:基本情報・関連リンク
- 会場:シアター風姿花伝
主催:DULL-COLORED POP
脚本:デヴィット・オーバーン(翻訳:谷賢一)
演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)
照明:朝日一真
音響:木村祥子
音響操作:大原研二
演出助手:海野広雄/古田彩乃/本多証
キャサリン:百花亜希(DULL-COLORED POP)
ハル:東谷英人(DULL-COLORED POP)
クレア:境宏子(客演)
ロバート:中田顕史郎(客演)
- ワークインプログレス時日:5月13日(月) 13:00〜
公演日程:2013年5月24日(金)〜27日(月)
2013年5月29日(水)〜6月2日(日)(元田演出ver.)
- 劇団・DULL-COLORED POP
http://www.dcpop.org/
シアター風姿花伝
http://www.fuusikaden.com/
David Auburn "Proof"
http://en.wikipedia.org/wiki/Proof_(play)
http://www.amazon.co.jp/Proof-A-Play-David-Auburn/dp/0571199976
:演出家・俳優の方々の発言資料
- 演出:谷賢一氏ブログ「Playnote.net」http://www.playnote.net/
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2007/08/09 『Proof』、訳者あとがき
「……俳優によって演じられるための戯曲として見たときには、人間的な軋轢をまといつつも頑として堅固な貫通行動を持った人物造形に、演じ手は大きな意欲をそそられるのではないでしょうか。物語は、シンプルであればあるほど美しい。そのシンプルな美しさを持ちながらも、人としての動揺、誤解、不和を見事に織り込んだこの戯曲は、大掛かりなセットや効果の力を借りずとも、俳優の力だけですべてを表現し得るものであるという至福の可能性を持つと共に、演じ手にとっては逃げ隠れのできない、裸一貫、身一つで挑まざるを得ない難敵でもあります。……」
「……翻訳に際しては、英語から日本語に翻訳する歳に発生する会話のテンポダウン、それを極力減らすことと、原文が持つカジュアルな散文会話劇というスタイルを自分なりの現代日本語で再現することに最も気を配りました。……」
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2009/09/11 DCPOP9『プルーフ/証明』『心が目を覚ます瞬間〜4.48サイコシスより〜』上演のお知らせ
「次回のDCPOPは2本立てです。……片方は(『プルーフ/証明』)、ウェルメイド・プレイ、骨太なドラマを持つ会話劇、俳優同士の交流が生む奇跡、そういう作品で、……」
「……プルーフ/証明』は、アメリカ人の劇作家デヴィッド・オーバーンによって書き下ろされ、2000年に初演された現代アメリカの最高峰と言っていいクオリティを持った戯曲です。トニー賞・ピューリッツァー賞をはじめ、5つの演劇賞に輝き、今も再演の絶えないこの名作を、斬新かつ攻撃的な演出と、理想的なキャスティングにて板に乗せます。……」
「……天才数学者とその娘たち、1人の若い数学者を通して描く、才能のボーダーラインと信頼のカタストロフィを描くこの1作は、完成されたキャッチーさが人生において最も残酷な一瞬を暴くという意味において、象徴的な作品です。……」
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2009/12/01 DULL-COLORED POPシークレットイベント『プルーフ/証明(Repirse)』1日限り上演
「……出ハケや道具の都合だけじゃなくて、空間的なものは当然演出プランに影響するから、多少の演出替えを行います。……目指す方向性は、よりソリッドに、よりヒリヒリと、よりロックに。劇中使用曲が全部パンク寄りのロック曲だったり、冒頭でいきなりシャウトがあったり、元々パンクな方向性で演出してたけれど、それをもっと推し進めたいな。……」
「……『プルーフ/証明』は、本当に俳優力に的を絞ったある意味パンクで演劇の根源的な力を見せつけるいい演目だと思うけれど、……」
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2013/05/07 DULL-COLORED POP番外公演『プルーフ/証明』百花版演出します
「……昨日、一昨日と、稽古を見てきて、台詞はもう入っているし、サブテキストや背景や人間関係への理解もかなり進んでいる状態で、あとは演出を加えるのみ、という、実に贅沢な状態からスタートさせてもらえそう。今回、僕はあくまで「外部から呼ばれた演出家としての」谷賢一、という設定でやらせてもらってるのですが、外部だろうがホームだろうが関係なく、やはり現場に立つと演出欲求がムクムクとわいてくる。2009年、劇団の休止間際に放ったあの閃光のような『プルーフ/証明』をアップデートし塗り替える、新たな『プルーフ/証明』を作りたい。……」
「……初演は本の良さに引っ張られて、実にストレートにやったものだった。今回は、もちろん素材の良さをヘンテコに料理して損ないたくはないけれど、良い素材に一味加えて、よりオイシイ『プルーフ/証明』に仕立てたい。/だってさ。素材がさ。違うんだもん。戯曲はおんなじ、だけど出演者が違うんだもん。同じ調理方法してたら素材に失礼だろ? ああ楽しみ。演出だけできるのはとても嬉しい。……」
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2013/05/10 プルーフ稽古進捗
「……なんだか古典を演出しているような感覚に近い。自由だ。/前回は、やっと、やっと自分で演出するぞっていう回転数の高さで、実にストレートに、ストレートな会話劇を作りました。今回もストレートですが、今回の方が僕らしい、DULL-COLORED POPらしい作品に仕上げられそうです。……」
「……最近、演出家として、ちょっと心変わりしたことがあるんだ。それをちょっと、やろうとしている。終わったら書くよ。……」
「……百花亜希の恐ろしさを、世に問うてやる。」
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2013/05/24 番外公演『プルーフ/証明』当パンごあいさつに代えて
「今からご覧いただくお芝居では、信じ合えない人々が、信じるくらいなら孤独と寒さを選ぶ、という場所から始めて、休憩込み2時間半、信頼という名の光を求めて突っ走るお芝居です。DULL-COLORED POPという劇団名が表す通り、にび色にくすんだ、ポップネスをやろうとして、頑張りました。孤独や不信をズドーンとお芝居にしても、仕方がない。孤独や不信を、美しいポップスとして、演劇にしたい。」
「人と人は、「お互い」では信じ合えない。しかし、何かを通じて、信じ合える。それが僕たちの場合「演劇」であっただけで、彼らにとっては「数学」であっただけ。お金を通じて信じ合う人もいれば、おいしいご飯を通じて信じ合う人もいるだろうし、打算を通じて信じあったり、世間体を通じて信じあったり、性欲を通じて信じ合う人もいれば、劣等感を通じて信じ合う人もいる。人と人は、どうしてお互い、そっぽを向き続けるのかしら?」
「あなたにとって、信じられるものとは、一体何でしょうか? そしてキャサリンが最後になって本当に信じたものとは、何だったのでしょうか? 僕の中に答えはあります。しかし、それは書きません。演劇の使命とは、答えを与えることではなく、問いかけ続けることだと思う。つまり、人生と同じ。答えがないから、続けられる。」
「本日はご来場、誠にありがとうございました。一緒にこの、解けない謎の証明を巡って、2時間半、悩みましょう。『もっと美しいやり方が見つかるかもしれない』。」
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- キャサリン役:百花亜希氏ブログ「注文の多い百花店」http://blog.goo.ne.jp/hawaiian_aki
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2013-04-01 『プルーフ/証明』日記:DULL-COLORED POP番外公演 『プルーフ/証明』、の、はじまり。
「……わたしはひとりはみ出し、自分で客演を呼んでやりたい!と提案。……初めてのオファー。/どきどきもんでした。/父・ロバートに、中田顕史郎さん。姉・クレアに、境宏子さん。/顕史郎さんは、スケジュール的に無理かも・・な流れもあり、ひやひやだったけど、最終的には大丈夫で、ふたりとも、快く引き受けてくれた。/もう、もう、ほんと嬉しかったー!/で、ハルに○○さんを考えてたら、東谷さんが、「俺、ももとやりたい!」とゆうことで、元田チームのハルは客演呼んでもらい、百花チームのハルは東谷さんとゆうことでキャストは決定した。……」
「……そして、同時に、演出どうしよう問題もあったけど、/谷「やっぱりこの本いいなぁ・・演出やりたいなぁ・・」/みたいなことをつぶやく。/ただ、今回は、劇団員公演で自分達でやんな、みたいな感じだったし、/元々、スケジュール的に演出無理と言ってたわけだからあれだけど、/でも、ダメもとで、谷に演出お願いできないか、再び交渉。/谷「ほぼ稽古いれなくて、最後の何日かだけになるけど・・・やっちゃおうかな」/わたしの座組みみんな、それでも、谷演出がいい!ってことで、/演出として、あえていうけど、谷賢一さんを招き、百花チームのプルーフの演出が決まったのでした。……」
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2013-04-19 『プルーフ/証明』日記:4/3草稿中だった途中日記と、今。
「……役者同士で話し合いつつ、作っているので、普通の稽古とは違い、ある意味贅沢だなと感じます。……」
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2013-04-28 『プルーフ/証明』日記:東谷さんの4/23のブログからひっぱってきてーの、と、今日のわたしの短め日記。
「……役者だけで稽古やってるのもあって、試せる時間が多かったり、お互い言い合ったりで、シーンをただやるだけじゃなく、戯曲について、話す時間も結構たくさんある。/でも、それが、ほんとに大事とゆうか肥やしになっていて、とてもとても楽しい。/そして、読解力甘いわたしは最初読んだだけではみえてなかったものが、またみえてきて、それが、稽古やるごとに増えていくし、これからも増えるだろうことが、すごくおもしろい。……」
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2013-05-04 『プルーフ/証明』日記:5/3百花。
「……前にも書いたかな・・/演出いない俳優だけの稽古。/とても、とても、充実もしている。/台本がある状態で、こんな長期間、俳優だけで創るのは、今までになかったかもしらん。/あ、でも充実していると感じるのは、この座組だからだ。……」
「……演出の谷さん帰ってこないと最終的にどうなるかわかんないけど、/部分的に、少し立ち位置決めたり、なんだりもした。……」
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2013-05-09 『プルーフ/証明』日記:5/8演出・谷氏合流しての稽古初日!!
「……タイトル通り、今日から、演出の谷さんが合流しての稽古が始まった。/やー、ほんと谷さんに演出引き受けてもらって良かった、と思った。……」
「……初演、わたし見たけど、正直、部分的にだったり、ざっくりとしか覚えてない。/でも、きっと初演と全然ちがう、/今の座組でしかできないものを創ろうとしてる。/俳優だけで創ってたのと、シフトチェンジして創ってるけど、でも、/今まで丁寧にやってきたことは、ほんとうにムダになんてならず、むしろ、/これがあるから、シフトチェンジできんじゃね?といった具合になってる。……」
「……キャッチコピーは、『ニコニコプルーフ』!/にこにこぷん、ならぬ、にこにこプルーフ!」
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- ハル役:東谷英人氏ブログ「東谷英人ひとりかい」http://ameblo.jp/e-az/
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2013年04月23日(火) 4月の現状
「……今回は、演出が他現場中のため、俳優4人と手伝ってくれる演出助手3人とで稽古しているのですが、これが実によい稽古の仕方だなぁと感じます。やればやるほど、「この台本はほんとによくできてるなあ」と痛切するし、けんしろうさんいわく「捨て行の全くない本」というのはほんとだなあと思うし、それほど良質中の良質な台本を解釈したり、俳優自ら、または俳優同士で、感じたり考えたり、しながら創っていく、こうした過程は、非常にお芝居の原点たる楽しみ方なんじゃないか、と思うわけです。/燐光群のときもはげしく感じていたことですが、演出が入る前に、台本を読んで俳優同士で本を理解、解釈したり、ああやろうこうやろうと稽古したり考えたり試したりするっていうのがいかにたくさんできるかどうかで芝居の厚みみたいなものが大体決まると思う。……」
「……今回のこの稽古のやり方は贅沢といってもいいかもしれないけど、本来こうした順番で創るのが絶対いい。間違いない。時間のないことが往々にしてあるこの業界では、とにかく台本きたらセリフを入れてすぐ演出がついて・・・・ってことも少なくない。それって器用に対応する力や瞬発性でどうにかするしかなくて、まあそれまでに持ってる自分の引き出しで勝負するしかなくて、それはそれで地力のひとつだとは思う。けれど、もっとも大事なのは台本と役と作品と向き合う時間だ。セリフは今回4人とも膨大にあるわけだけれども、でもね、セリフを入れる前にすることのほうが膨大にあるんだ。……」
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2013年05月07日(火) 5月の現状(5)
「……予定より予測より早く谷さんが合流して、今日ははじめて全部通した。/ぼくはやれることは全部出した。/この一ヶ月演出抜きで座組のみんなとやってきた全てをみせた。……」
「……で、今日通しが終わって、演出的方針が出され、ここからぼくは大きく変化せねばならなくなった。/でも、それができたらもっとよくなると思った。/まだ具体的なイメージはできてないし、多少混乱もしているけれど。/今まで掴んだものを手放すのではなくそこからさらに進化させたもの。/それは今のハルをさらに裏返すというか、そんな感じ。/だからなにも無駄骨だったことなどなにもなく、ここからさらに!ってことだ。/やってやろうと思う。やれるはずだ。/今まで観たことないぼくをさらに観たことないものに。/混乱の中だけど、ワクワクもある、がんばる。……」
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- クレア役:境宏子氏ブログ「Matureな女(ひと)─境宏子のブログ─」http://ameblo.jp/scarlet46/
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2013-05-21 『プルーフ/証明』まもなくです
「……3月の中旬頃から徐々に役者だけで稽古を始め/その間それぞれ別の本番が入って途中抜けたりしつつ/テキストの読みこみや人物造形の作業を行いました。/2週間ほど前にいよいよ演出の谷さんが合流し、本格的な作品作りに突入。/そこからが大変!でした。/(というか、今も大変な最中です…。)/役者どうしで稽古していたときは、テキストから読み取れることをわりとストレートに表現していたのですが/今回の谷さんの演出はそこをぎゅっと凝縮して、上乗せして、さらに回転を加えて…といった感じで/なんというか一筋縄ではいかない作品に仕上げていく、いまはその途中といったところです。……」
「……『プルーフ/証明』はとにかく脚本が素晴らしくて/もちろんストレートにやっても面白いのですが/今回集まった役者を見て、少しひねった出し方をした方が/より面白くなると考えての演出なのだと思います。/もう直前だし、稽古できる期間はわずかだし/できていない部分も結構ありますが/それでも「今回の作品はおもしろくなる」という確信があって/そういう気持ちで本番に向かえるのはとても幸せです。……」
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:ワークインプログレスメモ
- ▼第一幕通し稽古中メモ
・ウォーミング・アップから。演出家ふくめ役者が円になって、名前と数字を交互に言って行く。で、名前を呼ばれた人が次の数字を言うのだが、名前を呼ぶときは同時に必ず別の人を手で指さなきゃならない、みたいな。複数人で意思を受け渡しながら身体と発話で同時に別の行為をするという練習課題。
・次に、やはり円になったまま全員手をつないで、演出家が劇のイメージや注意点について役者に語りかける。「この劇の中ではそれぞれの登場人物が何年かに一度の人生を賭けた瞬間を生きることになる──」「百花が言ったように集中してイメージを抱くだけで演技の濃密さが違ってくるんで──」
・で、「五分後スタートします」「よろしくお願いします!」で全員それぞれの配置へ。
・舞台装置はシンプルに、以下の図のとおり。ステンレス製のテーブル一個、背もたれのない小さな椅子四つ。細長いベンチ一つ。あとベンチの後ろにレコードプレーヤーが。ステンレス製のテーブルにはパラソルの骨組みだけが乗っかっている(屋外のテラスであることの示唆)。テーブルが斜めに置かれているのが最大の肝で、これで手前から奥に向かって動きの構図をかなり立体的に・複層的に構築できるようになっている。舞台自体は幅7m×奥行き5m。
・ちなみに、原作脚本では第一幕第一場では「キャサリン椅子に坐っている」「ロバート彼女の後ろに立つ」という以上の説明がないので、テーブルを中心において動きの構図を円形にしようというのがすでに個性的な演出プラン。
・通し稽古スタート。ここが始まり、という区切りがなくて最初からキャサリンが上手奥の椅子に坐って、なぜかニコニコしながら紙を挟みで切り絵みたいに切るという動作をずっとつづけており──原作の「She is exhausted, ...」を早くも脚色──、そして客入り音楽(女性ボーカルのJ-POP、川本真琴?)が鳴ったまま、場面に入っていく。これはどういう趣向かというと、キャサリンがイヤホンで音楽を聞いているのだが、彼女が聞いている曲がそのまま客入り音楽の曲だということ。途中で彼女がイヤホンを外したときに音楽が止まる(小さくなる)ので、そうと分かる仕掛け。(で、登場人物がイヤホンで聞いている音楽=音響として鳴っている音楽、というリンクは、音楽が鳴りながらの場転のときに、暗転なしでつなぎを自然に見せるための独創的工夫にもなっている。)
・ロバートゆっくりと出現。キャサリンずっと紙を切っていて、その間ずっと手元を見つめているので視線を向けない。
・ロバートとキャサリンの会話。予想していたよりもキャサリンの声音がやたら明るい。もっと抑鬱的だと原作脚本から想像していたが(そして映画版はそうなっているが)、むしろ躁病的と言えるほど。科白のすべての末尾に「♪」が付いてるみたいな。
・そして科白の掛け合いのテンポもかなり早い。シャンパンについてのやり取りでは結構二人の科白がかぶるところも。で、テンポが早い分、間(Beat.)をとったときの流れの変化の印象が際立つ。
・キャサリンずっと紙切ってる。とにかくキャサリンが明るい。翻訳もそういうトーンで行われている印象。例えばクレアのこと「姉さん」じゃなくて「お姉ちゃん」と呼ぶ。「サイアク」「知らないよ♪(I don't.)」「そう言われるとさすがにヘコむな♪(It's a depressing fucking number.)」「そのことも考えたよ♪(I've thought about it.)」みたいな言葉づかい。ロバート「才能を無駄にするな!」→キャス「I knew you'd say something like that.」の対話ももっと怜悧に、父親と対等な大人同士として言い合っているというイメージだったのが、「パパならそう言うと思った」と小娘が父親に甘えるみたいなトーンになっている。
・ここで、演出家がリアルタイムで修正指示。「ロバート、声張った方がいいね」→ロバートが声を大きくすると、演出家うんうんと頷く。
・で、上記のように紙を切る手元を見つめ、ニコニコしながら始終明るいトーンで話していたキャサリンが、「1729週……」あたりのやりとりからの急激な感情変化で、爆発的にキレる。そういう風にキレた時には紙を切っていた動きも止まるし、ロバートの方をちゃんと見つめる。これは原作脚本のストレートな解釈からは絶対に出て来ないダイナミクスの変化だが、そうやって感情が爆発した後にまたふっと感情が収まってもとのトーンに戻る(キャサリンはまた紙を切り出して手元を見つめる姿勢に)ところまで含めて、まるで弦楽四重奏曲みたく悠揚せまらざるトーンの推移になっており、これほどにリズムが変化しても、場面の全体的雰囲気・密度・緊迫感は損なわれない(といってもまだ完璧にそうなっているわけではないが)。映画版の単調さ・直線性に比べてなんという高いレベルの演出を目指していることか!
・で、なぜこういうふうにニコニコしている状態から急激に爆発的にキレるような人物としてキャサリンを造型したのか?……惟うに、キャサリンの人格の軸になっている、父親の狂気と重ね合わせての自分自身が狂うのではないかという不安、傷つき易さ、それを一種エキセントリックな演技として形象化しているということ?
・テーブルを中心に円を描いて歩いて行くロバートの動き。テーブルが斜めになっているせいもあって、凄く舞台が立体的に感じられる。素晴らしい!
・ロバートのテンポ、身振りの自然さ素晴らしいな。「It's a point.」の科白のあたりの繊細なテンポチェンジも思わず引き込まれる丁寧さ。映画版のアンソニー・ホプキンスの脚本を無難になぞっただけの動きより全然良いぞ。
・そして同じく映画版と比較しての話。(上演中の谷訳科白をメモってないので原文で指示するが)「You died a week ago.」〜「That's why Claire's flying in from New York.」〜「You're sitting here. You're giving me advice. You brought me champagne.」あたりのキャサリンの科白のくだり、映画版ではずっと沈痛なトーンで語られ、あたかも父親の死をあらためて自覚して悲しみに沈んでいるかのようなグウィネス・パルトローの演技になっていたのだが、百花キャサリンだと、目の前の父親が幻覚だと知ってから、自分自身の狂いかけている精神を思っての動揺で身体を震わせ、上記の科白も、一つ一つをまるで自分の狂気(幻覚)が信じ難いかのように、それでいてみずから確認するかのように、口にする。キャサリンという女性は、自分が狂うかどうかの瀬戸際で不安を感じており、それが傷付きやすさや弱さとして彼女の人格の軸にある(そう解釈しないと──映画版みたいに──単なる人間不信の偏狭な女だということにしかならず、脚本の主題自体もあいまいになる)と考えるならば、こちらの演出の方が映画版より圧倒的に正しいはずだ。そして、この演出方針は次にハルが入って来てから、原作脚本(と映画版)ではすぐにロバートが退場することになっているのに、この谷演出では、ずっとロバートが舞台に居つづけて、キャサリンとハルの会話を聞くという改変にもつながっているのだろう。とりわけキャサリンが父親の晩年の狂気のことを悪し様に語って、ついには「(あんな父親)死んで良かったよ(I'm grad he's dead.)」の科白を(ハルではなく)幻覚としてそこにいるロバートに向かって吐き捨てるという行動は、父親のようになりかかっている自分自身の狂気をなんとしても否定したいがために、親密でもあったその父親のことを、あえて切り捨てる、という感情の表われとして、彼女の狂気への不安を一貫して見せていく演出になっている──と見なせる(たぶん)。この一貫性がないと、後にハルにパラノイア扱いされてキレたり、クレアに精神病院の話を持ち出されて激昂したりするキャサリンの行動が単なるヒステリーにしか見えなくなってしまうので、どう考えても映画版よりこちらの方が正しい……さらに言ってしまえば、ロバートをさっさと退場させてしまう原作脚本よりも、正しい?
