:基本情報・関連リンク
- シアターΧ主催 特別共同企画 Life in Art 毎月レパートリー公演
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/pg372.html
- 主催:シアターχ
企画:到底非営利活動法人 東京ノーヴイ・レパートリーシアター+シアターχ
原作:フョードル・ドストエフスキー
脚色:ゲオルギー・トフストノーゴフ(翻訳:逢坂創三)
演出:レオニード・アニシモフ
上演台本:東京ノーヴイ・レパートリーシアター
舞台美術:セルゲイ・アクショーノフ
作曲・音楽監督:後藤浩明
ムイシュキン:菅沢晃(両日共)
ナスターシャ:大坂陽子(10日)/天祭揚子(11日)
パルフョン・ラゴージン:天満谷龍生(両日共)
将軍エパンチン:佐藤誠司(両日共)
リザヴェータ:池之上眞理(10日)/妻鹿有利花(11日)
アグラーヤ:串田奈温子(10日)/中澤佳子(11日)
ガーニャ:上世博及(10日)/渡部朋彦(11日)
レーベジェフ:稲田栄二(10日)/岡崎弘司(11日)
フェルドゥィシチェンコ:目黒正城(10日)/山田 高康(11日)
イヴォルギン将軍:武藤信弥(10日)/小倉崇昭(11日)
- 東京ノーヴイ・レパートリーシアター
http://www.tokyo-novyi.com/
シアターχ
http://www.theaterx.jp/13/130510-130511p.php
:予習メモ
- ▼「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その1
http://www.youtube.com/watch?v=99A08-xf16E
「ドストエフスキーには感情っていうのはない。そこにあるのは情念。すべてが情念で充満している。感情っていうのはムイシュキンにあるもの。ナスターシャには情念がある。アグラーヤにも情念がある。もちろん情念も感情になることはできる。でも感情まで行き着けない、なぜなら別の情念がその情念に対抗して駄目にしてしまうから。感情っていうのは私が与えるときどんどん与えたくなるもの。情念っていうのは自分がどんどん取りたい取り込みたい。情念は「自分に!」「自分に!」「私の!」「私の!」ってばかり。誰かが「私の!」っていう言葉を言ったら、それはもう情念だ。ナスターシャはアグラーヤにムイシュキンを与えようとする試みを一回やるんだが、うまくいかない。できないんだ。「私の!」「私の!」というところでエピソードが終わっちゃう。つまり感情まで行き着くことができなかった。アグラーヤも感情まで行き着けなかった。愛の感情にまで行き着ける人は滅多にいない。非常に稀。基本的にはひとびとはその情念で生きている。『白痴』はそのことについての小説だ。ひとりの人間がひとびとのところにやってきた、その人には感情がある。彼はいつもいつも他の人たちに自分を与えている。他の人たちはみんな自分のために取って取って取って取りまくる。そういうことについての小説。例としてキリストというものがある。それを理解することは非常に重要。なぜか。それが存在方法に強い影響を与えるから。情念っていうのはものすごい巨大なエネルギー。情念っていうのは凄い早い大きなテンポ。自分をちょっとスローダウンしてしまうと、それはもうこの作品にふさわしくない方向にいっちゃう。そうするとあなたがたはドストエフスキーからどんどん離れてしまう。チェーホフはゆるやかな流れの川のようなものだ。だがドストエフスキーのこの作品は、ただ一人静かなムイシュキンのまわりで台風がうずまいている。ムイシュキンだけがどこにも急いでいない。彼ひとりだけだ。他には誰ひとりそんなことは許されない。昨日この前のエピソードをやりましたね? 普段よりも四倍も五倍もエネルギッシュにやること。それを毎回リハーサルのたびに確認しているんだ。あなたは今ゆっくりと平静に話しはじめた。そしたらそれもうドストエフスキーじゃない。つまりドストエフスキーの中にいるためにはそういう課題・行動がそういう存在方法の中でぐるぐる回っていなくちゃいけない。レーベフェフには聖書を読み解く能力があるという話はしましたね。彼が自分を「私は低俗です、低俗です」と言うとき何を意味しているか。そのこともわれわれは話してきましたね。聖書には、人は他人に権力を持っちゃいけない、と書いてある、そのことを私は知ってますよとレーベジェフは言っている。レーベジェフ自身ではムイシュキンに対する権力を望んでしまっている。ムイシュキンのおかげで他の人たちに対する権力も持つことができるし。だからレーベジェフにとってムイシュキンは資本のようなものですね。レーベジェフは中心にいたい。そしてムイシュキンをコントロールしたい。聖書にはそれをやっちゃいけないと書いてある、唯一自分に与えられた権力、それは自分自身に対する権力だけだと書いてある。ところがレーベジェフは他人に対する権力を望んでいる。だからあなたが行動を組み立てるときはそこから出発しなきゃならない。そうするとまったくちがうことになる。エネルギーも別のものになる。ここであなたは彼〔ムイシュキン〕に何をやろうとしているのか、ということを正確にしてみましょう。あなたは彼に対する権力を持ちたいと望んでいる。だからここでは科白に対し行動は垂直の立場になくちゃならない。すべてのドストエフスキー作品の中の科白はパラドックスによって組み立てられている。例えばアグラーヤ。「あたしこれから笑ってやる。あたしはこれからうんと大声で笑ってやる」とアグラーヤは非常に悲しげに言った、と小説にはある。まさにドストエフスキー。大笑いしてやる、ととても悲しげに言うということ。それがドストエフスキー。まったく反対のことが科白に込められている。われわれはそれを今探しているんだ。ロゴージンが言う。「まだ帰るなよ。俺と一緒に坐っていてくれ。久し振りに会ったんじゃないか」で、公爵が坐る。するとロゴージンが突然「おまえが悪い! おまえが悪い!」というものすごいエネルギーを公爵にぶつけはじめる。パラドックスだ。友情の平和の言葉が穏やかな流れをつくりだすのかと思えば、ドストエフスキーはそんなことはやらない。ロゴージンは公爵をぶちはじめる。壊しはじめる。パラドックス。それがドストエフスキー。この場面でもそういうものをぶつけなくちゃならない。科白に垂直な感じを対抗させる。そんなふうに一致しちゃいけない。しかもそれを強力な、すごいテンポでやる必要がある。芝居全体がおそるべきスピードで進行していかなきゃならない。全員がものすごい情念、ものすごいエネルギーを持っていて、ものすごい戦いがある。難しさもそこにある。どっからそんなエネルギーを持ってくればいいのか? ……レーベジェフはいつもいつも一つのことばっかりやってる。一人一人の貫通行動〔登場人物に一貫性をもたせる行動と行動の連絡〕は一つだけなんだ。」
▼「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その2
http://www.youtube.com/watch?v=QqXaxVmwjlM
