:基本情報・関連リンク
- 会場:日暮里d-倉庫
主催:DULL-COLORED POP
制作協力:石井光三オフィス
脚本:マーク・セント・ジャーメイン(翻訳:谷賢一)
演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)
美術:土岐研一
衣裳:前田文子
照明:松本大介
音響:長野朋美
舞台監督:武川喜俊
演出助手:中村梨那
ジークムント・フロイト:木場勝己
C.S.ルイス:石丸幹二
- 劇団・DULL-COLORED POP
http://www.dcpop.org/
日暮里d-倉庫
http://www.geocities.jp/azabubu/index_d
Mark St. Germain "FREUD'S LAST SESSION"
http://freudslastsession.com/
http://www.amazon.co.jp/Freuds-Last-Session-Mark-Germain/dp/0822224933
:上演中メモ(主に翻訳を中心に)
-
(※※※記憶、原作脚本、殴り書きのメモを元に再構成しているので、実際のそれと懸け離れている可能性が大です。)
- ・客席に対して少しだけ角度のついた正方形の舞台。これがフロイトの書斎で、90分この空間で一本勝負(転換なし)。フロイトのコレクションの彫像や椅子、テーブルなど一つ一つは高価そうな格調あるものだけれど、奥の壁が剥き出しになっていたりと全体的には抽象的なほどにシンプル。上手最奥にはやはり剥き出しの舞台裏への出入り口があって、これが玄関へと通じているという設定。置いてあるものは、最奥中央に二メートル以上はあろうフロイトの骨董コレクションの棚。そのすぐ前、下手奥にはやはり骨董がごちゃごちゃ乗っているフロイトの机と、それを挟んで下手側にフロイトの椅子、上手側に来客(患者)用の椅子。机には卓上用電気スタンドもある。その向かい側、上手奥には水差しとグラスが乗っている小さなテーブルがあり、それに寄り添うように丈高い電気スタンド。舞台手前中央には、寝椅子(その上にはフロイトの上着)。その寝椅子のさらに手前に、スイッチやスピーカーなどを奥に向けた(つまり客席に背を向けた)大きめのラジオ。寝椅子の下手側には、もう一脚の背もたれつきの椅子(横向き)。寝椅子の上手側には、四角の舞台の角ぎりぎりのところに背もたれのない平椅子が斜めに置いてある。
・電話どこにあったっけ。下手の椅子の傍か? 二十世紀前半のアンティーク調の電話だったろうか。覚えてないな。
・ラジオが最も手前にあるのは、ラストの構図からの逆算かな。
・原作の舞台美術の指示には「The room is filled with books, the walls with artwork.」とあるが、書物の山も壁の装飾も全部とっぱらってストーリーの進行上必要なものだけを点在させたという趣き。
・客席に対して少しだけ角度のついた正方形の舞台──なので、当然ながら舞台の四方に隙間がある。だから見ようによってはこれが芝居のセットであることがあからさまに感じられ、ままごとじみて見えることも。原作の指示にある書物の山や壁の装飾をとっぱらったこともそうなんだけれど、やはり具象性に頼らない、ちょっと抽象的な舞台美術になっている。
・客入り音楽が急にラジオのノイズのような音でぶった切られて、客席の照明がおち、舞台の照明が明るくなり──寝椅子周辺に矩形の明るい光が落ちる、これはようするに客席側に窓があって午前中の日光が差し込んでいるということ──、鳥のさえずりの音響(朝方を暗示)がかすかに聞こえるなか、上手最奥の出入り口からゆっくりとフロイトが姿を表わして、上演スタート。二つの電気スタンドのライトがいつの間にか点いてる。
・この時点ですでに原作脚本からの相当の改変。原作脚本の指示は、だんだん照明が明るくなっていくなかでBBCラジオの音声が聞えてくるというところからスタートすることになっていて、フロイトはすでに机の傍の椅子に坐っていなければならないから。この上演ではフロイトがラジオを点けるまでの(わりと時間を長くとった)動きが冒頭に加わっている。
・二回(五日の初回、七日)観たけれど、全体的にミザンスはかなり細かく決まっている。ここでのフロイトの動きも毎回かなり正確に反復されている模様。眼鏡を片手に持っている。腕時計を観たり、椅子の位置をずらしたり。舞台手前まで来て、何かの物音が(窓の向こう=客席側)から聞えてその方を窓越しにじっとにらんだり。フロイト、立ったままラジオを点ける。ラジオの音声はこの劇中の時点(1939年9月3日)での第二次世界大戦開戦前夜のドイツとポーランドの状況を伝えるもの。ラジオが鳴っている間に犬の鳴き声が舞台外から。フロイトそちらを見る。ラジオを切って、犬に話し掛けるフロイト。呼鈴が鳴る。フロイト寝椅子の上の上着をつっかけて、上手最奥からまた舞台外(玄関)へ。
・冒頭では窓から落ちる矩形の光が強いのだが、ルイスが入ってきてからはその強さが少しやわらいで、舞台全体に照明がぼんやり当たる感じに。
・石丸ルイス、冒頭から素晴らしい。ちゃんと「初めて入る書斎に入って来た人」のように舞台上で色々なものを見てフィーリングできびきび反応する。
・翻訳についてのメモ。フロイトの台詞「I had given you up for lost.」をカット。そして「If I wasn't eighty-three I would say it doesn't matter.」の台詞は、直訳なら「(ルイスの「どうもすみません、こんなに遅れて」に対して)私が八十三歳でなきゃ気にしないで結構と言うんだがね。」──これを谷賢一訳は「ひどい仕打ちですなあ、八十三歳の老人をつかまえて!」──で、よりルイスに対する攻撃的な皮肉になっている。こう訳することで、これから二人の間で角逐が生じる関係性をすでに暗示している?
