:第一章 分析における欲望
- 心理学者の多くは、患者自身が本気で自分を変えたいと思っているのでなければ、どんな種類の治療も意味がないと通例考えている。
ラカンのやり方はそういう発想とは根本的に異なっている。患者が本気で変わろうと思うことなどありえない、というのがラカンの前提である。一体に、患者は症状をそのままにしておくために膨大なエネルギーを費やしている。というのも、彼らはフロイトが「代理満足」と呼んだものを症状から得ているからだ。患者が最初は自分の症状から解放されたいと訴えたとしても、本人は結局は事を荒立てない方向に流されてしまう。或る意味では、人生において症状こそが患者が満足を得るための手段として知っている唯一のものなのだ。それをわざわざ手放そうとするひとなどいるはずがない。
フロイト=ラカン的な視点から言うならば、治療者は患者の側の「よくなろうとする意志」「変わりたいという意欲」に頼ることはできない。
分析の初期には、多くの患者が、何がうまくいかないのか、自分の行動がいつも裏目に出るのはなぜか、いつも人間関係が破綻するのはなぜか、などについて知りたいという意欲を表明する。しかしそこには、実はそれらについて「何も知りたくない」という願望が根深く存在する。患者は、生活が破綻した原因がまさに自分がしてきたことや、現にしていることにあると気づき始めると、多くの場合、ひきつづき治療を行うことに抵抗し、治療から逃げようとする。この逃避は神経症者に最もありがちな基本的態度の一つである。ラカンはこの「知ろうとしない意志」を愛や憎しみよりも強い情熱として分類している。
ひとは危機に瀕してからようやく治療を受けに行く。つまり彼らのいつもの方法が破綻したときに。フロイトの言うように、症状が代理満足を提供してくれるとしても、それがいつもいつも効力を発揮できるとはかぎらないのだ。
しかし「満足 satisfaction」という言葉は、症状が提供するような類の快を表現するにはあまりにも穏当すぎるだろうか。症状を現しながらも自分の人生に満足していないとぶつぶつ言い続けるひとは多くいる。その場合、彼らは自分の不満足から、或いは自分が満足できないは他人のせいだと不平を言うことから、満足を得ていると考えられる。同様に、或るひとびとは、自分自身を犠牲にしたり、ひどく痛ましい経験に身をさらしたりすることからとてつもないほどの満足を得ている。
ひとが治療を求めるときというのは、満足を供する症状がそれ以上機能しないか、もしくは危うくなってしまっているときだ。彼らが治療に期待していることは、症状から解放されることではない。むしろ症状の効果が戻ることや、症状が目立たなくなることを彼らは求めている。しかし、それは精神分析が提供できるものとはまったく異なっている。
したがって、精神分析による治療を契約とみなすことはできないし、患者を「クライアント」と表現することも不正確だろう。なぜなら「クライアント」は消費者として自分が欲しがっているものを受け取るべきだからだ。ラカン派の精神分析において、治療者は患者の要求を脇に置き、彼らを欲求不満にさせ、最終的に彼らが決して求めていなかったものへと導こうとする。これは到底「クライアント」との契約とは言えない。ラカンは別の用語を提案した。「分析主体 analysand」である。この語には、分析という仕事をするのは分析家ではなく、治療を受ける側であるという意味が込められている(訳者:そのため通例「被分析者」と訳されるこの語を本書では「分析主体」と訳した)。
「この治療から何を期待できるのか?」と患者は問う。分析家は、分析主体に治癒も幸福も約束することはできない。しかし必要とあらば、物事に対する新しいアプローチ、人との新しい付き合い方、世の中を渡っていく新しいやり方を分析主体に約束することができる。
:第二章 治療過程に患者を導くこと
- 患者は、精神分析的にみて最も重要な主題について、自発的に的を絞って発話することはない。反対に、たいていはそれを避ける。たとえば性について詳しく述べるべきだと気づいていても、患者は夢や幻想のなかで最も性的な備給を受けている要素について連想することを避ける傾向がある。
