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牧師館の娘

Daughters of the Vicar

デイヴィド・ハーバート・ロレンス
David Herbert Lawrence





1


 オールドクロスの村に初めて来た牧師は、リンドリー師だった。この小さな村里の家々は、建てられた当初からしばらくは、静かな安息に包まれていて、村人たちは、陽光の注ぐ日曜日になると、田舎道を辿り、田畑を越え、二、三マイルの道のりを歩いて、グレイミードの教区教会へ通っていたのだった。
 ところがやがて、その地に炭坑が掘られ、はやばやと街道沿いに住居の列が建ちならび、そこへ、身持ちの定かならない野卑な労働者たちの、もっとも碌でもない連中が、住み着くようになると、かつての村里と村人たちの気配は、ほとんど跡形もなく消え去ってしまった。
 この新たに住み着いた炭坑夫たちの便宜のために、教会を、オールドクロスに建てる必要が出てきた。さして費用をかけることはできなかった。そんなわけで、街道沿いの住宅の列からできるだけ離れた、村の家々と林檎の樹々の傍の空き地に、まるで石とモルタルでできた鼠が背を丸めるみたいに、西の端に二本の小塔を耳のように備えた、小さな建物が、うずくまって建つ仕儀となった。それはどこかしら不安げで、怖じ気づいた恰好をしていた。人々は葉の大きなキヅタを植えて、その教会の、怖れ縮かんだ、ぎこちない見た目を隠そうとした。今では、小さな教会は、蔦の緑に埋もれて、眠っているように、取り残されたように、空き地の真中に建っていて、他方、炭坑夫たちの白い煉瓦造りの家群は、だんだんに伸び広がり、教会の傍へも押し入るようになり、今にも教会を圧し潰すかのように迫っていた。早くも教会は廃れつつあった。
 エルネスト・リンドリー師は、結婚したばかりの、二十七歳の時分、サフォークでの副牧師の職を離れ、牧師として一つの教会を受け持つため、オールドクロスへやって来た。彼はケンブリッジで聖職叙任した、いたって平凡な若者だった。彼の妻は、ケンブリッジ州の教区司祭の娘で、自尊心の強い女だった。その父親は年毎の千ポンドの収入のすべてを、自分で遣い尽くしてしまうので、彼女は、何も持参せずに、リンドリーのところへ嫁いで来た。上層階級の人間でありつづけるためにも、年に百二十ポンドの固定給を得るためにも、彼ら若夫婦は、オールドクロスへ越す必要があった。
 若夫婦は、粗野で、生々しい、たえず不満を抱いている炭坑夫たちには、あまり歓迎されなかった。それまで、農園の人夫たちばかりに日々接しているうちに、リンドリーは、自分を、明らかに上位の、支配階級に属している者と考えるようになっていた。地主貴族たちに対しては、彼も、へりくだった態度を見せてはいたが、それでも自分は貴族に劣らぬ、そして、ありふれた人々とは何かしら違った、上位の階級の者だと、何の疑念も抱かず信じていた。
 リンドリーはしかし、炭坑夫たちが、彼の考えている序列を受け入れようとしないのに気づいた。彼らは生きる上で、牧師など必要とせず、そのことを露骨に彼に言いもした。女たちはただ、「皆それどころじゃないのさ、」と言うか、そうでなければ、「こんなところに牧師が来たって何の得もありゃしませんよ。あたしらは非国教徒ですからね、」と言うのだった。男たち──リンドリーが近づいて交わろうとしないかぎりは、陽気で快活な男たちは、しばしば、リンドリーには手に負えない、頑固な偏見から、好んで彼を嘲った。
 やがて、彼の義憤は、静かな怨恨感情へ変わってゆき──彼自身それと気づいていたかどうかはともかく──教区民の大部分への意識的な憎悪と、自分自身への無意識の忿懣へと、変わってゆき、とうとう、牧師としての仕事を、教会まわりの家々だけに限ってしまった彼は、炭坑の人々に、屈服した形になった。人々の上に立つよう、世間が彼に与えてくれる地位に頼って、つねに自分を支えていた彼は、もはや何者でもなくなってしまった。彼の暮らしは今や貧寒とし、その土地の俗悪な商人たちに対してさえ、いかなる威儀もなくなり、そして彼には、愛敬らしい振舞いで炭坑の人々と親しくなろうとする意志も、器量もなく、さらには、すでに権威の失墜した土地で、自分を高く固持するための精神力も、なかった。鬱塞した気分のまま、彼は日々を暮らし、顔色は蒼く、みじめに、くすんできた。
 はじめのうち、リンドリーの妻は屈辱に憤然としていた。始終取り澄まして、傲岸に振舞った。しかし、彼女の家の収入は少なく、小売り商人と勘定のことで小競り合うのは、あまりにいじましく、彼女がどう勿体らしく振舞っても、いつも代り映えのない、無遠慮な嘲笑で報いられるだけだった。
 早々に自尊心を傷つけられて後、彼女は、よそよそしい、頑なな住民たちのあいだで、自分が孤立していることに気がついた。彼女は住まいの内でも、外でも、忿懣を破裂させた。しかし、家の外で癇を立てると、それが手痛い仇になって返ってくるのを身に沁みた彼女は、遠からず、自分の家の壁の内側でしか、怒りをあらわさなくなった。壁の内側で、彼女の憤激はいよいよ募り、その凄まじさは、彼女自身をも苛むほどだった。彼女は、自分が夫を憎んでいることを自覚し、このままでは、どう堪えようとしても、いずれ自分が、自ら人生の均斉を打ち砕き、夫と彼女との上に破滅をもたらすだろうことを、予感しはじめた。そして、まさにその危惧によって、彼女は大人しくなっていった。彼女は怖れにうちひしがれ、世界でただ一つの隠れ家である、暗鬱で、みすぼらしい彼女の牧師館の内に、惨めに閉じこもった。
 年毎に子供は産まれた。彼女は、ほとんど機械的に、強いられた母親としての務めに甘んじた。そして徐々に、狂おしい忿懣と、無念と、嫌気とに圧し伏されて、彼女は打ちのめされ、身は衰え、病床に臥せってしまった。
 子供たちは健やかに、しかし冷然とした、厳格な仕方で育てられた。父親と母親は、彼らを家の中で教育し、きわめて誇り高く、きわめて上品に、そして周囲の俗悪とは明確に隔てられた、片意地な上流階級の人間として、育て上げた。したがって、彼らの生は、ほとんど周りと交流がなかった。見目の良いこの子供たちは、奇妙なほど清潔で、上品さが醸す半ば透き通った雰囲気を帯び、そして、貧しく孤立していた。
 リンドリー夫妻の魂はゆっくりと擦り減ってゆき、幾週も、幾年ものあいだ、ただただ暮らしを立てるため汲々とすることに、日々は費やされ、また、子供たちには上流階級の気取りを身につけさせようと、しきりに厳しくし、作法を叩き込み、彼らの野心を掻き立てては、義務で縛りつけるのだった。日曜の朝には、母親をのぞいた一家皆で、教会へと小径を下って行くのだが、脚の長い娘たちは、いつも、つましいワンピースに身をつつみ、息子たちは黒い上着と、長くて灰色の、窮屈そうなズボンを履いていた。彼らは、父親の教区民たちの傍らを、無言のまま、澄ました顔で──その子供じみた口許は、彼らの悲運を示すかのような高慢でもって、噤まれ、そして、子供らしい眼にすでに無感動の色を浮べつつ──通り過ぎて行った。きょうだいの中で、率先して歩くのは、長女のメアリーだった。メアリーは背丈の高い、しなやかな身体つきをした娘で、その横顔は整っており、どこかしら姿形に、高貴な使命に従っているという風な、誇らしげな、純一な雰囲気があった。次女のルイーザは、背が低く、四肢はふっくらと丸く、強情そうな見目をしていた。彼女は敬虔な心よりも、反抗の心を濃く持っていた。残りの子供たちのうち、幼い者の面倒はルイーザが見て、それより年長の者の世話は、メアリーがした。炭坑の子供たちは、自分らの傍を通り過ぎる、もの言わぬ、蒼い顔をした、この牧師一家の人目をひく行列を眺めては、その上品ぶった、よそよそしい態度に驚き、小さい息子たちのズボンを、遠巻きにからかったり、自分自身に引け目を感じたり、或いは憎しみに刺激されて、心が踊るのだった。
 空いた時間を見つけては、メアリーは、幾人かの商人の娘の家庭教師を受け持っていた。ルイーザは、家政を切り盛りしつつ、父の教会へ通う人々の家へ赴き、炭坑夫の娘たちに、一人十三シリングで、二十六回に渡るピアノの稽古をしていた。




2


 或る冬の朝──その時、娘のメアリーは二十の年端になっていたが──、人目に立たない痩躯に、黒い外套と広縁の中折れ帽子を身につけた、リンドリー師が、白い紙の束を腕に抱えて、オールドクロスへ向っていた。彼は、英国国教の暦を配りに歩いているのだった。
 蒼白い、くすんだ顔色の、もう壮年の年格好のリンドリー師は、忙しい、威勢よい騒音をあげている炭坑に向って、線路の先へ先へとのぼって行く列車が、よろめき唸りながら踏切を通り過ぎるのを、立って待っていた。それから木製の義足をした男が、足を引きずって踏切を開いてくれ、リンドリー師は渡って行った。ちょうど彼の左手の側には、機関車と線路の下方、葉と実の落ちしきった林檎の小枝を透かして、赤い屋根の家々が見えた。リンドリー師は、低い塀をまわって、街道から村の家々につづく、古びた段々を降りて行ったが、その家々は、薄闇につつまれ、静かに、列車の過ぎ行く轟きからも、炭坑の荷車の甲高い音からも離れて、孤立した小さな下界に、うずくまっていた。きつく引き締った蕾みを持つマツユキソウが、寒々としたフサスグリの薮の下に、垂れさがり、静まり返っていた。
 牧師が戸をノックしようとしたとき、軽く鋭い音が鳴り響いたので、振り返ると、黒々とした物置の、開いた扉越しに、黒いレースの縁なし帽子を冠った年配の女が、赤茶けた大きい缶の立ち並ぶ中に身をかがめ、深い受け皿に、まばゆく輝く液体を注いでるのが、見えた。灯油の臭いが彼の鼻を衝いた。女は手にした缶を降ろすと、受け皿を持ち、それを棚にのせ、それから錫製の瓶を抱えて身体を起した。その彼女の目線と、牧師のそれとが合った。
「おや、リンドリーさん、いらしたんですか!」と、彼女はやや咎める口調で言った。「お入りになって待っててください。」
 牧師は家のなかへ入った。暑く熱きれた御勝手には、大柄の、灰色の髭を生やした初老の男が、坐って、かぎ煙草を吸っていた。不機嫌そうな、低いうなり声で、男は、牧師に坐るように告げると、もう彼には目もくれず、ただ空ろな眼差しを炉火に据えていた。リンドリー師はしばらく待った。
 黒いレースの縁なし帽子の紐を、肩掛けに垂らしたままに、婦人は家に入って来た。彼女は、几帳面に身ぎれいにしている、並みの背丈の女だった。台所の扉の外の階段を、灯油の缶を持って、昇って行った。階段を昇り切ったところの部屋へ入って行く彼女の足音が、階下に響いた。その家は、壁の棚に小包を幾つも並べた、こまごまとした服飾品を売る小さな店で、物をどかせて空けた場所には、仕立てのやりかけの布地が掛かっている、大きな、旧式のミシンが据えられてあった。一人の女の子が店に入って来ると、婦人は売り台の裏へまわって、灯油入りの瓶を女の子に渡し、そして、子供から空の水差しを受け取った。
「お母さんが、つけにしといてくれって言ってたよ、」と女の子は告げて、店を出て行った。婦人は帳面に何か書き留めてから、水差しを持って台所へ戻って来た。とても大柄な、彼女の夫は、立ち上がり、すでに十分燃えさかっている暖炉の火に、さらに石炭をくべた。まるで不承不請という風に、彼の動きは鈍くさかった。この男の生はもう終息しつつあるのだった──仕立て屋になった今、彼のその大柄な体躯は、持ち腐れになっていた。若い頃には優れた舞踏家で、ボクサーでもあった彼は、今や、口数の少ない、覇気のない男でしかなかった。とくに言うべきことはなかったけれど、牧師は、何か話しかけようと、適当な言葉を探した。だが依然この男──ジョン・デュラントは、牧師に注意を払わず、静かに、鈍々しい自分の存在にひたり込んでいた。
 デュラント夫人はテーブルクロスを広げた。彼女の夫は、自分のジョッキにビールを注ぎ、煙草を吸いつつ飲みはじめた。
「あんたもどうです?」と、彼は、もう一つの空のジョッキへ、ゆっくりと目移ししながら、髭の下からうなるような声で、牧師に向って言った。はやビールのことだけが、彼の意識を占めていた。
「いや、結構です、」とリンドリー師は、本当はビールを飲みたかったのだけれど、応えた。呑んだくれの多いこの教区で、彼は模範を示すのでなければならなかったのだ。
「うちみたいな生活していると、飲まなきゃやってられないんですよ、」と、デュラント夫人が言った。
 彼女は、どこか不満気な苛立った物腰をしていた。正午前の食事のために、彼女が食卓の用意をするあいだ、牧師は、やや居心地の悪さを感じて坐っていた。彼女の夫は、卓に椅子を引き寄せて、食べはじめた。彼女の方は暖炉の傍の小さくて丸い肘掛け椅子に、坐り込んだ。
 かつてデュラント夫人は、苦労のない、安易な人生を望んでいたものだったが、結局は彼女の命運も、荒廃した、波瀾だらけのこの家庭の一員という末路に行き着き、自分自身にも誰にも何が起ろうと気にかけない、怠け者の夫と、今は一緒に暮らしているのだった。それだから、彼女の器量良しの角立った顔は、いつも気難しげで、彼女は、これまでずっと苦渋を嘗めつつ人生に従い、彼女がしたくもなかった舵取りを強いられて来たという屈託を、態度ににじませていた。また、子供たちをしっかり育て、しつけてきた女性に特有の、尊大な自信も、彼女の物腰にはあったが、しかし、子供たちをしつけることでさえ、彼女が好んでしたことではないのだった。自分のささやかな服飾品店に心を配るのは、彼女には楽しく、荷馬車に乗ってノッティンガムまで行き、幾つもの卸し商をまわって、品物を買い集めるのも、楽しかった。ところが彼女は、息子たちに心を配って苦労するのは、好まなかった。彼女が愛したのは末の男の子だけだったが、それも、彼より下には誰もいないからで、ようやく自分の気苦労も終りを迎える、と感じることができたからだった。
 このデュラント家は、牧師が折にふれて訪問する家の一つだった。デュラント夫人は、それが彼女に課せられた義務であるかのように、子供たちに、教会での振舞いを厳しくしつけた。とはいえ、彼女は、信仰に従ってそのようにしたのではない。ただ、因循からそうしていただけだった。夫の方はと言えば、彼はまるで信仰を持っていなかった。彼は、きわめて啓蒙的な『ジョン・ウェスレイ牧師の生涯』という本を、奇妙に楽しんで読んでいて、その読書から、炉の火の暖かみや、一杯のブランディーにも似た満足を得ていた。だが彼はジョン・ウェスレイに特に感銘を受けていたわけではなく、それが仮に、彼にとって未知の名であるジョン・ミルトンだったとしても、大した相違はないのだった。
 デュラント夫人は卓まで椅子を引っ張って行った。
「あんまり食欲が無いんですよ、」と、ため息まじりに言った。
「なぜ?──具合でもお悪いのですか?」と、牧師は、勿体らしく訊ねた。
「そういうわけじゃないんですけどね、」と、彼女はため息をついた。しばらく彼女は、口をきつく結んで坐っていた。「こんな暮らしの、行く末を思うとねえ、心配でね。」
 だが、彼自身、これまで永く貧窮に圧し伏されて来た牧師は、そうやすやすと、彼女に対して同情の念は抱けなかった。
「なにか困ったことでもおありですか?」と牧師は訊ねた。
「ええ、なにもかもが困ったことですよ!」と初老の女は叫んだ、「このままじゃ、いずれ、死に場所は救貧院ってことになりそうでね。」
 牧師はやはり冷然としていた。十分なものが揃っているこの小さな家に居て、彼女が貧窮を言い立てるのは、滑稽だった。
「私にはそうは思えませんね、」と彼は言った。
「それに、傍に居て欲しいと思ってた末の息子も──」と彼女は嘆じた。
 牧師は大して憐れみもせず、無感動に聴いていた。
「年取ったあたしを助けてくれるはずだった末の息子も! ああ、お先真っ暗ですよ!」
 貧窮を嘆く彼女の言葉は聞き流していた彼も、これを聴いて、彼女の末の息子に何が起ったのかと、気を惹かれた。
「アルフレッド君が、どうかしたのですか?」と彼は訊ねた。
「あの子が女王様の水兵になるって便りを、受け取ったんですよ、」と、彼女はつっけんどんに言った。
「海軍に入ったんですか!」とリンドリーも大声になった。「ふむ。でも、海の上で女王と英国のために働くというのは……彼にとって、これ以上望ましいことはないと思いますよ。」
「どうせなら、あたしのために働いて欲しいですよ、」と彼女は悲痛に言った。「あの子は手放したくなかったんです。」
 末っ子のアルフレッドは、彼女が、甘やかして育てる喜びを自分に赦した、唯一人の坊やだった。
「そうでしょう、寂しい気持はお察しします、」とリンドリーは言った。「でも彼にとってこれは、それほど無意味な経験にはならないと思いますよ──むしろ有益なものでしょう。」
「そりゃ、リンドリーさんはそう思うかもしれませんけどね、」と彼女は噛み付くように応えた、「自分の息子に、赤の他人の男の命令で、猿みたいに帆柱を登って欲しいと思う母親がどこにいますか?」
「しかし、帝国海軍のために働くことは、まさか、不名誉とは言えないでしょう?」
「いえ、不名誉です、まさに不名誉ですよ!」と、老女は怒りに声を荒らげた。「あの子は自分自身を奴隷にしようとしてるんです、それで、いずれ後悔するに違いないわ。」
 婦人の腹立ちまぎれの、浅薄な物言いに、牧師は反感を覚え、しばらくのあいだ黙った。
「いや、私には──、」と、ようやく彼は、力のこもらない、曖昧な口調で反論した、「女王のために軍で働くことが、なぜ炭坑で働くことより奴隷的と見られるのか、私には分りませんね。」
「家に居れば、家に住んでさえいれば、自分の思い通りに振舞えるでしょう。息子にだって、その違いは分るはずだわ。」
「海軍で働けば、彼は成長しますよ、」と牧師は言った。「それに、ここでお酒に耽ったり、悪い交遊に染まったりすることからも逃れられる。」
 デュラント家の息子たちの中には、悪評高い呑んだくれになった者もいて、また、アルフレッドも、その点、しっかりしているとは言えなかった。
「アルフレッドがお酒を飲んじゃいけないわけがありますか?」と母親は叫んだ。「人のポケットから金を盗んで飲むわけじゃなし!」
 その言葉で、牧師は、自分が未払いのままにしている勘定と、自分の職業とを当てこすられたと感じて、身を堅くした。
「冷静に、公平無私に考えれば、息子さんが軍に入ったことを喜ぶべきだと思いますね、」と彼は言った。
「ああ、あたしは老いさらばえるし、夫の稼ぎは形ばかりだし! リンドリーさん、そんなことより、もっと別のことを喜びたいですよ。」
 婦人は泣き出した。ところが彼の夫は、まるで心を動かされないらしく、昼飯のミートパイをたいらげ、ビールを飲んだ。それから、その部屋には、彼よりほかの人間は居ないというかのように、無関心に暖炉の傍へ戻った。
「デュラントさん、私なら、神に仕え、海上で祖国のために献身する男なら、誰でも尊敬しますがね、」と、牧師は頑なな口調で言った。
「そりゃ大変結構ですよ、ご自身の息子さんは、下品な仕事と無縁でいらっしゃるでしょうからね。──でもあたしにしてみたら、話は別になりますわ、」と、言い返した。
「いや、私の息子の誰かが海軍に入っても、そのことを私は誇りに思うでしょう。」
「ええ──そうですか──そこまで考えが違うと、もう話になりませんわ。」
 牧師は立ち上がった。彼は、折り畳まれた大きい紙を、卓に置いた。
「今日は国教の暦を持って来たんです、」と彼は言った。
 デュラント夫人は、それを広げて見た。
「こういうのは、もっと色が付いてたりすると良いと思いますよ、あたしは、」と、彼女は不機嫌そうに言った。
 牧師はそれに応えなかった。
「そうそう、オルガン奏者の方への助成金の封筒を──」と老女は言って、椅子を立ち、マントルピースの上から当のものを取って、店台の方へ行くと、封筒に封をして戻って来た。
「すみませんけど、これが精一杯でね、」と彼女は言った。
 ルイーザの手伝いに対しての、デュラント夫人の心付けも含まれている封筒を、ポケットにおさめ、牧師は暇を告げた。彼はいつもの、型通りのもの憂い作法で、一軒一軒、暦を配って歩いた。この仕事の無味乾燥さに、また、普段付き合いなれない人々に挨拶して回らねばならない労苦に、疲弊しきって、彼は、索漠たる気持になり、気分が悪くなった。それでも仕事を済ませて、ようやく彼は家に帰ることができた。
 食堂では、炉にささやかな火が燃えていた。今ではでっぷりと太ったリンドリー夫人は、寝椅子に横たわっていた。牧師は冷えきった羊肉を、切り分けた。やがて、小柄でぽっちゃりした、生き生きと頬の紅いルイーザが台所から出てきた。白く美しい眉と灰色の眼をした、やや肌の色のくすんだメアリーは、野菜料理を持って来た。元気一杯というほどではなかったが、子供たちは、とりとめなくお喋りしていた。紛れもない貧窮の雰囲気が、部屋に充ちていた。
「今日、デュラントさんのところへ寄ってね、」と、牧師は、羊肉の小さい片を配り分けながら、言った、「どうも、末のアルフレッド君が、海軍に入隊しようと家を出たみたいなんだ。」
「それはよいことね、」と、病身の夫人が嗄れた声で言った。
 一番下の子供の面倒をみていた、ルイーザが、それを聞いて、言い返したそうな目色で顔を上げた。
「なぜ軍隊なんかに入ったんでしょう?」と、メアリーの、抑えた、歌うような声が訊ねた。
「何かしら、生活の刺激を求めたんじゃないかな、彼は、」と牧師は言った。「さて、食前のお祈りをしよう。」
 子供たちはきちんと坐ると、みな頭を垂れ、祈りの言葉を唱え、そうして最後の言葉が絶えると、ふたたび先の興味深い話題をつづけようと、顔を上げた。 「アルフレッドさんも正しい選択をしましたね、今度ばかりは、」と、母親がごく低い声で言った、「これで彼も、あの一家の他の兄弟とちがって、呑んだくれにならずに済むでしょう。」
「あの一家のみんながみんな、大酒呑みってわけじゃないでしょ、ママ、」とルイーザが強く言った。「デュラントさんのところで、子供を呑んだくれになるよう躾けてるわけでもないし。ただ、あの家の、ウォルター・デュラントさん一人が体面を悪くしてるんでしょ。」
「いや、私もデュラントさんの奥さんに言ったけれどね、」と、空腹のため勢いよく食べながら、牧師は言った、「これはまさに彼のためになることだと思うね。海軍へ入れば、彼の人生でもっとも危なっかしい年齢を、誘惑から逃れて過ごせるんだし──って、彼は幾つだったろう──十九?」
「二十歳よ、」とルイーザが言った。
「二十歳ね、」と牧師はくり返して言った。「海軍へ入れば、健全な規律の下におかれるだろうし、信義と忠節の模範を彼に示してくれる人も現れるだろうし、──彼にとって申し分ないことだ。だが──」
「聖歌隊からアルフレッドさんが居なくなることにもなるわ、」と、ルイーザは、あたかも二親に反抗するかのように言った。
「それも仕方ないさ、」と牧師は言った。「彼がこの土地で道を外さないかどうかを危ぶむよりは、彼が海軍にいてくれた方が、私は安心だ。」
「ここにいたら、アルフレッドさんは、いずれ道を外れることになるの?」と、ルイーザは頑固に反問した。
「ルイーザ、アルフレッドさんが、昔とはずいぶん変わってしまったってこと、あなたも知ってるでしょう?」と、メアリーがそっと、落ち着いた口調で言った。ルイーザは拗ねたように、物憂い顔で口を閉ざした。彼女は姉の言ったことに逆らいたかったが、それが事実であることも分っていた。
 ルイーザにとって、アルフレッドは、何かしら優しい気配と濃やかさとを身に帯びた、笑みを絶やさない、暖かみのある若者だった。彼が居ると彼女は或る温もりを感じた。彼が行ってしまえば、日々の暮らしは寒々としたものになるだろうと思われた。
「アルフレッドさんにとって、これは望ましいことですよ、」と、母親がはっきりと言い切った。
「私もそう思うね、」と牧師は言った。「だが、それを奥さんにそのまま言ったら、噛み付くみたいに言い返されたよ。」
 彼は不愉快そうな口調で話した。
「何をそう奥さんは、子供の身の上について、心配してるんでしょうね?」と病身の母親は言った。「大方、子供たちの給料にしか関心がないんでしょうよ。」
「デュラントさんは、アルフレッドさんに家に居て欲しいんだと思うわ、」と、ルイーザが言った。
「そうそう、そうでしょう──それで、他の兄弟みたいに、アルフレッドさんが呑んだくれになろうとどうなろうと、構わずにね、」と、母親が言い返した。
「でも、ジョージ・デュラントさんはお酒を飲まないわよ、」と、彼女は口答えした。
「それはね、ジョージさんは十九のときに──炭坑のなかで──ひどい火傷を負って、そのショックからお酒も止めてしまったんだよ。どのみち、お酒を矯正するなら、それよりは海軍の方が良いということになるでしょう。」
「その通り、」と牧師は言った。「正論だね。」
 そのことについては、ルイーザも反論はしなかった。しかし、やはり彼女は、アルフレッドが幾年にもわたってこの土地を離れてしまうことに、憮然としていた。彼女はまだ、十九歳にすぎなかったのだ。