・翻訳についてのメモ。ルイスの台詞「The rail schedules are useless with the evacuations. All the trains are leaving London, not coming here. I watched coach after coach pass through Oxford Station with children they're taking to the country side. They're emptying hospitals as well.」──直訳すると、「疎開のせいで列車の時刻表が役に立たなくなってるんです。ロンドンから出て行く列車ばっかりで、ロンドンに向かう便なんて一本もない。オックスフォード駅で、田舎へと子供たちを運ぶ列車が次々通りすぎるのを傍観してるばかりでした。病院の病人たちもすっかり運ばれていっていた。」──谷賢一訳は、「もうダイヤが滅茶苦茶で。疎開のせいですよ! のぼりの列車がぜんぜん来ないんです。オックスフォード駅で乗ったんですけど、みんなくだりの列車ばっかりで。みんな疎開だそうです、子供と、あと病人はみんな!」──文章を細かく区切って、順番を入れ替えて終止形で終わらない形を多用。
・上記の二つの例から分かるのは、正確な訳ではなく、その台詞を登場人物がその状況(関係性)でどういう感情を動機として言うかを描き直した上での日本語になっている。ルイスの台詞も、単なる事情の伝達として訳そうと思えばそのまま訳せるのだが、谷訳では、必死で相手に訴えかけるように発語するべき台詞になっている。ほとんど演出としてフロイトとルイスの関係性をどう設定するかの意図が翻訳段階で込められているかのようだ。英語から日本語に変換するときに、必ず「関係性」と「感情」とを伝えられるように描き直すということか。
・「Yes. I find it convenient to be warned before being bombed.」──谷訳は「いつ爆撃されるか待ち切れなくてね。」──ルイスの「You've been listening the radio?」に対する返答がこれなのだが、こなれた訳、というかひねった訳で、登場人物がこの台詞を言う動機を対話相手に引っ掛けていくような訳。
・「We must prepare for the worst.」──谷訳は「空爆される準備でみんな大忙しだ。」──言葉をおぎなってフロイトがこの台詞を言う動機を明確化。
・ルイス、ガスマスクの入った箱を下ろす。フロイト、ルイスのコートを舞台外へ持っていく。
・「What a marvelous study.」で石丸ルイスは自然に空間を歩いて書斎を見回す。実際には舞台美術はわりと抽象的なのだが、それを「見事な書斎」とイメージする力が役者にある。そして「You have abeautiful view.」と客席方向を向いて、矩形の陽射しに照らされて、やはりほんとうに窓の外の良い眺めを見ているかのように微笑する。実際には客席を見ているだけだが。このイメージ力も凄い。
・フロイト「Since we have so little time perhaps we should come to the reason I wrote you.」/ルイス「One of my books.(私の本に、何か?)」/フロイト「Ah. You,ve written more than one?」──ここで重要なのは、ルイスの「私の本に、何か?」の台詞の前に或る程度の「間」があること。このやりとりからフロイトVSルイスの議論が始まっていくのだが、そのままさらっとやってしまうと議論が始まったということが観客に引っ掛からず、観客が茫洋と観ているあいだになんか『天路逆程』という本について本人同士しか分からないような議論が始まったぞ、みたいな感じになって観客の心が離れてしまう。ここで「間」があるので、ここから何か空気が変わるんだなという溜めができている。もちろん、この「間」は原作脚本にはない。
・『天路逆程』の話が出てからは、フロイトとルイスは机を挟んで向い合う。
・「My satirizing you with the "Sigisunde" character. His bombastic self-impportance; his tossing the Pilgrim to the Giant because he can't bear being contradicted. My describing you as a "vain, ignorant old man" was a bit excessive.」──これは結構面倒くさい台詞というか、ルイスが『天路逆程』という著書の中でフロイトを別名で架空のキャラとして出して諷刺したという文脈なのだが、それが観客に伝わるか伝わらないかというレベルまで谷訳では台詞をつづめている。別に伝わらなくてもいいということか。「あのジギスムントというキャラクター。あれは確かに皮肉でした。性格は短気。傲慢。自分に楯突くやつは巨人の穴ぐらに投げとばす。高飛車で、無知な老いぼれ。たしかに少しやりすぎました。……」──そして基本的に英文では一文になっているところを細かく刻んでいる。これは谷訳のかなりの特徴で、直前のルイスの台詞「I believe it's Pilgrim's Regress that's offended you.」も「『天路逆程』。あの本がご気分を害した。」と二つに分けている。
・「人格攻撃をするつもりはなかったんです!」からルイスは立ち上がってフロイトに迫る。で、(少し間をおいての)「神は存在します!」でフロイトの机に手をついて前のめりに。そして「あわれな神経症患者などではないのです、決して!」で手を机から離して、胸先でクロスさせてそれを左右に払う身振り。これは二回観てもまったく同じだったので、台詞ごとに姿勢・身振りが決まっている模様。ところで「And we feeble-minded who do, are not, as you claim, suffering from a pathetic "obsessional neurosis."」の訳として「……あわれな神経症患者などではないのです、決して!」が出てくるわけだけど、この「決して!」が文末に出てくるのは翻訳上の工夫で、最初からここで上演においてルイスが鋭い語調になることを見越したかのような訳だ。
・フロイト「(Pause.) I didn't read your book.」/ルイス「You didn't?」──で石丸ルイスが結構わざとらしくずっこける身振りをするけれど、これはここで笑ってくださいねという演出。原作脚本上では笑いが起こりそうな感じではないけど。
・ルイス「That I savaged you.」/フロイト「Professor Lewis, I have been "savaged" all my life.(酷評なんて私は慣れっこです)」──ここでの木場フロイトは相手をいなすような含み笑いをする。原作にはないニュアンス。翻訳は意を通ずる方を優先。ここでフロイトが「ですます」口調なのは目立つな。
・「Do not be disappointed that your creation of a cartoonish character named "Sigismunde Enlightenment" didn't leave me bedridden. But I must ask; if you assumed I was so offended, why did you come at all?」──谷訳は「きみの書いたキャラクター、『啓蒙者ジギスムント』、だったかな? お気の毒だがお好きにどうぞ、だ。……」──一文を切り分けて「……だったかな?」という呼びかけのニュアンスを追加したり、「your creation of a cartoonish...」の部分をばっさり削ったり。
・ルイス「Then competed to invent worse.」──谷訳は「で、もっと酷いのを探そうと競争もしたなあ……。」──感慨深げに発語する台詞として描き直されている趣き。
・フロイト「Are you thinking, even unconsiously, that "debate" is the reason you're here?」──谷訳は「きみは何かね、議論のネタにするために私に会いにきたのか?」──この意訳はどうだろう。つづくルイスの台詞が「I see it makes no difference I didn't choose the couch.」なんだから、「even unconsiously」をちゃんと訳出するべきでは?
・ルイス「I see it makes no difference I didn't choose the couch. Since you invited me, perhaps you should tell me why?」──原作ではひとつづきの台詞だが、「Since you……」の前にちょっと間をおいてルイスの雰囲気を冗談めかしたものから鋭い攻撃的なものへとシフトチェンジ。これも演出的に細かく決められてあるはず。後段の訳は、「呼んだのはあなたです。理由を伺っても?」と二文に分けた上でざっくり訳出。直訳だと「あなたが私を呼んだ以上、あなたが理由を説明すべきだと思いますが?」