「もしも私が〔こういう状況にいたらどういう行動をとるか?〕……、と問えばあなたは非常に具体的にやることになる。いつくかのヴァリエーションが可能だ。でもそれは非常に具体的なものにならざるを得ない、なぜならそれはあなたの「もしも」を通して出てきたものだから。たとえば演出家が「ああ、その二番目のヴァリエーションがいいね」と言う。しかしそれは間違いだ。あなたの行動が具体的になるには、あなた自身の「もしも私が……」を通したときだけなんだ。そのヴァリエーションは他の俳優には使えない。それはあなたの個性、あなただけの行動だから。それが足りないから、われわれは必要以上に時間を使ってしまうんだ。」
▼「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その3
http://www.youtube.com/watch?v=wMz6NSb3TNc
「善良さ、無垢さ、子供らしさ……そういうものは確かにレーベジェフがムイシュキンの中に見出すものだが、まだ具体性がないな。役について非常にはっきりした具体性・正確性が必要な段階にきているんだ。さもないと次のレベルのリハーサルに移行することができない。来週には次の段階のリハーサルをやる。もう科白や形だけにとらわれていては駄目だ。貫通行動について何から考え始めるべきかというと、「何において、あなた〔レーベジェフ〕は自分が貶められたと感じているか」「レーベジェフは何を言って自分が貶められたと感じたのか」それが主要な問題なんだ。そしたらあなたは一つ一つのエピソードでそのことをチェックしよう。抽象的な結論で満足してはいけない。たとえば、他人から評価されないことで傷つく、そんなことは誰にでも当てはまることだ。レーベジェフ=あなたはなにを目指しているのか? そういう問いから始めてもいいが、答えは具体的でなければならないだろう。小説の中でレーベジェフは法律家だ。「分かってますよ、私は私有財産には手をつけませんよ」なんて科白もある。彼はいつも自分の法律の知識を利用している。それどころか彼は聖書の解釈までやっている。そうした要素もレーベジェフという人間について非常に多くのことを語っているのだ。彼はいつも誰かに何かを教えているね。聖書の講釈できるほどに彼は教養の持主だ。社会的な知識、法律の知識とともに、それもまた彼の権力の源だろう。一方、ムイシュキンはそういうことを何も知らないね。さあ、レーベジェフはどこへ向かおうとしているのか?」
- 黒澤明・映画版『白痴』を観た上での、原作長篇の脚色の難しさについての私見
映画版『白痴』(黒澤明監督、1951年公開、166分)
ムイシュキン:森雅之
ナスターシャ:原節子
アグラーヤ:久我美子
ロゴージン:三船敏郎
………………
・駄目だろう、これ。科白がダイジェストみたいだし、人物一人一人も全然ドストエフスキーのキャラクターとは思えない。表面だけ属性として切り取っただけ。あるいは完全に誤読している。リザヴェータ夫人が単なる嫌味な小母さんじゃねーか。エパンチン将軍が単なるサラリーマンじゃねーか。レーベジェフは? イヴォルギン将軍は?
・というか、映画化も演劇化もそもそも不可能なんじゃないか?と思えてくる。どの場面を切り取り、どの登場人物を切って捨てるのか? どういう終わり方にするのか? あまりにも困難な課題が多過ぎる。
・ストーリーの唐突感がやべえ。ダイジェスト風味。
・いや、単に及第点というだけの演技じゃドストエフスキーの登場人物は再現できねーよ。ナスターシャのみならずガーニャやアグラーヤやロゴージンやムイシュキンにさえある性格の分裂性、対人関係における神経質なほどの過敏さ、これさえも全然意識されていない。科白における自意識過剰もない。激しい憎悪や緊張や不安が身体的にあらわれるということがない。身振り手振りが落ち着きすぎなんだよ! もっと科白つっかえてもいいし、興奮してもいいんだよ! 身体性が足りないよ! どんな場面でももっと騒々しく、攻撃的に、あるいは華やかに、優雅にふるまっていい。坐り着かず、もっと立ったまま苛々立ち振舞っていい! 表情だってもっとくるくる変わっていい! なんでこんなに陰気なんだ? なんでアグラーヤがこんな抑鬱的なんだ? 浅薄なメロドラマじゃねーんだぞ。テンポがおかしい。なんでこんなに沈鬱なんだ? なんでこんなに科白と科白の間に思わせぶりな間を空けるんだ? 逆に不自然だろ? 違うだろ! 全然違うだろ! 科白のテンポが違う! 身振りのテンポが違う! ドストエフスキーを再現するための、テンポがなってない。ドストエフスキーを生真面目に「文学的に」解釈しすぎだろう。レーベジェフやイヴォルギン将軍がいないのもそのせいだろう。もっと華やかにやれよ! もっとカーニヴァル感を出せよ!
・とまれ、テンポ-リズムというのは非常に重要な要素だということが分かった。演劇も、このドストエフスキーのテンポをどう再現するかという問題を度外視したら、失敗するだろう。そもそも、劇場の空間に現実の日常的な振舞いのテンポ-リズムを持って来なければならない理由はない。それが自然主義的ということではあるまい。
:アフターミーティングメモ
- (※記憶と殴り書きのメモを元に構成しているので、それぞれの発言者の本意とは懸け離れている可能性があります。何卒悪しからず)
・基本的な解説「今回の『idiot』で用いられたのは1960年代にボリショイ劇場の世界的な演出家ゲオルギー・トフストノーゴフが『白痴』を戯曲化した脚本だが、レオニード・アニシモフ氏はその著作権者に許可を得て、現代の日本で上演するにふさわしいものとして更に脚色を加えたものを用意し、それを元に、数年間の稽古を重ねた。初演は2011年。」
・質問者「俳優のみなさんへ。もとより長篇『白痴』をそのまま舞台化できるはずはないが、この上演では後半がとくに駆け足で、原作のラストまでやりつつもシーンとシーンのつながりがかなり飛んでいた。このとぎれとぎれになったシーン一つ一つに感情を込めて演じるという難しさはなかったのか」/俳優「原作よりも駆け足になっているとしても、シーンの中で使われている科白などは原作そのまま、そこで再現されている感情もほぼ原作そのままという脚色だ。だからわれわれ俳優も、脚本だけでなく原作を読み込みシーンごとの演技を練り上げていくことができた」/質問者「ということは、役作りの方向性としてドストエフスキーの原作のそれにできるだけ近づこうとする方向性と、原作を知らない初見の観客にも伝わるように、上演脚本の内部で完結し表現伝達可能なものとして役作り・演技の細部を練り上げていく方向性があると思うのだが、前者を目指したということか」/俳優「そうだ。それは出演した役者全員そういう方向性を目指していた」
