:第一部/第三部
- 批評する前にまず自分の好みをはっきりさせること。なぜなら、あらゆる芸術作品は、芸術家その人に起因する何か特殊なものを孕んでおり、そのために、作品の出来の良し悪しとは無関係に、われわれは魅了されたり反撥したりするからだ。われわれは、自分の気質と知性の両方を同時に満足させてくれる作品にしか、全面的な称賛の念をいだくことはない。不当な批評はしばしば気質と知性を前もって区別しておかなかったために下される。
- 『ボヴァリー夫人』の圧倒的印象は、もう一つの傑作『感情教育』をすら凌駕する。『感情教育』は『ボヴァリー夫人』に比べて全体はずっとにぎやかで、社会は変化に富み、歴史的素材は複雑で、人生はいっそう多様なものとして提示されている。さらに作品の形式という意味でもその独創性と魔力は『ボヴァリー夫人』に劣らない。にもかかわらず、そこにはエンマのような人物が含まれていないのだ。小心なフレデリック・モローと捉えどころがなく母性的なアルヌー夫人には惚れ惚れするが、やはりエンマとは比較にならない。『感情教育』の登場人物の誰一人として、いわゆる典型的人物、セルバンテスやシェイクスピア的な意味での人物とはなり得ていないのだ。《偉大な天才を他と区別するものは、普遍化する力と創造力です。天才は世間に散在する人格をひとつの典型に要約し、人類の意識に新たな人物を書き加えます》(ルイーズ・コレ宛、一八五二年九月二十五日の手紙)。エンマ・ボヴァリーの場合は、まさにこれに当る。ドン・キホーテやハムレットと同様に、彼女は苦悩する人格と平凡きわまる人生のなかに、ひとつの恒久的な生き方、さまざまの時代と場所で多様な外観のもとに現われはするが本質的には変ることのないひとつの生き方を要約してみせる。それは人間のみがもつ探求の姿勢を象徴しており、個人の偉業や災難は、もとをただせばすべてここから、すなわちイリュージョン(妄想)を産む力とそれを実現しようとする気違いじみた意志から生じてくるのである。
- フロベールの信念によれば、小説は、固有の手段によって読者を説得しなければならない、言い換えれば、外部の世界を忠実に映し出しているかどうかではなくて、ただ言葉と技法によって説得力をもたなければならない。『ボヴァリー夫人』では、主観的現実が、客観的現実に劣らず充実した、重みのある存在になっている。以上は物語性を否定するものではない。《ぼくがやってみたいのは、生きるためには呼吸をすればいいのと同じように、(こんな言い方ができるとすれば)ただ文章を書きさえすればいい書物をつくることです。プランについてあれこれ悩み、効果の組み合わせを考え、要するに表に出ないさまざまの計算をしなければならぬことにはほとほと嫌になりますが、しかしこうしたものもやはり「芸術」ではある、なにしろ文体の効果はこれにかかっている、もっぱらこれにかかっているのですから》(ルイーズ・コレ宛、一八五三年六月二十六日朝の手紙)。これほどはっきりした話はあるまい。フロベールにとって面白いのは、たしかに、文体の仕事、言葉の選択、名詞や形容詞、音の響き、リズムを調整する作業だった。もう一方の作業はあまり好きではなかったが──「プランについてあれこれ悩み、効果の組み合わせを考え、表に出ないさまざまの計算をする」とは、言うまでもなく、情報の扱いに関する問題であり、物語を構成する出来事を秩序立て、小説の素材を時間のシステムとして構成することを意味している──それが芸術であり、重要でもあることを、彼は否定してはいない。反対にフロベールは「文体の効果」は、そうしたことすべてにかかっていると断言し、さらにきっぱりともっぱらそれにかかっているとつけ加えているのだ。じっさいにフロベールは物語を語ることに長けていたし、叙述のなかで逸話が果たすべき役割をはっきりと認めていた。
