- 【主体の裂け目】
バーバーマスとフーコーとは同じ一枚のコインの裏表だ。
ハーバーマスに見出されるのは壊れていないコミュケーションの倫理であり、普遍的で透明な間主観的共同体という「理想」である。
フーコーの場合は普遍的倫理からの離脱があるが、その代わり各主体はいっさいの普遍的な規則の支えなしに自分なりの自己制御の様態を打ち立てることになる。いわば倫理の審美化だ。このフーコー的な主体概念がエリート主義的な伝統に属していることをわざわざ指摘する必要があるだろうか。この概念に最も近いのは、自分の人生を芸術作品に創り上げる「万能人」というルネサンス的理想だろう。
これらの古典的な主体概念に真の断絶をもたらしたのはアルチュセールだ。アルチュセールのテーゼは、人間の条件を特徴づけているのは裂け目・亀裂・誤認であるということであり、イデオロギー的誤認こそ主体という効果を生み出す構造的メカニズムだということである。
主体は、イデオロギー的大義の呼びかけにおいて呼びかけられているのが自分であることを「誤認」するのだが、このイデオロギー的問いかけの過程は必然的にある短絡を含む。例えば、「プロレタリアとして問いかけられても不思議ではない。きみはプロレタリアなんだから」という短絡である。「きみは…」と呼びかけられたとき、自分のことだと思い込んでしまう経験。 - 【ポスト・マルクス主義】
伝統的マルクス主義においては、地球規模での解決-革命が個別の問題すべての解決の条件だった。賃上げを求める労働者、女性の権利を求めるフェミニスト、自然破壊に反対するエコロジスト、政治的自由を求める民主主義者──伝統的なマルクス主義者は彼らに対し、彼らの直面する問題の真の解決は、社会関係が「資本」に支配されているかぎり不可能だと主張する。つまり社会関係が資本に支配されているかぎり、労働者は搾取されつづけ、男女の間には性差別が存在し、政治的自由が停止される危険があり、つねに自然は破壊されつづけるというわけだ。それらの問題を根本的に解決できるのは世界革命だけである……。
言うまでもなくポスト・マルクス主義の思想はこうした論理と決別した。ポスト・マルクス主義は、労働者の闘争、フェミズムの闘争、民主主義者の闘争、エコロジストの闘争──それぞれの個別の闘争の還元不可能な複数性を強調する。すべての問題の全面的な解決はあり得ない。
ラカン派精神分析はポスト・マルクス主義のさらに先を行く。ラカン派精神分析は、この闘争の複数性そのものを、同じ-不可能な-真の核に対する複数の反応として捉えるのだ。その真の核とは、「死の欲動」という根源的否定性の次元である。フロイトによれば、人間の心的装置は、快感追求や自己保存や人間と環境の調和といったことを超越した、反復の盲目的な自動運動に従う。人間は死の病に冒された動物である。「死の欲動」は人間の条件そのものを定義づける。解決はあり得ないし、われわれはそれから逃げることもできない。
すべての人間の「文化」はこの外傷的な核に対する反動形成と言っていい。文化とは、死の欲動を制限し、水路をつけ、育て〔cultivate〕ようという試みである。その目的は根源的対立を廃絶することではない。それどころか逆に、それを廃絶しようという希求こそが、まさしく全体主義の誘惑なのだ。最悪の大量殺人やホロコーストはつねに、調和にみちた存在としての人間の名において、対立も緊張もない「新しい人間」の名においてなされてきた。
エコロジストそのものが自然の傷なのであり、自然状態に戻ることなどできない。フェミニストにとって男女の関係はその定義からして不可能であり、対立は解消されない。民主主義者にとって政治はつねに腐敗や凡庸な支配の可能性を招き寄せる。多少なりとも我慢しうる暫定的な解決の土台は、この根本的対立・根源的行き詰まりを受け入れることだ。
実は、このような対立認識の最も一貫したモデルを提供したのがヘーゲルである。ヘーゲルにとって弁証法とは、克服の過程の物語なのではなく、そうした企ての失敗に対する最終的な同意だった。「絶対知」とは、矛盾をすべての同一性の内的な条件として最終的に受け入れる主体的立場を指している。われわれは、ヘーゲルをラカン派精神分析に基づいて読み直すことによって、ヘーゲルこそ最初のポスト・マルクス主義者だったと主張したい。
そして、ヘーゲルの遺産をラカン的に読むことによって、イデオロギーに対する新たなアプローチが開ける。われわれはいかなるポスト・モダニズムの罠(たとえば、「われわれはポスト・トゥルースの時代に生きている」といった幻想)にはまることなく、現代のイデオロギー現象を理解することができるはずだ。 - 【無意識的/性的欲望】
ラカン曰く、「症候」という概念を最初に考え出したのはカール・マルクスである。
マルクスとフロイトの解釈技法、商品の分析と夢分析とは根本的に同じものだ。どちらの場合も肝心なのは形態の背後に隠されている「内容」ではなく、形態そのものの「秘密」である。夢を理論的に考察することは、夢の顕在内容からその隠された潜在内容を起こすことではなく、どうしてその潜在内容が夢という形態に翻訳されたのか、という問いに答えることだ。商品の場合も同じだ。重要なことは商品の潜在内容──つまりそれを生産するのに費やされた労働量によって商品の価値が決定されるということ──ではなく、どうして労働が商品価値という形態をとったのか、を説明することだ。
夢のフロイト的な解釈が「なんでもかんでもセックスと結びつける」という非難を浴びてきたことは周知の通りだ。しかしこの類の批判は、夢の中に作用している無意識的欲望と、「潜在思考」すなわち夢の意味とを、同一視している。実際にはフロイトがくり返し強調していたように、「潜在的な夢思考」に無意識的なところなど何一つない。潜在思考はまったく正常な思考であり、ごく普通の日常言語で表現され得る。局所論的に言えば、それは意識/前意識のシステムに属している。ふつう主体はそれに気づいている。というよりそれを意識しすぎていて、それはたえず主体を困らせる。