・この「理由を伺っても?」の時、石丸ルイスは右肘に左手を当てて「考える人」みたいなポーズを取っており、これはときどき石丸ルイスが議論中に見せるデフォルトのポーズになっているが、「理由を伺っても?」と言う時にはそのポーズから右手を前に差し伸べる感じに。
・失楽園のエッセーの話が出てから、フロイトも立ち上がる。「I didn't say whose side I was on.」──でルイスとフロイト、間近で睨み合う感じに。ルイスの表情も険悪になるのだが、次の突然のフロイトの「Tea?」で梯子を外された感じになる。
・さらにフロイトのミルトン講釈の長科白がつづくが、それに対してルイスが何か批判的なことを口に出そうとすると、フロイトは喋りながら身振りでそれを制する──というアクションが入る。もちろん原作脚本には書かれていないもの。
・フロイト「We both agree that Satan is a brilliant creation.」──谷訳は「サタンこそ、キリスト教の生んだ最高の発明だ。違いますか?」──まず「キリスト教の生んだ」という文脈を付加。そして「We both agree...」を二文に分けた修辞疑問の方にニュアンスとして押し込む。
・「prosthesis」=「人工口蓋」。
・フロイトが咳き込んでから苦しむ局面、「Freud shakes his head "no," takes a breath.」でフロイトが吐く息に対してルイスが顔をしかめる。原作にはない指示。でもルイス、「It must be terribly painful.」の台詞でフロイトに近付いていく。
・フロイトの「It' nearly eleven.」の台詞の前に、遠くで鐘塔の鐘が鳴るような音響。それでフロイトが十一時であることに気づいてラジオを点けに行くという流れになっているが、原作脚本ではフロイトが自分で十一時になったことに気づいて、ラジオの方に向かいながら「It' nearly eleven.」と言う流れになっている。演出上の改変。
・フロイト「Chamberlain should be speaking.」のあと、ラジオを点けに行っているあいだ、ルイスは椅子に坐って、坐って前屈みになって指を組む姿勢に。
・フロイト「I've spent much of my life examining fantasies. In the time I have left I am determinded to understand what I can of reality.」──けっこう七面倒くさい台詞だが、演出を含めての谷訳は「私も昔はずいぶん読んだものだよ。現実にこそ目を向けるべきだ!(フロイトはこれをルイスを叱咤するように言うので、ルイスは身を引く)……そう気づいてからは、さっぱりだがね(ルイス、微笑む)。」──軽妙な台詞へとざっくり訳している。とくに「I am determinded to understand what I can of reality.」を「現実にこそ目を向けるべきだ!」という台詞内台詞みたいに訳しているのが一工夫。逆翻訳すると元の英文には戻らない訳。
・「you are the victim of either a conversion experience or a hallusinatory psychosis.」→「神秘体験か幻覚か、頭をちょっとやられたな」ざっくり翻訳。
・ルイス「到底くらべものにはなりませんよ(Not quite as dramatic.)」で手を挙げるようなちょっと大袈裟な身振りを入れる。ところでこの台詞の訳もそうだけど、実際「到底くらべものにはならない」だったら正確には元は別の英文になるはずなんだけれど、「関係性」と「感情」が伝わることを優先して描き直すというのを徹底している趣き。
・フロイト「That depends on your thought.」に対するルイスの台詞「When I set out, I didn't believe that Jesus Christ is the Son of God. When I arrived, I did.」→「イエス・キリストは神の子である! うちを出る時は信じちゃいませんでした。動物園に着くころには信じていた。」文節を入れ替えて、つまり「that Jesus Christ is the Son of God」を前に持ってきて、俳優にとって言いやすいように、そしてフロイトの台詞を受けて対話が十分盛り上がるようにと配慮。ここはルイスが宗教バカということが如実に表われつつある局面だから、できるだけ印象的にしたいという意図か。原作脚本だとサラッと読もうと思えば読めてしまう箇所だけど。
・ルイス「And I must say, I've never met a non-believer who spent so much effort trying to debunk the existence of God. If I were a psychoanalyst, these endless protests would intrigue me.」──の谷訳は「前から不思議だったんです。どうして無神論者ってのはああも必死に神の存在を否定したがるんでしょう。あの途方もない執着……私が精神分析家だったらほっときませんよ。」──「I've never met...」を「前から不思議だった……」に変換。達意を優先したこなれた訳! ところでここで石丸ルイスは例によって右肘に左手を当てたポーズから挑発的に指差し。
・石丸ルイス、「ぼく運転できないんです」の時、ハンドルを握るコミカルな身振りをする。
・フロイト「Since that is a skill I've seen bears demonstrate at the circus, I must assume you could but for some reason choose not to.」──の谷訳は「やればできるさ! 前にサーカスの熊が自動車を運転するのを見たことがある。できないんじゃない。やらないことを選んだんだ。なんらかの理由によって。私ならそう診断するね。」──直訳だと「サーカスの熊だってできることなんだから……きみは……だと考えざるを得ない」と基本ひとつづき。それを六つに切り分けて、とくに「前にサーカスの熊が自動車を運転するのを見たことがある。」を独立させることで、ここで観客に笑いが起こるように計算しているふう。さらには「診断」の語を入れてかなり挑発的な台詞へと描き直している。
・フロイト、「No matter, you are correct about my preoccupation with religion.」の台詞からまた椅子に坐る。
・フロイト「For either this imperious dogma or his insistence that all men be circumsised.」の台詞を言いながら、机の上の像をドンと置く。
・谷訳だとざっくり訳しても状況を描き直すために相当意を砕いて言葉を足すことがある。ルイス「Jews must be standing in line to tear it to pieces.」→「ユダヤ人が本屋に行列つくりますよ。一刻も速くあの本を破り捨てろー!って。」──「一刻も早く」は付け足し。ちなみにこの「破り捨てろー!」の時に石丸ルイスは目の前で本を破くような身振りをする。それから二人して軽く笑い合う。
・上の台詞を受けてのフロイト、「And me.」、つまり「私も破り捨てられるみたいになるな」という意味だが、谷訳は「私も戸締まりに気をつけよう」、と意訳。さらにつづく台詞「But Jews must wait their turn behind my greatest enemy, the Roman Catholic Church.」は「だがユダヤ人は列を作ってくれるだけマシだ。厄介なのはローマ・カトリック教会だ。」とさらなる意訳。直訳だと「だがユダヤ人たちより先に、私の最大の敵、ローマ・カトリック教会が私に手をかけることになるだろう」って感じ。
・ルイス「But you can't reduce a faith to an institution.(個人の問題と組織の問題、これを混同しないでいただきたい!)」の「混同しないでいただきたい!」でまた手を左右に払うような身振りを石丸ルイス入れる。そこはかとなく、漫画的。『逆転裁判』的な。基本的にルイスの方が先にヒートアップして、感じやすくなっている。
・フロイト「I have spent my life in "institutions." Religious or secular, they are ruled by autocrats who insist their vision of reality is superior to all they command.」──の谷訳は「『組織』! 分かるよ私だって。聖俗を問わず、組織は独裁者にあやつられる。優秀な自分が愚かな民衆を導くのだと思い上がった独裁者によってね。」──このあたり、議論のやりとりとしてかなり文語的なんだが、くだけた翻訳にしている。難しいな。ここでフロイトが「組織」と言っているのは「国際精神分析協会」のことで、「独裁者」というのはユングのことを暗示してるんじゃあないのか。民衆?