・アニシモフ氏「われわれのやり方では、着想から上演までに長い時間をかける。今回も現代の日本において『白痴』をやろうと決意してから、上演までに三年かかっている。最初の一年はまずは演出家の私自身が原作の小説を徹底的に研究した。その後数ヵ月にわたって、役者たちで原作の小説の読み込んだ。それからじっくりと入念に稽古を積み重ねて2011年の初演に至ったのだ。私としては演出家があまりにも影響力を持ち過ぎているような状況を好ましいとは考えない。演劇の主役は生きた肉体を持つ俳優なのだ、私は俳優を演出の枠に嵌めるよりも、彼らの創造性を成長させ育てていくことの方に興味がある。今回の上演も、二年前の初演のものからさらに進化して、成熟したものをお見せできたと思う。……ところで、私は演劇というものは頭で知的に理解するものではなく、直感的に受け止め味わうものだと思っている。なぜなら演劇とは、生きた俳優と生きた観客の相互作用による感情の芸術だからだ。演劇は知的な芸術ではないし、知的に説明できるものでもない。感情こそが、意識こそが人生だ。人類にとってこの真理は千年経っても変わることはないだろう(私はピーター・ブルックの姿勢に同感する。演劇は言葉では表現し得ないものにまで到達する。目に見えないものを見えるようにさせることできるならば、それが演劇人の醍醐味だ)。……では、ドストエフスキーが『白痴』を執筆していた時の「感情」の本質とはどういうものだったのだろうか? 私の考えでは、彼を捉えていたのは「人の魂を売り買いしているような世の中において、魂の救済は如何にして可能か?」という問いだ。そこから、ドストエフスキー自身の深い慈悲的な精神を形象化したムイシュキン公爵という人物が生まれた。純粋な慈悲の力、そこにこそ人間の力がある。この力には世の中の何物も打ち勝つことができない。それがドストエフスキーの信念だったはずだ。今回の上演の脚本は、ゲオルギー・トフストノーゴフが脚色したものを用いているが、その脚本どおりにはしていない。たとえば元の脚本にはなかった、エパンチン家のリザヴェータ夫人と姉妹たちの前でムイシュキンが哀れなマリイの話をするシーン〔原作第一編第六章〕を加えている。もちろんこれは難しい決断だった、ムイシュキン一人があまりにも長い科白をずっと語りつづけることになる。役者が科白を憶えるのも難しいし、演出プランとしてそこで多くの時間を割くことの可否も考え抜かねばならない。だがわれわれとしてはここでムイシュキンがマリイの話を語ることに、この作品の重要な意義があると考えたのだ。だから挑戦した。もし別の機会に『白痴』を演出するとなったらこうはしなかったかもしれない、たとえばロシアの観客を相手に『白痴』を上演するのだったら、マリイについてのモノローグは入れなかったかもしれない。だが、私は日本の観客にはこの十分に意義を汲み取ってもらえると思ったのだ。『白痴』を舞台化するにあたって現代日本においてアクチュアルなものにできるかどうか、という課題をどこまでも考え抜いたすえの挑戦だった。つまり、今『白痴』を上演するための「超課題」は何か、ということだ。」
・音楽担当後藤氏「東京ノーヴイ・レパートリーシアターとは仕事で長く付合いをさせてもらっている。下北沢の小さな劇場での上演に向けて、一つの作品を数年かけて演出を、演技を練り込んでいくという丁寧なことをやっている劇団というのは珍しく、私自身、東京ノーヴイ・レパートリーシアターと音楽の仕事をさせてもらうときには、そのような丹念な創作のプロセスにきちんと自分を合わせていこうというつもりでやっている。……ところで、原作の長篇『白痴』にくらべて上演脚本が圧縮されているという話が出たが、実は、私が初演を観た時にもこれはストーリーを追うことができるのかどうか、分からないではないか、ということが気になった。だが繰り返し観ていくうちに、これはストーリーが展開していく連続性を追うというのではなく、シーン一つひとつに込められた感情の展開を直に受け取ってそれに身を委ねるという演劇なのではないかと思うようになった。ストーリーを知的に理解したければ、シーンの論理的な意味を理解したければ、小説を読めば済むことだ。それをあえて戯曲にすることによって──原作は十九世紀の小説であり、東京ノーヴイ・レパートリーシアターもチェーホフなどの古典の上演を中心にしている劇団であるにもかかわらず──古典劇でありながら、一種の前衛劇に通ずるような面白さをもったものに仕上がっている。私は普段からストーリーがないような前衛劇もよく鑑賞しているが、それらと並べても存在感を発揮できるような新しさが、原作『白痴』にはあるということではないか。そういう角度からも鑑賞可能だということを、示唆しておきたい。」
:上演中メモ+感想メモ
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・客席明るいまま曲(ヴァイオリンのソロ)、永井一郎のナレーション。後暗転。
・ちなみに、音楽は劇中ほとんど用いられない。ムイシュキンがナスターシャへの愛を語る場面に多少ムード付けに用いられていたくらい。
・レーベジェフ役良い(10日)。
・第一場、ロゴージンの長科白(汽車にのるまでの経緯を公爵に語る)になると照明がロゴージンにのみ当たる。それまではレーベジェフと公爵にも当たっていたのに。ライティングの工夫。ロゴージンの話が終わるとライティングがまた元に戻る。
・ムイシュキンの役は難しい。演技に抑揚がなさすぎるのでは? どんな科白でも一本調子でふわふわ喋っているような印象。
・奇妙な効果音が鳴る中、暗転中に場転。この箇所にかぎらず、暗転の時間は非常に短く、しかもまた明るくなる前にほんの一瞬ストロボライトみたいに舞台が照らし出されるという演出が入る。これのおかげで真っ暗→(準備ができたので)突然明るくなる、という操作が自然になっている。場面と場面のつなぎに快いリズム・軽いインパクトが生まれている。この工夫は面白い。技法的には「フラッシュ・イン」というらしいが。
・(舞台上が結構明るいので客席も明るい。手元が見えるのでメモを取り易い。逆に言うと、始終俺の手元が暗かった劇団ヴィエルシャリンの『マネキン人形論』はやっぱり地明かりをほとんど用いていなかったってことか。)
・舞台美術は、ときに「列車の窓」に、ときに「エパンチン家の扉」に、ときに「リザヴェータ夫人の居間を区切る枠」に、ときに「ガーニャの住居の部屋のドア」に、とさまざまに見立てられることが可能な四角の穴が空いている、大きな一枚板、というシンプルなもの。そこに椅子やテーブルやベンチといったセットが置かれて、また照明の色が変わることによって、長篇小説のストーリーのために必要とされるさまざまな場所が再現されるようになっている、しかも短時間で場転可能。これはかなり計算された工夫だ。
・ムイシュキンが筆記している間(舞台上にしばらく動きのない間)に別に照明等変化させず、エパンチン将軍についての永井一郎のナレーションが入る。なるほど。
・エパンチン将軍の演技、ガーニャの集中力素晴らしい。原作でいうところの第一編第三章の二人の会話部分。エパンチン将軍のもったいらしい、思惑ありげな身振り、坐ったままでも豊富に溢れ出る身振り、坐りながら少しずつ姿勢を変えていく演技、ガーニャに語りかけるときの声の抑揚、素晴らしい!──原作の生き生きとした身体性の描写に負けてない! そしてガーニャも魅力的だ。科白がないときでも(エパンチン将軍とムイシュキンが対話している時でも)ガーニャがガーニャらしく振舞っている、姿勢を細かく変え、表情をつくっている! 確かにガーニャという人物だったらこういう身振り、表情をするだろうという感じ。原作に匹敵するレベルで、この状況でのガーニャの内面の葛藤をよく表わしている。動きのない場面だけに演技の繊細さが印象づよく残るね。このエパンチン将軍とガーニャを観るためだけでも複数回通っていい。(ただ、後から考えると、この場面はまだ脚色による改変の影響をそれほど受けていないので、登場人物の感情の一貫性にチューニングし易く、演技しやすいのではないかと思う。エパンチン将軍もガーニャもここが初登場だしね。)