夢の「潜在思考」と「顕在内容」(文字どおりの現象としての夢)との差異は、まったく正常な前意識的な思考と、それが夢という判じ絵に翻訳されたものとの差異である。夢の本質的な部分は、その「潜在思考」ではなく、それに夢という形態をあたえるこの作業(置換と圧縮のメカニズム)だ。
顕在的な夢に隠されている潜在思考に「秘密」を探し出そうとすると、必ず失望することになる。なぜならそこにあるのはまったく正常な、ただし大抵は不快な思考だけであり、しかもさほど性的でなく、断じて「無意識的」なものではないからだ。抑圧され無意識のなかに押し込められているのは、正常な意識的/前意識的思考とは一切関係のない、無意識的/性的欲望である。
無意識的/性的欲望は「正常な思考の流れ」には還元されない。それはそもそもの初めから構造的に抑圧されていて(フロイトのいう原抑圧)、日常的な主体間コミュニケーション(ハーバーマス)に用いられる正常な言語、すなわち意識/前意識の──「潜在思考」の──統語法のなかに原型を持っていない。無意識的/性的欲望は潜在思考と比べて「より深く隠されている」わけではなく、むしろ表面により近く、純粋に潜在思考にたいしてほどこされる処置──シニフィアンのメカニズム──からなる。この欲望の唯一の場所は「夢」という形態のなかに、すなわち「潜在内容」の加工の中にあらわれる。
われわれは、夢という形態の背後に隠蔽された内容の魅惑をしりぞけ、この形態そのものに、つまり「潜在内容」に対してほどこされる夢作業に、関心を集中しなければならない。
同様のことを実はマルクスが言っている。古典経済学は、商品形態の背後に隠蔽された内容(労働こそが価値の源泉だということ)にばかり気をとられていて、そのために、真の秘密、すなわち形態の背後にある秘密ではなく、形態そのものの秘密を説明できない。だからマルクスはさらにもう一歩踏み出し、商品形態そのものの起源を分析しようとした。「労働の生産物が、商品という形態をとるやいなや、謎めいた性格をおびるのはなぜなのか。明らかにそれは形態そのもののせいである」(『資本論』)。 - 【崇高な物質】
貨幣の物質的性格という問題。
われわれは貨幣が、他のすべての物体の同じく時とともに変化することを、意識のレベルではよく知っている。にもかかわらず、市場の社会的現実のレベルにおいては、われわれは貨幣を、あたかもそれが不変の物質であり、自然界の他のいかなる物質とも異なった、時間の力が及ばない物質から出来ているかのように扱う。この「意識のレベルではよく知っている、それでも……」という物神的な否認の公式は、差別の領域にも見出される。「ユダヤ人がわれわれと同じ人間だということは知っている、それでも……(どこかが違う)」。
貨幣は経験的・物質的な素材で出来てはいない。それは崇高な物質、すなわち物理的な実態が崩れ去ったあとも残る「破壊することのできない不変の」物質から出来ている。ちょうどサドの小説に出てくる、ありとあらゆる拷問を耐え抜き、美しさを少しも損なわずにあとまで残る犠牲者の死体のように。とはいえ、この崇高な物体が象徴的秩序(象徴界)にいかに依存しているかも忘れてはならない。つまり消耗の影響を免れた、破壊することのできない崇高な物質は、つねになんらかの象徴的権威の保証によって支えらえれている。
したがって、貨幣の物神性が生じるのは、思考する主体の内部で起きる過程においてではない。商品の交換行為という現実的な過程に属する抽象によって、それは生じる。言い換えれば、知の領域で起きる主観的抽象の外にある、もう一つの抽象によって。ここに無意識に対して与えることのできる定義がある。すなわち無意識とは、交換のように、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。つまり、思考そのものの外にある思考形態である。象徴的秩序は、「外的な」事実的現実性と「内的な」主観的経験という二項関係を粉砕する、そうした病理的な秩序である。
日常的で実用的な意識は、交換行為の機能を誤認する。交換の機能は、私的な生産物が市場を媒介として社会化される形態としての「現実的抽象」のレベルにあるのだが、交換行為に参加する個々人は自分たちの仕事や、市場での偶然の出会い、商品の用途に属する経験的外観に関心を集中していて、それに気づかない。逆に言えば、万が一、彼らの意識が自分たちの行為の抽象性に気づいたら、交換行為はもはや成立しなくなるだろう……。
交換過程の社会的現実性は現実の一部だが、それに参加している人間がその現実に気づかない場合にのみ存在し得るのだ。おそらくこれが「イデオロギー」の基本的次元である。イデオロギーは単に「誤った意識」、つまり現実の幻覚的表象ではなく、その現実そのものである。それはすでに「イデオロギー的」なのだ。その再生産のためには人間が「自分が何をしているのか知らない」ことを前提とする。 - 【イデオロギーの公式】
イデオロギーの一番基本的な定義は『資本論』の有名な一節に見出される。「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている」。イデオロギー的なのは、誤認している意識ではなく、参加者がその本質を知らないことを前提としているような社会的現実自体である。
より洗練されたイデオロギー批判においては、問題は、イデオロギーの歪んだ眼鏡を投げ捨てて事物(すなわち社会的現実)をありのままに見ることではない。重要なのは、どうして現実そのものが、イデオロギー的歪み抜きには再現されないのかを明らかにすることだ。仮面が本当の姿を隠しているのではない。イデオロギー的歪曲は本質そのものに書き込まれているのだから。われわれは仮面を剥ぐとか、裸の現実を隠しているヴェールを剥ぐといった単純な比喩は避けなければならない。これはラカンの教えでもある。王様は裸なのではない。王様が裸でいられるのはその服の下でのみなのだ。
