出たら、すぐにその足で、どこへも寄らずに、どこかさびしい場所、塀があるばかりで、ほとんど人影のない、──野菜畑か何か、そうした場所へ行きます。あらかじめそこへ行って、その庭の中に重さ一ポンドか一ポンド半くらいの手頃な石を見つけておくんです。どっか隅のほうの塀際あたりに、家を建てたのこりの石が一つくらい、きっとありますよ。その石を持ち上げると──下はおそらくくぼんでいる、──そのくぼみに盗んできた品物と金をすっかり入れる。入れたら、また石を元どおりにして、足で踏みかためて、すばやくそこを立ち去る。こうして一年か二年、あるいは三年くらいそのままにしておくのです、──さあどうです、さがしてごらんなさい! まず迷宮入りでしょうな!」
「あなたは気ちがいだ」なぜかザミョートフも声をひそめてこう言うと、どうしてか不意にラスコーリニコフから身をひいた。
ラスコーリニコフの目がギラギラ光りだした。顔色が気味わるいほど蒼くなって、上唇がびくッとうごいて、ひくひく痙攣しはじめた。彼は額をつきあわせるほどにザミョートフの上にかがみこんで、声を出さずに、唇をこまかくふるわせはじめた。そのまま三十秒ほどつづいた。彼は自分のしていることを、知っていたが、自分を抑えることができなかった。恐ろしい一言が、あのときのドアの掛金のように、はげしく彼の唇の上におどった。いまにもとび出しそうだ、いまそれを放したら、いまそれを口にしたら、それでおしまいだ!
「老婆とリザヴェータを殺したのが、ぼくだとしたら、どうだろう?」彼は不意にこう口走って、──はっと気がついた。
ザミョートフは呆気にとられて彼を見たが、とたんに真っ蒼になった。無理な笑いで顔がゆがんだ。
「そんなことありっこないじゃないか?」と彼はやっと聞きとれるほどの声で呟いた。
ラスコーリニコフは敵意ある目でじろりと彼をにらんだ。
「白状しなさい、あなたは信じたでしょう? そうでしょう? そうですね?」
「とんでもない! まえにはともかく、いまはもうぜんぜん信じない!」とザミョートフはあわてて言った。
「ひっかかったね、ついに! 小鳥クンわなにかかるの図か。《まえにはともかく、いまはぜんぜん信じない》か、してみると、まえには信じていたわけですな?」
「そんなこと、ぜんぜんちがうったら!」ザミョートフは明らかに狼狽しながら、叫んだ。「そうか、あなたがぼくをおどかしたのは、ぼくにこう言わせるためだったのですね?」
対話場面。ここではラスコーリニコフとザミョートフとはほとんど敵対関係にあるが、直接的な対立関係として描かないのがドストエフスキーのリアリズムの肝。ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかない。とはいえ引用部で二人が非難・否定しようとしているのは対面の相手の存在そのものではなく、相手が持っている甘い見通しや(「あなたが捕えるって? せいぜいやってみることですな!」)、相手のねらいや(「まあ、あなた方の最大のねらいは、金づかいが荒いとかどうだとか、そんなとこだ」)、相手の偏った意見(「誰もがあなたみたいに利口とはかぎりませんからねえ」)などである。したがってこれらの非難・否定は一旦は相手の考えを受け入れた上でのものだ。《そうした言葉は、あたかも自分の中に他者の応答を取込み吸収しようとして、懸命になってそれらを加工しているかのようだ。》(バフチン)というやつだ。だが、それだけではない。
彼らの発話は何ものかを否定し秘かに抑圧しているという屈曲を孕んでいる。その何ものか=無意識の本音をあえて言語化すれば、ザミョートフ「あなたが犯人だ」、ラスコーリニコフ「そう、俺は犯人だが、それを隠す」というものになるだろう。これが直接表出されて交わってしまえばそこで会話が終わってしまうどころか小説が終わってしまうので、それは回避されるのだが、言うまでもなく自意識と無意識の分裂は彼らの発話や振舞いに影響を与えずにはおかない。とりわけ、ここでは無意識が科白に影響する新しいパターンとして、「挑発=無意識の偽装」が現れていることに注目しよう。例えば「あなたなら、むろん、居酒屋へなんかはいかないでしょうがね?」というザミョートフの挑発。ラスコーリニコフが仮に犯人だったとしたらどう振舞うだろうか?と水を向けているのだが、これは「真犯人のあなたはどう振舞ったんですか」というザミョートフが本音で問いたいことを抑圧=偽装した上での挑発的になった科白だと考えることができる。それに応じたラスコーリニコフの「よし。ぼくならこうしますね……」からの語りも同様で、仮に自分が犯人だったらこうするという話をしているのは、実は「真犯人の俺はこんなにうまくやってやったんだ」という無意識の本音の偽装なのだ。そして偽装であるだけに若干真実とは違っている。ラスコーリニコフは決して「あらかじめ」隠し場所を決めておいて石に目をつけていたわけではなく、すべて行き当たりばったりに決めたに過ぎなかったのだが、「偽装」の話の中では何もかも計画通りにやったように語られている。そうれであればこそより挑発的になるというわけだ。いずれにせよこうした際どい無意識の偽装としての科白は、おおむね挑発的な屈折のニュアンスを孕むものらしい。(ちなみに、地の文の印象的な二人の振舞い・表情描写は、「自意識と無意識の分裂」が彼らの振舞いに影響を与えたことの結果である。「ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見すえた」「ザミョートフはきっぱりと真顔で答えた。そのしゃべり方や見る目になんとなく真剣すぎるほどの力がこもっていた」「今度はさすがにザミョートフもぎくっとした」「なぜかザミョートフも声をひそめてこう言うと、どうしてか不意にラスコーリニコフから身をひいた」「ザミョートフは呆気にとられて彼を見たが、とたんに真っ蒼になった。無理な笑いで顔がゆがんだ」──といった箇所など。ここでは表情や振舞いの方が、彼らの偽装された科白よりも「無意識」の本音に近い。)
周知のようにここでの語り手は「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という位相に立っている。この引用部のもう一つのポイントは、巧く無意識を偽装して挑発的に振舞っていたラスコーリニコフだったが、ついに彼の無意識の衝迫が一瞬その偽装を破って「ふと」「率直な」言葉を漏らしてしまう転回に至る地の文の記述が、素晴らしく精彩であることだ。「ラスコーリニコフの目がギラギラ光りだした。……」の段落のこと。ここで語り手は登場人物の内面まで見通すこともできる外部の視点から、ラスコーリニコフを注視している。彼の顔色が蒼くなったり、唇がひくひく痙攣しはじめたことは、ほとんどラスコーリニコフの意図および自意識と埒外のことで──だからラスコーリニコフにとっては一種無意識の領域で起こっていることの描写と言っていいのだが──語り手でなければ書き留めることができないものだ。そしてこの語り手はここでさらにラスコーリニコフの内面へ、無意識の思考のプロセスに踏み込む。ついには「いまにもとび出しそうだ、いまそれを放したら、いまそれを口にしたら、それでおしまいだ!」と体験話法的なラスコーリニコフのリアルタイムの無意識の思考を、言語化して地の文で掬い取る! この辺りの文体の可変性は凄まじい。こうした無意識に照準を合わせた精彩な記述があるからこそ、直後の彼が「不意に」口走る「俺が犯人だったらどうだろう?」の露骨な無意識の露呈が、つまりずっと分裂していたはずの彼の自意識と無意識の思い掛けない接続が、リアリティを帯びて感じられるのだ。また、これに釣られてザミョートフの方でも一瞬本音を漏らしてしまうという展開の迫真性にも注目。
ところが、このように「科白」の中に何の否定も抑圧も加工も受けずに無意識の本音が露出することは、ドストエフスキーの作品世界にあっては例外中の例外である。本当に無意識が「率直」に出てしまうと、それまでの振舞いとの矛盾が一挙に露呈してしまう! それだから、一瞬本音を露出してしまった彼らは、急いで後からそれを「無かったもの」としてやっきになって否定しなければならない(「そんなこと、ぜんぜんちがうったら!」)。或いはそれもまた本音ではなくて何か別の意図をもった戦略的な虚言であったかのように解釈を上塗りする(「そうか、あなたがぼくをおどかしたのは、ぼくにこう言わせるためだったのですね?」)。否定・非難のみを目的とした饒舌がさらに繁茂するというわけだ。
●『白痴』上508-510頁
第二篇第五章
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ところが、自分の心の中にだいぶ前から生れていながら、しかもいままでまったく自覚せずにいたこの病的な働きに気がつくと、突然もう一つの彼の興味をひく事柄が彼の眼の前にひらめいたのである。彼がたえず身のまわりを見まわして、何ものかを捜し求めている自分に気づいたとき、彼はちょうどある小さな商店の飾り窓に近い歩道に立って、そこに並べられてある品を大きな好奇心をもってながめていたからである。自分がたったいま、わずか五分ばかり前にこの店の窓ぎわに立っていたのは、はたして現実のことであったのか、それともただそんなふうに想われたのではなかろうか。何かと混同してしまったのではなかろうか。実際に、この店とこの品はこの世に存在しているのだろうか? 彼はきょう、とりわけ自分が病的な気分にとらえられているのを感じた。それはかつて彼の病気の激しかったころ、発作がおこるまぎわに経験したのとほとんど同じ気分であった。こうした発作のおこりそうなときは、おそろしくぼんやりしてしまって、よく注意して見ないと、物や人の顔を混同してしまうことさえあるのを、彼は承知していた。しかし、自分がはたしてあのとき、その店の前に立っていたかどうか、突きとめたいとあせったのには、特別な原因があったのである。店の飾り窓に並べてある商品のなかに一つの品物があったのである。彼はその品に眼をとめて、銀六十コペイカと値ぶみまでしたのであった。彼はぼんやりして心が乱れていたにもかかわらず、これだけのことはよく覚えていたのである。したがって、もしこの店が存在していて、この品物が実際にほかの品物といっしょに並べられてあったとすれば、彼はただこの品物のためにのみ、そこへ足をとめたことになる。つまり、この品物は、彼が停車場を出たばかりに重苦しい心の動揺を感じているときでさえ、彼の注意をひきつけたほど強い力を持っていたというわけである。彼は憂愁にかられながら右手のほうをながめながら歩いていったが、心臓はもどかしく不安そうに高鳴っていた。しかし、やがてその商品があらわれ、彼はとうとうそれを発見した! そこへ引きかえしてみようと思いついたとき、彼は五百歩ばかりしか離れていないところにいたのであった。やはり、そこには定価六十コペイカの品物があった。《むろん、六十コペイカくらいのものさ、それ以上の代物じゃない!》彼は心の中でつぶやいて、笑いだした。しかし、その笑いは妙にヒステリカルであった。彼はすっかり重苦しい気分になった。彼はいまこそはっきりと、さきほどこの窓ぎわに立っていたとき、けさ停車場でロゴージンの視線を背中に感じたときのように、急にうしろをふりかえってみたことを、思いだした。彼はそれが思いちがいでなかったことを確かめると(もっとも、その前から確信してはいたのだが)、その商店の前を離れ、急いで立ちさった。こうしたことはすべて、ぜひとも早く考えてみなければならないことである。あの停車場でのこともただぼんやりそんな気がしただけではなく、何かしらしっかりと現実に根ざしたものが、以前から彼を苦しめている不安の念と結びついておこったものだということが、いまや疑う余地のないほど明らかになった。ところが、心の中の耐えがたい嫌悪の情がまた力を増してきて、彼はもう何ひとつ考えたくなくなってしまった。彼はそのことを考えるのはやめて、まったく別な物思いにふけりはじめた。
主人公の現前的な心理の働きを追っている段落。とはいえ当然ドストエフスキー作品の中でのことだから、自意識に内的に閉じたまま展開する主人公の心理が描写されるわけではない。有り体に言うと、描写されているのは主人公の自意識と無意識の拮抗関係である。
ドストエフスキーは主人公の自意識ではなく無意識をも虚構する。無意識は自意識とちがって能動的に操作することは不可能だから、主人公にとってその働きは気づいたり気づかなかったり、覚えていたり覚えていなかったり、思い出したり思い出さなかったりという不随意のものとしてしか触知できない(「しかもいままでまったく自覚せずにいたこの病的な働きに気がつくと……」「彼はぼんやりして心が乱れていたにもかかわらず、これだけのことはよく覚えていたのである」「彼はいまこそはっきりと……してみたことを、思いだした」)。しかも覚えていたり思いだしたりということは実際の知覚や経験の直接性は持たないから、それらに基づいた心理的経験の順序は必ず時系列を混乱させる。引用部でも五分前に自分が知覚したことと、病的な気分に捉えられている「今」が混在し、さらに今朝停車場でロゴージンの視線を感じたことの記憶と「以前から彼を苦しめている不安の念」もそこに連結してきて彼の嫌悪の情を増幅させるというダイナミックな流れになっている。あまりにも多くの過去の感情や記憶や認識が無意識を介してここで交錯して剣呑な影響を主人公に及ぼしているかのようだ。語り手はその様子をあくまで主人公の主観=自意識とは別の位相に立ちつつ観察し説明し考察し推論したりしながら(「それはかつて彼の病気の激しかったころ、発作がおこるまぎわに経験したのとほとんど同じ気分であった。こうした発作のおこりそうなときは、おそろしくぼんやりしてしまって、よく注意して見ないと、物や人の顔を混同してしまうことさえあるのを、彼は承知していた。」「したがって、もしこの店が存在していて、この品物が実際にほかの品物といっしょに並べられてあったとすれば、彼はただこの品物のためにのみ、そこへ足をとめたことになる。つまり、この品物は、彼が停車場を出たばかりに重苦しい心の動揺を感じているときでさえ、彼の注意をひきつけたほど強い力を持っていたというわけである。」「彼は心の中でつぶやいて、笑いだした。しかし、その笑いは妙にヒステリカルであった。」)、描写する。いつものドストエフスキーだ。
●『白痴』上522-526頁
第二篇第五章
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と、女主人がみずから出てきて、ナスターシャ・フィリポヴナはもう朝のうちにパーヴロフスクのダリヤ・アレクセーエヴナのところへお出かけになりましたが、『ことによると四、五日あちらに逗留することになるかもしれません』と答えた。フィリーソワは小柄な、眼の鋭い、顔のとがった、四十歳くらいの婦人で、ずるそうな眼つきをしてじっと相手を見つめた。お名前はという彼女の質問にたいして──彼女はこの質問になんとなく秘密めいたニュアンスを匂わせたので──公爵ははじめのうち返事をしないつもりだった。が、すぐさま思いなおして、自分の名前をちゃんとナスターシャ・フィリポヴナに伝えてくれと、しつこいほど頼みこんだ。フィリーソワはこのしつこい頼みを注意ぶかく、いやに秘密めいた調子で聞いていたが、それはどうやら、『ご心配にはおよびません、ちゃんと承知しております』ということを表わそうとするつもりらしかった。公爵の名前が、明らかに強い感銘を与えたらしかった。公爵はぼんやり相手の顔をながめてから、くるりと背をむけて、ホテルへ引きかえした。しかし、彼が出てきたときの様子は、フィリーソワ家の呼鈴を鳴らしたときとはまったくちがっていた。彼の心の中にはまたもや、一瞬のうちに、並々ならぬ変化がおこったのであった。彼はまたもや蒼ざめて弱々しく、思い悩んで興奮した人のように歩いていった。その膝はがくがくと震え、はっきりしないたよりなげな微笑が、紫色を帯びた唇にただよっていた。彼の《思いがけない考え》は急に事実となって確かめられたのである。そして──彼はまたもや自分の悪魔を信じはじめたのであった。
しかし、それははたして事実となったのであろうか? はたしてその正しさが確かめられたのであろうか? それにしても、この震えは、この冷たい汗は、この心の闇と悪寒は、どうしたというのだ? いまあの眼を見たからだろうか? だが、夏の園からまっすぐやってきたのは、ただあの眼を見ようとしてではなかったか? 彼の《思いがけない考え》というのも、じつはこのことだったのではないか。彼はここで、この家で、まちがいなくあの眼差しが見られるということを決定的に信じたいがために、あの《さきほどの眼》を見たくてたまらなかったのではなかろうか。それが彼の発作的な欲求だったのだ。では、いまさらその眼をほんとうに見たからといって、なぜそんなにびっくりして、うちひしがれているのだろうか? まるで思いもよらなかったことのようではないか! ああ、これこそあれとそっくり同じ眼だ。(これがあれとそっくり同じだったことは、もういまとなってはすこしも疑う余地がない!)けさ彼がニコラエフスキー停車場で汽車をおりたとき、群集のなかでひらめいた眼にちがいない。それからさきほどロゴージンの家で椅子にすわろうとしたとき、肩ごしに視線をとらえたあの眼差しである。(まったくあれとそっくり同じものだ!)あのときロゴージンはそれを否定して、ゆがんだ氷のような薄笑いを浮かべながら、『それはいったい誰の眼だったんだね』とたずねたものである。いや、公爵はついさきほどまでも、アグラーヤのところへ行くつもりで汽車に乗ったときツァールスコエ・セロー鉄道の停車場であの眼を、その日のうちでもう三度目に見つけたとき、彼はロゴージンのそばへ行って、彼に面とむかって『この眼はだれの眼かね』と無性に言ってやりたかった。しかし、彼はそのまま停車場から逃げ出して、例の刃物屋の店先にしばらく立ちどまって、鹿の角の柄のついたナイフを見て、六十コペイカと値ぶみをしたときにはじめてわれに返った。この奇妙な恐るべき悪魔はついにしっかりと彼に取りついて、もはや離れようとはしなかった。この悪魔は彼が夏の園で菩提樹の木陰にすわって、忘我の境をさまよっていたとき、彼の耳にこうささやいたのであった──もしロゴージンがこうして彼のあとをつけていく必要があるとすれば、彼がパーヴロフスクへ行かないと知ったなら(これはロゴージンにとって、運命を決するほどのニュースにちがいない)、ロゴージンはかならずやあすこへ、ペテルブルグ区のあの家へ駆けつけて、ついけさほど『もうあの女には会わない』とか、『そんなことのためにペテルブルグへやってきたんじゃない』とりっぱな口をきいた公爵を見はっているにちがいない。いや、現に、公爵は発作的にあの家をさして駆けだしていったのだ。そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか? 彼はただ陰気ではあるが、十分その気持を察することのできる、ひとりの不仕合せな人間を見たにすぎないのだ。しかも、この不仕合せな人間は、もはや逃げ隠れようとはしなかったではないか。いや、ロゴージンは、けさほどはなぜか強情をはって嘘をついたが、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場では、ほとんど姿を隠そうともせずに突っ立っていたのだ。むしろどちらかといえば、公爵のほうが身を隠したので、ロゴージンのほうではなかった。だが、今度のあの家のそばでは、五十歩ばかり斜めに隔てられた反対側の歩道に、腕組みしながら待っていたのであった。彼はもうすっかり全身をあらわして、どうやらわざと眼にとまるようにしていたが、その様子は告発者か裁判官のようで、とても……のようではなかった。では、いったいなんのようでなかったのか?
いや、なぜ公爵は今度も自分のほうから彼のそばへ近寄らずに、二人の眼がぴったりと合ったにもかかわらず、それに気付かぬふりをして身をかわしてしまったのか?(たしかに、二人の目はぴたりと合ったのだ! たがいに顔を見合わせたのだ)いや、そればかりか、公爵はついさきほど彼の手を取って、いっしょにそこへ行こうと思ったのではなかったか! あすはロゴージンのところへ行って、あの女に会ってきたと言うつもりだったのではないか。またそこへ行く途中、急に歓喜が胸にあふれて、彼はみずから悪魔をふるいおとしたのではなかったか? それとも、ロゴージンのなかに、つまり、きょう一日のこの男の行動のなかに、その言葉、動作、行為、視線などの総和のなかに、何か公爵の恐ろしい予感や悪魔のささやきを肯定するようなものがあったのではなかろうか? それは、なんとなく自然に感じられるばかりで、それを分析したり説明したりすることも、十分な理由を挙げてその正しさを証明することもできないものだが、しかも、このような困難と不可能があるにもかかわらず、そのあるものは非常にはっきりした打ちけすことのできない印象を与えて、それがいつしかしっかりした確信に変っていくのであった。
内容としては、主人公の緊迫した思考を追っているという部分だが、一部を抜き出してみても文体的に特異だということが分かる。例えば「彼の《思いがけない考え》というのも、じつはこのことだったのではないか。彼はここで、この家で、まちがいなくあの眼差しが見られるということを決定的に信じたいがために、あの《さきほどの眼》を見たくてたまらなかったのではなかろうか。それが彼の発作的な欲求だったのだ。では、いまさらその眼をほんとうに見たからといって、なぜそんなにびっくりして、うちひしがれているのだろうか? まるで思いもよらなかったことのようではないか!」、例えば「いや、現に、公爵は発作的にあの家をさして駆けだしていったのだ。そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか? 彼はただ陰気ではあるが、十分その気持を察することのできる、ひとりの不仕合せな人間を見たにすぎないのだ。しかも、この不仕合せな人間は、もはや逃げ隠れようとはしなかったではないか。」──一体これは何か。ここで疑問形を駆使してあたかも誰かを問い質しているかのように興奮して語っているのは誰か。やたらに「彼」「公爵」という三人称を駆使して非難のトーンさえこめてあらゆる問題を審らかにしようとしているのは誰か。語り手以外ではあり得ない。つまり、「いや、なぜ公爵は今度も自分のほうから彼のそばへ近寄らずに、二人の眼がぴったりと合ったにもかかわらず、それに気付かぬふりをして身をかわしてしまったのか?」──こうした問い掛けがあたかもムイシュキン公爵の自意識の外部からなされていると読むしかないということだ。
通常の小説で主人公とは区別される語り手が主人公の心理を追うとしたら、《……》といった内語のメルクマールを使ったり、もっと穏当に(引用部でも使われているが)「彼はそのまま停車場から逃げ出して、例の刃物屋の店先にしばらく立ちどまって、鹿の角の柄のついたナイフを見て、六十コペイカと値ぶみをしたときにはじめてわれに返った。この奇妙な恐るべき悪魔はついにしっかりと彼に取りついて、もはや離れようとはしなかった」といった平叙文の描写を冷静につづけていくのが普通のはずだ。だがドストエフスキーの語り手はそうした平叙文の描写をつづけるべきところで疑問形で堂々と挑発したり非難したりする(「そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか?」「それとも、ロゴージンのなかに、つまり、きょう一日のこの男の行動のなかに、その言葉、動作、行為、視線などの総和のなかに、何か公爵の恐ろしい予感や悪魔のささやきを肯定するようなものがあったのではなかろうか?」)、或いは感嘆符を連発する(「これがあれとそっくり同じだったことは、もういまとなってはすこしも疑う余地がない!」「たしかに、二人の目はぴたりと合ったのだ! たがいに顔を見合わせたのだ」)。かりそめに、ここで語り手はムイシュキン公爵が自分では能動的に展開できずあたかも外部から襲い掛かる(「悪魔のささやき」!)ようにしか感じられない苦しい思惟を地の文で展開しているのだと言おうと思えば言えるが、そんな分析ではおさまらないほどここでの語り手の興奮と饒舌は凄まじい。小説にはこんなことも可能なのか。
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●『カラマゾフの兄弟』4巻218-219頁
第十一篇第七章
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イワンは立ちあがって、怒りに全身をぶるぶるふるわせながら外套を着た。そうしてそれ以上スメルジャコーフに返事もせず、彼の顔さえ見ないで足ばやに家の外へ出た。さわやかな夜気が彼の心を快く包んだ。空には月が皓々と照っていた。思想と感情の恐ろしい悪夢が、彼の心のなかでふつふつと沸き立っていた。『今すぐ行ってスメルジャコーフのことを訴えてやろうか。だが、何を訴えるのか。やっぱりあいつは無実じゃないか。逆にあいつはおれを訴えるかも知れない。実際、なんおためにおれはあの時チェルマーシニャへ馬車を走らせたのだろう? なんのために? なんのために?』とイワンは自問自答した。『そうだ、むろんおれは何かを期待していた。確かにあいつの言うとおりだ。……』するとまたしても、もう何十回となく思い出したあの最後の夜、父の家の階段の上で階下の様子をうかがったことがふと記憶に浮かんで来た。だが今はそれを思い出すと非常な苦痛を感じたので、彼は思わず何かに刺し貫かれたようにその場に立ち止まった。『そうだ、おれはあの時あのことを期待していたのだ、確かにそうだ! おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ! だが、はたしておれは殺人を望んでいたのだろうか、ほんとうに望んでいたのだろうか。……スメルジャコーフを消さねばならんぞ!……今スメルジャコーフを殺す勇気がないぐらいなら、おれはこのさき生きている価値はない!……』イワンはその時わが家へ立ち寄らずに真っ直ぐカチェリーナを訪ね、突然の訪問で彼女の度胆をぬいた。彼はまるで狂人みたいだった。スメルジャコーフとの会話を、彼は一部始終、彼女に話した。いくら彼女が言い聞かせても、彼は平静に返ることができず、たえず部屋の中を歩きまわっては、切れ切れに奇怪なことをしゃべり散らしていた。……
周知のようにドストエフスキーは作中人物の心理描写として内語(『……』で括られた部分)を積極的に用いる作家だが、同じように内語を多用するスタンダールやルバテと異なって、「肉声の内語こそむしろ直接的ではなくて間接的なもの、二次的なものになっている」という不思議な特徴がある。何故だろうか。
引用部を見てみよう。ここでは明らかにイワンの心理は『……』で括られた内語を読むだけでは完結しない。彼の自問自答が一挙に「おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ!」という恐ろしい真実に逢着するのは、彼の能動的な自意識=内語の作用によらずに「ふと」浮かんで来る記憶によってのことなのだ。このふと想起される記憶による「刺し貫」きこそ、地の文を差配している語り手のみが記録することのできる、イワンの自意識の外部からやってくる無意識の衝迫である。この無意識の媒介がないとイワンの内語は形を取ることができないし、また葛藤の上で緊張を孕むこともできない。さらに言えば無意識の媒介次第で彼の内語の情動は幾らでも方向を変えてしまう。彼の内語は、無意識が告げてくる真実を抑圧しようとして捩じ曲がることさえあるだろう。──それが彼の内語の方こそ二次的、副次的である所以だ。
言うまでもなく、内語よりも直接的な無意識を小説空間に導くことができるのは「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」=語り手の位相のおかげ。
●『永遠の夫』164-165頁
第十章
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すべてこうした意識面の想念は、常にありありと眼前一寸に焼きつけられ、しかも常に彼の魂を掻きむしりつづける亡児の追憶と、固く結びついてあらわれてくるのであった。彼はリーザの蒼ざめた小さな顔を心に描き返し、その顔の表情の一つ一つを想いおこした。お棺のなかに花に埋もれて横たわっていた姿を、思い浮かべ、また、まだそうならぬ前、高熱のため意識を失ったまま、動かぬ眼をぱっちりと見開いていた姿を、思い浮かべるのであった。と不意に彼は、彼女がもう広間のほうへうつされて卓子のうえに横たえられていた時、その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持を思い出した。それを見た時彼ははげしい感動を覚え、その哀れな一本の指がひどく可哀そうになってきた。今すぐにもあのパーヴェル・パーヴロヴィチを捜し出して、打ち殺してやろうという考えが、初めて頭に閃いたのもじつにこのことだったので、それまでの彼は『まるで失神していたも同然』だったのである。──あの子の可憐な心臓を責め苛んでいたものは、生まれつき傲慢な気持がはずかしめられたという事実だったのだろうか、それとも、俄かに今までの愛情を憎しみに変えて、破廉恥な言葉のかぎりをつくして彼女を面罵し、愕き怖れる彼女を嘲り笑い、挙句の果てに彼女を他人のなかへほうり出したあの父親から受けた、三ヵ月のあいだの苦悩の生活だったのだろうか?──こうした疑問を、彼は絶えずわれとわが胸につきつけ、無限に形を変えてくり返してみるのであった。『あなたは一体御存じなんですか、あのリーザが私にとって何者だったかということを?』──彼は突然、酔いつぶれたトルソーツキイが発したこの叫びを思い浮かべ、今にして初めて、この叫びが決してお芝居ではなくて、彼の本心の声だったことを思い当った。そこには愛のひびきがこもっていたことを感得した。『なんだってあの人非人は、それほどに可愛い子供にああも辛く当たれたんだろうか、そんなことがあり得ることだろうか?』しかし、この疑問がきざすたびに彼は急いで、まるで払いのけでもするように、振り棄ててしまうのであった。この疑問のなかには何かしら怖ろしいものが、彼にとってとても堪えられぬ──しかも未解決の何ものかが、潜んでいるのであった。
引用部の前後関係からすると、この段落は「一ばん暑気のきびしい七月の日々」における括復法的な心理叙述のディエゲーシスとみなせるのだが、そのなかに何故か単起的としか思えないような記述(「と不意に彼は、彼女がもう広間のほうへうつされて卓子のうえに横たえられていた時、その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持を思い出した。」「彼は突然、酔いつぶれたトルソーツキイが発したこの叫びを思い浮かべ、今にして初めて、この叫びが決してお芝居ではなくて、彼の本心の声だったことを思い当った。」)が混じっていることに、まず注目せよ。文体からして自問自答的な調子を帯びながら、「不意に」「突然」「今にして」といった一回限りの副詞を連発して、いかにもリアルタイムにヴェリチャーニノフの切迫した思考が展開していっているようでありながら、その現前的時間の「何時」はまったく特定されない。「七月の日々」のうちのある一瞬管ということしか分からない。前後関係もこの段落内で展開・変化していく心理プロセスの順序しか分からない。ようやく単起的に時日が特定されるのは、引用部の段落が終った改行後の「ある日のこと、例によって当てもなく歩いていると、……」の文章によってである。基本的にリアルタイムに対話的に生成されていく心理叙述のディエゲーシスは、括復法的な文脈の中であっても単起的に動いていくということだろうか。特に「不意に」「突然」の符牒の一回性は明らかに括復法的記述の文脈になじまない。
しかしながら、ここで「不意に」「突然」の副詞が用いられるのは必然ですらある。なぜならここでヴェリチャーニノフの心理の記述は、彼の心理的死角にあるものを巡って展開していく、すなわち「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせて展開していっているからだ。無意識からの衝迫は、彼の能動的な自意識によって把握することはできず、常に「不意に」「突然」の想起や思い付きによって彼を貫く。そしてこのヴェリチャーニノフの自意識によっては計算も予測も不能な無意識からの衝迫すなわちヴェリチャーニノフの心理における二重性は、もちろん作者の計算のうちではある。「(死んだリーザの)その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持」を突然思い出してはげしい感動に駆られるのも、『あなたは一体御存じなんですか、あのリーザが私にとって何者だったかということを?』というトーツキイの叫びを突然思い浮かべて何か堪え難い、恐ろしい疑問を抱くのも、すべてはヴェリチャーニノフには見えないが語り手には見えている或る理由によってのことだ。簡潔に言うと、トルーソツキイが自分の娘だと思い込んでいたリーザは実はヴェリチャーニノフとトルーソツキイの亡妻の間の非嫡出子だったのであり、その事実を知ったトルーソツキイは、例えばヴェリチャーニノフがリーザに対して抱いたような「哀れな一本の指がひどく可哀そうにな」るような憐れみと愛情をもう抱きようがなくなっている。一方、薄々リーザが自分の子だと気付き始めているヴェリチャーニノフは、かつてトルーソツキイを裏切ったからこそ、今まさにリーザの愛し、その死を心から悼むことができている。つまりトルーソツキイの『あのリーザが私にとって何者だったかということを?』を理解することができるのは、裏切り者である今のヴェリチャーニノフその人以外ではあり得ないのだ。したがって、「トルーソツキイが発したこの叫び」はヴェリチャーニノフが自分からリーザを奪った罪の告発なのである。ところがヴェリチャーニノフはその罪をまだ直視できないでいる──その裏切りの事実は彼の心理的死角にある──ので、そうした気付きや疑問や「未解決な何ものか」は、彼の自意識の外から不意打ちのようにのみ訪れるのである。
語り手は、ヴェリチャーニノフのその自意識と無意識の角逐をすべて見透した上で、このような文体を選んでいるわけだ。例えば「『なんだってあの人非人は、それほどに可愛い子供にああも辛く当たれたんだろうか、そんなことがあり得ることだろうか?』しかし、この疑問がきざすたびに彼は急いで、まるで払いのけでもするように、振り棄ててしまうのであった。この疑問のなかには何かしら怖ろしいものが、彼にとってとても堪えられぬ──しかも未解決の何ものかが、潜んでいるのであった。」──こうした記述にはあまりにも多くの暗示が詰め込まれてはちきれんばかりになっている。『カラマゾフの兄弟』4巻222-224頁(「ところが、その日ミーチャとの面会を終えて帰る途中、彼は恐ろしく悲しい、困惑した気持になった。とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである。……何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した。」)に似て、語り手はヴェリチャーニノフの心理の奥底を明らかにしようと思えばできるのに、それをせずに、今はまだ意図的にある一定の範囲に論理的な心理分析をとどめようとしているかのようだ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻224頁
第十一篇第七章
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アリョーシャと話を交したあと、わが家の呼鈴のひもに手をかけて、突然スメルジャコーフのところへ行こうと決心した時、イワンは不意に一種特別ないきどおりが胸にわきあがるのを感じた。とつぜん彼は、たった今カチェリーナがアリョーシャのいる前で、『あの人(つまりミーチャ)が犯人だってわたしに断言したのはあなたなのよ、あなただけなのよ!』と叫んだことを思い出したのである。それを思い出すと、イワンは思わず棒立ちになった。彼は今まで一度もミーチャが犯人だと彼女に断言した覚えはなかった。それどころか、スメルジャコーフのところから帰って来た時には、彼女の前で自分自身を疑っていたぐらいである。反対に彼女こそ、彼女こそあのとき例の《文書》を取り出して兄の有罪を立証して見せたではないか! それなのにとつぜん彼女は、いま、『自分でスメルジャコーフのところへ行って来た!』と叫んでいる。いつ行ったのか。イワンは全く知らなかった。してみると、彼女はミーチャの有罪をそれほど信じてはいないわけだ! スメルジャコーフは何を彼女に話すことができただろう。何を、何を彼は彼女に話したのだろう。恐ろしい怒りが彼の心のなかに燃えあがった。彼はどうして三十分前にそうした彼女の言葉を聞き流して、すぐにわめきださずにいられたのか、われながらふしぎでならなかった。彼は呼鈴のひもをはなして、スメルジャコーフの家へ駆け出した。『もしかすると、今度こそおれはあの男を殺すかも知れない』──道々、彼はこう思った。
イワンに突然起こった心的出来事を記述している。こういう契機はプロット上重要な役割を果たすことがあるので(ここではイワンに突然スメルジャコーフのところへ行こうと決意させる)、その書き方を或る程度学んでおく必要がある。
基本的に語り手の立場からイワンの思考過程を擬態する、思考過程擬態のディエゲーシスである。それは「彼」と三人称を用いながらほとんど体験話法のようにイワンの内語(自問)を地の文に流し込んでいるところからも分かる。「彼女こそあのとき例の《文書》を取り出して兄の有罪を立証して見せたではないか!」「いつ行ったのか。」「してみると、彼女はミーチャの有罪をそれほど信じてはいないわけだ!」「スメルジャコーフは何を彼女に話すことができただろう。」──登場人物の心的出来事をくっきり描くのに思考過程擬態のディエゲーシスの有用性は疑い得ない。
しかし本質的なことは、ここでこの心的出来事がイワンを「とつぜん」襲ったことだ。つまりイワンにとって、「一種特別ないきどおり」がわきあがり、ついさっきカチェリーナが口にした科白を「思い出す」ことはまったく必然性がない、偶然起きたこと、無意志的に生じたことである。だがフィクションの中で作者が偶然性を利用する場合は、登場人物にとってはまったく思い掛けないことだとしても、もっと広いパースペクティヴから見れば充分あり得ること、でなければならない。その「とつぜん」はそれまでその登場人物の主観に偏り・死角があって意識にのぼらなかった何か(事情・事実)があったということの現われだ。誰かがその登場人物を意図的に罠に掛けようとしているかのように、偶然は働きかけて来るのでなければならない。それは偶然の思い付き・記憶・情動をプロットに組み込む場合でも同じ。無意識の陰謀。
ここでイワンを思わず棒立ちさせるほど激しく襲った「とつぜん」は、過去(ついさっき)に或る出来事を経験した時そこに伴っていた感情と、今それを思い出した時の感情がまったく異なっているという奇妙な情動の「遅れ」に由来する。「彼はどうして三十分前にそうした彼女の言葉を聞き流して、すぐにわめきださずにいられたのか」? このように彼を心理的に分裂させる何かしらの隠された・無意識の事情があるからには、ここで彼が「内側≒外側から強いられたように」それに気付き突然棒立ちしてしまうのは、偶然であり、必然でもあるのだ。この過去と現在のズレ、イワンの情動の「遅れ」は、もちろん、この致命的一瞬でイワンを立ち止まらせて行動の向きを全く転回させるために作者が意図的に仕込んだものだ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻252-254頁
第十一篇第八章
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吹雪は相変わらずつづいていた。最初のうち、彼は元気よく歩いて行ったが、そのうちに突然、足もとがおかしくなった。『体のせいだな』──にやりと笑って彼はこう思った。すると、一種の歓喜のようなものが胸の底からこみあげて来た。彼は自分の内部に無限の決意を感じた。ここずっと激しく彼を苦しめて来た同様に、終止符が打たれたのだ。決心はついた。『そうしてもう変わらないぞ』──幸福な気持で彼はこう思った。その瞬間、彼はとつぜん何かにつまずいて、あやうく倒れそうになった。立ち止まって足もとを見ると、さっき彼に突き飛ばされた百姓が、同じ場所に、気を失ったまま、身動きもせずに倒れていた。吹雪がもう顔をほとんど全部うずめていた。イワンは突然その男を抱き起こすと、ひっかついで歩きだした。右手の百姓家に明かりがともっているのを見つけると、彼は近づいて鎧戸をたたき、顔を出したその家の主人らしい町人に、三ルーブリのお礼をするから百姓を警察へかつぎ込む手伝いをしてほしいと頼んだ。町人は支度をして出て来た。筆者はここで、イワンがそのとき首尾よく目的を達して百姓を警察へ運び込み、さっそく医師の診断を受けさせたばかりか、ふたたび気前よく自腹を切って《その費用》を負担したことを詳しく描写するつもりはない。ただひと言、それにはほとんどまる一時間も時間がかかったことだけを言っておこう。しかしイワンは非常に満足だった。思索が次から次へと広がって、頭がよく働いた。『あしたのことでこれほど断固たる決心がついていなかったら』とつぜん彼は快感を覚えながらこう考えた。『あの百姓の始末をつけるためにまる一時間も暇つぶしをせずに、知らん顔をして通り過ぎて、あいつが凍え死のうと唾でも吐きかけるのが落ちだったろう。……それにしても、おれはなんと冷静に自分を観察することができるんだろう!』その瞬間、彼はいっそう快感を覚えながらこう考えた。『ところがあいつらは、おれが発狂しかけているときめていやがる!』
わが家へたどりつくと、彼は不意に立ち止まって、突然こうわが胸に問いかけた。『今すぐ検事のところへ行って、何もかもぶちまけるべきではないだろうか』この疑問を彼は、ふたたびわが家のほうを向いて解決した。『あした何もかも一緒に片づけよう!』こう彼は心のなかでつぶやいた。するとふしぎなことに、ほとんどすべての歓喜、すべての満足が一瞬の間に消えてしまった。自分の部屋へはいった時、彼はとつぜん何か氷のようなものがひやりと心臓に触れたような気がした。それはある思い出、──もっと正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、現在も、今この瞬間も感じられる何やらやり切れない、嫌悪すべきものの記憶とでも言えよう。彼はぐったりとソファに身を沈めた。老婆がサモワールを持って来たので、彼は茶をいれたが、口をつけようともしなかった。あしたまで用事はないと言って老婆もさがらせた。彼はソファに腰をおろしたまま、目まいを感じていた。病気にかかって、衰弱しているような気持だった。うとうと眠りかけたが、不安にかられて立ちあがると、眠気を追いはらうために部屋の中を歩きはじめた。時々、熱に浮かされているような気がした。だが、何よりも気がかりなのは病気のことではなかった。ふたたび腰をおろすと、彼は何かを探すようにあたりを見まわしはじめた。そういうことが何度か繰り返された。とうとう彼の視線が、ぴたりとある一点に注がれた。イワンはにやりと笑ったが、その瞬間、憤怒の色がさっと彼の顔にみなぎった。彼は両手でしっかりと頭を支えながら、長いことソファの同じ場所に坐って、相変わらず前と同じ一点を、──真向かいの壁ぎわにあるソファを、じっと横目でにらんでいた。そこに何か彼をいらだたせるものがあるらしく、何かが彼を不安にして、苦しめていたのである。
この引用部全体にただよう不思議な感覚は何か。思うに、イワンの内語、しかも「『そうしてもう変わらないぞ』」といった固い決意を表わす内語までも見透かして記述した上でイワンの能動的な行為を描いているにもかかわらず、なぜかイワンのその能動性も含めてすべてが必然的に、イワンの与り知らぬところで──すなわちイワンにとっては受動的に──大きな流れとして展開しているように感じられることが、ポイントだ。
端的に言えば、ここでイワンは無意識=「嫌悪すべきものの記憶」を抑圧しながら、というか抑圧することによって自らの能動性を確保しようと悪闘しているのだが、しかし抑圧によって能動性を獲得しようという意図のゆえにまさに受動性に翻弄されるというパラドクスを生きている。だから彼には、『体のせいだな』と思いながらにやりと笑うと、不意に歓喜のようなものが胸にこみあげるのも、逆に『あした何もかも一緒に片づけよう!』と心のなかでつぶやくとすべての歓喜が一瞬で消えてしまうのも、突然何か氷のようなものがひやりと心臓に触れるのも、にやりと笑ったとたんにさっと憤怒にとらわれるのも、自分ではまったく理由が明確に把握できずにいる、すなわち自分の情動に受動的に翻弄されつづけるのみとなるのだ。とくに「彼はぐったりとソファに身を沈めた」以降はもはや能動性を取り戻すことができず、彼をいらだたせ、不安にし苦しめるものの存在の接近を予感しながらずっと待ち受けることしかできない。
つまり、彼を苦しめ不安にするもの、やり切れない、嫌悪すべきものの記憶としての「ある一点」は、見えないとしてもつねにイワンの隣りに存在していたのだ。作者はここでその見えない併存者を光源としてイワンの(一見能動的に見える)行動を丹念に追って描写しつづけていたというわけだ。
ちなみに第二段落は「時々、熱に浮かされているような気がした」という括復法的記述もあれば、「その瞬間、憤怒の色がさっと彼の顔にみなぎった」という単起的記述も存在している。段落内での時間の扱い方の振幅が見事。
●『罪と罰』上175-178頁
第二部第一章
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……まあ聞いてください、それからおかみさんは、ぼくが借用書をわたすとその場で、これからもまたいくらでもお貸ししますわ、わたしとしては決して、決して、あなたが払ってくれるまで、この証書をたてにとるようなことはしませんから、とたしかに言いました。これはおかみさんが言ったそのままの言葉です……それがいまになって、ぼくが家庭教師のくちを失い、食べるに困っているのに、こんな支払い要求を訴えるなんて……いったいぼくはどう言ったらいいのです?」
「そういう感傷的なこまかい事情はだね、きみ、われわれには関係のないことだよ」とイリヤ・ペトローヴィチは尊大にさえぎった。「きみは返答をあたえ、義務の履行を誓えばそれでよろしい。きみが惚れられたとか、どうしたとかそんな涙っぽい話には、われわれはぜんぜん用がない」
「もういい、きみはどうも……酷すぎるよ……」ニコージム・フォミッチは卓について、やはり書類に署名をしはじめながら、呟くように言った。なんとなく気がさしたのである。
「書きなさい」と事務官がラスコーリニコフに言った。
「何を書くのです?」ラスコーリニコフはどういうのかことさらに乱暴に聞きかえした。
「わたしが口授します」
ラスコーリニコフには、事務官がいまの打ち明け話をきいてからいっそうぞんざいで、さげすむような態度になったように思われた。──ところが、おかしなことに、──彼自身にとっては、思いがけなく、誰がどんなことを思おうがまったくどうでもよくなった。しかもこの変化はなんと一瞬の間に、あっという間に起ったのである。もしも彼らがちょっとでも考える気になったら、もちろん、つい一分まえによくも彼らにあんな話をしたり、おまけに自分の感情を無理におしつけようとしたりなどできたものだと、われながらあきれたにちがいない。それにしても、どうしてあんな気持になったのだろう? いまはそれどころか、この部屋が不意に警察官たちではなく、もっとも親しい友人たちでいっぱいになったとしても、彼らに対して人間的な言葉を一言も見つけることができなかったろう。一瞬のうちにそれほどまでに彼の心は空虚になったのである。苦しい果てしない孤独と疎遠の暗い感情が不意にはっきりと彼の心にあらわれた。彼の心の向きをこれほど不意に変えたのは、イリヤ・ペトローヴィチに対する告白の卑屈さでもなければ、彼に対する警部の勝利感の低劣さでもなかった。とんでもない、いまの彼にとっては自分の卑劣さなど何であろう、名誉心だとか、警部だとか、ドイツ女だとか、徴収だとか、警察だとか、そんなものが何であろう! よしんばいまこの瞬間火刑を宣告されたとしても、彼はぴくりともしなかったろう、それどころかそんな宣告にろくすっぽ耳もかさなかったにちがいない。彼の内部には何かしら彼のまったく知らない、新しい、思いがけぬ、これまで一度もなかったものが生れかけていたのである。彼はそれを理解したわけではなかったが、はっきりと感じていた。感覚のすべての力ではっきりとつかみとっていた、──彼はもう二度とあんな感傷的な告白はもちろんのこと、およそどんなことであろうと、警察署のあんな連中に打ち明けたりはしないであろう。それどころかたとえそれが警察署の警部どもではなく、彼と血を分けあった兄弟や姉妹たちであっても、生涯のどんな場合にも、彼には打ち明ける理由はまったくないのだ。彼はこの瞬間までこのような奇妙な恐ろしい感覚を一度も経験したことがなかった。そして何よりも苦しかったのは──それが意識や理解ではなく、むしろ感覚だったことである。直感、これまでの人生で経験したあらゆる感覚のうちでもっとも苦しい感覚であった。
事務官はこういうケースにおきまりの返答の形式を口述しはじめた、つまりいま支払うことはできないが、某月某日までに(あるいはいずれそのうちに)支払うことを約束する。当市をあなれない。財産を売却も、贈与もしない等々。
「おや、あなたは書くこともできませんな、ペンが手からこぼれおちそうですよ」と事務官は好奇心をそそられてじろじろラスコーリニコフを見ながら、注意をあたえた。「身体ぐあいがよくないのですか?」
「え……めまいがして……先をつづけてください!」
「それで結構です。署名してください」
事務官はその書類を受けとると、ほかのしごとにとりかかった。
ラスコーリニコフはペンを返したが、腰をあげて立ち去ろうとしないで、両肘を卓について、両手で頭をかかえこんだ。まるで釘を脳天にうちこまれたような苦痛だった。不意に奇妙な考えがわいた。いますぐ立ち上がって、ニコージム・フォミッチのまえへ行き、昨日の一件を細大もらさず告白しよう。それからいっしょに部屋へ行って、隅の穴の中にかくした盗品を見せよう、というのだ。この衝動はあまりに強烈だったので、彼はそれを実行するためにもうふらふらと立ち上がっていた。
《せめてちょっとの間でも考えてみるべきではないか?》こんな考えがちらと頭をよぎった。《いや、何も考えないで、ひと思いにさばさばしたほうがいい!》
なぜ突然に「誰がどんなことを思おうがまったくどうでもよくなった」という変化が起こったのか。「彼の内部には何かしら彼のまったく知らない、新しい、思いがけぬ、これまで一度もなかったものが生れかけていた」からだ。この不意にあらわれた「苦しい果てしない孤独と疎遠の暗い感情」は、もちろん恣意的に描かれたものではなく、ほとんど偶然の連鎖によってなされた彼の過去の殺人がもたらしたものだが、それは、直前まで警部に対し卑屈な告白をしていた時の彼の意識には表われてはいなかった。だが彼自身がつねにすでに複数の精神の力動の線によって貫かれているために、その均衡が微細なことによって変化すると、このような「直感」のおとずれが可能になる。さらには突然昨日の一件を告白しようという強烈な衝動もわいてきて──「不意に奇妙な考えがわいた……」──、頭脳的な考えでは「ちょっとの間でも考えてみるべきではないか?」と戸惑いつつも、自分を貫く別の(複数の)力動をもうどうしようもない。ラスコーリニコフの意識はそのような複数の衝動が交錯する場として構想されている。これは通常の意味での心理描写ではない。
●『罪と罰』上193-196頁
第二部第二章
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だが、ラスコーリニコフはもう通りへ出ていた。ニコラエフスキー橋の上で、彼はまったく不愉快なあるできごとのために、もう一度はっきりわれにかえらなければならなかった。箱馬車の御者が、三、四度大声で注意したのに、彼が危なく馬にひっかけられそうになったので、いきなりぴしゃりと彼の背を鞭でなぐったのである。なぐられた屈辱に火のようになった彼は、とっさに手するのほうへとびのき(どういうわけか彼は、歩道ではなく、車道になっている橋の真ん中を歩いていたのだった)、憤怒の形相で歯をくいしばり、ぎりぎり歯をかみ鳴らした。あたりにどっと笑い声が起ったことはいうまでもない。
「ざまァ見ろ!」
「常習犯だよ」
「知れたことさ、酔っぱらいの振りをして、わざと馬車にひっかけられ、それをねたにたかるんだよ」
「それが稼業なんだよ、おまえさん、それを稼業にしてるんだよ……」
ところがそのとき、まだ手すりのそばにつっ立ったまま、背中をさすりながら、怒りからさめきらぬ血走った目で、遠ざかって行く箱馬車をくやしそうににらんでいると、彼はふと、誰かが彼の手に金をおしこむのを感じた。見ると、頭巾をかぶって山羊皮の靴をはいた初老の商家のおかみと、その娘らしい、帽子をかぶってみどり色のパラソルをもった若い女だった。《とっておきなさいな、おまえさん、キリストさまのめぐみだよ》彼は受け取った。二人は通りすぎて行った。金は二十コペイカ銀貨だった。無理もない、二人は身なりと格好で彼を街頭で物乞いするほんものの乞食と思ったのであろう、そして二十コペイカもはずんだのは、彼が鞭でなぐられたのを見て、すっかり同情心をそそられたからにちがいない。
彼は二十コペイカ銀貨を手の中ににぎりしめて、十歩ほど歩くと、ネワ河のほうへ顔を向けた。それは宮殿の見える方角だった。空にはひとちぎれの雲もなく、水は淡いブルーに近かった。こんなことはネワ河には珍しいことである。寺院の円屋根は、橋の上のここ、つまり、小礼拝堂へ二十歩ばかりのところからながめるのがもっとも美しいとされているが、いまも眩しいほどに輝いて、澄みきった空気をとおしてどんなこまかい装飾もはっきりと見わけることができた。鞭の痛みがうすれた、そしてラスコーリニコフはなぐられたことを忘れていた。いまの彼をすっかりとらえていたのは、ある不安な、もうひとつはっきりしない想念だった。彼は佇んで、長いことじいっと遠くのほうを見つめていた。ここは彼には特になつかしい場所だった。大学へ通っていた頃、いつも、──といっても、たいていは帰校の途中だったが、──いま立っているこの橋の上に立ちどまって、このほんとうに壮大なパノラマにじいっと見入っていると、そのたびにあるおぼろげな不可解な感銘を心におぼえてぞおッとしたものだった。そんなことが百回もあったろうか。この壮大なパノラマからはいつもなんとも言えぬ冷気がただよってくる。彼にとっては、この華やかな光景が唖にして耳聾なる霊にみちていたのだった……彼はそのたびにこの陰気な謎めいた感銘を不思議に思ったが、自分を信じられないままに、その解明を将来にのばしてきた……そしていま彼は突然この以前に解き得なかった疑問をはっきりと思い出した。彼はいまそれを思い出したのが、決して偶然でないような気がした。不思議な気がして、内心おどろいたといえば、以前とまったく同じ場所に立ちどまったことだった。以前とまったく同じ問題をいま考えたり、以前……といってもついこの間のことだが、興味をもっていたとまったく同じテーマや光景に、いま興味をもったりすることができると、本気で考えたのだろうか……彼は危なくふきだしそうにさえなったが、それと同時に胸が痛いほどしめつけられた。どこか下のほうの深いところに、足下のはるか遠くに、こうした過去のすべてが、以前の思索も、以前の疑問も、以前のテーマも、以前の感銘も、このパノラマの全景も、そして彼自身も、何もかもいっさいのものが、かすかに見えたような気がした……彼は上へ上へ飛んで行くような気がして、目のまえのすべてが消えてしまった……思わず片手を動かすと、彼は不意に拳の中ににぎりしめていた二十コペイカ銀貨に気がついた。彼は拳をひらいて、じっと銀貨を見つめていたが、いきなりその手を振りあげて、銀貨を水中に投げつけた。そしてくるりと踵をかえし、家のほうへ歩きだした。そしてそのときを境に、彼はわれとわが身をいっさいのものから鋏で切りはなしてしまったような気がした。
彼が家へもどったのはもう日暮れ近かった、だから六時間ほどもぶらぶら歩きまわっていたわけだ。どこをどう通って帰ったのか、彼はぜんぜんおぼえていなかった。彼は服をぬぐと、せめぬかれた馬のようにがくがくふるえながら、ソファの上に横になり、外套をひっかぶると、そのまま意識を失ってしまった……
「彼はいまそれを思い出したのが、決して偶然でないような気がした。」と書いている以上、ここで彼がこうした想念を抱くことは作者の構想に決定的に孕まれていたと言っていい。ではその想念とはどういうものか。
《漠然とした孤独の想いは、事件をきっかけとして明らかに痛みを感ずる感覚と化して彼の心を貫いた。この暗い孤独感はラスコオリニコフにつき纏って決して離れない。彼がこの己れの心の内奥の空虚を覗き込むのを怖れているように、作者もまた主人公の最も怖れているこの深淵を覆いつつみ、これを全編の一種無気味な主調低音と化そうと骨を折っている。だがこの音に聞き入る読者にとっては、音はあんまり高すぎる、鮮やかすぎる。ほとんど全編のドラマはこの音に浮かぶ架空な現象に過ぎぬ。そんな奇怪な感じすら僕は抱くのである。》
《ラスコオリニコフは生活上の失敗から孤独に逃げたのでもなければ、ある生活上の確信から孤独を得たのでもない。彼と現実との間にはほとんど生まれながらのと形容したいような、いいかにも自然な不協和があるのだ。彼にとって孤独はあらゆる意味で人生観ではない、人生にのぞむ或る態度たる意味はない。彼は孤独の化身なのである。》
《事件の空想性、ここにこの小説の最大の観念がある、と前に僕は書いた。ラスコオリニコフは事件に参加したのではない、ただ事件が彼に絡んだのだ。殺人の経験によって彼は理論の果敢なさを悟ったか。個人の意志の無力を悟ったか。しかし、感情も意志も思想も彼を支えるに足りぬ、彼は人間というよりもむしろ感受性の一つの場所と化している、そういうラスコオリニコフの殺人の前の姿を僕等は読んだはずではないか。殺人の経験は彼に何ものも教えてはくれなかった。彼はただ二十コペイカの銀貨をネヴァ河に投げ込む事を学んだ。だが、この悲しい動作の象徴するものを誰が理解しようか。ただ作者だけが、この無垢な動作に罪もなければ罰もない事を理解しているのだ。/再び言う、ラスコオリニコフの孤独は孤高者の孤独ではない。彼は自分の孤独をどういう意味ででも観念的に限定してはいないのである。彼にとって孤独とは「唖で聾なある精神」だ。彼は孤独を抱いてうろつく。そして現実が傍若無人にこの中を横行するに委せるのだ。彼はただこれに堪え忍ぶ。「ある特殊な憂愁」は、彼の孤独の唯一の正当な表現なのである。》
《とまれどんな道徳律でも疑う事は出来る。だが不徳に伴う苦痛だけは疑えない。良心を信じない事は出来る。従って良心に反するという事は無意味であり得る。だが苦痛だけは残る。/ラスコオリニコフは自分の殺人行為について悔恨を感じていない。だがこの行為を他人に絶対に秘密にして置かねばならぬ必要は感ずる。この必要が罪というものの正体だ。この必要が現実的な苦痛を生む。彼の告白は良心の勧告のためではない。社会の約束が彼に強いたこの苦痛、すなわち強いられた孤独に生き難くなった結果である。生き難くなるから、この生を回避するために、口実として悔恨が必要になって来る。自殺者にとって死が生の口実と実際になっているようなものだ。/ドストエフスキイは「罪と罰」で、所謂宗教の問題も倫理の問題も扱ってやしない。罪という言葉、罰という言葉を発明せざるを得なかった個人と社会との奇怪な腐れ縁を解剖してみせてくれたのだ。》(小林秀雄)
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------------------------------------- タイプ【D-3】冒頭、段落モンタージュ ▲
●『罪と罰』上48-50頁
第一部第三章
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彼は翌朝おそく不安な眠りからさめた。眠りも彼に力をつけてくれなかった。彼はむしゃくしゃするねばつくような重い気分で目をさますと、憎悪の目であなぐらのような自分の部屋を見まわした。それは奥行六歩ばかりの小さな檻で、黄色っぽいほこりだらけの壁紙はところどころはがれて、いかにもみすぼらしく、天井の低さは、なみよりちょっとでも背丈の高い者には窮屈で、いまにも頭がつかえそうに思われた。家具も部屋にふさわしく、どれも満足でない。古ぼけた椅子が三脚と、隅っこに塗りの机が一つ、その上には何冊かのノートと本がのっていたが、ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰の手もふれていないことは明らかだった。それから、最後に、ほとんど壁の面を全部と、部屋の幅を半分も占領している、ばかでかい不細工なソファ。これは昔は更紗がはってあったらしいが、いまはぼろがひっついているだけで、ラスコーリニコフの寝台代りになっていた。よく彼は服もぬがず、シーツもしかずにその上に横になり、古いすりきれた学生外套をかぶり、それでもぺしゃんこの枕だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。ソファのまえに小さなテーブルが一つおいてあった。
これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった。しかしラスコーリニコフのいまの心境には、このほうがかえって快かった。彼は亀が甲羅にもぐったように、徹底的に人から遠ざかって、彼の世話がしごとなのでときどき部屋をのぞきに来る女中の顔を見ても、むかむかして、ふるえがくるほどだった。偏執狂が何かに熱中しすぎると、往々にしてこんなふうになるものである。家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった。食べないでじっと坐っていたほうがましなのである。おかみのたった一人の女中で、料理女もかねているナスターシヤは、下宿人のこうした気持を、いっそ喜んでいるふうで、彼の部屋の片づけや掃除からすっかり手をぬいてしまって、週に一度だけ、それも気まぐれに、箒を持つくらいだった。その女中がいま彼をつつき起した。
「起きなさい、いつまでねてるの!」と彼女はラスコーリニコフの耳もとで叫んだ。「もうすぐ十時よ。お茶をもってきてあげたわよ、せめてお茶でも飲んだらどう? さぞお腹がすいたでしょうに?」
ここで注目したいのは、語り手が前面に出てくる記述への(からの)シームレスなスイッチング。ラスコーリニコフが目を覚まし、「憎悪の目で」自分の部屋を見回すことから始まる部屋の中の描写は、「……ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰の手もふれていないことは明らかだった。」「……それでもぺしゃんこの枕だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。」──読めば分かるように、明らかにラスコーリニコフの判断ではない。ラスコーリニコフの視点からの記述であれば、自分の知っていることを推測として示すはずがないし、もうずっと習慣になっていることについて注釈したりするはずもない。さらに言えば、自分が寝ている寝床をわざわざ「見回す」はずもないので、ラスコーリニコフが部屋を見回す、ということから始まっている描写ではあるが、ラスコーリニコフの目に見えるものをなぞっているのではなく、そのように見せかけながら、シームレスに語り手の記述へと移っているとみなすべきなのだ。それによって細部と細部の関連、空間設計についても必要なことを十分の濃密さでもって語ることができるわけだ。
改行後も明らかに語り手の記述である。「これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった。」「偏執狂が何かに熱中しすぎると、往々にしてこんなふうになるものである。」──これらはラスコーリニコフの判断ではなく、語り手の(主観的)判断にほかならない。しかしそれでいて、この語り手は完全にラスコーリニコフの外部に立っているのではなく、なんと、ラスコーリニコフの内面・心理のことを知悉しており、だからこそ、ラスコーリニコフの内面へと突き刺さってくる外界との苛烈な関係、せめぎ合い、対話性をも語ることができている。「しかしラスコーリニコフのいまの心境には、このほうがかえって快かった。」「家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった。食べないでじっと坐っていたほうがましなのである。」──これらはなんとなく語り手のインタビューに対してラスコーリニコフが答えた言葉を叙述に紛れ込ませたかのような印象がある。そのようにして単なる描写の中に語り手は兆候と意味レベルをしのばせていく……。
このドストエフスキーの語り手の柔軟性をどう考えるべきだろうか。あたかも主人公にインタビューでもしたかのように主人公の心理をよく知っている、中立的立場の語り手……。面白い。
ちなみに、「その女中がいま彼をつつき起した。」で語り手の記述からまた現前的場面の記述へとスイッチングする流れも上手い。先を予測しておいてでないとこの段落構成にはできない。
●『罪と罰』上5-7頁
第一部第一章
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七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩きだした。
彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建の建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸に近かった。賄いと女中つきでこの小部屋を彼に貸していたおかみの部屋は、一階下にあって、彼の小部屋とははなれていたが、外へ出ようと思えば、たいていは階段に向い開けはなしになっているおかみの台所のまえを、どうしても通らなければならなかった。そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持が恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった。借りがたまっていて、おかみに会うのがこわかったのである。
しかし、彼はそんなに臆病で、いじけていたわけではなく、むしろその反対といっていいほどだった。ところが、あるときから、彼はヒポコンデリーに似た苛立たしい不安な気持になやまされるようになった。彼はすっかり自分のからにとじこもり、世間からかくれてしまったので、おかみだけでなく、誰と会うのもおそれた。彼は貧乏におしひしがれていた。しかしこの頃はこのぎりぎりの貧乏さえも苦にならなくなった。毎日の自分の仕事も、すっかりやめてしまったし、しようという気もなかった。実をいえば、どんな悪だくみをされようと、おかみなんかすこしもこわくはなかったのである。といって、階段でつかまって、自分にはなんの関係もないくだらないこまごました世間話を聞かされたり、おどかしや泣きおとしで、しつこく払いを催促されて、のらりくらり逃げをうち、あやまったり、ごまかしたりするのは、──やりきれない。それよりはむしろ猫のようにそっと階段をすりぬけて、誰にも見とがめられずに逃げ出すほうがましである。
しかし今日は、通りへ出てしまってから、おかみに会いはしないかと自分でもあきれるほどびくびくしていたことに気がついた。
《これほどの大事をくわだてながら、なんとつまらんことにびくびくしているのだ!》彼は奇妙な笑いをうかべながら考えた。《フム……そうだ……すべては人間の手の中にあるのだ、それをみすみす逃してしまうのは、ひとえに臆病のせいなのだ……これはもうわかりきったことだ……ところで、人間がもっともおそれているのは何だろう? 彼らがもっともおそれているのは、新しい一歩、新しい自分の言葉だ。だからおれはしゃべるだけで、何もしないのだ。いや、もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ。おれがしゃべることをおぼえたのは、この一月だ。何日も部屋の片隅にねころがって、大昔のことを考えながら……。ところで、おれはいまなんのために行くのだ? 果しておれにあれができるだろうか? いったいあれは重大なことだろうか? ぜんぜん重大なことではない。とすると、幻想にとらわれて一人でいい気になっているわけだ。あそびだ! そうだ、どうやらこれはあそびらしいぞ!》
通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルク人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、──こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰鬱な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
『罪と罰』の冒頭だが、驚くほど複雑な叙述展開をしている。第一段落からして「青年が小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て……」とやたら密度が高いが、それはおく。重要なのはここで「K橋のほうへ歩き出した」と書かれていることから時間的に単純に次に来るのは第五段落「通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、……」であるはずだということ。その間に挟まっている段落においてはまだ歩き出していないと見做すのが妥当だから。そして第五段落では実は青年が歩いていることへの言及は一言も出てこないことに注目しよう。それはすでに第一段落で言及したというわけだ。だから第五段落ではただ歩きながら青年の五感に入ってくるものを彼の動線に沿って次々に描写することによって、間接的に彼が「歩いている」ことを示唆するのみとなっている。まずはこの第一段落と第五段落とのモンタージュ的な繋がりに瞠目しよう。
で、第二段落から第四段落で何をやっているかというと、少し時間を「K橋のほうへ歩き出す」前に遡って、つまりは第一段落から単線的に進まずに時間幅を過去へ広くとった文脈を導入するということをやっている。言い換えるとこれは、第一段落から第五段落への垂直的で単線的な流れの上に、時間幅を広くとるという水平方向の敷衍をクロスさせて叙述を豊かにしているということ。ゆるやかにでも垂直的かつ単線的な流れが意識されているからこそ、こうして水平的に時間幅を過去へ広くとった文脈を導入しても叙述の行先が見失われることがない。逆に、こうした水平方向の敷衍を混ぜることで、論理的ないしは時間的に単線的で単調な展開をさけ、しかも後のプロットのために必要な伏線や、括復法的な説明を仕込むことができる。例えば「……するたびに、……顔をしかめるのだった」「ところが、あるときから……」「毎日の自分の仕事も、すっかりやめてしまったし、……」といった括復法的記述によって情報の密度を増しているのは、すでに冒頭で主人公を「歩き出」させてしまって情景法が駆動していると思われる状況からすれば、かなり高度に技巧的なことだ。当然ながら、第四段落で挿入される登場人物自身の肉声(内語)は無茶苦茶重要な伏線である。
第五段落では青年が歩いていることは直接書かず、青年の五感に彼が歩いて行くにつれ順番に入って来るものを次々に描写することでそれを示唆していると言ったが、だからといってこの段落が青年の一人称的主観に定位していると考えてはならないだろう。それは「深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらと浮かんだ。」という外的焦点化の一文からも分かる。断じて「青年は深い嫌悪感を抱いた。」では駄目なのだ。そこから「ついでながら、……」というドストエフスキーの語り手に特有の言い回しによって青年の外貌描写に自然に移行しているのも注目に値する。ついでながら、「時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった」という微妙に括復法的な記述も、この段落が青年の一人称的主観に定位していないことのメルクマールだ。まして「いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう」と喋っているのは誰なのか? 匿名の語り手以外ではあり得まい。
●『罪と罰』上7-9頁
第一部第一章
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通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルク人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、──こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰鬱な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
彼はひどい服装をしていた。ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった。センナヤ広場に近いし、いかがわしいあそび場が多く、特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて、奇妙な服装が街の風景をいろどることは珍しくなかった。だからへんな風采に会ったからといって、びっくりするほうがおかしいようなものだ。しかも青年の心には毒々しい侮蔑の気持がいっぱいにつまっていたから、だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、いまはぼろをまとって通りを歩いていることがすこしも気にならなかった。しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……ところが、そのとき大きな駄馬にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、どういうわけでどこへ運ばれて行くのか、その上にのっかっていた一人の酔っぱらいが、通りしなにだしぬけに、彼のほうを指さしながら、《おいこら、ドイツのシャッポ!》とありたけの声でどなったとき、青年は思わず立ちどまって、あわてて帽子へ手をやった。それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた。だが、彼をとらえたのは、羞恥ではなく、驚愕にさえ似たぜんぜん別な感情だった。
「だから言わんことじゃない!」彼はうろたえながらつぶやいた。「こんなことだろうと思っていたんだ! これがいちばんいまわしいことだ! よくこういううかつな、なんでもない小さなことから、計画がすっかりくずれてしまうものだ! それにしても、この帽子は目立ちすぎた……おかしいから、目立つんだ……このぼろ服にはぜったいに学帽でなきゃいけなかったんだ。せんべいみたいにつぶれていたってかまやしない。へまをやったものだ。こんな帽子は誰もかぶってやしない。一キロ先からでも目について、おぼえられてしまう……まずいことに、あとで思い出されると、それが証拠になる。とにかく、できるだけ目につかないようにすることだ……小さなこと、小さなことが大切なのだ!……その小さなことが、いつもすべてをだめにしてしまうのだ……」
そこまではいくらもなかった。彼の家の門から何歩あるかまで、彼は知っていた。ちょうど七百三十歩だ。もうすっかり空想にとらわれていた頃、一度それをはかったことがあった。その頃はまだ自分でも、その空想を信じていなかった、そして何ということなく、その空想のみにくいが、しかし心をひきつける大胆さに、いらいらさせられていたのだった。それから一ヵ月すぎたいまでは、彼はそれをもう別な目で見るようになった、そして自分の無力と優柔不断にたえず自嘲の言葉をあびせてはいたが、いつの間にか、自分ではそんなつもりもなく、その《いまわしい》空想を規定の計画と考えることになれてしまった。とはいえ、まだ自分にそれができるとは信じていなかった。彼はいまでさえ、自分の計画のリハーサルをするために歩いているのだ、そして一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた。
移動しながらの情景法。主人公が特定の目的(「彼はいまでさえ、自分の計画のリハーサルをするために歩いているのだ」──この辺りで少し伏線的に暗示されるだけで、明言されない)を抱いて街を歩いて行くというシチュエーション。ところがまったくオーソドックスではない。様々な技法が詰め込まれている。
端的に言って、時間が推移していく現前的場面であるにもかかわらず、動きに関する描写がほとんどない。「深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。」「そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。」「ところが、そのとき大きな駄馬にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、……とありたけの声でどなったとき、……」「彼はうろたえながらつぶやいた。」「……そして一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた。」──これくらいだろう。あとはラスコーリニコフの発話か。これだけ長い情景法なのに、動きの描写が少な過ぎる。代わりに存在しているのが、(1)継続している状態の描写(主に「……ている」形アスペクトで表現される)、(2)時間幅を広くとった習慣・説明的記述、(3)語り手の主観が混ざっているような地の文、(4)過去の経緯を語る挿入的な後説法、等々である。
(1)については、例えばペテルブルグの街路の描写を、ラスコーリニコフの「まわりを見る」という動作抜きに(この排除がすでにラスコーリニコフの主観的知覚経路の前景化を防いでいる)「状態」として描いている第一段落を読めば自明だろう。「人いきれ」「土埃」「夏の悪臭」「居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気」「たえず行きあたる飲んだくれ」といった要素がラスコーリニコフの現前的な知覚に入ってくる順番によってというよりは、単に継続している状態として記述されていく。「ペテルブルグ人なら誰でも、いやというほど知らされている、……」とか「市内のこのあたりには特に多い……」といった説明的な形容がさらにこの非-知覚的な継続状態の記述の印象を強めている。ラスコーリニコフの容貌の外的な描写──語り手による描写で、わざわざ「ついでながら」などと地の文で断わっている──も主に継続属性の「……ている(いた)」アスペクトで記述されている。「彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた」。さらに第二段落に目を向けると、いきなり冒頭から「……ている」形アスペクトの文章だ。「彼はひどい服装をしていた。……」そして服装から話が連繋していく形で「このあたり」の状態について、また「……ている」形アスペクトでの記述が挟まる。「特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて……」。また、青年の帽子がやはり「……ている」形アスペクトで細かく描写されるのは当然だ。「それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた」。かてて加えて、現時点での青年の心理状況をも結果継続の「……ている」形アスペクトで記述される! 「しかも青年の心には毒々しい侮蔑の気持がいっぱいにつまっていたから、……」。つまり、多彩かつ重層的な形でこの情景における「状態」を描き出しているからこそ、「動き」の記述がなくても息の長い段落展開が可能になっているというわけだ。
(2)について。まあ言うまでもなくたとえ情景法であっても説明的な記述や習慣的記述、括復法的記述が、ピンポイントで用いられることは少なくない。「時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、……」「だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、……」のようなあからさまな括復法的記述や、第一段落末の「昨日からほとんど何も食べていなかった」のような時間幅を過去に広くとった補足説明の文章、或いは「しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった」といった一般的な事実の記述が、そうした例だ。とりわけ、引用部最期の段落は第一文がいきなり「動き」でもラスコーリニコフに関することでもなく、空間的な距離についての一般的事実の開示であるのは注目に値する。「そこまではいくらもなかった。……」段落始めのこういう切り口は面白い。
(3)について。例えば「だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。」──この主観的な推測を駆使しているのは誰なのか? 或いは「ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。」──と想像的仮定で勝手に敷衍しているのは誰なのか? 或いは「しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……」──と勝手に別の可能性を夢想して判断を下しているのは誰なのか? 語り手以外ではあり得ない。引用部ではこのように随所に語り手の声音が前面に出ている。そして、この作品では語り手自身は小説内の情景の登場人物ではあり得ないので、(ラスコーリニコフの主観的知覚経路から離れた)語り手の声音であるというニュアンスが濃くなると、叙述としては素朴な現前性の印象から逸脱することになる。
(4)について言えば、引用部最後の段落がまさにその実例にほかならない。「もうすっかり空想にとらわれていた頃、……」で一挙に時間を過去へ持っていき、「その頃はまだ自分でも……」「それから一ヵ月すぎたいまでは、……」「いつの間にか、……することになれてしまった」という風に過去の経緯を物語化しシンプルに記述して、ふたたび現前的「いま」(「彼はいまでさえ、……」)に接続するということをやっている。一段落内での単発的な後説法といった趣き。
ちなみに、「ドイツのシャッポ!」と突然怒鳴られる箇所は、主人公の内的世界と外部世界の「不意の」事故的対話を意図的に虚構した個所だとみなせる。その後に独り言がつづく流れからしても。
●『白痴』上427-429頁
第二篇第二章
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六月はじめのことであった。ペテルブルグには珍しく、もうまる一週間も上天気がつづいていた。エパンチン家はパーヴロフスクに贅沢な別荘を持っていた。リザヴェータ夫人が急にさわぎだして、二日足らずごたごたしたあげく、そこへ引っ越してしまった。
エパンチン家の人びとが引っ越していった翌日か翌々日に、モスクワ発の朝の列車で、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵がペテルブルグへやってきた、彼を停車場に出迎えた者は誰もなかったのに、公爵が車を出るとき、その列車で到着した人びとを取りかこむ群衆のなかから突然、誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。彼が瞳をこらして見つめたときには、もうそこには何も見きわめることはできなかった。もちろん、ただそんなふうに思われただけであったが、それは不愉快な印象をとどめた。しかも、公爵はそれでなくてさえ沈みこんでおり、何やら心配事がある様子であった。
辻馬車はリテイナヤ街からあまり遠くないあるホテルへ彼を運んでいった。ホテルはかなり貧弱なものであった。公爵は粗末な家具の置いてある薄暗い部屋を二つ借りて、顔を洗い、服を改めると、何も注文せずに、あわてて外へ出ていった。その様子はまるで時間を失うのが惜しいのか、あるいは誰か訪問しようと考えている先の人が外出でもするのを恐れるかのようであった。
もし半年前に、彼がはじめてペテルブルグへやってきたときに知りあった人が、いま彼の姿を一目見たならば、彼の風采がずっとよくなったと断言するにちがいない。だが、はたしてそうであろうか。たしかに、服装だけはすっかり変っていた。服はモスクワで、しかもりっぱな洋服屋に仕立てられた、すっかり別のものだった。しかし、その服にもやはり欠点があった。というのは、その仕立てはあまりに流行型すぎたからである(良心的ではあるがあまり上手でない洋服屋は、いつもこんな仕立てをするものである)。おまけに、着る当人が流行などにいっこう関心のない人であるから、とんでもない笑い上戸がつくづくと公爵の姿をながめたら、あるいは何かにやりと頬をほころばすようなたねを見つけたかもしれない。しかし、世の中には滑稽なことなど決して少なくないのである。
『白痴』第二篇第二章冒頭。
一読して驚くほどシンプル。しかもそのシンプルさの中に、公爵の主観に入り込んで必要なことをきっちりと認識しておく求心性(「誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。彼が瞳をこらして見つめたときには、もうそこには何も見きわめることはできなかった。もちろん、ただそんなふうに思われただけであったが、それは不愉快な印象をとどめた」)と、公爵を外側から眺めて概言や想像的仮定で語り手があれこれ言うという遠心性(「しかも、公爵はそれでなくてさえ沈みこんでおり、何やら心配事がある様子であった」「その様子はまるで時間を失うのが惜しいのか、あるいは誰か訪問しようと考えている先の人が外出でもするのを恐れるかのようであった」「とんでもない笑い上戸がつくづくと公爵の姿をながめたら、あるいは何かにやりと頬をほころばすようなたねを見つけたかもしれない。しかし、世の中には滑稽なことなど決して少なくないのである」)が斑ら状に隣り合って併存している。だからシンプルな要約法の連続でも文体的に一本調子にならないわけだ。
奇妙なのは──というより非常に興味深い文体的特徴としては──これほどシンプルに要約法でムイシュキン侯爵の行動を追っているだけのディエゲーシスなのに、何故か語り手が疑問形で自問自答をしている箇所があることだ。「もし半年前に、彼がはじめてペテルブルグへやってきたときに知りあった人が、いま彼の姿を一目見たならば、彼の風采がずっとよくなったと断言するにちがいない。だが、はたしてそうであろうか。たしかに、服装だけはすっかり変っていた。……」──なんというか、そこまでドストエフスキーの文体には自問自答の対話性が食い込んでしまっているのか? 客観的なことをシンプルに書き並べているだけのディエゲーシスにさえ疑問形がひょいと顔を出してしまうということは?
●『罪と罰』上182-183頁
第二部第二章
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彼はさっさと、しっかした足どりで歩いた。全身にひどい衰弱を感じたが、意識はちゃんとしていた。彼は尾行をおそれていた。三十分後、いや十五分後には、監視の指令がでるかもしれぬ。とすると、どんなことがあってもそれまでには証拠をかくしてしまわなければならぬ。まだいくらかでも体力と、ものを考える力がのこっている間に、うまく片づけてしまうことだ……では、どこへ行ったらいいのか?
それはもうかねがね決めていたことだ。《すっかり運河へ捨ててしまう、証拠を水中へほうむってしまえば、事はおわりだ》彼は昨夜のうちに、熱にうかされながらこう決意したのだった。そしてその都度、何度かがばと起きあがって、出かけようとしたことをおぼえていた。《早く、一刻も早く出かけて、すっかり捨ててしまわなければ》しかし捨てることは生やさしいことではないことがわかった。
彼はエカテリーナ運河への下り口に行きあたり、そのたびに下をのぞきこんだ。しかし計画の実行は思いもよらなかった。あるいは下り口の水ぎわに洗濯場があって、女たちが下着を洗っていたり、あるいは小舟がつないであったりして、どこも人がいっぱいで、それに岸のどこからでも見とおしで、大の男がわざわざ下りて行って、足をとめ、何か水の中へ捨てたら、怪しいと気づかれるにちがいない。しかもケースが沈まないで、流れたりしたらどうだろう? そうとも、沈むはずがない。そしたらみんなに見られてしまう。そうでなくても、会う人がみな、まるで彼にだけしか用がないみたいに、振り返ってじろじろ見るではないか。《どうしてだろう、それとも気のせいでそんなふうに思われるだけかな》と彼は考えた。
しまいに、彼はふと考えた。こんなことならネワ河のどこかへ行ったほうがいいのではないだろうか? あちらなら人は少ないし、ここほど目につかない、いずれにしてもここよりは都合がいいし、それに何よりも──ここから遠くはなれている。そう思うと彼はぎくッとした。どうして彼はせつない追い立てられるような気持で、こんな危険な場所を、三十分近くもうろうろしていたのだろう、こんなことはまえなら考えられなかったことだ! こんなばかげたことにまるまる三十分もつぶしたのは、要は、それが夢の中で熱にうかされながら決めたことだからだ! 彼は極度に散漫で忘れっぽくなっていた。そしてそれを自分でも知っていた。なんとしても急がなければならなかった!
主人公が町を歩いていくというシチュエーションの情景法だが、わりと複雑に構成されている。
まず注目しておいていいのは、「……ている(いた)」形のアスペクトの文章。しかも焦点人物のラスコーリニコフに対して用いられてさえいる(「彼は尾行をおそれていた」)。第三段落は冒頭から「……ている」形アスペクトの文章で始まっており、改行による飛躍をも利用しつつ現前性を散らしていく。
しかし現前性の散らしということで言えば、第二段落でフラッシュバック的に過去の文脈を導入しているのがもっとも技巧的だと言えるだろう。「彼は昨夜のうちに、熱にうかされながらこう決意したのだった。そしてその都度、何度かがばと起きあがって、出かけようとしたことをおぼえていた。」──見ての通り括復法的記述さえ用いている。この「昨夜のうちに」というのは第二部冒頭のことで、もちろんその時点では《すっかり運河へ捨ててしまう》という内語は書かれなかった。ほんの一瞬の錯時法。
しかしこの引用部のもっとも面白い点は、ラスコーリニコフの歩行によってではなくて、ラスコーリニコフの思考(およびそれを言語化した体験話法的地の文)によって場所の移行と場所の描写が行われていることだろう! ラスコーリニコフがエカテリーナ運河へ連れて行かれるのは、そこまで歩いて行ったという動作の記述があるからではなく、「……では、どこへ行ったらいいのか?/それはもうかねがね決めていたことだ。……」という風に地の文で自問自答的に展開される思考の流れによるものだ。次に彼がネワ河の方へ向かうのも、「しまいに、彼はふと考えた。こんなことならネワ河のどこかへ行ったほうがいいのではないだろうか? あちらなら人は少ないし、ここほど目につかない、……」「なんとしても急がなければならなかった!」という風に地の文がラスコーリニコフの思考を言語化しつつその勢いで段落を展開させているからこそである。そしてさらに、引用部で例えばエカテリーナ運河周辺の状況が描写されるのも、ラスコーリニコフの生き生きと注意深い思考の中においてのことなのだ。例えば運河周辺の具体的な描写は「……下り口の水ぎわに洗濯場があって、女たちが下着を洗っていたり、あるいは小舟がつないであったりして、どこも人がいっぱいで、それに岸のどこからでも見とおしで、大の男がわざわざ下りて行って、足をとめ、何か水の中へ捨てたら、怪しいと気づかれるにちがいない。」といった体験話法的地の文による具体的な思考の中で実現されている。或いは「そうでなくても、会う人がみな、まるで彼にだけしか用がないみたいに、振り返ってじろじろ見るではないか。」というラスコーリニコフの自問の言語化においてもすでに、「人々は彼に用でもあるかのように彼をじろじろ見た」という描写が含まれ伝達されている。単にラスコーリニコフの内的な思索を伝達するだけではなく、それと同時に場所の移動や場所の描写を実現してしまうということ! こういう風に一石二鳥な文章を駆使するのがドストエフスキーは非常に上手い。移動しながらの思考、移動しながらの科白、とか。
●『罪と罰』上159-161頁
第二部第一章
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階段をおりかけて、彼は品物をすっかり壁紙のかげの穴にかくしたままにしてきたことを思い出した。《ひょっとしたら、わざとおれを誘い出して、留守の間に家さがしをする肚かもしれん》そう思うと、彼は足をとめた。ところが深い絶望と、そんな言い方があるとしたら、破滅のシニスムというようなものが、突然はげしく彼をおそった。そこで彼はなげやりに片手をふると、階段をおりはじめた。
《ただ早くなんとかなってくれ!……》
通りはまた気が狂いそうな暑さだった。この数日一滴の雨も降らないのだ。またしても土埃、煉瓦、石灰、またしても小店や居酒屋から流れでてくる悪臭、そしてのべつ行き交う酔っぱらい、フィン人の行商人、半分こわれかかった馬車。強い日光にちかちか目をさされて、ラスコーリニコフは目が痛くなり、頭がひどくぐらぐらしだした。──これは明るく晴れわたった日に急に外へ出た熱病患者には、よくある症状である。
昨日の通りへ折れる曲り角まで来ると、彼は苦しい胸さわぎがして、ちらとそちらへ目をやり、あの建物を見た……が、すぐに視線をそらした。
《聞かれたら、おれは、言ってしまうかもしれぬ》彼は警察署のほうへ近づきながら、ふと思った。
警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。まだ、新築の建物の四階に移転したばかりだった。もとの署には、いつだったかもうだいぶまえのことだが、ちょっと立ち寄ったことがあった。門をくぐりながら、右手のほうの階段を見ると、帳簿をもった男が下りてくるのが目についた。《庭番らしいな。すると、署はあっちだな》そう思うと、彼は見当で階段をのぼりはじめた。誰にも何も聞きたくなかった。
《入ったら、ひざまずいて、いっさいを告白しよう……》と、四階の階段にかかると、彼は心に思った。
階段はせまくて、急で、一面に汚れ水がこぼれていた。一階から四階までどの部屋の台所も階段に向いて開けっ放しになっていて、ほとんど一日中こうだった。そのためにむしむしして息がつまりそうだった。帳簿を小脇にかかえた庭番や、巡査や、さまざまな男女の外来者などが、階段をのぼり下りしていた。署のドアも大きく両側へ開け放されていた。ラスコーリニコフは控室へ入ると、立ちどまった。そこには百姓風の男たちが立ったまま待っていた。ここもひどいむし暑さだった。おまけに、部屋の塗り直しをしたために、腐ったニスの上に塗ったペンキがまだ生乾きで、むかむかするような臭いが鼻をさした。しばらく待ってから、彼はもうひとつ先の部屋へ行ってみることにきめた。どの部屋もせまくて、天井が低かった。せきたてられるような焦りが彼を先へ先へ進ませた。誰も彼に気がつかなかった。二番目の部屋には書記らしい男たちが机に向って書きものをしていた。彼よりいくらかましという程度の身なりで、なんとも妙な風采の男たちばかりだった。彼はその中の一人のまえへ進んだ。
「何用だね?」
彼は警察からの呼出状を示した。
「きみは学生だね?」と、相手は呼出状をちらと見て、尋ねた。
「そう、元学生です」
主人公の移動を追った一見オーソドックスな情景法だが、実際には複雑。
まず、ラスコーリニコフが「歩いている」という描写が一つもないこと、したがってラスコーリニコフの現前的な移動そのものはまったく描かれていないことに注意しよう。代わりに「通りは……」「昨日の通りへ折れる曲り角まで来ると、……」「彼は警察署のほうへ近づきながら、……」「門をくぐりながら、……」「四階の階段にかかると、……」「階段はせまくて、……」「ラスコーリニコフは控室へ入ると、……」という場所の切り替わり=敷居にラスコーリニコフが差し掛かったポイントポイントでその場所の様子を描くことによって、彼の移動をモンタージュしていると看做せるのだ。とりわけ「通りはまた気が狂いそうな暑さだった。……」「警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。……」「階段はせまくて、急で、一面に汚水がこぼれていた。……」という三つの段落冒頭の文は、改行による転換+継続系アスペクトの文章による状態描写、の組み合わせによって主人公の歩行を大胆にモンタージュしている。
しかも、「その場所の様子を描く」と言ったが、それがまったく現前的な記述になっていないことにもさらに注目しなければならない。「通りはまた気が狂いそうな暑さだった。……」の段落では、「この数日一滴の雨も降らないのだ」といきなり時間幅を広くとって過去の文脈を導入。「またしても……」という副詞によって括復法的ニュアンスを付加し、「のべつ行き交う……」という形容で描写を抽象化し、さらにラスコーリニコフの感じる苦痛について一般論的な注釈を行う。「──これは明るく晴れわたった日に急に外へ出た熱病患者には、よくある症状である。」これは「通り」を記述する際にあえて現前的知覚から離れて、過去の文脈の導入、括復法的記述や習慣的記述によってその場所について書く、と意識しないかぎり決して書けないタイプの文章である。
「警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。……」から始まる段落についても同様。いきなり警察署の属性を記述することから始まっている(それによって場所の移動を表現しようとしている)のも凄いが、その後も当然のごとく「まだ、新築の建物の四階に移転したばかりだった。もとの署には、いつだったかもうだいぶまえのことだが、ちょっと立ち寄ったことがあった。」と現前的記述よりも過去の文脈への言及を挿入する。また、その後につづく《庭番らしいな。すると、署はあっちだな》というラスコーリニコフの内語は、ラスコーリニコフの能動的な思考というよりもむしろ無意識な判断の言語化といった趣きがあり、ラスコーリニコフの現前的な移動よりも周囲の様子の反映=モンタージュによって情景を構成していくという志向は変らない。
「階段はせまくて、急で、一面に汚れ水がこぼれていた。……」に始まる段落も注目に値する。「一階から四階までどの部屋の台所も階段に向いて開けっ放しになっていて、ほとんど一日中こうだった。」──これは明らかに習慣的記述であり、「ほとんど一日中こうだった」と断言するには現前的知覚だけでは不十分だ。少なくともこの警察署の内部を馴染みの場所として記述する意識がなければ、絶対に生まれて来ない文章だ。「おまけに、部屋の塗り直しをしたために、腐ったニスの上に塗ったペンキがまだ生乾きで、むかむかするような臭いが鼻をさした。」──この描写も、部屋の塗り直しという過去の文脈の導入でいかにもこの場に精通している立場からの観察のように書かれている。
このように情景法の中であっても現前的知覚・現前的描写というものを頑に外していくのが、ドストエフスキーの描写=モンタージュの立体性の肝か。
(思うに、或る対象や或る空間、或る場所を描写する際に、(単起的なその瞬間の知覚をもとに描くよりも)習慣的・括復法的に描く方が実は観察力を必要とするのではないか? ここではたまたま習慣的描写がなされているのではなく、見るべきものをしっかりと見た場合、それを記述するには、このように瞬間的な知覚的描写を越えて時間を束ね抽象化せざるを得ないのではないか?)
●『白痴』上459-461頁
第二篇第三章
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もう十一時をまわっていた。市内のエパンチン家へいま出かけていってみたところで、ただ仕事に忙しい将軍に会えるだけで、しかもそれさえ確かでないということを、公爵は承知していた。もっとも、将軍ならことによると、すぐに会ってくれたうえ、パーヴロフスクへ連れていってくれるかもしれぬ、という考えが浮んだが、公爵にはそれまでにもう一軒どうしても訪問したいところがあった。彼はエパンチン家へ行くのが遅れて、パーヴロフスク行きをあすに延ばす危険をおかしてまでも、ぜひ寄ってみたくてたまらないある家を捜しに行こうと決心したのである。
もっとも、この訪問は彼にとって、いくぶん危険を帯びていた。彼はしばらく思い迷っていた。彼はこの家についてそれがサドーヴァヤ街にほど近いゴローホヴァヤ街にあるということだけ知っていた。彼はそのそばまで行くうちに最後の決心がつくだろう、と考えて歩きだした。
サドーヴァヤとゴローホヴァヤの十字路に近づきながら、公爵は胸が異常に高鳴っていることに、われながらびっくりした。心臓がこんなに激しく動悸するとは思いもかけないことであった。と、一軒の家が、その風変りな外観のせいか、かなり遠いところから、彼の注意をひきはじめた。これは公爵があとになって思いだしたことだが、彼は『きっとあの家にちがいない』とひとり言を言った。彼は自分の勘が当ったかどうか確かめるために、異常な好奇心にかられてその家へ近づいていった。もし自分の勘が当っていたら、きっととても不愉快な気分になるにちがいない、となぜか彼は思った。
その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった。前世紀の終りに建てられたこの種の家は、きわめて少数であったが、移り変りの激しいペテルブルグにありながらも、このあたりの街ではまったく旧態依然として残っていた。これらの家は壁が厚く、窓が少なく、とても頑丈に建てられている。一階の窓にはときどき格子がはまっている。多くの場合、一階は両替屋になっている。上は、両替屋の厄介になっているスコペエツが借りている。外見から見ても中へはいってみても、なんだか愛想がなくてかさかさしており、いつも物かげへ姿を潜めようとでもしているような感じがする。しかし、なぜ建物の外観を見てそんな気がするかと言われても──ちょっと説明しにくいものがある。もちろん、建築上の線の組合せがその秘密を形づくっているのであろう。こうした家に住んでいるのは例外なく商人である。門に近寄って標札に眼をとめた公爵は、《世襲名誉市民ロゴージン家》と読んだ。
彼はもうためらうことはやめて、ガラス張りのドアをあけた。ドアは騒々しい音をたてて、彼のうしろでばたんとしまった。そこで彼は正面階段を二階へさして上りはじめた。……
この引用部を単にムイシュキン公爵の行動を要約法で追っているだけのシンプルなディエゲーシスと看做す読者は阿呆である。
簡潔に指摘すれば、「公爵にはそれまでにもう一軒どうしても訪問したいところがあった」と言われる公爵の行き先、それはムイシュキンにははっきりと分かっていたにもかかわらず、小説内でそれが明言されるのは第四段落の末尾「門に近寄って標札に眼をとめた公爵は、《世襲名誉市民ロゴージン家》と読んだ」という描写においてである。この明示の遅れと間接性──公爵が見た標札によって読者に告知──は明らかに作為的なものであり、およそシンプルではあり得ない。
では何故ここで公爵の行き先がロゴージンの家であることが最初は秘匿されつづけるのか? これは『罪と罰』でラスコーリニコフの謀殺の企図が第一部第五章になるまでラスコーリニコフ自身に向かってさえ明言されないのと同様の作為だろう。つまりここでムイシュキンは自分の行き先がロゴージンの家であることを知りながら、それを自意識から排除して無意識に抑圧してしまい、自分自身に対してさえ明言するのを避けているのだ。彼は実際最後の最後までロゴージンの家に行くのかどうか決心がつかずにいる。そして「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という位相にある語り手としては、ムイシュキンの内面での黙説を共有しつつ彼の自意識と無意識の分裂を逐一追っていく(「サドーヴァヤとゴローホヴァヤの十字路に近づきながら、公爵は胸が異常に高鳴っていることに、われながらびっくりした。心臓がこんなに激しく動悸するとは思いもかけないことであった」──この描写などまさにムイシュキンの自意識と無意識の分裂の記述!)ということを最優先でやっているわけだ。とにかく引用部の要約法の見掛けのシンプルに反した複雑さは、主人公のムイシュキンにリアルタイムで無意識が虚構されているという一点に存するのである。
また、「主人公の無意識は答えをすでにしっている」という状況が、「語り手は先の展開を知っていてそこからの逆算で叙述を構成する」という「超-認識」に基づいた立体的ディエゲーシスの作為と調和しやすいことを指摘しておこう。
主人公の無意識は答えをすでに知っている?──「これは公爵があとになって思いだしたことだが、彼は『きっとあの家にちがいない』とひとり言を言った。」たとえばこの一節を見よ。なぜそのひとり事を「あとになって」思い出すのか。その時の現在の彼の自意識の中には入ってこない言葉だったからだ。「あとになって」思い出すという行為には、その時の自意識では捕えられなかった自分自身の姿を事後的に意識化する(それを語り手の口を通じて地の文に流し込む)という明確な意味がある。
●『罪と罰』下334-336頁
第六部第三章
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彼はスヴィドリガイロフのところへ急いでいた。この男から何を期待できるのか──彼は自分でもわからなかった。しかしこの男には彼を支配する何ものかがひそんでいた。彼は一度それを意識してからは、もう平静でいることができなかった、そしていまそれを解決するときが来たのである。
途々一つの疑問が特に彼を苦しめた。スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?
彼が判断し得たかぎりでは、しかも誓ってもいいとさえ思ったのは──いや、行っていない、ということだった。彼は何度も何度も考えてみた、さっきのポルフィーリイの態度をすっかり思い返して、いろいろと思い合わせてみた。いや、行っていない、たしかに行っていない!
だが、まだ行っていないとすれば、彼はこれからポルフィーリイのところへ行くだろうか、行かないだろうか?
いまのところ、彼は行かないだろうという気がしていた。なぜか? その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない。そうしたすべてのことに苦しめられてはいたが、同時に彼はなんとなくそんなことにかまっていられない気持だった。奇妙な話で、おそらく誰も信じられないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった。彼を苦しめていたのは、それとは別な、はるかに重大な、どえらいもの──彼自身のことで、他の誰のことでもないが、何か別なもの、何か重大なものだった。それに、彼の理性が今朝は最近の数日に比べてよくはたらいていたとはいえ、彼は限りない精神の疲労を感じていた。
それに、ああいうことが起ってしまったいまとなって、こんな新しいわずかばかりの障害を克服するために、苦労する必要があったろうか? 例えば、スヴィドリガイロフにポルフィーリイを訪ねさせないために、わざわざ策を弄する必要があったろうか? たかがスヴィドリガイロフくらいのために、調べたり、探り出したりして、時間をつぶす必要があったろうか?
いやいや、そんなことには、彼はもうあきあきしてしまっていた!
とはいえ、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。あの男から何か新しい指示か、出口かを期待していたのではないか? 一本の藁にでもすがれるものだ! 運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ。あるいは、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、他の誰かだったが、スヴィドリガイロフがたまたまそこにいただけかもしれぬ。ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請いにか? それに、彼にはソーニャが恐かった。ソーニャ自身が彼にはゆるがぬ判決であり、変えることのできない決定であった。そこには──彼女の道か、彼の道しかなかった。特にいまは、彼はソーニャに会える状態ではなかった。いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。
ラスコーリニコフの思考をずっと追っていくという珍しい段落展開。一応ラスコーリ二コフがスヴィドリガイロフのところへ歩いていく間に考えたこと、という大枠はあるが。
段落内部では《……》を一度も使わず、普通の地の文と体験話法的な彼の思考の再現という二種を組み合わせている。「途々一つの疑問が彼を苦しめた」「彼は何度も何度も考えてみた」というのが普通の地の文で、その後にすぐ「スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?」「いや、行っていない、たしかに行っていない!」と明らかにラスコーリニコフの直接的な思考でしかあり得ない地の文がつづいたりする。そして、これらの思考はすべて小説内の現時点に根差した、きわめて具体的なものかつ一時的なものである。「いまのところ、……」「いまの彼は……」といった表現はそうでなければ出て来ないものだ。
改行の使い方も面白い。疑問を提示する段落と、それについてのリアルタイムな思索(判断・回答)というのが交互に来るようになっている。つまり段落と段落の間で対話(自問自答)を行っているような趣き。しかも、疑問の方はラスコーリニコフの肉声に近い形で提示され(「なぜか?」)、それについての思索の方はディエゲーシス的に記述される(「その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない」)のも、面白い。あくまでもラスコーリニコフの内語ではなく地の文において展開される自問自答なので、まるでラスコーリニコフの代わりに語り手が応えてやっているかのような趣きもある(「奇妙な話で、おそらく誰も信じないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった」)。おそらく誰も信じないかもしれない、とか、ラスコーリニコフが「……のようなことはしなかった」にちがいない、とか一々断わっているのは誰だ? 語り手以外ではあり得ない。いや、引用部最後の段落に至っては、自問自答の「自問」でさえラスコーリニコフに代わって語り手が担当しているかのようではないか……(「運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ」「ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請いにか?」)。
要するにこういうことだ。ここではまさに現時点のラスコーリニコフにとって非常に切迫した問題が自問自答と形で展開されているのだが、それをずっと地の文が引き受けているためにあたかも語り手が彼の自問自答を代行しているかのような印象を与えるわけだ。「いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。」──まるで語り手がラスコーリニコフに代わって疑問を提起して、ラスコーリニコフに代わってそれに答えているかのようではないか! ディエゲーシスの中でこういうことが起っているというのが珍しい。ドストエフスキーの文体に固有の現象だろう。
●『罪と罰』下337-338頁
第六部第三章
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この数日の間ラスコーリニコフの頭にはたえずもう一つの考えがちらついて、彼をおそろしく不安にしていた。そして彼はその考えを追い払おうと空しい努力をつづけていた。それほどその考えは彼にとって重苦しいものだった! 彼はときどき、スヴィドリガイロフはたえず彼のまわりをうろついていたし、いまでもうろついている、スヴィドリガイロフは彼の秘密を嗅ぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して何かたくらんでいる、ということを考えた。で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいると思って、まずまちがいはない。そこで、もしいま、彼の秘密をにぎり、それによって彼を支配する力を手中におさめ、それをドゥーニャに対する武器に使用しようなどという考えを起されたら?
この考えはときどき、夢の中でさえ、彼を苦しめた、しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。これを考えただけで、彼は暗い狂おしいまでの怒りにひきこまれた。第一に、そうなればもうすべてが変ってしまう、彼自身の立場さえ変ってくる。とすれば、いますぐドゥーネチカに秘密を打ち明けねばならぬ。もしかしたら、ドゥーネチカに不用意な一歩を踏み出させないために、自首するようなことになるかもしれない。手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか? (まさかルージンが?)もっとも、ラズミーヒンが守っていてはくれるが、あの男は何も知らない。ラズミーヒンにも打ち明けるべきだろうか? ラスコーリニコフはこう思うと、嫌な気がした。
いずれにしても、できるだけ早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ、彼は腹の中でこう結論を下した。ありがたいことに、彼との対決ではこまごましたことは必要ではなかった。それよりも問題の本質だ。だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、──そのときは……
ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう? 彼はN通りに立っていた。そこはいま通ってきたセンナヤ広場から三、四十歩のところだった。左手の建物の二階は全部居酒屋になてちた。窓はすっかり開け放されていた。窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。広間には歌声が流れ、クラリネットやヴァイオリンが鳴り、トルコ太鼓の音が聞えていた。女の甲高い声も聞えた。彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際に、窓によりかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。彼ははっとして、思わず鳥肌立つような恐怖をおぼえた。スヴィドリガイロフが黙ってじいッとこちらをうかがっていたのである。そしてすぐにまた、ラスコーリニコフはもう一度はっとした。スヴィドリガイロフは気付かれないうちにそっと逃げようとしたらしく、そろそろと席を立つような気配を見せたのだ。ラスコーリニコフはとっさに、こちらも気がつかないような振りをして、ぼんやり脇のほうを見ながら、目の隅でじっと相手の観察をつづけた。胸があやしく騒いだ。そうだったのか。スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ。……
ドストエフスキーに特異な地の文の文体の一例。
まずは第一段落と第二段落に注目。これらは主人公のひりひりするほど切迫した思惟を生々しく再現している段落である。それでいて括復法的なトーンを帯びていること、しかしながら後に現前的記述に繋がっていかなくてはならないので、技巧的に「今」をそれとなく暗示していること、これが注目すべきポイントだ。
基本的には地の文がラスコーリニコフの内語(における自問自答)を代行しているかのように思える文体である。「で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいると思って、まずまちがいはない。」ほとんどラスコーリニコフの内語そのものではないかという言葉さえ地の文に織り込まれている。「手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか?」「だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、──そのときは……」ところが「この数日の間……」「彼はときどき……」「この考えはときどき……」「ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは……」という記述からも分かるようにここでは括復法的に時間が抽象化され束ねられた上でラスコーリニコフの思惟を展開しているのだ。だからこそ、ほとんどラスコーリニコフの内語でしかありえない言葉でさえ《……》で括らず地の文に流し込んでいるのだろう。たしかに括復法という抽象化がなされている以上、ここで《……》を使うのはふさわしくないように思われる。
しかしそれでいて、ここではラスコーリニコフがスヴィドリガイロフのところへ向かっている「今」も文体的に暗示されているのだ。「しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。」──の箇所のことだ。こうやって時々小説内時間の「今」を喚起してやらないと、第四段落で括復法的記述がシームレスに現前的記述へと繋がるというアクロバットな展開は不可能になる。「ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう?」──この一ヵ月のことを語っていたはずの地の文は、「彼は通りの真ん中に立ちどまって、……」でいきなり現前的場面を現出させる! こういうことが可能なのも、ドストエフスキーの文体が括復法一辺倒、現前性一辺倒におちいらない柔軟性を帯びているからだ。
以上、重要なことを確認しておくと、あくまでラスコーリニコフの思惟を生々しく再現しようとしているにもかかわらず、《……》を使うべきではないと感じさせる場合がある。引用部がその一例で、括復法的ディエゲーシスの中に生々しい自問自答を織り込むということをやる場合には、地の文ですべてをまかなうことが推奨されるわけだ。
で、余談。「彼はN通りに立っていた。……」から周囲の風景の描写が始まるが、「窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。」の一文に注目。これは単なる知覚的描写ではない。知覚したのは人影だけだが、その情報から判断して通常なら・いつもならこうなっているはずだという習慣的記述として「居酒屋は満員」の描写が導かれているからだ。思うに、或る対象や或る空間、或る場所を描写する際に、(単起的なその瞬間の知覚をもとに描くよりも)習慣的・括復法的に描く方が実は観察力を必要とするのではないか? ここではたまたま習慣的描写がなされているのではなく、見るべきものをしっかりと見た場合、それを記述するには、このように瞬間的な知覚的描写を越えて時間を束ね抽象化せざるを得ないのではないか? 『罪と罰』上9-11頁にも似たような「描写」があったことを思い出そう。
●『罪と罰』上151-153頁
第二部第一章
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そのまま彼はずいぶん長い間横になっていた。ときどき、目がさめたような状態になって、もうかなり夜更けになっていることに気がついたが、起きようという考えが頭にうかばなかった。とうとう、彼はもう昼のような明るさになっていることに気がついた。彼は先ほどのもうろうとした状態からまださめきらずに、ソファに仰向けに寝ていた。通りのほうからぞっとするような、気ちがいじみたわめき声が、鋭く彼の耳に聞えた。もっともそれを彼は毎夜二時すぎに、窓の下のほうに聞いていた。それがいま彼の目をさまさせた。《あ! もう居酒屋から酔っぱらいどもがつまみ出される時間か》彼はふと考えた。《二時すぎだな》と不意に、まるで誰かにソファからつきとばされたように、とび起きた。《なんと! もう二時すぎか!》彼はソファに腰を下ろした、──とたんにすべてを思い出した! 不意に一瞬にしてすべてを思い出した!
最初の瞬間、彼は気が狂うのではないかと思った。おそろしい寒気が彼をおそった。しかしそれはまだ寝ているうちからはじまって、もうかなりの時間になる熱病のせいでもあった。それがいま突然、歯がガチガチなるほどのおそろしい悪寒におそわれて、身体中がはげしくふるえだした。彼はドアを開けて、耳をすましはじめた。建物の中はすっかり寝しずまっていた。彼は自分の姿を、それから部屋の中を見まわして、おどろいた。彼はどうして昨日部屋へ入ってから、ドアに鍵もかけないで、服を着たまま、帽子さえもぬがずにソファにころがるようなことができたのか、自分でもわからなかった。帽子は枕もとの床板の上にころがっていた。《もし誰かがのぞいたら、いったいなんと思ったろう? 酔っていると思ったかな、だが……》彼は窓のそばへかけよった。明るさは十分だった。彼は急いで着ている服をすっかり足の先から頭のてっぺんまでしらべはじめた。痕はのこっていないか? だが、それでは足りなかった。彼は悪寒にぞくぞくふるえながら、着ているものをすっかりぬいで、もう一度丹念に見まわしはじめた。彼は糸屑からぼろのはてまで、すっかりひっくりかえして見たが、それでも安心ができないで、そうした検査を三度ほどくりかえした。しかし痕は何もないようだ。ただズボンの裾がさけて、ほころびが垂れ下がっている個所があったが、そのほころびにかたまった血の痕が濃くこびりついていた。彼は折りたたみ式の大きなナイフを出して、そのほころびを切りとった。あとはもう何もなかったような気がする。不意に彼は、老婆のトランクの中から盗み出した財布や品物が、まだポケットに入れっ放しになっていることに気がついた! いままでそれをポケットから出して、かくそうという考えが、頭にうかばなかったのだ! 服をしらべていた今でさえ、それを思い出さなかった! なんとしたことだ? 彼はあわててそれをポケットから机の上にほうり出しはじめた。すっかりほうり出すと、ポケットを裏返しにしてまで、もう何もないことをたしかめたうえで、ひとまとめにして部屋の隅へもっていった。いちばん隅の下のほうが一ヵ所、壁紙が破れてはがれかけていた。彼は大急ぎでそれをその壁紙のかげにある穴へおしこみはじめた。《入ったぞ! これで目にふれまい、どれ財布もかくしてやろう!》彼は中腰になって、さっきより大きくなった穴をぼんやりながめながら、ほっとしてこんなことを考えた。とたんに、彼は身体中が凍るような恐怖をおぼえた。《なんということだ》彼は絶望的につぶやいた。《おれはどうかしたのか? こんなことでかくしたといえるか? こんなかくし方ってあるだろうか?》
たしかに、彼は品物のことは計算においてなかった。金だけだろうと思っていたから、あらかじめかくし場所を用意しておかなかったのだ。《それなのにいま、いまおれは何を嬉しがっているのだ?》と彼は考えた。《こんなかくし方ってあるだろうか? ほんとうにおれは理性を失っているのだ!》彼はぐったりとソファへ腰を下ろした、するとたちまちたえがたい悪寒がまた彼をおそった。彼は反射的に、そばの椅子の上にうっちゃってあった、あたたかいことはあたたかいが、もうすっかりぼろぼろになってしまった学生時代の冬外套をひきよせて、すっぽりとかぶった、すると急にまた眠気と悪夢がおそいかかった。彼はもうろうとなった。
引用部は章冒頭から始まっており、それまで寝ていた主人公が起床するという形になっている。プルーストが特異な記述を試みたりしているけれども小説でそれをどう描くかは未だ課題のままに留まっている。
ドストエフスキーの場合に重要なのは決して単線的に描写を繋げていってはならないということだろう。引用部はラスコーリニコフの内的感覚を辿っていくことが中心になっているが、「……とび起きた。……と思った。……がおそった。……おどろいた。」という風に無アスペクトの描写が忙しく連続するということはまったくない。それどころか部分的に習慣的記述を挿入している個所さえある!──「通りのほうからぞっとするような、気ちがいじみたわめき声が、鋭く彼の耳に聞えた。もっともそれを彼は毎夜二時すぎに、窓の下のほうに聞いていた。それがいま彼の目をさまさせた。……」(ただし直後に「いま」を指示して現前性を取り戻しているが)。そして記述の単線性を拡散するものとしてアスペクト「……ている(いた)」が多用されていることに注目せよ。
見ての通り、第一文からして結果継続のアスペクトから始まっているのだ。「そのまま彼はずいぶん長い間横になっていた。」その後も単線的な描写がつづいていく中にかなりの頻度でアスペクト「……ている(いた)」の文章が現われる。必ずしも文末ではなく副詞句や名詞修飾句内で現われることもあるが(「しかしそれはまだ寝ているうちからはじまって、もうかなりの時間になる熱病のせいでもあった」)、いずれにせよ効果は同じだ。すなわち瞬間的に時間幅を広くとった文脈を情景法の中に混入させる効果である。例えば「老婆のトランクの中から盗み出した財布や品物が、まだポケットに入れっ放しになっている(ことに気がついた)」という文章における結果継続のアスペクトは、前景化されたのは気付いた時点だったとしても、それよりはるか以前からこの情景法の背後でずっと継続していたある事象を導入してみせているのである。アスペクト「……ている(いた)」によって情景法の時間を重層化していくこと。例えば「帽子は枕もとの床板の上にころがっていた」「壁紙が破れてはがれかけていた」といった描写においてもそうした重層化が働いているわけだ。引用部全体としては現前性の力が強いとはいえ、ところどころでアスペクト「……ている(いた)」が用いられることによって情景法に立体性が加えられていることは見逃せない。余談だが、アスペクトということで言えば動きの開始のアスペクト「動詞連用形+はじめる」の使用頻度も引用部では高い。また一ヵ所、状態のアスペクト「……て+ある(あった)」も使われている。
もう一点、引用部に特徴的なことを指摘すると、ここで語り手はラスコーリニコフの乱れた心理を追ってもいるのだが、それが《……》で括られて内語で書かれるケースと(「《もし誰かがのぞいたら、いったいなんと思ったろう? 酔っていると思ったかな、だが……》」「《おれはどうかしたのか? こんなことでかくしたといえるか? こんなかくし方ってあるだろうか?》」)、地の文で体験話法的に書かれるケースと(「痕はのこっていないか?」「いままでそれをポケットから出して、かくそうという考えが、頭にうかばなかったのだ! 服をしらべていた今でさえ、それを思い出さなかった! なんとしたことだ?」)、二通りあって併用されている。これは何の意味があるのか。おそらく後者の方は、ラスコーリニコフが内面において語った言葉そのものではなく、彼の仕種や身振りや動作がそう語っているように思われる言葉を体験話法で記述したものではないか? つまり登場人物の内面というのは決して私秘的ではなく、表にあらわれる動作や身振りがそのまま内語のシニフィアンであるような場合もあるということか。そういう認識に基づいた記述方法か。内語がそのまま発話されたような科白を登場人物に喋らせるドストエフスキーがやりそうなことではある。
余談。「《あ! もう居酒屋から酔っぱらいどもがつまみ出される時間か》彼はふと考えた。《二時すぎだな》と不意に、まるで誰かにソファからつきとばされたように、とび起きた。」──この個所、「ふと」とか「不意に」とか偶然の契機を使いすぎだろう。
●『永遠の夫』17-20頁
第一章
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『どうやら、こりゃあ』と、彼は時どき自嘲的な調子で考えはじめるのだった(一体彼は、自分のことを考える際には、ほとんど常に自嘲的な調子でやりはじめる男だったが)、『どうやらこりゃあ、誰かしら俺の行状を叩き直してやろうとお節介を焼く奴があって、さてこそこんな厭らしい思い出だの、「悔恨の涙」だのを差し向けてくると見えるわい。どっこい、そうは問屋が卸さんぞ! 所詮は空弾でぽんぽんやるようなものさ! そもそも俺は先刻承知なんだ。承知どころか知り抜いているんだ。そんな悔恨の涙をいくら流したところで、そんな自己譴責をいくらやったところで、馬鹿げた四十づらをさげながら、この俺にゃ一家の見識なんていうものは、雀の涙ほどもありはせんのだ! 論より証拠、あすの日にも何か誘惑がやって来てみろ。そうさな、例えばまたしてもあの教師の細君が俺の贈物を受けたという噂を、弘めるのが俺にとって好都合だといった場合が、生じたとして見ろ、──てっきり俺は、そいつを弘めるにきまってるさ、けろりとしてな。──おまけに事は今度が初めてじゃなくて、二度目なんだから、初めての時より一段と醜悪で厭らしいものになるだろう。それともまた、あの公爵の小倅が今ここへ出てきて、もう一ぺんこの俺を侮辱して見ろ。あいつは母ひとり子ひとりの大事な息子で、十一年前にこの俺がずどんと一発、片脚ぶち折ってやった奴だが、──俺は即刻奴に決闘を申込んで、もう一ぺん松葉杖の厄介にならせてやる。要するに空弾に過ぎんのだ。なんの足しにもなりはせんのだ。第一、自己を脱却するすべときたら、爪の先ほどの心得もないこの俺が、むかしのことを思い出したところでなんになるものか!』
さて、教師の細君との悶着は二度とくり返されず、誰ひとり松葉杖の厄介になるような目には逢わされなかったけれど、ただもしそうした羽目に立ち到ったら、てっきりそうした騒動が再演されずに済むものじゃないという考え一つが、ほとんど死なんばかりの苦痛を彼に与えるのだった……時たまではあったけれど。だが実際のところ、人間のべつ幕なしに、くよくよしてばかりもいられないものである。幕あいには、一服やりに、ぶらぶらしても差支えないわけだ。
じつのところ、ヴェリチャーニノフもよくそれをやった。つまり彼は、幕あいの漫歩を試みる気ではいたのだが、にもかかわらずペテルブルグの彼の生活は、時とともにますます面白くなくなるばかりだった。とうとう、七月も間ぢかになってしまった。時どき彼の頭には、何もかも、例の訴訟までもほっぽり出して、行き当りばったりにどこかへ、それも出し抜けに、思いもかけずといったあんばい式で、例えばいっそクリミヤへでも遠走ってしまえという決意が、ひらめくことがあった。だが大抵は一時間もすると、もう彼はその考えを軽蔑して、まずこういった嘲笑を吐きかけるのが常だった。──『この厭らしい想念ときたら、一度はじまったら最後、またこの俺に些かなりと人格というものがある以上、どんな南へ逃げ出したところで、金輪際やまるものじゃないんだ。だからつまり、そんな想念から逃げ出すには当らんし、また第一そうする理由もありはしないんだ。』
『それにまた、逃げ出してどうしようって言うんだ』と、彼はやけくそで理屈をこねつづけた、『なるほどこの町はすこぶるほこりっぽい、蒸暑い。おまけにこの宿ときたら、何から何までえらく薄ぎたない。また、いろんな用件で眼の色を変えている連中にまじって、俺がうろつき廻る裁判所ときたら──それこそ二十日鼠みたいなせわしなさ、古着市場へでも行ったような騒ぎだ。どこへも出かけずに、この町に居残っている連中、朝から晩まで鼻先をちらちらしている奴らの顔という顔には、──奴らの利己心だの、悪気のない無自覚な鉄面皮さだの、おっかなびっくりな小心さだの、鶏みたいにこせこせした根性だのが、無邪気なくらい出しっぱなしになっている、──まったくこの町こそ、大真面目で言って、ヒポコンデリー患者にとっちゃ極楽浄土なのだ! 何から何まで、あけっぱなしで、はっきりしている。誰ひとりとして、別荘だの外国の温泉場だのでわが国の奥さんがたがよくやるような、かくし立てということを、てんで入用とも考えちゃいないのだ。──だからつまり、何ごとにまれ、ざっくばらんで率直にやりさえすりゃ、それだけでもう、ぐんと尊敬に値するというわけなんだ。……いいや、どこへだって行くことじゃないぞ! よしんばここで身を滅ぼそうとも、金輪際ここを動かんぞ……』
引用部はすべて特定の日時を指定しない、時間幅を広くとって「最近」ヴェリチャーニノフの身に起こっていることを説明するディエゲーシスという文脈の上にある。従って、ここで『……』で括られた内語は──内語が挿入される前後にある「彼は時どき……考えはじめるのだった」「だが大抵は一時間もすると……こういった嘲笑を吐きかけるのが常だった」の記述を見ても分かるとおり──場所も時間も不特定で、語り手が無時間的に引用して段落展開を構成しているかのような趣だ。ここに挿入され、こういう順番で並んでいるのは、語り手の恣意である。
つまりこれらの内語は特定の現前的場面で発せられたものとしては構成されていない。にもかかわらずあたかもその言葉によって現前的描写が可能になっているかのような印象を与えるのは何故か? それは、これらの内語がヴェリチャーニノフが一人でいる時に発されたものであることが明らかなのに、つまり自分一人で自分一人が聞きたいことを喋っているだけなのに、勝手に外界と対話して自分の外部から攻め込んで来るものに対して必死で対抗しようとしてばかりいるからだ。そもそもここでヴェリチャーニノフは、自分の心理や精神の変化という内面的なことを問題にしているはずなのに、それを語る言葉のイントネーションは端から他罰的に外へ逸れて行く。「誰かしら俺の行状を叩き直してやろうとお節介を焼く奴があって〔誰だよ……〕、こんな厭らしい思い出だの、悔恨の涙だのを差し向けてくると見えるわい」「それともまた、あの公爵の小倅が今ここへ出てきて、もう一ぺんこの俺を侮辱してみろ」「おまけにこの宿ときたら、何から何までえらく薄ぎたない」「この町に居残っている連中、朝から晩まで鼻先をちらちらしている奴らの顔という顔には、──奴らの利己心だの、悪気のない無自覚な鉄面皮さだの、おっかなびっくりな小心さだの、鶏みたいにこせこせした根性だのが、無邪気なくらい出しっぱなしになっている」──バフチンの言うようにここでヴェリチャーニノフは自分の連想の中に現れてくる外的対象すべてに痛いところをつかれ、内面はそれらの対象で一杯となり、それと情熱的に応答することで内語を増殖させていく。これは普通の意味での内省とは言い難い。外側からやってくる内省? 自分の想念すらもヴェリチャーニノフにとっては外からやって来るようなものであるらしい(「この厭らしい想念ときたら……」「そんな想念から逃げ出すには当らん……」)。
ヴェリチャーニノフの内語がこのような「外側からやってくる内省」の形式を帯びていることは、小説技法的には主人公の生々しい肉声によって語り手の説明的ディエゲーシスを代行するという意味がある。現に、引用部の最後のところでは、ヴェリチャーニノフが何故この蒸暑いペテルブルグに居座ることに決めたのか、語り手に代わって主人公自身が堂々と説明してくれているのである。
●『罪と罰』上121-123頁
第一部第六章
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「六時はとっくにすぎたぞ!」
「とっくに! さあたいへんだ!」
彼は戸口へかけより、そっと気配をうかがってから、帽子をつかみ、猫のようにそっと足音を殺して、例の十三階段を下りはじめた。台所から斧をぬすみ出すという、もっとも重大なしごとがひとつのこっていた。斧で片をつけなければならぬということは、もうまえまえから決めていた。彼にはそのほか庭師のつかう折りたたみナイフがあったが、ナイフに、それよりも自分の力に、彼は望みがもてなかった。そこで結局は斧にきめたわけだ。ついでに心にとめておきたいのは、この事件で彼がとったすべての最終的決定には、一つの変った性格があったことである。その性格というのは実に奇妙なもので、決定が最終的なものになるにつれて、それが彼の目にはぶざまな理にあわぬものに見えてきたということである。心の中でたえまなく苦しいたたかいをつづけてきたが、彼はこれまでの間ひとときも自分の計画が実行可能であるとは信ずることができなかった。
だから、いずれ、もうすべては最後の一点までしらべつくされて、最後的に決定されたものであり、そこにはもうすこしの疑いものこされていない、というような状態になったとしても、そのときでも彼は、理にあわぬおそろしい不可能なこととして、すべてを断念したことであろう。しかし未解決の点と疑惑はまだまだ無限にのこっていた。さて斧をどこで手に入れるかという問題だが、こんな些細なことは彼にすこしの不安も感じさせなかった。これほどたやすいことはなかったからだ。というのは、ナスターシャは、わけても晩には、ほとんど家にいたためしがなかったからである。近所の家へ行っているか、そこらの店であぶらを売っているかで、戸はいつもあけっ放しだった。それだけが主婦と彼女の言い合いの種だった。というわけで、いよいよというときに、そっと台所へしのびこんで、斧をもち出し、あとで、一時間もしたら(すべてが終わってから)、またしのびこんで、元どおりにもどしておきさえすればよかった。だが、疑惑もあった。一時間後にもどしにかえってきたとき、折あしくナスターシヤがもどっていたらどうしよう。もちろん、素通りして、彼女がまた出て行くのを待たねばならぬ。しかしその間に斧がないことに気づき、さがしはじめて、さわぎたてたら、──そこに嫌疑が生れる、あるいは少なくとも嫌疑の理由になる。
これは純粋なディエゲーシスというよりは特殊なもので、現前的場面から段落途中の「ついでに心にとめておきたいのは、……」からディエゲーシスにいつの間にか移行しているというケース。それゆえにか段落の構造化というのも、通常の事実関係を的確に伝えるとともにいかに事実の羅列に終始しないようにするか、というのとは別の課題でなされているように思える。
第二段落ではとにかく接続詞が多い。というか改行後いきなり「だから、……」で始まっている。ほかにも、「しかし」「だが」の多用が目立つ。「しかし未解決の点と疑惑は……」「だが、疑惑もあった」「しかしその間に斧がないことに気づき……」──「しかし」の多用は普通伝えたいことがあちらこちらにブレている印象を与えて好ましいものではないが、ここではラスコーリニコフの(以前の)思考をそのままトレースしたような、口述筆記のようなディエゲーシス文体を採用しているためにこうした形になっているかのようだ。「さて……という問題だが、……」「というのは、……からである」「というわけで……さえすればよかった」といった形の、アドホックに前文を受け継ぐ文接続が見られるのもさらに口述筆記風の印象を強める。「もちろん、……しなければならぬ」の文におけるこの「もちろん」という接続詞の使用も、さらにその印象を補強する。極めつけは「一時間後にもどしにかえってきたとき、折あしくナスターシヤがもどっていたらどうしよう。」の疑問形の使用で、このような疑問形が飛び出してくるほどに文体に(反リゴリスティックな)柔軟性が与えられているということが、いかにも口述筆記、さらに言えばラスコーリニコフに取材した上での口述筆記のような印象を与えるのだ。
そもそも第一段落の「そこで斧に決めたわけだ」の一文からして口述筆記風。「その性格というのは……ということである」のアドホックに前文を受け継ぐ文接続もすでにある。第一段落最後の一文は否定辞によって終わっている。
つまり、ドストエフスキー作品のディエゲーシスには基本を離れた珍しいパターンが頻出するということ。
余談。ドストエフスキーは、この種の「ついでに心にとめておきたいのは、……」という形の文接続によって叙述を転回させることが非常に多い。「ついでに断わっておくが……」「ひとこと断わっておくが……」というのが類例。しかし「心にとめておきたい」という表現は面白い。
さらに余談。「もちろん」は前述のとおり口述筆記風ディエゲーシスの印象を強めるが、これは「作家の日記」では頻出の演算子。「もちろん人々は、笑いながら、これは──どう力んでみてもたかが文学、たかが小説にすぎないではないか、それなのに大袈裟に騒ぎ立てて、小説を看板にかかげてヨーロッパに押し出すなんてまったく滑稽な話だと、大声で叫びはじめるに相違ない。」
さらにさらに余談。第二段落第一文「だから、いずれ、もうすべては最後の一点までしらべつくされて、最後的に決定されたものであり、そこにはもうすこしの疑いものこされていない、というような状態になったとしても、そのときでも彼は、理にあわぬおそろしい不可能なこととして、すべてを断念したことであろう。」──これは語り手による想像的仮定だね。
●『罪と罰』下82-86頁
第四部第四章
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「ねえきみ」と彼はしばらくするとソーニャのほうを向いて、つけ加えた。「ぼくはさっきある無礼者に言ってやったよ、やつなんかきみの小指にも値しないって……それからまた、今日はもったいなくも妹を、きみと並んでかけさせてやったって」
「まあ、あなたはそんなことをそのひとたちにおっしゃいましたの! しかも妹さんのまえで?」とソーニャはびっくりして叫んだ。「わたしと並んでかけさせたって! もったいないって! なんてことを、わたしは……恥ずべき女ですわ、ひじょうに、ひじょうに罪深い女ですわ! ああ、あなたはなんてことを言ってくれたんでしょう!」
「ぼくがきみのことでそう言ったのは、恥とか罪のためではない、きみの深い大きな苦悩のためだ。きみはひじょうに罪深い女だというが、たしかにそのとおりだ」彼は自分の言葉に酔ったようにこうつけ加えた。「きみが罪深い女だという最大の理由は、いわれもなく自分を殺し、自分を売りわたしたことだ。これが恐ろしいことでなかったらどうかしてるよ! きみは自分でこれほど憎んでいる泥沼の中に生きながら、同時に自分でも、そんなことをしても誰の助けにもならないし、誰をどこからも救いだしはしないことを知っている。ちょっと目を開ければわからないはずがない。これが恐ろしいことでなくて何だろう! さあ、ぼくは、きみに聞きたいんだ」と彼は激昂のあまりほとんどわれを忘れかけて叫んだ。「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ? いきなりまっさかさまに河へとびこんで、ひと思いにきりをつけてしまうほうが、どれほど正しいか、千倍も正しいよ、よっぽど利口だよ、そう思わないか!」
「じゃ、あのひとたちはどうなります?」とソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。
彼はその目の中にすべてを読みとった。つまり、実際に彼女自身すでにこの考えがあったのだ。おそらく、何度となく真剣に、どうしたらひと思いにかたがつけられるかと、絶望にしずみながら思いめぐらしたにちがいない。そしてそれがあまりにも真剣なために、いま彼の言葉を聞いてもすこしもおどろかないほどになっていたのであろう。彼女は彼の言葉の残酷さにさえ気づかなかった(彼の非難の意味も、彼女の汚辱を見る彼の特別な視線の意味も、むろん、彼女は気づかなかった。そしてそれが彼にははっきりわかった)。しかし彼は、このいやしい汚辱の境遇を恥じる思いが、もうまえまえから、どれほどのおそろしい苦痛となって彼女をさいなみつづけてきたかを、はっきりとさとった。いったい何が、彼は考えた、いったい何が、ひと思いに死のうとする彼女の決意を、これまでおさえてくることができたのだろう? そしていまはじめて彼は、父を失った哀れな小さな子供たちと、肺を病み、頭を壁にうちつけたりする、みじめな半狂人のカテリーナ・イワーノヴナが、彼女にとってどれほどの意味をもっているかを、はっきりとさとったのである。
しかしそれと同時に、あんな気性をもち、多少とも教育を受けているソーニャが、ぜったいにこのままでいられるわけがないことも、彼にはわかっていた。河に身を投じることができなかったとすれば、いったいどうしてこんなに長いあいだ気ちがいにもならずに、こんな境遇にとどまっていることができたのか? これはやはり彼にとって疑問だった。もちろん彼は、ソーニャの境遇が、たったひとつの例外というにははるかに遠いのはくやしいが、とにかく社会の偶然な現象であることは知っていた。しかしこの偶然そのものが、このある程度の教育とそれまでの生活のすべてが、このいまわしい道へ一歩ふみだしたところで、たちまち彼女を死へ追いやることができたはずではなかったか。彼女を支えていたのは、いったい何だろう? まさか淫蕩ではあるまい。この汚辱は、明らかに、機械的に彼女にふれただけだ。ほんものの淫蕩はまだ一しずくも彼女の心にしみこんでいない。彼にはそれがわかった。現に彼女は彼のまえに立っているではないか……
《彼女には三つの道がある》と考えた。《運河に身を投げるか、精神病院に入るか、あるいは……あるいは、ついに、理性をにぶらせ、心を石にする淫蕩な生活におちこむかだ》最後の想定は彼にとってもっともいまわしかった。しかし、彼はもともと懐疑的だし、若いし、理論的だった。だから残酷でもあったわけで、最後の出口、つまり淫蕩な生活がもっとも確率が高いことを、信じないわけにはいかなかった。
《だが、いったいこれが本当だろうか》と彼は腹の中で叫んだ。《まだ魂の清らかさを保っているこの女が、そうと知りながら、ついには、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へひきこまれて行くのだろうか? この転落がもうはじまっているのではなかろうか、だからこそ罪がそれほどいまわしいものに感じられず、それで今日まで堪えて来られたのではなかろうか? いや、いや、そんなはずはない!》と彼は、さっきのソーニャのように、叫んだ。《今日まで彼女を河にとびこませなかったのは、罪の意識だ、あの人たちだ、……じゃ、今日まで気が狂わずにいられたのは……だが、気が狂わなかったと、誰が言った? 果していまノーマルな理性をもっているだろうか? 彼女のような、あんなものの言い方ができるものだろうか? ノーマルな理性をもっていたら、彼女のような、あんな考え方ができるだろうか? 破滅の上に坐って、もうひきこまれかけている悪臭にみちた穴の真上に坐って、その危険を知らされても、あきらめたように手を振り、耳をふさぐなんて、そんなことが果してできるだろうか? 彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか? きっとそうだ。果してこうしたことがみな発狂の徴候でないと言えようか?》
彼はこの考えにしつこくこだわっていた。むしろこの出口が、ほかのどんな出口よりも彼には気に入った。彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。
「それじゃ、ソーニャ、きみは真剣に神にお祈りをする?」と彼は聞いた。
ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待った。
「彼はその目の中にすべてを読みとった。……」から始まる四つの段落は現前的会話場面のなかに挿入されたディエゲーシスである。こういうケースは珍しいので分析に値する。
最初の二つの段落は純粋に地の文のみによる展開であり、特に二つ目の段落は冒頭が「しかし」という接続詞で始まるという論理的連繋を見せているが、しかしこれらは説明的ディエゲーシスではあるまい。ではこれは実際何かというと、「彼はその目の中にすべてを読みとった」と表現されているとおりに、ラスコーリニコフがその時点で一瞬のうちに無意識で理解し思索したことの、語り手による地の文でのパラフレーズであろう。これは『罪と罰』上185-188頁の分析ですでにお馴染みの手法。以前の分析の引用しよう。《「無意識に照準を合わせた」ドストエフスキーの語り手の性格から判断するに、この地の文は、ラスコーリニコフの自意識の思惟をそのまま追ったものではなく、むしろラスコーリニコフが自分に「言語化して」言ってきかせた思考ではないが、無意識が瞬時に処理してしまった「たしかにそうだ!」に至る思考のプロセスを敢えて地の文で展開してみせたということではないか。》──ここで「それが彼にははっきりわかった」「そしていまはじめて彼は、……をはっきりさとったのである」「これはやはり彼にとって疑問だった」「彼にはそれがわかった」という時々現われる客観的記述を枠組みとしてその間に展開されていく「つまり……だったのだ」「……したにちがいない」「……になっていたのであろう」「いったい何が……したのだろう?」「まさか……ではあるまい」「現に彼女は……しているではないか……」といった話体の文章による思索は、すべて、ラスコーリニコフの自意識の肉声ではなく、彼の無意識に照準を合わせた語り手による「言語化」と見做すべきだというわけ。その方が物語言説的に整合性がある。
もちろん見ての通り、三つ目の段落からは直にラスコーリニコフの内語が《……》で括られて地の文に流れ込んで来る。だがドストエフスキーの作品世界では登場人物の内語は決してモノフォニックに閉じ得ないというのが原則なので、ここでも彼の肉声が主というよりも地の文の方があくまで主ではないか。というのも四つ目の段落の内語を見ると明らかに三つ目の段落のそれとはニュアンスやアクセントが転調してしまっているからだ。これもまた以前の分析を引用すれば、《ラスコーリニコフの自意識の中には入って来ない、彼の無意識を支配している感情や思考のプロセスを地の文で内語と並行的に描いているからこそ(「こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。……」)、内語の展開が「ふとした」中断や屈折や転回を孕んだりするのが自然に表現できているというわけだ。自意識とは分裂していてつねに葛藤や矛盾の力を帯びて衝き上げてきてついには内語を屈折させる無意識の領域を、地の文で把握して(並行的に)敷衍する、というドストエフスキーの文体の特異性……》──だからこそ四つ目の段落でラスコーリニコフは能動的にというよりも受動的に、思わず「腹の中で叫」ばなくてはならなくなるのだ。
ところで、特に四つ目の段落のラスコーリニコフの内語について言えば、それらはやはり直接的な発話と同様に「否定・非難・抑圧」の契機を孕んで屈折あるいは二重化していることに注目しよう。しかも自分の中に強いられたように湧き上がってくる予想や考えを必死で打ち消そうというところがまさに、無意識の衝迫と自意識の肉声との拮抗関係を典型的に表わしているかのようで興味深い。「いや、いや、そんなはずはない!」「……と、誰が言った?」「果して……しているだろうか?」「彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか?」
ちなみに、現前的場面における以上のディエゲーシスの中断の出口として、「言語」から「視覚」の集中に記述を受け渡しているのは、叙述変化の常套手段である。「彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。」
あとは、科白に付随する登場人物の身振りの描写の繊細さにも注目しよう。「ソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。」
●『罪と罰』上91-93頁
第一部第四章
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《ところでおれはどこへ行こうとしているのか?》と彼は不意に考えた。《おかしい。おれは何か目的があって出かけて来たはずだ。手紙を読みおわると、すぐに出た……ワシーリエフスキー島のラズミーヒンのところへ行くんだった。そうだ、やっと……思い出した。しかし、何のために? それにしてもラズミーヒンのところへ行くなんて考えが、どういうわけで、それも今日、頭にうかんだのか? 実に不思議だ》
彼は自分におどろいた。ラズミーヒンは大学の頃の友人の一人だった。ことわっておくが、ラスコーリニコフは大学当時はほとんど友だちというものを持たず、みんなをさけて、誰のところへも行かないし、人が来てもいい顔をしなかった。そんなふうだから、間もなく誰も相手にしなくなった。彼は学内の大会にも、学生同士の話にも、娯楽にも、どんなことにも、いっこうに加わろうとしなかった。勉強には精を出し、骨身を惜しまなかったから、学生たちは彼に一目おいていたが、誰一人彼を好きになる者はなかった。彼はひどく貧しかったが、妙に傲慢で、まるで何かを秘しかくしているように、決して人にまじわらなかった。学生の中には、彼は学生全体を子供あつかいにして、まるで自分が知能の発達も、知識も、思想も一歩先んじているかのように、上から見くだし、彼らの思想や関心を何か低級なもののように見ている、と思っている者もいた。
ラズミーヒンとは、彼はどういうわけか親しくなった、とはいってもいわゆる親しみとはちがって、彼とならわりあいに話もしたし、腹もわったという程度である。しかも、ラズミーヒンとではそれ以外の関係はもち得なかった。それはいまでもかわりがない。彼は並みはずれて陽気な、かくしごとのできぬ青年で、素朴なほどお人よしだ。しかし、この素朴のかげには深みも威厳もかくされていた。友人たちの中でも目のある連中はそれを見ぬいていたし、彼は誰にでも好かれた。たしかにときには軽率なことをしたが、彼は決してばかではなかった。その外貌も印象的だった──ひょろりと背が高く、いつも無精ひげをはやして、髪はまっくろい。彼はときどき腕力を振るって、力持ちで通っていた。ある夜、会合で、大男の警官を一撃でなぐりたおした。酒は飲みだしたら底無しだが、ぜんぜん飲まなくてもよかった。ときどき許せぬようないたずらをしたが、ぜんぜんしなくても平気だった。ラズミーヒンのもう一つの人と変ったところは、どんな失敗にも決して頭をかかえこまないし、どんな困った事態がおきても、外から見ただけでは、決してへこまないということである。彼は屋根の上にでも暮せたし、どんなにひどい飢えも寒さもしのぶことができた。彼はひじょうに貧しく、何やかや仕事らしいことをしては金をかせぎながら、完全に独力で生活を支えていた。彼はかせぎを汲みあげることのできる泉が、その気になりさえすれば無限にあることを知っていた。一度など、彼は冬中火の気なしで暮したことがあった。そして室内は寒いほうがよくねむれるから、このほうがかえって気持がいいなどとうそぶいていた。いまでは彼もやむなく大学をすてたが、といっても一時のことで、学業をつづけられるように、状態のたてなおしに懸命になっていた。ラスコーリニコフはもうかれこれ四ヵ月も彼を訪ねなかったし、ラズミーヒンはラスコーリニコフがどこに住んでいるのかさえ知らなかった。一度、二月ほどまえ、彼らは街で出会いそうになったことがあったが、ラスコーリニコフは顔をかくして、見つからないように、横町へ走りこんだ。ラズミーヒンは気がついたが、友人に迷惑をかけまいとして、素知らぬ顔で通りすぎたのだった。
引用部分はほとんどがディエゲーシスだが、現前的場面におけるラスコーリニコフの内語からの流れで段落途中でディエゲーシスに変化している。「ラズミーヒンは大学の頃の友人の一人だった」がすでに説明くさいディエゲーシスで、次の一文の頭「ことわっておくが、……」という導入によって完全に説明的ディエゲーシスに移行。この語り手の口癖「ことわっておくが」はなかなか使い勝手がいい。
ざっと目を通して目につくのは、否定辞「……なかった」で終わる文がかなり多い。「……人が来てもいい顔をしなかった」「……誰も相手にしなくなった」「……加わろうとしなかった」。接続助詞「が」をつかった順接並列節の複文でも終わりが否定辞だったりする。「……一目おいていたが、……する者はいなかった」「……ひどく貧しかったが、……人にまじわらなかった」。否定辞で終わる文としては「それはいまでもかわりがない。」の文にも注目。続く次の文(「……素朴なお人好しだ。」)もそうだが、短い上にアクセント的に現在形が使われているのが、段落の文章展開の中での一工夫になっていると言えよう。
ラズミーヒンについて語っているディエゲーシスの中では「Aである。しかし(もっと詳しく言えば)実際にはA+αでもある。」という部分逆接の展開で内容を敷衍している箇所が目につく。一例:「彼は並みはずれて陽気な、かくしごとのできぬ青年で、素朴なほどお人よしだ。しかし、この素朴のかげには深みも威厳もかくされていた。」──これはドストエフスキーの癖のようなものかもしれない?
●『罪と罰』上385-386頁
第三部第三章
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「元気ですよ、元気ですよ!」と入ってくる一同をむかえて、ゾシーモフが明るく叫んだ。彼はもう十分もまえからここへ来ていて、昨日と同じソファの端に腰をおろしていたのである。ラスコーリニコフは反対側の隅に腰をおろしていた。もうすっかり服装をととのえて、おまけにていねいに顔を洗い、髪までとかしていた。こんなことはもう何ヵ月もないことだった。部屋はいちどにいっぱいになった。それでもナスターシヤは客たちのあとからするりともぐりこんで、話にきき耳をたてはじめた。
たしかに、ラスコーリニコフはもうほとんど普段とかわらなかった、特に昨日とくらべるともうすっかりよくなっていた。ただひどく顔色がわるく、ぼんやりしていて、気むずかしげで、怪我人か、あるいは何かはげしい肉体的苦痛をこらえている人のように見えた。眉根はぎゅっとよせられ、唇はかたく結ばれて、目は充血してギラギラ光っていた。彼はほとんどしゃべらなかった。しゃべるにしてもしぶしぶで、無理にやっと口をひらくか、あるいは義務だからしかたがないという様子で、ときおり動作になんとなく落ち着かない不安の色がうかがわれた。
これで腕にほうたいを巻いているか、あるいは指にコハク織りのサックでもはめていたら、指が化膿してはげしく痛むか、あるいは腕に怪我をしたか、いずれにしてもそうしたたぐいの病人に見えたにちがいない。
しかし、この蒼白い陰気な顔も、母と妹が入ってきたとき、一瞬さっと光がさしたように見えたが、それも顔の表情に、それまでの重苦しい放心のかわりに、かえってますます濃くなったような苦悩のかげを加えただけだった。光はじきにうすれたが、苦悩はそのままのこった。そしてかけだし医師の若い情熱のすべてをかたむけて、自分の患者を観察し研究していたゾシーモフは、肉親が来たことで彼の表情に喜びのかわりに、もはやさけられぬ一、二時間の拷問をたえようという重苦しいかくされた決意を見てとって、ぞっとした。彼はそれから、つづいて起った会話の一言一言が、患者のどことも知れぬ傷口にふれて、それを痛く刺激するらしい様子を見た。しかしそれと同時に、患者が今日は自分をおさえて、ちょっとした言葉でまるで気ちがいのようにいきり立った昨日の偏執狂とはうって変り、自分の感情をかくすことができるのを見て、いささかおどろきもした。
「ええ、もうすっかり元気になったのが、自分でもわかるよ」とやさしく母と妹に接吻しながら、ラスコーリニコフは言った。そのためにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいっぺんに晴れやかな顔になった。「これはもう昨日流に言ってるんじゃないぜ」と彼はラズミーヒンのほうを向いて、親しげに手をにぎりながら、つけ加えた。
ここではラスコーリニコフの外貌描写から入っているが、その描写内容が前にラスコーリニコフが小説内で表れたときの姿との「差分」によって計られていることに注意しよう。しかもその差分を強調しているのは語り手だ。どの登場人物の声でもない、「こんなことはもう何ヵ月もないことだった」「たしかに、ラスコーリニコフはもうほとんど普段とかわらなかった」という注釈・感想は語り手のものでしかあり得ない(「こんなことは……」と驚いているのも、「たしかに……」と譲歩しているのも、語り手の意識においてだ)。ラスコーリニコフを普段から観察していなければ分からない注目すべきラスコーリニコフの新しい態度、しかしラスコーリニコフの主観においては今この時(つまり母・妹・ラズミーヒンが部屋に入ってきて、小説の叙述上改めてラスコーリニコフが再登場したこの時)それを意識するはずもない要素を元にした、この描写内容は、当然ながらほとんど透明人間のような語り手が今ここにまさに居合わせていると考えなければ、成立し得ないものだ。「これで腕にほうたいを巻いているか、あるいは……していたら、……病人に見えたにちがいない」という想像的仮定の一文も、語り手の感想にほかならない。たとえ部分的にはゾシーモフの主観が紛れ込む(「ゾシーモフは……を見てとってぞっとした」「彼は……のを見ていささか驚きもした」)としても、この描写の中に語り手のアクセントがふんだんに紛れ込んでいることは疑いない。
引用部最後の段落は、それまでの描写休止法(ないしは現前的場面に挿入されたそこそこ長いディエゲーシス)から会話への移行の継ぎ目にあたる段落。こういう段落では常套手段として、動作の描写よりも先に科白を(部分的に)段落頭に切り出す。実際の動作としては母と妹に接吻してから、「もうすっかり元気になったのが……」と言ったのだろうが、改行の切断性を利用し、順番を転倒させて科白の方を先に持って来る。改行後は短い科白→地の文(→科白の続き)。これが基本。こうしないとスムースに会話へと移行することができない。
●『白痴』上239-242頁
第一篇第九章
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公爵はこうしたいくつかの言葉をとぎれがちに、幾度か息をつぎながら、落ちつきのない声で話した。並々ならぬ動揺が、その体全体にあらわれていた。ナスターシャ・フィリポヴナは好奇の色を浮べて彼をながめていたが、もう笑おうとはしなかった。ちょうどその瞬間、新しい大きな声が、公爵とナスターシャ・フィリポヴナをぎっしり取りまいた群衆のかげから聞え、その声が群衆をさっと左右へ引きわけたような格好になった。ナスターシャ・フィリポヴナの前には、一家の父親たるイヴォルギン将軍が立っていた。彼は清潔な礼装用のシャツに燕尾服を着て、口ひげは美しく染めてあった。
これはもはやガーニャにとって耐えられないことであった。
ほとんど猜疑心に悩まされ、憂鬱症になるほど自尊心と虚栄心にかられたこの二ヵ月というもの、すこしでも自分を礼儀正しい上品な人物に見せてくれるようなものはないかと、血まなこになって捜しまわった彼、しかしみずから選んだこの道にかけて自分はほんの新参者で、どうやらとても最後まで持ちこたえられそうもないと感じると、ついに絶望のあまり、自分が暴君であったその家庭において、あらゆる横暴な振舞いを決意しながらも、ナスターシャ・フィリポヴナの目前ではそれを決行することのできかねた彼、冷酷なほど高圧的に出て、いつも彼を狼狽させてばかりいるナスターシャ・フィリポヴナが、いつかガーニャのことを《辛抱づよくない乞食》という表現をしたことを耳にして以来、いまにこの仇を返そうと、ありとあらゆるものにかけて誓ったものの、それと同時に万事をうまくまとめて、すべての矛盾を融和させようと、ときたま子供じみた空想をたくましゅうする彼──そういう彼が、いままたこの苦杯を、しかも選りに選ってこんなときに、飲み干さなければならなかったのである! さらにいままで気のつかなかった一つの拷問、虚栄心の強い人間にとって何よりも恐ろしい拷問──自分の身内にたいする羞恥の苦痛を、しかもわが家で、彼は耐えしのばなければならなかったのである。《いや、それにしても、あれにはこれだけの苦痛を耐えしのぶ値打ちがあるのだろうか?》その瞬間、ガーニャの頭にはふとこんな想いがひらめいた。
この二月のあいだ毎晩、悪夢となって彼を脅やかし、恐怖となって彼の胆を凍らせ、羞恥となって顔をもやしたものが、その瞬間、事実となってあらわれたのであった。つまり、彼の父親とナスターシャ・フィリポヴナの会見が、ついに実現したのである。彼はときたま自分で自分をからかったり、いらだたせたりするような気持で、結婚式における父将軍の姿を心に描いてみようとしたこともあったが、いつもその我慢できぬ光景を終りまで描くだけの力がなく、途中でほうりだしてしまうのであった。ひょっとすると、彼は途方もなくこの不幸を誇大に考えていたのかもしれないが、虚栄心のつよい人はいつでもこうなのである。ともかく、この二月のあいだに彼はいろいろと考えたあげく、どんなことがあっても、たとえほんのいっときでも、父親をおとなしくさせるか、もしできることなら、ペテルブルグから追いだしてしまおうと、母親がそれに同意しようがしまいがそんなことはかまわずに、そう決意したのであった。十分前にナスターシャ・フィリポヴナがはいってきたとき、彼はあまりにも度胆をぬかれて、気が転倒してしまったために、父将軍がそこへ姿をあらわすかもしれないということなど、すっかり忘れてしまって、それにたいするなんの処置も講じなかった。ところが、将軍は、早くもそこへ、みなの眼の前にあらわれたのである。しかも、ナスターシャ・フィリポヴナが《彼とその家族の者に嘲笑を浴びせかけようと機会をねらっている》(このことを彼は確信して疑わなかった)ちょうどその瞬間に、もったいぶって燕尾服など着用におよんであらわれたのである……それに実際のところ、彼女のきょうの訪問はこのほかに、いったい何を意味しているのだろう? 母親や妹と友だちになるために来たのだろうか、それとも彼の家で二人を侮辱するために来たのだろうか? しかし、双方の陣どっている場所から見ても、もはやそこにすこしの疑いもなかった。母親と妹はまるで相手から唾でもひっかけられたように、脇のほうに小さくなってすわっているのに、ナスターシャ・フィリポヴナのほうは、どうやら、そんな人たちが自分と同じ部屋にいることすら、とっくに忘れたような有様であった。……いや、彼女がこんな振舞いをするからには、もちろん、そこに何かもくろみがあるにちがいない!
フェルディシチェンコは将軍をつかまえて、ぐんぐんひきずっていった。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ・イヴォルギンです」将軍は小腰をかがめて微笑を浮べながら、威厳をつけて口を開いた。「不幸なる老兵ですが、このような美しい……かたをお迎えできることを幸福に感じている一家の主でもあります……」
形式的にはこれは、それまで現前的だった情景法の中に突然「状況説明ディエゲーシス」が挿入されるというものである。ちなみに、このディエゲーシスを導くために「これはもはやガーニャにとって耐えられないことであった。」という短い段落をクッションで置いていることは、段落技法的に注目しておこう。
さて、この状況説明ディエゲーシスの本質は何だろうか。端的に言えば、これはガーニャの無意識(=自意識に強いられたもの)のパラフレーズである。彼がナスターシャ・フィリポヴナの前に自分の父親が現われるという事態を前にして突如激しく感じた「耐えられない」ほどの苦痛、その苦痛の内実の背景を言語化し説明するためのディエゲーシスが、これなのだ。その背景は「この二ヵ月というもの」「この二月のあいだ」に渡るため必然的に無時間的・習慣的なディエゲーシスにならざるを得ない。
当然ながらこの状況説明ディエゲーシスを駆使する語り手の位相は、例によって「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせた、登場人物の内面まで見通す超能力尾行者である。ここで引用される「《いや、それにしても、あれにはこれだけの苦痛を耐えしのぶ値打ちがあるのだろうか?》」というガーニャの内語も、彼の自意識が自己対話の末に排出したものというよりも、無意識に強いられて「思わず」飛び出したものだろう。ここで言う無意識とは、彼にとっての他者、彼の恥じている父将軍の愚劣さやナスターシャ・フィリポヴナの彼に対する嘲弄その他もろもろを含む。そして語り手はあまりにもガーニャの苦境、無意識の猜疑を克明に観察し報告したすえに、彼自身の「現時点」での無意識の思考のプロセスを言語化して体験話法的に敷衍するに至るのである。「それに実際のところ、彼女のきょうの訪問はこのほかに、いったい何を意味しているのだろう? 母親や妹と友だちになるために来たのだろうか、それとも彼の家で二人を侮辱するために来たのだろうか?(中略)……いや、彼女がこんな振舞いをするからには、もちろん、そこに何かもくろみがあるにちがいない!」──たとえ説明的なディエゲーシスであっても無意識に照準を合わせている以上、体験話法と文体的に親和性があることは『罪と罰』のラスコーリニコフの例を見ても自明だ。しかも引用部は現前的な情景法の中に挿入されているディエゲーシスなので、このように現前的な無意識の思考を敷衍するタイプの地の文の便宜は言うまでもない。つまりそれは段落技法の一でもある。
●『罪と罰』上106-109頁
第一部第五章
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彼は立ち上がると、ここへ来たのが不思議そうに、びっくりしてあたりを見まわした。そしてT橋のほうへ歩きだした。顔は蒼白で、目は熱っぽくひかり、身体中に疲労があったが、彼は急に呼吸が楽になったような気がした。彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》
橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!
あとになって、彼はこのときのことと、この数日の間に彼の身に起ったことを一秒、一点、一線も見のがさず、細大もらさず思い起すとき、必ずひとつのできごとに行きあたって、迷信じみたおどろきにおそわれるのだった。それはそのこと自体はそれほど異常なことではないが、あとになってみるとどういうものか彼の運命の予言のように思われてならなかった。というのは、へとへとに疲れ果てていた彼が、直線の最短距離を通って家へ帰ったほうがどんなにとくか知れないのに、どういうわけか、ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場をまわって帰ったことである。その理由は自分でもどうしてもわからなかったし、説明もつかなかった。まわり道といっても大したことはなかったが、どう見てもぜんぜん必要のないことだ。たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった。それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問するのだった。いったいなぜあんな重大な、彼にとってあれほど決定的な、同時にめったにない偶然のめぐりあいが、(通る理由さえなかった)センナヤ広場で、ちょうどあの時間に、彼の人生のあの瞬間に、それもあんな心の状態のときに、しかもこのめぐりあいが彼の全運命にもっとも決定的な、最後的な影響をあたえるには、いまをのぞいてはないというような状況のときに、起ったのか? まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!
彼がセンナヤ広場を通っていたのは、九時頃だった。台や箱の上に商品をならべたり、屋台をはったりしていた商人たちは、店じまいをして、商品を片づけ、お客たちと同じように、それぞれ家路へ散って行く頃だった。地下室の安食堂のあたりや、センナヤ広場の家々の悪臭ただよう泥んこの内庭や、特に居酒屋の近くには、たくさんの雑多な職人やぼろを着た連中がむらがっていた。ラスコーリニコフはあてもなくぶらりと街へ出たとき、特にこのあたりや、この近所の横町を歩きまわるのが好きだった。このへんでは彼のぼろ服も、誰からも見下すような目でじろじろ見られなかったし、誰に気がねもなく、好き勝手な格好で歩くことができたからである。K横町へ入る曲り角の片隅で、露天商の夫婦が台を二つならべて、糸や、縒紐や、更紗のプラトークなどの品物を売っていた。彼らも店をしまいかけていたが、立ち寄った知り合いの女との立ち話に手間どっていた。その知り合いの女はリザヴェータ・イワーノヴナ、あるいは普通みんながただリザヴェータとだけ呼んでいる女で、昨日ラスコーリニコフが時計をあずけに行って下見をしてきた、あの十四等官未亡人で金貸しをしている老婆アリョーナ・イワーノヴナの妹である。彼はもうまえまえからリザヴェータのことはすっかり知っていたし、リザヴェータも彼のことをいくらか知っていた。それは背丈が高すぎて格好のわるい、いじけたおとなしい売れのこりの娘で、三十五にもなるのに、まるでばかみたいに、すっかり姉のいいなりになり、びくびくしながら昼も夜も姉のためにはらたき、なぐられても黙ってこらえているような女だった。彼女は包みを持ったまま商人夫婦のまえに思案顔に佇んで、じっと二人の話を聞いていた。夫婦は何ごとか熱心に説明していた。ラスコーリニコフは思いがけず彼女の姿を見かけたとき、このめぐりあいにはおどろくようなことは何もなかったけれど、深い驚愕に似た奇妙な感情に、いきなり抱きすくめられた。
「ねえ、リザヴェータ・イワーノヴナ、自分できめたらいいですよ」と町人が大きな声で言った。「明日、七時頃いらっしゃいよ。あの連中も来ますから」
「明日?」リザヴェータはどうしようかと迷っているような様子で、のろのろと考えこみながら言った。
引用部で注目すべきは第二段落から第三段落への転調だろう。ラスコーリニコフが見ているものとラスコーリニコフの心理を同時に与えるという「映画」的叙述構成をとりつつ彼の内語を体験話法的に地の文に流し込む(「自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!」)いかにも現前的な文体を取っていながら、改行後には突然無時間的=非現前的な文体へと切り替わっている。出来事の起った順序に沿うだけなら第二段落からそのまま第四段落につなげてもよいはずなので、この第三段落は後から段落展開を整えるために挿入されたふうにも読める。この段落の意味は何か?
もちろん、例によって「あとになって、彼はこのときのことを……細大もらさず思い起すとき……」「あとになってみるとどういうものか……のように思われてならなかった」「それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問自答するのだった」という言い回しで将来からの回顧の視点を取り入れたというのが一番大きい。つまり、この段落だけは語り手の介入によってすでに殺人後の観点から書かれているように読めるわけだ。しかも殺人後の観点におけるラスコーリニコフの内面における自問自答を、体験話法的に地の文に流し込んでおり(「いったいなぜあんな重大な……同時にめったにない偶然のめぐりあいが……起ったのか? まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!」)現前的な印象すらある。とはいえ、あくまで彼に定位しつつ語り手の声音が前面に出ているのは明らかだ。それは「たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった」といった説明的な括復法的記述が丁寧に織り込まれていることからも分かる。ともかくここで語り手は事件の単線的な継起の流れを中断し、将来の時点から介入することを選んだのである。
そうした理由はまるで見当がつかないわけではない。思うに、ここでたまたまラスコーリニコフが翌日夜のリザヴェータの不在を知るというプロット上必要な偶然があまりに都合が良過ぎるので、事前にその偶然性を「運命の予言」のようなものとして誇張して必然化することが必要だったのだろう。その偶然を確率的に奇蹟的なものにするために、「ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場」という文脈をわざわざ強調しているくらいなのだ。つまり、いつも帰り道に立ち寄るセンナヤ広場でたまたまリザヴェータに遭遇した、という多少は可能性のある「偶然」だと逆に辻褄合わせのように思われてしまうし、将来時点から語り手が介入してわざわざ驚いてみせるほどのものでもない。だから逆にもっともあり得べからざるものとして虚構し、彼自身にその偶然(自分の自意識では計算できない出来事、すなわち無意識的偶然!)を衝撃的なもの=「深い驚愕に似た奇妙な感情」として体験させているわけだ。無意識的偶然に驚く、という契機がないとわざわざ一段落挿入して将来時点「あとになってみると……」の語り手を介入させる甲斐がないということか?
さらに、作田啓一の次の指摘も念頭に入れよ。《出来事の偶然性が強く感じられるのは……ラスコーリニコフが計画の実現を強く望んでいるからである。願望が強ければ強いほど、その願望の実現の成否を左右する出来事の偶然性がそれだけ強く感じられる。……願望が強ければ、それだけ出来事は神秘的な偶然性の後光をになってくる。》
●『罪と罰』下473-475頁
エピローグ
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現在は対象も目的もない不安、そして未来は何の実りももたらさぬ、たえまないむだな犠牲、──これがこの世で彼のまえにあるすべてだった。八年すぎてもまだやっと三十二だから、まだ生活のやり直しができるといったところで、それが何の慰めになろう! 何のために生きるのだ? 何を目標におくのだ? 何に突き進むのだ? 存在するために、生きるのか? だが彼はこれまでも、もう千回も、思想に、希望に、空想にまで、自分の存在を捧げようとしたのではなかったか。一つの生命だけではいつも彼には足らなかった。彼はいつももっと多くの生命がほしかった。あるいは、自分の願望の強さだけから判断して、彼はあの頃、自分を他の人々よりも多くのものが許される人間であると考えたのかもしれない。
ああ、せめて運命が彼に悔恨をあたえてくれたら──心をひきちぎり、夢を追い払う、焼けつくような悔恨、その恐ろしい苦痛のために首吊り縄や深淵が目先にちらつくような悔恨! おお、彼はそれをどれほど喜んだことだろう! 苦痛と涙──これも生活ではないか。しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった。
少なくとも彼はまえに自分を監獄にまで追いやった醜悪な愚劣きわまる行為にむしゃくしゃしたように、自分の愚かさに腹を立てることができるはずだった。ところがいま、獄に入れられて、自由になってみると、彼は改めてこれまでの自分の行為をすっかり吟味し、考察してみたが、あの宿命の日に思われたほど愚劣で醜悪であるとは、どうしても思えなかった。《どこが、どこがおれの思想は》と彼は考えた。《創世以来世の中にうようよとひしめき合っている無数の思想や理論よりも、愚劣だったのだ? ぜんぜん束縛されぬ、日常の影響から解放された広い目で、この事件を見さえすれば、もちろん、おれの思想は決してそれほど……おかしなものには見えない。おお、五コペイカ程度の値打ちしかない否定論者や賢者どもよ、なぜきさまらは中途半端なところに立ちどまっているのだ!》
《だが、なぜおれの行為が彼らにはそれほど醜悪に思えるのだろう?》と彼は自分に問いかけるのだった。《それが──悪事だからか? 悪事とはどういう意味だ? おれの良心は平静だ。もちろん、刑法上の犯罪が行われた。もちろん、法律の文字が破られ、血が流された。じゃ法律の文字の破損料としておれの首をとるがいい……それでいいじゃないか! だが、そうすれば、もちろん、権力を継承によらず自分の力で奪い取った多くの人類の恩人たちは、その第一歩において処刑されていなければならぬはずだ。しかしその人々は自分の一歩に堪えた、だから彼らは正しいのだ。だがおれは堪えられなかった、だから、おれには自分にこの一歩を許す権利がなかったのだ》
この一事、つまり自分の一歩に堪えられずに、自首したという一点に、彼は自分の罪を認めていた。
彼は、どうしてあのとき自殺をしなかったのか? という問題にも苦しめられた。あのとき河の上に立ちながら、なぜ自首を選んだのか? 生きたいという願望の力がそれほど強く、克服がそれほど困難なものなのか? 死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえ克服したではないか?
