:序
- すべてがばらばらに見え、ばらばらに聞こえる音-映像。しかしそこには言語化できない連鎖の系がある。ばらばらなものたちは持続する緊張のなかで不確かなまとまりを作り出している。ちょうど群れなす魚たちのように。
ひとつのものがばらばらになること。ばらばらなものたちがひとつになること。その脱結合と結合の操作のうちに映画の思考がある。
映画の思考は、書くこと、すなわちテクストで考えることとは異なっている。映画が思考するのだ。観客はそれを目撃するにすぎない。映画の思考を問題とする本書は、内在的に書かれねばならない。映画が展開する思考を外在的な言語で説明し、同定するのではない。映画に内在的に書くこと、それは自分の見た-聴いたものがそのままでは証拠たり得ないような不確定な知覚の場で、なお「証人」であろうとすることだ。
私たちの身体の認知限界は、映画のすべてを見る-聴くことを不可能にする。しかし、私たちが映画に見た-聴いたと信じるものと映画それ自体を区別する基準は、私たちの経験の内部にはない(批評理論や作家の発言のような外在的なテクストに頼ることは、この不可能性と不確定性を回避することに等しい)。目撃者証言についての近年の認知神経科学的研究は、私たちの知覚的記憶がいかに当てにならないものであるかを教える。映画の目撃者についても同様だ。知覚され、想起された映画は実際の映画とは決して一致しない。私たちは実際経験していないことをありありと想い出しさえする。
認識の解像度が問題なのではない。写真をいくら引き伸ばしたところで映像は印画紙の肌目へ解体するだけだ。物理的精細として解像度の向上は、あらゆるノイズを記号化可能性へともたらし、映像を無数の誤認へと開く。解像度を上げることで明らかになるのは、むしろ知覚システム内部から排除することのできない普遍的な誤認の能力である。私たちの神経システムは自律的に振動することを止めない自己組織系であり、外部入力が一定であったとしても、そこに存在しないものまで過剰に認識しみずからを形成する。視聴の可能性は一つには確定されない。映画には、そのような不確定な知覚の領域へと観客を追い込んでいくような構造がある。それを本書は「溶解 dissolve」の領域と呼んでおく。
:第一章
- 「ずれ」や「裂け目」の産出、すなわち音-映像諸要素が離散化されうることは、映画というメディアの物質的条件である。それは事後的に編集=再結合され、出来事の系列を構成する。それはオリジナルな現実の再現ではない。問題は、単にフィルムのマテリアルな連結にすぎない結合(手技)と、「思考」を構成するような結合とを区別することである。しかし、結合の必然性を言語で論証することはできない。それは論理外の感覚的強度として経験されるだけである。
「思考」を構成するような音-映像の結合根拠とは何か。原事象による統一でもなく、習慣でもなく、イデオロギーでもなく、外在的世界に対する「信」でもなく、本書がその結合の内在的根拠に与える用語は「類似 sembler/semblable/semblance/ressemblance」である。まったく似ていないものを感覚的「類似」にもたらす結合の原理。
質的特異点において同期する音と映像は、音と光は、知覚上一つの事象として経験される。だが結合が強烈なものとして感覚されるには、その音と映像の位相が完全には同期していないこともまた必須であるように思われる。脱結合化され離れていく要素が、またちょっとしたきっかけで結合へと揺り戻されること──結合の強度が或る種の「力」として感覚されるのは、結合/脱結合関係が振動するこの場においてである。それが「力」であるのは、私たちの身体が、たえず動揺しながら諸感覚をひとつに結び付けようとするダイナミカルなシステムだからだ。
感官に与えられた出来事が極端に非同期化してしまえば、それを一つの事象としてまとめ上げることはできない。もちろん、厳密な同期性が必要とされるわけではない。私たちの知覚システムについて、認知神経学者のマールスブルクらは心理時間よりも高速で変化する神経活動の時間的相関というモデルを提唱した。脳は固有の時間構造をもち、世界を遡及的に「編集」している。その遡及自体も可塑的である。そして、感覚的な同期/非同期の臨界付近での結合は、おそらく確率的である。
音と光を一つの出来事としてコード化する可能性は、それがばらばらになることの可能性と同時に試されている。一つであることの臨界で受け取られるのは、この結合の現実が他でもありうることの感覚である。映画の観客は、そのたびごとに一つの結合を選び取るしかない自己の認知能力の限界において、結合が他でもありうることを、みずからの身体を組み替えようとする一種の暴力として、受苦する。
