序
:範疇
- 物語る行為が存在しなければ、言表は存在せず、場合によっては物語の内容すら存在しない。となれば、物語の内容のみならず言表行為の問題──例えばオデュッセウスの物語がオデュッセウス自身によって語られているのか、他の誰かの口から語られているのかという問題──にも関心を集中させる必要があるのは明らかだ。
- ここでこの書物が用いる術語を一義的に定義する。
- 【物語内容】
- 意味されるもの、すなわち物語の内容。たとえその内容が劇的緊張を欠き、出来事性に乏しいものであっても差支えなし。
- 【物語言説】
- 意味するもの、言表、物語の言説すなわち物語のテクストそれ自体。
- どのような物語言説も、一つの動詞の拡大として扱い得る。例えば『オデュッセイア』は「オデュッセウスはイタケーに帰還する」、『失われた時』は「マルセルは作家になる」の言表の増幅だ。したがって、動詞の文法から借用してきた範疇に基づいて、物語言説の分析をめぐる諸問題をさらに細分化できる。
- ◆物語言説の【時間】
- 物語言説と物語世界(物語内容)との時間的諸関係。物語言説の時間的順序が出来事のそれと不一致を示すことについての考察。
- ◆物語言説の【叙法】
- 物語の「再現」の諸様態。ミメーシス(完全な模倣)とディエゲーシス(純粋の物語言説)というプラトンの設定した問題を再び思い起させる。
- ◆物語言説の【態】
- 言表がそれを語る行為の主体(審級)との関連において示す相。語りそのもの、およびそれを支える二人の主要人物、つまり語り手とその潜在的な相手が、物語言説の中に含まれている仕方。というと、この第三の限定関係は「人称」という名の範疇が適切と思うかもしれないが、われわれとしては、「一人称」と「三人称」という伝統的対立を思わせる「人称」よりも、もっと幅広い概念的外延を「態」に与えたいと思う。
- 【語り】
- 物語を生産する行為、そして広い意味ではその行為が置かれている現実もしくは虚構の状況全体。
- 時間と叙法はともに、物語内容と物語言説との諸関係のレベルで作用する。態は、語りと物語言説との諸関係を示すと同時に、語りと物語内容との諸関係をも示す。
I 順序
:物語言説の時間?
- 物語内容の時間と物語言説の時間の二重性
- 物語は二重に時間的である。語られたことがらの時間と物語そのものの時間が存在する。たとえば、三年間におよぶ主人公の生活が、小説ではわずか二行の文で要約される。
- われわれは、物語言説の時間という準虚構を、そのまま受け容れなければならない。この偽りの時間は、真の時間と同様の価値を有しているのだから、一つの疑似時間として特別の分析に値する。
:錯時法
- 物語内容の時間と物語言説の時間の二重性
- ある物語の時間的順序を研究するということは、とりもなおさず、出来事が物語言説において配置される順序を、その同じ出来事が物語内容において継起する順序と突き合せてみることである。
- 物語内容の順序(実際に起こった順序)と物語言説の配置(語られる順序)とのさまざまな形式の不整合を、本書は物語の錯時法と名付ける。
- 古典的な物語言説の場合、物語言説は出来事の継起の順序を逆転する時には必ずそのことを告げる。たとえば、ある物語切片が「その三ヶ月前のことだが、云々」の指示で始まる時、この情景が実際の出来事おいては時間的に前の方に位置していたと目されるという事実と、その情景が物語言説においては遅れて語られるという事実とが、同時に明白に告げられている。この二つの事実の非整合的な関係こそ、物語のテクストにとっては本質的なものだ。
- 西洋の文学的伝統は、典型的な錯時法の効果によって始まっている。
- 早くも『イーリアス』の八行目で語り手は、彼の物語言説の公然たる出発点であるアキレウスとアガメムーノンの不和を喚起した(最初に不和となってから)その後、十日ほど時間を遡り、約一四〇行の詩句を費してその不和の原因を回顧的に説明しているのである。錯時法とは何か珍しいもの、あるいは近代の発明になるものだと考えるような愚はおかすべきではあるまい。
:先説法と後説法
- 「予想」と「回想」の区別について、単にそれを主観的現象にとどめないような、より中立的な次の二つの術語を採用したい。
- 【先説法】──あとから生じる出来事をあらかじめ語るか喚起する一切の語りの操作
【後説法】──物語内容の現時点に対して先行する出来事をあとになってから喚起する一切の語りの操作
- 『失われた時を求めて』の錯時法を大きな分節において捉えてみよう。
- 第一の開始(絶対的な開始)──「長い間、私は早くから床に就くのであった……」。
第二の開始(自伝のうわべだけの開始)は第一のそれの六ページあと──「コンブレーでは毎日、日が暮れるとすぐに……」。
第三の開始(無意志的記憶の登場)は第二のそれの三四ページあと──「このようにして、長い間、夜中に目が覚めてコンブレーのことを思い出していると……」。
第四の開始(マドレーヌ菓子の経験をしたあとの再度の開始で、真の自伝の開始)は第三の開始の五ページあと──「コンブレーは、十里四方の遠くから……」。
第五の開始はさらにその一四〇ページあとで、スワンの恋(プルースト的恋愛の最高度に模範的な中篇小説であり、またその原型でもある)がそもそもの始まりから語られる──「ヴェルデュラン家の《小さな核》、《小さなグループ》、《小さな党》に加盟するには……」。
第六の開始は第五のそれの一九五ページあとである──「眠れぬ夜、私がもっとも頻繁にそのイメージを喚起したもろもろの部屋の中でも……」。
第六の開始の直後に位置するのが第七の、そして当然のことながら最後の開始である──「しかし、私がしばしば夢想したバルベックほど、実際のバルベックと似ていないものもまたなかった……」。 ここに至ってついに、物語は始動したのである。今後、二度と停止することはない。
:後説法
- 外的後説法/内的後説法
- あらゆる錯時法はそれが挿入されている──というか接ぎ木されている──物語言説に対し、時間的に第二次の物語言説を構成する。ある錯時法を錯時法として定義することがそれとの関連で可能となるような時間的水準に位置する物語言説を、今後、「第一次物語言説」と呼ぶことにしよう。
- 物語言説の文脈全体を第一次物語言説とみなした時、その持続の全域が「第一次物語言説」の時間的出発点よりも先行する(前方外側にはみ出す)タイプの後説法を、外的後説法と呼ぼう。
- 対して『ボヴァリー夫人』の第六章のような場合は、これを内的後説法と呼ぶことにしよう。というのも、この章で語られるエンマの修道院時代は、小説の出発点をなすシャルルのリセ入学の時点よりも、明らかにあとのことだから。
- また実際にしばしば見受けられる混合的後説法というのもある。つまり、第一次物語言説の始まる時点より先行したところにその物語言説の開始を持つが、その終局は小説の出発を跨いだ時点まで広がっているケースだ。
- 『マノン・レスコー』を例に採るなら、デ・グリューの語る物語内容は「貴族」と最初に出会った数年前に遡ると同時に、ほかならぬ語りの時点である第二の出会いの時点まで続いている。
- 外的後説法に関する限り、それは外的であるために、大体においてその機能はしかじかの「経歴」を読み手に知らせて第一次物語言説を補足することに限られる。例えば明らかに大掛かりな『スワンの恋』の後説法も、そういう役割を果たしていると言えよう。
- しかし内的後説法(もしくは混合的後説法に含まれる内的後説法の部分)の場合だと、その時間域が第一次物語言説のそれに包含されているので、それは第一次物語言説との関連で冗長に陥り、それと抵触するという危険を孕んでいる。
- とはいえ最もオーソドックスな内的後説法とは、新たに登場した作中人物について、語り手がその「経歴」を明らかにしようとする場合、ないしはしばらく前から見失われていた作中人物について、その最近の過去をあらためて把握する必要が生じた場合の内的後説法である。これは外的後説法と同様、その機能は明確であって物語言説を混乱させるような危険はほとんどない。これを、異質物語世界的な内容を物語る内的後説法と呼ぼう。この種の内的後説法が対象としているのは傍系としての物語内容、つまり第一次物語言説の語る物語内容(複数であってもかまわない)とは異なった物語内容なのであるから、第一次物語言説との干渉の問題は生じないわけだ。
- 例を挙げると、『ボヴァリー夫人』第六章でのエンマに対するフローベールの扱い方にみられるように、新たに登場した作中人物について、語り手がその「経歴」を明らかにしようとする場合の内的後説法。
- あるいは「発明家の苦悩」(バルザック『幻滅』)の出だしの部分におけるダヴィッドの場合がそうであるように、しばらく前から見失われていた作中人物について、その最近の過去をあらためて把握する必要が生じた時に用いられる内的後説法。
- あるいは、『失われた時を求めて』で、ヴィルパリジス夫人のサロンにファッフェンハイム大公が登場した際、数ページにわたって本筋とは関係のない回顧が続くのだが、これはわれわれに、大公がそこに出席するに至った理由、つまり大公の精神科学アカデミーへの立候補にまつわる紆余曲折を説き明かすためにすぎない。これはマルセルの自伝という物語内容の主系列と、あとになってから接合するのであり、ゆえに第一次物語言説の特権が脅かされることはない。
- これらの役割こそ、後説法のもっとも伝統的な役割である。
- 問題は第一次物語言説と同系列の筋を対象とする内的後説法(「等質物語世界の内的後説法」)である。この場合、干渉作用が生じる危険のあることは明白である。──これも二つの範疇に区別して考えなければならない。
- 【1】第一の範疇を、「補完的後説法」もしくは「追説」と呼ぼう。
- これは物語言説の過去の部分における欠落をあとになってから満たす回顧的切片を意味する。
- その過去の部分における欠落は、純然たる省略、つまり時間的連続の内部に生じた断層にすぎないこともありうる。たとえば、一九一六年の再度のパリ滞在に際して物語られた、一九一四年のマルセルのパリ滞在は、主人公がサナトリウムで過した「長い年月」を対象とする省略を、部分的に補うものである。簡単な回顧的暗示によってしかわれわれに知らされてはいないマルセルの生活上のいくつかの出来事は、明らかにこの種の時間的欠落の中に(あくまでも仮説として)位置づける必要がある。
- この補完は、「省略」ではなく「迂回」を補う場合がある。
- たとえばスワンの死は、シャルリュスおよびヴェルデュラン夫妻の主宰によるコンサートの場面に挿入される、新聞記事の回顧によって初めて読み手知らされるのだが、その死の時点で起った他の出来事の記述は、決して小説内では省略されていない。すなわちスワンの死という出来事のみ、その起りと同時的には物語られず(つまり迂回され)、あとで追って示されるのである。しかしスワンの死はマルセルの感情生活においてきわめて重大な役割を演じた(「スワンの死は当時、私を動転させた」)のだから、この迂回は明らかに意図的なものである。
- われわれとしてはこの種の迂回的省略を、黙説法と呼ぶことにしよう。
- 【2】等質物語世界の内的後説法の第二のタイプを、反復的後説法もしくは「再説」と呼ぶ。
- このタイプの後説法の場合、物語言説は、現在よりも以前のある時点を公然と繰り返す。
- しかしプルーストの場合、この後説法は現在との過去と(の間で類似したもの・関係)の比較という重要性を持つ。「これほど快いものに思われるものが、かつては観察するのも、ましてや描写するのもいやだと思われたものとまさに同じ一列の木々であることに、私は気付いた。」
