:基本情報・関連リンク
- 会場:KAAT 神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉
原作:アントン・チェーホフ
翻訳:神西清
演出:三浦基
舞台美術:杉山至
衣装デザイン:コレット・ウシャール
照明デザイン:山森栄治
音響デザイン:徳久礼子
舞台監督:小金井伸一
技術監督:堀内真人
出演:安部聡子(オーリガ)
小林洋平(ヴェルシーニン)
河野早紀(イリーナ)
窪田史恵(マーシャ)
石田大(アンドレイ)
小河原康二(クルイギン)
岸本昌也(トゥーゼンバフ)
田中祐気(ソリョーヌイ)
伊東沙保(ナターシャ)
- 地点 CHITEN
http://chiten.org/
KAAT 神奈川芸術劇場
http://www.kaat.jp/
:原作戯曲の登場人物メモ
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オーリガ(オーリャ)
長女。三人姉妹のなかでもっとも運命に対して受動的な、鈍重なほど良識的な女性。そして保守的で、突拍子もないことを嫌う。派手好きのナターシャと相容れない。「何ごとも、思い通りにならないものですわ。わたし、校長になりたくなかったんですが、でもやっぱり、なってしまいました。モスクワへは、つまり行けないというわけ……」(第四幕)。
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イリーナ
末妹。もっともあどけなく、世間知らずで、将来モスクワへ行くということに世俗的かつ不定形な夢を抱いている。根の性格は明るい。ソリョーヌイを直感的に嫌う。労働に関して理想を抱いたりするが、それも世間知らずなもの。兄のアンドレイを尊敬する気持も世間知らずなもの。結局電信局勤めに嫌気がさして労働に幻滅、市議になった兄にも幻滅する。「あたし生まれてから、一度も愛を味わったことがないの。ああ、あたしどんなに愛にあこがれたことか! ずっと前から、夜も昼もあこがれつづけているのに、あたしの心はまるで、大事なピアノの蓋をしめて、その鍵をなくしてしまったみたいなの」(第四幕)。
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マーシャ
次女。自意識が一番複雑な女性。今さら人生に幻滅するほど幼くはない。夫クルイギンには通じない知的なあてつけを連発。ナターシャとプロトポーポフの関係も最初から見抜いている。ナターシャに対してはただ「俗物」と手厳しい。つねに周囲に対して辛辣だが、無思慮なのではなく、むしろ繊細。悲劇的なほどに現実的。「どう生きようとて、死なぬが花よ、だわ!」(第一幕)。また、自分のなかの感情に流されたりせず、ヴェルシーニンの直接的な恋の告白もいなすことができる。「あなたがわたしを相手に、そんな話をなさると、わたしなんだか笑いたくなるの。そのくせ、こわいんですけどね。もう二度となさらないで、お願いですわ」(第二幕)。そしてまた、もっともエネルギッシュな女性でもある。「これが憤慨せずにいられるものか。頭のなかに釘がぶちこまれてるみたいで、とても黙っちゃいられない」(第三幕)。「……何か小説を読むと、古くさいことばかり書いてあって、みんなわかりきったことのように思えるけれど、いざ自分で恋をしてごらん、はっきりして来るから──誰も何ひとつわかっちゃいないのだ、人はめいめい自分のことは自分で解決しなければならないのだ、ということがね」(第三幕)。
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ヴェルシーニン
軍人。教養のあるペシミスト。思考において未来社会を現代からさらにエピステーメーが変化したものとして想像しており、トゥーゼンバフの凡庸な進歩主義的世界観とは一線を画す。結婚したことを超後悔していて、それもペシミズムの要因の一。彼のペシミズムは作品の通奏底音をなしていて、オーリガのラストの科白にも通じている。「二百年三百年したら、いやいっそ千年もたったら──そんな期限なんか問題ではないが、──新しい幸福な生活が、やって来るでしょう。その生活に加わることは、もちろんわれわれにはできないが、その新しい生活のために現在われわれは生きているのであり、働らいているのであり、かつは苦しんでいるのであり、要するにそれを創造りつつあるわけで──この一事にこそ、われわれの生存の目的もあれば、また言うべくんば、われわれの幸福もあるわけです」(第二幕)。
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トゥーゼンバフ