われわれは誤認され、見落とされないかぎり自分を再生産することができない現実のなかで生きている。われわれが「ありのままの」それを見た瞬間、それは無へと解消してしまう、あるいは、別の種類の現実に変わってしまう。
イデオロギーが社会的現実を構造化する。このことを理解するためには、マルクスの「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている」という公式の新しい読み方を確立しなければならない。幻想は認識(知らない)の方にあるのではなく、現実そのものの側、つまり人間が「やっている」ことのなかにある。彼らは現実を「知らない」のではない。彼らが知らないのは、彼らの「やっている」ことが幻想すなわち物神崇拝的な転倒によって導かれているということだ。われわれがイデオロギー的な主張を認識のレベルで真面目に受け取ろうとしていなくても、われわれは社会的活動において、イデオロギー的空想を実行しているのだ。たとえば、私たちは商品交換においてまるで貨幣が富そのものの直接的具現化であるかのように活動している、貨幣に魔術的なところなど何一つないと知っていながら。あるいは、私たちはテレビ番組を観て、あらかじめ録音された笑い声=他者を媒介として、あたかも楽しい時を過ごしたかのように活動している、番組内容がまったくくだらないものだと知っていながら。
マルクスの公式は次のように読み替えられる。「彼らは、自分たちがその活動においてある幻想に従っているということをよく知っている。それでも彼らはそれをやっている(ということを知らない)」。
これは同時にラカンの基本的前提でもあった。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きで確証できるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式だが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動のなかに具現化されているのである。私が主観的に何を考えていようと、客観的には私はイデオロギーに従っている。
これをポスト・イデオロギー理論のシニシズムと区別しなければならない。シニカルな人間は、イデオロギーがくだらないと分かっていてもそれに従う。シニシズムがあまねく浸透したポスト・イデオロギー社会においては、イデオロギーは真剣に受け止められることを期待しておらず、その支配力は単にイデオロギーの外にある暴力や勝利の見込みに支えられている……というわけだ。イデオロギーの人気取り競争。こういう俗流ニーチェ主義的な見方は、イデオロギーが社会的現実を構造化するレベルをまったく考察することができないがために、不十分だ。ラカンがニーチェにほとんど言及していないという事実を思い起こしてもいいだろう。 - 【イデオロギーという夢】
ラカンの夢についての考え方は常識的なそれと正反対だ。ラカンによれば、主体はまず、現実に目覚めるのを避けるために夢をつくり上げる。ところが、彼が夢のなかで出会うもの、すなわち彼の欲望の現実──〈現実界〉──は、いわゆる外的現実そのものよりも恐ろしい。だから彼は目覚めるのだ、恐ろしい夢のなかで姿をあらわす自分の欲望の〈現実界〉から逃れるために。彼は自分の盲目を維持するためにこそ、現実のなかへ目覚める。現実は、夢に耐えられない者のためにある。「現実」とは、われわれが自分の欲望の〈現実界〉を見ないですむようにと、空想がつくり上げた目隠しなのだ。自分が蝶になった夢を見て、目覚めたあとに「自分は本当は蝶で今荘子になった夢を見ているのかもしれない」と自問した荘子は正しかった。彼は欲望の現実においては蝶であり、覚醒時の日常的な現実における荘子はその夢の意識にすぎなかったのだ。
「夢」に関して言えることは、イデオロギーに関しても同様に言える。イデオロギーとは「現実」を直視できない意識がつくり上げる幻想などではない。イデオロギーは、われわれの現実の社会的諸関係を構造化し、それによって、ある耐えがたい、あってはならない外傷的な核を覆い隠す「幻覚」として機能する。イデオロギーは、われわれの現実から目を逸らす幻想を提供するのではなく、ある外傷的な〈現実界〉からの逃避として、社会的現実そのものを提供するのだ。
ラカン曰く、われわれは夢のなかにおいてのみ真の覚醒に、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉に接近する。これを「われわれが現実と呼んでいるものは幻覚にすぎない」といった意味に解釈してはならない。反対に、すべては鏡に映った幻の戯れである、といったふうには絶対に還元できないような固い核が必ずある、というのがラカンのテーゼだ。ラカンと素朴な実在論(「現実は幻ではない」)との違いは、ラカンにとっては、われわれがこの〈現実界〉の固い核に接近できる唯一の場所は夢である、と主張している点だ。
イデオロギーという夢についても、まったく同様である。イデオロギー的偏見を免れた、覚めた視線の持ち主の日常的な現実というのは、われわれのイデオロギー的な夢の意識にすぎない。イデオロギーの眼鏡を外してありのままの事物を見ようとしても、イデオロギーの夢から決して抜け出すことはできない。われわれのイデオロギー的な夢の力を打破する唯一の方法は、この夢のなかにたちあらわれるわれわれの欲望の〈現実界〉と対決することである。