- 『囚われの女』でもやはり比較がおこなわれているが、この場合は、現在のマルセルがアルベルチーヌに対してとっている意気地のない態度と、かつてのマルセルがジルベルトに対してとった健気な態度──当時の彼には「彼女を思い切るだけの力がまだまだあったのだ」──との比較である。この種の自己への回顧は、過去のエピソードに対して、かつてはそのエピソードになかったある意味を遡行的に与える。実際、かつては無意味と思われていたことを現在になって意味深長なものと考えるとか、あるいはまた、最初に与えていた解釈に反対してこれを新たな解釈に置き換えるといったやり方で、過去ので木々とが持っていた意味にあとから修正を加えるというのは、まさしく再説が『失われた時を求めて』において果たしているもっとも恒常的な機能なのである。
- 最初は無意味と思われていたもとを、あとになって意味深長だと考え直すという第一の方法は、語り手自身がきわめて正確に演じてみせている。
- すなわちマルセルは、バイカウツギをめぐるちょっとした事件について、次のように書いているのである──「その当時としては、そうしたことはすべてごく自然のことだと思っていたし、せいぜいが少しばかり当惑させられたというだけのことであった。要するに、無意味なことだと思ったのである」。そしてまた彼は、こうも書いているのだ──「このささやかな事件が持つ残酷なまでの意味は、私にはまるでわからなかった。そして、私もようやくその意味が理解できたのは、ずっとあとのことでしかなかった」。この小さな事件の意味は、アルベルチーヌの死後、アンドレが暴露することになる。
- 延期された解釈=二重の物語言説。二重の、というのは、まず一方にマルセルの(素朴な)観点に立った物語言説があり、次いで他方には、アンドレとアルベルチーヌの(事情に通じた)観点からみた物語言説が存在するからであって、後者の物語言説において鍵が与えられ、その鍵があらゆる種類の「当惑」を一掃してしまうからだ。意味の解明を延期する、あるいは中断するといったこの種の原理は、明らかに謎の仕掛けにおいてこそ遺憾なくその効果を発揮する。
:部分的後説法/充足的後説法
- 後説法は部分的なものと充足的なものとにさらに分けられる。
- 部分的後説法の場合、それが物語る過去の一時点は、遠い過去に孤立したままとどまっている。
- 部分的後説法は、筋を構成する明確な一要素を理解するにあたって、必要不可欠ではあるが孤立した情報を読み手にもたらすことが、その唯一の役割となっている。
- 部分的後説法に関する限り、物語言説の結合ないしは接合上のいかなる問題も生じる余地はない。たとえば『オデュッセイア』の場合、第一次物語言説は、それが中断されたという事実などはまったくなかったかのように再開する。
- 対して、明示的な再開の仕方も存在する。すなわち、第一次物語言説の中断を確認すると同時に、バルザックが好んでそうしたように、その後説法が開始される時点で、例の有名な「それはこういうわけであった」という言い回しを挿入する仕方がそれだ。「以下に述べる冒険こそ、この場面に登場する二人の人物がそれぞれ置かれている状況を決したのであった」という言い回しによって開始された『ランジェ公爵夫人』の中の大規模な部分的後説法は、これに劣らず明示的な仕方で閉ざされる。「カルメル修道会の格子窓をはさんで、院長の修道女の立ち会いのもとに彼らが再会した時、この二人の恋人たちに生気を蘇らせた感情は、いまこそあますところなく理解され尽くされねばならない。そして、二人の恋人の双方に目覚めたこの感情の激しさが、おそらくはこの冒険の結末を説明することになろう」。
- 充足的後説法の場合、後説法の物語言説は、過去を起点として、一旦第一次物語言説が中断したところまで再び追い付く。
- 外的充足的後説法は、出来事の渦中へ向うタイプの出だしを実践することと結びついている。その狙いは物語の「経歴」を回収することにある。
- 外的充足的後説法は物語言説の重要部分を構成するのが通例であって、時には『ランジェ公爵夫人』や『イワン・イリイッチの死』のように、物語言説の本質そのものをなすことすらあるのだが、こうなると第一次物語言説の方は、予想された結末を物語るだけのようにも思われてくる。
- 内的充足的後説法はこれとはまた別物だ。充足的後説法の物語言説が第一次物語言説に追い付くのは、(外的充足的後説法の場合のように)第一次物語言説の開始される時点でではなくて、第一次物語言説が一度中断されて後説法に取って代ったその時点において、だ。それが内的充足的後説法である。
- 内的充足的後説法によって中断された第一次物語言説を再開する場合、後説法の物語言説と第一次物語言説とが必然的に合流せざるを得ないため、この種の合流のところでは、大抵の場合ちょっとした重畳現象が見られることになり、それゆえに一見していかにももたついているという印象を伴う。
- もっとも、こうした欠陥から、一種の遊戯的快楽を引っ張り出すだけの手腕が語り手にあるならば、話は別だ。「発明家の苦悩」において、後説法は次のように開始される──「この尊敬すべき司祭がアングレームの勾配をのぼってゆくその間を利用して、彼が巻き込まれようとしている錯綜した利害関係を説明しておくのも無駄ではあるまい。(改行)リュシヤンの出発後、セシャールは……」。そして100ページ先の方では第一次物語言説が以下の通り再開するのである──「マルサックの老司祭がアングレームの勾配をのぼって、エヴに兄の置かれている状態を知らせにゆこうとしているその時、ダヴィッドの方は、この尊敬すべき老司祭がたったいま別れてきたばかりの女の部屋の二重扉のうしろに、この十一日来ずっと隠れたままであった」。
- あるいは、《コンブレー》でマルセルは、「一度、ベルゴットという私にはまったく新しい作家の本を読んでいる時、スワンが訪れてきて私の読書を中断し、論評を加えた」ことにまず言及し、次いでどのような経緯でこの作家を発見するに至ったかを語るために過去に逆戻りする。ところがその七ページ先の方で、自分の物語言説の流れに戻った彼は、スワンの名前を挙げてその来訪のことを物語った事実などなかったかのように、次のような言葉で後説法と第一次物語言説とを繋げようとするのである──「しかしながらとある日曜日のこと、庭で本を読んでいると、両親に会いに来たスワンが読者の邪魔をした──《何を読んでいるんです? 見せてもらってもかまいませんか? おや、ベルゴットじゃありませんか……》」。
:先説法
- 西洋の物語の伝統に関する限り、予想、すなわち時間的先説法を用いる割合は、後説法とくらべてはるかに小さい。展開の先取りによって物語のサスペンスが削がれるという単純な理由によるものだろう。
- とはいえ、「一人称で」語られた物語言説は先説法と相性が良い。一人称で語られる物語言説の語り手こそ、その語りの回顧的性質が明白であるという事実そのものによって、未来や、予定された宿命や、とくに彼が現在置かれている状況を暗示することができる。言わばそうした暗示が彼の役割の一つとなっているわけだ。
- そして、まさしく自伝的形式の物語言説が語る物語内容の全体にわたって先説法を用いている作品、しかも比類のない仕方で用いている作品、それこそ『失われた時を求めて』にほかならない。
- ここであの一節を引用しないわけにはいくまい──「あれから何年もの歳月が流れた。のぼってくる父のろうそくの灯が映し出されるのを私が見た階段の壁も、存在しなくなってからすでに久しい。同じく私の内部でも、いつまでも続くはずだと思い込んでいた多くのものが破壊されてしまったし、その一方では新しいものが築き上げられて、当時は予見すらできなかった数々の新しい苦しみと喜びとをもたらしたのである──昔のことが私にとって、容易には理解し難いものとなったように。私の父が、「坊やについてっておやりなさい」とママンに言うことができなくなってからも、やはりかなりの年月になる。これらの時間が私に再び訪れる可能性は、もはや二度とあるまい。しかし、ほんのしばらく前からもう一度、父の前では抑えられていて、ママと二人きりになった時にはじめてせき上げてきたあの頃の啜り泣きが、耳を傾けると、とてもよく聴き取れるようになっていたのである。実のところ、この啜り泣きは、一度たりともやんだことはなかったのだ。そして、それらの啜り泣きが再び私の耳に聞えてきたのは、単に私の周囲の生活が、いまや一段と沈黙の度を増したということにすぎない。ちょうど、昼の間に鳴るのをやめているのではないかとすら思える修道院の鐘が、夕べの静寂が戻ってくると再び鳴り始めるのと同じように。」
- 外的先説法
- 後説法と同様先説法の場合も、内的先説法と外的先説法の二つに分けることができる。外的先説法は、 第一次物語言説の時間的領域の終点よりも後のことになるエピソードを導入する。
- たとえば『失われた時を求めて』の最後の情景は、ゲルマント大公邸でのマチネーがそれにあたるが、それよりも後の出来事についての暗示も作中には含まれている。シャルリュスの死に関する手短かな暗示や、サン=ルー嬢の結婚についての次のような暗示もそうである──「さぞやどこかの王太子と結婚して、スワンとその妻の全上昇事業を王冠で仕上げてくれるだろうという希望を、母親に抱かせるに足るだけの家名と財産とも持っていたこの娘は、のちに、無名の文士をおっとに選んだ。(略)そして、この一家を、その最初の出自よりも一段と低い水準へと引きずりおろしたのである」。
- 外的先説法の機能は、通例、エピローグの役割を果たすことにある。
- 内的先説法
- 内的後説法のそれと同じ問題を、内的先説法も提起する。すなわち、第一次物語言説と、先説法の切片が引き受けている物語言説との干渉作用・重複の問題だ。
- 等質物語世界(第一次物語言説と同系列ということ)の先説法に話を限るなら、やはり後説法の場合と同様、一つは将来において発生するはずの欠落をあらかじめ充たす先説法(補完的先説法)、もう一つはやがて現れる物語切片を、同じく前もって繰り返す──分量的にはどれほどわずかであってもよい──先説法(反復的先説法)との二つに区別することができる。
- 反復的先説法について。この先説法は、将来においてそれが生起した時点で詳細に物語られるはずのある出来事に、われわれをあらかじめ差し向ける。
- ちょうど、反復的後説法が物語言説の受け手に対し、再説の機能を果たすのと同様、反復的先説法の法は、まさしく予告の役割を演じるわけだ。こうした予告の標準的な言い回しは一般に、「いずれわかるように」とか、「のちになってわかることだが」といったものである。
- これらの予告が果たす役割は明らかだ。つまり、それらは読み手の頭の中に期待感をつくり上げる。予告の射程もしくは期限が非常に短い場合、こうした期待感はたちまちのうちに解消されてしまうこともあるが、射程が短ければ短いなりに、たとえば、ある章の末尾のところで、次の章のテーマを、すでにそのテーマについて語り始めることで指示する、といった具合に役立つ。現に『ボヴァリー夫人』では、そうした例を数多く見出すことができる。
- 『失われた時を求めて』における先説法はしばしば射程が長大だ。そしてそのような射程の長い予告は、作品中、もしそれらの予告がなければ偶然的で根拠のないものと思われたはずのエピソードを、たとえ暫定的にではあれ正当化するように機能している。
II 持続
:不等時法
- 読む速度を測定する方法はないので、また書かれた出来事の時間を正確に計ることもできないので、物語る速度というものは、便宜的な分類に頼るしかない。そして原理的には無限であるはずの物語の速度の多様性は、実際には四つの基本的関係に分類される。
- 物語の運動におけるこれら四つの基本形式──以下これを、物語の四つのテンポと呼ぶことにする──は次だ。
- 【1】省略法
- 無限の高速度。
- 【2】要約法
- 省略法よりは遅い、情景法よりは速い。
- 【3】情景法
