resume:作田啓一「酒鬼薔薇少年の欲動」
- 一九九七年、兵庫県神戸市須磨区において、二月から五月にかけて、酒鬼薔薇聖斗と名のる十四歳の少年による連続児童殺傷事件が発生した(二名死亡、三名重軽傷)。
酒鬼薔薇少年の破壊行動についての私(作田啓一)の解釈の要点は、以下の二つだ。
(1)酒鬼薔薇少年は、何らかの世代や十四歳の中学生の一面というものを代表した存在ではない。彼を端的に「特別な人間」として見る方がこの事件の核心に迫れる。
(2)酒鬼薔薇少年の破壊行動は、供犠にほかならない。
- 酒鬼薔薇少年が「特別な人間」であることと供犠説とは、密接に関連する。
注目すべきは、最初はナメクジやカエルを解剖することにはじまり、猫を殺し、児童に怪我をさせ、ついには児童を殺し……という具合に酒鬼薔薇少年の行動が次第に、着実にエスカレートしていったことだ。こうした彼の破壊行動の動機をさぐるには、S・フロイトが設定した「欲望 Wunsch[desire]」と「欲動 Trieb[drive]」との区別を参照することが有効だろう。「欲望」というとき、それに基づいた行動にわれわれの常識を揺るがすようなものは何もない。金銭欲、保身欲、報復欲、姦淫欲……いずれにせよ人間が広い意味で快楽を求める存在であることが前提されており、それらの欲望は、対象を獲得することで満たされると考えられている。欲望と対象とは対をなしており、対象を見ればそれに向けられている欲望が何であるかが分かる、というわけだ。人間を動かす駆動力がこうした対象と結びついた欲望だけだと見做すなら、人間の行動はある程度予測可能であり、理解可能である。
ところが人間を動かす駆動力は「欲望」だけではない。われわれは欲望よりももっと深い層にある「欲動」によっても動かされている(実際には欲望とまったく切り離された欲動というのは存在しない。具体的形態としては、われわれを動かす駆動力には、欲動の力が弱い欲望と、欲望の力が弱い欲動とがあるということ)。フロイトは「欲動」として自己保存と性の二つの欲動を考えていたが、酒鬼薔薇少年に関連してここで取り上げたいのは、「性欲動」である。性欲動は対象をもたない。それをもつように見えることはあっても、性欲動は一時的な対象を乗り越えて自己自身へと回帰していく。つまり性欲動は特定の対象によって満足を得るのではない。この点が性欲動といわゆる性的欲望(性欲)との違いだ。〈社会〉内の性欲は快楽を求め、対象の獲得によってそれは満たされる。対して、対象によっては満足を得ることのできない性欲動は、いわば〈社会〉の外からやってきて、人間を貫く。酒鬼薔薇少年の破壊行動は性的な駆動力によるものであった。そして、彼が「対象は誰でもよかった」と言っている以上、彼の行動が性欲ではなく性欲動に基づいていたことは、自明である。
そしてその破壊行動が性欲動に基づいていたからこそ、それは次へ次へとさらなる満足を求めて肥大化し、エスカレートしていったのだ。フロイトによる性欲動の特徴づけは、最初期の『科学的心理学草稿』にも見られる。フロイトによれば、ニューロンにはφニューロン系とψニューロン系という性質を異にした二つの系がある。前者は外的刺激を受け取り、一定の刺激量しか通さない。後者は内的刺激を受け取り、通過の容易でない量の刺激をも通過させることができ、しかもそのあと以前よりも系の通道が広がる。その通過の際は苦痛が伴うが、以後はより大きな量の刺激が通道を通過できるようになる。このφニューロン系とψニューロン系の対比をさらに敷衍して言うと、φニューロン系の働きはつねに過不足なく刺激を通過させるから、相対的に安定した自己システムを維持できるのに対し、逆に、ψニューロン系の働きは、広がった通道が閉じないように次々に大量の刺激を通過させてゆくおかげで、興奮の鎮まる暇がなく、ついには自己システムが崩壊するところまで行き着くことになりかねない。言うまでもなく、「性欲動」は理論的にはψニューロン系の働きに対応する。性欲動は一単位としての自己の温存を脅かし、自己の限界を打ち壊し、自己喪失にまでいたらしめる。性欲動の核にはJ・ラカンの言うあの「自己の消滅に向かって進め」という召命が響いているのだ。
