diagram:ドストエフスキー『永遠の夫 第一章〜二章』(神西清訳)
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●第一章 ヴェリチャーニノフ
--------------------------------------------夏
〔この作品の実質的な一日目は第二章冒頭からの「七月三日」で、第一章はそれ以前の時期を時間幅を広くとって扱っている。〕
「夏が来たというのに、ヴェリチャーニノフは案に相違して、ペテルブルグに踏みとどまることになった。……」彼はこの地で領地に関する訴訟に巻き込まれていたのだが、三ヶ月前までは順風と思われていた風向きが変わってしまったのだ。ディエゲーシスに彼の内語を引用。『何もかもが悪いほうへ変わりだしやがって!』
腕利きの弁護士を雇ったのも甲斐がなかった。自分で動いて事件に首をつっこみ、裁判所から裁判所へ駈けずりまわった。そんなだから夏になっても別荘へ行けるわけがない。埃っぽくて蒸し暑いペテルブルグの夏を彼は耐えなければならなくなった。おまけに彼がペテルブルグで借りたアパートも酷いものだった。彼の神経症はますます昂じていく。「とはいえこの神経症の兆候は、だいぶ前からあるにはあったのである。」
ヴェリチャーニノフの人物の説明。三十八、九歳。自称「老年にさしかかった」。とはいえ容貌の面では老衰などはじまっていない。いまだ血気盛んで堂々たる恰幅をしていて、誰がみても上流社会の子弟として教育を受けた育ちのいい紳士と判断することだろう。今なお彼を見てうっとりとする婦人もないでもない。だが、確かに彼の健康そうな男らしさは、眼の表情から善良そうな明るさが消えたことによって、そして代わりにあらわれた冷笑癖や狡猾さによって、損なわれてしまったように見えた。さらに彼の眼には以前になかった悲哀と苦痛の影さえ差すようになった。「一人でいるような時には、とりわけこの悲哀が色濃くあらわれた。そしてこれは妙な話だが、つい二年ほど前までは騒々しくって陽気で浮き浮きした性質で、おどけた話をするのがあんなに得意だったこの男が、今ではまったくの孤独ほど好きなものはないのであった。」知人も遠ざけた。それは何故かと問えば、猜疑心と虚栄心のためだった。しかもその虚栄心も昔には見られなかった一種特別な虚栄心と化していた。彼の虚栄心は、従来よくあった動機とはまったく打って変わった動機から傷つけられるようになっていた。彼はそれを『一そう高尚な動機』と呼んでいた。〔これが「だいぶ前からあった神経症の兆候」ということ。〕
そうだ、彼は昔なら気にもかけなかったはずの「高尚な動機」と今は闘っているのだ。彼はどうしてもそうした『動機』を内心笑い飛ばすことができなかった。『いろんな低級な動機』を克服して思想の独自性を勝ち得、人間として成熟してきたはずの四十歳近い彼の現状は、そんななのだ! 朝起きたときに、昨夜不眠の間におとずれた自分の想念や感情を恥ずかしく思うことも度々だった。さらには「もはやどうしても実在するものと認めないわけにはいかない事実が、生じつつあった。最近では時とすると夜ふけに、彼の思念や感覚が平生にくらべてほとんど一変してしまうことがあるし、しかもその大部分は、その日の前半に彼を訪れていたものとは、似てもにつかぬものであった。」これにギョッとして知り合いの医者に相談したが、そういう憂鬱症はよくあることと診断されただけだった。よほど心理的苦痛がひどいなら療養も必要、食餌を変えよ、旅行に出よ、云々。ヴェリチャーニノフも一旦は、あの『高尚』な動機というのは単なる憂鬱症なのかと納得しかけた。