:第二章
- 映画は応答を欠くメディアである。第一に映画は、観客に応答できない(座席から立ち上がったとしても水槽が覗けるわけではない)。第二に、異なるショットに属する出来事の応答を映画は保証できない。映像編集の問題は通常、この第二の応答不可能性を知覚的に補填し、第一の応答不可能性を忘却させることにある。私たちの認知限界に抵触しないかぎり、その「結合」の擬似性は円滑に機能する。
認知限界を超えて振りかかってくる音-映像に対しては、観客の身体は、諸要素の多数性を認知しうる程度に縮減して受け流すか、或いは混乱に負けて映画館の闇で眠る=失神することしかできない。
失神を堪えて、論理的に関係をもたない諸要素の「すべて」を同時に自分の身体で受け止めようとするとき、映画は「拷問」となる。だがその拷問を超えて、失神を超えて、映画のすべての音-映像と結合を果たすとき、同時多重性に耐えうる新しい人間の視-聴覚が覚醒するだろう。
:第三章
- 類似は無実ではない。たとえば被害者の顔と加害者の顔、二つの映像があるとしよう。通常の倫理はそれまで抑圧されていた被害者こそ固有の顔を持たなければならないと説く。しかし、映像の内在的な結合根拠はイデオロギーとしての正義を持たない。もしその二つの映像が分身的に類似していたら、加害者のみならず、被害者の顔もまたその独立を維持することができない。私たちの知覚システムの作動は、表情の類似を介して被害者の顔を加害者の顔に乗っ取らせ、また逆に加害者の顔を被害者の顔に乗っ取らせるかもしれない。その独立が維持されるのは、外在的な言語によってである。つまり言表によって横滑り的な密着を抑圧することによってである。
しかし、いかなる可視性も別の可視性を抑圧しえない。度合い的に、かつ確率的に、顔はたえず「他でもありうる」ことに開かれている。みずからの視聴覚の十全な「正しさ」を肯定することによって他者の視聴覚の不調を責め立てるものは、いつか反転する誹謗によって復讐されるかもしれない。
ジョセフ・ジャストローの「うさぎ-あひる図」は、可視性と言表可能性の隔たりをイメージの不確定性として思考する格好の素材だ。ウィトゲンシュタインは「うさぎ-あひる図」を例に、イメージはそれを描いた人の知覚的アスペクトを保存しない──イメージの即物的基底は読み取りのインストラクションを含まない──ことを論じた。見えは時間的に切り替わり、切り替わりのタイミングは確率的だ。可視的イメージの宛先は描き手自身によっても決定されず、他者たちの見誤りにつねにさらされている。
このことは、現実の裁判では破壊的な作用をもちうる。一九七一年。沖縄ゼネストにおいて警官が火炎に包まれて死亡。新聞に載った一枚の写真を「証拠」として一人の青年が殺人罪で起訴される。冤罪。青年が「火を足で踏み消している」ところが写真上では「警官を暴行している」ところと解読された。相手を「火のなかに蹴り落とす」ことと「火を消して救出する」ことは、類似している。中平卓馬はこの事件を、写真の意味を国家のイデオロギーが簒奪した事件として強く批判した(『見続ける涯に火が…──批評集成1965-1977』)。しかし真の問題は、写真の意味が内在的には決して決定できないことにある。
:第四章
- ドゥルーズは次のように言う。
《当然ながら、二つの連結されたイメージの間にしか、間隙はないと反論することができる。この観点からは、『ヒア&ゼア・こことよそ』で、ゴルダ・メイアとヒトラーを隣接させるようなイメージは、受け入れがたいものだろう。しかしそれはおそらく、われわれがまだ、視覚的イメージの真の「解読」をするために十分に成熟していない証拠なのだ。なぜならゴダールの方法において重要なのは、結合ではないからである。一つのイメージが与えらえれているとき、二つのイメージの間に間隙を導入するような別のイメージを選択することが重要である。》(『シネマ2*時間イメージ』)
しかしイメージの「真の「解読」」とは一体何か。その基準はどこにあるか。そもそも当該のシークエンスは「見ることを学ぶ、読むことではなく」という字幕から始まっていた。そして実際に「見える」のは、二人の右手を挙げるという身振りが「類似」しているという一つの事実である。そこに「間隙」を見出すためには、「見ること」から離れ、「ヒトラーとゴルダ・メイア」、或いは「ファシズムとシオニズム」の区別を、つまり「読むこと」を導入しなければならない。だがそれは、ドゥルーズ自身の「読解」によって後から導入された間隙である。そうしなければ、映像の「見かけ」が類似しているというだけの事実によって、ファシズムとシオニズム、ファシズムと人民戦線が、なし崩しに結合されてしまう──ドゥルーズはその結合を否認している。