- 自然主義の作家たち、ゾラ、ドーデ、モーパッサン、ユイスマンスたちは、そろって『ボヴァリー夫人』こそレアリスムを代表する作品とみなし、自分たちの陣営の先駆的作品と考えた。モーパッサンは、『ピエールとジャン』の序文のなかで、フロベールの口を通して、自然主義の原則を学んだ、それは、どんなにくだらない、ありふれたことでも、すべてが文学にふさわしい主題となる、なぜなら《いかなる些事にも、わずかばかりは未知のことがらがふくまれている》のだから、という教えだった、と語っている。だが、自然主義の作家たちは、日常的なものと社会的なものを描くことに専念する一方で、形式についてはただ慣習を守るだけだったので、じつに貧弱な成果しか残さなかった。《どんなものでも面白さを見つけるためには、ただ時間をかけてそれを眺めるだけで十分だ》とフロベールは言った。その通りにちがいない。ただし彼の場合は、文学的主題として面白く思われたことは、さらに細心の注意を込めて形式に仕上げられ、高い芸術性を与えられている。凡庸な──すなわち一般的な──存在が文学のなかで生命をもつためには、作家がある種の例外的性格をこれに与えなければならない、つまり、特権的で唯一の経験として、それが提示されなければならないのだ。これこそ『ボヴァリー夫人』の注目すべき点だった。いかにも庶民的な夢と問題をかかえた俗っぽい人物たちが、彼らを創り出した小説の構造とエクリチュールのおかげで、月並みな人間として生きながらしかも並々ならぬ人間のような印象を与えるようになる。レアリスムを自称した多くの運動が挫折したのは、彼らにとってレアリスムが、平凡で一般的な現実の断片を、できるだけ忠実に、ほどほどの芸術的努力で描出することにとどまったからだろう。
- ロマン派の作家たちは、現実をイリュージョンにおきかえて、もっぱら(ラマルチーヌ、シャトーブリアン)あるいは、好んで(ヴィクトル・ユゴー)現実界の主観的側面を描き出した。フロベールは『ボヴァリー夫人』のなかで、分断されていた現実を拡大し、ロマン派的な想像力が廃棄してしまった客観的側面を、復活させた(しかも、やがてゾラ、ユイスマンス、ドーデなどが試みるように、主観的側面を排除してしまうということはなかった)。《貴女が言うところによれば、リシウク=ハーネムに南京虫がいたのではイメージダウンらしいけれど、ぼくは、まさにそいつがいいんです。南京虫のむかつくような臭いが、白壇をたっぷり塗りこんだ肌のかぐわしさと混じり合っていた。ぼくはあらゆることに一抹のほろ苦さがあってほしい、勝利のさなかにお決まりのように野次の口笛が吹かれるとか、さらに熱狂のなかには悲嘆さえあってよいと思うのです。それでジャファのことを思い出しました。あの町に入ったときには、レモンの木の香りと屍骸の臭いを、いっぺんに吸いこんだものです。朽ち果てた墓場が腐りかけた骸骨をのぞかせている一方で、青々とした灌木が、ぼくらの頭上で黄金の果実をたわわにみのらせていました。貴女にはわかってもらえるかしら、この詩情がどれほど完璧なものか、これこそ壮大な総合なのですよ。ここでは想像力と思考の欲するところのすべてが、一度に満たされる、背後にとり残されているものはなにもない》(ルイーズ・コレ宛、一八五三年三月二十七日の手紙)。
- 小説家が自分の(現実からの)剽窃行為をどの程度意識しているかは、もちろん人によってちがう。略奪品によって自分の作品を養っているのだということをまるで意識しな作家も、めずらしくはない。反対に、小説家が創作のために使ったものすべてを正確に意識するようになることはほとんどあり得ない。こうした剽窃は、無数におこなわれるだけでなく、それ自体とても複雑なものなのだ。人生から引き抜いたたったひとつのテーマから、ひとつ小説がつくられるわけではない。重要であったり、そうでもなかったり、取るに足らなかったり、じつにさまざまの経験のよせ集めから小説が生れ出る。それぞれにちがった時期、異なる環境で身におきたこれらの経験は、潜在意識の奥にしまわれていたり、あるいは新鮮に記憶されていたりする、なかにはその人自身の生々しい体験もあり、伝え聞いた話もあり、あるいは本で読んだ話もあるだろう。そんな経験がいっしょくたに、ほんのすこしずつ、作家の想像力のなかに流れ込む、すると想像力はさながら強力な撹拌器のように、それを粉々にして新しい物質につくりなおす、これに言葉と内的秩序が与えられたとき、あらたな存在が誕生する。現実界のレアリテが崩壊し、溶解したところから、今度はまるでちがった何か、つまりコピーではなく解答としての何かが出現するだろう。これが虚構のレアリテである。