・ハル入ってくる。キャサリンが坐ってまた紙を切り続けるのに対して、ハルは、斜めに置かれたテーブルによって奥行きに複雑さが出ている空間を、小気味良く動きながら立って話す。動きにいちいちアイディアがあって素晴らしい。
・ハル(およびキャサリン)を演じているのは勿論現代の日本人なわけで、谷翻訳の舞城王太郎の文体みたいなくだけた調子と、役者の容姿や仕草とが本当にしっくり調和していて、ただぼんやり聞いているだけでも快い。例として「they hold down a job at a major university」→「超インテリなんだよ!」、「how old are you?」→「いくつだっての」、「you're being a little bit paranonid」→「頭おかしいんじゃないの?」、「fuck you」→「死ね♪」、「if ..., I could write my own ticket to any math department in the country」→「どこの大学の教授にでもなれるってもんだ!」等々。ちなみにこの「どこの大学の教授にでも……」の科白をハルが興奮して言った直後に、すなわちキャサリンの「リュックを見せて」の科白の直前に、長目の間が入るが、ハルが科白を言いながら両手を広げるポーズを取ってそのまま硬直するので、アホっぽくて面白い。どうも、全体として、エキセントリックなキャサリンに振り回されるちょっと間の抜けた青年、みたいな造型をほどこされているっぽい、ハルは。原作脚本からの第一印象だと脱オタしたばっかの爽やかで純朴な青年、といった印象で映画版もそこから逸れてなかったが、ここでも、キャサリンほどではないがハルの人物の解釈にひと捻り入っている? そのおかげで(観客にとって)より好感を抱き易い人物になっている?
・「あたしがパパの面倒を見ていた……」の科白あたりから表情が思い詰めたようになりテンポが上がっていく。「死んで良かったよ」の科白、「あの人につきまとわれるのはもう嫌」の科白……感情のこもった科白を丁寧に多彩にハルに向かって放射していく。この間ロバートも移動していて、キャサリンの後ろに立ったりする。
・で、ハルのリュックの中味の検査が終わった後、またキャサリンの声のトーンが明るい感じに戻るわけだが、いままでの色々な表情の変化を見ているからか、「I'm fine」→「あたしは何ともないから♪」といった軽い感じの科白にも、発狂すれすれの過敏さが漲っているようで剣呑な雰囲気がただよう。まだそれが十全に伝わるというところまでいっていないが、この演出プランどおりのキャサリンの人物像が鮮明になれば、本番では、科白一つ一つに緊迫した意味が充満した、凄まじく独創的な『プルーフ/証明』が観られることだろう!
・対して、映画版においては「No. I'm not crazy.」の科白あたりからハルに対する邪険な態度がずっと維持されるだけ、キャサリンは眉をしかめたままの表情で、トーン・チェンジはほとんどない(科白も大分削られているのだが)。上記の「I'm fine(大丈夫よ)」の科白もうなだれながら、心配してくれているハルを寄せ付けまいとするキツめのトーンで放たれる。まあ原作脚本からの無難な形象化だが……無難すぎてつまらんだろ。百花キャサリンの方が演技の形象化として百倍複雑さと深みがある。しかも映画版では、第一幕第三場でのハルとのキスシーンが、第一場での単にとげとげしい女がなんで急にこんなに豹変するんだ?という疑問を禁じ得ない支離滅裂なシーンになっているが──つーか俺はこの時点でもう映画版を駄作認定したが──、谷演出ver.の百花キャサリンの場合はニコニコした表情の下の過敏なエキセントリシティのなかに、単に相手を無下に扱うのではない、ハルとの交情を可能にするような何かを予感させ……実際、それは第一幕第三場のキスシーンおよび第一幕第四場で、何故か観客に笑いが起こるほどにユーモラスな二人の対話の流れとして具体化されるのだ!(このどちらも映画版では、前者はベタなラブシーン、後者はキャサリンが初めて他人を信頼した場面として、生真面目な演出をほどこされているだけ。つまらん。)
・映画版と谷演出ver.との差異は、ハルの置き忘れたジャケットのなかにノートを見つける場面以降も見出すことができる。「I'm paranoid?」の科白も映画版ではキツめに、歯を剥き出しにして怒って言うだけだが、百花キャサリンの方は笑いながら怒っているという感じ。百花キャサリンの方は複雑な空恐ろしさのようなものを感じさせるが、映画版のキャサリンは単にとげとげしい女だというだけ。
・ノートを発見したキャサリンがテーブルの奥に回りこんで携帯電話で警察を呼ぶ(それをハルが止めようとする)ところでは、たしかロバートもまだいたから、動きの構図がかなり複雑だったような。基本はテーブルを中心にした曲線だが。動きの構図といえば、どこかでハルもベンチに坐ってキャサリンに話掛けるところがあったような……。とにかく登場人物数名のシンプルな対話劇であるにもかかわらず、中央の斜めのテーブルを軸に、移動の設計でかなり豊富なアイディアを入れ込んでいる。そして!なんとハルがロバートの日記をキャサリンに読み聞かせている間中、まだ舞台にいるロバートが前方の椅子に自然に回り込んできて、坐ってノートに文字を書き込むという動作をつづける。これはつまり、ハルのノートの朗読(キャサリンは舞台上手奥に立って、胸の前に手を当てて聞いてる)に合わせて、ロバートが過去にそれを執筆していた時の回想イメージを、舞台の前面で幻として見せているというわけだ!!! これもテーブルが斜めに置かれて、舞台空間の奥行きが複層化しており、それを最大限利用しつつ動きの構図を作ってきたからこそ可能な演出にほかならない!! 単一の舞台空間上での複数の時制のオーヴァーラップ!!! 独創的すぎだろ!!!! 百人が百通り『プルーフ/証明』を演出してもこんなアイディア滅多に出てこねえよ!!!!! 原作を裏切ってロバートを存在させつづけてきたからこそ可能なこの演出!!!!!!!!!!
・第一幕第一場のラストでは原作どおりパトカーのサイレンの音響が入るが、ここでも音楽の使い方が巧みだ。その音響からの流れで、もともとパトカーのサイレン音がSEとして入っていてもおかしくない曲(ロック。BLANKEY JET CITY?)が場転のつなぎのBGMにかかるという演出、そして第一幕第二場ではやはり登場人物のクレアがイヤホンで音楽を聞いており、それがまさに場転のBGMの曲とリンクしていることを示唆するように、バックの音楽に合わせて腰を振る。第一場ラストのサイレンの音響と、クレアがイヤホンでロックを聞いているという原作からの改変を、場転の間に流れる音楽で説得力を増しつつつないでいるわけ。全体を鳥瞰した上でのしっかりした演出プランにのっとって、場転にさえその演出意図を徹底させてやるという意志がないと、ここまで個性と説得力の両立したアイディアは出てこないだろう。素晴らしすぎる。
・第一幕第二場、キャサリンとクレアの対決的対話場面だが、やはりキャサリンは始終不気味にニコニコしている。これ、映画版だとクレアの「バナナ食べる?」「ベーグル食べる?」といった親切げな言葉に対してキャサリンが不機嫌に拒否的な態度をとるという流れになっており、相変わらずキャサリンはとげとげしいだけの女で、姉との仲も悪いんだろうという印象しか与えないのだが──谷演出ver.だとニコニコしながら「要らない♪」と言ったりする演技の形象化になっているわけで……つまり、第二場のはじめから二人の間に険悪な空気が生まれているというふうにはなっていない。これは、キャサリンの人格の狂気すれすれの不気味さを暗示すると同時に、第二場後半にはどうせ激しいぎすぎすしたクレアとキャサリンの言い合いになるのだから、そこに至るまでまだまだ先がある冒頭の対話のところでは、二人の仲の悪さの前面には出さないで、徐々に二人の間の不和の感情をクレッシェンドしていくという演出意図なのではないか。ともかく、すべてに丁寧な作為がみなぎっている!
・クレアの身振りもかなり個性的で、くねくねダンスしているかのよう。原作脚本では表面的には妹を気遣っているようでありながら実際には妹を信じていない人物、しかもニューヨークにかぶれてシカゴを見下す俗悪なセレブ気取り、職業は金融関係(為替アナリスト)という、わりと類型的な人物だが、そこにひと捻り加えてもうちょっとスレたポップな存在にしているような。冒頭、朝方のテラスでイヤホンでロックを聞いて踊りながら朝食をとっている、という姿がそもそもそうだし、小道具の演出で彼女が煙草を吸っているという仕草の加味もその方向性であり、また、谷訳の科白も例えば原文の「It's something they put in for healthy hair.」が「“うるるんヘアー”を保つために……」と発話されるといった具合で、色彩豊かに飛び跳ねている感じで、このクレアは、原作脚本から想像される類型的なキャリアウーマンの印象(映画版はそのまんまだった)とはかなり違う。ニコニコしてばかりのキャサリンについても言えることだが、全体的に、喜劇としても見られるような色付けがなされている。結婚のことを告げる時のクレアのはじけっぷりも面白い。急激なリズム・チェンジ。
・キャサリンは坐ったままだが、クレアはやはり円の動きで歩いたりしながら話す。ところで、キャサリンが無言でテラスから出て行こうとするのをクレアが無言で引き留めるという、ちょっとおかしみのある動作が入るが、これは原文による指示はない。たぶん、間(Beat.)となっているところの代わりにこういう動作を入れたという演出なんだろうけれども、この動作のおかげで、二人ともニコニコしながら(有機化学のことも……のくだりで少し険悪になるが)対話しているけれども実はキャサリンの方は姉を疎ましがっている──それをクレアも分かっている(ので逃げ出そうとするキャサリンを察知して捕まえられる)──という関係性が言葉なしに、動作だけで観客に伝わるようになっている! ほんと、一点一点まったく隙のない、アイディアの密度の濃い演出だな……。
・キャサリン(立ち位置下手奥)の「質問の要点は何?」の科白の後の間のあたりから、空気が変わっていく。にこやかだったクレア(立ち位置上手奥)の態度もだんだん険しくなってくる。「警察はあんたしかいなかったからって……」「ボーイフレンドなの?」「オエーー!(No!)」「トロンボーン吹いてたの、ある意味ロックバンドかもね!」「話がかみ合わないのよ(But the two stories don't go together.)」登場人物の感情の推移を音楽のようにコンポジションしていくという高レベルの演出企図。
・「I was here alone.」「Harold Dobbs wasn't here?」「No, he── Yes, he was here, but we weren't partying!」→「あの人はここにいなかったの!」「いなかったの?」「……いや、いたか。……」このやりとり、キャサリンのテンポと表情がかなり繊細に変化する。とくに「いや、いたか」を言う前のちょっとした空白の緊密さが凄い。原作脚本を読んだときにはなんでもないやりとりのように思えたのに、かなり印象的なやりとりになっている。
・途中で、演出家が舞台に上がってキャサリンの姿勢を変えた一瞬があった。(この意味は通し稽古後に明らかに。)
・「Did you use the word "dickhead"?(チンカス野郎)」「Did you tell one cop . . . to go fuck the other cop's mother?(ママのおっぱい吸ってろ)」のあたりのやり取りではキャサリンはふるえ出していて、感情がどんどんストレートに出て行く。が、「Well people are nicer to you.(お姉ちゃんにとっては誰だって親切なんだよ!)」の科白の後の間で、ふっと感情の激しさが収まる。なめらかかつダイナミックな感情の推移。演出家の頭の中でこの脚本の科白一つ一つについて、その連続についてどう色付けていくか、完全に構想が出来上がっているのだろうし、その演出意図に十分ついていける繊細な演技のテンポ・チェンジの能力を俳優たちがみな備えているからこそ可能な舞台ということか。凄いわ。
・闖入したハル、ヘコヘコしながら退場。やっぱアホっぽい形象化がほどこされてる?
・「He's cute.」「(Disgusted) Eugh.」→「かわいいじゃない?」「オエーーー」
・やはりBGMに合わせてリズム良く場転するという工夫。
・第一幕第三場。ハル、アサヒスーパードライの缶という小道具を持って登場。ハルの酔っ払った演技、わざとらしさ微塵もなくて見事。(映画版のハルは全然酔っているふうな演技はしていなかった。でもそれだと「I'm a little drunk.」の科白につながらんだろ。)
・ここでキャサリンの科白が抜けて「プロンプ寄越せー」と演出家から演出助手に指示。
・キャサリンはやはり椅子に坐って手元を見つめながら紙を切りつづけている……そして表情はニコニコしつづけている。そしてそれがここでは発狂寸前の不穏さというよりは、ハルを前にしての田舎娘のユーモラスな照れのように感じられる。つまり始終キャサリンをニコニコしている娘として造型したがゆえに、原作脚本における、キャサリンの第一場でのハルに対する態度と第三場での態度の乖離に一貫性を持たせようしたということだろうか。映画版では、第三場のはじめからやはりキャサリンはダウナーな雰囲気で、ハルにドレスを褒められてもそんなに嬉しげではないし、その後の「When do you think they'll leave?(みんないつになったら帰るの?)」の科白もため息まじりの苛立ちのトーンだ。こんな彼女がここからハルとのキスシーンに至るのはほとんど支離滅裂と言っていい。が、百花キャサリンの場合だとドレスを褒められて上機嫌になっても自然だし、後のキスシーンではユーモアさえ生み出し得ている。
・「数学は若者のゲームだってことだよ(They think math's a young man's game.)」……「ほとんどは男か(But it is men, mostly.)」……こうした会話をしながらだんだん2人の位置が中央に寄ってくる。会話のテンポは想像していたより早い。ソフィー・ジェルマンの話題にからんで相当長い台詞が入るが、これも結構早口。ガウスの書簡のくだりで少し涙ぐむ?
・で、キスシーン。はっきり言って映画版では、また原作脚本の文字を追っただけでは、なんであれだけ無愛想だったキャサリンが突然こんな甘々なキスシーンを演じるのか(「That was nice.」といった科白まで出てくる。映画版ではさらに「こんなの久し振りよ」みたいな駄科白を付け加えて、なんとかラブシーンとしての雰囲気を出そうとしているが……ハルの演技もベタなロマンスの恋人役といった趣き)、その意味不明感がひどくてついていけなかったし、それを舞台で生で演じられたらさらに見るに耐えないものになるんじゃないかと兢々していたのだが……杞憂だった! まず前提として、エキセントリックで奇矯なキャラ付けをされているキャサリン、アホっぽいハル、という組み合わせが最初からベタなロマンスの雰囲気を異化しているし、谷翻訳の科白一つ一つもくだけた感じで不器用な若者の恋のニュアンスを原作から導き出している。「Sorry. I'm a little drunk.」→「ごめん酔った」、「I'm sorry about yesterday.」→「昨日はごめんね」、「I always liked you.」→「ずっと気になってんたんだ」、「I thought you seemed . . . not boring.」→「けっこういいかもって思ってたし」。最後の二つについて、映画版の吹き替えは「ずっと好きだった」「他の人とちがって退屈そうじゃなかったから」で、真顔で見つめ合う二人の演技も含めて、なんというか、作り物めいて不自然すぎて見るに耐えなかった。それと比べて谷演出ver.における二人はやや照れながらのぎこちない、ユーモラスでさえある演技の色づけがされており、それがまさに科白のやりとりにしっくりあっていて自然に受け入れられる。特筆すべきは上でも言及した長いキスの後の「That was nice.」の科白だ。これが谷訳では「良かったよ!?」とやたら素っ頓狂にキャサリンがつっかかる科白へと変えられていて、この瞬間には観客から笑い声さえ起こった。ビックリですね。原作を読んでいたらここで笑い声が起こるなんて絶対想定できねーよ!!! 原作に独創的な解釈を加えて、翻訳においても演技の形象化においてもそれをきちんと具現化しきっているのか!!!!! 緻密さと独創性の同居。素晴らし過ぎる。キス自体も唇と唇をくっつけてるだけみたいでユーモラスなんだが、さらにここでは俳優自身の存在も重要だろう。映画版のようにモデル並みにスタイルが良く背の高いグウィネス・パルトローのキャサリンと、髭を生やして男性フェロモンを色濃く漂わせるジェイク・ギレンホールのハルでは、おそらくこんな演出は成立しない。
・言うまでもなくキスからの「ごめん酔った」「きのうはごめん」以降の濃やかな俳優の演技も繊細微妙だ。ここで自分の仕事について自嘲的なハルに対しそれを励ますキャサリン、という会話が入るが、映画版では単にキャサリンが自分の意見を言っているだけという会話だったのに対し、谷演出ver.ではここで初めてキャサリンの感情がストレートにハルに向けられいくということを、それまでとは決定的にトーンを変えて、微細な演技の流れで表現している。これなら、二人のロマンスに説得力が出る。映画版のグウィネス・パルトローは舞台でもキャサリン役をやっているはずなのに、あの程度の説得力しか出せないのに比べて……百花キャサリンと東谷ハルの説得力はヤバすぎる。
・第一幕第四場。ハルとの一夜が明けた朝だが、キャサリンの態度の恋を知ったばかりの田舎娘みたいな上っ調子が笑える。第一場からキャサリンの基本的な表情のトーンが奇妙なニコニコ顔だったからこそ可能な演出・演技の色付け。原作脚本からしてもここは性的なニュアンスがただよっていてしかるべきところなのだが(キスシーンもまたあるし)、百花キャサリンの色気、ゼロ。しかしむしろその方が断然観ていて面白いし会話劇としての原作の魅力にさらにドライヴを掛けている。翻訳の段階ですでにそういう喜劇的な方向付けはあったのだろう、とくに注目すべきは「How embarrassing is it if I say last night was wonderful?」「It's only embarrassing if I don't agree.」「Uh, so . . .」「Don't be embarrassed.」のやりとり、原作脚本を読んだ時にはうぶな相手をちょっとからかってみた大人の女性のコケットリーみたいな感じで受け取っていたのだが──そして映画版では「It's only embarrassing if I don't agree.」→「(恥ずかしい?と聞かれたのに対して)私が否定したら恥ずかしいのはそっちでしょ」という訳で、グウィネス・パルトローの演技のせいもあって単に素っ気ないやりとりになっているのだが──谷訳だと「あたしはそうでもなかった!」とキャサリンがつっけんどんに大声で言って、呆気にとられるハル、短い間が入り(その後「……って言ったら……」と自分の発言を否定する)、客席からも笑いが起こった。こうした喜劇的なテンポ・チェンジは原作脚本にもない要素で(「It's only embarrassing if I don't agree.」が一続きの科白としか読めないので)、翻訳の段階ですでにこういう演出を想い描いていたのではとも思う。
・そしてキャサリンがハルを信頼して鍵を渡すシーンがつづくが、これも映画版とは全然違ったトーンになっていて、それが奇妙な説得力を生んでいる。映画版ではやたらもったいぶった躊躇いの表情や身振りが入ったあとにキャサリンが鍵を渡すのだが(バックに感傷的なBGMまで流れだす)、それまでのとげとげしくて攻撃的なキャサリンの姿を見せられてきたこっちとしては、こんな簡単に人を信頼するなんてずいぶん浅い奴だな、としか思えない。あのキャサリンが初めて人を信頼した、ということに説得力がないから、シリアスに演じれば演じるほど観客はしらけるというわけ。対して谷演出ver.では、キャサリンはうつむいたまま「これ!」とハルを突き飛ばす勢いで手を伸ばして鍵を渡す。観客爆笑。「こんなに簡単に人を信頼する」ことが、百花キャサリンの田舎娘の初恋みたいなユーモラスな演技と相俟って、むしろ必然の流れのようにさえ感じられる! 凄過ぎるでしょ。すべてが計算ずくの演出なのだとしたら。
・で、ハルと入れ替えにクレアが入ってくるが、キャサリンはまた坐って紙を切る体勢になる。ドレスの感想を聞かれると、手元を見つめながら「あれ好き!」とつっけんどんに言う。ここでも恋を知った田舎娘の上機嫌みたいなトーンがつづいていて、笑える。
・「ニューヨーク来ない?」のクレアの科白は、原作脚本ではわりと生真面目なやり取りに思えたのだが(映画版でも真顔で「あなたにニューヨークに来て欲しいの」)、谷演出ver.では鶏みたいに両手を後ろでひらひらさせるような身ぶりが加わって、やたらファンキーなクレアになっており、この科白も印象に残ってしまった。余談だがクレア役の俳優の方はどんなポーズを取っても身体のバランスが良い。
・クレアとキャサリンの対話は徐々に対決的なものになっていくのだが、複雑なテンションの変化を加えつつ、基本的なテンポが早いなかで感情のダイナミズムをなめらかに推移させていく、その緻密な絶対的演出プランからの、かなり高度であろう要求に、役者の方々がみなちゃんとついっていってる。「ニューヨークに連れて行きたいの」からのクレアの躁病的なテンポ、「しばらく頭を整理したいの」あたりのリズム・チェンジの繊細さ、「家を売るのよ」の科白のあとの緊迫した間、そして二人の科白がどんどんかぶっていくクライマックス──「好きなように生きてきたじゃない!(You had your life.)」「パパに似てると思う?(ここでキャサリンのテンションが下がる)」「調べるだけは調べた」「くたばって!」──科白ごとの細かな身ぶり、テンションの上下の説得力、そして舞台中央のテーブルを挟んで上手奥にいたキャサリン、および下手奥にいたクレアが、だんだん言い争って興奮するにつれて前に回りこんできて自然に二人の距離が近づいていくという移動の設計……。完璧だろ。映画版のただぎすぎすした言葉の投げ合い一本調子の掛け合いと比べてみろよ。