ところが間もなく、これまでは不眠の夜にのみ起こっていたことが、日中にも起こるようになった。心を刺激する悔恨と自嘲。具体的に言うと、何の理由もなしに彼の遠い遠い過去の生活の出来事の記憶が、特別の形をとってよみがえるのだ。彼はむしろ年を取るにつれて物覚えが悪くなっていたなずなのに、遠い過去に属するこれらの記憶は、巨細にわたってなまなましい印象を伴っていた! よみがえった記憶の中には、そもそもそれを思い起こしたこと自体が奇蹟と思えるほどきれいさっぱり忘れていたものもあった。だが、それだけではない。重要なのは、そういう思い出のすべてが、以前には考えも及ばなかったような新しい見方から眺められて、現在に立ち返って来ることだ。「思い出のうちのある種のものが、今では彼の目に、純然たる犯罪のように映るのはなぜだろうか?」 こうした内心の苦痛によって彼は涙さえ流すことがあった。最初のうちは、甘い思い出よりは苦い思い出の方がよく呼び覚まされた。例えばかつて公衆の面前で完膚ないまでに侮辱されたにもかかわらず決闘を申し込まなかった思い出。借りっぱなしにしてそのままにしてしまった借金のこと。馬鹿げたことで蕩尽してしまった金銭のこと。……だがそのうちに、もっと複雑な感情を伴う記憶も思い出されはじめた。
一例をあげると、彼は青年時代に、或る老官吏を衆人環境の中で笑いものにしたことがあった。事のおこりは別に悪意からではなくて、ただその場でせっかく浮んだ巧い洒落を無駄にしたくなかっただけのことだった。その洒落の滑稽さで彼は人々から大いに喝采を受け、いきりたった老人がついには公衆の面前でおいおい泣き出してしまったことも、すこぶる滑稽なものと一同は受け取った。しかし今それを思い出してみると、まったく反対に、その老人が両手で顔を蔽って泣き出した様子など、滑稽どころではないと思われるのだった。もう一例、彼がかつてほんの冗談口にある小学教員の美しい細君の悪口──その細君が自分に気があるといった話──を言い、それが夫の耳にはいったという一件があった。ヴェリチャーニノフは間もなくその町を去ったので、彼の悪口が何を惹き起こしたかその結末を知らなかったが、今そのことを思い出すと、いきなりあれは一体どんな結果になっただろうかと恐ろしく気になりだしたのだ。……こうした思い出の数々が、彼の虚栄心を傷つけはじめたのだった。
彼の虚栄心が彼の心に絶えず浮んでくる記憶に集中することによって、日中でも、彼はひどい自己忘却に陥ることがあった。裁判所から裁判所へ歩き回っている途中でも。知り合いの誰かが往来で彼に嘲りの視線をくれても気にならないことがあった。繰り返せば、彼の虚栄心は以前とは別の形に変化しつつあったのだ。
彼はときどき自嘲的に考えるのだった。──『どうなってんだこれは。誰かが俺のかつての行状を今さら叩きなおしてやろうとして、こんな嫌らしい思い出を俺に差し向けてくるのか? くそっ、そうは問屋がおろすもんか。俺は後悔なんぞしやしない。俺は別に卑劣漢のままでかまわない。もし明日の日にでもまたあの老官吏を洒落で侮辱する機会がおとずれたなら、俺はふたたびあの老官吏を泣かせるだろう。もし明日またあの小学教師の細君を噂を広めて辱める機会がおとずれたなら、単なる利己心から俺はふたたびその噂を言いふらすだろう。初めてのときよりももっと醜悪に、手の込んだ形でな! 要するにこんな思い出なんぞ何の足しにもなりゃしない、何ひとつ自分独自の思想も理想も持っていない俺が、今さら昔のことを後悔して何になるってんだ!』
と、彼は内心では強がっていたが、もし今何かの機会がおとずれて醜悪な騒動を再演する羽目になったらどうしようという考え一つで、彼はふと極度に不安になるのだった。
--------------------------------------------七月間近
