:1
- 柄谷行人の批評の基調低音は「考えることと在ること」の乖離への鋭敏さである──であった。
現実の行動に結びつくことがない思想・批評・反省だけが問題なのではない。仮に有言に実行が伴っていたとしても、活発に猜疑的なまでにつづいている自意識の活動が、なぜか自己自身とも外界からも奇妙に乖離している現実に無自覚でいるかぎり、そこから試みられた行動のすべては、意識の自己循環の中での観念的な遊戯と変わらない。行動から身を退き批評理論をこねくりまわす者と同様に、現実を無視して自意識の延長でのみ行動に奔走する者も、ともに否定されなければならないのだ。
考えること(意識)と在ること(存在)の乖離への無自覚、そのような精神の在り方は「自己欺瞞」と呼ばれるだろう。その運命は、主体的に行動し論評しているつもりでありながら、実は周囲も本人をも欺いて、自己に仕掛けられたプログラムに気づかずにただ従っているだけであるがために、徐々に個体に精神の強度を失わせ、やがて破滅させる。このプロセスは意識的な反省によっては脱け出すことができない。むしろ意識の作用は無数の言い訳を繭のように張りめぐらし、現実への回路を閉ざすことにしか帰結しないだろう。
柄谷の思索のハードコアは、この意識と存在の分裂を自覚しつづけること、顕微鏡的に見つめつづけることに存していた。柄谷の批評精神は、現実の行動と結びつくことのない思想・批評を軽蔑すると同時に、自己批評を欠いた行動をも嫌悪する。「すべての思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている」。
ところが、現在の柄谷行人、見取り図の作成にばかり専心する柄谷の思索は哀れなほど緊張を失ってしまっている。なぜ彼は現実への回路を失ってしまったのだろうか。彼の「文学というのは、きわめて自己批評的なものである」という確信はいつ・どこで消えたのか。
:2
- 一九七四年、柄谷は「マルクスその可能性の中心」の連載を「群像」で開始する。後知恵で纏めれば、それは新左翼運動のバックボーンだった初期マルクスの疎外論(実存主義・人間主義)を、『資本論』における価値形態論解釈で批判する議論だった。「この社会は人間の本来的な在り方を疎外している、ゆえに、人が人らしく生きられる社会を作らねばならない」という認識自体が、資本制の現実から目を逸らそうとする者のたびたび陥る錯誤であるということ、マルクスの「可能性の中心」は、むしろ「共産主義」「社会主義革命」といった革命の幻想を人間の心に発生させるメカニズムの批判にあるのだということ。それが彼の議論の骨子である……。
だが柄谷のマルクス論を、そのように「疎外論の否定」という整理で済ますことは可能だろうか。柄谷はデビュー以前、東大新聞の五月祭賞佳作の論文(一九六七)で書いていた。「マルクスにとって「共産主義」とは、政治的国家内部でのみ幻想的に本質的であるにすぎない状態(民主主義国家)を止揚して、市民社会内において現実的に本質的であり「自分の足で立つ」こと、つまり「人間的本質存在が自己自身に対立して非人間的に対象化されること」のなくなることを意味している。それは絵にかいたようなユートピア思想ではないし、SF的未来図でもない。マルクスが現実の社会と具体的な生活者を透視することによって得た認識である」。これは明らかに疎外論である。柄谷は一九七四年になってかつての自己を単に「否定」したのか。そうではあるまい。「マルクスその可能性の中心」を読むとき、柄谷は六〇年代のマルクス理解をむしろ徹底することによって、七〇年代のマルクス理解に至ったのではないか、という印象は強く残る。柄谷に「マルクスその可能性の中心」を書かせた動機は、ただ新左翼運動を切断するというような世俗的動機ではなく、もっと正体不明のもの、非人間的な欲動ではなかったろうか? ……この推測は後続の論述によって検証されるだろう。
「マルクスその可能性の中心」(一九七八年に単行本版が出版)以後の柄谷は、「内省と遡行」(一九八〇)から「言語・数・貨幣」(一九八三)といった一連の「形式化」をめぐる論考に没入する。これは「マルクスその可能性の中心」で論じた価値形態論がそもそも資本性を内省することで抽出された形式であったという、その現象から形式を抽出してくる思考それ自体を問題化した試みであり、モティーフは徹底されている。そこで柄谷は、フッサール現象学やレヴィ=ストロースの構造主義を批判しながら、「思考にとって外部とは何か」という問いを身を以て生きてみせる。その姿勢がしばしばジャック・デリダやジル・ドゥルーズらと同列に語られてきたことは周知の通りである。
