:リスク計算を越えていく行為
- 近年、「自己責任」ということが盛んに喧伝される。すなわち、情報は充分すぎるほど与えられているのだから、リスクはいくらか予見可能であり、何か不利益なことが生じたとしても、結論、本人の責任によるのだという考えだ。たとえば、子供を産むことはかつてはブラックボックスのなかの出来事だった。だが、現在では子供の遺伝的な可能性をあらかじめ推し量ることさえ可能だ。ゆえに、子供が遺伝的な障害を持って産まれるとしたら、産んだ者の責任だということになる。
かつては、私がしたことでも「私ごとき」に責任を負えなかった事例がたくさんあった。しかし、少なからず私自身にも操作可能な技術が見出せるなら、或いは監視とセキュリティの眼が周囲に増殖するなら、私はその責任に向き合わざるを得なくなる。こうしたことは、環境や生命、それと絡む安全やリスクをめぐる問いにおいて顕著である。
だが、ひとは自分の身体すら充分にコントロールできるわけではない。ひとは、自分の欲動や情動をそんなに制御できない。私の行為は、生物学的な制約や個人的な能力に根本的に規定されている。規律が必須になる。われわれは、歩くことを覚え泳ぐことを習うだろう。筋トレをして体型を維持するだろう。性的衝動を問題ないように抑え込むだろう。しかし、どの水準で考えたところで、私がこの身体を持っているということは偶然的で、それにどう関わればいいのかということは、「賭け〔=片想い〕」でしかない。
何かを試みるとき、何かを決断するとき、私はそのための漠然とした意志の一撃を行使しているようではある。しかしその一撃とは何だろう。それは、私にはどうしようもない流れのなかに、何かを投げ込んでみることでしかないのではないか。
自分の身体だけではない。社会や自然が問題になるとき、決断の文脈はさらに複雑化する。私が何かをなすことが、他人にどう受けとめられるのか、最終的にはよく分からない。近代以降の社会──個人の自由と裏腹のリスク計算が問題となる「リベラルな」社会とは、共同体的で超越的な規範が崩れた世界でもある。神なき世界。自分の自発的な行為が、自分にとって持つ意味と、他人とって持つ意味が同値である根拠はどこにもない。それはどこまでいっても「賭け〔=片想い〕」だ(無根拠な二人をつなぐものが「愛」である。リベラルな社会における「愛」に関する典型的なリスクが「セクシャル・ハラスメント」であることは言うまでもない)。
自然についても同様のことが言える。環境保護の議論がどこまで発展したところで、われわれは、われわれの自然への働きかけの意味を、原理的には理解できない。われわれは或る時間枠のなかでしか生きられない。未来の存在者が、われわれが今見ている存在者と同じであるということは誰にも言えない。
にもかかわらず、リスク管理化された社会は、「自己責任」なるものを主張する。だがリスク回避や結果の評価がそのそも不可能であることを前提とするなら、つまり、われわれの決断がかぎりなく賭け〔=片想い〕に近いものであることを前提とするなら、自己責任とは、倒錯にほかならない。
もちろん、リスク計算の精度は、上げようと思えば上げられる。そして予測可能な範囲において、責任の所在を問う枠組みは設定しようと思えばできる。だが、私という存在は、私が生きている時間の枠組みを越えた、自然的な位相や歴史に、必ず根付いている。私は私を越えた、或る種の無限を必ず秘めている。そう、私の外側に無限があるわけではない。私の自然の身体、私の他者との関わりにおいて、無限が私の内側に織り込まれているのだ。そして決断とは、無限を前にして、リスク計算を越えていく行為である。予測の文脈を越えて「跳ぶ」こと。
そして、じつを言えば、私が私であるという瞬間は、こうした「跳ぶ」契機によってしか成り立たないはずだ。それはどこまでいっても「賭け〔=片想い〕」である。