軍人。気のいい奴。ただし醜男。ちょっと怠惰。俗っぽい理想主義者。凡庸なオプティミスト。第二幕のヴェルシーニンとの哲学談議でも、未来社会のことを現在の延長としてしか発想できておらず、ヴェルシーニンのペシミズムを理解しない。第一幕からすでにソリョーヌイ(男爵呼ばわりされる)との反目の伏線がある。「いや、そんな話はよしましょう! 僕は晴ればれとした気分だ。まるで生まれて初めて、あの樅や楓や白樺を見るような気がするし、むこうでも僕を、じろじろと物珍らしげに見て、固唾をのんでいるみたいだ。なんという美しい樹々だろう! そして本来なら、こうした樹々にかこまれた生活は、すばらしく美しいものであるべきなんだ!」(第四幕)。
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ソリョーヌイ
軍人。陰険。皮肉屋。天の邪鬼。無神経。
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ナターシャ
アンドレイの許婚。俗悪。蓮葉。派手好き。エゴイスト。自分の俗っぽさに気付かないほど自意識の底が浅い。第一幕では内気のふりをして独善的に振る舞っていただけだと思われる。「わたし、恥かしいんですもの。……わたし自分で気が気じゃないのに、みんな寄ってたかって笑い物にするんですもの。こうして途中でテーブルを離れるなんて、無作法だけれど、わたし我慢できないの……できないの……」(第一幕)。
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アンドレイ
長男。妻のナターシャにお似合いの俗っぽさをはしばしに見せるが、それを自覚して後悔するだけの感受性はある模様。チェーホフ作品ではわりとお馴染みのタイプ。「ああ、一体どこなんだ、どこへ行ってしまったんだ、おれの過去は? おれが若くて、快活で、頭がよかったあの頃は? おれが美しい空想や思索にふけったあの頃、おれの現在と未来が希望にかがやいていたあの時代は、どこへ行ったのだ? なぜわれわれは、生活を始めるか始めないうちに、もう退屈で灰色な、つまらない、不精で無関心な、無益で不仕合せな人間に、なってしまうのだろう」(第四幕)。
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クルイギン
中学校教師、マーシャの夫。教師的な紋切型を連発する。マーシャのピアノの才能にも気付かない。愚物で万年亭主だが、マーシャがヴェルシーニンに恋をしていたことには気付いて、その上で黙っていたらしい。最後の付け髭のくだりは悲しいほど滑稽。
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チェブトィキン
軍医。本公演では登場しない。野暮。老いぼれ。無教養。新聞ぐらいしか読まない。ありがた迷惑なプレゼントを贈ったりする。三人姉妹の母に惚れていた。独身。人類に対する諦観。悪酔いするとこうなる。「(不機嫌に)どいつもこいつも、鬼にさらわれちまえ、くたばってしまえ」「ことによるとおれは、人間じゃなくって、ただこうして手も、足も、頭も、あるような、ふりをしているだけかも知れん。ひょっとするとおれというものは、まるっきり存りゃしないで、ただ自分が、歩いたり食ったり寝たりしているような、気がするだけかも知れん。(泣く)おお、いっそ存在せんのだったらなあ!」(第三幕)。
:上演中メモ
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(※※※記憶、原作戯曲、殴り書きのメモを元に再構成しているので、実際のそれと大幅に異なっている可能性が大です。)
- ▼舞台美術
・天井はそれほど高くないが小規模な体育館ほどの奥行きのある中スタジオ。床も体育館みたいに木製のフロアリング。観客の視点からは奥に向けて縦にだだっ広い空間が広がることになるが、最初は客席から4mぐらいの位置に、横幅が相当長くて──10m弱はありそう──客の視界を完全に塞ぐようなガラス板の連なりが立てられている。このガラス板にはドアが左右に二つ付けられていて、高さも大体2m強。ガラスの表面には白墨が塗り付けられ、また照明の影響とガラスの反照もあって向こう側をはっきり見通すことはできない(だから最初は客席に坐っているとスタジオの奥行きがよく分からないし、このガラス板自体衝立てのような背景美術としての壁に思える。こんな横幅のあるものが移動可能などとは普通思わない)。実はこのガラス板は劇中色々に移動させられる。このガラス板の位置によってアクティングスペースが広くなったり狭くなったりと空間的印象が劇中連続的に変化する。実際、このガラス板は客席から2mぐらいのところまで迫ってきて、俳優全員がその前に密集するという状態になることもあれば、舞台最奥まで押しやられて俳優たちが走り回れるほどアクティングスペースが広大になることもある(喚きながら舞台最前まで走ってくるナターシャ、それを連れ戻すアンドレイ)。或いはガラス板が客席に対して垂直になって舞台を左右に分けることもある。また、ガラス板が真ん中に水平にあるときには、照明の当たり具合によって奥半分がアクティングスペースになるか、前半分がアクティングスペースになるかが変わる。
