:基本情報・関連リンク
- 会場:KAAT 神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉
原作:F.ドストエフスキー
演出・構成:三浦基
空間構成:木津潤平
衣装デザイン:コレット・ウシャール
照明デザイン:山森栄治
音響デザイン:徳久礼子
舞台監督:小金井伸一
技術監督:堀内真人
出演:安部聡子(語り手G)
小林洋平(ステパン・ヴェルホーヴェンスキー)
窪田史恵(ワルワーラ・ペトローヴナ)
根本大介(イワン・シャートフ)
小河原康二(ニコライ・スタヴローギン)
岸本昌也(アレクセイ・キリーロフ)
河野早紀(マリヤ・シャートワ)
石田大(ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー)
永濱ゆう子(リザヴェータ・ニコラエヴナ)
- 地点 CHITEN
http://chiten.org/
KAAT 神奈川芸術劇場
http://www.kaat.jp/
:三浦基氏の発言資料
- ▼演劇は最も危険な芸術である 三浦基インタビュー http://www.cinra.net/interview/201403-chiten
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────小説を演劇にするということは、戯曲を演劇にすることとは全く違う作業だと思います。三浦さんはどのように小説を演劇にしているのでしょうか?
三浦:一般的に、戯曲というのは「私は◯◯だと思う」という台詞によって成り立っています。でも小説は、「彼は◯◯した」という三人称なんです。それは一般的に台詞になり得ません。これまで「日本文学シリーズ」の作品で、色々な角度からその三人称を台詞として発語しようと挑戦してきましたが、演劇における三人称は「ト書き」のようになってしまうので、どうしても制作現場ではそれを排除する方向に向かってしまう。「彼は◯◯した」と言われても、ただ説明的なだけだし、「じゃあ、それを喋っている俳優はどう思っているんだ?」という疑問が残ってしまうんです。とは言え、戯曲に立ち戻っても普通だしつまらない。「お前の話なんか聞きたくない」と思ってしまう(笑)。
────悩ましいところですね。
三浦:ドストエフスキーの場合は人間観察が執拗で、長台詞を多用しつつも俯瞰した目線で世界を描きます。そのト書き部分と長台詞のバランスが絶妙なので、何度読んでも印象が違うんです。だから、あえて戯曲として読み込んだとしても、いろんな読み方が許されると思いますし、敵として不足はないですね。これだけの長編作品だしドラマも多い。短縮版を作っても、おそらく5時間くらいのドラマになるエピソードは詰まっています。今回はドストエフスキーの『悪霊』を読んで、自分がどういう気持ちになったか、その読後感を1時間30分ほどの上演時間の中で立ち上げたいと思っています。
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────先ほど『悪霊』の稽古も拝見させていただきましたが、地点の作品はいわゆる「普通の」演劇の発話方法とは異なりますよね。
三浦:何で普通にやらないかというと、普通の台詞だと僕自身が飽きて寝てしまう(笑)。台詞には「感情」があります。どういう気持ちで発しているのか? イライラしているのか、悲しいのか、楽しいのか、そういう感情が発話にはともなっています。長台詞を例にすれば、1つの感情をもとに、言い回しや韻を意識する、あるいはブレスの方法などによってその台詞を言い切る。さらにそこに、俳優自身のちょっとした味付けが入ると、名優という評価が下されます。でも現代では、もっと短いスパンで感情は切り替わっているはず。だから、地点では台詞をときには単語のレベルまで細分化していって、別々の感情を乗せるということを俳優と取り組んでいます。台詞を細分化するときの引き出しが多ければ多いほど面白いと思うし、感情を切り替える能力が問われます。それらを積み重ねていけば、全体としてポリフォニー的な表現が生まれるんです。
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────公演のチラシにも「多声性(ポリフォニー)」というキーワードが使われているように、文節や単語レベルで役者が声色を変えながら台詞を発語する地点の表現方法は、よく「多声性」という言葉で語られています。今回、地点が『悪霊』を上演するのは意外だった反面、ある意味これまでの活動とも親和性が高いのではないかと思いました。
三浦:(笑)。そう思われるだろうなと思って、あえて『悪霊』を選んだというのもあるんです。『悪霊』の解説を読んでいて「あ、ポリフォニーって書いてある! これを宣伝文句にしよう!」って。
────え?(笑)
三浦:いや本当に(笑)。ただ、「ポリフォニーって何だ?」と考えると単純ではありません。『悪霊』のポリフォニーとは、旧世代やセクトなどの問題が同時に進行していく「物語としてのポリフォニー」なんです。決して、地点の発語スタイルのようなポリフォニーを意味しているわけじゃない。
────発語としてのポリフォニーと、物語としてのポリフォニーの違いということでしょうか。
三浦:昨年上演した『駈込ミ訴ヘ』の原作は、ユダの告白をテーマにした独白の小説です。それを舞台で上演するにあたって、僕は台詞を5人の役者に分散させ再構築させました。ある台詞は5人で喋ったり、あるところでは1人で喋ったり、1 つの台詞を単語で区切って3人で喋ったり。そこへさらに、主題である裏切り、寝返り、嫉妬などのさまざまな感情が入り込む。あれはまさにポリフォニーだったと思います。ただ『悪霊』は、テキストの質が違うので、あの方法では上演できません。
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- ▼アーティスト・インタビュー:三浦基(地点)│Performing Arts Network Japan http://performingarts.jp/J/art_interview/1002/1.html
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────篠崎さんは「シノザキシステム」と呼ばれる演技のトレーニング方法で知られていますが、その影響はありましたか。
ありましたね。スタニスラフスキー・システムは読むと難しいのですが、篠崎さんは俳優修業を非常にわかりやすくレジュメにされていて参考になりました。特に演技の“間”について「心理間」と「生理間」と「物理的な間」があるという分析は新鮮でしたね。戯曲に「……」とあると、だいたい心理的な間として解釈されてしまっていわゆるクサイ芝居になりがち。そういうところに騙されるなと。本のページをめくる時間は、物理的な間で、これはほとんど芝居にならないけれど、前衛タイプの人はこういう風にデフォルメして(身振り)やるとか。生理的な間というのは、ハプニング的な間で、コップを落としたらシーンとしてしまうとか、そういう分析をするわけです。目から鱗でした。
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ピーター・ブルックの『ハムレット』も観ました。僕はあまり好きじゃないと思っていたんですが、実際に観てみると「何もない空間」とはよく言ったもので、絨毯を敷いてそこに俳優が立てばそれでいいんだと。それでシェイクスピアの台詞を言うわけです。「あ、こういうことなんだ。台詞はこういう風に置いていくものなんだ、置いて語っていくものなんだ」ということがわかった。日本では、どうしてもリアリズムの演技をしてしまうのですが、やっぱり演劇は「演説」なんだと思いました。
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実はアテネ・フランセのスパルタコースでやったフランス語の習得方法が画期的に面白かったんです。手鏡を用意して「ア、ベ、セ、デ…」とやるわけですが、徹底的に発音矯正されるので、ヨダレはでるし、ハンカチで拭きながらもう必死でした。アルファベの発音から始まって、フランス語がどういう構造になっているのかあらゆる角度から言語学的にも科学的にも解剖していく。その矯正的な言語指導が本当に面白かった。このディクテーションという発想は、僕にとってすごく演劇的な体験でした。
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僕はテレビが大好きで、フランスでもよくつけていたのですが、ニュースなんかは喋り方が早いので意味がわからない。だからつい違うことを考えてしまう。毎晩芝居を観て帰って来るから、テレビを付けたままその芝居のことを考えたりしていたのですが、そうすると見えているものと、聞こえていることと、言葉がわからないということと、考えていることとの違和感とか、そういうことを日々体験していていたわけです。古典の舞台を見ても言葉がわからないから、事前に翻訳した本を読んででかけるのですが、それでも意味がわからない。そういうことを繰り返す中で何かが鍛えられていったんだと思います。「言動不一致」というか、いわゆるナチュラリズムの動きよりも違う形で言葉が舞台に乗るべきだ、ということをその頃に感じるようになりました。
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それでそんな風に感じていたときに、忘れもしないですが、下北沢である芝居を見ていたらその折込チラシにSCOTの利賀フェスティバルのチラシがあったんです。高校生の頃に鈴木さんの『演劇とは何か』を読んでいたのですが、東京では公演がなかったので、「あ、これか。見なきゃまずい」と思って観に行った。いわゆる鈴木版『リア王』の完成形の作品を利賀山房で観て衝撃を受けました。それまでもいっぱい芝居を観てきましたが、「初めて“演劇”を観た」と思った。本当にびっくりして、しばらく動けなくなったくらい。
今までの芝居とは考え方が全然違うと思いました。僕はどちらかというとシェイクスピアはあまり好きじゃなくて、「日本人がシェイクスピアなんかやってもなあ」と普通に思っていたんです。だけど、その『リア王』を観てわかったんです。ああ、演劇っていうのはそういうことじゃないんだ、と。演劇とは、何かを批評することであり、何かを考えた“距離”を見せることなんだと、初めて現代演劇というものを観た気がしました。
それから毎年利賀フェスティバルに観に行って、鈴木さんの演劇を勉強しました。その中で一番影響を受けたのは、鈴木さんが舞台で使う「車椅子」の存在です。あれを思いついたのはすごい。太田省吾で言うと『水の駅』で使われる「水道」に匹敵するものが鈴木さんの「車椅子」という装置だと思います。俳優が「車椅子」に乗って動くことで、上半身と下半身を分けた。はっきりと「語りの身体」と「移動の身体」をビジュアルとしても分けて見せたわけです。この「車椅子」を思いつくことが演出なんだと気付きました。鈴木さんからは影響を受けたどころか、相当盗ませていただきました(笑)。それで『三人姉妹』ができたと言っても過言ではありません。それから『イワーノフ』で使った等身大の籠もそうです。籠の中に俳優が入ってひょいと顔を出したり、引っ込めたり。観客は笑っていますが、笑っている場合じゃない。籠を使うことで登退場がいっきにできちゃうわけですから。こういう装置の開発を演出家というのはやれる存在なんだなと思いましたね。
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────なぜテクストを再構成するのかについて、もう少しお話しいただけませんか。
