●『白痴』上506-508頁
第二篇第五章
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三時半どころか四時になっても、コーリャはあらわれなかった。公爵は外へ出ると、気のむくまま機械的に歩きだした。初夏のペテルブルグには、ときどきすばらしい天気──明るくて、からりと暑くて、静かな日和がつづくことがある。その日もちょうどあつらえたように、こうしたまれにみる日和の一日であった。しばらくのあいだ公爵は、これという目的もなくぶらぶら歩いていった。この市は彼にとってほとんど馴染みがなかった。彼はときどき誰かの家の前の十字路や、広場や、橋の上などに立ちどまった。また一度は、とある菓子屋へ寄って、ひと休みした。ときには、大きな好奇心にかられながら通行人をながめまわしたりした。しかし、通行人にも気づかず、自分がどこを歩いているのかも知らずにいるときのほうが多かった。彼は苦しいほど緊張した不安な状態にあったが、それと同時に、たったひとりでいたいという並々ならぬ欲求をも感じていた。彼はたったひとりだけになって、たとえどんな小さな出口すら求めず、この悩ましいまでの緊張感に、受身の態度で没入したいと願った。自分の心と魂にどっとふりかかってきた多くの問題を嫌悪して、それを解決しようという気にもなれなかった。《それがどうしたのだ、なにも自分が悪いわけじゃないじゃないか?》彼はほとんど無意識のままひとり心の中でつぶやくのであった。
もう六時になろうというころ、気がついてみると彼はツァールスコエ・セロー鉄道のプラットホームに立っていた。たったひとりでいることがじきに耐えがたくなったのである。新しい衝動が激しく彼の心をとらえ、その魂が閉じこめられて憂鬱に悩んでいた暗闇が、一瞬にして輝かしい光明に照らしだされたのであった。彼はパーヴロフスク行きの切符を求め、耐えがたい思いで一刻も早くそこへ行こうと急いだ。しかし何ものかが彼につきまとって悩ませていたことはもちろんである。しかも、その何ものかは彼が考えたがっていたかもしれぬあの幻想ではなく、現実の世界であった。彼はもう汽車へ乗りこんで席につこうとしたとき、いきなりたったいま買ったばかりの切符を床へたたきつけ、当惑した物思いに沈んだ様子で、また停車場を出てしまった。しばらくたってから彼は往来で、ふいに何事かを思いだしたふうであった。何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体を思いおこしたみたいであった。彼は自分がある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識したのである。それはもう長いことつづいているにもかかわらず、いまのいままですこしも気づかないでいたのだった。もう何時間も、まだ《はかりや》にいた時分から、いや、ひょっとしたら《はかりや》へ行く前から、彼は自分のまわりに、何ものかを捜しはじめたのであった。ときには長いこと、半時間も忘れることがあったが、やがていきなり不安そうにあたりを見まわして、身のまわりを捜しまわすのであった。
この引用部で主人公は作中もっとも強烈な心理の激動を経験しているにもかかわらず、文体としては沈着だ。それを可能にしたのは登場人物から目を離さずにしかし微妙な距離を取り続ける語り手の位相による。
第一段落におけるムイシュキンの描き方を見てみよう。一貫しているのはまるで他人事のような描き方だ。あたかも語り手は興信所の人間としてムイシュキンを秘かに尾行しながらムイシュキンの様子をリアルタイムで報告しているかのようだ。「しばらくのあいだ公爵は、これという目的もなくぶらぶら歩いていった。」「彼はときどき誰かの家の前の十字路や、広場や、橋の上などに立ちどまった。」「ときには長いこと、半時間も忘れることがあったが、やがていきなり不安そうにあたりを見まわして、身のまわりを捜しまわすのであった。」この三人称を一人称に直してしまうと違和感がある。「しばらくのあいだ」「ときどき」「ときには長いこと」という指標が外部からの観察の報告のような印象を与えるためだろうか。ムイシュキンが自分で意識している自分の姿というよりも、他者がこっそり観察しているだけでムイシュキン自身では意識していないないし意識できない(記憶にとどめない──一瞬意識することがあるとしてもすぐ忘れてしまう)仕種・行動を報告している風に読めるからだろうか。しかしそれでいてこの尾行者は、ムイシュキンの内面まで見透かして観察できる能力を持っているかのようなのだ。「彼は苦しいほど緊張した不安な状態にあったが、それと同時に、たったひとりでいたいという並々ならぬ欲求をも感じていた。」──こんな事態まで報告することのできる尾行者とは一体何なのか? この超能力の尾行者の位相こそ、登場人物の心理描写のための徹底したリアリズムを突き詰めた末に、「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせたドストエフスキーの文体の到達点か? この尾行者の報告する「《それがどうしたのだ、なにも自分が悪いわけじゃないじゃないか?》」というムイシュキンの内語も、ムイシュキン自身の自意識が自己対話の末に排出したものというよりも、彼の無意識に強いられて「思わず」飛び出したもののように読める。それも文体の効果か。ちなみにここでこの尾行者がリアルタイムな観察=情景法だけでなく「初夏のペテルブルグには、……静かな日和がつづくことがある」「この市は彼にとってほとんど馴染みがなかった」と括復法的記述で介入していることにも注目しよう。
この「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相の効果は、第二段落ではさらにはっきりする。ここではムイシュキンの内面の変化がさらに追及され、「何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体」「自分がある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識した」──といった形で、黙説法的にサスペンスを作り出しているのだが、やはり語りの他人事めいた沈着な調子は一貫している。たとえば「何ものかが彼につきまとって悩ませていたことはもちろんである」の一文など、ムイシュキンの一人称に変換することは不可能だ(「……ことはもちろんである」と読者を説得させようとしているのは、ムイシュキンであるはずがない)。だがもっと端的なのは「ふいに何事かを思いだしたふうであった。」「正体を思いおこしたみたいであった。」「いや、ひょっとしたら《はかりや》へ行く前から、彼は自分のまわりに、何ものかを捜しはじめたのであった。」という文にあらわれる「ふうであった」「みたいであった」「ひょっとしたら」というムイシュキン自身のことに関する概言のムードだ。これはあからさまに(ムイシュキンとは別人の)語り手がムイシュキンを外部から眺めて推測していることのメルクマールではある。とはいえ注意すべきは、ここで語り手が推測しているのはムイシュキンの内面の変化についてであることだ。だからさらに考える必要がある。この第二段落全体の流れとしては、ムイシュキンの自意識にとっては未知の「新しい衝動」「(彼につきまとって悩ませていた)何ものか」「何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体」があたかも「ふいに」つまり不意打ちに彼を襲って彼を動揺へ巻き込んでいくといったものになっている。それは、彼の自意識ではなく無意識に照準を合わせて観察・報告する尾行者だからこそ物語得た主人公の心理の変化だと言えるけれど、まさにそれが無意識上の変化であるがゆえに、もともとムイシュキンの自意識に入って来れるものではない領域での変化がゆえに、ムイシュキン自身にとっても自分が「思い出し」たり「思いおこし」たりしていることが確かなこととして断定できない状態に陥ってしまっている。現に、ここで彼は、いまのいままで自分が「すこしも気づかないで」(=無意識に)「ある仕事」に没頭していたことをようやくはっきり意識するのだが、それがいつからのことなのかは、断定できないのだ。したがって、ここで語り手があくまで他人事のようにムイシュキンの内面を語らざるを得ないのは、ムイシュキン自身にとっても自分(の無意識)が他者のように感じられていることからの必然の帰結なのかもしれないということ。
「その登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相は、自分自身にとってさえ自分が他者のように感じられるという主人公の「分裂」をリアルに描くため養成された小説的技法であるか。この尾行者が超能力によって見通しているのは主人公の心理のすべてではなくて、彼の自意識と無意識が引き起こす分裂の軋みをこそ特に見ているのか。そしてその無意識というのはしばしば、「彼が考えたがっていたかもしれぬあの幻想ではなく現実の世界」──すなわち、「現実」そのものである。
小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか?
●『罪と罰』上185-188頁
第二部第二章
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彼は石の上にかがみこむと、石の上部に両手をかけてしっかりとつかみ、身体中の力をふりしぼって、石をひっくりかえした。石の下には小さなくぼみができていた。彼はすぐにポケットの中のものを全部そこへおとしこみはじめた。財布がいちばん上になったが、それでもまだくぼみはいっぱいにはならなかった。それから彼はまた石に手をかけると、ひところがしで元のところへ押したおした。石はほんの心持ち高くなったようだが、いいぐあいに元の場所におさまった。彼は土を足でかきよせて、石のまわりを踏みかためた。跡はぜんぜんわからなくなった。
そこで彼は門を出て、広場のほうへ歩きだした。またしても、さっき署で経験したように、がまんできないほどのはげしい喜びが、一瞬彼をとらえた。《証拠はいん滅した! この石の下をさがそうなんて、まさか誰も思いつくまい! あの石は、おそらく、あの家を建てたときからあそこにあったにちがいない、まあこれからもそれくらいの年月はあのままになっているだろう。よしんば見つかったところで、誰がおれを怪しもう? すべては終った! 証拠がない!》そこで彼はにやりと笑った。そう、彼はあとで思い出したのだが、それはひくひくひきつったような、小きざみな、音もない長い笑いだった。彼は広場を通りすぎる間、のべつ笑いつづけていた。ところが一昨日あの少女に出会ったK並木通りに入ると、彼の笑いはさっと消えた。別の考えが彼の頭にしのびこんできたのである。あのとき、少女が立ち去ってから、坐りこんで、あれやこれやもの思いにふけったベンチのそばを通るのが、急にむかむかするほどいやなことに思われた、そしてあのとき二十コペイカ銀貨をやったあのひげの巡査にまた会うのも、たまらなくつらい気がした。《あんなやつ、くたばっちまえ!》
彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、歩いていた。彼のすべての思考がいまはある重大な一点のまわりをまわっていた、──そして彼は自分でも、それがたしかに重大な点であり、そしていま、ほかならぬいま、その重大な一点とまともに直面したことを感じていた、──しかもそれはこの二ヵ月来はじめてのことでさえあった。
《何もかも、だめになっちまえ!》彼は不意に限りない憎悪の発作にかられて考えた。《ふん、できたことは、できたことだ、あんな婆ぁや新生活なんか、勝手にしやがれだ! ああ、これはなんと愚かしいことだ!……おれは今日、どれほど嘘をついたり、卑劣なまねをしたことか! さっきはあの犬畜生にもおとるイリヤ・ペトローヴィチにこびたり、へつらったり、なんという恥知らずだ! だが、しかし、それもさわぐほどのことはないさ! あんなやつらはどいつもこいつも、唾をはきかけてやりゃいいんだ。おれがこびたり、へつらったりしたことだって、そうさ。けたくそ悪い! そんなことじゃない! ぜんぜんそんなことじゃないんだ!……》
彼は不意に、立ちどまった。新しい、まったく思いがけぬ、きわめて単純な一つの疑問が、一時に、彼を惑乱させ、苦しいほどの驚愕につきおとしたのである。
《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、意識的になされたとしたら、実際に一つの定められた確固たる目的があったとしたら、いったいどうしていままでおまえは財布の中をのぞいても見なかったのだ、何を手に入れたか知ろうともしないのだ? なんのためにすべての苦しみを引き受けて、わざわざあんな卑劣な、けがらわしい、恥ずかしい真似をしたのだ? そうだ、おまえはついいましたがあれを、あの財布を、やはりまだ見ていないほかの品々といっしょに川へ捨てようとしたのではなかったか……それはいったいどういうことだ?》
そうだ、そのとおりだ。すべてそのとおりだ。しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない。しかも昨夜川に捨てようと決めたときは、なんのためらいもひっかかりも感じなかった、そうするのが当然で、ほかに方法があり得ないような気がしたのだった……そうだ、彼はそんなことはすっかり承知していたし、すっかり理解していたのだ。しかもそうきめたのは、おそらく昨日はあそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ……たしかにそうだ!……
《これはおれが重い病気にかかっているせいだ》結局彼は暗い気持でそう決めた。《おれは自分で自分をおびやかし、苦しめながら、自分のしていることが、わからないのだ……昨日も、一昨日も、このところずうっと自分を苦しめつづけてきた、──病気が直ったら……自分を苦しめることもなくなるだろう……だが、すっかりは直りきらないとしたら、どうだろう? ああ! こんなことはもうつくづくいやだ!……》彼は足をとめずに歩きつづけた。彼はなんとかして気を晴らそうとあせったが、どうしたらいいのか、何から手をつけたらいいのか、自分でもわからなかった。ある一つの、抑えることのできない感覚が彼をとらえて、刻一刻ますます強くなっていった。それは目に見えるまわりのいっさいのものに対する限りない、ほとんど生理的といえる嫌悪感のようなもので、かたくなで、毒々しく、憎悪にみしていた。行き会う人々がことごとくいやだった、──顔も、歩く格好も、動作も、何もかも虫酸がはしった。もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はものも言わずに唾をはきかけるか、もしかしたらかみついたかもしれぬ……
語り手はどのように登場人物を描き出すべきか。この引用部にドストエフスキーの独創性はほぼ出揃っていると言っていい。
簡潔に言うと「その登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相こそドストエフスキーの文体の精髄だと思う。引用部の叙述のすべてを支配しているのは、ラスコーリ二コフの内面まで見通すことができるが、あくまでラスコーリニコフとは別の匿名の観察者=尾行者として存在する語り手のポジションだ。詳しく見て行こう。
まずは「そこで彼はにやりと笑った。そう、彼はあとで思い出したのだが、それはひくひくひきつったような、小きざみな、音もない長い笑いだった。」の一節。ここでラスコーリニコフの自意識においては自分はにやにや笑ったということしか意識されていない。ところがその笑いは、匿名の観察者=尾行者からすればひくひくひきつった笑いとして描写されるものなのだ。このラスコーリニコフ自身の自意識に映っているものと実際の表情描写との分裂を描くために、一工夫して「彼はあとで思い出したのだが……」という回顧的な距離感を導入しているが、これは単に尾行者の視点を加えるための文体的詐術と考えていい。
このようなラスコーリニコフ自身の自意識⇔観察者・尾行者の視点という二つの側面の分裂を持ち込むことによって可能になるのは、無意識によって翻弄される主人公というプロット展開である。実際、この引用部の一連の情景でラスコーリニコフがやっていることは歩いたりちょっと立ち止まったりしているだけだ。しかしラスコーリニコフが意図したことではないが、つまり事故として彼の無意識からさまざまな「別の考え」が浮び上がってはぶつかってきて、ついに或る重大な一点が引力を増して彼の思考力をすべて引き付けてしまう、そしてまた事故的に(「不意に、新しい、まったく思いがけぬ……」)それからの連想である一つの疑問が浮かび、それが彼を苦しいほどの驚愕に突き落とす、そこから立ち直ることができず、根拠不明の「抑えることのできない感覚」「目に見えるまわりのいっさいのものに対する限りない、ほとんど生理的といえる嫌悪感」に強制的に彼の意識が支配されてしまう、……というドラマこそがこの引用部の肝である。このドラマを描き切るために内面を見通す観察者・尾行者の位相が要求されたわけだ。単なる神の視点からでも客観的視点からでもこんなダイナミズムは描けない。
観察者・尾行者? そう、この引用部でラスコーリニコフ自身の内語はどんどん激しくなっていくが、語り手(地の文)はつねに沈着で冷静にラスコーリ二コフの状態を観察しつづけていることに注目せよ。例えば「彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、……」といった「……したように」の概言は明らかにラスコーリニコフとは別の観察者からの視点を表しているし、この観察者=尾行者は、わざわざ「しかもそれはこの二ヵ月来はじめてのことでさえあった」と時間幅を過去へ広くとった文脈にまで言及して──時間的な前後関係も正確に把握した上で──丁寧に説明してくれるのである。或いは「もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はものも言わずに唾をはきかけるか、もしかしたらかみついたかもしれぬ」と想像的仮定をして観察対象の心理状況を敷衍してくれたりもする。随分と有能な報告者ではないか。引用部でのラスコーリニコフは《ふん、できたことは、できたことだ、……》《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、……》と長い内語を連発していて、しかもそのどれもが「不意に」発作的に湧き出てきたもので内容に繋がりがないどころか方向性がバラバラなのだが、それが綺麗につながって読めるのは、彼の無意識の蠢きが自意識にどのように作用してくるかを逐一観察している冷静な超能力者=尾行者=語り手がいるからにほかならない(この手法は、同じように内語において饒舌な主人公を扱うルバテ、セリーヌには見られないもの)。
それだけではない。「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の信じられないような独創性が発揮されるのは、第七段落目の地の文だ。すべてを再引用しよう。「そうだ、そのとおりだ。すべてそのとおりだ。しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない。しかも昨夜川に捨てようと決めたときは、なんのためらいもひっかかりも感じなかった、そうするのが当然で、ほかに方法があり得ないような気がしたのだった……そうだ、彼はそんなことはすっかり承知していたし、すっかり理解していたのだ。しかもそうきめたのは、おそらく昨日はあそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ……たしかにそうだ!……」──これは一体何か。一見すると、その直前にあるラスコーリニコフの内語に似たような言い回しが出てくるので(《そうだ、おまえはついいましがたあれを……》)ラスコーリニコフの内語がそのまま地の文に体験話法的に流し込まれたもののように感じられる。だが果してそれだけだろうか。「無意識に照準を合わせた」ドストエフスキーの語り手の性格から判断するに、この地の文は、ラスコーリニコフの自意識の思惟をそのまま追ったものではなく、むしろラスコーリニコフが自分に「言語化して」言ってきかせた思考ではないが、無意識が瞬時に処理してしまった「たしかにそうだ!」に至る思考のプロセスを敢えて地の文で展開してみせたということではないか。それゆえにこの第七段落は、ラスコーリニコフの肉声そのままと考えると若干違和を感じさせる「しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない」といったくだくだしい論理的な文や、「しかもそうきめたのは、おそらくは昨日あそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ」という思弁的推論の文が組み込まれているのではないか。すなわち匿名の観察者による沈着で冷静なアクセントが!
地の文で登場人物の無意識の思考のプロセスを観察し言語化して展開する? 前代未聞。ドストエフスキーの語り手=観察者=尾行者、ヤバすぎる。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
ところで、「彼は放心したように、呪いの目をあたりへなげながら、歩いていた。」という文章の中の「放心」について。放心状態とは生活者の注意からはかえって漏れ落ちる兆候的現象に「不意打ち」されやすい状態だと言える。つまりは自意識の外部から侵入してくる何ものかに対する無防備を表わす。ラスコーリニコフやムイシュキンがたびたび放心状態に陥るのは、プロット上の必然と言っていい。
●『罪と罰』下82-86頁
第四部第四章
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「ねえきみ」と彼はしばらくするとソーニャのほうを向いて、つけ加えた。「ぼくはさっきある無礼者に言ってやったよ、やつなんかきみの小指にも値しないって……それからまた、今日はもったいなくも妹を、きみと並んでかけさせてやったって」
「まあ、あなたはそんなことをそのひとたちにおっしゃいましたの! しかも妹さんのまえで?」とソーニャはびっくりして叫んだ。「わたしと並んでかけさせたって! もったいないって! なんてことを、わたしは……恥ずべき女ですわ、ひじょうに、ひじょうに罪深い女ですわ! ああ、あなたはなんてことを言ってくれたんでしょう!」
「ぼくがきみのことでそう言ったのは、恥とか罪のためではない、きみの深い大きな苦悩のためだ。きみはひじょうに罪深い女だというが、たしかにそのとおりだ」彼は自分の言葉に酔ったようにこうつけ加えた。「きみが罪深い女だという最大の理由は、いわれもなく自分を殺し、自分を売りわたしたことだ。これが恐ろしいことでなかったらどうかしてるよ! きみは自分でこれほど憎んでいる泥沼の中に生きながら、同時に自分でも、そんなことをしても誰の助けにもならないし、誰をどこからも救いだしはしないことを知っている。ちょっと目を開ければわからないはずがない。これが恐ろしいことでなくて何だろう! さあ、ぼくは、きみに聞きたいんだ」と彼は激昂のあまりほとんどわれを忘れかけて叫んだ。「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ? いきなりまっさかさまに河へとびこんで、ひと思いにきりをつけてしまうほうが、どれほど正しいか、千倍も正しいよ、よっぽど利口だよ、そう思わないか!」
「じゃ、あのひとたちはどうなります?」とソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。
彼はその目の中にすべてを読みとった。つまり、実際に彼女自身すでにこの考えがあったのだ。おそらく、何度となく真剣に、どうしたらひと思いにかたがつけられるかと、絶望にしずみながら思いめぐらしたにちがいない。そしてそれがあまりにも真剣なために、いま彼の言葉を聞いてもすこしもおどろかないほどになっていたのであろう。彼女は彼の言葉の残酷さにさえ気づかなかった(彼の非難の意味も、彼女の汚辱を見る彼の特別な視線の意味も、むろん、彼女は気づかなかった。そしてそれが彼にははっきりわかった)。しかし彼は、このいやしい汚辱の境遇を恥じる思いが、もうまえまえから、どれほどのおそろしい苦痛となって彼女をさいなみつづけてきたかを、はっきりとさとった。いったい何が、彼は考えた、いったい何が、ひと思いに死のうとする彼女の決意を、これまでおさえてくることができたのだろう? そしていまはじめて彼は、父を失った哀れな小さな子供たちと、肺を病み、頭を壁にうちつけたりする、みじめな半狂人のカテリーナ・イワーノヴナが、彼女にとってどれほどの意味をもっているかを、はっきりとさとったのである。
しかしそれと同時に、あんな気性をもち、多少とも教育を受けているソーニャが、ぜったいにこのままでいられるわけがないことも、彼にはわかっていた。河に身を投じることができなかったとすれば、いったいどうしてこんなに長いあいだ気ちがいにもならずに、こんな境遇にとどまっていることができたのか? これはやはり彼にとって疑問だった。もちろん彼は、ソーニャの境遇が、たったひとつの例外というにははるかに遠いのはくやしいが、とにかく社会の偶然な現象であることは知っていた。しかしこの偶然そのものが、このある程度の教育とそれまでの生活のすべてが、このいまわしい道へ一歩ふみだしたところで、たちまち彼女を死へ追いやることができたはずではなかったか。彼女を支えていたのは、いったい何だろう? まさか淫蕩ではあるまい。この汚辱は、明らかに、機械的に彼女にふれただけだ。ほんものの淫蕩はまだ一しずくも彼女の心にしみこんでいない。彼にはそれがわかった。現に彼女は彼のまえに立っているではないか……
《彼女には三つの道がある》と考えた。《運河に身を投げるか、精神病院に入るか、あるいは……あるいは、ついに、理性をにぶらせ、心を石にする淫蕩な生活におちこむかだ》最後の想定は彼にとってもっともいまわしかった。しかし、彼はもともと懐疑的だし、若いし、理論的だった。だから残酷でもあったわけで、最後の出口、つまり淫蕩な生活がもっとも確率が高いことを、信じないわけにはいかなかった。
《だが、いったいこれが本当だろうか》と彼は腹の中で叫んだ。《まだ魂の清らかさを保っているこの女が、そうと知りながら、ついには、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へひきこまれて行くのだろうか? この転落がもうはじまっているのではなかろうか、だからこそ罪がそれほどいまわしいものに感じられず、それで今日まで堪えて来られたのではなかろうか? いや、いや、そんなはずはない!》と彼は、さっきのソーニャのように、叫んだ。《今日まで彼女を河にとびこませなかったのは、罪の意識だ、あの人たちだ、……じゃ、今日まで気が狂わずにいられたのは……だが、気が狂わなかったと、誰が言った? 果していまノーマルな理性をもっているだろうか? 彼女のような、あんなものの言い方ができるものだろうか? ノーマルな理性をもっていたら、彼女のような、あんな考え方ができるだろうか? 破滅の上に坐って、もうひきこまれかけている悪臭にみちた穴の真上に坐って、その危険を知らされても、あきらめたように手を振り、耳をふさぐなんて、そんなことが果してできるだろうか? 彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか? きっとそうだ。果してこうしたことがみな発狂の徴候でないと言えようか?》
彼はこの考えにしつこくこだわっていた。むしろこの出口が、ほかのどんな出口よりも彼には気に入った。彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。
「それじゃ、ソーニャ、きみは真剣に神にお祈りをする?」と彼は聞いた。
ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待った。
「彼はその目の中にすべてを読みとった。……」から始まる四つの段落は現前的会話場面のなかに挿入されたディエゲーシスである。こういうケースは珍しいので分析に値する。
最初の二つの段落は純粋に地の文のみによる展開であり、特に二つ目の段落は冒頭が「しかし」という接続詞で始まるという論理的連繋を見せているが、しかしこれらは説明的ディエゲーシスではあるまい。ではこれは実際何かというと、「彼はその目の中にすべてを読みとった」と表現されているとおりに、ラスコーリニコフがその時点で一瞬のうちに無意識で理解し思索したことの、語り手による地の文でのパラフレーズであろう。これは『罪と罰』上185-188頁の分析ですでにお馴染みの手法。以前の分析の引用しよう。《「無意識に照準を合わせた」ドストエフスキーの語り手の性格から判断するに、この地の文は、ラスコーリニコフの自意識の思惟をそのまま追ったものではなく、むしろラスコーリニコフが自分に「言語化して」言ってきかせた思考ではないが、無意識が瞬時に処理してしまった「たしかにそうだ!」に至る思考のプロセスを敢えて地の文で展開してみせたということではないか。》──ここで「それが彼にははっきりわかった」「そしていまはじめて彼は、……をはっきりさとったのである」「これはやはり彼にとって疑問だった」「彼にはそれがわかった」という時々現われる客観的記述を枠組みとしてその間に展開されていく「つまり……だったのだ」「……したにちがいない」「……になっていたのであろう」「いったい何が……したのだろう?」「まさか……ではあるまい」「現に彼女は……しているではないか……」といった話体の文章による思索は、すべて、ラスコーリニコフの自意識の肉声ではなく、彼の無意識に照準を合わせた語り手による「言語化」と見做すべきだというわけ。その方が物語言説的に整合性がある。
もちろん見ての通り、三つ目の段落からは直にラスコーリニコフの内語が《……》で括られて地の文に流れ込んで来る。だがドストエフスキーの作品世界では登場人物の内語は決してモノフォニックに閉じ得ないというのが原則なので、ここでも彼の肉声が主というよりも地の文の方があくまで主ではないか。というのも四つ目の段落の内語を見ると明らかに三つ目の段落のそれとはニュアンスやアクセントが転調してしまっているからだ。これもまた以前の分析を引用すれば、《ラスコーリニコフの自意識の中には入って来ない、彼の無意識を支配している感情や思考のプロセスを地の文で内語と並行的に描いているからこそ(「こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。……」)、内語の展開が「ふとした」中断や屈折や転回を孕んだりするのが自然に表現できているというわけだ。自意識とは分裂していてつねに葛藤や矛盾の力を帯びて衝き上げてきてついには内語を屈折させる無意識の領域を、地の文で把握して(並行的に)敷衍する、というドストエフスキーの文体の特異性……》──だからこそ四つ目の段落でラスコーリニコフは能動的にというよりも受動的に、思わず「腹の中で叫」ばなくてはならなくなるのだ。
ところで、特に四つ目の段落のラスコーリニコフの内語について言えば、それらはやはり直接的な発話と同様に「否定・非難・抑圧」の契機を孕んで屈折あるいは二重化していることに注目しよう。しかも自分の中に強いられたように湧き上がってくる予想や考えを必死で打ち消そうというところがまさに、無意識の衝迫と自意識の肉声との拮抗関係を典型的に表わしているかのようで興味深い。「いや、いや、そんなはずはない!」「……と、誰が言った?」「果して……しているだろうか?」「彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか?」
ちなみに、現前的場面における以上のディエゲーシスの中断の出口として、「言語」から「視覚」の集中に記述を受け渡しているのは、叙述変化の常套手段である。「彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。」
あとは、科白に付随する登場人物の身振りの描写の繊細さにも注目しよう。「ソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。」
●『罪と罰』上136-137頁
第一部第七章
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彼はひどくあわてて、いきなり鍵束をつかむと、またせかせかとひねくりまわしはじめたが、どういうわけかどれもうまくいかない、どれも鍵穴に合わないのだ。手がそれほどふるえていたというわけではないが、彼はさっきからまちがいをおかしていた。というのは、この鍵はちがう、合いっこないと知りながら、さしこもうさしこもうとしていたのだ。そうこうするうちに不意に、彼は、他の小さな鍵にまじってぶらぶらゆれている、ギザギザのついたこの大きな鍵は、きっとタンスの鍵ではなく(これはこのまえのときも頭にうかんだことだが)、長持のようなものの鍵にちがいない、その長持の中にこそいろんなものがかくされているはずだ、と気がついた。彼はタンスをすてて、すぐに寝台の下をのぞきこんだ。年寄りというものはたいてい長持を寝台の下においておくことを、知っていたからだ。思ったおりだった。りっぱなトランクがでてきた。長さが一メートル近くもあって、蓋がまるくもりあがり、赤いモロッコ皮がはられて、鉄鋲がうってあった。ギザギザの鍵がぴったり合って、蓋があいた。上からかぶせてある白いシーツをめくると、赤い絹裏のついた兎の毛皮外套があった。その下には絹の衣装、それからショール、さらにその下は底までこまごました衣類ばかりらしかった。彼は先ず赤い絹裏で血によごれた手をふきにかかった。《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい》──彼はこんなことを考えたが、不意にわれにかえった。《おれは何を考えているのだ! 気が狂うのではあるまいか?》──彼はぞうッとしながら考えた。
とりあえず最後の部分に注目しよう。ここでのラスコーリニコフの内語を地の文を省略してそのまま繋げてしまうと、当然意味をなさなくなる。《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい。おれは気が狂うのではあるまいか?》──意味不明。何故そうなってしまうかと言えば、この二つの内語の間にはラスコーリニコフが「不意にわれにかえった」という無意識の衝き上げによる自意識の刷新という契機が存在し、途中で完全に彼の自意識が動揺して反転してしまっているからだ。その感覚は刷新前の以前の自分(の自意識)を異常なものと思う、「ぞうッ」という直感として描写されてもいる。
何が言いたいかというと、ドストエフスキーの主人公の内語=自意識というのはほとんどの場合安定して一貫して延長していくということができず、必ずどこかで無意識の衝き上げをくらって方向転換してしまうという、ジグザグの運動をせざるを得ないということ。それは主にドストエフスキーの語り手が「主人公の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の位相をとるが故のリアリティの在処と、相即する。
そして思うに、このジグザグの運動性は内語だけでなくドストエフスキーの作中人物の「科白」「発話」一般についても言えることではないか。ドストエフスキーのリアリズムからすれば、自意識とぴったり一致したまま続いていく科白は却ってリアリティがない。無意識の衝き上げによって中断・屈曲を孕む科白こそが真実というわけだ。ラズミーヒンやイヴォルギン将軍をこの観点から分析してみても面白い。
余談。もう一点注目すべきは、「長さが一メートル近くもあって、蓋がまるくもりあがり、赤いモロッコ皮がはられて、鉄鋲がうってあった。」──このトランクの描写。よく考えると、ここでのラスコーリニコフの切迫した精神状態からして、こんなに細かくトランクの特徴をはっきり掴むことができるだろうか。いや、掴んだとしても、それは無意識で一瞬のうちに処理されたと考えるべきではないか。この考えに、「主人公の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」としての語り手の位相をクロスさせると、次のようなアイディアがさらに生まれてくる。
・描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。説明的ディエゲーシスの中での描写(主人公の住居について等)もそうである。
・通常の小説は描写にせよディエゲーシスにせよ無理矢理登場人物の自意識・認識に一致させて語ろうとしているので、不自然になる=ドストエフスキーからするとリアリティを欠くのである。
どうであろうか。要するに、一般的に言って「描写」とは主人公の自意識に属さないものなのではないか。つまり登場人物の無意識によって一瞬で処理されるか、或いは観察者=尾行者によって報告される彼の自意識と無意識の分裂、それこそが「描写」なのか。
●『カラマゾフの兄弟』4巻218-219頁
第十一篇第七章
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イワンは立ちあがって、怒りに全身をぶるぶるふるわせながら外套を着た。そうしてそれ以上スメルジャコーフに返事もせず、彼の顔さえ見ないで足ばやに家の外へ出た。さわやかな夜気が彼の心を快く包んだ。空には月が皓々と照っていた。思想と感情の恐ろしい悪夢が、彼の心のなかでふつふつと沸き立っていた。『今すぐ行ってスメルジャコーフのことを訴えてやろうか。だが、何を訴えるのか。やっぱりあいつは無実じゃないか。逆にあいつはおれを訴えるかも知れない。実際、なんおためにおれはあの時チェルマーシニャへ馬車を走らせたのだろう? なんのために? なんのために?』とイワンは自問自答した。『そうだ、むろんおれは何かを期待していた。確かにあいつの言うとおりだ。……』するとまたしても、もう何十回となく思い出したあの最後の夜、父の家の階段の上で階下の様子をうかがったことがふと記憶に浮かんで来た。だが今はそれを思い出すと非常な苦痛を感じたので、彼は思わず何かに刺し貫かれたようにその場に立ち止まった。『そうだ、おれはあの時あのことを期待していたのだ、確かにそうだ! おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ! だが、はたしておれは殺人を望んでいたのだろうか、ほんとうに望んでいたのだろうか。……スメルジャコーフを消さねばならんぞ!……今スメルジャコーフを殺す勇気がないぐらいなら、おれはこのさき生きている価値はない!……』イワンはその時わが家へ立ち寄らずに真っ直ぐカチェリーナを訪ね、突然の訪問で彼女の度胆をぬいた。彼はまるで狂人みたいだった。スメルジャコーフとの会話を、彼は一部始終、彼女に話した。いくら彼女が言い聞かせても、彼は平静に返ることができず、たえず部屋の中を歩きまわっては、切れ切れに奇怪なことをしゃべり散らしていた。……
周知のようにドストエフスキーは作中人物の心理描写として内語(『……』で括られた部分)を積極的に用いる作家だが、同じように内語を多用するスタンダールやルバテと異なって、「肉声の内語こそむしろ直接的ではなくて間接的なもの、二次的なものになっている」という不思議な特徴がある。何故だろうか。
引用部を見てみよう。ここでは明らかにイワンの心理は『……』で括られた内語を読むだけでは完結しない。彼の自問自答が一挙に「おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ!」という恐ろしい真実に逢着するのは、彼の能動的な自意識=内語の作用によらずに「ふと」浮かんで来る記憶によってのことなのだ。このふと想起される記憶による「刺し貫」きこそ、地の文を差配している語り手のみが記録することのできる、イワンの自意識の外部からやってくる無意識の衝迫である。この無意識の媒介がないとイワンの内語は形を取ることができないし、また葛藤の上で緊張を孕むこともできない。さらに言えば無意識の媒介次第で彼の内語の情動は幾らでも方向を変えてしまう。彼の内語は、無意識が告げてくる真実を抑圧しようとして捩じ曲がることさえあるだろう。──それが彼の内語の方こそ二次的、副次的である所以だ。
言うまでもなく、内語よりも直接的な無意識を小説空間に導くことができるのは「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」=語り手の位相のおかげ。
●『カラマゾフの兄弟』4巻222-224頁
第十一篇第七章
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こうしてひと月たった。彼はもうスメルジャコーフのことを誰にもたずねようとはしなかった。ただ二度ほど、病気が重くなって、気が変になったという消息をちらりと耳にはさんだだけだった。『結局、発狂して死ぬでしょうな』ある時、若い医師のワルヴィンスキイがこう言ったことがあるが、彼はその言葉を胸にとどめておいた。その月の最後の週になると、今度はイワン自身が体の激しい変調を感じはじめた。公判の前にわざわざカチェリーナがモスクワから呼んだ医師のところにも、彼は診察を受けに行っていた。彼とカチェリーナとの関係が極度に緊張したのもその頃である。ふたりはお互いに惚れ合っている一種の仇敵同士であった。ミーチャに対するカチェリーナの愛が、瞬間的に、しかし強烈に復活すると、イワンは完全な狂乱状態におちいった。奇妙なことだが、すでに述べたとおり、アリョーシャがミーチャと面会した帰りにカチェリーナの家へ立ち寄った時の、あの最後のひと騒動が起こるまで、彼イワンはまるひと月のあいだ、彼女のミーチャへの愛が《復活》したのを知ってそれを憎悪してはいたもの、一度も彼女の口からミーチャの有罪を疑う言葉を聞いたことはなかったのである。さらに注目すべきことは、彼が日ましにミーチャへの憎悪がつのるのを感じながら、同時にその憎悪がカーチャのミーチャに対する愛の《復活》のためではなく、ミーチャが父を殺したためであると考えていたことである。そのことを彼は十分に感じ、また意識してもいた。それにもかかわらず、彼は公判の十日ほど前にミーチャを訪ねて、兄に逃亡の計画を、──明らかにずっと前から練っていたらしい計画を提案した。それには、彼にそういう計画を立てさせた主な理由の他に、兄に罪を負わせたほうが有利だ、そうすれば父の遺産の分け前が四万から六万に増えるというスメルジャコーフのひと言のために受けた、深い心の傷跡も、あずかっていたのである。彼はミーチャを逃亡させるために自分の財産から三万ルーブリを提供しようと決心した。ところが、その日ミーチャとの面会を終えて帰る途中、彼は恐ろしく悲しい、困惑した気持になった。とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである。『おれが精神的には同じ殺人者だからではないだろうか』こう彼はわが胸にきいてみた。何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した。何よりも重要なことは、このまるひと月のあいだ、恐ろしく彼の自尊心が苦しみつづけたことである。だが、そのことはいずれあとで語ろう。……
いわゆる語り手の立場からの心理分析的ディエゲーシスだが、ちょっと変ったタイプの記述。
「さらに注目すべきことは、彼が日ましにミーチャへの憎悪がつのるのを感じながら、同時にその憎悪がカーチャのミーチャに対する愛の《復活》のためではなく、ミーチャが父を殺したためであると考えていたことである」──といったイワンの自意識のねじれを正確に言い当てる言葉からも分かるとおり、あくまで分析は一貫して論理的で徹底している。しかしながらどこか隔靴掻痒の感がある。イワンの内語(『おれが精神的には同じ殺人者だからではないだろうか』)まで再現しながらも、イワンの心理の或る重要な部分には絶対に立ち入らずにそれを周囲から撫で回すばかりで肝心のことを言語化しないという風なのだ。たとえば「とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである」──ここでは「その他にも理由があるような気がした」という不特定の言い方に留めて分析を一定のところで停止させている。「何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した」──この表現でもあくまで彼を不安にし苦しめているものの正体までは踏み込んで分析しない意図がありありだ。当然ながら「そのことはいずれあとで語ろう」と言っていることからも分かるとおり、語り手はイワンの心理の奥底を明らかにしようと思えばできる。それをせずに、意図的にある一定の範囲に論理的な心理分析をとどめる、そんな巧んだディエゲーシスとなっている。
●『永遠の夫』164-165頁
第十章
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すべてこうした意識面の想念は、常にありありと眼前一寸に焼きつけられ、しかも常に彼の魂を掻きむしりつづける亡児の追憶と、固く結びついてあらわれてくるのであった。彼はリーザの蒼ざめた小さな顔を心に描き返し、その顔の表情の一つ一つを想いおこした。お棺のなかに花に埋もれて横たわっていた姿を、思い浮かべ、また、まだそうならぬ前、高熱のため意識を失ったまま、動かぬ眼をぱっちりと見開いていた姿を、思い浮かべるのであった。と不意に彼は、彼女がもう広間のほうへうつされて卓子のうえに横たえられていた時、その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持を思い出した。それを見た時彼ははげしい感動を覚え、その哀れな一本の指がひどく可哀そうになってきた。今すぐにもあのパーヴェル・パーヴロヴィチを捜し出して、打ち殺してやろうという考えが、初めて頭に閃いたのもじつにこのことだったので、それまでの彼は『まるで失神していたも同然』だったのである。──あの子の可憐な心臓を責め苛んでいたものは、生まれつき傲慢な気持がはずかしめられたという事実だったのだろうか、それとも、俄かに今までの愛情を憎しみに変えて、破廉恥な言葉のかぎりをつくして彼女を面罵し、愕き怖れる彼女を嘲り笑い、挙句の果てに彼女を他人のなかへほうり出したあの父親から受けた、三ヵ月のあいだの苦悩の生活だったのだろうか?──こうした疑問を、彼は絶えずわれとわが胸につきつけ、無限に形を変えてくり返してみるのであった。『あなたは一体御存じなんですか、あのリーザが私にとって何者だったかということを?』──彼は突然、酔いつぶれたトルソーツキイが発したこの叫びを思い浮かべ、今にして初めて、この叫びが決してお芝居ではなくて、彼の本心の声だったことを思い当った。そこには愛のひびきがこもっていたことを感得した。『なんだってあの人非人は、それほどに可愛い子供にああも辛く当たれたんだろうか、そんなことがあり得ることだろうか?』しかし、この疑問がきざすたびに彼は急いで、まるで払いのけでもするように、振り棄ててしまうのであった。この疑問のなかには何かしら怖ろしいものが、彼にとってとても堪えられぬ──しかも未解決の何ものかが、潜んでいるのであった。
引用部の前後関係からすると、この段落は「一ばん暑気のきびしい七月の日々」における括復法的な心理叙述のディエゲーシスとみなせるのだが、そのなかに何故か単起的としか思えないような記述(「と不意に彼は、彼女がもう広間のほうへうつされて卓子のうえに横たえられていた時、その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持を思い出した。」「彼は突然、酔いつぶれたトルソーツキイが発したこの叫びを思い浮かべ、今にして初めて、この叫びが決してお芝居ではなくて、彼の本心の声だったことを思い当った。」)が混じっていることに、まず注目せよ。文体からして自問自答的な調子を帯びながら、「不意に」「突然」「今にして」といった一回限りの副詞を連発して、いかにもリアルタイムにヴェリチャーニノフの切迫した思考が展開していっているようでありながら、その現前的時間の「何時」はまったく特定されない。「七月の日々」のうちのある一瞬管ということしか分からない。前後関係もこの段落内で展開・変化していく心理プロセスの順序しか分からない。ようやく単起的に時日が特定されるのは、引用部の段落が終った改行後の「ある日のこと、例によって当てもなく歩いていると、……」の文章によってである。基本的にリアルタイムに対話的に生成されていく心理叙述のディエゲーシスは、括復法的な文脈の中であっても単起的に動いていくということだろうか。特に「不意に」「突然」の符牒の一回性は明らかに括復法的記述の文脈になじまない。
しかしながら、ここで「不意に」「突然」の副詞が用いられるのは必然ですらある。なぜならここでヴェリチャーニノフの心理の記述は、彼の心理的死角にあるものを巡って展開していく、すなわち「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせて展開していっているからだ。無意識からの衝迫は、彼の能動的な自意識によって把握することはできず、常に「不意に」「突然」の想起や思い付きによって彼を貫く。そしてこのヴェリチャーニノフの自意識によっては計算も予測も不能な無意識からの衝迫すなわちヴェリチャーニノフの心理における二重性は、もちろん作者の計算のうちではある。「(死んだリーザの)その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと発見した時の自分の気持」を突然思い出してはげしい感動に駆られるのも、『あなたは一体御存じなんですか、あのリーザが私にとって何者だったかということを?』というトーツキイの叫びを突然思い浮かべて何か堪え難い、恐ろしい疑問を抱くのも、すべてはヴェリチャーニノフには見えないが語り手には見えている或る理由によってのことだ。簡潔に言うと、トルーソツキイが自分の娘だと思い込んでいたリーザは実はヴェリチャーニノフとトルーソツキイの亡妻の間の非嫡出子だったのであり、その事実を知ったトルーソツキイは、例えばヴェリチャーニノフがリーザに対して抱いたような「哀れな一本の指がひどく可哀そうにな」るような憐れみと愛情をもう抱きようがなくなっている。一方、薄々リーザが自分の子だと気付き始めているヴェリチャーニノフは、かつてトルーソツキイを裏切ったからこそ、今まさにリーザの愛し、その死を心から悼むことができている。つまりトルーソツキイの『あのリーザが私にとって何者だったかということを?』を理解することができるのは、裏切り者である今のヴェリチャーニノフその人以外ではあり得ないのだ。したがって、「トルーソツキイが発したこの叫び」はヴェリチャーニノフが自分からリーザを奪った罪の告発なのである。ところがヴェリチャーニノフはその罪をまだ直視できないでいる──その裏切りの事実は彼の心理的死角にある──ので、そうした気付きや疑問や「未解決な何ものか」は、彼の自意識の外から不意打ちのようにのみ訪れるのである。
語り手は、ヴェリチャーニノフのその自意識と無意識の角逐をすべて見透した上で、このような文体を選んでいるわけだ。例えば「『なんだってあの人非人は、それほどに可愛い子供にああも辛く当たれたんだろうか、そんなことがあり得ることだろうか?』しかし、この疑問がきざすたびに彼は急いで、まるで払いのけでもするように、振り棄ててしまうのであった。この疑問のなかには何かしら怖ろしいものが、彼にとってとても堪えられぬ──しかも未解決の何ものかが、潜んでいるのであった。」──こうした記述にはあまりにも多くの暗示が詰め込まれてはちきれんばかりになっている。『カラマゾフの兄弟』4巻222-224頁(「ところが、その日ミーチャとの面会を終えて帰る途中、彼は恐ろしく悲しい、困惑した気持になった。とつぜん彼は、自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリの金を提供して心の傷をいやすためばかりでなく、なぜかその他にも理由があるような気がしはじめたのである。……何か漠然とした、しかし焼けつくようなものが、彼の心をちくりと刺した。」)に似て、語り手はヴェリチャーニノフの心理の奥底を明らかにしようと思えばできるのに、それをせずに、今はまだ意図的にある一定の範囲に論理的な心理分析をとどめようとしているかのようだ。
●『ふたつの旗』下16-17頁
第二十章
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〈悔悛だって! 「悔い改めなさい」だと! しかもこのぼくがそんなことをいわれっ放しだったとは! 卑怯者! 弱腰! まぬけ! ぼくは立ち上がるべきだった。そしてこう言ってやるべきだった──「悔悛せよとおっしゃるんですか? 腹のふくらんだ娘のぐちみたいな、そんなものがなんだというんですか? 悔悛? そんなものは知りませんね。これまで一度も知らなかったし、知りたいとも思わない。矯正したり塗りなおしたりすることはある。しかし、かつてあったものを涙で拭い消そうとするとは! バタみたいにやわらかい、ちっちゃな心臓の持主たちには、それも成功するかもしれない。しかしぼくには通じませんよ、先生! 悔悛なんて、まぬけども、去勢馬みたいな連中、負け犬ども、病人どもの分泌物だ。一徹で真正直なぼくたちの静脈に、あなたがたはこういう猥褻さを注入したがっている。ぼくたちを圧倒し、ばらばらにして取りこむために! 卑怯なやつらめ! お座り、坊主ども。あんたがたの薬箱はぼくら向きじゃない!」 ああ! ちくしょう! なんてこった! 最後の瞬間ににべもなく肘鉄を食らわしてやった。許しの印に切られた十字の下で、〈ノン!〉といってやった。町長と結婚式の参列者みんなのまえで〈ノン!〉といってやったようなものだ。ああ! 三重のまぬけ! 階段まで来てやっとしゃべりだすやつ!… それにしても、ノンだ。絶対にノンだ。その点でも、悔いたりなんかするもんか!〉
〈それにあのキリストの苦しみの話! 福音のグラン・ギニョル! およそ考えられない! あの思想家! あの大御所ぶり! あのいかにももったいぶった顔! すべてを見、すべてを読んだ男の仕種! このぼくに二時間もしゃべるなんて! 分析、哲学、文学! ぼくの匂いをくんくん嗅いで、四方八方からためつすがめつして! あげくにあのメロドラマ! うさんくさいふるえ声! 十字架のたくらみ! 神秘的なネールの塔! 気取り屋! 悪臭ぷんぷんの伊達男! 奉献のさいの私をみたかね? 聖体の秘蹟の道化者! 引っ込め! 引っ込むんだ!〉
からからに乾いた唇で、彼は機械的にたばこをくわえた。そしてそれを奪いとり、怒り狂って踏みつぶした。
〈くそ! あの下司野郎が、ぼくに一か月の苦行を課した! 「君はたばこも吸うんですね! じゃ、一か月たばこ断ち!」 ぼくは、はいといった。いった以上、守ることにしよう! ぼくがくじけるのをみる満足なんか、あたえてやるものか! そんなことしたら、ぼくを攻める武器を渡してやるようなものだ。なにも! やつらはぼくを攻めたてる手がかりをなにひとつもてないだろう。たばこがどうのこうのとさえいわせない!… あの坊主が、さっきぼくのポケットになにかつっこんだけれども、いったいなんだろう? どうせいやらしいものにきまっているが… 「キリストの友へ」。はっは! どうせ哲学者のひそかな感動の吐露にちがいない。えりすぐりの弟子たちにとっておいたもの? 笑わせるんじゃない!… 失礼ながら、分配先をちょっとおまちがえになったんじゃありませんか? 〈おお! イエスによる友情の奇蹟!… 私たちは愛の使命を十全にはたしたろうか? 心のなかの大きな沈黙〉なんていやらしいんだ! 吐き気がする! 〈世俗にまみれた魂の持主たちが、愛すべきイエスの御手と御足を傷つけた…〉〈おお、イエスよ、私はあらためて誓います、この私は御身の奴隷です、と〉くそ! しかもカッコつきだ。侍者の猿! ひきがえる! おかま! まぬけ! 反吐が出る!〉
ルバテが内語をいかに用いるかの実例。内容はキリスト教の僧侶に対する徹底的な「否定・非難」となっている。まずはその否定のレトリックの豊富さが目を惹く。あらゆる冒涜的比喩(「福音のグラン・ギニョル」「去勢馬みたいな連中」「侍者の猿」「ひきがえる」)、慇懃無礼な嫌味(「失礼ながら、分配先をちょっとおまちがえになったんじゃありませんか?」)、批判対象の表情や振舞いや言葉の戯画的=歪曲的かつ妄想的再現(「〈おお! イエスによる友情の奇蹟!〉」)。ほんと技巧的。
しかもここでミシェルは僧侶に対してだけなく、自分自身についても否定の鉾先を向けていることに注目しよう。つまり僧侶に対して最後まで弱腰だった自分の臆病さも罵倒しまくっている。その程度にはルバテの文体においても否定・非難の対象は多彩ではある。
ただしここでドストエフスキー的な無意識の作用や言葉のニュアンスの二重化はまったくないと考えていい。ドストエフスキーにおいて登場人物が内語で何かをやっきになって否定・非難・抑圧しているとしたら、それ(無意識≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)と比べては自意識の能動性の方が二次的でしかあり得ないような心理的死角の存在を恐れてのことなのだが、ルバテの登場人物には、そのような恐れはない。彼らの科白や内語にあらわれる否定や攻撃はあくまで無矛盾的・ポジティヴなものであり、自意識を揺るがす無意識に憑かれているというよりはむしろ、自意識の能動性を自乗するために否定が用いられているという趣だ。ミシェル・クローズの攻撃的内語は自分自身にこそ正しさがあるという確信に閉じてしまっている。それゆえにどこか一本調子にさえ響く。こういう側面は学ばなくていい。他石の山とせよ。
●『罪と罰』上480-482頁
第三部第六章
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《婆ぁなんてくだらない些事だ!》と彼は燃えるような頭で、突発的に考えた。《老婆か、あれは過失だったかもしれないが、あんなのは問題じゃない! 老婆はどうせ病気だったんだ……おれはすこしでも早く踏み越したかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺した、がしかし、かんじんの踏み越すことはできなくて、こちら側に残ってしまったんだ……おれがやりおおせたのは、ただ殺すことだけだった。しかも今になって見ると、結局はそれさえやりおおせなかったわけだ……ところで主義はどうなるのだ? どうしてさっきラズミーヒンのばかは社会主義者をののしったのだろう? 奴らは勤労を愛し、商売に抜け目のない連中で、〈人類一般の幸福〉のためにはたらいているじゃないか……いやいや、おれには生は一度あたえられるだけで、二度とはやって来やしないのだ。おれは〈人類一般の幸福〉が実現するまで待ちたくない。おれだって自分の生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ。なんだというのだ? おれはただ〈人類一般の幸福〉のくるをの待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈人類一般の幸福を築くために煉瓦を一つ運んでいるんだ、それで心の慰めを感じてるんだ〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをすっぽかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってやはり生きたかろうじゃないか……ええ、おれは気取ったしらみだよ、それだけのことさ》彼はとつぜん気がふれたように、けたけた笑って、こうつけ加えた。《そうだよ、おれはたしかにしらみだ》彼は自虐的な喜びを感じながらこの考えにしがみつき、それをいじくりまわし、もてあそび、なぐさみながら、ひとりごとをつづけた。《理由はかんたんだよ、第一に、現にいまおれは自分がしらみだということについてあれこれ考えているじゃないか。第二に、この計画は自分の欲望や煩悩のためではない、りっぱな美しい目的のためだなどと称して、ありたがい神を証人にひっぱりだし、まるまる一月もいやな思いをさせたことだ、──はッは! 第三に、実行にあたっては、重さと量と数を考えて、できるかぎりの公平をまもろうときめて、すべてのしらみの中からもっとも無益なやつをえらびだし、そいつを殺して、多くも少なくもなく、おれが第一歩をふみだすためにかっきり必要なだけをとろうときめたことだ。(のこりは、つまり、遺言状どおりに、修道院行きってわけだ──はッは!)……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとでそれを自分に言うだろうとは、まえから予感していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……ああ、今のおれはよくわかる──馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じ給う、服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども! と叫んだあの〈予言者〉の心境が、よくわかる! 大通りの真ん中にばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! 服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども、希望など持つな、貴様らの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!》
彼の髪は汗にぬれ、ふるえる唇はかさかさにかわき、動かぬ視線がひたと天井に向けられていた。
ドストエフスキーにおける内語文体の代表例。
これを読むと激しい内語というものがニュートラルな姿勢や無風状態からは絶対に出て来ないということがよく分かる。まずは外部から彼に攻撃的に貫入してくる他者たちの言葉があり、そのダメージが蓄積されると、それをやはり言葉によって乗り越える(先回りする)ように反撃を開始するために内語が発動される。「おれは〈人類一般の幸福〉が実現するまで待ちたくない。おれだって自分の生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ」──このような言葉は彼が社会の秩序からの抑圧や他者たちの加害によってすでに内部に食い込むような傷を負っているのでなければ、湧き上がることはない。《ドストエフスキーの作中人物たちは「否定・非難」するためにこそ発話する》とかつて定式化したことがあるが、ここでは作中人物は外部・他者に「反撃」するためにこそ内語において饒舌になる、と言えようか。「おれはただ〈人類一般の幸福〉のくるをの待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈人類一般の幸福を築くために煉瓦を一つ運んでいるんだ、それで心の慰めを感じてるんだ〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをすっぽかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってやはり生きたかろうじゃないか……」
ただし外部から彼に貫入してくる傷口は、言葉によってもたらされる、つまり物理的・肉体的なものではなく心理的なものなので、自分自身の言葉によってそれをマゾヒスティックに内向きに倍加することもまた、可能である。実際「そうだよ、おれはたしかにしらみだ」以降の内語はそういうものになっている、つまり「反撃」ではなくて「自虐」になっている。しかも自分自身を攻撃していって完全に自意識の底を突き破ってしまった果てに辿り着くのは、再び反転した自分を含む世界全体に対する憎悪・攻撃・冒涜だ。「大通りの真ん中にばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! 服従せよ、ふるえおののく卑しき者ども、希望など持つな、貴様らの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!」
いずれにせよ、ラスコーリニコフの自意識のなかにすでに痛苦が貫入していて、それに反撃するか自虐的に内攻させるかという形で活性することによって引用部の激しい内語が生成されているという点に、注目しよう。
余談。内語の攻撃の対象となるもの全般に対しては疑問形(ないしは修辞疑問)で挑発がなされていることにも注目せよ。「なんだというのだ?」これは、自分自身が攻撃の対象になっている場合でも同じだろう。
●『罪と罰』上474-475頁
第三部第六章
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ラスコーリニコフが自分の家まで来たとき、──こめかみは汗でぬれ、息づかいも苦しそうだった。彼は急いで階段をのぼると、鍵をかけてない自分の部屋に入り、すぐに内側から掛金をおろした。それから、ぎくっとして、気でもちがったように、あのとき盗品をかくした片隅の壁紙の穴のところへかけよると、いきなりその穴へ手をつっこんで、ややしばらく入念にすみずみまでさぐりまわし、壁紙のしわや折れ目までしらべた。何もないことをたしかめると、彼は立ちあがって、ほうッと深く息をついた。さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙間にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。
彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇の上をさまよっていた。やがて、彼は帽子をつかんで、しずかに部屋をでた。頭の中はいろんな考えがもつれあっていた。考えこんだまま彼は門の下へ入っていった。
「おや、ほらあのひとですよ!」と甲高い声が叫んだ。彼は顔をあげた。
「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という語り手の位相から、主人公の心理をいかに描写できるかを示す一例。
基本的に引用部の一連のラスコーリコフの行動と心情は「さっき……ふと気になった」ことに由来しているということ、すなわち意志的というよりは無意志的に発動したものだということを抑えよう。だからこそここでラスコーリニコフの「不安」に膚接してそれを追っていても、一人称的ではなくて外的な距離感を語り手は保っているのだ(ラスコーリニコフへの焦点化が強い一人称的な文体だと、無意志的な心理の契機を充分に把捉できないため)。この外部からの記述は、第二段落でのおそらくは彼自身意識しないままに表れ出ているおぼろな表情の描写においてその面目を最大限発揮する。「彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇の上をさまよっていた。」──この表情は彼の無意志的な行動と心情に合致したものにほかならない。
もちろんこの語り手は外部にいながらラスコーリニコフの内面を完全に見透かしている。「さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。」──この説明自体がすでに語り手によるラスコーリニコフの心理の透明化だが、さらにそれにつづく体験話法的なラスコーリニコフの「もつれあった考え」の地の文での言語化もまた、ドストエフスキーに特有の語り手からの主人公の心理の敷衍である。「何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙間にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。」あたかも語り手が疑問形を用いて自問自答しているかのようではないか。
この引用部には色々基本的な技術が詰まっている。
●『カラマゾフの兄弟』1巻245-248頁
第一部第三篇第六章
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けれども、スメルジャコーフはスマラーグドフの世界史を十ページとは読まなかった。退屈だったのだ。こうして書棚はふたたび閉じられた。まもなくマルファとグリゴーリイは、スメルジャコーフがだんだんひどく潔癖になってきたとフョードルに知らせた。スープを飲む時、さじでしきりにスープの中をさぐったり、かがみ込んでのぞいたり、さじですくって明かりにかざして見たりするというのである。
「油虫でもいるのかい」とグリゴーリイがきく。
「蠅ですよ、きっと」マルファが口を出す。
急に潔癖になった青年は一度も返事をしなかったが、パンでも肉でも、その他どんな食べものでも同じことをした。まずそのひと切れをフォークで刺して明かりにかざし、顕微鏡でものぞくように長いあいだためつすがめつしてから、ようやく決心して口へ運ぶのである。「へへえ、とんだお坊ちゃまができたもんだ」その様子を見ながらグリゴーリイがつぶやいた。フョードルはこうしたスメルジャコーフの新しい性癖を聞くと、すぐに彼を料理人にしようと思い立って、モスクワへ修業にやった。青年は数年のあいだ修業に出かけ、すっかり面変わりして帰って来た。急にひどく老け込んで、年に似合わずしわだらけになり、黄ばんで去勢された男のようになったのである。性質のほうは、モスクワへ行く前とほとんど変わりがなかった。相変わらず人づきあいが悪く、誰とも進んでつきあおうとはしなかった。のちに人から聞いた話では、モスクワでも彼はしじゅう黙り込んでいたそうである。モスクワそのものも、いっこう彼の興味をひかなかったらしく、従って彼はモスクワの町なかのことをほんの一部しか知らず、残りの部分には注意も払わなかった。一度、劇場へ行ったことがあるが、むっつりと不満そうな顔をして帰って来たという。そのかわり、モスクワからこの町へ帰って来た時は、立派な身なりをしていた。さっぱりしたシャツを着込み、一日のうちに必ず二度ずつ、非常に念入りに自分で服にブラシをかけ、子牛皮の洒落た靴を、イギリス製の特別なワックスで鏡のようにぴかぴか光るまで磨くのが大好きだった。料理人としての腕前は一流だった。フョードルは彼に給料を決めてやったが、スメルジャコーフはその給料をほとんど全部、服やポマードや香水代などに使った。しかし彼は、男性と同様に女性をも軽蔑しているらしく、女性に対してはもったいぶった近寄りにくい態度を取っていた。もっとも、フョードルは彼をある別の観点から見るようになった。癲癇の発作がますます激しくなって来て、そういう日にはマルファが食事を作るのだが、それがフョードルにはまったく口に合わないのである。
「どうしてお前の発作はだんだん頻繁になるんだろうな」と彼は新しい料理人の顔を見つめながら時々腹立たしげに言った。「せめて誰かと結婚してくれるといいんだが、何なら世話をしてやろうか。……」
けれどもスメルジャコーフは、そんな言葉を聞くといまいましげにさっと青ざめるだけで返事もしなかった。フョードルは仕方なく立ち去って行く。だが何よりも重要なのは、彼がこの料理人の正直さを信じて、この男が決して物を取ったり盗んだりしないと固く心から信じ切っていたことである。ある日のこと、酒に酔ったフョードルが、受け取ったばかりの虹色の紙幣を三枚、わが家の庭のぬかるみの中に落とした。翌日になって彼は気づき、あわててポケットを探しはじめたが、ふと見るとその紙幣が三枚ともテーブルの上に乗っているではないか。どこにあったのだろう?──スメルジャコーフが拾って、きのうのうちに届けておいたのだ。「いや、お前みたいな男ははじめてだ」その時フョードルはぶっきらぼうにこう言って、十ルーブリをくれてやった。ひと言つけ加えておかねばならないが、フョードルはただ青年の正直さを信じたばかりではない。青年が自分に対しても他の人々の場合と同様に白い目をむいてむっつり黙り込んでいたのに、なぜか彼を愛してさえいたのである。
問題は小説においてディティールとは何かということだ。適当に細部や描写を羅列するだけでよいはずがない。それでいて、一見するとディティールというのはプロットの展開にまったくかかわりがない──そのディティールが省かれていても別に支障はない──かのように思われる。引用部だとたとえば、給料のほとんどを服やポマードや香水代についやしてしまうスメルジャコーフの気質のことなど。子牛皮の洒落た靴? イギリス製の特別なワックス? そんな要素あろうがなかろうがどうでもいいじゃないか? ……そう考えるかぎり、このようなディティールを思い付き書き込むことはできないだろう。ドストエフスキーのディティールを分析し学ぶには、その意義にまでふみこんでみる必要がある。
たしかにこのディティール、スメルジャコーフが突然潔癖になったとか、修業からかえってきたらひどく老け込んで去勢された男のようになったとか、モスクワにまったく興味をもたなかったとか、念入りに身だしなみを整えるようになったとか、女性を軽蔑しているとか、決して物を取ったり盗んだりしない(表面上は)ということとか、のちにスメルジャコーフがプロット上で果す役割とはおよそ何も関係がないように思われる。といって、これらが単に記述を水増しするためだけの要素であるはずがない。結論から言うと、ポイントは、「性癖」という言葉にある。つまり、これらの要素は決してスメルジャコーフが意識的に身につけたものではないということだ。或る意味でこれらのディティール=性癖はスメルジャコーフの無意識の欲動がそのまま都度都度表層にあらわれでてきたものだと考えられる。つまり、スメルジャコーフの無意識に致命的に食い込んでそれを蠢動させているものを構想し、間接的に表現するということが、ディティールの霊感の本質だろう。そしてポリフォニー小説のプロットの肝は、登場人物が水平的に自意識から追放・放逐したものが、ほかの人物たちとの関係性の結節をめぐりめぐってまた自分に回帰してくる=無意識によって復讐されるという構造にあるのだから、無意識の蠢動の表面化としての「ディティール」の書き込みは、すでにプロット上における兆候的伏線になっているということだ。では、スメルジャコーフは自分の無意識(自意識から放逐されたもの/自意識の眼差しからは脱落するもの)に復讐された結果どうなるか。イワンの暗黙の望みをかなえてやったにもかかわらずイワンの歓心をかうことができず、自殺する羽目になる。その彼のミスコミュニケーションによる最期が、ここでは彼の視野狭窄な性癖の数々によって予告されていると言えるわけである。
要するに、小説におけるディティールとはなべて、自意識から追放・放逐されながらも(自意識の眼差しからは脱落しながらも)事物の表層にはりつき、のちに主人公に回帰し復讐することになるものの兆しとなる諸要素である。無意識の蠢動の表面化とも言えるが、それは無意識(意識的に身につけたのではないもの)であるがゆえに時間幅をひろくもつ、すなわち習慣・性癖的記述と親和性が高い。
おそらくこれを敷衍して、人物の「性癖」にまつわるディティールだけでなく、人物が住んでいる部屋とか、人物の職場の様相だとかにかかわる細部・描写もまた当人の無意識の投影だと言えるのではないか。登場人物のまわりに出来する環境というものまたなかば彼の心理的な空間であるからだ。そこでもまた特にとりあげて描き込むべきディティールがあるとしたら、それは、主人公が意識的に選んだものではないが、主人公に密接にはりついている(時間幅のひろい)無意識がひそかに浮彫りになった姿なのである。そのような観点のもとに、ディティールを構想すべきだ。
●『作家の日記』1巻371-373頁
「嘘について一言」
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……また別の機会に、これもやはり汽車の中でやはりつい最近のことであるが、わたしは無神論についての長々しい講義を傾聴させられたことがある。弁士は、上流社会の技師風の紳士で、陰気くさい顔をしているくせに、聞き手を求める渇望は病的なほどで、まず僧院の問題から口火を切った。僧院の問題についてその男は初歩的なことさえも知らなかった。彼は僧院の存在をなにか信仰の教条と不可分のもののようにみなし、僧院は国家によって維持され国庫にとって高くつくものと考え、修道僧はほかのあらゆる団体と同じように、人間の完全に自由な集合体であることを忘れて、自由主義の名において、なにか圧政ででもあるかのように、その廃止を要求するのであった。彼は自然科学と数字を根拠として完全で無際限な無神論を主張してその結論とした。彼はうるさいほどたびたび自然科学と数学を引き合いに出してその主張を繰り返したが、それでいながら、その学位論文にも比すべき大論議のあいだ、このふたつの化学からついにひとつの事実さえも実例として引用しなかった。例によって口をきくのはこの男ひとりだけで、ほかの連中は黙って聞いているだけであった。「わたしは自分の息子には誠実な人間になれと教えるつもりです、ただそれだけのことです」と彼は結論として断定したが、明らかに彼は善行とか、徳性とか誠実さというものは、なにものにも左右されることのない、そして必要なときにはいつでも、なんの努力も、疑惑も戸惑いもなしに、自分のポケットの中に見つけ出すことのできる、なにか自然に与えられている絶対的なもののように、あくまでも信じ切っているようだった。この紳士もやはり異常なほどの大成功をおさめた。そこに居合わせたのは将校やら、老人やら、婦人やもう成人に達した子供たちやらであった。いよいよお別れというときに、満足を与えてくれたことに対して、みんなはその男に厚くお礼をのべたものだが、その際、一家の母親で、しゃれた身なりをした器量もなかなか悪くない、ひとりの婦人などは、魅力的な忍び笑いをもらしながら大きな声で、いまの自分の心の中には「ただ湯気が立ちこめているだけ」であると、完全に確信していると声明したものであった。この紳士もやはり、きっと、異常なほどの自尊心にみたされて立ち去ったに相違ない。
わたしを面くらわせるのはほかならぬこの自尊心なのである。この世には馬鹿もいればおしゃべりもいるもので、──もちろん、そんなことはなにもいまさら驚くには当たらない。しかしこの紳士は、明らかに、馬鹿ではなかった。おそらくごろつきでもなければ、ペテン師でもないことも間違いあるまい。いやそれどころか、誠実な人間でよい父親であることも大いにありうる話である。彼はただ自分が解決しようと試みたいろいろな問題のことが、まったくなにひとつ分かっていなかったのである。だがはたして一時間後に、一日後に、一ヵ月後につぎのような考えが頭に浮かんでこないものだろうか──『おいおい、イヴァン・ワシーリイェヴィッチ(まあ、名前なんかはどうでもいいがね)、──お前はいい気になって議論したが、しかしお前は自分がむきになって論じ立てた問題についてまったくなにひとつ分かっちゃいないじゃないか。そのことはお前が誰よりもいちばんよく知っているはずではないか。お前は自然科学だの数学だのをやたら引合いに出したけれど、──しかしお前が専門学校で習った数学の貧弱な知識は、もうとうの昔に忘れてしまったし、それにその当時だってそれほどしっかり頭に入っていたわけではない、また自然科学ときては一度だって正確な概念さえもつかんだことがないのは、お前には誰よりもいちばんよく分かっているはずではないか? それなのにどうしてお前はあんなおしゃべりをしたのだ? なんだってあんな説教をしたのだ? ただ法螺を吹いただけだってことは、お前にはよく分かっているはずじゃないか。それなのにお前はいまだに得意の鼻をうごめかしている。それでよくまあ恥ずかしくないものだな?』
これはエセーなので小説そのものの技法に役立つわけではない。だがここには小説にも通ずるドストエフスキーの発想が如実に表れている。
ドストエフスキー作品の中では、作中人物のほとんどの発話が無意識の衝迫との拮抗関係にあってつねに中断・屈折・転回を孕んで痙攣する。発話が自意識と調和しながら延々と流れていくということは稀だ。引用部のエセーでは、「わたしは自分の息子には誠実な人間になれと教えるつもりです……」との発言が自己陶酔的な自意識の延長上の言葉であり、『おいおい、イヴァン・ワシーリイェヴィッチ、おまえはいい気なって議論したが、……』の内語が無意識が告発する違和に当たると言える。小説と違うのは、無意識の告発の方が時間的に遅れて彼に到達することだ。小説だったなら、この『おいおい、……』はリアルタイムに彼の能弁に作用して、彼の発言の中断・屈折・転回させ、彼の発話を謂れのない(聞き手やそのほかの他者、現実、世間一般、自分自身等々に対する)否定・非難・抑圧の契機で満たすことになるはずだ。いずれにせよ、どんな滑らかな能弁の中にも『それでよくまあ恥ずかしくないものだな?』といった無意識の側からの告発=二重性・分裂性を見出すのがドストエフスキーのリアリズムである。エセーの場合、その自意識(しばしば書き手ドストエフスキー自身の自意識=能動的な見解)と無意識(しばしば想定される読者が入れる半畳)の拮抗関係がパラフレーズされて書かれることが多いようだけれども。
●『罪と罰』上228-230頁
第二部第四章
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「ええ、癪だなあ、今日はちょうどぼくの引っ越し祝いなんだよ。ここからほんの二またぎのところなんだ。こいつも来てくれるといいんだがなあ。ソファに寝てぼくたちの間にいてくれるだけでもいいよ。きみは来てくれるだろう?」と、ラズミーヒンは不意にゾシーモフのほうを向いた。「忘れないでくれよ、いいね、約束したよ」