イデオロギーという夢の一例として、ユダヤ人差別について考えてみよう。われわれは「反ユダヤ的偏見」から自分を解放し、ありのままのユダヤ人を見つめなければならない、というだけでは十分ではない。イデオロギー的な「ユダヤ人」像にはわれわれの無意識的欲望が反映しているということ、すなわち、われわれは自分の欲望の行き詰まりを打開するためにその像をつくり上げたということ、それこそが、決定的だからだ。たとえば、ありのままに見つめることによって、ユダヤ人が実際に他の人々を経済的に搾取している事実が明らかになったとしよう。だがそうした事実と、ユダヤ人に対するわれわれの偏見の真のルーツは完全に無関係だ。したがって、われわれはユダヤ人差別に対して、「ユダヤ人は本当はそんなんじゃない」と答えるのではなく、「ユダヤ人に対する偏見は実際のユダヤ人とは何の関係もない。イデオロギー的なユダヤ人像は、われわれ自身のイデオロギー体系の綻びを繕い、われわれの社会的現実を構造化するためのものなのだ」と答えなければならない。
イデオロギーが現実のわれわれの日常体験と対立しなくなったとき、イデオロギーは十全に機能する。反ユダヤ的偏見に心を捕らわれた、一九三〇年代のドイツの典型的な個人を考えてみよう。彼はユダヤ人は悪の化身だとか、怪物だとか、陰謀家だといった反ユダヤ的なプロパガンダをさんざん聞かされている。だが、彼の隣人のユダヤ人のシュテルン氏は好人物だ。われらがドイツ人はこの日常体験におけるギャップに対して、次のように反応する。「いや、ユダヤ人はあくまで危険だ。彼らの本性を見抜くのは難しい。やつらは日常生活では仮面をかぶり、自分の本性を隠している。そして、自分の本性を隠すというこの二重人格こそがまさにユダヤ人の本性の基本的特徴なのだ」。このようなギャップが、われわれの無意識的偏見を強化するように働くとき、イデオロギーは真の成功をおさめたと言えよう。 - 【速すぎる歴史化】
われわれは問題を普遍化しすぎだろうか? 通常のイデオロギー批判は、具体的かつ歴史的な結びつきに依存しているある状態を、人間の条件の永遠かつ普遍的な特徴としてしまうことを批判する。この面からすると、(今われわれが分析的道具として用いている)精神分析は、エディプス・コンプレックスや核家族の三角関係に執着することによって、歴史的に条件づけられた父権的家族の一形態を人間の普遍的な条件にすりかえてしまっていることになるだろう……。
だが、ラカンの見方によると、批判されるべきは普遍化などではなく、むしろその反対、速すぎる歴史化だ。家族の三角関係を歴史化しようとする試みは、「父権的家族」のなかにあらわれている「固い核」、「法」の〈現実界〉、去勢の土台から目を逸らすことになるのではなかろうか。速すぎる歴史化は、さまざまな歴史化・象徴化を通じてつねに同じものとして回帰する現実の核に対してわれわれを盲目にするのではなかろうか。
たとえば強制収容所について。この現象を具体的なイメージ(「ホロコースト」「収容所群島」など)と結びつける試み、あるいは具体的な社会秩序(ファシズム、スターリニズムなど)の産物に帰そうとする試みは、これこそがわれわれの文明の「現実」なのであり、この現実はどのような社会システムのなかにも同じ外傷的な核として回帰してくるという事実から目を逸らそうとする試みにほかならないのではないか。忘れてはならないのは、強制収容所なるものはボーア戦争の際にリベラルなイギリスによって発明されたものであり、アメリカにおいても第二次世界大戦中に日本人を収容するために使われたということだ。 - 【精神分析における知】
無意識の審級。私たちがそれに気づかないということ自体が、負の存在論的次元を持っている。私たちがそれに気づいてはならないということが、無意識の可能性の条件だ。これは言うなれば、在る=知覚されるという古典的な公式の反転である。つまり無意識においては、「知覚されない=在る」なのだ。無意識の次元は存在論的に存在しないかぎりにおいてその存在を主張する。
同様に、主体の心のいちばん奥底の外傷的な存在に関する知は、知りすぎると、主体の存在そのものを失ってしまうかもしれない、という恐ろしい体験をもたらす。主体は、その日常的態度においては、彼をとりまく外界が素朴に実在するかのように振舞っているが、精神分析は、どこか他の場所になにか根本的な非-知があるかぎりにおいてのみ、この素朴な実在が存在し一貫性を持つのだと告げる。
ラカンが強調するのは、主体はそれ自身の条件を反省できないとか、主体は自分では把握できない無意識的な力に翻弄されているとか、そういうことではない。ラカンが言いたいのは、主体はそうした反省によって自分自身の存在論的一貫性そのものを失ってしまうかもしれない、ということだ。われわれは危険な土台の上に立っている。それに近づきすぎると、ふいに、自分自身の一貫性・実体性が崩壊しかけていることを思い知らされることになる。
精神分析における知の特徴は、それが致命的な次元を持つことである。主体は知を手に入れる代わりに自分の存在を失わなければならない。言い換えると、誤認を解消することは同時に、誤認の形態=幻想の背後に隠れていると思われていた実体を解体することももたらしてしまう。この実体は、ラカンによれば「享楽 jouissance」である。享楽は、ある種の非-知の基盤の上でのみ可能になっている。精神分析に対する抵抗は、自分の享楽の核を盗まれまいとする主体の抵抗である。 - 【症候】
知りすぎると主体が自分の存在そのものを失ってしまう、何か。主体の心のいちばん奥底の外傷的な存在。享楽の現実的な核。それが「症候」である。
症候は、つねに見逃され、われわれが一連のさまざまな戦略を講じてそれを飼いならし、象徴秩序のなかへ統合しようとするにもかかわらず、つねに回帰してくる。症候を説明によって、すなわちその意味を言語化する(解釈する/大文字の〈他者〉がその真の役割を与える)ことによって解消しようとしても、症候は剰余として生き延び、回帰してくる。なぜか。症候は、主体がおのれの享楽を組織化するための手段でもある。だから解釈が終わったあとでも、主体は自分の症候を放棄することができないのだ。彼は「自分の症候を自分自身よりも愛している」。症候とはすなわち、われわれ──主体──が、われわれの享楽をわれわれの世界-内-存在に最小限の一貫性を与える意味的・象徴的形成物に縛りつけることなのである。われわれは狂気(極度の精神病的自閉)や無(象徴的宇宙の破壊)の代わりに症候を選んでいるというわけだ。