説明的ディエゲーシスならぬ切開的ディエゲーシス。すなわち説明のためのディエゲーシスではなくて語り手みずから問いを設定して小説の意味レベルを開いていくようなディエゲーシスということ。そこでは疑問形の文体が決定的な役割を果たす。
「何のために生きるのだ? 何を目標におくのだ? 何に突き進むのだ? 存在するために、生きるのか?」「彼は、どうしてあのとき自殺しなかったのか?」「なぜ自首を選んだのか?」──語り手がこのように叙述の中に問いを練り込んでいる。注目すべきは、ここでの疑問形が決して修辞疑問文のように答えを先回りするニュアンスを含んでおらず、意志的に具体的に思考すべき「問い」を設定するための疑問形であるということだ。修辞疑問文とは、ドストエフスキーの「作家の日記」によく見られるように、例えば「けちけちした絶望をまえにして、どうして勇気をふるい起こすことができるだろうか?(できるわけないではないか!)」──このように文飾としてしか機能しない疑問形・疑問符のことだが、ここで用いられている疑問形・疑問符はそうではなく、それらは、現段階では答えようのない問いとして、今後も継続して思考するという意志の強調としての疑問形となっているわけだ。一応叙述は登場人物ラスコーリニコフの内面に語り手が寄り添って、彼の自問(「彼は自分に問いかけるのだった」「彼は、……という問題にも苦しめられた」)をトレースするように展開しているが、あくまでも語り手の立場からも疑問形を発することで、その問いが単なる登場人物だけにかかわる問題ではなく、読者にも浸透し、読者もまた継続的に考えて思惟すべき問いとして挑発的に提示されていることに注目したい(とはいえ、読者よりもまず先にこの疑問形によって揺さぶられているのはラスコーリニコフである、という順位は前提としてあるが)。これは修辞疑問文の持つ読者への訴えかけの効果とは別のものだ。
ただこのように切開的ディエゲーシスを展開し、疑問形を切羽詰まった形で用いるには、これらの「問い」が問われなければならない状況を事前に読者に伝達しておく必要がある。それはこの引用部よりも前の段階で果たされていると言える。
●『白夜』27-28頁
第二夜
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「ほら、ちゃんと生きのびられたじゃありませんの!」と笑いながら私の両手を握りしめて、彼女はいった。
「ぼくはここでもう二時間も待っていたんですよ。まる一日ぼくがどうしていたか、あなたにはとてもおわかりにならないでしょう!」
「わかってます、わかってますとも……でも、それより用件に取りかかりましょう。あたしが何故ここへきたか、あなたはご存じでしょうね? 昨晩みたいに、とりとめのないことをお喋りするためじゃないことよ。つまりこうですの──あたしたちはこれからはもっと利口にふるまわなくちゃいけませんわ。あたしはこのことを昨日、長いあいだいろいろと考えてみましたの」
「なにをです、なにをもっと利口にしなけりゃいけないんです? ぼくのほうなら、いつでも用意はできていますよ。しかし、まったくのところ、いまのように利口にふるまってることは、生まれてはじめてなくらいですがねえ」
「本当? まず第一に、お願いですから、そんなにきつくあたしの手を握らないでくださいな。それから次に、はっきり申しあげておきますけれどね、じつはあたし、今日あなたのことを長いことよく考えてみましたのよ」
「それで結論はどうなりました?」
引用部は章冒頭になるが、「私」と彼女がどういう経緯で落合ったかという記述抜きでいきなり科白からはじまるという珍しいパターン。最初から笑顔で両手を握るという接近に既に達しているので、その後に会話だけが続くのもまあ違和感ないか。ただ、一応科白の中で「私」が「もう二時間も待っていた」ことは告げられている。
科白の中で間接的に何かを開示するという点について言えば、「お願いですから、そんなにきつくあたしの手を握らないでくださいな」の科白も、地の文なしに科白だけで二人の体勢を喚起させる小技。
『罪と罰』上274-276頁
第二部第六章
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《何だったかなあ》ラスコーリニコフは歩きながら、ふと考えた。《何かで読んだことがあった。ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおこうのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、──まわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、──そして猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、──それでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ! 生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい! どんな生き方でもいい、──生きてさえいられたら!……なんという真実だろう! これこそ、たしかに真実の叫びだ! 人間なんて卑劣なものさ! その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ》彼は一分ほどしてこうつけ加えた。
彼は別な通りへ出た。《おや! 〈水晶宮〉だ! さっきラズミーヒンが〈水晶宮〉のことを話してたっけ。ところで、はてな、おれは何をするつもりだったかな? そうだ、新聞を読むことだ!……ゾシーモフがたしか新聞で読んだとか言ったようだった……》
「新聞ある?」彼はかなり広い、しかも小ぎれいな飲食店に入りながら、こう尋ねた。部屋はいくつかあったが、客は少なかった。二、三人がお茶を飲んでいるほかは、奥のほうの部屋で四、五人の客がシャンパンを飲んでいるだけだった。ラスコーリニコフは、奥のほうの客の中にザミョートフがいたような気がした。しかし、遠いのではっきりはわからなかった。《なに、かまうものか!》と彼は考えた。
「ウォトカをお持ちしましょうか?」と給仕が尋ねた。
「お茶をくれ。それから新聞をもってきてくれんか、古いのでいいよ、ここ五日分ほど、その代りウォトカ代をチップにやるよ」
「かしこまりました。これが今日の新聞です。ウォトカはいりませんか?」
古い新聞と茶が運ばれてきた。ラスコーリニコフは腰を据えて、さがしはじめた。
情景法の中での戸外から室内への移動の一例。ここでは章区切りを利用することはできないため、替わりに改行の飛躍能力に頼ることになる。というのは、第二段落で、ラスコーリニコフの内語の中で〈水晶宮〉を発見させ、中へ入る決意をさせてから、その内語が終わった後すぐの改行で、ラスコーリニコフをもう飲食店の中に入らせてしまう、しかも、彼が入ると同時に発話した科白を段落最初に持って来る、という凝り様(さらに言えば、この発話自体は後につづかないので、便宜的に挿入されたにすぎないと看做せる)。店内の描写は、空間構造の把握、客の存在、そしてラスコーリニコフの主観的観察、とオーソドックスなリズムで展開。
ともかく現前的科白のみならず、《……》で括られた内語の後にも、息をついて情景法を再出発させるタイミングがあることを覚えておこう。
●『罪と罰』上275-277頁
第二部第六章
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「新聞ある?」彼はかなり広い、しかも小ぎれいな飲食店に入りながら、こう尋ねた。部屋はいくつかあったが、客は少なかった。二、三人がお茶を飲んでいるほかは、奥のほうの部屋で四、五人の客がシャンパンを飲んでいるだけだった。ラスコーリニコフは、奥のほうの客の中にザミョートフがいたような気がした。しかし、遠いのではっきりはわからなかった。《なに、かまうものか!》と彼は考えた。
「ウォトカをお持ちしましょうか?」と給仕が尋ねた。
「お茶をくれ。それから新聞をもってきてくれんか、古いのでいいよ、ここ五日分ほど、その代りウォトカ代をチップにやるよ」
「かしこまりました。これが今日の新聞です。ウォトカはいりませんか?」
古い新聞と茶が運ばれてきた。ラスコーリニコフは腰を据えて、さがしはじめた。
《イーズレル──イーズレル──アツテーク──アツテーク──イーズレル──バルトーラ──マッシーモ──アツテーク──イーズレル……チエッ、しようがないな! あ、雑報があったぞ。なに、女が階段からおちた──商人が酒に酔って死んだ──ペスキの火事──ペテルブルグ区の火事──もう一件ペテルブルグ区の火事──おや、ペテルブルグ区に火事がもう一件か──イーズレル──イーズレル──イーズレル──イーズレル──マッシーモ……あ、これだ……》
彼はついにさがし出そうとやっきとなっていたものを、さがしあてて、すぐに読みだした。活字が目の中でおどった。それでも彼は《報道》をすっかり読みおわると、すぐに翌日の新聞をひらいて血走った目でその後の記事をさがしはじめた。はげしいもどかしさのために、ページをくる手ががくがくふるえた。不意に誰かがそばへ来て、テーブルをはさんで向い合いに腰をかけた。ちらと目をあげると──ザミョートフだった。例によって宝石の指輪をいくつもはめ、金鎖をたらし、ポマードをこってりつけた黒いちぢれ髪にきれいに分け目をつけて、しゃれたチョッキ、いくらかいかれたフロック、すこしよごれたシャツという服装の、いつもと変らぬザミョートフだった。彼は機嫌がよかった、どう見てもひどく上機嫌な様子で、人がよさそうににこにこ笑っていた。浅黒い顔がシャンパンの酔いでいくらか赤くなっていた。
「おや! あなたはここにいたのですか?」と彼は信じられないような面持ちで、いかにも親しそうに言った。「あなたがずっとうなされつづけているって、昨日ラズミーヒンに聞いたばかりですよ。おかしいですねえ! だって、ぼくも見舞いに伺ったんですよ……」
ラスコーリニコフは彼がくるのは承知していた。彼は新聞をわきへおいて、ザミョートフのほうに向き直った。その口もとにはうす笑いがうかんでいた、そしてそのうす笑いにはいままでにない神経質そうな苛立ちが見られた。
「あなたが来てくれたことは、知っています」と彼は答えた。「あとで聞きました。靴下をさがしてくれたそうですね……ところで、ラズミーヒンはあなたに夢中ですよ、いっしょにラウィーザ・イワーノヴナのところへ行ったそうですね、ほらあのときあの女をなんとかしてやろうとやきもきして、あなたはしきりに火薬中尉に目配せしましたっけね、ところがやつはぜんぜん気付かない、おぼえてますか? 気付かないはずがないのですがねえ──あんな明白なことが……ねえ?」
「まったく乱暴な男ですよ!」
「火薬がですか?」
「いや、あなたの友人のラズミーヒンですよ……」
引用部は段落毎のテンポが良くて注目に値する。
最初の数段落で、飲食店への入店と「新聞ある?」という注文、客の入り具合、ザミョートフの存在の兆候。給仕との会話、新聞入手、内語による新聞の内容の描写……ということをサクサク展開している。「彼はついに、さがし出そうとやっきとなっていたものを、……」の段落は、前段落を受けて新聞を興奮して読むラスコーリニコフの姿と、ザミョートフとの不意の遭遇、およびザミョートフの外貌描写(「彼は機嫌がよかった、どう見てもひどく上機嫌な様子で、人がよさそうににこにこ笑っていた。浅黒い顔がシャンパンの酔いでいくらか赤くなっていた」──対象とコミュニケーションしながらの、すなわち意識的に「調査・推理」しながらの観察になっている)を一段落内にすっきりおさめている。
また、「ラスコーリニコフは彼がくるのは承知していた。彼は新聞をわきへおいて、ザミョートフのほうに向き直った。その口もとにはうす笑いがうかんでいた、そしてそのうす笑いにはいままでにない神経質そうな苛立ちが見られた。」──この段落のシンプルな雄弁さも素晴らしい。この段落第一文は明らかに「ラスコーリニコフは、奥のほうの客の中にザミョートフがいたような気がした」という兆候に呼応したもので、引用部の段落展開があたかも、ザミョートフがラスコーリニコフと対決することなるのを知った上で、そこから逆算して立体的に組み立てられたかのような印象を与える。ここでラスコーリニコフの表情に浮かぶ神経質なうす笑いというのも、シチュエーションに適合していて見事と言うしかない。こうした適確さや、先の展開から逆算されたかのような立体的な兆候的記述などの存在が、シンプルでサクサクとテンポが良い上に密度のある情景法を可能にする。
●『カラマゾフの兄弟』298-300頁
第二部第六篇第二章(D)
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「どうなさったのです」と私は言った。「ご気分でも悪いのじゃありませんか」
彼はちょうど頭痛を訴えていたのである。
「わたしは……実はその……わたしは……人殺しをしたことがあるのです」
こう言って彼は微笑を浮かべているのだが、その顔は紙のように真っ青だった。なぜこの人は笑っているのだろう。──判断力の働く前に、突然こんな考えが私の胸を貫いた。私も真っ青になった。
「何ですって?」と私は叫んだ。
「いいですか」と彼は相変わらず青ざめた薄笑いを浮かべながら答えた。「最初ひと言を言うのが、どんなにわたしにとって高くついたことでしょう。言ってしまうと、どうやら道がついたようです。このまま進めてみましょう」
私は長いあいだ彼の言葉が信じられなかった。結局は信じたのだが、それもその時すぐにではなく、彼が三日も通いつづけて、すべてを詳しく話したあとであった。はじめ私は彼を狂人かと思ったが、最後に大きな悲しみと驚きを感じながらも、すっかり納得するにいたった。彼は十四年前に、ある若い、美貌の、富裕な地主の未亡人に対して、恐ろしい大罪を犯したのである。この未亡人は私たちの町にも、田舎の領地から出て来た時のために邸宅を構えていた。この女に熱烈な愛を感じた彼は、彼女に恋を打ち明けて、結婚してほしいと口説きはじめた。ところが女のほうではすでに他の男に心を許していた。それはある立派な家柄の、官位も低くない軍人で、その時は出征中だったけれども、まもなく帰って来ると彼女は待ちわびていた。そこで彼女は彼の求婚を拒絶し、今後うちには出入りしないでほしいと頼んだ。彼は出入りをやめたが、家の案内を知っていたので、大胆にも人に見とがめられる危険を冒して、ある夜ふけ、庭から屋根づたいに彼女のもとへ忍んで行った。ところが、よくあることだが、常軌を逸した大胆な犯罪ほど成功しやすいものである。天窓から屋根裏部屋へ忍び込んだ彼は、そこから梯子段を伝って彼女の居室へ下りた。梯子段のはずれにあるドアが、召使の不注意で時々錠がかかっていないのを彼は知っていたのである。その時もこの手ぬかりを当てにしたわけだが、案のじょうそのとおりだった。居室へ忍び込むと、彼は暗闇のなかを燈明のともっている彼女の寝室めざして進んで行った。ふたりの小間使は、おあつらえ向きに、同じ通りにある近所の家の名の日の祝いにこっそり無断で出かけていた。その他の下男や下女たちは、階下の下男部屋や台所で眠っていた。女の寝姿を見ると情欲の炎が燃えあがったが、すぐにまた嫉妬に狂う復讐の憎悪が彼の心を捕えた。彼は酔っ払いのように前後を忘れて彼女に近寄ると、いきなり心臓にずぶりとナイフを突き立てた。彼女は悲鳴ひとつあげなかった。それから凶悪な、犯罪者らしい計算をめぐらして、下男に嫌疑がかかるように現場を荒らした。彼はまず彼女の財布を盗み、枕の下から鍵束を取り出して箪笥を開け、その中から二、三の品物を、さも無知な下男の仕業らしく見せかけてつかみ出した。つまり大事な書類には手をつけずに金ばかりを取り、やや大きい金製品を幾つか盗みながら、その十倍も値打ちがある小さい品物は放っておいたのである。さらに彼は二、三の品物を自分の記念に失敬したが、それについては後で話そう。
一登場人物のながったらしい身の上話をディエゲーシスでまとめてしまう技法について。
「これから語ってみましょう」という科白から改行してディエゲーシスに入るというのは常套手段だが、実際の物語の要約に入る前に、「その話は信じられないものだったが……ついには私も納得するにいたった」みたいな聞き手の反応も要約して入れているのが一工夫。それにこれから記述する話が「彼が三日も通いつづけて」語ったものであるという時間の圧縮も明言(というか実際の語りの時間的規模の予告)している。
物語がはじまってからは非常にシンプルだが、一ヵ所「ところが、よくあることだが、常軌を逸した大胆な犯罪ほど成功しやすいものである。」とちょっと呑気な語り手による注釈が入っているのが面白い。
●『カラマゾフの兄弟』301-304頁
第二部第六篇第二章(D)
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謎の客、いや、今ではもう私の親友だが、彼の語ることによると、最初はぜんぜん良心の呵責に苦しむことはなかったそうである。長いこと苦しんだのは事実だが、それは良心の呵責のためではなくて、ただ愛する女を殺してしまった、彼女はもういないのだ、自分の血のなかにはまだ情欲の炎が燃えているのに、彼女を殺すことによって自分の恋を殺してしまったという無念さのためであった。罪なき血を流したことや、殺人の罪を犯したことは、当時ほとんど考えもしなかった。それよりも、自分の手にかけた女が、あのまま行けば他の男の妻になったという考えのほうが彼には堪えがたい気持がして、そのために彼は自分の良心に照らして、ああするより仕方がなかったのだと長いあいだ信じ込んでいた。はじめのうちは、さすがに下男が逮捕されたことに多少は悩みを感じたが、やがて被告に病気になって死ぬと、彼はすっかり安心してしまった。なぜならば、下男の死因は明らかに(と彼は当時こう判断した)逮捕や恐怖のためではなく、逃走の際、死人のように酔いつぶれてひと晩じゅう湿った地面の上にぶっ倒れていた時に風邪をひいたためだからである。一方、盗んだ品物や金のことでも、彼はべつに当惑を感じなかった。なぜならば(とやはり彼は判断した)、盗みをしたのが物欲のためではなくて、嫌疑をそらすためだったからである。盗んだ金額はわずかだったし、まもなく彼はその金額の全部を、いや、それよりもはるかに多額な金を、折からこの町に建てられた養老院に寄付してしまった。これは金を盗んだという良心の呵責を静めるためにわざとしたことだったが、驚いたことにその当座、いやその後も長いあいだ実際に心が静まった。──こう彼は私に話してくれた。そこで彼は、こんどは職務にはげむことにして、面倒なむずかしい仕事を進んで引き受けて二年ほど没頭し、もともとが強い性格だったので、過去の出来事をほとんど忘れて過ごした。ふと思い出すことがあっても、ぜんぜん考えないように努力した。彼はまた慈善事業にも力を入れ、この町にいろいろな施設を作ったり寄付をしたりしたので、両首都にも名前を知られて、モスクワとペテルブルグの慈善協会の委員に選ばれた。しかしそれでもとうとう苦しい物思いにふけるようになって、どうにも自分の力に及ばなくなった。ちょうどそのころ、彼はある美しい、聡明な令嬢が好きになって、まもなく彼女と結婚した。結婚によって孤独な憂愁を追い払おう、新しい道へ踏み出して妻子に対する義務を熱心にはたし、そうして古い思い出と完全に縁を切ろうと夢見たのである。ところが結果は彼の期待と正反対になった。結婚後ひと月もたたないうちに、『妻はおれを愛してくれているが、もし妻が知ったらどうなるだろう』という考えが、たえず彼の心を騒がせはじめた。妻がはじめて妊娠して、そのことを告げた時、彼はとつぜん狼狽した。『人の生命を奪ったおれが、今度は生命を与えようとしている』やがて次々と三人の子供が生まれた。『どうしてこのおれに子供を愛したり、養育したり、子供に教えたりできよう。どうして子供たちに善行を説いて聞かせられよう。おれは血を流した男だ』子供たちはすくすくと育ち、思わず愛撫したくなる。すると、『おれはこの子供たちの罪のない、晴れやかな顔を正視できないのだ、そんな資格はないのだ』という気がする。あげくのはてには、自分の殺した犠牲者の血が、滅ぼされたその若い生命が、復讐を叫ぶその血が、おどすようにすさまじく目の前にちらつきはじめた。彼はよく恐ろしい夢を見た。それでも持ち前の気の強さで、長いあいだこの苦しみに堪えた。『このひそかな苦しみで一切をあがなおう』こう考えたのである。しかしこの期待もむだだった。時がたつにつれて、苦しみはいっそう激しくなった。町の人々は、彼の厳しい陰気な性格を畏れながらも、その慈善行為のゆえに彼を尊敬するようになったが、尊敬されればされるほど彼は堪えられなくなった。私に告白したところによると、彼はいっそ自殺しようと思ったそうだ。ところが、自殺の代わりに別の夢想がちらつきはじめた。──それははじめのうちこそとても不可能な気違いじみた夢想と思われたが、しまいには彼の心に吸いついて、どうにももぎはなすことができなくなった。その夢想とは、決然と立ちあがって人々の前に行き、すべての人に自分は人を殺したと告白することである。三年ものあいだ彼はこんな夢想を抱いて過ごした。その間じゅう、この夢想はさまざまな形をとって彼の目の前にちらついた。とうとう彼は、自分が罪を告白しさえすればきっと魂の悩みがおさまり、永久に安心が得られるに違いないと心から信じるようになった。だがそう信じはしたものの、さてどう実行すべきかと考えると、心の底からぞっとした。そこへ突然、私の決闘事件が起こったのだ。「あなたを拝見していて、今こそ決心がつきました」こう彼は言った。私はじっと相手の顔を見つめた。
「いったいあんなつまらない出来事が」と私は両手を打ち合わせて叫んだ。「あなたにそんな決心を起こさせたのですか」
「決心だけは三年前からしていました」と彼は答えた。「あなたの事件はただそのきっかけになったのです。あなたを拝見しているうちに、わたしは自分を責めて、あなたを羨んだのです」と彼はけわしい口調で言った。
「しかし誰もあなたの言葉を信じないでしょうね」と私は言った。「十四年もの歳月が流れているのですから」
「証拠があるのです。確かな。それを見せます」
一登場人物のながい身の上話を要約して伝えるディエゲーシス。ディエゲーシスが終わったところで対話の現前的場面につなげる出口戦略もテクニカル。
だがここで注目すべきは、物語をコンスタントに「出口」まで盛り上げていくディエゲーシスの組み立ての巧さだろう。(1)「最初はぜんぜん良心の呵責に苦しむことはなかった」。(2)「しかしそれでもとうとう苦しい物思いにふけるようになって……」。(3)その苦しみがだんだん増していく過程を時間軸に沿って記述。(4)「ところが、自殺の代わりに別の夢想がちらつきはじめた」。このように綺麗な起承転結の構造を組み立てた上で、慈善事業や結婚や出産や自殺念慮といった細部のエピソードで物語を脹らませているわけだ。そういう構造がすっと頭に入ってくるように適確にディエゲーシスが書かれている。まあ、その分単調でもあるが。
途中で「──こう彼は私に話してくれた。」という、このディエゲーシスが一登場人物が語ったものの要約であることを告げ知らせるメタな文章が挿入されるのも、気配りがこまやかで良い工夫と思う。
●『カラマゾフの兄弟』3巻74-75頁
第七篇第四章
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彼は静かに祈りをあげはじめたが、まもなくその祈りが何か機械的な感じがして来た。切れ切れの考えが彼の心をかすめて、小さな星のように輝きはじめては、すぐに他の考えと代わって消えて行った。そのかわり何か完全な、しっかりした、悲しみをいやす暖かい気持が心を支配していた。彼は自分でもそれを自覚していた。時々、彼は熱心に祈りをあげはじめた。何かに感謝し、何かを愛したくてならなかった。……そのくせ、祈りをはじめると、突然また何か他のことに心が移り、物思いに沈んで、祈りも、祈りを中断した原因もきれいに忘れてしまった。パイーシイ神父の読誦の声に耳を傾けてもみたが、疲れ切った体は、しだいにまどろみに引き込まれて行く。……
『三日目にガリラヤのカナに婚礼ありて』とパイーシイ神父は読誦をつづけていた。『イエスの母そこにおり、イエスの弟子たちとその婚礼に招かれ給うた』
『婚礼だって? 何だろう、……婚礼とは……』こんな考えが、旋風のようにアリョーシャの頭をかすめた。『あの女にも幸福が訪れて、……祝宴に出かけて行った。……いや、あの人はナイフなど持って行きはしなかった。……あれは単なる《みじめな》強がりにすぎなかったのだ。……そうとも、……強がりは、ぜひとも赦してやらなければならない。強がりは魂の慰めになるのだ。……それがなかったら、悲しみは人間にとってつらすぎただろう。ラキーチンは横町へ曲がって行った。自分の受けた侮辱のことを考えているあいだは、ラキーチンはいつも横町へ曲がって行くだろう。……だが、本当の道は……本当の道は大きくて、真っ直ぐで、明るくて、水晶のように澄みきっていて、そのはてには太陽が輝いているのだ。……おや?……何を読んでいるのだろう』
小説というのは叙述のスタイルを自由にほいほい変えることができない。したがって、脈絡もなしに(プロット上は必要であるとしても、リアリティで言えば全然必然性がないのに)回想や夢想を導入するというのは物凄く難しい。それをドストエフスキーはどう解決しているか。
簡単に言うと、感情を細緻に分析し、或る感情と別の感情との連合を利用して叙述を徐々に移行させていくという、「感情」に定位した回想・夢想の導入を行っている。プルーストであれば「感覚」を蝶番にして次元の違う二つの内容を繋ぎ合わせたりするが、そこをドストエフスキーは感情の備給によって回想・夢想への橋渡しを行うのだ。その際、エレメントとなる感情についてはかなり詳しい分析がほどこされるのが普通である。
引用部ではアリョーシャの「何か完全な、しっかりした、悲しみをいやす暖かい気持」がつづく夢想の導入として決定的な役割を果している。
●『罪と罰』下413-416頁
第六部
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彼は起き上がると、窓に背を向けて、ベッドのはしに坐った。《もうこうなったら眠らぬほうがましだ》と彼は腹をきめた。しかし、窓のあたりから寒いじめじめした空気が流れてきた。彼は坐ったまま毛布をひきよせて、すっぽりかぶった。ろうそくはつけなかったが。彼は何も考えなかった。それに考えたくもなかった。しかし幻覚が次々とあらわれ、はじめも終りもない、何のつながりもない想念の断片が、ちらちらと浮んでは消えた。半分夢を見ているような気持だった。寒さか、闇か、しめっぽい空気か、窓の下に唸り、木々をゆすっている風か、彼の内部にある執拗な幻想に対する傾きとあこがれを呼びさますものがあった、──しかし彼のまえにはたえず花があらわれるようになった。やがて、素晴らしい風景が彼の空想に描き出された。明るい、あたたかい、あついくらいの日で、ちょうど三位一体祭の日だった。村の華麗な英国風の別荘、家のまわりを取り巻いている花壇には花が一面に咲き匂っている。つたがからみ、バラの花壇をめぐらした玄関。ぜいたくなじゅうたんを敷き、陶器の鉢に植えた珍しい花を両側に置きならべた階段。窓辺の水盤にいけてある、鮮やかなみどり色のみずみずしい長い茎を傾けさせるほどに、白い優美な花をつけて、強い香りを放っている水仙の花束が、特に彼の目をひいた。彼はそのそばをはなれたくないような思いだったが、階段をのぼって、天井の高い大きな広間に入った。するとそこもまた、窓も、テラスに出るドアのあたりも、テラスにも、一面の花だった。床には刈り取ったばかりのみずみずしい香りの強い草がまいてあった。窓は開け放されて、さわやかな、涼しいそよ風が部屋へ吹き通い、窓の下で小鳥がさえずっていた。ところが、広間の中央には、白繻子の掛布でおおわれた卓の上に、一つの柩がおいてあった。その柩には白い絹布がかけられて、その絹布には白い縁飾りがこまかく縫いつけられていた。柩のまわりには花冠が一面に飾られ、その中に花に埋まるようにして一人の少女が、白い薄絹の衣装を着て、大理石で刻んだような両手をしっかり胸に組んで、横たわっていた。しかし、少女のとかれた明るいブロンドの髪は、濡れていた、そしてバラの花冠が頭を飾っていた。もうかたく冷えてしまったきびしい横顔も、大理石で刻み上げられたようであったが、蒼白い唇に凍りついたうすい笑いは、何か子供らしくない、限りない悲しみと深いうらみにみたされていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。この柩のそばには聖像もなければ、ろうそくもともっていないし、祈祷の声も聞えなかった。この少女は自殺者だった、──川に身を投げて死んだのだった。少女はわずか十四だったが、心はもう傷つききっていた、そしておさない子供の意識をおびえさせ、おののかせた屈辱にさいなまれつくしたその心が、天使のような清らかな魂におぼえのない恥ずかしい罪を着せられ、雪どけのじめじめした寒い闇の中で、誰にも聞かれぬ、はげしい呪いにみちた絶望の最後の叫びを、真っ暗い夜に投げつけながら、自分の身を亡ぼしたのだった。その夜も風が唸っていた……
スヴィドリガイロフははっと目がさめて、ベッドから起き上がると、窓のそばへ行った。彼は手さぐりでかんぬきをさがして、窓を開けた。風が怒り狂ったようにせまい部屋に吹きこみ、彼は顔やシャツ一枚の胸に冷たい氷をはりつけられたような気がした、窓の下は、たしかに公園のようなものになっているにちがいなかった、そして、これもおそらく遊園地らしく、昼間は歌手たちが歌をうたったり、小さなテーブルに茶がはこばれたりしていたにちがいない。いまは木々や茂みからしぶきが窓に吹きつけていた、そして墓穴の中のように真っ暗で、何かあるらしい真っ黒い点々がかすかに見分けられるだけだった。スヴィドリガイロフは身を屈めて、窓台に両肘をついたまま、もう五分ほど、じっとこの黒い靄の中をにらみつづけていた。夜更けの闇の中に砲声がひびきわかった、つづいてまた一発聞えた。
《あ、警報だ! 水かさが増したんだな》と彼は考えた。……
小説というのは叙述のスタイルを自由にほいほい変えることができない。したがって、脈絡もなしに(プロット上は必要であるとしても、リアリティで言えば全然必然性がないのに)回想や夢想を導入するというのは物凄く難しい。それをドストエフスキーはどう解決しているか。
簡単に言うと、感情の細緻に分析し、或る感情と別の感情との連合を利用して叙述を徐々に移行させていくという、「感情」に定位した回想・夢想の導入を行っている。プルーストであれば「感覚」を蝶番にして次元の違う二つの内容を繋ぎ合わせたりするが、そこをドストエフスキーは感情の備給によって回想・夢想への橋渡しを行うのだ。その際、エレメントとなる感情についてはかなり詳しい分析がほどこされるのが普通である。
引用部では「寒さか、闇か、しめっぽい空気か、窓の下に唸り、木々をゆすっている風か、彼の内部にある執拗な幻想に対する傾きとあこがれを呼びさますものがあった、……」の一節がその後につづく幻想的な記述(体言止めの多用なども見られ珍しい。「つたがからみ、バラの花壇をめぐらした玄関。ぜいたくなじゅうたんを敷き、陶器の鉢に植えた珍しい花を両側に置きならべた階段。」)の導入となっている。とにかくこのように感情を備給しないと回想や夢想をつづけることは難しい。
また、回想と夢想の中でもつねに感情の色づけが出て来ていることに注意しよう。「彼はそのそばをはなれたくないような思いだったが、階段をのぼって、天井の高い大きな広間に入った」。しかもこの夢想の中では重要な対象として「一人の少女」が出て来るが、それを描写する記述が特に定位しているのも、その少女の内面なのである。「少女はわずか十四だったが、心はもう傷つききっていた、そしておさない子供の意識をおびえさせ、おののかせた屈辱にさいなまれつくしたその心が、天使のような清らかな魂におぼえのない恥ずかしい罪を着せられ、雪どけのじめじめした寒い闇の中で、誰にも聞かれぬ、はげしい呪いにみちた絶望の最後の叫びを、真っ暗い夜に投げつけながら、自分の身を亡ぼしたのだった。」──このように文章力の粋を尽くして感情を備給しながら回想や夢想をディエゲーシスに導入していくというのが、基本。
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------------------------------------- タイプ【D-4】現前的-要約法 ▲
●『罪と罰』下450-451頁
第六部第八章
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彼は血を凍らせて、わずかに意識を保ちながら、警察署のドアを開けた。今度は署内には人がごく少なく、庭番らしい男が一人と、町人風の男が一人いただけだった。守衛は仕切りのかげから顔も出さなかった。ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。隅のほうにもう一人の書記が坐りこんでいた。ザミョートフはいなかった。ニコージム・フォミッチも、もちろんいなかった。
「誰もいませんか?」とラスコーリニコフは机のそばの書記のほうを向いて、尋ねた。
「どなたにご用です?」
「あ、あ、あ! 声も聞えず、姿も見えないが、ロシア人の匂いがする……とかいうのがなんとかという物語にありましたな……忘れたが! ようこそ、いらっしゃい!」と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。
ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。とつぜん隣りの部屋から出てきたのだ。《これが運命というものだ》とラスコーリニコフは考えた、《どうして彼がここにいたろう?》
「ここへ? 何の用で?」とイリヤ・ペトローヴィチは大声で言った。(彼はどうやらたいへんな上機嫌で、おまけにちょっと興奮しているらしかった)。「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……でも、わたしで間に合うことなら。実はあなたに……ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです?」
二ヵ所だけ着目する。まず一ヵ所は「……と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。/ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。」の箇所。なぜこの順番なのだろうか。「不意に聞きおぼえのある声が……」で読者はまちがいなく「誰?」という疑問を抱くのだから、すぐその答えとしての「火薬中尉」の立ち姿を持って来てもよいはずなのだが、ラスコーリニコフが「ぎくっとした」という描写を一回挟んで、火薬中尉への言及を一呼吸分遅らせている。なぜだろうか。
同様の問いを喚起する箇所として、「ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。」──の箇所を挙げる。ここでもラスコーリニコフが部屋へ入って行ったことを知らせる文章の直後に、その次の部屋の中の描写、書記らしい男、もう一人の書記の姿などを描いてもよさそうなものだが(「警察署のドアを開けた」時はそうしている)、その前にラスコーリニコフの内語を入れている。なぜ文章の並びがそのような順番になっているのか?
思うに、現前的場面において的確に描くべきものだけを描いてリーダビリティを確保しつつ、なおその場面で起こっている様々な現象を盛り込んで叙述にふくらみ・立体性を持たせたいと思うなら、文章の順番を少し操作して、「次の部屋へ入った→書記がいた」「不意に声が聞こえた→火薬中尉が立っていた」という風に興味の喚起からすぐにその結果へと移行してしまわないで、結果について書くのを少しだけ(せいぜい一文分)遅らせることによって辛うじて現前的場面に密度、多様性、多元性を与えなければならないということではないか。上の二ヵ所では結果を性急に開示してしまわずに一呼吸だけ遅らせることによって、ラスコーリニコフの感情上の反応や、その場での瞬間的な内語を現前的場面に盛り込むことができているわけだ。
●『罪と罰』上82-83頁
第一部第四章
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彼は急いであたりを見まわした。何かをさがそうとしたようだ。腰を下ろしたかった。ベンチをさがしていたのだった。彼はそのときK通りを歩いていた。百歩ほど先にベンチが一つ見えた。彼はできるだけ足を早めた。ところが途中であるちょっとしたできごとが起って、数分の間彼はそれにすっかり気をうばわれてしまった。
ベンチのほうへ目をあてていると、彼は二十歩ほど前方を歩いている一人の女に気がついた、しかしはじめのうちは、それまで彼のまえにちらちらしたすべての対象と同じように、彼女にすこしも気をとめなかった。家へ帰ってから、歩いてきた道をぜんぜん思い出せないということが、これまで何度となくあったので、彼はもうそんなふうに街を歩くことに慣れていたのである。ところが前方を歩いている女には、一目見ただけで気になるような、どことなく奇妙なところがあったので、しだいに彼の注意はそちらへひかれはじめた、──はじめはしぶりがちで、いまいましそうな様子だったが、そのうちにますます強くひかれていって、どうしても目がはなせなくなってしまった。この女の奇妙なところはいったい何なのか、彼は急につきとめてみたくなった。先ず第一に、この女は、どう見てもまだひどく若い娘なはずなのに、この炎天に帽子もかぶらないで、パラソルもささず、手袋もしないで、なんとも滑稽に両手をふりまわしながら歩いていた。ふんわりとした絹地の服(いわゆる《絹物》)を着ていたが、その着方がまた実に妙で、ボタンがいまにも外れそうで、スカートの上はしが引き裂かれて、腰のあたりにたれさがり、ぶらぶらゆれていた。小さなショールがむきだしの首にまきついていたが、これもへんてこにまがって、横っちょにつきでていた。そのうえ、少女はおぼつかない足どりで、つまずいてよろけたり、あっちへよろよろこっちへよろよろふらついたりしながら、歩いていた。このめぐりあいは、ついに、ラスコーリニコフのすべての注意を呼びさました。彼はベンチのすぐそばで少女に追いついた。ところが少女は、ベンチまで来ると、倒れこむようにベンチの端へ坐って、頭を背もたれへ投げ、目をとじた。ひどく疲れているらしい様子だった。彼女をのぞきこむと、ラスコーリニコフはすぐに彼女がひどく酔っていることを見てとった。なんとも異様で、奇怪な光景だった。彼は白昼夢を見ているのではないかとさえ思った。彼のまえにあるのはまだ乳臭さの消えない小さな顔だった。十六くらいか、いやまだ十五にもなっていないかもしれぬ、──ちっちゃな、薄あま色の、かわいらしい顔だが、真っ赤にほてって、すこしむくんでいるようだ。少女はもうほとんど正体がないらしかった。足を組んでいたが、片方の足がみだらに高くあがりすぎていたし、どうやら、往来にいるということがほとんどわかっていないらしい。
引用部ではずっと現前的時間が一定の速度で経過していっているように見えるが、「彼はそのときK通りを歩いていた」といった時間幅を広くとった文脈への言及や、「ところが途中であるちょっとしたできごとが起って、……」と少しこの場面自体を俯瞰して見る先説法的記述があることからも分かるように、単線的ではなくて物語時間と物語言説を対応を構造化している。
そのような導入を受けての第二段落では、周囲の状況をラスコーリニコフの注意力によって一つ一つ細部を浮彫りにしながら描いていくというのが主になっている。しかし必ずしもそれがラスコーリニコフの主観・視点に定位しているから実現しているのではないことに注意せよ。明らかにここでは語り手の介入と操作がある。「家へ帰ってから、歩いてきた道をぜんぜん思い出せないということが、これまで何度となくあったので、彼はもうそんなふうに街を歩くことに慣れていたのである」──という現前性を無視した括復法的記述はその顕著なあらわれだが、それだけではない。読めば分かるが、ここではラスコーリニコフが最初は注意を払っていなかった対象が、しかしその「奇妙なところ」によってラスコーリニコフの無意識を刺激して、その知覚が閾値に達するとラスコーリニコフは対象を入念に観察し始める、そこから饒舌な描写が生まれてくる、という流れになっている。したがってここではラスコーリニコフの主観だけではなく、ラスコーリニコフの自意識の中に入って来てはいないがその無意識を微かに刺激している対象をも、同時に記述によって与える「語り手」の位相が重要な役割を果たしている。
映画の映像は単なる映像と異なり、人物と人物が見られるものを同時に与える。カメラは人物を見ているのだが、人物が見ているものを与えるのもまたカメラだというわけだ。それと同様に、ここでは語り手が「ラスコーリニコフ」と「ラスコーリニコフの無意識に働きかける対象」とを同時に与える。例えばここで語り手がベンチを探しながら歩き始めたラスコーリニコフの主観に(一人称的に)完全に定位していたとしたら、「はじめはしぶりがちで、いまいましそうな様子だったが、そのうちにますます強く」「一人の女に」注意を惹かれていくラスコーリニコフと対象との関係性を描くこともできず、「そのうちに……どうしても目がはなせなくなってしまった」ほどの強い好奇心に基づいた微に入り細を穿つ「女」の描写とその意味を探るような想念の発生(「この女の奇妙なところはいったい何なのか、彼は急につきとめてみたくなった」「その着方がまた実に妙で……」)も書くことはできないだろう。つまり最初は「しぶりがちで、いまいましい」と自意識が否認している存在がそれでも(「どうしても」)食い込んで来るという認識的なせめぎ合いは、一人称=自意識の内部からは正確に描くことができない。言わば、主人公の自意識と無意識を分裂的かつ同時的に与える語り手の位相が、不可欠。ここでラスコーリニコフとともに分裂的かつ同時的に与えられているのは「女」だが、これが否認され抑圧された「心理」だとしても同じことが言える。ドストエフスキーに特徴的なこの「調査・推理」的な描写による立体的な情景法を描くには、映画におけるカメラに等しい役割を語り手が担う必要があるということ。
●『罪と罰』上83-85頁
第一部第四章
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ラスコーリニコフはベンチにかけるまでもなく、立ち去る気にもなれず、困ったように彼女のまえに立っていた。この並木道はふだんからさびしい通りで、ましていまは、かんかん照りの午下がりの二時ときているので、ほとんど人影がなかった。ところが、十五歩ばかりはなれた並木道のはずれに、一人の紳士が立ちどまった。その紳士も、何か下心があるらしく、しきりに少女に近づきたそうにしていた。彼も、どうやら、遠くから少女に目をとめて、追ってきたところを、ラスコーリニコフに邪魔されたらしい。紳士は相手に気取られないように苦心しながら、にくらしそうな視線をラスコーリニコフにちらちら投げて、早くこのしゃくなぼろ男が立ち去って、自分の番がくるのを、じりじりしながら待っていた。それは見えすいていた。紳士は三十前後で、でっぷりとふとり、てらてらに脂ぎって、バラ色の唇の上にちょびひげをたくわえ、ひどくきざな服装をしていた。ラスコーリニコフは無性に腹が立って、不意に、この脂ぶとりの伊達男をこっぴどく侮辱してやりたくなった。彼はちょっとの間少女をそのままにして、紳士のほうへ近づいて行った。
「おいきみ、スヴィドリガイロフ! そんなところにつっ立ってなんの用があるのだ?」と彼は拳をにぎりしめ、憎悪のあまり泡のういた唇をゆがめてせせら笑いながら、どなりつけた。
「それはどういうことです?」と紳士は眉をひそめ、小ばかにしたようなあきれ顔で、けわしく尋ねた。
「立ち去れ、というんだよ!」
「その笑い方はなんだ、ごろつきめ!……」
そう言うと、紳士はステッキを振り上げた。ラスコーリニコフは、がっしりした紳士が自分のような者が二人くらいかかっても歯がたつ相手じゃないことを考えもせずに、拳を振ってとびかかった。しかしそのとき、誰かのたくましい腕がむんずとうしろからおさえた。巡査が二人の間に割って入った。
「やめなさい、往来で喧嘩をしちゃいけませんな。どうしたというのです? きみは何者だ?」巡査はラスコーリニコフのぼろぼろの服装をじろじろ見て、急に声をきびしくした。
ラスコーリニコフは巡査を注意深く観察した。それは灰色の口髭と頬髯を生やした強そうな兵隊面の男で、もののわかりそうな目をしていた。
「あなたに来てもらいたかったんだ」と彼は巡査の腕をつかみながら、叫んだ。「ぼくは元学生、ラスコーリニコフといいます……これはあんたにも知ってもらいたいな」と彼は紳士のほうへ顔を向けた。「あなた、さあ行きましょう、あなたに見てもらいたいものが……」
一見オーソドックスに見える情景法。だが注目すべきところはある。第一段落を見てみよう。この段落内で実は純粋に無アスペクトの文章は「ところが、十五歩ばかりはなれた並木道のはずれに、一人の紳士が立ちどまった」の一文のみだ(あとは「不意に」から始まる文章もそうか)。そして第一文からすでにして使用されていることからも分かるように、この段落では「……ている(いた)」アスペクトの多用が基本となっている。「立っていた」「近づきたそうにしていた」「待っていた」「見えすいていた」「服装をしていた」──また「人気がなかった」も継続属性を表わしていると考えれば、この第一段落はほぼ「継続」の状態を表わすアスペクトで描写されていると言ってもよいくらいだ。もちろん場面を成立させるためには「動き」も必要なのだが、むしろ「継続」のアスペクトを多用すべきという技法的認識はもっと強調されていい。
そして以前分析したように、《描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である》。ということは「……ている(いた)」形のアスペクトで点綴する描写は無意識の情報処理と相性がいいということだろうか? そしてまた、描写対象は無意識で処理される……ということはそれなりにラスコーリニコフの無意識にショックを与えたり謎めいていたりする要素がなければ、そもそも描写される価値がないってことになるのだが、無論「一人の紳士」は彼にとってそういう対象であり、例えば「彼も、どうやら、遠くから少女に目をとめて、追ってきたところを、ラスコーリニコフに邪魔されたらしい」の個所のように、調査・推理の趣きを帯びた観察が引き出されている。同様のことがやはり「……ている(いた)」形のアスペクトで描写される巡査(「それは灰色の口髭と頬髯を生やした強そうな兵隊面の男で、もののわかりそうな目をしていた」)についても言える。
●『罪と罰』上287-288頁
第二部第六章
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「じゃ、信じないんですね? ところで、あのときぼくが署を出てから、あなた方はどんなことを話しました? 失神から気がついたとき、火薬中尉がぼくを尋問したが、あれはなぜでしょうかね? おい」と彼は立ちあがりながら、帽子をつかんで、給仕を読んだ。
「いくら?」
「都合三十コペイカいただきます」と給仕はかけよりながら、答えた。
「じゃこれ、二十コペイカはきみにチップだよ。どうです、この金!」そう言って彼は札をにぎったふるえる手をザミョートフのまえへつき出した。「赤札、青札、二十五ルーブリありますよ。どこから手に入ったんでしょうな? そしてこの新しい服も? だって、ぼくが一文なしだったことは、あなたもご存じでしょう! 下宿のおかみは、たしか、もう調べられたようですな……まあ、よしましょう! おしゃべりはあきましたよ! じゃまた……お元気で!……」
彼は一種異様なヒステリックな激情をおぼえて全身をがくがくふるわせながら、ドアのほうへ出て行った。その感情の中には堪えられぬほどの快感もいくぶんまじっていたが、──しかしその様子は暗く、おそろしいほど疲れきっていた。顔は何かの発作のあとのように、ゆがんでいた。疲れが急にましてきた。気力はちょっとした刺激、ちょっとした心を苛立てる触感で、かりたてられ、不意に高まったが、触感のうすらぐにつれて、やはり急激に弱まっていった。
一方ザミョートフは一人になると、そのままそこに坐って、長い間もの思いに沈んでいた。ラスコーリニコフが思いがけなく例の事件に関する彼の考えをすっかりひっくりかえして、彼の意見を最終的に組み立ててくれたのである。
《イリヤ・ペトローヴィチは──木偶だ!》こう彼は結論をくだした。
基本に立ち返ろう。小説的な現前的描写を可能にするものは何か。読者が映画館の椅子に腰かけているかのように、物語内容を説明的にならずにきびきびと伝達することを可能にするものは、何か。語り手による状況と「行為」の「凝視」である。「状況」──すなわち登場人物が集中して観察し働きかけようとするものである。「行為」──すなわち登場人物自身の当為である。これを同時に凝視=描写するということは、見るものと見るものを与えるものを同時に集中して見るという二重性が、語り手に必要になるということだ。「状況」と「行為」、二重の凝視。
一人称の小説だと、状況を凝視しているだけで自然と「私」の行為も明らかになってくる場合がほとんどだが、三人称だとそうはいかない。語り手はどうするか。引用部では、ラスコーリニコフが巻きこまれている実際的な状況(ザミョートフのとの対決)をしっかり描きながら、ラスコーリニコフの表情自体も超越的に凝視していることに注目せよ(「その感情の中には堪えられぬほどの快感もいくぶんまじっていたが、──しかしその様子は暗く、おそろしいほど疲れきっていた。顔は何かの発作のあとのように、ゆがんでいた」)。いや、たしかにこの「状況」と「行為」の二重の凝視を可能にするには、超越的な位相が必要だ……。とりわけ登場人物の無意識も把握していることが要求される場合には!
たぶん「現前的場面だからこそ超越的な位相が要求される」ということが意外な盲点になっている。超越的な位相は説明的ディエゲーシスのなかでしか出番がないという思い込みが「下手な小説」の特徴では?
●『罪と罰』上293-295頁
第二部第六章
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ラスコーリニコフはサドワヤ通りまで来ると、角をまがった。ラズミーヒンは考えこみながらそのうしろ姿を見送っていた。やがて、しかたがないというふうに片手を振って、建物の中へ入って行ったが、階段の中ほどで足をとめた。
《畜生!》と彼はほとんど声に出してひとりごとをつづけた。《言ってることはたしかだ、まるで……おれもばかだな! まあ気ちがいだってたしかなことを言うこともあるだろうさ? だがゾシーモフも、いくらか彼を危ぶんでいるようだった!》彼は指でポンと額をつついた。《そうだ、もし……いま彼を一人で放してやったら、どうなるだろう? ひょっとしたら、身投げを……ええ、しまった! こうしてはおれぬ!》そう言うなり彼は踵を返して、ラスコーリニコフを追って駆け出して行った、が、もうどこにも見当たらなかった。彼はペッと唾をはいて、早くザミョートフから詳しい話を聞こうと、急ぎ足で《水晶宮》へ引き返した。
ラスコーリニコフはまっすぐにN橋まで行き、その中ほどに立ちどまって、手すりに両肘をついてもたれかかり、遠くのほうをながめはじめた。ラズミーヒンと別れたときは、もうすっかり弱りきっていて、ここまでたどりつくのがやっとだった。彼はどこでもいいから道端に腰をおろすか、あるいは横になるかしたかった。彼は水の上にかがみこんで、夕焼けの最後のバラ色の余影や、濃くなってゆく宵闇の中に黒く見えている家並みや、一瞬最後の陽光にうたれて、まるで炎のようにキラッと光った、左岸のどこか遠くの屋根裏部屋の小窓や、運河の黒ずんだ水面などを、ぼんやりながめていたが、暗い水面にだけはじっとひとみをこらしているようであった。そのうちに、彼の目の中に赤い環のようなものがぐるぐるまわりはじめた。家並みがゆれうごき、通行人、河岸通り、馬車──まわりじゅうのすべてのものがくるくるまわり、おどりだした。不意に彼はぎょっとした。ある奇怪な醜悪な光景によって、彼はまた失神から救われたのである。彼は誰かが自分の右側に並んで立ったような気がした。ちらと目をやると──一人の女だった。プラトークをかぶった背丈の高い女で、黄色っぽい面長の顔は頬がこけ、くぼんだ目が赤くにごっていた。女はじっと彼の顔を見たが、その目は何も見えず、誰も見分けがつかないらしかった。不意に女は右手を手するにかけると、右足を上げていきなり手すりをまたぎ、つづいて左足も上げて、運河へ身をおどらせた。にごった水が割れて、一瞬にして犠牲者をのみこんだが、一分ほどすると女は浮き上がり、背を上にして頭と足を水につけ、みだれたスカートをまるで枕のように水面にふくらませたまま、ゆっくり流れて行った。
「身投げだ! 女が身投げしたぞ!」と数十人の声々が叫び立てた。人々がかけ集まって来て、両岸は見物人で埋まった。橋の上にも、ラスコーリニコフのまわりにおしあいへしあいの人垣ができて、彼はうしろのほうへ押しやられた。
「あれえ、近所のアフロシーニュシカじゃないか!」どこか近くで甲高い女の涙声が聞えた。「みなさん、助けてください! おねがいだから、助けてあげてください!」
「ボートを出せ! ボート!」という叫び声が群衆の中におこった。
しかしもうボートの必要はなかった。一人の巡査が運河へ下りる石段をかけおり、外套をかなぐりすて、長靴をぬぐと、ザンブと運河へとびこんだのである。救助作業はそんなに手間どらなかった。身投げ女は石段の下から二歩ばかりのところを流れていたので、彼は右手で女の着ているものをつかみ、左手で同僚がさしのべた竿をつかまえることができた。女はすぐにひき上げられた。女は間もなく気がつき、身を起して、ぺたッと坐ると、ぼんやり両手でぬれた服をひっぱりながら、くしゃみをしたり、ふんふん鼻を鳴らしたりしはじめた。女は黙りこくっていた。
「凝視」「超越的位相」「状況と行為」──これが小説を可能にする基本的なキーワードだ。とにかく語り手は凝視しなければ始まらない。凝視以外の余計事を第一に持って来てはならないし、目をつむったまま叙述を展開するなどもってのほかだ。そして語り手は登場人物の無意識をも把握しつつ外部から彼の外貌を捉えるといったような複数の位相を兼ね備えた超越的立場に立たねばならない。最後に、状況と行為。物語内容に第一にもってこなければならないのはこの二点だ。状況(自分は今どんなところにいるのか)と行為(そこでどういう実際的な行動をするのか)だけが物語を展開させる。登場人物→情動→行動(気配り)→物語、という連鎖を忘れるな。
江藤淳の言葉を引こう。「文体のなかに対象はない。なぜなら、文体が行動であるからには、それは対象となる現実(世界)そのものではなく、「文体」=「現実」という等式は絶対に成立しないから。逆に文体は文学者と読者が、ともに現実に到達するための手段にすぎない。よい文体は、もっとも直截にわれわれを対象にみちびいて行く。われわれは、そのような文体のなかに参加するとき、ことばを通りこしてじかに対象となる世界にふれたように感じる。いわば、この場合文体は現実にむかって開放されている。しかしただの美文の世界は、泥絵具をぬりたくったガラスのように、閉鎖的で不透明なものでしかない。」「作家は行動そのものを書く。彼のさし示すものはつねに具体的であり、過程的であり、動的である。」「もし文体が外在化された時間しかとらえていず、具体的な時間をとらえること(時間の充実した主体化)に成功していない場合には、読者は行動に参加できず、文章のなかにはいっていけず、その上っ面の感触をなでまわすほかはない。」「状況は描写できるものではなく、客観的にとらえられるものでもない。リアリティは主体的な行為によってかたちづくられるものであり、状況を対象化することは、それにはたらきかけることによってしか達成できない。」
引用部は、とくに個性があるわけではないが、小説の本道を行く文体の発露である。
●『罪と罰』下338-340頁
第六部第三章
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ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう? 彼はN通りに立っていた。そこはいま通ってきたセンナヤ広場から三、四十歩のところだった。左手の建物の二階は全部居酒屋になっていた。窓はすっかり開け放されていた。窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。広間には歌声が流れ、クラリネットやヴァイオリンが鳴り、トルコ太鼓の音が聞えていた。女の甲高い声も聞えた。彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際に、窓によりかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。彼ははっとして、思わず鳥肌立つような恐怖をおぼえた。スヴィドリガイロフが黙ってじいッとこちらをうかがっていたのである。そしてすぐにまた、ラスコーリニコフはもう一度はっとした。スヴィドリガイロフは気付かれないうちにそっと逃げようとしたらしく、そろそろと席を立つような気配を見せたのだ。ラスコーリニコフはとっさに、こちらも気がつかないような振りをして、ぼんやり脇のほうを見ながら、目の隅でじっと相手の観察をつづけた。胸があやしく騒いだ。そうだったのか。スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ。彼はパイプを口からはなして、いまにも姿をかくそうとした、が、腰を上げて、椅子を動かしたところで、不意に、ラスコーリニコフがじっとこちらを観察していることに気付いたらしい。彼らの間には、ラスコーリニコフが部屋でうとうとしていたときの最初の対面に似たような妙な場面がもち上がった。ずるそうなうす笑いがスヴィドリガイロフの顔にあらわれて、それがしだいに広がりはじめた。どちらも、互いに相手に気付いて、観察しあっていたことを、承知していた。とうとう、スヴィドリガイロフは大声を立てて笑いだした。
「さあ、さあ! よろしかったら、入ってらっしゃい。逃げませんよ!」と彼は窓から叫んだ。
ラスコーリニコフは居酒屋へ上がって行った。
彼はひどく小さい奥の部屋にいた。窓が一つしかなく、仕切りの向うは大広間で、そちらには小さなテーブルが二十ほど置いてあり、歌うたいたちがやけっぱちにどなり立てる合唱を聞きながら、商人や、役人や、その他あらゆる種類の人々が茶を飲んでいた。どこからか球を撞く音が聞えていた。スヴィドリガイロフのまえのテーブルには、栓をぬいたシャンパンのびんが一本と、半分ほど飲みさしのコップがのっていた。部屋の中には彼のほかに、小さな手風琴をもった少年と、しまのスカートの裾をからげて、リボンのついたチロル帽をかぶった、十七、八の頬の赤い健康そうな歌うたいの娘がいた。娘は他の部屋の合唱に負けないで、手風琴の伴奏で、かなりかすれたコントラルトで、召使いの歌のようなものをうたっていた……
どう考えてもこれは見かけほど簡単な場面ではない。あてもなく街を歩いているラスコーリニコフをスヴィドリガイロフのいる居酒屋へ導くという、複雑なプロット上の移行を情景法としていかに実現するか? 物凄く丁寧にやっている。
「ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、……」といきなり段落始めに習慣的記述を置いて、時間幅を広くとった文脈を導入しているのが凄い。ここでこの文脈を導入する必然性はまったくないが、以降の情景法の補助線として効いている。そしていきなりラスコーリニコフの往来の真ん中に投げ出し、「どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう?」と地の文で彼の思考をトレース。「……ている(いた)」形アスペクトで周囲の状況を描き出し、それが終ったところで「彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際に、窓によりかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。」──とラスコーリニコフの注意の転回とスヴィドリガイロフの目撃を同時に生起させる。その後は遠くで互いを目視し合いながらの微妙な心理のやり取りと振舞いの記述がつづくが、この一連の情景法は「こういう場面を描こう!(そうしなければプロット上ラスコーリニコフをスヴィドリガイロフと対面させられないので)」という企図があってもなかなか描けるものではない。まず、ラスコーリニコフははっとする。スヴィドリガイロフもこちらを見ている。またはっとする。スヴィドリガイロフが気付かれないうちに逃げようとする。ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに気付いていないふりをして観察を続行。ラスコーリニコフの内語を地の文でトレース──「そうだったのか。スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ」。パイプを口からはなすスヴィドリガイロフ。だが腰から椅子を離したところで、ラスコーリニコフにすでに気付かれていることを悟ったらしい。そして──「彼らの間には、ラスコーリニコフが部屋でうとうとしていたときの最初の対面に似たような妙な場面がもち上がった」(この第三者的な注釈は現前的瞬間の描写つづきの中の良いアクセントになっている)。笑うスヴィドリガイロフ。呼び掛けるスヴィドリガイロフ。
完璧な流れ。
●『罪と罰』上296-298頁
第二部第六章
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警察署へ行くには、かまわずまっすぐに行って、二つ目の角を左へまがらなければならなかった。そうすれば目と鼻の先だった。ところが、最初の角までくると、彼は立ちどまって、ちょっと考え、横町へ折れた、そして通りを二つ横切って迂回するように走っている路地をたどりはじめた、──これは別になんの目的もなかったかもしれないし、あるいはまた一分でも先へのばして、時をかせぎたい気持があったのかもしれぬ。彼は地面へ目をおとしながら歩いていた。不意に彼は誰かに何か耳もとに囁かれたような気がした。はっと顔をあげて、見ると、彼はあの家の門のすぐまえに立っていた。あの夜以来、彼は一度もここへ来なかったし、そばも通ったこともなかった。
抵抗しえぬ言いようのない欲求にひっぱられて、彼は門の中へ入って行った。彼は門を通りぬけると、右手のとっつきの入り口から入って、見おぼえのある階段を四階へのぼりはじめた。せまい急な階段はひどく暗かった。彼は踊り場へ出るたびに立ちどまって、好奇心にかられながらあたりを見まわした。一階の踊り場の窓はわくがすっかりとりはずされていた。《あのときはこんなふうにはなっていなかった》彼はふとこんなことを考えた。そら、あれがミコライとミトレイがしごとをしていた、二階のあの部屋だ。《しまっている。ドアも塗り直されている。つまり、借り手待ちというわけだな》もう三階まできた……そして四階……《ここだ!》彼は自分の目を疑った。部屋のドアが大きく開け放されて、中に人が何人かいるらしく、話し声が聞えていた。彼はこんなことはまったく予期しなかった。しばらくためらった後、彼は最後の数段をのぼって、部屋へ入った。
内部も模様替えされて、職人が入っていた。これも彼には意外だったらしい。どういうわけか彼は、すっかりあのとき立ち去ったときのままで、そのうえ、もしかしたら死体もあのときのままに床の上にころがっているかもしれない、と考えていたのだった。それがいまは、壁が裸で、家具はひとつもない。なんとも奇妙だ! 彼は窓際へ行って、窓のしきいに腰をおろした。
職人は二人だけだった。二人とも若い男で、一人はすこし年上だが、もう一人はずっと若かった。彼らはまえのぼろぼろに破れた黄色っぽい壁紙をはがして、白地に藤色の花模様のついた新しい壁紙をはっていた。それがどういうわけかラスコーリニコフにはひどく気に入らなかった。彼は、こう何から何まで変えられてしまうのをあわれむように、敵意のこもった目でその新しい壁紙をにらんでいた。
まず第一段落。これは単に主人公が歩いていってどこかへ到達するということを表現するだけであっても、主人公の主観的知覚経路から離れた語り手の位相が必要とされることを示す典型的記述になっている。ラスコーリニコフの主観からすれば歩いていて何の気なしに横町へ折れたら、思いがけずあの家の前に来てしまったということにすぎないだろう。しかしここで語り手は「警察署へ行くには、かまわずまっすぐに行って、二つ目の角を左へまがらなければならなかった。そうすれば目と鼻の先だった。ところが、……」とラスコーリニコフが置かれている文脈の説明から記述を始めて、ラスコーリニコフが「まっすぐ」行かずに横町へ折れて路地をたどっていくことを逸脱的な行為としてわざわざ強調し、「──これは別になんの目的もなかったかもしれないし、あるいはまた一分でも先へのばして、時をかせぎたい気持があったのかもしれぬ」などと勿体ぶった外的推測を披露しつつ、最後には、彼がたまたまあの家に辿り着いたことを「あの夜以来、彼は一度もここへ来なかったし、そばも通ったこともなかった」(にもかかわらず偶然ここに辿り着いたとは何という偶然か!)思い入れたっぷりに敷衍する。あたかも、ラスコーリニコフが「あの家」に辿り着くことになるのを知った上でそこから逆算して段落冒頭から記述を組み立てているかのようだ。つまりここで語り手はラスコーリニコフの主観より明らかに一段上の認識に立っている。語り手の帯びる「超-認識」? 思うに、しばしばドストエフスキー作品の語り手が現前的場面の最中においてさえ駆使する「後になって考えてみると……」という超-時間的な記述の導入は、この語り手の「超-認識」が発揮された一つのメルクマールとして捉え得るかもしれない。
さて、第二段落以降は《現前的場面における描写というものは、人物と同時に人物が見ているものをもまた与える。それが小説的叙述に臨場感を与える。》という小説的描写の基本原理を上手く発揮した記述の連続になっている。また同様に内面描写については、人物と同時に人物が感じていることが同時に与えられるというのが小説的描写の基本だが、ここで「あの家」の中でラスコーリニコフが経験することの記述は、主人公(の動作)と同時に主人公が見るもの知覚するものを与える、のみならず、さらにそれらの対象を「好奇心にかられ」て様々に精査・調査・推理する人物の内語をも同時に与えている、という二重性を帯びているようだ。つまり主人公(の動作=部屋に入ったり、腰をおろしたり、壁紙をにらんだり)の他に、彼の上で交差する外界と内面の対話性が並行的に与えられて記述されているということ。外界の様々な対象をあからさまに志向して、あたかも外界の描写を代行しているかのようなラスコーリニコフの内語(《あのときはこんなふうにはなっていなかった》《しまっている。ドアも塗り直されている。つまり、借り手待ちというわけだな》)、さらに言えば第三段落で地の文に流し込まれている体験話法的な彼の言葉(「それがいまは、壁が裸で、家具はひとつもない。なんとも奇妙だ!」)などを見れば、この並行性・二重性がどのように具現しているかが知られよう。これぞ小説的記述の臨場感だ。このような立体的構成があるからこそ、小説が単なる散文から区別される。それは単なる映像と映画との区別とパラレルと言いうる。
注意すべきは、人物(の動作)+外界と内面の対話=描写、という記述の立体的構成による臨場感の醸成は、本質的に内面と外界の「ズレ」によって可能になっているということだろうか。ここで家の中の様子、一階の踊り場の窓や部屋のドア、内部、壁紙、家具、等々すなわち外界はラスコーリニコフの予期をことごとく裏切って新しい様相を見せている。だからこそラスコーリニコフの内語はそれらの輪郭を好奇心にかられてしきりになぞらざるを得ない。しかもその好奇心は最後には「ひどく気に入らない」「敵意」となって彼のうちに現象する。そうした文体的特徴を可能にするにも、或る特定のシチュエーションを用意しなければならないということか。
●『罪と罰』上9-11頁
第一部第一章
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彼は心臓が凍りそうな思いで、過度の緊張でがくがくふるえながら、運河と裏通りに前後を接しているおそろしく大きな建物へ近づいて行った。この建物は全体が小さな貸間にわかれていて、仕立屋や錠前屋などあらゆる種類の職人、料理女、さまざまな職業のドイツ人、売春婦、小役人といったような人々が住んでいた。だから出入りがはげしく、二つの門と二つの内庭にはほとんど人の行き来がたえたことがなかった。庭番も三、四人はたらいていた。その一人にも出会わなかったので、青年はほっとして、目立たないように急いで門から右手の階段へすべりこんだ。階段は暗くてせまい《裏口階段》だったが、彼はもうすっかり調べつくして、そらでおぼえていた。条件はことごとく彼の気に入った。こう暗くては、もの好きな目でも心配はなかった。《いまからこんなにびくびくしていたら、いよいよ実際にことに直面するようなことになったら、いったいどうなるだろう?……》四階への階段をのぼりながら、彼は思わずこんなことを考えた。ここまで来ると、除隊兵の運送人夫たちが行く手をふさいだ。ある部屋から家具をはこび出していたのである。彼はもうかねがね、この部屋にはドイツ人官吏の一家が住んでいたことを知っていた。《ははあ、あのドイツ人はいま引っ越して行くところだな、とすると、四階には、この階段も、この踊り場も、しばらくは、婆さんの部屋だけになるわけだ。ありがたい……万一の場合には……》彼はまたこんなことを考えて、老婆の部屋の呼鈴を押した。呼鈴は銅ではなく、ブリキでできているみたいに、弱々しくわれた音をたてた。このような建物の中のこのような小さな部屋には、ほとんどといっていいくらい、こんな呼鈴がついていた。彼はもうこの呼鈴の音を忘れていた、そしていまこの異様な音が、不意に彼にあることを思い出させ、それをはっきりと見せてくれたような気がした……彼はぎくっとした。この頃は神経が極度に弱っていたのである。しばらくするとドアがわずかに開いて、細い隙間ができた。そしてその隙間から老婆がいかにもうたぐり深そうに客をじろじろ見まわした。闇に光る老婆の目だけが見えた。しかし踊り場にたくさんの人がいるのを見ると、老婆は安心して、ドアをいっぱいに開けた。青年はしきいをまたいで暗い控室へ入った。そこは板壁で仕切られて、かげは小さな台所になっていた。老婆は黙って青年のまえにつっ立ったまま、うろんそうに相手を見つめた。それは六十前後のひからびた小さな老婆で、意地わるそうなけわしい小さな目をもち、小さな鼻がするどくとがって、頭には何もかぶっていなかった。白いものがあまりまじっていない灰色の髪には油が濃すぎるほどに塗られていた。鶏のあしのようなひょろ長い首には、フランネルのぼろのようなものがまきつけられ、この暑いのに、肩にはもうすっかりすりきれて黄色っぽく変色した毛皮の胴着がかけられていた。老婆はたえず咳をしたり、のどを鳴らしたりした。きっと、老婆を見る青年の目に普通でないものがあったのだろう、老婆の目にも不意にまたさきほどの警戒の色がうかんだ。
「ラスコーリニコフ、一月ほどまえに一度うかがったことのある学生です」青年は、もっとやさしくしなければならないことに気がついて、軽く頭を下げながら、あわててつぶやくように言った。
空間設計(特に「踊り場」への言及は重要だろう!)を伝達しつつ「移動しながら」の情景法になっているが、重要なのは、五感に入ってくる順番に、まず大雑把に把握してから細部へと分け入っていく、という基本を押さえつつも、単なる細部の羅列に終わらずに、それらの細部の因果関係までつけて描写していることだろうか。だから叙述が立体的になる。細部と細部の間に張られた因果関係は、心理的なものである場合もあり、主人公の内面と外面の衝突の鮮やかな印象も読み手に伝えることに成功している。
そして「彼はもうすっかり調べつくして……」と言われているように、これら立体的な情景法の叙述がラスコーリニコフ(ないしは語り手)による「調査・推理」の趣きを帯びていることにも注目。
後半も老婆の部屋の空間設計、そして老婆の描写だが、大掴み→細部へという基本は押さえつつ(「暗い控室」→「そこは板壁で仕切られて……」/「老婆は黙って」→「それは六十前後のひからびた小さな老婆で……」)、やはり対象とコミュニケーションしながらの──意識的に「調査・推理」しながらの──情景法になっていると言えるだろう。単に現前的場面における必要性として老婆を描写しているというのではなくて、老婆にまず疑われ、次に安心し、また警戒されるという反応と態度の往復の中で外貌描写がなしとげられているということ。二人以上の人物がいる場面では、というよりも情景法の密度を求める場合ならばつねにこの「調査・推理」しながらの情景法を意識すべきだろうか。やはりドストエフスキーの叙述にぼんやりした「静観」はない。
何気に、一週間前に青年がここを「下見」したことがあること、さらに彼の名前を開示していることも、重要だろうか。伏線の密度が濃い。
「呼鈴は銅ではなく、ブリキでできているみたいに、弱々しくわれた音をたてた。……彼はもうこの呼鈴の音を忘れていた、そしていまこの異様な音が、不意に彼にあることを思い出させ、それをはっきりと見せてくれたような気がした……彼はぎくっとした。」の箇所にも注目。音という「外」と記憶という「内」がぶつかり合う瞬間を捉えている。このダイナミズムが情景法にドストエフスキー的な起伏を施す。
余談。第一段落に現われる「この建物は全体が小さな貸間にわかれていて、仕立屋や錠前屋などあらゆる種類の職人、料理女、さまざまな職業のドイツ人、売春婦、小役人といったような人々が住んでいた。だから出入りがはげしく、二つの門と二つの内庭にはほとんど人の行き来がたえたことがなかった。庭番も三、四人はたらいていた。」──この描写は極めて重要ではないか。これは単なる知覚的描写ではなく、通常なら・いつもならこうなっているはずだという習慣的・括復法的記述である。思うに、或る対象や或る空間、或る場所を描写する際に、(単起的なその瞬間の知覚をもとに描くよりも)習慣的・括復法的に描く方が実は観察力を必要とするのではないか? ここではたまたま習慣的描写がなされているのではなく、見るべきものをしっかりと見た場合、それを記述するには、このように瞬間的な知覚的描写を越えて時間を束ね抽象化せざるを得ないのではないか?
●『罪と罰』上16-18頁
第一部第一章
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ラスコーリニコフはすっかりうろたえてそこを出た。この狼狽はますますはげしくなった。階段の途中で、突然何かにおびえたように、二、三度びくっと立ちどまりさえした。そして、もう通りへ出てしまってから、彼はこらえきれなくなって叫んだ。
《ああ! なんといういまわしいことだ!いったい、いったいおれは……いや、こんなことはたわけたことだ、愚劣だ!》そして彼はきっぱりと言い加えた。《それにしても、よくもこんな恐ろしい考えが、おれの頭にうかんだものだ! おれの心は、なんというけがらわしいことに向いているのだ! なんとしても、けがらわしい、きたない、ああいやだ、いやだ!……それなのにおれは、まる一月も……》
しかし彼は言葉でも、叫びでも、心のみだれを表現することができなかった。老婆の家へ出かけて行くときからもう彼の心を圧迫し、さいなみはじめていた、底知れぬ嫌悪感が、ここへきてその頂点に達し、それをまざまざと見せつけられたので、彼はそのやりきれないさびしさから逃れるすべを知らなかった。彼は酒に酔ったように、通行人の姿に気づかないでつきあたりながら、ふらふらと歩道をたどって行った。そして次の通りへ出てからやっと気がついた。あたりを見まわすと、彼は居酒屋のそばに立っていた。居酒屋は地下室になっていて、入り口には歩道から階段が通じていた。ちょうどそのとき、ドアが開いて、酔っぱらいが二人もつれあって、わめきちらしながら、通りへ出てきた。ろくに考えもしないで、ラスコーリニコフはすぐに階段を下りて行った。彼はこれまで一度も居酒屋へなど入ったことがなかったが、いまは頭がくらくらしていたし、それに焼けつくような渇きに苦しめられていた。冷たいビールを飲みたかったし、まして、思いがけぬこの弱りようは空腹のせいだと思ったのである。彼はうす暗いきたない隅のほうのねとねとするテーブルについて、ビールをたのみ、はじめの一杯をむさぼるように飲んだ。たちまちわずらわしさがすうッととれて、考えがはっきりしてきた。《なあに、みんなつまらないことさ》彼は救いを見つけようとして言った。《何もうろたえることなんかなかったんだ! ただの肉体の不調さ! 一杯のビール、一かけらの砂糖──それでどうだ、たちまち、頭がしっかりして、考えがはっきりし、意志が定まってくるじゃないか! チエッ、何もかもなんてくだらないんだ!……》ところが、こう侮蔑の言葉をはきちらして強がってはみたものの、彼はもう、何かおそろしい重荷から不意に解放されたように、晴れやかな顔になって、親しげにあたりの人々を見まわした。だが、その瞬間でも彼は心のどこかで、こう何でもよいほうにとりたがる気持も、やはり一種の病気なのだと、かすかに感じていた。
その時間、居酒屋には客がちらほらとしかいなかった。階段で会ったあの二人の酔っぱらいのほか、すぐにあとを追うようにして、女を一人まじえて、アコーデオンを鳴らしていた五人ばかりの一団が、どやどやと出て行ったので、店内は急にしずかになって、広くなった。あとにのこったのは、ビールをまえに坐っている、そう酔っていそうにも見えない、町人風の男と、その連れの立襟の短いカフタンを着て、白いあごひげを生やした、ふとった大男だった。この大男はひどく酔っていて、椅子にかけたままねむっていたが、ときどき、だしぬけに、寝呆けたように、指をパチパチならし、両手を大きくひろげて、椅子にかけたまま上体だけをぴょんぴょんさせて、文句を思い出そうと苦しみながら、ばかげた唄をうたいだすのだった。
女房を一年かわいがった、
女ォ房を一チ年かァわいがった……
そうかと思うと不意に、目をさまして、またうたい出す。
ポジヤーイチ通りをあるいていたら、
むかしの女を見かけたよ……
しかし誰もその男の幸福を喜んでくれる者はなかった。むすっとした連れは、あやしいものだというような顔で、敵意をさえうかべて、この発作をながめていた。店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた。彼は一人はなれて、びんをまえにし、ときどきちびりちびり飲みながら、あたりを見まわしていた。彼も何か気になることがあるらしい様子だった。
ここではオーソドックスな描写も交えているだけにドストエフスキーの文体の特異性が際立っている。並みの作家が「描写」したら平板になってしまうだけの叙述に、なぜドストエフスキーは立体的な密度を与えることができるのか?
まずは「しかし」で繋がる対話的段落構成に目を配りつつ、前半部分を見てみる。注目すべきは、これはドストエフスキーの文体に一般的に言えることかもしれないが、主人公の心理と外部世界とのアクシデンタルな対話が場面を進める動力になっていることだ。或る心理から逃れようとしてさまよい歩き、地下居酒屋の前にたどり着き、酔っぱらい二人に出会うことで階段へと引き込まれていく……喉が渇いていたからだ……ビールを注文してむさぼるように飲むと考えがはっきりする……以前の内言を否定する……そしてようやく居酒屋内部に目が行くようになる……。内面からの突き上げと、外界とのぶつかりが一種の対位法をなして、「現実」を記述していく。あたかもアクシデンタルに内面と外界がせめぎ合うことによってはじめて現実が認知できるとでもいうかのように。当然ながら、その内面から突き上げる「心理(恥という情動!)」が特徴的で具体的であればなお良い。「その瞬間でも彼は心のどこかで、こう何でもよいほうにとりたがる気持も、やはり一種の病気なのだと、かすかに感じていた」の注釈は鋭い。
このような心理と外部世界のアクシデンタルな対話性を前提とした場合、いわゆる「描写休止法」は或る条件の下で叙述のリズムに入ってくることが許される。(1)主人公が心理的にちょっと放心している瞬間。すなわち内面-外界の対位法の切れ目。(2)複数の事態が進行し、準備しているうちの一つの系として。少しだけ脇道に逸れる、スイッチを切り替えるという形で描写休止法を継続可能。
この引用部分では(1)だ。当然ながらその「描写」は、分け入った細部が相互に照応し響きあい乱反射するような因果的立体性を持つ必要がある。心理的な因果性ならばなお面白い。
●『罪と罰』上94-96
第一部第五章
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彼はベンチをすてて、ほとんど走るように歩きだした。彼は家へ引き返しかけたが、家へもどるのが急にいやでたまらなくなった。あの隅っこで、あのおそろしい納戸のような部屋で、あれがすっかりもう一月もまえから熟しつづけてきたのだ。彼はそこで足の向くままに歩きだした。
神経性のふるえが熱病の発作のようなものにかわった。彼は悪寒をさえ感じた。この炎天に彼は寒気がした。彼は内からの声のようなものにせっつかれて、ほとんど無意識に、行きあうものすべてに無理にひとみをこらして、なんとか気をまぎらわそうと骨折ってみたが、さっぱりその甲斐がなかった。そして彼はたえずもの思いにおちた。ぎくっとして、顔をあげ、あたりを見まわすと、とたんに、いま何を考えていたのか、そしてどこを通っていたのかをさえ、忘れているのだった。こんなことをくりかえしながら、ワシーリエフスキー島をはしからはしまで歩いて、小ネワ河へ出ると、橋をわたって、群島のほうへまがった。みどりとさわやかな空気が、都会の埃や、漆喰や、ぎっしりのしかかるようにたちならんだ大きな家々を見なれた彼のくたびれた目には、はじめ快かった。そこには息苦しさも、悪臭も、居酒屋もなかった。しかししばらくすると、この新しい快い感触も病的な苛立ちにかわった。彼はときどきみどりの木立ちの間にあざやかに塗装された別荘のまえに足をとめて、垣の中をのぞいたり、遠くのバルコンやテラスに憩っている美しく着飾った婦人たちや、庭先を走りまわっている子供たちをながめたりした。特に彼は花に心をひかれて、花にはほかのものよりも長い時間、目をとめていた。彼ははなやかな軽馬車や、男女の乗馬姿にも出あった。彼は好奇の目でそれらを見送ったが、視界から消えないうちに、もう忘れていた。一度彼は立ちどまって、ポケットの金をかぞえてみた。三十コペイカほどあった。《二十コペイカを巡査にやり、手紙の立替え分としてナスターシヤに三コペイカ……すると昨日マルメラードフの一家には四十五コペイカか五十コペイカおいてきたわけだ》なんのためか金をかぞえながら、彼はこんなことを考えたが、間もなくなんのために金をポケットからとり出したのかさえ忘れてしまった。彼は安食堂風の一軒の飲食店のまえを通りかかったときに、ふとそれを思い出した。そして急に空腹を感じた。店へ入ると、彼はウォトカを一杯飲んで、何やらあやしげなものを詰めたピローグを食べた。そののこりは歩きながら平らげた。彼はもうずいぶん久しくウォトカを飲まなかったので、たった一杯だったが、たちまちききめがでた。足が急に重くなって、ひきこまれるような眠気を感じはじめた。彼は家へ帰ろうと思ったが、ペトロフスキー島までくると、もうくたびれはててどうにも動けなくなり、道をそれて、灌木の茂みに入ると、草の上に倒れて、そのまま寝こんでしまった。
映画の映像は単なる映像と異なり、人物と人物が見られるものを同時に与える。カメラは人物を見ているのだが、人物が見ているものを与えるのもまたカメラなのだ。そのような二つの非対称な「見る」ことを同時に駆動させるという映画的なイメージの原理を、この引用部分に見出すことができる。
つまり語り手はここでラスコーリニコフの心理も含めてその状態を語るだけでなく、ラスコーリニコフが行きあうものすべてをまた「同時に」読者に与えている。語り手はもちろんラスコーリニコフの挙動については「悪寒」「気をまぎらわそうと骨折る」「快さ」「病的な苛立ち」「心をひかれる」「空腹感」と何から何まで逐一見逃していないが、同時にまたラスコーリニコフの凝らされた「ひとみ」、「くたびれた目」「目(をとめる)」「好奇の目」「視界」を通してラスコーリニコフが見るものをも次から次へと並行して与えている。ラスコーリニコフに「内からの声のようなものにせっつかれて、ほとんど無意識に」目をこらさせたり、立ち止まらせてのぞきこませたり、ながめさせたりすることによって外界の細部を鮮やかに掘り起こしていくスタイル。このスタイルが語り手に主観的イメージと客観的イメージの間を高密度・高速度で転位しながら情景法的記述を生み出すことを可能にしている。ほとんど走馬灯のようにペテルブルグの街路の情景が通り過ぎていく。一切はドストエフスキーの文体の個性の賜物だ。
●『罪と罰』上266-268頁
第二部第六章
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ところが、彼女が出て行くと同時に、彼は起き上がって、ドアに鍵をかけ、さっきラズミーヒンが持ってきて、また包み直しておいた洋服の包みをといて、着かえはじめた。不思議なことに、突然すっかり落ち着きをとりもどしたように見えた。さっきのように、ばかげたうわ言を口走りもしないし、最近ずっとおびやかされつづけてきたあのおそろしい恐怖もなかった。それはある奇妙な突然の平静の最初の訪れだった。彼の動作は正確で、はっきりしていて、そこにはしっかりした意図が見られた。《今日こそ、今日こそは!……》と彼は自分に言いきかせた。彼はしかし、まだ衰弱がひどいことを、自分でも感じていた。だが、平静と、さらにゆるがぬ意図にまで達した、おどろくほど強い心の緊張が、彼に力と自信をあたえた。とはいえ彼には、往来で倒れるのではないか、という不安がないでもなかった。すっかり新しい服に着かえると、彼はテーブルの上の金を見て、ちょっと思案し、それをポケットに入れた。二十五ルーブリあった。ラズミーヒンが衣類を買うのにつかった十ルーブリのおつりの五コペイカ銅貨も、すっかりポケットにおさめた。それからそっと鍵をはずすと、部屋を出て、階段を下り、大きく開け放された台所をのぞいた。ナスターシヤがこちらへ背を向けて、前屈みになり、サモワールの火をふうふう吹いておこしていた。彼女はぜんぜん気付かなかった。無理もない、彼が出て行くなんて、誰が予想できたろう? 一分後に彼はもう通りに立っていた。
八時近くで、太陽は沈みかけていた。むし暑さはまだそのままのこっていたが、彼はこの都会に汚された臭いほこりっぽい空気を、むさぼるように吸いこんだ。彼はかるいめまいをおぼえた。不意にその充血した目と、肉のおちた血の気のない黄色っぽい顔に、なんとも異様な荒々しいエネルギーがギラギラ燃えはじめた。どこへ行くのか、彼は知らなかった、それに考えてもみなかった。彼が知っていたのは、《こんなことはすっかり、今日こそ、いますぐ、ひと思いに片づけてしまうんだ、でなければ家へはもどれない、こんな生活はもういやだ》ということだけだった。どんなふうに片づけるか? 何によって片づけるか? それについては彼はきまった考えをもっていなかったし、また考えたくもなかった。彼は想念を追いはらった。想念に責めさいなまれたからだ。彼はただいっさいの事情が、どんなふうにでもいいから、変ってしまわなければならない、と感じていたし、知っていた。《どう変ろうといいんだ、とにかく変りさえすれば》彼はすてばちの動かぬ自信と決意をもって、こうくりかえした。
引用部では主人公が起床してから通りへ出るまでを追っている。基本的なトーンは語り手がラスコーリニコフから距離をとってずっと観察しているような趣き。しかも叙述は語り手の主観の色を帯びている。「不思議なことに、突然すっかり落ち着きをとりもどしたように見えた。」──外部からの主観的観察! だが、同時にこの語り手はラスコーリニコフの内面も同時に与える。「それはある奇妙な突然の平静の最初の訪れだった。」「《今日こそ、今日こそは!……》と彼は自分に言いきかせた。」──なぜこのような外部からの観察と同時に内面を与えるという文体を採用しているのか。その効果は何か。
明白な効果の一つは、文体が単線的に事象を追って忙しく息苦しくなってしまうのを避けるというものがある。純粋に外部からの観察だけでこの場面を描くならば、ラスコーリニコフの動作を単調に追うだけで何の起伏もない文章展開になるが、ラスコーリニコフの内面に焦点を合わせると、幾らか無時間的な印象が生れるのだ。たしかに《……》で括られた内語などは一種の現前性を帯びているとはいえ、例えば「だが、平静と、さらにゆるがぬ意図にまで達した、おどろくほど強い心の緊張が、彼に力と自信をあたえた。とはいえ彼には、往来で倒れるのではないか、という不安がないでもなかった。」という内的状態の詳細な記述など時間の流れとは関係なしに幾らでも掘り下げることができるように思われる。つまり内面を同時に与えることによって幾らか時間幅にふくらみのある文章展開を成立させることができる。そしてこの単線的に継起する外的な事象を大枠として追いながら、それを時間幅を広くとった記述や習慣的説明的記述や(内的状態を描く)無時間的な記述によって存分にふくらませるというのが、ドストエフスキーの文体の基調である。語り手の外的観察が帯びる「主観性」も、この種のふくらませの一つだと考えてよい。第一段落末尾では、ラスコーリニコフのみならずナスターシヤへの観察にもこの主観性が発揮されている。「彼女はぜんぜん気付かなかった。無理もない、彼が出て行くなんて、誰が予想できたろう?」
第二段落で用いられている技法はもう少し複雑で、さらに検討に値する。簡潔にまとめよう。「八時近くで、太陽は沈みかけていた。」──これはラスコーリニコフが見たものである(「この都会に汚された臭いほこりっぽい空気を……」のように彼が感覚したものの記述もこれに近似)。「不意にその充血した目と、肉のおちた血の気のない黄色っぽい顔に、なんとも異様な荒々しいエネルギーがギラギラ燃えはじめた。」──これは見られたラスコーリニコフである。つまりここには互いに切り返されうる視線がほとんど隣接して記述に現れているわけ。このように方向が真逆になっている二つの視線(=記述の志向性)を併存させることによって生れるのは、場面の立体性の感触だろう。同様に、ラスコーリニコフの内面を描くにあたっては、《……》でくくられたラスコーリニコフの直接の内語と、「彼はただいっさいの事情が、どんなふうにでもいいから、変ってしまわなければならない、と感じていたし、知っていた」のような素朴な三人称的叙述と、「どんなふうに片づけるか? 何によって片づけるか?」のように語り手が疑問形で挑発している地の文と、三種類の記述のタイプが絡み合ってダイナミズムが生まれているが、これも読み手に立体性の感触を与えることに寄与するものと言える。
●『罪と罰』上268-270頁
第二部第六章
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古い習慣で、散歩のいつもの道を通って、彼はまっすぐセンナヤ広場のほうへ歩いて行った。センナヤ広場まで行かない、ある小さな雑貨屋の店先の舗道で、髪の黒い若い流し芸人が、手風琴で何やらひどく感傷的なロマンスをひいていた。彼はまえの歩道に立っている少女の伴奏をしているのだった。少女は十四、五で、貴族令嬢のように大きくふくらんだスカートをはき、短いコートで肩をおおい、手袋をはめ、真っ赤な羽根のついた麦わらの帽子をかぶっていたが、いずれも古びて、すりきれていた。少女は流し芸人特有のしゃがれた、しかしかなり快いはりのある声で、店内から二コペイカ銅貨を投げられるのを待ちながら、ロマンスをうたっていた。ラスコーリニコフは足をとめ、二、三人の聞き手とならんで、しばらく聞いていたが、やがて五コペイカ銅貨をとりだして、少女の手ににぎらせた。少女は突然、もっとも調子の高いさわりの部分で、まるでたちきったようにピタリと唄をやめて、手風琴ひきの男にぶっきらぼうに叫んだ。《もういいよ!》そして二人は次の店のほうへのろのろ歩いて行った。
「あなたは流しの芸人の歌が好きですか?」とラスコーリニコフは、並んで手風琴ひきのそばに立っていた、もういいかげん年齢のいかにも閑人らしい男に、だしぬけに声をかけた。男は呆気にとられてそちらを見ると、ぎょっとした。「ぼくは好きですよ」とラスコーリニコフはつづけたが、その顔はぜんぜん流し芸人の歌の話をしている人とは思われなかった。
「ぼくはね、寒い、暗い、しめっぽい秋の晩、手風琴の音にあわせてうたっているのを聞くのが、好きなんですよ。それもぜったいに、通行人がみな蒼い病人みたいな顔をした、しめっぽい晩でなければいけません。さもなきゃ、もっといいのは、しめっぽい雪が降っている晩です、風もなく、まっすぐに、わかりますか? そして雪ごしにガス灯がぼんやり光っている……」
「わかりませんな……失礼……」男はその問いかけにも、ラスコーリニコフの異様な顔にもびっくりして、こう呟くと、道路の向う側へ移って行った。
ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、センナヤ広場の角へ出た。そこはあのときリザヴェータと話をしていた商人夫婦が店をだしていた場所だが、今日は二人の姿は見えなかった。ラスコーリニコフはその場所に気付くと、足をとめて、あたりを見まわし、粉屋の店先で欠伸をしていた赤いシャツの若者に聞いた。
「この角であきないをしている商人がいるだろう、夫婦連れの、知らない?」
「みんながあきないをしてるんでねえ」と若者は小ばかにしたようにラスコーリニコフをじろじろ見ながら、答えた。
「その男はなんていうの?」
「親にもらったとおりの名前さ」
「きみはザライスクの生れじゃない? 何県だね?」
若者はあらためてラスコーリニコフを見た。
「わしらんとこっはね、旦那、県じゃなくて、郡ですよ。兄貴はあっちこっち歩いたが、おれは家にばかりいたんで、さっぱりわからんですわ……もうこのくらいで勘弁してくださいな、旦那」
「あの二階は、めし屋かね?」
「飲み屋だよ、玉突きもあるよ。お姫さまたちもいるしね……大はやりでさあ!」
ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向うの角に、たくさんの人々が群がっていた。百姓ばかりだった。彼は人々の顔をのぞきこみながら、いちばんの人ごみの中へ割りこんで行った。どういうわけか、彼は誰にでも話しかけたい気持になった。しかし百姓たちは彼には見向きもしないで、何人かずつかたまりあいながら、自分たちだけで何ごとかがやがやしゃべりあっていた。彼は立ちどまって、ちょっと考えていたが、すぐに右へ折れて、歩道をV通りのほうへ歩きだした。広場をすぎると、彼は横町へ入った……
別に特異な点は何もないが、描写と会話と主人公の移動とを綺麗に組み合わせて生き生きした情景法を作り出している。そのコツについて少しだけ分析は可能だろう。
ざっと眺めて目に付くのはアスペクト「……ている(いた)」の多用。引用部でのラスコーリニコフの移動の経路は、センナヤ広場のほうへ向かい、センナヤ広場の角へ出て、センナヤ広場を横切って、V通りのほうへ横町に折れていくといったものだが、その途中で都度都度描写が挟まれている。それは基本的にアスペクト「……ている(いた)」によって写生されている。「センナヤ広場まで行かない、ある小さな雑貨屋の店先の舗道で、髪の黒い若い流し芸人が、手風琴で何やらひどく感傷的なロマンスをひいていた。彼はまえの歩道に立っている少女の伴奏をしているのだった。少女は十四、五で、貴族令嬢のように大きくふくらんだスカートをはき、短いコートで肩をおおい、手袋をはめ、真っ赤な羽根のついた麦わらの帽子をかぶっていたが、……」。アスペクト「……ている(いた)」には次の四種類があるが、継続属性のアスペクト──これは時間幅を無限に近い広さで捉える必要がある──ここでは以外は満遍なく使われていると看做せる。
:動きの継続のアスペクト「……ている(いた)」「うたっていた」「しゃべりあっていた」
:結果の継続のアスペクト「……ている(いた)」「立っていた」「群がっていた」
:継続属性のアスペクト「……ている(いた)」(「流れている」)
:結果属性のアスペクト「……ている(いた)」「かぶっていた」「すりきれていた」
また、描写というよりも補足説明に近い無時間的な記述の中でも「……ている」のアスペクトは出現している。「そのはあのときリザヴェータと話をしていた商人夫婦が店をだしていた場所だが、……」
以上を逆から考えると、アスペクト「……ている」を上手く活用する意志がないと、引用部のような次々に場所が移動する情景法の中で効果的な描写を叙述に定着させるのは無理なのだと言えそうだ。
当然ながら描写というのはラスコーリニコフが「見たもの」として挿入される。しかし引用部ではラスコーリニコフ自身も「見られるもの」として登場する。「……とラスコーリニコフはつづけたが、その顔はぜんぜん流し芸人の歌の話をしている人とは思われなかった」「ラスコーリニコフの異様な顔……」。さらに言えばラスコーリニコフの内面にもしっかりと言及される。「どいういうわけか、彼は誰にでも話しかけたい気持になった」。これらの記述のタイプの多彩さによって場面に立体性の感触が付与されているのは間違いない。
ラスコーリニコフがたまたま行き会った人間と交す会話について言えば、段落展開における意義を指摘しておきたい。たとえば閑人らしい男へのラスコーリニコフの奇妙な呼び掛けを描くためにこそ、その前段階として流し芸人たちが詳しく描写されたのだと言えるし、また赤シャツの若者との会話も、その場所がかつて彼がリザヴェータを見掛けた広場の角であることが科白に反映されているのである。
あとは、引用部の情景法としての機敏さは買いだ。「飲み屋だよ、玉突きもあるよ。お姫さまたちもいるしね……大はやりでさあ!」の科白の後の改行で一瞬でカットが切り替わっているのが美しい。
余談。引用部の第一文がすでに習慣的な補足説明から始まっているのでビックリですね。現前性を散らすためには何でもやるつもりか。「古い習慣で、散歩のいつもの道を通って、彼はまっすぐセンナヤ広場のほうへ歩いて行った。」
●『罪と罰』上271-272頁
第二部第六章
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彼はまえにも広場とサドワヤ通りを鉤の手に結んでいるこの短い横町を、ときどき通ったことがあった。近頃などは、気がくさくさすると、《もっとくさくさしてやれ》と思って、わざとこの界隈をうろつきまわったものだった。いまは彼は何も考えないで、この横町へ入った。そこには一軒の大きな建物があって、ぜんたいが居酒屋やその他いろいろな飲食店になっていた。それらの店からは、頭に何もかぶらないで普段着のままという、《近所あるき》のような服装の女たちが、たえずとびだしてきた。そうした女たちが歩道のそちこち、といってもたいていは地下室への下り口のあたりにかたまって、ぺちゃくちゃしゃべっていた。その下は、階段を二段も下りると、さまざまなおもしろい娯楽場になっていた。そうした地下室のひとつから、ちょうどそのときテーブルを叩く音やわあわあ騒ぐ音が通り中にあふれ、ギターが鳴り、歌声が聞えて、たいへんなにぎやかさだった。その入り口に女たちはわんさとたかり、階段に腰かけたり、歩道にしゃがんだり、あるいは立ったりして、がやがや話しあっていた。そのそばの舗道では、酔っぱらった兵隊が一人、くわえ煙草で、大声でわめきちらしながらふらふらしていた。どうやらどの店かへ入ろうとして、その場所を忘れてしまったらしい。一人のぼろを着た男がもう一人のぼろを着た男とののしりあっていた。またそのそばでは泥酔した男が通りの真ん中に死んだようになってひっくり返っていた。ラスコーリニコフは女たちがたくさん群がっているそばに足をとめた。女たちはしゃがれ声でしゃべっていた。みんな更紗の服を着て、山羊皮の靴をはき、頭には何もかぶっていなかった。四十すぎの女もいたが、十七、八の若い女もいて、ほとんどが目の下に青あざをつけていた。
彼はどういうわけか下のほうから聞えてくる歌声や、がたがた鳴る音や騒ぎに心をひかれた……そちらからは、爆笑や金切り声の合間に、活溌な調子のほそい裏声やギターの音にあわせて、誰かが踵で拍子をとりながらやけっぱちに踊っているらしい物音が、聞えていた。ラスコーリニコフは歩道に突っ立ったまま入り口のほうへ身をのりだし、おもしろそうに下をのぞきこみながら、暗いしずんだ顔をして、じいッと耳をすましていた。
あんたはあたいのかわいいお方
わけもないのにぶっちゃいや!
誰かのほそい歌声が流れてきた。ラスコーリニコフは無性にその歌が聞きたくなった。それを聞かないと、すべてがだめになってしまうような気がした。
《入ってみようか?》と彼は考えた。《みんな笑ってる! 酔ってるんだな。かまうもんか、ひとつめちゃくちゃに飲んでやろうか?》
「ねえ、お寄りにならない、やさしいお兄さん?」と女たちの一人がかなりよく透、まだそれほどかれていない声で言った。その女は若くて、それにいやらしくなかった。たくさん群がっていた女たちの一人だった。
「おや、美人じゃないか!」と、彼は身を起こし、女を見て、言った。
女はニコッと笑った。お世辞がひどく嬉しかったらしい。
とりあえず第一段落第一文に注目。引用部は基本的に情景法なはずなのだがいきなり習慣的記述から入っている。現前性を散らそうとするドストエフスキーの手癖は健在だ。「彼はまえにも……ときどき……したことがあった。近頃などは、……したものだった。」しかし次の文章で「いまは彼は何も考えないで、……」と「いま」を明示的に導入して一挙に場面を動かして行く。
引用部は全体としては横町に入った後現われる「この界隈」の「一軒の大きな建物」周辺の息の長い描写になっている。ラスコーリニコフの感覚(視覚・聴覚)を元にした描写が多いが、例えば「その下は、階段を二段も下りると、さざまなおもしろい娯楽場になっていた。」のようにラスコーリニコフが直に感覚したというより──ここでラスコーリニコフは歩道に立っているままなので──遠巻きに判断したかのような説明的な記述も含まれている(現に、まさに推測でしかありえない文章も混在している。「どうやらどの店かへ入ろうとして、その場所を忘れてしまったらしい」)。そしてそれらの多くはやはり動きの継続のアスペクト(「しゃべっていた」「ののしりあっていた」)や結果の継続のアスペクト(「ひっくり返っていた」)や結果属性のアスペクト(「……になっていた」──空間に関する説明的記述!)といった「……ている(いた)」系のアスペクトによって主に記述されており、しかしその中に同時に無アスペクトのラスコーリニコフの動きを記述した文章──「この横町へ入った」「……に足をとめた」「心をひかれた」──が点在することによって引用部の情景法は立体性を帯びて構成されている、と言えそうだ。立体性、つまりはアスペクト一辺倒でもなければ、単線的にラスコーリニコフの動きを追っているだけでもないということ。
ちなみに例によって、ラスコーリニコフの内部から外部へと放たれる関心に沿う志向性の叙述もあれば、ラスコーリニコフ(の表情)を外部から観察したかのような志向性の叙述もあり、それらの併存もまたこの情景法の立体性に寄与していると考えるべきである。前者の例は──「誰かのほそい歌声が流れてきた。ラスコーリニコフは無性にその歌が聞きたくなった。」後者の例は──「ラスコーリニコフは歩道に突っ立ったまま入り口のほうへ身をのりだし、おもしろそうに下をのぞきこみながら、暗いしずんだ顔をして、じいッと耳をすましていた。」
●『罪と罰』下290-295頁
第六部第一章
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ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。不意に目の前に霧が下りてきて、彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった。あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて、その頃は意識がときどきうすれたようになり、途中にいくつかの切れ目はあったが、その状態がずっと最後の破局までつづいていたことがわかった。当時多くの点で、例えばいくつかのできごとの日と時間とかで、思いちがいをしていたことが、彼にははっきりとわかった。少なくとも、あとになって思い出し、その思い出したものを自分にはっきり説明しようとつとめてみて、他人から聞かされたことをもとにしながら、自分のことをいろいろと知ったのである。例えば、彼はあるできごとをべつなできごとと混同していたし、その別なできごとを、実在しない想像の中だけのできごとの結果だと考えていた。ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。それは死を目前にした人に見られることのあるあの病的な冷静な心境に似ていた。だいたいこの最後の数日間というものは、彼は自分でも自分のおかれている状態をはっきりと完全に理解することを避けようとつとめていたようだ。ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃れて自由になれたら、彼はどんなに嬉しかったろう。もっとも、それを忘れることは、彼の立場では完全な避けられぬ破滅を招くおそれはあったが。
特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。ソーニャの部屋で、カテリーナ・イワーノヴナが死んだとき、彼にとってはあまりに恐ろしい、しかもあれほどはっきりと言われたスヴィドリガイロフの言葉を聞いて以来、いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ。しかし、この新しい事実によって極度の不安に突きおとされたにもかかわらず、ラスコーリニコフはどういうものかその解明を急ごうとしなかった。ときどき、どこか遠いさびしい町はずれのみすぼらしい安食堂で、一人ぼんやり考えこんでいる自分に、はっと気づき、どうしてこんなところへ来たのかさっぱり思い出せないようなとき、彼の頭には不意にスヴィドリガイロフのことが浮ぶのだった。そしてそんなとき、できるだけ早くあの男と話し合って、できることなら、すっかり決着をつけてしまわなければならないと、不安におびえながらも、はっきりと自覚するのだった。一度、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、彼はここがスヴィドリガイロフと会う場所に指定されたところで、いま相手が来るのを待っているのだ、と想像したほどだった。またあるときは、どこかの茂みの中で夜明けまえにふと目をさまし、地面の上にじかにねていた自分に気づき、どうしてこんなところへ迷いこんだのかさっぱりわからないこともあった。しかも、カテリーナ・イワーノヴナが死んでからこの二、三日で、彼はもう二度ほどスヴィドリガイロフに会っていた。それはいつもソーニャの部屋で、彼はなんということなく漠然と立ち寄り、ほんの一、二分しかいなかった。彼らはちょっと言葉を交わすだけで、決して重大な点にはふれようとしなかった。ときが来るまで黙っていようという暗黙の了解が、いつとなく二人の間にできあがっているようなふうだった。カテリーナ・イワーノヴナの遺体はまだ寝棺におさめたままになっていた。スヴィドリガイロフは埋葬の手配をしていて、いそがしく奔走していた。ソーニャもひじょうにいそがしかった。最後に会ったとき、スヴィドリガイロフは、カテリーナ・イワーノヴナの遺児たちはどうにかかたをつけた、しかもうまいぐあいにいったと、ラスコーリニコフに説明した。少しばかり手づるがあるので、当ってみたところ、都合よく三人ともすぐに相当の孤児院に入れるように世話してやるという人々が見つかったし、金のある孤児のほうが貧しい孤児よりもはるかに有利だから、子供たちにつけたやった金も大いにものをいった、ということだった。彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、ちょっと間をおいてから、急に声をひそめて尋ねた。
「どうなさいました、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで魂がぬけたみたいじゃありませんか? まったく! 聞いたり見たりはしているが、まるでおわかりにならん様子だ。元気を出しなさい。ええ、すこし話をしようじゃありませんか、ただ残念ながら、自他ともに多忙すぎましてね……ええ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼はとつぜんつけ加えた。「人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が……何よりもね!」
彼は、階段をのぼってきた司祭と補祭を通すために、不意にわきへよった。彼らは追善の祈祷をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指図で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。スヴィドリガイロフは何かの用事ででかけて行った。ラスコーリニコフはちょっと思案していたが、司祭のあとからソーニャの部屋へ入った。
彼は戸口に立ちどまった。しめやかに、おごそかに、もの悲しげに、供養の祈祷がはじまった。死というものを意識し、死の存在を感じると、彼は小さな子供のころから何か重苦しい神秘的な恐怖をおぼえたものだった。それに、彼はもう長いこと祈祷を聞いていなかった。しかもいまの場合は、何か普通とちがう、あまりにも恐ろしい、不安なものがあった。彼は子供たちのほうを見た。子供たちはいっしょに寝棺のそばにひざまずき、ポーレチカは泣いていた。そのうしろに、ひっそりと、泣くのをさえ気がねするように、ソーニャが祈っていた。《そういえばこの数日、彼女は決しておれを見ようとしないし、一言もおれに言葉をかけてくれなかった》──こんな考えがふとラスコーリニコフの頭に浮んだ。陽光が明るく部屋を照らしていた。香のけむりがまわりながらゆるやかにのぼっていた。司祭が《主よ、安らぎをあたえたまえ》と唱えていた。ラスコーリニコフは祈祷の間中立ちつくしていた。司祭は祝福をあたえて、別れの挨拶を交わしながら、なんとなく妙な顔をしてあたりを見まわした。祈祷がおわると、ラスコーリニコフはソーニャのそばへ行った。ソーニャは不意に彼の両手をにぎると、彼の肩に顔を埋めた。この短い動作がかえってラスコーリニコフを迷わせた。不思議な気さえした。どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌悪も、すこしの憎しみも抱いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない! これはもう限りない自己卑下というものだった。少なくとも彼はそう解釈した。ソーニャは何も言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手をぐっとにぎりしめると、そのまま出て行った。彼はたまらなく苦しかった。いまこのままどこかへ行ってしまって、たとい一生でも、完全な一人きりになれるものなら、彼はどれほど幸福だったろう。というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである。ときどき彼は郊外へ行ったり、広い街道へ出たり、一度などはどこかの森へ入りこんだことさえあったが、あたりがさびしくなればなるほど、誰かが近くにいるような不安がますます強く感じられるのだった。その不安は恐ろしいというのではなかったが、妙に腹立たしい気持になって、さっさと町へもどり、人ごみの中へまぎれこみ、安食堂か居酒屋に入ったり、盛り場やセンナヤ広場をうろついたりするのだった。こちらのほうが気が楽で、かえって孤独のような気さえした。ある居酒屋で、日暮れまえに、歌をうたっていた。彼は小一時間もじっと坐って、歌を聞いていた。そしてひじょうに楽しかったことをおぼえている。しかしおわりごろになると、彼は急にまた不安になりだした。不意に良心の苛責に苦しめられはじめたらしい。《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》──彼はふとこう思ったようだ。しかし、彼はすぐに、それだけが彼を不安にしているのではない、とさとった。早急に解決しなければならない何かがあったが、そのことの意味を考えることも、言葉であらわすこともできなかった。すべてが糸玉のようなものに巻きこまれてしまうのだった。《いやいや、こんなことをしているよりは、なんでもかまわん、たたかったほうがましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフと……早くまた誰かが挑戦してくればいい、攻撃をかけてくればいい……そうだ! そうだ!》──彼はこう思った。彼は居酒屋を出ると、ほとんど駆け出さないばかりに歩きだした。ドゥーニャと母のことを思うと、彼はどういうわけかたまらない恐怖におそわれた。その夜、明け方近く、彼はクレストーフスキー島の茂みの中で、熱病にかかったようにがくがくふるえながら、目をさました。家へもどったのは、もう白々と夜が明けかけたころだった。何時間か眠ると熱病はおさまったが、目をさましたのはおそらく、午後の二時頃だった。
ドストエフスキー作品の語り手によるディエゲーシスの質の高い一例。ちなみにこれは第六部冒頭の部分にあたる。そのような非常に重要なパートの第一段落では、第一文を無時間的・習慣的・括復法的に設定するのは基本だ。「ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。……」
さて、第一段落を見ての通り「あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて……」「少なくとも、あとになって思い出し、……」という言い回しが示すように、ここで語り手はすべての出来事が過ぎ去った未来の時点から振り返って語るという「超-認識」を帯びている。半ば将来のラスコーリニコフが過去の自分を突き放してみているという形式が語り手によって偽装されていると考えることも可能である(あまりにも語り手が当時のラスコーリニコフの心理状況を知り過ぎているので。自分を突き放してみている、というのは「彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった」「いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ」に見られるように概言のムードを使っているから)。いずれにせよここで語り手は物語の現時点から離れて──未来へと飛躍して──将来の時点で「(ラスコーリニコフが)おぼえていた」ことのみを摘まみ上げてそれを敷衍するということで叙述を構成している。「ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。」そうやって彼の当時の心理状態に周囲の文脈を明らかにしつつ包括的に肉迫していく語り手の手際を見よ──「ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃れて自由になれたら、彼はどんなに嬉しかったろう。」なんというか、こうすることで抽象的なんだけれども生々しい登場人物の描出になっているという独特の文体が生まれている。
第二段落でも主人公から距離を取りつつ彼を注視(尾行者的に?)する語り手の位相は健在である。「特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。」──この概言のムードを見よ。この距離感こそ、ラスコーリニコフのこの時期の混乱し切った思考と感情を包括的に記述することを可能にしている当のものだ(時には彼は自分が何をやっているのかさえ意識できなくなって、我に返って不安になりもする──《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》)。ところで、第二段落以降で注目すべきは、途中でディエゲーシスが現前的な記述にいつの間にか移行していることだろう。これは重要な技術。端的に指摘すると、第二段落末尾の「彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、……」──この一連の文章の流れでディエゲーシスがソーニャの部屋を舞台とする現前的記述に移行する。だが、この移行を可能にしているのはこれらの文章の効果だけではなく、これらが出現するまでに上手くスヴィドリガイロフとソーニャとの関係へと話題を持っていったそれまでのディエゲーシスの展開に、すでに作為があったと見做すべきだろう。第二段落前半は要約的記述ないし括復法的記述が占めている(「ときどき、どこかさびしい町はずれの……」「一度、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、……」「またあるときは、……さっぱりわからないこともあった」「それはいつもソーニャの部屋で、……」)。それがやがてここ数日ソーニャの身の回りであったこととスヴィドリガイロフの手配についての説明へゆっくり移行し、例の文章が現れて一挙に叙述が場面化するわけだ。アドホックには書けない段落展開。とはいえ、現前的場面が一旦動き出してからも、後に補足的な(括復法的)ディエゲーシスが現われることもあるが。「彼らは追善の祈祷をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指図で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。」というか、ドストエフスキー作品ではディエゲーシスとミメーシスが綺麗に分離していないので、現前的場面でも括復法的記述が斑らのように織り込まれるのはよくあることっちゃよくあること。
「彼は戸口に立ちどまった。……」からはやや要約法的に駆け足だとはいえ、もはや「あとになって思い返してみて……」などといった超-時間的な距離感はなくおおむねラスコーリニコフの感じたこと見たこと考えたことを現前的に追っている──描写している。時には彼の肉声としての内語も引用される。地の文でも体験話法的にラスコーリニコフの思考をトレースするということもやっている(「どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌悪も、すこしの憎しみも抱いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない!」)。ただ、一ヵ所だけ括復法的記述が顔を出しているところがある──「というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである」。これも一種の現前的記述の中での括復法の斑らってわけだ。あまり現前性なら現前性で一本調子にせず複数の叙述の水準を縫い合わせて展開させていく方がよい。
引用部末尾の要約法による時間の圧縮は面白い。叙述の流れの中で手際良く時間を進めたという趣き。
余談。スヴィドリガイロフの科白は途中で分割されているのだが、それを繋ぐ地の文「……と彼はつけ加えた。」はここ以外でもよく見掛ける。(一例:「「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ……まあ、りっぱだよ、おまえはそのほうがよかろうさ……だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたてて、苛々しながらつけ加えた。「ぼくはただ、お母さん、あなたに、許してください、と言いたかったのです」と彼はポキポキした口調で、ぶっきらぼうに言葉を結んだ。」)科白の中での屈折を表現するのに意外と使い勝手がいいのか?
●『罪と罰』上323-326頁
第二部第七章
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ラスコーリニコフはカテリーナ・イワーノヴナのそばへ歩みよった。
「カテリーナ・イワーノヴナ」と彼は言った。「先週あなたの亡くなられたご主人が、身の上話や家庭のことなどをすっかりぼくに聞かせてくれました……ご安心なさい、あなたのことはそれはもう心底から尊敬しながら語っておりました。その夜から、つまりご主人はああした気の毒な弱点はありますが、それでもどんなにあなた方の身を案じ、特にカテリーナ・イワーノヴナ、どんなにあなたを尊敬し、そして愛しているか、ということを知ったそのときから、ぼくとご主人は親しい友だちになったのです……ですから、失礼ですがぼくに……何かお役に立たせてもらいたいのです……亡くなった親しい友への義務を果す意味において。いまここに……たしか二十ルーブリあるはずです、これがいくぶんでもあなたのお役にたちましたら、ぼくは……それで……要するに、では……また寄ります……きっと寄ります……もしかしたら、明日また寄るかもしれません……じゃ、さようなら!」
そう言うと彼はそそくさと部屋をとび出し、人ごみをかきわけながら階段のほうへ急いだ。ところが人ごみの中で、思いがけなく、ニコージム・フォミッチとばったり顔をあわせた。彼は不幸を聞いて、自分でなんとか処理しようと出向いてきたのだった。警察署の一幕以来顔をあわせていなかったが、ニコージム・フォミッチはひと目で彼がわかった。
「あ、あなたでしたか?」と彼はラスコーリニコフに言った。
「死にました」とラスコーリニコフは答えた。「医者は来ましたし、司祭は来ましたし、万事しきたりどおりにすみました。ひどく気の毒な女です、あまり気をつかわせないでやってください、それでなくても肺病で気が立っているんですから。できたら、元気づけてやってください……だって、あなたは慈善家でしょう、知ってますよ……」と彼はじっと相手の目を見つめながら、うす笑いをうかべてつけ加えた。
「おや、しかし、大分血がつきましたな」とニコージム・フォミッチは廊下の角灯のあかりで、ラスコーリニコフのチョッキに生々しい血のあとがいくつかついているのに気がついて、注意した。
「ええ、つきました……血まみれですよ!」ラスコーリニコフは一種異様な表情でこういうと、にやりと笑って、会釈をして、階段を下りて行った。
彼はぞくぞくするような興奮につつまれながら、ゆっくりした足どりでしずかに下りて行った。そして彼は自分ではそれを意識しなかったが、不意におしよせてきたあふれるばかりに力強い生命の触感、ある未知のはてしなく大きな触感にみたされていた。その感じは、死刑を宣告された者が、不意に、まったく思いがけなく特赦を申しわたされたときの感じに似ている、といえるかもしれぬ。階段の中ほどで、帰りを急ぐ司祭が彼に追いついた。彼は黙って会釈を交わして、司祭を先へやった。しかしもうあと数段というところで、彼は不意に背後にあわただしい足音を聞いた。誰かが追いかけてきた。ポレーチカだった。少女はうしろから走りながら、彼を呼んだ。
「ねえ! 待って!」
彼は振り返った。少女は最後の階段をかけ下りてきて、つきあたりそうになって、彼の一段上にぴたッととまった。庭のほうから淡い光がさしていた。ラスコーリニコフは痩せているが、かわいらしい少女の小さな顔に目をこらした。少女はにこにこ彼に笑いかけて、子供っぽい明るい目で彼を見つめた。少女は何かたのまれてかけてきたらしく、自分でもそのたのまれごとが嬉しくてたまらない様子だった。
「ねえ、おじさんの名前なんていうの?……それからもひとつ、おうちはどこ?」少女はせかせかと息をきらしながら聞いた。
引用部では短い中でさまざまな出来事を連鎖させてサクッと読ませる。それを可能にしているのは、立体的に計算されためぐり合わせと、それに基づいた段落展開・ディエゲーシス配置だ。
マルメラードフの事故に遭遇する前のラスコーリニコフがもしニコージム・フォミッチに会っていたら自分の犯罪について自白していただろうということを押える必要がある。だからこそ作者は作為的に、マルメラードフの死を見てラスコーリニコフがなんとしても闘い抜くという意気(「力強い生命の触感」)を取り戻した直後に、ニコージム・フォミッチとラスコーリニコフを巡り合わせ、彼に「だって、あなたは慈善家でしょう、知ってますよ……」「ええ、つきました……血まみれですよ!」という不敵な科白を異様な表情で言わせているのだ。つまり再び彼が挑戦的で挑発的な態度を取り戻したことを、この偶然の出会いの中での「にやり」とした笑みに象徴させたわけだ。
こういう立体的な構成があるからこそ、長科白の後にラスコーリニコフが部屋をそそくさと飛び出したとたんにニコージム・フォミッチと顔をあわせ少し言葉を交した後に来る、ラスコーリニコフの心理描写のディエゲーシス(「彼はぞくぞくするような興奮につつまれながら、ゆっくりした足どりでしずかに下りて行った。そして彼は自分ではそれを意識しなかったが、不意におしよせてきたあふれるばかりに力強い生命の触感、ある未知のはてしなく大きな触感にみたされていた。その感じは、死刑を宣告された者が、不意に、まったく思いがけなく特赦を申しわたされたときの感じに似ている、といえるかもしれぬ。……」)が流れるように読まれるわけだ。
その後、帰りを急ぐ司祭との会釈のくだりも良いが、ポーレチカの登場を描くテンポのよい叙述もよい。まず足音。ポーレチカが追い掛けて来たという認識。少女の科白。振り返る仕種。少女の動作。「庭のほうから淡い光がさしていた」。少女の外貌描写──を導くためのラスコーリニコフの視線の動き。少女の表情。少女が負っている過去の文脈を推測によって開示(「少女は何かたのまれてかけてきたらしく……」)。改行して、少女の科白。そして息を切らしている少女(一生懸命走って来たという文脈の間接開示)。ほんと流れるようにサクサク読める。
●『罪と罰』上476-478頁
第三部第六章
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ラスコーリニコフは町人のあとを追ってかけだした、するとじきに通りの向う側に、べつに足を早めるでもなく、地面に目をおとして、何か考えごとでもしているように、のそりのそり歩いている男の姿を見つけた。彼はすぐに追いついたが、しばらくそのままうしろからついて行った。とうとう、彼とならんで、よこから顔をのぞいた。男はすぐに彼に気がついて、すばやい視線をかえしたが、またすぐに目を地面におとした、そして二人はそのまま、肩をならべて、一言も口をきかずに、一分ほど歩いた。
「あなたはぼくのことを尋ねたそうですね……庭番に?」とラスコーリニコフはたまりかねて、言葉をかけた、が、どうしたわけかひどくひくい声だった。
町人は返事もしないし、見向きもしなかった。またしばらく沈黙がつづいた。
「あなたは何者です……訪ねてきて……黙りこくって……いったいどうしたというんです?」ラスコーリニコフの声はとぎれがちで、言葉がどういうものか口から出しぶった。
町人は今度は目をあげて、無気味な暗い目つきでラスコーリ二コフをじろりと見た。
「人殺し!」と彼は不意に、ひくいがはっきりした声で言った……
ラスコーリニコフは男とならんで歩いていた。足の力が急にぬけて、背筋が冷たくなり、心臓が一瞬凍りついたようになった。それから急に、手綱をふりちぎったように、はげしくうちだした。そのままならんで、また黙りこくったまま、百歩ほど歩いた。
町人は彼を振り向きもしなかった。
「あなたは何を言うんです……なんてことを……誰が人殺しです?」ラスコーリニコフはほとんど聞きとれぬほどに呟いた。
「おまえが人殺しだ」と男はいっそうはっきりと言葉をくぎりながら、暗示をあたえるように言った。その声には憎々しい勝利のうす笑いがにじんでいるようであった。そしてまたラスコーリニコフの蒼白い顔と生気の失せた目をじろりと見た。二人はそのとき十字路に来ていた。町人は通りを左へ折れて、振り向きもせずに去って行った。ラスコーリニコフはその場に立ちつくして、いつまでもそのうしろ姿を見送っていた。男は五十歩ほど行くと、くるりと振り向いて、まだその場に身動きもせずに立ちつくしているラスコーリニコフのほうを見た。はっきり見わけることはできなかったが、ラスコーリニコフは、男がまたあの冷たい憎悪にみちた勝利のうす笑いをうかべて、にやりと笑ったような気がした。
本質的にすべての要素において無意識が絡んでくる現前的場面の一。
まずはラスコーリニコフの科白についている地の文に注目せよ。「ラスコーリニコフはたまりかねて、言葉をかけた、が、どうしたわけかひどくひくい声だった。」「ラスコーリニコフの声はとぎれがちで、言葉がどういうものか口から出しぶった。」「ラスコーリニコフはほとんど聞きとれぬほどに呟いた。」──ここに現われる「どうしたわけか」「どういうものか」はラスコーリニコフが自分の発話を能動的に制御できていないことのメルクマールで、地の文は彼の科白の裏にある無意識の動揺を完全に見抜いて地の文で記録しているわけである。すでにこの場面でラスコーリニコフは能動的な自意識よりも彼に何かを強制するかのような無意識に憑かれており(町人のあとを追ったのも半ば能動的、半ば強制的なものだろう)、地の文は外部の視点(ラスコーリニコフの一人称的認識に一致しない)からその無意識の蠢きに照準を合わせて記述・描写を生成していっている。
そして町人だ。彼はラスコーリニコフの無意識の奥に抑圧されて隠されていた言葉を一挙に公のものに、現実の光のもとに引きずり出してしまう一言を発するのだが、この時、ラスコーリニコフにあたかも宇宙が裏返ったかのように現実が自分の無意識と接着して目の前に出現したと錯覚したに相違ない。ラスコーリニコフの驚きは、たとえていえば鏡に映った自分の鏡像が突然喋り出したのに出会した際の驚きに似ているだろう。この時、町人の「暗示をあたえるような」声も、「冷たい憎悪にみちな勝利のうす笑い」もラスコーリニコフの無意識にとってこそそう感じられたというリアルの下にある。つまり実際に町人がそういう表情をしたかどうかというリアリズムではなく、ラスコーリニコフの無意識に刻印されたものとしてのリアル。少なくとも作者がここで町人の表情描写として選んで来た形容は、ラスコーリニコフの驚愕に一致することが最優先で選ばれたものであるはずだ。この場面はそのように造型されている。
●『罪と罰』上487-488頁
第三部第六章
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彼は苦しそうに息をついだ、──ところが不思議だ、夢がまだつづいているような気がした。部屋のドアがあいていて、戸口にまったく見知らぬ男が立って、じっと彼を見つめていたのである。
ラスコーリニコフはまだすっかりあけきっていない目をあわててまたつぶった。彼は仰向けにねたまま、身じろぎもしなかった。《これも夢のつづきではなかろうか》と思って、彼は気づかれないように、またかすかにうす目をあけてちらと見た。見知らぬ男はやはり同じ場所に立ったまま、じっと彼を見つめていた。不意に男はそっとしきいをまたぐと、音のしなようにドアをしめて、テーブルのそばまで来た、そしてそこでまた一分ほどじっと立っていた、──そのあいだ一度も彼から目をはなさなかった。それからしずかに、音もなく、ソファのそばの椅子に腰をおろした。帽子をわきの床へおき、両手でステッキにもたれて、そこへ顎をのせた。その様子では、男はいつまでも待つつもりらしかった。ひくひくふるえる睫毛ごしにうかがい得たかぎりでは、男はもうかなりの年齢で、がっしりした身体つきで、ほとんど真っ白といっていいほどの明るい色のあごひげをふさふさと生やしていた……
十分ほどすぎた。まだ明るかったが、もう日が暮れかけていた。部屋の中はひっそりとしずまりかえっていた。階段のほうからさえもの音ひとつ聞えてこなかった。大きな蠅が一匹とびまわってはガラスにつきあたり、ジージー鳴きながらもがいているだけだった。とうとう、こうしているのが堪えきれなくなった。ラスコーリニコフはいきなり身を起して、ソファの上に坐った。
「さあ、言ってください、何用です?」
「あなたがねむっているんじゃなく、寝た振りをしているだけだということは、さっきからわかっていましたよ」と見知らぬ男はゆったりと笑って、妙な返事をした。「アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフです、よろしく」
結局のところ、われわれの認識や知覚はわれわれ自身の精神状態によって拡張したり収縮したりする。その精神状態ってのは大抵状況に強制されたものなので、つまり自意識的でないわれわれの認識や知覚は、状況によって拡張し収縮する、ってことだ。(したがって、もし対象を詳細に描写したければ、それが強制的に可能になる──そうせざるを得ない──状況を虚構するしかあるまい。)
引用部第一段落ではラスコーリニコフは寝た振りをしたまま、部屋に入って来た男を観察するという状況(「あわてた」精神状態)に置かれる。ここではこの不意の客が何者か、何をしようとしているのかを、「かすかなうす目」で捉えられる限りで必死に把握しようとする彼の意図が、地の文における描写を生み出しているわけだ。第二段落では今度は彼がずっと寝た振りをしていることに堪えられなくなっていくという状況で「十分間」変化することのなかった部屋の中の様子、物音、日の光などが重みをもって描写される。彼が不意の客と我慢くらべをしているような状況だからこそ、こうした対象・知覚が描写されるのである。
基本的にこの引用部でも「描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である」という原則が働いていると見てよいだろう。いずれにせよ彼が能動的にではなく知覚し観察し認識せざるを得なかったものが、記述されているのであるから。
●『賭博者』143-144頁
第十一章
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彼らは、三人で、何やらむきになって相談しているところで、部屋のドアに錠さえかけてあったが、こんなことはついぞないことだった。戸口に近づきながら、わたしは声高な話し声をききわけた──毒を含んだ、不遜なデ・グリューの話し声と、ブランシュの破廉恥に罵る、いきりたった叫びと、明らかに何かを弁解しているような将軍の哀れっぽい声だった。わたしの姿を見ると、三人ともいくらか自分を抑えて、姿勢を立て直すかのようだった。デ・グリューは髪を撫でつけ、怒り顔から笑顔をこしらえた──わたしのひどく嫌いな、あの疎ましい、無表情でいんぎんな、フランス式の微笑だった。意気銷沈して、呆然自失の態だった将軍は、勿体をつけてみたものの、どことなく機械的な感じだった。ひとりマドモワゼル・ブランシュだけは、怒りに燃える表情をほとんど変えることなく、苛立たしげな期待をこめた視線をひたとわたしに注いで、口をつぐんだだけだった。指摘しておくが、これまで彼女はわたしに対して信じられぬほど失敬な態度をとり、わたしの会釈にさえ答えず、まるきりわたしなぞ眼中になかったのである。
「アレクセイ・イワーノヴィチ」やさしく叱責する口調で、将軍が切りだした。「この際はっきり言わせていただくけれど、実に奇妙ですぞ、この上なく奇妙だ……一口に言って、わたしと、わたしの家族に対する君の振舞いは……一口に言うなら、この上なく奇妙なもので……」
或る情景がどんな具合かをぱっと一段落で書き切る基本技術。
まず分かるのは、「わたしは部屋に入っていった」という記述がないこと。その代り(1)部屋の中の三人が何かを相談しているらしいこと/ドアに錠がかかっていること/錠がかっているなんて、ついぞないことであること=習慣的記述、(2)戸口に近付いていくわたし/聞えてくるデ・グリュー、ブランシュ、将軍のそれぞれの声、(3)わたしの姿を見て、姿勢を直した三人、……という複数の出来事を一文にまとめた三つの文章によるモンタージュによって、それがどういう状況であったかを伝達している。
なるほど。新しい場面を書き起こすには、導入部では単線的な記述ではなくて、むしろ複線的モンタージュこそが基本技術なのか。
ところで、「こんなことはついぞなかったことだった」も「指摘しておくが、これまで彼女はわたしに対して信じられぬほど失敬な態度をとり、わたしの会釈にさえ答えず、まるきりわたしなぞ眼中になかったのである」の文もそうなのだが、現前的場面の中でふっと習慣的記述が出てくる時には、「これまではつねにこうだったのだが、今はこうなっている」という形で、むしろ目下の情景の単起性を強調するためにこそ習慣的記述を「地」として用いることが多いのだろうか? 単に習慣的記述を召喚すればよいというわけではないのか?
●『罪と罰』上248-249頁
第二部第五章
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「はて? それああなたはいままでなんの知らせも受けておられないのですか?」ピョートル・ペトローヴィチはわずかに不快さを顔に出しながら、尋ねた。
それに答えるかわりに、ラスコーリニコフはゆっくり枕の上に身体を倒し、両手を頭の下に支って、天井をながめはじめた。憂いの影がルージンの顔をくもらせた。ゾシーモフとラズミーヒンはますます好奇心をそそられて、なめるような目で彼を見まわしはじめた。とうとう、彼もばつがわるくなったらしい。
「わたしはそう思ったものですから、かぞえてみて」彼は口ごもった。「何しろ十日以上もまえにだした手紙なので、もうほとんど二週間前にもなるでしょうか……」
「まあまあ、どうしてさっきから入り口に突っ立っているんです?」と不意にラズミーヒンが話の腰をおった。「何かお話がおありなら、坐ったらどうです。あなたとナスターシヤがそこに突っ立ってちゃ、せまッ苦しくてかないませんよ。ナスターシュシカ、わきへよけて、通してあげなさい! さあこっちへいらして、この椅子におかけください! さあさあ割り込んでください!」
彼は自分の椅子を卓のそばからずらして、卓と自分の膝の間に心もち場所をあけ、いくらか窮屈な思いで、客がその隙間に《割り込んでくる》のを待ち受けた。それが実にタイミングがよかったので、どうしてもことわることができずに、客はそそくさと、つまずいたりしながら、せまい隙間を通りぬけて入りこんだ。椅子までたどりつくと、彼はそれに腰を下ろして、うたぐり深そうにちらとラズミーヒンを見やった。
「まあ、そわそわしないでください」とラズミーヒンはつっけんどんに言った。「ロージャはもう五日間病気で寝たきりなんですよ。三日間はうわごとばかり言ってましてねえ。今日やっと気がついたんですが、食欲もでて、おいしそうに食べましたよ。こちらに坐っているのは医師で、いま診察をおわったばかりです。ぼくはロージャの友人で、やはり元は大学生でした、いまはこうして彼の看病をしてるわけです。まあこういうわけですからぼくたちにはおかまいなく、どうか遠慮なく用件をつづけてください」
「ありがとうございます。でも、ここで話をしたのでは病人の邪魔にならないでしょうか?」とピョートル・ペトローヴィチはゾシーモフのほうを見た。
「い、いや」ゾシーモフは口ごもった。「かえって気がまぎれるかもしれませんよ」そしてまた欠伸をした。
非常に丁寧に展開されている情景法。
たとえばある場面で人物の一人を椅子に坐らせたいとする。「彼は椅子に坐った」と書けば済むだろうか。なぜ彼がその時その場所に坐ったのか、リーズナブルなものとして描く必要が時にはあるのではないか。
引用部では不意の客として登場したルージンを坐らせるために、その過程が丁寧に構築されている。まずはラスコーリニコフに無視されたルージンのばつの悪さがあり、それに対するラズミーヒンの「坐ったらどうです……そこに突っ立ってちゃ、せまッ苦しくてかないませんよ」という騒々しい勧めがあり、タイミングのよさによって断わる機を失ってついつい坐ってしまうという契機がある。これらのすべての要素が上手くルージンの着席を自然にするよう立体的に組み合わされモンタージュされて描き出されている。これは、単に現前的な時間の流れに沿って起きたことを順に書いていくという発想法だけでは決して描くことができない。見て見られるものを同時に与えるという語り手の中立の位相を維持しながら、振舞いの一つ一つの内面的理由を見通しつつそこまで記述が届くように、「論理的に(つまり現前的な時間の流れに沿う形でなく)」一文一文を組み立てていくということ。その企図があって初めてリーズナブルな描写が生成可能になる。
ところでこうした立体的なモンタージュが可能になるには、複数の人物の動きを対位法的に把握している必要がある。科白も単に生き生きと発話されるだけでなく、例えば「……とピョートル・ペトローヴィチはゾシーモフのほうを見た。」という文に表れているように、顔の向き、視線の向きを補足することによって対照関係をきちっと決めていくことが大切らしい。
●『罪と罰』上434-435頁
第三部第五章
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「チエッ、こいつめ!」とわめいて、片手をふりまわすと、その手がまたからの茶わんがのっている小さな円テーブルに当ったからたまらない。テーブルごとすっかりけしとんで、ものすごい音をたてた。
「いったいどうして椅子をこわすんです、みなさん、国庫の損失になるじゃありませんか!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはおもしろがって、ゴーゴリの《検察官》の中の台詞を叫んだ。
その場の情景はこんなぐあいであった。ラスコーリニコフは主人と握手していることを忘れて、不躾に笑いすぎたが、程度を知って、なるべく早くしかも自然にその場をつくろう機会をねらっていた。ラズミーヒンはテーブルを倒し、茶わんをこわしたので、すっかりうろたえてしまって、うらめしそうに茶わんのかけらをにらんで、ペッと唾をはくと、くるりと窓のほうを向いて、みなに背を向けて突っ立ったまま、おそろしいしかめ面で窓の外をにらんでいたが、何も見てはいなかった。ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑っていたが、笑いたい気持とはべつに、いかにもわけをききたそうな様子だった。隅の椅子にはザミョートフが坐っていたが、客が入ってくると同時に腰をあげ、そのまま口をゆるめて笑顔をつくりながら待っていたが、しかし不審そうな、信じられないというような顔でその場の成り行きをながめていた。特にラスコーリニコフを見る目には狼狽のような色さえあった。思いがけぬザミョートフがそこにいたことは、ラスコーリニコフに不快なおどろきをあたえた。《これも考えに入れにゃいかんぞ!》と彼は考えた。
「どうぞ、お許しください」と無理にどぎまぎして、彼は言った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、ひじょうに愉快です、それにあなた方がこんなふうに入ってらしたことは、実に愉快です……どうでしょう、あれはあいさつもしたくないのかな?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはラズミーヒンに顎をしゃくった。
描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。それは登場人物の自意識・認識と必ずしも一致しない。この前提を元に考えてみよう。
「その場の情景はこんなぐあいであった。」の一文から始まる情景描写は、会話場面の中に挿入される一瞬の描写休止法だ。描写の必要はある、しかし限られた時間の中で見るべきものだけを見て報告しなければならない……。どのようにして?
描写対象は無意識で処理される……ということはそれなりに(ラスコーリニコフの)無意識にショックを与えたり謎めいていたりする要素がなければ、そもそも描写される価値がないってことでもあるだろう。「はっきりと言語化はできないが薄々何か嫌なところがあるのに気づいていた」というのが自意識への印象。或いは「あまりの恐ろしさでぱっと見ただけで克明に銘記されてしまった」「誰でも一見して何かおかしいと思うはずだ」とか。それを無意識担当の地の文が言語化するというわけだろうか。無意識を波立たせ自意識の円滑性を屈折させる強度(他者性)のない対象は、そもそも言葉を費やして描写する価値さえないのか。ドストエフスキーも結構描写をスルーしている時がある。描写休止法の時間が限られている場合は尚更そうだ。
或る意味ここでラスコーリニコフはポルフィーリイに自己を見抜かれることを恐れているので、その兆候については過剰に敏感になっている(そして、それ以外を逐一描写する必要はまだない。たとえばポルフィーリイの服装とか)。能動的に認識するより先に彼の無意識に瞬時に印象され判断を下されているエレメントが、ここでの描写対象である。ポルフィーリイの「いかにもわけをききたそうな様子」や、ラスコーリニコフが予期していなかったザミョートフの存在とその狼狽の表情は、この瞬間決定的にラスコーリニコフの無意識を波立たせ刻印してくる対象である。彼はザミョートフが客が入って来ると同時に腰を上げて笑顔を取り繕ったことさえ見逃さない。それらは彼に「不快なおどろき」を与え、《これも考えに入れにゃいかんぞ!》という内語を齎す。言うまでもなく《これも考えに入れにゃいかんぞ!》──この内語も自意識の能動性というより、無意識の切迫からの(自分では言ったことも意識していないような)言葉だろう。
見ての通り、この情景描写はラスコーリニコフの無意識を地にして、その上に稲妻のように瞬間的かつ強制的に印象された物事の輪郭を、語り手が機敏に言語化して報告するという形をとっている。その「印象」の中にはラスコーリニコフの自分自身の自己印象も含まれる。例えばわれわれは他者と話している間中、明確に認識することはなくても自分が緊張していることや相手を恐れていることを無意識で理解しているが、この引用部分でもラスコーリニコフ自身の無意識のざわめき、「不躾に笑いすぎた」ことや「その場をつくろう機会をねらってい」ることが余さず言語化され報告されるのである。繰り返せば彼が能動的にというより受動的に漏らした《これも考えに入れにゃいかんぞ!》という内語もまた、自己自身の無意識の動揺=ショックに対応する言語化だ。
ここでさらにポルフィーリイの習慣や生活の兆候について分析的な敷衍をするなら、地の文で「調査・推理」をするシャーロック・ホームズ的な語り手の描写の面目躍如といったところだが、引用部はそこまで踏み込んでいない。
●『悪霊』下555-556頁
「スタヴローギンの告白」
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三日後、私はゴロホワヤ街に戻った。母親は包みをかかえてどこかへ出ていくところで、主人はもちろん留守だった。私とマトリョーシャが残った。窓はあけ放たれていた。このアパートには職人が住んでいたので、一日じゅう、あちこちの階から槌の音や歌声が聞えていた。一時間ほどが過ぎた。マトリョーシャは自分の部屋のベンチに腰をおろし、私のほうに背を向けて、針を持って何やらいじりまわしていた。私は時計を取り出した。二時である。私の心臓ははげしく動悸を打ちはじめた。私は立ちあがって、彼女のほうへ近づいていった。隣室にはゼラニウムの鉢が窓にたくさん置いてあり、陽光が明るく輝いていた。私は彼女の近くの床の上にそっとすわった。彼女はぴくりとふるえ、はじめはたいへんなおびえようで、ベンチから跳びあがった。私は彼女の手を取って、そっと接吻すると、ベンチの上に押しつけるようにして彼女をまたすわらせ、じっと彼女の目を見つめた。私が彼女の手に接吻したことで、ふいに彼女は小さな子供のように笑いだしたが、それも一瞬のことだった。つぎの瞬間にはもう彼女ははげしい勢いで跳びあがり、顔に痙攣が走るほどのはげしい驚愕に打たれていたからである。彼女は、無気味なほどじっと動かない目で私を見つめ、唇が、泣きだそうとでもするように、ぴくぴくとふるえだしたが、それでも声は立てなかった。私はまた彼女の手に接吻して、膝の上に抱きあげた。すると彼女は急に身を引いて、恥ずかしそうに微笑したが、その微笑は妙にゆがんでいた。恥ずかしさで顔じゅうがぱっと赤くなった。私はひっきりなしに何やらささやいていた、酔っているようだった。とうとう、ふいにある奇怪なことが起った。それは私のけっして忘れられないことであり、私を茫然とさせたことである。少女はいきなり両手で私の首にしがみつくと、ふいに自分のほうからはげしい接吻をはじめたのである。彼女の顔には完全な歓喜の情があらわれていた。私は立ちあがって、そのまま行ってしまいそうになった。こんな幼い者がと思い、ふいに私が感じた憐れみの気持から、私は不快でならなくなったのである。
うーん、非常に奇妙な情景法。内容としては「私」と少女の(話の展開上重要な)或る行為を描いているだけのはずなんだが、なぜか普通の書き方をしていない。
普通の書き方、というのは二人の人物の或る行為を描いているのだから、まずこうなった、次にこうなった、そしてこうなった、さらにこうなった、ってことを現前的な時間の流れに沿って単線的に並べて瞬間瞬間を追っていけばいいはずなのだが、どうも引用部では複数の瞬間を行きつ戻りつして色んなことを並行的に描こうとでもしているかのようだ。例えば「私が彼女の手に接吻したことで、ふいに彼女は小さな子供のように笑いだしたが、それも一瞬のことだった。つぎの瞬間にはもう彼女ははげしい勢いで跳びあがり、顔に痙攣が走るほどのはげしい驚愕に打たれていたからである。」──という個所においては、私の接吻から少女の顔の痙攣までの様々を時間を凝縮して一挙に描き切っている。これはあきらかに映像的ではない。むしろ複数の写真を意図的に同時的に見せているかのような趣き。「すると彼女は急に身を引いて、恥ずかしそうに微笑したが、その微笑は妙にゆがんでいた。恥ずかしさで顔じゅうがぱっと赤くなった。」──この文章も妙。微笑したのと身を引いたのと顔じゅうが赤くなったのと、どういう順番で起ったのか? それをわざと分からなくするかのように書かれている。
また、焦点や視点もいまいち定まっていない。「彼女は、無気味なほどじっと動かない目で私を見つめ、唇が、泣きだそうとでもするように、ぴくぴくとふるえだしたが、それでも声は立てなかった。」──これはたった一文なわけだが、目と唇という、基本的には同時に凝視できないものをあたかも同時に凝視しているかのように、喩えていえば、複眼の拡大鏡を用いて描写したかのような記述になっている。似たようなものとして、「少女はいきなり両手で私の首にしがみつくと、ふいに自分のほうからはげしい接吻をはじめたのである。彼女の顔には完全な歓喜の情があらわれていた。」──の文章を挙げておこう。これも接吻されていたら「完全な歓喜の情」など仔細に眺めることなどできないのではないか? 単眼の焦点では捉えられないものをわざと記述することによって、情景法の中に印象の強度を生もうとしているようにしか思えない。
あとは、「私」について語られる個所の奇妙さにも触れておこう。突然挿入される「私はひっきりなしに何やらささやいていた、酔っているようだった。」の文。あたかも自分自身を他人のように眺め、しかも瞬間の観察ではなく或る程度時間幅を取って状態(「ささやいていた」──「ている」形アスペクトに注目!)を観察してみせたような趣きだ。それから、「とうとう、ふいにある奇怪なことが起った。それは私のけっして忘れられないことであり、私を茫然とさせたことである。」──これは明らかに登場人物たちと「現在」を共有しない後の視点に立つ語り手(=回想時のスタヴローギン)からの記述だ。「とうとう」なんて副詞を情景法の中で使うには、まあ当然語り手が介入していなければなるまい。
余談。引用部でのメインは「私」と少女の行為なのだが、そこへ記述を集中させていく前に、「……ている(いた)」形アスペクトをシンプルに用いて──「窓はあけ放たれていた」「このアパートには職人が住んでいたので、一日じゅう、あちこちの階から槌の音や歌声が聞えていた」「マトリョーシャは自分の部屋のベンチに腰をおろし、私のほうに背を向けて、針を持って何やらいじりまわしていた」──わりと具体的な場面設計を早い段階で済ましていることにも注目しよう。こういう基礎ができているからこそ後の情景法の強度が生きる。
●『永遠の夫』32-34頁
第二章
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彼は三時間ほど眠ったが、落着きのない睡りだった。熱病の時に見るような、なんだか妙な夢を見た。なんでもそれは、彼が何か犯罪をおかして、それをかくしているところらしく、おまけにどこからとも知れず、ひっきりなしに彼の部屋へ押しかけて来る人々が、異口同音に彼の罪を鳴らすのであった。集まった群衆はおそろしいほど澤山で、おまけに引きもきらずあとからあとからと部屋へはいってくるので、ドアはもうしまらなくなって、あけっぱなしになっていた。ところが彼の全身の注意は、やがて一人の奇妙な男に集中されてしまった。それはその昔、彼が非常に親しくしていた友人で、今では死んでいるはずなのに、どうしたものか群衆にまじっていきなり彼の部屋へはいって来たのだった。ヴェリチャーニノフにとって、何よりももどかしくてならないのは、その男が何者なのかわからず、名前も度忘れして、なんとしても思い出せないことだった。彼にわかっていることは、その昔自分が非常に好きだった男、ということだけだった。押しかけて来たほかの連中は、この男の口から、ヴェリチャーニノフの有罪無罪をきめる最後の一言が漏らされるのを待っているらしく、みんなじりじりしていた。しかしその男は、テーブルの前に腰をおろしたまま身じろぎもせず、黙然と口を利こうともしなかった。喧騒はやまず、いらだたしい空気はますます濃くなって行った。と突然、ヴェリチャーニノフはカッとして、その男が口を開こうとしないのを理由に、彼を殴りつけた。そしてそのため、異様な快感を覚えた。彼の心臓は自分のしたことに対する恐怖と苦痛のため、じいんと凍りつく思いだったが、しかもその悪寒のなかに、快感がこもっているのだった。怒りの燃え狂うにまかせて、彼は二度三度とつづけざまに殴りつけながら、忿怒と恐怖からくる一種酔い痴れたような気持は、ほとんど狂気の境にまで来ていたが、しかもそのなかには、無限の快感もこもっているのだった。そして彼は、もはや自分のふるう鉄拳の数も覚えず、のべつ幕なしに殴りつづけた。彼はあれを一切合財、残る隈なく粉砕してしまいたかったのだ。と不意に、何ごとかがもちあがった。一同はもの凄い叫び声をあげて、何ものかを待ち設けるように、ドアの方を振り向いた。するとその瞬間、戸口の鈴が三度けたたましく鳴ったが、その乱暴さ加減といったら、まるで鈴をドアからもぎとろうとでもするようだった。ヴェリチャーニノフは、はっと眼を覚ますと、たちまちわれに返って、がばと寝床からはね起きざま、戸口へ駆け寄った。今鈴が鳴ったのは夢ではない。何者かが本当に、今しがた案内を乞うたのだ──と、彼は固く思いこんだのである。
『あんなにもはっきりした、あんなにも真に迫った、ありありと耳に聞こえる鈴の音が、ただの夢に過ぎんとしたら、あんまり不自然過ぎるじゃないか!』
主人公の見た夢を記述するディエゲーシス。だがこれも一種情動を伴う回想をしているという風にも読める。その前提で分析する。
まず前半部分は、過去(夢)の状況を総体的に説明しようとしていると見なせる。その回想(夢)の前提となっている状況を読者と共有できなければそこで起こる出来事も理解しようがないから、これは当然の手順。ここでは二ヵ所ある逆接の接続詞の用い方に注目。「……ドアはもうしまらなくなって、あけっぱなしになっていた。ところが彼の全身の注意は、やがて一人の奇妙な男に集中されてしまった。」「……みんなじりじりしていた。しかしその男は、テーブルの前に腰をおろしたまま身じろぎもせず、黙然と口を利こうともしなかった。」──実際見てみればわかるが、まずその状況において漠然と広い範囲に妥当する描写をしてから、「ところが」「しかし」の挿入によって一挙に注目すべき事態へと焦点を合わせている。つまり「全体としてはこうなっている。しかしこの部分ではこうなっている(ここに注目せよ)」と段落の流れを構造化するために逆接の接続詞が用いられているというわけ。当然ながらこの注目されるべき部分を敷衍していくことによって、後の特異な出来事が生まれてくる。
段落の後半部分は、まさに「情動的回想」としての面目躍如、出来事と並行しての情動描写に注目。ここではヴェリチャーニノフが単に男を殴ったことだけが描かれているのではない。むしろ描写の力点はその殴打に伴ってヴェリチャーニノフの感じる「異様な快感」の方にある。しかもこの情動はヴェリチャーニノフの主観から捉えられた、すなわちヴェリチャーニノフの自意識にとって予想と制御の範疇に入っている情動ではなく、ほとんど自分でもなぜそんな激しさが生まれてくるか分からぬままにのめり込んでしまう、「忿怒と恐怖からくる一種酔い痴れたような気持」として書かれている。「彼はあれを一切合財、残る隈なく粉砕してしまいたかったのだ」という断定はおそらく主人公の内的な視点からでは──その自分のあからさまなサディズムをはばかって──書くことができなかったはずだろう。あくまで主人公の外部から、それでいて主人公の無意識まで踏み込んで暴き出す容赦ない語り手の視点からのみ描き出せる「情動」がここでの主要な内容である。もし「情動的回想」を描くならここまで踏み込まなきゃつまらんってこと。
●『カラマゾフの兄弟』1巻63-65頁
第一部第二篇第一章
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その日はからりと晴れた暖かい日だった。時節は八月末である。長老との面会は昼の祈祷式のすぐあと、十一時半ごろと決められていたが、わが僧院訪問者たちは祈祷式には出席しないで、ちょうど祈祷が終わったころに到着した。彼らは二台の馬車に分乗して乗り込んで来た。先頭の高価な二頭の馬に引かせたハイカラな幌馬車には、ミウーソフが遠戚にあたるピョートル・フォーミチ・カルガーノフという、年のころ二十歳ぐらいの非常に若い青年と並んで乗っていた。この青年は大学へはいる準備をしていて、そのころなぜか彼をわが家にあずかっていたミウーソフから、一緒に外国へ──チューリッヒかイエーナ──へ行って大学へはいり、そこで課程を終えてはどうかとすすめられていたが、まだ決心がつかずにいた。彼は冥想的で、なんとなく放心したように見えた。顔つきは感じがよく、体格はがっしりとして、かなり上背に恵まれていたが、どうかすると視線が奇妙に固定して、精神の非常に散漫な人々によくあるように、じっと相手の顔を見つめていながら何にも見ていないことが時々あった。また無口で口下手だったが、──一対一の時にかぎってとつぜん猛烈にお喋りになって滔々と話しはじめ、何がおかしいのか急に笑いころげることもあった。しかし彼のこの活気も、その起こりはじめが唐突だったように、消えるのも急激で突然だった。身なりはいつも立派で、むしろ凝りすぎるぐらいだった。彼はすでに多少の自分の財産を持ち、そのうえさらに莫大な遺産をいずれ相続することになっていた。アリョーシャとは友人の間柄にあった。
ミウーソフの幌馬車からずっと遅れて、フョードルと息子のイワンが、二頭の葦毛の老いぼれ馬に引かせた大そう古めかしい、がたがたの、座席だけがばかに広い辻馬車に乗って到着した。ドミートリイにはきのうのうちに日時を知らせてあったが、彼はまだ来ていなかった。訪問者たちは馬車を僧院の塀のすぐ外にある宿泊所で乗り捨てて、徒歩で門をくぐった。フョードル以外の残りの三人は、今まで一度も僧院を見たことがないらしく、ミウーソフに至っては恐らくもう三十年このかた、教会へさえも足を踏み入れたことがなかったに違いない。彼は多少の好奇心を浮かべてあたりを見まわしたが、例によって幾ぶんわざとらしい磊落さを失ってはいなかった。しかし僧院の内部には、会堂や庫裏の建物などきわめてありふれたもの以外、彼の観察ずきな目にとまるものは何ひとつ見あたらなかった。会堂の中からは、最後に残った人々が帽子を取って十字を切りながら出て来た。民衆のなかにまじって、二、三人の貴婦人やひとりの大そう年取った将軍など、上流社会の遠来の参詣者の姿も見られた。この人たちはみんな宿泊所に泊まっていたのである。乞食の群れがさっそくわが訪問者の一行を取り巻いたが、誰ひとり施しを与える者はいなかった。ただカルガーノフだけが財布から十コペイカ銀貨を取り出したが、なぜかすっかりどぎまぎして大急ぎでひとりの女乞食の手を握らせると、「みんなで分けるんだよ」と口早に言った。一行のうち誰ひとりそれに気づいた者はなかったのだから、何もどぎまぎする必要はなかったのだが、そう思うと彼はいっそうどぎまぎした。
それにしても、何か様子が変だった。本来から言えば、彼らは多少の尊敬をこめた出迎えを受けてさえ当たり前だったのである。何しろひとりはつい先だって千ルーブリもの寄進をしたばかりだし、もうひとりはきわめて裕福な地主であると同時にいわば最高の教養をもつ人物で、訴訟の経過いかんによっては川の漁業権に関して僧院内のすべての人々を思いどおりに牛耳る男なのである。ところが僧院側からは公けの出迎え人はひとりも出ていなかった。ミウーソフは会堂のまわりに並ぶ墓石をぼんやりと眺めて、こういう《神聖な》土地に葬ってもらうのはその権利だけでもずいぶん高いだろうなと言いかけたが、そのままむっと押し黙った。単純な自由主義的な皮肉が、心のなかでほとんど憤怒に変わりかけていたのである。
「ちぇっ、こんな妙なところじゃ、聞こうにも聞く相手がいないじゃないか。……まずそれを決めなくちゃならん、どんどん時間がたって行くからな」とつぜん彼はひとり言めいたつぶやきをもらした。
一応この記述も現前的場面ではあるのだが、重要なのは、焦点を鋭い注視(刻一刻と状況が移り変わっていく)へ絞り込まないで、漠然と広い時間を取って対象-現在を捉えているところだろうか。感覚的な描写は、「その日はからりと晴れた暖かい日だった。」これだけ。他は事実、習慣、観察、しかも瞬間瞬間を捉えるのではなくて、短期的な括復法のような、時間幅を広く取って「ピョートル・フォーミチ・カルガーノフ」について説明的ディエゲーシスを挿入している。「どうかすると……」「時々……」「……の時にかぎって……」というのがその時間幅の広い観察描写のメルクマール。チェーホフの(現前的)文体とも、ディケンズの(現前的)文体とも全然違う、ということはヘミングウェイやナボコフとも。そしてほとんど無意味とも思える事実──カルガーノフの経歴なんて何の意味がある?──の密度が凄い。知覚の敷衍ではなくて、時間幅の広い人間観察の敷衍によって文章を生成していく?(注意。このカルガーノフの経歴を叙述している箇所には外貌描写が含まれていて視点が現在に固定されているかのようだが、実際には「どうかすると……することが時々あった」「……することもあった」と括復法的記述で時間幅を広く取っている。人物についての叙述でも単線的に敷衍するのではなくてふくらみを持たせた敷衍をしているということ。)
全体としては、高価な幌馬車に乗って来るミウーソフ、おんぼろ馬車に乗ってくるフョードル、という意味レベルの対立が叙述の中で一貫している(プロット、描写、叙述の原理としてミウーソフVSフョードルの対立がまずあるということ)。さらに意味レベルという点でもっと注目すべきは、どれだけ事実を記述していてもドストエフスキー文体においては平板なルポルタージュ的記述になることがなく、必ず細かな意味が上塗りされていることだろう。やはり習慣的な記述によって感覚的な臨場感というよりも文脈的-記憶的-歴史的な実在感を喚起する(「フョードル以外の残りの三人は、今まで一度も僧院を見たことがないらしく、ミウーソフに至っては恐らくもう三十年このかた、教会へさえも足を踏み入れたことがなかったに違いない。」──語り手による「調査・推理」)。そして僧院内部の様子は、作為的にミウーソフにあたりを見回させることによって、ミウーソフの「観察ずきな目」によって枠付けされた形で描写される。とりわけ「それにしても、何か様子が変だった」という記述によって、それまでの単なる情景と見られた会堂の中から出てくる人々、乞食の群れ、といった存在が(ミウーソフの観点からすれば)「変」なものであるという意味付けがなされる──平板な叙述が意味で二重化されている。そして時間幅を広く取り、ミウーソフの過去の事情──川の漁業権にまつわる訴訟の経過──を織り込むことで、その「変」の所以を説明しつつこの現前的場面の意味レベルを興味深いものにしていく。ドストエフスキーの文体は、単線的にこういうことが起こった、こういうことが起こった、と事実を追うことはせず、広い時間幅を視野に入れて、そこで立体的に成りたっている意味を織り込んで行くのが特徴。その真髄は「紙の上で人間を動かし、行動させる」という奇蹟への・小説家としての意志だろう。(惟うに、オコナーの言うように登場人物の印象を決定付けるのは、リアリティのある(単発的な)細部描写ではなく、時間幅を広く取ることから生成される事情・意味レベルの記述ではないか?)