・ルイス「Do you enjoy it? Their outrage?」が「楽しんでませんか? 差し障りを起こすことを?」で、つづくフロイト「I enjoy provoking discussion, such as ours.」が「楽しんでるよ、議論を起こすことをね!」で「楽しむ─起こすことを」という構造で二つの台詞を噛み合わせている翻訳。この構造は原文にはない。
・フロイト「I enjoy provoking discussion, such as ours.」で、木場フロイトは「たーのしんでるよー?」と誇張気味のトーン。
・ルイス「But why have one at all if you're satisfied in your disbelief?」──谷訳では「しかし解せませんなあ。ご自身の無神論に満足してるならどうして議論なんかするんです。」──「why...at all」を「解せませんなあ」と切り分けて、文意をパラフレーズ。原文だと一文なので、鋭く突っ込むような台詞に思えるが、谷訳だと、一旦相手の台詞を受け止める受け腰を見せているかのよう。
・ルイス「どうして私を呼んだんです?」/フロイト「知りたかったのは一つだけだよ。きみほど聡明な男が、しかもかつては私と同じ立場にあった男が、なぜ唐突に真実を見限り、くだらん欺瞞に身を委ねたのか。」──一応これが表面的にはフロイトがルイスを呼んだ理由ってことなっているが、まんま受け取ってよさそうではないな。この日からあと三週間もしないうちにフロイトが死ぬということも遠からず関係しているのではないか。
・ルイスはラジオを聞きながらこぶしを握りしめている。感じやすげな演技。表情豊か。そして「Again.(またですね!)」を振り向きながら言う。
・フロイト「I thank your God who "blesses" me with cancer I won't be here to see another.」──谷訳は「私に癌を与えた神に感謝しないとな。さすがにもう次の戦争は見たくない。」──二文分割。そして「さすがにもう」を追加することで、フロイトが吐き捨てるようにこの台詞を言うようにと感情的に描き直し。実際、木場フロイトは自嘲気味にこの台詞を言う。
・戯曲の伏線を分析すると、ちょいちょい掛かって来る電話で、少しずつフロイトの状況が変わっていくのが分かる。ここではまだ医者が往診に来る予定が覆っていないので、娘のアンナに自分のことはいいから講義をつづけろと告げている。
・基本的に石丸ルイスはかなり感じやすい人間としてそこにいる。フロイトの話を無言で聞いている時には、心配気で真剣で、唇を噛みしめたり、うなずいたり、唇の端をゆがめたり、眉をあげたり、鼻をこすったり、額に皺を寄せたりと、その場にいる自然さでノイズの身振り、表情変化がくるくる出てくる。
・アンナが連行されたときのことを回想して語るフロイト。ここで初めてフロイトも感じ易さを出し始めている。「I refused, but they took her anyway. Twelve hours she was gone. Twelve hours I was certain I had lost her.」もサラッと訳そうと思えば訳せるが、谷訳は「もちろん反対したよ! でも連中はアンナを連れていった。……十二時間。帰って来なかった。……十二時間! 殺されたにちがいないとしか思えなかった。」と「twelve hours」を切り分けて、言いよどみや悲憤などの感情のニュアンスを多分に込められるよう描き直している。
・ルイス、フロイトに攻められるときには重心を後ろに傾ける姿勢になったりする。
・フロイト「So while Hitler hammers, God waits to see who survives his blows.」──木場フロイトはこれをルイスに対するまっすぐな強烈な反撃としてエネルギーを込めて口にするが、そういうエネルギーを乗せうるだけの谷訳になっている(直訳ではない)。「ならヒトラーに銃弾の雨を降らせておいて、神はただ見ているだけなのかね? さて誰が生き残るだろうかと言って?」──元の英文からだと、もっと冷たい皮肉みたいにも訳せるけど、そうはしなかったということ。
・議論がヒートアップしてくると双方発言が相手の発言に食い気味になる。
・ルイスの「良心は神が与えた……」みたいな発言を受けてフロイトの「Ha. I am laughing.(ハッ! 実にジョークが上手い!)」は片手を振り上げて、呆れたような身振りを入れながら。
・フロイト「You think shame is a good thing?」/ルイス「I'd love to see more of it! Admitting to bad behavior doesn't excuse it.」/フロイト「If only we had met years ago! I would have listened to my patient's sins, then told them to fall to their knees and beg absolution. Psychoanalysis doesn't profess the arrogance of religion, thank God.」──ここまででもっとも議論が盛り上がっていく箇所だが、それを意識してか、谷訳は相当言葉を足して意訳して二人の言葉が噛み合うように苦心している。フロイト「人間には恥の感情が必要だと?」/ルイス「それ以上のものが必要なんです! 恥に思うだけじゃ意味ない、恥ずべき行ないをさせないものこそが必要なんです!」/フロイト「おおう、きみが精神分析医だったらこりゃ大変だな! 患者が過去の罪を口にするたびにひざまずき、神に祈りなさいなんてことになる。宗教家の傲慢を赦したまえ、アーメン。」──やっぱ翻訳として原文に忠実でも日本語の言葉のやりとりとして噛み合ってなきゃ意味ない、ということか。木場フロイトは「アーメン」で十字を切るが、もちろん「thank God」の訳は「アーメン」ではない(ただ、十字を切るのはカトリックだけだが、フロイトも宗教教育はカトリックで受けてたようなので、十字を切る癖が出るのはむしろ正しい)。
・ルイスの信心深い父親の話が出る頃から、ルイスは舞台中央に歩いていく(寝椅子に近付く)。そしてフロイトは椅子から立ち上がって、ルイスの方を見つめながら、舞台奥をゆっくりと歩いて横切っていく。構図としては、ルイスが客席の方を向きながら背中越しにフロイトに向かって話すという構図。フロイトはその背中に向かって言葉を投げていく。この構図『プルーフ/証明』にもあったな。直線で向き合う二次元的なミザンスではない、複数の「面」の感覚で空間を使っていく立体的な登場人物間の対話の構図。
・ルイスの父親の話が出てから、ちょっとフロイトは客を相手にした分析家っぽくふるまっているので、言葉づかいも(さきほど議論がヒートアップしていた時と比べれば)丁寧になっていく。という訳になっている。「Your father; he was also religious?(お父上も、信仰の篤い方だった?)」「How old were you then?(それは何歳の時でしたか?)」「And your feelings about his death?(お父上が亡くなったとき、どう思いましたか?)」
・石丸ルイス、「There's no avoiding this, is there?(こりゃあ逃げられそうにないな……)」──原文は付加疑問文だが意訳──をちょっと悪戯っぽく発語。そして次の「Yes, I do deny it.」から寝椅子に坐って(客席に背)フロイトと向き直って相手の攻撃を受けて立つ構図に。
・フロイトが父親との関係が良好じゃなかったことを口にすると、ルイスが寝椅子を叩いて「Would you like a seat?」と言う。フロイトはゆっくりとその前まで歩いていって、坐るかと思わせて寝椅子の上のゴミを拾って捨て、下手の方へ歩いていき、寝椅子の脇にある椅子に腰掛ける。原文の指示は「Freud does, but sits in his analyst's chair.」。坐る場所が違うだけかな。
・ルイス「The same anger you feel toward a God who does nothing.」──谷訳は「同じ憎しみを神に対しても感じているのでしょ? 神は何もしてくれない、と。」──二文に分けているが、それ以前に、この「いるのでしょ?」が、ルイスがフロイトとの距離を詰めて突っ込もうとしている感じを出した訳になっている。「いるのではないですか?」ではルイスがフロイトに突っかかっていくようには発語できないだろう。
・ルイスが神への憧れはここではない別の世界においてこそ満たされる、と言ったあとに、フロイト「You have just abandoned facts for fairy tales.」──これを谷訳は「きみには、ファンタジー文学は向いてないな!」とルイスの肩を叩きながら皮肉る台詞に。ざっくり意訳。
・石丸ルイスが、六歳のころに別世界への欲求を初めて感じたときの想い出を語る箇所、凄い。拳をふるわせたり、宙を見つめて微笑したり、ほんとうに当時の感動を追体験しているかのよう。「I thought it was the most beautiful thing I'd ever seen.」
