:基本情報・関連リンク
- 会場:駅前劇場
企画・制作:悪い芝居
脚本・演出:山崎彬
音楽・演奏:岡田太郎
舞台監督:大鹿展明、涌本法明(BS-II)
舞台美術:丸山ともき
照明:加藤直子(DASH COMPANY)
音響:児島塁(Quantum Leap*)
衣裳:植田昇明
演出補:進野大輔
演出助手:高橋紘介、川上唯
出演:呉城久美
大川原瑞穂
池川貴清
大塚宣幸(大阪バンガー帝国)
山崎彬
植田順平
宮下絵馬
北岸淳生
森井めぐみ
- 悪い芝居 Official Site
http://waruishibai.jp/
駅前劇場
http://www.honda-geki.com/ekimae.html
- 「201号室」(山崎彬氏ブログ)
http://201542.jugem.jp/
山崎 彬さんにインタビュー(2006) 頭を下げれば大丈夫
http://www.intvw.net/yamazaki.html
山崎 彬さんにインタビュー(2012) 頭を下げれば大丈夫
http://www.intvw.net/yamazaki_akira2.html
悪い芝居『駄々の塊』山崎彬インタビュー ロングバージョン
http://blog.livedoor.jp/enbublog-enbuwork/archives/5606019.html
:山崎彬氏の発言資料
- 山崎彬『春よ行くな』構想ノート http://waruishibai.jp/864197/note.html
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例えば、誰かを好きだと思う。
容姿だったり、声だったり、考え方だったり、優しさだったり、
手触りだったり、匂いだったり、と、言葉にすれば、何かの、言葉になる。
その言葉になる前の「何か」。
例えば、その誰かに好きだと伝えたいとする。
「すき」と言ったり、「好き」と書いたり、花束を贈ったり、
歌を歌ったり、ダンスをしたり、抱きしめたり、キスをしたり、と、
表現すれば、何かの。表現になる。
その表現になる前の「何か」。
こういったものを描いてみたい。と、思った。まだ、できるのかはわからない。
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猫もこうやってするように、僕たちはその時その場所その人に、求められている姿になろうとする。求められる姿の中に、幾分かのエゴを混ぜて。エゴの分量は、時と場合によって、変わる。
そんなことを稽古場でたくさん話す日々。
上手にやろうというものが邪魔をする。そいつを殺しあげる準備をしているような段階。
『春よ行くな』で僕がやってみたいことは、分かりあおうとして分かりあえないから溶け合うしかない人と人との間にうずまき蠢くなんだかわからないけど、灰色ブルーな感じのやつ。
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目に見えるものが真実ではなく、
見たものに対して自分の中で拡がった意識が真実だ。
僕たちは林檎を林檎として見ることを強制されていて、
同時に、他人も林檎を林檎と見ていると強制してる。
紅くて、丸くて、甘酸っぱい果物だと、誰もが見ていると強制してる。
紅とは林檎の色で、丸とは林檎の形で、甘酸っぱいとは林檎の味で、
トマトを見て林檎と同じ色だと、サッカーボールを見て林檎と同じ形だと、
恋をして林檎の味に似ていると、強制してる、されている。
だけど、ここに、林檎をわたしの心臓だと見ている人がいて、
その林檎をあなたも見ていて、その林檎についてふたりは話している。
林檎をわたしの心臓だと見ている人とあなたは決して分かり合えないはずだ。
はずなのに、ふたりは分かりあおうとする、分かりあったりもする、分かり合えなかったりもする。
林檎に対して拡がる意識がそもそも違うのに、だ。
あなたはその人が林檎として林檎を見ることを分かり合ったとするのか、
それとも、あなたが林檎をその人の心臓として見ることを分かり合ったとするのか、
どちらが分かり合えたことにするのかな。
こう考えていると、分かり合えるということは本当に恐ろしいことのような気がしてきて僕は、
電気を消して天井を見つめ続けるしかない。
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「この人物はどうしてこの行動に出てこのセリフを言うのか」
自分の行動の理由、そのすべてもわからないくせに、俳優は役の、いや違うな、
人は他人の行動に、言葉で理由をつけようとする。
そんなことがやりたいんじゃない。
わからない、わからないけどきっとある理由、言葉にできない理由、つまり今回描きたい「何か」そのもの、
それを描くためには、とにかく分からないことを分かり合おうとせず、分からないまま舞台に乗せることが大切だと思うし、
それは怠慢ではなく、とても普通のことだとも思う。
僕は天上底の全てを知らない。全てを知ることはない。
自分が書くのに、それでいいと思っている。
なぜなら僕は僕の全てを知らないからだ。僕が『春よ行くな』でやらなきゃいけないことは、
言葉で説明できないものを台本として起こすこと(きっとものすごく苦しい作業になる)、
そして、嘘をつかないこと。
これは俳優に、スタッフワークに求めることでもある。
当たり前のことを、当たり前に描きたい。
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描きたかったのは、人と人との間にあるといわれている、本当は交わしたい「何か」であって、また、その供養であって、人物たちがセリフやト書きで表さない部分をまず書いて、それから、セリフやト書きを書いて行くという、二度塗りシステム(勝手に僕がそう呼んでる)を採用しました。それは本当に苦しい作業だったけれど、その苦しい自分を晴らすためだけに向かうラスト付近を書いているときの生温い爽快感は格別で、この世で僕しか味わえないのがもったいないくらいのものでございました。
また、時間がかかってしまいましたが『春よ行くな』を執筆していた日々は、表出する前の「何か」は変わることはなかったのに、二度塗りの際に僕も思いもよらなかった言動にでる人物たちに驚かされる毎日で、これも僕しか味わえない感覚だったので、わけてあげたいくらいでございます。
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ただ僕は、人と人とは100パーセント分かり合えないと思っているし、分かり合えたと思うのはその人のエゴであって、本当に無理だと思っているのですが、それでも、分かり合おうとしていきたいし、分かり合おうとして分かり合えないことにちゃんと気がついて、溶け合いたいと思っています。
分かり合うことの無理を埋めるのは、想像力だと信じています。愛は時に邪魔をする。
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今作ではこのことを徹底していきたい。
戯曲も、「本来、人物がいいたいこと」「人物がイヤでも思ってしまうこと」を書いた上で、
思い通りのあるいは思いとは裏腹のセリフと行動を書くというやり方で仕上げた。
とにかく、言葉や行動になる前の「何か」を描きたい。
その「何か」は、観客の頭の中に旅することを夢見ている。
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天上さんは最後、街に出て今もまだ生きているんだ。芝居はおわったけど、僕の、あなたの、人生は続く。天上さんもまた同じく生きるんだと思う。
天上さんは「あんな程度で狂うなんて理解できない」と言う人たちとのコミュニケーションを拒絶した。哀しいけど望み通りの結末にたどり着いた。それでも理解したいと思える人にも出会った。からっぽの人だった。理解してほしい人に理解を求めるのも怖くてできなかった。だからまず、私が理解しようとつとめるも、信じきることができなかった。もし、彼女が自分をもう少し信じることが出来たなら、物語はきっと変わっていたことでしょう。天上さん、しあわせに。
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- 「観る人の出逢っていない想像力や眠っている価値観を刺激したい」“分かり合いたい若者たち”を描く悪い芝居の新作『春よ行くな』について主宰・山崎彬にインタビュー! http://kansai.pia.co.jp/interview/stage/2013-08/1308-s002.html
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「ストーリーとしては、簡単に言うと恋人と別れた女性の話なんですけど、その中で描きたいものは、人と人との思惑のズレ。人って、分かり合いたくて分かり合おうとしても、結局100%分かり合えることなんてないと思うんですよね。その“分かり合おうとする人”たちのやり取りを見せながら、物語を進めたいと思っています。……ただ多分、お客さん自身も、登場人物の誰ひとりのことも分からないと思います。というのも、“分からないけど、魅力がある人”を描いたら、観ている人はきっとその人について知りたくなるし、想像するでしょ。だからドラマ性のあるものを見せるよりも、お客さんが想像できる物語を作りたい」
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「日常的には、“分からないこと”の方が僕らは脳みそが刺激されるし、興味を持ったりすると思うんです。だからこの作品も、お客さんをきちんと刺激できるように、魅力的な分からないものにしたい。分かることが薄いとか浅いというわけじゃなくて、より演劇として面白いものを求めて作りたいと思っています。……」
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- 山崎彬『春よ行くな』東京公演直前ロングインタビュー http://archive.mag2.com/0001607885/index.html
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山崎 そもそも「こういうものを表現したい」って思ったもの、人に何かを伝えるというときに「こんなことを思っている」ていうものや、ことを、誰かに説明するときにまだ全然言葉に出来ない時の感じ、そしてそういうものが言葉に変換されたとき、どれくらい「それそのもの」が削ぎ落とされちゃって言葉になるのかとか、なんていうのかな、自分が作品づくりの1番の根源にしてるもの自体を、『春よ行くな』では作品にしたいって思って。
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── 出演者に取材したりして書いたりもした?