女は男の症候であるという命題もここから理解できる。ラカン曰く、〈象徴界〉から排除されたものは症候の〈現実界〉のなかに回帰する。女は存在しない。性関係は存在しない。だからこそ「女」は、男にとって、享楽が浸透した意味、すなわち恐ろしい不可能な享楽が物質化したものとして機能しかねないのだ。「女」に何かしらの隠喩的な意味を負わせようとする企てはすべて、享楽の強烈なインパクトから逃れ、それを象徴的な地位に引き下げ、それを飼いならそうとする排除の企てにほかならないが、それをいくら飼いならしたとしても、「女」は禁じられた領域、見てはいけない物質的な積み残しとして、〈現実界〉のなかに必ず回帰する。決して象徴化されることのない〈現実界〉の小さな断片としての開口部=傷。
ところで、「症候」概念はポスト構造主義の基本的姿勢と真っ向から対立するものであることを強調しておく。ポスト構造主義者は、すべての実体的同一性を脱構築して、その堅固な一貫性の背後にある象徴的重層的決定性の相互作用(シニフィアンの戯れ)を告発する。つまり、実体的同一性を非実体的な差異的関係の網へと溶解させてしまう。症候の概念はそれとは対照的だ。それは外傷的な存在であり、現実的な核であって、シニフィアンの相互作用がそれを中心に構造化される空所である。
象徴秩序は必ずある種の空無のまわりに構造化される。たとえば、性の象徴的構造化は、性関係が象徴化されえないことを暗示している。その象徴界から排除された空無こそが、主体に一貫性を与える唯一の点であり、症候である。症候が存在しなければ、それは文字どおり世界の終わりを意味する。症候に代わり得るのは無、純粋な自閉、精神病的自殺、象徴的宇宙の完全な破壊にまでいたるほどの死の衝動への屈服なのだから。
そして、患者が自分の症候の〈現実界〉のなかに自分の存在の唯一の支えを見出すことができたとき、精神分析は終了する。ラカン曰く、主体は、自分の症候がすでにあった場所に自分を同一化しなければならない。その「病理学的な」特殊性のなかに、自分の存在に一貫性を与える要素を見出さなければならない。
症候という精神分析の概念は逆説をはらむ。ラカンの古典的な公式によれば、それは、彼を滅ぼしてしまうものが物質化されたものである。それは彼を滅ぼすが、同時に、それは彼に一貫性を与える唯一のものである。症候は、まるで寄生虫のように「ゲームを台なし」にするが、それを無くしてしまうと自体はさらに悪化する。われわれは持てる一切を失う、症候に脅かされながらも破壊されずにいたものすら失ってしまう。たとえば、新聞王ハーストに雇われていたある編集長にまつわる小話。ハーストの説得にもかかわらずその編集長は決して休暇を取ろうとしなかった。どうして休みを取らないのだとハーストが訊ねると、彼はこう答えた。「もし私が二、三週間休んだら新聞の売り上げが落ちるんじゃないかと心配なんです。いや、もっと心配なのは、私が休んでも売り上げは落ちないんじゃないかということです」。これが症候というものだ。それは厄介な困難を引き起こすが、それがないと、もっと厄介な問題、全体的なカタストロフが引き起こされるのだ。 - 【汝何を欲するか】
「汝何を欲するか」という問いは、致命的な問いである。あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。
政治の領域ではいたるところでこの「汝何を欲するか」に出会う。1988年のアメリカの選挙戦でもそうだ。最初はジェシー・ジャクソン〔アフリカ系アメリカ人・公民権活動家〕が優勢だったが、じきにマスコミは「ジャクソンの真の狙いは何か」という問いを発しはじめた。この問いの背後には人種差別がある。なぜなら、この問いは他の候補者たちには決して向けられなかったのだから。
反ユダヤ主義においてもこの問いは激しく噴出する。反ユダヤ主義的な観点からみると、ユダヤ人というのはまさに「本当は何を欲しているのか」がまったく分からないような人間だ。ユダヤ人の行動はつねに、なにか隠された動機によって導かれているのではないかと疑われる。ユダヤの陰謀……この種のイデオロギー的空想は、「汝何を欲するか」という問いに対する一つの答えであり、問いの裂け目を答えで満たそうとする試みである。その空想は〈他者〉の欲望の開口部である空無をみたす想像的なシナリオとして、機能する。その空想のおかげで、われわれは〈他者〉の欲望を肯定的に、自分が同一化できる委託に翻訳できないという耐えがたい行き詰まりから脱することができるのだ。
男性とって症候として回帰する「女」について考えてみよう。男にとって「女は何を欲しているのか」が分からない、彼女は何かを求めているらしいが自分はその要求に応えられない、という状況が耐えがたい。〈他者〉の欲望の謎は外傷的な点と化す。その深淵の不安を埋めるために空想のシナリオとして持ち出されるのが、「女は娼婦だ」といったような男性優越論的な金言なのだ(この意味では、愛は、ラカンが指摘しているように〈他者〉の欲望に対する解釈である。「私はあなたに欠けているものだ。私のあなたへの献身によって、あなたに捧げる犠牲によって、私はあなたを満たし、あなたを完成する」というわけだ。愛の欺瞞は、〈他者〉の欠如を埋める対象として自らを他者に差し出し、それによって自分自身の欠如を埋める)。
「男はどこか母親を思い出させるような特徴をもった女に恋をする」という俗説も、そのような空想のシナリオとして機能する。だが、それによって安心して女を欲望できるようになったとしても、やはり外傷性の核としての「女」という〈物 das Ding〉との対決は回帰することだろう。 - 【みずからの欲望を諦めてはならない】