戯曲を「再構成しよう」と思って読んだことはないと思います。読んだ時に引っ掛かってくる部分だけをやりたいということなんです。だから、「何がやりたくて再構成するのですか?」という質問には答えられない。こういう解釈でこういうことをやりたいから再構成するのではなく、ある意味で直感なんです。「この戯曲は絶対にいじらないでください」というのを前提にできたら、どんなに楽なことかと思います。でもそうじゃなくて、そのままやるということが苦しいんです。
それはどうしてかと考えると、言葉のもつエッセンスというのが僕にとっては最重要だからだと思います。中原中也が好きだとか、思春期の頃は詩人になりたかったとか、そういう資質があるからだと思いますが、僕にとって文学というのは詩なんですよね。だから再構成せざるを得ない。台詞というのは、どこか詩(うた)と似ていると思っていますから。
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極端に言えば、「is」だけでチェーホフができるということです。「あー」ではできませんが、日本語では「です」や助詞の「を」や「私は」の「は」だけでチェーホフはできると思います。そういう意味で言うと、僕がやっている演劇は、極端な外国人と喋っているようなものなのかもしれません(笑)。言葉はわからなくても、俳優の関係性だけあれば見せられるとどこかで思いたいのでしょうね。
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:上演中メモ
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(※※※多くの点で間違っている可能性が大です)
(※※※複数回観た上でのメモを整理せず並べているので、部分的に記述が重複しています)
・横長で広い舞台。壁は一様に黒、小道具も大道具も何もないので、25mプールを横にしたような寒々しさ。観客席も横長に配置されている。そして床には下の図面どおりに幾何学的な穴が空いており、黒い部分はそこに落ちて立つと上半身しか見えないくらいの深さ(以下、細い部分の黒い箇所を「黒細穴」、もう一つの黒い部分を「黒深穴」と呼ぶ)。床から一段低くなったダークグレーのところは、波打っているから布かと思ったが、よく観れば砂浜のように発泡スチロールの粒が一面に盛ってある(以下このダークグレーの部分を「雪面」と呼ぶ)。床からすると雪面は60cmほど低くなっている感じ。また、床面は少し浮いている。浮いている床板の厚さは30cmほど(実はその隙間に人物が待機している)。マインクラフトみたいな、モダニズム彫刻みたいな舞台美術。で、一番前の客席とは1mも離れていない。客席との距離の無さに比べて舞台が圧倒的に横に広いので尋常でない感覚。体育館で行なわれることを壁際で観ているかのような。
(俳優がジョギングするところは、壁まで2mくらいしかない。結構狭い。壁は床から5mぐらいの高さまでは黒くおおわれていて、あとは剥き出し。)
客入り音楽? そんなものはない。何もない。が、開演15分前頃から、時々上から何か降って来ている。小さな粒が雪片みたいにまばらに。暗いので照明が射しているところでしかそれが可視的にならない。舞台に積もっているはずなんだが暗い上に舞台の床色に溶け込んでしまって見えない。ほんとうにちらっと降るだけ。ライトが当って可視的になるのは上空だけだから、気付かない人は気付かないだろう。そして開演3分前になると、この雪が大量に、途切れることなく降るようになった。でもまだ客席は明るく、舞台奥は暗いので舞台全体に降っているのが見えるようになるわけではない。やがて遠い雷の音のようなドロドロドロドロドロ……という音響が低く鳴りはじめる。ずっと鳴りつづける。ときどきはっきりした小さな落雷の音も混じる。
それから、客席の右端から一人の女性(語り手G)が出てきて、横長に広い舞台の上を、ちょうど床に空いている穴の周りを巡るように、反時計回りにジョギングしはじめる。足元を見ながら走る。舞台の輪郭すれすれに走るので、最前列の席から1mも離れていないところを通る。一周100mくらいはありそう? 何周も走る。白一色で、ほとんど装飾的な情報を持たないシンプルな衣装で、裸足で、雪が降っている舞台の上をジョギングしつづける。この雪は良く観ると小さな「粒」だ、発泡スチロールか何かの。客席はまだ明るい。そして開演時間になると、その女性をジョギングさせたまま案内係のひとが「注意事項」を読み上げる。開演前からすでに何かしら始まっているという状態。
・アナウンスが終わってから、さらにGが一周半ぐらい走ってから、ドーンという大きな落雷の音、そして客席が真っ暗になり、代わりに楕円状の照明が舞台に掛かって(つまり女性が周回している道を照らすように、すなわち舞台真ん中に空いている図形的な穴は暗いままにして)、上演スタート。雪面にはフットライトが当っていて、雪(発泡スチロールの粒)が積もっているのが波打つように見えて美しい。舞台には、黒細穴の向こう岸とか、まだ影に沈んでいるところがある。ライトが当って分かったが、舞台床の上面は白色。
・人物の動きは基本的に周回ジョギングとなる。ジョギングする人数が多く、そのスピードが速ければ速いほど動的な印象になる。さらに逆走する奴も出てくればよりカーニヴァルなごちゃごちゃした印象が強まる。二度観た上で言うと、誰がどのタイミングで、どういう順番でどういう距離をおいてどの程度の速度で走るか、そしてどのタイミングでどこで立ち止まるか、といったことはすべて決まっている。
・照明が代わってから、Gがジョギングしながら力強く掛け声を上げはじめる。ロシア語っぽい。単に外国語だっていうだけでなく、一音だけ裏声にしたりとか、変な発音。
・Gを追い掛けるように、男が現われて同じように舞台を反時計回りにジョギング。そしてやはりジョギングしながら喋る。やはり服装は白基調のスーツ。「ねえ君!……」この男も発音が変。「ねえ、君、本気にしてくれますかん!」「自覚したんですよん!」「違いないですねん!」「そうですよん!」「言うけれどん!」。なんだろうな、似非外人みたいな。どうも台詞の内容からしてこの男性はステパン先生らしい。ステパン先生の走り方、手足を伸ばしたままチョコチョコ走る。そして走りながらという変な体勢ではあるが、一応Gに話し掛けようとしている。ステパン先生、喋るときにはガッツポーズとか色々身振り入れたりする。Gの方はずっとロシア語で掛け声を上げつづけていて、聞いていないふう。と思ったら、ステパンの呼び掛けにようやく日本語で応答して、ダイアローグになる。ダイアローグっつっても、二人ともジョギングしながら、20mぐらいの距離をつねに置きつつの対話なのだが……(ステパン先生は、中央の穴を挟んでGと対称的な位置につねにいるようにスピードをコントロールしているふう。Gの方は、応答し始めてもやはりステパン先生の方に顔を向けたりせず、ずっと足元を見ながらのジョギング)。狂ってるな。発声が変だからこそ成立するミザンスか。この周回ジョギングしながら対話するっていう発想は、ドストエフスキーの小説のカーニヴァル性の視覚化という趣旨だろうか?
・ちなみに、科白は、すべて江川卓訳の『悪霊』からサンプリングしたもの。言葉は江川訳からほとんど変えていないので、文字通りのサンプリングである。時々ステパン先生がフランス語で喋って「日本語で言うと……」と後から言い直すが、これは原典ではフランス語、翻訳ではカタカナで書かれている箇所に相当する。
・変な発声で発語される科白だが、完全に物語の流れを無視して、前後関係を無視して、原作からサンプリングされ「ポリローグ」として配置される。たとえばロシア語の掛け声を上げながら走っているGに対して、チョコチョコ走りながらステパン先生が投げ掛ける言葉(劇中一番最初の科白)は、確かにGとの対話から採られているが、新潮文庫上巻の中盤は第二部第一章第2節におけるものなのだ(ちなみに、「ワダイヲ・カエマショウ」や「ぼくにはツルゲーネフが分からない」もこの第二部第一章第2節からのもの。「ねえ、きみ、本気にしてくれますか、ぼくはさっき自分が愛国者だと自覚したんですよ! もっとも、ぼくはいつだって自分はロシア人だと意識してきたけれど……いや、ほんとうのロシア人というのは、きみやぼくみたいな人間にちがいないですね。モウモクテキ・ナイシ・ヤブニラミテキナトコロガ・ズイブンアル。……ねえ、きみ、ほんとうの真実はつねに真実らしくないものですよ、そうでしょう? 真実を真実らしく見せるたえには、ぜひとも真実にすこしばかり嘘をまぜなくてはならない。……」(上巻336頁)。上演台本としては、二つの科白をつなげたり、一つの科白を言っているあいだに別の人の別の科白──原作上はまったく関係のないところからサンプリングされたもの──が対話っぽく割り込んだりすることもある。発音は「自覚したんですよん!」「いやっはん!」「ちがいないですねん!」「っそうっでっすよん!」。ドストエフスキーの長篇を初めて読み終えた時の、作中の印象的な科白が熱っぽく脳裡を飛び交うような興奮状態をそのまま舞台化したという感じか。ちなみに、ステパン先生、この「ちがいないですねん!」を言ってから立ち止まる。それからしばらくして走り出す。「っそうっでっすよん!」のときは首を振る。
・またもう一人女性が現われて、同じように舞台をジョギングで周回する。服装からして、ワルワーラ夫人だな。ステパンが相変わらず喋りまくっている、今度は二人に聞かせるように。相変わらず発声が変で、単語を助詞と切り離して発音している。やがて三人の呼び掛けが入り交じるような騒々しい会話になる。三人とも一定の距離を保ちつつ周回ジョギング。言葉のやり取りは対話になってはいるけれども、ジョギングをつづけているという状況だから、「場所・場面」の具体性は一切ない。言葉の呼び掛けと登場人物の肉体だけが躍動している。山城むつみのドストエフスキー論のこんな一節を思い出す。
《視野が卑近な他者との関係において相互に切り返すこと。この切り返しが記述において視野のモザイクを動的に構成すること。ドストエフスキーの世界、わけても『未成年』に顕著な、記述のこの分裂的運動は、一九世紀以前のスペクタクル、たとえば演劇では経験することができなかった。劇場では客席が固定されているため舞台のパースペクティヴは原理的に単一であり、線遠近法によって客席から視覚的に連続している舞台空間は均質にならざるをえないからである。たしかに、舞台でも様々なキャラクターが数多く登場し、それぞれの視野から多彩な声を交わして衝突し得るだろう。しかし、そのポリフォニーは、均質で単一な舞台空間の中でのみ起こるのである。そこでは観客は、登場人物たちの視野の逆遠近法的な切り返しを経験し得ない。そのような全体的でニュートラルな視野なしに、登場人物たちの不均質で非対称的な視野が相互に切り返されてモザイクのように交錯する舞台空間を考えることは、演劇界のブルネレスキでも現れない限り難しいだろう。/『ドストエフスキーの創作の諸問題』(一九二九)のバフチンは「劇では、複数の視野がそれぞれまったき状態のまま、超視野的な統一性において結合することなど不可能だ。劇の構造がそうした統一性のための足場を与えてくれないからだ。したがって、ドストエフスキーのポリフォニー小説において、正真正銘の劇的対話はごく二義的な役割しか演じることができない」と述べている。さらに四年遡る一九二五年に行なわれた私的なセミナーではよりはっきりと、ドストエフスキーの世界はそもそも演劇に向かないのだと断定していた。/「グルーシェンカの客観的な形象も存在しない。彼女は、ドミートリィ・カラマーゾフの様々な声音をもとに我々に与えられるのだ。彼女はドミートリィをくすぐるように、そのように我々をくすぐるのである。かくして、ドストエフスキーの作中人物が舞台で演じられると、本で読んでいるときとは全く違った印象をもたらすことになる。ドストエフスキーの世界の特殊性を舞台で表現することは原理的に不可能なのである。我々はいたるところで作中人物とともにあるのであって、ただ彼らが見るようにそのようにしか見ることができないからである。ドストエフスキーは或る作中人物に肩入れしているかと思うと、やがて見放して別の作中人物に肩入れする。我々は或る登場人物にぴったりと張り付いていたかと思うと、別の登場人物の後を追うのであり、或る登場人物につきまとったかと思うと、後には別の人物につきまとうことになるのである。独立したニュートラルな場所は我々には存在しない。主人公を客観的に見ることなど不可能なのである。このようにして、フットライトは作品の正しい受容の仕方を滅茶苦茶にしてしまう。作品の演劇的効果は、複数の声が飛び交う真っ暗な舞台である、それ以上のものではありえない。」(セミナーの聴講者ミールキナのノート)》