山崎 取材っていうよりか、なんかとにかく話をしてもらった。人と人が「分かりたいのに分かり合えない」っていう状態にまつわるシークエンスをいっぱい繋げたくて。特に物語の序盤は。だから色んな話をしてもらってました。僕から投げかけた雑談を、自分の経験だけじゃなく嘘も含めて話してもらって、その雑談で出て来た「昔こういうことがあって」とかの話を、じゃあその昔に戻ってやってみようみたいな。そんで、段々シーンが作られていった。
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山崎 「僕はこういう人間です。山崎彬はこういう人間です。」って、自分のことって普通はもっと話せないですよね。なのに話せるくらい作りこんじゃう。それっていいことなのか僕にはわからないけど、作りこむべきはそこじゃないんじゃないかなって。
…………
いつも鏡で見てる顔って、分け目が逆だし、ほくろの位置も逆なわけやん。動画とかで見ると「あっそっか」って思うことがあるわけ。「そっか、前髪左分けだったな」って。でも、鏡に写る自分の方がイメージが強いから、ちょっと違和感を感じるんです。そのくらい自分のことって分かっていないから、役のことは分からなくていいので、とにかく、役者さん自身が持つ役の違和感をなくさず、その時その時を生きてほしいっていうのは伝えていて。みんな説明のつくように役を無意識で演じてしまっていたのが、今回は「分からなくていい」っていうのをすごく楽しんでくれていて。
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山崎 …………
演出としてもぶつかったし考えてもらった。過去の作品で「言葉がとても強いけど、演じる役者がそのセリフを言えるまでに達していない」ようなことはよく言われていて、それは自分たちでも実感してて、「セリフを言えた感じ」になっちゃうんですよね。それは役の説明がつく、というところにも繋がるんですけど、役の説明がつくということは そこで思考を停止してしまったってことだから。書いてる僕も説明つかないセリフをどうして説明つけちゃうのですか問題と呼んでるんですけど(笑)、それは僕にも問題があって、役の説明をできる冷静な状態を演出で与えたなって思って、今回は、舞台上で、感じるままにその台詞が言えるように言葉っていうものにちゃんと立ち向かえるように、僕自身役者と立ち向かったって感じですね。
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山崎 「分かり合いたいけど分かり合えないひとたちが、ちゃんと分かり合えなかった」っていうのを描こうと思った。僕はそこにすごく希望があると思うし、分かり合えないまま、分かり合えないからこそ、分かり合えないところを想像力で埋めるっていうことこそ、すごく希望があると思う。だから哀しい話ではないと思っていて。まあ、でもそれは、僕からしたらってことなので。
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── 客演の大塚さんも、劇団員みたいですね。
山崎 今回面白かったのが、大塚くんはサービス精神の旺盛な俳優だから、自分で考えたものを足してくれる。でもこの作品は、嘘があると駄目になるように書いたのでって台本渡すときにテキトーに言ったんだけど、いざ稽古したときに「大塚くん、こことここが駄目だったね」って指摘した部分が、大塚くん的にも盛ったところだったていう。 で、今回は、盛るなら嘘がないように盛るっていう準備のほうを大事にしてくれた。そういう意味では、また違う大塚くんの顔が観れるようになってるんじゃないかなって思ってます。
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:悪い芝居・山崎彬 はじめての東京WS『演技って何かってのをもっかいみつめてみる時間(2013年8月4日)』メモ
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(※殴書きのメモと記憶を頼りに書き起こしています。山崎彬さんの発言の正確な記録ではありません)
- ・演技、とは。技術? 重心の意識? 発声法? 感情表現? いや、そんなこと以前に重要なことがある。良い演技と駄目な演技とを直観的に分ける重要なポイント。それを才能とかテンションとか調子とか気持という言葉で片付けたくはない。才能を持っている奴に勝つには直感を磨くしかないのだし。
・朝起きてから稽古場に来るまでに何をやったか、何を見たかを語ってみせるエチュード。これのポイントは、「自分の見たものは(それをありありとイメージしながら)絶対に言える」ということ。単に台本を渡されただけではこんなふうには語れない。とくに「下痢をしてしまった」「ペットボトルの水を買うのがもったいないので、水道水を詰めて……」みたいなことを言うときの言いにくい感じ、とまどい、恥ずかしさなんて、単なるお芝居としてはなかなか出て来ない(まあ、脚本段階でこういった豊かさを入れ込めれば面白いんだけれど……)。あと、自然に携帯電話を右手で持つ仕草が出てきたり。何も演出をつけなくても、見たものをただ伝えようとするだけでこれほどに豊かな仕草が出てくる。ただ見たもの、イメージしたものに対してリアクションするだけでいいのだ。戯曲中の科白だって、相手のイメージ──美しい人、ウザい人、駄目人間──に対するリアクションとして語るから、語調もアクセントも千差万別になる。
・そう、駄目なお芝居は、リアクションでやっていないということ。「なんてことなの!」とか単に悲痛に叫んだりするやつ。見たものに対するリアクションではなく、自分の中から悲痛さを出そう出そう、自分の中から出てきたものでやろうとするから、嘘っぽくなる。リアクションでやれば、すべては真実になるはず。表現しようとしなくていい。ただ見る。そしてリアクションとして言う。ちゃんと見ているなら、眼以外のところでも身体は色々反応しているはず。
・対話場面。口で言って科白を伝えるだけでは駄目。こんなふうにイメージしてみよう。相手と直に丹田でつながっていて、そこの管を通して「会いたかった」「好きだ」を伝えようとする感じ。っていうか、メールだけでやりとりしているのでないかぎり、実際の対面での会話においても、言葉だけのやり取り以外にそういう丹田でのつながりみたいなのを通してコミュニケーションしているだろ。それがお芝居になったとたんに言葉だけになるのはおかしい。リアクションとして嘘だ。
・イメージの仕掛け。たとえば相手に対して申し訳ないという想いを出しながら語りかけるときに、意図的に相手役の背後に雨を降らせるというイメージ(に対するリアクション)で語ると、自然に「なにしてたんだよ……」の科白のトーンも変わってくる。或いは、自分の背後に風船を百個つけたというイメージを持つと、それだけで「自分は彼女が好きだ」という独白のトーンは変わる。相手を恐がっているという場面なら、恐がっている理由を探すのでなくて、単に相手の存在が巨大に、虎になったというふうにイメージするだけでいい。恐ろしい部屋に入って行くという演技をするなら、やはり恐怖の原因を探すのではなく、その部屋の床が和紙でできているとイメージして演ってみればいい。出て行く女を引き止めるという場面なら、ドアの外が崖になっているというイメージを持てば、自然に焦っている感じを演技で出せる。嫌な奴と対峙しているという場面なら、相手役の口からしゃべるたびに黄色い息が出てきてそれが臭い(あるいは相手が巨大なゴキブリないしは巨大な食虫植物になって蠢いている)、というイメージを持つだけで相応しいリアクションが出て来る。感情が激発しかかているという場面なら、感情を出そう出そうとするよりは、腹のあたりに熱いものが触った!というイメージに対するリアクションで演ってみればいい。いらいらしているという演技をしたいのなら、辺り一体が砂漠になってしまったというイメージを持って演ってみればいい。恐がったりいらいらしたりすることの理由が必要なんじゃない。そして、おそらくこういう「イメージの仕掛け」の有効利用って、良い役者なら大抵やっていることだと思うんだよね。
・いや、そもそも日常においても、われわれはイメージにリアクションするということをやっている。たとえば朝八時に起きて、それが明らかに仕事に遅刻するという時間だとして、時計を見る場合を考えてみよ。その時の「八時」に対する反応というのは、単に時刻を見たということではなく、なんか時限爆弾みたいなものがあるとか、その時計が拡声器になってそこから「コラーッ!」っていう仕事場の上司の怒声が響いている、みたいなイメージで見ているはずなのだ。しかしそれをイメージ抜きで、お芝居だけで再現しようとすると、「八時だヤバイヤバイ」みたいな紋切型の演技になる。イメージを置く、イメージの仕掛けというこの手法を知っていれば、テキストの読み方だって大分変わってくるはずだ!