・ところでガラス板が舞台最前まで押しやられてくるときには、その前に一回照明が暗転するタイミングがあって、その隙に多くの登場人物(舞台最前で取っ組合いをしている三姉妹と、ガラス板に貼り付いているヴェルシーニンとナターシャ以外)がガラス板の裏に回るというプロセスを経由している。そして、ガラス板が最前まで運ばれると、それまで取っ組合いをしていた三姉妹も取っ組合いするスペースがなくなるのでガラス板に貼り付かざるを得なくなる。「動」→「静」。
・天井からはひょろ長い白樺の樹が天井から20本ほど生えていて、ちょうどガラス板で遮られない視界の上半分をこの白樺の樹々がただよっているというふう。スタジオの奥に行けば行くほど白樺は密に生えている(半分から手前に7本、半分から奥に14本、ぐらいの密度)。また、奥にある白樺の方がより下まで伸びているようだ。天井と床が反転しているかのような感じで、これまた奥行きをよく分からなくしている。
・ガラス板がまさに透明であるということが演技に利用されることがある。アンドレイとナターシャだけが前に来て、他の登場人物はガラス板の後ろにまわって、ガラス板に手をついたままガラス板越しにその二人のやり取りを眺めるというシークエンスがある(その二人のやり取りについて、ガラス板の後ろにいる人物たちがぼそっと言葉を発したりするのも、面白い)。或いはまた、ヴェルシーニンがガラス板の後ろから、表面の白墨を袖でこすり落として自分の顔をのぞかせながら科白を発するという瞬間もある。
・地点のフリーペーパーの32号(http://bit.ly/1HXz3BS)にこの舞台美術がどういう発想から生まれたのかが記されている。今回『三人姉妹』の本番で使用したKAATの3階中スタジオは(『悪霊』のときの)5階大スタジオと広さはほぼ同じであるものの、天井が低く、さらにブラックボックスタイプの大スタジオと違って床も天井も壁も黒くなく、だだっ広い体育館のような印象を与えるが、しかし基本的には幕で隠したりマットを敷いたりせずにこの空間をそのまま使って『三人姉妹』の世界を現出させることを狙った、と。http://chiten-beat.tumblr.com/
・地点のフリーペーパーの34号(http://bit.ly/1BQLbn9)において、舞台美術を写真で確認することができる。http://chiten-beat.tumblr.com/
- ▼音響
・客席の照明が落ちて劇が始まる前にかなり大音量で流れる短調の舞曲があるのだが(ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」だそう)、これが劇中もしばしば用いられることになる。演出の三浦基氏の「私の演出の特徴である、きっかけの多さと細かさ……それは数にすると尋常ではなく、演技レベルでも相当な量になり、スタッフワークを含めると、優に百を超えるのである。スタッフワークというのは、ここでは照明、映像、音響の変化のきっかけのことだが、それらが複雑に絡み合うようなつくり方をしている」(『面白ければOKか?』)──という言葉からしても、曲が流れるタイミングおよび止まるタイミングが精緻に決定されているのは間違いない。登場人物が突発的に何かの動きをした途端に曲が始まったり、曲が止まるタイミングと登場人物が科白を言い終わった瞬間が一致することが何度もある。
・俳優が突然ガラス板をドンドンドンと叩くことがある。この騒音を切っ掛けにして(一旦俳優たちの動きが静止してから)全体的な流れが変わったり、科白が切り替わったりする。この「ドンドンドン」は単独で用いられるとはかぎらず、往々にして後に「ジリジリジリ」とベルの音がつづいたり、「ゴーン」と柱時計の音がつづけて鳴ったりする。単独で用いられるときは全体の騒音の中の一要素となるケースが多い。また、「ドンドンドン」の派生として、アンドレイがナターシャを抱きかかえてそのままガラス板に突進し、ナターシャの身体で「ドン」とガラス板を鳴らしたりすることもある(するとガラス板の後ろに貼り付いていた登場人物全員がのけぞる)。
・鐘塔の鐘の音のようなものが「ゴーン……ゴーン……ゴーン……」と突然響き渡ることがある。これが響いているあいだ俳優たちの動きはほぼ静止する。この鐘の音は戯曲中の火事およびクライマックスに関連する。クライマックスではずっとこの鐘の音鳴りつづけている。というかこれ、原作の「あの時もやっぱり時計が鳴ったっけ」の科白からして、やっぱり柱時計の音のイメージなのかな?