また、こうした意味付けのメルクマールとして《……》が用いられていることにも注目せよ(「こういう《神聖な》土地」──ミウーソフの用いた言葉だというアクセントが付いている)。わざわざ《……》で括られる言葉は、単なる一次元的な形容ではなく、単焦点では読み取ることのできない意味の塗り重ねを示していると考えるべきだ。
●『罪と罰』下397-399頁
第六部第五章
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彼はドゥーニャのそばへ寄って、しずかに片手を彼女の胴へまわした。彼女はさからわなかったが、身体中を木の葉のようにわなわなとふるわせて、祈るような目で彼を見ていた。彼は何か言おうとしていたが、唇がゆがんだだけで、言葉にならなかった。
「わたしを帰して!」とドゥーニャは、拝むようにして、言った。
スヴィドリガイロフはぎくっとした。この敬語をぬいた口調には、どことなく、先ほど怒っていたときとはちがうひびきがあった。
「じゃ、愛してくれないんだね?」と彼はしずかに尋ねた。
ドゥーニャは否定するように頭を振った。
「そして……これからも?……どうしても?」と彼は絶望にしずみながら囁いた。
「どうしても!」とドゥーニャは低声で言った。
スヴィドリガイロフの心の中でおそろしい無言のたたかいの一瞬がすぎた。なんとも言えぬ目で彼はドゥーニャを見た。不意に彼は手をぬいて、顔をそむけると、急いで窓のほうへはなれて、窓のまえに立った。
更に一瞬の沈黙がすぎた。
「これが鍵です!(彼は外套の左ポケットから鍵をとり出すと、ドゥーニャのほうを見もしないで、振り向きもしないで、それをうしろのテーブルにおいた)。これで開けて、早く帰ってください!……」
彼はかたくなに窓のほうを向いていた。
ドゥーニャは鍵をとろうとしてテーブルのそばへ寄った。
「早く! 早く!」と、スヴィドリガイロフはやはりその場を動かず、振り向きもしないで、くりかえした。しかしこの《早く》には、明らかに、あるおそろしいひびきがあった。
ドゥーニャはそれをさとって、鍵をつかむと、ドアにかけより、大急ぎで開けて、部屋をとび出した。一分後には、彼女は気ちがいのように、夢中で河岸へ走り出て、N橋のほうへ走って行った。
スヴィドリガイロフは更に三分ほど窓辺に立っていた。やがて、ゆっくり向き直ると、あたりを見まわし、しずかに掌で顔をぬぐった。異様なうす笑いがその顔をゆがめた。みじめな、悲しい、弱々しい笑い、絶望の笑いだった。もう乾いた血が、彼の掌を汚した。彼はむらむらしながらしばらくその血をにらんでいたが、やがてタオルを水にぬらして、こめかみをきれいに拭いた。ドゥーニャが投げて、ドアのそばにころがっていた拳銃が、不意に彼の目についた。彼はそれを拾い上げて、点検した。それは古い型の小さな懐中用の三連発拳銃だった。中にはまだ弾が二発と、雷管が一つのこっていた。一度は射てるわけだ。彼はちょっと考えて、拳銃をポケットに入れると、帽子をつかんで、部屋を出た。
この現前的場面のテンポの良さをどう考えるべきか。
ざっと読むだけで切羽詰まった場面の映像の運動が浮かんでくるようだが、叙述自体はシンプル。映画的に逐一人物の動きを追って描写しているというのではない。なんというか、一文ごとにカメラのアングルが変わっていき、そのカットをかなり稠密なモンタージュによって繋いでいるという印象だ。例えば最後の段落などは、スヴィドリガイロフの全身を収めたショット、あたりを見回す彼のバストショット、彼の表情のクローズアップ、ドアのそばに転がっている拳銃、その拳銃のアップ、というふうに一文一文アングルが全然違うというふうに感じる。このような描写の設計は、なんとなくそうなったのではなく、意識的な技巧の結果なのではないか。
文法面では、「そして」がほとんど使われていないことに注目しよう。「スヴィドリガイロフの心の中でおそろしい無言のたたかいの一瞬がすぎた。なんとも言えぬ目で彼はドゥーニャを見た。」の文章のつなぎや、「彼はむらむらしながらしばらくその血をにらんでいたが、やがてタオルを水にぬらして、こめかみをきれいに拭いた。ドゥーニャが投げて、ドアのそばにころがっていた拳銃が、不意に彼の目についた。」の文章のつなぎなど、「そして」を入れたくなるところだが、一つの文が終わったあとに、アングルを飛ばすことによって──前者ではスヴィドリガイロフ自身から、その「目」へとアングルを飛ばしている、後者ではスヴィドリガイロフの動作から、「拳銃」へとアングルを大胆に飛ばしている──「そして」無しで文章の推進力を生み出している。アングルを飛ばすことによって、現前的場面の記述の流れを単線的なものから破線的なものにしているというふうだ。面白い。
また、アングルの飛躍には「見た(目についた)」の動詞を有効利用すると良いことが分かる。もちろん重要なのは、「何」を見たかだ。
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------------------------------------- タイプ【D-5】記述的-情景法 ▲
●『罪と罰』下460-462頁
エピローグ
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シベリア。荒涼とした大河の岸に一つの町がある。ロシアの地方行政の中心地の一つである。この町に要塞があって、要塞の中に監獄がある。この監獄の中に第二級流刑囚のロジオン・ラスコーリニコフが、十ヵ月まえから収容されていた。犯行の日からほぼ一年半の歳月が流れていた。
彼の事件の裁判は大した障害もなくすぎた。被告は状況をもつれさせたり、自分の利益のために柔らげたり、事実をゆがめたり、こまかい点を忘れたりすることなく、正確に明瞭に自分の供述を裏付けた。彼は犯行の全過程をごく些細な点まで詳しく述べた。殺された老婆がにぎっていた質草(鉄板をはりつけた板きれ)の秘密も明らかにした。老婆から鍵を奪った状況も詳しく語り、どんな鍵がいくつくらいあったか、長持はどんなふうで、中にどんなものが入っていたかまで説明した。リザヴェータを殺した謎も明らかにした。コッホが来て、ドアをたたいたこと、そしてそのあとから学生が来たことも、彼らの間の会話をすっかり再現して、詳しく語った。彼、つまり犯人がそのあとでどんなふうに階段をかけ下り、どこでミコライとミチカの騒ぎを聞いたか、どんなふうに空室にかくれ、どうして家へ帰ったかを述べ、最後にヴォズネセンスキー通りの門の内側にある石の位置を明示した。石の下から品物と財布が出てきた。要するに、事件は明白となったわけである。検事や裁判官たちは、彼が品物や財布をつかいもしないでかくしていたことには、特におどろいたが、それよりも、彼が自分で盗んだ品物をよくおぼえていないばかりか、その数さえまちがっていたのには、すっかりおどろいてしまった。わけても、彼が一度も財布を開けて見ないで、中に金がいくらあるかさえ知らなかったという事実は、信じられないことのように思われた(財布の中には銀単位で三百七十ルーブリの紙幣と、二十コペイカ銀貨が三枚入っていた。長い間石の下になっていたために上のほうの大きい紙幣が何枚かはひどく痛んでいた)。長い間審査の苦心がこの点に向けられた。被告は他のすべての点は進んで正直に認めているのに、なぜこの一つの事実だけ嘘をつくのか? ついに、ある人々(特に心理学者)は、実際に彼は財布の中を見なかった、だから中に何があったか知らなかった、そして知らないままに石の下にかくした、という事実は考えられないこともないと認めたが、それならば犯行自体は、ある一時的な精神錯乱、いわば、なんらの目的も利害に対する打算もない、強盗殺人の病的な偏執狂の発作、という状態のもとで行われたとしか考えられないという結論になった。そこへ折りよく、最近つとめてある種の犯人たちに適用しようとする傾向のある最新流行の一時的精神錯乱の理論が持ち出された。加えて、ラスコーリニコフのまえまえからのヒポコンデリー症状が、医師ゾシーモフや、以前の学友たちや、下宿の主婦や女中など、多くの証人たちによって証言された。こうしたすべてのことが、ラスコーリニコフは普通の強盗や殺人などの凶悪犯人とはぜんぜんちがって、そこには何か別種のものがあるという結論を、大いに助長した。この意見を擁護する人々をひどく憤慨させたのは、犯人自身がほとんど自分を弁護しようとしなかったことである。何が彼を殺人に傾かせ、強盗を行わせたのか、という決定的な質問に対して、彼は実に明瞭に、乱暴なほど正確に、いっさいの原因は彼の悲惨な、貧しい、頼りのない境遇であり、少なくとも三千ルーブリの助けをかりて出世の第一歩をかためたいと願い、老婆を殺せばそれが奪えると思ったのである、と答えた。彼が殺害を決意したのは、もともとが軽薄で小心な性格が、生活が苦しくものごとがうまく行かないために苛々したためである、と言った。何が彼を自首する気持にさせたのか、という質問に、彼は正直に、心からの悔恨であると答えた。言うことがみな、ほとんどふてぶてしく聞えるほどだった。
一般的なディエゲーシス。基本的に時間軸にそって出来事をストーリー化してまとめて追っているのでリーダブル。単なる事実の羅列に終始せず、「それよりも……」「わけても……」「ついに……」「いわば……」「そこへ折りよく」という接続の接ぎ穂によって軽く構造化されている。また「要するに、事件は明白となったわけである。」「こうしたすべてのことが、……という結論を、大いに助長した。」という前文までの流れを総括して結論づける文章が要所で入っていてさらに構造をクリアにしている。
だが段落の構造化という意味では「被告は他のすべての点は進んで正直に認めているのに、なぜこの一つの事実だけ嘘をつくのか?」の疑問形の文が途中で出現していることに注目したい。それまでの叙述の流れで自然に出てくる疑問をそのまま体験話法的に(この疑問を発しているのは検事や知人らを含むラスコーリニコフの周囲の人々で、語り手がそれらの人々の疑問の声をトレースしているかのように)疑問形で記すことで、続く叙述を引き出している。
●『カラマゾフの兄弟』4巻222-224頁
第十一篇第七章
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こうしてひと月たった。彼はもうスメルジャコーフのことを誰にもたずねようとはしなかった。ただ二度ほど、病気が重くなって、気が変になったという消息をちらりと耳にはさんだだけだった。『結局、発狂して死ぬでしょうな』ある時、若い医師のワルヴィンスキイがこう言ったことがあるが、彼はその言葉を胸にとどめておいた。その月の最後の週になると、今度はイワン自身が体の激しい変調を感じはじめた。公判の前にわざわざカチェリーナがモスクワから呼んだ医師のところにも、彼は診察を受けに行っていた。彼とカチェリーナとの関係が極度に緊張したのもその頃である。ふたりはお互いに惚れ合っている一種の仇敵同士であった。ミーチャに対するカチェリーナの愛が、瞬間的に、しかし強烈に復活すると、イワンは完全な狂乱状態におちいった。奇妙なことだが、すでに述べたとおり、アリョーシャがミーチャと面会した帰りにカチェリーナの家へ立ち寄った時の、あの最後のひと騒動が起こるまで、彼イワンはまるひと月のあいだ、彼女のミーチャへの愛が《復活》したのを知ってそれを憎悪してはいたもの、一度も彼女の口からミーチャの有罪を疑う言葉を聞いたことはなかったのである。さらに注目すべきことは、彼が日ましにミーチャへの憎悪がつのるのを感じながら、同時にその憎悪がカーチャのミーチャに対する愛の《復活》のためではなく、ミーチャが父を殺したためであると考えていたことである。そのことを彼は十分に感じ、また意識してもいた。それにもかかわらず、彼は公判の十日ほど前にミーチャを訪ねて、兄に逃亡の計画を、──明らかにずっと前から練っていたらしい計画を提案した。それには、彼にそういう計画を立てさせた主な理由の他に、兄に罪を負わせたほうが有利だ、そうすれば父の遺産の分け前が四万から六万に増えるというスメルジャコーフのひと言のために受けた、深い心の傷跡も、あずかっていたのである。彼はミーチャを逃亡させるために自分の財産から三万ルーブリを提供しようと決心した。ところが、その日ミーチャとの面会を終えて帰る途中、彼は恐ろしく悲しい、困惑した気持になった。とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである。『おれが精神的には同じ殺人者だからではないだろうか』こう彼はわが胸にきいてみた。何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した。何よりも重要なことは、このまるひと月のあいだ、恐ろしく彼の自尊心が苦しみつづけたことである。だが、そのことはいずれあとで語ろう。……
いわゆる語り手の立場からの心理分析的ディエゲーシスだが、ちょっと変ったタイプの記述。
「さらに注目すべきことは、彼が日ましにミーチャへの憎悪がつのるのを感じながら、同時にその憎悪がカーチャのミーチャに対する愛の《復活》のためではなく、ミーチャが父を殺したためであると考えていたことである」──といったイワンの自意識のねじれを正確に言い当てる言葉からも分かるとおり、あくまで分析は一貫して論理的で徹底している。しかしながらどこか隔靴掻痒の感がある。イワンの内語(『おれが精神的には同じ殺人者だからではないだろうか』)まで再現しながらも、イワンの心理の或る重要な部分には絶対に立ち入らずにそれを周囲から撫で回すばかりで肝心のことを言語化しないという風なのだ。たとえば「とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである」──ここでは「その他にも理由があるような気がした」という不特定の言い方に留めて分析を一定のところで停止させている。「何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した」──この表現でもあくまで彼を不安にし苦しめているものの正体までは踏み込んで分析しない意図がありありだ。当然ながら「そのことはいずれあとで語ろう」と言っていることからも分かるとおり、語り手はイワンの心理の奥底を明らかにしようと思えばできる。それをせずに、意図的にある一定の範囲に論理的な心理分析をとどめる、そんな巧んだディエゲーシスとなっている。
●『カラマゾフの兄弟』4巻205-206頁
第十一篇第六章
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もっとも同時にイワンは、ある全く関係のない事柄に大そう心を奪われていた。モスクワから帰ると最初の数日のうちに、彼はカチェリーナに対する燃えるような物狂おしい情熱に深々とおぼれてしまったのである。後日、全生涯にわたって大きな影響を及ぼしたイワンのこの新しい情熱については、ここで物語るわけにはいかない。それは他の物語の、別の長篇小説の構想となるべき話であるが、その小説にいつの日か着手するかどうかは、筆者自身がわからないのである。だが、今もやはりひと言その話に触れておかねばならず、前に書いたようにイワンがあの夜、アリョーシャと一緒にカチェリーナの家から帰る途中、《僕は彼女に興味がない》と言ったのは、その瞬間、ひどい嘘をついたわけである。なるほど、時によると殺してやりたいと思うほど彼女を憎悪することはあったけれども、イワンは気が狂うほど彼女を愛していた。それには多くの理由がからんでいた。まずミーチャの事件に動顛した彼女は、ふたたび自分のところへ帰って来たイワンに、まるで救い主か何かのようにすがりついた。彼女は感情を傷つけられ、侮辱され、踏みにじられていた。そこへ前に自分を心から愛してくれた男が、──ああ、彼女はそのことをよく知っていた、──知性にせよ感情にせよ、日頃から自分よりもはるかにすぐれていると感じていた男が、ふたたび姿を現わしたのである。しかしこの謹厳な令嬢は、自分を愛している男のカラマゾフ的な激しい情欲、さらには自分の心にせまる彼の非常な魅力にもかかわらず、自分のすべてを犠牲にしようとは思わなかった。と同時に彼女は、自分がミーチャを裏切ったという後ろめたさにたえず苦しみ、イワンと激しく言い争った時など(そういう時はたびたびあった)、はっきりとそのことを彼に言いもした。イワンがアリョーシャと話をしながら、《嘘の上の嘘》と呼んだのはこのことなのである。実際、当然のことだが、ふたりのあいだには多くの嘘があり、それが何よりもイワンをいらだたせた。……だがそれはのちの話である。要するに、彼は一時スメルジャコーフのことをほとんど忘れていた。ところが、最初の訪問から二週間ほどすると、ふたたび例の奇怪な考えが彼を苦しめだした。それはこう言えばわかっていただけよう。彼はなんのために自分があの時、出発を明日にひかえたあの最後の夜、父の家にいて泥棒のようにこっそりと階段の上に出て、父が階下で何をしているか聞き耳を立てたのだろう、またのちにそのことを思い出した時、なぜあんなに嫌な気持がしたのだろう、翌日の朝、途中でなぜあんなにとつぜん憂鬱になったのだろう、汽車がモスクワの町なかへはいった時、なぜ《おれは卑劣な男だ!》とひとり言を言ったのだろうなどと、しきりに自問自答をはじめたのである。そうすると、彼はそうしたあらゆる苦しい考えのために、自分がカチェリーナのことさえ忘れてしまいそうな気がした。それほど強く、その考えが突然また彼の心をとらえたのである。ちょうどそのことを考えていた時に、彼は往来でばったりアリョーシャに出会った。彼はすぐに弟を呼び止めて、不意にこんな質問をした。──
数日から数週間程度の期間にわたる一登場人物の心理を記述したもの。
特徴的なのは、問題はイワンの内面的なことであるにもかかわらず、「カチェリーナに対する燃えるような物狂おしい情熱」にせよ「例の奇怪な考え」にせよ、あたかもそれらが外側からやってきてイワンを翻弄しているかのような書かれ方をしていること。イワンは自分が自由であるつもりで実は何ものかに強いられており、欲動と自意識が分裂している。が、その強いられてあること(分裂していること)への違和感そのものもまた外側からの強制としてイワンに到来する。もっとも内密なものの起源としての、外部からの強制。
この内側と外側が裏返ったかのような出来事の書き込みの密度(イワンの内部≒外部に起こったことを一挙に書き尽くさなければならない)によって、叙述の牽引力が生まれている? というか、内面性が外側からやって来て登場人物を捉えるという書き方だと、そもそも登場人物の心理の「流れ」の恣意性に頼れないので構築的に叙述していかなければならないという制約こそが、この牽引力を生んでいるのか。構築的。例えば、イワンの気の狂うほどの情熱については、その「多くの理由」をきちんと解きほぐしながら語られるし、彼を苦しめだした奇怪な考えについては、「それはこう言えばわかっていただけよう」という文章に導かれて、イワンの自問自答の様が完全に言語化されていく。それが構築的ということ。
「ちょうどそのことを考えていた時に、彼は往来でばったり……」とそれまでのディエゲーシスの流れを「(アリョーシャにばったり会った)その時イワンが考えていたこと」と総括して一挙に現前的場面を開く引用部最後の文章展開は、技巧的。
●『カラマゾフの兄弟』4巻191-194頁
第十一篇第六章
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モスクワから帰って以来、イワンがスメルジャコーフと話をしに行くのは、これでもう三度目だった。あの惨事のあと帰郷した日に訪ねて話したのが最初で、その後二週間たってもう一度出かけたのである。だが、この二度目の会見のあと、彼はスメルジャコーフを訪ねることをやめたので、ここひと月あまり彼はもとの下男に会っていなかったし、その消息もほとんど聞いていなかった。あの時イワンがモスクワから帰って来たのは、父の横死の五日目だったが、そのため彼は父の柩を見ることができなかった。葬式はちょうど彼が帰る前日にすんでいたのだ。イワンの帰宅が遅れたのはこういうわけだった。アリョーシャは兄のモスクワの住所を正確に知らなかったので、カチェリーナのところへ駆けつけて電報を打ってもらおうとしたが、彼女もやはり正確な住所を知らなかったので、自分の姉と伯母にあてて電報を打った。モスクワへ到着したらすぐにイワンがそこへ立ち寄るだろうと考えたのである。ところが彼が訪ねて来たのは、到着後三日たってからだった。電報を見ると、もちろん彼はすぐさま大急ぎで飛んで帰って来た。この町へ着くと、彼はまず最初にアリョーシャに会ったが、弟がこの町のあらゆる人々の意見に逆らってミーチャを露ほども疑わず、いきなり真犯人としてスメルジャコーフの名をあげたのにびっくりした。ついで彼は警察署長や検事に会い、予審や逮捕の模様をくわしく知ると、なおいっそうアリョーシャの意見に驚いたが、結局アリョーシャの意見は兄を思う極度に興奮した感情と、兄に対する同情のためだと考えた。アリョーシャがミーチャを非常に愛していることは、イワンも知っていたのである。ついでに長兄ドミートリイに対するイワンの感情についてひと言だけ述べておくなら、イワンは兄が大嫌いで、時どきは精いっぱいの同情を感じることがあっても、それは嫌悪に近い非常な侮蔑のまじった同情だったのである。彼にとってはミーチャのすべてが、その容貌さえもが、不愉快きわまりない癪の種だった。カチェリーナのミーチャに対する愛を、イワンは憤慨の眼でながめていた。
もっとも、被告としてのミーチャに彼が会ったのも、同様に帰郷の当日であるが、この面会はミーチャの有罪に対する彼の確信を弱めるどころか逆に強めた。彼が会った時の兄は不安に苦しみ、病的に興奮していた。ミーチャはやたらにしゃべりまくったが、放心していて投げやりで、非常にけわしい口のきき方をし、スメルジャコーフを非難しながら恐ろしくしどろもどろなことを言っていた。何よりも彼が話題にしたのは、死んだ親父が彼から《盗んだ》という例の三千ルーブリのことであった。『おれの金なんだ、おあれはおれのものなんだ』とミーチャは繰り返した。『おれが盗んだとしても、おれは正しかったはずだ』彼は自分に不利なあらゆる証拠をほとんど反駁せず、自分に有利な事実を証明する時もやはりしどろもどろで、つじつまの合わないことを言っていた。──総じてイワンに対しても、また他の誰に対してもまるで弁明する気がないようで、反対に腹を立てたり、傲然として非難を無視したり、悪態をついたり、いきり立ったりするのである。ドアが開いていたというグリゴーリイの証言に対しても、彼はただ軽蔑的にせせら笑い、『悪魔が開けたのさ』と言うだけで、この事実に対して何ら筋道の立った説明をすることはできなかった。そればかりか、《何をやっても許される》と公言してはばからぬ者には人を疑ったり訊問したりする権利はないと乱暴に言い放って、この最初の面会の時にイワンを侮辱しさえした。総じてこの時のイワンに対する態度は、非常によそよそしかった。ミーチャとの面会を終えると、イワンはその足でスメルジャコーフのところへ向かった。
モスクワから飛んで帰る汽車のなかで、彼はスメルジャコーフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の会話のことを絶えず考えつづけた。多くのことが彼の心をかき乱し、多くのことが疑わしく思われた。しかし予審判事に供述をする際には、イワンはしばらくその会話のことを伏せておいた。すべてをスメルジャコーフに会うまで留保したのである。スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。医師のヘルツェンシュトゥーベと、病院でイワンに応対したワルヴィンスキイは、イワンの執拗な質問に対してスメルジャコーフが癲癇を起こしたことは間違いないと断定し、『惨事の起こった日にあの男は仮病を使っていたのではないか』という質問を受けると、むしろ驚いたぐらいだった。ふたりの説明によると、今度の発作は並み大抵の発作ではなく、数日間にわたって継続反復されたために、患者の生命は一時ひじょうな危険におちいったが、いろいろな処置を施した結果、今では生命に別条はないと断言できる、しかし恐らくは(と医師のヘルツェンシュトゥーベはつけ加えた)患者の理性は《一生涯とは言わぬまでもかなり長期間にわたって》部分的に異常を呈するのではないかということだった。『するとあの男はいま発狂しているのですか』イワンがせき込んでこうたずねると、ふたりの医師は『完全な意味ではまだそこまで行っていないが、多少の異常は認められる』と答えた。イワンはその異常さがどんな程度か、自分で確かめようと思った。病院ではすぐに面会が許された。スメルジャコーフは個室に入れられて、寝台に寝ていた。そのすぐ横にもうひとつ寝台があり、その寝台には衰弱しきったこの町の町人が寝ていたが、水腫で全身にむくみが来ていて、明日あさっての命らしかったので、彼のために会話が邪魔される恐れはなかった。イワンの姿を見ると、スメルジャコーフは疑わしげににたりと笑い、最初の瞬間むしろおじけづいたように見えた。少なくともイワンの頭には、一瞬そんな考えがひらめいた。しかしそれはほんの一瞬のことで、反対にそのあとずっと、スメルジャコーフは落ち着きはらってむしろイワンを驚かしたほどである。……
それまでの叙述の流れを切り替えて二ヵ月ほど遡って、過去から現在に至るまでの出来事を要約法的に述べていくオーソドックスなディエゲーシス。小説を書くのに必要な技法がいろいろ詰まっている。
まず前後関係をはっきりさせてなんでそうなってしまったのかという「事情」を丁寧に伝えようという意志が仄見えることに注目。「イワンの帰宅が遅れたのはこういうわけだった。……」本当は作者は或る出来事を生じさせるために偶然を操作しているのだが、その虚構の不自然性を減却するために事情の均し(手順の補完)も時に必要となってくるということ。つまり「こうしたことが起こるのも不自然ではない」という状況も一応フィクションながらフォローするわけ。基本的に、偶然を利用する場合は、主人公にとってはまったく思い掛けないことだが、客観的に考えれば充分あり得ること、でなければならない、すなわち主人公の主観に偏りがあって見えない事情があったのでなければならない。この場合はアリョーシャもカチェリーナもイワンのモスクワの住所を知らなかったというミスがイワンの帰宅の遅れを生んでいる。
第一段落の前半はそのように遡行的に事情を補完しているのだが、「もちろん彼はすぐさま大急ぎで飛んで帰って来た」の文からは、フェーズが変わる。語り手がほとんどイワンの肩の後ろからくっついて離れないような視点を取り、ディエゲーシスはイワンの見聞記のような趣を帯びて来るのだ。基本的にイワンが「この町」であちこちに移動して見、聞いたことを淡々と記録しつづけていて、時にそのことについての感想が書かれる場合でもそれはあくまでイワンの「驚き」や「同情」や「確信」に限定されている。つまり記録されるのは、イワンが主体的に動いて、人に会ったり質問したり観察したりして収集された事実とそれらがイワンに与えた一時的な印象だ。このように語り手が登場人物の肩越しという位置に定位して見聞を集めるという形で「出来事」を要約法的に語る方法は、ディエゲーシス執筆の方法論として考えると、なかなか使い勝手がある。この場合、イワンでなければ集められない事実、踏み込むことのできない側面、引き出すことのできない反応、掴むことのできない観察や判断を具体的に計算・設定しておく必要がある(言うまでもなくこの時点ですでに、イワンはミーチャの有罪とスメルジャコーフ=自分の無罪を無意識に望んでいる)。
「モスクワから飛んで帰る汽車のなかで、……」からの段落は、前段落で次に起こる出来事(スメルジャコーフとの面会)が予告されたのを受け、一旦時を遡ってその出来事の持つ重要性を書き重ねることから始めている。記述の順番を前後させて、ミーチャに会う前(そしてアリョーシャに会った後──「ついで彼は警察署長や検事に会い、……」)に既に起こっていたことでスメルジャコーフに関係あることすなわちモスクワから帰る汽車の中で考えたこと、及び予審判事との会話のことを挿入し、「スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。……」以降の記述を準備する。小説技法的に注目すべきは、ここではイワンが中心人物としてすべてのディエゲーシスが書かれているが、こうした出来事を書く順番の操作が決してイワンの「回想」によって可能になっているのではない、ということだ。イワンがミーチャと面会してから医師に行く間に「モスクワから飛んで帰る汽車のなかで」のことを思い出したわけではない。語り手の便宜によってそうした事実が補足されているだけのことだ。
第三段落においては、「スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。」◯「病院ではすぐに面会が許された。」までが要約法で、それ以降が情景法になっている、つまり要約法から情景法への以降がスムースに行われていることにも注目せよ。この要約法は、スメルジャコーフとの対面という現前的場面に入る前に、時間的にその直前に位置する出来事、イワンと医師のヘルツェンシュトゥーベを対話させるという出来事を配置・虚構して、イワンがスメルジャコーフに対峙する前にどんな心境にありどんな予断とどんな疑問を抱いていたか、その態勢を具体的に描き込むために用いられていると考えられる。逆に言うとそういう作為がなければこうも要約法から情景法へとスムースに切り替えることなどできない。ドストエフスキーは要約法の使い方を良く分かっている。ミーチャとの面会の場面も一種の要約法だが、ヘルツェンシュトゥーベとの会話の要約法的叙述にせよ、ミーチャとの会話の要約法的叙述にせよ、重要な相手の科白を『……』で括って引用しながらそれに対するイワンの認識・観察を対置して立体的にディエゲーシスを構成している点は、「複数の登場人物間の差異を角逐させてそのダイナミズムによって叙述を生成する」ドストエフスキーの文体の特徴が良く現れている。別に主人公の自意識に定位しなくても、登場人物たちの肩越しに定位して語り手が一種の柔軟性を保持していれば「対話性」のある文体は実現可能だ。
また、引用部の一連のディエゲーシスにおける(イワンの)場所移動の素早さにも注目しよう。「彼はまず最初にアリョーシャに会ったが、……」「ついで彼は警察署長や検事に会い、……」「被告としてのミーチャに彼が会ったのも、同様に帰郷の当日であるが、……」「ミーチャとの面会を終えると、イワンはその足でスメルジャコーフのところへ向かった。」──あたかも場面と場面、空間と空間をモンタージュするかのようにイワンは場所から場所へとワープする。要約法だからそれでいい、すなわち必要なことだけを書けばいいんだけれども、このワープ感覚の大胆さは技法的に面白い。
あと、文法的には「ついでに長兄ドミートリイに対するイワンの感情についてひと言だけ述べておくなら、……」の文が注目に値する。『罪と罰』上122頁の「ついでに心にとめておきたいのは、……」なんかと同じでこういう逸脱はドストエフスキーのディエゲーシスではよくあること。語り手の権限を利用して、文章の流れを遮ってでも、後付け的に事情や文脈を補足してよいということ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻272-273頁
第九篇第三章
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「あんまり無茶苦茶ですよ、署長」と彼は叫んだ。「審理の邪魔です、……ぶちこわしです、……」検事は息を切らさんばかりだった。
「断固たる処置を、断固たる処置を、断固たる処置を!」予審判事のニコライまでがかっとなって叫んだ。「さもなけりゃ、とてもだめです!」
「あたしたちを一緒に裁判して下さい!」とグルーシェンカが、相変わらずひざまずいたまま無我夢中で叫びつづけた。「一緒に処刑して下さい、この人と一緒なら喜んで死刑にでもなります」
「グルーシェンカ、僕の命、僕の血潮、僕の宝物!」ミーチャは自分も彼女の横にさっとひざまずいて、両手でぎゅっと彼女を抱き締めた。「この人の言うことを真に受けないで下さい」と彼は叫んだ。「この人には罪はありません、誰の血に対しても、何に対しても罪はありません」
彼はのちになって、自分が何人かの男に力ずくで彼女から引き離されたことや、とつぜん彼女がどこかへ連れ去られたこと、気がつくとテーブルの前に坐っていたことなどを思い出した。彼の横と後ろには、記章をつけた男たちが立っていた。テーブルをはさんだ真向かいには、予審判事のニコライがソファに腰かけて、テーブルの上のコップの水を少し飲んだらどうかとしきりにすすめていた。「気分がさっぱりして落ち着きますよ、こわがることはありません。心配ご無用です」こう彼はひどく丁寧な口調でつけ加えた。ミーチャはそのとき自分が、ふと相手の大きな指輪に興味を覚えたのを、記憶していた。ひとつは紫水晶の指輪で、もうひとつは透明で大そう美しい輝きを放つ淡黄色の宝石だった。彼はそののち長いあいだ、あの恐ろしい訊問の間じゅうこの指輪がしじゅう彼の視線を引きつけていたのを思い出してふしぎな気持がした。彼はなぜかその指輪から瞬時も目をはなすことができず、彼の境遇とあまりにもかけはなれた品物としてその指輪を忘れることができなかったのである。ミーチャの左脇には、そこはゆうべ最初マクシーモフが坐っていた場所だったが、今は検事が席を占め、あの時グルーシェンカがいたミーチャの右手の席には、狩猟服のような、ひどく着古した背広を着た頬の赤い青年が、インク壷と紙を前において陣取っていた。これは予審判事の連れて来た書記であることがわかった。警察署長は部屋の反対側の隅の窓ぎわに、同じ窓ぎわの椅子に腰をおろしているカルガーノフと並んで立っていた。
「水をお飲みなさい!」と予審判事が、優しく十回目に言った。
「飲みました、皆さん、もう飲みました。……しかし……どうです、皆さん、いっそひと思いに押しつぶして下さい、処刑して下さい、運命を決めて下さい!」とミーチャは、微動だにしないむきだした目をぴたりと予審判事の顔にすえて叫んだ。
「それでは、あなたは、ご尊父フョードル・パーヴロヴィチの死に対しては、罪がないと断言なさるのですね」と予審判事が優しい、しかし執拗な口調でたずねた。
基本的な技術の問題。緊迫した会話場面の情景法であっても、ちょっとした会話の転回が必要で、そのままつづけるわけにはいかないので一度地の文を長く挟みたいというときがある。といって馬鹿みたいに形容を水増しした無意味な描写をいきなりだらだら始めるわけにはいかない。で、どうするか。
「彼はのちになって、……」から始まる段落はその一つの技術的解。ポイントは、語り手の権限によって「彼はのちになって、……していたことなどを思い出した。」「ミーチャはそのとき自分が、……に興味を覚えたのを、記憶していた。」「彼はそののち長いあいだ、……していたのを思い出してふしぎな気持がした。彼はなぜか……」といった言い回しを駆使し、未来の視点を突然導入してその現前的場面の「今」を「あのとき」「そのとき」という回顧的な距離感のもとに眺め渡すこと。その現前的場面を感覚し認識している登場人物のその時の印象を、後に記憶として思い出した場合の印象で上書きして二重化する。その操作に続いて「ミーチャの左脇には、……今は検事が席を占め、……」という具合に現前的な「今」の描写休止法=「……ている(いた)」形アスペクトの叙述に繋げることも可能。こうして現前的場面の「今」をはぐらかすことによって、緊迫した会話場面の中に一瞬だけ地の文を挿入しうる間隙を生むことができるわけだ。
このような操作が可能なのは、小説内のこの時点のミーチャではなく、その後のミーチャの運命をしっておりなおかつ未来のミーチャの内面(記憶)の中にも入ることのできる、特殊な語り手の存在を仮構しているからにほかならない。
●『白痴』下517-519頁
第四篇第七章
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だが、そのとき、ふいにおこったある出来事のために、公爵の雄弁は思いがけなく中断されてしまった。
この熱に浮かされたような長広舌、この激情にあふれた落ちつきのない雄弁と、まるでおそろしく混乱してたがいにぶつかりあいながら、たがいに先を争って飛びこそうとしているような、とりとめのない、歓喜にみちた思想の奔流、こうしたものすべてが、外見上これという原因もなく、いきなり興奮してきたこの青年の心の中に、何かしら危険な、何かしら特別なものが生れたことを、予言するかのようであった。客間に居合わせた人びとのなかで公爵を知っているすべての人は、彼の平生の臆病で控え目な性質や、どうかすると見られるまれにみる風変りな分別くささや、上流社会の礼儀にたいする本能的な敏感さなどにまったく不似合いな、彼のこの奇怪な言動に危惧を念をいだきながら(ある者は羞恥の念をいだきながら)、びっくりして見まもっていたのであった。いや、どうしてこんなことになったのか、どうしても納得がいかなかった。まさか、パヴリーシチェフに関するニュースが、その原因となったのでもあるまい。婦人たちのいた片隅では、まるで狂人でも見るように彼をながめていた。ベロコンスカヤ夫人はあとで、『あと一分もつづいたら、わたしはもう逃げだすところでしたよ』と告白したものである。《老人連》は最初から度胆をぬかれて、途方にくれていた。長官の将軍は不満そうにきびしい眼差しで自分の席からながめていたし、工兵大佐は身じろぎもせずにすわっていた。ドイツ生れの詩人は蒼ざめた顔色をしていたが、それでもほかの人がどうするかと、あたりを見まわしながら、例のつくり笑いを浮べていた。もっとも、これらのことは、この《見苦しい出来事》も、あるいはあと一分もすれば、ごく穏やかな自然な方法でうまく解決したかもしれなかった。イワン・フョードロヴィチははじめひどくびっくりしたが、誰よりもさきにわれに返ったので、幾度か公爵の話をとめようと試みた。だが、どうも思うようにいかなかったので、いまや彼は断固たる決意をもって、公爵にむかって客のあいだを縫っていった。あと一分も待ってみて、ほかに方法がなかったら、病気を口実にして、穏やかに公爵を部屋から連れて出ようと決心したのであった。いや、彼が病気だというのはまったく事実なのかもしれない、イワン・フョードロヴィチは心の中で、そうにちがいないとかたく信じきっていたのである……ところが、事態はまったく別の方向に進んでしまったのである。
公爵が客間へはいってきたばかりの最初のころ、彼はアグラーヤに脅しつけられた例の中国製の花瓶から、できるだけ遠く離れて席をとった。きのうアグラーヤの言葉を耳にしてからというもの、彼はどんなにその花瓶から遠のいてすわっても、どんなに災厄を避けるようにしても、自分はかならずあすはその花瓶をこわすにちがいないという、何かぬぐいさりがたい一種の確信が、荒唐無稽な一種の予感が、彼の胸に巣くったのである。といっても、そんなことがほんとうにできるだろうか! だが、実際そのとおりだったのである。夜会が進むにつれて、別の強烈な、しかも明るい印象が、彼の心を充たしはじめたのである。このことはすでに述べたとおりである。彼は前の予感を忘れてしまった。彼はパヴリーシチェフの名を聞きつけ、イワン・フョードロヴィチがあらためて彼をイワン・ペトローヴィチのところへ連れていって、紹介したとき──彼はテーブルの近くに席を変えて、肘掛椅子にいきなり腰をおろしたのである。そのそばにはみごとな中国製の花瓶が台の上に置かれ、それは彼の肘のすれすれになって、ほんの心もちうしろのほうにあった。
引用部前まではずっと長科白がつづいていた。そこでこの地の文だ。ドストエフスキーにおいては、非常に劇的な出来事が情景法の中で起る場合、その前に地の文で「溜め」をつくって奇妙に現前的な時間の流れを澱ませるということをやる。ここでも、引用部直前までつづいていた公爵の長科白の途中で、興奮した公爵が中国製の花瓶を倒してしまうというのが本来の時間の流れだが、その間に襞を折り込むようにして、一旦少し時間を巻き戻して公爵を興奮した饒舌ぶりを他の人物が「それまで」どう眺めていたかが時間幅を広くとって語られるのである。「客間に居合わせた人びとのなかで公爵を知っているすべての人は、……彼のこの奇怪な言動に危惧を念をいだきながら(ある者は羞恥の念をいだきながら)、びっくりして見まもっていたのであった。」しかもベロコンスカヤ夫人がその興奮した公爵をどのように見ていたかは、さらに将来の時点における彼女の感想(「ベロコンスカヤ夫人はあとで、『あと一分もつづいたら、わたしはもう逃げだすところでしたよ』と告白したものである」)として、つまり完全に現前性を逸脱した形で挿入されるのだ。
何故こうした「溜め」が必要なのだろうか。簡単に答えを言えば、次に控えている(予告さえされる!──「ところが、事態はまったく別の方向に進んでしまったのである」)劇的な出来事を十分描き切るための補助線が、未だ足りていなかったので、現前的な流れよりも情報伝達の段落モンタージュを重視して時間幅を広くとった地の文を挿入しているということ。例えば「公爵が客間へはいってきたばかりの最初のころ、彼はアグラーヤに脅しつけられた例の中国製の花瓶から、できるだけ遠く離れて席をとった。」──といった位置関係の描写はどこかで情報として伝達しておかないと、公爵が思わず中国製の花瓶を倒してしまうという情景は十全に描き切れないはずだが、「公爵が客間へはいってきたばかり」のタイミングではそれを描写できなかった──そこで描写すると不自然になる──ので、直前のタイミングで現前的な流れを阻害してでも情報伝達の段落を挿入=モンタージュしているというわけだ。だからこういう「溜め」の存在は、要するに或る複雑で劇的な場面を十全に描き切るために情報を「語り直している」のだと思えばいい。たとえば、一旦は公爵の饒舌を直接の発話として記述しておいて、後からそのお喋りの間の漸進的な公爵の心境の変化をディエゲーシスで補強する(「夜会が進むにつれて、別の強烈な、しかも明るい印象が、彼の心を充たしはじめたのである。このことはすでに述べたとおりである。彼は前の予感を忘れてしまった」)といったことも、そういう「語り直し」の一種だ。別に現前的な流れを好んで阻害しているわけではなく、多彩な情景法を可能にするためのリーズナブルな技法の一つだというだけのこと。
●『カラマゾフの兄弟』1巻245-248頁
第一部第三篇第六章
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けれども、スメルジャコーフはスマラーグドフの世界史を十ページとは読まなかった。退屈だったのだ。こうして書棚はふたたび閉じられた。まもなくマルファとグリゴーリイは、スメルジャコーフがだんだんひどく潔癖になってきたとフョードルに知らせた。スープを飲む時、さじでしきりにスープの中をさぐったり、かがみ込んでのぞいたり、さじですくって明かりにかざして見たりするというのである。
「油虫でもいるのかい」とグリゴーリイがきく。
「蠅ですよ、きっと」マルファが口を出す。
急に潔癖になった青年は一度も返事をしなかったが、パンでも肉でも、その他どんな食べものでも同じことをした。まずそのひと切れをフォークで刺して明かりにかざし、顕微鏡でものぞくように長いあいだためつすがめつしてから、ようやく決心して口へ運ぶのである。「へへえ、とんだお坊ちゃまができたもんだ」その様子を見ながらグリゴーリイがつぶやいた。フョードルはこうしたスメルジャコーフの新しい性癖を聞くと、すぐに彼を料理人にしようと思い立って、モスクワへ修業にやった。青年は数年のあいだ修業に出かけ、すっかり面変わりして帰って来た。急にひどく老け込んで、年に似合わずしわだらけになり、黄ばんで去勢された男のようになったのである。性質のほうは、モスクワへ行く前とほとんど変わりがなかった。相変わらず人づきあいが悪く、誰とも進んでつきあおうとはしなかった。のちに人から聞いた話では、モスクワでも彼はしじゅう黙り込んでいたそうである。モスクワそのものも、いっこう彼の興味をひかなかったらしく、従って彼はモスクワの町なかのことをほんの一部しか知らず、残りの部分には注意も払わなかった。一度、劇場へ行ったことがあるが、むっつりと不満そうな顔をして帰って来たという。そのかわり、モスクワからこの町へ帰って来た時は、立派な身なりをしていた。さっぱりしたシャツを着込み、一日のうちに必ず二度ずつ、非常に念入りに自分で服にブラシをかけ、子牛皮の洒落た靴を、イギリス製の特別なワックスで鏡のようにぴかぴか光るまで磨くのが大好きだった。料理人としての腕前は一流だった。フョードルは彼に給料を決めてやったが、スメルジャコーフはその給料をほとんど全部、服やポマードや香水代などに使った。しかし彼は、男性と同様に女性をも軽蔑しているらしく、女性に対してはもったいぶった近寄りにくい態度を取っていた。もっとも、フョードルは彼をある別の観点から見るようになった。癲癇の発作がますます激しくなって来て、そういう日にはマルファが食事を作るのだが、それがフョードルにはまったく口に合わないのである。
「どうしてお前の発作はだんだん頻繁になるんだろうな」と彼は新しい料理人の顔を見つめながら時々腹立たしげに言った。「せめて誰かと結婚してくれるといいんだが、何なら世話をしてやろうか。……」
けれどもスメルジャコーフは、そんな言葉を聞くといまいましげにさっと青ざめるだけで返事もしなかった。フョードルは仕方なく立ち去って行く。だが何よりも重要なのは、彼がこの料理人の正直さを信じて、この男が決して物を取ったり盗んだりしないと固く心から信じ切っていたことである。ある日のこと、酒に酔ったフョードルが、受け取ったばかりの虹色の紙幣を三枚、わが家の庭のぬかるみの中に落とした。翌日になって彼は気づき、あわててポケットを探しはじめたが、ふと見るとその紙幣が三枚ともテーブルの上に乗っているではないか。どこにあったのだろう?──スメルジャコーフが拾って、きのうのうちに届けておいたのだ。「いや、お前みたいな男ははじめてだ」その時フョードルはぶっきらぼうにこう言って、十ルーブリをくれてやった。ひと言つけ加えておかねばならないが、フョードルはただ青年の正直さを信じたばかりではない。青年が自分に対しても他の人々の場合と同様に白い目をむいてむっつり黙り込んでいたのに、なぜか彼を愛してさえいたのである。
問題は小説においてディティールとは何かということだ。適当に細部や描写を羅列するだけでよいはずがない。それでいて、一見するとディティールというのはプロットの展開にまったくかかわりがない──そのディティールが省かれていても別に支障はない──かのように思われる。引用部だとたとえば、給料のほとんどを服やポマードや香水代についやしてしまうスメルジャコーフの気質のことなど。子牛皮の洒落た靴? イギリス製の特別なワックス? そんな要素あろうがなかろうがどうでもいいじゃないか? ……そう考えるかぎり、このようなディティールを思い付き書き込むことはできないだろう。ドストエフスキーのディティールを分析し学ぶには、その意義にまでふみこんでみる必要がある。
たしかにこのディティール、スメルジャコーフが突然潔癖になったとか、修業からかえってきたらひどく老け込んで去勢された男のようになったとか、モスクワにまったく興味をもたなかったとか、念入りに身だしなみを整えるようになったとか、女性を軽蔑しているとか、決して物を取ったり盗んだりしない(表面上は)ということとか、のちにスメルジャコーフがプロット上で果す役割とはおよそ何も関係がないように思われる。といって、これらが単に記述を水増しするためだけの要素であるはずがない。結論から言うと、ポイントは、「性癖」という言葉にある。つまり、これらの要素は決してスメルジャコーフが意識的に身につけたものではないということだ。或る意味でこれらのディティール=性癖はスメルジャコーフの無意識の欲動がそのまま都度都度表層にあらわれでてきたものだと考えられる。つまり、スメルジャコーフの無意識に致命的に食い込んでそれを蠢動させているものを構想し、間接的に表現するということが、ディティールの霊感の本質だろう。そしてポリフォニー小説のプロットの肝は、登場人物が水平的に自意識から追放・放逐したものが、ほかの人物たちとの関係性の結節をめぐりめぐってまた自分に回帰してくる=無意識によって復讐されるという構造にあるのだから、無意識の蠢動の表面化としての「ディティール」の書き込みは、すでにプロット上における兆候的伏線になっているということだ。では、スメルジャコーフは自分の無意識(自意識から放逐されたもの/自意識の眼差しからは脱落するもの)に復讐された結果どうなるか。イワンの暗黙の望みをかなえてやったにもかかわらずイワンの歓心をかうことができず、自殺する羽目になる。その彼のミスコミュニケーションによる最期が、ここでは彼の視野狭窄な性癖の数々によって予告されていると言えるわけである。
要するに、小説におけるディティールとはなべて、自意識から追放・放逐されながらも(自意識の眼差しからは脱落しながらも)事物の表層にはりつき、のちに主人公に回帰し復讐することになるものの兆しとなる諸要素である。無意識の蠢動の表面化とも言えるが、それは無意識(意識的に身につけたのではないもの)であるがゆえに時間幅をひろくもつ、すなわち習慣・性癖的記述と親和性が高い。
おそらくこれを敷衍して、人物の「性癖」にまつわるディティールだけでなく、人物が住んでいる部屋とか、人物の職場の様相だとかにかかわる細部・描写もまた当人の無意識の投影だと言えるのではないか。登場人物のまわりに出来する環境というものまたなかば彼の心理的な空間であるからだ。そこでもまた特にとりあげて描き込むべきディティールがあるとしたら、それは、主人公が意識的に選んだものではないが、主人公に密接にはりついている(時間幅のひろい)無意識がひそかに浮彫りになった姿なのである。そのような観点のもとに、ディティールを構想すべきだ。
●『罪と罰』上200-201頁
第二部第三章
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彼は、しかし、病気の間中ずっと失神状態がつづいていたわけではなかった。それは熱病の状態で、幻覚にうなされたり、なかば意識がもどりかけたこともあった。あとになって彼はいろいろなことを思い出した。こんなこともあった。まわりにたくさんの人々が集まっているような気がする。その人々が彼をつかまえて、どこかへ連れ去ろうとして、彼のことでうるさく何ごとか言いあいをしている。かと思うと、不意にみんな出て行ってしまって、一人だけぽつんと部屋にとりのこされる。人々は彼を恐れて、ほんの時たまドアを細目にあけて、遠くから様子をうかがっては、おどしつけるばかりで、たがいに何ごとかうなずきあいながら、彼を嘲笑ったり、からかったりしている。彼はナスターシヤがときどきそばに来ていたのをおぼえていた。もう一人の男がいたのも気づいていた、よく知っている顔のようでもあるが、正確に誰なのか──どうしても思い出すことができず、それが悲しくて、泣いてしまったことさえあった。またあるときは、もう一月も寝ているような気がしたし、そうかと思うと──まだあの日がつづいているような気もした。ところがあのことは、──あのことはすっかり忘れていた。その代り、忘れてはならないことを、何か忘れているようだということが、絶えず頭にひっかかっていて、──思い出そうとしながら、苦しみ、もだえ、うめき、狂乱の発作にかられたり、おそろしい堪えがたい恐怖におちいったりするのだった。そんなとき、彼はいきなりとび起きて、逃げ出そうとしたが、いつも誰かに力ずくでおさえられ、またしても困憊と失神状態におちこむのだった。ついに、彼ははっきり意識をとりもどした。
それは朝の十時頃だった。朝のその時間は、晴れた日なら、いつも陽光が長い帯となって右側の壁をすべり、ドアのそばの角に明るくおちていた。彼のベッドのそばに、ナスターシヤと一人の男が立っていた。まったく見知らぬ男で、ひどく興ありげに彼を見おろしている。それは裾長の上衣をきた若い男で、あごひげを生やし、一見協同組合の事務員風であった。半開きの戸口からおかみの顔がのぞいていた。ラスコーリニコフは身を起こした。
「その人は誰、ナスターシヤ?」と彼は若い男のほうを示しながら、尋ねた。
第一段落は或る一定期間(病気の間中)彼の意識に起こったことを、想像的仮定に近いような形で(「こんなこともあった」)幾つも例示していくパターンのディエゲーシス。このスピード感が良い。そうやってさまざまな例が挙げられていくなかで、しかし「あのこと」だけはずっと抑圧されていて思い出せないという、その対比の妙と、「あのこと」をどうしても思い出せないことに付随する苦しみや悶えを記す文体の迫真がここでの肝だ。
続く第二段落では「朝の十時頃」と時間を指定して現前的な情景法が始まると思いきや、いきなりこれだ。「朝のその時間は、晴れた日なら、いつも陽光が長い帯となって右側の壁をすべり、ドアのそばの角に明るくおちていた。」──普通に今その瞬間に陽光が長い帯となって……と描写すればよいのに、「晴れた日なら、いつも……」となぜ括復法にしているのか。あくまでも描写の客観性や登場人物の主観性に平板に調和してしまわぬよう、語り手の介入を印象づけるためか。いかなる現前的場面の最中でも叙述を括復法的・習慣的にしないではいられないドストエフスキーの手癖は異常とも言える。
とはいえ第二段落が現前性に基づいていることは間違いない。半開きの戸口からのぞくおかみの顔まで、ここでの語り手の注意力の動線はリアルタイムで見るべきものを何一つ見逃さない。
●『カラマゾフの兄弟 第一巻』240-243頁
第一部第三篇第六章
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行って見ると、父はまだほんとうに食卓に向かっていた。家にはちゃんと食堂があったけれども、いつもの習慣で食事は広間に用意されていた。この広間は家じゅうのいちばん大きい部屋で、妙に古めかしい飾りつけがしてあった。家具は白塗りの古びたもので、赤い古ぼけた半絹の布が張ってある。窓と窓のあいだの壁には、縁に古風な凝った彫刻をほどこした鏡がはめこんであったが、その縁もやはり金泥をあしらった白塗りであった。ほうぼうに裂け目の目立つ白い壁紙をはった壁には、大きな肖像画がふたつ、もったいぶって掛けてある。──ひとつは三十年ほど前にこの地方の総督をつとめたある公爵の肖像であり、もうひとつは、やはりだいぶ前に故人となったある僧正の肖像である。部屋の正面の隅には聖像がいくつか安置されてあって、夜になるとその前に燈明がともされたが、……それは信心のためというよりは、夜じゅう部屋を明るくしておくためだった。フョードルは毎晩とても遅く、三時か四時ごろ床につき、それまではいつも部屋の中を歩きまわったり、安楽椅子に腰かけて物思いにふけったりしていた。いつのまにかそれが癖になっていたのである。召使を別棟に引き取らせて、母屋にただひとり寝ることもまれではなかったが、たいていは毎晩、下男のスメルジャコーフが一緒に残って、玄関の長持の上で寝ていた。アリョーシャがはいって行った時には、食事はもうすっかりすんで、ジャムとコーヒーが出ていた。フョードルは食後あまいものでコニャックを飲むのが好きだった。兄のイワンもやはり食卓に向かって、コーヒーを飲んでいた。グリゴーリイとスメルジャコーフが食卓のそばに立っていた。主人も下男も、明らかに大そう陽気な気分になっていた。フョードルは大声で笑ったり笑顔を見せたりしていた。アリョーシャはまだ玄関にいる時から父親の甲高い、聞きなれた笑い声を耳にして、その声の調子からすぐに、父がまだほとんど酔っぱらっておらず、ただ一杯きげんでいるだけだと結論をくだした。
「いよオ、おいでなすったな!」アリョーシャの姿を見て突然ひどく嬉しそうにフョードルが叫んだ。「さあ仲間にはいれ、お坐り、コーヒーはどうだ、──精進のコーヒーだよ、精進の。熱くて、うまいコーヒーだぜ! コニャックはすすめないよ、お前は坊主だからな、それともほしいかい? いや、それよりリキュールをご馳走しよう、上等なやつを!──スメルジャコーフ、戸棚を開けて持って来い。二段目の右のほうだ。そら鍵、急いでな!」
アリョーシャはリキュールを断わろうとした。
「どうせ出すんだ。お前が要らないなら、おれたちのために」フョードルは晴れ晴れとした顔をしていた。「時に、お前、食事はすんだのかい」
「すみました」とアリョーシャは言ったが、ほんとうは僧院長の台所でパンをひと切れ食べて、クワスを一杯飲んだだけだった。「でも熱いコーヒーなら喜んでいただきます」
「感心感心! コーヒーを飲むそうだ。あたためなくていいかな? いや大丈夫、まだ煮立っている。上等なコーヒーだぞ、スメルジャコーフ流の。コーヒーと魚肉入りピローグにかけちゃ、うちのスメルジャコーフは芸術家だ。それから魚のスープにかけてもな。いつか魚スープを飲みに来い。ただ前もって知らせるんだぞ。……いや、待て、待て、さっきおれは今日じゅうに蒲団と枕をかついで帰って来いと言いつけたっけ。蒲団はかついで来たかい? へ、へ、へ!……」
「いいえ、持って来ませんでした」アリョーシャもにっこり笑った。
「びっくりしただろうな。さっきはさぞびっくりしただろうな。だが、坊主。おれはね、お前をよう侮辱せんのだ。なあ、イワン、おれはこいつがおれの目をのぞき込んでにっこり笑うと、もういかんのだ。腹の底から笑いがこみあげて来るんだよ。おれはこいつが大好きだ! さ、アリョーシャ、お前に父親としての祝福をさせてくれ」
アリョーシャは立ちあがったが、フョードルはそのあいだに考えなおした。
「いや、いや、今はただ十字を切るだけにしておこう。うん、これでよし。さあ、お坐り。時に、今度はお前の喜びそうな話があるんだ、お前にふさわしい話題の。大いに笑うがいい。実はな、うちのバラムのろばが口をきいたんだ、しかも立派にな、立派に!」
バラムのろばというのは、下男のスメルジャコーフのことだった。彼はまだ若い、せいぜい二十三、四の青年だったが、恐ろしく人づきあいが悪くて無口だった。それも野育ちとか恥ずかしがり屋とかいうのではなくて、反対に性格が傲慢で、すべての人を軽蔑するようなところがあったのである。もっとも、彼の話の出た今、この下男についてひと言も話さずに素通りすることはできまい。……
ドストエフスキーの文体は、やっぱり描写において、時間の焦点を絞り込まない(会話が始まるまでは?)。例えばチェーホフの「旅中」の冒頭と比べてみると、明らかに映像性がない。一つ一つの細部を描写していくにしても、カメラワークがなく、誰かが見ているという感じがしない。そしてその代わりにあるのが、習慣の記述である。なるほど、部屋の中、家の中の記述とは、そこに住んでいる人物の習慣の記述と等価であるか。その人物に対する興味を掻き立てるべきものであるか。当然ながら、(視覚を除いた)嗅覚、聴覚、触覚といったいかにも「現在」に集中しがちな五官は用いずに記述がなされている。
いや、さらに言えば、会話場面が始まってからもやはり時間の焦点が単一焦点的に絞り込まれているとは言い難い。そもそもこの会話場面は、すでに短期的な過去の事情を引き摺っている──「アリョーシャがはいって行った時には、食事はもうすっかりすんで、ジャムとコーヒーが出ていた。……主人も下男も、明らかに大そう陽気な気分になっていた。」アリョーシャにせよ、過去を引き摺っている。つまりこの会話場面では、それぞれの焦点人物がゼロ座標に立って時間の推移とともに場面を生成していくのではなく、やはり短期的な過去をつねに参照しながら、或る程度の時間幅を視野に入れつつ場面が進んで行くという感じだ。とくに、「「すみました」とアリョーシャは言ったが、ほんとうは僧院長の台所でパンをひと切れ食べて、クワスを一杯飲んだだけだった。」──この箇所に注目! 当然ながら、現前的会話の合間に、こうして現時点からは断絶している少し以前の事情を参照している。それによって、「遠慮がちなアリョーシャ(しかし父親の機嫌を損ねないようにコーヒーは喜んでいただく、と口にする気遣いの濃やかさ!)」という意味レベルを見事に生成している。何故か現前的場面でも括復法が入り混じっていて、単一焦点の描写では書き込めないニュアンスを含み持たせているかのようだ。こういう文体は、感覚の繊細さといったこととは全く別の技術が要求されるように思われる。
さらにさらに言えば、現前的な科白一つ一つの内容自体も、現時点での反応の連鎖で構築されているのではなく、習慣や、短期的な過去の事情への言及や、普段から自分がどう考えているかの開陳が目立つ。ここ一回限り、この瞬間に言われなければならない科白というものは、最小になっている?(逆に言えば、いつ口にしてもいいような習慣的・括復法的な内容から科白が造型されている。「コーヒーと魚肉入りピローグにかけちゃ、うちのスメルジャコーフは芸術家だ。」)
というより、この現前的会話場面に一回性を与えるために、個性的な瞬間的反応ではなく、少し過去にまで遡る事情を下敷きにしているというのが、実際のところか。「……いや、待て、待て、さっきおれは今日じゅうに蒲団と枕をかついで帰って来いと言いつけたっけ。蒲団はかついで来たかい?」の科白など。ともかく現前的場面でも時間幅を広くとるということは徹底しているはず。
(ところで、ディティールについて。以前《小説におけるディティールとはなべて、自意識から追放・放逐されながらも(自意識の眼差しからは脱落しながらも)事物の表層にはりつき、のちに主人公に回帰し復讐することになるものの兆しとなる諸要素である。無意識の蠢動の表面化とも言えるが、それは無意識(意識的に身につけたのではないもの)であるがゆえに時間幅をひろくもつ、すなわち習慣・性癖的記述と親和性が高い》──と分析したとおりに引用部を見ると、ここで「妙に古めかしい飾りつけ」「家具は白塗りの古びたもので、赤い古ぼけた半絹の布が張ってある」「古風な凝った彫刻をほどこした鏡がはめこんであった」「ほうぼうに裂け目の目立つ白い壁紙」「大きな肖像画がふたつ(ひとつは三十年ほど前にこの地方の総裁をつとめたある公爵の肖像であり、もうひとつは、やはりだいぶ前に故人となったある僧正の肖像)」「部屋の正面の隅には聖像がいくつか安置」──といった広間内部のディティールにも何か意義があるということか? まあ、フョードルがまったく無趣味で、聖像や肖像画といったものの扱いにもまったく無頓着であり、一種の厚顔無知な人物であることの兆候ではあるだろう。また、「フョードルは毎晩とても遅く、三時か四時ごろ床につき、それまではいつも部屋の中を歩きまわったり、安楽椅子に腰かけて物思いにふけったりしていた。いつのまにかそれが癖になっていたのである。」──この「性癖」ディティールはたしかに意味深だ。というのも、彼はこうやって夜更かししているあいだに殺されることになっているからである。だからこれも一種プロット上の復讐を予期したディティールだ。しかもスメルジャコーフが母屋に一緒に残ることがおおいという「習慣」の記述は、いかにもフョードル自身から殺人の機会を殺人者に与えているようなもの。フョードルが妙にスメルジャコーフを気に入っていたという「性癖」ディティールもふくめて、フョードル殺害という復讐の実現にむけての兆候が、こうして表層にディティールとしてはりつけられていると言えそうだ。)
●『作家の日記』1巻320-321頁
「小景」
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埃と暑気、驚くべき臭気、掘り返された舗装道路と改築中の家屋。どれもたいてい、見栄えをよくするために、特色を出すために、建物の正面を旧式なものから新式のものに飾りつけを変えているのだ。わたしには現代のこうした建築様式がどうも不思議でならない。それにそもそもペテルブルクの建物はいずれも一風変わった、きわめて特徴的なものばかりでわたしはいつも驚きの目を見はらせられたものであった、──それはつまり、この町がその存在の全期間を通じて持ちつづけてきた無性格さと無個性さを余すところなく現わしているからにほかならない。肯定的意味で個性的なもの、この町本来の独自なものは、この町ではせいぜいあの木造の、腐れかかった貧弱な家ぐらいのものであろう。そんな家が巨大な建築物と肩を並べて、この上なくきらびやかな通りにもまだそのまま残っていて、大理石の宮殿の脇にまるで薪の山かなにかのように立っているのを見て、思わずはっとなることがある。それでは宮殿のほうはどうかと言うと、これにはまさしく思想の無性格性と、その当初から終末にいたる全ペテルブルク時代を通じての本質の否定性が、残るくまなく反映している。この意味において、ペテルブルクのような都市はほかに見当たらない。建築様式の点に関してはペテルブルクは世界じゅうのあらゆる建築様式、あらゆる時代あらゆる流行の反映であり、ありとあらゆるものが段階的に取り入れられあらゆるものが自己流に歪められているのである。こうした建築物を見ていると、まるで本でも読んでいるように、規則的にあるいは不意にヨーロッパからわが国へ飛び込んできて、しだいしだいにわれわれを征服し、とりこにしてしまった、ありとあらゆる大小の思想の流入が余すところなく読み取れる。……
以前分析したことだが、情景法においては《単線的に継起する外的な事象を大枠として追いながら、それを時間幅を広くとった記述や習慣的説明的記述や(内的状態を描く)無時間的な記述によって存分にふくらませるというのが、ドストエフスキーの文体の基調である》。引用部は、冒頭の文章からすれば街路を舞台とした感覚描写から切れ込んでいく情景法のように思われるのだが、「わたしには現代のこうした建築様式がどうも不思議でならない」という第三文からは無時間的な習慣的説明的記述──というか評論的なディエゲーシスに移行してそれが延々とつづくというパターンの典型例になっている。まあ一応その評論的ディエゲーシスも「わたしはいつも驚きの目を見はらせられたものであった」「……のを見て、思わずはっとなることがある」といった具合に観察すなわち視覚が元になっているために、それほど「街路」の情景法から懸け離れたという印象は与えないけれども。それにしても……。
●『罪と罰』下171頁
第五部第一章
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果して、五分もするとレベジャートニコフはソーネチカを連れてもどってきた。ソーニャはすっかりおびえきった様子で、例によって、びくびくしながら入ってきた。彼女はこういう場合はいつもおどおどして、新しい人に会ったり新しく知り合いになったりすることをひどく畏れた。子供の頃からそうだったが、この頃は特にそれがひどくなっていた……ピョートル・ペトローヴィチは《やさしく丁寧に》彼女を迎えたが、しかしその態度にはどことなく浮わついたなれなれしさがあった。しかしこれは、ピョートル・ペトローヴィチの考えでは、彼のような名誉も地位もある男が、こんな若い、しかもある意味では興味のある女に対しては、別に品のわるいことではなかった。彼は急いでソーニャを《元気》づけると、卓をはさんで向いあいに坐るようにすすめた。ソーニャは腰を下ろすと、あたりを見まわして──レベジャートニコフから、卓の上においてある金に目をうつし、それから不意にまたピョートル・ペトローヴィチを見た。そしてそれからはもうまるで吸いよせられたように、彼の顔から目をはなさなかった。レベジャートニコフはドアのほうへ行きかけた。ピョートル・ペトローヴィチは立ち上がると、動作でソーニャに坐っているように示しておいて、ドアのところでレベジャートニコフをひきとめた。
この引用部の第一のポイントは、情景法なのにいきなり「彼女はこういう場合はいつもおどおどして、新しい人に会ったり新しく知り合いになったりすることをひどく恐れた。子供の頃からそうだったが、この頃は特にそれがひどくなっていた……」となぜか習慣的記述が挿入されているところ。その呼び水になったのは現前的描写につけくわえられた「例によって」という副詞。技術としてはあからさまなんだけれど、語り手の権限でこういうことがんがんやってしまってよいのだね。
この引用部の第二のポイントは、「しかしこれは、ピョートル・ペトローヴィチの考えでは、……別に品のわるいことではなかった。」という語り手による登場人物の「習慣的な」考え方を注釈している箇所。たとえば「彼女の考えでは、……することは……ということであるようだった」みたいな応用も可能だろう。登場人物の焦点化ではなく、「彼/彼女の考えでは……」というすることで語り手の視点からの記述であることを強調しているわけ。情景法の途中の地の文なのに。ドストエフスキーの情景法は、やはり特異だ。
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------------------------------------- タイプ【D-6】批評的/情動的ディエゲーシス ▲
●『罪と罰』上123-125頁
第一部第六章
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しかしこんなことはまだ些細なことで、彼は考えをすすめようともしなかったし、そんな暇もなかった。彼が考えていたのは大筋で、自分ですべてに確信がもてるようになるまで、枝葉末節はのばしておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。少なくとも自分ではそう思っていた。いってみれば、いずれは考えをおわって、みこしをあげ──あっさりとそこへ出かけて行くときがくるなどとは、彼は想像することもできなかった。先日のあの下見(つまり最後的に間取りを検分する意図をひめた訪問)でさえも、ただ下見のための下見であって、決して本気ではなかった。《空想ばかりしていてもはじまらん、ひとつ出かけて、ためしてみよう!》という気持だった、──ところがすぐにがまんができなくなって、ペッと唾をはき、われとわが身をののしりながら逃げだしたのだった。しかし一方、問題の道徳的解決という意味では、いっさいの分析がもう完成されていたようだ。彼の詭弁論はかみそりのように研ぎすまされて、彼はもう自分で自分の中に意識的な反論を見出すことができなかった。ところがいよいよとなると、彼はただわけもなく自分が信じられず、まるで誰かに無理やりそこへひきよせられたように、かたくなに、卑屈に、本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用した。まるで誰かが彼の手をつかんで、超自然的な力で、有無を言わさずひっぱったようであった。彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていったのである。
最初、──といっても、もうずいぶんまえのことだが、──彼はひとつの問題に興味をもっていた。どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか? どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにはっきりあらわれるのか? 彼はすこしずついろいろなおもしろい結論を出していったが、彼の見解によれば、最大の原因は犯罪をかくすことが物質的に不可能であるということよりは、むしろ犯罪者自身にあるというのである。犯罪者自身が、これはほとんどの犯罪者にいえることだが、犯行の瞬間には意志と理性がまひしたような状態になって、それどころか、かえって子供のような異常な無思慮におちいるからだ。しかもそれが理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間なのである。彼の確実な結論によれば、この理性のくもりと意志の衰えは病気のように人間をとらえ、しだいに成長して、犯罪遂行のまぎわにその極限に達する、そしてそのままの状態が犯行の瞬間まで、人によっては更にその後しばらく継続する、それから病気がなおるように、その状態もすぎ去る。そこで一つの問題が生れる。病気が犯罪自体を生み出すのか、それとも犯罪自体が、その特殊な性質上、常に病気に類した何ものかを伴うのか?──彼はまだこの問題の解決はできそうもなかった。
このような結論に達しながら、彼は、例のしごとに際して自分にだけはそのような病的な転倒はあり得ない、理性と意志が計画遂行の間中ぜったいに彼を見すてるはずがない、と断定した。なぜなら、そのたった一つの理由は、彼の計画が──《犯罪ではない》からである……彼が最後の決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ──ただつけ加えておきたいのは、このしごとの実際上の、純粋に物質的な困難というものが、彼の頭脳の中ではいつも第二義的な役割しか演じていなかったということである。《なあに計画を練るにあたっては、意志と理性さえしっかりしていればそれでいい。いずれ、問題のあらゆるデテールをつきつめて検討すべきときがきたら、そんな困難なんてすべて征服されてしまうだろうさ……》ところがしごとはいっこうにすすめられなかった。自分の最終決定が、彼にはいまだにほとんど信じられなかったのである。だから最後の時がうたれると、何もかもが思っていたこととはまったくちがって、不意をうたれたというか、ほとんど意外な感じさえした。
「彼」に焦点を合わせた特徴的なディエゲーシス。
第一段落でまず目につくのは「しかし」「ところが」といった逆接の多用。多過ぎる。だがよく読むとこれらの接続詞は段落の叙述の流れを本質的に切り替えるような機能を担っているわけではなさそうだ。思うにこれらの逆接の接続詞は、前文の平叙文と最初からセットのものとして扱われている。つまり「彼は……自分ですべてに確信がもてるようになるまで……しておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。(少なくとも……)」──これで最初から一つのセットのもののとして書かれたということ。同様に「……彼はもう自分で自分の中に意識的な反論を見出すことができなかった。ところがいよいよとなると、彼は……本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。」──これも最初から「ところが」による逆接込みで構想された文章であると看做せるということ。だからこそ、これらの「しかし」「ところが」は段落全体の流れを切り替えるような役割は持たず、部分否定の力しか発揮し得ていないわけだ。ディエゲーシスにおいて逆接の接続詞をこんな風に用いることができるとは、知っておいた方がいい。
第二段落では、疑問形の珍しい使用が見られる。「どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか?」──これのことだが、ここでの疑問形は応答を迫る力によってつづく叙述を導くような生まな効果は持っておらず、前文で「問題」といわれた内容を定式化するために用いられた疑問形だ。それは確かにラスコーリ二コフがかつて自問した問いではあるのだが、このディエゲーシスの流れの中では、ラスコーリニコフの肉声の問いではなくあたかもその「引用」のように中性化され提示されている。いや、ディエゲーシスだからこそ、このように疑問形を中性的に扱うこともできるというわけか。つづく文章でもラスコーリニコフが出した「おもしろい結論」を淡々と記述していく流れになっており、これも稀有。疑問形の使用はディエゲーシスの構造化の一技法だが、こんなやり方もあるということ。
「そこで一つの問題が生れる。」この一文にも注目しよう。「そこで」の使用はこの引用部に近接する箇所でも見られた(「そこで結局は斧にきめたわけだ」)が、それとは趣きが異なるようだ。「そこで結局は斧にきめたわけだ」の場合の「そこで」は「そういうわけで」とも言い換えられるもので、前文を露骨に受けた演算子に過ぎないが、「そこで一つの問題が生れる」の「そこで」は違う。これは論理的な思考過程を記述する演算子として機能しており、「その場合、……」と言い換えることも可能なもの。言わばここで語り手はかつてのラスコーリニコフの思考過程を演じてみせている。「そこで(その場合)一つの問題が生れる」というのは論文の中でどこまで論証が進んだかを一旦振り返るような表現に近い。これもディエゲーシスならではの文体。
第三段落では「このような結論に達しながら、……」という文を改行後すぐに持って来ることで、前の段落を受けて直に叙述を引き出して行くという意図を露骨に見せている。こういう繋ぎ方もあり。「ただつけ加えておきたいのは、……」の演算子も注目。ドストエフスキーがよく使う表現だが、「ついでに心にとめておきたいのは、……」といった表現と同様、その後につづく内容は「ついでに」語られるべきものではおよそなく、それまでの叙述を切り返して深化させていったものであることが多い。つまり、この表現の使用はドストエフスキーにとって余技ではない。
引用部全体について指摘すると、これは(『カラマゾフの兄弟』『悪霊』『白痴』などとは違って)『罪の罰』の中では珍しく語り手が前面に出ている形のディエゲーシスになっている。「……いっさいの分析がもう完成されていたようだ」といったラスコーリニコフについての概言や、「彼の見解によれば、……」といった引用符を示唆する言い回しなどがそのメルクマールだが、もっとも露骨なのは「彼が最後の決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ」の一文だ。ここでは語り手が自分の記述したことが物語の現時点より先行しすぎたことを反省したり、省略すべきことについては書かないことを宣言したりと、語りについての自己言及が行われているわけで、作中人物とは別の誰か(=語り手)の意志があからさまに介入していると看做せる。
●『白痴』下巻318-324頁
第四篇第一章
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世間には一言でもってその人物の全貌をとらえるようなことのできにくい人間がいるものである。それはふつう《ありふれた》とか、《大多数》とかいう形容詞で呼ばれる人たちのことで、これが事実上あらゆる社会の絶対多数を構成している人たちなのである。作家というものはその小説や物語において、社会のある種の典型をとらえて、それを芸術的にあざやかに表現しようとつとめている。もっともそうした典型は、そっくりそのままの姿では現実にお目にかかれないが、ほとんどあらゆる場合において、当の現実そのものよりはるかに現実的なものなのである。ポドコリョーシンはその典型的な点において、あるいは誇張とさえ思われるかもしれないが、しかし決して架空の人物ではないのである。いや、いかに多くの聡明なる人たちがゴーゴリの筆によってポドコリョーシンのことを知って以来、自分の善良な知人や親友の何十人、何百人もの人が、なんとポドコリョーシンに似ていることかと気づきはじめたことだろう。彼らは、その友人たちがポドコリョーシンのような人物であることは、ゴーゴリによって知らされる以前から承知していたのであるが、ただこうした名前で呼ばれることを知らなかったまでである。現実には、花婿が結婚式の前に窓からとびだして逃げるなどということは、きわめてまれなことであろう。なぜなら、余事はさておき、これはぐあいのまずいことだからである。しかし、それにもかかわらず、いかに多くの花婿は、たとえそれがりっぱな聡明な人びとであっても、結婚のまぎわに心の奥底で、みずからをポドコリョーシンであると認めるのに躊躇しないであろう。またこれと同様に、世間の夫たるものは例外なく事あるごとに、「いや、自業自得さ、ジョルジ・ダンダン」と叫ぶものではないだろう。しかしながら、ああ、この衷心からの叫び声を、全世界の夫たちはその蜜月のあとで、幾百万べん、幾千万べんくりかえしたことだろう。いや、蜜月のあとどころか、ひょっとすると、それは結婚の翌日かもしれないのだ。
そんなわけで、ここではあまり堅苦しい説明を加えるのを避けて、ただつぎのように言っておこう。現実においては、こうした人物の典型的特質があたかも水で薄められたようになっており、またこうしたジョルジ・ダンダンやポドコリョーシンのごとき人物も世間には存在してわれわれの前をうろつきまわっているにちがいないけれども、ただいくぶん薄められているというだけのことである。最後にひとこと、この事実を完全に読者に伝えるために、モリエールが創造したのと寸分たがわぬそのままのジョルジ・ダンダンにも、まれではあるがやはり現実にお目にかかれるということを断わって、この雑誌の評論めいてきた考察を終ることにしよう。だが、それにしても、われわれの前に一つの疑問が残されている。それはほかでもないが、小説家はこうした平凡な、まったく《ありふれた》人たちを、どんなふうに取りあつかうべきか、こうした人びとをたとえすこしでも興味あるものにするためには、いったいどう表現したらいいのか、という疑問である。物語のなかで、彼らのそばをまったく素通りしてしまうわけには断じていかない。なぜなら、平凡な人間はいたるところにいて、多くの場合、浮き世の出来事との関連において、必要欠くべからざる鎖の一環であり、彼らのそばを素通りすることは、とりもなおさず、真実らしさをそこなうことになるからである。典型的な人物や、あるいは単に興味のためのみに、風変りな、この世にありそうもない人物ばかりで小説を充たすということは、真実らしくもなく、またおそらくおもしろくもないであろう。われわれの考えでは、作家たるものは平凡なもののなかにも、つとめて興味あるまた教訓的なニュアンスを捜し求めるべきである。たとえば、ある種の平凡な人の特質が、いつに変らぬその日常性の平凡さに含まれている場合、またさらに進んで、この種の人たちが平凡な生活を脱しようと、懸命な努力をかたむけているにもかかわらず、相変らず旧態依然のままに終るというような場合、こうした人物はその人なりの独自の資質をさえ身につけることになるのである。それはつまり、平凡な人がなんとしても持前の自分に満足しないで、その資質もないくせに、なんとかして独創的な非凡なものになろうとするからである。
こうした《ありふれた》あるいは《平凡な》人びとの仲間に、この物語の二、三の人物も属しているのである。もっとも今日まで(自分でもそれを認めるが)まだ読者にはっきりと説明していないが、名をあげてみればワルワーラ・アルダリオノヴナ・プチーツィナ、その夫のプチーツィン氏、その兄のガヴリーラ・アルダリオノヴィチなどである。
実際のところ、金もあり、家柄もよく、容貌もすぐれ、教育もあり、ばかでもなく、おまけに好人物でさえあり、しかもこれという才もなく、どこといって変ったところもないく、いや、変人といったところさえなく、自分の思想をもたず、まったく《世間並み》の人間であることぐらいいまいましいことはないであろう。財産はある、しかしロスチャイルドほどではない。家柄はりっぱなものだが、いまだかつて世に知られたことはない。風貌はすぐれているが、きわめて表情にとぼしい。教育はちゃんとしていながら、とくに専門がない。分別はもっているが、自分自身の思想は持っていない。情はあるが、寛大さに欠けている。何から何まで、こんなふうである。世間にはこうした人たちがうようよしており、われわれが想像しているよりもはるかに多いのである。彼らはほかのすべての人びとと同様、大別すると二種類に分けられる。一つは枠にはまった人びとであり、もう一つはそれよりも《ずっと聡明な》人びとである。前者は後者よりも幸福である。枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないからである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。またある者は何かしら人類共通の善良な心もちを、ほんのすこしでも心の中に感じたら、自分のように感ずる人間なんてひとりもいない、自分こそは人類発達の先駆者であると、たちまち信じこんでしまうのである。またある者は、何かの思想をそのまま鵜呑みにするか、それとも手当りしだいに本の一ページをちょっとのぞいて見さえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生れたものだと、わけもなく信じこんでしまうのである。もしこんな言い方がゆるされるならば、こうした無邪気な厚かましさというものは、こうした場合、おどろくほどにまで達するものなのである。こんなことはとてもありそうもないことであるが、そのじつ、たえずお目にかかる事実なのである。この無邪気な厚かましさ、この自己とその才能を信じて疑わない愚かな人間の信念は、ゴーゴリによってピロゴフ中尉という驚嘆すべき典型のなかにみごとに描きだされている。ピロゴフは自分は天才である、いや、あらゆる天才の上に立っているということを、一度として疑ったことはないのである。そんな疑問を一度だっていだいたことがないほど信じきっているのである。もっとも、こんな疑問などというものは、彼にとってまったく存在していないのである。この偉大なる作家はその読者の侮辱された道徳心を満足させるために、ついにはこの男をひどい目にあわさなければならぬ羽目に陥ったが、この偉大な人物がただちょっと身震いしたばかりで、拷問に疲れはてた体に力をつけるために薄焼きの肉饅頭をぺろりとたいらげたのを見て、あきれて両手をひろげたまま、読者の憤激にまかせてしまったのである。わたしはこの偉大なるピロゴフが、ゴーゴリによってこんな低い官等にいるときにとらえられたことをつねづね残念に思っていた。なぜなら、ピロゴフはどこまでもうぬぼれの強い男だから、年とともに肩章の《金筋》が幅をまし数をふやすにつれて、ついにはたとえば軍司令官になるのだ、と空想するくらい彼には朝飯前だからである。いや、空想するだけでなく、そう信じて疑わないのである。将官に昇進するからには、どうして軍司令官に任命されないことがあろうか? いや、こうした連中のいかに多くの者が、後年、戦場においてどんなに大きな失敗をやらかすことだろう。いや、それにしても、わが国の文学者、学者、プロパガンジストのなかにはいかに多くのピゴロフがいたことであろう。わたしはいま『いた』と言ったけれども、しかしもちろん、いまだっているのである……
ディエゲーシス文体誘引剤。
さまざまな文体的特徴が目白押し。「世間には……いるものである。」「もっとも……」「いや、いかに多くの聡明なる人たちが……しはじめたことだろう。」「現実には、……きわめてまれなことであろう。なぜなら、……」「多くの花婿は、……であると認めるのに躊躇しないであろう。」「……幾千万べんくりかえしたことだろう。」「いや、……ひょっとすると、……かもしれないのだ。」「そんなわけで、ここではあまり堅苦しい説明を加えるのを避けて、ただつぎのように言っておこう。」「最後にひとこと、……ということを断わって、……」「それにしても、われわれの前に一つの疑問が残されている。それはほかでもないが、……」「まったく……してしまうわけにはいかない。なぜなら、……」「われわれの考えでは、……するべきである。たとえば、……」「それはつまり、……するからである。」「実際のところ、……であることぐらいいまいましいことはないであろう。」「もしこんな言い方がゆるされるならば、……」「この無邪気なあつかましさ、……愚かな人間の信念は、……のなかにみごとに描きだされている。」「いや、空想するだけでなく、そう信じて疑わないのである。」「どうして……されないことがあろうか?」「いや、それにしても……」
●『白痴』下7-10頁
第三篇第一章
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発明家とか天才とか言われる人びとは、世に出はじめのころは、ほとんど例外なく(またその大多数は晩年に至るまでも)、世間からはばかとしか見られなかったものである。──これはもうきわめて陳腐な意見であり、万人の認めるところである。たとえば、この何十年来、誰もかれもが自分の金を銀行へあずけ、四分の利息で、ついに何十億という大金を積みあげてきたが、もしかりに銀行というものがなく、みながてんでに自分の創意のままに動いたならば、これら何十億の大半は、おそらく株式熱や詐欺師の手にかかって消えてしまったであろうことは確かである。しかも、それが礼儀と道義の名において余儀なくされるのである。いや、まったく道義がそれを余儀なくしたのである。かりに道義にかなった臆病と礼儀にかなった創意の欠如とが、今日までおおかたの意見どおり、ちゃんとした実務的人物の欠くことのできない資格だとすれば、あまり急激に変革をとげるのは、単に秩序を破るばかりでなく、無作法なことにさえもなるにちがいない。たとえてみれば、わが子を心から愛している母親ならば、その息子なり娘なりが軌道を踏みはずそうとしているのを見れば、誰しも愕然として、恐怖のあまり、病の床につくだろう。『いや、そんな創意なんてものはなくても、幸福で満ちたりた暮しをしてくれるのがいちばんだ』と、すべての母親は自分の赤ん坊をあやしながら、考えるものである。またわが国の乳母たちも赤ん坊をあやしながら、『錦の衣をお着なさい、将軍さまにおなりなさい!』と大昔からくりかえし歌っているのである。こうしたわけで、わが国の乳母たちのあいだでさえ、将軍の位はロシア人の幸福の頂点と考えられているのである。つまり、平穏でりっぱな幸福というものこそ、最も一般的な国民的理想なのである。いや、事実、中くらいで試験に合格し、三十五年も勤務をつづければ、誰だって最後には閣下にでもなって、かなりの金を銀行に積めるのである。こういうわけで、ロシア人はほとんどなんらの努力もせずに、敏腕で実務的な人物という評判を結局は頂戴してきたのである。事実、わが国で閣下になれないのは、ただ独創的な、言葉を換えて言えば、物騒な連中ばかりである。ことによったら、これには多少の誤解があるかもしれないが、一般的に言って、どうやらこれが正しいようである。いや、社会がこのように実務的な人物の理想を定義したのは、まったくもっともなことである。が、いずれにしても、筆者はずいぶんむだなおしゃべりをしてしまったものである。じつは、われわれにとってすでにお馴染みのエパンチン家について、少々説明を加えたかったからである。この家の人びと、いや、もっと正確に言えば、この家庭で最も分別のある人びとは、この一族に共通な、さきに述べたあの美徳とはまさに正反対な性質のために苦しんできたのであった。事実を正確に理解することができないながらも(なにしろ、それはとてもむずかしいことである)、これらの人びとは、わが家におけるすべてのことが、よそとはちがって、なぜかうまくいかないように思っていた。よそでは何事もなめらかにいっているのに、自分のところではなんとなくごつごつとしているし、よそではみんな軌道にのっているのに、自分たちはたえず脱線ばかりしている。みんなはしじゅう慎みぶかく小心翼々としているのに、自分たちはそうではない。たしかに、リザヴェータ夫人は大いにびくびくしていたとも言えるが、それは夫人たちが憧れている世間一般の慎みぶかい臆病さとはちがっていた。もっとも、そんなに気に病んでいたのは、リザヴェータ夫人ひとりかもしれなかった。娘たちは頭の鋭い皮肉な人たちであったが、まだなにぶんにも年が若いし、将軍も洞察力は持っていたが(もっともそれは、融通のきかぬものであった)、いざ厄介なことがもちあがった場合には、ふむ! と言ったきりで、結局のところ、リザヴェータ夫人にすべての希望を託すことになるのであった。こんなわけで、最後の責任はひとりでに夫人の肩にかかってきた。ところで、この家庭は創意に富んでいるのでもなければ、みずから意識して風変りなことを求め、そのために軌道からはずれているというのでもなかった。もしそうだとしたら、まったく無作法な話であろう。だが、決してそんなことはない! 事実、そんなふうなことは、つまり、何か意識的に定められた目的などというものはなかったのである。が、それでもやはり、エパンチン家の家庭は非常に尊敬すべきものであったにもかかわらず、一般にすべての尊敬すべき家庭として当然そうあるべき姿とはちがうところがあった。最近では、リザヴェータ夫人も何事につけて自分ひとりを責め、自分の《不仕合せな》性格にその罪を帰するようになり、そのためにいっそう苦しみ悩むようになった。夫人はたえず自分自身を『ばかで無作法な変人』と悪しざまにののしり、邪推のために苦しみ、ひっきりなしに途方にくれ、何かちょっとした厄介なことさえ解決することができず、たえず不幸を大げさにこぼすのであった。
ディエゲーシス文体誘引剤。
多様な文体的特徴が詰まっている。「これは……万人の認めるところである。」「……してしまったであろうことは確かである。」「いや、まったく道義がそれを余儀なくしたのである。」「今日までのおおかたの意見どおり、……」「たとえてみれば、……」「こうしたわけで、……」「いや、事実、……」「ことによったら、これには多少の誤解があるかもしれないが、一般的に言って、どうやらこれが正しいようである。」「……したのは、まったくもっともなことである。」「が、いずれにしても、筆者はずいぶんむだなおしゃべりをしてしまったものである。」「この家の人びと、いや、もっと正確に言えば、……」「なにしろ、……」「たしかに、……」「もっともそれは、……であった」「ところで、……」「だが、決してそんなことはない! 事実、そんなふうなことは、……なかったのである。」
●『カラマゾフの兄弟』3巻83-89頁
第三部第八編第一章
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ついでながら、ここでひとつの確固たる事実を述べておく必要がある。彼は親父のフョードルが、必ずグルーシェンカに正式の結婚を申し込むに違いないと(もしまだ申し込んでいなければの話だが)信じて疑わなかった。そうしてまたあの色気違いの老人がわずか三千ルーブリですますつもりでいるなどとは、一瞬たりとも信じなかったのである。ミーチャがこういう結論を下したのは、グルーシェンカと彼女の気性を知っていたからである。とすれば、グルーシェンカの苦悶やためらいがすべて、同様にふたりのうちのどちらを選ぶべきか、どちらがさきざき有利であろうかというこの一点をめぐって生じたものに違いないと、時どき青年が思ったのもむりはない。例の《将校》、つまりグルーシェンカの生涯にとって宿命的な男、彼女がその到着をあれほどの興奮と恐怖の入りまじった気持で待ちこがれていたあの男が近々帰って来るということは、奇妙なことにこの数日のあいだ彼は考えようと思わなかった。なるほどこの数日間グルーシェンカがこのことを黙っていたのは事実である。しかしひと月ほど前に昔の誘惑者から手紙が届いたことは、彼女自身の口から聞いて十分に承知していたし、また部分的にはその手紙の内容も知っていた。そのときグルーシェンカは、ふと意地の悪い気持を起こしてその手紙を彼に見せたのだが、驚いたことに彼はその手紙にほとんど何らの価値も認めなかった。それがなぜかを説明するのは、非常にむずかしいことに違いない。ことによると、この女性をめぐる血をわけた父親との見苦しい恐ろしい争いに打ちひしがれた彼としては、少なくともその時にはそれよりも恐ろしい危険なことを何ひとつ予想することができなかったという、ただそれだけのことだったかも知れない。五年も姿をくらましたあげく、どこからか不意に飛び出して来た求婚者、──とりわけその求婚者が近々ここへやって来ることなど、彼は頭から信じなかった。それにミーチャが見せてもらったその《将校》の最初の手紙には、この新しい競争者の来訪のことは非常に漠然と書かれているにすぎなかった。その手紙はきわめて曖昧で、大げさで、センチメンタルな言葉でいっぱいだった。注意せねばならないのは、グルーシェンカがそのとき到着について多少とも確定的なことの書いている手紙の最後の何行かを隠して見せなかったことである。そのうえ、これは後に思い出したことであるが、ミーチャはその瞬間グルーシェンカの顔に、このシベリアからの手紙に対する軽蔑が思わず誇らしげに浮かぶのを捕えたような気がした。その後グルーシェンカはこの新しい競争者との交渉がどう進んでいるのかを、もはや何ひとつミーチャに知らせようとはしなかった。こういうわけでミーチャは、時がたつにつれてこの将校のことをすっかり忘れてしまったのである。
彼はたといどんなことが起ころうとも、どんなふうに事態が変わろうとも、フョードルとの決定的な衝突が今や目前に迫っていて、他の何よりも先にそれが決着を見るに違いないと、そのことばかり考えていた。消え入らんばかりの気持で、彼は今か今かとグルーシェンカの決心がきまるのを待ち、そうしてその彼女の決心が不意に、霊感によって生じるに違いないとたえず信じていた。もし彼女が突然、『あたしを捕まえて頂戴、あたしは永久にあんたのものなの』と言ったら、──それで万事は決着するのだ。すぐさま彼女を引っさらって、世界のはてへ連れて行く。おお、すぐさま、できるだけ、できるだけ遠くへ、世界のはてとは言わぬまでも、どこかロシアのはてへ連れて行き、そこで彼女と結婚して、ここの者にも向こうの者にも、どこの誰にも知られないように、人目を忍んでひっそりと暮らすのだ。その時こそ、おお、その時こそ、ただちにまったく新しい生活がはじまる! その一新された、別の、今度こそ《善行にみちた》生活のことを(《必ず、ぜひとも善行にみちた》生活でなければならぬ)、彼はたえず無我夢中で空想していた。彼はこの復活と一新を渇望していた。みずから好んではまり込んだ醜悪な泥沼があまりの重荷となっていたので、彼はそういう場合に立ちいたった多くの人々と同様に、何よりもまず土地が変わりさえすればと思い込んでいた。あの連中さえいなかったならば、こんな環境でさえなければ、こんないまわしい土地から飛び出しさえすれば、──何もかもが生まれ変わって、一新するに違いない! これが彼の信念であり、また渇望の的でもあった。
しかしこれはただ問題が幸運な決着を見た第一の場合にすぎなかった。決着のつき方はもうひとつあって、これとは別の、恐ろしい結末も予想されるのである。もし彼女た突然、『帰って頂戴、あたしたった今フョードル・パーヴロヴィチと話がついて、あの人のところへお嫁に行くことに決めたの。あんたにはもう用はないわ』と言ったとしたら──その時は……おお、その時は……。しかしミーチャは、その時はどうなるか知らなかった。最後のぎりぎりの瞬間まで知らなかった。このことを彼のために言っておかねばならない。彼は明確な意図を持っていなかった。犯罪などは考えてもいなかった。彼は見張りをし、スパイをし、苦しんではいたが、しかしなお自分の運命の第一の幸運な結末に対してのみ準備をしていたのだ。他のあらゆる考えをむりに追い払ってさえいたのだ。ところがここに早くもまったく別の苦悩が芽生えていた。まったく新しい、第二義的な、しかし同様に宿命的な、解決し得ぬある事情が生じていたのである。
その事情とは、もし彼女が『あたしはあんたのものなの、どこへでも連れて行って頂戴』と言った場合、いかにして彼女を連れ出すかということである。そのための費用は、金はどこにあるのか。それまでの何年かひきつづきフョードルから出ていた彼の全収入は、ちょうどそのとき尽きはてていた。もちろんグルーシェンカは金を持っている。だがその点についてミーチャの心には、突然、恐ろしい誇りが頭をもちあげた。彼は自分の力で彼女を連れ出し、彼女の金ではなく自分の金で彼女との新生活をはじめたかった。彼女の金を借りることなどは想像もできなかったし、そう考えただけで彼は苦しいほどの嫌悪にかられた。もっともここではこの事実を長々と説明したり分析したりせずに、ただその時の彼がそういう心境だったと述べておくだけにしよう。それはまた、彼がカチェリーナの金を泥棒のように着服したという良心のひそかな苦しみから、間接的に、いわば無意識的に生じた心境かも知れない。『ひとりの女性に対してすでに卑劣な真似をしているのに、そんなことをすればもうひとりの女性に対してまで卑劣漢になってしまうじゃないか』後に告白したように、彼はその時こう考えたのである。『それにグルーシェンカが知ったら、そんな卑劣な男はいやだと言うだろう』だがそうなると、どこで費用を調達したらいいのか、どこでその運命的な金を手に入れたらいいのか。それができなければ、すべては失敗して水泡に帰してしまうのだ。『それもただ金が足りないという理由だけで。ああ、何という恥辱だ!』
ひとつ先まわりをして言っておこう。問題は彼がことによるとその金をどこで手に入れたらいいかを知っていたかも知れない、その金がどこにあるかを知っていたかも知れないというこの一事である。だが今は、これ以上くわしくは語るまい。やがてすべてが明らかになるのだから。だが彼の主な不幸はこの点にあったのだから、漠然とではあるが、これだけは言っておかねばならぬ。つまりこのどこかにある資金を手に入れるためには、その金を手に入れる権利を得るためには、まずその前に三千ルーブリをカチェリーナに返さなければならかったのだ、──さもなければ、『おれはすりになる、卑劣漢になる。おれは卑劣漢のまま新生活をはじめたくない』こうミーチャは決心した。従ってもし必要なら全世界をひっくり返してもかまわない、ただあの三千ルーブリだけは何がなんでも真っ先にカチェリーナに返さなければならないと腹を決めたのである。彼が最終的にこう決心したのは、いわば彼の生涯の最後の数時間、すなわち二日前の夕方、路上でアリョーシャと最後に会った時である。それはグルーシェンカがカチェリーナを侮辱した直後のことだが、ミーチャはその話をアリョーシャの口から聞くと、自分が卑劣な男であることを認めて、《もしそれが多少とも彼女の気持を軽くするなら》、そのことをカチェリーナに伝えてほしいと言いつけた。弟と別れた彼は、その夜いつもの狂乱状態におちいって、《たとい誰かを殺して強奪してでも、カーチャにだけは借金を返さなければならない》と感じた。『殺害され強奪された男、いや、全人類に対して、強盗、殺人者となってシベリアへ送られようとも、カーチャにあの男は自分を裏切って自分の金を盗み、その金で善行にみちた生活をはじめるためにグルーシェンカと駈け落ちしたと言われるよりはいい。それだけは堪えられない!』歯ぎりをしてミーチャはこう口走った。実際、《これではしまいに脳炎を起こすぞ》と時々彼が思ったのも無理はなかった。だが、今のところ彼はなおも戦いつづけていたのである。……
ここにふしぎなことがひとつある。こういう決心を固めた以上、もはや絶望以外何ひとつ彼には残されていないと思うのが当然であろう。なぜならばそのような大金を、彼のような一文なしの男がどこで急に手に入れることができるというのか。ところが彼は、最後までその三千ルーブリはきっと手にはいる、ひとりでにはいって来る、いざとなれば天からでも降って来るだろうと期待していたのである。もっともこういうことは、ドミートリイのようにこの年まで親の遺産を湯水のように浪費して来て、金もうけの方法をまったく知らない人々にはえてしてありがちなことである。おとといアリョーシャと別れた直後から、彼の頭のなかには恐ろしく現実ばなれのした旋風が吹きあれて、彼の思考を混乱におとしいれてしまった。こうして彼は最も無謀な企てから着手することになったのである。ことによると、こういう場合こういう人々は、最も現実ばなれのした不可能な企てを、まず最初に最も実現性のあることと思うのかも知れない。
「感激」を文体の構成原理の根幹にもってきつつ、三人称としての語り手/作中人物の距離感を効果的に維持した抑制された筆致。これだ。これこそが出発点だ。ルバテでもスタンダールでもない。
当然ながら、情景法やディエゲーシスの構成原理に「感激(強い生活感情のうねり・蝉の啼声をギンギンと感じさせる過敏で生命的なもの)」を持ってくる場合には、登場人物の興奮に語り手がそのまま乗り移ることが方法論としては最善だ。ここではドミートリイが感傷ではない純粋な感激に衝き動かされ、無意識において不気味な感動を抱えている人物として描き出されているために、そのまま地の文でも彼の感激にすべり込むことが可能になっている。「あの連中さえいなかったならば、こんな環境でさえなければ、こんないまわしい土地から飛び出しさえすれば、──何もかもが生まれ変わって、一新するに違いない! これが彼の信念であり、また渇望の的でもあった。」
もちろん三人称で語る以上は「感激」一辺倒では駄目で、事情は的確に伝え伏線は手堅く張っていく必要がある──、ただし何もかも説明的な言葉でくくってしまうのではなく、どんなに奇怪なものであっても事実そのままを伝えるように、そしてその正確を旨とする筆致のなかにも、作中人物に対する「愛情」が漲っている必要がある。「彼は自分の力で彼女を連れ出し、彼女の金ではなく自分の金で彼女との新生活をはじめたかった。彼女の金を借りることなどは想像もできなかったし、そう考えただけで彼は苦しいほどの嫌悪にかられた。もっともここではこの事実を長々と説明したり分析したりせずに、ただその時の彼がそういう心境だったと述べておくだけにしよう。」
ミーチャの内語をそのつど引用して「感激」の推進力を利用しているのは当然だが、その中でも周到に伏線がはられていることに注目せよ。例えば次の個所。「『殺害され強奪された男、いや、全人類に対して、強盗、殺人者となってシベリアへ送られようとも、カーチャにあの男は自分を裏切って自分の金を盗み、その金で善行にみちた生活をはじめるためにグルーシェンカと駈け落ちしたと言われるよりはいい。それだけは堪えられない!』」
ところで、もう一点指摘できる重要なことがある。──「みずから好んではまり込んだ醜悪な泥沼があまりの重荷となっていたので、彼はそういう場合に立ちいたった多くの人々と同様に、何よりもまず土地が変わりさえすればと思い込んでいた。」「しかしミーチャは、その時はどうなるか知らなかった。最後のぎりぎりの瞬間まで知らなかった。このことを彼のために言っておかねばならない。彼は明確な意図を持っていなかった。犯罪などは考えてもいなかった。彼は見張りをし、スパイをし、苦しんではいたが、しかしなお自分の運命の第一の幸運な結末に対してのみ準備をしていたのだ。他のあらゆる考えをむりに追い払ってさえいたのだ。」「だがその点についてミーチャの心には、突然、恐ろしい誇りが頭をもちあげた。彼は自分の力で彼女を連れ出し、彼女の金ではなく自分の金で彼女との新生活をはじめたかった。彼女の金を借りることなどは想像もできなかったし、そう考えただけで彼は苦しいほどの嫌悪にかられた。もっともここではこの事実を長々と説明したり分析したりせずに、ただその時の彼がそういう心境だったと述べておくだけにしよう。」──これらの叙述から分かることは、語り手がドミートリイの自意識と現実の分裂を正確に見抜いているということだ! つまり登場人物の中に明らかな盲目=意図も理由も自分自身では分からないという自分の心に反するがゆえの無知、を仮構して、語り手はそこに照準を合わせて叙述を組み立てている。これは他のどんな作家にも見られないドストエフスキーならではの特徴。
●『死の家の記録』121-123頁
第一部第五章
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金というものは──もうまえにも言ったように──監獄ではひじょうに大きな意味と力をもっていた。絶対的に断言できるが、獄内ですこしでも金をもっている囚人は、ぜんぜんもっていない囚人の十分の一も苦しまずにすんだ。もっとも、もっていない者でも全部官給品で保証されているから、何のために金が必要なのだ?──これが上司の考えではあった。ところがそうではないのである。もう一度言うが、もし囚人たちが自分の金をかせぐいっさいの可能性を奪われたとしたら、彼らはあるいは発狂するか、あるいは蠅のように死んでしまうか(何もかも保証されているといっても、それは別である)、あるいは、ついには、いまだかつてないような凶悪犯になってしまうかもしれない。ある者はさびしさのあまり、またある者はどうでもいいから早く罰を受けてこの世から消してもらうか、あるいは囚人用語をつかえば、何とかして『運命を変え』たい一心からである。囚人がほとんど血のにじむような汗をしぼってわずかばかりの金を得て、あるいはそれを得るために途方もないことを考え出し、よく盗みやだましというてまでつかっても、そのくせはいった金はまるで無分別に、子供としか思われないほど無意味に浪費してしまう、しかしこれは、ちょっと見にはそう思われるかもしれないが、けっして囚人が金を重んじないことを証明しているのではない。金に対して、囚人はふるえが来るほど、前後の見さかいがなくなるほど貪欲である、そして実際に、浮かれ騒ぐとき、金をまるでこっぱのようにばらまくとすれば、それは金よりももひとつ上と認めるものがあるためである。囚人にとって金よりもひとつ上のものとは、いったい何だろう? 自由、あるいは自由に対するせめてもの憧れである。囚人は空想が好きである。これについてはあとですこしふれようと思うが、言葉ついでに、信じられないかもしれないが、わたしは、二十年の刑に服している囚人から、ひどく落着きはらって、「まあそのうち、ありがたいことに、刑期が満了したら、そのときこそ……」というような話を、直接に何度も聞かされたのである。『囚人』という言葉の意味は自由意志のない人間ということである。ところが、金をつかうことによって、彼はもう自分の意志で行動しているのである。どんな刻印を押されていようが、足枷をつけられていようが、呪わしい監獄の柵で神の世界からさえぎられ、檻の中の獣のようにとじこめられていようが──彼はやはり酒のような、かたく禁じられている楽しみを買うことができるし、女を抱くこともできるし、ときには(いつもうまくゆくとはかぎらないが)廃兵や下士官のような身近な役人を買収することさえできるのだ。彼らは、彼が法や規律を破っているのを、見て見ぬふりをしてくれる。そればかりか、それらの下っぱ役人たちに対していばることだってできるのだ。ところで囚人たちは、このいばるということ、つまり自分には他人が思うよりも何倍も自由意志と権力があるのだということを仲間に見せ、せめて一時でも自分もそう思いこむことを、おそろしく好んだ──一口に言えば、豪遊することも、ばか騒ぎをすることも、他人をくそみそにこきおろすことも、おれは何でもできる、何でも『おれの思うまま』なのだということを、他人に思い知らせることもできるのだ、つまり哀れな者なら考えることもできないようなことが、自分はできるのだと思いこみたいのである。ついでだが、おそらくここから、素面のときでさえ囚人に見られる、いばったり、自慢したり、たとい見えすいていても、滑稽に無邪気に自分をえらく見せようとしたりする一般的な傾向が生れてくるのであろう。最後に、こうしたばか騒ぎにはそれ相応の危険がある──ということは、はかないものにせよ、生活の幻影、遠い自由の幻影があるということである。ところで、自由を得るためには、人間はどんな代償も惜しまぬものだ! 首に縄をかけられた場合、一口の空気を吸うために、全財産を投げ出さないような百万長者があろうか?
何年間もおとなしく模範的な暮しをして、りっぱな行いのために囚人頭にさえ任命された囚人が、突然何のいわれもなく──まるで悪魔にとりつかれたみたいに──浮かれだして、酒を飲んだり、あばれたり、ときにはわけもなくいきなり刑法にふれるような犯罪を犯したり、あるいはあからさまに上司を侮辱するようなことをしたり、あるいはだれかを殺したり、暴力を振ったりなどして、役人たちをびっくりさせることがときどきある。みんなそれを見て、唖然とするが、しかし、だれよりもそんなことをしなそうに思える人間に、突然こんな爆発が起る理由は、おそらく──個性のもだえるようなはげしい発現であり、自分自身に対する本能的な憂愁であり、自分を、自分の卑しめられた個性を示してやりたい願望であり、それが不意にあらわれて、憎悪、狂憤、理性の昏迷、発作、痙攣にまで高まったものであろう。それは、おそらく、生きながら埋葬されて、墓の中で意識をとりもどした亡者が、どんなにあがいてもむだだと、理性では知りながらも、夢中になって蓋をたたき、押しのけようともがいているようなものかもしれない。だが、そこにはもう理性どころではない、狂おしい発作があるだけだというところに、問題があるのだ。さらに、およそ自由意志による自己の表示というものが、囚人にあっては犯罪と見なされていることを考えてもらいたい。だから囚人にとっては表示が大きかろうが小さかろうが、まったくどうでもよいのである。酒を飲むなら──とことんまで飲めばいいし、危険をおかすなら──どんな危険でもおかし、人を殺そうとかまわない。要は、ただはじめさえすればいいので、そのうちに酔いがひどくなって、抑えがきかないようなことにもなる! だから、何としてもそこまでは行かないようにすることである。そのほうがみんなが安心していられる。
だが、それにはどうしたらよいのか?
ディエゲーシス文体誘引剤。
疑問文の使い方が秀逸。「もっとも、もっていない者でも全部官給品で保証されているから、何のために金が必要なのだ?──これが上司の考えではあった。ところがそうではないのである。」「そして実際に、浮かれ騒ぐとき、金をまるでこっぱのようにばらまくとすれば、それは金よりももひとつ上と認めるものがあるためである。囚人にとって金よりもひとつ上のものとは、いったい何だろう? 自由、あるいは自由に対するせめてもの憧れである。」「ところで、自由を得るためには、人間はどんな代償も惜しまぬものだ! 首に縄をかけられた場合、一口の空気を吸うために、全財産を投げ出さないような百万長者があろうか?」「だが、それにはどうしたらよいのか?」
感嘆文の使い方も秀逸。「酒を飲むなら──とことんまで飲めばいいし、危険をおかすなら──どんな危険でもおかし、人を殺そうとかまわない。要は、ただはじめさえすればいいので、そのうちに酔いがひどくなって、抑えがきかないようなことにもなる!」
●『死の家の記録』115-117頁
第一部第五章
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だからはじめて見たときに、監獄生活が、のちに知ったようなそのほんとうの姿で、わたしの目に映るはずがなかったのである。だからわたしは、どんなにむさぼるような強い注意をこめて目をこらしても、やっぱりつい目と鼻の先にある多くのことを見わけることができなかったと、言ったのである。当然のことだが、はじめにわたしを驚かしたのは、大きな際立った現象であった、しかしそれらも、あるいは、わたしにまちがって受取られて、一つの重苦しい、絶望的に悲しい印象を、わたしの心に残しただけかもしれない。そういうわたしの気持をますます助長したのは、わたしとAの出会いだった。Aもわたしよりすこしまえに監獄に着いた囚人で、わたしが入獄したてのころ、その言いようのない苦痛にみちた印象で、わたしは胸のつぶれる思いをさせられたものである。しかしわたしは、まだ監獄に着くまえから、こちらで彼と会うことは知っていた。彼はこのはじめの苦しい時期にわたしを毒し、わたしの魂の苦痛を強めたのである。わたしはこの男について語らないわけにはいかない。
これは人間がどこまで転落し、卑劣になれるか、苦労もなく後悔もなく、どこまで自分の内部のいっさいの道徳的感情を殺すことができるかという、もっともいまわしい例である。Aは貴族出の若い男で、まえにすこしふれておいたが、獄内の動静を逐一少佐に密告し、従卒のフェージカと親しくしていた例の囚人だった。その経歴を簡単に述べると、どの学校にもまともにしまいまでは行かず、その無頼ぶりに驚いた両親と喧嘩をして、モスクワをとび出し、ペテルブルグへ走り、そこで金ほしさに、ある卑劣きわまる密告を行う決意をした。つまり、もっとも卑劣で淫蕩な快楽を求めるはげしい欲望を、一刻も早くみたすために、十人の人命を売ろうとしたのである。ペテルブルグや、料理店や、メシチャンスカヤ街の魔窟の誘惑に負けて、すっかり心が腐れきっていた彼は、人間はばかではなかったが、無分別な愚劣きわまる冒険をおかした。彼はまもなく告発された。彼はその密告で罪のない人々まで巻きぞえをくわせたり、他の人々を欺いたりしたのである、そしてその罪で十年のシベリア流刑を宣告されて、この監獄へ送られてきたのだった。彼はまだひじょうに若く、彼の人生はようやくはじまったばかりであった。このようなおそろしい運命の変化は、彼に深い衝撃をあたえて、その本性を目ざめさせ、何らかの反抗なり、転向なりをさせそうなものであった。ところが彼はすこしのとまどいも、いささかの嫌悪をさえ感ずることなしに、新しい自分の運命を受入れて、その運命に対して道徳的に憤るでもなければ、何をおそれるでもなかった。彼はただ労役をさせられるのと、料理店やメシチャンスカヤ街の三つの魔窟と別れなければならないのを、苦痛に感じただけだった。彼にはむしろ、徒刑囚と名がつけば、もっともっと卑劣でけがらわしいことをしてもかまわないだろうくらいにしか、思われなかった。「徒刑囚は、要するに徒刑囚だ。徒刑囚になったからには、卑劣なことをしてもかまわないし、恥ずかしくもないわけだ」。文字どおり、これが彼の考えだった。わたしはこのけがらわしい人間を、異常現象として思い出すのである。わたしは何年かのあいだ、人殺しや、極道者や、札つきの凶悪犯人の中に暮してきたが、このAのような、これほど完全な没義道、これほど徹底的な堕落、そしてこれほど恥知らずな陋劣さには、いまだかつてお目にかかったことはないと、はっきり断言することができる。わたしたちの獄舎には、貴族出の父親殺しがいた。この男についてはまえにも述べた。ところが、この男でさえ、多くの特徴や事実から見て、Aよりははるかに心が美しく、人間味があることを、わたしは認めたのだった。わたしの獄中生活の全期間を通いて、わたしの目に映ったAは、歯と胃をもち、もっとも粗暴な、もっとも獣的な肉体的快楽に対するあくことを知らぬ渇望をもった、肉塊のようなものであった。ごく些細な、ほんの気まぐれな快楽をみたすために、証拠さえ残らなければ、彼は冷酷きわまりない方法で殺したり、傷つけたり、要するにどんなことでもできる男なのである。わたしはすこしも誇張していない。わたしはAの人間をよくよく見きわめたのである。これは人間の肉体的な一面が、内的にいかなる規準にも、いかなる法則にも抑えられない場合、どこまで堕落しうるものであるか、ということの一例である。そして、彼はいつもせせら笑っているような薄笑いを見ることが、わたしにはどれほどいまわしかったことか。それは化けものだった、道徳面のカジモドだった。そのうえ彼が、ぬけ目がなく小利口で、美男子で、すこしは教養もあり、それに才能もあったことを考えていただきたい。ああいやだ、社会にこんな人間がいるくらいなら、火事でもあったほうがまだましだ、疫病や飢餓のほうがまだいい! 監獄の中はすっかり腐敗しきっていたので、スパイや密告が横行し、囚人たちがそれをすこしも憤慨していなかったことは、もうまえに述べた。それどころか、彼らはみなAとはひじょうに親しくて、わたしたちに対するよりは、はるかに親切につきあっていた。飲んだくれの少佐に目をかけられていたことが、彼らの目から見れば、彼にある価値と重味をあたえていたのだった。……
オーソドックスなディエゲーシス。第一段落目は導入として、第二段落目のみ注目。
オーソドックスなディエゲーシスでは、「(その段落、ないしは数段落に渡って)言いたいことを端的に要約した文章」と、「それを自由に敷衍する展開部」という二種類の記述の組み合わせをどう形作るかでほぼスタイルが決まる。段落冒頭に「言いたいことの要約」を持って来ることもあれば(そして以後の段落の展開はその自由な=水平的+垂直的な敷衍となる)、段落最後ないしは次の段落の冒頭に「要約」を持って来て、展開部はそこへ至る茫洋とした帰納のように書かれていくケースもある。或いは、段落第一文には飛び道具的な工夫を凝らした言い回しを持って来て、「言いたいことの要約」は第二文に配置するというケースもある。
引用部では段落冒頭「これは人間がどこまで転落し、卑劣になれるか、苦労もなく後悔もなく、どこまで自分の内部のいっさいの道徳的感情を殺すことができるかという、もっともいまわしい例である。」という一文でその後の段落の展開をほぼ決定づけてしまう常套手段を用いている(ちなみに、引用部ではあまりにも段落が長いので途中でまたこの要約が再登場する──「このAのような、これほど完全な没義道、これほど徹底的な堕落、そしてこれほど恥知らずな陋劣さには、いまだかつてお目にかかったことはないと、はっきり断言することができる」)。そしてその後の記述は、Aがいかに「卑劣」で「道徳的感情を殺」しているかの具体的敷衍がつづく。それは時間的な順序に沿ってAの伝記的事実を並べて行く垂直的敷衍と、「このようなおそろしい運命の変化は、彼に深い衝撃をあたえて、その本性を目ざめさせ、何らかの反抗なり、転向なりをさせそうなものであった。ところが……。彼にはむしろ……。」というように常識的な仮定を置いた上でそれを否定してAの悪辣さを強調する水平的敷衍と、両方が併用されつつ展開する。
特に引用部の「要約」の水平的敷衍部分に注目すると、例えばAの没義道っぷりと対比させる意味で「貴族出の父親殺し」の話を出したり(「ところが、この男でさえ、多くの特徴や事実から見て、Aよりははるかに心が美しく、人間味がある……」)、比喩をたたみかけたり(「Aは、歯と胃をもち、もっとも粗暴な、もっとも獣的な肉体的快楽に対するあくことを知らぬ渇望をもった、肉塊のようなものであった」「それは化けものだった、道徳面のカジモドだった」)、彼はもしこれこれこういう状況ならばこうしただろう……という具合に想像的仮定の中でその悪辣さを具体化したり、自分の嫌悪の言葉に自分で興奮して感嘆符を用いたり(「ああいやだ、社会にこんな人間がいるくらいなら、火事でもあったほうがまだましだ、疫病や飢餓のほうがまだいい!」)、とさまざまなヴァリエーションが現われている。
●『作家の日記』1巻99-100頁
「ヴラース」
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まず第一に、わたしにとって不思議でならないのは──なによりも驚くべきことは──そもそもの事の起こり、つまり「この中で誰がいちばん大胆なことができるか?」というような言い争いや競争がロシヤの田舎で実際に行なわれたという点である。実に恐ろしいほどいろいろなことを暗示させる事実で、わたしにとってはほとんどまったく予想さえもしていなかった事実である。わたしはこれまでにかなりよく民衆というものをこの目で見てきた、それどころかきわめて特異なその姿にも接してきた。ついでにもうひとつ断わっておくが、この事実は例外的なもののように見えるけれども、しかし、そのこと自体がすでにその確実性を証明するものとも言える。人間が嘘をつくときには、みんなに信じてもらおうと思って、なにかこんなことよりもはるかにありふれた、いかにも日常生活で起こりそうなことを考え出すものだからである。
つぎに注目しなければならないのはこの事実の医学的な面である。幻覚というものは主として病的な現象であり、しかもこの病気はきわめて稀なものである。かりに極度に興奮していたとはいえ、ともかくも完全に健康な人間に突如として幻覚が現われるなどということは、──たぶん、前代未聞の出来事に相違ない。しかしこれは医学上の問題であって、わたしはその点についてはあまり知識がない。
ここは一点、「……などということは、──たぶん、前代未聞の出来事に相違ない。しかしこれは医学上の問題であって、わたしはその点についてはあまり知識がない。」にのみ注目。例によって「……に相違ない」という直感的確信のムードが用いられており、それが直感に過ぎないことを、「わたしはその点についてはあまり知識がない」と正直に告白して補っている。あたかもすべてのことを知り尽くしているかのように(実際そんなわけはない!)断言断言でディエゲーシスを進めていくのではなく、こういうやり方もあるということ。
●『作家の日記』1巻107-108頁
「ヴラース」
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いろいろなことを意識しないで、ただ感じるということもないことではない。非常に多くのことを無意識的に知るということも可能である。それにしても実におもしろい男である、そうではないだろうか。しかも、肝心なのは、そうした生活環境の男であるという点なのだ。実はその点にこそすべての問題が含まれているのである。また彼が自分のことをどう考えていたか、自分のほうがその犠牲者より罪が深いと考えていたか深くないと考えていたかは、やはり知っておいてもいいことだろう。外面に現われたその知能の発達程度から判断すると、自分のほうが罪が深い、あるいは、すくなくとも、罪の深さは同程度であると考えていたと、推察しなければなるまい。したがって、犠牲者に「大胆不敵な行為」をさせることによって、自分自身にも戦いをいどんだことになるわけである。
ここでは、自分の主張に対して「そうではないだろうか」と切り戻しを入れる文体的工夫が注目に値する。断言がつづく息苦しさを緩和すると同時に、「それは、……とする組合の構成原理として定式化することを意味する。危険な響きだろうか。」みたいな挑発効果で読者の気を惹き付ける意味もあるだろう。
●『作家の日記』1巻98-99頁
「ヴラース」
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これは長老のところへやって来る数年前の出来事であった。このヴラースが何者であったか、どこからやってきたなんという名前の男であったのか──長老は、もちろん、その男に課した、改悛の償いと同様に、打ち明けてはくれなかった。だがおそらく、苦難が大きければ大きいほどこの場合はますますよいと判断して、この男の魂に恐ろしい、人間の力には余るほどの難行苦行を負担させたに相違ない。「本人も自分を痛めつけるためにここまではってきた」くらいだからである。この事件は一面においてはいろいろなことを暗示する、きわめて特徴的とも言えるものなので、たぶん、せめて二、三分ぐらいは特に検討してみる価値があるように思われるが、はたしてそうではないだろうか。だがわたしは依然として、彼らこそ、つまり悔い改めたあるいは悔い改めることのない、ほかならぬこうした種々さまざまな「ヴラース」こそ、最後の言葉を口にする人たちに相違あるまいという意見なのである。彼らこそそれを口に出して言い、われわれに新しい道と、見受けたところ、どうにも逃げ道がないと思われる、この国のありとあらゆる難関からの出口を、指し示してくれることだろう。ロシヤの運命を究極的に決定するのはなにもペテルブルクとは限らない。それだからこそ、たとえどんなに微細なものであっても、こうした、いまや「新しい人たち」と呼ばれるようになった人間のあいだに見られる新しい特徴のひとつひとつに、われわれとしてもあるいは注意を払うべきなのかもしれない。
リーダビリティに気を配られたディエゲーシス。というのはここで語り手は自分の判断を読者に押し付けようとせず、「そうではないだろうか。」「……してくれることだろう。」「われわれとしても……するべきなのかもしれない。」と文末辞を和らげることによってむしろスムースに叙述を展開しているからだ。
だがこのように、読者に断定によって迫っていくような文体を抑制することが、例えば「だがおそらく、苦難が大きければ大きいほどこの場合はますますよいと判断して、この男の魂に恐ろしい、人間の力には余るほどの難行苦行を負担させたに相違ない」の一文に見られるような、単なる客観的事実の書き下しではなくそこに潜在している文脈までも推量しながら汲みつくしていく、脹らみのあるディエゲーシスを可能にしている当のもの=語り手の根本姿勢なのかもしれない。
●『作家の日記』1巻110-111頁
「ヴラース」
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しかしここに見られるのはただの無感覚だけではぜんぜんなかった。そのうえさらになにかもっと一種特別なもの──つまり神秘的な恐怖感、人間の魂を左右するきわめて巨大な力が作用していた。すくなくとも、事件の結末から判断すると、それがあったことはまず疑いない。けれどもこの若者のたくましい魂はまだこの恐怖感を相手に戦いをいどむことができた。彼はそれを証明してみせた。だがそうは言っても、これははたして力なのだろうか、それとも無気力の極限なのであろうか? おそらく、それもこれも同時にあり、正反対なものが隣り合わせになっていたに相違ない。だがそれにもかかわらずこの神秘的な恐怖感は単にこの闘争を中止させなかったばかりか、かえってこれを長引かせ、ほかでもない、その罪深い男の心から感動という感情をすっかり追い出すことによって、この闘争を決着に導くためにひと役買ったのも、おそらくこの恐怖感だったに相違ない。それを抑えつければ抑えつけるほど、ますますどうにも手のつけようのないものになってきたからである。恐怖感というものは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感動や高尚な感情に対して麻痺させ冷淡にさせる。この罪をおかした男が、もしかすると、恐怖のために虚脱するほどすくみあがっていたのかもしれないが、ともかくも苦杯を飲みほす前の一瞬をもなんとか持ちこたえたのはそのためなのである。わたしはまた、犠牲者と迫害者とのあいだの相互の憎悪感はこの数日間まったく消えてしまっていたにちがいないと考える。誘惑されるほうの男はときどき突発的に病的な憎悪感にかられて自分自身や、教会で祈っている周囲の人たちを憎んだことがあったかもしれないが、しかし相手のメフィストフェレスを憎むことだけはほかの誰よりもすくなかったに相違ない。ふたりで力を合わせてこのことに決着をつけるためには、お互いに相手がいなくてはかなわないと、ふたりはどちらも感じていたのである。どちらもおそらく自分ひとりだけで決着をつけるには力が足りないと考えていたにちがいないのだ。それにしてもこのふたりはなんのためにこんなことをつづけていたのだろう、いったいなんだってまたこんな苦しみを身に引き受けたのだろうか? だがそれはともかくとして、ふたりはこの盟約を破ろうとしても破れなかったのである。もしこのふたりの約束が破棄されたならば、たちまち前よりも十倍もはげしい憎悪感がふたりのあいだに燃え上がって、おそらく殺人事件が間違いなく発生したことだろう。受難者のほうが自分を苦しめる相手を殺してしまったに相違ないのだ。
語り手が記述対象(複数の登場人物)と距離を取りながら断定を避けつつ事件・出来事の核心を描いていくという、ドストエフスキーのディエゲーシスの特異性がよく現れた部分。
ここでの記述対象は「犠牲者」と「迫害者」と指示される若者二人。語り手は推理を駆使しつつあくまで外側=中立の立場から二人の魂に迫っていく。「……したことはまず疑いない。けれども……」「おそらく、……に相違ない」「もしかすると、……していたのかもしれないが、……」「わたしはまた、……していたにちがいないと考える」「ときどき……したことがあったかもしれないが、しかし……しなかったにちがいない」「おそらく……していたにちがいないのだ」──記述対象をさっさと裁断し評価を下してしまう性急さや自信からもっとも遠い立場から語り手は「この罪をおかした男」について書いている。当然ながら「推理」がディエゲーシスを展開する要めとなるからには、自問自答的な疑問形を文体として駆使するのは、勿論だ。「だがそうは言っても、これははたして……なのだろうか?(おそらく、……)」「それにしても……いったいなんだって……したのだろうか?(だがそれはともかくとして……)」
ざっと見ても「おそらく……したに相違ない」の多用が目立つ。
もちろん、断定的な文章もある。冒頭に出て来る「しかしここに見られるのはただの無感覚だけではぜんぜんなかった。そのうえさらになにかもっと一種特別なもの──つまり神秘的な恐怖感、人間の魂を左右するきわめて巨大な力が作用していた。」の文章がまずそれだ。だが、これはその後段落を通じて展開される推理の発端となる一つの表面的な事実の確認をしているにすぎない。つまりこの断定は発せられた時点で用済み(投げ捨てられるべき梯子)になる結論ではなく、そこから遡行してステレオタイプな見掛けを覆していくための出発点なのだ。
もう一ヵ所、断定的な文章が出て来るのは「恐怖感というものは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感動や高尚な感情に対して麻痺させ冷淡にさせる。」──これだ。これは語り手の推理の展開を補強するための心理的な一般法則を述べたもの。客観的かどうかは別にして、これが登場人物の心理を直接断定的に述べたものではないことは注目する必要がある。基本的に、この語り手は記述対象のデリケートな部分については「この対象(この人物)はこれこれこうだった」と性急に断言してしまいたくないので、それに近いことをしたい時には一般法則を装った文体を用いる傾向がある、ということかもしれない。
そしてはやり記述の中心になっているのは複数の記述対象の間の濃密な関係性だ。一方は相手に闘いを挑み、苦杯を飲み、病的に憎悪し、自分を苦しめる相手を殺してしまいかねないほどの窮地に追い詰められる。他方は相手を誘惑し恐怖させ、それでいて相手がいなくてはかなわない、自分ひとりだけで決着はつけられないと感じている。相互の憎悪の元となる逆説的な「盟約」。それが書けるのも語り手がデリケートに断言を避けつつ柔軟で中立的な立場(対象との距離感)を維持しようとしているからだろう。
●『罪と罰』上96-98頁
第一部第五章
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病的な状態で見る夢は、間々、異常に鮮明で、気味わるいほど現実に似通っていることがある。時によると、奇怪な光景が描き出されるが、その夢ものがたりの舞台装置や筋のはこびが、あまりにも正確で、しかもそのデテールがびっくりするほど細密で、唐突だが、芸術的に絵全体が実にみごとに調和している。それでその夢を見た本人が、たとえプウシキンかツルゲーネフのようなすぐれた芸術家でも、現つのときにはとても考え出せないというような場合があるものだ。このような夢、つまり病的な夢は、いつも長く記憶にのこっていて、調子をみだされてたかぶった人間の神経に強烈な印象をあたえるものである。
おそろしい夢をラスコーリニコフは見た。彼が夢に見たのは、まだ田舎の小さな町にいた子供の頃のことだった。彼は七つくらいの少年で、お祭りの日の夕暮れ近く、父といっしょに郊外を散歩していた。しめっぽい季節で、息がつまりそうな日で、そのあたりの風景は彼の記憶にのこっているのとそっくりそのままだった。彼の記憶の中でさえ、それはいま夢にあらわれたよりも、はるかにうすれていた。町はまるで掌の上にあるようにまわりがすっかり見通しで、しろやなぎ一本なかった。はるかに遠く、どこか地平線のあたりに、小さな森が黒ずんでいる。町はずれの野菜畑からすこしはなれたところに、一軒の居酒屋があった。大きな居酒屋で、父といっしょに散歩しながらそのまえを通ると、彼はいつもひどくいやな気がして、おそろしくさえなるのだった。そこにはいつも大勢の人々がむらがっていて、わめきちらしたり、笑ったり、ののしったり、調子外れのしゃがれ声でうたったりしていて、喧嘩もしょっちゅうあった。居酒屋のまわりにはいつも酔っぱらいのおそろしい形相がうろうろしていた……そういう人たちに会うと、彼はしっかり父にしがみついて、がたがたふるえていたものだ。この道はまがりくねりながら先へのびて、三百歩ほど行くと、町の墓地を巻いて右へ折れていた。墓地の中にみどりの円屋根の石造の教会があった。その教会に彼は年に二度ほど、もうずっと昔に死んだ、一度も見たことのない祖母の供養があるときに、父母につれられてお詣りに行った。そのときは父母はいつも白い皿に聖飯を盛って白いナプキンで包んで持って行った。聖飯は砂糖を入れた御飯で、その上に乾ぶどうで十字架が形どってあった。彼はこの教会と、その中にある大部分は縁飾りのない古びた聖像と、いつも頭をふるわせている老神父が好きだった。平たい墓石がすえてある祖母の墓のそばに、生後六ヵ月で死んだ彼の弟の小さな墓があった。彼はこの弟もぜんぜん知らなかったし、思い出すこともできなかった。しかし彼は、小さな弟があったと聞かされて、墓地を訪ねるたびに、小さな墓のまえで敬虔な気持でうやうやしく十字を切り、墓におじぎをし、接吻したものだった。いまそれが彼の夢にあらわれた。……
第一段落のディエゲーシスは無時間的な・一般的な命題を述べることから始まっているが、それだけでなく「時によると……している」「……というような場合があるものだ」「……は、いつも……していて、……するものである」といった言い回しからも分かるように、この段落がまるごと「一般的に言えばこうなっている」ということしか主張していない。この段落は次の段落とセットになっていて、次の段落を導くために挿入された呼び水的なものとして無時間的記述に終始していると考えてよさそうだ。
第二段落は過去形多用の非常にオーソドックスなディエゲーシス。ラスコーリニコフの夢の状況を淡々と語る。全体として「郊外を散歩している」空間の推移に沿って町→居酒屋→村道→墓地(教会)→墓と叙述が配置されていくのだが、その展開が単線的ではなくて樹枝的というか、常に水平方向に無時間的(ないしは括復法的)に分岐して細部やエピソードを脹らませながら移り進んでいることに注目せよ。町について語るならばはるか遠くにみえる黒ずんだ小さな森にも言及する。居酒屋について語るなら「いつも」そこに群がっている大勢の人々に言及し、そういう人たちに会う時の自分の反応を「……していたものだ」と習慣として記す。墓地について語るなら教会にも言及し、かつて祖母の供養のあるときにその教会にお詣りに行った記憶を語る。その時供えた聖飯とその上に乾ぶどうで形どった十字架についても語る。墓について語るならばその弟の墓にうやうやしい気持で接吻する習慣についても言及する。このように叙述を展開させていくうちに焦点を絞り込んでいきながらも、その過程で豊かな分岐を生んでいっているので、これだけ息の長い段落を書くことが可能になっているのだろう。
●『カラマゾフの兄弟』1巻23-24頁
第一部第一篇第二章
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まず第一に、このドミートリイ・フョードロヴィチは、フョードルの三人息子のうちで、自分にはなんらかの財産があるのだから、成年に達すれば独立できるという信念を抱いて成長した唯一の息子である。彼の少年時代と青年時代はだらしなく過ぎ去った。彼はまず中学校を中退し、ついである陸軍の学校へはいり、やがてコーサカスへ赴任して任官したが、決闘をして兵卒に降等され、ふたたび将校に戻ってからも放蕩ざんまいにふけって、かなり多額の金を浪費した。父親から仕送りを受けるようになったのは、成年に達した後のことだが、それまでに彼はかなりの借金をこしらえていた。父のフョードルとはじめて親子の対面をしたのも成年に達してからで、自分の財産について話をつけにわざわざこの町へ出かけて来た時のことである。その時すでに彼は父親を嫌ったらしい。青年はわずかのあいだ滞在して、父から多少の金を受け取り、今後自分の持ち村からの収益を受け取る方法についてある取り決めを結ぶと早々に旅立ったが、そのさい彼は持ち村の収益額も価格もついに父から聞き出すことができなかった(これは注意すべき事実である)。一方フョードルは、このときはじめて会っただけで(これも記憶する必要がある)、ミーチャが自分の財産について誇大な誤った考えを持っているのに気づいた。もっともフョードルは彼一流の目論見を持っていたので、むしろそのことに大そう満足していた。彼はこの青年がおっちょこちょいで、勇み肌で、情欲が強く、短気で金遣いが荒いのを見抜き、こういう相手は時々わずかの金を握らせさえすれば、もちろん一時的ではあるが、たちまちおとなしくなるだろうと考えたのである。そこで早速フョードルは搾取をはじめた。つまり時々わずかな捨て金を仕送りしてごまかしたのだが、あげくのはてにとうとう大騒動が起こった。四年ほどたって堪忍袋の緒を切ったミーチャが、今度こそ親父ときっぱり話をつけようと改めてこの町へ乗り込んで来た時、驚いたことに彼はもはや自分の取り分が全然ないことを知らされたのだ。今では計算することさえむずかしく、自分の財産の価格に相当する金額をすでにすっかり父から引き出していて、ことによると逆に負債があるぐらいだ、しかもこれこれの時にお前の希望で取り決めた約束によって、もうこれ以上要求する権利さえもない、云々というわけである。青年は愕然として、嘘ではないか、だまされたのではないかと疑い、ほとんど我を忘れて気が狂ったようになった。こうした事情──それがのちに一大椿事を招くのであって、その椿事の叙述こそは、私の第一の序説的小説の主題を、正確に言えばその輪郭を形成するのである。しかしその小説に筆を移す前に、さらにフョードルの残りのふたりの息子、すなわちミーチャの弟たちについても物語り、彼らの出生の経緯を説明しておかなければならない。
ドストエフスキーの「語り手」からのディエゲーシスの特徴をここから幾つか抽出できる。まず、単一の登場人物ないし単一の出来事を単線的に追って行くのではなく、複数の登場人物(ここではミーチャとフョードル)の「目論み」を角逐させてそのダイナミズムによって叙述を生成していくということ。そしてその際、語り手はあくまで中立的な立場にたって登場人物たちを幾らか突き放して眺め、基本的に登場人物たちについてはあまり断定は多用しないこと、そのかわりに妥当な推測や伝聞のムードが用いられるということ(「彼は父親を嫌ったらしい」)。
惟うに、登場人物──というよりディエゲーシスが記述の対象としている「x」であれば何でもよいのだが──それと語り手との距離感がポイントだろう。たとえば「これは注意すべき事実である」「これも記憶する必要がある」というのは単に登場人物の立場に定位していたり、あるいは論文のようにただ彼らについて評価し断定するような客観からは絶対に出て来ない文章だ。評価したり裁断したりするのではなく「注意」し「記憶」するということ、しかもそれが登場人物の立場とは独立に行われるということが、ドストエフスキーにおける語り手の位相の面白さ。不思議な中立性と柔軟性を持っており、これが失われるとドストエフスキー的なディエゲーシスではなくなってしまう。そしてこの語り手の位相こそが、客観的な事実の要約ではなく、複数の主観が絡み合って「椿事」を成している様子をディエゲーシスとして書くことを可能にしているのだろう。
それにしてもここで描かれている「複数の登場人物の絡み合い」は面白い。ミーチャは相手と「わざわざ話をつけよう」とし、相手を嫌い、ついには騙されたのではないかと怒り狂う。フョードルの方は相手の性格を見抜き、相手の錯誤を利用し、相手を搾取する。骨肉相食むような濃い関係性。
●『未成年』151-153頁
第一部第五章3
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あのときデルガチョフの家を出て(あんなところへなぜ出かけていったのか、自分でもわからないのだが)、わたしはワーシンのそばへ寄ると、すっかり嬉しくなって、彼をほめちぎった。それがどうだろう? もうその晩には、わたしはもう彼をさっぱり愛していないことに気づいたのである。なぜか? ほかでもない、彼をほめちぎって、そのこと自体によってわたしは彼のまえに自分を卑下したからである。ところが、その逆と考えるのが至当なようだ。自分を傷つけてまで他人をほめるような、それほど公正で寛大な人間、そのような人間は人格的に見て誰よりも高くへ到達しているはずだからだ。ところがどうだろう──わたしはそれがわかっていたが、やはりワーシンがあまり好きでなくなった、むしろきらいになったといったほうがいいくらいである。わたしはわざとすでに読者の知っている人物を例にとるのである。クラフトのことでさえ、彼のほうから先にわたしを玄関へ送りだしたということのために、わたしは苦々しい気持で思い出したし、その気持がつぎの日、クラフトのあのときの心境がもうすっかり明らかになって、怒る理由がすこしもなかったことがわかるまで、そのままつづいたのである。中学校へ入ったばかりのころから、学友の誰かが勉強とか、気がきいた返答とか、体力とかで、すこしでもわたしを抜くと、わたしはすぐにその生徒と遊んだり話したりすることをやめた。その生徒を憎むとか、しくじりをねがうとかいうのではない。ただ背を向けてしまう。それがわたしの性分なのである。
そうだ、わたしは生涯ずっと威力を渇望しつづけた。威力と孤独をである。もしわたしの頭蓋骨の中にあるものをのぞいたら、誰でもきっとわたしの顔を見てふきだしてしまうにちがいないような、まだそんな年頃から、わたしはすでにそれを夢見ていたのである。だからこそわたしはこれほど秘密を愛したのである。そうだ、わたしは力のありったけで空想していた。そのためにわたしには話などをしている暇がなかった。ここから、人々はわたしを人間ぎらいと評したし、わたしがぼんやり夢見がちなところから、わたしに対するさらに忌まわしい評を下したのだが、わたしのばら色の頬はまるで反対のことを証明していたのである。
もう寝床に入って、夜具にくるまりながら、一人で、誰にもあたりをうろうろされず、誰の声も聞えない、完全な孤独の中で、生活を別なふうに作り直しはじめるときが、わたしはいちばん幸福だった。まったく狂気じみた空想が『理想』の発見までずっとわたしにつきまとった、そしてその発見と同時にあらゆる空想が、愚かしいものからとたんに理知的なものに変り、ロマンの空想的形式から現実の理性的形式へ移ったのだった。
すべてが一つの目的に合流した。それらは、しかし、何千何万とかぞえきれぬほどあったとはいえ、それまででもどうにもならぬほど愚かしいものではなかった。中には気に入っていたものもあった……しかし、ここに紹介することもあるまい。
威力! こんな『小僧』が威力をねらっていると知ったら、おそらく誰もがふきだしてしまうにちがいない。わたしはそう信じている。ところが、これを聞いたらおどろくよりも唖然としてしまうだろう。わたしははじめて空想をはじめたころから、つまりまだほんの子供のころからということだが、常に、人生のどのような局面においても、最高の地位に立つ人間として以外は自分を想像することができなかったのである。妙な告白をつけくわえるが、それは今なおつづいているらしいのである。ついでに指摘しておくが、だからわたしはぜったいに許しを請わないのである。
つまりこれが「はかり知れない誇りの高ぶり」の純粋形態だと言えそうだ。他人が自分を出し抜くことを絶対に許せない、自分より優れた人間は決して好きになることができないという心の狭量さ。相手を褒めてしまったり相手の前で自己卑下してしまったりした瞬間に相手を憎みはじめる嫉妬深さ。最高の地位に立つ人間として以外の自分を想像することができないという偏った空想(「狂気じみた空想」)。「あなた方があっと驚くようなことを僕は今にしでかしてみせる!」みたいな欲望も似たようなプライドの発露であろう。それらは「威力の渇望」という表現で方向づけられる。この渇望が完全に人格の中枢にいすわっているような人間がいたとしたら、ずいぶん嫌な奴にちがいない。
無論アルカージイは「威力の渇望」だけの人物ではないが。
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------------------------------------- タイプ【D-7】想像的対話のディエゲーシス ▲
●『作家の日記』1巻46-47頁
「環境」
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わたしはここにその実例を挙げることもできるけれど、いまのところは見合わせることにしてただつぎのように言っておく──
犯罪人とこれから犯罪を行なおうと意図している人間──これはそれぞれ異なるふたりの人間ではあるが、しかし同じカテゴリーに属する人間である。これから意識的に犯罪を行なおうとしながら、その犯罪人が自分で自分に「犯罪なんてものはありやしないのだ!」と言い聞かせたとしたら、いったいどういうことになるだろう。それでも民衆はその男のことを「不幸な人間」と呼ぶだろうか?
あるいは、そう呼ぶかもしれない。疑いもなく、そう呼ぶことだろう。民衆は憐れみ深い。それに自分を罪をおかした人間であると考えることさえもやめてしまった犯罪人くらい、不幸な人間はまたとないからである。それはすでに動物であり、野獣である。自分は動物であり自分の良心を絞め殺してしまったことを悟らないとなると、これはいったいどういうことになるか? 人一倍不幸になるだけの話である。人一倍不幸なだけではなく、二重に罪をおかすことにもなる。民衆はそんな人間でも気の毒とは思うが、自分の真理を放棄するようなことはしない。民衆は犯罪人を「不幸な人間」とは呼ぶものの、その人間を犯罪人であると考えることを決してやめるようなことはしなかった! もし民衆が犯罪人に迎合して、「そうとも、お前さんに罪はない、犯罪なんてものはないのだからな!」などと答えたとしたら、わが国にとってこれよりはなはだしい災厄はないに相違ない。
これがわれわれの信仰、われわれに共通の信仰である、確信をいだいて期待しているすべての人間の信仰であると、わたしはそう言いたい。さらにほんのひとこと付け加えておく。
自問自答によって進行していくポレミックなディエゲーシス。「それでも民衆はその男のことを「不幸な人間」と呼ぶだろうか?/あるいは、そう呼ぶかもしれない。疑いもなく、そう呼ぶことだろう。」の個所で受け答えが段落をまたいでしまっていることが注目に値する。また、考察の締めが「……に相違ない」という直感的確信のムードが使われ、断言の連続よりも疑問形のダイナミズムによって展開するこの段落に相応しいことになっているのにも注目。
●『作家の日記』1巻115頁
「ヴラース」
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裁きは彼自身の心の中から雷のようにとどろきはじめた、それはいまさら言うまでもない。だがどうして自覚をともなわずに、理性と良心が急に澄み切ったものになったためではないのにとどろきはじめたのか、まるでまったく外部的な、彼の精神とは関係のない事実のようにして、どうしてそのような形で現われたのか? その点に実に大きな心理学的な問題と神の摂理がある。彼にとっては、この罪びとにとっては、疑いもなく、それは神の摂理なのであった。そこでヴラースは物乞いとなって各地をへめぐり苦しみを求めるようになったのである。
ところで、もうひとりのヴラース、あとに残された、誘惑者のほうはどうなったか? 伝説は、彼が懺悔のために這って行ったとは語っていないし、彼についてはなにひとつ言及していない。あるいは、彼もまた這って旅に出たのかもしれないし、あるいはまた、そのまま村に残って今日まで無事に生きながらえ、祭日ともなれば酒を飲み相変わらず世間をせせら笑っているのかもしれない。なにしろ幻を見たのは彼ではないからである。だが、はたしてそうであろうか? 参考のために、研究資料として、彼の身の上話もぜひなんとか聞いてみたいものである。
まず、疑問形を主役にしてディエゲーシスを進行させているのが注目に値する。しかも引用部で見られる疑問形は、「どうして……になったのか? そこが問題である。あるいは……のかもしれない。この疑問は未だ解決されていない……」という風に答を出さずに残りの叙述を導く珍しいパターンになっている。
そして、「はたしてそうであろうか」の一言の文体的効果に注目。これもまた、それまでの断言に切り戻しを入れると同時に、読者に対する挑発にもなっている。
●『作家の日記』1巻52-53頁
「環境」
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百姓はやたらに女房をなぐり、長いあいだには生まれもつかぬ片輪にしてしまうし、犬に投げかけるよりもひどい、罵詈雑言をあびせかける。絶望のあまり、いまは死ぬほかはないと決心して、女房はほとんど半狂乱のていで自分の村の裁判所へ足を運ぶ。すると裁判所の人たちは冷やかに、「もっと仲よく暮らすようにするんだね」と口の中でもぐもぐ言って、そのまま取り合わずに帰してしまう。だがこれがはたして憐憫だろうか? これではまるで諸君が自分の目の前に立っているがはっきりそれと分からずに、ただ邪魔されまいと思って、愚かにも諸君に向かってめったやたらに手を振りまわし、まだ舌もよくまわらなければ、頭はもうろうとして分別もなにもない、連日の大酒からやっと正気に返りかけた酔っぱらいの、愚にもつかない言葉と別に変わりはないではないか。
これもまた「これがはたして憐憫だろうか?」の一言の文体効果に注目したいが、「はたしてそうであろうか」「そうではないだろうか」といったシンプルな言葉の効果とは違って、ここでは、それまでの叙述の流れを一挙に疑問に曝して強い否定的見解を導き出す蝶番のようなものになっている。「これがはたして……だろうか? これでは……ではないか! そうだ、これは……ではないのだ!」という強調構文。疑問形を用いた展開としてもかなり強引な部類に入る。
●『作家の日記』1巻61-62頁
「環境」
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おお、もちろんわたしは、すべての人から尊敬されている弁護士という職業の効用も崇高さも、すべてよく理解している。しかしながらときにはまた別の観点からこれをながめないわけにはいかないのである。──それは軽薄な見方であると言われても仕方ないが、しかし不本意ながらそう見ざるを得ないのである。それにしても、とわたしはつい考え込んでしまうのだ、彼らの職務の苦しさはときにはそれこそ想像を絶することがあるのではあるまいか。なにしろ自分の良心にそむき、自分自身の信念にさからい、道徳もへちまもなく、人間的なすべてのものに目をつぶって、白々しい嘘をついたり、ごまかしたり、平気で逃げ口上を並べ立てたりしているのだからな! そうだとも、確かに彼らはただで金を取っているわけではないのである。
「いやはやこいつは驚いた!」と不意にさきほどの針を含んだ声が叫ぶ。「そんなことはみんなたわごとであなたの妄想にすぎませんよ。陪審員がそんな判決をくだしたことは一度だってありやしません。決して弁護士はごまかしたりはしませんよ。それはみんなあなたの勝手な想像です」
しかし、鶏のように逆さ吊りにされたあの女房は、「これはおれのパンだからな、これを食ったら承知しないぞ」という言葉、それにペチカの上で震えながら、母親の悲鳴を半時間も聞いていたあの女の子、また「ママ、どうしてのどを詰まらしてるの?」という言葉──これははたして熱湯の下にさらされた小さな手と同じことではないだろうか? ほとんど同じことと言っても差し支えないではないか!
「知能がおくれているのだ、愚鈍なのだ、環境のせいなのだから、せいぜい憐れんでやることだね」と弁護士は百姓を教えさとした。しかし百姓は何百万人もいてそれぞれ暮らしているけれどみんながみんな自分の女房を逆さ吊りにしているわけではない! だからなんと言ってもここにはある限界があるに相違ないのだ。また一面から言えば、現に教養のある立派な人間でさえも、いまにも逆さ吊りにしかねないありさまなのである。どうか弁護士諸君、お得意の「環境論」を持ち出してごまかすのは、もういい加減やめにしていただきたい。
疑問形によって展開させるディエゲーシスがさらに高次のものになると、架空の対話相手の科白を挿入した想像的対話のディエゲーシスにまで行き着く。
現に、ここで何者かの「針をふくんだ声」が飛んで来るのは、地の文での「彼らの職務の苦しさはときにはそれこそ想像を絶することがあるのではあるまいか」「これははたして熱湯の下にさらされた小さな手と同じことではないだろうか?」という疑問に呼応してのことなのだ。
また、想像的対話の仮定で逆接の接続詞「しかし」による段落と段落とつながりが入っていることにも注目したい。
●『作家の日記』1巻35-36頁
「環境」
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「まあかりに」という声がわたしの耳に聞こえる。「あなたのおっしゃる堅固な基礎(つまりキリスト教的基礎)なるものが依然として揺るぎなく、また本当になによりもまず公民にならなければならないと、そしてあなたがしきりにおっしゃるように、その旗とかなんとかいうものを押し立てなければならないと仮定したにしてもですよ、──まあいまのところは文句なしにそうであるとしてもですよ、まあ考えてもごらんなさい、いったいどこからこの国で公民なんてものが急に出て来るのでしょうね? ついきのうまでどんな状態であったかを考えてみただけでも、思いなかばに過ぎるというものじゃありませんか! なにしろ公民権なるものは(しかもご大層な公民権が!)まるで山の上からでも転がり落ちてきたようにだしぬけに天降ってきたのですからね。その公民権なるものに民衆は圧しつぶされて、民衆にとってはそれはさしあたり重荷、単なる重荷にすぎないのが実情というものじゃありませんか!」
「もちろん、あなたのご意見にも一面の真理はあります」といささかしおれて、わたしはその声に答える。「しかしくどいようですがロシヤの民衆は……」
「ロシヤの民衆ですって? しかし失礼ですが」という別の声が聞こえる。「現にそうした賜物が山の上から転がり落ちてきて民衆を圧しつぶしてしまったと言われています。しかし民衆は、ことによると、それほどの権力を自分たちは賜物として手に入れたと感じているばかりではなく、あるいはそのうえさらに、自分たちはそれをただで手に入れたのだ、つまり自分たちはいまのところはそんな贈り物を受ける資格はないと感じているのかもしれません。……」
疑問形によって展開させるディエゲーシスがさらに高次のものになると、架空の対話相手の科白を挿入した想像的対話のディエゲーシスにまで行き着く。
現に、ここでは誰のものとも知れない架空の声が「まあ考えてもごらんなさい、いったいどこからこの国で公民なんてものが急に出て来るのでしょうね?」「ロシヤの民衆ですって? しかし失礼ですが……」と疑問形によって語り手に揺さぶりを掛けているのだ。つまり想像的対話というのは片方を挑発役とした一人二役をやらなければならないということだろう。
●『作家の日記』1巻112-115頁
「ヴラース」
-
しかし、もしかしたら、菜園へ足を踏み入れたとき、ふたりはどちらもすでに自分が分からなくなっていたのではないだろうか? なるほど、その若者は、自分が鉄砲に弾丸をこめたり狙いを定めたりしたことは覚えていた。だがことによると、完全に意識はあったにしても、恐怖状態のときどうかして実際によくそんなことがあるように、ただ機械的に行動しただけなのではあるまいか? しかしわたしはそうは思わない。もしもその男が惰性だけで動きつづけている、単なる機械になってしまったのならば、おそらくそのあとで幻を見るようなことはなかったに相違ない。惰性の力を完全に使い果たしてしまったとき、意識を失ってあっさり倒れてしまったことだろう──しかもそれは発砲する前ではなくて、発射してしまったあとのことに決まっている。いいや、一瞬ごとにますますつのって大きくなるばかりの、極度の恐怖にもかかわらず、意識はそのあいだもずっときわめて明晰に保たれていたというのが、いちばん確かなところだろう。このいけにえが、加速度的につのるばかりの恐怖心のこのような圧力を、最後まで堪え忍んだということだけからも、繰り返して言っておくが、このいけにえが偉大な精神力に恵まれていたことは疑う余地もない。
銃の装填は、なんと言っても多少の注意力を必要とする操作であることに、注意を向けることにしよう。このような瞬間にあって最も厄介でどうにもやりきれない問題は、わたしに言わせれば、自分の恐怖心、自分を圧しつぶそうとする意識を振り切ることができるかどうかということである。普通の場合、極度の恐怖に襲われた人間は自分の思弁、自分に強い衝撃を与えた対象やら意識を、もはや振り切ることができないものである。彼らはその前に釘づけにされたように立ちすくんで、まるで魔法にでもかけられたように自分の恐怖にまともに目をすえて動かない。ところがこの若者は念入りに鉄砲に弾丸をこめた、彼はそれをよく覚えていた。またそのあとでどんなふうに狙いを定めたかも覚えていたし、ぎりぎり最後の瞬間まで、ありとあらゆることをはっきり記憶していた。彼にとっては鉄砲に弾丸をこめるというプロセスも、あるいは苦しみ悩むその魂の痛みを和らげることであり、ひとつの逃げ道であったのかもしれない。それで彼はほんの一瞬であってもなにか逃げ道となるような外部の対象に喜んで自分の気持を集中させたのかもしれない。断頭台でいま首を斬られようとしている人たちにもこれはよくあることである。デュ・バッリ夫人は刑吏に向かって「Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!」(もう一分だけ、首斬り役人さん、もう一分だけ待ってください!)と叫んだ。もしもその猶予が与えられたならば、この与えられた一分間に彼女はおそらく前より二十倍もひどい苦しみを味わったに相違ないが、彼女はそれでもなお叫びつづけ一分間の猶予を懇願したのである。しかしながらもし銃の装填がこの罪びとにとってデュ・バッリ夫人の場合の「encore un moment」のようなものであったと仮定するならば、このような瞬間を味わったあとで、いったんは振り切った例の恐怖にふたたび立ち戻り、狙いを定めたり発射したりという仕事を、もはやつづけることはできなかったに相違ないことは、いまさら改めて言うまでもない。そのときにはなんのことはない、両手はしびれて言うことをきかなくなり、たとえ意識や意志は完全に保たれていたにしても、鉄砲は自然にその手から落ちてしまったことだろう。
「或る若者が、菜園で銃を撃つ寸前で意識を失った」。これだけの客観的事実をどのようにディエゲーシスにより折り広げていくかの一例。
とにかくあらゆる可能性を考慮してその出来事の持つ潜在的な可能性を汲みつくすこと。ここではあからさまに「しかし、もしかしたら……したのではないだろうか?」「だがことによると、……しただけなのではあるまいか?」と問題提起的な疑問形を多用して、それを受けた推測という形(「なるほど、……」「……に相違ない」「……したことだろう」)で叙述を豊かにしていく。そうやって右から左に聞き流しているだけでは絶対に見えてこない高次の認識を導き出し、ディエゲーシスに焼き付けていく(「このいけにえが、加速度的につのるばかりの恐怖心のこのような圧力を、最後まで堪え忍んだということだけからも、このいけにえが偉大な精神力に恵まれていたことは疑う余地もない」)。しかもこの推測能力はつねに具体的だ。もし若者が惰性だけで動き続けていたのなら、力を使い果たして意識を失うのは発砲する前ではなくて発射してしまった後でなければならない(実際には発砲する前に倒れた)、そして事実がそうなっていないかぎりは、この若者は極度の恐怖にもかかわらず意識をずっと明晰に保っていたのだ──この推理はほとんど探偵的な説得力を持っている。心理的事実に精通した名探偵。
第二段落では読者の「注意を向ける」領域を限定することによって、さらにこの出来事の現象的な細部に分け入っていく。ここでも「普通の場合、……「ところがこの若者は……」と潜在的にあり得た可能性と比較しつつの現象の豊かな分析、また表面からは見えてこない深部へ推測(「彼にとっては……であったのかもしれない」)によって踏み込むという叙述のパターンが見られる。面白いのは、さらに潜在的にあり得た可能性との比較ということでデュ・バッリ夫人のケースをわざわざ引用していることだろう。これによってさらに現象の分析が進み、「このような瞬間を味わったあとで、いったんは振り切った例の恐怖にふたたび立ち戻り、狙いを定めたり発射したりという仕事を、もはやつづけることはできなかったに相違ないことは、いまさら改めて言うまでもない」とほとんど確定的な推測を導き出すことができているのだ。
ドストエフスキーの叙述を切り開いていく力は凄い。
●「柔和な女」329-331頁
第一章二
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彼女のことでわたしが突きとめた「詳しい内情」をつぎに簡単に説明しておく。父親も母親も、もうずっと以前に、いまから三年ほど前に死んでしまい、彼女は父親の姉妹のだらしのない女の家に引き取られた。だが、ただだらしがないと言っただけではまだ不十分である。ひとりの叔母は未亡人で、家族が多く、あまり年のちがわない小さな子供が六人もいたし、もうひとりは嫁に行ったことのない、いやったらしい老嬢だった。どちらも鼻持ちのならない女だった。彼女の父親は官吏であったが、せいぜい書記ぐらいの役どころで、身分はしがない一代貴族──要するに、なにからなにまでわたしにはうってつけというところだった。そこへいくとわたしなどはまるで掃きだめに鶴が舞いおりたようなものであった。なんと言っても光輝ある連隊の退職二等大尉で、身分は世襲貴族だし、押しも押されもしない一本立ちの人間、等々というわけである。質屋という商売にいたっては、ふたりのおばさんなどは尊敬の目で遠くからながめているだけというものなのだ。このふたりのおばさんの家で彼女は三年間まるで奴隷のようにこき使われていた。だがそれにもかかわらずどこかの試験を受け、そして──首尾よく合格した。日雇い女顔負けの情け容赦もない労働にもめげず、暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格したのである。──彼女なりに高いもの高尚なものをめざして突き進んだということは、なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか! ところでこのわたしはいったいなんのために結婚しようと思ったのだろう? しかしまあ、自分のことなんかどうだっていい、そんなことはあとの話だ……。第一、問題はそんなことではあるまい!──彼女は叔母さんの子供たちに読み書きを教えたり、肌着を縫ったりしていたが、しまいには、肌着を縫うどころか、あの胸の弱いからだで、床洗いまでしたものだった。ふたりの女はなにかと言えば彼女に手まで振り上げ、ひと切れのパンも惜しんでいやみを言う始末だった。そしてあげくの果てには、彼女を売ろうともくろむまでになったのである。ちぇっ! こんな汚らわしいことをいちいち詳しく並べ立てることはやめにしておく。あとになって彼女はなにもかも詳しくわたしに話してくれたのだった。こうしたことをまる一年間も隣の店の肥った主人がじっと見ていた。と言ってもこれはただの小売り商人ではなく、食料雑貨店を二軒も持っている相当の商人であった。その男はすでに女房をふたりもなぐり殺して、ちょうど三人目を探していたところだったので、「おとなしくて、貧乏育ちなのがうってつけだ、なにしろおれは子供たちのために女房をもらうんだからな」というわけで、彼女に目星をつけたのである。事実その男には母親のない子供が何人かいたのだった。そこで嫁にもらいたいということになり、ふたりのおばさんとのあいだに話し合いがはじまった。それがおまけに──年は五十歳ときているのである。彼女は思わずぞっとなってしまった。「声」紙に広告を出すために彼女がせっせとわたしの店に足を運ぶようになったのは、つまりそんなわけだったのである。……
ディエゲーシスに対話性を入れるためにはどうしたらいいかという課題の参考となる個所。
まず注目したいポイントは、語り手が自分の語ったことに反省的に自己言及して、細部を揺さぶって導き出すという技法。「……彼女は父親の姉妹のだらしのない女の家に引き取られた。だが、ただだらしがないと言っただけではまだ不十分である。」ここでは語り手が自分で自分の「言った」ことを打ち消す、ないしは不十分であるとみなして、さらなる細部を展開させる契機としていると見られる。
しかしこの技法の核心は、「客観的に言われたこと(第一次の記述)」「それに対するメタ的注釈(第二次の記述)」が対話性のあるディエゲーシスでは併存し得るということだろう。さっきの例で言えば、「だらしのない女」が客観的な第一次の記述で、それに対する「ただだらしがないと言っただけでは不十分である。ひとりは未亡人で……」と、あたかも語り手が視点を変えたかのような注釈が加えられることが、対話性を生むダイナミズムになっているということ。同様に、例えば「わたしなどはまるで掃きだめに鶴が舞いおりたようなものであった。なんと言っても光輝ある連隊の退職二等大尉で、……」の個所でも、「掃きだめに鶴」が客観的な第一次の記述で、それに対して「なんと言っても……」と第二次の注釈をしており、それが連続して登場しているところに対話性が生まれているわけだ。或いは「それがおまけに──年は五十歳ときているのである。」といった文章の「それがおまけに……」といった言い回しも、こうした第二次の注釈性を明示する。
繰り返そう。ディエゲーシスの対話性を生むのは、第一次の記述とほとんど同時に第二次の記述が出現するということで、もっと言えば第二次の記述をいかに工夫して組み込むかが対話的ディエゲーシスの最大の鍵である。「日雇い女顔負けの情け容赦もない労働にもめげず、暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格したのである。──彼女なりに高いもの高尚なものをめざして突き進んだということは、なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか!」──例えばこの個所では、「なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか!」の文章の修辞疑問文的な言い回しによって対話性が生れるのではなく、この文章が「暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格した」という直前の第一次的記述に対する(あたかも視点を変えたかのような)メタ的な注釈となっているという関係性があるからこそ、対話性が生れるのだ、と考えるべきなのである。或いは「ところでこのわたしはいったいなんのために結婚しようと思ったのだろう? しかしまあ、自分のことなんかどうだっていい、そんなことはあとの話だ……。第一、問題はそんなことではあるまい!」──このような珍しい表現も、三つの文の中での第一次-第二次-第三次の関係にもとづく後者の文による前者への常の切り返しによって対話性が生まれているディエゲーシスだと分析できる。そして場合によっては、「ちぇっ! こんな汚らわしいことをいちいち詳しく並べ立てることはやめにしておく。」といった文章のように、それまでの段落の記述すべてに対する第二次的なメタ的注釈が飛び出す事もある点を指摘しておこう。
●「柔和な女」336-338頁
第一章二
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「ちょっと待ってくださいな、いま考えてるところですから」
それにしても彼女の顔つきは実にまじめくさったものであった、それを見れば──そのときすぐにもその心が読み取れるはずであったのだ! それなのにわたしは向かっ腹を立てて、「こいつはおれとあの商人とを秤にかけてどっちにしようかと迷っているのだろうか?」と考えたものであった。おお、そのときはまだわたしには分からなかった! そのときはまだなにひとつ、なにひとつ分からなかったのだ! いや、きょうになってもまだ分からなかったのである! わたしがすでに立ち去ろうとしかけたとき、ルケリヤがわたしを追って駆け出してきて、路上でわたしを呼びとめ、息をはずませながらつぎのように言ったのを、わたしはいまでも覚えている。──「うちの大事なお嬢さまをもらってくださるなんて、旦那さま、きっと神さまがお報いになってくださいますよ。でもお嬢さんにはこんなことをおっしゃってはいけませんよ、気位の高い方ですから」
なるほど、気位の高いか! そう言うわたしも実は気位の高い女が大好きなのだ。気位の高い女が特にこたえられないのは、つまり……つまりその、相手を支配する自分の威力がもはや疑いのないものになったときである、そうではあるまいか? おお、卑劣な、手際の悪い男よ! おお、わたしはどんなに満足だったことだろう! ところが、門のそばに立ったまま、わたしにお受けしますわと言うために、じっと考え込んでいたとき、そしてわたしはわたしでそんな彼女の様子にびっくりしていたあのとき、実は、彼女の頭につぎのような考えが浮かんでいたということだって、大いにありうることなのである──『どうせどっちにしても不幸になることに変わりがないのなら、いっそはじめからいちばん悪いほう、つまり肥っちょの店の主人を選んだほうがよくはないかしら、一日も早くあの酔っぱらいにぶたれて死んだほうがかえってせいせいするというもんだわ!』どうです? 諸君はどうお考えですか、このような考えが心に浮かぶ可能性があったかどうか?
だがいまでもわたしには分からない、いまになってもまだなにひとつ分からないのだ! わたしはたったいま彼女はそうした考えを持ったかもしれない、ふたつの不幸のうちの最悪の不幸、つまり商人のほうを選ぼうという考えを持ったかもしれない、と言った。しかしそのとき彼女にとって分の悪いのははたしてどちらであったろう──わたしか、それとも商人のほうか? 商人か、それともゲーテの言葉を引用する質屋のほうだろうか? これはいまだに疑問である! いや、なにが疑問なものか? お前にはそれすらもまだ分かっていないのだ。その答えは現にテーブルの上に横たわっているではないか。それなのにお前は、まだ疑問だなどと言っている! しかしわたしのことなんかどうだっていい! わたしなんかはまるっきり問題ではないのだ……。だがついでに言っておくが、問題がわたしにあろうとなかろうと──いまのわたしにとってそれがいったいどうだと言うのだ? こうなってくるともうまるでどちらとも決められない。それより横になってひと眠りしたほうがよさそうだ。頭が痛くなってきた……。
対話性を入れたディエゲーシスが嵩じると、語り手が分裂していましがた叙述したことについて一人二役で批判するというところまで行き着く。引用部はその一例。
「気位の高い女が特にこたえられないのは、つまり……つまりその、相手を支配する自分の威力がもはや疑いのないものになったときである、そうではあるまいか?」──こうした文章では、たった一文の中で一人二役が起っている、すなわち「そうではあるまいか?」と問うている語り手はそれまでの「……もはや疑いのないものになったときである」と語っている語り手からは分裂して切り返しの記述を生成しているのだ。
「わたしはたったいま彼女はそうした考えを持ったかもしれない、ふたつの不幸のうちの最悪の不幸、つまり商人のほうを選ぼうという考えを持ったかもしれない、と言った。しかしそのとき彼女にとって分の悪いのははたしてどちらであったろう……」──このような文章では、「わたしはたったいま……と言った」とあからさまな言い回しで自分が直前で言ったことを(それを言ったのが他人であるかのように距離を取って)客観視し、叙述の別の分岐を生み出している。
「これはいまだに疑問である! いや、なにが疑問なものか? お前にはそれすらもまだ分かっていないのだ。その答えは現にテーブルの上に横たわっているではないか。それなのにお前は、まだ疑問だなどと言っている! しかしわたしのことなんかどうだっていい!」──この文章は凄い。一人三役ぐらい担当しつつ、語り手自身のことを「お前」呼ばわりで非難し、「これはいまだに疑問である!」「いや、なにが疑問なんだ?」「まだ疑問などと言うのか?」「しかしそんなことはどうだっていい!」とメタ的な自己言及を増殖させている。
●『作家の日記』1巻233-234頁
「仮装の人」
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「ロシヤ世界」(第一〇三号)にわたしを非難する短文が掲載された。わたしはいかなる非難にも回答はしないことにしている。だがいまこれに答えようとするのは──ある考えがあってのことで、それがどんな考えであるかは──この回答を読んでいるうちにおのずと明らかになるであろう。
そこで、まず第一に、問題はわたしに非難をあびせているのが聖職者であるということである、──この方面から攻撃を加えられるとはわたしの最も予期していないことであった。その「短文」の筆者は「スヴャシチ・P・カストールスキー」となっている。だが「スヴャシチ」とはいったいなんの略だろう? スヴャシチェンニク〔司祭〕のことだろうか? この略語は「スヴャシチェンニク」以外に意味の取りようがないではないか? まして、ここで取り上げられているのが教会の問題ともなればなおさらのことである。「市民」第十五号─第十六号の二号にわたってニェドーリン氏の中篇『副補祭』が掲載された。つまり、問題とされているのはこの作品についてである。
引用部は疑問形によってディエゲーシスを展開させるパターンの典型例。
わざとらしい自問自答の疑問形ではない。それまでの叙述を一挙に引っくり返すような強意の疑問形でもない。いわば、直前の命題に疑問を突き付け揺さぶりを掛けることによって新たな叙述の可能性を生み出すような、そんな疑問形。「チェスの色分けは黒と白である。それはいったい何時頃からのことなのだろうか? 実は、それが白黒に定まったのは近代に入ってからのことなのだ。中世には青と赤、黄と黒といった色分けも主流であった。」みたいな形で挿入される疑問形。
●『作家の日記』1巻33-34頁
「環境」
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つい最近わが国の最も有力な新聞のひとつの、非常に控え目なきわめて穏健なちょっとした記事の中で、ほんの付けたりながらつぎのような推論がくだされていた。つまり、突然、まったく藪から棒に(まるで天からでも降ってきたように)自分たちにはこのように絶大な威力があると感じるようになった、しかも何世紀にもわたって卑しめられ痛めつけられてきた人間として、わが国の陪審員諸氏にははたしてつぎのような傾向はないものであろうか──陪審員諸氏に、機会さえあればこのときとばかり、まあ、おもしろ半分に、あるいは、言ってみれば、自分たちの過去の境遇と対比するために、おしなべて「権威当局」、まあたとえば、手近なところで検事を相手にちょっといやがらせをやってみようとする傾向はないものであろうか? というのである。この推論はそれほど見当外れのものではないしそれに多少ふざけ半分なところがないわけでもない。しかし、これだけで全部を説明するわけにはいかないことは、言うまでもない。
「ただ他人の運命を台無しにするのが気の毒でならないのだ。相手だってやはり同じ人間なのだから。それにロシヤの民衆はもともとあわれみ深いものなのだ」となかにはときどき耳にするように、簡単に割り切ってしまう人もいる。
しかしながらわたしはつねづね、たとえば、英国でもやはり国民はあわれみ深いと考えていた。それにその国民には、いわゆる、涙もろさなるものは、わがロシヤの民衆ほどにはないにしても、そのかわり、すくなくとも、ヒューマニティーというものがある。隣人に対するキリスト教的義務の意識と強い感情がある。それに、ことによると、それはきわめて高度なもので、堅牢なびくともしない信念にまで高められているかもしれない。あるいは、かの国の教育の普及度と数世紀にわたる自主独立の歴史を考慮に入れるならば、わが国の場合よりもむしろはるかに堅牢なものであるかもしれないのだ。なにしろあの国ではそれほど絶大な権力が「突如として天から」降ってきたものではないのである。それに陪審裁判制度そのものにしても彼らが自分自身で考え出したのであって、誰からも借用したものではない。何世紀もかかって確立し、自分たちの生活の中から手に入れたので、借り物の形で棚ぼた式にいただいたものではないのである。
極めてオーソドックスながら、逆接の接続詞「しかしながら」を段落冒頭に持ってくることによって、前段落と対話的関係に入りながら叙述を展開させていく手法の実例。最初から逆接が入ることを計算の上で数段落にわたる叙述の構想が必要となる。
「しかしながら」が入る前に、誰か匿名の人間の意見が科白として挿入されているのにも注目。
●『作家の日記』1巻45-46頁
「環境」
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このような考え方に「環境」説を当てはめるくらい簡単なことは、ほかにふたつとないことは、諸君にも異存はあるまい。「世の中が悪いのだ、だからわれわれが悪いのも仕方がない。だがわれわれは金持で、生活を保証されているので、お前さんたちがぶつかったようなことが、偶然われわれを避けて通り過ぎただけのことなのだ。もしわれわれがそれに直面したら──われわれだってお前さんたちがやったのと同じことをやってのけたに相違ない。では誰がいったい悪いのか? 悪いのは環境だ。だから、あるのはただ環境の下劣な組織だけで、犯罪なんてものはぜんぜん存在しないのだ」
まさにこうした詭弁的な結論の中にこそわたしが前に言ったあのこじつけが含まれているのである。
いいや、民衆は犯罪を否定しないし、犯罪人に罪があることはよく承知している。ただ民衆は犯罪人のひとりひとりとともに、自分自身にも罪があると心得ているのである。だが、自分を告発することによって、民衆は「環境説」などは信じていないことを、──むしろ反対に、環境こそ一から十まですべて自分たちに、自分たちの不断の改悛と自己完成に左右されるものであると信じていることを、立証しているのである。エネルギー、勤労と闘争、──環境はこれによって改造される。勤労と闘争によってのみ自主性と自尊心を手に入れることができるのだ。「それを手に入れてよりよい人間になろうではないか、そうすれば環境もまたいまよりはよくなるにちがいない」。これが、口に出しては言わないけれど、ロシヤの民衆が犯罪人を不幸な者と見る心の底に秘められた理念として強く感じている感情なのである。
段落冒頭に来て対話的に段落を繋ぐ役目を果す逆接の接続詞には、「しかし(ながら)」の他にも「いいや」といったヴァリエーションがあるということ。とはいえ、「いいや」は逆接というより前段落に対する「非難」を導く接続詞といった趣きだ。
●『作家の日記』1巻45-46頁
「環境」
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いいや、この民衆についての判断はさしあたりはまだ単なるこじつけで、「環境の哲学」などというものではない。ここにはひとつの誤謬、ひとつの欺瞞があり、その欺瞞の中に多くの誘惑がかくされているのである。
この欺瞞はつぎのような形で、すくなくとも、つぎのような例によって説明することができよう。
なるほど、民衆は有罪の宣告を受けた人たちを「不幸な人たち」と呼び、彼らに小銭やパンをめぐんでやることにしている。もしかすると、これまで数世紀にわたってつづけられているにちがいないこのような行為で、民衆はいったいなにを言おうとしているのであろうか? キリスト教的真理なのかそれとも「環境」の真理なのだろうか? 躓きの石はまさにここにあり、「環境論」の宣伝活動家がここぞとばかり飛びついて成功をおさめるこのとできる例の槓杆もまさにここにかくされているのである。
「確かに」「いかにも」といった文修飾副詞と同等のものとして「なるほど」があるということ。
●『作家の日記』1巻115-116頁
「ヴラース」
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それにもうひとつそれを知りたいのにはつぎのような理由もある。──もしこの男が実際においても正真正銘の田舎のニヒリストで、世間知らずの否定論者であり思想家であって、神を信ぜず、思いあがってからかい半分に大それたことを競争の対象に選び、わたしがこの試論で推測したように、自分の犠牲者とともに苦しむこともなく、恐れおののくこともなく、ただ他人が苦しむのを見たい、人間がどこまであさましくなれるものか見たいという欲求から、──またことによると、まさかそんなこともあるまいが、学術的に観察しようという目的で、冷やかな好奇心にかられて犠牲者が戦慄し痙攣するさまをじっと見まもっていたとすれば、どうだろう?
もしもこのような性向がすでにわが国の国民性の中にすら見られるとするならば(現代にあってはどんなことでも推測が可能である)、しかもわが国の農村においてさえ見られるとするならば、──これだけでもそれはすでに新しい発見であり、いささか意外な感じさえ受ける。このような性向があるとは以前にはどうも聞いたことがないように思われる。オストロフスキー氏のすばらしい喜劇『気まま勝手に暮らしてはならない』に登場する誘惑者はどうもあまり感心した出来ばえとは言えない。この男についてなにひとつ確実なことが突きとめられないのは、まことに残念なことである。
演繹や説明ばかりがディエゲーシスの能じゃない! 大胆な想像的仮定によって考察を豊かにしていくという典型例。
●『カラマゾフの兄弟』2巻202-204頁
第五篇第五章
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だが、悪魔の提案はそれだけだっただろうか。この地上に三つの力がある。その三つの力だけが、こうしたいくじのない反逆者どもの良心を、彼らの幸福のために永久に征服し捕えることができるのだが、その三つの力とは、奇蹟と、神秘と、権威のことだ。お前は第一のものも、第二のものも、第三のものも拒絶して、自分で手本を示した。あの時、あの恐ろしい非常に利口な悪魔がお前を神殿のいただきに立たせて、《お前が神の子かどうかを知りたいなら、ここから下へ身を投げてみるがいい。なぜならば、神の子は天使に受け止められ、落ちて怪我をすることはないと言われているから、そうすればお前が神の子かどうかがわかるだろうし、また天なる父に対するお前の信仰がどんなにあついかを証明することにもなるだろう》とこう言ったが、お前はそれを聞き終わると悪魔の提案を拒絶してその手に乗らず、下へは飛び下りなかった。ああ、むろんお前はあのとき神として誇り高く立派にふるまった。だが人間どもは、あのいくじのない反逆的な種族は、──彼らは神だろうか。そうだ、お前はあのとき一瞬のまに理解したのだ。たった一歩ふみ出せば、飛び下りる身動きひとつしたら、お前はただちに神を試みることになって、神に対する一切の信仰を失い、救いに来たはずの大地にぶつかって怪我をし、お前を試みた聡明な悪魔を喜ばすに違いないと。しかし繰り返して言う。お前のような人間は大勢いるのだろうか。それにまた、このような試練が人間どもに堪えられると、たとい一瞬でもほんとうにお前は考えることができたのか。いったい人間の本性は奇蹟を拒否するように作られているのか。こうした恐ろしい生死の瞬間に、何よりも恐ろしい、根本的な、苦しい精神的疑問の瞬間に、ただ自分の心の自由な決定ひとつに頼れるように作られているのか。そうだ、お前は自分の偉業が福音書の中に書かれ、未来永劫、地のはてまでも伝えられるのを知っていたので、人間たちもお前にならって神とともにとどまり、奇蹟を必要としないだろうと期待していたのだ。だがお前は知らなかったのだ。奇蹟を拒否するやいなや、人間が神をも拒否するということを。なぜならば、人間は奇蹟を求めるほどには神を求めてはおらぬからだ。そうして人間は奇蹟なしではいられないから、新しい、自分自身の奇蹟を創造して、祈祷師の奇蹟や巫女の妖術に頭を下げる、たとい自分が百倍も反逆者で、異端者で、無神論者であっても。お前は人々があざけって、《十字架から下りてみろ、そうすればお前が神の子だと信じてやらあ》と叫んだ時も、十字架から下りなかった。お前が下りなかったのは、またもやお前が奇蹟によって人間を奴隷にすることを望まず、奇蹟によらぬ自由な信仰を欲したからだった。お前が欲したのは自由な愛であって、囚人が強大な力におどしつけられて味わう奴隷的な歓喜ではなかったのだ。だが、ここでもお前は人間をあまり高く買いかぶりすぎた。と言うのは、人間は生まれながらに反逆者であるとは言え、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがよい、あれからもう十五世紀もたったのだから、お前が自分の高さまで引きあげたのがどんな連中だったかを行ってしかと見とどけることだ。嘘は言わぬ。人間はお前が考えていたよりも弱くて卑しく作られているのだぞ! その人間にお前と同じことが、やりとげられるだろうか。お前と同じことが。お前はあまり人間を尊敬しすぎたために、かえって思いやりを忘れたような行為におちいった。つまり人間にあまり多くのことを要求しすぎたのだ。──しかもそれが誰あろう、人間を自分以上に愛したお前なのだ。……
これは「お前」への呼び掛けが頻出することからも分かるように、純粋なディエゲーシスではない。ただドストエフスキーのディエゲーシスには対話性が入っているのがデフォルトなのでこれも一種のディエゲーシスとして分析できる。
ざっと見た時目につく特徴として、疑問形が多い。しかもこれは「お前」への呼び掛けを前提としたお前への具体的な疑問の提起だ。「だが人間どもは、あのいくじのない反逆的な種族は、──彼らは神だろうか」「お前のような人間は大勢いるのだろうか。それにまた、このような試練が人間どもに堪えられると、たとい一瞬でもほんとうにお前は考えることができたのか」「その人間にお前と同じことが、やりとげられるだろうか」──まさにこれは呼び掛ける相手に答えを迫っているがゆえに文飾としての疑問形ではなくて実質的な疑問形となっている。この疑問形の実質性がほとんど引用部のディエゲーシスの叙述の推進力を決定づけていると言ってもいい。この実質的・具体的な(「お前」への呼び掛けとしての)疑問形を導くにあたって、叙述は「実際、……ということになっている。だが、本当に……であろうか」という風に逆接の接続詞「だが」をつかって大体構造化されている。以下の箇所でもそうなっている──「そうだ、お前はあのとき一瞬のまに理解したのだ。……に違いないと。しかし繰り返して言う。……のだろうか。それにまた、……することができたのか。」──最初に肯定をもってきて、それを疑問に付す形で逆接の接続詞と疑問形が来るというパターン。この形は別に「お前」への呼び掛けなしにしてもディエゲーシス一般を構築する上での技法として使えるだろう。対話的ディエゲーシスを構築する技法一般。
同様に最初に肯定(「そうだ、……」)を持ってきて、それを否定してから叙述の推進力を増す切り返しをつづけるパターンとしては、「なぜならば……するからだ」の形もある。以下例示する。「そうだ、お前は……のを知っていたので、……と期待していたのだ。だがお前は知らなかったのだ。人間が……するということを。なぜならば、人間は……してはいないからだ。」──これも否定を契機にして(つまりお前に対するポレミックな働きかけとして)構造化が生まれているという点、対話的ディエゲーシスを構築する技法の一つ。
余談。「しかし繰り返して言う。」「あたりを見まわして、判断するがよい、……」──こういう表現もオーソドックスなディエゲーシスには出てこない、対話的ディエゲーシスに特有のものなので面白い。「お前」に対する呼び掛けとしてこういう表現になっているわけだが、呼び掛ける当事者を語り手→読者と考えれば、通常のディエゲーシスでもこれらは使用可能なはず。とくに「……してみるがいい、……」の表現は(その前後につづく)或る主張したいことの正当性の強調の効果を持つ。
●『未成年』上381-383頁
第二部第二章1
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この十一月十五日の朝、わたしは『セリョージャ公爵』のところで彼に出会った。わたしが彼を公爵に近づけたのである、しかしわたしが中に立たなくても二人のあいだにはかなりの接触があった(わたしは外国における例のいきさつその他を言っているのである)。そのうえ、公爵は遺産の少なくとも三分の一を彼に贈ることを約束していた。これはどう見ても二万ルーブリは下らないはずであった。わたしにはそのころ、公爵がまるまる半分でなく、三分の一しかやらないのが、どうもふしぎでならなかったが、しかしわたしは黙っていた。この分配の約束は公爵がそのとき自分から言いだしたのである。ヴェルシーロフは半言もその決定に口を出さなかったし、だいたいそのことはおくびにも出さなかった。公爵のほうからいきなり言いだし、ヴェルシーロフは黙ってそれを認めただけで、その後一度も口に出さなかったし、この約束のことをすこしでもおぼえているような素ぶりも見せなかった。ついでに言っておくが、公爵は最初から彼に、特に彼の言葉に完全に魅せられてしまって、すっかり感激して、何度かわたしにそれを語ったものである。公爵はわたしと二人きりのときよく天を仰いで慨嘆し、ほとんど絶望的に、『ぼくは無教育なために、道をあやまってしまった!』などとなげいた。ああ、わたしたちはそのころまだどんなに親しかったことだろう!……わたしはヴェルシーロフにもそのことはつとめて公爵のいいところばかりを吹きこみ、自分で見て知ってはいたが、欠点をできるだけ弁護してやった。しかしヴェルシーロフは黙っているか、あるいはただにやにや笑っているだけだった。
「彼に欠点があるとしても、少なくとも、欠点の数だけ長所もあります!」とわたしは一度、ヴェルシーロフと二人きりのとき、声をうわずらせた。
「おやおや、たいへんな嬉しがらせだな」と彼はにやにや笑った。
「嬉しがらせ?」わたしは意味がわからなかった。
「同じ数だけ長所があるか! あの男に欠点の数だけ長所があったら、遺体が永久に腐らんだろうよ」
しかし、もちろん、これは意見ではなかった。いったいに、公爵について彼はそのころどういうものか語るのを避けていた。なべて現実の問題についてはそうであったが、公爵については特にそれがはげしかった。わたしはそのころすでに、彼がわたしに無関係にも公爵を訪ねるのは、二人のあいだになにか特別の事情があるのではないか、と疑っていたが、しかしそれには目をつぶっていた。また、彼が公爵と話すときは、わたしを相手にするときよりもまじめなようで、言ってみれば、ずっと積極的で、薄笑いをもらすことも少ないのだが、これにもわたしは嫉妬を感じなかった。それどころか、わたしはそのころ幸福に酔っていたので、それさえも好ましいことに思われたのだった。わたしがそれを許したもうひとつの理由は、公爵がいくらか血のめぐりがにぶく、そのために言葉の正確さということを好み、気のきいた皮肉などはぜんぜん通じないからであった。それが最近は、彼の態度がなんとなく大きくなってきた。ヴェルシーロフに対する彼の気持も変りはじめたようだ。敏感なヴェルシーロフがそれに気づかないわけがなかった。これも先まわりしてことわっておくが、公爵はそれと時を同じくしてわたしに対しても変ったのである。しかもこれがあまりにも露骨で、わたしたちの最初の、ほとんど熱烈といっていいほどの友情は、まるでせみのぬけがらのように、その生命のない形だけがのこされた。それでもやはり、わたしはあいかわらず彼を訪ねていた。さもあろう、あんなことにすっかりのめりこんでいたのだから、わたしとしてはどうしても行かずにはいられなかったのである。おお、わたしはなんというたわけであったことか、それにしても心のばかさひとつが、はたして人間をあれほどの無知と卑屈にまでおとせるものだろうか? わたしは彼から金を借りて、それを当然のことだと考えていたのである。いや、そうではない、わたしはそのときでも、それはすべきことではないとは、承知していたが、ただあまりそれを考えなかっただけである。わたしは喉から手が出るほど金が必要ではあったが、しかし金のために公爵のところへかよったのではない。わたしは、自分が金のために行くのでないことは知っていた、が同時に、毎日金を借りることになることもわかっていた。わたしは旋風の中に巻きこまれていた、そして、そうしたいっさいのことに加えて、そのころまったく別なことがわたしの心の中にあった、──わたしの心の中では、まったく別な歌がうたわれていたのである!
「ついでに言っておくが」「ことわっておくが」「はたして……するものだろうか?」「いや、そうではない、……」といったいつものドストエフスキーの手癖が見える。だがこれが登場するということは、もはや単に対話性の導入ということではあり得ないだろう。ここには文体の構成原理としての感激がある。登場人物の昂奮に乗り移っている作者の集中力がある。「ああ、わたしたちはそのころまだどんなに親しかったことだろう!」「それにしても心のばかさひとつが、はたして人間をあれほどの無知と卑屈にまでおとせるものだろうか?」「わたしの心の中では、まったく別な歌がうたわれていたのである!」これらの感嘆符や疑問符は、本気で放たれているのだ。それが感激や昂奮や「強い生活感情のうねり」を文体の構成原理に持って来るということだ、ディエゲーシスにせよ情景法にせよ。
ところで、ここでもう一点注目すべきは次の文章。「おお、わたしはなんというたわけであったことか、それにしても心のばかさひとつが、はたして人間をあれほどの無知と卑屈にまでおとせるものだろうか?」──つまりここでは、描き出される登場人物としての「私」に無知=心理的死角があるということが、語り手の語りの前提となっているということ。こういう仮構をするのはドストエフスキーの文体に特有のこと。
●『白痴』下165-167頁
第三編第五章
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このぼくの《弁明》をたまたま手に入れて、辛抱づよく読みとおしてくれる人があったら、その人はぼくのことを気ちがいか、あるいは単なる中学生のでたらめと見なすだろうが、それはその人の勝手だ。いや、あるいはまた、ぼくのことを、自分以外の人が誰もかれも命を粗末に安価に浪費しているように、また、あまりにも懶惰に非良心的にその特権を利用しているように思われる、つまり、誰ひとりとして生を享くる価値のないもののように思われる死刑を宣告された人間と見なすかもしれない! それがどうしたというのか! いや、ぼくは断言する。その人の考えは間違っている。ぼくの確信は、この死刑の宣告とはまったく関係がない、と。かりに世間の人たちにたずねてみるがいい、世間の人たちの百人が百人まで、幸福ははたしてどこにあるのかという問いについて、どんな見解をもっているか、たずねてみるといいのだ。いや、ぼくは確信しているが、コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見したときではなくて、それを発見しつつあったときなのだ。彼の幸福の絶頂は、おそらく新世界の発見に先だつちょうど三日前のことであったろう。すなわち、乗組員が反乱をおこして、絶望のあまり船をヨーロッパのほうへ向けようとしたときであったにちがいない! この際、問題は新世界になどあるのではない、そんなものはなくたってかまわないのだ! コロンブスはほとんど新世界を見ることなく、事実、自分が発見したものがなんであるかも知らずに死んでしまったのだ。つまり、問題はその生き方にあるのだ、ただその生き方にのみかかっているのだ──絶え間なき永遠の探求の過程にあるので、決して発見そのものにあるのではない! しかし、いまさら何をしゃべってもはじまらない! ぼくがいましゃべっていることはすべてあまりにも世間一般のきまり文句に似ているので、あるいはぼくのことを『日の出』なんかに文章を投稿している中学の下級生と見なすかもしれない。あるいはまた、ぼくは実際に何か言おうとしているらしいが、心ばかりはやっても、やはり…… 《自分の考えを述べること》ができないのだ、と言われるかもしれない。しかしながら、ぼくはここで一言つけくわえたいのは、あらゆる天才的な思想も、あるいは新しい人間の思想も、いや、それがどんな人間の頭に生れたものにしろ、あらゆるまじめな思想のなかには、たとえ万巻の書を書いても、三十五年間もその思想を説明してみても、どうしても他人に伝えることのできないようなあるものが残るものなのである。どんなことがあってもその人の頭蓋骨の中から出ていこうとせず、永久にその人の内部にとどまっている何ものかがあるのだ。ひょっとすると、人びとは自分の思想のなかで最も重要なものを、誰にも伝えないで死んでいくのかもしれない。しかし、かりにぼくもまたそれと同じように、この六ヵ月間自分を責めさいなんだものをすっかり伝えることができなかったとしても、ぼくはこの《最後の信念》に到達するために、あまりにも高価な代償を払ったのである。いや、このことをこの《弁明》のなかに明らかにしておくのは、それがある目的のためにぜひとも必要なことだと考えたからである。
イポリートは単に自意識過剰な人間なのではない。たしかにここでは過剰なまでに読者を意識して、想像上の読者が彼に向けてくる批判をいちいち振り払うような身振りが見られるが(「このぼくの《弁明》をたまたま手に入れて、辛抱づよく読みとおしてくれる人があったら、……」「ぼくがいましゃべっていることはすべてあまりにも世間一般のきまり文句に似ているので、あるいはぼくのことを『日の出』なんかに文章を投稿している中学の下級生と見なすかもしれない」)、むしろそれは彼が自分の思想を思い掛けないところまで深めていくために必須のプロセスであるかのようだ。彼が非凡なまでに思索する人間であり、思想を持っている人間であることは、たとえば「あらゆるまじめな思想のなかには、たとえ万巻の書を書いても、三十五年間もその思想を説明してみても、どうしても他人に伝えることのできないようなあるものが残るものなのである」──と彼は青年なりに自分で考えた独創的な洞察に到達していることからも見て取れるが、おそらく彼の思索を展開させていく方法というのは、想像的他者との対話・議論によってであるはずだ。現に「それがどうしたというのか! いや、ぼくは断言する。その人の考えは間違っている。……」の個所では自分に対する否定的な意見をさらに否定することによって思索の推進力を増しているではないか。
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------------------------------------- タイプ【D-8】肖像・空間描写 ▲
●『カラマゾフの兄弟』2巻81-82頁
第四篇第六章
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「お坊さんが托鉢に来たんだわ、とんだところへ来たものね」左手の隅に立っていた娘が、大声で叫んだ。
アリョーシャのほうへ駆け寄って来た男は、とたんにくるりと彼女のほうへ向きなおると、興奮したあわて声で彼女に答えた。
「違いますよ、ワルワーラ・ニコラーエヴナ、違いますよ、そうじゃありませんよ。失礼ですが」と突然またアリョーシャのほうへ向き直って、彼はたずねた。「どうしてまた……こんなむさい所へお訪ね下さいましたんで?」
アリョーシャは注意ぶかく相手を見つめた。彼ははじめてこの男に会ったのである。この男には何かごつごつした、せかせかといらだたしげなところがあった。たったいま、一杯やったのは確かなのに、別に酔ってはいなかった。その顔はある極度の厚かましさと、同時にまた──奇妙なことだが、──あらわな小心さを表わしていた。彼は、長いあいだじっと我慢に我慢を重ねて来たが、とつぜん立ちあがって自己を現わそうと決意した人に似ていた。あるいは、もっと適切に言えば、相手を殴りたくてならないのに、逆に相手に殴られはしまいかとびくびくしている人にそっくりだった。彼の言葉つきにも、かなり鋭い声の抑揚にも、ある宗教狂人じみた滑稽味が聞かれたが、それが時には底意地の悪い、時にはおどおどした調子にたえず変わって、しどろもどろになった。《こんなむさい所へ》とたずねた時、彼は全身をふるわし、目をむいてあんまり近々とアリョーシャのそばに駆け寄ったので、こっちは思わず機械的に一歩あとずさりした。男は黒っぽい、ひどく粗末な、つぎはぎと汚点だらけの南京木綿の外套を羽織っていた。ズボンは、もう久しく誰もはかないようなとびきり明るい色の格子縞だったが、生地が大そう薄っぺらだったので、下のほうがしわだらけになって上へたくしあがり、まるで悪たれ小僧のようににゅっと足が出ていた。
「僕は……アレクセイ・カラマゾフという者ですが……」とアリョーシャは相手の質問に答えて言いかけた。
スネギリョーフについての不思議な人物描写。(ポルノグラフィーのように)視覚的細部のスケッチを連結して人物像を際立たせていくというのではない。そうではなく、「ごつごつした、せかせかといらだたしげなところがあった」「ある極度の厚かましさ」「あらわな小心さ」「長いあいだじっと我慢に我慢を重ねて来たが、とつぜん立ちあがって自己を現わそうと決意した人に似ていた」「相手を殴りたくてならないのに、逆に相手に殴られはしまいかとびくびくしている人にそっくりだった」「底意地の悪い、時にはおどおどした調子」──といった感情的な印象を大掴みにした形容を重ね塗りしていくことで人物を浮び上がらせていく。時にその形容は矛盾したり、次々と入れ替わったりするが、もとが感情的印象なだけに支離滅裂だとは思われない。しかもそれらの印象を「奇妙なことだが」「もっと適切に言えば」という注釈的な叙述によって繋ぎ合わせているので、なぜか読んでいて印象の一貫性があるように感じられる。そして、これらのごたごたした感情的印象を最後に綺麗に締めくくるのが、寸足らずのズボンから「にゅっと」出ている彼の足の描写という決定的イメージだ。あくまで感情的な印象のみを次々に塗り重ねておいて、最後の仕上げのところで視覚的細部のスケッチという切り札を出す。見事。
●『カラマゾフの兄弟』1巻130-132頁
第二篇第六章
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ドミートリイ・フョードロヴィチは二十八歳になる、中背で気持のいい顔立ちをした青年だったが、年よりも非常に老けて見えた。筋骨たくましく、すばらしい腕力の持ち主であることが容易に推察されたが、そのくせ顔には何か病的な表情がただよっていた。その顔はやつれて頬がこけ、頬の色は何となく不健康に黄ばんでいた。飛び出し気味のかなり大きな黒ずんだ目は、見たところじっと執拗な視線を放っていたが、妙に定まらなかった。興奮していらいらと話をする時でも、彼の眼差は心のなかの気分に従わないらしく、何か別の、時によるとまるでその瞬間にふさわしからぬ表情を浮かべることがあった。『あの男は何を考えているのかわからない』──こんな批評を、彼と話を交した人たちが言ったこともある。またある人たちは、彼の目に何か物思わしげな気むずかしい表情を読み取っているうちに、とつぜん藪から棒にからからと笑いだされてあっけに取られたこともたびたびあった。それはつまり、そういう気むずかしい目つきをしている時でも、同時に陽気なふざけた考えが頭にひそんでいる証拠である。もっとも今の彼としては、顔つきが多少病的に見えるのも当然かも知れない。彼が近頃この町で大そう落ち着きのない《放蕩無頼の》生活にふけっていることは誰もが見聞きして知っていたし、また同様に彼が父親と金のことで喧嘩をして異常にいらだっていたことも誰知らぬ者もなかったのである。このことでは、すでに二、三の逸話が町じゅうに流布していた。もっとも彼が生まれつきいらだちやすく、この町の治安判事セミョーン・イワーノヴィチ・カチャーリニコフがある会合の席でいみいくも彼を評して言ったように、《断続的な異常な頭脳》の持ち主だったのである。
ドミートリイはフロックコートのボタンをきちんとかけ、黒の手袋をはめ、その手にシルクハットを持って、一分のすきもない粋な姿ではいって来た。退役後まもない軍人らしく彼は口ひげを立て、顎ひげは今のところ剃り落としていた。栗色の頭髪は短く刈りこまれ、こめかみのあたりの毛を前のほうへ梳きつけてあった。歩き方は軍隊風に勢いよく大股だった。一瞬間、彼は敷居の上に立ちどまり、並み居る一同の顔に視線を走らせると、これがこの席の主だと見当をつけて、つかつかと長老の前へ歩いて行った。……
それまで重要人物として名は知られていたが、まだ登場していなかった人物が初めて登場した時に、一旦情景法を中断して無時間的な人物描写ディエゲーシスを展開するというパターンの一例。ちなみに、ディエゲーシスの導入は章の区切りを利用して行っているので、段落展開的には学べることはない。
さて、人物描写ディエゲーシスの内容を直に見ていこう。一読して明らかなことは、彼に関する客観的な情報、定義的情報などを「二十八歳」という年齢への言及以外完全に欠いていることだ。すでにドミートリイの職業などは一応開示済みだとはいえ、この語り手の説明の抑制は注目に値する。代わりに存在しているのが彼の表情描写と、彼に関する噂の引用、「誰知らぬ者もなかった」こととしての彼の状況の説明である。
これらの特徴は明らかに、人物描写ディエゲーシスにおいても語り手が人物の自意識よりも無意識に照準を合わせていることの証左だ。ドストエフスキーにおいて、人物描写ディエゲーシスは必ずその人物の自意識に陰に陽に影響を与えている無意識の動きを批評的に浮彫りにする。したがってそこで肖像として描き出されるのは、《彼自身の自意識には映っていない彼の姿》である。表情描写からしてすでにそうだ。ドミートリイが年齢よりも老けて見えること、顔に何やら病的な表情が漂っていることは、ドミートリイ自身では充分に意識されていないことだろうし、また客観的な情報として普遍的に共有できるものでもない、語り手の批評性のみが報告できるものである。この語り手の批評性は、記述が概言および括復法的に推移していくことによって──「興奮していらいらと話をする時でも、彼の眼差しは心のなかの気分に従わないらしく、何か別の、時によるとまるでその瞬間にふさわしからぬ表情を浮かべることがあった」「またある人たちは、彼の目に何か物思わしげな気むずかしい表情を読み取っているうちに、とつぜん薮から棒にからからと笑いだされてあっけに取られたこともたびたびあった」──さらに明確になる。しかも、ここで語り手は自分が記述したことを敷衍して推論ないし推測をしもするのだ──「それはつまり、そういう気むずかしい目つきをしている時でも、同時に陽気なふざけた考えが頭にひそんでいる証拠である」「もっとも今の彼としては、顔つきが多少病的に見えるのも当然かも知れない」。
以上は当然、この人物描写ディエゲーシスの書き手があくまでドミートリイの外部に立ちつつ、しかし批評家的に彼の無意識の欲望や本質的なペルソナを突き刺して剔抉しようと、いかなる兆候も見逃さないように、また援用できる情報は何でも援用しようとしているからこその特徴だ。この、あくまで外部の視点に立つということから、ドミートリイに関する説明を、町じゅうに流布している逸話や、治安判事の評言によって代弁させなければならないという形式が生まれもする。いずれにせよドミートリイの自意識や自負とは無縁なところから、彼の姿を描き出そうという意図は一貫しているわけだ。そうだ、「何か物思わしげな気むずかしい表情をしていると思うと、とつぜん藪から棒にからからと笑い出す」という彼の印象的な姿は、まさに彼の能動的な自意識ではなく「とつぜん」噴出する彼の無意識の動きに照準を合わせていなければ捉え得ない姿ではないか?