伝統的に、賭博〔=片想い〕には倫理的ないかがわしさがつきまとってきた。賭け〔=片想い〕という行為には、一種の放恣な無責任が含まれているように見えるからだ。それはリスクを計算することの放棄に見える。いかにもいい加減に見える。リスク社会論は、責任感のない人間は狡いことをして誤魔化そうとするというネガティヴな価値観にとらえられている。たしかに、予測しうることを予測しなかったり(災害や事故への備えの怠り)、予測をわざと誤魔化したりすること(医療過誤、公務員の不正)は、倫理的に悪である。しかし、原理的には、すべてを予測することはできない。むしろその予測不可能性を一種の偶然性と戯れとして、文化的には「遊び」としてポジティヴに評価することも伝統的には行なわれてきた。
「遊び」とは、因果関係や理由関係に予測不能な隙間を生じさせ、その隙間のなかで、非決定的なものに身を委ねる行為だ。偶然であることを積極的に認め、自己責任を意図的に放擲しながら、享楽を得ること。こうした「賭け〔=片想い〕」によって、日常的にほとんど予測可能な仕方で成立してしまっているこの世界を動揺させることが遊びである。それは「意図的に非意図的なものを生きること」、である。
「遊び」における偶然性、「賭博〔=片想い〕」における決断とは、どこかに確固たる自分が存在していて、それが有限的(時間的・空間的に有限な身体)であるがゆえに、決断がなされなければならないというふうにはなっていない。むしろ、それは無限に触れて無限と戯れる積極的な所作だ。遊びの方が概念の外延としては広いが、賭博〔=片想い〕の方が生の深層に達しているので深い。有限性のなかにたたみ込まれた無限性。そこで、瞬間と言われるものの価値、その尖端としての形態が、初めて論じうるものになる。主体は無限の空間に放り出され不安におののいているのではないのだ。無限は彼方ではない。それは今であることの賭け〔=片想い〕に含まれている。その今を生きる者が、「自己」なのである。
身体を持つことで無限の領域に足を踏み入れてしまう賭博者──恋愛者。
〔APPENDIX:「恋愛というものは、個人の主体性を越えて運動する、計算外のことが次々と起きる、賢明さを越えたところにしか現れないものです。だからこそ面白いものであり厄介なのです。自分とはこういうものだと思っていた枠からはみ出てくるものがある。」)
:「根拠のなさ」というリアリティ
- 恋することと競馬の予想はかなりの部分で重なる。それは、或る種の仕方でのサイン読みにほかならないからだ。
まず、恋愛の直接経験論がある。われわれは実際に相手の異性を見る。彼女は実在し、目に見え、そこを歩いている。彼女そのものが発している兆候的な記号、自然的記号、表情や身振りや発語や声音が、自然的なサインを形成している。ちなみにこれらは写真やメールの文言でもかまわない。
非直接経験的な記号情報もある。彼女の生い立ち、能力、経歴、仕事の実績、趣味、年収、等々。彼女の過去の恋愛歴などもそこに含めてよい。これらは直接的ではないが実証的なものである。統計的に処理することもできる。
そして、さらに恋愛を語る上で決定的な要素がある。実家との関係である。競馬で言うならば血統だ。もちろん実家、血統とは関係ない個体的な差異は存在する。だがそうした逸脱もまた、血筋的なまとまりを背景に出てくるものでしかない(他の家族は全員東大出なのに、彼女だけ美大を出ている、など)。加えて言えば、この情報には父系との関係と母系との関係という二系統がある。
また、自然的記号からかけ離れていても、実証性に基づいていると錯覚される要素もある。たとえば姓名判断(占い)による相性の判定などがそれだ。競馬で言うなら、出目予想や語呂合わせ予想がそれに当たる。こうなると、もはや異性の実体とは関係がない。純粋な記号のみが考慮の対象となっている。
恋愛においてわれわれは、これらのサインを読み、相手が自分に気があるとかないとか、この恋は見込みがあるとかないとか、思案する。一応、経験的なものに基づいた期待の方が正当であり、純粋な記号による期待の方は胡乱だということになっている。だが、両者はそれほど区別できるわけではない。出目による競馬予想だって単純に不当なものとは考えられない。