しかし後年彼自身述懐するように、この「形式化の諸問題」──「内省からはじめる方法において可能なぎりぎりのことをすべて突き詰める」──は柄谷を心身ともに疲弊させた。そして「言語・数・貨幣」の連載は一九八三年十月に放棄され、その後八五年一月に「探究」の連載が始まるまでの間、柄谷は理論的な仕事を一切していない。そして「探究」を開始した動機は次のように彼自身によって語られる。「おそらく私は一つの球体に閉じこめられていたのだ。非常にラディカルで、魅力的ではあるが、にせの問題性のなかに。私はもう一度、注意深く歩き直してみなければならない」。
ここで問うべきだろう。柄谷が初期批評以来の批評性を致命的に失ったのは、「探究」へと転回した、この瞬間なのではないか、と。彼が放棄した形式化をめぐる一論の論考には、実はまだ考え尽くされていない何かがあるのではないか、と。
- 「探究」には致命的な欠陥がある。分かりやすすぎるのだ。言うまでもなく形式化の問題からの転回として始められた「探究」は、まずウィトゲンシュタインの「私的言語批判」に拠り内省それ自体を斥ける。ところが「探究2」ではそれはやや揺り戻され、他者性の刻印を帯びた内省(スピノザ・デカルト)と、意識に依拠する恣意的な内省(カント・フッサール)があるのだと言い、後者のみを斥ける。そして「探究3」ではカントの評価が変わり、ヒュームの自己への懐疑に震撼することから始まったカントの哲学はデカルト的な内省と通ずるものとして、マルクス、フロイトと並んで肯定的に語られる。
では他者性の刻印を帯びた内省が肯定されるのはなぜか。それが恣意的な内省とは違う「強い視差」に貫かれているからだ。例えばフロイトは、精神病患者との具体的な臨床体験から、自己の確実性を揺さぶられて、その問いを始めた。だからこそフロイトが析出した構造には他者性=普遍性があるのだ。柄谷はこのような他者の視線に貫かれた思考態度をカントにならって「超越論的」と呼ぶ。カント、マルクス、フロイトの思考は「超越論的」であるがゆえに批評精神を失うことはない……。
こうした思索の道筋は、かつての柄谷の到達点からの退行でしかない。繰り返す。「考えることと在ること」の乖離への鋭敏さが、柄谷の批評のハードコアなのだ。例えばフロイトについて言えば、精神医療の現場に携わっていることがフロイトの思考に批評性をもたらしたのではなく、いや、そもそもそのような条件に関わりなく、私たちは誰でも日常的に「強い視差」を強いられている。考えていることと在ることの亀裂を他者の前で意識させられることによって。この亀裂の感覚が生じなければ、どんなに知見を増やしても、それは自意識の拡大でしかない。
真の問題(柄谷もかつて掴んでいたはずの)は、自己への問いがどこから来るのか、である。私が何かを認識する。何かを読む。何かを解釈する。だがそのとき、私はただそれを都合のよいように変型し、均し、削ぎ整え、自分を安心させて他者性を奪っているのではないだろうか。私たちが何を読もうが、何を書こうが、何を見ようが、何に触れようが、それは自意識の確認でしかないとしたら、どうか。……人間は所詮そのようにしかありえないとは嘯けない。そう嘯いた瞬間に、何かが致命的に手放す感触がある。このような自己言及こそが罠だろうか? しかし、この自問を放棄し、平板な他者との交流を目指した者たちは、いずれも死ぬまで貧弱な自意識を保守したにとどまった(自己の確実性の揺さぶりを一過性のものとしてやり過ごした者、自己への問いを忘れてただ自己の記述だけに夢中になる者、「すべてを疑う」と言いつつ疑っている自分だけは疑わない自己絶対化を行なう者……ありふれた光景だ)。もちろん、ナイーヴな反省は意識の隘路に嵌まり込むだけで、かえって外部への回路を閉ざすことは分かりきっているが。
明らかなことは、生じた「強い視差」を、自己を含めた関係全体への問いへ練り上げるためには、カントを参照し、フロイトを参照し、マルクスを参照し、かれらの思考が析出した構造(順に、〈感性-悟性-理性〉、〈エス-自我-超自我〉、〈価値形態〉)を重ね合わせて、わかりやすい議論を構築しているだけでは駄目だということだ。
再び問おう。自己への問いはどこから来るのだろうか?