3


 それから三年経って──つまりメアリーが二十三歳の折、リンドリー師もまた病いに倒れてしまった。その時にはもう、一家は貧窮のどん底にいて、リンドリー師の病気で、いよいよ多くのお金が必要になるというのに、彼らの手元はまったくの不如意だった。まだメアリーもルイーザも未婚のままだった。そもそも、彼女たちに結婚の機会なんてあり得ただろうか? オールドクロスに居ては、夫として望ましい青年に出会うことなどない。それでいて、二人が働いて得られるお金は、ますますささやかになっていく。この終りのみえない、寒々とした窮乏に、この息苦しい生活の足掻きに、人生の酷薄な徒労の感に、二人の娘の心は、凍えて、強ばってしまうようだった。
 教会での務めをつづけられなくなった牧師は、代わりの者を見つけなければならなかった。そしてちょうど、リンドリー師の旧友の息子で、聖務につくため三ヵ月前から準備している者がいた。その男が、無償で代わりを務めてくれることになった。ところで、この青年牧師は、リンドリー一家に熱烈に到着を待たれていた。彼は、ローマ法についての論文を書き、オックスフォードで修士号をとった、まだ二十七歳に満たない若者であるとのことだった。さらに彼は、オックスフォード州の古い家柄の者で、個人の資産を幾らか持っていて、行く末は、ノーサンプトン州で一つの教会を任され、豊かな俸給を食むだろうと思われており、しかも、まだ結婚していなかった。夫の病気のせいで、日々重なっていく借金に苛まれている、リンドリー夫人は、却って、この成り行きを喜んだくらいだった。
 ところが当の若者──マッシー青年が来ると、一家は失望の驚きに充たされた。彼らは、パイプの似合う、太い豊かな声音をした、それでいて、リンドリー家の長男のシドニーよりも礼儀作法を心得た若者を、想像していたのだ。だがやって来たのは、十二歳の少年とも見まがう、小柄な、弱々しい男で、眼鏡をかけており、極端に臆病で、初めのうちは碌に挨拶もできないほどおどおどしていたが、しかし、胸の内には、或る非人間的な自惚れを秘めているような、若者だった。
「未熟児みたいな人だわ!」と、ボタンをきっちり留めた、牧師のコートを着込んだ青年の姿を、初めて見たとき、リンドリー夫人は心の裏で叫んだ。そして、永い間忘れていた、彼女の子供たちがみな健やかな姿形をしていることに対する、神への深い感謝の念が、彼女に呼びさまされた。
 マッシー青年には、ごく普通の感受性が欠けているようだった。一家の者は次第に、この青年は、人間らしい感性がひどく貧しくて、そのかわり、彼の生がそれに依存しているところの、強靭で哲学的な自意識を具えているのだと、認めるようになった。肉体においては、ほとんど存在しているかどうかも怪しいのに、知性の面では、彼は確固たる何者かだった。彼がひとたび会話に加わると、話の流れは、均斉が整い、議論は抽象的になった。無邪気な感嘆も、荒っぽい断言も、個人的な信念の押しつけも消え失せ、ただ合理的で冷淡な主張だけが流れるのだった。これが、リンドリー夫人には難儀だった。彼女が自分の考えを口にするたびに、この小男は、彼女をじっと見据え、そして彼女が言葉をきると、それを痩せた声で、あの怜悧な手際で彼なりに言い換えてくれるのだが、そんなことをされると、彼女は、今まで自分たちの会話がよりどころにしていた礎が脆くも崩れ、稀薄な大気のなかへ、自分が突き落とされたように感じるのだった。彼女は、自分がまったくの愚か者だと感じる。そして彼女は、もう堅く押し黙らざるを得なくなるのだった。
 マッシー青年が、そう遠くない将来、年に総じて六、七百ポンドの収入を得るようになる、独り身の紳士であることを、無論、リンドリー夫人は胸の内では忘れていなかった。裕福で安易な暮らしが送られるのならば、男としての威厳なんて、どうでもよいではないか? そんなことは金銭にくらべれば、ささいな瑕疵だ。──二十年の余の歳月が過ぎるうちに、リンドリー夫人の感じやすい心も、擦り切れ、もはや貧窮の重荷だけが、彼女の関心事になっていた。それだから、リンドリー夫人は、マッシー青年を豊かな収入をもたらしてくれる者として、崇め、味方した。
 マッシー青年の日頃見せる仕種で、もっとも他の者の気に障るのは、彼が、他人の非論理的な突拍子もない言動を見て、それを指摘するときの、くっくっと洩らす、小さな嘲りの独り笑いだった。それが、彼が愉快そうな顔を見せる、唯一の機会なのだ。思考において論理的な誤りをおかすのは、彼には、得も言えず滑稽に見えるらしかった。彼にとっては、たとえば小説などというものは、最後まで読み得ない、無内容で、退屈なものにすぎず、彼が興味をもって耳を傾けるのは、アイルランド風のユーモアのみで、それも、聞き流すだけか、さもなければ、まるで数式のようにそれを分析するのだった。普通の人間的なかかわり合いからは、彼は隔絶していた。素朴な日常的な会話にさえ、彼はほとんど交わらず、つねに、彼独りの、高尚な、冷たい小さな世界に閉じこもり、家のまわりを静かに歩いたり、怖じ怖じとあたりを窺いながら、食堂に坐っていたりした。ときたま、彼は、人間的な情思とは無縁な、皮肉っぽい意見を述べ、或いは、冷笑のように小さく鼻を鳴らしてみせた。自分自身と、その自分の偏った性向とが傷つかぬよう、彼は気を配っていた。何かしら問い掛けられた際にも、彼は、はい、いいえとだけ、嫌々ながら答えるだけだったが、それは、その質問に含まれる言葉の影響をこうむるまいとして、彼が神経質になるからだった。マッシー青年は、他人をおろそかに見ているにもかかわらず、何か漠然と、痺れるような触れ合いを期待して、ルイーザと、メアリーの身近に居ることは好んでいる──ルイーザにはそんな風に思えた。
 そうしたことを別にすれば、マッシー青年は、すぐれて働き者だった。始終おどおどしている彼だったが、義務に忠実たる点では、およそ徹底していた。キリスト教精神が求められるときには、いつでも、彼は完璧なキリスト教徒だった。自分より外の存在と、まともに触れ合うことができず、従って、誰かに直に助けを申し出ることなどできないにもかかわらず、彼は、自分が人のために何ができるかに、絶えず目を光らせ、それに着手した。まず彼は、病身のリンドリー師に恭しく仕え、リンドリーの受け持つ教区民と教会の実態を、事細かに調べ上げ、書類を整理し、病人と貧困者のリストを作り、それから、ほかにも何かできることはないか、救済すべき事態はないかと、探して歩いた。或いは、リンドリー夫人が、息子たちの将来について懸念しているというのを知ると、青年は、彼らがケンブリッジで学ぶためにはどうすればいいかを、教えてくれた。青年のこうした親切心は、メアリーを恐れさせた。彼のたゆまぬ善行に敬意を感じつつも、彼女は、それを不気味にも思った。というのも、マッシー青年の優しさは、自分が救おうとしている人たち、人間であるはずのその誰に対しても、およそ同情の念を欠いているように見えたからだ。ただ彼は、一種の数学的な問題の答えを得ようと、与えられた前提から帰結を導き、計画的に慈善を遂行しているだけだった。彼はあたかも、キリストの教えを、幾何学の公理のように扱っていた。彼の宗教心の本義は、要するに、彼の几帳面で抽象的な精神に適うかどうかということだった。
 青年の働きぶりを見ては、メアリーは彼を尊敬し、称賛しないわけにはいかなかった。そうであればまた、青年を忠節に手助けするのも、彼女の義務だった。彼女は身の毛がよだつ思いで、しかし一方では、自ら欲するように、自分にこの義務を強いたが、そうした彼女の胸の内を、青年はまったく感受しなかった。彼女は、青年が教区を訪ねてまわるのに付き従ったが、彼の、肩を傾げてとぼとぼ歩く、外套のボタンを喉元まで掛けた、少年のような姿を見ると、彼女のよそよそしい讃美の底から、憐れみの念がきざすのだった。メアリーは背丈の高い、落ち着いた、人目を惹く娘で、その身ごなしは美しく、人を安らかな気持にさせた。身なりの倹しい彼女は、毛皮のない絹の黒いスカーフを巻いていた。彼女がマッシー青年と連れ立って歩くのを見て、人々はこう口にした──
「やれやれ、あれがリンドリーんとこのお嬢さんの連れあいかい? あんな陰気なちび野郎、どっから連れて来たんだろうな!」
 メアリーは、人々がそう口にしているのを知っていたが、そうした揶揄の言葉は、彼女の胸に、人々に対する逆らいの念を燃え立たせ、彼女は、あたかも保護するかのように、傍らの小柄な男に、寄り添うのだった。何にせよ、青年の歴とした善良さを、彼女は信じられたし、それを尊敬することもできた。
 青年は速く歩くことができず、また、長い道のりも辛がった。
「お具合が悪いのでしょうか?」と、彼女は彼に恭しい物腰で訊ねた。
「内蔵を患ってるんです。」
 それを聞いたメアリーの肩が、微かに震えたのに、青年は気がつかなかった。彼女が、項垂れて、気を鎮め、青年に対する柔らかな物腰をふたたび取り戻せるのを待つあいだ、しばらく沈黙がつづいた。
 マッシー青年は、メアリーに惹かれていた。メアリーはそれまで、ごくたまに彼が教区を訪ねてまわるのに、彼女やルイーザが付き添うのを、青年への執りなしとして、当然の義務としていた。メアリーが彼に付き添う朝もあれば、ルイーザがその務めにつく朝もあった。だが、ルイーザには、まるで女王に対するかのように、マッシー青年に恭しく仕えるのは、堪えられないことだった。ルイーザは彼に、嫌悪の情以外抱くことができなかったのだ。後ろから従い歩く彼女の眼に、痩せてねじけた肩をした彼は、十三歳かそこらの病み衰えた少年としか見えず、そんな彼を、彼女はひどく嫌って、できるなら、この青年の存在を、抹殺してしまいたいとさえ感じるのだった。しかし、メアリーの内の、毅然とした徳義心を前にしては、ルイーザも謙虚に振舞わざるを得なかった。
 ルイーザとマッシー青年は、或る日、中風を患い、もう先が永くないだろうと思われていた、デュラント氏を見舞いに行った。小屋に招き入れられるとき、ルイーザは、この小柄な牧師と連れ立っていることを、はっきりと恥ずかしく思った。
 だがデュラント夫人は、それに気づかぬほど、この抜き差しならない不幸を前にして憮然としていた。
「デュラントさんの具合はどうでしょうか?」とルイーザは訊ねた。
「相変わらずです──、これ以上悪くなって欲しくないですがね、」と答えが返った。小柄な牧師は、そのやりとりを離れて見ていた。
 彼らは二階へ上がって行った。枕に老人の白髪の頭がのせられ、掛けられたシーツから、灰色の髭がのぞいている寝床を、彼ら三人は、しばらく立って眺めた。ルイーザはその様に驚き、怯えおののいた。
「ずいぶんお悪いのですね、」と、ルイーザは身震いして言った。
「いつかはこうなると思ってましたよ、」と、デュラント夫人は応えた。
 そんなことを言うデュラント夫人にも、ルイーザはおののいた。二人とも、落ち着きない気分で、マッシー青年が何を言うかを待った。身を縮め、傾くように、彼は立っていたが、緊張してうまく話せないようだった。
「デュラントさんは、まだ正気でいらっしゃるのでしょうか?」と、ようやく彼は訊ねた。
「ええ、たぶん、」と夫人は言った。「ジョン、聞える?」と、彼女は夫に大声で呼びかけた。生気のない彼の、くすんだ青い眼が、夫人に向ってかすかに動いた。
「言葉は分るみたいです、」と、デュラント夫人はマッシー青年に言った。だが、鈍々しいその眼の光りをのぞいては、デュラント氏の横たわる姿は、ほとんど屍体のようだった。三人とも、黙りこくって佇んでいた。ルイーザは気丈に立っていたが、生命が失われてゆくこの様の深刻に、ひどく打ちのめされていた。彼女が自身の感情をあらわに示すのを妨げていたのは、マッシー青年の存在だった。その場では、青年の非人間性が他の者を圧していた。
 すると突然、階下に足音が立ち、和らいだ口調で呼びかける男の声が、彼らの耳に響いた。
「母さん、二階にいるの?」
 デュラント夫人はびくっと戦き、ドアへ駆け寄った。しかしすでに、敏捷な、しなやかな足音は階段を昇り切っていた。
「少し早く帰って来たんだ、母さん、」と、気遣わしげな声で言う、踊り場に立った水兵の姿を、彼らは眼にした。夫人は息子のもとへ駆けて行き、すがりついた。彼女は自分の心を支えてくれるものを、不意に見出したのだ。アルフレッドは母親に腕をまわし、身をかがめ、キスをした。
「父さんは大丈夫なのかい?」彼は強いて声音を抑えながら、母親に不安げに訊ねた。
 踊り場の薄暗がりに寄り添って立った親子から、ルイーザは眼を逸らした。彼女は、自分が、マッシー青年とその場にいなければならないことが、堪えられなかった。マッシー青年は、まるで、眼前にあらわれた情緒的な場面が気に障るかのように、苛々して立っていた。彼は落ち着きなく、不本意ながらという風に、しかも冷やかな目撃者としてそこにいるのだ。ルイーザの感じやすい熱い心には、自分たちはまったく、まったく場違いだと思われた。
 ふたたび寝室に入って来たデュラント夫人の頬は、濡れていた。
「ルイーザさんと牧師さんよ、」と、彼女は途切れ途切れの震え声で、言った。
 頬の紅潮した、背のすらりと高い、デュラント家の息子は、姿勢を正して軍隊風に敬礼した。だが、ルイーザは手を差し出した。すると一時に、彼のハシバミ色の眼は、彼女が誰かを認めたらしく、彼女が以前好きだったのと変わらぬ、彼の白い小さい歯並みが、親しみをこめてちらりとのぞいた。それを見て、彼女はひどく動揺した。アルフレッドが、寝床の傍らへ回って行くと、彼のブーツが床の漆喰に触れて、固い音を立てた。顎を引いて立った彼の姿は、威厳を放っていた。
「元気ですか、父さん?」と、彼はシーツの上に手をのせ、ためらいがちに言った。しかし老人の空ろな眼は固く、動かなかった。息子はしばらくのあいだ、身じろぎせず静かに立っていて、それから、ゆっくりと退いた。ルイーザは、セーラー服の青い上着の下で、深くうねりはじめた、彼の胸の精妙な輪郭を見つめた。
「僕が分らないみたいだ、」と、彼は母を振り返って言った。彼の顔は徐々に青ざめていった。
「ああ、坊や!」と、母親は哀れげに叫んで、顔を上げた。そして突として、彼女が彼の肩に顔を押しつけたので、息子は彼女の方へ身をかがめ、重みをあずけた彼女を、抱き締めてやり、そうして、彼女は身も世もなく泣き始めた。ルイーザは彼の脇の下がふるえるのを眼にし、また、彼の胸から悲痛な息根が洩れるのを聞いた。顔を背けたルイーザの頬には、涙が流れていた。デュラント氏は、白い寝床の上に、生気なく横たわっており、その傍で、マッシー青年は、日灼けした肌の水兵と部屋に一緒にいるせいで、ますます小柄に、不気味な、居るか居ないのか分らないような存在になっていた。マッシー青年はただ立って待っていた。それを見てルイーザは、死にたくなり、何もかも終ったような心持ちになった。自分が、もう一度顔を向け変え、アルフレッドと、デュラント夫人とを見ることは、あまりに無恥だとさえ感じた。
「では、お祈りをあげましょうか、」と牧師が弱々しく言ったので、皆はひざまずいた。
 寝床の上の死に瀕した老人は、ルイーザに怖れを呼びさました。それからマッシー青年の、細く、超然とした声を聞くと、彼に対する恐怖の念もまた、彼女の胸の内にひらめくのだった。心の震えがおさまるまで待って、彼女は顔を上げた。寝床の向う側には、母親とその息子の頭が見え、その一方は、白く細いうなじへとつながる黒いレース編みの帽子をかぶっており、他方──息子の方の頭は、茶色の、陽差しに焦げた、あまりに密で堅いために、分け目をつくることのできない髪の毛に覆われ、その下の、日灼けして引き締った首筋は、渋々という風に、お祈りのために屈められていた。見事な灰色の髭を生やした老人は、身動きせず横たわったままだったが、お祈りは続いた。彼ら皆が、より崇高な意志に捧げられるとでも言いたげに、マッシー青年のお祈りの言葉は、純粋に、清澄に、響いた。青年はあたかも、垂れた首部を支配する何者か──それらを無慈悲に、厳しく取り締まる何者かであるようだった。ルイーザは、彼が怖かった。祈りが一通りつづくあいだ、彼女は、この牧師への崇敬を強いられているように感じた──それは容赦ない、冷たい死に似た感触、純粋な正義の感触だった。
 その晩、ルイーザはその日の訪問について、メアリーに語って聞かせた。彼女の心、彼女の血の流れは、母親を腕に抱き締めたときのアルフレッド・デュラントのことで、占められていた。そしてまた、幾度もくり返し彼女が胸裡によみがえらせる、アルフレッドの声の震えは、焔のように彼女の身体をめぐり、陽のように赤みさす彼の顔と、彼の金色を帯びた茶色の眼──優しげで、当惑気味で、今は本能的な不安のために張りつめているあの眼、ひどく日灼けした綺麗な鼻筋、彼女に笑いかけずにはおれない口許を、自分の想像のうちに、よりはっきりと描き出したいと、願うのだった。アルフレッドの見目形を想起すると、まっすぐで敏感な生の奔流が、彼女をつらぬき、彼女は誇らしささえ感じた。
「彼は素敵な男の子になっていたわ、」とルイーザは、アルフレッドと自分が一歳しか違わないことを忘れたように、メアリーに言った。そして心の内奥で彼女は、マッシー青年の非人間性を、深く怖れ、ほとんど憎悪を抱いていた。彼女自身とアルフレッドとを、マッシー青年の脅嚇から守らねばならないと、彼女は思った。
「マッシーさんもその場に居たけれど、」と彼女は言うのだった、「私、あの人が嫌いだわ。何の権利があってでしゃばってくるの、あの人?」
「マッシーさんは自分の義務を果たしているだけよ、」と、しばらく黙っていてから、メアリーは応えた。「マッシーさんは、本物のクリスチャンですもの。」
「私には、ほとんど白痴のように見えるけど、あの人、」とルイーザは言った。
 静かに美しい表情をしたメアリーは、しばらくの沈黙の後、言った──「まあ、そんなこと言っちゃだめよ──、白痴だなんて──」
「そんなら、あの人は、生後六ヵ月の、いえもっと、生後五ヵ月に満たない子供みたいだと言うわ。まるで月足らずの、あわただしく産まれて来た子供みたい。」
「そう、」とメアリーはゆっくりと応えた。「マッシーさんにどこか未熟なところがあるのは、確かよ。でもあの人の内には、素晴らしいものもあるでしょう。それに、あの人は本当に善い人で……」
「確かにね、」とルイーザは応えた、「でも、あの人が善い人になろうと努力してるわけじゃないわ。ただ、ああいう人を善いと呼ばなきゃならないってだけよ!」
「でも、それが善いということなのよ、」と、メアリーは自分の考えをくり返した。そして微笑しながら付け加えた、「それに、あなたもマッシーさんが善い人だってことは分ってるのでしょう?」
 メアリーの声には不撓の響きがあった。彼女は、とても大人しやかに、日々の義務を処していた。これから自分の人生に何が起るのかを、すでに彼女は魂で悟っていた。マッシー青年は彼女よりも強大な存在であり、彼の意趣に自分が従わなければならないことを、メアリーは分っていた。しかし、マッシー青年のそれよりも誇り高く、力強い、彼女の肉体的な自我は、マッシー青年を嫌い、蔑んでいたのだった。それでいて、彼女は、青年の倫理的で精神的な存在に、支配されていた。また、彼女は、自分にもはや多くの選択が残されていないことも、両親が何を期待しているかも、理解していたのだった。