なぜか。それは、恋愛がどこまでいっても本質的に賭けるという行為であり、結果として、何が起こるかはそもそもわからず、しかし、成就してしまえば、そこにたちまちリアリティが生まれてしまうからだ。惚れた異性と付き合うことができた。その圧倒的な事実に比べれば、私が彼女の態度を正確に観察し理解したから付き合えたのか、二人の姓名の相性がいいから付き合えたのか、もはやどうでもいい。
経験論的な仕組みがある以上、予測がまったく不可能というわけではない。経験論的な事例に依拠した恋愛の「健全な常識」はある。だからこそ、実用的な口説きのテクニックというものもある。しかし、恋愛の過程で行われていることの因果性は、かなり複雑なものだ。それはハプニングに満ちている。いかなる神の視点であっても、恋愛過程の因果性をすべて見通せるとは思われない。
逆に言おう。恋愛のリアリティとは、何の根拠もない恋占いでさえ、或る程度は機能してしまうという事実に原理的に由来する。片想いは、どこまでいってもいい加減さを含む現象なのだ。惚れた異性と付き合えることは、恋愛という賭博にとって唯一の、かつ絶対のリアリティである。恋愛が賭博である以上、そこには「予想を裏切られる事態が発生する」ことへの逆説的な期待が、つねに含まれている。恋愛は間違いなく、「意外なこと」が成立するがゆえに享楽を生じさせる。あらゆる経験的な正当性によってはとてもカヴァーできないような事態が突然現れ、われわれが歓喜の頂点に達し、或いは、不幸のどん底に突き落とされることで、このことは深く感じられるだろう。ここには、生きている「現在」という時間性の謎が示されている。
ところで、何か別の利益のために恋愛が利用されることがある。たとえば、相手から金を引っ張るために自分に惚れさせようとするケース。当然、片想いはこうした可能性を読み切った上で行なわれる。そして、競馬に負けた人間が八百長を疑うように、失恋した人間は、しばしば自分が裏切られたのではないかと疑いがちだ。だが、恋愛においては、このような下種の勘ぐりは単純に不当であるとは言えない。正当に相手と付き合っていると信じられている関係においてすら、その根拠は不在だからである。
だが、ひるがえって、根拠が不在だからこそ、純粋な意味での裏切りもまたないと言える。恋愛過程には、自分の身体、他者の身体という圧倒的な自然が入り込んでいる。恋愛を完全に自分の利益のために支配し利用することはできない。他者を計画どおりに裏切るとしても、他者という自然と、環境性一般にまで広がっていく複雑なファクターをコントロールしなければならなくなる。これは大変なことである。
身体に生じてくる数多くの欲望や情動は、私の自発性で統御しようとしても、完全にうまくはいかない。私の意志が反映されるのは、或る程度限定された過程でのことにすぎない。さらには、他者との関わりには、自然身体的な制約に加えて、文化的なコミュニケーションメディアがどうしても介在する。それは私にはいかんともし難いシステムである。何かを意図的になそうとしても、原理的に失敗するシステム。
:期待を裏切られる享楽
- さらに話を展開しよう。そもそも「片想い」するとはどういうことなのか。それが賭けであるとはどういうことか。
「賭ける」ということには、いつでも「期待・予想」という、未来を思考することが含まれている。未来についての言明には、基本的に根拠がない。未来は基本的に非存在であり、いずれ私が彼女と付き合えるようになるのか否か、誰かが何かの立場で語り尽くすことはできない。
もちろん、過去のデータが未来予想において有効であることはある。経験論的に。しかし、もし経験論的に期待しうる範囲内でしか出来事が生じないなら、そこでは「賭け」は成立しない。そこで問題になるのはリスク計算という小賢しさと、計算が間違っていたときの不安という小心さでしかない。賭け〔=片想い〕の享楽は、そんな不安とはいささか異なっている。それは、現実がある傾向性をもって流れていくそのあり方に、自らの意志で一種の切断をもたらす行為に近い。