患者が土曜の夜にクラブを渡り歩いてどう過ごしたかとか、ドストエフスキーの詩についての患者の持論とか、その他もろもろのことはどうでもいいのだ。それらすべては日常のたわいもない話であり、友人や家族や同僚と話すものである。分析では、そんなことを話すことはまったく必要とされない。そんな話に丁重に耳を傾けていたら治療は一生終わらない。患者の話を中断させたり、話題を変更させたり、自分の退屈さを表わしたりすることは、分析家が介入するための一つの方法である。「メスが乱用されない保証はない。しかしメスは切れなければ治療の役に立たない」(フロイト)。
分析家は決して中立な聞き手ではない。患者の発話には、無意識の欲望にほとんどいつも関係するような箇所がある。分析家はこれらの点が決定的に重要であることをはっきりと示さなければならない。患者の注意をそれらの箇所に向け、多かれ少なかれ直接的に、それらについて考え、連想し、真剣に受け止めるように促さなければならない。
無意識の現れは、しばしば驚きを伴う。その驚きとは口がすべってしまった驚きであり、また、自分のしたことに驚く場合もある。たとえば、或る患者は長年意識の上では継母を嫌っていた。しかし父親の死の直後、路上で継母にばったり出会ったときに突然、実は彼女に対して自分が大変な好意と優しさを抱いていることに気がつき愕然としたのだった。
こうした驚きの要素は、分析をお決まりのルーティンワークにしてしまわないために重要である。分析は、分析主体が自分の夢や幻想を数十分話したあと、家に帰っても何も揺さぶられず、一日中何かに悩まされたり、そのことで頭が一杯になったりすることもない、というようなものであってはならない。ラカン派の分析は、分析主体が用心したり平衡を保ったりできないようにする。
一部の強迫神経症者は、あらかじめ自分が何を話すかを決めておき、セッションの綿密な計画を練って、口がすべることもなければ自由連想をする余地もないような、念入りにリハーサルされた演技へとセッションを変えてしまうようなことをする。分析過程に身をおくことの不安を何とかしたいというわけだ。或いは、何か特定の事柄について話さねばならなくなるのを恐れている。これもまた逃避の形である。
発話は、まさにその本質からしてあいまいである。言葉は一つ以上の意味を持っているし、私たちが使う表現は多くの場合複数の仕方で受け取られうる。患者の言うことはあいまいであると言いたいのではない。すべての発話があいまいなのだから。重要なのは患者の言葉の選び方だ。精神分析は患者が言おうとしたことよりも、むしろ彼が実際に言ったことの方に関心を向ける。
「私が言おうとしたこと what I meant」という患者の文句が指すのは、患者がそのとき意識的に思考していたことである。そう言うことによって、患者の心のなかで何らかの別の思考が、同時に、おそらく別の水準で具体化しつつあったことが否定される。治療において多くの患者はそのような他の思考があることを懸命に否定する。患者がいくつかの思考が、おそらく異なったレベルにおいてだが、同時に自分のなかに生じることがありうるということを受け入れ始めるまでは長い時間がかかる。つまり無意識の存在を受け入れるまでは。
「私が言おうとしたこと」とは、自分が意味していると患者が意識の上で考えていること、患者が意識のレベルで伝えようと意図していることである。それは患者の自己観、すなわち、彼が自分はこういう人間であると信じている人物像と矛盾しない何かだ。ラカンが「意味は想像的なものである」と言った理由はここにある。意味は、私たちの自己イメージに縛りつけられている。すなわち「自我 ego」に。
一九五〇年代にラカンが「フロイトへの回帰」を掲げたときは、当時「自我心理学」において中心的だった自我の強調に反対し、無意識の重要性へ回帰することが目論まれていた。自我とは、本質的に私たちが自己の一部とみなすものであり、そのかぎりで、自我は私たちにとって見知らぬすべてのもの、私たちが責任を持つことを拒否する錯誤行為のなかにすべり込んでいる思考や欲望をすべて排除してしまう。患者が言おうとしたことよりも実際に言ったことの方に重きを置くことによって、また、発話のなかに現れたあいまいさや言い間違いを強調することによって、ラカンは、フロイトと同様、自我よりも無意識の方に優先権を与えたのだ。