このシークエンスにはより直接的な、破廉恥とも言うべき操作がある。それは、ゴルダ・メイアの挙げる右手がヒトラーに向かって敬礼しているように見えることだ。ゴルダ・メイアの写真が映し出される前に、わざわざヒトラーの写真の位置を左に移し変え、ゴルダ・メイアの「敬礼」が上手くいくように、さらにヒトラーの左向きの視線がメイアの視線と形式的に応答するように編集している。まだある。人民戦線の男の右手が形式的にヒトラーの身体の一部となって敬礼して見えるような操作まで加えられている。ヒトラーと人民戦線の男の身体が、見かけ上一つに合成されるのだ。「見ること」への内在をラディカルに推し進めた結果、なし崩しの結合はかくも破廉恥な域に至っている。目に見える形態の表面において、反省よりも早く遂行されてしまう知覚的結合(しかしこの結合は、一度気がつけば不可逆的な確信となるが、決して確証できない。外在的な証言による同定を欠くからだ)。
つねに複数の映像から始めること。問題の本質は、二枚の映像があるということである。一枚の映像、つまり写真は、つねにその痕跡の起源たる原事象へ送り返される。写真は権利上現実と何らかの接触を果たしうる。しかし二枚の映像はそうではない。二枚の映像は、それらのあいだで関係性の領野を内在的に切り閉じてしまう。二枚の映像を結合し、重ね焼きして浮かび上がってくる三枚目のイメージ(ディゾルヴ)は、ただそれ自身の表面しか指し示していない。映画は、この原事象を欠いた空ろな表面によって思考する。
二つの映像が、いかなる原事象への参照も欠いたまま、形態的かつ内在的に結合されること。「見る」とは二つの映像を「編集」することだ。映像の二重性は、存在の同一性には決して還元されない。二つの映像を近付け、また引き離すという度合い的な結合のせめぎ合いをくり返すときに現れるモアレ状のパターン──並置された静止画の比較ではなく継起的な映画経験において不確定に重なる密着性のパターンこそが、映画の思考の論理を構成する。これは事実確認ではない。実証でもない。
この思考は端的に錯乱でしかないだろう。この思考はグレゴリー・ベイトソンの言う「草の三段論法」になぞらえられるかもしれない。「草は死ぬ」→「人は死ぬ」→「人は草である」……。
また、この思考は希望でもない。ヒトラーとゴルダ・メイア、ゲシュタポとレミー、死刑執行人と犠牲者、死と生のあいだの「間隙」は、開かれたとたんに閉じられ、距離は安定的に確保されない。その閉じられた内在性の領野は、映画を強制収容所のごときものに近付ける(二〇〇一年、パリのシュリー館で開催された「収容所の記憶」展において、殴打された収容者/収容所の解放時に殴打された死刑執行人の顔写真の並置についての、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンとジェラール・ヴァジュマンの論争を参照せよ)。単に通俗的な映像作品であれば、死と生の結合の半面だけを見せてみずからの作品の救済的意味を固定化するだろう。しかし映画は、死と生が可逆的に反転しうる不確定な場そのものを問題化する。救済の保証は一切与えられていない。イメージを見ることに内在するかぎり、「類似」は危険であり、そのことから目を背けることでなされる映画の肯定はいかなる正当性も持たない。
:第五章
- 《現在の中東戦争は、収容所で、瀕死の大柄なユダヤ人の乞食が、SSの誰かによって回教徒〔der Museslmann ユダヤ人強制収容所における衰弱し切った収容者を指す隠語〕としてとりあつかわれた日にはじまる。……三〇年経ち、ユダヤ民族は似たもの son semblable に遭遇することになった。もうひとつのユダヤ民族に。しかも、今度は夜と霧にまぎれてではなく、はっきりとした地域で、少しだけ太陽を浴びて。彼は言う。私は君とよく似ている pareil。私はパレスチナ人だ。ひとつのイメージは、異なる状況における似たもの sa cemblable と一緒でないと、何の役にもたたない、と人はよく言い放ったものだ。だからこそ、諸々のイメージは恐怖をさそうのかもしれない。たったひとつのイメージでも、よく撮れていれば、もう一つのイメージを呼び起こす。まず正しいキャプション=伝説 sa legende juste を呼び起こす。正義 justice が均衡を樹立するように。》(「不可能な雑誌」、一九七七年)