・ワルワーラ夫人が現れてからの対話は、ステパン先生は「マダーム」と呼び掛けながら喋るが、科白自体はGとの対話から採られているな。「タコクミン!にキセイしてきた!われんわれんのいまわしい根性!なんですよん!」「ゼツ!メツ!されるべきですねん!」。それに対するワルワーラ夫人のジョギングしながらの科白は、別のところから採られている。一見対話のように噛み合っていると聞こえるけれど。
・Gとステパン先生とワルワーラ夫人三人のジョギングしながらの会話。Gが「人間は高潔さから死ぬことができるものでしょうか?」みたいなことを突然言い出すが、原作のどこからだろうか? ワルワーラ夫人への問い掛けのようだが。ワルワーラ夫人が答えないのでGが「奥さん!」、ステパン先生が「マダーム!」と叫ぶ。さらにGが重ねてワルワーラ夫人に「ロシア式の魂から出た質問を……」と問い掛けるが、この「魂」の時にステパンと一緒になって「タマスィ!」「タマスィ!」「タマスィ!」「タマスィ!」と交互にコールする。ところでこのGの科白だが、原作から探したところ、Gの科白ではなくて第一部第五章第4節でのレビャートキン大尉とワルワーラ夫人との会話からのものだった。(上巻274-275頁)
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「奥さん!」ふいに大尉がわめくような声を出した。「一つ質問をさせていただけませんですか、たった一つだけですが、ずばりと単刀直入に、つまり、ロシア式の、魂から出た質問を?」
「どうぞ」
「奥さん、あなたはこれまでに苦しまれたことがおありですか?」
「つまりあなたは、ご自分がだれかのために苦しんできた、でなければ、いまも苦しんでいるとおっしゃりたいんでしょう」
「奥さん、奥さん!」彼は、おそらく自分でもそれと気づかぬうちに、胸を叩きながら、ふいにまた立ちあがっていた。「ここが、この胸のところが、それはもう煮えくり返らんばかりなんです、最後の審の日にもしことが明るみに出ましたら、神さまでさえ驚かれることでしょう!」
「まあ、たいそうな言い方だこと」
「奥さん、ひょっとすると、私の言い方は八つ当り気味になるかもしれませんが……」
「ご心配なく、あなたにいつ黙っていただくか、わたしも心得ていますから」
「もう一つ質問をしてよろしいでしょうか、奥さん?」
「質問なすってけっこうですよ」
「人間は自分の心の高潔さだけから死ぬことができるものでしょうか?」
「存じませんね、わたし、そんな質問を自分にしてみたことがありませんから」
「ご存じない! こういう自分をご自分になさったことがない!」大尉は皮肉たっぷりに叫んだ。
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・上でダイアローグと言ったが、一応ゆるやかな枠組みとしては言葉の応酬が成り立っているけれども、変な脱線が多い。場合によっては交互にモノローグを言っているみたいな感じになる。或いは、言葉が別の登場人物に反響して、同じ言葉(或いは別の言葉)を二人でリズミカルにくり返したりする。「タマスィ!(魂)」「タマスィ!」「タマスィ!」「タマスィ!」。「ロシア文字!」「メルシィ!」「ロシア文字!」「メルシィ!」「ペテルブルグ!」「メルシィ!」「ペテルブルグ!」「メルシィ!」「家族制度!」「メルシィ!」「家族制度!」「メルシィ!」。ここでステパン先生が走りながらフランス語で「メルシィ!」と合いの手を入れるのはハイテンションで爆笑できる。「メルシィ!」言うたびにコブシを利かしてるみたいな。これに重ねてワルワーラ夫人が喋りはじめると、まじカーニヴァル的な騒々しさ。
・G「検閲!」ステパン「メルシィ!」G「検閲!」ステパン「メルシィ!」G「家族制度!」ステパン「メルシィ!」G「家族制度!」ステパン「メルシィ!」G「フェミニズム!」ステパン「メルシィ!」G「フェミニズム!」ステパン「メルシィ!」の掛け合いが始まる前に、ステパンの走りは全速力になってテンションが上がってくる。ときどきガッツポーズ入れたりして。爆笑。
・Gのリフレインにステパン先生が「メルシィ!」と逐一掛け声を入れて行くところで、ステパンは雪面に降りる。すると雪面に上から照明が当って明るくなり、コーラスのSEが入ったところで、床が浮いている、その下の隙間から他の登場人物が全員出てくる。ステパンは「メルシィ!」「メルシィ!」言いながら一人一人を引っ張り出してやる。全員白基調の衣装。床から一段低くなっているところは白い砂が敷き詰められていて(照明が当って初めて分かる)、なぜか、登場人物たちは取っ組み合いを始める。倒れて砂の中に埋まっているやつもいる。ステパン先生はさらに倒れているリーザの脚の位置を直してやったりする(爆笑)。ピョートルは腕を組んで黒深穴のところを歩いている。この穴は、立って歩くと上半身は見えるが、屈むと見えなくなるというぐらいの深さだな。スタヴローギンはリーザの足元に立つ。リーザが出て来たのは黒細穴からだった。キリーロフとステパンが取っ組み合いをするが、コーラスの音響が響くとキリーロフがぶっ倒れる。そしてまたメルシィ!メルシィ!言いながら走り出すステパン。
・ピョートルが「いいですかー!」と話し始めると、ステパン先生止まる。ずっとリフレインをつづけてかなりのスピードで走っていたGは、喋り疲れたみたいになって、驚いたような悲鳴を上げて舞台上手前でぶっ倒れる。ピョートルは演説のように強烈に喋る。途中でスタヴローギンが言葉を挟んで、対話っぽくなるが、顔を合わせたり視線を交わしたりということは一切ない。てんで銘々に喋っているのがたまたま噛み合ったみたいに見える。ピョートルが「ツルゲ↑ーネフ」の話を出すと、それまでずっと周回ジョギングしていたステパンが突然「僕はツルゲーネフがー分からなーい」と歌う。ダイアローグではなくてモノローグのモンタージュみたいだ。
・ここでのピョートルおよびスタヴローギンの科白は、第二部第八章のスタヴローギンVSピョートルの対話から取られている。「いいですか、いいですか、出来合いのちょっとした思想の断片だけで、いったいどれくらいのものを獲得できると思います?……ああ、実に残念だな、プロレタリヤがいないのは!」(下巻129-130頁)ステパン先生また走り出す。ピョートルが喋っている間にキリーロフが飛びかかって、喋るのを邪魔する。スタヴローギンも走り出している。ピョートルの科白に対し「われわれがすこしばかりになったことも、やはり残念だね」と走りながらスタヴローギンが返すが、これは原作でもピョートルの科白の次に来る科白。さらに喋りつづけるピョートル。ピョートルがツルゲーネフの名前を出すと、ステパン先生が「ぼくにはツルゲーネフが分からなーい」と歌い出す。これは前述のように第二部第一章第2節(上巻335頁)の科白。完全に時系列無視で科白をカットアップしているということ。そしてピョートルが喋りつづけているあいだに、立ち止まっていたワルワーラ、ステパンがふたたび走り出す。
・Gがまた走り出している。ピョートルが話し終えると、Gが「僕ははじめてきみの話を考えを聞き!ましたよ」と言うが、これは原作では第二部第八章のスタヴローギンの科白(下巻131頁)である。それからまたGはジョギングしつつロシア語の掛け声を上げ始める。
・宗教合唱曲っぽい音響が流れ、いきなりキリーロフが砂に埋もれたまま喋り出すが(Gのロシア語の掛け声をBGMに)、その「僕はシャートフがかわいそうだ」という科白は、第三部第六章第2節のピョートルとキリーロフの対話からの科白(下巻431頁)で、シャートフがすでに殺された後のものだから、やはり順番は無茶苦茶なんだよな。
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「ぼくはシャートフがかわいそうだ」またピョートルの前に立ちどまって、彼は言った。
「いや、ぼくだってかわいそうさ、しかしね……」
「黙れ、悪党!」キリーロフは恐ろしい、決然とした身ぶりを見せて叫んだ。「殺すぞ!」
「まあ、まあ、嘘ですよ、たしかに、かわいそうだなんて思っちゃいない。でも、いいじゃないですか、いいじゃないですか!」片手を前に差しのべて、ピョートルは警戒気味に腰を浮かせた。
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キリーロフは砂に埋まったままシャートフとピョートルに呼び掛ける。ピョートルが挑発っぽいことを言うんだけれど、キリーロフはそれにリアクションを返すでもない。ピョートルがキリーロフに話し掛ける台詞を言うのに、それにつづく次のキリーロフの台詞は、スタヴローギンに向けたものだったり。やっぱモノローグのモンタージュみたい。次にシャートフが話し始めると、マリイ(赤ん坊の縫いぐるみを腰にぶら下げている)が取っ組み合いしようと襲い掛かって行く。スタヴローギンも取っ組み合いに参加。ずっと取っ組み合いしながら台詞を言う。めちゃくちゃ変な身体の絡み合いの中で台詞を出して行く。不気味な言動不一致。ふたたび、ステパン、ワルワーラ夫人が周回ジョギング始める。
・そのシャートフとスタヴローギンのやり合いと同時進行で、Gがジョギングしながら何かを大声で説明し始める。G「くり返しまーす、これは確実なん、です!」。スタヴローギン「もしかすると、きみは殺されますよ」。この局面、どうやら原作の第二部第一章第6節におけるスタヴローギンVSシャートフの対話(上巻374-381頁)からの、スタヴローギンの科白をGとスタヴローギンに割り振って喋らせているのだな。スタヴローギンは取っ組み合いしながらだから、科白を言うのは凄い必死にならざるを得ない。台詞を言う人物もめまぐるしく変わって、騒々しい。とにかく台詞の応酬に途切れがない。シャートフも「マリイ、マリイ、君なのかい」とうるさい。いつしかステパンとワルワーラ夫人もジョギングを止めて、取っ組み合いしながら喋っている。
・シャートフ×スタヴローギン(×G)の対話だったところから、突然にキリーリフの科白が飛び込んで場面が分裂。場面というか、具体的な何かを想像させるような装置も美術も文脈も何もないから、科白と登場人物の関係性が分裂したと言うのが正確だが。キリーロフ「なんでも書いてやる……」。これは原作第三部第六章第2節、キリーロフが自殺する直前のシーンからの科白だな。「口述したまえ、なんでも書いてやる。シャートフを殺したとも書いてやる。おれが滑稽がっているうちに、口述するがいい。高慢ちきな奴隷の思想なんぞこわくないぞ! 隠れたるものがすべて顕われることが、きさまにもわかるだろうさ! それできさまは圧しつぶされるんだ……信ずるぞ! おれは信ずるぞ!」(下巻440頁)。順番無茶苦茶なので、原作知っていると却って混乱するな……。このとき、スタヴローギンはマリイと、キリーロフはシャートフと取っ組み合いをしている状態だが、キリーロフが叫び終えるとドーンと大きな落雷の音がして、全員一旦ぶっ倒れる。ジョギングしていた人たちも立ち止まる。だが三人とも順繰りにまた距離をおいてジョギングし始める。