ペテルブルグの彼の生活はますます面白くなくなるばかりだった。とうとう七月も間近になった。彼はもう例の訴訟など放り出していっそクリミヤへでも遠出するかと考えることもあった。しかし大抵は一時間もすると彼はもうその考えを軽蔑した。内語。『こういう心理的苦痛はどんな南へ逃げ出したところで止むもんじゃないからな……』
『それにまた、逃げ出してどうするってんだ』と彼はやけくそで考えつづける。『どんな別荘地よりも外国の温泉よりも、この埃っぽくて蒸し暑い、街路も汚ければ住民も卑しいペテルブルグこそ、神経症をこじらせている俺にまったくふさわしい土地なのさ……ここでは上流のご婦人方のそばとは違って、何もかもがあけすけで、鉄面皮で、率直で、開放的だ、下品なまでに。それこそ俺が望むものだ……いや、どこへだって行くもんか、金輪際ここを動くものか……!』
●第二章 帽子に喪章をつけた紳士
--------------------------------------------七月三日(第一日目)
「七月の三日だった。息苦しさと暑気は、ほとほと我慢がならなかった。……」ヴェリチャーニノフはその日午前中は馬車で駈けずりまわる必要があった。それに加えて、今晩のうちにある人物──五等文官の紳士──を不意打ちで捕まえなければならなかった。夕方五時、彼はネフスキイ通りの警察橋のたもとのレストランで、いつもどおりの夕食を注文した。
〔ここから習慣的記述〕彼は毎日夕食には一ルーブリしか使わないことにしていた。だからいつも粗末な食事が運ばれて来たが、その都度旺盛な食欲で平らげるのだった。彼は時々自分のそんな食欲を病的だと思うこともあった。〔習慣的記述終わり〕ところが今日はいつもの食欲を発揮するどころではなく、腹立たしげに帽子を放り、彼は不機嫌に頬杖をついて考えこんでしまった。
スープが運ばれてきたが一すくいもしないうちにスプーンを投げ出した。突然思いかけぬ考えが彼を襲ったからだ。この瞬間彼は自分の苦悩の原因を悟ったと感じた。「その苦悩はもうこれで数日のあいだぶっ通して彼にまとわりつき、どうしても彼を離れようとしない或る格別な苦悩だった。今彼は一挙にその全貌を見抜いたのだ。」
内語。『こりゃみんなあの帽子のせいだ! あの胸糞のわるい喪章をまいた山高帽だ。あれが一切の原因だったのだ!』
とは考えたものの、しかし考えれば考えるほど不思議だ。異様だ。『待てよ……これが何故事件なんだ? 事件らしい要素なんてほんの少しでもあるか?』
--------------------------------------------二週間前
事の次第はこうだ。二週間ほど前、彼は初めて往来で、帽子に喪章をつけた一人の紳士に出くわした。その紳士はその時じっとヴェリチャーニノフの顔を見つめた。途端にヴェリチャーニノフの方でも相手に注意を惹きつけられた。何か相手の顔が見覚えのあるような気がした。『と言ったところで、生れてこのかた何千と知れない顔にお目に掛かってきたのだからな……一々思い出すわけにもいくまい』
こんな出会いはすぐに忘れ去れるはずだった。だがその印象は終日拭い去られなかったばかりでなく、一体どこから湧き出てきたのか、一種の憎しみを帯びた印象をとどめたのだった。「彼は二週間たった今になって、そうしたことを残らず、はっきり思い浮かべた。」
--------------------------------------------二週間前、の翌日
そしてその紳士は、再び自分を印象づけようでもするかのように、翌日もまたネフスキイ通りで彼と顔を付き合わせたのだった。その時も相手は一種異様な眼つきでヴェリチャーニノフを見つめた。彼はまたも当て所もない嫌悪の情をそそられた。『いや、俺は確かにあいつとどこかで会ったことがあるらしいや』またしてもその日一日不愉快な気持ちですごす羽目になった。夜になると嫌らしい夢までみた。だがそうした深刻な憂鬱の原因が、すべてあんな喪章の紳士にあるなどとはその時にはまだ思いつきもしなかった。