アンティゴネーの外傷性。われわれは、彼女をわれわれの同情を掻き立て自らを同一化の点として提示する女性、家族想いの優しい女性のように仕立てようとするあらゆる企てに、断固反対する。彼女は人間ばなれしている。彼女は限界まで突っ走り、決して「自分の欲望を諦めず」、死の欲動に固執するために驚くほど冷酷無情となり、日常的な感情・思慮・情熱・恐怖の環の外に出てしまう。彼女の頑固なこだわりはまさに「彼女は本当は何を欲しているのか」という疑問を掻き立てる。それによって彼女は国家や一般道徳に具現化された「善」に疑問を投ずるのだ。
ここから次のように考えることができるだろう。イデオロギー的空想は、「汝何を欲するか」に対する、すなわち〈他者〉の欲望の耐えがたい謎に対する答えのようにまずは思われたが、しかし、もっと敷衍して言えば、空想が「汝何を欲するか」に対する防衛だということは、それはその空想を超越した純粋な欲望──つまり純粋な形の死の欲動──外傷的な享楽の核との対決──に対する防衛になっているということでもある、と。イデオロギー的空想は、われわれの欲望が死の欲動に至らないようにそれを調整する枠組みだとも言えるわけだ。
ラカンが「みずからの欲望を諦めてはならない」と言うとき、それは空想によって調整された欲望のことではなく、空想を超越した欲望のことを意味している。もっと言えば、そこには空想のシナリオに基づいた豊富な欲望をいっさい諦めろという命令が含まれている。空想を超越した欲望は、精神分析の過程においては分析家の欲望という形をとる。被分析者は最初、転移によって、すなわち分析家の愛の対象としてみずからを差し出すことによって、その深淵から逃れようとする。そして、被分析者が空無、すなわち〈他者〉の欠如をみたすことを諦めるとき、「転移の解消」が起きる。
精神分析の過程の終了は、被分析者にとっては、彼がこの問い──「汝何を欲するか」──を捨てるまさにその瞬間、すなわち自分が〈他者〉によって正当化されない存在であることを受け入れる瞬間に訪れる。自分の症候に同一化すること。 - 【社会的-イデオロギー的空想】
性関係ではなく社会についても同じ考察ができる。社会的-イデオロギー的空想の最重要課題は、敵対的分割によって引き裂かれていない社会、そのなかの部分同士の関係が有機的・相補的であるような社会のヴィジョンをつくり出すことだ。しかしヴィジョンはあくまでヴィジョンであり、敵対的闘争に引き裂かれた実際の社会とは齟齬がある。この齟齬をどうしたらいいのか。答えは、もちろん、ユダヤ人だ。ユダヤ人こそが健全な社会組織に腐敗を持ち込む外的な要素であり異物だというイデオロギー的空想のシナリオを用いるのだ。要するに、ユダヤ人は「社会」の構造的不可能性を否定すると同時にそれを具現化するフェティッシュとなる。調和した社会のヴィジョンが有機的な身体の比喩で語られることを考え合わせれば、イデオロギー的空想は、つねに性的関係の空想でもある(ユダヤ人はしばしば官能的かつ性的不能だと見なされる)。
社会的-イデオロギー的空想とは、敵対的亀裂を遮蔽する方法である。われわれに安定した社会的・象徴的同一化をさずける同一化過程はすべて、究極的には失敗する。イデオロギー的空想はこの矛盾を隠し、それによって失敗した同一化の埋め合わせをする。「ユダヤ人」は、ファシズムにとっては、おのれ自身の不可能性を表象するための手段だった。ファシズムのイデオロギーは、ファシズムの全体主義的な企図そのものの内在的不可能性を「ユダヤ人」として物神的に具現化し、それに対する闘争として組織されるのである。
したがって、イデオロギー批判は、ユダヤ人は本当はステレオタイプに表象されたとおりの存在ではないと主張するだけでは不十分だ。ユダヤ人が事実として社会的敵対性の原因となっているわけではなく(原因は社会それ自身の敵対的性質である)、「ユダヤ人」は、ファシズムの社会が均質的な全体性を獲得し得ないというその不可能性を具現化したものにすぎない。ファシズムにかぎらず、あらゆるイデオロギー的構築物は、自分のなかにそれ自身の不可能性を表象しているような要素を必ず見出す。ファシズムの空想の枠組みを通してみれば、「ユダヤ人」は、社会の混乱・崩壊・腐敗を外部から持ち込む侵入者に見える。つまり、それを排除すればわれわれが秩序・安定・同一性を回復できるような、外的な積極的原因のように見えている。だから、イデオロギー批判は、「ユダヤ人」に帰せられている諸属性のなかに、われわれの社会システムそのものの必然的産物を見て取るよう促さなければならない。「ユダヤ人」に帰せられている「過剰」のなかに、われわれ自身についての真実を見て取るよう促さなければならない。自分の症候に同一化すること。
マルクスこそがこのようなイデオロギー批判を実行した最初の人物だった。マルクスは、社会を改良すれば根絶できるように思われる現象すべてが、じつは社会それ自体の必然的産物であり、社会に内在する敵対的性格が噴出する点であることを証明したのだ。これは、人間の心の働きを解明する鍵は、夢や言い間違いのような正常な状態の混乱のなかにある、というフロイトの見解と一致する。 - 【快感原則の彼岸】
精神分析治療の終結に関するラカンの教えは、三つの時期で異なっている。
第一期(『精神分析における言葉と言語活動の機能と領野』)では、主体の欲望の認識の媒介としての言葉に力点が置かれ、症候は、主体の歴史における象徴化されていない想像的要素と見なされていた。分析の過程は、そうした要素の象徴的世界への統合の過程に等しい。主体が〈他者〉に向かって自分の歴史を有意味なものとして物語ることができたとき、つまり彼の欲望が言葉によって認識されたとき、分析は終わる。
第二期(ポーの「盗まれた手紙」の読解の時期)においては、諸要素からなる差異体型という構造主義的言語観が見られる。意味体験の想像的レベルと、それを生み出す意味のないシニフィアン/シニフィエの象徴的秩序は対立し、後者によって、主体には屈辱的な外傷的喪失が強制される(死の欲動はここでは盲目的に自律運動する象徴的秩序そのものと同一視される)。この喪失・欠如・疎外は象徴的去勢と呼ばれる。主体がこの根源的喪失を受け入れ、欲望に達するために払わなければならぬ代償として象徴的去勢に同意するとき、分析は終わる。