・ガラス板が舞台最奥まで押しやられていくクライマックスには、登場人物が細分化された科白を口々に喚き立てる(全員テンションがすさまじい)上に、「ジリジリジリジリジリ」というベルの音と、やたらに「ゴーンゴーンゴーン」と打ち鳴らされる鐘(時計)の音、登場人物がガラス板を叩きまくる音が重なって、焦燥感をかき立てる。途中で大きな砲弾の音さえ轟く。
- ▼身体と演技
・俳優の身体の状態に幾つかの基本パターンがあり、それらを複雑に組み合わせながら、ブラウン運動をしている複数の粒子の衝突のようなめまぐるしい「動」と、エントロピーが増大してあらゆる身振りがおさまった「静」の振幅を、俳優たちの身体によって視覚的に舞台上に実現している、みたいな感じ。つねに舞台上のどこかで何かが動いている。瞬間瞬間では非常に面白い。ただし上演時間全体を通じたダイナミズムのコントロールというものはそんなにない。
・上演時間全体を通じたダイナミズムのコントロールということで挙げるとすれば、舞台最前にあるガラス板を登場人物全員で思いっきり舞台最奥にまで押していった後に、クライマックスが来るという流れが唯一構成力を感じさせる。それまで基本的に何かのついでみたいに──あまり目立たないように──ガラス板を移動させていたのを、ここではもうあからさまに全員で押していくのが展開として面白い。ソリョーヌイ一人最初前方に取り残されるのだが、いきなり「ハッ!」と掛け声を上げて全力で走ってガラス板に体当たりして押していく、なんていう動きも舞台の広さを存分に活用した構成だと思う。しかもこのときイリーナだけが前方を四つん這いで這い回っているという視覚的なアクセントも面白い。舞台奥までガラス戸を押していったあと、みんなでドンドンとガラス板を叩きまくるのも、クライマックスに相応しい騒音。
・パターン1、四つん這いになって地面を這う。ゆるやかな「動」。登場人物全員が四つん這いをしているような瞬間もある。一人だけ舞台前方を回遊しているみたいに四つん這いでさまようという瞬間もある。そして客席のあいだを自由に動き回るようなシークエンスもあるヴェルシーニンを除くと、立って歩く登場人物は、基本存在しない。また、ヴェルシーニンだけは四つん這いの代わりに匍匐前進をすることがある。
・パターン2、ガラス板に立って貼り付いたまま静止する。「動」から「静」への切り替わり。
・パターン3、床の上で他の登場人物と取っ組合いをする。見ようによっては一人が逃げようとしてもう一人がそれにすがりついているようにも、互いに滅茶に抱擁し合っているようにも見える。あからさまな「動」。大体原作戯曲で対話になっている科白は、当の登場人物たちが取っ組合いをしながらという不自然な体勢から発語される。とくにヴェルシーニンとマーシャ(不倫の会話)、アンドレイとナターシャは、滅茶に抱き合いながら話したりする。トゥーゼンバフのイリーナに対する愛の告白は、逃げようとするイリーナにトゥーゼンバフがすがりつきながら発せられる。
・パターン4、突っ立っている状態から、「ああ」とか「おお」とか「あ”っ」とか叫んで恥ずかしがるようにぱっと顔を覆ってくずおれる。この動作はしばしば用いられる。意味不明なんだけれど面白い。たぶん稽古場で即興で生まれた動作があまりに面白過ぎたので、一つのパターンとして採用したのだと思う。「静」から「動」への境い目。この状態からくずおれた後に四つん這いによる移動へ切り替わることが非常に多い。というか立っている状態から四つん這いに移行するためには必ずこのパターン4を経由しなければならないというルールらしい。この動作によって科白が中途で断ち切られることもある。
・パターン5、二人の人物が相手と顔と顔を付き合わせる状態。ここからお互いに「ああ」とか叫んで顔を覆ってくずおれたり(パターン4)、その状態から相手に間近で言い聞かせるように科白を喋ったりする。
・パターン6、床に横たわる。端的な「静」。横たわったまま喋ったりもする。
