:力と思考
- 「形」は思考する。他でもありえた可能性を背景として、特定の一つの形が実現するとき、その形自体が思考である。
形はときに周囲の者を捉え、巻き込み、揺り動かす。つまり形には、「力」がある。
- 何かが配置される。何かが軌跡を描く。それによって形の全体像が変わる。形を構成する諸要素の具体的で特定の配置、これを「布置」と呼ぶ。布置とともに力も変化する。
- 形の持つ力は、造形的に発生する。その力は別の何かを──主には人を──捉え、挑発する。例えばトロブリアンド諸島のクラ交易に使われる、遠洋航海カヌーの舳先装飾。その複雑な装飾は、出迎えるクラの相手を魅惑し、圧倒し、気力を挫き、取引を有利する心理的な武器となる。この場合、力はその造形(装飾)自体の解読困難性、制作過程の遡行不可能性によって見る者の心を捉える。
形の力は制作者に属するのではない。形のなかに(多重多階的に)実現されているのは、製作者の頭の中には保つことのできない思考だからだ。形=思考体。
- 「思考」とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形(布置)を実現していく過程である。
(1)思考は、非意識的・非言語的である。無言で或る運動を行っている身体の姿勢は、それ自体が、運動がそのまわりをめぐる課題を局所的に解きつづける思考に等しい。
(2)思考は、集合的である。複数人の思考。外的事物とともに統合される思考体。意識的思考とともに運動する際の筋系、骨格系、神経系の連動。思考体は個人・単独の主体を前提としない。思考の物的過程を一人の人間(作者)が全的に意識できることはない。
(3)思考体は非人間的である。上の定義からして、昆虫(ダーウィンのミミズ)はもちろん、植物も思考する。持続的な全般的注意の能力を欠き、思考不能に陥っているかに見える重篤なアルツハイマー型認知症の患者も思考する。風に吹かれて舞う砂も、思考する。
思考の背景をなす諸可能性は、現前しない。また、思考は必ずしも環境とのギャップを解決しない。
- 思考する知覚行為体。ここでは意識を欠く物体もまた知覚すると考えよう。知覚される物体は知覚する物体を抱握[prehension]している、という意味において。したがって(3)で述べたように、非生命的な物体同士の作用もまた、集合的な思考過程の一部だと見做せる。
生物の心的記号過程は物的過程と連続している。
- 形の造形において、過程の結び目となるのは作家ではなく「形」自体である。形は、多数の人間的-非人間的作用が絡まり合う心的-物的過程の結節点=渦に生まれる。
「形」は生物としての作家の内面を超え出る。また、「形」は生物としての作家の生死に関係なく多くの過程を取り集める。
形は思考する。
:モワレと巻き込み
- 言語による思考には、それを統制する理性の論理がある。例えば三段論法。「人は死ぬ/ソクラテスは人である/ソクラテスは死ぬ」。
形による思考を導く基本的な形式は、「モワレ」である。モワレとは複数の周期的パターンが重ねられるときに現れるメタパターンのことだ。韻文、舞踏、音楽といった美的現象はモワレ構造を持つ。
この前言語的な思考(モワレ構造)を敢えて言語化すれば、述語の同一性によって人と草のカテゴリーを同一視してしまう、草の三段論法──「草は死ぬ/人は死ぬ/人は草である」──のようなものになるだろう。実際にはメタパターンのなかで主語と述語(運動)とは区別されないが。韻を通した思考。
- ベイトソンによれば、動物行動、解剖学的構造、生物学的進化、生態系は、草の三段論法という動的パターンを持つ。
- 形の思考において複数の事象を結びつけるのは、言語的同一性(同一の述語の下に複数の事象を包含する)ではなく、類似の反復(複数の非言語的パターンの重なりが生むモワレ)である。線的ではなく、同時双方向的である。
ヒナギクに見とれている者は、ヒナギクと自分の類似に見とれている。ヒナギクとヒトは種を超えて韻を踏む。
- モワレによる内在的な、同時双方向的な結び合いの統御は、調和的になるとは限らない。メタパターンは破壊的、闘争的、簒奪的なものでありうる。戦争もまた草の三段論法のような動的パターンを持つ。