「まあね、ただちょっとおそくなるけど。ご馳走は何だね?」
「別に何もないよ、茶と、ウォトカと、鯡だけだ。ピローグは出るよ。ほんの内輪だけの集まりさ」
「で、顔ぶれは?」
「なあに、みんな近所の連中で、ほとんど新しい顔ぶればかりさ、もっとも、──年とった伯父だけは別だが、まあこれだって新顔みたいなものさ。昨日何かの用事でペテルブルグへ出て来たばかりだ。会うのは五年に一度くらいだよ」
「どんな人だね?」
「なに、田舎の郵便局長で一生眠ったような生活をしてきて……恩給をもらって、六十五になって、まあとりたてて話すほどのこともないよ……でも、ぼくは伯父が好きなんだよ。ポルフィーリイ・ペトローヴィチも来るよ。ここの予審判事で……法律家だよ。そうそう、きみも知ってるじゃないか……」
「あいつもきみの親戚かね?」
「ひじょうに遠い、ね。どっかでつながってるらしいよ。どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ? そういえば一度きみは彼とやりあったことがあったね。じゃあ、きみは来ないかもしれんな?」
「あんなやつごみみたいなもんさ……」
「そうこなくちゃ。それからと、顔ぶれは──学生たち、教師、役人が一人、音楽家が一人、士官、ザミョートフ……」
「ぼくには解せんのだがねえ、きみとかこの男に」ゾシーモフはラスコーリニコフに顎をしゃくった。「そのザミョートフとやらと、どんな共通点があり得るのかね?」
「やれやれ、理屈っぽい男だなあ! 何かといえばすぐ原則だ!……きみは全身が原則というバネでかためられているんだよ。自分の意志で向きを変えることもできん。ぼくに言わせれば、人間がいい──それが原則だよ、それ以上何も知りたいとは思わんね。ザミョートフは実にすばらしい人間だ」
「それが、甘い汁を吸ってか」
「なに、甘い汁を吸ってるって、そんなことどうでもいいじゃないか! 甘い汁を吸ってるのが、どうしたというんだ!」どういうわけか不自然に苛立ちながら、ラズミーヒンはいきなり叫んだ。「彼が甘い汁を吸っているのを、ぼくがほめたとでもいうのか? ぼくは、彼は彼なりにいいところがあると言っただけだ! 実際、どこから見ても非の打ちどころのないなんて人間は、何人もいやしないよ! 正直のところ、ぼくなんか臓腑ぐるみすっかりひっくるめても、焼いた玉ねぎ一個くらいの値打ちしかないだろうな、それもきみもおまけにつけてさ!……」
「それは少なすぎる。ぼくならきみに玉ねぎ二つ出すね……」
「ぼくはきみには一つしか出せんな! さあもっとしゃれを言いたまえ! ザミョートフはまだ子供だよ、少し鍛えてやるんだ。だってあの男は味方にしておく必要があるからな、突っ放しちゃ損だ。人間は突っ放しちゃ、──矯正はできんよ、まして子供はな。子供をあつかうには特に慎重さが必要だ。おいきみ、進歩的石頭、何もわかるまい! きみは人間を尊敬しないで、自分を侮辱している……ところで、なんなら話してもいいが、ぼくと彼の間には、どうやら、一つの共通の問題が生れたらしいんだよ」
「聞きたいね」
会話場面。ラズミーヒンとゾシーモフの会話。
ラズミーミンはあたかも一科白ごとに体勢が変わっているかのようだ。一科白ごとにゾシーモフの方を振り向いているかのようだ。そんな身振りが見えてくる。なぜだろうか。ラズミーヒンがリアルタイムで対話相手に反応しつつ(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」)、自分の意識の中に生じた考え・感情をすべてあけすけに口に出してしまっているから、ではないか。
最初からしてそうだ。「ええ、癪だなあ」「こいつも来てくれるといいんだがなあ」──こういう発言はラスコーリニコフであればそれを公にして相手に伝わってしまうことが自分にとってどんな利益・不利益を生むか計算してから口に出すはずだが、ラズミーヒンはそもそも相手に伝わっているかどうかということさえ気にしていないっぽい。だから「まあこれだって新顔みたいなものさ」「でも、ぼくは伯父が好きなんだよ」「やれやれ、理屈っぽい男だなあ! 何かといえばすぐ原則だ!」「なに、甘い汁を吸ってるって、そんなことどうでもいいじゃないか!」「実際、どこから見ても非の打ちどころのないなんて人間は、何人もいやしないよ!」「人間は突っ放しちゃ、矯正はできんよ、まして子供はな」──彼は相手の言葉に触発されてその場で生じて来た考え・感情を何でも(余計なことまで、相手がそれを聞きたがっているかどうかもおかまいなく)口に出して表出してしまう。どうも、ラズミーヒンは相手の反応に気を配っているというより、何でもかんでも矢継ぎ早に口に出すので時にむしろ相手の反応の「無さ」に引っ掛かって、科白の中でさらに相手に呼びかけることになるのか(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」「おいきみ、進歩的石頭、何もわかるまい!」)。とにかくこの思い付くままに表出される「内語」という逆説的形式の、特に感情面でのあけすけさが、ただ科白だけのところにラズミーヒンの身振りさえ想起させる所以だろう。
ゾシーモフの方はあくまで、ラズミーヒンの思い付くままに表出される考え・感情を触発するために、短い質問・疑問を投げ掛ける役割のみをここでは担っている。ゾシーモフの科白を読んでいても彼の身振りが想起されるということはない。
もう少し一般的なことを記すと、何故かドストエフスキーの書く会話場面では、登場人物間でのリアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていくような印象がある。以前書いた分析を引用する。《だがそれだけではない。ドストエフスキーの対話場面は何かしら尋常ならぬところがある。なんというか、会話の流れと並行して、あの「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」が続いているかのようなのだ。例えばラスコーリニコフの内界と外界がいよいよぶつかった瞬間と言いうる、マルメラードフに話しかけられた直後には、ラスコーリニコフの内面に事件的な心理が動き出す。「彼はついいましがた、ちらと、どんな相手でもいいから話しあってみたいと思ったばかりなのに、実際に言葉をかけられてみると、たちまち、彼の人間にふれる、あるいはふれようとするだけの、あらゆる人々に対するいつもの不快な苛立たしい嫌悪感をおぼえた。」出掛けた好奇心が引っ込む。いわばここでも単なる心理描写(地の文の紋切り型!)ではなくて、内面と外部世界との立体的な対話性がつねに成り立つように記述がつづいていっているかのようだ。そしてマルメラードフの「もう五晩になります」の言葉を受けてはじめて相手の服や髪の毛に乾草が付いていることに気付く流れもまた、表面的な会話の流れの深層に秘められた事実と意味の感触があることを、すなわち小説全体がそこで成立している意味のレベルが叙述の中で構造化されていることを示している。》──地の文の中だけでなく、科白そのものの中にも、深層に秘められた事実と意味の感触がリアルタイムに反映していくと考えるべきだろう。
●『罪と罰』上390-393頁
第三部第三章
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「ああ、ロージャ、おまえは嘘だと思うかもしれないけど」と彼女はあわてて息子の言葉に答えながら、急いで言った。「わたしとドゥーニャは昨日は……ほんとに不幸だったんだよ! いまはもう、何もかもすぎ去って、わたしたちはみんなまたしあわせになったから、こんな話もできるんだけどね。まあ考えてもごらんよ、おまえを早く抱きしめたいと思って、それこそ汽車からまっすぐここへかけつけてみれば、あの女のひとが、──あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!……このひとがいきなりわたしたちに言うじゃないの、おまえが熱病にかかってねていたが、ついいましがた医者の目をかすめて、夢遊病者みたいに街へ逃げ出し、みんなさがしにかけ出していったなんて。おまえにはほんとにできないだろうけど、わたしたちがどれほど心配したか! わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ。ほら、わたしたちの知り合いで、おまえのお父さんの親しいお友だちで、──おぼえている、ロージャ、──あのひとも熱病にかかって、やっぱり逃げ出して、庭で井戸におちて、あくる日になってやっとひきあげられたんだよ。わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ。もうすんでのことにピョートル・ペトローヴィチを訪ねようとしたんだよ、せめてあのひとの助けでも借りようと思ってねえ……だってわたしたちは二人きりだったんだもの、頼るひとが誰もなかったんだもの」と彼女は哀れっぽい声で訴えるように言ったが、不意にはっと口をつぐんだ。《みんながもう元どおりにすっかり幸福になった》が、それでもやはりピョートル・ペトローヴィチのことを口にするのは、まだかなり危険なことを思い出したからである。
「そうでしょうとも……そりゃ、たしかに、腹がたったでしょう……」とそれに答えて、ラスコーリニコフは呟いたが、それがあまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度だったので、ドゥーネチカはびっくりして、目を見はった。
「はてな、あと何を言おうとしたんだっけ」と彼は無理に思い出そうとつとめながら、言った。「そうそう。お母さん、それからドゥーネチカ、おまえも、ぼくのほうから行きたくないから、あんた方の来るのを待っていたなんて、そんなふうに思わないでくださいね」
「まあ、何を言うんだね、ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナも、びっくりして叫んだ。
《まあ兄さんたら、義務で、わたしたちに返事しているのかしら?》とドゥーネチカは考えた。《仲直りするのも、許しをこうのも、まるでおつとめをしているか、宿題の暗誦でもしてるみたいだわ》
「起きるとすぐに、行こうと思ったのですが、服でぐずぐずしてしまったものですから。昨日この……ナスターシヤに……血を洗ってくれるように言うのを忘れてしまって……いまやっと服を着おわったところなのです」
「血ですって! なんの血なの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。
「いやなに……なんでもないんです。実は昨日すこしもうろうとして、ふらふら歩いていたら、馬車にひかれた男にぶつかったんです……官吏ですが……それで血が……」
「もうろうとして? でもきみはすっかりおぼえてるじゃないか」とラズミーヒンが口を入れた。
「それはたしかだ」と何か特に注意深く、ラスコーリニコフはそれに答えた。「ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」
「それはもう自明の現象ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「あることの実行はときとして手なれたもので、巧妙すぎるほどだが、行為の支配、つまり行為の基礎がみだれていて、さまざまな病的な印象に左右さえる。まあ夢のような状態ですな」
《ふん、やつはおれをほとんど気ちがいあつかいにしているが、そのほうがかえって好都合かもしれんぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人だって、やはりあるかもしれませんわ」と不安そうにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカが言った。
「お説のとおりかもしれません」とゾシーモフは答えた。「その意味では、たしかにわたしたちはみな、しかもひじょうにしばしば、ほとんど狂人のようなものです。ただわずかのちがいは、《病人》のほうがわれわれよりもいくぶん錯乱の度がひどいということだけです、だからここに境界線をひかなければならないわけです。調和のとれた人間なんて、ほとんどいないというのは、たしかです。何万人に、いやもしかしたら何十万人に一人、いるかいないかですが、それだってやはり完全というわけにはいかんでしょう……」
好きなテーマで調子づいたゾシーモフがうっかり口をすべらした《狂人》という言葉に、一同は眉をひそめた。ラスコーリニコフはそんなことは気にもとめないふうで、蒼白い唇に奇妙なうす笑いをうかべたまま、じっと黙想にしずんでいた。彼は何かを考えつづけていた。
ドストエフスキー作品の会話場面における各登場人物たちの振舞い及び発語は、あたかも内面・内語が表面に裏返って出て来たかのような印象が少なからずある。科白の中にその場の登場人物間での反応がリアルタイムに織り込まれることによって、科白だけで登場人物の身振りが想起されるのも、「内面」が落ち着かずに敏感に表に出て来てしまっているということの効果より他でない。
人物によっては、たとえばラズミーヒンのように内面・内語が表に出てしまうことについてまったく無頓着で全然空気を読まないこともある。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナもその無頓着を或る程度共有していて、その場の登場人物間での反応をどんどんリアルタイムに科白の中に繰り込んでいくし(「まあ考えてもごらんよ、……」「あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!」「おぼえている、ロージャ、……」)、ほとんど内語に近いような叫び(「わたしたちがどれほど心配したか!」「わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ」)や自分の意識においてしか必然性を持たない連想(「わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ」)が出て来るところなど、内面・内語を無節操に外へ出してしまうことへの抑制のなさを感じさせる。ところが彼女はラズミーヒンのように100%無頓着ということはなく、あまりにも内面・内語を表出しすぎてしまったことを反省することもある。つまり彼女の中には表出すべきことと表出すべきでないことの区別がかすかに意識されている。というのはもちろん彼女が長科白を終えた直後に「不意にはっと口をつぐんだ」身振りに表れている。
他方、ラスコーリニコフは内面・内語を表出してしまうことに対する警戒心が強い。実際、表出されるべきでない彼の内語はちゃんと《……》に括られて地の文に置かれている。とはいえ彼は内面・内語の表出を完全に抑え込んでいるわけではなく(それでは通り一遍のことしか口にすることができないだろう)、科白は抑制されているとしても振舞いの方で内面・内語が部分的にあらわになってしまっている。科白に表れていない部分の内面・内語が、彼の身振りの中にやはりリアルタイムで反映されてしまう。一例を挙げれば「あまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度」がそれで、慧眼なドゥーニャはこの「表出」を受けてラスコーリニコフが言葉の上では和解を語っているもののまったく本気ではないのではないか(本心は別ではないか)ということを見抜くのだ。ラズミーヒンのようにあけすけではないので、ラスコーリコフの科白の流れから身振りを想起することはあまりできないのだが、まさにその身振り(の描写)が、一見何も問題もなさそうな科白が「如何に言われたか」という点で歪みをきたしていることを示唆し、その二重性によって、ラスコーリ二コフの内面・内語を裏返し表出させているのである。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナにおいては、科白を言ったあとに「不意にはっと口をつぐんで」自分が不味いことを言ったのに気付くという描写の中に、彼女の内面・内語のリアルタイム表出に対する自意識が垣間見られた。他方、ラスコーリニコフの場合は、彼の科白とそれが如何に言われたかを描写する地の文の齟齬においてその自意識が作用していると看做しうる。
「それはたしかだ……ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」──このラスコーリニコフの科白の複雑さもそこから分析できる。これをそのまま読めば、昨日自分はぼんやりしたまま街を彷徨い歩いていて事故にぶつかった、という内容しか読み取れないが、これは「特に注意深い」身振りとともに発せられている。実際、彼が「そこへ行ったのは」犯罪の想念に疲れて警察に自首することを考えてのことだったから、とはいえそれをそのまま白状するわけにはいかないから、ここで彼は明らかに「特に注意深く」嘘を言っている──つまり内面的な作為を働かせているのだ。その作為は科白からは入念に隠されているが、「特に注意深く」という身振りの描写において「表出」されていると読めるわけだ。
で、そのラスコーリニコフの嘘に引っ掛かってゾシーモフは紋切り型の解釈をしてみせる(のを受けてラスコーリニコフは《そのほうがかえって好都合かもしれん》と内語で判断する)。そう、この場面に参加している人物のうち、この医師ゾシーモフだけは内面・内語が欠如したまったき凡人として描かれている。ゾシーモフは、対話に敏感に反応するがゆえに衝迫力をともなって表出をせまってくる内語や内面というものを知らないし、従ってそれを抑制する意志の力も必要としていない。科白の中における身振りの想起もない。科白と身振りの分裂もない。ドストエフスキー作品の中では彼の精神保健についてのお喋り(「わたしたちはみな、ほとんど狂人のようなものです……」)はまったくぺらぺらで何の起伏もリアリティもないような言葉に見える。だが、一般的に小説の中で科白として出てくるのは、ほとんどこのゾシーモフの言葉と同じ、分裂も内面の反転とも無縁な一元的なしろものだろう。むしろドストエフスキーが異常すぎる。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
●『罪と罰』上405-408頁
第三部第三章
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「まあ! 気絶させちゃって!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「いえ、いえ……なんでもありませんよ……つまらんことです!……ちょっとめまいがしただけです。気絶なんてとんでもない……よくよく気絶の好きな人たちだ!……ウン! そう……何を言おうとしたんだっけ? そうそう、どうしておまえは、彼を尊敬することができ、そして彼が……人格を認めてくれることを、今日にも確認できるんだい、たしかそう言ったね? おまえは、今日、と言ったようだったね? それともぼくの聞きちがいかな?」
「お母さん、ピョートル・ペトローヴィチの手紙を兄さんに見せてあげて」とドゥーネチカは言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはふるえる手で手紙をわたした。彼は大きな好奇心をもってそれを受けとった。が、それをひろげるまえに、彼は不意にどうしたのか、びっくりしたようにドゥーネチカを見た。
「おかしい」彼は突然新しい考えにゆさぶられたように、ゆっくり呟いた。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ? この騒ぎはなんのためだ? うん、誰でも好きなやつと結婚すればいいじゃないか!」
彼は自分に言いきかせるようだったが、かなりはっきり声にだして言って、しばらくの間、当惑したように妹の顔を見つめていた。
彼は、とうとう、まだ異様なおどろきの表情をのこしたまま、手紙をひらいた。そしてゆっくり入念に読みはじめて、二度読み直した。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはひどく不安気だった。ほかのみんなも何か特別なことが起りそうな気がしていた。
「おどろいたねえ」と彼はしばらく考えてから、母に手紙をわたしながら、特に誰にともなく言った。「だって彼は弁護士で、忙しくやっているんだろう、話だってまあまあだ……くせはあるけど、ところが書かせるとまるででたらめじゃないか」
一座はちょっとざわめいた。これはまったく予期しなかったことだからである。
「でも彼らはみなこういう書き方をするよ」とラズミーヒンはどぎまぎしながら言った。
「じゃ、きみは読んだのか?」
「うん」
「わたしたちが見せたんだよ、ロージャ、わたしたちは……さっき相談したんだよ」とおろおろしたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をだした。
「これは裁判所独特の文体だよ」とラズミーヒンがさえぎった。「裁判所の書類はいまでもこんなふうな書き方だよ」
「裁判所の? うん、たしかに裁判所で書きそうな手紙だ、事務的で……まあそれほど文法的にでたらめだともいえないが、しかしひじょうに文学的ともいいかねる。まあ事務的だな!」
「ピョートル・ペトローヴィチは満足に教育を受けていないことを、かくしてはおりません、自分で自分の道をきりひらいたことを、かえって誇りにしているくらいですわ」と兄の新しい調子にいくらかむっとして、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。
「まあいいさ、誇りにしているなら、それだけのものがあるのだろう、──ぼくは何も言うまい。ドゥーニャ、おまえは、ぼくがこの手紙を読んでこんなつまらないけちをつけただけなので、侮辱を感じたらしいね、そして、怒らせておいておまえをやっつけるために、ぼくがわざとこんなつまらないことを言いだしたんだと、思っているだろう。とんでもない、文章の中に一個所、この場合ぜったいに読みすごせない意見が、ぼくの頭にピンときたのだ。というのは《自業自得》という表現だ。ひじょうに意味ありげに、しかもはっきりと書かれている。しかもそればかりか、ぼくが来たら即座に退出する、という脅迫がある。この退出するという脅迫は──いうことを聞かなければ、おまえたち二人をすてるぞ、という脅迫と同じじゃないか、しかもわざわざペテルブルグまで呼び出しておきながらだ。ドゥーニャ、おまえはどう思う、例えば彼か(彼はラズミーヒンを指さした)、ゾシーモフか、あるいはわれわれの誰かがこんなことを書いたら、それこそ腹を立てるだろう、それがルージンなら、こんなことを書かれても、腹を立てられないのか?」
「ううん」とドゥーネチカは元気づきながら、答えた。「この手紙の表現は余りにナイーヴで、あのひとは、きっっと、ただ書くのが上手じゃないだけなんだってことが、よくわかったわ……兄さんの考察は実にみごとよ。思いがけぬほどよ……」
滅茶苦茶複雑な情景法。ドストエフスキーにとってはこれがデフォだからヤバい。
この場面にいるのはラスコーリニコフ、ドゥーネチカ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、ラズミーヒンの四人。彼らが四者四様の振舞いを見せ、その中心にルージンの「手紙」がある。
一読して分かるのは、一つ一つの科白が向けられている相手との兼合いで非常に多様なベクトルを描いているということ。
(1)最初のプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの科白は、誰に言うでもなし、ラスコーリニコフの真っ青になった様子を見て、それを実況気味に叫んだもの。
(2)次のラスコーリニコフはそのプリヘーリヤの声に応えながら、何かを思い出し、科白の後半でベクトルをドゥーニャ(「おまえ」としか呼ばれないが)に向けて或る質問をする。
(3)ドゥーニャはそれに直接答えずに、母親にベクトルを向けて、ルージンの手紙を見せるように言う。
(4)突然、ラスコーリニコフは妙なことを呟く。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ?……」これは内語がそのまま表出されてしまったような趣きで、それゆえに他の誰に対してよりも自分自身にベクトルの向いた科白だと考えられる。
(5)手紙を読んだ後のラスコーリニコフの科白、これも「特に誰にともなく」言われたもので、或る意味自分自身にベクトルの向いた、内語の呟きの表白のようなもの。さらに言えば、ここではルージンの手紙が一つの「登場人物」と化して、それにベクトルが向いたつぶやきだと言えるかもしれない。「おどろいたねえ……」
(6)地の文でだが、「一座はちょっとざわめいた」。ということは、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、ラズミーヒン、ドゥーネチカがざわめいたという意味だ。その反応を「一座」のものとしてラスコーリニコフの直前の科白へベクトルを向けた「ざわめき」と描写したわけだ。
(7)ラズミーヒンが、ルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けた科白で口を出す。
(8)それを受けて、ラスコーリニコフのラズミーヒンへの問い掛け。
(9)それに対するラズミーヒンの返事。
(10)そのやりとりに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが主にベクトルをラスコーリニコフに向けて「口を出した」。
(11)ラズミーヒンが(7)の反復のような形で、やはりルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けたような科白で自分の判断を言う。
(12)それを受けて、ラスコーリニコフもルージンの手紙にベクトルを向けたような自分の判断を口にする。
(13)そこへ、ドゥーニャが、やはりルージンの手紙とラスコーリニコフ、半々にベクトルを向けてラスコーリニコフの判断を非難するような形で、自分の判断を語る、つまり口を出す。
(14)それを受けてラスコーリニコフ、半分はやはりルージンの手紙にベクトルを向けてその文体の分析しつつの、半分はドゥーニャにベクトルを向けた彼女に対する応答として長い科白を吐く。その中でラズミーヒンに言及する際にはラズミーヒンを指さす。科白の最後にはドゥーニャに答えを求めるように問い掛ける。
(15)それに対するドゥーニャの答え。
普通の小説家が描く情景法の中で、これほどの密度で一つ一つの科白のベクトルが乱反射し交錯することは、まずないと言っていい。(3)のように直接の応答を求める科白に対しベクトルをずらして別の人物を志向するような科白、(4)のような内容は独り言なのに思いっきり発話される自己対話的な科白、(10)のようにほぼスルーされるノイズのような口出し、等々さまざまなパターンが駆使され、おまけに(7)のようにルージンの手紙とラスコーリニコフと半々にベクトルを向けたような二つの中心がある楕円形の科白によって、「ルージンの手紙」の実在を登場人物間のやり取りによって浮び上がらせる、という技法さえ用いられている。
かつて『罪と罰』の別の個所を《ラズミーミンはあたかも一科白ごとに体勢が変わっているかのようだ。一科白ごとにゾシーモフの方を振り向いているかのようだ。そんな身振りが見えてくる。なぜだろうか。ラズミーヒンがリアルタイムで対話相手に反応しつつ(「どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ?」)、自分の意識の中に生じた考え・感情をすべてあけすけに口に出してしまっているから、ではないか。》──といった分析をしたことがあるが、そこで連ねられる科白のベクトルの豊富さという点からもこの「なぜだろうか」に答えることができそうだ。
●『罪と罰』上212-215頁
第二部第三章
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「まあ、いけすかない!」と、またナスターシヤは叫んだ。どうやらこの会話は彼女にぞくぞくするような幸福感をあたえたらしい。
「まずかったのは、きみ、そもそもの出だしから作戦をあやまったことだ。あの女にはこういうやり方ではいけなかったんだよ。たしかにあれは、いわば、稀にみる珍しい性格だよ! まあ、性格のことはあとにしよう……ただきみはどうして、例えばだな、あのおかみに食事をとめさせるようなへまなことをしたんだい? それから、あの手形だが、ありゃいったいなんだい? ほんとに、頭がどうかしたんじゃないのか、手形に署名するなんて! それからまた、例の婚約だが、娘のナターリヤ、エゴローヴナがまだ生きていた頃の話さ……ぼくはすっかり知ってるんだよ! しかし、これはデリケートな心の琴線の問題で、この方面ではぼくはまるきりにぶいらしいよ。失礼失礼。ところで、にぶい話がでたので聞くけど、どうだね、たしかにプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナは最初見たときほど、それほど馬鹿じゃないぜ、な?」
「うん……」ラスコーリニコフはそっぽを向いていたが、心の中では話をつづけさせるほうがとくだとわかっていたので、しぶしぶ答えた。
「そうだよな?」返事をもらったのが嬉しくてたまらないらしく、ラズミーヒンは大声を出した。「しかしたしかに利口ではない、な? まったく、稀に見る珍しい性格だ! ぼくはね、きみ、いささか面くらっているんだよ、ほんとだぜ……四十はまちがいないだろう。ところが自分じゃ三十六と言ってるがね、それが少しもおかしくないんだよ。ただし、正直のところ、ぼくは彼女についてはむしろ精神的な面から、つまり形而上学的にのみ判断しているんだ。ぼくたちの間にはな、きみ、ある一つの記号が形成されたんだよ、きみの代数みたいなさ! どうにも解けんよ! まあ、こんなことはどうでもいいさ。ただ彼女は、きみがもう学生じゃなく、家庭教師の口も着るものもなくしてしまったし、おまけに娘が死んで、きみをもう身内として面倒を見る理由がなくなったのを知ると、急に心細くなった。しかもきみはきみで、隅のほうにねころがったきりで、まえとはすっかり変ってしまった。そこで彼女はきみを部屋から追い出そうと考えたわけだ。そしてかなり長い間彼女はこの考えを胸の中にあたためていた。そのうちに手形が惜しくなってきた。そこへもってきてきみが自分で、母が払ってくれるから、なんて言った……」
「そんなことを言ったのはぼくが卑怯だからだ……母だってほとんど乞食みたいな暮しをしているんだ……ぼくが嘘をついたのは、ここにおいてもらって……食べさせてもらいたかったからだ」とラスコーリニコフは大きな声で、はっきりと言った。
「わかるよ、それはきみあたりまえのことだ。ただ問題は、そこへ七等官で腕っこきのチェバーロフという男がはいりこんできたことだよ。パーシェンカは彼がいなかったら何も企てられなかったろうさ。なにしろあんな内気な女だ。ところが、腕っこきの男なんてやつはだいたい恥知らずと相場がきまってる。そこで先ず最初に考えることはきまってるよ。手形を現金化する見込みがあるかどうか、ということだ。答えは、ある、なぜなら百二十五ルーブリの年金から、自分は食べないでも、ロージェンカには送金するという感心なお母さんがいるし、またお兄さんのためなら身を売って奴隷になってもかまわない、というような妹さんがいるからだ。ここを彼はねらったわけだ……どうしたんだい、もぞもぞして? ぼくはね、きみ、いまはもうきみの秘密をすっかりさぐり出してしまったんだよ。きみがまだ身内あつかいされていた頃、パーシェンカに何でも打ち明けていたろう、それがこっちへまわってきたのさ。ぼくがいまこんなことを言うのはきみを愛するからだよ……つまりこういうことなんだよ、正直で涙もろい人間はややもすると打ち明け話をする。すると腕っこきな人間はそれを聞いていて、食いものにする。そのうちにすっかり食いつくしてしまうというわけさ。それはさて、彼女は支払うということにして、その手形をチェバーロフという男に渡した。そこでチェバーロフは正規の手続きをふんで支払いを要求したわけだ。けろりとしたものさ。こうした事情をすっかり知ったとき、ぼくは、やつの良心を清めてやるために、やつにも電流を通じてやろうと思ったよ。ところがちょうどその頃、ぼくとパーシェンカの間にあるハーモニーが生れたんだ。そこでぼくは彼女にこの事件をいっさいとりさげるように命じた。もっともそれには先ず、きみが支払うという一項をぼくは保証したがね。きみ、ぼくはきみの保証人になったんだぜ。わかるかい? そこでチェバーロフを呼んで、ルーブリ銀貨を十枚ぽんと投げ出し、手形をとりもどした。さあこれだ、謹んできみに差し上げよう、──もう口約束だけで信用するよ、──そら、受け取りたまえ、ぼくが破いて無効にしておいたよ」
ラズミーヒンは卓の上に借用証書をのせた。ラスコーリニコフはそれには目もくれず、ものも言わないで、くるりと壁のほうを向いた。さすがのラズミーヒンもむっとした。
「そうかい」と一分ほどして彼は言った。「おれはまたばかな真似をしたようだ。軽口をたたいてきみの気をまぎらし、慰めてやろうと思ったんだが、どうやら、腹の虫を怒らせただけらしい」
登場人物の自意識の中に入って来るものよりは無意識の方が重視されるドストエフスキー作品において、つまり能動的な内語の方こそ二次的とみなされる小説世界において、直接的に発話される科白とは、何だろうか。当然それは作中人物の自意識の延長にぴったり一致するものではあり得まい。
ここで仮に答えを出すとすると、ドストエフスキーの作中人物たちは「否定・非難」するためにこそ発話する。落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)を多彩に「否定・非難」するためにこそ、作中人物たちは喋りまくる。まさにこの否定の契機において直接的な表出が二次的であり無意識こそ本質だという構造が現われるのではないか、というわけだ。内語の場合は地の文の介入によって中断・屈折・転回する。科白の場合、その中断・屈折・転回はリアルタイムでその表層の波立ちに現われる(「何故かドストエフスキーの書く会話場面では、登場人物間でのリアルタイムな反応が科白につねに繰り込まれていくような印象がある」とはそういう意味ではなかったか?)。また、科白の中に否定の契機が盛り込まれなくても、それを口にした人物の表情・仕種描写において否定の契機≒無意識の作用が表出することもあるだろう。
これはもちろんバフチン的な認識ではある。《内的な論争に類したものに、あらゆる本質的で深遠な対話における応答がある。/そうした応答における言葉はどれも、対象に向けられているとともに、具体的な他者(例えばマカール・ジェーヴシキンに対してはワルワーラ、ヴェリチャーニノフに対してはトルソーツキイ……)の言葉に過敏に反応し、それに答えつつ、それを先取りしようとする。/返答と先取りの契機は、緊張した対話の言葉の内部に深く浸透している。そうした言葉は、あたかも自分の中に他者の応答を取込み吸収しようとして、懸命になってそれらを加工しているかのようだ。》──だがもっと徹底する必要があるだろう。一体に、科白は直接的な肯定や真実の言葉ではあり得ない、と言い切ろう。あたかも直接的な肯定や真実の言葉のように見える科白は、まったく抑揚のない紋切り型のおうむ返しか、或いは、バレバレの演技的な虚言に過ぎないのだ、と(通常の小説ではそこまで徹底していないのだが)。
では引用部を分析しよう。会話場面では互いに予想のつかないことをしかねない他者同士が顔を付き合わせることになるので、相互に相手を否定・非難する微妙な圭角が乱反射せざるを得ない。ここでのラズミーヒンの長広舌は、一直線に言いたい事の説明に進まずに、つねに何かに対する否定や非難の屈曲を孕んで落ち着かないということに注目しよう。ついつい彼はやっきになって「言いたくない事」まで口にしてしまうかのようだ。最初の長科白でラズミーヒンは何を否定しているか。ラスコーリニコフの過去のやり方が間違っていたことへの非難(「そもそも出だしから作戦をあやまった」「どうして……へまなことをしたんだい?」「ありゃいったいなんだい?」「ほんとに、頭がどうかしたんじゃないのか」)、自分がひそかにプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナを気に入っていることの抑圧(「まあ、性格のことはあとにしよう」)、ラズミーヒンは何も詳しい事情を知りはしないじゃないか、というあり得べき先入観の否定(「ぼくはすっかり知ってるんだよ!」)、自己非難=自己卑下(「この方面ではぼくはまるきりにぶいらしいよ」「失礼失礼」)、そして自分が気に入ったプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナへの軽視を先回りしての否定(「プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナはそれほど馬鹿じゃないぜ」)、……となんとこの科白からしてすでに目の前のラスコーリニコフ(のあり得べき反応)に対する、自分自身の無意識に対する、世間一般の目線に対する、否定と非難がたっぷり盛り込まれているのだ。というかそれしか内容がない。
ラズミーヒンの第二の科白も否定の契機が満載だ。彼が肯定的なことを述べるのは、相手が自分の無意識に言いたかったことに同意してみせた時だけである(「そうだよな?」)。それ以外は、ラスコーリニコフの不信や予断を先回りしての否定(「ほんとだぜ……」「ただし、正直のところ、ぼくはむしろ……」)、事実や伝聞情報の主観的否定(「四十はまちがいないだろう、ところが自分じゃ三十六と言ってるがね」)、自分の無意識の欲望に沿って言いたい事の抑圧(「どうにも解けんよ!……まあ、こんなことはどうでもいいさ」)、……等々。後半も、一見単なる事情の説明のように読めるが、全体としては薄らとしたラスコーリニコフに対する非難になっているのではないか。「そこへもってきてきみが……なんて言った……」の箇所にそういうニュアンスが読み取れないか。つまり、ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかないかのようだ! いや、われわれの現実を徹底してリアルに見れば実際そうなのかもしれない。
また、ラスコーリニコフの短い発話の中にさえ否定の契機があることを見逃さぬようにしよう。まずは「うん……」という短い科白。科白はこれだけだが、ここにはラスコーリニコフの仕種についての記述が地の文でくっついている。彼は科白ではラズミーヒンに同意していても、実際にはラズミーヒンの話をまともに受け取っていないことが暴露されている──つまりこの場面で彼は態度(というか内面)においてまさにラズミーヒンに対して否定的なポジションを取っているのだ。この地の文の記述における否定の契機は最後の方の「ラスコーリニコフはそれに目もくれず、ものも言わないで、くるりと壁のほうを向いた」という無言の拒絶でさらに明瞭に描かれている。
ラスコーリニコフのもう一つの科白──「そんなことを言ったのはぼくが卑怯だからだ……母だってほとんど乞食みたいな暮しをしているんだ……ぼくが嘘をついたのは、ここにおいてもらって……食べさせてもらいたかったからだ」──は、ラズミーヒンの最後の科白──「そうかい……おれはまたばかな真似をしたようだ。軽口をたたいてきみの気をまぎらし、慰めてやろうと思ったなだが、どうやら、腹の虫を怒らせただけらしい」──とセットで分析すべきものである。これらの科白にはやはり否定の契機が含まれている、ように見える。どちらも自己非難という内向きの攻撃性を見せている。だが文脈を踏まえて読めば、これらは実際には自己非難という形を取った相手へのリアルタイム攻撃だ。ラスコーリニコフの科白は相手に対する「そんなことは自分でも分かっている、わざわざ言うな」という非難の変形だし、ラズミーヒンの科白は「おれは親切のつもりでやったのになんて失礼な奴だ」という非難の変形だ。ただ二人は一応友人であるので相手への直接の非難は無意識へと抑圧され、屈折した結果が、この自己非難という形での相手への非難になっているわけだ。会話場面がたとえ友人同士の間でも本質的に相互否定でしかあり得ないのだとしたら、こういう複雑で迂遠な対話もリアリティがないとは言えまい。
最後に、ラズミーヒンの第三の長科白を分析しよう。ここも大部分は過去の事情の説明であるかのようだが、全体としてのチェバーロフに対する非難のトーンは明らかだろう(「ところが、腕っこきの男なんてやつはだいたい恥知らずと相場がきまってる」「やつの良心を清めてやるために、やつにも電流を通じてやろうと思ったよ」)。生き生きした長科白の肝は非難のトーンにある、というわけか。それだけではなく、彼の話を聞いてラスコーニコフに生じうるだろう疑念を先回りして打ち消していく起伏も、このラズミーヒンの科白には多く孕まれている(「わかるよ、それはきみあたりまえのことだ」「ぼくがいまこんなことを言うのはきみを愛するからだよ」「わかるかい?」)。思うに、科白の中に否定の契機を盛り込むことによって、小説技法的に言うと、科白の節約になるんだろうか?──「なんでそんな事まで知っているんだ?」「ぼくはもうきみの秘密をすっかりさぐり出してしまったんだよ」──或いは「ぼくはきみの保証人になったんだぜ」「君が借金を取り立てるというわけか?」「いや、ぼくは君を口約束だけで信用するさ」──といったやり取りをいちいちさせなくて済むから。科白の中にリアルタイムで相手の反応を織り込んでいく(ことによって中断・屈曲・転回を生む)のも同様の「節約」効果があるだろうか。ちなみにここでは、妹と母のことに言及されて表情を変えたらしいラスコーリニコフの異変に対する「どうしたんだい、もぞもぞして?」の「非難」が、リアルタイムな相手の反応の織り込みの実例である。
(小説にとって細部のリアリティとは何か、という問題がある。ドストエフスキーにおいては無意識の衝迫によって屈折する(つまり決して一人称的=自意識的ではあり得ない)「科白」「内語」「身振り」「感情」「知覚」の造型こそが細部の襞の決め手だろうか。)
●『罪と罰』上240-243頁
第二部第四章
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「まあ考えることはないね、罪跡があるじゃないか、それがどんなものにしろ、とにかくあることはある。事実だよ。そのペンキ屋を釈放するわけにはいくまいさ?」
「だってきみ、彼らはもう彼を真犯人と断定してしまったぜ! いまじゃ彼らはもうこれっぽっちも疑っていないんだ……」
「それでいいじゃないか。きみは興奮しすぎてるよ。じゃ、耳飾りは? いいかい、その日その時刻にだよ、老婆のトランクの中にあった耳飾りがミコライの手に入ったとすれば、それはどういう方法かで入ったにちがいないのだ、どうだね、これには異論があるまい? こうした事件にはよくあることなんだよ」
「どうして手に入った! どうして手に入ったって?」とラズミーヒンは叫んだ。「いったいきみは、医者のくせに、何よりも先ず人間を研究するのが義務で、しかも誰よりも人間の本性を研究する機会をもちながら、それでなおかつきみは、これだけ資料をならべられても、ミコライがどんな性質の人間かわからないのか? いったいきみは、尋問に際して彼が述べた経過でそれが彼の手に入ったことは、ぜったいにまちがいない。小箱を踏んづけて、それをひろい上げたんだ!」
「神聖な真実か! ところが、はじめは嘘をついたと、自分で白状しているじゃないか?」
「まあぼくのいうことを聞きたまえ。ようく聞いてくれたまえよ。いいかね、庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、はじめの庭番の女房も、そのときその女房といっしょに庭番小舎にいた町家のおかみも、ちょうどそのとき馬車を下りて、ある婦人の腕をとって門を入ってきた七等官のクリュコフも、──みんな、つまり八人か十人の証人がだね、ミコライがミトレイを地べたにおさえつけ、馬のりになってぶんなぐっていた、下になったほうも相手の髪をつかんで、なぐり返していたと、口をそろえて証言しているんだ。彼らは道幅いっぱいにころがり、通行の邪魔をしているので、四方八方からどなられたが、彼らは、《まるで小さな子供たちみたいに》──これは証人たちが言った言葉そのままだよ──上になり下になり、キャッキャわめき、つかみあい、実に滑稽な顔をして互いに負けじと声をはりあげてわあわあ笑っていたが、そのうちに一人がもう一人を追っかけて、子供みたいに通りへかけだして行った。聞いたかい? さて、これが大切なところだ、しっかり頭に入れてくれたまえよ。上の死体はまだあったかかった、いいかい、発見されたとき、まだあったかかったんだ! もし彼らが殺してだ、あるいはミコライ一人だけがやったとしてもいい、そしてトランクから強奪したか、あるいはこの強盗事件を何かの形で手伝ったとしたらだ、きみにたった一つだけ質問したいのだが、あのような精神状態、つまり門のすぐまえでキャッキャわめいたり、わあわあ笑ったり、子供みたいにとっくみあったりという状態がだ、果して斧とか、血とか、凶悪なずるさとか、ぬかりのなさとか、盗みとか、そういったものと同居し得るものだろうか? ついいましたが人を殺して、せいぜい五分か十分しかすぎていない、──なぜって、まだ死体にぬくみがのこっていたからだ、──それが突然死体もうっちゃらかし、部屋もあけっ放しのままで、たったいま人々がそこへのぼっていったことを知りながらだ、獲物まですてて、まるで小さな子供たちのように、道路にころがって、キャアキャアふざけちらして、みんなの関心をひきつける、しかもそれは十人の証人の口をそろえての証言なのだ!」
「たしかに、おかしい! むろん、あり得ないことだが、しかし……」
「いや、きみ、しかしじゃないよ、たとえその日その時刻にミコライの手にあった耳飾りが、たしかに彼に不利な重大な物的証拠となっているとしても、──しかしそれは彼の陳述によってはっきり釈明されているから、従ってまだ未確認物証というわけだが、──とにかく無罪を立証する諸事実も考慮に入れてしかるべきだと思うんだ。ましてやそれらが動かし得ない事実だから、なおさらだよ。きみはどう思う、わが国の法律学の性質上、そのような事実を、──つまり心理的不可能性というか、精神の状態にのみ基礎をおいているような事実を、拒否し得ない事実、しかもそれがどんなものであろうと、いっさいの告訴理由および物的証拠をくつがえしてしまうような事実、として認めるだろうか、いや認めることができるだろうか? いや、認めまい、ぜったいに認めまい、なぜなら小箱が見つかったし、当人は自殺しようとしたからだ。《身におぼえがなければ、そんなことをするはずがない!》これが重大問題なんだよ、ぼくを興奮させているのはこれなんだよ! わかってくれ!」
引用部ではラズミーヒンとゾシーモフが言い争いをしている。科白がつねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の否定・非難を孕み対話がほとんど相互否定として現象せざるを得ないのだとしたら、こういう言い争いが現われるのも当然だと言えるが、しかしここで二人とも相手を直接に全否定してはいないことに注目しよう。つまりラズミーヒンの科白の中に含まれる否定・非難の契機も、ゾシーモフの科白の中に含まれる否定・非難の契機も、どちらも直接対話相手を目指しているわけではないということだ。
二人の科白はそれぞれ否定・非難・疑義・批判・詰問・抑圧・怒りさえあからさまに含んでいる。しかしその否定の対象はラズミーヒンにとってのゾシーモフ、ゾシーモフにとってのラズミーヒンではない。そこまでの敵対関係はこの二人の間に生じてはいない。簡潔に言えば、ゾシーモフにとって否定の対象になっているのはラズミーヒンの意見であり、ラズミーヒンにとって否定の対象になっているのは警察(「彼ら」)の意見である。そして二人の対話の拠ってたつ前提は例の殺人事件と、それに関連してミコライを逮捕した警察の捜査であり、彼らが否定したり非難したり取り上げたり疑問を付したりするのも、それらの基本事実の解釈に関わってのことなのだ。繰り返せばゾシーモフの人間性もラズミーヒンの性格もなんらここでは否定の対象になっていない。せいぜいゾシーモフの職業が、彼の憶断に絡んで批判されているだけだ(「いったいきみは、医者のくせに……」)。或いは、ラズミーヒンが自分の意見に夢中になり過ぎていることがリアルタイムに非難されるだけだ(「きみは興奮しすぎてるよ」)。まずはこの否定・非難の向かう先の多彩さに驚こう。
ゾシーモフは基本的に、色々と証拠や常識的な推論に基づいてラズミーヒンの考えに対する否定的なニュアンス(ということは警察の捜査に対する肯定的なニュアンス)を披露する。「まあ考えることはないね、罪跡があるじゃないか、……」「事実だよ。そのペンキ屋を釈放するわけにはいくまいさ?」「それでいいじゃないか」「じゃ、耳飾りは? いいかい、……」「どうだね、これには異論があるまい?」「はじめは嘘をついたと、自分で白状しているじゃないか?」──否定というよりも或る種の冷静な相対化といった形で、ゾシーモフは発話し会話場面に関与していく。他方、ラズミーヒンの発話を全体的に支配しているのは警察の捜査に対する激しい非難だ。例えば「いいかね、庭番も、コッホも、ペストリャコフも……」に始まる事件の日にあった目撃談の再現的な説明も、全体的に警察の解釈に対する反論つまりはゾシーモフの憶断に対する反論のニュアンスを帯びて語られている(「さて、これが大切なところだ、しっかり頭に入れてくれたまえよ」)。言い換えれば、科白の中の「発見されたとき、まだあったかかったんだ!」「しかもそれは十人の証人の口をそろえての証言なのだ!」という仰々しい事実の強調のトーンそれ自体さえ、そのまま「否定・非難」として表れているということだ。さらに、なんとラズミーヒンは否定と非難のために、警察の間違った判断──とラズミーヒンがみなしたもの──を想像的に再現してみせもする。「《身におぼえがなければ、そんなことをするはずがない!》」リアルタイムで今目の前にいるゾシーモフを否定・非難するのではなく、ラズミーヒンの科白が総体として否定・非難している事実や解釈があるということ、科白の否定・非難の向かう先はそこまで多彩でありうること、それを押えなければならない。
もちろんラズミーヒンは直接に警察を否定・非難することもある。「彼ら」に直に言及する時がそうだ。「彼らはもう彼を真犯人と断定してしまったぜ!」「認めるだろうか、いや認めることができるだろうか? いや、認めまい、ぜったいに認めまい……」(この非難のレトリックとしての修辞疑問文に注目)それだけでなく、ラズミーヒンはリアルタイムに目の前にいるゾシーモフへの非難を科白に織り込みもする。「どうして手に入った! どうして手に入ったって?」「いったいきみは、尋問に際して彼が述べたてたことがことごとく、神聖な真実であることが、一目で見ぬけないのか?」「いや、きみ、しかしじゃないよ、……」「これが重大問題なんだよ、……わかってくれ!」だがこの点はそれほど重要じゃない。一つの科白の中で否定・非難の向かう先がいかに多様であり得るかの認識の方が重要。
●『罪と罰』下452-454頁
第六部第八章
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「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そうでしたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、ロジオン・ロマーヌイチ! これはやっとおぼえたんですよ。何度も調べましてな、苦労しましたよ。実は、白状しますが、あのとき以来えらく気に病みましてな、あなたとあんなことをしてしまって……あとで聞かされて、わかったんですよ、あなたが青年文学者で、しかも学識が豊かで……いわば、その第一歩として……そうですとも! まったく、文学者や学者で最初に独創的な第一歩を踏み出さなかったなんて、およそいませんからな! わたしと家内は──そろって文学愛好家でしてな、家内ときたら気ちがいですわ!……文学と芸術にね! 人間は高尚でありたいですな、そうすれば才能と、知識と、理性と、天分で、他のものは何でも得られますよ! 帽子──そんなもの、例えてみたら、いったい何でしょう! 帽子なんてプリンみたいなものですよ、ツィンメルマンの店で買えます。ところが帽子の下に守られて、帽子でつつまれているもの、これは買うわけにはいきませんよ!──わたしは、実はあなたのところへ釈明に行こうとまで思ったんですよ、気になりましてね、もしかしたら、あなたが……それはそうと、まだ聞かずにいましたが、ほんとに何かご用がおありですか? 家族の方が見えられたそうですね?」
「ええ、母と妹です」
「妹さんには幸いにも拝顔の栄に浴しましたよ、──教養のある美しい方ですなあ。白状しますが、あのときあなたに対してあんなに逆上したのが、実に悔やまれましたよ。どうしてあんなことになったのか! あなたの卒倒されたことにからんで、あのときわたしはある疑惑をあなたに感じたわけですが、──それは後でもののみごとに解決されましたよ! 狂信と熱狂! あなたの憤慨はわかります。で、お家族がいらしたので、どこかへお移りになりますかな?」
「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、──残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
このイリヤ・ペトローヴィチの饒舌の中心をなしているものは何だろうか。ラスコーリニコフ(とその家族)を持ち上げること、ザミョートフを手を替え品を替えこき下ろすこと。ほとんどそれだけではないか。以前《ドストエフスキーの作中人物たちは、落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)を多彩に「否定・非難」するためにこそ、喋りまくる。ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかないかのようだ。》という分析をしたことがあるが、同様のことが引用部にも当てはまる。
考えてみればこれは異例のことだ。単に他者(ここではザミョートフ)を否定・非難することだけが科白の中心になるなんて。この背景には明らかにわれわれ自身の(と思い込んでいる)言葉というものは常に他者に侵入され影響され貫かれているという思想が存しているだろう。イリヤ・ペトローヴィチのザミョートフ批判には、何か無理な捻れたところがあるように思われる。彼は主体的にザミョートフを批判している、自分にはそのようにザミョートフを下に見る権利があると自負しているかのようだが、あたかも彼は何ものかによって批判させられているかのようだ。自分と喧嘩別れしたからといって「軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。」と判断を下してしまうの中に仄見える独りよがりも問題だが、決定的なのは「何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。」の科白で、ここでイリヤ・ペトローヴィチはたとえザミョートフが試験に落ちた場合は勿論、試験に受かったとしてもザミョートフ自身の名誉には大して寄与するわけではない、と自分の自尊心のために予防線を張っているのだ。このようにいかにも自己完結的で自尊心の捻れをはらんだ「批判・非難」を口にする人物──主体的に批判しているつもりが、つい自分の自尊心から批判をさせられてしまっている人物──は、同じくやはり「賞讃」においてもまったく的外れな文句を連発する。「まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ!」「あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな!」──といったラスコーリニコフに対するおよそ空疎で見当違いの賞讃こそ、彼の自尊心が完全に盲目になっていることの証しだ。こういう人物の繰り出す饒舌は、たしかに引用部に典型を見るようなものとなるのだろう。
●『白痴』下412-415頁
第四篇第四章
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……ついに何もかも決ったので、ダヴーが最終的な決定を迫りました。また二人はさしむかいで協議しました。そして、わたしは第三者というわけです。ナポレオンはまた腕組みしながら、部屋の中を歩きまわっていました。わたしはその顔から眼を放すことができませんでしたよ。わたしの心臓はどきどきと高鳴っておりました。『わたしは参ります』とダヴーが言うと、『どこへ?』とナポレオンがききました。『馬肉の塩漬けに』とダヴーが答えます。ナポレオンはぴくりと身を震わせました。運命がまさに決せられようとしているのです。『おい、子供!』彼はだしぬけに、わたしに話しかけました。『おまえはわれわれの計画をどう思うかね?』もちろん、彼がこんなことをきいたのは、偉大な知恵をもった人物でもときにはせっぱつまって、最後の瞬間に鷲と格子〔貨幣の表裏〕にたよるのと同じことですな。わたしはナポレオンのかわりにダヴーにむかって、まるで霊感にでも打たれたように、こう言ってのけたのです。『将軍、もうお国へ逃げてお帰りになったらいいでしょう!』これでこの計画もおじゃんになりました。ダヴーは肩をすくめながら、部屋から出がけに小さな声で『おやおや、この子もすっかり迷信ぶかくなったものさ』と言いました。そしてその翌日、退却の命令がくだったのです」
「何もかもじつにおもしろいお話ですね」公爵はおそろしく低い声で言った。「もし事実がそのとおりであったらとしたらですね……いや、つまり、私が言いたいのは……」彼はあわてて言いなおそうとした。
「ああ、公爵!」将軍は叫んだが、すっかり自分の物語に酔ってしまっていたので、ひょっとすると、こうしたじつに不注意な失言にさえもそれほど気にしないようなふうが見えた。「あなたは『万事がそのとおりであったとしたら』とおっしゃいますが、しかしそれ以上だったのですよ、しや、まったくはるかにそれ以上のことがあったのです! こんなことは取るに足りない政治上の事実にすぎませんがね。しかし、くりかえして申しあげますが、わたしはこの偉人の夜ごとの涙や、うめき声の目撃者だったんですからねえ。こんなことは、わたしよりほかに誰ひとり見た者はないんですよ! もっともしまいには、彼はもう涙を流して泣くようなことはなくなって、ただときおりうめき声をあげるばかりでしたな。しかし、彼の顔はだんだん何か暗い影に覆われいくようでした。それはまるで永遠がその暗澹たる翼で早くも彼を包んでしまうような感じでした。どうかすると、われわれは二人きりで幾晩も幾晩も長いこと無言のまま時をすごすことがありましたよ。──新衛兵のルスタンはよくつぎの間でいびきをかいていました。じつによく眠る男でしてね。『そのかわり、あれはわしにたいしても、わしの王朝にたいしても忠実な男だ』とナポレオンは、この男のことを言っておりましたがね。ある日、わたしは妙に胸が痛んでたまらないことがありました。彼はふとわたしの眼に涙が浮んでいるのに気づいて、さも感動したようにわたしを見つめながら、『おまえはわしをあわれんでくれるのか?』と叫んだものです。『なあ、子供、いいかな、おまえのほかにもうひとり別な子供が、わしをあわれんでくれるかもしれない。それはわしの息子のローマ王だよ。ほかのやつらは、みんなみんなわしを憎んでおるのだ。兄弟たちは不幸につけこんで、いのいちばんにわしを売るだろうよ!』わたしはしゃくりあげながら、彼にとびついていきました。と、彼も我慢しきれなくなって、とうとう二人は抱きあってしまいました。いや、二人の涙は一つにとけあったのでした。『お手紙を、お手紙をジョゼフィン皇后にお書きください!』わたしは泣きながら言いました。ナポレオンはぴくりと身を震わせて、ちょっと考えてから、『おまえはわしを愛してくれる第三の心を、思いださせてくれた、ありがたく思うぞ!』と言いましたよ。彼はさっそくテーブルにむかって、手紙を書きはじめましたが、すぐ翌日それをコンスタンに持たせて、出発させたのですからねえ」
「あなたはじつにりっぱなことをなさいましたね」公爵は言った。「悪意に取りまかれている人間に、美しい感情を呼びさましておやりになったんですから」
「そうですとも、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくださいましたね、これはあなたご自身の心に似つかわしい解釈ですよ!」将軍は有頂天になって叫んだ。すると不思議にも、ほんとうの涙がその眼にきらりと輝きはじめた。「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ! それに、どうでしょう、わたしはすんでのことで、彼のあとを追ってパリへ行ってしまおうと思ったくらいですからねえ。……
登場人物の自意識の中に入って来るものよりは無意識の方が重視されるドストエフスキー作品において、発話された科白は、つねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の「否定・非難」を孕むように造型される。ただし引用部のイヴォルギン将軍のケースでは「抑圧・否認」と言った方が適切だろう。(ちなみに、ラズミーヒンの科白には「否定・非難」と「抑圧・否認」と両方あった。)
端的に言ってここでのイヴォルギン将軍の話は肯定的な真実の言葉ではない。まったくの虚偽である。そして「何を滔々と喋っているんだ、おまえの言っているのはまったくのでたらめじゃないか!」という無意識からの衝き上げを徹底的に抑圧・否認した上で成り立っている屈折した長広舌となっている。こういう場合、発話者は目の前にいる相手の反応をリアルタイムで否定していくというよりは、自分の都合の良いように解釈していく傾向がある。「あなたは『万事がそのとおりであったとしたら』とおっしゃいますが、しかしそれ以上だったのですよ、いや、まったくはるかにそれ以上のことがあったのです!」相手と敵対するというよりは相手の同意をしきりに求めがちで、おざなりにでも相手の同意が得られると有頂天になりがちであるようだ。「そうですとも、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくださいましたね、これはあなたご自身の心に似つかわしい解釈ですよ!」それだから彼の言い回しの中にも、自分にしっかりと言って聞かせるかのような仰々しい強調が混じったりもする。「こんなことは、わたしよりほかに誰ひとり見た者はないんですよ!」「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ!」「……したのですからねえ。」
余談だが、聞き手の疑問を先回りして否定するレトリックもイヴォルギン将軍の長広舌の中には見られる。「もちろん、彼がこんなことをきいたのは、偉大な知恵をもった人物でもときにはせっぱつまって、最後の瞬間に鷲と格子にたよるのと同じことですな。」
さて、このような人物を相手にした場合、対話相手の方にも一種の繊細な「抑圧・否認」が求められるようだ。ガーニャのように端的に相手の言っていることを虚偽として全否定してもよいのだが、それだと会話がつづかない。ムイシュキン公爵やレーベジェフはイヴォルギン将軍の多彩で能弁な「抑圧・否認」にむしろ加担しようとする。そのためにイヴォルギン将軍と同様の無意識の告発──「イヴォルギン将軍の話はでたらめ放題じゃないか!」──の抑圧・否認を孕みつつ発話せざるを得ないというわけだ。ムイシュキンの「もし万事がそのとおりであったらとしたらですね……いや、つまり、私が言いたいのは……」といった言いよどみや、彼の「おそろしく低い声」はそれを暗示しているだろう。
●『罪と罰』下453-455頁
第六部第八章
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「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、──残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などとは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば──『無』ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
「わたしは読みましたよ。しかし近頃は、ニヒリストがふえましたなあ。でも、それもわからんこともありませんな、なにしろ時代が時代です、そうじゃありません? しかし、あなたにこんなことを言って……あなたは、むろん、ニヒリストじゃないでしょうな! 遠慮なくおっしゃってください、率直に!」
「い、いいや……」
「いやいや、どうぞ率直に、遠慮しちゃいけませんよ、自分お一人のつもりで! もっとも、『職務』になると別ですがね、それは別問題ですよ……わたしが『友情』と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ! 友情じゃありません、市民として、人間としての感情、万人に対する博愛人道の感情ですよ。わたしは職務に際しては、公的な人間にもなれます、しかし市民として、人間としての感情を常にもつことを義務と心得、反省しているわけです……あなたはいまザミョートフと言いましたね。ザミョートフはね、いかがわしい場所に出入りして、一杯のシャンパンかドン産のぶどう酒を飲んで、フランス人並みの醜態を演じようという男です、──ザミョートフとはそんな男です! だが、わたしは、いわが忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな。それに地位も名誉もあり、りっぱな職責もあります! 妻子もいます。市民として、人間としての義務も果しています。ところが、おうかがいしますが、あの男は何者です? 教養あるりっぱな人間としてのあなたに、おうがかいしたいですな。ところで話は別ですが、近頃はあの産婆ってやつが実にふえましたなあ」
結論から先に言うと、つねに落ち着かない無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)の「否定・非難」を孕むドストエフスキーの作中人物の科白は、他の何ではあり得ても「率直」ではあり得ない。どんなに素朴で単純な人物の場合でもそうである。いや、単純な人物であればあるほど、その非-率直が露骨に表われる。
ここでの火薬中尉の科白は、ざっと見れば分かるが、ザミョートフに対する否定・非難と、それと裏返しのラスコーリニコフ(とラズミーヒン)の過度な持ち上げ(「あなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな!」)という落ち着きない屈曲を孕んだ饒舌となっている。火薬中尉の否定の契機はさらに「時代=近頃」や「ニヒリスト」にまで及ぶし、翻って空疎な自画自賛(「わたしは、いわば忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな」)を述べたてもする。この何かを叩いては浮き上がる上機嫌な起伏こそが、非-率直な彼の饒舌の本体だ。
火薬中尉の性格の単純さは、率直さにおいてではなく、むしろ彼の科白の中に話し相手のラスコーリニコフに向けてのリアルタイムの反応が無いことにこそ表れているだろう。ここで話し相手のラスコーリニコフの様子は明らかにおかしいはずなのだが、火薬中尉はそれに気づくことなく、自分の非-率直に饒舌に酔っている。「わたしが『友情』と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ!」といった押し付けがましい呼び掛けも、勝手にラスコーリニコフの反応を想定してそれに応えているだけだ。こういう自意識の浅い人物は結局脇役でしかあり得ない。
●『罪と罰』上398-400頁
第三部第三章
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彼はまた腰をおろして、黙ってあたりを見まわしはじめた。みなけげんそうに彼を見まもった。
「どうしてみんなそうぼんやりふさぎこんでいるんです!」と彼は不意に、自分でも思いがけなく、叫んだ。「何かしゃべりなさいよ! まったく、なにをぼんやり坐ってるんです! さあ、しゃべってください! 話をしましょうや……せっかく集まって、黙りこくっているなんて……さあ、何か!」
「やれやれ、ほっとした! わたしはまた、昨日のようなことがはじまるんじゃないかと思いましたよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが十字をきって、言った。
「どうしたの、ロージャ?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが不審そうに尋ねた。
「なあに、なんでもないよ、ちょっとしたことを思い出しただけさ」彼はそう答えると、不意に笑いだした。
「まあ、ちょっとしたことなら、結構だが! ぼくはまたぶりかえしたかと、ほっとしましたよ……」とゾシーモフはソファから腰をあげながら、呟くように言った。「しかし、ぼくはもう失礼する時間です。もう一度寄るかもしれません……じゃまたそのとき……」
彼は会釈をして、出て行った。
「なんてごりっぱな方でしょう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「うん、りっぱな男だよ、すぐれた、教養ある、聡明な……」とラスコーリニコフはだしぬけに、思いがけぬ早口で、これまでになく珍しく張りのある声で、しゃべりだした。「病気になるまえ、どこで会ったか、もおうおぼえていないが……どこかで会ったんでしょう……それから、これもいい男ですよ!」と彼はラズミーヒンに顎をしゃくった。「こいつが気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は不意に彼女に聞くと、どういうわけか、大声で笑いださいた。
「とっても」とドゥーニャは答えた。
「フッ、きみはまったく……いやなことを言うやつだ!」ラズミーヒンはすっかりうろたえて、真っ赤になってこう言うと、椅子から立ちあがった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは軽く微笑んだが、ラスコーリニコフは声をはりあげて笑いころげた。
「おい、どこへ行く?』
「ぼくも……用があるんだ」
「用なんかあるはずないよ、のこりたまえ! ゾシーモフがかえったから、きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……ところで、何時かな? 十二時になった? ずいぶんかわいらしい時計だね、ドゥーニャ! どうしたんだい、みんな黙りこんじまって? ぼくだけじゃないか、しゃべってるのは!……」
「これはマルファ・ペトローヴナのプレゼントですわ」とドゥーニャが答えた。
「とっても高価なものなんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をそろえた。
ドストエフスキーの小説においては、登場人物たちの科白は自意識と満遍なく調和したものではあり得ない。それらはつねに無意識の内語の衝迫との拮抗関係にあり、時に中断・屈折・転回し、ついには内語の中での自己対話がそのまま憚りなく口をついて出てしまうことさえある。或いは発話ではなく身振りの方に無意識の痙攣があらわれ、或いはリアルタイムに対話相手を敵の看做して皮肉や当てこすりを科白に繰り込んでいくこともある。
或いはもっと別のヴァージョンを考えると、会話場面における無意識の衝迫との拮抗関係は、「言いたいことがあるのにその多くを抑圧している」という形で現われることもあるだろう。引用部の会話場面のそれぞれの登場人物の「口ごもり」はそうした抑圧を表わしている。それによってのみ喚起し得る情景の緊張感もあるのだと覚えておこう。ラスコーリニコフがきわめて屈折したまま上辺を取り繕ってばかりいるのはもちろん、ここではラズミーヒンさえ(自分の恋心を抑圧して)率直ではあり得ないことは注目に値する。また、自分に対する非-率直および抑圧が他人に対するリアルタイムな抑圧となってあらわれることもあるのに注目しよう(「きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……」)。
●『罪と罰』下236-239頁
第五部第四章
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彼女はこらえきれなくなって、不意にさめざめと泣きだした。暗い憂いにしずんだ目で、彼はそれを見つめていた。五分ほどすぎた。
「たしかに、きみの言うとおりだよ、ソーニャ」やがて彼はしずかに言った。急に態度が変って、不自然なふてぶてしさも、負け犬が遠くから吠えたてるような調子も、消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。「ぼくは昨日自分できみに、許しを請いに来るんじゃない、とことわっておきながら、もうはじめから許しを請うているようなものだ……ルージンのことも、御意のことも、ぼくは自分のために言ったんだよ……これはぼくが許しを請うたんだよ、ソーニャ……」
彼は笑おうとした、しかしそのいじけた微笑には何か力ない、言いたりないものが見えた。彼はうなだれて、顔を両手でおおった。
すると不意に、奇妙な、思いがけぬ、ソーニャに対するはげしい嫌悪感が、彼の心をよぎった。彼は自分でもこの感情にはっとして、おどろいたように、不意に顔を上げて、じっと彼女を凝視した。すると彼の目は、自分に注がれている不安そうな、痛々しいまでに心をくだいている彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の嫌悪はまぼろしのように消えてしまった。あれはそうではなかった。彼は感情を思いちがいしたのだった。あれはただ、あの瞬間が来たことを意味したにすぎなかったのだ。
彼はまた両手で顔をおおって、うなだれた。彼は不意にさっと蒼ざめた。そして椅子から立ちあがると、ソーニャを見つめて、何も言わずに、機械的に彼女のベッドに坐りかえた。
この瞬間は、彼の感覚の中では、老婆の背後に立って、輪から斧をはずし、もう《一瞬の猶予もならぬ》と感じたあの瞬間に、おそろしいほど似ていた。
「どうなさったの?」とソーニャはすっかり恐くなって、尋ねた。
彼は何も言うことができなかった。彼はこんなふうに宣言することになろうとは、ぜんぜん、夢にも思っていなかったので、いま自分がどうなったのか、自分でもわからなかった。彼女はそっと近よって、彼のそばに坐り、彼から目をはなさないで、じっと待っていた。胸がどきどきして、じーんとしびれた。彼女はもう堪えられなくなった。彼は死人のように真っ蒼な顔を彼女のほうへ向けた。唇が何か言おうとして、力なくゆがんだ。恐怖がソーニャの心を通りすぎた。
「どうなさったの?」と、彼女はわずかに身をひきながら、くりかえした。
「なんでもないよ、ソーニャ。恐がらなくていいんだよ……つまらんことだ! 嘘じゃない、よく考えれば、──つまらんことさ」と彼は夢遊病のように呟いた。「どうしてぼくは、きみだけを苦しめに来たんだろう?」彼女を見つめながら、不意に彼はこうつけ加えた。「ほんとに。どうしてだろう? ぼくはたえず自分に問いかけているんだよ、ソーニャ……」
彼は十五分まえにはこう自分に問いかけたかもしれないが、いまはすっかり力がぬけてしまって、全身にたえまないふるえを感じながら、ほとんど無意識にしゃべっていた。
「まあ、ずいぶん苦しんでいらっしゃるのねえ!」彼女は彼をしげしげと見まもりながら、痛ましそうに言った。
「みんなつまらんことだよ!……ところで、ソーニャ、(彼はどういうわけか不意に、妙にいじけたように力なく、二秒ほどにやりと笑った)おぼえてるかい、昨日きみに言おうとしたことを?」
ソーニャは不安そうに待った。
「ぼくは昨日別れしなに言ったろう、もしかしたら、もうこれっきり会えないかもしれん、で、もしも今日来るようなことがあったら、きみに……誰がリザヴェータを殺したか、おしえてやるって」
彼女は急に身体中ががくがくふるえだした。
「だから、それを言いに来たんだよ」
「じゃ、昨日言ったのはほんとでしたのね……」と彼女はやっとささやくように言った。「いったいどうして、あなたはそれを知ってるの?」彼女ははっと気がついたように、急いで尋ねた。
「知ってるんだよ」
彼女は一分ほど黙っていた。
「見つけた、の、そのひとを?」と彼女はおそるおそる尋ねた。
「いや、見つけたのではない」
「じゃ、どうしてあなたはそれを知ってるの?」と彼女はまた聞きとれないほどの低声で尋ねた、それもまた一分ほどの沈黙の後だった。
彼は彼女を振り向いて、射抜くような目でじいっとその顔を見つめた。
「あててごらん」と彼は先ほどのゆがんだ力ないうす笑いをうかべながら、言った。
痙攣が彼女の全身を走りぬけたかに見えた。
「まあ、あなたったら……わたしを……どうしてそんなに……おどかすの?」彼女は幼な子のように、無心に笑いながら、言った。
「つまり、ぼくはその男の親しい友人だということになるわけだ……知っているとすればね」ラスコーリニコフはもう目をそらすことができないように、執拗に彼女の顔に目をすえたまま、話をつづけた。「その男はリザヴェータを……殺す気はなかった……老婆が一人きりのときをねらって……行った……ところがそこへリザヴェータがもどって来た……男はそこで……彼女も殺したんだ」
さらにおそろしい一分がすぎた。二人はじっと目を見あったままだった。
核心のことが言われないままに進行する会話場面の一例。言うまでもなくここでラスコーリニコフは自分の犯罪のことをぎりぎりまで明かさずに会話を進めている──引用部の最後の方になっても「つまり、ぼくはその男の親しい友人だということになるわけだ……」などと他人に仮託するようなことをやっている──、つまりは表面上の言葉の交錯がすべてその屈折した反映でしかあり得ないような何かが、この場面では水面化で抑圧されながらも存在していて、それが二人の会話に特異な様相を与えているわけだ。
注目すべきは、ここでラスコーリニコフは必ずしもソーニャに向ってのみ話しているわけではない、ということだろうか。核心のことをあからさまに言うことができない以上、彼はソーニャに対して「何も言うことができなかった」り、「唇が何か言おうとして、力なくゆがんだ」りと挫折を繰返しながら、ソーニャと真正面から向き合うことを避けている。或いは夢遊病者のようになりながら、「どうしてぼくは、きみだけを苦しめに来たんだろう?」という明らかにソーニャに対しては相応しくない(自分に対してこそふさわしい)疑問を思わず呟いてしまったりする。ということは、一般的に言って、言われるべき核心が無意識に抑圧されて言われないままでいる会話場面においては、「必ずしも相手に向ってのみ話しているわけではない」状態が続かざるを得ないのだろうか。そうした会話場面では一体に核心が開示されるクライマックスに至るまでは人々の目を見つめあわせるべきではないのだろうか。技法的にはそのように言いうるかもしれない。
さらには二人の身振りについても注目してみよう。あまりにも多くのことが抑圧されている会話場面においては、能動的な自意識がつねに無意識からの衝動で浸食を受けているので、身振りもまた「ほとんど無意識に」為されるものが頻出せざるを得ない。とりわけソーニャの身振り、急に身体中ががくがくふるえだしたり、おそるおそる尋ねたり、聞きとれないほどの低声で言ったり、「幼な子のように、無心に笑いながら、言った」りするのは意識的な所作ではあり得ない。同様にこうした身振りの元になっている彼らの情動についても、能動的・意識的ではあり得ないと言うことができるだろう──ラスコーリニコフに生じる、ソーニャに対する激しい嫌悪感や、もう《一瞬の猶予もならぬ》という感覚、いま自分がどうなっているのか自分でもわからないというぼんやりした感じ、そしてソーニャの心を通り過ぎる経験のような「恐怖」、いずれも「思いがけぬ」ものとして二人を襲ったと記述されている。こうした身振りや情動の非-能動性はもちろん、言われるべき核心が無意識に抑圧されて言われないままでいる会話場面に当然伴うものと考えられる。
ちなみに、ここで言われるべき核心を抑圧しているのはソーニャの側でもあるだろう。彼女はうすうす誰がリザヴェータを殺したか気づいているのだが、それを自意識内で明白に言語化することは避けている。無意識では勘付いている。そうでなければラスコーリニコフが「誰がリザヴェータを殺したか、おしえてやる」と言われて非-能動的に身体がふるえだしたり、答えを絞り込むような形で「見つけた、の、そのひとを?」と尋ねることもまた、あり得ない。
余談。「「じゃ、どうしてあなたはそれを知ってるの?」と彼女はまた聞きとれないほどの低声で尋ねた、それもまた一分ほどの沈黙の後だった。」──この段落はちょっと工夫されている。「いや、見つけたのではない」というラスコーリニコフの科白から直につづけているくせに、そこに「一分ほどの沈黙」が挟まっていたことを後から告げるのだから。瞬間的な錯時法?