患者が分析に本気になって取り組み出すのは、彼らが意識の上で意味しようとしたことや意図したこととは対極の、実際に何を言ったか・何をしたかということの方に彼らが注意を払い始めるとき、つまり自分の発言における「何、なぜ、誰」が患者自身にとって問題になるときである。この時点になって初めて、あれこれ特定の症状を取り除いてほしいという単純な要求を超えて、分析主体は何かに取り組むことができる。
このようにして開かれた場所においては、分析主体はもはや自分が何を言っているのか、何を追い求めているのかさえ知らない。そして、彼らは自分を導く無意識の力を、分析の経過のなかで無意識が生み出す形成物(夢、幻想、白昼夢、ど忘れ、言い間違い)の力を、信じる。ラカンの言うように「欲望とは問い」である。だから分析の現場は欲望の場所となるのだ。
或る意味、患者は「要求」を「欲望」と交換するようになるのだと言えるだろう。即効性のある治療、分析家に退位して解釈や承認や是認を求める患者の「要求」は、無意識の形成物に興味をそそられ、それを探求する「欲望」にやがて道をゆずる。要求はつねに何かに対する一種の固着が含まれているが、分析が進むと、患者はいくつかの要求を自ら手放すようになっていく。患者は欲望と引き替えに、或いは欲望の換喩から生じてくる喜びと引き替えに、或る固着を手放すのだ。「換喩」というのは、ここでは単に欲望が一つの対象から次の対象へ動くこと、欲望それ自体でおのずと絶え間なくずれていくことを表している。
この移行、要求と欲望のこうした交換、欲望の運動と引き替えに固着を手放すことを指すラカンの用語は、「弁証法化」である。おなじみのヘーゲルの弁証法ではない。患者が「ええ、そうですね、私はそれが欲しい。でもよく考えてみると、本当は欲しくない。考えてみると、私が本当に欲しいのは……」と自由に言えるようになるという意味での「弁証法的」だ。患者はもはや自分が一貫していなければならないとは感じなくなる。日常的な常識の論理では、何かを欲しがることと欲しがらないことを同時に両立させることはできない、しかし、欲望の論理はそれらの論理とはちがうのだ。
欲望の弁証法化──これは大変重要な段階であり、分析主体が本当に分析に入ったことを示すものである。
:第三章 分析的関係
- 分析家は分析のなかで自分の感情や性格的傾向、自分の習慣や好き嫌いなどを晒すべきではない。
分析家がどこにでもいるただの人、つまり分析主体と同じ人間だと分析主体が考えていると、彼は分析家のなかに自分自身を見たり、分析家を真似たり、しまいには分析家と自分を比べたりする。こうした状況で生じる関係をラカンは想像的 imaginary なものと名付けた。想像的な関係はイメージに支配されている。想像的な関係は競争に支配されている。分析主体がイメージにおいて分析家との関係を考えるとき、問題としているのは「私は分析家に似ているか違っているか、優越しているのか劣っているのか」ということである。そこから好悪の感情も生まれる。
分析家は分析主体に対する優位を保つような権威を演じる必要はない。というか、してはならない。分析家は分析主体より多くのことを知っている必要はない。分析家の方から自分を分析主体と比較し、自分の言説によって分析主体の言説を評価するようなゲームに熱中してしまうときには、「逆転移」が生じていると言っていいだろう。ラカンは逆転移感情もまた想像的なものと位置付けている。
分析家は、分析主体にとっての《他者》、根本的に異質で見知らぬ他者でなければならない。分析家は普段分析主体が日常的に付き合っている他のひとびとと同じような位置にはいないのだ(とはいえ、これは分析家が最終的にとどまるポジションではない)。しかし、想像的な関係が生じてしまうと、分析主体は分析家に《他者》の役割を見出すことができなくなってしまう。