・シャートフとキリーロフが交互に叫んで、さまざまな科白がミックスされる。相手の話を聞くときは立ち止まる。面白いミザンス。台詞の区切りに、ときどき音響でコーラスが入ることがある(ということは、すべてタイミングも綺麗に決まっているわけだ。大きな枠組みとしてダイアローグになっているのだが、部分的にモノローグのコラージュとなる。しかも対話の流れに烈しい雷の音や、コーラスの音が絡んで、全体的に音楽的な構成性が見えてくる)。
そこからまたドーンで全員ぶっ倒れる。からの、下手に立ち止まっていたGが、キリーロフに喋り掛ける。G「人間に自殺を思いとどまらせているのは?」。これは原作でもGとキリーロフとの対話から取られたもので、第一部第二章第8節(上巻177頁)に出て来る。するとまたキリーロフが立ち上がって喋り始めるが、それも原作通りの答え。キリーロフ「二つの偏見が思いとどまらせていますね……」。喋り出したキリーロフに、シャートフとキリーロフが飛びかかってまた取っ組み合いになっていく。Gだけでなくワルワーラ夫人、マリイもこの話に介入してくる。ワルワーラ夫人「思慮をもってやる人なんているものですかね?」。原作ではGの科白だけどね。さらにステパン先生まで介入してくる。ステパン「建物ほどの石……怖いですよねん!!!!」。Gはまた同時進行でロシア語の掛け声を上げてジョギングしている。
シャートフとGの対話と、ステパンとワルワーラ夫人の対話、さらにキリーロフの演説、ピョートルの演説が交互にモンタージュされてカーニヴァル的に騒々しくなっていく。そのとき喋っている人間に対して、次に誰がその言葉に突っ込みを入れるかはほとんどランダムになっているかのような。その「時空間」の具象性がまったくないからな。ただ周回ジョギングができるような空間があり、そこにすべての登場人物が走りまわったり取っ組み合いをしながらランダムに喋る。走りながら対話する。
・キリーロフ、シャートフ、スタヴローギン、マリイの四人がやがて取っ組み合いに疲れ切ったように倒れる。原作でのGの科白、「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、……」(上巻179頁)を言い切ったところで、全員停止、Gも立ち止まる。それに対する科白をキリーロフが喋る(原作どおり)ときには、キリーロフ一人だけ雪面をのたうち回って激しく動いている。キリーロフ「それが卑劣なんです!」。全員止まってそれを見ている。G「してみると、いまは神がいるわけですね?」これも立ち止まったまま。
・で、このGとキリーロフの「神」に関する会話から、一挙に原作第一部第一章第9節のステパン×シャートフの「神」に関する会話に飛ぶ。この飛躍は内容的には一貫性があって面白い。もちろん物語の順としては無茶苦茶だが、原作から時系列無視で意味の連続性だけを考えてサンプリングしている好例。ステパン先生走り出す。「ぼくは神を信じてますよ。タダ・コトワッテオクケド、ぼくが信じているのは、ぼくの中においてのみ自己を意識する存在としての神なんですね。うちのナスターシヤや、《万一にそなえて》信心もしておこうなどというどこかの旦那衆のような信仰をぼくがもてるわけもない。……」(上巻55頁)。で、G、ステパン、ワルワーラ夫人がジョギングを始める。シャートフとキリーロフが取っ組み合いを始める。音響として宗教合唱曲が流れ出す。ピョートフも深穴を歩きながら喋る。キリーロフも喋り出す。人神思想。「あえて自分を殺せる者が神です。いまや、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもできるはずです。……」(上巻180頁)。このキリーロフの科白は原作第一部第二章第8節のもので、つまり、ふたたびGとキリーロフの対話に戻って来た。Gは上手に立ち止まって、「自殺者はたくさんいましたよ」。全員止まっていて、またキリーロフ一人がのたうち回っている。キリーロフ「神が生涯ぼくを苦しめてきたんです」。G「どうしてあなたのロシア語はちょっとおかしいんです?」。このやりとりは完全に原作どおり。最後にキリーロフぶっ倒れる。キリーロフが動かなくなってから、コーラスの音響。
・さて、一瞬間があって、Gが「カーミーはー、カーミーはー、イッチコクミンの……」と長い科白を口にしながらまた一人ジョギングを始める。この長い科白はこの後何度もくり返されるが、原作においてはGのものではなく、シャートフがスタヴローギンの過去の思想を要約して語る科白である。第二部第一章第7節。「神は、一国民の起原から終末にいたるまでの全体を代表する総合的人格である。すべての国民、と言わぬまでも多くの国民が一つの共通の神をもっていた例はいまだかつてなく、つねにそれぞれの国民が独自の神をもっていた。神が共通のものになりはじめるのは、国民性の滅亡の前兆である。神が共通のものとなれば、神も神への信仰も、その国民自身とともに死滅する。一国民が強力であればあるほど、その神は独自である。……」(上巻393頁)。全体としては静的なミザンス。雪面の照明が暗くなり、冒頭のときと同じようなライティングになる。やがてワルワーラ夫人、ステパンも順々にジョギングを始める。ここから局面は、Gのジョギングしながらの長科白をBGMに、スタヴローギン×シャートフの対話へと飛躍する。スタヴローギンは立ち上がって、「ぼくはひとつ、きみに質問をしたいのですがね」。シャートフも立ち上がって、「お願いです!」から、第二部第一章第7節のスタヴローギン×シャートフの対話をなぞっていく。スタヴローギン、シャートフ、周回ジョギングを始める。二人ともジョギングしながら喋るのだが、相手の話を聞くときは立ち止まる。マリイも走り始める。ときどき、同じくジョギングしているステパンが顎に手を当てた格好で「ワ・ダ・イ・ヲ・カエマスヨン」と突発的に言う。マリイも「つーかれちゃった」など突発的に口を挟むが、これは原作では第三部第五章第1節のシャートフ×マリイの科白から取られたもの(下巻357頁)。シャートフ×スタヴローギンの対話と、シャートフ×マリイの対話をミックスしている。シャートフの周回ジョギングのスピードは早い。Gを追い越す勢い。スタヴローギンを前にして興奮しているシャートフの心境の表れか。凄い必死で発声したりする。シャートフ「ぼくはヨウキュウするんです!」。そのあいだずっとGはジョギングしながら「カーミーはーカーミーはー」と台詞を喋っているのだが、音量は抑えられている。そこまでコントロールされているわけだ。
・シャートフとスタヴローギンの対話だったところから、今度は突然シャートフとマリイとの対話になる。するとシャートフが逆走したりする。シャートフ「せめてお茶でも飲むことを承知してくれたらいいんだけど、どう?」マリイ「もちろんいただくわ」。下巻361頁から取られたシャートフ×マリイの対話を、全速力で走りながら必死で。「いますぐーなにもかもーソロウヨー!」このあたりで逆走していたマリイとシャートフがぶつかって舞台全面で取っ組み合いが始まる。取っ組み合いしながら対話する二人。マリイ「でもワッタッシッが、昔のばかげた関係をフッカツ、させるために……」これは原作下巻358頁から取られたもの。順番が前後しているな。このとき、マリイとシャートフが他の登場人物が周回ジョギングをするのに邪魔になるので、ステパン先生が交通整理をする。爆笑。変態的ミザンス。
・マリイが「あーつっかれた、もうやめまっしょー」の科白(下巻359頁)でシャートフを投げ飛ばすと、音響でコーラスが入って、舞台奥に立ち止まっていたスタヴローギンが「そろそろ本題に入ってくれないかな!」とシャートフに呼び掛けるところから、ふたたびシャートフ×スタヴローギンの対話へ移行。シャートフ「スタヴローギン! その坊ちゃん面を止めてください!」(上巻386頁)。このとき、シャートフは舞台前にいるので雪面を挟んでスタヴローギンに呼び掛ける形になる。格好いいミザンス。
・とくにシャートフは、凄い必死で喋っているのだが、身体の体勢は完全に対話相手とは離れているし、しかもステパン先生から身体的に妨害を受けてもそれを意に介さず(というよりそれを押し退けようとするのでさらに喋り方が必死になるが、「邪魔だ」という表情は一切見せない。まるでステパン先生が透明人間であるか、あるいは単に暴風に押しまくられているかのように振舞っている)、それが義務であるかのように持ち台詞を発語しつづける。台詞の内容は特定の相手に切々と訴え掛けるようだから、意識としてシャートフがそこで台詞の内容と感情を一致させているのは分かるのだが、他の登場人物との身体的な相互リアクションにおいてはまったく別の文脈・内容を表わしているかのようなのだ。自分の身体の状況は完全に意識の外にあるかのような。だって、突然マリイと取っ組み合いを始めることと、シャートフが話していることとなんてほとんどつながりはない。身体的な動きもモンタージュされているかのよう。しかもそれが、台詞のモンタージュとはズレているわけだ。しかも発声が変だし。「むずかスィ!(難しい)」。それが一番よく表れたのは、シャートフの外れた眼鏡をステパン先生が掛け直してやろうとするところで、でもそのステパン先生の動作がまったく目に入らないかのように、シャートフは身体を上下に揺らしながら喋りまくるので、なかなか眼鏡をもう一度掛けさせることができないという時間が長くつづいた。これは、ステパン先生の動作に対するリアクションを完全にシャートフが断っているということ。そしてその最中の台詞の内容はスタヴローギンに対する訴え掛けなのだが、対話の言葉は一応原作どおり噛み合っていても、もちろんスタヴローギンの方を見ながら喋ったりなんてことはしない(客席の方を向いて宣誓するかのように喋っていた)。ミザンス・姿勢においては全然噛み合っていない。
・スタヴローギン走り出す。シャートフが舞台最前からさらにスタヴローギンに話し掛ける(といっても身体の向きは客席を向いている)。シャートフ「いまこの地上で、新しい神の名において世界を一新し……」(上巻387頁)「神を取り替えるのは難スィ!」(上巻389頁)。そこへステパンが近付いてシャートフの口を塞ごうとするので、言葉がときどき途切れて喋り方が必死になる。シャートフはさらにピョンピョン跳ねる。ステパンはそれを抑えつけようとする。スタヴローギンは走りながらシャートフと対話する。スタヴローギン「僕はあの手紙を三枚だけ読みましたよ……」(上巻389頁)。原作は第二部第一章第7節の対話より。だが突然ここでシャートフがキリーロフに「キリーロフ、お茶をくれないか!」と呼び掛ける。これは原作第三部第五章第1節のシャートフ×マリイの対話からの流れで、マリイがお茶を貰う、と言ってから家にお茶がないのにシャートフが焦って、キリーロフのところまでお茶を分けて貰いに飛んで行ったという場面から取られている。つまりまたさっきのマリイとシャートフの対話のつづきに戻って来たということ。ここ一連の流れで第二部第一章第6、7節と第三部第五章第1節をミックスしているわけだ。キリーロフの声が劇場内全体に響く。黒深穴にマイクがあって、そこで喋ることができるようになっているらしい。キリーロフの応答の言葉、これも第三部第五章第1節の流れで出てくる科白である。キリーロフ「奥さんが来たのなら、サモワールが要るね……」。シャートフも黒深穴に降りて行って、キリーロフと取っ組み合い。そこにステパン先生も絡んでくる。でもこのキリーロフとシャートフの会話の中で「無神論」の言葉が出てきて(「もしもきみが、あの恐ろしい幻想をあきらめて、あの無神論的なうわごとを捨てることができたら……」下巻363頁)、それを蝶番にしてまた第二部第一章第7節のシャートフ×スタヴローギンの対話に戻る。シャートフ「あなたは自分で言われたこういう言葉を覚えていますか。『無神論者はロシア人たりえない、無私論者はただちにロシア人たることをやめる』、覚えてますか?」(上巻391頁)。このとき、周回ジョギングしているのはスタヴローギンだけになっている。そしてつづいていくシャートフとスタヴローギンの対話。そこにステパン先生が割って入って「それはスラヴ派の思想だと!思いますねん!」と叫ぶが(爆笑)、これは原作ではスタヴローギンの科白。それに対しシャートフは「黙っていてください!」と叫ぶ。コーラスが響く。ドロドロドロドロの音響が大きくなる。シャートフとステパン先生ぶっ倒れる。一旦全員停止。