4


 幾日かが過ぎて後、老デュラント氏は亡くなった。ルイーザはアルフレッドにもう一度会いに行ったが、しかし、そこで彼は、彼女に四角四面の態度を見せ、あたかも彼女が一つの命令に従っている意志であり、彼自身も、彼女と隔てられた、命令を待ち設けている、別個の意志であるかのように──つまり、彼女を人間と見なしていないかのように、目の前で振舞った。ルイーザはこんな風に、鋼鉄の板でさえぎられるように、人から拒絶されたことはなかった。彼女は困惑し、おののいた。彼はどうしてしまったんだろう? 彼女の憎しみは、軍隊風の紀律に向けられた──彼女はそれに対する敵意に燃えた。今やアルフレッドは、自分らしさを失ってしまった。彼はもう、命を下す意志をもつ人々に服従する、一つの意志でしかない。しかしそれは、彼女には受け入れ難いことだった。彼は、自分を、彼女と近しい者とは見なさなくなってしまっているのだ。彼は自分を、彼女より劣った、下級の者として位置づけている。そして、まさにそのことによって、すなわち、彼女とは相容れない側の者として、無表情に、彼女と向き合うことによって──下級の者という、抽象的な立場におさまることによって、彼は、ルイーザから逃れ、彼女とのかかわり合いを避けようとしているのだ。
 彼女はこの事態について、一途に、むやむやと思い乱れ、懊悩し、また懊悩し続けた。彼女の強情で、激しい心は、この事態を割り切ることができなかった。彼女は自分自身の願望に固執した。そして時とすると、彼女は、もう彼のことを忘れ去ろうとした。彼が自ら下位におさまろうとしているのなら、何故彼のことで、彼女が思い悩まねばならないのか?
 だが、それから直ぐにまた彼女の考えは、彼のことに立ち戻り、ともすれば、彼を憎悪することさえもあった。あんな風な態度を見せることで、彼は彼女と、距離を置こうとしている。ルイーザは、それを卑怯だと思った──感じ易く、彼に愛情を持っている女性、ルイーザを、虚仮にするかのように、平然と彼女を上位に据え、自分を彼女と無縁な、近付きがたい、下位の立場に切り下げる、その男の態度を。この状況を甘受するつもりは、彼女にはなかった。アルフレッドへの愛執の念が、彼女の心につきまとって、離れなかった。




5


 それから六ヵ月が経って、メアリーはマッシー青年と結婚した。二人のあいだには、どんな求愛の言葉も交わされず、誰も、何の徴候も目にしなかった。にもかかわらず皆が、この結婚の成就の期待で、張りつめ、ぎこちなくなっていたのだった。或る日、メアリーとの結婚を認めて欲しいと、願いに来た、マッシー青年を前にして、リンドリー師は、ぎくりと戦き、そしてその小男から洩れて来る、痩せた、抽象的な声を聞いて、総毛立った。マッシー青年は神経質でありながら、奇妙で絶対的な確信を持っていた。
「それは祝福すべきことだね、」と牧師は言った、「でももちろん、すべてはメアリーの意志次第だよ。」机の上の聖書に触れた、彼の窶れた手は、やはり震えていた。
 求婚という考えだけを胸裡に抱え、この小男は、メアリーに会おうと、静かな足取りで部屋を出て行った。彼はメアリーの傍に坐ったが、彼が話を切り出すまでのあいだ、メアリーは、彼と当たり障りない会話を交わしていた。何がこれから起ろうとしているのか、メアリーは脅え、不安に憑かれて、身を堅くした。立ち上がって、彼を突き飛ばしてしまおうとする、肉体的な衝動を、彼女は感じた。だが彼女の精神は、震え戦き、ただ待っていた。彼女は何かを期待して、ほとんど彼を求めるかのように、待っていた。それから、ようやく彼が口を開こうとする気配を、彼女は察した。
「もうお父様にはお尋ねしたのです──、」と、彼が言うと、彼女は突として、嫌悪を感じ、彼の痩せた膝に眼を落とした──、「つまり、私が貴女に求婚するのに、異議はないかどうか、と。」こう言うと彼は、自分が弱い立場にたたされたように思ったが、しかし、彼の意志は折れはしなかった。
 坐ったまま彼女の身体は、冷たくなっていき、あたかも石と化してしまったかのように、無感覚になっていった。マッシー青年は焦れるように返事を待っていた。彼は彼女を説得しようとはしなかった。彼自身、人の説得などに耳を傾けたことなどなく、我が道を押し通すばかりだったのだ。自分自身には確信を持ちながら、彼女の返事には確信を持てず、彼は彼女を見つめ、そして言った。
「私の妻になって頂けませんか、メアリー?」
 彼女の心は、やはり頑なに冷たいままだった。冷然と彼女は坐っていた。
「母にまずこのことを伝えねばなりません、」と彼女は応えた。
「それは、当然そうでしょうね、」とマッシー青年は応えた。そうしてすぐに、彼は鈍い足音を立てて部屋を出て行った。
 メアリーは母親のところへ向った。彼女はもの言わず、身体が冷えきったように感じていた。
「お母さん、マッシーさんに結婚を申し込まれました、」と彼女は言った。リンドリー夫人は読んでいた本に眼を落としたまま、じっとしていた。夫人の内では驚悸が脈打った。
「で、あなたは何て答えたの?」
 二人とも沈鬱な、冷たい表情をしていた。
「答える前にお母さんに相談してみなければ、と言いました。」
 この言葉は、答えをあずけたのと同じだった。リンドリー夫人はこれに応えたくなかった。夫人は寝椅子の上で、神経質に、重い身体をよじった。メアリーは口をつぐみ、ただ静かに、まっすぐに坐っていた。
「お父さんなら、悪い相手じゃないと言うでしょうね、」と、何でもないことのように、母は言った。
 それ以上のことは何も聞かれなかった。誰もが冷たい心を抱え、口を閉ざしていた。メアリーはこの事をルイーザには話さず、エルネスト・リンドリー師は、もとよりこの事には関わり得なかった。
 その日の夜、メアリーはマッシー青年に受諾を伝えた。
「私はあなたと結婚いたします、」と、メアリーは、彼の前で、微かに、もの柔らかな仕種を見せて言った。青年は困惑したが、しかし満足もした。青年が彼女に向って動き始め、彼の内の、冷たくて尊大な男性が、自分に押し付けられてくるのを、メアリーは感じた。メアリーはただ身じろぎせず坐って、待っていた。
 ルイーザは、この事を知ると、皆に対して、メアリーに対してさえ、苦々しい怒りを感じて、言葉を失ってしまった。彼女は自分の信念が傷つけられたと感じた。結局、彼女にとって大切と思えた現実は、何の意味もないのだろうか? 彼女はどこか遠くへ行ってしまいたかった。ルイーザは、マッシー青年のことを考えてみた。彼には何かしら不可思議な力、抗し得ない権威というものがある。彼は、彼ら皆が決して撥ね返すことのできない意志のようだ。──と、突然、彼女の内で閃光が発した。もしあの男が近よって来たら、ひっぱたいて、部屋から追い出してやる。もう二度とあの男に自分に触れさせはしない。彼女は喜びに燃えた。彼女は自分の血が滾るのを感じ、そしてあの小男が、いかにその威容で、彼女の思惟を麻痺させようと、いかに抽象的な善事を誇ろうとも、もし彼女に近寄って来たなら、断然追い払ってやる、という意気に昂った。彼女は自分が歪んだ喜びに酔っていると思ったが、その方が、彼女には好ましかった。「断然あの男を部屋から追い払ってやるわ、」と彼女は言い、そうはっきり言うことで、彼女はいよいよ喜びを感じた。にもかかわらず彼女は、依然として、或る意味では、メアリーを自分より傑れた存在として敬わねばならないだろう。しかし、メアリーはメアリーであって、彼女自身はルイーザであり、その違いは変えることはできないのだ。
 メアリーは、マッシー青年と結婚するにあたって、感受性も、敏い衝動も殺して、彼のような純粋な理性になりきろうとした。彼女は、自己自身を抑圧し、夫婦生活の初めに来る、恥辱の苦悶、凌犯の恐怖に対して、無感覚であろうとした。彼女は何も感じない──自分はもはや何も感覚しない。自分は彼に黙従する、ただの純粋な意志だ。自分はそうなることを自ら選んだのだ。そうすることで、自分は善に充ち、まったくの純粋になり、これまでに知らなかった尊い自由を呼吸し、俗世の腐臭から逃れ、正しき途を歩む純粋な意志と化すことができるのだ。自分は自らを売り渡した──が、それによって、新たな自由を得たのだ。彼女はもう自分の肉体を超克した。彼女は低次の自分、肉体的な自分を売り渡すことで、高次のもの、物質的な事物からの自由を手に入れたのだ。彼女は、夫から授かったものに対して代償を払ったのだ、と考えた。そして、一種の自律を得た彼女は、誇らしく、軽やかに生きることができた。彼女は肉体の死を代償としたのだ──これからは、自分の肉体に煩わされることはない。肉体から脱け出したことに、メアリーは喜びを感じていた。彼女は世界の中での、自分の地位を手に入れたのであり、それは今は異質でも、いずれはごく自然に感じられるようになるはずだった。すなわち、慈善の活動と、気高い精神性への志だけが残存する生活が。
 夫とともに人前に出ることは、メアリーには、ほとんど堪えがたいことだった。彼女の私生活は絶え間ない恥辱だった。しかしそれならば、隠し通せばよいのだ。鉄道の通る場所から何マイルも離れた、別の小さな村の牧師館に、メアリーは引き蘢って暮らした。他の人から、彼女の夫が嫌悪の目で見られたり、人々が彼を、「例の人」と言って揶揄し、変に遇したりすると、彼女は、まるで自分自身の肉体が侮辱されたかのように、苦しんだ。だが大抵の者は、彼女の夫の前でぎごちない緊張を見せ、それで彼女は自尊心を取り戻すことができるのだった。
 もし、彼女が自分自身に素直であれば、彼女は夫を憎悪しただろう──彼が家のまわりをとぼとぼ歩くのを、人間味を欠いた彼の細い声を、彼の痩せた傾いた肩を、そして、未熟児を思わせるあの不細工な顔を、嫌ったに違いなかった。しかし彼女は厳として、自分の姿勢を固持していた。メアリーはまめまめしく、ひたむきに夫の世話をした。その態度には、奴隷が主人に対するのにも似た、夫に対する、根深いおどおどした脅えもあった。
 彼の振舞いに、欠点らしい欠点があるわけではなかった。彼は、自身の力の及ぶ範囲では、まったく几帳面で、優しくさえあったのだ。だが彼の内の男性は凍り付き、自己充足していて、しかも、ひどく傲岸だった。そのような図太さを、この弱々しい、未成熟な小柄な存在が秘めているとは、メアリーには思いがけないことだった。それはついに、彼女の理解できない何かだった。この事実に動揺しないためにも、彼女は頭を高く上げつづけていなければならなかった。彼女はぼんやりと、自分は自分を殺してしまったのだということを、悟りはじめていた。結局のところ、そう容易く肉体から脱け出すことなどできなかったのだ。しかし、自分はこんな風に肉体を抹殺してしまった!──彼女は時折、もう一思いに命を絶たちたい、自分の手で、周囲の何もかもを否定し、無に還らなければならない、と思うこともあった。
 夫は、身のまわりのことを、ほとんど顧慮していないかのようだった。彼は家庭のことでは不平一つ言わず、家のなかで、彼女は気侭に振舞うことができた。実際彼女は、彼のおかげで身にあまる自由を得ていた。椅子に坐っているときの夫は、幾時間も存在を消しているのも同然だった。また彼は優しく、理解のある夫だった。しかし、自分の正しさに確信のあるときは、彼は、あたかも冷徹な機械のように、盲目で男性的な意志と化した。そういう時には、論理的な正しさという点では、彼はほぼ完璧であり、さもなければ、彼と彼女双方が受け入れている教義に完全に一致していた。常にそうだった。したがって彼女には、彼に逆らう余地などおよそ無かった。
 そうして日々が過ぎて行き──子供を妊った時、彼女ははじめて、神と人を前にしての戦慄に怯えた。それは彼女にとって、切り抜けねばならない試練だった──新しい生命を産むことは、人の定めなのだから。そして、産まれて来た子供は、とても健やかで愛らしかった。その赤ん坊を両腕に抱いた時、彼女の身体の内奥で、心が痛んだ。惨く扱われ、擦り切れてしまった彼女の肉体が、ふたたび赤ん坊に応じて敏くなるのを、止められなかったのだ。結局、彼女はまたも生に連れ戻された──生とは、そう簡単に割り切れるものではなかったのだ。自分の内で完全に死に絶えたものなど、何もなかった。メアリーは、ほとんど憎悪の眼差しで、赤ん坊を食い入るように見つめ、湧いてくる愛情の痛みに苦悶した。肉体を持って生きることをもはや断念したにもかかわらず、赤ん坊の存在は、彼女の生の肉体をふたたび呼び覚まそうとし、そのために彼女は、赤ん坊を憎んだ──そう、彼女は、もう肉体に沿って生きることはできなかった。彼女は自分の肉を踏みにじり、踏みのめし、乾涸びさせ、ただ精神の中でのみ生きることを望んだのだった。だが、赤ん坊が産まれたことが、すべてを狂わせてしまった。これほどに残酷で、惨めな状況はあり得なかった。彼女は赤ん坊を愛さざるを得なかったからだ。彼女の生の目的は、ふたたび二つに分裂してしまった。彼女はもはや、現実の事物とかかわり得ない、目的を欠いた、ぼんやりした存在でしかなかった。母としても、彼女は、とりとめがなく、恥ずべき存在だった。
 人間らしい感情に関しては、あらゆる意味で盲な、マッシー青年は、やがて彼の子供への想いに取り憑かれた。産まれて来た子供が、突然に、彼の意識する世界のすべてを占めてしまったのだ。その子供は彼の強迫観念になり、その幸福と健康が脅かされることを、彼は、もっとも怖れるようになった。この変化は、何かしら新生に似て、あたかも彼自身が、裸の赤ん坊として産まれ、自分の裸形を意識して不安で堪らないかのようだった。今までの人生で、誰のことにも心を掛けなかった彼が、今は、その子供のことだけを考えているのだ。彼は赤ん坊と一緒に遊んでやったり、キスしてやったり、世話をしてやることはなかった。しかし、その赤ん坊は彼の意識を占め、心を奪ってしまい、そのため精神的には、彼は白痴のようになった。ただ赤ん坊のことだけが、彼の世界だった。
 彼の妻は、「何故この子は泣いてるんだい?」という彼の質問、「ほら、この子のことを考えてやってくれ!」という彼の催促、そして乳をあげるのが五分遅れただけでも苛々する、彼の短気も、堪えねばならなかった。結婚という契りには、そうした義務も含まれているのだ──そして彼女は、その契りを破るわけにはいかなかった。