・でノートを持ったハルが闖入してくるが、そこでキャサリンのトーンがまた初恋田舎娘風の、もじもじした感じに戻るので、笑える。そして世紀の大発見に興奮するというハルの演技がつづくが、テンションの高さ、額に手を当てたり、ノートをテーブルに置いたりまた取り上げたりの身振りの設計が、緻密でいい。映画版ハル=ジェイク・ギレンホールの単に無難なだけでまったく印象に残らない演技の数倍良い(まあ映画版ではこのシーンでキャサリンの表情の方を主に映してしていたが)。
- ▼見学者との質疑応答〜駄目出しタイム〜第一幕第二場反復稽古メモ
・質問者「通し稽古の間に役者の姿勢を直していたりしたけどそれは?」/谷氏「重心をどこにおくか、といった姿勢の違いによって役者の気分も観客の受け取り方も変わってくるので」
・質問者「舞台は室内のはずなのに、テーブルにパラソルが立っているのは何故?」/谷氏「室外です。屋根のついたテラス。それが分かるようにもっと工夫しなくちゃならないですね」(←意見をちゃんと取り入れてブラッシュ・アップしていく)
・質問者「原作脚本から受ける印象とこのキャサリンの印象がまるで違うのだが、どういう演出意図か?」/谷氏「合い言葉は『ニコニコプルーフ』。今回は演出が入る前に俳優たちだけで稽古していた期間が長く、その間に作られていた役のイメージというのがあったのだが、それは相当変えた。たとえば原作脚本からすれば、キャサリンはこんなニコニコしているわけでもないし、紙を切って人の話を聞いていないというふうでもない(ちなみに、今はキャサリンはただ紙を切っているだけだが、もうちょっとアートっぽい切り絵にしたいと思っている。今資料を探しているのだが。もともとはジグソーパズルにしようかなんて案もあった。実在の数学者でも切り絵が趣味という人がいるらしい)。演技においても、さっき姿勢を修正したということにもかかわるが、相手と言い争うときに前のめりになってガーガー言う演技にはしないつもりでやる。演出入る前に俳優がつくっていたキャサリンはそんな感じだったのだが。ハルも演出が入る前はこれとは違った役作りだった。とにかくキャサリンがこんな風に明るくニコニコしているのは今回明確にやろうと思っていたこと。」
・駄目出しタイム。以下すべて谷氏「まずはキャサリンの人物をしっかり立てて、キャサリンのシーンをしっかり作っていきたい。そして全体として展開のダイナミズムというのを意識したい。他の人も細かい芝居などを練習したいだろうけれど……。」「で、キャサリン。とち狂いすぎ。第一幕第二場、第四場でもとのキャサリンが出てしまっている。」「全体の傾向として科白が雑。普段自分はこんなことは言わないのだが、むしろもっと科白ラフで良いですよとか言うのだが、この芝居では言葉をもう少し大事に。観客がいてヒートアップしてしまったのは分かるが、流しそうめんみたいに科白が流れていってしまうのは問題ある。テンポを落とさず、言葉を大切にしていく。」「で、ハル。音のバランスがおかしい。キャサリンとクレアがいるところで、ハルもどんどん音域が高くなっていくと、高音と高音がぶつかってアップアップになってしまう。別の現場でも『高音集めすぎ。落とせ落とせ』って言われたことがある。」「また、全体的にみな声を張り上げた方がいい。ベースの音を上げる。人の話を聞いているのかどうか分からないようなのっぺらぼうな女(キャサリン)に話し掛けるわけだから、もっと声を張る。とくにロバート。ロバートはちゃんとキャサリンと向き合おうとしている父親で、「どうした、わが娘よ」と大声で言うのが基本ライン。演出が入る前のもとの演技の造型が“ロバートのおっちゃん”みたいな感じだったが、それは捨ててくれ。「才能を無駄にするんじゃない!」の科白ももっとピシッとやった方がいい。」「総論として、やっぱりみんなつるつる喋っている。そうではなくて、しっかりラインを作っていきたい。昔の新劇みたいに、この科白を立ててくれ、みたいなことを言いたいわけじゃない。だが、全体として音楽みたいな流れが生まれるようにしたい。だんだん怒りのテンション(Bullshit. Those days are lost. ……)を上げていって上げていって、ふっと、「何日だ?(How many?)」が出てくるようにしたい。キャサリンの「1729週間!」のあたりもそうで、そこからキャサリンの感情の暴風雨が吹き荒れるのだが、そしてその吹き荒れているあいだはロバートも若干引っ張られるのだが、それがふっと止んだ瞬間、落ち着いた「わかったな(You see.)」が出るようにしたい。」「ロバートは、ハルが入って来る直前、ぶるぶる震えているキャサリンに対して、もっと落ち着かせるように、もうちょっとで触れそうになるくらい近づいていい。」「ロバートは娘を溺愛しているのだが、一方で娘の感情の爆裂を怖れているという感じが欲しい。あたかも爆発物に触れるような感じで。それをチラチラ見せて。キャサリンの爆裂感はもっと削っていって、逆にロバートの対応はもっと情愛深くという感じにしていきたい。」「第一場のハルとキャサリンのシーンだが、ここでキャサリンは、基本的にニコニコなんだけど、あっなんかちがうぞ、という印象を与えたいわけ。だから「一緒に住んでたんだよ!」「リュックを貸しなさいよ!」の科白を、前のめりになってガーガー言ったら駄目。やり過ぎ。もっと重心を後ろにして。重心が後ろになっているとなかなか相手にきつく言うという感じにはならないはず。」「キャサリン、ハルのノート朗読を聞いている間、そしてその後の「もう今日だよ(It's today.)」の科白、ここはニコニコ仮面も殺すぞ仮面も取って、素直な少女に戻った感じを出してほしい。」「第二場、キャサリンの「有機化学について何も知らないの?」のクレアとのやりとりで、やはり以前のキャサリンに戻りすぎ。前に出すぎ。キチガイすぎ。イメージとしては「お姉ちゃんさ、有機化学も知らないんだ」って感じ。人に対して距離を取る人は、姿勢としてやはり引き気味になるはず。」「結婚について告げるところのクレア、言葉をもっとはっきり言った方がいい。聴き取れないと「何をこの人はしゃいでるの?」という感じになるから。」「ソフィー・ジェルマン語りところでも、キャサリン気張りすぎ。もっと素直に喋っていい。楽になっていい。手振り身振りが入ってもいいがもっと削って。そして重心が前の時間が長過ぎる。スタンス後ろ目で。」「第四場、キャサリンの「信じられない!(I can't believe this.)」の科白でガッと上げたんだけれど、このタメる演出プランは実際やってみたらおかしかったね。やめましょう。」「クレアとの激しいやりとりの中で、キャサリンはもっとクレアの言葉に傷つく時間があっていい。もっと被害者意識があっていい。」「キャサリン、クレアに向かっての「大っ嫌い!(I hate you.)」の科白、ちょっと違う。急激に上がるのはいいのだが、その後ハルが入って来るとすぐに収まってしまうので、百花はそういう切り替え上手いのだけれど、切り替えが上手すぎて逆にその前の激しさが演技なんだなというのが、ありありと伝わってしまう。もう少し自然に激昂していく、そうならざるを得ないように上がっていくという感じだと良い。」「ノートの証明について興奮して語るハル、何言ってるか分からない感じになってしまっている。難しいシーンだけどね……。」
・第一幕第二場のみの反復稽古。役者に演技をさせて、途中で「カット」と言って止めて演出家が注意していく(あるいは「こういう仕草をつけ加えてみて」と指示する)。そして「戻ってこの科白のところからスタートね」で修正した演技をまたチェックしていくという流れ。役者に科白と動きが完全に入っていると、あたかも編集作業みたいにきびきびと演技の修正ができるのか! 以下すべて谷氏「カット。キャサリン、すでにこの時点で表情の情報が多過ぎる。もっとトーンを落とす。もっとどうでもいい感じで。むかつくな、って頭の中で思っていても、目の前で風が動いたなくらいの反応でいい。」「カット。そうやってトーンを落としすぎると、今度はつぶやきになってしまう。「有機化学について何も知らないの?」これはクレアに対する反撃のチャンスなんだから、ちゃんと相手を見つめながら言う。」「カット。もっと声を張った方がやりやすいよ。そうでないとつぶやきになってしまうから。」「カット。キャサリン、動きをもっと削って。変な動き付けなくていい。あと、相手が喋っているあいだにもっと息を吸っていい。相手に興味ないと、相手の言葉を集中して聞いてなんかいないから、相手が喋っているあいだにも息を吸えるはず。」「クレア、「If you want to dry your hair I have a hair dryer.」の科白のあたりからキャサリンの髪をずっと触りつづけてみて。」「クレア、キャサリンが出ていく時もっと早目に止めていい。相手の妙な動きは絶対に見逃さないよって感じでデリケートに注意を払っているから、パッと妹を止めることができる、というふうに。」
:上演中メモ
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(※※※記憶、原作脚本、殴り書きのメモを元に再構成しているので、実際のそれと大幅に異なっている可能性が大です。)
- ・舞台はほぼ正方形、10×10mくらい、両脇にも席が並んでいて観客は三方から舞台を眺めることになる。袖から役者が登場するために下手奥に扉(これが用いられるのは、家の敷地の外から人がテラスへやってきた、というケースのみ)。テーブルなどの配置はワークインプログレスと同じで、テーブルを斜めに配置することによって人物の動きの構図に立体性を出す。四つの椅子、細長いベンチ、そしてレコードプレーヤーとコーヒー淹れを置いたサイドテーブル。サイドテーブルの位置は上手奥に。また、下手奥に、階下につながっている四角い穴が空いている。最初は目立たないが、役者が場転のたびにここに色んなものを片付けていくので──それがもっともまざまざと効果を発揮するのは第二幕第五場──、さらに言うとそこに穴が空いていることを用いたちょっとした小ネタ(無論原作にはない)もあったので、最終的に演出プランに強く組み込まれている穴となっている。
・下手手前に植木鉢。場面が屋外のテラスであることの間接開示。
- ▼第一幕第一場
・で、開場が開演20分前なのだが、開場した時から(つまり客席は明るいまま)すでにキャサリンは上手側の椅子に坐っていて熱心に、相当集中してはさみで複雑な切り絵をつくっている。切りくずをどんどん背後に捨てて行く。舞台には上手奥からのシンプルな照明(キャサリンを背中から照らす)、そして夜を暗示するブルーの色合いも。キャサリンの服装は、大きめの白いシャツとカーキ色のワークパンツ。髪型は変な髪留めで前髪を上げている。髪型は今後シーンごとにしょちゅう変わる。
・ところで、この坐ってはさみで切り絵をつくりつづけているキャサリンというのは、当然原作にはなくて演出で加味されたものだが、その意義は複数考えられる。(1)キャサリンの心情の潜在的な態勢の視覚化。劇中、他の登場人物との対話の際に彼女は紙を切っていることがあるが、それはつまり、彼女は相手の話をまともに聞いていないのだなということの暗示。逆に、彼女が紙を切る手を止めたときには、対話の中に、何か彼女の注意を引くものがあったということ。(2)レイアウトの反復による視覚的印象の一貫性の構築。キャサリンが切り絵をつくるときはかならず上手側の椅子に坐る。そのため、人の話を聞いていないようなそんな女に働きかけようとする他の人物は、必ず、下手側にまわることになる。このレイアウトの意味のある反復によって、物語的負荷を視覚的印象に与えていく。(3)過去のキャサリンと現在のキャサリンの相違を明確に印象づけるファクターとして。過去のキャサリンは一切「切り絵づくり」とは無縁。
・ワークインプログレスの時と同様に、客入りの音楽(川本真琴)と第一幕第一場のBGM(キャサリンがイヤホンで聞いている音楽とリンクしている)がシームレスにつながっている。ブザーとかもなくて、客席の照明が落ちるだけで開場の状態からほぼ連続的に劇がスタートする。
・客席中央に走っている通路と舞台の接するところが、舞台の屋外のテラスと家の中を仕切るドア、という見立て(つまり観客席側が家の内部で、観客は家の中からテラスを見ているという構図になっている)。曲がかかっている中、ワインボトルをもったロバートが客席背後からゆっくりと下りて来てドアを開け(という身振りをして)舞台に上がるところから、第一幕第一場開始。
・舞台にあがったロバート、坐って紙を切っているキャサリンを注意深く見澄ましながら、テーブルを軸に時計回りにゆっくりと歩き、ワインボトルを床に置いて、ベンチに坐る。坐ってからも(キャサリンに気づかれないので)困ったように上へ目線をやったり、指をくんだり、と繊細なしぐさ。「眠れないか」という大きな声で、キャサリンとの会話スタート。
・ワークインプログレスと同じで(「にこにこプルーフ」)キャサリンの基本的なトーンは上っ調子に明るい声。
・ロバート、結構身振りが大きい。「寝るならベッドで寝なさい」で家の中を指差したり(あ、これによって舞台が屋外のテラスだということが明確に伝わるのか)。
・「誕生日おめでとう!」ですでに結構大きい声。ここの前後で二人とも少しテンポ上がる。
・シャンパンを開けてから、キャサリンは立ち上がってコルクを拾って、歩いて例の「穴」に捨てる。ロバートも立ったり坐ったり。わりと複雑な動きの構図のなかで、対話を進めていく。
・ロバート「A girl who's drinking from the bottle shouldn't complain. Don't guzzle it. It's an elegant beverage.」=「ラッパ飲みしてるやつがぶつくさ言うな。あ、そうやってがぶ飲みするんじゃない、上品な飲み物なんだから……」の科白の抑揚がいい。つるつる流れずに本当にキャサリンの動止が目にあまって注意しているような。こなれた口語の翻訳もいい。
・「ハッピーバースデーわたし♪」(大きな身振りで片手を胸に当てながら)の後に原作にない間が入るが、これはキャサリンがふたたび手元を見つめて紙を切る行動に戻るため。
・ロバート、たまに一人称が「俺」。「I don't count.」が「俺は数に入れるなよ」に。若々しくて、ユーモラスな父親という感じ。これは第二幕第一場につながる。
・キャサリンに友達がいない、ということを開示して後の彼女の気質の荒廃ぶりを予感させる。
・キャサリンの「(姉のクレアが)嫌いだし♪」にわりと強めのアクセント。でも基本はにこにこした明るい調子で、紙を切りながら。
・それまで立っていたロバート、「My advice, if you find yourself awake late at night, is to sit down and do some mathematics.」からベンチに坐ってキャサリンの方へ身を乗り出す。
・「I can't think of anything worse.」の訳が「サイアク♪」。「I knew you'd say something like that.」の訳が「言うだろうと思った♪」。「Those are the good days.」の訳が「悪くないじゃない♪」。「It's a depressing fucking number.」の訳が「数えるとさすがにヘコむね♪」。ほんとこなれている。現代日本で上演するものとして違和感ゼロ。
・ロバート「You knew what a prime number was before you could read.」の科白、「a prime number(素数)」にアクセント。確かに、ここではじめてキャサリンの数学的才能について言及されるわけで、ここにアクセントを置くのが妥当。
・ロバート「(Hard) Don't waste your talent, Catherine.(才能を無駄にするんじゃない!)」で急に今までで一番力強く声を張り上げる。このダイナミズムでぐっと観客の注意を惹き付ける流れ素晴らしい。ここでロバートのテンションが上がって、キャサリンの科白に自分の科白を被せたりするようになる。「Bullshit. Those days are lost.」(表情は超真剣)あたりで椅子から立ち上がる。
・キャサリン「何日かはそうだね♪」/(間)/ロバート「……何日だ?(何か思い付いたようにニヤニヤ笑いながら)」──原作にはこの間はないのだが、つづく数学ネタの対話の導入として必要。非常に音楽的にコンポジションされた流れ。
・で、原作の「Goddamn it, I don't──(あークソ!……)」から急にそれまでにこにこしていたキャサリンの感情が激発する。耳からイヤホンを引き抜くのでここでようやく客入りからずっと流れていた音楽止まる(ここではじめてBGMがキャサリンがイヤホンで聞いている音楽とリンクしていることに気づく)。原作をもっと色彩豊かにした脚色。おそらく「現在の」キャサリンが情緒不安定であることの暗示だろうが……
・ロバート「Stop it. You know exactly what I mean.」/キャサリン「(Conceding) 1729 weeks.」という原作のやりとりが、「やめなさい、わかってるだろ……」のロバートの科白に被せるようにしてキャサリン立ち上がり、また感情を激発させて「1729週間!……Yes, we've got it, thank you.(はいありがとう!)」まで言う(ロバート後ろにステップする)。上と同意図の脚色。そしてまた普通のトーンに戻って紙を切りはじめるキャサリン。
・ロバート「The clarity──that was the amazing thing. No doubts.」のあたりで下手側の椅子に坐る。
・ロバート「I could find them all around me.」あたりの科白は、感慨深げに、顔をいろんな方向に向けたり、下に目線を走らせたり、上空を見上げたりしながらゆっくり話す。静かな姿勢のまま観客の注意を惹き付ける。このとき、話を聞いているキャサリンの手は止まっている。
・ロバート「There are all kinds of factors.(いろいろな要因がある)」あたりでキャサリンの方に身を乗り出す。ロバートは立ったり坐ったり、科白ごとに視線を変えて(キャサリンは手元を見つめて紙を切り続けている)。
・ロバート「Crazy people don't ask. ……」あたりでテーブルを軸に、時計回りにキャサリンの後ろにまわりこむ。キャサリンは、ロバートの「Let's call it a night: you go up, get some sleep, ……」という科白以降の会話で、坐ったまま後ろを向いてロバートの方を見上げる。「You admitted──(ほら認めた!)」
・ロバートまた時計まわりに舞台上を移動。「It' a point.(いい指摘だ)」。で、舞台センター前に来て、「Well. Bcause I'm also dead.(私は頭がおかしいだけじゃない……もう、死んでる)」の科白は客席に背、キャサリンの方を見つめながらしんみりと。キャサリンは「That's why Claire's flying in from New York.」あたりから動揺して立ち上がって後退りする。ロバートは近づいていく……キャサリン恐怖に震える。ロバート「For you, Catherine, my daughter, who I love very much . . . It could be a bad sign.(愛する娘よ……おまえにとって……悪い徴候だな……)」と言ったところでハルが入ってきて、キャサリンは滅茶苦茶ビビる。「何!?」「びっくりした……やめてよ!」
・このハルが入ってくる前後でちょっと照明が変わったはず。
・ところでこの箇所は原作だと「They sit together for a moment.」となっているので、原作どおりにやるとキャサリンが父親が死んでいることに気づいて、立ち上がって動揺しながら後退りする(ロバート近づいていく)、という動きは出て来ないし、その後のハル闖入後からのリズムの変化も出てこない。
・ワークインプログレスと同様、原作ではハルが入って来てからすぐに「Beat. ROBERT is gone.」となってロバート退場だが、この舞台ではロバートの幻影はずっと舞台上にいつづけ、後に彼はキャサリンの「I'm glad he's dead.」「I don't want him around.」という科白を聞くことになる。
・あまりに動揺しすぎたのを鎮めるように、キャサリンはやたら髪を触ったりする身振り。
・ハルに答えるキャサリンの「ハァイ(Good. ないしは Yes.)」がやたら表層的な明るさ。「Great.」の訳は「へー」。「You're right.」の訳は「そだね」。
・ハルは立ったままで、腰に手を当てたり、時にテーブルに手をついてキャサリンの方に乗り出したり、奥の方へ移動したり(『虚数』の曲について説明しているくだり)、「they sort of make you question the whole set of terms.(ぶちこわしてくれちゃうぜ!)」の科白で腕を突き出したり、といった身振り。キャサリンは父親のノートの話が出るあたりから椅子に坐ってまた手元を見つめて紙を切り始める(科白によってはハルの方を向く)。「It's like a monkey at a typewriter.」のときに腕先を上下に動かす身振り。この間、ロバートは背を見せてベンチに坐っている。
・「Oh they're raging geeks.」の訳が「ところがどっこい、超インテリでね……」。
・ところで、ここでハルが「they get laid surprisingly often(とっかえひっかえ女と寝てるし)」と口をすべらしているのが、第一幕第三場でセックスの話題が出る呼び水になっていたり、第二幕第五場でキャサリンに不誠実をなじられる伏線になっているのか?