--------------------------------------------二週間前、の翌日の二日後
それから二日して、ネヴァ河の蒸気船出入り口の人ごみの中で再び二人は出会った。この時はその紳士がわざわざ人波を縫ってヴェリチャーニノフの方へ近づいてきた、てっきりそうに違いないと感じられた。そればかりか、『臆面もなく』彼に向かって手を差し伸べたようにさえ思われた。
『畜生、あいつは一体何なんだ? もし俺を本当に知ってるなら、さっさとやって来たらいいじゃないか?』
やはりその日の夜も彼は奇怪きわまる憂鬱に沈んでしまった。自分でも病的だと思うほどだった。
--------------------------------------------それから五日間
それから五日ほどは彼はあの紳士とは出くわさなかった。しかしあの紳士のことはひっきりなしに念頭に浮んできた。こうなるともう自分の強迫観念に自分で呆れるほかなかった。
『じゃあなんだ、あの野郎はそんなに俺にとって重要な意味を持ってるってわけか? しかし俺の方じゃどうしてもあいつが誰だか思い出せない。それにあの喪章は一体何の意味があるんだろう。あの喪章はどうもあの男にはそぐわない。……もう一度会ってじっくりあいつを眺めたら、誰だか思い出せるだろうか?』
こんなことを考えているうちに、彼の中で何かの記憶が蠢いたような気がした。その感覚は、何かの拍子に度忘れした言葉を、一生懸命思い出そうとしている時の心持ちに似ていた。自分では、その言葉の意味も承知しているし、つい鼻先まで出掛かっているのに、言葉の方で思い出されるのを嫌がっているかのように出てこないのだ……。
『あれはその……たしかもう大分以前に……』しかし思い出せない。彼は急に忌々しげに叫ぶ。『もうたくさんだ! あんな取るに足らない野郎、俺が悩むにも価しない! あいつに会ったことがあろうがなかろうがどうでもいいじゃないか!』
彼は物凄い剣幕でいきりたった。だが後になって自分がそんなにいきり立ったことを省みると、なぜか後ろめたい思いがするのだった。妙な仕種をしているところを誰かに見つかったかのように、彼はどぎまぎした。
『してみると、やはり俺とあいつの間には何か曰くがあるに違いない……しかし何だそれは……?』
それ以上彼は考えるのをやめた。
--------------------------------------------その翌日
だがその翌日に四度目の出会いがあった。それによって彼は一そう腹を立てることになった。それはちょうどヴェリチャーニノフが、往来で例の五等官を首尾よくつかまえたばかりのところだった。この五等官は彼の訴訟事件のために是非とも会っておかなければならない人物だった。そいつをやっとのことでつかまえたのだ。だがその五等官と歩きながら話そうとしたとき、往来の向こう側の歩道に、彼は喪章を着けた例の紳士を見出した。彼は呆気に取られて立ち止まった。五等官は逃げてしまった。
ヴェリチャーニノフは、自分が大きな魚を取り逃がしたのはあの紳士が不意に姿をあらわしたせいだと決め付けて、すっかり業を煮やした。『あいつめ! 俺のことをさぐろうとしているんだな! 俺のあとをつけまわしてやがる! 誰かに頼まれたのかな……。それにあいつは、あいつはたしかにせせら笑いやがった。畜生、断然思い知らせてやる……ちぇっ、そういやステッキがなかった、新しく買わなきゃな。このままじゃ済ませんぞ……一体あいつはどこの何者なんだろう、なんとしてもあいつの正体を知りたいもんだ……』
--------------------------------------------それから三日後=七月三日