●『カラマゾフの兄弟』1巻128-130頁
第二篇第五章
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「アーメン! アーメン!」とパイーシイ神父がうやうやしくおごそかに繰り返した。
「奇怪だ、実に奇怪千万だ!」と思わずミウーソフが口走った。別にかっとなったわけではないが、何か憤懣を隠したような口調だった。
「何がそんなに奇怪に思われるのでございます」と用心ぶかくイオシフ神父がたずねた。
「一体全体これは何事です?」とミウーソフが突然はじかれたように叫んだ。「地上の国家をどけて、教会が国家の位にのしあがるとは! これは法王至上論どころじゃない、超法王至上論だ! 法王グリゴーリイ七世といえども、夢にも考えなかったことじゃないですか!」
「あなたの解釈はまるでさかさまです!」とパイーシイ神父がきびしい口調で言った。「教会が国家に変わるのではありません、ここをお間違えにならぬように。それはローマとその夢想です。悪魔の第三の誘惑でございます。そうではなくて、反対に国家が教会に変わるのです、国家が教会の高さまで昇って、全世界の教会になるのです。──これは法王至上論とも、ローマとも、あなたの解釈ともぜんぜん違います。そうしてこれこそ地上における正教の偉大な使命に他なりません。東方よりこの星は輝き出ずるのです」
ミウーソフはしばらく意味ありげに黙っていた。その姿全体は、異常な自尊心を表わしていた。口もとには傲慢な、人もなげな薄笑いが浮かんでいた。アリョーシャは高鳴る胸をおさえて一部始終を見守っていた。この会話全体が根底から彼の心を動揺させたのである。彼はふとラキーチンに目を走らせた。ラキーチンはさっきと同様にじっと戸口の横に立ったまま、目こそ伏せてはいたものの、注意ぶかく聞き耳を立てて観察をつづけていた。しかしその生気を帯びた頬の色から、アリョーシャは彼もまた自分に劣らずに興奮しているらしいのを見てとった。アリョーシャはなぜ彼が興奮しているのか、そのわけを知っていた。
「失礼ですが、皆さん、ひとつ小さな逸話を話させて下さい」突然ミウーソフが意味ありげに、何やら特別もったいぶった顔つきで話しはじめた。「あれは十二月事件の直後ですから、もう何年か前のことになりますが、ある日パリで、僕はかねてからの知り合いの、きわめて重要な地位にあった当時の有力な政治家の家を訪問して、そこでひとりの大そう興味ある紳士に会いました。その男はただの密偵ではなくて、政治的密偵の一隊を指揮するような立場にある人物で、──まあ彼なりにかなりの要職についていたわけです。さて僕はふとした機会を捕えて、異常な好奇心から彼と話をはじめたのですが、この男は知人として訪問に来ていたのではなく、部下としてある報告をたずさえて来ていたものですから、長官の僕に対する応対ぶりを見て、かなりざっくばらんな態度を取ってくれました。──もちろんそれもある限度内のことで、つまりざっくばらんというよりもむしろ鄭重だった。なにぶんフランス人は鄭重な態度を取るのが実に上手で、ましてや僕が外国人だったものですからね。それでも僕には彼の言わんとしていることが大そうよくわかりました。やがて話が、当時、官憲の追及を受けていた社会主義革命家たちのことに及んだ。その話の要点は抜きにして、今は彼が何気なくもらしたある興味ぶかい言葉をご紹介するにとどめましょう。その男はこう言ったのです。『われわれは無政府主義者、無神論者、革命家などというあの社会主義者たちはそれほど恐れてはいません。あの連中の動きはいつも見張っていますし、やり口もわかっています。ところが彼らのうちに、数は少ないのですが、いくぶん毛色の変わった連中がいる。それは神を信じるキリスト教徒であり、同時に社会主義者でもある連中なのです。われわれがいちばん恐れているのは彼らで、これは実に恐ろしい人間たちですよ。キリスト教徒の社会主義者は、無神論者の社会主義者よりも恐ろしいのです』僕はこの言葉を聞いてあの時もぎょっとしたものですが、いま皆さんのお話をうかがっているうちに、ふと急にこの言葉を思い出したのです。……」
会話の展開を一挙にクライマックスに持っていくような決定的な科白というものがある。その内容を十分に作為することは当然ながら(内容が何らかの意味で脅威を帯びていなければ会話をスリリングに盛り上げることなど不可能)、その科白をどのようなタイミングで、どういう段落展開で、登場人物のどういう感情の流れで、飛び出させるかの工夫も必須だ。引用部では「意味ありげに、何やら特別もったいぶった顔つきで」語られるミウーソフの科白が、そのような決定的な「隠し球」「切り札」に当る。こういう契機なしに対決的対話を面白くするというのはほとんど不可能だろう。
ではミウーソフのこの科白はどのように提示されるのか。ミウーソフにこの「隠し球」「切り札」を語らせる決意を促したのは直前までの議論の流れによって彼の中に鬱積した(主にイワンへの)悪感情にほかならない。つまり或る意味で彼の科白はイワンに対する攻撃だが、別の意味ではやや独り言めいたところもあり、内語にとどめておくべきことをついつい感情にかられて口に出してしまったような──ほとんど無意識の衝迫にここで身を委ねてしまったかのような──自己(=自意識)破壊的な要素も少なからずある。それは、ミウーソフの科白が始まる前の段落に一とき間を置いて、彼の傲慢な薄笑いをことさら印象づけるような描写休止法(およびアリョーシャの動揺の描写)が挿入されていることで、さらにひしひしと暗示される。そこであくまでミウーソフの表情が外的に描写されていることに注目しよう(おそらく、ミウーソフ自身では自分が傲慢な薄笑いを思わず浮かべてしまっていることなど、自覚がない?)。あくまで描写を外的にとどめることによって、むしろ彼の無意識の鬱勃を間接的に示すということ。そしてその「無意識」の衝迫の存在は、つづいて語られる科白の「決定的な」──それまでの会話の展開を一挙に、ほとんど暴力的に止揚しようとする──内容によって確かなものだったと裏付けられるわけで、ここには一連の構築的な作為が働いているとみなさければならない。ミウーソフのこの科白がこのタイミングで出現するにあたって、その前の段落でこのように無意識を暗示する「溜め」がなされることは、ほとんど必然的と言っていい。
以上とまとめると、会話を決定的なクライマックスに持って行くために突然に放たれる剣呑な科白(「隠し球」「切り札」)というものは、大抵無意識の衝迫に裏打ちされているものである?
●『罪と罰』上279-281頁
第二部第六章
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「へッ、まったく変ってるよ!」ザミョートフはひどくまじめな顔でくりかえした。「どうやら、まだうなされているようですね」
「うなされてる? そんなことはないよ!……じゃぼくは変に見えるんだね? ふん、じゃぼくに興味があるだろう、えッ? あるだろう?」
「あるね」
「つまり、ぼくが何を読んでいたか、どんなことをしゃべったか? それに、新聞だってこんなにたくさん持ってこさせた! 怪しいだろう、え?」
「まあ、どうぞ」
「聞きたくてうずうずだろう?」
「何がうずうずなんです?」
「何がうずうずかは、あとで話すとして、先ず説明しよう……いや、《白状》するといったほうがいいかもしれん……待てよ、それもしっくりこない、《供述しますから、記録してください》──これだよ! それじゃ、何を読み、何に興味をもち……何をさがし……何を調べていたか、供述しよう……」ラスコーリニコフは目をそばめて、ちょっと間をおいおた。「調べていたのは──ここへ寄ったのもそのためなのだが、──官吏の未亡人殺しの事件ですよ」彼はついに、額をつきあわせるほどに顔をザミョートフの顔に近づけて、ほとんど囁くように言った。ザミョートフは身じろぎもせず、顔を相手の顔からはなそうともしないで、じいッとまともにラスコーリニコフの顔を見守っていた。あとでザミョートフにもっとも不思議に思われたのは、ちょうどまる一分間二人の間に沈黙がつづき、そしてちょうどまる一分間こうしてにらみ合っていたことである。
「それを読んだのが、どうしたっていうんです?」不意にザミョートフはなんのことやらよくわからず、苛々して叫んだ。「ぼくになんの関係があるんです! それがどうしたっていうんです?」
「そらあの老婆ですよ」とラスコーリニコフはザミョートフの叫び声にぴくりともせず、やはりほとんど囁くようなおし殺した声でつづけた。「ほら、署でその話がでたとき、ぼくが卒倒したでしょう、あの老婆ですよ。どうです、こういえばおわかりでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……《おわかりでしょう》です?」とザミョートフはうろたえ気味に言った。
石のように動かぬ真剣なラスコーリニコフの顔が一瞬くずれた、そして不意に、もう自分で自分を抑えつける力をぜんぜん失ってしまったように、またさっきのヒステリックな哄笑を爆発させた。そしてその刹那、斧を手にしてドアのかげにかくれていた数日前のあのときのことが、まざまざと彼の記憶によみがえった。ドアの掛金がかたかたおどっていた、ドアの外では彼らが口ぎたなくののしりながら、ドアを押したりひいたりしていた、あのとき突然彼は、とび出して、彼らをどなりつけ、罵倒し、ペロリと舌を出して、からかい、笑って、笑って、笑いとばしてやりたい気持になったのだった!
「あなたは、気ちがいか、さもなければ……」ザミョートフはそう言いかけて──はっと口をつぐんだ。不意に頭の中にひらめいたある考えに、ぎょッとしたらしい。
「さもなければ? 《さもなければ》何です? え、何です? さあ、言ってください!」
「何でもないですよ!」とザミョートフは腹立たしげに答えた。「ばからしい!」
二人は黙りこんだ。突然の発作的な哄笑の爆発がすぎると、ラスコーリニコフは急に憂鬱そうな暗い顔になった。彼はテーブルに肘をついて、頭を掌におとした。ザミョートフのことなどすっかり忘れてしまったふうだった。かなり長い沈黙がつづいた。
対決的対話場面の傑作の一。
ドストエフスキーはほとんど敵対関係にあるような二者の対話においても、直接的な対立としては描かない。対立というよりも、リアルタイムな挑発関係として描くのが常だ。
ここでのラスコーリニコフの科白に共通している点は何か。それは、彼の発話のすべてが「真に言ってしまいたいことだが絶対に言うことのできないこと」の偽装になっているという点である。ラスコーリニコフの発言の裏には「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」「実際ぼくは犯人でなければやらないようなことばかりやっているじゃないか、あまりにも疑わしいだろう?」という、実際に発話してしまえばあまりにも露骨で危うい問いが横溢している。だがそれが直接口にされてしまうと会話がそこで終わってしまう(単に拒絶されてしまう)ので、偽装した形で相手に差し出す。そこには相手の無意識に食らいついてそれを刺激する隠微な意図もあると看做すべきだろう。つまり、「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という問いを偽装して放たれるラスコーリニコフの挑発的発言を受けて、ザミョートフの無意識も侵蝕を受け、実は彼の中で抑圧されていた「ラスコーリニコフは殺人犯ではないか」というそれまでは口にすることも言語化して意識することもできなかった疑いが徐々に浮上してくるのである(「「あなたは、気ちがいか、さもなければ……」ザミョートフはそう言いかけて──はっと口をつぐんだ。不意に頭の中にひらめいたある考えに、ぎょッとしたらしい。」)。「偽装された挑発」の発話には、ただ直接的な対立や拒絶を迂回するだけではなく、相手の無意識に秘かに侵入することによって相手を共犯関係に引入れる=相手と何かの想像力を共有しようとする、という効果もある。
また、この偽装には諧謔的なユーモアが伴うこともあると付言しておこう。「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という発言はあまりにも直接的で切実であるがゆえに、そこには笑いの差し挟まる余地はまったくない。しかし例えば「何がうずうずかは、あとで話すとして、先ず説明しよう……いや、《白状》するといったほうがいいかもしれん……待てよ、それもしっくりこない、《供述しますから、記録してください》──これだよ!」──こうした発言には真実をぎりぎりとのところで屈折させて偽装する遊び心さえ含まれている。「どうです、こういえばおわかりでしょう?」という自分ではなく相手に答えを出させるリアルタイムの挑発にも狡知な遊びが含まれている。そしてこの遊び心は、「石のように動かぬ真剣なラスコーリニコフの顔が一瞬くずれた、……」の段落の地の文において、フォークナー的なフラッシュバックで「斧を手にしてドアのかげにかくれていた」あのときの「ペロリと舌を出して」「笑いとばしてやりたい気持」の喚起と重ね合わされることによって、「偽装された挑発」の本質的な邪悪さ──誠実さや率直さから懸け離れた性格──を明らかにするのである。(ところで、このフォークナー的なフラッシュバックが、無意志的な感覚の喚起ではなくて、記憶における感情的な類似性によってもたらされているところは、フォークナーとは異なる。)
ちなみに、このような「偽装された挑発」に基づく対決的対話、無意識の食い合いのような対話においては、語り手は「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」の位相に立つ必要がある。でなければラスコーリニコフのフラッシュバックも、彼の「不意」のヒステリックな哄笑も、またザミョートフの「もっとも不思議に思われたのは、ちょうどまる一分間二人の間に沈黙がつづき、そしてちょうどまる一分間こうしてにらみ合っていたことである」という感慨や「はっと口をつぐむ」振舞いも、正確に描くことはできない。これらは彼らの現前的な自意識に属するものではないからだ。特に地の文での身振りの描写は、対決的な食い合いのなかで互いの無意識が可塑されて飛び出てきたもの(彼ら自身ではほとんど自覚できていないもの)と考えてよい。
あとは、ラスコーリニコフの内部の「ぼくが犯人だということをあなたは疑っているんだろう?」という本音は、プロット上の文脈から彼に付与されていることにも注目。文体だけの問題ではない。
●『罪と罰』上284-287頁
第二部第六章
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ラスコーリニコフはむっとしたような顔になった。
「わかる! そんなら捕えたらいいだろう、行きたまえ、さあ!」と彼は声を荒くして、意地わるくザミョートフをせきたてた。
「なあに、捕えますよ」
「誰が? あなたが? あなたが捕えるって? せいぜいやってみることですな! まあ、あなた方の最大のねらいは、金づかいが荒いとかどうだとか、そんなとこだ。いままで金のなかった男が、急に金をつかいだす、──きっとあいつにちがいない? そんなことだからあなた方は、つまらん子供にでもてもなく欺されるんだよ!」
「ところが、やつらはみなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「うまいこと殺して、危ない橋をわたるが、そのあとですぐに居酒屋にはまりこむ。金づかいがもとで捕まる。誰もがあなたみたいに利口とはかぎりませんからねえ。あなたなら、むろん、居酒屋へなんかはいかないでしょうがね?」
ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見すえた。
「どうやら、食指をうごかしてきたようですな。ぼくならその場合どういう行動をとるか、知りたいのでしょう」と彼は不興げに尋ねた。
「知りたいですね」ザミョートフはきっぱりと真顔で答えた。そのしゃべり方や見る目になんとなく真剣すぎるほどの力がこもっていた。
「ひじょうに?」
「ひじょうに」
「よし。ぼくならこうしますね」とラスコーリニコフは、また急に顔をザミョートフの顔に近づけ、またじっと相手の目を見すえて、またさっきのように声を殺して囁きはじめた。今度はさすがにザミョートフもぎくっとした。
「ぼくならこうしますね、金と品物をとって、そこを出たら、すぐにその足で、どこへも寄らずに、どこかさびしい場所、塀があるばかりで、ほとんど人影のない、──野菜畑か何か、そうした場所へ行きます。あらかじめそこへ行って、その庭の中に重さ一ポンドか一ポンド半くらいの手頃な石を見つけておくんです。どっか隅のほうの塀際あたりに、家を建てたのこりの石が一つくらい、きっとありますよ。その石を持ち上げると──下はおそらくくぼんでいる、──そのくぼみに盗んできた品物と金をすっかり入れる。入れたら、また石を元どおりにして、足で踏みかためて、すばやくそこを立ち去る。こうして一年か二年、あるいは三年くらいそのままにしておくのです、──さあどうです、さがしてごらんなさい! まず迷宮入りでしょうな!」
「あなたは気ちがいだ」なぜかザミョートフも声をひそめてこう言うと、どうしてか不意にラスコーリニコフから身をひいた。
ラスコーリニコフの目がギラギラ光りだした。顔色が気味わるいほど蒼くなって、上唇がびくッとうごいて、ひくひく痙攣しはじめた。彼は額をつきあわせるほどにザミョートフの上にかがみこんで、声を出さずに、唇をこまかくふるわせはじめた。そのまま三十秒ほどつづいた。彼は自分のしていることを、知っていたが、自分を抑えることができなかった。恐ろしい一言が、あのときのドアの掛金のように、はげしく彼の唇の上におどった。いまにもとび出しそうだ、いまそれを放したら、いまそれを口にしたら、それでおしまいだ!
「老婆とリザヴェータを殺したのが、ぼくだとしたら、どうだろう?」彼は不意にこう口走って、──はっと気がついた。
ザミョートフは呆気にとられて彼を見たが、とたんに真っ蒼になった。無理な笑いで顔がゆがんだ。
「そんなことありっこないじゃないか?」と彼はやっと聞きとれるほどの声で呟いた。
ラスコーリニコフは敵意ある目でじろりと彼をにらんだ。
「白状しなさい、あなたは信じたでしょう? そうでしょう? そうですね?」
「とんでもない! まえにはともかく、いまはもうぜんぜん信じない!」とザミョートフはあわてて言った。
「ひっかかったね、ついに! 小鳥クンわなにかかるの図か。《まえにはともかく、いまはぜんぜん信じない》か、してみると、まえには信じていたわけですな?」
「そんなこと、ぜんぜんちがうったら!」ザミョートフは明らかに狼狽しながら、叫んだ。「そうか、あなたがぼくをおどかしたのは、ぼくにこう言わせるためだったのですね?」
対話場面。ここではラスコーリニコフとザミョートフとはほとんど敵対関係にあるが、直接的な対立関係として描かないのがドストエフスキーのリアリズムの肝。ドストエフスキーの作品世界では、あたかも人々が会話するのはつねに何かしらの非難のためでしかない。とはいえ引用部で二人が非難・否定しようとしているのは対面の相手の存在そのものではなく、相手が持っている甘い見通しや(「あなたが捕えるって? せいぜいやってみることですな!」)、相手のねらいや(「まあ、あなた方の最大のねらいは、金づかいが荒いとかどうだとか、そんなとこだ」)、相手の偏った意見(「誰もがあなたみたいに利口とはかぎりませんからねえ」)などである。したがってこれらの非難・否定は一旦は相手の考えを受け入れた上でのものだ。《そうした言葉は、あたかも自分の中に他者の応答を取込み吸収しようとして、懸命になってそれらを加工しているかのようだ。》(バフチン)というやつだ。だが、それだけではない。
彼らの発話は何ものかを否定し秘かに抑圧しているという屈曲を孕んでいる。その何ものか=無意識の本音をあえて言語化すれば、ザミョートフ「あなたが犯人だ」、ラスコーリニコフ「そう、俺は犯人だが、それを隠す」というものになるだろう。これが直接表出されて交わってしまえばそこで会話が終わってしまうどころか小説が終わってしまうので、それは回避されるのだが、言うまでもなく自意識と無意識の分裂は彼らの発話や振舞いに影響を与えずにはおかない。とりわけ、ここでは無意識が科白に影響する新しいパターンとして、「挑発=無意識の偽装」が現れていることに注目しよう。例えば「あなたなら、むろん、居酒屋へなんかはいかないでしょうがね?」というザミョートフの挑発。ラスコーリニコフが仮に犯人だったとしたらどう振舞うだろうか?と水を向けているのだが、これは「真犯人のあなたはどう振舞ったんですか」というザミョートフが本音で問いたいことを抑圧=偽装した上での挑発的になった科白だと考えることができる。それに応じたラスコーリニコフの「よし。ぼくならこうしますね……」からの語りも同様で、仮に自分が犯人だったらこうするという話をしているのは、実は「真犯人の俺はこんなにうまくやってやったんだ」という無意識の本音の偽装なのだ。そして偽装であるだけに若干真実とは違っている。ラスコーリニコフは決して「あらかじめ」隠し場所を決めておいて石に目をつけていたわけではなく、すべて行き当たりばったりに決めたに過ぎなかったのだが、「偽装」の話の中では何もかも計画通りにやったように語られている。そうれであればこそより挑発的になるというわけだ。いずれにせよこうした際どい無意識の偽装としての科白は、おおむね挑発的な屈折のニュアンスを孕むものらしい。(ちなみに、地の文の印象的な二人の振舞い・表情描写は、「自意識と無意識の分裂」が彼らの振舞いに影響を与えたことの結果である。「ラスコーリニコフは眉をひそめて、じっとザミョートフを見すえた」「ザミョートフはきっぱりと真顔で答えた。そのしゃべり方や見る目になんとなく真剣すぎるほどの力がこもっていた」「今度はさすがにザミョートフもぎくっとした」「なぜかザミョートフも声をひそめてこう言うと、どうしてか不意にラスコーリニコフから身をひいた」「ザミョートフは呆気にとられて彼を見たが、とたんに真っ蒼になった。無理な笑いで顔がゆがんだ」──といった箇所など。ここでは表情や振舞いの方が、彼らの偽装された科白よりも「無意識」の本音に近い。)
周知のようにここでの語り手は「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という位相に立っている。この引用部のもう一つのポイントは、巧く無意識を偽装して挑発的に振舞っていたラスコーリニコフだったが、ついに彼の無意識の衝迫が一瞬その偽装を破って「ふと」「率直な」言葉を漏らしてしまう転回に至る地の文の記述が、素晴らしく精彩であることだ。「ラスコーリニコフの目がギラギラ光りだした。……」の段落のこと。ここで語り手は登場人物の内面まで見通すこともできる外部の視点から、ラスコーリニコフを注視している。彼の顔色が蒼くなったり、唇がひくひく痙攣しはじめたことは、ほとんどラスコーリニコフの意図および自意識と埒外のことで──だからラスコーリニコフにとっては一種無意識の領域で起こっていることの描写と言っていいのだが──語り手でなければ書き留めることができないものだ。そしてこの語り手はここでさらにラスコーリニコフの内面へ、無意識の思考のプロセスに踏み込む。ついには「いまにもとび出しそうだ、いまそれを放したら、いまそれを口にしたら、それでおしまいだ!」と体験話法的なラスコーリニコフのリアルタイムの無意識の思考を、言語化して地の文で掬い取る! この辺りの文体の可変性は凄まじい。こうした無意識に照準を合わせた精彩な記述があるからこそ、直後の彼が「不意に」口走る「俺が犯人だったらどうだろう?」の露骨な無意識の露呈が、つまりずっと分裂していたはずの彼の自意識と無意識の思い掛けない接続が、リアリティを帯びて感じられるのだ。また、これに釣られてザミョートフの方でも一瞬本音を漏らしてしまうという展開の迫真性にも注目。
ところが、このように「科白」の中に何の否定も抑圧も加工も受けずに無意識の本音が露出することは、ドストエフスキーの作品世界にあっては例外中の例外である。本当に無意識が「率直」に出てしまうと、それまでの振舞いとの矛盾が一挙に露呈してしまう! それだから、一瞬本音を露出してしまった彼らは、急いで後からそれを「無かったもの」としてやっきになって否定しなければならない(「そんなこと、ぜんぜんちがうったら!」)。或いはそれもまた本音ではなくて何か別の意図をもった戦略的な虚言であったかのように解釈を上塗りする(「そうか、あなたがぼくをおどかしたのは、ぼくにこう言わせるためだったのですね?」)。否定・非難のみを目的とした饒舌がさらに繁茂するというわけだ。
●『罪と罰』上437-439頁
第三部第五章
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「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポルフィーリイはいかにもそっけない事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々というようなことですな……あるいはまた……だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」
「それなんですよ、ぼくは、いまのところ」ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた。「ぜんぜん金がないものですから……こんなこまかいものも請け出せないしまつで……それで、いまはただ、その品がぼくのであることを、届けるだけにして、金のくめんがついたら……」
「それはどちらでもかまいません」と財政状態の説明を冷やかに受け流しながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは答えた。「もっとも、なんでしたら、わたしに直接書類を出していただいても結構です。これこれの事件を知り、これこれが自分の品であることを申告するとともに、つきましては……というような意味のですね……」
「それは普通の紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった。
「なに、どんな紙でも結構ですよ!」そう言うとポルフィーリイ・ペトローヴィチは、どういうつもりかいかにも愚弄するように彼を見つめて、片目をほそめ、目配せしたようだった。しかし、それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ、なぜなら、それはほんの一瞬のことだったからだ。しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。
《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。
非常に巧緻に企まれた会話場面。科白のやり取りだけを見ると単に事務的なことを確認しているだけのように思われるが、科白の中での「……」の多用(これは瞬間ごとに考え考えラスコーリニコフが喋っていることのメルクマール)および地の文に目を通すことによって、まったく違った次元が浮び上がるようになっている。
ラスコーリニコフの方はここで、自分が殺人犯であることを無意識に押し込めつつ表面では本当にただ単に殺された老婆に質入れした品を取り戻したいという用件のためだけに来た体を、「意識的に」演じようとしている。「ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた」という地の文はあまりにも雄弁。また、「ラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった」という契機も面白い。一度ついてしまった嘘は、何度も再演されなければならないというわけだ。しかも、この「それは普通の紙でいいんですか?」という科白がいかにも余計ごとのようで、この内容だけでわざとらしさを醸し出しているのが素晴らしい。
で、対するポルフィーリイだ。ラスコーリニコフは無意識と自意識を使い分けるという二重の戦略で会話に参加しているのだが、地の文を読むに、どうやらポルフィーリイはその二重性を最初から見抜いているように思われる。ラスコーリニコフがわざと困惑したように見せかけようとして、金がないから品物を請け出せない云々と口にするのに対して、ポルフィーリイは「財政状態の説明を冷やかに受け流し」て、つまりラスコーリニコフの演技に同調する様子を微塵も見せずに応対する。そして、「なに、どんな紙でも結構ですよ!」という科白にともなう「いかにも愚弄するよう」な目配せはもっと雄弁で、あたかも彼の科白もまた二重の響きを帯びている、すなわち「どんな紙でも結構です(あんたには本当はどんな紙じゃないといけないかなんてどうでもいいんだろう、問題の金銭的な面を気にしたりするのは、演技だろう?)」という響きを帯び、彼がラスコーリニコフの自意識の演技を突き抜けて無意識にまで届く言語戦略を操っていることを如実に示しているのだ。そしてさらに、ラスコーリニコフもポルフィーリイが彼の演技になんてまったく引っ掛からず、彼の「金のくめんがついたら……」「普通の紙でいいんですか?」という見せかけの言葉を鼻で笑ったらしいことを、勘付くのである。「しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。/《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。」──ところで、ここであくまで「ラスコーリニコフは……することができたはずである」と主人公について概言を用いて、あくまでラスコーリニコフに内的焦点化せず語り手の距離感を維持しているのは面白い。
以上、喩えて言うと引用部は最初から主旋律の他に副旋律も同時に構想されたところから始まっている会話場面なわけ。これはそう意図しないかぎり、単なるリアリズムでは書けない。
ちなみに、こうした二重性が維持されているのはこのラスコーリニコフとポルフィーリイの対決的対話の前半部分のみで、後半になってくるとポルフィーリイもわりと露骨になってくる。
●『罪と罰』上439-441頁
第三部第五章
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「こんなつまらんことでわずらわして、申しわけありません」とややあわて気味に、彼はつづけた。「品物はせいぜい五ルーブリくらいのものですが、ぼくにそれをくれた人々のかたみですので、ぼくには特にだいじな品なのです。実をいいますと、それを知ったとき、ぼくはすっかりおどろいてしまって……」
「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるって話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」といかにも意味ありげに、ラズミーヒンは口を入れた。
これはもうがまんならなかった。ラスコーリニコフは腹にすねかえて、怒りにもえた黒い目でじろりと彼をにらんだ。
「おい、きみはぼくをからかうつもりらしいな?」と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、ラズミーヒンにつっかかった。「きみの目には、ぼくがこんなつまらん品に執着しすぎると映ったかもしれん、そうでないとは言わん、がしかしだ、そのためにぼくをエゴイストとも欲張りとも見なすことは許さん。ぼくの目から見れば、この二つの無価値な品が決してくだらんものではないのだ。さっきもきみに言ったが、この銀時計は、三文の値打ちもないが、父の死後にのこされたたった一つの品なんだ。ぼうは笑われてもかまわんが、母がでてきた」彼は不意にポルフィーリイのほうを向いた。「そしてもし母が」彼はことさらに声をふるわせようと苦心しながら、また急いでラズミーヒンのほうへ向き直った。「この時計のなくなったことを知ったら、それこそ、どれほど落胆するか! 女だもの!」
「おい、ぜんぜんちがうよ! 決してそんな意味で言ったんじゃないよ! まるきり逆だよ!」とラズミーヒンはくやしそうに叫んだ。
《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》ラスコーリニコフは内心ひやひやした。《なんだって、女だもの、なんてつまらんことを言ったんだろう?》
「お母さんがでて来られたのですか?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはなんのためかこう聞いた。
「そうです」
「それはいつです?」
「昨日の夕方です」
ポルフィーリイは考えをまとめるように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はぜったいになくなるはずはなかったのです」と彼はしずかに、冷ややかにつづけた。「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」
そして彼は、何ごともなかったように、遠慮なくじゅうたんに煙草の灰をおとしているラズミーヒンのまえへ、まめまめしく灰皿をおしやった。ラスコーリニコフはぎくっとした、がポルフィーリイはまだラズミーヒンの煙草が気になるらしく、彼のほうは見もしなかったようだ。
「なんだって? 待っていた! じゃきみは、彼があそこにあずけたのを、知ってたのか?」とラズミーヒンが叫んだ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはまっすぐにラスコーリニコフの顔を見た。
「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、そしてそのつつみ紙に鉛筆であなたの名前がはっきりと記してありました、彼女がそれをあなたからあずかった月と日もいっしょに……」
「ほう、あなたはよくそれをおぼえていましたねえ!……」ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた。「ぼくがいまこんなことを言ったのは、つまり、質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……」
《愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?》
「ところが、いまはもうほとんどすべてのあずけ主がわかっているのです、出頭しなかったのはあなただけですよ」とポルフィーリイはそれかあらぬかかすかな愚弄のいろをうかべて、答えた。
「身体ぐあいがすっかりほんとじゃなかったものですから」
引用部前半でのラスコーリニコフは、殺害された老婆に質入れした品物を取りに来た貧しい青年という役を自意識上では演じつづけようとしている。それが演技であるということは、科白の殊勝さと地の文における例えば「……と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、……」という「たくみに」の形容の形で表れている、つまり科白と地の文の分裂によって、彼がこの場面で用いている二重の戦略は小説的に表現されている。とりわけ、彼がラズミーヒンに対して抱いた怒り、本来ならポルフィーリイの前で彼が殺人犯と疑われかねない事実をポロッと口にしてしまったことへの怒りを、質入れした品物のつまらなさをからかわれたことに対する架空の怒りへと偽装する(当然ラズミーヒンは「決してそんな意味でいったんじゃないよ!」と歎くことになる)──つまり情動としては同じだが原因としては別の振舞いへ転化してしまうという「演技」は、素晴らしくリアリティがある。
ラスコーリニコフのこの表面上の演技と本心の二重性は、さらに地の文に内語が《……》で登場し、たった今自分が演じたことを内語で反省させるに至って、科白と地の文の分裂として完全にパラレルになる。「《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》」
ところが、引用部後半に行くに従って、このラスコーリニコフの分裂は段々曖昧になってくる。これは、ポルフィーリイの側からの仕掛けだ。ポルフィーリイもこの引用部に至る場面においては、科白ではラスコーリニコフの演技に調子を合わせながら、態度(地の文)ではその演技を演技であることを見抜いているかのように愚弄するという「二重の戦略」を用いていたが、ここで突然「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、……」といった科白によって、もはやポルフィーリイがラスコーリニコフを単なる貧しい青年としては見ておらず、特別の関心(殺人の容疑者!)を持って眺めていることを、地の文の中ではなく科白の中でも仄めかしはじめているのだ。つまり演技と本心の分裂を微妙にあいまいにし始めている(こうなると「それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ」と言っては済ませられない!)。とはいっても露骨ではない。殺害された「老婆」を「彼女」と呼ぶことは、考えようによっては犯人であるラスコーリニコフに対する当てこすりのようだが、単なる三人称のようにも聞える。つまりあくまで、仄めかしだ。だが仄めかしが混じっているということがすでに、単に事務的にラスコーリニコフに応対するという以上のことをポルフィーリイがやろうとしていることを示している。これがポルフィーリイからの仕掛けである。
これに触発されてラスコーリニコフの側も、内面に留めておくべき言葉と発話していい(演技的な・表層的な)言葉との区別が曖昧になってしまい、つい彼はこらえきれなくなって余計なことをつけ加えてしまうのだ(「ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた」)。その科白の後に《……》で内語が続くが、これは直前の科白とつなげて、すべてを一繋がりの科白としてもあまり違和感がないと思える。「質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……。愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?」つまりポルフィーリイの仄めかしを受けて、ラスコーリニコフの側でも演技と本心の、直接の発話と内語の境が薄れて、両者がぎりぎりで入れ替わりかねないほどに近接してしまっているわけだ。
あくまで自意識と無意識の二重性を維持しようとするラスコーリニコフの内語を引き出そうとする、ポルフィーリイの高等言語戦術。それがこの引用部での見所。
●『罪と罰』下101-103頁
第四部第五章
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行ってみると、事務室にはポルフィーリイ・ペトローヴィチが一人きりだった。彼の事務室は広くもせまくもなく、部屋の中には、大きな応接テーブル、そのまえに油布張りのソファ、事務卓、片隅に戸棚、それに椅子が数脚あるだけで──それがみな黄色いつや出しの木でつくった備えつけの用度品だった。うしろの壁、というよりは仕切りの隅にドアがあって、しまっていた。してみると、その向うには、まだいくつか部屋がつづいているにちがいなかった。ラスコーリニコフが入ると、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにそのドアをしめて、二人きりになった。彼はいかにも愉快そうに愛想よく客を迎えた、そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。
「ああ、これはこれは! あなたでしたか……わざわざこんなところへ……」とポルフィーリイは両手をさしのべて、言った。「さあ、おかけください、どうぞどうぞ! おや、あなたはおいやですかな、こんな親しげに……下手にでられるのが、──tout court〔なるほど〕そうでしたか? なれなれしすぎるなんて、どうか、気をわるくしないでください……さあ、どうぞ、こっちのソファのほうへ」
ラスコーリニコフは坐ったが、その間も彼から目をはなさなかった。
《わざわざこんなところへ》とか、なれなれしさをあやまるとか、tout court〔なるほど〕なんてフランス語をつかうとか、その他かぞえたらいろいろあるが、──こうしたことはみな特異な兆候だった。《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》という疑惑がちらと彼の頭をかすめた。二人は互いに相手をさぐりあったが、視線があうとすぐに、二人とも稲妻のような早さで目をそらした。
「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」
「何です? 書類ですか? ああ、どれ……ご心配なく、これで結構です」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、まるでどこかへ急いでいるみたいに、あわててこう言った。そしてそう言ってしまってから、書類を手にとって、目で読んだ。「たしかに、まちがいありません。何もつけ加えることはありません」彼は同じ早口でこう言いきると、それをテーブルの上においた。それから、しばらくして、彼はもうほかの話をしながら、またその書類をとりあげて、自分の事務卓へおき直した。
「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、ぼくとあの……殺された老婆の関係について……正式に……尋ねたいとか……」とラスコーリニコフは改めて言いだした。
《チエッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》という考えが彼の頭をかすめた。《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》というもうひとつの考えが、すぐにそのあとから稲妻のようにひらめいた。
そして不意に彼は、自分の猜疑心が、ポルフィーリイにちょっと会って、一言二言ことばをかわし、一、二度視線をまじえただけで、一瞬のうちに早くもおそるべき大きさに成長してしまったことを感じた……これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ。《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》
「ああ、そうでしたね! でもご心配なく! 急ぐことはありません、時間は十分にあります」とポルフィーリイはテーブルのそばを行き来しながら、呟くように言った。彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。しかもそうしている彼のころころふとった小さなまるい身体が、まるでマリがあちらこちらへころがっては、すぐにはね返ってくるようで、なんとも奇妙な感じだった。
「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……して、煙草はすいます? おもちですか? さあどうぞ、巻煙草ですが……」彼は客に巻き煙草をすすめながら、話をつづけた。「実は、あなたをここへお通ししましたが、すぐその仕切りのかげが、ぼくの住居なんですよ……官舎ですがね、でもいまは当分の間、自宅から通いです。ちょっとした修理をしていたんでね。もうほとんどできあがりました……官舎ってやつは、ご存じでしょうが、いいものですよ、──そうじゃありません? え、どう思います?」
段落パターンだけを見ると、科白の合間に《……》のラスコーリニコフの内語含みの地の文が挟まって緊迫感を演出するという会話場面。とりあえず冒頭の描写段落は飛ばして、分析する。
決定的に印象に残るのは直接発話される言葉と地の文(内語含む)とのおそろしいほどの分裂だ。ラスコーリニコフの坐って直後の段落を見てみると、「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」という科白の凡庸さと、ここでラスコーリニコフがどんな特異な徴候も見逃すまいとポルフィーリイから片時も目を離さず、「《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》」とポルフィーリイの奇妙な仕種さえ完璧に観察し切っている(内語による仕種描写の代行!)。
だからこの対話場面で重要なのは対話場面でありながらむしろ科白の方ではなくて地の文なのだ。特に「《チエッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》」「《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》」という元は直前の科白についての反省から始まっている内語の連鎖は、内語の内語による内省という形で「稲妻」のような速度で自己増殖していくラスコーリニコフの心の緊張──「これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ」──を表わしており、ラスコーリニコフの発話「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、……」はそれを触発する契機でしかないかのようだ。言わば、科白が「地」で内語を含む地の文の方が「図」となって互いに引き立て合っているという感じか。もちろん、そのように互いが互いのレイヤーを触発し合っているという分裂的併存の様態が重要で、その契機がなければ単に段落をモンタージュしているというだけにすぎなくなる。引用部には含まれてはいないが、つづく個所に書かれているとおり「官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた」──そう、この「矛盾」が虚構されているからこそ科白と地の文の立体的な図/地の反転ということも可能なわけ。
繰り返せば、ここでは表面上は穏当な科白とは矛盾する形で地の文のレイヤーが形成されている。ということは、「描写」もまた科白とは矛盾する形で位置づけられているということだ。たとえば「彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。」といった描写の「なんとも奇妙な感じ」は、「《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》」や「《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》」といった内語と同じ水準にあるものであり、つまり、ラスコーリニコフの無意識の猜疑心によってフィルターを掛けられて観察されたポルフィーリイの姿がが、ここでは描き出されているということ。第一段落の描写からしてすでにそうで、「そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。」とそこで看取されるポルフィーリイの姿は、その後につづくポルフィーリイとラスコーリニコフの事務的な会話や世間話とはまったく「矛盾」していくものとして提示されているのである。(あと、つけ加えておけば、ポルフィーリイの態度の分裂は、一応伏線。ここで彼はラスコーリニコフの知り得ない或る手をつかって相手を罠に嵌めようとしているので。)
まとめると、地の文で内語が挿入されるタイプの会話場面では、科白と地の文のレイヤーの分裂的併存が重要だということ。
余談だが、「ラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。」という形で、現前的な描写においても少し時間幅を広く取るのはちょっとした工夫だな。つまりラスコーリニコフは瞬間的に、意識的に気付いたのではなくて、徐々に、無意識的に勘付き始めたというわけだ。なるほど、瞬間瞬間に定位する記述は、無意識の副旋律とあまりなじまないということだろうか?
●『罪と罰』上464-467頁
第三部第五章
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「じゃ、ののしられても、叱られても、しかたがありませんが、ぼくはどうにもがまんができないのです」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはまた言いだした。「もう一つだけ質問させてください(ほんとうにご迷惑だとは思いますが!)、一つだけつまらない考えを述べさせてもらいたいのです、心おぼえしておくため、ただそれだけのことですが……」
「結構です、聞かせてください」ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。
「実は……どう言ったらよくわかっていただけるか、まったく自信がないのですが……この考えがまたあまりにもふざけたもので……心理的なことなのですが……つまりこういうことなんです。あなたがあの論文をお書きになったとき、──まさかそんなはずはないと思いますがね、へ、へ! あなたは自分も、──つまりあなたの言う意味でですね、──ほんのちょっぴりでも、《非凡人》で、新しい言葉をしゃべる人間だとは、お考えにならなかったでしょうか……どうでしょうな、そこのところは?」
「大いにあり得ることです」とラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。
ラズミーヒンは身をのりだした。
「とすれば、あなたもそれを決意なさるかもしれませんな、──例えば、生活上の何かの失敗や窮乏のためとか、あるいは全人類を益するためとかで、──障害とやらをふみこえることをですよ?……まあ、いわば殺して盗むというようなことを?」
そういうと彼は不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。
「ふみこえたとしても、むろん、あなたには言わんでしょうな」とラスコーリニコフは挑戦的な傲慢なせせら笑いをうかべながら答えた。
「そうじゃありませんよ、ぼくはただちょっときいてみただけですよ。実をいえば、あなたの論文をよく理解したかったものですから、ただ文学的な面だけで……」
《フン、なんて見えすいた図々しい手口だ!》とラスコーリニコフは気色わるそうに考えた。
「おことわりしておきますが」と彼はそっけなく答えた、「ぼくは自分をマホメットともナポレオンとも思っていませんし……そうしたたぐいの人々の誰でもありません、ですから、そうした本人でないぼくとしては、どんな行動をとるだろうかということについて、あなたを喜ばせるような説明をすることはできません」
「よしてくださいよ、いまのロシアに自分をナポレオンと思わないようなやつがいますかね?」とポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭なあるひびきがあった。
「そこらの未来のナポレオンじゃないのかい、先週例のアリョーナ・イワーノヴナを斧でなぐり殺したのもさ?」ととつぜん隅のほうでザミョートフが言った。
ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。ラズミーヒンは暗い不機嫌な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。重苦しい沈黙の一分がすぎた。ラスコーリニコフはくるりと向き直って出て行こうとした。
「もうおかえりですか!」とポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。「お知り合いになれて、ほんとに、こんな嬉しいことはありません。ご依頼の件については決してご心配なく。ぼくが言ったあんな調子で書いてください。そう、ぼくの事務所まで届けていただければいちばんいいのですが……なんとか二、三日中に……よかったら明日にでも。ぼくは十一時頃はかならずいます。すっかり手続きをしましょう……ちょっと話もしたいし……あなたなら、最近あそこを訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことをおしえていただけるのではないかと……」と彼はいかにも人のようさそうな様子でつけ加えた。
「あなたはぼくを正式に尋問するつもりですか、すっかり準備をととのえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? いまのところその必要はまったくありませんな。あなたは誤解しているようだ。ぼくは機会はにがしませんよ、で……質入れをしていた人々はもう全部会って、話を聞きました……証言をとった人もいます……だからあなたにも、最後の一人として……あッ、そうそう、ちょうどいい!」と彼は不意に何かよほど嬉しいことを思いだしたらしく、にこにこしながら叫んだ。「いいとき思いだしたよ、おれもどうかしてるな!……」彼はラズミーヒンのほうを向いた。……
ここではポルフィーリイもラスコーリニコフも互いの内語=真意を偽装しながら挑発的に言葉を交し合っている。ポルフィーリイの方は《あなたが犯人なんでしょう? そうでしょう? だからこっちは尻尾を掴もうとしてるんですよ》という言葉を科白の裏に隠し、ラスコーリニコフの方は《犯人は俺だが、あんたらの間抜けな策略に引っ掛かって捕まるつもりは微塵もない》という言葉を科白の裏に隠している。だが、これらの無意識の本音はむしろ彼らの身振りや表情に雄弁に表れている。逆に言うと、彼らの完璧に偽装された科白の裏から染み出て来る内語の表出として、ここでの地の文は造型されているということ。「ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。」「ラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。」「ポルフィーリイは不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。」「ラスコーリニコフは挑戦的な傲慢なせせら笑いをうかべながら答えた。」「ポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭なあるひびきがあった。」「ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。」「ポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。」──表面上は穏当で礼儀正しい言葉を交しているだけに見える場面が、地の文を裏箔として読むとむしろ無礼で攻撃的な言葉を互いに差し出し合っている剣呑な場面に見えて来る。会話場面での地の文の構成法の一例。
あとラズミーヒンも、ここで《もしかしてポルフィーリイはラスコーリニコフを老婆殺しの犯人として疑っているのか?》という考えを抱き始めている。「ラズミーヒンは身をのりだした。」「ラズミーヒンは暗い不機嫌な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。」
●『未成年』下408-410頁
第三部第十章4
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わたしと彼が昨夜彼の『復活』を祝して乾杯したあのテーブルをはさんで、二人は対坐していた。わたしは完全に二人の顔を見ることができた。彼女はシンプルな黒い衣裳を着ていた、そしてまぶしいほど美しく、見たところ、おちつきはらっていて、いつもとすこしも変らなかった。彼がなにかしゃべっていて、彼女はひどく注意深く、警戒の色をうかべてそれを聞いていた。だが、そこにはいくぶんか怯気も見えたかもしれない。彼はおそろしく興奮していた。わたしは話の途中で来たので、しばらくはなんのことやらわからなかった。おぼえているのは、彼女が不意にこう問いかけたところからである。
「じゃ、わたしが原因でしたの?」
「いや、それはわたしが原因だったのです」と彼は答えた「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ。ご存じですか、罪のない罪びとというものがあることを? これは──もっとも許しがたい罪で、必ずといっていいほど罰を受けるものです」と彼は奇妙な笑いをうかべて、つけくわえた。「だがわたしは、あなたをすっかり忘れてしまったと考えて、自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったときもありました……それはあなたもご存じのとおりです。しかし、それだからといって、あなたが結婚なさろうとする人間に、わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです? わたしは昨日あなたに結婚を申し込みました、このぶしつけをお許しください、これは──ばかげたことです、だがしかしそれに代る方法がまったくないのです……このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」
彼はこう言うとなげやりにうつろな声で笑って、不意に相手に目を上げた。それまで彼は相手を見ないようにして話していたのである。もしわたしが彼女の立場にいたら、この笑いにぎょっとしたにちがいない。わたしはそれを感じた。彼は不意に椅子から立ち上がった。
「だが、どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」彼はもっともかんじんなことを思い出したように、不意にこう訊ねた。「わたしの招きも、あの手紙ぜんたいも──実にばかげています……お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、どのような心理の経過をたどってあなたがここへ来ることを承諾なさったかくらいはね、だが──なぜあなたが来たのか?──これが問題です、まさかただ恐怖心からだけで来たのではないでしょう?」
「わたしはあなたにお会いするために来たのですわ」と彼女はすこし気おくれぎみに用心深く彼を見まもりながら、言った。二人は三十秒ほど黙っていた。ヴェルシーロフはまた椅子に腰を下ろした、そしておだやかだが、感動のこもった、ほとんどふるえをおびた声で言いだした。
「わたしはもうずいぶん長くあなたにお会いしてませんね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、あまり久しいので、いつかこうしてあなたのそばに坐って、あなたの顔に見入り、あなたの声を聞いたことがあったなどとは、もうほとんど考えられないほどですよ……わたしたちは二年会いませんでした、二年話をしませんでした。あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ。まあ、いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです、そして今あることは──明日は消えてしまうのです、煙みたいに、──それもいいでしょう! わたしは認めますよ、だってこれもまたほかにどうしようもありませんからねえ、だが今日はうやむやで帰らないでください」と彼はほとんど哀願するように、不意につけくわえた、「もうここへ来るという、施しをしてくださったのですから、うやむやに素手で帰しては申し訳ありません。わたしのひとつの問いに答えてください!」
「どんな問いかしら?」
「わたしたちはもうこれで二度と会うことはないのですから、こんな問いくらいあなたになんでしょう? どうか最後に一度だけわたしにほんとうのことを言ってください、聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが。あなたはいつかほんのちょっとのあいだでもわたしを愛してくれたことがありましたか、それともわたしの……思いちがいだったろうか?」
このヴェルシーロフの粘着質に相手に絡んで行く科白の数々。これをざっと総合的に分析してみよう。
ヴェルシーロフの科白のエクリチュールを一言で言うと「言い訳」。彼の中核にあるのは、抑圧に抑圧されまくった欲望、自分が畏怖し愛するカテリーナから愛の言葉を引き出したいという無意識の欲望であり、それに至る第一歩としての引用部最後に出てくる「わたしのひとつの問い」を相手に投げ掛けたいという想い。だがその問いに至るまでに彼はこれほどまでに屈折しぐねぐねした長広舌を必要とする。その一切が言い訳である。自分の欲望に対する卑下(「自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったこともありました……」)、他者に責任転嫁しての自分の行動の弁解(「それだからといって、……わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです?」)、自分を責めるとみせて相手を部分的に=レトリカルに攻撃する責任転嫁(「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ」)、自分の過去の行動に対する平謝り(「このぶしつけをお許しくだし、これは──ばかげたことです」)、翻って明らかな自分の醜行をなぜかやむを得なかったものと解釈する逆ギレ気味──ないしは修辞疑問文風の自己弁護(「このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」)、相手の疑問や解釈や批判を先回りして封じておくための示威(「お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、……」)、自分にとって望ましい反応を引き出すための大袈裟な感情の誇張(「どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」)、自分の善性=害意のなさを強調するためのセンチメンタルな誇張(「あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ」)、自分の小悪事をうやむやにする通俗的な一般論(「いいでしょう、過ぎたことは──過ぎたことです」)、自分の欲望の畏れおおさに対する予防線的言い訳(「聡明な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが」)、……なにもかもが、「自分が一方的に悪い」「自分は無礼」「こんなことを言うべきではない」「こんなことはしてはならない」という無意識(≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)からの告発を叩き潰す──ことは完遂できるはずもなくぐねぐねした発話を続けることになってしまう──ための「言い訳」だ。ヴェルシーロフの中には率直さ、自然さといったものが一切ない。
ただしヴェルシーロフの繰り言が凄まじすぎるので、こうしたぐねぐねした予防線だらけの「言い訳」のエクリチュールこそ、単純に相手を非難したり(とんだ言いがかり。相手を怒らせるだけ)、真正面から愛を告白したり(拒絶されるだけ)するよりも、ぎりぎりのところで相手との関係をつなぎとめるための技巧なのではないかとさえ見えて来る。もちろん単調な言い訳を繰り返すだけでは駄目だ。ひたすら自己卑下しているだけでも駄目だ。豊富な言い訳、高度な自己卑下こそが必要とされる。ときには相手を遠回しに非難し(受動的攻撃性?)、恨めしげな顔つきを仄見せ、或いは冷静さを装い、自分が礼儀をわきまえている人間であることを示威し、相手の共感を誘うように感情をセンチメンタルに誇張し、実は自分は悪くないのだという結論をちらつかせる詭弁を駆使してみせること! こういう人間に対しては、相手も用心深く、警戒の色を浮かべて気後れぎみに応答しながら、しかし無下に扱うことはできないというわけだ。
非常に畏まっていると見せながら、ひそかにヴェルシーロフはカテリーナを傷つけてさえいるだろう。このような受動的な攻撃性を持つ人物として、ほかにレーベジェフやトルソーツキイの名を挙げることができる。というか、ヒュームに対するルソーか。「若しあなたに罪があるのなら、私は人間のうちで最も不幸なものであります。又若しあなたに罪がないとなれば、私は最も悪い人間であります。あなたが、この惨めなものになりたがらせたのです。」
●『罪と罰』下8-12頁
第四部第一章
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ラスコーリニコフは笑いだした。
「好きですねえ、そんなことを気にするなんて!」
「あなたは何をお笑いです? いいですか、わたしが鞭でなぐったのはあとにも先にもたった二度です、痕ものこらなかったほどです……わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな。そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいは、よく知ってますよ。だがそれと同時に、マルファ・ペトローヴナがそうしたわたしの、いわば狂憤をですな、おそらく喜んでいたらしいことも、ちゃんと知ってるんですよ。あなたの妹さんについての一件は、もうすっかり使い古されてしまって、マルファ・ペトローロヴナはしかたなしに三日も家にこもっていましたよ。町へもってゆくざんその種もないし、例の手紙の披露もさすがにあきたと見えましてな(手紙の朗読についてはお聞きになりましたでしょう?)。そこへとつぜん、この二つの鞭がまるで天の恵みみたいにおちたわけです! あれは早速、馬車の支度をいいつけました!……いまさらいうまでもありませんが、女には外見はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰にでもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか? ところが女にはそれが特に強いんですな。それだけを望んでいる、といってもいいほどです」
一時ラスコーリニコフは席をけって出て行き、この会見を打ち切りにしてしまおうかと思いかけた。が、ある好奇心と、加えて打算のようなものが、一瞬彼をひきとめた。
「あなたは喧嘩が好きですか?」と彼は何気なく聞いた。
「いいえ、それほど」とスヴィドリガイロフは落ち着いて答えた。「マルファ・ペトローヴナとはほとんど喧嘩したことがないくらいですよ。わたしたちはほんとに睦じく暮しておりましたし、あれはいつもわたしに満足してましたからな。わたした鞭をつかいましたのは、わたしたちの七年間の生活で、たった二度です(もう一度ありますが、しかしそれは別な意味もありますので、かぞえないことにして)。一度は──結婚後二月ほどのときでした。村に来てすぐの頃です、それとこの間です。あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッヘ……ついでだが、おぼえていますかな、ロジオン・ロマーヌイチ、もう何年になりますか、まだ言論が自由だった頃、名前が忘れたが、ある貴族が汽車の中で、一人のドイツ女を鞭でなぐったというので、新聞やら雑誌やらでさんざんたたかれたことがありましたねえ、おぼえてますか? あの頃さらに、ちょうどあれと同じ年だったと思いますが、《雑誌「世紀」の醜悪な行為》が起りましたな(そら、《エジプトの夜》〔プーシキン〕の公開朗読ですよ。おぼえてるでしょう? 黒き瞳! おお、いずこに去れるや、わが青春のかがやける日々よ!)。それはさて、わたしの意見はこうです。ドイツ女を鞭でなぐった旦那には、あんまり同情しませんな、だってどう見てもそれは……同情に値しませんよ! とはいうものの、この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。この観点からこの事件を見た者は、当時一人もいませんでした、しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」
こう言うと、スヴィドリガイロフは不意にまた大声で笑った。この男が何かかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。
「あなたは、きっと、もう何日か誰とも話していませんね?」と彼は聞いた。
「まあそうです。それがどうかしましたか、どうやら、わたしがよくしゃべるんでおどろいたらしいですな?」
「いいえ、ぼくがおどろいたのは、あなたがあまりに人間ができすぎているからです」
「あなたの質問の無礼さに、腹を立てなかったからかな? そうでしょう? でも……いったい何を怒るんです? 聞かれたから、答えたまでですよ」と彼はびっくりするほど素朴な表情でつけ加えた。「わたしはもともと何ごとにもおよそ興味というものを持たない人間でしてな、嘘じゃありません」と彼は何か考えこんだ様子でつづけた。「特にこの頃は、まったく何もしていません……もっともあなたに、嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。あなたの妹さんに用があるなんて、自分で言ったほどですからな。だが、正直のところ、退屈しきってるんですよ。わけても、この三日ほどはですな。だからあなたに会ったことさえ、嬉しかったほどで……怒らないでください、ロジオン・ロマーヌイチ、でもあなただって、どういうわけかおそろしくへんな様子に見えますよ。なんとおっしゃろうと、あなたには何かがあります。それもいま、といってもいまこの瞬間というのじゃなく、まあこの頃という意味ですがね……おや、どうしました、やめます、そんないやな顔をしないでください! わたしはあなたが思ってるほどの、熊じゃありませんよ」
ラスコーリニコフは暗い目で相手を見た。
「それどころか、おそらく、ぜんぜん熊じゃないでしょう」と彼は言った。「ぼくにはむしろ、あなたは上流社会の出か、あるいは少なくとも折りがあればりっぱな人間にもなれるひとだと思われます」
このスヴィドリガイロフの独特の態度をどう考えるべきか。この男、わざとラスコーリニコフから非難を引き出すように振舞っていないか? その上で図々しくも自らの正当性を押し出そうとしている。リアルタイムでの挑発(相手の非難を引き出す)と厚顔な自己弁護のコンビネーション。しかしこの戦略的な挑発と厚顔こそ、長い歳月をかけて錬磨されたスヴィドリガイロフの人格の精髄であるように思われる。その身についた図々しさにおいて彼は率直かつ「素朴」でありさえするのだ。ラスコーリニコフはそのことを見抜く。とはいえ、「席をけって出て行」こうとした瞬間の彼は、やはりスヴィドリガイロフのことを単なる下品な低能と看做しかけたのだろうけれども。
細部を見て行こう。スヴィドリガイロフはいかにも相手からの非難を気にしている風に見せかけながら(「わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな」「そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいはよく知ってますよ」)、時に噴飯物の一般論を展開してさらに相手へ呼び掛けて同意を求めさえする。「いまさらいうまでもありませんが、女には外見はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰にでもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか?」──この伸び縮みする言葉の運動感覚はやはり不遜な挑発となって、ラスコーリニコフの怒りを惹起しかねないものだ。
さらにスヴィドリガイロフは止らない。「喧嘩が好きですか?」だけの質問から凄まじい駄弁を引き出して来る。一応マルファ・ペトローヴナに鞭を使ったことがあるのを認めて、やはり相手からの非難を気にしている風に見せかけながら(「あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッヘ……」)、スヴィドリガイロフは問わず語りに昔の新聞記事に載った或る貴族が一人のドイツ女の鞭でなぐったという事件を出鱈目放題に引用して、また噴飯物の一般論を引き出して相手の同意を求めようとする(「この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。……この観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」)、そして大声で笑い出す。相手の反応を窺いながらリアルタイムに挑発して、噴飯物の意見を図々しく開陳してわざと相手の非難や怒りを引き出そうとする……しかしそれらの一切が戦略的な相手への対話的働きかけのように現象する。これがスヴィドリガイロフの特異性だ。
だがスヴィドリガイロフの道化の仮面はあまりにそれに慣れ過ぎたためにほとんど彼の「素朴な」皮膚のようなものにさえなりかけている。したがって彼の「嘘じゃありません」「嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。……だが、正直のところ、……」という科白はまったくの虚言ではない。リアルタイムに生成される挑発的な駄弁によって自分の付けた仮面を維持しつづけることに慣れ過ぎた彼は、その駄弁生成が人格の根幹にさえなってしまっている。ラスコーリニコフはその人格の強度を見抜く。「この男が何かかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。」上辺でつねに回転しながら増殖していく挑発的駄弁の芯には、成熟した人格の強度がある。それは(ここではまだ明らかになっていないが)一貫したドゥーニャへの情欲とも通底している。
そう、スヴィドリガイロフの科白がつねに浮ついていながら重厚なものに見えるのは、浮ついていることに徹底した一貫性があるからだ。
●『罪と罰』下106-108頁
第四部第五章
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「とんでもない! どうしてそんなことを! いったいあなたに何を尋問するんです」とっさに笑うのをやめて、調子も態度もがらりと変えて、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはあわててのどをつまらせながら言った。「まあ、どうぞ、ご心配なく」彼はまたせかせかとあちらこちらへ歩きだしたかと思うと、とつぜんしつこくラスコーリニコフに椅子をすすめたりしながら、ちょこまかしだした。「時間はありますよ、時間はたっぷりあります。そんなことはみならちもないことですよ! わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……わたしはあなたをお客として迎えています。ロジオン・ロマーヌイチ、不躾に笑ったことは、どうかかんべんしてください。ロジオン・ロマーヌイチ? たしかこうでしたね、あなたの父称は?……わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……笑いによわいんですな、脳溢血の体質のくせにね、まあ、おかけくださいな、どうしたんです?……さあ、どうぞ、さもないと、気にしますよ、ほんとに怒ったんですか……」
ラスコーリニコフはまだ怒ったしかめ面をしたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと様子をうかがっていた。それでも、彼は坐った。しかし帽子は手からはなさなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはせかせかと室内を歩きまわり、また客と目の合うのをさけるようにしながら、つづけた。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、われわれの周囲では、つまりわがロシアではですね、特にわがペテルブルグの社会では、もし二人の頭のいい人間が、それほど深い知り合いではないが、いわば、互いに尊敬しあっている、つまりいまのわたしとあなたみたいなですね、いっしょになると、まず三十分くらいはどうしても話のテーマを見つけることができないで、──互いにこちこちになって、坐ったまま気まずい思いをしている。誰にだって話のテーマはあるんですよ、例えば、婦人方とか……上流社会の人々なんかは、いつだって必ず話のテーマをもってます、それがきまりみたいになってるんですよ。ところが、わたしたちみたいな中流階級の人間は、みな恥ずかしがりやで、話下手で……つまりひっこみ思案なんですね。それはどこからくると思います? 社会的な関心がないとでもいうのでしょうか、それとも正直すぎて、互いに相手を欺すのがいやなんでしょうか、わたしにはわかりません。え? あなたはどう思います? まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気がきじゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」
ラスコーリニコフは帽子はおいたが、あいかわらず黙りこくって、むずかしい顔をしたまま真剣にポルフィーリイの中身のない要領を得ないおしゃべりに耳をかたむけていた。《こいつ何を言っているのだ、本気で、こんなあほらしいおしゃべりでおれの注意をそらそうとでも思っているのか?》
ポルフィーリイによる饒舌によって相手を呑もうとするテクニックを見よ。
ここでポルフィーリイの目的はともかく「ちょこまかと」落ち着きない饒舌を維持することによってラスコーリニコフの注意を拡散しつつ惹き付けること。ともかくまずは饒舌をつづけることが必要になってくる。
「わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……」「わたしはあなたをお客として迎えています」「わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ」「(わたしは)どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……」「(わたしは)笑いによわいんですな、脳溢血の体質のくせにね、……」──まずポルフィーリイの饒舌で目立つのは「わたし」「わたし」「わたし」の連発だが、こうしてなんでもかんでも不躾に「わたし」に結びつけた発話にしてしまうのは饒舌を維持するための基本テクニックと言える。「あなた」「ロジオン・ロマーヌイチ」と対話相手に呼び掛ける場合でも、或いは対話相手のことを話す場合でも必ず「わたし」に結びつけようとする。こうして「わたし」と「あなた」の共犯関係が勝手に不躾に構築される。このようなテクニックによってラスコーリニコフは単に敵対するのではなくて、ポルフィーリイからじっと目が離せなくなってくるのだ。
「わたし」を前面に押し出すという発話の性格は「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」から始まる長科白ではさらに明白となっている。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。……」しかもポルフィーリはこのように「わたし」にさかんに自己言及してわざとらしい卑下を見せつつ、しかしいつの間にか「つまりいまのわたしとあなたみたいな」という転回によって「わたし」と「あなた」を重ね合わせてしまい、後半になると「わたしたちみたいな中流階級の人間」という具合に、それまで単独で押し出していた「わたし」を勝手に「あなた」を含めた「わたしたち」という複数形にして饒舌を展開し、最後には「え? あなたはどう思います?」という(返事を全然期待しない)呼び掛けによって勝手にラスコーリニコフを自分の主観的意見の共犯として取り込んでしまっているのだ。
以上からここでポルフィーリイが駆使している饒舌テクニックのポイントは「『わたし』を押し出す」「共犯関係の構築」の二点に集約されると分かる。
●『罪と罰』下111-113頁
第四部第五章