ラカンの初期の仕事においては、分析の目標は想像的なもののせいで患者の人生に生じている葛藤を取り除くことだった。分析主体の想像的関係の鍵は多くの場合象徴的関係にある。象徴的関係というのは簡単に言って、人と《法》──大文字の《他者》the Other、これは想像的な他者にすぎない小文字の他者 other とは区別される──との関係だと考えればよい。すなわち、両親、教師、宗教、国家などによって課されるひとと法との関係である。ひとは《法》に象徴される社会全般から理想を押し付けられている。ひとがこの理想に対処する仕方が象徴的関係となる。とりわけ重要なのが両親という《他者》との関係だ。
象徴的関係では無意識的なものと《他者》が関係し、一方、想像的関係では分析主体の自我=自己イメージと、彼に似た他のひとびとの自我が関係する。くり返せば、分析主体の想像的関係の鍵は象徴的なものに存する。たとえば、或る人が自分の兄弟とのあいだで激しいライバル関係(想像的関係)にあるとき、それは両親という《他者》がその兄弟を特別に扱ったりすることから生じている可能性は大いにある。
初期のラカンにとって、分析の目標は、連想という作業を通じて分析主体の象徴的関係に焦点を合わせ、分析主体の想像的関係の重要性を減じることにあった。すなわち、分析主体を《他者》との諸々の関係にしっかりと直面させること。しかし、もし分析家が分析主体に似た誰か(象徴的な《他者》ではない、想像的な他者)の役割を演じることを自分に許してしまうと、分析はライバル同士の競争や同一化にはまりこんでしまう。想像的同一化の罠に陥ることで、分析家は治癒への方向を見失うのである。
しかし想像的同一化の罠を避けたとしても、また別の罠が待ち構えている。
分析主体にとって分析家が想像的他者ではない、象徴的な《他者》の位置を占めるようになると、分析主体は、その象徴的な《他者》から自分が見られている姿に同一化しようとしはじめる。そうなると、分析主体は実にしばしば分析家の承認をかちとろうとし、分析家の価値観を先読みし、それを実現しようと試みたりする。これは、分析主体が人生上で両親や学校やメディアといった大文字の《他者》によって承認されてきた経験を、分析家との関係で反復しようとしているにすぎない。この状態は分析にとって有害である。分析家の言葉が分析主体に対する検閲のように働き、分析主体は自分自身の無意識についての懸念や留保を徹底的に掘り下げることを止めてしまうからだ。
この象徴的同一化の罠に入り込んでしまうと、分析主体は自分を《他者》から分離できなくなり、《他者》へのいっそうの依存が進行してしまう。たとえ分析家が「きみは自律的に生きなければならない」と告げたとしても、象徴的同一化のもとでそれが聞かれるならば、それは何の状態の改善ももたらさない。たとえそれによって後日患者が自律と幸福感を報告するようになっても、彼はそのとき自分自身の欲望を分析家の欲望に従属させているだけだからだ。そしてその幸福は大抵一過性のもので終わる。
分析家が果たすべき役割とは想像的他者でも象徴的《他者》でもない。とはいえ、分析家と分析主体の象徴的関係は分析家が介入するための梃子にもなりうる。分析家は性急に「私はあなたの父親ではない」などと言うべきではない。分析主体によって割り振られた自分の役割から即座に距離を置くべきではない。もちろんそれが治療の継続を危うくさせないかぎりでのことだが。
:第五章 欲望の弁証法
- ひとはさまざまな状況で分析にやってくる。或る患者はベッドから出る気にもならないほど意気沮喪している。また或る患者は自分が望む何かのために夜も眠れないほど興奮している。
分析主体が陥っている苦境は、或る種のリビドーの停滞として理解することができる。つまり、彼らの欲望が固着しているか、停滞しているかなのだ。そしてそのとき、欲望は対象によって掻き立てられているとはかぎらない。一見、患者の欲望は特定の対象に関係しており、分析主体が対象によって牽引されていることが欲望の現れであるように見える。しかし実際には、特定の対象のうちに時折読み取れる何かの兆候によって、主体の欲望が顕在化されたと言う方がおおむね正しい。対象に必ずしも内包されているとはかぎらない何かが、欲望と原因となり、主体は対象に牽引されているというより、その原因に押されているのだ。その原因と対象の結びつきがなくなると、対象は往々にしてすぐ捨てられる。