賭け〔=片想い〕には、断絶がなければならない。傾向性はよく理解した。だいたいどうなるかも知っている。しかし、本当のところ未来は不可知だ。不可知だと知りながらそこで何かを放り出す。それが賭け〔=片想い〕だ。
だから、賭ける=片想いすることには、一方では未来予測の正確さの精度を上げることが含まれていると同時に、他方では未来予測の不可能性そのものが織り込まれている。つまり、リスク計算をぎりぎりまで推し進める(恋愛工学!)ことが恋愛者にとっての義務なのだが、他方では、実際には何が起こるか分からないこと自体が肯定されている。恋愛工学には限界が入り込んでいる。それは「現在という時間性」そのものの構造に含まれた限界である。九鬼周造が言っているように、賭博=恋愛にまつわる情感は、不安ではない。「驚き」だ。
ひとは何に驚くのだろうか。恋愛者は、片想いする人間は、そもそも、相手と付き合えることに驚くのである。期待が成就することは期待外のことなのだ。期待は意外なことしか期待しない。惚れた相手と付き合えないことに驚く恋愛者など誰もいない。片想いする者にとって付き合えないことは自明なことなのだから。
失恋することには何の驚きもない。ところが、付き合えるとびっくりする。付き合えることに、絶対的な根拠などないことを、片想いする当人はよく分かっているからだ。付き合えることは異常である。それは現在を生きているということが、驚きに溢れた瞬間であることと、折り重なっている。
〔APPENDIX:「不安や寂しさをある種の不確定性に起因するものと考えれば、工学は不確定性を制御して実用可能なレベルで一定のパフォーマンスを叩き出すためのものだから、恋愛工学という命名は強ち間違いではない」)
:純粋な偶然性の戯れ=穴馬狙い
- 賭博者とは負ける者であり、恋愛者とは失恋する者である。恋愛論の言説の主旨は、「こうすると失敗する」という具合に、失恋を分析しつづけることにある。
とはいえ、成就の可能性が高い片想いというものは、ある。競馬で言えば、人気馬に賭けるようなものだ。或いは三着までに入ればいい複勝狙いの賭けのようなものだ。よく言われることだが、単に恋人がほしいだけなら、日頃から気になる複数の異性に同時にアプローチし、試験的なデートをくり返して、そのうちの一人と付き合えてから、一途になるのがよい。付き合う前から「おれには彼女しかいない」などと思い詰めるのは、穴馬を狙うことに等しい。その賭け方では、ほとんどの場合負けるに決まっている。人生(資金)は有限であるにもかかわらず、成果が出ない期間がずっとつづく賭け方である。しかし、言うまでもなく、穴馬券は当たったときの享楽がきわめて大きい。穴馬狙いは賭博のなかでも賭博的であり、賭博の本性に即している。同様に、最初から一途すぎる片想いというのも、恋愛の本性に即していると言えるだろう。
穴馬狙い、ないし一途すぎる片想いというのは、リスク(損得)を計算しているようで計算していない行為である。つまりそれは、ほとんど純粋な偶然性の戯れの形態に近い。センス溢れた穴馬選びというのはあるが、あくまで「当たるわけない」ことが前提である。だが、穴馬狙いというのは、一発逆転の大勝ちをもたらしうる賭け方でもあり、十年以上のタイムスパンにおいては収支をプラスにする可能性が十分ある賭け方なのだ。これは何かの本質を突いているように思えてならない。ほとんど外れると分かっている馬券を買うことだけが、リスク計算を突き抜ける唯一の勝ち方なのではないか……。安全な計算のもとに身を置くことは、はじめから負けているのではないか……。
そう、できるかぎりブレを大きくすることによって、同時にそのブレに身を合わせることによって、勝利を招き入れること。ブレを最大限に拡大して、そのことにおいて自らを賭けてみること。それ以外に勝負のやりようがあるだろうか?