《モンタージュ。先にくるショットと後にくるショットがあって、二つのあいだには支持体がある。それが映画だ。金持ちを見て、貧しい人を見て、そこに接近があるとき、人は言う。これは正しくない pas juste。正義 justice は接近からやってくる。そのあとに均衡がやってくる。モンタージュの観念はまさに、正義の均衡だ。》(「ABCD...JLG」、一九八七年)
《私はあの何百万人ものユダヤ人やジプシーやあらゆる種類の闘士に注意を向けているのですが、これらの人々は──やはりこのところ「祝われて」はいても──、最終段階に達したときにはドイツ語によって回教徒という美名を着せられていたということが忘れられているのです。そのモンタージュは禁じられている、バザンであればこう言うでしょう。》(「ドイツの友人への手紙」、一九九五年)
内在的に「見る」とは、「似たもの」を見ることにほかならない。「回教徒」は見られなければならない。だが、「回教徒」が真に見られるためにはもうひとつの、それと正しく類似した「似たもの」が呼び起こされなければならない。
しかし、類似の形態的証明は、論証の言語としては──ベイトソンの「草の三段論法」のように──錯乱にほかならない。類似による結合は、言語に対して外在的に遂行され、その真偽を判定するのは記憶のなかで重なり合う諸形態の密着性の度合いのみだからだ。その遂行は「類似」という一語で言い表すには過剰である。知らないはずの経験の再演と誤想起によるミキシング。
映画を目撃する観客には、通常錯乱は生じない。映画の音と光のすべてを受け取ることは私たちの身体にはできず、映画は意味を選択的に認識できる範囲に縮減されて受け流される。或いは、その圧縮不可能性の前で身体は眠りこける。しかし、もし降りかかる音と光のすべてを私たちが受け止めることができたなら、身体を炸裂的に組み替えていく受苦のなかで、錯乱的な類似の身振りが、私たち観客の身体の上にも転送されるかもしれない……。そのとき私たちもまた「似たもの」となり、不可能な(誤)想起をみずからの身体の表面においてくり広げるだろう。映画の根源的非応答のなかで、いかなる論理的な知も介さず、なおも「応答」が可能だとしたら、そのような受苦の場で生きられる身体の錯乱的想起を通してではないか。
だが、この「応答」は「復活」や「救済」には短絡できない。死者が生者のイメージと類似することによって復活することは、生者が屍体のイメージに呑みこまれて急速に死亡することと、区別できない。二つの映像の、意識下のミキシング、二十四分の一秒の類似を介した結合と想起は、確定した方向をもつことができない。死と生は同じ確率で重なり合っている。死亡を復活から選択的に排除する手立ては、目撃者=証人の知覚には与えられていない。
(註。ジョルジョ・アガンベンもまた、「回教徒」たちの言葉の欠如、にもかかわらず「私」が「回教徒」として証言するという錯乱の可能性について思考していた。『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』。そこで問題になっているのは「人間」と「非-人間」、或いは「生きること」と「生き残ること」の不可能な結合である。)
言葉は映像を同定できない。映像はたえず「似たもの」と結びついて取り違えられる。しかし。すべてを容易に見間違えてしまう目撃者=証人の無力は、実は、そこで不可逆的な一つの方向を映画のなかに持ち込んでいるとは言えないか? 複数のイメージ間の方向性なき密着、それを受苦することによって。受苦する私たちの身体は、何かを「模倣」し、それを自身の生に接続する(死者たちの方へと完全に溶解することなしに)。死者たちの身体が、もはや沈黙してしまった声の谺が、かつて見られ-聴かれることのなかった歴史が、この地上に場所を持ちうるとしたら、それは、私たちの生のこの限度を超えた「模倣の能力」においてではないのか。失認と誤想起する目撃者の無禄において、光と音が与える拷問と受苦のなかで、死者に「似る」こと。死者だけではない。そこには波のざわめきがあり、犬や鳥たちの鳴き声があり、言葉なきすべてのものたちの叫びがある。その類似において映画は観客の上に折りたたまれ、見逃すことは見届けることの一つになり、聴き逃された者たちの沈黙は、私たちの開かれた口のなかでみずからの叫びを持つ。画面の前で私たちは、さしあたりいま受苦を生きている。もはや「私」とは呼びえぬ私の身体のうちで、受苦する基胎が生きている。
その受苦のなかで、「似たもの」たちの密着は来るべき世界の非人称的連帯へと開かれていく。「私」はその連帯に触れることができない。「私」はその連帯を想い出すことができない(「忘れようとしても想い出せない」──赤塚不二夫)。ただ、受苦する基胎を通して、誰のものでもない類似が、いっさいの記憶なしにこの地上に場所を持つのだ。