6


 姉の結婚について、我が家の古びた牧師館に居ながら、ルイーザは、ずっとむやむやと気を縺れさせていた。婚約を知らされてからしばらく、姉に反対を唱えもしたルイーザだったが、沈着なメアリーの態度を前にしては、それも徒労だった。「マッシーさんについてあなたが言うことは、間違っているわ、ルイーザ。私は心から彼と結婚したいと願っているのよ。」ルイーザは怒りを深く胸におさめ、黙らざるを得なかった。だがこの険悪は、ルイーザに変化をもたらしつつあった。彼女の内に籠った怒りは、それまで揺るがず尊敬してきた姉に対しての、反撥の心を生んだ。
「私だったら、裸足で物乞いして歩いてでも、あんな奴と結婚したりしないのに!」と、マッシー青年のことを念頭において、彼女は言った。
 だが、明らかにそうしたヒロイズムは、メアリーの高潔とは相容れないものだった。そして、メアリーよりも現実の手応えに忠実なルイーザは、俄然、姉が掲げる理想は、多分にいかがわしいものだということを、感じはじめた。本当に姉は、純潔だと言えるだろうか?──行動において不純でありながら、存在において精神的であるなどとは、矛盾ではないか? ルイーザはメアリーの高潔な精神性を信用しなくなった。彼女には、もうそれは真正とは信じられなかった。そして、姉がその精神性によって、途を誤ろうとしているのなら、なぜ父はその虚偽から姉を救ってやらないのか? 金銭のためだ! 父は事の成り行きに卑陋を感じながらも、金銭にそそのかされ、自分の考えを押さえ込んでしまった。母の方はと言えば、娘の選んだようにさせておけばそれでいい、という率直な厚顔だった。母はこんなことを言いもした──
「あの人がこれからどうなろうと、まあ、メアリーの人生は安泰でしょう、」──このあまりにあからさまで、浅慮な打算は、ルイーザを激怒させた。
「それなら救貧院に入って安泰な方がましだわ、」と彼女は叫んだ。
「それで、お父さんを面会に来させるってわけね、」と母は毒々しく応えた。母親のこうした不誠実な物言いは、母親への深い憎悪、心の奥処から沸き上がり、ほとんど自己嫌悪にも近い憎悪を、ルイーザに呼び覚ました。この憎悪を折り合いを付けるのは難しかった。その憎しみは、彼女の内でうごめき、燃えつづけ、いつしか彼女はこんなことを考えるようになっていた──「みんな間違ってる、誰もみんな間違ってる! みんな一かけらの愛情も持たないで、無意味なものを崇めて魂を引き砕いてる! でも私は愛を求める。みんなは愛情というものを否定したがる。それは、愛情を手に入れられなかったから、それが存在しないと言いたがってるに過ぎないんだ。でも私はそれを手に入れる。私は誰かを愛する──それこそが私の生きる理由なのだから。いつか結婚することになる男を、心から愛すること、それこそ私がすべてを賭けて望むことだ。」
 こうして、ルイーザは誰からも孤立してしまった。彼女とメアリーとは、マッシー青年のことをめぐって反目した。ルイーザの眼には、マッシー青年と結婚したことで、メアリーは身を落としたように見えた。彼女の気高く、精神的な姉が、こんな風に肉体的に恥ずべき存在になったことに、ルイーザは我慢ならなかった。メアリーは間違っている、絶対に間違っている! もはや姉は尊敬に値しない、不完全でくすんだ人だ。姉妹は互いによそよそしくなった。依然として彼女たちは、お互いを愛していたし、人生のつづくかぎり、二人は互いを愛しつづけるだろう。しかし二人の途は、もう同じではないのだ。頑固なルイーザは、得体の知れぬ寂しさに見舞われ、憂い顔の彼女の顎は頑なさに強ばった。彼女は自分の途を歩み続けなければならない──しかし、どの方向へ? 虚ろで広漠とした世界を前にして、彼女は、おそろしい孤独に襲われた。一体どんな途を自分は見出せるというのだろう? けれども愛情を求める、心から愛せる男を求める、ひたむきな意志は、彼女のうちに抱えられていた。




7


 初めの男の子が三つの年になった頃、メアリーはもう一人、女の子をもうけた。それまでの三年間は、いたずらに、ただ索漠と過ぎて行っただけだった。その月日は、うんざりするほど遅々としていたのかもしれず、或いは、束の間の眠りのように、そっと過ぎ去ったのかもしれなかった。メアリーにはどちらとも言えなかった。ただ彼女は、いつでも何かしら、彼女の生活を圧し伏せる重しのようなものが、自分の上にあると、感じていた。出来事らしい出来事と言えば、夫のマッシーが手術を受けたということくらいだった。彼はあまりにも華奢で虚弱だった。妻のメアリーは、いつしか、自分の務めとして、機械的に彼の世話をすることに慣れていった。
 しかし女の子が生まれて後の、この結婚して三年目の年になると、メアリーは、鬱塞の想いが晴れず、気が沈みがちになった。クリスマスが近づいていた──毎日が似通った、暗い織糸で織られるばかりの、牧師館での、鬱々とした、十年一日のクリスマスが。あたかも、何かの暗黒が自分にのしかかってくるように予感して、彼女は、おののき怖れていた。
「エドワード、私、クリスマスには実家に帰りたいのだけれど、」と彼女は言った──言ってしまうと同時に、或る恐怖が彼女を捉えた。
「でも、赤ん坊をどうするんだい、」と、目をしばたたいて、夫は言った。
「みんなで行けばいいでしょう。」
 彼は考えこみ、いつもの、一点を見据えるような眼をした。
「そんなに帰りたいのかい?」彼は訊ねた。
「気分転換が必要なんです。それは私の身体にも良いし、乳の出にも良い作用があると思うんです。」
 彼は彼女の声のうちにある、頑固な意志の響きを聴き取り、困惑した。妻の言葉は、しばしば彼には不可解だった。しかし子供を身籠った時の、或いは、赤ん坊に乳をあたえている時の、つまり子供に対している時の彼女を、彼は特別な存在として尊重していた。
「汽車で赤ん坊を連れて行くあいだに、赤ん坊が怪我してしまうことはないかな?」と彼は言った。
「何故?」と母親の方は応えた、「そんなことにはなりませんよ。」
 彼らは出発した。彼らが列車で運ばれているとき、雪が降り始めた。小柄なマッシーは、一等車の窓際の席で、地上を撫でていく覆いのような、追いつ追われつ斜めに降る、見事な雪の薄片を見ていた。赤ん坊のことを考えて、彼は落ち着かず、車両に吹き込むすき間風のことを案じた。
「隅の方でじっと坐っていてくれよ、」と彼は妻に言った、「そして赤ん坊の背をつつむように、しっかり抱いているんだ。」
 彼女は夫の命じるとおりに姿勢を変え、そして、窓の外を見やった。平生、彼の存在は鉄の重しのように、彼女の頭を締め付ける。しかしようやく、彼女はそれから逃れて、幾日かの息休めを得ようとしているのだった。
「ジャック、反対の側に坐るんだ、」と父親は言った。「この窓の側に居なさい。すき間風が吹いてこないからね。」
 彼は心配に満ちた眼で息子を見ていた。しかし、彼の子供たちこそ、世界のなかにあって、彼を些かなりとも顧慮しない唯一の存在だった。
「見て、お母さん、見て!」と男の子は叫んだ。「みんな僕に向って飛んで来るよ?」──彼が言うのは雪片のことだった。
「こっちの隅に来なさい、」と、父親の声は、男の子の世界の外部でくり返し響いた。
「こいつがあいつの背に飛び乗った! お母さん、あっ、二人とも下まで運ばれて行っちゃった!」と、男の子は叫んで、喜びに席の上で跳ねた。
「ジャックに、こっち側に来いと伝えてくれ、」と、小男は妻に言いつけた。
「ジャック、ここに膝をついて坐りなさい、」と母親は、その場所に白い手をおいて言った。
 男の子は静かに、辷るように、母親が示した座席に移って、しばらくじっとしていてから、突然、ほとんどわざとのような、甲高い声で叫んだ。
「見てよ、ここの隅、お母さん、山々になってるよ?」彼は窓ガラスに、これみよがしに指を押しつけ、縁に積もった雪を指差してみせて、それから、ちょっと勝ち誇った風に、母親の方を振り向いた。
「山々になってるわね!」メアリーは言った。
 このようにして、母親の顔を見つめて、反応をもらうことによって、男の子は何かしらの確信を得るのだった。おどおどして、不安な状態が、母親の心づかいを得て、安心させられるのだ。
 彼らは昼食をとらないままで、二時半頃、牧師館に到着した。
「やあエドワード、元気かね?」と、彼の前で父親らしく振舞おうとして、リンドリーは言った。しかし、リンドリーはいつまでも、相手が自分の義理の息子だということに、真実味を感じられず、ぎごちなくなり、それだから、できるかぎり、彼に対しては目を空ろに、耳を遠退かせていようと思うのだった。リンドリーはますます窶れ、顔色は悪く、病いにむしばまれたような姿をしていた。肌は、ほとんど土気色だった。しかしながら、彼の尊大な振舞いは変わっていなかった。とはいえ、彼の子供たちが育って行くにつれ、その尊大も、威厳を失いつつあり、いつかは遂に霧散して、彼は、銷沈した、哀れな姿をさらすことになるかもしれなかった。リンドリー夫人は、メアリーと、彼女の子供たちのことばかりに心を配り、義理の息子は無視していた。そしてルイーザは、雌鳥のような活気で、笑い声をあげ、赤ん坊を見ては歓喜に弾んだ。それらの輪から離れて、マッシーは、拗ねたような、傲然とした、小さな姿になって立っていた。
「なんて可愛いんだろ! なんて小っちゃくて、可愛いんだろ! こんなに冷たくて、可愛い、小さいものが、あの汽車に乗って来たのね!」ルイーザは赤ん坊に優しく話しかけ、暖炉の前の、白い羊毛の敷物の上で屈みこみ、赤ん坊を熱気にかざして、暖めてやっていた。
「メアリー、」と小柄なマッシーは言った、「赤ん坊を、湯浴みさせてやった方がいいんじゃないか? このままだと風邪をひくよ。」
「そんな必要はないと思うわ、」と、赤ん坊に近づいて行き、その小さな身体の薔薇色の手足を調べるように触れながら、メアリーは応えた。「この子の身体、そんなに冷たくないもの。」
「全然よ、」とルイーザは大声で言った。「風邪なんかひきっこないわ。」
「ちょっと、僕はネルの着替えを取ってくるよ、」とマッシーは、やはり、一つの考えに憑かれて言った。
「そう、なら、台所でこの子にお湯をつかわせましょう、」と、メアリーは鼻白んで、冷ややかに言った。
「だめよ! 今、お手伝いさんが台所かたづけしてるのよ、」とルイーザは声を上げた。「それにこの子だって、今日、こんな時間に、湯浴みなんかしたいと思ってないわ。」
「いいえ、そうした方がいいのよ、」と、メアリーは、淡々と、夫への従順な態度をくずさず言った。ルイーザは怒りがわだかまって、口を噤んだ。フランネルの替着を腕にかかえ、鈍い足音を立てて降りて来た小男に、リンドリー夫人は訊ねた。
「あなたこそ、温かいお湯に入った方がよろしいんじゃありませんか?」
 この当てこすりは、彼には利かなかった。彼は赤ん坊のそばで、湯浴みの準備に夢中になっていた。
 部屋の中は薄ぼんやりと、もの憂げな空気が充ち、それと較べて戸外には、妖精のように見える雪が、芝生の上では鮮鋭に白く、薮の上には斑らにかかっていた。厳めしい絵画が意味もなく壁にかかっている屋内は、なにもかもが鬱陶に染まって、荒んでいた。
 しかし、赤ん坊のための湯船が置かれた炉床に映る、暖炉の火のゆらめきだけは別だった。いつも、女王のように黒髪を艶やかな巻毛にしている、マッシー夫人は、ゴムのエプロンをつけ、足をじたばたさせている赤ん坊を抱き抱えて、湯船の脇にひざまずいた。彼女の夫は、タオルとネルの着物を暖めようと、それらを手に持って、突っ立っていた。湯浴みする赤ん坊を見る喜びに、素直に同調できぬほど、不機嫌になっていたルイーザは、夕食の仕度に取りかかった。ドアの取手にぶらさがった男の子は、外へ出ようと取手相手に奮闘していた。彼の父は、頸を向け変えて見やった。
「ジャック、ドアから離れてこっちに来なさい、」と父は言ったが、通じるはずもなかった。
「メアリー、ジャックをドアから離れさせなきゃ、」と彼は言った。「ドアが開いたら、すき間風が入ってくるじゃないか。」
「ジャック、ドアから離れなさい、ね、良い子だから、」と、母は、濡れて煌めいている赤ん坊を、手馴れたように、タオルを広げた膝の上にかかえ上げながら言い、それから振り向いて、ちらりと見た。「ほら、ルイーザ叔母ちゃんに、汽車のことを話してあげなさい。」
 ルイーザもドアが開くのを怖れて、炉端で起こっていることを、じっと見据えていた。まるで何かの儀式の補佐をしているかのように、マッシーは、赤ん坊のネルの着物を手に持ち、突っ立っている。もし皆がむっつりとしていなければ、その姿は、滑稽に感じられたはずだった。
「僕、窓の外を見たいんだよ、」とジャックは言った。彼の父親は、苛立たしげに振り向いた。
「ルイーザ、お願いだから、あの子を抱いて椅子に坐らせてちょうだい、」と、メアリーは急いで言った。彼女の夫はあまりに神経質だった。
 赤ん坊に着物を着せてやると、マッシーは二階へ上がって、今度は四つの枕をかかえて戻って来て、温めるため、それを炉の格子に掛けた。そうして、幼子への強迫的な想いから、赤ん坊に乳をやっているメアリーを、身じろぎせず立って見つめていた。
 ルイーザは食事の用意をつづけた。何故そんなに無性闇に腹が立つのか、彼女は自分でも分らなかった。リンドリー夫人は、いつものように、寝椅子に静かに横たわって、眺めていた。
 枕を持った夫を伴って、メアリーは赤ん坊を二階へ抱えて行った。しばらくして、彼だけが階下におりて来た。
「メアリーはどうしました? なぜ食事しに下りてこないの?」リンドリー夫人は訊ねた。
「彼女は赤ん坊と一緒にいます。あの部屋は寒すぎますね。お手伝いさんに言って、火を入れてもらいましょう。」彼は気もそぞろに、ドアへ向って歩いて行った。
「待ちなさい、メアリーはずっと何も食べてないんですよ。あの子こそ、風邪をひくかもしれないじゃありませんか。」と、リンドリー夫人は、怒ったように言った。
 マッシーは何も聞えていないかのように、立っていた。しかし義母をゆっくりと見据えてから、彼は応えた──
「メアリーには、あとで何かを持っていってやりますよ。」
 彼は部屋を出て行った。腹立ちまぎれに、リンドリー夫人は寝椅子の上で寝返りをうった。ルイーザも眼を剥いていた。しかし、誰も何事も口にできなかった──というのも、この牧師館の暮らしは、マッシーのお金でまかなわれていたのだから。
 ルイーザは階段を上がって行った。姉はベッドの脇に坐り、何かの紙切れを読んでいた。
「ねえ、下に来て御飯を食べないの?」妹は訊ねた。
「もうちょっと、後でね、」と、メアリーは、誰も彼女に近寄らせようとしないかのような、抑えた、よそよそしい声で、応えた。
 これが、ルイーザをついに激しく憤らせた。彼女は下へおりて、母親に歴と伝えた。
「外へ行ってきます。お茶の時間にも戻りませんから。」