- 私はここで、フロイトの「死の欲動」論を補助線に、一九八〇年付近に柄谷が試みた「内省」をめぐる論考を読み直す。
フロイトは戦争神経症の治療にあたる過程で、人間の内に、ただ快を求めるだけの欲動のほかに、快に結びつかない、むしろ不快な状況を反復する自己破壊的な衝動を見出した。「死の欲動」である(「快楽原則の彼岸」一九二〇)。これはすべての「生命体」に内在する運命である無機的な終局状態=死を、極論して「生命体の目標は死である」と述べたときに得られた概念だ。
この結論は俄に受け入れがたい。それはフロイト自身にもそうだったのであり、「死の欲動」は彼の思考の枠組みを揺るがすものとして、精神分析理論の中核へと突き刺さった。以後、「死の欲動」は「自我とエス」(一九二三)では自我に命令する峻厳な超自我を形成する原動力とされ、さらに晩年の「文化への不満」(一九三〇)では、死の欲動は「人間の攻撃性・攻撃欲」と等価とされ、この自己の攻撃欲を無害化するために内側へ向け、内面化され、それが発生した場所(自我)そのものへ向けられたものとして取り込まれた場合に「良心」や「罪悪感」や「自己懲罰の欲求」として表現される、とした。「この良心は、ほんらいなら他の見知らぬ個人に発揮したかったはずの強い攻撃性を自我にたいして行使するのである。こうして、厳格な超自我と、超自我に支配された自我のあいだに緊張関係が発生する。これが罪の意識であり、これは自己懲罰の欲求として表現されるのである。このようにして文化は、個人の危険な攻撃欲を弱め、武装解除するのである」。
では、翻って、柄谷が「内省」をめぐる一連の論考で目指したものは何だったのか? 一部を引用しよう。「《主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである》と、ニーチェは言っている。《それゆえ私たちは身体に問いたずねる》。このようにいうとき、彼は、意識への問い、すなわち内省からはじまった「哲学」がすでに一つの決定的な隠蔽の下にあることを告げている。《私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている》。意識に直接問いたずねるということにおける現前性・明証性こそ、「哲学」の盲目性を不可避的にする。だが、ニーチェは同時に「意識に直接問わない」ような方法をも斥けていることに注意すべきである。たとえば、彼が「身体と生理学とに出発点をとること」を提唱するとしても、それは意識を意識にとって外的な事実から説明するということではない。というのは、そうした外的・客観的な事実は意識の原因ではなくて結果であり、すでに「意識」にからめとられてしまっているからだ。意識に直接問わないで身体に問うということは、意識に直接問いながら且つそのことの「危険」からたえまなく迂回しつづけるということにほかならない」。
このような不気味な文章を柄谷に書かせた動機の核は何だったのか? 再び柄谷自身の言葉を引こう。彼が目指したのは「内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させること」だった。本論はこれを、批評の「死の欲動」として捉え返す。しかも柄谷は、内向した死の欲動を内面に固着させることなく、さらに自己を突き破って放出させるというところまで射程に入れている(それは目下の柄谷の「世界戦争から世界共和国へ」といったようなスローガンの穏当さとは隔絶している)。柄谷は「内省と遡行」で、論じる者の安易な自己投影を徹底的に拒絶することで抽出されたがゆえに何物にも動じないフッサールの「超越論的自己」を批判するために、クルト・ゲーデルの不完全性定理に依拠しつつ、まさに「自己言及的な形式体系」自体を問題化したのだった。論じられた内容だけを見れば他に優れた学者による論文は幾らもあろう。だが、論じられる内容(考えること)と論じる者の在り様(在ること)の漸近という点で、つまり自己批評の徹底化において、この時期の柄谷のテクストに匹敵するものがあるだろうか。それは、知識や論理とは別のレベルで、文章を読むとはどういうことかを、読者に問わせる。
- 私がここで試みた自己言及=自己批評と死の欲動との関連を見出す作業は、特に恣意的であるとは思わない。それが疎外論=実存主義への回帰として批判されるべきとも思わない。柄谷同様にフッサール批判を企てたハイデガーとデリダにおいても、自己言及と死の欲動は隣接する主題だったのだから。つまり柄谷が格闘していた問題は日本の論壇や文壇や歴史性とはかかわりなく、普遍性を持っていたと言える。