・「I loved your dad.(敬愛してたよ)」の科白からハル、ベンチに坐ってキャサリンに話掛ける。それと入れ違いにロバートはベンチから立ち上がってレコードプレーヤーの方へ。レコードを掛ける。ハルはまた立ち上がって歩きながら話す。
・で、「I owe him.」から原作にはない間を置いて、「When your dad was younger than both of us, . . .」の科白にすぐにつなげる。年齢についてのやりとりを省く。たしかにこれ二人の年齢を開示するためだけのやりとりだとしたら、(キャサリンは四年前に二十一歳だった──ロバートの日記の中で分かる──んだから現在の年齢も簡単に計算できるし、ハルも四年前に院生だったことから現在の年齢を推測できるし)省いた方がいいよね。
・「I could write my own ticket to any math department in the country.(どんな大学の数学部の教授の椅子にも坐れるってもんだ!)」の科白の後に長い間。ゆっくりと顔を上げてキャサリンがハルの方へ目を向け、目が合うとハルが「そうだろ?」とでも言いた気に腕を広げる。
・で、このときハルはリュックを外してテーブルの上に置いて、それで立って話していたので、キャサリンが「I want to look inside it.」の科白の後で先にテーブルの上のリュックに手を伸ばそうとするのに対して「What?」の科白と同時にハルがリュックを先に攫うという動きが入る。キャサリンはこのとき椅子から立った中腰の姿勢になっていて、「Give it to me.(貸して!)」の科白から、テーブルを中心に時計回りにハルを追いかけまわす動きへの推移を自然に。「あたまおかしいんじゃないの」「おかしい?」「ちょっとね(Maybe a little.)」「死ね!(Fuck you, Hal.)」のやり取りも動いたり止まったりしながら。で、この移動の流れでキャサリンがレコードプレーヤーの近くに位置取ることになって、後に彼女がレコードプレーヤーを止める動き(「あたしは学校を辞めた!」の直後、「死んでくれて嬉しい」の直前)を可能にする。
・とはいえ、複数回観た上で言うと位置取りは結構アバウト。照明がシンプルだし、もともと動きの設計はわりと自由な幅を持たせている感じ。舞台の端ぎりぎりに立つこともあるし。そして全体的として、ロバートとキャサリンのシーンからしてそうだが、斜めに置かれたテーブルを軸として、動きの構図は「円」。何かしら目立った行為をするときのみ、上手前の空間が使われる。まあ舞台の左右にも席があるので当然の動きの設計か。
・「I lived with him.(一緒に住んでたんだよあたしは!──ここでキャサリン、感情のボリュームが上がってダンッと床を踏み鳴らす)I spent my life with him. I fed him. Talked to him. ……」あたりの科白からキャサリン身体を震わせ、やや涙まじりに。「Beautiful mathematics.(美しき数学についてのメッセージ)」「Plus fashion tips, knock-knock jokes.(おしゃれのワンポイントアドバイスと、アメリカンジョーク)」あたりでは泣き笑い。
・「死んでくれて嬉しい!(I'm glad he's dead.)」の科白は嫌悪感に震えるような声で、レコードを止めたあとレコードプレーヤーの横に突っ立っていたロバートの幽霊に向かって、言う。で、ハルの「I understand why you'd feel that way.」からの会話では、またハルの方を向いて。
・「I can't imagine dealing with that. It must have been awful. I know you . . .」の科白で声の勢いが強くなりながらハルはキャサリンに近づいていくのだが、それを押し返すようにして、キャサリンの科白「You don't know me.(あたしのこと知らないでしょ)/(短い間)/I want to be alone./(短い間)/I don't want him around.(あの人につきまとわれるのはもう嫌)」。原作からは読み取れない短い間が入っているのが冷え冷えとしたテンポで自然でいい。
・「I don't need any proteges around.」の訳は「学生が来ないで」。現代口語の会話として不自然でないように、原作のニュアンスをさくさく削れるところでは削っていっている感じ。
・で、「学生が来ないで」の後に原作にはない間が入って、キャサリンはまた椅子に坐って紙を切り始める。そしてハルは、私にも父親のノートを読めると言い張るキャサリンを説き伏せるように、語調を強めていきながら、ベンチに坐る。
・「I know that you couldn't.」のハルの科白のあとで、キャサリンが怒ったように突然ハルのリュックの中身をあらためるわけだが、原作では「CATHARINE snatches his backpack./CATHERINE opens the backpack and rifles through it./CATHERINE removes items one by one. A water bottle. Some workout clothes. An orange. Drumsticks. Nothing else. She puts everything back in and gives it back.」。えーとこれは、映画版でもそうだが、ワークインプログレスでは中身を床にぶちまける動作になってなかったっけ? それが本公演では椅子に坐っていたキャサリンが立ち上がって、もともとテーブルの上に置いてあったリュックをいきなり開けて中身を探るという動作に変わっている(snatchするのでもなければ、removes items one by oneするのでもない)。まあ中にノートが入ってなかったということが伝わればいいので、わざわざ中身を出す必要ないな。この時、ハルは止めるでもなくベンチから立ち上がって、テーブルを挟んでキャサリンと向かい合うように回り込む。「空港の手荷物検査じゃないんだから……」
・リュックの中身を調べたのち、キャサリンにっこり笑う。で、また紙を切りはじめる。
・キャサリンの「I'm fine.(あたしは何ともないから♪)」科白のあたりで、ロバートが彼女の後ろに回り込んで彼女の肩をなでるような姿勢に。
・キャサリンをジョギングやライブに誘おうとするハル。そういや、すでにこの時からキャサリンと仲良くなろうとしてたわけか。
・「I'm paranoid?(あたしは頭がおかしい?)」「You think I should go jogging?」の科白は楽し気な声で。笑いながら怒ってる感じ。
・そして「Get out!」「Get the fuck out of my house.」の科白は、テーブルの上に置いてあったハサミをつかんでハルに突き付けながら。この辺り動きも激しくて科白もかぶりまくる。
・「I'm calling the police.」でキャサリンはハサミに替えてテーブルの上の携帯電話をつかむ。ここから先の動きの線がかなり複雑。キャサリンは舞台上手奥の方へ携帯で電話しながら向かうのだが、ハルはそれを引き留めようとしつつも、テーブルの上のノート(キャサリンが拾い上げて置いた)を開いてその中を指差すという動作を同時に、分裂的に行う。そして最後にはベンチの側にまわりこんでノートの上に立ったまま身をかがめるのだが、この時、できるだけ横の方に移動する。というのも、まだサイドテーブルの横(舞台センター寄り)に突っ立っていたロバートが、ここから「過去の幻像」としてハルのノート朗読に合わせてノートに文字を書き込むという行動をするので、そのためにロバートが坐るスペースを空けてやらなければならないから。キャサリンが鎮まって(とはいえ息切れが凄い)、ハルがノート=ロバートの日記を朗読しはじめると、ロバートはゆっくりと右手を上げてシャーペンをノックするしぐさをする(これはロバートが何かを書こうとする時に毎回やるのだが、うーん、誇張されたしぐさで続く動作を分かりやすく観客に予期させるということかな)。そしてこれまたゆっくりとロバートはテーブルに近づいてベンチに坐る。この辺りで照明の雰囲気が変わる。
・ハルが朗読している間、だんだんキャサリンも上手奥からテーブルの方へ近づいてくる。ロバートはかがみこんでハルが開いて朗読しているノートに書き込みをつづけるのだが、キャサリンもそこへ来ると、ロバートを挟んでハルとキャサリンがノートに身をかがめて、三人で頭を突き合わせているような感じになる(すげー窮屈そうだが、こんなにロバートが近くにいるのにハルの態度が変わらないことから、やはりこのロバートはキャサリンにしか見えていない幻影なんだな、ということが明確に伝わる)。キャサリンは静かに泣き出す。鼻をすする。原作ではハル退場後の「She weeps.」がすでに始まっている感じ。「It' today.(もう今日だよ)」の科白も涙まじりの震え声で。
・ハルが読み終わると、ロバートも手を止めて泣いているキャサリンを見つめる。
・「ハッピーバースデー」と言ってハルが腕を伸ばしてノートを差し出しても、キャサリンは受け取らないので、ハルはそれをテーブルの上に置く。原作の「He gives her the book.」とはちょっと違う。
・で、音楽が流れて、照明がライブ照明みたいに派手になる。明転なわけで、キャサリンは幾つかの小道具を下手奥の「穴」に片付けるのだが、それもちゃんと目下のキャサリンの演技の延長線上で、感情にまかせて捨てて行くというふう。そして彼女が家の中へ(つまり観客席の間の通路へ)怒りにかられて足踏みするように退場すると、入れ替わりに(手に袋を持った)クレアが同じ通路から舞台へ。クレアが舞台へ上がってからもまだロバートはしばらく舞台の上に残っている。クレアは音楽に合わせてリズミカルに第二幕に必要な小道具をテーブルの上に置いていく。そして煙草を吸ってモデルのような立ちポーズ、それが照明のなかで影となって浮び上がる。ちなみに、この場転中に掛かっている音楽は、イヤホンをつけているクレアの耳に聞こえている音楽でもある(という演出)。
- ▼第一幕第二場
・照明が白昼色に。朝であることの開示。
・キャサリン入ってくる(客席中央の通路=家の中から)。早朝シャワーを浴びた後という、簡素な身なりで、タオルを首にかけている。髪は濡れている。クレアの立ち位置はベンチのある側で、客席の方を向いている体勢。クレアはキャサリンの姿を見てにっこり笑うと、「こっちに坐りなさい」という感じでテーブルそばの四つの椅子のうち上手側にあるやつを指差すが、キャスはそれを無視して下手側の椅子に坐る。で、タオルで髪をこする身ぶり。クレア肩をすくめる。
・で、クレアがイヤホンをはずすと同時に場転の音楽がピタッと止まる。そこから第二場の会話スタート。
・クレアの身ぶりはやたらテンション高くて騒がしい(でもどんなポーズを取っても体勢のバランスがいい)。コーヒーのミルクやベーグルを、袋の中からテーブルの上へ投げる。
・キャサリンは、第一場の平板ににこにこした表情からの連続で、クレアに明るい声で受け答えするのだが、棒読みっぽい感じがありあり。「忘れたー(No, shit, I forgot.)」「やったー(Great.)」。あるいはクレアが何か言うたびに仏頂面っぽくもなる。
・クレア、原作どおりの間のあとの「If you want to dry your hair I have a hair dryer.」の科白から、キャサリンの背後へまわってキャサリンの髪をさわる。
・「It's dead tissue. You can't make it "healthy."」の科白の訳は「もうごわごわ。うるるんヘアーになんてできないね」。元は「髪の毛は死んでいる組織なんだから、それを健康にするなんて形容矛盾だろアホか」ってな感じの皮肉な科白だが、もっとカジュアルな感じに。というかクレアが「healthy hair」を「うるるんヘアー」と言っている時点ですでに……。
・クレアの「Good.」の訳が「オッケー♪」。ステレオタイプのキャリアウーマンではなく、少しスレた感じのファンキーな姉ちゃんといった趣き。
・キャサリン「Nah, I'm cool.」の科白の後に原作どおり間が入るが、ここで演出上のひと工夫。キャサリンが椅子から立ち上がって、(嫌いな姉との)会話を切り上げようとして家の中へ戻ろうとするのだが、クレアがすばやくそれを察知してキャサリンをひきとめる、という行動が入る。原作では単に(Beat.)としか指示されていない。しかも、そうやってキャサリンをひきとめた後に、今度はキャサリンを上手側の椅子に坐らせ、クレア自身の立ち位置は舞台前へと変わる。
・そして、明日の父親の葬式の後にパーティーを開く、といったやり取りをしている間に、クレアは反時計回りに歩いてレコードプレーヤーの前へ移動。キャサリンも科白を言うときそちらに首を向けることになる。で、クレアは科白を喋りながらレコードを掛ける。
・それで掛かる曲がベートーヴェンの「運命」。で、この曲が最初に盛り上がるところと、クレアが舞台下手奥に歩きながら「あたしたち……け・っ・こ・ん・す・る・の!」と告げるのが重なるという、凝りに凝った演出。狙い過ぎのような気もするけど。まあこのあからさまなギミックよりも、この曲をのちにキャサリンが止めるとき場の空気が変化することの方が、演出的に重要に思える。
・「No shit.」の訳が「んなまさか」、「Yikes.」の訳が「あらまー」。でこの辺りでキャサリンは立ち上がって、すげー上辺だけのお祝いをするように拍手をしながらクレアの方へ歩いていく。
・しばらくクレアとキャサリン、舞台上を二人して歩きながら対話する。で、原作の上でクレアの「That makes me very happy.」の科白の後の「Beat. From here on CLAIRE treads gingerly.」の間で、またキャサリンが出て行こうとしてそれをクレアがひきとめるという動作が入る。キャサリン、うんざりしたような表情。
・ここからクレアは奇妙なほどキャサリンの調子を気遣うような質問をしていくのだが、それに対してキャサリンは、やたら相手を馬鹿にするような、むかつかせるような、からかうような身振りをし、受け答えのトーンもやたら皮肉っぽい感じになる。「あれこれー?」で指先をまわしたり、「わかんな〜い」で肩をすくめて両手を上げたり、「体調? サイコー!」でわざとらしく片腕を振り上げたり。しかし、その流れから、上手奥へ移動してレコードプレーヤーを止めると同時に、「質問の要点は何!?(What is the point of all these questions?)」の科白を、急激にトーンを変えた鋭い怒声で。このとき、クレアは下手手前にいるので、テーブルをはさんで対角線上で二人は向き合う。
・警察から電話があった……という話から、二人のトーンがだんだん険悪なものになっていく。クレアはそれまでの親し気な様子から相手をとがめるような調子へ、キャサリンはそれまでの皮肉っぽい上っ調子から、真顔で口答えする感じへ。二人の距離も少しずつ近づいていって、相手の顔を睨み合いながらの対話になる。
・「Euughh! No! He's a math geek!」の訳が「オエー! 誰があんな数学オタクと!」。
・「No, a marching band. He plays trombone. Yes, a rock band!」の訳が「いや? 鼓笛隊だよ? トロンボーン吹いてんの〜。ま、或る意味ロックバンドかもね」で、トローンボーン吹く身振りを加えながら、相手をからかうようなトーンで。
・クレア「This was sitting right here. Who were you drinking champagne with?」の科白で、第一幕第一場からそこにおいてあったワインボトルをつかんで、テーブルの上に置く。「一人で飲んでた」「ほんとに?」のやりとり(キャサリンの言っているのは嘘。実際には、“ロバート”と飲んでた)から、キャサリン、ボトルを掴んで下手奥の「穴」に捨てる。
・「Did you use the word "dickhead"?(チンカス野郎)」の科白を、クレア、下手前で一旦(下手奥にいる)キャサリンに背を見せ、客席の方に身体をむけて、腰に手を当てて立ち、首を横に向けて言いにくそうに言う。
・「Did you tell one cop . . . to go fuck the other cop's mother?」の訳が「ママのオッパイ吸ってろボケ」。
・ここのあたりのやりとり、テンポが凄い早い。そしてキャサリンは(クレアにではなく)下の床に目を落とした据わった目付きで、昨日のことを想い出した怒りで身体をかすかに震わせて、興奮して息が上がって。
・キャサリン「Well people are nicer to you.(お姉ちゃんにとっては誰だって親切なんだよ!!!!!!!!)」はついに怒りが頂点に達したという怒声の激発。その後の間の沈黙との対比がすごくいい。
・で、ハルが入って来るが、このとき舞台手前にいたキャサリンは長い距離をずかずか歩いて、門口(舞台最奥)に立ったままのハルのところへ行き、ハルの腕をつかんでクレアの方へ放り投げるようにして(位置的にキャサリンとクレアの間にハルが立つことになる)、ハルを指差す。「ハロルド・ダブス!」。原作の「CATHERINE stands and points triumphantly at him.」よりはるかに舞台上を最大限駆使したダイナミックな動き。
・キャサリンの「あんな連中どーーーーだっていいでしょ!!!!!!!!!!!」がこの第二場で最大の激しさ。
・「彼、ベーグル好きかな?」の科白を言うとき、クレア、にんまり笑って親指を口元に当てるしぐさ。それに答えずにキャサリン、タオルを「穴」に捨てる。
・場転の音楽かかる。喧騒のSEも重なる。これは場転の音楽であると同時に、夜のパーティーが家の中で行われている第三場の、その家の中から(屋外のテラスに)聞こえてくる音楽と重なっているということ。キャサリン退場後、クレア肩をすくめる。そしてテーブルの上を片付けていく。
- ▼第一幕第三場
・夜であることを示す青味の強いライティング。
・(客席中央の通路=家の内部から)黒いドレスを着たキャサリン登場。キャサリンがドアをしめる動作をすると、音楽が急に小さくなる。これで場転の音楽が家の中から聞こえてくるものだということを示唆。キャサリン上手側の椅子に坐って、膝に手をやってしばらくじっとしている。一度、髪をかきあげる。
・(同じく客席中央の通路=家の内部から)正装したハルが入ってくる。ハルがドアをあける動作をするとその瞬間音楽が大きくなり、しめるとまた小さくなる。ハルが現われたのを見て、キャサリンはテーブルの上のはさみと紙を取って、手元を見つめて切り絵を作り始める。
・ハルはドラムスティックを持っている。タオルを首にかけている。
・ハルが缶ビール(シカゴ・ビール?)を渡そうとするだが、キャサリンはそれを受け取っても、飲まずにゆっくりとテーブルの上に置く。これは原作の「She takes it, sips.」の改変。キャサリンは切り絵をつくる作業という他者拒絶モードに入っているので(この切り絵をつくる行動自体が、原作に原作以上のものを付け加えた脚色なわけだけど)、ここでは飲まない方がたしかに一貫性がある。
・だが基本的に(たぶん「The performance of "Imaginary Number" was . . . sort of . . . moving.」の科白あたりから)キャサリンのトーンは和らいだものになっている。そして父親の話が出るあたり(「Everything was better than I thought.(思ってたより良かったかも)」)はちょっと涙ぐんだような声になっている。
・もうこの辺りでは背後の曲フェードアウトしている。
・「Everything was better than I thought.」の科白の後の間に、キャサリンは紙を切るのを止めて、立ち上がって上手前へ移動。身体の向きは観客席側で、しばらくこのまま自分の斜め後方にいるハルと会話をつづけることになる。ハルが「You look great.」とドレスを褒めるのも、彼女の後ろ姿に向かって。
・学会とかクスリの話をしている間、ハルはあちこちに視線を移しながら話す。
・「That's what my father thought.(パパも同じこと考えてた)」の科白について。これもやはりちょっと涙ぐみながら、鼻をこすりながら、口にされる。突然の父親の話題。惟うにこれはハルの「Good funeral.」「I think he would have liked it.」といった言葉に導かれて、少しずつ彼女が父との生活の記憶を想い出しつつあるのだと解釈すべき。
・「ソフィー・ジェルマン?」の名前を出すとき、キャサリンはハルの方をぐっと振り向く。
・「So I've definitely never met her.(じゃ絶対会ってないな)」というハルの科白は、きまり悪気な様子を見せたりするのではなくて、キャサリンとしばらく見つめあったのち、視線そのまま真顔で放たれる。毎回ここで笑いが起こる。アホっぽいハル。
・で、キャサリンはまた客席の方に身体を向け変えてソフィー・ジェルマンの話。それを聞いているハルは、話の途中でようやく想い出した素振り──唇をなめるみたいな表情──を見せる。
・ソフィー・ジェルマンの名前をなぜここでキャサリンは出したのか? それが父親に結びついている名前だから。「Dad gave me a book about her.」だからここでのキャサリンの内面においては「That's what my father thought.(パパも同じこと考えてた)」からの連続性がずっとある。
・さらにガウスの手紙の話。話している間のキャサリンの身振りはわりとなめらか。ハルの方を振り向いたり、両手をひろげたり。で、この話をキャサリンがしている間に、かすかに叙情的なBGMが流れだす。これは、ハルが思わずキャサリンにキスしてしまったあと、彼が我に返った瞬間を示すかのように、突然止む。
・「っ……、あ、あたし暗記してた」でこめかみ辺りに手をやって脇を向くしぐさ。
・このときまでもハルはずっとドラムスティックを持っていて、キャサリンの「Back to the drums.」で一時二人の注意がぎこちなく彼の片手に握られているスティックに向く。
・ハルが父親の論文の話をしているときに、キャサリンは微笑している。ここでは表情のトーンの明るさが自然になっている。
・ハルがキャサリンにキスをしたのは上手前においてだったが、ハルはみずから自分を卑下するような語りをしているとき、話しながらテーブルを軸に時計回りに下手側へ移動する(二度目のキスをテーブルの向こう=舞台奥で行うための準備)。対称的に、キャサリンは「What do you do for sex?」の科白を言いながら反時計回りに舞台奥へ移動。「Tax-deductible sex in big hotel beds.(おっきなホテルのベッドで一夜限りのセックス!みたいな)」でハルの方を向いて両手を広げる。
・「(Laughs.) I see.」の訳が「そだね」。
・「That was nice.」の訳が「良かったよ?」。このあたりの翻訳はロマンスのムードを醸成するというより、若者同士の不器用な初恋のニュアンスをぎこちなく出していくことを目指しているふう。
・「I always liked you.」の訳が「ずっと気になってたんだ」。映画版吹き替えだと直訳風の「ずっと好きだった」だが、これだと意味が強過ぎるので、たしかに「気になってた」ぐらいがちょうどいい。
・「I thought you seemed . . . not boring.」の訳は「結構いいかもって思ってたし」。これも二十五歳の女性のシリアスなロマンスの言葉というよりは、もうちょっとくだけた感じ。
・で、照明がまたライブ照明みたいにピンク基調の派手なのに変わって、場転のための音楽がかかる(ポップなラブソング)が、ここだけちょっとしたミュージカルみたいな感じ。イントロのリズムに合わせて二人が唇を付けたり離したりし、あるいはハルがドラムスティックで浮かれてテーブルを叩きまくったり。ハルはまた浮かれた身振りでビールの缶などの小道具を「穴」に捨てて行く。