・ライトを絞って、ナスターシャの写真についての(舞台上一人になった)ムイシュキンの独白。「この人がいい人かどうかは分からない。いい人だったら本当に救われるのに……」。これは難しい。やっぱり原作のムイシュキンとは相当離れたものにならざるを得ない。ムイシュキンももっと落ち着きなく、不安に満ちた、神経過敏な人間のはずだが……なんか矢野顕子みたいな臆面もない無垢な人物、というふうに造型されている。これはムイシュキンの解釈としては違うのではないか。
・ムイシュキン役、笑い声の存在感は面白い。まあ、笑いの演技はリザヴェータ夫人役も含め、流石にみな上手い。
・ムイシュキンのマリヤと子供の話。ここでも多少ライトが絞られる。もっと絞ってもいいくらいだ。リザヴェータ夫人も三姉妹もほとんど身動きせず聞くことになるから。(ムイシュキンの話の終わりぎわに、またライティングはもとに戻る。)
・マリヤと子供の話をしている間、多少ムイシュキンが表情豊かになる。むしろ、ムイシュキンは始終もっと表情豊かでも良いくらいだが。最初からずっと淡い上擦った感じで喋っているのが、ムイシュキンの無垢さを表わす役作りということなのだろうが、原作のムイシュキンはもっと激しい御しがたい人物のはずなんだよな。「ローマ・カトリックは無神論より悪い!」みたいな熱っぽい演説までする男だし。
・ムイシュキンの長話の最中にときおりピーンという効果音が鳴る。これがないとなかなか長話のリズムが持たない?
・死刑台の話ではなくてマリイの話をメインに持って来たのは脚色としてどうか。後の三姉妹の「顔」についての話につなげるためなのだろうが、つなぎ方はもっと工夫できたはずではないか?
・リザヴェータ夫人役、かなり頑張っているけれども、やっぱ原作のあの病的なまでの癇性の感じは出ていない(両日)。話すテンポももっと早くていいはずだが、やはり黒澤明映画版『白痴』と同じで、肝心のところで演技にタメが入って、もったいらしくなって、重くなって、ドストエフスキーの原作のテンポから外れてしまう。まあ、元の脚本の問題もあるだろうが……。
・アグラーヤもこんなに嫌味っぽい、とげとげしいトーンの人物ではないと思うが……。
・逆に、フェルディシチェンコ役の演技のテンポは少し早過ぎるかも。フェルディシチェンコの奇妙さというのはよく出ているが、もっと練り込めるはず。
・舞台装置はほとんど変わらないのに、照明の色の変化だけでエパンチン将軍家からガーニャの家へ移ったことを表現する工夫。
・イヴォルギン将軍役は素晴らしい、面白い! ここしか出番がないのが残念だ(10日)。
・ここでロゴージンがガーニャのいかさまを糾弾することが非常に重要なことであるかのように流れが作られているのだが、これ、原作では、ロゴージンのことを知らない振りをするガーニャへのちょっとした嫌味程度の科白にすぎなかったはず。それがロゴージンの独壇場のシーンのように演出されているのは、どこかちぐはぐに感じる。
・ナスターシャ役はやっぱり難しい。
・原作第一編第九章〜第十章にあたるシーンは、ガーニャ宅にナスターシャが闖入した上にやがてロゴージンまでやってくる、最初のカーニヴァル的な群集シーンだが、……この演出プランはどうだろうか。ナスターシャが喋っている時には他の全員が棒立ちで神妙に聞き入るという趣きで、カーニヴァル感・ポリフォニー感が全然ない。フェルディシチェンコの滑稽な合いの手も、この場面のフェルディシチェンコ役の人の身体に躍動感がないので散発的なものにとどまる。コーリャだってここではもっとやきもきして、はしゃぐはずなんだ。また、脚色としてイヴォルギン将軍とナスターシャの対面を削ったのは不味いだろう、これがないとガーニャにどんどん屈辱感が鬱積していくというプロセスが飛ばされて、ガーニャが公爵を殴る場面に説得力がでないじゃねーか! というか、俺たちのヒーローことイヴォルギン将軍の最初の活躍場面を削るなよ! せっかく『白痴』を戯曲化しているのに、この脚色は駄目だと思う……。俳優の方々は頑張っているのに、その努力を活かすような脚色になっていない。ロゴージンの一団が入ってきてからも全体的なテンポが遅い。とくにナスターシャとロゴージンのやりとりなんかもっと丁々発止の感じでよいはずなんだが、ナスターシャの始終思い詰めたように軽蔑の色をにじませる動きのない演技のせいで、沈鬱な感じになってしまっている(ただし、ロゴージンを煽りに煽ってついに「えい、そんなら──一億だ!」と言わせるところのナスターシャは、上手く科白を補足している丁寧な脚色も含めて、見応えある(11日)。部分部分では、ほんとうに惹き込まれるんだよな)。もっと彼女の身振りには華やかさがあってよいはずなんだが。もっとナスターシャは落ち着きのない女のはずだ。だからこそ、公爵の振舞いに打たれて突然、《急激なテンポで》態度が変り、「私はほんとうはこんな女ではございません」とつぶやいてニーナ夫人に接吻し、途端に顔を赤らめて(態度急変の反動)、すぐに客間を飛び出してしまうのだ。……ムイシュキンがガーニャに殴られるクライマックス場面は、原作では以下の通り。
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ガーニャは眼の前が暗くなってしまった。彼はすっかり前後を忘れ、満身の力をこめて、妹めがけてさっと片手を振りあげた。その拳骨は間違いなく妹の顔に当たるはずだった。と、ふいにもう一つの腕が、すばやくガーニャの手を宙でおさえた。
彼と妹とのあいだには公爵が立っていた。
「いいかげんになさい、もうたくさんです!」彼は押しつけるように言ったが、彼もまた恐ろしい内心の動揺のために全身を震わせていた。
「おい、きさまどこまでもおれの邪魔をしようというんだな!」ガーニャはワーリャの腕を放して、ほえるように叫ぶと、極限にまで達した怒りにもえて、その自由になった腕で、力いっぱい公爵の横つらをはりとばした。
「あっ!」コーリャは思わず手をうった。「あっ、たいへんだ!」
おどろきの叫び声が四方からおこった。公爵の顔はさっと蒼ざめた。彼は奇妙ななじるような眼差しで、じっとガーニャの眼を見すえた。その唇は震えながら、何か言いだそうとあせっていたが、ただ奇妙なとってつけたような微笑に怪しくゆがむばかりだった。
「ええ、私ならかまいません……でも、ワーリャさんには……どんなことがあってもゆるしませんよ!」ようやく彼は静かにつぶやいた。しかし、ふいに耐えかねたのか、もうガーニャをそのままほうりだして、両手で顔を覆いながら、片隅へ退き、壁に顔をむけたまま、とぎれがちの声で言いだした。
「ああ、あなたはきっと自分のしたことをとても恥ずかしく思うようになりますよ!」
ガーニャはまったく打ちひしがれたように、茫然と立ちつくしていた。コーリャは駆けよって公爵に抱きつき、接吻をした。少年につづいてロゴージン、ワーリャ、プチーツィン、ニーナ夫人が、いや、将軍までが、みんなあらそって彼のまわりにどっと集まった。