ハイデガーのケースを見よう。ハイデガーが『存在と時間』で試みた現存在(人間)分析の核心は以下の言葉にある。「現存在の分析論はいくつかの本質的な実存現象(良心、死、負い目)についての存在論的解釈をつうじて、現存在の根本的構成を明らかにしようと試みる」。ここで「良心、死、負い目」が分析において最重要とされていることを銘記しよう。さらにハイデガーは言う、「現存在」とは人間一般のことではない、それは──「どういう存在者を分析することが課題になっているかといえば、それはわれわれ自身がそれぞれ、その存在者なのである。この存在者の存在は、そのつど私の存在である」。人間一般の分析ではない、「私」の分析。諸個人にとって真に必要なのは、人類の分析ではなく「私」を分析することなのだ。そして「私」の分析において最重要の位置を占めるのが「死(現存在がいつもみずから引き受けなくてはならない存在可能性)」である。死とは誰一人それを経験できないにもかかわらず、諸個人に確実に訪れる個体的な出来事である。ハイデガーのフッサール批判は、フッサールの問題構成が「死」を、他人の死ではなくまさに自分自身の個体的な「死」を思考することができないがゆえに発動される。ハイデガーにとっては、フッサールが隠蔽している実存的契機こそが、真の哲学的対象なのである。
デリダのケースを見よう。一見、デリダのフッサール批判に「死」を思考する契機はないかに見える。デリダのフッサール批判は、基本的に以下のように整理される。すべての臆見を還元したかに見えるフッサールの超越論的自己の省察は、しかし、メディア(エクリチュール)の外部性、すなわち自己の語ることが何かに媒介されて聞かれる=届く、という「遅れ(偏差)」が取り逃がされており、したがって「自分が語るのを聞く」という自己触発の閉域を前提としてしまっている。現実にはしかし、私たちが語る・書くということは、自己ではない別の場所に届き解釈される可能性=エクリチュールという外部性を前提にしているのだ、と。だがデリダのフッサール批判の渦中には、次のようなポイントもまた存在していた。「だから現前性、イデア性、絶対的反復可能性としての、こうした存在規定の中で隠されているものは、私の死への(私の消滅一般への)関係である。記号の可能性は、この死への関係である。形而上学における記号の規定と消去は、それにもかかわらず意味作用〔記号作用〕を産み出していたこの死への関係の隠蔽なのである。……私は存在するは、私は現前しているとしてしか体験されないのだから、それはそれ自身のうちに現前性一般への関係、〈現前性としての存在〉への関係を前提としている。だから、私は存在するの中で、私が自分自身に立ち現われること〔=現出〕は、根源的に私自身の消滅可能性へとかかわることなのである。したがって、私は存在するは、根源的に、私は死すべきものだということを意味している」。
デリダは言う、フッサールの「現前性=形而上学」は「私の死」を隠蔽してしまう、と。この議論をデリダがハイデガーの影響を受けたと言うのは容易い。が、注目すべきは、「意識に問う=自己言及」を徹底化したフッサールに対するの批判が、図らずも「私の死」という問題を引き摺り出すことの意味である。
自らを省みる思考を徹底化すると、どういうことか死の感触が噴出してくるようなのだ。この時点のハイデガーやデリダがフロイトを意識した形跡はないが、にもかかわらず、三者が言っているのは、ほとんど同じことのように見える。つまり、死は「私」の個体性を形成するのだ、と。
そして柄谷行人。「内省と遡行」や「言語・数・貨幣」で死の問題が直接扱われることはない。だが、この時期の柄谷の自己を極限まで突き詰める思考には、沸いてくる死と暴力の感触が拭いがたくある。
- だがこの水準でフロイト/ハイデガー/デリダ/柄谷を並列することには、意味がない。死(の欲動)は私(の個体化)を形成する。そこまではいい。さらに思考を進めねばならない。