・パターン7、ナターシャに固有の身振りだが、他の登場人物が喋っている最中突発的に首を向き変えて「アハハッ」と笑い声を上げる。同様に、ナターシャの笑いと似たような感じで、たいていの登場人物が、他の登場人物が喋っている最中突発的に泣き笑いの声(ヴェルシーニンのそれは「タハハハハ」「アイタタター」みたいな感じでユーモラス)をあげるパターンを持っている。針で刺すような「動」。ランダムに見えるがタイミングは精確に決まっているはず。
・パターン8、取っ組合いの派生で、肩車をしたり、抱きかかえて持ち上げて揺らしたり移動させたりする。或いは、やはり取っ組合いの派生で、突っ立っている登場人物を相撲の寄り切りみたいにガラス板際まで押して行ったりする(オーリガに対するクルイギン。「マーシャがいなかったら私はあなたと結婚したでしょうね」「あんたは実にいい人だ!」の科白を言いながら。オーリガは「何?」「何?」とビビる)。
・パターン9、ガラス板を移動させる。取っ組合いのさなかに二人で板に身体を押し付けてじりじりと移動させたり、あからさまに思いっきり背中で押したり、手で掴んで移動させたり。ガラス板を奥へ押していったり、手前へ引き戻したり、舞台真ん中にある状態から時計回りないしは反時計回りに回転させたり。基本的にガラス板の移動は対話とは関係ないところで行われる。
・パターン10、円運動。ガラス板が回転させられる(ガラス板の一端を表側から、もう一端を裏側から複数の登場人物で押す)ということもあるのだが、それに合わせて俳優の動きの線が円を描くパターンに変わったりする。四つん這いの動線も円になる。アンドレイはナターシャを追って(ナターシャは突っ立っているだけなのだが)舞台を反時計回りにランニングしたりする。
・パターンα、これはパターンではないが、ヴェルシーニン一人だけ、ちょくちょくポーズや動線がイレギュラーになる。『悪霊』でステパン先生を演じた俳優か。やたら躍動感のある動き。最初自己紹介しながら親指を立ててニヤッと笑ったり、舞台奥から前転しながら(!)前へ出て来て、ぴょんとジャンプし、酔拳みたいにふらふら歩いて「人生は苦しい」とシリアスに言ったあと、親指を立ててニヤッと笑ってウィンクしたりする身振りなど、阿呆らしくて最高。火事の話のシークエンスでは、ハイテンションで一人一人に(相手の肩に手をやって)話し掛けていくのだが誰も聞いてくれないので次々話し相手を変えたり、挙句の果ては四つん這いになったクルイギンの上に乗っかったり。立ち姿も変にしょんぼりしたようなポーズだったり、内股で目をつぶって顔をしかめていたり。ガラス板の前に突っ立っているときも、突然額に手を当ててもう片方の腕を斜めに差し上げて、妙に格好つけたポーズをとったり。あと、アンドレイのナターシャに対するプロポーズを聞いて感極まって、なぜかガラス板の向こうで噎び泣くリアクションとったり。自由過ぎるだろ……。
・最後のシーン(オーリガの「やがて時がたつと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹だったかということも、みんな忘れられてしまう。でもわたしたちの苦しみは、あとに生きる人の悦びに変わって、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。……」の科白のシーン)では、ラストに相応しく全員動いている。ナターシャはドンドンドンとガラス板を叩いて。トゥーゼンバフも立ち上がって赤い布をひらひらさせながら踊って。ソリョーヌイはイリーナを抱き上げて変なポーズを取っていて。他のみんなは取っ組合いをしていて。そしてオーリガは四つん這いして回遊していたクルイギンの頭をつかんでそれに言い聞かせるように科白を言うのだが、科白終わりが音楽が止むのと完全に一致する。で、暗転。幕。
- ▼科白