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「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」とポルフィーリイはまた、楽しそうに、異常なほど無邪気な目でラスコーリニコフを見ながら(そのためにこちらはぎょっとして、とっさに心を構えた)、急いで言った。「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ! どうもこの(もちろん、全部じゃありませんがね)われわれの深遠な心理的方法というやつは、まったく滑稽ですよ、それに、おそらく無益でしょうな、形式にあまりこだわれば。おや……また形式にもどってしまった。さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、勉強はしました……」
「じゃちょうどいい、あなたの将来の参考として、判例といったものとひとつ、──といって、図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ! とんでもない、わたしはただ、事実として、判例を申しあげるだけですよ。──さて、わたしが誰かを容疑者と認めるとします。そこでひとつうかがいますが、たとえわたしが証拠をにぎっていたとしてもですよ、時機のこないうちに当人をさわがせる必要があるでしょうか? そりゃ、相手によっては早く逮捕しなきゃならん場合もありますが、そうでない性質の容疑者もいますよ、ほんとです。そんなやつはしばらく街を泳がせておいても、別にどうってことはありませんからな、へ、へ! いやいや、どうやら、よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう。例えばですよ、もしわたしがやつをあまり早く拘留すればですね、それによってやつに精神的な、いわば、支えをあたえることになるかもしれませんからねえ、へ、へ! おや、あなたは笑ってますね?(ラスコーリニコフは笑うなど思いもよらなかった。彼は坐ったまま、口をかたく結んで、充血した目をポルフィーリイ・ペトローヴィチの目からはなさずに、じっとにらみつけていた)。ところが、そうなんですよ、相手によっては特にね、人はさまざまですからねえ、何ごとも要は経験ですよ。あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ。予審判事なんて弱いものです。告白しますが、そりゃ審理は、いわば、数学的にはっきりさせたいですよ。二たす二は──四になるような、そういう証拠を手に入れたいと思いますよ! ずばり異論の余地のない証拠をね! で、やつを時機を待たずに拘留すればですね、──たとえわたしがそれがやつであることを確信していてもですよ、──おそらくわたしは、さらにやつの罪証をあばく手段を自分で自分からうばうことになるでしょう。なぜ? つまり、それによってわたしはやつに、いわば、ある一定の立場をあたえることになり、いわば心理的に安定させてしまうからです。そこでやつはわたしから逃れて、自分の殻にとじこもってしまいます。ついに、自分が被拘束者だとさとるわけです。また噂に聞いたのですが、セワストーポリでは、アリマの戦争直後、敵がいまにも正面攻撃をかけてきて、一挙にセワストーポリ要塞をおとすのではないかと、識者たちはびくびくしていたそうです。ところが、敵は正攻法の包囲作戦をえらび、前線に並行豪を構築しているのを見て、彼らは大いに喜び、ほっとしたということです。正攻法の包囲作戦をやっていたのでは、少なく見ても二ヵ月は大丈夫というわけです! おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ! いまあげた例はたしかに特殊の場合です! でも、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実に注視すべきではないでしょうか。つまり一般的な場合というものは、つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの考察の対象となり、判例として記録されるような、そうした場合のことですがね、ぜんぜん存在しませんね。というのはあらゆる事件は、まあどんな犯罪にしてもそうですが、それが現実に発生すると、たちまち完全に特殊な場合にかわってしまうからですよ。しかもときには特殊も特殊、まるで前例のないようなものにね。……
饒舌的な科白をどう構築していくのか。
相手の興味がどこにあるかおかまいなしに、自分のことについてやたら先回りして喋りまくることは、饒舌維持のテクニックとしては常套手段。しかしここでのポルフィーリイは「わたし」を押し出すだけでなくさらに「あなた」を押し出して「あなた」のリアルタイムな状態について喋りまくる、というテクニックを用いている。「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ!」「たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」「──といって、図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて(あなたが)思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ!」「いやいや、どうやら、(あなたは)よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう」「おや、あなたは笑ってますね?」「あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ」「おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ!」──こうした特徴に表れているのは、一応は「あなた」を持ち上げて、「あなた」の言うことを復唱することで同意を示すかのような従順な態度だ。というより「あなた」と敵対し断罪するような形で「あなた」を饒舌に取り入れても、相手の反応を待たなければならないことになるので饒舌を維持できない。ここは表面上の「あなた」への同意だけを見せておいて饒舌をとにかく途切らせないことが重要だ。
とはいえ、当然ながら、「あなた」を押し出しているだけでは饒舌は維持できないので、「あなた」へのリアルタイムな言及の合間に何かを挟む必要がある。合間に挟むのに適当と考えられるのはもちろん第一には「わたし」への自己言及だが、もっと適当なものがある。それは、「あなた」の無意識を刺激し「あなた」を間接的に愚弄するかのようなきわどい話題だ。直接的な愚弄というものはどんなにユーモアにくるんでも露骨に下品になってしまうものだが(そういう下品さは小説のエクリチュールとしては「下手」の兆候だ)、ここでポルフィーリイがやっているのは、「あなた」の状態について言及しまくりつつ相手を持ち上げながら(「図々しいやつだ、おれに教える気だ、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ!」)、同時に「さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……」という想像上の状況を仮定して、間接的にラスコーリニコフを殺人犯として疑っていることを仄めかして伝達しているのだ。審理と証拠についての現実主義的な一般論を披瀝しつつ、セワストーポリ要塞の故事を引きつつ、ポルフィーリイのこの長科白の意図はラスコーリニコフを間接的に愚弄すること、ラスコーリニコフの無意識を刺激することだ。その目的に、「あなた」を押し出す饒舌のスタイルはとてもよく調和する。しかも読んでいて面白い──下品にならない。申し分なし。
●『罪と罰』下117-118頁
第四部第五章
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「いや、あなたは信じないようだ、わかりますよ。わたしが悪気のない冗談ばかりなあらべていると思っていなさるらしい」ポルフィーリイはますます陽気になり、満足そうにたえずヒヒヒと笑いながら、ひとりでうなずいて、また室内を歩きまわりはいめた。「そりゃむろん、そう思うのが当然ですよ。なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな。でも、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、何度も言うようですが、老人は大目に見てやるものですよ。あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される。それは、例えばオーストリヤの三国同盟会議とはまったく同じですね。もっともこれはわたしのとぼしい軍事知識による判断ですがね。紙の上では彼らはナポレオンを粉砕し、捕虜にしましたよ。そして作戦室では実に鋭い奇策を弄して、敵を苦境においこみました。ところが実際はどうでしょう、マック将軍は全軍をひきいてもろくも降伏してるじゃありませんか、へ、へ、へ! わかりますよ、わかりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがこんな文官のくせに、戦争の歴史からばかり例をひくんで、あなたは嘲笑っていますね。でもしようがないんですよ、困ったもので、どういうものか軍事問題が好きなんですよ、こうした戦闘報告を読むのがたまらなく好きなんです……わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく。まさかナポレオンまではいかんでしょうが、少佐くらいにはなったかもしれませんな、へ、へ、へ! 冗談はさておいて、ロジオン・ロマーヌイチ、ここらでその、何ですか、つまり特殊な場合というものについて、くわしいありていをお話しましょう。……
極めて知的で狷介な相手と対話を維持しながらうまく主導権を得るにはどうするか。先手を打つ饒舌というものをずっと展開しつづける必要があるだろう。
ここでポルフィーリイが用いているのは、その必要もないのに自分について言及しまくる「わたし」の押し出しという手法(「なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな」「わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく」)だけではなく、「あなた」について勝手にこちらで先回りして規定してしまうという手法である。そのメルクマールとなるのが「わかりますよ」の言葉だ。つまりポルフィーリイはラスコーリニコフに向って勝手に、先手を取って「わかりますよ、わかりますよ、あなたのことは分かってますよ」という態度を取ることによって、ポルフィーリイ側からラスコーリニコフを扱い易い存在(「あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される」)として饒舌の中に組み込んで、相手の敵対的な態度で自分の饒舌を中断されないように予防している、というわけだ。ラスコーリニコフが「信じない」ような態度を見せようが、「嘲笑って」いようが、そんなことは先刻承知で、ポルフィーリイの饒舌を挫折させるほどのことではないと先回りして無力化する。その饒舌戦略が「わかりますよ」の言葉に集約されている。それがあるからこそしょうもない水増し的な「オーストリヤの三国同盟会議」の挿話もだらだら展開できるのだ。
余談。対話性を密にする際の「なにしろ」の汎用性は凄い。「なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。」修辞疑問文並み。
●『カラマゾフの兄弟』4巻198-200頁
第十一篇第六章
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「お前が思いも寄らない事件だと言っているのに、僕がそれを察知して家に残るはずはないじゃないか。どうしてそんなつじつまの合わないことを言うんだ?」とイワンは物思いに沈みながら言った。
「でも、わたしがモスクワでなしにチェルマーシニャ行きをおすすめしたことからも、察しがつきそうなものじゃございませんか」
「察しがついてたまるかい!」
スメルジャコーフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙り込んだ。
「わたしがモスクワ行きをお止めしてチェルマーシニャ行きをおすすめしたことで、すぐにお察しになれたはずでございます。つまりわたしはすぐこの近くにいていただきたかった、モスクワは遠うございますからね。それにドミートリイ様も、あなたが近くにおいでなのを知っていたら、そうそう勇気をお出しになることもございますまい。第一、何かの場合、大至急あなたに駆けつけていただいて、おすがりできますからね。なぜって、そのために自分の口からグリゴーリイの病気のことや、発作を心配していることをあなたに申し上げておいたのございます。また亡くなった旦那様のお部屋へはいるあの合図のことや、その合図がわたしの口からドミートリイ様に筒抜けになっていることをお話ししたのも、そうすればあの方がきっと何かしでかすに違いないとあなたがお察しになって、チェルマーシニャへ行くどころかここにずっとお残りになると考えたからでございます」
『話しっぷりはたどたどしいが』とイワンは思った。『なかなか筋道が立っているぞ。何だってヘルツェンシュトゥーペのやつ、精神異常だなんて言ったのだろう』
「お前はおれをペテンにかけるつもりだな、畜生!」と彼は腹を立てて叫んだ。
「正直なところ、わたしはあの時あなたがすっかりお察しになったものと思っておりました」さも人の好さそうな顔つきで、スメルジャコーフが言い返した。
「それがわかってりゃ、出かけるもんか!」ふたたびかっとなってイワンが叫んだ。
「さようで。わたしはまた、あなたが何もかもお察しになったうえで、災難を避けたい一心から大至急お出かけになるんだとばかり思っておりました、恐ろしい目に会わないうちに、どこかへ逃げ出そうとなさって」
「お前は誰もが自分と同じ臆病者だと思っていたのか」
「失礼ながら、あなたもわたしと同じだと思ったのでございます」
「むろん察知すべきだったのだ」イワンは興奮して言った。「もっとも、僕はお前が何か醜悪なことを企んでいるのは察していた。……だが、お前は嘘をついているな、またでたらめを言っているんだ」突然われに帰ってかれは叫んだ。「覚えているだろう、あの時お前は馬車に近寄って来て、《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》と僕に言ったんだぞ。してみると、僕が立って行くのを喜んでいたのだ。それでお世辞を言ったんだろう?」
スメルジャコーフはもう一度、さらにもう一度、溜息をついた。顔に血の気がさしたように見えた。
「わたしが喜んだとすれば」と彼は幾ぶん息をはずませて言った。「それはあなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャへ行かれることを承知なすったからでございます。何しろ近うございますからね。しかしわたしがあの時あの言葉を申しましたのはお世辞じゃなくて、非難の意味でございました。あなたにはそれがおわかりにならなかったのでございますね」
ドストエフスキーの作品世界では「登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」が重視される。それを踏まえた上で引用部の会話場面を見てみよう。
スメルジャコーフの論理的な言い分は一見筋道が立っているように見えるが、後に明らかになるように、完全な虚偽である。実際にはスメルジャコーフはイワンがチェルマーシニャ(ないしはモスクワ)行きを選ぶか家に残ることを選ぶかに、フョードルを殺してよいかどうかのイワンからの命令の有無を暗黙に読み取っていたのであり、そもそも彼はグリゴーリイの病気やドミートリイの暴力のことなど端から心配しておらず、フョードルを上手く殺せるか、そしてその後イワンが共犯者として口裏を合わせてかばい立てしてくれるかどうかだけが問題だったのだ。ここで一見フョードルのことを心配してイワンに家に残って欲しかったと言っているのはまったくの虚偽であり、《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》の一言の意味も、スメルジャコーフが説明しているのは後づけのもっともらしい嘘でしかない。つまりスメルジャコーフには体裁良く整えた清潔な説明の言葉の裏に、秘かにしまい込んだ真実を持っている。或る意味でそれがスメルジャコーフの(未だはっきり言語化されていない)無意識だと言っていい。
イワンの方も、スメルジャコーフの言葉上の整合性がもしかしたら上辺だけのものかもしれないということに勘付いていて、相手の言葉をそのまま信じることはできずにいる(「お前は嘘をついているな、またでたらめを言っているんだ」)、つまり彼はスメルジャコーフの現前的な表情や科白の下に、潜在的で醜悪な殺人行為の臭いを感じ取っている。ところがスメルジャコーフの無意識の隠蔽すなわち「罪のない下僕」という上辺の仮面の偽装があまりにも完璧なので、イワンは正確にその裏側を言い当てることができない。感知すべき相手の無意識の領域をぎりぎりのところで掴むことができず、予感としてしか把握できていない。こういう場合、イワンは『なかなか筋道が立っている』と納得しかかりながらも、「お前はおれをペテンにかけるつもりだな、畜生!」と根拠不明の猜疑心を爆発させることしかできない。つまり或る対話場面において、一方の無意識の偽装、上辺の仮面の拵えがあまりにも完璧すぎる時には、他方は自分が騙されていると感じながらも相手の言葉に受動的に翻弄されざるを得ないということだ。引用部では、スメルジャコーフの憎らしいまでの自己抑制・冷静さと、感知すべき相手の無意識をどうしてもはっきりと感知できなくて苛立つイワンの見苦しい興奮とが、きれいな対照をなしている。
とはいえ、イワンはほとんどスメルジャコーフの真実を直観的に掴んでいると言ってもいいくらいなのだが。実際、スメルジャコーフは嘘をついているのだし、スメルジャコーフの企みが《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》という言葉に仄めかされていたことを、ちゃんと察しているのだから。
●『カラマゾフの兄弟』4巻228-230頁
第十一篇第八章
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「あなたもご病気らしゅうございますね、げっそりおやせになって、お顔の色がすぐれない」と彼はイワンに言った。
「おれの体のことなんかどうでもいい。それよりおれがきいていることに返事をしろ」
「お目がひどく黄色いじゃございませんか、白目が真っ黄色だ。ひどくお苦しみなのでございますか」
彼は軽蔑的ににやりと笑い、突然、声をあげて笑いだした。
「いいか、さっき言ったとおり、お前の返事を聞かないうちは、おれは帰らんぞ」イワンは恐ろしくいらだって叫んだ。
「どうしてあなたはわたしにしつこく付きまとうのでございます? どうして私を苦しめるのでございます?」苦しそうにスメルジャコーフが言った。
「ちぇっ、畜生! おれは今お前どころじゃないんだ。きいたことに返事をしろ、そうすればすぐに帰る」
「あなたにお答えすることなど何もございません!」こう言ってスメルジャコーフはまた目を伏せた。
「どうあってもお前に返事をさせてみせるからな!」
「あなたは何がそんなにご心配なのでございます?」突然スメルジャコーフはイワンの顔をじっと見た。だが、その目は軽蔑というよりは、すでに一種の嫌悪の色をたたえていた。「明日、公判がはじまるからでございますか。それならばあなたにとっては、どうということはございますまい。安心しておいでなさいまし。それより家へ帰って、ゆっくりお休みになることでございます。何も心配なさることはない」
「おれにはお前の言うことがさっぱりわからない。……どうしておれが明日の公判を恐れなければならないのだ?」イワンは驚いてこう言ったが、突然、ほんとうにある恐怖がひやりと彼の心をなでた。スメルジャコーフは目をあげて相手の様子を見まわした。
「おわ・かりに・なり・ません・か」彼は非難するように言葉を引き伸ばして言った。「利口なお方がそんな喜劇を演じるなんて、物好きなこった!」
イワンは黙って相手の顔を見た。この思いがけない口調、もとの下男がいま彼に向かって言ったこのひどく横柄な調子、これだけでも常態ではなかった。この前の時でさえ、こんな口調は聞かれなかった。
「あなたは心配なさることはないと言っているのです。わたしはあなたのことは黙っています。証拠がないわけです。おや、手がふるえていますね。どうして指をそんなに動かしているんです? さ、家へお帰りなさい、あなたが殺したんじゃない」
イワンは思わずぎくりとした。アリョーシャの言葉が思い出された。
「おれでないことは、わかっている……」と彼は舌をもつれさせて言いかけた。
「おわ・かり・です・かね?」ふたたびスメルジャコーフが相手の言葉を引き取った。
イワンはさっと立ちあがって、相手の肩を引っつかんだ。
「すっかり言え、毒蛇め! すっかり白状しろ!」
スメルジャコーフはびくともしなかった。彼はただ気違いじみた憎悪の目で、相手をじっと見つめただけである。
「それじゃ言いますがね、殺したのは、ほら、あなたですぜ」凶暴な口調で彼はささやいた。
ドストエフスキー作品においては、真に決定的な対決的対話場面の中で、それまで抑圧・否認されていた無意識をあからさまに暴露する言葉が「不意に」飛び出す瞬間がある。それは自分自身が思わず(意識せずに)口にしてしまうこともあれば、対話相手がこちらの無意識に憑依してないしは無意識をこちらの隠された真意と誤読してそれを言葉にしてしまうこともある。後者の場合、自分にとってはその言葉は意外性の驚きをもって聞かれるが、実はその意外性は自分にとって親密なものでもあるという自己動揺を伴うことになる。
引用部でイワンがスメルジャコーフの科白に「突然」驚かされるのは、外部としての無意識(彼自身の無意識だが彼の自意識からもっとも遠い場所にある領域)からの一撃をスメルジャコーフ=他者経由で喰らったからだ。だからこそそれはイワンには「お前の言うことがさっぱりわからない」という否認の科白を伴いながらも、純粋な無知の驚きではなくて「恐怖」として経験される。「イワンは驚いてこう言ったが、突然、ほんとうにある恐怖がひやりと彼の心をなでた。」
「あなたにお答えすることなど何もございません!」と叫んでいたスメルジャコーフ、この時点ではまだスメルジャコーフはイワンの無意識にまで踏み込もうとはしていなかった。このレベルに留まるかぎり対話が深刻化することはなかったはずだ。「あなたは何がそんなにご心配なのでございます?」──この科白からスメルジャコーフはむしろイワンの無意識と対話し、それを宥めようとする不可思議な態度を取ることになる。ここにはスメルジャコーフの誤解がある。つまり彼は、殺人事件の真相はイワンの無意識に抑圧されているのではなくすでに自意識に上っているはずだと考えていたわけ。だからあたかもすでに二人の間に了解事項があるかのように「何も心配なさることはない」「わたしはあなたのことは黙っています。証拠がないわけです」といったイワンの自意識にとってはまったく意味不明の呼び掛けがなされるわけだ。しかしイワンの無意識は自分がスメルジャコーフに殺人の許可を与えたかも知れないということを「利口」ゆえに知っているので、イワンの驚きは分裂する。「「おれでないことは、わかっている……」と彼は舌をもつれさせて言いかけた。」
●『罪と罰』下460-462頁
エピローグ
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シベリア。荒涼とした大河の岸に一つの町がある。ロシアの地方行政の中心地の一つである。この町に要塞があって、要塞の中に監獄がある。この監獄の中に第二級流刑囚のロジオン・ラスコーリニコフが、十ヵ月まえから収容されていた。犯行の日からほぼ一年半の歳月が流れていた。
彼の事件の裁判は大した障害もなくすぎた。被告は状況をもつれさせたり、自分の利益のために柔らげたり、事実をゆがめたり、こまかい点を忘れたりすることなく、正確に明瞭に自分の供述を裏付けた。彼は犯行の全過程をごく些細な点まで詳しく述べた。殺された老婆がにぎっていた質草(鉄板をはりつけた板きれ)の秘密も明らかにした。老婆から鍵を奪った状況も詳しく語り、どんな鍵がいくつくらいあったか、長持はどんなふうで、中にどんなものが入っていたかまで説明した。リザヴェータを殺した謎も明らかにした。コッホが来て、ドアをたたいたこと、そしてそのあとから学生が来たことも、彼らの間の会話をすっかり再現して、詳しく語った。彼、つまり犯人がそのあとでどんなふうに階段をかけ下り、どこでミコライとミチカの騒ぎを聞いたか、どんなふうに空室にかくれ、どうして家へ帰ったかを述べ、最後にヴォズネセンスキー通りの門の内側にある石の位置を明示した。石の下から品物と財布が出てきた。要するに、事件は明白となったわけである。検事や裁判官たちは、彼が品物や財布をつかいもしないでかくしていたことには、特におどろいたが、それよりも、彼が自分で盗んだ品物をよくおぼえていないばかりか、その数さえまちがっていたのには、すっかりおどろいてしまった。わけても、彼が一度も財布を開けて見ないで、中に金がいくらあるかさえ知らなかったという事実は、信じられないことのように思われた(財布の中には銀単位で三百七十ルーブリの紙幣と、二十コペイカ銀貨が三枚入っていた。長い間石の下になっていたために上のほうの大きい紙幣が何枚かはひどく痛んでいた)。長い間審査の苦心がこの点に向けられた。被告は他のすべての点は進んで正直に認めているのに、なぜこの一つの事実だけ嘘をつくのか? ついに、ある人々(特に心理学者)は、実際に彼は財布の中を見なかった、だから中に何があったか知らなかった、そして知らないままに石の下にかくした、という事実は考えられないこともないと認めたが、それならば犯行自体は、ある一時的な精神錯乱、いわば、なんらの目的も利害に対する打算もない、強盗殺人の病的な偏執狂の発作、という状態のもとで行われたとしか考えられないという結論になった。そこへ折りよく、最近つとめてある種の犯人たちに適用しようとする傾向のある最新流行の一時的精神錯乱の理論が持ち出された。加えて、ラスコーリニコフのまえまえからのヒポコンデリー症状が、医師ゾシーモフや、以前の学友たちや、下宿の主婦や女中など、多くの証人たちによって証言された。こうしたすべてのことが、ラスコーリニコフは普通の強盗や殺人などの凶悪犯人とはぜんぜんちがって、そこには何か別種のものがあるという結論を、大いに助長した。この意見を擁護する人々をひどく憤慨させたのは、犯人自身がほとんど自分を弁護しようとしなかったことである。何が彼を殺人に傾かせ、強盗を行わせたのか、という決定的な質問に対して、彼は実に明瞭に、乱暴なほど正確に、いっさいの原因は彼の悲惨な、貧しい、頼りのない境遇であり、少なくとも三千ルーブリの助けをかりて出世の第一歩をかためたいと願い、老婆を殺せばそれが奪えると思ったのである、と答えた。彼が殺害を決意したのは、もともとが軽薄で小心な性格が、生活が苦しくものごとがうまく行かないために苛々したためである、と言った。何が彼を自首する気持にさせたのか、という質問に、彼は正直に、心からの悔恨であると答えた。言うことがみな、ほとんどふてぶてしく聞えるほどだった。
一般的なディエゲーシス。基本的に時間軸にそって出来事をストーリー化してまとめて追っているのでリーダブル。単なる事実の羅列に終始せず、「それよりも……」「わけても……」「ついに……」「いわば……」「そこへ折りよく」という接続の接ぎ穂によって軽く構造化されている。また「要するに、事件は明白となったわけである。」「こうしたすべてのことが、……という結論を、大いに助長した。」という前文までの流れを総括して結論づける文章が要所で入っていてさらに構造をクリアにしている。
だが段落の構造化という意味では「被告は他のすべての点は進んで正直に認めているのに、なぜこの一つの事実だけ嘘をつくのか?」の疑問形の文が途中で出現していることに注目したい。それまでの叙述の流れで自然に出てくる疑問をそのまま体験話法的に(この疑問を発しているのは検事や知人らを含むラスコーリニコフの周囲の人々で、語り手がそれらの人々の疑問の声をトレースしているかのように)疑問形で記すことで、続く叙述を引き出している。
●『罪と罰』上123-125頁
第一部第六章
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しかしこんなことはまだ些細なことで、彼は考えをすすめようともしなかったし、そんな暇もなかった。彼が考えていたのは大筋で、自分ですべてに確信がもてるようになるまで、枝葉末節はのばしておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。少なくとも自分ではそう思っていた。いってみれば、いずれは考えをおわって、みこしをあげ──あっさりとそこへ出かけて行くときがくるなどとは、彼は想像することもできなかった。先日のあの下見(つまり最後的に間取りを検分する意図をひめた訪問)でさえも、ただ下見のための下見であって、決して本気ではなかった。《空想ばかりしていてもはじまらん、ひとつ出かけて、ためしてみよう!》という気持だった、──ところがすぐにがまんができなくなって、ペッと唾をはき、われとわが身をののしりながら逃げだしたのだった。しかし一方、問題の道徳的解決という意味では、いっさいの分析がもう完成されていたようだ。彼の詭弁論はかみそりのように研ぎすまされて、彼はもう自分で自分の中に意識的な反論を見出すことができなかった。ところがいよいよとなると、彼はただわけもなく自分が信じられず、まるで誰かに無理やりそこへひきよせられたように、かたくなに、卑屈に、本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用した。まるで誰かが彼の手をつかんで、超自然的な力で、有無を言わさずひっぱったようであった。彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていったのである。
最初、──といっても、もうずいぶんまえのことだが、──彼はひとつの問題に興味をもっていた。どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか? どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにはっきりあらわれるのか? 彼はすこしずついろいろなおもしろい結論を出していったが、彼の見解によれば、最大の原因は犯罪をかくすことが物質的に不可能であるということよりは、むしろ犯罪者自身にあるというのである。犯罪者自身が、これはほとんどの犯罪者にいえることだが、犯行の瞬間には意志と理性がまひしたような状態になって、それどころか、かえって子供のような異常な無思慮におちいるからだ。しかもそれが理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間なのである。彼の確実な結論によれば、この理性のくもりと意志の衰えは病気のように人間をとらえ、しだいに成長して、犯罪遂行のまぎわにその極限に達する、そしてそのままの状態が犯行の瞬間まで、人によっては更にその後しばらく継続する、それから病気がなおるように、その状態もすぎ去る。そこで一つの問題が生れる。病気が犯罪自体を生み出すのか、それとも犯罪自体が、その特殊な性質上、常に病気に類した何ものかを伴うのか?──彼はまだこの問題の解決はできそうもなかった。
このような結論に達しながら、彼は、例のしごとに際して自分にだけはそのような病的な転倒はあり得ない、理性と意志が計画遂行の間中ぜったいに彼を見すてるはずがない、と断定した。なぜなら、そのたった一つの理由は、彼の計画が──《犯罪ではない》からである……彼が最後の決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ──ただつけ加えておきたいのは、このしごとの実際上の、純粋に物質的な困難というものが、彼の頭脳の中ではいつも第二義的な役割しか演じていなかったということである。《なあに計画を練るにあたっては、意志と理性さえしっかりしていればそれでいい。いずれ、問題のあらゆるデテールをつきつめて検討すべきときがきたら、そんな困難なんてすべて征服されてしまうだろうさ……》ところがしごとはいっこうにすすめられなかった。自分の最終決定が、彼にはいまだにほとんど信じられなかったのである。だから最後の時がうたれると、何もかもが思っていたこととはまったくちがって、不意をうたれたというか、ほとんど意外な感じさえした。
「彼」に焦点を合わせた特徴的なディエゲーシス。
第一段落でまず目につくのは「しかし」「ところが」といった逆接の多用。多過ぎる。だがよく読むとこれらの接続詞は段落の叙述の流れを本質的に切り替えるような機能を担っているわけではなさそうだ。思うにこれらの逆接の接続詞は、前文の平叙文と最初からセットのものとして扱われている。つまり「彼は……自分ですべてに確信がもてるようになるまで……しておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。(少なくとも……)」──これで最初から一つのセットのもののとして書かれたということ。同様に「……彼はもう自分で自分の中に意識的な反論を見出すことができなかった。ところがいよいよとなると、彼は……本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。」──これも最初から「ところが」による逆接込みで構想された文章であると看做せるということ。だからこそ、これらの「しかし」「ところが」は段落全体の流れを切り替えるような役割は持たず、部分否定の力しか発揮し得ていないわけだ。ディエゲーシスにおいて逆接の接続詞をこんな風に用いることができるとは、知っておいた方がいい。
第二段落では、疑問形の珍しい使用が見られる。「どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか?」──これのことだが、ここでの疑問形は応答を迫る力によってつづく叙述を導くような生まな効果は持っておらず、前文で「問題」といわれた内容を定式化するために用いられた疑問形だ。それは確かにラスコーリ二コフがかつて自問した問いではあるのだが、このディエゲーシスの流れの中では、ラスコーリニコフの肉声の問いではなくあたかもその「引用」のように中性化され提示されている。いや、ディエゲーシスだからこそ、このように疑問形を中性的に扱うこともできるというわけか。つづく文章でもラスコーリニコフが出した「おもしろい結論」を淡々と記述していく流れになっており、これも稀有。疑問形の使用はディエゲーシスの構造化の一技法だが、こんなやり方もあるということ。
「そこで一つの問題が生れる。」この一文にも注目しよう。「そこで」の使用はこの引用部に近接する箇所でも見られた(「そこで結局は斧にきめたわけだ」)が、それとは趣きが異なるようだ。「そこで結局は斧にきめたわけだ」の場合の「そこで」は「そういうわけで」とも言い換えられるもので、前文を露骨に受けた演算子に過ぎないが、「そこで一つの問題が生れる」の「そこで」は違う。これは論理的な思考過程を記述する演算子として機能しており、「その場合、……」と言い換えることも可能なもの。言わばここで語り手はかつてのラスコーリニコフの思考過程を演じてみせている。「そこで(その場合)一つの問題が生れる」というのは論文の中でどこまで論証が進んだかを一旦振り返るような表現に近い。これもディエゲーシスならではの文体。
第三段落では「このような結論に達しながら、……」という文を改行後すぐに持って来ることで、前の段落を受けて直に叙述を引き出して行くという意図を露骨に見せている。こういう繋ぎ方もあり。「ただつけ加えておきたいのは、……」の演算子も注目。ドストエフスキーがよく使う表現だが、「ついでに心にとめておきたいのは、……」といった表現と同様、その後につづく内容は「ついでに」語られるべきものではおよそなく、それまでの叙述を切り返して深化させていったものであることが多い。つまり、この表現の使用はドストエフスキーにとって余技ではない。
引用部全体について指摘すると、これは(『カラマゾフの兄弟』『悪霊』『白痴』などとは違って)『罪の罰』の中では珍しく語り手が前面に出ている形のディエゲーシスになっている。「……いっさいの分析がもう完成されていたようだ」といったラスコーリニコフについての概言や、「彼の見解によれば、……」といった引用符を示唆する言い回しなどがそのメルクマールだが、もっとも露骨なのは「彼が最後の決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ」の一文だ。ここでは語り手が自分の記述したことが物語の現時点より先行しすぎたことを反省したり、省略すべきことについては書かないことを宣言したりと、語りについての自己言及が行われているわけで、作中人物とは別の誰か(=語り手)の意志があからさまに介入していると看做せる。
●『死の家の記録』115-117頁
第一部第五章
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だからはじめて見たときに、監獄生活が、のちに知ったようなそのほんとうの姿で、わたしの目に映るはずがなかったのである。だからわたしは、どんなにむさぼるような強い注意をこめて目をこらしても、やっぱりつい目と鼻の先にある多くのことを見わけることができなかったと、言ったのである。当然のことだが、はじめにわたしを驚かしたのは、大きな際立った現象であった、しかしそれらも、あるいは、わたしにまちがって受取られて、一つの重苦しい、絶望的に悲しい印象を、わたしの心に残しただけかもしれない。そういうわたしの気持をますます助長したのは、わたしとAの出会いだった。Aもわたしよりすこしまえに監獄に着いた囚人で、わたしが入獄したてのころ、その言いようのない苦痛にみちた印象で、わたしは胸のつぶれる思いをさせられたものである。しかしわたしは、まだ監獄に着くまえから、こちらで彼と会うことは知っていた。彼はこのはじめの苦しい時期にわたしを毒し、わたしの魂の苦痛を強めたのである。わたしはこの男について語らないわけにはいかない。
これは人間がどこまで転落し、卑劣になれるか、苦労もなく後悔もなく、どこまで自分の内部のいっさいの道徳的感情を殺すことができるかという、もっともいまわしい例である。Aは貴族出の若い男で、まえにすこしふれておいたが、獄内の動静を逐一少佐に密告し、従卒のフェージカと親しくしていた例の囚人だった。その経歴を簡単に述べると、どの学校にもまともにしまいまでは行かず、その無頼ぶりに驚いた両親と喧嘩をして、モスクワをとび出し、ペテルブルグへ走り、そこで金ほしさに、ある卑劣きわまる密告を行う決意をした。つまり、もっとも卑劣で淫蕩な快楽を求めるはげしい欲望を、一刻も早くみたすために、十人の人命を売ろうとしたのである。ペテルブルグや、料理店や、メシチャンスカヤ街の魔窟の誘惑に負けて、すっかり心が腐れきっていた彼は、人間はばかではなかったが、無分別な愚劣きわまる冒険をおかした。彼はまもなく告発された。彼はその密告で罪のない人々まで巻きぞえをくわせたり、他の人々を欺いたりしたのである、そしてその罪で十年のシベリア流刑を宣告されて、この監獄へ送られてきたのだった。彼はまだひじょうに若く、彼の人生はようやくはじまったばかりであった。このようなおそろしい運命の変化は、彼に深い衝撃をあたえて、その本性を目ざめさせ、何らかの反抗なり、転向なりをさせそうなものであった。ところが彼はすこしのとまどいも、いささかの嫌悪をさえ感ずることなしに、新しい自分の運命を受入れて、その運命に対して道徳的に憤るでもなければ、何をおそれるでもなかった。彼はただ労役をさせられるのと、料理店やメシチャンスカヤ街の三つの魔窟と別れなければならないのを、苦痛に感じただけだった。彼にはむしろ、徒刑囚と名がつけば、もっともっと卑劣でけがらわしいことをしてもかまわないだろうくらいにしか、思われなかった。「徒刑囚は、要するに徒刑囚だ。徒刑囚になったからには、卑劣なことをしてもかまわないし、恥ずかしくもないわけだ」。文字どおり、これが彼の考えだった。わたしはこのけがらわしい人間を、異常現象として思い出すのである。わたしは何年かのあいだ、人殺しや、極道者や、札つきの凶悪犯人の中に暮してきたが、このAのような、これほど完全な没義道、これほど徹底的な堕落、そしてこれほど恥知らずな陋劣さには、いまだかつてお目にかかったことはないと、はっきり断言することができる。わたしたちの獄舎には、貴族出の父親殺しがいた。この男についてはまえにも述べた。ところが、この男でさえ、多くの特徴や事実から見て、Aよりははるかに心が美しく、人間味があることを、わたしは認めたのだった。わたしの獄中生活の全期間を通いて、わたしの目に映ったAは、歯と胃をもち、もっとも粗暴な、もっとも獣的な肉体的快楽に対するあくことを知らぬ渇望をもった、肉塊のようなものであった。ごく些細な、ほんの気まぐれな快楽をみたすために、証拠さえ残らなければ、彼は冷酷きわまりない方法で殺したり、傷つけたり、要するにどんなことでもできる男なのである。わたしはすこしも誇張していない。わたしはAの人間をよくよく見きわめたのである。これは人間の肉体的な一面が、内的にいかなる規準にも、いかなる法則にも抑えられない場合、どこまで堕落しうるものであるか、ということの一例である。そして、彼はいつもせせら笑っているような薄笑いを見ることが、わたしにはどれほどいまわしかったことか。それは化けものだった、道徳面のカジモドだった。そのうえ彼が、ぬけ目がなく小利口で、美男子で、すこしは教養もあり、それに才能もあったことを考えていただきたい。ああいやだ、社会にこんな人間がいるくらいなら、火事でもあったほうがまだましだ、疫病や飢餓のほうがまだいい! 監獄の中はすっかり腐敗しきっていたので、スパイや密告が横行し、囚人たちがそれをすこしも憤慨していなかったことは、もうまえに述べた。それどころか、彼らはみなAとはひじょうに親しくて、わたしたちに対するよりは、はるかに親切につきあっていた。飲んだくれの少佐に目をかけられていたことが、彼らの目から見れば、彼にある価値と重味をあたえていたのだった。……
オーソドックスなディエゲーシス。第一段落目は導入として、第二段落目のみ注目。
オーソドックスなディエゲーシスでは、「(その段落、ないしは数段落に渡って)言いたいことを端的に要約した文章」と、「それを自由に敷衍する展開部」という二種類の記述の組み合わせをどう形作るかでほぼスタイルが決まる。段落冒頭に「言いたいことの要約」を持って来ることもあれば(そして以後の段落の展開はその自由な=水平的+垂直的な敷衍となる)、段落最後ないしは次の段落の冒頭に「要約」を持って来て、展開部はそこへ至る茫洋とした帰納のように書かれていくケースもある。或いは、段落第一文には飛び道具的な工夫を凝らした言い回しを持って来て、「言いたいことの要約」は第二文に配置するというケースもある。
引用部では段落冒頭「これは人間がどこまで転落し、卑劣になれるか、苦労もなく後悔もなく、どこまで自分の内部のいっさいの道徳的感情を殺すことができるかという、もっともいまわしい例である。」という一文でその後の段落の展開をほぼ決定づけてしまう常套手段を用いている(ちなみに、引用部ではあまりにも段落が長いので途中でまたこの要約が再登場する──「このAのような、これほど完全な没義道、これほど徹底的な堕落、そしてこれほど恥知らずな陋劣さには、いまだかつてお目にかかったことはないと、はっきり断言することができる」)。そしてその後の記述は、Aがいかに「卑劣」で「道徳的感情を殺」しているかの具体的敷衍がつづく。それは時間的な順序に沿ってAの伝記的事実を並べて行く垂直的敷衍と、「このようなおそろしい運命の変化は、彼に深い衝撃をあたえて、その本性を目ざめさせ、何らかの反抗なり、転向なりをさせそうなものであった。ところが……。彼にはむしろ……。」というように常識的な仮定を置いた上でそれを否定してAの悪辣さを強調する水平的敷衍と、両方が併用されつつ展開する。
特に引用部の「要約」の水平的敷衍部分に注目すると、例えばAの没義道っぷりと対比させる意味で「貴族出の父親殺し」の話を出したり(「ところが、この男でさえ、多くの特徴や事実から見て、Aよりははるかに心が美しく、人間味がある……」)、比喩をたたみかけたり(「Aは、歯と胃をもち、もっとも粗暴な、もっとも獣的な肉体的快楽に対するあくことを知らぬ渇望をもった、肉塊のようなものであった」「それは化けものだった、道徳面のカジモドだった」)、彼はもしこれこれこういう状況ならばこうしただろう……という具合に想像的仮定の中でその悪辣さを具体化したり、自分の嫌悪の言葉に自分で興奮して感嘆符を用いたり(「ああいやだ、社会にこんな人間がいるくらいなら、火事でもあったほうがまだましだ、疫病や飢餓のほうがまだいい!」)、とさまざまなヴァリエーションが現われている。
●「柔和な女」329-331頁
第一章二
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彼女のことでわたしが突きとめた「詳しい内情」をつぎに簡単に説明しておく。父親も母親も、もうずっと以前に、いまから三年ほど前に死んでしまい、彼女は父親の姉妹のだらしのない女の家に引き取られた。だが、ただだらしがないと言っただけではまだ不十分である。ひとりの叔母は未亡人で、家族が多く、あまり年のちがわない小さな子供が六人もいたし、もうひとりは嫁に行ったことのない、いやったらしい老嬢だった。どちらも鼻持ちのならない女だった。彼女の父親は官吏であったが、せいぜい書記ぐらいの役どころで、身分はしがない一代貴族──要するに、なにからなにまでわたしにはうってつけというところだった。そこへいくとわたしなどはまるで掃きだめに鶴が舞いおりたようなものであった。なんと言っても光輝ある連隊の退職二等大尉で、身分は世襲貴族だし、押しも押されもしない一本立ちの人間、等々というわけである。質屋という商売にいたっては、ふたりのおばさんなどは尊敬の目で遠くからながめているだけというものなのだ。このふたりのおばさんの家で彼女は三年間まるで奴隷のようにこき使われていた。だがそれにもかかわらずどこかの試験を受け、そして──首尾よく合格した。日雇い女顔負けの情け容赦もない労働にもめげず、暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格したのである。──彼女なりに高いもの高尚なものをめざして突き進んだということは、なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか! ところでこのわたしはいったいなんのために結婚しようと思ったのだろう? しかしまあ、自分のことなんかどうだっていい、そんなことはあとの話だ……。第一、問題はそんなことではあるまい!──彼女は叔母さんの子供たちに読み書きを教えたり、肌着を縫ったりしていたが、しまいには、肌着を縫うどころか、あの胸の弱いからだで、床洗いまでしたものだった。ふたりの女はなにかと言えば彼女に手まで振り上げ、ひと切れのパンも惜しんでいやみを言う始末だった。そしてあげくの果てには、彼女を売ろうともくろむまでになったのである。ちぇっ! こんな汚らわしいことをいちいち詳しく並べ立てることはやめにしておく。あとになって彼女はなにもかも詳しくわたしに話してくれたのだった。こうしたことをまる一年間も隣の店の肥った主人がじっと見ていた。と言ってもこれはただの小売り商人ではなく、食料雑貨店を二軒も持っている相当の商人であった。その男はすでに女房をふたりもなぐり殺して、ちょうど三人目を探していたところだったので、「おとなしくて、貧乏育ちなのがうってつけだ、なにしろおれは子供たちのために女房をもらうんだからな」というわけで、彼女に目星をつけたのである。事実その男には母親のない子供が何人かいたのだった。そこで嫁にもらいたいということになり、ふたりのおばさんとのあいだに話し合いがはじまった。それがおまけに──年は五十歳ときているのである。彼女は思わずぞっとなってしまった。「声」紙に広告を出すために彼女がせっせとわたしの店に足を運ぶようになったのは、つまりそんなわけだったのである。……
ディエゲーシスに対話性を入れるためにはどうしたらいいかという課題の参考となる個所。
まず注目したいポイントは、語り手が自分の語ったことに反省的に自己言及して、細部を揺さぶって導き出すという技法。「……彼女は父親の姉妹のだらしのない女の家に引き取られた。だが、ただだらしがないと言っただけではまだ不十分である。」ここでは語り手が自分で自分の「言った」ことを打ち消す、ないしは不十分であるとみなして、さらなる細部を展開させる契機としていると見られる。
しかしこの技法の核心は、「客観的に言われたこと(第一次の記述)」「それに対するメタ的注釈(第二次の記述)」が対話性のあるディエゲーシスでは併存し得るということだろう。さっきの例で言えば、「だらしのない女」が客観的な第一次の記述で、それに対する「ただだらしがないと言っただけでは不十分である。ひとりは未亡人で……」と、あたかも語り手が視点を変えたかのような注釈が加えられることが、対話性を生むダイナミズムになっているということ。同様に、例えば「わたしなどはまるで掃きだめに鶴が舞いおりたようなものであった。なんと言っても光輝ある連隊の退職二等大尉で、……」の個所でも、「掃きだめに鶴」が客観的な第一次の記述で、それに対して「なんと言っても……」と第二次の注釈をしており、それが連続して登場しているところに対話性が生まれているわけだ。或いは「それがおまけに──年は五十歳ときているのである。」といった文章の「それがおまけに……」といった言い回しも、こうした第二次の注釈性を明示する。
繰り返そう。ディエゲーシスの対話性を生むのは、第一次の記述とほとんど同時に第二次の記述が出現するということで、もっと言えば第二次の記述をいかに工夫して組み込むかが対話的ディエゲーシスの最大の鍵である。「日雇い女顔負けの情け容赦もない労働にもめげず、暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格したのである。──彼女なりに高いもの高尚なものをめざして突き進んだということは、なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか!」──例えばこの個所では、「なんと言っても相当に意味のあることではあるまいか!」の文章の修辞疑問文的な言い回しによって対話性が生れるのではなく、この文章が「暇を盗んで勉強をつづけ見事に合格した」という直前の第一次的記述に対する(あたかも視点を変えたかのような)メタ的な注釈となっているという関係性があるからこそ、対話性が生れるのだ、と考えるべきなのである。或いは「ところでこのわたしはいったいなんのために結婚しようと思ったのだろう? しかしまあ、自分のことなんかどうだっていい、そんなことはあとの話だ……。第一、問題はそんなことではあるまい!」──このような珍しい表現も、三つの文の中での第一次-第二次-第三次の関係にもとづく後者の文による前者への常の切り返しによって対話性が生まれているディエゲーシスだと分析できる。そして場合によっては、「ちぇっ! こんな汚らわしいことをいちいち詳しく並べ立てることはやめにしておく。」といった文章のように、それまでの段落の記述すべてに対する第二次的なメタ的注釈が飛び出す事もある点を指摘しておこう。
●『罪と罰』下141-144頁
第四部第六章
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「へ、へ! 頭が鋭いですからな、炯眼というやつですな。なんでも気がつく! ほんとの軽妙な知恵ってやつですな! そしてもっとも滑稽な弦をちょいとつまむ……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリだそうですな、この天分が最高に恵まれていたのは?」
「そう、ゴーゴリです」
「そうです、ゴーゴリですよ……じゃ、いずれまた」
「じゃまた……」
ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった。彼はすっかり頭がもつれ、混乱していたので、家へかえると、すぐにソファの上に身を投げて、息を休め、すこしでも考えをまとめようとつとめながら、そのまま十五分ほどじっとしていた。ニコライのことは考える気になれなかった。彼は敗北を感じていた。ニコライの自白の中には、説明のできないおどろくべき何ものか、いまの彼にはどうしても理解できない何ものかがあった。しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった。この事実の結果は彼にはすぐにわかった。嘘がばれないはずがない、そうなればまた彼の追求がはじまるにちがいない。しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、どうしても何か保身の策をしなければならぬ。どうせ危険はさけられぬからだ。
しかし、それはどの程度だろう? 事態ははっきりしだした。先ほどのポルフィーリイとの一幕を、ざっと、荒筋だけ思いかえしてみただけで、彼はおそろしさのあまり改めてぞっとしないではいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目的の全貌は知らなかったし、先ほどの彼の計算をすっかり見きわめることはできなかった。しかし作戦の一部は明らかにされた。そしてポルフィーリイの作戦におけるこの《詰め》が彼にとってどれほどおそろしいものであったかは、もちろん、誰よりも彼がいちばんよく理解できた。もうちょっとで、彼はもう完全に、実際に、本音をはいていたかもしれぬ。彼の性格の病的な弱点を知っていて、しかも一目で彼の人間を見ぬき、確実にとらえて、ポルフィーリイはあまり意気ごみすぎたきらいはあるが、しかしほぼ正確に行動した。ラスコーリニコフは先ほど自分の身をかなり危うくしたことは、たしかだが、それでもまだ証拠をにぎられるまでにはいかなかった。いずれもまだ相対的なものにすぎない。しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか? 何か見おとしてはいないか? 今日のポルフィーリイはいったいどのような結果に導いていこうとしたのだろう? 実際に彼には何か準備があったのか? とすれば、それは何か? ほんとに彼は何かを待っていたのだろうか、それともただそう思われただけか? ニコライによって思いがけぬ幕切れが来なかったら、今日はいったいどんな別れ方をしていたろう?
ポルフィーリイは手のうちをほとんどすべて見せてしまった。もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた、そして実際にもっと何かにぎっていたら、それも見せてくれたにちがいない(ラスコーリニコフはそんな気がしてならなかった)。あの《思いがけぬ贈りもの》とは何だろう? ただからかっただけだろうか? それとも何か意味があったのか? あのほのめかしのかげには、何か証拠のようなもの、有力なきめ手のようなものがかくされていたのではあるまいか? 昨日の男か? あいつはどこへ消えてしまったのだろう? 今日はどこにいたのだろう? たしかに、ポルフィーリイが何か有力な手がかりをにぎっているとすれば、それはきっと、昨日のあの男が一枚かんでいるにちがいない……
彼はうなだれ、膝に肘をつき、両手で顔をおおったまま、じっとソファに坐っていた。神経質そうな小刻みなふるえがまだ彼の全身につづいていた。とうとう、彼は立ちあがると、帽子をつかみ、ちょっと考えてから、戸口のほうへ歩きだした。
彼はどういうわけか、少なくとも今日だけはまず危険がないと考えてよさそうだ、という予感がした。不意に彼は心の中にほとんど喜びといえるような感情をおぼえた。彼は早くカテリーナ・イワーノヴナのところへ行きたくなった。葬式には、むろん、もうおくれたが、法事には間に合うだろう。そしてそこで、もうじき、ソーニャに会える。
彼は立ちどまって、ちょっと考えた。病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた。
「今日だ! 今日だ!」と彼はひそかにくりかえした。「そうだ、今日こそ! ぜったいに……」
まずは最初の方、現前的な会話から一切の過程を圧縮して「ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった」で場面を飛躍させるのは巧い。そしてこのスピードに乗って、以降は非現前とも現前ともつかない不思議に迫力のある文体へと移り変わって行く。
これは一見ディエゲーシスのように見えるが、「彼」という三人称を用いつつもほとんどラスコーリニコフの内語を地の文で再構成しているような文体となっている。
なぜそのように言えるかというと、「しかし、それはどの程度だろう?」「しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか?」──これらの文に明らかなように、上記の引用部中頻出する逆接の接続詞「しかし」は、大体「しかし……ではなかろうか」という形で前文までの内容を疑念にさらすないしは詳細化を求める疑問形とセットになった「しかし」になっているからだ。「しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった」は要するに「しかしニコライの自白はまちがいのない事実だったではないか?」という疑問形にして読んでも同じことだし、或いは「しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、……」は要するに「しかし少なくともそれまでは彼は自由ではないか。ならば……」という疑問形で読んでも同じことなわけだ。このように疑問形とセットになって前文の内容を問い直すタイプの接続詞「しかし」の頻出は、当然、この地の文がラスコーリニコフの思考過程に擬態しているからこその現象だろう(ただしそれ以外の用法の接続詞「しかし」もあるのでそこは注意。「もちろん、彼は……することはできなかった。しかし……は明らかにされた」「もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた、……」──これらの文における「しかし」は直前の平叙文とセットになって、段落全体の流れを切り替えるというより部分否定の役割を果たす逆接である。「もちろん……(ではあるが)しかし……」というパターンはほとんどこの形の逆接。いずれにせよ、これも具体的な内省を記述していくためには必須のスタイルだと考えてよいだろう)。言わば、思考過程擬態のディエゲーシス? まあ、地の文における疑問詞頻出の「体験話法」的な言語使用とも言ってもよいわけだが。
内容に目を向けるなら、ここで展開されている思考がきわめて具体的であることが重要だ。しかも、描写休止法のようにたっぷりと(無時間的に?)息長く論理的に展開していく。先程のポルフィーリの謎めいた態度に侵襲されて、その全貌が明らかになっていない小説のこの現時点でラスコーリニコフが抱かざるをえない疑問・解釈・危険性の計算・推理・今後の予測……すべてをあますことなく含んでいる。つまり彼は手に負えない現実に強制されるように思考する。それを素早く高密度で写し取るために、語り手による思考過程擬態のディエゲーシスなんてものが必要とされたのだろうか。
ところで言うまでもなく、このディエゲーシスは「彼はうなだれ、膝に肘をつき、……」の段落で終わっている。だが、語り手の位相はそれほど変化していないと考えるべきだろう。思考過程擬態のディエゲーシスはあくまでラスコーリニコフの内的独白として虚構されているのではなく、彼とは別の語り手が駆使するエクリチュールである。「彼はうなだれ、膝に肘をつき、……」以降の段落でも、ラスコーリニコフとは別でありながら、しかし彼の内面や無意識まで見通すことのできる(例えば「病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた」ことは彼の能動的自意識に映った自分の姿ではあり得ず、彼の自覚しない彼の姿を観察する視点からでしか描写できない。ラスコーリニコフの中に沸き起こる「不意」の感情に照準を合わせていることについても同様のことが言える)匿名の尾行者のような語り手が報告しているというエクリチュールであって、その叙法に本質的な変化はない。
●『罪と罰』下334-336頁
第六部第三章
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彼はスヴィドリガイロフのところへ急いでいた。この男から何を期待できるのか──彼は自分でもわからなかった。しかしこの男には彼を支配する何ものかがひそんでいた。彼は一度それを意識してからは、もう平静でいることができなかった、そしていまそれを解決するときが来たのである。
途々一つの疑問が特に彼を苦しめた。スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?
彼が判断し得たかぎりでは、しかも誓ってもいいとさえ思ったのは──いや、行っていない、ということだった。彼は何度も何度も考えてみた、さっきのポルフィーリイの態度をすっかり思い返して、いろいろと思い合わせてみた。いや、行っていない、たしかに行っていない!
だが、まだ行っていないとすれば、彼はこれからポルフィーリイのところへ行くだろうか、行かないだろうか?
いまのところ、彼は行かないだろうという気がしていた。なぜか? その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない。そうしたすべてのことに苦しめられてはいたが、同時に彼はなんとなくそんなことにかまっていられない気持だった。奇妙な話で、おそらく誰も信じられないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった。彼を苦しめていたのは、それとは別な、はるかに重大な、どえらいもの──彼自身のことで、他の誰のことでもないが、何か別なもの、何か重大なものだった。それに、彼の理性が今朝は最近の数日に比べてよくはたらいていたとはいえ、彼は限りない精神の疲労を感じていた。
それに、ああいうことが起ってしまったいまとなって、こんな新しいわずかばかりの障害を克服するために、苦労する必要があったろうか? 例えば、スヴィドリガイロフにポルフィーリイを訪ねさせないために、わざわざ策を弄する必要があったろうか? たかがスヴィドリガイロフくらいのために、調べたり、探り出したりして、時間をつぶす必要があったろうか?
いやいや、そんなことには、彼はもうあきあきしてしまっていた!
とはいえ、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。あの男から何か新しい指示か、出口かを期待していたのではないか? 一本の藁にでもすがれるものだ! 運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ。あるいは、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、他の誰かだったが、スヴィドリガイロフがたまたまそこにいただけかもしれぬ。ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請いにか? それに、彼にはソーニャが恐かった。ソーニャ自身が彼にはゆるがぬ判決であり、変えることのできない決定であった。そこには──彼女の道か、彼の道しかなかった。特にいまは、彼はソーニャに会える状態ではなかった。いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。
ラスコーリニコフの思考をずっと追っていくという珍しい段落展開。一応ラスコーリ二コフがスヴィドリガイロフのところへ歩いていく間に考えたこと、という大枠はあるが。
段落内部では《……》を一度も使わず、普通の地の文と体験話法的な彼の思考の再現という二種を組み合わせている。「途々一つの疑問が彼を苦しめた」「彼は何度も何度も考えてみた」というのが普通の地の文で、その後にすぐ「スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?」「いや、行っていない、たしかに行っていない!」と明らかにラスコーリニコフの直接的な思考でしかあり得ない地の文がつづいたりする。そして、これらの思考はすべて小説内の現時点に根差した、きわめて具体的なものかつ一時的なものである。「いまのところ、……」「いまの彼は……」といった表現はそうでなければ出て来ないものだ。
改行の使い方も面白い。疑問を提示する段落と、それについてのリアルタイムな思索(判断・回答)というのが交互に来るようになっている。つまり段落と段落の間で対話(自問自答)を行っているような趣き。しかも、疑問の方はラスコーリニコフの肉声に近い形で提示され(「なぜか?」)、それについての思索の方はディエゲーシス的に記述される(「その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない」)のも、面白い。あくまでもラスコーリニコフの内語ではなく地の文において展開される自問自答なので、まるでラスコーリニコフの代わりに語り手が応えてやっているかのような趣きもある(「奇妙な話で、おそらく誰も信じないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった」)。おそらく誰も信じないかもしれない、とか、ラスコーリニコフが「……のようなことはしなかった」にちがいない、とか一々断わっているのは誰だ? 語り手以外ではあり得ない。いや、引用部最後の段落に至っては、自問自答の「自問」でさえラスコーリニコフに代わって語り手が担当しているかのようではないか……(「運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ」「ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請いにか?」)。
要するにこういうことだ。ここではまさに現時点のラスコーリニコフにとって非常に切迫した問題が自問自答と形で展開されているのだが、それをずっと地の文が引き受けているためにあたかも語り手が彼の自問自答を代行しているかのような印象を与えるわけだ。「いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。」──まるで語り手がラスコーリニコフに代わって疑問を提起して、ラスコーリニコフに代わってそれに答えているかのようではないか! ディエゲーシスの中でこういうことが起っているというのが珍しい。ドストエフスキーの文体に固有の現象だろう。
●『罪と罰』下337-338頁
第六部第三章
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この数日の間ラスコーリニコフの頭にはたえずもう一つの考えがちらついて、彼をおそろしく不安にしていた。そして彼はその考えを追い払おうと空しい努力をつづけていた。それほどその考えは彼にとって重苦しいものだった! 彼はときどき、スヴィドリガイロフはたえず彼のまわりをうろついていたし、いまでもうろついている、スヴィドリガイロフは彼の秘密を嗅ぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して何かたくらんでいる、ということを考えた。で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいると思って、まずまちがいはない。そこで、もしいま、彼の秘密をにぎり、それによって彼を支配する力を手中におさめ、それをドゥーニャに対する武器に使用しようなどという考えを起されたら?
この考えはときどき、夢の中でさえ、彼を苦しめた、しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。これを考えただけで、彼は暗い狂おしいまでの怒りにひきこまれた。第一に、そうなればもうすべてが変ってしまう、彼自身の立場さえ変ってくる。とすれば、いますぐドゥーネチカに秘密を打ち明けねばならぬ。もしかしたら、ドゥーネチカに不用意な一歩を踏み出させないために、自首するようなことになるかもしれない。手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか? (まさかルージンが?)もっとも、ラズミーヒンが守っていてはくれるが、あの男は何も知らない。ラズミーヒンにも打ち明けるべきだろうか? ラスコーリニコフはこう思うと、嫌な気がした。
いずれにしても、できるだけ早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ、彼は腹の中でこう結論を下した。ありがたいことに、彼との対決ではこまごましたことは必要ではなかった。それよりも問題の本質だ。だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、──そのときは……
ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう? 彼はN通りに立っていた。そこはいま通ってきたセンナヤ広場から三、四十歩のところだった。左手の建物の二階は全部居酒屋になてちた。窓はすっかり開け放されていた。窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。広間には歌声が流れ、クラリネットやヴァイオリンが鳴り、トルコ太鼓の音が聞えていた。女の甲高い声も聞えた。彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際に、窓によりかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。彼ははっとして、思わず鳥肌立つような恐怖をおぼえた。スヴィドリガイロフが黙ってじいッとこちらをうかがっていたのである。そしてすぐにまた、ラスコーリニコフはもう一度はっとした。スヴィドリガイロフは気付かれないうちにそっと逃げようとしたらしく、そろそろと席を立つような気配を見せたのだ。ラスコーリニコフはとっさに、こちらも気がつかないような振りをして、ぼんやり脇のほうを見ながら、目の隅でじっと相手の観察をつづけた。胸があやしく騒いだ。そうだったのか。スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ。……
ドストエフスキーに特異な地の文の文体の一例。
まずは第一段落と第二段落に注目。これらは主人公のひりひりするほど切迫した思惟を生々しく再現している段落である。それでいて括復法的なトーンを帯びていること、しかしながら後に現前的記述に繋がっていかなくてはならないので、技巧的に「今」をそれとなく暗示していること、これが注目すべきポイントだ。
基本的には地の文がラスコーリニコフの内語(における自問自答)を代行しているかのように思える文体である。「で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいると思って、まずまちがいはない。」ほとんどラスコーリニコフの内語そのものではないかという言葉さえ地の文に織り込まれている。「手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか?」「だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、──そのときは……」ところが「この数日の間……」「彼はときどき……」「この考えはときどき……」「ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは……」という記述からも分かるようにここでは括復法的に時間が抽象化され束ねられた上でラスコーリニコフの思惟を展開しているのだ。だからこそ、ほとんどラスコーリニコフの内語でしかありえない言葉でさえ《……》で括らず地の文に流し込んでいるのだろう。たしかに括復法という抽象化がなされている以上、ここで《……》を使うのはふさわしくないように思われる。
しかしそれでいて、ここではラスコーリニコフがスヴィドリガイロフのところへ向かっている「今」も文体的に暗示されているのだ。「しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。」──の箇所のことだ。こうやって時々小説内時間の「今」を喚起してやらないと、第四段落で括復法的記述がシームレスに現前的記述へと繋がるというアクロバットな展開は不可能になる。「ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう?」──この一ヵ月のことを語っていたはずの地の文は、「彼は通りの真ん中に立ちどまって、……」でいきなり現前的場面を現出させる! こういうことが可能なのも、ドストエフスキーの文体が括復法一辺倒、現前性一辺倒におちいらない柔軟性を帯びているからだ。
以上、重要なことを確認しておくと、あくまでラスコーリニコフの思惟を生々しく再現しようとしているにもかかわらず、《……》を使うべきではないと感じさせる場合がある。引用部がその一例で、括復法的ディエゲーシスの中に生々しい自問自答を織り込むということをやる場合には、地の文ですべてをまかなうことが推奨されるわけだ。
で、余談。「彼はN通りに立っていた。……」から周囲の風景の描写が始まるが、「窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。」の一文に注目。これは単なる知覚的描写ではない。知覚したのは人影だけだが、その情報から判断して通常なら・いつもならこうなっているはずだという習慣的記述として「居酒屋は満員」の描写が導かれているからだ。思うに、或る対象や或る空間、或る場所を描写する際に、(単起的なその瞬間の知覚をもとに描くよりも)習慣的・括復法的に描く方が実は観察力を必要とするのではないか? ここではたまたま習慣的描写がなされているのではなく、見るべきものをしっかりと見た場合、それを記述するには、このように瞬間的な知覚的描写を越えて時間を束ね抽象化せざるを得ないのではないか? 『罪と罰』上9-11頁にも似たような「描写」があったことを思い出そう。
●『白痴』上522-526頁
第二篇第五章
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と、女主人がみずから出てきて、ナスターシャ・フィリポヴナはもう朝のうちにパーヴロフスクのダリヤ・アレクセーエヴナのところへお出かけになりましたが、『ことによると四、五日あちらに逗留することになるかもしれません』と答えた。フィリーソワは小柄な、眼の鋭い、顔のとがった、四十歳くらいの婦人で、ずるそうな眼つきをしてじっと相手を見つめた。お名前はという彼女の質問にたいして──彼女はこの質問になんとなく秘密めいたニュアンスを匂わせたので──公爵ははじめのうち返事をしないつもりだった。が、すぐさま思いなおして、自分の名前をちゃんとナスターシャ・フィリポヴナに伝えてくれと、しつこいほど頼みこんだ。フィリーソワはこのしつこい頼みを注意ぶかく、いやに秘密めいた調子で聞いていたが、それはどうやら、『ご心配にはおよびません、ちゃんと承知しております』ということを表わそうとするつもりらしかった。公爵の名前が、明らかに強い感銘を与えたらしかった。公爵はぼんやり相手の顔をながめてから、くるりと背をむけて、ホテルへ引きかえした。しかし、彼が出てきたときの様子は、フィリーソワ家の呼鈴を鳴らしたときとはまったくちがっていた。彼の心の中にはまたもや、一瞬のうちに、並々ならぬ変化がおこったのであった。彼はまたもや蒼ざめて弱々しく、思い悩んで興奮した人のように歩いていった。その膝はがくがくと震え、はっきりしないたよりなげな微笑が、紫色を帯びた唇にただよっていた。彼の《思いがけない考え》は急に事実となって確かめられたのである。そして──彼はまたもや自分の悪魔を信じはじめたのであった。
しかし、それははたして事実となったのであろうか? はたしてその正しさが確かめられたのであろうか? それにしても、この震えは、この冷たい汗は、この心の闇と悪寒は、どうしたというのだ? いまあの眼を見たからだろうか? だが、夏の園からまっすぐやってきたのは、ただあの眼を見ようとしてではなかったか? 彼の《思いがけない考え》というのも、じつはこのことだったのではないか。彼はここで、この家で、まちがいなくあの眼差しが見られるということを決定的に信じたいがために、あの《さきほどの眼》を見たくてたまらなかったのではなかろうか。それが彼の発作的な欲求だったのだ。では、いまさらその眼をほんとうに見たからといって、なぜそんなにびっくりして、うちひしがれているのだろうか? まるで思いもよらなかったことのようではないか! ああ、これこそあれとそっくり同じ眼だ。(これがあれとそっくり同じだったことは、もういまとなってはすこしも疑う余地がない!)けさ彼がニコラエフスキー停車場で汽車をおりたとき、群集のなかでひらめいた眼にちがいない。それからさきほどロゴージンの家で椅子にすわろうとしたとき、肩ごしに視線をとらえたあの眼差しである。(まったくあれとそっくり同じものだ!)あのときロゴージンはそれを否定して、ゆがんだ氷のような薄笑いを浮かべながら、『それはいったい誰の眼だったんだね』とたずねたものである。いや、公爵はついさきほどまでも、アグラーヤのところへ行くつもりで汽車に乗ったときツァールスコエ・セロー鉄道の停車場であの眼を、その日のうちでもう三度目に見つけたとき、彼はロゴージンのそばへ行って、彼に面とむかって『この眼はだれの眼かね』と無性に言ってやりたかった。しかし、彼はそのまま停車場から逃げ出して、例の刃物屋の店先にしばらく立ちどまって、鹿の角の柄のついたナイフを見て、六十コペイカと値ぶみをしたときにはじめてわれに返った。この奇妙な恐るべき悪魔はついにしっかりと彼に取りついて、もはや離れようとはしなかった。この悪魔は彼が夏の園で菩提樹の木陰にすわって、忘我の境をさまよっていたとき、彼の耳にこうささやいたのであった──もしロゴージンがこうして彼のあとをつけていく必要があるとすれば、彼がパーヴロフスクへ行かないと知ったなら(これはロゴージンにとって、運命を決するほどのニュースにちがいない)、ロゴージンはかならずやあすこへ、ペテルブルグ区のあの家へ駆けつけて、ついけさほど『もうあの女には会わない』とか、『そんなことのためにペテルブルグへやってきたんじゃない』とりっぱな口をきいた公爵を見はっているにちがいない。いや、現に、公爵は発作的にあの家をさして駆けだしていったのだ。そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか? 彼はただ陰気ではあるが、十分その気持を察することのできる、ひとりの不仕合せな人間を見たにすぎないのだ。しかも、この不仕合せな人間は、もはや逃げ隠れようとはしなかったではないか。いや、ロゴージンは、けさほどはなぜか強情をはって嘘をついたが、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場では、ほとんど姿を隠そうともせずに突っ立っていたのだ。むしろどちらかといえば、公爵のほうが身を隠したので、ロゴージンのほうではなかった。だが、今度のあの家のそばでは、五十歩ばかり斜めに隔てられた反対側の歩道に、腕組みしながら待っていたのであった。彼はもうすっかり全身をあらわして、どうやらわざと眼にとまるようにしていたが、その様子は告発者か裁判官のようで、とても……のようではなかった。では、いったいなんのようでなかったのか?