「なんでもありません、なんでもありません!」公爵は相変らずとってつけたような微笑を浮べたまま、左右をふりむいてつぶやいた。
「そうさ、後悔するに決ってるさ!」ロゴージンがどなりだした。「ガンカ、きさまよくも恥ずかしくねえもんだな、こんな……小羊みてえなもんを(彼は別の言葉を考えつくことができなかったのである)いじめやがって! 公爵、おれの大好きな公爵よ、こんなやつらはうっちゃって、唾でもひっかけりゃいいんだ。さあ、いっしょに行こうじゃねえか。いまにわかるだろうが、このロゴージンはおめえさんにほれこんじまってるんだから」
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「おどろきの叫び声が四方からおこった」「みんなあらそって彼のまわりにどっと集まった」というほどに騒々しくはちゃめちゃに動きのある場面──ほとんど多人数での大道芸に近いほどに!──なのに、上演ではガーニャとムイシュキン以外ほとんど動きがなかったのが残念。ガーニャの動きも、エパンチン将軍との会話場面に比べると素っ気無いものになっており、原作の描写の生彩には太刀打ちできていない。というかこの場面全体の演出プランがおかしい。ナスターシャが現われてからずっとテンポが抑鬱的になっているんだよな。どう考えてもこれはドストエフスキーの躁病的なテンポとは違う。もっとカーニヴァル的でないと……もっと舞台上の人物全員の身振りに躍動感がないと……。科白を喋りながらでも落ち着きなく身振りが溢れ出るのがドストエフスキーの登場人物だろ?(また、引用部を見ても分かるように、ムイシュキンはもっと動揺し易い、表情豊かな人物でなければならない。無垢=朴訥とした男、というようなステレオタイプは役づくりにおいて打破するべきだったろう。もっと彼の激しく御しがたい部分、不安に燃えて衝動的な部分を出していかなければ……『白痴』のモティーフそのものがつまずいてしまう。上演では、ガーニャに殴られても依然として大人しくしているムイシュキン、という演技になっていた。つまり上の引用の──「しかし、ふいに耐えかねたのか、もうガーニャをそのままほうりだして、両手で顔を覆いながら、片隅へ退き、壁に顔をむけたまま、とぎれがちの声で言いだした。『ああ、あなたはきっと自分のしたことをとても恥ずかしく思うようになりますよ!』」──の部分に相当する、自分の内の御しがたいものを堪えているようなムイシュキンの激しさは、まったく見られなかった。その解釈はやはり違うのではないか。)
・そもそもナスターシャ・フィリポヴナという役自体が演じるのが難しい。内面のモノローグと外面とがほとんどつねに分裂しているような人物を演じるには、かなりの役の研究・分析が必要だろう。本心が二重にも三重にも屈折している。自分でも自分が何をやっているのか分かっていないかのような子供っぽささえある。ちょっとでも深みやデリケートさに欠けると、単に一面的なヒステリックなヤンキー女みたいになってしまう(エパンチン将軍はナスターシャに向かって「あなたのようにデリケートで、やさしい気持を持っているかたが!……その口のきき方、その言葉づかいはどうしたのです!」と言うのだが、実際にそのようなデリケートさや優しさを秘めている女性として演じなければならない、外面の言葉づかいとは別様に。これは相当難しい課題だ。ただその人物の感情や行動に一貫性を見出すというだけでは駄目だ。さらに人生のすべてを賭けてでもナスターシャ・フィリポヴナという人物を徹底的に理解しようとしなければならない。これはロゴージン、ムイシュキン、アグラーヤ、ガーニャについても言える)。……残念ながら、劇中、アグラーヤと同程度に原作からもっとも乖離しているのがナスターシャ役だと言えるだろう。主に脚色の適当さのせいなのだが……。
・トーツキイは意外と雰囲気出てるな。原作でも単なる漁色家じゃないからな。でもやはり脚色においてトーツキイの描き込みが圧倒的に足りない。これじゃナスターシャのトーツキイに対する感情が単なる「軽蔑」程度にとどまってしまう。「軽蔑」を口にしながらも彼女の内では別の感情も動いているというのが真相で、だからこそナスターシャはムイシュキンに感化されうる素朴さをもった女性だということになるのだが。
・やっぱバフチンの「カーニヴァル」「ポリフォニー」概念っていうのは慧眼だったと言うしかない。少なくともそれを壊してしまうとドストエフスキーの本質から離れてしまうというのは今や自明だと思う。原作では第一編第十六章に当たるクライマックスの群集シーン、ここも、上演中ナスターシャの科白に集中するときだけどうしてもモノフォニックな独壇場のアリアのような感じになってしまって、ポリフォニー感が出ない。ナスターシャが喋るとみんな神妙に拝聴しているし(各々がその場にいあわせているという興奮を演じ切れていない!?)、ナスターシャの科白のテンポも遅い(普通の演劇のリズムになってしまっている。チェーホフとか)。テンポが遅い、というかテンポが普通すぎるので、声の怒りっぽい・とげとげしい強勢だけでドストエフスキー的な科白の抑揚をつけざるを得なくなっており、苦しい(あまりに平面的)。この第十六章の幕切れは原作では以下のようだが……
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「気絶だ!」まわりで叫ぶ声がおこった。
「奥さま! 燃えてしまいますよ!」レーベジェフは悲鳴をあげた。
「みすみす燃えてしまうんだ!」四方からうめき声がおこった。
「カーチャ、パーシャ、この人にお水を、それから気つけ薬を!」ナスターシャ・フィリポヴナは叫んで、火かき棒を取って、紙包みをつかみだした。
外側の紙はほとんど焼けただれていたが、中身はすこしもいたんでないことがすぐわかった。紙包みは新聞紙を三重にくるんだものだったので、金は無事であった。みんなはほっとして息をついた。
「たったの千ルーブルくらいは少々いたんだかもしれないけれど、あとはみんな無事ですぞ!」レーベジェフは感動して叫んだ。
「これはみんなあの人のものです! この包みはすっかりあの人のものですよ! いいですね、みなさん!」ナスターシャ・フィリポヴナは、包みをガーニャのそばへ置きながらきっぱりと言った。「やっぱり、取りにいかなかった、我慢できたのね! つまり、自尊心のほうがまだお金の欲よりも強いということなのね! なに、大丈夫よ、いまに気がつきますよ! もし気絶しなかったら、きっとあたしに斬ってかかったでしょうよ……ほら、もう気がつきかかったようよ。将軍、プチーツィンさん、ダリヤ・アレクセーエヴナ、カーチャ、パーシャ、ロゴージン、ね、いいですか? この包みはあの人のものですからね、ガーニャのものですからね。あたしはご褒美として、あの人に完全な所有権をあげるんです……ええ、それから先はどうなろうとかまやしないわ! あの人にそう言ってくださいね。あの人のそばへ置いとけばいいのよ……ロゴージン、さあ、出発よ! さようなら、公爵、生れてはじめてほんとの人間を見ました! さようなら、トーツキイさん、merci!〔ありがとうございました!〕」