●『白痴』上5-7頁
第一篇第一章
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その三等車の一つに、夜明けごろから、たがいに窓ぎわに向きあってすわっている二人の乗客の姿が見られた。二人とも若い人で、どちらも荷物らしいものを持たず、さりげない身装りをしていたが、どちらもかなり目だつ顔だちで、二人ともどうやらこのへんでたがいに口をききたそうな様子だった。もしこの二人が、ほかならぬこの瞬間いかなる点で自分たちの姿が人目をひいたかをたがいに知ったとしたら、二人は自分たちをペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の三等車に向いあわせにすわらせた運命の偶然に、むろん、びっくりしたにちがいない。一人はあまり背の高くない、二十七歳ばかりの青年であり、髪はほとんど真っ黒といってもいいほどの縮れ毛で、灰色の瞳は小さかったが、火のように燃えていた。鼻は低くて、平べったく、顔は頬骨がとびだしており、薄い唇はたえずなんとなく不遜な、人をばかにしたような、いや毒を含んでいるとさえ思われるような薄笑いを浮べていた。しかし、その額は秀でて美しく整い、下品に発達した顔の下半分を補っていた。この顔のなかでとくに目だっているのは、その死人のように蒼ざめた肌の色で、それはこの青年のかなりがっちりした体格に似合わぬ憔悴しきった感じを体つき全体に与えていた。が、それと同時に、その人を食ったような、厚かましい薄笑い、いや、みずから悦に入っているような鋭い眼差しとはまるでそぐわない、悩ましいまでに情熱的なものをも感じさせた。彼はゆったりした黒い羊皮の外套を暖かそうに着こんでいたので、昨夜の寒さにも凍えなかったが、向いの客はどうやら思いもかけなかったらしい十一月のロシアの湿っぽい夜の冷気を、思う存分、その震える背中で耐えしのばなければならなかったようである。彼はとても大きな頭巾のついた、かなりだぶだぶの、厚手のマントを着ていたが、それはどこか遠い外国、たとえば、スイスとか北イタリアあたりで冬の旅に使われるものとそっくり同じであった。もっとも冬の旅といっても、オイドクーネン〔駅名〕からペテルブルグまでといった長旅を勘定にいれていないのはもちろんである。いや、イタリアでは役にたち十分その目的をはたしたものも、ロシアではからっきし役にたたなかったわけである。頭巾のついたマントの主は、やはり二十六、七歳の青年で、背丈を中背よりいくらか高く、明るいブロンドの髪はゆたかで、こけた頬の下には、先のとがった一つまみの、ほとんど真っ白な顎ひげをはやしていた。その大きな空色の瞳は、じっと一点を見つめており、その眼差しの中には何かしらもの静かではあるが重苦しいものがただよい、人によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちであることがわかる、あの奇妙な表情にあふれていた。もっとも、この青年の細面の顔は、見た眼に気持のいい、目鼻だちの整ったものであったが、その生気のない肌はいまや寒さに凍えて紫色に見えた。その手の中には、色のさめた古い絹地の包みが一つぶらぶらしていたが、その中にはどうやら、旅の身のまわり品がすっかりはいっているらしかった。足には底の厚い編上靴をはいていた──何から何までロシア的ではなかった。羊皮の外套を着た、髪の毛の黒い男は、なかば退屈まぎれに、これらのことをすっかり見てとると、身近な人の失敗を見て満足するときに人がつい無作法にも浮べる、あの厚かましい冷笑を浮べながら、相手に声をかけた。
典型的な人物描写および人物にまつわるディティールの導入。まず断言できるのは、ここで描写されるもろもろの細部は、この場かぎりものではなく、二人の不変の人格に深く根ざしたものになっているということだ。たとえば「薄い唇はたえずなんとなく不遜な、人をばかにしたような、いや毒を含んでいるとさえ思われるような薄笑いを浮べていた」という細部は、ここで単にたまたまロゴージンが微笑していたというのではなく、この薄笑いはつねに彼の表情にはりついていて彼の人格を深く示すもののように描かれている。さらにロゴージンについては見る者にそれとなく「感じさせる」要素として、「悩ましいまでに情熱的なもの」を提示しているが、これもプロットの今後を考えると、彼が意識的に身につけたものではないが、彼の無意識の蠢動をあらわすもの──不変的に彼の人格に食い込んでいる要素──として、最終的にナスターシャ・フィリポヴナの殺害にいたる彼の運命をすでに予告しているものと言えそうだ。
ムイシュキン公爵の方は、時間幅をひろくとって、この列車にそもそも彼がどういういきさつで乗り込んでいるのかという文脈を、身装りのなかで間接的に示すための細部も、盛り込まれている(「彼はとても大きな頭巾のついた、かなりだぶだぶの、厚手のマントを着ていたが、それはどこか遠い外国、たとえば、スイスとか北イタリアあたりで冬の旅に使われるものとそっくり同じであった」──つまりムイシュキンはどうやらスイスあたりから来たらしいとうこと)のだが、それと同時に、やはり彼が意識的に身につけたものではない、彼の無意識に致命的に食い込んでいるものを表層において示唆するディティールもとりあげられている(「その大きな空色の瞳は、じっと一点を見つめており、その眼差しの中には何かしらもの静かではあるが重苦しいものがただよい、人によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちであることがわかる、あの奇妙な表情にあふれていた」)。
ちなみに、二人の面差しの比較において、見事に二人の無意識の欲動の相違をきわだたせているのはすばらしい。ロゴージンの方は「死人のように蒼ざめた肌の色」、ムイシュキンの方は「見た眼に気持のいい、目鼻だちの整ったもの」。
要するに、《小説におけるディティールとはなべて、自意識から追放・放逐されながらも(自意識の眼差しからは脱落しながらも)事物の表層にはりつき、のちに主人公に回帰し復讐することになるものの兆しとなる諸要素である。無意識の蠢動の表面化とも言えるが、それは無意識(意識的に身につけたのではないもの)であるがゆえに時間幅をひろくもつ、すなわち習慣・性癖的記述と親和性が高い》というわけ。
●『罪と罰』上18-20頁
第一部第二章
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しかし誰もその男の幸福を喜んでくれる者はなかった。むすっとした連れは、あやしいものだというような顔で、敵意をさえうかべて、この発作をながめていた。店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた。彼は一人はなれて、びんをまえにし、ときどきちびりちびり飲みながら、あたりを見まわしていた。彼も何か気になることがあるらしい様子だった。
ラスコーリニコフは人ごみの中に出つけなかったし、それに、まえにも述べたように、およそ人に会うことをさけていたが、最近は特にそれがひどかった。それがいまはどうしたわけか急に人が恋しくなった。新しい何ものかが彼の内部に生れ、それと同時に人間に対するはげしい飢えのようなものが感じられた。彼はまる一月にわたる思いつめた憂鬱と暗い興奮に、へとへとに疲れはてて、せめてひとときでも、どんなところでもかまわないから、ほかの世界で息をつきたかった。だから、まわりのきたならしさなど気にもかけないで、彼はいま満足そうに居酒屋の中に身をおいていたのである。
店の亭主は別な部屋にいたが、ときどきどこからか階段を下りて店へ入って来た。そのたびに先ず、大きな赤い折返しのついたてかてかのしゃれた長靴が見えた。亭主はシャツの上に、あぶらでとろとろの黒繻子のチョッキを着こみ、ネクタイはつけていなかった。顔は全体があぶらを塗りこくったようで、まるで鉄の南京錠のようだった。スタンドの向うには十四、五の給仕がいた。さらにもう一人いくらか年下の男の子がいて、その男の子が注文をうけて、品ものをはこぶ役だった。小さな胡瓜と、黒い乾パンと、こまかく刻んだ魚がおいてあったが、それがみな鼻のまがりそうな悪臭をはなっていた。息苦しくて、じっと坐っているのさえがまんができないほどなのに、店中のものにすっかり酒の臭いがしみこんでいて、その空気だけで五分もしたら酔ってしまいそうに思われた。
ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、一目見ただけで妙に心をひかれるような、奇妙なめぐりあいがあるものである。ちょうどそうした印象を、すこしはなれて坐っていた、退職官吏らしい風采の男が、ラスコーリニコフにあたえた。青年はあとになって何度かこの第一印象を思いかえしてみて、それを虫の知らせだとさえ思った。彼はたえずちらちらと官吏のほうを見やった、むろんそれは、先方でもうるさいほど彼のほうを見つめていて、ひどく話しかけたそうな素振りを見せていたせいでもあった。亭主をふくめて、店内にいたほかの客たちを見る官吏の目には、妙ななれなれしさと、もうあきあきしたというような色さえ見えて、同時に、話すことなど何もない、地位も頭も一段下の人間に対するような、見下すようなさげすみの色もあった。それはもう五十をすぎた男で、背丈は大きいほうではないががっしりした体つきで、頭は禿げあがって、髪には白いものがまじり、酒浸りで黄色くむくんだ顔は青っぽくさえ見えた。はれぼったい瞼の下には、割れ目みたいに小さいが、生き生きした赤い目が光っていた。しかし、何かこの男にはひどく不思議なものがあった。その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった。彼はボタンもろくについていない、古いぼろぼろの黒いフロックを着ていた。ボタンは一つだけまだどうにかくっついていたが、礼を失したくないらしく、それをきちんとかけていた。南京木綿のチョッキの下から、酒のしみとあかでひかったしわくちゃの胸当がとびだしていた。顔は官吏風に剃ったあとはのこっていたが、もういつからかかみそりを当てていないらしく、一面に灰色の濃いごわごわのひげが生えはじめていた。その態度にもたしかにどことなく官吏くさいかたさがのこっていた。しかし彼はおちつかない様子で、髪をかきむしったり、ときどき、酒がこぼれてべとべとするテーブルに穴のあいた肘をついて、両手で頭をかかえこみ、ふさぎこんだりしていた。とうとう、彼はラスコーリニコフの顔をまっすぐに見て、大きなしっかりした声で言った。
細かい点から。亭主と給仕についての「描写休止法」──これはプルーストがフローベールの文体について言った言葉、「フローベールの文体ですと、現実のあらゆる部分が、広大な表面を一様にきらめかせるただひとつの物質に変えられてしまいます。いかなる不純物も残されてはいません。表面はすべて反射を返すようになっていて、どんなものでもそこに描き出されはするのですが、それもつまりは反射によることなので、物質の均質性が損なわれることはないわけです。異質だったものはすべて変化を強いられ、吸収しつくされます」を思い起こさせるほど、細部のそれぞれが互いに反射しあって息苦しい店内の汚らしさを一様に浮かび上がらせている──が叙述のリズムに入り込んで来るタイミングに注目せよ。ここでは(2)複数の事態が進行し、準備しているうちの一つの系として、少しだけ脇道に逸れる、スイッチを切り替えるという形で描写休止法を継続可能。が用いられている。章始めのディエゲーシスとして主人公を離れて記述が可能ということもあるが(観察しているのはラスコーリニコフというよりもむしろ語り手自身ようだ……)。
そして(2)と考えた場合、何が複数的に進行しているかというと、もちろん「退職官吏らしい男」の接近だ。この男はすでに前章の末尾にちらりとその姿を見せていた(「店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた」)。しかし語り手は直接にそこからその男についての記述へと連絡させていかない。店内の描写、ラスコーリニコフの具体的な特徴的心理の記述(「人間に対するはげしい飢え」「まる一月にわたる思いつめた憂鬱と暗い興奮」)をパラレルに配置することによって直接・一直線な記述ではなくて複数的な記述のスイッチングによって少しずつ描写を進めていく。そして何気ない切り替えのようにして、あたかも情動の引力によるかのような人間関係の構築を実現させていく(「ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、一目見ただけで妙に心をひかれるような、奇妙なめぐりあいがあるものである」)。
この退職官吏ことマルメラードフは超重要人物だからこそこうして丁寧に関係性の出来上がるのを記述しなければならないわけだが、とにかく注目すべきは、最初マルメラードフが「兆候的」にしか現れていなかかったことだ。「音や気配による兆候から、ふと視点を転ずることでその本体に一気に逢着するというイメージの動線」による場面の造形という技法の遺憾なき発揮。前章終わりに登場したこの退職官吏は、店の亭主や給仕や酔っ払った大男とは違って単なる背景の一つではない、決定的にストーリーに関わってくる男、いわば『罪と罰』全篇の後の展開を兆候的に示すかのように最初はおぼろげに・遠巻きに登場してきたわけだ。
さらに敷衍する。小説の後の展開を予告する兆候的描写、それはドストエフスキーの描くほとんどの「顔貌描写」についても言えるのではなかろうか。この退職官吏の風采の描写は、当然ながら例の「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」になっていることに注目しよう。遠く距離を置きつつも(この距離感のせいで語り手による描写と感じられるのかもしれない)激しい好奇心を出したり引っ込めたりしながら対象とせめぎ合っていく、あの対話的情景法だ。「彼はたえずちらちらと官吏のほうを見やった、むろんそれは、先方でもうるさいほど彼のほうを見つめていて、ひどく話しかけたそうな素振りを見せていたせいでもあった。……」でもそうした対話性の存在は、別にフィクションとしてこの退職官吏の風貌の細部を決定しはしないだろう。では何によってこのマルメラードフの外貌描写の内容は決定されるのか。彼の人格によって? 確かにそういう側面もあるが、より重要なのは、彼の風采がつづく小説の展開の兆候として造形されるべきだという法則だ。描写の細部は、ストーリー展開の兆候として決定される。「何かこの男にはひどく不思議なものがあった。その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった。」──これは兆候だ。確かに後に見るようにマルメラードフは並外れた感情の持ち主なのだから。「顔は官吏風に剃ったあとはのこっていたが、もういつからかかみそりを当てていないらしく、一面に灰色の濃いごわごわのひげが生えはじめていた。」──これも兆候だ! ドストエフスキーのシャーロック・ホームズ的(「調査・推理」的)な観察眼=描写の尖筆というのは、常に現実を素朴に見ていたのでは気づけない兆候のレベルまで届いている。「彼はボタンもろくについていない、古いぼろぼろの黒いフロックを着ていた。ボタンは一つだけまだどうにかくっついていたが、礼を失したくないらしく、それをきちんとかけていた。」──そうなるとこれも一種の「人格的兆候」のように思えて来る。
●『罪と罰』下343-344頁
第六部第三章
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「それより、こっちがお聞きしたいのですが、あなたはよくここへ飲みに来られるし、ぼくにここへ訪ねて来るように、わざわざ二度も言ったのなら、ですよ、いまぼくが通りから窓を見たとき、なぜあなたはかくれて、逃げようとしたんです? ぼくははっきり見ましたよ」
「へ! へ! じゃなぜあなたは、この間わたしがあなたの部屋に入りかけたら、ソファの上にねたまま目をつぶって、ぜんぜん眠ってもいないのに、眠ったふりをしたのかね? わたしははっきり見ましたよ」
「ぼくには理由があった……かもしれませんよ……あなたはそれを知ってるはずだ」
「わたしにだって、わたしなりの理由があったかもしれませんよ、あなたがわからないだけで……」
ラスコーリニコフは右肘をテーブルにつき、右手の指で顎を支えながら、じっとスヴィドリガイロフを見すえた。彼はこれまでもいつもおどろかされてきた相手の顔を、つくづくながめた。それは仮面を思わせるような、なんとも奇妙な顔だった。真っ白なところへ赤味がさし、唇は真っ赤で、明るい亜麻色のあごひげが生え、まだかなり豊かな髪も白っぽい亜麻色だった。目は妙に青すぎて、視線は妙に重苦しく、動かなすぎた。この美しい、年齢のわりにつるッとしすぎた顔には、人におそろしくいやな感じをあたえる何かがあった。着ている服はしゃれた軽い夏もので、特にシャツはしゃれていた。指には宝石をちりばめた大きな指輪が光っていた。
「ぼくはこのうえ、あなたまで相手にして、面倒な思いをしなきゃならんのですかねえ」ラスコーリニコフは発作的な焦燥にかられて、いきなり胸の内をぶちまけた。……
現前的会話場面の中に、主人公の「見据える」身振りを契機として対話相手の仔細な描写が挿入される箇所。注意すべきは、この描写があたかも一般的なものとして提示されようとしていることだろうか。たとえば「これまでもいつもおどろかされてきた相手の顔」という習慣的表現には現前性を脱していくらか描写を抽象化かつ普遍化しようとする志向が見て取れる(括復法を使った場合も同様の効果があるだろう)。「年齢のわりにつるッとしすぎた顔」という表現は常識的な評価基準とそれからの逸脱を測定するやはり一般的な記述だし、「人におそろしくいやな感じをあたえる」という表現ではラスコーリニコフならぬ不特定な「人」の印象を参照しているのだ。これらすべては語り手による媒介の徴しであり、このスヴィドリガイロフ描写する記述は直接主人公の自意識に接続したものではないと断言できる。敢えて言えばこのような媒介性が、ここでの外貌描写を自意識的・現前的なものではなく無意識的・潜在的なものにしているというわけだ。最後のしゃれた服や指輪への目配りも、スヴィドリガイロフの暮らし振りの暗示という潜在性の領域に届いているからこそ描写されたのではないか。
ちなみに、こういう挿入的な描写は会話の流れ(そこに参加している人物の情動)を転回させるのに役立つ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻208-209頁
第十一篇第七章
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その頃までにスメルジャコーフは退院していた。イワンは彼の新しい住まいを知っていた。それは例の軒の傾いた丸太づくりの小さな家で、玄関の間をあいだにはさんでふたつの部屋から成り立っていた。その片方にはマリヤ・コンドラーチエヴナと彼女の母親が住み、もう一方にはスメルジャコーフがひとりで暮らしていた。彼がどういう条件でこの家に同居しているのか、──ただで住んでいるのか、家賃を払っているのか、それは誰にもわからなかった。のちに推察されたところによると、彼はマリヤの婚約者という資格でこの母娘の家に同居して、さしあたってはただで世話になっていたらしい。母親と娘は大そう彼を尊敬していて、自分たちよりも一段上の人間と考えていた。
さて、イワンはノックをして玄関へはいると、マリヤの案内で左手の、スメルジャコーフが占領している《上等の部屋》へ真っ直ぐに通った。この部屋にはタイル張りの煖炉があって、非常に暖房がきいていた。壁には水色の壁紙がはってあったが、それがずたずたに破れて、その裂け目を無数のごきぶりがはいまわり、たえずかさかさ音を立てていた。家具は大そう貧弱で、両側の壁ぎわにベンチがひとつずつと、テーブルの横に椅子が二脚あるだけだった。そのテーブルは粗末な白木づくりだったが、それでもばら色の花模様のテーブル掛けがかけてあった。ふたつの小さな窓には、それぞれゼラニウムの鉢植えがひとつずつ置いてある。部屋隅には聖像をおさめた厨子があった。テーブルの上にはひどくでこぼこの小型な銅のサモワールと、茶碗をふたつのせた盆が置いてあった。もっとも、スメルジャコーフはもうお茶を飲み終わっていたので、サモワールの火は消えていた。……
彼はテーブルに向かってベンチに腰をおろし、手帳を見ながら何かしきりにペンで書いていた。小さなインク壜がすぐ横にあり、またそのすぐそばには、ステアリンろうそくを立てた背の低い鋳物の燭台がおいてあった。イワンはスメルジャコーフの顔を見て、すぐに彼の病気が全快したのを知った。顔は前よりも太って生気にあふれ、前髪がきれいに立ち、びんの毛がポマードでなでつけられていた。彼は派手な綿入れの部屋着を着て坐っていたが、その部屋着はだいぶ着古したもので、かなりほころびていた。鼻眼鏡までかけていたが、イワンはそんなスメルジャコーフを見るのははじめてだった。こんなごく些細な事柄が、突然イワンの腹立たしさを倍加したように見えた。『生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!』こう彼は考えた。スメルジャコーフはゆっくりと頭をあげて、部屋へはいって来た客の顔を眼鏡ごしにじろりと見つめた。それから静かに眼鏡をはずすと、ベンチから立ちあがったが、うやうやしさは少しも見えず、むしろ何となく面倒くさそうで、仕方がないから最小限の礼儀を守ろうといった様子だった。イワンにはスメルジャコーフの目つきで、『何だってふらふらやって来たんだ、この前すっかり話がついたじゃないか、何のためにまた来たんだ?』とでも言わんばかりの、悪意をむき出しにした、不愛想な、むしろ傲慢な目つきだったのである。イワンはやっとのことで自分を抑えた。──
第一段落は後の現前的描写を準備するための助走のディエゲーシスで、時間幅を広く取り、習慣的記述もまぜながらスメルジャコーフとその住まいの現況を語っていく。現前性による急き立てがないのでゆったりと余裕を持って、単線的にではなしに叙述を脹らませることができている。事実を書くだけでなく、語り手による疑問の提示と推測(「彼がどういう条件でこの家に同居しているのか……それは誰にもわからなかった。のちに推察されたところによると、……」)さえ含まれている。こうやって事実の羅列だけでは見えてこない高次の認識を掘り起こして来るのはドストエフスキーのディエゲーシスの十八番。ただしここでの語り手の「推測」の説得力は探偵的なそれではなくて事情通的なもの。
第二段落以降は情景法、しかもいわゆる「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」──焦点人物が激しい好奇心を出したり引っ込めたりしながら対象とせめぎ合っていく、あの対話的情景法となっていることに注目しよう。イワンはほとんど意識的に「調査・推理」するかのように細部を観察していく。なぜそのような意識がイワンに生れるのか。それは、イワンがこの場所を訪れるのが初めてだからだ。また、スメルジャコーフも以前彼が知っていたのとは違って様変わりした容貌を見せており(これも「初めて」見るもの──鼻眼鏡という細部の造型は見事)、ここを訪れた動機からしても、イワンは注意深くならざるを得ないからだ。イワンは何もかも見逃すわけにはいかない。そのようなイワンの視野を語り手がトレースしているからこそ、部屋について、スメルジャコーフについて、微に入りさまざまな細部を生き生きと把捉して描写することができる。スメルジャコーフの病気はすでに全快していることも、スメルジャコーフがかすかにイワンに対して横柄な態度を取ろうとしていることも、あるいはスメルジャコーフの目付きの中の悪意さえも、見逃さない。イワンの注意は張り詰め、彼の精神は外部世界の観察対象と駆け引きしながら常に休まることがない。自分の認識したことに強いられるかのように『生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!』と内語を思わず爆発させてしまう(外部から到来する内語!)箇所は、「対象とコミュニケーションしながらの情景法」の面目躍如。そしてイワンは「やっとのことで自分を抑えて」──すなわちひりひりするようなスメルジャコーフに対する関心、現前的描写を駆動する原理になっていたその興奮を抑えて初めて、会話場面に移行することができるのである。
ここで「描写」が持つ意味はイワンの動的な働きかけに決定的に左右されている。単に現前的に知覚されるものを(知覚される順番に)並べているのではない。
(後日追記:というよりも、──描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。……描写対象は無意識で処理される……ということはそれなりに(イワンの)無意識にショックを与えたり謎めいていたりする要素がなければ、そもそも描写される価値がないってこと。……「はっきりと言語化はできないが薄々何か嫌なところがあるのに気づいていた」とか「あまりの不快さにぱっと見ただけで克明に銘記されてしまった」という違和感が自意識への印象。……それを無意識担当の地の文が言語化する。……無意識を波立たせ自意識の円滑性を屈折させる強度(他者性)のない対象は、そもそも言葉を費やして描写する価値さえない。……言うまでもなく《生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!》──この内語も自意識の能動性というより、無意識の切迫からの(自分では言ったことも意識していないような)言葉だ。──ってことじゃないの?
●『永遠の夫』238-240頁
第十四章
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部屋へはいって来たのは非常に若い男で、年のころは十九ぐらい、あるいはもう少し下かも知れない──と思われるほど、その美しい、鼻っ柱の強そうに空うそぶいた顔には、初々しさが溢れていた。服装も相当なもので、少くもちゃんと身についた身装りをしている。背は中背より少し高目で、捲毛をなして渦まいている黒味がかった濃い髪の毛と、ぐりぐりした、真向から人を見つめる黒眼とが、彼の容貌のなかでは一際目だっている。ただ難をいえば少々あぐらをかいた鼻で、おまけに天井を睨んでいる。これさえなかったら、さぞ美男子だろうにと惜しまれた。彼は堂々と威容を作ってはいって来た。
「私はどうやら、トルーソツキイさんとお話をする──機会──を得たようですが」と彼は、落着き払った明晰な口調で、さも得意げに『機会』という言葉にわざと力を入れながら述べ立てた。つまりそれによって、トルーソツキイ氏と話をすることが彼にとって、何等の光栄でも満足でもあり得ないということを、相手に思い知らせようという肚と見えた。〔「機会」の代りに「光栄」「満足」の語を使うのが初対面の挨拶の定式〕
ヴェリチャーニノフは段々とわかりかけてきた。パーヴェル・パーヴロヴィチもどうやら、朧ろげながら何か思いあたるところがある様子だった。その顔には不安の色がうかんでいた。とはいえ健気にも態度は崩さずにいた。
「あなたを存じ上げる光栄を持たぬ私としては」と彼は尊大な調子で答えた、「別にあなたとお話をする筋合いもないはずと存じますがな」
「いや、まず私の申しあげることをお聴きとり願って、それから、御意見を承わるとしましょう」と青年は自信たっぷりの調子で、逆に訓すように言ってのけると、胸のところに紐でぶら下げてあった鼈甲の折畳み眼鏡を引き出して、それを眼に当てがうと、卓子のうえのシャンパンの壜をためつすがめつした。さて悠々と酒壜の点検を終えると、彼は眼鏡をたたんで、改めてパーヴェル・パーヴロヴィチに向かって口を切った。
「アレクサンドル・ロボフ」
「なんですか、そのアレクサンドル・ロボフというのは?」
「私です。まだお聞きじゃありませんでしたか?」
「ありませんな」
「もっともお耳にはいるわけもありませんからね。私はあなた御自身に関係のある重大問題を抱えて来たんです。ところで、御免を蒙って掛けさせて頂きますよ、私は疲れて……」
「おかけなさい」とヴェリチャーニノフは椅子をすすめた。しかし青年は、すすめられる前にちゃんと腰をおろしていた。
胸のきりきりする痛みは募る一方であったが、ヴェリチャーニノフはこの厚かましちんぴら先生が面白くてならなかった。その美しい、あどけない、薄くれないの小さな顔には、何かしら微かながらナーヂャに似通ったところがあるな、と彼は思った。
「あなたもおかけなさい」と、向いの席をぞんざいに顎でしゃくって見せながら、若者はパーヴェル・パーヴロヴィチを促した。
「お構いなく、私は立ってましょう」
「くたびれますよ。それからヴェリチャーニノフさん、あなたはもしなんでしたら席をおはずしにならんでも結構ですよ」
「はずそうにもはずし場がありませんね。何しろ自分の家ですから」
「じゃ御随意に。じつをいうと私はこの方と談判をしているあいだ、あなたに立会って頂きたいくらいなんですよ。ナヂェージダ・フェドセーヴナがあなたのことを、私の前でさかんに褒めちぎっていましたっけ」
「ほほう! そりゃまた、いつのまにそんなことを?」
キャラクターを立てるならこのくらい隈なく細部まで創意を凝らさなければだめだってこと。明らかに立体的にこのキャラクターは構築されている。もしかしたらこいつは自分はもうすでにいっぱしの大人だと思い込んでいるかもしれないが、自分の厚かましさを自分で自覚できていない時点で未熟なのだ。その自意識の偏りまで含めてこのキャラクターの「生意気」という性格は造型されているということ。
第一段落第一文、「部屋へはいって来たのは非常に若い男で、年のころは十九ぐらい、あるいはもう少し下かも知れない──と思われるほど、その美しい、鼻っ柱の強そうに空うそぶいた顔には、初々しさが溢れていた。」──文法的には、青年が入って来た記述を名詞相当補足節に押し込んで、主節は「……ている(いた)」形アスペクトで締めるという上手い切り口。そして外貌からでも分かる青年の生意気さの必要充分な描写が入るが、「ただ難をいえば少々あぐらをかいた鼻で、おまけに天井を睨んでいる。これさえなかったら、さぞ美男子だろうにと惜しまれた。」の文のように語り手の想像的仮定による捻りなどが入っていて面白い。語り手の介入によって単なる細部の羅列にはなっていないということか。そして描写が終わったところで「彼は堂々と威容を作ってはいって来た。」で情景法再開。以後は改行と現前的科白を上手く組み合わせて展開のリズムを作っている。
当然ながら『機会』という言葉の用い方で示される青年の不遜と非礼の描写など細かくて素晴らしい。たしかにこの年齢の人間は話題や言葉遣いを変えただけで自分がぐっと大人になったものだと勘違いしがちである。自分が勝手に訪ねて来たにもかかわらず、家の主人に向って「あなたはもしなんでしたら席をおはずしにならんでも結構ですよ」などと許しを与えようとする非礼さもヤバい。恐いもの知らずというか、失礼なことをやってしまったらどうしようという他者に対する畏れや尊敬がまったくない。ここには世代間闘争的な要素もあるだろう。あなたがた年長者の世代など、われわれはまったく尊重するつもりはないのだという青二才の自負がこうした無自覚かつ無再現な厚顔、不遜につながっているものと思われる。言わば「世代論的生意気」という性格類型? こっちが自信のある振りを押し通していれば相手にも自分の実力が伝わるだろうという空威張りのみで渡って行けると、タカをくくっている。
しかしこれだけ倨傲だともはや「否定」するためどころか相手に対する優位を誇示するためにのみ発言しやがるので、清々しくさえある。
●『永遠の夫』241-242頁
第十四章
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パーヴェル・パーヴロヴィチはよろよろっとなった。顔色はじいっと蒼ざめたが、すぐさまその唇には底意地の悪い微笑がにじみ出た。
「いや、とても乗れませんな」と彼はあっさりと一蹴した。
「あれだ!」と若者は脚を組み重ねて、肘掛椅子のなかでくるりと向きを変えた。
「どこのどなたとお話しているのかさえわからんのですからなあ」とパーヴェル・パーヴロヴィチはつけ加えた。「別にこのうえお話をつづけることもあるまいと思いますよ」
そう言ってしまうと、彼もやはり腰かけることにした。
「だからくたびれますよと言ったじゃないですか」と若者はぞんざいな調子で一本参って、「今しがたお耳に入れたはずですがね、私の名はロボフ、そして私とナヂェージダ・フェドセーヴナとは、お互いに将来を誓い合った仲だとね。──したがってあなたは、いま仰ったような、どこの馬の骨と話しをしているのやらわからん、などということは言えないはずですよ。また同時に、このうえ話をつづける必要がないなどとも、やはり仰れるはずがないと思うんです。仮に私のことは暫く措くとしても、事はあなたが鉄面皮にも追っかけ廻しておられるナヂェージダ・フェドセーヴナに関しているんですからねえ。この一事をもってしても、すでにお互いにとっくり談判をとげる十分の根拠になるんですね」
そうした文句を、彼は妙にきざっぽく歯で漉しをかけるような不明瞭な発音で、言ってのけた。それどころか、まるではっきりと言葉をかけてやるにも足らん奴と、相手をみくびってでもいるような素振りだった。のみならずまたもや例の折畳み眼鏡を引っぱり出して、話の最中にちょいと何かのうえにかざして見たりした。
「ですがね、お若いかた……」とパーヴェル・パーヴロヴィチは苛だたしげに大声ではじめかけた。ところがこの『お若いかた』は透かさず相手の出鼻を折っぺしょった。
「向後いかなる場合といえども、私は断じて私のことを『お若いかた』などとは呼ばせませんがね、しかし今のところはひとつ大目に見てあげましょう。というのはほかでもない、あなたも御異存はないでしょうが、私の若いということがあなたに対する重大な優越点なんですし、現に今日だって、例の腕輪の贈呈式をなすった時には、せめてもうちょっぴりでも若かったらなあと、しみじみ思われたに相違ないですからねえ」
「畜生、よく舌の廻る奴だ!」とヴェリチャーニノフはそっと呟いた。
ここでこの「生意気」なキャラクターとして描かれた青年は、どうやら自分を相手よりも優位な存在だと自負しており(「まるではっきりと言葉をかけてやるにも足らん奴と、相手をみくびってでもいるような素振りだった」)、相手を大目に見たり許したりする権利が自分にあるものを思い込んでいるらしい。そして、論理的に言っても、相手が自分の主張に耳を傾けないということはあり得ないと信じ込んでいるらしい。もし相手が自分を対等な対話相手と看做さないような素振りをすれば、それに対して激昂するというまでもなく、単にすかさずぴしゃりと「よく廻る舌で」相手が間違っていることを思い知らせてやるだけだ、なぜなら自分は議論の余地なく大人であり正当な権利をもった人間にほかならないのだから!──そうした「新世代的な」偏った認識なしには、ここまで自己動揺の少ない厚顔なキャラクターは立ちようがないだろう。『白痴』におけるレーベジェフの甥のようなものだ。
●『未成年』上331-333頁
第一部第十章2
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「よそう、よそう、わしもこんな話はよしたほうが嬉しいのだよ……つまり、わしはあれにひじょうにすまんことをしとるんだよ、きみおぼえとるだろう、あのとききみのまえであれのことをぶつくさぼやいたりしたことを……あれはきみ、忘れてくれたまえ。それにあれもきみを見る目を変えるだろう、わしにはそれがよくわかるんだよ……おや、セリョージャ公爵だ!」
若い美しい士官が入ってきた。わたしはむさぼるように彼を見つめた。これまでまだ一度も会ったことがなかったのである。といって、わたしが彼を美しいと言うのは、世間一般に彼をそう評しているからだが、しかしこの若い美しい顔にはどことなく人の心を突きはなすようなところがあった。わたしは最初の一瞬に、はじめて彼になげたわたしの目がとらえて、その後永久にわたしの心にのこった印象として、それを指摘するのである。彼はやせ気味で、ほどよい背格好で、栗色の髪をしていて、顔色はつややかだが、いくぶん黄色みをおび、決意に充ちた目つきをしていた。黒みがかった美しい目は、気分がすっかりなごんでいるときでさえ、いくぶんけわしかった。しかしこの決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえるためであった。だが、どうもうまく言いあらわせない……もちろん、その顔はきびしい表情から一瞬にしておどろくほどやさしい、おだやかな、柔和な表情に変ることができた、しかもおどろくことは、その変り方の露骨な正直さである。この正直なところが人の心を惹きつけた。もうひとつ特徴を指摘すれば、やさしさと正直さがあるのに、その顔が決して明るく晴れないことである。心底から呵々大笑しているときでさえ、見ている者にはやはり、この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられるのである……。しかし、こんなふうに顔を描写するのはひじょうにむずかしいことで、わたしにはとてもその力がない。
老公爵はすぐに立ち上がって、その愚かしい習慣にしたがって、わたしたちを引合せた。
「こちらはわしの若い友人、アルカージイ・アンドレーヴィチ(またアンドレーヴィチだ!)・ドルゴルーキイ」
典型的な、はじめてある人物を情景法に導入した時の描写なのだが、ちょっとした工夫もなされている。当然ながら現前的描写の羅列だけでは成り立っていない。
まず段落冒頭で「若い美しい士官が入ってきた。わたしはむさぼるように彼を見つめた。……」と現前的視線の導入があるのはまあオードソックスとして、ポイントは以降につづく叙述がなぜかすでにセリョージャ公爵と長く付き合いのある人物の所感として時間幅を広くとったもののように展開していくことだ。「黒みがかった美しい目は、気分がすっかりなごんでいるときでさえ、いくぶんけわしかった。」──たとえばこの描写は「気分がすっかりなごんでいるとき」という今とは別の状況における彼を知っていなければ出て来ないし、「もちろん、その顔はきびしい表情から一瞬にしておどろくほどやさしい、おだやかな、柔和な表情に変ることができた、しかもおどろくことは、その変り方の露骨な正直さである。」──このような(動態的)描写も同様である、すなわちこれもセリョージャ公爵の表情の変化についてよくよく知っているのでなければ出て来はしないはずだ。しかもここでは観察を行っているはずの「わたし」ではなくて、一般的な・世間的なものの見方(「見る者に……という感じを与えるのである」)を導入して、セリョージャ公爵を無時間的に分析するということすらやっている。「しかしこの決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえるためであった。」「この正直なところが人の心を惹きつけた。」「心底から呵々大笑しているときでさえ、見ている者にはやはり、この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられるのである……。」──といった(動態的)表現がまさにそうで、ここでなぜか「わたし」に対しての印象ではなくて「人」「見ている者」といった第三者の視点が導入されているのだ。
総じて引用部ではこの初めての出会いの瞬間においてのみならず、後々に「わたし」が得ることになる知見も総動員して、つまり時間幅を広くとって「(動態的)描写」を行っているように思われる。「わたしは最初の一瞬に、はじめて彼になげたわたしの目がとらえて、その後永久にわたしの心にのこった印象として、それを指摘するのである。」といった言葉は一種の言い訳にすぎまい。
いわゆる、現前性のせきたてなしに、余裕をもって非-単線的に叙述を脹らましているということだろうか。しかも無時間的分析でありながら動態的でもあるという描写の多彩さ。面白い。
●『罪と罰』上436-438頁
第三部第五章
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ザミョートフはちょっとまごついたらしいが、うろたえるほどでもなかった。
「昨日きみのとこで知り合ったんだよ」と彼はいやになれなれしく言った。
「つまり、うまいこと酒代を出さずにすんだってわけか。おい、ポルフィーリイ、先週こいつはなんとかきみを紹介してくれって、うるさくぼくに頼みこんでいたんだぜ。ところがきみたちは、ぼくをそっちのけにして、まんまと嗅ぎあったってわけだ……ところで、煙草はどこだい?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはさっぱりしたシャツの上にガウンというくつろいだ姿で、はき古したスリッパをつっかけていた。年齢は三十五、六で、背丈は中背よりやや低く、でっぷりふとったうえに腹までつきだしており、きれいに剃った顔には口髭も頬髯もなく、大きなまるい頭には髪が短く刈りあげられて、そのせいかうなじのあたりが特にまるくもりあがっていた。いくらかしし鼻気味で、ふっくりとまるい顔はどす黒く、不健康な色をしていたが、かなり元気そうで、人を小ばかにしたようなところもあった。まるで誰かに目配せでもしているように、たえずぱちぱちしている白っぽい睫毛のかげから、妙にうるんだ光をはなっている目の表情が邪魔しなかったら、お人よしにさえ見えたかもしれぬ。この目の光が、女性的なところさえある身体ぜんたいとなんとなくそぐわない感じで、ちょっと見たときに受ける感じよりも、はるかにきびしいものをその姿にあたえていた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、客がちょっとした《用件》があると聞くと、すぐにソファにかけるようにすすめて、自分も他のはしに坐って、じっと客の顔に目をすえて、もどかしそうに相手のきりだすのを待った。その態度は真剣そのもので、きびしすぎるほどの緊張が感じられ、はじめから相手の気持をかたくして、どぎまぎさせてしまうようなものだった。殊に初対面で、しかもきりだそうとする用件が自分でもこれほどの異常なまでにものものしい注意を向けられるには程遠いものだと思っている場合は、なおさらである。しかしラスコーリニコフは簡単だが要領のいい言葉で、明確に用件を説明した、そしてわれながら満足なほど落ち着いていて、かなりよくポルフィーリイを観察することすらできた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチもその間中一度も相手から目をはなさなかった。ラズミーヒンはテーブルをはさんで、二人のほうを向いて坐り、たえず二人を交互に見くらべながら、熱心にじりじりしながら用件の説明を聞いていたが、その態度はすこし度をこえていた。
《ばかめ!》とラスコーリニコフは腹の中でののしった。
「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポルフィーリイはいかにもそっけない事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々というようなことですな……あるいはまた……だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」
描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。もっと言えば、観察している当の焦点人物の自意識が決して言語化することのないものの言語化である。だから(この意味での)描写に、職業や経歴についての客観的で定義的な記述は似合わない。
引用部の肝はポルフィーリイ・ペトローヴィチの描写だ。まずはそれを導くために、その直前までの会話の流れで、ポルフィーリイにラズミーヒンが水を向けるというふうになっていることに注目せよ。描写を挿入するにはこういう段落展開の調整が不可欠。
で、ポルフィーリイについての描写だ。職業についてはすでに開示済みなので言及はしない。最初は服装や年齢、背格好といった全体像から入っていって、徐々に細かい部分へと焦点を絞り込んで描写を詳悉にしていくというのはオーソドックス。最終的に目の表情に行き着くというのも、目がもっとも人の顔の中で表情豊かなことを考えれば当然の流れ。ここではその描写が単に印象の羅列ではなく、「……妙にうるんだ光をはなっている目の表情が邪魔しなかったら、お人よしにさえ見えたかもしれぬ」といった推測(想像的仮定)や「この目の光が、女性的なところさえある身体ぜんたいとなんとなくそぐわない感じ」という総合的判断や、「殊に初対面で、しかもきりだそうとする用件が自分でもこれほどの異常なまでにものものしい注意を向けられるには程遠いものだと思っている場合は、なおさらである」といった論理的補強まで含んでの描写であるのは、例によって、地の文で「調査・推理」しているかのような、シャーロック・ホームズ的語り手があたかも対象を触診しているかのような印象だが、それが、あくまで語り手のものであって、ラスコーリニコフの能動的な自意識によるものではないことに注意しよう。つまりここでラスコーリニコフは確かにポルフィーリイのことを(見なければならないものを見落とすまいと)注意深く観察しているのだが──そして相手の普通でない真剣さや厳しさを不安に感じているのだが──やっていることはただ、無意識の印象を蓄えるだけで、それを「……ちょっと見たときに受ける感じよりも、はるかにきびしいものをその姿にあたえていた」と言語化しているのは、あくまで彼の無意識に定位した語り手なのである。なぜなら、ラスコーリニコフはここで同時にポルフィーリイに「用件」を説明しているからだ。その直接の発話の言葉は省略されて、ポルフィーリイについての目下の描写が終わると同時に、ラスコーリニコフの用件に対するポルフィーリイのコメントが始まる形になっているが(この段落展開は見事)、ラスコーリニコフが口頭で説明している以上、並行して行っている観察を言語化することは不可能なはずだ。たとえシャーロック・ホームズ的な「調査・推理」のような、対象を触診しているかのような細部に踏み込んだ描写であっても、無意識で処理されている以上、匿名の語り手の媒介なしには物語言説には入って来られないものと考える必要がある。この引用部の描写は見た目よりも複雑な機制によって成り立っているわけだ。
また引用部はラスコーリニコフ自身に関する描写(「そしてわれながら満足なほど落ち着いていて……」)を含むが、これは彼の自意識にとっては意外なほど自分が落ち着いているということについての自分を他者(≒無意識)のように眺めての記述であるので、あくまで語り手の支配の下にある記述と看做せる。ラズミーヒン(という他者)の、彼にとっては不都合な仕種に苛立って《ばかめ!》と強いられたように内語を放つのも、同様に、自意識というよりは無意識の領域で起こったことだ。
●『白痴』上467-468頁
第二篇第三章
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「すごく暗いねえ。それに、きみまで陰気そうじゃないか」公爵は、書斎を見まわしながら言った。
それは天井の高い、薄暗い、種々雑多な家具の並んでいる大きな部屋であった。その家具の多くは大きな事務机や、文机や、事務用の帳簿や書類のはいった戸棚などであった。幅の広い赤いモロッコ皮のソファは、どうやらロゴージンの寝台の役をつとめているらしかった。公爵はロゴージンにすすめられてすわった椅子の前にあるテーブルの上の二、三冊の書物に気づいた。そのなかの一冊はソロヴィヨフの歴史で、読みかけのところにしおりがはさんであった。まわりの壁にははげおちた金箔の額縁に、黒くすすけて何が描いていあるのかわからないような油絵がいくつかかかっていた。そのなかの一つの全身の肖像画が公爵の注意をひいた。それはドイツ風ではあるが裾の長いフロックを着、首に二つもメダルをつけ、白髪まじりの短い顎ひげをたくわえ、皺だらけの黄色い顔に、疑いぶかく秘密の多そうなもの悲しい眼つきをした、年のころ五十歳ばかりの男の肖像画であった。
「これはきっときみの親父さんじゃないのかね?」公爵はたずねた。
注目すべきは、こうした部屋・住居といった空間の描写においても、注意の動線に沿って叙述が進んでいくように思われることだ。しかも、その注意を発している主体は単に作中人物の一人でもなければ神のごとき作者の立場でもない。何か匿名を偽装した主体が一つの動線に沿って描写対象を取り上げているかのような趣き。「幅の広い赤いモロッコ皮のソファは、どうやらロゴージンの寝台の役をつとめているらしかった」──といった習慣の推測もこの匿名の主体の注意が描写対象と一種の対話関係に入ることによって生まれている、と考えられる。
ざっくり言えばこうした何気ない空間描写においても水平的で無時間的な敷衍とともに垂直的な単線的展開の軸も通っていて、後者を司るのが作者でも作中人物の一人でもない(と言い切るのは引用部分だと少々不適切だが。「そのなかの一つの全身の肖像画が公爵の注意をひいた」みたいな表現がある以上は)匿名を偽装した主体の注意の動線である、ということ。描写対象はその動線の流れに沿って並べられるということ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻7-9頁
第四部第十篇一
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十一月の初旬であった。零下十一度の寒波が襲って来て、町じゅうを氷がおおった。夜になると、凍てついた地面に粉雪が少しばかり降りつもり、《刺すような空っ風》がその雪を巻きあげながら、町のわびしい大通りや、とりわけ市の立つ広場を吹き荒れた。朝になると、空はどんより曇っていたけれども、雪は降りやんでいた。
広場からほど遠からぬプロートニコフの店のすぐそばに、役人の未亡人クラソートキナのこぢんまりとした、外観も内部も大そうこざっぱりした家があった。県書記をしていた夫のクラソートキンは、もうだいぶ以前、かれこれ十四年ほど前に死んでいたが、その未亡人は年のころ三十一、二、いまだに眉目秀麗な婦人で、このこざっぱりした家に《自分の財産で》元気に暮らしていた。夫人は物やわらかな、しかしけっこう陽気な性格で、誠実な、ひっそりした生活を送っていたのである。夫と連れ添っていたのはほんの一年足らずで、彼女は息子を生むとすぐ、十八の年に夫に先立たれた。その時いらい、夫に先立たれてからというもの、彼女はかわいいわが子コーリャの教育に自分の一切を捧げた。そうしてこの十四年間、われを忘れてわが子を愛して来たのだが、しかし当然のことながら、喜びよりはむしろ苦しみのほうがはるかに多く、病気にかかりはしまいか、風邪をひきはしまいか、いたずらをしはしまいか、椅子にはいあがって落ちはしまいかなどと心配して、ほとんど毎日、恐怖に息も止まらんばかりだったのである。
コーリャが小学校へはいり、やがてこの町の中学校へ通うようになると、母親はさっそく息子と一緒にあらゆる学課を勉強して予習復習を手伝ってやり、また教師やその細君と近づきになったり、コーリャの友達や学校の生徒たちをかわいがって、コーリャをいじめたりからかったり打ったりしないように彼らにお世辞を言ったりした。その結果、子供たちはかえって母親のことで彼をからかうようになり、《お母さん子》と言って冷やかしはじめた。しかしコーリャ少年は立派に自分を守り通した。彼は勇敢な少年で、まもなくクラスじゅうに広まって定評となった噂によると《恐ろしく強いやつ》で、機敏で、負けずぎらいで、大胆で、進取の気性に富んでいた。学課はよくできて、算数でも世界史でも先生のダルダネーロフをやり込めるという噂が立ったほどである。しかし少年は、鼻を高くしてみんなを見下ろしてはいたものの、友だちとしてはなかなかいい友だちで、高慢ちきなところがなかった。同級生の尊敬を、彼は当然のことのように受け入れてはいたが、しかしその態度は友情にあふれていた。いちばん感心なことは、限度をわきまえていることで、必要な場合には自分を抑える術を知っていて、学校の当局者に対しては、決してある最後のひそかな一線を踏み越えることはなかった。その一線を踏み越えたが最後、過失も過失として赦されなくなり、無秩序や、反抗や、不法行為に一変してしまうのである。もっとも適当な機会があると、彼も大いにいたずらをやってのけた。それも手に負えない腕白小僧のそれで、いたずらと言うよりは、才知をひけらかし、奇行をやってのけ、《ひどいしっぺ返し》をしたり気取ったり勿体ぶったりして見せるのである。何よりも肝心なことは、自尊心が非常に強かったことである。母親までも彼はまんまと自分の言いなりにならせて、母親に対してほとんど暴君のように振舞っていた。母親のほうは少年の言いなりになっていた。ああ、ずっと以前から言いなりになっていたのだ。ただ彼女にとって何としても我慢ができなかったのは、この少年が自分を《あまり愛してくれない》のではないかという考えだった。彼女はしじゅうわが子コーリャが自分に対して《冷淡》なように思い、時によるとヒステリックな涙を流しながら、息子の冷淡さをなじりはじめることもたびたびあった。少年はそれがいやでならず、親身な気持の表出を要求されればされるほど、逆にわざと片意地になるらしかった。もっともそれはわざとすることではなく、ひとりでにそうなるので、──それが彼の性格だったのである。この点で母は考え違いをしていた。少年は母親を非常に愛していたのだが、彼が学生言葉でいじみくも言った表現を借りるならば、ただ《猫っかわいがり》が気に入らなかっただけなのである。
文体誘発。句読点の打ち方がすばらしい。内容の展開のさせ方も立体的で、凝ってはいないけれども単調ではない。これが理想だな。
●『罪と罰』上42-45頁
第一部第三章
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ラスコーリニコフはもう先ほどから出たいと思っていたところだし、送って行こうとは、自分でも考えていた。マルメラードフは、立ち上がってみると、口よりは、足のほうがずっと弱っていて、青年の肩に重くもたれかかった。そこからは二百歩から三百歩の距離だった。家が近づくにつれて、酔っぱらいをとらえた狼狽と恐怖がますます大きくなってきた。
「わたしがいま恐れてるのは、カテリーナ・イワーノヴナじゃない」とかれはそわそわしながらつぶやいた。「髪の毛をかきむしられることでもないよ。髪なんかなんだ!……くだらん! はっきり言うけど、髪をひっつかんでくれたほうが、かえってありがたいよ。わたしはそんなことが恐いのじゃない……わたしは……あれの目が恐いんだ……そう……目だよ……頬の赤いぶちも恐い……それから──あれの息づかいも恐いよ……あんた、あの病気にかかった者が……気がたかぶったとき……どんな息づかいをするか、見たことがあるかい? 子供の泣き声も恐い……だって、ソーニャが食物をあてがってくれなかったら、いま頃は……どんなことになっているか! とても考えられん! だが、なぐられることなんぞなんでもない……なあ、学生さん、わたしにはね、せっかんが苦痛でないどころか、かえっていい気持なんだよ……だってそうされなきゃ、自分でも気持のやりばがない。なぐられたほうがいいんだよ。なぐってなぐって、せいせいした気持になってくれりゃ……ありがたいよ……そらもう家だ。コーゼルの家だよ。ドイツ人の錠前屋さ、金持で……連れてってください!」
彼らは中庭から入って、四階へのぼって行った。階段は上に行くほど、暗くなった。もうほとんど十一時近くで、その頃ペテルブルグは白夜の季節とはいえ、階段の上のほうはひじょうに暗かった。
階段をのぼりつめたつきあたりに、煤だらけの小さな戸が、あけたままになっていた。燃えさしのろうそくが奥行十歩ばかりのみすぼらしい部屋を照らし出していた。入り口からすっかりまる見えだった。何もかも乱雑にひっちらかしてあったが、特にさまざまな子供のぼろが目立った。奥の隅が穴だらけのシーツで仕切られていた。そのかげには寝台がおいてあるらしかった。室内には椅子が二つと、ぼろぼろの油布をはったソファが一つあるきりで、そのソファのまえに白木のままで、被いもかけてない、古い松の食卓がおいてあった。食卓の端に鉄の燭台にさしたろうそくが燃えつきようとしていた。つまり、マルメラードフは片隅だけではなく、一つの部屋を借りていたのである。もっとも、その部屋は通りぬけになっていた。奥の戸がすこしあいていて、その向うはたくさんの小さな部屋というよりは、蜂の巣のようになっていた。アマリヤ・リッペヴェフゼルは自分が借りた住居をこまかくいくつにも仕切ってまた貸ししていたのである。そちらのほうは騒々しく、どなりちらす声が聞えた。にぎやかな笑い声がしていた。トランプをやったり、茶を飲んだりしているらしかった。ときどきとんでもない卑猥な言葉がとんできた。
ラスコーリニコフはすぐにカテリーナ・イワーノヴナがわかった。それはおそろしいほどやせた女で、背丈はかなり高いほうで、すらりとして格好がよく、暗い亜麻色の髪はまだつややかで、たしかにぶちに見えるほどの赤味が頬にういていた。彼女は両手を胸にあて、かさかさに乾いた唇で、きれぎれに乱れた息をしながら、せまい部屋の中をせかせかと歩きまわっていた。目は熱病やみのようにギラギラ光っていたが、視線はけわしく、うごかなかった。そして燃えつきようとするろうそくのちらちらゆれる最後の光に照らし出されて、肺病にそがれ、神経がたかぶっているその顔は、痛ましい印象をあたえた。ラスコーリニコフには彼女が三十前後に見えた、そしてたしかにマルメラードフには過ぎていると思った……彼女は人の入ってきたもの音も聞えなければ、姿も見えなかった。彼女は意識喪失のような状態におちているらしく、見えも、聞えもしないらしかった。部屋の中は息苦しかったが、彼女は窓もあけていない。階段のほうからは悪臭が流れこんでくるのに、入り口の戸はあけっぱなしだ。奥のほうからは、すこしあいた戸の隙間から煙草のけむりが波のように入ってきて、彼女は咳きこんでいるのに、戸をぴったりしめるでもない。六つばかりの末の娘が、床の上に妙な坐り方をしたままちぢこまって、ソファに頭をつっこんで眠っていた。一つ年上の男の子が、隅っこでぶるぶるふるえながら、泣いていた。いましがたぶたれたばかりらしい。九つばかりの、ひょろひょろとのびて、マッチの棒みたいに細い上の娘は、粗末なほころびだらけのシャツ一つで、裸の肩に古ぼけた毛織のマントをひっかけて、──それも、いまはひざまでしかないところを見ると、おそらく、二年ほどまえに縫ってもらったものであろう、──隅っこの小さな弟のそばに佇んで、マッチの棒のように細長いかさかさの腕で弟の首を抱きしめていた。彼女は弟をあやしていたらしく、何ごとかささやいて、また泣きださせないように一生けんめいにおさえていた。そして同時に、大きな目でこわごわ母の様子をうかがっていた。その目は、顔がやせ細っておびえきっているために、ますます大きく見えた。マルメラードフは、部屋へ入ろうとしないで、戸口のところにひざまずき、ラスコーリニコフをまえへ押しやった。女は、見知らぬ男に気づくと、ぼんやりそのまえに立ちどまった。はっとわれにかえって、この男は何しに来たのかしら? と考えたらしかった。しかし、すぐに、この部屋は通りぬけになっているから、ほかの部屋へ行く人だろう、と考えたらしい。そう思うと、彼女はもう男には見向きもしないで、戸をしめに入り口のほうへ歩きかけたが、しきいの上にひざまずいている良人に気づいて、不意に叫んだ。
いわゆるベーシックな移動しながらの(当然五感に入って来る順番に……になる)情景法が用いられている。一つ面白いのは、以前からドストエフスキーの特徴として把握していた「登場人物が長科白を喋っている間に移動が済んでしまう」というのがここでも起きているが──「……なぐられたほうがいいんだよ。なぐってなぐって、せいせいした気持になってくれりゃ……ありがたいよ……そらもう家だ。コーゼルの家だよ。ドイツ人の錠前屋さ、金持で……連れてってください!」──これも大きな枠組みではドストエフスキーに特有の静観嫌い、常に移動しながらの情景法という技法のうちに入るわけだ。
移動しながらの情景法、五感に入ってくる順番に……というところで、まずは照明・明暗の演出に敏感になっていることに注目しよう。「もうほとんど十一時近くで、その頃ペテルブルグは白夜の季節とはいえ、階段の上のほうはひじょうに暗かった。」「階段をのぼりつめたつきあたりに、煤だらけの小さな戸が、あけたままになっていた。燃えさしのろうそくが奥行十歩ばかりのみすぼらしい部屋を照らし出していた。」単に空間設計を考えるだけでなく、それが明るさ暗さによって見え方が変ることを押さえるならば、まずは明暗の設定が不可欠ということか。
とりわけ、「室内には椅子が二つと、ぼろぼろの油布をはったソファが一つあるきりで、そのソファのまえに白木のままで、被いもかけてない、古い松の食卓がおいてあった。食卓の端に鉄の燭台にさしたろうそくが燃えつきようとしていた。」この視線の移動(これもまた移動しながら……だ!)、ソファ→食卓→ろうそく、という形で描写されたろうそくの光が、「そして燃えつきようとするろうそくのちらちらゆれる最後の光に照らし出されて、肺病にそがれ、神経がたかぶっているその顔は、痛ましい印象をあたえた。」というカテリーナの顔貌描写と因果関係を結んでいることに特に注目しよう。
ちなみに、階段をのぼる前と、階段をのぼりつめた、という二つの状態を改行でつないでいる(階段をのぼっている描写は省略)ことにも注目せよ。要約法、省略法が上手であればこその「移動しながらの情景法」だ。
さて、部屋の内部の描写に関しては、やはり「調査・推理」のマインドが生きていることを確認しよう。「つまり、マルメラードフは片隅だけではなく、一つの部屋を借りていたのである。もっとも、その部屋は通りぬけになっていた。……アマリヤ・リッペヴェフゼルは自分が借りた住居をこまかくいくつにも仕切ってまた貸ししていたのである。」といった記述などはほとんど探偵的と言っていい。状況を推理しつつ、あたかも事情通になろうとしているかのようにこの描写の書き手=語り手は振舞っている。
ラスコーリニコフは、特に内語で思考していないけれども、「調査・推理」の精神で、目に入った細部と細部とを関係づけて或る意味のレベルを浮かび上がらせようとしているかのようだ──そのように描写の記述がつづいていく。奥の部屋の騒々しさ、戸の隙間から流れ込んでくる波のような煙草のけむり、咳き込んでいるのにそれを閉めようともしない彼女(自傷的?)、目が熱病やみのようにギラギラ光っている彼女の痛ましさ、そんな母親を恐れてこわごわと身をちぢめている子供たち──「いましがたぶたれたばかりらしい」(推理!)──すべての細部が複線的に関係づけられて場面が立体的に描写されている。単なる細部の羅列ではない。そして当然ながら読者は、ここでまたラスコーリニコフがマルメラードフの話を聞いた時の「痛ましさ」と「救いようのなさ」という意味のレベルが再び表現されていることを見出すのだ。
それにしてもカテリーナの「顔貌描写」は印象強い。これが「兆候」であることを考え合わせると、すでにカテリーナの発狂死がここに予告されているかのようだ……。その登場人物の運命(物語上の行く末)を兆候として示すように顔貌描写を組み立てることによって、催眠的実在感を文字上の人物に与えることができるのか……? 確かに散文による描出のメリットって論理性・構造性を入れることができる点だからな。
それにしても、空間描写、空間設計がしっかりしているからこそ、物語の推移においてみじんも無理が生じないというところはあるな。無論伏線設計も重要だが。
●『カラマゾフの兄弟』2巻148-149頁
第五篇第三章
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もっともイワンがいたのは個室ではなかった。そこは衝立で仕切られた窓ぎわの席に過ぎなかったが、しかし衝立のかげになって、中の客の姿は隠れて見えなかった。この部屋は入口の最初の部屋で、横の壁ぎわがビュッフェになっている。ボーイたちが部屋の中をたえず行き来していた。客は退役軍人らしい老人がひとり、隅のほうでお茶を飲んでいるだけだった。そのかわり、他の部屋ではこういう料理店につきものの騒音がざわざわと聞こえ、ボーイを呼ぶ声や、ビールの栓を抜く音、玉突きの音などがしたり、オルガンが鳴ったりしていた。アリョーシャは、イワンがこの料理店にはめったに来ないことや、概して料理店があまり好きではないのを知っていた。とすると、彼がここにいるのはドミートリイとの約束で落ち合うために違いない。もっとも、そのドミートリイの姿は見当たらなかった。
「魚入りスープか何か注文しようか。いくらお前だってお茶だけで生きているわけじゃあるまい」とイワンは、アリョーシャを誘い込んだことが嬉しくてならないらしく大声で言った。そういう彼はもう食事をすませて、お茶を飲んでいたのである。
「魚入りスープを下さい、そのあとでお茶も。お腹がぺこぺこなんです」とアリョーシャが快活に言った。
「桜ん坊のジャムは? この店にはあるぜ。覚えているかい、お前はまだポレーノフの家にいた時分、桜ん坊のジャムが大好きだったじゃないか」
「そんなことを覚えているんですか。じゃ、ジャムも下さい、今でも大好きなんです」
イワンはボーイを呼んで、魚入りスープと、お茶と、ジャムを注文した。
戸外から室内への空間移動を小説的にどう実現するかの一例。引用部は章の冒頭で情景法の出発点だが、いきなり「もっともイワンがいたのは個室ではなかった」と否定辞の文章で始まっているのが面白い。そしてまずは店内の空間構造をざっと粗書きして、その中を動いているボーイ、そしてその中に配置されている他の客たちを描写していく。さらに空いている個室との対比で「そのかわり、他の部屋ではこういう料理店につきものの騒音がざわざわと聞こえ、……」と「料理店につきもの」という習慣的形容を付しながらさまざまな物音について具体的に列挙。
だが、結局は現前的描写に終始するということをドストエフスキーはしない。「アリョーシャは、イワンがこの料理店にはめったに来ないことや、概して料理店があまり好きではないのを知っていた。」──という記述がはさまることによってこの料理店=空間を時間幅の広い文脈にのっとった場所、すなわち「イワンはめったに来ない」場所として非-現前的に意義付与し、そこからこの場面の単起性を水平方向へふくらましていく。いつものリズムだ。
会話場面で「ポレーノフの家にいた時分」アリョーシャが桜ん坊のジャムを好きだったというディティールが用いられて導入が円滑に行っていることに注目。会話構成の一つの工夫だね。
●『未成年』下262-263頁
第三部第五章3
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モルスカヤ街のこのレストランには、わたしは以前に、忌まわしい堕落と遊蕩の生活を送っていたころ、何度か来たことがあった。だからこれらの部屋と、わたしの顔をじろじろ見て、馴染客と見わけて愛想笑いをうかべるボーイたちの印象、それから、わたしが不意にその中に身をおいて、どうやらもうぬきさしならなくなってしまったらしい、このラムベルトの怪しげな一味の印象、そしてなによりも──わたしが自分から進んである醜悪なたくらみにとびこみ、確実によくない結果に終るにちがいない、という暗い予感、──こうしたもろもろの感じに不意にわたしは胸をえぐられたような気がした。一瞬、わたしはほとんど踵をかえしかけた。しかしその一瞬がすぎた、そしてわたしはとどまった。
なぜかラムベルトがあれほど恐れていたその『あばた面』の男は、もうわれわれの来るのを待っていた。それは実務のほかは頭にないといったそっけない顔をした男で、わたしがほとんど子供のころからもっとも忌みきらっていたタイプの一人であった。年齢のころは四十五、六で、中背で、髪に白いものがまじり、顔はいやらしいほどつるつるに剃って、きちんと刈りこんだ小さな灰白色の頬ひげが、おそろしく平べったい意地わるそうな顔の両側に二本のソーセージみたいにはりついてた。もちろん、この男はおもしろみがなく、ものものしく、口数が少なく、おまけにこうしたタイプの人間の常で、どういうわけか傲慢であった。彼はひどく注意深くわたしを見まわしたが、なんとも言わなかった。ラムベルトの礼儀知らずにはあきれたものだが、わたしたちを一つのテーブルに坐らせながら、別に紹介しようともしなかったので、相手はわたしをラムベルトの子分の一人ととったにちがいないのである。例の若い連中にも(わたしたちとほとんど同時にレストランに入ってきたのだが)、彼は食事のあいだじゅう一言も口をきかなかった、しかし、二人をよく知っているらしいことは、ようすでわかった。彼はなにごとかをラムベルトとだけ話していたが、それもほとんどひそひそ声で、しかもしゃべっているのはほとんどラムベルトのほうで、あばた面の男はぽつりぽつりと、怒ったみたいな、きめつけるような文句をなげかえすだけであった。彼は傲然とかまえて、意地わるく、鼻の先であしらうような態度をとっていたが、ラムベルトのほうはまるで逆で、ひどく興奮したようすで、明らかに相手をなんとか言いくるめて、なにかのたくらみに誘いこもうとやっきとなっていた。一度わたしが赤ぶどう酒のびんに手をのばしたとき、あばた面の男がいきなりシェリー酒のびんをつかんで、わたしのまえに突きだした。彼はそれまで一言もわたしに口をきかなかったのである。
「これをやってみたまえ」と、わたしのまえにびんを突きだしながら、彼は言った。
章冒頭の情景法。そして戸外から店内への移行の場面。とはいえ、いきなり段落はじめに「モルスカヤ街のこのレストランには、わたしは以前に、忌まわしい堕落と遊蕩の生活を送っていたころ、何度か来たことがあった。……」と習慣的記述が来ていることから分かるように、オーソドックスな情景法ではない。
というか、ドストエフスキーにおいてはたまに、事態はちゃんと進行しているにもかかわらず、時間が止ってしまったかのように感じられる情景法が使用されることがある。引用部では、客観的なクロノロジカルな時間が経過しているというよりは、滲み広がっていく「わたし」の主観的・習慣的関心に沿って(印象の)叙述が並べられているかのようだ。「あばた面の男」の描写など、完全に描写休止法(習慣的かつ説明的──「わたしがほとんど子供のころからもっとも忌みきらっていたタイプの一人であった」)になっている。のみならず、もっとも注目すべきは「彼は食事のあいだじゅう一言も口をきかなかった」の一文だろう。これによって「食事のあいだ」という時間幅を俯瞰して眺め渡している、非-現前的な(瞬間に定位しない)視点から叙述がなされていることが明らかになる。実際、この引用部は「わたし」の手記として後から回想されたものとして書かれているのだから、まあ語り手がこういう視点を取ることも十分可能なわけだ。ありていに言うと、ここで主人公がレストランに入った時点で──その瞬間においてすでに──「食事のあいだじゅう」という時間性を俯瞰して眺める視点が可能になっており、食事をする前から、食事をするあいだずっとあばた面の男が一言も口を聞かないことが、語り手には分かっているのである。それがこういう叙述スタイルとして表われることになる。
●『地下室の手記』134-135頁
第二部第五章
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何に目をくれようともせず、ぼくは部屋のなかを歩きまわった。そして、どうやら、ひとりごとを言っていたらしい。ぼくは、まるで死地から救われた思いで、その喜びを身体中で実感していた。相手さえいれば、ぼくは平手打ちをくらわしたにちがいなかった。ぜったいまちがいなく、くらわしていただろう! ところが、いま彼らはいない……何もかも消滅して、状況はがらり変ってしまったのだ!……ぼくは周囲を見まわした。まだ納得がいかなかった。入ってきた若い娘を、ぼくは反射的に見やった。新鮮な、若々しい、いくらか青ざめた顔が目の前をかすめた。黒い眉がまっすぐに引かれ、まじめそうな、そして、いくらかびっくりしたような目つきをしていた。ぼくはとたんに好感をもった。もし彼女がにやにやしていたら、ぼくは彼女を憎んだにちがいない。いくぶん緊張気味に、なおも目をこらして、ぼくは彼女に見入った。まだ考えがよくまとまらなかった。この顔には何か素朴で、善良なものがあったが、なぜか奇妙なくらいきまじめな感じだった。このために彼女はこの店で売れ残っていて、あの馬鹿者どもも一人として目をつけなかったのに相違ない。もっとも、彼女は美人とはいえなかった。それでも背は高く、がっしりと、よく整った身体つきをしていた。服装はみすぼらしいくらい質素だった。何やらみにくいものが、ちくりとぼくの心を刺した。ぼくはまっすぐに彼女のほうへ歩み寄った……
ドストエフスキーの外貌描写の適確さには怖れいる。この娘は単なる醜い娼婦ではない重要な人物なのだが、その複雑さを最初の描写で完全に予告し切っている。とくに「いくらかびっくりしたような目つき」が決定的に重要。それを「奇妙なくらいきまじめな感じ」と同居させるドストエフスキーのセンス。この娘がいずれ「可愛く」見えてきたとしても(それは凡俗の言う可愛さとはまったく別種のもの)不思議ではない……。
●
------------------------------------- タイプ【D-9】登場人物の身体性(身振り・仕草・目線・ニュアンス・相互反応の演出) ▲
●『罪と罰』下102-108頁
第四部第五章
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「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、ぼくとあの……殺された老婆の関係について……正式に……尋ねたいとか……」とラスコーリニコフは改めて言いだした。
《チェッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》という考えが彼の頭をかすめた。《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》というもうひとつの考えが、すぐにそのあとから稲妻のようにひらめいた。
そして不意に彼は、自分の猜疑心が、ポルフィーリイにちょっと会って、一言二言ことばをかわし、一、二度視線をまじえただけで、一瞬のうちに早くもおそるべき大きさに成長してしまったことを感じた……これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ。《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》
「ああ、そうでしたね! でもご心配なく! 急ぐことはありません、時間は十分にあります」とポルフィーリイはテーブルのそばを行き来しながら、呟くように言った。彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。しかもそうしている彼のころころふとった小さなまるい身体が、まるでマリがあちらこちらへころがっては、すぐにはね返ってくるようで、なんとも奇妙な感じだった。
「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……して、煙草はすいます? おもちですか? さあどうぞ、巻煙草ですが……」彼は客に巻き煙草をすすめながら、話をつづけた。「実は、あなたをここへお通ししましたが、すぐその仕切りのかげが、ぼくの住居なんですよ……官舎ですがね、でもいまは当分の間、自宅から通いです。ちょっとした修理をしていたんでね。もうほとんどできあがりました……官舎ってやつは、ご存じでしょうが、いいものですよ、──そうじゃありません? え、どう思います?」
「そう、いいものですね」と、ラスコーリニコフは嘲笑うような目で相手を見ながら答えた。
「いいものです、いいものですよ……」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは急に何かぜんぜん別なことを考えだしたように、こうくりかえした。「そうです! いいものです!」しばらくすると、不意にひたとラスコーリニコフを凝視しながら、二歩ほどのところに立ちどまって、ほとんど叫ぶように言った。官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた。
しかしこれはラスコーリニコフの憎悪をますますあおりたてた。そして彼は相手を愚弄するかなりうかつな挑戦を、もうどうしてもこらえることができなかった。
「ところで、何ですか」彼はほとんど不敵といえる目で相手をにらみながら、しかも自分の不敵さによろこびを感じているような態度で、こう尋ねた。「およそ検事と名のつくものには、はじめは遠い些細なことか、重要でも、まるで無関係なことからはじめて、いわば、容疑者を元気づけ、というよりは油断させ、注意をそらしておいて、不意に、まったく思いがけぬところで、何かぜったいのきめ手となる危険な質問をいきなりあびせかけて、相手の度胆をぬくという、捜査の規則というか方法というか、そういうものがあるそうですね、そうですか? そのことは、あらゆる法規や判例にいまでもちゃんと述べてあるそうじゃありませんか?」
「それはまあ、そうですが……どうしたんです、あなたはどうやら、わたしが官舎の話をしたのを、その……え?」
そう言うと、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは目をそばめて、ぱちッと目配せした。何か愉快そうなずるい表情がちらと彼の顔をはしり、額のしわがのび、目が細くなって、間のびのした顔になったかと思うと、とつぜんけたたましく笑いだした。彼は全身をふるわせながら大きくゆすぶり、まっすぐにラスコーリニコフの目を見つめたまま、笑いつづけた。ラスコーリニコフもいくらか無理に、作り笑いをしようとした。ところがポルフィーリイが、ラスコーリニコフも笑っているのを見て、いよいよおさえがきかなくなり、顔を真っ赤にして腹をかかえて笑いだしたとき、ついにラスコーリニコフの嫌悪はいっさいの警戒心を踏みこえてしまった。彼は笑いをやめ、むずかしい顔をして、相手が何かふくむところありげに絶えまない笑いをつづけているあいだ中、その顔から目をはなさずに憎悪をこめてにらみつづけていた。しかし、うかつさは明らかに双方にあった。つまり、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは面とむかって相手を嘲笑し、相手がその嘲笑を憎悪の気持でうけとめているのを見ながら、それにほとんど気まずさを感じていない様子だった。これはラスコーリニコフにはひじょうな意味のあることだった。彼はさとった。きっと、さっきもポルフィーリイ・ペトローヴィチは気づまりなどぜんぜん感じはしなかったのだ、かえって、彼ラスコーリニコフのほうがわなにおちたのかもしれぬ。とすると、ここには明らかに彼の知らない何かある、何かの目的がある。もしかしたら、もうすっかり手筈ができていて、もうすぐそれが正体をあらわし、頭上におそいかかってくるのではなかろうか……
彼はただちに用件にとりかかるつもりで、立ちあがると、帽子をつかんだ。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」と彼は決然とした態度で言ったが、その声にはかなりはげしい苛立ちがあった。「あなたは昨日ある尋問のためにぼくが来ることを、希望しておられましたね(彼は尋問という言葉に特に力を入れた)。それで、ぼくは来たわけです。さあ何なりと、聞いてください。なかったら帰らせていただきます。ゆっくりしていられません、用があるんです……ぼくは、あなたも……ご存じの……あの馬車にひかれて死んだ官吏の葬式に行かなければならないのです……」と彼はつけ加えたが、すぐにそんなよけいなことを言った自分に腹がたって、ますます神経を苛立ててしまった。「こんなことはもううんざりです、おわかりですか、もう何日になります……ひとつにはこのために病気にもなったんです……くどいことは言いません」病気のことなど言ったのは、ますますまずかったと感じて、彼はほとんど叫ぶように言った。「要するに、尋問するか、いますぐ帰すか、どっちかにしてください……尋問なさるなら、形式どおりにねがいます! それ以外はごめんです。だから今日のところはこれで失礼します、いまあなたとこうしていてもしょうがないですよ」
「とんでもない! どうしてそんなことを! いったいあなたに何を尋問するんです」とっさに笑うのをやめて、調子も態度もがらりと変えて、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはあわててのどをつまらせながら言った。「まあ、どうぞ、ご心配なく」彼はまたせかせかとあちらこちらへ歩きだしたかと思うと、とつぜんしつこくラスコーリニコフに椅子をすすめたりしながら、ちょこまかしだした。「時間はありますよ、時間はたっぷりあります。そんなことはみならちもないことですよ! わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……わたしはあなたをお客として迎えています。ロジオン・ロマーヌイチ、不躾に笑ったことは、どうかかんべんしてください。ロジオン・ロマーヌイチ? たしかこうでしたね、あなたの父称は?……わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……笑いによわいんですな、脳溢血の体質のくせにね、まあ、おかけくださいな、どうしたんです?……さあ、どうぞ、さもないと、気にしますよ、ほんとに怒ったんですか……」
ラスコーリニコフはまだ怒ったしかめ面をしたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと様子をうかがっていた。それでも、彼は坐った。しかし帽子は手からはなさなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはせかせかと室内を歩きまわり、また客と目の合うのをさけるようにしながら、つづけた。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、われわれの周囲では、つまりわがロシアではですね、特にわがペテルブルグの社会では、もし二人の頭のいい人間が、それほど深い知り合いではないが、いわば、互いに尊敬しあっている、つまりいまのわたしとあなたみたいなですね、いっしょになると、まず三十分くらいはどうしても話のテーマを見つけることができないで、──互いにこちこちになって、坐ったまま気まずい思いをしている。誰にだって話のテーマはあるんですよ、例えば、婦人方とか……上流社会の人々なんかは、いつだって必ず話のテーマをもってます、それがきまりみたいになってるんですよ。ところが、わたしたちみたいな中流階級の人間は、みな恥ずかしがりやで、話下手で……つまりひっこみ思案なんですね。それはどこからくると思います? 社会的な関心がないとでもいうのでしょうか、それとも正直すぎて、互いに相手を欺すのがいやなんでしょうか、わたしにはわかりません。え? あなたはどう思います? まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気がきじゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」
ラスコーリニコフは帽子はおいたが、あいかわらず黙りこくって、むずかしい顔をしたまま真剣にポルフィーリイの中身のない要領を得ないおしゃべりに耳をかたむけていた。《こいつ何を言っているのだ、本気で、こんなあほらしいおしゃべりでおれの注意をそらそうとでも思っているのか?》
一つ一つの科白について細かなニュアンス、身振り、仕草、動作が指定されている対話場面。科白のやり取りが途切れたところでも、ラスコーリニコフとポルフィーリイの目線の緊迫した交わし合いなど緻密な相互反応が描き込まれている。
ポルフィーリイの「ああ、そうでしたね! でもご心配なく! 急ぐことはありません、時間は十分にあります」「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……」というのは字面だけ見れば平凡な科白だが、「彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。」という奇妙な動きが合間に挟まれることによって、何でもない上辺がその裏に不穏なものを隠しているように響いてくる。実際、状況としてここでポルフィーリイはラスコーリニコフを殺人犯だと疑っているのだが、明らかな証拠が何もないので、この好機を捉え、ラスコーリニコフを罠に掛けて何とか彼自身の推理を裏付ける何かを相手から引き出したいと願っている、その秘めた意図が、彼の振る舞いを異様に落ち着きのないものにしている。対してラスコーリニコフは、自分が疑われていることに確証はないが、ポルフィーリイの態度の異様さに無意識に挑発されて、自分を抑えようとしながらもやはり普通でない態度を見せてしまうことになる。
「そう、いいものですね」──このラスコーリニコフの科白は「嘲笑うような目で相手を見ながら」言われるものとして演出されている。当然ながら「官舎ってやつは、いいものですよ」というポルフィーリイの言葉に同調するつもりで言っているのではないということだ。
それを受けてポルフィーリイは、「いいものです、いいものですよ……」「そうです! いいものです!」と、官舎が良いものだ、ということを必要以上にくり返し言った後に、ラスコーリニコフを凝視する。完全に言っていることと身振りとが乖離していて、この科白が表面どおりの意味で言われているのではないことが予感される。それは地の文でもフォローされている。「官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた。」
そしてラスコーリニコフの「ところで、何ですか……およそ検事と名のつくものには、はじめは遠い些細なことか、重要でも、まるで無関係なことからはじめて、いわば、容疑者を元気づけ、というよりは油断させ、注意をそらしておいて、不意に、まったく思いがけぬところで、何かぜったいのきめ手となる危険な質問をいきなりあびせかけて、相手の度胆をぬくという、捜査の規則というか方法というか、そういうものがあるそうですね……」というポルフィーリイに向けての科白は、字面だけ見るときわめて怜悧な言葉に思えるが、地の文も含めて読むと、ポルフィーリイからの暗示的な圧迫に耐えられなくなって、挑発に乗ってしまった攻撃性の発露として彼が思わず口にしたもので、「相手を愚弄する」「ほとんど不敵といえる目で相手をにらみながら、しかも自分の不敵さによろこびを感じているような」ニュアンスを帯びたものとして演出されている。
このラスコーリニコフの挑発がどのような効果をもたらしたか。ポルフィーリイはちょっと虚を衝かれて驚くが、次の瞬間には愉快そうに目配せして、けたたましく笑い出す。「彼は全身をふるわせながら大きくゆすぶり、まっすぐにラスコーリニコフの目を見つめたまま、笑いつづけた。」それに対してラスコーリニコフも、うっかり挑発に乗ってしまったことを紛らすみたいに無理に笑おうとするが、それが上手くいかず、するとポルフィーリイがそれを見てますます顔を真っ赤にして大笑いし始めたので、ついに彼は、自分の相手への嫌悪感を剥き出しにしてしまう。「彼は笑いをやめ、むずかしい顔をして、相手が何かふくむところありげに絶えまない笑いをつづけているあいだ中、その顔から目をはなざすに憎悪をこめてにらみつづけていた。」もちろんそれは危険なことだ、何もなければ平然としていられるはずなのに、そこでカッとなってしまうのは、何か自分が問題を抱えているからだと思われてしまうではないか……。だがあまりにもポルフィーリイの態度が自分を愚弄しすぎているので、かえってラスコーリニコフは、一つのことに思い当たる。ポルフィーリイだって俺を尋問しようと思うなら慎重にやらなければならないはずではないか。その慎重さをまったく必要としていないということは、何か確実にこちらを罠に嵌められる手筈がすっかり整っているからではないか?……上辺だけ見ていればポルフィーリイが笑い出したというだけだが、演出的にはそういう緊密な読み合い=サブテキストが補われている。
だがやはりラスコーリニコフは動揺を抑え切れない。立ち上がって帽子をつかみ、決然とした態度を取ろうとするが、「その声にはかなりはげしい苛立ち」を抑えられず、さらに言葉を続けているうちに自分の言っていることの拙さを意識し──「……と彼はつけ加えたが、すぐにそんなよけいなことを言った自分に腹がたって、ますます神経を苛立ててしまった。」「病気のことなど言ったのは、ますますまずかったと感じて、彼はほとんど叫ぶように言った。」──最後には自制も何もなく叫んでしまう。
そんなふうなラスコーリニコフに対して、今度はポルフィーリイはがらりと態度を変えて急にせかせかと気を回しはじめる。ちょこまかしつつしきりに椅子を勧める(ラスコーリニコフは怒ったしかめ面を崩さぬまま、また坐る)。科白の内容もそれに即して躁病的なお喋りの饒舌に流れていく。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、……まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気がきじゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」しかも、彼はふたたびラスコーリニコフと目が合うのを避けて室内を歩き回りながら喋りつづける。実はこれは、後に時間稼ぎのための振舞いだったということが分かる。そういう裏があってのこのような中身のない長科白になっているわけ。
●『罪と罰』上228-230頁
第二部第四章
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「ええ、癪だなあ、今日はちょうどぼくの引っ越し祝いなんだよ。ここからほんの二またぎのところなんだ。こいつも来てくれるといいんだがなあ。ソファに寝てぼくたちの間にいてくれるだけでもいいよ。きみは来てくれるだろう?」と、ラズミーヒンは不意にゾシーモフのほうを向いた。「忘れないでくれよ、いいね、約束したよ」
「まあね、ただちょっとおそくなるけど。ご馳走は何だね?」
「別に何もないよ、茶と、ウォトカと、鯡だけだ。ピローグは出るよ。ほんの内輪だけの集まりさ」
「で、顔ぶれは?」
「なあに、みんな近所の連中で、ほとんど新しい顔ぶればかりさ、もっとも、──年とった伯父だけは別だが、まあこれだって新顔みたいなものさ。昨日何かの用事でペテルブルグへ出て来たばかりだ。会うのは五年に一度くらいだよ」
「どんな人だね?」
「なに、田舎の郵便局長で一生眠ったような生活をしてきて……恩給をもらって、六十五になって、まあとりたてて話すほどのこともないよ……でも、ぼくは伯父が好きなんだよ。ポルフィーリイ・ペトローヴィチも来るよ。ここの予審判事で……法律家だよ。そうそう、きみも知ってるじゃないか……」
「あいつもきみの親戚かね?」
「ひじょうに遠い、ね。どっかでつながってるらしいよ。どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ? そういえば一度きみは彼とやりあったことがあったね。じゃあ、きみは来ないかもしれんな?」
「あんなやつごみみたいなもんさ……」
「そうこなくちゃ。それからと、顔ぶれは──学生たち、教師、役人が一人、音楽家が一人、士官、ザミョートフ……」
「ぼくには解せんのだがねえ、きみとかこの男に」ゾシーモフはラスコーリニコフに顎をしゃくった。「そのザミョートフとやらと、どんな共通点があり得るのかね?」
「やれやれ、理屈っぽい男だなあ! 何かといえばすぐ原則だ!……きみは全身が原則というバネでかためられているんだよ。自分の意志で向きを変えることもできん。ぼくに言わせれば、人間がいい──それが原則だよ、それ以上何も知りたいとは思わんね。ザミョートフは実にすばらしい人間だ」
「それが、甘い汁を吸ってか」
「なに、甘い汁を吸ってるって、そんなことどうでもいいじゃないか! 甘い汁を吸ってるのが、どうしたというんだ!」どういうわけか不自然に苛立ちながら、ラズミーヒンはいきなり叫んだ。「彼が甘い汁を吸っているのを、ぼくがほめたとでもいうのか? ぼくは、彼は彼なりにいいところがあると言っただけだ! 実際、どこから見ても非の打ちどころのないなんて人間は、何人もいやしないよ! 正直のところ、ぼくなんか臓腑ぐるみすっかりひっくるめても、焼いた玉ねぎ一個くらいの値打ちしかないだろうな、それもきみもおまけにつけてさ!……」
「それは少なすぎる。ぼくならきみに玉ねぎ二つ出すね……」
「ぼくはきみには一つしか出せんな! さあもっとしゃれを言いたまえ! ザミョートフはまだ子供だよ、少し鍛えてやるんだ。だってあの男は味方にしておく必要があるからな、突っ放しちゃ損だ。人間は突っ放しちゃ、──矯正はできんよ、まして子供はな。子供をあつかうには特に慎重さが必要だ。おいきみ、進歩的石頭、何もわかるまい! きみは人間を尊敬しないで、自分を侮辱している……ところで、なんなら話してもいいが、ぼくと彼の間には、どうやら、一つの共通の問題が生れたらしいんだよ」
「聞きたいね」
会話場面。ラズミーヒンとゾシーモフの会話。
ラズミーミンはあたかも一科白ごとに体勢が変わっているかのようだ。一科白ごとにゾシーモフの方を振り向いているかのようだ。そんな身振りが見えてくる。なぜだろうか。ラズミーヒンがリアルタイムで対話相手に反応しつつ(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」)、自分の意識の中に生じた考え・感情をすべてあけすけに口に出してしまっているから、ではないか。
最初からしてそうだ。「ええ、癪だなあ」「こいつも来てくれるといいんだがなあ」──こういう発言はラスコーリニコフであればそれを公にして相手に伝わってしまうことが自分にとってどんな利益・不利益を生むか計算してから口に出すはずだが、ラズミーヒンはそもそも相手に伝わっているかどうかということさえ気にしていないっぽい。だから「まあこれだって新顔みたいなものさ」「でも、ぼくは伯父が好きなんだよ」「やれやれ、理屈っぽい男だなあ! 何かといえばすぐ原則だ!」「なに、甘い汁を吸ってるって、そんなことどうでもいいじゃないか!」「実際、どこから見ても非の打ちどころのないなんて人間は、何人もいやしないよ!」「人間は突っ放しちゃ、矯正はできんよ、まして子供はな」──彼は相手の言葉に触発されてその場で生じて来た考え・感情を何でも(余計なことまで、相手がそれを聞きたがっているかどうかもおかまいなく)口に出して表出してしまう。どうも、ラズミーヒンは相手の反応に気を配っているというより、何でもかんでも矢継ぎ早に口に出すので時にむしろ相手の反応の「無さ」に引っ掛かって、科白の中でさらに相手に呼びかけることになるのか(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」「おいきみ、進歩的石頭、何もわかるまい!」)。とにかくこの思い付くままに表出される「内語」という逆説的形式の、特に感情面でのあけすけさが、ただ科白だけのところにラズミーヒンの身振りさえ想起させる所以だろう。
ゾシーモフの方はあくまで、ラズミーヒンの思い付くままに表出される考え・感情を触発するために、短い質問・疑問を投げ掛ける役割のみをここでは担っている。ゾシーモフの科白を読んでいても彼の身振りが想起されるということはない。
もう少し一般的なことを記すと、何故かドストエフスキーの書く会話場面では、登場人物間でのリアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていくような印象がある。以前書いた分析を引用する。《だがそれだけではない。ドストエフスキーの対話場面は何かしら尋常ならぬところがある。なんというか、会話の流れと並行して、あの「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」が続いているかのようなのだ。例えばラスコーリニコフの内界と外界がいよいよぶつかった瞬間と言いうる、マルメラードフに話しかけられた直後には、ラスコーリニコフの内面に事件的な心理が動き出す。「彼はついいましがた、ちらと、どんな相手でもいいから話しあってみたいと思ったばかりなのに、実際に言葉をかけられてみると、たちまち、彼の人間にふれる、あるいはふれようとするだけの、あらゆる人々に対するいつもの不快な苛立たしい嫌悪感をおぼえた。」出掛けた好奇心が引っ込む。いわばここでも単なる心理描写(地の文の紋切り型!)ではなくて、内面と外部世界との立体的な対話性がつねに成り立つように記述がつづいていっているかのようだ。そしてマルメラードフの「もう五晩になります」の言葉を受けてはじめて相手の服や髪の毛に乾草が付いていることに気付く流れもまた、表面的な会話の流れの深層に秘められた事実と意味の感触があることを、すなわち小説全体がそこで成立している意味のレベルが叙述の中で構造化されていることを示している。》──地の文の中だけでなく、科白そのものの中にも、深層に秘められた事実と意味の感触がリアルタイムに反映していくと考えるべきだろう。
●『罪と罰』上405-408頁
第三部第三章
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「まあ! 気絶させちゃって!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「いえ、いえ……なんでもありませんよ……つまらんことです!……ちょっとめまいがしただけです。気絶なんてとんでもない……よくよく気絶の好きな人たちだ!……ウン! そう……何を言おうとしたんだっけ? そうそう、どうしておまえは、彼を尊敬することができ、そして彼が……人格を認めてくれることを、今日にも確認できるんだい、たしかそう言ったね? おまえは、今日、と言ったようだったね? それともぼくの聞きちがいかな?」
「お母さん、ピョートル・ペトローヴィチの手紙を兄さんに見せてあげて」とドゥーネチカは言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはふるえる手で手紙をわたした。彼は大きな好奇心をもってそれを受けとった。が、それをひろげるまえに、彼は不意にどうしたのか、びっくりしたようにドゥーネチカを見た。
「おかしい」彼は突然新しい考えにゆさぶられたように、ゆっくり呟いた。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ? この騒ぎはなんのためだ? うん、誰でも好きなやつと結婚すればいいじゃないか!」
彼は自分に言いきかせるようだったが、かなりはっきり声にだして言って、しばらくの間、当惑したように妹の顔を見つめていた。
彼は、とうとう、まだ異様なおどろきの表情をのこしたまま、手紙をひらいた。そしてゆっくり入念に読みはじめて、二度読み直した。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはひどく不安気だった。ほかのみんなも何か特別なことが起りそうな気がしていた。
「おどろいたねえ」と彼はしばらく考えてから、母に手紙をわたしながら、特に誰にともなく言った。「だって彼は弁護士で、忙しくやっているんだろう、話だってまあまあだ……くせはあるけど、ところが書かせるとまるででたらめじゃないか」
一座はちょっとざわめいた。これはまったく予期しなかったことだからである。
「でも彼らはみなこういう書き方をするよ」とラズミーヒンはどぎまぎしながら言った。
「じゃ、きみは読んだのか?」
「うん」
「わたしたちが見せたんだよ、ロージャ、わたしたちは……さっき相談したんだよ」とおろおろしたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をだした。
「これは裁判所独特の文体だよ」とラズミーヒンがさえぎった。「裁判所の書類はいまでもこんなふうな書き方だよ」
「裁判所の? うん、たしかに裁判所で書きそうな手紙だ、事務的で……まあそれほど文法的にでたらめだともいえないが、しかしひじょうに文学的ともいいかねる。まあ事務的だな!」
「ピョートル・ペトローヴィチは満足に教育を受けていないことを、かくしてはおりません、自分で自分の道をきりひらいたことを、かえって誇りにしているくらいですわ」と兄の新しい調子にいくらかむっとして、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。
「まあいいさ、誇りにしているなら、それだけのものがあるのだろう、──ぼくは何も言うまい。ドゥーニャ、おまえは、ぼくがこの手紙を読んでこんなつまらないけちをつけただけなので、侮辱を感じたらしいね、そして、怒らせておいておまえをやっつけるために、ぼくがわざとこんなつまらないことを言いだしたんだと、思っているだろう。とんでもない、文章の中に一個所、この場合ぜったいに読みすごせない意見が、ぼくの頭にピンときたのだ。というのは《自業自得》という表現だ。ひじょうに意味ありげに、しかもはっきりと書かれている。しかもそればかりか、ぼくが来たら即座に退出する、という脅迫がある。この退出するという脅迫は──いうことを聞かなければ、おまえたち二人をすてるぞ、という脅迫と同じじゃないか、しかもわざわざペテルブルグまで呼び出しておきながらだ。ドゥーニャ、おまえはどう思う、例えば彼か(彼はラズミーヒンを指さした)、ゾシーモフか、あるいはわれわれの誰かがこんなことを書いたら、それこそ腹を立てるだろう、それがルージンなら、こんなことを書かれても、腹を立てられないのか?」
「ううん」とドゥーネチカは元気づきながら、答えた。「この手紙の表現は余りにナイーヴで、あのひとは、きっっと、ただ書くのが上手じゃないだけなんだってことが、よくわかったわ……兄さんの考察は実にみごとよ。思いがけぬほどよ……」
滅茶苦茶複雑な情景法。ドストエフスキーにとってはこれがデフォだからヤバい。
この場面にいるのはラスコーリニコフ、ドゥーネチカ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、ラズミーヒンの四人。彼らが四者四様の振舞いを見せ、その中心にルージンの「手紙」がある。
一読して分かるのは、一つ一つの科白が向けられている相手との兼合いで非常に多様なベクトルを描いているということ。
(1)最初のプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの科白は、誰に言うでもなし、ラスコーリニコフの真っ青になった様子を見て、それを実況気味に叫んだもの。
(2)次のラスコーリニコフはそのプリヘーリヤの声に応えながら、何かを思い出し、科白の後半でベクトルをドゥーニャ(「おまえ」としか呼ばれないが)に向けて或る質問をする。
(3)ドゥーニャはそれに直接答えずに、母親にベクトルを向けて、ルージンの手紙を見せるように言う。
(4)突然、ラスコーリニコフは妙なことを呟く。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ?……」これは内語がそのまま表出されてしまったような趣きで、それゆえに他の誰に対してよりも自分自身にベクトルの向いた科白だと考えられる。
(5)手紙を読んだ後のラスコーリニコフの科白、これも「特に誰にともなく」言われたもので、或る意味自分自身にベクトルの向いた、内語の呟きの表白のようなもの。さらに言えば、ここではルージンの手紙が一つの「登場人物」と化して、それにベクトルが向いたつぶやきだと言えるかもしれない。「おどろいたねえ……」
(6)地の文でだが、「一座はちょっとざわめいた」。ということは、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、ラズミーヒン、ドゥーネチカがざわめいたという意味だ。その反応を「一座」のものとしてラスコーリニコフの直前の科白へベクトルを向けた「ざわめき」と描写したわけだ。
(7)ラズミーヒンが、ルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けた科白で口を出す。
(8)それを受けて、ラスコーリニコフのラズミーヒンへの問い掛け。
(9)それに対するラズミーヒンの返事。
(10)そのやりとりに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが主にベクトルをラスコーリニコフに向けて「口を出した」。
(11)ラズミーヒンが(7)の反復のような形で、やはりルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けたような科白で自分の判断を言う。
(12)それを受けて、ラスコーリニコフもルージンの手紙にベクトルを向けたような自分の判断を口にする。
(13)そこへ、ドゥーニャが、やはりルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けてラスコーリニコフの判断を非難するような形で、自分の判断を語る、つまり口を出す。
(14)それを受けてラスコーリニコフ、半分はやはりルージンの手紙にベクトルを向けてその文体の分析しつつの、半分はドゥーニャにベクトルを向けた彼女に対する応答として長い科白を吐く。その中でラズミーヒンに言及する際にはラズミーヒンを指さす。科白の最後にはドゥーニャに答えを求めるように問い掛ける。
(15)それに対するドゥーニャの答え。
普通の小説家が描く情景法の中で、これほどの密度で一つ一つの科白のベクトルが乱反射し交錯することは、まずないと言っていい。(3)のように直接の応答を求める科白に対しベクトルをずらして別の人物を志向するような科白、(4)のような内容は独り言なのに思いっきり発話される自己対話的な科白、(10)のようにほぼスルーされるノイズのような口出し、等々さまざまなパターンが駆使され、おまけに(7)のようにルージンの手紙とラスコーリニコフと半々にベクトルを向けたような二つの中心がある楕円形の科白によって、「ルージンの手紙」の実在を登場人物間のやり取りによって浮び上がらせる、という技法さえ用いられている。
かつて『罪と罰』の別の個所を《ラズミーミンはあたかも一科白ごとに体勢が変わっているかのようだ。一科白ごとにゾシーモフの方を振り向いているかのようだ。そんな身振りが見えてくる。なぜだろうか。ラズミーヒンがリアルタイムで対話相手に反応しつつ(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」)、自分の意識の中に生じた考え・感情をすべてあけすけに口に出してしまっているから、ではないか。》──といった分析をしたことがあるが、そこで連ねられる科白のベクトルの豊富さという点からもこの「なぜだろうか」に答えることができそうだ。
●『罪と罰』上37-39頁
第一部第三章
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マルメラードフは言葉をきって、笑おうとしたが、不意に下顎がひくひくふるえだした。それでも、彼はこらえていた。この居酒屋、おちぶれはてた姿、乾草舟の五夜、酒びん、そのくせ妻と家族に対するこの病的な愛が、聞き手の心を乱した。ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持で、聞いていた。彼はこんなところへ寄った自分がいまいましかった。
「学生さん、ねえ学生さん!」とマルメラードフは気をとり直して、大きな声で言った。「あんたにも他の連中みたいに、こんなことはつまらないお笑い草で、わたしの家庭生活のくだくだしい馬鹿話が、ただいやな思いをさせただけかもしれん。だがわたしにしてみれば、笑いごとじゃないんだよ! だって、その一つ一つが胸にこたえますでなあ……まったく、わたしの人生に訪れたその天国のような一日は、昼も、夜も、まる一日中わたしまでが、あれやこれや空想しながら暮しましたよ。これですっかり生活をたて直せる、子供たちには着るものを買ってやり、家内を安心させ、たった一人の娘を泥水の中からあたたかい家庭へひきもどしてやろう……それからあれもしよう、これもしよう……いろんなことを考えましたよ……無理もないですよ、ねえ。それがですよ、あんた、(マルメラードフは突然誰かにどやされでもしたようにぎくっとして、顔をあげ、じっと聞き手に目を注いだ)、それが、あくる日になると、あんなにいろいろ楽しい空想をしたあとでですよ、つまりいまからかぞえるとちょうど五昼夜まえになりますが、日暮れ近く、わたしはうまいことだまして、まるでこそ泥みたいに、カテリーナ・イワーノヴナのトランクの鍵をぬすみ出し、持ちかえった俸給ののこりを、いくらあったかおぼえていませんがね、とにかく全部かっさらって、そして、ごらんなさい、いまのこのざまですよ! 家を出てからもう五日、家じゃ血まなこになってわたしをさがしていることでしょうよ、そして勤めもおじゃん、制服はエジプト橋のたもとの飲み屋に眠ってますわ、代りにこのぼろをあてがわれたってわけだよ……これで何もかもおしまいさ!」
マルメラードフは拳骨で自分の額をゴツンとたたくと、歯をくいしばり、目をつぶって、片肘をテーブルにおとして強くもたれかかった。ところが一分もすると、その顔が急に変って、妙にわざとらしいずるさと、つくった図々しさで、ラスコーリニコフの顔を見上げ、にやッと笑って、言った。
「今日はソーニャのとこへ行ったんだよ、酒代をねだりにね! へへへ!」
ここではマルメラードフの科白だけでなく地の文にも注目しよう。単に独創的な科白を登場人物に吐かせるだけがドストエフスキーの才能ではない。彼は地の文でも凡百の作家がまったく意識できないような稠密な記述を実現する。というのは、ここで地の文はただ記述の水増し、間を持たせるためにマルメラードフとラスコーリニコフの様子を描写しているのではなく、常に対象を触診しながら、小説全体がそこで成立している意味のレベルを感触として示そうとしているということだ。明らかにここで作者=語り手はマルメラードフを愚劣な一家の主としてではなく、痛ましいほどに「救いようのない奴」として描こうとしている。その現実に重ね書きされた「意味」は、ラスコーリニコフの「注意深く聞いて」いる表情(35頁)や、マルメラードフの震える下顎、そして彼の科白における家族への病的な愛と、それと相反する「おちぶれはてた姿」「乾草舟の五夜」「酒びん」(官職復帰に成功したのではなかったのか……)──これらがすべて「調査・推理」されるべき兆候的手掛かりとして提示されており、ラスコーリニコフはそのすべてを言わずとも理解している(「ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持で、聞いていた」)。だからこそ最後の「これで何もかもおしまいさ!」の叫びと拳骨で自分の額をゴツンと叩くしぐさとが、わざとらしくなく真実なものとして強烈に読者の心を乱すのだ。
マルメラードフを嫌悪すべき堕落した人間として描くのでもない。単に可愛そうな精神薄弱な男で許してやるべき男として描くのでもない。マルメラードフをどのような人物として描くかという複雑な意味のレベルは、彼の自己嘲弄的な科白・慨嘆の供述──「そして、ごらんなさい、いまのこのざまですよ!」「だがわたしにしてみれば、笑いごとじゃないんだよ!」──と地の文の「調査・推理」的な描写によって見事に立体的に構造化されている。
余談。対話場面だからこそ聞き手への配慮としての「あんたにも他の連中みたいに、こんなことはつまらないお笑い草で、わたしの家庭生活のくだくだしい馬鹿話が、ただいやな思いをさせただけかもしれん。」といった科白も挟むのは有効だ。途中で括弧で挿入されるしぐさの一片(「マルメラードフは突然誰かにどやされでもしたようにぎくっとして、顔をあげ、じっと聞き手に目を注いだ」)も効果的だ。
●『白痴』下562-564頁
第四篇第八章
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「いまこの家にはおれたち四人のほかには、誰もいないからな」彼は声をたてて言うと、妙な眼つきで公爵の顔をちらっと見た。
すぐつぎの間で、これもごく地味な黒ずくめの服を着たナスターシャ・フィリポヴナも待っていた。彼女は出迎えのために立ちあがったが、微笑も浮べず、公爵にさえ手をさしだそうともしなかった。
彼女のにらみつけるような落ちつきのない眼差しは、いらだたしそうにアグラーヤの上にそそがれた。二人の女性はすこし離れあって、アグラーヤは部屋の片隅のソファに、ナスターシャ・フィリポヴナは窓のそばに席を占めた。公爵とロゴージンはすわらなかった。二人はすわれとも言われなかったのである。公爵はけげんそうに、また痛々しそうな眼つきで、ふたたびロゴージンを見やった。だが、相手はやはり相変らず例の薄笑いを浮べていた。沈黙はさらに数秒間つづいた。
何か無気味な感じが、ついにナスターシャ・フィリポヴナの顔をさっと走った。その眼差しは執拗な断固たる決意にあふれ、ほとんど憎悪の色さえ浮べてきたが、瞬時も客の顔から離れようとはしなかった。アグラーヤはいくらかどぎまぎしたらしかったが、怖気づいた様子はなかった。部屋へ通ったときに、ちょっとその競争相手の顔に視線を投げたばかりで、いまは何か物思いにでもふけっているように、じっと伏し目になってすわっていた。二度ばかり彼女はなんということもなく部屋の中を見まわしたが、まるでこんなところにいて身がけがれるのを恐れるかのように、嫌悪の色がその顔に浮んだ。彼女は機械的に自分の服をなおしたり、一度などは不安そうにソファの片隅へ身を移したほどであった。しかし、そうした動作も、自分ではほとんど意識してないようであった。ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。ついに彼女はナスターシャ・フィリポヴナの眼を、まともにしっかりと見つめた。そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである。女が女を理解したのである。アグラーヤはぎくりと身を震わせた。
「むろんあなたはご存じでしょうね、なんのためにあたくしがあなたをお招きしたか」とうとう彼女は口を開いたが、それはおそろしく小声で、しかもこんな短い文句のなかで二度までも言葉を切ったほどであった。
「いいえ、なんにもしりませんわ」ナスターシャ・フィリポヴナは無愛想な断ち切るような口調で答えた。
緊迫した対決的対話場面の導入となる、パノラマティックな情景法。
パノラマティックな情景法──というのはまず語り手が中立的な位相に立ち、或る登場人物の何かを注視している眼差し、および注視されているもの、および注視しているその人物の様子(表情など)をすべて同時に与え、しかもそれを各登場人物について行うことによって複数の見るもの/見られるもの/見ているものの眼差しの相対性を立体的に描き切るということをやっている情景法の意。引用部でも、「彼女のにらみつけるような落ちつきのない眼差しは、いらだたしそうにアグラーヤの上にそそがれた。」という段落冒頭の描写から始まって、公爵の眼つきとそれが見るもの(ロゴージン)、ロゴージンの表情、ナスターシャの眼差しの表情の変化(「断固たる決意にあふれ」「憎悪の色さえ浮べてきた」)、それが見据えるもの(客の顔=アグラーヤの顔)、アグラーヤの表情、アグラーヤが部屋へ通ってきた時に眼差したもの(「部屋へ通ったときに、ちょっとその競争相手の顔に視線を投げたばかりで、……」)、部屋を見回すアグラーヤ、そのアグラーヤの眼差しの表情(嫌悪の色)、そして──「ついに彼女はナスターシャ・フィリポヴナの眼を、まともにしっかりと見つめた。そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである。女が女を理解したのである。」このように互いに見て見られることによって眼差しの表情を変化させつつ、ついに互いに見つめ合うことによって対決的対話が開始される、というシークエンスの流れは、複数の見るもの/見られるもの/見ているものを同時に与えることのできる語り手によって、パノラマティックに描き出されていると断言できる。引用部はそうした情景法の典型例。
それにしても、地の文の表現の深度と適確さには一々驚かされる。科白に付随する「それはおそろしく小声で、しかもこんな短い文句のなかで二度までも言葉を切ったほどであった」「ナスターシャ・フィリポヴナは無愛想な断ち切るような口調で答えた」といった描写もそうだが、特に注目すべきは「彼女は機械的に自分の服をなおしたり、一度などは不安そうにソファの片隅へ身を移したほどであった。しかし、そうした動作も、自分ではほとんど意識してないようであった。ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。」──これだ。この動作はアグラーヤの自意識の中では絶対に気づき得ないので、「その登場人物の自意識の中に入ってくるものよりも無意識」の方により照準を合わせるという語り手の作為がなければ描写できないものだ。この描写の深度は語り手がどのような位相にあるかということと、不可分である。
全体的に、引用部では文体に薄く広く語り手が溶け込んでいると言える。例えば形容において「いらだたしそうに」「けげんそうに、また痛々しそうな」「いくらかどぎまぎしたらしかった」「何か物思いにでもふけっているように」と概言がしばしば用いられている(とはいえ、肝心の所では完全に登場人物の内面に踏み込んで確言する──「そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである」)のはそのメルクマールだし、とりわけ「ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。」──こうした判断=心理的洞察を下しているのは匿名の語り手以外ではあり得ない。
●『罪と罰』上245-247頁
第二部第五章
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それはもう年ぱいの、いかにも小うるさそうなもったい振った紳士で、すきのない気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず戸口のところに立ちどまって、《これはまた妙なところへまよいこんだものだ?》と目で尋ねるように、とげとげしい露骨なおどろきを示しながらあたりを見まわした。彼は信じられぬらしい様子で、いかにもわざとらしく、意外というよりはいっそ屈辱にたえぬというような色さえうかべて、狭くて天井が低いラスコーリニコフの《船室》をじろじろ見まわしていた。彼はやがてそのおどろきの目を、ほとんど裸に近い格好で、鳥の巣のような頭をして、顔も洗わずに、みすぼらしい汚ないソファに横になったまま、じっと彼を見つめているラスコーリニコフのうえに移した。それから、またゆっくり頭をまわして、服をだらしなくはだけ、無精ひげを生やし、もじゃもじゃ髪のラズミーヒンの姿をしげしげと見まもりはじめた。ラズミーヒンはラズミーヒンで、腰を上げようともせずに、不敵なうさんくさそうな視線をまともに相手の顔にそそいでいた。緊張した沈黙が一分ほどつづいて、やがて、当然予期されたように、場面に小さな変化が生れた。おそらく、いくつかの資料によって、といってもそれは実に明確な資料だが、この《船室》では誇張してきびしい態度を気取ってみたところで、まったくなんの効果もないということをさとったのであろう、紳士はいくぶん態度をやわらげて、きびしさをすっかりなくしてしまったわけではないが、いんぎんにゾシーモフのほうを向いて、一語一語はっきりくぎりながら尋ねた。
「大学生、いや元大学生の、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、こちらでしょうか?」
ゾシーモフはゆっくり身体をうごかした。そしておそらく、返事をしようと思ったらしいが、そのときラズミーヒンが、自分が聞かれたのでもないのに、よこあいからいきなり先をこした。
「彼なら、そら、そのソファに寝てますよ! で、どんなご用?」
この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉が、気取った紳士の足をすくった。彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。
「これがラスコーリニコフですよ!」ゾシーモフは病人のほうを顎でしゃくって、口の中でもぞもぞ呟くように言うと、とたんに大欠伸をした。それもどういうのかけたはずれに大きく口を開けて、必要以上に長くその状態を保っていた。それからゆっくりチョッキのポケットに手をつっこみ、ばかでかいふくれた両蓋の金時計をとり出すと、蓋をあけて、時間を見た。そしてまたのろのろと、いかにもものうげに、それをポケットにしまった。
当のラスコーリニコフはその間ずっと仰向けに寝たまま、黙って、執拗に、といっても何を考えているわけでもなかったが、紳士を見つめていた。いまは壁紙の珍しい花からはなれてこちらを向いている彼の顔は、気味わるいほど蒼ざめて、まるで苦しい手術を終ったばかりか、あるいは拷問から解放されたばかりのように、異常な苦悩があらわれていた。しかし入って来た紳士はしだいに彼の注意をよびおこしはじめた、そしてそれがしだいに強まり、やがて疑惑にかわり、ついで不信になり、恐怖のようなものにさえなった。ゾシーモフが彼をさして、《これがラスコーリニコフですよ》と言ったとき、彼は不意に、とびおきるように、すばやく身を起して、ソファの上に坐り、まるでいどみかかるような、しかしとぎれとぎれの弱々しい声で、言った。
「そうです! ぼくがラスコーリニコフです! ぼくになんのご用です?」
章冒頭からの情景法。これがまったくオーソドックスな情景法でないのは、たとえば「彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。」という描写を見てもわかる。ここで「どうやらからくも……」と推測を述べているのは誰なのか? 語り手だ。つまりここでは現前的に場面を展開させながら要所要所で語り手の声音が溶け込んでいるという繊細微妙な文体になっているというわけ。
全体の文体に薄く広く語り手が溶け込んでいるので、情景法だが叙述が或る人物に焦点化するということは起きない。むしろここで起っているのは、人物が注視しているものと、その人物が注視している様子とを同時に与えるということを、複数の人物=主人公+非-主人公について行う、という、パノラマティックな情景法とでもいいたいような現象の実現だ。第一段落を順に見て行けば分かるとおり、部屋に入ってきた紳士の外貌(人物の様子を与える=ほかの人物が見ているものを同時に与える)→その紳士の目の表情(人物が注視している様子を与える)→その紳士がラスコーリニコフの部屋を見回す(人物が注視するものと人物が注視している様子とを同時に与える)→ラスコーリニコフ、ラズミーヒンの描写(人物が注視するものを与える)→ラズミーヒンが紳士を見返す(注視されている人物が注視している様子を与える)──といった形で、注視している人物、注視される人物(もの)、注視し返される人物、注視する目の表情、注視する目線の移動、とりどりの目線の交錯を立体的に描き切っている。これは「人物が注視しているものとその人物が注視している様子とを同時に与える」ことが可能な語り手の位相からしか捉えられないパノラマティックな情景だ。
「緊張した沈黙が一分ほどつづいて、やがて、当然予期されたように、場面に小さな変化が生れた。」──この一文の効果も面白い。これは「当然予期されたように」という憶断を勝手に持ち込むことでその後の場面の微細な展開を必然にするのだが、こんな判断を下すことができるのも、やはり語り手の位相にほかならない。またこの一文は短い「予告」として働いて、単線的に進みがちな現前的な流れに丁寧な起伏を作っている。
同様に現前的な流れに丁寧な起伏を作っている個所としては、「この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉が、気取った紳士の足をすくった。彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。」といった論理的な描写にも表れている。この個所での紳士の振舞いの描写は、単に現前的な時間の流れに沿って起ったことを順に書いているのではなく、紳士の振舞い(ラズミーヒンの方を向きそうになるが、またゾシーモフの方を向く)の理由(「この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉)まできちんと把捉しつつ推測(「どうやらからくも……」)を交えて、リーズナブルなものとして描いているのだから。
「当のラスコーリニコフはその間ずっと仰向けに寝たまま、黙って、執拗に、といっても何を考えているわけでもなかったが、紳士を見つめていた。」──この段落一文も面白い。これもまた見て見られる視線の交錯をパノラマティックに捉えた情景法の一要素としてのラスコーリニコフの視線の描写だが、「当のラスコーリニコフ」という形で話体の流れによってラスコーリニコフに記述の先を転じつつ、彼の状態を「……ている(いた)」形アスペクトで描き出すという繊細な配慮がこの情景法の立体性を崩さない。しかもこの文章から始まる段落は、「しかし入って来た紳士はしだいに彼の注意をよびおこしはじめた、そしてそれがしだいに強まり、やがて疑惑にかわり、ついで不信になり、恐怖のようなものにさえなった。ゾシーモフが彼をさして、《これがラスコーリニコフですよ》と言ったとき、……」──このくだりからも分かるように、時間を少し巻き戻したところから始まっている、つまりちょっとした錯時法を孕んだ叙述となっており、現前的な時間の流れを単調につづけない複雑な起伏が仕込まれているのだ。面白い。
ちなみに、表情描写において「……ような」「……ように」(「……そうな」「……そうに」「……ふうな」「……ふうに」)の喩えが頻繁に用いられていることにも注目すべきだろう。「《これはまた妙なところへまよいこんだものだ?》と目で尋ねるように」「意外というよりはいっそ屈辱にたえぬというような色さえうかべて」「不敵なうさんくさそうな視線」「まるで苦しい手術を終ったばかりか、あるいは拷問から解放されたばかりのように」──これは語り手が登場人物の誰にも焦点化せずに中立的な距離を保ちつつ情景法を展開しているという手法からして、つまり登場人物の感情をじかに描写できる位相にはいないことからして、必然の文体的特徴だと思える。語り手と登場人物の距離感ということで言えば、「おそらく、いくつかの資料によって、といってもそれは実に明確な資料だが、この《船室》では誇張してきびしい態度を気取ってみたところで、まったくなんの効果もないということをさとったのであろう、……」──この一節を見逃すわけにはいかない。これは紳士の態度の変化についての正確な内面的理由を、語り手による注釈という形で記述している。実際、登場人物の所作を一つ一つ丁寧に組み上げつつ、語り手の声音の強度を維持しようとしたら、こういう風に「おそらく……したのであろう」というエクリチュールを用いざるを得ないだろう。
●『カラマゾフの兄弟』85-87頁
第十篇第六章
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「実を言うと、僕はこういう議論をするのが嫌でたまらないんです」と彼はぶっきらぼうに言った。「だって、神を信じないでも人類を愛することはできますからね、そうでしょう? ヴォルテールは神を信じなかったけれども、人類を愛していたじゃありませんか」(『またはじまったぞ、また!』と彼は心のなかで考えた)
「ヴォルテールは神を信じていました。ただあまり深くなかったようです。人類に対する愛も、あまり深いものではなかったように思われますが」とアリョーシャは小声で、控え目に、きわめて自然な口調で言った。まるでそれは同年配の者か、むしろ年上の人とでも話をするような調子だった。コーリャはアリョーシャが、ヴォルテールについてさも自信なげに話すその話しぶりや、自分のような少年にその問題の解決を求めているような様子にびっくりした。
「君はヴォルテールを読んだのですか」とアリョーシャがたずねた。
「いや、読んだとはいえませんが、……『カンディード』なら、翻訳で、……古い、あやしげな、滑稽な翻訳でしたが、……」(またこれだ、また!)
「わかりましたか」
「ええ、そりゃ全部、……でも、……なぜあなたは僕がわからなかっただろうなんて考えるんです? むろんあの本には、みだらなところがたくさんあります。……でも僕だって、あれが哲学的な小説で、思想を述べるために書かれたことぐらい理解できます。……」コーリャはもう全くしどろもどろだった。「僕は社会主義者なんです、カラマゾフさん、徹底的な社会主義者なんです」突然、藪から棒に彼は言った。
「社会主義者?」アリョーシャは笑いだした。「いつのまにそんなものになったんです? だって君はまだ十三なんでしょう?」
コーリャは痛いところを突かれた。
「第一に、僕は十三じゃなくて十四です、二週間もすれば十四になります」彼は真っ赤になって言った。「第二に、どうして僕の年が関係あるんです。問題は僕がどんな信念を持っているかにあって、僕がいくつかってことじゃありませんよ」
「君ももう少し年をとれば、年齢が信念に対してどんな意味を持つか、わかるようになるでしょう。それに僕は、君が自分の言葉で話していないような気がしたのです」とアリョーシャは控え目に、おだやかに答えたが、コーリャはかっとなって相手をさえぎった。
「冗談じゃない、あなたの望んでいるのは、服従と神秘主義なんです、第一、例えばキリスト教なんてものは、下層階級を奴隷の状態に押し込めておくために、富裕な上流階級に奉仕して来ただけじゃありませんか」
「ああ、君がそういうことをどこで読んだか、僕は知ってますよ。君はきっと誰かに入れ知恵されたんですね!」とアリョーシャが叫んだ。
「とんでもない、本で読んだなんて! それに誰からも入れ知恵なんかされません。僕だてそれぐらいのことは自分で……。第一、なんなら言いますが、僕はキリストに反対してやいません。キリストは確かに人道的な人物でした。もし彼が現代に生きていたら、さっそく革命家の仲間にはいって、めざましい活躍をしたに違いありません。……そうにきまっています」
「いったいどこで、どこで君はそんな知識を得て来たんです? どこの馬鹿者と君はつき合っているんです?」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない、真実は隠せませんからね。僕はむろん、ある機会からラキーチンさんとたびたび話をします。しかし……これぐらいのことはベリンスキイ老人も言ってるそうじゃありませんか」
「ベリンスキイが? 覚えてないなあ。あの人はそんなことをどこにも書いてはいませんよ」
「書いてないとすれば、話したんでしょう。僕はある人から聞いたんです、……もっとも、そんなこと……」
「君はベリンスキイを読んだことがあるのですか」
「それが、……いや、全部読んだってわけじゃないんですが、……タチヤーナがなぜオネーギンと一緒に行かなかったかというところは読みました」
「どうしてオネーギンと一緒に行かなかったかですって? そんなことまで、君はもう……わかるんですか」
早熟な青二才のパロールの一例。とはいえ、視野が硬直化していたアレクサンドル・ロボフに比べると自分の弱点もよく自覚していて、過敏な自己動揺がある。動揺するからこそ、性急に勝利を得ようとして、すなわち性急に大人なみの理解力や知識を誇示しようとして却って墓穴を掘る(「あの人はそんなことをどこにも書いてはいませんよ」/「書いてないとすれば、話したんでしょう。僕はある人から聞いたんです、……もっとも、そんなこと……」)という展開も面白い。
相手と対等な立場に立とうとして、年齢のことを指摘されるとかっとなるという傾向はあらゆる青二才に共通のものか。つまり基本的にコーリャは無意識で「自分はまだ年少者であり、大人と対等の議論なんかできない」と薄々勘付いていながらそれを抑圧している=自意識から排除しているので、発話がしばしば「強いられたように」歪んだり暴発したり二重化したりせざるを得ない。突然薮から棒に「僕は社会主義者なんです」などと言い出すところの滑稽さは白眉。
●『罪と罰』下117-118頁
第四部第五章
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「いや、あなたは信じないようだ、わかりますよ。わたしが悪気のない冗談ばかりなあらべていると思っていなさるらしい」ポルフィーリイはますます陽気になり、満足そうにたえずヒヒヒと笑いながら、ひとりでうなずいて、また室内を歩きまわりはいめた。「そりゃむろん、そう思うのが当然ですよ。なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな。でも、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、何度も言うようですが、老人は大目に見てやるものですよ。あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される。それは、例えばオーストリヤの三国同盟会議とはまったく同じですね。もっともこれはわたしのとぼしい軍事知識による判断ですがね。紙の上では彼らはナポレオンを粉砕し、捕虜にしましたよ。そして作戦室では実に鋭い奇策を弄して、敵を苦境においこみました。ところが実際はどうでしょう、マック将軍は全軍をひきいてもろくも降伏してるじゃありませんか、へ、へ、へ! わかりますよ、わかりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがこんな文官のくせに、戦争の歴史からばかり例をひくんで、あなたは嘲笑っていますね。でもしようがないんですよ、困ったもので、どういうものか軍事問題が好きなんですよ、こうした戦闘報告を読むのがたまらなく好きなんです……わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく。まさかナポレオンまではいかんでしょうが、少佐くらいにはなったかもしれませんな、へ、へ、へ! 冗談はさておいて、ロジオン・ロマーヌイチ、ここらでその、何ですか、つまり特殊な場合というものについて、くわしいありていをお話しましょう。……
極めて知的で狷介な相手と対話を維持しながらうまく主導権を得るにはどうするか。先手を打つ饒舌というものをずっと展開しつづける必要があるだろう。
ここでポルフィーリイが用いているのは、その必要もないのに自分について言及しまくる「わたし」の押し出しという手法(「なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな」「わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく」)だけではなく、「あなた」について勝手にこちらで先回りして規定してしまうという手法である。そのメルクマールとなるのが「わかりますよ」の言葉だ。つまりポルフィーリイはラスコーリニコフに向って勝手に、先手を取って「わかりますよ、わかりますよ、あなたのことは分かってますよ」という態度を取ることによって、ポルフィーリイ側からラスコーリニコフを扱い易い存在(「あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される」)として饒舌の中に組み込んで、相手の敵対的な態度で自分の饒舌を中断されないように予防している、というわけだ。ラスコーリニコフが「信じない」ような態度を見せようが、「嘲笑って」いようが、そんなことは先刻承知で、ポルフィーリイの饒舌を挫折させるほどのことではないと先回りして無力化する。その饒舌戦略が「わかりますよ」の言葉に集約されている。それがあるからこそしょうもない水増し的な「オーストリヤの三国同盟会議」の挿話もだらだら展開できるのだ。
余談。対話性を密にする際の「なにしろ」の汎用性は凄い。「なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。」修辞疑問文並み。
●『白痴』20-22頁
第一篇第一章
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「ええ、シベリア送り、シベリア送りですとも! すぐにもシベリア送りですとも!」
「やつらはいまもこのおれがまだ病気だと思ってるんだ」ロゴージンは公爵にむかって言葉をつづけた。「だがね、おれはひとことも口をきかずに、こっそり、病人の身でありながら汽車に乗ってやってきたってわけさ。そして『やい、弟のセミョンめ、門をあけろ!』ってどなってやるんだ。弟のやつは死んだ親父におれのことをさんざん中傷しやがってね。なあに、そんなことはとっくに知ってるさ。そりゃ、おれが実際あのときナスターシャ・フィリポヴナの件で親父をえらく怒らしちまったてのは、ほんとうだがね。あの場合、そりゃ悪いのはこのおれ一人さ。魔がさしたってわけさ」
「ナスターシャ・フィリポヴナの件で、というと?」
役人は何やら思いあたったように、へつらうような口調で言った。
「きさまなんかの知ったことかよ!」ロゴージンはたまりかねて役人をどなりつけた。
「なあに、ちゃんと知っとりますとも!」役人は勝ち誇ったように答えた。
「こいつあ、おどろいた! だがな、世間にはナスターシャ・フィリポヴナなんて名前はいくらでもあるからな! それにしてもきさまはずうずうしい野郎だな。きさまみてえなやつをろくでなしって言うんだ! いやはや、いずれこんなろくでなしにしつこくまつわりつかれるとは思ってたがね」彼は公爵にむかって言葉をつづけた。
「なあに、ひょっとすると、わしは何もかも知ってるかもしれませんぜ」役人はしつこく口をはさんだ。「このレーベジェフめはなんでも知ってますんでね! 旦那、あんたはわしを責めていらっしゃるが、もしこのわしがちゃんと証拠をごらんにいれたらどうします? なあに、わしが申してるナスターシャ・フィリポヴナというのは、あんたが親父さんに杖をもって追っかけられた原因になった、あのナスターシャ・フィリポヴナのことですがな。姓はバラシコーワといって、ずいぶん身分の高いおかたで、やはり公爵令嬢といったところですがね。トーツキイとかいう人と特別な関係にあって、これは大地主で財産家でいろんな会社や団体の役員をしていて、そのためにエパンチン将軍とも親交を結んでおられるアファナーシイ・イワーノヴィチのことですがね……」
「ちぇっ、きさまはなんてやつだ!」ロゴージンはとうとうほんとうにびっくりしてしまった。「この野郎、ほんとに知ってるじゃねえか」
「なんでも知っとりますよ! このレーベジェフめはなんでも知っとりますとも! 旦那、わしはリハチョフ・アレクサーシカとまる二月も旅をしましたんでね。やはり親父の死んだあとでしてね。それでいまじゃ、どんな町角でも横町でも知らぬことはねえんでございますよ。もうレーベジェフがいなくちゃ、どんなことだってにっちもさっちもいきませんや。いまでこそやっこさんは債務監獄にぶちこまれていますが、あの時分にはアルマンスとか、コラーリヤとか、パーツカヤ公爵夫人とか、いや、ナスターシャ・フィリポヴナとかいったかたにまでお目にかかることがあったんですからな。そのほかにもいろいろとお目にかかりましたがね」
「ナスターシャ・フィリポヴナを? まさかあの女がリハチョフと……」ロゴージンは憎々しげに相手をながめた。その唇は真っ蒼になって、震えだしたほどだった。
「いや、な、なんでもありません! な、なんでもありませんったら! 決してそんなことはありませんとも!」役人はふと気づいて、あわてて先を急いだ。「い、いくら金をつんでみたところで、リハチョフ風情にはむりってもんでさあ! そうですとも、アルマンスとはわけがちがいますからな。そりゃ、トーツキイ一人でございますよ。ええ、晩なんぞよく大劇場とかフランス劇場の買切り桟敷にすわっておられるんですな。そんなとき士官たちがめいめい勝手な熱をあげてることもまれではありませんでしたが、『おい、あれが例のナスターシャ・フィリポヴナなぜ』なんてささやくぐらいが関の山で、何ひとつ実をあげられないんですよ。ええ、ただもうそれだけのことで、それから先は──まるっきりだめなんですな! なぜって、なんにもありゃしないんですから」
「いや、まったくそのとおりなんだ」ロゴージンは暗い顔に眉をしかめながら、うなずいた。「いまと同じことをあのときはザリョージェフが話してくれたがね。公爵、おれがあのとき、親父のおさがりの毛皮上着を着て、ネーフスキー通りを横切っていると、ちょうどそこへあの女が店から出てきて、馬車に乗りこむところだったんだよ。おれは一瞬、体じゅうがカーッと熱くなってね。……
特に複雑ってわけでもないが、生き生きした口語の文体が見られる会話場面。
「すぐにもシベリア送りですとも!」「だがね、……」「汽車に乗ってやってきたってわけさ」「なあに、そんなことはとっくに知ってるさ」「そりゃ、……」「魔がさしたってわけさ」「いやはや、いずれこんなろくでなしにしつこくまつわりつかれるとは思ってたがね」「わしは何もかも知ってるかもしれませんぜ」「このレーベジェフめはなんでも知ってますんでね!」「もしこのわしがちゃんと証拠をごらんにいれたらどうします?」「なんでも知っとりますよ!」「やはり親父の死んだあとでしてね」「どんなことだってにっちもさっちもいきませんや」「リハチョフ風情にはむりってもんでさあ!」「まるっきりだめなんですな!」「いや、まったくそのとおりなんだ」「おれは一瞬、体じゅうがカーッと熱くなってね」
こうした言い回しを生かすための地の文の補助も適確。「役人は何やら思いあたったように、へつらうような口調で言った」「ロゴージンはたまりかねて役人をどなりつけた」「ロゴージンは憎々しげに相手をながめた。その唇は真っ蒼になって、震えだしたほどだった」「役人はふと気づいて、あわてて先を急いだ」「ロゴージンは暗い顔に眉をしかめながら、うなずいた」
ところで、レーベジェフが特定のナスターシャ・フィリポヴナを自分が指示していることを証すために非常に論理的な言葉を口にしているのは面白い。彼はどの程度の細部をつけ加えればロゴージンを納得させられるか、ちゃんとメタ的に判断できるほど頭がいいのだ。
●『罪と罰』下346-348頁
第六部第三章
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「じゃなぜあのときあんなにぼくが必要だったのです? しきりにぼくのまわりをうろうろしたじゃありませんか?」
「なに、ただ観察のための興味ある対象としてですよ。幻想的といいますか、あんな奇妙な立場をもつあなたがすっかり気に入りましてな、──そのためですよ! 加えて、あなたは、わたしがひどく関心をもった女性のお兄さんで、もう一つ言えば、その女性からかつてあなたの噂をさかんに聞かされましてね、あなたが彼女に大きな影響力をもっている、とこう断定したからですよ。まだ足りませんかな? へ、へ、へ! もっとも、実を言うと、あなたの質問がわたしにはあまりにも複雑で、返答に窮しているんですよ。現に、言ってみればですよ、いまこうしてわたしのところへ来たのも、用件もあるでしょうが、それより何か新しいことを探り出すためでしょう? そうじゃありませんか? 図星でしょう?」とスヴィドリガイロフはずるそうなうす笑いをうかべながら念をおした。「それがどうでしょう、実はわたしもこちらへ来る途中、汽車の中で、あなたも何か新しいことを言ってくれるだろうから、そしたらその中の何かを借用できるかも知れない、とこう期待したわけですよ! まったくわたしたちは物持ちですなあ!」
「何を借用するんです?」
「さあ、なんと言ったらいいですかな? そんなことがわたしにわかりますか? このとおり、こんな居酒屋にのべつしけこんでいるんですからな。でもこれがわたしには楽しみなんですよ、いや、楽しみといっちゃなんですが、とにかく、どこかに腰を落ち着けるとこがなんきゃあね。まあ、あの哀れなカーチャでも──ごらんになったでしょう?……まあ、わたしがですね、口のおごったクラブの食通ででもあるなら、なんですが、ほら、こんなものが口に合うんですからねえ! (彼は部屋の隅の小さなテーブルを指さした。その上にはブリキの皿にひどいビフテキとじゃがいもの食いのこしがのっていた)。ところで、食事はすませましたか? わたしは軽くやりましたので、もうたくさんなのですが。酒だって、さっぱりやらないんですよ。シャンパンのほかはぜんぜん、そのシャンパンだって一晩に一本がせいぜいですが、それでもう頭が痛いというざまですよ。これは元気づけに持って来させたんですよ、これからあるところへ出かけようと思いましてね、だからごらんのとおり、いつになくにこにこしてるわけですよ。さっき小学生みたいにかくれたのは、出がけに邪魔されては、と思ったからですが、どうやら(彼は時計を出して見た)いま四時半だから、一時間くらいはお相手できそうです。まったく、何かしごとがあるといいんですがねえ、地主だとか、一家の主人だとか、槍騎兵、写真家、雑誌記者、なんでもいいですよ……それがぜんぜん、なんの専門もない! ときには退屈になることだってありますよ。ほんとに、あなたが何か耳新しいことを聞かせてくれるものと、思っていたんですよ」
「いったいあなたは何者なんです、なんのためにペテルブルグへ来たんです?」
「わたしが何者かって? ご存じでしょう、貴族で、騎兵連隊に二年勤めまして、それからこんなふうにペテルブルグでのらくらしていて、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎で暮しました。これがわたしの履歴ですよ!」
引用部はスヴィドリガイロフに特徴的な話術。彼はラスコーリニコフにまともに相対したくないので──イワンVSスメルジャコーフみたくまだ対話を深刻化したくないので──話を本質から逸らすためだけに即興的な饒舌能力も相俟ってさまざまな手練手管を駆使する。
例えば一問われたら十答えるクイックレスポンス(「まだ足りませんかな?」「これがわたしの履歴ですよ!」)。目の前にあるものを含め多様なものに落ち着きなく言及して注意を拡散する(「ほら、こんなものが口に合うんですからねえ!」「どうやらいま四時半だから……」)。問わず語りに逆ギレ気味に──といっても始終愉快そうに──益体もない文句や愚痴を並べ立てる(「まったく、何かしごとがあるといいんですがねえ」「それでもう頭が痛いというざまですよ」)。やや相手を非難するかのような問い返し(「そんなことがわたしにわかりますか?」「わたしが何者かって?」)。どうでも言い話題を相手に差し向ける(「ところで、食事はすませましたか?」)。
むろんこの驚くほど多彩な饒舌の仮面の下にスヴィドリガイロフはドゥーニャへの情欲を隠しているわけだが。
●『罪と罰』下92-94頁
第四部第四部
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《「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であることを信じております」》
彼女はそこで読むのをとめて、急いで彼に目を上げようとしたが、そのまえに自分をおさえて、先を読みはじめた。ラスコーリニコフはじっと坐って、机に肘をつき、わきのほうへ目をやったまま、身動きもせずに聞いていた。三十二節まで読んだ。
《マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」イエスは、彼女が泣き、また、彼女といっしょにきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらんください」イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」》
ラスコーリニコフは彼女のほうを向いて、感動の目で彼女を見た。そうか、やはりそうだったのだ! 彼女はもうほんとうのおこりにかかったかのようにがくがくふるえていた。彼はそれを待っていたのだった。彼女はいまだ例のない偉大な奇跡の話に近づいた。そして偉大な勝利の感情が彼女をとらえた。彼女の声は金属音のように冴えわたった。勝利と喜びがその声にこもり、その声を強いものにした。目の前が暗くなって、行がかさなりあったが、彼女はそらでおぼえていた。《あの盲人の目をあけたこの人でも……》という最後の節で、彼女はちょっと声をおとして、信じない盲人のユダヤ人たちの疑惑と、非難と、誹謗を、はげしい熱をこめてつたえた。彼らはもうじき、一分後には、雷にうたれたようにひれ伏し、号泣し、信じるようになるのだ……
《彼も、彼も──信じない盲者だ、──彼ももうすぐこの先を聞いたら、信じるようになる、そうだ、それにきまっている! もうじき、もうじきだ》こう思うと、彼女は喜びがもどかしくてがくがくふるえた。
《イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石をとりのけなさい」死んだラザロの姉妹のマルタが言った。「主よ、もう臭くなっております、四日もたっていますから」》
彼女は四日という言葉に力をこめて読んだ。
《イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」人々は石をとりのけた。すると、イエスは目を天に向けて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを信じさせるためであります」こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると死人は》
(彼女は自分がその目で見たように、感激に身をふるわし、ぞくぞくしながら、勝ちほこったように声をはりあげて読んだ)
《手足を布でまかれ、顔を顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」
マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた》
彼女はその先は読まなかった、読むことができなかった。彼女は聖書をとじて、急いで立ちあがった。
「ラザロの復活はこれでおわりです」ととぎれとぎれにそっけなく囁くと、彼女は顔をそむけて、彼を見るのが恥ずかしいように、目をあげる勇気もなく、じっと身をかたくした。熱病のようなふるえはまだつづいていた。ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦を、ぼんやり照らしだしていた。五分ほどすぎた。あるいはもっと経ったかもしれぬ。
引用部で注目すべきは、朗読に過ぎないがゆえに一本調子でしかあり得ない「科白」と、ソーニャの身振りに照準を合わせた「地の文」の組み合わせの妙。
読んでいるうちに興奮して声が震えはじめ、ラスコーリニコフの回心を期待し(それも地の文で体験話法的に敷衍される)、熱病のように身体をがくがく震わせながら部分的に強調したり勝ち誇ったように声を張り上げたりしたあげくに、もうつづきを読むことができなくなり、そっけない態度になり、目を上げることもできなくなる。この態度における変遷を逐一掬い取って病出しているのが素晴らしい。それが上手くなっているからこそ、「ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、……」という沈黙と疲労の象徴が効いて来る。語り手もついついここでは顔を出して「あるいはもっと経ったかもしれぬ。」などと勿体らしく念を押している。
●『罪と罰』上398-400頁
第三部第三章
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彼はまた腰をおろして、黙ってあたりを見まわしはじめた。みなけげんそうに彼を見まもった。
「どうしてみんなそうぼんやりふさぎこんでいるんです!」と彼は不意に、自分でも思いがけなく、叫んだ。「何かしゃべりなさいよ! まったく、なにをぼんやり坐ってるんです! さあ、しゃべってください! 話をしましょうや……せっかく集まって、黙りこくっているなんて……さあ、何か!」
「やれやれ、ほっとした! わたしはまた、昨日のようなことがはじまるんじゃないかと思いましたよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが十字をきって、言った。
「どうしたの、ロージャ?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが不審そうに尋ねた。
「なあに、なんでもないよ、ちょっとしたことを思い出しただけさ」彼はそう答えると、不意に笑いだした。
「まあ、ちょっとしたことなら、結構だが! ぼくはまたぶりかえしたかと、ほっとしましたよ……」とゾシーモフはソファから腰をあげながら、呟くように言った。「しかし、ぼくはもう失礼する時間です。もう一度寄るかもしれません……じゃまたそのとき……」
彼は会釈をして、出て行った。
「なんてごりっぱな方でしょう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「うん、りっぱな男だよ、すぐれた、教養ある、聡明な……」とラスコーリニコフはだしぬけに、思いがけぬ早口で、これまでになく珍しく張りのある声で、しゃべりだした。「病気になるまえ、どこで会ったか、もおうおぼえていないが……どこかで会ったんでしょう……それから、これもいい男ですよ!」と彼はラズミーヒンに顎をしゃくった。「こいつが気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は不意に彼女に聞くと、どういうわけか、大声で笑いださいた。
「とっても」とドゥーニャは答えた。
「フッ、きみはまったく……いやなことを言うやつだ!」ラズミーヒンはすっかりうろたえて、真っ赤になってこう言うと、椅子から立ちあがった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは軽く微笑んだが、ラスコーリニコフは声をはりあげて笑いころげた。
「おい、どこへ行く?』
「ぼくも……用があるんだ」
「用なんかあるはずないよ、のこりたまえ! ゾシーモフがかえったから、きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……ところで、何時かな? 十二時になった? ずいぶんかわいらしい時計だね、ドゥーニャ! どうしたんだい、みんな黙りこんじまって? ぼくだけじゃないか、しゃべってるのは!……」
「これはマルファ・ペトローヴナのプレゼントですわ」とドゥーニャが答えた。
「とっても高価なものなんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をそろえた。
ドストエフスキーの小説においては、登場人物たちの科白は自意識と満遍なく調和したものではあり得ない。それらはつねに無意識の内語の衝迫との拮抗関係にあり、時に中断・屈折・転回し、ついには内語の中での自己対話がそのまま憚りなく口をついて出てしまうことさえある。或いは発話ではなく身振りの方に無意識の痙攣があらわれ、或いはリアルタイムに対話相手を敵の看做して皮肉や当てこすりを科白に繰り込んでいくこともある。
或いはもっと別のヴァージョンを考えると、会話場面における無意識の衝迫との拮抗関係は、「言いたいことがあるのにその多くを抑圧している」という形で現われることもあるだろう。引用部の会話場面のそれぞれの登場人物の「口ごもり」はそうした抑圧を表わしている。それによってのみ喚起し得る情景の緊張感もあるのだと覚えておこう。ラスコーリニコフがきわめて屈折したまま上辺を取り繕ってばかりいるのはもちろん、ここではラズミーヒンさえ(自分の恋心を抑圧して)率直ではあり得ないことは注目に値する。また、自分に対する非-率直および抑圧が他人に対するリアルタイムな抑圧となってあらわれることもあるのに注目しよう(「きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……」)。
●『白痴』上490-492頁
第二篇第三章
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「私はそんなことのために来たんじゃないよ、パルフョン、はっきり言っておくけれど、私はそんなこと考えちゃいなかったよ」
「そりゃ、きっとそんなことのために来たんじゃなかったろう、そんなことは考えてもみなかったろうよ。でも、たったいま、たしかにそれをしにやってきたのさ。へ、へ! しかし、もうたくさんだよ! なんだってあんたはそんなにびっくりするんだり。まさかほんとにそれに気づかないわけじゃないだろう? まったく人さわがせじゃねえか!」
「それはみんな嫉妬だよ、パルフョン、みんな病気のせいだよ、きみがやたらに誇張して考えてるからだよ……」公爵はすっかり興奮しながらつぶやいた。「きみはどうしたんだ?」
「やめろよ」ロゴージンは言って、公爵が本のそばにあったのを取りあげて持っていたナイフをすばやく取りあげて、もとの場所へ置いた。
「私にはさっきペテルブルグにはいってきたときから、なんだかそんな気がしたんだよ……」公爵は言葉をつづけた。「だから私はここへやってくるのが気が進まなかったんだ。私はこの土地であったことを何もかもすっかり忘れてしまいたいんだよ。胸の中からえぐりだしてしまいたかったんだよ。じゃ、さようなら……おい、きみ、どうしたんだい!」
公爵は放心したような様子でこんなことを言いながら、またもや例のナイフを取りあげようとしたが、ロゴージンはまたそれを彼の手からもぎとって、テーブルの上へほうりなげた。それは折畳みのできない鹿の角の柄がついた、ありふれた形のナイフで、刃わたり十三センチばかり、幅もそれに似合いのものであった。
公爵が二度もこのナイフをもぎとられたことに特別の注意を払っているのを見てとったロゴージンは、憎々しげないまいましさをあらわしてそれをひっつかむと、本のあいだへはさんで、それをぽんとほかのテーブルへ投げだしてしまった。
「きみはあれで本のページを切るのかい」公爵はたずねたが、その声の調子はなんとなくぼんやりしていて、相変らずふかい物思いにふけっているみたいだった。
「ああ、ページをね……」
「でも、これは園芸用のナイフじゃないか」
「ああ、園芸用だよ。でも、園芸用のナイフでページを切っちゃいけないって法があるかい?」
「それに、あれは……まだ新品じゃないか」
「新品ならどうだっていうんだ? まさかおれはいま新しいナイフを買っちゃいけないとでもいうのかい?」ひと言ごとにいらいらしながら、ロゴージンは妙に興奮して叫んだ。
公爵はぎくりと身を震わせて、じっとロゴージンを見つめていた。
「いやはや、私たちは二人ともどうしたんだろうね?」彼は急にわれに返って、笑いだした。「いや、勘弁してくれたまえ。私はいまみたいに頭が重くなってくると、例の病気が出て……さっきみたいにぼんやりしてきて、おかしなふうになるんだよ。あんなことをきこうなんて気はまったくなかったんだよ。……何をきこうとしたのか、覚えてもいないくらいだもの。じゃ、さようなら……」
「そっちじゃないよ」ロゴージンが言った。
描写の照準をきわめて表面だけに合わせることで(ここではムイシュキンの内語などは一切描かれない)、ムイシュキンの自意識では明確に把握されていない不安をありありと描き出すという一節。
引用部の不穏さは、きちんと計算高く虚構されたものだ。ここでムイシュキンが無意識にナイフを取り上げたり、ぼんやりしながら(つまり無意識のうちにだ!)そんな園芸用のナイフが何故ここにあるのか、何故新品のナイフなのか(≒何故ナイフなんか買ったのか)とロゴージンにたずねてしまったり、思わずぎくりと身を震わせてしまったりするのは、アドホックな描写ではなくて、無意識では薄々気づいている真実に自意識がまだ気づいていない或いは自意識では抑圧しようとしているという「原因」から生まれている。その無意識で彼が気づいている真実を、あえて言語化すれば《このナイフでロゴージンは恋の嫉妬から自分を殺そうとしているのではないか》という疑問になるだろう。だが彼はそれを自分でも信じられない、信じたくないので明確に自意識に上らせることができず、直接ロゴージンを問い質すこともしない。だがその疑問から不安を感じて、「ぼんやりして」「深い物思いに耽って」奇妙な振舞いをせざるを得ない。その表面だけを正確に描き切ったのが引用部の情景法となるわけだ。
当然ながらあらかじめ作者がムイシュキンの無意識に蠢く「疑問」を虚構していなければ、彼の奇妙な振舞いを「正確に」描くことなどできるはずはない。読者がその無意識に気づくのは次の章においてだとしても、すでに作者はこの時点でムイシュキンの無意識を見透かしているのでなければならない。(劇的な対決的対話とは区別される)不穏な予感で張り詰めた対話場面は、そのようにしてしか描けない。
●『未成年』下414-417頁
第三部第十章4
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彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの──だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません──どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」以降のヴェルシーロフの科白、うわごとのようなスタイルが面白い。現実においてわれわれはあまりにも理路整然とした喋り方ばかりするわけではないことも引用部のヴェルシーロフには反映されているが、さらにわれわれが通常話し相手に応じて語っていいことと語っていけないこととを区別する、その抑制さえ崩壊して「放心したように」自分の考えをだだ漏れで語ってしまっているというのが、これだ。「……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです」「また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……」「わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」──こんな情念を当の女性の目の前で吐露してしまうのが凄い。一応「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……」という自省するような前置きをしているが、その前に「あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」という情動的決め付けを行っているので無効だろう。科白に添えられる地の文でのヴェルシーロフの描写も、雄弁だ。たしかに「あえぐように、苦しく息をしながら」「生起のない薄笑いをもらし」ながらでなければ、こんな支離滅裂な科白を語りつづけることができるわけがない。「いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──」──引用部最後のすがりつくような「泣き言」も凄い。「泣き言」! いや、まさに相手に直に語ってはいけないことの筆頭こそ──放心したようにだだ漏れさせていることがその話し手の狂気を語るに等しいことの筆頭こそ──「泣き言」だな。ヴェルシーロフの泣き言スペシャル。
●『罪と罰』下6-7頁
第四部第一章
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「うかがいますが、あの方たちは昨日お着きになったばかりですね?」
ラスコーリニコフは答えなかった。
「昨日でしょう、知ってますよ。わたしもまだ着いて三日目なんですよ。ところで、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはあの件についてあなたに申し上げておきたいことがあるんですよ。弁解は余計なことだと思いますが、まあひとつ、わたしの言い分も聞いてくださいな。あの場合、あの問題を通してですね、正直にいって、いったいわたしにそれほどの罪があるのだろうか、つまり偏見をぬきにして、正当に判断してですな?」
ラスコーリニコフはやはり無言で相手の顔をじっと見つめていた。
「自分の家でかよわい娘を追いまわし、《いまわしい申し出によってその娘を辱しめた》ということ、──それですかな(どうもこっちが先まわりしますな!)、でも、わたしだって人間ですよ、et nihil humanum〔人間的なことは何によらず私に無縁でない〕……要するに、わたしだって心をうばわれることもあるし、愛することもできます(これはむろん、命令されてそうなるものじゃありませんがね)、そこをひとつ考えてもらいたいのですよ、そしたらすべてがごく自然に説明がつきます。そこで問題は、わたしが人非人か、それとも犠牲者か? ということにしぼられるわけです。それなら、どうして犠牲者なのか? だってわたしは、相手にアメリカかスイスへいっしょに逃げようとすすめたとき、おそらく、ほんとうに心底から尊敬の気持をもっていただろうし、さらに二人の幸福を築くことを考えていたにちがいないんですよ!……理性なんてものは情熱の奴隷ですからな。わたしのほうがかえって被害者かもしれませんよ、失礼ですがね!……」
「そんなことはどうでもいいことですよ」とラスコーリニコフははきすてるように言った。「ただ無性にあなたがいやなんです。あなたが正しかろうが、正しくなかろうが、とにかくあなたとは近づきになりたくないのです。顔も見たくありません、帰ってください!……」
スヴィドリガイロフはとつぜん大声で笑いだした。
「しかしあなたも……なかなかのしろものですな!」と彼は大口をあいて笑いながら、言葉をつづけた。「うまくごまかしてやろうと思ったのだが、どうしてどうして、あなたはするりとかわして本筋に立っておられる!」
「そんなことを言いながら、あなたはまだごまかそうとしている」
「それがどうしました? それがどうしました?」とスヴィドリガイロフは腹の底から笑いながら、くりかえした。「これがいわゆる bonne guerre〔フェア・プレー〕というやつじゃありませんか、もっとも罪のないかけひきですよ!……でもやはり、あなたはわたしの出鼻をくじいてしまった。とにかく、もう一度はっきりと言いますが、庭先の一件さえなかったら、ちっともいやな思いをせずにすんだんですよ、マルファ・ペトローヴナが……」
スヴィドリガイロフの煙に巻くエクリチュール。その特徴を列挙しよう。「ひとつ考えてもらいたいのですよ」という言葉で勝手に自分に都合の良い問題を提起する──「正直にいって、いったいわたしにそれほどの罪があるのだろうか、つまり偏見をぬきにして、正当に判断してですな?」「そこで問題は、わたしが人非人か、それとも犠牲者か? ということにしぼられるわけです」。勝手な一般論を持ち出して自己弁護的な解釈を強調する──「でも、わたしだって人間ですよ、……要するに、わたしだって心をうばわれることもあるし、愛することもできます」「理性なんてものは情熱の奴隷ですからな。わたしのほうがかえって被害者かもしれませんよ、失礼ですがね!……」「これがいわゆるフェア・プレーというやつじゃありませんか、もっとも罪のないかけひきですよ!……」。
ここでスヴィドリガイロフがやろうとしていることは何だろうか。上手く相手に呼び掛けて釣ろうとしながら(「まあ、ひとつわたしの言い分も聞いてくださいな」「それがどうしました? それがどうしました?」)、あたかも一般的な見方をすれば自分もそれほど悪くないという解釈も導けることを納得させようとする……一言で言えば、ラスコーリニコフが向けてくる自分への非難の「懐柔・否認」であろう。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフから放たれる非難の矛を無意識にも感受しているからこそ、こうして屈折して道化たエクリチュールを展開せざるを得ない。それが道化て見えるのは、彼があからさまに楽しげに(彼は腹の底から笑いさえする!)「わたしのほうがかえって被害者かもしれない」というフィクションを捏造しようと手管を使っているからだ。もちろん「答えず」「無言で相手の顔をじっと見つめる」ラスコーリニコフにはこの引っ掛けは通用しない。とにかく相手を上手くごまかしてやろうと自分でも信じていないことをさも信じているかのようにべらべら語るこの男は、その饒舌の即興能力において頴脱している。
●『罪と罰』下8-12頁
第四部第一章
-
ラスコーリニコフは笑いだした。
「好きですねえ、そんなことを気にするなんて!」
「あなたは何をお笑いです? いいですか、わたしが鞭でなぐったのはあとにも先にもたった二度です、痕ものこらなかったほどです……わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな。そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいは、よく知ってますよ。だがそれと同時に、マルファ・ペトローヴナがそうしたわたしの、いわば狂憤をですな、おそらく喜んでいたらしいことも、ちゃんと知ってるんですよ。あなたの妹さんについての一件は、もうすっかり使い古されてしまって、マルファ・ペトローロヴナはしかたなしに三日も家にこもっていましたよ。町へもってゆくざんその種もないし、例の手紙の披露もさすがにあきたと見えましてな(手紙の朗読についてはお聞きになりましたでしょう?)。そこへとつぜん、この二つの鞭がまるで天の恵みみたいにおちたわけです! あれは早速、馬車の支度をいいつけました!……いまさらいうまでもありませんが、女には外見はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰にでもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか? ところが女にはそれが特に強いんですな。それだけを望んでいる、といってもいいほどです」
一時ラスコーリニコフは席をけって出て行き、この会見を打ち切りにしてしまおうかと思いかけた。が、ある好奇心と、加えて打算のようなものが、一瞬彼をひきとめた。
「あなたは喧嘩が好きですか?」と彼は何気なく聞いた。
「いいえ、それほど」とスヴィドリガイロフは落ち着いて答えた。「マルファ・ペトローヴナとはほとんど喧嘩したことがないくらいですよ。わたしたちはほんとに睦じく暮しておりましたし、あれはいつもわたしに満足してましたからな。わたした鞭をつかいましたのは、わたしたちの七年間の生活で、たった二度です(もう一度ありますが、しかしそれは別な意味もありますので、かぞえないことにして)。一度は──結婚後二月ほどのときでした。村に来てすぐの頃です、それとこの間です。あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッヘ……ついでだが、おぼえていますかな、ロジオン・ロマーヌイチ、もう何年になりますか、まだ言論が自由だった頃、名前が忘れたが、ある貴族が汽車の中で、一人のドイツ女を鞭でなぐったというので、新聞やら雑誌やらでさんざんたたかれたことがありましたねえ、おぼえてますか? あの頃さらに、ちょうどあれと同じ年だったと思いますが、《雑誌「世紀」の醜悪な行為》が起りましたな(そら、《エジプトの夜》〔プーシキン〕の公開朗読ですよ。おぼえてるでしょう? 黒き瞳! おお、いずこに去れるや、わが青春のかがやける日々よ!)。それはさて、わたしの意見はこうです。ドイツ女を鞭でなぐった旦那には、あんまり同情しませんな、だってどう見てもそれは……同情に値しませんよ! とはいうものの、この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。この観点からこの事件を見た者は、当時一人もいませんでした、しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」
こう言うと、スヴィドリガイロフは不意にまた大声で笑った。この男が何かかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。
「あなたは、きっと、もう何日か誰とも話していませんね?」と彼は聞いた。
「まあそうです。それがどうかしましたか、どうやら、わたしがよくしゃべるんでおどろいたらしいですな?」
「いいえ、ぼくがおどろいたのは、あなたがあまりに人間ができすぎているからです」
「あなたの質問の無礼さに、腹を立てなかったからかな? そうでしょう? でも……いったい何を怒るんです? 聞かれたから、答えたまでですよ」と彼はびっくりするほど素朴な表情でつけ加えた。「わたしはもともと何ごとにもおよそ興味というものを持たない人間でしてな、嘘じゃありません」と彼は何か考えこんだ様子でつづけた。「特にこの頃は、まったく何もしていません……もっともあなたに、嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。あなたの妹さんに用があるなんて、自分で言ったほどですからな。だが、正直のところ、退屈しきってるんですよ。わけても、この三日ほどはですな。だからあなたに会ったことさえ、嬉しかったほどで……怒らないでください、ロジオン・ロマーヌイチ、でもあなただって、どういうわけかおそろしくへんな様子に見えますよ。なんとおっしゃろうと、あなたには何かがあります。それもいま、といってもいまこの瞬間というのじゃなく、まあこの頃という意味ですがね……おや、どうしました、やめます、そんないやな顔をしないでください! わたしはあなたが思ってるほどの、熊じゃありませんよ」
ラスコーリニコフは暗い目で相手を見た。
「それどころか、おそらく、ぜんぜん熊じゃないでしょう」と彼は言った。「ぼくにはむしろ、あなたは上流社会の出か、あるいは少なくとも折りがあればりっぱな人間にもなれるひとだと思われます」
このスヴィドリガイロフの独特の態度をどう考えるべきか。この男、わざとラスコーリニコフから非難を引き出すように振舞っていないか? その上で図々しくも自らの正当性を押し出そうとしている。リアルタイムでの挑発(相手の非難を引き出す)と厚顔な自己弁護のコンビネーション。しかしこの戦略的な挑発と厚顔こそ、長い歳月をかけて錬磨されたスヴィドリガイロフの人格の精髄であるように思われる。その身についた図々しさにおいて彼は率直かつ「素朴」でありさえするのだ。ラスコーリニコフはそのことを見抜く。とはいえ、「席をけって出て行」こうとした瞬間の彼は、やはりスヴィドリガイロフのことを単なる下品な低能と看做しかけたのだろうけれども。
細部を見て行こう。スヴィドリガイロフはいかにも相手からの非難を気にしている風に見せかけながら(「わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな」「そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいはよく知ってますよ」)、時に噴飯物の一般論を展開してさらに相手へ呼び掛けて同意を求めさえする。「いまさらいうまでもありませんが、女には外見はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰にでもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか?」──この伸び縮みする言葉の運動感覚はやはり不遜な挑発となって、ラスコーリニコフの怒りを惹起しかねないものだ。
さらにスヴィドリガイロフは止らない。「喧嘩が好きですか?」だけの質問から凄まじい駄弁を引き出して来る。一応マルファ・ペトローヴナに鞭を使ったことがあるのを認めて、やはり相手からの非難を気にしている風に見せかけながら(「あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッヘ……」)、スヴィドリガイロフは問わず語りに昔の新聞記事に載った或る貴族が一人のドイツ女の鞭でなぐったという事件を出鱈目放題に引用して、また噴飯物の一般論を引き出して相手の同意を求めようとする(「この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。……この観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」)、そして大声で笑い出す。相手の反応を窺いながらリアルタイムに挑発して、噴飯物の意見を図々しく開陳してわざと相手の非難や怒りを引き出そうとする……しかしそれらの一切が戦略的な相手への対話的働きかけのように現象する。これがスヴィドリガイロフの特異性だ。
だがスヴィドリガイロフの道化の仮面はあまりにそれに慣れ過ぎたためにほとんど彼の「素朴な」皮膚のようなものにさえなりかけている。したがって彼の「嘘じゃありません」「嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。……だが、正直のところ、……」という科白はまったくの虚言ではない。リアルタイムに生成される挑発的な駄弁によって自分の付けた仮面を維持しつづけることに慣れ過ぎた彼は、その駄弁生成が人格の根幹にさえなってしまっている。ラスコーリニコフはその人格の強度を見抜く。「この男が何かかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。」上辺でつねに回転しながら増殖していく挑発的駄弁の芯には、成熟した人格の強度がある。それは(ここではまだ明らかになっていないが)一貫したドゥーニャへの情欲とも通底している。
そう、スヴィドリガイロフの科白がつねに浮ついていながら重厚なものに見えるのは、浮ついていることに徹底した一貫性があるからだ。
●『罪と罰』下360-362頁
第六部第四章
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……結局、わたしは目的を達しました。ところがわが愛すべき貴婦人は、自分は貞節ですこしもけがれていない、あらゆる義務はちゃんと行なっている、ただまったく思いがけなく身をあたえてしまっただけだと、固く信じこんでいたわけです。だからわたしが最後に、わたしのいつらわぬ確信によれば、婦人もわたしと同じように快楽を求めていたのですね、と言ってやったときの、婦人の怒りようったらなかったですね。かわいそうなマルファ・ペトローヴナもお世辞にはおそろしく弱い女でした、だからわたしがその気にさえなれば、あれの生きている間にあれの全財産をわたしの名義に書きかえさせるくらい、わけなくできたんですよ。(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)。ところで、こんなことをいって、怒られると困りますが、この効果がアヴドーチヤ・ロマーノヴナにもあらわれはじめたんです。ところがわたしがばかで、気が急いたために、すっかりぶちこわしてしまったんですよ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれまでも何度か、(一度などは特に)わたしの目の表情をひどく嫌いました。こんなことが信じられますか? 要するに、わたしの目にはある種の炎がますますはげしく、不用意に燃え立ってきたわけで、これが妹さんを怯えさせるようになり、しまいには、それが嫌悪にかわってしまったわけです。こまごまと言う必要はありませんが、とにかくわたしたちは別れました。そこでわたしはまたばかなことをしたんですよ。あのひとのおしえやらさとしやらを思いきり乱暴に愚弄したわけです。パラーシャがまた登場しました。しかも彼女一人だけじゃありません、──要するに、またソドムがはじまったわけです。まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか! わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾しましたからな、でもそんなことはなんでもありません、わたしはほんとのことを言ってるんです。その目をわたしは夢に見たんですよ、嘘じゃありませんよ。衣ずれの音を聞くと、もうがまんができませんでした。ほんとに、わたしは倒れるのではないかと思いました。わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときには、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがほんとうは貧しい娘で(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)要するに、自分で働いて暮しているし、それに母とあなたの生活までみている(あッ、いけない、また嫌な顔をなさいましたね……)ことを計算に入れて、わたしは有金を提供する決意をしたわけです(その頃でも、三万ルーブリくらいはなんとかすることができたので)、ただしこのペテルブルグへでもいいから、いっしょに逃げてくれるという条件で。そこでわたしは永遠の愛、幸福等々を誓ったことは、言うまでもありません。信じられないでしょうが、わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう! だが、すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました。そしてマルファ・ペトローヴナがあの卑劣きわまる小役人のルージンを持ち出して、結婚話をまとめかけたのを知ったとき、わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います、──こんな結婚なら、わたしが提案したことと、本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? そうでしょう? どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」
スヴィドリガイロフはじれったそうに拳骨でどしんとテーブルを叩いた。顔が真っ赤になった。いつの間にかちびりちびり飲みほしてしまった一杯か一杯半のシャンパンが、悪くきいてきたのを、ラスコーリニコフははっきり見てとった、──そしてこの機会を利用することに決めた。彼にはスヴィドリガイロフがなんとしても臭く思えてならなかった。
緊迫した対話場面において相手に肉迫する長広舌がどのようなスタイルを取るか。引用部で注目に値するのはその点のみ。
まずは(……)で括られている相手へのリアルタイムな無遠慮な呼び掛けが特徴的なものとして目立つ。「(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)」「(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)」「(あッ、いけない、また嫌な顔をなさいましたね……)」──これらのうち後者の二つは、少し遅れて相手の反応に気づいてそれをフォローするという性質を持っている。こういう屈曲をうまく入れていくというのがスタイルとしては重要。単純に相手の反応を先回りする配慮を見せたものとしては「こんなことをいって、怒られると困りますが……」「こまごまと言う必要はありませんが……」「嘘じゃありませんよ」「信じられないでしょうが……」という断わりを入れるスタイルがある。もう一歩踏み込んで、相手の反応を科白の上で描写してしまうということもやっている。「どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」さらにそれを逆向きにしたスタイルとして、自分自身の状態を客観視してリアルタイムに描出することもやっている。「わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾しましたからな、でもそんなことはなんでもありません」
相手へのリアルタイムな呼び掛けというなら、修辞疑問文的な疑問形のスタイルもそれに含まれよう。「こんなことが信じられますか?」「本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか?」また、似たようなものとして相手に明白に答えを求めるような疑問形のスタイルもある──が、この場合長広舌はどんどん先に進んでいくので相手が答えるのを待つことはない。「そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう!」
もちろんここでスヴィドリガイロフは話の中で直にラスコーリニコフの名を出して呼び掛けるということもやっている。その場合感嘆文の形をとって、自分の感じたことをやたら誇張したがる傾向があるようだ。「まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか!」「かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときは、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」あるいは単純に話し相手のことを「あなた」と呼びつつ二人称的な親密さを醸し出そうとするスタイルも見られる。「すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました」「わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います」
単純に誇張のスタイルということで言えば、想像的仮定による誇張がある。「わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう!」ここでは自分が愛に目がくらんでいたことを、「もし……と言ってくれたら」という仮定の状況を描いて敷衍しているわけだ。
あとは密度の高い長広舌であるだけにやや説明的な言い回しが目立つ。「要するに」は多用されている。「要するに、またソドムがはじまったわけです」「要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした」「……したことは、言うまでもありません」
●『罪と罰』上21-23頁
第一部第二章
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「まことに失礼ですが、ひとつ話相手になってくださらんか? どうしてって、なるほど、あなたは見かけはあまりよくないようだが、年の功をつんだわたしの目から見れば、あなたが教養ある人間で、酒をあまり飲みつけていないくらいのことは、すぐにわかるからですよ。わたし自身つねづね、あたたかい心情ととけあった教養というものを尊重してきましたし、それにわたしは九等官の職を奉じております。マルメラードフ──これがわたしの姓で、九等官です。失礼ですが、お勤めですかな?」
「いや、勉強中ですよ……」と青年は、一風変った気取った話しぶりにも、自分に向けられた不躾なしつこい視線にも、いささかおどろいて答えた。彼はついいましがた、ちらと、どんな相手でもいいから話しあってみたいと思ったばかりなのに、実際に言葉をかけられてみると、たちまち、彼の人間にふれる、あるいはふれようとするだけの、あらゆる人々に対するいつもの不快な苛立たしい嫌悪感をおぼえた。
「すると、学生さんですな、それとももう卒業なすったか!」官吏は大声をだした。「わたしのにらんだとおりだ! 年の功、いやまったく、積みあげられた年の功ですよ!」彼は自慢そうに指を一本額にあてた。「学校へ通ったか、あるいは通信教育を受けられたのですな! では、失礼させてもらって……」
彼は腰をうかすと、ぐらっとひとつよろめいて、自分のびんとコップをつかみ、青年のテーブルへ来て、いくらかはすかに坐った。彼は大分酔っていたが、口ははっきりしていた。たまにいくらかもつれて、言葉がだらけはしたが、はきはきとしゃべった。彼もまたまる一月も誰ともしゃべらなかったみたいに、まるでくいつきそうな勢いで、ラスコーリニコフにおそいかかった。
「なあ、あなた」と、彼は妙にもったいぶった調子できりだした。「貧は罪ならず、これは真理ですよ。飲んだくれることが、善行じゃないくらいのことは、わたしだって知ってますよ。そんなことはきまりきったことだ。しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは──罪悪ですよ。貧乏程度のうちならまだ持って生れた美しい感情を保っていられますが、どん底におちたらもうどんな人でもぜったいにだめです。どん底におちると、棒で追われるなんてものじゃありません、箒で人間社会から掃きだされてしまうんですよ。これだけ辱しめたらいいかげんこたえるだろうってわけです。それでいいんですよ。だって現にこのわたしがどん底におちたとき、先ず自分で自分を辱しめてやろうと思いましたものね。そこで酒というわけですよ! あなた、一月ほどまえ、わたしの家内がレベジャートニコフ氏にぶちのめされたんですよ。わたしじゃなくて、家内がですよ! わかりますか? もうひとつ、あなたにうかがいますが、いいですか、ただの好奇心からでも、ネワ河の乾草舟にねたことがありますか?」
「いや、まだ」とラスコーリニコフは答えた。「でも、それはどういうことです?」
「いやなに、わたしはそこから来たんですよ。もう五晩になります……」
彼は小さなグラスに酒を注いで、飲むと、考えこんだ。たしかに、服や髪の毛にまでところどころに乾草の小さな茎がくっついていた。もう五日間着たままで、顔も洗っていないことは、すぐにわかった。わけても手の汚なさはひどく、あぶらぎって赤く、爪が黒かった。
彼の話は一同の注意をひいたらしい。といってもものうげな好奇心だが。スタンドの向う側で給仕たちがヒヒヒと笑いだした。亭主は《おどけ者》の話を聞きにわざわざ上の部屋から下りてきたらしく、すこしはなれたところに坐って、けだるそうに、そのくせもったいぶってあくびをした。どうやら、マルメラードフはこの店では古顔らしい。それにもったいぶった口のきき方をするくせは、いろんな未知の人々とちょいちょい酒の上の話をする習慣から生れたものであろう。酔っぱらいによってはこの習慣は必要なもので、わけても家でいためつけられ、日頃それをなげいている者に、それがひどい。だから人といっしょに飲んだりすると、そういう連中はきまって自分の言い分を認めてもらおう、できることなら尊敬までもかちえようと、躍起になるのである。
まずはマルメラードフの驚くべき言語能力──ラスコーリニコフも、「一風変った気取った話しぶりにも、いささかおどろいて……」と驚いているが──に注目しよう。読み手というか聞き手との共犯関係を作る呼び掛けを交えつつ「しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは──罪悪ですよ」といきなり「その人物に特徴的な長広舌」を独創的に始める。「酔っぱらいによってはこの習慣は必要なもので、わけても家でいためつけられ、日頃それをなげいている者に、それがひどい。だから人といっしょに飲んだりすると、そういう連中はきまって自分の言い分を認めてもらおう、できることなら尊敬までもかちえようと、躍起になるのである。」という法則的観察も相まって、この数頁で早くもマルメラードフの人格描写が着々と積み上げられているのだ。
だがそれだけではない。ドストエフスキーの対話場面は何かしら尋常ならぬところがある。なんというか、会話の流れと並行して、あの「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」が続いているかのようなのだ。例えばラスコーリニコフの内界と外界がいよいよぶつかった瞬間と言いうる、マルメラードフに話しかけられた直後には、ラスコーリニコフの内面に事件的な心理が動き出す。「彼はついいましがた、ちらと、どんな相手でもいいから話しあってみたいと思ったばかりなのに、実際に言葉をかけられてみると、たちまち、彼の人間にふれる、あるいはふれようとするだけの、あらゆる人々に対するいつもの不快な苛立たしい嫌悪感をおぼえた。」出掛けた好奇心が引っ込む。いわばここでも単なる心理描写(地の文の紋切り型!)ではなくて、内面と外部世界との立体的な対話性がつねに成り立つように記述がつづいていっているかのようだ。そしてマルメラードフの「もう五晩になります」の言葉を受けてはじめて相手の服や髪の毛に乾草が付いていることに気付く流れもまた、表面的な会話の流れの深層に秘められた事実と意味の感触があることを、すなわち小説全体がそこで成立している意味のレベルが叙述の中で構造化されていることを示しているのだ。一つの情景の中に複数の意味が重ね書きされていて、主人公(語り手)は外界との対話的弁証法の中でその意味を触診していく。この立体的構造。マルメラードフが古顔らしい、彼の話し振りの癖は一種の習慣から生れたものらしい、と地の文で「調査・推理」しているシャーロック・ホームズ的な記述も単なる表層的な小説的記述でないことは明らかだろう。「亭主」だってこの場面では不可欠な立体的要素だ。
移動しながらの情景法、外部世界とコミュニケーションしながらの情景法──ドストエフスキーの小説意識はつねにきわめて機敏だ。そこにぼんやりした「静観」はない。
●『白痴』下648-651頁
第四篇第十一章
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「レフ・ニコラエヴィチ、さあ、おれのあとからついてこいよ。用があるんだ」
それはロゴージンであった。
奇妙なことに公爵はいきなりうれしさのあまり舌がもつれて、一つの言葉をしまいまで言いきらないほどあせりながら、たったいままで宿屋の廊下で彼を待っていたことを話しはじめた。
「おれはあそこにいたのさ」思いがけなくロゴージンが答えた。「さあ、いこう」
公爵はその答えにおどろいたが、彼がおどろいたのはそれから少なくとも二分ばかりたって、事情をのみこんでからのことであった。その答えの意味をさとると、彼は愕然として、ロゴージンの顔を注意ぶかくのぞきはじめた。だが相手はもう半歩ほど先にたって、まっすぐに前方を見つめながら、行き会う人には眼もくれず、機械的に用心ぶかい態度で人びとに道を譲りながら歩いていた。
「なんだってきみは私の部屋をたずねてくれなかったんだね……もし宿にいたとすれば?」公爵はいきなりたずねた。
ロゴージンは足をとめて、相手の顔をながめ、ちょっと考えたが、質問の意味がまったくわからない様子で言った。
「なあ、レフ・ニコラエヴィチ、おまえさんはこっちをまっすぐ、家までいくんだ、いいな? おれはあっち側を通っていくからな。でも、気をつけて、二人そろっていくようにしようぜ……」
そう言うと、彼はどんどん往来を横切って、反対側の歩道へ出ると、公爵が歩いているかどうか、確かめるようにふりむいた。そして、彼がぼんやり突ったったまま、眼を皿のようにして自分のほうをながめているのを見ると、ゴローホヴァヤ街へ手を振ってみせ、ひっきりなしに公爵をふりかえりながら、あとについてこいと手招きして歩きだした。公爵が彼の意向をさとって、反対側の歩道から自分のほうへ渡ってこないのを見ると、どうやら元気づいたようであった。ロゴージンは誰かを捜して、見落すまいと思っているのだ、だから向う側の歩道へ渡ったのだ、という考えが、ふと公爵の頭に浮んだ。《でも、なんだってあの男は、誰を捜しているのか、言わないのだろう?》こうして二人が五百歩ばかり歩いたとき、公爵はふいになぜか震えだした。ロゴージンは前ほどではなかったが、やはりふりかえってみるのをやめなかった。公爵はとうとう耐えきれなくなって、彼を手招きした。相手はすぐさま往来を横切って、彼のそばへやってきた。
「ナスターシャ・フィリポヴナはほんとうにきみのところにいるのかい?」
「おれのところさ」
「さっきカーテンのかげから私を見ていたのはきみかい?」
「おれだよ……」
「なんだってきみは……」
しかし、公爵はそのさきどうたずねたものか、どんなふうに質問のしめくくりをつけたものか、わからなくなった。そのうえ、心臓の鼓動がはげしくなって、口をきくのも苦しかった。ロゴージンもやはり黙りこんで、前と同じように、何か物思わしげに彼の顔を見つめていた。
「じゃ、おれはいくぜ」彼はふいに、また渡っていきそうにしながら、言った。「おまえさんは勝手にいきな。おれたちは往来を別々にいこうや……そのほうがいいのさ……別々の側を通ってな……いいな」
ついに二人が、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ折れて、ロゴージンの家へ近づいたとき、公爵の足はふたたび力を失って、もう歩くことさえほとんどむずかしくなってきた。もう晩の十時ごろであった。老母の住んでいるほうの窓はさきほどと同じくあけはなされていたが、ロゴージンのほうのは閉ざされていて、白いカーテンがたそがれの光の中でいっそうくっきりと目だって見えた。公爵は反対側の歩道から家へ近づいていった。ロゴージン自身は自分の歩いてきた歩道から正面玄関の石段へあがって、彼を手招きしていた。公爵は往来を横切って、玄関のほうへやってきた。
「おれのことはな、いまじゃ庭番だって知らねえのさ、こうして帰ってきたこともな。おれはさっきパーヴロフスクへいくって言っといたのさ。おふくろにもそう言っといたよ」彼はずるそうな、またほとんど充ち足りたような微笑を浮べながら、ささやいた。「おれたちがはいっていっても、誰も聞きつけやしないさ」
彼の手の中にはもう鍵があった。階段を上りながら、彼はふりかえって、もっと静かに来いというように、公爵を脅すまねをし、静かに自分の住まいへ通ずるドアをあけて、公爵を通すと、そのあとから用心ぶかくそっとすべりこみ、はいったあとのドアに鍵をかけ、その鍵をポケットにしまった。
「さあ、いこうぜ」彼はささやき声で言った。
二人の人物が歩いてどこかへ向う、というだけの情景法なのだが、見た目以上に複雑になっている。
例えば、ロゴージンと公爵が歩き出したことについては「さあ、いこう」のロゴージンの科白で読者と共通了解になったと看做されている。改行後の「公爵はその答えにおどろいたが、彼がおどろいたのはそれから少なくとも二分ばかりたって、事情をのみこんでからのことであった。」で言われている「二分」の間にもう二人は歩いていたというわけだ(でないと「だが相手はもう半歩ほど先にたって、……」の描写とつながらない)。或いは、「ロゴージンは誰かを捜して、見落すまいと思っているのだ、だから向う側の歩道へ渡ったのだ、という考えが、ふと公爵の頭に浮んだ。《でも、なんだってあの男は、誰を捜しているのか、言わないのだろう?》」──この公爵の思索も歩きながらものだ。ここだけ抜き出すとそうは感じられないが、前後の文脈からすればそうでしかあり得ない。
また、情景法のなかで現前的科白の後の改行を上手く利用して飛躍するという手法も用いられている。具体的にはロゴージンの「……おれたちは往来を別々にいこうや……そのほうがいいのさ……別々の側を通ってな……いいな」の科白の後。この現前的科白を受けて何かやるっているのではなく、地の文は「ついに二人が、ついに二人が、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ折れて、ロゴージンの家へ近づいたとき、……」と時間を飛ばして全然関係のない「公爵の足」の疲れについて書いている。現前的科白の後に息をついて情景法を再出発させるタイミングがあることは、意外と知られていない。「おれたちがはいっていっても、誰も聞きつけやしないさ」の科白の後の改行も同様である。
引用部は、足をとめて話し込んだり、なぜか二人が往来を挟んだ別の歩道を歩いたり、公爵に無意識の不安を抱かせたりと、かなり複雑なことをやっているが、わりとシンプルに読めるのは、このように途中で飛躍が上手くいっていることと、作者が立体的に情景を把握した上で、描写もディエゲーシスも必要最低限の適確なものを選び抜いているからだろう。「……もう晩の十時ごろであった。老母の住んでいるほうの窓はさきほどと同じくあけはなされていたが、ロゴージンのほうのは閉ざされていて、白いカーテンがたそがれの光の中でいっそうくっきりと目だって見えた。公爵は反対側の歩道から家へ近づいていった。ロゴージン自身は自分の歩いてきた歩道から正面玄関の石段へあがって、彼を手招きしていた。」この段落のシンプルかつシステマティックな展開のさせ方素晴らしい。
●『作家の日記』1巻130-131頁
「ボボーク」
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「閣下、そんなことされてはまったくどうも立つ瀬がございません。あなたはハートでいくとおっしゃいました、それでわたしもその手で加勢することにいたしました。それなのにいざ蓋を開けてみるとあなたのお手にあるのはダイヤの七ではありませんか。ダイヤのことは前もって打ち合わせておいていただくべきでした」
「なんだって、それでは、暗記したとおりにやれというのかね? それじゃなんの面白味もないじゃないか?」
「いいえいけません、閣下。保証がなければとてもゲームなどできるものではございません。自分の手札をさらしてやらせている相手のこともぜひ考えていただきませんと。それにカードを配るときも分からないようにいたしませんとね」
「ふん、そんな相手はここでは手軽に見つかるもんじゃない」
諧謔的会話の一例。実は小説の中での会話というものは別にリアルな会話をそのままトレースする必要はないので(というかそうすると単調なので)何かしらの「飾り」を必要とする。ここにふんだんに盛り込まれている諧謔味はその一つ。
「ダイヤのことは前もって打ち合わせておいていただくべきでした」「自分の手札をさらしてやらせている相手のこともぜひ考えていただきませんと」など、慇懃なのに理不尽なことを言っているというねじれが面白い。
●『作家の日記』1巻134-135頁
「ボボーク」
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「どうでしょう、閣下、例の男がまた同じことをわめていいますよ。これで三日間もずっと唖のように黙り込んでいたのに今度は急に、『ぼくは生きていたかった、そうだとも、ぼくは生きていたかったんだ!』とくるんですからね。しかもあんなにものすごい勢いで、ひ、ひ!」
「それに軽薄な調子でな」
「あの男は身にしみているのですよ、閣下。それに、あのう、埋まりかけているのです。もうすっかり埋まりかけているのですよ、なにしろ四月からここにいるのですからね。それなのにだしぬけに、『ぼくはもっと生きていたかった!』ときたもんだ」
「それにしてもいささか退屈だね」と閣下が感想をもらした。
「いささか退屈でございますね、閣下。またひとつアヴドーチヤ・イグナーチイェヴナでもすこしからかってみることにいたしますか、ひ、ひ?」
「いいや、願い下げにしてもらいたいね。あの小生意気なおしゃべり女にはとても我慢がならんよ」
「このわたしこそ、あべこべに、あなたがたふたりにはとても我慢がなりませんわ」と嫌悪の情をあらわにしてがみがみ夫人が言い返した。
「ふたりとも揃いも揃ってこの上もなく退屈な人たちで高遠なことなんかなにひとつ話すことができないのですからね。わたしはあなたのことで、あるとてもおもしろい話を知っていますわ。ですからどうぞ、あまり威張ったお口はおききにならないでくださいな──あなたはある朝よその奥さんの寝台の下から下男に箒で追い出されたんですってね」
「いやらしい女だ!」と将軍はもぐもぐとつぶやいた。
諧謔的会話の一例。ここでは無意識の衝迫とかは考えなくていい。現実にあるリアルな会話の再現も考えなくていい。
腰をへこへこ折る姿が目に浮かぶような卑屈な饒舌というものがある。「それに、あのう、埋まりかけているのです。もうすっかり埋まりかけているのですよ、……」の個所に見られる繰返しがさらにこの卑屈感を倍加させる。
しかもこの卑屈な饒舌の中では「どうでしょう、……しているじゃありませんか」といった言い回しで勝手に科白の中で状況を描写してしまうということも起る。卑屈な饒舌による描写の代行?