・『悪霊』のときもそうだったが、原作から科白をサンプリングしてまったく新しい配列で発語させるという形。だから一つ一つの科白が原作における文脈から離れて全然違う響き方をする。まるでそれぞれの俳優が自分が覚えた科白を即興で喋っているかのような(もちろんそんなことはないが)。原作からのサンプリングの仕方はかなり細かくて、「今日」「明日」「モスクヴァ」という単語だけを共有している細分化された色んな科白をつなぎ合わせて、複数の登場人物が次々に言葉を発していく、というようなシークエンスもある。当然ながら「物語」は一切浮かび上がらない。
・《「今日」「明日」「モスクヴァ」という単語だけを共有している細分化された色んな科白をつなぎ合わせて、……》というシークエンスは結構重要で、「今日」(全員発音としては「キョウ!」)の方は冒頭の導入に、「明日」の方は終盤近く、ガラス戸を舞台最前から舞台奥まで押しやっていくクライマックスへの切っ掛けで用いられている。「今日」「明日」という単語を共有しているだけで本当に原作上の科白の順序はバラバラ。
・一つの長科白を発語する場合も、途中で省略を入れたり、文章をシャッフルしている。その長科白に対して別の登場人物が応答する科白も、全然別のシーンからサンプリングしたものだったりする。
・当然ながら発声のアーティキュレーションも異常で、イリーナの「あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きてるのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……」の原作の深刻な科白などギャグっぽく聞こえるほど。「どーーーしてまだイ・キ・テ・ル・ノ・カ、どーーーしてジサツしなかったのか、ワ・レ・ナ・ガ・ラ、わからないッ」みたいな。「美しい生活から、離れていくよーな気がするーーー」みたいな。それに対するオーリガの慰めも「いい子ダカラ、ネ! いい子ダカラ!」「泣ッカナイデ、いい子だから泣ッカナイデ、わたしツライカラッ!」みたいな。大体においてどの科白も、科白の内容からすれば不自然なほど泣いたり、怒ったり、喘いだりしながら発語されている。そもそも大抵取っ組み合いしながら──或いはガラス板を全力で押しながら(ヴェルシーニンとトゥーゼンバフの例は哲学談義はガラス板を全力で一回転させながら必死で語られる)──喋るので、どの登場人物もつねに普通の発声ができる体勢にはない。
・アンドレイについて(「恋の少佐」ことヴェルシーニンに紹介するにあたって)「恋のヴァイオリニスト」呼ばわりするときは三姉妹で狂的に声を合わせる。「アンドリューシカは恋をしていま、スーーーー!」「ブラボー! ブラボー! ブラボー!」。
・原作戯曲上、ヴェルシーニンには哲学めいた抽象的な長科白があるが、これも細分化されてアクセントをズラされてシュールなギャグを連発しているみたいな感じになっている。「そのために、人間はッ、人間はッ」「だーのーにー、あなたは! あなたは!」。そこからなぜかアンドレイの「僕はーーーきみたっちにーーー無断でーーーー屋敷を抵当に入れたッ!」の科白(オペラ歌手のように発声される)につながるところは気違いじみていながらも、対話が成立しているかのようで、爆笑もの。ズレながらも畸形的に噛み合うポリローグ。
・クライマックスには、決闘で死ぬ前のトゥーゼンバフのイントネーションも狂的に絶好調。「イカナケレバナラナイ! モウジカンダ!」「サヨナラッ!」「ボクハキョウ! コーヒーヲ! ノマナカッタッ!」「コーヒーヲ! 淹レテオクヨウニ!」。原作では第四幕終盤近くのイリーナへの科白。そして決闘で死んだトゥーゼンバフは横たわるのだが、その頭に向かってイリーナは四つん這いしたまま話し掛ける(叫び掛ける)。「あたしワカッテタ! ワカッテタ! ワ!」。
・オーリガの最後の科白は、例の短調の舞曲が鳴り響くなか、クレイギンの頭を掴んで相手に言い聞かせるように発語される。「なんのために、わたしたち、生きている、のーーー!」「それがワカッタラ、それがワカッタラ、ネ!」。
- ▼小林洋平