・そして一旦暗転。一夜が過ぎたことの演出か。
- ▼第一幕第四場
・キャサリン、第二場のような簡素な身なり(髪型は第一場と同じででかい髪留めで前髪を上げてる)で客席中央の通路=家の中から舞台へ入ってくる。キャサリンがドアを開ける動作をするとともに、白昼色の照明が舞台を照らす。朝であることの開示。そしてキャサリンは音楽プレーヤーとイヤホンをつけていて、先の場転でかかったポップなラブソングを、今はキャサリンが耳で聞いているという演出。
・キャサリン、時計回りにテーブルを回りこんで上手側の椅子に坐る。曲を聞きながら上機嫌になっている感じ。が、舞台にハル(やはりTシャツ姿の簡素な身なり。手に昨日ジャケットの下に着ていたワイシャツを持っている)が入ってきたとたんに、自分の上機嫌さを見られるのを避けるように、背後のサイドテーブルのコーヒーメーカーに飛びつく。原作の指示は「Beat. Morning-after awkwardness.」のみなのでこの行動は演出で付け加わったもの。この演出も含めて、第四場冒頭では、内心恋で浮かれているのだが、それをハルには見抜かれまいとしてことさら険しい顔をし、上目づかいで、科白をつっけんどんに喋るキャサリン、という方向性で彼女は形象化されている。
・余談だが、たしかにキャサリンはこの第四場で「お姉ちゃんにコーヒーを淹れてあげよう」みたいなことを言うのだけれども、考えてみれば屋外のテラスにコーヒーメーカーが置きっぱなしになっているのっておかしいわけだ。だから映画版ではキャサリンがクレアにコーヒーを淹れるという描写のために場所を家の中へ移動するというふうにしている。また、原作のキャサリンとクレアのやり取りからすると、とくにキャサリンがクレアのためにコーヒーを淹れる描写が必須というわけではない。けれども、この谷演出ver.では、あえてリアリズムにとらわれずに、コーヒーメーカーを屋外に置いて、たとえばハルが入ってきたとたんにコーヒーメーカーに飛びつくキャサリン、といった(原作にない)行動を加えたりすることができるようにしている──つまり場面場面で人物にコーヒーを淹れる動作をさせることを最初から組み込むつもりでこういう空間設計にしているってわけ! 滅茶苦茶緻密な演出プラン。(この舞台奥のコーヒーメーカーは、第二幕第一場で舞台空間を複層的にするためにも用いられる。)
・「Sunday mornings I usually go out.」の科白の前の間で、ハルは(坐ってコーヒーを飲んでいる)キャサリンの横に回りこんで、手に持っていたワイシャツを彼女の肩に掛けてやる。
・上記のように、キャサリンはここでわざとらしいくらいのつっけんどんな態度をしているのだが、ハルの「一緒にいたいな」の科白あたりからニヤニヤしはじめて、浮かれ気分を隠し通せなくなっていくふう。微細な表情の推移。
・で、「もし嫌なら荷物まとめてすぐ帰るから……」のハルの科白のあとに、原作では「CATHERINE laughs. Her relief is evident; so is his. They kiss.」の指示があるのだが、つまりここでもう完全に二人はうちとけてロマンティックなキスをするという指示だが、谷演出ver.ではこのキスをカット(代わりに間を入れている)。キャサリンができるだけつっけんどんな態度をとって本心を隠そうとする、というところから出発しているので、ここでキスさせるのはまだ早いという判断か。
・そして次のハル「How embarrassing is it if I say last night was wonderful?」→キャサリン「It's only embarrassing if I don't agree.」のやりとりだが、谷賢一訳だとこのキャサリンの科白を一続きの文章として訳すのではなくて(例:恥ずかしいのは私が否定したときだけでしょ)、まずキャサリンが相手の方にまっすぐ顔を向けつつ、「あたしはそうでもなかった!/(間)/……って言ったら確かに恥ずかしいね」とやはりつっけんどんな調子で言う、という形になっている。で、つづく「Don't be embarrassed.(だから、恥ずかしがらなくていいよ)」は不機嫌そうな怒っているようなトーンで。無論本心を隠しているわけだが。それから直後のキスの局面でも(相手の頭をひっつかんで唇と唇をぶつけるみたいなキス)、鍵を渡す局面でも、この怒っているようなぶっきらぼうなトーンがつづく。
・しかし、ハルが鍵を持って出て行ったあと(観客中央通路=家の中へ)、もう本心を隠す必要がなくなったのでキャサリン、有頂天に。両方のイヤホンをつけ(例のポップなラブソングの音量が上がる)、満面の笑みになって、興奮で足踏みしたり。そしてその有頂天の状態のまま肩にかけられたハルのワイシャツの袖に腕を通す。
・そこへ二日酔いのクレア入ってくる。キャサリンはすぐに真顔に戻って、片方のイヤホンを外す(例のポップなラブソングの音量下がる)。クレアは喋りながら反時計回りに、坐っているキャサリンの後ろを通ってベンチのところへ行き、ベンチにぐったり寝そべる。
・クレアの服装、黒いTシャツに「MILK」とかでっかくプリントされているのを着ている。よく見るとアホっぽくて笑える。
・クレア、「They didn't. Oh God. "Have another tequila . . . "」の科白でグラスをかかげるような身振りをしたあと、力ない自嘲を洩らす。
・クレア、「That band. ……They were terrible.」の科白のとき、とてつもない渋面をつくる。
・「I love it.」の訳が「あれ好き」、「Yeah, it's wonderful.」の訳が「すごい好き」、「I love it, Claire. Thanks.」の訳が「いや大好きほんとありがとう」で、たてつづけに、ぶっきらぼうな語調で言う(翻訳も言葉をつづめた感じ)。科白の内容が内容なのにトーンが変なので笑える箇所。ただなんとなく声が明るいので、クレアに自分が上機嫌であることを悟られる。
・キャサリン、この辺りでは、ときどきコーヒーに口をつけつつ切り絵をつくるという態勢に移行している。
・クレア、「I'm leaving soon. 」あたりの科白から立って時計回りに歩きながら話す。
・クレア、「ニューヨーク来ない?」の科白で腰をかがめて手を後ろにやりひらひらさせる。面白い身振り。
・クレア、「I realize that.」の訳は「だろうね」。
・キャサリンがコーヒーカップに口をつけようとした瞬間、クレアが「家を売ろうと思うの」と告げる。間。呆気にとられるキャサリン、イヤホンを外す。BGM止む。
・家が勝手に売られようとしている、という話が出てから二人の会話はどんどん険悪に。もはや上機嫌どころじゃない。「信じられない!」の科白のあたりからキャサリンは立ち上がって、たぶん家の中に行こう(クレアの前から去ろう)として上手前までずかずか歩くが、反時計回りに回りこんでやはり上手前にやってきたクレアに押し止められる。そうして、二人の距離が近い形で、睨み合いながら、険悪な対話が交される。
・キャサリンの方が先に荒れ荒れになっていく。で、妹を宥めるようだったクレアのトーンも、「I was working fourteen-hour days.(一日十四時間はたらいてたのよ!!!!!!!!!!!!)」で一気にブチ切れる。こういうトーンのダイナミズムについては原作脚本に指示はないので、演出で付け加わった緊迫感の起伏なのだろう。
・二人の対決的対話がヒートアップ。クレアは「I'm heartless.」や「I think you have some of his talent and some of his tendency toward . . . instability.」の科白で目線をそらしたり、(誠実さを装うように)胸に手を当てたり、両手でいろいろな身振りが入る。キャサリンも身振りが激しくなり、怒りにまかせて拳でふとももを叩いたりする。
・「I'm smarter than you.(わたしあなたより賢いんですけど)」のトーンは、怒りを抑えて震えつつ、やや嘲るような調子も含みながら。
・キャサリン、クレアが精神病院について調べていたことを知った直後の原作「Oh my God.」の科白は、「ああ……」という目をつぶって天を仰いで嘆くような呻き声。つづく「Fuck you.」「I hate you.」でこの第四場最大の吼えるようなブチ切れをかます。
・で、ここでハルが駆け込んで来る。そして立ち位置が変わる。それまでは言い争っていたクレアとキャサリンは上手前にいたのだが、ハルが入ってくると、キャサリンはテーブルをまわりこんで上手奥の方へ。ハルは逆に時計回りの曲線を描いて下手側へ。クレアはその場に立って腰に手を当てて。大雑把にいうと、テーブルを中心として三角形の構図に移行する。
・注意すべきは、ハルが入ってきてあとのキャサリンの科白「A while.(ずっと前から)」「I wasn't sure I wanted to.」「You're welcome.」「I thought you'd like to see it.(見たいだろうなって思ったから)」は、すべてその直前のブチ切れたときの怒ってるのかな泣いているのか分からないような感情過多のトーンを引き摺って、泣きそうな震え声で発されること。これ、ワークインプログレスの時と全然違う。(「キャサリン、クレアに向かっての「大っ嫌い!(I hate you.)」の科白、ちょっと違う。急激に上がるのはいいのだが、その後ハルが入って来るとすぐに収まってしまうので、百花はそういう切り替え上手いのだけれど、切り替えが上手すぎて逆にその前の激しさが演技なんだなというのが、ありありと伝わってしまう。もう少し自然に激昂していく、そうならざるを得ないように上がっていくという感じだと良い。」) ・ハルがノートを両手でもって興奮して話しているあいだ、キャサリンは目線を下に向けている。しかし、ハルが「he was doing some of the most important mathematics in the world. 」とその証明が父親のものであると話しはじめると、目つきが変わる。興奮して、肩に力が入って息が荒くなっていくかのよう。
・最後、テーブルの上にハルが開いていたノートに、スポットライトが落ち、ピアノのイントロの曲が流れはじめ、キャサリンが舞台センター奥から歩いてきてそのノートの上に身をかがめ、上目遣いに「あたしが書いたの」と言い放ってから、すぐに暗転。この瞬間にキャサリン(役の俳優)はそれまで興奮して荒くなっていた息差しをピタッと止める。第一幕終わり。曲のボリュームが大きくなり、客席が徐々に明るくなる(舞台では、俳優はすでに退場しているが、ノートの上に淡いスポットライトが当てられる)。この曲はしばらくかかっていてから、消える。この曲(川本真琴)は、第二幕第一場から第二幕第二場への場転のときに掛かる曲と同一のもの。第一幕第四場の最後と第二幕第二場の最初は時間的にじかにつながっているので、それを「聴覚的に」スムースに理解させる演出上の工夫。
・休憩時間中にスタッフの人がテーブルとか椅子の位置を直す。
- ▼第二幕第一場
・第一幕のはじまりと同じで、休憩時間が10分を過ぎたあと、何のアナウンスもなしにシームレスに劇が始まる。いや、すでに休憩時間中から、いつの間にかロバートが舞台に立っている。格好は(第一場第一幕では黒いスーツ姿だったが)チノパンに白いワイシャツという明るめの服装。で、照明はオレンジの色調のものに。原作どおり「September afternoon.」を示唆する照明だが、同時にこの第一場が過去のシーンであるということを、舞台全体のセピアに近い雰囲気で感覚的に観客に理解させるという意図もあるかも。ロバートはゆっくりと、テーブルを軸に反時計回りに舞台奥のサイドテーブルのそばへ移動して、レコードをかける。そしてまたゆっくりと歩いて、上手側の椅子に坐る(キャサリンがいつも紙を切るときの定位置)。そのテーブルの上には、第一幕第四場最後に置かれたノートが開きっぱなしになっておいてある。ロバートは例の右手を上げてシャーペンをノックするしぐさをしてから、ノートに少し何か書き始めるが、まもなく止めて、シャーペンを置いて腕組み。あるいは欠伸をしたり、肘をテーブルについたり。そして目をつぶって坐りながら寝てしまったふう。レコードは小さな音量でずっと鳴っている。
・で、ここまでが休憩時間中に起こること。やがて(何のアナウンスもなしに)客席の照明が落ちてキャサリンが入ってくるまで、ロバートはずっと寝ている。
・客席中央の通路=家の中から舞台へキャサリン登場。服装は半袖の赤白ボーダーが入ったシャツ、下はブーツカットのジーンズで折り返しのところに花柄模様が入っているもの。髪型もゴムで後ろで軽くまとめているような髪型で、今までになかった形。
・舞台にあらわれてからのキャサリンの動きは、たぶん第一幕第一場のロバートの動きと対になっている。あのときは坐って紙を切っているキャサリンを見つめながら、そっとした足取りで時計回りにテーブルを回り込み、キャサリンの横へと位置どったロバート(で、キャサリンが気がつかないのでしばらくそのままでいる)だったが、ここでも同じように、キャサリンはゆっくりと歩いて時計回りにテーブルを回り込み、ロバートの横=ベンチの端に坐ってロバートの顔を覗き込む。ロバートは寝ているのかまったく反応なし。しばらくそうしていてから、キャサリンはノートの横のシャーペンを取ってノートに文字を書き込もうとする。その時肘がロバートにあたる。そこでロバートははっとして目を開ける。ここから「Hello.」「How did you know I was here?」「I heard you.」「I thought you were asleep.」のやりとり開始。
・余談だが、ここでの原作の指示は「CATHERINE enters quietly. She stands behind her father for a moment.」になっている。しかし背後に立つってなんだよ。背後に立った人間に寝ている人間が気が付くって変じゃね?──という気はする。だから中央に置かれた斜めのテーブルによって舞台を立体的に利用して、回り込む形でキャサリンをロバートの横に坐らせ、ちょっと肘があたってロバートが気づく、という切っ掛けを与えてやるこの演出の方が、よほど自然だろう。
・キャサリンとロバート、夕食についての会話。ここでのキャサリンは首を傾げたり、(ロバートの言葉に)少し背を反らしたり、両頬に手を当ててテーブルに肘をついたり、と愛敬らしいしぐさ。第一幕をつうじて示されてきたキャサリンとまったく別ものになっている。
・ロバート「Good thing I spoke up. You make it too much.(おまえしょっちゅうあれじゃないか)」の科白で、ロバートはキャサリンに拳を軽く振り上げるようなしぐさをするが、もちろん本気で怒っているわけではなく、表情は二人とも笑いあっている。
・ロバート「Pasta, oh God(おお神よ──この科白と同時にカトリック風に十字を切る身振りが入る), don't even say the word "pasta." It sounds so hopeless, like surrender.」の科白は、滅茶苦茶な渋面をつくりながら。言い方も言葉を引き伸ばして「パァァァアスタァァアアア?」「ぜーーーつぼう的なひーびきだ」「しーらーなーいー(I don't know.)」と、役者のアドリブで誇張した抑揚を入れているふう。
・そんなロバートに対して、キャサリンもちょっと悪ふざけするように、「Well I don't know what to get.(それじゃどうしたらいいかわかんないよ)」の科白で口を突き出すふうにする。その後二人して自然に笑い合ったりする。
・ロバート「I'll shop.」で立ち上がる。「I wanted to take a walk anyway.」あたりで腕をキャサリンに向かって差し出す。「All right.」の科白でキャサリンも立ち上がってロバートと腕を組む。
・腕を組んだ二人はゆっくり歩きながら会話。時計回りに、上手前まで移動。で、キャサリンをその上手前に残して、「Give me ten seconds, let me put this stuff away and we're out the door.」で舞台奥へロバートのみ移動。次の重要な科白「I'm going to school.(あたし大学に行くことにしたの)」の前に二人の距離を離したということか。
・「ノースウェスタン大学?」と驚いたロバート、反時計回りに移動して、キャサリンから距離を取る。そこをキャサリンが距離を詰める。距離を離す。という感じに反時計回りにロバートはテーブルを軸に移動しながら会話を続行。「It's a long drive.」で(ノースウェスタン大学あると思われる)ある方角をロバート指差す。
・で、キャサリンが引っ越すことを計画していることを知って、呆然となったロバート、レコードプレーヤーのところまで歩いていってレコードを止める。これによってキャサリンとの距離がまた近接するのだが、また反時計回りにキャサリンから距離を取って、そこをキャサリンが距離を詰めて、距離を取って、距離を詰めて……を繰り返して二人して移動しながら対話。
・「Who pays for it?」の科白で、ロバート「へへへ」といった勝ち誇ったような笑い声を出す。「そんなこと言ったって引っ越すなんて無理だろ?」とでも言いたげな。このあたり、ロバートは心配性でわがままな親父というふう。だが、それに対してキャサリンが「They're giving me a free ride, Dad.」ときちんと抗言するので、その勝ち誇ったような表情はすぐに消えて「えーマジでー?」みたいな表情に。
・つづけて「On tuition, sure. What about food, books, clothes, gas, meals out──」の科白になると、ふたたびロバートに勝ち誇った表情が戻って、科白の途中で「へっへっへ」と笑い声を入れたりする。しかも「do you plan to have a social life?」の科白の訳が「社会生活を送る準備はできてるんですか?」と何故か丁寧語。笑える。
・ロバート「You gotta pay your own way on dates, at least the early dates, ……」の科白は勝ち誇ったような、叱りつけるようなトーンで。で「otherwise they expect something.(そうしないと他のこと要求されるぞ!)」の後には「あああぁぁ……」という嘆き、心配性すぎて頭をかかえてしゃがみ込んでしまうという身振りが入る(原作にはない)。笑える。
・ロバート、だんだんヒートアップしてくる。「This is a big step. A different city──」の科白は大声で、あらぬ方向を指差しながら。「You're way behind.(ずいぶん遅れてるはずです!)」「A year, at least.(一年以上です!)」は激しいトーンなのになぜか丁寧語。それに抗言するキャサリンのトーンは、反抗的というよりは、頼むから分かってほしいと懇願するような悲しげなトーン。「Look, I don't know if this is a good idea.(これがいいのかはよく分かんないんだ)」はわずかに涙ぐみながら。
・このあたりの移動の線、わりとアドリブっぽい? ロバートが反時計回りに、キャサリンが時計回りにテーブルをまわって二人の距離が近づいたりとか。最終的にハルが登場するときに上手前に二人が立っていれば、それまではどう動いてもかまわないって感じなのか。
・ロバート「the end of the month?(げぇーーつまつからだぁ〜?)」言い方がまた笑える。
・キャサリン「Yes, but I didn't know──I hoped, but I didn't know, no one knew if this would last.」の科白は、ちょっと躊躇うけど必死に訴えかけるような口調、やはり若干泣きそうになりながら。
・ロバート「I'm honored.(そりゃどうも!)」/キャサリン「Take it however you want. I belived you'd get better.(好きなように取っていいけど……でも、よくなったでしょ?)」/ロバート「Well thank you very much.」(不貞腐れた感じで)/キャサリン「Don't thank me. I had to. I was living with you.(やめてよ! あたしの方こそありがとう、一緒に住んでくれて……)」──あたりのやり取りは、お互いに相手を思いやりながらも悲しくも対立し合っているというふう。
・で、ロバートとキャサリンがそうやって言い争っているところに、舞台奥下手の扉から(つまり家の敷地外から)ハル入ってくる。例の「穴」の手前で止まる。ハルの格好は、まだ垢抜ける前という感じで、ダサい眼鏡を掛け、無地の綿のシャツを首元までボタンを留めている。ややオタクっぽい身なり。
・「ミースター・ダーブス……」と言葉を引き伸ばしながら、上手前にキャサリンを置いて上手奥へ移動するロバート。わざとらしいくらいに不機嫌な感じを身体からかもし出している。「最悪のタイミングだなまったく……」。ハルはもの凄い恐縮している。なのにロバートは大真面目で「You interrupted an argument. ……The argument was about dinner. We don't know what to eat. What's your suggestion?」とハルに。そしてこの科白を言いながら、ロバートはまたキャサリンの方へ近づいていって、両手を腰に当ててキャサリンを間近ににらむ。同様にキャサリンもそれに刃向うように両手を腰に当てて、ロバートと向き合う。
・次のハルの科白、原文では「Uh, there's a great pasta plece not too far from here.」で直訳すると「ここからそう遠くないところにおいしいパスタの店がありますけど」みたいな感じだが、上演では「ここからそう遠くないところに、すごくおいしい店があるんです、パスタが自慢の」。つまり「パスタ」という単語が最後に出てくるように語順を入れ替えて、この単語がハルが言ったとたんにあわててロバートが「やめろ!(No!)」と言い、相前後してキャサリンが「いいじゃないそれ!(That is a briliant idea.)」と言う、ボケと鋭いツッコミの呼応のような小気味良いリズム。ここ毎回必ず笑いが起こる。
・前にも述べたようにハルが入ってきてからは、下手奥にハル、上手前にキャサリンでその間にロバートという位置関係。そして恐縮したハルが帰ろうとして、キャサリンも家の中へ戻ろうとして、つまり二人がそれぞれ正反対の方向へ退場しようとするので、二人とも引き留めようとするロバートの注意が分散されて行動が滑稽になる。この辺り、とくにハルを引き留めようとして苛立ちまくるロバートの身振りに毎回アドリブが入って笑える。
・ハルはベンチに坐る(この時、例の「穴」をハルに飛び越えさせるというメタなギャグが入ることがある)。ロバート「Glad you're here.」の訳が「来てくれて嬉しいよ。あー嬉しい」とまったく嬉しくなさげなトーンで。そしてロバートは上手前に立っているキャサリン(後ろで手を組んで所在なげな娘らしい立ち姿)のところへふたたびやってきて、「This should be easier. Let's back off the problem, let it breathe, come at it agein when it's not looking.」の科白をキャサリンに耳打ち。
・その後ロバートが「Sorry, I'm rude. ……」とハルに言っているあいだにキャサリンが出て行こうとするので(というか出て行ってしまうので)、ロバート必死に引き留める。「お茶でも! 飲まないか!」このあたりのやり取りは客席中央通路上で行われる。
・そうやって引き留められたキャサリンは、ハルと挨拶してから、コーヒーメーカーの方へ向かう。ロバートは、ハルの横に立つ。「老害の面倒を見るハメになっとる。ははは」「いやそんな……」といった会話。