・イメージの仕掛け。イメージに対するリアクションで演技し、語ること。この方法論の本質的なポイントは、或る演技をする際に脚本の中に理由を探す必要がなくなること。たとえば人物Aが人物Bを好きになるとする。脚本の中にAがBを好きになった箇所を探っても、なかなか難しいだろう。だってわれわれの現実において「あの科白を聞いた時点から好きになった」なんてことはあり得ないのだから。そんなことより、その好意の感情を演じるには、ただ「この科白を言っている途中から自分の背に羽根が生えてくるんだ」というイメージを持ってやった方が、結果的に正しい演技になると思う。言葉で説明できる理由なんて探さなくていい。単にどんどんイメージの仕掛けを置いていけばいい。それに対してリアクションすればいい。どんなものを想定するのか。どんなものを盲信するのか。脚本の問題じゃない。科白に理由があるわけじゃない。俳優が見るものは観客にも見えるということだ。
・実は、科白のやり取りってそんなに重要じゃない──イメージの仕掛けとリアクションに比べれば。そもそも、科白なんて観客は誰も正確に聴いてはいない。むしろ観客は科白じゃないところを掬い取っている。科白は、とりあえずなんか科白のやり取りをしているなっていうことを示すためだけにあると言ってもいいくらいだ。言葉でのやり取りがいくら精巧に構築されていても、イメージとリアクションで芝居がつながっていないと、なんか退屈さが出てしまう。逆に、イメージとリアクションで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ。そして、もしリアクションでしか喋らないような状態に持って行ければ、テキストは消える。自分が何を言ったかさえ覚えていない感じになる(細かい言い回しなんか絶対覚えてないはずだ)。とにかく科白に頼らないこと。エチュードでも「科白言わなきゃ病」に陥らないこと。余談だが、科白に頼らずにリアクションを増幅させて盛り上げていくには、自分のイメージの仕掛けを途中で変化させて(例:なんか相手の頭上に今にも爆発しそうな爆弾がある!みたいな)、それに応じてリアクションし、それに対するさらなるリアクションで相手の反応が激化していくのを待てばよい。わざと怒ったり大声を出したりすることは演技として簡単なのだが、リアクションとして嘘では、駄目なのだ。注意すべきは、リアクション自体を大きくしようとするのではない、ということ。リアクションを大きくするのではなく、リアクションをより大きく取れるものを想定し、イメージを置いていき、それに対して反応せよ。
:上演中メモ
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(※※※記憶、上演台本、殴り書きのメモを元に再構成しているので、実際のそれと大幅に異なっている可能性が大です。)
- ・舞台は端的に言うと三角形。正三角形ではなく、底辺を客席側に向けて下手側の辺が長い不等辺三角形。その底辺も客席に対し並行になっているのではなく少し角度がついている。その三角形の右辺の延長で上手手前に人物の出入り口になる通路。そして三角形の向こうのスペースにはあたかも客席同様に舞台を取り囲むように上手側・下手側にパイプ椅子が二列並んでいる(むろん客は坐れない)。下手側だとさらにその奥にリアルタイムで音響を操作する音楽家のためのブースがある。
三角形の舞台は二段構えになっていて、中央部分が三角形の形に50cmほどせり上がっていてさらに三角形の床面があるという形になっている。これを便宜的に小三角舞台と呼ぶ。上演が始まると分かるが、この小三角舞台は一つの部屋を意味したり(段差を降りると「外」という設定)、座席を意味したり、テーブルを意味したり、あるいは登場人物がそのまわりを歩くことによってそこを取り囲む床面を道路に見立てたり、局面局面によってさまざまな空間形式に見立てられる。段差を上がったり下りたり、小三角舞台のまわりを走ったり歩いたりと、動きの線がかなり複雑になる上に、底辺部分=前面、頂点部分=奥、という立体的な奥行きが分かり易いデザインでもある。さらには、この小三角舞台の下は小道具置場になっていて、局面変化の際必要に応じて登場人物はここからものを取り出せるようになっている。独創的。
パイプ椅子は、場合によっては出番のない登場人物が坐って待機する場所になったり、このパイプ椅子の上そのものが何かの空間に見立てられてそこでシーンが演じられる場合もある。いずれにせよ登場人物が舞台から退場せずこのパイプ椅子で待機しているということを利用して、シームレスな局面転換をしている箇所がいくつかある。
- ▼第一章第一局面(天上底の部屋)
・すべての照明が消え、完全に真っ暗に。アンビエント・ノイズ・ミュージックみたいな音響が大きくなる。やがて音響が止むが、暗いままで、男女がもみ合っている音が聞えて来る。少し明るくなってから、「二十三歳、春」の幕が上手端に垂れる。仄暗いなか小三角舞台の上で男女が横になっていちゃついているのが分かる(脚本の指示「街頭の灯りが、カーテンの隙間からさしこむ程度の薄暗さ。天上底と戦泰平がまぐわっている」)。小道具の戦のビジネスバッグも見える。
・で、「ストッキング破いていい?」みたいな科白から男女いちゃつきながらの対話が始まるが、これが相手の反応に過剰にリアクションしながらの滅茶苦茶躍動的な流れになっている。下手するとこのシーンが一番この戯曲の中で面白い。もともと男はやりたがっている、女の方はなんとなく拒みたがっている、っていうベクトルの違いがある上に、言葉のやりとりも細かいところでやたらにすれ違って(「や、ダメ、っていうか、あのやっぱりその」「お願い」「あの戦さん」「お願いします!」「敬語、あの、敬語やめてください」「あ、ごめん、えっと……頼む底ちゃん」「やそうじゃなくて」「一生のお願い」「もったいないですーそんな」「大事なストッキングだった?」「違いますあのわたしのこれ破るかどうかで一生のお願い使ったら」「そ、そだねごめん、調子乗りすぎた」「いえ、そんな、わたしこそごめんなさい」「いや俺が、ごめん」)、それが互いを瞬間瞬間戸惑わせるから相手の反応に巻き込まれて意に反してどんどんもどかしくなっていく感じが、相互リアクションで増幅されつづけて、過敏でめまぐるしい、それでいてリアルな男女の交情シーンとなって前景化している。一つ一つの動きを切り取ってみればオーバーなんだけれど──小三角舞台を最大限利用して、端に掴まってぶらぶら揺れたり、スライディングしたり、飛び退いたり、でんぐり返ししたり、肘を床について頬杖したり、ストッキングを足指でつかんだり、腿の下に腕を通してスマートホンいじったり、這いつくばって謝ったり、ゆっくりした身振りが急に速くなったり、一旦完全に停止したり、匍匐前進したり、背中を床に擦り付けたり、しゃがんだまま爪先立ちになったり、宙空に円を描いたり、床面を手のひらで撫でまくったり、片足をのばしたり、ヨガやってんのか、ストレッチしてんのか、祈ってんのか、科白の区切りごとにポーズを変えまくり、相手のポーズを真似たり──しかしすべてが二人のリアクションと濃密なニュアンスでつながっているから、不自然ではなく見える。つまり男(戦泰平)の方はなんとか無理強いにならないように合意を得ようと相手の反応に合わせつつ働きかけを変えていくのだが、女(天上底)の方は相手を傷つけずに微妙にそれを逃れようとするのであいまい極まる反応を返さざるを得ず、そこに男の方が過敏に反応して謝ったり、動揺したり、遠慮したり、怒りかけたり、自嘲したり……というシーン全体の企図は一貫してある。その上で俳優たちが自由に動き回っているということ。
・そして考えれば考えるほど、やっぱりこのシーンの面白さの由来は脚本自体にあるというのが第一だ。「あ、すいません、あの」「……あごめん、生理?」「や違います、あ違わなくはない、もうすぐきます、きますけどそうじゃなくて」「え? ん? あれ? おれ、間違……った?」「や、あたしもあたしもその、ね、あのごめんなさい、あたしも悪いっていうか」「あのごめん、ストッキングのあれは、その忘れてほしい、というか」「いやあのそこは、そこはあの……、そこじゃなくて」「いやほんと、あのいつも破りたいとかじゃないから」「やそうじゃなくてあの、それは、まあ、じゆ、自由ですからそういうのは」「……え?」「あのだからあの」「生理、じゃない」「はい」「ストッキング、でもない」「はいあのそれは」「え? あの、あのごめん、え?」──ストッキング破る破らないというくだらないやりとりをなんでここまで面白く膨らませられるんだよ! 才能ありすぎ。もちろんこれを凄まじい濃度の現前性で受肉させた二人の役者、呉城久美氏と大塚宣幸氏も凄いが、他の俳優がこのシーンを演じるのも観てみたい。
・やたら手先や指先を波打たせる戦=大塚宣幸氏。腕先の動きで感情を出していく。
・どうでもいいがこの「女性のストッキングを破りたい」という意味不明の欲望のネタ元になっているのは、山崎彬氏のブログのこの記事なんだろうか。2009.10.20「『変態』の巻」http://201542.jugem.jp/?eid=363 ──《あの日、大川原さんのはいていたストッキングに、小さな穴があいていた。/「このストッキング大事!!???大事じゃない!!??だったらお願い破らせてっ!!今までの人生で一回も破ったことないの!いいでしょ!!」と意味わからない感じのお願いを鈴木くんと二人で土下座して頼んだら「そんなに破りたいのなら、破りな」とのお達しをいただいたので、ウッホウッホいいながら二人して破った。》
・二人が会話しているうちに段々照明明るくなっている(それでも暗いけど)。最終的には二人、小三角舞台の端と端にまで離れて会話する。戦が去ってから(段差を降りる=戸外へ)、照明がチラチラと動的になり、冒頭のアンビエント・ミュージックにシンバルの生演奏が加わった音響が入る──照明の動きの激しさの生演奏の激しさのシンクロ。底はぐったりと背を床につけたまま雄叫びをあげる。それが収まり、底はスマートフォンを弄る姿勢に→その底に小笑顔が話し掛ける→全員が小三角舞台の下から電話を取り出して、場所が一気に天上底のバイト先──家庭教師派遣会社のオフィスのフロアー──へ移り、全員がテレフォンアポインターの仕事をやり出して、照明が明るく落ち着いてから、生演奏、音楽止まる。