ハイデガーは、フロイトの「自己へ折り返された攻撃欲=死の欲動が良心・罪悪感を形成する」という過程を、自らの言葉で次のように定式化する。「先駆は現存在に世間的=自己への自己喪失を暴露し、現存在を引きだして、第一義的には配慮的待遇に支持を求めることなく自己自身として存在することの可能性へ臨ませるが、その自己とは、世間のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を継承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己なのである」。ハイデガーは「死へ臨む自由」こそが、頽落しがちな人間を、本来的な自己自身たらしめるのだと説く。この世間的な配慮的待遇の軽蔑、情熱と本来性の讃美がのちに、ハイデガーをナチス突撃隊へコミットさせた。それを愚行と裁くのは簡単だが、そう裁断する者は、はたして自らの個体性においてハイデガーを批判し得ているのか? 自己を問わずに済む安心の場所から、無自覚に共同体の価値観に寄りかかって野合的に口を揃えているだけではないのか? ハイデガーが画した地点からさらに思考を進めるには、ハイデガーと同じ水準で自己への問いを共有するがゆえに、そこから逸れて行ったデリダの考察を見る必要がある。それは『声と現象』からおよそ三十年後に刊行された『死を与える』で全面化される。
死への意志が個体化(良心・本来性・真の自己)の条件である。デリダはそのことを承認する。「魂は、自己関係ないしは自己集中として、死ぬことの気遣いにほかならない。死の気遣いにおいてのみ魂は我に返る。自己に集中する、自己を再び目覚めさせる」「この死への気遣い、死の見張る覚醒、死を正面から見据える意識などこそが、自由の別名である」。このように「私」が死への直面によってのみ練り上げられること、人間の「自由」や「責任」はその過程においてしかあり得ないこと、それを冷徹に認めないかぎり、「自己の同一性を解体する」、「共同体の外部に出る」などといったポストモダン的スローガンは、卑近な自己保全のおしゃべりにしかならない。「私の死」を見据えているからこそ、デリダのハイデガー批判は意味を持つのだ。
デリダはハイデガーの言う「死へ臨む存在」を「みずからに死を与える存在」と批判的に読み変える。「みずからに死を与える」、それはもちろん第一には「みずからの死の責任を引き受けながら死ぬこと」「自殺すること」を意味するが、さらに解釈を伸ばせば、「他人のために自己を犠牲にすること」「他人のために死ぬこと」をも含意し、「与える」という動詞を蝶番にして「死を受け入れながら、みずからの生命をあたえること」という意味にまで行き着く、とデリダは言う。問われねばならないのは次のような問いだ。「《みずからに死を与える》と犠牲の関係はどのようなものだろうか。みずからに死を与えることと他者のために死ぬこととの関係は? 犠牲と自殺とこうした贈与のエコノミーとの関係は?」
みずからに死を与えるということは、同時に、他者のために死ぬことでもある。そうデリダは接続する。そしてまたデリダは、「みずからの生命をあたえる」方法は、人それぞれ(キリストの、ソクラテスの、パトチュカの……)のやり方がある、と言う。その「やり方」によって、それがどんな他者への犠牲になり、誰に何を贈与するのか。その「エコノミー」が問われねばならない。
私が考えたいのは、自己言及というやり方でみずからに死を与えるという、批評精神の自己犠牲、その贈与のエコノミーの問題だ。
- 柄谷行人の考察には何か、人を個に立ち返らせるものがある。そのような感覚がある。例えば次の箇所だ。「《真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である》。が、このようなニーチェの断定は、あたかも真理を誤謬とするようなもう一つの「真理」を指定してしまう」(「内省と遡行」)。ある命題が導入されたかと思えば、直ちにそれが否定され、それを否定した自分をも別の視点から批判する。つまり、仮にどこかを部分的に引用しても、柄谷自身が即座にそれを批判してしまうため、読者は取り付く島がない。
だがこの厄介さこそが他者の手応えではないのか。ある部分だけを切り取り都合よく了解することを許さない、その終わりのなさに巻き込まれるとき、人は、知識や情報の伝達や見方の転移ではない、コミュニケーションの真の困難を味わう。たんに他人と会話することが対話なのではない──個体に自己言及を強いる関係だけが「対話」なのであり、それを強いる者だけが「他者」ではないのか。柄谷は名状しがたい何かへの緊張を強いられている、それが柄谷自身をも読む者に対して他者たらしめている。