欲望は特定の対象と結びついていない。さらにラカンは、欲望は満足を求めない、とまで言う。欲望はむしろ欲望それ自体の持続と促進を求める。ここから、自分の欲望を生かしつづけるための強迫神経症とヒステリーという二種類の戦略が生まれる。強迫神経症者は、獲得することのできない何かを欲望する。彼の欲望の実現は構造的に不可能になっている。ヒステリー者は或る種の欲望を満足しないままにしつづけるよう努める。そこには欲望が満たされないことへの欲望がある。強迫神経症とヒステリーの双方において、欲望を実現させるあらゆる可能性の途上に障害が置かれている。
ラカンの主張によれば、分析が成功すると、欲望の原因との関係において、主体の位置が組み替えられる。それによって、主体が満足を追求することが欲望によって妨げられなくなるのである。
欲望の原因を示すラカンの用語は「対象α」だ。これはいささかミスリーディングではある。欲望は対象ではなくむしろ原因と関係するのだから。まあラカンには、精神分析理論において「対象」の名で一般に通用しているもの(ウィニコットの「移行対象」など)を無効化したい意図があったのかもしれない。
対象αはさまざまに異なった姿をとりうる。欲望の原因の特徴はひとによってさまざまだが、いずれにせよそれは非常に具体的なものであり、何物も容易にそれに取って代わることはない。
人間関係がまずくなりつつあるにもかかわらず、必死にその関係にしがみつこうとして分析にやってくる人がいる。その場合、その分析主体に特有の原因を託されている相手は、たいていその人のパートナーだ。パートナーがその原因を持っていたり内包しているとみなされていて、欲望はその原因にのみ固着し、他のどこにも見出されないという状況になっている。こういうふうに分析主体が欲望の原因に固着していることによって、欲望の危機或いは欲望の減退がもたらされる。
欲望の原因はどのようにして生じるのだろうか。
ラカンの考えでは、「人間の欲望は《他者》によって欲望されることである」。単に周囲から世話されるだけだった幼児期を通り抜けて、人間が自分自身の欲望に目覚めるとき、それは他人の──とりわけ両親の──欲望を問うことから始まる。他人たちは一体何が欲しいのだろう、他人たちは私に何を求めているのだろう、という疑問を抱くことによって、私自身の好奇心や決意が目覚め、物事を探求し、世界を探索し、言葉を読み取り解釈しようとし始めるのだ。他人たちの欲望が私を動かし、私の欲望に命を吹き込む。
こうした《他者》の欲望が、私たちの欲望の原因の原基である。欲望という私にとって最も内密であるはずのものは、実は私の外部から到来したものなのだ。
思春期の最も重要な課題は親からの分離であり、神経症者はこの課題の達成に失敗している、とフロイトは言う。これは、ラカンの用語に直せば、神経症者は両親という《他者》の欲望に縛り付けられたままであるということだ。両親の欲望は神経症者の欲望の原因として機能しつづけ、彼は両親の求めていたものに完全に依存しつづける。神経症者が彼の時間と精力のすべてを、彼の両親が欲することとは正反対のことへ捧げているときですら、彼の生は徹頭徹尾《他者》の欲望との対立によって構成され、それに依存しつづけているのだ。
分析の過程で、神経症者は自分の人生で重要な意味を持つものが、誰か他のひとの欲望と密接にかかわっていることにだんだん気付き始める。神経症者の欲望は彼「自身」の欲望ではなかったのだ。それは決して一度も主体化されたことがなかったのだ。分析の目標は、原因の主体化、《他者》の欲望の主体化である。