・そしてロバート「As he approaches completion of his dessertation, time approaches infinity.」の科白を、椅子に坐って、第一場冒頭からテーブルに置いてあったノートにシャーペンでグラフを書き込む動作をしながら、言う。さらに翻訳も「彼という点Sが論文の完成に近づくとき、時間Tは無限に増大する(と言いながらノートのなかに──場合によってはノートをはみ出して──長い線を引く)。これをハル=ロバート予想と名付けて私は学会で発表……しない」みたいな感じで、よりユーモラスになるよう改変している。それに対応してハルの「with all due respect . . .」も「失礼ながら、そのハル=ロバート予想に反しまして……」と改変。
・ハルは封筒から論文を出してロバートに渡す。それを手にとったロバート、舞台センター前にゆっくりと出てくる。そして観客の方へ身体を向けて論文に目を通す。ハルも立ってその横に来る。このあいだずっとキャサリンは舞台奥でコーヒーを淹れている(あるいはもう淹れおわっている?)。そしてどの時点かで三つのコップをもってテーブルのところへ来て、それをテーブルの上に置き、自分は上手側の椅子(いつもの定位置)に坐って、一人でコーヒーを飲む。ということを、舞台前でロバートとハルが論文についてやりとりしているあいだ、背後で行っているわけ。複層的な行動設計。
・ロバート「You'll be teaching yonger, more irritating versions of yourself in no time.」の科白を、にこやかにハルの胸に拳を突きつけながら。
・原作の「HAL: Thank you./ROBERT: Catherine's in the math department at Northwestern, Hal./(CATHERINE looks up, startled.)/HAL: Oh, who are you working with?」の箇所だが、原作そのままだと、ハルとロバートの学位論文についての会話から、シームレスにキャサリンに話題が移って、キャサリンがはっとして二人の方を向くという流れになっている。しかし上演では、ハルが「Thank you.」と言った後に(舞台前に立っている)ロバートがゆっくりと後ろを振り向き、坐ってコーヒーを飲んでいるキャサリンを見つめる、それにつられてハルもキャサリンの方を見る、そしてその凝視に気づいてキャサリンもコーヒーから口を離して目線を上げる、という沈黙のまま行われる動きが入って、それまで背後で目立たずにいたキャサリンに、ゆっくりと舞台上の(+観客の)注意が移っていくようにしている。ロバートが「Catherine's in the math department at Northwestern, Hal.」と口にするのはその後のこと。
・そしてハルとキャサリンとロバートは学生生活について会話を始める。ハルは自分のコーヒーカップが置いてあるベンチの端に坐る。ロバートは、会話のあいだ舞台センター前からテーブルを軸に反時計回りに、ゆっくりと舞台奥へ移動する。で、ハルが大学生活の良さを語って「Sure, all the new people, new place, getting out of the house.(実家も出られるしね!)」と強く言ったところで、キャサリンの「そ、そだね……」の後、ロバートが思いっきり不機嫌そうに舌打ちしてハルをにらみつける(これはハルが来る前のキャサリンとの会話の中での心配性なロバートからの連続性)。自分がマズいことを言ったのに気づいて、ハル思わず腰を浮かす。気をつけの姿勢で突っ立つ。
・原作読んでいてどう訳すのかよく分からなかったロバートの「It's awful the way children sentimentalize their parents.」だが、訳は「親なんてすぐにいい想い出にされちまうんだ」。なるほどー
・キャサリン、「Good. So we'll be in touch.(それならちょくちょく会えるしね)」あたりのやり取りでは唇を突き出したり唇を噛んだりしている。憎まれ口をききながらも少し感傷的になっているふう。
・ロバート、下手側の椅子に坐って(身体は客席の方に向けて)、シカゴの九月の話(「Cubs losing.」で坐ったままバットを素振りするジェスチャーが入る)、および学生たちの話を始める。ハルもベンチに坐り、三人とも坐っているという状態。古本屋の学生たちについての語りは、毎回少しずつアドリブを入れているようで笑いどころが豊富。というか原作脚本だとそんなに笑えるような長科白じゃないよな? とくに「In the back of a used bookstore, ……not looking for anything, just looking, what the hell, touching the old book jackets, seeing what somebody threw out, seeing what they underlined . . .」の科白、原文じゃ面白くもなんともないが、上演ではこの最後の部分が「古本に線が引いてあるのをチェックして……『せ、線が引いてある!』……引くだろ線ぐらい……」と学生の顔真似をして呆れるような演技と科白(翻訳での加筆? あるいは役者のアドリブ?)が入っていて、毎回笑える。で、それを聞いているキャサリンも足をのばしたり、腿の間に手を入れたりするリラックスした格好で、ときどき、父親の話に声を上げて笑ったりする──それが俳優が素で笑ったのか演技なのか分からないほど素朴な朗らかさというものが出ている。そしてロバートの長科白が終わる頃には、またキャサリンも真顔に戻る。ハルは始終生真面目に聞いている。
・「Don't underestimate yourself.(自分を過少評価するんじゃない!)」の科白、キャサリンを指差してしっかりと向き合いながら、かなり強い語調で。第一幕第一場の「才能を無駄にするな!」を連想させる。
・今日から一週間後が11日、ということから、自分がキャサリンの誕生日を忘れていたことに気づき、「I am so sorry. I'm embarrassed.(ああ、まったく情けない!)」の科白で頭を抱え込むロバート。それから椅子から立ち上がる。キャサリンの方へ駆け寄る。
・で、娘への愛情から、いそいで彼女の誕生日に何かしてやりたいと焦るロバートの科白が、原文では「We are going out. I didn't want to shop and cook. Let's go to dinner. Let's go to the North Side. ……」なんだが、あまり娘のことを深く思い遣っているという感じではない。しかし上演では、ロバートは「そ、それとも俺の手料理……いやそんなの嬉しくもなんともないじゃないか!」と自分で自分に突っ込みを入れる科白に改変されていて、よりロバートの「娘のために何かしてやりたい」という感情が強く表われているふう。その前振りがあるから「Whatever you want goddamnit, Catherine, it's your birthday.」の激発も、愛情からやむにやまれずのものなのだと理解できる。ちなみに、この激発のときに、ロバートは腰を高くして背をかがめて、やたら上から物を言うような姿勢に。この辺り、ロバートは立ちながら腰を位置をしょっちゅうかえて、屈めたり、反らしたり、姿勢によって今どういう感情を抱いているかを示しているかのよう。繊細な演技。
・で、キャサリンの「じゃ、ステーキ!」(立ってロバートを見上げて、背をそらしつつ)は、すでにちょっと泣きかかっていて、鼻を啜りながら。泣き笑いの表情。父親の深い情愛を感じて感傷的になっているのと、自分の誕生日が話題になっている以上朗らかに振舞おうとしているのと、その二つがないまぜに。
・ロバートの「It's your birthday, hooray.(おまえの誕生日だからな。万歳!)」で、キャサリンも同じく「……ばんざい(泣き笑いの震え声で)」と言って身振りをする。原作にはない。
・ハルとキャサリンが退場してから、ロバートはゆっくりとベンチに坐って「September fourth. A good day . . .」と呟きながらノートに何か書き込む。それから第一幕第四場のラストと同様にスポットライトがノートの上に落ちて、それ以外は真っ暗に。そして、第一幕第四場のラストにかかったのと同じ曲が流れはじめる。場転。
- ▼第二幕第二場
・スポットライトがノートに当たっていてその他は真っ暗という状態で、ロバートはテーブルからしりぞき、代わりに舞台奥からクレア、ハル、キャサリンが(第一幕第四場と同じ服装で。キャサリンはハルのシャツを着ている)出て来て第一幕第四場ラストの立ち位置につく。で、照明が一挙に明るくなってハルの「きみが書いた?」の科白から、第一幕第四場の終わりからじかにつづく場面がスタート。ロバートはまだ舞台に立っているのだが、しばらく彼らの話を立聞きしていてから退場。場転の音楽もやがて小さくなってフェードアウト。
・この場の基本的な構図は、テーブルを規準に、下手側にハル、ベンチ側にキャサリン、上手側にクレア。で、ハルとキャサリンは椅子に坐ったり立ったりする。クレアは基本的に立っている。
・キャサリン興奮して息が切れてくる。
・クレア、「Can I see it?」で舞台前を横切ってハルのところへ早足で歩いて行き、ノートを受け取る。
・キャサリン「Fuck it, I don't need them.」の訳が「ふざけんな、学校なんていらねぇよ」。やたら憎々しげに。
・クレアも興奮していて、話を聞いているあいだも口を開いて息が上がっていて、たまに唾を呑み込んだりする。細やかな演技。
・「so maybe we should all just take a breath . . .」「You don't believe me?」このあたりの掛け合いテンポ早目。
・キャサリン、腕を組んだり、立ったり、坐ったり、クレアに近づいていったり(「We could talk through it togehter. It might take a while.」)、また戻ってテーブルに手をついたり、胸に手を当てたり、坐ったり(「Hal, tell her!(ハル、言ってやってよ)」)。
・ハルとキャサリンのやり取りは(二人とも立って顔を近付けていって)「This is what you wanted.(それがねらいなんでしょ)」「Oh come on, Jesus.(おいやめろよ)」あたりからどんどんヒートアップしていって、「You don't know!(知るわけないだろ!)」「I wrote it.(書いたのはあたしなの!)」でハルも珍しく怒声になり、ついに決定的な一言「It's your father's handwriting.(この筆跡は先生のものだ!!!!)」が勢い口に出てしまう。で、これを聞いた途端、キャサリンはうちのめされたように眉をしかめ、目をつぶって首を振る(その後つづけてハルがトーンを落として静かに言い聞かせるように語っている間に──「At least it looks an awful lot like the writing in the other books. ……」──徐々にこの表情になっていく)。ここのキャサリンの演技完璧。この演技がないと、後々の怒りと悲嘆の涙まじりの、胸の奥から押し出すような「It does look like his.(だからそうなの)」「I trusted you.(信用してたのに……)」が説得力出ない。
・キャサリンがハルに酷いことを言う長科白、「It would be a real disaster for you, wouldn't it?(もしそうだったら……ひどい。最低な気分だろうねあなた……)」から始まる長科白は、悪意剥き出しという感じではなくて、悲嘆の涙まじりの鼻声で、相手を嘲笑おうとするんだけれどもそれがどうしても涙顔に崩れていってしまうというふう。或る意味、本心からそう言っているというよりは、絶望的な悲しみの余り勢いで相手を責めているという感じ。繊細な演技。
・原作の「Beat. HAL hesitates, then abruptly exits.」はもっと張りつめた感じの、今にも怒りをこらえられずキャサリンに殴りかかりそうになりながらも、その怒りを逸らすかのように乱暴な足取りで退場するハル、といった演技に。ハルの後ろ姿を見送るキャサリン、勝ち誇ったような泣き笑いの表情。
・原作の指示だとキャサリンがノートを破りすてようとしてクレアが止める、となっているが、ここではキャサリンははさみでノートを切ろうとする、がすぐにやめて、思いっきりノートをテーブルに叩き付ける。クレアはそのノートを確保して退場。このあたりで場転の音楽がかかる。照明がライブ照明のように派手になる。キャサリンは怒りにまかせて、着ていたハルのシャツを「穴」にかなぐり捨てる。
- ▼第二幕第三場
・箒を持った、赤いフード付きパーカーをはおったクレアが客席中央通路=家の中から登場。先の場転の曲は彼女が耳にはめているイヤホンに流れている曲にリンク。そしてクレア、箒でそこらへんに散らばっているキャサリンの切り絵のゴミを掃いて、例の「穴」へと捨てていく。
・照明は普通に明るい照明だが、今までとはちがって、舞台前より舞台奥の方が明るい感じ? 「朝」ではなくて「昼間」だ、という暗示か。
・余談だが、考えてみればこの切り絵のゴミってこれまでずっと舞台上にあったんだな──あるはずのない第二幕第一場においても。それが不自然に感じられなかったのは何故だろう?
・あとで気づいたが、箒を持って入って来たクレアは、箒以外にもハンドバッグを持っていたのね(あとでハルに渡すノートが入っている)。それをサイドテーブルに置いてから、箒で掃く作業をはじめる。原作の後々の指示では「She goes inside and returns with the notebook.」となっているが、そんな無駄な動きをさせずにすぐにノートをハルに渡せるように仕込んでいるわけだ……。まともに考えるとこの行動は、クレアがハルが来ることを予知していたかのようでおかしいが、まともな考えにとらわれて舞台上の動きを停滞させるよりは、いかにさりげなくリアリティを逸脱した工夫を凝らして、登場人物たち相互のやり取りを自然な流れに乗せるかの方が重要だということか。戸外にあるコーヒーメーカーなどと同じ方向性の、演出プラン。
・ハル舞台奥からあらわれて、クレア、イヤホンを片方はずす。場転の音楽小さくなる。ハル「I thought you were leaving.」/クレア「I had to delay my flight.」から会話スタート。
・ところで、以上の流れは原作の指示とは違う。「The next day. The porch is empty. Knocking off. No one appears. After a moment HAL comes around the side of the porch and knocks on the back door.」で、最初にあらわれるのがハルで、後からクレアが来るという流れになっている。
・クレア、箒で紙くずを掃きながらハルと対話。対話というか掃除しながら相手をあしらっているというふう。
・クレア「Why did you sleep with her?(なんであの子と寝たの?)」で、箒を持つ手を止めて、ハルをじろりと睨む。
・ハル、「I didn't mean to hurt her.(ぼくは傷つけるつもりはなかった)」あたりで若干涙目になってる?
・ハル、「Maybe she'd like it.」で語調が強くなるのだが、さらにそれの上をいくクレアのブチ切れ怒声で反撃される。「Are you out of your mind?」このとき、クレアはイヤホンを外すので、BGMも停止。
・クレア「You don't know what you're doing. ……」あたりの科白で、箒を持ったまま下手側の椅子に乱暴に坐る(興奮を鎮めるために?)。身体は客席の方に向けたまま、背後のハルに語りかけるふうになる。
・クレア「これで終わり(That's it.)」で両手を広げるジェスチャー。ハルが「分かりました」とつぶやいた後、クレアふたたび箒で紙くずを掃きはじめる。
・ノート欲し気なハルに、クレアはレコードプレーヤーの横に置いてあったハンドバッグからノートを取り出して渡す。このときハルは下手奥に立っているのでクレアもそこへ移動するが、ノートを渡して以後は時計回りに歩いて上手前までやってくる。テーブルを挟んで対角線上でハルと向き合う。前と奥とに人物を配置し、舞台空間を立体的に利用する構図。
・クレア「call me whenever you want.(いつでも電話して?)」の科白で両手の指をわさわささせるしぐさ。奴のファンキーさが戻ってきた。
・クレアが証明について知りたがるという流れから、ハルが、クレアの方を見つめながらゆっくりとテーブルの上にノートを開いて、クレアがその横へよってきて、二人でノートを挟んで向き合うという位置取りに(ハルはノートのページを指さして、何かを教えるような身振り)。そのノートにスポットライトがあたり、それ以外は暗くなる。静かなジャズ=場転の曲流れだす。舞台奥から褐色のシャツをだらしなく着崩したロバートがあらわれ、それと入れ替えにクレアとハルはゆっくりと舞台奥へ退場。ロバートは上手側の椅子に坐り、テーブルにかがみこみ、ノートに何か書き始める。(ちなみに、ハルがテーブルの上にノートを開く、以降の指示は原作にはなくて、演出でつけ加わった動き。)
- ▼第二幕第四場
・照明青味が強い。夜であることの開示。
・客席中央通路=家の中から、ウールコートを着たキャサリン駆け込んでくる。髪型は第二幕第一場と同じ。必死な声で「パパ!」
・キャサリン、話ながら時計回りにテーブルをまわりこんで、ロバートの横へ。
・たぶん「You're gonna freeze.」あたりでコートをぬいでロバートの肩に掛けてやる。ロバートの肩を抱きしめるようにして。
・キャサリンのトーン、電話に出なくて心配させられたことを怒るような、悲しむようなトーン。「Why don't you answer the phone?」あたりでロバートの顔をのぞき込む。
・キャサリン、「You're working?(仕事って?)」の科白でロバートに顔を向けたままベンチに坐る。
・ロバートの「Goddamnit, ……」からの科白は「芸術は爆発だ!」みたいな大ボリュームの声で、両手でオーバーなジェスチャーをしながら。実際「Goddamnit, I am working!(わからんのか! 俺はやってるだろ!)」でキャサリン役の俳優素でビビってないか? ロバートの目は真剣。「the whole power grid.(発・電・所・だ!)」でまた一気にボリュームが上がってリズムがハイになる。「It's a geyser and I'm shooting right up into the air on top of it.」で思わず立ち上がる。上手前に歩いてくる。「I can accelerate.(加速する!)」の科白あたりでキャサリンも立ち上がって前に出て来る。しかしロバートが我に返った「I──I'm sorry, I'm being rude.」の科白でまた二人とも坐りこむ。
・ロバートが落ち着いてから、大学生活についての話。デートのことに言及して「I'm just interested.(だって気になるじゃないか……)」で自分で自分の両膝をさする身振りが入る。心配性の親父の面が出ている。キャサリンのトーンも若干穏やかに。
・研究に戻れないことを恐れていたということを告白するときのロバート、身振りも声も弱々し気に。それに対するキャサリンの「I wondered.」の訳はぽつりと「そんな気がした」。
・「Your creative years were ust beginning.」あたりの語りでは、ロバート坐りながらしょっちゅう姿勢を変えて話す。「I'm proud of you.」のあたりでキャサリンの手を取る。「It's part of the reason we have children.」のあたりでロバートは立ち上がってキャサリンの後ろに回り込む、キャサリンの両肩を後ろからなでるように。「We hope they'll survive us, accomplish what we can't.」は感慨深げに。
・ロバート「I know you've got your own work.」あたりからまた椅子に坐って。「I'm getting ahead of myself.(私はやっと前に進み出したんだ……)」でキャサリンに顔を近付ける。そして二人して笑い合う。
・そしてキャサリンにノートのページを開いて渡した後、ロバートは立って反時計回りに回りこんで下手前に移動。ノートを読みはじめようとするキャサリンに背を向けて、片手だけ前に出した俯いた格好で、突っ立ったまま動かなくなる。キャサリン、ノートを読む。彼女の目が丸くなる。長い間。
・ノートをゆっくりと閉じたあと、キャサリン、ロバートに向かってつくったような明るい声で「Dad. Let's go inside.(パパ、中に入ろ)」。で、ロバートに駆け寄る。ロバートそれを承知せず反時計回りに歩いてキャサリンから離れる。キャサリンそれを追い掛ける。立ったままもみ合う感じになる。ロバート椅子に坐って、さあ、一緒にノートの内容について議論しようじゃないか!とうながす。キャサリンは承知せずロバートの肩を抱く。「You're cold. Let's go in.(冷えちゃうよ。入ろうよ)」。
・家の中に入ろう、としか言わないキャサリンに対してついにブチ切れるロバート。「Goddamnit, Catherine, open the goddamn book and read me the lines.」すげーでかい声。
・キャサリン、立ったまま、腕を伸ばして、ノートを開く。鼻を啜っている。ロバートはステップバックして立つ。キャサリンは大きく息を吸って、わずかに涙ぐみながらも、はっきりとした声でノートを読み聞かせはじめる。「"Let X equal the quantity of all quantities of X. Let X equal the cold. ……」。(このとき、若干照明が暗くなった?)
・キャサリンが(狂った文章の)ノートを読んでいるあいだに、ロバート虚ろな目で上手前にゆっくり歩いてくる。キャサリンはノートを閉じると、思いつめた、つとめて明るく見せようとする笑顔で、テーブルを反時計回りに回りこんで上手前のロバートのところへ移動。ロバートに抱きつく。「It's all right. We'll go inside.(大丈夫だよ。中に入ろ)」。できるだけ相手を安心させるようとするトーンで。
・「寒いよ……」「置いてかないで……」のあとロバート泣き出す(原作にはない指示)。
・そして泣いているロバートがキャサリンに連れられて退場しはじめると、場転の音楽が流れて、一旦完全に暗転する。
- ▼第二幕第五場
・真っ暗な状態から照明が明るくなると、いつの間にかタイトな服装のクレアがテーブルの向こうに立っている(たぶんこのとき、航空券入りのハンドバッグをベンチの上に置いた)。そして一度体操のように腕を振ってから、舞台の上にあるものをリズミカルに、どんどん舞台下手奥の穴へと捨てていく。椅子も畳んで捨てる。植木鉢も捨てる。サイドテーブルも片付けていく。
・やがてキャサリンが入って来る。赤いボストンバッグを提げて、暖色のワンピースに黒のカーディガンかボレロかをはおって。髪型は第一幕第三場に近似。キャサリンはベンチに坐る。ボストンバックもベンチに置く。クレア、彼女にコーヒーカップを与える。キャサリン少し飲む。
・ちなみに先の場転の音楽は、ここではイヤホンではなくてレコードプレーヤーとリンクしている。クレアが片付けるためにレコードプレーヤーのコンセントを抜くと同時に、音楽止む。音楽止んだところから会話スタート。最終場は音楽のオン/オフによって緊迫感のコントロールするという演出はなし。純粋に会話の最中に役者が見せる感情のダイナミズムだけで勝負!