・ルイス「It took much more than that. I was the most reluctant convert...」は「そうとんとんとはいきませんよ」と洒脱に意訳。これを言うとき、両の手のひらを相手に向けて、相手の発言をいなすような身振りを石丸ルイス入れる。そして、フロイトも「It took much more than that.」と言われた直後に「あらら」と反応する。この反応はむろん原作にはない。というかここのルイスの長科白のあいだ、フロイトが「そうなんだ」「私と同じだ」とかルイスの台詞の切れ目ごとに合いの手を入れるが、これすべて原作にはない。リアクションで芝居がつながっているがゆえのアドリブか、否か。
・ルイス「The God of the Bible is a bullyin Busybody.」──谷訳は「聖書に出てくる神のわがままぶりっていったらないでしょ?」──また「でしょ」でルイスのフロイトに対する姿勢がやや接近している、悪く言ったら馴れ馴れしくなっているニュアンスを、文末辞だけで出している。
・石丸ルイス、斜め上を指差したり、眉を挙げたり、唇を舐めたり、唇を噛んだり、台詞を聞いていなくても見ているだけで面白い。
・トールキンの話が出るか出ないかのところで、サイレンの誤動作というハプニング。サイレンに掻き消されていたラジオから、サイレンがおさまるにつれ「落ち着いて下さい、今の警報は誤りです」という拍子抜けの音声が聞こえてくるさなか、舞台正面で客席に向かって必死で肩で息をしながらフロイトとルイスが二人ならんで生真面目にガスマスクをつけているという絵面が、この戯曲内の最大の笑いどころ。
・ガスマスクを外したあとの木場フロイト、顔が真っ赤になっていて苦しそう。伏線。というのも最後の方で「I know that when the siren sounded you didn't behave like a man who "took comfort" this was his last day.」とルイスに突っ込まれるから。
・ここからの石丸ルイスがまた凄い。舞台手前に立っていた状態から、寝椅子に座り込む。かなり苦しげな表情。「When I heard the siren, I was back there.(サイレン聞いたら、思い出しちゃって)」──翻訳もルイスの感じやすさを出しつつ、ルイスは第一次世界大戦での戦場でのトラウマ的な記憶を思い出しつつ語っていく。「ぐちゃぐちゃの死体が動こうととする……」で文字通りおぞましいものをまざまざイメージしているかのような、怖がるかのような小声でつぶやくように語る。「僕の目の前で友達がこなごなに吹っ飛んだんです。そいつの肉片が胸や顔にビチャビチャ飛んできて!……」では、その時の気持悪さを再現するかのような身振り、表情、で目をつぶって寝椅子に倒れ込む。「Too near my heart to remove it.」の台詞のころにはもう泣きそうになりかかった感じやすい悲痛な声で、「『すべての戦争を終わらせるための戦争』だなんて言って、そんな日は来なかった! これからも来ない!」で顔をおおう。原文は「"The War To End All Wars." There'll never be such a thing.」だからここまで悲痛な台詞として放たれることが想定されているとは限らない。翻訳、演出、演技でここのルイスをどう形象化するかに相当作為が凝らされている。……そして、ここでルイスが大いに動揺することによって、もしかしたらルイスは第一次世界大戦の過悪の経験を経て信仰にも動揺を来しているのではないかということを予感させもするし、ルイスが何故フロイトに会いにきたか(単に興味があった、だけではなかろう。動揺しつつある信仰をフロイトという強敵を対手にすることによって試験しようとした?)、その潜在的理由すら暗示しもする。この形象化は非常に重要だ。
・フロイト「Turning lights off works better when it's dark outside.」で観客の笑い声が起こる。実際ここで木場フロイトは電気スタンドのスイッチを点けながらこの台詞の言うので、たしかに間の抜けた感じがかもし出される。
・「おならアーティスト」の話になり、ルイスも寝椅子に倒れたままフロイトの方へ首を振り向けて話を聞きながら、笑う。「For his encore, he blew out a candle from across the stage!」→「カーテンコールも見事だった! おならでロウソクを消して回って暗転!」この辺もちょっとした意訳だが、このフロイトの話でルイスを笑わせなきゃならないから、調子を整えているのだろう。
・このあたりの対話のテンポは、相手の言葉を受けてから少しそれを咀嚼する時間も取っているかのようで、先ほどの議論が発熱した時のテンポからは相当落としている。
・ルイス、「蛙の解剖よろしくピンで止めて……」のところで、ラジオの上部を台に見立ててその上で蛙をピンで止める身振り。分かり易い。ところでこの構図でルイスは客席に向かって寝椅子に坐っているわけなので、やっぱり背中越しにフロイトと話している感じになる。
・フロイトがルイスのジョークの説明を聞いて爆笑しているのに対して、ルイスは渋面を作って「どこが面白いんです?」──原文では「That's as funny as hanging.」ざっくり意訳。
・ルイスが無神論者ウェルドンやトールキンのことを語るところでも、日本語の台詞でリアルタイムで聞いて意味が通りやすいように、かなりざっくり訳している感じ(というか部分的に省略したり文章の順番入れ替えてる?)。「だから驚きましたよ!(I nearly fell out of my chair when...)」というふうに台詞を切出したり、「When I told him how shocked I was to hear him say such a thing, he couldn't have been more embarrassed and eager to leave.」→「『なにバカなこと言ってんだ!』そう言ってやったら、あいつは気を悪くして帰っちゃった。」──直訳したら「これ以上ないくらい真っ赤になって……」みたいな感じだが。
・フロイト「You can't be saying the Gospels are literal.」→「福音書の内容が事実? そんなわけあるか!」──二文に分けて、さらに苛立ったような乱暴なニュアンスに描き直し。
・ルイスの福音書の真実を用語する長科白。立って歩き回りながら。途中でフロイトが口を挟もうとするが、ルイスは喋りながらそれを制する。ルイス、弁じ立てながら片腕を前に差し伸べたりする。「創作神話などではない!」でまた手を左右に払う身振り。「キリストは違う!」で手を上げたり。
・フロイト「So you shouted "I believe!" and the birds in the trees cried "Halleluiah."」──これは完全に別の台詞へ訳されている。「そしてきみは神を信じ、トールキンは天使の祝福を受けた。」上演台本での変更か?
・フロイト「I'm convinced. Christ was a lunatic.」で客席に笑いが起こる。ルイスが議論に熱中しているのを真剣に受け止めているかのように見せ掛けて(木場フロイトがそういうトーンで発語する)、言ってることが完全に嘲弄だからだな。
・このあたりで議論のテンポが上がっていくので、フロイトの「I concede it is unlikely.」がルイスの矢継ぎ早の主張に掻き消されるのだが、谷訳も始めからそれを想定していたのか、つまり議論の中でちゃんと明瞭に発される台詞ではないものと想定していたのか、「それはまあ……」という訳。
・ルイス「Reducing him to a great teacher is only patronizing.」/フロイト「I don't claim Christ to be a great teacher.」──面倒くさいやりとり。直訳したらなんか「キリストを偉大な教師にすぎないと見做しても、彼を弁護することになるだけですよ」みたいになりそうだが、谷訳では「たしかに彼は偉大な教師でした。しかしそれだけではない」「誰も偉大な教師だなんて言ってない!」──「たしかに」を加えて掛け合いが噛み合うように意訳。このあたり、木場フロイト今にも机を叩きかねないテンション。
・フロイト「柔和な人々は幸いである、彼らは大地を受け継ぐであろう」──の箇所、原文は「since the meek will inherit the earth.」だから言葉を足して翻訳して分かり易くしているな。
・フロイト「I have two words for you: Grow up!」→「一言言ってやりたいよ、大人になれ!!!」──たしかに日本語だと一言になるからこれでいいのだが、この言い方(訳)だとルイス一人じゃなくてキリスト教信者全般に言っているみたいに聞こえるな。you=おまえたち、ということ?