また、引用部では相手に関する噂話を仄めかすことで相手を揶揄するという、完全に遠慮ゼロな話術も用いられている。「ですからどうぞ、あまり威張ったお口はおききにならないでくださいな──あなたはある朝よその奥さんの寝台の下から下男に箒で追い出されたんですってね」。これまた相手の深いところをぐさぐさ突くことによって諧謔的会話をのっぴきならないものにしていく契機だ。
余談。対話性を密にする際の「なにしろ」の汎用性は凄い。「なにしろ四月からここにいるのですからね。」修辞疑問文並み。
●『作家の日記』1巻136-137頁
「ボボーク」
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「ねえ、アヴドーチャ・イグナーチイェヴナ」と不意にまた例の小商人が金切り声を張り上げた。「ねえ、おやさしい奥さん、昔の恨みは忘れて、どうかひとつ教えてくれませんか。わたしはいまさまざまな苦しみをなめているところなのでしょうかね、それともなにか別のことが行なわれているのでしょうか?」
「ああ、あの男はまた同じことを言っている。きっとそんなことだろうと思っていたわ、だってあの男から妙なにおいがしているのが分かるんですもの。それであの男はもじもじと落ち着かないんですわ!」
「わたしはもじもじなんかしておりませんよ、奥さん。それにわたしからは別にこれといって特別なにおいなんかぜんぜん出ちゃいませんよ。だってまだ人間のからだをそっくりそのままちゃんと保たしていますからね。それよりあなたこそ、奥さん、もうそろそろいたみかけているんですよ──なぜかと言えば、こんな場所にいてさえも、実際どうにもたまらないにおいがぷんぷんしていますからね。わたしはただ礼儀をまもって黙っているだけのことなので」
「まあいやらしい、なんて失礼な! 自分こそひどいにおいを立てているくせに、逆にわたしに言いがかりをつけるなんて」
「おっ、ほ、ほ、ほ! せめて四十日目の追悼式でも早くきてくれればありがたいのだけれど。そうすれば涙にくれるみんなの声が頭の上で聞けるのになあ、家内の泣き叫ぶ声や子供たちのひっそりとした泣き声が!……」
「まあ、あんなことを言って泣いたりして。クチヤをお腹に詰め込んだらさっさと帰ってしまうだけなのにね。ああ、せめて誰でもいいから目をさましてくれないかしらねえ!」
諧謔的会話の一例。ここではリアリズムは無視しよう。リアリズムの単調さより諧謔味の効果の方が重要だ。
諧謔的会話においては、相手の姿(臭いなども含む)を科白の中で辛辣に描写して相手を容赦なく傷つけようとするという渡り合いがしばしば見られる。引用部では、「それであの男はもじもじと落ち着かないんですわ!」「それよりあなたこそ、奥さん、もうそろそろいたみかけているんですよ──なぜかと言えば、こんな場所にいてさえも、実際どうにもたまらないにおいがぷんぷんしていますからね」「自分こそひどいにおいを立てているくせに、逆にわたしに言いがかりをつけるなんて」「まあ、あんなことを言って泣いたりして」──といった科白がそれに当る。また、相手の描写に抗議する形で自分自身をも科白の中で描写したりすることもある。「わたしはもじもじなんかしておりませんよ、奥さん」
このように科白の中で描写を代行することによって、辛辣さ、諧謔味、相対性・複数性(主観的描写になるので)が付け加わるということが重要だ。地の文ではこうはいかないから。
●『作家の日記』1巻146-148頁
「ボボーク」
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「そうでしょうとも、そうでしょうとも。だからぼくもここへなにか奇抜なことを持ち込もうと思ってるんです。ところで閣下、いやあなたじゃありませんよ、ペルヴォイェードフ。──もうひとりの閣下、一等官のタラセーヴィッチさん! どうか返事をなさってください! あなたを大斎期にマドモアゼル・フュリーのところへご案内した、クリニェヴィッチですよ、ぼくの声が聞こえますか?」
「聞こえているよ、クリニェヴィッチ。それにしても実に嬉しい、いや決して嘘じゃない……」
「ふん、これっぱかしも信じるもんか、嘘も休み休み言うがいいや。ぼくはねえ、かわいいおじいさん、あなたにめちゃめちゃに接吻をあびせてやりたいところなんですが、しかし、ありがたいことに、それができかねるというわけで。ところで諸君、諸君はこの grand-pere がなにをやらかしたかご存じですか? この人は三日前か四日前に死んだのですが、それがどうでしょう、役所の金に四十万からの穴をあけてきたのですよ! その金は夫を失った女や孤児に支給されるものなのですが、どういうわけかこの人がひとりで管理していたのです。そんなわけで、しまいには、この八年間ばかり監査を受けたこともなかったのでした。いまごろあちらでみんながどんな間抜け面をしてこの人のことをなんと取り沙汰しているかと思うと、思い半ばにすぎるものがあります! 考えただけでもぞくぞくしてきます、そうじゃありませんか? 実はこの一年間というものぼくは、こんな七十の坂を越したよぼよぼの老人に、痛風病みで手も足も不自由な年寄りに、どうしてまだこれほどの淫蕩にふける力が残っていたのかと、ずっと不思議に思っていたのですが──いまやっとその謎が解けました! この夫を失った女や孤児たちのおかげなのです──こうした人たちのことをちょっと考えただけでも彼の情欲ははげしく燃えあがったに相違ありません!……。ぼくはこのことをもうずっと前から知っていました、ぼくだけがそのことを知っていたのです、シャルパンティエがそっと教えてくれたものですからね。そこでぼくはそのことを知るが早いか、この復活祭週に、さっそく彼をつかまえて友達甲斐にあっさりとこう持ちかけてみました──『二万五千ルーブリよこすんだな、それでないとあしたにも監査を受けることになるぞ』とね。ところが、どうでしょう、この男にはそのとき一万三千ルーブリしか持ちあわせがなかったのですよ。ですからこの男は、どうやら、いま非常にいいときに死んだということになるらしいです。Grand-pere, grand-pere、聞こえますか?」
「いやクリニェヴィッチ君、わたしは君のご意見にはまったく賛成だけれど、しかしそんな細かなことを言い立てても……いまさらどうにもならのじゃないかね。人生には悩みごとや苦しみごとは山ほどあるけれど、その報いというものははなはだすくないものでな……それで、とどのつまり、わしは安息を得たいと願ったわけなのさ。それに、わしが見た限りでは、ここの生活からもどんなことでも引き出せそうな気がするのでな……」
「賭けをしてもいいけれど、こいつはもうさっそくカチーシ・ベーレストヴァがいることをかぎつけたに相違ない!」
「誰だって?……。いったいどこのカチーシだね」と老人の声はいかにも好色らしく震え出した。
諧謔的饒舌、という一つの模範例。
ほんとこの若い伯爵は良く喋る。リアリズムの枠組みをぶっ壊してでも喋ろう(喋らせよう)という意志が漲っている。その饒舌を可能にしているスタイルは何か。
ここで伯爵は自分のことではなくて、他人(タラセーヴィッチ)のエピソードを語ってやっているのだが、その中でもエピソード内での注目すべき要所要所で自分の主観的感想・経験・推測を語って(「どういうわけがこの人がひとりで管理していたのです」「いまごろあちらでみんながどんな間抜け面をしてこの人のことをなんと取り沙汰しているかと思うと、思い半ばにすぎるものがあります!」「ずっと不思議に思っていたのですが──いまやっとその謎が解けました!」「こうした人たちのことをちょっと考えただけでも彼の情欲ははげしく燃えあがったに相違ありません!……」「ぼくはこのことをもうずっと前から知っていました、ぼくだけがそのことを知っていたのです、……」)──すなわち「ぼく」をさかんに前面に出している。それゆえに「ぼく」の自意識の見解に人々が賛同してくれるかをいちいち「諸君」に呼び掛けることにもなる(「それがどうでしょう、……」「考えただけでもぞくぞくしてきます、そうじゃありませんか?」「ところが、どうでしょう、……」)。
つまり他人のエピソード(ないしは自分以外の他の対象)を語る時でさえ「ぼく」が顔を出さずにはいられないということが、彼の饒舌にドライヴを掛けているわけだ。
●『作家の日記』1巻155-157頁
「ボボーク」
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「意義あり! それには断固として反対する」とペルヴォイェードフ将軍がきっぱりとした調子で発言した。
「閣下!」とろくでなしのレベジャートニコフがあわてて、いかにも心配そうに声を低めて舌をもつれさせながら説得しようとした。「閣下、ここは賛成しておいたほうが、かえって有利なのではございませんか。よござんすか、いまここであの娘が……それに、第一、こうしたいろいろなことが……」
「そりゃまあ、娘はいいとしても、しかし……」
「有利でございますよ、閣下、確かに有利でございますとも! まあ、試すだけでも試してごらんになったら。まあ、とにかくやってみることでございますよ……」
「墓場にきてまでも静かにさせてはくれんのだね!」
「まず第一に、将軍、あなたは墓の中でプレフェランスなんかやってるじゃありませんか。第二に、ぼくたちはあなたなんかには、はなも、ひっかけは、しませんよ」と区切りをつけてクリニェヴィッチは朗読するような調子で言った。
「失礼だが、いい気になって羽目をはずさないように願いたいものですな」
「なんですって? しかしいくら力んでもここまでは手がとどかないのだから、ぼくはユーリカの狆ころみたいにここからいくらでもあなたをからかうことができるわけですよ。それに、第一、諸君、ここであの男がなんで将軍なもんですか? 将軍だったのはあちらの世界のことで、ここではただの男じゃないですか!」
「ただの男なもんか……わしはここでも……」
「ここでは棺の中で腐るだけのことですよ。そしてあとには真鍮のボタンが六つ残るだけのことです」
「よう、いいぞいいぞ、クリニェヴィッチ、は、は、は!」と大勢の声が叫んだ。
「わしは皇帝陛下にお仕えしたのだ……わしは剣を持っているのだぞ……」
「あなたの剣ではねずみをちくちくやるのが関の山ってところだ。それに第一あなたはその剣を一度だって抜いたことがないじゃないか」
「そんなことはどうでもいいことだ。わしは全体の一部だったのだ」
「全体の一部にもいろいろとありますからね」
「ブラヴォー、クリニェヴィッチ、ブラヴォー、は、は、は!」
互いに相手を上から見下そうとする、生き生きした丁々発止のやりとり。どちらかというと将軍の論拠は自尊心で、クリニェヴィッチの方の論拠は価値破壊の諧謔性(「ぼくたちはあなたなんかには、はなも、ひっかけは、しませんよ」「ここであの男がなんで将軍なもんですか?」「あなたの剣ではねずみをちくちくやるのが関の山ってところだ」)。というか、クリニェヴィッチの諧謔性が相手の価値を格下げすることに向けられているので、ナイーヴな将軍の方はそれに憤って抵抗せざるを得ないという構図かな、この対決的対話は。
●『罪と罰』下172-174頁
第五部第一章
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ピョートル・ペトローヴィチはソファへもどると、ソーニャの向いに腰を下ろして、注意深い目でしばらく彼女を見まもっていたが、急にひどく重々しい、いくらかきびしくさえ見える態度になった。《あんたのほうも妙な気は起さんでもらいたいな、娘さん》とでも言いたげに見えた。ソーニャはすっかりどぎまぎしてしまった。
「まず最初に、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、どうかあなたのお母さんに謝っていただきたい……たしか、そうでしたな? カテリーナ・イワーノヴナはあなたにはお母さん代りでしたね?」とピョートル・ペトローヴィチはいかにも重みをつけて、とはいえ、かなりやさしい調子できりだした。彼が何かひどく親切な意向をもっていることは、明らかだった。
「そのとおりです、はい。母代りです」とソーニャはあわてて、おどおどしながら答えた。
「そこで、実はお母さんに謝ってもらいたいのですが、思いがけぬ事情ができましたために、ほんとうに残念ですが、あなたのお母さんにせっかくお招きをいただいておきながら、どうしてもお宅のお茶の集まり……いや法事に出席できないのですよ」
「はい。申します、早速」そう言いながら、ソーネチカはそそくさと立ちあがった。
「まだあるんですよ」ピョートル・ペトローヴィチは彼女が素朴で礼儀を知らないのに思わず失笑しながら、彼女をひきとめた。「ねえ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、わたしがこんな自分だけのつまらない理由のために、わざわざあなたのようなお方をわずらわして、ここへ来ていただいたなんてお考えでしたら、それはわたしという人間をちっともご存いないということですよ。むろん、目的は別にあります」
ソーニャはあわてて腰を下ろした。卓の上においたままになっている灰色や虹色の紙幣が、また彼女の目さきにちらついたが、彼女は急いで顔をそらして、ピョートル・ペトローヴィチに目をあげた。不意に彼女は、特に彼女には、他人の金に目をやったことが恐ろしく不作法なことに思われたのだった。彼女はピョートル・ペトローヴィチが左の手にもっていた金細工のオペラグラスと、同じくその手の中指にはめている、琥珀をちりばめた大きなどっしりした、びっくりするほどきれいな指輪に、目をやりかけた──が不意に、それらからも目をそらした、そしてもうどこへ目をやっていいかわからなくなり、結局、またまっすぐにピョートル・ペトローヴィチの目を見つめた。ちょっと間をおいて、まえよりもいっそう重みを加えて、彼は言葉をつづけた。
「昨日たまたま通りすがりに、気の毒なカテリーナ・イワーノヴナと二言三言言葉をかわしたのですが、それだけでもう十分にあの方が不自然な状態におかれていることがわかりました、そういう表現があるとすればですな……」
「はい……不自然な状態ですわ」と、ソーニャはあわてて相槌を打った。
ドストエフスキーの情景法の特異性。会話の途中でも語り手による距離感の調整が絶妙だね。たとえば「《あんたのほうも妙な気は起さんでもらいたいな、娘さん》とでも言いたげに見えた。」──これは語り手の権限を持ってすればルージンに焦点化して内語として描くこともできたはずだが、あえて外部からの推測(「……とでも言いたげに見えた」)の形にして、ソーニャとルージンの中間に位置取ろうとしている。あるいは「彼が何かひどく親切な意向をもっていることは、明らかだった。」というこの文章にも注目。明らかって、誰にとって明らかなのか? 一般的な視野から見てってことか? つまりはここで語り手が一般的な観点からの評価を挿入しているということだ。情景法の地の文にだぜ。ほんとうに語り手が自己を主張せずとも暗躍している。
また、「卓の上においたままになっている灰色や虹色の紙幣が、また彼女の目さきにちらついたが、彼女は急いで顔をそらして、ピョートル・ペトローヴィチに目をあげた。不意に彼女は、特に彼女には、他人の金に目をやったことが恐ろしく不作法なことに思われたのだった。」──この箇所、この箇所もほんとうに素晴らしい。情景法の地の文において、振舞いと動機をしっかりと組み合わせて記述しているわけだ。つまりソーニャがここで視線をあちらこちらに移す振舞いについて、動機をちゃんと用意して説明している──というより動機がしっかりしている振舞いを彼女にさせている。しかもその振舞いと動機がしっかりとソーニャの人格を立てていく。単なる記述の水増しとしての動作描写ではないのだ! コーマック・マッカーシーみたいに現前性の表面をなぞりつづけるようなスタイルとはまったく異なる。
余談。「ちょっと間をおいて」という文修飾副詞、便利だな。「そして」みたいに使える。「そしてもうどこへ目をやっていいかわからなくなり、結局、またまっすぐにピョートル・ペトローヴィチの目を見つめた。ちょっと間をおいて、まえよりもいっそう重みを加えて、彼は言葉をつづけた。」──しかもこれで改行後の科白につなげているからね。
●『地下室の手記』153-154頁
第二部第六章
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〈こういう美しい絵でもって、こういう絵でもって、おまえをおびきだしてやるわけだ〉ふと、ぼくは腹のなかで思った。といっても、誓っていうが、ぼくは真情をこめて話していたのだ。そして突然、顔を赤らめた。〈でも、もし彼女がふいに大声をあげて笑いだしたらどうしよう、どこへ逃げこめばいいだろう?〉この考えは、ぼくをかっとさせた。話の終りごろ、自分が本気で熱中してしまったのが、いまになってみると、自尊心を傷つけられたように思えてきた。沈黙が長びいた。ぼくは彼女をこづいてさえやりたくなった。
「なんだかあなたは……」だしぬけにこう言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
しかし、ぼくにはもうすっかりわかっていた。彼女の声には、もう何か別の調子がひびいていた。さっきまでの荒々しい、乱暴な、向う気の強さとは打ってかわって、何かものやわらかで、恥ずかしげなものがひびきはじめていたのだ。それがあまりにも恥ずかしそうなので、思わずぼく自身まで、彼女に対して何かうしろめたい、恥ずかしい気持にかられたほどだった。
「どうしたんだい?」ぼくはやさしい関心を見せてたずねた。
「だって、あなたは……」
「なにさ?」
「なんだか、あなたは……まるで本を読んでるみたいで」彼女はこうつぶやいた。そして、その声にはまたしても何やら嘲笑に似た調子が聞えた。
この言いかたに、ぼくは痛いところをつかれた思いだった。こんな言葉が返ってこようとは予期してもいなかった。
ぼくには、彼女がことさら嘲笑的な口調のかげに身をかくそうとしたことがわからなかったのだ。純情で羞恥心の強い人間が、ずかずかと無遠慮に内心に踏みこんでこられたとき、それでも誇りの気持から最後の瞬間まで屈しようとはせず、自分の本心をさらけだすのを恐れている場合、ふつう、こういう奥の手を使うものだということがわからなかったのだ。彼女があの嘲笑を口にしたとき、何度もためらいながら、そのあげくにようやく口にする決心をつけたらしい、あのおずおずとした様子ひとつからだけでも、ぼくは察してやるべきだったのに。しかし、ぼくは察してやらなかった、そして、はげしい憎悪がむらむらと頭をもたげてきた。
《よし、見ていろ》とぼくは考えた。
過敏な羞恥心(純情で羞恥心の強い人間)とはかり知れないプライド(誇りの気持)が同居している女性は、嘲笑の語調の裏に「何かものやわらかで、恥ずかしげなもの」を隠そうとする。つまり彼女の身振りは分裂する。その認識が完全に登場人物の仕草の中に受肉している。この完璧なまでのリアリズムがあるからこそ、ドストエフスキーは非凡な人物の作中に実在させることができるわけだ。ナスターシャ・フィリポヴナなどもこの認識から派生したものだろう。
●『白痴』上265-266頁
第一編第十章
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ナスターシャ・フィリポヴナもまたガーニャの振舞いとそれにたいする公爵の態度にふかく心を打たれた。さきほどのあのわざとらしい高笑いとはまったくそぐわないいつも蒼白い彼女の顔が、いまや明らかに、ある新しい感情にかきみだされているようであった。しかし、彼女はどうやらそれを口にはだしたくないとみえて、嘲笑の色がその顔にますます濃くなっていくようにみえた。
「ほんとに、あたしこの人の顔をどこかで見たことがあるわ!」彼女はまたふいにさきほどの疑問を思い浮べて、思いもよらぬまじめな顔つきで言った。
「いや、あなたもまた恥ずかしくないんですか! 前からそんなかただったんですか。いいえ、そんなはずはありません!」公爵はいきなりふかい心の奥底から責めるような調子で叫んだ。
ナスターシャ・フィリポヴナは面くらって、にやりと笑った。しかし、その笑いのかげには何かを隠してでもいるように、いくぶんどぎまぎして、ちらっとガーニャに眼をやると、そのまま客間を出ていってしまった。が、まだ玄関まで行かぬうちに、ふいに取ってかえして、ニーナ夫人に近づくと、その手を取って、自分の唇に押しあてた。
「あたくしは、ほんとうはこんな女ではございません、あの人のおっしゃったとおりですの」彼女は早口に熱をこめてささやいたが、ふいにさっと顔を真っ赤にすると、いきなり身をひるがえして、客間を出ていった。そのすばやい動作は、ほんの一瞬のことだったから、誰ひとりなんのために彼女が引きかえしたのか、想像する暇もなかった。ただ何かニーナ夫人にささやいて、どうやら、その手に接吻したらしいことがわかったばかりであった。ワーリャは、それをすっかり見聞きしたので、びっくりしながら彼女の姿を見おくったのであった。
いや、まさに『地下室の手記』のリーザがナスターシャ・フィリポヴナの原型であることを示す個所。「さきほどのあのわざとらしい高笑いとはまったくそぐわないいつも蒼白い彼女の顔が、いまや明らかに、ある新しい感情にかきみだされているようであった。しかし、彼女はどうやらそれを口にはだしたくないとみえて、嘲笑の色がその顔にますます濃くなっていくようにみえた。」「ナスターシャ・フィリポヴナは面くらって、にやりと笑った。しかし、その笑いのかげには何かを隠してでもいるように、いくぶんどぎまぎして、ちらっとガーニャに眼をやると、そのまま客間を出ていってしまった。」──こういう描写から明らかだろうが、極度にプライドの高い人間は、自分自身にさえ打ち明けるのを恐れているような或る認識や感情を心の奥処に押し込めている、だがその圧力が強ければ強いほどそれを揺さぶられた時の動揺は大きくなり、表面では「嘲笑の色」にまぎらそうとしても自分の羞恥の鋭い意識を隠しきれない。
●『白痴』下62-63頁
第三編第二章
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……ところが、いまや思いがけずに彼女が姿をあらわした一瞬、おそらく一種の直感によってでもあろう、彼はロゴージンに話した自分の言葉に何が不足していたかをさとったのである。この恐怖の念を言いあらわすには、われわれの言葉はあまりにも貧しい。そうだ、恐怖なのだ! 彼はいまやこの瞬間にそれを完全に直感したのである。彼は信ずべき理由によって、彼女が気ちがいだと信じて疑わなかった。まったくそう信じきっていたのである。もしひとりの女性をこの世の何ものよりもふかく愛し、あるいはそのような愛の可能性を心に描いている男が、突然その女性が鎖につながれ、鉄格子の中に閉じこめられて、監視人の鞭の下に倒れているところを見るとしたら──その印象こそ、いま公爵が感じているものに、いくぶん似通っているかもしれない。
「どうなさいましたの?」アグラーヤは彼のほうをふりかえって、子供っぽくその手をひっぱりながら、急いでささやいた。
ドストエフスキーはささいな仕草を描写する際にも形容詞を凄まじい精度で選んで確実にあるイメージを受肉させる。ここでアグラーヤの手をひっぱる仕草に付けられた「子供っぽく」は多くのことを暗示する。パラフレーズすれば、そこには彼女の不安と異常な動揺があらわれていて、それを押さえ付ける間もなく仕草に示したことが「子供っぽく」と形容されているのだろう。つまり彼女の不安と臆病とプライドとが一瞬拮抗し交錯したことを完全に把握した上で、このような描写をドストエフスキーは行ったわけだ。
●『カラマゾフの兄弟』3巻276-279頁
第三部第九篇第三章
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「あなたは、ニコライ・パルフェーヌィチ、お見受けしたところなかなか敏腕な予審判事さんですね」突然ミーチャが陽気な声で笑いだした。「しかしこれからは僕のほうでもお手伝いしましょう。ああ、皆さん、僕は生き返ったような気持です、……ですから、僕があなた方に対してこんな無遠慮な、ざっくばらんな態度を取るからと言って文句を言わないで下さい。それに僕は少々めいていしている。このことも隠さずに言っておきましょう。確かあなたとは、ニコライ・パルフェーヌィチ、僕の親戚ミウーソフの家で拝顔の栄に……拝顔する光栄と喜びに浴しましたな。……いや、皆さん、ご一同、僕は何も対等の権利を要求しているんじゃありません、僕がいま何者として皆さんの前に坐っているかは、重々承知しています。僕についてあのグリゴーリイが証言をしたとすれば、僕に……僕に ──恐ろしい嫌疑がかけられているのは当然です! 恐ろしいことだ、実に恐ろしいことです、──それは僕も承知しています。しかしこの事件については、皆さん、僕はいつでも申し開きができます、ですからすぐにけりがつくでしょう。なぜかと言えば、聞いて下さい、聞いて下さい、皆さん。だって僕が自分で無実なことを知っていれば、すぐにけりがつくのが当然じゃありませんか。そうでしょう? そうでしょう?」
ミーチャは早口で、くどくどと神経質に、感情をむき出しにして話した。まるで相手を自分の最良の親友とでも思い込んでいるような口ぶりだった。
「では、いちおう記録にとどめておきましょう。あなたはご自分にかけられた嫌疑を全面的に否認なさるのですね」予審判事はさとすようにこう言うと、書記のほうを振り向いて、記録すべきことを小声で口授した。
「記録にとどめる? あなた方はそんなことを記録なさりたいんですか。よろしい、記録なさい、承知しました、完全に承知しました、皆さん。……ただ…… 待って下さい、どうせならこう記録して下さい。《乱暴狼藉については有罪、不幸な老人に重傷を負わせたことについては有罪》とね。それから心のなかでは、心の奥底では罪ありと思っています、──しかしこれは書く必要はないよ」と不意に彼は書記のほうを振り向いて言った。「これは僕の私生活の問題ですからね、皆さん、あなた方には関係ありません、つまり心の奥底の問題なんです。……しかし老父殺害の件については──無実です! 実際、奇怪千万な考えです! 全くもって奇怪千万な考えです!……今すぐ証明してごらんに入れますから、あなた方もすぐに納得して下さるでしょう。あなた方はお笑いになりますよ、皆さん、そんな嫌疑をかけたことを、大声でお笑いになることでしょう。……」
「まあ落ち着いて下さい、ドミートリイ・フョードロヴィチ」と予審判事は、自分の冷静さで熱狂した相手を抑えようと思ったらしく注意した。「訊問をつづける前に、私はあなたから、あなたが返事をなさることに同意して下さればの話ですが、次の事実の当否をお聞きしたいのです。確かあなたは亡くなったフョードル・パーヴロヴィチがお嫌いで、お父上と喧嘩の絶えまがなかったそうですね。……少なくともこの宿屋で、十五分ばかり前に、あなたはお父上をころしたいとさえ思ったと言われたようでした。『ころしはしなかったが、殺したいとは思った!』──こうあなたは叫んだのです」
「僕がそんなことを叫びましたか。ああ、あり得ることです、皆さん! そうです、不幸にも僕は父を殺したいと思いました。何度もそう思いました、……不幸にも、不幸なことに!」
「そうお思いになった。では、いったいどんな理由でお父上に対してそんな憎悪を抱かれるようになったか、それをご説明いただけないでしょうか」
「今さら説明するまでもないでしょう、皆さん!」ミーチャは目を伏せて、無愛想に肩をそびやかした。「僕は自分の感情を隠さなかったから、町じゅうがそのことを知っています。──酒場にいた人なら誰でも知っていますよ。つい最近も、僧院のゾシマ長老の庵室で口にしました。……あの日の夜、僕は親父を殴りつけて半殺しの目に合わせ、証人たちのいる前で、今度来たら殺してやると断言したものです。……ああ、証人なら大勢います! まるひと月わめき散らしたんですから、誰も彼もが証人です!……事実は目の前にあります、事実が語っている、叫んでいる、しかし──感情は、皆さん、感情は別物です。ですから、皆さん」と言ってミーチャは顔をしかめた。「僕は感情の問題にまで立ち入って質問なさる権利は、あなた方にはないと思うのです。たといその権利があるとしても、僕にもそれは理解できますが、しかしこれは僕の問題なんです、僕の内心の、ひそかな問題なんです。もっとも、……僕は前にも……例えば酒場で、自分の感情を隠さずに、相手かまわず話したんですから、……今だってそれを秘密にしておくつもりはありません。ねえ、皆さん、今度の事件では僕に不利な恐ろしい証拠が揃っていることは承知しています。何しろ、殺してやるとみんなに吹聴していたところ、突然その親父が殺されたんですからね。こうなれば僕が犯人だと思われるのは当然じゃありませんか。は、は! 僕はあなた方を非難はしませんよ、皆さん、むりもないことだと思います。僕自身、青天の霹靂だったんですからね。僕でないとすると、誰が親父を殺したのだろうって。そうじゃありませんか。僕でないとすると、誰がやったんでしょう、誰が? 皆さん」ととつぜん彼は叫んだ。「僕は知りたいんです、ぜひ教えてほしいんです、皆さん、親父はどこで殺されていたのです? どんなふうに、なんで殺されていたのです? それを教えて下さい」と彼は、検事と予審判事の顔を見くらべながら早口でたずねた。
何故かドストエフスキーの書く会話場面では、登場人物間でのリアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていくような印象がある(呼びかけ、および話しながらの対処)。ただしドミートリイの場合は特殊で、彼のあまりにも強烈な伝達の意志が、その性急さについていけない相手から放たれる齟齬や妨害による空回りしてしまう、その不測の事態への対処として「リアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていく」現象が起きているかのようである。つまり彼の性急すぎる伝達の意志は、はじめは「相手を自分の最良の親友」と見なして何でもすぐに理解してくれるものと想定してかかるのだが、その当てが外れると、さらに性急さに拍車をかけつつ、相手の思い通りでない反応に対応する必要に迫られて、「いや、皆さん、ご一同、僕は何も対等の権利を要求しているんじゃありません」「恐ろしいことだ、実に恐ろしいことです、──それは僕も承知しています」「なぜかと言えば、聞いて下さい、聞いて下さい、皆さん」「そうでしょう? そうでしょう?」「よろしい、記録なさい、承知しました、完全に承知しました、皆さん」「ねえ、皆さん、今度の事件では僕に不利な恐ろしい証拠が揃っていることは承知しています」「そうじゃありませんか」──といった相手も自分をも急き立ててはやく合意に至ろうとする奇妙な態度として飛び出すのである。
ドミートリイは強烈な伝達の意志をもって喋っているからこそ、リアルタイムな反応を科白に繰り込んでいかざるを得ないということ。これが彼なりの「おずおずとした態度」か。
●『カラマゾフの兄弟』4巻244-245頁
第十一篇第八章
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話し手は言葉を切った。イワンはその間じゅう身動きひとつせず、相手をじっと見つめたまま、死んだように黙りこくって聞き入っていた。スメルジャコーフは、話をしながらほんの時たまイワンの顔をちらりと見たが、たいていは目をそらしていた。話し終わると、彼は自分も興奮したらしく、苦しそうに息をついだ。顔には汗が浮かんでいた。もっとも、彼が後悔しているかどうかは、見た目にはわからなかった。
「待ってくれ」とイワンが何か思いめぐらすように言った。「それじゃあのドアのことは、どうなんだ? もし親父がお前のために開けたとすれば、それより前にグリゴーリイが開いているのを見たというのはおかしいじゃないか。グリゴーリイはお前より前に見たと言うんだぜ」
注目すべきことは、イワンがまるで打って変わった、非常におだやかな、みじんも憎悪の感じられない声でこうたずねたことである。もしいま誰かがドアを開けて、敷居の上からふたりの様子を眺めたならば、きっとその人はふたりが、何か面白いけれどもありふれたことを話題にして仲よく話し合っていると思ったに違いない。
「そのドアのことですが、グリゴーリイが開いているのを見たというあの話は、あの爺さんにただそう見えただけのことですよ」と言ってスメルジャコーフはゆがんだ薄笑いを浮かべた。「わたしに言わせると、あの爺さんは人間じゃない、強情な去勢馬みたいなやつでございます。実際に見たんじゃなくて、見たような気がしただけなんですが、──言い出したが最後、あとへは引かない。もっとも、あの爺さんがそう思いついたのは、わたしたちふたりにとっちゃもっけの仕合せでしたよ、そうなれば、間違いなくドミートリイ様の犯行ということになりますからね」
「それじゃ」とイワンは言いかけたが、ふたたび彼は途方に暮れ、何かしきりに思案しているみたいだった。「それじゃ、……おれはお前にききたいことがたくさんあったのに忘れてしまった。……すっかり忘れっぽくなって、頭が混乱しているんだ。……そうだ! じゃせめてこれだけでも教えてくれ。なぜお前は封筒の封を切って、床の上へ捨てて行ったんだ? なぜ封筒のまま持って行かなかったんだ?……さっきお前の話を聞いている時、お前がその封筒のことについて、そうしなければならなかったと言ったような気がするんだがね。……何のためにそうする必要があったのか、おれにはよくわからないんだ。……」
複雑な性格をもち、頭の回転の速い人物がほんとうに動揺した時には、思考のメモリがいっぱいいっぱいになってしまうものだ。「おれはお前にききたいことがたくさんあったのに忘れてしまった。……すっかり忘れっぽくなって、頭が混乱しているんだ」。マンガみたいにヒステリックに反発したり髪の毛を掻きむしったりギャーギャー喚いたりするのは「偽の動揺」である。非凡な人物による「真の動揺」の発露、それがこの引用部分だ。
「注目すべきことは……」と語り手が主観をまぜた文章で始まっている段落が、無論白眉だ。凄まじく動揺している。心理は混乱している。だからこそ、死んだように黙りこくり、しきりに思案しているようであり、相手をじっと見つめ、そして非常におだやかな、みじんの憎悪も感じられない声でたずねかけたりする。一つ確実に言えることは、イワンの身振りにまったくわざとらしい要素はないということだ。
●
------------------------------------- タイプ【D-10】緊迫した対話・情景法 ▲
●『罪と罰』上452-454頁
第三部第五章
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「まあ、少なくともその方面ではあなたの説明でいくらか安心しました。ところがもうひとつ心配があるんですよ。どうでしょう、他人を斬り殺す権利をもっている人々、つまり《非凡人》ですね、そういう人々はたくさんいるでしょうか? ぼくは、むろん、ぺこぺこする用意はありますが、でもそんな人間にそうやたらあちこちにいられたら、いい気持はしませんよ、ねえ?」
「ああ、それも心配はいりませんよ」とラスコーリニコフは同じ調子でつづけた。「だいたい新しい思想をもった人間はもちろん、何か新しいことを発言する能力をほんのちょっぴりでももっている人間でさえ、ごくまれにしか生れませんよ、不思議なほど少ないんです。ただ一つわかっていることは、この二つの層およびその更にこまかい分類に属するすべての人々の生れる順序というものが、ある自然の法則によってきわめて正確に定められているものらしい、ということです。その法則は、もちろん、まだ発見されていませんが、しかしそれが存在すること、そしていずれは発見されるにちがいないことを、ぼくは信じています。おびただしい数の人々、つまり材料はですね、ある努力をへて、今日もなお神秘的なあるプロセスを通って、さまざまな種族のある配合という手段によって、ついに、たとえ千人に一人でも、いくらかでも自主的な人間を、全力をふりしぼってこの世に生み出すという、ただそれだけのために生きているのです。もっと広い自主性をもつ人間は、一万人に一人くらいかもしれません(これはわかりやすくするために、大まかな数字ですが)、さらに広大な自主性をもつものは、十万人に一人でしょう。天才的な人々は百万人に一人でしょうし、偉大な天才、人類の感染な組織者などは、何世代にもわたる何十億という人々の中からやっと一人でるかでないかでしょう。要するに、こうしたプロセスが行われる蒸留器の中を、ぼくはのぞいたわけじゃありませんが、ある一定の法則はかならずあるはずです。ここには偶然はあり得ません」
「なんだいきみたちは、ふざけてるのか?」ついにたまりかねて、ラズミーヒンはどなった。「だましっこをしてるのかい? せっかく会って、からかいあってるなんて! ロージャ、きみはまじめなのか?」
ラスコーリニコフは黙って蒼白い、うれいにしずんだような顔を彼に上げたが、なんとも答えなかった。そして、このしずかな悲しそうな顔と対照して、ポルフィーリイの露骨でしつこく、じりじりした無作法なとげのある態度が、ラズミーヒンには奇妙なものに感じられた。
「まあ、きみ、ほんとうにそれがまじめなら……むろんきみの言うとおり、これは別に新しい思想じゃない。ぼくらがもう何度となく読んだり聞いたりしたものの類似にすぎんよ。だが、この中で実際に独創的なもの、──しかも実際にきみだけのものは、──おそろしいことだが、それはなんといっても良心の声にしたがって血を許していることだ、しかも、失礼だが、そこには狂信的な態度さえ感じられる……つまり、ここにきみの論文の根本思想があるわけだ。この良心の声にしたがって血を許すということは、それは……それは、ぼくの考えでは、流血の公式許可、法律による許可よりもおそろしいと思うよ……」
「まったくそのとおりだ、なおおそろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、きみはきっと何かに魅せられたんだよ! そこにまちがいがあるんだ。ぼくは読んでみる……きみは夢中で書いたんだ! きみがそんなことを考えるはずがない……読んでみるよ」
「論文にこんなことはぜんぜんないよ、暗示があるだけさ」とラスコーリニコフは言った。
あくまで科白の造型(しかも複層的な)と対話の緊迫感で勝負するドストエフスキー。それが良く現われた場面。
とはいえ、この場面はラスコーリニコフが殺人犯でそれを隠しており、ポルフィーリイはそれをひそかに疑って挑発しているという「文脈」を知らなければそれほどスリリングとも思われないだろう。そうしたプロット上の文脈を含めての、複層な科白と科白のぶつかりあいとなっている。たとえば、「ああ、それも心配はいりませんよ」という言葉から始まるラスコーリニコフの長科白の冷静なトーンの異様さ。内容が人間をあたかも試験管の中の存在であるかのように扱う内容をそうした冷たいトーンで語ることのギャップもさることながら、この思想が彼の殺人に連なっている、すなわち彼自身の殺人の動機の説明にもなっていることを思えば、ラスコリーリにコフがずっと「同じ調子」でつづけるというのは、何か空恐ろしい、途轍もなく誤ったものが背後に何かあるのではと感じさせる。それに対する善良なワトソン役ことラズミーヒンの役割も絶妙。「なんだいきみたちは、ふざけてるのか?……せっかく会って、からかいあってるなんて!」──いや、確かに見ようと思えばそう見えるので、ラズミーヒンの本質にはまったく触れないこの感想は或る意味ではリアルだ。それに対するラスコーリニコフの「沈黙」の返事を配置するのがまた見事。そこでポルフィーリイとラスコーリニコフの表情の対照をラズミーヒンを通して「奇妙なもの」に感じさせる立体的構成も素晴らしい。
その後の、ラズミーヒンによる、口ごもりながらのラスコーリニコフの見解への評価(「だが、この中で実際に独創的なもの、──しかも実際にきみだけのものは、──おそろしいことだが、それはなんといっても良心の声にしたがって血を許していることだ、しかも、失礼だが、そこには狂信的な態度さえ感じられる……」)は、あのラズミーヒンさえおののかざるを得ないものとして、ラスコーリニコフの考え(とそれを言った口調の冷静さ)の異形を際立たせる。特にラズミーヒンに思わず「きみは夢中で書いたんだ! きみがそんなことを考えるはずがない……」と言わせているのは、場面の緊迫感を増すのにどれほど寄与しているかわからない! ラズミーヒンでさえ、この一瞬、ラスコーリニコフの本質に、抑圧された無意識に、つまり秘められた犯罪に、かすかに勘付いたのではないか? そういう登場人物間の無意識での啓発や気付きが濃厚にはらまれていることを持って、場面の「緊迫感」と仮に呼んでいる。
●『罪と罰』下87-89頁
第四部第四章
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タンスの上に本が一冊のっていた。彼はそのそばを行き来するごとに、それに目をやっていたが、今度は手にとって見た。それはロシア語訳の新約聖書だった。古いよごれた皮表紙の本だった。
「これはどこで?」と彼は部屋の向う隅から彼女に声をかけた。彼女はやはりもとのまま、机から三歩ばかりのところに立っていた。
「持ってきてくれましたの」彼女は気がすすまぬらしく、そちらを見もせずに答えた。
「誰が?」
「リザヴェータですわ、わたしが頼んだので」
《リザヴェータ! 不思議だ!》と彼は考えた。ソーニャのまわりのすべてのものが、どうしたわけか、しだいにますます不思議な奇妙なものに思われてきた。彼は聖書をろうそくのそばへ持って行って、ページをめくりはじめた。
「ラザロのところはどのへんかね?」と彼は不意に聞いた。
ソーニャはかたくなに床に目をおとしたまま、黙りこくっていた。彼女は机にすこし横向きかげんに立っていた。
「ラザロの復活はどこかね? さがしてくれ、ソーニャ」
ソーニャは横目でちらと彼を見た。
「そんなところじゃないわ……第四の福音書よ……」と彼女はその場を動こうともせずに、けわしく小声で言った。
「さがして、読んでくれ」と言って、彼は椅子に腰を下ろし、机に肘をついて、片手で頭を支え、暗い目を横のほうの一点にすえて、聞く姿勢をとった。
《三週間もしたら第七天国へ、どうぞだ! おれも、おそらく行くだろうよ、それより悪いことがなければな!》と彼は腹の中で呟いた。
ソーニャはラスコーリニコフの奇妙なねがいを不審な思いで聞いて、ためらいながら机のそばへ近よった。それでも、聖書は手にとった。
「ほんとにあなたは読んだことがありませんの?」彼女は机の向うから上目でちらと彼を見て、こう尋ねた。彼女の声はますますけわしくなった。
「ずっとまえに……学校にいた頃。読んでくれ!」
「教会で聞いたこともないの?」
「ぼくは……行ったことがないよ。きみはときどき行くの?」
「う、ううん」とソーニャは囁いた。
ラスコーリニコフは苦笑した。
「わかるよ……それじゃ、明日お父さんの葬式にも行かないわけだな?」
「行きますわ。先週も行って……供養をしましたわ」
「誰の?」
「リザヴェータの。あのひとは斧で殺されたのよ」
彼の神経はしだいにますます苛立ってきた。頭がくらくらしはじめた。
「きみはリザヴェータと仲がよかったのかい?」
「ええ……あのひとはまちがったことのきらいなひとでしたわ……ここへは……たまにしか……だって来れなかったんですもの。わたしたちはいっしょに読んだり……お話したりしたわ。あのひとは神さまにお会いになるでしょう」
この聖書の文句のような言葉が彼の耳には異様に感じられた。そしてまた、彼女とリザヴェータの奇妙なつきあい、そして二人とも──ばかな狂信者だという、新しい事実を知った。《こんなことをしていると、こっちまでばかな狂信者になりかねないぞ! 伝染病みたいだ!》と彼は考えた。「読んでくれ!」と彼はとつぜんじれったそうに、しつこく叫んだ。
非常に緊張した対話場面の中で、ふとどうでもいい瑣末なやりとりが挟まれることによって却って緊迫感が高まるということがある。引用部の「ぼくは……行ったことがないよ。きみはときどき行くの?」「う、ううん」「わかるよ……それじゃ、明日お父さんの葬式にも行かないわけだな?」「行きますわ。先週も行って……供養をしましたわ」──などはその効果的な一例。しかもこれは別に表層的なやりとりではなく、ドストエフスキーの作品においては常に登場人物の自意識は否認や抑圧を孕んで無意識の衝迫と拮抗関係にあって屈折するという原則どおりに、ソーニャの何気ない一言(つまりはラスコーリニコフの自意識の外からやってくる他者の一撃)──「リザヴェータ」の名前──が彼の無意識に突き刺さるという細部が現象している。「《リザヴェータ! 不思議だ!》と彼は考えた。ソーニャのまわりのすべてのものが、どうしたわけか、しだいにますます不思議な奇妙なものに思われてきた。」「彼の神経はしだいにますます苛立ってきた。頭がくらくらしはじめた。」もちろんここでは言語化されてはいないが、彼は自己の無意識の奥底に抑圧したリザヴェータ殺しの事実やあの感触をソーニャの何気ない言葉によって抉られかけているのである。しかし彼はソーニャの言葉の殺傷性をはっきりと能動的に評価することができないでいるので、せいぜいソーニャのまわりのものが奇妙に見えてきたり、神経が苛立ったりするだけだ。語り手はその微差を正確に描写し切っている。
また、ラスコーリニコフはここで一瞬無意志的に腹の中で呟いたりしているが、「《三週間もしたら第七天国へ、どうぞだ! おれも、おそらく行くだろうよ、それより悪いことがなければな!》と彼は腹の中で呟いた。」──これも瑣末ながら場面の緊迫感を高める細部の一つかもしれない。
あとはソーニャの科白に付随する身振りの描写の繊細さに注目しよう。見るべきものだけを見ているような適確な描写。「彼女は気がすすまぬらしく、そちらを見もせずに答えた。」「ソーニャはかたくなに床へ目をおとしたまま、黙りこくっていた。彼女は机にすこし横向きかげんに立っていた。」「ソーニャは横目でちらと彼を見た。」「彼女はその場を動こうともせずに、けわしく小声で言った。」「ソーニャはラスコーリニコフの奇妙なねがいを不審な思いで聞いて、ためらいながら机のそばへ近寄った。それでも、聖書は手にとった。」「彼女は机の向うから上目でちらと彼を見て、こう尋ねた。彼女の声はますますけわしくなった。」
●『罪と罰』上261-246頁
第二部第五章
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「何で説明するって?」とラズミーヒンがからんだ。「それこそ骨のずいまでしみこんでいる現実ばなれということで、説明されるでしょうな」
「といいますと、それはどういうことです?」
「つまり、モスクワであなたのいうその講師とやらが、なぜ贋債券をつくったかという尋問に答えて言ったことですよ。《みんないろいろな方法で金を儲けている。だからわたしも手っとり早く金持になろうと思ったのだ》正確な言葉はおぼえていないが、他人の金で、手っとり早く、労せずに、という意味だ! みんな住居食事つきの生活をしたり、他人のいいなりになったり、他人が噛んでくれたものを食べたりすることに、慣れきってしまったのです。そこへ、突然偉大なる時代が訪れたものだから、みんなその正体をあらわしてしまったのさ……」
「でも、それなら、道徳というものは? それに規律といいますか……」
「いったいあなたは何を心配しているんです?」と、不意にラスコーリニコフが口をいれた。「あなたの理論どおりになってるじゃありませんか!」
「わたしの理論どおりにといいますと?」
「あなたがさっき説教していたことを、最後までおしつめていくと、人を殺してもかまわんということになりますよ……」
「とんでもない!」とルージンは叫んだ。
「いや、それはちがう!」とゾシーモフが応じた。
ラスコーリニコフは横たわったまま蒼白な顔をして、上唇をヒクヒクふるわせ、苦しそうに息をしていた。
「何事にも程度ということがあります」とルージンは見下すような態度でつづけた。「経済学説はまだ殺人への招待ではありません。そしていま仮に……」
「じゃ、ほんとうでしょうか、あなたが」と、不意にまたラスコーリニコフは憎悪にふるえる声でさえぎった。その声には自虐というか、屈辱をむしろ喜ぶようなひびきがこもっていた。「あなたはあなたの許嫁に向って……結婚の承諾を受けたそのときに、……何よりも嬉しいのは……あれが貧しいことだ……というのは、貧乏人の娘を嫁にもらうと、あとでおさえがきくし……それに恩を売りつけてしめあげられるから、ずっととくだ、と言ったそうですね、ほんとうですか?……」
「とんでもない!」とルージンは真っ赤になって、うろたえながら、怒りにふるえる声で叫んだ。「あなた……それはひどい曲解です! 失礼ですが、わたしも言わせてもらいます。あなたのところまでとどいた噂、いやむしろ、あなたのところへ送りとどけられた噂といったほうがいいでしょう、それはつゆほどの健全な根拠もありません。わたしは……一体誰が……一口にいえば……この毒矢は……要するに、あなたのお母さまが……あの方はそうでなくてもわたしには、それはまありっぱなすぐれたところはたくさんお持ちですが、それはそれとして、ものの考え方にいくぶんのぼせやすいロマンチックなニュアンスがあるように見うけられたんですが……でもやはりわたしには、あのお母さまがこれほど空想で歪められた形で、あのことを解釈したり、想像したりなさったとは、まったく意外でした……そして、そのあげく……はては……」
「いいですか?」ラスコーリニコフは枕の上に身を起して、ギラギラ光る射ぬくような目でじいッと彼をにらみつけながら、叫んだ。「きみ?」
「何です?」ルージンは言葉をきって、腹立たしげに、挑むような態度で相手の出方を待った。数秒沈黙がつづいた。
「いいかね、もしあなたがもう一度……一言でも……ぼくの母のことを口にしたら……ぼくはあなたを階段からつきおとす!」
「どうしたんだ、きみ?」とラズミーヒンが叫んだ。
「なるほど、そうですか!」ルージンは蒼白になって、唇をかみしめた。「それじゃ、わたしも、言いましょう」と彼は言葉をくぎりながら言いはじめた。一生けんめいに自分を抑えてはいたが、やはり息は苦しそうだった。
「わたしは、先ほど、ここへ一歩入ったときから、もうあなたの敵意はわかっていました、が、もっとよく知ろうと思って、わざとここにのこったのです。病人ですし、親戚ですから、たいていのことなら許せますが、いまはもう……あなたを……ぜったいに……」
「ぼくは病人じゃない!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「それならなおさらです……」
「出て行ってくれ!」
基本的にドストエフスキーの描く対話においては、科白が屈折し二重化されあるいは戦略的に饒舌が維持されたりすることによって直接的な敵対は表面化しない──表面化してしまえばあとは互いに傷つけ合って「訣別」するしかなくなるのだし──のが普通だが、引用部では珍しく対立が前景化している。
ただし相手と敵対する意図においては、ラスコーリニコフの方がより露骨だ。「その声には自虐というか、屈辱をむしろ喜ぶようなひびきがこもっていた。」という地の文はその露骨さの適確な表現ではないか。あまりにも直接的な敵対の意図は、他者のみならず自己への破壊の意志も秘めたものとならざるを得ないということ。対してルージンの方はまだ直接的な敵対に「うろたえ」るぐらいの受動性があり、科白の中でもぎりぎりまでラスコーリニコフへの非難を表出しない。というか、最終的に表出できずに終る。「あなたをぜったいに許せない」とは言い切れずに部屋を出ることになるのだから。いや、要するに、それほどに露骨で直接的な敵対というのは担いにくいということだ。
また、対決ということにかぎらず別の観点からも引用部は注目できる。「じゃ、ほんとうでしょうか、あなたが」から始まるラスコーリニコフの科白は「不意に」発せられるものだが、或る意味ラスコーリニコフが会話の最初からルージンに投げ付けるつもりであった「武器」でもある。そしてこの「武器」が飛び出てしまえば二人の会話は決定的に険悪なものにならざるをえない。そういう「武器」を主人公に隠し持たせておいて、会話の流れからしてこのタイミングなら「不意に」「憎悪にふるえ」つつ、すなわちもはや抑えられなくなってそれを飛び出させてもいいだろうと決定する、そういう会話の展開の技巧的な組み立てにおいても引用部は素晴らしいと言えるわけ。つまり引用部には会話が予定されていた険悪なクライマックスに移行するために通過しなければならない決定的な瞬間の描出が含まれている。しかも繰り返せば、(三点リードで中断されまくる科白の内容も含め)その描写もリアルだ。「不意にまたラスコーリニコフは憎悪にふるえる声でさえぎった。その声には自虐というか、屈辱をむしろ喜ぶようなひびきがこもっていた。」
「武器」をどこで使用させるか? この技法意識は会話場面の構成においてさまざまに応用可能。
●『カラマゾフの兄弟』1巻128-130頁
第二篇第五章
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「アーメン! アーメン!」とパイーシイ神父がうやうやしくおごそかに繰り返した。
「奇怪だ、実に奇怪千万だ!」と思わずミウーソフが口走った。別にかっとなったわけではないが、何か憤懣を隠したような口調だった。
「何がそんなに奇怪に思われるのでございます」と用心ぶかくイオシフ神父がたずねた。
「一体全体これは何事です?」とミウーソフが突然はじかれたように叫んだ。「地上の国家をどけて、教会が国家の位にのしあがるとは! これは法王至上論どころじゃない、超法王至上論だ! 法王グリゴーリイ七世といえども、夢にも考えなかったことじゃないですか!」
「あなたの解釈はまるでさかさまです!」とパイーシイ神父がきびしい口調で言った。「教会が国家に変わるのではありません、ここをお間違えにならぬように。それはローマとその夢想です。悪魔の第三の誘惑でございます。そうではなくて、反対に国家が教会に変わるのです、国家が教会の高さまで昇って、全世界の教会になるのです。──これは法王至上論とも、ローマとも、あなたの解釈ともぜんぜん違います。そうしてこれこそ地上における正教の偉大な使命に他なりません。東方よりこの星は輝き出ずるのです」
ミウーソフはしばらく意味ありげに黙っていた。その姿全体は、異常な自尊心を表わしていた。口もとには傲慢な、人もなげな薄笑いが浮かんでいた。アリョーシャは高鳴る胸をおさえて一部始終を見守っていた。この会話全体が根底から彼の心を動揺させたのである。彼はふとラキーチンに目を走らせた。ラキーチンはさっきと同様にじっと戸口の横に立ったまま、目こそ伏せてはいたものの、注意ぶかく聞き耳を立てて観察をつづけていた。しかしその生気を帯びた頬の色から、アリョーシャは彼もまた自分に劣らずに興奮しているらしいのを見てとった。アリョーシャはなぜ彼が興奮しているのか、そのわけを知っていた。
「失礼ですが、皆さん、ひとつ小さな逸話を話させて下さい」突然ミウーソフが意味ありげに、何やら特別もったいぶった顔つきで話しはじめた。「あれは十二月事件の直後ですから、もう何年か前のことになりますが、ある日パリで、僕はかねてからの知り合いの、きわめて重要な地位にあった当時の有力な政治家の家を訪問して、そこでひとりの大そう興味ある紳士に会いました。その男はただの密偵ではなくて、政治的密偵の一隊を指揮するような立場にある人物で、──まあ彼なりにかなりの要職についていたわけです。さて僕はふとした機会を捕えて、異常な好奇心から彼と話をはじめたのですが、この男は知人として訪問に来ていたのではなく、部下としてある報告をたずさえて来ていたものですから、長官の僕に対する応対ぶりを見て、かなりざっくばらんな態度を取ってくれました。──もちろんそれもある限度内のことで、つまりざっくばらんというよりもむしろ鄭重だった。なにぶんフランス人は鄭重な態度を取るのが実に上手で、ましてや僕が外国人だったものですからね。それでも僕には彼の言わんとしていることが大そうよくわかりました。やがて話が、当時、官憲の追及を受けていた社会主義革命家たちのことに及んだ。その話の要点は抜きにして、今は彼が何気なくもらしたある興味ぶかい言葉をご紹介するにとどめましょう。その男はこう言ったのです。『われわれは無政府主義者、無神論者、革命家などというあの社会主義者たちはそれほど恐れてはいません。あの連中の動きはいつも見張っていますし、やり口もわかっています。ところが彼らのうちに、数は少ないのですが、いくぶん毛色の変わった連中がいる。それは神を信じるキリスト教徒であり、同時に社会主義者でもある連中なのです。われわれがいちばん恐れているのは彼らで、これは実に恐ろしい人間たちですよ。キリスト教徒の社会主義者は、無神論者の社会主義者よりも恐ろしいのです』僕はこの言葉を聞いてあの時もぎょっとしたものですが、いま皆さんのお話をうかがっているうちに、ふと急にこの言葉を思い出したのです。……」
会話の展開を一挙にクライマックスに持っていくような決定的な科白というものがある。その内容を十分に作為することは当然ながら(内容が何らかの意味で脅威を帯びていなければ会話をスリリングに盛り上げることなど不可能)、その科白をどのようなタイミングで、どういう段落展開で、登場人物のどういう感情の流れで、飛び出させるかの工夫も必須だ。引用部では「意味ありげに、何やら特別もったいぶった顔つきで」語られるミウーソフの科白が、そのような決定的な「隠し球」「切り札」に当る。こういう契機なしに対決的対話を面白くするというのはほとんど不可能だろう。
ではミウーソフのこの科白はどのように提示されるのか。ミウーソフにこの「隠し球」「切り札」を語らせる決意を促したのは直前までの議論の流れによって彼の中に鬱積した(主にイワンへの)悪感情にほかならない。つまり或る意味で彼の科白はイワンに対する攻撃だが、別の意味ではやや独り言めいたところもあり、内語にとどめておくべきことをついつい感情にかられて口に出してしまったような──ほとんど無意識の衝迫にここで身を委ねてしまったかのような──自己(=自意識)破壊的な要素も少なからずある。それは、ミウーソフの科白が始まる前の段落に一とき間を置いて、彼の傲慢な薄笑いをことさら印象づけるような描写休止法(およびアリョーシャの動揺の描写)が挿入されていることで、さらにひしひしと暗示される。そこであくまでミウーソフの表情が外的に描写されていることに注目しよう(おそらく、ミウーソフ自身では自分が傲慢な薄笑いを思わず浮かべてしまっていることなど、自覚がない?)。あくまで描写を外的にとどめることによって、むしろ彼の無意識の鬱勃を間接的に示すということ。そしてその「無意識」の衝迫の存在は、つづいて語られる科白の「決定的な」──それまでの会話の展開を一挙に、ほとんど暴力的に止揚しようとする──内容によって確かなものだったと裏付けられるわけで、ここには一連の構築的な作為が働いているとみなさければならない。ミウーソフのこの科白がこのタイミングで出現するにあたって、その前の段落でこのように無意識を暗示する「溜め」がなされることは、ほとんど必然的と言っていい。
以上とまとめると、会話を決定的なクライマックスに持って行くために突然に放たれる剣呑な科白(「隠し球」「切り札」)というものは、大抵無意識の衝迫に裏打ちされているものである?
●『罪と罰』上331-334頁
第二部第七章
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「いま出がけに、ゾシーモフがぼくに何を耳うちしたか、知ってるかい」通りへ出るとすぐ、ラズミーヒンがだしぬけに言った。「ぼくは、きみ、何もかもきみに打ち明けて言うよ、だってあいつらばかだからさ。ゾシーモフがね、途中ずっときみに話しかけて、きみにしゃべらせ、あとでその様子をおしえてくれって言ったんだよ、というのは、やつは……きみが……気ちがいか、あるいはそれに近い……と考えているからさ。きみ、考えてみろよ! 第一に、きみのほうがやつより三倍も利口だ、第二に、きみが気ちがいでないなら、やつがそんなたわけたことを考えたって、別に痛くもかゆくもないし、第三に、あの肉のかたまりめ、専門が──外科のくせに、この頃精神科に熱中しやがってさ、きみに対する見たてが、今日のきみとザミョートフの会話ですっかりひっくり返されてしまったってわけだよ」
「ザミョートフはすっかりきみに話したのか?」
「うん、すっかりだ。ほんとによかったよ。これでぼくはかくされていた底がすっかりわかったし、ザミョートフもわかったんだ……まあ、要するにだね、ロージャ……問題は……ぼくはいまちょっと酔ってるけど……気はぜんぜんたしかだよ……問題はだ、その考えが……わかるだろう? 実際にやつらの頭にこびりついていたということだよ……わかるかい? つまり、やつらは誰一人それを口に出して言う勇気がなかったのさ、だってあまりにもとっぴだし、それにあのペンキ職人がつかまってからは、それがすっかりくずれて、永遠に消えてしまったからさ。それにしても、どうしてやつらはああばかなんだろう? ぼくはザミョートフをちょっと殴ったことがあるんだ、──これはここだけの話だぜ、きみ、知ってるなんて、おくびにも出さないでくれよ。ぼくは気がついたんだが、やつはあれでなかなかデリケートだからな。ラウィーザのところでやったんだよ、──でも今日という今日は、すっかりはっきりしたよ。もとはといえば、あのイリヤ・ペトローヴィチだ! あいつがあのとききみが署で卒倒したのをまんまと利用したんだ、だがあとになって自分でも恥ずかしくなったらしいがね。ぼくは知ってるんだよ……」
ラスコーリニコフはむさぼるように聞いていた。ラズミーヒンは一杯機嫌でしゃべりまくった。
「あのとき倒れたのは、息苦しいところへペンキの臭いがしたからだよ」とラスコーリニコフは言った。
「もういいよ、弁解は! それに、ペンキだけじゃないよ、肺炎のきざしが一月もまえから内攻していたんだよ。ゾシーモフが証人だ! ところで、あの坊やが今日どれほどたたきのめされたか、きみには想像もつくまい! 《ぼくなんか、あの人の小指ほどの値打ちもない!》なんてしょげてたぜ。つまりきみのさ。あいつは、きみ、ときどきひどく素直んあることがあるんだよ。しかしいい教訓だった。今日《水晶宮》できみがあいつにたれた教訓、あれはまったく申し分なしだぜ! まずおどかして、ふるえあがらせる! あのばかげた無意味な想像をあらためてほとんど確信するところまで、あいつをひっぱっていってさ、そのあとで、突然、──舌を出して、《おい、どうだ、まいったかい!》完璧だよ! あいつすっかりたたきのめされて、げんなりしてるぜ! きみは名人だよ、まったく、あいつらはこういう目に会わせてやりゃいいんだよ。まったく、ぼくも見たかったよ、惜しいことをした! やっこさんいまひどくきみに会いたがってるぜ。ポルフィーリイもきみと知り合いになりたがってるよ……」
「ああ……あんなやつ……ところで、どうしてぼくを気ちがいにしたんだ?」
「気ちがいにしたわけじゃないさ。ぼくは、どうやらしゃべりすぎたようだな……つまり、さっき彼がおどろいたのは、きみがあの件にばかり関心をもっているからなのだが、いまは、その理由がわかったよ。事情がすっかりわかったし……それにあのときあの事件がきみの神経を苛々させて、病気とむすびついてしまったことがわかってみるとね……きみ、ぼくはすこし酔ってるようだな。あいつはわからん男だよ、何か考えてることがあるらしいんだ……きみに言っておくけど、あいつは精神病に熱中してるんだよ。相手にするなよ……」
三十秒ほど二人は黙っていた。
「ねえ、ラズミーヒン」とラスコーリニコフは言いだした。「ぼくはきみに率直に言うつもりだが、ぼくはついさっきまで死人のそばにいたんだ、ある官吏が死んだんだ……ぼくは持っていた金をすっかりくれてきた……それだけじゃない、一人の可愛いやつがぼくに接吻してくれた、しかもそいつは、たとえぼくが誰かを殺したとしても、やはり……早い話が、ぼくはそこでもう一人の可愛いやつを見た……火のように真っ赤な羽根をつけた……ああ、しかし何をでたらめ言ってるんだ……。ひどく疲れた、支えてくれ……もうじき階段だな……」
「どうしたんだ? きみどうしたんだい?」とラズミーヒンはあわてて尋ねた。
「頭が少しくらくらするんだよ。でもそのせいじゃない、ただ悲しいんだよ、無性に悲しいんだ! まるで女みたいに……まったく! おや、あれは? 見たまえ! あれを見たまえ!」
「何をさ?」
ここではラスコーリニコフの表情、内面はほとんど描かれない。だからそれを会話の言葉の字面から想像するほかはない。ラズミーヒンは、「やつらの頭にこびりついていた」「その考え」を直接言葉にせずにそのまわりを巡って饒舌になる。それをラスコーリニコフはどのような表情をして聞いていたか。ラズミーヒンがやっきになって否定しようとしていることの真相を、彼は知っているのだから。ここでの二人の認識にはとても埋められないような断絶がある。ラスコーリニコフが、突然「ぼくはついさっきまで死人のそばにいたんだ……」「ああ、しかし何をでたらめ言ってるんだ……」「ただ悲しいんだよ、無性に悲しいんだ!」と真情を洩らしてしまうのは、その断絶を意識した孤独感からではないか。
緊迫した対話は、その背後に膨大に推察し得る、もはや「心理」とも呼べない鬱積した無意識の領域を持っている。対話を構想するとはその領域も含めてまるごと創り出すということだ。
●『罪と罰』上137-139頁
第一部第七章
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ところが、そのきれをちょっとひっぱると、とたんに毛皮外套の下から金時計がすべりおちた。彼はとびつくようにして片っぱしからひっかきまわした。果して、きれの間から次々と金の品物がでてきた、──おそらく、みな抵当物で、流れたのもあれば、まだ期限中のものもあろう、──腕輪、鎖、耳飾り、ブローチその他の品々だった。ちゃんとケースに入っているのもあったし、ただ新聞紙に包んだだけのものもあった。もっとも新聞紙といっても二枚重ねにして、きちんとていねいに包み、しっかりひもでくくってあった。すこしもためらわずに、彼は手当りしだいに、ケースや包みをあけて見もしないで、ズボンと外套のポケットにおしこみはじめた。しかしたくさん集めることはできなかった……
不意に、老婆が死んでいる部屋に、人の足音が聞えた。彼は手をとめて、死んだように息を殺した。しかしあたりはしーんとしずかだ、気のせいだったかもしれぬ。突然、今度ははっきりとかすかな悲鳴が聞えた、というよりは誰かがかすかにきれぎれに呻いて、息をのんだような気配だ。つづいてまた死にたえたような静寂、一分、あるいは二分もつづいたかもしれぬ。彼はトランクのそばにうずくまって、やっと息をつぎながら、待ちかまえていたが、不意に立ち上がると、斧をつかんで、寝室からおどり出た。
部屋の中ほどに、大きな包みをもったリザヴェータが突っ立って、殺された姉を呆然と見つめていた。白布のように青ざめて、声も出ないらしかった。おどり出たラスコーリニコフを見ると、彼女は木の葉のようにわなわなとふるえだした、そして顔中を痙攣がはしった。彼女は片手をまえへつきだし、口を開きかけたが、やはり声にならなかった、そしておびえた目を彼にじっとあてたまま、後退りに、そろそろと隅のほうへのがれはじめた。それでもまだ、叫ぶには空気が足りないように、声が出なかった。彼は斧を振りあげてとびかかった。彼女の唇は、幼い子供が何かにおびえて、そのおそろしいものに目を見はりながら、いまにも泣き出そうとする瞬間のように、みじめにゆがんだ。そして哀れにもリザヴェータは、いやになるほど素朴で、いじめぬかれて、すっかりいじけきっていたので、斧が顔のすぐまえに振りあげられているのだから、いまこそそれがもっとも必要でしかも当然の動作なのに、両手をあげて顔を守ろうとさえしなかった。彼女は顔からはずっと遠くに、あいている左手をほんのすこしあげただけで、まるで彼をつきのけようとでもするように、その手をゆっくり彼のほうへのばした。斧の刃はまともに脳天におち、一撃で頭の上部をほとんど耳の上までたちわった。彼女はその場にくずれた。ラスコーリニコフはすっかりとりみだして、彼女の包みをひったくったが、すぐにまたほうり出して、控室のほうへかけだした。
かなり動的な場面の情景法だが、むしろシンプル過ぎると感じるほど簡潔に描かれている。それでいて息が短いという印象がない。何故だろうか。
何故シンプルであるにもかかわらず、息が短いないしリズムとして単調という印象を免れているかと言えば、ドストエフスキーが「瞬間」を強調せず、瞬間と瞬間を繋いで記述を生成するようなことをしていないからだろう。むしろドストエフスキーはこの場面・状況を一種のシステムと捉えていかに立体的に一つ一つのパーツ(ラスコーリニコフもリザヴェータもその一つ)が上手く噛み合って動くかということに作為を凝らしているように思われる。例えばここでラスコーにコフはおそろしく取り乱してばかりいるのだから、内的独白の手法を用いれば、理性の乱れたラスコーリニコフの放恣な思考をいくらでも饒舌に書けるわけだが、無論それでは立体性の印象は生まれない。逆にドストエフスキーはここでラスコーリニコフに内語の言葉なしに、ただ状況に強いられるかのように兇行をさせている。それがシステマチックな構築性の印象につながっているというわけだ。
もし場面・状況を一種のシステムと捉えて立体的に作動させるという志向があるならば、むしろ表現はシンプルでいい。この状況下で適確な行動や適確な対象のみを構想して描き込めば良い。修辞の水増しはいらない。例えば「ラスコーリニコフはすっかりとりみだして、彼女の包みをひったくったが、すぐにまたほうり出して、控室のほうへかけだした。」──といった行動は、適確に想像されていればいるほどその表現は無駄なものが不要となるだろう。
余談。「そして哀れにもリザヴェータは、いやになるほど素朴で、いじめぬかれて、すっかりいじけきっていたので、斧が顔のすぐまえに振りあげられているのだから、いまこそそれがもっとも必要でしかも当然の動作なのに、両手をあげて顔を守ろうとさえしなかった。」──この文章の中には微妙に語り手が介入している。こうした語り手の言葉も、瞬間瞬間に生きている主人公の意識を突き放してみることのメルクマールになっているだろうか。
●『罪と罰』上141-143頁
第一部第七章
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長いあいだ彼は気配をうかがっていた。どこかはるか下のほうで、おそらく門の下のあたりだろう、二つの甲高い声がわめきちらしたり、言い争ったり、ののしりあったりしていた。《何をしているのだ?……》彼はしんぼう強く待った。とうとう、まるで切りとったように、急にしずかになった。散って行ったらしい。彼がいよいよ出ようとすると、不意に一階下でバタンと階段へ出るドアが乱暴にあいて、誰かが鼻唄をうたいながら、階段を下りて行った。《どうしてこうみんながさつなんだろう?》こんな考えがちらと彼の頭にうかんだ。彼はまたドアをしめて、足音の消えるのを待った。ついに、あたりはしーんとなった、もう誰もいない。彼はもう階段を一歩下りかけた、とたんにまた、誰かの別な足音が聞えてきた。
その足音はひじょうに遠くに聞えた。まだ階段ののぼり口のあたりらしい。ところが、彼はあとになって思い返しても、はっきりと記憶しているのだが、その足音を聞くと、とっさに、どういうわけかそれはきっとここへ、この四階の老婆のところへ来るにちがいない、と思いはじめた。なぜか? その足音に何か特別の意味でもあったのか? 足音は重々しく、ゆったりとしていて、よどみがなかった。そらもう彼は一階をすぎた、さらにのぼってくる。足音がしだいに、いよいよはっきりしてきた! のぼってくる男の苦しそうな息ぎれが聞えた。そら、もう三階にかかった……ここへ来る! 不意に彼は、身体中がこわばったような気がした。まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来て、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。
そして、ついに、客がもう四階の階段をのぼりはじめたときに、はじめて彼は不意にはげしく身ぶるいして、素早くするりと踊り場から部屋の中へすべりこみ、背後のドアをしめることができた。それから掛金をつかんで、音のしないように、しずかに穴へさしこんだ。本能がそれをさせたのである。それがおわると、彼はそのままドアのかげにぴたりとかくれて、息を殺した。招かれぬ客ももうドアの外に来ていた。彼がさっきドアをはさんで老婆と向いあい、身体中を耳にしていたときとまったく同じように、二人はいまドアをはさんで向いあった。
客は二、三度苦しそうに息をついた。《ふとった大きな男にちがいない》とラスコーリニコフは、斧をにぎりしめながら考えた。実際に、まるで夢を見ているような気持だった。客は呼鈴をつかんで、はげしく鳴らした。
呼鈴のブリキのような音がひびきわたると、不意に彼は、部屋の中で何かがうごいたような気がした。数秒の間彼は本気で耳をすましたほどだ。見知らぬ男はもう一度鳴らして、ちょっと応答を待ったが、不意に、しびれをきらして、ドアの把手を力まかせにひっぱりはじめた。ラスコーリニコフは恐怖にすくみながら、穴の中でおどる掛金に目をすえつけ、いまにもはずれるのではないかと気が気でなかった。たしかに、それは起りそうに見えた。それほどドアははげしくひっぱられた。彼はすんでに手で掛金をおさえようとしたが、そんなことをしたら相手に感づかれるおそれがある。また頭がくらくらしだしたような気がした。《もうだめだ、倒れる!》こんな考えがちらと浮んだが、そのとき見知らぬ男の声が聞えたので、とたんにハッとわれにかえった。
「チエッ、どうしやがったんだ、寝くされてるのか、それとも誰かに絞め殺されたか? ばちあたりめ!」彼はこもったふといだみ声でどなりたてた。「おい、アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆ぁ! リザヴェータ・イワーノヴナ、すてきなべっぴんさん! あけてくれ! はてな、ばちあたりめ、眠ってやがるのかな?」
そしてまた、腹立ちまぎれに、彼は十度ほどたてつづけに、力まかせに呼鈴をひっぱった。どうやらこの男は、この建物では顔のきく親しい人間らしいことは、明らかだ。
ちょうどそのとき、不意にちょこまかしたせわしい足音が、近くの階段に聞えた。また誰かがのぼってきた。ラスコーリニコフははじめその足音に気づかなかった。
「おかしいな、誰もいないのですか?」のぼってきた男は、まだ呼鈴をひっぱりつづけている最初の訪客に、いきなりよくとおる元気な声で呼びかけた。「こんにちは、コッホさん!」《声から判断すると、ひどく若い男らしい》とラスコーリニコフは考えた。
小説内の緊迫した場面で、ドストエフスキーは時に状況をむしろシステムのように捉えて環境的に叙述を展開させていくような趣きがある。こういう状況においてこういう対象に出会えば、人物はこういう適確な行動をとり、こういう適確な心理を持ち、こういう適確な感情を抱く、それを完全に計算しきった視点からすべてを配置して表現するとでもいうかのように。
いちいち引用はしないが、遠くの足音を聞いてからラスコーリニコフが抱いた感情、判断、そして彼の取った反応、行動は(タイミングも含め)すべてがあまりにも適確に連鎖していく。しかも記述の中心がラスコーリニコフにあるとはいえ、ここで語り手は、瞬間瞬間に生きるラスコーリニコフの意識の極点をわざと外して全体を把握しながら場面を展開させている。つまり、ラスコーリニコフの意識からすればこれは自分の犯罪が露見するかいなかのぎりぎりの危機的状況だが、老婆に会いに鼻唄混じりで階段を上ってきた男にとってそんな危機感は無縁である。そういう温度差を(ラスコーリニコフの適確に描出された必死さから)一歩離れた視点で語り手は総合的に把握しているということだ。だからこそ作者はこの男に「寝くされてるのか、それとも誰かに絞め殺されたか?」だの「アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆ぁ! リザヴェータ・イワーノヴナ、すてきなべっぴんさん!」だの縁起でもないことを、わざと言わせているわけだ。この男には力まかせにドアをひっぱることがどんなにラスコーリニコフの神経に堪えるかなんて、想像も及ばない。この温度差の把握が、まさにシステムのように場面を捉えて環境的に展開させるための条件だ。
温度差──つまりどんなにラスコーリニコフが必死であり、恐怖に震え上がっていたとしても、一歩退いたところから見ると無意味に焦っているようにしか見えないという、その落差。これを語り手が怜悧に描き切っている時に、単調ではない立体的な情景法の印象が生れる。
余談。「不意に彼は、身体中がこわばったような気がした。まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来て、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。」──この文章では直喩が使われている。感覚的(視覚的・聴覚的・触覚的)比喩ではなく、感情的比喩であることがまず注目に値する。そして別の状況における(「いまにも殺されそう」!)感情を今の状況に重ね合わせるという形の文脈的比喩である。比喩を用いるならこうしろという一例。
●『白痴』下221-224頁
第三篇第七章
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彼はじっと突ったったまま、蒼ざめた顔に、こめかみを汗でびっしょりぬらし、まるで逃げられては一大事とでもいわんばかりに、なんだか妙な格好で公爵の手をつかまえながら、身じろぎもせずに、十秒間ばかりじっと無言のまま、公爵の顔を見つめていた。
「イポリート、イポリート、きみはどうしたんです?」公爵は叫んだ。
「いますぐ……もうたくさんです……ぼくは横になります。太陽の健康を祝してほんの一口だけ飲みたいなあ……飲みたいんです、飲みたいんです、放っておいてください!」
彼はすばやくテーブルの上の杯をつかむと、さっと席を離れて、あっという間にテラスの降り口のほうへ近づいていった。公爵はそのあとを追って駆けだそうとしたが、まるでわざとのように、ちょうどその瞬間エヴゲーニイ・パーヴロヴィチが暇を告げるために、彼へ手をさしのべたのである。一秒がすぎた。と、いきなりテラスでどっとみんなの叫び声がおこった。つづいて異常な混乱の一瞬が訪れた。
つぎのような事態がおこったのである。
テラスの降り口まで来たとき、イポリートは左手に杯を持ったまま、右手を外套の右側のポケットへ突っこんで、足をとめたのである。あとでケルレルが主張したところによると、イポリートはまだ公爵と話していたときから、ずっと右手をポケットへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたときも左手だったという。そして、このポケットへ突っこんだままの右手が、まず彼に不審の念を呼びおこしたと、ケルレルは主張した。いや、それはともかく、妙な不安にかられた彼は、イポリートのあとを追って駆けだしたのである。しかし、その彼もやはりまにあわなかった。彼はふいにイポリートの右手に何やらきらりとひらめき、その瞬間、小さな懐中用のピストルがこめかみにぴったり押しあてられたのを見たばかりであった。ケルレルはその手をおさえようと身を踊らせたが、その瞬間イポリートは引き金をひいた。と、鋭いかわいたような撃鉄のかちりという音が響いたが、発射の音は聞えなかった。ケルレルがイポリートを抱きとめたとき、相手はまるで意識を失ったかのように、いや、ひょっとすると、もう死んでしまったとほんとに思ったのかもしれないが、その腕に倒れかかった。ピストルは早くもケルレルの手にあった。みんなはイポリートをおさえて椅子を据え、その上に腰かけさせた。みんなはそのまわりを取りまいて、大声で質問を浴びせかけた。みんなは撃鉄のかちりという音は聞いたのに、当の本人は生きているどころか、かすり傷ひとつ負っていないからである。当のイポリートは、どういうことになったのか事情がわからず、じっとすわったまま、ぼんやりした眼差しでみんなを見まわしていた。
その瞬間、レーベジェフとコーリャが駆けつけてきた。
「不発だね?」と、周囲の者がたずねた。
「ひょっとすると、装填してなかったんじゃないか」と臆測をする者もあった。
「いや、装填してある!」ケルレルがピストルをあらためながら叫んだ。「しかし……」
「不発じゃないのかい?」
「雷管がまるっきりなかったんです」とケルレルが報告した。
つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった。みんなの最初のおどろきは、とたんに笑い声に変ってしまった。なかにはこの一件に意地の悪い喜びを見いだして、大声に笑いころげる者さえあった。イポリートはヒステリックにしゃくりあげ、自分の手を激しくねじまわし、誰かれの区別なく、フェルディシチェンコにさえとびかかって、両手で相手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだと誓う始末だった。『ついうっかりして忘れたんです、わざとじゃありません。雷管はすっかり、ほらこのとおり、このチョッキのポケットにあるんです、十個も』(と彼はまわりの人にそれを見せた)『はじめから入れておかなかったのは、万一ポケットの中で暴発しては困ると思ったからで、必要なときにはいつでもまにあうと考えていたのに、ついうっかり忘れてしまったのです』とこぼすのだった。彼は公爵やエヴゲーニイ・パーヴロヴィチにとびかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれと哀願しながら、いますぐにも『廉恥心が……廉恥心があるってことを』見せてやるんだとか、ぼくは『もう永久に恥辱を受けた!』と叫んだりした。
彼はとうとう実際に意識を失って倒れてしまった。みんなは彼を公爵の書斎へ運んでいった。すっかり酔いがさめてしまったレーベジェフは、さっそく医師を迎えに使いを出し、自分は娘や息子やブルドフスキーや将軍といっしょに、病人の枕べにとどまった。気を失ったイポリートが運びだされてしまうと、ケルレルは部屋の真ん中に仁王立ちになって、一語一語はっきり発音しながら、ひどく感激した様子で叫んだ。
「諸君、たとえ諸君のうちの誰であろうとも、もう一度わが輩の面前で、あれはわざと雷管を忘れたんだとか、またはあの不幸な青年は喜劇を演じたにすぎんなどと断言されるようなことがあったら、お相手はわが輩がいたしますぞ」
しかし、誰ひとりとしてそれに答える者はなかった。ついに客たちはどやどやとあわてて散っていった。プチーツィンとガーニャとロゴージンは、連れだって出ていった。
小説内の緊迫した場面を、ドストエフスキーは何故か切羽詰まった登場人物の心理に(内的独白のように)定位するのではなく、むしろ状況をシステムのように捉えて環境的に展開させていくことを好むらしい。引用部でイポリートの自殺を決意した心理の深刻さは疑いようがないとしても、ここでの環境全体から見た場合にはその心理も一つのパーツに過ぎず、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチのようにそれに共感するどころか嘲弄するような立場の人物の平静さとの落差によって、相対化されるのである。イポリートのぎりぎりの切実な心理の相対化は、彼の自殺が不発に終わることによって決定的になる。そしてそのようなシステマティックな事態の進行を完全に計算しきった視点からすべてを立体的に「まるでわざとのように」配備して語っているのが、作者としてのドストエフスキーになるわけだ。
ちなみに、緊迫した場面・状況を一種のシステムと捉えていかに立体的に一つ一つのパーツが上手く噛み合って動くかということに作為を凝らす場合には、「瞬間」は強調されず、瞬間と瞬間を繋いで記述を生成するようなスタイルは取られない。引用部で言えば「つづいて異常な混乱の一瞬が訪れた」(「つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった」の一文も同様)という予告の一文が出た時点で、作者はすでにつづいて起る事態のシステム的な作動の計算は完璧に終えているのだ。だからこそイポリートが引き金を引く一連の動作は、無アスペクトの現前的な瞬間の連鎖として描かれずに、まるで後から思い出して再構成したかのように、(イポリートの内面とは無縁な)ケルレルの証言を元にして描き出されるのである──「あとでケルレルが主張したところによると、イポリートはまだ公爵と話していたときから、ずっと右手をポケットへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたときも左手だったという。そして、このポケットへ突っこんだままの右手が、まず彼に不審の念を呼びおこしたと、ケルレルは主張した。いや、それはともかく、……」──特にこの「それはともかく」という句の中に致命的な事態を遠巻きに余裕を持って眺めている語り手の顔が覗いているかのようではないか。「つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった」の一文の後も同様だ。そこではまるで後からその場面を思い出しながら記録したかのように、イポリートの言葉が引用符『……』で括られているのである。つまりここでもイポリートの切実な心理は突き放して眺められて、事件は俯瞰的に叙述されている(とはいえ、「彼はとうとう実際に意識を失って倒れてしまった。……」から再びゆるやかな現前的場面の記述に切り替わる)。こうした距離感、致命的事件をシステム的かつ立体的に捉える視点というのがドストエフスキー文体の一つの独自性。
追記。もし場面・状況を一種のシステムと捉えて立体的に作動させるという志向があるならば、むしろ表現はシンプルでいい。この状況下で適確な行動や適確な対象のみを構想して描き込めば良い。修辞の水増しはいらない。例えば「イポリートはヒステリックにしゃくりあげ、自分の手を激しくねじまわし、誰かれの区別なく、フェルディシチェンコにさえとびかかって、両手で相手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだと誓う始末だった。」──といった振舞いの描写は、適確に想像されていればいるほどその表現は無駄なものが不要となるだろう。
●『罪と罰』上139-141頁
第一部第七章
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恐怖がますますはげしく彼をとらえた。このまったく予期しなかった第二の凶行のあとは、それが特にひどくなった。彼は一刻も早くここを逃げ出したいと思った。そしてもしもその瞬間に彼がもっと正確に事態を見て、そして判断することのできる状態にあったなら、自分の立場の行き詰り、絶望、醜悪、そして愚劣さのすべてをさとり、そしてここを逃げ出して、家までたどり着くためには、このうえさらにどれほどの困難の克服し、あるいはもしかしたら凶行をさえ犯さなければならぬかを、理解することができさえしたら、彼はおそらくすべてを投げすてて、いますぐ自首してでたにちがいない。それも自分の良心がこわいからではない、ただ自分のしでかしたことに対する恐怖と嫌悪のためである。わけても嫌悪は刻一刻彼の内部に高まり、そして育っていった。いまはもうどんなことがあっても、彼はトランクのほうへ、いや部屋の中へさえ、引き返すことはできなかった。
ところが放心というか、冥想とさえいえるような状態が、しだいに彼をとらえはじめた。数分の間彼は自分を忘れたようになっていた。いやそれよりも、肝心なことを忘れて、つまらないことにばかりひっかかっていた。しかし、台所へ目をやって、腰掛けの上に水が半分ほど入ったバケツがおいてあるのを見ると、彼は手と斧を洗うことを思いついた。手は血がついて、べとべとしていた。彼は斧を刃のほうから水へつっこむと、小窓の棚のかけた小皿から石鹸のかけらをとって、バケツの中へじかに両手をつっこんで洗いはじめた。手を洗いおわると、今度は斧をつかみ出して、鉄の部分を洗い、さらに三分ほどかかって、血のこびりついた木の部分を、石鹸までつかってていねいに洗いおとした。それから、いいぐあいに台所に張りわたした綱に下着がほしてあったので、それですっかりふきとり、次いで窓際へ行って、かなりの時間をかけて、丹念に斧をしらべた。あとはのこっていなかった。木の柄がまだぬれているだけだ。彼は入念に斧を外套の裏の輪へおさめた。それから、うす暗い台所の光で見わけられるかぎり、外套やズボンや長靴をしらべた。外からちょっと見たのでは何の異状もないようだ。ただ長靴にすこし血のあとがついていた。彼はぼろをぬらして、それをこすりおとした。しかし彼は、まだよくよく見きわめたわけではないから、見おとしているもので、何か人目につくものがあるかもしれないことを、知っていた。彼は思いまよいながら、部屋の中ほどにつっ立っていた。苦しい、暗い考えが大きくひろがってきた──自分は気が狂いかけているのではないか、いまはものを判断することも、自分をまもることもできまい。そしてだいたい、いまやっていることは、もしかしたら、なんの必要もないことかもしれぬ……《何をしているのだ! 逃げるのだ、逃げることだ!》こう呟くと、彼は控室のほうへかけだした。ところがそこに、彼がこれまでに一度も経験したことのないような恐怖が待ちうけていた。
彼は立ちどまって、目を見はったが、自分の目が信じられなかった。ドア、控室から階段へ出る外のドア、彼がさっき呼鈴を鳴らして入ったあのドアが、鍵がはずれたままになっていて、そのうえ、掌が入るほどあいていたのである。さっきから、あの間中、鍵も、掛金もかけてなかったのだ! ひょっとしたら老婆が、彼が入ったあと、用心のためにしめなかったのかもしれぬ。うかつだった! 現に、あのあとで彼はリザヴェータを見たではないか! どうして、どうして、彼女がどこから入って来たか、察知できなかったのか! まさか壁をつきぬけて入るわけもあるまいに。
彼はドアへとびついて、掛金をおろした。
「いや、ちがう、またヘマをやっている! 出なくちゃならんのだ、出るのだ……」
彼は掛金をはずして、ドアをあけ、階段のほうに耳をすましはじめた。
緊迫した現前的場面だが、さまざまな叙述のスタイルが現れている。最初に言っておけば《……》で括られたラスコーリニコフの内語は一ヵ所しか出てこない。従って主人公の内的独白じみた自問自答によって段落を展開していくという、場面の緊迫感を高めるのにありがちなやり方は禁欲されている。
まずは第一段落だ。この段落は面白いことに「恐怖がますますはげしく彼をとらえた。……彼は一刻も早くここを逃げ出したいと思った。」の部分までが現前的で、後の大部分は語り手の資格で想像的仮定(「もしもその瞬間に……することができさえしたら、……したにちがいない」)などを駆使してラスコーリニコフの現状を分析するということをやっている。だがそれがここではもっとも適確が叙述の仕方に思われるのは不思議だ。
第二段落は「水が半分ほど入ったバケツがおいてある」のを見て手と斧を洗い始めるという不可解なラスコーリニコフの行為を追いつつも、むしろ「……ている(いた)」形のアスペクトを多用することによって、この緊迫した場面にそこはかとなく静的なニュアンスを与えようとしている。そもそも彼が水の入ったバケツを見て手と斧を洗うことを思い付くのは、「自分を忘れたようになっていた」「つまらないことばかりにひかかっていた」ある継続した状態の中へ兆した契機なのだ。さらにラスコーリニコフ自身が自分自身を視覚で入念にチェックすることによって様々な状態が描き出される。のみならず、それらの慌ただしい行為と知覚の交錯がすぎさると、またもや場違いなほどに静的な印象が叙述をひたしていく。「しかし彼は、まだよくよく見きわめたわけではないから、見おとしているもので、何か人目につくものがあるかもしれないことを、知っていた。彼は思いまよいながら、部屋の中ほどにつっ立っていた。苦しい、暗い考えが大きくひろがってきた……」──この暗い考えが「広がる」という動詞の選択はまさに適確としか言いようがない。段落の最後の部分は地の文がラスコーリニコフの無意識の擬態するような形で、すなわち内的独白っぽく展開していくが、最後の最後で次の段落以降で描かれることの「予告」が挿入されている。すなわち必ずしも単線的に展開していくわけではない。
第三段落はまず、ラスコーリニコフの「目を見は」らせて、彼の信じ難いような驚きを記述する。何に彼がそんなに驚いたのかは、わざと後回しにされる。で、次の文で正確にその「何」かが叙述されて、さらにそれ以降は、ふたたび体験話法的な、地の文でエクスクラメーションマークを多用しながらラスコーリニコフの愕然とした感情・思考を擬態して敷衍する。「うかつだった! 現に、あのあとで彼はリザヴェータを見たではないか! どうして、どうして、彼女がどこから入って来たか、察知できなかったのか!」──これは緊迫した場面ではわりと常套手段になっているやり方。
ついでに言うと、「いや、ちがう、またヘマをやっている! 出なくちゃならんのだ、出るのだ……」──この科白はあたかもラスコーリニコフの内語が直接発話されたかのようなものだが、自分で自分の行動を実況しつつ反省するということを同時にやっている、すなわち彼の自意識上の転回と動作の転回とを地の文での描写に替えてこの科白が担当しているようなもので、結構技巧的だ。
ところで、「ところが放心というか、冥想とさえいえるような状態が、しだいに彼をとらえはじめた。」という文章の中の「放心」について。放心状態とは生活者の注意からはかえって漏れ落ちる兆候的現象に「不意打ち」されやすい状態だと言える。つまりは自意識の外部から侵入してくる何ものかに対する無防備を表わす。ラスコーリニコフやムイシュキンがたびたび放心状態に陥るのは、プロット上の必然と言っていい。
●『罪と罰』下51-52頁
第四部第二章
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「なんですと? なあるほどそうですか!」ルージンは最後の一瞬までこのような幕切れはゆめにも思っていなかっただけに、完全に度を失って、思わず叫んだ。「なるほど、そういうわけですか! でもご存じでしょうな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することもできるんですよ」
「あなたはどんな権利があって娘にそんな口がきけますの!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがかっとなって割りこんだ。「どんな抗議ができますか? え、それはどんな権利ですの? 無礼な、あなたのような男に、うちのドゥーニャをやれますか? 出て行ってもらいます、二度と来ないでください! こんなまちがった道にふみこんだのは、わたしたちが悪かったのです、誰よりもわたしが……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」ルージンは憤然とした。「あなたは約束でわたしをしばっておきながら、いまになってそれを破棄するなんて……しかも、結局……結局は、そのためにわたしは、いわば、金をつかわされたんだ……」
この最後の苦情がピョートル・ペトローヴィチの性格にあまりにもぴったりしていたので、怒りとそれをおさえる努力のために真っ蒼になっていたラスコーリニコフは、不意にこらえきれなくなって、──大声で笑いだした。だが、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは逆上してしまった。
「金をつかわれたって? それはいったいどんな金なの? まさかわたしたちのトランクのことじゃないでしょうね? あれは車掌さんがただにしてくれたはずですよ。わたしたちがあなたをしばったって、なんてことを言うんです! 頭はたしかですの、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたがわたしたちの手足をしばったんじゃありませんか、わたしたちがあなたをしばったなんてとんでもない!」
一ヵ所だけ。ラスコーリニコフのこのタイミングでの大笑いは素晴らしく適確だ。それを引き起こしたルージンのみみっちさのリアルタイムな発露も含めて。「怒りとそれをおさえる努力のために真っ蒼になっていた……」と修飾句に「……ている」形アスペクトが用いられて若干時間軸を広く取っているという点以外はシンプルな記述だが、この「大声で笑いだした」光景は凄まじく印象的。
●『白夜』13-16頁
第一夜
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私が市内に戻ってきたのはだいぶおそくなってからで、自分の家の近くへやってきたときには、時計はとっくに十時を打っていた。私の歩いていた道は運河に沿った道で、その時刻には行き会う人などそれこそ一人だっていなかった。もっとも、私はひどい町はずれに住んでいたのである。私は歩きながら歌を口ずさんでいた。というのは、自分が幸福な気分のときには、親しい友もなければ親切な知人もなく、嬉しいときにもその喜びをわかつ相手のいない幸福な人間が誰しもするように、小さな声で歌をうたっていた。ところが不意にまったく思いがけない出来ごとにぶつかったのである。
すこし離れたところに、運河のらんかんに身をもたせかけて、一人の女性が立っていた。らんかんの格子に肘をついて、どうやら彼女は濁った運河の水をひどく熱心に見つめている様子だった。彼女はとても可愛らしい黄色い帽子をかぶり、しゃれた黒いケープをはおっていた。『あの娘はきっとブリュネットにちがいない』と私は考えた。彼女は私の足音も耳にはいらないらしく、私が息をひそめ、はげしく胸をおどらせながらその脇を通りすぎたときも、身動きひとつしなかった。『おかしいな!』と私は思った。『きっとよっぽどなにか考えこむことでもあるんだな』だがとつぜん私の足はその場に釘づけにされた。忍び泣きの声が耳にはいったのだ。そうだ! それは決して私の空耳ではなった。娘は泣いていた。そしてしばらく間をおいて、またもやつづくすすり泣きの声。これはなんとしたことだ? 私は胸がギュッとしめつけられるような気がした。私は女性に対して臆病なほうであったが、なにぶんにも時刻が時刻である!……。私は引きかえして彼女のそばへ歩みより「お嬢さん!」と声をかけようとした──もしもこの呼びかけの言葉がロシアの上流社会をえがいたあらゆる小説のなかで、すでに数千回も繰りかえされたものであることを知らなかったら、かならずそれを口にしたに相違ない。だがただそのために私はそれを口にするのをひかえたのである。しかし私が適当な言葉をさがしているあいだに、娘はわれにかえり、あたりを見まわすと、ハッとしたように眼を伏せて、私のそばを滑り抜けて運河沿いの道を歩きだした。私はすぐさまその後を追った。彼女はそれに気がつくと、運河沿いに歩くのをやめて、往来を横切って、反対側の歩道に移った。私には往来を横切る勇気がでなかった。私の胸はつかまった小鳥のようにふるえていた。だが思いがけなくある偶然が私に助け舟をだしてくれた。
わが未知の女性からあまり離れていない反対側の歩道に、とつぜん燕尾服を着た一人の紳士が姿を現わしたのである。堂々としたかなり年輩の男だったが、足のほうは義理にも堂々とはいえなかった。彼はふらふらしながら、用心ぶかく壁につかまって歩いていた。娘のほうは、夜の夜中に妙な男に呼びとめられて家までお送りしましょうなどと言いだされるのがいやでならない娘が一般に誰でもするような歩き方で、ビクビクしながらセカセカと、まるで矢のように歩いていた。それで、もちろん、この千鳥足の紳士などにはとうてい彼女に追いつけようはずはなかった。ところがわが運命はこの男にじつに思いがけない方法を考えつかせたのである。やにわにその紳士は、ウンともスンともいわずに、いきなりサッと駆けだすと、全速力でわが未知の女性の後を追った。娘は風のように走ったが、千鳥足の紳士はしだいにその距離をちぢめ、ついに彼女に追いついた。娘はキャッと叫んだ──そこで私は……私は運命を祝福する。そのとき私はちょうど運よくすばらしい、節くれだったステッキを右手ににぎりしめていたのである。一瞬ののち私はすでに反対側の歩道に立っていた。招かれざる紳士は一瞬のうちに事態をのみこんだ。うむをいわせぬ有力な武器を眼にして、口をつぐんで、引きさがってしまった。そして私たちがずっと遠くに離れてしまってから、かなり猛烈な言葉で私に抗議を申し入れただけであった。しかしその言葉も私たちのところまではどうにかとどいた程度だった。
「さあ、手をおだしなさい」と私は未知の女性にいった。「そうすればあの男もうるさくつきまとうこともしないでしょう」
彼女は無言のまま、興奮と恐怖にまだふるえのとまらない手を私にさしだした。おお、招かれざる紳士よ! その瞬間どんなに私はおまえを祝福したことか! 私はちらりと彼女の顔を見た──じつに美しい、しかもブリュネットの女性だった。はたして思ったとおりだった、その黒い睫毛にはまだ涙の玉が光っていた。いましがたの驚きのためか、それともその前の悲しみの涙か──私には知る由もない。しかしその唇のあたりには早くも微笑が輝いていた。彼女のほうでもそっと私に視線を走らせ、かすかに顔をあからめると、眼を伏せてしまった。
「ほらごらんなさい。どうしてあなたはあの時ぼくを追っぱらったんです? ぼくがここにいたら、なんにも起らなかったでしょうに……」
「でもあなたがどんなかたか存じませんでしたもの。あたしはあなたもやっぱり……じゃないかと思って……」
一つの決定的な出来事を描き切る情景法。まるで要約法ででもあるかのように複雑な出来事を一筆で描き切っているが、これはもともとの出来事の構想の射程が広かったということだろう。逆に出来事の構想が単純だと、瞬間瞬間を引き延ばすような現前的描写を延々連続させなきゃ持たなかったりするわけだ。描写ということについて言えば、必要最小限かつ適確な点についてしかなされていない。例えば女性の容姿についてはまずは一目で確認できる「彼女はとても可愛らしい黄色い帽子をかぶり、しゃれた黒いケープをはおっていた。」という程度の形容を選んでいる。突然現われた紳士についても「燕尾服を着た一人の紳士が姿を現わしたのである。堂々としたかなり年輩の男だったが、足のほうは義理にも堂々とはいえなかった。彼はふらふらしながら、用心ぶかく壁につかまって歩いていた。」と身振りも含めた必要最小限の説明のみをきっちり嵌め込む。そして主人公の認識・感情によって記述の密度を伸縮させながら、多彩な相互作用をその場に存在するものの間で引き起こして、嵐を描写するようにそれらを縦横に描き切っている。「私はすぐさまその後を追った。彼女はそれに気がつくと、運河沿いに歩くのをやめて、往来を横切って、反対側の歩道に移った。私には往来を横切る勇気がでなかった。私の胸はつかまった小鳥のようにふるえていた。」の個所などは見事。こういう風にシンプルにしても間が持つのは、やはり出来事の構想の射程(時間幅・空間幅)が広いからこそ。
出来事が一段落ついてからの現前的な科白への切換えも上手い。「さあ、手をおだしなさい」の科白以降のことだが。
●『カラマゾフの兄弟』1巻281-283頁
第三篇第九章
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庭を通っていく途中、兄のイワンが門のそばのベンチに腰をおろしているのに出会った。イワンは坐って、何か手帖に鉛筆で書き込んでいた。アリョーシャは兄に、老人が目をさまして正気に返ったことや、僧院に泊まる許しが出たことを伝えた。
「アリョーシャ、明日の朝早く、お前に会えると非常に嬉しいんだが」とイワンは立ちあがって、愛想よく言った。──それはアリョーシャにとってまったく思いがけない愛想のよさだった。
「僕は明日ホフラコーワ夫人の家へ行くんです」とアリョーシャは答えた。「それから、もしきょう会えなかったら、明日またカチェリーナさんのところへ行くかも知れません。……」
「じゃ、やっぱりこれからカチェリーナ・イワーノヴナのところへ行くんだね。例の『宜しく、宜しく』ってやつだろう?」不意にイワンがにやりと笑った。アリョーシャはどぎまぎした。
「どうやらおれにも、さっきのあの絶叫や、今までのいきさつが読めたようだぞ。ドミートリイがお前をあの人のところへ行かせるのは、きっと、……つまり……ひと言で言えば、《宜しく》と伝えるためなんだな」
「兄さん! お父さんとドミートリイ兄さんとのこの恐ろしい親子喧嘩はどういう結末になるんでしょう」とアリョーシャが叫んだ。
「はっきりこうだと予想はできないよ。ことによると、うやむやに終わるかもしれない。あの女は、けだものだ。いずれにしても、老人を家から出さないように、またドミートリイを家に入れないようにすることだ」
「兄さん、もうひとつ聞きたいことがあるんです。どんな人間でも他人を見て、誰それは生きる資格があるが、誰それにはそんな資格はないなんて、勝手に決める権利があるものでしょうか?」
「なんだってここに資格のあるなしなんて問題を持ち出すんだね? この問題は資格なんてものに全然基礎をおかずに、他のもっとずっと自然な理由によって、人間の心のなかで決められる場合がいちばん多いんじゃないかな。権利ということを言えば、誰だって希望する権利は持っているだろうさ」
「他人の死を希望する権利もですか?」
「他人の死だってそうさ。何も自分に嘘をつくことはあるまい。誰でもそんなふうに生きている、というよりも、それ以外の生き方はできないんだから。お前がそんなことを言うのは、おれがさっき『二匹の毒蛇が互いに食い合っている』と言ったからだろう? それじゃ俺もひとつ訊きたいんだがね、お前はドミートリイと同様に俺もまたあのイソップ爺の血を流しかねない男だ、つまりあいつを殺しかねない男だと思っているんだろう」
「なにを言うんです、兄さん! 僕はそんなこと、考えたことさえありません! それにドミートリイ兄さんだって、僕はまさか……」
「そのひと言だけでも礼を言うよ」と言ってイワンはにやりと笑った。「いいかい、おれはいつだってきっと親父を守ってやる。しかし自分の希望の中にはこの際、たっぷり余白を残しておくことにするからな。じゃ、また明日。まあ、俺をあんまり悪党あつかいしないでくれよ」と彼は微笑を浮かべながらつけ加えた。
兄と弟は固い握手を交した。そんなことは今まで一度もなかった。アリョーシャは兄が自分から先に一歩近づいて来たのを感じ、それには何かきっとある下心が隠されているに違いないと直感した。
別に対決的対話というわけではないが、表面上は穏当な言葉の交し合いに微細が屈曲がはらまれているという実例。「不意にイワンがにやりと笑った。アリョーシャはどぎまぎした。」といった地の文はそうした緊張感の会話に相応しい描写だが、もっとも注目すべきは「それじゃ俺もひとつ訊きたいんだがね、……」に始まるイワンの企んだ問い掛け。これは「おまえは《実は》俺を……な人間だと思っているんだろう」という自分に対する邪推の疑いを相手への邪推として投げ返す、無意識と無意識の間の暴力が乱反射する息詰るような問い掛けとなっている。それに対して相手は大抵「まさか!」と否定せざるを得ないのだが、それと同時に本当に自分はそんな邪推をしていないかどうかという自己動揺と、加えて何故相手はそんな邪推の罪を自分に被せるのかという疑念(「それには何かきっとある下心が隠されているに違いないと直感した」)が生れることになる。だからこそ表面上は何も剣呑なことは起っていないように見え、むしろイワンとアリョーシャは固い握手を交しさえするのだが、会話の中で決定的に不穏な空気が醸成されるのだ。
自分に対する邪推の疑いを相手への邪推として投げる→「まさか!」──この流れは不穏な予感で張り詰めた対話を形作る一つの契機だ。
●『罪と罰』下244-247頁
第五部第四章
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ソーニャはあきれたように両手を打ちあわせた。
「でも、まさか、まさか、そんなことがほんとだなんて! おどろいた、そんなほんとってあるかしら! 誰がそんなことを信じられて?……いったいどうして、どうして、最後のものまで人にくれてやるようなあなたが、盗むために人が殺せて! あッ!」と彼女はとつぜん叫んだ。「カテリーナ・イワーノヴナにやったあのお金……あのお金は……おお、まさかあのお金が……」
「ちがう、ソーニャ」と彼は急いでさえぎった。「あのお金はちがうよ、安心したまえ! あのお金は母が送ってくれたんだよ、ある商人を通じて、ぼくは病気でねているときに受け取ったんだ、くれてやったあの日だよ……ラズミーヒンが見ていた……彼がぼくの代りに受け取ったんだから……あのお金はぼくのだよ、ぼくのものだよ、まちがいなくぼくのものだよ」
ソーニャは怪しむようにそれを聞きながら、しきりに何やら考えをまとめようと苦しんでいた。
「で、その金だが……しかも、あの中に金があったかどうかさえ、ぼくは知らないのだが」と彼は考えこむように、しずかにつけ加えた。「ぼくはあのとき婆さんの首から財布をはずした、鹿皮の……ぎっしりつまった財布だった……うん、ぼくは中を見もしなかった。きっと、見るひまがなかったのだろう……それから、品物は、カフスボタンや鎖みたいなものばかりだったが──品物も財布も全部いっしょに、V通りのある家の庭の石の下に埋めたんだ、つぎの朝……いまでもそこにあるはずだよ……」
ソーニャは熱心に聞いていた。
「だって、それじゃどうして……盗むためだなんて言ったくせに、何もとらなかったじゃないの?」と、わらにもすがる思いで、彼女は急いで尋ねた。
「それはわからんよ……その金をとるか、とらんか──まだ決めていないんだよ」と彼はまた考えこむように、呟いた、そして不意に気がついて、あわてて短く笑った。「チエッ、ぼくはなんてばかなことを言ったんだろう、ねえ?」
ソーニャはちらと考えた。《この人は気がへんなのではないかしら?》しかし、彼女はすぐにそれを打ち消した。いや、何か別なものがある。なんのことやら、ソーニャはぜんぜんわからなかった!
「ねえ、ソーニャ」と不意に彼はあるひらめきを受けたらしく、急いで言った。「わかるかい、もしぼくが飢えていたあために、ただそれだけの理由で殺したとしたら」彼は一語一語に力をこめ、謎めいた、しかし真剣な目で彼女を見つめながら、言葉をつづけた。「ぼくはいま……幸福だったろう! これをわかってくれ!」
「だが、きみにはどうにもならん、どうにもならんよ」とすぐに彼は絶望にうちのめされたように叫んだ。「おれがいま、わるいことをしたと告白したところが、それがきみに何なのだ? おれに対するこの愚かしい勝利が、きみに何なのだ? ああ、ソーニャ、おれはこんなことのために、きみのところへ来たのだろうか!」
ソーニャはまた何か言おうとしたが、やはり黙っていた。
「ぼくが昨日きみにいっしょに行ってくれと頼んだのは、きみだけがぼくに残されたたったひとつのものだからだよ」
「どこへ行くんですの?」とソーニャはこわごわ尋ねた。
「盗みも、殺しもしないよ、それは心配せんでもいいよ」彼は皮肉なうす笑いをもらした。「ぼくたちは別々な人間だ……ねえ、ソーニャ、ぼくはいまになってはじめて、いまやっとわかったんだよ、昨日きみをどこへ連れて行こうとしたのか? 昨日、きみを誘ったときは、まだ自分でもどこへ行くのかわからなかった。きみに見すてられたくない、ただその一心できみを誘い、ただその一心でここへ来たんだ。ぼくを見すてないね、ソーニャ?」
ソーニャはラスコーリニコフの手を強くにぎりしめた。
「でも、なんのためにおれは、なんのためにこの女に言ったんだ、なんのためにこの女に打ち明けたんだ!」一分ほどすると、限りない苦悩にぬれた目で彼女を見まもりながら、彼は絶望的に叫んだ。「いまきみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと坐って、待っているんだね、ぼくにはそれがわかるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ? 説明したって、きみには何もわかるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ……ぼくのために! ほら、きみは泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。──ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ? ぼくが一人で堪えきれないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみをわかつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」
「だって、あなただって苦しんでるじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
またあの感情が波のようにおしよせて、また彼の心を一瞬やわらげた。
「ソーニャ、ぼくはずるい心があるんだよ。それを頭においてごらん、いろんなことがそれでわかるから。ぼくがここへ来たのも、ずるいからだよ。こうなっても、来ない人々だっているよ。だがぼくは臆病で……卑怯な男なんだ! でも……そんなことはどうでもいい! そんなことじゃないんだ……ここまでくれば、話さなくちゃならんのだが、うまく言い出せない……」
彼は言葉をきって、考えこんだ。
「ええッ、ぼくたちは別々な人間なんだ!」と彼はまた叫んだ。「どうしたっていっしょにはなれやしない。それなのにどうして、どうしておれは来たんだ! これはぜったい許せない!」
「いいえ、いいえ、来てくだすったのは、いいことですわ!」とソーニャは叫んだ。「わたしが知ってたほうが、いいのよ! ずっといいのよ!」
意外なことだが、ラスコーリニコフは非凡な行動の人である。というのは真の行動者だということだ。他者性にぶつからない行動ばかりを選んでいる人間は真の行動者ではない。他者性にぶつからない行動、すなわち自意識で想い描いたとおりに自由になめらかに何の事故もなく展開する行動は、単なる自慰ないし消費行動にすぎない。しかしここでラスコーリニコフは明らかに真の行動に踏み出している。彼の吐く科白は伝達の意志に基づいた「言葉=行動」となっている。そして「無意識」とは自意識と真の行動を隔てる差異にあるのだから──彼は思い掛けなく自意識の閉域を内破する「本気」をソーニャの前で曝け出してしまわざるを得ない。その時彼の内語と発話の区別はなくなり、極端に内向きでありながら極端に相手へと向けられた分裂的な言葉がほとばしる。「いまきみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと坐って、待っているんだね、ぼくにはそれがわかるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ? 説明したって、きみには何もわかるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ……ぼくのために! ほら、きみは泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。──ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ? ぼくが一人で堪えきれないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみをわかつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」──その彼の分裂的な言葉の中で、心底からの自己卑下が告白されるのは必然だ。なぜなら彼は他者に自分の弱さを見せて他者に開かれる「勇気」を備えているからだ。この勇気なしに真に行動することはできない。
勇気ないものにはただ消費を「自由に」選択できるだけだ。そして自分が行動するよりも他者に自分のために行動してもらうためだけに言葉を用いる。それはラスコーリニコフやドミートリイから最も遠い態度である。
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------------------------------------- タイプ【D-11】再現的自己対話的長広舌 ▲
●『罪と罰』上27-33頁
第一部第三章
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そう言うと、彼は絶望にうちのめされたように、テーブルの上に頭をたれた。
「学生さん」また顔をあげて、彼はつづけた。「あなたの顔に、わたしは、何か苦しそうないろが沈んでいるのを読んでますよ。あなたが入ってくるとすぐ、わたしにはそれが読めたんだよ、だからすぐにこうして話しかけたわけさ。というのは、あなたにこんなわたしの身の上話をして、いまさら言わんでももうすっかり知りぬいているそこらののらくらどものまえに、恥をさらしたいためじゃなく、知と情のある人間をさがしていたんですよ。実は、わたしの家内は由緒ある県立の貴族学校で教育を受けましてな、卒業式のときには県知事をはじめおえら方のいならぶまえで、ヴェールをもって舞いをおどり、そのために金メダルと賞状をもらったんだよ。金メダル……金メダルなんて売ってしまいましたよ……もうとっくの昔に……うん……賞状はいまでも家内のトランクの中にありますよ、ついこの間も家主のかみさんに見せてましたっけ。かみさんとはそれこそのべつがみがみ言いあいをしているんだがねえ、誰もいなけりゃ、そんな相手にでも幸福な昔を思い出して、自慢話のひとつもしたくなるんですねえ。でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも、だってそれが家内の思い出の中にのこった最後のものですもの、あとはすっかりあとかたもなく消えてしまいましたよ! そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ。床は自分で洗うし、黒パンばかりかじってはいても、ひとにさげすまれることはがまんできないのです。だからレベジャートニコフ氏にだって、その無礼が許せなかったのですよ、そしてレベジャートニコフ氏になぐられたときでも、なぐられた傷よりは、心の傷で、とこについてしまったのさ。だいたいわたしが家内をひきとったときは、小さな三人のこぶつきの寡婦だったんですよ。最初の良人は歩兵士官でね、好きでいっしょになって、親の家をとびだしたんです。その男を心から熱愛していたが、男は賭博にこって、裁判沙汰にまでなり、それがもとで死んでしまいました。死ぬまぎわにはよくあれをなぐったらしい、あれもそれを大目には見なかったらしいがね、これはたしかな証拠があるんでね、わたしはくわしく知っているんだよ。ところがいまだに前夫を思い出しては、泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ、だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ、だってせめて思い出の中ででも、家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ……というわけであれは良人に先立たれ、三人の小さな子供をかかえて、けだものの出そうな遠い片田舎にのこされたわけです。その頃その田舎にわたしもいたんですがね。そしてあれのおかれた救いのない貧しさといったら、わたしもずいぶんいろんなことを見てきましたが、とても口には言えないほどでしたよ。身よりの者にはみなそっぽを向かれるし、それにあれはえらく気位が高くて、人に頭を下げるような女じゃないし……ちょうどその頃、わたしも男やもめで、死んだ妻にのこされた十四の娘と二人暮しでしたがねえ、あれの苦しみを見るに見かねて、手をさしのべたわけですよ。あれの窮状がどんなにひどいものであったかは、教養もあり、教育もうけ、名門の出のあれがですよ、わたしのような者の申し出を受けたことでも、察しられるというものですよ。後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら──来たんですよ! どこへも行くところがなかったからです、わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか? いやいや! あなたはまだそれがおわかりにならん……それからまる一年わたしは自分の義務を神につかえるような気持で実行しました。こんなものには(彼は指で酒の小びんをつついた)ふれもしませんでしたよ、人間らしい気持をもっていましたからねえ。ところが、それでも喜んでもらえなかった、おまけに失業ときた、それだってしくじりがあったわけじゃなく、定員が改正になったためですよ、そこで酒に手をだしたというわけさ! わたしたちが流れ流れて、さんざんな目にあったあげくに、やっと、このたくさんの記念碑にいろどられた壮麗な首都にたどりついてから、もうじき一年半になりますかねえ。ここへ来て、わたしは職にありつきました……ありついたのに、またなくしてしまいましたよ。わかりますかな? 今度はもう自分のしくじりのためですよ、くさった性根がでましてねえ……いまはアマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の家に間借りをして、物置みたいな部屋に暮してますよ。どうして暮しをたて、どうして家賃をひねりだしているのか、わたしにはとんとわかりませんがね。あそこには、わたしたちのほかにも、たくさんの人がいますが……その醜悪なことったら、まさにソドムですな……うん……まさに……そうこうするうちにわたしの娘もそだってきました、前妻にのこされた娘ですがね。この娘は年頃になるまでに、継母にそれはひどくいじめられましてなあ、でもまあそんな話はよしましょう。なにしろカテリーナ・イワーノヴナは心は寛容な思いやりでいっぱいなのですが、気性がはげしくて、おこりっぽく、じきにかっとなって……いやまったく! でも、まあいまさら思い出すこともありませんや! こんなわけですから、お察しできるでしょうが、教育なんてものは、ソーニャは受けておりません。四年ほどまえ、わたしは娘に地理と世界史を教えかけてみたことがありましたが、わたし自身がそうしたものに弱いうえに、適当な参考書もないありさまでな、だってその頃あったといえば……フン!……なあに、いまはもうそんな本もありませんわ、というわけで、勉強はそれでおしまい。ペルシャ王キュロスでストップですよ。その後、もう年頃になってから、ロマンチックな小説を二、三冊読んでいたようでした。それからついこの間、レベジャートニコフ氏からルイスの『生理学』とかいう本を借りて、──ご存じですかな?──たいそう熱心に読んでいましたよ、そしてところどころ声をだして、わたしたちにまで読んでくれたんですよ。これがあの娘の知識のすべてですよ。そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ! いいですか、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、──ご存じですかな?──あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、襟が寸法にあわないとか、まがっているとか難くせをつけて、地だんだふんで怒りつけ、聞くにたえないような侮辱の言葉をあびせかけて、追いかえしたんですよ。家じゃ子供たちが腹をすかしている……カテリーナ・イワーノヴナは、手をもみしだきながら、部屋の中を歩きまわっている、頬には赤いぶちがうきだして、──これはこの病気にはつきものでねえ、そしてこんな悪態をついたんですよ。《この無駄飯食い、よくも平気な面で、よくもここで飲んだり、食ったり、ぬくぬくと暮していられるわね》子供たちが三日もパンの皮も見ていないのに、何が飲んだり食ったりするものがあるものかね! わたしはそのときねころがっていましたよ……なあに、いまさらいいことを言ってもしょうがない! 飲んだくれてねころがっていたのさ。そして聞いていると、ソーニャが言うんですよ(あれはあまり口答えをしない娘ですが、声はひどくやさしくてねえ……髪の毛はブロンドで、いつもやせた、色つやのわるい顔をして)、こんなことを言うんですよ。《まあ、カテリーナ・イワーノヴナ、わたしにあんなことができると思って?》実は、性悪女で、もう何度も警察の厄介になっているダーリヤ・フランツォヴナが、家主のおかみを通じてもう三度ほどすすめていたんですよ。《なにさ》とカテリーナ・イワーノヴナはせせら笑って、こう答えたんですよ。《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》でも責めないでください、責めないでください、学生さん、責めないでください! あれは健康な頭でこんなことを言ったんじゃない、たかぶった感情と、病気と、飢えた子供たちの泣き声が、言わせたんだ、それも本当の意味よりは、あてつけに……カテリーナ・イワーノヴナにはそんなところがあるんですよ、なにしろ子供が腹をすかして泣いても、すぐにぶつような女ですからねえ。それからわたしは見ていたんです、五時をまわった頃でしたか、ソーネチカは立ち上がると、プラトークをかぶり、外套を着て、部屋を出て行きました、そしてもどって来たのは、八時をすぎていました。部屋へ入ると、まっすぐにカテリーナ・イワーノヴナのまえへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨を机の上にならべました。そのあいだ口もきかなければ、見もしない、そして大きな緑色の毛織のショールをとると(この毛織のショールはわたしたちがみんなで共通につかっていたのですよ)、頭も顔もすっぽりつつんで、寝床に横になりました。壁のほうを向いて、ただか細い肩と身体だけがたえずわなわなとふるえて……わたしはね、さっきからのそのままの格好で、ひっくりかえっていたんですよ……すると、どうでしょう、学生さん、しばらくするとカテリーナ・イワーノヴナが立ち上がって、やはり無言のまま、ソーネチカのベッドのそばへ行って、足もとにひざまずいたんですよ、そしてそのまま一晩中立とうともせずに、ソーネチカの足に接吻しておりましたよ。そのうちに二人ともそのまま眠ってしまいました、抱きあって……二人は……そのまま……そうなんですよ……ところがわたしときたら……飲んだくれてひっくりかえっていたのさ」
マルメラードフは、まるで声がぷつッと切られたように、黙りこんだ。しばらくすると思い出したようにそそくさと酒を注ぎ、一気にあおって、むせたように咳をした。
さあ、ここに注目だ。ドストエフスキーの登場人物たちの長広舌は、たとえばコンラッドの主人公たちの「語り」とは決定的に異なる。何が違うのか。その秘密を徹底的に暴いてやろう。
まず第一。コンラッドの主人公だったらせいぜい単に或る抽象的な聞き手に対して「語りかけるような文体」を用いるだけだろう。そこでは「語り」は単にレトリックにすぎない。だが、ドストエフスキーの場合には、「あなたの顔に、わたしは、何か苦しそうないろが沈んでいるのを読んでますよ。あなたが入ってくるとすぐ、わたしにはそれが読めたんだよ、だからすぐにこうして話しかけたわけさ。」という科白からも分かるとおり、語り手が具体的に聞き手がどういう人間であるかを織り込んでの長広舌になっている、そうであるほかなくなっているのだ。マルメラードフはラスコーリニコフに何を見たのか? とりあえず言えることは、マルメラードフはラスコーリニコフが自分と似たような苦悩を背負っていると直感し、この相手ならその反応を自分の内語に繰り込める(その上で表出する=告白する)ことができると判断したのだ。そのような相手を具体的に前にしているからこそ、マルメラードフの語りにはさらにコンラッドの語りにはないさまざまな特徴が表れる。
第二。長広舌に内在する想像的対話の存在。簡単に言うと、自分の言うことに対する相手の反応を勝手に先取りしてそれに応えるような言葉が多数出てくる。たとえば「でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも。(誰も別に疑ってねぇ!)」「そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ。(誰も何も言ってねぇ!何がそうですともだ)」という箇所は分かりやすいだろう。聞かれてないのに勝手に言い訳したり、弁解しているような箇所もこれは該当する。「死ぬまぎわにはよくあれをなぐったらしい、あれもそれを大目には見なかったらしいがね、これはたしかな証拠があるんでね、わたしはくわしく知っているんだよ。(別に誰も証拠を出せなんて言ってない)」「ところがいまだに前夫を思い出しては、泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ、だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ、だってせめて思い出の中ででも、家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ……(誰もおまえが嬉しいかどうかなんて訊いてない)」
この特徴がさらに嵩じると、自分で問いを掛けておきながら自分で勝手に応えを想像して(決め付けて)納得するという言葉の運動が生れる。ほとんど内語における自問自答に近接するのは、言うまでもない。「どこへも行くところがなかったからです、わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか? いやいや! あなたはまだそれがおわかりにならん……」「そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ!」
今指摘したポイントから、派生的にもう一つの特徴が抽出できる、というのは長広舌の中での相手への問い掛けだ。「つかぬことをお尋ねしますがね、……」はわかり易いメルクマールだが、それ以外にも明確に答えを求めるというより念を押す感じで疑問符が用いられることがある。「ここへ来て、わたしは職にありつきました……ありついたのに、またなくしてしまいましたよ。わかりますかな? 今度はもう自分のしくじりのためですよ、くさった性根がでましてねえ……」「いいですか、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、──ご存じですかな?──あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、……」──つまり「分かりますかね?(分かりますよね!)」「ご存じですかな?(ご存じだろうと勝手に思ってますがね)」という風に一種の修辞疑問文のようにニュアンスを強調する効果があるということ。まさしく具体的に対話相手を前にして「外部との弁証法的な対話性」を発揮しているからこその、ニュアンスの振幅だと言えよう。とりわけ、「いいですか?(いいですよね!)」というフレーズは純粋に強調のニュアンスしか帯びていないので効果がわかり易い。
さらに言うと、この想像的対話は、想像的法廷(想像的弁護)にまで発展していくのだ。「《なにさ》とカテリーナ・イワーノヴナはせせら笑って、こう答えたんですよ。《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》でも責めないでください、責めないでください、学生さん、責めないでください!あれは健康な頭でこんなことを言ったんじゃない、たかぶった感情と、病気と、飢えた子供たちの泣き声が、言わせたんだ、それも本当の意味よりは、あてつけに……」──一体誰が責めているというのか? 誰が非難しているというのか? 勝手に想像の中で法廷を作って、存在しない非難に対して想像的に弁護しているだけだ。対話相手の応答が勝手に繰り込まれて饒舌が膨張していくというプロセスをこれほど明瞭に表している箇所はない!