- 中間的なテンポ。対話を伝える速度。
- とはいえ厳密な意味で現実の会話の速度と一致しているわけではない。まして会話にはしばしば生じる空白の時間を物語言説で復元することは困難だ。
- 【4】描写的休止法
- 絶対的な低速度。
- 物語言説は錯時法を抜きにしても成立しうる。が、不等時法を抜きにしては、相異なる物語の速度が交替してあらわれる律動効果を抜きにしては、およそ成立しない。
:要約法
- 要約法と情景法と充足的後説法
- 要約法──それは作中人物の行為や言葉に関する詳細は抜きにして、数日間、数カ月、あるいは数年にも及ぶ生活を、わずか数節ないしは数ページで報告する語りのことだ。
- 要約法は、それが簡略であるという事実そのもののために、描写的・演劇的な諸章とくらべて、その分量の点で大抵の場合は明らかに劣る結果となっている。その代りとして、要約法が十九世紀末に至るまで、二つの情景法を結ぶ移行部分としてはもっとも通常のものであり続けたということもまた、明らかである。
- 『ドン・キホーテ』からその一例を引こう。──「結局のところロターリオは、アンセルモの留守からえられた時間とチャンスを活かして、この要塞の包囲をさらに縮めるべきだと判断したのである。かくして彼は、彼女の美しさをほめそやすことで、彼女の誇りを攻めはじめたわけである。というのも、美女の虚栄という要塞の武装を解き、これを陥落させようという場合、この虚栄そのものを追従の言葉でくすぐる以上に簡単なことはないからだ。こうして彼は、数々の武器を利用し、まことに熱心に彼女の婦徳の岩を掘りくずしていったので、よしんばカミーラがブロンズの女であったとしても、ついに征服されたに違いない。彼は涙をふりしぼり、哀願し、言い寄り、お追従を言っては口説いた。そして、手を尽くして絶望の思いを示し、その恋情をさまざまに披瀝してみせることで情熱の真なることを装ったので、貞淑なカミーラもさすがに根負けして、その結果ロターリオは、思いもよらぬことに、もっとも望んでいた勝利を手中にしたのであった。」
- 要約法においては加速化がなされるのみならず、時として抽象化も生じている。
- 要約法は、情景法を際立たせる「背景」の役割を演じてきた。小説の物語言説の場合、その基本的な律動を定めるのは、要約法と情景法の交替にほかならない。
- さらに付言するなら、回顧的切片、とくに、われわれのいわゆる充足的後説法における切片の大半は、このタイプ──要約による加速化──の語りに属している。
- たとえば『セザール・ビロトー』の第二章を引こう。──「シノンのあたりの小作人で、ジャック・ビロトーという男が、彼が請負っていたブドウ畑の地主である貴婦人の小間使いと、結婚した。三人の男の子が出来たが、妻は三番目の子を出産した時に、産褥のために死んだ。そして、この不運な男も、そのあとを追うようにして死んだ。女主人はこの小間使いを可愛がっていた。そこで彼女は、小作人の長男でフランソワという男の子を、自分の息子たちと一緒に育てさせ、神学校に入れた。司祭に叙品されたフランソワ・ビロトーは、大革命の間は身を隠していた。そして、まるで鹿か何かのように、追い詰められてはほんの些細なことでもギロチンにかけられた非宣誓司祭たちの放浪生活を、送ったのである……。」
:情景法
- オーソドックスな近代文学の小説作品における物語言説の場合、詳細な情景法と要約的物語言説とのテンポの対立は、ほとんど常に、劇的と非劇的という内容上の対立に関連していた。
- 言い換えるなら、筋が濃密に展開する時間は物語言説が最高潮に達する瞬間と合致し、他方、筋が希薄な時間の方は、ごく大雑把に、そしてまたごく俯瞰的な仕方で要約されていたのである。情景法とは、劇的な集中化が行われる場所であり、描写的休止や余談などの夾雑物からほぼ完全に解き放たれた場所、いわんや錯時法のもろもろの干渉などは一切存在しない場所だったわけだ。
- したがって小説規範の真の律動を生み出すのは、読み手の期待感をかき立てつつ、物語を繋ぎ合せてゆく機能を持った非劇的な要約法と、筋において決定的な役割を演じる劇的な情景法との交替にほかならない。
:描写的休止法
- プルーストにおける描写
- 『失われた時を求めて』には描写的休止法は存在しない。おそらくはバルザックの小説の方がはるかに描写を含んでいる。
- 仮に描写があるとしても、プルーストの場合それは主に括復的なタイプに属している。だが一番肝心なのは、一度しか出会ったことのない対象を描写するにせよ、プルーストはそうした描写のために物語言説を休止させないということだ。
- プルーストの物語言説がある対象なり光景なりのうえにとどまる時は必ず、その静止状態に主人公自身の静観的停止が照応している。そこでは対象の姿だけではなく、むしろ静観している作中人物の知覚活動やその印象、漸次的な発見や距離とパースペクティヴの変化、さらには誤謬とその修正、熱狂あるいは幻滅、そしてそれらについての分析がより饒舌に語られる。
- どれほど些細な対象であれ、どれほど取るに足りぬ風景であれ、プルーストはそれらのものを前にした時、知覚の戯れを始める。以下は若い頃(ほとんど子供の頃)のマルセルが、レオニー叔母の常用していた一つかみの乾燥した科の母の煎じ薬をつくるのに苦労していることを物語る言葉である──まるで画家が・葉はこのうえなくちぐはぐなものの様相を呈していた・しかし無数のこまごまとしたものがそれこそは本物の科の花の茎に違いないことを理解する喜びを私に与えてくれるのだった・私は認めた・バラ色の輝きがこれらの花弁こそあの花弁にほかならぬことを私に示していた、云々。
- プルーストにおける静観は、一瞬の閃光のごときものでもなければ、受動的で心の安らぎを与えてくれる没我的瞬間でもない。それは、強烈で、知的で、しばしば肉体的ですらある活動なのだ。
- バルザック、フローベール、スタンダールにおける描写
- 周知のようにバルザックの小説はプルーストとは逆に、典型的に超時間的な描写の規範を定めた。
- この規範によれば、語り手は、物語内容の流れを辿ることは放棄して(あるいはたとえば『ゴリオ爺さん』や『絶対の探究』におけるように、物語内容の流れにはいる前に)、厳密に言うと物語内容のその時点では作中人物のうち誰も見てはいない光景の描写を、語り手自身の資格で、もっぱら読み手に情報を提供するだけの目的から、引き受けることになる。
- そのことを如実に示しているのがたとえば『老嬢』の中の、コルモン嬢の館の情景描写を開く次の一文である──「さて、いまやこの老嬢の家にはいってゆかねばならない。これだけ数々の利害関係がそこに向って集中し、この舞台に登場する役者たちが全員、ほかならぬこの日の夕方、そこに集まることになっているからである……」──このような形で「家にはいってゆくこと」が、語り手と読み手にのみ関わる事実であることは明らかなのであって、語り手と読み手が家や庭の中を一通り徘徊しているその間、「この舞台に登場する(真の)役者たち」の方は、どこか別の場所で、相変らず各人の営みを続けているのである、というかむしろ、その営みを再開するために、物語言説が自分たちのところに戻ってきてもう一度生命を吹き込んでくれるのを、待っているのである。
- 周知の通りスタンダールは、描写というものを粉砕してのけたばかりか、たとえ粉砕せずに残した描写があったとしても、それらを作中人物の行為──ないしは夢想──のパースペクティヴにほぼ例外なく統合した。
- とはいえスタンダールがプルーストに直接影響を与えたわけではない。むしろフローベールのことを考えなければならない。
- 『ボヴァリー夫人』では大抵の場合、描写がある程度の規模に達している時ですら、テクストの全般的なテンポは一人(または数人)の作中人物の動きもしくは眼差しに支配されているのであって、その展開は、作中人物の動きが辿る行程の持続と一致するか、さもなくば作中人物の眼差しによる不動の静観の持続に一致するのである。
:省略法
- ここで言う省略法とは、時間における省略法のことであり、以前「黙説法」という名称を与えた迂回的な省略については考慮しない。
- 形式の観点から見れば、省略法は次のように区別できる。
- ◆明示的省略法
- 「それから二年して、祖母と一緒にバルベックへ出発した時には、私はジルベルトに対してほとんど完全な無関心になっていた。」──この種の省略法はそれが省略した時間を明言する。「多くの年月が過ぎ去った」という風にあいまいな指示の場合もある。
- この省略法においては、経過した時間の指示そのものが省略法を構成するわけなので、省略法の切片がまったくのゼロということにはならず、きわめて高速度の要約法に類似して来る。
- ちなみにこの形式の省略法においては、時間的指示のみならず、「幸福な数年間が過ぎ去った」とか「幸福な数年間ののち」という風に、物語世界に関する何らかの情報をも盛り込むことができる。
- この省略法を無頓着に用いている例としてスタンダールの『パルムの僧院』の、ファブリスとクレリアの夜の逢引を語ったすぐ後の箇所を引こう。──「ここで読者のお許しを得て、われわれとしては三年という時間を、一言もそれについては触れることなく飛ばすことにしたい。(……)三年に及ぶすばらしい幸福を味わったあと……」。スタンダールにおいては、省略法を用いる理由を「その時期は敢えて物語るほどの値打ちもないから」と語り手がわざわざ告げることさえあるのだ。
- ◆暗示的省略法
- テクストにおいて存在そのものが明示的でない省略のこと。読み手としては、何らかの飛躍が叙述の内部に存在するとか、語りが中断したといった事実から、これを推測するほかはない。
- この省略法はとりわけ、「幸福な数年間」といったような修飾を受けることが絶対にない。
- だがこのような省略法の存在は、結局のところ、物語内容と対応させての物語言説の速度の分析が厳密な意味では不可能であり、限界を持っているということを示すだろう。
III 頻度
:単起法/括復法
- 出来事というものは、単に生起しうるばかりではない。それはまた、繰り返し生起すること、つまり反復することも可能だ。……とはいえ、ここで言う「繰り返し」とは、全く同一の出来事の反復ということではなく、相互に類似した、そしてまた、もっぱらその類似性においてのみ考察の対象とされた、いくつかの出来事からなる連続のことだ。
- 一度生起したことを一度だけ物語る場合、これを単起的物語言説と呼ぶことにしたい。
- n度生起したことをただ一度だけ物語る場合、つまり、ただ一度の語りの発信行為が、数度にわたって生起した同一の出来事(もっぱらその類似性の点においてのみ捉えたいくつかの出来事を)一括して引き受ける物語言説を、われわれは、括復的物語言説と名付ける。
- 括復法という形式は伝統的なもので、実例はホメーロスの叙事詩にすでに見出される。が、古典期の物語言説はおろか、バルザックの物語言説に至ってもなお、括復法の切片は、単起的な情景に対し、機能の面でほとんど常に従属した状態にあった。
- というのもこれらの情景にとって括復法の切片は、言わば読み手に情報を与えるための枠組ないしは背景を構成するにすぎないからだ。つまり! 括復的物語言説の古典的機能は、描写(的休止法)のそれにかなり近い。
- もともと描写(的休止法)がきわめて括復法と密接な関係を持っているのだ。描写のジャンルの変種の一つである「精神の肖像」を例にとってみても、まず大抵の場合、いくつかの括復的な言葉を積み重ねてゆくという手法を採用している。
- 括復的物語言説は、描写と同様、「本来の意味での」物語言説、すなわち単起的物語言説に奉仕するものと永く看做されてきたわけだ。
- こうした機能上の従属から括復的物語言説を解き放つことを企てた最初の小説家が、『ボヴァリー夫人』におけるフローベールであることは明らかだ。