フィクションが現実界にもつ起源を系統図にしてさかのぼることには、さほど意味がない。重要なのは作家が何を用いたかではなく、いかなる形で用い、何に変化させたかということなのだから。
- 文学における模倣とは、精神ではなく芸術の問題である。すべての作家は、程度こそさまざまだが、既成の形式を使う。他人から盗みとったものを個人的な何かに変えることができない作家だけが、模倣者と呼ばれるのだ。独創性とは、いろいろな方法を発明することだけでなく、すでに発明された方法を個性的に用いて、それを豊かなものにすることも、意味するはずである。自由間接話法が重大なのは、登場人物の内面生活を直接に見せるこの技法が、現在では数えきれぬほどの作家によって、フロベールと同じやり方で使われるようになったためではない。これが出発点となって一連の新しい方法が産み出され、伝統的な叙述の形式が根底から変り、小説が心的レベルのレアリテを描き、内面の心理を生き生きと表現できるようになったからこそ、それは重大なのだ。
:第二部
- フロベールが一八五四年のはじめごろに発見したのは、文学の理論と実践のあいだには相互作用があるという事実だった。つまり、著者がそれを意識するか否かにかかわらず、あらゆる作品制作には、エクリチュール、テクストの構造、フィクションと現実の関係などについての一般的な概念が、暗黙のうちにふくまれている。《書くべき作品のひとつひとつには、それ自体の詩学があります。これを発見しなければならないのです》(ルイーズ・コレ宛、一八五四年一月の手紙)。
- フロベールは生涯にわたり、突然、なんの前ぶれもなく主題をえらぶということはしなかった。作品はすべて、経験や計画が長いあいだあたためられ、熟慮され、再考され、ときにはじっさいに書いてみて、そのあとずっと放棄され、大きな変更を加えて書きなおされた上で、やっと陽の目を見たものだ。要するに彼は、いつもじっくり時間をかけて構想をはぐくむ作家であり、その様子は徐々にある考えに感染し、しだいに執念をつのらせるといった感じである。
- 形式に革命をもたらし、前衛的な叙述法を実践したこの人物は、読者としては同時代をかえりみず、古典を偏愛した。彼がもっとも敬愛する作家、何度でも立ちかえり、いつもその作品世界の豊かさと「没我性」にうたれて喜びの叫びをあげる作家、それはシェイクスピアである。《彼の作品全体のことを考えると、まるで太陽系を想いうかべるような驚愕と興奮をおぼえます。ただとほうもない大きさが目に入るだけで、まぶしさにまっすぐ見つめることなどとてもできません》(ルイーズ・コレ宛、一八五四年三月三十日)。
- 《書物は子供をつくるような具合にはつくれない、ピラミッドのように、前もって練り上げた設計図にしたがい、巨石をつぎからつぎへと積みあげて、腰の力と時間と汗水をそそぎ込んでつくるんです》(エルネスト・フェドー宛書簡)。第一の階梯は《前もって練りあげた設計図》つまり作品のプランである。物語の大筋が素描された一覧表をつくること。この第一段階の中心をなす課題はいわゆるプロットで、登場人物、ドラマの進展、主な逸話的出来事などがふくまれる。何週間かこれをやっているあいだは、形式を考慮することは全然ない。フロベールは、素材を全身み滲みこませるように努める一方で、場面、章、構図などを枠組みにして、主題をまとめることに専念する。彼はルイーズにこう説明している。《形式のことを考えるまえに、書くべき対象をよく反芻しなければなりません。主題の幻想にとりつかれるほどにならなければ、すぐれた形式はやってこないのですから》。四十六ページにのぼる《セナリオ》から、つぎの二点を理解することができる──一、最初のプランは非常に細かく正確なものであり、ほとんど取るに足らないことにまで言及する、これはフロベールが、前もって考えるという方法を極端におしすすめあらゆる思いつきを排除しようとしたことを示している。二、執筆が先にすすむにつれ、このプランは折にふれて変更される。といっても、物語の大筋が変るのではなく、フェドー宛の手紙ではこれを巨石と呼んでいたが、小説の各テーマの構成単位としての場面が、内容的に変化するのである。