この四度目の出会いののち、ちょうど三日たって、私たちはあのレストランで、すっかり興奮しきって茫然自失気味のヴェリチャーニノフの姿を見出すというわけだ。〔後説法終わり〕とうとう彼もこの二週間にわたる不安の原因が、あの『取るに足らない野郎』にあることを認めざるを得なかった。
『なるほど、俺は神経症なんだろう。そのせいで蝿ほどのことが象ほどに見えるんだろう。だがそう自覚したところで、気が休まるわけじゃない。畜生、あんな胡乱な野郎が出てくるたびごとに、一人の善良な市民の生活が根元からひっくり返されるなんて……』
〔回想開始〕じつは今日この日に五度目の出会いがあったのだった。だがそれはヴェリチャーニノフの意に反した形で起こった。例の紳士はヴェリチャーニノフの方を見向きもせず、すばやく通り過ぎて行こうとしたのだった。いや、ヴェリチャーニノフの目をなんとかして避けようとしているふうにさえ見えた。思わずヴェリチャーニノフは振り返って、大声で呼びかけた──
「あ、おい君、喪章紳士! 今日は逃げるのか? 待ちたまえ、君は一体何者だ?」
その時は衝動的にやってしまったのだが、どう考えてもこれはまったく筋のとおらない問いかけだった。相手はちょっと立ち止まって振り返り、戸惑った素振りを見せたが、にやりと笑っただけでずんずんまた歩いて遠ざかってしまった。〔回想終わり〕
『だが待てよ』と彼は考え込んだ。『もしかしたら奴が俺につきまとってるのじゃなくて、実は俺が奴につきまとっているのか? 神経症のせいで? ただそれだけのことだったら?』
夕食を済ませる。例の五等官の住まいへ押しかけるが、留守。彼は苛立つ。興奮しきった神経を鎮めるため、宿まで徒歩で帰った。彼が宿にたどりついたときにはもう夜の十時半になっていた。
〔括複法的記述〕彼の住んでいる宿について。彼は自分でこの宿のことを『ほんの一時の雨しのぎ』と憎さげにくさしていたが、彼が言うほど悪いものではなかった。二階にある彼の住まいは明るく、天井の高い二部屋からなっている。往来に面した一部屋と、中庭に臨んだ一部屋。中庭へ臨んだ部屋には隠れ間がついていて、寝室に使えるようになっていたが、ヴェリチャーニノフは往来に面した大部屋のソファに寝具を敷いて、そこを寝部屋にしていた〔この空間設計は恣意的ではなくて、伏線〕。家具やインテリアについて。小間使いの娘について。この娘が今休暇を取っているので部屋は散らかり放題。掃除さえしていない。だから虫の居所の悪いときは、彼はそうした部屋の薄汚さが神経に障って、帰宅するたびにむかむかするのだった。〔括複法的記述終わり〕
だがこの日はそんなふうにむかむかする暇さえなかった。歩きつかれていた。ろくに着物も脱がないうちから寝床へ飛び込んで、たちまち眠ってしまった。
彼は三時間ほど眠った。奇妙な夢を見た。彼が何か犯罪をおかして、それを多くの人々に見つかって糾弾される。その人々の先頭に一人の男が立って、彼がヴェリチャーニノフに対する最後の宣告を下そうとしていた。その男が何者なのかヴェリチャーニノフには分からないが、昔彼と非常に親しくしていた人物のように思われる。突然ヴェリチャーニノフはカッとしてその男を殴る。異常な快感。さらに殴りつける。その男を完全に叩き潰してやる! すると突然戸口の呼鈴が三度けたたましくなる。凄まじく乱暴な音。ヴェリチャーニノフははっと眼を覚ます。今呼鈴が鳴ったのは夢ではない、何ものかが本当に今自分の住居の呼鈴を鳴らしたと彼は固く思い込んだ。
だがその鈴の音もやっぱり夢だった。彼は玄関へ出て階段まで覗いてみたが人っ子一人いなかった。意外だった。が、とにかくほっとした。部屋へ引き返す。時計は午前二時半。
すっかり気が立ってしまったので、眠る気になれず葉巻を吸う。窓際へ寄ってカーテンの隙間から往来を眺める。何か重苦しい感情を抱きながら部屋の中を歩き回る。さっきの夢の印象がまだ残っている。