- 事実、修道院時代のエンマの生活や、ヴォビエサールで舞踏会が催される以前の、そしてそれ以後のトストでのエンマの生活、あるいは木曜日ごとにレオンと過したルーアンでの生活を物語る諸ページは、その分量の点でも自立性の点でも、単起的物語言説に決して従属などしていない。異例である。
- しかし『失われた時を求めて』におけるプルーストの試みに比肩しうる括復法の用い方をした小説作品は、かつて一つも存在しなかった。
:期間限定・周期特定・時間幅
- 三つの弁別特徴
- 例えば一八九〇年夏のすべての日曜日を語る括復的物語言説。
- この系列は一八九〇年の六月末に始まって、九月末まで続く。
- この第一の弁別特徴を期間限定と呼ぼう。
- ある系列に時期の限定が存在していても、それが非明示的なままにとどまることがある。たとえばプルーストが「ある年から(ヴァントイユ嬢が)一人でいるところに出会うことはもはやなくなった」と書くような場合がそうである。
- また、一口に明示化するといっても、時にはその明示化が絶対的な日付による場合もあれば、単一の出来事との関連による場合もある──「春が近付くと(……)毛皮にすっぽりとくるまって客の応待をしている(スワン夫人)を見かけることがよくあった、云々」。
- この単位は七日に一度の割合で反復する。
- この第二の弁別特徴を周期特定と呼ぼう。
- 周期特定もまた、非明示的であることがある。つまり、時として・日によっては・しばしば、等といったタイプの副詞によって指示される場合である。
- もちろん、これとは逆に、周期特定は明示的でもありうるのであって、その際、毎日・毎日曜日、等といった具合に絶対的に明示化される場合もあれば、より相対的でより不規則な仕方で明示化されることもある(後者の例。コンブレーでの散歩の道筋を決定する法則は、空模様のはっきりしない日にはメゼグリーズの方へ、そして天気の良い日にはゲルマントの方へ、といった按配であった)。
- これはたとえば日曜日のすべてを物語ると考えれば、その持続は二十四時間ということになる。しかしこれを日の出から日没までの約十時間に縮小しても一向に差支えはない。
- この第三の弁別特徴を時間幅と呼ぶことにしよう。
:《時間》との戯れ
- 順序と頻度と持続
- 説明の必要上やむをえず分離して扱うことにはなったものの、順序・頻度・持続の現象は、事実のうえでは緊密な相互関係を保っている。
- 例えば、伝統的な物語言説に関する限り、後説法(順序の事象)は要約法(持続すなわち速度の事象)の形式を採るのが通例であるし、その要約法はまた、えてして括復法(頻度の事象)の助力を求めることになりがちなのである。また描写は、瞬間的でもあり、持続的でもあり、括復的でもありうる。
- 括復法は「類似した」いくつかの出来事を総合することによって、それらの継起的な関係を廃絶する。つまりそれはまた順序にも関連している。括復法は「類似した」いくつかの出来事を隔てる時間を消去する。つまりそれはまた持続とも関連している。
- したがって、ある物語言説の時間的性質の特徴を描き出すには、その物語言説自身の時間性と、それが語る物語内容の時間性との間に打ち立てられるあらゆる関係を、全体的に考察しなければならない。
- ここで考えなければならないのは、回想というスタイルをとった物語言説の時間性だ。
- 回想の錯時性、ならびに回想の静的性質は、そのいずれもが記憶の作用から発している以上、明らかに関連している。
- つまり記憶は、まず第一に(通時的なものである)時代を(共時的なものとしての)時期に還元し、出来事を情景に還元すると同時に、第二として、これらの時期や情景を排列するに際しては、それらの時期や情景の順序ではなく、記憶自身の順序に従うのである。
- 「わたし」の記憶の活動は、それゆえ、物語世界の時間性から物語言説を解放するための一要因(むしろ一手段と言ってもよかろう)ということになる。
IV 叙法
:物語情報の制御
- 【距離】と【パースペクティヴ】こそ、叙法という物語情報の制御の、二つの本質的様態だ。
- 【距離】とは、物語による情報提供がどの程度直接的に行われるかの指標である。物語言説が、自己の物語る対象との間により小さな【距離】を置いているように思えるならば、読み手はそれだけより直接的に生き生きと情報を提供されていると感じるだろう。
- 例えば一人称の回顧的な語りが必然的に生じさせる【距離】は、大抵読み手に伝達される物語内容の直接性を削ぐことになる。
- 【パースペクティヴ】とは、どの作中人物ないしはどの作中人物のグループの認知能力に応じて情報が伝えられるかの指標である。その際、物語言説は常に、その物語内容のしかじかの引き受け手の「視点」と一般に呼ばれるものを採用するふりをすることになる。
:ミメーシス
- 『国家』第三巻におけるプラトンは、二種類の物語叙法を対立させている。
- ▼ミメーシス[mimesis]
- 詩人が、物語っているのは自分ではないという錯覚を、つまり、物語っているのはしかじかの作中人物であるという錯覚を、詩人がつとめて与えようとしている場合。
- ▼ディエゲーシス[diegesis]
- 詩人が、物語っているのは自分以外の誰かであるとわれわれに信じさせようとはせずに、詩人自身の名において物語る場合。
- 十九世紀末葉から二十世紀初頭にかけて、この対立はヘンリー・ジェイムズとその弟子たちのもとで、示すこと[showing](=ミメーシス)/語ること[telling](=ディエゲーシス)という術語で復活した。
- とはいえ、純粋に分析的な観点からすれば、示すこと/語ることの区別は程度問題に過ぎない。それは対話や発話の場合ではなくて、行為や出来事などについての物語言説の場合にミメーシス=示すことがどのように機能するかを見れば分かる。
- 「物語っているのは作者ではないという錯覚」を与えること。誰かに物語ってもらわなくとも物語対象自らが現実を物語るように仕向けること。ミメーシス。
- 例えばプラトンはホメーロスのミメーシスを、次のようにディエゲーシスに翻訳する。
- 「彼がこう言うと、老人は彼の声を聞いて恐怖し、従った。老人は黙ったままそこを立ち去ると、海の立ち騒ぐ浜辺に沿って足を進め、自分一人になった時、美しい髪を持ったレートーの息子アポローンに、熱心な祈りを捧げ始めた」(ミメーシス・示すこと)→「老人はこれらの脅迫的な言葉を聞いて怖くなり、何も言わずにそこを立ち去った。けれども、陣営を離れるやただちに老人は、熱心な祈りをアポローンに捧げ始めた」(ディエゲーシス・語ること)
- 両者の間にみられる顕著な差異は、明らかにその長さにある。プラトンは冗長的情報(「彼がこう言うと」「従った」「レートーの息子」)を削除し、状況についての絵画的な指示──「美しい髪を持った」「海の立ち騒ぐ浜辺に沿って」──をも取り除く。逆に言えば、これらの偶然的な細部こそがミメーシス効果の源なのだ。
- この「海の立ち騒ぐ浜辺」という細部は、もちろん物語内容においては機能の面で何の役割をも果たしてはいないが、語り手が物語言説に対する自身の支配を放棄し、「現実」──つまり、そこに現存し、示されることを要求している浜辺の存在──に記述を委ねているということを意味する。こういう無益で偶然的な細部こそ、現実が語られずただ示されているという錯覚、つまりはミメーシス効果を生み出す、典型的な媒体となるのだ。
- そしてプラトンは逆に、詩人自身の名において物語る=ディエゲーシスの効果を確保するために、それとは相容れないこうした偶然的細部を彼の翻訳から排除したのである。
- ミメーシス性とディエゲーシス性の対立は、次の公式によって表わされる。「物語言説において、詳述される情景が優位に立てば立つほど、語り手の存在は稀薄になる(逆も然り)」
- ミメーシス効果(現実効果)とは、物語対象について最大限のことを語ると同時に、語っているというそのことについては最小限にしか触れようとしない、一つの語り方である(フローベール流の疑似的透明性)。それがプラトンの言うように「物語っているのは詩人ではないふりをする」、言い換えるなら、物語っているのが語り手であることを忘れさせる、ということだ。
- ディエゲーシス効果はその逆として定義される。
- ここで、「物語対象について最大限のことを語る」≒「物語言説の速度が遅延する」ということを考えれば、ミメーシスの問題は時間的限定にも関わり、また、態の事象、語り手の存在の審級の問題とも関わると言える。この点、「叙法」とは、固有の意味では叙法に属さないいつくかの特徴の合力でもある。
:『失われた時を求めて』におけるミメーシス
- ただちに注意を喚起しておかなければならない。『失われた時を求めて』という作品は、われわれがその暗黙の公式を抽き出したミメーシスの「規範」とはまったく相容れない。
- 一方では、プルーストの物語言説はほとんど排他的に、(単起的もしくは括復的な)「情景法」、言い換えると、もっとも豊かな情報を持ち、ゆえにもっとも「ミメーシス的」な物語形式から成立している。
- ところが他方では、次の章でもっと詳しくみるように、語り手の存在はプルーストの物語言説において不変のものであり、しかもその強烈さたるや、「フローベール流」の透明性の掟とは完全に相反するほどだ。すなわち、『失われた時を求めて』のテクスト上には、物語言説の源泉・保証人・組織者としての語り手、分析家にして注釈者としての語り手、文体家としての、そしてとくに、人も知るごとく「隠喩」の生産者としての語り手が、恒常的に存在している。
- だからこそプルーストは、同時にバルザックのようでも、ディケンズのようでも、ドストエフスキーのようでもある。
- 逆説的なことに、プルーストは示すことの極限に位置しながらも、それと同時に語ることの極限に位置していることになるわけだ(それどころかプルーストは、語ること[telling]をいささか飛び越えさえしている。というのも、時として彼の言説は語るべき物語内容への配慮からまったく解放されていることがあるために、同じ英語でも、多分、単に話すこと[talking]と呼んだ方が適切なくらいであるからだ)。
- ミメーシス的小説を支持するヘンリー・ジェイムズ以後の人々(もちろんジェイムズ自身もそこに含められる)にとって、もっともすぐれた物語形式とは、作中人物の一人ではないが作中人物の一人の視点を採用している語り手(書き手)によって焦点化され、語られた物語言説だろう。
- そのような物語形式では、読み手は、作中人物の一人の意識によって濾過された行為・出来事を知覚する。しかも、一人称での回顧的な語りが必然的に生じさせる距離を避けることによって、読み手はその行為・出来事を、それが意識に働きかけるままの形で直接的に知覚する。
- だが『失われた時を求めて』は、周知の通り、「回顧的な語りが必然的に生じさせる距離」を回避しようとはしない。それでいて、ミメーシスの錯覚はいささかも衰えてはいないし、弱まってもいない。つまりは極限的な媒介作用と、極致に達した直接性とが同時に存在しているのである。
:言葉(台詞/発話/会話)についての物語言説
- 発話や会話の再現は、非言語的な出来事や情景の「ミメーシス効果」とは別に論じなければならない。
- 当然ながら物語言説は単純に作中人物の発話を模倣するばかりが能ではない。
- 【1】作中人物が発話したと看做されるままの形で、虚構として再現された場合
- 「老人よ、刳り船のそばで、またしてもわしと顔を合すことのないように気を付けるのだぞ。今日このあたりをうろつきまわってはならぬし、明日もう一度舞い戻って来ることも許さぬ。お前の杖も、神の飾りすらも、もはやお前にとっては何の役にも立たぬのだ。お前が引き渡しを求めている娘だが、わしには返すつもりなどない。娘の故郷を遠く離れたアルゴスの地の、わしの宮殿で齢をとってしまわぬうちはな。お前の娘はそこで、機織りをしたり、わしが呼べばわしの夜伽をつとめたりして、老いてゆくのだ。往け、そしてもうわしをうるさがらせるな、もし無事で帰りたいのなら」。