- ▼第一章第二局面(天上底のバイト先)
・肉丸が底に注意している時に社員が入って来る。
・舞台前面の動きとして、上手手前にいた社員が下手端にいる底に注目してから、突然小三角舞台の上に上がって「どこに掛けてたの?」と詰め寄る(これ以降、他のバイトたちの声が小さくなる)。社員、底の前に屈み込む。足の指で受話器をつかんで「かーけーてー」と底に突き出したりする。
・舞台奥の動きとして、社員が底に説教している間に営業から帰ってきた戦が奥からあらわれて、何が起こっているかを小笑顔に訊く会話が入る。ここで前面の社員と底の会話が一瞬止まる。前面と奥とを同時並行的に丁寧に使った構成。
・最後は照明がチラチラと動的になって、フワフワしたSEが入って、小三角舞台を座席に見立てて、その下からマックのドリンクの容器の小道具を取り出し、SEの終わりと照明の変化とともに、一気に場所はマックの店内へ。肉丸は、前面で会話している底と小笑顔に照明が当たっているときに舞台奥に一旦退場するのだが、マクドナルド店内への場転の瞬間に免罪符揺とともに走って出てくる──肉丸は小三角舞台の上にひらりと飛び乗る。
- ▼第一章第三局面(マクドナルド店内)
・肉丸のテンションが異様に高い。オーバーアクト気味に。それにつられて小笑顔、底の身振りも大きくなって、とくに小笑顔もオーバーアクト気味。オール漕いでるみたいに身体を揺らして。
・肉丸のような形象化はあまり好きじゃないんだけど、こいつの「じゃあ、鍵作っちゃおうかぬー(作っちゃおうかな)」の科白で毎回笑ってしまう……。なんだよその発音。総じて、肉丸は身振りや表情で観客の笑いを多く誘っていた。
・小笑顔の科白の言い方はほとんどテンションが高いままで一本調子に感じられる。「わたしは!!あんな何か!!いくら分かり合えてるとしても!!!……」からの怒りの表出や、「わかってるす、でもごまかすくらいなら……」からの冷静さや、「え……なんかごめん……迷惑だったらごめん……」からの落ち込みも、ほぼ自分本位でのテンションの切り替えで、相手に対するリアクションとしてそう変化したという感じはない。つまり「お芝居」としてテンションを切り替えたように見える。ここで小笑顔は底に対して愛情らしきものを抱いているのだから、自分のこと(自分の身振り、自分と相手との距離感)が相手にどう見られ感じられているかを相当意識してしかるべき局面だが、そのレセプションがないまま突っ走っている感じ。とくに「やほんと絶対、私味方にしたらほんと損ないすよガチで!……」と激しく底に迫っている時の自意識のなさはおかしい。極端な話、ここでの小笑顔の演技と動作は、相手役が存在していなくても成立してしまうようなものになっている。それは正しいのか。同様に表現として過剰であった冒頭の戦×底のシーンがリアクションとして繋がっていたからこそリアルであったのに対して、この小笑顔×底のシーンでは過剰さだけが場違いに目立つようになってはいないか。……で、リアクションで繋がってないから、小笑顔に結構重要な科白があるのだけれど(「私が天上底に伝えたいのは、この、ここの、ここにある『何か』であって、それを純度100%で伝えたいのであって……」)、それも活きてこないように思える。
・「誰かいなくなったんすか」の科白から、スクラッチ音みたいな音響が背後に聞えてきて、照明も変わる。「安達太良山……春」と、失踪した彼の名前が出てから、微かに生演奏開始。小笑顔が底を抱くとき、照明は変わっていて二人に上からスポットライト。小笑顔が去ってから一挙に音楽開始、生演奏も音量大きくなる。照明がチカチカと動的に。
- ▼第一章第四局面(路上)
・小三角舞台のまわりを歩く底、それを追い回す免罪符揺。そのあいだずっと照明動的。免罪符揺が「ごめんなさいあの!」と話し掛けてから生演奏が終わる。そして例のフワフワしたSEが鳴って、それが止まると、照明が青色に落ち着く。そして底の「なんですか?」以降の会話スタート。
・揺の動きもオーバーアクト気味。見知らぬ女性に自分がどう見られているかのレセプトなしに突っ走っている。底も立ったままなんかバッグを振り回している。揺は身の上話をやり始めてから涙混じりの状態になるのだが、これも自分本位で感情を出している(「お芝居」的にテンションを切り替えている)感じになっている。
・女性に自分がどう見られているかのレセプトなしに突っ走っている──たとえば冒頭の戦と底のシーンだったら、「いつもストッキング破りたがってる変態だと思われたらまずい」という自意識が戦のああいうオーバーアクトを生んだりしているのだと分かるのだが、ここでの揺には、底の拒否的な態度に傷付いている感じがまったくなく、完全に自分本位でオーバーに動いているように見える。そういう演技になっている。
・号泣しながら「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と言いまくる揺をなだめようとする底、小三角舞台に腹這いになって床をバンバン叩く。平泳ぎするみたいに腕を振り回す。「いや、あの! あー、いや謝られても、あのー、困るんで」
・例のフワフワSEで照明が一瞬動的になって、二人が小三角舞台の上に正座して、それから黄色い照明に落着き、場所が天上底の住まいに。
- ▼第一章第五局面(天上底の部屋)
・揺との会話中、失踪されてどう感じたかを語る底──「なんか、あー、あたしダメだったんだ、なんか、あの人にとって、あのなんか、話せるような人間ですらなかったんだ、っていうか、それを、その、そう思いたくないから、恨むっぽい気持ちになることはあるけど……」──の時に、底は寝っころがってのたうちまわる。これは辛い考えを想い出しつつ語る時のヒステリー的な身体表現としてあり得る動き。それに対して揺も頭をかかえたり身体をねじったりしながら科白を言うのだが、やはりこの動きは相手とリアクションで繋がっているようなものに見えない。小笑顔のケースと同じで、相手役が存在しなくても成立する動きになってしまっていると思う。
・揺と底が会話していて、底を「フェイスブックの人たち(ノコサレの会)」に誘おうという時に、いやそれ以前から小三角舞台を回り込むふうにして戦は現われていて、下手端に立つとチャイムを鳴らす。ここで戦は底に告白するわけで、ビジネスバッグをくるくる回したりと色んな身振りが入るが、これは説得力がある。自分の告白の言葉に対して底の反応を意識しているからこその挙動不審なんだと分かるからだ。つまりここでの戦のオーバーアクトは、相手役が(状況的には玄関越しで、直に相対しているわけではないが)存在しそれをレセプションしているからこその演技になっているということ。
・ここでもやたら戦は手先をくねらせて感情の揺れを表現。
・「それでも、言いたいから言うね」でドアの存在を無視して戦は小三角舞台に飛び乗るが、つづく「底ちゃんのくぼんじゃった溝、俺が埋めるからさ。……」の科白を戦は客席に背を向けて言うので、全然底と目が合わない。
・最後、完全暗転。ヘヴィ・メタルみたいなうるさい音楽とシンバルの生演奏。その音楽が流れたまま第二章第一局面のカラオケボックスの照明へと変わり、音楽は音量そのまま戦が歌っている音楽へと切り替わる。
- ▼第二章第一局面(カラオケボックス)
・垂れ幕。「二十六歳、春」。
・小三角舞台をテーブルに見立てて(第一章第二局面、天上底のバイト先のシーンと同型)、胡座をかいて坐っている小笑顔、肉丸、妙子。歌っている戦。小道具として人数分のグラス。全員酔っ払ってるみたいにテンション高い。
・途中で底が戻ってくるが、小笑顔が入れ替わりに「トイレどこあった?」と聞くので、トイレに行っていたことが分かる。
・肉丸が感極まって謝辞をまくしたてている最中、「幸せって何だって……」のあたりで腕を突き上げる。すると妙子も戦の方を見つめながら真顔で腕を突き上げる。それに釣られて、「え、俺もやるの?」と慌てた感じで、戦も弱々しく腕を突き上げる。
・ここでの戦と底の身体の接触のさせ方は恋人っぽい。
・Superflyの『愛をこめて花束を』が掛かると、テンション上がった妙子と戦はハイタッチする。
・底が歌をまったく知らなくて歌えなかった時の全員のテンションの下がり具合が、それまでのアホみたいな盛り上がり(「めざましテレビの!」「愛をこめてー花束をー」「いくよ、さんはい」「聴いたことあるって!」「サビ有名すもんね!」「どこかで聴いてるよテレビとかで!」「絶対聴いてるから、大丈夫!」)との対比で、滅茶苦茶笑える。スゲーくだらないんだけどリアルで面白い。というかこのテンションが下がった時に全員×底のあいだで行き交うリアクションやニュアンスの腫物っぽい居たたまれなさが面白すぎる。「ごめーん自分で消すねー」(で小走りにリモコンのところへ駆け寄る底)「ごめんねーなんかーははは、あんまり聞かないからさー音楽とかー」「いやいやいやこっちこそなんかごめん」「ううんううん、あたしが、ごめんねー」「ああ……」。
・天丼ギャクの「デフォだからー」で小躍りして足を踏み鳴らす戦。
・底がマイクを持ってお祝いメッセージを言い始めると照明が暗くなり、底にのみスポットライトが当たる感じになる。底の科白が終わった途端、ベースの生演奏とともに場転の音楽。で、底以外の四人は小道具を持って(リモコン、グラス)左右の椅子にはける。底はマイクを持ったままで、次の局面(マイクを持って何かを喋っていたらしき直後)にそのままつながる。
・上手側のパイプ椅子に待機する戦と小笑顔──奥から三つ目の椅子に坐る戦、その隣りの奥から四つ目に坐る小笑顔。
- ▼第二章第二局面(「ノコサレの会」セミナー)
・舞台に表われた綺麗、底に「ありがとうございました」と声を掛ける。