- 複数のパターンは、互いに奪い合い、引き込み合う。引き込まれたものは力によって──恐怖によって、驚愕によって──変形される。この関係を「巻き込み」と呼ぼう。形は自身の特異な布置のなかに見る者を巻き込む。布置による変形は巻き込まれた見る者には「力」として経験される。この巻き込みはまた、物体が互いを(知覚において、運動において)抱握する特異的なパターンでもある。
巻き込みはすでに、人間の発達過程において周囲の環境とのあいだで起こっている。例えば母語の獲得。母語は前言語的領域から巻き込みの力で自己に侵入する。
なぜ巻き込みは起こるのか? それは謎だが、形の力とはその形と似たものになるよう模倣を強いる力であるらしい。
:形の分析、模倣体
- 形の思考の解読(批評)は容易にオカルト化する。
- 形の分析は難しい。あまりにも早すぎる韻の感知は、しばしば形のなかに自己の鏡像を見出すことでしかない。韻の感知は多かれ少なかれ観念論に自閉する。しかし、形の力を見ずに済ませることは、あらゆる形を既存の言葉のネットワークのなかで理解してしまうことに等しい。それもまた社会的に共有された理解の鏡像を形に投影することでしかない。既知の習慣的な、単層的パターンのくり返し→紋切り型化。
- 形の思考に作者の意図がない、わけではない。制作の意図は、形において部分的に、非意識的に、集合的な過程として実現される。それは製作者の意識的意図と同一ではない。
- 形の分析は、形の思考過程を遡行的に分解することによってなされる。形を時間的に逆撫でし、潜在的な諸可能性に開き、そこから特定の形が実現してくる思考過程を再起動すること。もし分析が的確になされていれば、思考過程の再起動は紙上でも有効性を持つはずだ。力の──呪いの、分解的再構成。そのとき、分析する私もまた作り変えられるだろう。
- 現実には複数のパターンの複数時の複視点の眺めを含む形を、生身の私が吟味することは不可能である。したがって形の分析は破裂的になされる。しかしそれはまた、限られた時間内で読みうる分析的記述として統合されなければならない。詳細すぎる記述は見渡すことができず、有限な私にとっては意味がない。複数のアスペクト、複数のダイアグラム、複数の記述が選択的に圧縮されることで、初めて形の思考を感知する新たな「模倣体=批評」を構築することができる。
APPENDIX:「霊をコンポーズする」
- 「巻き込み」とは何か。作品一般のモデルを「渦巻き」と考えよう。作品を見る者はその渦に「巻き込まれる」。作品を経験するとは、作品とそれを見る者が絡まりあいながら新しいパターンを生むことだ。それが、「巻き込み」。
「布置」とは何か。第一には、作品を構成する諸要素の配置のことであり、第二には、作品と向き合う観者の身体諸部分の配置のことである。そして、作品に巻き込まれるとは、作品の「布置」と捉えられることで、見る者自身の「布置=態勢」が変性させられるというに等しい。それは作品全体と見る者全体の同一化の謂いではない。そうではなく、「巻き込み」は、作品の細部を見るたびに、その局所の形と見る者のあいだで、起こる。
- では、なぜ「巻き込み」は起こるのか? 理論的というより直感的な一つの仮説は、それが「性〔欲〕的身体」によって起こるのだということ。巻き込みは、私の「息」をとおして、呼吸と深く結びついた「性〔欲〕的身体」が画面の諸形象に着地することで、起こる。性〔欲〕的身体は、物質的身体と必ずしも重なり合っているわけではない。非-物質的身体──「霊的」な存在と言っていい(若干怪しげな言い方だが)。
私の呼吸、私の息をとおして触発された性〔欲〕的身体が、作品の形象に巻き込まれるとき、性〔欲〕的身体は複数化し、作品形象に絡まりつつ、ばらばらに荒々しく立ち上がる。その、抱えきれぬほどに複数化した性〔欲〕的身体たちを、ひとつにコンポーズする(compose 共に置く、鎮める)ことが、「書く」ということだ。
- 巻き込みという概念の基本的なイメージは、ボルダリングだ。岩肌のテクスチャーに対し、ここには足を掛けられそうだ、ここには手を掛けられそうだと探りながら、自分の身体の重さを乗せていく。地質学的な時間をとおして造形された岩の布置があり、それに対して登る身体の側にも布置=態勢があり、二つの布置は独立したものだが、山を登りつづける過程において、両者は局所的に絡まり合う。性〔欲〕的関係。