- もっともミメーシス的な形式。語り手は自分の作中人物に、文字通り発言権を譲渡するかにみせかける。この種の再現された言説は演劇的タイプに属するもので、叙事詩が──叙事詩のあとは小説が──そうであるところの「混合的」な物語ジャンルにおいて、対話の(そして独白の)基本的形式として採用されている。
- 小説を演劇的モデルが後見してきた、という事実を如実にあらわす例としては、小説的語りの基本形式を指示する時に「情景」という語が用いられることをみればよい。実際、十九世紀の終りに至るまで、小説における情景は、嘆かわしいことに、演劇における情景の生彩を欠いた模写と考えられていたのである。
- 面白いことに、近代小説の解放をめざす主な道筋の一つは、語りの審級の最後の標識をも消滅させ、作中人物に発言権を一挙に与えることによって、言説のこうしたミメーシスを極限にまで──あるいはむしろ、限界にまで──推し進めてしまう点にあったようだ。所謂、「内的独白」である。
- 【2】発話が出来事へと完全に還元された場合
- 「アガメムノーンは拒絶し、クリューセースを追い返した」。
- 明らかにもっとも「距離」の大きな状態。
- 【3】発話が間接的に転記された場合
- 「アガメムノーンは立腹し、老人に向かって、そこを立ち去り、二度と姿を現わさぬよう厳命した。というのも、老人の杖も神の飾りも、老人には何の助けにもなりはしないであろうから。そしてアガメムノーンは、老人の娘は、自分とともにアルゴスの地で老いてしまわぬうちは自由の身にならぬと付け加えた。彼は老人に、もし五体満足で帰りたいのならば、自分の許と退出して、もううるさがらせることのないように、と固く命じた」。
- この形式は物語られた言説よりも少しはミメーシスの度合いが高い。しかし決して再現された言説のミメーシス性には至らない。(しかし自由間接話法の場合は別。自由間接話法は単なる間接話法に比べてより、ミメーシス的だ。)
- このような形式に置かれた言説を、語り手は、単に従属節中へ転記したというだけにとどまらず、それらを圧縮すると同時に自分自身の言説に統合し、自分自身の文体でこれらの言葉を要約・解釈するに至ったと看做される。
- 余談だが、自由間接話法は作中人物の(発話された、もしくは内的な)言説と、語り手の言説とのそれを混同させる可能性がある。
- しばしば混同されたり不当な比較を受けたりと誤った扱いを受ける、内的独白と自由間接話法との違いを、明白にしておこう。
- 内的独白の方は、語り手が姿を消して、作中人物が語り手に取って代わる。上位の審級は廃絶され、現在形で語られる「一人称」の物語言説が、あたらめてその姿を現わす。
- たとえば、「私はどうしてもアルベルチーヌと結婚しなければならないのだ……」といった文で始まり(ただし引用符は抜きで)、主人公が遂行したかまたは被るかした思考や知覚や行為の順序に従って、最後のページに至るまで同様の調子で続いてゆくような物語言説を想像してもらいたい。
- しかし「内的独白」という呼び方はいかにも適切さを欠いたものだ。これはむしろ「直接的言説」と呼んだ方がいい。なぜなら、肝心なのは、ジョイスも抜かりなくおさえていたように、その独白が内的であるということではなくて、それが一挙に語りによる一切の後見から解放され、最初から「情景」の前面を占めているということであるから。
- 他方、自由間接話法においては、語り手が作中人物の言説を引き受ける、というかむしろ、作中人物が語り手の声によって話す。
- かくしてこれら二つの審級は渾然一体と化す。フローベールがこうした曖昧さを利用する際に発揮した手腕の非凡さは、周知の通りである。
:プルーストと内的独白
- プルーストにも「内的独白」の言説を用いる場合がある。マルセルであろうとスワンであろうと、プルーストの主人公は、激情に駆られている時はとりわけ、自己の思考を独白として、それも、まことに演劇的な修辞法によって生気を添えられた独白として、好んで表出する。
- 以下の引用は、怒りにとらえられたスワンによる独白の箇所である。
- 「そのようなときスワンは彼女に憎しみを覚えた。『それにしても、あまりにばかだった』と彼は自分に言い聞かせる、『自分の金を使って他人に快楽を得させているんだから。なにはともあれ、オデットも少しは気をきかせて、あまりつけ上がらない方がいい。もう金輪際あいつには何もやらんということになりかねないからな。いずれにしても、ここ当分は、もうよけいな好意はおしまいだ! 昨日だって、バイロイトの音楽祭に行きたいと彼女が言うものだから、愚かにも、二人でバイロイトの近郊にあるバイエルン王の美しいお城の一つを借りようなどと言ってしまったくらいだ。それなのに彼女は、とび上がってよろこぶほどでもなかったし、まだ行くとも行かないとも言わないくらないなのだ。こうなったら、ぴしゃりと彼女から断わられたいものだ! あいつはワーグナーなんぞどうでもいいんだ。まるで魚がリンゴなど見向きもしないようなものさ。その彼女といっしょに二週間もワーグナーを聴くなんて、さだめし楽しいことだろうよ!』」
- もっとも、スワンの場合、独白どころか「一人で声高に」喋る機会が生じることもある。
- しかもそれはシャトゥーで催される予定のパーティーから除け者にされたスワンが、憤激しながら自宅へ帰る途中の、路上でのことなのだ──「なんという鼻持ちならぬ馬鹿騒ぎだろう! と言いながら彼は、嫌悪の表情を口許に浮かべるのだったが、それがあまりに激しかったので、自分の渋面が筋肉にまで及んで、ワイシャツのカラーに接する顎部までが引きつるのを自分でも感じるのだった…… 僕の住んでいるところは、あんな下種な雑談がぺちゃくちゃとやかましいどん底よりも、何千メートルも高いところなのだから、ヴェルデュランの女房あたりがいくらひやかしたところで、僕のところまではねが届くことなんかありえないのだ、と叫ぶと彼は顔を上げ、堂々とその胸をはるのだった…… ボワの並木道はもうとっくに通り過ぎていたし、ほとんど自分の家の前まで到着していたにもかかわらず、依然として彼は自分の苦しみとうわべだけの興奮から醒めていなかったばかりか、自分自身の声の偽りの抑揚と不自然な響きとのために刻々とその興奮深く酔いしれてゆきながら、夜の静寂の中で相変わらずその長広舌を声高にふるい続けるのだった……」。
- みられる通り、ここでは、声音とわざとらしい抑揚は、そのまま思考の一部をなしている、というか、むしろそれは、本音を隠していることを否認する誇張的な言葉を突き破って、思考を暴露している。
- 「それにおそらく、スワンの声はスワン自身よりも洞察力に富んでいた、というのもこの時の彼の声が、ヴェルデュラン家の環境に対する嫌悪感と、彼らと縁を切った喜びとに満ちたこれらの言葉をどんなふうに喋ったかというと、もっぱらわざとらしい口調で、そしてあたかも、自分の思考を表現するためというよりは自分の怒りをなだめるためにそれらの言葉を選んだかのような、そういう調子でしかなかったからである。実際、スワンの思考は、彼がそれらの罵倒に夢中になっているその間に、スワン自身も気がつかないまま、おそらくはまったく異なった別のある対象に占められつつあったのだ……」。
- ここで言う「全然異なった対象」というのは、スワンが自分自身に語りかける傲然とした言葉とはまるで裏腹なもの、つまり何としてもヴェルデュラン家の人々にもう一度気に入ってもらいたい、そしてシャトゥーでの晩餐会に招んでもらいたい、という欲望である。
- 「思考」とはなるほど一つの言説ではある。けれども、同時にまたそのような言説は、ほかのあらゆる言説と同じく「屈折して」いて偽りのものであるのだから、一般には、「心に感じ取られた真実」を忠実にあらわすわけではない。
- 当然、いかなる内的独白もこの種の「真実」を再生することはできない。小説家としては、本音を隠していることを偽装しつつ、それを透かして見せるようにする以外、何の方法もない。そしてそれらの偽装行為こそ、まさしく「意識」そのものだ。
- 以下に引用するのは『見出された時』の中の一節だが、「作家の義務と努力は翻訳家のそれである」という有名な表現に続くこの箇所ではっきりと言表されているのは、プルーストにおいて「内的独白」がどのようなものか、である。──「ところで、たとえば自惚れゆえの不正確な言葉が問題となる場合、(最初の中心的な印象からどんどん遠ざかってゆく)屈折した内語が、最初の真の印象から伸びてきたはずの直線と合致するまでその屈折を修正しなければならないとすると、こういう修正の作業はわれわれの怠け心がえてしてしかめっ面をしてみせがちな難事ということになるのだが、それに類したものはほかにもいくつかあって、たとえば恋が問題となる場合もまさにその一つであり、この場合、この種の同じような修正は苦しいものとなる。(……)こうした一切のことがらを、今は遠くへ去ってしまったあの心に感じ取られた真実へともう一度連れ戻すためには、とりもなおさず、われわれがもっとも執着していたもの──自分自身と差し向いになったわれわれが、どんな手紙を書きどんなふうに言い寄るかを熱にうかされたように計画しながら、われわれ自身を相手に交わした情熱的な対話のものとなったすべてのもの──を、消滅させることが必要なのだ。」
- プルーストの年代的位置が、デュジャルダンとジョイスの間であるということから、何かそうした系統の中に彼を納めようとする向きもあるようだが、しかし周知の通りプルーストの作品においては、『月桂樹は切られた』や『ユリシーズ』の流儀に則った「内的独白」に比較しうるようなものは、ほとんど何一つとして提示されてはいない。
- つまるところ、プルーストによる内的言説の処理法は、まことに古典的なのだ。
- しかしその理由は単純ではない。プルーストには、デュジャルダンが心的な「未成物」と呼んでいるもの、言い換えるなら、言葉以前の流出物が伝える「生成状態の思考」への、きわめてはっきりとした反感が存在するのだ。
- 「意識の流れ」がその透明さと正確さとを保証してくれるような、そういう真正の内的独白などという絵空事ほど、プルーストの心理学に遠いものはないだろう。
:パースペクティヴ
- どの作中人物の視点が語りのパースペクティヴを方向づけているのか ⇔ 語り手は誰なのか
- さしあたってわれわれが、語りのパースペクティヴと呼んでいるものは、つまるところ、ある制限的な「視点」を選択すること(あるいはしないこと)から生じる、情報の制御の仕方である。
- この問題は十九世紀の末以来、物語の技法にまつわるすべての問題の中で研究の対象とされることがもっとも多かった。にもかかわらず、私見によれば、このテーマを扱った理論的研究(それらは、本質的には単なる分類に終始している)は、遺憾ながらその大半が、本書において【叙法】と呼んでいるものと【態】と呼んでいるものとを混同している。
- 言い換えるなら、どの作中人物の視点が語りのパースペクティヴを方向づけているのか、という問題と、語り手は誰なのか、というまったく別の問題とが、あるいはより端的には誰が見ているのか、という問題と、誰が語っているのか、という問題とが、混同されているのだ。
- 簡単に「視点」と「語り手」の問題を腑分けするなら、こういうことだ。「視点」は端的に、出来事が内部から把握されるか外部から観察されるかというポイントに関わる。「語り手」は、その語り手が作中人物として筋の内部に存在するのか筋には不在かというポイントに関わる。