分析が進むと、分析主体は分析の開始時点で自分にとって欲望の原因としての役割を果たしていたものに、それほど固着しなくなっていく。そして分析家を、欲望の原因とみなし始める。これによって新たな固着が確立されるわけだが、それはすでに分析家の介入しやすいものとなっている。こうして、分析が分析主体の欲望の原因の場所へ入ったら、つまり、分析主体にとっての想像的な他者でも、象徴的な《他者》でもなく、分析主体の欲望の現実的 real な原因──分析主体の言い間違い、夢、幻想、分析主体の愛と憎しみの原因──となることができたら、そのとき本当の分析作業が開始される。
《患者は無意識の蠢きの覚醒による生産物を、そのときに起こった現実のことがらとみなす。彼は現実的状況を考慮することなしに情緒を行動へと移す方途を探るのである。〔これに引き続いて起こる〕医師と患者との格闘は、……もっぱら転移という現象において演じられる。その領野においてこそ、勝利、つまり神経症の永続的な治癒という形で表現される勝利がかちとられねばならない。転移の現象を制御することは、精神分析家にとってひどく骨の折れることであることは否めない。しかし、患者の隠され、そして忘れさられた愛の蠢きが直接的に感じられ、また顕在的になるという、計りしれない恩恵が私たちに与えられるのは、まさしくこの転移の現象を通じてである。というのも、結局のところ、何者であれ、不在であったり肖像画のままでは、これを破壊することは不可能であるからである。》(フロイト「転移の力動性について」)
ラカンは、欲望の原因への分析主体の固着を「根源的幻想」と呼んだ。すなわち主体(想像的な自我ではない)とそれが選択した欲望の原因とのあいだの根源的な関係を。
分析家が分析主体の欲望の原因としての役割を引き受けると、分析主体と分析家の関係は、分析主体の根源的幻想の特徴や性質を帯びたものとなる。そして、分析主体は、自分がそれまでいつも解釈してきたような《他者》の欲望に、分析家の欲望が一致することを期待する。分析主体は、状況に応じて《他者》の欲望の対象であろうとしたり、欲望の満足を妨害しようとしたり、それを傷付けようとしたりするが、結局のところ、彼は《他者》の欲望が自分の経験ではいつも同じで変わらないものであると思い込みたいのだ。つまり、「もし私が《他者》の欲望に上手く対処すれば、私はそこから引き出せるわずかながらの快を手放さずにいられるだろう」というわけである。
分析家は分析主体のその期待を打ち砕き、揺さぶりをかけねばならない。分析主体は、幻想のなかでの自分の立場を《他者》の欲望との関係においてたえず作り直し、分析家が何(どんな話)を求めているか、さまざまに想定する。分析家はそれに対抗して、分析主体が期待していることとは別のことに関心があることを表明し、それによって自分自身の欲望を謎めいたものにしなければならない。《他者》の欲望は、分析主体が想定したものであってはならないのだ。実際、それが分析主体がいつも想定してたようなものであったことはおそらく一度もない。根源的幻想が「幻想」と呼ばれるゆえんである。
《他者》の欲望についての分析主体の解釈や想定にヒビが入るのは、分析家が分析主体の期待どおりには反応せず、自分の手のうちを見せない、すなわち自分の欲望を分析主体に読み取らせないかぎりにおいてである。分析家の関心や好奇心、欲望などは、分析主体がつきとめることが困難なものでなくてはならない。分析家は分析主体が期待している場所に存在していてはならない。分析家は謎めいた欲望という位置を維持しなければならない。それでこそ、膠着した根源的幻想に揺さぶりをかけることができる。分析主体自身の欲望が生じるのはそれからだ。
他者の《欲望》の謎と出会うことは、神経症者に不安を引き起こす。この点を説明する比喩としてラカンは昆虫の行動の例を用いる。雌のカマキリは雄のカマキリの頭を噛み切る習性を持つ。あなたは雌もしくは雄カマキリの仮面をかぶっている。それがどちらの仮面なのかあなた自身には分からない。そこに雌のカマキリが近付いてくる。この状況において、あなたは自分が雄である(死は確実である)と知っている場合よりも、自分が雄か雌か分からない場合の方が、不安を強くするのではないだろうか? その不安のあまり、事実がどうであれ「自分は雄の格好をしている」と思い込み、決め込んでしまうのが神経症者だ。神経症者は不安を抱えて落ち付かないままでいるより、自分自身が雌カマキリ=《他者》にとって何ものか、《他者》の欲望においてどのような対象であるか知っていると思い込む方を選ぶのである。《他者》の欲望の正体が分からないことはそれほどに耐えがたい。