・Gがまた周回ジョギングを始める。そしてランニングの掛け声のように長い科白を口にし始めるが──「いっかなるコックミンも……」「カッガックとリッセッイに……」──これもやはり原作ではシャートフがスタヴローギンの思想を要約して語る科白と同一。「いかなる国民もいまだかつて科学と理性に基づいて存在したためしはない。ほんの一次的に、ばかげた気の迷いでそうなったのを別にすれば、そんな実例は一度としてなかった。社会主義はその本質からいってすでに無神論たるべきものである。なぜなら社会主義は、まず開口一番、それが無神論的な制度であって、科学と理性のみに基づいて存立するものであることを宣言しているからだ。……」(上巻393頁)。Gが掛け声を上げているあいだに、シャートフ起き上がる。そして走っているスタヴローギンに向かって喋り始める。中断された対話のつづき(上巻391頁)。ステパン先生は深い穴の縁に疲れたように寄り掛かっている。ピョートルは紅茶のカップを口に運んでいる。ピョートルがシャートフの話の途中で笑い声を上げたので、シャートフはピョートルの紅茶を取り上げて投げ捨てる。Gはまだジョギングしながら掛け声を上げつづけている。G「社会主義!は!まず開口一番!……」。シャートフは雪面に立って片手を差し上げ、たびたびスタヴローギンに呼び掛け(しかし身体の向きは客席)、原作第二部第一章第7節の科白を口にしつづける。シャートフ「あなたは、ローマ・カトリックはもはやキリスト教ではないと信じていたのです。……あなたははっきり指摘しましたよ、いまフランスが苦しんでいるのは、ひとえにカトリックの責任である、なぜなら悪臭ふんぷんたるローマの神をしりぞけながら、新しい神を見つけ出せなかったからだ、とね。……」(上巻391頁)。シャートフが過去のスタヴローギンの発言をくり返すわけだが、それに対してピョートルが「昔の自分の思想をくり返されるのは不愉快なものです」と口を挟む。が、これは原作ではスタヴローギンの科白。
・突然、長科白=掛け声を上げながらジョギングしていたGが「もし信仰を持っていたらですって?」と叫んで立ち止まる。これは原作ではシャートフの科白(上巻392頁)。そのつづきの科白はシャートフが引き取って走りながら言う。シャートフ「あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろう……」。スタヴローギンも走りながら、「きみはいまでも、われわれは時間と空間の外にあるという意見ですか……」。原作どおりの対話の流れ。
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「もし信仰をもっていたらですって?」相手の頼みにはいささかの注意も払わないで、シャートフは叫んだ。「でも、あのときぼくにこう言ったのはあなただったじゃありませんか、たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね? 言ったでしょう?」
「まあ、ぼくにもいい加減、ひとつ質問させてくれませんか」スタヴローギンが声を高めた。「いったいこの性急な……意地の悪い質問は何のためなんです?」
「この試験は永久に過去となって、二度とあなたが思い出すことはありません」
「きみはいまでも、われわれは時間と空間の外にあるという意見ですか……」
「お黙りなさい!」ふいにシャートフはどなりつけた。
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この「お黙りなさい!」でG、スタヴローギン、シャートフはジョギングを止めて、下手前まで来て立ち止まる。すると大きな落雷の音がして、雪が止む。ドロドロドロドロ……という音響もぴったり止む。舞台全体が静的になる。
・静かになった舞台上で、スタヴローギンとシャートフ(とG)が対話。といっても横並びのまままったく相手の顔を見ず、客席の方に身体を向けてている。相変わらず体勢としては二人(三人)ともリアクションでつながっていない。言葉としては「あなたは……」「シャートフ君……」「なんですって?」という文句があるから対話的に働きかけているのだが、身体的にはまったく別様の関係性を生み出している。台詞を言うときに、選手宣誓みたいに客席に向かって片手を上げたり。そもそもスタヴローギンとシャートフの対話場面にGがいることもおかしいし、Gが口にすることも対話に間接的にしか関わっていなくて、通常の意味での現前的な会話ではない。二人の対話の科白は第二部第一章第7節(上巻396頁以降)から取られている。シャートフ「兎のソースを作るためには兎が要る、神を信ずるためには神が要る」。時々Gが口を挟むのは、例のシャートフがスタヴローギンの思想を要約した長科白の一部を突発的に口にしているだけ。また、シャートフとスタヴローギンの対話中に突然、中央の穴から出て来て腕を振り回しながらステパン先生が容喙してくるが(「ノズドリョフ!……」)、「黙っていてください!」とシャートフに叱られる。
・時々、ドーンドーンと落雷の音がして、埃が溢れるみたいにちらっと雪が降る。ドロドロドロという音響も流れるが、流れたと思うとすぐに止む。落雷のドーンという音がしたときだけ、照明が若干暗くなる(すぐに戻る)。このとき、マリイは舞台奥センターにいて、赤ん坊の縫いぐるみを片手に持ってぶらさげている。そして穴の向こう岸から、突然「あーーーーーーーーーつーかれちゃった!」と口を挟む。そこからまたシャートフ×マリイの対話に移行する。つまり原作第三部第五章第1〜2節のつづき。もうずっとそうだが、場面の切れ目なんて一切存在しない。で、そのあいだもGは例の論文調の長科白をときどき口にするのだが、それに対してマリイの「それ、なんのこと?」(下巻374頁)がかぶさる。もちろんこれは原作ではシャートフに対する科白。原作のまったく別の文脈から取られてきた複数の科白を噛み合うようにリミックスした好例。シャートフとマリイの話はやがて原作どおり製本所の話に。マリイ「それならもっとはっきり言えばいいじゃない。あいつだなんて言うから、だれのことかわかりゃしないわ。文法を知らないのー」(下巻375頁)。シャートフ「マリーマリー、オー、マリー」(下巻376頁)。ステパン先生うろうろし始める。そして舞台下手前のG、シャートフ、スタヴローギンが並んでいるところに近付いていって、彼らのあいだを、「ちょっと済みません」みたいに恐縮しながら通ろうとする。けど三人とも意に介さない。爆笑。
・で、シャートフの「やめようマリー、この話はア↑トダ!」(下巻377頁)の科白から、「スタヴローギン、あの話はほんとうですか?……」と第二部第一章第7節(上巻399頁)の科白につなげて、ふたたびシャートフ×スタヴローギンの対話に移行。シャートフ、言葉の区切りではスタヴローギンの方を向く。シャートフ、「なぜ悪が醜く、善が美しいのかは、ボクニモワカラナイ!」。スタヴローギン「きみの目的は何なのです?」。シャートフ「ダイチヲ接吻ナサイ」「涙デウルオシナサイ」「許シヲコイナサイ」(上巻401頁)と変な棒読みで。シャートフ「あなたが帰ったあとで、ぼくがあなたの足跡に接吻しないとでも思イマッカ?」「ぼくは自分の心からあなたという人をモギ!ハナセナイノデス!」(上巻401頁)。スタヴローギン「ぼくにはきみを愛することができなくて、残念です」。スタヴローギンがこの科白を言ってから、Gとシャートフが走り出す。ここからまた雪が降り始める。シャートフの方がスピードが速く、Gとすぐに距離が離れる。スタヴローギンに訴え掛けるように、どんどん声音は烈しくなっていくのだが、ジョギングしているわけなので、全然相手とリアクションでつながっていない。なんだろうか、このジョギングがそのままシャートフのテンションの高さの表れであるような感じ。シャートフは走りながら大声で喋る、「僕自身坊ちゃんだからです!」「神を労働で手に入れるんです」。それに対してステパン先生が突然叫び出す、「神うを、ロウドウでン????? どんな労働でですん!!!!!!!」。爆笑。いやそれおまえの科白じゃないから。このあたりの科白は上巻402頁から。さらにそこに突っ込む科白を口にするのが、今度はピョートル。ピョートル「神を百姓の労働によって手に入れられると思っているんですか?」。
・マリイも走り出す。シャートフがマリイに話を振る。マリイ「あーーーーーー生まれる前から呪われるがいいわこんな赤ん坊!」。さっきシャートフが「この話はア↑トダ!」と言った後のつづきで、ふたたび第三部第五章第2節のシャートフとマリイの対話に戻ってくる。シャートフ「産婆を呼んでクル! ピストルを売ルンダ!」(下巻379頁)。シャートフもマリイも猛スピードで走る。マリイは赤ん坊の縫いぐるみを捨てる。シャートフがそれを走りながら拾い上げる。シャートフ、赤ん坊を頭上に差し上げ、走りながら必死で息切れしながら叫ぶ、「新スィ生の出現の神秘ですよ!」(下巻398頁)。もう赤ん坊が生まれた後なので、一挙に第三部第五章第6節に飛躍。それに対してマリイが「まあ、くだらない、オルガニズムの生成発展というだけで、神秘なんて何もありゃしないじゃないの」と言うが、これは原作ではマリイではなくて産婆アリーナの科白。突然走っている最中にシャートフ、ステパン先生とぶつかって取っ組み合いに。赤ん坊の縫いぐるみを取られて、それを取り返そうとするが、ステパン先生はフェイントを使って上手くシャートフが向かってくるのを避ける。爆笑。この身体の動きと、シャートフが口にする科白は全然つながっていない。
・シャートフ逆走する。シャートフは舞台奥の下手あたりで立ち止まる。ステパン先生が「あなたはいま、とても幸福そうですねん!」とシャートフに言うと、ドーンと落雷の音がして、シャートフが倒れる(死んだっぽい)。このステパン先生の科白は原作では第三部第五章最後の行で、少尉補エルケリが口にするものだが、後にシャートフが殺される展開を考えると皮肉かつ不吉な暗示を含む科白である。シャートフが倒れてから、またドロドロドロドロという音が復活する。
・しばらくみな止まっているが、マリイが逆走開始。Gも例の長科白を大声で口にしながら周回ジョギング開始。G「すべてのコックミンがー……科学は開放を……善悪のカンネンを……」。ワルワーラ夫人も走り出す。静→動。ステパン先生、倒れているシャートフを立たせる。その頭にスタヴローギンが上衣を脱いで掛けてやる。キリーロフはシャートフのそばまで歩いていって、シャートフを抱え上げて、そのまま歩く。のちにそれをワルワーラ夫人が手伝って、二人で死体を水平に抱えて歩く。葬列みたいに(シャートフの死体は最終的には雪面に立たされる)。逆走しているマリイとステパン先生が下手でぶつかって取っ組み合いになる。
・Gが長科白を掛け声のように口にしながらジョギングしつづける時間帯がしばらくつづいてから、「これは、ああ! これは、ああ! みんな、ああ! あなた自身の言葉! なん、です、よ!」と言ってスタヴローギンのそばで立ち止まるのだが、これは原作どおり。もともとこのGの長科白はシャートフがスタヴローギンの過去の思想を要約して語ったもの。そしてその科白の途中でまさに「これはみんなあなた自身の言葉なんですよ、スタヴローギン」って言葉が出てくるのだ。「……半科学──それは今日までまだ現われたこともないような専制者である。この専制者は、おのれの神官と奴隷をもち、すべての者が、これまで考えられもしなかったような愛と迷信をいだいてその前にひざまずき、科学そのものさえもその前ではふるえおののいて、恥ずかしげもなくそのご機嫌をとり結ぶ。これはみんなあなた自身の言葉なんですよ、スタヴローギン、半科学についての言葉だけは別だけれど。……」(上巻394頁)。