いや、なぜ公爵は今度も自分のほうから彼のそばへ近寄らずに、二人の眼がぴったりと合ったにもかかわらず、それに気付かぬふりをして身をかわしてしまったのか?(たしかに、二人の目はぴたりと合ったのだ! たがいに顔を見合わせたのだ)いや、そればかりか、公爵はついさきほど彼の手を取って、いっしょにそこへ行こうと思ったのではなかったか! あすはロゴージンのところへ行って、あの女に会ってきたと言うつもりだったのではないか。またそこへ行く途中、急に歓喜が胸にあふれて、彼はみずから悪魔をふるいおとしたのではなかったか? それとも、ロゴージンのなかに、つまり、きょう一日のこの男の行動のなかに、その言葉、動作、行為、視線などの総和のなかに、何か公爵の恐ろしい予感や悪魔のささやきを肯定するようなものがあったのではなかろうか? それは、なんとなく自然に感じられるばかりで、それを分析したり説明したりすることも、十分な理由を挙げてその正しさを証明することもできないものだが、しかも、このような困難と不可能があるにもかかわらず、そのあるものは非常にはっきりした打ちけすことのできない印象を与えて、それがいつしかしっかりした確信に変っていくのであった。
内容としては、主人公の緊迫した思考を追っているという部分だが、一部を抜き出してみても文体的に特異だということが分かる。例えば「彼の《思いがけない考え》というのも、じつはこのことだったのではないか。彼はここで、この家で、まちがいなくあの眼差しが見られるということを決定的に信じたいがために、あの《さきほどの眼》を見たくてたまらなかったのではなかろうか。それが彼の発作的な欲求だったのだ。では、いまさらその眼をほんとうに見たからといって、なぜそんなにびっくりして、うちひしがれているのだろうか? まるで思いもよらなかったことのようではないか!」、例えば「いや、現に、公爵は発作的にあの家をさして駆けだしていったのだ。そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか? 彼はただ陰気ではあるが、十分その気持を察することのできる、ひとりの不仕合せな人間を見たにすぎないのだ。しかも、この不仕合せな人間は、もはや逃げ隠れようとはしなかったではないか。」──一体これは何か。ここで疑問形を駆使してあたかも誰かを問い質しているかのように興奮して語っているのは誰か。やたらに「彼」「公爵」という三人称を駆使して非難のトーンさえこめてあらゆる問題を審らかにしようとしているのは誰か。語り手以外ではあり得ない。つまり、「いや、なぜ公爵は今度も自分のほうから彼のそばへ近寄らずに、二人の眼がぴったりと合ったにもかかわらず、それに気付かぬふりをして身をかわしてしまったのか?」──こうした問い掛けがあたかもムイシュキン公爵の自意識の外部からなされていると読むしかないということだ。
通常の小説で主人公とは区別される語り手が主人公の心理を追うとしたら、《……》といった内語のメルクマールを使ったり、もっと穏当に(引用部でも使われているが)「彼はそのまま停車場から逃げ出して、例の刃物屋の店先にしばらく立ちどまって、鹿の角の柄のついたナイフを見て、六十コペイカと値ぶみをしたときにはじめてわれに返った。この奇妙な恐るべき悪魔はついにしっかりと彼に取りついて、もはや離れようとはしなかった」といった平叙文の描写を冷静につづけていくのが普通のはずだ。だがドストエフスキーの語り手はそうした平叙文の描写をつづけるべきところで疑問形で堂々と挑発したり非難したりする(「そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか?」「それとも、ロゴージンのなかに、つまり、きょう一日のこの男の行動のなかに、その言葉、動作、行為、視線などの総和のなかに、何か公爵の恐ろしい予感や悪魔のささやきを肯定するようなものがあったのではなかろうか?」)、或いは感嘆符を連発する(「これがあれとそっくり同じだったことは、もういまとなってはすこしも疑う余地がない!」「たしかに、二人の目はぴたりと合ったのだ! たがいに顔を見合わせたのだ」)。かりそめに、ここで語り手はムイシュキン公爵が自分では能動的に展開できずあたかも外部から襲い掛かる(「悪魔のささやき」!)ようにしか感じられない苦しい思惟を地の文で展開しているのだと言おうと思えば言えるが、そんな分析ではおさまらないほどここでの語り手の興奮と饒舌は凄まじい。小説にはこんなことも可能なのか。
●『ふたつの旗』上10-11
第一章
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昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた。今日大いに用いられる手法はほかにも数多くあるけれども、昔のやり方が価値を失ったわけではない。幼いミシェル・クローズ[* マッターホルンの初登攀を試みて生命を落としたサヴォワ地方の山岳ガイド、クローズは、この一家の遠い親戚にあたっていた。一方ひたすら部屋にとじこもっていたとはいえ、この登山家の壮挙に感嘆しきっていた公証人クローズは、自分の息子に、勇敢な従兄弟の名前をつけたのだった]は、今世紀のはじめごろ、ローヌ河から数キロはなれたドーフィネ地方の小さな町に生まれた。父親がその町の公証人の職を買いとったばかりだった。母、祖母、女中たち、二人の妹、それにラテン語の教師でもある風変わりで陽気な大柄な司祭にとりまかれて、幼いころの彼はごく普通の坊やだった。おそらく他の多くの子供たちにくらべてとりたててかわっているわけでもなければ、より平凡なわけでもなかった。いずれにせよ、そういうとるにたらぬ問題をここで詮索するのはおよそむだなことだ。中央山岳地帯の大きなミッション・スクール、サン=ジェリー高等中学校に入ったのは十三歳のときだった。ミシェル・クローズは入学するとすぐ、田舎ですごした自分の幼年時代を否認した。といって、より興味深い少年になったわけでもなかった。しかし、くりかえしになるけれども、われわれにとって重要なのはそんなことではない。
どこか見所のある人間は、ふつう第二の誕生を経験するものだ。ときにはそれが最初の誕生と正確におなじ日付をもつこともある。若いミシェル・クローズの場合、第二の誕生はかなり長い時間をかけた難産だった。サン=シェリー高等中学校が、急激な成熟や晴天の霹靂にも似た精神的啓示をあたえるような学校ではなかったことは、あらかじめことわっておいてもいい。この学校での生活は完全にバルザック風のままであり、『ルイ・ランベール』に描かれたのとまったくおなじだった。五時起床のあとにミサ、勉強は日に十時間、休み時間には竹馬に乗ってボール蹴りをするのが義務であり、一年のうち六か月は木靴をはき、霜焼けになやまされ、木曜日の午後はきまって二十キロ歩かされた。学生主任や生徒監による身体検査や査問はのべつまくなしだった。ミシェル・クローズの変貌がはじまったのはおそらく第二年級のときである。優秀な寄稿者をそろえて、風刺に富む週刊誌「僧院の微笑」を創刊したのがきっかけだった。しかしそれも、第五号を出して飛躍的発展をとげつつあったとき、修道会の横槍で廃刊に追いこまれた。おなじころミシェル・クローズは、中世風のドラマや十六世紀イタリア風の小説を書くのに熱中した。ごてごてした挿話からなるそれらの作品を、彼は聴衆のまえで朗読した。聴衆の生き生きした反応は自尊心をくすぐり、いっそう彼を大胆にした。われわれの宣伝家は、もっとも高く評価している仲間たちをこれらの朗読会から入念に排除した。そのため、逆説的に彼らの嫉妬を買う羽目になった。それでも全然へこたれなかった。
密度とスピード感のあるディエゲーシス。まずは引用部中における(とくに過去形の)否定辞の役割に注目したい。「……価値を失ったわけではない」「……より平凡なわけでもなかった」「……になったわけでもなかった」「……重要なのはそんなことではない」──ディエゲーシスの中で文章の文末に否定辞が来る断言の短文が挟まることで文体的に引き締まる。敷衍していても説明の羅列のような印象にならない。
段落冒頭が純粋に一般的な断言から始まっているのも面白い。「昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた」「どこか見所のある人間は、ふつう第二の誕生を経験するものだ」──引用部ではミシェル・クローズの生い立ちを語って行くという方針ゆえに時間順に出来事を伝える文章が並んで行くのは避けられないが、こうした無時間的な一般的断言が挟まることによって、改行も相俟ってきれいな起伏が生れる。付け加えていえば、この引用部は小説全体のはじまりであるのだが、それが「昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた。今日大いに用いられる手法はほかにも数多くあるけれども、昔のやり方が価値を失ったわけではない。」──と単刀直入ではなく迂言的にワンクッション置いているのは心憎い。これで小説世界に入り易くなっている。
第二段落目も基本的に年表的な時間順に沿っているのだが、ミシェル・クローズの第二の誕生というレトリックを持って来ることで段落の構造に一捻りいれて、「サン=シェリー高等中学校が、急激な成熟や晴天の霹靂にも似た精神的啓示をあたえるような学校ではなかったことは、あらかじめことわっておいてもいい」という文言を入れることで、まずは括復法的に中学校における生活を記述している。いわば単に単線的に敷衍するのではなくて時間幅に水平方向のふくらみを持たせて敷衍している。それから「ミシェル・クローズの変貌がはじまったのはおそらく第二年級のときである」からは時間順にミシェル・クローズの上に起こったできごとを記述していく、すなわち垂直的かつ単線的な敷衍へと切り替わる。ディエゲーシスの中で時間をどう扱うかにかんする様々な工夫がこの引用部には見られる。
余談。ここでは主に語り手の声が主になっているのだが、用いられている主語が「われわれ」。「くりかえしになるけれども、われわれにとって重要なのはそんなことではない」。論文みたいだ。
もう一つ余談。主人公の名前の由来について変な注釈がついている。ほとんどどうでもいい無意味なお喋りにすぎないが、こういうくだらない駄弁が奇妙なリアリティを醸し出す効果は否定できない。
●『ふたつの旗』上11-12頁
第一章
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この脱皮と生まれかわりの細部は、われわれにとってさほど重要ではない。一九二〇年の復活祭の休暇も終わり、十七歳になったばかりのミシェル・クローズが修辞学級の生徒として学校にもどったとき、彼は自分の手で自分の臍の緒を断ち切りつつあったと考えてもさほど見当ちがいではあるまい。上級学年ではこれまでになく指導がきびしくなったが、バカロレアが近いせいもあって、学則のなかのさほど重要でもない条項への違反はいくぶん大目にみられた。たとえば休み時間のボール蹴りと竹馬は強制されなくなったし、ひとりで、あるいは何人か集まって猛勉強してもよかった。ほどなく、物理のノートや歴史の要約から食事中も目をはなさず、それらに目を通しながら眠りこむようなことになるはずだった。実をいえばそれも、そのころはまだほんの口実にすぎなかった。髪はブロンド、肌は桜色、そしてグレーのノーフォークジャケットに身を包んだ愛想のいい「第二年級」の生徒が、褐色の口髭、広い胸、自動車運転手の手袋にもかかわらずヴィオラのように哀愁にみちた上級生のだれかといっしょに、菜園の生け垣沿いに決然として中庭の奥のほうへ遠ざかるとすれば、それが三角法を猛勉するためでないことを知らぬものはなかった。エーテルのように澄みきっているにせよ、あいまいであるにせよ、あるいははっきりと不純であるにせよ、特殊な友情は──この地方では「紐を作る」という言い方をしていたが──寄宿生活のつづく九か月半のあいだ、はじめから終わりまで、サン=シェリーの大問題のひとつだった。たえず動員され、おそろしいほどいたるところに張りめぐらされた監視網をかいくぐって、上級と中級のあいだでいつでも恋文や告白の手紙がとりかわされ、誘惑者と胸をときめかせている犠牲者はながながと視線の対話をかわした。牧歌的なランデヴーもあれば暗鬱な裏切りもあった。もっとも、監視機構は脅威にみちていたが、奇妙なことに厳格さは時によってまちまちだった。
まこと、愛は遍在すると信じなければならない。重労働ときびしい時間割にもかかわらず、壁のなかにとじこめられた二百人の思春期の少年たちの稚い精気がたぎっているこの僧院さえ愛にみちていたからだ。「クロクロ」と呼ばれる若い娘──人の噂では、許婚が一九一八年十一月十日に亡くなったということで、いつも喪服姿だったが、その若い娘が毎朝礼拝堂の側廊から忍びこむようにそっと入り、聖体拝受のテーブルに歩みよるのだった。しかしどんなに叙情的に孤独な姿が語られても、その謎めいた近づきがたい訪問者のシルエットだけでは、これだけ多くの生徒の心をみたすにはたりなかった。黒ずんだ岩山とけわしい丘に周囲をかこまれたこの敬虔な兵営の小世界では、愛が芽吹いていた。奇抜だったり、突飛だったり、あいまいだったりしても、とにかく愛であることにちがいはなく、その香りも、偶然の巡りあわせも、ロマンスも、地下の、あるいは天上の欲望も、鞘あても、秘密も、運命によって定められた愛のいろどりはすべてそろっていた。
ディエゲーシスが平板な事実の羅列に終わらないためには段落内で幾らかの構造化が必要だが、おそらく接続詞「しかし」による構造化はなるべく避けた方がいいように思われる。引用部でも「しかし」が使われているのは一ヵ所しかない。最初の段落は前半では上級学年の生活について、後半で「紐」という同性愛関係について記述しているが、この大胆な切換えを可能にしているのは「しかし」の逆接ではなく、「実をいえばそれも……にすぎなかった」という文修飾副詞「実をいえば」と否定辞の文末「なかった」によってである。どうも、接続詞「しかし」に拠らなくても否定辞が文末に来る文章を用いることでいくらか逆接の効果とそれによる構造化の印象が得られるらしい? ほかにも「……さほど重要ではない」「……と考えてもさほど見当ちがいではあるまい」「……ことを知らぬものはなかった」と否定辞を用いた文は多用されている。これによって段落に軽い構造化がほどこされ、文体も論理的に引き締まる。「たとえば」「ほどなく」「もっとも」といった接続詞による文体の引き締めにも注目しよう。
また、同じようにディエゲーシスを論理的に引き締める効果を持つものとして、「……だからだ。」で終わる文章にも注目(「重労働ときびしい時間割にもかかわらず、壁のなかにとじこめられた二百人の思春期の少年たちの稚い精気がたぎっているこの僧院さえ愛にみちていたからだ」)。そうした文章は端的に前文(ないしは従属節)の真理性を理由を挙げることによって補強する。前文が疑問文でないからこそ、この「補強」の効果はより強い。つまり「何故……なのか? ……だからだ。」と応答の屈曲を文章のつながりに入れるのではなくて、「彼は……をする。……だからだ。」と二つの断言を順接するタイプのディエゲーシスに注目せよってこと。ちなみにここで補強されている前文「まこと、愛は遍在すると信じなければならない」は、段落冒頭で唐突に切り口を提示する無時間的・一般的な断言となっていることにも注目。
余談。「ほどなく、……眠りこむようなことになるはずだった」──この「はずだった」はルバテが良く用いる文末辞だが、平叙文に時たま付加することができる程度のことで、そんなに段落の構造化には寄与してないっぽい。意味的には当然そのようになるはずの帰結を前文までの流れから導くというところ。
●『ふたつの旗』上21-22頁
第一章
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こんな調子ではじめられた打ち明け話の細部をこれ以上追いかけるのは、おそらく余計なのにちがいない。ギヨームが半ズボンと腹のあいだにランボーとボードレールの栄えある残骸をかくしもっていたのをみぬくのも、そんなにむずかしくはないはずだ。それはここ三か月間に三回目のおそろしい警報が出されたさい、かろうじて救い出せたものだった。というのも、最初の二回で、二人の大詩人の作品の存在そのものが犠牲になったからだ。つまり「ピス」──というのは規律係の生徒監のことだが──の捜査のさい、みつからないように大急ぎでひっぱりだし、なにもかも打ち明けていえば、『悪の華』全巻を、自習室の隣の便所という汚辱にみちた奥津城に投げこまざるをえなかったのだ。まだ第三年級のころ、二人の少年はそれぞれに、シャルル=マリー・デグランジュ氏の編集によるいかめしい緑の表紙の初級向け詞華集で、ロンサールやデュ・ベレーやベローの歌を読みかえし、暗唱したいというおさえがたい欲求を感じていた。彼ら自身それにはおどろき、当然のことながら厳密に自分だけのものと思われたこの衝動は、虚栄心よりむしろ不安をあたえるものであった。そういう「児戯」は、すでに遠いものとなった年代の素朴な怪物性の一部をなしており、いま思い出すとユーモアたっぷりの寛容さをおぼえるのだった。彼らは自分たちの性向について徐々により大胆な意識をもつようになり、しかもその意識はますます強まる一方だったが、公のカリキュラムと奇妙にずれていることにかわりはなかった。第二年級のあいだにロマン主義の光輝にみちた武器庫と肌白のヒロインたちを発見して熱狂にかられる一方、ル・ロック神父に提出するための『シンナ』や『アタリー』の分析などには嫌気がさして、さっさと片づけるのがつねだった。第一年級でロマン主義の花形が正規の授業の対象になると、今度はボードレール主義や象徴主義に耽溺するのだった。彼らはこうして、もろもろの革命や流派の論争もふくめて、文学史を完全にわがものとして生きたのだった。ただ一学期が半世紀にもあたっていた。二人の経験は本質的に詩にかかわっていた。神父たちの検閲は、フランスの散文のどんな偉大な作品も容赦しなかった。いうまでもなく二人の冒険家の無邪気さには、パリのリセなら第四年級の生徒たちさえ微笑を浮かべたにちがいなかった。しかしながら、格子縞のノートにひそかに書き写して作った詞華集によって、あるいは傑作のなかでも気に入ったページを引きちぎり、独裁政治時代の誹謗文書のようにマントの下にかくしてもち歩き、いわば大詩人を生み出したときの誇りを、パリの生徒が知ることは決してないはずだった。
評伝的に主人公の青春期を語るディエゲーシス。かなり語り手が前景化している。
冒頭から「こんな調子ではじめられた打ち明け話の細部をこれ以上追いかけるのは、おそらく余計なのにちがいない。」という根拠不明の語り手の一人合点でいきなり現前的場面(会話場面)をぶったぎってディエゲーシスに移行している。まあ文体的に、否定辞で終わる文をディエゲーシス段落の頭に持って来るのはリズムとしては良い。
第二文もやはり語り手が自分の判断を語ってしまっている。しかも読者の能力を勝手に見積もって。「ギヨームが半ズボンと腹のあいだにランボーとボードレールの栄えある残骸をかくしもっていたのをみぬくのも、そんなにむずかしくはないはずだ。」ドストエフスキーの『作家の日記』のように読者に「諸君」とか言って語りかけるほど露骨な文体ではないが、そこはかとなく読者と共犯関係を結ぼうとしている。文末辞の「……むずかしくはないはずだ」は「……むずかしくないだろう」や「……むずかしくないにちがいない」であっても効果は同じ。
注意しなければならないが、「いうまでもなく二人の冒険家の無邪気さには、パリのリセなら第四年級の生徒たちさえ微笑を浮かべたにちがいなかった。」という最後の方の分に出てくる「……にちがいなかった。」は語り手が読者と共犯関係を結ぼうとしているのではなくて、単に想像的仮定(「パリのリセなら……」)による記述の真理性の補強である。ちなみに『赤と黒』のディエゲーシスでも似たような想像的仮定を見出せる。「このヴェリエールの大通りはドゥー川に沿い、その先は丘の頂上まで上り坂になっているが、旅行者がほんのしばらくでもこの大通りで足を休めるなら、必ず、せわしげな、いかにもえらそうな様子をした、背の高い男の姿を見かけるにちがいない。」
「……いわば大詩人を生み出したときの誇りを、パリの生徒が知ることは決してないはずだった。」──この最後の文における「……はずだった」の文末辞はどう分類されるか。やはり語り手が根拠不明に自分の判断を語っているような印象だ。
その他、内容的な展開についてコメントすると、「まだ第三年級のころ……」「第二年級のあいだに……」「第一年級で……」と段階的に時間を追っていくオーソドックスな構成の中で、生き生きと彼らの衝動や趣味判断や熱狂や誇りを描いているという趣き。文体技巧の多彩さは注目に値する。「彼らはこうして、もろもろの革命や流派の論争もふくめて、文学史を完全にわがものとして生きたのだった。ただ一学期が半世紀にもあたっていた。」
●『罪と罰』下290-295頁
第六部第一章
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ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。不意に目の前に霧が下りてきて、彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった。あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて、その頃は意識がときどきうすれたようになり、途中にいくつかの切れ目はあったが、その状態がずっと最後の破局までつづいていたことがわかった。当時多くの点で、例えばいくつかのできごとの日と時間とかで、思いちがいをしていたことが、彼にははっきりとわかった。少なくとも、あとになって思い出し、その思い出したものを自分にはっきり説明しようとつとめてみて、他人から聞かされたことをもとにしながら、自分のことをいろいろと知ったのである。例えば、彼はあるできごとをべつなできごとと混同していたし、その別なできごとを、実在しない想像の中だけのできごとの結果だと考えていた。ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。それは死を目前にした人に見られることのあるあの病的な冷静な心境に似ていた。だいたいこの最後の数日間というものは、彼は自分でも自分のおかれている状態をはっきりと完全に理解することを避けようとつとめていたようだ。ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃れて自由になれたら、彼はどんなに嬉しかったろう。もっとも、それを忘れることは、彼の立場では完全な避けられぬ破滅を招くおそれはあったが。
特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。ソーニャの部屋で、カテリーナ・イワーノヴナが死んだとき、彼にとってはあまりに恐ろしい、しかもあれほどはっきりと言われたスヴィドリガイロフの言葉を聞いて以来、いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ。しかし、この新しい事実によって極度の不安に突きおとされたにもかかわらず、ラスコーリニコフはどういうものかその解明を急ごうとしなかった。ときどき、どこか遠いさびしい町はずれのみすぼらしい安食堂で、一人ぼんやり考えこんでいる自分に、はっと気づき、どうしてこんなところへ来たのかさっぱり思い出せないようなとき、彼の頭には不意にスヴィドリガイロフのことが浮ぶのだった。そしてそんなとき、できるだけ早くあの男と話し合って、できることなら、すっかり決着をつけてしまわなければならないと、不安におびえながらも、はっきりと自覚するのだった。一度、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、彼はここがスヴィドリガイロフと会う場所に指定されたところで、いま相手が来るのを待っているのだ、と想像したほどだった。またあるときは、どこかの茂みの中で夜明けまえにふと目をさまし、地面の上にじかにねていた自分に気づき、どうしてこんなところへ迷いこんだのかさっぱりわからないこともあった。しかも、カテリーナ・イワーノヴナが死んでからこの二、三日で、彼はもう二度ほどスヴィドリガイロフに会っていた。それはいつもソーニャの部屋で、彼はなんということなく漠然と立ち寄り、ほんの一、二分しかいなかった。彼らはちょっと言葉を交わすだけで、決して重大な点にはふれようとしなかった。ときが来るまで黙っていようという暗黙の了解が、いつとなく二人の間にできあがっているようなふうだった。カテリーナ・イワーノヴナの遺体はまだ寝棺におさめたままになっていた。スヴィドリガイロフは埋葬の手配をしていて、いそがしく奔走していた。ソーニャもひじょうにいそがしかった。最後に会ったとき、スヴィドリガイロフは、カテリーナ・イワーノヴナの遺児たちはどうにかかたをつけた、しかもうまいぐあいにいったと、ラスコーリニコフに説明した。少しばかり手づるがあるので、当ってみたところ、都合よく三人ともすぐに相当の孤児院に入れるように世話してやるという人々が見つかったし、金のある孤児のほうが貧しい孤児よりもはるかに有利だから、子供たちにつけたやった金も大いにものをいった、ということだった。彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、ちょっと間をおいてから、急に声をひそめて尋ねた。
「どうなさいました、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで魂がぬけたみたいじゃありませんか? まったく! 聞いたり見たりはしているが、まるでおわかりにならん様子だ。元気を出しなさい。ええ、すこし話をしようじゃありませんか、ただ残念ながら、自他ともに多忙すぎましてね……ええ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼はとつぜんつけ加えた。「人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が……何よりもね!」
彼は、階段をのぼってきた司祭と補祭を通すために、不意にわきへよった。彼らは追善の祈祷をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指図で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。スヴィドリガイロフは何かの用事ででかけて行った。ラスコーリニコフはちょっと思案していたが、司祭のあとからソーニャの部屋へ入った。
彼は戸口に立ちどまった。しめやかに、おごそかに、もの悲しげに、供養の祈祷がはじまった。死というものを意識し、死の存在を感じると、彼は小さな子供のころから何か重苦しい神秘的な恐怖をおぼえたものだった。それに、彼はもう長いこと祈祷を聞いていなかった。しかもいまの場合は、何か普通とちがう、あまりにも恐ろしい、不安なものがあった。彼は子供たちのほうを見た。子供たちはいっしょに寝棺のそばにひざまずき、ポーレチカは泣いていた。そのうしろに、ひっそりと、泣くのをさえ気がねするように、ソーニャが祈っていた。《そういえばこの数日、彼女は決しておれを見ようとしないし、一言もおれに言葉をかけてくれなかった》──こんな考えがふとラスコーリニコフの頭に浮んだ。陽光が明るく部屋を照らしていた。香のけむりがまわりながらゆるやかにのぼっていた。司祭が《主よ、安らぎをあたえたまえ》と唱えていた。ラスコーリニコフは祈祷の間中立ちつくしていた。司祭は祝福をあたえて、別れの挨拶を交わしながら、なんとなく妙な顔をしてあたりを見まわした。祈祷がおわると、ラスコーリニコフはソーニャのそばへ行った。ソーニャは不意に彼の両手をにぎると、彼の肩に顔を埋めた。この短い動作がかえってラスコーリニコフを迷わせた。不思議な気さえした。どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌悪も、すこしの憎しみも抱いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない! これはもう限りない自己卑下というものだった。少なくとも彼はそう解釈した。ソーニャは何も言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手をぐっとにぎりしめると、そのまま出て行った。彼はたまらなく苦しかった。いまこのままどこかへ行ってしまって、たとい一生でも、完全な一人きりになれるものなら、彼はどれほど幸福だったろう。というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである。ときどき彼は郊外へ行ったり、広い街道へ出たり、一度などはどこかの森へ入りこんだことさえあったが、あたりがさびしくなればなるほど、誰かが近くにいるような不安がますます強く感じられるのだった。その不安は恐ろしいというのではなかったが、妙に腹立たしい気持になって、さっさと町へもどり、人ごみの中へまぎれこみ、安食堂か居酒屋に入ったり、盛り場やセンナヤ広場をうろついたりするのだった。こちらのほうが気が楽で、かえって孤独のような気さえした。ある居酒屋で、日暮れまえに、歌をうたっていた。彼は小一時間もじっと坐って、歌を聞いていた。そしてひじょうに楽しかったことをおぼえている。しかしおわりごろになると、彼は急にまた不安になりだした。不意に良心の苛責に苦しめられはじめたらしい。《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》──彼はふとこう思ったようだ。しかし、彼はすぐに、それだけが彼を不安にしているのではない、とさとった。早急に解決しなければならない何かがあったが、そのことの意味を考えることも、言葉であらわすこともできなかった。すべてが糸玉のようなものに巻きこまれてしまうのだった。《いやいや、こんなことをしているよりは、なんでもかまわん、たたかったほうがましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフと……早くまた誰かが挑戦してくればいい、攻撃をかけてくればいい……そうだ! そうだ!》──彼はこう思った。彼は居酒屋を出ると、ほとんど駆け出さないばかりに歩きだした。ドゥーニャと母のことを思うと、彼はどういうわけかたまらない恐怖におそわれた。その夜、明け方近く、彼はクレストーフスキー島の茂みの中で、熱病にかかったようにがくがくふるえながら、目をさました。家へもどったのは、もう白々と夜が明けかけたころだった。何時間か眠ると熱病はおさまったが、目をさましたのはおそらく、午後の二時頃だった。
ドストエフスキー作品の語り手によるディエゲーシスの質の高い一例。ちなみにこれは第六部冒頭の部分にあたる。そのような非常に重要なパートの第一段落では、第一文を無時間的・習慣的・括復法的に設定するのは基本だ。「ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。……」
さて、第一段落を見ての通り「あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて……」「少なくとも、あとになって思い出し、……」という言い回しが示すように、ここで語り手はすべての出来事が過ぎ去った未来の時点から振り返って語るという「超-認識」を帯びている。半ば将来のラスコーリニコフが過去の自分を突き放してみているという形式が語り手によって偽装されていると考えることも可能である(あまりにも語り手が当時のラスコーリニコフの心理状況を知り過ぎているので。自分を突き放してみている、というのは「彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった」「いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ」に見られるように概言のムードを使っているから)。いずれにせよここで語り手は物語の現時点から離れて──未来へと飛躍して──将来の時点で「(ラスコーリニコフが)おぼえていた」ことのみを摘まみ上げてそれを敷衍するということで叙述を構成している。「ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。」そうやって彼の当時の心理状態に周囲の文脈を明らかにしつつ包括的に肉迫していく語り手の手際を見よ──「ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃れて自由になれたら、彼はどんなに嬉しかったろう。」なんというか、こうすることで抽象的なんだけれども生々しい登場人物の描出になっているという独特の文体が生まれている。
第二段落でも主人公から距離を取りつつ彼を注視(尾行者的に?)する語り手の位相は健在である。「特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。」──この概言のムードを見よ。この距離感こそ、ラスコーリニコフのこの時期の混乱し切った思考と感情を包括的に記述することを可能にしている当のものだ(時には彼は自分が何をやっているのかさえ意識できなくなって、我に返って不安になりもする──《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》)。ところで、第二段落以降で注目すべきは、途中でディエゲーシスが現前的な記述にいつの間にか移行していることだろう。これは重要な技術。端的に指摘すると、第二段落末尾の「彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、……」──この一連の文章の流れでディエゲーシスがソーニャの部屋を舞台とする現前的記述に移行する。だが、この移行を可能にしているのはこれらの文章の効果だけではなく、これらが出現するまでに上手くスヴィドリガイロフとソーニャとの関係へと話題を持っていったそれまでのディエゲーシスの展開に、すでに作為があったと見做すべきだろう。第二段落前半は要約的記述ないし括復法的記述が占めている(「ときどき、どこかさびしい町はずれの……」「一度、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、……」「またあるときは、……さっぱりわからないこともあった」「それはいつもソーニャの部屋で、……」)。それがやがてここ数日ソーニャの身の回りであったこととスヴィドリガイロフの手配についての説明へゆっくり移行し、例の文章が現れて一挙に叙述が場面化するわけだ。アドホックには書けない段落展開。とはいえ、現前的場面が一旦動き出してからも、後に補足的な(括復法的)ディエゲーシスが現われることもあるが。「彼らは追善の祈祷をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指図で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。」というか、ドストエフスキー作品ではディエゲーシスとミメーシスが綺麗に分離していないので、現前的場面でも括復法的記述が斑らのように織り込まれるのはよくあることっちゃよくあること。
「彼は戸口に立ちどまった。……」からはやや要約法的に駆け足だとはいえ、もはや「あとになって思い返してみて……」などといった超-時間的な距離感はなくおおむねラスコーリニコフの感じたこと見たこと考えたことを現前的に追っている──描写している。時には彼の肉声としての内語も引用される。地の文でも体験話法的にラスコーリニコフの思考をトレースするということもやっている(「どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌悪も、すこしの憎しみも抱いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない!」)。ただ、一ヵ所だけ括復法的記述が顔を出しているところがある──「というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである」。これも一種の現前的記述の中での括復法の斑らってわけだ。あまり現前性なら現前性で一本調子にせず複数の叙述の水準を縫い合わせて展開させていく方がよい。
引用部末尾の要約法による時間の圧縮は面白い。叙述の流れの中で手際良く時間を進めたという趣き。
余談。スヴィドリガイロフの科白は途中で分割されているのだが、それを繋ぐ地の文「……と彼はつけ加えた。」はここ以外でもよく見掛ける。(一例:「「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ……まあ、りっぱだよ、おまえはそのほうがよかろうさ……だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたてて、苛々しながらつけ加えた。「ぼくはただ、お母さん、あなたに、許してください、と言いたかったのです」と彼はポキポキした口調で、ぶっきらぼうに言葉を結んだ。」)科白の中での屈折を表現するのに意外と使い勝手がいいのか?
●『罪と罰』上48-50頁
第一部第三章
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彼は翌朝おそく不安な眠りからさめた。眠りも彼に力をつけてくれなかった。彼はむしゃくしゃするねばつくような重い気分で目をさますと、憎悪の目であなぐらのような自分の部屋を見まわした。それは奥行六歩ばかりの小さな檻で、黄色っぽいほこりだらけの壁紙はところどころはがれて、いかにもみすぼらしく、天井の低さは、なみよりちょっとでも背丈の高い者には窮屈で、いまにも頭がつかえそうに思われた。家具も部屋にふさわしく、どれも満足でない。古ぼけた椅子が三脚と、隅っこに塗りの机が一つ、その上には何冊かのノートと本がのっていたが、ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰の手もふれていないことは明らかだった。それから、最後に、ほとんど壁の面を全部と、部屋の幅を半分も占領している、ばかでかい不細工なソファ。これは昔は更紗がはってあったらしいが、いまはぼろがひっついているだけで、ラスコーリニコフの寝台代りになっていた。よく彼は服もぬがず、シーツもしかずにその上に横になり、古いすりきれた学生外套をかぶり、それでもぺしゃんこの枕だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。ソファのまえに小さなテーブルが一つおいてあった。
これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった。しかしラスコーリニコフのいまの心境には、このほうがかえって快かった。彼は亀が甲羅にもぐったように、徹底的に人から遠ざかって、彼の世話がしごとなのでときどき部屋をのぞきに来る女中の顔を見ても、むかむかして、ふるえがくるほどだった。偏執狂が何かに熱中しすぎると、往々にしてこんなふうになるものである。家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった。食べないでじっと坐っていたほうがましなのである。おかみのたった一人の女中で、料理女もかねているナスターシヤは、下宿人のこうした気持を、いっそ喜んでいるふうで、彼の部屋の片づけや掃除からすっかり手をぬいてしまって、週に一度だけ、それも気まぐれに、箒を持つくらいだった。その女中がいま彼をつつき起した。
「起きなさい、いつまでねてるの!」と彼女はラスコーリニコフの耳もとで叫んだ。「もうすぐ十時よ。お茶をもってきてあげたわよ、せめてお茶でも飲んだらどう? さぞお腹がすいたでしょうに?」
ここで注目したいのは、語り手が前面に出てくる記述への(からの)シームレスなスイッチング。ラスコーリニコフが目を覚まし、「憎悪の目で」自分の部屋を見回すことから始まる部屋の中の描写は、「……ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰の手もふれていないことは明らかだった。」「……それでもぺしゃんこの枕だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。」──読めば分かるように、明らかにラスコーリニコフの判断ではない。ラスコーリニコフの視点からの記述であれば、自分の知っていることを推測として示すはずがないし、もうずっと習慣になっていることについて注釈したりするはずもない。さらに言えば、自分が寝ている寝床をわざわざ「見回す」はずもないので、ラスコーリニコフが部屋を見回す、ということから始まっている描写ではあるが、ラスコーリニコフの目に見えるものをなぞっているのではなく、そのように見せかけながら、シームレスに語り手の記述へと移っているとみなすべきなのだ。それによって細部と細部の関連、空間設計についても必要なことを十分の濃密さでもって語ることができるわけだ。
改行後も明らかに語り手の記述である。「これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった。」「偏執狂が何かに熱中しすぎると、往々にしてこんなふうになるものである。」──これらはラスコーリニコフの判断ではなく、語り手の(主観的)判断にほかならない。しかしそれでいて、この語り手は完全にラスコーリニコフの外部に立っているのではなく、なんと、ラスコーリニコフの内面・心理のことを知悉しており、だからこそ、ラスコーリニコフの内面へと突き刺さってくる外界との苛烈な関係、せめぎ合い、対話性をも語ることができている。「しかしラスコーリニコフのいまの心境には、このほうがかえって快かった。」「家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった。食べないでじっと坐っていたほうがましなのである。」──これらはなんとなく語り手のインタビューに対してラスコーリニコフが答えた言葉を叙述に紛れ込ませたかのような印象がある。そのようにして単なる描写の中に語り手は兆候と意味レベルをしのばせていく……。
このドストエフスキーの語り手の柔軟性をどう考えるべきだろうか。あたかも主人公にインタビューでもしたかのように主人公の心理をよく知っている、中立的立場の語り手……。面白い。
ちなみに、「その女中がいま彼をつつき起した。」で語り手の記述からまた現前的場面の記述へとスイッチングする流れも上手い。先を予測しておいてでないとこの段落構成にはできない。
●『罪と罰』上200-201頁
第二部第三章
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彼は、しかし、病気の間中ずっと失神状態がつづいていたわけではなかった。それは熱病の状態で、幻覚にうなされたり、なかば意識がもどりかけたこともあった。あとになって彼はいろいろなことを思い出した。こんなこともあった。まわりにたくさんの人々が集まっているような気がする。その人々が彼をつかまえて、どこかへ連れ去ろうとして、彼のことでうるさく何ごとか言いあいをしている。かと思うと、不意にみんな出て行ってしまって、一人だけぽつんと部屋にとりのこされる。人々は彼を恐れて、ほんの時たまドアを細目にあけて、遠くから様子をうかがっては、おどしつけるばかりで、たがいに何ごとかうなずきあいながら、彼を嘲笑ったり、からかったりしている。彼はナスターシヤがときどきそばに来ていたのをおぼえていた。もう一人の男がいたのも気づいていた、よく知っている顔のようでもあるが、正確に誰なのか──どうしても思い出すことができず、それが悲しくて、泣いてしまったことさえあった。またあるときは、もう一月も寝ているような気がしたし、そうかと思うと──まだあの日がつづいているような気もした。ところがあのことは、──あのことはすっかり忘れていた。その代り、忘れてはならないことを、何か忘れているようだということが、絶えず頭にひっかかっていて、──思い出そうとしながら、苦しみ、もだえ、うめき、狂乱の発作にかられたり、おそろしい堪えがたい恐怖におちいったりするのだった。そんなとき、彼はいきなりとび起きて、逃げ出そうとしたが、いつも誰かに力ずくでおさえられ、またしても困憊と失神状態におちこむのだった。ついに、彼ははっきり意識をとりもどした。
それは朝の十時頃だった。朝のその時間は、晴れた日なら、いつも陽光が長い帯となって右側の壁をすべり、ドアのそばの角に明るくおちていた。彼のベッドのそばに、ナスターシヤと一人の男が立っていた。まったく見知らぬ男で、ひどく興ありげに彼を見おろしている。それは裾長の上衣をきた若い男で、あごひげを生やし、一見協同組合の事務員風であった。半開きの戸口からおかみの顔がのぞいていた。ラスコーリニコフは身を起こした。
「その人は誰、ナスターシヤ?」と彼は若い男のほうを示しながら、尋ねた。
第一段落は或る一定期間(病気の間中)彼の意識に起こったことを、想像的仮定に近いような形で(「こんなこともあった」)幾つも例示していくパターンのディエゲーシス。このスピード感が良い。そうやってさまざまな例が挙げられていくなかで、しかし「あのこと」だけはずっと抑圧されていて思い出せないという、その対比の妙と、「あのこと」をどうしても思い出せないことに付随する苦しみや悶えを記す文体の迫真がここでの肝だ。
続く第二段落では「朝の十時頃」と時間を指定して現前的な情景法が始まると思いきや、いきなりこれだ。「朝のその時間は、晴れた日なら、いつも陽光が長い帯となって右側の壁をすべり、ドアのそばの角に明るくおちていた。」──普通に今その瞬間に陽光が長い帯となって……と描写すればよいのに、「晴れた日なら、いつも……」となぜ括復法にしているのか。あくまでも描写の客観性や登場人物の主観性に平板に調和してしまわぬよう、語り手の介入を印象づけるためか。いかなる現前的場面の最中でも叙述を括復法的・習慣的にしないではいられないドストエフスキーの手癖は異常とも言える。
とはいえ第二段落が現前性に基づいていることは間違いない。半開きの戸口からのぞくおかみの顔まで、ここでの語り手の注意力の動線はリアルタイムで見るべきものを何一つ見逃さない。
●『罪と罰』上266-268頁
第二部第六章
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ところが、彼女が出て行くと同時に、彼は起き上がって、ドアに鍵をかけ、さっきラズミーヒンが持ってきて、また包み直しておいた洋服の包みをといて、着かえはじめた。不思議なことに、突然すっかり落ち着きをとりもどしたように見えた。さっきのように、ばかげたうわ言を口走りもしないし、最近ずっとおびやかされつづけてきたあのおそろしい恐怖もなかった。それはある奇妙な突然の平静の最初の訪れだった。彼の動作は正確で、はっきりしていて、そこにはしっかりした意図が見られた。《今日こそ、今日こそは!……》と彼は自分に言いきかせた。彼はしかし、まだ衰弱がひどいことを、自分でも感じていた。だが、平静と、さらにゆるがぬ意図にまで達した、おどろくほど強い心の緊張が、彼に力と自信をあたえた。とはいえ彼には、往来で倒れるのではないか、という不安がないでもなかった。すっかり新しい服に着かえると、彼はテーブルの上の金を見て、ちょっと思案し、それをポケットに入れた。二十五ルーブリあった。ラズミーヒンが衣類を買うのにつかった十ルーブリのおつりの五コペイカ銅貨も、すっかりポケットにおさめた。それからそっと鍵をはずすと、部屋を出て、階段を下り、大きく開け放された台所をのぞいた。ナスターシヤがこちらへ背を向けて、前屈みになり、サモワールの火をふうふう吹いておこしていた。彼女はぜんぜん気付かなかった。無理もない、彼が出て行くなんて、誰が予想できたろう? 一分後に彼はもう通りに立っていた。
八時近くで、太陽は沈みかけていた。むし暑さはまだそのままのこっていたが、彼はこの都会に汚された臭いほこりっぽい空気を、むさぼるように吸いこんだ。彼はかるいめまいをおぼえた。不意にその充血した目と、肉のおちた血の気のない黄色っぽい顔に、なんとも異様な荒々しいエネルギーがギラギラ燃えはじめた。どこへ行くのか、彼は知らなかった、それに考えてもみなかった。彼が知っていたのは、《こんなことはすっかり、今日こそ、いますぐ、ひと思いに片づけてしまうんだ、でなければ家へはもどれない、こんな生活はもういやだ》ということだけだった。どんなふうに片づけるか? 何によって片づけるか? それについては彼はきまった考えをもっていなかったし、また考えたくもなかった。彼は想念を追いはらった。想念に責めさいなまれたからだ。彼はただいっさいの事情が、どんなふうにでもいいから、変ってしまわなければならない、と感じていたし、知っていた。《どう変ろうといいんだ、とにかく変りさえすれば》彼はすてばちの動かぬ自信と決意をもって、こうくりかえした。
引用部では主人公が起床してから通りへ出るまでを追っている。基本的なトーンは語り手がラスコーリニコフから距離をとってずっと観察しているような趣き。しかも叙述は語り手の主観の色を帯びている。「不思議なことに、突然すっかり落ち着きをとりもどしたように見えた。」──外部からの主観的観察! だが、同時にこの語り手はラスコーリニコフの内面も同時に与える。「それはある奇妙な突然の平静の最初の訪れだった。」「《今日こそ、今日こそは!……》と彼は自分に言いきかせた。」──なぜこのような外部からの観察と同時に内面を与えるという文体を採用しているのか。その効果は何か。
明白な効果の一つは、文体が単線的に事象を追って忙しく息苦しくなってしまうのを避けるというものがある。純粋に外部からの観察だけでこの場面を描くならば、ラスコーリニコフの動作を単調に追うだけで何の起伏もない文章展開になるが、ラスコーリニコフの内面に焦点を合わせると、幾らか無時間的な印象が生れるのだ。たしかに《……》で括られた内語などは一種の現前性を帯びているとはいえ、例えば「だが、平静と、さらにゆるがぬ意図にまで達した、おどろくほど強い心の緊張が、彼に力と自信をあたえた。とはいえ彼には、往来で倒れるのではないか、という不安がないでもなかった。」という内的状態の詳細な記述など時間の流れとは関係なしに幾らでも掘り下げることができるように思われる。つまり内面を同時に与えることによって幾らか時間幅にふくらみのある文章展開を成立させることができる。そしてこの単線的に継起する外的な事象を大枠として追いながら、それを時間幅を広くとった記述や習慣的説明的記述や(内的状態を描く)無時間的な記述によって存分にふくらませるというのが、ドストエフスキーの文体の基調である。語り手の外的観察が帯びる「主観性」も、この種のふくらませの一つだと考えてよい。第一段落末尾では、ラスコーリニコフのみならずナスターシヤへの観察にもこの主観性が発揮されている。「彼女はぜんぜん気付かなかった。無理もない、彼が出て行くなんて、誰が予想できたろう?」
第二段落で用いられている技法はもう少し複雑で、さらに検討に値する。簡潔にまとめよう。「八時近くで、太陽は沈みかけていた。」──これはラスコーリニコフが見たものである(「この都会に汚された臭いほこりっぽい空気を……」のように彼が感覚したものの記述もこれに近似)。「不意にその充血した目と、肉のおちた血の気のない黄色っぽい顔に、なんとも異様な荒々しいエネルギーがギラギラ燃えはじめた。」──これは見られたラスコーリニコフである。つまりここには互いに切り返されうる視線がほとんど隣接して記述に現れているわけ。このように方向が真逆になっている二つの視線(=記述の志向性)を併存させることによって生れるのは、場面の立体性の感触だろう。同様に、ラスコーリニコフの内面を描くにあたっては、《……》でくくられたラスコーリニコフの直接の内語と、「彼はただいっさいの事情が、どんなふうにでもいいから、変ってしまわなければならない、と感じていたし、知っていた」のような素朴な三人称的叙述と、「どんなふうに片づけるか? 何によって片づけるか?」のように語り手が疑問形で挑発している地の文と、三種類の記述のタイプが絡み合ってダイナミズムが生まれているが、これも読み手に立体性の感触を与えることに寄与するものと言える。
●『罪と罰』上245-247頁
第二部第五章
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それはもう年ぱいの、いかにも小うるさそうなもったい振った紳士で、すきのない気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず戸口のところに立ちどまって、《これはまた妙なところへまよいこんだものだ?》と目で尋ねるように、とげとげしい露骨なおどろきを示しながらあたりを見まわした。彼は信じられぬらしい様子で、いかにもわざとらしく、意外というよりはいっそ屈辱にたえぬというような色さえうかべて、狭くて天井が低いラスコーリニコフの《船室》をじろじろ見まわしていた。彼はやがてそのおどろきの目を、ほとんど裸に近い格好で、鳥の巣のような頭をして、顔も洗わずに、みすぼらしい汚ないソファに横になったまま、じっと彼を見つめているラスコーリニコフのうえに移した。それから、またゆっくり頭をまわして、服をだらしなくはだけ、無精ひげを生やし、もじゃもじゃ髪のラズミーヒンの姿をしげしげと見まもりはじめた。ラズミーヒンはラズミーヒンで、腰を上げようともせずに、不敵なうさんくさそうな視線をまともに相手の顔にそそいでいた。緊張した沈黙が一分ほどつづいて、やがて、当然予期されたように、場面に小さな変化が生れた。おそらく、いくつかの資料によって、といってもそれは実に明確な資料だが、この《船室》では誇張してきびしい態度を気取ってみたところで、まったくなんの効果もないということをさとったのであろう、紳士はいくぶん態度をやわらげて、きびしさをすっかりなくしてしまったわけではないが、いんぎんにゾシーモフのほうを向いて、一語一語はっきりくぎりながら尋ねた。
「大学生、いや元大学生の、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、こちらでしょうか?」
ゾシーモフはゆっくり身体をうごかした。そしておそらく、返事をしようと思ったらしいが、そのときラズミーヒンが、自分が聞かれたのでもないのに、よこあいからいきなり先をこした。
「彼なら、そら、そのソファに寝てますよ! で、どんなご用?」
この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉が、気取った紳士の足をすくった。彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。
「これがラスコーリニコフですよ!」ゾシーモフは病人のほうを顎でしゃくって、口の中でもぞもぞ呟くように言うと、とたんに大欠伸をした。それもどういうのかけたはずれに大きく口を開けて、必要以上に長くその状態を保っていた。それからゆっくりチョッキのポケットに手をつっこみ、ばかでかいふくれた両蓋の金時計をとり出すと、蓋をあけて、時間を見た。そしてまたのろのろと、いかにもものうげに、それをポケットにしまった。
当のラスコーリニコフはその間ずっと仰向けに寝たまま、黙って、執拗に、といっても何を考えているわけでもなかったが、紳士を見つめていた。いまは壁紙の珍しい花からはなれてこちらを向いている彼の顔は、気味わるいほど蒼ざめて、まるで苦しい手術を終ったばかりか、あるいは拷問から解放されたばかりのように、異常な苦悩があらわれていた。しかし入って来た紳士はしだいに彼の注意をよびおこしはじめた、そしてそれがしだいに強まり、やがて疑惑にかわり、ついで不信になり、恐怖のようなものにさえなった。ゾシーモフが彼をさして、《これがラスコーリニコフですよ》と言ったとき、彼は不意に、とびおきるように、すばやく身を起して、ソファの上に坐り、まるでいどみかかるような、しかしとぎれとぎれの弱々しい声で、言った。
「そうです! ぼくがラスコーリニコフです! ぼくになんのご用です?」
章冒頭からの情景法。これがまったくオーソドックスな情景法でないのは、たとえば「彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。」という描写を見てもわかる。ここで「どうやらからくも……」と推測を述べているのは誰なのか? 語り手だ。つまりここでは現前的に場面を展開させながら要所要所で語り手の声音が溶け込んでいるという繊細微妙な文体になっているというわけ。
全体の文体に薄く広く語り手が溶け込んでいるので、情景法だが叙述が或る人物に焦点化するということは起きない。むしろここで起っているのは、人物が注視しているものと、その人物が注視している様子とを同時に与えるということを、複数の人物=主人公+非-主人公について行う、という、パノラマティックな情景法とでもいいたいような現象の実現だ。第一段落を順に見て行けば分かるとおり、部屋に入ってきた紳士の外貌(人物の様子を与える=ほかの人物が見ているものを同時に与える)→その紳士の目の表情(人物が注視している様子を与える)→その紳士がラスコーリニコフの部屋を見回す(人物が注視するものと人物が注視している様子とを同時に与える)→ラスコーリニコフ、ラズミーヒンの描写(人物が注視するものを与える)→ラズミーヒンが紳士を見返す(注視されている人物が注視している様子を与える)──といった形で、注視している人物、注視される人物(もの)、注視し返される人物、注視する目の表情、注視する目線の移動、とりどりの目線の交錯を立体的に描き切っている。これは「人物が注視しているものとその人物が注視している様子とを同時に与える」ことが可能な語り手の位相からしか捉えられないパノラマティックな情景だ。
「緊張した沈黙が一分ほどつづいて、やがて、当然予期されたように、場面に小さな変化が生れた。」──この一文の効果も面白い。これは「当然予期されたように」という憶断を勝手に持ち込むことでその後の場面の微細な展開を必然にするのだが、こんな判断を下すことができるのも、やはり語り手の位相にほかならない。またこの一文は短い「予告」として働いて、単線的に進みがちな現前的な流れに丁寧な起伏を作っている。
同様に現前的な流れに丁寧な起伏を作っている個所としては、「この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉が、気取った紳士の足をすくった。彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。」といった論理的な描写にも表れている。この個所での紳士の振舞いの描写は、単に現前的な時間の流れに沿って起ったことを順に書いているのではなく、紳士の振舞い(ラズミーヒンの方を向きそうになるが、またゾシーモフの方を向く)の理由(「この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉)まできちんと把捉しつつ推測(「どうやらからくも……」)を交えて、リーズナブルなものとして描いているのだから。
「当のラスコーリニコフはその間ずっと仰向けに寝たまま、黙って、執拗に、といっても何を考えているわけでもなかったが、紳士を見つめていた。」──この段落一文も面白い。これもまた見て見られる視線の交錯をパラノマティックに捉えた情景法の一要素としてのラスコーリニコフの視線の描写だが、「当のラスコーリニコフ」という形で話体の流れによってラスコーリニコフに記述の先を転じつつ、彼の状態を「……ている(いた)」形アスペクトで描き出すという繊細な配慮がこの情景法の立体性を崩さない。しかもこの文章から始まる段落は、「しかし入って来た紳士はしだいに彼の注意をよびおこしはじめた、そしてそれがしだいに強まり、やがて疑惑にかわり、ついで不信になり、恐怖のようなものにさえなった。ゾシーモフが彼をさして、《これがラスコーリニコフですよ》と言ったとき、……」──このくだりからも分かるように、時間を少し巻き戻したところから始まっている、つまりちょっとした錯時法を孕んだ叙述となっており、現前的な時間の流れを単調につづけない複雑な起伏が仕込まれているのだ。面白い。
ちなみに、表情描写において「……ような」「……ように」(「……そうな」「……そうに」「……ふうな」「……ふうに」)の喩えが頻繁に用いられていることにも注目すべきだろう。「《これはまた妙なところへまよいこんだものだ?》と目で尋ねるように」「意外というよりはいっそ屈辱にたえぬというような色さえうかべて」「不敵なうさんくさそうな視線」「まるで苦しい手術を終ったばかりか、あるいは拷問から解放されたばかりのように」──これは語り手が登場人物の誰にも焦点化せずに中立的な距離を保ちつつ情景法を展開しているという手法からして、つまり登場人物の感情をじかに描写できる位相にはいないことからして、必然の文体的特徴だと思える。語り手と登場人物の距離感ということで言えば、「おそらく、いくつかの資料によって、といってもそれは実に明確な資料だが、この《船室》では誇張してきびしい態度を気取ってみたところで、まったくなんの効果もないということをさとったのであろう、……」──この一節を見逃すわけにはいかない。これは紳士の態度の変化についての正確な内面的理由を、語り手による注釈という形で記述している。実際、登場人物の所作を一つ一つ丁寧に組み上げつつ、語り手の声音の強度を維持しようとしたら、こういう風に「おそらく……したのであろう」というエクリチュールを用いざるを得ないだろう。
●『白痴』下562-564頁
第四篇第八章
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「いまこの家にはおれたち四人のほかには、誰もいないからな」彼は声をたてて言うと、妙な眼つきで公爵の顔をちらっと見た。
すぐつぎの間で、これもごく地味な黒ずくめの服を着たナスターシャ・フィリポヴナも待っていた。彼女は出迎えのために立ちあがったが、微笑も浮べず、公爵にさえ手をさしだそうともしなかった。
彼女のにらみつけるような落ちつきのない眼差しは、いらだたしそうにアグラーヤの上にそそがれた。二人の女性はすこし離れあって、アグラーヤは部屋の片隅のソファに、ナスターシャ・フィリポヴナは窓のそばに席を占めた。公爵とロゴージンはすわらなかった。二人はすわれとも言われなかったのである。公爵はけげんそうに、また痛々しそうな眼つきで、ふたたびロゴージンを見やった。だが、相手はやはり相変らず例の薄笑いを浮べていた。沈黙はさらに数秒間つづいた。
何か無気味な感じが、ついにナスターシャ・フィリポヴナの顔をさっと走った。その眼差しは執拗な断固たる決意にあふれ、ほとんど憎悪の色さえ浮べてきたが、瞬時も客の顔から離れようとはしなかった。アグラーヤはいくらかどぎまぎしたらしかったが、怖気づいた様子はなかった。部屋へ通ったときに、ちょっとその競争相手の顔に視線を投げたばかりで、いまは何か物思いにでもふけっているように、じっと伏し目になってすわっていた。二度ばかり彼女はなんということもなく部屋の中を見まわしたが、まるでこんなところにいて身がけがれるのを恐れるかのように、嫌悪の色がその顔に浮んだ。彼女は機械的に自分の服をなおしたり、一度などは不安そうにソファの片隅へ身を移したほどであった。しかし、そうした動作も、自分ではほとんど意識してないようであった。ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。ついに彼女はナスターシャ・フィリポヴナの眼を、まともにしっかりと見つめた。そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである。女が女を理解したのである。アグラーヤはぎくりと身を震わせた。
「むろんあなたはご存じでしょうね、なんのためにあたくしがあなたをお招きしたか」とうとう彼女は口を開いたが、それはおそろしく小声で、しかもこんな短い文句のなかで二度までも言葉を切ったほどであった。
「いいえ、なんにもしりませんわ」ナスターシャ・フィリポヴナは無愛想な断ち切るような口調で答えた。
緊迫した対決的対話場面の導入となる、パラノマティックな情景法。
パラノマティックな情景法──というのはまず語り手が中立的な位相に立ち、或る登場人物の何かを注視している眼差し、および注視されているもの、および注視しているその人物の様子(表情など)をすべて同時に与え、しかもそれを各登場人物について行うことによって複数の見るもの/見られるもの/見ているものの眼差しの相対性を立体的に描き切るということをやっている情景法の意。引用部でも、「彼女のにらみつけるような落ちつきのない眼差しは、いらだたしそうにアグラーヤの上にそそがれた。」という段落冒頭の描写から始まって、公爵の眼つきとそれが見るもの(ロゴージン)、ロゴージンの表情、ナスターシャの眼差しの表情の変化(「断固たる決意にあふれ」「憎悪の色さえ浮べてきた」)、それが見据えるもの(客の顔=アグラーヤの顔)、アグラーヤの表情、アグラーヤが部屋へ通ってきた時に眼差したもの(「部屋へ通ったときに、ちょっとその競争相手の顔に視線を投げたばかりで、……」)、部屋を見回すアグラーヤ、そのアグラーヤの眼差しの表情(嫌悪の色)、そして──「ついに彼女はナスターシャ・フィリポヴナの眼を、まともにしっかりと見つめた。そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである。女が女を理解したのである。」このように互いに見て見られることによって眼差しの表情を変化させつつ、ついに互いに見つめ合うことによって対決的対話が開始される、というシークエンスの流れは、複数の見るもの/見られるもの/見ているものを同時に与えることのできる語り手によって、パノラマティックに描き出されていると断言できる。引用部はそうした情景法の典型例。
それにしても、地の文の表現の深度と適確さには一々驚かされる。科白に付随する「それはおそろしく小声で、しかもこんな短い文句のなかで二度までも言葉を切ったほどであった」「ナスターシャ・フィリポヴナは無愛想な断ち切るような口調で答えた」といった描写もそうだが、特に注目すべきは「彼女は機械的に自分の服をなおしたり、一度などは不安そうにソファの片隅へ身を移したほどであった。しかし、そうした動作も、自分ではほとんど意識してないようであった。ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。」──これだ。この動作はアグラーヤの自意識の中では絶対に気づき得ないので、「その登場人物の自意識の中に入ってくるものよりも無意識」の方により照準を合わせるという語り手の作為がなければ描写できないものだ。この描写の深度は語り手がどのような位相にあるかということと、不可分である。
全体的に、引用部では文体に薄く広く語り手が溶け込んでいると言える。例えば形容において「いらだたしそうに」「けげんそうに、また痛々しそうな」「いくらかどぎまぎしたらしかった」「何か物思いにでもふけっているように」と概言がしばしば用いられている(とはいえ、肝心の所では完全に登場人物の内面に踏み込んで確言する──「そしてその瞬間、相手の怨みにもえた眼差しのなかに輝いているものを、何もかもはっきりと読みとったのである」)のはそのメルクマールだし、とりわけ「ところが、この無意識ということが、なおいっそう相手を侮辱するのだった。」──こうした判断=心理的洞察を下しているのは匿名の語り手以外ではあり得ない。
●『白痴』下566-569頁
第四篇第八章
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しかし、アグラーヤは急にしっかりして、一気に自分を取りもどした。
「それはあなたの誤解ですわ」彼女は言った。「あたくしはあなたと……喧嘩をしにきたのじゃありません。もっとも、あたくしはあなたが好きじゃありませんけど。あたくしが……あたくしがここへまいりましたのは……人間らしいお話をするためですわ。あなたをお招きしたとき、あたくしはもうお話をすることを、すっかり心に決めていたのです。ですから、たとえあなたがあたくしの真意をまっったくおわかりにならなくても、その決心をひるがえすようなことはいたしません。そんなことをなされば、都合の悪くなるのはあなたばかりで、あたくしじゃありませんから。あたくしは、あなたのお書きになったことにご返事をしよう、直接お目にかかってご返事をしようと思っていたのです。なぜって、そのほうが都合がいいように思われましたからね。あなたのお手紙にたいするあたくしのご返事をお聞きください。あたくしは、はじめてレフ・ニコラエヴィチ公爵とお近づきになったその日から、またあなたのお宅での夜会でおこった事件をあとで聞いたそのときから、公爵がお気の毒になったのです。なぜお気の毒になったかというと、公爵がじつに純朴なかたなので、その純朴さのあまり……あのような性格の……ご婦人といっしょになって、幸福になれるものと信じておしまいになったからなのです。あたくしがあのかたのために心配していたことが事実となってあらわれました。あなたはあのかたを愛することができなくて、さんざん苦しめぬいたあげくに、捨てておしまいになったのです。あなたがあのかたを愛することができなかったのは、あまりに高慢だからなのです……いいえ、高慢だからではありません、言いまちがいました。あなたの虚栄心が強いからです。いえ、それでもまだちがっています。あなたは……正気の沙汰とは言えないほど、利己心が強いからです。あたくしにくださった手紙がそれを証拠だてています。あなたはあのかたを、あんな純朴なかたを愛することができなかったばかりか、ひょっとすると、心の中であのかたを軽蔑して笑っていらしたのかもしれません。あなたはただご自分の汚辱だけしか愛することができなかったのです。自分はけがされている、自分は辱しめられている、という考えだけしか、愛することができなかったからです。もしあなたの汚辱がもっと小さなものか、あるいは全然なかったとすれば、あなたはもっと不幸だったにちがいありません……」(アグラーヤは、あまりにもすらすらと口をついて出るこれらの言葉を、さも気持よさそうにまくしたてた。これらの言葉はもうずっと前から、いまの対面をまだ夢にも想像しなかったころから、すでに用意され、考えぬかれていたのであった。彼女は敵意にみちた眼差しで、興奮にうがんだナスターシャ・フィリポヴナの顔の上に自分の言葉の効果を追い求めていた)「あなたは覚えていらっしゃるでしょうが」彼女は言葉をつづけた。「そのころ、あのかたはあたくしに手紙をくださったのです。あのかたのお話では、あなたはその手紙のことをご存じだそうですね、いえ、それどころか、お読みになったことさえあるそうですわね? その手紙で、あたくしはすっかり事情をさとったのです。正確にさとったのです。つい先ごろ、あのかたはご自身で、それを確かめてくださいました。つまり、あたくしがいまあなたに申しあげていることをそっくり、ひとことひとことまで、そっくりそのままと言ってもいいくらいですの。その手紙をいただいてから、あたくしは待っていたのです。つまり、あなたはきっとこちらへいらっしゃるにちがいない、と見ぬいたのです。だって、あなたはペテルブルグなしではいられない人ですものね。あなたは田舎で暮すにはまだあまりに若くて、おきれいなんですもの……もっとも、これもやはりあたくしの言った言葉ではありませんのよ」彼女はおそろしく顔を赤らめて、つけくわえた。この瞬間から最後の言葉が切れるまで、この紅は彼女の顔から去らなかった。「それから、ふたたび公爵にお目にかかったとき、あたくしはあのかたのことがひどく痛々しく腹だたしくなったのです。どうか笑わないでください。あなたがお笑いになれば、あなたにはそれを理解する資格がない、ということになりますのよ……」
「ごらんのとおり、あたしは笑ってなどおりませんよ」ナスターシャ・フィリポヴナは沈んだきびしい声で言った。
表面上は礼儀を失わず、しかし徹底的に相手を侮辱しようとするオフェンシヴな長科白。
その本質は言葉によってのみ「あたくし」と「あなた」の関係を規定しようとする志向だろう。それがよく表れているのが「ですから、たとえあなたがあたくしの真意をまっったくおわかりにならなくても、その決心をひるがえすようなことはいたしません。そんなことをなされば、都合の悪くなるのはあなたばかりで、あたくしじゃありませんから。」という表現で、つまりこう言うことでアグラーヤは「あたくし」が「あなた」をちっとも恐れていないこと、「あなた」が自分の言葉を無視しようとしてもそれで不利になるのは「あなた」であるということを、いささか威高に規定しようとしているわけだ。相手の脅威が表面化するまえに自分の言葉によって相手を矮小化し規定しようとすること。それがアグラーヤの焦燥気味の饒舌をドライブさせている力だ。
(ちなみに、これはかつてポルフィーリイがラスコーリニコフに対して見せた態度に近似する。《そのメルクマールとなるのが「わかりますよ」の言葉だ。つまりポルフィーリイはラスコーリニコフに向って勝手に、先手を取って「わかりますよ、わかりますよ、あなたのことは分かってますよ」という態度を取ることによって、ポルフィーリイ側からラスコーリニコフを扱い易い存在(「あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される」)として饒舌の中に組み込んで、相手の敵対的な態度で自分の饒舌を中断されないように予防している、というわけだ。》)
言葉によって敵対的な相手を先回り的に・威高に(推測も交えつつ)規定してしまおうとすること! その規定の努力は例えばアグラーヤが言葉を途切らせつつ必死に正確な表現を探し求める次のような個所に如実に表れている。「あなたはあのかたを愛することができなくて、さんざん苦しめぬいたあげくに、捨てておしまいになったのです。あなたがあのかたを愛することができなかったのは、あまりに高慢だからなのです……いいえ、高慢だからではありません、言いまちがいました。あなたの虚栄心が強いからです。いえ、それでもまだちがっています。あなたは……正気の沙汰とは言えないほど、利己心が強いからです。……」──もちろんのこと、こうした規定は直接的な罵言ではないにしても、相手に対する無礼、間接的な侮辱になっているし、当然アグラーヤ自身それを理解しているので、自分の饒舌に酔いながら自分の言葉がもたらす相手の表情の変化をむさぼるように追い求めるということにもなるわけだ。途中で挟まるアグラーヤの表情の描写は適確すぎて見事。「彼女は敵意にみちた眼差しで、興奮にうがんだナスターシャ・フィリポヴナの顔の上に自分の言葉の効果を追い求めていた」。
ただし、こうしたアグラーヤの先走った攻撃的饒舌は、むしろアグラーヤの自信のなさを表してもいるだろう。例えば「どうか笑わないでください。あなたがお笑いになれば、あなたにはそれを理解する資格がない、ということになりますのよ……」の個所、この科白は、もし自分の言葉に対して相手が笑ったり、それを無視したり見下したりした場合にはむしろ相手の方が愚かで間違っているからだということを、よく承知しておけよ、と一方的に念を押しているのだが、こういう余計な規定、相手のネガティヴな反応を先廻りして批判しておくような言葉はアグラーヤ自身の動揺のし易さ(現に、この科白は「おそろしく顔を赤らめて」言われるのだ)の間接的な表現にほかならない。つまり、引用部のアグラーヤの徹底的に相手を侮辱しようとするオフェンシヴな長科白は、相手を否定し言葉によってのみ相手との関係を規定しようとするその性急さにおいて、むしろ無意識における彼女の自信のなさを裏に隠している、二重性を帯びた科白だった、というわけか。
●『白痴』上239-242頁
第一篇第九章
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公爵はこうしたいくつかの言葉をとぎれがちに、幾度か息をつぎながら、落ちつきのない声で話した。並々ならぬ動揺が、その体全体にあらわれていた。ナスターシャ・フィリポヴナは好奇の色を浮べて彼をながめていたが、もう笑おうとはしなかった。ちょうどその瞬間、新しい大きな声が、公爵とナスターシャ・フィリポヴナをぎっしり取りまいた群衆のかげから聞え、その声が群衆をさっと左右へ引きわけたような格好になった。ナスターシャ・フィリポヴナの前には、一家の父親たるイヴォルギン将軍が立っていた。彼は清潔な礼装用のシャツに燕尾服を着て、口ひげは美しく染めてあった。
これはもはやガーニャにとって耐えられないことであった。
ほとんど猜疑心に悩まされ、憂鬱症になるほど自尊心と虚栄心にかられたこの二ヵ月というもの、すこしでも自分を礼儀正しい上品な人物に見せてくれるようなものはないかと、血まなこになって捜しまわった彼、しかしみずから選んだこの道にかけて自分はほんの新参者で、どうやらとても最後まで持ちこたえられそうもないと感じると、ついに絶望のあまり、自分が暴君であったその家庭において、あらゆる横暴な振舞いを決意しながらも、ナスターシャ・フィリポヴナの目前ではそれを決行することのできかねた彼、冷酷なほど高圧的に出て、いつも彼を狼狽させてばかりいるナスターシャ・フィリポヴナが、いつかガーニャのことを《辛抱づよくない乞食》という表現をしたことを耳にして以来、いまにこの仇を返そうと、ありとあらゆるものにかけて誓ったものの、それと同時に万事をうまくまとめて、すべての矛盾を融和させようと、ときたま子供じみた空想をたくましゅうする彼──そういう彼が、いままたこの苦杯を、しかも選りに選ってこんなときに、飲み干さなければならなかったのである! さらにいままで気のつかなかった一つの拷問、虚栄心の強い人間にとって何よりも恐ろしい拷問──自分の身内にたいする羞恥の苦痛を、しかもわが家で、彼は耐えしのばなければならなかったのである。《いや、それにしても、あれにはこれだけの苦痛を耐えしのぶ値打ちがあるのだろうか?》その瞬間、ガーニャの頭にはふとこんな想いがひらめいた。
この二月のあいだ毎晩、悪夢となって彼を脅やかし、恐怖となって彼の胆を凍らせ、羞恥となって顔をもやしたものが、その瞬間、事実となってあらわれたのであった。つまり、彼の父親とナスターシャ・フィリポヴナの会見が、ついに実現したのである。彼はときたま自分で自分をからかったり、いらだたせたりするような気持で、結婚式における父将軍の姿を心に描いてみようとしたこともあったが、いつもその我慢できぬ光景を終りまで描くだけの力がなく、途中でほうりだしてしまうのであった。ひょっとすると、彼は途方もなくこの不幸を誇大に考えていたのかもしれないが、虚栄心のつよい人はいつでもこうなのである。ともかく、この二月のあいだに彼はいろいろと考えたあげく、どんなことがあっても、たとえほんのいっときでも、父親をおとなしくさせるか、もしできることなら、ペテルブルグから追いだしてしまおうと、母親がそれに同意しようがしまいがそんなことはかまわずに、そう決意したのであった。十分前にナスターシャ・フィリポヴナがはいってきたとき、彼はあまりにも度胆をぬかれて、気が転倒してしまったために、父将軍がそこへ姿をあらわすかもしれないということなど、すっかり忘れてしまって、それにたいするなんの処置も講じなかった。ところが、将軍は、早くもそこへ、みなの眼の前にあらわれたのである。しかも、ナスターシャ・フィリポヴナが《彼とその家族の者に嘲笑を浴びせかけようと機会をねらっている》(このことを彼は確信して疑わなかった)ちょうどその瞬間に、もったいぶって燕尾服など着用におよんであらわれたのである……それに実際のところ、彼女のきょうの訪問はこのほかに、いったい何を意味しているのだろう? 母親や妹と友だちになるために来たのだろうか、それとも彼の家で二人を侮辱するために来たのだろうか? しかし、双方の陣どっている場所から見ても、もはやそこにすこしの疑いもなかった。母親と妹はまるで相手から唾でもひっかけられたように、脇のほうに小さくなってすわっているのに、ナスターシャ・フィリポヴナのほうは、どうやら、そんな人たちが自分と同じ部屋にいることすら、とっくに忘れたような有様であった。……いや、彼女がこんな振舞いをするからには、もちろん、そこに何かもくろみがあるにちがいない!
フェルディシチェンコは将軍をつかまえて、ぐんぐんひきずっていった。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ・イヴォルギンです」将軍は小腰をかがめて微笑を浮べながら、威厳をつけて口を開いた。「不幸なる老兵ですが、このような美しい……かたをお迎えできることを幸福に感じている一家の主でもあります……」
形式的にはこれは、それまで現前的だった情景法の中に突然「状況説明ディエゲーシス」が挿入されるというものである。ちなみに、このディエゲーシスを導くために「これはもはやガーニャにとって耐えられないことであった。」という短い段落をクッションで置いていることは、段落技法的に注目しておこう。
さて、この状況説明ディエゲーシスの本質は何だろうか。端的に言えば、これはガーニャの無意識(=自意識に強いられたもの)のパラフレーズである。彼がナスターシャ・フィリポヴナの前に自分の父親が現われるという事態を前にして突如激しく感じた「耐えられない」ほどの苦痛、その苦痛の内実の背景を言語化し説明するためのディエゲーシスが、これなのだ。その背景は「この二ヵ月というもの」「この二月のあいだ」に渡るため必然的に無時間的・習慣的なディエゲーシスにならざるを得ない。
当然ながらこの状況説明ディエゲーシスを駆使する語り手の位相は、例によって「その登場人物の自意識の中には入って来ていないが無意識を支配している何か」に照準を合わせた、登場人物の内面まで見通す超能力尾行者である。ここで引用される「《いや、それにしても、あれにはこれだけの苦痛を耐えしのぶ値打ちがあるのだろうか?》」というガーニャの内語も、彼の自意識が自己対話の末に排出したものというよりも、無意識に強いられて「思わず」飛び出したものだろう。ここで言う無意識とは、彼にとっての他者、彼の恥じている父将軍の愚劣さやナスターシャ・フィリポヴナの彼に対する嘲弄その他もろもろを含む。そして語り手はあまりにもガーニャの苦境、無意識の猜疑を克明に観察し報告したすえに、彼自身の「現時点」での無意識の思考のプロセスを言語化して体験話法的に敷衍するに至るのである。「それに実際のところ、彼女のきょうの訪問はこのほかに、いったい何を意味しているのだろう? 母親や妹と友だちになるために来たのだろうか、それとも彼の家で二人を侮辱するために来たのだろうか?(中略)……いや、彼女がこんな振舞いをするからには、もちろん、そこに何かもくろみがあるにちがいない!」──たとえ説明的なディエゲーシスであっても無意識に照準を合わせている以上、体験話法と文体的に親和性があることは『罪と罰』のラスコーリニコフの例を見ても自明だ。しかも引用部は現前的な情景法の中に挿入されているディエゲーシスなので、このように現前的な無意識の思考を敷衍するタイプの地の文の便宜は言うまでもない。つまりそれは段落技法の一でもある。
●『罪と罰』上434-435頁
第三部第五章
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「チエッ、こいつめ!」とわめいて、片手をふりまわすと、その手がまたからの茶わんがのっている小さな円テーブルに当ったからたまらない。テーブルごとすっかりけしとんで、ものすごい音をたてた。
「いったいどうして椅子をこわすんです、みなさん、国庫の損失になるじゃありませんか!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはおもしろがって、ゴーゴリの《検察官》の中の台詞を叫んだ。
その場の情景はこんなぐあいであった。ラスコーリニコフは主人と握手していることを忘れて、不躾に笑いすぎたが、程度を知って、なるべく早くしかも自然にその場をつくろう機会をねらっていた。ラズミーヒンはテーブルを倒し、茶わんをこわしたので、すっかりうろたえてしまって、うらめしそうに茶わんのかけらをにらんで、ペッと唾をはくと、くるりと窓のほうを向いて、みなに背を向けて突っ立ったまま、おそろしいしかめ面で窓の外をにらんでいたが、何も見てはいなかった。ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑っていたが、笑いたい気持とはべつに、いかにもわけをききたそうな様子だった。隅の椅子にはザミョートフが坐っていたが、客が入ってくると同時に腰をあげ、そのまま口をゆるめて笑顔をつくりながら待っていたが、しかし不審そうな、信じられないというような顔でその場の成り行きをながめていた。特にラスコーリニコフを見る目には狼狽のような色さえあった。思いがけぬザミョートフがそこにいたことは、ラスコーリニコフに不快なおどろきをあたえた。《これも考えに入れにゃいかんぞ!》と彼は考えた。
「どうぞ、お許しください」と無理にどぎまぎして、彼は言った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、ひじょうに愉快です、それにあなた方がこんなふうに入ってらしたことは、実に愉快です……どうでしょう、あれはあいさつもしたくないのかな?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはラズミーヒンに顎をしゃくった。
描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。それは登場人物の自意識・認識と必ずしも一致しない。この前提を元に考えてみよう。
「その場の情景はこんなぐあいであった。」の一文から始まる情景描写は、会話場面の中に挿入される一瞬の描写休止法だ。描写の必要はある、しかし限られた時間の中で見るべきものだけを見て報告しなければならない……。どのようにして?
描写対象は無意識で処理される……ということはそれなりに(ラスコーリニコフの)無意識にショックを与えたり謎めいていたりする要素がなければ、そもそも描写される価値がないってことでもあるだろう。「はっきりと言語化はできないが薄々何か嫌なところがあるのに気づいていた」というのが自意識への印象。或いは「あまりの恐ろしさでぱっと見ただけで克明に銘記されてしまった」「誰でも一見して何かおかしいと思うはずだ」とか。それを無意識担当の地の文が言語化するというわけだろうか。無意識を波立たせ自意識の円滑性を屈折させる強度(他者性)のない対象は、そもそも言葉を費やして描写する価値さえないのか。ドストエフスキーも結構描写をスルーしている時がある。描写休止法の時間が限られている場合は尚更そうだ。
或る意味ここでラスコーリニコフはポルフィーリイに自己を見抜かれることを恐れているので、その兆候については過剰に敏感になっている(そして、それ以外を逐一描写する必要はまだない。たとえばポルフィーリイの服装とか)。能動的に認識するより先に彼の無意識に瞬時に印象され判断を下されているエレメントが、ここでの描写対象である。ポルフィーリイの「いかにもわけをききたそうな様子」や、ラスコーリニコフが予期していなかったザミョートフの存在とその狼狽の表情は、この瞬間決定的にラスコーリニコフの無意識を波立たせ刻印してくる対象である。彼はザミョートフが客が入って来ると同時に腰を上げて笑顔を取り繕ったことさえ見逃さない。それらは彼に「不快なおどろき」を与え、《これも考えに入れにゃいかんぞ!》という内語を齎す。言うまでもなく《これも考えに入れにゃいかんぞ!》──この内語も自意識の能動性というより、無意識の切迫からの(自分では言ったことも意識していないような)言葉だろう。
見ての通り、この情景描写はラスコーリニコフの無意識を地にして、その上に稲妻のように瞬間的かつ強制的に印象された物事の輪郭を、語り手が機敏に言語化して報告するという形をとっている。その「印象」の中にはラスコーリニコフの自分自身の自己印象も含まれる。例えばわれわれは他者と話している間中、明確に認識することはなくても自分が緊張していることや相手を恐れていることを無意識で理解しているが、この引用部分でもラスコーリニコフ自身の無意識のざわめき、「不躾に笑いすぎた」ことや「その場をつくろう機会をねらってい」ることが余さず言語化され報告されるのである。繰り返せば彼が能動的にというより受動的に漏らした《これも考えに入れにゃいかんぞ!》という内語もまた、自己自身の無意識の動揺=ショックに対応する言語化だ。
ここでさらにポルフィーリイの習慣や生活の兆候について分析的な敷衍をするなら、地の文で「調査・推理」をするシャーロック・ホームズ的な語り手の描写の面目躍如といったところだが、引用部はそこまで踏み込んでいない。
●『罪と罰』上106-109頁
第一部第五章
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彼は立ち上がると、ここへ来たのが不思議そうに、びっくりしてあたりを見まわした。そしてT橋のほうへ歩きだした。顔は蒼白で、目は熱っぽくひかり、身体中に疲労があったが、彼は急に呼吸が楽になったような気がした。彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》
橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!
あとになって、彼はこのときのことと、この数日の間に彼の身に起ったことを一秒、一点、一線も見のがさず、細大もらさず思い起すとき、必ずひとつのできごとに行きあたって、迷信じみたおどろきにおそわれるのだった。それはそのこと自体はそれほど異常なことではないが、あとになってみるとどういうものか彼の運命の予言のように思われてならなかった。というのは、へとへとに疲れ果てていた彼が、直線の最短距離を通って家へ帰ったほうがどんなにとくか知れないのに、どういうわけか、ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場をまわって帰ったことである。その理由は自分でもどうしてもわからなかったし、説明もつかなかった。まわり道といっても大したことはなかったが、どう見てもぜんぜん必要のないことだ。たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった。それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問するのだった。いったいなぜあんな重大な、彼にとってあれほど決定的な、同時にめったにない偶然のめぐりあいが、(通る理由さえなかった)センナヤ広場で、ちょうどあの時間に、彼の人生のあの瞬間に、それもあんな心の状態のときに、しかもこのめぐりあいが彼の全運命にもっとも決定的な、最後的な影響をあたえるには、いまをのぞいてはないというような状況のときに、起ったのか? まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!