8


 誰もルイーザが出て行ったことに、注意を払わなかった。彼女は、村の人たちによく見知られている、毛皮の帽子をかぶり、ノーフォーク・ジャケットを身につけていた。彼女は小柄で、身のふしぶしはふっくら丸く、身なりは質素だった。彼女は、母親からは角張った顎を、父親からは不遜な眉を受け継ぎ、そして彼女自身の、笑った時には非常に美しく映える、灰色の、物思わしげな眼を具えていた。人々が口にするように、彼女がしばしば剥れた顔をしているというのは、本当だった。彼女の外貌でもっとも魅力を放っているのは、きらめき輝く、豊かな、深い金色の髪の毛で、それは彼女と相容れないわけではない、贅沢な微光と、富貴なまばゆさを帯びていた。
「私、どこに行こうとしてるんだろう?」と、雪まじりの外気に触れて、彼女はひとりごちた。しかし彼女は思い悩まず、機械的に歩を運んで、いつしか、かつてのオールドクロスへ向かう丘の傾斜を下っていた。樹々で暗々とした谷の奥、炭坑が、切れ切れの大いびきのように息衝き、丘の上の雪よりも白い、影ろいながら高所をたなびく、巨大な、円錐形の蒸気の柱を、死んだ大気へ幾つも吐き出していた。ルイーザは、鉄道の踏切のところに差しかかるまで、自分がどこへ行こうとしているのか、意識しないようにしていた。そうして、不意に、彼女の眼に触れた、柵に沿って立つ、林檎の樹の小枝にほのめく雪の群がりが、自分はデュラント夫人に会いに行くべきなのだと、ルイーザに悟らせた。その樹は、デュラント家の庭に植わったものだった。
 アルフレッドは今では、ふたたび家に居着いており、街道より低くなったところにある田舎家に、母親とともに暮らしていた。踏切のそばの街道沿いの生垣から、雪深い庭が、崖端のように険しくくだり、そのまま家の壁に突き当たっていた。家の煙突はちょうど道と同じくらいの高さで、家はこの土地の凹にうまく身を収めているという風だった。石の階段を下りたルイーザは、影のように、なかば密やかに、小さい裏庭の裾に立った。丈高い樹が、灯油小屋の上に、彼女の頭上に、差しかかっていた。ルイーザはその場所で、世界のすべてから隔てられたような、安堵を感じた。開いたままの扉をノックしてから、彼女はあたりを見めぐらした。石切り場につづいていく、狭くなった庭先は、白い雪に埋もれている──一月も経てば、フサスグリの茂みの下から現れ出るだろう、マツユキソウの密な総生りのことを、彼女は想った。今は積もる雪に白く染められた、彼女の背後の、庭の縁から垂れ下がっているナデシコの、乱れてほつれた総は、夏になれば、ルイーザの顔の前に白い花冠を傾げてくれるはずだった。人々の顔先に、上の方から身をかがめて触れてくる花々を摘んで集めることは、楽しいにちがいないと、彼女は思った。
 彼女はふたたびノックした。家の内をのぞき込むと、台所の緋色の熱──煉瓦の炉床と更紗のクッションに映ろう暖炉の火明かりが、彼女の目に入った。あたかも覗きからくりのように、それは生き生きと、輝いて見えた。ルイーザは、いまだに暦が壁にかかったままの洗い場を、通り抜けて行った。あたりには誰も居ないようだった。「デュラントさん──、」と、ルイーザはそっと呼んでみた、「デュラントさん?」
 彼女は煉瓦の段をのぼって居間に上がったが、そこには依然として、服飾品店の小さな売り台が具えられ、商品の包みが置かれていた。彼女は段に足をのせたまま呼びかけてみた。デュラント夫人は、外へ出て行ってしまっているらしかった。
 庭の小径をのぼって行く、老婦人の雪の上の足跡をたどって、ルイーザは中庭へ向った。
 彼女がキイチゴの灌木と茂みをくぐると、開けたところへ出た。そこは全体が石切り場になっていて、一面白に覆われ、陰々としており、色の濃い薮が斑らをなしているほかは、半ば湖底に沈んだかのように静まり返っていた。左の側、頭上高く、小さい炭坑列車が軋めきながら通り過ぎて行った。そのすぐ向うは、ただ樹々の群がりだった。
 右左に目を凝らしながら、開けた小径を辿っていたルイーザは、突然、心を痛めたように悲鳴を上げた。雪まみれになったキャベツ畑に、老婦人が、かすかに震えてへたり込んでいたのだ。駆け寄ったルイーザは、彼女が小刻みに、つらそうに声を洩らしながら、啜り泣いているのが分った。
「大丈夫ですか?」とルイーザは、雪のなかに膝をつき、鋭く言った。
「あたし──あたしは──、芽キャベツの株を引っ張ろうとして──それで──あっ!──何かが自分ん中で、真っ二つに裂けたみたいだよ……あ、痛たた、痛たた……、」と、気が動転している老婦人は、苦痛に涙ぐみ、啜り上げては、息急しく喘いだ。「昔っから──ここに持病があってさ、──それが今──あ、痛、痛!」苦しげな息遣いの彼女は、手を腋に当て、雪に較べていかにも黄みを帯びた姿で、もはや立ち上がる力が無いかのように、身を屈めていた。ルイーザは彼女を支えてやった。
「歩けそうですか?」と、彼女は訊ねた。
「ええ、」と、老婦人は喘ぎ喘ぎ言った。
 ルイーザは彼女が立ち上がるのに手を貸した。
「キャベツを取ってかなきゃ──アルフレッドの夕食に、必要なんだよ、」と、デュラント夫人は片息で言った。芽キャベツの株を拾い上げたルイーザは、どうにか骨折って、老婦人を家の中まで連れて行った。彼女はデュラント夫人にブランデーを与え、寝椅子に寝かせて、それから言った。
「少し待っててください──すぐに医者を呼んで来ますから。」
 若い娘は階段を颯爽とのぼり、二、三ヤード離れた酒場へと駆けて行った。酒場の女主人は、駆け込んで来たルイーザに、目を丸くして驚いた。
「お願いします、すぐにデュラントさんのところへ医者を連れて来てください!」そう訴えたルイーザの声には、幾らか、彼女の父親に似た調子があった。
「どうかしたんですか?」女主人はどぎまぎしながら、心配して言った。
 外の街道にちらりと目をやったルイーザは、雑貨商の荷馬車がイーストウッドへ向って走っているのを見た。彼女は駆けて行って荷馬車を止め、男に事の次第を伝えた。
 若い娘が戻って来たとき、デュラント夫人は向う側へ顔を背けて、寝椅子に横たわっていた。
「ベッドに移った方がいいですね、」とルイーザは言った。デュラント夫人はそれに逆らわなかった。
 ルイーザはこういう場合に、どう世話をしたらいいかを知っていた。彼女はまず箪笥の一番下の抽き出しに、間着と肌着を見つけた。つづいて、擦り切れたフラノ地の布でオーブンの棚板を掴み出し、それを布で包んで、ベッドの中に入れる。それから、息子の寝床から毛布を引っ掴むと、階段を駆け下りてそれを暖炉の前に掛けて暖める。そして小柄な老婦人の服を脱がせて、二階へと運んでいった。
「あ、落ちる、落ちるわよ!」とデュラント夫人は悲鳴をあげた。
 ルイーザはそれに応えず、ただ慎重に、重い彼女を背負って素早くのぼった。寝室には暖炉がなかったから、火をおこすことはできなかった。しかも床は漆喰で湿っていた。彼女はランプを取って来て、火を入れて部屋の隅に置いた。
「これで部屋が乾くでしょう、」と彼女は言った。
「そうね、」と、老婦人は低く呻いた。
 彼女は走って、さらに暖かい厚い布を取って来て、それをオーブンの棚板を包んでいたのと取り替えた。それから籾殻を詰めた袋を作り、デュラント夫人の脇に置いた。婦人の脇腹には、大きい腫れものができていた。
「いつかは、こんなことになるだろうと、前から思ってたよ、」と、痛みの和らいできた老婦人は呟いた。「でもあたしは、何も言わなかった。あたしのアルフレッドを、心配させたくなかったんだよ。」
 ルイーザは、何故「あたしのアルフレッド」を心配させてはならないのか、分らなかった。
「今何時なの?」哀れげな声が訊ねた。
「四時半です。」
「えっ!」と老婦人は声を上げた、「あと半時間もすれば、アルフレッドが帰って来てしまうわ。それなのに夕御飯の仕度ができてない!」
「私がやりましょうか?」と、ルイーザは労るように言った。
「キャベツはそこにあるし、──食器室にはお肉もある──温めて食べられるアップル・パイもあるでしょう──、でも、あなたがそんなことしないでいいの!」
「なら、だれがやるんです?」ルイーザは訊ねた。
「分らないわ、」と、顔色の悪い婦人は、もはや何事も考えられず、つぶやいた。
 結局ルイーザが代って夕食の仕度をした。訪ねて来た医師が、丁寧に婦人を診察した。医師は非常に深刻な面持ちをしていた。
「どうなんでしょう?」と、老婦人は、もはや何の希望も持たない、悲痛な眼差しで見上げながら、訊ねた。
「腫瘍が出来かかっていた皮膚が、裂けたんでしょうな、」と彼は答えた。
「ああ!」と彼女は声を洩らし、顔を背けてしまった。
「見ての通り、婦人は何時亡くなってもおかしくないですな──、まあ、奇跡的に、腫れがひくこともあり得ますがね、」と、老医師はルイーザに告げた。
 若い娘はふたたび二階へ上がって行った。
「お医者さんは、そのうち腫れがひいて、きっと良くなるだろうと、おっしゃってますわ、」と彼女は言った。
「ああ!」老婦人はか細い声で言った。ルイーザの言葉に、彼女は欺かれはしなかったのだ。しばらくして、彼女は訊ねた。
「暖炉はよく燃えてますか?」
「ええ、たぶん、」とルイーザは応えた。
「よく燃えていないと、アルフレッドが困るでしょうよ、」と婦人は言った。ルイーザは暖炉の火を気をつけて見るようにした。
 夫のデュラントが亡くなって以来、この寡婦はしばしば教会を訪れ、ルイーザとは親しい仲になっていた。娘の胸の奥では、自分が何を求めているのか、心は決まっていた。アルフレッドよりも彼女を動かした男性がほかにいない以上、彼女は彼だけを見つめていた。彼女の心は、アルフレッドに執着していた。そのため彼女と、彼の母親、頭が堅くて実利主義的な母親との間で、自然な共感が生まれていたのだった。
 アルフレッドは、この老婦人に最も愛されている息子だった。彼はしかし、外の兄弟たちと同じく、我が儘に、自分の意趣よりほかは何も気に掛けない青年に育った。兄たちにならって、学校を出るなりすぐ、彼も炭坑で働くことを望んだ。というのも、外の男たちのように一人前の男になるには、それが、もっとも手っ取り早い途と考えられたからだ。自分の末の息子を、紳士として育てたいと願っていた母親には、これは憾めしいことだった。
 だが、彼の母親に対する態度は、いつも変わらなかった。彼が胸裡に抱く母親への感情は、深く、表にはあらわれ難いものだった。母親が疲れている時、いつでも彼は彼女を労ったし、母親が帽子を変えれば、いつでもそれに気づいた。それに彼は、しばしば母親に小さな品物を買って贈った。迂闊にも母親の方では気づいていなかったが、それほどにアルフレッドは、母親と近しく生きていたのだった。
 アルフレッドは、毅然とした雄々しい男とは見えず、そのため、母親は心の底で彼に満足していなかった。彼は時となく好んで読書し、或いは、もう少しましな趣味とはいえ、ピッコロを奏でることを好んでいた。彼が正しく音を鳴らそうと真剣になって、楽器を構えながら、頭を揺らしているのを見るのは、彼女には楽しかった。和やかな、ほとんど憐憫といってもいい心持ちで、婦人は、そんな彼を愛するのだが、しかし彼を誇りに思うことはなかった。彼女は彼に、異性に対して共感など持たず、男としての威儀をそなえ、自分自身の途を歩んで行ってほしかった。それでいて彼女は、アルフレッドが母を頼りにしていることも、知っていた。歌うことの好きな彼は、聖歌隊に入っていた。また彼は、土曜日にはクリケットかサッカーのチームの一員になって遊んだ。母親の彼女には、彼はほかの兄弟と同じようには、自立した男だと思われなかった。アルフレッドは彼女の坊やで、それだからこそ、彼女は彼を愛したのだが、他方、彼女はすこし息子を軽蔑してもいたのだった。
 やがて、幽かな敵意が二人のあいだで生じるようになった。それから不意に、アルフレッドは、外の兄弟のように、酒を飲む習慣を身につけた──とはいえ、兄たちの無闇な、後先考えぬような飲酒の習慣ではなかったが。酒を飲むことを、彼は幾分意識的にやっていたのだ。母親はこれをみると、ますます彼が哀れになった。彼女がもっとも愛するこの末の息子は、母親から自由になることができず、それゆえに彼女も、彼を良い息子だと思えないのだった。彼はもう、しっかり己れ自身の途を歩むことができそうになかった。
 しかし二十歳になると、彼は家を出て、海軍に身を捧げた。これが彼を一人前にした。それ以前には、軍務を、上官への服従ということを、彼はひどく忌み嫌っていたのだった。幾年にもわたって彼は、軍の規律に抑えつけられながら、己れの自尊心を固持するために、克己に励み、陰にこもった怒りを、恥ずかしさを、間歇的におとずれる劣等感を、堪えて過ごした。そして、卑屈さと自己嫌悪の呵責を通じて、彼は、一種の内なる静けさを得た。彼の理想化された母親への愛情は、彼女に対する希望と信頼のゆえに、彼の内に、変わらずとどまっていた。
 家にふたたび戻って来た時、彼はもう三十歳近かったが、いまだに少年のように素朴で、世間知らずで、ただ彼を取り巻いている静かな雰囲気だけが以前とは違っていた──その静かさは、生活に対する恐怖、人生を前にしての、一種の愚かな卑屈に由来するものだった。彼はほとんど女を知らないと言ってよかった。彼の恐ろしい感じ易さが、異性とのあいだに隔てをもうけていたのだ。性にまつわる冗談口は、男共のあいだでたいそう好まれてはいたが、それはどこかしら、現実の女性の手応えとは無縁な、架空のものだった。アルフレッドは、一つには、彼を淫らな想いに引きずり込む、観念上の女性と、もう一つ、実際その前に立つと、彼に緊張を与え、逃げ出したい想いにさせる、現実の女性と、二つの女性のあいだで逡巡していた。彼は身をこごめて、いかなる女性との関わりからも、自己を守ろうとした。だがそうすることに彼は羞恥を感じた。魂の内奥で彼は、自分自身が男らしくない、ごく普通の男にさえなれない劣った者だと、感じていた。ジェノアで彼は、下士官に連れられ、貧しい、野卑な女たちが愛人を探しにやってくる酒場に行ったことがあった。杯を片手に坐っている彼に、女たちは目を送ったが、しかし彼のところへ近づいて来る気配はなかった。たとえ近寄って来たとしても、彼女らの暮らしぶりを憐れみ、日々に必要なものに事欠かぬよう、気を遣って、せいぜい食事代や酒代を支払ってやる程度のことしかできない自分が、彼には、目に見えるようだった。彼女らの誰か一人と連れ添って、店を出て行くことなど、到底できないに違いない。それを自覚して、羞恥の念に噛まれながらアルフレッドは、不遜な、素早く露骨に感情を示すイタリア人たちが、屈託なく、本能のままの魅力を放つ肉体で、女たちに寄り添うのを、ありありと羨望の眼で見ていた。彼らはまさに男性的であり、彼はそうではないのだ。彼は不具者のように、疎外されたかのように坐っていた。そうして彼は、自分と女とのあいだの、性的な交わりを想い倦むだけで、店を出て、想像に纏いつかれながら、歩いて行くのだった。そうでありながら、しかし、或る時、いよいよ彼に気のある素振りを見せた女が現れたときにも、彼は、相手がまさに生身の女性である、という事実のために、女に触れることができなかった。もはやこの萎縮は、彼の内にうごめく腐敗の核のようなものだった。
 そのため、アルフレッドは幾度か、酔ったまま、仲間と連れ立って、遠方の公娼宿を訪れてみた。しかしその場での、不潔な、あまりに無味乾燥な経験は、彼を戦慄させた。その経験には、いかなる意味でも真正なものがなかった──その本質は虚無だった。もはや自分は、肉体的にというより精神的に不能だ──実際不能なわけではないが、己れの根がたからして不能なのだと、彼は考えるようになった。
 この秘密を──決して止むことなく、胸に忍び込む、堪えられない責め苦のようなこの重しを、抱えたまま、彼は家に戻って来た。海軍での訓練は、彼の肉体を見事に鍛え上げていた。彼は自分の肉体の動感に敏くなり、それを誇らしく思った。彼は、湯浴みと亜鈴体操を習わしとし、自分の勁健に気を配った。クリケットとサッカーに興じもした。多くの書物を読み、フェビアン協会の影響を受けて得た教条的な考えを、敷衍したりするようにもなった。彼のピッコロの腕前の熟達も、もう周知のものだった。にもかかわらず、彼の魂の内奥では、あの羞恥と不熟の爛れた傷口が、絶えず開いていた。健やかで快活な外貌の下では、彼は、見下げ果てた男であり、自信あふれる態度と優れた見識の裏に、不安と卑小の念が疼いていた。こんな自分自身から、自意識を刺すこの羞恥心から、逃れられるのなら、彼はどんな獣に成り下がるのも厭わなかったろう。アルフレッドは、何の疑念もなく、よろめきながらも人生を真直ぐに歩んで行く炭坑夫たち──自らの快楽を追い求めるのに忠実な炭坑夫たちを見ては、彼らを羨んだ。自らの求めるものへ、真直ぐ突き進む、あの生のままの欲望、盲目的な愚昧にならうことは、彼にはどうしても出来ないことだったから。




9


 炭坑の中では、アルフレッドは惨めではなかった。彼は炭坑夫たちのあいだでは評判がよく、たいそう好かれていた。彼と他の男共との違いを意識しているのは、ただ彼自身だけだった。彼の汚辱は、誰にも気づかれていないようだった。だが、どうしても彼は、自分が炭坑夫たちに男として劣った卑小な奴と見られて、蔑まれていないとは、信じることができなかった。ともかく、ただ一人見せ掛けの男である彼は、他の男共がその見せ掛けに容易く欺かれるのを、不穏に思っていた。しかし、やがて彼は自然な快活さを取り戻し、仕事に、喜びを見出すようになった。炭坑の中では、彼は自分らしくあることができた。腰まで裸になり、労働で身体は熱れ、炭まみれになり、そして息休めの折には、彼らは、踵の上にしゃがんで、安全灯の光りで、互いの薄ずんだ姿を見交わしながら、言葉をかわすのだった──周りに石炭の漆黒が、重なり聳え、或いは木の支柱が、黒々としたひどく暗い神殿の小さい列柱のように、低く、四囲に据えられているなかで。そうするうちに、第七号炭坑からの伝言を持った、ないしは、水桶から汲んだ飲み水の瓶や、上の世界の知らせ等を持った、使いの少年が、子馬と一緒にやって来る。そんな風にして日々は愉しく過ぎていった。地下での労働の毎日は、気楽な、勝手気侭な心地よさに充ち、剣呑な場所に閉じこもった、世界から切り離された男たちの間には、明朗な同胞意識が通い、そして仕事は、穴を掘る、石炭を積む、木を組む等さまざまで、また、呼吸する空気には危難と神秘の魅惑的な味わいがあり、──やがて彼が、戸外の空気や広々した海原への、痛切な欲求に悩まされなくなった頃には、そんな炭坑での日々を、つまらないなどとは思わなくなっていた。
 さて、十二月のこの日、デュラントはおびだたしい仕事に追われて、何の言葉も口に出す気になれないほどだった。彼は口を噤んで、午後まで働き通した。
 そしてようやく「お務め終わり」の時刻になり、彼らは坑底まで重い足取りで下りて行った。白漆喰を塗られた地下の事務所は、明るく輝いて見えた。男たちはみなランプを消した。それから、黒々した水の滴りが、切れ目なく、激しく水溜めを打つ、昇降機の縦坑の底のまわりに、十人前後の組になって、坐った。電光が、中央の坑道を下方へと掠めて過ぎた。
「雨が降ってるのかな?」とデュラントは訊ねた。
「雪だよ、」と年嵩の男が言うと、若者は顔をほころばせた。雪が降っている時に、地下から地上へ出るのが、彼は楽しみだった。
「まさに、クリスマスを見計らって降って来たな、」と老人は口にした。
「そうだね、」とデュラントは応えた。
「クリスマスに雪が降らなきゃ、教会墓地は大繁盛!(諺:暖冬は疫病が広がり、死者が多い)」と、別の男がしかつめらしく言った。
 デュラントは、小さい、鋭く尖った歯をみせて笑った。
 昇降機の籠が下りて来て、十人の余の男たちが乗った。弓なりの、鎖の網でできた屋根の上に、雪が積もっているのに気がついて、デュラントは嬉しくなった。
 見慣れぬ地下世界に遠出したことを、この雪の群れは、どんなにびっくりし、また喜んでいるだろうかと、彼は想像してみた。しかし雪は、黒い水に打たれて、すでに湿深くなっていた。
 そんなものを見てさえ、彼は好もしく思うのだった。彼の顔には微笑が浮んでいた。しかしこの時は、それだけでなく、何かしら奇妙な予感も、彼の内で波立っていた。
 地上の世界は、雪の微光におおわれ、燦然と顕れ出るように見えた。雪の坂を急ぎ足で歩いて行き、事務所でランプを手渡すと、彼はあらためて、あたり一面ほの光る雪に埋もれた、戸外の空気に触れたことが嬉しく、知らず識らず笑みを浮べていた。左右の丘は、黄昏の下に薄青く浮び、巡らされた生垣は小暗く、荒涼として見えた。鉄道線路のまわりの雪は踏みしだかれていたが、更にその先、家へと帰って行く坑夫たちの、黒い影の群れより向こうの雪は、まっさらなままで、雑木林の暗い連なりをも覆って、遠く広がっていた。
 西の空には桃色の靄がかかり、密やかな、大きな星が現れはじめていた。より低いところでは、炭坑の放つ鮮鋭で黄色い光が、建物の暗い影の上に映り、そして青の深い薄明に圧し伏された、オールドクロスの村の家並みは、ちらちら灯りを点していた。
 雪のために色めきたち、にぎやかに言葉を交わしている坑夫に雑じって、デュラントは、生気を得たような喜びで歩いて行った。ほの白い晦冥の世界も、こうして仲間と連れ立って歩くことも、彼には好もしかった。庭へつづく柵戸のところで立ち止まって、下方の、沈黙して青い雪の上に仄めく、家の灯りを目にすると、彼は、胸の底から湧き上がる、微かな戦慄を感じた。