酒鬼薔薇少年とは、並み外れて性欲動を肥大させていった人物であるように思われる。だからこそ彼は「特別な人間」なのだ。この肥大化のきっかけとなったのは、おそらく祖母の死であったろう。慈母の役割をしていた祖母が亡くなった後、自分に変化が生じたとは彼自身が語っているところだ。言わば、愛する人との別離は、大きな刺激量をψニューロン系へ贈り、その通道を拡大させる。拡大の瞬間は「雷の一撃」(フロイト)のようなもので、いちじるしい苦痛が経験される。そして拡大された通道をもつにいった人は、以後そこを通過する大きな刺激量を求めるようになるのではないだろうか。実際、酒鬼薔薇少年がナメクジやカエルを解剖したり、猫を殺したりするようになるのは祖母の死後のことなのだ。すでにこのとき彼の行動は、常識的な、〈社会〉的な動機理解の範囲を逸脱しつつあったと考えていいだろう。彼自身も、家族や学校に対し格別の不満はなかったとくり返し語っている。言い換えれば、彼にとって家族や学校などもはやどうでもよかったのだ。
(ときおりテレビに登場する或る著名な精神科医は、のちの破壊行動のきっかけが祖母の死であったという酒鬼薔薇少年の証言を、一笑に付した。その断定の根拠は、普通の子供は近親者の死に出会ってもまもなく立ち直るものだから、という経験則だそうだ。だが酒鬼薔薇少年は、普通の子供とちがって刺激の通道が大きく広がってしまい、なかなか〈喪〉に服せなかったことが問題なのだ。)
- 祖母の死によって広がってしまった彼の通道は、以前には享受し得なかった強い興奮を求めて、事後さらなる刺激量を要求するようになる。だがその刺激への渇望が、なぜ生命の殺害や殺人といった行動に結びつくのだろうか? ここには「供犠」という儀礼の秘密がある。
論証抜きで言うが、生命のあるものが生命のないものへ移行する瞬間に立ち会うときほど人間が強く興奮することはめったにない(ほかの場合を挙げるとすれば、「小さな死」と呼ばれる性交にともなう緊張からその解消へ移行する瞬間くらいものだろう)。とりわけ生から死への移行が行為者の行動によって引き起こされるとき、彼の興奮は極限にまで達する。だが、その興奮は単なる快楽ではない。それは苦痛や嘔吐感をともなう「享楽 jouissance」である。なぜなら、彼が生命のあるものを殺害するとき、それは単に対象を殺しているのではなく、死にゆく対象と同一化・一体化している彼自身をも殺すことになるからだ。他者の死に臨んだときのこの自己喪失へのアンビヴァレントな享楽──。そして当然ながら、われわれ人間は動物よりも人間に同一化しやすいので、カエルの破壊の場合よりも猫の破壊の場合の方が享楽が大きく(猫の方がカエルより人間に近いため)、さらには猫の破壊の場合よりも人間の破壊の場合の方が享楽が大きいと感じるのだ。
主体はいろいろの場所に身を置くことができる。その一つが対象=他者の場所だ。そのとき、主体はいけにえであるカエルや猫そのものとなる。主体は、彼らの破壊を通して自己自身をも破壊する。何のためか。自己自身から脱け出すためだ。対象=他者と同一化している自己は、その対象の破壊を通して自己自身を無に帰そうとする。いや、意志的に「自己自身を無に帰そうとする」というよりは、どこか外から主体の中に入り込んできた欲動が力を増してゆくと、それがたまたま住みついている主体を無化する極限まで彼を駆り立ててゆくのだ、と言った方が当たっていよう。