彼がセンナヤ広場を通っていたのは、九時頃だった。台や箱の上に商品をならべたり、屋台をはったりしていた商人たちは、店じまいをして、商品を片づけ、お客たちと同じように、それぞれ家路へ散って行く頃だった。地下室の安食堂のあたりや、センナヤ広場の家々の悪臭ただよう泥んこの内庭や、特に居酒屋の近くには、たくさんの雑多な職人やぼろを着た連中がむらがっていた。ラスコーリニコフはあてもなくぶらりと街へ出たとき、特にこのあたりや、この近所の横町を歩きまわるのが好きだった。このへんでは彼のぼろ服も、誰からも見下すような目でじろじろ見られなかったし、誰に気がねもなく、好き勝手な格好で歩くことができたからである。K横町へ入る曲り角の片隅で、露天商の夫婦が台を二つならべて、糸や、縒紐や、更紗のプラトークなどの品物を売っていた。彼らも店をしまいかけていたが、立ち寄った知り合いの女との立ち話に手間どっていた。その知り合いの女はリザヴェータ・イワーノヴナ、あるいは普通みんながただリザヴェータとだけ呼んでいる女で、昨日ラスコーリニコフが時計をあずけに行って下見をしてきた、あの十四等官未亡人で金貸しをしている老婆アリョーナ・イワーノヴナの妹である。彼はもうまえまえからリザヴェータのことはすっかり知っていたし、リザヴェータも彼のことをいくらか知っていた。それは背丈が高すぎて格好のわるい、いじけたおとなしい売れのこりの娘で、三十五にもなるのに、まるでばかみたいに、すっかり姉のいいなりになり、びくびくしながら昼も夜も姉のためにはらたき、なぐられても黙ってこらえているような女だった。彼女は包みを持ったまま商人夫婦のまえに思案顔に佇んで、じっと二人の話を聞いていた。夫婦は何ごとか熱心に説明していた。ラスコーリニコフは思いがけず彼女の姿を見かけたとき、このめぐりあいにはおどろくようなことは何もなかったけれど、深い驚愕に似た奇妙な感情に、いきなり抱きすくめられた。
「ねえ、リザヴェータ・イワーノヴナ、自分できめたらいいですよ」と町人が大きな声で言った。「明日、七時頃いらっしゃいよ。あの連中も来ますから」
「明日?」リザヴェータはどうしようかと迷っているような様子で、のろのろと考えこみながら言った。
引用部で注目すべきは第二段落から第三段落への転調だろう。ラスコーリニコフが見ているものとラスコーリニコフの心理を同時に与えるという「映画」的叙述構成をとりつつ彼の内語を体験話法的に地の文に流し込む(「自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!」)いかにも現前的な文体を取っていながら、改行後には突然無時間的=非現前的な文体へと切り替わっている。出来事の起った順序に沿うだけなら第二段落からそのまま第四段落につなげてもよいはずなので、この第三段落は後から段落展開を整えるために挿入されたふうにも読める。この段落の意味は何か?
もちろん、例によって「あとになって、彼はこのときのことを……細大もらさず思い起すとき……」「あとになってみるとどういうものか……のように思われてならなかった」「それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問自答するのだった」という言い回しで将来からの回顧の視点を取り入れたというのが一番大きい。つまり、この段落だけは語り手の介入によってすでに殺人後の観点から書かれているように読めるわけだ。しかも殺人後の観点におけるラスコーリニコフの内面における自問自答を、体験話法的に地の文に流し込んでおり(「いったいなぜあんな重大な……同時にめったにない偶然のめぐりあいが……起ったのか? まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!」)現前的な印象すらある。とはいえ、あくまで彼に定位しつつ語り手の声音が前面に出ているのは明らかだ。それは「たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった」といった説明的な括復法的記述が丁寧に織り込まれていることからも分かる。ともかくここで語り手は事件の単線的な継起の流れを中断し、将来の時点から介入することを選んだのである。
そうした理由はまるで見当がつかないわけではない。思うに、ここでたまたまラスコーリニコフが翌日夜のリザヴェータの不在を知るというプロット上必要な偶然があまりに都合が良過ぎるので、事前にその偶然性を「運命の予言」のようなものとして誇張して必然化することが必要だったのだろう。その偶然を確率的に奇蹟的なものにするために、「ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場」という文脈をわざわざ強調しているくらいなのだ。つまり、いつも帰り道に立ち寄るセンナヤ広場でたまたまリザヴェータに遭遇した、という多少は可能性のある「偶然」だと逆に辻褄合わせのように思われてしまうし、将来時点から語り手が介入してわざわざ驚いてみせるほどのものでもない。だから逆にもっともあり得べからざるものとして虚構し、彼自身にその偶然(自分の自意識では計算できない出来事、すなわち無意識的偶然!)を衝撃的なもの=「深い驚愕に似た奇妙な感情」として体験させているわけだ。無意識的偶然に驚く、という契機がないとわざわざ一段落挿入して将来時点「あとになってみると……」の語り手を介入させる甲斐がないということか?
さらに、作田啓一の次の指摘も念頭に入れよ。《出来事の偶然性が強く感じられるのは……ラスコーリニコフが計画の実現を強く望んでいるからである。願望が強ければ強いほど、その願望の実現の成否を左右する出来事の偶然性がそれだけ強く感じられる。……願望が強ければ、それだけ出来事は神秘的な偶然性の後光をになってくる。》
●『白痴』下517-519頁
第四篇第七章
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だが、そのとき、ふいにおこったある出来事のために、公爵の雄弁は思いがけなく中断されてしまった。
この熱に浮かされたような長広舌、この激情にあふれた落ちつきのない雄弁と、まるでおそろしく混乱してたがいにぶつかりあいながら、たがいに先を争って飛びこそうとしているような、とりとめのない、歓喜にみちた思想の奔流、こうしたものすべてが、外見上これという原因もなく、いきなり興奮してきたこの青年の心の中に、何かしら危険な、何かしら特別なものが生れたことを、予言するかのようであった。客間に居合わせた人びとのなかで公爵を知っているすべての人は、彼の平生の臆病で控え目な性質や、どうかすると見られるまれにみる風変りな分別くささや、上流社会の礼儀にたいする本能的な敏感さなどにまったく不似合いな、彼のこの奇怪な言動に危惧を念をいだきながら(ある者は羞恥の念をいだきながら)、びっくりして見まもっていたのであった。いや、どうしてこんなことになったのか、どうしても納得がいかなかった。まさか、パヴリーシチェフに関するニュースが、その原因となったのでもあるまい。婦人たちのいた片隅では、まるで狂人でも見るように彼をながめていた。ベロコンスカヤ夫人はあとで、『あと一分もつづいたら、わたしはもう逃げだすところでしたよ』と告白したものである。《老人連》は最初から度胆をぬかれて、途方にくれていた。長官の将軍は不満そうにきびしい眼差しで自分の席からながめていたし、工兵大佐は身じろぎもせずにすわっていた。ドイツ生れの詩人は蒼ざめた顔色をしていたが、それでもほかの人がどうするかと、あたりを見まわしながら、例のつくり笑いを浮べていた。もっとも、これらのことは、この《見苦しい出来事》も、あるいはあと一分もすれば、ごく穏やかな自然な方法でうまく解決したかもしれなかった。イワン・フョードロヴィチははじめひどくびっくりしたが、誰よりもさきにわれに返ったので、幾度か公爵の話をとめようと試みた。だが、どうも思うようにいかなかったので、いまや彼は断固たる決意をもって、公爵にむかって客のあいだを縫っていった。あと一分も待ってみて、ほかに方法がなかったら、病気を口実にして、穏やかに公爵を部屋から連れて出ようと決心したのであった。いや、彼が病気だというのはまったく事実なのかもしれない、イワン・フョードロヴィチは心の中で、そうにちがいないとかたく信じきっていたのである……ところが、事態はまったく別の方向に進んでしまったのである。
公爵が客間へはいってきたばかりの最初のころ、彼はアグラーヤに脅しつけられた例の中国製の花瓶から、できるだけ遠く離れて席をとった。きのうアグラーヤの言葉を耳にしてからというもの、彼はどんなにその花瓶から遠のいてすわっても、どんなに災厄を避けるようにしても、自分はかならずあすはその花瓶をこわすにちがいないという、何かぬぐいさりがたい一種の確信が、荒唐無稽な一種の予感が、彼の胸に巣くったのである。といっても、そんなことがほんとうにできるだろうか! だが、実際そのとおりだったのである。夜会が進むにつれて、別の強烈な、しかも明るい印象が、彼の心を充たしはじめたのである。このことはすでに述べたとおりである。彼は前の予感を忘れてしまった。彼はパヴリーシチェフの名を聞きつけ、イワン・フョードロヴィチがあらためて彼をイワン・ペトローヴィチのところへ連れていって、紹介したとき──彼はテーブルの近くに席を変えて、肘掛椅子にいきなり腰をおろしたのである。そのそばにはみごとな中国製の花瓶が台の上に置かれ、それは彼の肘のすれすれになって、ほんの心もちうしろのほうにあった。
引用部前まではずっと長科白がつづいていた。そこでこの地の文だ。ドストエフスキーにおいては、非常に劇的な出来事が情景法の中で起る場合、その前に地の文で「溜め」をつくって奇妙に現前的な時間の流れを澱ませるということをやる。ここでも、引用部直前までつづいていた公爵の長科白の途中で、興奮した公爵が中国製の花瓶を倒してしまうというのが本来の時間の流れだが、その間に襞を折り込むようにして、一旦少し時間を巻き戻して公爵を興奮した饒舌ぶりを他の人物が「それまで」どう眺めていたかが時間幅を広くとって語られるのである。「客間に居合わせた人びとのなかで公爵を知っているすべての人は、……彼のこの奇怪な言動に危惧を念をいだきながら(ある者は羞恥の念をいだきながら)、びっくりして見まもっていたのであった。」しかもベロコンスカヤ夫人がその興奮した公爵をどのように見ていたかは、さらに将来の時点における彼女の感想(「ベロコンスカヤ夫人はあとで、『あと一分もつづいたら、わたしはもう逃げだすところでしたよ』と告白したものである」)として、つまり完全に現前性を逸脱した形で挿入されるのだ。
何故こうした「溜め」が必要なのだろうか。簡単に答えを言えば、次に控えている(予告さえされる!──「ところが、事態はまったく別の方向に進んでしまったのである」)劇的な出来事を十分描き切るための補助線が、未だ足りていなかったので、現前的な流れよりも情報伝達の段落モンタージュを重視して時間幅を広くとった地の文を挿入しているということ。例えば「公爵が客間へはいってきたばかりの最初のころ、彼はアグラーヤに脅しつけられた例の中国製の花瓶から、できるだけ遠く離れて席をとった。」──といった位置関係の描写はどこかで情報として伝達しておかないと、公爵が思わず中国製の花瓶を倒してしまうという情景は十全に描き切れないはずだが、「公爵が客間へはいってきたばかり」のタイミングではそれを描写できなかった──そこで描写すると不自然になる──ので、直前のタイミングで現前的な流れを阻害してでも情報伝達の段落を挿入=モンタージュしているというわけだ。だからこういう「溜め」の存在は、要するに或る複雑で劇的な場面を十全に描き切るために情報を「語り直している」のだと思えばいい。たとえば、一旦は公爵の饒舌を直接の発話として記述しておいて、後からそのお喋りの間の漸進的な公爵の心境の変化をディエゲーシスで補強する(「夜会が進むにつれて、別の強烈な、しかも明るい印象が、彼の心を充たしはじめたのである。このことはすでに述べたとおりである。彼は前の予感を忘れてしまった」)といったことも、そういう「語り直し」の一種だ。別に現前的な流れを好んで阻害しているわけではなく、多彩な情景法を可能にするためのリーズナブルな技法の一つだというだけのこと。
●『作家の日記』1巻112-115頁
「ヴラース」
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しかし、もしかしたら、菜園へ足を踏み入れたとき、ふたりはどちらもすでに自分が分からなくなっていたのではないだろうか? なるほど、その若者は、自分が鉄砲に弾丸をこめたり狙いを定めたりしたことは覚えていた。だがことによると、完全に意識はあったにしても、恐怖状態のときどうかして実際によくそんなことがあるように、ただ機械的に行動しただけなのではあるまいか? しかしわたしはそうは思わない。もしもその男が惰性だけで動きつづけている、単なる機械になってしまったのならば、おそらくそのあとで幻を見るようなことはなかったに相違ない。惰性の力を完全に使い果たしてしまったとき、意識を失ってあっさり倒れてしまったことだろう──しかもそれは発砲する前ではなくて、発射してしまったあとのことに決まっている。いいや、一瞬ごとにますますつのって大きくなるばかりの、極度の恐怖にもかかわらず、意識はそのあいだもずっときわめて明晰に保たれていたというのが、いちばん確かなところだろう。このいけにえが、加速度的につのるばかりの恐怖心のこのような圧力を、最後まで堪え忍んだということだけからも、繰り返して言っておくが、このいけにえが偉大な精神力に恵まれていたことは疑う余地もない。
銃の装填は、なんと言っても多少の注意力を必要とする操作であることに、注意を向けることにしよう。このような瞬間にあって最も厄介でどうにもやりきれない問題は、わたしに言わせれば、自分の恐怖心、自分を圧しつぶそうとする意識を振り切ることができるかどうかということである。普通の場合、極度の恐怖に襲われた人間は自分の思弁、自分に強い衝撃を与えた対象やら意識を、もはや振り切ることができないものである。彼らはその前に釘づけにされたように立ちすくんで、まるで魔法にでもかけられたように自分の恐怖にまともに目をすえて動かない。ところがこの若者は念入りに鉄砲に弾丸をこめた、彼はそれをよく覚えていた。またそのあとでどんなふうに狙いを定めたかも覚えていたし、ぎりぎり最後の瞬間まで、ありとあらゆることをはっきり記憶していた。彼にとっては鉄砲に弾丸をこめるというプロセスも、あるいは苦しみ悩むその魂の痛みを和らげることであり、ひとつの逃げ道であったのかもしれない。それで彼はほんの一瞬であってもなにか逃げ道となるような外部の対象に喜んで自分の気持を集中させたのかもしれない。断頭台でいま首を斬られようとしている人たちにもこれはよくあることである。デュ・バッリ夫人は刑吏に向かって「Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!」(もう一分だけ、首斬り役人さん、もう一分だけ待ってください!)と叫んだ。もしもその猶予が与えられたならば、この与えられた一分間に彼女はおそらく前より二十倍もひどい苦しみを味わったに相違ないが、彼女はそれでもなお叫びつづけ一分間の猶予を懇願したのである。しかしながらもし銃の装填がこの罪びとにとってデュ・バッリ夫人の場合の「encore un moment」のようなものであったと仮定するならば、このような瞬間を味わったあとで、いったんは振り切った例の恐怖にふたたび立ち戻り、狙いを定めたり発射したりという仕事を、もはやつづけることはできなかったに相違ないことは、いまさら改めて言うまでもない。そのときにはなんのことはない、両手はしびれて言うことをきかなくなり、たとえ意識や意志は完全に保たれていたにしても、鉄砲は自然にその手から落ちてしまったことだろう。
「或る若者が、菜園で銃を撃つ寸前で意識を失った」。これだけの客観的事実をどのようにディエゲーシスにより折り広げていくかの一例。
とにかくあらゆる可能性を考慮してその出来事の持つ潜在的な可能性を汲みつくすこと。ここではあからさまに「しかし、もしかしたら……したのではないだろうか?」「だがことによると、……しただけなのではあるまいか?」と問題提起的な疑問形を多用して、それを受けた推測という形(「なるほど、……」「……に相違ない」「……したことだろう」)で叙述を豊かにしていく。そうやって右から左に聞き流しているだけでは絶対に見えてこない高次の認識を導き出し、ディエゲーシスに焼き付けていく(「このいけにえが、加速度的につのるばかりの恐怖心のこのような圧力を、最後まで堪え忍んだということだけからも、このいけにえが偉大な精神力に恵まれていたことは疑う余地もない」)。しかもこの推測能力はつねに具体的だ。もし若者が惰性だけで動き続けていたのなら、力を使い果たして意識を失うのは発砲する前ではなくて発射してしまった後でなければならない(実際には発砲する前に倒れた)、そして事実がそうなっていないかぎりは、この若者は極度の恐怖にもかかわらず意識をずっと明晰に保っていたのだ──この推理はほとんど探偵的な説得力を持っている。心理的事実に精通した名探偵。
第二段落では読者の「注意を向ける」領域を限定することによって、さらにこの出来事の現象的な細部に分け入っていく。ここでも「普通の場合、……「ところがこの若者は……」と潜在的にあり得た可能性と比較しつつの現象の豊かな分析、また表面からは見えてこない深部へ推測(「彼にとっては……であったのかもしれない」)によって踏み込むという叙述のパターンが見られる。面白いのは、さらに潜在的にあり得た可能性との比較ということでデュ・バッリ夫人のケースをわざわざ引用していることだろう。これによってさらに現象の分析が進み、「このような瞬間を味わったあとで、いったんは振り切った例の恐怖にふたたび立ち戻り、狙いを定めたり発射したりという仕事を、もはやつづけることはできなかったに相違ないことは、いまさら改めて言うまでもない」とほとんど確定的な推測を導き出すことができているのだ。
ドストエフスキーの叙述を切り開いていく力は凄い。
●『悪霊』下555-556頁
「スタヴローギンの告白」
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三日後、私はゴロホワヤ街に戻った。母親は包みをかかえてどこかへ出ていくところで、主人はもちろん留守だった。私とマトリョーシャが残った。窓はあけ放たれていた。このアパートには職人が住んでいたので、一日じゅう、あちこちの階から槌の音や歌声が聞えていた。一時間ほどが過ぎた。マトリョーシャは自分の部屋のベンチに腰をおろし、私のほうに背を向けて、針を持って何やらいじりまわしていた。私は時計を取り出した。二時である。私の心臓ははげしく動悸を打ちはじめた。私は立ちあがって、彼女のほうへ近づいていった。隣室にはゼラニウムの鉢が窓にたくさん置いてあり、陽光が明るく輝いていた。私は彼女の近くの床の上にそっとすわった。彼女はぴくりとふるえ、はじめはたいへんなおびえようで、ベンチから跳びあがった。私は彼女の手を取って、そっと接吻すると、ベンチの上に押しつけるようにして彼女をまたすわらせ、じっと彼女の目を見つめた。私が彼女の手に接吻したことで、ふいに彼女は小さな子供のように笑いだしたが、それも一瞬のことだった。つぎの瞬間にはもう彼女ははげしい勢いで跳びあがり、顔に痙攣が走るほどのはげしい驚愕に打たれていたからである。彼女は、無気味なほどじっと動かない目で私を見つめ、唇が、泣きだそうとでもするように、ぴくぴくとふるえだしたが、それでも声は立てなかった。私はまた彼女の手に接吻して、膝の上に抱きあげた。すると彼女は急に身を引いて、恥ずかしそうに微笑したが、その微笑は妙にゆがんでいた。恥ずかしさで顔じゅうがぱっと赤くなった。私はひっきりなしに何やらささやいていた、酔っているようだった。とうとう、ふいにある奇怪なことが起った。それは私のけっして忘れられないことであり、私を茫然とさせたことである。少女はいきなり両手で私の首にしがみつくと、ふいに自分のほうからはげしい接吻をはじめたのである。彼女の顔には完全な歓喜の情があらわれていた。私は立ちあがって、そのまま行ってしまいそうになった。こんな幼い者がと思い、ふいに私が感じた憐れみの気持から、私は不快でならなくなったのである。
うーん、非常に奇妙な情景法。内容としては「私」と少女の(話の展開上重要な)或る行為を描いているだけのはずなんだが、なぜか普通の書き方をしていない。
普通の書き方、というのは二人の人物の或る行為を描いているのだから、まずこうなった、次にこうなった、そしてこうなった、さらにこうなった、ってことを現前的な時間の流れに沿って単線的に並べて瞬間瞬間を追っていけばいいはずなのだが、どうも引用部では複数の瞬間を行きつ戻りつして色んなことを並行的に描こうとでもしているかのようだ。例えば「私が彼女の手に接吻したことで、ふいに彼女は小さな子供のように笑いだしたが、それも一瞬のことだった。つぎの瞬間にはもう彼女ははげしい勢いで跳びあがり、顔に痙攣が走るほどのはげしい驚愕に打たれていたからである。」──という個所においては、私の接吻から少女の顔の痙攣までの様々を時間を凝縮して一挙に描き切っている。これはあきらかに映像的ではない。むしろ複数の写真を意図的に同時的に見せているかのような趣き。「すると彼女は急に身を引いて、恥ずかしそうに微笑したが、その微笑は妙にゆがんでいた。恥ずかしさで顔じゅうがぱっと赤くなった。」──この文章も妙。微笑したのと身を引いたのと顔じゅうが赤くなったのと、どういう順番で起ったのか? それをわざと分からなくするかのように書かれている。
また、焦点や視点もいまいち定まっていない。「彼女は、無気味なほどじっと動かない目で私を見つめ、唇が、泣きだそうとでもするように、ぴくぴくとふるえだしたが、それでも声は立てなかった。」──これはたった一文なわけだが、目と唇という、基本的には同時に凝視できないものをあたかも同時に凝視しているかのように、喩えていえば、複眼の拡大鏡を用いて描写したかのような記述になっている。似たようなものとして、「少女はいきなり両手で私の首にしがみつくと、ふいに自分のほうからはげしい接吻をはじめたのである。彼女の顔には完全な歓喜の情があらわれていた。」──の文章を挙げておこう。これも接吻されていたら「完全な歓喜の情」など仔細に眺めることなどできないのではないか? 単眼の焦点では捉えられないものをわざと記述することによって、情景法の中に印象の強度を生もうとしているようにしか思えない。
あとは、「私」について語られる個所の奇妙さにも触れておこう。突然挿入される「私はひっきりなしに何やらささやいていた、酔っているようだった。」の文。あたかも自分自身を他人のように眺め、しかも瞬間の観察ではなく或る程度時間幅を取って状態(「ささやいていた」──「ている」形アスペクトに注目!)を観察してみせたような趣きだ。それから、「とうとう、ふいにある奇怪なことが起った。それは私のけっして忘れられないことであり、私を茫然とさせたことである。」──これは明らかに登場人物たちと「現在」を共有しない後の視点に立つ語り手(=回想時のスタヴローギン)からの記述だ。「とうとう」なんて副詞を情景法の中で使うには、まあ当然語り手が介入していなければなるまい。
余談。引用部でのメインは「私」と少女の行為なのだが、そこへ記述を集中させていく前に、「……ている(いた)」形アスペクトをシンプルに用いて──「窓はあけ放たれていた」「このアパートには職人が住んでいたので、一日じゅう、あちこちの階から槌の音や歌声が聞えていた」「マトリョーシャは自分の部屋のベンチに腰をおろし、私のほうに背を向けて、針を持って何やらいじりまわしていた」──わりと具体的な場面設計を早い段階で済ましていることにも注目しよう。こういう基礎ができているからこそ後の情景法の強度が生きる。
●『作家の日記』1巻110-111頁
「ヴラース」
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しかしここに見られるのはただの無感覚だけではぜんぜんなかった。そのうえさらになにかもっと一種特別なもの──つまり神秘的な恐怖感、人間の魂を左右するきわめて巨大な力が作用していた。すくなくとも、事件の結末から判断すると、それがあったことはまず疑いない。けれどもこの若者のたくましい魂はまだこの恐怖感を相手に戦いをいどむことができた。彼はそれを証明してみせた。だがそうは言っても、これははたして力なのだろうか、それとも無気力の極限なのであろうか? おそらく、それもこれも同時にあり、正反対なものが隣り合わせになっていたに相違ない。だがそれにもかかわらずこの神秘的な恐怖感は単にこの闘争を中止させなかったばかりか、かえってこれを長引かせ、ほかでもない、その罪深い男の心から感動という感情をすっかり追い出すことによって、この闘争を決着に導くためにひと役買ったのも、おそらくこの恐怖感だったに相違ない。それを抑えつければ抑えつけるほど、ますますどうにも手のつけようのないものになってきたからである。恐怖感というものは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感動や高尚な感情に対して麻痺させ冷淡にさせる。この罪をおかした男が、もしかすると、恐怖のために虚脱するほどすくみあがっていたのかもしれないが、ともかくも苦杯を飲みほす前の一瞬をもなんとか持ちこたえたのはそのためなのである。わたしはまた、犠牲者と迫害者とのあいだの相互の憎悪感はこの数日間まったく消えてしまっていたにちがいないと考える。誘惑されるほうの男はときどき突発的に病的な憎悪感にかられて自分自身や、教会で祈っている周囲の人たちを憎んだことがあったかもしれないが、しかし相手のメフィストフェレスを憎むことだけはほかの誰よりもすくなかったに相違ない。ふたりで力を合わせてこのことに決着をつけるためには、お互いに相手がいなくてはかなわないと、ふたりはどちらも感じていたのである。どちらもおそらく自分ひとりだけで決着をつけるには力が足りないと考えていたにちがいないのだ。それにしてもこのふたりはなんのためにこんなことをつづけていたのだろう、いったいなんだってまたこんな苦しみを身に引き受けたのだろうか? だがそれはともかくとして、ふたりはこの盟約を破ろうとしても破れなかったのである。もしこのふたりの約束が破棄されたならば、たちまち前よりも十倍もはげしい憎悪感がふたりのあいだに燃え上がって、おそらく殺人事件が間違いなく発生したことだろう。受難者のほうが自分を苦しめる相手を殺してしまったに相違ないのだ。
語り手が記述対象(複数の登場人物)と距離を取りながら断定を避けつつ事件・出来事の核心を描いていくという、ドストエフスキーのディエゲーシスの特異性がよく現れた部分。
ここでの記述対象は「犠牲者」と「迫害者」と指示される若者二人。語り手は推理を駆使しつつあくまで外側=中立の立場から二人の魂に迫っていく。「……したことはまず疑いない。けれども……」「おそらく、……に相違ない」「もしかすると、……していたのかもしれないが、……」「わたしはまた、……していたにちがいないと考える」「ときどき……したことがあったかもしれないが、しかし……しなかったにちがいない」「おそらく……していたにちがいないのだ」──記述対象をさっさと裁断し評価を下してしまう性急さや自信からもっとも遠い立場から語り手は「この罪をおかした男」について書いている。当然ながら「推理」がディエゲーシスを展開する要めとなるからには、自問自答的な疑問形を文体として駆使するのは、勿論だ。「だがそうは言っても、これははたして……なのだろうか?(おそらく、……)」「それにしても……いったいなんだって……したのだろうか?(だがそれはともかくとして……)」
ざっと見ても「おそらく……したに相違ない」の多用が目立つ。
もちろん、断定的な文章もある。冒頭に出て来る「しかしここに見られるのはただの無感覚だけではぜんぜんなかった。そのうえさらになにかもっと一種特別なもの──つまり神秘的な恐怖感、人間の魂を左右するきわめて巨大な力が作用していた。」の文章がまずそれだ。だが、これはその後段落を通じて展開される推理の発端となる一つの表面的な事実の確認をしているにすぎない。つまりこの断定は発せられた時点で用済み(投げ捨てられるべき梯子)になる結論ではなく、そこから遡行してステレオタイプな見掛けを覆していくための出発点なのだ。
もう一ヵ所、断定的な文章が出て来るのは「恐怖感というものは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感動や高尚な感情に対して麻痺させ冷淡にさせる。」──これだ。これは語り手の推理の展開を補強するための心理的な一般法則を述べたもの。客観的かどうかは別にして、これが登場人物の心理を直接断定的に述べたものではないことは注目する必要がある。基本的に、この語り手は記述対象のデリケートな部分については「この対象(この人物)はこれこれこうだった」と性急に断言してしまいたくないので、それに近いことをしたい時には一般法則を装った文体を用いる傾向がある、ということかもしれない。
そしてはやり記述の中心になっているのは複数の記述対象の間の濃密な関係性だ。一方は相手に闘いを挑み、苦杯を飲み、病的に憎悪し、自分を苦しめる相手を殺してしまいかねないほどの窮地に追い詰められる。他方は相手を誘惑し恐怖させ、それでいて相手がいなくてはかなわない、自分ひとりだけで決着はつけられないと感じている。相互の憎悪の元となる逆説的な「盟約」。それが書けるのも語り手がデリケートに断言を避けつつ柔軟で中立的な立場(対象との距離感)を維持しようとしているからだろう。
●『ふたつの旗』下690頁
第三十五章
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システィナ礼拝堂のルカ・シニョレッリやボッティチェリは、美しいという点でも感動的だという点でもミケランジェロに引けをとらなかった。これらの壁のまえに呼び集められた芸術家たちは、知識と技量と心情のすべてを、厳粛にわが手のうちに凝集させたのだった。傑作というものがどういうものか人々にはわかっていた。ラファエロにとっては、ここがまさに自分の家だった。四百年にわたる剽窃、模写、卑俗な着色版画、アカデミー、凡作、くすくす笑い、自明の理などがすべて霧消する。ようするに人は世界最大の画家のひとりをまえにしている。そして彼はローマとおなじく生気にみち、大昔からの存在であり、若く澄みきっており、なにものによっても破壊されない。ここに『パルナソス山』があり、『アテネの学園』がある。最初の一日から明るく完璧だったウンブリアの朝の光のなかで、西欧の古典主義が誕生したところだ。『ボルセーナのミサ』がここにある。そしてすでにマネは凌駕されている。アンヌ=マリーもこれらのよろこびをたっぷりとわかちあっていた。なにも感じないかぎり、彼女はただ表面をとりつくろうためにお義理になにか言うことを考え出すような娘ではなかった。クワトロチェントの聖母たちは、多くの愛らしいお嬢さんがたに語りかけるのかもしれなかった。すぐれた詩人たちを読んでいるとしても、彼女たちはラファエロをまえにしながら冷淡そのものであることも大いにありえた。というのも感嘆に値するラファエロは、彼を称揚する教師たちによって、逆にわれわれに隠蔽されているのだが、他の教師たちがさんざん悪くいうことでいわば返してくれたのであり、とどのつまり彼は趣味の試金石になっているのだったから。アンヌ=マリーのなかを流れるラテン民族の血とギリシアへの愛が、彼女をラファエロのもとへ導いていた。古代ローマはミシェルに負けないくらい彼女にとっても生きた町であり、古い建物にかんしては彼よりはるかによく知っているといってもいいほどで、彼女のほうが連れに歴史を話してきかせたのだった。
予言的かつ戯画的なディエゲーシスというルバテの文体がよく現れた引用部。
冒頭から「これらの壁のまえに呼び集められた芸術家たち」「ラファエロにとってはここがまさに自分の家」と固有名を勝手に人化して生動させているところでルバテのセンスが躍如。その後につづく「……などがすべて霧消する」「……なにものによっても破壊されない」という予言的な言い切りは、しかし押し付けがましくなく様々な要素をなめらかにまとめながら文章を繋いでいく。
次の文にも注目。「最初の一日から明るく完璧だったウンブリアの朝の光のなかで、西欧の古典主義が誕生したところだ」──この一節のちょっとした事実の歪曲(誇張)によって語り手は真理性の伝達という責任から或る程度解放され、ディエゲーシスに文体的な工夫を凝らす充分な柔軟性が与えられる。「ようするに人は世界最大の画家のひとりをまえにしている」「そしてすでにマネは凌駕されている」といった言い切りにもこの解放感がある。
文法的には「というのも……とどのつまり彼は趣味の試金石になっているのだったから。」──この一文は前文とセットになって或る派生的な事実とそれを生じさせる理由とを語るちょっとした逸脱を構成しているが、その逸脱、ディエゲーシスの中のアクセントは、「というのも……しているのだったから」という形の文法的な軽妙さによってそもそも可能になっていると見なせる。
●『ふたつの旗』下707
第三十六章
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プラスコヴィア・ヴァシリエヴナの夜会は、スタイルからいえば墓石の上の幻想的な酒盛りといったところだが、とにかく大成功だった。どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない黒褐色の肌の若者をパートナーに、オルガ・パルフィエノヴナがチャイコフスキーの曲にあわせて踊る。二人ともたいへんな才能の持主だ。金髪の大公妃はムソルグスキーとシューマンの曲を歌う。ちょっと弱々しい声だが、その声の使い方は驚嘆に値する。彼女は第七天の処女であると同時に、欲望に掘り返された愛人でもある。飲み物もたっぷりした夜食のあと、ヴァシリ・ヴァシリエヴィッチが何人かかたらってコーカサス・ダンスを踊りだし、次にコーラスで軍歌を歌う。それらの歌は彼らの「かわいい鼓手」や「フランドルの擲弾兵」にあたるのにちがいないが、全員が三部合唱で歌いはじめ、浮かれだし、ぶちこわし、豪快きわまりない兵隊あがりたちといっしょになってお祭り騒ぎに打ち興じ、民衆とともに限りない苦悩を唱えるように歌う。聞いていても泣きたくなるほどだ。こういうロシア人たちはみんな詩人だ。みんな才能に恵まれている。そういう彼らがミシェルをむかつかせる。こういう浪費、アルコールに溺れてぼろぼろになった、こういうすばらしい才能、さんたんたる敗北と羽目をはずしたどんちゃん騒ぎのあいだの大きな縦揺れにはうんざりする。こういう一団のロシア人たちは、ホメロスいらい全人類の文学全体にふくまれるよりもっと多くの叙事詩、愛の悲劇、家族、血、思想を自分たちの荷物として引きずっている。しかしこういう悲劇、牧歌、道化芝居はもはや読むに耐えるような連載小説のネタさえ提供してはくれない。文明化されるまえに退廃したロシア人たちは、すべてを凡作にかえてしまう。アンヌ=マリーはまるでコサックの少女のように、彼らの歌とワインとウォツカと踊りのなかに飛びこむ。こういうあやまった趣味にはおどろかずにはいられない。こういうロシア人たちがどれほど陳腐な連中か、彼女だって感じとってしかるべきなのに。
戯画的なディエゲーシスというルバテの十八番。単なる一連の事実に比喩をほどこして戯画化して華やかにし、それらを予言的ないし黙示録的情景として流れのなかで繋ぎ合わせていく。加えてここでは単なる戯画化だけでなく「皮肉」の切っ先も含まれている。「スタイルからいえば墓石の上の幻想的な酒盛り(冒頭からすでに皮肉!)」「第七天の処女であると同時に欲望に掘り返された愛人」「ホメロスいらい全人類の文学全体にふくまれるよりもっと多くの叙事詩」。事実の記述にこうした屈曲(誇張?)を持たせることによって語り手は真理性の伝達という責任から或る程度解放されるし、ディエゲーシスがときに落ち込む知識の羅列の息苦しさを解きほぐすこともできる。こうしたディエゲーシスを書くために、語り手は意識的に少しタカをくくった目線で物事を見ているようだ。例えば「どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない」という一方的臆測や、「ロシア人たちはみんな詩人だ」といった短絡的な一般化、「こういう悲劇、牧歌、道化芝居はもはや読むに耐えるような連載小説のネタさえ提供してはくれない」といった誇張された価値判断、「文明化されるまえに退廃したロシア人たちは、すべてを凡作にかえてしまう」という客観を装った主観的予言。
もう一つルバテの特徴であるディエゲーシス内の「飾り」もここではふんだんに見られる。「どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない黒褐色の肌の若者をパートナーに、オルガ・パルフィエノヴナがチャイコフスキーの曲にあわせて踊る」──まったくどうでもいい細部なんだけれど面白い。
●『作家の日記』1巻106-107頁
「ヴラース」
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ところがである。どんなに恐ろしい「大胆不敵」なことでもこの誘惑者にはあまりにも月並みすぎると思われたのだ。そこで彼は前代未聞の、考えも及ばなければいまだかつてなされたことのない、恐れを知らない行為を思いついた。そしてそれを選んだということに民衆の世界観が残るくまなく明示されたわけである。
考えも及ばない行為? だがそうは言っても、彼がよしこれにしようと決めた、そのことひとつだけを取ってみても、彼はすでに、ことによると、前からそのことを考えていたのかもしれないことを、示している。もしかすると、もうずっと前から、少年時代から、この空想は彼の心の中に忍び込み、ぞっとするような恐怖感と、またそれと同時に苦しいほどの満足感で、その心を揺り動かしていたのかもしれない。そうしたことを、鉄砲のことも、菜園のことも、彼はもうずっと以前から思いついて、ただ恐ろしい秘密としてそっと心の中にしまっておいただけであること──その点についてはほとんど疑問の余地はない。それを思いついたのは、もちろん、実行するためではない。それに、もしかすると、ひとりだけでは思いきって実行するようなことはしなかったかもしれない。ただなんとなくこの幻影が彼の気に入り、ときどき彼の心に忍び込み、彼を誘惑していただけのことである。そして彼はそれに心を動かされておずおずと幻想にふけったり、恐怖に思わずぞっとなって、尻込みをしたりしていたのだ。ただ一瞬こうした前代未聞の大胆不敵な行為さえやってのければ、あとはどうなろうと勝手にしやがれというわけなのである! だがそんなことをしたら最後、自分はもう永遠の破滅だと、彼が信じていたことは、いまさら言うまでもない。だがそのかわり──「これでおれも高みの絶頂に立ったことになる!」と言えるわけなのである……。
第二段落でさかんに細かな事実に基づく推測(「ことによると……したのかもしれないことを、示している」「もしかすると……していたのかもしれない」)を用いて表面的な観察からは見えない叙述を切り開いているのは注目に値するが、ここではもう一点、第二段落冒頭の文章に注目しよう。「考えも及ばない行為?」──この一文は、前段落の内容を受けて、あたかもそれが他人の口から言われたかのようにまったく別のアクセントで前段落の一節「考えも及ばなければ……」を反復することによって、前段落と対話的な関係を築いている。その効果はさまざまだが、まずは、前段落までで拡散しかけていたないしは惰性になりかけていた話題を一挙に集中させて、段落展開を引き締める効果があるだろう。また、ここでは疑問形になっているが、他にも加えるアクセントは色々に選べるはずだ。それによってバフチンが言うところの「対話においては、話す者が相手の主張を文字通りに反復しながら、そこに新しい評価を組み入れたり、疑義や憤慨、アイロニー、嘲笑、愚弄等々といった自己流の様々なアクセントづけを施したりする」すなわち同語反復でありながら「複声的な言葉」が現出するわけだ。
●『ふたつの旗』下700頁
第三十六章
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今はもう、この若者と娘から発言権をとりあげなくてはならない。二人の独白や対話にわれわれはこれほど長いあいだ耳を傾けてきたわけだが、これ以上つづけたところで、もうなにもわからないし、あまりにも多くの嘘を聞かされるだけなのだ。あれほど熱烈な内省の愛好者だったミシェルも、もう自分の心のなかを読みとりたいとは思っていない。彼は娘に心のなかを読みとる方法を教えこんだが、娘のほうは、そのおそるべき贈り物をどう利用したか、われわれに話してくれるだろうか?
章冒頭のディエゲーシス。完全に語り手が前景化して語っているのだが、「今はもう」と小説内の記述のなかでの「今」という時点を指示していることに注目。語り手が「小説の叙述が今この段階に到った以上は……」と自己言及しているわけ。論文なんかでは良くあることだが、小説においては珍しい。また「われわれはこれほど長いあいだ耳を傾けてきた」の文では、語り手+読者をひっくるめて「われわれ」と称しているが、これもやはり論文などではよくあるが小説では珍しい。
●『カラマゾフの兄弟』4巻191-194頁
第十一篇第六章
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モスクワから帰って以来、イワンがスメルジャコーフと話をしに行くのは、これでもう三度目だった。あの惨事のあと帰郷した日に訪ねて話したのが最初で、その後二週間たってもう一度出かけたのである。だが、この二度目の会見のあと、彼はスメルジャコーフを訪ねることをやめたので、ここひと月あまり彼はもとの下男に会っていなかったし、その消息もほとんど聞いていなかった。あの時イワンがモスクワから帰って来たのは、父の横死の五日目だったが、そのため彼は父の柩を見ることができなかった。葬式はちょうど彼が帰る前日にすんでいたのだ。イワンの帰宅が遅れたのはこういうわけだった。アリョーシャは兄のモスクワの住所を正確に知らなかったので、カチェリーナのところへ駆けつけて電報を打ってもらおうとしたが、彼女もやはり正確な住所を知らなかったので、自分の姉と伯母にあてて電報を打った。モスクワへ到着したらすぐにイワンがそこへ立ち寄るだろうと考えたのである。ところが彼が訪ねて来たのは、到着後三日たってからだった。電報を見ると、もちろん彼はすぐさま大急ぎで飛んで帰って来た。この町へ着くと、彼はまず最初にアリョーシャに会ったが、弟がこの町のあらゆる人々の意見に逆らってミーチャを露ほども疑わず、いきなり真犯人としてスメルジャコーフの名をあげたのにびっくりした。ついで彼は警察署長や検事に会い、予審や逮捕の模様をくわしく知ると、なおいっそうアリョーシャの意見に驚いたが、結局アリョーシャの意見は兄を思う極度に興奮した感情と、兄に対する同情のためだと考えた。アリョーシャがミーチャを非常に愛していることは、イワンも知っていたのである。ついでに長兄ドミートリイに対するイワンの感情についてひと言だけ述べておくなら、イワンは兄が大嫌いで、時どきは精いっぱいの同情を感じることがあっても、それは嫌悪に近い非常な侮蔑のまじった同情だったのである。彼にとってはミーチャのすべてが、その容貌さえもが、不愉快きわまりない癪の種だった。カチェリーナのミーチャに対する愛を、イワンは憤慨の眼でながめていた。
もっとも、被告としてのミーチャに彼が会ったのも、同様に帰郷の当日であるが、この面会はミーチャの有罪に対する彼の確信を弱めるどころか逆に強めた。彼が会った時の兄は不安に苦しみ、病的に興奮していた。ミーチャはやたらにしゃべりまくったが、放心していて投げやりで、非常にけわしい口のきき方をし、スメルジャコーフを非難しながら恐ろしくしどろもどろなことを言っていた。何よりも彼が話題にしたのは、死んだ親父が彼から《盗んだ》という例の三千ルーブリのことであった。『おれの金なんだ、おあれはおれのものなんだ』とミーチャは繰り返した。『おれが盗んだとしても、おれは正しかったはずだ』彼は自分に不利なあらゆる証拠をほとんど反駁せず、自分に有利な事実を証明する時もやはりしどろもどろで、つじつまの合わないことを言っていた。──総じてイワンに対しても、また他の誰に対してもまるで弁明する気がないようで、反対に腹を立てたり、傲然として非難を無視したり、悪態をついたり、いきり立ったりするのである。ドアが開いていたというグリゴーリイの証言に対しても、彼はただ軽蔑的にせせら笑い、『悪魔が開けたのさ』と言うだけで、この事実に対して何ら筋道の立った説明をすることはできなかった。そればかりか、《何をやっても許される》と公言してはばからぬ者には人を疑ったり訊問したりする権利はないと乱暴に言い放って、この最初の面会の時にイワンを侮辱しさえした。総じてこの時のイワンに対する態度は、非常によそよそしかった。ミーチャとの面会を終えると、イワンはその足でスメルジャコーフのところへ向かった。
モスクワから飛んで帰る汽車のなかで、彼はスメルジャコーフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の会話のことを絶えず考えつづけた。多くのことが彼の心をかき乱し、多くのことが疑わしく思われた。しかし予審判事に供述をする際には、イワンはしばらくその会話のことを伏せておいた。すべてをスメルジャコーフに会うまで留保したのである。スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。医師のヘルツェンシュトゥーベと、病院でイワンに応対したワルヴィンスキイは、イワンの執拗な質問に対してスメルジャコーフが癲癇を起こしたことは間違いないと断定し、『惨事の起こった日にあの男は仮病を使っていたのではないか』という質問を受けると、むしろ驚いたぐらいだった。ふたりの説明によると、今度の発作は並み大抵の発作ではなく、数日間にわたって継続反復されたために、患者の生命は一時ひじょうな危険におちいったが、いろいろな処置を施した結果、今では生命に別条はないと断言できる、しかし恐らくは(と医師のヘルツェンシュトゥーベはつけ加えた)患者の理性は《一生涯とは言わぬまでもかなり長期間にわたって》部分的に異常を呈するのではないかということだった。『するとあの男はいま発狂しているのですか』イワンがせき込んでこうたずねると、ふたりの医師は『完全な意味ではまだそこまで行っていないが、多少の異常は認められる』と答えた。イワンはその異常さがどんな程度か、自分で確かめようと思った。病院ではすぐに面会が許された。スメルジャコーフは個室に入れられて、寝台に寝ていた。そのすぐ横にもうひとつ寝台があり、その寝台には衰弱しきったこの町の町人が寝ていたが、水腫で全身にむくみが来ていて、明日あさっての命らしかったので、彼のために会話が邪魔される恐れはなかった。イワンの姿を見ると、スメルジャコーフは疑わしげににたりと笑い、最初の瞬間むしろおじけづいたように見えた。少なくともイワンの頭には、一瞬そんな考えがひらめいた。しかしそれはほんの一瞬のことで、反対にそのあとずっと、スメルジャコーフは落ち着きはらってむしろイワンを驚かしたほどである。……
それまでの叙述の流れを切り替えて二ヵ月ほど遡って、過去から現在に至るまでの出来事を要約法的に述べていくオーソドックスなディエゲーシス。小説を書くのに必要な技法がいろいろ詰まっている。
まず前後関係をはっきりさせてなんでそうなってしまったのかという「事情」を丁寧に伝えようという意志が仄見えることに注目。「イワンの帰宅が遅れたのはこういうわけだった。……」本当は作者は或る出来事を生じさせるために偶然を操作しているのだが、その虚構の不自然性を減却するために事情の均し(手順の補完)も時に必要となってくるということ。つまり「こうしたことが起こるのも不自然ではない」という状況も一応フィクションながらフォローするわけ。基本的に、偶然を利用する場合は、主人公にとってはまったく思い掛けないことだが、客観的に考えれば充分あり得ること、でなければならない、すなわち主人公の主観に偏りがあって見えない事情があったのでなければならない。この場合はアリョーシャもカチェリーナもイワンのモスクワの住所を知らなかったというミスがイワンの帰宅の遅れを生んでいる。
第一段落の前半はそのように遡行的に事情を補完しているのだが、「もちろん彼はすぐさま大急ぎで飛んで帰って来た」の文からは、フェーズが変わる。語り手がほとんどイワンの肩の後ろからくっついて離れないような視点を取り、ディエゲーシスはイワンの見聞記のような趣を帯びて来るのだ。基本的にイワンが「この町」であちこちに移動して見、聞いたことを淡々と記録しつづけていて、時にそのことについての感想が書かれる場合でもそれはあくまでイワンの「驚き」や「同情」や「確信」に限定されている。つまり記録されるのは、イワンが主体的に動いて、人に会ったり質問したり観察したりして収集された事実とそれらがイワンに与えた一時的な印象だ。このように語り手が登場人物の肩越しという位置に定位して見聞を集めるという形で「出来事」を要約法的に語る方法は、ディエゲーシス執筆の方法論として考えると、なかなか使い勝手がある。この場合、イワンでなければ集められない事実、踏み込むことのできない側面、引き出すことのできない反応、掴むことのできない観察や判断を具体的に計算・設定しておく必要がある(言うまでもなくこの時点ですでに、イワンはミーチャの有罪とスメルジャコーフ=自分の無罪を無意識に望んでいる)。
「モスクワから飛んで帰る汽車のなかで、……」からの段落は、前段落で次に起こる出来事(スメルジャコーフとの面会)が予告されたのを受け、一旦時を遡ってその出来事の持つ重要性を書き重ねることから始めている。記述の順番を前後させて、ミーチャに会う前(そしてアリョーシャに会った後──「ついで彼は警察署長や検事に会い、……」)に既に起こっていたことでスメルジャコーフに関係あることすなわちモスクワから帰る汽車の中で考えたこと、及び予審判事との会話のことを挿入し、「スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。……」以降の記述を準備する。小説技法的に注目すべきは、ここではイワンが中心人物としてすべてのディエゲーシスが書かれているが、こうした出来事を書く順番の操作が決してイワンの「回想」によって可能になっているのではない、ということだ。イワンがミーチャと面会してから医師に行く間に「モスクワから飛んで帰る汽車のなかで」のことを思い出したわけではない。語り手の便宜によってそうした事実が補足されているだけのことだ。
第三段落においては、「スメルジャコーフは当時、町立病院にいた。」〜「病院ではすぐに面会が許された。」までが要約法で、それ以降が情景法になっている、つまり要約法から情景法への以降がスムースに行われていることにも注目せよ。この要約法は、スメルジャコーフとの対面という現前的場面に入る前に、時間的にその直前に位置する出来事、イワンと医師のヘルツェンシュトゥーベを対話させるという出来事を配置・虚構して、イワンがスメルジャコーフに対峙する前にどんな心境にありどんな予断とどんな疑問を抱いていたか、その態勢を具体的に描き込むために用いられていると考えられる。逆に言うとそういう作為がなければこうも要約法から情景法へとスムースに切り替えることなどできない。ドストエフスキーは要約法の使い方を良く分かっている。ミーチャとの面会の場面も一種の要約法だが、ヘルツェンシュトゥーベとの会話の要約法的叙述にせよ、ミーチャとの会話の要約法的叙述にせよ、重要な相手の科白を『……』で括って引用しながらそれに対するイワンの認識・観察を対置して立体的にディエゲーシスを構成している点は、「複数の登場人物間の差異を角逐させてそのダイナミズムによって叙述を生成する」ドストエフスキーの文体の特徴が良く現れている。別に主人公の自意識に定位しなくても、登場人物たちの肩越しに定位して語り手が一種の柔軟性を保持していれば「対話性」のある文体は実現可能だ。
また、引用部の一連のディエゲーシスにおける(イワンの)場所移動の素早さにも注目しよう。「彼はまず最初にアリョーシャに会ったが、……」「ついで彼は警察署長や検事に会い、……」「被告としてのミーチャに彼が会ったのも、同様に帰郷の当日であるが、……」「ミーチャとの面会を終えると、イワンはその足でスメルジャコーフのところへ向かった。」──あたかも場面と場面、空間と空間をモンタージュするかのようにイワンは場所から場所へとワープする。要約法だからそれでいい、すなわち必要なことだけを書けばいいんだけれども、このワープ感覚の大胆さは技法的に面白い。
あと、文法的には「ついでに長兄ドミートリイに対するイワンの感情についてひと言だけ述べておくなら、……」の文が注目に値する。『罪と罰』上122頁の「ついでに心にとめておきたいのは、……」なんかと同じでこういう逸脱はドストエフスキーのディエゲーシスではよくあること。語り手の権限を利用して、文章の流れを遮ってでも、後付け的に事情や文脈を補足してよいということ。
●『罪と罰』上5-7頁
第一部第一章
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七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩きだした。
彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建の建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸に近かった。賄いと女中つきでこの小部屋を彼に貸していたおかみの部屋は、一階下にあって、彼の小部屋とははなれていたが、外へ出ようと思えば、たいていは階段に向い開けはなしになっているおかみの台所のまえを、どうしても通らなければならなかった。そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持が恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった。借りがたまっていて、おかみに会うのがこわかったのである。
しかし、彼はそんなに臆病で、いじけていたわけではなく、むしろその反対といっていいほどだった。ところが、あるときから、彼はヒポコンデリーに似た苛立たしい不安な気持になやまされるようになった。彼はすっかり自分のからにとじこもり、世間からかくれてしまったので、おかみだけでなく、誰と会うのもおそれた。彼は貧乏におしひしがれていた。しかしこの頃はこのぎりぎりの貧乏さえも苦にならなくなった。毎日の自分の仕事も、すっかりやめてしまったし、しようという気もなかった。実をいえば、どんな悪だくみをされようと、おかみなんかすこしもこわくはなかったのである。といって、階段でつかまって、自分にはなんの関係もないくだらないこまごました世間話を聞かされたり、おどかしや泣きおとしで、しつこく払いを催促されて、のらりくらり逃げをうち、あやまったり、ごまかしたりするのは、──やりきれない。それよりはむしろ猫のようにそっと階段をすりぬけて、誰にも見とがめられずに逃げ出すほうがましである。
しかし今日は、通りへ出てしまってから、おかみに会いはしないかと自分でもあきれるほどびくびくしていたことに気がついた。
《これほどの大事をくわだてながら、なんとつまらんことにびくびくしているのだ!》彼は奇妙な笑いをうかべながら考えた。《フム……そうだ……すべては人間の手の中にあるのだ、それをみすみす逃してしまうのは、ひとえに臆病のせいなのだ……これはもうわかりきったことだ……ところで、人間がもっともおそれているのは何だろう? 彼らがもっともおそれているのは、新しい一歩、新しい自分の言葉だ。だからおれはしゃべるだけで、何もしないのだ。いや、もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ。おれがしゃべることをおぼえたのは、この一月だ。何日も部屋の片隅にねころがって、大昔のことを考えながら……。ところで、おれはいまなんのために行くのだ? 果しておれにあれができるだろうか? いったいあれは重大なことだろうか? ぜんぜん重大なことではない。とすると、幻想にとらわれて一人でいい気になっているわけだ。あそびだ! そうだ、どうやらこれはあそびらしいぞ!》
通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルク人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、──こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰鬱な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
『罪と罰』の冒頭だが、驚くほど複雑な叙述展開をしている。第一段落からして「青年が小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て……」とやたら密度が高いが、それはおく。重要なのはここで「K橋のほうへ歩き出した」と書かれていることから時間的に単純に次に来るのは第五段落「通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、……」であるはずだということ。その間に挟まっている段落においてはまだ歩き出していないと見做すのが妥当だから。そして第五段落では実は青年が歩いていることへの言及は一言も出てこないことに注目しよう。それはすでに第一段落で言及したというわけだ。だから第五段落ではただ歩きながら青年の五感に入ってくるものを彼の動線に沿って次々に描写することによって、間接的に彼が「歩いている」ことを示唆するのみとなっている。まずはこの第一段落と第五段落とのモンタージュ的な繋がりに瞠目しよう。
で、第二段落から第四段落で何をやっているかというと、少し時間を「K橋のほうへ歩き出す」前に遡って、つまりは第一段落から単線的に進まずに時間幅を過去へ広くとった文脈を導入するということをやっている。言い換えるとこれは、第一段落から第五段落への垂直的で単線的な流れの上に、時間幅を広くとるという水平方向の敷衍をクロスさせて叙述を豊かにしているということ。ゆるやかにでも垂直的かつ単線的な流れが意識されているからこそ、こうして水平的に時間幅を過去へ広くとった文脈を導入しても叙述の行先が見失われることがない。逆に、こうした水平方向の敷衍を混ぜることで、論理的ないしは時間的に単線的で単調な展開をさけ、しかも後のプロットのために必要な伏線や、括復法的な説明を仕込むことができる。例えば「……するたびに、……顔をしかめるのだった」「ところが、あるときから……」「毎日の自分の仕事も、すっかりやめてしまったし、……」といった括復法的記述によって情報の密度を増しているのは、すでに冒頭で主人公を「歩き出」させてしまって情景法が駆動していると思われる状況からすれば、かなり高度に技巧的なことだ。当然ながら、第四段落で挿入される登場人物自身の肉声(内語)は無茶苦茶重要な伏線である。
第五段落では青年が歩いていることは直接書かず、青年の五感に彼が歩いて行くにつれ順番に入って来るものを次々に描写することでそれを示唆していると言ったが、だからといってこの段落が青年の一人称的主観に定位していると考えてはならないだろう。それは「深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらと浮かんだ。」という外的焦点化の一文からも分かる。断じて「青年は深い嫌悪感を抱いた。」では駄目なのだ。そこから「ついでながら、……」というドストエフスキーの語り手に特有の言い回しによって青年の外貌描写に自然に移行しているのも注目に値する。ついでながら、「時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった」という微妙に括復法的な記述も、この段落が青年の一人称的主観に定位していないことのメルクマールだ。まして「いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう」と喋っているのは誰なのか? 匿名の語り手以外ではあり得まい。
●『罪と罰』上7-9頁
第一部第一章
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通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルク人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、──こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰鬱な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
彼はひどい服装をしていた。ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった。センナヤ広場に近いし、いかがわしいあそび場が多く、特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて、奇妙な服装が街の風景をいろどることは珍しくなかった。だからへんな風采に会ったからといって、びっくりするほうがおかしいようなものだ。しかも青年の心には毒々しい侮蔑の気持がいっぱいにつまっていたから、だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、いまはぼろをまとって通りを歩いていることがすこしも気にならなかった。しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……ところが、そのとき大きな駄馬にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、どういうわけでどこへ運ばれて行くのか、その上にのっかっていた一人の酔っぱらいが、通りしなにだしぬけに、彼のほうを指さしながら、《おいこら、ドイツのシャッポ!》とありたけの声でどなったとき、青年は思わず立ちどまって、あわてて帽子へ手をやった。それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた。だが、彼をとらえたのは、羞恥ではなく、驚愕にさえ似たぜんぜん別な感情だった。
「だから言わんことじゃない!」彼はうろたえながらつぶやいた。「こんなことだろうと思っていたんだ! これがいちばんいまわしいことだ! よくこういううかつな、なんでもない小さなことから、計画がすっかりくずれてしまうものだ! それにしても、この帽子は目立ちすぎた……おかしいから、目立つんだ……このぼろ服にはぜったいに学帽でなきゃいけなかったんだ。せんべいみたいにつぶれていたってかまやしない。へまをやったものだ。こんな帽子は誰もかぶってやしない。一キロ先からでも目について、おぼえられてしまう……まずいことに、あとで思い出されると、それが証拠になる。とにかく、できるだけ目につかないようにすることだ……小さなこと、小さなことが大切なのだ!……その小さなことが、いつもすべてをだめにしてしまうのだ……」
そこまではいくらもなかった。彼の家の門から何歩あるかまで、彼は知っていた。ちょうど七百三十歩だ。もうすっかり空想にとらわれていた頃、一度それをはかったことがあった。その頃はまだ自分でも、その空想を信じていなかった、そして何ということなく、その空想のみにくいが、しかし心をひきつける大胆さに、いらいらさせられていたのだった。それから一ヵ月すぎたいまでは、彼はそれをもう別な目で見るようになった、そして自分の無力と優柔不断にたえず自嘲の言葉をあびせてはいたが、いつの間にか、自分ではそんなつもりもなく、その《いまわしい》空想を規定の計画と考えることになれてしまった。とはいえ、まだ自分にそれができるとは信じていなかった。彼はいまでさえ、自分の計画のリハーサルをするために歩いているのだ、そして一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた。
移動しながらの情景法。主人公が特定の目的(「彼はいまでさえ、自分の計画のリハーサルをするために歩いているのだ」──この辺りで少し伏線的に暗示されるだけで、明言されない)を抱いて街を歩いて行くというシチュエーション。ところがまったくオーソドックスではない。様々な技法が詰め込まれている。
端的に言って、時間が推移していく現前的場面であるにもかかわらず、動きに関する描写がほとんどない。「深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ。」「そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。」「ところが、そのとき大きな駄馬にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、……とありたけの声でどなったとき、……」「彼はうろたえながらつぶやいた。」「……そして一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた。」──これくらいだろう。あとはラスコーリニコフの発話か。これだけ長い情景法なのに、動きの描写が少な過ぎる。代わりに存在しているのが、(1)継続している状態の描写(主に「……ている」形アスペクトで表現される)、(2)時間幅を広くとった習慣・説明的記述、(3)語り手の主観が混ざっているような地の文、(4)過去の経緯を語る挿入的な後説法、等々である。
(1)については、例えばペテルブルグの街路の描写を、ラスコーリニコフの「まわりを見る」という動作抜きに(この排除がすでにラスコーリニコフの主観的知覚経路の前景化を防いでいる)「状態」として描いている第一段落を読めば自明だろう。「人いきれ」「土埃」「夏の悪臭」「居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気」「たえず行きあたる飲んだくれ」といった要素がラスコーリニコフの現前的な知覚に入ってくる順番によってというよりは、単に継続している状態として記述されていく。「ペテルブルグ人なら誰でも、いやというほど知らされている、……」とか「市内のこのあたりには特に多い……」といった説明的な形容がさらにこの非-知覚的な継続状態の記述の印象を強めている。ラスコーリニコフの容貌の外的な描写──語り手による描写で、わざわざ「ついでながら」などと地の文で断わっている──も主に継続属性の「……ている(いた)」アスペクトで記述されている。「彼は黒い目がきれにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた」。さらに第二段落に目を向けると、いきなり冒頭から「……ている」形アスペクトの文章だ。「彼はひどい服装をしていた。……」そして服装から話が連繋していく形で「このあたり」の状態について、また「……ている」形アスペクトでの記述が挟まる。「特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて……」。また、青年の帽子がやはり「……ている」形アスペクトで細かく描写されるのは当然だ。「それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた」。かてて加えて、現時点での青年の心理状況をも結果継続の「……ている」形アスペクトで記述される! 「しかも青年の心には毒々しい侮蔑の気持がいっぱいにつまっていたから、……」。つまり、多彩かつ重層的な形でこの情景における「状態」を描き出しているからこそ、「動き」の記述がなくても息の長い段落展開が可能になっているというわけだ。
(2)について。まあ言うまでもなくたとえ情景法であっても説明的な記述や習慣的記述、括復法的記述が、ピンポイントで用いられることは少なくない。「時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、……」「だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、……」のようなあからさまな括復法的記述や、第一段落末の「昨日からほとんど何も食べていなかった」のような時間幅を過去に広くとった補足説明の文章、或いは「しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった」といった一般的な事実の記述が、そうした例だ。とりわけ、引用部最期の段落は第一文がいきなり「動き」でもラスコーリニコフに関することでもなく、空間的な距離についての一般的事実の開示であるのは注目に値する。「そこまではいくらもなかった。……」段落始めのこういう切り口は面白い。
(3)について。例えば「だがすぐに、彼は深い瞑想にしずんだように見えた。いやそれよりも、忘却にとらわれたといったほうがあたっていよう。」──この主観的な推測を駆使しているのは誰なのか? 或いは「ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。」──と想像的仮定で勝手に敷衍しているのは誰なのか? 或いは「しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……」──と勝手に別の可能性を夢想して判断を下しているのは誰なのか? 語り手以外ではあり得ない。引用部ではこのように随所に語り手の声音が前面に出ている。そして、この作品では語り手自身は小説内の情景の登場人物ではあり得ないので、(ラスコーリニコフの主観的知覚経路から離れた)語り手の声音であるというニュアンスが濃くなると、叙述としては素朴な現前性の印象から逸脱することになる。
(4)について言えば、引用部最後の段落がまさにその実例にほかならない。「もうすっかり空想にとらわれていた頃、……」で一挙に時間を過去へ持っていき、「その頃はまだ自分でも……」「それから一ヵ月すぎたいまでは、……」「いつの間にか、……することになれてしまった」という風に過去の経緯を物語化しシンプルに記述して、ふたたび現前的「いま」(「彼はいまでさえ、……」)に接続するということをやっている。一段落内での単発的な後説法といった趣き。
ちなみに、「ドイツのシャッポ!」と突然怒鳴られる箇所は、主人公の内的世界と外部世界の「不意の」事故的対話を意図的に虚構した個所だとみなせる。その後に独り言がつづく流れからしても。
●『白痴』上427-429頁
第二篇第二章
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六月はじめのことであった。ペテルブルグには珍しく、もうまる一週間も上天気がつづいていた。エパンチン家はパーヴロフスクに贅沢な別荘を持っていた。リザヴェータ夫人が急にさわぎだして、二日足らずごたごたしたあげく、そこへ引っ越してしまった。
エパンチン家の人びとが引っ越していった翌日か翌々日に、モスクワ発の朝の列車で、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵がペテルブルグへやってきた、彼を停車場に出迎えた者は誰もなかったのに、公爵が車を出るとき、その列車で到着した人びとを取りかこむ群衆のなかから突然、誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。彼が瞳をこらして見つめたときには、もうそこには何も見きわめることはできなかった。もちろん、ただそんなふうに思われただけであったが、それは不愉快な印象をとどめた。しかも、公爵はそれでなくてさえ沈みこんでおり、何やら心配事がある様子であった。
辻馬車はリテイナヤ街からあまり遠くないあるホテルへ彼を運んでいった。ホテルはかなり貧弱なものであった。公爵は粗末な家具の置いてある薄暗い部屋を二つ借りて、顔を洗い、服を改めると、何も注文せずに、あわてて外へ出ていった。その様子はまるで時間を失うのが惜しいのか、あるいは誰か訪問しようと考えている先の人が外出でもするのを恐れるかのようであった。
もし半年前に、彼がはじめてペテルブルグへやってきたときに知りあった人が、いま彼の姿を一目見たならば、彼の風采がずっとよくなったと断言するにちがいない。だが、はたしてそうであろうか。たしかに、服装だけはすっかり変っていた。服はモスクワで、しかもりっぱな洋服屋に仕立てられた、すっかり別のものだった。しかし、その服にもやはり欠点があった。というのは、その仕立てはあまりに流行型すぎたからである(良心的ではあるがあまり上手でない洋服屋は、いつもこんな仕立てをするものである)。おまけに、着る当人が流行などにいっこう関心のない人であるから、とんでもない笑い上戸がつくづくと公爵の姿をながめたら、あるいは何かにやりと頬をほころばすようなたねを見つけたかもしれない。しかし、世の中には滑稽なことなど決して少なくないのである。
『白痴』第二篇第二章冒頭。
一読して驚くほどシンプル。しかもそのシンプルさの中に、公爵の主観に入り込んで必要なことをきっちりと認識しておく求心性(「誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。彼が瞳をこらして見つめたときには、もうそこには何も見きわめることはできなかった。もちろん、ただそんなふうに思われただけであったが、それは不愉快な印象をとどめた」)と、公爵を外側から眺めて概言や想像的仮定で語り手があれこれ言うという遠心性(「しかも、公爵はそれでなくてさえ沈みこんでおり、何やら心配事がある様子であった」「その様子はまるで時間を失うのが惜しいのか、あるいは誰か訪問しようと考えている先の人が外出でもするのを恐れるかのようであった」「とんでもない笑い上戸がつくづくと公爵の姿をながめたら、あるいは何かにやりと頬をほころばすようなたねを見つけたかもしれない。しかし、世の中には滑稽なことなど決して少なくないのである」)が斑ら状に隣り合って併存している。だからシンプルな要約法の連続でも文体的に一本調子にならないわけだ。
奇妙なのは──というより非常に興味深い文体的特徴としては──これほどシンプルに要約法でムイシュキン侯爵の行動を追っているだけのディエゲーシスなのに、何故か語り手が疑問形で自問自答をしている箇所があることだ。「もし半年前に、彼がはじめてペテルブルグへやってきたときに知りあった人が、いま彼の姿を一目見たならば、彼の風采がずっとよくなったと断言するにちがいない。だが、はたしてそうであろうか。たしかに、服装だけはすっかり変っていた。……」──なんというか、そこまでドストエフスキーの文体には自問自答の対話性が食い込んでしまっているのか? 客観的なことをシンプルに書き並べているだけのディエゲーシスにさえ疑問形がひょいと顔を出してしまうということは?