作品全体の計画と第一章の厳密なプランができあがると、いよいよ文章を書きはじめる。そのときこそ、形式への関心が彼を支配し、絶望させるのだ。《文体を手に入れるためには、おそるべき労苦が、気違いじみた忠誠心による不屈の努力が必要です》(ルイーズ宛、一八四六年八月十五日の手紙)。彼が手紙のなかで「文体」のことばかり話すものだから、たいていの批評家は、フロベールの形式に関する強迫観念はもっぱら言語にかかわるものだと信じている。じつのところ、彼がひどく悩まされるとしたら、それは、小説の構造──語りの順序、時間の構成、さまざまの効果の微妙な推移、情報をどのように隠蔽しあるいは露見させるか、など──に関しても、エクリチュールに関しても、同じことなのだ。彼が小説にもたらした偉大な成果には、たしかに技術的な側面があるのだが、それは、言葉の使い方と、物語の素材を配分するやり方の、両方に等しくかかわっている。
- あらゆるレベルのレアリテを吸収して歩く海綿動物のように、フロベールは他人から盗み、自分自身から盗み、示唆に富むと思われることがらをあさって歩く。と同時に彼の記憶力は、埋もれていたイマージュを解き放つ。そこには、たんに実人生の想い出だけでなく、彼の若々しい想像力がみずからの内的衝動にしたがって早熟な文学的知識を変貌させ、しまい込んでおいた一連のイマージュもふくまれていよう。剽窃につぐ剽窃、変貌につぐ変貌、混合につぐ混合がおこなわれ、その過程では意図的なものと無意識が協同して作用する、さらに現実の観察と現実のデフォルマシオンが同時に進行する。こうした複雑な結合と還元は、全体としては断片、模倣、コラージュ、読まれた本、人の噂、思いつきなどによって成り立っており──しかもそこには、まだ傷口のふさがらぬ傷のような、強烈な現実嫌悪のからくりが働いていて、現実を打ち砕こうとしながら再現し、じつはそれを廃絶したいのに再生するふりをしているわけだから──そのプロセスの全体を再構成することはまず不可能だけれど、とにかくここから、『ボヴァリー夫人』のプロットは、徐々に生じてくるのである。
- この小説では、冒頭の数ページに、このような擬人化された事物のひとつ、シャルルの帽子が現われる。そして、その忘れがたい描写を通して、小説内のレアリテのある特徴的な側面が、早くも浮び上ってくる。そこではある種の事物は、色彩の華やかさ、陰影の豊かさゆえに、その所有者と同じくらい複雑で、神秘的で、持続する、感覚的な存在となり、固有の意味と象徴性さえ与えられているように思われる。《その帽子というのが、毛皮の軽騎兵帽とポーランド風槍騎兵帽と山高帽と川獺皮の庇帽とナイト・キャップの諸要素が多少とも見いだされるがそのいずれでもないという混合様式の帽子であり、言うなれば、その黙然たる醜さが白痴の顔のような深刻な表情をたたえているといったていの、あのみじめな珍物の一種だった。それは鯨骨を芯に張った中ぶくれの楕円形で、まずいちばん下には三重の腸詰状丸縁がぐるりをとりまき、つぎにビロードの菱形模様が赤糸の筋をあいだにはさんで兎の毛の菱形模様と交互にならび、それから上は袋のような形にふくらんで、その天辺には刺繍糸でごてごてと一面に縫い取りをほどこした多角形の厚紙があって、そこからやけに長っ細いひもがたれて、その先に飾り総めかして金糸を撚った小さな十字形がぶら下がっていた。帽子は真新しく、庇が光っていた》