・『悪霊』のステパン先生役も素晴らしかった小林洋平という俳優、ヴェルシーニンを演じても、断トツで面白過ぎる。「テツガクッ」「セイカツッ」「カクベツッ」「いうべクンバッ」「コ↑ウフ↓ク」みたいな単語単位の鋭いイントネーションの凹凸も面白い。漢字熟語を歪めて発音するのも面白い(「びーーーんショーーーウ=憫笑」、「フッユカイセンバン=不愉快千万」、「むしもうんまいん=無知蒙昧」、「こーーーうミョーーーーウ=光明」、「キーーーンベーーーン=勤勉」)。変なところで発音を切ったりするのも面白い(「アレクサンドル・ヴェ・ルシーニンと申します」)。鼻息荒く長科白を喋りながらいちいちポーズを変えたり走りまわったり(「みーーーーなさーーーーーん!!!!!」「おう、おう、たしかに! すばらしいセイカツッ!になっているにちがいない!」「テツガクッでも、やーーーーーーりまーーーーすかあああーーーーーー!!!!」)、「のどがーー!かわいたーー!」「お茶が欲しいいいいーーーーーでーーーーすなあああーーーーーー!」の科白を床をのたうちまわりながら発したり(そんなにお茶を渇望してるのかよ! 原作では第二幕の「のどがかわいた。お茶が欲しいですな」という何気ない科白にすぎないのだが)、「ちっともね♪」と言ってクッと親指を立てたりするのも面白い(元は第一幕の「マーシャ:ヴェルシーニンさんは、いつぞや“恋の少佐”なんて言われた時でも、腹なんかお立てにならなかったわ。/ヴェルシーニン:ちっともね!」のやり取りから)。極めつけは、なぜか切腹をして自分の腹から出て来た内臓を食べるマイムをやりながら「幸福というものは、われわれのずっと後の子孫の取り前なんですよ……」という科白を喋るところ。面白過ぎるwww
・「なんにせよ惜っしいーーーーですよ! セイシュンッ! が、すぎさったことはーーーーー!」みたいな科白を言ったりするときでも極端に悲痛な表情をつくるので、そのあと(感極まって?)身をひるがえしてガラス板をバーンと叩くのも、爆笑もの。
・言うまでもなくヴェルシーニン=小林洋平がもっとも輝くのは、ガラス板が舞台最前まで押しやられてアクティングスペースが極端に狭くなったのち(登場人物全員ガラス板に貼り付いて立つ)、マーシャに「おやおや……?」と話し掛けるところからの一連のシークエンス。原作第一幕の「おやおや! わたしに言わせると、頭のすすんだ教養のある人間に用がないなどという、そんな萎靡沈滞した町はどこにもないし……」の長科白。ここからヴェルシーニンは喋りながら完全に自由に動き回る。意味不明のガッツポーズを取ったり、片腕を振り上げたり、自分の科白を忘れたみたいに他の登場人物に聞きにいったり、「消え去るの? んふっ」とか言ってキモく笑ったり、客席をあちこちやたら指差して語り掛けもする(「あなたがたのような人が、今度は六人……それから十二人……それからまた……」)。ここのテンションは素晴らしい。最後には客席にまで侵入して「そのために、人間はッ、人間はッ」や「みたったーりしったったーり(見たり知ったり)」「だーのーにー、あなたは! あなたは!」のフレーズ(例の長科白からのサンプリング)をリズミカルに連呼しながら一旦劇場を飛び出して行って、また走って戻ってきて、最後にはこのフレーズを「あなたは! あなたは! あなたは、アンドレイ!」と改変してアンドレイを指差す。絶好調。ところでその後もヴェルシーニンは「あなたは、ナターシャ」「あなたは、クルイギン」と一人一人に話を振っていくのだが、みんな遠慮して、アンドレイだけがずっとオペラ歌手のように狂的に声を上げるのみ。爆笑。
・クライマックスでもヴェルシーニンは絶好調。ガラス板が舞台最奥に押しやられて極端に広くなったアクティングスペースを酔っ払いのようにユーモラスに走り回り、「お!い!と!ま!に! きましたあーーーーーーーーーー!!!!」「ク・ウ・ド・ウが、あいています!!!」「むろーーーん、見出すに、ソーーーーイアリマセーーーン、でも、イッコクッ、もはやく見出すことが、望まれますがねーーーーー!!!!!」「ねーーーーイーーーデスカーーーーーー」「キョウイクに、キーーーーンべーーーーンを加えるならば、でーーーすよーーーーー!」とでたらめなイントネーションで原作の深刻な科白を連発する(第四幕終盤の科白)。