・フロイト、咳き込んでハンカチで口元を抑えてから、下手の椅子に座り込む。
・ルイスの「(人工口蓋を触らせないのは)Not even your doctors?」に対して、フロイトの「Especially not the doctors.」からの台詞は怒った声で「信用できん!……」──意訳だけれどもここから木場フロイトが過去に入院中に酷い目にあった回想を語って、ルイスの戦場の回想と対になるような感じやすさを出していくところなので、こういうふうに感情を込めやすい台詞に意訳したのか。直訳すると「とりわけ医者には触らせはしない!」みたいな。実際、木場フロイトはこれ以降「血が止まらないんだ……」と言いながら鼻をすすったり、顔を赤くしたり、ほとんど辛さで涙ぐんでいるかのよう。
・フロイト外へ出る。ルイスため息をつく。ルイス上着を着る。ルイス、フロイトのグラスから思わず水を飲んでしまうが、すぐそれに気づいて、あわてて水差しからグラスに水を注ぎ直す。観客席から笑い。フロイトまた入って来て、ルイスと目を見合わせたあと、ラジオを消す。
・アンナはあとでかなり重要なファクターになってくるので、ルイスの「And to you, it seems.(そしてあなたへの貢献も、でしょ?)」の台詞は意味深。また文末辞「でしょ」だし。この台詞に対してフロイトは応えず、自分の骨董コレクションへと話題を逸らす。
・このときルイスはフロイトの机の椅子に坐っているのだが、「What do you call a man whose desk is guarded by gods and goddesses?」の台詞で机の上に手をひらひらさせる。ところでこの台詞の訳は「神々に机を護らせている男。診断名は?」となっていて、精神分析家としてのフロイトを皮肉るニュアンス──「診断名」──が付加されている。対するフロイトの答えは「コレクター。」
・フロイト、「いいものを見せてやろう」でやはりフロイトの椅子に坐ったままのルイスの前に何かの箱を出す。ルイスはそこから何かの布切れをつまみあげるが、フロイトの言葉でそれがミイラの包帯だと知って、あわてて手を引っ込める身振り。
・ルイス、「脳じゃなくて、心臓……」の台詞で、実際に自分の頭と胸を指し示す身振りを入れる。分かり易い。
・ルイス「What I'd like to know is why all the pieces on your desk are sacred objects?」この台詞、谷訳では「しっかし面白いなー」(やたら楽しげに)という言葉から始まる台詞になっている。つづいて「先生の机にあるものはどれも神々に関するものばかりだ……ははは」。ここでルイスがフロイトに対し攻撃に転じようとしている予兆をちゃんとニュアンスとして匂わすための意訳。
・フロイト「Tell me; are you hoping to replace me in my practice?」──直訳すると「またきみは私に代わって精神分析医の真似をしたいのか?」みたいに文語的な感じだが、谷訳ではざっくり「またきみは何かふっかけたいのか?」。
・原作脚本の流れどおりなのだが、フロイトが私の癌の苦しみも神の意志のおかげか!となじるところから、ルイスは初めて長く考え込むことになる。「I don't know. ...And I don't pretend to.」それまでフロイトの椅子に坐っていたルイス、舞台中央へと歩いて行く。
・木場フロイトは一旦すでに感じやすさを見せているが、それがここでも持続していて、「So cancer is God's voice.」「No. Because the hospitals are filled with believers God treats no better.」などの台詞は冷笑するようにではなく、激しく訴えかけるような感じやすげなトーンで放たれる。
・フロイト「I'm sure Hitler, the little altar boy who served at church every Sunday, agrees with you.」──の台詞を谷訳では「ヒトラーに聞いてみろ!!! 賛成してくれるだろうさ!!!」と文の順番を入れ替えて、言葉にエネルギーを乗せやすくしている。実際、木場フロイトはこのあたりで「一言言ってやりたいよ、大人になれと!!!」の時と同レベルでヒートアップする。「われわれは違う言語で話しているようだ……」の箇所では、若干疲れたように涙目になる木場フロイト。
・ルイスもヒートアップしているのだが、基本的に「あなた」「です/ます」と丁寧。「どうして受け入れてくださらないんです?(So why is it so difficult to accept that...)」。
・フロイト「...and seek vengeance.」→「(幻覚で神が見えたら)復讐に行けて好都合だよ!」──言葉に攻撃的なエネルギーを乗せられるように翻訳で描き直す。
・フロイト、咳き込んでからテンション落ちて、上手手前隅の椅子に坐る。そこに坐ったまま、「you see hell has arrived already.」の台詞をルイスに向かって口を大きく開けながら言う。
・フロイト「My wife shares your supersititions.」の台詞を言いながら舞台を対角線上に歩き、机のそばの自分の椅子に坐る(煙草を吸うための予備移動)。ルイスは対称的に移動して上手奥へ。
・ルイス「Doesn't smoking aggravate your mouth?」→「ご病気なんですよ?」ざっくり翻訳。
・ルイス「Extraordinary.」で自分の腕時計を見る。まじで驚いた演技。
・ルイスの「That we've been talking this long and this is the first mantion of sex.」の台詞を受けてフロイトの台詞「Your definition is too narrow.」が来るが、谷訳では「(きみがそんなことに驚くのは)それはきみの性の定義が狭過ぎるからだよ!」と文脈を補っての描き直しの訳になっている。
・木場フロイトの「Extraordinary.」は「おっどろいたな〜」と呆れるように。ここでフロイトは時計を見るが、つられてルイスも時計を見てしまう(という指示は原作にはない)。
・フロイト「Ah, the Bible! For a moment I thought you were thinking for yourself?」→「聖書ときた! 少しは自分の頭で考える男かと思っていたか買いかぶりすぎてたようだ。」──台詞に乗せるべき感情をも想定してのこなれた訳。同様に、ルイスの「Then you practice free love?」→「ずいぶん練習なさったようですねえ、自由恋愛を!」と攻撃的な皮肉になるようにこなれた訳に。
・フロイト「Does homosexuality offend you? It should not.」→「同性愛も駄目なのかなあ〜? 考え直しなさい!」と相手を嘲弄するような感情を込められるよう、こなれた訳に。
・フロイト「It seems it was Mrs. Moore.(鍵はムーア夫人だな)」あたりからポケットに手を突っ込んだ不敵な態度で、ルイスの弱点に切り込んでいく。フロイト「How long have you been in this relationship?(それで、どのくらい? 二人はその、『関係』を?)」/ルイス「I wouldn't call it a relationship.(やめてください『関係』だなんて!)」。
・フロイト、ムーア夫人に対して尋問するような問いを投げながら、相手の言葉になるほどなるほど……みたいな素振りを見せながら、ルイスに近付いていって、寝椅子の下手に回り込む。
・ルイス「I resent your implicaiton, and my personal life is not your concern.」/フロイト「Your conversion is.」──って、英語だからこそ噛み合っているやりとりだが、谷訳では「そんなに気になりますか僕のプライヴェートが」「気になるのはきみの宗教的転向についてだよ!」と日本語として噛み合うやりとりへとざっくり描き直し。
・ルイス「これ以上話したくない!(と、手を前に突き出す)」/フロイト「……ならそうしよう。だがこれは私の信念だがね、患者が話すことよりも患者が話せないことの方が、得てして重要な意味を含んでいるものだよ。」──という印象的なやりとりが来るが、ここで、寝椅子に腕をついて身を乗り出していたフロイトは、腕を寝椅子から離して、ゆっくりと姿勢を直す。このあたり迫力あるぜ。