享楽の追求がついには主体自身の破滅へと彼を追いやってしまうということ。このクリティカル・ポイントを手掛かりに、われわれは古い社会の各所で行われてきた動物供犠の儀礼の機能を説明することができる。動物をいけにけに捧げる供犠の儀礼──それは、自己中心的な日常的ルーティンの遵守のなかで倦怠し活気を失ってしまった共同体の成員に、強い興奮を経験させてやる、激しい欲動の流れを通過させてやる機会として、共同体が用意する、非日常のイベントである。いけにえを殺す供犠の執行をつうじて、参加した人々は、殺されるいけにえに同一化することにより、日常の自己中心的な自己を破壊してより以上の生を享受する。G・バタイユが指摘しているように、動物の肉体の破壊は、その肉体へ向かう主体の自己保存欲(食物への欲求として現われる)を断ち切って、その欲求に阻止されがちな性欲動を解放する意味ももっている。自己保存欲が必然的にもたらす主体と客体の分離は、いけにえの肉体の破壊によって解消される。こうして人々はいけにえとひとつとなり、自己自身から解放されるわけだ。
そして、酒鬼薔薇少年の破壊行動は、個人が主宰する供犠という性格をもっていた。ゆえにそれは、社会が主宰する公共の供犠とちがって、興奮がどんどんエスカレートすることに歯止めがかからなかった。しかし厳密に言えば、彼が行った供犠は、小学生の男児をいけにえにしたケースのみであって、それ以前の動物殺害や少女への殺傷は最終の供犠にいたる準備段階と見做すべきだろう。
五月二十四日に行われた小学生男児の殺害とそれにつづく儀礼めいた行動こそ、酒鬼薔薇少年にとっての真の供犠であった。事実、彼はこの破壊行動に「聖なる儀式」という名を与えている。この儀式は二段階に別れていた。第一段階では、男児の殺害が実行された。第二段階では、死体の首が切断されて中学校の校門前に奉られた。第一段階でのいけにえの肉体の破壊はいわば現実的殺人であり、第二段階のそれは儀礼的殺人だと言うことができる。実際、酒鬼薔薇少年は首の切断によって流れ出たいけにえの血を嚥下したという。古い儀礼の場合とまったく同じだ。この行為によって供犠者の失われた自己はいけにえの中に入り、いけにえの生命は供犠者の中に入り、ともに活性化される。神戸新聞社へ宛てた一種の声明文の最後の箇所で、酒鬼薔薇少年が「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」と書いているのは、現実的殺人のあとで儀礼的殺人を重ねたことを意味しているのだろう。
(ところで、なぜ現実的殺人のあとに儀礼的殺人が必要だったのだろうか。おそらくは、彼を現実的殺人へ駆り立てた欲動があまりにも強力であったためだろう。強い欲動の運動は、どうしてもそのあとにエクリチュールないしはフィクションのレベルでの再現を引き起こす。たとえば別離の深い苦しみを、詩人は何度となく詩に書くし、一般人も日記などにしるす。強い欲動の運動がエクリチュール/フィクションによって表現されるとき、その表現を昇華と呼ぶ論者もいる。)
- 最後に、性欲動の運命について論じておこう。
酒鬼薔薇少年の破壊性ないし攻撃性は「性欲動」からくるものだった。つまり彼の攻撃性は、利己主義や正義感などからきたものではない。彼の供犠行動は、他者破壊をつうじて自己破壊へと向かう「性欲動」の享楽の終着点において、生じたものだった。その場合、他者は自己の分身となる。思うに、酒鬼薔薇少年は、彼がいけにえとした小学生の男の子、自分と同じようにカメが好きでイノセントであったこの男の子を、その生前からすでに自己の分身のように感じていたのではないだろうか。酒鬼薔薇少年はいけには誰でもよかったと語っているが、確かにそうであったとしても、誰でもよいから殺したいという気分になっていたとき、何かの力に惹き寄せられて、この小学生が目に入ったのではなかったか。何かの力──それは性欲動の力であるとしか言いようがない。エロスへ向かうこの力が分身の無惨な殺害をもたらすという逆説が、この種の欲動の運命の一つの方向のなかには書き込まれているようだ。
しかし、性欲動は必ずしも「死」の方向へ向かうわけではない。酒鬼薔薇少年のように強い欲動に恵まれた人(特別な人間)が、すべて「死」へ向かうわけではない。「生」にゆき着く人もいるのだ。その違いはどこからくるのか?