- 自己への問いを避けては通れない。なぜか。自己への問いを無視するということは、死の欲動=攻撃性の超自我への内向を認めないことになるからだ。そこから導かれるのは、「人は攻撃性を外向させるものである」という怯懦な諦観、そして「その外向する攻撃性をいかに管理すればよいか」という社会設計的な議論にしか行き着かない。これは一見客観的=科学的に見えながら、自意識の産物でしかない形式的な思考だ。言うまでもなく柄谷が批判し続けてきた「形式化の諸問題」は、この意味で、フッサールやソシュールに限らず、レーニン=ロシア・マルクス主義の社会設計論にまで伸びている。
だが自己へとたえず戻って考え直すという柄谷の試みは、一つの隘路にはまり込んだ。なぜだったろうか? おそらく必要だったのは、自己言及の果てに垣間見えた「絶対的な他者」に戦くという回路それ自体の批判である。もちろんそれは「相対的な他者」への立ち返りを意味しない。「相対的な他者」は往々にして、他者どころか自己自身のコピーとして共感的に了解されるか排除されるだけだからだ。自己言及による内省を放棄するなら尚更そうである。
デリダの言葉を思い出そう。「みずからに死を与えることと他者のために死ぬこととの関係は? 犠牲と自殺とこうした贈与のエコノミーとの関係は?」デリダがそこで導きだした思考は、「死へ臨む存在」の個体化の回路が一本化されていることに対して、「他者のために死ぬ」という別の回路を見出すものだった。しかし警戒しよう。「他者のために死ぬ」は、それが主体的に意識された瞬間に、「他者のために死ねる私に死を与える」という風に一本化されてしまうのだから。それは再び「私」を独我論に閉じ込め、他者を抹殺することになる。だから、デリダは言う。
「贈与は、計算をはじめたとたん(与えようというたんなる意図そのものからして、また意味や知られたり認められたりしようと期待することからして)、(贈与の)対象を抹殺してしまう。贈与は対象を対象として否定するのである。こうした否定や破壊をなんとか避けるためには、もうひとつ別の対象の抹殺に取りかからなければならないだろう。すなわち、贈与において、与えるということだけ、与えるという厚意や意図だけを保持し、与えられたものは保持しないということである。与えられたものは結局のところ重要ではないのだから。知ることなく、知られたり認められたりすることもなく、謝礼もなしに与えなければならないだろう。」
一体これは何を言っているのだろうか。自らが知ることもなく、相手に知られることもなく、与えられる死とは何か。「死の欲動」である。私はそう断言する。だが、言うまでもなく、外向した死の欲動は攻撃性に過ぎず、受け取る側が直接にそれを浴びてしまうことは(臓器であれ眼球であれ四肢の贈与=提供であれ)、暴力にすぎない。だからこそ、この「死の欲動」は自己言及を通して与えられねばならない。個体化された「私」を通して与えられねばならない。
本論固有の解釈を語ろう。自らに死を与えること、そして他者のために死ぬこと。それは単なる自己犠牲ではあり得ない。それは、「死の欲動」を「私」を通して自己言及的に贈与することにほかならないのだ。私的に所有しているものの分配ではない。所有する「私」それ自体の分配──個体的分配。
これを「エコノミー」すなわち経済と呼ぶことは、比喩にすぎないだろうか。そうではない。意識と存在、考えることと存在することの分裂を剥き出しにしつづける批評精神は、他者の強いる「強い視差」を契機として、自己への問いに貫かれており、死の欲動を内向させてつねに死に臨む。この自己批評を断念し、他者性と自己への問いに目を瞑った者は「意識は現にある実践の意識とはなにかちがったものと思い込むことが実際にできるし、現実的ななにかあるものを思いうかべなくとも、なにかあるものを現実的に思いうかべていると実際に思いこむことができるようになる」、それが「経済的交換の成立の歴史(科学的なものではない、現実を形式的に遡行することでしか見出されない歴史)」である、というのがマルクスの、そしてマルクスを読んだ柄谷の認識であったからだ。したがって、「死を与える」というエコノミーは、経済・交換の根源に位置する、圧倒的に開かれた力の交差においてこそ見出され得る。すなわち、すでに等価性を前提にした社会における交換ではない、起源的レベルでの交換において。
