resume:山城むつみ「ベンヤミン再読──運命的暴力と脱措定」
- 一九二〇年末から翌二一年初頭に成立したと推定されている、ベンヤミンの「暴力批判論」。法と正義との差異に関する洞察。
ベンヤミンは現代生活に浸透している近代法の意識下に野放図な暴力の拍動を感じ取っていた。一九一九年に書かれた「運命と性格」のなかで、ベンヤミンは「罪」について特異な思考を展開している。曰く、人は罪を犯したから有罪の宣告を受けるのではない。そうではなく、まず最初に或る生に対し恣意的に──暴力的に──有罪の宣告がなされ、結果その生は「罪あるもの」となるのだ。ヨーゼフ・Kのように、と言ってもいい。この暴力的な転倒をベンヤミンは「運命(の秩序に或る生が絡めとられる)」という言葉でとらえている。たとえば占い女は、タロットカードや天文学のような単純なテクニックを用いて、恣意的に運命を宣告し、相手を罪の連関のなかへ持ち込もうとする。「運命の秩序」があるところに「罪を負った生」がある。法も同様に機能する。法によって裁く者は、同種の暴力的転倒によって望むように運命を相手に与えることができる。法とは、運命の秩序のなかでのみ根拠を持ち得る一つの秩序にすぎない。他方、正義とは、運命の秩序の外部に根拠を持つ。「暴力批判論」は、この運命の暴力を打ち砕くことによって法をも同時に解除し、法的秩序の外部に瞬く正義を示そうとする試みであった。
-
法的暴力の批判。たとえば戦争暴力は、相手のルール無用の殲滅ではなく勝利の公的な是認を目指すために、「新しい法を定めること」を必然のものとして伴う(レーテ運動の圧殺→ヴェルサイユ講和→ヴァイマル憲法の制定)。ここから、正しいとされる目的のための手段として行使される暴力は、〈法措定的〉な性格を帯びると、ベンヤミンは敷衍する。
さらに、この法的暴力には「何か腐朽したもの」があるとベンヤミンは言う。というののも、法を措定すること──新しい法を定めること──はたんなる立法にとどまらず、同語反復的に己れ自身を強化することをも含むからだ。これは前述の、カフカの世界を思わせる暴力的な転倒によりなされる。或る任意の者を罪があろうとなかろうと運命にまかせて断罪し、刑を執行することによって、法は自分自身の有効性を高めていくのだ。現行法において殺人者に死刑が執行される場合でさえ。
《死刑の意味とは、実際また、法律違反を罰することではなく、新しい法を定めることにほかならない。というのも、生死を支配する暴力を行使することによって、法は、他のどのような法執行によるよりもずっと、己れ自身を強化するからである。》(第九段落)
くり返せば〈法措定的〉な暴力は、手段的暴力である。それは正しい目的のための手段としての暴力、ないしは、正当な手段としての(正しい目的のために用いることのできる)暴力である。ところで、ベンヤミンはそれらとはまた別種の暴力について、つまり特定の目的の手段ではない暴力についても論及している。たとえば個人的な怒りの感情は、決まった目的に手段として関係ないような暴力の激発をもたらす。それは何かの法を侵害した罪ある者に罰として行使されるような暴力ではない。ほとんど不確定の暴力だ。手段的ではない暴力の直接的顕現。しかしまたこの暴力もまた、結果として法のように「己れ自身を強化する」のだとベンヤミンは言う。したがってこの直接的暴力は、目的に手段として関係しているわけではない種類の暴力だとしても、法措定的暴力と重ね合わせ得る関係にあると考えられる。そして、この偶発する直接的暴力≒法措定的暴力において再帰的に強化されているものとは何か。「権力」だ。
《法措定における暴力の機能は、次に述べる意味で二重である。法措定はたしかに、法として制定されるところのものを己れの目的として、暴力という手段を用いて、追求するのだが、しかし法措定は、目的とされたものが法として制定された瞬間に暴力を解任するのではなく、暴力をいまはじめて厳密なる意味で、かつ直接的に、法措定的暴力へと化せしめる。それはつまり、法措定が、暴力から自由で暴力には依存しない目的を、ではなく、必然かつ緊密に暴力に結びついた目的を、権力の名において法として制定することによって、である。法措定とは権力措定にほかならず、その限りで法措定は、暴力の直接的顕現の一事象にほかならない。正しさ〔正義〕が、あらゆる神的な目的措定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である。》(第十五段落)
法措定的暴力は、法を措定するという目的を達成した後には、ちょうど個人における怒りの激発の場合と同様、パフォーマティヴに暴力を振るっていることを示すためにこそ暴力を行使するようになる、というわけだ。法措定的暴力がこのように、手段的暴力の圏域を超えて「暴力の直接的顕現」として作用するとき、ベンヤミンはこれを神話的暴力と呼ぶ。
ここから権力が再定義される。権力とは、暴力を行使しているということを顕示することで、結果として人々に運命を思い知らせる暴力の結節なのだ。法が有効なのは、法に正当な意味や根拠があるからではなく、それが権力として、法は法だから従えと同語反復の暴力によって無意味かつ無根拠に命令しているからだ。権力と運命は別のものではない。権力とは、「直接的顕現」として働く法措定的暴力である運命が、ただ「己れ自身を強化する」ために形成する同語反復的なループなのだ。人は、罪があるから罰として暴力を行使されるのではない。まず有罪を宣告され暴力を行使されるから、その結果として罪あるものとなる。暴力の直接的顕現によってそのような罪の連関を生み出し、法が有効に作動するようにするそのことが「権力措定」なのである。この「権力措定」が人々に運命を思い知らせていることが、国内のあらゆる法措定の下地である。時の政権がその時々に設定した目的が何であれ、実際には、権力が「己れ自身を強化する」ためにのみ、すなわち「権力措定」のためにのみ暴力は行使される。
そしてこの神話的暴力(による「権力措定」)は、つねにすでに戦争暴力からやって来る。戦争は、ただ暴力を行使しているのだということを顕示するためにのみ遂行され、このパフォーマンスによって人間を「運命の秩序」に組み込むのである。権力を持っている諸国家が戦争をするのではない。諸国家は戦争をするからこそ権力を持っているのだ。死刑執行という生死を支配する暴力にも、やはり同じパフォーマンスが作動している。
- 書誌情報:山城むつみ著、「ベンヤミン再読──運命的暴力と脱措定」、『新潮』2017年2月号掲載、新潮社
トップページに戻る