- たとえ「視点=焦点化(視像とか視野とか視点といった術語には、あまりにも固有に視覚的なものがまとわりついているので、そうした視覚性を払拭すべく、本書において、焦点化という術語を採用する)」にまつわる技法をさまざまに駆使した物語言説があるとしても、語り手がその物語言説を生産していると看做されている場所・時間はどこなのか、という問題は技法に解消されない。
- 「語り手」の問題が前景化するもっとも分かり易い例は、作中作のような形で語りの水準が入れ子になる場合だが、それはまた後に詳しく扱うことにしよう。
- ここでは純粋に叙法にのみ関わる限定関係、言い換えると一般に「視点(=焦点化)」と呼ばれているもの、つまり内部からの分析か、外部からの観察かということを問題にすべきである。
:焦点化
- 非焦点化(全知の作者)、内的焦点化、外的焦点化
- まず第一のタイプ、つまり一般的には古典的な物語言説によって代表されるようなタイプを、非焦点化(=汎焦点化)の物語言説、もしくは焦点化ゼロの物語言説と呼びなおすことにしよう。
- 要するに全知の作者の観点に立った場合の焦点(=汎焦点)。
- 第二のタイプは内的焦点化の物語言説ということになる。この第二のタイプはさらに三つに分れる。
- 【1】内的固定焦点化。
- その典型的な例は『使者たち』で、この作品ではすべてが、三人称で指示される作中人物ストレザーの視点を通して物語られる。
- これ以上の好例として『メイジーの知ったこと』という作品もある。ここでは少女の視点だけがほぼ一貫して守られており、少女の「視野の制限」は、彼女にはその意味が理解できない大人のこの物語内容において、とくに際立った効果を発揮している。
- 【2】内的不定焦点化。
- たとえば『ボヴァリー夫人』のような作品だと、焦点人物はまず最初はシャルルで、次にエンマ、そしてもう一度シャルルへといった具合に変わってゆく。
- スタンダールの場合ともなると、その変化はこれよりもはるかに素早くて捉え難い。
- 【3】内的多元焦点化。
- この種の形式では、何人かの作中人物が、それぞれの視点を通して同一の出来事を何度も喚起することが可能である。
- たとえば書簡体小説がそうであるし、映画『羅生門』はその典型的な例である。
- さて第三のタイプだが、これは外的焦点化の物語言説ということになろう。
- この種の技法を普及させたものにヘミングウェイのいくつかの中篇小説があって、彼の作品の主人公はたしかにわれわれの眼前で行動するのだけれども、主人公の思考や感情については、われわれは決して知ることがない。
- しかし外的焦点化がこの程度にしか文学に寄与しないというわけではない。ある理由からこの種の語りの姿勢を採用する場合がある。たとえばバルザックの『従兄ポンス』。「一つの謎の存在から興味が生まれる」という原則に従って、この作品の主人公は、身許に謎を秘めた未知の人物として長々と外的焦点化によって記述され、注目を浴びるのである。
- とまれ、物語言説は必ずしも、非焦点化(全知の作者)/外的焦点化/内的焦点化のどれか一辺倒で終始一貫しているわけではない。
- 『ボヴァリー夫人』にしても、その全体にわたって内的不定焦点化が守られているわけではない。実際、辻馬車の情景が外的焦点化によって物語られている(品位を保つためにこの情景は全面的に外部の無垢な証人の視点を通して物語られる)ばかりか、例えば第二部の冒頭に位置するヨンヴィルの情景描写は、バルザックの描写の大半がそうであるように、焦点化されてはいないのである。
- こうしてみると、焦点化の公式は、必ずしもある作品の全体に関わるものではなくて、むしろ、一つの限定された物語切片にのみ関わるものだということになる。
- さらに、完全に厳密で純粋な内的焦点化もほとんどないという事実も、指摘しておかなければならない。
- 実際、この物語叙法の原則自体が含意するところをごく厳密に受け取るなら、焦点人物は決して外部から描かれてはならないし、指示されるようなこともあってはならず、そして焦点人物の思考も知覚も、決して語り手によって客観的に分析されてはならないことになる。
- しかしファブリス・デル・ドンゴへの内的焦点化と思われるような場合でも、次のように、一瞬彼が外部から眺められる描写が差し挟まれることがままある──「嫌悪感のあまりいまにも卒倒しそうになりながらも、ファブリスはためらわずに、馬からおりると死体の手をとって、それを強く揺り動かした。それから放心したかのように彼は立ちつくした。彼には、もう一度馬に乗るだけの気力があるとは感じられなかった。彼を怖がらせたのは、とりわけ、死体の見開かれた片方の目であった」。
- こうした描写が意味するのは、内的焦点化と言っても、作中人物が眺められるのは、その作中人物のまったき内部においてではない、われわれは彼の内部に没入しながらもそこから外部へと出てゆかなければならない、ということだ。
- われわれがわれわれ自身を把握するときを考えてみるとよい。その際われわれは、他者や事物などわれわれの周囲を拠り所にして自身のイメージを作り上げているのであり、自身の内部で直接に自らを把握するわけではない。他者の介在によって初めて気付くことができるような「無意識」というものさえある。
- したがって、内的焦点化という術語をわれわれが用いるとしても、それほど厳密な意味で用いるわけにはいかないだろう。内的焦点化が完全な形で実現するのは、「内的独白」による物語言説の場合のみだろう。
:焦点化・情報・解釈
- 注意せよ。焦点化を施された物語言説によって与えられる情報と、読み手がその情報に与えることを求められている解釈とは、別物である。
- これは内的多元焦点化のケースであれば(或る焦点化を施された物語言説が与える情報は、別の焦点化を施された物語言説が与える情報によって、更新ないしは相対化される)明白なことだけれども、内的固定焦点化の物語言説でも、あてはまることだ。
- つまり焦点化によって主人公の視野にまで切り取られた物語言説を、主人公(焦点人物)に同化して直接受け取らなければならない要請など、小説のどこにも存在しない。
- 『メイジーの知ったこと』が典型例だ。女主人公メイジーへの内的固定焦点化で書かれるこの小説において、主人公の見聞きすることが必ずしも主人公自身には理解できなくとも、読み手には難なく謎解きができるのである。
- 「焦点化を施された物語言説によって与えられる情報」という問題は、一人称が使用されている自伝形式における焦点化でもまた、発生する。
- というのも、その形式においては、物語情報の制御は主人公が持つ(過去の)情報との関連によって決定されたり制限されたりするのではなく、(回想する)語り手が現在持っている情報との関連で決まるからだ。
- すなわち、自伝形式の物語において、一人称が使用されているからといって、それはただちに、主人公に対する物語言説の焦点化を含意するわけではない。
- それどころか反対に、「三人称」で語られる物語言説の語り手とくらべるなら、「自伝的」タイプの語り手は、その自伝が現実のものであろうと虚構のものであろうと、主人公との同一性という事実そのものによって、自分自身の名で容喙することを、より自然にやってのける。例えば、過去の自分の「人生」を語る物語言説に現在の自分の「意見」の(つまり自分の知識の)開陳を混ぜ合わせる、トリストラム・シャンディ。
- 無論、自伝の語り手が望むのであれば、主人公への徹底した内的焦点化を指向してもよいだろう。
- とはいえ、もし自伝の語り手が、主人公が行為を行ったその時点で保持していた情報だけに記述を制限しようとするなら、その行為の後になってから語り手が入手したはずの、往々にして重要な意味を持つ情報については、これをことごとく隠匿してかからなければならなくなる。これは明らかに──自伝形式としては──不自然である。
- それこそが自然なのだ、という臆見は、単純にもっぱら視点と語りという二つの審級の混同によっていると言える。
- もちろん以上のことはあくまで自伝的物語言説に限った場合の話だ。
- 語りが物語内容と同時的である場合(内的独白・日記・書簡)、語り手の情報と主人公の情報との間に差異を設けられず、語り手に対する内的焦点化は、主人公に対する焦点化に帰着することになる。
- では、明白に自伝形式を取っている『失われた時を求めて』の場合、この語り手の情報と主人公の情報との間の差異、という問題は如何なる形で現れているか。
- 一読して『失われた時を求めて』はその大体のところが主人公に対する内的焦点化であると知れる。
- すでに述べた通り、プルーストの描写は主観性格のきわめて濃いものであり、主人公の知覚活動と常に結び付いている。プルーストの描写は厳密な焦点化を受けている。
- 言い換えるなら、それらの描写の「持続」は現実における観照の持続を決して越えることがないし、単にそればかりか、その内容もまた、観照者が実際に知覚したものを越えることは決してないということだ。
- 繰り返せば、このように主人公一人の「視点」を忠実に守り、あたかも回想している語り手など存在しないかのように物語ることは、自伝形式としては異例である。
- したがって作者プルーストは次のような困難にも行き当たることになる── 「『スワン家の方へ』末尾の何ページかで物語られている思考は、私の結論とは反対なのです。それは、もっとも客観的でもっとも信頼に値する結論へと向かう、主観的でディレッタント的にみえる一段階にすぎません。もしそこから、私の思考が幻滅にとらえられた懐疑主義であるという結論を抽き出したとすれば、それはまさしく、楽劇『パルジファル』第一幕の最後のところで、パルジファルが儀式のことを何も理解できなかったために、グルネマンツに追放されるのを見た観客が、ワーグナーの言わんとするのは心が純真であったところで何にもならないということだ、と思いこんでしまうのに等しいのです。……私はそれを、第三巻の末尾にならなければ説明しないでしょう。そのため当面は、主人公の知の欠如を厳守し、主人公の思考の進展を慎重に扱わねばならないのだけれども、この種の思考の進展を、私としては抽象的に分析するのではなく、再創造してみたかった、つまり、それに生気を吹き込んでみたかったのです。だからこそ私は、もろもろの思い違いを描き出してみせなければならないのです。もちろん、だからといって、思い違いだということは承知のうえでそれらを描写しているのだ、などと断わる必要はないと思いますが。私がそれらの思い違いを真実だと思い込んでいるのだ、ともし読者の方でそんなふうに信じてしまうとしても、それはそれで私には仕方のないことなのですから」。
- この種の焦点化につきものの同様の誤解の危険に対して、例えばスタンダールであれば脚注と手段を用いたものであった──「これは主人公の意見である。いまのところはいささか常軌を逸しているが、いずれは彼も自分の誤りを改めることであろう」。
- 主人公に対する内的焦点化という語り方がもっとも完全な形で適用されている対象は、二次的な主人公──つまり《スワンの恋》におけるスワン──の恋愛関係を処理するその仕方だ。
- ここで内的焦点化はある心理的機能すら果たしている。すなわち、主な作中人物の一人の「視点」を首尾一貫して守ることにより、相手の感情はほとんど完全な謎として残り続け、かくして、神秘的で曖昧な人格をその相手に付与してやることが、容易に可能となるわけである。
- プルーストが「逃れ去る存在」という言い方で呼ぶことになるのは、まさしくこのようにして構成された人格にほかならない。
- 先説法の形式と語り手に対する焦点化について。──『失われた時を求めて』において、主人公に対する焦点化とは異なる、語り手に対する焦点化が、明白にその姿を現わしてくるのは、順序の章で触れた「予告」が認められる時である。