柄谷に緊張を強いていた内省=自己言及という「やり方」は、諸個人の攻撃性をどこまでも内向させ、個体を練り上げ、さらにそれさえ突き破って死の欲動を噴出させるべく、個体をかぎりなく開かせる。その文章の力はもちろん、習慣や教育や強制のような馴致とは無縁だ。柄谷はかつて確かにその力を身に帯びていた。しかしこのエコノミーが現実化するためには、「外とのつながり」が絶対に必要だ。そこから身を閉ざしてしまえば、個体に残るのは折り返され沸き返る死の欲動のみとなる。はたして柄谷自身は、ほんとうに十分に開かれていたのだろうか。認識上の自己批評が、現実的な「私的所有の放棄(贈与)」にまで行き着くポイントで考えられていたのだろうか。自暴自棄ではない。滅私奉公でもない。しかし、その領域に踏み込むことができなければ、批評原理としての「超越論的」は確実に内面に固着したイデオロギー=形而上学に堕する。
問うべきは、個人が自己言及をその身に受肉した場所から約束される、行動や実践なのである。
それは「交換」と名指されるべきだ。
:3
- 八〇年代初頭になされた形式化をめぐる一連の議論で、柄谷は、意識と存在のズレ(自分を現にある実践の意識とはなにかちがったものと思い込む錯覚)の起源に遡行し、その光源において人間を新しい存在へ開くことを試みた。それは内面に固執することなく、つねに巨大な多様体としての外部に立ち続ける条件の追求だったと言える。その渦中で柄谷が示したのは、書かれている内容とは別のレベルで、つまり柄谷自身が意識しないところで、読んだ者の心臓を強く握る(何かを受け取らせる-贈与される)特異なタイプの思考だった。恣意的な切り取りや安易な要約を許さない、しかし、まさにそれゆえに読む者に対して他者として屹立する思考。
それを自由主義云々というイデオロギーにおいてでもなく、身近な現場の局所的ルール=仕事主義を絶対化することもなく、具体的なエコノミーにおいて、自らの生身に食い込んだ経済として、見つめねばならない。
- 〈x量商品A=y量商品B。あるいは、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。〉
これはマルクスが『資本論』のなかで商品と商品の関係を式で表わしたものである。この単純な式からマルクスは資本制の謎へ一気に切り込んでいく。
この式において重要なのは「=」を等価と考えないことだ。AとBの間には非対称な関係がある。従来の解釈では左辺は右辺によってその価値を「表現される」と考えられてきた。「AはBによってその価値を表現される」。つまりAは自らを価値づけてくれるBに対して劣位の位置にある。ただしBもまた別の何かに対しては劣位の位置に断たされることになるだろう。そこには「弱いものがさらに弱いものを虐げる」という嗜虐の連鎖があり、さらに資本制においては、もっとも弱かったもの、すなわちもっとも交換されまくったものである貨幣Gが、逆転して絶対の価値を帯びて君臨する、という奇妙な構造が出来上がることになる。
「AはBによってその価値を表現される」。このことをもっとよく考えてみよう。ポイントは、Aそれ自身には価値がないことだ。Aにはもともと自己意識しかない。Aが交換に参入するにはB(あるいはCあるいはDあるいは他の何か)によってその価値を表現されなければならない。そのときAは自己意識の放棄を強いられ、自己同一的な自分自身(A=A)でなくなることを余儀なくされる。交換の根源にはそのような自己放棄がある。Aの価値を何かが──BかCかDか──表現してくれるのか、そもそも表現してくれるものがいるかどうかは誰にも分からない。Aが交換に参入できるか否かはまさに命がけの飛躍であり、それに失敗すればもはや絶望して自己自身であろうとする(A=A)ほかはない。しかも、かりに交換に参入できたとしても、そこで達成されるのは自己同一性の強化ではない。むしろ自己否定だ。つまり交換によってAは、たとえ絶望を回避して生き延びたとしても、自己を他者に委ねなければならない、自己を他者に対して放棄しなければならない。まとめよう。「A=B」、これは等価ではなく「AはBに対して自己を放棄する」を意味する。
そしてこれは商品についてばかり当てはまることではない。個人と個人も、自己であることを放棄するかぎりで関係性を持つことができるのだ。根底において私たちの世界はそうなっている。
- (以下略)
:4
- 二〇〇〇年付近に批評を取り巻いていた状況の悲惨は、ただNAMの失敗ということにとどまらない。NAMの自己検証能力の無さだけが問題ではない。柄谷を含めた関係者たちの沈黙だけでもない。そこには批評を次のステージに押し上げる契機が確かにあったにも拘らず、それが考え尽くされなかったことが、悲惨なのだ。