第三期(『精神分析の倫理』の時期)においては、快感原則と象徴的秩序の関係が変化する。第二期では快感原則は想像的レベルと同一視され、象徴的秩序は「快感原則の彼岸」の領域と見なされていた。しかし第三期からは、象徴的秩序そのものが快感原則と同一視されるようになる。「言語のように構造化されている」無意識や、その換喩的-隠喩的置換という一次過程は快感原則に支配されており、その彼岸にあるのは象徴的秩序ではなく、現実的な核、外傷的中核である(この段階における死の欲動とは何か?──それは象徴的秩序の存在それ自体の全面的崩壊の可能性である)。それを指し示すためにラカンは〈物 das Ding〉というフロイトの術語を用いる。不可能な享楽の具現化としての〈物〉。象徴的秩序=大文字の〈他者〉はつねに均衡を求めるが、その中核、いちばん真ん中には、象徴化されえない外傷的な〈物〉がある。そしてラカンによれば、幻想とは、主体がその外傷的核と折り合いをつけるためにつくり上げたものである。この段階では、分析の終わりは、「幻想を通り抜けること」と定義される。それは、幻想の対象はその魅惑的な存在の力によって〈他者〉における欠如・空無を埋めているにすぎないのだという事実を経験することである。幻想の「後ろ」には何もない。幻想とは、この空無、欠如を隠すためのものなのだ。
第三期の最も重要な要素は〈象徴界〉から〈現実界〉への力点の移動だ。〈現実界〉の外傷的な核を考慮に入れることによって、われわれはシニフィアンのネットワークの全面的崩壊の可能性について考察することができる。絶対的な死、すなわち「世界の終わり」は、つねに象徴的宇宙の破壊である。人間の歴史と動物の進化との違いは、象徴化/歴史化の過程そのもに含まれる空っぽの非歴史的な核があるかないかの違いである。その場所は象徴化によって遡及的につくり出されるものではあるが、それ自体はけっして象徴化されることはない。空っぽで、消化されない、絶対的否定性──それは歴史的伝統の根源的・自己破壊的限界としての〈物〉という外傷的な出来事だ。それは進化論(生成変化!)とは対照的で、創造説的(遡及的再構成)ですらある。 - 【不可能なものとしての自由選択】
自由について。
構造主義的なアプローチは、「自由」を想像上の体験と決めつけ、主体の行動を決定する構造の因果律への盲目にもとづいた錯覚だと告発する。ラカンは自由に対して別様にアプローチする。〈現実界〉的で不可能なものとしての自由。
自由選択には根本的逆説がある。たとえば、もし私がある女に恋せよと命令されたとしても、うまくいかないことは明白だ。ある意味で、恋は自由でなければならない。しかし他方、もし私が本当に自由選択をしても、つまり周囲を見渡し、「このなかのどの女と恋に落ちようか」と自分に問いかけたとしても、同様にうまくいかないことは明白だ。これは「真の恋」ではない。恋の逆説は、それが自由選択でありながら、選択は絶対に現在には訪れず、つねに/すでになされてしまっていることである。ある時点で、遡及的に、私はすでに選択した、と言うことしかできないのだ。
恋ではなく「悪」にも同様の逆説がある。われわれは、悪人の邪悪さについて、それが彼の生まれつきの性質の一部だという印象を抱きがちだ。つまり悪人でないことを彼は選ぶことができなかった。しかし他方、悪はつねに自由選択として、主体が全責任を負わなくてはならないような決断に属しているように体験される。悪人はその邪悪さに対して全面的に責任があるように思われる。この矛盾は、「悪」の選択を無時間的・先験的な行為と捉えることによって解決される。各個人が善人であるか悪人であるかは、つねに/すでになされた選択、時間的・日常的現実においてはまったく起きなかった選択の結果である。だからこそわれわれは、自分の意識的決定とは無関係な事物に対してさえ罪悪感を覚えたりする。
恋、および悪の無時間的選択というこの解答は、〈現実界〉というラカンの概念とぴったり重なり合う。〈現実界〉もまた、現実には起こらなかったが、事物の現状を説明するためには、事後にどうしても前提としなければならない行為である。 - 【〈現実界〉】
〈現実界〉とは、象徴化に抵抗する硬い頑固な核であるが、挫折し、失敗したものとしてのみ、影のなかでのみ存続し、われわれがそのポジティヴな性質を捉えようとするやいなや消滅してしまう。これこそがまさしく外傷的出来事という概念を定義する。象徴化の企てがことごとくつまずく石は、ポジティヴな形では絶対に与えられない。それは事後に初めて、その構造の遡及的効果からのみ構成されるものである。
(「崇高」についても似たようなことが言える。崇高な対象には何か内在的な崇高性を持っているわけではない。感覚世界における内容がその崇高性の基盤ではない。崇高な対象とはごく普通の日常的な対象であり、それがまったく偶然に場所を変えることによって──それが不可能な享楽の禁じられた場所を占めることによって──崇高性が与えられるのだ。)
言い換えると、〈現実界〉は記録できないが、その不可能性そのものは記録することができ、その場所を突き止めることができる。その場所とは、一連の挫折を引き起こす外傷的な場所である。ラカンの一番の眼目は、〈現実界〉はこの記録不可能性以外の何ものでもないということだ。〈現実界〉は超越的でポジティヴな実体ではない、つまりカントの「物自体」──ありのままの事物──のような、到達しえない核として象徴的秩序の彼方のどこかに存続しているものではない。〈現実界〉自体は何ものでもなく、単なる空無にすぎず、象徴的構造のなかの空虚であり、中心的不可能性のみを刻印している。われわれはそれを追い越し、追い抜くことはできるが、捕まえることはできない。それはつねにわれわれの手から擦り抜けるある種の限界であり、われわれはつねに早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかだ。われわれはそれを手に入れることはできない。だがわれわれはそれを避けることもできない。われわれの同一性そのものが、この外傷的な核との否定的関係を通じて構造化されているのだから。ラカン曰く、「主体とは〈現実界〉の応答である」。