絵を見るとき、私は絵と物理的に接触しているわけではない。しかし、そこに巻き込みが起こっているのなら、巻き込まれているのは、私の非-物質的な身体であり、それを作品形象に着地させる──足を着く、重さを乗せる──ことを具体的に可能にするのが「呼吸」である。画面の無数の細部に着地するたび、私の非-物質的な身体が、多方向に分裂して、動き回る。それらを、あらためてひとつの文に収めること。
- 作品をよく見て、その形象とたしかに絡まること。作品の構造・布置に偶然やられてしまう、つかまえられてしまう経験。それから、絵に何が起こっているのかを触れるように感じていく(そのために「呼吸」が必要になる)。絵をよく見て、自分の身体が変性すること。それ以外に、重要なことなどあるだろうか? 作品だって、複数化した非-物質的身体をコンポーズするために作られたのではなかろうか。
- 呼吸のコツ。息をすーーっと長く吐きながら、画面に描かれた線を呼吸で辿るようにして見ていく。自分の息が馴染むようになるまでずっと見ていく。十五秒で馴染んでくる部分もあれば、馴染むのに二、三分必要な箇所もある。それから一旦引いて絵を眺めると、一個一個複雑さの違う空間が無数に結び合わされていることが身体的に分かる。息をとおしながら、いろんなスケールで見るということ。
絵は人体(顔)ではないから、巻き込みが勝手に起こるということはない。だから、こちから絵に対して関係を作らないと、視覚的な形態しか捉えられない──描いた人が線を引き、色を塗るなかで辿った動きを把握するところまでいかない。自分が変性するところまでいかない。
なぜ呼吸なのか? 筆でまっすぐな線を引くときは、すーーっと、息を細く長く吐くはずだ。それと同じように、見るときにも息を吐く。自分の体力のつづく範囲で、画面上の形に呼吸をとおしながら見ていく。形と形のあいだに起きている飛躍みたいなものも捉えていく。背後にある空白をも捉えていく。一個の身体では追いつかないぐらいの大事業。
このとき、実際に絵を描くように私の物理的身体が動くわけではない。が、自分の非-物質的な身体が、画面の諸形象を内側から触っていく。物理的実体の自分の身体から離れた場所で、そこで起きていることをありありと感じ取る。絵は、実際には自分の身体の外にあるが、それを、自分自身の拡張された性〔欲〕的身体であるかのように感じていく。性〔欲〕的身体──非-性器的な、生殖器に局限されない官能が、全身のどこにでも起こりうるということ。そいういう官能の場を、自分の生物学的身体の外にも広げることができるということ。
身体の外に広げられた柔らかな面を、画面に重ね、その上に線が引かれていく、その感覚をまざまざと触覚的に感じるときに、その回路は、「性」と呼ぶほかないだろう。その感覚の回路を開くのが、そのつど画面に向かって吐かれる、息だ。
- 「巻き込み」は、拡張された性〔欲〕的身体の官能によって駆動する。
着地できる画面の諸部分が増えれば増えるほど、(拡張された)自分でありながら、まったく自分には追いつけないような動きや官能が増殖していく。それを、同時にいくつもの場所で辿っているように感覚する。一種の発狂的な経験だ。自分の体力が続きうるかぎり、息をよく通しながら、自分の限界を超えて動き回る性〔欲〕的身体の感覚をいくつも作っていく。
(余談だが、現物の絵はその布置の一番細いところまで触っていけるのに対し、印刷図版ではそうはいかず、性〔欲〕的身体の触発が起こしにくい。)
そうしてできてしまった異様な変性体。しかし、絵は結局のところ自分自身ではない。だから官能をいくら絵のなかに増やしていっても、帰ってしばらく時間が経てば忘れてしまう。それを統合し定着しうるとしたら、「書くこと」においてしかない。それは、絵の記述ではありえない。揺さぶられた未知の身体にかたちを与えるということ。上手くコンポーズできれば、私の生身がそれをあらかた忘れたあとにも、それは残る。それが「書く」ことの根本的な動機ではないだろうか。