10


 鉄道の大きな門扉に近いところに、庭へつづく、錠をおろした小さな柵戸があった。それを開いた時、台所の灯りが庭の雪と薮とを照らしているのを、彼は見た。彼が思うに、それは更けていく夜に部屋を明るくしておくための、蝋燭の焔のはずだった。彼は急勾配の小径を、滑るように下までおりて行った。彼はなめらかでまっさらな雪に足跡を付けるのが、楽しかった。彼は薮を踏み分けて家へ向った。家の内の二人の女性は、彼の厳めしいブーツが外の靴拭いで立てる音を、そして、ドアが開くと同時に飛び込んで来た彼の声を、聞いた。
「母さん、蝋燭なんか使って、そんなに灯油をけちる必要があるのかい?」彼はランプの快い光りの方を好んでいたのだ。
 彼がルイーザと出くわしたのは、瓶と留め具付きバッグを床におろし、洗い場のドアの裏に、外套を掛けようとしていた時だった。彼は驚いたが、微笑んでみせた。
 彼の眼は笑みを浮べて──それから彼の顔は俄に真剣になり、動悸が彼の胸を打った。
「お母さまが急に具合が悪くなったんです、」と彼女は言った。
「どうして?」彼の喉が詰まった。
「庭で──」と、彼女は応えた。外套を手に持ったまま、彼はしばらく考え込んでいた。それから外套をドアに掛けて、台所へ向った。
「母さんは、寝ているんですか?」彼は訊ねた。
「ええ、」と応えたルイーザは、彼に対してはもう誤摩化しても詮無い、と感じていた。彼は何も言わなかった。台所に入って、身体の重みをあずけるように、父の古びた椅子に腰掛け、ブーツを脱ぎ始めた。彼の小さな頭は、鋭く形が整っていた。密で清潔な彼の褐色の髪は、何が起ろうとも快活さを失わぬように見えた。彼は厚地の綿織の、むっとする、炭坑の煤けた臭いを放つズボンを履いていた。室内履きにはき替えると、彼はブーツを洗い場に仕舞いに行った。
「どんな具合なんです?」彼は恐々と訊ねた。
「身体の内が、どうかされたみたいですけど──」彼女は応えた。
 彼は二階へ上がった。彼の母親は、平静な顔をつくろって息子が来るのを待っていた。ルイーザは、頭上の寝室の漆喰の床が、彼の歩くにつれ揺れるように感じた。
「母さん、大丈夫ですか?」彼は訊ねた。
「なんでもないんだよ、おまえ、」と老婦人は抑えた声で言った。「なんでもないんだよ。気に病むことはないよ、坊や、昨日だって、先週だって似たようなことはあったんだから。お医者さんも、とくに心配することはないとおっしゃったよ。」
「庭で何をしてたんです?」
「キャベツを引き抜こうとしたんだよ──たぶん、力を入れて引きすぎたんでしょう──、それで──、あ、痛たた──、こんな風な痛みが走って──」
 息子は彼女を素早く見据えた。彼女はしっかりと平静を固持しようとした。
「でも、私くらいの歳になれば、誰でもときどき、こんな風になるもんなんだよ、坊や。誰でもそうなんだよ。」
「それで、その痛みの原因は何なんです?」
「知らないよ、」と彼女は言った、「まあ、とくに何かの病気ってことはないんだよ。」
 部屋の隅の大きなランプは、深緑の微光を放つだけで、彼はほとんど母親の表情をうかがうことができなかった。とりどりの想いと懸念で、彼の神経は、きつく張りつめた。不意に、彼の眉根が寄った。
「なんでまた外に出てキャベツなんか取りに行ったんです?」彼は訊ねた、「しかも、こんな地面の凍えてる日に! こんな日まで、骨折って難儀して出歩いて、自殺するようなもんじゃないですか。」
「でも、誰かが取りに行かなきゃならないでしょうが、」と彼女は言った。
「自分の身体を危うくしてまで行くことないでしょうに。」
 だがこんな話を蒸し返しても、今さら何も得るものは無かった。
 ルイーザには、階下にいても彼らの話し声がよく聞えた。彼女の心は、沈みふさいだ。彼ら親子の行く手は、もはや暗澹としているとしか思われなかった。
「大したことじゃないってのは、本当なんですか?」しばらくの沈黙の後、彼は、懇願するかのように、訊ねた。
「そうよ、何でもないのよ、」と老婦人は、やや苦しげに言った。
「僕は母さんに──そんな──そんな──悪くなって欲しくないんだ。だから心配してるんだよ。」
「もう下へ行って、夕御飯を食べていらっしゃい、」と彼女は言った。自分が死を迎えつつあることが、彼女にはもう分っていた。身体の内の痛みも、もう堪えられぬほどに募っていた。「みんな、あたしがお婆さんだからというんで、大袈裟な世話をしてくれただけですよ。ルイーザさんはほんとに良いお嬢さんです。ルイーザさんが夕御飯の仕度をしているはずですから、はやく行って食べてらっしゃい。」
 彼は忌々しさと恥ずかしさとを感じた。母は彼を追い払おうとしているのだ。彼は部屋を立ち去らねばならなかった。懊悩の熱が彼の肚の底を走った。彼は下へおりて行った。これでようやく、痛みの呻き声を堪えなくて済むと思い、母親はほっとした。
 身体を洗う前に食事をとるという、昔ながらの習慣に、彼はしたがった。ルイーザが彼の夕食を給仕してくれた。思い掛けないこの事態に、彼女はやや昂奮していた。彼女は神経を配って、彼と彼の母親のことを理解しようとした。椅子に坐っている彼を、彼女は観察しつづけた。料理から顔を背けた彼は、暖炉の火を見ていた。彼女の魂は、彼が何者であるかを知ろうとして、彼をじっと見つめた。彼の黒く煤けた顔も腕も、粗く無骨で、彼女には異様なものだった。彼の顔を漆黒に汚しているのは石炭の塵だった。彼女はまったく見知らぬものを見る想いで、それを理解することなど、できそうもなかった。褐色の眉と、堅い眼差しと、結んだ唇の上の、粗い、小さな口髭──それだけが馴染みのある面影の名残だった。炭坑の汚れにまみれてそこに坐っている彼は、一体何者なのか? 彼女は彼を見出すことができず、それが彼女を苦しめた。
 ルイーザは二階へ駈けあがり、ふたたび痛みの酷くなってきた病人のために、フランネルの肌着と籾殻袋を温め直そうと、すぐにそれらを取って戻って来た。
 彼は夕食を半分食べ終えたところだった。突然胸が悪くなって、彼はフォークを置いた。
「これで、痛みも和らぐと思うのですけど──」彼女は言った。彼は、自分が何の役にも立てず、取り残されたような気がして、彼女をじっと見た。
「母は悪いんですか?」彼は訊ねた。
「そうみたいです、」と彼女は応えた。
 彼は何を言う必要も、何をしようとする必要も、なかった。ルイーザは忙しげに二階へ上がって行った。哀れな老婦人は、蒼白になり、痛みによる冷たい汗にまみれていた。いそいそと婦人を看病するあいだ、ルイーザの顔は悲痛に暗澹となった。為すべきことが済むと、彼女は椅子に腰を下ろして待った。やがて老婦人の痛苦は薄れて行き、婦人は深い眠りに沈んで行った。ルイーザはただベッドの傍に静かに坐りつづけていた。ふと、彼女は階下に響く水音を耳にした。すると弱々しい、息籠った声が、老母の喉から洩れた。
「アルフレッドが水浴びしてるのね──あの子の、背中を洗ってやらなくちゃ──」
 この病んだ婦人が一体何をしたがっているのか、当惑しつつ、ルイーザは不安げに耳を澄ませた。
「背中を洗えないんで、あの子は苛々してるに違いないわ──」と、息子の望むものを一途に思い遣って、老婦人は頑なに言った。ルイーザは立ち上がって、婦人の黄色がかった額の汗を拭いてやった。
「私が行ってきましょう、」と、ルイーザは宥めるように言った。
「そうしてくれるなら──、」と、病人はか細く言った。
 ルイーザはしばらくじっとしていた。デュラント夫人は、妄念から解き放たれた安堵で、目を瞑った。ルイーザは下へおりて行った。彼女が若い娘であり、彼が若い男であること、それが今問題だろうか? あの苦しんでいる婦人を気遣うことだけが、今は肝要なのだ。
 彼は暖炉の前の敷物のところで、膝をつき、腰まで裸になり、大きい素焼の盥のなかで汚れを洗いおとしていた。夕食を食べて後、そうして身体を洗うのが、毎晩彼の習わしだった──彼の兄たちも彼の見る前でそのようにしてきたのだ。しかしルイーザにとっては、家の内でのこの習慣は、まったく違和なものだった。
 彼は手慣れた、余念ない動きで、時折頸を手のひらで撫でつつ、白い石鹸の泡で頭を巧みにこすって洗っていた。彼のこの姿態に対して、彼女はあらためて身を強ばらせた。彼は頸を屈めて、頭を水の中に突っ込み、石鹸の泡を洗い流しては、目に入った水を拭っていた。
「あなたのお母様が、あなたが背中を洗ってもらいたがってると、言ってたのですけれど──」彼女は言った。
 彼らの決まりきった日々の習わしを、手伝おうとしただけで、なぜこんなにも愚弄されたような気持ちになるのだろう? ルイーザは、なにか不愉快で馴れ馴れしい気配が、自分に押し付けられてくるように感じた。何もかもが、群れた家畜のように締まりなく思えた。彼女は自分自身の鋭い個性を、失わざるを得なかった。
 彼はひょいと頸を折って顔を向け変え、とても滑稽な恰好で、下から彼女を見上げた。彼女は噴き出しそうになるのを堪えた。
「まあ、あんな風に顔を逆さまにして、なんて滑稽なんだろう!」と彼女は思った。結局のところ、彼女と、他のありふれた人々のあいだには、埋めることのできぬ溝があるのだ。彼が両腕を突いている水はかなり黒ずんでおり、石鹸の泡も薄汚れていた。ルイーザは彼に、人間らしさをほとんど感じることができなかった。日々の習慣に支配された、機械的な動作で、彼は黒ずんだ水のなかを手探りし、フラノ地のタオルと石鹸とを取り出すと、それを背後のルイーザに手渡した。そうして彼は、両腕を真直ぐ盥の底に突いて、肩の重みを支える恰好で、従順に、ぴたりと動かなくなった。彼の皮膚は繊細な白色──傷ひとつない、鈍い光沢の、純一な白だった。ルイーザは徐々にそれに目を惹かれた。それもまた彼の正体を示す何ものかなのだ。その肌の白さに、彼女は魅了された。他人とのあいだの隔ての感は、彼女から消え去り、また、彼とその母親を疎ましく思う心も、去って行った。そう、生活の、人生の要はここにある! 彼女の心臓は熱に昂った。この美しく澄んだ、雄の肉体に、彼女は何かしら自分の求めていたものを見出したのだった。彼女は、その近寄りがたい、真白な肌の温かみを愛した。だがそれ以上に彼の陽に灼けた、赤みがかった頸と耳は、より親しみを感じさせる、不思議なものだった。柔らかな感情が彼女のなかで動き、彼女はそのちょっと変わった彼の耳にも、愛着をおぼえた。この一人の男が、彼女にとって親密な存在になりつつあった。胸裡におののきをおぼえた彼女は、タオルを置いて、再び二階へと上がって行った。彼女はこれまでの人生で、人間らしい人間をただ一人しか見たことがなかった──すなわち、姉のメアリーだけを。それより外の者は、異質な他者にすぎなかった。ところが今、彼女の魂は解かれつつあり、彼女は、別の一人の男に対し眼を開こうとしている。彼女は呆然と、不可知のものを自分が孕みつつあることを、感じていた。
「これであの子も、気分良くなったでしょうよ、」と、部屋に入って来たルイーザに、病んだ婦人は空ろな声でつぶやいた。ルイーザはこれに応えなかった。彼女の心は、自身の新たな責任の重みを感じて、厳かになっていた。デュラント夫人はしばらく横たわって静かにしていてから、また、物悲しげに呟いた。
「あまり気にしないでくださいね、ルイーザさん。」
「何を気にするんです?」深く揺り動かされて、ルイーザは応えた。
「単なる我が家の習わしなんですから、」と老婦人は言った。
 するとルイーザは、ふたたび自分が、彼らデュラント一家の生活から閉め出されたように感じた。彼女は傷ついて坐り込み、彼女の心の痛みから溢れる失望の涙が、目に浮んだ。結局、彼女は一人きりなのだろうか?
 アルフレッドも階段をのぼって来た。洗ったばかりの身体の上に、シャツを着た彼は、只の労働者に見えた。所詮彼と彼女とは、それぞれ別の生活の流れに沿う、互いに異質な人間であるという感じが、彼女の胸を衝いた。彼女は銷沈してしまった。ああ、何かしら揺るぎない交わり、確固として不変な結びつき、それを見つけることができたなら──彼女にとって、それより外に望むものはないのだが。
「具合はどうです?」と彼は母親に訊ねた。
「少しは良くなったよ、」と、彼女はだるそうに、無表情な声で応えた。母親が自分自身を顧慮せず、自分を抽象化して、ただただ、息子にとって気休めになるだろうことを応えつづける、この奇怪な情景は、母と息子という関係の狭隘と歪とを、ルイーザに思い知らせた。この関係は男性を不具に、まったくの無能にしてしまう。ルイーザはあたかも、自分がアルフレッドを失ってしまったかのように、焦心した。母親が実体を持ち、積極な存在であるのに対し、息子の彼は影が稀薄になっていく。それを見て若い娘は総毛立ち、困惑した。
「ハリソンの奥さんを呼んで来ましょうか?」と彼は言い、母が決定を下すのを待った。
「そうね、誰が手伝ってくれる人が必要ね、」と彼女は応えた。
 彼ら二人のやりとりを邪魔するのを怖れて、ルイーザは脇に立っていた。彼らは、自分たちの生活にルイーザを決して迎え入れず、ただ外より差し入れられた助け以上の何ものでもない、という風に遇していた。ルイーザは彼らにとって、およそ部外の者だった。暗にもうけられたこの隔壁に、ルイーザは傷つき、自分が非力であると感じた。だが彼女の内にある、何かしら頑固な、不撓のものが、彼女にこんなことを言わせた──
「デュラントさんを放ってはおけませんわ。私がここにとどまってお世話します。」
 他の二人は、まごついて顔を見合わせ、しばらく言葉が口に出なかった。
「でも、なんとか誰か手伝ってくれる人を見つけることは、できるんですよ、」と、老婦人は鈍々しく言った。何が眼前で起きているのか、彼女は意識を凝らすことができなくなっていた。
「ともかく、私は明日までここに居ます、」とルイーザは言った。「そのあいだ、デュラントさんを世話できますわ。」
「そんなに心配していただかなくても、いいんですよ、」と、老婦人は低い声で言った。しかし彼女は、誰か自分に付き添ってくれる人が絶対に必要なことが、分っていた。
 たとえ、単に実務的な理由からであっても、デュラント一家に受入れられたことが、ルイーザは嬉しかった。彼女は彼らと暮らしを分かち合いたかった。メアリーが来たばかりの牧師館では、ルイーザの手が必要とされているはずだった。だがみんなには、彼女抜きでなんとかしてもらおう。
「家に報らせを送らなければならないわ、」と、彼女は言った。
 アルフレッド・デュラントは、彼女の意向を探るように、問いかけるような眼で、ルイーザを見た。海軍に永くいたことで、彼には、すすんで他人のために働く敏い物腰が身に付いていた。しかし、その奉仕の姿勢の内には、簡朴な矜持もあって、それがルイーザには嬉しかった。にもかかわらず彼女は、彼に深く接することの難しさを感じた。彼はあまりにも丁重で、彼女の見せる、ほんの微かな依頼の気配さえも、直ぐに察知して、暗黙にそれに沿おうとするので、彼女は、彼の内の男性にまったく触れることができないのだった。
 ルイーザを見る彼の眼差しは、非常に鋭かった。彼の眼が金色の混じった褐色で、瞳はとても小さく、遥か彼方を遠望することのできる目色をしているのに、彼女は気づいた。彼は下級兵のような注意深さで、待機して立っていた。彼の顔は、いまだに海上で陽に灼けた赤みをとどめていた。
「紙とペンが要りますか?」と、彼は上官に対するような、うやうやしい態度で訊ねた。それはルイーザには、無愛想よりも理解しがたいものだった。
「ええ、お願いします、」と彼女は言った。
 彼は向き変えて、階下へおりて行った。彼はあまりに超然として、自らの動息のうちに充足しているように見えた。一体どのようにして、彼女は彼との距離を縮めたらよいのだろう? 彼の方から彼女に歩み寄るということは、あり得なかった。彼はただ、自分の殻に隠れ、彼女の献身にも心を動かさず、喜んで彼女の助けになろうとはするけれど、彼女の前では、ほとんど自己を示さぬようにしている。彼女の依頼に従って動くことを、彼が真実楽しんでいることは、彼女にも見て取れたが、しかし、それ以上のどんな関わりも、彼を混乱させ、傷つけるだけに違いなかった。ともあれ、一人の男がシャツを着込み、ベストのボタンを外したまま、襟元を剥き出しにして、彼女の用をたすため家の中を歩き回ってくれるのは、彼女には新鮮なことだった。まるで精力がありあまっているかのように、彼は機敏に働いた。その彼の申し分のなさに、彼女は強く惹き付けられた。しかしやがて、すべて用意が整い、彼の為すことも尽きてしまうと、ふたたび彼の、あのもの問いたげな眼差しにぶっつかって、彼女は身震いした。
 ルイーザが坐って手紙を書いていると、彼は蝋燭を彼女のそばに立ててくれた。濃い光りが、彼女の二重に結い上げた髪の房の二方を照らし、それはあたかも、濃密な金色の羽毛を折り畳んだように、重たげに、明るく煌めいた。その下に、彼女のうなじは透き通るような白さで、鮮やかな線を描き、金の後れ毛を際立たせていた。彼は自己を喪失して、幻を見るようにそれに見入った。彼女は、生々しくて精妙な、彼がかつて触れたことのない何かだった。ついぞ観念でしかなく、彼の力の及ばなかった何ものか──彼女はまさにそれであり、彼は自己を没して彼女を見つめつづけた。彼と彼女とのあいだには、何のつながりも無かった。彼は彼女に触れようとはしなかった。ただ彼女は、憧れの遠い彼方の存在のように、そこに居るのだった。とはいえ、彼女がこうして家にとどまっていてくれるのは、彼には、好もしい喜びだった。母親を案じて胸を締め付けられていながらも、この夜、彼は、生きることの驚異を、新たに目覚まされた思いだった。蝋燭の灯は彼女の髪に映え、彼の心を痺れさせる。彼は、彼女にほのかな畏敬を感じ、一時、彼と彼女と彼の母親は、名状しがたい、不可知の気配につつまれているのだという、高揚した想いに憑かれた。しかし家の外へ出てみると、彼は急に恐怖を覚えた。夜空には星が、目を刺すように繊細に、明るくまたたき、地上の雪はただ眼前に歴として広がり、そしてまったく新たな夜が、彼のまわりに濃く充ちつつあった。彼の感じた恐怖は、あたかも自分が抹消されてしまうかのような、恐怖だった。彼の四囲でひらめいているこの新しい夜は何なのか、そして、彼自身に一体何が起こりつつあるのか? 彼は自分自身も、あたりの様子も、何もはっきりと認めることができなかった。彼は母親のことを想うことさえ怖れた。それでいて彼の胸裡は、彼女のことを案じ、彼女がどうなってしまうのか、うそうそと気に掛けていた。母親から逃れることのできぬ彼を、彼女は、己れと道連れに、不定形の、冥暗の渾沌へと引き入れようとしつつあるのだった。