・ベースの生演奏、音楽は掛かったままだが、音量が小さくなる。綺麗と一緒に来ていた揺が小三角舞台の上に上がって(代わりに底は上手の椅子にはける。上手側奥から七つ目の椅子)、照明が青っぽい、動的なもの変わる。そこから慮公平も現われて揺とのイメージワークのやりとりが続くが、このやりとりの間のところでは、生演奏と音楽の音量が大きくなる──リアルタイムで音量を変化させている。慮と揺は、舞台空間を大きく利用して立ち位置をしょっちゅう変える。揺の科白「見失いました」でイメージワークが終わり、照明が落ち着く。音楽も止む。
・慮が「十二歳の時、両親いなくなって……」と過去を語り始めるとき、慮は小三角舞台の上にあぐらをかいて坐って、その彼に白い照明が当たる。科白ごとにポーズを変える。
・慮と綺麗が下手側のパイプ椅子にはけて、照明が変わり、パイプ椅子から立ち上がった底と揺が会話を始める。シームレスな局面変化。不気味な音楽が小さな音量で鳴る。
- ▼第二章第三局面(セミナーの帰り道)
・揺と底は小三角舞台のまわりを歩きながら話すのだが、相手の方を全然見ない。最終的に二人は全然別方向を向いたまま立ち止まって言葉を交わす(このように、実際にはポジション的に舞台上で顔を向き合わせていないのに、あたかも向き合っているかのように会話するというのは、揺と底のシーンで後にも出てくる演出)。その二人の上にスポットライト。このとき舞台前でも無意味にスポットライトが点いたり消えたりしている。
・で、底が去ってまた上手側のパイプ椅子にはけると、椅子に坐っていた小笑顔が(椅子の下に置いてあった二本のペットボトルをつかんで)代わりに立ち上がって、揺に話掛ける。またシームレスな局面変化。音楽はずっとささやかに続いている。
・底は奥からまわり込んで、上手側奥から二つ目のパイプ椅子、すなわち戦の隣りに待機。第二章第五局面のための予備移動。
- ▼第二章第四局面(別の日、場所不明)
・音楽ささやかに続いている。
・小笑顔の演技はやはりオーバーアクト。つまり相手役なしでも成立しかねない動きとテンションと感情表現。ここは言葉のやりとりとしてはわりと重要なことが言われているのだが、小笑顔も揺も必死すぎてすべての言葉に均等に力が入ってしまっているふう。丁寧なダイナミズムがない。
・それを演出で補うかのように、小笑顔の「ごめん別に怒らせたいんじゃなくて!」の科白の直後に「コーン」というSE(下手奥の音楽家が背後の壁の金属の棒を叩いて出した音)が入り、照明も静的なものに変わる。二人の動きも変わる。音楽も重低音ノイズが響くだけのものに変わる。そして揺の科白「死んだ人が哀しむから、前向いて笑って歩こうよ」以降のやりとり。二人の会話のテンションに合わせて音響が細かく変化する。
・でもこの重要なシーン、もっとリアクションで小笑顔と揺の感情のせめぎ合いがありありと伝わるようにできたんじゃないか。
・照明が全消え。音楽止む。そして上手の揺れている裸電球だけがつく。上手側のパイプ椅子に坐っていた底と戦が、その場でシーンを演じ始める。小笑顔と揺が話していたときからすでに、底と戦は二人してパイプ椅子の上に体育坐りになって背中合わせに凭れ合っているという姿勢に移行している。小笑顔は揺に追いすがった姿勢のまま上手前の通路で固まっていて、そのポーズのまま待機。
- ▼第二章第五局面(戦の家)
・ここの局面の音響は凝っていて、マイクがどこかに置いてあるのか、底と戦の声も、二人が立てるノイズもものすごい深いエコーが掛かって舞台空間全体に響く感じになっている。とくに戦は足で隣りにある椅子を弄りながら話すので、その椅子が立てる音がノイズ・ミュージックみたいにいちいち鋭く観客の耳を刺す。下手奥のブースでの作業を見るに、リアルタイムでエフェクトを掛けているらしい。照明は、上手側の裸電球一つだけになる。しかもこれが徐々明るくなったり暗くなったりする。
・ここで二人は並んでいる椅子の上をまるで床みたいにして動きながら会話するという(相手の背にもたれかかったり、相手と距離を取ったり、離れていく相手にすがったり)、凄い難しいことをやっている。バランス取るの難しそう。
・ここでの二人のやりとりも、ゆったりしたものだが、冒頭シーンに匹敵するほど過敏なリアクションによって緊迫感のあるものになっている。とくに「えじゃあそんなこと考えなくていいじゃん」「あ好きでいるのかなは違うな」「何の話してんの?」「好きと言えるかな、だわ」「いやそれは言葉の問題で」「うん言葉の問題だよ、だから気にしなくていいよ、あたしもさっきの言葉の問題、気にしないようにするし」「……ごめん」「ね、言葉じゃない、でしょ」「うん」「ここが、うん、ここがどうか、で、やっぱ、言わなくても関係なくて」「うんまあ、一緒に住んでることとか、これからのこととか、どう思ってるかはうん、気になる、というか、まあ、何も話さないけど、わかる、なんとなく」──あたりのやりとり。
・このシーンの最中に、戦は一番端のパイプ椅子の上へ移動している。第二章第七局面のための予備移動。
・底、ゆっくりと立ち上がって「なんでいなくなったかは、わかってんだ、あたし」と言うと、残りの二つの裸電球も灯って、若干明るくなる。そして椅子に坐っていた慮が「何をしてるの」と底に声を掛けて、シームレスに底のイメージワークのシーンへ移行。
- ▼第二章第六局面(「ノコサレの会」のセミナー)
・底のイメージワークが続いているあいだ、音楽、ノイジーな生演奏。底が小三角舞台の上でのたうち回っているあいだ、照明も激しく動く。慮が音楽家に「終わろ」と言うのですべてが一旦止む。
・慮が小三角舞台のまわりを歩きながら喋っているとき、「忘れて、なかったことにして、日常に戻って、何か解決しました?」の科白はパイプ椅子で待機している戦に向かって、言う。
・戦との関係を慮に相談する底。そして、底が慮の方を見つめたまま「あのー戦さん……」と話はじめ、照明が椅子に坐っている戦に当たり、シームレスに次の局面へ。底×慮の会話から誰一人まったく立ち位置が動かずに底×戦との会話に移行するという流れ。このとき底の科白には切れ目がない。慮に話している流れそのままに戦との会話に移行。底の姿勢は、小三角舞台の中央に膝を崩して坐って、足首を手でいじっている。戦はパイプ椅子の上に体育坐りしてキョドっている。
- ▼第二章第七局面(呼び出された戦と、底)
・基本的に目を合わさずに行われる戦と底のやりとり。
・別れを切出されることを予期した戦の動揺具合がいい。「うん、おっけおっけ、わかったわかったから、いやうん、そっちが言いなよ、そっちがそうなんだったら」──ここにはリアクションの真実がある。
・で、底と慮が舞台奥に消えてからの、別れたショックでくずおれる戦の演技(別れを切出された時は表面上は変化なかったのに)もほんと素晴らしい。頬を膨らまし、手で口許を隠して「……ちょ、ちょちょちょっと待って待って、んふふ、あれ、あれ、ちょっと待って……うううう……なんだなんだこれ……」と笑い出すところから始まって、単純に悲しいというより、自分のなかに沸き起こってくる感情にとまどって、笑いながら声が震えて泣きそうになっている、みたいな。
・下手側パイプ椅子で待機していた肉丸、妙子、そして上手前で固まっていた小笑顔が動き出して、戦を慰めに集まって来る。
・段々照明暗くなって、最後完全暗転。そして場転の音楽。
- (第三章以下略)
:感想文(アンケート添付)
- 9/17記
複数回観ての感想です。
はじめに断わっておきます。おそらく以下につづくのはあまり普通の感想文とはなりません。なぜなら今回のみなさまの『春よ行くな』の上演を観て自分が最終的に受け取ったものが、きわめて不定形で言語化しにくいものだったからです。そこにはポジティヴな感じもネガティヴな感じも、もろもろ混ざって溶け合ってしまっている。一応そこからポジティヴな感想の上澄みだけを分離して、「素晴らしかったです! 傑作でした! 主演の呉城久美さんの熱演に大拍手! 演出と音響と舞台美術の練度も演劇に関心を持っている人間だったら瞠目せざるを得ない! 素晴らしい!」とか140字ぐらいで済ますことも可能なのですが、自分としてはそんなことをするくらいだったら死んだ方がマシなので、やりません。かつて、2012年に主宰の山崎彬さんはインタビューに答えて次のように仰っていました。「僕らを一つの点にして、お客さん自身の中に起こっている問題に、ふと目を向けたくなるような、そんな表現になったらいいなあと思います。それが一番出来るのは演劇で、もっとはっきり言うと小劇場だと思うんです。……」今回はあえてこのお言葉に沿って、つまり自分自身に起こっている問題を手掛かりにして、あえて極個人的な感想を書こうと思っています。はっきり言ってそんな感想を書いて何の意味になるのか、誰が得をするのか、不明な上に、そもそも内容がうまく伝わらない可能性も非常に大きいわけですが、少なくともみなさんの作り上げた作品が私という人間の思惟の中を通過して旅した記録にはなるだろう、という想いで、この文章を書き残します。お畏れながら、あらかじめ乱筆乱文の咎のお赦しをねがっておきます。
*
さて、まず第一に、『春よ行くな』を複数回観て上演台本まで買った自分ですけれども、そのことは、まったく後悔していないということをお伝えしたいと思う。というのは、自分は『春よ行くな』を掛け値なしにリピートして観るに値する上演だと感じたという意味です。観劇体験としてはポジティヴな実感しか持っていない。