・キャサリン「Good coffee.(おいし♪)」。ここでの彼女の表情のトーンは、基本的に第一幕第二場のような不気味に平板ににこにこした表層的なものになっている。「Thanks, so do you.(ありがと。お姉ちゃんも♪)」。「I can't wait.(楽しみ♪)」。
・クレア、サイドテーブルやテーブルの上のパラソルやらを片付けながら話す。終幕に向けてどんどんこうやって舞台上を簡素にして行くという視覚的ディミヌエンド効果。
・キャサリン、表面的にのみ受け答えしながら、視線は中空の一点を見つめている。クレアの方をまったく向かない。
・テーブルをどうやって片付けるのか、と思ったら、クレアはテーブルの上のコーヒーカップとその蓋をキャサリンに渡して手に持たせてから、テーブルを片付けはじめる。テーブルも「穴」に消えて舞台上にベンチ以外何もなくなると、クレアは箒であたりを掃きはじめる。
・コーヒーを手に持ちベンチに坐りつづけているキャサリン、「Seeing Broadway musicals.(ブロードウェイでミュージカルを観るのー!)」を、目線を上に向け首をかしげて、わざとらしいほどの明るい声で。そのわざとらしさは、クレアにも伝わる。クレアはそれまでずっとキャサリンを気遣うような、腫物にさわるようなトーンで、にこやかに必死に話し掛けていたのだが、この辺りからだんだん、笑顔を作りつつも不審げな表情がまざってくる。
・変わらずの馬鹿みたいに明るい声のまま、キャサリン「Restraints, Lithium, electroshock.」「Does he know anyone in the phone-sex industry?」(後者は上手にいる掃除中のクレアの方を向いて)を発話。もうすでに言ってる内容も完全に相手の善意を愚弄するからかうようなものになっているのだが、基本の声のトーンが「にこにこ」なのであまり嫌味に響かず、なめらかに聞ける。微妙なところだと思うが、ここでキャサリンの声のトーンがじかに相手を愚弄するような嫌らしいものだと、観客にキャサリンが単に「嫌な女」なんじゃないかという印象を与えてしまい、この流れの中でむしろクレアの方に理があるように感じさせてしまう。それでは駄目だ。ここではキャサリンのことを本質的に理解せずに「It's not like Chicago, it's really alive.(シカゴなんかとは大違い!)」とか無神経に口にするクレアの方が、実は態度として浅いはずだ。したがって、ここでキャサリンに可愛らしいほどのわざとらしい明るい声で喋らせるのは、演技の形象化の方向性として、正しい。
・クレア「I want to make this as easy a transition as I can.」あたりから笑顔がひきつって、わずかに怒気混じり。
・キャサリン「it's gonna be so fucking easy you won't belive it.」の訳は「もうホントびっくりするくらい上手くいきそうだわ♪」。
・キャサリン「so that I'll be perfectly comfortable while I'm blaming everything on you.((フォン・ハインリッヒ先生に)たっぷりお姉ちゃんの悪口言えると嬉しいな♪)」は、浮き浮きした調子で、可愛らし気かつ小憎らし気に首を傾げながら。だが言い終わったあとにすぐ表情が変わり、仏頂面になり、コーヒーをひとくち口にふくんで立ち上がる。そして乱暴な足取りで下手奥の「穴」の方に向かいながら、顔を横に向けて口に含んだコーヒーを「プッ」と噴き捨てる攻撃的な身振り。それからコーヒーカップを無下に「穴」に捨てる。(ちなみに原作では「Beat.」のみでこうしたキャサリンの行動についての指示はなし。もちろんこうした動作が付け加わった方が、次に来るクレアの「Don't come.(じゃ、やめようか)」がより自然な流れになる。)
・クレア「You slept all week. ……」から、それまでのひきつり笑いのトーンから一挙にぶち切れる。ダイナミズム見事。
・で、狂犬みたいなキャサリンとクレアの激しいやりとりがつづいた後に、間をおいて、また浅薄な調子にもどって、クレア「Stay here if you hate me so much.(そんなに私が嫌いなら、ここに残れば?」/キャサリン「And do what?(で、何しろって?)」。
・クレア、キャサリンに航空券を突っ返す前に、諦めたような、冷笑するような、悲し気な笑い声を洩らす。で、家の中へ退場するときに、かすかに嗚咽をもらす(原作どおりの「near tears.」)。
・下手奥に突っ立ってたキャサリン、ぶらぶらする感じで歩いてまたベンチのところへ戻って坐る。それから、ここで第二幕第五場でもっとも重要な脚色がある。原作は「CATHERINE is alone. She can't quite bring herself to leave the porch. A moment. HAL enters──not through the house, from the side.」となっている。つまり、キャサリンはただその場を離れる気になれずにいる、というだけ。だが上演では、ここでベンチに坐っているキャサリンは、ゆっくりと、何かが少しずつ少しずつ募ってきたかのように、鼻をすすり、顔をしかめ、胸じゃくりして、ついには天をあおいで、「ああ……」と声をあげて泣きはじめる。じっくりと時間を掛けて彼女の感情の推移を息長く演じている。で、毎回毎回ここでゆっくりと息長く彼女の込み上げてくる感情の推移を演じる、という演技が完璧なので、俳優(とこの演技を加味した演出家)は、キャサリンがここでこらえきれなくなったように泣き出す内的な動機を把握しているはずだが……それは何だろうか。
・で、舞台下手奥の扉からハルが入ってくる(つまり家の敷地外から)。キャサリン、それに気がつくと、動揺して泣き腫した顔を手でぬぐって、ハルから顔を逸らすように観客席の方を向き、目線を下に。彼女はまだ涙ぐんでいて、息が荒く、時たま鼻をすする。だがハルは何かに興奮しているのか、ここまで走って来た疲れの息切れと汗のせいか、キャサリンが泣いていたことに気づいていないふう。
・ハルがノートを手に持って「I have been over it, twice, with two different sets of guys, ……」と夢中で喋っているあいだに、キャサリンはハルに背を向けるために、ベンチから立ち上がってやや下手前に移動。そんなキャサリンに対して、ハルはどうしても自分の話を聞いてほしいみたいに、今度は「I had to swear these guys to secrecy. They were jumping out of their skins. ……」と口走りながら時計回りに回りこんで舞台前に移動し、キャサリンの正面に立とうとする。が、キャサリンはやはりハルに背を向けるように、そんなハルから逃れるかのように舞台奥へつかつか移動。「I'm leaving.(もう行くから)」の科白もハルに(この場合、客席方向にも)背を向けたままで。
・とはいえ、「What do you want? You have the book. ……」あたりからハルに向き合って、敵意むきだしで話し出す。「Or fuck my father, pass it off as your own work. Who cares? Write your own ticket to any math deparment in the contry.(何か問題ある? (その証明を自分の名前で発表して)どこでも好きな大学行って教授の椅子に坐ってやれよ)」──このあたりは口汚い言葉づかいも含めて、完全に拒絶的。
・ハル、証明がキャサリンのものであると説明しようとするときには、少し歩きながら、本当に真剣に、相手に一言一言がきちんと伝わるように力を込めて。「I don't think he would have been able to master those new techniques.」云々。
・ハルの「──looks like your dad's. Parents and children sometimes have similar handwriting, especially if they've spent a lot of time together.」の科白の後に間が入るが、それまでのあいだ、静かに攻撃的な立ち姿で、唇を噛むようにしてハルの話を聞いていたキャサリン、くるりと振り向いてさらに下手奥の方、例の「穴」があるあたりまで歩いていく。そこでまたハルの方を振り向いて(というのは客席側にほぼ等しい。ハルはこのとき客席側に背を向けてキャサリンの方を見ているので)、わざとらしい馬鹿にするような声で「Interesting theory.(面白い説だね!)」。
・ハルは近づいていくのだが、キャサリンはさらにそれを拒絶するように「It's too bad, the rest of it was really good. ……」の科白を憎しみをこめて。「It's killer stuff. You got laid and you got the notebook! You're a genius!(すっげー殺し文句。……あんた天才じゃないの?)」。ハルの言葉を自分で口真似するとき(「ずっと気になってた」?「一秒でも一緒にいたい」?)には、指をくねらせるような嫌ったらしい身振りを入れ、悲しみと嘲りでひきつったような笑い声を洩らして。
・それでもハルは「赦してくれとは言わないが……」この証明について話がしたい、といってキャサリンに迫るのだが、やはり彼女はそれを拒絶するように、ハルを避けてベンチに坐る。そこに置いてあるボストンバックを持って出て行こうとするふう。さらにハルはノートを持って彼女の前に回りこみ、拝み倒すようにして「I'd love just to hear you talk about some of it.」と懇願するのだが、キャサリンのにべもない態度は変わらず。ハルはせめてノートを彼女に渡そうとするのだが、キャサリン受け取らない。
・キャサリン、強い語調でハルに言い聞かせる「You're so . . . sloppy. You don't know anything. ……」の科白は怒りで泣きふるえているような声に。そして打ちひしがれたような、ささやくような「Nothing.(無理なの)」の後に、「You should have trusted me.(信じてほしかったの!!!!!!!!!)」は泣き崩れながら叫ぶような声音で。それから少し溜息をついて、突然ボストンバッグにものを片付けていく身振り。
・キャサリン、ボストンバックを閉めて、立って出て行こうとする(観客席方向へ=観客席中央の通路へ)。ハルが前に回りこんでそれを押しとどめる。穏やかに諭すような口調で「Stay in Chicago. You're an adult.」。
・キャサリンとハル、顔を近づけて話す。キャサリンはもう感情が綻びまくっているような震え声。「Being taken care of, it doesn't sound so bad. I'm tired.(面倒見てもらう? 悪くないじゃない。もう疲れたよ……)」。で、次の科白でキャサリン、ハルを迂回してボストンバッグを片手に持ったまま上手前までよろめいて出てくる。そして観客席の面にある壁に触るかのようにして、こみ上げてきた涙を堪えるようにしながら、「And the house is a wreck, let's face it. It was my dad's house . . .(そうなんだよね。この家……パパが住んでた……)」の科白。科白を言った後に鼻をすする。ようやくこの科白のあたりから、彼女の拒絶的な態勢が解けていく。
・ハルが近寄って来ようとするので、キャサリン、ボストンバッグを持って舞台センター奥へずかずか歩いて行く。「It's old. ……It's drafty as hell. The winters are rough.」ハルの方を振り向いて話す。「Either it's freezing inside, or the steam's on fullblast and you're stifling.」云々。
・キャサリンの「Yeah?」の訳は「そ」。ややとまどったようなトーン。
・ハル「Maybe. Maybe you'll be better.」の科白のあと──ここではキャサリンとハルは真っ直ぐに向い合って話しているのだが──少し間をおいてから、ずかずかと近づいていって無言でキャサリンにノートを渡そうとする。キャサリン、ゆっくりとボストンバッグを床に落として、今度はノートを受け取る。
・ノートを受け取ったキャサリン、突っ立ったハルを迂回して、「It didn't feel "amazing" or──what word did you use?」の科白を言いながらベンチの方へぶらぶらと歩いて来る。で、ベンチに坐って(ノートをベンチにおいて)、ハルの方を見ないように観客席の方に身体を向けて。そして証明を書いたときの苦労話、過去の父親との暮しの想い出話を、涙まじりに、はっきりした語調で、感慨深げに。「We liked the radiators even though they clanked in the middle of the night, made the air dry.(……空気は乾燥するけど、あのラジエーター、好きだったんだよね二人とも)」。
・そしてハル、「Pick anything. Give it a shot? Maybe you'll discover something elegant.(……もっと美しいやり方が見つかるかもしれない)」あたりの科白で、ベンチのところへやってきて、必死にキャサリンにむかって片膝をついてかがむ。ハルがノートを開く。長い間のあと、鼻を啜って、キャサリンはゆっくりと、ページのある箇所を指さす。「Here.(ここなんだけど)」やや震え声で。
・で、キャサリンが「ここなんだけど」の科白を言い終えた瞬間に、すぐに暗転。原作の「She begins to speak.」はカット。すっきりした幕切れ。
:感想文(アンケート添付)
- 5/26記
劇団dc-popの『プルーフ/証明』、素晴らしい舞台でした──などと生温い賛辞はここで呈したくありません。少しでも「演劇とは何か」ということを考えてみたことがあり、書かれた文字にすぎない脚本が俳優の身体を通して発語されたとき、それが今初めて生まれ出たもののように鮮鋭に感じられ、その言葉を喋っている俳優一人一人の魅力に惹き込まれざるを得なくなって、劇場空間に一回きりの観客と俳優との忘れがたい決定的な出会いが成立してしまうというあの不思議さについて、そして、その奇蹟を可能にするための(テキストと俳優の身体を総合する)演出の無限の試行錯誤について、思いをめぐらせたことがあるひとならば、──今回のみなさまの『プルーフ/証明』を観て、震撼しないことはあり得ないと存じます。おそらく原作により忠実で完成度の高い『プルーフ/証明』の上演というのは、ほかにもあるでしょう。登場人物たちの感情の角逐をより説得力のある形で見せてくれる上演も、ほかにあるかもしれない。しかし、これほどに俳優一人一人の身体をキャサリンとして、ハルとして、クレアとして、ロバートとして形象化した上でその個性にドライヴをかけ、今まさにそこにいる俳優の魅力とエネルギーが突き抜けて発揮され、このキャスト以外では絶対に成立しないと思える鋭い唯一性をびりびり伝えてくる『プルーフ/証明』というのは、ほかにはないのではないか。世界レベルで見てもあり得ないのではないか。そう思います。幕開き前からすでにそのヤバいほどの個性とキャストの取り替えのきかなさを予感して、複数回チケットを予約した自分でしたが、今、あらためてその予感は間違っていなかったと確信しています。そして、短期間での再演が組まれないかぎり、この現在時のメンバーでの『プルーフ/証明』はもう観ることがかなわない。この日この時、シアター風姿花伝でのみなさまの上演に立ち会えたことをほんとうに幸運に思っています。……
それはつまり、谷賢一氏の演出が素晴らしかったということでしょうか?──もちろん、そうです(言うまでもなく!)。その演出意図の切れ味は、すでに氏自身による翻訳の段階から始まっていたのだろうと思います。実際、舞台上で交される現代口語のテンポの良い対話を聞いていて、原作戯曲の、時にはシリアスすぎてヒビが入りそうな痛ましい会話劇が、よりインティメートでなめらかな呼吸で受け取れるよう、少しだけひねりを加えて翻訳されているように、個人的には感じていました。たとえば、根は真面目な好青年というふうだった原作のハルは、翻訳のおかげで、ややアホっぽくて憎めないキャラになっている(シンプルながら第一幕第二場ラスト、初めてクレアに会った時の「やあ[(Confused) Hi.]」が空気読まない感じで、とくにユーモラスに印象づけられます。ちなみに同箇所の映画版日本語吹き替えはもっと恐縮した感じの「どうも……」でした)。気難しげなようだったロバートは、もっとハジけた感じの親父と化している(とりわけ、毎回笑いを取っていく「これをハル=ロバート予想と名付けて学会に発表しようと……」の加筆が絶妙です! ここで起こる笑い自体が、この場面での娘との感情の行き違いから、誕生日のことをきっかけにしてゆっくりとまた和解に戻っていくという舞台上の空気の推移を準備してくれる)。都会人気取りのステレオタイプなキャリアウーマンでしかないようだったクレアは、「うるるんヘアー[healthy hair]」「オリーヴ・オイルをプシューってやるやつ[olive oil sprayer]」とか言ってはしゃぐ、ファンキーな姉ちゃんに(そのファンキーさは、場転の音楽に合わせて彼女がリズミカルにものを片付けて行くという演出プランにも合致!)。そしてキャサリンは……自分の中では、あらゆる点で英語原作の戯曲を読んだときのイメージとは異なっていました。その相違は、原作を無難に映像化しただけの映画版と比べれば、よりはっきりするでしょう。一例だけ挙げれば、第一幕第三場での、ハルとのキスの後のつっけんどんな「良かったよ!?」の科白は、原作では「That was nice.」で普通に真顔でロマンスやってるんだろうという科白にすぎなかった。さらに映画版ではそこに、「こんなの久し振りよ」みたいな科白を付け加えて、なんとか次のラブシーンに至るムードを醸成しようとしていたのですが……対照的に、谷訳の『プルーフ/証明』では、むしろ二人の言葉づかいに若者の不器用な恋のおかしみの色調を加えて、笑いさえ起こりかねない喜劇的なシーンとして、この場面を仕上げている! 第四場でキャサリンがハルを信用して鍵を渡すという行動につながる二人の関係の繊細微妙な変化を、こんなふうなカジュアルな空気の中で、実現している! そして、その方が断然説得力がある! まったく驚くべきことだと思います。小田島恒志氏の訳ではここは全然違った印象の場面になっているに相違ない。これは、翻訳の中にすでに谷氏の演出の方向性が仕込まれていたという顕著な例の一つなのだろうと、愚考します。……
いや、翻訳のことだけで長く書き過ぎました。さらに、この翻訳を舞台上に具体化するための演出上の美点について触れるとなると、キリがありません……。音楽の使われ方。客入りや場転の曲を次のシーンで登場する人物のイヤホンとリンクさせ、また、原作では指示のないレコードプレーヤーも背景に設置し、人物の行動(イヤホンを外す、レコードプレーヤーを止める)と音楽のオン/オフとをつなげることで会話中の緊迫感をコントロールするという、十重二十重の演出。あるいはレコードプレーヤーの隣りのコーヒーメーカーも、たとえば第一幕第四場でハルが入ってきたとたんにキャサリンがそれに飛びつくというように、舞台上の動きを多彩にするために、有効利用される。そして、そう、舞台上の動きの演出と言えば、第一幕第一場でのロバート! 原作をあえて脚色しハルが入って来てからも彼を舞台に居続けさせ、キャサリンの「死んでくれて嬉しい」「あの人につきまとわれるのはもう嫌」という科白に新たな意味を与えるという工夫、さらには、ハルがロバートの日記を朗読しているときに幽霊のロバートにそのノートに書き込むという行動をさせ、過去の幻影を舞台上の「現在」にオーヴァーラップさせるという、信じ難いほどの独創的な演出(そしてここで幽霊にすぎなかったロバートが過去の記憶の中のロバートに変じることは、演出として、実はかなり決定的な工夫だと私は思います──後述)! それに、下手奥に設置された、舞台下につながっているあの謎の穴も! 小道具を退場させる穴として、場転の手間を省くだけでなく、箒を持って紙くずを掃くというクレアの動きを追加したり、人物が何か(ワインボトル、シャツ、コーヒーカップ)をその穴に捨てることに意味を帯びさせたり、何よりも、第二幕第五場で終幕に向けて徐々に舞台が片付けられて簡素になっていくという視覚的なディミヌエンドが、あの穴によって、実現可能になっている。というかそもそも、以上のすべてを可能にする、客席側が家の中で、観客からの視点が家の中から外のテラスを眺めているという、コペルニクス的に発想を転回させた立体的な舞台空間の構図が、すでに斬新である……。
しかし、こんなテクニカルな分析は野暮なことでしょう。基本的な軸は、そのように精緻なプランで練り上げられた舞台空間で、言葉を喋る俳優一人一人の身体を魅力あるものとして生動させ、観客に働きかけてより能動的な劇へのかかわりを引き出すこと──そういうことのはずです。で、もちろんその点でも、今回のみなさまの『プルーフ/証明』の素晴らしさはブレがない。モティーフとして川本真琴のポップ・ソングが使われていることにはじまって、上で列挙した濃やかな演出の数々が、あたかも、俳優一人一人の刹那の個性に磨きをかけて、無難に自分の役をこなすことから決定的に逸脱させるかのように、テーブルを中心とした舞台上の彼らの動きをビビッドに加速させるかのように、はじめから仕組まれていたみたいに思える。あの演出プランにおいてはもはやクレアは境クレアでしかあり得ないかのように、ロバートは中田ロバートでしかあり得ないかのように、ハルは東谷ハルでしかあり得ないかのように感じる(百花キャサリンについては後述します)。そこではもはや、演出プランが先かキャスティングが先かという、どっちが卵か雛かという問いは意味がない。そんな問いを吹き飛ばすレベルで突き抜けた俳優の個性と多量の霊感をぶちこんだ演出プランとが、高次に総合されている。先に世界水準で見ても唯一無二の『プルーフ/証明』だと書いたのは、そういう意味です。
少なくとも私にとっては、翻訳においても、演出においても、そして出演された俳優のみなさまの魅力の発露という点においても、今回のみなさまの『プルーフ/証明』は忘れがたいものとなりました──グウィネス・パルトロー主演の映画版よりもよっぽど! そしてまた、私が「絶対に素晴らしいから観に行け」と強引に勧めて観に来てくれた知人の幾人かも、普段はさほど演劇に関心がありそうでもないのに「面白かった!」と率直に述べていたことを申し添えておきたいと存じます。
で、ここまでは初日を観た時点ですでに書ける感想でした。ここからは、初日以降数度の観劇を経て私がいだいた感想を書き記します。いささか踏み込んだ意見になりますが、不躾なにとぞ悪しからず……。
*
演出の谷賢一さんが、幕開きの直前に次のようなことをブログに書かれていたと記憶しています。「演劇というものは必ずしも答えを与えるものではない、ときには明白な解答の提示を拒み、問いを問いのまま持続させることのなかに作品の生命が存することもある」と。基本的に、自分もこの意見に賛同します、とりわけ『プルーフ/証明』という作品においては。つまり、『プルーフ/証明』という戯曲の構造には、単に観客をエンターテインするだけではない、議論提起的なところがあると思う。戯曲に書かれていない部分で観客の感情を刺激する謎めいたところがあり、それへの複数の解釈を引き寄せ交差させるがゆえに、忘れがたいものとなる、という作品のように思える。そして当然ながら『プルーフ/証明』によって惹起される議論は、原作の解釈をめぐるのみならず、それが舞台として具体化されたときには、その演出法や俳優がいかに役を生きたかという点をもめぐって切り結ばざるを得ません。なぜなら、たとえあからさまに答えが提示されることがないとしても、上演の際には、何かしらの答えをいだいていなければ、演出家は、明確な演出方針を立てることもできず、俳優は、役作りの一貫性を維持することもできないはずだからです。これは長く原作戯曲に取り組んできて上演にこぎつけたみなさまには、自明のことだろうと存じます。
さて、『プルーフ/証明』という作品が提起してくる問題は、あえて要約すれば次の一言で言い表せると思います。「キャサリンとは一体どういう人物なのか?」(なぜキャサリンは最後の最後でハルに歩み寄ろうとしたのか、とか、なぜキャサリンはニューヨークへ行くことを拒むのか、なぜキャサリンは自分の証明をすぐ公表しようとしなかったのか、というような問いも、この問いから派生するものです)。第二幕第三場をのぞいて、最初から最後まで舞台に出つづけているキャサリンは、上演中、観客にさまざまな表情を見せることになります。しかもそれは、時に相容れない磁極のように矛盾する。たとえば、第二幕第一場で「パパにもしまた何かあったとしたら、いつでも休学するし……」とロバートに告げるキャサリンと、第一幕第一場で「(父親のせいで)あたしは学校を辞めた。……死んでくれて嬉しい」と吐き捨てるキャサリン。あるいは、第一幕第四場で、父親を精神病院に入れれば良かったというクレアに対して「実家で看病したことは正解だった! 良くなったこともあったじゃない……」と抗言するキャサリンと、第二幕第二場で「パパはこんなの書けなかった!」と父親を狂人として切って捨てるキャサリン。また、第一幕第三場で自己卑下するハルを励まそうとするキャサリンと、第二幕第二場でハルを悪し様に侮蔑するキャサリン。そしてまた、第二幕第五場、「(この家は)古いよ!……暖房つけたら息苦しくなるし」と自分の家を見下げるキャサリンと、そのすぐ後で、「あのラジエーター、好きだったんだよね二人とも……」と静かに想い出を語るキャサリン。このような彼女の様々な側面が、単に偶然的な状況によって態度を変えているというのでなかったら、そこに、どのような人格の一貫性があるのだろうか?……