伝統的な叙述の方法によれば、語り手は、事物を描くときと人間を描くときでは、異なる姿勢をとることになっていたのだが、この小説はそうした習慣をくつがえした。『ボヴァリー夫人』では、語り手が、本来なら人間が相手のときにかぎられるような、恭しく執拗な注意を払いつつ、事実にあい対しており、さらに、登場人物の特権とみなされてきたある種の役割を、それらの事物に託している。これは従来では考えられぬことだった。もともと事物の果たすべき唯一の役目とは、舞台装置、背景、演出効果を構成することにつきていた。そして、舞台の前面で、行為、知性、感情の主である絶対君主、すなわち人間が、魂と肉体の冒険すべてを独占的に演じていたのである。描写の力によって、『ボヴァリー夫人』のなかでは、ある種の事物、たとえばシャルルの帽子などは、その所有者よりも雄弁でずば抜けた存在となる。所有者の言動よりむしろ事物のほうが、主人の人格を明らかにし、その人の社会的身分、経済状態、習慣、願望、想像力、芸術的感覚、信仰などを暴露する。帽子が擬人化されているとわたしが言うのは、ただそれが、とほうもない量の情報を伝えることができる、何かを語っているという理由のためだけではない。それはまた、ある種の形容詞(《みじめな珍物》《黙然たる醜さ》)や比喩(《白痴のような深刻な表情》)のおかげで、いわば独自の体質までそなえるようになり、人間と同じ不幸を経験することさえあるように思われる。それゆえ、ヒト科の生物と同じく、同情、共感、連帯に値するもののようにさえ感じられる。帽子の描写は詳細で、科学的で、客観的ではあるが、冷淡ではない。奇妙な雑種的性格を明確にしようとする努力には、優しさが秘められているし、さりげない愛情があるからこそ、帽子が言葉によってあれだけ完璧に再生されるのだ。
さらに、物は『ボヴァリー夫人』のなかで、個々に人間的性格をそなえているだけではなく、ときには、社会的存在として、人間にとって代ることもある。つまりそれがおかれた立場、同種のものの共同体のなかで占める位置、そこで果たす役割によってのみみずからの性格を規定する存在となるのである。こうして物は、本来の社会と併存するもうひとつの社会を構成し、集団や家庭の階級や利害、貧富の差、洗練の度合いなどを反映する。
- 物語性をすっかり放棄するというのでないかぎり、小説は二つの問題、すなわち時間構成と視点の問題を解決しなければならない。膨大な量の事実、人物、場所、感動などが、ある秩序のもとに提示され、ひとつの年代記となることが必要なのだ。
『ボヴァリー夫人』における時間は、さまざまの出来事が着実に、不可逆的に継起する均質な流れではない、たとえて言うなら、いつも同じ速さで目のまえを流れてゆくのが見てとれる川の水のようなものではない。それはむしろ不均質な流体であり、全体として前進するもの──過去、現時点、その後、というふうに──ではあるけれど、それだけではなく、運動と静止、円を描く回り道、質の変化などを内包する。そのため、出来事や人物は、この小説の時間のシステムにふくまれた四つのプランのどこに位置づけられるかにしたがって、さまざまに度合いの異なる確実性をもつことになる。
(1)単一の、あるいは特殊な時間
このタイプの時間において語られることがらの特異性と自立性は、反論の余地がない。それらはじっさいにおきたことであり、移ろいゆく時の流れの具体的な瞬間を占め、一連の、反復不可能な仕草、態度、行動などの限定された結びつきからなっている。そこで語られたことは、ただ一回だけそのようにしておきたのであり、何度もくり返されることはない。
語り手がこの時制を使っているときには、小説は最大限の活力と敏捷性を発揮する。物語を進行させる出来事、ものごとの移り変わり、挿話的な状況の変化、何かの刺激とその反応などは、とりわけ、この時制によって語られる。それらは主として、人間のやる行為、また知覚や感覚からなる。
(2)円環を描く時間、あるいは反復
この時間で問題になるのは、特別の行為を前面に押し出すのではなくて、くり返される一連の行為、ひとつの習慣、あるいは風習が描かれるような場合である。(1)では語りの時間は直線をなして進んだが、ここにあるのは円運動だ。そして、語り手の報告は、登場人物の体験と絶対的に一致するのではなく、相対的に一致する。反復される出来事一つ一つの個別性は捨象されるからである。これにより、最大限のことがらを最小限の言葉に還元し、長いひと連なりの行為をたったひとつの行為に統合することが可能になり、その上持続と、反復と、物語の前進という印象が同時にもたらされる。多くの批評家が認めているように、これこそフロベールの特徴的時制である。(1)の「単一の」時間的プランは、例外的で一度かぎりで一時的な出来事を語るのだが、「円環を描く、あるいは反復する時間」は、反省の時制、精神の状態を述べる時制、登場人物の心理や先々の突発的出来事の動機を描き出す時制、さらには社会や家庭での日常的な生活を克明に追う時制である。この時間的プランは倦怠と単調さ、予言的なもの、社会的なもの(⇔個人的なもの)を告げる。そして運動のさなかにある恒常性、静的な運動の観念が暗示される。