・ところが、その迫力が、アンナからの電話を受けて一変する。「Then cancel it! I need you here.」の台詞では木場フロイトはほとんど子供が駄々をこねるようなトーンで懇願。顔を真っ赤にして。その姿をルイスに目の当たりにされる──つまりこっからルイスの反撃がはじまるわけ。ルイス、机の上の写真立てを手に取る。「Is this you with Anna?」──ここからの対話においては、なんか木場フロイト、寝椅子下手の椅子に坐ってハンカチをいじりながらもじもじしている。
・アンナの結婚相手を選ぶのは大変だ……というフロイトの台詞を受けて、ルイス「You mean, for Anna to choose.(選ぶというのは、アンナさんが、ということでよろしい?)」とチクリとやる。フロイトとまどう。次の「Of course.」の台詞までに気まずい間。
・ルイス「いやー教授はラッキーだなー。だって教授の口に触れていいのは娘さんだけなんでしょ?」やたら悪戯っぽくフロイトを攻めていく。
・フロイト「Do you have more questions?」の訳が「ほかにご質問は?」で、やたら丁寧になっているのが彼の不機嫌さを暗示しているかのような、訳。
・ラジオ。ああ、ここで「あとでKing Georgeの勅旨を……」って結末部分の伏線が張られてるんだな。
・ラジオを消してから、フロイトは上手手前隅の椅子に坐る。客席の方を向いて喋る。「私にとって残されたなぐさめは死ぬことだけだ……」
・木場フロイト、「I don't care what Aquinas believes!」でいきなりヒートアップ。極端なダイナミズム。そんなにアクィナスが嫌いでしたか。
・ルイス「You're protecting her, then? Or are you afraid she'll think it's wrong? Try to talk you out of it.」は次にフロイトのさらに決定的な激昂を引き起こすトリガーみたいな台詞だが、谷訳は「彼女のため? ちがう。こわいんでしょ? 自殺なんて間違ってる、そう言われることが!」と短文を矢継ぎ早に並べてどんどん相手に踏み込んでいけるような勢いをつけられる台詞へと、「感情」を描き直している。で、それを受けてのフロイトの台詞「You are quite persistent.(ほんとーーーうにしつこい男だ!)」を、木場フロイトは真実いまいましげに吐き捨てる。
・音楽に関するやりとり、原文ではすらすら進んでいるようにも読めるが、上演では石丸ルイス、木場フロイトとも感情がおさまらなくて互いに相手を言い負かすようなテンションになってる。「いつもそうしますね?」「どーしてわざわざ!」「讃美歌だろどうせ」「嘘だろ!?」「そりゃわかるよ!!!」──このテンションのままクライマックスまで持っていくために、もうこのやりとりからエネルギーを備給していかなきゃなんないってことか。「I object to being manipulated.」も原文ではさらっと読めてしまうが、木場フロイトは圧倒的なダイナミズムをここに込めてる。
・議論のクライマックス。ここでルイスが初めてフロイトのことを「きみ」と呼ぶ。「Not all of it. I also think you're terribly selfish, putting your own pain above the pain of those you love.(まだある!!!!! 見たところきみはひどくわがままだ。自分の苦しみを避けようとして自分を愛する人々を苦しめようとしている。……)」──この「まだある!!!!!!」が劇中ルイスの声量としては最大のヴォリューム。
・そしてこのクライマックス、フロイトの方は「何が信仰だ!!!!!!!!!」の台詞からボリューム120%くらいの激しくヤバいテンションになっていくが、この決め手の台詞に対応する原文がない。たぶん「What did you believe in at that moment, God or death?(直訳すれば:おまえはあの瞬間に何を信じてたんだ? 神か? 死か?)」を「自分はどうなんだ。何が信仰だ!」にざっくり変換している。というか、ここからのフロイトの台詞は、大ヴォリュームで発することに最適化してかなり圧縮・組み替えられている。原文どおりの文語調だとどうしたってエネルギーが乗らないからか。「I found the truth you cannot face!」が「欺瞞だよ!!!!!」の一言に変換されたり。
・で、フロイトが身体的に耐えられなくなって、「タオル!!!!!!……ぐほっ、……早く!!!!!!!」とタオルをルイスに持ってこさせ、自分の人工口蓋を外させるという、痛々しい、激しく動的なシーンがつづく。フロイトは最初にルイスが坐っていた椅子へ倒れ込む。ここでルイスが人工口蓋を外すとき、客席に背を向けて坐っているフロイトに屈み込むことによって、手許が見えないようにしている。
・フロイト「空爆か!??」で必死の形相に。ルイスも戦慄する。飛行機の音が英国軍のものだと分かってから、二人してがっくり疲れる。ルイスは上手手前の隅の椅子にくずれるように坐る。「admit. I was frightened.」
・フロイトの非常に重要な台詞、「Only one thing is greater madness. Not to think of it at all.」──直訳すれば「より狂ってることが一つだけあるな。それついてまったく考えずにすませることだ。」──これは谷訳は「ちがう!!!!!! それを考えようとしない方が、よほど狂ってるさ。」で、文語的な感じをくだいて、クリティカルなエネルギーを込められるように描き直し。実際、木場フロイトはこの台詞にかなり重々しさを込める。このくだけた感じは、直前のルイスの台詞にも出ている。「It was madness to think we could solve the greatest mystery of all time in one morning.」→「人類最大の謎を午前中いっぱい費やしただけで解けるもんか……狂ってる!(拳で手のひらを叩きながら)」
・電話が鳴り、それで立ち上がったことをきっかけに、フロイトは机の椅子の方へ移動。ぐったり坐る。
・原文ではフロイトの「Goodbye, Professeor. We will meet again, perhaps.」はひとつづきだが、上演では、「さよなら、ルイス教授。」のあとに、がっちりと二人が握手して、それからルイスがガスマスクの箱を取りに机の前を離れ、それから玄関口へ向かう──そのときに「また会えるかな?」とフロイトが呼び止めるという流れになっている。
・ルイス「God willing.(神の導きのままに。)」の台詞を聞いて、フロイト呆れたように唇を突き出す。客席に笑い声。
・さらにフロイトがルイスを呼び止めてからの、保険屋の無神論者に関するジョークの後、原文でフロイトとルイスのやりとりは次のようになっている。フロイト「The villager had died, still an atheist. But the pastor was fully insured.」/ルイス「Now that is funny. If only there were such a thing.」/フロイト「Humor?」/ルイス「Insurance.」──これ、「If only there were ...」の訳が面倒くさそうなのだけれど、谷訳ではざっくり意訳して、フロイトとルイスが台詞を言うタイミングも変えて、ルイスが最後に一矢報いたみたいな印象的なやりとりへと描き直している。「一方牧師は保険に加入していた。」「(ルイス笑う)なかなか良くできた……」「良くできたジョークだろ?」「良くできた……保険、だったんでしょうね」
:アフタートークメモ(木場勝己×谷賢一)
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(※記憶と殴り書きのメモを元に構成しているので、両氏の発言の本意とは懸け離れている可能性があります。)
- 木場氏「われわれで早期に合意していたのは、とにかくこの戯曲で大事なのは言葉だということ。言葉を味方につければ、言葉によってぐっと自分を持ち上げたり、言葉で自分を抑えたりすることもできるのだから。はっきり言って私は精神分析のことも神学のことも全然分からない。そもそも舞台がロンドンなのに日本語で喋っているのだから、史実どおりのフロイトに扮するというのは早々に諦めて、脚本に書いてある言葉を喋るだけだけれども、言葉の意味内容にとらわれるよりも、それらの言葉をどう扱うかに集中した。言葉は、相手にはたらきかける武器ともなるし、相手を引っ張り上げる綱ともなり得る。自分の発する言葉によって相手にはたらきかけ、相手が変わる、動く、ということが重要で、相手がそのように変わっていけば逆にこちらも変わっていく、動かざるを得ないというふうになる。そういう相互作用が舞台上で『起こる』ことの方が、意味内容の正確な理解より演劇としては重要だと考えた。実際に、単純にその方が面白いし、楽しいし、観客にとってもリアルタイムで目撃するに足るものになる。」