・Gの喋りが止むと、登場時から寝ていて何も言ってなかったリーザが突然「川向こうが火の海よ!」と叫ぶ。ちなみにこれは原作ではリーザの科白ではない(下巻267頁)。つづけて黒細穴に移動していたピョートルが「放火だ♪ シュピグリーンの工場の連中だ♪」とマイクで歌い出すが、これも原作ではピョートルの科白ではない(下巻267頁)。黒細穴にオレンジ色の照明が満ちる。宗教合唱曲が鳴り響く。完全に場面の位相の変化がシームレス。突然、マリイと取っ組み合いをしていたステパンがマリイを投げ飛ばし、舞台最前までよろめきながら歩いて来て、悶えながら、狂的に叫ぶ。ステパン「ニーヒーリーズームー!だぁーーん! 何かが燃えてるとしたら、そいつは!ニ!ヒ!リ!ズ!ム!だぁーーーーーんぬ!!!!!」。超苦悩の表情で。爆笑。宗教合唱曲を背景にしているので余計笑える。ちなみにこれも原作ではステパン先生の科白ではない(下巻273頁)。すべて火事の現場で群衆が上げた言葉。
・宗教合唱曲が鳴り響きつづける中、Gがかなりのスピードで走りながら「これは違う! 違う!」と叫ぶが、これは原作ではシャートフを殺したときのヴィルギンスキーの科白(下巻417頁)。リーザがいつの間にか立ち上がって歩き出している。それからGはさらに例のシャートフの長科白を口にし始める。「真の大国民はけっして人類における二流の役割に甘んずることはできないし……」これは原作では上巻365頁以下の科白。そしてこの科白は「……しかし真理は一つですから、したがって、諸国民の間でただ一つの国民だけが真実の神をもつことができる。なるほど他の諸国民も自分たち独自の偉大な神をもていますがね。《神の体得者》である唯一の国民──それはロシア国民です、……」とつづくのだが、Gはジョギングで息を切らしながら、「唯一のコックミン! それは、ああ! それは、ああ!」とまで言って、舞台上手前で立ち止まってしまう。するとそれを受けて、頭から白い上衣を被って雪面に立たされていたシャートフの死体が、「それは、ロシア、コックミンです!」と絶叫する流れになっている。これ以降、しばらくGは舞台上手前にうずくまって動かなくなる。
・一旦静寂。それから黒細穴からピョートルが立ち上がって「いいですかー!」と言う。ここからの科白はまたしても第二部第八章のピョートル×スタヴローギンの対話から取られている。ピョートル「ぼくらは混乱時代を作り出すんですよッ!」(下巻123頁)「きみは本気にしないんですかッ! ぼくらが二人いれば十分だということをッ!」(下巻124頁)「きみは自分が美男子だということを知っていますかッ!」(下巻127頁)。その演説の途中で、そばにいるリーザに「リーザさんお早うございます」と挨拶する。リーザ走り出す。スタヴローギン走る。上衣のない、茶色のランニングシャツ姿のスタヴローギン、片手を上げながらの周回ジョギング。あれ、リーザまた寝ている。代わりに、キリーロフ、ステパン先生、ワルワーラ夫人、マリイたちも走り出す。スタヴローギンとピョートルの対話はつづく。むろんスタヴローギンは走りながらだが。ピョートル「ぼくはニヒリストだが美を愛するんですよッ!」(下巻127頁)。ピョートル「きみは太陽ですッ! ぼくなんかきみのッ! 蛆虫ですよッ!」スタヴローギン「気違い!」ピョートル「かーもーしれませーん」(下巻128頁のやりとり)。
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「スタヴローギン、きみは美男子ですよ!」ピョートルはもう陶然となりながら叫んだ。「きみは自分が美男子だということを知っていますか! きみのいちばんいいところは、きみがどうかするとそのことを忘れている点なんです。ああ、ぼくはきみを研究しましたよ! ぼくはよく横のほうから、物陰からきみを眺めるんです! きみには純真なところ、ナイーヴなところまでありますね、わかってますか? まだある、まだ残っているんです! きみはきっと苦しんでいますね、それも心から苦しんでいるにちがいない、それはきみの純真さのためです。ぼくは美を愛するんですよ。ぼくはニヒリストだが、美を愛するんです。だいたいニヒリストは美を愛さないでしょうか? いや、彼らが愛さないのは偶像だけですよ、ところがぼくは、偶像も愛するんだな! で、ぼくの偶像はきみなんです! きみはだれも侮辱するわけでもないのに、きみはみなから憎悪されている。きみは万人を平等に見ているのに、きみはみなから恐れられている、そこがいいところなんですよ。きみのそばへやってきて、なれなれしく肩を叩こうなんて者はだれもいない。きみはおそろしいアリストクラートなんです。デモクラートをめざすアリストクラートなんて、こいつは魅力的じゃないですか! きみは自分の生命だろうと、他人の生命だろうと、そんなものを犠牲にするくらい屁でもない。きみはまさしく打ってつけの人物なんだな。ぼくに、ぼくに必要なのは、ほかでもない、きみのような人間なんですよ。きみのほかには、ぼくはそういう人をだれも知りません。きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ……」
彼はだしぬけにスタヴローギンの手に接吻した。悪寒がスタヴローギンの背を走り、彼はぎくりとしてその手を引っこめた。二人は足を止めた。
「気違い!」スタヴローギンはつぶやいた。
「かもしれん、うわごとを言っているのかも、いや、うわごとかもしれない!」相手は早口で引取った。「しかしぼくは最初の一歩を考えたんですよ。シガリョフには第一歩はけっして考えつけない。シガリョフのような男ならたくさんいます! しかし、最初の一歩を発見して、その一歩をいかに踏み出すべきかを知っている人間は、ただ一人、ロシアにただ一人しかいかいんです。そのただ一人がぼくですよ。なんだってそんな目つきでぼくを見るんです? ぼくにはきみが、きみが必要なんですよ、きみがいなかったら、ぼくはゼロにひとしい。きみがいなかったら、ぼくは蠅ですよ、試験官のなかのアイデアです、アメリカなしのコロンブスです」
スタヴローギンは立ちどまって、もの狂おしい相手の目をまじまじと見つめていた。
「いいですか、ぼくらはまず手はじめに混乱を引起こすんです」ひっきりなしにスタヴローギンの左の袖をつかもうとしながら、ヴェルホーヴェンスキーはおそろしい早口でまくしたてた。「もう前にも言ったことだけど、ぼくらは民衆そのものの中に浸透していくんです。実を言うとですね、ぼくらはいまでももうおそろしく強力なんですよ。ぼくらの同志は、人を殺したり、放火をしたり、古典的にピストルを射ち合ったり、人に噛みついたりする連中だけじゃありません。そんな連中は邪魔になるだけです。ぼくは規律を抜きにしちゃものを考えられない。だってぼくはペテン師で、社会主義者じゃありませんからね、は、は! いいですか、ぼくはもうそういう連中をすっかり数えあげてあるんですよ。子供たちといっしょになって、彼らの神や揺籠を嘲笑する教師──これはもう同志です。教育ある殺人犯を、彼のほうが被害者より知的であり、金を得るためには殺人を犯さざるをえなかったのだと言って弁護する弁護士──これも同志です。感覚を体験するためと称して百姓を半殺しにする中学生──これも同志です。犯人を片端から無罪にする陪審員──やはり同志です。自分が十分にリベラルでないことを恥じて、法廷でびくびくしている検事──もちろん同志、同志です。行政官、文士たち、いや、同志は大勢いますよ、おそろしく大勢いて、自分じゃそうとは気づいていないんです!……」
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ピョートルの発声面白い。ヒットラーの演説調に、幼児的なコミカルさが混じっているかのような。スタヴローギンと対話しながらも、ピョートルが話し掛けているのは客席に向かって。
・ピョートルは途中からマイクを持ってそれで喋る(「アメリカなしのコロンブス……」の科白以降)。するとステパン先生がそのそばに寄って行って、マイクに興味を示す。ピョートルのマイクパフォーマンスを、エアマイクを持って真似したりする。爆笑。スタヴローギンは舞台下手奥に立ち止まって、黒深穴にいるピョートルの方へ屈み込んで、「きみはここで、だいぶ紳士ぶってるそうですね?」と言うが、これは第二部第一章第3節におけるスタヴローギンとピョートルの対話から取られたもので(上巻355頁)、文脈的には繋がっていない。それに対するピョートルの「おたがい、個人的な話は止めようじゃないですか……」という応答も第二部第一章第3節の対話からだが、そこからつづけてピョートルが客席の方を向いて口にする「まあ聞いてください、ぼくはこの目で見ましたがね、六つぐらいの子供が酔っ払った母親を……」はふたたび第二部第八章のピョートルの科白(下巻130頁)。つまり原作の二つのスタヴローギン×ピョートルの対話を時空間無視してリミックスしているわけ。ピョートル「しかし当面は一世代か二世代、堕落の時代が必要なんです……」。このとき走っているのはキリーロフ、スタヴローギン、マリイ、ワルワーラ夫人。立ち止まったり、と思うとまた走り出したり。
・ピョートルの長科白の後に、ステパン先生がマイクを奪って「誰をですん!!!」と叫ぶが、これは原作ではピョートルの科白の後につづくスタヴローギンの科白(下巻131頁)。照明暗くなる。ピョートルは喋りながら雪面に上がる。スタヴローギンは走っている。ピョートル「スタヴローギン、ぼくらのアメリカになってくれますね!」(下巻134頁)。
・突然、黒深穴のところにいたキリーロフが声を上げる。こめかみに指を突き付けて、遺書の読み上げ。「余、アレクセイ・キリーロフは宣言する。本日、十月×日、夕刻、七時過ぎ、大学生シャートフを、その裏切りのゆえに、公演において、殺害せり。……」(下巻441頁)。ここから原作第三部第六章第2節のキリーロフの自殺シーンへつながる。照明はさらに暗くなる。キリーロフだけを下から照らす照明。ジョギングしていた人間は全員立ち止まっている。原作ではその場にピョートルが居合わせている、そのとおりにピョートルが雪面を歩いてキリーロフのそばへ寄っていく。ピョートル「それ以上は一言も要らない!」キリーロフ「待て、待て、そんなばかな!……おれは全部書きたいし、罵倒してやりたいんだ……」ピョートル「人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるおのなんですよ、……」キリーロフ「ぼくは悪態をつきたい!」(下巻442-443頁)。ピョートルが「自殺しないな」と言っているあいだに、キリーロフは上衣を脱いで頭から被る。Gがうずくまったまま、地の文を読み上げる。G「ピョートルはみ!み!をそばだてた!」(キリーロフが自殺したかどうか銃声を聞くため)。キリーロフが自殺直前に口にする科白──「ぼくは一生涯、これが言葉だけであってはならないと、思って、キタ! そうあってはならないと思うから、生きて、キタ! ぼくは、いまでも、毎日、言葉だけに、終わらせまいと、念じて、イル!」──は下巻433頁からで、実際には自殺直前の科白ではない。大きな落雷の音ドーン。後ろに倒れるキリーロフ。一人拍手するピョートル。キリーロフが自殺してから、照明がもとにもどって冒頭っぽくなる。