ロゴージンの一団は、ロゴージンとナスターシャ・フィリポヴナのあとを追って、騒々しい叫び声をあげながら、いくつかの部屋を抜けて、出口のほうへ駆けだしていった。ホールで小間使いたちが彼女に毛皮外套を渡した。料理女のマルファも台所から駆けつけてきた。……
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このようにここで原作のナスターシャは思い切りよく、ほとんど躁病的なテンポではしゃいでおり、しょっちゅう語りかける相手を変えるほどの目まぐるしさで、クライマックスの頂点での科白もおそろしく疾走感を帯びている、はずなのだが、上演ではこの「公爵、生れてはじめてほんとの人間を見ました」という言葉は出て来るものの、ムイシュキンとの静かな別れ際みたいな抑鬱的な場面になっていた。これもやはり、違うだろ、というしかない。
・なんというか、普通の悲劇になってしまっている。どうも、一昔前の(バフチン以前の)ドストエフスキー解釈を見せられているというような趣きだ。つまり、内なる声の対話のないモノフォニックな悲劇。シェイクスピアならこの方向性でかまわないのだろうが、ロシア・アヴァンギャルドにも影響を与えたドストエフスキー作品は本質的に別の解釈を要求するはずだと思う。
・ところで、10日と11日のナスターシャを比べると、後者の方が科白、身振りのテンポが若干早い。そしてその方が全体としても良いと思う。中心にいるナスターシャのテンポが上がっているせいで、群集シーン全体の騒々しさが変わってくるから。もともと原作ではナスターシャは相当不安で落ち着きがない人物なので、大物ぶった、抑制的な演技のテンポはそぐわないのだ。ただし、ナスターシャが感情をむきだしにするクライマックスあたりでは、逆に、テンポの早さにテンションの変化の急激さが相俟って、科白が怒声でつぶれてしまっている。ちょっとガーガー言い過ぎ(ここは10日のナスターシャの方が聞き易かった)。
- ・脚色についていえば、前半の二時間で原作の第一編をやり、残りの一時間強で第二編〜第四編までを駆け足でやるという構成で、一応ロゴージンがナスターシャを殺す(そして死体の側でムイシュキンとロゴージンが一夜を明かす)ところまでやるわけだが、この構成に、「長篇『白痴』の終わりまで上演可能にしました」という以上の目論みがあるのだろうか。この構成で、どういうテーマが一貫して描かれたということになるのだろうか。ロゴージンとムイシュキンの奇妙な友情も、アグラーヤとムイシュキンの恋愛も、ほとんど説得力のないまま演じられるということになってしまうじゃないか、この構成では。「『白痴』の名場面はちゃんとお見せしますよ」という意図以外の、どんな目論みがあるっていうんだ、この構成で? うーん、この脚色には納得できない。というか「監修:加賀乙彦」は何やってんだ?
・本当にドストエフスキーの作品を、戯曲として、原作と同じようにインパクトの強い芸術作品として現代において上演するなら──やはりただ上演可能にしたという以上の、意図を込めた新たな脚色が必要なのではないか?ということを感じる。
・俺の個人的な意見だと、『白痴』を戯曲化するなら第一編だけの内容だけでいい。たった一日の出来事におさまるし。アグラーヤが脇役にとどまってしまうが、それはそれで諦めるべき(その代わり、ガーニャ、トーツキイ、イヴォルギン将軍、ワーニャ、コーリャの人物像をさらに描きこむべき)。すでにこの脚色ではイポリートという重要人物を切っているのだから問題ないだろう。
- ・さて、十五分の休憩を挟んで第二部。ロゴージンが神に祈っている? 原作にはない場面。
・第二編第三章〜第四章の公爵とロゴージンの対話場面だが……ロゴージンってこんなに怒りっぽくて下品にがなり立てるような男だったっけ? 今にも「べらんめえ!」とでも啖呵切りそうな田舎者っぽさ。原作はこんな感じのはずだが……
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「あれの言うには、『あたしはいまとなってはあんたを召使にだって使いたくないわ、ましてあんたの女房になるなんてとんでもない』だとさ。そこでおれは、『そんなら、おれはもうここから出ていかないぞ、一か八かだ!』──『あたしはいますぐケルレルを呼んで、あんたなんか門の外にほうりだしてやるから』とぬかすじゃないか。おれはあいつにとびかかって、あざができるほどひっぱたいてやったよ」
「そんなばかなことが!」公爵は叫んだ。
「あったのさ」ロゴージンは静かではあったが、眼をぎらぎら光らせながら答えた。……
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もっと自棄的に静かに絶望しているような男のはずだが。それでいながら、科白のテンポはもっと早い方が相応しいだろう。科白と科白とに間をあけてそこで観客を集中させようとするせいで、演技が却ってミニマムになってしまっているようだ。やはりこれも、ドストエフスキーっぽくないんだよな。
・レーベジェフ役の人はやはりいいね! 身振りが素晴らしい(10日)。
・リザヴェータ夫人役の人も頑張っているけれども、ブルドフスキーのエピソードをすっとばしたので、なぜリザヴェータ夫人やアグラーヤが公爵にここまで執着するのか、やはり伝わりにくくなっている。
・この脚色で一番割を食っているのがアグラーヤだろう。前半の二時間で第一編を描き、残りの一時間で第二編〜第四編を駆け足でやらなければならないために、公爵に恋をするアグラーヤを、なんとか説得持たせようとしてまったく支離滅裂な性格にさせられている。『哀れな騎士』の詩を朗読する箇所(原作第二編第六章〜第七章)では、原作ではもっともったいぶった、不遜ながらも一筋の真面目さが通っているような態度のはずだが、上演ではやたら必死で公爵に対する執念を抱えている女性、みたいな一面的な態度になっている。ここまで原作から乖離させてわざわざラストまでを戯曲化する必要あったのか?という疑問が湧く。脚色から要求される演技をこなしている俳優が悪いのではなくて、もちろんこれは脚色そのものに問題があるということ。
・アグラーヤでさらに問題なのは、原作第三編第二章に当たる「なんだってみんながみんな、このあたしをいじめるんです? 公爵、なんだってこの人たちはこの三日間というもの、あなたのことでうるさくあたくしにつきまとうんでしょう? あたくしはたとえどんなことがあっても、あなたとなんか結婚しませんからね! いいですか、たとえどんなことがあっても、……」の科白を言う場面。上演では泣きながら科白を言うという演技になっていたが、これはほとんど感情として理解不能じゃないか。たしかに原作でも「そう叫ぶと、アグラーヤは思わず苦い涙を流し……」とあるが、泣きながら科白を言ったわけではないし、これはむしろアグラーヤの子供っぽい自意識過剰が空回りしている滑稽な場面のはずなので──だから直後にアグラーヤは突然態度を変えて、公爵に向かって「たたきつけるように大声で笑い」だすのだが、上演ではひどく湿っぽい、沈痛な愁嘆場になってしまっている。かと思うと突然彼女が笑い出すという支離滅裂な行動がつづくのだから、感情の一貫性がまるでない。役者はこれをどんなつもりで演じていたのだろう? また演出家はこの部分にどういう方向性を見出していたのだろう?