- モンジューヴァンの情景を記述するに際して、そこで目撃したものはいずれ主人公の人生に決定的な影響を及ぼすことになろうと語る時、この警告を発しているのは、主人公ではなく(回想している)語り手にほかならないのであり、より一般的には、あらゆる形式の先説法についてもこれと同様のことが言えよう。
- というのも、先説法の形式は常に主人公の認知能力を越えるものであるからだ。
- それ以来私は知ることになった(=私はその事を当時知らなかった)……といったタイプの、主人公の事後の経験、言い換えると語り手の経験に属した言い回しが補完的な情報を伝えようとする際には、まさしく、予告・予想という方法が採られることとなる。
- この種の介入を、「全知の作者」に帰してしまうのは正しくない。実際、これらの介入があらわしているのは、単に、(過去時点での)主人公に未知の事実の報告にあたっては、自伝の語り手が関与するということにすぎないのだ。
- 主人公には未知であるとしても、だからといって語り手としては、主人公がそれらの事実を知るようになる時までそれに言及するのを控える義務などない。
- 主人公の限定された視野における情報と、全知全能の作者の持つ情報、という振幅の中間に、語り手の持つ情報というレベルが存在する。そして、自伝の語り手はその情報を思うがままに譲渡するのであり、とくにはっきりとした理由を認めた時にのみ、その情報を手許にとどめておくのである。自伝形式の物語言説ではそれが正当であり真実らしくもあるのだ。
- 私見によれば、語り手に帰すことが真に不可能なもののみを全知の作者に帰すべきなのである。
V 態
:語りの審級
- 作者と語り手の違い
- 焦点人物とも作者とも区別される「語り手」の存在をまず認めないかぎり、いかなる明晰な分析も不可能である。
- 例えば『ゴリオ爺さん』の語り手とバルザックとの区別。たとえそこで語り手が随所でバルザックの意見を披瀝していても、彼はバルザック自身であるわけではない。というのも、この語り手は、ヴォーケール下宿館とその女将ならびに下宿人一同を「知っている」(まさに彼らについて実際の知識を得ることのできる立場に居て、しかもそれを元に記録を残すことのできる匿名の)誰かなのであるが、その反面バルザックはといえば、それらのものを想像しているにすぎないからである。
- 一人称の作品の場合も同様だ。小説中、語り手の「私」が指し示すのは真の作者ではないし、また「ここ」と「いま」がコミットするのは作者によるその作品の執筆状況にではなく、小説の語りの空間的・時間的な状況にである。
- すでに指摘した通り、物語る行為=語りの諸問題は「視点」のそれに還元され、他方では、語り手は作者と同一視されるという誤りが蔓延して来た。
- しかし当然ながらある虚構の物語言説の物語状況は、作中人物の状況にも作者の状況にも決して還元されない、語りの審級に差配される。それを掬い上げて分析することもまた、不可欠なのだ。
- われわれは語りの審級におけるいくつかの決定的要素を逐次考察していく。すなわち、【語りの時間】、【語りの水準】、そして【人称】(語り手と語り手の語る物語内容との関係)を。
:語りの時間
- 私がある物語内容を語ろうとする際、その物語内容を私の物語る行為との関連において時間的に位置づけないですますことは、ほとんど不可能である。
- 私はその物語内容を語る以上、必然的に、現在か、過去か、もしくは未来のある一時点にそれを置かなければならない。語りの審級の時間的限定は、その空間的限定よりも明らかに大きな重要性を持つ。
- 実際、『失われた時を求めて』において、マルセル(=語り手)が自分の人生についての物語言説を生産していると見なされる場所はどこなのか、われわれはそれを知らないし、知りたいと思うことさえまずない。
- 反対に、たとえば『失われた時』の最初の情景(「就寝の悲劇」)と、「あれから何年もの歳月が流れた。のぼってくる父のろうそくの灯が映し出されるのを私が見た階段の壁も、存在しなくなってからすでに久しい」という言葉でその情景が喚起される時点との間に、どれくらいの時間が経過しているのかを知ることは、われわれにとってきわめて大きな重要性を持つ。
- 語りの審級についての時間的限定は、以下のごとく四通りに区別される。最も主要と思われる後置的なタイプは最後に説明しよう。
- 【2】前置的なタイプ
- この予報的な物語言説は未来形で語られるのが普通であるが、まあ現在形で語ったとしても一向に差し支えない。このタイプはこれまでのところ文学の面で利用されることはかなり稀だった。
- ウェルズからブラッドベリに至るまでの未来予想の物語言説でさえ、ほかならぬ予言的ジャンルに属していながら、大抵の場合、その語りの審級に実際よりもあとの日付けを与えていて、語りの審級が暗に物語内容よりもあとに位置するようにしている。
- 【3】同時的なタイプ
- 物語られる行為と同じ時点に位置する、現在形で語られた物語言説。
- 原理的にはもっとも単純。なぜなら、物語内容と語りとが厳密に一致しているために、どんな種類の相互干渉も、またいかなる種類の時間的作用も排除されてしまうからだ。
- このタイプはさらに二つの対立した方向で機能する。
- ◆物語内容に力点が置かれる場合
- 「行動主義的」でもっぱら出来事のみを語るこのタイプの、現在形に置かれた物語言説は、いかにも客観性の極致を示しているように思われる。
- ヘミングウェイ的スタイルではまだ残存してた言表行為の最後の痕跡さえ消去すれば、物語言説は透明になり、かくして物語内容だけが残る。
- ◆物語言説に力点が置かれた場合
- 内的独白体。力点は語りそのものにある。
- 【4】挿入的なタイプ
- 過去形での語りが断片化し、物語られる行為の諸時点の間に挿入される。
- このタイプの語りには複数の審級が含まれて、語りが物語内容に逆作用を及ぼすような形で絡み合うので、最も複雑だ。
- こうした事態が生じるのはとくに、複数の手紙の書き手が存在する書簡体小説である。
- このタイプにおいては、物語内容と語りとが時間的にきわめて接近していることから、出来事を語る物語言説に認められる軽度の時間的ずれ(「今日私の身にこんなことが起った」)と、思考や感情の陳述における絶対的同時性(「それについて今夜の私はこんなふうに考えている」)とを合せ持つようになっている。
- (※ドストエフスキー作品の多くに見られるのはこの挿入的なタイプではないか。)
- 【1】後置的(未来)なタイプ
- 過去形で語られた物語言説における古典的な位置であり、この位置こそおそらくは、はるかな昔からもっとも多用されているものである。
- 一度でも過去時制が用いられてあれば、語りの時点と物語内容の時点が時間的距離で隔てられていると分る。しかしそれがどれほどの距離かははっきりとは分らない。
- 「三人称」で語られた古典的物語言説では、こういう距離は概して限定されないようだ。
- このタイプの語りにおいて、物語られる行為の相対的な同時性が、現在形の使用によって明らかになることもある。
- たとえば『トム・ジョーンズ』や『ゴリオ爺さん』であればその冒頭部分が、あるいは『ウージェニー・グランデ』や『ボヴァリー夫人』であればその結尾の部分がそのような箇所である。
- 結尾における一致が生み出すこれらの効果はもっとも驚倒すべきものである(何故なら、その時点までは隠蔽されていた物語内容とその語り手の時間的同位性が、思いがけずも暴露されるのだから!)が、こうした効果が生じるについてはその根底に、物語内容と語りの時点の間に横たわる距離を、物語内容の持続そのものが次第に縮めてゆくという事実が存在する。
- とりわけ、「一人称」の物語言説の場合は、語り手は物語内容に登場する作中人物として最初から与えられているわけで、結尾における一致がほとんど慣例にさえなっている。
- 語りの審級に物語内容が漸次的に接近して行くのは『失われた時』にも見られる現象だ。とりわけプルーストは括復的情景を小説前半に押し込み、後半に行くに従い単起的情景を伸長させることで、この接近を読者に感知させている。
- では『失われた時』において、物語内容の時間は語り手の時間に追い付くであろうか? 結論から先に言えば、追い付く。
- 主人公は結局自分の物語を書かずに終るが、主人公の書く物語が1913年から順次刊行されていくマルセル・プルーストの長篇小説である必要はないのだから、主人公がマルセル・プルーストに追い付くことはなくても、『失われた時を求めて』の中で『失われた時を求めて』の主人公は『失われた時を求めて』の語り手に追い付く。そう見るべきだ。
- ところで後置的な語りの場合、物語内容の持続とは別に、語りの持続というのは、暗黙に一瞬であることが前提されている。
- 口頭による語りが二次的な水準で作品に導入される場合を除けば、物語言説を語る虚構の語りには、どんな持続も存在しないと看做されているのだ(ただし『トリストラム・シャンディ』は例外。この作品中、語り手は、書くことに一年をかけても自分が生まれた最初の日のことしか物語ることができないので、書けば書くほど書くべきことはたまってしまう、というアポリアに直面する)。
- 文学的語りに含まれる暗黙の了解の一つ、それは、語る行為は時間の広がりを持たない瞬間的な行為であるということだ。
- 時にはその行為の日付けが確定されることもあるにはあるが、しかしその行為の持続が測られることは決してない。
- 『ボヴァリー夫人』の語り手がその最後の文を書いている時に、オメー氏が名誉勲章を貰ったところだということは、われわれも知っている。しかし語り自体は固有の持続を持たない。
- 逆に、 同時的もしくは挿入的な語りは、語りの持続と、物語内容の持続との関係を必須の前提とする。
:語りの水準
- 作品全体を第一次の物語言説と看做してみる。その第一次の物語言説に含まれている出来事は、作品そのものの物語世界内の出来事である。
- そして、物語世界内でさらに語られる物語言説を、第二次の物語言説と呼ぼう。
- この第二次物語言説の語りの審級は、当然ながら、物語世界内に位置する。第二次物語言説は、とくに口頭による生産によるとは限らず、それは物語世界内の誰かによる回想録や手紙のように書かれたテクストでありうるし、作品中の作品という形をした虚構の文学テクストでもありうる。たとえば『ドン・キホーテ』の「無分別な物好き」。
- 第二次物語言説と、それが挿入されている第一次物語言説との関連で、もっとも一般的なのは、第二次物語世界の出来事と第一次物語世界の出来事が因果的に結びつく場合だ。
- この場合、第二次物語言説はいわば説明的機能を担う。ただし単なる説明的後説法とは異なり、いまの場合この物語言説を引き受けるのは、語り手ではなくて、一人の作中人物でなければならない。そして、その作中人物の語る物語内容は、他の作中人物についての物語内容であろうと(『嵐が丘』)、あるいは自分自身についての物語内容であろうと(『ドン・キホーテ』におけるカルデーニオ)、いずれでもかまわない。
- これらの物語言説はすべて、明示的にであるか否かはともかく、「いかなる出来事が現在の状況をもたらしたのか?」といった類の疑問に答えるものだ。
- 第二次物語言説は非常に古典的とさえ言える。
- プルーストもまたそれに自覚的であった作家である。『逃げ去る女』のあるページでは次のようにほのめかされている──「えてして小説家たちが序文のところで主張するのは、彼らがどこかの国を旅行しているうちに誰やらと知り合いになり、ほかならぬその人がある人物の一生を彼らに語ってきかせた、ということだ。そこで彼らは、偶然のその知己に語ってもらうことにするのだが、その人物が彼らに語ってきかせる物語こそ、とりもなおさず彼らの小説だ、というわけである。たとえばファブリス・デル・ドンゴの一生にしても、パドーヴァのある教会参事会員がスタンダールに語ってきかせたものなのだ」。