・そこからステパン先生のターン。ステパン先生とワルワーラが走り出す。ステパン先生は他の止まっている人のところで、いちいち相手に話し掛けるように顔を寄せていく。ここでステパンが口にする科白は、原作は第三部第七章第2節、ステパン先生の最期が近付いているあたりから。「友よ、ぼくは生涯嘘をついてきました。真実を言っていたときにも。ぼくは一度として真理のためにものを言ったことがなく、いつも自分のためにだけで、そのことは前から知ってはいたのだけれど、いまはじめてはっきりと悟ったのです……おお、ぼくが一生の間、自分の友情によって辱めてきた友たちは、いまいずこに? みんな、みんなです! イイデスカ、ぼこうはいまも嘘をついているかもしれないんですよ。いや、たしかに嘘をついている。何より問題なのは、嘘をつきながら、ぼくが自分自身を信じていることです。この世でいちばんむずかしいのは、嘘をつかずに生きることですね、それと……それと、自分の嘘を信じないこと、そう、そう、これですよ! でも、お待ちなさい、これはまたあとで……ぼくらはいっしょですね、いっしょですね!」(下巻490頁)。発音は「うすぉっほぉ……、ついてきましたん」「みぃーんな、みぃーんなですん!」「いっやっはぁーん!!!」「コレデスヨーーーーー!」みたいな。ところで、このときステパン先生は穴に降りていってキリーロフを立たせたり、リーザの元へ行って耳を傾けたりするので、「ぼくらはいっしょですねん」の科白がキリーロフやリーザに言っているみたいに見える。原作ではソフィヤに対する科白である。
・ここからリーザが全速力で走り出す。途中でリーザとステパン取っ組み合いになる。リーザが口にする科白は第三部第三章第3節のリーザ×マヴリーキー、およびリーザ×ステパンの会話から取られている。マヴリーキーの役はステパンが代わって務める。リーザ「わたし死ぬのよ、もうすぐ死ぬのよ、でも、こわい、死ぬのがこわい……」(下巻308頁)。リーザ「わたし、自分の目で殺された人たちを見たいの!」(下巻309頁)。リーザ「こんなふしだらなわたしを赦しちゃだめよ!」(下巻309頁)。ステパン先生「いまあなた裁けるものは誰もいまっせんぬ!!!!!」(下巻309頁)。リーザ「あれはほんとうですの? ほんとうですの?」(下巻311頁)。リーザの「さあ、行きましょうよ!」の科白でステパン先生はリーザを肩車する。そしてステパン先生「ロッシアをさっがしに行くんで〜す♪」(下巻312頁)と大はしゃぎ。
・リーザはステパンに肩車されたままスタヴローギンと対話を始める。二人の科白は、原作第三部第三章第1節のリーザとスタヴローギンの対話から取られている。順番は原作どおりではなく、その上リーザが凄く感情的になっているので、噛み合ってない科白も含め、リーザが狂的ヒステリーを起こしているように見える。リーザ「このばかな娘を軽蔑しないで、それから、いま思わずこぼしてしまったこの涙をお笑いにならないで。わたしは《自分を憐れんで》泣くのが大好きなんです。でも、もうたくさん! うーーーーーうーーーーーーー」(下巻286頁)。泣くリーザ。それをステパンが慰める。「僕にとっては女性がすべてでしたん!」とか何とか。リーザ「わたしはなんの役にも立たない女、あなたもなんの役にも立たない方。おたがい恥をかき合ったんですもの、そう思ってあきらめましょうよ。すくなくとも自尊心は傷つかないですむわ」(下巻286頁)。スタヴローギン「リーザ、そんな芝居がかった言い方をされるとつらいんだ」(下巻281頁)。このあいだずっとリーザはステパン先生に肩車されたままだが、「告白? あなたの告白なんてまっぴらよ!」の科白で肩車から降りて走り出す。スタヴローギンと取っ組み合いをしに。そしてこのときGも再び走り出す。
・スタヴローギン、リーザと取っ組み合いしながら「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ!」(下巻288頁)。黒深穴にいたピョートルがまた喋り出す。科白は第三部第三章第2節のリーザ×スタヴローギン×ピョートルの場面の科白から取られている。スタヴローギン「ぼくから離れていってください、リーザ」(下巻301頁)。黒深穴のところに立っていたピョートル、喋り始める。「スタヴローギン、逃げようとしても無駄ですよ、僕らは君を殺しますよ!」。そのピョートルに、ステパンが「友よん! 友よん! でかけますよん!」とか言いながら躍りかかっていく。ステパンとピョートル、取っ組み合い。それから大声を上げてぶっ倒れて、宗教合唱曲が鳴り響く。荘厳な雰囲気の中、ステパン先生がゆっくりと立ち上がって雄々しく大声で演説し始める……「ジンセイの! イッコク、イッコクがーん! 人間にとって、至福のときとならなければならないのですーん!!!!!!!!」。爆笑。この科白は原作第三部第七章第3節から、ステパンが死ぬ前の科白。「人生の一刻一刻、一刹那、一刹那が人間にとって至福の時とならなければいけないのです……かならず、かならずそうならなければいけない!」(下巻508頁)。
・Gが走りながら、「キミィ!は子供が好きィ!ですか!」と突然言う。いきなり飛ぶが、これは第二部第一章第5節でスタヴローギンがキリーロフに言う科白だ。ステパン先生、床面に上がって走り出す。スタヴローギン、ワルワーラも走り出す。さらにGが「きみはたいへん幸福らしいですね、キリーロフ君?」(上巻370頁)と言ってから、いきなり死んだはずのキリーロフが喋り出す。これは原作ではスタヴローギンとキリーロフの最初の長い対話の中に出てくる、「太陽にきらきら輝いている木の葉」(上巻371頁)の話。キリーロフは喋るときは頭に被っている上衣を脱ぐ。喋り終わると被る。死んでるからね。
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「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ、緑がわずかになって、端のほうから腐りかけていた。風で舞ってきたんです。ぼくは十歳のころ、冬、わざと目をつぶって、木の葉を想像してみたものです。葉脈のくっきり浮き出た緑色の葉で、太陽にきらきら輝いているのをです。目をあけてみると、それがあまりにすばらしいので信じられない、それでまた目をつぶる」
「それはなんです、たとえ話ですか?」
「いいや……なぜです? たとえ話なんかじゃない、ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」
「すべて?」
「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです! 知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される──すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」
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G、ワルワーラ夫人、ステパン先生で原作のスタヴローギンの科白を分担してキリーロフに応える。やがて走っているのはスタヴローギンだけになる。キリーロフとの対話相手もスタヴローギン(とG)だけになる。スタヴローギン「それを教えたひとは十字架に掛けられた」(上巻372頁)。G「信仰を、持ってい、るんですか?」(上巻373頁)。そして原作第二部第一章第5節のスタヴローギンとキリーロフの対話は、スタヴローギンが「さようなら、キリーロフ」(上巻374頁)の科白を言ってから収束に向かうのだが、ここでは、走っていたスタヴローギンが黒細穴の縁に立ち止まり、Gが「スタヴローギンは、に!や!り!と、した!」と地の文を口にして、スタヴローギンが「さようなら、キリーロフ」と言ってから、首を吊る流れ(首に掛けていた縄を後ろにまわし、黒細穴に飛び込むと、上から縄が落ちて真直ぐに伸びるのが、首を吊ったという表現)。面白いモンタージュ。原作ではもちろんスタヴローギンは首を吊る前にキリーロフに挨拶なんかしない。スタヴローギンが飛び下りた瞬間、照明が全体を照らすように真っ白になり、ドロドロドロドロドロという音響が大きくなる。
・しばらくしてから、Gが上衣を黒細穴に投げ捨てて、ロシア語の掛け声を上げながら走り出す。ステパン先生も手足を伸ばした格好でちょこちょこと走り出す。冒頭と同じだ。ここからのステパンの科白は、原作ではステパン先生が死ぬ間際になってようやくワルワーラ夫人に愛の告白をする場面から取られている(第三部第七章第3節)。さっきの「ジンセイの! イッコク、イッコクがーん!」よりは前の場面の科白だけどね。ワルワーラ夫人は舞台上手に突っ立ったまま対話。ステパン先生は「友よん!」「あなたを愛していましたん」「ジュプゼーム」と言いながらワルワーラ夫人のまわりを小さな円を描いて走り回ったりする。「彼女はやはり黙っていた、二分」(下巻499頁)。「あの葉巻を……」「なんでアイシテタばっかり言うの……」「なんとおっしゃったの?」も、原作どおりこの場面でのワルワーラ夫人の科白。途中からステパン先生が拳をかかげて(爆笑)信仰告白をし始める。これも第三部第七章第3節から(下巻507頁以降)。さらにテンションの上がったステパン先生は上衣を脱いでそれを振り回しながら走りろうとするが(爆笑)、上衣から手を放してしまい、上衣は雪面へ飛んで行ってしまう。しかしへこたれないステパン先生、腕だけを振り回しながらアホっぽく走り出す(大爆笑)。ステパン先生「もし神が存在するとすればん! このぼくも不死なのでっすよん!」ワルワーラ夫人「神は存在しますよ、ステパン・トロフィーモヴィチ!」。
・ステパン先生の信仰告白が終わったところで、首を吊ったはずのスタヴローギンが穴から出て来て、自分たちが会議をしているのかどうか全員に問い掛ける。これは第二部第七章第2節でヴィルギンスキーの家に集まった客の一人が口にする科白で、スタヴローギンの言いそうな科白ではまったくない。『悪霊』の物語からしても、ここは重要な箇所ではない。だが、劇を終わらせるためにこのシーンを最後に持って来ることにしたのだろう。
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「一つ質問があります」これまで黙っていて、目立って行儀よくすわっていたびっこの教師がおだかやに切り出した。「私は知りたいのですが、われわれはいまここで何かの会議をしているのでしょうか、それとも、ただお客に呼ばれたふつうの人間の集まりなのでしょうか? こんなことをおたずねするのは、むしろけじめをつけて、曖昧な状態でいたくないと思うからなのですが」
この《うがった》質問は効果を奏した。みながおたがいに顔を見合わせて、相手から答えを期待するふうであった。そして、ふいにみなが、まるで号令でもかけられたように、ヴェルホーヴェンスキーとスタヴローギンのほうへ視線を向けた。
「わたしはいっそ採決を提案します、《われわれは会議をしているのか否か》という問題の答えについてです」マダム・ヴィルギンスカヤが言った。
「その提案に全面的に賛成です」リプーチンが応じた。「もっとも、いささか漠然とした提案ですが」
「私も賛成です、私も」いくつかの声が聞えた。
「私も、そのほうがたしかにけじめがつくと思います」ヴィルギンスキーが同調した。
「では、採決をはじめます!」と主婦が宣した。「リャムシンさん、お願いします、ピアノを弾いてください。採決がはじまったら、あなたはそこから加わればいい」