●『白痴』上459-461頁
第二篇第三章
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もう十一時をまわっていた。市内のエパンチン家へいま出かけていってみたところで、ただ仕事に忙しい将軍に会えるだけで、しかもそれさえ確かでないということを、公爵は承知していた。もっとも、将軍ならことによると、すぐに会ってくれたうえ、パーヴロフスクへ連れていってくれるかもしれぬ、という考えが浮んだが、公爵にはそれまでにもう一軒どうしても訪問したいところがあった。彼はエパンチン家へ行くのが遅れて、パーヴロフスク行きをあすに延ばす危険をおかしてまでも、ぜひ寄ってみたくてたまらないある家を捜しに行こうと決心したのである。
もっとも、この訪問は彼にとって、いくぶん危険を帯びていた。彼はしばらく思い迷っていた。彼はこの家についてそれがサドーヴァヤ街にほど近いゴローホヴァヤ街にあるということだけ知っていた。彼はそのそばまで行くうちに最後の決心がつくだろう、と考えて歩きだした。
サドーヴァヤとゴローホヴァヤの十字路に近づきながら、公爵は胸が異常に高鳴っていることに、われながらびっくりした。心臓がこんなに激しく動悸するとは思いもかけないことであった。と、一軒の家が、その風変りな外観のせいか、かなり遠いところから、彼の注意をひきはじめた。これは公爵があとになって思いだしたことだが、彼は『きっとあの家にちがいない』とひとり言を言った。彼は自分の勘が当ったかどうか確かめるために、異常な好奇心にかられてその家へ近づいていった。もし自分の勘が当っていたら、きっととても不愉快な気分になるにちがいない、となぜか彼は思った。
その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった。前世紀の終りに建てられたこの種の家は、きわめて少数であったが、移り変りの激しいペテルブルグにありながらも、このあたりの街ではまったく旧態依然として残っていた。これらの家は壁が厚く、窓が少なく、とても頑丈に建てられている。一階の窓にはときどき格子がはまっている。多くの場合、一階は両替屋になっている。上は、両替屋の厄介になっているスコペエツが借りている。外見から見ても中へはいってみても、なんだか愛想がなくてかさかさしており、いつも物かげへ姿を潜めようとでもしているような感じがする。しかし、なぜ建物の外観を見てそんな気がするかと言われても──ちょっと説明しにくいものがある。もちろん、建築上の線の組合せがその秘密を形づくっているのであろう。こうした家に住んでいるのは例外なく商人である。門に近寄って標札に眼をとめた公爵は、《世襲名誉市民ロゴージン家》と読んだ。
彼はもうためらうことはやめて、ガラス張りのドアをあけた。ドアは騒々しい音をたてて、彼のうしろでばたんとしまった。そこで彼は正面階段を二階へさして上りはじめた。……
この引用部を単にムイシュキン公爵の行動を要約法で追っているだけのシンプルなディエゲーシスと看做す読者は阿呆である。
簡潔に指摘すれば、「公爵にはそれまでにもう一軒どうしても訪問したいところがあった」と言われる公爵の行き先、それはムイシュキンにははっきりと分かっていたにもかかわらず、小説内でそれが明言されるのは第四段落の末尾「門に近寄って標札に眼をとめた公爵は、《世襲名誉市民ロゴージン家》と読んだ」という描写においてである。この明示の遅れと間接性──公爵が見た標札によって読者に告知──は明らかに作為的なものであり、およそシンプルではあり得ない。
では何故ここで公爵の行き先がロゴージンの家であることが最初は秘匿されつづけるのか? これは『罪と罰』でラスコーリニコフの謀殺の企図が第一部第五章になるまでラスコーリニコフ自身に向かってさえ明言されないのと同様の作為だろう。つまりここでムイシュキンは自分の行き先がロゴージンの家であることを知りながら、それを自意識から排除して無意識に抑圧してしまい、自分自身に対してさえ明言するのを避けているのだ。彼は実際最後の最後までロゴージンの家に行くのかどうか決心がつかずにいる。そして「登場人物の自意識の中に入ってくるものより無意識を支配しているものに照準を合わせて観察・報告する尾行者」という位相にある語り手としては、ムイシュキンの内面での黙説を共有しつつ彼の自意識と無意識の分裂を逐一追っていく(「サドーヴァヤとゴローホヴァヤの十字路に近づきながら、公爵は胸が異常に高鳴っていることに、われながらびっくりした。心臓がこんなに激しく動悸するとは思いもかけないことであった」──この描写などまさにムイシュキンの自意識と無意識の分裂の記述!)ということを最優先でやっているわけだ。とにかく引用部の要約法の見掛けのシンプルに反した複雑さは、主人公のムイシュキンにリアルタイムで無意識が虚構されているという一点に存するのである。
また、「主人公の無意識は答えをすでにしっている」という状況が、「語り手は先の展開を知っていてそこからの逆算で叙述を構成する」という「超-認識」に基づいた立体的ディエゲーシスの作為と調和しやすいことを指摘しておこう。
主人公の無意識は答えをすでに知っている?──「これは公爵があとになって思いだしたことだが、彼は『きっとあの家にちがいない』とひとり言を言った。」たとえばこの一節を見よ。なぜそのひとり事を「あとになって」思い出すのか。その時の現在の彼の自意識の中には入ってこない言葉だったからだ。「あとになって」思い出すという行為には、その時の自意識では捕えられなかった自分自身の姿を事後的に意識化する(それを語り手の口を通じて地の文に流し込む)という明確な意味がある。
●『罪と罰』上268-270頁
第二部第六章
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古い習慣で、散歩のいつもの道を通って、彼はまっすぐセンナヤ広場のほうへ歩いて行った。センナヤ広場まで行かない、ある小さな雑貨屋の店先の舗道で、髪の黒い若い流し芸人が、手風琴で何やらひどく感傷的なロマンスをひいていた。彼はまえの歩道に立っている少女の伴奏をしているのだった。少女は十四、五で、貴族令嬢のように大きくふくらんだスカートをはき、短いコートで肩をおおい、手袋をはめ、真っ赤な羽根のついた麦わらの帽子をかぶっていたが、いずれも古びて、すりきれていた。少女は流し芸人特有のしゃがれた、しかしかなり快いはりのある声で、店内から二コペイカ銅貨を投げられるのを待ちながら、ロマンスをうたっていた。ラスコーリニコフは足をとめ、二、三人の聞き手とならんで、しばらく聞いていたが、やがて五コペイカ銅貨をとりだして、少女の手ににぎらせた。少女は突然、もっとも調子の高いさわりの部分で、まるでたちきったようにピタリと唄をやめて、手風琴ひきの男にぶっきらぼうに叫んだ。《もういいよ!》そして二人は次の店のほうへのろのろ歩いて行った。
「あなたは流しの芸人の歌が好きですか?」とラスコーリニコフは、並んで手風琴ひきのそばに立っていた、もういいかげん年齢のいかにも閑人らしい男に、だしぬけに声をかけた。男は呆気にとられてそちらを見ると、ぎょっとした。「ぼくは好きですよ」とラスコーリニコフはつづけたが、その顔はぜんぜん流し芸人の歌の話をしている人とは思われなかった。
「ぼくはね、寒い、暗い、しめっぽい秋の晩、手風琴の音にあわせてうたっているのを聞くのが、好きなんですよ。それもぜったいに、通行人がみな蒼い病人みたいな顔をした、しめっぽい晩でなければいけません。さもなきゃ、もっといいのは、しめっぽい雪が降っている晩です、風もなく、まっすぐに、わかりますか? そして雪ごしにガス灯がぼんやり光っている……」
「わかりませんな……失礼……」男はその問いかけにも、ラスコーリニコフの異様な顔にもびっくりして、こう呟くと、道路の向う側へ移って行った。
ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、センナヤ広場の角へ出た。そこはあのときリザヴェータと話をしていた商人夫婦が店をだしていた場所だが、今日は二人の姿は見えなかった。ラスコーリニコフはその場所に気付くと、足をとめて、あたりを見まわし、粉屋の店先で欠伸をしていた赤いシャツの若者に聞いた。
「この角であきないをしている商人がいるだろう、夫婦連れの、知らない?」
「みんながあきないをしてるんでねえ」と若者は小ばかにしたようにラスコーリニコフをじろじろ見ながら、答えた。
「その男はなんていうの?」
「親にもらったとおりの名前さ」
「きみはザライスクの生れじゃない? 何県だね?」
若者はあらためてラスコーリニコフを見た。
「わしらんとこっはね、旦那、県じゃなくて、郡ですよ。兄貴はあっちこっち歩いたが、おれは家にばかりいたんで、さっぱりわからんですわ……もうこのくらいで勘弁してくださいな、旦那」
「あの二階は、めし屋かね?」
「飲み屋だよ、玉突きもあるよ。お姫さまたちもいるしね……大はやりでさあ!」
ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向うの角に、たくさんの人々が群がっていた。百姓ばかりだった。彼は人々の顔をのぞきこみながら、いちばんの人ごみの中へ割りこんで行った。どういうわけか、彼は誰にでも話しかけたい気持になった。しかし百姓たちは彼には見向きもしないで、何人かずつかたまりあいながら、自分たちだけで何ごとかがやがやしゃべりあっていた。彼は立ちどまって、ちょっと考えていたが、すぐに右へ折れて、歩道をV通りのほうへ歩きだした。広場をすぎると、彼は横町へ入った……
別に特異な点は何もないが、描写と会話と主人公の移動とを綺麗に組み合わせて生き生きした情景法を作り出している。そのコツについて少しだけ分析は可能だろう。
ざっと眺めて目に付くのはアスペクト「……ている(いた)」の多用。引用部でのラスコーリニコフの移動の経路は、センナヤ広場のほうへ向かい、センナヤ広場の角へ出て、センナヤ広場を横切って、V通りのほうへ横町に折れていくといったものだが、その途中で都度都度描写が挟まれている。それは基本的にアスペクト「……ている(いた)」によって写生されている。「センナヤ広場まで行かない、ある小さな雑貨屋の店先の舗道で、髪の黒い若い流し芸人が、手風琴で何やらひどく感傷的なロマンスをひいていた。彼はまえの歩道に立っている少女の伴奏をしているのだった。少女は十四、五で、貴族令嬢のように大きくふくらんだスカートをはき、短いコートで肩をおおい、手袋をはめ、真っ赤な羽根のついた麦わらの帽子をかぶっていたが、……」。アスペクト「……ている(いた)」には次の四種類があるが、継続属性のアスペクト──これは時間幅を無限に近い広さで捉える必要がある──ここでは以外は満遍なく使われていると看做せる。
:動きの継続のアスペクト「……ている(いた)」「うたっていた」「しゃべりあっていた」
:結果の継続のアスペクト「……ている(いた)」「立っていた」「群がっていた」
:継続属性のアスペクト「……ている(いた)」(「流れている」)
:結果属性のアスペクト「……ている(いた)」「かぶっていた」「すりきれていた」
また、描写というよりも補足説明に近い無時間的な記述の中でも「……ている」のアスペクトは出現している。「そのはあのときリザヴェータと話をしていた商人夫婦が店をだしていた場所だが、……」
以上を逆から考えると、アスペクト「……ている」を上手く活用する意志がないと、引用部のような次々に場所が移動する情景法の中で効果的な描写を叙述に定着させるのは無理なのだと言えそうだ。
当然ながら描写というのはラスコーリニコフが「見たもの」として挿入される。しかし引用部ではラスコーリニコフ自身も「見られるもの」として登場する。「……とラスコーリニコフはつづけたが、その顔はぜんぜん流し芸人の歌の話をしている人とは思われなかった」「ラスコーリニコフの異様な顔……」。さらに言えばラスコーリニコフの内面にもしっかりと言及される。「どいういうわけか、彼は誰にでも話しかけたい気持になった」。これらの記述のタイプの多彩さによって場面に立体性の感触が付与されているのは間違いない。
ラスコーリニコフがたまたま行き会った人間と交す会話について言えば、段落展開における意義を指摘しておきたい。たとえば閑人らしい男へのラスコーリニコフの奇妙な呼び掛けを描くためにこそ、その前段階として流し芸人たちが詳しく描写されたのだと言えるし、また赤シャツの若者との会話も、その場所がかつて彼がリザヴェータを見掛けた広場の角であることが科白に反映されているのである。
あとは、引用部の情景法としての機敏さは買いだ。「飲み屋だよ、玉突きもあるよ。お姫さまたちもいるしね……大はやりでさあ!」の科白の後の改行で一瞬でカットが切り替わっているのが美しい。
余談。引用部の第一文がすでに習慣的な補足説明から始まっているのでビックリですね。現前性を散らすためには何でもやるつもりか。「古い習慣で、散歩のいつもの道を通って、彼はまっすぐセンナヤ広場のほうへ歩いて行った。」
●『罪と罰』上271-272頁
第二部第六章
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彼はまえにも広場とサドワヤ通りを鉤の手に結んでいるこの短い横町を、ときどき通ったことがあった。近頃などは、気がくさくさすると、《もっとくさくさしてやれ》と思って、わざとこの界隈をうろつきまわったものだった。いまは彼は何も考えないで、この横町へ入った。そこには一軒の大きな建物があって、ぜんたいが居酒屋やその他いろいろな飲食店になっていた。それらの店からは、頭に何もかぶらないで普段着のままという、《近所あるき》のような服装の女たちが、たえずとびだしてきた。そうした女たちが歩道のそちこち、といってもたいていは地下室への下り口のあたりにかたまって、ぺちゃくちゃしゃべっていた。その下は、階段を二段も下りると、さまざまなおもしろい娯楽場になっていた。そうした地下室のひとつから、ちょうどそのときテーブルを叩く音やわあわあ騒ぐ音が通り中にあふれ、ギターが鳴り、歌声が聞えて、たいへんなにぎやかさだった。その入り口に女たちはわんさとたかり、階段に腰かけたり、歩道にしゃがんだり、あるいは立ったりして、がやがや話しあっていた。そのそばの舗道では、酔っぱらった兵隊が一人、くわえ煙草で、大声でわめきちらしながらふらふらしていた。どうやらどの店かへ入ろうとして、その場所を忘れてしまったらしい。一人のぼろを着た男がもう一人のぼろを着た男とののしりあっていた。またそのそばでは泥酔した男が通りの真ん中に死んだようになってひっくり返っていた。ラスコーリニコフは女たちがたくさん群がっているそばに足をとめた。女たちはしゃがれ声でしゃべっていた。みんな更紗の服を着て、山羊皮の靴をはき、頭には何もかぶっていなかった。四十すぎの女もいたが、十七、八の若い女もいて、ほとんどが目の下に青あざをつけていた。
彼はどういうわけか下のほうから聞えてくる歌声や、がたがた鳴る音や騒ぎに心をひかれた……そちらからは、爆笑や金切り声の合間に、活溌な調子のほそい裏声やギターの音にあわせて、誰かが踵で拍子をとりながらやけっぱちに踊っているらしい物音が、聞えていた。ラスコーリニコフは歩道に突っ立ったまま入り口のほうへ身をのりだし、おもしろそうに下をのぞきこみながら、暗いしずんだ顔をして、じいッと耳をすましていた。
あんたはあたいのかわいいお方
わけもないのにぶっちゃいや!
誰かのほそい歌声が流れてきた。ラスコーリニコフは無性にその歌が聞きたくなった。それを聞かないと、すべてがだめになってしまうような気がした。
《入ってみようか?》と彼は考えた。《みんな笑ってる! 酔ってるんだな。かまうもんか、ひとつめちゃくちゃに飲んでやろうか?》
「ねえ、お寄りにならない、やさしいお兄さん?」と女たちの一人がかなりよく透、まだそれほどかれていない声で言った。その女は若くて、それにいやらしくなかった。たくさん群がっていた女たちの一人だった。
「おや、美人じゃないか!」と、彼は身を起こし、女を見て、言った。
女はニコッと笑った。お世辞がひどく嬉しかったらしい。
とりあえず第一段落第一文に注目。引用部は基本的に情景法なはずなのだがいきなり習慣的記述から入っている。現前性を散らそうとするドストエフスキーの手癖は健在だ。「彼はまえにも……ときどき……したことがあった。近頃などは、……したものだった。」しかし次の文章で「いまは彼は何も考えないで、……」と「いま」を明示的に導入して一挙に場面を動かして行く。
引用部は全体としては横町に入った後現われる「この界隈」の「一軒の大きな建物」周辺の息の長い描写になっている。ラスコーリニコフの感覚(視覚・聴覚)を元にした描写が多いが、例えば「その下は、階段を二段も下りると、さざまなおもしろい娯楽場になっていた。」のようにラスコーリニコフが直に感覚したというより──ここでラスコーリニコフは歩道に立っているままなので──遠巻きに判断したかのような説明的な記述も含まれている(現に、まさに推測でしかありえない文章も混在している。「どうやらどの店かへ入ろうとして、その場所を忘れてしまったらしい」)。そしてそれらの多くはやはり動きの継続のアスペクト(「しゃべっていた」「ののしりあっていた」)や結果の継続のアスペクト(「ひっくり返っていた」)や結果属性のアスペクト(「……になっていた」──空間に関する説明的記述!)といった「……ている(いた)」系のアスペクトによって主に記述されており、しかしその中に同時に無アスペクトのラスコーリニコフの動きを記述した文章──「この横町へ入った」「……に足をとめた」「心をひかれた」──が点在することによって引用部の情景法は立体性を帯びて構成されている、と言えそうだ。立体性、つまりはアスペクト一辺倒でもなければ、単線的にラスコーリニコフの動きを追っているだけでもないということ。
ちなみに例によって、ラスコーリニコフの内部から外部へと放たれる関心に沿う志向性の叙述もあれば、ラスコーリニコフ(の表情)を外部から観察したかのような志向性の叙述もあり、それらの併存もまたこの情景法の立体性に寄与していると考えるべきである。前者の例は──「誰かのほそい歌声が流れてきた。ラスコーリニコフは無性にその歌が聞きたくなった。」後者の例は──「ラスコーリニコフは歩道に突っ立ったまま入り口のほうへ身をのりだし、おもしろそうに下をのぞきこみながら、暗いしずんだ顔をして、じいッと耳をすましていた。」
●『罪と罰』下450-451頁
第六部第八章
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彼は血を凍らせて、わずかに意識を保ちながら、警察署のドアを開けた。今度は署内には人がごく少なく、庭番らしい男が一人と、町人風の男が一人いただけだった。守衛は仕切りのかげから顔も出さなかった。ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。隅のほうにもう一人の書記が坐りこんでいた。ザミョートフはいなかった。ニコージム・フォミッチも、もちろんいなかった。
「誰もいませんか?」とラスコーリニコフは机のそばの書記のほうを向いて、尋ねた。
「どなたにご用です?」
「あ、あ、あ! 声も聞えず、姿も見えないが、ロシア人の匂いがする……とかいうのがなんとかという物語にありましたな……忘れたが! ようこそ、いらっしゃい!」と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。
ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。とつぜん隣りの部屋から出てきたのだ。《これが運命というものだ》とラスコーリニコフは考えた、《どうして彼がここにいたろう?》
「ここへ? 何の用で?」とイリヤ・ペトローヴィチは大声で言った。(彼はどうやらたいへんな上機嫌で、おまけにちょっと興奮しているらしかった)。「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……でも、わたしで間に合うことなら。実はあなたに……ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです?」
二ヵ所だけ着目する。まず一ヵ所は「……と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。
/ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。」の箇所。なぜこの順番なのだろうか。「不意に聞きおぼえのある声が……」で読者はまちがいなく「誰?」という疑問を抱くのだから、すぐその答えとしての「火薬中尉」の立ち姿を持って来てもよいはずなのだが、ラスコーリニコフが「ぎくっとした」という描写を一回挟んで、火薬中尉への言及を一呼吸分遅らせている。なぜだろうか。
同様の問いを喚起する箇所として、「ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。」──の箇所を挙げる。ここでもラスコーリニコフが部屋へ入って行ったことを知らせる文章の直後に、その次の部屋の中の描写、書記らしい男、もう一人の書記の姿などを描いてもよさそうなものだが(「警察署のドアを開けた」時はそうしている)、その前にラスコーリニコフの内語を入れている。なぜ文章の並びがそのような順番になっているのか?
思うに、現前的場面において的確に描くべきものだけを描いてリーダビリティを確保しつつ、なおその場面で起こっている様々な現象を盛り込んで叙述にふくらみ・立体性を持たせたいと思うなら、文章の順番を少し操作して、「次の部屋へ入った→書記がいた」「不意に声が聞こえた→火薬中尉が立っていた」という風に興味の喚起からすぐにその結果へと移行してしまわないで、結果について書くのを少しだけ(せいぜい一文分)遅らせることによって辛うじて現前的場面に密度、多様性、多元性を与えなければならないということではないか。上の二ヵ所では結果を性急に開示してしまわずに一呼吸だけ遅らせることによって、ラスコーリニコフの感情上の反応や、その場での瞬間的な内語を現前的場面に盛り込むことができているわけだ。
●『罪と罰』上159-161頁
第二部第一章
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階段をおりかけて、彼は品物をすっかり壁紙のかげの穴にかくしたままにしてきたことを思い出した。《ひょっとしたら、わざとおれを誘い出して、留守の間に家さがしをする肚かもしれん》そう思うと、彼は足をとめた。ところが深い絶望と、そんな言い方があるとしたら、破滅のシニスムというようなものが、突然はげしく彼をおそった。そこで彼はなげやりに片手をふると、階段をおりはじめた。
《ただ早くなんとかなってくれ!……》
通りはまた気が狂いそうな暑さだった。この数日一滴の雨も降らないのだ。またしても土埃、煉瓦、石灰、またしても小店や居酒屋から流れでてくる悪臭、そしてのべつ行き交う酔っぱらい、フィン人の行商人、半分こわれかかった馬車。強い日光にちかちか目をさされて、ラスコーリニコフは目が痛くなり、頭がひどくぐらぐらしだした。──これは明るく晴れわたった日に急に外へ出た熱病患者には、よくある症状である。
昨日の通りへ折れる曲り角まで来ると、彼は苦しい胸さわぎがして、ちらとそちらへ目をやり、あの建物を見た……が、すぐに視線をそらした。
《聞かれたら、おれは、言ってしまうかもしれぬ》彼は警察署のほうへ近づきながら、ふと思った。
警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。まだ、新築の建物の四階に移転したばかりだった。もとの署には、いつだったかもうだいぶまえのことだが、ちょっと立ち寄ったことがあった。門をくぐりながら、右手のほうの階段を見ると、帳簿をもった男が下りてくるのが目についた。《庭番らしいな。すると、署はあっちだな》そう思うと、彼は見当で階段をのぼりはじめた。誰にも何も聞きたくなかった。
《入ったら、ひざまずいて、いっさいを告白しよう……》と、四階の階段にかかると、彼は心に思った。
階段はせまくて、急で、一面に汚れ水がこぼれていた。一階から四階までどの部屋の台所も階段に向いて開けっ放しになっていて、ほとんど一日中こうだった。そのためにむしむしして息がつまりそうだった。帳簿を小脇にかかえた庭番や、巡査や、さまざまな男女の外来者などが、階段をのぼり下りしていた。署のドアも大きく両側へ開け放されていた。ラスコーリニコフは控室へ入ると、立ちどまった。そこには百姓風の男たちが立ったまま待っていた。ここもひどいむし暑さだった。おまけに、部屋の塗り直しをしたために、腐ったニスの上に塗ったペンキがまだ生乾きで、むかむかするような臭いが鼻をさした。しばらく待ってから、彼はもうひとつ先の部屋へ行ってみることにきめた。どの部屋もせまくて、天井が低かった。せきたてられるような焦りが彼を先へ先へ進ませた。誰も彼に気がつかなかった。二番目の部屋には書記らしい男たちが机に向って書きものをしていた。彼よりいくらかましという程度の身なりで、なんとも妙な風采の男たちばかりだった。彼はその中の一人のまえへ進んだ。
「何用だね?」
彼は警察からの呼出状を示した。
「きみは学生だね?」と、相手は呼出状をちらと見て、尋ねた。
「そう、元学生です」
主人公の移動を追った一見オーソドックスな情景法だが、実際には複雑。
まず、ラスコーリニコフが「歩いている」という描写が一つもないこと、したがってラスコーリニコフの現前的な移動そのものはまったく描かれていないことに注意しよう。代わりに「通りは……」「昨日の通りへ折れる曲り角まで来ると、……」「彼は警察署のほうへ近づきながら、……」「門をくぐりながら、……」「四階の階段にかかると、……」「階段はせまくて、……」「ラスコーリニコフは控室へ入ると、……」という場所の切り替わり=敷居にラスコーリニコフが差し掛かったポイントポイントでその場所の様子を描くことによって、彼の移動をモンタージュしていると看做せるのだ。とりわけ「通りはまた気が狂いそうな暑さだった。……」「警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。……」「階段はせまくて、急で、一面に汚水がこぼれていた。……」という三つの段落冒頭の文は、改行による転換+継続系アスペクトの文章による状態描写、の組み合わせによって主人公の歩行を大胆にモンタージュしている。
しかも、「その場所の様子を描く」と言ったが、それがまったく現前的な記述になっていないことにもさらに注目しなければならない。「通りはまた気が狂いそうな暑さだった。……」の段落では、「この数日一滴の雨も降らないのだ」といきなり時間幅を広くとって過去の文脈を導入。「またしても……」という副詞によって括復法的ニュアンスを付加し、「のべつ行き交う……」という形容で描写を抽象化し、さらにラスコーリニコフの感じる苦痛について一般論的な注釈を行う。「──これは明るく晴れわたった日に急に外へ出た熱病患者には、よくある症状である。」これは「通り」を記述する際にあえて現前的知覚から離れて、過去の文脈の導入、括復法的記述や習慣的記述によってその場所について書く、と意識しないかぎり決して書けないタイプの文章である。
「警察署は彼の住居から二百五、六十メートルのところにあった。……」から始まる段落についても同様。いきなり警察署の属性を記述することから始まっている(それによって場所の移動を表現しようとしている)のも凄いが、その後も当然のごとく「まだ、新築の建物の四階に移転したばかりだった。もとの署には、いつだったかもうだいぶまえのことだが、ちょっと立ち寄ったことがあった。」と現前的記述よりも過去の文脈への言及を挿入する。また、その後につづく《庭番らしいな。すると、署はあっちだな》というラスコーリニコフの内語は、ラスコーリニコフの能動的な思考というよりもむしろ無意識な判断の言語化といった趣きがあり、ラスコーリニコフの現前的な移動よりも周囲の様子の反映=モンタージュによって情景を構成していくという志向は変らない。
「階段はせまくて、急で、一面に汚れ水がこぼれていた。……」に始まる段落も注目に値する。「一階から四階までどの部屋の台所も階段に向いて開けっ放しになっていて、ほとんど一日中こうだった。」──これは明らかに習慣的記述であり、「ほとんど一日中こうだった」と断言するには現前的知覚だけでは不十分だ。少なくともこの警察署の内部を馴染みの場所として記述する意識がなければ、絶対に生まれて来ない文章だ。「おまけに、部屋の塗り直しをしたために、腐ったニスの上に塗ったペンキがまだ生乾きで、むかむかするような臭いが鼻をさした。」──この描写も、部屋の塗り直しという過去の文脈の導入でいかにもこの場に精通している立場からの観察のように書かれている。
このように情景法の中であっても現前的知覚・現前的描写というものを頑に外していくのが、ドストエフスキーの描写=モンタージュの立体性の肝か。
(思うに、或る対象や或る空間、或る場所を描写する際に、(単起的なその瞬間の知覚をもとに描くよりも)習慣的・括復法的に描く方が実は観察力を必要とするのではないか? ここではたまたま習慣的描写がなされているのではなく、見るべきものをしっかりと見た場合、それを記述するには、このように瞬間的な知覚的描写を越えて時間を束ね抽象化せざるを得ないのではないか?)
●『罪と罰』上296-298頁
第二部第六章
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警察署へ行くには、かまわずまっすぐに行って、二つ目の角を左へまがらなければならなかった。そうすれば目と鼻の先だった。ところが、最初の角までくると、彼は立ちどまって、ちょっと考え、横町へ折れた、そして通りを二つ横切って迂回するように走っている路地をたどりはじめた、──これは別になんの目的もなかったかもしれないし、あるいはまた一分でも先へのばして、時をかせぎたい気持があったのかもしれぬ。彼は地面へ目をおとしながら歩いていた。不意に彼は誰かに何か耳もとに囁かれたような気がした。はっと顔をあげて、見ると、彼はあの家の門のすぐまえに立っていた。あの夜以来、彼は一度もここへ来なかったし、そばも通ったこともなかった。
抵抗しえぬ言いようのない欲求にひっぱられて、彼は門の中へ入って行った。彼は門を通りぬけると、右手のとっつきの入り口から入って、見おぼえのある階段を四階へのぼりはじめた。せまい急な階段はひどく暗かった。彼は踊り場へ出るたびに立ちどまって、好奇心にかられながらあたりを見まわした。一階の踊り場の窓はわくがすっかりとりはずされていた。《あのときはこんなふうにはなっていなかった》彼はふとこんなことを考えた。そら、あれがミコライとミトレイがしごとをしていた、二階のあの部屋だ。《しまっている。ドアも塗り直されている。つまり、借り手待ちというわけだな》もう三階まできた……そして四階……《ここだ!》彼は自分の目を疑った。部屋のドアが大きく開け放されて、中に人が何人かいるらしく、話し声が聞えていた。彼はこんなことはまったく予期しなかった。しばらくためらった後、彼は最後の数段をのぼって、部屋へ入った。
内部も模様替えされて、職人が入っていた。これも彼には意外だったらしい。どういうわけか彼は、すっかりあのとき立ち去ったときのままで、そのうえ、もしかしたら死体もあのときのままに床の上にころがっているかもしれない、と考えていたのだった。それがいまは、壁が裸で、家具はひとつもない。なんとも奇妙だ! 彼は窓際へ行って、窓のしきいに腰をおろした。
職人は二人だけだった。二人とも若い男で、一人はすこし年上だが、もう一人はずっと若かった。彼らはまえのぼろぼろに破れた黄色っぽい壁紙をはがして、白地に藤色の花模様のついた新しい壁紙をはっていた。それがどういうわけかラスコーリニコフにはひどく気に入らなかった。彼は、こう何から何まで変えられてしまうのをあわれむように、敵意のこもった目でその新しい壁紙をにらんでいた。
まず第一段落。これは単に主人公が歩いていってどこかへ到達するということを表現するだけであっても、主人公の主観的知覚経路から離れた語り手の位相が必要とされることを示す典型的記述になっている。ラスコーリニコフの主観からすれば歩いていて何の気なしに横町へ折れたら、思いがけずあの家の前に来てしまったということにすぎないだろう。しかしここで語り手は「警察署へ行くには、かまわずまっすぐに行って、二つ目の角を左へまがらなければならなかった。そうすれば目と鼻の先だった。ところが、……」とラスコーリニコフが置かれている文脈の説明から記述を始めて、ラスコーリニコフが「まっすぐ」行かずに横町へ折れて路地をたどっていくことを逸脱的な行為としてわざわざ強調し、「──これは別になんの目的もなかったかもしれないし、あるいはまた一分でも先へのばして、時をかせぎたい気持があったのかもしれぬ」などと勿体ぶった外的推測を披露しつつ、最後には、彼がたまたまあの家に辿り着いたことを「あの夜以来、彼は一度もここへ来なかったし、そばも通ったこともなかった」(にもかかわらず偶然ここに辿り着いたとは何という偶然か!)思い入れたっぷりに敷衍する。あたかも、ラスコーリニコフが「あの家」に辿り着くことになるのを知った上でそこから逆算して段落冒頭から記述を組み立てているかのようだ。つまりここで語り手はラスコーリニコフの主観より明らかに一段上の認識に立っている。語り手の帯びる「超-認識」? 思うに、しばしばドストエフスキー作品の語り手が現前的場面の最中においてさえ駆使する「後になって考えてみると……」という超-時間的な記述の導入は、この語り手の「超-認識」が発揮された一つのメルクマールとして捉え得るかもしれない。
さて、第二段落以降は《現前的場面における描写というものは、人物と同時に人物が見ているものをもまた与える。それが小説的叙述に臨場感を与える。》という小説的描写の基本原理を上手く発揮した記述の連続になっている。また同様に内面描写については、人物と同時に人物が感じていることが同時に与えられるというのが小説的描写の基本だが、ここで「あの家」の中でラスコーリニコフが経験することの記述は、主人公(の動作)と同時に主人公が見るもの知覚するものを与える、のみならず、さらにそれらの対象を「好奇心にかられ」て様々に精査・調査・推理する人物の内語をも同時に与えている、という二重性を帯びているようだ。つまり主人公(の動作=部屋に入ったり、腰をおろしたり、壁紙をにらんだり)の他に、彼の上で交差する外界と内面の対話性が並行的に与えられて記述されているということ。外界の様々な対象をあからさまに志向して、あたかも外界の描写を代行しているかのようなラスコーリニコフの内語(《あのときはこんなふうにはなっていなかった》《しまっている。ドアも塗り直されている。つまり、借り手待ちというわけだな》)、さらに言えば第三段落で地の文に流し込まれている体験話法的な彼の言葉(「それがいまは、壁が裸で、家具はひとつもない。なんとも奇妙だ!」)などを見れば、この並行性・二重性がどのように具現しているかが知られよう。これぞ小説的記述の臨場感だ。このような立体的構成があるからこそ、小説が単なる散文から区別される。それは単なる映像と映画との区別とパラレルと言いうる。
注意すべきは、人物(の動作)+外界と内面の対話=描写、という記述の立体的構成による臨場感の醸成は、本質的に内面と外界の「ズレ」によって可能になっているということだろうか。ここで家の中の様子、一階の踊り場の窓や部屋のドア、内部、壁紙、家具、等々すなわち外界はラスコーリニコフの予期をことごとく裏切って新しい様相を見せている。だからこそラスコーリニコフの内語はそれらの輪郭を好奇心にかられてしきりになぞらざるを得ない。しかもその好奇心は最後には「ひどく気に入らない」「敵意」となって彼のうちに現象する。そうした文体的特徴を可能にするにも、或る特定のシチュエーションを用意しなければならないということか。
●『白痴』下648-651頁
第四篇第十一章
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「レフ・ニコラエヴィチ、さあ、おれのあとからついてこいよ。用があるんだ」
それはロゴージンであった。
奇妙なことに公爵はいきなりうれしさのあまり舌がもつれて、一つの言葉をしまいまで言いきらないほどあせりながら、たったいままで宿屋の廊下で彼を待っていたことを話しはじめた。
「おれはあそこにいたのさ」思いがけなくロゴージンが答えた。「さあ、いこう」
公爵はその答えにおどろいたが、彼がおどろいたのはそれから少なくとも二分ばかりたって、事情をのみこんでからのことであった。その答えの意味をさとると、彼は愕然として、ロゴージンの顔を注意ぶかくのぞきはじめた。だが相手はもう半歩ほど先にたって、まっすぐに前方を見つめながら、行き会う人には眼もくれず、機械的に用心ぶかい態度で人びとに道を譲りながら歩いていた。
「なんだってきみは私の部屋をたずねてくれなかったんだね……もし宿にいたとすれば?」公爵はいきなりたずねた。
ロゴージンは足をとめて、相手の顔をながめ、ちょっと考えたが、質問の意味がまったくわからない様子で言った。
「なあ、レフ・ニコラエヴィチ、おまえさんはこっちをまっすぐ、家までいくんだ、いいな? おれはあっち側を通っていくからな。でも、気をつけて、二人そろっていくようにしようぜ……」
そう言うと、彼はどんどん往来を横切って、反対側の歩道へ出ると、公爵が歩いているかどうか、確かめるようにふりむいた。そして、彼がぼんやり突ったったまま、眼を皿のようにして自分のほうをながめているのを見ると、ゴローホヴァヤ街へ手を振ってみせ、ひっきりなしに公爵をふりかえりながら、あとについてこいと手招きして歩きだした。公爵が彼の意向をさとって、反対側の歩道から自分のほうへ渡ってこないのを見ると、どうやら元気づいたようであった。ロゴージンは誰かを捜して、見落すまいと思っているのだ、だから向う側の歩道へ渡ったのだ、という考えが、ふと公爵の頭に浮んだ。《でも、なんだってあの男は、誰を捜しているのか、言わないのだろう?》こうして二人が五百歩ばかり歩いたとき、公爵はふいになぜか震えだした。ロゴージンは前ほどではなかったが、やはりふりかえってみるのをやめなかった。公爵はとうとう耐えきれなくなって、彼を手招きした。相手はすぐさま往来を横切って、彼のそばへやってきた。
「ナスターシャ・フィリポヴナはほんとうにきみのところにいるのかい?」
「おれのところさ」
「さっきカーテンのかげから私を見ていたのはきみかい?」
「おれだよ……」
「なんだってきみは……」
しかし、公爵はそのさきどうたずねたものか、どんなふうに質問のしめくくりをつけたものか、わからなくなった。そのうえ、心臓の鼓動がはげしくなって、口をきくのも苦しかった。ロゴージンもやはり黙りこんで、前と同じように、何か物思わしげに彼の顔を見つめていた。
「じゃ、おれはいくぜ」彼はふいに、また渡っていきそうにしながら、言った。「おまえさんは勝手にいきな。おれたちは往来を別々にいこうや……そのほうがいいのさ……別々の側を通ってな……いいな」
ついに二人が、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ折れて、ロゴージンの家へ近づいたとき、公爵の足はふたたび力を失って、もう歩くことさえほとんどむずかしくなってきた。もう晩の十時ごろであった。老母の住んでいるほうの窓はさきほどと同じくあけはなされていたが、ロゴージンのほうのは閉ざされていて、白いカーテンがたそがれの光の中でいっそうくっきりと目だって見えた。公爵は反対側の歩道から家へ近づいていった。ロゴージン自身は自分の歩いてきた歩道から正面玄関の石段へあがって、彼を手招きしていた。公爵は往来を横切って、玄関のほうへやってきた。
「おれのことはな、いまじゃ庭番だって知らねえのさ、こうして帰ってきたこともな。おれはさっきパーヴロフスクへいくって言っといたのさ。おふくろにもそう言っといたよ」彼はずるそうな、またほとんど充ち足りたような微笑を浮べながら、ささやいた。「おれたちがはいっていっても、誰も聞きつけやしないさ」
彼の手の中にはもう鍵があった。階段を上りながら、彼はふりかえって、もっと静かに来いというように、公爵を脅すまねをし、静かに自分の住まいへ通ずるドアをあけて、公爵を通すと、そのあとから用心ぶかくそっとすべりこみ、はいったあとのドアに鍵をかけ、その鍵をポケットにしまった。
「さあ、いこうぜ」彼はささやき声で言った。
二人の人物が歩いてどこかへ向う、というだけの情景法なのだが、見た目以上に複雑になっている。
例えば、ロゴージンと公爵が歩き出したことについては「さあ、いこう」のロゴージンの科白で読者と共通了解になったと看做されている。改行後の「公爵はその答えにおどろいたが、彼がおどろいたのはそれから少なくとも二分ばかりたって、事情をのみこんでからのことであった。」で言われている「二分」の間にもう二人は歩いていたというわけだ(でないと「だが相手はもう半歩ほど先にたって、……」の描写とつながらない)。或いは、「ロゴージンは誰かを捜して、見落すまいと思っているのだ、だから向う側の歩道へ渡ったのだ、という考えが、ふと公爵の頭に浮んだ。《でも、なんだってあの男は、誰を捜しているのか、言わないのだろう?》」──この公爵の思索も歩きながらものだ。ここだけ抜き出すとそうは感じられないが、前後の文脈からすればそうでしかあり得ない。
また、情景法のなかで現前的科白の後の改行を上手く利用して飛躍するという手法も用いられている。具体的にはロゴージンの「……おれたちは往来を別々にいこうや……そのほうがいいのさ……別々の側を通ってな……いいな」の科白の後。この現前的科白を受けて何かやるっているのではなく、地の文は「ついに二人が、ついに二人が、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ折れて、ロゴージンの家へ近づいたとき、……」と時間を飛ばして全然関係のない「公爵の足」の疲れについて書いている。現前的科白の後に息をついて情景法を再出発させるタイミングがあることは、意外と知られていない。「おれたちがはいっていっても、誰も聞きつけやしないさ」の科白の後の改行も同様である。
引用部は、足をとめて話し込んだり、なぜか二人が往来を挟んだ別の歩道を歩いたり、公爵に無意識の不安を抱かせたりと、かなり複雑なことをやっているが、わりとシンプルに読めるのは、このように途中で飛躍が上手くいっていることと、作者が立体的に情景を把握した上で、描写もディエゲーシスも必要最低限の適確なものを選び抜いているからだろう。「……もう晩の十時ごろであった。老母の住んでいるほうの窓はさきほどと同じくあけはなされていたが、ロゴージンのほうのは閉ざされていて、白いカーテンがたそがれの光の中でいっそうくっきりと目だって見えた。公爵は反対側の歩道から家へ近づいていった。ロゴージン自身は自分の歩いてきた歩道から正面玄関の石段へあがって、彼を手招きしていた。」この段落のシンプルかつシステマティックな展開のさせ方素晴らしい。
●『罪と罰』上141-143頁
第一部第七章
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長いあいだ彼は気配をうかがっていた。どこかはるか下のほうで、おそらく門の下のあたりだろう、二つの甲高い声がわめきちらしたり、言い争ったり、ののしりあったりしていた。《何をしているのだ?……》彼はしんぼう強く待った。とうとう、まるで切りとったように、急にしずかになった。散って行ったらしい。彼がいよいよ出ようとすると、不意に一階下でバタンと階段へ出るドアが乱暴にあいて、誰かが鼻唄をうたいながら、階段を下りて行った。《どうしてこうみんながさつなんだろう?》こんな考えがちらと彼の頭にうかんだ。彼はまたドアをしめて、足音の消えるのを待った。ついに、あたりはしーんとなった、もう誰もいない。彼はもう階段を一歩下りかけた、とたんにまた、誰かの別な足音が聞えてきた。
その足音はひじょうに遠くに聞えた。まだ階段ののぼり口のあたりらしい。ところが、彼はあとになって思い返しても、はっきりと記憶しているのだが、その足音を聞くと、とっさに、どういうわけかそれはきっとここへ、この四階の老婆のところへ来るにちがいない、と思いはじめた。なぜか? その足音に何か特別の意味でもあったのか? 足音は重々しく、ゆったりとしていて、よどみがなかった。そらもう彼は一階をすぎた、さらにのぼってくる。足音がしだいに、いよいよはっきりしてきた! のぼってくる男の苦しそうな息ぎれが聞えた。そら、もう三階にかかった……ここへ来る! 不意に彼は、身体中がこわばったような気がした。まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来て、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。
そして、ついに、客がもう四階の階段をのぼりはじめたときに、はじめて彼は不意にはげしく身ぶるいして、素早くするりと踊り場から部屋の中へすべりこみ、背後のドアをしめることができた。それから掛金をつかんで、音のしないように、しずかに穴へさしこんだ。本能がそれをさせたのである。それがおわると、彼はそのままドアのかげにぴたりとかくれて、息を殺した。招かれぬ客ももうドアの外に来ていた。彼がさっきドアをはさんで老婆と向いあい、身体中を耳にしていたときとまったく同じように、二人はいまドアをはさんで向いあった。
客は二、三度苦しそうに息をついた。《ふとった大きな男にちがいない》とラスコーリニコフは、斧をにぎりしめながら考えた。実際に、まるで夢を見ているような気持だった。客は呼鈴をつかんで、はげしく鳴らした。
呼鈴のブリキのような音がひびきわたると、不意に彼は、部屋の中で何かがうごいたような気がした。数秒の間彼は本気で耳をすましたほどだ。見知らぬ男はもう一度鳴らして、ちょっと応答を待ったが、不意に、しびれをきらして、ドアの把手を力まかせにひっぱりはじめた。ラスコーリニコフは恐怖にすくみながら、穴の中でおどる掛金に目をすえつけ、いまにもはずれるのではないかと気が気でなかった。たしかに、それは起りそうに見えた。それほどドアははげしくひっぱられた。彼はすんでに手で掛金をおさえようとしたが、そんなことをしたら相手に感づかれるおそれがある。また頭がくらくらしだしたような気がした。《もうだめだ、倒れる!》こんな考えがちらと浮んだが、そのとき見知らぬ男の声が聞えたので、とたんにハッとわれにかえった。
「チエッ、どうしやがったんだ、寝くされてるのか、それとも誰かに絞め殺されたか? ばちあたりめ!」彼はこもったふといだみ声でどなりたてた。「おい、アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆ぁ! リザヴェータ・イワーノヴナ、すてきなべっぴんさん! あけてくれ! はてな、ばちあたりめ、眠ってやがるのかな?」
そしてまた、腹立ちまぎれに、彼は十度ほどたてつづけに、力まかせに呼鈴をひっぱった。どうやらこの男は、この建物では顔のきく親しい人間らしいことは、明らかだ。
ちょうどそのとき、不意にちょこまかしたせわしい足音が、近くの階段に聞えた。また誰かがのぼってきた。ラスコーリニコフははじめその足音に気づかなかった。
「おかしいな、誰もいないのですか?」のぼってきた男は、まだ呼鈴をひっぱりつづけている最初の訪客に、いきなりよくとおる元気な声で呼びかけた。「こんにちは、コッホさん!」《声から判断すると、ひどく若い男らしい》とラスコーリニコフは考えた。
小説内の緊迫した場面で、ドストエフスキーは時に状況をむしろシステムのように捉えて環境的に叙述を展開させていくような趣きがある。こういう状況においてこういう対象に出会えば、人物はこういう適確な行動をとり、こういう適確な心理を持ち、こういう適確な感情を抱く、それを完全に計算しきった視点からすべてを配置して表現するとでもいうかのように。
いちいち引用はしないが、遠くの足音を聞いてからラスコーリニコフが抱いた感情、判断、そして彼の取った反応、行動は(タイミングも含め)すべてがあまりにも適確に連鎖していく。しかも記述の中心がラスコーリニコフにあるとはいえ、ここで語り手は、瞬間瞬間に生きるラスコーリニコフの意識の極点をわざと外して全体を把握しながら場面を展開させている。つまり、ラスコーリニコフの意識からすればこれは自分の犯罪が露見するかいなかのぎりぎりの危機的状況だが、老婆に会いに鼻唄混じりで階段を上ってきた男にとってそんな危機感は無縁である。そういう温度差を(ラスコーリニコフの適確に描出された必死さから)一歩離れた視点で語り手は総合的に把握しているということだ。だからこそ作者はこの男に「寝くされてるのか、それとも誰かに絞め殺されたか?」だの「アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆ぁ! リザヴェータ・イワーノヴナ、すてきなべっぴんさん!」だの縁起でもないことを、わざと言わせているわけだ。この男には力まかせにドアをひっぱることがどんなにラスコーリニコフの神経に堪えるかなんて、想像も及ばない。この温度差の把握が、まさにシステムのように場面を捉えて環境的に展開させるための条件だ。
温度差──つまりどんなにラスコーリニコフが必死であり、恐怖に震え上がっていたとしても、一歩退いたところから見ると無意味に焦っているようにしか見えないという、その落差。これを語り手が怜悧に描き切っている時に、単調ではない立体的な情景法の印象が生れる。
余談。「不意に彼は、身体中がこわばったような気がした。まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来て、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。」──この文章では直喩が使われている。感覚的(視覚的・聴覚的・触覚的)比喩ではなく、感情的比喩であることがまず注目に値する。そして別の状況における(「いまにも殺されそう」!)感情を今の状況に重ね合わせるという形の文脈的比喩である。比喩を用いるならこうしろという一例。
●『白痴』下221-224頁
第三篇第七章
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彼はじっと突ったったまま、蒼ざめた顔に、こめかみを汗でびっしょりぬらし、まるで逃げられては一大事とでもいわんばかりに、なんだか妙な格好で公爵の手をつかまえながら、身じろぎもせずに、十秒間ばかりじっと無言のまま、公爵の顔を見つめていた。
「イポリート、イポリート、きみはどうしたんです?」公爵は叫んだ。
「いますぐ……もうたくさんです……ぼくは横になります。太陽の健康を祝してほんの一口だけ飲みたいなあ……飲みたいんです、飲みたいんです、放っておいてください!」
彼はすばやくテーブルの上の杯をつかむと、さっと席を離れて、あっという間にテラスの降り口のほうへ近づいていった。公爵はそのあとを追って駆けだそうとしたが、まるでわざとのように、ちょうどその瞬間エヴゲーニイ・パーヴロヴィチが暇を告げるために、彼へ手をさしのべたのである。一秒がすぎた。と、いきなりテラスでどっとみんなの叫び声がおこった。つづいて異常な混乱の一瞬が訪れた。
つぎのような事態がおこったのである。
テラスの降り口まで来たとき、イポリートは左手に杯を持ったまま、右手を外套の右側のポケットへ突っこんで、足をとめたのである。あとでケルレルが主張したところによると、イポリートはまだ公爵と話していたときから、ずっと右手をポケットへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたときも左手だったという。そして、このポケットへ突っこんだままの右手が、まず彼に不審の念を呼びおこしたと、ケルレルは主張した。いや、それはともかく、妙な不安にかられた彼は、イポリートのあとを追って駆けだしたのである。しかし、その彼もやはりまにあわなかった。彼はふいにイポリートの右手に何やらきらりとひらめき、その瞬間、小さな懐中用のピストルがこめかみにぴったり押しあてられたのを見たばかりであった。ケルレルはその手をおさえようと身を踊らせたが、その瞬間イポリートは引き金をひいた。と、鋭いかわいたような撃鉄のかちりという音が響いたが、発射の音は聞えなかった。ケルレルがイポリートを抱きとめたとき、相手はまるで意識を失ったかのように、いや、ひょっとすると、もう死んでしまったとほんとに思ったのかもしれないが、その腕に倒れかかった。ピストルは早くもケルレルの手にあった。みんなはイポリートをおさえて椅子を据え、その上に腰かけさせた。みんなはそのまわりを取りまいて、大声で質問を浴びせかけた。みんなは撃鉄のかちりという音は聞いたのに、当の本人は生きているどころか、かすり傷ひとつ負っていないからである。当のイポリートは、どういうことになったのか事情がわからず、じっとすわったまま、ぼんやりした眼差しでみんなを見まわしていた。
その瞬間、レーベジェフとコーリャが駆けつけてきた。
「不発だね?」と、周囲の者がたずねた。
「ひょっとすると、装填してなかったんじゃないか」と臆測をする者もあった。
「いや、装填してある!」ケルレルがピストルをあらためながら叫んだ。「しかし……」
「不発じゃないのかい?」
「雷管がまるっきりなかったんです」とケルレルが報告した。
つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった。みんなの最初のおどろきは、とたんに笑い声に変ってしまった。なかにはこの一件に意地の悪い喜びを見いだして、大声に笑いころげる者さえあった。イポリートはヒステリックにしゃくりあげ、自分の手を激しくねじまわし、誰かれの区別なく、フェルディシチェンコにさえとびかかって、両手で相手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだと誓う始末だった。『ついうっかりして忘れたんです、わざとじゃありません。雷管はすっかり、ほらこのとおり、このチョッキのポケットにあるんです、十個も』(と彼はまわりの人にそれを見せた)『はじめから入れておかなかったのは、万一ポケットの中で暴発しては困ると思ったからで、必要なときにはいつでもまにあうと考えていたのに、ついうっかり忘れてしまったのです』とこぼすのだった。彼は公爵やエヴゲーニイ・パーヴロヴィチにとびかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれと哀願しながら、いますぐにも『廉恥心が……廉恥心があるってことを』見せてやるんだとか、ぼくは『もう永久に恥辱を受けた!』と叫んだりした。
彼はとうとう実際に意識を失って倒れてしまった。みんなは彼を公爵の書斎へ運んでいった。すっかり酔いがさめてしまったレーベジェフは、さっそく医師を迎えに使いを出し、自分は娘や息子やブルドフスキーや将軍といっしょに、病人の枕べにとどまった。気を失ったイポリートが運びだされてしまうと、ケルレルは部屋の真ん中に仁王立ちになって、一語一語はっきり発音しながら、ひどく感激した様子で叫んだ。
「諸君、たとえ諸君のうちの誰であろうとも、もう一度わが輩の面前で、あれはわざと雷管を忘れたんだとか、またはあの不幸な青年は喜劇を演じたにすぎんなどと断言されるようなことがあったら、お相手はわが輩がいたしますぞ」
しかし、誰ひとりとしてそれに答える者はなかった。ついに客たちはどやどやとあわてて散っていった。プチーツィンとガーニャとロゴージンは、連れだって出ていった。
小説内の緊迫した場面を、ドストエフスキーは何故か切羽詰まった登場人物の心理に(内的独白のように)定位するのではなく、むしろ状況をシステムのように捉えて環境的に展開させていくことを好むらしい。引用部でイポリートの自殺を決意した心理の深刻さは疑いようがないとしても、ここでの環境全体から見た場合にはその心理も一つのパーツに過ぎず、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチのようにそれに共感するどころか嘲弄するような立場の人物の平静さとの落差によって、相対化されるのである。イポリートのぎりぎりの切実な心理の相対化は、彼の自殺が不発に終わることによって決定的になる。そしてそのようなシステマティックな事態の進行を完全に計算しきった視点からすべてを立体的に「まるでわざとのように」配備して語っているのが、作者としてのドストエフスキーになるわけだ。
ちなみに、緊迫した場面・状況を一種のシステムと捉えていかに立体的に一つ一つのパーツが上手く噛み合って動くかということに作為を凝らす場合には、「瞬間」は強調されず、瞬間と瞬間を繋いで記述を生成するようなスタイルは取られない。引用部で言えば「つづいて異常な混乱の一瞬が訪れた」(「つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった」の一文も同様)という予告の一文が出た時点で、作者はすでにつづいて起る事態のシステム的な作動の計算は完璧に終えているのだ。だからこそイポリートが引き金を引く一連の動作は、無アスペクトの現前的な瞬間の連鎖として描かれずに、まるで後から思い出して再構成したかのように、(イポリートの内面とは無縁な)ケルレルの証言を元にして描き出されるのである──「あとでケルレルが主張したところによると、イポリートはまだ公爵と話していたときから、ずっと右手をポケットへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたときも左手だったという。そして、このポケットへ突っこんだままの右手が、まず彼に不審の念を呼びおこしたと、ケルレルは主張した。いや、それはともかく、……」──特にこの「それはともかく」という句の中に致命的な事態を遠巻きに余裕を持って眺めている語り手の顔が覗いているかのようではないか。「つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった」の一文の後も同様だ。そこではまるで後からその場面を思い出しながら記録したかのように、イポリートの言葉が引用符『……』で括られているのである。つまりここでもイポリートの切実な心理は突き放して眺められて、事件は俯瞰的に叙述されている(とはいえ、「彼はとうとう実際に意識を失って倒れてしまった。……」から再びゆるやかな現前的場面の記述に切り替わる)。こうした距離感、致命的事件をシステム的かつ立体的に捉える視点というのがドストエフスキー文体の一つの独自性。
追記。もし場面・状況を一種のシステムと捉えて立体的に作動させるという志向があるならば、むしろ表現はシンプルでいい。この状況下で適確な行動や適確な対象のみを構想して描き込めば良い。修辞の水増しはいらない。例えば「イポリートはヒステリックにしゃくりあげ、自分の手を激しくねじまわし、誰かれの区別なく、フェルディシチェンコにさえとびかかって、両手で相手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだと誓う始末だった。」──といった振舞いの描写は、適確に想像されていればいるほどその表現は無駄なものが不要となるだろう。
●『カラマゾフの兄弟』1巻130-132頁
第二篇第六章
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ドミートリイ・フョードロヴィチは二十八歳になる、中背で気持のいい顔立ちをした青年だったが、年よりも非常に老けて見えた。筋骨たくましく、すばらしい腕力の持ち主であることが容易に推察されたが、そのくせ顔には何か病的な表情がただよっていた。その顔はやつれて頬がこけ、頬の色は何となく不健康に黄ばんでいた。飛び出し気味のかなり大きな黒ずんだ目は、見たところじっと執拗な視線を放っていたが、妙に定まらなかった。興奮していらいらと話をする時でも、彼の眼差は心のなかの気分に従わないらしく、何か別の、時によるとまるでその瞬間にふさわしからぬ表情を浮かべることがあった。『あの男は何を考えているのかわからない』──こんな批評を、彼と話を交した人たちが言ったこともある。またある人たちは、彼の目に何か物思わしげな気むずかしい表情を読み取っているうちに、とつぜん藪から棒にからからと笑いだされてあっけに取られたこともたびたびあった。それはつまり、そういう気むずかしい目つきをしている時でも、同時に陽気なふざけた考えが頭にひそんでいる証拠である。もっとも今の彼としては、顔つきが多少病的に見えるのも当然かも知れない。彼が近頃この町で大そう落ち着きのない《放蕩無頼の》生活にふけっていることは誰もが見聞きして知っていたし、また同様に彼が父親と金のことで喧嘩をして異常にいらだっていたことも誰知らぬ者もなかったのである。このことでは、すでに二、三の逸話が町じゅうに流布していた。もっとも彼が生まれつきいらだちやすく、この町の治安判事セミョーン・イワーノヴィチ・カチャーリニコフがある会合の席でいみいくも彼を評して言ったように、《断続的な異常な頭脳》の持ち主だったのである。
ドミートリイはフロックコートのボタンをきちんとかけ、黒の手袋をはめ、その手にシルクハットを持って、一分のすきもない粋な姿ではいって来た。退役後まもない軍人らしく彼は口ひげを立て、顎ひげは今のところ剃り落としていた。栗色の頭髪は短く刈りこまれ、こめかみのあたりの毛を前のほうへ梳きつけてあった。歩き方は軍隊風に勢いよく大股だった。一瞬間、彼は敷居の上に立ちどまり、並み居る一同の顔に視線を走らせると、これがこの席の主だと見当をつけて、つかつかと長老の前へ歩いて行った。……
それまで重要人物として名は知られていたが、まだ登場していなかった人物が初めて登場した時に、一旦情景法を中断して無時間的な人物描写ディエゲーシスを展開するというパターンの一例。ちなみに、ディエゲーシスの導入は章の区切りを利用して行っているので、段落展開的には学べることはない。
さて、人物描写ディエゲーシスの内容を直に見ていこう。一読して明らかなことは、彼に関する客観的な情報、定義的情報などを「二十八歳」という年齢への言及以外完全に欠いていることだ。すでにドミートリイの職業などは一応開示済みだとはいえ、この語り手の説明の抑制は注目に値する。代わりに存在しているのが彼の表情描写と、彼に関する噂の引用、「誰知らぬ者もなかった」こととしての彼の状況の説明である。
これらの特徴は明らかに、人物描写ディエゲーシスにおいても語り手が人物の自意識よりも無意識に照準を合わせていることの証左だ。ドストエフスキーにおいて、人物描写ディエゲーシスは必ずその人物の自意識に陰に陽に影響を与えている無意識の動きを批評的に浮彫りにする。したがってそこで肖像として描き出されるのは、《彼自身の自意識には映っていない彼の姿》である。表情描写からしてすでにそうだ。ドミートリイが年齢よりも老けて見えること、顔に何やら病的な表情が漂っていることは、ドミートリイ自身では充分に意識されていないことだろうし、また客観的な情報として普遍的に共有できるものでもない、語り手の批評性のみが報告できるものである。この語り手の批評性は、記述が概言および括復法的に推移していくことによって──「興奮していらいらと話をする時でも、彼の眼差しは心のなかの気分に従わないらしく、何か別の、時によるとまるでその瞬間にふさわしからぬ表情を浮かべることがあった」「またある人たちは、彼の目に何か物思わしげな気むずかしい表情を読み取っているうちに、とつぜん薮から棒にからからと笑いだされてあっけに取られたこともたびたびあった」──さらに明確になる。しかも、ここで語り手は自分が記述したことを敷衍して推論ないし推測をしもするのだ──「それはつまり、そういう気むずかしい目つきをしている時でも、同時に陽気なふざけた考えが頭にひそんでいる証拠である」「もっとも今の彼としては、顔つきが多少病的に見えるのも当然かも知れない」。
以上は当然、この人物描写ディエゲーシスの書き手があくまでドミートリイの外部に立ちつつ、しかし批評家的に彼の無意識の欲望や本質的なペルソナを突き刺して剔抉しようと、いかなる兆候も見逃さないように、また援用できる情報は何でも援用しようとしているからこその特徴だ。この、あくまで外部の視点に立つということから、ドミートリイに関する説明を、町じゅうに流布している逸話や、治安判事の評言によって代弁させなければならないという形式が生まれもする。いずれにせよドミートリイの自意識や自負とは無縁なところから、彼の姿を描き出そうという意図は一貫しているわけだ。そうだ、「何か物思わしげな気むずかしい表情をしていると思うと、とつぜん藪から棒にからからと笑い出す」という彼の印象的な姿は、まさに彼の能動的な自意識ではなく「とつぜん」噴出する彼の無意識の動きに照準を合わせていなければ捉え得ない姿ではないか?
●『カラマゾフの兄弟』2巻81-82頁
第四篇第六章
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「お坊さんが托鉢に来たんだわ、とんだところへ来たものね」左手の隅に立っていた娘が、大声で叫んだ。
アリョーシャのほうへ駆け寄って来た男は、とたんにくるりと彼女のほうへ向きなおると、興奮したあわて声で彼女に答えた。
「違いますよ、ワルワーラ・ニコラーエヴナ、違いますよ、そうじゃありませんよ。失礼ですが」と突然またアリョーシャのほうへ向き直って、彼はたずねた。「どうしてまた……こんなむさい所へお訪ね下さいましたんで?」
アリョーシャは注意ぶかく相手を見つめた。彼ははじめてこの男に会ったのである。この男には何かごつごつした、せかせかといらだたしげなところがあった。たったいま、一杯やったのは確かなのに、別に酔ってはいなかった。その顔はある極度の厚かましさと、同時にまた──奇妙なことだが、──あらわな小心さを表わしていた。彼は、長いあいだじっと我慢に我慢を重ねて来たが、とつぜん立ちあがって自己を現わそうと決意した人に似ていた。あるいは、もっと適切に言えば、相手を殴りたくてならないのに、逆に相手に殴られはしまいかとびくびくしている人にそっくりだった。彼の言葉つきにも、かなり鋭い声の抑揚にも、ある宗教狂人じみた滑稽味が聞かれたが、それが時には底意地の悪い、時にはおどおどした調子にたえず変わって、しどろもどろになった。《こんなむさい所へ》とたずねた時、彼は全身をふるわし、目をむいてあんまり近々とアリョーシャのそばに駆け寄ったので、こっちは思わず機械的に一歩あとずさりした。男は黒っぽい、ひどく粗末な、つぎはぎと汚点だらけの南京木綿の外套を羽織っていた。ズボンは、もう久しく誰もはかないようなとびきり明るい色の格子縞だったが、生地が大そう薄っぺらだったので、下のほうがしわだらけになって上へたくしあがり、まるで悪たれ小僧のようににゅっと足が出ていた。
「僕は……アレクセイ・カラマゾフという者ですが……」とアリョーシャは相手の質問に答えて言いかけた。
スネギリョーフについての不思議な人物描写。(ポルノグラフィーのように)視覚的細部のスケッチを連結して人物像を際立たせていくというのではない。そうではなく、「ごつごつした、せかせかといらだたしげなところがあった」「ある極度の厚かましさ」「あらわな小心さ」「長いあいだじっと我慢に我慢を重ねて来たが、とつぜん立ちあがって自己を現わそうと決意した人に似ていた」「相手を殴りたくてならないのに、逆に相手に殴られはしまいかとびくびくしている人にそっくりだった」「底意地の悪い、時にはおどおどした調子」──といった感情的な印象を大掴みにした形容を重ね塗りしていくことで人物を浮び上がらせていく。時にその形容は矛盾したり、次々と入れ替わったりするが、もとが感情的印象なだけに支離滅裂だとは思われない。しかもそれらの印象を「奇妙なことだが」「もっと適切に言えば」という注釈的な叙述によって繋ぎ合わせているので、なぜか読んでいて印象の一貫性があるように感じられる。そして、これらのごたごたした感情的印象を最後に綺麗に締めくくるのが、寸足らずのズボンから「にゅっと」出ている彼の足の描写という決定的イメージだ。あくまで感情的な印象のみを次々に塗り重ねておいて、最後の仕上げのところで視覚的細部のスケッチという切り札を出す。見事。
●『罪と罰』上18-20頁
第一部第二章
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しかし誰もその男の幸福を喜んでくれる者はなかった。むすっとした連れは、あやしいものだというような顔で、敵意をさえうかべて、この発作をながめていた。店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた。彼は一人はなれて、びんをまえにし、ときどきちびりちびり飲みながら、あたりを見まわしていた。彼も何か気になることがあるらしい様子だった。
ラスコーリニコフは人ごみの中に出つけなかったし、それに、まえにも述べたように、およそ人に会うことをさけていたが、最近は特にそれがひどかった。それがいまはどうしたわけか急に人が恋しくなった。新しい何ものかが彼の内部に生れ、それと同時に人間に対するはげしい飢えのようなものが感じられた。彼はまる一月にわたる思いつめた憂鬱と暗い興奮に、へとへとに疲れはてて、せめてひとときでも、どんなところでもかまわないから、ほかの世界で息をつきたかった。だから、まわりのきたならしさなど気にもかけないで、彼はいま満足そうに居酒屋の中に身をおいていたのである。
店の亭主は別な部屋にいたが、ときどきどこからか階段を下りて店へ入って来た。そのたびに先ず、大きな赤い折返しのついたてかてかのしゃれた長靴が見えた。亭主はシャツの上に、あぶらでとろとろの黒繻子のチョッキを着こみ、ネクタイはつけていなかった。顔は全体があぶらを塗りこくったようで、まるで鉄の南京錠のようだった。スタンドの向うには十四、五の給仕がいた。さらにもう一人いくらか年下の男の子がいて、その男の子が注文をうけて、品ものをはこぶ役だった。小さな胡瓜と、黒い乾パンと、こまかく刻んだ魚がおいてあったが、それがみな鼻のまがりそうな悪臭をはなっていた。息苦しくて、じっと坐っているのさえがまんができないほどなのに、店中のものにすっかり酒の臭いがしみこんでいて、その空気だけで五分もしたら酔ってしまいそうに思われた。
ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、一目見ただけで妙に心をひかれるような、奇妙なめぐりあいがあるものである。ちょうどそうした印象を、すこしはなれて坐っていた、退職官吏らしい風采の男が、ラスコーリニコフにあたえた。青年はあとになって何度かこの第一印象を思いかえしてみて、それを虫の知らせだとさえ思った。彼はたえずちらちらと官吏のほうを見やった、むろんそれは、先方でもうるさいほど彼のほうを見つめていて、ひどく話しかけたそうな素振りを見せていたせいでもあった。亭主をふくめて、店内にいたほかの客たちを見る官吏の目には、妙ななれなれしさと、もうあきあきしたというような色さえ見えて、同時に、話すことなど何もない、地位も頭も一段下の人間に対するような、見下すようなさげすみの色もあった。それはもう五十をすぎた男で、背丈は大きいほうではないががっしりした体つきで、頭は禿げあがって、髪には白いものがまじり、酒浸りで黄色くむくんだ顔は青っぽくさえ見えた。はれぼったい瞼の下には、割れ目みたいに小さいが、生き生きした赤い目が光っていた。しかし、何かこの男にはひどく不思議なものがあった。その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった。彼はボタンもろくについていない、古いぼろぼろの黒いフロックを着ていた。ボタンは一つだけまだどうにかくっついていたが、礼を失したくないらしく、それをきちんとかけていた。南京木綿のチョッキの下から、酒のしみとあかでひかったしわくちゃの胸当がとびだしていた。顔は官吏風に剃ったあとはのこっていたが、もういつからかかみそりを当てていないらしく、一面に灰色の濃いごわごわのひげが生えはじめていた。その態度にもたしかにどことなく官吏くさいかたさがのこっていた。しかし彼はおちつかない様子で、髪をかきむしったり、ときどき、酒がこぼれてべとべとするテーブルに穴のあいた肘をついて、両手で頭をかかえこみ、ふさぎこんだりしていた。とうとう、彼はラスコーリニコフの顔をまっすぐに見て、大きなしっかりした声で言った。
細かい点から。亭主と給仕についての「描写休止法」──これはプルーストがフローベールの文体について言った言葉、「フローベールの文体ですと、現実のあらゆる部分が、広大な表面を一様にきらめかせるただひとつの物質に変えられてしまいます。いかなる不純物も残されてはいません。表面はすべて反射を返すようになっていて、どんなものでもそこに描き出されはするのですが、それもつまりは反射によることなので、物質の均質性が損なわれることはないわけです。異質だったものはすべて変化を強いられ、吸収しつくされます」を思い起こさせるほど、細部のそれぞれが互いに反射しあって息苦しい店内の汚らしさを一様に浮かび上がらせている──が叙述のリズムに入り込んで来るタイミングに注目せよ。ここでは(2)複数の事態が進行し、準備しているうちの一つの系として、少しだけ脇道に逸れる、スイッチを切り替えるという形で描写休止法を継続可能。が用いられている。章始めのディエゲーシスとして主人公を離れて記述が可能ということもあるが(観察しているのはラスコーリニコフというよりもむしろ語り手自身ようだ……)。
そして(2)と考えた場合、何が複数的に進行しているかというと、もちろん「退職官吏らしい男」の接近だ。この男はすでに前章の末尾にちらりとその姿を見せていた(「店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた」)。しかし語り手は直接にそこからその男についての記述へと連絡させていかない。店内の描写、ラスコーリニコフの具体的な特徴的心理の記述(「人間に対するはげしい飢え」「まる一月にわたる思いつめた憂鬱と暗い興奮」)をパラレルに配置することによって直接・一直線な記述ではなくて複数的な記述のスイッチングによって少しずつ描写を進めていく。そして何気ない切り替えのようにして、あたかも情動の引力によるかのような人間関係の構築を実現させていく(「ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、一目見ただけで妙に心をひかれるような、奇妙なめぐりあいがあるものである」)。
この退職官吏ことマルメラードフは超重要人物だからこそこうして丁寧に関係性の出来上がるのを記述しなければならないわけだが、とにかく注目すべきは、最初マルメラードフが「兆候的」にしか現れていなかかったことだ。「音や気配による兆候から、ふと視点を転ずることでその本体に一気に逢着するというイメージの動線」による場面の造形という技法の遺憾なき発揮。前章終わりに登場したこの退職官吏は、店の亭主や給仕や酔っ払った大男とは違って単なる背景の一つではない、決定的にストーリーに関わってくる男、いわば『罪と罰』全篇の後の展開を兆候的に示すかのように最初はおぼろげに・遠巻きに登場してきたわけだ。
さらに敷衍する。小説の後の展開を予告する兆候的描写、それはドストエフスキーの描くほとんどの「顔貌描写」についても言えるのではなかろうか。この退職官吏の風采の描写は、当然ながら例の「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」になっていることに注目しよう。遠く距離を置きつつも(この距離感のせいで語り手による描写と感じられるのかもしれない)激しい好奇心を出したり引っ込めたりしながら対象とせめぎ合っていく、あの対話的情景法だ。「彼はたえずちらちらと官吏のほうを見やった、むろんそれは、先方でもうるさいほど彼のほうを見つめていて、ひどく話しかけたそうな素振りを見せていたせいでもあった。……」でもそうした対話性の存在は、別にフィクションとしてこの退職官吏の風貌の細部を決定しはしないだろう。では何によってこのマルメラードフの外貌描写の内容は決定されるのか。彼の人格によって? 確かにそういう側面もあるが、より重要なのは、彼の風采がつづく小説の展開の兆候として造形されるべきだという法則だ。描写の細部は、ストーリー展開の兆候として決定される。「何かこの男にはひどく不思議なものがあった。その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった。」──これは兆候だ。確かに後に見るようにマルメラードフは並外れた感情の持ち主なのだから。「顔は官吏風に剃ったあとはのこっていたが、もういつからかかみそりを当てていないらしく、一面に灰色の濃いごわごわのひげが生えはじめていた。」──これも兆候だ! ドストエフスキーのシャーロック・ホームズ的(「調査・推理」的)な観察眼=描写の尖筆というのは、常に現実を素朴に見ていたのでは気づけない兆候のレベルまで届いている。「彼はボタンもろくについていない、古いぼろぼろの黒いフロックを着ていた。ボタンは一つだけまだどうにかくっついていたが、礼を失したくないらしく、それをきちんとかけていた。」──そうなるとこれも一種の「人格的兆候」のように思えて来る。
●『カラマゾフの兄弟』4巻208-209頁
第十一篇第七章
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その頃までにスメルジャコーフは退院していた。イワンは彼の新しい住まいを知っていた。それは例の軒の傾いた丸太づくりの小さな家で、玄関の間をあいだにはさんでふたつの部屋から成り立っていた。その片方にはマリヤ・コンドラーチエヴナと彼女の母親が住み、もう一方にはスメルジャコーフがひとりで暮らしていた。彼がどういう条件でこの家に同居しているのか、──ただで住んでいるのか、家賃を払っているのか、それは誰にもわからなかった。のちに推察されたところによると、彼はマリヤの婚約者という資格でこの母娘の家に同居して、さしあたってはただで世話になっていたらしい。母親と娘は大そう彼を尊敬していて、自分たちよりも一段上の人間と考えていた。
さて、イワンはノックをして玄関へはいると、マリヤの案内で左手の、スメルジャコーフが占領している《上等の部屋》へ真っ直ぐに通った。この部屋にはタイル張りの煖炉があって、非常に暖房がきいていた。壁には水色の壁紙がはってあったが、それがずたずたに破れて、その裂け目を無数のごきぶりがはいまわり、たえずかさかさ音を立てていた。家具は大そう貧弱で、両側の壁ぎわにベンチがひとつずつと、テーブルの横に椅子が二脚あるだけだった。そのテーブルは粗末な白木づくりだったが、それでもばら色の花模様のテーブル掛けがかけてあった。ふたつの小さな窓には、それぞれゼラニウムの鉢植えがひとつずつ置いてある。部屋隅には聖像をおさめた厨子があった。テーブルの上にはひどくでこぼこの小型な銅のサモワールと、茶碗をふたつのせた盆が置いてあった。もっとも、スメルジャコーフはもうお茶を飲み終わっていたので、サモワールの火は消えていた。……
彼はテーブルに向かってベンチに腰をおろし、手帳を見ながら何かしきりにペンで書いていた。小さなインク壜がすぐ横にあり、またそのすぐそばには、ステアリンろうそくを立てた背の低い鋳物の燭台がおいてあった。イワンはスメルジャコーフの顔を見て、すぐに彼の病気が全快したのを知った。顔は前よりも太って生気にあふれ、前髪がきれいに立ち、びんの毛がポマードでなでつけられていた。彼は派手な綿入れの部屋着を着て坐っていたが、その部屋着はだいぶ着古したもので、かなりほころびていた。鼻眼鏡までかけていたが、イワンはそんなスメルジャコーフを見るのははじめてだった。こんなごく些細な事柄が、突然イワンの腹立たしさを倍加したように見えた。『生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!』こう彼は考えた。スメルジャコーフはゆっくりと頭をあげて、部屋へはいって来た客の顔を眼鏡ごしにじろりと見つめた。それから静かに眼鏡をはずすと、ベンチから立ちあがったが、うやうやしさは少しも見えず、むしろ何となく面倒くさそうで、仕方がないから最小限の礼儀を守ろうといった様子だった。イワンにはスメルジャコーフの目つきで、『何だってふらふらやって来たんだ、この前すっかり話がついたじゃないか、何のためにまた来たんだ?』とでも言わんばかりの、悪意をむき出しにした、不愛想な、むしろ傲慢な目つきだったのである。イワンはやっとのことで自分を抑えた。──
第一段落は後の現前的描写を準備するための助走のディエゲーシスで、時間幅を広く取り、習慣的記述もまぜながらスメルジャコーフとその住まいの現況を語っていく。現前性による急き立てがないのでゆったりと余裕を持って、単線的にではなしに叙述を脹らませることができている。事実を書くだけでなく、語り手による疑問の提示と推測(「彼がどういう条件でこの家に同居しているのか……それは誰にもわからなかった。のちに推察されたところによると、……」)さえ含まれている。こうやって事実の羅列だけでは見えてこない高次の認識を掘り起こして来るのはドストエフスキーのディエゲーシスの十八番。ただしここでの語り手の「推測」の説得力は探偵的なそれではなくて事情通的なもの。
第二段落以降は情景法、しかもいわゆる「外部世界とコミュニケーションしながらの情景法」──焦点人物が激しい好奇心を出したり引っ込めたりしながら対象とせめぎ合っていく、あの対話的情景法となっていることに注目しよう。イワンはほとんど意識的に「調査・推理」するかのように細部を観察していく。なぜそのような意識がイワンに生れるのか。それは、イワンがこの場所を訪れるのが初めてだからだ。また、スメルジャコーフも以前彼が知っていたのとは違って様変わりした容貌を見せており(これも「初めて」見るもの──鼻眼鏡という細部の造型は見事)、ここを訪れた動機からしても、イワンは注意深くならざるを得ないからだ。イワンは何もかも見逃すわけにはいかない。そのようなイワンの視野を語り手がトレースしているからこそ、部屋について、スメルジャコーフについて、微に入りさまざまな細部を生き生きと把捉して描写することができる。スメルジャコーフの病気はすでに全快していることも、スメルジャコーフがかすかにイワンに対して横柄な態度を取ろうとしていることも、あるいはスメルジャコーフの目付きの中の悪意さえも、見逃さない。イワンの注意は張り詰め、彼の精神は外部世界の観察対象と駆け引きしながら常に休まることがない。自分の認識したことに強いられるかのように『生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!』と内語を思わず爆発させてしまう(外部から到来する内語!)箇所は、「対象とコミュニケーションしながらの情景法」の面目躍如。そしてイワンは「やっとのことで自分を抑えて」──すなわちひりひりするようなスメルジャコーフに対する関心、現前的描写を駆動する原理になっていたその興奮を抑えて初めて、会話場面に移行することができるのである。
ここで「描写」が持つ意味はイワンの動的な働きかけに決定的に左右されている。単に現前的に知覚されるものを(知覚される順番に)並べているのではない。
(後日追記:というよりも、──描写とは一般に登場人物が無意識で処理しているものの言語化である。……描写対象は無意識で処理される……ということはそれなりに(イワンの)無意識にショックを与えたり謎めいていたりする要素がなければ、そもそも描写される価値がないってこと。……「はっきりと言語化はできないが薄々何か嫌なところがあるのに気づいていた」とか「あまりの不快さにぱっと見ただけで克明に銘記されてしまった」という違和感が自意識への印象。……それを無意識担当の地の文が言語化する。……無意識を波立たせ自意識の円滑性を屈折させる強度(他者性)のない対象は、そもそも言葉を費やして描写する価値さえない。……言うまでもなく《生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!》──この内語も自意識の能動性というより、無意識の切迫からの(自分では言ったことも意識していないような)言葉だ。──ってことじゃないの?