その要因の大部分は、上演の総合的な演出の質の高さによっています。実際、演出としてやっていることの密度が高すぎて、第一回目の観劇では分析を放棄してしまったくらいです。たとえば、その演出の緻密さの例をかりそめにひとつ挙げるなら、──第二章、小笑顔と揺の対決的なシーンがあった後の、戦と底のやりとり(戦の家のシーン)。これは舞台から退場せずに舞台装置の一部である上手側のパイプ椅子で戦と底が待機しているからこそ、小笑顔と揺のシーンから継ぎ目なしに演技を始められるという、とっかかりからしてひねった工夫のあるシーンですが、照明も二人の上の裸電球一つがゆっくりと明るくなったり暗くなったりと丹念な演出が凝らされ、音響も、どこかにマイクがあるのか、二人の話し声や戦が足先でパイプ椅子をいじって閉じたりする音がリアルタイムで拾われてエコーを掛けられて舞台空間に響くという、不穏さを増すと同時に演劇的にも面白いアイディアが投入されている。その上、ここでは並んだパイプ椅子の上を「戦の家」に見立てて、相手に凭れかかったり、相手と距離を取ったりする、男女の微妙な交情を演じるという難しい注文が役者に出されているわけで、それを見事にこなしている役者の方の努力も含め、演出として目指している水準の高さに脱帽せざるを得ない。……というのもあくまで一例にすぎなくて、全篇にわたって細かく変化していくライティングのこだわり、舞台上の出来事に隙なくシンクロしていく生演奏、コントロールのゆきとどいたライブ感溢れる段取り、等々、やれることは何でもやった上で完成度を目指す、アイディアの濫費と駆使が凄すぎます。演劇のインサイダーのひとびとの中で評価が高いのも頷けます。
そもそもあの台本からあの舞台装置のデザインを思いつく、ということに驚嘆する。天上底の部屋、路上、バイト先のフロア、マクドナルド、「ノコサレの会」のセミナー、公園、カラオケボックス、といった多様に必要とされる空間を瞬間瞬間で、場合によっては継ぎ目なしに準備するための不等辺三角形の二重舞台と、その奥に並んでいるパイプ椅子。せり上がった三角形の平台は一つの部屋を意味したり(段差を降りると「外」)、座席を意味したり、テーブルを意味したり、あるいは登場人物がそのまわりを歩くことによってそこを取り囲む床面を道路に見立てたり、局面局面によってさまざまな空間形式に変えられる上に、さらには段差を上がったり下りたり、小三角舞台のまわりを走ったり歩いたりと、かなり複雑な人物の動きの線をも可能にする。底辺部分=前面、頂点部分=奥、という立体的な奥行きも見て取りやすい。どう考えたらこんな舞台装置を思いつくんだろうか、なんて独創的なんだ!と個人的に興奮を禁じ得ません。
また、俳優の方々の奮闘については、やはり冒頭のシーンを挙げておきたいです。すなわち天上底の部屋で底と戦がもみ合うシーンですが、おそらく、観客のなかでこのシーンが印象に残っていないという人はいないのではないか。それくらいあのシーンは「演劇にはこんなこともできるんだ」という驚きを感じさせる、意欲と野心にあふれた、見たこともないような躍動感あるシーンでした。思うに、山崎彬さんが八月頭の東京WSで仰っていた「リアクションだけで芝居をつなげていく」ということの理想型は、あの冒頭のシーンにきわまっているのではないか。相手をしっかり見て、身体のすべてで反応していけば、どんなアクションでもリアルに繋いでいくことができ、瞬間瞬間の俳優の自由も拡大する。あのシーンは、前提として戦の方はやりたがっている、底の方はなんとなく拒みたがっている、っていうベクトルの違いがあるところに、言葉のやりとりも細かい点でやたらにすれ違って(「や、ダメ、っていうか、あのやっぱりその」「お願い」「あの戦さん」「お願いします!」「敬語、あの、敬語やめてください」「あ、ごめん、えっと……頼む底ちゃん」「やそうじゃなくて」「一生のお願い」「もったいないですーそんな」「大事なストッキングだった?」「違いますあのわたしのこれ破るかどうかで一生のお願い使ったら」「そ、そだねごめん、調子乗りすぎた」「いえ、そんな、わたしこそごめんなさい」「いや俺が、ごめん」)、それが互いを戸惑わせ相手の反応に巻き込まれて意に反してどんどんもどかしくなっていく感じが、相互リアクションで増幅されつづけて、過敏でめまぐるしい、それでいてリアルな男女の交情シーンを成立させている。一つ一つの動きを切り取ってみればオーバーなんだけれど──三角の平台を最大限利用して、端に掴まってぶらぶら揺れたり、スライディングしたり、飛び退いたり、匍匐前進したり、背中を床に擦り付けたり、床面を手のひらで撫でまくったり、片足をのばしたり、ヨガやってんのか、祈ってんのか、科白の区切りごとにポーズを変えまくり、相手のポーズを真似たり──しかしすべてが二人のリアクションと濃密なニュアンスでつながっているから、まったく不自然には感じない。あのシーンからだけでも、リアルな演技とは何か、リアクションにおける真実とは何か、というテーマについていくらでも考察を引き出すことができるでしょう。面白すぎます。そしてこれもまた、演技面で何をやりたいかを演出家が考え抜いた上でしっかりと打ち出し、それを俳優たちに徹底して伝えて共有しようとした努力の果てに、可能になったものだと思います。その作品づくりにおける誠実と独創性の幸福な両立は、「この作品を観て、純粋に『面白かった面白くなかった』て言ってもらって、なにもぶれない作品、心がざわつかない作品が出来たなという感じがありますね」という山崎彬さんの自信が伊達ではないことを、曇りなく示している。
…………
と、絶賛一辺倒みたいなことを書きましたが、本題はここからです。
実は、これだけ演出の緻密さに圧倒され大胆なアイディアの濫費に驚嘆しながらも、自分が『春よ行くな』観劇後にいだいた印象は、否定的なものでした。いそいで注釈すれば、この「否定的」というのは「退屈だった」という意味ではまったくないです。上述したように、リピートしてすみずみまで観尽くすに値する豊かな「面白さ」に満ち満ちた上演だったと思いますし、小劇場ならではの簡素で雑然とした部分もむしろ美点になっている。だから、説明しにくいんですが、このネガティヴな印象というのは「面白いんだけれども、この作品には何かが足りないのではないか……」という、一種のないものねだりに近い飢餓感のようなものです、おそらく。
正直、自分と同じような感想をいだいた観客が他にいるとは思えません。ですので、以下に書くことはしごく個人的な意見にならざるを得ないでしょう。そしてそれが個人的であるところの個人的であるゆえんは、一つには、自分が八月頭にあった山崎彬さんの東京WS(「演技って何かってのをもっかいみつめてみる時間」)に参加して、そこで自分が演技のリアリティということについて学んだ──と思い込んだ──ことを、今回の観劇で再確認しようという例外的な意図を持ってのぞんだことにあります。またもう一つには、事前に公表されていた『春よ行くな』の構想ノートやそれに関連したインタビュー、さらには山崎彬さんのブログ(「201号室」)の過去ログやネットで公開されている過去のインタビューなどに目をさらして、自分なりに「『春よ行くな』はこういう作品になるのではないか?」と、無闇に想像を膨らませていたことも大きな要因です。ただ、期待を裏切られたからといって安易に失意しているのではない。本質において一貫性があるのならばどんなに予想を裏切ってくれたってかまわない。自分が感じたのは、山崎彬さんが事前に言っていた「わからない、わからないけどきっとある理由、言葉にできない理由、つまり今回描きたい『何か』そのもの、それを描く……」「『分かり合いたいけど分かり合えないひとたちが、ちゃんと分かり合えなかった』っていうのを描こう……」──といった作品『春よ行くな』のモティーフの根幹において、瑕疵が、未達の部分があっただろうということです。その未達の部分は、まず脚本のなかに弱点として存する。それが登場人物一人ひとりの役作りにも、さらには演技のディティールにまでも波及する。とはいえ、それでもスタッフワークに並みならぬ熱誠があって舞台上で俳優の魅力が惜しみなく発揮されていれば、観客は満足するにちがいない。上演の成功は揺るがない。だから、以下に書くことは、完全な余計事です。しかも上手く伝わるかどうか、はたして分かってもらえるかどうかさえ到底覚束ない。けれども、伝わらないならば伝わらないなりに、ちゃんと伝わらなかった、分かり得なかったということを突き詰めるためにでも感想を書くことが、この『春よ行くな』という作品の受け取り方として、一つの誠実なあり方だろうと、信じています。
*
では、山崎彬さんのインタビュー中の言葉──「分かり合いたいけど分かり合えないひとたち」ということについて、次のような仮定の話をすることから、始めてみたいと思います。
というのは、こういうことです。上演台本の上では、第三章以降、慮を春と誤認するという現実逃避の妄想症的世界に入り込んでしまう天上底ですが、そうではなくて、かりに、戦の前から失踪した後に、「ノコサレの会」とも縁を切って、イメージワークやら何やらとまったく関係なしに二十六歳から三十歳の間もずっと底が春を想いつづけていたと仮定してみたら、どうでしょうか。そのような底が肉丸と妙子のみちびきでふたたび過去の同僚と再会したとしたら、どうなるか? つまり捨てられてもなお一途に一人の男を七年も想っている女性として、かつての恋人や仲間たちの前に現われたら? ──その場合でもやはり、彼らは全員、相互に「分かり合いたいけど分かり合えないひとたち」としてきちんと相対することになるでしょう。その場合、戦も小笑顔も、かつて底に好意を寄せていただけに、何かしら底のことを分かろうとする努力をするでしょうが、結局は底が抱いている「何か」、底が春のことを未だに想っているという「言葉にできない理由」を、理解できることはないでしょう。「失踪してもう七年も経つのにまだ好きでいるのか?」という異様の感は最後まで消えることはない。底の方も自分のなかにあるその「何か」を結局相手に伝えることはできず、そもそも自分のなかになんでその「何か」があるのかさえ自覚できず、もし春という人物について客観的な情報を戦と小笑顔に教え得たとしても、その春という人物が、底の胸には愛情や陶酔を呼び覚し、一方戦と小笑顔には不審の念と嫉妬ばかりを引き起こすという、すれ違い、分かり合えなさが露呈するだけに終わるでしょう。したがって、おそらくは「分かり合いたいけど分かり合えないひとたちが、ちゃんと分かり合えなかった」という結果に終わる。ちゃんと。