第三。長広舌の中で自問自答を勝手にやってしまうというのがまさにそうなのだが、コンラッドの「語り」が絶対に備えていない特徴として、内語がそのまま表白されてしまったような要素が、マルメラードフの長広舌には見られる。これはいろんな形で表れていて、見て取りやすいのは、次のような自分自身に対する悪態だ。「なにしろカテリーナ・イワーノヴナは心は寛容な思いやりでいっぱいなのですが、気性がはげしくて、おこりっぽく、じきにかっとなって……いやまったく! でも、まあいまさら思い出すこともありませんや!」「四年ほどまえ、わたしは娘に地理と世界史を教えかけてみたことがありましたが、わたし自身がそうしたものに弱いうえに、適当な参考書もないありさまでな、だってその頃あったといえば……フン!……なあに、いまはもうそんな本もありませんわ、というわけで、勉強はそれでおしまい。」「わたしはそのときねころがっていましたよ……なあに、いまさらいいことを言ってもしょうがない! 飲んだくれてねころがっていたのさ。」内語の強度の面から言うと、これはリアルタイムに生成される自己批評的言葉ということになるか。相手に話していながら自分に内攻するように自分の内面に向けて言葉を吐いているようなのがポイントだ。言葉のアクセントが相手の方を向いている方で自分の方へ折れ込んでいる。他にも、いわゆる感想(慨嘆・涙)の供述の言葉──「でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも、だってそれが家内の思い出の中にのこった最後のものですもの、あとはすっかりあとかたもなく消えてしまいましたよ!」「後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら──来たんですよ!」「ところが、それでも喜んでもらえなかった、おまけに失業ときた、それだってしくじりがあったわけじゃなく、定員が改正になったためですよ、そこで酒に手をだしたというわけさ!」「そのうちに二人ともそのまま眠ってしまいました、抱きあって……二人は……そのまま……そうなんですよ……ところがわたしときたら……飲んだくれてひっくりかえっていたのさ」──もまた内語の表白に近いものとして分類できる。やはりちょっとした自己嘲弄的なニュアンスが付加されているのに注目。独特のユーモアを誘引している。
第四。究極のドストエフスキー的長広舌の特徴。自分で二役をやって「科白内科白で論争する」。なんじゃこれは。単に他人の言葉を語りの中で引用するのではない。語りによる情景の再現が必要な場合にはそれはよくあることなのだから。しかしマルメラードフが他人の言葉を引用するのは、それに寄生して自己対話的内語→表白を生むためなのだ。「そしてこんな悪態をついたんですよ。《この無駄飯食い、よくも平気な面で、よくもここで飲んだり、食ったり、ぬくぬくと暮していられるわね》子供たちが三日もパンの皮も見ていないのに、何が飲んだり食ったりするものがあるものかね!」ここでマルメラードフが対話的に反応しているのは、ラスコーリニコフの(そうと決め付けられた)言葉・態度に対してではなくて、過去のカテリーナの言葉・態度(しかも自分に向けられたものでなくてソーニャに向けられたもの)に対してなのだ! コンラッドの「語り」の中にはこんな自分で二役をやって内的論争をして、さらにそれを表白するなんてこと、起りようがない。
これがドストエフスキーの凄さだ。部分的には「作家の日記」のエセー文体に通ずる。つまり「作家の日記」もマルメラードフも本質を共有しているということだ、文体的に。
●『罪と罰』上34-37頁
第一部第三章
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マルメラードフは深い感動にとらわれて、また口をつぐんだ。そのとき通りのほうからもうかなり酩酊した酔っぱらいの一団がどやどやと店へ入って来て、入り口のあたりで連れこまれたアコーデオン弾きの伴奏と、《小さな村》をうたう七つぐらいの子供の甲高い声がひびきわたって、にぎやかになった。亭主と給仕はそちらにかかりきりになった。マルメラードフは、新手の客たちには見向きもしないで、また身の上話のつづきをはじめた。彼は、もうかなりまいったらしく見えたが、酔うほどに、ますます口がまわりだした。先頃の官職復帰成功の思い出は彼を元気づけたらしく、顔に晴れやかな生色のようなものさえあらわれた。ラスコーリニコフは注意深く聞いていた。
「それはね、あなた、つい五週間前のことでしたよ。そうそう……これを知ったときのあれら二人、カテリーナ・イワーノヴナとソーネチカの喜びようったら、ほんとに、まるでわたしは天国へ行ったようでしたよ。それまでは、豚みたいにごろごろねそべって、悪態ばかりつかれていたのが、どうでしょう、そっと爪先立ちで歩いて、《セミョーン・ザハールイチはお勤めで疲れて、休んでいらっしゃるんだよ、しずかにしなさい!》なんて子供たちをしかりつける始末ですよ。朝出かけるまえにコーヒーはわかす、クリームは煮る! どうです、あなた、ほんもののクリームが出されるようになったんですよ! おまけに、どこから捻出したのか、とんとわからんが、十一ルーブリ五十コペイカをかけて、上から下までちゃんとした服装をととのえてくれました! 長靴、キャラコのワイシャツの胸当──これがすばらしく上等なやつなんですよ、それに制服、これが全部十一ルーブリ半でみごとにそろえられたってわけですよ。初出勤の日、勤めからもどって来ると、カテリーナ・イワーノヴナが料理を二品も作って待っていてくれましたよ。スープと、それにわさびおろしをかけた塩漬け肉、こんなものはそれまで見たことも聞いたこともありませんでしたよ。衣装なんて、あれには満足なものは一枚もなかった……文字どおり、一枚もなかった、それがどうです、まるでお客にでも行くみたいに、着飾っているじゃありませんか。それも何か別なものを着たとうのじゃなく、あれには何もないところからなんでも作り出す才覚がありましてな。髪をきちんとなでつけ、ちょっとした工夫で小ざっぱりした襟や袖当をあしらっただけですが、それですっかり見ちがえるようになって、おまけに若やいで、きりょうまでがあがったようで。ソーネチカは仕送りだけは欠かさずしておりましてな、自分では、ここしばらくの間あんまり来るとよくないから、人目につかないように暗くなってからこっそり来ますなんて、いじらしいことを言うんですよ。ねえ、泣かせるじゃありませんか? わたしが昼飯のあとでひとねむりしようと思ってもどって来ると、どうでしょう、カテリーナ・イワーノヴナはもう黙っていられなかったのですねえ、つい一週間まえにおかみのアマリヤ・フョードロヴナとあんなひどい言い合いをしたばかりなのに、もうコーヒーに呼んで、二時間も坐りこんで、ぺちゃくちゃやってるんですよ。《今度うちのセミョーン・ザハールイチが勤めについて、俸給をもらうようになりましたのよ。うちが閣下のところへ出かけて行きましたらね、閣下がご自分で出ていらして、みんなを待たせておいてですよ、そのまえをうちの人の手をとって別室へ案内したんですって》ええ、どうです? 《そして閣下のおっしゃるには、わしはな、セミョーン・ザハールイチ君、きみがよくやってくれたことは忘れはせん、だからきみには少々軽はずみな弱点はあっても、いまはきみも約束していることだし、それに何よりも、きみがいなくなってからどうも成績があがらんのじゃよ(どうです、おどろくじゃありませんか?)、そこで、まあきみの誓いを信用することにしよう。こうおっしゃったんですって!》こんなことはみな、あれがその場で思いついたことですよ、それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです! でもわたしは責めません、どうしてそれが責められますか!……六日まえ、はじめての俸給、二十三ルーブリ四十コペイカを、手つかずのまま持ちかえったとき、わたしを可愛いペットて言いましたよ。《あなたはなんて可愛らしいペットでしょう!》それも二人きりでですよ、どうです? まったく、わたしに可愛らしいところがあるみたいじゃありませんか、こんな亭主にねえ? ところが、わたしの頬をちょいとつついて、《ほんとに可愛いペット!》なんて言うんですよ」
マルメラードフは言葉をきって、笑おうとしたが、不意に下顎がひくひくふるえだした。それでも、彼はこらえていた。この居酒屋、おちぶれはてた姿、乾草舟の五夜、酒びん、そのくせ妻と家族に対するこの病的な愛が、聞き手の心を乱した。ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持で、聞いていた。彼はこんなところへ寄った自分がいまいましかった。
まず今までに判明しているマルメラードフの個性を復習しておこう。
マルメラードフの語りが、聞き手を意識しての呼び掛けの形を取りながらも、勝手に相手の応えを先取りしてそれと想像的な対話をしながら進展していく、という点はすでに指摘した。それゆえにマルメラードフの語りは外に向けてなされた発話でありながら、(対話相手によって触発された)内語=自己対話の表白のように読めてくるということも。
そのような呼び掛け=自己対話のわかり易い形式が、実は修辞疑問文なのだ。疑問を提示しながら実は答えはすでに決まっているというのがこの形式なのだから。引用部分でも「自分では、ここしばらくの間あんまり来るとよくないから、人目につかないように暗くなってからこっそり来ますなんて、いじらしいことを言うんですよ。ねえ、泣かせるじゃありませんか?」「でもわたしは責めません、どうしてそれが責められますか?」といった疑問符の用い方に、この相手の反応を内部に繰り込んでの呼び掛けが見られる。
同様の想像的対話になっている箇所としては、誰も疑っていないのに勝手に相手の疑いを先回りして弁解し、念を押したり、強調したりするパターンがある。「……それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです!」いや、だから誰も疑ってないっつーの。つまりラスコーリニコフは何も言っていないのに、その無言の表情とマルメラードフは弁証法的に対話してしまっているということだ。
また、そのような想像的対話のシンプルなメルクマールとして「どうです?」の言葉が挙げられる。「ええ、どうです?」「どうです、おどろくじゃありませんか?」──ちょっとしたドヤ顔混じりで、「どうですか意見があるなら言ってみてください」という呼び掛けになっているにもかかわらず、もちろん相手の意見を聞くつもりはない、単なる符牒となっている。ほんとにただ、相手に水を向けるだけの符牒だ。「ドヤ顔」というコミュニケーションにおける面白い要素を小説化しようとするとこうなるということか? いずれにせよ、長広舌に内在する想像的対話の要素であることは間違いない。
ところでこの引用部分でもっとも興味深いのは次の箇所だ。「《そして閣下のおっしゃるには、わしはな、セミョーン・ザハールイチ君、きみがよくやってくれたことは忘れはせん、だからきみには少々軽はずみな弱点はあっても、いまはきみも約束していることだし、それに何よりも、きみがいなくなってからどうも成績があがらんのじゃよ、そこで、まあきみの誓いを信用することにしよう。こうおっしゃったんですって!》こんなことはみな、あれがその場で思いついたことですよ、それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです!」──言うまでもなく、ここでマルメラードフはカテリーナの科白を単に再現しているだけではない。その口真似をした後に、自己対話的に注釈・批評を付けるためにカテリーナの科白を復唱したのだ! 他人の科白の復唱→注釈。これによってまさしく「マルメラードフがラスコーリニコフに対して話している」という具体的状況が実在感を増す。ポイントは、具体的に考えれば、他人の科白(カテリーナの科白)をマルメラードフが引用=復唱しようとすれば、必ずマルメラードフ個人のニュアンスがそこに付け加わざるを得ないということだ。具体的、立体的、内界-外界の弁証法的に考えるならば必ずそうなる。
他人の科白の復唱によるニュアンスの付加……これって以前分析した「相手の言った言葉をわざと疑問形にして繰り返すことで或るニュアンスを加える」「相手の言葉を疑問形にして自分の内語に繰り込んでしまう」というマルメラードフの傾向と同系統のものかもしれない。
余談。地の文で「かなり酩酊した酔っぱらいの一団」「アコーデオン弾き」「七つぐらいの子供」がどやどや入って来る「騒がしさ」の演出は面白い。細部の相互性で言うと、亭主と給仕と新手の客たちの間で関係・触発が起るが、それよりも、場面・舞台の組み立てとして、場の空気感に変化をもたらす(空気感に過ぎないので、マルメラードフの長科白の本筋にはそれほど関わらない)ことによってリアリティを演出する作為。
●『罪と罰』下356-359頁
第六部第三章
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「また、村のあなたの下男の噂も聞きましたよ、これもあなたが何かの原因になっていたとか」
「どうか、もうやめてください!」とスヴィドリガイロフはまた露骨に苛々しながらさえぎった。
「それは死んでからあなたのパイプに煙草をつめに来たとかいう、その下男じゃありませんか……いつか自分でぼくにおしえた?」とラスコーリニコフはますます苛立ってきた。
スヴィドリガイロフは注意深くじっとラスコーリニコフを見た、すると相手の目の中に、毒々しいうす笑いが、稲妻ように、ちらと浮んだような気がした。しかしスヴィドリガイロフは自分を抑えて、至極ていねいに答えた。
「そう、その下男ですよ。どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機会があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう。いやになりますよ! どうも、ほんとうにわたしは、誰やらの目には小説的な人間に見えるらしいですな。どうです、こうなると死んだマルファ・ペトローヴナにはどれほど感謝していいやらわかりませんな、なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ。人の胸の中は判断できませんが、とにかくこれはわたしにとって有利でした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが──それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。亡んでいく人間に対するあわれみです。娘の心にあわれみの気持が生れると、それが娘にとってもっとも危険なことは言うまでもありません。そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更正させたい、という気持になります、──まあ、こうした空想にふけるものですよ。わたしはとっさに、小鳥さん自分から網にとびこんでくるな、と見てとったから、こっちもその心構えをしたわけです。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから。(チエッ、やけに酒がすすむぞ!)実はね、わたしはいつも、はじめから、運命があなたの妹さんを二世紀か三世紀頃のどこかの領主か、王侯か、あるいは小アジアあたりの総督の娘に生れさせてくれなかったのを、残念に思っていたんですよ。あの方は、疑いもなく、どんな苦難にも堪え得た女性たちの一人になれたでしょうし、真っ赤に焼けたコテを胸に押しつけられてもにっこり笑っていられたにちがいありません。あの方は自分から進んでそうした苦難におもむかれたはずです、そして四世紀頃に生きていたら、エジプトの砂漠へ世を逃れて、木の根と陶酔と幻を食べて三十年、そこで暮したにちがいありません。あの方は早く誰かのためにどんな苦しみかを受けたいと、それだけを渇望しているのです、その苦しみをあたえなかったら、窓から飛び下りるかもしれません。わたしはラズミーヒン君とやらについて少し聞きました。思慮深い青年だそうですね(名は体をあらわす、ですか〔ラズーム=理知〕、きっと神学生でしょう)、まあ妹さんを守らせたらいいでしょう。要するに、わたしは妹さんの気持が理解できたようだし、それを光栄と心得ています。だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、観察をまちがったり、ありもしないものが見えたりするものです。チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない! 要するに、あれはもうどうにも抑えのきかぬ欲情の爆発からはじまったんです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはおそろしいほど、聞いたことも見たこともないほど、清純な娘さんです。(いいですか、わたしはあなたの妹さんについてこのことをありのままの事実としてあなたに伝えるのですが、ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、そしてこれがあのひとの妨げになるでしょうな)。その頃たまたま家にパラーシャという娘がいたんですよ。他の村から連れて来られたばかりの小間使いで、わたしにははじめて見たわけですが、黒い瞳のとっても可愛らしい娘なんですが、頭のほうは嘘みたいに弱いんですよ。泣いて、邸中に聞えるような悲鳴を上げたものだから、いい恥をかかされましたよ。ある日、昼飯の後でしたが、わたしが庭の並木道に一人でいるところを見つけて、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが目をうるませながら、かわいそうなパラーシャにかまわないでくれと、わたしに要求したんです。二人きりで言葉を交わしたのは、これがおそらく最初だったでしょう。わたしは、もちろん、あの方の希望をかなえてやることを光栄と考えて、つとめて恐れ入ったような、穴があったら入りたいような素振りを見せましたよ。まあ、要するに、うまく芝居をしたわけですな。それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、──信じられますか、涙さえ流したんですよ! まったくねえ、娘さんによっては、伝道に対する情熱がこうまではげしくなるものですよ! わたしは、もちろん、すべてを運命のせいにして、光明を渇望するようなふりをしました。そしてついに、婦人の心を屈服させる偉大な、しかもぜったいに外れのない手段を発動させました。この手段はぜったいに誰をも欺いたことがなく、一人の例外もなく、全女性に決定的な作用をするものです。この手段とは、誰でも知っている──例のお世辞というやつですよ。……
スヴィドリガイロフの長広舌。「アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが──それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。……」からが本題で、実際には結構説明的な長科白なのだが、「下男」の噂からの導入が巧みで不自然さを感じさせないのは、見事。だが、注目すべきはそれだけではない。
これだけの長広舌をリアリティを損なわず読ませ切るには、普遍的な技法が用いられていると考えねばならない。ポイントは、これだけ長いとどうしても断言の連発になってしまうところで、何ヵ所か断言に対する「折り返し」が用いられていることだろうか。「そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ」(マルメラードフ)、「しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」(スヴィドリガイロフ)、「こんなことは夢にだって見られやしませんよ! そうですとも、あんな連中はどこを捜したって、おりませんよ!」(リザヴェータ夫人)──ニュアンスとしてはこれらに出てくる「そうですとも!」の語の一人合点の感じが典型的なのだが、一度断言したことをもう一度別の形で言い直して=折り返して、確度を誇張しようとするかのような話法、これを「折り返し」と呼んでみたい。断言の連発の中でこの折り返しが挟まることによって、長広舌の書いた物を読むような調子が緩和されて一応相手向って語りかけているのだなという雰囲気がリアルタイムで生まれて来る。細かいけれど効果的な技法。引用部では例えば、「そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更正させたい、という気持になります、──まあ、こうした空想にふけるものですよ。」の個所における「まあ、こうした空想にふけるものですよ」という余計な念押しが、そうした「折り返し」だと看做せる。或いは「それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、──信じられますか、涙さえ流したんですよ!」の個所における、「信じられますか、涙さえ流したんですよ!」という仰々しい反復もまた、「折り返し」の一例だろう。
他にも、引用部では「おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから」といった、対話相手の表情の描写を代行する言葉を律儀に挟んだり、「どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機会があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう」という対話相手の意向を迎えるような言い回し、「だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、……」といった相手の「承知」を前提とした話の進め方など、いちいち対話相手のラスコーリニコフを前にしているということを喚起するような個所を、要所要所で長広舌の中に入れ込んでいる。
また、「なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ」「ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、……」「まったくねえ、娘さんによっては、……」といった個所に表われる「なにしろ……ですからねえ」「ほんとに……ねえ」「まったくねえ……」の言い回しの馴れ馴れしさは、まさしくその馴れ合おうとする相手を前提にした態度であるからこそ、長広舌の中で対話相手への志向を強く喚起するスタイルとなっている。同様に、「チエッ、やけに酒がすすむぞ!」「チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない!」の個所に見られる、思わず内語がそのまま(酔っているせいで?)口に出てしまったというような半内語の言葉も、対話相手への無警戒という意味で一種の馴れ馴れしさの発露であり、やはり長広舌の中での対話相手への志向の喚起になっているかもしれない。
●『白痴』上130-134頁
第一篇第五章
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「牢獄の中の生活についてはまだ賛成しかねる点があると思いますね」公爵は言いだした。「私は、牢獄の中に十二年間もはいっていた男の話を聞いたことがあります。それは私の教授のところでいっしょに治療を受けていた患者なんです。癲癇の発作がありましてね、ときには非常に煩悶して、声をあげて泣きだす始末です。いや、自殺しようとまでしたことがあるんです。その男の牢獄での生活はじつに憂愁にみちたものでしたが、もちろん幾コペイカといった、けちけちしたもとでないことは、誓ってけっこうです。その男が心を通わせていたものといっては、ただ一匹の蜘蛛と、窓の下にはえている小さな一本の木だけだったのです……でも、それおりかもう一つ、私が去年会った別の人のことをお話ししましょう。それはじつに奇妙な出来事なんです。奇妙だというのは、そんなことはめったにおこらないことだからなんです。この男はかつてほかの数名の者といっしょに処刑台にあげられたことがあるんです。政治犯として銃殺刑の宣告を読みあげられたのです。ところが、それから二十分あまりたって、今度は特赦の勅令が読みあげられ、罪一等を減じられたのです。ところがですね、この二つの宣告のあいだの二十分、少なくとも十五分というものを、その男は自分が数分後にはいきなり死んでしまうものという確信のもとに生きていたわけです。この男がそのときの印象をときたま話して聞かせてくれたんですが、私はその話におそろしく興味をもって、幾度となく、はじから根掘り葉掘りたずねたものでした。その男は当時のことをおそろしいほどはっきりと覚えていて、この数分間の出来事は決して忘れることはないだろう、と言っていました。群衆や兵士たちに取りまかれた処刑台から、二十歩ばかりのところに、柱が三本立ててあったそうです、処刑される者が数人いたからです。まず最初の三人をひきずりだして柱に縛りつけ、死刑服(白いだぶだぶした長い上張り)を着せ、それから小銃が見えないように、白い頭巾を眼の上までかぶせました。それがすむと、それぞれの柱の前に数人の兵士からなる一隊が整列しました。私の知合いの男は前から八番目に立っていたので、つまり、三度目に柱のほうへ連れていかれることになっていたわけです。一人の神父が十字架を手にしてみなのところをまわって歩きました。ついに生きていられるのはあと五分間ばかりで、それ以上ではないということになりました。その男の言うところによりますと、この五分間は本人にとって果てしもなく長い時間で、莫大な財産のような気がしたのだそうです。この五分間にいまさら最後の瞬間のことなど思いめぐらす必要のないほど充実した生活を送れるような気がしたので、いろんな処置を講じたというのです。つまり、時間を割りふりして、友だちとの別れに二分間ばかりあて、いま二分間を最期にもう一度自分自身のことを考えるためにあて、残りの時間はこの世の名ごりにあたりの風景をながめるためにあてたのです。その男はこの三つの処置を講じて、このように如何を割りふったことをよく覚えていました。この死を目前に控えた男は、当時二十七歳で、健康な頑丈な体格の持主でしたが、友だちに別れを告げながら、そのなかの一人にかなりのんきな質問をして、その答えに非常な興味さえ持ったということです。さて、友だちとの別れがすむと、今度は自分自身のことを考えるために割りあげた二分がやってきました。本人はどんなことを考えたらいいか、あらかじめ承知していました。いま自分はこのように存在し生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり、誰かにか、何かにか、なるのだ、これはそもそもなぜだろう、この問題をできるだけ早く、できるだけはっきりと自分に説明したかったのです。誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に解決しようと考えたのです! そこからほど遠からぬところに教会があって、その金色の屋根の頂が明るい日光にきらきらと輝いていたそうです。男はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめながら、その光線から眼を離すことができなかったと言っていました。この光線こそ自分の新しい自然であり、あと三分たったら、なんらかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気がしたそうです……いまにも訪れるであろうこの新しい未知の世界と、それに対する嫌悪の情は、まったく空恐ろしいものでした。しかし、男に言わせると、その瞬間最も苦しかったのは、絶え間なく頭に浮んでくるつぎのような想念だったそうです。《もし死なないとしたらどうだろう! もし命を取りとめたらどうだろう! それはなんという無限だろう! しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ! そうなったら、それは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だってむだに費ややしないだろうに!》男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変って、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持になったそうですからねえ」
他人の経験(実はドストエフスキー自身の経験だが)を長科白で語る際の文体。細かいところで特徴的な工夫が見られる。「いや、自殺しようとまでしたことがあるんです」──感嘆詞「いや」による前文の敷衍。「……けちけちしたものでないことは、誓ってけっこうです」──自分の話の真実性への疑念を先回りして封じるための誓い(「嘘じゃありません」みたいな発言と同系統)。「……人のことをお話ししましょう」──何かの話題を語ろうという意志の表明。「それはじつに奇妙な出来事なんです。奇妙だというのは、……」──自分で用いた形容詞の弁解的説明。「その男は……決して忘れることはないだろう、と言っていました」──他人の発言の引用。「その男の言うところによりますと、……」「男の言うには、……」──ソースの明示による真理性の補強。「誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう?」──他人の内的な思考の体験話法的な再現。「《もし死なないとしたらどうだろう! もし命を取りとめたらどうだろう!……》」──他人の内語の直接的再演。
これらがさらに進化すると『罪と罰』第一部第三章におけるマルメラードフのエクリチュールのごときものとなるだろう。以下、その特徴をメモしておこう。
(1)語り手が具体的に聞き手がどういう人間であるかを織り込んでの長広舌。相手の反応をリアルタイムで自分の語りの中に繰り込む。
(2)長広舌に内在する想像的対話の存在。自分の言うことに対する相手の反応を勝手に先取りしてそれに応えるような言葉が多数出現。
(3)自分で問いを掛けておきながら自分で勝手に応えを想像して(決め付けて)納得するという言葉の運動。ほとんど内語における自問自答の表白。
(4)自分で一人二役をやって科白内科白で論争する。時にそれは一人三役の「想像的法廷(勝手に想像の中で法廷を作って、存在しない非難に対して想像的に弁護する)」の域にまで達する。
●『地下室の手記』159-162頁
第二部第七章
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……いや、リーザ、もしきみがあの片隅で、どこかの穴蔵で、さっきの話の女の子みたいに、肺病でさっさと死んでいけたら、そりゃきみにとって、すばらしい幸福だよ。病院に行く、というのかい? いいさ、連れていってもらえたら。でも、きみがまだ女将に必要だとしたら? 肺病というのは、そういう病気でさ、熱病とはちがうんだ。この病気にかかると、人間、いよいよのときまで希望をもちつづけていてさ、自分は健康だと言うものなんだ。自分で自分を慰めているのさ。そこがまた女将にはつけ目なんだな。なに、心配しなくたっていい、そのとおりなんだから。だって、魂を売り渡してしまったうえに、借金までしてるんだから、ぐうの音も出せないわけなのさ。それでいよいよ死にそうになったら、もうだれもきみのことなんかほうり出して、見向きもしようとしない。なぜって、もうきみは一文にもならないんだものね。それどころか、なかなかくたばろうとしないで、むだに場所をふさいでいやがるとか、嫌味を言われるのが落ちなのさ。水がほしいといったって、すぐにはくれやしない。『このあまめ、いつになったらくたばるんだい。うんうん呻くから、眠ることもできやしないし、お客さんだって気色がわるいとさ』とか悪口を叩かれたうえで、やっと恵んでもらえるのさ。これは確実だよ。ぼく自身、そういう言葉を盗み聞いたことがあるもの。で、息もたえだえのきみは、穴蔵の奥のいちばん悪臭のこもっている隅に押しこまれる。暗くって、じめじめしてる。で、そうなったら、ひとりで横になりながら、きみは何を考えると思う? それで、いよいよ死んでしまえば、赤の他人が寄り集まって、ぶつくさ文句をいいながら、さもじれったそうに、さっさと片付けにかかる寸法さ。だれもきみを祝福するものなんていない、溜息ひとつついてくれるものもいない、ただもう早いところ厄介払いをしたいという気持だけだ。安物の棺桶を買ってきて、ちょうどきょう、あのかわいそうな娘を送りだしたように送りだして、居酒屋へ供養をしに行くのさ。墓場はじとじとしてて、ぬかるみで、ぼた雪が降っている。きみなんかのためにお天気が遠慮するわけもないだろう? 『さあ降ろすんだ、ワニューハ。まあ、こうなる運命なんだな。この女、ここへ来てまで、逆さまに落っこちて行きやがったぜ。縄をちぢめろよ、こん畜生め』──『このままだって、いいじゃねえか』──なにがいいだと? だって横倒しになってるんだぜ。これだって人間だったんだからな。でも、まあいいや、土をかけな』きみなんかのことでは、長いこと文句をいう気さえしないのさ。で、早々にじくじくした青黒い土をかけて、居酒屋に行っちまう……これで一巻の終り、きみのことをおぼえてる者はこの世に一人もなくなってしまう寸法さ。ほかの墓には、子供や、父親や、夫たちが訪ねてもくるだろうけれど、きみは涙にも、溜息にも、供養にも縁がなくて、この世界でだれひとり、けっしてきみを訪れてくれることがないのさ。まるで、きみなんかもともとこの世界にいなかった、いや、生れ合わさなかったみたいにね! あたりは泥と沼ばかり、まあ、毎夜、死人が起きだす時刻に、棺の蓋でもとんとん叩いて、せいぜいひとりごとでも言うんだな。『みなさん、どうかここから出してくださいな、ちょっとの間でもいいから、人間らしい暮しをさせてくださいな。生きてはいても、あたしは人生を知らなかったんですよ。あたしの人生はぼろ雑巾みたいにされちまって、センナヤ広場の居酒屋で、酒といっしょに飲まれちまったんですよ。どうか、みなさん、もう一度あたしに世のなかでいい目を見させてくださいな!……』」
ぼくは感動にかられ、いまにも喉がひきつりそうな思いだった、だが……ふいに、ぼくは言葉を切って、ぎくりとしたように上体を起すと、こわごわ首をかしげて、心臓の高鳴りを感じながら、じっと耳を澄ましはじめた。ぼくがこんな狼狽ぶりをみせたのには、それだけの理由があったのだ。
「敵」を前にした攻撃的饒舌にドライヴが掛かる際、相手を言葉によってのみ勝手に規定して妄想的に相手の姿を歪曲するという契機が生じることがある。引用部はそうした饒舌の最たるものかもしれない。相手の悲惨な人生の辿る道筋をその今際のきわまで完全に妄想し切った挙句に、墓の下で亡霊となった相手の呪詛の声まで戯画的に想像し再現してみせているのだから。妄想の細部もいちいち細かい。一つの創作家の才能が発揮されているとさえ言えそうだ。
そして、相手の姿を妄想的に歪曲する、その妄想が生き生きとしていればいるほど、相手に対する間接的侮辱も比例して増していく。
●『カラマゾフの兄弟』1巻227-228頁
第一部第三篇第五章
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それから先は簡単に話そう。彼女たちがモスクワへ着くと、事情が稲妻のような早さで、アラビアン・ナイトのように思いがけなく一変した。彼女の主な親戚筋にあたる例の将軍未亡人が、突然いちばん近い相続人である姪を一度にふたりも亡くしてしまった。──ふたりとも天然痘で同じ週のうちに死んだのさ。動転した老夫人は、カーチャを実の娘のように、救い星のように喜んで迎え、さっそく遺言状を彼女に有利なように書き変えた。もっとも、これは先の話で、その時は当座の費用にといきなり八万ルーブリを手渡して、これはお前の持参金だよ、好きなようにお使いと言ったそうだ。まあ、ヒステリー性の女なんだな。おれもその後モスクワで会ったがね。一方おれはそのころ、とつぜん四千五百ルーブリの金を郵便で受け取った。当然のことだが、見当がつきかねて、びっくり仰天したものさ。すると、三日たって約束の手紙が届いた。その手紙は今もおれの手もとにある。いつも肌身はなさず持っていて、死んでも放さないつもりだ。──何なら見せてやろうか。ぜひ読んでもらいたい。結婚の申し込みが書いてあるんだ。彼女のほうからプロポーズして来たんだぜ。──『わたくしは気違いのように恋しております』こう彼女は書いている。『あなたがわたくしを愛して下さらなくても構いません。ただどうかわたくしの夫になって下さいまし。ご心配はいりません、決してあなたを束縛いたしませんから。あなたの家具に、あなたのお歩きになる絨毯になりますから。……わたくしは永遠にあなたを愛したいのです。あなたをご自分から救ってさしあげたいのです。……』アリョーシャ、おれにはこの手紙を、おれの卑しい言葉で、卑しい口調で、どうしても直せない癖になった卑しい口調で、お前に伝える資格はないんだよ! この手紙はいまだにおれの胸を突き刺すんだ。いったいおれがいま気楽な気持でいると思うかい、今日のおれが軽やかな気持でいると思うかい? おれはその時すぐに彼女に返事を書いた(どうしてもモスクワへは行けなかったんだ)。涙ながらに返事を書いた。ただいまだに恥ずかしくてならなんのは、彼女が今は金持になって持参金まであるのに、おれが一文なしの貧乏士官にすぎないと書いたことだ。──金のことを書いたことなんだ! 我慢すべきだったのに、ついペンが滑ったんだ。おれはその時すぐにモスクワのイワンに手紙を書いて、できるだけくわしく、便箋六枚ぶんも事情を説明して、イワンに彼女のところへ行ってもらった。おい、なんて目つきをするんだい、何だってそうじろじろ見つめるんだい。そう、イワンは彼女に惚れた。今だって惚れている。それはおれも知っている。なるほどおれはお前たち流に、世間的に見れば馬鹿なことをした。が、ひょっとすると、今おれたちみんなを救ってくれるのは、この馬鹿なことだけかも知れないんだぜ! ああ! 彼女がどんなにイワンを敬って尊敬しているか、お前にはわからないのかい? おれたちふたりを比べて見たら、おれみたいな男を愛せるはずがないじゃないか。ましてや、ここであんなことがあった手前──」
ドミートリイの発話を読んで驚くのは、単に事情と経緯を説明している長科白にもかかわらず、あたかもドミートリイの表情や身振りの変化がいちいち読者に浮ぶようなエクリチュールになっているということだ。これは、明らかにドミートリイの科白には性急すぎるほどの(相手=アリョーシャへの)伝達の意志が込められているからだと思われる。この意志がないところでは、どんな立派なレトリックでも表面を滑るだけに終始する。ドミートリイはどうしてもアリョーシャに自分の言うことを理解してほしかった。そのように他者への伝達を渇望するほどに彼は無邪気で率直であった。それが引用部のような表情や身振りをまとった科白となってほとばしる。そういうことだ。
●『カラマゾフの兄弟』1巻228-230頁
第一部第三篇第五章
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「あの人が愛しているのは兄さんのような人で、イワンみたいな人じゃありません、僕はそう信じています」
「彼女の愛しているのは自分の善行で、おれじゃないさ」不意にドミートリイの口から、われ知らず、ほとんど毒々しい口調でこんな言葉が飛び出した。彼は笑いだしたが、一瞬後には目がきらりと光り、顔を真っ赤にして力いっぱい拳でテーブルをなぐりつけた。
「アリョーシャ、おれは誓って言う」と彼は自分に対して恐ろしい心底からの怒りを感じて叫んだ。「お前が信じようと信じまいと勝手だが、神聖なる神にかけて、主イエス・キリストにかけて誓って言う。おれはいま彼女の高尚な感情をあざ笑ったが、しかしおれは彼女に比べて精神的に百万倍も劣っていることを、彼女のそうした立派な感情が天使の感情のように真心のこもったものだということを自分で承知している。おれがそれを確実に知っている、──そこに悲劇があるんだ。人間がちょいと演説口調で話したからってどこが悪い? おれの話し方は演説口調だろう? しかしおれは真剣なんだ、大まじめなんだ。ところがイワンはどうかというと、おれにはあいつが今どんな呪いをこめて自然を見ているかが、手に取るようにわかっている、それもあれだけの知性の持ち主なんだからな! 選ばれたのは誰だ? 選ばれたのはこのろくでなしだ。婚約者でありながら、この町でも衆人環視のなかで、それもいいなずけの前で、いいなずけの前で相変わらず乱行を抑えられなかった男だ。こうしておれみたいな男が選ばれて、イワンは袖にされた。だが、それはなぜだ? あの令嬢が感謝の気持から自分の命と運命をねじ曲げようと望んでいるからだ。馬鹿ばかしい話じゃないか。おれはこんな意味のことを今まで一度もイワンに話したことはないし、イワンのほうも、当然のことだが、おれに向かってそんなことを一言半句いったこともほのめかしたこともない。だが、いずれは運命が定まって、資格ある者がその位置に立ち、資格なき者は永遠に横町に身を隠すことになるのさ、──きたならしい自分の横町に、大好きな、その男にふさわしい横町に。そうしてその泥濘と悪臭の中で、自分から満足しながら身を滅ぼすのさ。おれは何やらでたらめをしゃべりはじめたな。おれの言葉はみんな言い古されたことで、口から出まかせみたいだが、しかしおれがいま断言したことは、きっとそうなるにきまっている。おれは横町にうずもれて、あの女はイワンと結婚するんだ」
言うまでもなく、ドミートリイの自己卑下はフョードルのものと違って戦略的なものではありえない。彼が「おれは彼女に比べて精神的に百万倍も劣っている」「彼女のそうした立派な感情が天使の感情のように真心のこもったものだ」と言うとき、あくまで大真面目であることに注意する必要がある。つまり地の文で言っている「彼は自分に対して恐ろしい心底からの怒りを感じて……」という言葉を文字通り受け取る必要がある。ドミートリイの人格の根本には、自分自身に対して恐ろしい心底からの怒りを感じることができるという非凡な純真がある。世俗の凡庸人ならもっと自分に対して手加減するところで、ドミートリイは絶対に容赦しない。「おれは真剣なんだ、大まじめなんだ。」「婚約者でありながら、この町でも衆人環視のなかで、それもいいなずけの前で、いいなずけの前で相変わらず乱行を抑えられなかった男だ。」「おれは横町にうずもれて、あの女はイワンと結婚するんだ。」──これも適当に放言しているのではなくて、のっぴきならない真実として彼は口にしているのだ。
とはいえ、ドミートリイには、イヴォルギン将軍ないしは火薬中尉的なところがある、すなわち必要以上に饒舌だというところがある。そこが魅力でもあるのだが。いちいち自分の話していることに自己言及を差し挟むところなどは、いかにも饒舌家らしい特徴だ。「人間がちょいと演説口調で話したからってどこが悪い? おれの話し方は演説口調だろう?」「おれは何やらでたらめをしゃべりはじめたな。おれの言葉はみんな言い古されたことで、口から出まかせみたいだが、しかしおれがいま断言したことは、きっとそうなるにきまっている」、等々。人前でわざわざ自問自答して、しかも必要もないのに話し相手を挑発するような語調さえ見られる。「選ばれたのは誰だ? 選ばれたのはこのろくでなしだ。」「だが、それはなぜだ? あの令嬢が感謝の気持から自分の命と運命をねじ曲げようと望んでいるからだ。」「だが、いずれは運命が定まって、資格ある者がその位置に立ち、資格なき者は永遠に横町に身を隠すことになるのさ、……」 ──こうして自分の内語と発話の区別をつけないような人物、必要以上に挑発的で饒舌な人物というは、ドストエフスキーの小説には不可欠なのだな。
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------------------------------------- タイプ【D-12】何かを否定・非難する(→反動)ことが中心の科白 ▲
●『罪と罰』上212-215頁
第二部第三章
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「まあ、いけすかない!」と、またナスターシヤは叫んだ。どうやらこの会話は彼女にぞくぞくするような幸福感をあたえたらしい。
「まずかったのは、きみ、そもそもの出だしから作戦をあやまったことだ。あの女にはこういうやり方ではいけなかったんだよ。たしかにあれは、いわば、稀にみる珍しい性格だよ! まあ、性格のことはあとにしよう……ただきみはどうして、例えばだな、あのおかみに食事をとめさせるようなへまなことをしたんだい? それから、あの手形だが、ありゃいったいなんだい? ほんとに、頭がどうかしたんじゃないのか、手形に署名するなんて! それからまた、例の婚約だが、娘のナターリヤ、エゴローヴナがまだ生きていた頃の話さ……ぼくはすっかり知ってるんだよ! しかし、これはデリケートな心の琴線の問題で、この方面ではぼくはまるきりにぶいらしいよ。失礼失礼。ところで、にぶい話がでたので聞くけど、どうだね、たしかにプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナは最初見たときほど、それほど馬鹿じゃないぜ、な?」
「うん……」ラスコーリニコフはそっぽを向いていたが、心の中では話をつづけさせるほうがとくだとわかっていたので、しぶしぶ答えた。
「そうだよな?」返事をもらったのが嬉しくてたまらないらしく、ラズミーヒンは大声を出した。「しかしたしかに利口ではない、な? まったく、稀に見る珍しい性格だ! ぼくはね、きみ、いささか面くらっているんだよ、ほんとだぜ……四十はまちがいないだろう。ところが自分じゃ三十六と言ってるがね、それが少しもおかしくないんだよ。ただし、正直のところ、ぼくは彼女についてはむしろ精神的な面から、つまり形而上学的にのみ判断しているんだ。ぼくたちの間にはな、きみ、ある一つの記号が形成されたんだよ、きみの代数みたいなさ! どうにも解けんよ! まあ、こんなことはどうでもいいさ。ただ彼女は、きみがもう学生じゃなく、家庭教師の口も着るものもなくしてしまったし、おまけに娘が死んで、きみをもう身内として面倒を見る理由がなくなったのを知ると、急に心細くなった。しかもきみはきみで、隅のほうにねころがったきりで、まえとはすっかり変ってしまった。そこで彼女はきみを部屋から追い出そうと考えたわけだ。そしてかなり長い間彼女はこの考えを胸の中にあたためていた。そのうちに手形が惜しくなってきた。そこへもってきてきみが自分で、母が払ってくれるから、なんて言った……」
「そんなことを言ったのはぼくが卑怯だからだ……母だってほとんど乞食みたいな暮しをしているんだ……ぼくが嘘をついたのは、ここにおいてもらって……食べさせてもらいたかったからだ」とラスコーリニコフは大きな声で、はっきりと言った。
「わかるよ、それはきみあたりまえのことだ。ただ問題は、そこへ七等官で腕っこきのチェバーロフという男がはいりこんできたことだよ。パーシェンカは彼がいなかったら何も企てられなかったろうさ。なにしろあんな内気な女だ。ところが、腕っこきの男なんてやつはだいたい恥知らずと相場がきまってる。そこで先ず最初に考えることはきまってるよ。手形を現金化する見込みがあるかどうか、ということだ。答えは、ある、なぜなら百二十五ルーブリの年金から、自分は食べないでも、ロージェンカには送金するという感心なお母さんがいるし、またお兄さんのためなら身を売って奴隷になってもかまわない、というような妹さんがいるからだ。ここを彼はねらったわけだ……どうしたんだい、もぞもぞして? ぼくはね、きみ、いまはもうきみの秘密をすっかりさぐり出してしまったんだよ。きみがまだ身内あつかいされていた頃、パーシェンカに何でも打ち明けていたろう、それがこっちへまわってきたのさ。ぼくがいまこんなことを言うのはきみを愛するからだよ……つまりこういうことなんだよ、正直で涙もろい人間はややもすると打ち明け話をする。すると腕っこきな人間はそれを聞いていて、食いものにする。そのうちにすっかり食いつくしてしまうというわけさ。それはさて、彼女は支払うということにして、その手形をチェバーロフという男に渡した。そこでチェバーロフは正規の手続きをふんで支払いを要求したわけだ。けろりとしたものさ。こうした事情をすっかり知ったとき、ぼくは、やつの良心を清めてやるために、やつにも電流を通じてやろうと思ったよ。ところがちょうどその頃、ぼくとパーシェンカの間にあるハーモニーが生れたんだ。そこでぼくは彼女にこの事件をいっさいとりさげるように命じた。もっともそれには先ず、きみが支払うという一項をぼくは保証したがね。きみ、ぼくはきみの保証人になったんだぜ。わかるかい? そこでチェバーロフを呼んで、ルーブリ銀貨を十枚ぽんと投げ出し、手形をとりもどした。さあこれだ、謹んできみに差し上げよう、──もう口約束だけで信用するよ、──そら、受け取りたまえ、ぼくが破いて無効にしておいたよ」
ラズミーヒンは卓の上に借用証書をのせた。ラスコーリニコフはそれには目もくれず、ものも言わないで、くるりと壁のほうを向いた。さすがのラズミーヒンもむっとした。
「そうかい」と一分ほどして彼は言った。「おれはまたばかな真似をしたようだ。軽口をたたいてきみの気をまぎらし、慰めてやろうと思ったんだが、どうやら、腹の虫を怒らせただけらしい」
登場人物の自意識の中に入って来るものよりは無意識の方が重視されるドストエフスキー作品において、つまり能動的な内語の方こそ二次的とみなされる小説世界において、直接的に発話される科白とは、何だろうか。当然それは作中人物の自意識の延長にぴったり一致するものではあり得まい。
ここで仮に答えを出すとすると、ドストエフスキーの作中人物たちは「否定・非難」するためにこそ発話する。落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)を多彩に「否定・非難」するためにこそ、作中人物たちは喋りまくる。まさにこの否定の契機において直接的な表出が二次的であり無意識こそ本質だという構造が現われるのではないか、というわけだ。内語の場合は地の文の介入によって中断・屈折・転回する。科白の場合、その中断・屈折・転回はリアルタイムでその表層の波立ちに現われる(「何故かドストエフスキーの書く会話場面では、登場人物間でのリアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていくような印象がある」とはそういう意味ではなかったか?)。また、科白の中に否定の契機が盛り込まれなくても、それを口にした人物の表情・仕種描写において否定の契機≒無意識の作用が表出することもあるだろう。
これはもちろんバフチン的な認識ではある。《内的な論争に類したものに、あらゆる本質的で深遠な対話における応答がある。/そうした応答における言葉はどれも、対象に向けられているとともに、具体的な他者(例えばマカール・ジェーヴシキンに対してはワルワーラ、ヴェリチャーニノフに対してはトルソーツキイ……)の言葉に過敏に反応し、それに答えつつ、それを先取りしようとする。/返答と先取りの契機は、緊張した対話の言葉の内部に深く浸透している。そうした言葉は、あたかも自分の中に他者の応答を取込み吸収しようとして、懸命になってそれらを加工しているかのようだ。》──だがもっと徹底する必要があるだろう。一体に、科白は直接的な肯定や真実の言葉ではあり得ない、と言い切ろう。あたかも直接的な肯定や真実の言葉のように見える科白は、まったく抑揚のない紋切り型のおうむ返しか、或いは、バレバレの演技的な虚言に過ぎないのだ、と(通常の小説ではそこまで徹底していないのだが)。
では引用部を分析しよう。会話場面では互いに予想のつかないことをしかねない他者同士が顔を付き合わせることになるので、相互に相手を否定・非難する微妙な圭角が乱反射せざるを得ない。ここでのラズミーヒンの長広舌は、一直線に言いたい事の説明に進まずに、つねに何かに対する否定や非難の屈曲を孕んで落ち着かないということに注目しよう。ついつい彼はやっきになって「言いたくない事」まで口にしてしまうかのようだ。最初の長科白でラズミーヒンは何を否定しているか。ラスコーリニコフの過去のやり方が間違っていたことへの非難(「そもそも出だしから作戦をあやまった」「どうして……へまなことをしたんだい?」「ありゃいったいなんだい?」「ほんとに、頭がどうかしたんじゃないのか」)、自分がひそかにプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナを気に入っていることの抑圧(「まあ、性格のことはあとにしよう」)、ラズミーヒンは何も詳しい事情を知りはしないじゃないか、というあり得べき先入観の否定(「ぼくはすっかり知ってるんだよ!」)、自己非難=自己卑下(「この方面ではぼくはまるきりにぶいらしいよ」「失礼失礼」)、そして自分が気に入ったプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナへの軽視を先回りしての否定(「プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナはそれほど馬鹿じゃないぜ」)、……となんとこの科白からしてすでに目の前のラスコーリニコフ(のあり得べき反応)に対する、自分自身の無意識に対する、世間一般の目線に対する、否定と非難がたっぷり盛り込まれているのだ。というかそれしか内容がない。
ラズミーヒンの第二の科白も否定の契機が満載だ。彼が肯定的なことを述べるのは、相手が自分の無意識に言いたかったことに同意してみせた時だけである(「そうだよな?」)。それ以外は、ラスコーリニコフの不信や予断を先回りしての否定(「ほんとだぜ……」「ただし、正直のところ、ぼくはむしろ……」)、事実や伝聞情報の主観的否定(「四十はまちがいないだろう、ところが自分じゃ三十六と言ってるがね」)、自分の無意識の欲望に沿って言いたい事の抑圧(「どうにも解けんよ!……まあ、こんなことはどうでもいいさ」)、……等々。後半も、一見単なる事情の説明のように読めるが、全体としては薄らとしたラスコーリニコフに対する非難になっているのではないか。「そこへもってきてきみが……なんて言った……」の箇所にそういうニュアンスが読み取れないか。つまり、ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかないかのようだ! いや、われわれの現実を徹底してリアルに見れば実際そうなのかもしれない。
また、ラスコーリニコフの短い発話の中にさえ否定の契機があることを見逃さぬようにしよう。まずは「うん……」という短い科白。科白はこれだけだが、ここにはラスコーリニコフの仕種についての記述が地の文でくっついている。彼は科白ではラズミーヒンに同意していても、実際にはラズミーヒンの話をまともに受け取っていないことが暴露されている──つまりこの場面で彼は態度(というか内面)においてまさにラズミーヒンに対して否定的なポジションを取っているのだ。この地の文の記述における否定の契機は最後の方の「ラスコーリニコフはそれに目もくれず、ものも言わないで、くるりと壁のほうを向いた」という無言の拒絶でさらに明瞭に描かれている。
ラスコーリニコフのもう一つの科白──「そんなことを言ったのはぼくが卑怯だからだ……母だってほとんど乞食みたいな暮しをしているんだ……ぼくが嘘をついたのは、ここにおいてもらって……食べさせてもらいたかったからだ」──は、ラズミーヒンの最後の科白──「そうかい……おれはまたばかな真似をしたようだ。軽口をたたいてきみの気をまぎらし、慰めてやろうと思ったなだが、どうやら、腹の虫を怒らせただけらしい」──とセットで分析すべきものである。これらの科白にはやはり否定の契機が含まれている、ように見える。どちらも自己非難という内向きの攻撃性を見せている。だが文脈を踏まえて読めば、これらは実際には自己非難という形を取った相手へのリアルタイム攻撃だ。ラスコーリニコフの科白は相手に対する「そんなことは自分でも分かっている、わざわざ言うな」という非難の変形だし、ラズミーヒンの科白は「おれは親切のつもりでやったのになんて失礼な奴だ」という非難の変形だ。ただ二人は一応友人であるので相手への直接の非難は無意識へと抑圧され、屈折した結果が、この自己非難という形での相手への非難になっているわけだ。会話場面がたとえ友人同士の間でも本質的に相互否定でしかあり得ないのだとしたら、こういう複雑で迂遠な対話もリアリティがないとは言えまい。
最後に、ラズミーヒンの第三の長科白を分析しよう。ここも大部分は過去の事情の説明であるかのようだが、全体としてのチェバーロフに対する非難のトーンは明らかだろう(「ところが、腕っこきの男なんてやつはだいたい恥知らずと相場がきまってる」「やつの良心を清めてやるために、やつにも電流を通じてやろうと思ったよ」)。生き生きした長科白の肝は非難のトーンにある、というわけか。それだけではなく、彼の話を聞いてラスコーニコフに生じうるだろう疑念を先回りして打ち消していく起伏も、このラズミーヒンの科白には多く孕まれている(「わかるよ、それはきみあたりまえのことだ」「ぼくがいまこんなことを言うのはきみを愛するからだよ」「わかるかい?」)。思うに、科白の中に否定の契機を盛り込むことによって、小説技法的に言うと、科白の節約になるんだろうか?──「なんでそんな事まで知っているんだ?」「ぼくはもうきみの秘密をすっかりさぐり出してしまったんだよ」──或いは「ぼくはきみの保証人になったんだぜ」「君が借金を取り立てるというわけか?」「いや、ぼくは君を口約束だけで信用するさ」──といったやり取りをいちいちさせなくて済むから。科白の中にリアルタイムで相手の反応を織り込んでいく(ことによって中断・屈曲・転回を生む)のも同様の「節約」効果があるだろうか。ちなみにここでは、妹と母のことに言及されて表情を変えたらしいラスコーリニコフの異変に対する「どうしたんだい、もぞもぞして?」の「非難」が、リアルタイムな相手の反応の織り込みの実例である。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
●『罪と罰』上209-211頁
第二部第三章
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「パーシェンカには今日こそえぞいちごのジャムを出してもらうんだな。病人の食べものをつくってやらにゃ」ラズミーヒンは自分の席にもどって、またスープとビールに手をのばしながら、言った。
「へえ、あんたにやるえぞいちごなんか、おかみさんはどこで手に入れるんだね?」とナスターシヤはひろげた五本の指の上に受け皿をのせて、棒砂糖を唇にあてて茶をすすりながら、言った。
「えぞいちごはね、きみ、店で買うのさ。おい、ロージャ、きみのいない間に、じつにおもしろいことがあったんだぜ。きみがまるで、こそ泥みたいにさ、下宿もおしえないでぼくのところから逃げ出したとき、ぼくは無性に腹が立って、どうしてもきみの居所をさぐり出し、罰してやろうと決心したんだ。そして早速その日のうちに行動に移った。ぼくは足にまかせて歩きまわり、じつにこまめに聞きまわった! なにしろこの、いまのきみの下宿を忘れていたんでな。もっとも、はじめから知らないんだから、おぼえているはずがないさ。だが、まえの下宿ならおぼえていたよ──それが五つ角のハルラーモフの家とだけなんだ。そこでさがしたね、そのハルラーモフの家ってやつを夢中でさがしまわった、──ところがきみ、あとでわかったんだが、それはハルラーモフの家でなんかないのさ、ブッフの家だったんだよ、──音ってやつはどうもまちがいが多いよ! 頭にきたね。腹立ちまぎれに、とにかく当ってみようというので、翌日警察の住所係へ行ってみた、するとどうだね、二分もたたんうちにきみの居所をさがし出してくれたよ。きみの名前はちゃんと書きとめてあるぜ」
「書きとめてある!」
「もちろんさ。だってコベリョフ将軍とかいう人は、ぼくも見ていたが、どうしてもさがし出せなかったぜ。それはさて、話せば長くなるが、とにかくぼくはここへ顔を出すとすぐに、きみのいろんなことをすっかり聞かされたよ。すっかりだよ、きみ、それこそ一部始終だ。ぼくはもうなんでも知ってるぜ。この女も見ていたがね、ニコージム・フォミッチとも知り合いになったし、イリヤ・ペトローヴィチも紹介されたし、庭番とも顔ができたし、それからザミョートフ、そらここの署の事務官をやっているアレクサンドル・グリゴーリエヴィチ、そして最後に、パーシェンカ、──これこそきみ、まさしくぼくにおくられた花の冠だね。現にこの女も知っているが……」
「へえ、こってり砂糖をきかせてさ」ずるそうに笑いながら、ナスターシヤは呟いた。
「そう、あんたももっと砂糖をきかせたら、ナスターシヤ・ニキーフォロヴナ」
「まあ、このさかり犬ったら!」いきなりこう叫ぶと、ナスターシヤはぷっと吹き出した。
「だってわたしはペトローワよ、ニキーフォロワなんかじゃないわ」彼女は笑いやむと、突然こうつけたした。
「おそれ入りました。以後つつしみます。ところできみ、余談はさておきだな、ぼくは先ず、この土地のあらゆる偏見というものを一挙に根絶するために、四方八方に電波をはなとうとしたわけだ。ところがパーシェンカには負けたね。ぼくは、きみ、あのひとがこんな……チャーミングな女だとは、ゆめにも思わなかったぜ……きみはどう思う?」
まずは「おい、ロージャ、きみのいない間に……」の長科白から分析しよう。ドストエフスキーの作中人物たちは、落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)を多彩に「否定・非難」するためにこそ、喋りまくる。ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかないかのようだ。それを踏まえた上でこの科白を見ると、ここに盛り込まれている否定の契機(「ぼくは無性に腹が立って」「頭にきたね」)は特定の人物や対象に対するものというより、自分の予想どおりに、思いどおりにいかなかった「現実」に対する非難に過ぎないと考えられそうだ。要するに、ほとんど単なる愚痴か文句だ。彼の否定は「コベリョフ将軍」とかいうどうでもいい固有名まで引き寄せる。自分の責任でしかない自分の失敗にも文句を言い、あげくは「ハルラーモフ」という単語の発音にまで非難を向ける。このように彼の科白に表われる否定の契機の浅薄さが、ラズミーヒンをあけすけな性格──「内面・内語が表に出てしまうことについてまったく無頓着で全然空気を読まない」気質──に見せているのだろう。
もちろんラズミーヒンの科白には、目の前にいるラスコーリニコフに対する否定・非難の契機も含まれている。ラスコーリニコフの態度を「きみがまるでこそ泥みたいにさ……」と当てこすったりする箇所。また、自分自身の無意識を抑圧しつつ屈折的に表現する箇所も見られる──「ぼくは、きみ、あのひとがこんな……チャーミングな女だとは、ゆめにも思わなかったぜ……」。だがここではナスターシヤとラズミーヒンのやり取りにさらに注目しよう。一読して分かるが、ナスターシヤはそれほど頭が良い人間ではないので、彼女もまた否定・非難のために発話するのだとしても、その非難は幼稚な形で露骨に表われる。つまりラズミーヒンに対する悪意のように表出される(「まあ、このさかり犬ったら!」)。しかしラズミーヒンの方はもうちょっと複雑な人間で度量も広いので、(ナスターシヤに限らず)相手の非難に対して直接非難を以て応答するのではなく、皮肉(「そう、あんたももっと砂糖をきかせたら」)やしゃれや韜晦(「おそれ入りました。以後つつしみます」)や、敢えて生真面目に答えることで生じるユーモア(「えぞいちごはね、きみ、店で買うのさ」)などを利用して巧く相手の攻撃性を無化している。言うまでもなくこれもまた会話場面における相互否定の契機の一種である。
●『罪と罰』上240-243頁
第二部第四章
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「まあ考えることはないね、罪跡があるじゃないか、それがどんなものにしろ、とにかくあることはある。事実だよ。そのペンキ屋を釈放するわけにはいくまいさ?」
「だってきみ、彼らはもう彼を真犯人と断定してしまったぜ! いまじゃ彼らはもうこれっぽっちも疑っていないんだ……」
「それでいいじゃないか。きみは興奮しすぎてるよ。じゃ、耳飾りは? いいかい、その日その時刻にだよ、老婆のトランクの中にあった耳飾りがミコライの手に入ったとすれば、それはどういう方法かで入ったにちがいないのだ、どうだね、これには異論があるまい? こうした事件にはよくあることなんだよ」
「どうして手に入った! どうして手に入ったって?」とラズミーヒンは叫んだ。「いったいきみは、医者のくせに、何よりも先ず人間を研究するのが義務で、しかも誰よりも人間の本性を研究する機会をもちながら、それでなおかつきみは、これだけ資料をならべられても、ミコライがどんな性質の人間かわからないのか? いったいきみは、尋問に際して彼が述べた経過でそれが彼の手に入ったことは、ぜったいにまちがいない。小箱を踏んづけて、それをひろい上げたんだ!」
「神聖な真実か! ところが、はじめは嘘をついたと、自分で白状しているじゃないか?」
「まあぼくのいうことを聞きたまえ。ようく聞いてくれたまえよ。いいかね、庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、はじめの庭番の女房も、そのときその女房といっしょに庭番小舎にいた町家のおかみも、ちょうどそのとき馬車を下りて、ある婦人の腕をとって門を入ってきた七等官のクリュコフも、──みんな、つまり八人か十人の証人がだね、ミコライがミトレイを地べたにおさえつけ、馬のりになってぶんなぐっていた、下になったほうも相手の髪をつかんで、なぐり返していたと、口をそろえて証言しているんだ。彼らは道幅いっぱいにころがり、通行の邪魔をしているので、四方八方からどなられたが、彼らは、《まるで小さな子供たちみたいに》──これは証人たちが言った言葉そのままだよ──上になり下になり、キャッキャわめき、つかみあい、実に滑稽な顔をして互いに負けじと声をはりあげてわあわあ笑っていたが、そのうちに一人がもう一人を追っかけて、子供みたいに通りへかけだして行った。聞いたかい? さて、これが大切なところだ、しっかり頭に入れてくれたまえよ。上の死体はまだあったかかった、いいかい、発見されたとき、まだあったかかったんだ! もし彼らが殺してだ、あるいはミコライ一人だけがやったとしてもいい、そしてトランクから強奪したか、あるいはこの強盗事件を何かの形で手伝ったとしたらだ、きみにたった一つだけ質問したいのだが、あのような精神状態、つまり門のすぐまえでキャッキャわめいたり、わあわあ笑ったり、子供みたいにとっくみあったりという状態がだ、果して斧とか、血とか、凶悪なずるさとか、ぬかりのなさとか、盗みとか、そういったものと同居し得るものだろうか? ついいましたが人を殺して、せいぜい五分か十分しかすぎていない、──なぜって、まだ死体にぬくみがのこっていたからだ、──それが突然死体もうっちゃらかし、部屋もあけっ放しのままで、たったいま人々がそこへのぼっていったことを知りながらだ、獲物まですてて、まるで小さな子供たちのように、道路にころがって、キャアキャアふざけちらして、みんなの関心をひきつける、しかもそれは十人の証人の口をそろえての証言なのだ!」
「たしかに、おかしい! むろん、あり得ないことだが、しかし……」
「いや、きみ、しかしじゃないよ、たとえその日その時刻にミコライの手にあった耳飾りが、たしかに彼に不利な重大な物的証拠となっているとしても、──しかしそれは彼の陳述によってはっきり釈明されているから、従ってまだ未確認物証というわけだが、──とにかく無罪を立証する諸事実も考慮に入れてしかるべきだと思うんだ。ましてやそれらが動かし得ない事実だから、なおさらだよ。きみはどう思う、わが国の法律学の性質上、そのような事実を、──つまり心理的不可能性というか、精神の状態にのみ基礎をおいているような事実を、拒否し得ない事実、しかもそれがどんなものであろうと、いっさいの告訴理由および物的証拠をくつがえしてしまうような事実、として認めるだろうか、いや認めることができるだろうか? いや、認めまい、ぜったいに認めまい、なぜなら小箱が見つかったし、当人は自殺しようとしたからだ。《身におぼえがなければ、そんなことをするはずがない!》これが重大問題なんだよ、ぼくを興奮させているのはこれなんだよ! わかってくれ!」
引用部ではラズミーヒンとゾシーモフが言い争いをしている。科白がつねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の否定・非難を孕み対話がほとんど相互否定として現象せざるを得ないのだとしたら、こういう言い争いが現われるのも当然だと言えるが、しかしここで二人とも相手を直接に全否定してはいないことに注目しよう。つまりラズミーヒンの科白の中に含まれる否定・非難の契機も、ゾシーモフの科白の中に含まれる否定・非難の契機も、どちらも直接対話相手を目指しているわけではないということだ。
二人の科白はそれぞれ否定・非難・疑義・批判・詰問・抑圧・怒りさえあからさまに含んでいる。しかしその否定の対象はラズミーヒンにとってのゾシーモフ、ゾシーモフにとってのラズミーヒンではない。そこまでの敵対関係はこの二人の間に生じてはいない。簡潔に言えば、ゾシーモフにとって否定の対象になっているのはラズミーヒンの意見であり、ラズミーヒンにとって否定の対象になっているのは警察(「彼ら」)の意見である。そして二人の対話の拠ってたつ前提は例の殺人事件と、それに関連してミコライを逮捕した警察の捜査であり、彼らが否定したり非難したり取り上げたり疑問を付したりするのも、それらの基本事実の解釈に関わってのことなのだ。繰り返せばゾシーモフの人間性もラズミーヒンの性格もなんらここでは否定の対象になっていない。せいぜいゾシーモフの職業が、彼の憶断に絡んで批判されているだけだ(「いったいきみは、医者のくせに……」)。或いは、ラズミーヒンが自分の意見に夢中になり過ぎていることがリアルタイムに非難されるだけだ(「きみは興奮しすぎてるよ」)。まずはこの否定・非難の向かう先の多彩さに驚こう。
ゾシーモフは基本的に、色々と証拠や常識的な推論に基づいてラズミーヒンの考えに対する否定的なニュアンス(ということは警察の捜査に対する肯定的なニュアンス)を披露する。「まあ考えることはないね、罪跡があるじゃないか、……」「事実だよ。そのペンキ屋を釈放するわけにはいくまいさ?」「それでいいじゃないか」「じゃ、耳飾りは? いいかい、……」「どうだね、これには異論があるまい?」「はじめは嘘をついたと、自分で白状しているじゃないか?」──否定というよりも或る種の冷静な相対化といった形で、ゾシーモフは発話し会話場面に関与していく。他方、ラズミーヒンの発話を全体的に支配しているのは警察の捜査に対する激しい非難だ。例えば「いいかね、庭番も、コッホも、ペストリャコフも……」に始まる事件の日にあった目撃談の再現的な説明も、全体的に警察の解釈に対する反論つまりはゾシーモフの憶断に対する反論のニュアンスを帯びて語られている(「さて、これが大切なところだ、しっかり頭に入れてくれたまえよ」)。言い換えれば、科白の中の「発見されたとき、まだあったかかったんだ!」「しかもそれは十人の証人の口をそろえての証言なのだ!」という仰々しい事実の強調のトーンそれ自体さえ、そのまま「否定・非難」として表れているということだ。さらに、なんとラズミーヒンは否定と非難のために、警察の間違った判断──とラズミーヒンがみなしたもの──を想像的に再現してみせもする。「《身におぼえがなければ、そんなことをするはずがない!》」リアルタイムで今目の前にいるゾシーモフを否定・非難するのではなく、ラズミーヒンの科白が総体として否定・非難している事実や解釈があるということ、科白の否定・非難の向かう先はそこまで多彩でありうること、それを押えなければならない。
もちろんラズミーヒンは直接に警察を否定・非難することもある。「彼ら」に直に言及する時がそうだ。「彼らはもう彼を真犯人と断定してしまったぜ!」「認めるだろうか、いや認めることができるだろうか? いや、認めまい、ぜったいに認めまい……」(この非難のレトリックとしての修辞疑問文に注目)それだけでなく、ラズミーヒンはリアルタイムに目の前にいるゾシーモフへの非難を科白に織り込みもする。「どうして手に入った! どうして手に入ったって?」「いったいきみは、尋問に際して彼が述べたてたことがことごとく、神聖な真実であることが、一目で見ぬけないのか?」「いや、きみ、しかしじゃないよ、……」「これが重大問題なんだよ、……わかってくれ!」だがこの点はそれほど重要じゃない。一つの科白の中で否定・非難の向かう先がいかに多様であり得るかの認識の方が重要。
●『罪と罰』下452-454頁
第六部第八章
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「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そうでしたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、ロジオン・ロマーヌイチ! これはやっとおぼえたんですよ。何度も調べましてな、苦労しましたよ。実は、白状しますが、あのとき以来えらく気に病みましてな、あなたとあんなことをしてしまって……あとで聞かされて、わかったんですよ、あなたが青年文学者で、しかも学識が豊かで……いわば、その第一歩として……そうですとも! まったく、文学者や学者で最初に独創的な第一歩を踏み出さなかったなんて、およそいませんからな! わたしと家内は──そろって文学愛好家でしてな、家内ときたら気ちがいですわ!……文学と芸術にね! 人間は高尚でありたいですな、そうすれば才能と、知識と、理性と、天分で、他のものは何でも得られますよ! 帽子──そんなもの、例えてみたら、いったい何でしょう! 帽子なんてプリンみたいなものですよ、ツィンメルマンの店で買えます。ところが帽子の下に守られて、帽子でつつまれているもの、これは買うわけにはいきませんよ!──わたしは、実はあなたのところへ釈明に行こうとまで思ったんですよ、気になりましてね、もしかしたら、あなたが……それはそうと、まだ聞かずにいましたが、ほんとに何かご用がおありですか? 家族の方が見えられたそうですね?」
「ええ、母と妹です」
「妹さんには幸いにも拝顔の栄に浴しましたよ、──教養のある美しい方ですなあ。白状しますが、あのときあなたに対してあんなに逆上したのが、実に悔やまれましたよ。どうしてあんなことになったのか! あなたの卒倒されたことにからんで、あのときわたしはある疑惑をあなたに感じたわけですが、──それは後でもののみごとに解決されましたよ! 狂信と熱狂! あなたの憤慨はわかります。で、お家族がいらしたので、どこかへお移りになりますかな?」
「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、──残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
このイリヤ・ペトローヴィチの饒舌の中心をなしているものは何だろうか。ラスコーリニコフ(とその家族)を持ち上げること、ザミョートフを手を替え品を替えこき下ろすこと。ほとんどそれだけではないか。以前《ドストエフスキーの作中人物たちは、落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)を多彩に「否定・非難」するためにこそ、喋りまくる。ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかないかのようだ。》という分析をしたことがあるが、同様のことが引用部にも当てはまる。
考えてみればこれは異例のことだ。単に他者(ここではザミョートフ)を否定・非難することだけが科白の中心になるなんて。この背景には明らかにわれわれ自身の(と思い込んでいる)言葉というものは常に他者に侵入され影響され貫かれているという思想が存しているだろう。イリヤ・ペトローヴィチのザミョートフ批判には、何か無理な捻れたところがあるように思われる。彼は主体的にザミョートフを批判している、自分にはそのようにザミョートフを下に見る権利があると自負しているかのようだが、あたかも彼は何ものかによって批判させられているかのようだ。自分と喧嘩別れしたからといって「軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。」と判断を下してしまうの中に仄見える独りよがりも問題だが、決定的なのは「何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。」の科白で、ここでイリヤ・ペトローヴィチはたとえザミョートフが試験に落ちた場合は勿論、試験に受かったとしてもザミョートフ自身の名誉には大して寄与するわけではない、と自分の自尊心のために予防線を張っているのだ。このようにいかにも自己完結的で自尊心の捻れをはらんだ「批判・非難」を口にする人物──主体的に批判しているつもりが、つい自分の自尊心から批判をさせられてしまっている人物──は、同じくやはり「賞讃」においてもまったく的外れな文句を連発する。「まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ!」「あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな!」──といったラスコーリニコフに対するおよそ空疎で見当違いの賞讃こそ、彼の自尊心が完全に盲目になっていることの証しだ。こういう人物の繰り出す饒舌は、たしかに引用部に典型を見るようなものとなるのだろう。
●『罪と罰』下453-455頁
第六部第八章
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「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、──残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
「わたしは読みましたよ。しかし近頃は、ニヒリストがふえましたなあ。でも、それもわからんこともありませんな、なにしろ時代が時代です、そうじゃありません? しかし、あなたにこんなことを言って……あなたは、むろん、ニヒリストじゃないでしょうな! 遠慮なくおっしゃってください、率直に!」
「い、いいや……」
「いやいや、どうぞ率直に、遠慮しちゃいけませんよ、自分お一人のつもりで! もっとも、『職務』になると別ですがね、それは別問題ですよ……わたしが『友情』と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ! 友情じゃありません、市民として、人間としての感情、万人に対する博愛人道の感情ですよ。わたしは職務に際しては、公的な人間にもなれます、しかし市民として、人間としての感情を常にもつことを義務と心得、反省しているわけです……あなたはいまザミョートフと言いましたね。ザミョートフはね、いかがわしい場所に出入りして、一杯のシャンパンかドン産のぶどう酒を飲んで、フランス人並みの醜態を演じようという男です、──ザミョートフとはそんな男です! だが、わたしは、いわが忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな。それに地位も名誉もあり、りっぱな職責もあります! 妻子もいます。市民として、人間としての義務も果しています。ところが、おうかがいしますが、あの男は何者です? 教養あるりっぱな人間としてのあなたに、おうがかいしたいですな。ところで話は別ですが、近頃はあの産婆ってやつが実にふえましたなあ」
結論から先に言うと、つねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の「否定・非難」を孕むドストエフスキーの作中人物の科白は、他の何ではあり得ても「率直」ではあり得ない。どんなに素朴で単純な人物の場合でもそうである。いや、単純な人物であればあるほど、その非-率直が露骨に表われる。
ここでの火薬中尉の科白は、ざっと見れば分かるが、ザミョートフに対する否定・非難と、それと裏返しのラスコーリニコフ(とラズミーヒン)の過度な持ち上げ(「あなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな!」)という落ち着きない屈曲を孕んだ饒舌となっている。火薬中尉の否定の契機はさらに「時代=近頃」や「ニヒリスト」にまで及ぶし、翻って空疎な自画自賛(「わたしは、いわば忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな」)を述べたてもする。この何かを叩いては浮き上がる上機嫌な起伏こそが、非-率直な彼の饒舌の本体だ。
火薬中尉の性格の単純さは、率直さにおいてではなく、むしろ彼の科白の中に話し相手のラスコーリニコフに向けてのリアルタイムの反応が無いことにこそ表れているだろう。ここで話し相手のラスコーリニコフの様子は明らかにおかしいはずなのだが、火薬中尉はそれに気づくことなく、自分の非-率直に饒舌に酔っている。「わたしが『友情』と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ!」といった押し付けがましい呼び掛けも、勝手にラスコーリニコフの反応を想定してそれに応えているだけだ。こういう自意識の浅い人物は結局脇役でしかあり得ない。
●『白痴』下515-517頁
第四篇第七章
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「そのとおりです、まったくそのとおりです」公爵は叫んだ。「それはじつにりっぱなご意見です! まったく《倦怠から、われわれの倦怠から》で。決して、飽満からではありません。いや、むしろその反対に、渇望からおこっているのです、決して飽満からじゃありません。あなたはこの点で間違っておられます! 単に渇望からではなく、むしろ炎症からさえ、熱病のような渇望からおこることなんですから! それに……それに、これをただ笑ってすまうことのできるような取るに足りないものだ、などとお考えになってはいけません。失礼ですが、それを未然にさとることができなくてはだめなのです! われわれロシア人はいったん岸へたどりついて、もうそれが岸だなと信じると、もう最後の支柱まで間違いなく行きつけるものと有頂天になってしまうのです。これはいったいどういうわけでしょう? あなたがたはいまパヴリーシチェフの行為にびっくりして、その原因をすべてあの人の狂気と人の好さに帰しておしまいになりましたが、それは間違いです! まったくこのような場合のわれわれロシア人の情熱というものは、単にわれわればかりでなく、全ヨーロッパをおどろかせるものなのですから。ロシアではいったんカトリックに改宗したら、かならずその人はジェスイットになるのです、それもいちばん地下運動的なものになるのですよ。また、無神論者になれば、もうかならず暴力をもって、つまり、剣をもってたちあがり、神への信仰の根絶を要求するようになるのです。これはいったいどういうわけでしょう? どうして一気にこんな気ちがいじみたまねをするのでしょう? まさかご存じないわけはないでしょう! それはですね、そこに見落とした祖国を、発見して喜んだからなのです。これこそほんとうの岸だ、陸地を見つけたぞと、身を投げだして接吻するのです。ロシアの無神論者とロシアのジェスイット教徒は、ただ、単に虚栄心、見苦しい虚栄的な感情からばかりでなく、精神的な痛み、精神的な渇きから生れているのです。つまり、偉大なる事業、堅固な岸、いまだかつて一度も知ることがなかったので、信ずることをやめてしまった祖国への憧憬から生れてきているのです。ロシア人にとって無神論者になるのはじつに簡単なことです! 世界じゅうのどの国民よりも簡単なのです! しかも、われわれロシア人は単に無神論者になるばかりでなく、まるで新しい宗教を信ずるように、必然的に無神論を信仰するようになるのです。そして、自分が無を信仰しているということには、まったく気がつかないのです。われわれの渇望はこれほどまでになっているのです! 『自分の足もとに地盤を持たぬ者は、神をも持たぬ』というわけです。これは私の言葉ではありません。私が旅行中に出会った旧教徒の商人の言った言葉なのです。もっとも、その言い方にはこのとおりではありませんでしたがね。その男は、『自分の生れた国を見捨てた者は、自分の神をも見捨てたことになる』と言ったものです。まったくわが国では最高の教育を受けた人たちでさえ、鞭身教へ走ったことを考えてみればそれも納得できますよ……しかし、それにしてもこんな場合、鞭身教はいかなる点において、虚無主義やジェスイット派や無神論などに劣るというのでしょう? いや、ひょっとすると、そんなものよりずっと深遠でさえあるかもしれませんよ! とにかく、憧憬はここまできてしまったのです……ああ、渇きにもえるコロンブスの道づれたちに《新世界》の岸を啓示してやってください、ロシアの人間に、ロシアの《世界》を啓示してやってください、その眼から隠れて地中に潜む黄金を、この財宝を、与えてやってください! あるいはただロシアの思想と、ロシアの神と、キリストによってのみ成しとげられるかもしれぬ全人類の復興と復活を未来において啓示してやってください。そのときこそ力強く誠実で、叡智にみちた謙虚な巨人が、驚愕した世界の前に……忽然と立ちあらわれるのを眼にするでしょう。なぜなら、彼らがわれわれから期待しているのは、ただ剣であり、剣と暴力だけだからです。彼らはおのれによって他人を判断するため、野蛮ということを抜きにしてはわれわれロシア人を想像できないからです。しかもそれがいままでずっとつづいているのです。そして時を経るにしたがって、この傾向はますます顕著になってくるのです! そして……」
だが、そのとき、ふいにおこったある出来事のために、公爵の雄弁は思いがけなく中断されてしまった。
語っているうちに自分で自分に夢中になってしまうタイプの饒舌が本質的に帯びているのは「決め付け」の暴力。ここで公爵が決め付けを行っているのは、「(現代の)ロシア人」一般に対して。「決め付け」を行うためには自分が間違っていないという確信が必要だが、その倨傲が人を自分自身の饒舌に酔わせるのか? 「あなたはこの点で間違っておられます!」ここではたとえ疑問形が用いられるとしても、それは修辞疑問文的に自分の考えを提示して相手の同意を強制的に求めるためでしかなかったりする。「これはいったいどういうわけでしょう? どうして一気にこんな気ちがいじみたまねをするのでしょう? まさかご存じないわけはないでしょう!」「しかし、それにしてもこんな場合、鞭身教はいかなる点において、虚無主義やジェスイット派や無神論などに劣るというのでしょう? いや、ひょっとすると、そんなものよりずっと深遠でさえあるかもしれませんよ!」
有頂天の饒舌スタイル。「決め付け」の暴力によって細部がどんどん具体化され仰々しくなって膨れ上がる。興味深いスタイルだ。
●『白痴』下566-569頁
第四篇第八章
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しかし、アグラーヤは急にしっかりして、一気に自分を取りもどした。
「それはあなたの誤解ですわ」彼女は言った。「あたくしはあなたと……喧嘩をしにきたのじゃありません。もっとも、あたくしはあなたが好きじゃありませんけど。あたくしが……あたくしがここへまいりましたのは……人間らしいお話をするためですわ。あなたをお招きしたとき、あたくしはもうお話をすることを、すっかり心に決めていたのです。ですから、たとえあなたがあたくしの真意をまっったくおわかりにならなくても、その決心をひるがえすようなことはいたしません。そんなことをなされば、都合の悪くなるのはあなたばかりで、あたくしじゃありませんから。あたくしは、あなたのお書きになったことにご返事をしよう、直接お目にかかってご返事をしようと思っていたのです。なぜって、そのほうが都合がいいように思われましたからね。あなたのお手紙にたいするあたくしのご返事をお聞きください。あたくしは、はじめてレフ・ニコラエヴィチ公爵とお近づきになったその日から、またあなたのお宅での夜会でおこった事件をあとで聞いたそのときから、公爵がお気の毒になったのです。なぜお気の毒になったかというと、公爵がじつに純朴なかたなので、その純朴さのあまり……あのような性格の……ご婦人といっしょになって、幸福になれるものと信じておしまいになったからなのです。あたくしがあのかたのために心配していたことが事実となってあらわれました。あなたはあのかたを愛することができなくて、さんざん苦しめぬいたあげくに、捨てておしまいになったのです。あなたがあのかたを愛することができなかったのは、あまりに高慢だからなのです……いいえ、高慢だからではありません、言いまちがいました。あなたの虚栄心が強いからです。いえ、それでもまだちがっています。あなたは……正気の沙汰とは言えないほど、利己心が強いからです。あたくしにくださった手紙がそれを証拠だてています。あなたはあのかたを、あんな純朴なかたを愛することができなかったばかりか、ひょっとすると、心の中であのかたを軽蔑して笑っていらしたのかもしれません。あなたはただご自分の汚辱だけしか愛することができなかったのです。自分はけがされている、自分は辱しめられている、という考えだけしか、愛することができなかったからです。もしあなたの汚辱がもっと小さなものか、あるいは全然なかったとすれば、あなたはもっと不幸だったにちがいありません……」(アグラーヤは、あまりにもすらすらと口をついて出るこれらの言葉を、さも気持よさそうにまくしたてた。これらの言葉はもうずっと前から、いまの対面をまだ夢にも想像しなかったころから、すでに用意され、考えぬかれていたのであった。彼女は敵意にみちた眼差しで、興奮にうがんだナスターシャ・フィリポヴナの顔の上に自分の言葉の効果を追い求めていた)「あなたは覚えていらっしゃるでしょうが」彼女は言葉をつづけた。「そのころ、あのかたはあたくしに手紙をくださったのです。あのかたのお話では、あなたはその手紙のことをご存じだそうですね、いえ、それどころか、お読みになったことさえあるそうですわね? その手紙で、あたくしはすっかり事情をさとったのです。正確にさとったのです。つい先ごろ、あのかたはご自身で、それを確かめてくださいました。つまり、あたくしがいまあなたに申しあげていることをそっくり、ひとことひとことまで、そっくりそのままと言ってもいいくらいですの。その手紙をいただいてから、あたくしは待っていたのです。つまり、あなたはきっとこちらへいらっしゃるにちがいない、と見ぬいたのです。だって、あなたはペテルブルグなしではいられない人ですものね。あなたは田舎で暮すにはまだあまりに若くて、おきれいなんですもの……もっとも、これもやはりあたくしの言った言葉ではありませんのよ」彼女はおそろしく顔を赤らめて、つけくわえた。この瞬間から最後の言葉が切れるまで、この紅は彼女の顔から去らなかった。「それから、ふたたび公爵にお目にかかったとき、あたくしはあのかたのことがひどく痛々しく腹だたしくなったのです。どうか笑わないでください。あなたがお笑いになれば、あなたにはそれを理解する資格がない、ということになりますのよ……」
「ごらんのとおり、あたしは笑ってなどおりませんよ」ナスターシャ・フィリポヴナは沈んだきびしい声で言った。
表面上は礼儀を失わず、しかし徹底的に相手を侮辱しようとするオフェンシヴな長科白。
その本質は言葉によってのみ「あたくし」と「あなた」の関係を規定しようとする志向だろう。それがよく表れているのが「ですから、たとえあなたがあたくしの真意をまっったくおわかりにならなくても、その決心をひるがえすようなことはいたしません。そんなことをなされば、都合の悪くなるのはあなたばかりで、あたくしじゃありませんから。」という表現で、つまりこう言うことでアグラーヤは「あたくし」が「あなた」をちっとも恐れていないこと、「あなた」が自分の言葉を無視しようとしてもそれで不利になるのは「あなた」であるということを、いささか威高に規定しようとしているわけだ。相手の脅威が表面化するまえに自分の言葉によって相手を矮小化し規定しようとすること。それがアグラーヤの焦燥気味の饒舌をドライブさせている力だ。
(ちなみに、これはかつてポルフィーリイがラスコーリニコフに対して見せた態度に近似する。《そのメルクマールとなるのが「わかりますよ」の言葉だ。つまりポルフィーリイはラスコーリニコフに向って勝手に、先手を取って「わかりますよ、わかりますよ、あなたのことは分かってますよ」という態度を取ることによって、ポルフィーリイ側からラスコーリニコフを扱い易い存在(「あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される」)として饒舌の中に組み込んで、相手の敵対的な態度で自分の饒舌を中断されないように予防している、というわけだ。》)
言葉によって敵対的な相手を先回り的に・威高に(推測も交えつつ)規定してしまおうとすること! その規定の努力は例えばアグラーヤが言葉を途切らせつつ必死に正確な表現を探し求める次のような個所に如実に表れている。「あなたはあのかたを愛することができなくて、さんざん苦しめぬいたあげくに、捨てておしまいになったのです。あなたがあのかたを愛することができなかったのは、あまりに高慢だからなのです……いいえ、高慢だからではありません、言いまちがいました。あなたの虚栄心が強いからです。いえ、それでもまだちがっています。あなたは……正気の沙汰とは言えないほど、利己心が強いからです。……」──もちろんのこと、こうした規定は直接的な罵言ではないにしても、相手に対する無礼、間接的な侮辱になっているし、当然アグラーヤ自身それを理解しているので、自分の饒舌に酔いながら自分の言葉がもたらす相手の表情の変化をむさぼるように追い求めるということにもなるわけだ。途中で挟まるアグラーヤの表情の描写は適確すぎて見事。「彼女は敵意にみちた眼差しで、興奮にうがんだナスターシャ・フィリポヴナの顔の上に自分の言葉の効果を追い求めていた」。
ただし、こうしたアグラーヤの先走った攻撃的饒舌は、むしろアグラーヤの自信のなさを表してもいるだろう。例えば「どうか笑わないでください。あなたがお笑いになれば、あなたにはそれを理解する資格がない、ということになりますのよ……」の個所、この科白は、もし自分の言葉に対して相手が笑ったり、それを無視したり見下したりした場合にはむしろ相手の方が愚かで間違っているからだということを、よく承知しておけよ、と一方的に念を押しているのだが、こういう余計な規定、相手のネガティヴな反応を先廻りして批判しておくような言葉はアグラーヤ自身の動揺のし易さ(現に、この科白は「おそろしく顔を赤らめて」言われるのだ)の間接的な表現にほかならない。つまり、引用部のアグラーヤの徹底的に相手を侮辱しようとするオフェンシヴな長科白は、相手を否定し言葉によってのみ相手との関係を規定しようとするその性急さにおいて、むしろ無意識における彼女の自信のなさを裏に隠している、二重性を帯びた科白だった、というわけか。
●『白痴』上638-641頁
第二篇第九章
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「誰だってとはなんのことです?」Щ公爵は叫んだ。
「ああ、これでは気がちがいそうだ!」リザヴェータ夫人が叫んだ。
「この光景はまるで」それまで長いことじっと立ちつくして傍観していたエヴゲーニイ・パーヴロヴィチが笑いだした。「先日から評判の、ある弁護士の弁論みたいじゃないか。その弁護士は強盗の目的で一度に六人も殺した被告の弁護をしながら、その被告の貧しさを説明してるうちに、ふと、つぎのような結論をひきだしたんだそうですよ。『この被告が貧しさのゆえに六人殺しを思いたったのは、きわめて自然なことであります。たとえ誰であろうとも被告の立場にたったならば、こうしたことを思いついたにちがいありません』と、まあこんなふうなことを言ったそうですが、ただこれはひどく愛嬌のある話じゃありませんか」
「もうたくさんです!」怒りのために体を震わせないばかりのリザヴェータ夫人が、いきなり言いだした。「さあ、もうこんなわけのわからないお話はやめにしてくださいな」
夫人は恐ろしいほど興奮していた。夫人はぐっと首をうしろへ大きくそらせながら、傲慢な、いらだたしげな、いどむような態度で、ぎらぎらと燃えるような視線を一座の人びとに浴びせかけたが、どれが敵やら味方やら、彼女にはほとんど見わけがつかなかったようだ。これは一刻も早く誰かにとびかかってやりたいという要求がしだいに激しくなっていき、ついにその怒りが堰をきってあふれでる、まさにその頂点の一瞬であった。リザヴェータ夫人を知っている人びとは、夫人の心の中に何か特殊なあるものが生れたことを直感した。イワン・フョードロヴィチはその翌日Щ侯爵にむかって、『あれはよくあんなふうになることがあるんですが、きのうみたいな状態はまれですな。まあ、三年に一度くらいのことですか。それより多いことは絶対にありません! いや、絶対にありませんとも!』と断言したくらいであった。
「もうたくさんですよ、あなた! わたしをうっちゃっといてください!」リザヴェータ夫人は叫んだ。「ねえ、なんだってそんなにこちらへ手を突きだしていらっしゃるんです? さっきもわたしを連れだすことができなかったくせに。あなたはわたしの夫で、一家の主人ですから、わたしがあなたの言うことを聞かないで出ていかなかったら、わたしのようなおばかさんは耳でもつかんで引きずりだせばよかったんですよ。いえ、せめて娘たちのことでも気にかけるべきじゃありませんか! でも、いまあはもうわたしひとりでなんとかします。こんな恥ずかしい思いは、とても一年やそこらで消えませんからね……まあ、ちょっと、待ってください、わたしはまだ公爵にもお礼を言いますから!……公爵、いろいろご馳走さまでした! わたしは若いかたたちのお話を聞こうと思って、つい長居をしてしまいましたよ……ああ、ほんとうにひどうございますね、とってもひどうございますね。これはまるでめちゃくちゃですよ。何もかも。こんなことは夢にだって見られやしませんよ! そうですとも、あんな連中はどこを捜したって、おりませんよ! お黙り、アグラーヤ! お黙り、アレクサンドラ! あんたがたの知ったことじゃありませんよ!……エヴゲーニイ・パーヴルイチ、わたしのまわりをそううろうろしないでください、あなたには飽きあきしましたよ!……それで、公爵、あなたはあの連中にあやまるというんですね」と、ふたたび公爵のほうをむいて切りこんだ。「『失礼、きみに金なぞ提供しようとしました』だなんて……あんたはなんだって笑っているんですよ、大風呂敷さん!」夫人はいきなりレーベジェフの甥に食ってかかった。「『ぼくらはそんな金なんかお断わりします、ぼくらは無心するのでなくて、要求しているんです』だなんて! きっと、このお白痴さんがあすにもあの連中のところへ出かけていって、また友情とお金を持ちだすのをちゃんと知っているくせに。ねえ、行くんでしょ? それとも、行かないんですか?」
「行きます」公爵は低いおとなしい声で言った。
「お聞きになりましたか? それ、ごらんなさい、あんたはあれをあてにしているんでしょ」夫人はまたドクトレンコのほうへ向きなおった。「もうお金がポケットにはいっているのと同じようなつもりで、大風呂敷をひろげているのよ、わたしをごまかそうと思って……さあ、いい子だからどこかほかへ行っておばかさんを捜すといいわ、わたしはあんたのやり口をちゃんと見ぬいているんですからね!」
「リザヴェータ・プロコフィエヴナ!」と公爵が叫んだ。
激昂して見境なく攻撃性を炸裂させる発話のスタイルの一例。その注意事項を列挙すると次のようなものになるだろう。
(1)まずは、その状況にリアルタイムで「驚き呆れ」よ。興奮を炸裂させるきっかけはそのようなものであるべきだ。「もうたくさんですよ、あなた!」
(2)疑問形の非難を連発せよ。相手のことも状況のことも同時にぶった斬るには疑問形は使い勝手が良い。「ねえ、なんだってそんなにこちらへ手を突きだしていらっしゃるんです?」
(3)あたかも傍観者であるかのように、状況(=「これ」)や相手を客観的に(ただし激昂したまま)批判せよ。感情的に相手に執着するのではなくてまずは厳しく突き放すこと。「ああ、ほんとうにひどうございますね、とってもひどうございますね。これはまるでめちゃくちゃですよ。何もかも。こんなことは夢にだって見られやしませんよ!」
(4)自分自身の言葉に自分で勝手に一人合点せよ。「そうですとも、あんな連中はどこを捜したって、おりませんよ!」
(5)発話の流れの中でリアルタイムに相手の口答えを封じよ。「まあ、ちょっと待ってください、わたしはまだ公爵にもお礼を言いますから!……」「お黙り、アグラーヤ! お黙り、アレクサンドラ! あんたがたの知ったことじゃありませんよ!……」
(6)相手をぶちのめすために、相手の愚劣さを徹底して擬態せよ。相手の発言をわざと愚かしく復唱せよ。「「『失礼、きみに金なぞ提供しようとしました』だなんて……」「『ぼくらはそんな金なんかお断わりします、ぼくらは無心するのでなくて、要求しているんです』だなんて!」
(7)相手のことを自分は完全に見通している、相手の愚かしさをこちらは完全に承知している、ということを誇示せよ。「わたしはあんたのやり口をちゃんと見ぬいているんですからね!」
(8)攻撃する相手が複数ある場合は、地の文では顔の向きでくってかかる先を決定せよ。「……と、ふたたび公爵のほうをむいて切りこんだ。」「夫人はいきなりレーベジェフの甥に食ってかかった。」
ちなみに、「夫人は恐ろしいほど興奮していた。……」の段落は、夫人の怒りの長広舌を発動する前の一種のタメのようなものとして機能する。なぜかそこで「リザヴェータ夫人を知っている人々」の視点が挿入されるのみならず、「後日」の観点からのエパンチン将軍の感想が引用されるという形で、現前性が一旦脱臼されているのは、現前的な時間の流れに沿って単調に情景を進めることをしない、ドストエフスキー(の語り手)の手癖のようなものか。
●『白痴』上642-645頁
第二篇第九章
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「なあに、でたらめやめちゃくちゃなことは、奥さん、どこにだってありますよ」レーベジェフの甥は意味ありげに言ったが、それでもやはり、少々あわてているようであった。
「でも、こんなのってありませんよ! こんなのはね。いまあんたたちのやって見せたようなのは、どこにだってありゃしませんよ、とんでもない!」リザヴェータ夫人はまるでヒステリーでもおこしたように、毒々しい笑いを浮べながら、言葉をはさんだ。「ねえ、みなさん、わたしのことはうっちゃっておいてください」夫人は自分をなだめようとする人びとにむかって叫んだ。「ねえ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ、あなたまでがいま変なことをおっしゃいましたね、どこそこの弁護士が、貧しさのためには人を六人殺すほど自然なことはないとかなんとか。そうすると、いよいよこの世の終りが来たんですわね。わたしはまだそんなことは聞いたこともありませんもの。やっと何もかも合点がいきましたよ。ねえ、このどもりさん、この人が人殺しをしないとはたして言えるでしょうか!(と夫人は、けげんな顔をして自分をながめているブルドフスキーを指さした)ねえ、わたしは賭けをしてもいいですが、この人はきっと人殺しをしますとも。ねえ、公爵、きっとこの人はあなたのお金を受けとらないでしょう、きっと良心にとがめられて受けとらないでしょう。でも、夜中にやってきて、あなたを斬り殺してから、手箱の中からその金を引きだすでしょうよ。良心に従ってきっと引きだすにちがいありません。でも、それはこの人に言わせれば不正なことじゃないんですよ。それは《高尚な絶望の発作》とか、なんとかの《否定》になるんですから……まあ、なんてことでしょう! もう何もかもみんなあべこべになってしまったのね。家の中でばかり育ってきた娘が、いきなり往来の真ん中で馬車にひらりと飛び乗って、『お母さん、あたしはね、二、三日前にどこそこのカールルイチだかイワーヌイチと結婚しましたからね、さようなら!』なんて言う始末なんですから。あんたたちの考えじゃこれもりっぱな行いなんでしょう? 尊敬に値する自然なことだと言うんですか? それが婦人問題というんですかねえ? ほら、この小僧っ子も(と夫人はコーリャを指さした)、こんな子供までがこのあいだ、いまのようなことこそ《婦人問題》だと議論するんですからねえ。たとえ母親がばかだとしても、母親にはせめて人間らしくつきあうもんですよ! ねえ、あんたがたはさっきなんだって、首をえらくそっくりかえらしてはいってきたの? まるで、『殿さまのお通りだ、そばへ寄ることはならんぞ。ぼくらにいっさいの権利をよこせ、しかしおまえなんぞは口をきくこともならんぞ。ぼくらにいっさいの尊敬を払え。この世にないような尊敬も払わなくちゃいかん。そのかわり、おまえなんか最下等の下男よりもひどい扱いをしてやるからな!』といった調子じゃありませんか。真理を求めるだの、権利を主張するのと言いながら、自分じゃ回教徒そこのけの悪口を、新聞でこの人に浴びせかけたんですから。『ぼくらは要求しているので、無心じゃありません。ぼくらからはひとこともお礼なんて聞けませんよ。だってあなたは、自分の良心を満足させるためにするんですからね!』だとさ、とんだ道徳があったものだね! ねえ、もしあんたが公爵にひとこともお礼を言わなければ、公爵だってあんたにこう返事をしてもいいわけですね。『わたしはパヴリーシチェフさんにたいしてすこしも感謝しておりません。なぜならパヴリーシチェフさんが善根を施したのも、やはりご自分の良心を満足させるためでしたからね』とね。ところが、あんたは公爵がパヴリーシチェフさんにたいしてもっている感謝の念ばかりを勘定にいれているんじゃありませんか。だって、この人はあんたから借りたんじゃありませんよ、あんたに義理なんてないのよ。そう考えてくれば、この人の感謝の念のほかに何を勘定にいれているの。よくもまあ、お礼は決して言いませんよなんて口がきけたものだこと! それじゃ、気ちがいですよ! 社会が誘惑に負けた娘をいじめると、人はその社会を野蛮で不人情なものに考えるのが普通です。社会を不人情だと思ったら、こんな社会を生きていかねばならぬ娘は、さぞ苦しい辛いことだろうと考えてやるのが当然でしょう。ところが、あんたはそれをわざわざ新聞に書きたてて社会の前へ引きだして、苦しいとか辛いとか言ってはいけないとむりな要求をしているんです。気ちがいですよ! とんだ見栄坊ですね! 神さまを信じない人たちですよ、キリストを信じない人たちですよ! ……
激昂して見境なく攻撃性を炸裂させる発話のスタイルの一例。そしてかなりの独創性を見せている。
リザヴェータ夫人のこれほどの怒りの饒舌を可能にしているのは何だろうか。それは自らドライブを掛けて自ら興奮していくという、怒りの再帰的なプロセスだ。その原動力は、端的に言って、想像力。自分の想像的描写によって憤りを倍加させていく。次の一節のなかにその典型例が垣間見られる。「ねえ、公爵、きっとこの人はあなたのお金を受けとらないでしょう、きっと良心にとがめられて受けとらないでしょう。でも、夜中にやってきて、あなたを斬り殺してから、手箱の中からその金を引きだすでしょうよ。良心に従ってきっと引きだすにちがいありません。でも、それはこの人に言わせれば不正なことじゃないんですよ。それは《高尚な絶望の発作》とか、なんとかの《否定》になるんですから……まあ、なんてことでしょう! もう何もかもみんなあべこべになってしまったのね。……」──ここでブルドフスキーをこき下ろそうとしているリザヴェータ夫人だが、しかし彼女が語っていて、後に「まあ、なんてことでしょう!」と憤ってみせている、ブルドフスキーが公爵を斬り殺して手箱の中から金を盗み出すという情景は、現実のものではなくて、ここでまさに彼女が勝手に妄想して饒舌の中で再現してみせた架空の場面なのだ。一応は現実のブルドスフスキーに対する彼女の洞察が核となっているとはいえ、彼女は自分がそこから脹らませた妄想の中のブルドフスキーに対して「まあ、なんてことでしょう!」と憤ってみせているわけだ。つまり自分で自分の怒りの饒舌に火をくべているようなものだ。
自分の妄想によって自ら怒りを掻き立てられる、というプロセスは、単純な妄想ついてだけではなく、批判の対象となっている人物の振舞いを戯画的に・愚弄するように饒舌の中で再現してみせるというやり口によっても駆動するようだ。たとえば、「まるで、『殿さまのお通りだ、そばへ寄ることはならんぞ。ぼくらにいっさいの権利をよこせ、しかしおまえなんぞは口をきくこともならんぞ。ぼくらにいっさいの尊敬を払え。この世にないような尊敬も払わなくちゃいかん。そのかわり、おまえなんか最下等の下男よりもひどい扱いをしてやるからな!』といった調子じゃありませんか。……」というリザヴェータ夫人による先程のブルドフスキー一味の振舞いの嘲弄的なミメーシスは、後々にやはり「とんだ道徳があったものだね!」という憤激を自己起爆するための導火線になっているものと看做せるだろう。おおむねここでのリザヴェータ夫人の怒りの饒舌は、「あんた」の恥ずべき振舞いを想像力で勝手に脹らませて敷衍した後に、堪え切れなくなったように罵言を炸裂させる、という溜め→解放の反復によって成り立っている。
ところで、リザヴェータ夫人のケースだけでなくアグラーヤの(ナスターシャ・フィリポヴナに対する)ケースでも見られたものだが、何故攻撃的饒舌は必ず「敵」に対する踏み込み過ぎた「決め付け」を含むのだろう? 自分の視野狭窄な想像力の中に相手を従属させようとする形での暴力が必ず伴うように見えるのは何故だろう? 怒りの饒舌は、相手が黒であり自分が白であるという二元性を妄想的に確信していなければ、維持しつづけることができないのだろうか?
ちなみに文体について言えば、怒り(の炸裂)を表現するのに疑問形で相手を問い質す形にするという方法は、ここでも健在。「あんたたちの考えじゃこれもりっぱな行いなんでしょう? 尊敬に値する自然なことだと言うんですか? それが婦人問題というんですかねえ?」「ねえ、あんたがたはさっきなんだって、首をえらくそっくりかえらしてはいってきたの?」
●『カラマゾフの兄弟』3巻124-129頁
第三部第八篇第三章
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「もうたくさんですわ、ドミートリイ・フョードロヴィチ、わたくしの言葉に嘘いつわりはありません」とホフラコーワ夫人は、慈善家らしい無邪気な勝利感に酔って相手をさえぎった。「あなたをお救いすると約束したからには、きっと救ってごらんに入れます。あのベリメソーフと同じように、あなたを救ってさしあげます。あなたは金鉱のことをどうお考えですの、ドミートリイ・フョードロヴィチ」
「金鉱のことですって、奥さん! 僕は金鉱のことなんか一度も考えたことがありません」
「でもあなたの代わりにわたくしが考えてさしあげましたもの! 考えて、考え抜いてさしあげましたもの! わたくしまるひと月、その目的であなたを見守ってまいりましたの。あなたがお通りになるたびに、何十回もあなたをじっと見つめては、この人こそ金鉱探しに必要な精力的な人物だと、心のなかで繰り返したものですわ。あなたの歩きぶりまで研究して、この人ならきっとたくさんの金鉱を見つけるに違いないと決めていましたの」
「歩きぶりですか、奥さん」とミーチャは思わず微笑をもらした。
「ええ、歩きぶりです。それとも、あなたは歩きぶりでその人の性格がわかるということを否定なさいますの、ドミートリイ・フョードロヴィチ。自然科学も同じことを確認していますわ。ああ、わたくし今ではリアリストですの、ドミートリイ・フョードロヴィチ。わたくし今日という日から、僧院であんなことがあってさんざん心をかき乱されてからというもの、完全なリアリストになって実際的な事業に献身しようと思っておりますの。わたくしの病気はなおりました。ツルゲーネフの小説の題のように、《もうたくさんだ》ですわ」
「しかし奥さん、あなたがご親切に貸して下さるとおっしゃったあの三千ルーブリは……」
「それはもうあなたのものですわ、ドミートリイ・フョードロヴィチ」とすぐにホフラコーワ夫人がさえぎった。「その三千ルーブリは、もうあなたのポケットにはいったも同然ですわ、それも三千ルーブリどころか、三百万ルーブリでも、ドミートリイ・フョードロヴィチ、ごく短期間のうちに。ではそのアイディアをお教えしましょう。あなたは幾つもの金鉱を見つけて、何百万というお金を稼いで、ここへ帰っておいでになるのです、そうして事業家になって、わたくしたちを動かして善行へ向かわせるのです。いったい何もかもユダヤ人の手に委せておいてよいものでしょうか。あなたはたくさんの建物を建てて、さまざまな事業をはじめるのです。貧しい人々に援助の手をさしのべ、彼らの祝福を受ける身となるのです。現代は鉄道の時代ですわ、ドミートリイ・フョードロヴィチ。あなたは有名になって、現在とても窮迫している大蔵省にとってかけがえのない人物になるのです。わたくしロシア紙幣の下落が気になって、夜もおちおち眠られませんの、ドミートリイ・フョードロヴィチ。わたくしのこうした一面を知っている人は、あまりございませんけれど……」
「奥さん、奥さん」とドミートリイは、ある不安な予感にかられてまたもやさえぎった。「僕はたぶん喜んで、喜んであなたのご忠告に、賢明なご忠告に従うでしょう、奥さん、そうしてたぶんそこへ……その金鉱とやらへ出かけるでしょう、……そのご相談には改めてうかがいます、……何度でもうかがいます、……しかし今はあの三千ルーブリを、あなたがご親切に……。ああ、それさえあれば僕は自由になれるのです。それで、できることなら今日のうちに……つまりです、ごらんのとおり、僕には時間がないのです、一時間も時間の余裕が……」
「もうたくさんです、ドミートリイ・フョードロヴィチ、もうたくさんです」と執拗に夫人がさえぎった。「問題は、あなたが金鉱へお出かけになるかならないか、はっきり決心をなさったかどうかですの。数学的に答えて下さいまし」
「参りますよ、奥さん、いずれ……どこへでもお望みのところへ参ります、奥さん、……ただ、今は……」
「ちょっとお待ちになって!」とホフラコーワ夫人は叫び、素早く立ちあがって、小さな引き出しが無数についている立派な事務机のそばへ走り寄った。そうして引き出しをひとつひとつ開けながら、ひどくあわてて何かを探しはじめた。
『三千ルーブリ!』と息の止まる思いでミーチャは考えた。『それもたった今、何の書類も、証文もなしに。……ああ、これこそ紳士的だ。すばらしい女性だ。ただあんなにおしゃべりでなければ……』
「これですわ」とホフラコーワ夫人は、ミーチャのそばへ戻りながら嬉しそうに叫んだ。「わたくしこれを探していましたの」
それは細い紐のついた小さな銀の聖像で、お守りの十字架と一緒に身につける種類のものだった。
「これはキエフからいただいたもので、あなた」と彼女はうやうやしそうに言葉をつづけた。「大殉教者ワルワーラ様の遺物ですの。どうかわたくしの手であなたのお首へ掛けさせて下さいまし。新しい生活と新しい大事業をおはじめになる祝福として」
こう言うと彼女はほんとうに聖像を彼の首に掛けてやり、さらに位置を直そうとして寄り添った。ミーチャはどぎまぎして身を屈め、彼女に手助けして、やっとネクタイとワイシャツのカラーをくぐらせて聖像を胸に吊した。
「さあ、これでいつでも出発できますわね」とホフラコーワ夫人は、意気揚々ともとの席に腰をおろしながら言った。
「奥さん、僕は感激しました。……ご親切に対して、何とお礼を申し上げてよいやらわかりません。ただ……今の僕に時間がどんなに大切か、それがわかっていただけたら。……僕があなたの寛大なお気持に甘えて待ちこがれているあのお金は……ああ、奥さん、あなたはこんなにご親切で、こんなに胸がいっぱいになるほど僕に寛大にして下さるのですから」と突然ミーシャは意気込んで叫んだ。「いっそ何もかも打ち明けて話させて下さい。……もっとも、もうご存じのことばかりですが、……僕はこの待ちのある女を愛しているのです。……僕はカーチャを、……いや、カチェリーナ・イワーノヴナを裏切ったのです。ああ、僕はあの人に対して無慈悲な、不誠実な男でした。しかし僕はこの町で他の……ある女性を愛してしまったのです、奥さん、たぶんあなたはその女性を軽蔑しておいでのはずです。あなたはもう何もかもご存じなのですから。しかし僕はその女性を何としても、何としても捨てることができないのです。それで今あの三千ルーブリのお金が……」
「何もかも捨てておしまいなさい、ドミートリイ・フョードロヴィチ」断固たる厳しい口調でホフラコーワ夫人がさえぎった。「捨てておしまいなさい、ことに女なんかは。あなたの目的は金鉱なのですから、女などを連れて行く必要はありません。いずれ富と名誉を得てお帰りになれば、上流階級の娘のなかに心の友が見つかるでしょう。それは知識があって、偏見を持たない、現代的な令嬢なのです。その頃までには、今はじまったばかりの婦人問題もちょうど実を結んで、新しい女性が出ているでしょうからね。……」
「奥さん、それとこれとは別です、別です、……」とドミートリイは手を合わさんばかりにして哀願した。
「同じことですよ、ドミートリイ・フョードロヴィチ、あなたに必要なのは、あなたがご自分でも知らずに夢中で望んでおいでなのは、そのことなのです。わたくし今日の婦人問題とまるきり縁がなくはありませんのよ、ドミートリイ・フョードロヴィチ。女権の拡張と、さらには最も近い将来における婦人の政治への参加──これがわたくしの理想ですの。わたくしにも娘がありますからね、ドミートリイ・フョードロヴィチ。わたくしのこうした一面はあまり知られておりませんけれど。わたくしこの問題について作家のシチェドリーンに手紙を書いたことがありますの。あの作家にわたくしたくさんのことを教えられましたので、女性の使命について色々なことを教えられたものですから、去年、無婦負の手紙をたった二行──『わが作家よ、現代の婦人に代わっておんみを抱擁し接吻を送る、いっそうのご健筆を』と書き送りましたの。そうして署名は《母より》としましたの。いっそ《現代の母より》と署名しようかと迷ったのですけれど、結局、ただ《母より》に落着しました。そのほうが精神的な美しさがありますもの、ドミートリイ・フョードロヴィチ。それに《現代》という言葉は雑誌『現代人』を思い出させるでしょうし、──これは近頃の検閲のしぶりから見て、あの人たちには辛い思い出ですものね。……おや、どうなさいましたの?」
ホフラコーワ夫人はイヴォルギン将軍同様、完全に自分の世界に生きている。それを前提として、自分の世界を俗っぽい借り物の言葉だけで飾り立てているから、一見常識人のように見えるが(自分でもそう自負しているが)おそろしく、滑稽なほどに現実から乖離して空転しているようにしか見えない──少なくともドミートリイのようなしっかり現実にぶちあたっている人物との対照ではそうにしか見えないのだ。
「自然科学も同じことを確認していますわ」「ああ、わたくし今ではリアリストですの、ドミートリイ・フョードロヴィチ」「僧院であんなことがあってさんざん心をかき乱されてからというもの、完全なリアリストになって実際的な事業に献身しようと思っておりますの」「いったい何もかもユダヤ人の手に委せておいてよいものでしょうか」「現代は鉄道の時代ですわ、ドミートリイ・フョードロヴィチ」「あなたは有名になって、現在とても窮迫している大蔵省にとってかけがえのない人物になるのです。わたくしロシア紙幣の下落が気になって、夜もおちおち眠られませんの、ドミートリイ・フョードロヴィチ」「数学的に答えて下さいまし」「大殉教者ワルワーラ様の遺物ですの。どうかわたくしの手であなたのお首へ掛けさせて下さいまし。新しい生活と新しい大事業をおはじめになる祝福として」「その頃までには、今はじまったばかりの婦人問題もちょうど実を結んで、新しい女性が出ているでしょうからね」「女権の拡張と、さらには最も近い将来における婦人の政治への参加──これがわたくしの理想ですの」「いっそ《現代の母より》と署名しようかと迷ったのですけれど、結局、ただ《母より》に落着しました。そのほうが精神的な美しさがありますもの、ドミートリイ・フョードロヴィチ」──これらすべての言葉が、気が利いているないしは時代の最先端を行っていると自分で思い込んでいながら、実のところまったく独りよがりで二次的な偽の現実を自分に都合よく塩梅しただけの空疎な観念でしかないんだからな! 数学や自然科学や実際的な事業が悪いというわけではない。しかしホフラコーワ夫人がそれを口にすると、勝手に独りよがりで内向きでおよそ現実には通用しない(本人はそのことに気づいていない──一生気づかないかもしれないが)浮薄なニュアンスが加わってしまうのである。つまり、ポリフォニーというわけだ。
●『白痴』上245-246頁
第一篇第九章
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フェルディシチェンコは将軍をつかまえて、ぐんぐんひきずっていった。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ・イヴォルギンです」将軍は小腰をかがめて微笑を浮べながら、威厳をつけて口を開いた。「不幸なる老兵ですが、このような美しい……かたをお迎えできることを幸福に感じている一家の主でもあります……」
彼はまだ言い終らなかったが、フェルディシチェンコが手早くうしろから椅子をあてがったので、ちょうど昼食後で足のふらついていた将軍は、そのままぺたんと腰をおろした、というよりもむしろ尻餅をついてしまったのである。しかし、彼はそんなことにすこしもひるまず、ナスターシャ・フィリポヴナの真向いに腰をおろすと、ゆっくり気どった身ぶりで彼女の指を自分の唇へ持っていった。だいたい、将軍をひるませるのはかなりむずかしいことであった。彼の風貌は、いくぶんかだらしのない点を除いたら、かなりまだ上品であったし、将軍自身もよくそれを心得ていた。彼も以前はごく上流の社交界へ出入りする機会があったのだが、そこから完全に締めだされたのはつい二、三年前のことであった。そのとき以来、彼はある種の誘惑にずるずると溺れるようになってしまったが、それでもなお、如才のない、人に好感を与える身のこなしだけは、いまも残っていた。ナスターシャ・フィリポヴナは将軍が姿を見せたことを、非常に喜んだ様子だった。彼のことはもちろん噂で聞きおよんでいた。
「承りますと、わしの息子が……」将軍は話しかけた。
「ええ、あなたの息子さんはごりっぱですわ! いえ、あなたも、お父さまもごりっぱじゃありませんか! なぜあなたは一度もあたしどもへいらっしゃらないんですの? ご自分で避けていらっしゃるんですの、それとも息子さんがあなたを隠しているんですの? あなたでしたら誰にも迷惑をかけずに、あたしどもへお越しになれるじゃありませんか」
「十九世紀の子供たちとその親たちは……」将軍はまた何やら言いかけた。
「ナスターシャ・フィリポヴナ! どうかお願いですから、ちょっとのあいだ主人を失礼させていただけませんか。何かあちらで用があるそうでございますから」ニーナ夫人が大きな声で言った。
「まあ、失礼させていただきたい、ですって? とんでもございませんわ、だってあたしはいろいろお噂を伺っていましたから、もうずっと前からお目にかかりたいと思っていたんですもの! それに、どんなご用がおありになるんですの? だって、もう退職なさっているんでしょう? ねえ、将軍、あたしを置いてきぼりにはなさいませんわね、あちらへはいらっしゃらないでしょうね?」
「お約束いたしますわ。そのうちきっと主人をお宅へ伺わせますわ。でも、いまはちょっと休息いたしませんと」
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ、あなたは休息なさらなくちゃいけなんですって!」ナスターシャ・フィリポヴナは気むずかしく不服そうに顔をしかめながら、叫んだ。その調子はまるで玩具を取りあげられたお転婆娘のようであった。将軍はわざわざ自分の立場をいっそうばかばかしいものにしようとみずからつとめているみたいであった。
「おい、おい、ニーナ!」彼はもったいぶって妻のほうに向くと、片手を心臓の上に当てながら、とがめるように言った。
「お母さん、あちらへおいでになりません?」ワーリャが大声でたずねた。
「いいえ、ワーリャ、わたしはおしまいまでここにいますよ」
ナスターシャ・フィリポヴナはこの問答を聞かないわけにはいかなかったが、そのために彼女のはしゃぎ方にはいっそう拍車がかけられたように思われた。彼女はすぐに改めていろいろな質問を将軍に浴びせた。もう五分後には、将軍もすっかり上機嫌になって、その場の者が大声で笑うなかを、滔々と弁じたてるのであった。
コーリャは公爵の上着の裾をひっぱった。
「ねえ、せめてあなたでも、なんとかしてお父さんを連れだしてくださいよ! できませんか? どうかお願いですから!」あわれな少年の眼には、憤りの涙さえ光っていた。「ああ、ガンカのできそこない!」少年は口の中でつぶやいた。
「いや、まったく、わしはエパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」将軍はナスターシャ・フィリポヴナの質問に答えて、滔々とまくしたてた。「わしと、エパンチン将軍と、今は亡きレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵〔息子の名前と間違えている〕、この人の忘れがたみを、わしはきょう二十年ぶりにこの手で抱きしめましたがな、わしらは寸時も離れることのできぬ三人組、つまり、アトス、ポルトス、アラミス、ともいうべき騎士団だったのですよ。しかし、残念ながら、そのひとりは誹謗と弾丸にあたって墓の中に眠り、いまひとりはあなたの前にいて、いまなお誹謗と弾丸と闘っているのです」
「まあ、弾丸とですって?」ナスターシャ・フィリポヴナは叫んだ。
「その弾丸はここに、わしの胸の中にあります。カルスの戦いで受けた傷ですが、いまなお天気の悪い日には痛むのです。しかし、このほかの点では、わしは哲人として生き、仕事から遠ざかったブルジョアのように散歩したり、ぶらぶら遊んだり、行きつけのカフェでチェスをしたり、《Independance》を読んだりしているんです。ところで、わがポルトス、つまり、エパンチン将軍とは、狆がもとで汽車の中でおこった三年前の事件以来、永久に絶交してしまったんですよ」
「まあ、狆ですって! それはいったいなんのことですの?」ナスターシャ・フィリポヴナは一種特別の好奇心にかられてたずねた。「狆がどうかしたんですの? それから、汽車のなかでですって?……」彼女は何か思いだした様子だった。
「なに、まったくばかげた話なんですよ。いまさらお聞かせする値打ちもありません。ベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、ミセス・シュミットがもとでおこったんですが、いや……これはいまさらお聞かせする値打ちはありません」
「いえ、ぜひともお話ししてくださいまし!」ナスターシャ・フィリポヴナは陽気に叫んだ。
まずは前半部分。注目すべきは「十九世紀の子供たちとその親たちは……」から始まりかけた将軍の駄弁か。こういういかにも教養がありそうな見掛けの駄弁は、いかにも将軍にふさわしい。
次に後半部分。ここはニーナ、ワーリャ、ナスターシャ・フィリポヴナ、将軍、コーリャ、公爵という六者六様の振舞いを並行して複眼的に描いているのが面白い。コーリャ少年の憤りの呟きを描写するかと思えば、次の段落ではいきなり将軍とナスターシャ・フィリポヴナの会話が始まっているという具合。『賭博者』 146頁あたりの四者四様の現前的場面の描き方に近似。
さらにイヴォルギン将軍の長広舌に注目。彼の発話は典型的な自意識の増長のままに流れ出す自己陶酔の駄弁であり、それゆえに現実性のレベルでは滑稽なまでに出鱈目放題でしかあり得ないのだが、それでもやはり将軍の自己陶酔は若干の屈折を孕んでいる。無意識の告発を「誹謗」と看做してなにするものぞ!と英雄的にそれと闘っているつもりになっている否定的陶酔が、彼の雄弁の全体的なトーンだからである。「いや、まったく、わしはエパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」という「いや、まったく」の強調の自乗は、むしろ彼の話が虚偽であると告発してくる視線に対してそれを尊大に斥ける身振りの科白化したものかもしれない。将軍自ら「いまなお誹謗と弾丸と闘っている」と自称する箇所に関しては言わずもがなだ。自画自賛のトーン──「わしは哲人として生き……」──はつねに何か匿名の者からの誹謗に対する否認・非難を裏側にアクセントとして帯びているということかな。
ところで、引用部最後の将軍の科白では、将軍がやや口ごもっている点に注目しよう。これは「狆の話」というのがあからさまに嘘であり、彼もそのことを重々分かっていて、無意識からの『そいつはただの法螺話だ、おまえだってよく分かっているじゃないか』という衝き上げが鋭くなっているので、それまでの科白のようには陶酔に浸ることができず「いまさらお聞かせする値打ちもありません」と自己否定し「屈折」せざるを得なくなっている、ということだ。言いたいことを言うときは饒舌になるが、言いたくないことの時は言葉を濁す……その程度の描き分けはできないといけない。
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------------------------------------- タイプ【D-13】内面・内語が表白された(抑圧された)科白 ▲
●『罪と罰』上23-25頁
第一部第三章
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「おい、おどけさん!」と亭主が大声で言った。「どうしてはたらかないんだい、官吏なら、勤めたらいいじゃないか?」
「どうして勤めないかというとですね、あなた」とそれを受けてマルメラードフは、まるでラスコーリニコフにそれを聞かれたように、ラスコーリニコフの顔だけを見ながら言った。「どうして勤めないかって? それじゃ、わたしが何もしないでこんなみじめなざまをさらしていることが、平気だとでもおっしゃるんですか? レベジャートニコフ氏に、一月ほどまえ、家内をなぐられ、わたしが飲んだくれてひっくりかえっていたとき、わたしが心の中で泣かなかったとでも思うのですか? 失礼ですが、学生さん、あなたは……その……見込みのない借金をしようとしたことがありますか?」
「ありますよ……でも、その見込みがないというのは、どういうことです?」
「つまり、ぜんぜん見込みがない、はじめから、頼んでもどうにもならないことがわかっているんですよ。例えばですよ、いいですか、この人間、つまりこの限りなく有徳にして有用なる人物が、どうまちがっても金を貸してくれる心配のないことは、はじめからわかりきっています、どうです、貸す理由がありますかね? だって、わたしが返さないくらいのことは、彼は百も承知ですよ。同情から? どういたしまして、レベジャートニコフ氏は、新思想を研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学の進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ。どうです、貸してくれる理由がありますか? ところがいま、貸してもらえないことを承知で、それでもあなたは出かけて行くわけです……」
「どうして行くのです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「ところで、誰のところへも、どこへも、もう行くあてがないとしたら、どうでしょう! だって、誰だってどこかへ行っていいところがなきゃ、やりきれませんよ。なぜって、どうしてもどんなところへでもいいから行かなければならないようなときが、あるものですよ。わたしのたった一人の娘がはじめて黄色い鑑札をもらいに行ったときでさえ、わたしは出かけましたよ……(わたしの娘は黄色い鑑札で暮しているんですよ……)」と彼は不安そうに青年の顔をうかがいながら、つけ加えた。「なんでもありませんよ、あなた、なんでもありませんよ!」二人の給仕がスタンドの向こうでヒヒヒと笑い、亭主までがにやりと笑うと、彼は急いで、いかにもさりげない様子で、言った。「平気ですとも! かげでこそこそ笑われるくらい、すこしもこたえませんな。だってもう誰知らぬ者がないんですからねえ。隠れたるすべてはあらわる、ですよ。わたしはね、あんな笑いを軽蔑もしません、むしろ謙遜の気持で受けとめているんですよ。笑うがいい! 《視よ、この人なり!》ですよ。失礼ですが、学生さん、あなたはできますかな……いや、もっと強いはっきりした言葉をつかって、できますかなんてじゃなく、勇気がありますかと言いましょう、何のって、いまわたしの顔をまともに見ながら、わたしが豚だと、きっぱり言いきる勇気がですよ?」
青年は一言も答えなかった。
「どうです」と彼は、またしても店内におこったヒヒヒという笑いがおさまるのを待って、今度は一段と威厳をさえ見せて、おちつきはらって言葉をついだ。「なあに、わたしは豚でもかまいません、だが彼女はりっぱな女ですよ!わたしはけだものの皮をかぶった男ですが、カテリーナ・イワーノヴナは、これはわたしの家内ですがな、──佐官の家に生れた教養ある婦人ですよ。わたしなんか下司な男でいいですよ、結構ですとも、だが家内だけは別です、心がけだかく、生れからくる美しい感情が教養でみがかれて、身体中にみちあふれているのです。それでいながら……まったく、ちょっとでもわたしをあわれんでくれたら、申し分ないのだがねえ! だって、あなた、人間なんて誰でも、せめてひとつでも、あわれんでもらえる場所がほしいものですよ! それがカテリーナ・イワーノヴナは寛容な心をもっているくせに、どうもかたよったところがありましてなあ……わたしだって自分ではわかっているんですよ、家内がわたしの髪をつかんでひきずりまわすのだって、わたしをあわれと思えばこそだ、そのくらいのことはわかっているんだがねえ」またヒヒヒという笑い声を耳にすると、彼はいっそう威厳をこめてくりかえした。「こんなことを言っても別に恥ずかしくもなんともありませんがね、学生さん、家内はほんとにわたしの髪をつかんでひきずりまわすのですよ。それはいいとして、まったく、家内がせめて一度でも……いやいや! よそう! いまさらむだだ、言ってもはじまらん! ぐちは言わぬものだ!……だってこれまで思いどおりになったことも一度や二度じゃないし、あわれんでもらったことだって何度かあったんだ。それにしても……これがおれの性根なんだ、おれは生れながらの畜生なんだよ!」
「そのとおりだよ!」と亭主があくびまじりに言った。
マルメラードフはきっとなって、拳骨でテーブルをどしんとたたいた。
科白において疑問符の果たす重要な役割に注目。
たとえば「ご存知ないのですか?」というパターンで類型化される疑問符の使用法を考えてみる。これは相手の言った言葉(別に疑問形ではない)をわざと疑問形にして繰り返すことで或るニュアンスを加えるという使用法だ。「平気だとでもおっしゃるんですか?」
思うに、会話場面での疑問符の役割というものは、「作家の日記」のエセーのような場合と異なる感じがある。相手の言葉を疑問形にして自分の内語に繰り込んでしまうかのようなパワーがある。「どうして勤めないかって?」勝手に相手の反応を自分自身に課された問題のように受け取ってしまって、さらに自己批判的な問答を勝手に進めてしまう。「どうです、貸す理由がありますかね? 同情から? どういたしまして、……」なんと、ここではマルメラードフによるラスコーリニコフへの詰問が、また自分への問いとして内攻して返ってきて、それに勝手に自分で応えている!
あたかもここで、マルメラードフはまわりの反応や対話相手の言葉をすべて内語に取り込んで自意識の中で対決しようとしている、しかもその内攻する自己対話的対決が、表に饒舌な科白として表れる、という奇妙なメビウスの輪的言葉=存在になっている。「隠れたるすべてはあらわる、ですよ。わたしはね、あんな笑いを軽蔑もしません、むしろ謙遜の気持で受けとめているんですよ。笑うがいい! 《視よ、この人なり!》ですよ。」マルメラードフもまた内面と外部世界とのせめぎ合いを生きているかのようなのだが、ラスコーリニコフとちがってそのせめぎ合いのプロセスが裏返しに、すべてもったいぶった饒舌として外へ流出してしまっているのだ。というよりもマルメラードフは、対話相手を目の前にして、そいつを勝手に自分の内攻する内語に取り込んでしまって、はじめてべらべらと饒舌を吐くことができるのだろうか。言葉のアクセントの向きとしては、対話相手に矢印が向っているようでなりながら実は自分の方へ折れ込んでいる。マルメラードフの詰問に結局ラスコーリニコフが一言も応えなかったのに、「どうです」「なあに、わたしは豚でもかまいません」「わたしなんか下司な男でいいですよ、結構ですとも、……」と勝手に応えてカテリーナの話を始めるのもその証左ではないか。「それがカテリーナ・イワーノヴナは寛容な心をもっているくせに、どうもかたよったところがありましてなあ……わたしだって自分ではわかっているんですよ、家内がわたしの髪をつかんでひきずりまわすのだって、わたしをあわれと思えばこそだ、そのくらいのことはわかっているんだがねえ」と勝手に相手の相槌を想定しているかのような馴れ馴れしい饒舌も、その証左ではないか。
しかも「それにしても……これがおれの性根なんだ、おれは生まれながらの畜生なんだよ!」に至ってはほとんど単なる内語そのものが外に出ているかのようだ。亭主の「そのとおりだよ!」というあくびまじりの応答は、まさしく内語とは別の不真面目なニュアンスをもった言葉としてマルメラードフに差し出される。内語が外に思わず出てしまったような時には、他人(話し手の周囲にいる人)は大体そのような振る舞いをするものだろう……!
興味深い。相手や周囲の反応を内語として(疑問符のニュアンスで)取り込んだ上での、内語そのものが表に噴出すという形での、発話。
●『罪と罰』上26-27頁
第一部第三章
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「そのとおりだよ!」と亭主があくびまじりに言った。
マルメラードフはきっとなって、拳骨でテーブルをどしんとたたいた。
「これがおれの性根なんだよ! どうです、まさかと思うでしょうが、あなた、わたしはね、家内の靴下まで飲んでしまったんだよ!靴じゃありませんよ、靴ならまだ話がわからんこともありませんがね、靴下ですよ、家内の靴下を飲んじまったんですよ! それから山羊の毛皮の襟巻も酒に化けましたよ。これなんか昔家内がひとからおくられたもので、わたしになんの関係もない、家内だけのものですよ。わたしたちの住んでいる部屋は寒くてねえ、この冬家内はかぜをひいて、咳がひどくて、しまいに血まではきましたよ。子供は小さいのが三人ですが、カテリーナ・イワーノヴナはごしごし床をこすったり、拭いたり、子供たちに湯をつかわせたり、朝早くから晩おそくまではたらきづめ、なにしろ小さいときからきれい好きに育っておりますのでなあ。ところが胸が弱く、肺病にかかりやすい体質なんですよ、わたしにはそれがわかるんです。わからずにいられますか! だから飲む、飲めば飲むほど、ますますそれが気になる。飲めば、あわれみと同情が見つかるような気がして、それで飲むんですよ……飲むのは、とことんまで苦しみたいからさ!」
そう言うと、彼は絶望にうちのめされたように、テーブルの上に頭をたれた。
マルメラードフの才能の面目躍如。ポイントはやはり、「どうです、まさかと思うでしょうが……」「靴じゃありませんよ」「わからずにいられますか!」と対話相手を意識した、すなわち「作家の日記」のエセー文体のように読み手=聞き手を意識したメルクマールはありながら、ほとんど内言に近い言葉になっているところだろう。スタイルとしては例の自己嘲弄に違い。微に入り細を穿ち自己を批判しているので、自然とマルメラードフの生活史についても開示されるという寸法だ。「飲むのは、とことんまで苦しみたいからさ!」というくだりは完全に内語の表白になっている。この内語でありながら聞き手への意識・呼び掛けもあるという微妙なバランスがドストエフスキー的な長科白の勘所か。
そう、内的独白のようでもあり、「作家の日記」の「諸君」文体のようでもあり。相手が何も言っていないのに勝手に想像的対話の中に組み込んで饒舌が進展するというのも、「作家の日記」的だ、それよりもさらに内語の強度が加わっているのだが。
●『罪と罰』上39-42頁
第一部第二章
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マルメラードフは拳骨で自分の額をゴツンとたたくと、歯をくいしばり、目をつぶって、片肘をテーブルにおとして強くもたれかかった。ところが一分もすると、その顔が急に変って、妙にわざとらしいずるさと、つくった図々しさで、ラスコーリニコフの顔を見上げ、にやッと笑って、言った。
「今日はソーニャのとこへ行ったんだよ、酒代をねだりにね! へへへ!」
「ヘエ、くれたかい?」と入って来た客の一人が横あいから叫んだ、そして割れるような声で笑いだした。
「この小びんがあれの金だよ」マルメラードフは、よそには目を向けようともしないで、ラスコーリニコフに言った。「なけなしの三十コペイカをくれましたよ、自分の手で財布の底をはたいてさ、わたしはこの目で見ていたんだよ……なんにも言わないで、ただじっとわたしを見つめました……これが生身の人間といえますか、まるで天使ですよ……家族たちの身を悲しんで、泣いていながら、とがめない、とがめてくれない! とがめられないほうが、つらいよ、どれだけつらいか!……三十コペイカ、そうです、この金が、いまのあの娘にだって、どんなに欲しいか分かりませんよ! そうじゃありませんか、学生さん? だっていまのあの娘には身なりをきれいにすることが大切ですからな。この身なりをきれいにするってことは、おわかりでしょうが、えらく金のくうものでなあ。そうでしょう? まあ何ですよ、紅やクリームも買わにゃならん、まさかこれなしじゃね、どうにもなりませんわ、それに糊のきいたスカート、それに靴だって、水たまりをこえるとき、ピョイと足をあげても、なんとはなし風情のあるようなものでなきゃね。どう、おわかりかな、学生さん、身なりをきれにするってことが、どんな意味か? ところが、この吸血鬼みたいな親父が、虎の子の三十コペイカを、酒代にふんだくったんだ! そしていま飲んでいる! もう飲んじまった!……どうです、わたしみたいなこんな男を、あわれんでくれる人がありますかね? ええ? あんたはいまわたしに同情しますかね、どうです? おっしゃってください、同情しますか、しませんか? へへへへ!」
彼は酒を注ごうと思ったが、もう一滴もなかった。小びんは空になっていた。
「なんでおまえをあわれむのさ?」と、またいつの間にか彼らのそばに来ていた亭主が、叫んだ。
どっと笑いが起った。ののしる声さえ聞えた。聞いていた者はもちろん、聞いていなかった者も、退職官吏の身なりを見ただけで、わあわあ笑って、罵声をなげつけた。
「あわれむ! なぜおれがあわれまれるのだ!」不意にマルメラードフは、片手をまえにさしのべて立ち上がると、まるでこの言葉を待ちかまえていたように、きっとなって叫んだ。「どうしておれがあわれまれるのだ、言ってみい? そうとも! おれにはあわれまれるような理由はない! おれみたいな奴ははりつけにすりゃいいんだ、十字架にはりつけにすりゃいいのさ、あわれむなんてまっぴらだ! でもな、判事さん、十字架にかけるのはいい、かけなされ、そしてかけたうえで、あわれんでやるものだ! そしたらおれはすすんで十字架にかけてもらいに行くよ。それだって愉悦に飢えているからじゃない、悲しさと涙がほしいからだ!……おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい? 悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ、悲しみと涙、そしてそれを味わい、それを見つけたんだ。おれたちをあわれんでくれるのは、万人をあわれみ、万物を理解してなさるお方、唯一人のお方、そのお方が裁き主なんだよ。裁きの日にそのお方があらわれて、こう聞きなさるだろう。《性悪な肺病の継母と、幼い他人の子供たちのために、わが身を売った娘はどこにいる? 役にも立たぬ飲んだくれの父に、そのけだものにも劣る行為をもおそれずに、あわれみをかけてやった娘はどこにいる?》そしてこう言いなさるだろう。《ここへ来るがよい! わたしはもう一度おまえを許した……一度おまえを許してやった……そしていまも、生前おまえはたくさんの人々に愛の心を捧げたから、おまえのたくさんの罪は許されるであろう……》こうしてわたしのソーニャは許される、許されるとも、わたしは知ってるんだよ、許されることを……それをわたしは、さっきあの娘のところへ行ったとき、心の中で感じたんだ!……みんなが裁かれ、そして許されるんだ。善人も悪人も、かしこい者もおとなしい者も……そしてひとわたり裁きがすんでから、はじめてわしらの番になるのさ。《おまえたちも出てくるがいい! 飲んだくれも出て来い、弱虫も出て来い、恥知らずも出て来い!》そこでわしらはみな臆面もなく出て行って、ならぶ。すると裁き主が言う。《おまえたちは豚どもだ! けだものの相が顔に押されている、だが、おまえたちも来るがいい!》すると知者や賢者どもが申したてる。《主よ、どうしてこのような者どもを迎えるのです?》するとそのお方がおっしゃる。《知者どもよ、賢者どもよ、ようく聞くがいい、これらの者どもを迎えるのは、これらの誰一人として自分にその資格があると考えていないからじゃ……》そしてその御手をわしらのほうへさしのべる、わしらはひれ伏して……泣き出す……そしてすべてがわかるようになる! そこではじめて目がさめるのだ!……みんな目がさめる……カテリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝の王国の来たらんことを!」
彼は疲れはてて、まわりに人がいることを忘れたように、誰の顔も見ないで、ぐったりと椅子にくずれ、深いもの思いにしずんだ。彼の言葉はかなりの感銘をあたえたらしく、ちょっとの間店内がしーんとなったが、すぐにまた笑い声や、ののしる声々が起った。
「えらそうな口ききやがったぜ!」
「でたらめさ!」
「そこは官吏さまだ!」
こんな罵言が次々ととびだした。
「行きましょう、学生さん」マルメラードフは不意に顔をあげて、ラスコーリニコフを見ると、言った。「わたしを連れてってくださらんか……コーゼルの家の、中庭のとこですよ。もうそろそろ……カテリーナ・イワーノヴナのところへ……」
さて、まずは「意味」のレベルについて分析しよう。地の文における亭主や他の客たちの存在は面白く、流石ドストエフスキーは場面・舞台の組み合わせが上手いと実感するのだが、しかしここでは単に場面に臨場感を与えるとか、場の騒がしさを演出するといった以上の作為が働いていることに気付いただろうか。すなわち、『罪と罰』という小説は、この場面においてマルメラードフを単に愚劣な男として扱い、マルメラードフの「えらそうな口」を理解しようとしない(それでも、「ちょっとの間」神妙になったりはするが)亭主や客たちが間違っており、ラスコーリニコフの感じる痛ましさが正しい、という意味レベルにおいて成立しているのだ。だからこの場所、この環境を選んだことにすでに価値判断が構造化されているというわけだ。この立体的な作為を見逃すわけにはいかない。マルメラードフの「えらそうな口」は、無論それだけでも個性的だ、「裁きの日にそのお方があわれて……」から始まるフィクショナルな想像力の発揮(裁きの日の虚構化!)など、天才的と言っていいし、「《これらの者どもを迎えるのは、これらの誰一人として自分にその資格があると考えていないからじゃ……》」──この一節は明らかにマルメラードフが「救いようのない奴がいかに許されるか」という思想を生きていることを如実に表してもいるのだが、しかしこの長広舌がどのような場面で、どのような聴衆を相手にしているかという立体的構造もまた見逃してはならないのだ。
マルメラードフの長広舌に関しては、相変わらず疑問形で呼び掛けながらも相手の答えを聞かずに進んでいく内的対話性がある。「これが生身の人間といえますか、まるで天使ですよ……」「この金が、いまのあの娘にだって、どんなに欲しいか分かりませんよ! そうじゃありませんか、学生さん?」「この身なりをきれいにするってことは、おわかりでしょうが、えらく金のくうものでなあ。そうでしょう?(紅やクリームも買わにゃならん、まさかこれなしじゃね、どうにもなりませんわ)」「どう、おわかりかな、学生さん、身なりをきれにするってことが、どんな意味か?」──最後の引用部分はほとんど挑発的と言っていいな。挑発的なのに内的対話……。
そして自己嘲弄的な慨嘆のディエゲーシスがほとんど内言化した上で、しかも発話されるという逆説的特長も健在である。「家族たちの身を悲しんで、泣いていながら、とがめない、とがめてくれない! とがめられないほうが、つらいよ、どれだけつらいか!」さらにこの特徴が高次に昇華されると、自分の中に自分自身を責めるもう一人の傲慢で攻撃的な自己が生れて、その立場から自分に浴びせかける非難・嘲弄の言葉さえ派生してくる。「ところが、この吸血鬼みたいな親父が、虎の子の三十コペイカを、酒代にふんだくったんだ! そしていま飲んでいる! もう飲んじまった!」「そうとも! おれにはあわれまれるような理由はない! おれみたいな奴ははりつけにすりゃいいんだ、十字架にはりつけにすりゃいいのさ、あわれむなんてまっぴらだ!」──まるで他人事みたいに自分を非難している。これも一種の一人二役による想像的対話・想像的法廷か。分裂的自己嘲弄、分裂的自己憐憫。
そしてついにはマルメラードフの長広舌は、話し相手を失って完全な内的独白の表白のようになっていく。「なんでおまえをあわれむのさ?」という亭主の無味乾燥な言葉(機械的な他者の言葉)に対し、「あわれむ! なぜおれがあわれまれるのだ!」とわざとニュアンスを変えて復唱することによって、他者の反応の内語への取り込みがはじまり、長広舌の内攻化は絶好調だ。「でもな、判事さん、十字架にかけるのはいい、かけなされ、そしてかけたうえで、あわれんでやるものだ!」これなんか、呼び掛けの形になっているのにその相手が架空の存在だ。マルメラードフは天才的な想像力の持ち主でもある。つづく「おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい? 悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ、……」の問答も、現実の亭主を対象としているようでありながら、答えをはなから期待していない自問自答=内語に近いものになっている。その後の、「わたしは知ってるんだよ、許されることを……それをわたしは、さっきあの娘のところへ行ったとき、心の中で感じたんだ!」「そしてすべてがわかるようになる! そこではじめて目がさめるのだ!……みんな目がさめる……カテリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝の王国の来たらんことを!」といった絶叫も、誰に向かって言っているのか不明な、内語の強度=信仰告白の表白のようになっている。宛て先さえ複数化してしまう饒舌?
●『罪と罰』上390-393頁
第三部第三章
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「ああ、ロージャ、おまえは嘘だと思うかもしれないけど」と彼女はあわてて息子の言葉に答えながら、急いで言った。「わたしとドゥーニャは昨日は……ほんとに不幸だったんだよ! いまはもう、何もかもすぎ去って、わたしたちはみんなまたしあわせになったから、こんな話もできるんだけどね。まあ考えてもごらんよ、おまえを早く抱きしめたいと思って、それこそ汽車からまっすぐここへかけつけてみれば、あの女のひとが、──あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!……このひとがいきなりわたしたちに言うじゃないの、おまえが熱病にかかってねていたが、ついいましがた医者の目をかすめて、夢遊病者みたいに街へ逃げ出し、みんなさがしにかけ出していったなんて。おまえにはほんとにできないだろうけど、わたしたちがどれほど心配したか! わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ。ほら、わたしたちの知り合いで、おまえのお父さんの親しいお友だちで、──おぼえている、ロージャ、──あのひとも熱病にかかって、やっぱり逃げ出して、庭で井戸におちて、あくる日になってやっとひきあげられたんだよ。わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ。もうすんでのことにピョートル・ペトローヴィチを訪ねようとしたんだよ、せめてあのひとの助けでも借りようと思ってねえ……だってわたしたちは二人きりだったんだもの、頼るひとが誰もなかったんだもの」と彼女は哀れっぽい声で訴えるように言ったが、不意にはっと口をつぐんだ。《みんながもう元どおりにすっかり幸福になった》が、それでもやはりピョートル・ペトローヴィチのことを口にするのは、まだかなり危険なことを思い出したからである。
「そうでしょうとも……そりゃ、たしかに、腹がたったでしょう……」とそれに答えて、ラスコーリニコフは呟いたが、それがあまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度だったので、ドゥーネチカはびっくりして、目を見はった。
「はてな、あと何を言おうとしたんだっけ」と彼は無理に思い出そうとつとめながら、言った。「そうそう。お母さん、それからドゥーネチカ、おまえも、ぼくのほうから行きたくないから、あんた方の来るのを待っていたなんて、そんなふうに思わないでくださいね」
「まあ、何を言うんだね、ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナも、びっくりして叫んだ。
《まあ兄さんたら、義務で、わたしたちに返事しているのかしら?》とドゥーネチカは考えた。《仲直りするのも、許しをこうのも、まるでおつとめをしているか、宿題の暗誦でもしてるみたいだわ》
「起きるとすぐに、行こうと思ったのですが、服でぐずぐずしてしまったものですから。昨日この……ナスターシヤに……血を洗ってくれるように言うのを忘れてしまって……いまやっと服を着おわったところなのです」
「血ですって! なんの血なの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。
「いやなに……なんでもないんです。実は昨日すこしもうろうとして、ふらふら歩いていたら、馬車にひかれた男にぶつかったんです……官吏ですが……それで血が……」
「もうろうとして? でもきみはすっかりおぼえてるじゃないか」とラズミーヒンが口を入れた。
「それはたしかだ」と何か特に注意深く、ラスコーリニコフはそれに答えた。「ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」
「それはもう自明の現象ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「あることの実行はときとして手なれたもので、巧妙すぎるほどだが、行為の支配、つまり行為の基礎がみだれていて、さまざまな病的な印象に左右さえる。まあ夢のような状態ですな」
《ふん、やつはおれをほとんど気ちがいあつかいにしているが、そのほうがかえって好都合かもしれんぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人だって、やはりあるかもしれませんわ」と不安そうにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカが言った。
「お説のとおりかもしれません」とゾシーモフは答えた。「その意味では、たしかにわたしたちはみな、しかもひじょうにしばしば、ほとんど狂人のようなものです。ただわずかのちがいは、《病人》のほうがわれわれよりもいくぶん錯乱の度がひどいということだけです、だからここに境界線をひかなければならないわけです。調和のとれた人間なんて、ほとんどいないというのは、たしかです。何万人に、いやもしかしたら何十万人に一人、いるかいないかですが、それだってやはり完全というわけにはいかんでしょう……」
好きなテーマで調子づいたゾシーモフがうっかり口をすべらした《狂人》という言葉に、一同は眉をひそめた。ラスコーリニコフはそんなことは気にもとめないふうで、蒼白い唇に奇妙なうす笑いをうかべたまま、じっと黙想にしずんでいた。彼は何かを考えつづけていた。
ドストエフスキー作品の会話場面における各登場人物たちの振舞い及び発語は、あたかも内面・内語が表面に裏返って出て来たかのような印象が少なからずある。科白の中にその場の登場人物間での反応がリアルタイムに織り込まれることによって、科白だけで登場人物の身振りが想起されるのも、「内面」が落ち着かずに敏感に表に出て来てしまっているということの効果より他でない。
人物によっては、たとえばラズミーヒンのように内面・内語が表に出てしまうことについてまったく無頓着で全然空気を読まないこともある。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナもその無頓着を或る程度共有していて、その場の登場人物間での反応をどんどんリアルタイムに科白の中に繰り込んでいくし(「まあ考えてもごらんよ、……」「あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!」「おぼえている、ロージャ、……」)、ほとんど内語に近いような叫び(「わたしたちがどれほど心配したか!」「わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ」)や自分の意識においてしか必然性を持たない連想(「わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ」)が出て来るところなど、内面・内語を無節操に外へ出してしまうことへの抑制のなさを感じさせる。ところが彼女はラズミーヒンのように100%無頓着ということはなく、あまりにも内面・内語を表出しすぎてしまったことを反省することもある。つまり彼女の中には表出すべきことと表出すべきでないことの区別がかすかに意識されている。というのはもちろん彼女が長科白を終えた直後に「不意にはっと口をつぐんだ」身振りに表れている。
他方、ラスコーリニコフは内面・内語を表出してしまうことに対する警戒心が強い。実際、表出されるべきでない彼の内語はちゃんと《……》に括られて地の文に置かれている。とはいえ彼は内面・内語の表出を完全に抑え込んでいるわけではなく(それでは通り一遍のことしか口にすることができないだろう)、科白は抑制されているとしても振舞いの方で内面・内語が部分的にあらわになってしまっている。科白に表れていない部分の内面・内語が、彼の身振りの中にやはりリアルタイムで反映されてしまう。一例を挙げれば「あまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度」がそれで、慧眼なドゥーニャはこの「表出」を受けてラスコーリニコフが言葉の上では和解を語っているもののまったく本気ではないのではないか(本心は別ではないか)ということを見抜くのだ。ラズミーヒンのようにあけすけではないので、ラスコーリコフの科白の流れから身振りを想起することはあまりできないのだが、まさにその身振り(の描写)が、一見何も問題もなさそうな科白が「如何に言われたか」という点で歪みをきたしていることを示唆し、その二重性によって、ラスコーリ二コフの内面・内語を裏返し表出させているのである。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナにおいては、科白を言ったあとに「不意にはっと口をつぐんで」自分が不味いことを言ったのに気付くという描写の中に、彼女の内面・内語のリアルタイム表出に対する自意識が垣間見られた。他方、ラスコーリニコフの場合は、彼の科白とそれが如何に言われたかを描写する地の文の齟齬においてその自意識が作用していると看做しうる。
「それはたしかだ……ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」──このラスコーリニコフの科白の複雑さもそこから分析できる。これをそのまま読めば、昨日自分はぼんやりしたまま街を彷徨い歩いていて事故にぶつかった、という内容しか読み取れないが、これは「特に注意深い」身振りとともに発せられている。実際、彼が「そこへ行ったのは」犯罪の想念に疲れて警察に自首することを考えてのことだったから、とはいえそれをそのまま白状するわけにはいかないから、ここで彼は明らかに「特に注意深く」嘘を言っている──つまり内面的な作為を働かせているのだ。その作為は科白からは入念に隠されているが、「特に注意深く」という身振りの描写において「表出」されていると読めるわけだ。
で、そのラスコーリニコフの嘘に引っ掛かってゾシーモフは紋切り型の解釈をしてみせる(のを受けてラスコーリニコフは《そのほうがかえって好都合かもしれん》と内語で判断する)。そう、この場面に参加している人物のうち、この医師ゾシーモフだけは内面・内語が欠如したまったき凡人として描かれている。ゾシーモフは、対話に敏感に反応するがゆえに衝迫力をともなって表出をせまってくる内語や内面というものを知らないし、従ってそれを抑制する意志の力も必要としていない。科白の中における身振りの想起もない。科白と身振りの分裂もない。ドストエフスキー作品の中では彼の精神保健についてのお喋り(「わたしたちはみな、ほとんど狂人のようなものです……」)はまったくぺらぺらで何の起伏もリアリティもないような言葉に見える。だが、一般的に小説の中で科白として出てくるのは、ほとんどこのゾシーモフの言葉と同じ、分裂も内面の反転とも無縁な一元的なしろものだろう。むしろドストエフスキーが異常すぎる。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
●『罪と罰』上393-395頁
第三部第三章
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好きなテーマで調子づいたゾシーモフがうっかり口をすべらした《狂人》という言葉に、一同は眉をひそめた。ラスコーリニコフはそんなことは気にもとめないふうで、蒼白い唇に奇妙なうす笑いをうかべたまま、じっと黙想にしずんでいた。彼は何かを考えつづけていた。
「で、その馬車にひかれた男がどうしたんだい? ぼくが話をそらしてしまったが!」とラズミーヒンがあわてて大声で言った。
「なに?」とラスコーリニコフは目がさめたように問い返した。「ああ……なに、その男を家へ運びこむのを手伝ったとき、血がついたのさ……そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申しわけないことをしてしまったんです。たしかに頭がどうかしていました。ぼくは昨日、お母さんが送ってくだすったお金をすっかり、やってしまったんです……その男の妻に……葬式の費用にって。夫に死なれて、肺病で、あんまりかわいそうなんです……子供が三人、食べるものもなく……家の中はからっぽで……もう一人娘がいますが……きっと、あんな様子を見たら、お母さんだってお金をやったでしょう……でもぼくには、あんなことをする権利はぜんぜんなかったんです、だって、はっきり言いますが、あのお金はお母さんがどんな苦しい思いをしておつくりになった金か、ぼくはちゃんと知ってるんですもの。人を助けるには、まずその権利を作らなきゃいけないんです、さもないとフランスの諺にいう Crevez, chiens, si vous n'etes pas contents!〔腹がへったら犬でも殺せ〕てことになりますよ」彼はにやりと笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがいますわ」とドゥーニャはきっぱりと答えた。
「え! じゃおまえも……そうなのか……」と彼はほとんど憎悪にちかい目で彼女をにらみ、あざけりのうす笑いをうかべながら、呟いた。「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ……まあ、りっぱだよ、おまえはそのほうがよかろうさ……だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたてて、苛々しながらつけ加えた。「ぼくはただ、お母さん、あなたに、許してください、と言いたかったのです」と彼はポキポキした口調で、ぶっきらぼうに言葉を結んだ。
「いいのよ、ロージャ、わたしはね、おまえのすることは何でも、みなりっぱなことだと信じているんだよ!」と母はすっかり喜んで言った。
「信じないほうがいいですよ」と彼はうす笑いに口をゆがめて、答えた。沈黙がきた。こうした会話ぜんたいにも、沈黙にも、和解にも、許しにも、不自然な何ものかがあった、そして誰もがそれを感じていた。
《たしかにみんなおれを恐れているようだな》母と妹を上目づかいでちらちら見ながら、ラスコーリニコフは自分で自分のことを考えていた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはたしかに、沈黙が長びくにつれて、ますますおじけづいてきた。
《はなれていたときは、あんなに二人を愛していたはずだったのに》という考えがちらと彼の頭をかすめた。
ドストエフスキーの作品世界においては、登場人物たちの抑圧・否定・非難によって成り立っている科白(ないし身振り・表情)はつねに二重に響く。それが小説のリアリティの根となっている。
注目すべきは、抑圧され否認の屈折を孕む言葉や身振りや表情自体はすでに、(完璧に上辺を偽装された言葉とはちがって)半分ほどは内語を表にあらわしてしまったものであることだ。たしかに不可視の無意識があるからこそ言葉が屈折するのだが、その屈折の中にこそまさに無意識が言語化の失敗として半ばあらわれているというわけだ。従って、自意識に入って来ないものが無意識であると定義したとしても、完全に秘匿された無意識というものはあり得ないと考えることができる。
引用部を見よう。ここでラスコーリニコフは自分が犯罪者であり邪悪な人間であるという、母親や妹とは絶対に共有できない秘密=抑圧された事実を抱えている。だから彼は会話の中で絶対に率直に振舞うことができない。科白は不思議に屈折して不調和なものになってしまうし(「踏みこえれば、もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」)、表情や身振りは親子の再会の場面に不似合いに歪んでくる(「彼はうす笑いに口をゆがめて、答えた」)。或いは一見まともに見える科白、「そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申しわけないことをしてしまったんです……」に始まる説明の科白も最後の最後にはそのまともの偽装がブレて「さもないとフランスの諺にいう……」という歪みがちらっと閃く。その屈折や歪みは、秘密の事実の抑圧ゆえにほとんど彼に強いられているものだ。彼は人前で意図せずそうした屈折や歪みをあらわしてしまうことで自分が秘密を抱えていること、自分が決して率直になれない抑圧を被っていることを間接的に告げてしまう。そのことに自分で気が付くと彼は苛立ちを覚えずにはいない(「彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたてて、苛々しながらつけ加えた」)。
ただ彼自身でも、自分の言葉や身振りが歪んでしまうことをもはや不可避と考え、それに自棄的な喜びを感じているかのようでもある。「信じないほうがいいですよ」という科白はその表われではないか。
●『カラマゾフの兄弟』3巻280-281頁
第九篇第三章
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「では、つづけさせてもらいます」と予審判事がさえぎった。「あの時あなたに憎悪の気持を抱かせた原因は何だったのです? あなたは確か、公然と嫉妬の気持だと言っておられたようですね」
「ええ、まあ、嫉妬です、しかし嫉妬だけじゃありません」
「金銭上の争いですか」
「ええ、まあ、それもあります」
「確かその争いというのは、遺産の残金の三千ルーブリのことでしたね」
「三千だなんて! もっとたくさんです、もっと!」と思わずミーチャは叫んだ。「六千以上、ことによると一万以上なんです。僕はみんなに言いました、みんなにわめき散らしました。しかし僕は決心したんです。そんなら仕方がない、三千で我慢しようと。僕にはその三千がぜひとも必要でした。……それであの三千ルーブリの封筒を、僕はそれが親父の枕の下にあることを知っていたのですが、グルーシェンカのために用意されたあの封筒を、僕は親父が僕から盗んだものと考えていました。そうなんです、皆さん、自分のものだと、自分のものも同然だと思い込んでいたのです。……」
検事は意味ありげに予審判事と顔を見合わせ、気づかれぬように目配せをした。
「その問題には、いずれまたあとで戻りますが」とすぐに予審判事が言った。「今は次の点だけを書きとめて記録させていただきます。──あなたはあの封筒にはいっていた金を、いわばご自分のものと考えておられたと」
「どうぞお書きになって下さい、これでまたひとつ不利な証拠がふえたことは承知していますが、僕は証拠なんか恐れやしません。自分から進んで不利なことを言っているのです。いいですか、自分から進んでですよ。ねえ、皆さん、あなた方は僕を、実際の僕とぜんぜん違った人間と誤解なさっているようですね」と不意に彼は陰気な悲しげな口調でつけ加えた。「あなた方といま話をしているのは、高潔な人間なのです、最も高潔な人間なのです。何よりも肝心なのは、──この点を見落とさないで下さい、──卑劣な行為の限りをつくしたけれども、いつも高潔な心を失わなかった人間、人間として、心の内部で、奥底で、つまり、ひと口でいえば、いや、僕にはうまく言い表わせない、……要するに高潔さにあこがれて一生苦しんで来た、いわば高潔の受難者で、提燈をともして、ディオゲネスの提燈をともして、高潔さを探し求めて来たのです。ところが、一生やって来たのは卑劣なことばかりだった。人間だれでもがそうであるように。いや、誰でもじゃない、僕だけでした、皆さん、僕だけでした。僕の言い間違いです、僕だけです、僕だけです!……皆さん、僕は頭が痛いんです」と彼は苦しそうに顔をしかめた。「実は、皆さん、僕は親父の顔が気に入らなかったんです、恥知らずで、高慢ちきで、あらゆる神聖なものを足蹴にする、冷笑的で不信心なあの顔が、たまらなく、ぞっとするほど嫌だったのです。もっとも、いざ死んでみると、僕の考え方も変わって来ましたが」
「どんなふうに変わったのです?」
「変わったというわけじゃありませんが、あんなに親父を憎んだのが、気の毒が気がするんです」
「後悔しておられるのですね?」
「いや、後悔とは違います。これは記録しないで下さい。僕だって別に美男子じゃない、皆さん、僕自身そう男ぶりのいいほうじゃない。だから親父の顔を醜悪だと考える権利はなかったんです。これはまあ記録してもいいですよ」
「どうぞお書きになって下さい、……」以降のドミートリイの科白に注目。舌は禍いのもととはいえここまでリアルタイムで饒舌を繰って墓穴を掘って行く科白というのは珍しい──面白い。
この「舌は禍いのもと」的な饒舌を駆動しているのは、やはり自意識過剰というエレメントだろう。「いいですか、自分から進んでですよ」という自分自身を何かしらのイメージでもって見てもらいたいという欲求のあられもない吐露、および「皆さん、あなた方は僕を、実際の僕とぜんぜん違った人間と誤解なさっているようですね」といった相手の自分に対する見方の非難、そしてこうした言い回しが持っている厚顔さを、リアルタイムで反省して行くメタ的な自意識──「……ところが、一生やって来たのは卑劣なことばかりだった。人間だれでもがそうであるように。いや、誰でもじゃない、僕だけでした、皆さん、僕だけでした。僕の言い間違いです、僕だけです、僕だけです!」──まあ、これらの特徴を総合して一言で言えば、「自意識過剰」よりほかではないだろう。
もう一点指摘できるのは、こうした自意識過剰に基づく「舌は禍いのもと」的饒舌に見られる、他者の不在。ここには自分の言葉に対する他者の反応を沈着に判断するという敏感さがまるでない。あるのは沈着や聡さとは真逆の性急な反応だけ。要するに自分の自意識を通してしか物事を見ていないわけで、これは墓穴を掘る要因にもなっていく。
ところで、同時に面白いのは、ドミートリイにはまったく自意識過剰から抜け出した無意識の衝迫からに近い言葉をふっと口にしてしまえるところがあることだ。そこに奇妙なリアリティがある。「もっとも、いざ死んでみると、僕の考え方も変わって来ましたが」の言葉など。
●『悪霊』下542-545頁
「スタヴローギンの告白」
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彼はすばやく目を伏せ、両手の掌を膝に当てると、待ちきれぬ様子で聞こうと身がまえた。チホンは一語一語を思い出しながら、暗誦した。
「ラオデキヤに在る教会の使いに書き送れ。アーメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造りたもうものの本源たる者かく言う、われ汝の行為を知る。汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、われはむしろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず、ただ微温きがゆえに、われ汝をわが口より吐き出さん。汝、われは富めり、豊かなり、乏しきところなしと言いて、己が悩める者、憐むべき者、貧しき者、盲目なる者、裸なる者たるを知らざれば……」
「たくさんです」スタヴローギンが口を入れた。「実はですね、ぼく、あなたが大好きなんです」
「私もあなたが好きですな」チホンは小声で答えた。
スタヴローギンはふっと口をつぐみ、またしても先ほどのような物思いに沈んだ。これはまるで発作のような具合で、もう三度目であった。いや、チホンに対して「好きです」と言ったのも、やはり発作に近い言葉で、すくなくとも、自分自身にとって思いがけないことであった。一分以上が過ぎた。
「腹を立ててはいけませぬ」一本の指をわずかに相手の肘にふれ、その実、内心はびくついているような様子で、チホンはささやいた。
相手はびくりとふるえて、怒ったように眉をひそめた。
「どうしてぼくが腹を立てようとしているとわかったのです?」彼は早口に言った。チホンが何かを言おうとしたが、ふいに彼は、説明のつかない不安にかられて、自分から口を切った。
「ぼくがきっと腹を立てるにちがいないなどと、どうして想像されたんです。たしかにぼくは怒っていました、言われたとおりです。それも、ほかでもない、あなたに向って『好きです』などと言ったからです。あなたの言われたとおりですよ、でも、あなたもなかなかの冷笑家ですね、人間の本性について実に屈辱的な考え方をなさっている。ぼくでなくて、ほかの人間だったら、怒ることもなかったかもしれませんよ……もっとも、人間一般じゃなくて、ぼくのことが問題になっていたんだな。でも、やはり、あなたは変人ですよ、神がかりですよ……」
彼はますますいらだっていき、奇妙なことに、もう言葉を慎もうともしなかった。
「いいですか、ぼくはスパイだの心理学者だのはきらいです、すくなくとも、ぼくの心のなかにはいりこもうとするような連中はですね。ぼくは自分の心にだれを呼び入れようとも思わないし、だれを必要とも感じていません、ぼくひとりでやっていけるんです。あなたはもしや、ぼくがあなたを恐れているとお思いかもしれませんね」彼は声を高め、挑みかかるように顔をあげた。「おそらくあなたは、いまや完全に確信しておられるでしょうね、ぼくがやってきたのはある《恐ろしい》秘密を告白するためだと。そして、その告白を、あなたも十分にもちあわせておられる庵室的好奇心からわくわくして待っておられるのでしょう? でも、だったらお断わりしておきますがね、ぼくはなんにも告白しないかもしれませんよ、なんの秘密も。なぜなら、あなたなんかいなくても、ぼくはちゃんとやっていけるからです……だいたい秘密なんて何もないんですよ……みんな、あなたの勝手な想像なんです」
チホンはきっとなって彼を見やった。
「あなたは、子羊がただたんに微温きものよりも冷やかなるものを好んでいることに驚かれたのですな」と彼は言った。「あなたはただ微温きものではありたくないと思われた。あなたが異常な企図に、おそらくは、恐ろしい企図に押しひしがれておられるように思いますぞ。お願いだが、おのれを苦しめることなく、すべてを話されるように」
「あなたは、ぼくが何か告白することをもってこちらを訪ねたことを、確実に知っておられたのですか?」
「私は……推察したのです」チホンは目を伏せて、ささやくように言った。
スタヴローギンはいくぶん顔青ざめ、わずかに手がふるえていた。数秒間、彼は身じろぎもしないで立ち、最後の決心を固めようとでもするように、無言で相手を見つめていた。やがて彼は、フロックコートの脇ポケットから印刷してある紙の束を取出し、テーブルの上に置いた。
うーん、奇妙な対話。とりあえずドストエフスキーにしかこんな対話は書けないだろう、とは言えそうだ。
「あなたの言われたとおりですよ、でもあなたもなかなか……ですね、……だったら、……することもなかったかもしれませんよ」「いいですか、ぼくは……はきらいです」「あなたはもしや、ぼくが……とお思いかもしれませんね」「あなたは、いまや完全に確信しておられるでしょうね」「あなたも……しておられるのでしょう?」「でも、だったらお断わりしておきますがね、ぼくは……しないかもしれませんよ」「みんな、ああなたの勝手な想像なんです」──こんな微妙な言い回しが頻発するスタヴローギンの科白がここでは非常に特徴的なのだが、その特性を一言で言ってしまえば、「自意識過剰」になるだろうか。とにかくスタヴローギンはチホンが自分をどのように見ているかばかりを問題にしているとしか思えない。例えば「たしかにぼくは怒っていました。言われたとおりです。それも、ほかでもない、あなたに向って『好きです』などと言ったからです。あなたの言われたとおりですよ、でも、あなたもなかなかの冷笑家ですね、……」──という科白では巧く自分の心理を言い当てたチホンを皮肉に褒めるということをやっている。或いは「あなたはもしや、ぼくがあなたを恐れているとお思いかもしれませんね。……おそらくあなたは、いまや完全に確信しておられるでしょうね、ぼくがやってきたのはある《恐ろしい》秘密を告白するためだと」──という科白では、勝手に自分から相手が自分をどう見ているかを推察して決め付けようとする。或いは「なぜなら、あなたなんかいなくても、ぼくはちゃんとやっていけるからです……だいたい秘密なんて何もないんですよ……みんな、あなたの勝手な想像なんです」──という科白では、まさに自分が相手の目線をまったく気にしちゃいないなどと強弁しつつ、自分が勝手に仮定した相手の心理を拒絶してみせる。いや、こういう特徴はまさに自意識過剰ですねとしか言いようがない。
自意識過剰な人間の常として、本当は思いっきり相手が自分をどう見ているか気にしているくせに、言葉の上ではそれを否定し相手が自分をどう思おうとまったく気にしない、などと言ってみせる自己欺瞞を伴いがちのようだ。ここでも「ぼくは自分の心にだれを呼び入れようとも思わないし、だれを必要とも感じていません、ぼくひとりでやっていけるんです」──みたいな科白はまんまだね。呆れたことに、それにつづく科白が、あなたは僕があなたを恐れると思っているかもね!と自意識過剰丸出しなものになっているのがまさに欺瞞。これは法則的に理解していい。自意識過剰な人間はなぜか自分ではそのことを認めたがらず、相手の評価に対する独立性・優位性を誇示するのだが、それは端的に自己欺瞞なのだということ。
●『悪霊』下534-537頁
「スタヴローギンの告白」
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「あなたはぼくをご存じですか?」彼はふいに、ぶつぶつ言葉を切りながらたずねた。「はいってきたとき、自己紹介をしたでしょうか、どうでした? すみません、すっかりぼんやりしているもので……」
「自己紹介はされなかったが、私は一度、四年ほど前に、あなたをこの僧院でお見かけしたのでな……偶然に」
チホンは、一語一語を区切ってはっきりと発音しながら、ものやわらかな声で、たいそうゆっくりと、なだらかにしゃべった。
「ぼくは四年前にこの僧院に来たことはないですね」必要以上に乱暴な調子でスヴタヴローギンは言い返した。「ぼくがここへ来たのは子供の時分だけで、あなたなどまだここにおられないときでした」
「お忘れではないですかな?」とくにこだわるでもなく、チホンは慎重に言った。
「いや、忘れてなんかいません。覚えていないなんて、滑稽ですよ」スタヴローギンのほうは、なぜか妙にこだわった。「あなたは、たぶん、ぼくの噂だけを聞いて、何かの観念をおもちになり、それで、ご自分で見かけたように錯覚しておられるのじゃないですか」
チホンは口をつぐんだ。ここでスタヴローギンは、チホンの顔を時おり神経性の痙攣が走るのに気づいた。だいぶ以前から神経が衰弱しているしるしである。
「お見受けしたところ、きょうはお加減が悪そうですね」と彼は言った。「なんなら、おいとましますが」
彼は席から腰を浮かしかけた。
「いえ、きのうからずっと足がひどく痛んで、夜も眠れませんでしたのでな……」
チホンは言葉を切った。客がふいに何やらはっきりしない物思いに沈んでしまったからである。沈黙は長いこと、二分ほどもつづいた。
「あなたはぼくのことを観察しておられたのですね?」ふいに疑惑にとらわれて、彼は不安そうにたずねた。
「あなたを拝見していますと、ご母堂のお顔立ちを思い出しますな。外見は似ておられないが、内面的には、精神的にはよく似ておられる」
「似てなんかいるものですか、まして精神的になんぞ、似たところなんか、ひとつもありやしない!」またもや理由もなく、彼は不安にかられ、自分でもなぜかわからぬまま、しきりとこだわった。「そんなことを言われるのは……ぼくの立場に対する同情からでしょうが」彼はふいに口をすべらした。「わかったぞ! すると母がこちらへ伺うんですね?」
「見えられますよ」
「知らなかった。一度も聞いたことがない、たびたびですか?」
「ほとんど毎月のように、いえ、もっとたびたび」
「まったく、まったく初耳です。聞いたことがない」彼はこの事実にひどく不安を感じたらしかった。「すると、むろん、あなたは母から、ぼくが狂人だということを聞かれたでしょうね?」彼はまた口をすべらした。
「いや、狂人とは言われなかったが、もっとも、そのことも聞いたことはありますな、ほかの人たちからですが」
「してみると、あなたは実に物覚えがいいんですね、そんなつまらないことをいちいち覚えておられるところを見ると。じゃ、頬打ちの話も聞いておられますか?」
「いくらか聞いております」
緊迫した対話場面の一例。
言葉は別に剣呑ではないがなぜか鼻面を突き合わせて対決しているかのような密な雰囲気がある。それを生んでいるのはおそらく、スタヴローギンの側が発している「あなたは……」という対話相手への絶え間ない言及によるだろう(「あなたは、たぶん、ぼくの噂だけを聞いて、何かの観念をおもちになり、それで、ご自分で見かけたように錯覚しておられるのじゃないですか」「お見受けしたところ、〔あなたは〕きょうはお加減が悪そうですね」「してみると、あなたは実に物覚えがいいんですね、そんなつまらないことをいちいち覚えておられるところを見ると」)。不思議なくらいここでスタヴローギンはいちいちチホンに対し「あなたは……なのだ(なのじゃないですか?)」という形で一定のイメージを押し付けようとしている。あたかもそのように相手を決め付けておかなければ自分の立場が危うくされるのではないかと焦っているかのようだ。(ちなみに対話相手へのこのイメージの押し付けの発話のスタイルに「もちろん」「むろん」といった副詞はうってつけである。)
さらにこの「あなたは……なのだ(なのじゃないですか?)」という形式による発話が、「あなたはぼくを……しているのだ(しているのじゃないですか?)」というリアルタイムで二人の間の関係に言及する形式を取ることもある(「あなたはぼくをご存じですか?」「あなたはぼくのことを観察しておられたのですね?」「むろん、あなたは母から、ぼくが狂人だということを聞かれたでしょうね?」)。このタイプの言及は対話相手のチホンをスタヴローギン自身の不安や焦燥の中に強引に取り込む力があり、互いの平板な自意識の中に安穏と引き蘢ったまま言葉を惰性で交し続ける通常の対話のモノトーンを突き破って、一挙に対話の緊張感を増す効果もある。こういう「あなた」と「ぼく」についての言及が頻々に飛び出すと、チホンももはやスタヴローギンの自己動揺を冷静に突き放して対応することができなくなるだろう。
いずれにせよ、登場人物の不安や動揺がそのまま対話場面に混入してくるような抜き差しならない対話場面において、どのような発話の形式が用いられるかということの、複数の例を引用部は提供してくれている。
●『罪と罰』下20-22頁
第四部第一章
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「いや、ぜったいに信じませんね!」とラスコーリニコフはは敵意をさえ見せて叫んだ。
「ぜも、世間ではどうですかな?」とスヴィドリガイロフはややうなだれて、よこのほうを見ながら、ひとりごとのように呟いた。「世間の人は言います、《おまえは病気だ、だからおまえの目に見えるものは、実在しないまぼろしにすぎないのさ》これじゃ厳密な論理がないじゃありませんか。亡霊が病人にだけ現われるということは、わたしも認めます。しかしこれは、亡霊が現われ得るのは病人にだけだ、ということを証明するだけで、亡霊そのものが存在しないということの証明にはなりません」
「もちろん、存在しませんよ!」とラスコーリニコフはじりじりしながら言いはった。
「存在しない? あなたはそう思いますか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼に目を上げて、つづけた。
「じゃ、こういう考えに立ったらどうでしょう(まあひとつ、知恵を貸してくださいな)。《亡霊は──いわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である。健康な人には、むろん、それが見える理由がない。なぜなら健康な人は完全な地上の人間である。従って、充実のために、さらに秩序のために、この地上の生活だけをしなければならない。ところが、ちょっとでも病気になると、つまりオルガニズムの中でノーマルな地上の秩序がちょっとでも破壊されると、ただちに他の世界の可能性があらわれはじめる、そして病気が重くなるにつれて、他の世界との接触が大きくなり、このようにして、人間が完全に死ぬと、そのまますぐに他の世界へ移る》わたしはこのことをもうまえまえから考えていましてな。もし来世の生活を信じていれば、この考察も信じられるわけです」
「ぼくは来世の生活なんて信じませんね」とラスコーリニコフは言った。
スヴィドリガイロフは坐ったままじっと考えこんでいた。
「来世には蜘蛛かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」と彼はとつぜん言った。
《この男は気ちがいだ》とラスコーリニコフは思った。
「われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか? そこでいきなり、そうしたものの代りに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、ときどきそんなようなものが目先にちらつくんですよ」
「それじゃほんとに、ほんとにあなたの頭には、それよりは救いになる、もうすこし正当なものは、ぜんぜん浮ばないのですか?」とラスコーリニコフは痛ましい思いで叫んだ。
「もっと正当な? だが、どうしてわかります、これこそ正当なものかもしれませんよ。それに、わたしはなんとしても強引にそうしたいのですよ!」とスヴィドリガイロフはあいまいに笑いながら、答えた。
スヴィドリガイロフは自分自身に対してさえ仮面をつけているので、内語をそのまま表出してしまっても構わない。その自在さが彼の駄弁の強味か。彼の自意識はむしろ過少であって、無意識の方が過剰であるのか(それでも充分に世間を渡っていけるほど彼のつけているフィクショナルな仮面は入念に拵えられているのか)。
引用部でも彼はラスコーリニコフを相手にしながら自分の思索の世界に半ば入り込んでいる。「でも、世間ではどうですかな?」の問いがすでに自問に近い。その後彼としては真剣に述べられる思索も、ラスコーリニコフからすればほとんどつかみ所のない独り言のようなもので、ラスコーリニコフとしては「もちろん、存在しませんよ!」「ぼくは来世の生活なんて信じませんね」と前提から拒絶してかからざるを得ない。しかしもちろんスヴィドリガイロフはそんなことに煩わされず、一人きりでずっと考察をつづけていたかのように、誰に向けるのでもない内語のふと浮かんだ一言を、実際ラスコーリニコフの前で口に出してしまうのである。「来世には蜘蛛かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」──まさに無意識が過剰であるがゆえに臆面もなく表出された彼の道化の仮面の根幹にある一言が、これだ。この、会話場面における、常識への配慮を一切欠いている率直な愚考と、時には人を人とも思わないほどに臆面のないその提示(率直さと見紛うほどの仮面の完璧性!)こそが、スヴィドリガイロフの唯一の美点かもしれない。これは稀有。
●『罪と罰』上369-398頁
第三部第三章
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「それが起ったのは朝のうちだったんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、急きこんで、つづけた。「そのあとですぐに奥さんは馬の支度をいいつけたそうだよ、食事がすんだら、すぐに町へ出かけるために。そんなときはいつも町へ出かけるのがくせだったからねえ。なんでも、食事はとてもおいしそうにあがったそうだよ……」
「そんなになぐられて?」
「……なに、いつものことだから……慣れていたんだよ、そして食事がすむと、出かけるのがおくれないように、すぐに浴室へ行ったんですって……あのひとはどういうものか水浴療法というものをやっていてねえ、家の中に冷たい泉があって、毎日きまった時間に水浴をしていたんだよ。ところがその日は、水に入ったとたんに、倒れてしまった!」
「そりゃきまってますよ!」とゾシーモフが言った。
「へえ、そんなにひどくなぐったのか?」
「そんなことどうでもいいじゃありませんの」とドゥーニャが応じた。
「フン! しかしお母さん、あんたももの好きだなあ、こんなつまらんことを言い出すなんて」と不意にラスコーリニコフはむしゃくしゃしながら、言った。うっかり口をすべらせてしまったらしい。
「まあ、何を言うんだね、おまえ、わたしは何を言いだしたらよいのやら、わからなかったんだよ」といううらみがプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの口から思わずとびだした。
「だがどうしたんです、みんな腫れものにさわるみたいだね、ぼくが恐いのですか?」と彼はねじけたうす笑いをうかべながら言った。
「そのとおりよ」とまっすぐにきびしい目で兄をみつめながら、ドゥーニャは言った。「お母さんは、階段をのぼるとき、おそろしさのあまり十字をきったほどなのよ」
彼の顔は痙攣したように歪んだ。
「まあ、なんてことを言うの、ドゥーニャ! どうか、怒らないでおくれね、ロージャ……どうしておまえは、ドゥーニャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおろおろしながら言いだした。「それはね、ほんと、ここへ来る途中汽車の中でずうっと、空想ばかりしてきたんだよ、おまえと会うときの様子やら、お互いにいろんなことをすっかり話し合う様子など……そしてうれしくてうれしくて、外の景色もまるで目に入らなかったんだよ! それなのにわたしったら! わたしはいまでもうれしいんだよ……おまえはほんとにいらないことを、ドゥーニャ! わたしはおまえを見ているだけで、しあわせなんだよ、ロージャ……」
「もういいよ、お母さん」と彼は母の顔を見もしないで、その手だけにぎりながら、ばつわるそうに言った。「話はゆっくりしましょうよ!」
そう言うと、彼は急にどぎまぎして、真っ蒼になった。またしてもさっきの恐ろしい触感が死のような冷たさで彼の心を通りぬけたのだ。またしても彼はおそろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語りあうことができないことを。この苦しい想念の衝撃があまりに強烈だったので、彼は、一瞬、ほとんど意識を失いかけて、ふらふらと立ちあがると、誰にも目を向けずに、部屋を出て行こうとした。
「どうしたんだ、きみ?」とラズミーヒンが彼の手をつかんで、叫んだ。
ドストエフスキーの小説においては、なめらかで「耳障りでない」科白というのはほとんど存在の余地がない。或る登場人物から放たれた言葉は、本人にその気がなくても常に誰か他の人物にとっては「耳障り」で甚く傷つけられる。なぜ耳障りなのか。彼らの科白が内面・内語の衝迫に動かされて内部と外部が裏返ってしまったような剥き出しの肉声として響くことがあるからだ。「うっかり口をすべらせて……」「口から思わずとびだした」「ねじけたうす笑い」「彼の顔は痙攣したように歪んだ」「彼は急にどぎまぎして、真っ蒼になった」という表情・身振りの描写はそのメルクマール。言葉としては「フン! しかしお母さん、あんたももの好きだなあ、……」「それなのにわたしったら!」といった表現は、内語の中での架空の相手との論争ないしは自己対話がそのまま憚りなく口をついて出てしまったかのようだ。こんなふうに他者に突き刺さらざるを得ないような内語=発語の力をこいつらは常に研いでいる。
引用部はその科白の「耳障り」の倍音が極限に達し、もはや登場人物全員互いに相手を傷つける言葉しか交すことができない事態にまで立ち至っている。或る意味で彼らは上手に嘘をつくことができないから、認識の断絶と理解不可能性があらわになった後には、剥き出しの異和によってお互いに相手を傷つけるしかなくなる。「もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語りあうことができない」という「苦しい想念の衝撃」がラスコーリニコフを襲うのは、内面・内語が裏返って表出されざるを得ない(登場人物が情況的にそう急き立てられている)ドストエフスキーの小説の会話場面の臨界で時に露呈せざるを得ない絶望の謂い。
●『作家の日記』1巻144-146頁
「ボボーク」
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「ワシーリイ・ワシーリイェヴィッチ! もしあなた、閣下!」と不意に、アヴドーチヤ・イグナーチイェヴナのすぐそばでまったく新しい男の声が躍起となって声高に叫んだ、──いまはやりの疲れたような発音の仕方で、それに小生意気な抑揚をつけた、いかにも地主の旦那らしい厚かましそうな声である。「ぼくはあなたがたみなさんの様子をもう二時間もずっと観察しつづけているのですよ。なにしろもう三日もここに横になっているのですからね。ぼくのことを覚えておいでですか、ワシーリイ・ワシーリイェヴィッチ? クリニェヴィッチですよ、ヴォロコンスキーさんのお宅でよくお会いした。あなたも、なぜだか知りませんけれど、あの家に出入りを許されておりましたね」
「おや、これはピョートル・ペトローヴィッチ伯爵……それにしてもまさかあなたがこんなところに……しかもまだそんなにお若いのに……。これはなんともご愁傷なことで!」
「いやぼく自身も残念に思っていますよ。しかしぼくにとってはどっちにしても同じことです、それにぼくはここから可能なものを残らず引っ張りだしたいと思っていますのでね。ただし伯爵ではなくて、男爵です、ただのしがない男爵です。ぼくの家はなんだか得体のしれない疥癬かきのやくざ男爵で、もとはと言えば屋敷の従僕あがりなのですよ。しかしなぜだか知りませんが、そんなことはどうとでも勝手にしやがれです。ぼくは似非上流社会のただのごろつきですが、『愛すべき道楽者』として知られています。ぼくの親父はせいぜいへっぽこ将軍の仲間ですが、母親のほうはかつて en haut lieu(宮廷に)出入りしていたこともあります。ところでぼくはユダヤ人のジーフェルとふたりで去年五万ルーブリほどの贋札を偽造して、そのあげくにやつのことを密告したまではよかったのですが、金のほうは全部ユーリカ・シャルパンティエ・ド・ルシニャンのやつがボルドーへ持って逃げてしまったのです。しかもどうでしょう、ぼくはそのときシチェヴァレーフスカヤと──もうすっかり婚約がととのっていたのですからね。十六歳にあと三ヵ月足りないという若い娘で、まだ女学校にいっていたのですが、持参金を九万ルーブリほどつけてくれるというのです。ところでアヴドーチヤ・イグナーチイェヴナ、あなたは覚えておいでですか、いまから十五年前、ぼくがまだ十四歳の幼年学校の生徒だった時分に、あなたがこのぼくを誘惑して堕落させたことを?……」
「あら、あれはあんただったの、しようのない人ね。せっかく神様が送ってくださったのはいいけれど、でもこんなところへきては……」
「あなたがお隣の商人にいやなにおいを立てるなんて疑いをかけてましたがあれはとんだ見当違いですよ……。ぼくはただ黙って、腹の中で笑っていましたがね。実はあれはぼくのにおいなのですよ。なにしろぼくは釘づけにされた棺に入れられたまま埋葬されたものですからね」
「まあなんて人なの、いやらしいったらありゃしない! でもわたしはやっぱり嬉しいわ。あんたには信じられないでしょうが、クリニェヴィッチ、とても本当とは思えないでしょうけれど、ここに生気と機知が欠けていることはそれはそれは大変なものですものね」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。だからぼくもここへなにか奇抜なことを持ち込もうと思ってるんです。ところで閣下、いやあなたじゃありませんよ、ペルヴォイェードフ。──もうひとりの閣下、一等官のタラセーヴィッチさん! どうか返事をなさってください! あなたを大斎期にマドモアゼル・フュリーのところへご案内した、クリニェヴィッチですよ、ぼくの声が聞こえますか?」
諧謔的饒舌、という一つの模範例。
ピョートル・ペトローヴィッチ伯爵の饒舌はかなり特徴的だ。別に無意識の衝迫に衝き動かされているというような二重性はないが、唖然とするほど良く喋る。それを可能にしているスタイルは何か。
不思議なことにこの伯爵は、相手が関心があるかどうかもおかまいなしに饒舌に自分の状態についてやたら先回りして語りまくる。「ぼくはあなたがたみなさんの様子をもう二時間もずっと観察しつづけているのですよ。なにしろもう三日もここに横になっているのですからね」「いやぼく自身も残念に思っていますよ」「しかしぼくにとってはどっちにしても同じことです、それにぼくはここから可能なものを残らず引っ張りだしたいと思っていますのでね」「ぼくの家はなんだか得体のしれない疥癬かきのやくざ男爵で、もとはと言えば屋敷の従僕あがりなのですよ」「ぼくは似非上流社会のただのごろつきですが、『愛すべき道楽者』として知られています」「ところでぼくはユダヤ人のジーフェルとふたりで去年五万ルーブリほどの贋札を偽造して、そのあげくにやつのことを密告したまではよかったのですが、……」「しかもどうでしょう、ぼくはそのときシチェヴァレーフスカヤと──もうすっかり婚約がととのっていたのですからね」「ところでアヴドーチヤ・イグナーチイェヴナ、あなたは覚えておいでですか、いまから十五年前、ぼくがまだ十四歳の幼年学校の生徒だった時分に、あなたがこのぼくを誘惑して堕落させたことを?」「ぼくはただ黙って、腹の中で笑っていましたがね」「だからぼくもここへなにか奇抜なことを持ち込もうと思ってるんです」──いや凄まじい。こいつの話はすべて「ぼく」「ぼく」「ぼく」、自分についてのことばかりで、それが彼の饒舌の内容のほとんどを占めている。残りは「そうでしょうとも、そうでしょうとも」といった落着きのない追従の繰り言や、「シチェヴァレーフスカヤ」という固有名がでてきた娘についての装飾的細部(「十六歳にあと三ヵ月足りないという若い娘で、まだ女学校にいっていたのですが、持参金を九万ルーブリほどつけてくれるというのです」)によって埋められる。とにかくこの自分のことしか話題にせずに饒舌を展開していく畸形さが面白い。
当然ながら、自分で自分の状態を自己言及しつづけていれば、いつかは自己卑下的なニュアンスを持ち出さざるを得なくなる。それが「ぼくの家はなんだか得体のしれない疥癬かきのやくざ男爵で、……」「ぼくは似非上流社会のただのごろつきですが、……」といった表現となって彼の科白の諧謔味を倍加させる。
余談。対話性を密にする際の「なにしろ」の汎用性は凄い。「なにしろもう三日もここに横になっているのですからね。」「なにしろぼくは釘づけにされた棺に入れられたまま埋葬されたものですからね。」修辞疑問文並み。
●『作家の日記』1巻153-154頁
「ボボーク」
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「わたしにはよく分かりますよ、クリニェヴィッチ」と技師が低音を響かせた。「あなたがここの、いわばその、生活を、新しいそしてまったく筋の通った基盤の上に築くことしようと提案なさったお気持がね」
「ふん、そんなことはぼくにとってはどうでもいいことさ! そのことに関してはクジェヤーロフが来るまで待つことにしましょう、きのう運ばれてきましたからね。いまに目をさましたらきっとなにもかも説明してくれることでしょうよ。これは大変な人物です、それこそ巨人とも言うべき人物です! それから明日はさらに、たぶん、ひとりの自然科学者とそしておそらく将校がひとり、それにもしもぼくの勘に狂いがなければ、もう三、四日したらコラムニストがひとり、これは、確か、編集者といっしょに連れて来られるはずです。もっとも、そんなやつらはどうとでも勝手にしやがれですが、しかしこれでとにかくちょっとした集団ができあがって、なにもかもひとりでにうまくまとまりがつくようになるでしょうよ。しかしさしあたりぼくは、嘘をつかずにすませたいのです。それだけがぼくの望みです、なぜならばそれがいちばん大事なことだからです。地上では嘘をつかずに生きるということはまず不可能です。なぜならば人生と虚偽とは同義語だからです。けれどもここではひとつお慰みに嘘はつかないことにしようじゃありませんか。ちぇっ、墓場でだってちっとは変わったことがあってもまさか罰も当たりますまい! みんなに聞えるようにてんでに自分の身の上話をしてもうなんにも恥ずかしがらないことにしましょうや。ぼくがまずまっ先に自分の身の上話をすることにします。ぼくはですね、淫蕩な人間のひとりなのですよ。ところが地上の世界ではそうしたことがすべて腐ったロープで縛りつけられていたんです。そんなロープなんかさっぱりと投げ捨ててこの二ヵ月のあいだ思い切って恥知らずな真実の中で生きることにしようじゃないですか! 裸になってなにもかもさらけ出そうじゃないですか!」
「裸になるんだ、裸になるんだ!」とみんなはいっせいに声をあげた。
諧謔的饒舌、という一つの模範例。
何が饒舌にドライヴを掛けるのか。話し手の「ぼく」を全面的に押し出しまくることによってだ。相手が「ぼく」のことを聞きたがっているかどうかなんて知ったことではない、とにかく「ぼく」の考えを(「これは大変な人物です、それこそ巨人とも言うべき人物です!」「地上では嘘をつかずに生きるということはまず不可能です。なぜならば人生と虚偽とは同義語だからです」)、「ぼく」の批評を(「それにもしもぼくの勘に狂いがなければ、……」「もっとも、そんなやつらはどうとでも勝手にしやがれですが、しかしこれでとにかくちょっとした集団ができあがって、なにもかもひとりでにうまくまとまりがつくようになるでしょうよ」)、「「ぼく」の希望を(「しかしさしあたりぼくは、嘘をつかずにすませたいのです。それだけがぼくの望みです、なぜならばそれがいちばん大事なことだからです」)、「ぼく」の秘密を(「ぼくがまずまっ先に自分の身の上話をすることにします。ぼくはですね、淫蕩な人間のひとりなのですよ」)、語りまくれ! もし相手が聞く耳を持たないようだったら、厚かましく相手に同意を迫って「どうでしょう!」「そうじゃありませんか?」と呼び掛けてやれ! 自分について語るにしても他人・他の対象について語るにしてもつねに「ぼく」「ぼく」「ぼく」を押し出しまくること。それによってリアリズムの枠を踏み越える唖然とするほどの諧謔的饒舌が生れる。
もちろんこうした饒舌は他人に「ぼく」のことを規定されることへの神経的な恐れの裏返しであるだろう。《ドストエフスキーの後年の作品には、主人公達がみな、他者(他の作中人物)の口にのぼる自分の人格の定義に対して、やっきとなって闘っている様が見て取れる。彼らは、己れを外見だけで決めつけようとするあらゆる定義を内側から突き破って、それを虚偽としてしまうような自分自身の可能性を感じている。彼らは常に、彼を決めつけ、死人扱いするような他者の評言の枠を打ち破ってやろうとしている。》(バフチン)
●『罪と罰』下174-175頁
第五部第一章
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「おそれ入りますが」と不意にソーニャは立ちあがった。「あなたは昨日年金がもらえるかもしれないって、母におっしゃったそうですわね? それで母は昨日もう早速わたしに、あなたが年金の世話をしてくださることになったなんて申しておりましたわ。それは本当なのでしょうか?」
「いや、決して。むしろある意味では理屈に合いませんよ。わたしはただ現職官吏が死んだ場合、その未亡人に一時的な扶助金が下がることがあると言っただけですよ、──それも誰かの口添えがあればの話ですがね、──ところがあなたの亡くなったお父さんは年限を勤めあげなかったばかりか、最近はぜんぜん勤めてもいなかったらしい。従って、要するに、望みはあるかもしれないにしても、まったくかげろうみたいなものですよ。だから実際には、この場合、扶助金に対するなんらの権利もないということですね。むしろその逆ですよ……それなのに、あのひとはもう年金なんて考えているのかねえ、へ、へ、へ! ぬけ目ない奥さんだよ!」
「そうですわ、年金のことを……それというのも、あのひとは信じやすく、お人よしだからですわ、人がいいからなんでも信じるのよ、そして……そして……そして……頭があんなふうに……そうですわ……失礼いたしました」こう言うと、ソーニャはまた立ち去りかけた。
「お待ちなさい、話はまだ終っていませんよ」
「そうですわね、まだ終っていませんわね」とソーニャは呟いた。
「だからおかけなさい」
ソーニャはすっかりどぎまぎして、また腰を下ろした。これで三度目だった。
そう、ドストエフスキーの対話場面のなかではこういうことが起こるのだ。「そうですわ、年金のことを……それというのも、あのひとは信じやすく、お人よしだからですわ、人がいいからなんでも信じるのよ、そして……そして……そして……頭があんなふうに……そうですわ……失礼いたしました」というソーニャの科白に注目。ここでは「ですわ」と「するのよ」という語尾が二つ混じっている。というのは「するのよ」という語尾で語られているのは、本来ひとりごちるべき内語がそのまま表白されてしまったような言葉そものもだからだ。それが前後の「ですわ」という公的な形をまとった言葉と混ざり合っているのが、ソーニャの自意識の混乱および彼女の感じやすい気質を表わすようになっているわけ。ものすごく技巧的に造型された科白だということ。
●『カラマゾフの兄弟』1巻309-312頁
第一部第三篇第十一章
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「兄さん、兄さんはあの日のことをグルーシェンカに話したために、どんなにカチェリーナさんを侮辱したか、まるで気にも留めなかったんですね。グルーシェンカはさっき、あの人に向かって、あなただって『その美しい顔を売るためにこっそり男のところへ通ったじゃありませんか』と言ったんですよ。兄さん、これ以上の侮辱があるでしょうか」──アリョーシャを何よりも苦しめているのは、むろんそんなことはあるはずもないが、兄がカチェリーナの恥辱をまるで喜んででもいるかのように思われることだったのである。
「そうか!」突然ドミートリイは恐ろしくしぶい顔をして、手のひらで自分の額を叩いた。彼はさっきアリョーシャから、この侮辱のことも、カチェリーナが『あなたの兄さんは卑劣な人だわ!』と叫んだこともみんな一度に聞かされていたのに、今まですっかり忘れていたのである。「そうだ、実際ひょっとすると、おれはカーチャの言うあの《運命の日》のことをグルーシェンカに話したかも知れないな。そうだ、確かに話したぞ、思い出した! あの時だ。モークロエ村へ行って、酔っぱらった時だ。ジプシーの女どもが歌をうたっていた。……しかしおれは声をあげて泣いたんだ。あの時おれは声をあげて泣きながら、ひざまずいて、カーチャの面影に祈りを捧げていたんだ。グルーシェンカもおれの気持をわかってくれた。あいつはあのとき何もかもわかってくれて、いま思い出したが、あいつも泣いていたんだ。……ああ、畜生め! こうなるより仕方がなかったのかなあ。あの時は泣いていたのに、今は……今は《心臓にあいくちをずぶり》! 女なんてみんなこうなんだ」
彼は目を伏せて考え込んだ。
「そうだ、おれは卑劣な男だ。確かに卑劣な男だ」と不意に彼は陰気な声で言った。「あのとき泣こうが泣くまいが同じことだ。どっちみち卑劣な男なんだ。あの人に伝えてくれ、もしそれで気が安まるなら、おれは甘んじて卑劣漢と呼ばれようとな。だが、もうたくさんだ、さようなら。今さらぶつぶつ言うことはない。陰気くさくなるだけだ。お前はお前の道を行くし、おれはおれの道を行く。それに、何らかの最後の時が来るまで、これ以上お前に会いたくない。さようなら、アレクセイ!」彼はアリョーシャの手を固く握りしめると、相変わらず目を伏せて頭を垂れたまま、振り切るように素早く町のほうへ歩きだした。アリョーシャは、兄がこんなふうに不意に立ち去って行こうとは思わなかったので、じっと後ろ姿を見送っていた。
「ちょっと待ってくれ、アレクセイ、もうひとつ白状することがある、お前だけに」不意にドミートリイが戻って来て言った。「おれを見てみろ、じっと見てみろ。いいかい、ここんところに、ここんところに、恐ろしい破廉恥が容易されているんだ(《ここんところに》と言いながら、ドミートリイは奇妙な顔つきをして胸のあたりを拳でたたいた。まるで破廉恥がその胸のどこかにしまってあるような、──ポケットの中にでも入れてあるのか、何かに縫い込んで首にでも吊してあるような素振りだった)。「お前の見たとおり、おれは卑劣な男だ、折紙つきの卑劣な男だ。だがな、おれが過去、現在、未来にわたって何をしようとも、今この瞬間おれがここに持っている破廉恥に比べれば、そんなものは何でもありゃしない。ここにあって、いま動いている、成就されつつある破廉恥に、中止も決行もおれの胸三寸にある破廉恥に比べればな。──このことを覚えていてくれ。いや、きっとおれはそれを中止せずに決行するだろう、そう承知していてくれ。おれはさっき何もかもお前に話したが、このことだけは打ち明けなかった。いくら卑劣漢のおれでも、それほど面の皮が厚くはないからなあ。もっとも、まだ思いとどまることもできる。思いとどまって、明日にでも失われた名誉の半分を取り戻すこともできる。だが、おれは思いとどまるまい。この卑劣な計画を決行するだろう。そうなったら、お前はあとで、おれが事前に、あらかじめこう言っていたという証人になってもらいたい。ああ、破滅と闇だ! 今さら説明しても仕方がない、いずれ時が来ればわかるだろう。悪臭ふんぷんたる横町と極道女か! じゃ、さようなら。おれのために祈りなんかあげないでくれ。そんな値打ちはないんだ。第一そんな必要はぜんぜんない、そんな必要は、……そんな必要は全くないんだ。じゃ、あばよ!……」
興味深いことに、ドミートリイの自己卑下には、やたら自分の言葉で自分を規定したがるという特徴がある。あたかもそれによって「自分は卑劣な男ではないかもしれない(イワンは/カチェリーナは善良な人間でないかもしれない)」という想いが頭をもたげかけるのを抑えようとしているかのように? ということは、無意識の衝迫によって発話が屈折してしまうというドストエフスキー的なポリフォニーの力学に、ドミートリイの自意識も無縁ではないわけだ。ここで言っているのは「そうだ、おれは卑劣な男だ。確かに卑劣な男だ」「あのとき泣こうが泣くまいが同じことだ。どっちみち卑劣な男なんだ」「あの人に伝えてくれ、もしそれで気が安まるなら、おれは甘んじて卑劣漢と呼ばれようとな」「お前の見たとおり、おれは卑劣な男だ、折紙つきの卑劣な男だ」「おれのために祈りなんかあげないでくれ。そんな値打ちはないんだ」──といった科白のことである。
ドミートリイの自己否定が単なる認識論ではなくポリフォニックな二重化を被っているということは、彼の科白にはどこか無意識が素のまま出ている部分もあるということだ。それが、あたかも内語と発話がぴったり一致してしまったかのように見える科白の数々だろう。「そうだ、実際ひょっとすると、おれはカーチャの言うあの《運命の日》のことをグルーシェンカに話したかも知れないな。そうだ、確かに話したぞ、思い出した!」「しかしおれは声をあげて泣いたんだ。あの時おれは声をあげて泣きながら、ひざまずいて、カーチャの面影に祈りを捧げていたんだ」「ああ、畜生め! こうなるより仕方がなかったのかなあ。あの時は泣いていたのに、今は……今は《心臓にあいくちをずぶり》! 女なんてみんなこうなんだ」「おれはさっき何もかもお前に話したが、このことだけは打ち明けなかった。いくら卑劣漢のおれでも、それほど面の皮が厚くはないからなあ」──こう言った科白はわざわざアリョーシャに言わなくてもよいことであり(特に「あの時おれは声をあげて泣きながら、……」の個所)、リアルタイムに自分の考えたこと感じたことをそのまま口にしまっているような趣きだ。こうした意図しない表白があるからこそ、ドミートリイの自意識は単なる認識論に収まってはいないのだ。彼の「おれは卑劣漢だ」という言葉も、自意識と無意識の拮抗の緊張からリアルタイムに飛び出してきた生き生きした一言なのである。
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------------------------------------- タイプ【D-14】内なる声による(分裂的・屈曲的)対話 ▲
●『カラマゾフの兄弟』4巻198-200頁
第十一篇第六章
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「お前が思いも寄らない事件だと言っているのに、僕がそれを察知して家に残るはずはないじゃないか。どうしてそんなつじつまの合わないことを言うんだ?」とイワンは物思いに沈みながら言った。
「でも、わたしがモスクワでなしにチェルマーシニャ行きをおすすめしたことからも、察しがつきそうなものじゃございませんか」
「察しがついてたまるかい!」
スメルジャコーフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙り込んだ。
「わたしがモスクワ行きをお止めしてチェルマーシニャ行きをおすすめしたことで、すぐにお察しになれたはずでございます。つまりわたしはすぐこの近くにいていただきたかった、モスクワは遠うございますからね。それにドミートリイ様も、あなたが近くにおいでなのを知っていたら、そうそう勇気をお出しになることもございますまい。第一、何かの場合、大至急あなたに駆けつけていただいて、おすがりできますからね。なぜって、そのために自分の口からグリゴーリイの病気のことや、発作を心配していることをあなたに申し上げておいたのございます。また亡くなった旦那様のお部屋へはいるあの合図のことや、その合図がわたしの口からドミートリイ様に筒抜けになっていることをお話ししたのも、そうすればあの方がきっと何かしでかすに違いないとあなたがお察しになって、チェルマーシニャへ行くどころかここにずっとお残りになると考えたからでございます」
『話しっぷりはたどたどしいが』とイワンは思った。『なかなか筋道が立っているぞ。何だってヘルツェンシュトゥーペのやつ、精神異常だなんて言ったのだろう』
「お前はおれをペテンにかけるつもりだな、畜生!」と彼は腹を立てて叫んだ。
「正直なところ、わたしはあの時あなたがすっかりお察しになったものと思っておりました」さも人の好さそうな顔つきで、スメルジャコーフが言い返した。
「それがわかってりゃ、出かけるもんか!」ふたたびかっとなってイワンが叫んだ。
「さようで。わたしはまた、あなたが何もかもお察しになったうえで、災難を避けたい一心から大至急お出かけになるんだとばかり思っておりました、恐ろしい目に会わないうちに、どこかへ逃げ出そうとなさって」
「お前は誰もが自分と同じ臆病者だと思っていたのか」
「失礼ながら、あなたもわたしと同じだと思ったのでございます」
「むろん察知すべきだったのだ」イワンは興奮して言った。「もっとも、僕はお前が何か醜悪なことを企んでいるのは察していた。……だが、お前は嘘をついているな、またでたらめを言っているんだ」突然われに帰ってかれは叫んだ。「覚えているだろう、あの時お前は馬車に近寄って来て、《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》と僕に言ったんだぞ。してみると、僕が立って行くのを喜んでいたのだ。それでお世辞を言ったんだろう?」
スメルジャコーフはもう一度、さらにもう一度、溜息をついた。顔に血の気がさしたように見えた。
「わたしが喜んだとすれば」と彼は幾ぶん息をはずませて言った。「それはあなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャへ行かれることを承知なすったからでございます。何しろ近うございますからね。しかしわたしがあの時あの言葉を申しましたのはお世辞じゃなくて、非難の意味でございました。あなたにはそれがおわかりにならなかったのでございますね」
ドストエフスキーの作品世界では「登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」が重視される。それを踏まえた上で引用部の会話場面を見てみよう。
スメルジャコーフの論理的な言い分は一見筋道が立っているように見えるが、後に明らかになるように、完全な虚偽である。実際にはスメルジャコーフはイワンがチェルマーシニャ(ないしはモスクワ)行きを選ぶか家に残ることを選ぶかに、フョードルを殺してよいかどうかのイワンからの命令の有無を暗黙に読み取っていたのであり、そもそも彼はグリゴーリイの病気やドミートリイの暴力のことなど端から心配しておらず、フョードルを上手く殺せるか、そしてその後イワンが共犯者として口裏を合わせてかばい立てしてくれるかどうかだけが問題だったのだ。ここで一見フョードルのことを心配してイワンに家に残って欲しかったと言っているのはまったくの虚偽であり、《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》の一言の意味も、スメルジャコーフが説明しているのは後づけのもっともらしい嘘でしかない。つまりスメルジャコーフには体裁良く整えた清潔な説明の言葉の裏に、秘かにしまい込んだ真実を持っている。或る意味でそれがスメルジャコーフの(未だはっきり言語化されていない)無意識だと言っていい。
イワンの方も、スメルジャコーフの言葉上の整合性がもしかしたら上辺だけのものかもしれないということに勘付いていて、相手の言葉をそのまま信じることはできずにいる(「お前は嘘をついているな、またでたらめを言っているんだ」)、つまり彼はスメルジャコーフの現前的な表情や科白の下に、潜在的で醜悪な殺人行為の臭いを感じ取っている。ところがスメルジャコーフの無意識の隠蔽すなわち「罪のない下僕」という上辺の仮面の偽装があまりにも完璧なので、イワンは正確にその裏側を言い当てることができない。感知すべき相手の無意識の領域をぎりぎりのところで掴むことができず、予感としてしか把握できていない。こういう場合、イワンは『なかなか筋道が立っている』と納得しかかりながらも、「お前はおれをペテンにかけるつもりだな、畜生!」と根拠不明の猜疑心を爆発させることしかできない。つまり或る対話場面において、一方の無意識の偽装、上辺の仮面の拵えがあまりにも完璧すぎる時には、他方は自分が騙されていると感じながらも相手の言葉に受動的に翻弄されざるを得ないということだ。引用部では、スメルジャコーフの憎らしいまでの自己抑制・冷静さと、感知すべき相手の無意識をどうしてもはっきりと感知できなくて苛立つイワンの見苦しい興奮とが、きれいな対照をなしている。
とはいえ、イワンはほとんどスメルジャコーフの真実を直観的に掴んでいると言ってもいいくらいなのだが。実際、スメルジャコーフは嘘をついているのだし、スメルジャコーフの企みが《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》という言葉に仄めかされていたことを、ちゃんと察しているのだから。
●『カラマゾフの兄弟』4巻228-230頁
第十一篇第八章
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「あなたもご病気らしゅうございますね、げっそりおやせになって、お顔の色がすぐれない」と彼はイワンに言った。
「おれの体のことなんかどうでもいい。それよりおれがきいていることに返事をしろ」
「お目がひどく黄色いじゃございませんか、白目が真っ黄色だ。ひどくお苦しみなのでございますか」
彼は軽蔑的ににやりと笑い、突然、声をあげて笑いだした。
「いいか、さっき言ったとおり、お前の返事を聞かないうちは、おれは帰らんぞ」イワンは恐ろしくいらだって叫んだ。
「どうしてあなたはわたしにしつこく付きまとうのでございます? どうして私を苦しめるのでございます?」苦しそうにスメルジャコーフが言った。
「ちぇっ、畜生! おれは今お前どころじゃないんだ。きいたことに返事をしろ、そうすればすぐに帰る」
「あなたにお答えすることなど何もございません!」こう言ってスメルジャコーフはまた目を伏せた。
「どうあってもお前に返事をさせてみせるからな!」
「あなたは何がそんなにご心配なのでございます?」突然スメルジャコーフはイワンの顔をじっと見た。だが、その目は軽蔑というよりは、すでに一種の嫌悪の色をたたえていた。「明日、公判がはじまるからでございますか。それならばあなたにとっては、どうということはございますまい。安心しておいでなさいまし。それより家へ帰って、ゆっくりお休みになることでございます。何も心配なさることはない」
「おれにはお前の言うことがさっぱりわからない。……どうしておれが明日の公判を恐れなければならないのだ?」イワンは驚いてこう言ったが、突然、ほんとうにある恐怖がひやりと彼の心をなでた。スメルジャコーフは目をあげて相手の様子を見まわした。
「おわ・かりに・なり・ません・か」彼は非難するように言葉を引き伸ばして言った。「利口なお方がそんな喜劇を演じるなんて、物好きなこった!」
イワンは黙って相手の顔を見た。この思いがけない口調、もとの下男がいま彼に向かって言ったこのひどく横柄な調子、これだけでも常態ではなかった。この前の時でさえ、こんな口調は聞かれなかった。
「あなたは心配なさることはないと言っているのです。わたしはあなたのことは黙っています。証拠がないわけです。おや、手がふるえていますね。どうして指をそんなに動かしているんです? さ、家へお帰りなさい、あなたが殺したんじゃない」
イワンは思わずぎくりとした。アリョーシャの言葉が思い出された。
「おれでないことは、わかっている……」と彼は舌をもつれさせて言いかけた。
「おわ・かり・です・かね?」ふたたびスメルジャコーフが相手の言葉を引き取った。
イワンはさっと立ちあがって、相手の肩を引っつかんだ。
「すっかり言え、毒蛇め! すっかり白状しろ!」
スメルジャコーフはびくともしなかった。彼はただ気違いじみた憎悪の目で、相手をじっと見つめただけである。
「それじゃ言いますがね、殺したのは、ほら、あなたですぜ」凶暴な口調で彼はささやいた。
ドストエフスキー作品においては、真に決定的な対決的対話場面の中で、それまで抑圧・否認されていた無意識をあからさまに暴露する言葉が「不意に」飛び出す瞬間がある。それは自分自身が思わず(意識せずに)口にしてしまうこともあれば、対話相手がこちらの無意識に憑依してないしは無意識をこちらの隠された真意と誤読してそれを言葉にしてしまうこともある。後者の場合、自分にとってはその言葉は意外性の驚きをもって聞かれるが、実はその意外性は自分にとって親密なものでもあるという自己動揺を伴うことになる。
引用部でイワンがスメルジャコーフの科白に「突然」驚かされるのは、外部としての無意識(彼自身の無意識だが彼の自意識からもっとも遠い場所にある領域)からの一撃をスメルジャコーフ=他者経由で喰らったからだ。だからこそそれはイワンには「お前の言うことがさっぱりわからない」という否認の科白を伴いながらも、純粋な無知の驚きではなくて「恐怖」として経験される。「イワンは驚いてこう言ったが、突然、ほんとうにある恐怖がひやりと彼の心をなでた。」
「あなたにお答えすることなど何もございません!」と叫んでいたスメルジャコーフ、この時点ではまだスメルジャコーフはイワンの無意識にまで踏み込もうとはしていなかった。このレベルに留まるかぎり対話が深刻化することはなかったはずだ。「あなたは何がそんなにご心配なのでございます?」──この科白からスメルジャコーフはむしろイワンの無意識と対話し、それを宥めようとする不可思議な態度を取ることになる。ここにはスメルジャコーフの誤解がある。つまり彼は、殺人事件の真相はイワンの無意識に抑圧されているのではなくすでに自意識に上っているはずだと考えていたわけ。だからあたかもすでに二人の間に了解事項があるかのように「何も心配なさることはない」「わたしはあなたのことは黙っています。証拠がないわけです」といったイワンの自意識にとってはまったく意味不明の呼び掛けがなされるわけだ。しかしイワンの無意識は自分がスメルジャコーフに殺人の許可を与えたかも知れないということを「利口」ゆえに知っているので、イワンの驚きは分裂する。「「おれでないことは、わかっている……」と彼は舌をもつれさせて言いかけた。」
●『罪と罰』上464-467頁
第三部第五章
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「じゃ、ののしられても、叱られても、しかたがありませんが、ぼくはどうにもがまんができないのです」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはまた言いだした。「もう一つだけ質問させてください(ほんとうにご迷惑だとは思いますが!)、一つだけつまらない考えを述べさせてもらいたいのです、心おぼえしておくため、ただそれだけのことですが……」
「結構です、聞かせてください」ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。
「実は……どう言ったらよくわかっていただけるか、まったく自信がないのですが……この考えがまたあまりにもふざけたもので……心理的なことなのですが……つまりこういうことなんです。あなたがあの論文をお書きになったとき、──まさかそんなはずはないと思いますがね、へ、へ! あなたは自分も、──つまりあなたの言う意味でですね、──ほんのちょっぴりでも、《非凡人》で、新しい言葉をしゃべる人間だとは、お考えにならなかったでしょうか……どうでしょうな、そこのところは?」
「大いにあり得ることです」とラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。
ラズミーヒンは身をのりだした。
「とすれば、あなたもそれを決意なさるかもしれませんな、──例えば、生活上の何かの失敗や窮乏のためとか、あるいは全人類を益するためとかで、──障害とやらをふみこえることをですよ?……まあ、いわば殺して盗むというようなことを?」
そういうと彼は不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。
「ふみこえたとしても、むろん、あなたには言わんでしょうな」とラスコーリニコフは挑戦的な傲慢なせせら笑いをうかべながら答えた。
「そうじゃありませんよ、ぼくはただちょっときいてみただけですよ。実をいえば、あなたの論文をよく理解したかったものですから、ただ文学的な面だけで……」
《フン、なんて見えすいた図々しい手口だ!》とラスコーリニコフは気色わるそうに考えた。
「おことわりしておきますが」と彼はそっけなく答えた、「ぼくは自分をマホメットともナポレオンとも思っていませんし……そうしたたぐいの人々の誰でもありません、ですから、そうした本人でないぼくとしては、どんな行動をとるだろうかということについて、あなたを喜ばせるような説明をすることはできません」
「よしてくださいよ、いまのロシアに自分をナポレオンと思わないようなやつがいますかね?」とポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭なあるひびきがあった。
「そこらの未来のナポレオンじゃないのかい、先週例のアリョーナ・イワーノヴナを斧でなぐり殺したのもさ?」ととつぜん隅のほうでザミョートフが言った。
ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。ラズミーヒンは暗い不機嫌な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。重苦しい沈黙の一分がすぎた。ラスコーリニコフはくるりと向き直って出て行こうとした。
「もうおかえりですか!」とポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。「お知り合いになれて、ほんとに、こんな嬉しいことはありません。ご依頼の件については決してご心配なく。ぼくが言ったあんな調子で書いてください。そう、ぼくの事務所まで届けていただければいちばんいいのですが……なんとか二、三日中に……よかったら明日にでも。ぼくは十一時頃はかならずいます。すっかり手続きをしましょう……ちょっと話もしたいし……あなたなら、最近あそこを訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことをおしえていただけるのではないかと……」と彼はいかにも人のようさそうな様子でつけ加えた。
「あなたはぼくを正式に尋問するつもりですか、すっかり準備をととのえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? いまのところその必要はまったくありませんな。あなたは誤解しているようだ。ぼくは機会はにがしませんよ、で……質入れをしていた人々はもう全部会って、話を聞きました……証言をとった人もいます……だからあなたにも、最後の一人として……あッ、そうそう、ちょうどいい!」と彼は不意に何かよほど嬉しいことを思いだしたらしく、にこにこしながら叫んだ。「いいとき思いだしたよ、おれもどうかしてるな!……」彼はラズミーヒンのほうを向いた。……
ここではポルフィーリイもラスコーリニコフも互いの内語=真意を偽装しながら挑発的に言葉を交し合っている。ポルフィーリイの方は《あなたが犯人なんでしょう? そうでしょう? だからこっちは尻尾を掴もうとしてるんですよ》という言葉を科白の裏に隠し、ラスコーリニコフの方は《犯人は俺だが、あんたらの間抜けな策略に引っ掛かって捕まるつもりは微塵もない》という言葉を科白の裏に隠している。だが、これらの無意識の本音はむしろ彼らの身振りや表情に雄弁に表れている。逆に言うと、彼らの完璧に偽装された科白の裏から染み出て来る内語の表出として、ここでの地の文は造型されているということ。「ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。」「ラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。」「ポルフィーリイは不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。」「ラスコーリニコフは挑戦的な傲慢なせせら笑いをうかべながら答えた。」「ポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭なあるひびきがあった。」「ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。」「ポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。」──表面上は穏当で礼儀正しい言葉を交しているだけに見える場面が、地の文を裏箔として読むとむしろ無礼で攻撃的な言葉を互いに差し出し合っている剣呑な場面に見えて来る。会話場面での地の文の構成法の一例。
あとラズミーヒンも、ここで《もしかしてポルフィーリイはラスコーリニコフを老婆殺しの犯人として疑っているのか?》という考えを抱き始めている。「ラズミーヒンは身をのりだした。」「ラズミーヒンは暗い不機嫌な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。」
●『罪と罰』下321-324頁
第六部第二章
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……わたしはこのミコライってやつが好きになりましてね、綿密に観察しているんですよ。あなたはどう見ましたかな! へ! へ! いくつかのポイントに対しては実に周到な答弁をしましたよ、どうやら必要な知識をあたえられたものと見えて、巧みに用意していました。ところが他のポイントになると、まるでへまばかり言って、なんにもわかっちゃいない、しかもわかっていないことが、自分でも気がつかない。いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ! これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です、──山から転落するか、鐘楼からとび下りるようなつもりで決意したが、犯罪に赴くときは足が地についていなかったようです。入ったあとドアをしめるのを忘れたが、とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って。殺したが、金をとる勇気がなかった、しかもやっと盗んだものは、石の下に埋めた。ドアのかげにかくれて、外からドアを叩かれたり、呼鈴を鳴らされたりしたとき、苦痛に堪えたが、それだけでは足りなかった、──そして、もう空き家になった部屋へ、なかば熱に浮かされながら、呼鈴の音を思い出しにやって来る、そして背筋の冷たさをもう一度経験したい気持になったわけだ……まあ、それは病気のせいだとしよう、だがそれだけではない。殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている、──いやいや、とてもミコライなんかのできることじゃありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃない!」
この最後の言葉は、それまでがいかにも否定するような調子だっただけに、あまりにも意外だった。ラスコーリニコフはぐさりとえぐられたように、身体中がふるえだした。
「じゃ……誰が……殺したんです?」彼は堪えきれず、あえぎながら、ふるえる声で尋ねた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはこの質問がまったく思いがけなかったらしく、びっくりしてしまって、思わずぐらッと椅子の背に倒れかかった。
「誰が殺したって?……」と、自分の耳が信じられないように、彼は聞き返した。「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたが殺したんですよ……」彼はほとんど囁くように、確信にみちた声でこうつけ加えた。
ラスコーリニコフはソファからとび上がって、二、三秒突っ立っていたが、一言も言わずにまた腰を下ろした。小刻みな痙攣が不意に彼の顔をはしった。
「唇がまた、あのときみたいに、ひくひくふるえてますね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはかえってあわれむような口調で呟いた。「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしの言葉をまちがって解釈したらしいですな」彼はちょっと間をおいてから、こうつけ加えた。「それでそんなにびっくりしたんです。わたしがここへ来たのは、もうすっかり言ってしまって、事件をはっきりさせるためですよ」
「あれはぼくが殺したんじゃない」とラスコーリニコフは、悪いことをしているところをおさえられて、びっくりした子供のように囁いた。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたですよ、他の誰でもありません」とポルフィーリイはきびしく、確信をもって囁いた。
二人とも口をつぐんだ、そして沈黙はおかしいほど長く、十分ほどつづいた。ラスコーリニコフは卓に肘をついて、黙って指で髪をかきむしっていた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはきちんと腰を下ろして、待っていた。不意にラスコーリニコフが憎悪の目でじろりとポルフィーリイを見た。
ソーニャは無意志的にラスコーリニコフの無意識を抉るが(つまり彼女の言葉は自意識にもともと入って来るはずのなかった他者性を帯びるということだが)、ポルフィーリイは意図的にそれをやる。それはあたかも、「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という位相にある語り手が、ポルフィーリイに憑依したかのようだ。少なくとも、ここでポルフィーリイが語り手ないし作者並みにラスコーリニコフの無意識(「犯人は俺だ」)を見透かしているのは確かだろう。ポルフィーリイってのは緊迫した対決的対話場面を創造するために或る意味虚構の作者が変装した登場人物でもあるわけ。ポルフィーリイの身振りの描写にある「確信にみちた声」や「あわれむような口調」はあたかも作者が自作の登場人物を手玉に取っているかのようである。ちなみにポルフィーリイはあまりにも多くのことを見抜いていて知的でもあるので、本音で問いたいことを抑圧=偽装しつつ相手を挑発する(「とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って。殺したが、金をとる勇気がなかった、しかもやっと盗んだものは、石の下に埋めた」──これはもう間接的にラスコーリニコフが犯人だと挑発しているようなものだ!)こともお手の物である。
当然ながらラスコーリニコフの側に決定的に抑圧された秘密が設定されていなければ、ポルフィーリイのような登場人物が生きることはあり得ないので、そもそも人間の自意識に焦点を合わせるのではなく無意識にこそ注目して虚構作品を作り上げるというドストエフスキーのア・プリオリな志向があって初めて、上のような「ぐさりとえぐられたように、身体中がふるえ」る瞬間を描き出すことができると言えよう。
ところで引用部の前半部分は、緊迫した対話場面において相手に肉迫する長広舌がどのようなスタイルを取るかという点で参考になる細かな技術が光る。「あなたはどう見ましたかな!」といった呼び掛け、しかも相手の名前を呼びつつの──「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ!」「いやいや、とてもミコライなんかのできることじゃありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃない!」──主張の強調や否定はまあ常套手段として、対話相手とある想像的なイメージを共有しようとする想像と思索の語りをここでポルフィーリイは駆使している。注目に値する。「ドアのかげにかくれて、外からドアを叩かれたり、呼鈴を鳴らされたりしたとき、苦痛に堪えたが、それだけでは足りなかった、──そして、もう空き家になった部屋へ、なかば熱に浮かされながら、呼鈴の音を思い出しにやって来る、そして背筋の冷たさをもう一度経験したい気持になったわけだ……まあ、それは病気のせいだとしよう、だがそれだけではない。殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている、……」──ここで使われている「……わけだ」の文末辞は良いね。
●『罪と罰』下236-239頁
第五部第四章
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彼女はこらえきれなくなって、不意にさめざめと泣きだした。暗い憂いにしずんだ目で、彼はそれを見つめていた。五分ほどすぎた。
「たしかに、きみの言うとおりだよ、ソーニャ」やがて彼はしずかに言った。急に態度が変って、不自然なふてぶてしさも、負け犬が遠くから吠えたてるような調子も、消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。「ぼくは昨日自分できみに、許しを請いに来るんじゃない、とことわっておきながら、もうはじめから許しを請うているようなものだ……ルージンのことも、御意のことも、ぼくは自分のために言ったんだよ……これはぼくが許しを請うたんだよ、ソーニャ……」
彼は笑おうとした、しかしそのいじけた微笑には何か力ない、言いたりないものが見えた。彼はうなだれて、顔を両手でおおった。
すると不意に、奇妙な、思いがけぬ、ソーニャに対するはげしい嫌悪感が、彼の心をよぎった。彼は自分でもこの感情にはっとして、おどろいたように、不意に顔を上げて、じっと彼女を凝視した。すると彼の目は、自分に注がれている不安そうな、痛々しいまでに心をくだいている彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の嫌悪はまぼろしのように消えてしまった。あれはそうではなかった。彼は感情を思いちがいしたのだった。あれはただ、あの瞬間が来たことを意味したにすぎなかったのだ。
彼はまた両手で顔をおおって、うなだれた。彼は不意にさっと蒼ざめた。そして椅子から立ちあがると、ソーニャを見つめて、何も言わずに、機械的に彼女のベッドに坐りかえた。
この瞬間は、彼の感覚の中では、老婆の背後に立って、輪から斧をはずし、もう《一瞬の猶予もならぬ》と感じたあの瞬間に、おそろしいほど似ていた。
「どうなさったの?」とソーニャはすっかり恐くなって、尋ねた。
彼は何も言うことができなかった。彼はこんなふうに宣言することになろうとは、ぜんぜん、夢にも思っていなかったので、いま自分がどうなったのか、自分でもわからなかった。彼女はそっと近よって、彼のそばに坐り、彼から目をはなさないで、じっと待っていた。胸がどきどきして、じーんとしびれた。彼女はもう堪えられなくなった。彼は死人のように真っ蒼な顔を彼女のほうへ向けた。唇が何か言おうとして、力なくゆがんだ。恐怖がソーニャの心を通りすぎた。
「どうなさったの?」と、彼女はわずかに身をひきながら、くりかえした。
「なんでもないよ、ソーニャ。恐がらなくていいんだよ……つまらんことだ! 嘘じゃない、よく考えれば、──つまらんことさ」と彼は夢遊病のように呟いた。「どうしてぼくは、きみだけを苦しめに来たんだろう?」彼女を見つめながら、不意に彼はこうつけ加えた。「ほんとに。どうしてだろう? ぼくはたえず自分に問いかけているんだよ、ソーニャ……」
彼は十五分まえにはこう自分に問いかけたかもしれないが、いまはすっかり力がぬけてしまって、全身にたえまないふるえを感じながら、ほとんど無意識にしゃべっていた。
「まあ、ずいぶん苦しんでいらっしゃるのねえ!」彼女は彼をしげしげと見まもりながら、痛ましそうに言った。
「みんなつまらんことだよ!……ところで、ソーニャ、(彼はどういうわけか不意に、妙にいじけたように力なく、二秒ほどにやりと笑った)おぼえてるかい、昨日きみに言おうとしたことを?」
ソーニャは不安そうに待った。
「ぼくは昨日別れしなに言ったろう、もしかしたら、もうこれっきり会えないかもしれん、で、もしも今日来るようなことがあったら、きみに……誰がリザヴェータを殺したか、おしえてやるって」
彼女は急に身体中ががくがくふるえだした。
「だから、それを言いに来たんだよ」
「じゃ、昨日言ったのはほんとでしたのね……」と彼女はやっとささやくように言った。「いったいどうして、あなたはそれを知ってるの?」彼女ははっと気がついたように、急いで尋ねた。
「知ってるんだよ」
彼女は一分ほど黙っていた。
「見つけた、の、そのひとを?」と彼女はおそるおそる尋ねた。
「いや、見つけたのではない」
「じゃ、どうしてあなたはそれを知ってるの?」と彼女はまた聞きとれないほどの低声で尋ねた、それもまた一分ほどの沈黙の後だった。
彼は彼女を振り向いて、射抜くような目でじいっとその顔を見つめた。
「あててごらん」と彼は先ほどのゆがんだ力ないうす笑いをうかべながら、言った。
痙攣が彼女の全身を走りぬけたかに見えた。
「まあ、あなたったら……わたしを……どうしてそんなに……おどかすの?」彼女は幼な子のように、無心に笑いながら、言った。
「つまり、ぼくはその男の親しい友人だということになるわけだ……知っているとすればね」ラスコーリニコフはもう目をそらすことができないように、執拗に彼女の顔に目をすえたまま、話をつづけた。「その男はリザヴェータを……殺す気はなかった……老婆が一人きりのときをねらって……行った……ところがそこへリザヴェータがもどって来た……男はそこで……彼女も殺したんだ」
さらにおそろしい一分がすぎた。二人はじっと目を見あったままだった。
核心のことが言われないままに進行する会話場面の一例。言うまでもなくここでラスコーリニコフは自分の犯罪のことをぎりぎりまで明かさずに会話を進めている──引用部の最後の方になっても「つまり、ぼくはその男の親しい友人だということになるわけだ……」などと他人に仮託するようなことをやっている──、つまりは表面上の言葉の交錯がすべてその屈折した反映でしかあり得ないような何かが、この場面では水面化で抑圧されながらも存在していて、それが二人の会話に特異な様相を与えているわけだ。
注目すべきは、ここでラスコーリニコフは必ずしもソーニャに向ってのみ話しているわけではない、ということだろうか。核心のことをあからさまに言うことができない以上、彼はソーニャに対して「何も言うことができなかった」り、「唇が何か言おうとして、力なくゆがんだ」りと挫折を繰返しながら、ソーニャと真正面から向き合うことを避けている。或いは夢遊病者のようになりながら、「どうしてぼくは、きみだけを苦しめに来たんだろう?」という明らかにソーニャに対しては相応しくない(自分に対してこそふさわしい)疑問を思わず呟いてしまったりする。ということは、一般的に言って、言われるべき核心が無意識に抑圧されて言われないままでいる会話場面においては、「必ずしも相手に向ってのみ話しているわけではない」状態が続かざるを得ないのだろうか。そうした会話場面では一体に核心が開示されるクライマックスに至るまでは人々の目を見つめあわせるべきではないのだろうか。技法的にはそのように言いうるかもしれない。
さらには二人の身振りについても注目してみよう。あまりにも多くのことが抑圧されている会話場面においては、能動的な自意識がつねに無意識からの衝動で浸食を受けているので、身振りもまた「ほとんど無意識に」為されるものが頻出せざるを得ない。とりわけソーニャの身振り、急に身体中ががくがくふるえだしたり、おそるおそる尋ねたり、聞きとれないほどの低声で言ったり、「幼な子のように、無心に笑いながら、言った」りするのは意識的な所作ではあり得ない。同様にこうした身振りの元になっている彼らの情動についても、能動的・意識的ではあり得ないと言うことができるだろう──ラスコーリニコフに生じる、ソーニャに対する激しい嫌悪感や、もう《一瞬の猶予もならぬ》という感覚、いま自分がどうなっているのか自分でもわからないというぼんやりした感じ、そしてソーニャの心を通り過ぎる経験のような「恐怖」、いずれも「思いがけぬ」ものとして二人を襲ったと記述されている。こうした身振りや情動の非-能動性はもちろん、言われるべき核心が無意識に抑圧されて言われないままでいる会話場面に当然伴うものと考えられる。
ちなみに、ここで言われるべき核心を抑圧しているのはソーニャの側でもあるだろう。彼女はうすうす誰がリザヴェータを殺したか気づいているのだが、それを自意識内で明白に言語化することは避けている。無意識では勘付いている。そうでなければラスコーリニコフが「誰がリザヴェータを殺したか、おしえてやる」と言われて非-能動的に身体がふるえだしたり、答えを絞り込むような形で「見つけた、の、そのひとを?」と尋ねることもまた、あり得ない。
余談。「「じゃ、どうしてあなたはそれを知ってるの?」と彼女はまた聞きとれないほどの低声で尋ねた、それもまた一分ほどの沈黙の後だった。」──この段落はちょっと工夫されている。「いや、見つけたのではない」というラスコーリニコフの科白から直につづけているくせに、そこに「一分ほどの沈黙」が挟まっていたことを後から告げるのだから。瞬間的な錯時法?