『しっかりしろ……あの男は夢だ、あんな男なんかいやしないんだ……何を俺はくよくよしてるんだ?』
自分が老い込んできたと感じる。彼はそういう時には大抵、わざと自嘲気味に誇張して考えるのだった。
「老境さ! すっかり老い込んだのさ!」ひとりごちる。「幻影には脅かされるし、夢は見るし、呼鈴は鳴るし……。あの喪章紳士の一件だってやっぱり夢なんだ、そうにきまっている。つまり俺が昨日考えたとおりだ、神経の病のせいで、俺のほうであの野郎につきまとってるのを、あの野郎が俺につきまとってると錯覚してるわけだ……しかし俺は何故今あの紳士のことを「野郎」と言ったのかな? もしかしたら本当にすこぶる立派な紳士なのかもしれんのに。身なりだって立派なものだ。だがあの目つきがなんとなく……いや、いや! また始まった! なんだってんだ、奴の目つきが俺にとってそんなに重要か?……あいつが俺にとってそんなに重要だとでもいうのか?……」
彼の頭に様々な想念が思い浮かぶ。あの喪章の紳士はたしかに昔彼が友達づきあいをしていた男で、何か彼の過去の大きな秘密を知っていて、彼と出くわすたびに嘲笑を浮かべるのではないか……。こんな考えさえ浮んだ。彼の心は傷ついた。彼は気分転換に「窓をあけて夜気を吸おうと思って、何気なく窓際に歩み寄った。と突然、彼はぞっとして震えあがった。かつて見たことも聞いたこともない異様な何ごとかが、思いがけずも眼前で行なわれつつあるような気がしたのである。」
彼はとっさに壁ぎわに身体を隠して、カーテンの隙間を覗いた。忽然として彼の目には、往来の向こう側の歩道に例の帽子に喪章をつけた紳士の姿が映ったのだ。紳士はこちらには気づいていないようだ、何か思いめぐらす風に立っている。やがて決心を固めたかのように、爪先だちで往来をわたってこちらへ来た。門口をくぐる紳士。『やって来やがる!』という考えがヴェリチャーニノフの脳裏にひらめく。彼も爪先立ちでドアに駆け寄り、そのまま息を殺し、階段の足音に聞き耳を立てる。
心臓の鼓動が激しくなる。一体何が起こっているのか。さっきの夢が現実と溶け合ってしまったのか? 普段ならどんなに動揺している時でも泰然自若とした風を装うのを愛するヴェリチャーニノフが、今は別人のようになっていた。引きつった笑いさえこみあげる。『や! いよいよのぼってくるな。とうとうのぼりきった。あたりをきょろきょろしてやがるな……あいつも息を殺している、しのび足でこっちへ来る……や! ノブに手をかけた。引っ張ってやがる! はっは! 錠がおりていないとでも思ったか? いや、だが俺は時々錠をかけ忘れることはある……奴め、そのことまで知っていやがったか? またノブを引っ張った! 開くわけがないのに。……このまま奴が帰ってしまったら? それは残念だな……』
万事は明白になった。相手は明らかに目的があってヴェリチャーニノフに会いにやってきたのだ。「しかしヴェリチャーニノフの方でも、問題を解決しようという決心はすでについていたので、彼は一種の法悦をもって、あせらずあわてず、じっと潮時を狙っていた。やにわに掛金をはずす、さっとドアをあけはなす、そして『怪しの者』といきなり顔を合わせる──彼はそれがやってみたくて堪らなくなった。『もし、あなたはここで何をしていらっしゃるんです?』と言ってやろう。」
実際そのとおりになった。彼は錠を外し、ドアを思い切り突き開けた。
- 書誌情報:フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー著、神西清訳、『永遠の夫』、岩波文庫、1952年
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