ところで、実際の上演台本が描いていたのは、そのような「分かり合えなさ」ではなかった。上演台本では、まず底が、二十六歳から三十歳の間に何があったのか分かりませんが──イメージワークのやり過ぎで洗脳されたのか、もともと彼女自身に妄想症にかかりやすい資質があったのか──慮を春と取り違えるという状態に陥っています。これは一瞬錯覚したとかではなくて、恒常的に認知が歪んでいる状態なので、彼女はこの四年間でほとんど現実感覚を失ってしまったということになる。言わば狂人です。そんな彼女が過去の同僚たちと会うことになれば、たしかに「分かり合えない」事態が生じるのは必至です。現実には慮に過ぎない男を「春」だと言い張る底を前にして、一応正気を保っている戦と小笑顔には、なんで底がそんなふうに言い張るのか、なんで底にはその男が別人に見えているのか、さっぱり訳が分からなくて相手との理解不能の断絶に直面させられる。でも、この分かり合えなさは、或る意味では分かりやすい。「そりゃ、狂人のやることは常人には訳が分からないよね」の一言で済んでしまう理解不能性だからです。そして、そこで相手を理解しようとする努力は停止してしまう(登場人物にとってだけでなく、観客にとっても)。はっきり言えば、あからさまに狂人として振舞っている人物を前にして「分かり合いたい」と思いつづけることは無理です。底がそのように妄想症に陥ってしまった経緯にしても、精神科医でもないのに正気を保ったまま相手が発狂するプロセスを想像してみるなんてことは、不毛であり、理解しようという試みは挫折する。つまり、舞台上で再会した彼らはたしかに「分かり合えないひとたち」として出会った。しかし彼らは互いに「分かり合いたい」と感じる人間として出会ったか? そして理解し合おうとする努力を重ねたあげくに「ちゃんと分かり合えなかった」という結末を迎えられたか? ……答えは、「否」だと思うのです。
山崎彬さんが上演台本のあとがきに書かれた、「僕は、人と人とは100パーセント分かり合えないと思っているし、分かり合えたと思うのはその人のエゴであって、本当に無理だと思っているのですが、それでも、分かり合おうとしていきたいし、分かり合おうとして分かり合えないことにちゃんと気がついて、溶け合いたいと思っています。/分かり合うことの無理を埋めるのは、想像力だと信じています。……」という言葉に自分は非常に共感します。しかし、実際の上演では、天上底を現実感覚を失った狂人として描いてしまったために、分かり合うことの無理を埋める「想像力」はついに刺激されなかったと言わざるを得ない。なぜわれわれは分かり合うことができないのか、なぜ、これだけ分かろうとしているのに相手のことが分からないという不安が残るのか、という痛切な謎は、「彼女が狂っているから」という平板な事実で塗りつぶされる。何度も言いますけど、相手を誰かと取り違えるという誤認が恒常的に起こっている以上、第三章以降の底は正気とは言えません。それは「なんか、あー、あたし、ダメだったんだ、なんか、あの人にとって、あのなんか、話せるような人間ですらなかったんだ、っていうか、それを、その、そう思いたくないから、恨むっぽい気持ちになることはあるけど、でも、たぶんここで恨んだら、だからお前はそういうアレだから出てかれるんだよってなんか、なんか思う壷というか……」というふうに、深刻な内省の苦痛に耐えていた第二章以前の底とは、まったく別人です。
構想ノートにおいて山崎彬さんは「僕は天上底の全てを知らない。全てを知ることはない。」と書いている。「自分が書くのに、それでいいと思っている。なぜなら僕は僕の全てを知らないからだ。僕が『春よ行くな』でやらなきゃいけないことは、言葉で説明できないものを台本として起こすこと(きっとものすごく苦しい作業になる)、そして、嘘をつかないこと。」──とも書いている。この態度も、創作家として圧倒的に誠実だと思う。作家が自分の登場人物をあたかも分かり切った存在として動かしてしまうことには、何らかの不自由や虚偽がある。その不自由や虚偽を突破するためには、分からないものを分からないままにぎりぎりのところでゴロンと提示する勇気、ないしは確信みたいなものが必要なんだろうとも、思う。しかし、その「知らない」「説明できない」ということが、「なんで天上底がこんなふうに狂ってしまったのか、その経緯は知らない、説明できない」ということにすぎないのだったら、そりゃ説明できないだろうとしか言いようがない。山崎彬さんは今作に関するインタビューにおいて「多分、お客さん自身も、登場人物の誰ひとりのことも分からないと思います。というのも、“分からないけど、魅力がある人”を描いたら、観ている人はきっとその人について知りたくなるし、想像するでしょ。……」というようなことを仰っていますが、しかし、第三章以降狂ってしまった天上底の訳の分からなさというのは、魅力のあるものではなく、むしろそこで興味が停止してしまう類いのものだったと思います。
また仮定の話に戻りますが、もしかりに、天上底が慮を春と誤認したりなどせず、正気のまま(戦たちの前からいなくなって)四年間生きつづけてなお春を想っているのだとして、そのとき「なんで天上底が未だにそこまで春のことを想っているのか、説明できない、分からない」と言うなら──この「分からない」には意味がある。なぜなら、そこには「全てを知ることはできない」としても、底の人格に根差した、もしかしたら彼女の魅力の一因となっているかもしれない彼女の精神に根差した「何か」が、たしかにあるように思われるからです。たとえばもし、山崎彬さんが戦のように天上底に恋をしている立場だったら、その「何か=言葉にできない理由」を必死で理解しようとするでしょう──するはずです。でもその理由は実際には天上底にもはっきりとは分かっていないかもしれず、山崎彬さんがどこまで追い求めても(すなわち底からあらゆる話を聞いて、その上で想像力を駆使して考え抜いたとしても)、どうして彼女がそこまで春のことを想いつづけているのか、その理由はついに分かることはないでしょう。そして、結局は、単に相手の女性が自分以外の男を愛しているというビクともしない不動の現実が残るだけでしょう。だが、その分からなさを分かろうとすることには、意味がある。なぜなら、そのように問いつづけるかぎりで、戦=山崎彬さんもまた自分のなかにある「何か=言葉にできない理由」が熱を帯びて存在しつづけていることを、自分に証立てることができるからです。すなわち「忘れないでいる」ということを。──ひるがえって、もしかつて愛した女性が、自分の前に見当識において齟齬をきたした狂った人物として現われたら、その言動の意味不明さについて、戦=山崎彬さんは「分かろう」とする意志を維持することができるだろうか。無理だと思います。そしてとりあえずは彼女を病院に連れて行くというのが第一の対処行動ということになるでしょう。
言いたいことの要点は一つです。「分かり合いたいけど分かり合えないひとたちが、ちゃんと分かり合えなかった」ということを描こうというのなら、ついにはわれわれは分かり合えないということを真摯に描くなら、狂気や幻想に頼るべきではなかった。
恐縮ながら、「心が晴れることと、頭が完全に狂うことは、とてもよく似ている」という詩的に美しい科白は、自分には空疎なものと思われました。
……そもそも、この作品中でもっとも「分かり合いたいのに分かり合えない」切実さに直面したのは、底自身のはずです。愛し合っていると思っていた相手が、自分に何も言わずに、つまり、実はまったく分かり合っていなかったことを突き付けるかのように失踪してしまったわけですから。そしてそこから、彼女の「分かろう」とする自問が始まる。なんで春は出て行ってしまったのか? ほんとうにもう帰ってくる気はないのだろうか? やがて段々と恋人が失踪したという事実を受け入れるにつれて、彼女の自問は内攻していく。春が出て行ったのは自分自身に原因があるのだろうか? なぜ何も説明せずに出て行くなんて優しくないことができるのか? ほんとうに自分が悪いのか? 春にとって自分とは何だったのか? 自分にとって春とは何だったのか? こんな仕打ちをするような男をなんで自分は愛したのか? 自分の喜びや悲しみがもっぱらあの男に方向づけられてしまっている自分とは、一体何者なのか? ……当然ながらこうした内省に答えはない。いや、仮に春が戻ってきて、対面で彼を問い詰めることができたとしたって100%の正解にたどり着くことはない。なぜなら神ならぬ人間と人間との関係においては、相手が自分を受け入れてくれているように見える場合でも、いつか相手に拒否されるかもしれないという偶有性をつねに排除できないからです(たとえ家族の間柄であっても)。そうした人間と人間の関係の偶有性に、底は、恋人の失踪という事件を通じて一挙に直面することになった。彼女には、世界はもはや荒唐無稽なことしか起こらないように思われ、相手のことも分からなくなり、自分自身のことも分からなくなる。しかし、彼女の胸中に、春に向かっていく「何か」──言葉になる前の、表現になる前の「何か」──があるかぎり、そして、その春に拒否されたという事実が厳然とあるかぎり、世界は確かな足場なんてなくて荒唐無稽なままで、分からないことはどこまでいっても分からないままで、傷ついた自分はいつまでも傷ついたままである、というやりきれない不安と緊張の生活を、彼女は、送りつづけなければならない。
天上底は、そのような人物として設定された。たしかにこのような女性を「行動の説明のつくように」演じることは不可能だし、必然的に「分からないことは分からないまま舞台に乗せる」というチャレンジが要請される、野心的な人物造型だと思います。「自分の行動の理由、そのすべてもわからないくせに、俳優は役の、いや違うな、人は他人の行動に、言葉で理由をつけようとする。そんなことがやりたいんじゃない。」(構想ノート)そしてその構想がまた「『嘘がないように』っていうのは1番大切にしてた。稽古場で『出来ないことはやらなくていいです。それは嘘なんで』っていうのはすごく何回も言いましたね。……嘘はつかず、出来ることをやろうって。つまり、この作品にとって代えのきかない役者になろうと。」というふうに、安易に役の説明をつけずに、むしろ役のことを分からないままで瞬間瞬間を生きる演技を役者に要求することに、つながっているのだと思います。構想ノートを通読して判断するに、本作で劇団が一丸となって目指したレベルは、考え抜かれた具体的かつ非常に志の高いものだったということは、間違いない。その点は誰も否定し得ないでしょう。