11


 由来の分らない、しかし、灼熱した熱に胸を締め付けられるような懊悩を抱えたまま、彼は道をのぼって行った。思わず知らず、彼の頬からかすかな涙の滴が、雪の上にこぼれた。彼の心は、母親が死につつあることを認めるのを拒んでいた。彼は、彼を越えた何か巨きい意識によって、動かされていた。牧師館の広間に坐って、メアリーがルイーザの道具や小物をバッグに詰めるのを待つあいだにも、彼はなぜ自分がこうも動揺しているのか、訝しんでいた。この大きい屋敷のなかに居ると、彼は自分を恥じて、決まり悪くなり、自分がふたたび縦隊の一兵卒になったように感じた。メアリーが彼に話しかけると、思わず彼は敬礼しそうになった。
「世間ずれしていない人なんだわ、」とメアリーは思った。上から目を掛けるかのような、この愛顧の情は、彼女の心の歪みに応じた、慰みのようなものだった。社会的な地位のある彼女は、上から見下すように愛情をほどこすことができる──それが彼女の生に残された、ほとんど唯一の慰めなのだ。とはいえ以前にも、メアリーは、或る種の立場をぬきにして、自らの生を顧みたことは一度もなかった。或る明らかな地位なしには、自分に確信を持つことができず、上位の階級の女性としてしか自尊心を保てないのが、彼女だった。
 掛けがねの下りた門戸のところへ、ふたたび戻って来た時、アルフレッドは、胸に悲痛をおぼえて、夜の空を仰いだ。彼はしばらく立ち止まって、夜をのぼって行く北斗星を、遠離の野まで広がる雪の微光を、見つめた。すると肉体の苦痛に似た悲しみが、彼の胸を衝いた。彼は門戸にもたれかかり、唇を噛んで、「母さん!」と、消え入るような声でつぶやいた。その苛烈な、身を切るような悲痛は、彼の母親の痛苦が発作的に募るのと同じに、発作的に彼を襲い、その痛みの鋭さに、彼は真直ぐ立っていることができないほどだった。その激痛がどこから、何故やって来るのか、彼には分らなかった。それは彼の思惟のおよばないことだった。それはほとんど、彼自身には左右できない何ものかだった。彼はただ、その楚痛に捕われ、屈するほかはない。彼の魂の生きた潮は、すべて、死の広漠を目指すかのように、この故知れない痛苦へと連なり、否応なく彼を押し流し、そして、彼の思惟と意識は波にさらわれて無となり、うねりに呑まれ、さらに果てへと突き進んでは砕けて、彼を、かつて踏み入ったことのない彼方へと運び去ってゆくのだった。──ようやく青年が我を取り戻し、家のなかへ入ると、そこで彼は、明敏とさえ言っていい気分になっていた。何かしら新たな昂りが、彼をとらえていた。彼は凛然として、あたりの事物に対しても、軽快な関心を持つことができた。母親の寝ているベッドの、ルイーザが坐っているのとは反対の側に、彼が腰を下ろすと、何とはなしに朗らかな雰囲気が彼らをとりまいた。しかし、夜は徐々に深まっていき、暗々とした不安も迫りつつあった。
 アルフレッドは母親にキスして、自分の寝室へ去って行った。だが彼が服を脱ごうとした最中、不意に、彼女の母親の病いのことが、まざまざと意識に蘇り、ふたたび辛い痛みが掴み掛かるように彼を襲い、苦悶させた。彼は身体をきつくよじって、ベッドにくずおれた。苦痛は永くつづき、彼を苛み、疲弊させ、もう起き上がって着替えを済ます気力もなく、彼は眠りにおちた。夜が更けてから、目を覚ました彼は、自分の身体が冷え切っているのに気づいた。服を脱いで、毛布にもぐり込むと、彼は直ぐにまた眠りに沈んでいった。
 まだ六時にならぬうちに起き出した彼は、目覚めるやいなや、昨日のことを想い出していた。ズボンを引っ張って履き、手に持った蝋燭に火をつけて、彼は、母親の部屋に向った。彼は蝋燭の灯りに手を翳し、光りがベッドを照らさぬようにした。
「母さん!」と彼はささやいた。
「なんだい、」と、応えがかえった。
 しばらくためらいの沈黙があった。
「僕、今日、仕事へ行っていいでしょうか?」
 返事を待つあいだ、彼の心臓は強く脈打った。
「行っておいで、」
 絶望に似た想いで、彼の心臓は鈍く、冷たくなった。
「母さんがそう言うなら──」
 彼は蝋燭を覆っていた手を下ろした。灯りが部屋を照らし出した。彼は、寝床に横になって顔を上げているルイーザを見た。彼女と目が合った。ルイーザは慌てて目を閉じて、枕に顔を埋め、彼に背を向けるように寝返った。彼女の丸い頭のまわりで乱れている、煌めく靄のような朝寝髪と、寝具の上に無造作に投げ出された、輪になった編み毛が、彼の目に入った。彼は胸を衝かれて、息がとまった。彼自身に何かの審判が下されたかのように、彼は立ち尽くした。ルイーザは身をこごめた。だが彼は目を移して、母親の眼を見た。すると、ふたたび、彼の心は崩れ、気を確かに持つことも、自己を固持することも覚束なくなった。
「仕事に行きなさい、坊や、」と母親が言った。
「わかりました、」と応えて、彼は母にキスした。彼の心臓は絶望に冷たくなり、重苦しくなった。そうして彼は部屋を出て行こうとした。
「アルフレッド!」と、か細い声で、母が叫んだ。
 戻って来た彼の心臓は、激しく脈打っていた。
「なんです、母さん?」
「いつまでも正しい途を歩んでちょうだい!」いよいよ息子が自分から離れ去ってゆくという恐怖に憑かれて、彼女は請うた。彼は、ひどく怯えて、狼狽し、彼女の言葉の意味を感じ取れなかった。
「わかっています、」と彼は言った。
 母は彼に頬を差し出した。母にキスをした後、彼は辛い絶望の念を抱えて、部屋を出て行った。彼は仕事へ向った。




12


 正午前に彼の母親は息を引き取った。そのことを、彼は炭坑の入口のところで知らされた。すでに心の奥部で予期していたように、その報せは、彼を打ち拉ぎはしなかったが、彼の身体は震えた。ただ締め付けるような息苦しさだけを感じて、彼はきわめて落ち着いて、家へ向った。
 ルイーザはまだ家にとどまっていた。彼女はできる限りのことをしておいてくれていた。とても簡潔に、彼に伝えるべきことを伝えた。しかし一つだけ、彼女には気がかりなことがあった。
「アルフレッドさんは、お母様が亡くなられることを分ってらしたんですか──おそらくこうなってしまうだろうと?」と、顔を上げ、彼を見つめて、彼女は訊ねた。彼女は静かな、暗い、何かを探すような目色をしていた。彼女もまた喪心していたのだった。彼の意識は切れ切れに、あまりに暗澹としていた。
「ええ、そうです──、と言っていいでしょうね、」と、彼は間抜けて応えた。彼を見つめる彼女の目線に耐えられず、彼は脇を向いた。
「そう──もしそうでなかったら、あなたにとってどんなに辛いことだろうかと、心配したものですから──」と、彼女は言った。
 彼は何も言わなかった。
 こんな折に彼女に傍に居られることは、彼の神経に堪えることだった。彼は一人きりになりたかった。デュラント家の縁戚たちが集まり始めると、ルイーザは暇を告げて、それきりやって来ることはなかった。棺が手配されて、村人たちが家に群がりはじめ、彼自身も為すべき雑務に追われるあいだ、ただひたすら、あの抗し得ない深い悲痛の潰乱だけが、彼をとらえていた。それより外のことは、彼のうわべを流れていった。そうして、その悲嘆の破裂しそうな激越を、彼は孤独に、じっと堪えていたが、やがてそれは、ふたたび退いてゆき、後には澄明とさえ言えそうな深い静けさが彼の心を充たし、ただただ彼を当惑させるのだった。こんな風に何もかもが裂け崩れ、彼自身もくずおれ、すべてが厖大な、無辺際で冴え返った渾沌と化しまうというのは、彼がついぞ知らなかったことだった。まるで彼の人生が、堰を切って、途方もなく、名状しがたい、無慈悲で凄まじい澎湃に呑み込まれたかのようだった。彼は己れを裂け開き、自身を渾沌の只中へ散り散りに放つ。彼はまったき静けさの内で、絶え絶えな息をつくことができるだけだった。それからまたも懊悩が彼を襲った。
 石切り小屋から人々がみな去って、年配の家政婦だけと家のなかに残されると、辛いほど永い時間が、彼の前に茫漠と横たわった。雪は、融けては凍るをくり返し、薄黒くなった大地に真新しい雪が積もっても、すぐに融けて緩んだ。世界は一面、湿深い灰色の泥濘だった。その日の午後を、アルフレッドは所在なげに過ごした。彼は、毎日の綿々とした、こまごまとした仕事に、人生を費やしてきた男だった。自分ではそれと知らず、彼は今まで、母親を中心にして、母親を要として生きてきたのだった。母親の方がそのように彼を引きとどめていたのだ。老いた家政婦が帰ってしまって後、彼は尚、それまでの暮らしぶりに沿って時間を過ごせばよいのだと考えていた。しかし、彼の人生の軸と勢いとは、すでに失われていた。彼は椅子に腰かけ、読むともなしに本に目を落としたが、そのあいだずっと、手を固く握りしめ、自分を抑え、何か得体の知れない感情を、耐え忍んでいた。それから彼は、家を出て、薄闇に沈んだ雪融け道を、遠くまで、身体がくたびれるまで歩きつづけた。だがそうした足掻きの一切は、ついには戻らざるを得ない場所からの、逃避でしかなかった。手仕事にかかっていれば、彼は、他の事を忘れることができた。もし夏であれば、眠りにつく時間まで、庭仕事の忙しさに逃れていればよかったろう。しかし今は、何の逃げ道も、気晴らしも、心休めもない。言ってみれば、彼はこの時、理解することよりも行動することを、「あること」より「すること」を求めて焦燥していた。泳ぎ方を忘れた泳ぎ手に似て、彼は日々の暮らしから弾き出され、逸れていたのだ。
 一週間が過ぎるあいだは、この息苦しい足掻きを堪えていた彼の精神も、徐々に、疲れ果てて、もう昔どおりの生活に引き蘢ることはできないと、彼にも自覚されてきた。自己を護ろうとする彼の本能が、そう訴えていた。とはいえ、解き難い問題はあった──昔の生活から離れて、彼は新たにどこへ向えばいいのか? 酒場で酔いつぶれることなどは、何の意味も持たない──そんなことは、何も変えるはずがない。彼は異境へ赴くことを考えた。新たな土地でなら、すべてを一新して生活を始められるだろうか。彼は移民局に手紙を書き送ってみた。
 葬儀を終えて後の日曜日、デュラント家の者が、そろって教会に列席した折に、アルフレッドは、表情の無い、固い顔つきをしたルイーザが、尊大なよそよそしさを見せているメアリーと、昂然としたリンドリー家の人々に交じって坐っているのを、見掛けた。ずいぶん冷ややかな人たちだと、彼は思った。そして直ぐ、そのことについて考えるのを止めた。いずれにせよ、彼らは彼の人生に何のかかわりも無い。しかし礼拝が済んで後、ルイーザが彼のところへやって来て、握手を交わして、言った。
「もしよければ、我が家の夕食にいらしてください──と、私の姉が言っています。」
 アルフレッドは、彼に向って一揖したメアリーの方を見た。親切心から、メアリーはこの言伝をルイーザに頼んだのだったが、しかしその振舞いに、何故か、みずから気が咎めるものを感じた。だが、彼女はそうした心の動きを、細かく省みることはなかった。
「わかりました、」と、デュラントはぎごちなく言った、「お望みの時に、いつでも伺います。」しかし彼は、ぼんやりと、この誘いに居た堪らなさを感じていた。
「なら、明日の晩にいらっしゃってください。六時半頃に。」
 その日、時刻どおりに彼は牧師館を訪れた。ルイーザは優しい物腰で彼に遇した。家にはメアリーの赤ん坊がいたから、ピッコロや、ピアノの演奏が披露されたりすることはなかった。彼は、リンドリー家の人たちのあいだで、掌を内腿に堅く組み、静かに、身じろぎせず、微睡んだように坐って、茫洋と物思いに沈んでいた。彼らと自分とには何の共感もあり得なかった。そのことはまた、リンドリー家の者も分っていることだった。しかし彼は無表情に、自分の殻に閉じこもり、そうして夜は、遅々とすぎていった。「アルフレッド君──、」とリンドリーが呼びかけた。
「お若いの、ここへ来て坐ってくれないか?」
 彼はそこへ坐った。何と話しかけられようと同じことだった。彼らが彼に何の関わりがあろう?
 リンドリーは彼に、普段とは違った声音で話しつづけた──それは優しく、甘やかで、しかし、どこかしら見下したような調子だった。デュラントは反感も敵意もなしに、ただ受け身でそれを聴いていた。だが、彼は何も食べたくなくなった──彼らを前にして食事するのは、もうやりきれなかった。彼はまったく自分が場違いだと感じていた。だがともあれ、今はこうしてじっと耐えることが、彼の義務なのだ。彼はその場に相応しいように、ただ簡潔に受け答えした。
 別れ際には、彼は頭が朦朧として、おどおどしていた。苦役が済んだことに、ほっと安堵した。彼は後を振り返らず、足早に立ち去った。そして彼の内で、すぐにもカナダへ移り住みたいという願望は、いよいよ痛切に募った。
 ルイーザは魂の奥処で傷つき、苦しみ、アルフレッドをも含めた、誰もに対して忿懣を抱いたが、しかし、自分がなぜそうも憤っているのかは、はっきりとは分らない彼女だった。