先にも述べたように、欲動の運動の出発点には「自己の消滅に向かって進め」という通告が書き込まれている。自己の消滅というのは、肉体の死のことではなく、自己喪失すなわち主体の死のことだ。そして強い欲動によって動かされている人は、運動の途中で出会うまやかしの対象にとらわれて運動を停止したりはしない。彼はそれらの対象を乗り越えて、自己消滅に向かって前進する。
それでは欲動の運動の終極点には何が書き込まれているのだろうか。自己消滅あるいは自己喪失の向こう側に何があるのかを人は語ることができないから、問題は、向こう側の一歩手前で人が何を見出すかだ。証明抜きで言うが、主体の死の直前には、恍惚感の感情がまさる人と、嫌悪感がまさる人とに分かれるらしい。自己喪失の直前に恍惚感に傾く人は、その消滅の向こう側に甦った新しい自己がそこへ融和していく調和体を予感して、それを、欲動の運動の終極に書き込むのだろう。反対に、嫌悪感に傾くひとは、自己消滅の向こう側に自己の分解した断片がそこへ拡散してゆく無機物の流動を予感して、それを書き込むのだろう。
酒鬼薔薇少年の破壊行動は、供犠=自己喪失の向こう側にあるものが生きている調和体なのか、それとも無機物の流動であるのかを確かめるための「賭け」だったように思われる。その場合、彼はもちろん「生(生きている調和体)」よりも「死(無機物の流動)」の方により大きな賭け金を投じていたに違いない。彼は「死」こそ真理であり、「生」は仮の形に過ぎないことを確かめようとした。そのことに何の意味があるのか? 意味はない。しかし真理の探求とはそういうものだ。結論がどう出ようと、それがどんなに苦しいものであろうと、人は根拠を探求するように運命づけられているのだ。
もちろん酒鬼薔薇少年とは反対に、エロス志向の強い「特別な人間」というのもいるだろう。ただこのエッセイは酒鬼薔薇少年の破壊行動を解明することを目的としているので、そうした人間については、とくに取り上げるつもりはない。
- 補足的に、酒鬼薔薇少年を「特別な人間」として扱うことについて説明を試みておこう。
「特別な人間」──この表現は誤解を招きやすいだろうか? 酒鬼薔薇少年は殺人を犯したのだから当然普通の人間ではない。だが、殺人を犯せば誰もが「特別な人間」であるわけではない。たとえば殺人の動機が社会的に十分理解できるものにとどまり、われわれと同じように十分社会化されていると見做せる加害者については、それがどんなにむごい犯罪だとしても、「特別な人間」と呼ばれる必要はない。われわれは「加害者」と「被害者」という一般的な区別で事件を性急に割り切ってしまうより先に、加害者それぞれの差異(あるいは被害者それぞれの差異)を無視せず抽出するために、「特別な人間」というカテゴリーを用いたいと思っているのだ。
言うまでもなく、酒鬼薔薇少年の犯行の動機は謎に満ち満ちている。社会が用意している犯罪動機リストとそれを照合してみようとしても、ぴったりと当てはまるものは見つけられまい。それは、彼を破壊行動へと駆り立てたのが強い欲動であり、社会の力をもってしても、その欲動を並みの欲望へまで社会化することはできなかったからだ。もちろん酒鬼薔薇少年も社会の影響を受けつつ日々生きていた。だが、破壊行動をもたらした彼の動機の強烈さは、家族や学校やメディアという社会的環境の側からは到底説明できそうにない。彼の家族的環境はまず普通であり、母親が多少特殊であったとはいえ、その程度の母親はいくらでもいる。