だがそれは「当てる」という行為、「付き合う」という行為の意味がほとんどなくなるようなやり方だ。自己の行なっていることの根拠のなさを、それ自体として肯定すること。穴馬狙いの賭博者も、一途すぎる恋愛者も、何かを意志しているというよりも、何かをただ待っているかのようだ。何かが網に引っかかるのを待ちつづけているみたいに。これは農耕的にコード化された世界ではなく、狩りや漁の世界に近い。
:無責任であることの意志
- ところで、片想いは能動的なのか受動的なのか。賭け=片想いというのは、そもそも相手に身を委ねることだ。自発的な意志で何とかなるのなら、それは恋ではない。意志では何ともならないと知り、どうなるかまったく分からないから賭ける=片想いするのである。その享楽は身を委ねることにある。
これは言い換えれば、片想いすることは、本質的に無責任なことだということだ。片想いは、自分では責任を取れない事態を賭けることを前提にしている。恋愛は、労働たりえない。労働のための何かの条件が欠落している。そこで勝利を得たとしても、何の能動的努力もしていないかのようである(想いを募らせているだけで)。賭博者が勤勉でないように。賭博者が怠惰でいい加減であるように。だが、そこに意志がまるでないわけではない。無責任であることの意志がないとは言えないのである。
リスク計算のないところに責任はない。賭博者=恋愛者はリスク計算を突き抜ける。だが、われわれが身体という自然を持ち、現在を生きていることは、本質的にリスク計算と相容れないのではないか。恋愛者の無責任性とは、統御しえない身体を持ち、予測しえない未来を生きるということに関わる無責任性ではないか?
恋愛はリベラリズムの正当なゲームからは排除される。リベラルな正義を求める者とそれと結託した体制権力は、賭博=片想いによる無責任の肯定を忌避する。生命倫理を求め、企業倫理を求め、科学者倫理を求め、社会的公平性を求める者たちの強迫観念を見るがいい。彼らは、賭博=片想いにまつわる情動──「驚き」──の一切と無縁である。自らのうちにあるカオスを隠蔽し、カオスに向き合わないことによって、自分を計算高い者として計算し、自分を安心させようとする彼ら。彼らは「現在」を生きることがない。
ひるがえって、賭博者=恋愛者は責任など感じない。当てようとせずに当てること。リスク計算しないことにおいて身を投げ出すこと。要するに、或る種の社会をがんじがらめにしばりつけるセキュリティの狡猾な計算の裏をかいてみせること。それによって、賭博者=恋愛者がたまに勝ち組に回ることもある。しかし勝つことは目的ではない。といって、負け組の卑屈さや自己憐憫とも彼は縁がない。
賭け=片想いは、有限なわれわれが無限な時間を前にして、現在という場所に立つときに、誰もがすでに行なっていることなのだから。
:偶然性の情動としての「驚き」
- 賭博がわれわれに見せてくれること一つは、世界はいつも紙一重の空間から構成されているということである。赤が出るか黒が出るか、それでじつに多くのことが決定されてしまう。まさに紙一重なのだ。重大な人生の岐路も、ほとんどが紙一重である。これは重要な道徳だ。賭博の倫理が向かうのはそうした方向である。「無責任」な倫理という語義矛盾的なもの。
もちろんわれわれは、或る程度、この世界において何をすれば何の結果が生じるのかは推測できる。だから当然、決断という行為には、リスクの計算が付随する。しかし、リスク社会は、「現在」を喪失した社会だ。「現在」を喪失することによって、ひとびとは科学的な確実性、統計的な安定性、リスク回避的な合理性を手に入れる。それは、特定の現在に依存するだけの計算の力によって、時間全体を支配してしまおうとする欲望が喚起される社会である。本来、時間全体など捉えられるはずはないのだが。