しかし、そのチャレンジは、半ば失敗したのではないでしょうか。問題を端的に指摘します。失踪した人を忘れないために「イメージワーク」を行うとのたまっている、自己啓発セミナーめいた、あの「ノコサレの会」というグループ、この設定は、『春よ行くな』という作品が本来描こうとしていたモティーフをあからさまに裏切っていると考えます。このグループの登場によって、いつの間にか言葉になる前の「何か」、表現になる前の「何か」が、失踪した相手の自慰的なイメージと等価であるかのように作品中扱われていくようになる。「わたしたちの心にノコサレた、この、いなくなった人への『何か』、言葉にできないものだと思うけど、そういうものもいなくならないようにって慮くんが考えたワークなの」(第二章)。でも、そういうことじゃないでしょう!? 本作が描こうとした「わからない、わからないけどきっとある理由、言葉にできない理由」としての「何か」というのは、どうしても分からないけれども、それを苦しくも分かろうとして内省や自問をわれわれに強いてくる他人の……不透明さというか、それを前にしての不安や恐怖というか、でもそれでも相手に憧れて相手を理解し信頼しようとする抑えがたい衝動のごとき何やらかんやら、じゃあないんですか? なのに、その「何か」が単なるイメージとしての記憶に置き換えられてしまえば、たとえば春のことを忘れていいのか/忘れるべきじゃないのか、という対立も、彼の鮮明なイメージを維持するか薄れるままにするか、という偽の対立へとすり替えられてしまう! 所詮、相手を分かろうとする努力を止めてイメージの世界に逃避するのは、相手を忘れてしまうことと、同じです。しかし、その同じに過ぎないことが、なぜか作中では対立する立場のように扱われている。つまり境界線上にいる底を中心に、春を忘れさせようとする戦と小笑顔、対して忘れさせまいとする慮と揺(ついでに「殺させよう」とする綺麗)という人間模様があるわけですが、そもそもこの構図にすり替えと虚偽がはらまれてしまっている以上、この対立にもとづいてシーン毎に発動される登場人物各々の感情も……どこか嘘っぽく見えてしまう。「嘘をつかないこと」を徹底しようとしたはずの作品構想に、嘘が混じってしまっている。「当たり前のことを、当たり前に描きたい。」として着手された作品に、当たり前でないこと(イメージワーク、狂気)が混じってしまっているんです。
どうしてこのようなエラーが生じたのか。あえて推察しますが、たとえば構想ノートに次のような記述があります。「だけど、ここに、林檎をわたしの心臓だと見ている人がいて、その林檎をあなたも見ていて、その林檎についてふたりは話している。林檎をわたしの心臓だと見ている人とあなたは決して分かり合えないはずだ。」──つまり、あなたとわたしが分かり合えないことの例として、一つの林檎をあなたとわたしが別のものとして見ている、という事態を山崎彬さんは挙げている。でも、ほんとうの意味で戦慄すべきは、「あなたの見ているわたし」「わたしの見ているわたし自身」「わたしの見ているあなた」「あなたが見ているあなた自身」がすれ違って痛々しい不協和を発するときの、相身互いの「分かり合えなさ」ではないでしょうか(そしてもちろんこのすれ違いが最大に苛酷になるのは恋愛のケースです)。人と人とが分かり合えない例として、二者関係のなかで生じる「あなたの見ているわたし」「わたしの見ているあなた」の交錯という息苦しい例ではなく、「林檎についてふたりは話している」という微妙な例を挙げた山崎彬さんの視野において、はたして、ほんとうの意味で人と人との理解不能性は把握されていたのか。このような危惧を抱かざるを得ないのは、天上底にとって究極の問い、「失踪した春は一体自分をどのように見ていたのか?」が、作中、中途半端にやり過ごされているからです。第三章において、慮が底に「春さんは天上さんのことを覚えてますか?」「どう思ってるの、天上さんのこと」とイメージワーク中に訊ねたのは、彼女にとって、相互性の欠如した自慰的なイメージの世界から脱出する一つの契機であり得たはずです。ところが彼女は「春さんと同じになったあたしがそう思ってる」という言葉でふたたび自分本位のイメージの世界に閉じていくことしかしない。つまりもはや彼女は春のことを真剣に分かろうとはしていない。そして、最終的に彼女は自分に都合の良いイメージを慮に重ねて、彼を春だと誤認することになる。そんなふうに誤認できてしまう程度の愛なら、そもそもなんで彼女が春を愛したのかという問いさえどうでもよくなる。彼女が「分かり合えなかった」ことにどれだけ苦しんだろうという同情の念も吹き飛ぶ。彼女がどんな女性か知りたい興味も、失せる。だが天上底がそんなふうになってしまうことが、本当に『春よ行くな』という作品が目指すべきことだったのだろうか?
構想ノート、およびtwitterなどで山崎彬さんは「自分のことだってよく分からない(のに、他人の、役のことを分かった気でやるのはおかしい)」といったことを仰っています。なぜ、自分自身のことが分からないという感覚が生まれるのか。理由はもろもろあるでしょうが、その理由の一つは、われわれの自己像というものが他人が自分をどう見ているかに左右されるから、でしょう。社会的存在であるわれわれは、他人が自分をどう見ているかに自意識を侵蝕されざるを得ない。そして究極的には他人の視野をのぞくことはできないから、他人に見えている自分の姿は想像によって補うほかはなく、自己像はつねに不安定な状態に置かれてしまう。そのことを激烈に体験したのが、その相手が自分をどう見ているかが絶対的な意味をもつ「恋人」に、突然失踪された二十三歳の底ということになります。自己像を完全に委ねきっていた相手からの不意の裏切りは、天変地異に等しい世界観の転回を、彼女にもたらす。もはや彼女は自分が今まで自分で思っていたとおりの自分であることに、確信が持てない。そんな状態の天上底を演じるのに、その役のことをあたかも完全に分かり切ったように解釈する姿勢は、当然ふさわしくない。困難だけれど、役のことが分からないなら分からないままで、あくまで説明をつけずに、役者自身が持つ役への違和感をなくさずに「この役は=自分は一体何者なのか」を思考しながら演じるという試みが必要とされる。その斬新な試みは、前半ではおおむね成功していたと思うのです。「……主人公なんだけど、その人に感情を移入したいとかその人の目線に立ちたいって思っても立てない分からない人間を主人公にしたかった。つまりお客さんも、その人のことを分かろうとしても最終的に分かり合えないというところが、この劇の持ってるテーマの核みたいなものと重なっていったらいいなって。」
それが後半では──「ノコサレの会」のイメージワークが登場して以降は──大きく失敗しているように見えるという批判は、屋上屋を架すことになるので、もうこれ以上は重ねて書きません。そもそも『春よ行くな』を観てそのようにネガティヴに感じたのが俺だけなんだとしたら、一体俺は何と戦っているんだ、俺は何を指摘しているんだってことになる。錯覚か? これも妄想なのか? ……とにかく、自分にとって、はじめは何やら不安定で暗示的な翳りのあった女性、「一体このひとはどんな女性なんだ?」という強い興味を惹かれる謎めいた存在であった天上底は、第三章以降、ステレオタイプで分かりやすい「訳の分からなさ」をまとった、凡庸な女性へと転落していった。そして作品自体としても、本当に問われるべきことが問われずに終わったという感が残った。
それが、正直な自分の感想です。
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感想は以上です。長々とすみません。
できれば俳優の方々一人ひとりについてコメントを記しておきたかったのですが……もう時間がありません。ただ一点だけ、八月頭にあった山崎彬さんの東京WSにおける教えの精髄、「リアクションとして真実であれ!」ということをもっとも体現されていたのは、戦泰平を演じた大塚宣幸さんだと感じました。というのも、戦泰平=大塚宣幸さんだけが「相手が自分をどう見ているかを自分がどう感じているか」のニュアンスを、リアクションとして丹念に演技に匂わせていたと思うからです。全体的に過剰なアクションだった俳優のみなさまの演技ですが、それが戦の場合は、たとえば冒頭のシーンでは「いつもストッキング破りたがってる変態だと思われたらまずい」という自意識のあらわれとして、その過剰さが出ているのだと、納得できる──納得させられるアクションになっている。あるいは第一章のラスト、インターホン越しに戦が底に告白するシーンでも、ビジネスバッグをくるくる回したりと色んな身振りが入りますが、これも、自分の告白の言葉に対して底の反応を意識しているからこその過剰な挙動不審なんだと納得できる。つまりそこでの戦のオーバーアクトは、相手役が(状況的にはドア越しで、直に相対しているわけではないが)存在し「相手が自分をどう思っているのか」をレセプションしているからこその演技としてリアリティがある、と思う。そしてリアクションの真実性を得るには、まず相手役が自分をどう見ているかのレセプトが必要であり、そのレセプト抜きには相手へのリアクションも自分本位のものになってしまうのではないか、というのが、現時点での自分の考えです。この話を敷衍して、上述の「あなたの見ているわたし」「わたしの見ているあなた」が交錯する際の剣呑さ、ミスコミュニケーションのアクチュアリティ、といった議論につなげられもするのですが、ああ、時間もないし、今は断念せざるを得ません。またいずれ機会があれば……ってねえかそんな機会は。終わり、終わり!
今度こそ以上です! 悪い芝居のみなさま、このほどは、充実した観劇体験をありがとうございました。そしてさようなら! また劇場でお会いできるときまで!