ところで──実は、或る意味ではこの問いに答えを与えることは、簡単です。原作戯曲を表面的に、杜撰にのみ読めば。映画版『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』がやったことが、それでした。監督のジョン・マッデンは、デリカシーの欠片もない手付きで、キャサリンをポンチ絵に仕立て上げた。戯曲の映像化という不可避的に脚色の自由が与えられる機会に、大胆な賭けを試みるどころか、ジョン・マッデンは事務作業みたいに右から左へと原作の場面場面を無難に映像にして、つぎはぎした。そこから受け取られる印象は、要するにキャサリンは「視野の狭い人間不信のアスペルガー症候群っぽい女」だということです。で、全体のストーリーは要するに「そんな変人キャサリンが、なぜか異様に押しの強い(どんな酷いことを言われてもへこたれない)青年の忍耐づよい働きかけのおかげで、ようやく真人間として更正できそうです、めでたしめでたし」という話なんだと。いちおう、数学の証明がモティーフとして出て来ますが、それは数学の明証性に引っ掛けて「人間相互の信頼関係というのはそんな数学みたいに明白に証明できるもんじゃございません」というメッセージをわれわれに届けるためのギミックなんだそうで。『プルーフ・オブ・マイ・ライフ(人生の証明)』というタイトルからして、つまりはそういう広告コピーになっているというわけですね。ああ、くだらない! あまりにも陳腐です。
映画版『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』は、デリケートな文学作品をアホがいじくるとどんな醜悪な結果が生まれるかという好例(いや、悪例)として、ジョン・マッデンの汚名でありつづけるでしょうが、とはいえ、実は、とんでもない駄作の映画だということはありません。観ようと思えば、観れないこともない。ちょっと優等生ぶった鑑賞者なら、この映画を観て次のような感想を口にするかもしれません。「おお、僕はこの映画を観て、『信頼』というものはいくら事実を積み重ねても到達できるものではない、『信頼』とはつねに暗闇の中の飛躍なのだ、『信頼』とは説明したり合理的に納得したりできることではなく、いわば、一種の賭けなのだ……そういうことを学びました! ラストのキャサリンとハルの和解の予兆も、二人がそうした暗闇の中の飛躍を、初めて互いに試みようとしたことの表われなんですよね! そうですよね! 二人に祝福あれ!」──そう言って彼は、感動という名のちょっとした生理的興奮を味わって、家路につく。まあそれはそれでいいでしょう、娯楽の享受の仕方としては。しかし、どうでしょうか?──もし今仮に想定したような感想を、『プルーフ/証明』の上演後に帰途をたどりながら観客たちが抱くとしたら、その舞台は、失敗にほかならないのではないでしょうか。その上演は、致命的な形で『プルーフ/証明』を損なってしまっているのではないでしょうか。演出においても、役の形象化においても。「人間相互の信頼とは一種の賭けなのだ! 数学の証明とは違う!」──こうした感想が、原作第二幕第五場の「It doesn't prove anything.(略)You should have trusted me.」といったキャサリンの科白にもったいぶった意義を認めることから生じた感想であることは、理解できます。でも理解できたとしても到底納得はできない。そもそも、キャサリンの口にする「信頼」とはどのようなものだったろうか。それは私たちが普段抱いている通念としての「信頼」といったものを根こそぎ懐疑にさらすような根底的なものだろうか? そうは思えない。たとえば第二幕第二場で「信じてたのに……[I trust you.]」と口にするキャサリンの悲哀は、状況によってたまたま感情が行き違ってしまった相手(もしキャサリンの証明が「歴史的な大証明」ではなく「ここ十数年の数学研究の進歩のなかで最先端レベル」の質であったなら、行き違いは起こらなかったかもしれない)に、ほとんど無条件の信用を期待して、それが裏切られてしまうと逆ギレするという、自己中心的で幼稚な感情でしかあり得ない。この時、説明しようとするキャサリンに対して「父さんがきみに教えたのかもしれない」と難癖をつけるハルにも落ち度はありますが、そもそもキャサリンの方がハルを真に信用できていない。この幼稚さは第二幕第五場で「You should have trusted me.」と彼女が口にするときにも変わってはいません。だから、第二幕第五場では、この科白に力点が置かれるべきではない。最後の最後におとずれる二人の歩み寄りの予兆は、「You should have trusted me.」の前後のやり取りに由来しているわけではない。私はそう考えます。状況によってたまたますれ違い、また状況によってたまたま和解の糸口へと導かれる男と女? 『プルーフ/証明』はそんな口あたりの良い曖昧な物語になってはいないはずだ。「人間相互の『信頼』とは、暗闇の中の飛躍なんだ、そして二人はその真実に気づいて、ラストでお互いに暗闇の中での飛躍を試みはじめたんだ」だって? そんな通俗的で短絡的な理解は窓から投げ捨てろ。状況によってなしくずしに態度を変えさせられてしまうことを誰よりも否定しようとしている、否定せざるを得ないのがキャサリンではないのか。だからキャサリンとハルの歩み寄りの予兆は、状況によって左右されるのではなく、もっと言えばあの証明が誰のものであったかが判明したかしないかにかかわりなく、キャサリンの中で一貫している彼女の本質によって、引き寄せられたものと考えるべきだ。そうではないでしょうか。そしてその彼女の本質を感じ取るための手掛かりは、第二幕第一場や第二幕第四場、および第一幕第一場、第一幕第三場で少なからず観客には与えられていると思うのです。……
ここまでが前段です。つまり、以上は私がどのような視角からキャサリンという謎にアプローチしているかということの表明でした。長くなりすぎですね……。以下は、上を踏まえて私がこの謎に対してどういう暫定的な答えをいだいているか、そして、それに照らしてみなさまの今回の上演を本質的にどう受け止めたかという話がつづきます。とまれ、私のこうした長々しい考察が、みなさまの実際の上演によって啓発されたものだということは、言うまでもありません。原作戯曲を読んでいただけではここまで思考をめぐらせることはできなかったに相違ない。ファンキーさの中に一筋の繊細さを通した境クレアがなければ、娘への親愛の微妙な距離感を大胆に演じ切った中田ロバートがなければ、青年の感情の起伏を最後までたどり切った東谷ハルがなければ、そして一人の人間が見せるさまざまな表情を見事な迫真性で演じ分けた百花キャサリンがなければ、『プルーフ/証明』の謎の深さに自分が気づくことはあり得なかった。その点、あらかじめ重ね重ね感謝申し上げた上で、以下、最後まで一気に書き切ります。
結論から先に書いた方が早いですね。もし私がこの『プルーフ/証明』の──口幅ったい用語を使いますが──「超課題」を見出せ、と言われたら、「キャサリンが(ここ五年間の)記憶を取り戻し、それを真正面から見つめて受け入れていくようになるまでの、物語」と置きます。そして仮に「信頼」というキーワードがこの戯曲のモティーフの核にあるとしても、それは、自分の言ったことを信じてくれたとか信じてくれなかったというレベルにあるのではなく、(それがどんなに辛いものであっても)自分と記憶を共有してくれる他者がいるかどうか、という問いの審級にあるはずです。私はそう考えます。
最後の第二幕第五場で、キャサリンはクレアとは訣別してしまいますが、ハルとは、何かしら通じ合うものを辛うじて見出せそうな予兆が生まれます。クレアとハルの違いは何でしょうか。クレアは実際には、キャサリンの目に映っているほど悪い姉ではない。第五場中途の退場時に彼女が涙ぐむという演技が入るのは(原作どおりの「near tears」)、彼女が最後まで彼女なりに妹を思い遣っていたことを示唆するものですし、そもそも四年前にはそれほどクレアとの仲は悪くなかったのではないかということは、第二幕第一場からも読み取れます。ロバートの言う「クレアもあいつなりにうまくやっとる。私は満足だ」という言葉をキャサリンもまた肯定したことでしょう。しかし、クレアはニューヨークで「好きなように生きる」ことを優先させたために、父親の病気が悪化してキャサリンが彼を看病していた五年間の記憶を、キャサリンと共有することができません。言い換えれば、クレアと一緒にいてもキャサリンは自分の記憶を、自分自身を取り戻すことができない。今回の谷演出の一つのポイントであったらしい「にこにこプルーフ」というテーマに言寄せて言えば、クレアと一緒にニューヨークへ行けば、キャサリンは永遠にその不気味に平板な「にこにこ」した仮面を付けて生きざるを得なくなるということ、第二幕第一場で見せたような自然な朗らかさを彼女が今後取り戻すことはない、ということです。
クレアとハルの決定的な相違は、ハルがキャサリンと記憶を共有できる可能性のある人間だということです。それが核心です。まず、ハルは父親の病気が悪化した五年間のキャサリンの記憶の一部にかかわっています。というのはむろん、彼が、第二幕第一場で回想される四年前の九月四日の暖かな想い出の登場人物であるということ、のみならず、彼は当時少し調子が良くなって大学での仕事をしていたロバートの指導を受けていた生徒でもあったという意味です。つまり、ここ五年間のキャサリンの生活の記憶──それは父親のロバートの存在に濃密に彩られている記憶でもありますが──にクレア以上に接近できる人物は、ハルをおいて、ほかにはいない。けれども、冒頭、第一幕第一場でキャサリンはあたかもそのことを忘れているかのようです。なぜか。あの四年前の九月四日以降に起こったことが、とりわけやや調子が良くなっていたはずのロバートが、第二幕第四場で描かれた出来事を境にふたたび病状を悪化させて以降、学校を辞めてずっと父を看護しつづけなければならなかった約三年ほどの時期が、彼女にとってあまりに辛かったからです。彼女はその想い出すのも嫌な時期の記憶を封印した。とりわけ第二幕第四場のあの瞬間、父親が回復の希望を見出したかと思ったとたんに絶望へと転じた瞬間の記憶は、おそらくトラウマ的な記憶として長く深く抑圧されていたものだったでしょう。そして、それとともに彼女の中でハルの記憶も薄れていった。第一場第一幕で彼女がハルのことをやたら盗人扱いしたり、「You don't know me.」(これは半分しか真実ではありません。実際にはハルは、四年前の九月四日に、シカゴのビールについて父と微笑ましいやりとりをするキャサリンの姿を知っているのだから)と彼を無下に拒絶するのもそのためですが、しかし、ふたたび彼女が記憶を取り戻すきっかけもまた、第一幕第一場には仕込まれています。言うまでもなく、ハルがキャサリンにプレゼントしようとしていたロバートの日記の存在です。私見では、全体の構成から見るに、あの日記の朗読シーンは、キャサリンがハルとともに記憶を取り戻し、「にこにこ」仮面(とそれと対になっている「荒れ荒れ」仮面)を振り落としてふたたび自分自身を取り戻しはじめる最初の一歩として、決定的に重要なシーンです。ですから、あそこでロバートを退場させずに、過去に日記を書いていたロバートの「記憶」の幻像として存在させる演出上の工夫は、原作の改変だとしても、圧倒的に正しいとしか言いようがありません!
そして数学。ハルは数学の専門家として、クレア以上に高度な数学の話をキャサリンと交わすことができる人物です。でも別に、専門家としての相互理解が可能なことが重要なわけじゃない。もっとも肝心なのは、ハルが父ロバートの数学の論文の「美しさ」を理解することができ、それゆえに彼がロバートを敬愛しているということです。そしてその「美しさ」はキャサリンも知っている父ロバートの美質です(第二幕第五場、「Dad's stuff was way more elegant.」)──つまり、またこの点でもハルはキャサリンと一緒に父ロバートの記憶を共有できる他者でもあるわけです。し・た・が・っ・て、第一幕第三場で一度キスした後に「あの人の論文は美しかった、読むのが楽しかったほどだよ……」とハルがキャサリンに伝えるときに、それを聞いている彼女が、というか百花キャサリンが、第二幕第一場を先取りするように、自然な微笑を浮かべて朗らかな様子をしているという演技の形象化は、これまた圧倒的に正しいと言うほかはない! ふたたび彼女が父との生活の記憶を受け入れて、かつての自分自身を取り戻しつつあるということを暗示するあの微笑、あの自然な微笑がなければ、その後に彼女がハルと結ばれるということも一貫性を持ち得ない。上演中、キャサリンは百花キャサリンでしかあり得ないと感じた瞬間です。こうした微細な表情の推移というものを丁寧に形象化し、彼女の本質を少しずつ示唆していくということをやらなければ、映画版のグウィネス・パルトローのように単に「荒れ荒れ」な情緒不安定な女だというイメージでキャサリンは終わってしまう。繰り返せば、それではダメだというのが、自分の判断です。
数学に関連してもっと踏み込んで言うと、──あの彼女の証明自体がまた、記憶に絡んでいるということを指摘したいと思います。第二幕第二場で彼女の口から語られるとおり、あの証明は、彼女が学校を辞めてから、つまり父親の病状がふたたび悪化して以後の、「鬱になっていた[really depressed]」時期に書かれたものであり、彼女が記憶として封印したい地獄のような約三年間の日々に結びついているものです。だから彼女は、その価値を自覚していながら、公表する気にはなれなかった。苦しい時期の記憶とともに、あの証明も机の奥底に抑圧した。そうして彼女は自分自身をも殺し、いつしか「にこにこ」と「荒れ荒れ」の両極の振幅を不安定に生きるだけの、すさんだ人物になってしまった……。しかし、その封印した証明を初めて彼女が他者に見せようと決意したということは、もう一度、彼女が過去を真正面から見つめ直して、それを受け入れて、他者の力を借りて自分自身を取り戻そうと決意したことと、等価です。それだけの意味があの鍵を渡すシーンには込められている。だから、言ってみれば証明の内容が前代未聞に画期的かはどうかは、それほど重要ではなかった。それ自体は別に、数学の証明でなくたってよかった。それは、あの地獄の約三年のあいだに書かれた小説のようなものでもよかったかもしれないし、油絵のようなものでも、戯曲のようなものでもよかった。それが彼女の辛い時期の記憶から生まれたものであるならば、というのも、キャサリン自身の過去の記憶と密接にからみあっている私小説のような彼女の作品=数学の証明を、他者と共有することこそが、(失われたものを取り戻したいと無意識に願っている)あの時の彼女にとって、何よりも重要なことだったはずだから。──私はそう考えます。便宜的ではありますが、あの数学の証明を、彼女の辛い時期に書かれた私小説のようなものとして考えると、第二幕第五場のラスト付近の、ハルによる「この証明(作品)について話がしたかったんだ!……こんな証明(作品)書けるなんてどんな気分?……少しでいいから聞かせてくれ……」という促しに始まって、やがて彼女がぽつぽつと、証明の内容ではなく、証明を書いていたときの辛さ(次の点と結ぶにはどうすればいいか、そもそも次の点があるかどうかすら分からないこともあった……あたしに分かってるのは点の結び方だけで、でこぼこしてるの……)について語り始めるという流れ、そしてそれと並行してあの約三年のあいだにあった父との想い出を語り始めるという流れが、まさに、抑圧され押し殺されていた彼女の記憶、彼女自身の生が、ようやく痛ましい体験をくぐり抜けてふたたび取り戻されようとしている瞬間、彼女の過去と現在が一つのつらなりとして回復しつつある瞬間として、理解されることだろうと存じます。そして彼女が「ここなんだけど……」とつぶやいてノートを指差したときに、キャサリンは、ようやく記憶を共有してともに生きることのできる他者の存在を、彼女の証明=私小説=記憶の真率な読み手としての、ハルの表情の中に、初めてはっきりと見出すことができたのではないでしょうか。つまり、誠実だとか不誠実だとか、信じてくれたとか信じてくれないとかいうのとは別のレベルにある、「信頼」の糸口を。
これが、私が『プルーフ/証明』の超課題を「キャサリンが自分自身の過去の記憶を取り戻し、それを受け入れ、自分自身を取り戻す」こととして置く所以です。
補足的なことを言えば、以上の解釈から、第二幕第五場で、キャサリンとハルが歩みよる予兆があらわれる端境に、シカゴの季節についての会話が入るのは、そしてハルが「僕は生まれてからずっとこの街に住んでる」と彼女に告げるのは、ほぼ必然と言えると思います。キャサリンは記憶を抑圧し失っているけれども、記憶と自分自身を取り戻したいとは、無意識に願っている。それだから彼女は傍目には不自然と思えるほど、ニューヨークではなくシカゴに、古い実家にとどまることにこだわりつづける。失った記憶を取り戻すには、それが失われた場所でじっと耐えることが必要だからです。その彼女の願いを理解せずに、あまつさえ家を売り払って彼女をシカゴに居られなくさせようとするクレアは、キャサリンと記憶をともにして生きることのできる相手にはなり得ない。対してハルは、キャサリンと同様に、シカゴの四季の彩りを理解する。あるいは四季折々のシカゴを愛していたロバートと同様に。たぶんハルは、シカゴ・ビールの水っぽさを、ミシガン湖をわたるヨットの影の退屈さを、たまに地区優勝するけどあまりパッとしないシカゴ・カブスの地味さを、理解できる。ハルはハル自身の生の記憶のなかに、キャサリン(やロバート)の記憶と通底し得るものをそなえている。最後になって、そのように通じ合える相手としてのハルを、あの会話のなかでキャサリンは見出し始めた。その無意識の記憶の交流があるからこそ、彼女は最後の最後でシカゴを離れることを自然に思い止むことができたのだ。──私はそのように考えています。
以上要約すれば、「キャサリンとは一体どんな人物なのか」という問いに対する私の暫定的な答えは、「戯曲の中で直接には描かれていない、父親を看病しつづけていた辛い時期(とくに最後の約三年間)のなかで失われてしまった記憶を、自分自身の生の連続性を、その辛い時期から私小説のように生み出された彼女自身の作品=証明を媒介にして、ハルという他者の助けを借りて、無意識にもふたたび取り戻そうとしている女性」です。爾余の問いは、この答えから導かれるべきと思います。
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さて! 長くなりました。で、ここから先、以上述べてきた解釈に照らして、私がみなさまの上演をどう受け取ったかということを書かねばならないわけですが──今となってはあまり意味がないかなと思えてきたので、やめます。だって、私がこのように『プルーフ/証明』の解きがたい謎に迫ることができたのは、谷演出ver.の唯一無二のみなさまの舞台を観られたおかげなんですから。上述の私の解釈は、文芸批評的なテキスト読解によってではなく、谷賢一さんの精緻な演出プランと、それに俳優のみなさまが真摯に応えて舞台上に実現した一つひとつの演技の形象化──身振り、表情、仕草、移動の躍動感、声の抑揚、感情の発露などによって、初めて見出すことができたものなんですから。後段で書いた私自身の解釈は、私の中では、キャサリンを百花亜希に、ハルを東谷英人に、クレアを境宏子に、ロバートを中田顕史郎にと固有名を置き換えても成立します。問題はただ、私のような感想を持つ観客がほかにいない場合、この解釈がまったく普遍性を持たないということですが──いや、今となっては、もうそんなことどうでもいいやと感じられます。
そしてまた、私の解釈がみなさまが具体化しようとしていた「超課題」と大幅にズレている場合、私は見当違いのことを延々と書いてきたことになりますけれど──それもそれで、いいでしょう! みなさまにとってはつまり、自分たちの舞台を、なんだか訳の分からない受け取り方をした変な客が一人いたということに過ぎません。そこに何の問題がありましょう。神は天にいまし、世はすべて事もなし、です。
では長々と妄言失礼いたしました。乱筆乱文悪しからずお赦しください。
後半日程にたずさわる劇団員のみなさまの、公演のご成功をお祈り申し上げます。
:6月2日の公演後の俳優の方々との会話メモ(主に中田顕史郎さんと)
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(※完全に記憶だけを頼りにしたメモです)
- ・中田さん「谷っていうのはほんとうに舞台の現前的な動きの面白さっていうものに対して全然スレてない。彼もすでに世間的に評価も得ているし演劇を長くやっているのだから、スレてきてもいいはずなのだが、ほんとうに子供のように『その動き面白いね!』って喜ぶ。だからわれわれも彼の感性に従ってみようという気になる。」
・中田さん「谷が舞台の現場性・現前性に敏感だっていうのは、たとえば今回の上演で三方に客席を配置したこともそう。最初はそうする予定はなかったのだが、実際にシアター風姿花伝の現場に入ってから、実際の上演がどうアクチュアルに受け取られるかっていうのを機敏に判断して、そう決めた。実際、それによって舞台上でテーブルを中心とした多彩な動きが実現できたと思う。それは、普段から演劇の持つ現前性の魅力に敏感な谷だからこそ下せた判断だ。」
・(第一幕第四場で原作にあるハルとキャサリンのキスが一回削られているが、それは?)中田さん「いや、谷はそういう脚色はよくやる。原作に忠実であればよいという考えは彼にはない。舞台上で俳優=登場人物をどう現前的に生動させるかということのヴィジョンをしっかりもった上で、さまざまな試行錯誤を試みる。『プルーフ/証明』で言えば、彼の中にはしっかりとしたキャサリンの人物像というのがあって、彼女が何故発狂しかかっているのか、彼女がなぜ悪意を放出するのか、っていうことにも明確にヴィジョンがあって、その上で原作にどんどん原作以上のものを足している。それに関連して言えば、ワークインプログレスでの通し稽古の後の第一幕第二場の「反復練習」──あんなことをやっているのは、谷しかいない。つまり、稽古やっている最中に「はいカット。ここの演技はこうこうこういうふうに修正して。じゃ科白『……』からもう一回やって」というのを何度も何度も繰り返しては演技の形象化の精度を上げていくという練習。役者にとってはかなり辛い。でも、谷は自分のセンスに自信があるから、全然悪びれない。こういうふうに演技を修正するっていうのは、ねちっこい演出家だと、朝令暮改は自分の権威にかかわると思うのか、一回直したものをもう一度直すのに凄くぐずぐずするのだが、谷はあっさりしたもの。「これ付け加えてみよう」「あんまりよくないね、やっぱり止めよう」「これやってみよう」「これもうちょっと変えてみよう」「やっぱこの演出プランはおかしいね、やめよう」っていう判断を機敏にポンポン下す。第一幕第四場のハルとキャサリンのキスについて言えば、もともとは二つ削っていた。でもそれだと削りすぎかな?と考えたらしくて、一つ戻した。そんなことをやっている。ほんとうに、谷のような演出家は他にいない。」
・(谷演出ver.では、登場人物たちの感情のダイナミズムが第一幕第一場から強烈で、部分部分ではほとんどリアリティに反してまでダイナミズムの極端な振れを入れているように思える。これは日常会話の範囲にダイナミズムを抑えた元田演出ver.と比べてももちろん、原作脚本の指示とも違う。どういう意図か?)中田さん「脚本の中には、役者にとって『ここでこんなこと言えるわけないだろう』と思えるような科白が稀にある。で、その登場人物に一線を踏み越えてその科白を言わせるためには、感情のダイナミズムが必要なのだが、それはその場ですぐ出そうとしても出てくるものではないし、不自然な抑揚になってしまう。だから、ダイナミズムの伏線というものが必要となる。われわれは『引き算』と呼んでいるが、たとえばキャサリンが第二幕第五場で100の感情のヴォリュームで言わなければならない、そのヴォリュームでなければ言えない科白があるとする。で、その感情のヴォリュームを出すには、第一幕第一場から、(100から30ないし40を『引き算』した)60〜70ぐらいのヴォリュームで言う科白というのを出しておいて、この人物はこういうヴォリュームで話すんだというのを見せておく必要がある。それでこそ、後半の局面で彼女が一線を超えなければならないときに、役者=登場人物に自然にそれを踏み越えさせることができる。それが原作の指示と合致しているかどうかは二の次。元田演出ver.は、局面局面でのダイナミズムを見れば抑揚として自然=リアリティがあるかもしれないが、戯曲全体を見た場合のダイナミズムのコントロールというものには、演出がゆき届いていない。だから登場人物の感情を追っていくと、全体として散漫ででこぼこした印象を与えてしまう。谷演出ver.の場合、二時間半の戯曲を通しての一貫したダイナミズムのクレッシェンドのごときものがあるのだ。」