ここから九鬼周造の偶然論を見ていこう。九鬼は、ハイデガーとベルグソンを論敵と見なしている。ハイデガーは「未来」を、ベルクソンは「過去」を中心に時間を思考する。これに対して、九鬼は「現在」をこそ主題化する。九鬼には賭博的なるものへの優れた感性がある。現在を、賭博的な一瞬と見なし、その切迫性をすくい取る感性が。
ハイデガーにしたがえば、未来への本来的な先駆としての先取りこそが、時間に対する正当な姿勢になる。主体は、来るべき未来に対して、つねに弧を張り詰めた存在でなければならない。未来抜きの現在は頽落的なものにすぎない。とはいえ、未来は不在そのものであり、究極的には自らの終わり=死にほかならないのだから、現在とは、死に向かうという事態を自らが捉えす仕方で設定されざるをえない。死という不在への先駆的な企投。ハイデガーには瞬間性への評価はないのだ。ハイデガーにとっては、未来に関わる「不安」こそが、本質的な情動である。
ベルグソンの議論の根幹をなしているのは、記憶としての過去の実在である。ベルクソンにとって、優先的な意味で「ある」と言えるのは過去であり、現在とは、過去が未来に切迫していくための断片のようなものでしかない。時間は連続的なものであり、それを保証するのは、連続性の背景をなす過去の実在である。やはり現在の瞬間性にほとんど意味は与えられない。ベルグソンにとって、知覚されるものはすべて過去であり、デジャ・ヴュの異常現象こそ時間の本性であり、存在はいくらかノスタルジーの色彩を帯びている。
九鬼は、自分が考察するのは「現在」であることを強調する。しかも、「賽の一振り」としての切断の現在を。未来は可能性であり、過去は必然性だ。だが、「現在」は可能性としても把捉されず、必然性にも還元されず、ただ偶然する。偶然とは、競馬の予想が当たることであり、情動性を備えた男女が「出会う」ことである。二元的なものの邂逅。リスク計算は、出会いを一元性の方向から見ているからこそ計算できるにすぎない。二元性は、本当の二元性であるかぎり、そこに他者性が入るものであるかぎり、計算することはできないのだ。
偶然性の情動とは「驚き」である。ハイデガー的な不安でも、ベルクソン的なノスタルジーでもない。現在がかくあること、このようにしか存在しえないこと、このようにしてあってしまうことへの尽きない「驚き」だ。未来にも過去にも回収されない、「この今」があることについての根本情動。意図せず、不意に、予想外に、何事かポジティヴなことが起きることへの、驚き。
:始原の「賽の一振り」の反復
- 二元的なものの邂逅。すなわちそれは、複数の、それぞれ独立していると解釈されうる系列が交錯し、「この今」の驚きをもたらすということだ。
しかし、二つの系が独立だということは、なぜそう言明できるのか。
たとえば、屋根から瓦が落ちてきて下を通りかかった子供に当たる。驚くべき偶然である。しかし、その子供に瓦が当たるよう細工した者がいたとしたら? 偶然ではなくなる(すべては一つの系でしなかった)。屋根から瓦が落ちて当たったのが地面だったら? 偶然だが、何の驚きもない。或ることが「偶然の出会い」であるためには、そこに目的があってはならないが、あたかも目的があるかのように二つの系が交錯が発生するのでなければならないのだ。生物の進化はまったくの偶然であるはずなのに、何か目的性があるかのように見えてしまうのも、「目的なき目的」の表われに近い。
たとえば、日蝕になると同時に部屋内で停電が起きて暗くなった。驚くべき偶然である。しかし、誰かが私を驚かせるためにブレーカーをその瞬間落としたのだとしたら? 偶然ではなくなる。日蝕になると同時に、写真立てが倒れたのだとしたら? それらはまったく別々の出来事であり、出会いではない。偶然の出来事、驚くべき出会いの前提にはかなり微妙な揺れが入り込んでいると言える。基準は、「この今」において驚きの情動が喚起されたということであるようだ。ならば、むしろここで分析の主題は「驚き」という現在の情動の方に移らなくてはならない。