13


 二日後の夕刻、六時半を過ぎた頃、ルイーザは石切り小屋の戸をこつこつと叩いた。アルフレッドはすでに夕食を終え、洗いものを片付けた家政婦も去った後で、だが彼は依然、炭坑の汚れにまみれたまま、椅子に坐っていた。この後、彼は酒場に行くつもりだった。家に籠った温気を逃れるように、彼はそこへ通うようになっていた。ほんのうわべだけでも、男たちと言葉を交わし、喧噪と、人いきれに触れて、幾時間か憂いを忘れることを、彼は必要としていたのだった。だがこの時は、彼はじっと身動きせずにいた。あたかもこの空ろな家屋が、いつしか異様な空間に変じて、彼の上に覆い被さってくるのを待つかのように、彼は独り坐っていた。
 彼は炭に汚れた恰好のまま、戸を開けた。
「今晩は、──ずっとお邪魔したいと思っていて──もしよければ上がらせてください、」と彼女は言って、部屋に入ると、ソファに坐った。彼は、何故彼女が母親の丸い肘掛け椅子に坐らなかったのかを、ぼんやり訝しんだ。それでいて普段、家政婦がその肘掛け椅子に坐っているのを見れば、怒りに似た何かが、彼の内で縺れるのだったが。
「いつもだったら、この時間には、もう身体を洗い終えているんですが──」と、彼は、蝶と桜の細工で装飾され、「T・ブロックス、マンスフィールド」と銘の彫られた時計に、ちらを目をやった。そして黒い掌で、斑らに汚れた腕を擦った。ルイーザは彼を見つめた。彼の内にあって彼女を怯えさせる、打ち解けなさと、単純で無機質な態度を、彼女は感じた。そういう態度を見せられると、彼と心を通わせることは、ほとんど不可能のように思われた。
「あなたを夕食に招いたことで、何か失礼がなかったかと、気がかりだったのですけれど──」と彼女は言った。
「いえ、僕はそもそも、ああいうことには慣れていないんです、」と、唇の間に白い歯を見せて、彼は微笑んだ。彼の眼差しはしかし、何も見ていないかのように固かった。
「いえ、そうじゃなくて──」と、彼女は慌てて言った。戸惑った彼女の顔は、穏やかな鋭敏な美しさで、その濃い灰色の眼は賢慮に充ち、深みがあった。不意に彼は、彼女がそこに坐っていることに、常ならぬものを感じ、彼女についての意識が彼の内でふくらみ出した。
「独りで暮らしていて、大変じゃありませんか?」と彼女は訊ねた。
 彼は暖炉の方へ眼を逸らした。
「そうですね──、」と彼は、ぎごちなく、気後れして応えたが、最後まで言い切ることができなかった。
 彼女の顔つきは、じっと冴えて落ち着いていた。
「こんなに部屋を閉め切っていて、暖炉の火もあるのに、蒸し暑くないですか? 私、コートを脱がせてもらいますわ、」と彼女は言った。
 彼は彼女が帽子とコートを脱ぐのを眺めていた。彼女は下に、金の絹糸で刺繍した、浅黄色のカシミヤ織のブラウスを着ていた。喉元と腕首に吸いつくように合ったその服は、彼にはとても淑やかに見えた。それは、安らいと清潔の感を彼に与え、そして、彼の鬱屈を一時忘れさせてくれた。
「身体を洗わないで、何をしていらしたんですか?」と、柔らかな親密な調子で、彼女は訊ねた。彼は笑って、顔を横に向けた。その薄汚れた顔の中で、彼の澄んだ白目は際立って見えた。
「さあ、」と彼は言った、「それは教えられませんね。」
 しばらく沈黙がつづいた。
「これからも、この家にずっと住みつづけるつもりなんですか?」彼女は訊ねた。
 質問を向けられて、彼は椅子のなかで少し身じろぎした。
「当面、どうとも決めてません、」と彼は言った。「ほんとうは、僕はカナダへ行きたいと思ってるんです。」
 それを聞いて、彼女の魂は静止し、注意を凝らした。
「カナダへ、何のために?」と訊ねた。
 またも彼は、椅子のなかで落ち着きなく姿勢を変えた。
「そうですね、」──彼はゆっくりと喋った──「まあ、ちゃんとした生活をはじめるために。」
「──どんな生活を?」
「そりゃ、いろいろですよ──農業で働いてもいいし、森で働いても、鉱山で働いてもいい。どんな生活かってことは、たいして重要じゃないんです。」
「それで、本当にそうしたいと考えていらっしゃるの。」
 その点まで深く考えていなかったので、彼は、答えられなかった。
「わかりません、」と彼は言った、「実際向うに行ってみないことには。」
 彼女は、彼が永久に離れ去って行こうとしているのを、見て取った。
「このお家と庭を残して行ってしまって、本当にいいんですか?」と彼女は訊ねた。
「どうかな、」と彼は舌がもつれたように言った、「フレッド兄さんに、ここに住んでもらってもいいですし──実際、兄さんもそうしたがってたはずです。」
「じゃあ、本当に外国に行ってしまうんですね?」彼女は訊ねた。
 彼は椅子の肘掛けに身を傾げた。そして彼女の方を向いた。蒼然とした彼女の顔は、じっと静かだった。表情は純一で、とても厳かに見え、彼女が色を失うにつれて、却って彼女の髪は艶やかに輝くようだった。彼の前で、彼女は何かしら揺るぎない、確としたもの、永遠に通じるような何ものかだった。不可思議な悩ましさに、彼の心は火と燃えた。怖れと痛みの鋭いひっつりが、彼の四肢を刺し貫いた。彼は逃れるように、彼女から自分の身を引き離した。耐え難い沈黙が二人のあいだに充ちた。彼女が傍に坐っていることが、彼にはもう堪えられなかった。彼女がそこに居るだけで、彼の心臓は灼け、胸のなかで締めつけられた。
「今晩は、どこかへ出かける予定だったのですか?」彼女は訊ねた。
「ええ。まあ、ちょっと酒場へ、」と彼は言った。
 ふたたび沈黙がおりた。
 彼女は帽子に手を掛けた。結局、彼女は何も得るところはなかった。もう彼女は帰るべきだった。彼は彼女が立ち去って、この緊張の時が終わってくれるのを、坐りながら待っている。もしこのまま家を出て行けば、何もかもが無首尾に終わるのだと、彼女は分っていた。分っていながら、彼女は帽子をピンで留める仕種をつづけた──もう間もなく、彼女はこの家を出て行ってしまっていることだろう。不可避の流れに沿うように、彼女は帰り仕度をすすめていた。
 だが突然、雷光のように、鋭い戦慄が彼女の頭から足先までを伝い、彼女は我を失った。
「私、ほんとうに帰っていいんですか?」と、彼女は、抑揚のついた、しかしあたかも、彼女の手を離れて言葉が口に出たかのように、身を切る苦痛から吐き出された声で、訊ねた。
 炭に汚れた彼の顔が、蒼白になった。
「なぜ?」強いられたように、不安げに彼女と向き合い、彼は訊ね返した。
「ほんとうに帰ってもいいんですか?」彼女はくり返した。
「なぜ?」彼はまたも訊ね返した。
「私があなたと一緒に居たいんです、」と、荒い息衝きで、肺臓が火に焦げたように感じながら、彼女は言った。
 彼の顔はひきつり、少し項垂れた恰好で身じろぎせず、波打つ苦しみを堪えながら、真直ぐに彼女の眼を見据え、彼は、自分を確かに保てぬほどに、切れ切れの思惟に苛まれた。彼女は、まるで石像と化したかのように、一に彼の眼を見つめ返していた。そのあいだ、彼らの魂は、剥き出しに曝されていた。それは苛酷なことだった──二人には到底堪えられぬほどに。彼はさらに深く項垂れ、身体は微かに、角々しくひきつり震えた。
 彼女はコートを取ろうと向きを変えた。彼女の魂は、すでに息を殺されていた。彼女の手の震えはおさまらなかったが、もはや彼女は、何も意識することができなかった。彼女はコートを着た。研ぎすまされた切迫が、部屋に充ちた。いよいよ彼女は立ち去らねばならない。彼は顔を上げた。瑪瑙のような彼の眼は、苦しみの色濃い黒目をのぞいては、何の表情も伝えなかった。その眼に捉えられると、彼女は一切の意志を、生気を失ってしまった。彼女は自分が打ち砕かれたように感じた。
「ほんとうにいいんですか?」切羽詰まった彼女は、言った。
 彼女に据えられた彼の眼に、熾烈な苦しみが走った。
「僕──僕は──」と、彼は言いかけたが、言葉が後につづかなかった。何か不可知のものが、彼を椅子から立たせ、彼女の方へ引き寄せた。生贄に差し出された動物のように、呪縛されたように、彼女は、じっと立っていた。おずおずと、あいまいに、彼は手を彼女の腕に触れた。彼の顔は見知らぬ、非人間的な表情を帯びていた。彼女は身際をぴたりととどめて、立っていた。やがて彼は、不器用に腕を彼女にまわし、抱えて、彼女がほとんど意識を失うまで、そして彼自身が死滅するまで、無下に、盲目的に、抱き締めた。
 彼女をきつく抱擁し、目眩に意識が渦をなし、そして彼自身が自分から離れて、下方へと沈んでいくのを感じているうちに──、そして彼女が、彼に身体をあずけ、死に似た感情に恍惚となっているうちに、いつしか、彼はまったき闇の只中に立たされ、次いで二人は、あたかも永い眠りから抜け出たように、新たな覚醒の感につつまれていた。──彼は本来の自分に戻っていた。
 しばらくして後、彼の腕が緩められると、彼女は強ばった身体の力を解き、彼女自身の腕を彼にまわして、抱擁を交わした。二人は重なり、また互いに互いの姿を隠すかのように、一言も口にできず、ひっそりと寄り添っていた。そして次第に、彼に触れた彼女の手は戦きに震え、愛情から、彼をより強く両腕に包んだ。
 ようやく押し付けていた顔を離して、彼女が彼を見上げた時、彼女の眼は潤み、明るく煌めいていた。それを見て、彼の心臓は畏怖に静まり返った。まさに彼は彼女とともにあった。翳りを宿した、測り知れぬ面差しをした彼は、彼女には、永遠の何かであるように思われた。そしてふたたび、このきわめて稀な至福の時に、悲痛のこだまが呼びさまされ、堪えていた涙が彼女の頬を伝った。
「あなたが好きです、」と、すすり泣きながら、唇を震わせて彼女は言った。彼女に身を傾けて俯いた彼は、彼女の言葉を受け止められず、また、彼の心臓を押し拉ぐかのように、不意に波打つ鋭い歓喜と熱情にも、堪えきれなかった。物音がひっそりと鳴り、二人はただ一つになって立っていた。
 永い時が過ぎ、また彼の顔を窺いたくなった彼女は、目を上げた。漆黒の小さな虹彩をもつ彼の眼は、不思議に燃え輝いていた。いかにも不思議で、その眼は何かの力のように、彼女を惹き付けた。彼の唇が彼女に迫った。ゆっくりと彼女の瞼は閉じられ、彼の口は彼女の口を探すように、少しずつ近づき、ついに触れ合った。
 永いあいだ彼らは動かずに、何もできぬほどに、激情と、悲嘆と、死の感触に絡めとられて、しかし、互いに痛苦によって相手と結びつき、恐怖が愛欲に変わる端境で、深い、息長い口づけを、創痍を触れ合わせるように、交わしつづけた。それからとうとう、彼女は彼から身を離した。心臓が痛みに痛み、だが、にもかかわらず幸福を感じていた彼は、彼女を見つめるのが恐ろしかった。
「私、幸福よ、」と彼女は言った。
 彼は感謝と愛欲の念に憑かれて、彼女の手を握った。まだ意識が混濁していて、彼は何も言うことができなかった。ただ彼は、あまりの安息に茫然としていた。
「もう行かなくちゃ、」と彼女は言った。
 彼は彼女を見据えた。彼女が帰ってしまうということが、今の彼には不可解なことに思われ、ただ彼女と別れることはできないという想いだけが、彼を占めていた。だが、その我意をあからさまに言う勇気はなかった。彼は彼女の手をきつく握った。
「あなたの顔、真黒ね。」彼女は言った。
 彼は微笑んだ。
「君の顔も少し汚れているよ、」と彼は言った。
 彼らは互いに相手の存在に敏くなり、話すのに気後れしていた。彼は自分の傍に彼女を引き止めることができるだけだった。やがて彼女は、自分の顔を洗いたくなった。彼女のために湯を汲んで来た彼は、脇に立って彼女を見つめた。何か話しかけたかったが、やはり口に出なかった。彼女が顔を拭き、髪を撫で付けるのを、彼はじっと見ていた。
「君の家の人は、ブラウスが汚れているのも怪訝に思うだろうね、」と彼は言った。
 彼女は自分の袖に目をやり、楽しそうに笑った。
 彼の内に誇らしさが兆し、身が引き締った。
「君はこれからどうするの?」彼は訊ねた。
「なんのこと?」彼女は言った。
 彼は口ごもりながら、言葉を継いだ。
「つまり、僕のことを。」そう言った。
「あなたは、私にどうして欲しいの?」彼女は笑いながら言った。
 彼は静かに、彼女に手を差し伸べた。そうだ──、これからのことなんて、今はどうでもいいではないか。
「ともかく、まず身体を洗うことね、」と彼女は言った。




14


 彼らが並んで丘をのぼって行く間に、夜は不可知な気配を濃くしていくようだった。二人は、あたかも彼らをとりまく暗闇が生きており、豊かな知識の持ち主であるかのように感じながら、近々と身を寄せて歩いた。一言も口にせずに、彼らは丘を越えた。初めのうちは、彼らの行く道の端には街灯が立ち並んでいた。人々とも行き違った。彼は彼女よりも羞恥の色が濃く、もしわずかでも彼女が手を緩めれば、放してしまったに違いなかった。しかし、彼女はしっかりと彼の手を掴んでいた。
 やがて彼らは、野原の只中、真の暗闇のなかへ足を踏み入れた。彼らは何も話したくはなく、静寂のなかで、ただ相手の息遣いを身際に感じていた。それからやっと、彼らは牧師館の門に辿り着いた。葉の無い枝を広げたマロニエの樹の下に、彼らは立ち止まった。
「君を行かせたくないんだ、」と彼は言った。
 彼女はかすかに、素早く笑った。
「明日来てください、」と彼女は低い声で言った、「そして、父に会って。」
 彼女は自分の手のひらに、彼の手を痛いほど感じることができた。
 彼女はまた同じ悲しげな、気遣うような微笑を見せた。それから彼に接吻をして、彼女は彼を見送った。
 家に帰り着くと、以前の悲嘆が、また新たな波濤となって、ルイーザの面影を、さらには、膿んだ傷口の帯びる熾烈な熱のように、彼を不安で苛んだ、彼の母親の面影さえも、かき消して、彼を襲った。しかし彼の心の内には、まだ無傷のまま保たれているものも、確かに存していた。




15


 明くる日の夕刻、牧師館を訪れようと身なりを整えていた彼は、この訪問がどんな意味を持つかを深く考えず、ただ予め定められたことのように感じていた。彼はこの訪問を、重大なものと考える気にはなれなかった。彼は、ルイーザと結ばれることに、何の疑義も抱いておらず、二人の結婚は宿命に似て彼を従わせる。避け得ぬ運命に、祝福されたかのような感情が、彼を充たしていた。この宿命の流れには、彼も、ルイーザの家族の者たちも、逆らえず、誰の意志もそれを変えられるはずはない、と彼は思っていた。
 リンドリー家の者たちは、火の気のない書斎に彼を案内した。まもなく牧師が部屋に入って来た。彼の声ははじめから冷淡で、敵意を帯びていた。
「何の用かな、アルフレッド君?」
 しかし彼は訊ねずとも、相手が何を望んでいるのか、すでに知っていた。
 デュラントは水兵が上官に対するような仕種で、相手を見上げた。下級兵の節度が、彼には身に付いていたのだ。だが彼の心際は澄謐だった。
「リンドリーさん、僕は、お願いしたいことがあって──」と、謙恭に彼は言おうとして、途端に、彼の顔はすっかり色を失った。今、彼が言おうとしていることが、一種屈辱のように感じられたのだ。彼は一体、ここで何をしようとしているのか? だが彼は疑念を堪えた、彼はただ為すべきことを為そうとしているのだから。彼は、自身の不覊と自尊の心をしっかりと抱えた。彼は曖昧であってはならない。まずは浅薄な自分の感情を殺すことだ、この申し入れは、彼の個人的な嗜好などを、遥かに越えたことなのだから。何も感じてはならない。これは彼に課せられた気高き義務なのだ。
「何を、望んでいるのかな──」と、牧師は言った。
 デュラントの唇は乾きに乾いていたが、彼はしっかりした声で答えた。
「ルイーザさんを。ルイーザさんは──僕と結婚することを約束してくれました──」
「君は、ルイーザに、君と結婚するつもりがあるかどうかと、訊いたんだね?──ふむ──」と牧師は、あらためるように言った。よく考えてみると、まだ自分がルイーザにそう訊ねていないことに、デュラントは気づいた。
「もし、ルイーザさんが、結婚を望んでいるのでしたら──それを、どうか、構わないとおっしゃってください──」
 デュラントは微笑した。美男子である彼に、牧師は目を惹かれざるを得なかった。
「それで、家の娘は、君と結婚したいと思っているんだね?」
「そうです、」とデュラントは真剣に言った。しかしその言葉は、彼を痛みのように刺した。彼とこの年配の男とのあいだに、否応なく、敵意が交錯するのを、彼は感じた。
「こちらへ来なさい、」と牧師は言った。メアリーと、ルイーザと、リンドリー夫人が集まった、居間に、彼は導かれて行った。マッシーも部屋の片隅に、ランプを手にして坐っていた。
「ルイーザ、彼は、おまえのことで来られたんだね?」とリンドリーは言った。
「ええ、そうです、」と言ったルイーザの目は、姿勢を正して立っているデュラントに、注がれた。彼は怖れて彼女の方を見なかったが、彼女の存在は敏く感じていた。
「坑夫と結婚したがるなんて、馬鹿な娘だよ!」と、癇声でリンドリー夫人が叫んだ。肥った彼女は、ゆるやかな濃い灰色のガウンに包まれ、寝椅子に不如意に横たわっていた。
「そんなことは言わないものよ、母さん、」と、メアリーが、静かに抑えた声で、厳しく言った。
「あなた、どうやって、娘を養っていくつもりなの?」と、婦人は不作法に問いただした。
「どうやって!」と、デュラントは不意を打たれたように応えた。「稼ぎは、十分だと思うのですが。」
「そう、で、どのくらい?」と、無遠慮な声が飛んだ。
「一日に、七シリングと、六ペンスです、」と青年は応えた。
「いずれは、それよりもっと稼げるようになるということ?」
「ええ、おそらくは。」
「それで、これからもあの狭苦しい家で暮らすつもりなの?」
「そうですね、」とデュラントは言った、「それで差し支えなければ。」
 デュラントは、彼らが、自分を婿として十分と見なしていないことに、さほど気を害さず、少し怯んだだけだった。彼ら一家の見方からすれば、自分はふさわしい相手ではない──それは彼も自覚していた。
「それじゃ、いよいよ馬鹿げたことだわ、娘があなたと結婚するなんて!」と、母親は乱暴に、自分の見解を投げつけるように叫んだ。
「でも母さん、結局は、これはルイーザの問題なのよ、」と、メアリーは冷静に言った。「だから、せめて私たちは──」
「自業自得ってわけね!──でも、いずれ後悔することになるのさ、」と、リンドリー夫人は遮って言った。
「それに結局は、」とリンドリーは言った、「私たち家族の意向を無視して、ルイーザが何でもかんでも意のままに決めるということは、できないね。」
「じゃ、お父さんは、私にどうして欲しいの?」ルイーザは、鋭く訊ねた。
「私が言いたいのは、要するに、もしおまえがこの青年と結婚したら、私の立場にとって大分都合が悪いことになる、ということだよ。とりわけ、おまえがこの教区に居続けるのならね。もし別の土地へ行って暮らすのならば、事はそう難しくない。だがここに留まって、私の目と鼻の先の、あの坑夫小屋に住むとなると──ちょっと面目が立たぬことになりはしないかね。私には、自分の立場というものがあるし、それを軽く考えてもらっては困るんだよ。」
「アルフレッドさん、こちらへ来なさい、」と、やはり不躾な声で、母が言った、「隠れてないで、あなたの姿をちゃんと見せてちょうだい。」
 ぱっと顔を紅潮させて、デュラントは前に進んで、突っ立った──自分の手をどこへやったらよいか迷うほど、緊張して、妙な姿勢になっていた。彼がそんな風にへりくだって、従順に振舞ったことに、ルイーザは憤った。もっと男らしく振舞ってほしいのに!
「ルイーザを連れて、どこか私たちの目の届かないところで、暮らしてくださる?」と母は言った。「その方があなたたちにとっても、賢明ですよ。」
「ええ、そうしてもいいんです。」
「本当に、そうしたいの?」と、メアリーがはっきりした声で訊ねた。
 彼は顔を向け変えた。メアリーの姿は、印象強く、まったく厳かだった。彼は赤面した。
「皆がそう望んでいるのでしたら、それに従います。」彼は言った。
「あなた自身ではどうなの。本当はここに居たいのではないですか?」と、メアリーは言った。
「あの家は、私の家です、」と彼は言った、「私の生まれ育った家です。」
「それなら、」──メアリーはきびきびと両親の方に向き直り、「お父さん、私は、彼にそんな風な条件を押しつけることに、賛成できないわ。彼には彼の権利があるし、ルイーザが彼と結婚したいと望むのであれば──」
「ルイーザが! まったく、なんてことだ!」もはや我慢ならずに、父は大声で言った。「なんでルイーザが、常識を弁えないのか、ごく普通にしてくれないのか、私には分らん。なんでルイーザは、自分のことしか考えないんだ、なぜ家族のことを顧みないんだ? 問題はそこなんだ、娘なら、少しでも家族のために尽くそうと努力するべきなのに! それを──」
「お父さん、でも私は、彼を愛してるのよ、」とルイーザは言った。
「なら、おまえがついでに両親も愛することを、そして両親にできる限り名誉を──いや、できる限り両親の体面を汚さぬよう、お願いしたいね。」
「ええ、私たちは別の土地へ行って暮らすことにしますわ、」と言ったルイーザの頬を、堰を切ったように、涙が伝った。彼女は真実傷ついていたのだった。
「そう、そうしよう。簡単なことさ、」とすぐさま応じたデュラントは、青ざめて、心を痛めた。
 部屋に死のような沈黙が降りた。
「それが最善だろうな、」と、牧師は、気を鎮めて呟いた。
「それこそ賢明なことですよ、」と病人が、無愛想な声で言った。
「でも、こんな風なお願いをしてしまって、アルフレッドさんに申し訳ないわ、」と、メアリーは勿体らしく言った。
「いえ、そんなことありません、」とデュラントは言った。「これでみな上手く収まるんですから。」彼はこの問題にもう煩わされない方が、喜ばしかった。
「で、すぐにでもここの教会で結婚の公告をしましょうか、それとも、もう戸籍の届け出に行きましょうか?」彼ははっきりした声で、挑むように訊ねた。
「戸籍の届け出に行きましょう、」と、ルイーザが思い切るように言った。
 またもや死のような沈黙が部屋に充ちた。
「そうね、進むべき自分の途があるのなら、やりたいようにやるべきね、」と、母親は他を圧する声で言った。
 マッシーは始終、影の薄いまま、誰からも気遣われず部屋のひと隅に坐っていた。だがこの機になって、不意に彼は立ち上がり、そして言った。
「メアリー、赤ん坊が泣いてる。」
 メアリーも立ち上がり、堂々とした物腰で部屋を出て行った。小柄な夫が、静かな足取りでその後に従った。その繊弱な小男が歩くのを、デュラントは不思議そうに見つめた。
「で、何処で──」と、牧師は親しげに訊ねた、「君は結婚したら、何処へ行くつもりなんだね?」
 デュラントは、ふと身じろぎした。
「僕は、外国に移住しようと思ってたんですが──」と彼は言った。
「カナダかい? それとも別の国?」
「そうですね、カナダです。」
「ほう! それは大変結構なことだ。」
 ふたたび沈黙が降りた。
「そうなると、義理の息子のあなたと、あまり顔を合わせることはなくなるのね、」と、やはりぞんざいに、しかし譲歩した態度で、母は言った。
「そうなりますね、」と彼は言った。
 彼が暇乞いすると、ルイーザが門のところまで彼を連れて行った。彼の前に立った彼女は、胸を痛めていた。
「気にしないでちょうだいね、ああしたこと──」と、彼女はおずおずと言った。
「気にしないよ。どうせ向うだってこっちのことを気遣ってやしないんだから。」と彼は言った。そして立ち止まって、彼女に接吻した。
「早く、結婚しましょう、」と彼女は、濡れた眼で囁いた。
「ああ、」と彼は応えた。「明日にでもバーフォードへ行こう!」








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