- こうした「古風なやり方」に逆らうかのように、『失われた時を求めて』では第二次物語言説が一貫して排除されている。
- まず第一に、収集された原稿を発表するといった形の虚構は消滅して、その代りに直接的な語りが姿を現わす。主人公=語り手はこの直接的な語りにおいて、自己の語る物語言説を文学作品として公然と提示し、かくして読者大衆とじかに接している(虚構の)作者の役割を引き受ける。
- だからこそ、自分の物語言説を指示するにあたって、「この書物」とか「この作品」といった言い方がなされることになるわけだし、「私」という代りに複数形の「われわれ」という語法や読み手への呼び掛けがおこなわれたりすることにもなるのである。
- 「《そんなことばかりきかされても──と読者は言われることであろう──(……)のことはわれわれには一向にわからないではないか》実際、読者よ、これは随分と遺憾なことだ。そして、読者が思っておられる以上に、悲しいことでもある……《結局、アルパジョン夫人はあなたを大公に紹介してくれたのか?》そうではない。だが、読者には口を出さないでもらって、ここは私に、私の物語の続きを語らせていただきたい。」
- 第二に、第二次物語世界が挿入されることは、『失われた時』の場合、ほとんどまったくと言ってよいほど見受けられない。
- その代り、『失われた時』の他の至るところで変ることなく用いられているのは、いわゆる語り手の水準の節約である。すなわち、原理的には第二次の物語言説であっても、ただちに第一次の水準に還元され、その起源がどうであろうと主人公=語り手によって引き受けられるのだ。
- 例えば、『花咲く乙女たち』の最後の数ページは、以下のようにパリに戻った主人公の回想を通して、バルベックのよく晴れた朝のことが喚起される──「バルベックのことを思うたびに、ほとんど決まって目の前に浮かび上がってきたもの、それは、美しい季節の間は毎朝(……)した瞬間であった」──にもかかわらず、この喚起はその後、そもそも主人公の回想がきっかけであったことを忘れて、最後の一行に至るまで、第一次的な物語言説の装いで、独自の展開をすることになる。
- その結果として多くの読み手は、こうした喚起を生み出した空間的・時間的な迂回には気が付かなくなり、これは単に、語りの水準の変化を伴わない等位物語世界の「あと戻り」にすぎないと思い込んでしまうのだ。
- けれどもとりわけ忘れてはならないのは、そもそも《コンブレー1》はその全体が不眠の夜の夢想であり、《コンブレー2》にしてもマドレーヌ菓子の味わいが惹き起した「無意志的回想」であるということ、──しかしそれらの回想はただちに最終的な語り手によって第一次物語言説として引き受けられていること、それである。
- さらにもっと典型的な事例は、無論《スワンの恋》のそれだ。
- これは当然、スワンか誰かによって語り手に報告された二次的な物語言説のはずだ。しかし、語り手はこれをその人物には語らせず、昔語ってきかされた物語の語り手自身による回想、という形で《スワンの恋》を導入する。
- 《スワンの恋》はまさしくスワンの視点に託して語られるのだが、しかし読み手があまり語り手のことを忘れたままにならぬよう、語り手の存在を示す標識は随所に導入されているのである。
- 仮に《スワンの恋》をスワン自身が物語ったとすれば、語りの審級の統一は危うくなったであろう。
:人称
- 異質物語世界的、等質物語世界的、自己物語世界的
- 「一人称の、あるいは三人称の物語言説」という言い方にわれわれは抗議する。
- こうした一般的な言い回しは、物語状況の事実上は不変の要素を、まるで可変的なものであるかのように強調しているという意味で、不適切だ。
- われわれの日常の言表行為のどんな主体もそうであるように、語り手は、自分の語る物語言説においては常に「一人称」としてしか存在し得ない。
- したがって、小説家の選択とは、三人称か一人称かという形式のいずれかを選ぶということではなく、次に挙げる二つの語りの姿勢のうち、どちらを選ぶかという点にある。すなわち、物語内容を語らせるにあたって、作中人物の一人を選ぶか、それともその物語内容には登場しない語り手を選ぶか、という選択である。
- 「物語内容を語らせるにあたって、作中人物の一人を選ぶ」場合、語り手と物語内容の作中人物の一人が、人称のうえで一致する。(【2】)
- 「物語内容を語らせるにあたって、その物語内容には登場しない語り手を選ぶ」場合、語り手はいつでも語り手として物語言説に介入できるのだから、たとえ、始終三人称で語られていたとしても、定義上、潜在的には一人称でおこなわれていると看做せるのである。(【1】)
- どのような文法形式を選ぶかは、単に機械的な選択にすぎない。
- 物語言説は以下の二つのタイプに分類されよう。
- 【1】異質物語世界の物語言説。
- 語り手が自分の物語る物語内容の中に登場しないタイプ。
- 【2】等質物語世界の物語言説。
- 語り手が自分の語る物語内容の中に、作中人物として登場するタイプ。
- この場合、さらに、語り手がその物語言説においてどれだけの存在を占めるかが区別され得る。例えば『嵐が丘』の場合、語り手ロックウッドは、二次的な役割──大抵は観察者や証人の役割──しか演じていない。他、『グレート・ギャッツビィ』のキャラウェイ、ホームズに対するワトソン博士、等々。
- 対して例えば、『暗夜行路』の語り手時任謙作は、自分の語る物語言説において主役であり、平凡な端役などではない。
- この種の物語言説を、より強度の等質物語世界を表すものとして、「自己物語世界的」と呼んで差し支えない。
- 基本的にこれらの分類は、小説中不変と看做される。
- 自己物語世界の困難
- 『失われた時を求めて』という作品は根本的に自己物語世界の物語言説だ。主人公=語り手が語りの機能の特権を誰かに渡すようなことは一度もない。
- しかし重要なのは、こうした分類ではなく、第一にはいかなる方向転換がそのような形式を選ばせたのかということだ。
- 周知のように前作『ジャン・サントゥイユ』は異質物語世界的な形式に置かれていた。つまり「ジャン・サントゥイユ」の物語を、本質的にその物語世界に関わってこない「作家C」が物語る、という形式になっている。
- その迂回の後で『失われた時』は、「主人公=語り手」の生活を「主人公=語り手」本人に物語らせる形式を採った。これは何故か。
- 『ジャン・サントウィユ』(語りの水準の多元化+異質物語世界的)から『失われた時と求めて』(語りの水準の一元化+等質物語世界的)への方向転換、ここにはプルーストが両立させようとした二つの要請が背景にある。
- 第一の要請は、主人公の経験と語り手の過去を一致させること。
- この一致があってはじめて、語り手は物語に介入している印象を与えることなしに、主人公の経験に注釈を加えることが可能になる。
- 主人公の声、語り手の声、そして情報を与えて説得すべき読者大衆の方向を向いた作者の声が渾然一体と化しうるような、自己物語世界の直接的語りが最終的に採用される所以だ。
- 第二の要請は、きわめて広大な物語内容を作品にもたらすこと。
- 主人公の直接的知識の範囲をしばしば越えるばかりか、たとえば《スワンの恋》のように語り手の知識にすら容易におさまらない社交界の消息の全体を、自伝形式の物語言説に統合する、という課題。
- そのため、この小説の物語内容は、主人公の内的経験から大幅にはみ出しているばかりか、時にはほとんど「全知」の語り手を要求することさえある。 通常の自己物語世界的な作品と較べての『失われた時を求めて』の新奇性は、多くがここに由来する。
- プルーストは、まず第一には、異質物語世界の物語言説の、あまりにも隔たりの大きな「客観性」には満足できなかった。というのもこうした「客観性」は、「行為」から、つまり主人公の経験から語り手の言説を遠ざけてしまうからだ。
- 同様にまた、プルーストの企図は、自己物語世界の物語言説の「主観性」にも満足することはできなかった。この種の「主観性」があまりにも個人的であるばかりか、言わばあまりにも窮屈すぎて、主人公の経験から大幅にはみ出した内容を、真実らしさをそこなわずには把握することができないからだ。
- しかしプルーストはどちらかと言えばやはり、「私」の経験にこだわったのだと思われる。最終的に『失われた時を求めて』にはプルーストの経験を越えるものは存在せず、それらがスワン、サン=ルー、ベルゴット、シャルリュス、ヴァントゥイユ嬢、ルグランダンをはじめとする大勢の人々に離散化されているのだから。
- 例えばベルゴットの最期が、プルースト自身が一九二一年五月にジュ・ド・ポーム美術館で経験したことを下敷きに書かれているのは疑い得ない。
:語り手の機能
- 語り手の機能は、物語内容を語るという行為に尽きるのではない。
- プルーストの語りの特殊性を正しく評価するために、それらの諸機能を検討する必要がある。
- 【1】語りの機能。
- 物語内容に関係する機能。あたりまえだが、この機能を逸したら語り手はその資格を失う。また、語り手としては、自己の役割をひたすらこの機能だけに絞ることもできる。
- 【2】自己言及の機能。
- 語り手はメタ言語的に自らの物語テクストに言及、解説することができる。
- 【3】呼び掛けの機能。
- 語り手は読み手に何らかの接触なり対話なりを確立しようとすることができる。
- トリストラム・シャンディのタイプに属する語り手は、いつでも読者大衆の方に顔を向けていて、自分の語る物語言説そのものよりも、自分が読者大衆との間に保つ関係の方に気をまわしがちだ。
- 【4】注釈の機能。
- たとえば語り手が、自分の情報の源泉や、自分自身の回想の正確度、あるいはしかじかのエピソードが語り手自身の心中に目覚めさせる感情を表明したりする場合が、この機能に相当する。この機能は、自分の語る物語内容に対して語り手がどのように考えているか、介入して述べ、時には物語られる行為についての権威ある注釈という、より教訓的な形式をも採る。
- 周知の通りバルザックは、作中人物の行動の動機を説明し正当化するために、この機能を大いに利用した。
- 言うまでもなく、この分類は厳密なものではない。いずれの範疇も他の範疇と暗黙裡に関係し合っている。これはむしろ、いずれに力点を置き、どこに比重をかけるかの問題なのだ。
- そして『失われた時を求めて』の語り手は、言うまでもなく、第一の語りの機能よりも多くの機能を果たしている。読み手への話し掛け、予告や再説による自己言及、源泉の指示、記憶の証明、等々。
- しかしその中でもとりわけ、われわれが注釈機能と呼んだもの(注釈を加え教訓的言説を語るという役割)を、プルーストの語り手がほぼ全面的に独占しているということは特記される値うちがある。
- プルーストは、マルセル以外にどんな「代弁者」も持とうとはしなかったのである。
- スワンとか、サン=ルーとか、あるいはシャルリュスといった人物たちは、彼らがどれほどの知性の持ち主であっても、所詮は観察の対象にすぎないのであり、真理を伝える代弁者ではない。ベルゴットからフランソワーズ、そしてシャルリュスからエルスチールに至るまで、およそありとあらゆる人間は、彼の前に一つの自然として存在しているにすぎない。つまり彼らは、思考のひき起こす役割こと与えられているものの、その思考を表現する役割までは委ねられていないわけだ。
- 結局のところ、マルセルはマルセルなりの、一独学者にほからないのである。
- 『失われた時』における語り手の思想的注釈には、以上の結果として、誰も異義を申し立てることはできなくなっている。そこでは「作者が語る」言説の増大ぶりが示される。
- これこそは、知的唯我論の極端なケースである。