木場氏「演じているあいだは、もちろん感情も動くのだけれど、それに対して、言葉というのは蓋にもなる。蓋としての言葉と感情がぶつかり合って、いい感じの葛藤が生まれたりすることもある。内にある感情とそれに蓋をする言葉という対関係のイメージ。怒りをわーっと出す時でも、二つのベクトルで引っ張り合うような葛藤があった方が面白い。その葛藤を作り出すために言葉には多様に利用できる可能性がある。……また、感情が落ちるとき、言葉によって感情を引き上げるということもできる。発語するというのは、行為としては動くことと同じだからだ。」
谷氏「語尾の翻訳には細心の注意を払っている。だ/だろ/です/でしょう/じゃないか、といった違いだけでその瞬間瞬間の人間関係を作り出すことができるからだ。たとえば、それまでラフな口調だったフロイトがルイスに対して『それは何歳のころでしたか?』と急に丁寧な口調になるのは、そこで、精神分析的に相手にはたらきかけるようフロイトの態度が変わるからだ。」
谷氏「原作は、まず戯曲として面白い。単純に二人が神について議論しているのではなく、空襲警報、電話、ラジオ、といった単線的な展開に対するズレが丁寧に配置されていて、また、人工口蓋を介した二人の和解のさせ方など、戯曲としての巧みさが素晴らしい。ただ、台詞には、当てこすりや同意してると見せ掛けて否定している、みたいなものが多くて、翻訳には苦労した。いつもより五倍くらいの情報処理がそのつど必要だった。」
木場氏「この戯曲にはストーリーらしきストーリーもなければ、テーマらしいテーマもない。だからこそ惹かれた。テーマとかストーリーが前面に出ていると、俳優はその道具にならざるを得ないというところがある。無視するわけにはいかないから。でもそれって鬱陶しい。この戯曲では演じることだけを存分に楽しめた。」
谷氏「木場さんもおっしゃっていたが、史実のフロイトを正確に再現することは最初から捨てていた。その点については早い段階で合意ができていた。それよりも、言葉のやりとりでどこにバリューがあるかを徹底的に詰めていった。たとえば、冒頭のフロイトとルイスのやりとり、ここでルイスは時間に遅れて到着したわけで、普通だったら『ごめんなさい』『まあまあ、お掛けください』みたいな無難なやりとりが交されるはずだが、この作品では『ひどい仕打ちですなあ! 八十三歳の老人をつかまえて』『ダイヤが滅茶苦茶になってるんです!』とお互い全然遠慮しないというやりとりになっている。そして、こうした剣呑さがすでに戯曲全体のフロイトVSルイスという対決の構図を予告しているんじゃないか、このくだりがすでに二人の関係のベースになっているんじゃないか、というふうにわれわれも解釈した。そのように台詞を逐一関係性と動機で読み込んでいくことを、戯曲全体にわたってやった。」
:考察メモ(仮)
- 台本の空白部分をどう解釈すべきか。
(1)フロイトはなぜ最後の高度な対話相手としてルイスを選び、呼んだのか。
(2)フロイトはこの戯曲で描かれた出来事(架空だが)を通じて、どう変化したのか。
この二つの問いは本質的には同じことで、フロイトは舞台上なぜこのシチュエーションでそこに存在しているのか、一つ一つの台詞をルイスに向かって話すその根本的な動機は何か、という謎が解釈を要求している。その問いへの答えが、フロイトの役作りにも、戯曲全体を通しての流れとしてフロイトがどう振舞うかにもかかわってくる。
ルイスの方の動機は分かりやすい。呼ばれた側だっていうこともあるが、ルイスはまあキリスト教信者なので基本的に伝道の情熱というものを持っている。しかもインテリとして世紀の知の巨人であるフロイトに立ち向かうというスリルもそこにはある。さらには第一次世界大戦の惨禍を経て、「悪の存在」について考え込んでしまい、もしかしたら揺らぎ始めている自分の信仰をフロイトを相手に試したいという志しもあったかもしれない(サイレンに動揺して以降のルイスに見られるモチベーション。「すべての戦争を終わらせるための戦争なんていって、そんな日は来なかった。これからも来ない!」の激しさ)。ルイスが舞台上でそこに存在しているという根拠は分かりやすい。
対して、フロイトの方にはルイスに付き合ってやる動機は普通に考えたらない。思想家として全然格が違うし、しかも啓示とか原罪とかを信じることを前提にして物事を考えている相手を、基本的に議論で言い負かして説得するというのはハナから不可能だ。宗教の勧誘が来たからピシャッてドアを閉めるという対応でも良いはず。でもフロイトは、わざわざ最後の知的な対話相手に──史実どおりだったらこのあと三週間もしないうちにフロイトは死ぬが──他ならぬルイスという男を選び、呼び寄せた。それは何故か。単に理路整然と意地悪なことを言って相手を言い負かしたいから、なんてことではないはず。
そこを「なんとなく」で済ませてしまったら、この戯曲の上演は成立しない。
マーク・セント・ジャーメインだって、「最後の精神分析ってことにすれば劇的だから」っていうことでこんな架空の設定を着想したわけではなかろう。
- フロイト「病気は関係ない。私は死を恐れたことはない。」
ルイス「結局どうして私を呼んだんです?」
フロイト「知りたかったのは一つだけだよ。きみほど聡明な男が、しかもかつては私と同じ立場にあった男が、なぜ唐突に真実を見限り、くだらん欺瞞に身を委ねたのか。」
- 一つの仮そめの答え。この「最後の精神分析」というシチュエーションにおいて、フロイトは、自分自身がどこまで肉体の衰弱と腐朽がすすんでも強固な精神を保ちつづけることができるかを試すために、ルイスを呼んだのではないか(実際「Forgive me. My mood these days is ruled by my body.」というフロイトの台詞がある)。あと一ヵ月しないうちに死ぬという末期がんの状態だから拷問みたいな苦痛もあるはずだが、それに耐えて自分は、自らの意志と思想を保ちつづけることができるのか、否か。それを、自分の半分以下の年齢の、壮年で若々しい、そして自分の理論を理解するほどの学識もあって明敏なルイスを論争相手にすることによって、最後までルイスと論争をつづけても折り合わない自分を見出すことで、証立てようとしたのではないか。──そして、この解釈だったらもっとフロイトは傷つくところを見せてもいい。折れそうになるところを見せてもいい。肉を切らせて骨を断つみたいな感じで、自分が傷付いてもいいから相手に立ち向かっていく、っていうルイスに対して、同じようにフロイト側も肉を切らせて骨を断とうとするような瞬間があってもいい。解釈が役の形象化に影響を及ぼすとはそういう意味だ。
ところで、おそらく、最終的にフロイトはこの対話を通じて自分の思想に固執しつづけられたわけではなかった。それは最後の「Only one thing is greater madness. Not to think of it at all.」の台詞に結晶する、信仰か理性かの二者択一ではなく、両者の対話に意味を見出そうとする姿勢に明確に変化としてあらわれる。フロイトにとっては(たとえ死の残酷さを前にしても)もちろん啓示と神を受け入れる余地などないが、彼はまたキリスト者のルイスに「二度と会うまい」と告げようとはしない──「We will meet agein, perhaps.」と告げる。フロイトは最後、もうすぐ幕を閉じる自ら人生において神の問題に結論を出すことはできないと諦念とともに悟るが、だが彼がそのことに絶望することももはやない。なぜなら──
「啓示宗教の論駁と称するものはすべて、啓示を信じないということを前提としており、哲学の論駁と称するものはすべて、啓示への信仰を前提としている。哲学者と神学者の両方であることは誰にもできないし、実際にまた、哲学と神学の抗争を超える可能性も、両者を敢えて綜合しようとする可能性も存在し得ない。しかし、この未だ解決を見ない抗争こそ、西洋文明の活力の秘密なのではないだろうか? 西洋文明の生命そのものが、二つの掟の間で、根本的な緊張関係を伴った生命なのであり、そしてその生命に活力を与える思想は、われわれがそうした生を営み、そうした抗争を生きる場合にのみ正当化される。したがって、われわれは誰もが哲学者か神学者どちらか一方にはなり得るし、またなるべきであり、哲学者は神学者の挑戦を受けとめ、神学者は哲学者の挑戦を受け止めるのである。」(レオ・シュトラウス「進歩か回帰か」)