・その後もアグラーヤは、公爵と会話して単に粗暴でとげとげしい女性になったりと、さまざまなエピソードを省かれて、充分に人物像を伝え切れる脚本になっていないせいで、ひどく平板な登場人物になってしまっている。イポリートとの絡みが省かれているのも痛い。彼女の気質をよく表わす「ところで、あなたのやり方は、どうもとてもよくないことだと思いますわ。あなたがいまイポリートをながめていらっしゃるように、人間の魂をながめて批評するなんてことは、とてもぶしつけなことですわ。あなたにはやさしい心づかいというものがありませんのね。ただ真理一点ばりで──そのために、不公平ということになりますわ」などの含蓄のある科白も使えなくなっている。ともかく、アグラーヤを演じて単にとげとげしくなってしまったり、ナスターシャを演じて単に嫌味ったらしくなってしまうのは、いけない。(じゃあ、どう演ずるのが正しいのか? 難しい問題だ……)
・また、終わり近くの対決的対話場面、ムイシュキン、ロゴージン、アグラーヤ、ナスターシャの四者四様の場面でも、とくに女性二人は一面的な演技になってしまっている。スタニスラフスキー・システム的に言うと、あそこでアグラーヤもナスターシャも内面のモノローグでは全然別のことを考えているわけ。アグラーヤは勝ち誇ったように興奮してまくしたてながら、実際には最初から不安に怖じ気づいていたのだし(「とうとう彼女は口を開いたが、それはおそろしく小声で、しかもこんな短い文句のなかで二度までも言葉を切ったほどであった」)、ナスターシャの方も勢いよく攻撃的な文句を相手にぶつけながら、それが虚勢にすぎないと自分でも完全に理解している(「どうやら、彼女はこのような自分のから威張りを、露ほども信じてはいないらしく、またそれと同時にせめて一秒間でもこの瞬間をのばし、自分を欺いていたいと望んでいるようであった」)。だからこそ二人とも過敏で不幸な女性として同情に値するものとして読者に理解されるのだが、このように一面的な演技だと、二人とも単に嫌なヤンキー女にしか見えないじゃないか。……さらに、この場面でたとえばアグラーヤが(坐ったまま)なぜかナスターシャに教師が教え諭すかのように小利口な気取った声で始終話し掛けているのは、やはり違和感しかない。ここは第一編のクライマックスと同程度に、もっと華やかで、リズミカルで、生き生きとして、丁々発止としたやりとりにしなきゃならないのに……このアグラーヤの噛んで含めるような言い方が、完全にテンポを殺している。そのせいでナスターシャの応答も含めて、非常にモノフォニックなやりとりになってしまっている。ゆっくりと間を取って、怒声の強勢で科白の抑揚をつくって……まあ、しんみりして、普通の悲劇っぽいということだが……ドストエフスキー的ではない、絶対に。アグラーヤが出て行く場面も、こんなにもっさりしていたらおかしい。原作では以下のとおり、切迫した動きに満ちた場面だ。
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彼女もアグラーヤも、何か待ち受けるように立ちどまって、二人ともまるで気ちがいのように公爵の顔をじっと見つめていた。だが、ひょっとすると、彼にはこのいどむような言葉がどんな力を持っているのか、よくわからなかったのかもしれない。いや、たしかにそうと断定してもいいくらいであった。彼はただ自分の眼の前に絶望的なもの狂おしい顔を見たばかりであった。それはかつて彼がアグラーヤに口走ったように、一目見ただけで《永遠に胸を突き刺された》ような気持になる顔であった。彼はもうそれ以上耐えることができなかった、哀願と非難の色を浮べて、ナスターシャ・フィリポヴナを指さしながら、アグラーヤにむかって言った。
「ああ、こんなことがありうるでしょうか! だって、このひとは……じつに不幸なひとじゃありませんか!」
しかし、アグラーヤのものすごい視線に、射すくめられて、彼に言うことができたのは、ただこれだけであった。その眼差しにはじつに多くの苦痛の色と、それと同時に無限の憎悪の色があふれていたので、彼は思わず両手を拍って、叫び声をあげながら、彼女のほうへ飛んでいった。だが、もう手遅れだった。彼女にはたとえ一瞬間でも、彼の逡巡が耐えられなかった。両手で顔をおおいながら、『ああ、どうしよう』と叫ぶや、いきなり部屋からとびだしてしまった。彼女のあとを追って、ロゴージンが往来へ出る扉のかんぬきをはずすために駆けだしていった。
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・ラストシーンもかなり評価が難しいだろう。ここに至るまでにロゴージンとムイシュキンの奇妙な友情が十分に描かれてきたとは言えないからだ。とくに第三編第三章に結構重要な二人の会話場面があるのだが、それはもちろん脚本から省かれてしまっている。原作では奇妙なほどに感動的な、友情の契りとさえ思える、ナスターシャの死体を誰の邪魔も入れずに自分と公爵の二人っきりで守っていようじゃねえか、というロゴージンの提案と、それに対する公爵の熱っぽい答えも──常識で考えたらさっさと警察に通報すべきで、ここで公爵がロゴージンの共犯のように振舞うのは異様なのだが、原作ではずっと二人の奇妙な関係を描きつづけてきたので公爵の振舞いに必然性が出て来ている──、上演ではさらっと、単なる科白のやりとりとして流されてしまったね。いや、もう、ここまできたらこういうふうに演じるしかないし、ここで必要とされているものとして俳優の二人が形象化していることは、十分正しいことなのだが(最後、ロゴージンの大声で切れ切れの狂ったような笑い声で終わらせるのも、この長い戯曲を締めくくるにあたっては、これしかないというようなものだった)……原作の緊迫感と比べてしまうと、やはりユルいと感じられるのはやむを得まい。
- ・結局、ダイジェストで長篇『白痴』を三時間の戯曲に詰め込もうというのがそもそも無理があるということだろうか。しかし『白痴』の上演が失敗を運命づけられているとは思わない。たとえば第一編の出来事だけにフォーカスして、内容をもっとソリッドにすれば十分完成度の高い戯曲になると思うのだが。