この時間的プランは「会話」も除外するわけではない。登場人物が話し合ったにちがいない無数のことを象徴するために、語り手が、ひとつの会話だけを書き記すということもある。
(3)静止した時間
この時間的プランは、まったく客観的な世界、事物と外的世界を構成する。文法上の時制は直説法現在である。この時間的プランは小説に物理的な厚みを与える。言葉は純粋な情報となって、人間の声は消え、対象のなかに吸い込まれ、精密さと正確さをめざす意志のみが残る。この時間は、本質的に語り手に属している。「特殊な時間」のプランおよび「円環を描く時間」のプランにおいては、小説のレアリテは、ほとんどいつでも、登場人物のだれかが主導権をにぎった状態で描かれていたけれども。
(4)想像の時間
この時間的プランは、フィクションの年代記に組みこまれておらず、具体的な空間を占めることもない。登場人物の空想や夢(悪夢)を叙述するときの時間がこれにあたる。このとき、語り手は最大限の距離と不可視性を保っている。この第四のプランには、特定の時制はない。
- 『ボヴァリー夫人』では、全知の語り手が、ときどき──かなり稀であるが──侵入者のように姿を現わすことがある。ほんの一瞬だが、言葉や文章の端々に、小説のレアリテとは無関係な人間がいると感じられるのだ。ときには語り手が、はっきりそのつもりで登場人物や物を押しのけ、物語の前面に身をのり出して、それまでに語ったことやこれから語ろうとすることを具体的例証としてふまえ、哲学的判断、倫理的評価、諺や格言、人生観の一端を堂々と開陳することもある。《いかな俗人といえども、多情多恨の青春の日に、たとえ一日にせよ、一分にせよ、崇高な情熱、遠大な企画の可能性を信じなかったものがあろうか。いかな下根の蕩児もサルタンの后を夢みたことはあるのだし、凡百の公証人も詩人の残骸を身うちに秘めているものだ》《くそ落ちつきも場所がらしだいというもの。アパルトマンの中二階と五階とでは、ものの言い方からしてちがう。金持ちの女ともなればその貞操を守るべく、身体のまわりコルセットの裏に、札びらのありったけを鎧のように着込んでいるとしか見えぬ》ここで語っているのは、登場人物ではない。
このように筋書きが描写が一時中断され、「父なる神」の権威ある声が、それまで語られたことを要約し、倫理的、社会学的、心理学的、歴史的規範を導くというやり方は、小説の古典的手法であり、その意味でフロベールは伝統に従っているにすぎない。といってもフロベールの場合、「人生哲学を述べる語り手」が姿を現わすのは、重要な瞬間だけで、それもごく短い時間にかぎられる。その介入によって物語の進行が妨害されるということはない。すなわち、フロベールは適切な状況があるときにかぎって、語り手の不意の介入を許している。
「人生哲学の語り手」が主張することを拾いあつめてみると、それは特定の登場人物のイデオロギーではなく、倫理、政治、宗教についての、この社会が内包する一般的イデオロギーを、つまり小説に登場する男女がその内部で生活し、さまざまの行動や感情生活の基盤とする普遍的価値観を構成していることが分かる。
- 『ボヴァリー夫人』のなかには、著者が他と区別するためにイタリックで印刷させた言葉がある。このイタリックの用法はきわめて特殊で大胆なもので、叙述の視点という問題から捉えれば、ひとつの革新と言えるものだ。ひとつ例をあげよう。
《しかしおよそ文芸に関心のないボヴァリー氏は、すべてこうしたことは必要ないと言った。この子を国立の学校に通わせたり、役人の株や商売の資本を買ってやったりするだけの金が、手に入る当てがあるとでもいうのか? それに、「男一匹強引に押し出れば、世間は通るときまったものだ」。ボヴァリー夫人は唇をかみ、子供は村をさまよい歩いた。》