私が或る偶然の出来事に驚く。そこに、故意はない。それが起こるべき当然の理由は見分けられない。だがその偶然があまりにもできすぎているために、その偶然は、まさにそのようにしかありえかなったものとして、「運命」の色合いを強く帯びるだろう。偶然でありながら、同時に必然的なものという視線で「この今」を見ること。このように、出来事が運命という視点から照射されるとき、「驚き」が生じる。それは同時に、「諦め」でもある。運命は甘受すべきものであるからだ。私にはいかんともし難かった事態として。
「運命」を強く感じさせるのは、「くり返しの偶然」としての不気味な反復である。写真立てが、日蝕になるたびに毎回必ず倒れるのであれば、何かの必然に見えてくる。くり返し同じ人に出くわすことは、意図的な待ち伏せでなければ、運命的な愛のように思えてくる。運命について九鬼は、プルーストの「現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である」というフレーズを引用している。偶然を偶然たらしめる原始偶然の視点。現在のあり方を、それ自身の反復性において始原に結びつける契機。偶然への驚きは運命に対する驚異のかたちを取る。
運命には、二系列として交錯する「この今」を、「こうでしかありえなかった」ものとして徹底して俯瞰する永遠性が織り込まれている。「この私」がこの私であることは、たまたまでしかない。だがそれは、この世界がたまたまこのような世界であることと同値である。はるか彼方から、何かが必然的に決定されていた。永遠に。世界最初の「賽の一振り」によって。原始偶然。世界は存在しないこともありえた。だが、たまたまそれは存在したのだ。
このように考えると、「現在」とはまさに「賭け」なのだということが明らかになる。現在とは、過去から引き継がれた過去が、新たなる未来へと展開し、そこで「ないこともありえた(=無)」を切断として含みながら、有が形成される断面である。現在は、それ自身、他なるものとの邂逅として、永遠性との接触として、「驚き」とともに捉えられる。それはイメージ化できない。邂逅を、すでに邂逅した立場から描くことはできない。
「この世界」のはじまりには超越的な賽の一振りがあった。現在は、その彼方の時間の賭博を「この今」において引き受ける。「この今」は、そうした賽の一振りの無限の反復である。「この今」とは反復であり差異である。もはや時間は、現象学的な「流れ」としての時間ではない。時間は、「再生および再死の法則に従属している。我は常に新たに生を開始し、新たに生を終結する」(九鬼周造『時間の観念と東洋における時間の反復』)。原始偶然、運命、非意志的な切断の時間性、賭けの現在。
賽の一振りは、文字どおり一度きりだ。一振りとして生じてしまったこの世界の一回性。だが、賭けは「一度きり」であることにおいて「その都度」である時間を肯定する。肯定に逆らうのは、リスク計算である。それは現在を馴致しようとするだろう。対して、賭けは、「現在」を、永遠性のもとで「絶対的な差異」(ドゥルーズ)へともたらすことによって、徹底した出来事性を与えてくれるだろう。「この今」は、一回的に始まったもののその都度として、自らが特異点であることを担い、自己であることを形成するのである。
九鬼周造の『「いき」の構造』は、異性との関係における他との遭遇とその不可能性を、美学的情動性の観点から描いたものだ。
恋愛の出会いが「出会い」であるためには、それは、世界が現れるということに関わる一回性を引き受けるものでなければならない。
出会いという出来事は、時間の秩序から解放された一瞬間として、時間の秩序から解放された人間を、われわれのなかに再生する。世界は、この恋愛者たちの驚きのなかにあるのだ。それだけが、社会をすべてリスク的に捉えてしまう力を破砕し、われわれの生における賭博の普遍性を明確にしてくれる。