●『罪と罰』上452-454頁
第三部第五章
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ラスコーリニコフはほんとうに何も知らなかった。
「おやおや、じゃあなたは原稿料を請求してかまいませんよ! しかし、変った人ですねえ! あなたに直接関係のあるこんなことまで知らないほど、孤独生活に徹しきるなんて。まるで嘘みたいですよ」
「ブラヴォー、ロージャ! ぼくも知らなかったぜ!」とラズミーヒンが叫んだ。「今日さっそく図書館へかけつけて、その号を借りよう! 二月まえだって? 日付は? まあいい、さがすよ! こういう男だよ! 言いもしないんだ!」
「だが、ぼくの論文だとどうしてわかりました? サインはイニシアルだけのはずですが」
「それが偶然なんですよ、それも二、三日まえ、編集者から聞いたんです、知り合いの……おもしろくて熟読しましたよ」
「たしか、犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態を考察したものだと思いましたが」
「そのとおりです、そして犯罪遂行の行為はかならず病気を伴うものだ、と主張しています。きわめて、きわめて独創的です、が……ぼくが特に興味をもったのは、論文のその部分ではありません、論文の最後に何気なく書かれているある思想です、それも、残念なことに、ぼんやり、暗示してあるだけですが……思いだしましたか、要するに、この世の中にはいっさいの無法行為や犯罪を行うことができる……いやできるというのじゃなく、完全な権利をもっているある種の人々が存在し、法律もその人々のために書かれたものではない、とかいうような暗示でしたが」
ラスコーリニコフは自分の思想に無理にたくらまれた歪曲に苦笑いをもらした。
「なに? なんだって? 犯罪に対する権利? じゃ、《環境にむしばまれた》ためじゃないじゃないか?」とラズミーヒンはいささか呆気にとられたような顔つきで、聞きかえした。
「いや、いや、そうとも言えないさ」とポルフィーリイは答えた。「問題は、彼の論文によるとすべての人間はまあ《凡人》と《非凡人》に分けられる、ということにしぼられているんだ。凡人は、つまり平凡な人間でるから、服従の生活をしなければならんし、法律をふみこえる権利がない。ところが非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利をもっている。たしかこういう思想でしたね、ぼくの読みちがいでなければ?」
「なんだいそれぁ? そんなこと、あり得ないじゃないか!」とラズミーヒンはけげんそうに呟いた。
ラスコーリニコフはまた失笑した。彼は相手が何をたくらみ、どこへ誘導しようとしているのか、すぐにさとった。彼は自分の論文をおぼえていたのである。彼は挑戦を受ける決意をした。
「ぼくの書いた意味は、それとはすこしちがいますね」と彼は構えないで、ひかえ目に語りはじめた。……
まず注目すべきポイントは、ポルフィーリイの科白の、つねに言外の意味を匂わせているかのような皮肉っぽいスタイル。「しかし、変った人ですねえ! あなたに直接関係のあるこんなことまで知らないほど、孤独生活に徹しきるなんて。まるで嘘みたいですよ」という余計な言葉は、あたかもラスコーリニコフが極端に「孤独生活に徹しきる」のは嘘でなければ、何か別に理由があるとでも言いたいかのようだ(だが、それは過敏になればそうとも読めるという程度の暗示。その辺りの線引きがドストエフスキーは巧い!)。また、ラスコーリニコフの論文の内容を要約してみせる科白──ちなみにここでポルフィーリイはあたかもラスコーリニコフを挑発するかのように喋りながらリアルタイムで彼に呼び掛けている、「思いだしましたか、……」「たしかこういう思想でしたね、ぼくの読みちがいでなければ?」──ではラスコーリニコフも苦笑するように、半ば意図的な歪曲がたくらまれている、あたかもその思想を考え出したラスコーリニコフ自身が「無法行為」を行ったのではないかとでも言うかのように。
これらの言外の意味の匂わせに対して、もちろんラスコーリニコフは鋭敏に見抜く──といっても、その鋭敏さこそがポルフィーリイの疑惑を増すのではないか?──のだが、ラズミーヒンはまったく気が付かずに素朴に反応する。このラズミーヒンとラスコーリニコフの反応の違いが面白い。「なに? なんだって? 犯罪に対する権利? じゃ、《環境にむしばまれた》ためじゃないじゃないか?」──このようにあまりにも素朴に反応して間抜けた意見や誤読・誤解を連発する「ワトソン役」がいるからこそ、ポルフィーリイの暗示もそれを鋭敏に嗅ぎ付けるラスコーリニコフの「挑戦を受ける決意」も際立つというものだ。ここでポルフィーリイがラズミーヒンとラスコーリニコフに均等に話し掛けているようでありながら、その実ラズミーヒンなぞまったく相手にしていないという演技性にも注目しよう。ラズミーヒンはもちろん、そのことに気付かないのだが。
余談。ラスコーリニコフとポルフィーリイの次のやりとり──「だが、ぼくの論文だとどうしてわかりました? サインはイニシアルだけのはずですが」「それが偶然なんですよ、それも二、三日まえ、編集者から聞いたんです、知り合いの……おもしろくて熟読しましたよ」──これは細かい技法ながら、結構重要。話の流れから言うとこのやりとりは要らない。ラスコーリニコフの論文をポルフィーリイが読んだという事実が重要なので、サインはイニシアルだけだったとか、編集者から聞いたとかいった迂回は要らないはず。これは何かというと、「わざと障害を設けて事実成立のリアリティを増す」技法だと言い得る。つまりたまたまポルフィーリイがラスコーリニコフの論文を読んでいたというのは、ここで初めて明らかにされた事実であることも相俟って、一面後ご合主義的に見える。だから一旦はその事実の成立の障害になるような細部(サインはイニシアルだけ)を虚構しておいて、それを乗り越えることができたという事情(編集者から聞いた)をさらに虚構するという手続きによって、ご都合主義的な設定的「単純さ」を緩和して、リアリティをなんとか補強しようとしているわけだ。些細だけれど重要な技法。(ちなみに、これはラスコーリニコフがリザヴェータの話をたまたま立ち聞きする時の「ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場」という設定の虚構でも用いられている。)
●『罪と罰』上279-281頁
第二部第六章
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「へッ、まったく変ってるよ!」ザミョートフはひどくまじめな顔でくりかえした。「どうやら、まだうなされているようですね」
「うなされてる? そんなことはないよ!……じゃぼくは変に見えるんだね? ふん、じゃぼくに興味があるだろう、えッ? あるだろう?」
「あるね」
「つまり、ぼくが何を読んでいたか、どんなことをしゃべったか? それに、新聞だってこんなにたくさん持ってこさせた! 怪しいだろう、え?」
「まあ、どうぞ」
「聞きたくてうずうずだろう?」
「何がうずうずなんです?」
「何がうずうずかは、あとで話すとして、先ず説明しよう……いや、《白状》するといったほうがいいかもしれん……待てよ、それもしっくりこない、《供述しますから、記録してください》──これだよ! それじゃ、何を読み、何に興味をもち……何をさがし……何を調べていたか、供述しよう……」ラスコーリニコフは目をそばめて、ちょっと間をおいおた。「調べていたのは──ここへ寄ったのもそのためなのだが、──官吏の未亡人殺しの事件ですよ」彼はついに、額をつきあわせるほどに顔をザミョートフの顔に近づけて、ほとんど囁くように言った。ザミョートフは身じろぎもせず、顔を相手の顔からはなそうともしないで、じいッとまともにラスコーリニコフの顔を見守っていた。あとでザミョートフにもっとも不思議に思われたのは、ちょうどまる一分間二人の間に沈黙がつづき、そしてちょうどまる一分間こうしてにらみ合っていたことである。
「それを読んだのが、どうしたっていうんです?」不意にザミョートフはなんのことやらよくわからず、苛々して叫んだ。「ぼくになんの関係があるんです! それがどうしたっていうんです?」
「そらあの老婆ですよ」とラスコーリニコフはザミョートフの叫び声にぴくりともせず、やはりほとんど囁くようなおし殺した声でつづけた。「ほら、署でその話がでたとき、ぼくが卒倒したでしょう、あの老婆ですよ。どうです、こういえばおわかりでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……《おわかりでしょう》です?」とザミョートフはうろたえ気味に言った。
石のように動かぬ真剣なラスコーリニコフの顔が一瞬くずれた、そして不意に、もう自分で自分を抑えつける力をぜんぜん失ってしまったように、またさっきのヒステリックな哄笑を爆発させた。そしてその刹那、斧を手にしてドアのかげにかくれていた数日前のあのときのことが、まざまざと彼の記憶によみがえった。ドアの掛金がかたかたおどっていた、ドアの外では彼らが口ぎたなくののしりながら、ドアを押したりひいたりしていた、あのとき突然彼は、とび出して、彼らをどなりつけ、罵倒し、ペロリと舌を出して、からかい、笑って、笑って、笑いとばしてやりたい気持になったのだった!
「あなたは、気ちがいか、さもなければ……」ザミョートフはそう言いかけて──はっと口をつぐんだ。不意に頭の中にひらめいたある考えに、ぎょッとしたらしい。
「さもなければ? 《さもなければ》何です? え、何です? さあ、言ってください!」
「何でもないですよ!」とザミョートフは腹立たしげに答えた。「ばからしい!」
二人は黙りこんだ。突然の発作的な哄笑の爆発がすぎると、ラスコーリニコフは急に憂鬱そうな暗い顔になった。彼はテーブルに肘をついて、頭を掌におとした。ザミョートフのことなどすっかり忘れてしまったふうだった。かなり長い沈黙がつづいた。
対決的対話場面の傑作の一。
ドストエフスキーはほとんど敵対関係にあるような二者の対話においても、直接的な対立としては描かない。対立というよりも、リアルタイムな挑発関係として描くのが常だ。
ここでのラスコーリニコフの科白に共通している点は何か。それは、彼の発話のすべてが「真に言ってしまいたいことだが絶対に言うことのできないこと」の偽装になっているという点である。ラスコーリニコフの発言の裏には「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」「実際ぼくは犯人でなければやらないようなことばかりやっているじゃないか、あまりにも疑わしいだろう?」という、実際に発話してしまえばあまりにも露骨で危うい問いが横溢している。だがそれが直接口にされてしまうと会話がそこで終わってしまう(単に拒絶されてしまう)ので、偽装した形で相手に差し出す。そこには相手の無意識に食らいついてそれを刺激する隠微な意図もあると看做すべきだろう。つまり、「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という問いを偽装して放たれるラスコーリニコフの挑発的発言を受けて、ザミョートフの無意識も侵蝕を受け、実は彼の中で抑圧されていた「ラスコーリニコフは殺人犯ではないか」というそれまでは口にすることも言語化して意識することもできなかった疑いが徐々に浮上してくるのである(「「あなたは、気ちがいか、さもなければ……」ザミョートフはそう言いかけて──はっと口をつぐんだ。不意に頭の中にひらめいたある考えに、ぎょッとしたらしい。」)。「偽装された挑発」の発話には、ただ直接的な対立や拒絶を迂回するだけではなく、相手の無意識に秘かに侵入することによって相手を共犯関係に引入れる=相手と何かの想像力を共有しようとする、という効果もある。
また、この偽装には諧謔的なユーモアが伴うこともあると付言しておこう。「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という発言はあまりにも直接的で切実であるがゆえに、そこには笑いの差し挟まる余地はまったくない。しかし例えば「何がうずうずかは、あとで話すとして、先ず説明しよう……いや、《白状》するといったほうがいいかもしれん……待てよ、それもしっくりこない、《供述しますから、記録してください》──これだよ!」──こうした発言には真実をぎりぎりとのところで屈折させて偽装する遊び心さえ含まれている。「どうです、こういえばおわかりでしょう?」という自分ではなく相手に答えを出させるリアルタイムの挑発にも狡知な遊びが含まれている。そしてこの遊び心は、「石のように動かぬ真剣なラスコーリニコフの顔が一瞬くずれた、……」の段落の地の文において、フォークナー的なフラッシュバックで「斧を手にしてドアのかげにかくれていた」あのときの「ペロリと舌を出して」「笑いとばしてやりたい気持」の喚起と重ね合わされることによって、「偽装された挑発」の本質的な邪悪さ──誠実さや率直さから懸け離れた性格──を明らかにするのである。(ところで、このフォークナー的なフラッシュバックが、無意志的な感覚の喚起ではなくて、記憶における感情的な類似性によってもたらされているところは、フォークナーとは異なる。)
ちなみに、このような「偽装された挑発」に基づく対決的対話、無意識の食い合いのような対話においては、語り手は「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の位相に立つ必要がある。でなければラスコーリニコフのフラッシュバックも、彼の「不意」のヒステリックな哄笑も、またザミョートフの「もっとも不思議に思われたのは、ちょうどまる一分間二人の間に沈黙がつづき、そしてちょうどまる一分間こうしてにらみ合っていたことである」という感慨や「はっと口をつぐむ」振舞いも、正確に描くことはできない。これらは彼らの現前的な自意識に属するものではないからだ。特に地の文での身振りの描写は、対決的な食い合いのなかで互いの無意識が可塑されて飛び出てきたもの(彼ら自身ではほとんど自覚できていないもの)と考えてよい。
あとは、ラスコーリニコフの内部の「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という本音は、プロット上の文脈から彼に付与されていることにも注目。文体だけの問題ではない。
●『罪と罰』上51-52頁
第一部第三章
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シチーがはこばれて来ると、彼はそれをすすりはじめた。ナスターシヤはソファにならんでかけて、しゃべりだした。彼女は田舎生れで、ひどいおしゃべりだった。
「プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナがね、あんたを警察に訴えるつもりなのよ」と彼女は言った。
彼はひどくしぶい顔をした。
「警察? なんのために?」
「金は払わないし、部屋はあけないからよ。なんのためかなんて、わかりきってるじゃないの」
「チエッ、これでまだ足らんのか」と彼は歯をくいしばって、つぶやいた。「いや、なにいまはその……ちょっと都合がわるいんだよ……ばかな女だ」と彼は大声でつけ加えた。「今日おかみのところへ行って、話すよ」
「そりゃおかみさんは馬鹿だわよ、わたしみたいにさ。じゃあんたは何なの、いくら利口だって、嚢みたいにごろごろねそべってばかりいて、なんにもしてやしないじゃないの? まえには、家庭教師をしてるとか言ってたけど、この頃はどうして何もしないのさ?」
「しているよ……」としぶしぶ、ぶっきらぼうに、ラスコーリニコフは言った。
「何をしてるの?」
「しごとだよ……」
「どんなしごと?」
「考えごとさ」彼はちょっと間をおいて、まじめな顔で答えた。
ナスターシヤはいきなり身体をおりまげて笑いだした。彼女は笑い上戸で、笑わされると、身もだえし、全身をゆすりながら、胸がへんになるまで、声も立てずに笑いころげるのである。
「お金がたくさん入ることでも、考えついたのかい?」と彼女はやっと言った。
「靴がなけりゃ子供たちに教えにも行けん。それにいやなこった」
「でもあんた、井戸に唾なんか吐くもんじゃないわよ」
「子供を教えたって銅貨にしかならんよ。銅貨で何ができる?」と彼は、自分の考えに答えるように、気のない受け答えをつづけた。
「それじゃ何さ、一度に大金をにぎりたいというの?」
彼は異様な目で彼女を見た。
「そう、大金を」彼はちょっと間をおいて、きっぱりと答えた。
「まあ、せかないことよ、びっくりするじゃないの。おお恐い。それより固パンを買ってくる、それとももういらない?」
「どうでもいいよ」
何気ない会話場面だが、そういう場面における関係性というものを考えてみよう。どうもここでのナスターシヤはラスコーリニコフに対して想像力の点でも知性の点でも劣る存在(しかし「ひどいおしゃべり」なので会話は展開する)として位置づけられているようで、二人の言葉は分裂しながら並走せざるをえない。
ラスコーリニコフの方は小説冒頭から気に掛けている「あのこと(犯罪計画)」を想像しつづけているのだが、そんなことを、ナスターシヤは感知するはずもない。そのため、ラスコーリニコフがナスターシヤに掛ける言葉はほとんど独り言に近くなっている。例えば「チエッ、これでまだ足らんのか」というつぶやきはあたかも自分一人だけで毒づいたかのようで、科白のアクセントの向きは対話相手のナスターシャではなくて自分の方を向いている。また、ラスコーリニコフが万感の想いをこめて「考えごとさ」(ちょっと間をおいて、まじめな顔で──)と言っても、想像力が欠如しているナスターシヤはラスコーリニコフが考えごとをしているということを真剣に受け取らず、爆笑する(余談。ここで語り手による習慣的注釈──「彼女は笑い上戸で、笑わされると、身もだえし、全身をゆすりながら、胸がへんになるまで、声も立てずに笑いころげるのである」──がついているのにも注目。「彼女は田舎生れで、ひどいおしゃべりだった」という語り手の注釈と同様)。二人は同じ認識レベルを前提・共有して対話の言葉を噛み合わることができていないわけだ。さらに、「「子供を教えたって銅貨にしかならんよ。銅貨で何ができる?」と彼は、自分の考えに答えるように、気のない受け答えをつづけた。」──これもナスターシヤに修辞疑問文的に問いかけながら、実は自問自答しているふうに読める。つまりナスターシヤではおよびもつかないラスコーリニコフの想像力(そんなことはもうすでに自分に何度も問いかけ、考えて、想像済みなのだ)を示していると同時に、対話における言葉の宛て先は必ずしも対面している相手ではないということが小説技法的に可能になっている。
「そう、大金を」の科白も同様に、対話相手のナスターシヤの意識に巻き込まれることなく、ほとんど一人ごとのように二人の間に放たれる言葉だ。そしてここでの地の文のすべては──「彼はひどくしぶい顔をした。」「彼は歯をくいしばって、つぶやいた。」「彼は、自分の考えに答えるように、気のない受け答えをつづけた。」「彼は異様な目で彼女を見た。」「彼はちょっと間をおいて、きっぱりと答えた。」──ナスターシヤと同じ場所にいて会話を交しているにもかかわらずラスコーリニコフの意識が孤独であることを、逆説的に示す効果をもっている。その孤独はナスターシヤには表面的にしか伝わらない(「おお恐い」)。
ナスターシヤの言葉はきちんと対話相手のラスコーリニコフの方を向いているが、彼女は知性も想像力もないので、ラスコーリニコフの反応に対して通り一遍の解釈しかできない(それによってますます二人の言葉の方向性は逸れていく)。反応ということで言えば、ラスコーリニコフの方は、彼女の言葉を自分の独り言を引き出す契機のようにしか扱っていないかのようだ。まともに彼女の言葉に答える時には、あくまで「しぶしぶ、ぶっきらぼうに」発言されており、相手の言葉・意識と自分の言葉・意識をまともに噛み合わせるつもりがないことが地の文で強調される。このように対話に参加している登場人物たちの認識レベルがあまりに異なるので、双方の科白のアクセントがてんでばらばらの方向を向いているということが、ドストエフスキーの作品では多い。
●『罪と罰』下428-431頁
第三部第四章
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ラズミーヒンはポルフィーリイを訪れる途々、いつになく興奮していた。
「きみ、実にすてきだよ」と彼は何度かくりかえした。「ぼくはうれしいよ! うれしいんだよ!」
《いったい何がうれしいんだ?》とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「きみもあの婆さんのところへ質草をもってったなんて、ぼくはまったく知らなかったよ。それで……それで……もうまえまえからか? つまりきみが婆さんのところへ行ったのはもう大分まえかい?」
《まったく、なんて無邪気な馬鹿だ!》
「いつって?」ラスコーリニコフは思いだそうとして、ちょっと足をとめた。「そう、たしかあの事件の三日ほどまえだったよ。でも、ぼくはいま請け出しに行くんじゃないぜ」と彼はなぜかあわてて、品物のことがいかにも気がかりらしく、言った。「だってぼくはまたもとのもくあみ、一ルーブリ銀貨一枚しかないんだよ……昨日のいまいましい夢遊病のおかげでさ!……」
夢遊病という言葉を彼は特に意味ありげに言った。
「うん、そうだ、そうだ」とラズミーヒンはあわてて、何がそうなのかかわらずに相槌を打った。「なるほど、それでわかったよきみがあのとき……ショックを受けたわけが……知ってるかい、きみはうわごとにまで指輪とか鎖とか、しきりに言ってたんだぜ!……うん、そうだったのか、なるほどねえ……それでわかったよ、やっとすっかりわかったよ」
《そうか! やっぱりやつらの頭にはあれがひっかかっていたんだな! 現にこの男なんかおれのためならはりつけもいとわないくせに、それでもやはり、おれが指輪のうわごとを言ったわけが、わかったと、こんなに喜んでるじゃないか! してみるとたしかに、やつらはみなそう思いこんでいたんだ!……》
「だが、いまいるだろうか?」と彼は声にだして言った。
「いるよ、きっといるよ」とラズミーヒンはあわてて答えた。「きみ、会えばわかるけど、いい男だぜ! すこしごついが、といって人間はねれているんだぜ、ごついというのは別な意味でだよ。利口な男だよ、頭のいいことは無類だが、ただものの考え方に独特のくせがある……疑り深いんだな、懐疑論者で、毒舌家で……人を欺すのが好きで、いや欺すというじゃない、からかうのが好きなんだよ……なあに、古くさい実証的方法さ……だがしごとはよくできるよ、たいした腕だ……去年ある事件を、やはり証拠が何もない殺しだがね、みごとに解決したよ! とにかく、ひどく、ひどく、きみに会いたがってるよ!」
「でも、ひどく会いたがってるというのは、どうしてだろうね?」
「といって、別にその……実は、最近、きみがあんな病気をしたろう、それでぼくはしぜんきみのことをいろいろと話題にしたわけだ……それで、彼も聞いたわけさ……そして、きみが法科の学生で、いろんな事情で卒業ができないでいることを知ると、《実に気の毒なことだ!》なんて言ってたぜ。そこでぼくはこう思うんだよ……つまりこうしたことがみないっしょになったからさ、あれだけってことはないよ。昨日ザミョートフが……ねえ、ロージャ、ぼくは昨日きみを家へ送って行く途中、酔いにまかせて何やらくだらんことをごちゃごちゃしゃべったろう……それでぼくは、きみがそれを大げさに考えてやしないかと……」
「それってなんだい? ぼくが気ちがいと思われてるってことか? なに、それが本当かもしれんさ」
彼は無理に笑った。
「そうだよ……そうだよ……チエッ、何言ってんだ、そんなことじゃないよ!……つまり、ぼくがしゃべったことは、あのとき言ったほかのこともひっくるめてだ、ぜんぶでたらめだよ、酔ってたんだ」
「何を言いわけしてるんだ! そんなことはもう聞きあきたよ!」とラスコーリニコフは大げさにいらいらして叫んだ。しかし、それはいくぶん見せかけもあった。
「知ってるよ、知ってるよ、わかってるよ。信じてくれよ、よくわかってるんだよ。口にするのさえ恥ずかしい……」
「恥ずかしいなら、言うなよ!」
二人は黙りこんだ。ラズミーヒンは有頂天などという状態をこえていた。そしてラスコーリニコフは苦々しい気持でそれを感じていた。ラズミーヒンがいまポルフィーリイについて言ったことも、彼を不安にした。
《こいつにも哀れっぽいことを言わにゃならんな》と彼は蒼ざめて、胸をどきどきさせながら考えた。《しかも、なるたけ自然に。いちばん自然なのは何も言わないことだ。つとめて何も言うまい! いや待てよ、つとめてということはまた不自然になる……まあいいや、どういうことになるか……成り行きを見るとしよう……いまにわかることだ……ところで、おれが行くということは、いいことか、わるいことか? とんで火に入る夏の虫ってやつかな。胸がどきどきする、これがどうもおもしろくない!……》
「あの灰色の建物だよ」とラズミーヒンが言った。
《もっとも重大なのは、おれが昨日あの婆ぁの部屋へ行って……血のことを聞いたのを、ポルフィーリイが知ってるかどうかということだ。まっさきにこれを知ることだ。部屋へ入ったら、とっさに、顔色でこれを読むのだ。さもないと……どんなことがあっても、これはさぐるぞ!》
「おい、きみ」ととつぜん彼はずるそうなうす笑いをうかべながら、ラズミーヒンを見た。「きみは今日は朝から何かこうむやみに興奮してるようだな? そうじゃないか?」
「興奮て何さ? おれは別にちっとも興奮なんかしてないぜ」ラズミーヒンはぎくっとした。
まず一点細かいことを指摘しておくと、「きみ、会えばわかるけど、いい男だぜ!……」からのラズミーヒンの科白は、この後登場するポルフィーリイの人物の兆候的な描写にもなっているということ。「ただものの考え方に独特のくせがある……疑り深いんだな、懐疑論者で、毒舌家で……人を欺すのが好きで、いや欺すというじゃない、からかうのが好きなんだよ……」「だがしごとはよくできるよ、たいした腕だ……去年ある事件を、やはり証拠が何もない殺しだがね、みごとに解決したよ!」──こうした言葉は明らかにポルフィーリイがラスコーリニコフにとって強敵であることを作為的に暗示する。こういう細かな伏線をちゃんと張って物語の実在感を補強して行くことを、ドストエフスキーは忘れない。
で、引用部はというと、科白がつねに二重に響くというドストエフスキー作品内の対話場面に典型的な現象が見られるケースとなっている。しかもその二重性が、科白のエクリチュールの中での屈折や歪みによって表現されているというよりは、科白、地の文、そして《……》で括られた内語という形式上のレイヤーによって表現されているという点でその二重性が分り易くなっていること、さらにその二重性がラスコーリニコフとラズミーヒンの間の認識の落差を利用していること、そうした特徴が引用部には見られる。
分析的に見て行くと、まず科白だけを抜き出して読めば、どうでもいいことに拘って友人を疑いかけていたラズミーヒンと、それに対して苛々しているラスコーリニコフという構図だけが浮かび上がるのだが、ラズミーヒンが有頂天になっているのを内語で《いったい何がうれしいんだ?》と秘かに探ったり、会話の途中で《そうか! ……してみるとたしかに、やつらはみなそう思いこんでいたんだ!……》とやはり内語で=顔には出さずに気付いたり、また、地の文の「なぜかあわてて、品物のことがいかにも気がかりらしく、……」「夢遊病という言葉を彼は特に意味ありげに言った」「しかし、それはいくぶんは見せかけもあった」という描写であからさまに彼が演技していることが告げられることを総合すれば、この科白のやりとりがまったく別の様相を露わにすることは明らかだ。
繰り返せば、この引用部のポイントは表面上の科白のやり取りと、それが帯びる二重の意味が、地の文や《……》で括られた内語によって非常に見えやすく提示されているという、形式的な側面である。特に「《まったく、なんて無邪気な馬鹿だ!》」「《こいつにも哀れっぽいことを言わなきゃならんな》」といった内語の前後は、直接発話されたラスコーリニコフの表情と腹の中でのラスコーリニコフの表情とがまったく異なっている、その分裂が作為的に描かれている。形式としてこういう表現方法もあるのだということ。
余談。《もっとも重大なのは、おれが昨日あの婆ぁの部屋へ行って……》の内語は、その前でのラズミーヒンの「あの灰色の建物だよ」というポルフィーリイの住居の接近を告げる科白(主人公の歩行のモンタージュ!)の後につづくことで、移動の最中にラスコーリニコフが考えたことであるという文脈性を付与されているようだ。そしてこの移動の最中に或ることを思い付いて、改行後、彼は「おい、きみ」とラズミーヒンに話し掛ける、そういった流れをモンタージュしている。段落展開の妙。
●『罪と罰』上387-389頁
第三部第三章
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「大いにそうかもしれんな」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「ぼくはだから言うんだよ」とゾシーモフは力を得て、言葉をつづけた。「きみが完全に健康を回復するには、これからは、要は、きみ自身の心がけひとつだと。いまは、やっときみと話ができるようになったから、きみはよく言っておきたいんだが、きみの病気の発生に作用した最初の原因、いわば根だな、それを除去しなければいけないよ。そうすれば治るよ。さもないと、もっとわるくさえなるかもしれんよ。その最初の原因てやつは、ぼくにはわからんが、きみにはわかってるはずだ。きみは聡明な人間だから、むろん、自分を観察してきたことと思う。ぼくの見るところでは、きみの神経のみだれがはじまったのは、きみが大学を退校したときとある程度符合しているような気がする。きみは何もせずにはおれぬ男だ、だから労働としっかり定めた目的、これが大いにきみには助けになると思うんだよ」
「うん、そうだ、まったくお説のとおりだよ……早く大学にもどることにしよう、そうすればすべてがうまくいくだろうよ……すらすらとね……」
ゾシーモフがこういう聡明な忠告をはじめたのは、ひとつには婦人たちに対する効果をねらってのことだった、だから話をおわって、相手の顔を見て、その顔に露骨な嘲笑がうかんでいるのに気づいたときは、いささかまごついた。しかし、それも一瞬のことだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがすぐにゾシーモフに礼を言いはじめた。特に昨夜おそく宿を訪ねてくれたことに対して、ていねいに礼をのべた。
「なんですって、彼は夜更けに訪ねたんですか?」とぎくっとしたらしい様子で、ラスコーリニコフは尋ねた。「じゃ、母さんたちも寝なかったんですね、旅のあとだというのに?」
「まあ、ロージャ、なあにそれもね、ほんの二時までだったんだよ。わたしもドゥーニャも家にいたって、二時まえになんてねたことがないんだよ」
「ぼくだって、なんとお礼を言ってよいかわからないよ」とラスコーリニコフは急に眉をしかめ、うなだれて言った。「金の問題をはなれて、──ごめんね、こんなことを言って(彼はゾシーモフのほうを向いた)、──ぼくはどうしてあなたにこれほどまでに気をつかってもらえるのか、まったくわからないんですよ。要するにわからない……だから……わからないから、それがぼくにはかえって苦しいんです。ぼくははっきり言います」
「まあ、そう気にしないでください」とゾシーモフは無理に笑った。「あなたがぼくの最初の患者だからですよ。だいたい開業したてのわれわれ医師仲間は、自分の最初の患者をまるで自分の子供みたいに愛するものなんですよ、中にはすっかり惚れこんでしまうやつもいますよ。それにぼくはあまり患者にめぐまれませんので」
「彼のことはもういうまでもないですよ」とラスコーリニコフはラズミーヒンを指さしながら、つけ加えた。「彼も、屈辱と面倒以外、ぼくから何も受けていないんだ」
「おい、いいかげんにしろよ! 今日はまたえらく感傷的になってるじゃないか、え?」
彼にもしもっと深く見る目があったら、そこには感傷的な気分などみじんもなく、かえってその正反対の何ものかがあったことを見ぬいたはずである。だが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれに気づいた。彼女はじっと不安そうに兄の様子を見まもっていた。
一見なごやかな会話の場面であり、科白には如何なる否認・否定・非難・抑圧も含まれていない穏当のようなものに見える。だが、地の文と合わせて読むと不穏な実相と四者四様の会話への関わり方が明らかになる。また、会話の描写におけるちょっとした技巧も用いられている。
当然ながらまず注目すべきは、ラスコーリニコフの表面上は殊勝な科白と、地の文で描写される彼の身振りとの齟齬である。「……とラスコーリニコフは冷やかに答えた」「その顔に露骨な嘲笑がうかんでいる……」「……とぎくっとしたらしい様子で、……」「そこには感傷的な気分などみじんもなく、かえってその正反対の何ものかがあった……」──これらは、直接には内語によって表現はされないが、ラスコーリニコフが内に隠した無意識的な何かを抱いているということを、科白と地の文の組み合わせによって間接的に示している。さらに言えば、「……とぎくっとしたらしい様子」「彼にもしもっと深く見る目があったら、……」という言い回しからも分かるように、概言が想像的仮定によって、地の文でのラスコーリニコフの身振りの記述も二重に間接的になっていることに注意すべきである。本質的なことは黙殺されており、それであるからこそ不穏な雰囲気が醸成されるという会話場面になっている。
加えて、ここでラスコーリニコフが上辺の科白の裏に秘めている何かについて、ゾシーモフとラズミーヒンは気づかないが──したがって、もしこの会話場面がこの二人の観点から平面的に記述されているとしたら、無意識的な不穏な何かを暗示させる要素はまったく入ってこないはずだ──ドゥーニャだけはそれに気づく。そのように登場人物間での反応に落差があって立体的に場面が構築されていることによって、表面的には穏当な科白のやりとりにはおさまらない無意識の領域の存在感が補強されていると言えよう。
余談。「なんですって、彼は夜更けに訪ねたんですか?」というラスコーリニコフの科白の前の改行において、要約ないしは省略された科白のやりとり(ゾシーモフとプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの)があるようだ。長い会話場面の中でこうやって改行を利用して上手く飛躍するというのは必須の技巧。
●『罪と罰』上402-405頁
第三部第三章
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もうちょっとしたら、この集まりも、三年の別離の後のこの親子のめぐりあいも、およそ語りあうことなどぜったいにできないような空気の中でつづけられている、この肉親なればこその会話の調子も、──ついに、彼にはどうしても堪えられぬものになったであろう。ところが、どうなるにしろ、ぜったいに今日中に解決しなければならぬ、ひとつののっぴきならぬ問題があった。それは彼がさっき目をさましたときから、そう決めていたのだった。いま彼はまるで出口が見つかったように、喜んでその問題にとびついた。
「ところで、ドゥーニャ」と彼は改まって、そっけなくきりだした。「ぼくは、むろん、昨日のことはおまえに申しわけないと思っている。だがぼくとしては、どうしてもここでもう一度、根本的な考えは変えないことを、おまえにはっきりと言っておきたい。ぼくか、ルージンかだ。ぼくは卑劣な人間でもかまわんが、おまえはいかん。どちらか一人だ。もしおまえがルージンに嫁ぐなら、ぼくは即座におまえを妹と思うことをやめる」
「ロージャ、ロージャ! それじゃまるきり昨日と同じことじゃないの」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは涙声で叫んだ。「いったいどうしておまえはそういつもいつも、自分を卑劣な人間だなんて言うの、わたしはそんなことがまんできない! 昨日だってそうです……」
「兄さん」と、ドゥーニャはきっとして、やはりそっけなく答えた。「この問題では、兄さんのほうにまちがいがあります。わたしは昨夜一晩考えて、そのまちがいを見つけました。結局、兄さんは、わたしが誰かに対して、誰かのために、自分を犠牲にするように考えているらしいけど、それがまちがいなのです。ぜんぜんそんなことはありません。わたしはただ自分のために結婚するのです、自分が苦しいからです。そしてそれが、身内のためにいい結果になったら、うれしいのはあたりまえです、でもわたしの決心で、それが主な動機ではありません……」
《嘘だ!》と彼は憎さげに爪をかみながら、腹の中で思った。《傲慢なやつだ! 恩を施したいんだと、はっきり言うのがいやなのだ! ああ、下司な根性だ! やつらの愛なんて、にくしみみたいなものだ……ああ、おれは……こいつら全部が憎くてならん!》
「やっぱり、わたしはピョートル・ペトローヴィチに嫁ぎます」とドゥーネチカはつづけた。「だって、二つの不幸があれば、軽いほうをえらびますもの。わたしは、あのひとがわたしに期待していることはどんなことでも、心をこめて行うつもりですわ、だから、あのひとを欺くことにはなりません……兄さん、どうしていまお笑いになったの?」
彼女もかっとなった、そして目に憤怒の火花がもえた。
「どんなことでも行うって?」と彼は毒々しく笑いながら言った。
「ある限度までよ。ピョートル・ペトローヴィチの求婚の仕方と形式を見て、あのひとが何を望んでいるか、わたしはすぐにわかったわ。あのひとは、むろん、自分を高く評価しすぎているかもしれないわ、でもその代り、きっとわたしの人格もかなり認めてくれると思うのよ……また笑って、どうしてなの?」
「じゃどうしておまえはまた赤くなったんだい? おまえは嘘をついてるんだよ。わざと嘘をついているんだ、女の強情さで、おれのまえで我を通したいという、ただそれだけの理由で……おまえにルージンが尊敬できるはずがないよ。おれは彼に会って、話したんだ。つまり、おまえは金のために身を売ろうというのだ、つまり、どう見たっていやしい行為をしているんだよ。でも、おまえがまだせめて赤くなれるのを見て、おれはうれしいよ!」
「ちがうわ、嘘じゃない!……」とドゥーネチカはすっかり冷静さを失って、叫んだ。「あのひとがわたしの人格を認めて、尊敬してくれる、という確信がなかったら、わたしは結婚しないわ。さいわいに、わたしはそれを確認できます、今日にもよ。このような結婚は、兄さんの言うような、いやしい行為じゃないわ! そして、もし兄さんが正しくて、わたしがほんとうにいやしい行為を決意したとしたら、──わたしにそんなことを言うなんて、兄さんもずいぶんひどいじゃありません? どうして兄さんは、おそらく自分にもないような勇気を、わたしに要求するの? それは横暴だわ、暴力だわ! もしわたしが誰かを亡ぼすとしたら、それは自分一人をだけよ……わたしはまだ誰も破滅させたことがないわ!……どうしてそんな目でわたしを見るの? どうしたの、真っ蒼になって? ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さん!」
「まあ! 気絶させちゃって!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ドストエフスキー作品では珍しい真正面からの対決的対話。表情の変化、声とトーンの変化などに頼らず、ちゃんと科白の内容と科白の内容とで対決させているのが素晴らしい。
とはいえ、今「真正面からの対決」と述べたが、いずれの側も直接に相手を(ラスコーリニコフ/ドゥーニャを)批判しているわけではないことに注目しよう。ラスコーリニコフの性格もドゥーニャの人間性も科白の中では直接非難の対象にはなっていない。問題となっているのは、ラスコーリニコフとドゥーニャそれぞれの「ルージン」についての解釈の相違であり、第三者のルージンを迂回することで二人は辛辣ながら直接に傷つけ合うことをぎりぎり免れている。このように直接的な対決しかもはやありえないと思われる場面で、たくみに第三項を挿入することで劇的な会話の正面衝突の露骨さや相互的な全否定を避けるという設定上の技法は、大いに参考にすべき。(ちなみに、一ヵ所あるラスコーリニコフの内語だけが、直接的なドゥーニャの非難となっている。)
またこのような対決的対話の場面で、二人が別の意味でも直接的衝突を避けていることに、注目せよ。というのは、特にドゥーニャについてそうなのだが、言葉が単純に相手を非難するだけではなくて同時に自分自身をも非難しているかのように二重に響いているからだ。字面の上では頑にラスコーリニコフの誤りを指摘しているように見えるドゥーニャの発話は、「兄さん、どうしていまお笑いになったの?」「どんなことでも行うって?」「ある限度までよ。……」「また笑って、どうしてなの?」「じゃどうしておまえはまた赤くなったんだい?」といったリアルタイムな表情の変化や言葉尻の批判が交わることによって一挙に動揺する。つまりここで二人の対決には、ディベート的に相手の言葉を言葉で弁証法のように乗り越えようとする闘争とは別の次元があり、それは相手が否認しようとしている無意識を辛辣に指摘することで、相手の言葉に他者否定と同程度の自己否定の響きを生じさせるという、無意識の領分さえ視野に入れた闘争になっているのだ。引用部最後の「どうして兄さんは、おそらく自分にもないような勇気を、わたしに要求するの? それは横暴だわ、暴力だわ! もしわたしが誰かを亡ぼすとしたら、それは自分一人をだけよ……」というドゥーニャの非難は、ラスコーリニコフの考えを論理的に論駁したものではなく、修辞疑問文的に(なぜあなたはそんなことをするのか?──いや、そんなことしていいはずがない!)自己と相手の中間地帯を抉る分裂的な発話となっている。これがドストエフスキーにとっての直接的対話だ。ディベート的な・弁証法的な対決ではなく、他者と同時に自己を批判するという二重性の攻撃が相互に交錯するような会話。そしてもしかしたら、そのような攻撃の方が直接的な非難よりももっと残酷なものかもしれない、なぜなら表層的な意識だけではなくそれを支えている根底的な要因までも横断して批判されるわけだから。
ところで、引用部の情景法では、一見形式的にはオーソドックスな会話場面のようでありながら、実際には現前的な時間の流れをそれほど重視していないことに注意しよう。まあこれは単線的にしか読むことのできない小説のテクストに特有の詐術なのだが、例えばプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの叫びが、ラスコーリニコフとドゥーニャの言葉のやり取りとは関係なしに(関係なしになっても構わないタイミングで)挿入されたり、ドゥーニャの科白を真ん中でぶった切る形でラスコーリニコフの内語段落《嘘だ! ……傲慢なやつだ! 恩を施したいんだと、はっきり言うのがいやなのだ!……》が挿入されたりと、現前的な順番よりも同時並行的に起っていることを巧みに段落展開でモンタージュするという、つまり現前的な流れを遵守するよりももっと小説のテクストの表現上必要なことを優先して段落を展開させていっている。(というか複数の登場人物が交わる緊迫した会話場面では、こうしたモンタージュの腕前が必ず問われる?)
●『罪と罰』上437-439頁
第三部第五章
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「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポルフィーリイはいかにもそっけない事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々というようなことですな……あるいはまた……だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」
「それなんですよ、ぼくは、いまのところ」ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた。「ぜんぜん金がないものですから……こんなこまかいものも請け出せないしまつで……それで、いまはただ、その品がぼくのであることを、届けるだけにして、金のくめんがついたら……」
「それはどちらでもかまいません」と財政状態の説明を冷やかに受け流しながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは答えた。「もっとも、なんでしたら、わたしに直接書類を出していただいても結構です。これこれの事件を知り、これこれが自分の品であることを申告するとともに、つきましては……というような意味のですね……」
「それは普通の紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった。
「なに、どんな紙でも結構ですよ!」そう言うとポルフィーリイ・ペトローヴィチは、どういうつもりかいかにも愚弄するように彼を見つめて、片目をほそめ、目配せしたようだった。しかし、それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ、なぜなら、それはほんの一瞬のことだったからだ。しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。
《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。
非常に巧緻に企まれた会話場面。科白のやり取りだけを見ると単に事務的なことを確認しているだけのように思われるが、科白の中での「……」の多用(これは瞬間ごとに考え考えラスコーリニコフが喋っていることのメルクマール)および地の文に目を通すことによって、まったく違った次元が浮び上がるようになっている。
ラスコーリニコフの方はここで、自分が殺人犯であることを無意識に押し込めつつ表面では本当にただ単に殺された老婆に質入れした品を取り戻したいという用件のためだけに来た体を、「意識的に」演じようとしている。「ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた」という地の文はあまりにも雄弁。また、「ラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった」という契機も面白い。一度ついてしまった嘘は、何度も再演されなければならないというわけだ。しかも、この「それは普通の紙でいいんですか?」という科白がいかにも余計ごとのようで、この内容だけでわざとらしさを醸し出しているのが素晴らしい。
で、対するポルフィーリイだ。ラスコーリニコフは無意識と自意識を使い分けるという二重の戦略で会話に参加しているのだが、地の文を読むに、どうやらポルフィーリイはその二重性を最初から見抜いているように思われる。ラスコーリニコフがわざと困惑したように見せかけようとして、金がないから品物を請け出せない云々と口にするのに対して、ポルフィーリイは「財政状態の説明を冷やかに受け流し」て、つまりラスコーリニコフの演技に同調する様子を微塵も見せずに応対する。そして、「なに、どんな紙でも結構ですよ!」という科白にともなう「いかにも愚弄するよう」な目配せはもっと雄弁で、あたかも彼の科白もまた二重の響きを帯びている、すなわち「どんな紙でも結構です(あんたには本当はどんな紙じゃないといけないかなんてどうでもいいんだろう、問題の金銭的な面を気にしたりするのは、演技だろう?)」という響きを帯び、彼がラスコーリニコフの自意識の演技を突き抜けて無意識にまで届く言語戦略を操っていることを如実に示しているのだ。そしてさらに、ラスコーリニコフもポルフィーリイが彼の演技になんてまったく引っ掛からず、彼の「金のくめんがついたら……」「普通の紙でいいんですか?」という見せかけの言葉を鼻で笑ったらしいことを、勘付くのである。「しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。/《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。」──ところで、ここであくまで「ラスコーリニコフは……することができたはずである」と主人公について概言を用いて、あくまでラスコーリニコフに内的焦点化せず語り手の距離感を維持しているのは面白い。
以上、喩えて言うと引用部は最初から主旋律の他に副旋律も同時に構想されたところから始まっている会話場面なわけ。これはそう意図しないかぎり、単なるリアリズムでは書けない。
ちなみに、こうした二重性が維持されているのはこのラスコーリニコフとポルフィーリイの対決的対話の前半部分のみで、後半になってくるとポルフィーリイもわりと露骨になってくる。
●『罪と罰』上439-441頁
第三部第五章
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「こんなつまらんことでわずらわして、申しわけありません」とややあわて気味に、彼はつづけた。「品物はせいぜい五ルーブリくらいのものですが、ぼくにそれをくれた人々のかたみですので、ぼくには特にだいじな品なのです。実をいいますと、それを知ったとき、ぼくはすっかりおどろいてしまって……」
「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるって話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」といかにも意味ありげに、ラズミーヒンは口を入れた。
これはもうがまんならなかった。ラスコーリニコフは腹にすねかえて、怒りにもえた黒い目でじろりと彼をにらんだ。
「おい、きみはぼくをからかうつもりらしいな?」と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、ラズミーヒンにつっかかった。「きみの目には、ぼくがこんなつまらん品に執着しすぎると映ったかもしれん、そうでないとは言わん、がしかしだ、そのためにぼくをエゴイストとも欲張りとも見なすことは許さん。ぼくの目から見れば、この二つの無価値な品が決してくだらんものではないのだ。さっきもきみに言ったが、この銀時計は、三文の値打ちもないが、父の死後にのこされたたった一つの品なんだ。ぼうは笑われてもかまわんが、母がでてきた」彼は不意にポルフィーリイのほうを向いた。「そしてもし母が」彼はことさらに声をふるわせようと苦心しながら、また急いでラズミーヒンのほうへ向き直った。「この時計のなくなったことを知ったら、それこそ、どれほど落胆するか! 女だもの!」
「おい、ぜんぜんちがうよ! 決してそんな意味で言ったんじゃないよ! まるきり逆だよ!」とラズミーヒンはくやしそうに叫んだ。
《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》ラスコーリニコフは内心ひやひやした。《なんだって、女だもの、なんてつまらんことを言ったんだろう?》
「お母さんがでて来られたのですか?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはなんのためかこう聞いた。
「そうです」
「それはいつです?」
「昨日の夕方です」
ポルフィーリイは考えをまとめるように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はぜったいになくなるはずはなかったのです」と彼はしずかに、冷ややかにつづけた。「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」
そして彼は、何ごともなかったように、遠慮なくじゅうたんに煙草の灰をおとしているラズミーヒンのまえへ、まめまめしく灰皿をおしやった。ラスコーリニコフはぎくっとした、がポルフィーリイはまだラズミーヒンの煙草が気になるらしく、彼のほうは見もしなかったようだ。
「なんだって? 待っていた! じゃきみは、彼があそこにあずけたのを、知ってたのか?」とラズミーヒンが叫んだ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはまっすぐにラスコーリニコフの顔を見た。
「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、そしてそのつつみ紙に鉛筆であなたの名前がはっきりと記してありました、彼女がそれをあなたからあずかった月と日もいっしょに……」
「ほう、あなたはよくそれをおぼえていましたねえ!……」ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた。「ぼくがいまこんなことを言ったのは、つまり、質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……」
《愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?》
「ところが、いまはもうほとんどすべてのあずけ主がわかっているのです、出頭しなかったのはあなただけですよ」とポルフィーリイはそれかあらぬかかすかな愚弄のいろをうかべて、答えた。
「身体ぐあいがすっかりほんとじゃなかったものですから」
引用部前半でのラスコーリニコフは、殺害された老婆に質入れした品物を取りに来た貧しい青年という役を自意識上では演じつづけようとしている。それが演技であるということは、科白の殊勝さと地の文における例えば「……と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、……」という「たくみに」の形容の形で表れている、つまり科白と地の文の分裂によって、彼がこの場面で用いている二重の戦略は小説的に表現されている。とりわけ、彼がラズミーヒンに対して抱いた怒り、本来ならポルフィーリイの前で彼が殺人犯と疑われかねない事実をポロッと口にしてしまったことへの怒りを、質入れした品物のつまらなさをからかわれたことに対する架空の怒りへと偽装する(当然ラズミーヒンは「決してそんな意味でいったんじゃないよ!」と歎くことになる)──つまり情動としては同じだが原因としては別の振舞いへ転化してしまうという「演技」は、素晴らしくリアリティがある。
ラスコーリニコフのこの表面上の演技と本心の二重性は、さらに地の文に内語が《……》で登場し、たった今自分が演じたことを内語で反省させるに至って、科白と地の文の分裂として完全にパラレルになる。「《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》」
ところが、引用部後半に行くに従って、このラスコーリニコフの分裂は段々曖昧になってくる。これは、ポルフィーリイの側からの仕掛けだ。ポルフィーリイもこの引用部に至る場面においては、科白ではラスコーリニコフの演技に調子を合わせながら、態度(地の文)ではその演技を演技であることを見抜いているかのように愚弄するという「二重の戦略」を用いていたが、ここで突然「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、……」といった科白によって、もはやポルフィーリイがラスコーリニコフを単なる貧しい青年としては見ておらず、特別の関心(殺人の容疑者!)を持って眺めていることを、地の文の中ではなく科白の中でも仄めかしはじめているのだ。つまり演技と本心の分裂を微妙にあいまいにし始めている(こうなると「それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ」と言っては済ませられない!)。とはいっても露骨ではない。殺害された「老婆」を「彼女」と呼ぶことは、考えようによっては犯人であるラスコーリニコフに対する当てこすりのようだが、単なる三人称のようにも聞える。つまりあくまで、仄めかしだ。だが仄めかしが混じっているということがすでに、単に事務的にラスコーリニコフに応対するという以上のことをポルフィーリイがやろうとしていることを示している。これがポルフィーリイからの仕掛けである。
これに触発されてラスコーリニコフの側も、内面に留めておくべき言葉と発話していい(演技的な・表層的な)言葉との区別が曖昧になってしまい、つい彼はこらえきれなくなって余計なことをつけ加えてしまうのだ(「ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた」)。その科白の後に《……》で内語が続くが、これは直前の科白とつなげて、すべてを一繋がりの科白としてもあまり違和感がないと思える。「質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……。愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?」つまりポルフィーリイの仄めかしを受けて、ラスコーリニコフの側でも演技と本心の、直接の発話と内語の境が薄れて、両者がぎりぎりで入れ替わりかねないほどに近接してしまっているわけだ。
あくまで自意識と無意識の二重性を維持しようとするラスコーリニコフの内語を引き出そうとする、ポルフィーリイの高等言語戦術。それがこの引用部での見所。
●『罪と罰』下101-103頁
第四部第五章
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行ってみると、事務室にはポルフィーリイ・ペトローヴィチが一人きりだった。彼の事務室は広くもせまくもなく、部屋の中には、大きな応接テーブル、そのまえに油布張りのソファ、事務卓、片隅に戸棚、それに椅子が数脚あるだけで──それがみな黄色いつや出しの木でつくった備えつけの用度品だった。うしろの壁、というよりは仕切りの隅にドアがあって、しまっていた。してみると、その向うには、まだいくつか部屋がつづいているにちがいなかった。ラスコーリニコフが入ると、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにそのドアをしめて、二人きりになった。彼はいかにも愉快そうに愛想よく客を迎えた、そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。
「ああ、これはこれは! あなたでしたか……わざわざこんなところへ……」とポルフィーリイは両手をさしのべて、言った。「さあ、おかけください、どうぞどうぞ! おや、あなたはおいやですかな、こんな親しげに……下手にでられるのが、──tout court〔なるほど〕そうでしたか? なれなれしすぎるなんて、どうか、気をわるくしないでください……さあ、どうぞ、こっちのソファのほうへ」
ラスコーリニコフは坐ったが、その間も彼から目をはなさなかった。
《わざわざこんなところへ》とか、なれなれしさをあやまるとか、tout court〔なるほど〕なんてフランス語をつかうとか、その他かぞえたらいろいろあるが、──こうしたことはみな特異な兆候だった。《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》という疑惑がちらと彼の頭をかすめた。二人は互いに相手をさぐりあったが、視線があうとすぐに、二人とも稲妻のような早さで目をそらした。
「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」
「何です? 書類ですか? ああ、どれ……ご心配なく、これで結構です」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、まるでどこかへ急いでいるみたいに、あわててこう言った。そしてそう言ってしまってから、書類を手にとって、目で読んだ。「たしかに、まちがいありません。何もつけ加えることはありません」彼は同じ早口でこう言いきると、それをテーブルの上においた。それから、しばらくして、彼はもうほかの話をしながら、またその書類をとりあげて、自分の事務卓へおき直した。
「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、ぼくとあの……殺された老婆の関係について……正式に……尋ねたいとか……」とラスコーリニコフは改めて言いだした。
《チエッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》という考えが彼の頭をかすめた。《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》というもうひとつの考えが、すぐにそのあとから稲妻のようにひらめいた。
そして不意に彼は、自分の猜疑心が、ポルフィーリイにちょっと会って、一言二言ことばをかわし、一、二度視線をまじえただけで、一瞬のうちに早くもおそるべき大きさに成長してしまったことを感じた……これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ。《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》
「ああ、そうでしたね! でもご心配なく! 急ぐことはありません、時間は十分にあります」とポルフィーリイはテーブルのそばを行き来しながら、呟くように言った。彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。しかもそうしている彼のころころふとった小さなまるい身体が、まるでマリがあちらこちらへころがっては、すぐにはね返ってくるようで、なんとも奇妙な感じだった。
「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……して、煙草はすいます? おもちですか? さあどうぞ、巻煙草ですが……」彼は客に巻き煙草をすすめながら、話をつづけた。「実は、あなたをここへお通ししましたが、すぐその仕切りのかげが、ぼくの住居なんですよ……官舎ですがね、でもいまは当分の間、自宅から通いです。ちょっとした修理をしていたんでね。もうほとんどできあがりました……官舎ってやつは、ご存じでしょうが、いいものですよ、──そうじゃありません? え、どう思います?」
段落パターンだけを見ると、科白の合間に《……》のラスコーリニコフの内語含みの地の文が挟まって緊迫感を演出するという会話場面。とりあえず冒頭の描写段落は飛ばして、分析する。
決定的に印象に残るのは直接発話される言葉と地の文(内語含む)とのおそろしいほどの分裂だ。ラスコーリニコフの坐って直後の段落を見てみると、「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」という科白の凡庸さと、ここでラスコーリニコフがどんな特異な徴候も見逃すまいとポルフィーリイから片時も目を離さず、「《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》」とポルフィーリイの奇妙な仕種さえ完璧に観察し切っている(内語による仕種描写の代行!)。
だからこの対話場面で重要なのは対話場面でありながらむしろ科白の方ではなくて地の文なのだ。特に「《チエッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》」「《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》」という元は直前の科白についての反省から始まっている内語の連鎖は、内語の内語による内省という形で「稲妻」のような速度で自己増殖していくラスコーリニコフの心の緊張──「これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ」──を表わしており、ラスコーリニコフの発話「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、……」はそれを触発する契機でしかないかのようだ。言わば、科白が「地」で内語を含む地の文の方が「図」となって互いに引き立て合っているという感じか。もちろん、そのように互いが互いのレイヤーを触発し合っているという分裂的併存の様態が重要で、その契機がなければ単に段落をモンタージュしているというだけにすぎなくなる。引用部には含まれてはいないが、つづく個所に書かれているとおり「官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた」──そう、この「矛盾」が虚構されているからこそ科白と地の文の立体的な図/地の反転ということも可能なわけ。
繰り返せば、ここでは表面上は穏当な科白とは矛盾する形で地の文のレイヤーが形成されている。ということは、「描写」もまた科白とは矛盾する形で位置づけられているということだ。たとえば「彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。」といった描写の「なんとも奇妙な感じ」は、「《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》」や「《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》」といった内語と同じ水準にあるものであり、つまり、ラスコーリニコフの無意識の猜疑心によってフィルターを掛けられて観察されたポルフィーリイの姿がが、ここでは描き出されているということ。第一段落の描写からしてすでにそうで、「そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。」とそこで看取されるポルフィーリイの姿は、その後につづくポルフィーリイとラスコーリニコフの事務的な会話や世間話とはまったく「矛盾」していくものとして提示されているのである。(あと、つけ加えておけば、ポルフィーリイの態度の分裂は、一応伏線。ここで彼はラスコーリニコフの知り得ない或る手をつかって相手を罠に嵌めようとしているので。)
まとめると、地の文で内語が挿入されるタイプの会話場面では、科白と地の文のレイヤーの分裂的併存が重要だということ。
余談だが、「ラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。」という形で、現前的な描写においても少し時間幅を広く取るのはちょっとした工夫だな。つまりラスコーリニコフは瞬間的に、意識的に気付いたのではなくて、徐々に、無意識的に勘付き始めたというわけだ。なるほど、瞬間瞬間に定位する記述は、無意識の副旋律とあまりなじまないということだろうか?
●『罪と罰』下108-111頁
第四部第五章
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「コーヒーは、こんな場所ですから、だせませんが、五分くらいいっしょにいてくれてもかまわんでしょう、気晴らしになりますよ」とポルフィーリイは休みなくしゃべりつづけた。「まったく、およそこうした職務というやつは……ところで、わたしがこうしてのべつ歩きまわっていることに、どうか気を悪くなさらんでください。すみません、あなたを怒らせるのがわたしはいちばん恐いんですよ、わたしにはただ運動が必要なだけで、別に他意はありません。坐ってばかりいますと、こうして五分ほど歩くのがうれしくてねえ……それに痔がわるいんで……なんとか体操でなおそうと思いましてね。噂にきくと、五等官や四等官、さらに三等官なんておえら方でさえ、好んで縄とびをやっているそうですよ。まったく、科学ですからな、現代は……ところで、ここの職務や、尋問や、その形式ということですがね、……そら、あなたはいま尋問のことをおっしゃったでしょう……これは実際、ロジオン・ロマーヌイチ、この尋問というやつはときによると、尋問されるほうよりも尋問するほうを迷わせることがあるものですよ……このことはいまあなたが、ずばりと皮肉に言ってのけましたが、まったくそのとおりです(ラスコーリニコフはそんなことはぜんぜん言わなかった)。迷ってしまいます! 実際、迷ってしまいますよ! それにいつも同じことばかり、のべつ同じことのくりかえし、まるで太鼓をたたいているようなものですよ! この頃は改革が行われているでしょう。われわれもせめて名称だけでも変えてもらいたいと思いますよ。へ! へ! へ! ところでわれわれ司法官の方法ですが、──あなたの鋭い表現をかりればですな、──これはまったくあなたのご意見に賛成です。まあどんな被告でも、もっともにぶい百姓だって、例えば、はじめは無関係な質問をやつぎ早にあびせておいて(あなたのみごとな表現をかりればですな)、そのうちにとつぜん脳天にがんとくらわせるくらいのことは、ちゃんと承知してますよ。がんと、斧の背でね、へ! へ! へ! 脳天にですよ、あなたのみごとな比喩によればね! へ! へ! あなたは本気でそんなことを考えたんですか、つまりわたしが住居の話であなたを……へ! へ! 皮肉な人ですよ、あなたも。まあ、そんなことはしませんよ! あ、そうそう、ついでにひとつ、どうも、しゃべったり考えたりしているとよくまあ次々と言葉や考えがでてくるものですねえ、──あなたはさっき形式のことも言われましたな、ほら、尋問のですよ……形式とはいったい何でしょう! 形式なんて、たいていの場合、くだらんものですよ。ときには、友だちとして話しあうだけのほうが、ずっと有利なこともあります。形式は決して逃げて行きません、その点はどうかご心配なく。それに、うかがいますが、本当のところ形式とは何でしょう? 形式で予審判事の動きはしばられませんよ。予審判事のしごとは、いわば、自由な芸術ですからな、一種のね、いや似て非なるものかな!……へ! へ! へ!……」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはちょっと息をついだ。彼は疲れも知らずに、とめどなくしゃべった。意味もなくばかげたことを言っているかと思うと、不意に何か謎めいた言葉をもらし、すぐにまたばかげた話にまぎれこんでしまうというぐあいだった。彼はもうほとんど走るように部屋の中を歩きまわっていた。ふとった小さな足をますます早くちょこまかうごかし、うつむいたまま、右手を背にあて、左手をたえず振りまわしたり、さまざまなジェスチュアをしたりして、歩きまわった。そのジェスチュアがまたそのつど彼の言っていることとあきれるほどそぐわなかった。ラスコーリニコフは不意に、彼が部屋の中を走りまわりながら、二度ほどドアのそばにちょっと足をとめて、何かに耳をすますような様子をしたことに気づいた……《やつめ、何かを待っているのかな?》
とりあえずポルフィーリイの科白の内容は問わず、第二段落の地の文だけに注目する。
決定的なのは「そのジェスチュアがまたそのつど彼の言っていることとあきれるほどそぐわなかった」の一文。この対話場面においては、地の文が単に科白の間を埋めて叙述を水増しするものにはなっていない。言い換えれば、ここでは「何を言ったか」と同程度に「いかに言ったか」が重視されている。ポルフィーリイの語るくだらないおしゃべりと、それを言う時の彼のジェスチュアとの分裂自体がラスコーリニコフに対話的に働きかけている、というこの状況全体の多元性こそ、ドストエフスキーは描き出そうとしたのだ。つまりここでの地の文は単に(映画的な時間の流れの中での)埋め草的な登場人物のポーズの描写ではあり得ないということ。とはいえ、そのような多元性は、もちろん、焦点人物としてのラスコーリニコフがつねに注意を張り詰めて外部世界と駆け引き的なコミュニケーションをしようとしている(それに沿って記述・描写がなされる)からこそ可能になっているわけだが。「対象とコミュニケーションしながらの──意識的に「調査・推理」しながらの──情景法」というやつだね。
●『未成年』下408-410頁
第三部第十章4
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わたしと彼が昨夜彼の『復活』を祝して乾杯したあのテーブルをはさんで、二人は対坐していた。わたしは完全に二人の顔を見ることができた。彼女はシンプルな黒い衣裳を着ていた、そしてまぶしいほど美しく、見たところ、おちつきはらっていて、いつもとすこしも変らなかった。彼がなにかしゃべっていて、彼女はひどく注意深く、警戒の色をうかべてそれを聞いていた。だが、そこにはいくぶんか怯気も見えたかもしれない。彼はおそろしく興奮していた。わたしは話の途中で来たので、しばらくはなんのことやらわからなかった。おぼえているのは、彼女が不意にこう問いかけたところからである。
「じゃ、わたしが原因でしたの?」
「いや、それはわたしが原因だったのです」と彼は答えた「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ。ご存じですか、罪のない罪びとというものがあることを? これは──もっとも許しがたい罪で、必ずといっていいほど罰を受けるものです」と彼は奇妙な笑いをうかべて、つけくわえた。「だがわたしは、あなたをすっかり忘れてしまったと考えて、自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったときもありました……それはあなたもご存じのとおりです。しかし、それだからといって、あなたが結婚なさろうとする人間に、わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです? わたしは昨日あなたに結婚を申し込みました、このぶしつけをお許しください、これは──ばかげたことです、だがしかしそれに代る方法がまったくないのです……このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」
彼はこう言うとなげやりにうつろな声で笑って、不意に相手に目を上げた。それまで彼は相手を見ないようにして話していたのである。もしわたしが彼女の立場にいたら、この笑いにぎょっとしたにちがいない。わたしはそれを感じた。彼は不意に椅子から立ち上がった。
「だが、どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」彼はもっともかんじんなことを思い出したように、不意にこう訊ねた。「わたしの招きも、あの手紙ぜんたいも──実にばかげています……お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、どのような心理の経過をたどってあなたがここへ来ることを承諾なさったかくらいはね、だが──なぜあなたが来たのか?──これが問題です、まさかただ恐怖心からだけで来たのではないでしょう?」
「わたしはあなたにお会いするために来たのですわ」と彼女はすこし気おくれぎみに用心深く彼を見まもりながら、言った。二人は三十秒ほど黙っていた。ヴェルシーロフはまた椅子に腰を下ろした、そしておだやかだが、感動のこもった、ほとんどふるえをおびた声で言いだした。
「わたしはもうずいぶん長くあなたにお会いしてませんね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、あまり久しいので、いつかこうしてあなたのそばに坐って、あなたの顔に見入り、あなたの声を聞いたことがあったなどとは、もうほとんど考えられないほどですよ……わたしたちは二年会いませんでした、二年話をしませんでした。あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ。まあ、いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです、そして今あることは──明日は消えてしまうのです、煙みたいに、──それもいいでしょう! わたしは認めますよ、だってこれもまたほかにどうしようもありませんからねえ、だが今日はうやむやで帰らないでください」と彼はほとんど哀願するように、不意につけくわえた、「もうここへ来るという、施しをしてくださったのですから、うやむやに素手で帰しては申し訳ありません。わたしのひとつの問いに答えてください!」
「どんな問いかしら?」
「わたしたちはもうこれで二度と会うことはないのですから、こんな問いくらいあなたになんでしょう? どうか最後に一度だけわたしにほんとうのことを言ってください、聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが。あなたはいつかほんのちょっとのあいだでもわたしを愛してくれたことがありましたか、それともわたしの……思いちがいだったろうか?」
このヴェルシーロフの粘着質に相手に絡んで行く科白の数々。これをざっと総合的に分析してみよう。
ヴェルシーロフの科白のエクリチュールを一言で言うと「言い訳」。彼の中核にあるのは、抑圧に抑圧されまくった欲望、自分が畏怖し愛するカテリーナから愛の言葉を引き出したいという無意識の欲望であり、それに至る第一歩としての引用部最後に出てくる「わたしのひとつの問い」を相手に投げ掛けたいという想い。だがその問いに至るまでに彼はこれほどまでに屈折しぐねぐねした長広舌を必要とする。その一切が言い訳である。自分の欲望に対する卑下(「自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったこともありました……」)、他者に責任転嫁しての自分の行動の弁解(「それだからといって、……わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです?」)、自分を責めるとみせて相手を部分的に=レトリカルに攻撃する責任転嫁(「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ」)、自分の過去の行動に対する平謝り(「このぶしつけをお許しくだし、これは──ばかげたことです」)、翻って明らかな自分の醜行をなぜかやむを得なかったものと解釈する逆ギレ気味──ないしは修辞疑問文風の自己弁護(「このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」)、相手の疑問や解釈や批判を先回りして封じておくための示威(「お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、……」)、自分にとって望ましい反応を引き出すための大袈裟な感情の誇張(「どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」)、自分の善性=害意のなさを強調するためのセンチメンタルな誇張(「あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ」)、自分の小悪事をうやむやにする通俗的な一般論(「いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです」)、自分の欲望の畏れおおさに対する予防線的言い訳(「聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが」)、……なにもかもが、「自分が一方的に悪い」「自分は無礼」「こんなことを言うべきではない」「こんなことはしてはならない」という無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)からの告発を叩き潰す──ことは完遂できるはずもなくぐねぐねした発話を続けることになってしまう──ための「言い訳」だ。ヴェルシーロフの中には率直さ、自然さといったものが一切ない。
ただしヴェルシーロフの繰り言が凄まじすぎるので、こうしたぐねぐねした予防線だらけの「言い訳」のエクリチュールこそ、単純に相手を非難したり(とんだ言いがかり。相手を怒らせるだけ)、真正面から愛を告白したり(拒絶されるだけ)するよりも、ぎりぎりのところで相手との関係をつなぎとめるための技巧なのではないかとさえ見えて来る。もちろん単調な言い訳を繰り返すだけでは駄目だ。ひたすら自己卑下しているだけでも駄目だ。豊富な言い訳、高度な自己卑下こそが必要とされる。ときには相手を遠回しに非難し(受動的攻撃性?)、恨めしげな顔つきを仄見せ、或いは冷静さを装い、自分が礼儀をわきまえている人間であることを示威し、相手の共感を誘うように感情をセンチメンタルに誇張し、実は自分は悪くないのだという結論をちらつかせる詭弁を駆使してみせること! こういう人間に対しては、相手も用心深く、警戒の色を浮かべて気後れぎみに応答しながら、しかし無下に扱うことはできないというわけだ。
非常に畏まっていると見せながら、ひそかにヴェルシーロフはカテリーナを傷つけてさえいるだろう。このような受動的な攻撃性を持つ人物として、ほかにレーベジェフやトルソーツキイの名を挙げることができる。というか、ヒュームに対するルソーか。「若しあなたに罪があるのなら、私は人間のうちで最も不幸なものであります。又若しあなたに罪がないとなれば、私は最も悪い人間であります。あなたが、この惨めなものになりたがらせたのです。」
●『未成年』下409-413頁
第三部第十章4
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「それで、今は?」と彼はたたみかけた。
「今は愛しておりません」
「笑っていますね?」
「いいえ、わたしが今思わず口もとをほころばせてしまいましたのは、今にあなたが、『それで、今は?』とお訊きになるものと、心待ちにしていたからですの。だから思わず微笑んでしまいましたの……だって、そう思っていたことがあたると、人はいつもにやにやするでしょう……」
わたしは異様な気さえした。わたしはまだ一度も、ほとんど臆病とさえいえるほどのこんな用心深い、こんなどきまぎした彼女を見たことがなかったからである。彼はなめまわすような目で彼女を見つめていた。
「あなたがわたしを愛しておられないことは、知っています……でも──ぜんぜん愛していないのですか?」
「でしょうね、ぜんぜん愛していないと思いますわ。わたしはあなたを愛しておりません」彼女はもう笑顔も見せず、顔を赤らめもしないできっぱりとつけくわえた。
「そう、わたしはあなたを愛しましたわ、でも短いあいだでした。わたしはあのとき、もうすぐにあなたがきらいになってしまいました……」
「知ってますよ、知ってます、あなたはあの愛の中に、あなたに必要なものでないものを見てとったのです、でも……それではなにがあなたに必要なのでしょう? それをもう一度おしえてください……」
「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら? なにがわたしに必要なのですって? そうね、わたしは──ごく平凡な女ですわ。わたしは──しずかな女です、だからわたしは……陽気な人が好きなんですわ」
「陽気な人?」
「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたしは思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」彼女はまた臆病そうに微笑した。
彼女のこの言葉にはすこしのいつわりもない赤裸な心が輝いていた、そしてはたして彼女は、これが二人の関係のいっさいを説明し、そして解決するもっとも決定的な解答であることを、理解できなかったのだろうか。おお、彼こそそれがいちばん理解できるはずであった! ところが彼はじっと彼女を見つめたまま、異様な薄笑いをうかべていた。
「ビオリングは──陽気な男ですか?」と彼は問いをつづけた。
「彼はすこしもあなたの気をわずらわさないはずですわ」と彼女はいくらかあわて気味に答えた。「わたしが彼と結婚しようと思うのは、ただ彼だとわたしがいちばん心のおちつきを得られそうに思うからなの。わたしの心はすっかりわたしのもとにのこりますもの」
「あなたはまた社交界が好きになった、とかいう噂ですね?」
「好きになったわけじゃありませんわ。どこでもそうですけど、わたしたちの社交界にもやはり秩序のみだれのあることは、わたし知っておりますわ。でも表から見た形はまだ美しいわ、だから、ただそばを通るだけの生活をするなら、どこかよそよりは、そちらのほうがいいと思うだけですわ」
「わたしも『無秩序』という言葉はよく聞くようになりました。あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」
「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」
「じゃなんです? おねがいですから、正直に言ってくださいませんか」
「じゃ、正直に申しますわ、だってわたしはあなたをこのうえなく聡明な方だと思っておりますから……わたしいつもあなたになにか滑稽なところがあるような気がしてなりませんでしたの」
彼女はこう言うと、不意に、とんでもない粗相をしてしまったことに気づいたように、かっと真っ赤になった。
「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」と彼は妙なことを言った。
まったく滑らかに展開しない、凄く凸凹した対話。これは情動としてここで二人して「臆病」そうに「どぎまぎ」しているからだが、それがどのように発話に表れているか、見ていこう。
例えば「笑っていますね?」「いええ、わたしが今思わず口もとをほろこばせてしまいましたのは、……」といった、リアルタイムで相手の表情の変化を掬い取って、それを発話の中で軽く非難する、それに対して同じく軽く突っ返すように反論する、というやり取りがある。ここですでに、相手に対してやや攻撃的な態度を含みつつ隙をうかがいながら臆病まじりに言葉を交す、というこの対話の基本姿勢が出ている。この姿勢は、例えば「知ってますよ、知ってます、……」といった、相手の言葉を最後まで良い切らせず先回りして引き取る性急さや、「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら?」と咎めるような問い返しの中にも仄見える。とりわけ「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたしは思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」──カテリーナのこの科白は、自分のことを「ごらんなさい」と指示しながらリアルタイムで態度を攻撃性から臆病さへと転回させるというジグザグな屈曲を孕んだ発話になっている。
「あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」──これもややとがめ立て含みの問い掛けと見える。それに対してカテリーナも「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」とおどおどしながらの否定を返す。この辺りも臆病な攻撃性という奇妙な二人の対話の角逐が良く表れている。その後に来る「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」の科白も相手を非難しているのか自分を省みているのか、どっちつかずな「臆病な攻撃性」を帯びた科白と言えよう。こういうアンバランスな過敏な科白を二人に言わせて対話を進めているので、まったく会話の展開が機械的・作為的な印象を与えない。
●『未成年』下414-417頁
第三部第十章4
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彼はまた椅子から立ち上がって、そして熱っぽく光る目で彼女を見すえながら、しっかりした口調で言った。
「あなたはすこしの侮辱も受けずにここからお帰りになれるはずです」
「あっ、そうでしたわね、あなたのお約束でしたものね!」と彼女はにっこり笑った。
「いや、手紙の中でしたからばかりではありません、今夜一晩中あなたのことを考えたいと思うし、またどうせ考えるはずだからです……」
「自分をお苦しめになるの?」
「わたしは一人きりのとき、いつもあなたのことを考えています。あなたと対話しているだけが、わたしのしごとなのです。わたしが場末のきたない居酒屋へ逃れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑うのです、今もそうですが……」彼はまるで放心しているようにこう言った。
「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と彼女は涙のにじんだ声で叫ぶように言った、そしてその顔には深い憐憫の情があらわれたように見えた。「どうせここへ来たんですもの、あなたにぜったいに屈辱をおぼえさせたりしてはいけないと、わたしそればかり気をつかっていましたのよ」と彼女は不意につけくわえた。「わたしここへ来たのは、ほとんどあなたを愛していることを、あなたに言いたかったからですのよ……あら、ごめんなさい、わたし、なんだか、言い方をまちがえたみたいだわ」と彼女はあわてて言い添えた。
彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの──だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません──どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
要するにヴェルシーロフというのは、高度な自己卑下や相手への気配りと見せ掛けて間接的に非難をぶつける、という言語戦術を駆使する天才なわけだ。その構造を敢えて言語化すれば「私があなたを愛してしまったのは、あなたが悪い」という感じになるだろうか。相手を愛しているからこそその前で自己卑下をしたり礼儀正しげにしたり感傷を誘ったりするのだが、その裏には非難(「あなたが悪い」)が込められている。「わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」の科白にはこの屈折がよく表れている。
自己卑下が何故か相手を傷つけかねない非難にもなっている高等戦略。「わたしが場末のきたない居酒屋へ逃れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑うのです、今もそうですが……」──これなども、相手の幻想に嘲弄されるという話があたかも実在の相手に嘲弄されているかのようなニュアンスで語られ、相手への非難を含ませる。当然カテリーナはこれに対して「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と反論せざるを得ない……つまり相手のぐねぐねとした刺のある言葉にいちいち付き合ってやらざるを得ない。「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」──この科白もそうで、あたかも相手が正直で人と違うことが非難されるべき点でもあるかのように強調されている。これに対してやはりカテリーナはやや慌てながら「わたしの言い方がまずかった」とリアルタイムで前言撤回せざるを得なくなっている。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」という科白も、ヴェルシーロフはこう言うことであたかも相手の心理を慮っている風を見せているが、それを謝ったり反省(して二度と繰り返さないと誓う)することは決してなく、「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。……」などと独りよがりな熱っぽい感傷を語り出す。それはついには「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」というリアルタイムの挑発に達し、さらに「あなたの顔に書いてありますよ、……図星でしょう?」「いいですか、あらゆるですよ……」と挑発を重ねて、最後には自己卑下=非難の極北まで突き抜けて自分を乞食よばわりし始める始末! 「わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」 要するに、ちょっとだけ見せた相手への気配りも単なる戦略的譲歩に過ぎなかったわけだ。
ヴェルシーロフには自分の悪や罪を認めるという率直さが致命的に欠けているので、こういう仕儀になる。
●『白痴』上2245-246頁
第一篇第九章
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「お母さん、あちらへおいでになりません?」ワーリャが大声でたずねた。
「いいえ、ワーリャ、わたしはおしまいまでここにいますよ」
ナスターシャ・フィリポヴナはこの問答を聞かないわけにはいかなかったが、そのために彼女のはしゃぎ方にはいっそう拍車がかけられたように思われた。彼女はすぐに改めていろいろな質問を将軍に浴びせた。もう五分後には、将軍もすっかり上機嫌になって、その場の者が大声で笑うなかを、滔々と弁じたてるのであった。
コーリャは公爵の上着の裾をひっぱった。
「ねえ、せめてあなたでも、なんとかしてお父さんを連れだしてくださいよ! できませんか? どうかお願いですから!」あわれな少年の眼には、憤りの涙さえ光っていた。「ああ、ガンカのできそこない!」少年は口の中でつぶやいた。
「いや、まったく、わしはエパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」将軍はナスターシャ・フィリポヴナの質問に答えて、滔々とまくしたてた。「わしと、エパンチン将軍と、今は亡きレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵〔息子の名前と間違えている〕、この人の忘れがたみを、わしはきょう二十年ぶりにこの手で抱きしめましたがな、わしらは寸時も離れることのできぬ三人組、つまり、アトス、ポルトス、アラミス、ともいうべき騎士団だったのですよ。しかし、残念ながら、そのひとりは誹謗と弾丸にあたって墓の中に眠り、いまひとりはあなたの前にいて、いまなお誹謗と弾丸と闘っているのです」
「まあ、弾丸とですって?」ナスターシャ・フィリポヴナは叫んだ。
「その弾丸はここに、わしの胸の中にあります。カルスの戦いで受けた傷ですが、いまなお天気の悪い日には痛むのです。しかし、このほかの点では、わしは哲人として生き、仕事から遠ざかったブルジョアのように散歩したり、ぶらぶら遊んだり、行きつけのカフェでチェスをしたり、《Independance》を読んだりしているんです。ところで、わがポルトス、つまり、エパンチン将軍とは、狆がもとで汽車の中でおこった三年前の事件以来、永久に絶交してしまったんですよ」
「まあ、狆ですって! それはいったいなんのことですの?」ナスターシャ・フィリポヴナは一種特別の好奇心にかられてたずねた。「狆がどうかしたんですの? それから、汽車のなかでですって?……」彼女は何か思いだした様子だった。
「なに、まったくばかげた話なんですよ。いまさらお聞かせする値打ちもありません。ベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、ミセス・シュミットがもとでおこったんですが、いや……これはいまさらお聞かせする値打ちはありません」
「いえ、ぜひともお話ししてくださいまし!」ナスターシャ・フィリポヴナは陽気に叫んだ。
まずは前半部分。ここはニーナ、ワーリャ、ナスターシャ・フィリポヴナ、将軍、コーリャ、公爵という六者六様の振舞いを並行して複眼的に描いているのが面白い。コーリャ少年の憤りの呟きを描写するかと思えば、次の段落ではいきなり将軍とナスターシャ・フィリポヴナの会話が始まっているという具合。『賭博者』146頁あたりの四者四様の現前的場面の描き方に近似。
後半ではイヴォルギン将軍の「発話」に注目。彼の発話は典型的な自意識の増長のままに流れ出す自己陶酔の駄弁であり、それゆえに現実性のレベルでは滑稽なまでに出鱈目放題でしかあり得ないのだが、それでもやはり将軍の自己陶酔は若干の屈折を孕んでいる。無意識の告発を「誹謗」と看做してなにするものぞ!と英雄的にそれと闘っているつもりになっている否定的陶酔が、彼の雄弁の全体的なトーンだからである。「いや、まったく、わしはエパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」という「いや、まったく」の強調の自乗は、むしろ彼の話が虚偽であると告発してくる視線に対してそれを尊大に斥ける身振りの科白化したものかもしれない。将軍自ら「いまなお誹謗と弾丸と闘っている」と自称する箇所に関しては言わずもがなだ。自画自賛のトーン──「わしは哲人として生き……」──はつねに何か匿名の者からの誹謗に対する否認・非難を裏側にアクセントとして帯びているということかな。
ところで、引用部最後の将軍の科白では、将軍がやや口ごもっている点に注目しよう。これは「狆の話」というのがあからさまに嘘であり、彼もそのことを重々分かっていて、無意識からの『そいつはただの法螺話だ、おまえだってよく分かっているじゃないか』という衝き上げが鋭くなっているので、それまでの科白のようには陶酔に浸ることができず「いまさらお聞かせする値打ちもありません」と自己否定し「屈折」せざるを得なくなっている、ということだ。言いたいことを言うときは饒舌になるが、言いたくないことの時は言葉を濁す……その程度の描き分けはできないといけない。
●『白痴』下412-415頁
第四篇第四章
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……ついに何もかも決ったので、ダヴーが最終的な決定を迫りました。また二人はさしむかいで協議しました。そして、わたしは第三者というわけです。ナポレオンはまた腕組みしながら、部屋の中を歩きまわっていました。わたしはその顔から眼を放すことができませんでしたよ。わたしの心臓はどきどきと高鳴っておりました。『わたしは参ります』とダヴーが言うと、『どこへ?』とナポレオンがききました。『馬肉の塩漬けに』とダヴーが答えます。ナポレオンはぴくりと身を震わせました。運命がまさに決せられようとしているのです。『おい、子供!』彼はだしぬけに、わたしに話しかけました。『おまえはわれわれの計画をどう思うかね?』もちろん、彼がこんなことをきいたのは、偉大な知恵をもった人物でもときにはせっぱつまって、最後の瞬間に鷲と格子〔貨幣の表裏〕にたよるのと同じことですな。わたしはナポレオンのかわりにダヴーにむかって、まるで霊感にでも打たれたように、こう言ってのけたのです。『将軍、もうお国へ逃げてお帰りになったらいいでしょう!』これでこの計画もおじゃんになりました。ダヴーは肩をすくめながら、部屋から出がけに小さな声で『おやおや、この子もすっかり迷信ぶかくなったものさ』と言いました。そしてその翌日、退却の命令がくだったのです」
「何もかもじつにおもしろいお話ですね」公爵はおそろしく低い声で言った。「もし事実がそのとおりであったらとしたらですね……いや、つまり、私が言いたいのは……」彼はあわてて言いなおそうとした。
「ああ、公爵!」将軍は叫んだが、すっかり自分の物語に酔ってしまっていたので、ひょっとすると、こうしたじつに不注意な失言にさえもそれほど気にしないようなふうが見えた。「あなたは『万事がそのとおりであったとしたら』とおっしゃいますが、しかしそれ以上だったのですよ、しや、まったくはるかにそれ以上のことがあったのです! こんなことは取るに足りない政治上の事実にすぎませんがね。しかし、くりかえして申しあげますが、わたしはこの偉人の夜ごとの涙や、うめき声の目撃者だったんですからねえ。こんなことは、わたしよりほかに誰ひとり見た者はないんですよ! もっともしまいには、彼はもう涙を流して泣くようなことはなくなって、ただときおりうめき声をあげるばかりでしたな。しかし、彼の顔はだんだん何か暗い影に覆われいくようでした。それはまるで永遠がその暗澹たる翼で早くも彼を包んでしまうような感じでした。どうかすると、われわれは二人きりで幾晩も幾晩も長いこと無言のまま時をすごすことがありましたよ。──新衛兵のルスタンはよくつぎの間でいびきをかいていました。じつによく眠る男でしてね。『そのかわり、あれはわしにたいしても、わしの王朝にたいしても忠実な男だ』とナポレオンは、この男のことを言っておりましたがね。ある日、わたしは妙に胸が痛んでたまらないことがありました。彼はふとわたしの眼に涙が浮んでいるのに気づいて、さも感動したようにわたしを見つめながら、『おまえはわしをあわれんでくれるのか?』と叫んだものです。『なあ、子供、いいかな、おまえのほかにもうひとり別な子供が、わしをあわれんでくれるかもしれない。それはわしの息子のローマ王だよ。ほかのやつらは、みんなみんなわしを憎んでおるのだ。兄弟たちは不幸につけこんで、いのいちばんにわしを売るだろうよ!』わたしはしゃくりあげながら、彼にとびついていきました。と、彼も我慢しきれなくなって、とうとう二人は抱きあってしまいました。いや、二人の涙は一つにとけあったのでした。『お手紙を、お手紙をジョゼフィン皇后にお書きください!』わたしは泣きながら言いました。ナポレオンはぴくりと身を震わせて、ちょっと考えてから、『おまえはわしを愛してくれる第三の心を、思いださせてくれた、ありがたく思うぞ!』と言いましたよ。彼はさっそくテーブルにむかって、手紙を書きはじめましたが、すぐ翌日それをコンスタンに持たせて、出発させたのですからねえ」
「あなたはじつにりっぱなことをなさいましたね」公爵は言った。「悪意に取りまかれている人間に、美しい感情を呼びさましておやりになったんですから」
「そうですとも、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくださいましたね、これはあなたご自身の心に似つかわしい解釈ですよ!」将軍は有頂天になって叫んだ。すると不思議にも、ほんとうの涙がその眼にきらりと輝きはじめた。「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ! それに、どうでしょう、わたしはすんでのことで、彼のあとを追ってパリへ行ってしまおうと思ったくらいですからねえ。……
登場人物の自意識の中に入って来るものよりは無意識の方が重視されるドストエフスキー作品において、発話された科白は、つねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の「否定・非難」を孕むように造型される。ただし引用部のイヴォルギン将軍のケースでは「抑圧・否認」と言った方が適切だろう。(ちなみに、ラズミーヒンの科白には「否定・非難」と「抑圧・否認」と両方あった。)
端的に言ってここでのイヴォルギン将軍の話は肯定的な真実の言葉ではない。まったくの虚偽である。そして「何を滔々と喋っているんだ、おまえの言っているのはまったくのでたらめじゃないか!」という無意識からの衝き上げを徹底的に抑圧・否認した上で成り立っている屈折した長広舌となっている。こういう場合、発話者は目の前にいる相手の反応をリアルタイムで否定していくというよりは、自分の都合の良いように解釈していく傾向がある。「あなたは『万事がそのとおりであったとしたら』とおっしゃいますが、しかしそれ以上だったのですよ、いや、まったくはるかにそれ以上のことがあったのです!」相手と敵対するというよりは相手の同意をしきりに求めがちで、おざなりにでも相手の同意が得られると有頂天になりがちであるようだ。「そうですとも、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくださいましたね、これはあなたご自身の心に似つかわしい解釈ですよ!」それだから彼の言い回しの中にも、自分にしっかりと言って聞かせるかのような仰々しい強調が混じったりもする。「こんなことは、わたしよりほかに誰ひとり見た者はないんですよ!」「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ!」「……したのですからねえ。」
余談だが、聞き手の疑問を先回りして否定するレトリックもイヴォルギン将軍の長広舌の中には見られる。「もちろん、彼がこんなことをきいたのは、偉大な知恵をもった人物でもときにはせっぱつまって、最後の瞬間に鷲と格子にたよるのと同じことですな。」
さて、このような人物を相手にした場合、対話相手の方にも一種の繊細な「抑圧・否認」が求められるようだ。ガーニャのように端的に相手の言っていることを虚偽として全否定してもよいのだが、それだと会話がつづかない。ムイシュキン公爵やレーベジェフはイヴォルギン将軍の多彩で能弁な「抑圧・否認」にむしろ加担しようとする。そのためにイヴォルギン将軍と同様の無意識の告発──「イヴォルギン将軍の話はでたらめ放題じゃないか!」──の抑圧・否認を孕みつつ発話せざるを得ないというわけだ。ムイシュキンの「もし万事がそのとおりであったらとしたらですね……いや、つまり、私が言いたいのは……」といった言いよどみや、彼の「おそろしく低い声」はそれを暗示しているだろう。
●『作家の日記』1巻371-373頁
「嘘について一言」
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……また別の機会に、これもやはり汽車の中でやはりつい最近のことであるが、わたしは無神論についての長々しい講義を傾聴させられたことがある。弁士は、上流社会の技師風の紳士で、陰気くさい顔をしているくせに、聞き手を求める渇望は病的なほどで、まず僧院の問題から口火を切った。僧院の問題についてその男は初歩的なことさえも知らなかった。彼は僧院の存在をなにか信仰の教条と不可分のもののようにみなし、僧院は国家によって維持され国庫にとって高くつくものと考え、修道僧はほかのあらゆる団体と同じように、人間の完全に自由な集合体であることを忘れて、自由主義の名において、なにか圧政ででもあるかのように、その廃止を要求するのであった。彼は自然科学と数字を根拠として完全で無際限な無神論を主張してその結論とした。彼はうるさいほどたびたび自然科学と数学を引き合いに出してその主張を繰り返したが、それでいながら、その学位論文にも比すべき大論議のあいだ、このふたつの化学からついにひとつの事実さえも実例として引用しなかった。例によって口をきくのはこの男ひとりだけで、ほかの連中は黙って聞いているだけであった。「わたしは自分の息子には誠実な人間になれと教えるつもりです、ただそれだけのことです」と彼は結論として断定したが、明らかに彼は善行とか、徳性とか誠実さというものは、なにものにも左右されることのない、そして必要なときにはいつでも、なんの努力も、疑惑も戸惑いもなしに、自分のポケットの中に見つけ出すことのできる、なにか自然に与えられている絶対的なもののように、あくまでも信じ切っているようだった。この紳士もやはり異常なほどの大成功をおさめた。そこに居合わせたのは将校やら、老人やら、婦人やもう成人に達した子供たちやらであった。いよいよお別れというときに、満足を与えてくれたことに対して、みんなはその男に厚くお礼をのべたものだが、その際、一家の母親で、しゃれた身なりをした器量もなかなか悪くない、ひとりの婦人などは、魅力的な忍び笑いをもらしながら大きな声で、いまの自分の心の中には「ただ湯気が立ちこめているだけ」であると、完全に確信していると声明したものであった。この紳士もやはり、きっと、異常なほどの自尊心にみたされて立ち去ったに相違ない。
わたしを面くらわせるのはほかならぬこの自尊心なのである。この世には馬鹿もいればおしゃべりもいるもので、──もちろん、そんなことはなにもいまさら驚くには当たらない。しかしこの紳士は、明らかに、馬鹿ではなかった。おそらくごろつきでもなければ、ペテン師でもないことも間違いあるまい。いやそれどころか、誠実な人間でよい父親であることも大いにありうる話である。彼はただ自分が解決しようと試みたいろいろな問題のことが、まったくなにひとつ分かっていなかったのである。だがはたして一時間後に、一日後に、一ヵ月後につぎのような考えが頭に浮かんでこないものだろうか──『おいおい、イヴァン・ワシーリイェヴィッチ(まあ、名前なんかはどうでもいいがね)、──お前はいい気になって議論したが、しかしお前は自分がむきになって論じ立てた問題についてまったくなにひとつ分かっちゃいないじゃないか。そのことはお前が誰よりもいちばんよく知っているはずではないか。お前は自然科学だの数学だのをやたら引合いに出したけれど、──しかしお前が専門学校で習った数学の貧弱な知識は、もうとうの昔に忘れてしまったし、それにその当時だってそれほどしっかり頭に入っていたわけではない、また自然科学ときては一度だって正確な概念さえもつかんだことがないのは、お前には誰よりもいちばんよく分かっているはずではないか? それなのにどうしてお前はあんなおしゃべりをしたのだ? なんだってあんな説教をしたのだ? ただ法螺を吹いただけだってことは、お前にはよく分かっているはずじゃないか。それなのにお前はいまだに得意の鼻をうごめかしている。それでよくまあ恥ずかしくないものだな?』
これはエセーなので小説そのものの技法に役立つわけではない。だがここには小説にも通ずるドストエフスキーの発想が如実に表れている。
ドストエフスキー作品の中では、作中人物のほとんどの発話が無意識の衝迫との拮抗関係にあってつねに中断・屈折・転回を孕んで痙攣する。発話が自意識と調和しながら延々と流れていくということは稀だ。引用部のエセーでは、「わたしは自分の息子には誠実な人間になれと教えるつもりです……」との発言が自己陶酔的な自意識の延長上の言葉であり、『おいおい、イヴァン・ワシーリイェヴィッチ、おまえはいい気なって議論したが、……』の内語が無意識が告発する違和に当たると言える。小説と違うのは、無意識の告発の方が時間的に遅れて彼に到達することだ。小説だったなら、この『おいおい、……』はリアルタイムに彼の能弁に作用して、彼の発言の中断・屈折・転回させ、彼の発話を謂れのない(聞き手やそのほかの他者、現実、世間一般、自分自身等々に対する)否定・非難・抑圧の契機で満たすことになるはずだ。いずれにせよ、どんな滑らかな能弁の中にも『それでよくまあ恥ずかしくないものだな?』といった無意識の側からの告発=二重性・分裂性を見出すのがドストエフスキーのリアリズムである。エセーの場合、その自意識(しばしば書き手ドストエフスキー自身の自意識=能動的な見解)と無意識(しばしば想定される読者が入れる半畳)の拮抗関係がパラフレーズされて書かれることが多いようだけれども。
●『白夜』78-80頁
第三夜
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「ああ! ほんとにあなたはすばらしいお友達ですわ!」としばらくしてから、ひどくまじめな調子で彼女は言いだした。「あたしのために神様がお送りくだすったんだわ! ねえ、もしもあなたがいらっしゃらなかったら、いったいあたしはどうなったでしょうねえ? なんてあなたは公平無私な方なんでしょう! なんてご立派な愛し方なんでしょう! あたしがお嫁にいったら、あたしたちはみんなとても仲のいいお友達になりましょうね、血をわけた兄妹以上の。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じように愛しつづけますわ……」
その瞬間、私はなんだか恐ろしく悲しい気持になった。とはいうものの、なにか笑いに似たものが私の胸の中でもぞもぞと動きだした。
「あなたは発作を起しているんですよ」と私はいった。「あなたはびくついているんだ。あの人はやってこないと思ってるんでしょう」
「まあなんてことを!」と彼女は答えた。「もしもあたしがこんなに幸福でなかったら、あなたに信じてもらえないで、非難されたりしたら、きっと泣きだしたかも知れませんわ。でもあなたはあたしに暗示をあたえて、時間をかけて考えなければならない問題をおだしになったわ。だけどそのことは後でゆっくり考えることにして、いまは正直なところ、確かにあなたのおっしゃる通りよ。そうだわ! 確かにあたしはなんだか上の空みたい。あたし、待ちこがれて気もそぞろなもんだから、なんでもひどくピンと感じちゃうみたい。でも、もういいわ、感情の話はやめにしましょう!……」
そのとき足音が聞えて、闇の中にこちらへ向ってやってくる通行人の姿が現われた。私たちは二人ともガタガタふるえだした。彼女はすんでのことに声をたてるところだった。私は彼女の手をはなして、その場から立ち去るような身振りをした。しかし二人の思い違いで、それは彼ではなかった。
「なにをこわがっていらっしゃるの? どうしてあたしの手をお放しになったの?」と彼女はいって、またその手を私にまかせた。「ねえ、いいじゃありませんの? 二人で一緒にあの人を迎えましょうよ。あたしたちがどんなに愛し合っているか、あたしあの人に見てもらいたいのよ」
「どんなに愛し合っているかですって!」と私は叫んだ。
《ああ、ナースチェンカ、ナースチェンカ!》と私は胸の中で考えた。《君のその一言にどんなに多くの意味が含まれていることか! そういう愛はね、ナースチェンカ、時と場合によっては、相手のハートをヒヤリとさせ、心苦しくさせるものなんですよ。君の手は冷たいが、ぼくの手は火のように熱い。なんて君は盲目なんだろうな、ナースチェンカ!……。ああ、幸福な人間というものは、時によるとなんてやりきれないものなんだろう! しかしぼくは君に腹を立てるわけにはいかなかったよ!……》
とうとう、私は胸がいっぱいになってしまった。
「ねえ、ナースチェンカ!」と私は叫んだ。「あなたは知っていますか、今日いちにちぼくにどんなことがあったか?」
「まあ、なにが、どんなことがありましたの? 早く聞かしてちょうだいな? どうしていままで黙っていらしたの?」
科白においても、内語においても、肝心のことが最後まで言われないことが、(劇的な対決的対話とは区別される)不穏な予感で張り詰めた対話場面を作る決め手だろうか。そういうことを考えさせる引用部。
ここでは二人の科白の中にすでに剣呑な、危うい意味を帯びてしまいかねない二重性があって(「あたしたちがどんなに愛し合っているか、あたしあの人に見てもらいたいのよ」「どんなに愛し合っているかですって!」)、とりわけ主人公の無意識は言語化不可能な形で刺激されて、それが地の文でも記述されている。「その瞬間、私はなんだか恐ろしく悲しい気持になった。とはいうものの、なにか笑いに似たものが私の胸の中でもぞもぞと動きだした。」といった描写の適確さは素晴らしい。
だがさらに注目すべきは、ここでは或る言葉のやり取りを受けて主人公が思わず内語を爆発させるという流れで《……》に括られた主人公の言葉が段落として挿入されるにもかかわらず、その内語の中でもまだ肝心のことは言われておらず、内語でさえ背後の無意識の影響を受けつつそれを隠しながら屈折しているように見えることだ! もちろん「《君のその一言にどんなに多くの意味が含まれていることか! そういう愛はね、ナースチェンカ、時と場合によっては、相手のハートをヒヤリとさせ、心苦しくさせるものなんですよ。君の手は冷たいが、ぼくの手は火のように熱い。なんて君は盲目なんだろうな、ナースチェンカ!……。ああ、幸福な人間というものは、時によるとなんてやりきれないものなんだろう! しかしぼくは君に腹を立てるわけにはいかなかったよ!……》」の言葉のことだが、ここでは自分の運命への嘆きやナースチェンカへの間接的な批判など、あらゆる捻れや歪みが孕まれていながら、真に言われるべき言葉、「僕は君を愛しているので、そういうことを言われると勘違いしかねない」という率直な告白だけは、内語の中でさえ表出されないのだ。物語の文脈上の話をすれば、これほどに主人公が抑圧を被っているのは物語の最初の方、二人が出会ったときに「あたしに恋をしてはいけません」と強く言い渡されているからだが、とにかく直接の発話どころか内語においてさえ率直になれないほどに登場人物の上に抑圧の圧力がぎりぎりとのしかかっていることが──そしてそれによって自意識がつねに無意識の衝き上げを喰らって「恐ろしく悲しい気持」になったりしつつも肝心のことが回避されつづけることが──、不穏な予感で張り詰めた対話場面を作る決め手だと言えそうだ。
●『罪と罰』上255-256頁
第二部第五章
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「あなた方の問題は広大です。わたしがまちがっているかもしれませんが、より多くの明白な見解、より多くの、批判といいますか、そういうものがあることがわかったような気がするのです。より多くの功利性……」
「それはたしかだ」とゾシーモフが歯の間からおしだすように言った。
「嘘だよ、功利性なんてありゃしないさ」とラズミーヒンがからんだ。「功利性というものは獲得がむずかしいし、意味もなく空から降ってくるものでもない。ところでわれわれはほとんど二百年というもの、あらゆる問題に対して盲目にされている……思想は、あるいは、ふらふらさまよっているかもしれません」彼はピョートル・ペトローヴィチのほうを向いた。「幼稚だけど、善へのねがいもあります。詐欺師どもがむやみにふえてきたけれど、誠実という美徳もないことはありません、しかし功利性というやつはやっぱりありません! 功利性がねえ、長靴をはいてどたどたしてますよ」
「わたしはそうは思いませんね」といかにも嬉しそうな様子で、ピョートル・ペトローヴィチは反対した。「そりゃむろん、熱中もあれば、まちがいもあるでしょうが、大きな目で見てやることも必要です。熱中ということは、問題に対する熱意と、問題をとりまいている外部事情のゆがみを証明するものです。もしまだ少ししかなされていないとすれば、それはきっと時間が足りなかったからです。方法については言いますまい。なんでしたら、わたし個人の見解を申しあげますが、もうある程度のことはなされていると思います。つまり新しい有益な思想が普及されています。文学はいっそう成熟したニュアンスをおびるようになりました。多くの有害な偏見が除去され、笑いものにされました……要するに、わたしたちは自分を過去から永遠に切りはなしてしまったのです、そしてこれが、すでに一つの大きなしごとだと、わたしは思います……」
「暗記したな! 自薦してやがる」と突然ラスコーリニコフが呟いた。
「なんとおっしゃいました?」ピョートル・ペトローヴィチははっきり聞きとれないで、こう聞き返したが、返事がなかった。
「たしかにそのとおりです」とゾシーモフが急いで口をいれた。
「そうじゃないでしょうか?」と得意そうにゾシーモフをちらと見やって、ピョートル・ペトローヴィチはつづけた。「あなたも同意見ですな」と彼は、ラズミーヒンのほうへ顔を向けながら、言葉をつづけたが、その顔にはもうあからさまではないが、勝ち誇ったような優越感が見られた。彼は危なく、《若いお方》とつけ加えるところだった。「大いなる進展、あるいは今風にいいますと、プログレスというものがあります、よしんばそれが科学や経済学の真理のためであるにせよです……」
本人にそのつもりはなくても非常に尊大に響くタイプの饒舌というものがある。ここでルージンが発話しているのがそれなのだが、特徴を一つ挙げるとすると、「あなた方」「わたしたち」という形で、自分の主観を秘かに普遍的なものへと祭り上げている隠微な詐術がまず目につく。「要するに、わたしたちは自分を過去から永遠に切りはなしてしまったのです、そしてこれが、すでに一つの大きなしごとだと、わたしは思います……」要するに「あなた方」「わたしたち」「人々」という主語を用いることによって、世代や社会をステレオタイプで割り切ってしまうということへの無自覚が、尊大な印象を与えるのだろう。
ルージンの尊大さに対するラスコーリニコフの反応は極めてリーズナブル。「ゾシーモフが急いで口をいれた」といった振舞いのモンタージュも丁寧で面白い。
また、「暗記したな! 自薦してやがる」というラスコーリニコフの科白のスタイルにも注目。これは実際口に出して言ったのに、そしてそれは相手に対する一種の攻撃的な文句なのに、相手には聞こえなかった、というタイプの科白なのだ。相手には聞えてもらっては困るが、思わず内語が表にあらわれてしまった、という、いわば相手と自分の中間地帯に落ちていくような科白か。つまりどんな科白にも感情のベクトルというものがあって、それが(たとえ対話場面であっても)直に相手に向かっているとは限らない。それは演劇を知っていれば当然のことだが。
●『罪と罰』下106-108頁
第四部第五章
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「とんでもない! どうしてそんなことを! いったいあなたに何を尋問するんです」とっさに笑うのをやめて、調子も態度もがらりと変えて、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはあわててのどをつまらせながら言った。「まあ、どうぞ、ご心配なく」彼はまたせかせかとあちらこちらへ歩きだしたかと思うと、とつぜんしつこくラスコーリニコフに椅子をすすめたりしながら、ちょこまかしだした。「時間はありますよ、時間はたっぷりあります。そんなことはみならちもないことですよ! わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……わたしはあなたをお客として迎えています。ロジオン・ロマーヌイチ、不躾に笑ったことは、どうかかんべんしてください。ロジオン・ロマーヌイチ? たしかこうでしたね、あなたの父称は?……わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……笑いによわいんですな、脳溢血の体質のくせにね、まあ、おかけくださいな、どうしたんです?……さあ、どうぞ、さもないと、気にしますよ、ほんとに怒ったんですか……」
ラスコーリニコフはまだ怒ったしかめ面をしたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと様子をうかがっていた。それでも、彼は坐った。しかし帽子は手からはなさなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはせかせかと室内を歩きまわり、また客と目の合うのをさけるようにしながら、つづけた。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、われわれの周囲では、つまりわがロシアではですね、特にわがペテルブルグの社会では、もし二人の頭のいい人間が、それほど深い知り合いではないが、いわば、互いに尊敬しあっている、つまりいまのわたしとあなたみたいなですね、いっしょになると、まず三十分くらいはどうしても話のテーマを見つけることができないで、──互いにこちこちになって、坐ったまま気まずい思いをしている。誰にだって話のテーマはあるんですよ、例えば、婦人方とか……上流社会の人々なんかは、いつだって必ず話のテーマをもってます、それがきまりみたいになってるんですよ。ところが、わたしたちみたいな中流階級の人間は、みな恥ずかしがりやで、話下手で……つまりひっこみ思案なんですね。それはどこからくると思います? 社会的な関心がないとでもいうのでしょうか、それとも正直すぎて、互いに相手を欺すのがいやなんでしょうか、わたしにはわかりません。え? あなたはどう思います? まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気がきじゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」
ラスコーリニコフは帽子はおいたが、あいかわらず黙りこくって、むずかしい顔をしたまま真剣にポルフィーリイの中身のない要領を得ないおしゃべりに耳をかたむけていた。《こいつ何を言っているのだ、本気で、こんなあほらしいおしゃべりでおれの注意をそらそうとでも思っているのか?》
ポルフィーリイによる饒舌によって相手を呑もうとするテクニックを見よ。
ここでポルフィーリイの目的はともかく「ちょこまかと」落ち着きない饒舌を維持することによってラスコーリニコフの注意を拡散しつつ惹き付けること。ともかくまずは饒舌をつづけることが必要になってくる。
「わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……」「わたしはあなたをお客として迎えています」「わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ」「(わたしは)どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……」「(わたしは)笑いによわいんですな、脳溢血の体質のくせにね、……」──まずポルフィーリイの饒舌で目立つのは「わたし」「わたし」「わたし」の連発だが、こうしてなんでもかんでも不躾に「わたし」に結びつけた発話にしてしまうのは饒舌を維持するための基本テクニックと言える。「あなた」「ロジオン・ロマーヌイチ」と対話相手に呼び掛ける場合でも、或いは対話相手のことを話す場合でも必ず「わたし」に結びつけようとする。こうして「わたし」と「あなた」の共犯関係が勝手に不躾に構築される。このようなテクニックによってラスコーリニコフは単に敵対するのではなくて、ポルフィーリイからじっと目が離せなくなってくるのだ。
「わたし」を前面に押し出すという発話の性格は「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」から始まる長科白ではさらに明白となっている。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。……」しかもポルフィーリはこのように「わたし」にさかんに自己言及してわざとらしい卑下を見せつつ、しかしいつの間にか「つまりいまのわたしとあなたみたいな」という転回によって「わたし」と「あなた」を重ね合わせてしまい、後半になると「わたしたちみたいな中流階級の人間」という具合に、それまで単独で押し出していた「わたし」を勝手に「あなた」を含めた「わたしたち」という複数形にして饒舌を展開し、最後には「え? あなたはどう思います?」という(返事を全然期待しない)呼び掛けによって勝手にラスコーリニコフを自分の主観的意見の共犯として取り込んでしまっているのだ。
以上からここでポルフィーリイが駆使している饒舌テクニックのポイントは「『わたし』を押し出す」「共犯関係の構築」の二点に集約されると分かる。
●『罪と罰』下111-113頁
第四部第五章
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「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」とポルフィーリイはまた、楽しそうに、異常なほど無邪気な目でラスコーリニコフを見ながら(そのためにこちらはぎょっとして、とっさに心を構えた)、急いで言った。「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ! どうもこの(もちろん、全部じゃありませんがね)われわれの深遠な心理的方法というやつは、まったく滑稽ですよ、それに、おそらく無益でしょうな、形式にあまりこだわれば。おや……また形式にもどってしまった。さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、勉強はしました……」
「じゃちょうどいい、あなたの将来の参考として、判例といったものとひとつ、──といって、図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ! とんでもない、わたしはただ、事実として、判例を申しあげるだけですよ。──さて、わたしが誰かを容疑者と認めるとします。そこでひとつうかがいますが、たとえわたしが証拠をにぎっていたとしてもですよ、時機のこないうちに当人をさわがせる必要があるでしょうか? そりゃ、相手によっては早く逮捕しなきゃならん場合もありますが、そうでない性質の容疑者もいますよ、ほんとです。そんなやつはしばらく街を泳がせておいても、別にどうってことはありませんからな、へ、へ! いやいや、どうやら、よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう。例えばですよ、もしわたしがやつをあまり早く拘留すればですね、それによってやつに精神的な、いわば、支えをあたえることになるかもしれませんからねえ、へ、へ! おや、あなたは笑ってますね?(ラスコーリニコフは笑うなど思いもよらなかった。彼は坐ったまま、口をかたく結んで、充血した目をポルフィーリイ・ペトローヴィチの目からはなさずに、じっとにらみつけていた)。ところが、そうなんですよ、相手によっては特にね、人はさまざまですからねえ、何ごとも要は経験ですよ。あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ。予審判事なんて弱いものです。告白しますが、そりゃ審理は、いわば、数学的にはっきりさせたいですよ。二たす二は──四になるような、そういう証拠を手に入れたいと思いますよ! ずばり異論の余地のない証拠をね! で、やつを時機を待たずに拘留すればですね、──たとえわたしがそれがやつであることを確信していてもですよ、──おそらくわたしは、さらにやつの罪証をあばく手段を自分で自分からうばうことになるでしょう。なぜ? つまり、それによってわたしはやつに、いわば、ある一定の立場をあたえることになり、いわば心理的に安定させてしまうからです。そこでやつはわたしから逃れて、自分の殻にとじこもってしまいます。ついに、自分が被拘束者だとさとるわけです。また噂に聞いたのですが、セワストーポリでは、アリマの戦争直後、敵がいまにも正面攻撃をかけてきて、一挙にセワストーポリ要塞をおとすのではないかと、識者たちはびくびくしていたそうです。ところが、敵は正攻法の包囲作戦をえらび、前線に並行豪を構築しているのを見て、彼らは大いに喜び、ほっとしたということです。正攻法の包囲作戦をやっていたのでは、少なく見ても二ヵ月は大丈夫というわけです! おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ! いまあげた例はたしかに特殊の場合です! でも、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実に注視すべきではないでしょうか。つまり一般的な場合というものは、つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの考察の対象となり、判例として記録されるような、そうした場合のことですがね、ぜんぜん存在しませんね。というのはあらゆる事件は、まあどんな犯罪にしてもそうですが、それが現実に発生すると、たちまち完全に特殊な場合にかわってしまうからですよ。しかもときには特殊も特殊、まるで前例のないようなものにね。……
饒舌的な科白をどう構築していくのか。
相手の興味がどこにあるかおかまいなしに、自分のことについてやたら先回りして喋りまくることは、饒舌維持のテクニックとしては常套手段。しかしここでのポルフィーリイは「わたし」を押し出すだけでなくさらに「あなた」を押し出して「あなた」のリアルタイムな状態について喋りまくる、というテクニックを用いている。「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ!」「たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」「──といって、図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて(あなたが)思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ!」「いやいや、どうやら、(あなたは)よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう」「おや、あなたは笑ってますね?」「あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ」「おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ!」──こうした特徴に表れているのは、一応は「あなた」を持ち上げて、「あなた」の言うことを復唱することで同意を示すかのような従順な態度だ。というより「あなた」と敵対し断罪するような形で「あなた」を饒舌に取り入れても、相手の反応を待たなければならないことになるので饒舌を維持できない。ここは表面上の「あなた」への同意だけを見せておいて饒舌をとにかく途切らせないことが重要だ。
とはいえ、当然ながら、「あなた」を押し出しているだけでは饒舌は維持できないので、「あなた」へのリアルタイムな言及の合間に何かを挟む必要がある。合間に挟むのに適当と考えられるのはもちろん第一には「わたし」への自己言及だが、もっと適当なものがある。それは、「あなた」の無意識を刺激し「あなた」を間接的に愚弄するかのようなきわどい話題だ。直接的な愚弄というものはどんなにユーモアにくるんでも露骨に下品になってしまうものだが(そういう下品さは小説のエクリチュールとしては「下手」の兆候だ)、ここでポルフィーリイがやっているのは、「あなた」の状態について言及しまくりつつ相手を持ち上げながら(「図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ!」)、同時に「さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……」という想像上の状況を仮定して、間接的にラスコーリニコフを殺人犯として疑っていることを仄めかして伝達しているのだ。審理と証拠についての現実主義的な一般論を披瀝しつつ、セワストーポリ要塞の故事を引きつつ、ポルフィーリイのこの長科白の意図はラスコーリニコフを間接的に愚弄すること、ラスコーリニコフの無意識を刺激することだ。その目的に、「あなた」を押し出す饒舌のスタイルはとてもよく調和する。しかも読んでいて面白い──下品にならない。申し分なし。
●『地下室の手記』184-186頁
第二部第九章
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ぶちのめされたようになって、うろたえきり、見苦しいまでどぎまぎした様子で、ぼくは彼女の前に突立ち、どうやら、にやにや笑いながら、ただもう死物狂いで、あちこち綿のはみ出たぼくの部屋着の裾をかき合わせようとしていた。そう、それはまぎれもなく、ついさっき、気の滅入った瞬間に、ぼくが頭に思い描いた姿そのままだった。アポロンは、二分ほどぼくら二人をじろじろ眺めまわしていてから、部屋を出て行ったが、ぼくの気持はひとつも楽にならなかった。何よりいけないのは、彼女のほうまでがふいにうろたえてしまったことだった。そのうろたえ方は、ぼくの予期をはるかに越えていた。もちろん、ぼくに目を見張ったままで。
「坐りたまえ」ぼくは反射的に言って、テーブルの横の椅子を彼女にすすめ、自分は長椅子に腰をおろした。彼女は、目をいっぱいに見開いてぼくを見つめながら、すぐにおとなしく腰をおろした。明らかに、いまこの場でぼくから何かを期待しているふうだった。このナイーヴなまでの期待が、かえってぼくをかっとさせたが、ぼくはどうにかぐっと自分を抑えた。
こういうときこそ、万事がふだんのとおりといった思い入れで、素知らぬふりをよそおってくれればいいのだが、彼女は……と思ってぼくは、この代償が彼女にとってだいぶ高くつくな、とぼんやり予感した。
「妙なところを見られてしまったね、リーザ」ぼくはどもりながら、また、こういうふうに切り出すのがいちばんいけないのだ、と承知しながら、口を切った。
「いや、いや、妙に気をまわしてもらっちゃ困るな!」彼女がふいに赤くなったのを見とがめて、ぼくは大声を出した。「ぼくは自分の貧乏が恥ずかしいんじゃない……それどころか、ぼくは自分の貧乏を誇りにしているくらいさ。貧すれど、鈍せずでね……いや、貧乏だって、清い心はもてるものさ」とぼくはつぶやいた。「それはそうと……お茶はどうだい?」
「いいえ……」と彼女は言いかけた。
「待ちたまえ!」
ぼくは椅子からとび上って、アポロンの部屋へ駆けこんだ。どこへでもいい、とにかくどこかへ逃げこまずにはいられなかったのだ。
「アポロン」ぼくは熱に浮かされたような早口でささやくと、さっきからずっと手のなかに握りしめていた七ルーブリを、彼の前に投げだした。「これはおまえの給料だ。さあ、ちゃんと渡したぞ。その代りに、おまえはおれを救ってくれなくちゃいかん。すぐにレストランへ行って、お茶と乾パンを十個ほど買ってきてもらいたいんだ。もしいやだということなら、おまえは人間ひとりを不幸にすることになるんだぞ! おまえ、あれがどんな女か知らんだろうが……あれは── すばらしい人なんだ! おまえ、何か気をまわしているかもしらんが……あれがどういう女性だか知るまい!……」
もう仕事台に坐って、また眼鏡をかけていたアポロンは、最初、糸を手から放そうともせず、無言で金のほうに流し目をくれた。それから、ぼくのほうには目もくれず、返事ひとつしようとはしないで、まださっきのつづきで、糸を針の目に通そうともたもたしていた。ぼくは、ナポレオン流に腕組みをして、三分ほども、彼の前に突立って待っていた。ぼくのこめかみは汗に濡れて、顔は青ざめていた。そのことが自分で感じられた。しかし、ありがたいことに、さすがの彼も、ぼくが気の毒になったらしかった。糸の始末をつけると、彼はのろくさとその場から立ちあがり、のろくさと椅子をどけ、のろくさと眼鏡をはずし、のろくさと金をかぞえてから、ようやく肩ごしに「一人前、そっくりもらってきますかね?」とたずねて、のろくさと部屋を出て行った。リーザのところへ戻る道すがら、ぼくの頭にはこんな考えも浮んだ。このまんま、部屋着一枚のなりで、目の向くまま、逃げだすべきじゃないだろう、あとは野となれだ……
ドストエフスキーの描く情景法はたいていパターンにはまらない多彩な文章を駆使するので凄いね。語り手(この場合は一人称の主人公)の自意識の柔軟性と強度が違うという感じだ。たとえば「ぼくのこめかみは汗に濡れて、顔は青ざめていた。そのことが自分で感じられた。」と自分自身の感じ方を切り返しのように挿入する(三人称の場合、焦点化になるが)のがアクセントになっている。現前性の外見を追っているだけではないということ。
また、主人公の科白が完全に上辺を取りつくろった非本質的な分裂的饒舌になっているので、主人公の実態を描写するためには、地の文のリードが不可欠という形になっている。面白い。「そう、それはまぎれもなく、ついさっき、気の滅入った瞬間に、ぼくが頭に思い描いた姿そのままだった。」「何よりいけないのは、彼女のほうまでがふいにうろたえてしまったことだった。」「明らかに、いまこの場でぼくから何かを期待しているふうだった。」
●『悪霊』下530-534頁
「スタヴローギンの告白」
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ニコライ・スタヴローギンはその夜まんじりともしないで一晩じゅうソファの上にすわり通し、部屋の隅のタンスのあたりの一点に妙にすわった眼差しをしきりと向けていた。彼の部屋には一晩じゅうランプがともっていた。朝の七時ごろ、彼はすわったままの姿勢で眠りに落ち、侍僕のアレクセイが、いつものきまりきった習慣どおり、きっかり九時半に朝のコーヒーを持ってはいってきたとき、その気配で目をさましたが、目をあけると、自分がこんなに長いこと眠っていられたこと、そしてもうこんな遅い時刻になっていることに、不快な驚きを感じたらしかった。彼はそそくさとコーヒーを飲み、手早く着替えをして、急ぎ足に家を出ていった。アレクセイが「何かお言いつけはございませんか」と用心深くたずねたが、何も答えなかった。通りへ出ると、深い物思いに沈んだように、地べたを見つめて歩きだし、ほんの時たま、ちらと顔をあげて、何やらはっきりしない、けれどはげしい不安の色を面にあらわすばかりだった。家からそれほど遠くないある十字路で、五十人あるいはそれ以上の百姓たちの一団が通りかかって、道をふさいだ。百姓たちは行儀よく、ほとんど無言のまま、ことさら秩序正しく歩いていた。彼は一分間ほど小さな店のかたわらで待たされたが、そのときだれかが「あれはシュピグーリン工場の労働者たち」だと口にした。彼はほとんど注意を払わなかった。ようやく十時ごろになって、町はずれの川のほとりにあるわがスパソ・エフィーミエフスキー・ボゴローツキー修道院の門にたどりついた。ここまで来てはじめて、彼は何かしら厄介で気がかりなことを思い出しでもしたらしく、立ちどまって、自分の脇ポケットをさぐり、苦笑をもらした。構内にはいると、彼は最初に出会った従僧をつかまえて、この僧院に隠棲しているチホン僧正の庵室へはどう行けばいいのかとたずねた。従僧はぺこぺこと頭をさげはじめて、すぐに案内に立った。長くつづいている二階建の修道院の建物の端にある昇降口まで来ると、ちょうど行きあわせた白髪頭の肥った修道僧が、高飛車な態度ですばやく従僧からスタヴローギンを奪い取って、狭く長い廊下を、やはりぺこぺこと頭をさげながら(もっとも体が肥っているので、深く頭をさげることができず、断続的にしきりと頭を振るだけであった)、スタヴローギンがちゃんと後からついていっているのに、絶え間なく「どうぞこちらへ」をくり返していた。修道僧はなにかと質問をしかけたり、管長の話をしたりしていたが、相手が返事をしないのを見ると、ますます丁重な態度になった。スタヴローギンは、自分が修道院で知られていることに気づいた。もっとも、記憶するかぎり、彼がここを訪れたのは、子供のころに一度あるきりなのだが。廊下のいちばんはずれのドアの前まで来ると、修道僧は勝手知った様子でそのドアをあけ、駈け寄ってきた庵室づきの僧に「はいってもよいかな」となれなれしくたずねた。そしてその返事も待たず、戸をいっぱいに押し開き、一つ会釈をして《大事な》お客を中へ通すと、礼の言葉を聞くのもそこそこにして逃げるように姿を消した。スタヴローギンは小さな部屋にはいったが、それとほとんど同時に、間つづきの部屋の戸口に、年の頃五十五、六、なんの飾りもない室内用の僧服を着て、見たところいくらか病身らしい、背の高い痩せた男が姿を現わし、曖昧な笑顔を浮べながら、何か遠慮がちな眼差しでこちらを見た。これが、シャートフからはじめてその名を聞き、その後スタヴローギン自身も何かのついでにいくつかの情報を集める機会のあったチホン僧正であった。
彼の集めた情報はさまざまで、おたがい矛盾したものだったが、それでも一つの共通点をもっていた。つまり、チホンを好いていた者もきらっていた者も(そういう人たちもいた)、なぜか彼についてはあまり多くを語りたがらないという点であった。彼をきらっていた者は、おそらく、軽蔑の気持からだったろうし、彼に傾倒している者は、熱愛している人たちも含めて、ある種の遠慮からそうしていたらしい。つまり、僧正のある種の欠陥、たとえば、神がかり的なところを、人に知られたくない気持があったのである。スタヴローギンは、チホンがすでに六年間もこの修道院に住んでいること、彼のもとへは、ごくふつうの平民も来れば、きわめて高貴な身分の人も訪ねてくること、遠く離れたペテルブルグにさえ、熱烈な崇拝者がいて、とくに女性の崇拝者が多いことなどを聞きこんでいた。その反面、この町のクラブの定連であるれっきとした老人、それも信心深い老人の口から、「あのチホンという男はほとんど気違いも同然で、まちがいなく大酒飲みだ」などという評判も聞かされていた。先まわりして、私から注釈を加えておくと、この話はまったくのでたらめで、ただ足にリュウマチ性の痼疾があるので、時々ある主の神経性の痙攣が起きるだけなのである。スタヴローギンはまた、この隠棲の身の僧正が、性格上の欠陥のためか、あるいは《僧正の位にふさわしくない、許しがたい不注意さ》のためか、修道院の内部ではそれほど尊敬を集められないでいるという話も耳にしていた。人の噂によると、自分の職務上の義務にはきわめて忠実な、厳格な人物であり、そのうえ博識をもっても知られているここの修道院長は、チホンに対してある種の敵意さえいだき、彼の無頓着な暮しぶりを非難し(直接に面と向ってではなく、間接にだったが)、ほとんど異端とさえきめつけかねないほどだったという。修道院の同輩の僧たちも、この病める僧正に対して、ぞんざいとは言わぬまでも、なんというか、なれなれしい態度を取っていた。二部屋から成っているチホンの庵室そのものも、何か奇妙な感じをただよわせていた。革のすりきれた古色蒼然たる槲材の椅子とすぐ隣り合せに、三、四種、いかにも優雅に洗練された家具が置いてあるといった調子なのである、──豪奢このうえもない安楽椅子、すばらしい細工の大型の書き物机、小卓、重ね棚などがそれで、いうまでもなく、これらはすべて寄進の品々であった。豪華なブラハ織の絨毯が敷かれているかと思えば、すぐその横にむさくるしいむしろが置いてあったりする。《世俗》的な題材や、神話を描いた版画がかかっている同じ隅に、金銀まばゆい聖像を納めた大きな厨子が置かれ、その聖像の一つは、聖骨のはいったきわめて古い時代のものである。蔵書にしても、ひどく雑多で、ちぐはぐなものだそうで、キリスト教の偉大な聖者や殉教者の著作と並んで、「戯曲や小説など、ひょっとすると、もっとひどいもの」まであったという。
おたがい何か妙に気づまりな調子で、そそくさと、言葉にもならぬようにして交わされた初対面の挨拶がすむと、チホンは客を自分の居室に招じ入れ、やはり妙に気ぜわしげな態度で、客をテーブルの前のソファにすわらせると、自分もその近くの藤椅子に腰をおろした。だが、そのとたん、驚いたことに、スタヴローギンはすっかりうろたえてしまった。その様子から見ると、彼は何かしら特別に心を決めたこと、それでいて自分にはほとんど不可能とわかっていることに、全力をつくして踏み切ろうとしている人のようであった。彼はしばらく部屋の中を眺めまわしていたが、眺めてはいても、目にはまるではいっていないらしかった。彼は物思いに沈んでいたが、おそらく、何を考えているのかもわかっていなかったろう。あたりの静けさに、彼ははっとわれに返り、ふと、チホンがまったく意味もない微笑を浮べて、何やら恥ずかしげに目を伏せているように感じた。これが一瞬、彼の心に嫌悪と反撥をかきたてた。彼は立ちあがって、帰ってしまおうとした。彼は、チホンが手のつけられないほど酔っぱらっていると考えたのである。しかし相手がふいに顔をあげ、しっかりした、完全に分別のそなわった目で、しかもまったく思いがけない、謎めいた表情を浮べて彼を見つめたので、彼は思わずぎくりとさせられた。そして今度は急に、まったく別種の気持に取りつかれた。ほかでもない、チホンはすでに彼がなんのためにやってきたかを知っている、つまり、通知を受けていて(もっとも、世界じゅうでだれひとりとしてその理由を知る者はいないはずなのだが)、いま自分から口をきこうとしないのは、こちらの気持をおもんぱかり、彼に屈辱感を味わわせまいとしてなのだ、という気持である。
「あなたはぼくをご存じですか?」彼はふいに、ぶつぶつ言葉を切りながらたずねた。「はいってきたとき、自己紹介をしたでしょうか、どうでした? すみません、すっかりぼんやりしているもので……」
「自己紹介はされなかったが、私は一度、四年ほど前に、あなたをこの僧院でお見かけしたのでな……偶然に」
チホンは、一語一語を区切ってはっきりと発音しながら、ものやわらかな声で、たいそうゆっくりと、なだらかにしゃべった。
《この対話におけるスタヴローギンの定位全体が、他者にたいするかれの二重の態度によって規定されている。すなわち、他者の裁きと許しなしですますことが不可能であるということと、他者への敵意やこの裁きと許しへの反抗である。これがもとで、かれのことばや顔の表情、身振りにおけるあらゆる遮り合い、気分やトーンの激変、絶え間ない留保、チホンの応答の先取り、これらの想像しうる応答への激しい反駁が生じている。チホンを相手に、あたかも、遮り合いながらひとりの人間へと融合した二人の人間が話しているかのようである。チホンに対立しているのは二つの声であり、それらの内的闘争のなかにかれも参加者として巻きこまれている。(中略)スタヴローギンの気分やトーンの激変は、あとにつづく対話全体を規定している。あるときには一方の声が勝利をおさめ、またあるときは他方の声が勝利をおさめるのだが、たいていの場合、スタヴローギンの応答は二つの声の遮り合いながらの融合として構成されている。》(ミハイル・バフチン)
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●『罪と罰』上480-482頁
第三部第六章
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《婆ぁなんてくだらない些事だ!》と彼は燃えるような頭で、突発的に考えた。《老婆か、あれは過失だったかもしれないが、あんなのは問題じゃない! 老婆はどうせ病気だったんだ……おれはすこしでも早く踏み越したかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺した、がしかし、かんじんの踏み越すことはできなくて、こちら側に残ってしまったんだ……おれがやりおおせたのは、ただ殺すことだけだった。しかも今になって見ると、結局はそれさえやりおおせなかったわけだ……ところで主義はどうなるのだ? どうしてさっきラズミーヒンのばかは社会主義者をののしったのだろう? 奴らは勤労を愛し、商売に抜け目のない連中で、〈人類一般の幸福〉のためにはたらいているじゃないか……いやいや、おれには生は一度あたえられるだけで、二度とはやって来やしないのだ。おれは〈人類一般の幸福〉が実現するまで待ちたくない。おれだって自分の生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ。なんだというのだ? おれはただ〈人類一般の幸福〉のくるをの待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈人類一般の幸福を築くために煉瓦を一つ運んでいるんだ、それで心の慰めを感じてるんだ〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをすっぽかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってやはり生きたかろうじゃないか……ええ、おれは気取ったしらみだよ、それだけのことさ》彼はとつぜん気がふれたように、けたけた笑って、こうつけ加えた。《そうだよ、おれはたしかにしらみだ》彼は自虐的な喜びを感じながらこの考えにしがみつき、それをいじくりまわし、もてあそび、なぐさみながら、ひとりごとをつづけた。《理由はかんたんだよ、第一に、現にいまおれは自分がしらみだということについてあれこれ考えているじゃないか。第二に、この計画は自分の欲望や煩悩のためではない、りっぱな美しい目的のためだなどと称して、ありたがい神を証人にひっぱりだし、まるまる一月もいやな思いをさせたことだ、──はッは! 第三に、実行にあたっては、重さと量と数を考えて、できるかぎりの公平をまもろうときめて、すべてのしらみの中からもっとも無益なやつをえらびだし、そいつを殺して、多くも少なくもなく、おれが第一歩をふみだすためにかっきり必要なだけをとろうときめたことだ。(のこりは、つまり、遺言状どおりに、修道院行きってわけだ──はッは!)……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとでそれを自分に言うだろうとは、まえから予感していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……ああ、今のおれはよくわかる──馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じ給う、服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども! と叫んだあの〈予言者〉の心境が、よくわかる! 大通りの真ん中にばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! 服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども、希望など持つな、貴様らの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!》
彼の髪は汗にぬれ、ふるえる唇はかさかさにかわき、動かぬ視線がひたと天井に向けられていた。
ドストエフスキーにおける内語文体の代表例。
これを読むと激しい内語というものがニュートラルな姿勢や無風状態からは絶対に出て来ないということがよく分かる。まずは外部から彼に攻撃的に貫入してくる他者たちの言葉があり、そのダメージが蓄積されると、それをやはり言葉によって乗り越える(先回りする)ように反撃を開始するために内語が発動される。「おれは〈人類一般の幸福〉が実現するまで待ちたくない。おれだって自分の生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ」──このような言葉は彼が社会の秩序からの抑圧や他者たちの加害によってすでに内部に食い込むような傷を負っているのでなければ、湧き上がることはない。《ドストエフスキーの作中人物たちは「否定・非難」するためにこそ発話する》とかつて定式化したことがあるが、ここでは作中人物は外部・他者に「反撃」するためにこそ内語において饒舌になる、と言えようか。「おれはただ〈人類一般の幸福〉のくるをの待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈人類一般の幸福を築くために煉瓦を一つ運んでいるんだ、それで心の慰めを感じてるんだ〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをすっぽかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってやはり生きたかろうじゃないか……」
ただし外部から彼に貫入してくる傷口は、言葉によってもたらされる、つまり物理的・肉体的なものではなく心理的なものなので、自分自身の言葉によってそれをマゾヒスティックに内向きに倍加することもまた、可能である。実際「そうだよ、おれはたしかにしらみだ」以降の内語はそういうものになっている、つまり「反撃」ではなくて「自虐」になっている。しかも自分自身を攻撃していって完全に自意識の底を突き破ってしまった果てに辿り着くのは、再び反転した自分を含む世界全体に対する憎悪・攻撃・冒涜だ。「大通りの真ん中にばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! 服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども、希望など持つな、貴様らの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!」
いずれにせよ、ラスコーリニコフの自意識のなかにすでに痛苦が貫入していて、それに反撃するか自虐的に内攻させるかという形で活性することによって引用部の激しい内語が生成されているという点に、注目しよう。
余談。内語の攻撃の対象となるもの全般に対しては疑問形(ないしは修辞疑問)で挑発がなされていることにも注目せよ。「なんだというのだ?」これは、自分自身が攻撃の対象になっている場合でも同じだろう。
●『罪と罰』上89-91頁
第一部第四章
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巡査はきょとんとして、目を皿のようにした。ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「ば、ばかな!」とはきすてると、巡査はあきれたように手を振って、しゃれ者と娘を追ってかけ出して行った。どうやらラスコーリニコフを頭がおかしいか、あるいはそれよるも始末のわるい何かの病人と思ったらしい。
《二十コペイカを持って行かれてしまったわい》一人きりになると、ラスコーリニコフは苦りきってつぶやいた。《なあに、あいつからもとるんだな、そして娘をわたしてやりゃいいのさ、それでおわりだよ……なんだっておれは助けようなんてかかりあったのだ? おれに助ける力があるというのか? おれは助ける権利をもっているだろうか? なあに、あいつらは生きたまま呑み合いをすればいいのさ──それがおれにどうしたというのだ? それにあの二十コペイカをくれてやったりして、そんなことがおれにできるというのか。そもそもあれはおれの金か?》
こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は置き去りにされたベンチに腰をおろした。考えはとりとめもなくみだれた……そうでなくとも、そのときはどんなことでもものを考えるということが、彼には苦しかった。彼はすっかり忘れてしまいたいと思った、何もかも忘れてひとねむりし、目がさめてから、まったく新しい気持でやり直しをしたかった……
「あわれな少女だ!」彼はからっぽのベンチの隅へ目をやって、つぶやいた。「気がついて、泣く、やがて母親に知られる……はじめのうちはぶつ程度だが、そのうちにはげしいせっかん、口汚いののしり、そしてもしかしたら、追い出されるかもしれぬ──追い出されないにしても、やっぱりダーリヤ・フタンツォヴナのような女どもに嗅ぎつけられて、あの少女は人目をさけて、今日はあちら明日はこちらと袖をひくようになる……やがてたちまち病院行き(母のまえではひどく行儀よくしていて、ちょいちょい目をかすめてはこっそりわるさをしているような娘にかぎって、きまってこんなことになるものだ)、せっかく病院を出ても……しばらくするとまた病院に逆もどり……酒……居酒屋……そしてまた病院……二、三年もすると──廃人、これが彼女の十九年か、あるいは十八年の生涯の結末だ……おれはこんな例をこれまで見てこなかったろうか? 彼女らはどんなふうにしてそうなったか? なあにみんなこんなふうにして、ああなったんだ……チエッ! 勝手にそうなりゃいいのさ! 誰かじゃないが、そうなるようにできているんだよ。何パーセントかは年々おちて行かなきゃならんのだそうだ……どこかへ……まあ悪魔のところだろうさ、ほかの娘たちを清らかにしてやり、邪魔をしないためだそうだ。パーセント! 彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ。まったく気休めになるし、科学的な言葉だからな。何パーセントか、それじゃびくびくすることもあるまい、というわけだ。これがもしほかの言葉だったら、それこそ……おそらく、安閑としてはいられまい……それはさて、ドゥーネチカも何かのはずみでこのパーセントの中へおちるようなことになったら!……このパーセントでないまでも、何かほかの?……」
登場人物の自意識よりも無意識に照準を合わせるドストエフスキーの語り手が語る世界では、主人公の「内語」は決してそれだけでは閉じることができない。引用部でもラスコーリニコフの(後半のは実際口に出して言われた言葉のようになっているが)二つの内語は、互いに相反するようなニュアンスを持っていて──前者においては「娘」に対して浅薄な態度を取っているが、後者においては同情的想像力によって「娘」の生に肉迫している──単に自意識の中でのみ並列させれば、齟齬をきたさざるを得ないものだ。言うまでもなく、ラスコーリニコフの自意識の中には入って来ない、彼の無意識を支配している感情や思考のプロセスを地の文で内語と並行的に描いているからこそ(「こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。……」)、内語の展開が「ふとした」中断や屈折や転回を孕んだりするのが自然に表現できているというわけだ。自意識とは分裂していてつねに葛藤や矛盾の力を帯びて衝き上げてきてついには内語を屈折させる無意識の領域を、地の文で把握して(並行的に)敷衍する、というドストエフスキーの文体の特異性は、同じように主人公の内語を多用するルバテなどには見られないものだ。
ところで、ここでのラスコーリニコフの内語は、やはり自意識上で展開せざるを得ないものであるだけに、直接的な発話と同様に「否定・非難・抑圧」によって二重化されていることに注目しておこう。実際に対話相手が目の前にいるわけではないので、リアルタイムで相手の反応を取り込む・先回りして否定するという契機はないのだが、架空の対話相手に対する非難という契機はむしろ当たり前のように存在している(「それがおれにどうしたというのだ?」「そんなことがおれにできるというのか」)。二つ目の内語でもさらに「否定・非難・抑圧」の対象は多彩になっている。例えば「チエッ! 勝手にそうなりゃいいのさ!」というところではむしろ少女に同情してしまいかけている彼の無意識の噴出を無理矢理抑えつけているかのようだ。或いは「彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ」というところは、意地悪い皮肉によって「素晴らしい」などと肯定するように見せかけながら、実際には「彼ら」──というのは進歩的な思想家や科学者たちのことだろう──の意見を非難し否定しているのである。このような多彩な二重性が内語においても表われることは充分に銘記せよ。
テクニック的なことを言えば、段落が質的に変化するところで科白が出て来る時は、改行の切断性を利用し順番を転倒させて科白の方を先に持って来る、すなわち改行後は短い科白→地の文(→科白の続き)の形にするのが常套手段だが、同じことが内語が来る場合にも言えるようだ。巡査がいってしまったことを描いたすぐ次の段落でラスコーリニコフの内語が来ているが、これは一人きりになってからラスコーリニコフが考え出したはずのことを、一部段落頭に切り出して(《二十コペイカを持って行かれてしまったわい》)提示の順番を変え、段落の接続をスムースにしている。基本技術。
●『罪と罰』上71-74頁
第一部第四章
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母の手紙は彼をひどく苦しめた。しかしもっとも重要な根本問題については、まだ手紙を読んでいる間でさえも、彼の心にはちらとも疑いが生れなかった。問題のもっとも大切な要点は彼の頭の中で決められていた。しかもそれはもう動かすことのできない決定だった。《おれが生きている間は、この結婚はさせぬ、ルージン氏なんて知ったことか!》
《だって、あまりにも見えすいてるよ》彼はせせら笑って、自分の決定の成功を意地わるく前祝いしながら、つぶやいた。《だめだよ、母さん、だめだよ、ドゥーニャ、あんた方にはおれはだませないよ!……おまけに、おれに相談しないで決めてしまったことを、あやまったりしてさ! あたりまえだ! いまとなってはもう話をこわすことができないと、思っているようだが、まあこれからのおたのしみだね──できるか、できないか! いやはやたいへんな言いわけだよ、〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉、おどろいたね。だめだよ、ドゥーネチカ、おれはすっかり見通しだ。おまえはおれに話したいことがたくさんあるそうだけど、それが何だかおれにはわかっているんだよ。おまえが一晩中部屋の中を歩きまわりながら、何を考えていたかも、母さんの寝間にあるカザンの聖母の像のまえで、何を祈っていたかも、おれにはわかるんだよ。ゴルゴダの丘へのぼるのは苦しい。フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、実務家でわけのわかった男、自分の財産をもっていて(すでに自分の財産をもっているといえば、重味もちがうし、聞えもぐっといいものだ)、勤めも二つもっており、新しい世代の信念にも理解があり(母さんの手紙によると)、しかもドゥーネチカ自身の言葉では〈善良な方らしい〉男のもとへ嫁ぐんだね。このらしいが何よりも素敵だよ! あのドゥーネチカがこのらしいと結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……》
《……ところで、ちょっと気になるが、いったい何のために母さんは『新しい世代』なんて書いてよこしたのだろう? その男の人間をよく説明するためだけか、それとも遠い目的があってか? つまり、おれをたぶらかしてルージン氏に好意をもたせるというような? へえ、考えたものだよ! それからもう一つはっきりさせておきたいことがある。その日、その夜、そしてそれからずうっと、母さんと妹がどの程度まで腹をわって話し合ったかということだ。二人の間で言葉がすっかり思ったままに話されたか、それとも二人とも気持も考えも同じであることが、互いによくわかっていて、もう何もかもすっかり打ち明けて語り合うまでもなく、口をうごかすだけむだというものだったか? おそらく、そういうことも多少はあったろう。手紙を見てもわかる。母さんには彼がいくらかぶっきらぼうなように思われて、悪気のない母さんのことだからそのとおりにドゥーニャに言った。ところがドゥーニャは、当然、腹を立てて、〈ぷりぷりしながら答えた〉というわけだ。あたりまえだ! つまらないことを聞かれるまでもなくもうすっかりわかっていて、おまけにもう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている。さらになんてことを書いているのだ。〈ドゥーニャを愛してあげなさい、ロージャ、あの娘はわが身よりおまえを愛しているのです〉なんて。娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられているにちがいないのだ。〈おまえはわたしたちの望みです、わたしたちのすべてです!〉ああ、母さん!……》
憎悪がラスコーリニコフの身内にますますはげしく燃えたぎってきた。そしていまルージン氏に会ったら、いきなりたたき殺したかもしれぬ!
まず第一に思うのは何故ラスコーリニコフはこんなにもまわりくどく、意地悪な喜びに憑かれて内語を発しているのかということだ。まあそれがラスコーリニコフの独自性ではあるのだが。確かにここでラスコーリニコフは自分を知的に高いものとして位置づけている。「あまりにも見えすいている」「あんた方にはおれはだませないよ!」「おれはすっかり見通しだ」──そのような立場が彼に必要以上に意地悪にさせるのか? そもそも、母親の手紙には、ルージンを好意的に、ドゥーニャの婚約を肯定的に見せようという意図はあったかもしれないが、それほどラスコーリニコフを騙すような要素はなかったと思われる。母親に対してはどうもラスコーリニコフが勝手に邪推していきり立っているところがあるようだ。実際、「〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉」──こんな言葉は母親の手紙には出てこない。ラスコーリニコフの内語の中での敵対的想像的対話によって勝手に歪められた相手の言葉の「復唱」なのだ。敵意によって歪められてしまった他者の言葉の「復唱」! なかなか細かい文体術だ。
しかしラスコーリニコフがここで実際敵対しているのは、母親ではなくてラスコーリニコフと同様の知性を持っていてしかるべきドゥーニャに対してだろう。母親の方がルージンを「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人」と言い切っているのに対して、あくまで「善良らしい」という推測にとどめているのはドゥーニャの方なのだ(「ドゥーニャが、あの人は教育はあまりないけど、頭がよくて、性質もいいらしいと、わたしに説明してくれました」)。この「善良らしい」が絶対に「善良」そのものにはならないと見抜いているからこそ、ラスコーリニコフは憤慨し、それを同じく分かっているはずのドゥーニャに対して挑発的な意地悪な内語を向ける(敵対的内的対話!)。「フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、……」「あのドゥーネチカがこのらしいと結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……」──この間接的な「想像的対話」が少しラスコーリニコフの内語をまわりくどいものにしているのか。
また、ラスコーリニコフは想像力も旺盛である。母親が全部書いているだけに(ドゥーニャが一言も書かない口実は、「おまえと話すことがあんまりたくさんありすぎて、いまはとてもペンをにぎる気になれない……」)ドゥーニャの振る舞いは手紙の中で兆候的にしか現れないが、そこはそれ、わずかな兆候的描写からでも多くのものを思い描き得るのが想像力が過剰な人間の本領だ。たしかに、数々の兆候からしてルージンは碌でもない人間のようであり、ドゥーニャもそれに気付いている(母親は明確に気付いていなけれども兆候はすべて感受して描き切った)、だからこそドゥーニャは「言葉はまだ行いじゃないわ」などと言って腹を立て、決意の前に母親の寝間にあるカザンの聖母の像のまえで祈るわけだ。そして、彼女が腹を立てた理由(「もう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている」)も、ドゥーニャが何を祈っていたのかも(「娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられている……」)、手紙にわずかに記された兆候から、ラスコーリニコフはありありと想像してしまえる。これが「兆候的描写」を前にした時の想像力過剰な人間の能力発揮のさまか。まあ先に述べたようにラスコーリニコフは邪推(=陰性想像)しすぎて一人相撲になっちまっているところもあるが。作者は無論それとは距離と取っている。
しかしそれにしても、あまりにも素早く母親の無意識を弁証法的に見抜きすぎていないか? まあどちらも、母親の手紙もラスコーリニコフの反応も作者が虚構したのだから当然と言えば当然だが。はっきり言って、初めてルージンの手紙を読んだ段階でそのすべての兆候に気が付いてルージンを絶対に拒絶すべしと判断を下すことなど、「誰にも」不可能なのではないか。それを可能にしているのは、ただこの作品中で、ラスコーリニコフがもっとも知性が高く想像力過剰なポジションにいるという小説世界の関係性の約束事次第ではないだろうか。リアリティという点からすれば、ここまで複雑に兆候が仕掛けられ、行動、想像、情動、知性の攻守の交錯が錯綜する手紙とその読み手、なんてことが現実に具現するわけがない。「地に足をついた」リアリズムでは絶対にこんなラスコーリニコフの内言は描けない。肝に銘じておくべきことだ。もちろんドストエフスキー自身の頭は抜群に良い……掛け値なしだ。
あと、ルージンが「新しい世代」に共感している、というのは母親の修辞ではなくて実際そのとおりのことだと後で判明する。これは実は、マルメラードフが言っていた「レベジャートニコフ氏は、新思想を研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学の進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ」と作為的に共鳴する要素(作品内ではこの「新思想」は否定的なものとして位置づけられる)。伏線設計として周到・無駄がない。
しかし、「いきなりたたき殺したかもしれぬ!」って、なんで語り手がそんなにいきり立っているんだよ。実況リポーターのごとく興奮する地の文。
●『罪と罰』上76-80頁
第一部第四章
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《……でも、母さんはまあいいさ、しかたがないよ、ああいうひとなんだ。ところでドゥーニャはどうなんだ? ドゥーネチカ、かわいい妹、おれはおまえのことはよく知っているんだよ! おれが最後に会ったとき、おまえはもうかぞえで二十歳だった。おまえの気性がおれにはもうわかっていた。〈ドゥーネチカはたいていのことには堪えられます〉と母さんは書いている。そんなことはおれだって知っているさ、それはおれはもう二年半まえに知っていたんだ、そしてそれ以来二年半の間そのことを考えてきたんだ、〈ドゥーネチカはたいていのことなら堪えられる〉ってことをさ。スヴィドリガイロフ氏と、それにからんで起ったすべてのできごとに堪えられたのだから、たしかにたいていのことには堪えられるわけだ。ところで今度は、母さんといっしょに、妻は貧しい家からめとって、良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にするようなルージン氏だって、しんぼうできると思ったわけか。まあ、うっかり〈口をすべらした〉というのなら、それでもいいさ。わけのわかった人間でもそういうことはあるだろうからな(ひょっとしたら、決して口をすべらしたわけではなく、早いとこはっきりしておこうと思ったのかもしれん)、だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。あの娘は黒パンだけかじって、水をのんでも、自分の魂は売らない女だ。まして楽をしたいために自分の精神の自由を渡すはずがない。ルージン氏どころか、シュレスイッヒとホルスタインを全部やるといわれたって、自分を売るような女ではない。いいや、おれが知っているかぎりでは、ドゥーニャはそんな女ではなかった、そして……そうとも、今だって、むろん、変ってはいまい!……わかりきっている! スヴィドリガイロフ夫妻も酷だ! 二百ルーブリの金のために一生家庭教師として県から県をわたり歩くのも辛いことだろう、しかしそれでもおれは知っている、おれの妹なら、尊敬もしていないし、いっしょになっても何もすることがないような人間と、自分一人の利益だけのために、永久に自分を結びつけて、自分の精神と道徳感をけがすくらいなら、いっしょ植民地の農園に奴隷となって雇われて行くか、あるいはバルト海沿岸地方のドイツ人の下女になるだろう! また、ルージン氏が純金か高価なダイヤモンドに埋まっているような人間なら、妹はルージン氏の合法的なかこい者になることを承知しまい! それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ! 愛する者のために、尊敬する人間のために、売る! 要するに、これが真相なのだ。兄のために、母のために、売る! すべてを売る! おお、この殺し文句のために、時によるとわれわれは道徳心をおしつぶしてしまうのだ。そして自由も、安らぎも、良心までも、何もかも古物市へ運び去ってしまう。生活なんかどうにでもなれ! 愛する人が幸福になれさえすれば! そのうえ、勝手な詭弁を考えだし、ジェスイット教徒の教えを研究して、こうでなければならないのだ、崇高な目的のためならばこれでいいのだと、自分に納得させて、ひとときの安らぎを得ようとする。われわれとはこんな人間なのだ。そして何もかもが白日のようにはっきりしている。この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが登場し、しかも主役であることも、はっきりしている。なにいいさ、彼の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやることができる、もしかしたら、彼はのちに金持になり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり、しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ! だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ! 犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか? どうです? 堪えられますか? とくになりますか? 分別にかないますか? ドゥーネチカ、おまえは、ソーネチカの運命がルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて、すこしもいやしいものでないことを、知っているのかね?〈愛情というようなものがあったわけではない〉──と母さんは書いている。愛情ばかりか、尊敬もあり得ないとしたら、それどころか、もう嫌悪、侮蔑、憎悪の気持が生れているとしたら、どうなるだろう? そうなれば、またしても、〈身なりをきれいにする〉ってことが必要になってくる。そうじゃないかね? わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。いやもしかしたら、もっと悪く、もっといやらしく、もっときたないかもしれん、というのは、ドゥーネチカ、なんといってもおまえにはすこしでも楽をしようという打算があるが、あの娘は餓死というぎりぎりの線に追いつめられているからだよ! 〈ドゥーネチカ、このきれいというやつは、高くつくよ、ひどく高くつくんだよ!〉あとで力にあまるようなときがきたら、どうする? 後悔してももうおそいよ。どれだけ悲しみ、なげき、呪い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか、だっておまえはマルファ・ペトローヴナのような女じゃないもの! そうなったら母さんはどうなるだろう? もう今から心配で、胸を痛めているというのに、何もかもがはっきりわかるときがきたら、いったいどうなるだろう? ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》
彼は不意にはっとして、足をとめた。
《させるものか? じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ? ことわる? どんな権利があって? そういう権利をもつために、おまえのほうから母さんと妹に何を約束してやれるのだ? 大学を卒業して、就職したら、自分のすべての運命、すべての未来を二人に捧げるというのか? そんなごたくは聞きあきたよ、それにはっきりしない先のことじゃないか、いまはどうするんだい? いまどうにかしなきゃならないんだよ、わかるかい? ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。スヴィドリガイロフたちやアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンとやらから、おまえは二人をどうして守るつもりだね、未来の百万長者さん、二人の運命をにぎるゼウスさん? 十年後に? その十年の間に母さんは襟巻編みの手内職で、いやもしかしたら涙で、目をつぶしてしまうだろうよ。精進料理でやせほそってしまうよ。それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?》
ここで重要なのは、ドゥーニャの本質、金銭や安楽な生活のために尊敬もしていない男と結婚することなどありえない娘としてのドゥーニャを描いてみせ、ドゥーニャの婚約の、母親の手紙には書かれなかった本質──愛する兄のために自分を売る!──をラスコーリニコフの内語によって開示した、ことだけではない。ドゥーニャだったら絶対に分かっているはずだ、という形でルージンの人格の「穴」を見事に虚構してみせたこと、それをラスコーリニコフの「洞察」の中で利用し切ってみせたことにこそ注目しなければならない。母親の手紙の中では「すこしぶっきらぼうすぎる」という形容のみで語られた「妻は貧しい家からめとって、良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にする」というエピソードが、ここまで決定的な意味レベルを担うとは! 無論これだけでルージンの本質を見抜き、あり得べきドゥーニャとルージンの結婚生活の顛末まで想像してしまうラスコーリニコフの知性は凄いのだが、そもそもルージンに見抜かれるような穴を──しかもラスコーリニコフの母親が騙されてしまうほどに巧妙で、ドゥーニャが兄への愛のためなら見てみぬ振りができるほどの、微妙な位置づけの穴を──属させた作者の手腕も、それ以上の驚きと言わねばならない。ドストエフスキーは鋭い分析だけではなくて、分析される対象そのものまで自分で創り出してしまうのだ。
そしてまた、ここではドゥーニャがラスコーリニコフに対して「穴」を見せていることに注目しよう。というより母親の手紙の叙述の時点で、「穴」が空いていた(それを作者が虚構していたわけだ)。シュレスイッヒとホルスタインを全部やると言われたって自分を売るような女ではないはずのドゥーニャが、何故かどう考えても尊敬に値しない男と結婚し、それがどうやら「このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ」という一言からしても、愛する兄のために自分を売っているに等しいという、その自己矛盾だ。「自分のために自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!」──このドゥーニャのあからさまな「穴」は確かにラスコーリニコフを憤らせるに値する。しかし真に問題なのは、このようにあらゆる面でラスコーリニコフはドゥーニャや母親の「穴」を攻撃している一方で、自ら一方的に攻められているのだということだ。ラスコーリニコフは、長男であるにもかかわらず社会的には失敗者になりかかっているという「穴」を、二人から家族愛という情動で、攻められている。攻めていながら、一方では攻められている! ラスコーリニコフにも「穴」があり、母親の手紙は、ドゥーニャの決意は、その「穴」がなければ起りえなかったという意味で、ラスコーリニコフをも始終攻めているのだ! それが改行後に突然内攻しはじめる内語の流れの変化の要因である。「ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。……」──ここでラスコーリニコフが攻められる側にまわらざるを得なくなる重大な契機として「金銭」が用いられていることに着目しよう。別に資本主義に反抗せよってのは、小説が担うべきテーマじゃない。そうではなくて、金銭のやり取りは必ず「攻める(責める)-攻められる(責められる)」の関係性・攻撃性を誘発するということこそが小説にとっての金銭の根本的意味だ。だからこそお金は軽々しく扱うことができないのだ、小説においては。
攻めつつ攻められているという加害と被害の錯綜が関係性をドライヴさせる。その攻めつつ攻められるという二重性はラスコーリニコフの内語の文体にも反映されている。想像的対話? いや、そんな生易しいものではない。ドゥーネチカに「おまえ」と想像上で呼びかける。ほとんど当人を前にしての挑発的会話と同等。「だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。」「わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。」こうした敵対的な想像上の内的対話がどんどん展開してしまうというのは、まさにドゥーニャに「穴」があるからだと考えるべきであろう。また、自問自答による叙述の展開もあるが、ほとんどこれは「作家の日記」と同じ「公開自問自答」のような演劇性がある。「攻める」という志向性はやはり平常な平和な関係から見ると自ら駆り立てているような演劇性を帯びるということか。「それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!」そしてこれらの特徴の進化形として、「内語の中での演劇的一人三役」というアクロバティックな技法が出てくる。つまり、想像上の他者の言葉を、自分自身のアクセントで「復唱」し、それにリアルタイムで注釈=解釈してみせるという内語の運動だ。これはまさしく分析対象を「(攻められつつ)攻める」最も効果的なレトリックかもしれない。「だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうしえ犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか!」──ここで復唱されている母親の声が一種の攻撃になっていることに注目せよ。やはり、われわれの内語を熱烈に分裂させるのは「攻める-攻められる」の衝動か。それにしても内語で「一人三役」をやっているほどの個性なんて、ドストエフスキーの登場人物だけじゃねぇか? そしてついには、彼は自分が攻められざるをえない「穴」を自覚して、自分の中の他者の言葉によって自分を責め苛むに至る! 凄まじい分裂的饒舌。「それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?」
もちろん単にラスコーリニコフの個性的な内語の表現だけがこの箇所の面目ではない。少々強引だが、前々章のマルメラードフの話に出て来たソーニャの売春とドゥーネチカの身売りを重ね合わせることで、ソーニャをふたたび伏線として強調している。こうした丁寧な伏線の仕掛けと、「マルメラードフがたまたまラスコーリニコフの前で馬車に轢かれる」(第二部第七章)偶然が重なって、ソーニャがラスコーリニコフ──およびドゥーニャとルージン──に深く関わってくることになる。この物語と関係性の運動は、見事だ。
●『罪と罰』上295-296頁
第二部第六章
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群衆はちりはじめた。巡査はまだ身投げ女の面倒をみていた。誰かが警察の悪口をどなった……ラスコーリニコフは冷たい傍観者の異様な気持でそのできごとをながめていた。彼はむかむかしてきた。《だめだ、醜悪だ……水は……いかん》彼はひとりごとを言った。《どうもなりゃしない》と彼はつけ加えた。《何も待つことはないさ。警察がどうとか言ったようだったな……だが、どうしてザミョートフは警察にいかないのか? 九時には出勤のはずだが……》彼は手すりに背を向けて、あたりを見まわした。
《ふん、それがどうしたというんだ! まあいいさ!》彼はきっぱりこう言いすてると、橋をはなれて、警察署のある方角に向って歩きだした。心はうつろで荒涼としていた。何も考えたくなかった。暗いさびしささえ消えてしまって、《いっさいのけりをつけてしまう》覚悟で、家を出たときのあの意気込みはあとかたもなかった。石のような無感動がそのあとをおそった。
《なあに、これも出口だ!》彼は河岸通りをしずかに、ものうげに歩きながら、こう考えた。《やっぱりけりをつけよう、思ったことはやらにゃ……しかし、これが出口だろうか? どうでもいいじゃないか! 二本の足がやっとの空間か、──へッ! それにしても、どんな結末になるだろう! 結末がくるだろうか? 彼らに言おうか、言うまいか? チエッ……ばかな! たしかに、おれは疲れたよ。どこでもいい、早く横になるか坐るかしたい! 何よりも恥ずかしいのは、考えることが愚劣きわまるということだ。まったく、唾をはきかけてやりたい。どうしてこうばかなことばかり、頭に浮ぶのだ……》
まずは基本。現前的場面における描写というものは、人物と同時に人物が見ているものをもまた与える。それが小説的叙述に臨場感を与える。「群衆はちりはじめた。巡査はまだ身投げ女の面倒をみていた。誰かが警察の悪口をどなった……ラスコーリニコフは冷たい傍観者の異様な気持でそのできごとをながめていた。」──はその良い例(ちなみに、出来事を眺めるラスコーリニコフを注視していた叙述=語り手の語りは、次の「彼はむかむかしてきた。」の一文によってラスコーリニコフの内語へ踏み込んでいく。これも常套手段)。また、内面描写の場合は、人物と同時に人物が感じていることを同時に与える、ということになろうか。「彼はきっぱりこう言いすてると、橋をはなれて、警察署のある方角に向って歩きだした。心はうつろで荒涼としていた。何も考えたくなかった。暗いさびしささえ消えてしまって、《いっさいのけりをつけてしまう》覚悟で、家を出たときのあの意気込みはあとかたもなかった。」──がその好例か。
で、ラスコーリニコフの内語の文体。注目すべきはパロールに含まれる歪みや屈曲だ。ここでラスコーリニコフは何かを自分に納得させようとしきりに強い語調で色々言っているのだが(《何も待つことはないさ》《ふん、それがどうしたというんだ! まあいいさ!》《なあに、これも出口だ!》《どうでもいいじゃないか!》)、それらがほとんど自意識の上辺での強がりにすぎないと見えるのは、彼の文体にあまりにも躓きが多いからだ。《だめだ、醜悪だ……水は……いかん》に見られる能動的というよりは受動的な口ごもりや、《だが、どうしてザミョートフは警察にいかないのか?》《しかし、これが出口だろうか?》に見られる自分がたった今言ったことを引っくり返すような問い返しや、《ふん》《まあいいさ!》《なあに》《ヘッ!》《チエッ……ばかな!》に見られる言葉の流れをポキポキ折れるような短い感情(主に自分への苛立ち)の激発や、《二本の足がやっとの空間か、──ヘッ!》《何よりも恥ずかしいのは、考えることが愚劣きわまるということだ。まったく、唾をはきかけてやりたい。どうしてこうばかなことばかり、頭に浮ぶのだ……》に見られる自分自身の現状に対する批判的悪罵、等々。これらの特徴がラスコーリニコフの独り言を決して唯我論的自意識に閉じ得ないものとしているわけだ。彼は自分の断定や言い切りをすぐさま苛立ち混じりに否定せざるを得ない。そこに特定の人物ではなくても、彼の自意識の外側から(無意識の領分から)彼を刺激して来る「他者」の感触が現象しているわけ。
●『罪と罰』上74-76頁
第一部第四章
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憎悪がラスコーリニコフの身内にますますはげしく燃えたぎってきた。そしていまルージン氏に会ったら、いきなりたたき殺したかもしれぬ!