カント理論の洗練された姿は、「物自体」を永遠に現象世界から引き離すことによって、〈物〉との出会いを先送りし、〈物〉の魅惑に対する失望を避けようとする洗練ではなかったろうか。その裏には次のような不安がある──この〈物〉はただの欠如、空っぽの場所にすぎないのかもしれない。現象的見かけの向こうにあるのは否定的な自己関係だけかもしれない。だが、それでいい、というのがラカンの答えだ。見かけの背後に隠されているのは、その背後には何かがなくてはならないという主体の幻想である。その背後は実際には無だが、主体はまさにその誤認と欺瞞によって自分自身を構成するのだ。動物は、実物そっくりの見かけによって騙される。人間は、何かを隠しているかのような隠蔽の見かけによって騙される。
主体のレベルでは、見かけは、何か隠されているというふりをすることによって、何も隠されていないという事実を隠し、騙す。本当のことを言っているふりをしながら嘘をつくのではない。嘘をついているふりをして、じつは真理を語っているのだ。つまり、騙すふりをして騙すのである。主体はそれを経験しなければならない。
:APPENDIX 松本卓也「「恥の死滅」としての現代──羞恥の構造を読む」要約
- 恥の情動は精神分析においてさほど重要なものとして扱われてこなかった。フロイトにおいて重要なのは恥よりも罪責感だった。恥の情動を生じさせる〈他者〉についての精神分析的な考察は、六〇年代から七〇年代にかけてのラカンを嚆矢とする。
ラカンは「眼差し」によって生じる恥によって主体の存在論を基礎づけようとした。実際、われわれの恥の多くは視線にかかわる。われわれが恥ずべき行為に手を染めるとき、その恥ずかしさは行為自体に備わっているのではないように思われる。そこには視線が介在している。恥が生じるのは、自分がその行為をしていることを他者に見られることによってだ。
「にらめっこ」の原型となった鎌倉〜室町時代の「目比べ」「目勝」という遊びは、ただ目と目を合わせてにらみ合い最初に相手から目を逸らした方が負けになるものだったという。この遊びが成立するには、視線を合わせることが普通ではないという感覚が前提となる。見る-見られるの関係は何か危ういものを生み出す契機を含んでいる。それゆえにこそ、私たちの文化は視線の衝突を避ける装置をふんだんに持っている。例えば「床の間」。床の間に通された客はそこに置かれている掛け軸や生花に目をやることによって、主人と見つめ合うことを避けることができる。或いは映画。映画を一緒に見ているかぎり観客たちは互いに互いを見られることがなく、また映画も自分を見つめ返してくることがない。
見る-見られることは何故危ういのか。水着の女性を写真で眺めるとき、われわれはさほど恥を感じない。ところが水着の女性が実際に目の前にいるときは、事情はまったく異なる。目のやり場に困るというわけだ。なぜか。おそらく水着の女性を見ることそれ自体が恥ずかしいのではなく、水着の女性を見ることによって、自分自身の(性的)欲望を知られてしまうことが恥ずかしいのだろう。私が何かを眼差すとき、他者によって私が知られる。見ること=知られること。この等式が視線が恥を生み出すメカニズムであるように思われる。写真の場合に恥が減じられるのは、他者から自分の欲望を知られてしまうことをほとんど意識せずに済むからだ。
対人恐怖はまさにこのメカニズムに規定されている。或る対人恐怖症の患者は「人前で自分の目がひとりでに動いて、奇妙な目つきになる、そのために相手に不快な感じを与えてしまう」と語った。自分自身の眼差しによって自分の本質が他者に知られてしまう──彼らはそのことを過度に意識している。実際われわれは自分自身では自分の視線を直接見ることができず、〈他者〉によって見られることしかできない。私の視線を所有しコントロールしているのは他者の視線なのだ。この他者性は、エロスと結びつくような暴力性でもある。
ラカンはこの事態を次のように表現する。「私を見つめている対象のなかに、私自身のことが書き込まれており、そこに居心地悪さ(恥)が生まれる」。もっと簡潔に表現するなら、「私たちにとって最も内部のものは、すべて私たちの外部にある」。ラカンはこの構造が主体の存在を支えている当のものである、という主体の存在論=恥在論 hontologie を発想する。ラカンによれば、伝統的哲学においては「知覚する主体」が「知覚される対象」を知覚するものと考えられていた。対象を確証するのは知覚する主体の側だった。ラカンは逆に、対象こそが主体を確証すると考える。「対象である」が存在するからこそ「知覚する主体である」が可能になるというのだ。
《対象aの機能によって主体は分離され、存在の揺れへの束縛、或いは疎外の本質をなしている意味への束縛から解き放たれます。……精神分析が登場するまでは、認識の方法はつねに主体、「知覚する主体」を純化するという方法を辿ってきました。ところで我々としては、主体の確証を、主体を支えることのできる汚物との出会い、つまりその現前が必要不可欠であるといっても不当ではない小文字の「〔対象〕a」との出会いの中に基礎づける、と言うことにしましょう。》(『精神分析の四基本概念』)
ラカンの考えでは、純粋な認識の主体である私をいくら掘り下げても主体は確証できない。眼差しや声といった汚物(対象a)によってこそ自己の本質が曝け出され、外部の他者(の眼差しとそこで生じる恥)のなかにこそ私は自分自身の存在の核心を見出す。このような主体の逆説をラカンは後に「外密 extime」と呼んだ。
ただし、あらゆる眼差しがこの逆説を孕んでいるわけではないことも指摘しておく。恥を生じさせる力を去勢されてしまった眼差しや声や触覚というものがあるのだ……。