学校生活においても、彼が周囲から不当に扱われていたということはない。少年の破壊行動そのものを説明しようとしても、社会からの説明はその行動の核心に触れることはできない。それこそが、彼が「特別な人間」である所以なのである。つまり、そのパーソナリティやそのパーソナリティにとくに関係のある行動が、社会要因によってはとらえにくい人間、言い換えれば、心の深い層において、すなわち欲動の領域において十分に社会化されていない人間、十分に社会の影響を受け付けない人間、そのような人間をして、ここで「特別な人間」と言っている。そして酒鬼薔薇少年はまさにそのような人間だったのだ。また、あくまで彼の動機の中核にあったのは「性欲動」、広義の性欲動であった。ここにはもしかしたら、主体への社会の影響が弱ければ弱いほど、性欲動は強くなる──性欲動が強ければ強いほど主体への社会の影響は弱くなる──といった反比例の関係が法則的に成り立つのかもしれない。
(ところで、「特別な人間」の特徴が、酒鬼薔薇少年のケースのように動機の謎めいた破壊行動のみによって示される、などと主張するつもりはない。その動機を社会が用意する動機リストによっては理解しにくいような、平均的人間とは異質な特別の善意や、特別の無邪気さや、特別な自己犠牲精神のなかにも、「特別な人間」の特徴は、現われ得る。たとえば現に少なからず存在する、死刑囚に同情して刑務所にしばしば通いつつ彼らを慰め彼らを支える女性たち──。もし彼女たちの善意を特別なものと認めないなら、彼女たちの行動の動機は売名だということになってしまうが、それは、悪しきレッテル貼りであろう。……ただくり返せば、このエッセイではそうしたエロス志向の強い特別な人間のことはとくに取り上げない。)
特別な人間を認めることは、何かデモクラシーに反するのではないか、と思うひともいるかもしれない。しかし、特別な人間を認めないことの方が、人間の人格を無視するという意味でデモクラシーに背を向ける結果をもたらすと、主張したい。こういうことだ。社会の構成員がすべて平均的人間であるわけがないのだから、特別な人間を認めないとすれば、その代わりに異常者や例外者というカテゴリーを人は作らざるを得ない。するとそのカテゴリーの中に、酒鬼薔薇少年も「オヤジ狩り」をする不良少年も、サドやマゾッホも一括してほうり込まれてしまうことになる。かつてナチズムがその立場から見て例外者である人々に対しどんな画一的な待遇をしたかを想い起こせば、この想定の剣呑な意味も、分かってもらえるだろう。ここで言う「特別な人間」とはもちろん異常者・例外者とは別のカテゴリーを指している。また一方、特別な善意、特別な無邪気さ、特別な自己犠牲精神をもった「特別な人間」というのも存在するのだが、そうした人々についても、彼らの並み外れた特別さを認めずに、彼らの行動をシニカルに平均的人間のそれとして矮小化して理解してしまうことは、はたして、デモクラットだと言えるだろうか。いや、むしろそのような短絡的な理解は人格の尊厳の否定以外の何ものでもない!
以上に述べたところから、特別な人間を認めることはデモクラシーへの背反ではなく、それを認めないために例外者・異常者のカテゴリーを作る方が、むしろデモクラシーに背反するのである。
- 書誌情報:作田啓一著、『生の欲動 神経症から倒錯へ』、みすず書房、2003年
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