《フム、それはそうだ》彼は頭の中に旋風のように吹き荒れている考えのあとをたどりながら、ひとりごとをつづけた。《どんな人でもよく知るためには、ゆっくり時間をかけて注意深くつきあってみなければならぬものです。それはたしかにそのとおりだ。だが、ルージン氏の人間はもうわかっている。要は、〈実務家で、善良な人らしい〉とのことだが、荷物を引き受け、大きなトランクを自分の負担で運んでやるのは、たいへんなことだろうさ! まあ善良でないとはいえまい。ところが花嫁と母親の二人は、百姓をやとって、むしろをかけた馬車に乗って行くんだ! おれも何度か乗ったがね。それはまあいいよ! たかだか九十露里だ、ところが〈その先は三等車で楽しい旅をする〉、約千露里だぜ。本人たちはそれでいいよ、分相応ってことがあるからな、ところでルージンさん、あんたはどういうつもりですかね?……だってこれはあんたの花嫁じゃありませんか……母が自分の年金を担保にして旅費を前借りしていることだって、知らなかったでは通りませんよ。そりゃもちろん、あんたにはこんなことは普通の商取引みたいなもので、儲けもお互い、分け前も平等だから、支出も半々だというでしょうよ。諺にも、パンと塩はいっしょだが、煙草銭はめいめい持ちっていいますからね。なるほど、実務の腕にものを言わせて女たち二人をちょいとだましましたな。荷物のほうが二人の旅費より安いし、うまくすれば、無料になるというわけか。いったいあの二人は、これしきのことがわからないのだろうか。それともわざと知らぬふりをしているのか? 何しろ満足なのだ、満足しきっているんだ! これはまだ花が咲いただけのことで、本当の果実は先のことだってことを、考えないのだろうか! だってここで大切なことは、けちなことでもなければ、がめついことでもない。そうしたことすべてのトーンなのだ。そうさ、それが結婚後の将来のトーンになるんだからな。予言みたいなものさ……それにしても、母さんはいったい何をうきうきしているのだろう? 何をどれだけもってペテルブルグへ来るというのだ? 銀貨三枚か、札を二枚じゃないか、この札ってのはあの……婆ぁの口癖だが……フム! そのあとペテルブルグでいったい何をして暮そうというのだ? だって、もうどんな理由があったのか知らんが、結婚後は、その当座だけでも、ドゥーニャといっしょに暮すことはできないだろうと、見ぬいているじゃないか? おそらく、いわゆる親切な男が何かのはずみにうっかり口をすべらして、生地を出し、さすがの母さんも両手をふって、〈こちらからことわりますよ〉てなことになったのだろう。とすれば、母さんは誰をあてにしているのだ、百二十ルーブリの年金か? それだってアファナーシイ・イワーノヴィチの借金をさしひかれるではないか。そのうちに冬の襟巻を編んだり、袖当を縫ったりして、老いの目を悪くする。それに襟巻の手内職をしたところで、一年かかって百二十ルーブリに二十ルーブリを加えるくらいがおちだ、そんなことはわかりきっている。つまりは、やっぱりルージン氏の高潔な気持とやらをあてにしているのだ。〈先方から申し出て、頼んでくるようになるでしょう〉というわけだ。財布のひもをしめることだ! ああいうシラーの劇の人物みたいに美しい心の持ち主はいつもそんな目にあるんだよ。いよいよというときまで相手を孔雀の羽でかざり立て、ぎりぎりまで悪くはとらないで、よいことだけを当てにしている、そして事の裏側をうすうす感じても、そうなるまえに自分に本当の言葉を聞かせようとは決してしない。そんなことは考えただけで気が滅入ってしまうのだ。そしてりっぱだと思いこんでいる相手にまんまと鼻をあかされるまでは、両手で真実を突っぱねているのだ。ところで、ルージン氏は勲章をもっているだろうか。賭けをしてもいい、ぜったいに聖アンナ勲章が襟穴についている、そして請負人や商人のところへ食事に招かれて行くときは、それを胸に光らせて行くことはまずまちがいない。ひょっとしたら、自分の結婚式にもつけかねない! しかし、あんなやつはどうでもいい!……》
なんというか、これこそまさに「解釈学」ではないのか。
もちろんラスコーリニコフの内語は必ず形式的に想像的対話のスタイルとなる、それはそうでなければならないだろう。しかしその中で、母親がルージンに対し受動的であるがゆえに構築してしまった「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人です」という意味レベルを完全に粉砕してしまっているという内容の方が、形式よりも重要な意味を持っている(「おそらく、いわゆる親切な男が何かのはずみにうっかり口をすべらして、生地を出し、……」)。これぞ人間を対象とした解釈学の肝だ。すでに成立した意味レベルの上にさらに別の意味レベルを架すること。関係性と兆候の乱反射によって。確かに母親の手紙の中にははっきりと明言されていない兆候が満ち満ちていた。だがラスコーリニコフは、ルージンの振る舞いの端々からルージンの卑劣さを、母親の想像力によって盲目になった手紙の文面の「意味」を解きほぐす=解釈する形で抉り出しただけではなく、手紙の言葉のかすかなブレから、母親の真意にまで洞察力を働かせているのだ。実際の文面では、「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人ですから、きっと自分からわたしに同居をすすめ、もうこれからは娘とわかれわかれになんて暮さないようにと言ってくれるにちがいありません、わたしはそう信じこんでいます。いままでそれを言いださないのは、むろん、言わなくてもわかっているからでしょう。でも、わたしはことわります。姑が婿とあまり気持がしっくりしない例を、わたしはこれまで何度となく見てきました。」──となっているのだが、ラスコーリニコフの知性はその真逆の真意を読み取る、つまり「母さんはいったい何をうきうきしているのだろう?……だって、もうどんな理由があったのか知らんが、結婚後は、その当座だけでも、ドゥーニャといっしょに暮すことはできないだろうと見ぬいているじゃないか?」──というわけで、母親はルージンの善意を信じ込んでなどいないのだ! 母親は想像力が行為に全然追い付いていないために、自ら相手の都合の良いように振舞ってしまうのだと思われるのだが、その自己欺瞞をも完璧にラスコーリニコフは見通している。まあ、実際正解かどうかは分からないけれども、そこまで知性と想像力を働かせる能力があるからこその、このラスコーリニコフの苛辣な内語になっているわけだ。
重要なのは、「ああいうシラーの劇の人物みたいに美しい心の持ち主はいつもそんな目にあるんだよ。いよいよというときまで相手を孔雀の羽でかざり立て、ぎりぎりまで悪くはとらないで、よいことだけを当てにしている、そして事の裏側をうすうす感じても、そうなるまえに自分に本当の言葉を聞かせようとは決してしない。」と見事な表現で母親の心理を見抜いてみせるラスコーリニコフの洞察力に驚くことではない。そのように、見抜く-見抜かれるという関係性をラスコーリニコフと母親の間で虚構した作者の手腕こそ重要だ。なぜラスコーリニコフは母親の構築した意味レベルよりもさらに高次の意味レベルを構築することができるのか。或る意味ではこの二人の関係性で母親が受動の側になっており、同時にラスコーリニコフがルージンに対しても能動的に攻めかかっているからか。しかし解釈可能にするためには、解釈対象の素材を作り出さなければならない、ルージンのケチな振る舞いや卑猥な失言を、母親の自己欺瞞的言説を、作り出さなければならない。それを作り出さなければ、解釈学は何も始まらない! 作者は、ルージンや母親がそこを突かれることを前提の上でこうした細部を作り上げたのか。そうとしか思えない……。表面上は隙がないと見える言葉のレイヤーの中に致命的な矛盾やねじれを見出すこと。ラスコーリニコフの母親の言葉にはねじれがある。自分では完璧のつもりのルージンの自意識には不整合がある。だからこそそこを攻められる。
ところで、ルージンが勲章を持っているか否かという「想像」は、いわゆる想像的顔貌化描写、性格の視覚化ってやつだ。さすがのラスコーリニコフの想像力だ。そしてまた、あたかもルージンを挑発するかのように展開している想像的対話のスタイルについても、やはり注目しておくべきだろう。「荷物を引き受け、大きなトランクを自分の負担で運んでやるのは、たいへんなことだろうさ!」「おれも何度か乗ったがね。それはまあいいよ!」「ところでルージンさん、あんたはどういうつもりですかね?」「母が自分の年金を担保にして旅費を前借りしていることだって、知らなかったでは通りませんよ。」「そりゃもちろん、あんたにはこんなことは普通の商取引みたいなもので、儲けもお互い、分け前も平等だから、支出も半々だというでしょうよ。」「なるほど、実務の腕にものを言わせて女たち二人をちょいとだましましたな。」──疑問形や皮肉を多彩に駆使しての矢継ぎ早の攻撃的対話。ルージンとまだ対面もしたことがないのに、「あんた」とかもう想像の中で呼びかけている。
ちなみに、これが「移動しながらの」内語であることに注意しよう。以前も分析したことだが、この対話的内省の情景法は、移動しながらという文脈の上で展開することが多い。
●「柔和な女」407-409頁
第二章四
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棺におさめられた彼女のあの痩せ細り方はどうだ、鼻などはすっかり尖ってしまっている! 睫毛はまるで小さな矢でも並べたようだ。それにしてもどんなふうに落ちたのだろう──砕けたところもなければ、骨いっぽん折れてもいない! ただ「ほんのちょっぴり」例の血を流しただけだ。せいぜいデザート・スプーン一杯ぐらいの量である。内臓を強く打っただけなのだ。奇怪な考えにはちがいないが、もしこのまま埋葬しないですますことができたらどうだろう? なぜならば、もし彼女のからだが運び去られるようなことがあったら、それこそ……いいや、駄目だ、ここから運び出すなんてとてもじゃないけど我慢がならない! いや、運び出さなければならないぐらいのことは、わたしだって知っている。わたしはなにも気がちがっているわけでもなければ、決してうわごとを言っているわけでもない。いいやそれどころか、これほど頭がすっきりしていることはいまだかつてないくらいだ。──しかしまた家の中に誰もいなくなるのをいったいどうしてくれるのだ。またしてもがらんとしたふたつの部屋、またしても質草にかこまれてわたしはひとりぼっちになってしまう。白昼夢、白昼夢、これが白昼夢でなくてなんだろう! わたしは彼女をいじめ殺したのだ──そうなのである!
いまのわたしにとって諸君の法律がなんだ? 諸君の慣例、諸君の習俗、諸君の暮し方、諸君の国家、諸君の信仰がわたしにとってなにになると言うのだ? いいから諸君の裁判官にこのわたしを裁かしてみることだ、わたしを法廷に、諸君のご自慢の公開裁判に引き出してみることだ。そうすればわたしは、自分はなにひとつ認めないとはっきり言ってやる。「お黙りなさい。将校!」と裁判官は叫ぶだろう。そうしたらわたしはどなり返してやる──「いったいいまのお前さんのどこに、わたしを服従させるだけの力があるのだ? 暗澹とした沈滞が、この世でなによりも大事なものを打ち砕いてしまったのはなんのためか? お前さんたちの法律がいまのわたしにとってなんの足しになると言うのだ? わたしは一匹狼になる」いや、わたしにとってはどっちにしたって同じことだ!
彼女は目が見えない、なにも見えない! 死んでしまって、耳を聞こえない! わたしがお前のまわりにどんな天国を作ろうとしたか、お前は知らないのだ。その天国はわたしの心の中にあった、わたしがその天国をお前のまわりに作り上げてやったのに! なに、お前はわたしを愛してくれなくてもいいのだ、──そんなことは平気だ、別にどうということはないじゃないか? なにもかもこのまま、なにもかもずっとこのままでもよかったのだよ、ただ親友としてわたしにいろいろな話をしてくれさえしたら、──それで結構ふたりは楽しく、嬉しげに互いに目を見つめながら、笑い合うにちがいないのだ。そんなふうにしてずっと暮らしていけたはずなのだ。それにもしほかの男が好きになったら、──なあに、それだっていい、勝手に好きになるがいいさ! お前がその男とふたりで歩きながら笑っているのを、わたしは道路の反対側から見ているよ……。そうとも、どんなことをしたっていい、ただせめて一度でもいいからその目を開けてくれさえしたら! たとえ一瞬間でも、ほんの一瞬間だけでもいい! ついさっき、わたしの前に立って、忠実な妻になると誓ったときのように、わたしの顔を見てくれたならば! おお、そうすればちらりと見ただけでなにもかも分かってくれたはずである!
疑問文がディエゲーシスの中でどのような役割を果すのか? 三つの例。(1)の例が一番面白い。
(1)「奇怪な考えにはちがいないが、もしこのまま埋葬しないですますことができたらどうだろう?」──語り手が「ふと」疑問を思い付いて、それを披露し、それに基づいて叙述を展開させるというパターン。非常に珍しい。
(2)「いまのわたしにとって諸君の法律がなんだ? 諸君の慣例、諸君の習俗、諸君の暮し方、諸君の国家、諸君の信仰がわたしにとってなにになると言うのだ?」──語り手が読者ないしは世間一般を挑発するように放たれる疑問文。よくあるメタ的な呼び掛けの文体。
(3)「そんなことは平気だ、別にどうということはないじゃないか?」──語り手が小説内のある人物に向かって呼び掛けるタイプの疑問文。ディエゲーシスの中で呼び掛けが行われているので、直接的な呼び掛けとはまったく違ったシチュエーションを生む。例えば死者への呼び掛けなど。
●『柔和な女』317-318頁
第一章一
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……こうして彼女がここにいるあいだは、──それでもまだいい。そばへ寄れば、いつでも顔が見られる。だが明日になって運び出されてしまったら──わたしはどうしてひとりきりでいられよう? 彼女はいまホールのテーブルの上に横たわっている、カード・テーブルをふたつ並べておいたのだ。棺は明日持って来ることになっている。白い、白いどっしりとしたグロデナープル〔ナポリ産絹布〕。しかしそんなことはどうでもいい……。わたしはやたらにぐるぐる歩きまわりながらこのことをなんとか自分に納得させようとしている。それを納得させようとしてから、もうこれで六時間にもなるのに、どうしても考えを一点に集中させることができない。問題は、ただやたらに、ぐるぐるぐるぐる、歩きまわっているということだ……。それは実はこういうわけだったのである。言葉を飾らずに順を追ってお話しすることにしよう。(順を追ってか!)。諸君、わたしはおよそ文学者などという柄ではない、それは諸君にもお分かりになるだろう。しかしまあそんなことはどうだっていい、ただ自分で理解していることをそのままお話しすることにする。ところがわたしの恐怖の種は一にも二にも、わたしがなにもかも理解しているという点にあるのである!
短篇の冒頭の語り始め。内的独白みたいなディエゲーシスでいきなり状況の核心を打ち出すというスタイルの切れ味が素晴らしい。「ぐるぐる歩きまわりながら」というまさに「移動しながら」のシチュエーションと、次々に小説の設定を明らかにしていく叙述の密度がうまく合致している。
●『柔和な女』402-404頁
第二章四
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だがはたしてそうではないだろうか? 実際これが本当のことと思えるだろうか? はたしてこんなことがありうると言えるものだろうか? いったいなんのために、なんだってこの女は死んでしまったのだ?
おお、どうか信じていただきたい、わたしにはよく分かっているのだ。しかしそれにしても彼女はなんのために死んだのか──これはやはり疑問である。彼女はわたしの愛におびえてしまったのだ。これを素直に受けるべきか受けるべきでないかと、真剣に自分の胸に問いかけた末に、この疑問を持ちこたえることができなくなって、それでひと思いに死を選ぶことにしたにちがいない。分かっている、分かっている、なにもいまさら頭をひねるには及ばない。あまりにも多くのことを約束しすぎたので、それをまもることは不可能であると悟って、すっかり怯えあがってしまったのだ、──これは明瞭である。こんなことになるには実はなんとも恐ろしいいくつかの事情が重なっているのである。
なぜならば、なんのために彼女は死んだのかという点が、依然として疑問のままに残されているからだ。その疑問がこつこつと叩いている、わたしの脳髄をこつこつと叩いている……。もしも彼女がこのままの状態で放っておかれることを望んだとしたら、わたしはそのまま手も触れずに放っておいたに相違ない。ところが彼女はそれを信じようとはしなかった、そこが問題なのである! いいや──そうではない、わたしはでたらめを言っている、問題は決してそんなことではない。なんのことはない、わたしに対して誠実でなければならない、愛する以上は全身全霊をあげて愛すべきで、例の商人に対するような中途半端な愛し方ではならなかったからにほかならないのだ。ところが彼女は、あの商人にとって必要な程度の愛情で妥協するには、あまりにも貞潔であり、あまりにも清浄無垢であったので、わたしをだます気にはなれなかったのである。いかにも愛しているように見せかけて、半分や四分の一の愛でわたしをだます気にはなれなかったのだ。あまりにも正直でありすぎた、これが問題なのである! それなのにわたしは、覚えておいでだろうが、あのとき心の寛さをしきりに叩き込もうとしたものだった。なんとも奇妙な考え方である。
ここでおそろしく興味を惹かれるのは、彼女はわたしを尊敬していたかどうか、ということである。彼女はわたしを軽蔑していたかどうか、わたしには分からない。だが、軽蔑していたとは思っていない。それにしても、彼女はわたしを軽蔑しているという考えが、あの長い冬のあいだ、どうして一度もわたしの頭に浮かばなかったのか、それがおそろしく不思議でならない。彼女があのとききびしい驚きの表情でわたしの顔をちらりと見た、ほかならぬあの瞬間まで、わたしはその反対であると固く信じて疑わなかったのである。まったく、取りつく島のないほどきびしい驚きであった。そこではじめてわたしは、彼女はわたしを軽蔑していると即座に悟ったのである。そう悟って、もはや永遠に、取り返しはつかないと臍をかんだものであった! ああ、いくらでも、いくらでも軽蔑するがいい、たとえ一生涯軽蔑しつづけたって構いやしない、ただ──生きてさえいてくれたならば、生きてさえいてくれたならば! つい先ほどまで元気に歩いたり、口をきいたりしていたではないか。それなのにどうして窓から身を投げたりしたのか、わたしにはさっぱり訳が分からない! それにたとえその五分間でもどうしてわたしにそんなことになると予想できただろう? わたしはルケリヤを呼んだ。こうなったらわたしはどんなことがあってもルケリアを手放しはしない、どんなことがあっても絶対に!
まさになんというか、語り手みずから思考を重ねることによって叙述を切り開いていくタイプのディエゲーシス。疑問文(「だがはたしてそうではないだろうか? 実際これが本当のことと思えるだろうか? はたしてこんなことがありうると言えるものだろうか?」)や、感嘆文(「そう悟って、もはや永遠に、取り返しはつかないと臍をかんだものであった!」)や、推測の言葉(「これを素直に受けるべきか受けるべきでないかと、真剣に自分の胸に問いかけた末に、この疑問を持ちこたえることができなくなって、それでひと思いに死を選ぶことにしたにちがいない。」)や、問題の焦点化(「しかしそれにしても彼女はなんのために死んだのか──これはやはり疑問である。」「ところが彼女はそれを信じようとはしなかった、そこが問題なのである!」「ここでおそろしく興味を惹かれるのは、彼女はわたしを尊敬していたかどうか、ということである。」)や、或る解釈の否定的切り捨て(「いいや──そうではない、わたしはでたらめを言っている、問題は決してそんなことではない。」)や、読者への挑発(「分かっている、分かっている、なにもいまさら頭をひねるには及ばない。」)を駆使することによって、切開的に叙述を推進させていく。これこそドストエフスキー以外には不可能な小説の文体だ。ほかの小説家どもはまとめてひれ伏せ。
●『罪と罰』上389-390頁
第三部第三章
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「お母さん、あなたのことでは、ぼくは何をいう勇気もありません」と彼は朝から何度も口の中でくりかえした宿題を暗誦するように、言葉をつづけた。「今日になってはじめてぼくは、お母さんが昨日ぼくのかえりを待つ間、どんなにかお苦しみになったにちがいないということが、すこしわかりかけてきたのです」そう言うと彼は、不意に、何も言わず、にこにこ笑いながら、妹へ手をさしのべた。そしてその微笑には、こんどこそ作りものでないほんとうの感情のひらめきがあった。ドゥーニャはすぐにその手をとって、喜びと感謝の気持でいっぱいになりながら、熱くにぎりしめた。これが昨日の不和からはじめて彼が妹に対した態度だった。この兄と妹の決定的な無言の和解を見て、母の顔は喜びと幸福にかがやいた。
「まったく、これだからぼくはこいつが好きなんだよ!」なんでも大げさに言うくせのあるラズミーヒンは、椅子の上ではげしく身体をひねって、小声で言った。「やつにはこういう芸当があるんだよ!……」
《ほんとにこの子のやることったら、どうしてこううまくゆくんだろう》と母は胸の中で考えた。《ほんとに美しい清らかな心をもった子だわ、昨日からの妹との心のわだかまりをあんなに素直に、しかもやさしい思いやりで解いてしまったんだもの──こんなときに、手をさしのべて、やさしく見つめただけで……それにしてもなんてきれいな目でしょう、顔ぜんたいの美しいことったら!……ドゥーネチカより美しいくらいだわ……しかし、まあまあ、なんという服を着ているんだろう、おそろしいみたいだわ! アファナーシイ・イワーノヴィチの店の小僧のワーシャだって、もっともましな服を着てるわ!……ああどんなに、いますぐこの子にとびついて、抱きしめて、そして……泣いてみたいかしれやしないのに、──こわい、こわくてそれができない……なんだかこの子が、ああ!……こんなにやさしく言葉をかけてくれるのに、やっぱりこわい! いったい、何がこわいのかしら?……》
「ああ、ロージャ、おまえは嘘だと思うかもしれないけど」と彼女はあわてて息子の言葉に答えながら、急いで言った。「わたしとドゥーニャは昨日は……ほんとに不幸だったんだよ! いまはもう、何もかもすぎ去って、わたしたちはみんなまたしあわせになったから、こんな話もできるんだけどね。まあ考えてもごらんよ、おまえを早く抱きしめたいと思って、それこそ汽車からまっすぐここへかけつけてみれば、あの女のひとが、──あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!……このひとがいきなりわたしたちに言うじゃないの、おまえが熱病にかかってねていたが、ついいましがた医者の目をかすめて、夢遊病者みたいに街へ逃げ出し、みんなさがしにかけ出していったなんて。おまえにはほんとにできないだろうけど、わたしたちがどれほど心配したか! ……
引用部の中間では、珍しくラスコーリニコフ以外の人物による結構長い内語が展開する。まず段落最初に短い内語を切り出し、「……と母は胸の中で考えた。」と地の文をつけ加えてから長い内語を続けるというのは、まあ常套手段。次の段落の直接的発話である長い科白の同様の形態を取っている。それはともかく、ここでは内語の内容も興味深いものになっている。この内語の焦点は、この段落に入る直前で(ラズミーヒンの科白の)話題の的になっていたラスコーリニコフの目下の振舞いだ。母親はそれに胸の中で感心しつつ、さらに内語の中で(地の文を代行して)ラスコーリニコフの容姿、その服装を描写してみせる。単に登場人物の内的な感情・思考を伝達するだけでなく、それと同時に何かの対象の描写も実現してしまうという、一石二鳥的な文章。
それだけではなく、母親の内語には内語特有の契機も含まれている。「《……なんだかこの子が、ああ!……こんなにやさしく言葉をかけてくれるのに、やっぱりこわい! いったい、何がこわいのかしら?……》」──の個所に表れている、自己動揺、自己不安だ。内語を駆使する作家というのはルバテほかドストエフスキー以外にもいるが、このように内語が内語に閉じえないで必ず動揺し、自分自身に対して疑念や非難がリアルタイムで向けられるというのが、ドストエフスキーの文体に特有のこと。ここではラスコーリニコフに対する「恐怖」が、否定・否認・抑圧・非難に替わって母親の内語を屈折させる無意識の原因となっている。
●『未成年』下291-292頁
第三部第六章2
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彼は追ってこなかった。もちろん、近くに他の馬橇がいあわせなかったためである。こうしてわたしは彼の目から姿をくらますことができた。わたしはセンナヤ広場まで来ると、馬橇を捨てた。すこし歩いてみたくてたまらなくなったのである。疲労も、深い酔いも、わたしは感じなかった。ただ快い生気が全身にみなぎり、力が充ちあふれてきて、どんな障害にも立ち向ってゆこうとする異常なまでの勇気がわいてきて、無数の痛快な考えが頭の中で渦巻いていた。
心臓が力強く重々しく鼓動していた──わたしはその一つ一つの音を聞いた。そしてなにもかもがわたしには愛らしく、そして軽やかに感じられた。センナヤ広場の哨舎のまえを通るとき、わたしは歩哨のそばへ行って接吻してやりたい猛烈な衝動にかられた。雪どけもようで、広場は黒っぽくよごれ、しめっぽい臭いがしていたが、その広場までがわたしにはひどく好ましいものに思われた。
『これからオブウホスキー大通りへ出て』とわたしは考えた、『それから左へ折れて、セミョーノフスキー連隊へ出よう、大回りをしてやろう、すてきだ、なにもかもすてきだ。毛皮外套は胸をはだけてずりおちそうになってるが──どうしたんだ、誰もはぎとりゃしないじゃないか、いったい追剥はどこにいるんだ? なんでも、センナヤ広場に追剥が出るという噂だが、さあ、来るがいい、なんあら、毛皮外套をくれてやるぜ。毛皮外套なんかなんのためだ? 毛皮外套は── 私有財産だ。La propriete, c'est le vol.〔私有財産すなわち窃盗なりだ〕。しかし、なにをくだらんことを、それにしてもなんていい気持だ。雪どけってものはいいものだ。なぜ厳寒なんてあるのだ? そんなものぜんぜん不必要じゃないか。くだらんおだをあげるのもいいものだ。そう、たしかさっき、ラムベルトに原理がどうとかと言ったな? うん、一般的原理なんてない、あるものは個々の場合だけだなんて、おれは言ったっけ。あんなことはでたらめさ、大でたらめのこけの皮だ! わざとあんなことを言って、ちょっと気どってみただけさ。すこし気恥ずかしいが、しかし──どうってことはないさ、償いをするさ。恥じるな、くよくよするな、アルカージイ・マカーロヴィチ。アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしはあなたが気に入りましたよ。むしろ大いに気に入りましたな、わたしの若いお友だち。ただあなたが──ちょっぴり悪党なのが、残念ですがね……それに……それに……あっそうそう……あっ!』
わたしは不意に立ちどまった、そしてわたしの心臓はまた甘くうずきだした。
『ああ! やつはなんてことを言ったんだ? あのひとが──おれを愛している、とあいつは言った。おお、あいつは──かたりだ、いいかげんな口からでまかせを並べやがって、おれを釣って、あいつの家に誘いこみ盛りつぶそうって腹に決ってるさ。だが、ひょっとしたら、ちがうかもしれん。あいつは言った、アンナ・アンドレーエヴナもそう思ってるって……そうか! うん、こいつはダーリヤ・オニーシモヴナが一枚かんで、あいつに情報を流してるかもしれんぞ。あの女ならどこへでももぐりこむからな。それにしても、おれはどうしてやつのところへ行かなかったのだ? すっかりさぐりだせたろうに! フム! やつには計画がある、そしてそれをおれは最後の一点まで予感していたのだ。夢だよ。ずいぶん広く網をはりわたしたらしいがね、ラムベルトさん、どこかが狂ってるよ、まあそうはいかんだろうね。だが、ひょっとしたら、そうならんともかぎらん! あるいは、そうなるかもしれん! それにしても、あいつはほんとにおれを結婚させることができるのだろうか? いや、できないとは言いきれんぞ、もしかしたらできるかもしれん。あいつはナイーヴで、信じこんでいる。あいつは、事務家というのはえてしてそうだが、ばかで図々しい。ばかさと図々しさが、いっしょになれば──大きな力になる。おい、正直に言いたまえ、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたはひどくラムベルトを恐れていましたね! それにあの男には誠実な人々なんてなんの用があるのだ? あいつはそれこそ真顔で、ここには誠実な人間なんて一人もいない、なんてうそぶきやがって! そういうきみこそ──何者なのだ? ええ、おれはいったいなにを言ってるんだ! 悪党どもに誠実な人々が必要でないというのか? 悪事にこそ、他のいかなる場合よりも、誠実な人々が必要なのだ。ハッハ! それをおまえはいままで知らなかっただけなのさ、アルカージイ・マカーロヴィチ、あんまり無邪気すぎてな。ああ! あの男がほんとにおれを結婚させるようなことになったら、どうしたらいいのだ!』
なんというか、ドストエフスキー作品の中にしか見られないような内語文体。そういえば『罪と罰』におけるラスコーリニコフの、母の手紙を読んだ後の内語は凄まじかった。あの個性が引用部で再び表われているということか。
一見して分かるように、「アルカージイ・マカーロヴィチ」(つまり自分自身)を客体化して、それを挑発するような語調が混在している。「恥じるな、くよくよするな、アルカージイ・マカーロヴィチ。アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしはあなたが気に入りましたよ。むしろ大いに気に入りましたな、わたしの若いお友だち。」「ハッハ! それをおまえはいままで知らなかっただけなのさ、アルカージイ・マカーロヴィチ、あんまり無邪気すぎてな。」さらには、それに応答するような語調も存在する。「あんなことはでたらめさ、大でたらめのこけの皮だ! わざとあんなことを言って、ちょっと気どってみただけさ。すこし気恥ずかしいが、しかし──どうってことはないさ、償いをするさ。」さらには他者を嬉々として挑発するような外向きの対話的語調もある。「ずいぶん広く網をはりわたしたらしいがね、ラムベルトさん、どこかが狂ってるよ、まあそうはいかんだろうね。」そして対話的文体にはつきものの自問自答の高速内省の語調。「だが、ひょっとしたら、そうならんともかぎらん! あるいは、そうなるかもしれん! それにしても、あいつはほんとにおれを結婚させることができるのだろうか? いや、できないとは言いきれんぞ、もしかしたらできるかもしれん。」そして最後に、それらのすべてを突き破って突如噴出する彼自身の赤裸々で不安な心の叫び。「ああ! あの男がほんとにおれを結婚させるようなことになったら、どうしたらいいのだ!」
これらすべての語調が同時に響いているような内語。オンリー・イン・ドストエフスキー。いや、ドミートリイ的人物の、爆ぜる感激につらぬかれた内面というのはもとよりこういうものなのかもしれないが。
ちなみに内語に入る前部分から引用したので、どういう段落展開からこうした特異な内語を導けるかにも注目せよ。
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------------------------------------- タイプ【D-16】絶望的醜態・内的葛藤の破裂 ▲
●『地下室の手記』13-14頁
第一部第二章
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……とどのつまり、ぼくは、たぶんこれこそがぼくの正常な状態なんだろうと、ほとんど信じかねないばかりになった(いや、ひょっとしたら、本気でそう信じてしまったのかもしれない)。しかし、そもそもの初め、最初のうちは、この戦いでぼくはどれだけ苦痛をしのんだかしれない! ほかの人もそうなのだとは、ぼくには思いもかけなかったから、ぼくは生涯、自分ひとりだけの秘密のように、これをひたかくしてきた。ぼくはこれを恥じた(もしかしたら、いまでも恥じているのかもしれない)。そして、ついにはそれがこうじて、ある種の秘密めいた、アブノーマルな、いやしい快楽を味わうまでになった。たとえば、いやらしいペテルブルグの夜更けどき、自分のねぐらに戻りながら、ああ、きょうもおれは醜悪な真似をしでかしたぞ、だが、できてしまったことはどうせもう取返しがつかないんだと、ことさら強く意識しては、心中ひそかに自分をさいなみ、われとわが身を噛みさき、切りきざみ、しゃぶりまわす。すると、ついにはこの苦痛が、ある種の恥ずべき、呪わしい甘美さに変っていき、最後には、正真正銘、ほんものの快楽に変ってしまうのである。そう、快楽に、まさしく快楽になのだ! これは請けあってもいい。ぼくがこんなことを話しだしたのも、ほかの人にもこういう快楽があるものかどうか、それをしかと確かめたかったからである。説明しよう。この場合、快楽はほかでもない、自分の屈辱をあまりにも鮮明に意識するところからきていた。つまり、次のような実感から生れていたのである── とうとうおれも最後の壁につき当ったな、くそおもしろくもない話だが、かといって、ほかにどうしようもない、もうどこにも逃げ道はないし、いまさら別人になり変るわけにもいかん、いや、かりに他のものになり変るだけの余裕と自信があたっとしても、まず当人のおれがそんな気を起しそうにないし、もし起してみたところで、それだけの話で、実際には何もしやしないだろう。なぜといって、何になり変ろうにも、現実問題として、なり変る対象が見つかりそうにないからな、というわけである。しかし、それより何より、ぎりぎりの肝心な点は、こうしたいっさいが、強度の自意識には固有の正常は法則と、その法則から直接に出てくる惰性とに即して進行する点である。してみれば、この場合、何かになり変ることはおろか、何をしようにも手も足も出ないというのが理の当然なのだ。たとえば、こういう強度の自意識の結果は、次のようなことにもなる。もし当人がほんとうに自分を卑劣漢だと感じているのなら、卑劣漢たることもまた正しい、それが卑劣漢にとってはせめてもの気休めになる、というわけだ。しかし、もうたくさんだ……ええ、さんざご託を並べたが、いったい何を説明できたというのだ? 例の快楽とかはどう説明されたのだ? しかし、ぼくは説明してみせる! 是が非でもこの決着はつけてやる! ぼくがペンを手にしたのも、そのためなのだから……
過度の羞恥心とはかり知れないプライドを抱えた人物は基本的には引っ込み思案で臆病なはずだが、そういう人間がもし一挙にぶち切れて自意識と無意識の拮抗を内破し他者性へとぶつかっていく「真の行動」を起こすとしたら……「とうとうおれも最後の壁につき当ったな、くそおもしろくもない話だが、かといって、ほかにどうしようもない、もうどこにも逃げ道はないし、いまさら別人になり変るわけにもいかん、……」という絶望のなかのじんと灼けつくような快楽を感じて、ヤケになった時であろう。このとき、その人物は悲劇の主人公となる。《一方に人間の弱さや愚かさがある、一方にこれに一顧も与えない必然性の容赦ない動きがある、こう条件が揃ったところで悲劇は起こるとは限らぬ。悲劇とは、そういう条件にもかかわらず生きることだ、気紛れや空想に頼らず生きることだ。すべては成るようにしかならぬ、いかなる僥倖も当てにできない、そういう場所に追い詰められても生きねばならない時、もし生きようとする意志が強ければ、私達にはどういうことが起こるかを観察してみればよい。このどうにもならぬ事態そのものがすなわち生きて行く理由である、という決意に自ら誘われる、そういうことが起こるでしょう。これが悲劇の誕生だ。》
この悲劇の出来の瞬間を見逃すな。
●『地下室の手記』187-189頁
第二部第九章
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ぼくはふたたび腰をおろした。彼女は不安そうにぼくを眺めていた。数分間、ぼくらは黙りこくっていた。
「あいつめ、殺してやる!」ふいにぼくはわめいて、拳固でテーブルをどかんとなぐりつけた。そのはずみで、インク壷からインクがぱっとはね散った。
「ああ、なんてことを!」彼女はびくりとふるえて叫んだ。
「殺してやる、あいつめ、殺してやる!」テーブルをなぐりつけながら、ぼくは金切声をあげた。まるでもう前後の見さかいもなくなっていたが、それでも同時に、こんなふうにわれを忘れるのがどんなにおろかしいことかを、自分ではよくわきまえていた。
「きみは知らないんだよ、リーザ、あの人殺しがぼくにとってどういう存在か。あれは、ほんとの首斬役人なんだ……やつはいま、乾パンを買いに行っている。やつは……」
すると、ふいにぼくはさめざめと泣きだしてしまった。これは発作だった。すすりあげる合間合間に、どんなに恥ずかしい思いにかられたことか。それでもぼくはどうしても涙を抑えられなかった。彼女はおびえてしまった。
「どうなさったんです! ほんとに、どうなさったんです!」ぼくのまわりをうろうろしながら、彼女は大声に叫んだ。
「水を、水をくれ、あそこにある!」ぼくは弱々しい声でつぶやいた。だが、そのくせ、腹のうちでは、べつに水なんかもらえなくたってどうということはないし、弱々しい越えでつぶやくまでのこともないと、ちゃんと意識していたのである。しかしぼくは、対面を保つためにも、いわば芝居をして見せたのだった。もっとも、発作はほんものだったけれど。
彼女は、うつけたような目でぼくを見つめながら、水をくれた。ちょうどこのとき、アポロンがお茶をもって入ってきた。ふいにぼくには、何の変哲もない、いかにも散文的なこのお茶が、いまのような出来事のあとではおそろしく不体裁でみじめなものに思えてきた。リーザは、おびえたような表情さえ浮べて、アポロンを見やった。彼は、ぼくらには目もくれず、出て行った。
「リーザ、きみはぼくを軽蔑しているだろうね?」ぼくは、彼女の顔をまじまじと見つめながらこう言うと、彼女が何を考えているかを知りたい思いにかられて、思わず身ぶるいした。
彼女はどぎまぎして、何も返事ができなかった。
「お茶を飲みたまえ!」ぼくは腹立たしげに言った。ぼくは自分に腹を立てていたのだが、怒りをぶちまける先は、むろん、彼女だった。彼女に対する恐ろしいばかりの敵意がふいにぼくの心に煮えたぎり、いきなり彼女を殺しかねまじき気持だった。彼女に復讐してやるために、ぼくはこれからずっと一言も彼女に口をきいてやるまいと心に誓った。〈この女がいっさいの原因なんだ〉とぼくは考えた。
ぼくらの沈黙はもう五分もつづいていた。お茶はテーブルの上に載っていた。ぼくらはそれには手もふれなかった。わざとお茶を飲みはじめないでいてやれ、そのことでよけい彼女を気づまりにしてやれ、とまで考えたのだ。彼女のほうから先に手をつけるのは、ばつが悪いだろうし。何度か、悲しげな不審の表情を浮べて、彼女はぼくを見あげた。ぼくはかたくなに黙っていた。いちばん苦しんでいたのは、もちろん、ぼくのほうだった。なぜなら、ぼくは自分の馬鹿げた腹立ちの醜悪きわまる下劣さをよく承知しながら、それでいてどうしても自分を抑えることができなかったのだから。
「あたし、あそこから……出たいんです……すっかり」なんとか沈黙にけりをつけようとして、彼女は言いかけた。だが、かわいそうに! ほかのことならともかく、この話だけは、でなくても馬鹿げたあんな瞬間に、でなくても馬鹿げたぼくのような男に、もちかけるべきではなかったのだ。彼女の気のきかなさと、用もない率直さが哀れになって、ぼくは胸が痛くなったほどだった。しかし、何やら醜悪なものが、たちまちぼくのなかの同情心を押しつぶしてしまった。いや、かえってぼくをけしかけて、もうどうなってかまうもんか! という気にさえさせるのだった。さらに五分ほどが過ぎた。
「お邪魔じゃなかったのかしら?」やっと聞きとれるほどの声で、おずおずと口ごもると、彼女は腰をあげかけた。
過敏な羞恥心と息詰るような誇り高さが双方肥大してぎりぎりまでせめぎあったあげくに破裂すると、このように自分に腹を立てながら他者にも腹を立て、感情は見境無くなって制御不能におちいってしまう、そんな一例。自分がみじめで仕方なくなり、さめざめと泣き出し、同時にそんな自分を見ている相手を憎悪する。自分の振舞いが醜悪そのものだと分かっていながら激昂していく自分をとめられない。傷口に指を突っ込まれたかのように相手の言葉がいちいち神経を焼き刺す。「もうどうなったってかまうもんか!」「リーザ、きみはぼくを軽蔑しているだろうね?」
この非凡さに瞠目せよ。こんなことはあり得ないなどと言ってはならない、それは凡庸さと馴れ合った「常識」だ。
●『地下室の手記』192-195頁
第二部第九章
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……世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。きみには、こいつがわかっていたのかい、どうだい? まあいい、ぼくにはわかっていたんだ、ぼくがならず者で、卑劣漢で、利己主義者で、なまけ者だってことがね。この三日間、ぼくはきみがやって来るのじゃないかと、恐怖にふるえていたものさ。それにしても、この三日間、ぼくのいちばん恐れていたことが何かわかるかい? それはさ、あのとききみの前で英雄気取りでいたものが、今度はどうだ、こんなぼろぼろの部屋着を着た、乞食同然のみにくい姿をきみに見られることなんだ。ぼくはさっき、自分の貧乏を恥じてはいないと言ったね。ところが、実をいうと、ぼくは恥ずかしいのさ。何より恥ずかしいし、何より恐ろしいんだ。盗みをしたのより、もっといけない。というのは、ぼくは虚栄心のかたまりみたいな男だが、それが生皮をひんむかれたような感じで、空気にふれるだけでも痛みだすからなんだ。いったいきみは、これでもまだ察しをつけられないのかな。まるで怒りたけった犬ころみたいに、アポロンにくってかかった現場を、しかもこんな部屋着姿でいるところをきみに押えられたことを、ぼくは一生根にもつ男なんだ。かつての救世主、かつての英雄がさ、疥癬やみの汚ならしい番犬みたいに自分の下男にとびかかって、しかも相手から鼻で笑われている始末なんだからな! それから、さっきぼくが、まるでいじめられた女の子みたいに、きみの前でこらえ切れずに流してしまった涙のことだって、きみを許す気にはなれないんだ! いや、いまこうやってきみに告白していることでも、きみを許せないんだ! そうさ、きみが、きみ一人が、このいっさいに責任をとるべきなんだ。なぜって、きみがぼくの前にふらふらと現われたことがいけないんだから。ぼくがならず者だってことが、ぼくがいちばん醜悪な、いちばん滑稽な、いちばんつまらない、いちばん愚劣な、この世のなかのどんな虫けらよりも、いちばん嫉妬深い虫けらだってことがいけないんだから。そりゃ、そんな虫けらだって、ぼくよりすこしもましなことはないさ。でも、やつらは、どうしてだか知らないが、けっしてどぎまぎしたりはしない。ところがぼくは生涯、そんなしらみ同然のやつらからごづきまわされどおしなんだ。これがぼくの特性ときているんだ! いや、きみがこういうことをひとつもわかってくれなくたって、そんなことは問題じゃない! いや、だいたいがきみのことなんて、ぼくには何のかかわりもないことなのさ、きみがあそこで身を滅ぼそうが、滅ぼすまいが。それより、きみにはわかるかい、いま、こういうことをきみに話してしまったことで、きみがここに来て、ぼくの話を聞いたということで、ぼくはきみを憎むようになるだろうってことが? 人間てものは、生涯にせいぜい一度ぐらいしか、こんなに本心をさらけだすことはないものなのさ、それもヒステリーの発作にでもかからなければね! さあ、これ以上きみに何の用があるんだ? なんだってきみは、これだけ言って聞かせたのに、まだぼくの前に突立って、ぼくを苦しめる気なんだ、なぜ帰らないんだ?」
だが、このとき、ふいに奇妙なことが起った。
ぼくは、万事を書物ふうに考え、空想し、また世のなかのいっさいを、かつて自分が頭のなかで創作したようなふうに想像する習慣が染みついてしまっていたので、そのときとっさには、この奇妙な状況を理解することができなかった。ところで、事実はほかでもない、ぼくによって辱しめられ、踏みつけにされていたリーザが、実は、ぼくの想像していたよりずっと多くを理解していたのである。彼女はこの長広舌から、心から愛している女性がいつも真先に理解することを、つまり、ぼく自身が不幸なのだということを理解したのだ。
彼女の顔に表われていた恐怖と屈辱は、まず悲しげな驚愕の念にとってかわられた。ぼくが自分で自分を卑劣漢、ならず者と呼び、ぽろぽろと涙をこぼしはじめたとき(ぼくはこの長ぜりふを泣く泣くしゃべっていたのだった)、彼女の顔は何かけいれんのようなものにはげしく引きゆがんだ。彼女は立ちあがって、ぼくを押しとどめたいらしかった。そして、ぼくがしゃべり終ったとき、彼女が注意を向けたのは、〈どうしてここにいるんだ、どうして帰らないんだ!〉というぼくの叫びではなくて、ぼく自身、このいっさいを口にすることがさぞかし辛かったろうということだった。それに彼女は、手ひどくぶちのめされた、かわいそうな女だった。彼女は自分をぼくなどよりはるかに下の人間と考えていた。どうして彼女が腹を立てたり、怒ったりできただろう? 彼女は、何か抑えられぬ衝動にかられたように、ふいに椅子からとびあがった。そして、ぼくに身を投げだしてしまいたい気持をありありと見せながらも、それでもなお気おくれのために椅子を立つことができず、ぼくに向って手を差しのべた……その瞬間、ぼくの心も動転してしまった。すると、彼女はいきなりぼくにとびついてきて、両腕でぼくの首をかかえ、声あげて泣きくずれた。ぼくもこらえきれず、これまでに一度としてなかったようなはげしさで、わっと泣きだしてしまった……
「ぼくはならしてもらいないんだよ……ぼくにはなれないんだよ……善良な人間には!」ようやくのことでこれだけ言うと、ぼくは長椅子のところまで歩いて行って、がばとその上に身を投げ、そのまま十五分ほど、ほんもののヒステリーの発作におそわれて、おいおい泣きだした。彼女はぼくにひしと身を寄せ、ぼくを抱擁すると、抱擁したまま気を失ったようになった。
登場人物が破裂したシーンとしては、ベストのものの一つ。
凄まじい自分の弱さを曝け出しながら(「いまこうやってきみに告白している」)、なぜか誇りだけは逆に限りなく高まって行くという支離滅裂の状態。こんなことが可能なのも、第一には主人公が非凡なほどに自分の弱さと愚かさを認識して痛烈な羞恥心を抱いていたからこそだ(「ぼくがならず者だってことが、ぼくがいちばん醜悪な、いちばん滑稽な、いちばんつまらない、いちばん愚劣な、この世のなかのどんな虫けらよりも、いちばん嫉妬深い虫けらだってことがいけないんだから」)。言い換えれば、彼は自分の愚劣さにけっしてどぎまぎしたりしない、世俗の厚顔な連中とは違うというわけだ。しかもここでこの男は、単に自分の弱さを曝け出しているだけでなくて、曝け出しながらもあくまで自分が他人よりも低く見られることを絶対に耐え難いと感じている、それだけは絶対に許せないと念じるほどに自分のプライドにしがみついている!(「それより、きみにはわかるかい、いま、こういうことをきみに話してしまったことで、きみがここに来て、ぼくの話を聞いたということで、ぼくはきみを憎むようになるだろうってことが?」) こりゃ非凡どころじゃない、超凡だ。こんな姿態を人前で演じることができるなんて!
また、この男の絶望的醜態を、眉をしかめたり顔をそむけたり批判的な言葉を口にしたりせずに、真正面から受け止めてみせたリーザも非凡な人物であることは間違いない。相手がリーザだったからこそ、主人公の口から「ぼくはならしてもらいないんだよ……ぼくにはなれないんだよ……善良な人間には!」というブライドをもぎ離したあとの悲鳴のような本音を引き出すことができたのだ。
ところで、引用部では長い科白の直後に、短期的な錯時法で長い科白を喋っているあいだに相手がどんな反応していたか、補完しているのね。長い科白の応酬になる現前的場面での一工夫か。
●『白痴』上276-280頁
第一編第十一章
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「それから、あなたにたいしても」
「それはそうかもしれません。しかしですね、あれは陳腐な女の復讐というやつですよ。それ以上のことはありませんね。あれはおそろしく癇癪持ちの、疑いぶかくて、しかも自尊心の強い女なんですから。まるで昇進もれとなった役人みたいなものですよ! 自分の意地を見せたかったんですよ。それからうちの連中にたいして……いや、このぼくにたいして軽蔑の念を見せたかったんでしょうよ。これはほんとうでしょう、ぼくもそれを否定しようとは思いません……でも、それでもやっぱりぼくのところへ嫁にきますよ。人間の自尊心というものがどんな手品をやらかすものか、あなたには想像もつかないでしょうがね。あの女は、ぼくが金のために他人の情婦とおおっぴらに結婚することを非難して、ぼくのことを卑劣漢だと言ってますが、ほかの男だったらもっともっと卑劣な手段で、あの女をだましたかもしれないという点には、まったく気づいていないんですからねえ。あの女にうるさくつきまとって、自由進歩的な思想をふりまき、さらに婦人問題の一つ二つでもひっぱりだしてみせれば、あんな女はたちまち針のめどに糸が通るように簡単に丸められてしまいますよ。自尊心の強いばか女に、『自分がきみと結婚するのは、きみの高潔なる心と不幸のためだ』なんて言いくるめて(これはいともやさしいことですからね!)、そのじつ、自分ではやはり金が目あてで結婚するんですよ。ぼくがあの女の気に入られないのは、ぼくがそういうごまかしをするのがいやだからなんですよ。ところが、この場合、それが必要なんですね。それに、あの女だって自分で何をやっています? 同じようなものじゃありませんか。それじゃ、なんだっていまさらぼくを軽蔑して、あんな芝居をおっぱじめるんでしょう? それはぼくが降参しないで、誇りを持っているからですよ。いや、そのうちにわかりますよ!」
「じゃ、あなたはこれまでほんとにあの女を愛したことがあるんですか?」
「はじめのうちは愛していました。しかも、かなり熱烈に……世の中には情婦だけには適していても、それ以外にはなんの役にも立たない女がいるんですよ。いや、ぼくはあれが自分の情婦だったなんて言うつもりはありません。とにかく、あれがおとなしく暮そうというのなら、ぼくもおとなしく暮していきますよ。でも、謀反をおこそうものなら、すぐにほうりだして、金だけ巻きあげてしまいますよ。世間の笑いものになるのはいやですから。何よりも世間の笑いものにはなりたくありませんから」
「どうも私にはそう思われますがね」公爵は用心ぶかく注意した。「ナスターシャ・フィリポヴナは利口な人らしいですからね。そんな苦しみがあると感づいたら、わざわざ罠へかかるようなまねはしないでしょうよ。だって、ほかの人とでも結婚できるんですからね。この点が私には不思議でしょうがないんですよ」
「いや、つまり、そこにこそもくろみがあるんです! あなたはそこの事情をまだよくご存じないのですよ。公爵、そこのところなんですよ……そのうえ、あの女はぼくが気ちがいになるほどあの女を恋しているものと、かたく信じているんです、これは断言してもいいことですがね。それに、いいですか、ぼくはあの女のほうでもぼくを恋しているのじゃないかと疑っているんです。むろん、それはあの女一流の愛し方ですがね、つまり、諺にいう『ほれた相手をたたいてみたい』ってやつですよ。あの女は一生ぼくをダイヤのジャックのように目の敵にするでしょう(ひょっとすると、それがあの女には必要なのかもしれませんね)、それにしても、あの女はやはり、あの女一流の愛し方で愛してくれるでしょうよ。いまはその準備をしているところなんです。そういう性分なんですから。あれは極度にロシア的な女性ですよ。これは断言しておきます。また、ぼくのほうでも贈物はちゃんと用意していますよ。さっきのワーリャとの一件はまったく偶然におこったんですが、かえって好都合でしたよ。あの女はその眼で、ぼくがあの女のためには肉親の関係さえ打ちやぶってしまうほど献身的に愛しているってことを確かめたわけですからね。いや、もうおわかりでしょうが、こっちだってそうばかじゃありませんからね。それはそうと、あなたはぼくのことをとんでもないおしゃべりだと思ってらっしゃるんじゃありませんか。ねえ、公爵、もしかしたら、あなたにこんな打明け話をするのは、あんまり感心したことじゃないかもしれませんね。しかし、これというのも、ぼくはいままでついぞあなたのように高潔なおかたには会ったことがないので、いきなりあなたにとびついてしまったんですよ。いや、その《とびついてしまった》というやつを地口だと思われては心外です。さっきのことではもう怒ってなどいらっしゃらないでしょうね、え? なにしろ、ぼくが心の底から話をしたのは、ひょっとすると二年ぶりのことですからねえ。ここには心の潔白な人がじつに少ないんですよ。プチーツィンより潔白な人がいない始末でしてね。おや、あなたはどうやら笑っていらっしゃるようですね、ちがいますか? 卑劣な者は潔白な人間を好むってことを、ご存じなかったんですか? そりゃぼくなんかもう……いや、しかし、ぼくはいかなる点で卑劣漢なんでしょう、公爵、どうか正直に言ってみてください。なぜあの女をはじめとして、みんながぼくのことを卑劣漢と呼ぶんでしょう? しかも、みんなのあとについて、あの女のあとについて、ぼくまでが、自分で自分を卑劣漢と呼んでるんですからねえ! これこそ卑劣というものです、卑劣きわまることです!」
もはや羞恥心とプライドの拮抗関係を維持することを放棄してしまった、過敏で激しやすい人間がどんな長広舌をふるうかというと、こんな具合になるわけだ。あまりにもタカをくくりすぎて、あたかも自分の意地悪さに自分で快楽を感じているかのように、夢中になってナスターシャ・フィリポヴナのことや世間の目のことをいちいち否定してかかったりおちょくったりするのだが(「あの女にうるさくつきまとって、自由進歩的な思想をふりまき、さらに婦人問題の一つ二つでもひっぱりだしてみせれば、あんな女はたちまち針のめどに糸が通るように簡単に丸められてしまいますよ」「ここには心の潔白な人がじつに少ないんですよ。プチーツィンより潔白な人がいない始末でしてね」)、それがみな空転して足がかりをなくしてしまい、ついには自分で自分の言っていることを裏切るような奇妙な本音を漏らしてしまう(「おや、あなたはどうやら笑っていらっしゃるようですね、ちがいますか? 卑劣な者は潔白な人間を好むってことを、ご存じなかったんですか?」「しかも、みんなのあとについて、あの女のあとについて、ぼくまでが、自分で自分を卑劣漢と呼んでるんですからねえ!」)。タカをくくって調子にのりぐんぐんと誇りを虚偽の上に育て上げていくうちにそれが一回転してすべてが地べたに叩き付けられ、「これこそ卑劣というものです、卑劣きわまることです!」とほとんど涙ながらに本音を叫び出すことになる。
これもまた登場人物が破裂したシーンの一つである。
●『白痴』下211-212頁
第三編第七章
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《弁明》は終った。イポリートはようやく口をつぐんだ。
このような極端な場合には、その破廉恥でやぶれかぶれの気分が、このうえなく高まって、激昂してわれを忘れた神経質な人間はもう何ものをも恐れず、どんな醜態でも演じかねないものである。いや、それどころか、そんなことをするのが、かえってうれしいくらいで、誰かれかまわずとびかかっていったりするのだ。しかも、その際、漠然としたものではあるが、つまり、その醜態を演じるやいなや、鐘楼から飛びおりて、もし何かスキャンダルでもおこったら、その死をもって一挙に事態を解決してしまおうというある確固たる目算をいだいているのである。ふつう、しだいにつのってくる肉体の衰弱がこうした心的状態の兆候となるのである。そのときまでイポリートをささえていた異常な、ほとんど不自然ともいうべき緊張は、いまやその頂点に達したのであった。病気のために衰弱したこの十八歳の少年の姿は、それ自体、枝からもがれて震えている一枚の木の葉のように弱々しく見えた。しかし、彼がはじめて聴衆の顔を見わたすやいなや ──それは朗読がつづいたこの一時間のうちではじめてのことであったが──たちまち、なんとも言えぬ高慢な、人を小ばかにしたような、腹だたしげな嫌悪の色が、その眼差しにも微笑にも浮んできた。彼は戦いをいどもうとあせったが、聴衆はすっかり憤激していた。みんなはがやがやといまいましそうな面持で、テーブルから立ちあがった。疲労と酒と緊張とが、一座の混乱を、いや、こんな表現ができるとしたら、その印象のけがらわしさを一段と強めたかのようであった。
ふいにイポリートは弾かれたように椅子からとびあがった。
「太陽が昇ったぞ!」彼はきらきらと輝く木立ちの頂に眼をとめ、まるで奇蹟ででもあるかのように公爵に指さして示しながら、叫んだ。
「じゃ、きみは昇らないとでも思ってたんですか?」フェルディシチェンコが言葉をはさんだ。
ここでイポリートはリーザの前で醜態をさらした『地下室の手記』の主人公に、かぎりなく近づいている。そのことを語り手による心理分析的ディエゲーシスによって表現しているわけだ。『地下室の手記』の主人公は、その非凡な心理的分裂に追い詰められたあげくに「自分の振舞いが醜悪そのものだと分かっていながら激昂していく自分をとめられない」状態に陥った。もはやどうなっても構うもんか!と言いたげな自暴自棄的な振舞いを、ここでは「このような極端な場合には、その破廉恥でやぶれかぶれの気分が、このうえなく高まって、激昂してわれを忘れた神経質な人間はもう何ものをも恐れず、どんな醜態でも演じかねないものである」と一種の心理法則のように分析してイポリートの属性として提示している。おまけにガーニャのようにその破裂したやけくその心理状態にともなう意地悪な喜びについても、ドストエフスキーは見逃していない(「いや、それどころか、そんなことをするのが、かえってうれしいくらいで、誰かれかまわずとびかかっていったりするのだ」)。
そしてここまでは規定の分析の範囲だが、実は、人々がこうした絶望的破裂に陥って、もはや羞恥心とプライドの拮抗などかなぐり捨てて突き進んでしまう時、彼らの心にある秘かな慰めについてまで言及されている。「しかも、その際、漠然としたものではあるが、つまり、その醜態を演じるやいなや、鐘楼から飛びおりて、もし何かスキャンダルでもおこったら、その死をもって一挙に事態を解決してしまおうというある確固たる目算をいだいているのである」──というわけだ。ドストエフスキーの分析の鋭利さはそこまで届いている。
●『地下室の手記』189-192頁
第二部第九章
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「お邪魔じゃなかったのかしら?」やっと聞きとれるほどの声で、おずおずと口ごもると、彼女は腰をあげかけた。
しかし、傷つけられた自尊心のこの最初の衝動を目にしたとたん、ぼくは憎悪のためにはげしく身ぶるいせんばかりになり、いきなり堰の切れたようにしゃべりだした。
「きみは何のためにここへ来たんだい、言ってくれよ、頼むから」息を切らせながら、自分に言ってしまいたかった。何からはじめたらよいかも気にならないくらいだった。
「どうしてきみは来たんだ? 返事を、返事をしたまえ!」ほとんどわれを忘れんばかりになって、ぼくはやたらと大声をあげた。「それじゃ、こっちから言ってやろうか、きみが何のために来たか。きみが来たのはだね、あのときぼくが同情の言葉をかけたからなのさ。そう、それできみはふわふわとなってしまって、また《同情の言葉》をかけてもらいたくなったのさ。だったら、心得ておくがいいぜ、はっきりとね、あのとき、ぼくはきみを笑っていたんだってことを。いまだって笑っているのさ。何をふるえるんだい? そうとも、笑っていたのさ! ぼくは、あのまえに人から侮辱されてね、宴会の席で、そう、あのとき、ぼくのまえに行った連中にだよ。ぼくがきみの家へ行ったのは、その連中の一人──ある将校をぶんなぐってやろうと思ってだったんだ。ところが、相手が見つからなくて、しくじっちまった。それでだれかにそのむしゃくしゃを持っていって、腹いせをしなくちゃならなかった。そこへきみが現われたってわけさ。そこでぼくは、きみに憎悪をぶちまけて、思いきり笑ってやったんだ。自分が踏みつけにされたから、今度は他人を踏みつけにしてやりたかった。自分が雑巾同然に扱われたから、今度は自分にも力のあるところを見せつけてやりたかったんだ……そういうわけだったのさ。ところがきみは、ぼくがきみを救うためにわざわざ乗りつけたとでも思ったんだろう、ええ? そう思ったんだろう? きみはそう思ったんだろう?」
もしかしたら、彼女が混乱してしまって、細かな点までは理解できないかもしれないことを、ぼくは承知していた。だが同時に、彼女が問題の核心をはっきりと理解できるにちがいないことも知っていた。事実、そのとおりだった。彼女はハンカチのように蒼ざめ、何か口に出そうとしたが、ただ唇が病的にひきつるばかりだった。そして、まるで斧で足を払われたように、べたりと椅子の上に腰を落した。それからはもう、ただ口をあけ、目を見開き、はげしい恐怖にふるえながら、ぼくの言うことを聞いているばかりだった。シニスムが、ぼくの言葉のあまりにむきだしなシニスムが、彼女を押しつぶしてしまったのだ……
「救うだって!」椅子からとび上り、彼女の前で部屋のなかをあちこち走りまわりながら、ぼくはつづけた。「何から救うのさ! だいたい、ぼくのほうがきみよりもっとひどい状態かもしれないんだぜ。どうしてきみは、あのときすぐに、ぼくがお説教を垂れていたとき、ずばりと決めつけてくれなかったんだい。『でも、あんたは何をしにあたしのところへなんか来たの? お説教を垂れに来たの?』とでもさ。あのときぼくに必要だったのは、力、力なんだよ。演技が必要だったんだ。きみに涙を流させてやりたかったんだ。きみを辱しめて、ヒステリーを起させる──それが、あのときぼくの必要としたものなんだ! ぼくはだめな男だから、あのときは自分のほうが持ちこたえられなくなってさ、怖気づいて、何のつもりか、きみにアドレスを渡すような馬鹿なまねをしてしまったんだ。ところが、あれから、まだ家に帰りつきもしないうちに、ぼくはあのアドレスのことで、きみをさんざんに罵倒しはじめたものなんだよ。ぼくはきみが憎らしくてならなかった。それもあのとき、きみに嘘をついたからなんだ。ただ言葉をもてあそび、空想にうつつを抜かしていただけで、本心では、いいかい、きみの破滅を望んでいたからなんだ、そうなんだよ! ぼくに必要なのは安らかな境地なんだ。そうとも、人から邪魔されずにいられるためなら、ぼくはいますぐ全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。きみには、こいつがわかっていたのかい、どうだい?……
自分の弱さと愚かさを意識する恥ずかしさとはかり知れないほどのプライドの相剋が炸裂。ドストエフスキー独自の饒舌力。「何をふるえるんだい? そうとも、笑っていたのさ!」「救うだって! 何から救うのさ!」「どうしてきみは、あのときすぐに、ぼくがお説教を垂れていたとき、ずばりと決めつけてくれなかったんだい」「本心では、いいかい、きみの破滅を望んでいたからなんだ、そうなんだよ!」「聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ」──といった挑発フレーズが長科白の中の良いアクセントになっている。
●『白夜』89-92頁
第四夜
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「ねえ、手紙はどこにあるんですの? 手紙を持ってきてくださったんでしょう?」と片手でらんかんをつかんで、彼女は繰り返した。
「いや、手紙なんかありゃしませんよ」とやがて私はいった。「まだあの人は来ていないんですか?」
彼女は恐ろしいほど顔を真蒼にして、身動きもしないで長いこと私の顔を見つめていた。私は彼女の最後の希望を粉砕してしまったのである。
「もうあんな人はどうでもいいわ!」と彼女はやっとのことで、跡切れがちな声で言いだした。「こんなふうにあたしを棄てるんなら、あんな人なんかどうだっていいわ」
彼女は眼を伏せた。それからまた私の顔を見ようとしたが、できなかった。それからさらに何分か彼女は興奮をしずめようと努めていたが、いきなりくるりと向きを変えると、運河のらんかんに肘をついて、声をあげて泣きだした。
「もういいですよ、いい加減によしたらどうです!」と私は言いかけたが、彼女の顔を見ると、言葉をつづける気になれなかった。それにいまさらなんと言えばよかったのだろう?
「どうか慰めたりなさらないでちょうだい」と彼女は泣きながらいった。「あの人のことなんかなにも言わないでちょうだい。あの人はきっとやってくる、決してあたしを棄てたんじゃないなんて言わないでちょうだ。こんな残酷な、こんな血も涙もない棄て方をするなんて、なんてひどい人なんでしょう。でもいったいなんのために、なんのために? あたしの手紙に、あの不幸な手紙に、なにか変なことでも書いてあったというの?……」
ここではげしい泣き声に彼女の声は中断された。彼女の様子を見ていると、私は胸が張り裂けるようだった。
「ああ、なんて血も涙もない、残酷なやり方でしょう!」と彼女はまた言いだした。「それに一行も、一行も返事をくれないなんて! せめてもうお前は要らなくなった、おれはお前を棄てることにするとでも返事を書いてくれればいいのに。それなのにまる三日も待たせたあげく、一行の返事もよこさないなんて! あの人を愛しているというほかにはなんの罪もない、可哀そうな、頼りのない娘を侮辱するくらい、あの人にとってやさしいことはありませんわ! ああ、この三日のあいだ、あたしはどんなに辛い思いをしたことでしょう! ああ、まったくなんてことでしょう! あたしがはじめてこちらからあの人のところへ忍んで行って、恥をしのんでまで、せめて一片の愛情でもと泣いて頼んだあの時のことを思いだすと……。それなのにこんな結果になるなんて……。ねえ、聞いてちょうだい」と彼女は私のほうを振り向いていった。その黒い眼がキラキラと光りだした。「こりゃきっとなにかの間違いよ! こんなことってあるはずがないわ、こんなことは不自然よ! きっとあなたか、あたしかが勘違いをしてるんだわ。ことによると、まだ手紙を受け取ってないんじゃないかしら? ひょっとすると、あの人はいまでもまだなんにも知らないんじゃないかしら? まあ考えてもごらんなさいな、お願いですから言ってちょうだ、説明してちょうだい──あたしにはどうしてもそこがわからないんです──いったいあの人があたしにしたような、あんな野蛮な、乱暴なことができるはずはないじゃありませんか! ひところも返事をよこさないなんて! この世で屑の屑のような人間にだって、すこしはましな世間の同情ってものがあるもんですわ。もしかすると、あの人はなにか聞きこんだのかも知れない、ことによると、誰かがあたしのことを中傷したのかも知れないわね?」と彼女は私に問いかけるように叫んだ。「ねえ、あなたはどうお思いになって?」
感じやすく傷つきやすい人間が一方におり、そんな人間の弱さなど一顧だにしない現実の容赦なさと必然性が他方にある。しかしとうとう最後の壁にぶつかってやぶれかぶれに「真の行動」へと突っ込んでいく前の段階で、自意識とプライドの最後のあがきというものが往々にしてみられる。引用部はその例だ。ここでナースチェンカは現実が容赦なく彼女の願望をおしつぶしてゆくのをひしひしと感じながらも、過熱した自意識の空想でなんとか抵抗し現実の悲惨を押し退けようと必死になっている。その時、彼女は黒い眼をキラキラ光らせながら「きっとあなたか、あたしかが勘違いをしてるんだわ。ことによると、まだ手紙を受け取ってないんじゃないかしら?」「いったいあの人があたしにしたような、あんな野蛮な、乱暴なことができるはずはないじゃありませんか!」と疑問符と感嘆符を乱舞させるだろう。
●『白痴』上298-301頁
第一編第十二章
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「公爵を紹介されるつもりなんですか?」コーリャが途中でたずねた。
「ああ、紹介しようと思ってね、イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵とね。ところで、どうしたね……え、どうだね……マルファ・ボリーゾヴナは……」
「ねえ、お父さん、もうここへくるのはやめたほうがいいですよ! 取って食われちゃいますよ! もう三日も顔出しされてませんが、おばさんのほうはお金を待ってるんですからね。なんだってお金なんか約束するんです? いつだってそうじゃありませんか! 今度こそひどい目にあいますよ」
四階に着くと、一同は、ある低いドアの前に立ちどまった。将軍は見るからに気おくれがしているらしく、公爵を前のほうへ押しやるのであった。
「わしはここに残っております」彼はもぐもぐと言った。「ちょっとびっくりさせてやりたいんです……」
コーリャが先に立ってはいっていった。おそろしく白粉と頬紅をぬりたくり、毛皮に縁どられた短いジャケツを着てスリッパをはいた、年のころ四十歳ばかりの、髪をおさげに編んだ婦人がドアから首をだした。それで将軍のびっくりさせようという思いつきもだめになってしまった。婦人は彼の姿を見つけるが早いか、いきなりどなりだした。
「ほら、卑怯者の意地悪じいさんがやってきたよ、どうせこんなことだろうと思ったよ!」
「さあ、はいりましょう。こりゃただ、その……」将軍は相変らず罪のない笑いをつづけながら公爵につぶやいた。
しかし、そうはうまくいかなかった。ようやく二人が天井の低い薄暗い玄関を通りぬけて、半ダースばかりの藤椅子と二脚のトランプ台が並べてあるかなり狭い客間にはいるやいなや、女主人はなんだかまるでおさらいをしていたような、あわれっぽい、よくある調子でさっきのつづきをやりだした。
「それでよくも恥ずかしくないのね。野蛮人、人の家を荒す暴君! 野蛮人、気ちがい! 洗いざらいかっさらって、それでもまだ承知しないのね。どれだけあたしが苦労したらあんたは気がすむのよ? まったく恥知らずでずうずうしい男だね!」
「マルファ・ボリーソヴナ、マルファ・ボリーソヴナ! こちらは……ムイシュキン公爵だ。イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵」びくびくして度を失ってしまった将軍はつぶやいた。
「ねえ、あなた、ようございますか」ふいに大尉夫人は公爵のほうへ向いた。「ねえ、ひとつ聞いてくださいな、この恥知らずな男は、父親のいないわたしの子供たちさえかわいそうとは思わないで、ありったけかっさらって、ありったけ持ちだしたあげく、洗いざらい売ったり、質においたりしてしまったんですからねえ。もうこれっぽっちも残っちゃおりませんよ! あんたの借用証なんてなんの役にたちます、ほんにあんたはずるい人だこと! さあ、返事をおし、意地悪じじい、返事をしなさいってば、欲張りめ、わたしはどうやって父親のいない子供たちを養っていけばいいんです? そんなに酔っぱらって足も立ちゃしないじゃないか……いったいわたしは何をしでかして神さまのお怒りにふれたっていうの? 見るのもけがらわしい意地悪じじい、さあ、返事をしなさいってば!」
しかし、将軍はそれどころの騒ぎではなかった。
「マルファ・ボリーソヴナ、さあ、ここに二十五ルーブルある……このお情けぶかい親友のおかげで手に入れた全部だよ。公爵! わしはおそろしい思いちがいをしとりましたよ! 人生とは……こういうもんですとも……だがもう……失礼、どうも体が弱くなって」将軍は部屋の真ん中に立って、四方八方へ頭をさげながら、しゃべりつづけた。「わしはどうも弱くなってしまって、いや、失礼! レーノチカ! 枕を……さあ、いい子だから!」
八歳になる女の子のレーノチカは、さっそく枕を取りに駆けだしていき、ぼろぼろに破れた固いレザーのソファの上に置いた。将軍はまだ大いに話すつもりですわったが、ソファに腰をおろしたかと思うと、たちまち横になり、壁のほうへくるりとむいたきり、律儀者のような寝方で寝入ってしまった。……
イヴォルギン将軍のような男が、しかしついに自分の嘘の限界に直面し面目丸潰れにされたらどうなるのか? もはや即興の才能では取り繕えない(「イヴォルギン将軍にムイシュキン侯爵」というフレーズの威光も虚しい!)ほどに現実が容赦なく彼に襲い掛かったら、どうなるのか? 引用部が答えだ。「人生とは……こういうもんですとも……」といきなり諦観まじりの人生論を口走りつつ、「失礼、どうも体が弱くなって」「わしはどうも弱くなって、いや、失礼!」と「四方八方へ頭をさげながら」、急に弱々しい素振りを見せて自分の「体の弱さ」へと逃げ込むのである。卑怯だが、それしかもうやりようがないのだ……。
●『罪と罰』下248-257頁
第五部第四章
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彼は苦しそうにソーニャを見た。
「だが、ほんとに、それがどうだというのだ!」と、考えつかれたように、彼は言った。「どうせこうなるはずだったんだ! じゃ言おう、ぼくはナポレオンになろうと思った、だから殺したんだ……さあ、これでわかったかい?」
「う、うん」とソーニャは無邪気に、びくびくしながら囁いた。「でもいいの……話して、話して! わかるわ、わたしなりに考えるから!」と彼女は一心に頼んだ。
「わかるって? そう、まあいいよ、どの程度にわかるか!」
彼は黙りこんで、ややしばらく考えをまとめていた。
「実は、あるときぼくはこう考えてみた。かりにナポレオンがぼくの立場にあって、しかも栄達の一歩を踏み出すために、ツーロンも、エジプトも、モンブラン越えもなく、そうした輝かしい不滅の偉業の代りに、そこらにごろごろしているようなばかげた婆さん一人しかいない、十四等官の後家婆さん、しかもその婆さんの長持から金を盗み出すために(身を立てるためだよ、わかるかい?)、どうしても殺さなければならない、しかも他に道はない、としたらだ、彼はその決心をするだろうか? これは偉業とはあまりにも程遠いし、しかも……罪悪だ、という理由で、二の足を踏みはしないだろうか? で、きみに言うが、ぼくはこの《問題》にずいぶん長いあいだ苦しみぬいたんだ。だから、ふとしたはずみに、彼はそんなことにためらいなど感じないどころか、それが偉業であるとかないとか、そんなことは考えもすまい……何をためらうのか、ぜんぜんわかりもしないだろう、とさとったとき、ぼくはたまらなく恥ずかしくなった。もし彼に他の道がなかったら、つまらんことはいっさい考えずに、あっという間をあたえないで、いきなり絞め殺してしまったにちがいない!……ところがぼくは……考えぬいた末……絞め殺した……権威者の例にならって……結果はまったく同じことになったが! きみは笑ってるね? おかしいだろうさ、でもソーニャ、ここで何よりもおかしいのは、きっと、結果は同じことになったということだよ……」
ソーニャはおかしいどころではなかった。
「それより、はっきりおっしゃってください……例えばなんてぬきにして」と彼女はますますびくびくして、やっと聞えるくらいに頼んだ。
彼はソーニャのほうを向いて、暗い目でその顔を見つめ、その両手をとった。
「またしても、きみの言うとおりだよ、ソーニャ。こんなことは、たしかにばかげたことだ。まあ、口先だけのあそびだよ! ところで、きみも知ってるだろうが、ぼくの母は財産らしいものはほとんど何もない。妹は偶然に教育を受けたので、家庭教師をするようなことになった。二人のすべての希望はぼく一人にかかっていた。ぼくは大学に学んだが、学資がつづかなくなって、やむなく一時学校をはなれた。あのままつづけられさえすれば、十年が十二年後には(事情がよくなってくれればだが)ぼくはとにかく俸給千ルーブリくらいの教師か官吏になる望みはもてたはずだ……(彼は暗誦しているようにすらすらと言った)、しかしそれまでには母は気苦労やら悲しみやらで老いさらばえてしまうだろうし、やはり母を安心させることはできそうもない。じゃ妹は……いや、妹はもっとひどいことになるかもしれない!……とすると、何を好きこのんでぼくは、一生すべてのものに顔をそむけて、すべてのもののそばを素通りし、母を忘れ、妹の屈辱をおとなしく忍ばなければならんのだ? 何のために? 母と妹を葬って、新しいもの──妻をめとり、子供をもうけ、やがてはそれも一文の金も、一きれのパンもない状態でこの世に置き去りにするためか? そこで……そこで、ぼくは決意したんだよ、あの婆さんの金を手に入れて、ここ何年間かのぼくの生活に当てよう、そうすれば母を苦しめずに、安心して大学に学べるし、大学を出てからも第一歩を踏み出す資金になる──これを広く、ラジカルにやってのけ、完全に新しい形の立身の基礎をきずき、新しい、独立自尊の道に立とう……まあ……まあ、こういうわけさ……そりゃ、ぼくは老婆を殺した──それは悪いことにちがいない──でも、もうよそうよ!」
彼はなんとなくものうげな様子で、話のおわりまでたどりつくと、がっくりとうなだれた。
「おお、それはちがいますわ、ちがいます」とソーニャは涙のにじんだ声で身もだえしながら叫んだ。「そんなことってあるもんですか……いいえ、それはちがいます、ちがいます!」
「ちがうって、きみがそう思うだけさ!……だがぼくは、真剣に話したんだよ、真実を!」
「まあ、そんな真実ってあるもんですか! おお、神さま!」
「ぼくはしらみをつぶしただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、いやらしい、害毒を流すしらみを」
「まあ、人間をしらみだなんて!」
「そりゃぼくだって、しらみじゃないくらい知ってるさ」と彼は異様な目つきで彼女を見ながら、答えた。「ところで、いまのは嘘だよ、ソーニャ」と彼はつけ加えた。「ぼくはもういつからか嘘ばかりついているんだよ……いま言ったのは全部嘘だよ、きみの言うとおりだ。ぜんぜん、ぜんぜん、ぜんぜん別な理由があるんだよ!……もう長いこと、誰とも話をしなかったので、ソーニャ……ぼくはいま頭が割れそうに痛いんだ」
彼の目は熱にうかされたようにぎらぎら燃えていた。頭はもう熱で犯されかけていた。落ち着かないうす笑いが唇の上をさまよっていた。たかぶった気持のかげからもうおそろしい無気力が顔を出しかけていた。ソーニャには彼が苦しんでいるのがわかった。彼女も頭がくらくらしかけていた。彼があんなことを言ったのが、不思議な気がした。何かわかったような気がしたが、でも……《どうしてそんなことが! とても考えられない! ああ、神さま!》彼女は絶望のあまり両手をもみしだいた。
「いや、ソーニャ、あれはそうじゃないんだよ!」と彼は、自分でも思いがけぬ考えの変化におどろいて、また心がたかぶってきたように、急に顔を上げて、またしゃべりだした。
「そうじゃないんだよ! それよりも……こう考えてごらん。(そうだ! たしかにそのほうがいい!)つまり、ぼくという男は自惚れが強く、ねたみ深く、根性がねじけて、卑怯で、執念深く、そのうえ……さらに、発狂のおそれがある、まあそう考えるんだね。(もうこうなったらかまうものか、ひと思いにすっかりぶちまけてやれ! 発狂のことはまえにも噂になっていた、おれは気付いていたんだ!)さっき、学資がつづかなかったって、きみに言ったね。ところが、やってゆけたかもしれないんだよ。大学に納める金は、母が送ってくれたろうし、はくものや、着るものや、パン代くらいは、ぼくが自分で稼げたろうからね。ほんとだよ! 家庭教師に行けば、一回で五十コペイカになったんだ。ラズミーヒンだってやっている! それをぼくは、意地になって、やろうとしなかったんだ。たしかに意地になっていた。(これはうまい表現だ!)そしてぼくは、まるで蜘蛛みたいに、自分の巣にかくれてしまった。きみはぼくの穴ぐらへ来たから、見ただろう……ねえ、ソーニャ、きみもわかるだろうけど、低い天井とせまい部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ! ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか! でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ! 何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。ナスターシヤが持って来てくれれば──食うし、持って来てくれなければ──そのまま一日中ねている。わざと意地をはって頼みもしなかった! 夜はあかりがないから、暗闇の中に寝ている、ろうそくを買う金を稼ごうともしない。勉強をしなければならないのに、本を売りとばしてしまった。机の上は原稿にもノートにも、いまじゃ埃が一センチほどつもっている。ぼくはむしろねころがって、考えているほうが好きだった。だから考えてばかりいた……そしてのべつ夢ばかり見ていた、さまざまな、おかしな夢だ。どんなって、言ってもしょうがないよ! ところが、その頃からようやくぼくの頭にちらつきだしたんだ、その……いや、そうじゃない! ぼくはまたでたらめを言いだした! 実はね、その頃ぼくはたえず自分に尋ねていたんだ、どうしてぼくはこんなにばかなんだろう、もし他の人々がばかで、そのばかなことがはっきりわかっていたら、どうして自分だけでももっと利口になろうとしないのだ? そのうちにぼくはね、ソーニャ、みんなが利口になるのを待っていたら、いつのことになるかわからない、ということがわかったんだ……それから更にぼくはさとった、ぜったいにそんなことにはなりっこない、人間は変るものじゃないし、誰も人間を作り変えることはできない、そんなことに労力を費やすのはむだなことだ、とね。そう、それはそうだよ! これが彼らの法則なんだ……法則なんだよ、ソーニャ! そうなんだよ!……それでぼくはわかったんだ、頭脳と精神の強固な者が、彼らの上に立つ支配者となる! 多くのことを実行する勇気のある者が、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑視することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のある者が、誰よりも正しいのだ! これまでもそうだったし、これからもそうなのだ! それが見えないのは盲者だけだ!」
ラスコーリニコフはそう言いながら、ソーニャの顔を見てはいたが、彼女にわかるかどうかということは、もう気にしなかった。はげしい興奮がすっかり彼をとらえてしまった。彼は暗いよろこびというようなものにひたっていた。(実際に、あまりにも長いあいだ彼は誰とも話をしなかった!)ソーニャは、この暗い信条が彼の信念になり、法則になっていることをさとった。
「そこでぼくはさとったんだよ、ソーニャ」と彼は有頂天になってつづけた。「権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者にのみあたえられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ! そのときぼくの頭に一つの考えが浮んだ、生れてはじめてだ、しかもそれはぼくのまえには誰一人一度も考えなかったものだ! 誰一人! 不意にぼくは、太陽のようにはっきりと思い浮べた、どうしていままでただの一人も、こうしたあらゆる不合理の横を通りすぎながら、ちょいとしっぽをつまんでどこかへ投げすてるという簡単なことを、実行する勇気がなかったのだろう! いまだってそうだ、一人もいやしない! ぼくは……ぼくは敢然とそれを実行しようと思った、そして殺した……ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」
「ああ、やめて、やめて!」と両手を打ちあわせて、ソーニャは叫んだ。「あなたは神さまのおそばをはなれたのです、神さまがあなたを突きはなして、悪魔に渡したのです!……」
「これはね、ソーニャ、ぼくが暗闇の中にねそべっていたとき、たえず頭に浮んだことなんだよ、してみるとこれは、悪魔がぼくを迷わせていたのかな? え?」
「やめて! ふざけるのはよして。あなたは神を冒涜する人です、あなたは何も、何もわかっちゃいないのです! おお、神さま! この人は何も、何もわからないのです!」
「お黙り、ソーニャ、ぼくはぜんぜんふざけてなんかいないよ、ぼくだって、悪魔にまどわされたくらいは知ってるよ。お黙り、ソーニャ、お黙り!」と彼は憂鬱そうにしつこくくりかえした。「ぼくはすっかり知ってるんだよ。そんなことはもう暗闇の中に寝ていたとき、何度となく考えて、自分に囁きかけたことなんだ……それはみな、ごく些細なことまで、ぼくの中の二つの声がもうさんざん議論したことなんだよ、だからすっかり知ってるんだよ、すっかり! そのときにもうこんなおしゃべりはあきあきしてしまったんだ、もううんざりしてしまったんだよ! ぼくはすっかり忘れようと思った、そして新しくスタートしたかった。おしゃべりをやめたかった! ソーニャ、きみはぼくがばかみたいに、向う見ずにやったと思うのかい? とんでもない、ぼくはちゃんと考えてやったんだよ。そしてそれがぼくを破滅させてしまったのだ! また、ぼくが、権力をもつ資格が自分にあるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力をもつ資格がないことだ、ということくらいぼくが知らなかった、とでも思うのかい? また、人間がしらみか? なんて疑問をもつのは──つまり、ぼくにとっては人間はしらみではないということで、そんなことは頭に浮ばず、つべこべ言わずに一直線に進む者にとってのみ、人間がしらみなのだということくらい、ぼくが知らなかったと思うのかい? ナポレオンならやっただろうか? なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、ぼくがナポレオンじゃないということを、はっきりと感じていたからなんだよ……こうしたおしゃべりのすべての苦しみ、いっさいの苦しみに、ぼくは堪えてきたんだよ、ソーニャ、もうそうした苦しみはすっかり肩からはらいのけたくなったんだよ! ぼくはね、ソーニャ、詭弁を弄さないで殺そうと思った、自分のために、自分一人だけのために殺そうと思ったんだ! このことでは自分にさえ嘘をつきたくなかった! 母を助けるために、ぼくは殺したのじゃない──ばかな! 手段を権力をにぎって、人類の恩人になるために、ぼくは殺したのではない。ばかばかしい! ぼくはただ殺したんだ。自分のために殺したんだ、自分一人だけのために。この先誰かの恩人になろうと、あるいは蜘蛛になって、巣にかかった獲物をとらえ、その生血を吸うようになろうと、あのときは、ぼくにはどうでもよかったはずだ!……それに、ソーニャ、ぼくが殺したとき、ぼくにいちばん必要だったのは、金ではなかった。金よりも、他のものだった……それがいまのぼくにははっきりわかるんだ……ソーニャ、わかってくれ、ぼくは同じ道を歩んだとしても、おそらくもう二度と殺人はくりかえさないだろう。ぼくは他のことを知らなければならなかったのだ。他のことがぼくの手をつついたのだ。ぼくはあのとき知るべきだった、もっと早く知るべきだった、ぼくがみんなのようにしらみか、それとも人間か? ぼくは踏みこえることができるか、できないか! 身を屈めて、権力をにぎる勇気があるか、ないか? ぼくはふるえおののく虫けらか、それとも権利があるか……」
「殺す? 殺す権利があるというの?」
ソーニャは両手を打ちあわせた。
「ええッ、ソーニャ」と彼は苛々しながら叫んだ、そして何か言いかえそうとしかけたが、さげすむように口をつぐんだ。「話のじゃまをしないでくれよ、ソーニャ! ぼくはきみに一つだけ証明したかったんだ。つまり、悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ! 悪魔のやつぼくを嘲笑いやがった、だからぼくはいまここへ来たんだ! お客にさ! もしぼくがしらみでなかったら、ここへ来ただろうか? いいね、あのとき婆さんのところへ行ったのは、ただ試すために行っただけなんだ……それをわかってくれ!」
「そして殺したんでしょう! 殺したんでしょう!」
「で、どんなふうに殺したと思う? あんな殺し方ってあるものだろうか? あのときぼくがでかけて行ったように、あんなふうに殺しに行く者があるだろうか? どんなふうにぼくが出かけて行ったか、いつかきみに話してあげよう……果してぼくは婆さんを殺したんだろうか? ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ! あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!……あの婆さんは悪魔が殺したんだ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、たくさんだ、ソーニャ、よそうよ! ぼくをほっといてくれ!」彼は急にはげしいさびしさにおそわれて、叫んだ。「ほっといてくれ!」
彼は膝に両肘をついて、掌ではげしく頭をしめつけた。
《人生は決して狂気染みてはいない。狂気染みているのは人間の脳髄だと言うかもしれない。恐らくそれは本当だ。人間は山の頂上から飛び下りたら決して天に上りはしないからね。ところが人間の思索と行動との間には常に神様だけが知っている暗が挟まれている。この早い話が言葉でもいい、俺は如何にしてあんな事をあの時言ってしまったんだろう。と後で考えない人間があるだろうか? 人間の感受性が強くなればなる程、馬鹿な事を喋るものだ。何かを考えるさて考えた事を行為に移そうとする。吾々は幸いにも少しも気が附かない時が多いのだがこの時吾々は必ず何物かを眼をぶつって躍びこすのだ。もしこの深淵が人間の宿命ならこの宿命を覗いた男にしかも覗いて生活をとめる事を許されていない男に人生が如何に狂気染みていようと同じ事ではないか?》 《ソオニャの足下に俯伏すラスコオリニコフは、全編中最も気の利かない見栄を切ったのであって、このソオニャとの出会いという劇的場面に於いて彼の道化ないし欺瞞はその頂点に達するのである。そこで多くの読者が、この場面に何か所謂良心の問題を或は所謂宗教の問題を容易に見つけたがる。天使のような淫売婦は不自然だなどと書いている或る評価もこの例に洩れない。しかし作者の筆はここでも同じように残酷なのだ。主人公を監視する眼は同じように厳しい。注意してこの場面を読んだものは、ここに払われた作者の細心な狡猾さに驚くはずである。世界は依然として愛たちまち憎悪と変じ、涙と笑いとが同じ意味をもつが如き、切迫した心理の世界、感覚の世界であって、概念の問題の顔を出す余地はないのである。この場面にも殺しの場面に見られたような作者の代表的な心理描写をいくつも見付け出す事が出来る。》(小林秀雄)
●『決定版 ドストエフスキー全集 21巻』22-26頁
A・E・ヴランゲリへ(3)
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……最近ぼくによこす彼女の手紙は、このところずっと、ますます沈んだ、悲しいものになってきました。病的な印象のもとで書いたのです。彼女が病気だったことは、ぼくも知っていました。前から察してはいたのですが、彼女はぼくに何か隠しているのです。(ああ! きみには一度もそのことを話していませんでしたが、きみがまだここにいたこと、ぼくは並みはずれた嫉妬心のせい彼女を絶望にまで追いこんだことがあるので、彼女が今ぼくに隠しごとをするのは、そのためではないのでしょうか?)そして、どうでしょう? 彼女がクズネツクでほかの男に結婚の約束をしたという話を、突然ここで耳にしたのです。雷に打たれたようなショックでした。絶望にかられてぼくはなすすべを知らず、彼女に手紙を書きはじめたのですが、日曜に彼女からも手紙をもらいました。いつものように愛想のいい、可愛い手紙なのですが、いつもよりさらに秘密めかしいのです。はっきりと親密な言葉がいつもより少なく、まるで書くのを用心しているみたいなのです。ぼくたちの将来の希望については、一言半句もありません。まるで、そんな考えはすっかりわきへしまわれたみたいなのです。近い将来にぼくの運命が一変する可能性など、なにかまったく信じていないようで、あげくのはてに雷鳴のような知らせです。彼女は秘密めかしい調子を打ちきることに決め、おずおずとたずねています。「もし、性質のよい中年の勤め人で、生活の安定した人が見つかって、その人がプロポーズしたら、自分はどう答えればよいだろう?」彼女はぼくの助言を求めているのです。幼い子供をかかえて世界の涯にただ一人ぼっち、父親は老齢で、死ぬかもしれないと思うと、頭がくらくらしてくる、と彼女は書いてよこし、「そうしたら、わたしはどうなるのでしょう?」と言うのです。親友としてふさわしいようにこの問題を判断して、すぐに返事をくれるよう、彼女は頼んでいます、愛の誓いは、もっとも、それ以前の手紙にはまだありました。彼女はぼくを愛しているし、これはまだ一つの仮定と打算にすぎない、と〔数語不明〕付け加えています。ぼくは雷に打たれたようなショックを受け、よろよろとなって、気絶し、夜通し泣き明かしました。今ぼくは自分の部屋で〔数語不明〕寝ています。ぼくの頭の中に不動の観念があるのです! 自分の生きていること、話されることが、やっとわかる程度です。ああ、こんな恐ろしい不気味な感情は、だれにも味わわせたくありません。恋の喜びは大きいものですが、その苦しみは、決して恋んどせぬほうがいいと思うほど、恐ろしいものです。本当の話、ぼくは絶望に陥ってしまいました。ほかの時であれば決して踏ん切りのつかぬような、何か度はずれなことをやってのける可能性を理解したのです……ぼくはその晩さっそく、彼女に自暴自棄のひどい手紙を書きました。可哀そうに! ぼくの天使! それでなくても病気だというのに、ぼくは責め苛んだのです! ぼくはあの手紙で彼女を悲嘆のどん底に突き落としたかもしれません。彼女を失ったら死んでしまうと、ぼくは書いたのです。そこには脅しもあれば、甘いささやきもあり、卑屈な懇願もあって、何を書いたのかわかりません。きみはぼくの気持を理解してくれるでしょうね、きみはぼくの天使です、ぼくの希望です! でも、考えてみて下さい。見棄てられて病的に猜疑心が強くなり、あげくのはてにぼくの運命の安定に対していっさいの信頼をなくした、気の毒な彼女は、いったいどうすればよかったというのでしょう! だって、彼女にしても一兵卒と結婚するわけにはいきませんからね。それでもぼくはこの一週間というもの、彼女の最近の手紙を全部読み返してみました。ひょっとすると、彼女はまだ約束を与えたのではないかもしれません、どうもそうらしいのです、ちょっと迷っただけなのです。でも、彼女はぼくを愛しています、ぼくを愛しているんです、ぼくはそれを知っています。彼女の手紙の中の悲しみや心ふさぎ、一度ならぬ激情、そのほかここには書きませんが、いろいろのことよによって、それはわかります。ねえ、きみ! ぼくはきみに対してこの問題で完全に率直になったことは一度もありませんでした。今ぼくはどうすればいいのでしょう! 生れてこの方一度としてこれほどの絶望を堪え忍んだことはありません……死ぬほどのやるせなさが心をしめつけ、夜は夢にうなされて叫び、咽喉の痙攣に息がつまり、涙が時には執拗に塞きとめられているかと思えば、時には川のようにほとばしるのです。ぼくを裁くのはいいですが、ぼくを責めないで下さい。ぼくは正直な人間です。ぼくは、彼女がぼくを愛していることを知っています。しかし、もしぼくが彼女の幸福を妨げたりしたら、どうしたらいいでしょう? その一方、ぼくはクズネツクの求婚者なぞ、信じてはいません! 病身で苛立ちやすく、心の発達した、教養のある聡明な彼女が、どこのだれともわからぬ男に身を任せるはずがないではありませんか。そんな男は、内心ひそかに、結婚生活では殴ることも正当な行為とみなしているかもしれないのです。彼女は善良で、信じやすいたちです。ぼくは彼女をよく知っています。彼女ならどんなことでも信じこませることができます。その上、(いまいましい)おばさんたちや、状況の望みのなさが、混乱させているのです。決定的な返事、つまり、秘められている細部の事情のいっさいは、四月二日までには突きとめますが、ねえ、きみ、どうしたらよいか助言して下さい。もっとも、何のためにぼくはきみの助言を求めたりするのでしょう? 彼女をあきらめることなぞ、ぼくにはどんなことがあっても、絶対にできません。ぼくの年齢で恋は酔狂ではありません、それは二年もつづいているのです、いいですか、二年もですよ。十か月の別離の間にもそれは弱まらなかったばかりか、常軌を逸したところまで行ってしまったのです。あの天使を失ったら、ぼくは破滅です。気が狂うか、でなければイルトゥイシ河にとびこむでしょう! これはわかりきったことですが、ぼくの問題がうまく行きさえすれば(詔勅のことで)、ぼくはだれよりも先に選ばれるに違いありません。なぜなら、彼女はぼくを愛しているからです。それは確信しています。ところで、ぼくたちの間で、ぼくたち(ぼくと彼女)の言葉で、いったい何がぼくの運命の安定とよばれているかを、お教えしましょう。ほかでもありません、軍隊勤務から文官職、つまり、ある程度の俸給のあるポストと官等(たとえ十四等官であっても)に移ること、でなければ、それに対する間近な希望と、少なくともぼくの問題が最終的に安定するまで暮らしてゆけるだけの金を手に入れる、なんらかの可能性とです。自明のことですが、軍務を辞して文官に奉職することは、たとえそれが官等もなく、大した金にはならぬとしても、彼女からみれば並はずれた希望に思われて、彼女を甦らせてくれることでしょう。ぼくはまた自分の立場からきみにぼくの希望を、すなわち、彼女を求婚者たちから奪い返し、彼女に対して一点のやましさもない人間でありつづけるためには、確実に何が必要であるかを明言して、その上で今度は、ぼくに必要なものの中でいったいどれが期待できるか、何が実現可能で、何が実現不可能かを、きみにたずねたいのです。なぜって、きみはペテルブルグにいて、ぼくの知らないことをいろいろとご存じだからです。
かけがえのない親愛な、そしておそらくただ一人の親友であるわが友よ、きみは清い誠実な心の持ち主です。ぼくの希望は、ぼくの希望は──まあ、きいて下さい。どんなに考えてみても、ぼくにはそれがかなり明らかなものに思われるのです。第一に、講和締結の機会なり、戴冠式に際してなり、この夏にはたして何の恩赦もでないでしょうか?(ぼくが今、痙攣するほどのもどかしさで、きみから待ちわびているのは、まさにこの知らせなのです)。第二に、これはまだ希望の領域内のこととしてもいいのですが、かりに詔勅によって何一つほかのことがなかったりしたら、ぼくは軍務から文官に移って、バルナウールに移ることはできないでしょうか? だってドゥーロフは文官に移ったではありませんか、申し上げておきますが、この異動だけで彼女を甦らせることができ、彼女は求婚者たちをみんな追い払ってくれることでしょう。なぜなら、最後の手紙とその前の手紙で彼女は、ぼくを深く愛している、求婚者などというのは打算にすぎないと書いてよこし、彼女の愛を疑ったりせず、それが単なる想定にすぎないことを信じてほしいと哀願しているからです。ぼくは最後の一語を信じます。彼女はプロポーズされ、説得されようとしていても、まだ約束を与えなかったのかもしれません。ぼくはいろいろな噂を調べ、探し求め〔数語不明〕、根も葉もない噂の多いことがわかりました。その上、もし約束を与えたのだったら、彼女はぼくに書いてよこすはずです。したがって、これはまだ決定したわけではまったくありません。四月二日までには彼女の手紙がくるものと期待しています。ぼくは完全な率直さを要求してやりましたから、その時になれば秘められている細部の事情いっさいがわかります。ああ、わが友! 彼女を見棄てて、他の男に渡すことなどできるでしょうか。だってぼくは彼女に対して権利を持っているのです、いいですか、権利をです! というわけで、文官職への異動は大きな希望とはげみと見なせることになるのです。ぼくはこれからも永いこと官等なしでいるのでしょうか? きみはどうお考えです? ほんとにぼくの出世の道は閉ざされてしまったのでしょうか? ぼくのような罪人たちだって、みんなもらってきたではありませんか? ぼくはそんなことは信じません! たとえ今何も起こらぬとしても、二年後にはロシアに帰れるものと信じています。今度はいちばん重要なこと──金の問題です。九月までには二つの作品、一つは評論で、もう一つは長編が、仕上がるでしょう。ぼくは発表を正式に申請しようと思っています。許可されれば、ぼくは一生パンに困りません。今度は以前と違って、仕上げも十分ですし、想も十分に練ってあり、文章にたいそうなエネルギーがこめてあります! 『貧しき人びと』を上まわる長編を書きあげようと(九月までに)思っています。発表が許可されれば(奔走してそれができないなんて、ぼくは信じません、そうですとも、信じません)、それは大騒ぎをひき起し、売りつくされて、ぼくに金と意義とをもたらし、政府の注意をぼくに向けてくれるでしょうし、それに帰国も早くなることでしょう。ぼくに必要なのは、年に紙幣で二、三千ルーブリなのです。これならぼくは彼女に対して誠実に振舞うことになるでしょう、それとも違いますか? それとも、これではぼくたちの生活費として不足でしょうか? 二年ほどすればぼくたちはロシアに帰るでしょうから、彼女もちゃんとした暮らしができましょうし、ことによると、多少の貯えすら作れるかもしれません。六年もの間、未曾有の苦しみをともなう戦いのために、これほどの勇気とエネルギーを有していたこのぼくに、自分と妻を養うだけの金を手に入れる力がないなどということが、はてしてあるでしょうか。ばからしい話です! 肝心なのは、だれ一人ぼくの力も、才能の程度も知らないことであり、まさにその肝心な点にぼくも期待しているのです。さて最後に、最悪のケースです。かりに、あと一年くらい、作品発表を許可されないとしましょうか? でもぼくは、運命が変りしだい、伯父に手紙を書き、結婚のことは伏せておいて、新しい舞台での活動開始のために銀貨千ルーブリを無心します。きっと貸してくれると、確信しています。これで一年間、暮らせないでしょうか? そのうちには、問題も片付いてくれるでしょう。いざとなれば、匿名で発表して、やはり金をもらうこともできます。ご理解頂きたいのですが、これらすべての希望は、この夏に何も起らない(詔勅)場合に限られているのです。もし起きたら、どうでしょう? いや、ぼくは彼女に対して卑劣漢ではありません! 彼女自身、ぼくたちの問題がうまく片付きさえしたら、喜んで〔一語不明〕求婚者たちを追い払うと言っているのですから、つまり、ぼくはまだ彼女を不幸から救ってやれるのです。それにしても、ぼくは何を言っているのでしょう! ぼくが彼女を見棄てないことは、決まっているというのに! 彼女はぼくがいなければ破滅してしまうのです! アレクサンドル・エゴローヴィチ、ぼくの魂! きみの手紙をぼくがどんなに待ちこがれているか、わかって頂けたら! ひょっとしてその手紙に肯定的な知らせがあったら、ぼくは彼女にそれを原文のまま送ってやりますし、もしだめだったら、ぼくの運命の安定に対する希望に関する個所を破り取って、送ることにします。
ぼくが今どれほどの心労に包まれているか、理解して下さいますね!
彼女との結婚、作家としての成功──心で想い描くことがもう習慣になってしまった希望が裏切られた瞬間にこそ、最大の絶望が訪れる。その絶望の必死さと動揺が、のっぴきならない情動としてこの文体を貫いている。
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------------------------------------- タイプ【D-17】非凡な人格/自分の自意識の倫理 ▲
●『地下室の手記』59-60頁
第一部第十一章
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〈よく恥ずかしくもなくそんなことを、よくもまあ鉄面皮に!〉と、諸君は、見下げはてたというふうに頭を振りながら、こう言われるかもしれない。〈きみは生活に飢えているくせに、自分では生活上の問題を論理の遊戯で解決しようとしている。きみの言いぐさは、なるほどひどくくどくて、厚かましいが、そのくせきみはびくびくものじゃないですか! きみは無意味なことを言って、それに満足しているし、厚かましいことを口にしては、内心、それが気にかかってならず、わび言ばかり並べている。怖いものなしだなどと大きな口を叩きながら、ぼくらの意見におもねることも忘れない。きみの警句がまるでへたくそなものだということを自身承知しながら、どうやら、その文学的価値にやにさがっているふうですよ。たぶん、きみにしたって、苦しんだことはあるのだろうけれど、きみは自分の苦悩なんて屁とも思っちゃいない。きみには真実はあっても、純真さが欠けている。つまり、きみは、実にけちくさい見栄から、きみの真実を恥ずかしげもなく見せものにして、安売りをやらかしているんですよ……たしかにきみにも何か言いたいことはあるのだろうけれど、恐ろしくて、その最後の言葉をかくしている。それも、きみにそれを口に出すだけの決断がなくて、臆病な厚かましさしかないからだ。きみは自意識を鼻にかけているが、要するにぐずをきめこんでいるだけだ。なぜといって、きみは理知こそ働いているけれど、心は淫蕩に汚されているからだ。清純な心がなかったら、健全な正しい意識もありはしないのさ。それにまた、なんてくどい男だろう、やたら強引で、もったいぶっているだけじゃないか! 嘘だ、嘘だ、嘘ばかりだ!〉
もちろん、諸君のこういう言葉は、ぼくがいま自分で創作したものだ。これも、地下室の産物である。ぼくはあそこで四十年もぶっつづけに、諸君のこうした言葉を壁の隙間から盗み聞きしていたのだ。それはぼく自身が頭で考えだしたことだ、とにかく、こんなことしか頭に浮んでこないのだから仕方がない。そらで暗記してしまって、文学的な形式をとるようになったとて、べつにふしぎではあるまい……
「たしかにきみにも何か言いたいことはあるのだろうけれど、恐ろしくて、その最後の言葉をかくしている。それも、きみにそれを口に出すだけの決断がなくて、臆病な厚かましさしかないからだ。きみは自意識を鼻にかけているが、要するにぐずをきめこんでいるだけだ」──この一節は重要だろう。しかもこれは他人の言葉の形を借りて自分で自分に向けた批判なのだ。これが意味することは何だろうか。自意識の内にとどまっていては(=ぐずをきめこんでいては)、決して「最後の言葉」を口にすることはできないということ。「最後の言葉」を口にするのはまさに自意識と行動の分裂によってはじめて可能になるということ。つまり自分自身でも恐れている自分の「最後の言葉」を口にするのは、真の行動だというわけだ。
なぜそれを口に出すのに勇気が必要なのか。ここでも問題は、自分の弱さと愚かさを恥じる気持とプライドの高さの相剋であるように思われる。自分の弱さと愚かさをしっかりと知り尽くしているからこそ羞恥が生じる。だがプライドの高さがその発露を妨げる。そのためにどうしても「最後の言葉」を隠してしまうことになるのだ。最初から隠すべき「最後の言葉」など持ち合わせていない凡人には無縁な苦しみである。
●『地下室の手記』61頁
第一部第十一章
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どんな人の思い出のなかにも、だれかれなしには打ちあけられず、ほんとうの親友にしか打ちあけられないようなことがあるものである。また、親友にも打ちあけることができず、自分自身にだけ、それもこっそりとしか明かせないようなこともある。さらに、最後に、もうひとつ、自分にさえ打ちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういうことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積りたまっているものなのだ。いや、むしろ、きちんとした人であればあるほど、そうしたことがますます多いとさえいえる。すくなくともぼく自身についていえば、やっと先頃、自分の以前のアバンチュールのいくつかを思い出してみようと決心はしたものの、いまにいたるまで、いつも、ある種の不安さえおぼえて、それを避けるようにばかりしていたものである。しかし、たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心したいまとなっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。……
この認識は結構怖い。他人に明かすことができないだけではない、自分にさえ打ち明けるのを恐れるようなこともある。私秘的羞恥心? これは単なるプライドよりもより一層深刻で根深いものだろうか? しかも、それが世俗の人々の中にも積もり積もっていると指摘されているのだ……。だが、それをこの主人公のようにはっきりと認識できる人間はやはり非凡だと言えるのではないか?
私秘的羞恥心──それこそ「独りじゃ寂しい」というあられもない人間的苦悩だろうか?
●『カラマゾフの兄弟』3巻165-167頁
第三部第八篇第五章
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ミーチャは小さなテーブルの前の、小さい籐椅子に腰をおろした。そのテーブルにはひどく汚れたテーブル掛けがかけてあった。ペルホーチンは彼の真向かいに席を占めた。シャンパンがすぐに運ばれて来た。かきはいかがでございます、《ただいま着いたばかりの、飛び切り上等のかきでございます》と店の者がすすめた。
「かきなんか糞食らえだ、僕は食わん、それに何も要らんぞ」とペルホーチンがかみつくように言った。
「かきを食ってる暇はないぞ」とミーチャが言った。「第一、食欲がない。ねえ、君」とつぜん彼はしんみりと言った。「僕はこういう無秩序なことは、決して好きじゃなかったんだ」
「好きなやつがいるもんですか。百姓のためにシャンパンを三ダースも買うなんて、誰だって腹が立つさ」
「僕の言うのはそのことじゃないんだ。僕はもっと高い秩序のことを言っているんだ。その秩序が僕にはない、そのもっと高い秩序が……。しかし、それもこれも終わりさ、今さら悲しんだって仕方がない。あとの祭りだ。勝手にしやがれ! 僕の一生は無秩序の連続だった。そろそろ秩序立てなけりゃ。語呂あわせだな、これじゃ」
「うわごとさ、語呂あわせじゃありませんよ」
「この世の神に栄あれ、
わが内なる神に栄えあれ!
この詩の一節は、いつだったか僕の胸からほとばしって出た文句なんだ。これは詩じゃない、涙だ、……僕が自分で作ったんだ。もっとも、二等大尉のひげをつかんで引きずりまわした時じゃないがね。……」
「何だって突然あの男のことを持ち出すんです?」
「なぜ突然あの男のことを持ち出すかって? 馬鹿ばかしい。何もかもが終わりかけている、平らになりかけている。一本線を引けば、──それでちょんだ」
「しかしどうもあのピストルが気になるなあ」
「ピストルだってくだらんことさ。馬鹿げたことを考えずに、まあ飲めよ。僕は人生を愛している、愛しすぎたくらいだ。あんまり愛しすぎて、げんなりしちまった。だが、もうたくさんだ。人生のために、ねえ君、人生のために酒を飲もう、人生のために乾杯だ! なぜ僕は自分に満足しているんだろう? 僕は卑劣な男じゃあるが、自分に満足している。僕は神の作り給うた人間を祝福する、今すぐに神とその創造物を祝福する用意がある。しかし……その前にまず悪臭を放つ一匹の虫けらを退治する必要があるんだ、そいつがはいまわったり、他人の生活を傷つけたりしないように……。さあ、人生のために乾杯しよう! 人生よりも大事なものがどこにある。決してありゃしない、決して! さあ、人生と、女王のなかの女王のために」
「人生のために乾杯だ、それから君の女王のためにも」
ふたりはコップに一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈んでいた。まるで何かのっぴきならない重苦しい心配事があるみたいだった。
「ミーシャだ、……あれは君のところのミーシャだろう? おい、ミーシャ、ミーシャ、ここへ来て、このコップを飲みほしてくれ、明日の朝の、金髪の日輪の神のために……」
「何だってあんな子供に!」とペルホーチンがいらだたしげに叫んだ。
「まあいいじゃないか、僕がそうしたいんだから」
「ちぇっ!」
ミーシャは一気に飲みほすと、お辞儀をして駆け出して行った。
「あいつはいつまでも覚えていてくれるだろう」とミーチャが言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何者だ? 地上の女王だ! 僕は悲しい、悲しくてならない、ビョートル・イリイーチ。ハムレットを覚えているかい、──『おれはとても悲しい、悲しくてならんのだ、ホレーショ。……ああ、哀れなヨーリク!』僕はことによるとあのヨーリクかも知れない。今の僕はまさしくヨーリクだ、髑髏になるのは先だがね」
ペルホーチンは黙って聞いていた。ミーチャもしばらく黙り込んだ。
ここに表われているドミートリイの科白こそ、彼の人格の原型だと思う。高所から見て自分が堕落していることの痛感と悲しみ──「僕はもっと高い秩序のことを言っているんだ。その秩序が僕にはない、そのもっと高い秩序が……」「僕は悲しい、悲しくてならない」。意識的に巧んだものではない、「涙」としてほとばしるアドホックな詩人──「この詩の一節は、いつだったか僕の胸からほとばしって出た文句なんだ。これは詩じゃない、涙だ、……僕が自分で作ったんだ」。心底からの自己卑下と罪悪感にもかかわらず尚生きて行こうとする野太い生活力──「僕は卑劣な男じゃあるが、自分に満足している」「さあ、人生のために乾杯しよう! 人生よりも大事なものがどこにある。決してありゃしない、決して!」。そして、彼の生活をしっかりと地上の泥につなぎとめている、女性一般への愛着──「僕は女が好きだ、女が! 女とは何者だ? 地上の女王だ!」。これこそ《人格》だ。
●『カラマゾフの兄弟』3巻341-343頁
第三部第九篇第七章
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検事は大声で笑いだした。予審判事も吹きだした。
「私の考えでは、あなたが自制して全部お使いにならなかったのは、むしろ賢明な、道徳的なことだと思いますね」と言って、予審判事のニコライがくすくす笑った。「だって、それほど苦になさることはないじゃありませんか」
「しかし盗んだということ、それが問題なんです! ああ、あなた方の物わかりの悪さにはぞっとします。僕はこの千五百ルーブリを胸に縫い込んで歩いていた間じゅう、毎日、毎時間、自分に向かって『お前は泥棒だ、お前は泥棒だ!』と言っていました。このひと月、僕が乱暴ばかりしていたのは、居酒屋で喧嘩をしたのも、親父を殴ったのも、自分が泥棒だという気持があったからなのです。弟のアリョーシャにさえも、この千五百ルーブリのことは打ち明ける決心がつかなかった。打ち明ける勇気がなかったのです。それほど僕は自分が卑劣漢で大泥棒だと感じていたのです。しかし、実を言うと、その金を身につけているあいだは、僕は同時に毎日、毎時間、『いや、ドミートリイ、お前はまだ泥棒とはかぎらんぞ』と自分で自分に言い聞かせていた。なぜか。それはまだ明日にもカーチャのところへ行って、この千五百ルーブリを返すことができるからです。ところがきのう、フェーニャのところからペルホーチンの家へ行く途中、とうとう僕は守り袋を首から引きちぎる決心をしてしまった。その瞬間まではどうしても決心がつかなかったんです。そうして引きちぎるやいなや、その瞬間に、僕はもう決定的なまぎれもない泥棒に、一生涯、泥棒に、不名誉な人間になってしまったんです。なぜか。その守り袋と一緒に、カーチャのところへ行って『僕は卑劣な男だが泥棒じゃない』と言う僕の夢を──引き裂いてしまったからです! さあ、今度はわかって下さるでしょう、わかっていただけるでしょう!」
「なぜきのうの晩になって急にそんな決心をなさったのです?」と予審判事が口をはさんだ。
「なぜですって? 聞くだけ野暮でしょう。朝の五時に、ここで夜明けとともに自殺しようと決めたからです。『どうせ死ぬなら、卑劣な男でも立派な男でも同じことだ』と考えたんです。ところがそうじゃない、同じじゃないことがわかったんです! 信じて下さらないかも知れませんが、皆さん、ゆうべ僕が何よりも苦しんだのは、自分が老僕を殺したと思ったことでも、シベリアへ送られるということでもありませんでした。しかもそれが、ようやく僕の恋が実って、ふたたび暗雲が晴れたちょうどその時のことなんです! ああ、むろんそのことでも僕は苦しみました。しかしそれほどじゃなかった、あの呪わしい意識、──とうとうあのいまいましい金を胸から引きちぎって使ってしまった、今ではもう決定的に泥棒なのだという意識に比べれば、それほどひどくはなかったのです。ああ、皆さん、血を吐く思いでもう一度申します。僕はこのひと晩のうちに多くのことを知りました! 卑劣漢として生きることができないばかりじゃない、卑劣漢として死ぬことさえできないということを知りました。……そうです、皆さん、人間は潔白な身で死ぬ必要があるのです!……」
ミーチャは真っ青だった。彼は極度に興奮していたにもかかわらず、その顔は疲労と苦悩の表情を浮かべていた。
ドミートリイはいつだって本気である。彼はぎりぎりまで来れば本当に「血を吐く思いで」本心を語る。このとき、彼においてもはや内語も公的な言葉の区別も一切消失してしまう。ところが、そのことが人々を彼から遠ざける。世俗の凡人から彼を区別する。なぜなら、世俗の人たちは本気になって自分の内語をそのまま表白してしまうことなど絶対にないからだ。つまり「血を吐く思いで」何かを他者に伝達しようとするほどに本気になれるということ、そのことが、それだけでドミートリイを非凡にしている。実際、大抵の人間はそんなことをすれば自分の損になると素早く計算して、喋りたいことしか喋らないものだ。つまり自分の自意識に都合の良いことしか口にしない。それでいて自分ではなかなかのお人好しなどと思っている。それを凡俗というのだ。
マルメラードフの本気が非凡という意味で、ドミートリイの本気も非凡である。
●『カラマゾフの兄弟』1巻304-306頁
第一部第三篇第十一章
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町から僧院までは、せいぜい二キロあまりしかなかった。アリョーシャは、この時刻になると人通りのない道を急ぎ足で歩いて行った。もうほとんど夜になっていて、三十歩先の物影を見分けるのも容易ではなかった。道のりの中ほどに四つ辻があった。その四つ辻に一本ぽつんと立っている柳の木の下に、何やら人影らしいものが見えた。アリョーシャが四つ辻にさしかかると同時に、その人影がさっと飛び出して来て彼に襲いかかり、凶暴な声をあげて叫んだ。
「命が惜しけりゃ財布を出せ!」
「なんだ、兄さんじゃありませんか、ミーチャ兄さんじゃ!」こう言ったものの、アリョーシャはびっくりしてぎくっと身ぶるいした。
「は、は、は! 驚いたのかい? おれはどこでお前を待ち伏せしようかと考えたのさ。あの女の家のそばか? だが、あそこは道が三つに分れているから、見逃すかも知れない。そこで、とうとうここで待ち伏せすることに決めたんだ。僧院へ行く道はここしかないからきっと通るだろうと思ってな。さあ、ありのままを言ってくれ、油虫みたいにおれを踏みつぶしてくれ、……おい、どうしたんだ」
「何でもありません、兄さん。……あんまりびっくりしたものだから。ああ、ドミートリイ! さっきお父さんに怪我をさせたばかりなのに」アリョーシャは泣きだした。さっきから彼は泣きだしたかったのだが、いま突然、心のなかで何かが張り裂けたような気がしたのである。「あやうくお父さんを殺すところだったのに、……お父さんに呪いの言葉を浴びせかけたのに、……もうこんな……こんな冗談を平気でするの、……命が惜しけりゃ財布を出せなんて!」
「それがどうだというんだい。不謹慎だとでもいうのかい。おれの立場に似合わないとでもいうのかい」
「いいえ、そうじゃありません、……僕はただ……」
「まあ待て。この夜を見てみろ、何という陰気な夜だろう。あの雲、風まで出て来た! おれはこの柳の木の下に隠れてお前を待っているうちに、ふとこんなことをかんがえたんだ(本当なんだぜ)。このうえ何をくよくよすることがある、何を待つことがあるとね。ここには柳の木がある、ハンカチもあればシャツもある、縄ならすぐになえるし、おまえけにズボン吊りまである、──これ以上、大地に迷惑をかけて、卑劣な存在で大地をけがすことはないじゃないか! こう考えたところへ、お前の足音が聞こえたんだ。──すると、ああ、突然おれの頭の上へ何かがばさりと飛び下りて来たような気がした。そうだ、してみると、こんなおれにもまだ愛する人間がいる。この世で誰よりもおれの愛しているのは、おれがただひとり愛しているのは、あの男なんだ、おれのかわいい弟なんだ! こう思うと、おれはお前がかわいくてたまらなくなった。その瞬間めちゃめちゃに好きになって、ようし、ひとつあいつの首っ玉へかじりついてやれとそう思ったのさ。だが、その時また馬鹿げた考えが浮かんだ。『いっそあいつをびっくりさせて、面白がらせてやろう』とな。で、おれは馬鹿みたいに『命が惜しけりゃ』とどなったんだ。まあ勘弁してくれ、──ありゃほんの冗談で、心のなかは……おれも厳粛な気持でいるのさ。……ま、そんなことはどうでもいい。それよりあっちはどうだった? あの人はなんて言った? かまわん、おれを踏みつぶしてくれ、遠慮せずに言ってくれ! 大荒れに荒れたかい」
「いいえ、そんな……まるで違います、ミーチャ。あそこで……僕はあそこで、たったいまふたりに会って来たんです」
ドミートリイは本心から自己卑下することができ、自らの過去をほんとうに後悔し、どこまでも自己批判の言葉を容赦なく紡ぎ出すことができる男であるにもかかわらず、なぜか他者に対して開かれている。これが不思議なところだが、おそらく、彼が勇気も生活力も欠如した男ではないと造型されているからこそ、そうなるのだろう。「さあ、ありのままを言ってくれ、油虫みたいにおれを踏みつぶしてくれ、……」「それよりあっちはどうだった? あの人はなんて言った? かまわん、おれを踏みつぶしてくれ、遠慮せずに言ってくれ!」──といった表現は、決して他者からの評価を避けることをしない(そして、別に自分にとって都合の良い評価を期待しているわけではない)彼の性向の表れだろう。むしろ他者の否定的な評価によって自分自身をぶちのめしたいというようなマゾヒスティックな趣きさえ見られる。いや、おそらく他者の否定的評価によっても決して弱まらないものこそが「あとは野となれ山となれ」のしぶとい生活力・行動力なのだろう。たしかに行動によって実現されることに比べれば、他者からの言葉による評価など、何ものでもない……確かに彼は「言論人」ではない。言論に対して対抗言論を心中に育て上げるような男ではあり得ない。
彼が「言論人」ではない、という特徴はまた、彼が内語と発話の区別をつけずに、自分で考えたこと感じたことをどんどん表白してしまうという点にも表れているのではないか。つまり彼が詩人だとしても、その場その場で言葉を消費してしまって省みることをしない詩人なのだ。彼には自分の言葉を心中で彫琢するなど思いも寄らない! 意識的な技巧とは無縁な詩人。彼は後先見ずにリアルタイムに言葉を消費していく。あたかも言葉=行動であるかのように。次の科白を見てみろ。「まあ待て。この夜を見てみろ、何という陰気な夜だろう。あの雲、風まで出て来た! おれはこの柳の木の下に隠れてお前を待っているうちに、ふとこんなことをかんがえたんだ(本当なんだぜ)。このうえ何をくよくよすることがある、何を待つことがあるとね。ここには柳の木がある、ハンカチもあればシャツもある、縄ならすぐになえるし、おまえけにズボン吊りまである、──これ以上、大地に迷惑をかけて、卑劣な存在で大地をけがすことはないじゃないか!……」──これを必要以上の饒舌と単純に見てはならない。他人の「言葉」による否定的評価などものともしない生活力・行動力のある男だからこそ、このように何もかもリアルタイムで口にしてしまわずにはいられない饒舌家に結果としてなってしまっているということなのだ。その点、ラズミーヒンや火薬中尉のような単なるお人好しの饒舌とは簡単に同一視できないだろう。
●『カラマゾフの兄弟』3巻105-107頁
第三部第八篇第二章
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「いけません、少しお待ちになってはどうです」と神父が言った。「とてもだめですよ」
「一日じゅう飲んでいたものなあ」と森番が相槌を打った。
「ああ!」とミーチャは叫んだ。「僕がどんな窮地に追い込まれているか、僕が今どんな絶望におちいっているか、それがわかってもらえたらなあ!」
「とてもだめですよ、朝までお待ちになったほうがよろしいでしょう」と神父が繰り返した。
「朝まで? 冗談じゃない、そんなことはできない!」こう言って彼は、絶望的な様子でまたもや酔いどれに襲いかかって揺り起こそうとしかけたが、骨を折ってもむだだと悟ってすぐにやめた。神父は黙り込み、ねぼけまなこの森番は陰気な顔をしていた。
「現実というやつは、何という恐ろしい悲劇を人間に準備するものだろう!」ミーチャは完全な絶望におちいってつぶやいた。その顔からは汗が吹き出していた。神父はこの一瞬をとらえて、たとい眠っている男を起こすことができたとしても、このとおり酔っぱらっているのだから、とても相談などできるはずがない、『あなたには大事なご用がおありなのだから、朝までこのままにしておくほうが安全でしょう……』と至極もっともな意見を述べた。ミーチャは仕方なく両手をひろげて同意した。
「おれは、とっつぁん、ろうそくをつけてここで頑張って、一瞬の好機をとらえることにするよ。目をさまししだい、さっそく相談をはじめるんだ。……ろうそく代はおれが払う」と彼は森番に向かって言った。「宿賃もな。やせても枯れてもドミートリイ・カラマゾフだ。ところであなたのことだが、神父さん、どうしたものかなあ、あなたはどこでお休みになりますか」
「いいえ、私は家へ帰りますよ。この男の馬を借りますから」と彼は森番を指さした。「ではこれで失礼します。あなたのご成功をお祈りしますよ」
こんなふうに話がきまった。神父はやっと放免されたのを喜びながら、馬に乗って帰って行ったが、なおも困惑したように頭をふりながら、明日にでもこの珍妙な事件のことをさっそく恩人のフョードルに報告する必要があるかどうかを思いめぐらしていた。『さもないと、ひょっとしてこのことが知れたら、腹を立てなすって、目をかけて下さらなくなるかも知れない』いっぽう森番は、体をぼりぼりかきながら黙ったまま自分の部屋へ引き取り、ミーチャは、彼の言葉を借りると一瞬の好機をとらえるために、ベンチに腰をおろした。底知れぬ憂愁が、重い霧のように彼の心をおしつつんだ。底知れぬ、恐ろしい憂愁が! 彼はじっと坐ったまま物思いにふけっていたが、何ひとつじっくり考えることができなかった。ろうそくの芯に燃えかすがたまり、こおろぎがころころ鳴きはじめ、煖炉をたきすぎた部屋の中は、我慢のできないほど息苦しくなってきた。突然、ミーチャの目の前に、庭と庭の向こうの道が現われた。父の家のドアがそっと開き、その中へグルーシェンカが駆け込む。……彼は思わずベンチから飛びあがった。
「悲劇だ!」と彼は歯ぎしりしてつぶやくと、機械的に眠っている男に近づいてその顔を眺めはじめた。それは大そう細長い顔をした、まだ老人とは言えないが骨ばった百姓で、亜麻色のちぢれた髪をし、長くて細い赤味を帯びた顎ひげをたくわえていた。更紗のルバーシカに黒いチョッキを着込み、そのチョッキのポケットからは銀時計の鎖がのぞいている。ミーチャは恐ろしい憎悪をこめてこの男の寝顔を見つめていた。彼はなぜかこの男がちぢれ毛であるのが、とりわけ憎らしくてならなかった。だが、何よりも腹が立ってならないのは、彼ミーチャが何もかもを犠牲にし、何もかもを投げ捨てて、へとへとに疲れ切って緊急な用事のためにこうして立っているのに、こののらくら者が、《今やおれの全運命を握っているこの男が、まるで他の遊星から来たみたいにのんびりと大いびきをかいて眠っている》ことだった。「ああ、何という運命の皮肉だろう!」とミーチャは叫んだ。そうして突然われを忘れて、またもや酔いつぶれた百姓を起こしに飛びかかった。彼はある狂暴な気持で相手を揺すぶり、引っ張ったり、小突いたり、殴りつけまでしてみたが、五分ばかり骨を折って、またもや何の効果もないのを見ると、がっくり気落ちしてベンチへ戻って腰をおろした。
「馬鹿げたことだ、馬鹿げたことだ!」とミーチャは叫んだ。「それに……何というあさましいことだろう」突然なぜか彼はこうつけ加えた。頭が恐ろしく痛みはじめた。『思い切って断念すべきだろうか。いっそ帰るべきだろうか』という考えがちらりと頭をかすめた。『いや、朝まで待とう。意地にでも待ってやるぞ、意地にでも。わざわざ難儀してやって来たのは何のためだ。それに今から帰ると言ったって、何に乗って帰るのだ、ああ、馬鹿ばかしい!』
本気で行動する人間は本気で絶望する。「現実というやつは、何という恐ろしい悲劇を人間に準備するものだろう!」「ああ、何という運命の皮肉だろう!」 ──これはつねに可能性と妄想をこねくりまわして決して現実の行動に踏み切ることのない、地下的な自意識家の知らない言葉だ。
小説の脊髄は「人物→感情→行動→物語」というラインだが、この「感情」までに描写が達していない小説もどきのいかに多いことか。ドミートリイの「感情」を見よ。奴はつねに本気で考え感じているのだ。
●『カラマゾフの兄弟』3巻177-179頁
第三部第八篇第六章
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「急ぐんだ、アンドレイ、もっと追え!」またもやミーチャがいらだって叫んだ。
「あのなあ、旦那、ちょいとおたずねしたいことがありますんで」しばらく黙っていてから、ふたたびアンドレイが切りだした。「ただ腹を立てねえでくだせえまし、あっしは心配なんで、旦那」
「何のことだ?」
「さっきあのフェーニャが旦那の足もとに身を投げて、奥様と、もうひとり誰かを……殺さねえでくれって頼んでいましたっけが、……それで、旦那、旦那をあそこへお連れするのはいいが、……ご免なせえまし、旦那、あっしはその、正直だもんで、馬鹿なことを言ったかも知れねえ」
ミーチャは突然、後ろから彼の両肩を引っつかんだ。
「お前は御者だろう? 御者だな?」彼は無我夢中で口を切った。
「へえ、御者で……」
「じゃお前は、道を譲らなけりゃならんってことを知ってるだろう。誰にも道を譲らん、ひき殺すぞ、おれ様のお通りだっていうのは御者じゃない。そうだ、御者は人をひいちゃいかん。人をひいたり、人の命を奪ったりしたら、自分を罰しなければならん。……もし人の命を奪ったら、誰かの生活を滅ぼしたら、──自分を罰して、立ち去らなけりゃならんのだ」
これらの言葉は、まるでヒステリーでも起こしたように、ミーチャの口から思わずほとばしって出たのである。アンドレイは旦那の様子に度胆を抜かれたが、そのまま会話をつづけた。
「そのとおりで、へい、ドミートリイの旦那、旦那のおっしゃるとおりで。人をひいちゃいけねえ、苦しめてもいけねえ、これは相手がどんな生き物だって同じでさあ。なぜって、生き物はみんな、神様のお創りになったものなんで、例えば馬だってそうだ。他のやつらはやたら滅法ひっぱたく。このあたりの御者でもそうなんで。……とめどがねえ。ただやたら滅法、でたらめに突っ走るんだ」
「地獄へかい?」突然ミーチャがさえぎって、例の思いがけない短い笑い声を立てはじめた。「アンドレイ、お前は純朴な男だ」彼はふたたび御者の両肩をぎゅっとつかんだ。「教えてくれ、ドミートリイ・カラマゾフは地獄へ落ちるか落ちないか。お前はどう思う?」
「わかりませんや、旦那、そいつは旦那しだいでさ。何しろ旦那はこの町で……。ねえ、旦那、むかしキリスト様ははりつけになって亡くなりなすったあと、十字架からまっすぐ地獄へおいでになって、苦しんでいる罪人たちを残らず放しておやりなすった。すると地獄が、もう誰も罪人が来てくれねえと思って、うめき声をあげはじめたんでさ。そこで神様は地獄に向かってこう言いなすった。『地獄よ、うめくでない、これからまた偉い貴族や、長官や、裁判官や、金持がやって来て、何百年もずっとそうだったように、もう一度わしが来るまでにいっぱいになるだろう』このとおり、こういう言葉でおっしゃったんで。……」
「民間伝説だな、すばらしい話じゃないか。おい、左の馬に鞭をくれるんだ、アンドレイ!」
「だから、旦那、地獄はそういう人たちのためにあるんでさ」アンドレイは左の馬にぴしりと鞭を当てた。「ところが、旦那、旦那はまるでちっぽけな赤ん坊とおんなじだ、……あっしらは旦那をそう思ってまさあ。……なるほど旦那はすぐに腹をお立てになる、それはそのとおりだがね、でもその正直なところに免じて神様はお赦し下さいまさあ」
単にダンディズム的な自己認識から自己卑下をするのではなく、真に心底から自分を罰することのできる人間は、自意識と無意識の拮抗にのっぴきならなくなるほどに追い詰められたあげくに、自分自身に容赦ない自罰の言葉を「まるでヒステリーでも起こしたように」思わず口からほとばしらせてしまう。
つねに自意識の計算によって自己を評価しつづける観念的な人間には、この「思わず口からほとばしる」瞬間は決して訪れない。彼が後悔や自罰の言葉を口にする時は、つねにそれがいかに自分の救済にとってプラスに働くかを計算した上でのことなのだ。ドミートリイにはその衒いがない。
●『カラマゾフの兄弟』1巻81-85頁
第一部第二篇第二章
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「偉大な長老様、おっしゃって下さいまし、あたしがあまり威勢がいいのでお腹立ちになったのではございませんか」とだしぬけにフョードルが、椅子の肘を両手でひっつかみ、返事によっては今にも飛び出しかねない勢いで叫んだ。
「あなたにも決して心配や遠慮をなさらぬよう願いますじゃ」と長老がさとすような口調で言った。「遠慮はご無用、お家におられるとおりになさるが宜しい。何よりも大事なことは、自分で自分のことをあまり恥ずかしく思わぬことですじゃ、それがすべてのもとですからな」
「家にいるとおりに? と申しますと、つまり自然のままで宜しいので? おお、それはあんまりだ、あんまりもったいなさすぎます。しかし、──では喜んでお受けいたしましょう。ですがね、尊い神父様、どうか自然のままになどあたしをけしかけないで下さいまし、……いくらあたしでも、自然のままのところまでは行けるもんじゃござんせん。これはあなたをお守りするために、前もってご注意申しあげているんでございます。しかしまあ、他のことは目下まだ未知の闇に包まれている。なかにゃあたしのことをポンチ絵に書こうって人もいますがね。これは、ミウーソフさん、あんたにあてて言ってるんだ。しかし神聖この上なき長老様、あなた様にはごらんのとおり歓喜を披瀝いたしまアす!」彼はいきなり立ちあがると、両手を差しあげて言った。「『なんじを宿せし母胎は幸いなり、なんじを養いし乳首も幸いなり』とりわけ乳首でございますな。あなた様はたった今、『自分のことをあまり恥ずかしく思わぬことだ、それがすべてのもとなのだから』とご注意くださいましたがね、そのご注意こそはあたしをずぶりと腹の底までお見通しになったものでございますな。と申しますのは、あたしゃ人様の中へ出ますと、自分が誰よりも卑劣で、みんなから道化者と思われているような気が始終いたしまして、『そんならひとつ本当に道化者になってやろう、お前たちの思惑なんざ恐れるものか、お前たちはみんなおれより卑劣な連中ばかりなんだからな』とこう思う。それであたしゃ道化者になったんでございます。恥ずかしさがもとで道化者に、偉大なる長老様、恥ずかしさがもとで。あたしが大あばれをいたしますのも、ひとえにひがみのためでございます。もし人様の中へ出ました時に、みんながすぐにあたしをすこぶる愛すべき利口な人間だと思ってくれるという自信がありさえしたなら、──ああ、実際、あたしはどんなに善良な人間になったことでございましょう。お師匠様!」と言って、彼は不意にひざまずいた。「永遠の生命を受けつぐためには、あたしはどうすれば宜しいのでございましょう?」この時もまた、彼がふざけているのか本当に感激しているのか、決めるのはむずかしかった。
長老は目をあげて相手を見つめ、微笑を浮かべて言った。──
「どうすればよいかは、あなたご自身とうからご存じのはずですあ、十分な分別をお持ちですからな。飲酒にふけらず、言葉をつつしみ、女色に溺れぬこと、とりわけ拝金は宜しくありまぬ。それからあなたの酒場を、全部がむりと言われるなら、二つでも三つでもへいさなさること。しかし大切なことは、何よりも大切なことは、──嘘をつかぬことですじゃ」
「と申しますと、それっはディドローの一件でございますか」
「いや、ディドローのことには限りませぬ。何よりもまず、自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自分を嘘であざむき、自分の嘘に耳を傾ける人は、ついには自分のなかの真実も周囲の真実も見定めることができなくなり、その結果、自分をも他人をも尊敬できなくなる。誰ひとり尊敬する相手がなくなると、人は愛することをやめ、愛を持たぬようになると、何かに没頭して気をまぎらすために情欲や卑しい快楽に溺れて、あげくのはてには畜生同然の罪悪を犯すことになりますが、もとはと言えば、それもこれも他人と自分自身に対する絶え間のない嘘から起こることですのじゃ。また自分を嘘であざむく人は、誰よりも腹を立てやすい。なにぶん腹を立てるのは、時によると大そう気持のよいものですからな、そうではありませんかな? しかも当人は、誰も自分を侮辱した者がおらぬことを、逆に自分のほうが自分に対する侮辱を考え出して、色どりを添えるために嘘をついたことを承知している。一幅の絵を仕上げるために自分で勝手に誇張をして、他人の言葉尻をとらえ、針小棒大の大騒ぎをしていることを承知している。──自分でそれを承知していながら、やはり真っ先に腹を立て、しかもいい気持になるまで、大きな満足を味わうまで腹を立てて、その結果とうとう本当の敵意を抱くようにさえなるのですじゃ。……さあ、立ってお坐りなされ、お願いしますのじゃ、それもまた偽りの行為ですぞ。……」
「ありがたいお聖人様! どうぞお手に接吻させて下さいまし」不意にフョードルは飛び起きて、長老のやせた手に素早くちゅっと接吻をした。「そのとおりでございます、おっしゃるとおり、腹を立てるのは気持のいいものでございますな。ほんとうによくおっしゃって下さいました。はじめて聞くお話でございます。そのとおりでございます、確かにあたしは、これまでずっと腹を立ててはいい気持になっておりました。美学のために腹を立ててまいりました。侮辱を受けて腹を立てるのは、ただ気持がいいばかりか、時には美しくさえある。──いや、偉大な長老様、あなたはお忘れでございますな、この美しいということを。これはひとつ手帖に書きとめておくことにいたしましょう。さて、あたしゃ嘘をついてまいりました。一生涯、毎日毎時間、嘘をついてまいりました。まことに偽りは偽りの父でございますな。もっとも、偽りの父じゃなかったかな。あたしゃいつも原典どおりの言葉が苦手でございましてな。さよう、まあ偽りの息子にしておけば、無難でございましょう。しかしですな、……天使のような長老様、……さきほどのディドローの話も、時には宜しいものでございます。ディドローの話は害にはなりません。時によるとちょいとした言葉が害になることがございますがね。それはそうと、偉大な長老様、あやうく忘れるところでございましたが、実はもう三年ごしこちらでおたずねしてみよう、こちらへうかがって是非ともお聞きしてみようと考えていることがあるのでございます。ただどうかミウーソフさんに、邪魔をしないようにおっしゃって下さいまし。あたしがおたずねしたいのはこういうことでございます。偉大な神父様、『殉教者伝』のどこかに、ある尊い奇蹟の行者の話がございますが、あれは本当のお話でございましょうかな、──信仰のために迫害を受けて、とうとう最後に首をはねられた時、ふと立ちあがって自分の首を拾いあげると、『いとしげに接吻せり』というのは? それも自分の首を両手に捧げ持って長いこと歩きながら、『いとしげに接吻せり』というのでございます。これは本当のお話なのでございましょうか、神父様方?」
「いや、本当の話ではありませぬ」と長老が言った。
「そのような話はどんな『殉教者伝』にもございません。あなたのおっしゃるその聖者とは、どなたのことでございますか」と図書係り神父の修道司祭が聞き返した。
「どなたのことかは、あたしも知らんのでございます。いっこうに存じません。そいつぁ一杯食わされたんだろうって言う人もいまさあ。人から聞いた話なんですがね、それを話したのが誰だかご存じでございますか。このミウーソフさんでございますよ、たった今ディドローのことでご立腹あそばしたこのミウーソフさん、この方が話して下さいましたんでね」
「僕はあなたにそんな話をした覚えは全然ない。それに僕はあなたと話をしたことなんか、一度もないじゃありませんか」
「なるほどあなたは、あたしに話した覚えはないでしょうな。しかしあなたはある席でこの話をした。そこに私が居合わせたんでさ。四年ほど前のことですがね。あたしがなぜこんな話を持ち出したかというと、あなたがこの滑稽な話であたしの信仰をぐらつかせたからですよ、ミウーソフさん。あなたはご存じないかも知れない。ところがあたしは信仰をゆすぶられてわが家へ帰った。そうしてそれ依頼、ますますぐらつく一方なんでさ。そうですとも、ミーウソフさん、あんたは大いなる堕落の原因を作ったんだ! こりゃもうディドローの話どころじゃない!」
フョードルは悲愴な調子でいきり立ったが、彼がまたもやひと芝居打っているのは誰の目にも明らかだった。ところがミウーソフは手ひどい侮辱を受けた。
凡庸さへのルバテ的な嫌悪とはまったく異なった態度。戦略的武器としての自己卑下? まるでそれによって自分に利益があるかのように自らすすんでへりくだっているフョードル(それは心からの純粋な卑下では絶対にない!)。自分一人のなかでの反省としての卑下ではなくて、ミウーソフやゾシマという対話相手を挑発するためにことさら押し出されている自己卑下という印象だ。そのためか、もはやフョードルの身振りは普通の自己卑下の限度を超えて、自己-超-卑下とでも言うべきレベルに達しているかのようだ。というか、素直な自己卑下じゃないので、彼の口からはたえず余計な一言が飛び出さずにはいない。「尊い神父様、どうか自然のままになどあたしをけしかけないで下さいまし、……いくらあたしでも、自然のままのところまでは行けるもんじゃござんせん。」「『なんじを宿せし母胎は幸いなり、なんじを養いし乳首も幸いなり』とりわけ乳首でございますな。」「そのとおりでございます、確かにあたしは、これまでずっと腹を立ててはいい気持になっておりました。美学のために腹を立ててまいりました。」「さて、あたしゃ嘘をついてまいりました。一生涯、毎日毎時間、嘘をついてまいりました。まことに偽りは偽りの父でございますな。もっとも、偽りの父じゃなかったかな。」
だが、もしかしたらこの男の自己卑下は本気なのかもしれない。大山史朗の言う教訓どおり、フョードル・カラマゾフもまた、「他人の視線の中の自分こそ本当の自分なのだ」という認識に生涯苦しめられてきた男なのだとしたらどうだろう?(「もし人様の中へ出ました時に、みんながすぐにあたしをすこぶる愛すべき利口な人間だと思ってくれるという自信がありさえしたなら、──ああ、実際、あたしはどんなに善良な人間になったことでございましょう」) この自意識のねじれ・屈折こそレーベジェフ/イヴォルギン将軍/フョードル・カラマゾフ的人物には必須のエレメントなのではないか。それが彼らの悪ふざけじみた他者挑発の自己卑下に、放埒なレトリックだけにおさまらない一筋の真率を与えるのではないか! 「この時もまた、彼がふざけているのか本当に感激しているのか、決めるのはむずかしかった」。
ところでゾシマ長老は紋切り型に陥らないように、地下室的人物の特徴を指摘しつつうまくフョードルに対応しているが、やはり科白の退屈さは免れないな。ストレートな聖職者というのは、人物として弱い。
●『白痴』上565-566頁
第二編第七章
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ところが、アグラーヤはそれとまるっきりちがっていた。はじめみんなの前へ進み出たときの気どったわざとらしさは消えて、詩の精神に透徹するような力と誠実さにあふれていた。彼女は詩の一語一語にふかい意味をこめて、純朴な調子で朗読していったので、終りに近づいたころには、一座の注意をすっかりひきつけてしまったばかりでなく、バラードの精神を遺憾なく伝えたので、はじめもったいぶってテラスの真ん中に進み出たときのあのわざとらしく気どった態度を、いくぶん償うことさえできたほどであった。いまではこのもったいぶった態度のなかに見られるものは、彼女がみずから進んで他人に伝えようとしたものにたいする限りない、いや、素朴とさえ言えるかもしれない尊敬の念ばかりであった。彼女の両の眼はきらきらと輝き、その美しい顔には歓喜とインスピレーションとの軽い痙攣が、二度ほどかすかにあらわれたは消えた。彼女はつぎのような詩を朗読したのである。
強い自意識とはかり知れない自尊心を持っている女性に、ふとした表情の転調というか、こうした真率以外ではあり得ないような態度(「はじめみんなの前へ進み出たときの気どったわざとらしさは消えて、詩の精神に透徹するような力と誠実さにあふれていた」「いまではこのもったいぶった態度のなかに見られるものは、彼女がみずから進んで他人に伝えようとしたものにたいする限りない、いや、素朴とさえ言えるかもしれない尊敬の念ばかりであった」)を突然とらせるというのが、ドストエフスキーの筆致の十八番か。レーベジェフでさえ家族への愛情においては真率だった。あれほど俗流ニーチェ主義にそまっていたアルカージイもまた、本心では人々と胸を開いて抱き合うことを焼け付くように望んでいた! そうした根底的な(非凡な)真率をどの主要登場人物の中にも埋め込んでおくということを、ドストエフスキーはやる。
ちなみに、非凡な真率の反対の概念は、「自己欺瞞(猫かぶり)」であろう。
●『未成年』149-151頁
第一部第五章3
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いや、ちがう、わたしの『理想』の起源となったのは、トゥシャールの寄宿舎であれほどわたしを苦しめた暗い出生でもないし、幼年のころの悲しい年月でもない、復讐心でもないし、抗議の権利でもない。いっさいの誤解の原因は──ひとえにわたしの性格である。十二歳のころから、ということは、正しい自覚というものが生れたとほとんど同時に、ということになろうが、わたしは人々をきらいはじめた。きらったといえば言いすぎになるかもしれないが、とにかく妙に人々が重苦しく感じられるようになったのである。ときどき、気持が澄んでいるときなど、身近かな人々にさえどうしても思っていることをすっかり言えないことが、自分でも悲しくてたまらなくなることがあった。それも、言えないのではなく、言いたくないのである、そしてなぜともなく自分を抑えてしまうのである。わたしは疑り深く、陰気で、人とうちとけない性分なのである。さらにまた、わたしはもういつからか、ほとんど子供の時分から気づいている一つのわるい癖があって、じきに他人を責めるし、また責めたくなるのである。そして非難したあとから、すぐにもう別な考え、『わるいのは彼らではなくて、おれのほうではなかったのか?』というわたしにとっては実に苦しい考えがつづくのである。そしてどれほどしばしばわたしは意味もなく自分を責めたことか! こうした問題の解決を避けるために、わたしは自然と孤独を求めるようになった。加えて、わたしは人々の交際の中になにものも見出すことができなかった、いかに見出そうと努力してもである。わたしだって努力はしたのである。少なくともわたしの同年者たち、学友たちは、一人のこらず思想的にわたし以下であった。わたしはただ一つの例外も記憶にない。
そう、わたしは陰気な男である。わたしはいつも自分の殻にとじこもっている。わたしはしょっちゅう社会から脱け出したいと思っている。わたしは、おそらく、人々に善をなすことになろうが、しかし彼らに善をなさねばならぬこれっぽっちの理由も見出せない場合が多いのである。おまけに人々は、それほど気をつかってやらねばならぬほど、決して美しいものではない。どうして彼らのほうから率直に、胸を開いて、助けを求めに近づいてこないのに、どうしてこっちから先に、彼らのそばへ這いよってゆかなければならないのだ? わたしが自分に問いたいのはこのことである。わたしは恩を知る男で、これはもう数知れぬばかげた行為で証明してきた。わたしは胸を開かれるとすぐに胸を開いて応えて、たちまちその相手を好きになるような男なのである。そのとおりにわたしはしてきた。ところが彼らはどれもこれもじきにわたしを欺して、嘲笑いながらわたしから逃げてしまった。そのもっとも露骨なのが、子供のころわたしをしたたか痛めつけたラムベルトだった。しかしこれは──露骨な卑劣漢で、強盗にすぎない。しかも彼があけっぴろげなのは、単にその愚かさのせいなのだ。これがわたしがペテルブルグに来た当時にいだいていた考えである。
これはあまりにも奇妙な人間嫌いではなかろうか? なぜなら彼は「わたしは胸を開かれるとすぐに胸を開いて応えて、たちまちその相手を好きになるような男なのである」からだ。これはルバテ的なアンチ・ヒューマニズムとは異なる。ほんとうは他人に心を開きたいのにそれがなぜか上手くいかない──おそらくは主人公ほどに人と人が交際することに繊細さを見出していない世俗の人々の凡庸さにぶちあたって、彼の好意が挫折してしまう──がゆえに、いつからか疑り深くなり、陰気で人とうちとけない性格になってしまったようなのだ。つまり彼は非凡なほどに無邪気だからこそ、ほどほどにしか心を開こうとせず率直になろうともしない計算高い世俗の凡人たちを、嫌うのだ(ルバテのようにニーチェ主義的な自尊心ゆえではない)。しかも彼は自分にそんなふうに人々を非難する権利があるかどうかさえ自己批判してしまうほどに底抜けに誠実で無邪気である。この底抜けの誠実というのが一般常識で見ると「人間嫌い」と映るわけだ。
●『未成年』下31-32頁
第二部第七章3
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「でも、あなたはことわりに行ったんじゃないのですか? それは誠実な行為だとぼくは思いますがね?」
「あなたはそう思いますか?」彼はわたしのまえに立ちどまった、「いや、あなたはまだわたしの本性を知らないのです! いや……むりもない、ここにはわたしが自分でもわからないなにものかがあるのですから。わたしを突きうごかしているのは、どうも、本性だけではないようです。わたしは、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたが心底から好きです、それにこの二月あなたには申し訳ないことをしたと深く心で詫びています。だからわたしは、リーザの兄さんとしてのあなたにすべてを知ってもらいたいのです。わたしがアンナ・アンドレーエヴナのところへ行ったのは、結婚を申込むためだったのです、ことわりに行ったのではないのです」
「そんなことがあっていいのですか? でもリーザの話では……」
「わたしはリーザを欺したのです」
「それじゃ、あなたが正式の申込みをして、アンナ・アンドレーエヴナがそれを拒否したのですね? そうですね? それにちがいありませんね? こまかいところがぼくにはひじょうに重大なのですよ、公爵」
「いや、わたしは申込みはぜんぜんしませんでした、しかしそれもただそれを言いだす暇がなかったからです。むこうから先手をうたれてしまったのですよ、 ──むろん、ずばりとそう言ったわけではありませんが、すぐにそれとわかる明らかな表現で、この話がもうこれでおしまいなことを、『デリケートに』わたしにさとらせたわけです」
「というと、やはり申込みをしなかったということで、あなたの自尊心は傷つけられなかったわけですね!」
「あなたは本気でそんなふうに考えることができるのですか! じゃ、自分の良心の裁きはどうなるのです? リーザは、わたしが欺いた……ということは、捨てようとしたということですが、そのリーザはどうなるのです? 自分と、祖先たちの霊に誓った──更正して、これまでのいっさいの卑劣な行為の償いをするという誓約は、どうなるのです? お願いです、このことは妹さんに言わないでください。おそらく、彼女はこのことだけはわたしを許すことができないでしょう! わたしは昨日から病にたおれました。そんなことよりも、今はもうすべてが終ったようです、そしてソコーリスキー公爵家の最後の一人が監獄へ送られることでしょう。かわいそうなリーザ! わたしは、アルカージイ・マカーロヴィチ、今日一日待ちきれぬ思いであなたを待っていたのです、リーザの兄としてのあなたに、彼女もまだ知らないことを打明けておこうと思って。わたしは──刑事犯なのです、××鉄道の偽造株券の謀議に参加していたのです」
「またなんてことを! 監獄へですって?」わたしは思わず立ち上がって、おびえた目で彼を見はった。彼の顔は深い、暗い、出口のない悲愁にとざされていた。
ソコーリスキー公爵もまた、自分の愚かさを弱さを真正面から受け止めつつ悲劇を生きることができるという意味で、全然凡庸な人物ではない。たとえば「わたしは、あなたが心底から好きです、だからあなたにすべてを知ってもらいたいのです」という形で、つまり相手への真率な好意から自分の恥ずべき行為をすべて知ってもらおう、そんな発想ができるほどに、彼は度を越えて誠実である。さらには「じゃ、自分の良心の裁きはどうなるのです?」と、実行にまで踏み切らなかったとはいえ相手を騙そうたことをみずから告白し断罪するほどの、度を越えた良心を持ってさえいる。いや、凡俗の人なら「申込みをしなかったのなら、まだ騙したというわけではあるまい」と無難につぶやいて済ませてしまうところだ。
しかしソコーリスキー公爵はそこまで苛烈な良心を持っている男なのに、意志が弱いのかしらないが、あまりにもブザマな愚行を繰り返す。そんな愚行を自分で軽蔑している。自分の弱さと愚かさをごまかさず、それから逃げ隠れしようとはしない。まさに悲劇的な男なのだ。
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------------------------------------- タイプ【D-18】臆病な攻撃性 ▲
●『未成年』下408-410頁
第三部第十章4
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わたしと彼が昨夜彼の『復活』を祝して乾杯したあのテーブルをはさんで、二人は対坐していた。わたしは完全に二人の顔を見ることができた。彼女はシンプルな黒い衣裳を着ていた、そしてまぶしいほど美しく、見たところ、おちつきはらっていて、いつもとすこしも変らなかった。彼がなにかしゃべっていて、彼女はひどく注意深く、警戒の色をうかべてそれを聞いていた。だが、そこにはいくぶんか怯気も見えたかもしれない。彼はおそろしく興奮していた。わたしは話の途中で来たので、しばらくはなんのことやらわからなかった。おぼえているのは、彼女が不意にこう問いかけたところからである。
「じゃ、わたしが原因でしたの?」
「いや、それはわたしが原因だったのです」と彼は答えた「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ。ご存じですか、罪のない罪びとというものがあることを? これは──もっとも許しがたい罪で、必ずといっていいほど罰を受けるものです」と彼は奇妙な笑いをうかべて、つけくわえた。「だがわたしは、あなたをすっかり忘れてしまったと考えて、自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったときもありました……それはあなたもご存じのとおりです。しかし、それだからといって、あなたが結婚なさろうとする人間に、わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです? わたしは昨日あなたに結婚を申し込みました、このぶしつけをお許しください、これは──ばかげたことです、だがしかしそれに代る方法がまったくないのです……このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」
彼はこう言うとなげやりにうつろな声で笑って、不意に相手に目を上げた。それまで彼は相手を見ないようにして話していたのである。もしわたしが彼女の立場にいたら、この笑いにぎょっとしたにちがいない。わたしはそれを感じた。彼は不意に椅子から立ち上がった。
「だが、どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」彼はもっともかんじんなことを思い出したように、不意にこう訊ねた。「わたしの招きも、あの手紙ぜんたいも──実にばかげています……お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、どのような心理の経過をたどってあなたがここへ来ることを承諾なさったかくらいはね、だが──なぜあなたが来たのか?──これが問題です、まさかただ恐怖心からだけで来たのではないでしょう?」
「わたしはあなたにお会いするために来たのですわ」と彼女はすこし気おくれぎみに用心深く彼を見まもりながら、言った。二人は三十秒ほど黙っていた。ヴェルシーロフはまた椅子に腰を下ろした、そしておだやかだが、感動のこもった、ほとんどふるえをおびた声で言いだした。
「わたしはもうずいぶん長くあなたにお会いしてませんね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、あまり久しいので、いつかこうしてあなたのそばに坐って、あなたの顔に見入り、あなたの声を聞いたことがあったなどとは、もうほとんど考えられないほどですよ……わたしたちは二年会いませんでした、二年話をしませんでした。あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ。まあ、いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです、そして今あることは──明日は消えてしまうのです、煙みたいに、──それもいいでしょう! わたしは認めますよ、だってこれもまたほかにどうしようもありませんからねえ、だが今日はうやむやで帰らないでください」と彼はほとんど哀願するように、不意につけくわえた、「もうここへ来るという、施しをしてくださったのですから、うやむやに素手で帰しては申し訳ありません。わたしのひとつの問いに答えてください!」
「どんな問いかしら?」
「わたしたちはもうこれで二度と会うことはないのですから、こんな問いくらいあなたになんでしょう? どうか最後に一度だけわたしにほんとうのことを言ってください、聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが。あなたはいつかほんのちょっとのあいだでもわたしを愛してくれたことがありましたか、それともわたしの……思いちがいだったろうか?」
このヴェルシーロフの粘着質に相手に絡んで行く科白の数々。これをざっと総合的に分析してみよう。
ヴェルシーロフの科白のエクリチュールを一言で言うと「言い訳」。彼の中核にあるのは、抑圧に抑圧されまくった欲望、自分が畏怖し愛するカテリーナから愛の言葉を引き出したいという無意識の欲望であり、それに至る第一歩としての引用部最後に出てくる「わたしのひとつの問い」を相手に投げ掛けたいという想い。だがその問いに至るまでに彼はこれほどまでに屈折しぐねぐねした長広舌を必要とする。その一切が言い訳である。自分の欲望に対する卑下(「自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったこともありました……」)、他者に責任転嫁しての自分の行動の弁解(「それだからといって、……わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです?」)、自分を責めるとみせて相手を部分的に=レトリカルに攻撃する責任転嫁(「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ」)、自分の過去の行動に対する平謝り(「このぶしつけをお許しくだし、これは──ばかげたことです」)、翻って明らかな自分の醜行をなぜかやむを得なかったものと解釈する逆ギレ気味──ないしは修辞疑問文風の自己弁護(「このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」)、相手の疑問や解釈や批判を先回りして封じておくための示威(「お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、……」)、自分にとって望ましい反応を引き出すための大袈裟な感情の誇張(「どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」)、自分の善性=害意のなさを強調するためのセンチメンタルな誇張(「あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ」)、自分の小悪事をうやむやにする通俗的な一般論(「いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです」)、自分の欲望の畏れおおさに対する予防線的言い訳(「聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが」)、……なにもかもが、「自分が一方的に悪い」「自分は無礼」「こんなことを言うべきではない」「こんなことはしてはならない」という無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)からの告発を叩き潰す──ことは完遂できるはずもなくぐねぐねした発話を続けることになってしまう── ための「言い訳」だ。ヴェルシーロフの中には率直さ、自然さといったものが一切ない。
ただしヴェルシーロフの繰り言が凄まじすぎるので、こうしたぐねぐねした予防線だらけの「言い訳」のエクリチュールこそ、単純に相手を非難したり(とんだ言いがかり。相手を怒らせるだけ)、真正面から愛を告白したり(拒絶されるだけ)するよりも、ぎりぎりのところで相手との関係をつなぎとめるための技巧なのではないかとさえ見えて来る。もちろん単調な言い訳を繰り返すだけでは駄目だ。ひたすら自己卑下しているだけでも駄目だ。豊富な言い訳、高度な自己卑下こそが必要とされる。ときには相手を遠回しに非難し(受動的攻撃性?)、恨めしげな顔つきを仄見せ、或いは冷静さを装い、自分が礼儀をわきまえている人間であることを示威し、相手の共感を誘うように感情をセンチメンタルに誇張し、実は自分は悪くないのだという結論をちらつかせる詭弁を駆使してみせること! こういう人間に対しては、相手も用心深く、警戒の色を浮かべて気後れぎみに応答しながら、しかし無下に扱うことはできないというわけだ。
非常に畏まっていると見せながら、ひそかにヴェルシーロフはカテリーナを傷つけてさえいるだろう。このような受動的な攻撃性を持つ人物として、ほかにレーベジェフやトルソーツキイの名を挙げることができる。というか、ヒュームに対するルソーか。「若しあなたに罪があるのなら、私は人間のうちで最も不幸なものであります。又若しあなたに罪がないとなれば、私は最も悪い人間であります。あなたが、この惨めなものになりたがらせたのです。」
●『未成年』下409-413頁
第三部第十章4
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「それで、今は?」と彼はたたみかけた。
「今は愛しておりません」
「笑っていますね?」
「いいえ、わたしが今思わず口もとをほころばせてしまいましたのは、今にあなたが、『それで、今は?』とお訊きになるものと、心待ちにしていたからですの。だから思わず微笑んでしまいましたの……だって、そう思っていたことがあたると、人はいつもにやにやするでしょう……」
わたしは異様な気さえした。わたしはまだ一度も、ほとんど臆病とさえいえるほどのこんな用心深い、こんなどきまぎした彼女を見たことがなかったからである。彼はなめまわすような目で彼女を見つめていた。
「あなたがわたしを愛しておられないことは、知っています……でも──ぜんぜん愛していないのですか?」
「でしょうね、ぜんぜん愛していないと思いますわ。わたしはあなたを愛しておりません」彼女はもう笑顔も見せず、顔を赤らめもしないできっぱりとつけくわえた。
「そう、わたしはあなたを愛しましたわ、でも短いあいだでした。わたしはあのとき、もうすぐにあなたがきらいになってしまいました……」
「知ってますよ、知ってます、あなたはあの愛の中に、あなたに必要なものでないものを見てとったのです、でも……それではなにがあなたに必要なのでしょう? それをもう一度おしえてください……」
「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら? なにがわたしに必要なのですって? そうね、わたしは──ごく平凡な女ですわ。わたしは──しずかな女です、だからわたしは……陽気な人が好きなんですわ」
「陽気な人?」
「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたしは思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」彼女はまた臆病そうに微笑した。
彼女のこの言葉にはすこしのいつわりもない赤裸な心が輝いていた、そしてはたして彼女は、これが二人の関係のいっさいを説明し、そして解決するもっとも決定的な解答であることを、理解できなかったのだろうか。おお、彼こそそれがいちばん理解できるはずであった! ところが彼はじっと彼女を見つめたまま、異様な薄笑いをうかべていた。
「ビオリングは──陽気な男ですか?」と彼は問いをつづけた。
「彼はすこしもあなたの気をわずらわさないはずですわ」と彼女はいくらかあわて気味に答えた。「わたしが彼と結婚しようと思うのは、ただ彼だとわたしがいちばん心のおちつきを得られそうに思うからなの。わたしの心はすっかりわたしのもとにのこりますもの」
「あなたはまた社交界が好きになった、とかいう噂ですね?」
「好きになったわけじゃありませんわ。どこでもそうですけど、わたしたちの社交界にもやはり秩序のみだれのあることは、わたし知っておりますわ。でも表から見た形はまだ美しいわ、だから、ただそばを通るだけの生活をするなら、どこかよそよりは、そちらのほうがいいと思うだけですわ」
「わたしも『無秩序』という言葉はよく聞くようになりました。あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」
「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」
「じゃなんです? おねがいですから、正直に言ってくださいませんか」
「じゃ、正直に申しますわ、だってわたしはあなたをこのうえなく聡明な方だと思っておりますから……わたしいつもあなたになにか滑稽なところがあるような気がしてなりませんでしたの」
彼女はこう言うと、不意に、とんでもない粗相をしてしまったことに気づいたように、かっと真っ赤になった。
「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」と彼は妙なことを言った。
まったく滑らかに展開しない、凄く凸凹した対話。これは情動としてここで二人して「臆病」そうに「どぎまぎ」しているからだが、それがどのように発話に表れているか、見ていこう。
例えば「笑っていますね?」「いええ、わたしが今思わず口もとをほろこばせてしまいましたのは、……」といった、リアルタイムで相手の表情の変化を掬い取って、それを発話の中で軽く非難する、それに対して同じく軽く突っ返すように反論する、というやり取りがある。ここですでに、相手に対してやや攻撃的な態度を含みつつ隙をうかがいながら臆病まじりに言葉を交す、というこの対話の基本姿勢が出ている。この姿勢は、例えば「知ってますよ、知ってます、……」といった、相手の言葉を最後まで良い切らせず先回りして引き取る性急さや、「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら?」と咎めるような問い返しの中にも仄見える。とりわけ「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたしは思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」──カテリーナのこの科白は、自分のことを「ごらんなさい」と指示しながらリアルタイムで態度を攻撃性から臆病さへと転回させるというジグザグな屈曲を孕んだ発話になっている。
「あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」──これもややとがめ立て含みの問い掛けと見える。それに対してカテリーナも「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」とおどおどしながらの否定を返す。この辺りも臆病な攻撃性という奇妙な二人の対話の角逐が良く表れている。その後に来る「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」の科白も相手を非難しているのか自分を省みているのか、どっちつかずな「臆病な攻撃性」を帯びた科白と言えよう。こういうアンバランスな過敏な科白を二人に言わせて対話を進めているので、まったく会話の展開が機械的・作為的な印象を与えない。
●『未成年』下414-417頁
第三部第十章4
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彼はまた椅子から立ち上がって、そして熱っぽく光る目で彼女を見すえながら、しっかりした口調で言った。
「あなたはすこしの侮辱も受けずにここからお帰りになれるはずです」
「あっ、そうでしたわね、あなたのお約束でしたものね!」と彼女はにっこり笑った。
「いや、手紙の中でしたからばかりではありません、今夜一晩中あなたのことを考えたいと思うし、またどうせ考えるはずだからです……」
「自分をお苦しめになるの?」
「わたしは一人きりのとき、いつもあなたのことを考えています。あなたと対話しているだけが、わたしのしごとなのです。わたしが場末のきたない居酒屋へ逃れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑うのです、今もそうですが……」彼はまるで放心しているようにこう言った。
「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と彼女は涙のにじんだ声で叫ぶように言った、そしてその顔には深い憐憫の情があらわれたように見えた。「どうせここへ来たんですもの、あなたにぜったいに屈辱をおぼえさせたりしてはいけないと、わたしそればかり気をつかっていましたのよ」と彼女は不意につけくわえた。「わたしここへ来たのは、ほとんどあなたを愛していることを、あなたに言いたかったからですのよ……あら、ごめんなさい、わたし、なんだか、言い方をまちがえたみたいだわ」と彼女はあわてて言い添えた。
彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの──だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません──どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
要するにヴェルシーロフというのは、高度な自己卑下や相手への気配りと見せ掛けて間接的に非難をぶつける、という言語戦術を駆使する天才なわけだ。その構造を敢えて言語化すれば「私があなたを愛してしまったのは、あなたが悪い」という感じになるだろうか。相手を愛しているからこそその前で自己卑下をしたり礼儀正しげにしたり感傷を誘ったりするのだが、その裏には非難(「あなたが悪い」)が込められている。「わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」の科白にはこの屈折がよく表れている。
自己卑下が何故か相手を傷つけかねない非難にもなっている高等戦略。「わたしが場末のきたない居酒屋へ逃れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑うのです、今もそうですが……」──これなども、相手の幻想に嘲弄されるという話があたかも実在の相手に嘲弄されているかのようなニュアンスで語られ、相手への非難を含ませる。当然カテリーナはこれに対して「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と反論せざるを得ない……つまり相手のぐねぐねとした刺のある言葉にいちいち付き合ってやらざるを得ない。「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」──この科白もそうで、あたかも相手が正直で人と違うことが非難されるべき点でもあるかのように強調されている。これに対してやはりカテリーナはやや慌てながら「わたしの言い方がまずかった」とリアルタイムで前言撤回せざるを得なくなっている。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」という科白も、ヴェルシーロフはこう言うことであたかも相手の心理を慮っている風を見せているが、それを謝ったり反省(して二度と繰り返さないと誓う)することは決してなく、「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。……」などと独りよがりな熱っぽい感傷を語り出す。それはついには「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」というリアルタイムの挑発に達し、さらに「あなたの顔に書いてありますよ、…… 図星でしょう?」「いいですか、あらゆるですよ……」と挑発を重ねて、最後には自己卑下=非難の極北まで突き抜けて自分を乞食よばわりし始める始末! 「わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」 要するに、ちょっとだけ見せた相手への気配りも単なる戦略的譲歩に過ぎなかったわけだ。
ヴェルシーロフには自分の悪や罪を認めるという率直さが致命的に欠けているので、こういう仕儀になる。
●『未成年』下414-417頁
第三部第十章4
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彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは──そう正直なのだろう、なぜなたは──みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの──だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません──どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」以降のヴェルシーロフの科白、うわごとのようなスタイルが面白い。現実においてわれわれはあまりにも理路整然とした喋り方ばかりするわけではないことも引用部のヴェルシーロフには反映されているが、さらにわれわれが通常話し相手に応じて語っていいことと語っていけないこととを区別する、その抑制さえ崩壊して「放心したように」自分の考えをだだ漏れで語ってしまっているというのが、これだ。「……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです」「また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……」「わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」──こんな情念を当の女性の目の前で吐露してしまうのが凄い。一応「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……」という自省するような前置きをしているが、その前に「あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」という情動的決め付けを行っているので無効だろう。科白に添えられる地の文でのヴェルシーロフの描写も、雄弁だ。たしかに「あえぐように、苦しく息をしながら」「生起のない薄笑いをもらし」ながらでなければ、こんな支離滅裂な科白を語りつづけることができるわけがない。「いんですよ、わたしには誇りも面子もないんだから。わたしは、乞食みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ──」──引用部最後のすがりつくような「泣き言」も凄い。「泣き言」! いや、まさに相手に直に語ってはいけないことの筆頭こそ──放心したようにだだ漏れさせていることがその話し手の狂気を語るに等しいことの筆頭こそ──「泣き言」だな。ヴェルシーロフの泣き言スペシャル。
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