●『罪と罰』下360-362頁
第六部第四章
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……結局、わたしは目的を達しました。ところがわが愛すべき貴婦人は、自分は貞節ですこしもけがれていない、あらゆる義務はちゃんと行なっている、ただまったく思いがけなく身をあたえてしまっただけだと、固く信じこんでいたわけです。だからわたしが最後に、わたしのいつらわぬ確信によれば、婦人もわたしと同じように快楽を求めていたのですね、と言ってやったときの、婦人の怒りようったらなかったですね。かわいそうなマルファ・ペトローヴナもお世辞にはおそろしく弱い女でした、だからわたしがその気にさえなれば、あれの生きている間にあれの全財産をわたしの名義に書きかえさせるくらい、わけなくできたんですよ。(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)。ところで、こんなことをいって、怒られると困りますが、この効果がアヴドーチヤ・ロマーノヴナにもあらわれはじめたんです。ところがわたしがばかで、気が急いたために、すっかりぶちこわしてしまったんですよ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれまでも何度か、(一度などは特に)わたしの目の表情をひどく嫌いました。こんなことが信じられますか? 要するに、わたしの目にはある種の炎がますますはげしく、不用意に燃え立ってきたわけで、これが妹さんを怯えさせるようになり、しまいには、それが嫌悪にかわってしまったわけです。こまごまと言う必要はありませんが、とにかくわたしたちは別れました。そこでわたしはまたばかなことをしたんですよ。あのひとのおしえやらさとしやらを思いきり乱暴に愚弄したわけです。パラーシャがまた登場しました。しかも彼女一人だけじゃありません、──要するに、またソドムがはじまったわけです。まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか! わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾しましたからな、でもそんなことはなんでもありません、わたしはほんとのことを言ってるんです。その目をわたしは夢に見たんですよ、嘘じゃありませんよ。衣ずれの音を聞くと、もうがまんができませんでした。ほんとに、わたしは倒れるのではないかと思いました。わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときには、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがほんとうは貧しい娘で(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)要するに、自分で働いて暮しているし、それに母とあなたの生活までみている(あッ、いけない、また嫌な顔をなさいましたね……)ことを計算に入れて、わたしは有金を提供する決意をしたわけです(その頃でも、三万ルーブリくらいはなんとかすることができたので)、ただしこのペテルブルグへでもいいから、いっしょに逃げてくれるという条件で。そこでわたしは永遠の愛、幸福等々を誓ったことは、言うまでもありません。信じられないでしょうが、わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう! だが、すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました。そしてマルファ・ペトローヴナがあの卑劣きわまる小役人のルージンを持ち出して、結婚話をまとめかけたのを知ったとき、わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います、──こんな結婚なら、わたしが提案したことと、本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? そうでしょう? どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」
スヴィドリガイロフはじれったそうに拳骨でどしんとテーブルを叩いた。顔が真っ赤になった。いつの間にかちびりちびり飲みほしてしまった一杯か一杯半のシャンパンが、悪くきいてきたのを、ラスコーリニコフははっきり見てとった、──そしてこの機会を利用することに決めた。彼にはスヴィドリガイロフがなんとしても臭く思えてならなかった。
緊迫した対話場面において相手に肉迫する長広舌がどのようなスタイルを取るか。引用部で注目に値するのはその点のみ。
まずは(……)で括られている相手へのリアルタイムな無遠慮な呼び掛けが特徴的なものとして目立つ。「(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)」「(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)」「(あッ、いけない、また嫌な顔をなさいましたね……)」──これらのうち後者の二つは、少し遅れて相手の反応に気づいてそれをフォローするという性質を持っている。こういう屈曲をうまく入れていくというのがスタイルとしては重要。単純に相手の反応を先回りする配慮を見せたものとしては「こんなことをいって、怒られると困りますが……」「こまごまと言う必要はありませんが……」「嘘じゃありませんよ」「信じられないでしょうが……」という断わりを入れるスタイルがある。もう一歩踏み込んで、相手の反応を科白の上で描写してしまうということもやっている。「どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」さらにそれを逆向きにしたスタイルとして、自分自身の状態を客観視してリアルタイムに描出することもやっている。「わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾しましたからな、でもそんなことはなんでもありません」
相手へのリアルタイムな呼び掛けというなら、修辞疑問文的な疑問形のスタイルもそれに含まれよう。「こんなことが信じられますか?」「本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか?」また、似たようなものとして相手に明白に答えを求めるような疑問形のスタイルもある──が、この場合長広舌はどんどん先に進んでいくので相手が答えるのを待つことはない。「そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう!」
もちろんここでスヴィドリガイロフは話の中で直にラスコーリニコフの名を出して呼び掛けるということもやっている。その場合感嘆文の形をとって、自分の感じたことをやたら誇張したがる傾向があるようだ。「まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか!」「かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときは、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」あるいは単純に話し相手のことを「あなた」と呼びつつ二人称的な親密さを醸し出そうとするスタイルも見られる。「すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました」「わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います」
単純に誇張のスタイルということで言えば、想像的仮定による誇張がある。「わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう!」ここでは自分が愛に目がくらんでいたことを、「もし……と言ってくれたら」という仮定の状況を描いて敷衍しているわけだ。
あとは密度の高い長広舌であるだけにやや説明的な言い回しが目立つ。「要するに」は多用されている。「要するに、またソドムがはじまったわけです」「要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした」「……したことは、言うまでもありません」
●『罪と罰』下356-359頁
第六部第三章
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「また、村のあなたの下男の噂も聞きましたよ、これもあなたが何かの原因になっていたとか」
「どうか、もうやめてください!」とスヴィドリガイロフはまた露骨に苛々しながらさえぎった。
「それは死んでからあなたのパイプに煙草をつめに来たとかいう、その下男じゃありませんか……いつか自分でぼくにおしえた?」とラスコーリニコフはますます苛立ってきた。
スヴィドリガイロフは注意深くじっとラスコーリニコフを見た、すると相手の目の中に、毒々しいうす笑いが、稲妻ように、ちらと浮んだような気がした。しかしスヴィドリガイロフは自分を抑えて、至極ていねいに答えた。
「そう、その下男ですよ。どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機会があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう。いやになりますよ! どうも、ほんとうにわたしは、誰やらの目には小説的な人間に見えるらしいですな。どうです、こうなると死んだマルファ・ペトローヴナにはどれほど感謝していいやらわかりませんな、なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ。人の胸の中は判断できませんが、とにかくこれはわたしにとって有利でした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが──それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。亡んでいく人間に対するあわれみです。娘の心にあわれみの気持が生れると、それが娘にとってもっとも危険なことは言うまでもありません。そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更正させたい、という気持になります、──まあ、こうした空想にふけるものですよ。わたしはとっさに、小鳥さん自分から網にとびこんでくるな、と見てとったから、こっちもその心構えをしたわけです。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから。(チエッ、やけに酒がすすむぞ!)実はね、わたしはいつも、はじめから、運命があなたの妹さんを二世紀か三世紀頃のどこかの領主か、王侯か、あるいは小アジアあたりの総督の娘に生れさせてくれなかったのを、残念に思っていたんですよ。あの方は、疑いもなく、どんな苦難にも堪え得た女性たちの一人になれたでしょうし、真っ赤に焼けたコテを胸に押しつけられてもにっこり笑っていられたにちがいありません。あの方は自分から進んでそうした苦難におもむかれたはずです、そして四世紀頃に生きていたら、エジプトの砂漠へ世を逃れて、木の根と陶酔と幻を食べて三十年、そこで暮したにちがいありません。あの方は早く誰かのためにどんな苦しみかを受けたいと、それだけを渇望しているのです、その苦しみをあたえなかったら、窓から飛び下りるかもしれません。わたしはラズミーヒン君とやらについて少し聞きました。思慮深い青年だそうですね(名は体をあらわす、ですか〔ラズーム=理知〕、きっと神学生でしょう)、まあ妹さんを守らせたらいいでしょう。要するに、わたしは妹さんの気持が理解できたようだし、それを光栄と心得ています。だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、観察をまちがったり、ありもしないものが見えたりするものです。チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない! 要するに、あれはもうどうにも抑えのきかぬ欲情の爆発からはじまったんです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはおそろしいほど、聞いたことも見たこともないほど、清純な娘さんです。(いいですか、わたしはあなたの妹さんについてこのことをありのままの事実としてあなたに伝えるのですが、ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、そしてこれがあのひとの妨げになるでしょうな)。その頃たまたま家にパラーシャという娘がいたんですよ。他の村から連れて来られたばかりの小間使いで、わたしにははじめて見たわけですが、黒い瞳のとっても可愛らしい娘なんですが、頭のほうは嘘みたいに弱いんですよ。泣いて、邸中に聞えるような悲鳴を上げたものだから、いい恥をかかされましたよ。ある日、昼飯の後でしたが、わたしが庭の並木道に一人でいるところを見つけて、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが目をうるませながら、かわいそうなパラーシャにかまわないでくれと、わたしに要求したんです。二人きりで言葉を交わしたのは、これがおそらく最初だったでしょう。わたしは、もちろん、あの方の希望をかなえてやることを光栄と考えて、つとめて恐れ入ったような、穴があったら入りたいような素振りを見せましたよ。まあ、要するに、うまく芝居をしたわけですな。それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、──信じられますか、涙さえ流したんですよ! まったくねえ、娘さんによっては、伝道に対する情熱がこうまではげしくなるものですよ! わたしは、もちろん、すべてを運命のせいにして、光明を渇望するようなふりをしました。そしてついに、婦人の心を屈服させる偉大な、しかもぜったいに外れのない手段を発動させました。この手段はぜったいに誰をも欺いたことがなく、一人の例外もなく、全女性に決定的な作用をするものです。この手段とは、誰でも知っている──例のお世辞というやつですよ。……
スヴィドリガイロフの長広舌。「アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが──それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。……」からが本題で、実際には結構説明的な長科白なのだが、「下男」の噂からの導入が巧みで不自然さを感じさせないのは、見事。だが、注目すべきはそれだけではない。
これだけの長広舌をリアリティを損なわず読ませ切るには、普遍的な技法が用いられていると考えねばならない。ポイントは、これだけ長いとどうしても断言の連発になってしまうところで、何ヵ所か断言に対する「折り返し」が用いられていることだろうか。「そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ」(マルメラードフ)、「しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」(スヴィドリガイロフ)、「こんなことは夢にだって見られやしませんよ! そうですとも、あんな連中はどこを捜したって、おりませんよ!」(リザヴェータ夫人)──ニュアンスとしてはこれらに出てくる「そうですとも!」の語の一人合点の感じが典型的なのだが、一度断言したことをもう一度別の形で言い直して=折り返して、確度を誇張しようとするかのような話法、これを「折り返し」と呼んでみたい。断言の連発の中でこの折り返しが挟まることによって、長広舌の書いた物を読むような調子が緩和されて一応相手向って語りかけているのだなという雰囲気がリアルタイムで生まれて来る。細かいけれど効果的な技法。引用部では例えば、「そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更正させたい、という気持になります、──まあ、こうした空想にふけるものですよ。」の個所における「まあ、こうした空想にふけるものですよ」という余計な念押しが、そうした「折り返し」だと看做せる。或いは「それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、──信じられますか、涙さえ流したんですよ!」の個所における、「信じられますか、涙さえ流したんですよ!」という仰々しい反復もまた、「折り返し」の一例だろう。
他にも、引用部では「おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから」といった、対話相手の表情の描写を代行する言葉を律儀に挟んだり、「どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機会があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう」という対話相手の意向を迎えるような言い回し、「だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、……」といった相手の「承知」を前提とした話の進め方など、いちいち対話相手のラスコーリニコフを前にしているということを喚起するような個所を、要所要所で長広舌の中に入れ込んでいる。
また、「なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ」「ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、……」「まったくねえ、娘さんによっては、……」といった個所に表われる「なにしろ……ですからねえ」「ほんとに……ねえ」「まったくねえ……」の言い回しの馴れ馴れしさは、まさしくその馴れ合おうとする相手を前提にした態度であるからこそ、長広舌の中で対話相手への志向を強く喚起するスタイルとなっている。同様に、「チエッ、やけに酒がすすむぞ!」「チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない!」の個所に見られる、思わず内語がそのまま(酔っているせいで?)口に出てしまったというような半内語の言葉も、対話相手への無警戒という意味で一種の馴れ馴れしさの発露であり、やはり長広舌の中での対話相手への志向の喚起になっているかもしれない。
●『罪と罰』上23-25頁
第一部第三章
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「おい、おどけさん!」と亭主が大声で言った。「どうしてはたらかないんだい、官吏なら、勤めたらいいじゃないか?」
「どうして勤めないかというとですね、あなた」とそれを受けてマルメラードフは、まるでラスコーリニコフにそれを聞かれたように、ラスコーリニコフの顔だけを見ながら言った。「どうして勤めないかって? それじゃ、わたしが何もしないでこんなみじめなざまをさらしていることが、平気だとでもおっしゃるんですか? レベジャートニコフ氏に、一月ほどまえ、家内をなぐられ、わたしが飲んだくれてひっくりかえっていたとき、わたしが心の中で泣かなかったとでも思うのですか? 失礼ですが、学生さん、あなたは……その……見込みのない借金をしようとしたことがありますか?」
「ありますよ……でも、その見込みがないというのは、どういうことです?」
「つまり、ぜんぜん見込みがない、はじめから、頼んでもどうにもならないことがわかっているんですよ。例えばですよ、いいですか、この人間、つまりこの限りなく有徳にして有用なる人物が、どうまちがっても金を貸してくれる心配のないことは、はじめからわかりきっています、どうです、貸す理由がありますかね? だって、わたしが返さないくらいのことは、彼は百も承知ですよ。同情から? どういたしまして、レベジャートニコフ氏は、新思想を研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学の進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ。どうです、貸してくれる理由がありますか? ところがいま、貸してもらえないことを承知で、それでもあなたは出かけて行くわけです……」
「どうして行くのです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「ところで、誰のところへも、どこへも、もう行くあてがないとしたら、どうでしょう! だって、誰だってどこかへ行っていいところがなきゃ、やりきれませんよ。なぜって、どうしてもどんなところへでもいいから行かなければならないようなときが、あるものですよ。わたしのたった一人の娘がはじめて黄色い鑑札をもらいに行ったときでさえ、わたしは出かけましたよ……(わたしの娘は黄色い鑑札で暮しているんですよ……)」と彼は不安そうに青年の顔をうかがいながら、つけ加えた。「なんでもありませんよ、あなた、なんでもありませんよ!」二人の給仕がスタンドの向こうでヒヒヒと笑い、亭主までがにやりと笑うと、彼は急いで、いかにもさりげない様子で、言った。「平気ですとも! かげでこそこそ笑われるくらい、すこしもこたえませんな。だってもう誰知らぬ者がないんですからねえ。隠れたるすべてはあらわる、ですよ。わたしはね、あんな笑いを軽蔑もしません、むしろ謙遜の気持で受けとめているんですよ。笑うがいい! 《視よ、この人なり!》ですよ。失礼ですが、学生さん、あなたはできますかな……いや、もっと強いはっきりした言葉をつかって、できますかなんてじゃなく、勇気がありますかと言いましょう、何のって、いまわたしの顔をまともに見ながら、わたしが豚だと、きっぱり言いきる勇気がですよ?」
青年は一言も答えなかった。
「どうです」と彼は、またしても店内におこったヒヒヒという笑いがおさまるのを待って、今度は一段と威厳をさえ見せて、おちつきはらって言葉をついだ。「なあに、わたしは豚でもかまいません、だが彼女はりっぱな女ですよ!わたしはけだものの皮をかぶった男ですが、カテリーナ・イワーノヴナは、これはわたしの家内ですがな、──佐官の家に生れた教養ある婦人ですよ。わたしなんか下司な男でいいですよ、結構ですとも、だが家内だけは別です、心がけだかく、生れからくる美しい感情が教養でみがかれて、身体中にみちあふれているのです。それでいながら……まったく、ちょっとでもわたしをあわれんでくれたら、申し分ないのだがねえ! だって、あなた、人間なんて誰でも、せめてひとつでも、あわれんでもらえる場所がほしいものですよ! それがカテリーナ・イワーノヴナは寛容な心をもっているくせに、どうもかたよったところがありましてなあ……わたしだって自分ではわかっているんですよ、家内がわたしの髪をつかんでひきずりまわすのだって、わたしをあわれと思えばこそだ、そのくらいのことはわかっているんだがねえ」またヒヒヒという笑い声を耳にすると、彼はいっそう威厳をこめてくりかえした。「こんなことを言っても別に恥ずかしくもなんともありませんがね、学生さん、家内はほんとにわたしの髪をつかんでひきずりまわすのですよ。それはいいとして、まったく、家内がせめて一度でも……いやいや! よそう! いまさらむだだ、言ってもはじまらん! ぐちは言わぬものだ!……だってこれまで思いどおりになったことも一度や二度じゃないし、あわれんでもらったことだって何度かあったんだ。それにしても……これがおれの性根なんだ、おれは生れながらの畜生なんだよ!」
「そのとおりだよ!」と亭主があくびまじりに言った。
マルメラードフはきっとなって、拳骨でテーブルをどしんとたたいた。
科白において疑問符の果たす重要な役割に注目。
たとえば「ご存知ないのですか?」というパターンで類型化される疑問符の使用法を考えてみる。これは相手の言った言葉(別に疑問形ではない)をわざと疑問形にして繰り返すことで或るニュアンスを加えるという使用法だ。「平気だとでもおっしゃるんですか?」
思うに、会話場面での疑問符の役割というものは、「作家の日記」のエセーのような場合と異なる感じがある。相手の言葉を疑問形にして自分の内語に繰り込んでしまうかのようなパワーがある。「どうして勤めないかって?」勝手に相手の反応を自分自身に課された問題のように受け取ってしまって、さらに自己批判的な問答を勝手に進めてしまう。「どうです、貸す理由がありますかね? 同情から? どういたしまして、……」なんと、ここではマルメラードフによるラスコーリニコフへの詰問が、また自分への問いとして内攻して返ってきて、それに勝手に自分で応えている!
あたかもここで、マルメラードフはまわりの反応や対話相手の言葉をすべて内語に取り込んで自意識の中で対決しようとしている、しかもその内攻する自己対話的対決が、表に饒舌な科白として表れる、という奇妙なメビウスの輪的言葉=存在になっている。「隠れたるすべてはあらわる、ですよ。わたしはね、あんな笑いを軽蔑もしません、むしろ謙遜の気持で受けとめているんですよ。笑うがいい! 《視よ、この人なり!》ですよ。」マルメラードフもまた内面と外部世界とのせめぎ合いを生きているかのようなのだが、ラスコーリニコフとちがってそのせめぎ合いのプロセスが裏返しに、すべてもったいぶった饒舌として外へ流出してしまっているのだ。というよりもマルメラードフは、対話相手を目の前にして、そいつを勝手に自分の内攻する内語に取り込んでしまって、はじめてべらべらと饒舌を吐くことができるのだろうか。言葉のアクセントの向きとしては、対話相手に矢印が向っているようでなりながら実は自分の方へ折れ込んでいる。マルメラードフの詰問に結局ラスコーリニコフが一言も応えなかったのに、「どうです」「なあに、わたしは豚でもかまいません」「わたしなんか下司な男でいいですよ、結構ですとも、……」と勝手に応えてカテリーナの話を始めるのもその証左ではないか。「それがカテリーナ・イワーノヴナは寛容な心をもっているくせに、どうもかたよったところがありましてなあ……わたしだって自分ではわかっているんですよ、家内がわたしの髪をつかんでひきずりまわすのだって、わたしをあわれと思えばこそだ、そのくらいのことはわかっているんだがねえ」と勝手に相手の相槌を想定しているかのような馴れ馴れしい饒舌も、その証左ではないか。
しかも「それにしても……これがおれの性根なんだ、おれは生まれながらの畜生なんだよ!」に至ってはほとんど単なる内語そのものが外に出ているかのようだ。亭主の「そのとおりだよ!」というあくびまじりの応答は、まさしく内語とは別の不真面目なニュアンスをもった言葉としてマルメラードフに差し出される。内語が外に思わず出てしまったような時には、他人(話し手の周囲にいる人)は大体そのような振る舞いをするものだろう……!
興味深い。相手や周囲の反応を内語として(疑問符のニュアンスで)取り込んだ上での、内語そのものが表に噴出すという形での、発話。
●『罪と罰』上27-33頁
第一部第三章
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そう言うと、彼は絶望にうちのめされたように、テーブルの上に頭をたれた。
「学生さん」また顔をあげて、彼はつづけた。「あなたの顔に、わたしは、何か苦しそうないろが沈んでいるのを読んでますよ。あなたが入ってくるとすぐ、わたしにはそれが読めたんだよ、だからすぐにこうして話しかけたわけさ。というのは、あなたにこんなわたしの身の上話をして、いまさら言わんでももうすっかり知りぬいているそこらののらくらどものまえに、恥をさらしたいためじゃなく、知と情のある人間をさがしていたんですよ。実は、わたしの家内は由緒ある県立の貴族学校で教育を受けましてな、卒業式のときには県知事をはじめおえら方のいならぶまえで、ヴェールをもって舞いをおどり、そのために金メダルと賞状をもらったんだよ。金メダル……金メダルなんて売ってしまいましたよ……もうとっくの昔に……うん……賞状はいまでも家内のトランクの中にありますよ、ついこの間も家主のかみさんに見せてましたっけ。かみさんとはそれこそのべつがみがみ言いあいをしているんだがねえ、誰もいなけりゃ、そんな相手にでも幸福な昔を思い出して、自慢話のひとつもしたくなるんですねえ。でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも、だってそれが家内の思い出の中にのこった最後のものですもの、あとはすっかりあとかたもなく消えてしまいましたよ! そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ。床は自分で洗うし、黒パンばかりかじってはいても、ひとにさげすまれることはがまんできないのです。だからレベジャートニコフ氏にだって、その無礼が許せなかったのですよ、そしてレベジャートニコフ氏になぐられたときでも、なぐられた傷よりは、心の傷で、とこについてしまったのさ。だいたいわたしが家内をひきとったときは、小さな三人のこぶつきの寡婦だったんですよ。最初の良人は歩兵士官でね、好きでいっしょになって、親の家をとびだしたんです。その男を心から熱愛していたが、男は賭博にこって、裁判沙汰にまでなり、それがもとで死んでしまいました。死ぬまぎわにはよくあれをなぐったらしい、あれもそれを大目には見なかったらしいがね、これはたしかな証拠があるんでね、わたしはくわしく知っているんだよ。ところがいまだに前夫を思い出しては、泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ、だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ、だってせめて思い出の中ででも、家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ……というわけであれは良人に先立たれ、三人の小さな子供をかかえて、けだものの出そうな遠い片田舎にのこされたわけです。その頃その田舎にわたしもいたんですがね。そしてあれのおかれた救いのない貧しさといったら、わたしもずいぶんいろんなことを見てきましたが、とても口には言えないほどでしたよ。身よりの者にはみなそっぽを向かれるし、それにあれはえらく気位が高くて、人に頭を下げるような女じゃないし……ちょうどその頃、わたしも男やもめで、死んだ妻にのこされた十四の娘と二人暮しでしたがねえ、あれの苦しみを見るに見かねて、手をさしのべたわけですよ。あれの窮状がどんなにひどいものであったかは、教養もあり、教育もうけ、名門の出のあれがですよ、わたしのような者の申し出を受けたことでも、察しられるというものですよ。後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら──来たんですよ! どこへも行くところがなかったからです、わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか? いやいや! あなたはまだそれがおわかりにならん……それからまる一年わたしは自分の義務を神につかえるような気持で実行しました。こんなものには(彼は指で酒の小びんをつついた)ふれもしませんでしたよ、人間らしい気持をもっていましたからねえ。ところが、それでも喜んでもらえなかった、おまけに失業ときた、それだってしくじりがあったわけじゃなく、定員が改正になったためですよ、そこで酒に手をだしたというわけさ! わたしたちが流れ流れて、さんざんな目にあったあげくに、やっと、このたくさんの記念碑にいろどられた壮麗な首都にたどりついてから、もうじき一年半になりますかねえ。ここへ来て、わたしは職にありつきました……ありついたのに、またなくしてしまいましたよ。わかりますかな? 今度はもう自分のしくじりのためですよ、くさった性根がでましてねえ……いまはアマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の家に間借りをして、物置みたいな部屋に暮してますよ。どうして暮しをたて、どうして家賃をひねりだしているのか、わたしにはとんとわかりませんがね。あそこには、わたしたちのほかにも、たくさんの人がいますが……その醜悪なことったら、まさにソドムですな……うん……まさに……そうこうするうちにわたしの娘もそだってきました、前妻にのこされた娘ですがね。この娘は年頃になるまでに、継母にそれはひどくいじめられましてなあ、でもまあそんな話はよしましょう。なにしろカテリーナ・イワーノヴナは心は寛容な思いやりでいっぱいなのですが、気性がはげしくて、おこりっぽく、じきにかっとなって……いやまったく! でも、まあいまさら思い出すこともありませんや! こんなわけですから、お察しできるでしょうが、教育なんてものは、ソーニャは受けておりません。四年ほどまえ、わたしは娘に地理と世界史を教えかけてみたことがありましたが、わたし自身がそうしたものに弱いうえに、適当な参考書もないありさまでな、だってその頃あったといえば……フン!……なあに、いまはもうそんな本もありませんわ、というわけで、勉強はそれでおしまい。ペルシャ王キュロスでストップですよ。その後、もう年頃になってから、ロマンチックな小説を二、三冊読んでいたようでした。それからついこの間、レベジャートニコフ氏からルイスの『生理学』とかいう本を借りて、──ご存じですかな?──たいそう熱心に読んでいましたよ、そしてところどころ声をだして、わたしたちにまで読んでくれたんですよ。これがあの娘の知識のすべてですよ。そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ! いいですか、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、──ご存じですかな?──あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、襟が寸法にあわないとか、まがっているとか難くせをつけて、地だんだふんで怒りつけ、聞くにたえないような侮辱の言葉をあびせかけて、追いかえしたんですよ。家じゃ子供たちが腹をすかしている……カテリーナ・イワーノヴナは、手をもみしだきながら、部屋の中を歩きまわっている、頬には赤いぶちがうきだして、──これはこの病気にはつきものでねえ、そしてこんな悪態をついたんですよ。《この無駄飯食い、よくも平気な面で、よくもここで飲んだり、食ったり、ぬくぬくと暮していられるわね》子供たちが三日もパンの皮も見ていないのに、何が飲んだり食ったりするものがあるものかね! わたしはそのときねころがっていましたよ……なあに、いまさらいいことを言ってもしょうがない! 飲んだくれてねころがっていたのさ。そして聞いていると、ソーニャが言うんですよ(あれはあまり口答えをしない娘ですが、声はひどくやさしくてねえ……髪の毛はブロンドで、いつもやせた、色つやのわるい顔をして)、こんなことを言うんですよ。《まあ、カテリーナ・イワーノヴナ、わたしにあんなことができると思って?》実は、性悪女で、もう何度も警察の厄介になっているダーリヤ・フランツォヴナが、家主のおかみを通じてもう三度ほどすすめていたんですよ。《なにさ》とカテリーナ・イワーノヴナはせせら笑って、こう答えたんですよ。《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》でも責めないでください、責めないでください、学生さん、責めないでください! あれは健康な頭でこんなことを言ったんじゃない、たかぶった感情と、病気と、飢えた子供たちの泣き声が、言わせたんだ、それも本当の意味よりは、あてつけに……カテリーナ・イワーノヴナにはそんなところがあるんですよ、なにしろ子供が腹をすかして泣いても、すぐにぶつような女ですからねえ。それからわたしは見ていたんです、五時をまわった頃でしたか、ソーネチカは立ち上がると、プラトークをかぶり、外套を着て、部屋を出て行きました、そしてもどって来たのは、八時をすぎていました。部屋へ入ると、まっすぐにカテリーナ・イワーノヴナのまえへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨を机の上にならべました。そのあいだ口もきかなければ、見もしない、そして大きな緑色の毛織のショールをとると(この毛織のショールはわたしたちがみんなで共通につかっていたのですよ)、頭も顔もすっぽりつつんで、寝床に横になりました。壁のほうを向いて、ただか細い肩と身体だけがたえずわなわなとふるえて……わたしはね、さっきからのそのままの格好で、ひっくりかえっていたんですよ……すると、どうでしょう、学生さん、しばらくするとカテリーナ・イワーノヴナが立ち上がって、やはり無言のまま、ソーネチカのベッドのそばへ行って、足もとにひざまずいたんですよ、そしてそのまま一晩中立とうともせずに、ソーネチカの足に接吻しておりましたよ。そのうちに二人ともそのまま眠ってしまいました、抱きあって……二人は……そのまま……そうなんですよ……ところがわたしときたら……飲んだくれてひっくりかえっていたのさ」
マルメラードフは、まるで声がぷつッと切られたように、黙りこんだ。しばらくすると思い出したようにそそくさと酒を注ぎ、一気にあおって、むせたように咳をした。
さあ、ここに注目だ。ドストエフスキーの登場人物たちの長広舌は、たとえばコンラッドの主人公たちの「語り」とは決定的に異なる。何が違うのか。その秘密を徹底的に暴いてやろう。
まず第一。コンラッドの主人公だったらせいぜい単に或る抽象的な聞き手に対して「語りかけるような文体」を用いるだけだろう。そこでは「語り」は単にレトリックにすぎない。だが、ドストエフスキーの場合には、「あなたの顔に、わたしは、何か苦しそうないろが沈んでいるのを読んでますよ。あなたが入ってくるとすぐ、わたしにはそれが読めたんだよ、だからすぐにこうして話しかけたわけさ。」という科白からも分かるとおり、語り手が具体的に聞き手がどういう人間であるかを織り込んでの長広舌になっている、そうであるほかなくなっているのだ。マルメラードフはラスコーリニコフに何を見たのか? とりあえず言えることは、マルメラードフはラスコーリニコフが自分と似たような苦悩を背負っていると直感し、この相手ならその反応を自分の内語に繰り込める(その上で表出する=告白する)ことができると判断したのだ。そのような相手を具体的に前にしているからこそ、マルメラードフの語りにはさらにコンラッドの語りにはないさまざまな特徴が表れる。
第二。長広舌に内在する想像的対話の存在。簡単に言うと、自分の言うことに対する相手の反応を勝手に先取りしてそれに応えるような言葉が多数出てくる。たとえば「でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも。(誰も別に疑ってねぇ!)」「そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ。(誰も何も言ってねぇ!何がそうですともだ)」という箇所は分かりやすいだろう。聞かれてないのに勝手に言い訳したり、弁解しているような箇所もこれは該当する。「死ぬまぎわにはよくあれをなぐったらしい、あれもそれを大目には見なかったらしいがね、これはたしかな証拠があるんでね、わたしはくわしく知っているんだよ。(別に誰も証拠を出せなんて言ってない)」「ところがいまだに前夫を思い出しては、泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ、だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ、だってせめて思い出の中ででも、家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ……(誰もおまえが嬉しいかどうかなんて訊いてない)」
この特徴がさらに嵩じると、自分で問いを掛けておきながら自分で勝手に応えを想像して(決め付けて)納得するという言葉の運動が生れる。ほとんど内語における自問自答に近接するのは、言うまでもない。「どこへも行くところがなかったからです、わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか? いやいや! あなたはまだそれがおわかりにならん……」「そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ!」
今指摘したポイントから、派生的にもう一つの特徴が抽出できる、というのは長広舌の中での相手への問い掛けだ。「つかぬことをお尋ねしますがね、……」はわかり易いメルクマールだが、それ以外にも明確に答えを求めるというより念を押す感じで疑問符が用いられることがある。「ここへ来て、わたしは職にありつきました……ありついたのに、またなくしてしまいましたよ。わかりますかな? 今度はもう自分のしくじりのためですよ、くさった性根がでましてねえ……」「いいですか、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、──ご存じですかな?──あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、……」──つまり「分かりますかね?(分かりますよね!)」「ご存じですかな?(ご存じだろうと勝手に思ってますがね)」という風に一種の修辞疑問文のようにニュアンスを強調する効果があるということ。まさしく具体的に対話相手を前にして「外部との弁証法的な対話性」を発揮しているからこその、ニュアンスの振幅だと言えよう。とりわけ、「いいですか?(いいですよね!)」というフレーズは純粋に強調のニュアンスしか帯びていないので効果がわかり易い。
さらに言うと、この想像的対話は、想像的法廷(想像的弁護)にまで発展していくのだ。「《なにさ》とカテリーナ・イワーノヴナはせせら笑って、こう答えたんですよ。《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》でも責めないでください、責めないでください、学生さん、責めないでください!あれは健康な頭でこんなことを言ったんじゃない、たかぶった感情と、病気と、飢えた子供たちの泣き声が、言わせたんだ、それも本当の意味よりは、あてつけに……」──一体誰が責めているというのか? 誰が非難しているというのか? 勝手に想像の中で法廷を作って、存在しない非難に対して想像的に弁護しているだけだ。対話相手の応答が勝手に繰り込まれて饒舌が膨張していくというプロセスをこれほど明瞭に表している箇所はない!
第三。長広舌の中で自問自答を勝手にやってしまうというのがまさにそうなのだが、コンラッドの「語り」が絶対に備えていない特徴として、内語がそのまま表白されてしまったような要素が、マルメラードフの長広舌には見られる。これはいろんな形で表れていて、見て取りやすいのは、次のような自分自身に対する悪態だ。「なにしろカテリーナ・イワーノヴナは心は寛容な思いやりでいっぱいなのですが、気性がはげしくて、おこりっぽく、じきにかっとなって……いやまったく! でも、まあいまさら思い出すこともありませんや!」「四年ほどまえ、わたしは娘に地理と世界史を教えかけてみたことがありましたが、わたし自身がそうしたものに弱いうえに、適当な参考書もないありさまでな、だってその頃あったといえば……フン!……なあに、いまはもうそんな本もありませんわ、というわけで、勉強はそれでおしまい。」「わたしはそのときねころがっていましたよ……なあに、いまさらいいことを言ってもしょうがない! 飲んだくれてねころがっていたのさ。」内語の強度の面から言うと、これはリアルタイムに生成される自己批評的言葉ということになるか。相手に話していながら自分に内攻するように自分の内面に向けて言葉を吐いているようなのがポイントだ。言葉のアクセントが相手の方を向いている方で自分の方へ折れ込んでいる。他にも、いわゆる感想(慨嘆・涙)の供述の言葉──「でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも、だってそれが家内の思い出の中にのこった最後のものですもの、あとはすっかりあとかたもなく消えてしまいましたよ!」「後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら──来たんですよ!」「ところが、それでも喜んでもらえなかった、おまけに失業ときた、それだってしくじりがあったわけじゃなく、定員が改正になったためですよ、そこで酒に手をだしたというわけさ!」「そのうちに二人ともそのまま眠ってしまいました、抱きあって……二人は……そのまま……そうなんですよ……ところがわたしときたら……飲んだくれてひっくりかえっていたのさ」──もまた内語の表白に近いものとして分類できる。やはりちょっとした自己嘲弄的なニュアンスが付加されているのに注目。独特のユーモアを誘引している。
第四。究極のドストエフスキー的長広舌の特徴。自分で二役をやって「科白内科白で論争する」。なんじゃこれは。単に他人の言葉を語りの中で引用するのではない。語りによる情景の再現が必要な場合にはそれはよくあることなのだから。しかしマルメラードフが他人の言葉を引用するのは、それに寄生して自己対話的内語→表白を生むためなのだ。「そしてこんな悪態をついたんですよ。《この無駄飯食い、よくも平気な面で、よくもここで飲んだり、食ったり、ぬくぬくと暮していられるわね》子供たちが三日もパンの皮も見ていないのに、何が飲んだり食ったりするものがあるものかね!」ここでマルメラードフが対話的に反応しているのは、ラスコーリニコフの(そうと決め付けられた)言葉・態度に対してではなくて、過去のカテリーナの言葉・態度(しかも自分に向けられたものでなくてソーニャに向けられたもの)に対してなのだ! コンラッドの「語り」の中にはこんな自分で二役をやって内的論争をして、さらにそれを表白するなんてこと、起りようがない。
これがドストエフスキーの凄さだ。部分的には「作家の日記」のエセー文体に通ずる。つまり「作家の日記」もマルメラードフも本質を共有しているということだ、文体的に。
●『罪と罰』上34-37頁
第一部第三章
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マルメラードフは深い感動にとらわれて、また口をつぐんだ。そのとき通りのほうからもうかなり酩酊した酔っぱらいの一団がどやどやと店へ入って来て、入り口のあたりで連れこまれたアコーデオン弾きの伴奏と、《小さな村》をうたう七つぐらいの子供の甲高い声がひびきわたって、にぎやかになった。亭主と給仕はそちらにかかりきりになった。マルメラードフは、新手の客たちには見向きもしないで、また身の上話のつづきをはじめた。彼は、もうかなりまいったらしく見えたが、酔うほどに、ますます口がまわりだした。先頃の官職復帰成功の思い出は彼を元気づけたらしく、顔に晴れやかな生色のようなものさえあらわれた。ラスコーリニコフは注意深く聞いていた。
「それはね、あなた、つい五週間前のことでしたよ。そうそう……これを知ったときのあれら二人、カテリーナ・イワーノヴナとソーネチカの喜びようったら、ほんとに、まるでわたしは天国へ行ったようでしたよ。それまでは、豚みたいにごろごろねそべって、悪態ばかりつかれていたのが、どうでしょう、そっと爪先立ちで歩いて、《セミョーン・ザハールイチはお勤めで疲れて、休んでいらっしゃるんだよ、しずかにしなさい!》なんて子供たちをしかりつける始末ですよ。朝出かけるまえにコーヒーはわかす、クリームは煮る! どうです、あなた、ほんもののクリームが出されるようになったんですよ! おまけに、どこから捻出したのか、とんとわからんが、十一ルーブリ五十コペイカをかけて、上から下までちゃんとした服装をととのえてくれました! 長靴、キャラコのワイシャツの胸当──これがすばらしく上等なやつなんですよ、それに制服、これが全部十一ルーブリ半でみごとにそろえられたってわけですよ。初出勤の日、勤めからもどって来ると、カテリーナ・イワーノヴナが料理を二品も作って待っていてくれましたよ。スープと、それにわさびおろしをかけた塩漬け肉、こんなものはそれまで見たことも聞いたこともありませんでしたよ。衣装なんて、あれには満足なものは一枚もなかった……文字どおり、一枚もなかった、それがどうです、まるでお客にでも行くみたいに、着飾っているじゃありませんか。それも何か別なものを着たとうのじゃなく、あれには何もないところからなんでも作り出す才覚がありましてな。髪をきちんとなでつけ、ちょっとした工夫で小ざっぱりした襟や袖当をあしらっただけですが、それですっかり見ちがえるようになって、おまけに若やいで、きりょうまでがあがったようで。ソーネチカは仕送りだけは欠かさずしておりましてな、自分では、ここしばらくの間あんまり来るとよくないから、人目につかないように暗くなってからこっそり来ますなんて、いじらしいことを言うんですよ。ねえ、泣かせるじゃありませんか? わたしが昼飯のあとでひとねむりしようと思ってもどって来ると、どうでしょう、カテリーナ・イワーノヴナはもう黙っていられなかったのですねえ、つい一週間まえにおかみのアマリヤ・フョードロヴナとあんなひどい言い合いをしたばかりなのに、もうコーヒーに呼んで、二時間も坐りこんで、ぺちゃくちゃやってるんですよ。《今度うちのセミョーン・ザハールイチが勤めについて、俸給をもらうようになりましたのよ。うちが閣下のところへ出かけて行きましたらね、閣下がご自分で出ていらして、みんなを待たせておいてですよ、そのまえをうちの人の手をとって別室へ案内したんですって》ええ、どうです? 《そして閣下のおっしゃるには、わしはな、セミョーン・ザハールイチ君、きみがよくやってくれたことは忘れはせん、だからきみには少々軽はずみな弱点はあっても、いまはきみも約束していることだし、それに何よりも、きみがいなくなってからどうも成績があがらんのじゃよ(どうです、おどろくじゃありませんか?)、そこで、まあきみの誓いを信用することにしよう。こうおっしゃったんですって!》こんなことはみな、あれがその場で思いついたことですよ、それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです! でもわたしは責めません、どうしてそれが責められますか!……六日まえ、はじめての俸給、二十三ルーブリ四十コペイカを、手つかずのまま持ちかえったとき、わたしを可愛いペットて言いましたよ。《あなたはなんて可愛らしいペットでしょう!》それも二人きりでですよ、どうです? まったく、わたしに可愛らしいところがあるみたいじゃありませんか、こんな亭主にねえ? ところが、わたしの頬をちょいとつついて、《ほんとに可愛いペット!》なんて言うんですよ」
マルメラードフは言葉をきって、笑おうとしたが、不意に下顎がひくひくふるえだした。それでも、彼はこらえていた。この居酒屋、おちぶれはてた姿、乾草舟の五夜、酒びん、そのくせ妻と家族に対するこの病的な愛が、聞き手の心を乱した。ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持で、聞いていた。彼はこんなところへ寄った自分がいまいましかった。
まず今までに判明しているマルメラードフの個性を復習しておこう。
マルメラードフの語りが、聞き手を意識しての呼び掛けの形を取りながらも、勝手に相手の応えを先取りしてそれと想像的な対話をしながら進展していく、という点はすでに指摘した。それゆえにマルメラードフの語りは外に向けてなされた発話でありながら、(対話相手によって触発された)内語=自己対話の表白のように読めてくるということも。
そのような呼び掛け=自己対話のわかり易い形式が、実は修辞疑問文なのだ。疑問を提示しながら実は答えはすでに決まっているというのがこの形式なのだから。引用部分でも「自分では、ここしばらくの間あんまり来るとよくないから、人目につかないように暗くなってからこっそり来ますなんて、いじらしいことを言うんですよ。ねえ、泣かせるじゃありませんか?」「でもわたしは責めません、どうしてそれが責められますか?」といった疑問符の用い方に、この相手の反応を内部に繰り込んでの呼び掛けが見られる。
同様の想像的対話になっている箇所としては、誰も疑っていないのに勝手に相手の疑いを先回りして弁解し、念を押したり、強調したりするパターンがある。「……それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです!」いや、だから誰も疑ってないっつーの。つまりラスコーリニコフは何も言っていないのに、その無言の表情とマルメラードフは弁証法的に対話してしまっているということだ。
また、そのような想像的対話のシンプルなメルクマールとして「どうです?」の言葉が挙げられる。「ええ、どうです?」「どうです、おどろくじゃありませんか?」──ちょっとしたドヤ顔混じりで、「どうですか意見があるなら言ってみてください」という呼び掛けになっているにもかかわらず、もちろん相手の意見を聞くつもりはない、単なる符牒となっている。ほんとにただ、相手に水を向けるだけの符牒だ。「ドヤ顔」というコミュニケーションにおける面白い要素を小説化しようとするとこうなるということか? いずれにせよ、長広舌に内在する想像的対話の要素であることは間違いない。
ところでこの引用部分でもっとも興味深いのは次の箇所だ。「《そして閣下のおっしゃるには、わしはな、セミョーン・ザハールイチ君、きみがよくやってくれたことは忘れはせん、だからきみには少々軽はずみな弱点はあっても、いまはきみも約束していることだし、それに何よりも、きみがいなくなってからどうも成績があがらんのじゃよ、そこで、まあきみの誓いを信用することにしよう。こうおっしゃったんですって!》こんなことはみな、あれがその場で思いついたことですよ、それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです!」──言うまでもなく、ここでマルメラードフはカテリーナの科白を単に再現しているだけではない。その口真似をした後に、自己対話的に注釈・批評を付けるためにカテリーナの科白を復唱したのだ! 他人の科白の復唱→注釈。これによってまさしく「マルメラードフがラスコーリニコフに対して話している」という具体的状況が実在感を増す。ポイントは、具体的に考えれば、他人の科白(カテリーナの科白)をマルメラードフが引用=復唱しようとすれば、必ずマルメラードフ個人のニュアンスがそこに付け加わざるを得ないということだ。具体的、立体的、内界-外界の弁証法的に考えるならば必ずそうなる。
他人の科白の復唱によるニュアンスの付加……これって以前分析した「相手の言った言葉をわざと疑問形にして繰り返すことで或るニュアンスを加える」「相手の言葉を疑問形にして自分の内語に繰り込んでしまう」というマルメラードフの傾向と同系統のものかもしれない。
余談。地の文で「かなり酩酊した酔っぱらいの一団」「アコーデオン弾き」「七つぐらいの子供」がどやどや入って来る「騒がしさ」の演出は面白い。細部の相互性で言うと、亭主と給仕と新手の客たちの間で関係・触発が起るが、それよりも、場面・舞台の組み立てとして、場の空気感に変化をもたらす(空気感に過ぎないので、マルメラードフの長科白の本筋にはそれほど関わらない)ことによってリアリティを演出する作為。
●『罪と罰』上89-91頁
第一部第四章
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巡査はきょとんとして、目を皿のようにした。ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「ば、ばかな!」とはきすてると、巡査はあきれたように手を振って、しゃれ者と娘を追ってかけ出して行った。どうやらラスコーリニコフを頭がおかしいか、あるいはそれよるも始末のわるい何かの病人と思ったらしい。
《二十コペイカを持って行かれてしまったわい》一人きりになると、ラスコーリニコフは苦りきってつぶやいた。《なあに、あいつからもとるんだな、そして娘をわたしてやりゃいいのさ、それでおわりだよ……なんだっておれは助けようなんてかかりあったのだ? おれに助ける力があるというのか? おれは助ける権利をもっているだろうか? なあに、あいつらは生きたまま呑み合いをすればいいのさ──それがおれにどうしたというのだ? それにあの二十コペイカをくれてやったりして、そんなことがおれにできるというのか。そもそもあれはおれの金か?》
こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は置き去りにされたベンチに腰をおろした。考えはとりとめもなくみだれた……そうでなくとも、そのときはどんなことでもものを考えるということが、彼には苦しかった。彼はすっかり忘れてしまいたいと思った、何もかも忘れてひとねむりし、目がさめてから、まったく新しい気持でやり直しをしたかった……
「あわれな少女だ!」彼はからっぽのベンチの隅へ目をやって、つぶやいた。「気がついて、泣く、やがて母親に知られる……はじめのうちはぶつ程度だが、そのうちにはげしいせっかん、口汚いののしり、そしてもしかしたら、追い出されるかもしれぬ──追い出されないにしても、やっぱりダーリヤ・フタンツォヴナのような女どもに嗅ぎつけられて、あの少女は人目をさけて、今日はあちら明日はこちらと袖をひくようになる……やがてたちまち病院行き(母のまえではひどく行儀よくしていて、ちょいちょい目をかすめてはこっそりわるさをしているような娘にかぎって、きまってこんなことになるものだ)、せっかく病院を出ても……しばらくするとまた病院に逆もどり……酒……居酒屋……そしてまた病院……二、三年もすると──廃人、これが彼女の十九年か、あるいは十八年の生涯の結末だ……おれはこんな例をこれまで見てこなかったろうか? 彼女らはどんなふうにしてそうなったか? なあにみんなこんなふうにして、ああなったんだ……チエッ! 勝手にそうなりゃいいのさ! 誰かじゃないが、そうなるようにできているんだよ。何パーセントかは年々おちて行かなきゃならんのだそうだ……どこかへ……まあ悪魔のところだろうさ、ほかの娘たちを清らかにしてやり、邪魔をしないためだそうだ。パーセント! 彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ。まったく気休めになるし、科学的な言葉だからな。何パーセントか、それじゃびくびくすることもあるまい、というわけだ。これがもしほかの言葉だったら、それこそ……おそらく、安閑としてはいられまい……それはさて、ドゥーネチカも何かのはずみでこのパーセントの中へおちるようなことになったら!……このパーセントでないまでも、何かほかの?……」
登場人物の自意識よりも無意識に照準を合わせるドストエフスキーの語り手が語る世界では、主人公の「内語」は決してそれだけでは閉じることができない。引用部でもラスコーリニコフの(後半のは実際口に出して言われた言葉のようになっているが)二つの内語は、互いに相反するようなニュアンスを持っていて──前者においては「娘」に対して浅薄な態度を取っているが、後者においては同情的想像力によって「娘」の生に肉迫している──単に自意識の中でのみ並列させれば、齟齬をきたさざるを得ないものだ。言うまでもなく、ラスコーリニコフの自意識の中には入って来ない、彼の無意識を支配している感情や思考のプロセスを地の文で内語と並行的に描いているからこそ(「こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。……」)、内語の展開が「ふとした」中断や屈折や転回を孕んだりするのが自然に表現できているというわけだ。自意識とは分裂していてつねに葛藤や矛盾の力を帯びて衝き上げてきてついには内語を屈折させる無意識の領域を、地の文で把握して(並行的に)敷衍する、というドストエフスキーの文体の特異性は、同じように主人公の内語を多用するルバテなどには見られないものだ。
ところで、ここでのラスコーリニコフの内語は、やはり自意識上で展開せざるを得ないものであるだけに、直接的な発話と同様に「否定・非難・抑圧」によって二重化されていることに注目しておこう。実際に対話相手が目の前にいるわけではないので、リアルタイムで相手の反応を取り込む・先回りして否定するという契機はないのだが、架空の対話相手に対する非難という契機はむしろ当たり前のように存在している(「それがおれにどうしたというのだ?」「そんなことがおれにできるというのか」)。二つ目の内語でもさらに「否定・非難・抑圧」の対象は多彩になっている。例えば「チエッ! 勝手にそうなりゃいいのさ!」というところではむしろ少女に同情してしまいかけている彼の無意識の噴出を無理矢理抑えつけているかのようだ。或いは「彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ」というところは、意地悪い皮肉によって「素晴らしい」などと肯定するように見せかけながら、実際には「彼ら」──というのは進歩的な思想家や科学者たちのことだろう──の意見を非難し否定しているのである。このような多彩な二重性が内語においても表われることは充分に銘記せよ。
テクニック的なことを言えば、段落が質的に変化するところで科白が出て来る時は、改行の切断性を利用し順番を転倒させて科白の方を先に持って来る、すなわち改行後は短い科白→地の文(→科白の続き)の形にするのが常套手段だが、同じことが内語が来る場合にも言えるようだ。巡査がいってしまったことを描いたすぐ次の段落でラスコーリニコフの内語が来ているが、これは一人きりになってからラスコーリニコフが考え出したはずのことを、一部段落頭に切り出して(《二十コペイカを持って行かれてしまったわい》)提示の順番を変え、段落の接続をスムースにしている。基本技術。
●『罪と罰』上71-74頁
第一部第四章
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母の手紙は彼をひどく苦しめた。しかしもっとも重要な根本問題については、まだ手紙を読んでいる間でさえも、彼の心にはちらとも疑いが生れなかった。問題のもっとも大切な要点は彼の頭の中で決められていた。しかもそれはもう動かすことのできない決定だった。《おれが生きている間は、この結婚はさせぬ、ルージン氏なんて知ったことか!》
《だって、あまりにも見えすいてるよ》彼はせせら笑って、自分の決定の成功を意地わるく前祝いしながら、つぶやいた。《だめだよ、母さん、だめだよ、ドゥーニャ、あんた方にはおれはだませないよ!……おまけに、おれに相談しないで決めてしまったことを、あやまったりしてさ! あたりまえだ! いまとなってはもう話をこわすことができないと、思っているようだが、まあこれからのおたのしみだね──できるか、できないか! いやはやたいへんな言いわけだよ、〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉、おどろいたね。だめだよ、ドゥーネチカ、おれはすっかり見通しだ。おまえはおれに話したいことがたくさんあるそうだけど、それが何だかおれにはわかっているんだよ。おまえが一晩中部屋の中を歩きまわりながら、何を考えていたかも、母さんの寝間にあるカザンの聖母の像のまえで、何を祈っていたかも、おれにはわかるんだよ。ゴルゴダの丘へのぼるのは苦しい。フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、実務家でわけのわかった男、自分の財産をもっていて(すでに自分の財産をもっているといえば、重味もちがうし、聞えもぐっといいものだ)、勤めも二つもっており、新しい世代の信念にも理解があり(母さんの手紙によると)、しかもドゥーネチカ自身の言葉では〈善良な方らしい〉男のもとへ嫁ぐんだね。このらしいが何よりも素敵だよ! あのドゥーネチカがこのらしいと結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……》
《……ところで、ちょっと気になるが、いったい何のために母さんは『新しい世代』なんて書いてよこしたのだろう? その男の人間をよく説明するためだけか、それとも遠い目的があってか? つまり、おれをたぶらかしてルージン氏に好意をもたせるというような? へえ、考えたものだよ! それからもう一つはっきりさせておきたいことがある。その日、その夜、そしてそれからずうっと、母さんと妹がどの程度まで腹をわって話し合ったかということだ。二人の間で言葉がすっかり思ったままに話されたか、それとも二人とも気持も考えも同じであることが、互いによくわかっていて、もう何もかもすっかり打ち明けて語り合うまでもなく、口をうごかすだけむだというものだったか? おそらく、そういうことも多少はあったろう。手紙を見てもわかる。母さんには彼がいくらかぶっきらぼうなように思われて、悪気のない母さんのことだからそのとおりにドゥーニャに言った。ところがドゥーニャは、当然、腹を立てて、〈ぷりぷりしながら答えた〉というわけだ。あたりまえだ! つまらないことを聞かれるまでもなくもうすっかりわかっていて、おまけにもう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている。さらになんてことを書いているのだ。〈ドゥーニャを愛してあげなさい、ロージャ、あの娘はわが身よりおまえを愛しているのです〉なんて。娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられているにちがいないのだ。〈おまえはわたしたちの望みです、わたしたちのすべてです!〉ああ、母さん!……》
憎悪がラスコーリニコフの身内にますますはげしく燃えたぎってきた。そしていまルージン氏に会ったら、いきなりたたき殺したかもしれぬ!
まず第一に思うのは何故ラスコーリニコフはこんなにもまわりくどく、意地悪な喜びに憑かれて内語を発しているのかということだ。まあそれがラスコーリニコフの独自性ではあるのだが。確かにここでラスコーリニコフは自分を知的に高いものとして位置づけている。「あまりにも見えすいている」「あんた方にはおれはだませないよ!」「おれはすっかり見通しだ」──そのような立場が彼に必要以上に意地悪にさせるのか? そもそも、母親の手紙には、ルージンを好意的に、ドゥーニャの婚約を肯定的に見せようという意図はあったかもしれないが、それほどラスコーリニコフを騙すような要素はなかったと思われる。母親に対してはどうもラスコーリニコフが勝手に邪推していきり立っているところがあるようだ。実際、「〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉」──こんな言葉は母親の手紙には出てこない。ラスコーリニコフの内語の中での敵対的想像的対話によって勝手に歪められた相手の言葉の「復唱」なのだ。敵意によって歪められてしまった他者の言葉の「復唱」! なかなか細かい文体術だ。
しかしラスコーリニコフがここで実際敵対しているのは、母親ではなくてラスコーリニコフと同様の知性を持っていてしかるべきドゥーニャに対してだろう。母親の方がルージンを「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人」と言い切っているのに対して、あくまで「善良らしい」という推測にとどめているのはドゥーニャの方なのだ(「ドゥーニャが、あの人は教育はあまりないけど、頭がよくて、性質もいいらしいと、わたしに説明してくれました」)。この「善良らしい」が絶対に「善良」そのものにはならないと見抜いているからこそ、ラスコーリニコフは憤慨し、それを同じく分かっているはずのドゥーニャに対して挑発的な意地悪な内語を向ける(敵対的内的対話!)。「フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、……」「あのドゥーネチカがこのらしいと結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……」──この間接的な「想像的対話」が少しラスコーリニコフの内語をまわりくどいものにしているのか。
また、ラスコーリニコフは想像力も旺盛である。母親が全部書いているだけに(ドゥーニャが一言も書かない口実は、「おまえと話すことがあんまりたくさんありすぎて、いまはとてもペンをにぎる気になれない……」)ドゥーニャの振る舞いは手紙の中で兆候的にしか現れないが、そこはそれ、わずかな兆候的描写からでも多くのものを思い描き得るのが想像力が過剰な人間の本領だ。たしかに、数々の兆候からしてルージンは碌でもない人間のようであり、ドゥーニャもそれに気付いている(母親は明確に気付いていなけれども兆候はすべて感受して描き切った)、だからこそドゥーニャは「言葉はまだ行いじゃないわ」などと言って腹を立て、決意の前に母親の寝間にあるカザンの聖母の像のまえで祈るわけだ。そして、彼女が腹を立てた理由(「もう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている」)も、ドゥーニャが何を祈っていたのかも(「娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられている……」)、手紙にわずかに記された兆候から、ラスコーリニコフはありありと想像してしまえる。これが「兆候的描写」を前にした時の想像力過剰な人間の能力発揮のさまか。まあ先に述べたようにラスコーリニコフは邪推(=陰性想像)しすぎて一人相撲になっちまっているところもあるが。作者は無論それとは距離と取っている。
しかしそれにしても、あまりにも素早く母親の無意識を弁証法的に見抜きすぎていないか? まあどちらも、母親の手紙もラスコーリニコフの反応も作者が虚構したのだから当然と言えば当然だが。はっきり言って、初めてルージンの手紙を読んだ段階でそのすべての兆候に気が付いてルージンを絶対に拒絶すべしと判断を下すことなど、「誰にも」不可能なのではないか。それを可能にしているのは、ただこの作品中で、ラスコーリニコフがもっとも知性が高く想像力過剰なポジションにいるという小説世界の関係性の約束事次第ではないだろうか。リアリティという点からすれば、ここまで複雑に兆候が仕掛けられ、行動、想像、情動、知性の攻守の交錯が錯綜する手紙とその読み手、なんてことが現実に具現するわけがない。「地に足をついた」リアリズムでは絶対にこんなラスコーリニコフの内言は描けない。肝に銘じておくべきことだ。もちろんドストエフスキー自身の頭は抜群に良い……掛け値なしだ。
あと、ルージンが「新しい世代」に共感している、というのは母親の修辞ではなくて実際そのとおりのことだと後で判明する。これは実は、マルメラードフが言っていた「レベジャートニコフ氏は、新思想を研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学の進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ」と作為的に共鳴する要素(作品内ではこの「新思想」は否定的なものとして位置づけられる)。伏線設計として周到・無駄がない。
しかし、「いきなりたたき殺したかもしれぬ!」って、なんで語り手がそんなにいきり立っているんだよ。実況リポーターのごとく興奮する地の文。
●『罪と罰』上76-80頁
第一部第四章
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《……でも、母さんはまあいいさ、しかたがないよ、ああいうひとなんだ。ところでドゥーニャはどうなんだ? ドゥーネチカ、かわいい妹、おれはおまえのことはよく知っているんだよ! おれが最後に会ったとき、おまえはもうかぞえで二十歳だった。おまえの気性がおれにはもうわかっていた。〈ドゥーネチカはたいていのことには堪えられます〉と母さんは書いている。そんなことはおれだって知っているさ、それはおれはもう二年半まえに知っていたんだ、そしてそれ以来二年半の間そのことを考えてきたんだ、〈ドゥーネチカはたいていのことなら堪えられる〉ってことをさ。スヴィドリガイロフ氏と、それにからんで起ったすべてのできごとに堪えられたのだから、たしかにたいていのことには堪えられるわけだ。ところで今度は、母さんといっしょに、妻は貧しい家からめとって、良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にするようなルージン氏だって、しんぼうできると思ったわけか。まあ、うっかり〈口をすべらした〉というのなら、それでもいいさ。わけのわかった人間でもそういうことはあるだろうからな(ひょっとしたら、決して口をすべらしたわけではなく、早いとこはっきりしておこうと思ったのかもしれん)、だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。あの娘は黒パンだけかじって、水をのんでも、自分の魂は売らない女だ。まして楽をしたいために自分の精神の自由を渡すはずがない。ルージン氏どころか、シュレスイッヒとホルスタインを全部やるといわれたって、自分を売るような女ではない。いいや、おれが知っているかぎりでは、ドゥーニャはそんな女ではなかった、そして……そうとも、今だって、むろん、変ってはいまい!……わかりきっている! スヴィドリガイロフ夫妻も酷だ! 二百ルーブリの金のために一生家庭教師として県から県をわたり歩くのも辛いことだろう、しかしそれでもおれは知っている、おれの妹なら、尊敬もしていないし、いっしょになっても何もすることがないような人間と、自分一人の利益だけのために、永久に自分を結びつけて、自分の精神と道徳感をけがすくらいなら、いっしょ植民地の農園に奴隷となって雇われて行くか、あるいはバルト海沿岸地方のドイツ人の下女になるだろう! また、ルージン氏が純金か高価なダイヤモンドに埋まっているような人間なら、妹はルージン氏の合法的なかこい者になることを承知しまい! それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ! 愛する者のために、尊敬する人間のために、売る! 要するに、これが真相なのだ。兄のために、母のために、売る! すべてを売る! おお、この殺し文句のために、時によるとわれわれは道徳心をおしつぶしてしまうのだ。そして自由も、安らぎも、良心までも、何もかも古物市へ運び去ってしまう。生活なんかどうにでもなれ! 愛する人が幸福になれさえすれば! そのうえ、勝手な詭弁を考えだし、ジェスイット教徒の教えを研究して、こうでなければならないのだ、崇高な目的のためならばこれでいいのだと、自分に納得させて、ひとときの安らぎを得ようとする。われわれとはこんな人間なのだ。そして何もかもが白日のようにはっきりしている。この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが登場し、しかも主役であることも、はっきりしている。なにいいさ、彼の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやることができる、もしかしたら、彼はのちに金持になり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり、しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ! だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ! 犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか? どうです? 堪えられますか? とくになりますか? 分別にかないますか? ドゥーネチカ、おまえは、ソーネチカの運命がルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて、すこしもいやしいものでないことを、知っているのかね?〈愛情というようなものがあったわけではない〉──と母さんは書いている。愛情ばかりか、尊敬もあり得ないとしたら、それどころか、もう嫌悪、侮蔑、憎悪の気持が生れているとしたら、どうなるだろう? そうなれば、またしても、〈身なりをきれいにする〉ってことが必要になってくる。そうじゃないかね? わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。いやもしかしたら、もっと悪く、もっといやらしく、もっときたないかもしれん、というのは、ドゥーネチカ、なんといってもおまえにはすこしでも楽をしようという打算があるが、あの娘は餓死というぎりぎりの線に追いつめられているからだよ! 〈ドゥーネチカ、このきれいというやつは、高くつくよ、ひどく高くつくんだよ!〉あとで力にあまるようなときがきたら、どうする? 後悔してももうおそいよ。どれだけ悲しみ、なげき、呪い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか、だっておまえはマルファ・ペトローヴナのような女じゃないもの! そうなったら母さんはどうなるだろう? もう今から心配で、胸を痛めているというのに、何もかもがはっきりわかるときがきたら、いったいどうなるだろう? ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》
彼は不意にはっとして、足をとめた。
《させるものか? じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ? ことわる? どんな権利があって? そういう権利をもつために、おまえのほうから母さんと妹に何を約束してやれるのだ? 大学を卒業して、就職したら、自分のすべての運命、すべての未来を二人に捧げるというのか? そんなごたくは聞きあきたよ、それにはっきりしない先のことじゃないか、いまはどうするんだい? いまどうにかしなきゃならないんだよ、わかるかい? ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。スヴィドリガイロフたちやアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンとやらから、おまえは二人をどうして守るつもりだね、未来の百万長者さん、二人の運命をにぎるゼウスさん? 十年後に? その十年の間に母さんは襟巻編みの手内職で、いやもしかしたら涙で、目をつぶしてしまうだろうよ。精進料理でやせほそってしまうよ。それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?》
ここで重要なのは、ドゥーニャの本質、金銭や安楽な生活のために尊敬もしていない男と結婚することなどありえない娘としてのドゥーニャを描いてみせ、ドゥーニャの婚約の、母親の手紙には書かれなかった本質──愛する兄のために自分を売る!──をラスコーリニコフの内語によって開示した、ことだけではない。ドゥーニャだったら絶対に分かっているはずだ、という形でルージンの人格の「穴」を見事に虚構してみせたこと、それをラスコーリニコフの「洞察」の中で利用し切ってみせたことにこそ注目しなければならない。母親の手紙の中では「すこしぶっきらぼうすぎる」という形容のみで語られた「妻は貧しい家からめとって、良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にする」というエピソードが、ここまで決定的な意味レベルを担うとは! 無論これだけでルージンの本質を見抜き、あり得べきドゥーニャとルージンの結婚生活の顛末まで想像してしまうラスコーリニコフの知性は凄いのだが、そもそもルージンに見抜かれるような穴を──しかもラスコーリニコフの母親が騙されてしまうほどに巧妙で、ドゥーニャが兄への愛のためなら見てみぬ振りができるほどの、微妙な位置づけの穴を──属させた作者の手腕も、それ以上の驚きと言わねばならない。ドストエフスキーは鋭い分析だけではなくて、分析される対象そのものまで自分で創り出してしまうのだ。
そしてまた、ここではドゥーニャがラスコーリニコフに対して「穴」を見せていることに注目しよう。というより母親の手紙の叙述の時点で、「穴」が空いていた(それを作者が虚構していたわけだ)。シュレスイッヒとホルスタインを全部やると言われたって自分を売るような女ではないはずのドゥーニャが、何故かどう考えても尊敬に値しない男と結婚し、それがどうやら「このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ」という一言からしても、愛する兄のために自分を売っているに等しいという、その自己矛盾だ。「自分のために自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!」──このドゥーニャのあからさまな「穴」は確かにラスコーリニコフを憤らせるに値する。しかし真に問題なのは、このようにあらゆる面でラスコーリニコフはドゥーニャや母親の「穴」を攻撃している一方で、自ら一方的に攻められているのだということだ。ラスコーリニコフは、長男であるにもかかわらず社会的には失敗者になりかかっているという「穴」を、二人から家族愛という情動で、攻められている。攻めていながら、一方では攻められている! ラスコーリニコフにも「穴」があり、母親の手紙は、ドゥーニャの決意は、その「穴」がなければ起りえなかったという意味で、ラスコーリニコフをも始終攻めているのだ! それが改行後に突然内攻しはじめる内語の流れの変化の要因である。「ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。……」──ここでラスコーリニコフが攻められる側にまわらざるを得なくなる重大な契機として「金銭」が用いられていることに着目しよう。別に資本主義に反抗せよってのは、小説が担うべきテーマじゃない。そうではなくて、金銭のやり取りは必ず「攻める(責める)-攻められる(責められる)」の関係性・攻撃性を誘発するということこそが小説にとっての金銭の根本的意味だ。だからこそお金は軽々しく扱うことができないのだ、小説においては。
攻めつつ攻められているという加害と被害の錯綜が関係性をドライヴさせる。その攻めつつ攻められるという二重性はラスコーリニコフの内語の文体にも反映されている。想像的対話? いや、そんな生易しいものではない。ドゥーネチカに「おまえ」と想像上で呼びかける。ほとんど当人を前にしての挑発的会話と同等。「だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。」「わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。」こうした敵対的な想像上の内的対話がどんどん展開してしまうというのは、まさにドゥーニャに「穴」があるからだと考えるべきであろう。また、自問自答による叙述の展開もあるが、ほとんどこれは「作家の日記」と同じ「公開自問自答」のような演劇性がある。「攻める」という志向性はやはり平常な平和な関係から見ると自ら駆り立てているような演劇性を帯びるということか。「それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!」そしてこれらの特徴の進化形として、「内語の中での演劇的一人三役」というアクロバティックな技法が出てくる。つまり、想像上の他者の言葉を、自分自身のアクセントで「復唱」し、それにリアルタイムで注釈=解釈してみせるという内語の運動だ。これはまさしく分析対象を「(攻められつつ)攻める」最も効果的なレトリックかもしれない。「だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうしえ犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか!」──ここで復唱されている母親の声が一種の攻撃になっていることに注目せよ。やはり、われわれの内語を熱烈に分裂させるのは「攻める-攻められる」の衝動か。それにしても内語で「一人三役」をやっているほどの個性なんて、ドストエフスキーの登場人物だけじゃねぇか? そしてついには、彼は自分が攻められざるをえない「穴」を自覚して、自分の中の他者の言葉によって自分を責め苛むに至る! 凄まじい分裂的饒舌。「それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?」
もちろん単にラスコーリニコフの個性的な内語の表現だけがこの箇所の面目ではない。少々強引だが、前々章のマルメラードフの話に出て来たソーニャの売春とドゥーネチカの身売りを重ね合わせることで、ソーニャをふたたび伏線として強調している。こうした丁寧な伏線の仕掛けと、「マルメラードフがたまたまラスコーリニコフの前で馬車に轢かれる」(第二部第七章)偶然が重なって、ソーニャがラスコーリニコフ──およびドゥーニャとルージン──に深く関わってくることになる。この物語と関係性の運動は、見事だ。