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一人黒深穴に立っているピョートルが「採決」を口にしたことをきっかけに、全員反時計まわりに口々に喋りながら、ランニングを始める。ステパン先生も走り出す。シャートフも走り出す。マリイも走り出す。キリーロフも走り出す。最後に走り出すのがリーザ。「希望するのかしないのか……」。会議をやっているのかどうか? 多数決を取ろうか? 走るスピードは全員ばらばら。このとき、全員が上衣を脱いでいて、みな下に原色のシャツを着ているので、視覚的に動的かつカラフルな印象。音響は、ドロドロドロドロ鳴っているところに、Gのロシア語のジョギングの掛け声を低く歪めたような音が重なってくる。ステパン、客席に向かって手でメガホンを作りながら、「われわれはまだ憲法に慣れていないのですん!」。やがてドロドロドロドロの方が消える。一人一人が順に立ち止まっていく。ステパン先生も立ち止まる。Gだけがしばらく走っている。走っているのを止めて、歩く。全員止まっている中を、Gだけが歩き続ける。雪はずっと降っている。ロシア語の掛け声の音響が終わる。雪が止む。そして最後にGも立ち止まる。幕。
:三浦基『おもしろければOKか? 現代演劇考』(五柳書院)より抜き書き
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《私が発語の根拠にこだわるのは、舞台において、観客を無視してはならないという一点にある。いや、むしろ観客の方がそこにいる俳優を無視しない、というのが正しい。それは演劇というものが内包しているどうしようもない磁場であり、観客こそが、したたかにそれを利用するのである。》(17頁)
《ここで明らかなのは、ダイアローグとは、モノローグの応酬だということ。「若い女」は、「ウィリアム」に話しかけているのではない。逆もしかりである。モノローグとモノローグの衝突が、発語を生み出す。衝突は、Aという俳優がBという俳優にするのではない。Aという俳優が観客の視界の担保となるとき、衝突はAと観客の間に起こる。同様にBも同じ軌跡をたどる。観客に対してAとBが両方衝突してきた場合、あたかもAとBが対話していると錯覚するのだ。つまり、ダイアローグとは、俳優と観客との間で起こっている現象だということになる。このとき、俳優という存在は何かというと、台詞と観客との間にあるクッションである。つまり、観客の想像力を引き受ける的なのである。》(22頁)
《ここで改めて、〈劇〉において俳優が〈何者か〉を通過させるための準備が必要となる。私は、〈劇〉の台詞はそのためにあると考える。〈劇〉の〈何事か〉のために台詞があるのではなくである。私がほとんどの演出作品で戯曲をそのまま原作通りにやらず、再構成し、特に古典の場合はその分量を半分近くまでにそぎ落とすのは、この考え方に拠っている。俳優は、〈劇〉の台詞を持っていると考える。しかし、そのすべてを使うことはない。この考え方は、俳優は物語の流れとは関係なくいつでも台詞を行使できるということに発展する。》(34-35頁)
《台詞を平板に覚えるということは実際にはできない。言葉には必ず色がある。意味がある。そして感情があるからだ。私が俳優に望むことは、できるだけそれを細分化するということ。これはもはや技術である。ここで言う技術とは、いわゆる台詞術とか朗誦術とかそういう類のものではない。台詞を「情報」として取り扱いますよ、という態度のことだ。》(35頁)
《ここで、そもそも「感情」というものが一体何かということを問わなければならない。一般に、泣くとか笑うとかそのような行為に表れるのが、ひとまず感情であり、演技において気をつかい材料であることは間違いない。しかし、私はそのようなわかりやすい「行為」によって台詞を助長することを避ける傾向を持っている。なぜならば「わたしじゃない」という俳優の立場が台詞を発語せしめるのであり、ということは、書かれた台詞の内容に準ずるような心理には、俳優自身は無責任である方がいい。つまり、書かれた台詞の意味に従うことは、その役の心理を背負い込むことに等しいからである。俳優は役を絶対に背負い込まないということはこれまでも述べてきたことだと思う。俳優は別の責任を持っている。それが何かというと「台詞」そのものだということになる。》(45-46頁)
《これまで題材として扱ってきた台詞は、誰かが誰かに話しかける会話のなかの台詞であったり、あるいは独り言であったりと、主に話し言葉が中心になっている。ここには当然、作家の「感情」がうごめいている。あえて言うと台詞とは感情語そのものであるということになる。一般に、行間を読むとか、台詞と台詞の間が大事だとか言われるのは、その作家の整理感覚に付き合うということである。もちろん、これは最低条件で、それだけでは読みきれない部分が必ず出てくる。そのとき「台詞」を改めて眺めてみると、それはまず言葉であって、最小単位の言葉の連なりだということに気がつく。台詞を言葉の羅列だと捉え直す必要に私は駆られるのである。そして俳優の発語も、「発音」というまた別の段階の作業に突入することになる。》(46頁)
《ここで注目しなければならないことは、発語に伴う音、それは「声」であるが、「声」は言語の意味を増幅するだけでなく、むしろその意味を裏切る。例えば、〈ばっかり〉の箇所で「間抜け」となるのは、恥ずかしいのだが、実は〈ばっかり〉の〈ばっか〉の部分が文字通り「馬鹿」であるということの連想から派生している。本当に取るに足らないことだが、事実だから仕方がない。……しかし、このように音声から別の意味を連想してしまったり、あるいは発音の観点からその単語がひっかかったりするのは、極めて自然なことであり、無視してはならないと思う。つまり、よく言えば、言葉とはそれ自体がイメージの広がりを持っているのであり、単純に言えば、誤解の連続だということだ。
このことは、外国語に触れるとよくわかる。相手はまじめに話していても、こちらの語学能力が及ばず、その意味があまりわからないとき、突然、その相手がふざけているように思えてしまったり、あるいはその逆で、相手が気軽に冗談で話しているのに、自分が知らない複雑な単語の響きを前にすると、その人が偉そうに見えたりもする。そうした違和感は相手の人柄から生まれたものではなく、言葉そのものの響きや、言語のもつ構造によってもたらされる現象である。私は、この「違和感」にこそ興味を持つ。そしてこの感覚を舞台における発語・発音のチャンスであると思っている。なぜならば、そもそもある作家の文体をそのまま俳優が代弁したりすることは不可能なのだから。》(50頁)
《私の演出作品は、発語の特殊性をさまざまに評されるが、その背景には様式化が前提とされているような気配がある。しかし、私の演出作業は、そうしたスタイルの確立にあるのではなく、もっと皮膚感覚に依ったいい加減な感覚から、毎回それぞれに試しているというのが正直な心境である。》(51頁)
《では、最終的には何を根拠にして取捨選択されていくのかといえば、やはりそれは演出である私の判断となる。そして判断材料は、残念ながら、私の直感である。先ほどの連想の実験にあるような「清潔」「間抜け」「ねばり」を入れて発語して欲しいというようなことを真顔で言っている。それは往々にして通じない。仕方なくまた別の言葉を繰り出すことになる。そのとき、私は単語の「感情」と俳優の「姿」を同時に重ね合わせて見つめていることになる。
このような作業をしていくと、現場とは不思議なもので、そのうちに人から人にリズムが感染することになる。「言葉の表情」が感染すると言ってもよい。仮にソーニャが、〈バッカリ〉をある特定の抑揚で口にしたとしよう。他の役に同じ〈バッカリ〉という台詞があった場合、その抑揚は踏襲されてゆく。そうなるとしめたもので、台詞の抑揚が役同士の関係性までも表現するに至るのである。〈バッカリ〉という単語ひとつで、その相手を虐げることもできるし、場合によっては愛することもできる。これは結果的にそうなることであって、俳優が、あるいは演出が個人的に考えただけでは生まれない現象である。》(53-54頁)
《先に「生」という言い方をしたが、それは正確には、肉体によってではなく、この圧倒的な力によって生まれる感覚だと捉え直したい。この力とは、「時間」である。「生の時間」と言えばわかりやすいが、その通り、演劇はナマモノであると改めて言いたい。誤解してほしくないのは、一度たりとも同じ本番はないとか、一回性の出会いを繰り返すとか、(実際にはそうなのだが)そのようなロマンに陥りがちな話ではない。「生の時間」というのは、身体そのものに及ぶのである。しかし「物語」はその「生の時間」を隠すときがある。正確に言うと、物語の空間に安住すると、観客の視線は身体に向かなくなる。それは物語によって消費される時間を過ごしている状態である。このとき、身体=生の時間は取りこぼされる。堕落する。誰がかと言えば、俳優と観客の両者がである。なぜならば「見る─見られる」の関係自体が危うくなっているからだ。確かに時間は見えない。「時間の視覚化」と意気込んでも抽象的すぎるのはわかっている。空間より時間に重きをおくという視点は、実は、演劇表現にとってはかなり厳しい道のような気さえする。なぜ、その道を歩むのか。それは、空間は必ず「見える」に決まっているからである。私がこれまで執拗に「見える」ことを問うてきたのは、「見えない」ことを「見たい」ためだったと言ってよい。それでは「見えない」ものとは何か。大袈裟に言えばそこにいる人間の歴史であるかもしれない。見る者はこれまで、想像することを武器に見たつもりになってきたのではないか。私はあくまでもそうした抽象は嫌なのである。人間を取り巻く状況、社会、そして舞台の「環境」によって具体化しなければならない。》(74頁)
《私は、繰り返すが、この劇をそうした風景画として始める気にはなれない。近代に築かれた自然主義リアリズムの事情としての風景、遠近法を用いて舞台のビジュアルを造形する、そういったことには付き合えないのである。
なぜ、付き合えないのか。また嘘をつくと、そういう舞台は見飽きたのだ。今さら劇場で庭のような庭、家のような家をプロセニアムと呼ばれる額縁越しに見ることに、びっくりしてしまう。「のような」でしかないものをわざわざ見せられることへの怒りかもしれない。しかし、ここで想像もする。もし百年前の客席にいたら、さながら実物のようにこしらえられた舞台を見て、新鮮に驚くのだろうかと。答えはわからない。やはり想像はできないのだ。すでに知っていることを、未知のこととすることはできない。もし今、庭のような庭、家のような家を舞台に見たとして、私が感じるであろうことは、あきらめである。それは、現実の複製を複製として舞台に置くことに、すでに意味を見出すことができないというあきらめなのだろう。》(94頁)
《今でも思い出すとつらい経験がある。ある作品を二年ぶりに再演したとき、その稽古場に初演の本番を記録したビデオを持ち込んだのだ。久しぶりに再会した俳優と、ビデオを見て細かい動きを確認しながらの稽古は、歯がゆさが先に立った。瞬時にまずいと判断して、できるだけビデオは見ないことにしたがすでに遅かった。結局、本番まで、何度も見ざるを得なかった。というのは、私の演出の特徴である、きっかけの多さと細かさが仇となったのだった。それは数にすると尋常ではなく、演技レベルでも相当な量になり、スタッフワークを含めると、優に百を超えるのである。スタッフワークというのは、ここでは照明、映像、音響の変化のきっかけのことだが、それらが複雑に絡み合うようなつくり方をしている。そしてここで教見深いのは、それらはコンピュータによる操作をしているために、すべてデータとして残っているということだ。例えば、俳優がある台詞で右手を耳に当てるという演技があったとして、それをきっかけにして、三〇秒かけて照明が変化してゆくとする。その三〇秒の間の俳優の台詞のスピードがほぼ毎回一緒でないと、その最中に、またある台詞をきっかけにして映像が投影されることになっている場合、照明と映像の相性が悪くなるといったことが生じる。こうした事情から、再演において俳優は、三〇秒のスピードで台詞を言わなければならないという本末転倒な立場を強要される。本来は、最終的な結果として三〇秒をデータ化したにもかかわらずである。》(102-103頁)