本当ならば私たちは、自らの問いにおいて対象と向かい、その問いを徹底化し無限化していく実践を各自が強いられるはずだった。現実と理論の亀裂を意識させられる状況下で、テクスト論者や現代思想ファンの贋物性も炙り出されるはずだった。「文化的おしゃべり」と「批評」の違いが明白に現われるはずだった。必然もないのに時勢に身を任せ暢気にはしゃいだ人間にも、そのような実践に対してシニカルに構える身振りにも、批評が欠落していることが明らかになるはずだった。「文学」と「文学のようなもの」が聖別され、真の意味での「思想」を試みる個人が現われて来るはずだった。自己の在り方を問わず、理論という名のおしゃべりをひたすら垂れ流す人種への軽蔑と、自己に拘泥することで、見たくない現実や都合の悪い他者を平然と抹消する精神への嫌悪をあわせ持つ者が、いつか自らの思想を実行するはずだった。
今の柄谷を、私は平板かつ閉塞的な認識に固着した凡庸な思想家としかみなさない。彼の初期の自己批評性がもっていた輝きはもはや失せた(真の他者性とは意識と存在のズレを当人に意識させ、自己言及を強いるものであるはずだ。ところが柄谷は「探究」以降そのような自己言及性に拘泥しなくなり──そのような自己言及性こそが他者に向かい合わせない罠になっているのだと考え──、“自分の考えを相手が受け入れるかどうか分からない”というレベルの他者を語るようになった)。自己言及の回避は個体を生きながら病ませていく。なぜなら、それは言葉という人間に与えられた謎の「可能性の中心」を奪うことだからだ。自己言及、自らを問うというありふれた思考形式、この自明なものへの眼差しこそが、柄谷批評の真髄であるはずだった。その眼差しは、どこから来たものだったのか。マルクスからか? 小林秀雄からか? 違う。見つめるほどに見えなくなる何か、誰か、──すなわち、他者からだ。そしてかつて柄谷はそのような存在に自己を開き続けることを、倫理と呼んだ。
現在の柄谷もまた「倫理」としてカントの道徳的命法を反復する、「他者を手段としてではなく目的として使用せよ」、と。しかしカントが『道徳形而上学原論』で書いた「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」という一節を、単純な反復によって機能させることはできはしない。考えることと在ることの乖離を見つめる眼差しがもしあれば、相手を手段として見ていたつもりが目的になっていた、目的として見ていたつもりがいつの間にか手段になっていた、そういう生存の痛覚に貫かれることは、不可避なはずだ。その痛覚をユーモアに変えることにおいて、かろうじて「いつでもまたいかなる場合にも同時に」というカントの一節は意味を発するのだ。
さらにカントが「他のすべての人の人格」の前にわざわざ「君自身の人格ならびに」と付け加えていることも見落とせない。人間は、自分自身の人格でさえ「単なる手段として使用」することがある。むしろその方が人の常体の振舞いなのかもしれない。何の批評性もないところでは、人は自分自身を手段としてのみ使用してはばからない。そして、汝が自分自身を目的にするためには、手段=目的としての他者に向き合う意志が不可欠なのではないか?と、カントはそう述べたのだ。
カントが道徳的命法の実践の例として挙げるのは、イエスの「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉だ。これを「自分を愛するのは簡単だが他人を愛するのは難しい」という意味に解釈するべきではなかろう。イエスは、「他人の力なしに自分を愛することは決してできない」という直覚を言葉にしたのだ。カントの道徳論の核心もそれと異なるものではない。それは、簡単な割切りを許さない現実と、それに翻弄されつづける「他者」に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ。そして私たちにできるのは、口当たりのよい言葉や分かりやすい理論を心の底から軽蔑し、「どうして人生にはこんな沢山の訳のわからない悲しみがあるのか」と気が狂うほどに苦しんだイワン・カラマーゾフの認識を、この身体で生き抜くことだけだ。その悲しみと汝の攻撃性を、「ヒューモアとしての唯物論」に変える、その人自身の唯一性に、向き合い続けながら。