ここで「この子を国立の学校に通わせたり、役人の株や商売の資本を買ってやったりするだけの金が、手に入る当てがあるとでもいうのか?」という文章は自由間接話法である。自由間接話法の本質は、曖昧性、もはや語り手のものではないが、登場人物のものでもないらしい視点の混同あるいは不確実性にある。
だが「男一匹強引に押し出れば、世間は通るときまったものだ」という文章で起っていることはまったく別のことである。ここでは事態は曖昧どころか明白だ。「男一匹強引に押し出れば、……」と妻に言ったのはボヴァリー氏であり、語り手はその言葉を引用しているのである。別の例もある。《シャルルの母親は、この嫁は「とかく分に過ぎたやり口」をすると思った。薪も砂糖もろうそくも「ご大家なみに見ている端からなくなる」し、この家の台所に燃えているだけの火があれば、二十五人前の食事だってらくに出せるではないか!》
このイタリックの引用が意味するところは、それが登場人物の声でありながら一種の常套句の響きを持っている点である。そこにはいろいろな偏見や信仰、現実に対するさまざまな見方、生き方などが滲み込んでいる。《男一匹強引に押し出れば、世間は通るときまったものだ》父親のボヴァリー氏のこうした断言には、横暴な個人主義に支えられた楽観的プラグマティズムの哲学が現われていよう。それをことさらにイタリックで際立たせてみせることは、その決まり文句のイデオロギー性、欺瞞性をあばくという意図が裏にある。シャルルの母親のエンマについての意見、《「とかく分に過ぎたやり口」をすると思った》という声にも、偏見でがんじがらめになった精神構造が認められるだろう。保守的で旧弊で臆病な社会階級、人はそれぞれ与えられたもので満足しなければならぬ、自分のいる経済=社会的枠組みをのりこえようなどと考えてはならぬとする連中、あきらめを徳として誉めたたえる連中の意見が、イタリックによって強調されている。そうしたわけで、登場人物の声の直の引用としてもっとも生彩であるべき言葉が、同時にいちばん生気に乏しいものとなるのである。登場人物の個性は摩耗し、このとき語っているのは家庭、集団、宗教、道徳、共同体といった観念的存在であるにすぎない。この意味でイタリックは、小説のレアリテのレベルの変化を示している。そこでは型にはまった言語形態をとおして、ひとつの共同体の知的倫理的典型が、提示される。これもまた虚構のレアリテをきわめて柔軟にする文体上の工夫なのだ。
- 自由間接話法、それは、「全知の語り手」を登場人物にかぎりなく近づけて、両者の境界線がついに見えなくなるところまでもってゆき、そこにひとつの両面性をつくり出し、語り手の言うことが、「不可視の報告者」に由来するものか、それとも頭のなかで独白をつぶやいている登場人物に由来するものか、読者が判定できぬようにしてしまうという方法である。こうしたことを可能にするために、フロベールは、動詞の時制やとりわけ疑問文を、巧妙に使うという方法をあみ出した。
《ルオー爺さんにしてみれば、もてあまし気味の娘が片づくことに不服はなかった。娘は家にいても役に立つというほどのこともないのだ。だがその点、爺さんは内心あきらめていた。なにせうちの娘は頭がよすぎるから、農業なんてお天道様に呪われた仕事なんぞやるがらじゃない。百姓稼業に百万長者の出たためしはないのである》この冒頭とおわりの部分で話しているのが「全知の語り手」であることは、まちがいない。だが、「なにせうちの娘は頭がよすぎるから……」の箇所まで来ると、ルオー爺さんその人が、頭のなかでぼやいた科白のように感じられる。これが自由間接話法の効果である。
この文体が用いられるのは、心の内面(記憶、感情、感覚、思考)を内側から──「……と思った」「……と考えた」という指示なしに──語ろうとするとき、つまり読者と登場人物をできるかぎり近づけようとするときである。しかも、それはハムレット的な芝居がかった独白ではない。自由間接話法では、視点が相対化され、そこで活動する意識が「話される」より前に、つまり活動中の意識自体を直接に見たり聞いたりしているような印象を、読者に与えるのであるから。