・第一編の内容にそこそこ時間を割いている今回の脚色でも、公爵の死刑囚話や、イヴォルギン将軍とナスターシャ・フィリポヴナの対決(原作第一編第九章。これがあるからこそガーニャの恥辱が鬱積していく)、さらにはムイシュキン侯爵とガーニャが二人きりで話す場面(原作第一編第十一章。ここでガーニャが本質的にどんな人物で、ナスターシャをどのように見ているかが伝わると同時に、クライマックスで公爵が「ガーニャと結婚してはいけない」と思わず口走ってしまう伏線にもなっている)、またさらにナスターシャとトーツキイの過去の経緯の詳しい説明(原作第一編第四章。これがないとナスターシャが何に苦悩しているかよく分からない)、そしてナスターシャの住居での夜会における、トーツキイのアネクドート(原作第一編第十四章。ここでナスターシャはトーツキイの懺悔を期待していたのだが──その期待がかなえられればおそらくトーツキイを許すつもりでいたのだろうが──トーツキイが語ったのは単に如才ないユーモラスな過去話だった。これによってナスターシャの自棄的な態度が加速する)、等々、省かれているものが多すぎて、やはり前半クライマックスの夜会の場面がいまいち盛り上がりに欠ける。というか、むしろ長篇を最初から最後まで戯曲化するのではなくて、第一編のクライマックスをきちんと演劇として盛り上げられるかどうかだけを課題として戯曲化すれば、十分傑作が出来上がると思うわけだ。
・そして第二編〜第四編を駆け足で戯曲化した後半の一時間強は、俺の場合、むしろ原作を読み込みすぎているからこそ違和感がひどかった。たとえばアグラーヤVSナスターシャの最終対決に至るまでもかなり紆余曲折あるわけで、それをすっ飛ばしてあの対決シーンの演技に迫真性を持たそうとしても、ほとんど無理だろう……。ナスターシャの代わりに公爵が殴られる場面や、ベロコンスカヤ夫人に花婿候補として紹介される時に花瓶を割るシーン(最終対決の直前だな)もすっ飛ばしてるからな……。ナスターシャのアグラーヤ宛ての手紙の話題もかなり唐突になってしまっているし。アグラーヤ役の人は相当大変だったろう。
・さらに加えて、気になったのは、舞台美術。上でも触れたように四角い穴の空いた大きな一枚板を照明の工夫でさまざまな背景に見立てて、長篇小説中の数々の場面を再現するということをやっている。で、一枚板なので、基本的に舞台上の空間は手前と奥(板の前と、板に空いた四角い穴から見える奥)という関係性しかない。つまり紙芝居のようにあえて奥行きを殺した、二次元的な印象になっており、立体性を感じさせるところがない。動きの構図もほとんどが直線的で、曲線、あるいは円の動きを感じさせるようなシーンはまったくなかった。これはやはり、ドストエフスキーのあのしっちゃかめっちゃかしたカーニヴァル的な、ポリフォニックな小説空間を再現するには向かない舞台美術ではないだろうか? もっと舞台空間を立体的・複層的に用いて、群集シーンももっとバランスの崩れた、ランダムな印象を与えるようでなければならなかったのではないか?
・あと、永井一郎のナレーションもいいのだが、やはりドストエフスキー作品は語り手の位置づけが特異だから、それをも忠実に再現するようなスタイルを何か創出できなかったのだろうか。ストレート・プレイにこだわるにしても、やはり語り手の不在は違うのではないか。劇団ヴィエルシャリンのブルーノ・シュルツの翻案、『マネキン人形論』のような成功例もある。観客に語りかける存在でありながら、役の一人でもあるという設定はあり得なかったのか。むしろ観客を目の前にしているという演劇の特性(演劇に第四の壁はない!)を活用していくべきではなかったか。ドストエフスキー作品なら『賭博者』や『未成年』や『地下室の手記』(主人公=語り手)の戯曲化からまずは目指すべきではなかったか。……
・最後に、重ねて言うが、今回の上演でのムイシュキンの造型は個人的に「これじゃない!」と痛切に感じる。原作から引こう。「どうぞ聞いてください! 私もおしゃべりするのがよくないことは知っています。むしろいきなり実例を示したほうがいいのです。いきなりはじめたほうがいいのです……私はもうはじめました……それに……それに、はたして不幸に陥るなんてことがありうるものでしょうか? ああ、もし私に幸福になりうる力があれば、いまの悲しみや災難などはなんでもありません! 私は一本の木のそばを通り過ぎるとき、それを見ることによって、幸福を感じない人の気持がわかりかねます。人と話をしながら、自分がその人を愛しているのだという想いによって、幸福を感じずにいられるでしょうか! ああ、私はただうまく表現することができないのですが……すっかり途方にくれてしまった人でさえ、これはすばらしいなと思うような美しいものが、至るところにころがっているではありませんか。赤ん坊をごらんなさい、神々しい朝焼けの色をごらんなさい、育ちゆく一歩の草をごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたをいつくしむ眼をごらんなさい……」──こんな科白を夢中になって口走る男こそ、ムイシュキンだ。この激しさと空恐ろしい真剣さが彼の身上だ。ムイシュキンが慈悲深いとしてもそれは苛烈な、人によってはそれを度しがたいと思うほどに過剰なものなのであって、それは素朴な善良さや謙虚な態度とはかならずしも調和しない。「哀れなマリイ」のエピソードだって、マリイの顔を見つめていたムイシュキンのその眼が、同時に、死を前にした死刑囚の測り知れない動揺をもありありと見つめていたという不気味さで裏打ちされないと、単に感傷的な話に堕してしまう。ドストエフスキーが『白痴』の創作ノートに記した「謙虚さとは、この世に存在しうる最も怖ろしい力だ!」という言葉を、なにかヒューマニズムの勝利宣言のように受け取って、ムイシュキンをあまりに無害な人物として形象化してしまうのは、ドストエフスキーの本質にはそぐわない。むしろこの言葉は「謙虚さとは、この世に存在しうる最も“残酷”な力だ」というふうに、ヒューマニズムを破断するレベルで読むべきだ。俺はそう考える。
・言葉だけ劇的でも駄目だということ。ドストエフスキー作品を戯曲化するなら、作品全体のリズムとして悲劇でありながら沈鬱なものを打破する何かがなければならない。