フロイトの用語で言えば、神経症者が(両親という)《他者》の欲望を見分けたいと思うことは、自我理想[Ichideal]=超自我の形成に関係している。人は自分のためにこの理想を設定し、それに照らして自分自身の行為に評価を下す。それは「個人の最初の、そして最も重要な同一化、すなわち両親への同一化」である。
神経症者がかつて両親に同一化したのと同様に、分析家に同一化しようとしても、驚くにはあたらない。彼は不安を引き起こす《他者》の欲望の不確実性にけりをつけるために、分析家の欲望の行間を読もうとし、要求や評価、理想を見分けようとする。そして分析家の価値観に合わせて(或いはちがった形で注意を惹くためにそれに反抗して)行動し始める。このように、《他者》の自我理想を採り入れようとくり返す神経症者の試み、その固執は、まさに彼らの症状の核にあるものである。
当然ながら精神分析の目標は、患者が分析家(の解釈)へ同一化することであってはならない。それは転移を恒久化させ、別の文脈で同じ問題を回帰させるだけだからだ。
分析家は、分析主体が分析家の欲望をつきとめ、その不確実性を取り除こうとする試みを拒絶しなければならない。それによって分析主体は、神経症者にとって非常に外傷的な、彼らの固着の核心にある《他者》の欲望それ自体に直面しなければならなくなる。彼は幻想を横断する traverse ことが可能になる。そして、分析主体は神経症を超えて「享楽の主体」となる。
分析主体は、分析家の欲望と対峙することによって、《他者》の欲望の解釈を訂正し、またその解釈の上に成り立っていた主体としての彼らの位置を転換させる。それは諦念によってではなく、ラカンが「落下 precipitation」と呼ぶもの、すなわち事態の急激な反転、根源的幻想の組み替えにおいて起こる。この過程は冷静で落ち着いたものではなく、むしろ、複雑で厄介な、扱いに困るようなものであることが普通である。フロイトが言うように、「何者であれ、不在であったり肖像画のままでは、これを破壊することはできない」のだ。そこで賭されているものは非常に生々しい。
:第八章 神経症
- 本書の最初の五つの章で概略した分析へのアプローチは、とくに神経症へ適用されるものである。
精神病と対比するなら、神経症は次のような特徴があると言える。父性機能の設立。言語活動の本質的構造への同化。確信よりも疑いが優位であること。法の制定は制止されていないが、対照的に諸欲動がかなり制止を受けていること。直接的な性的接触よりも幻想において快を見出す傾向。排除に対立するものとしての抑圧の機制。フロイト的言い間違いや錯誤行為、症状などのような、抑圧されたものの内部からの回帰。
倒錯と対比するなら、神経症は次のような特徴があると言える。性器帯が他の性感帯よりも優位を占めていること。興奮させるものは何かに関して一定の不確かさがあること。興奮させるものが分かっている場合でもそれを求めるのにかなりの困難があること。《他者》の享楽の原因であることを拒絶すること。
神経症を定義する根本的な機制は抑圧である。精神病者は他のひとならば恥ずかしがるようなきわどい感情や行動をすべて知らせてしまうが、神経症者はそうしたことを視野から、他者から、自分自身から隠しつづける。これらはすべて抑圧の作用だ。付け加えて言うと、或る意味で精神病には無意識はない、なぜなら無意識は抑圧の結果であるから。精神病では、問題の現実は決して肯定されたり、認められたりはせず、それは排除される。抑圧は排除のような完全な抹消をともなわない。神経症では、現実はきわめて根本的な意味で肯定されているのだが、意識から締め出されたままでいるのだ。
フロイトが論文「抑圧」(一九一五年)で語っているとおり、抑圧されているものは知覚でも情動でもなく、知覚に結びついた思考、情動が付着している思考である。無意識は言語(シニフィアン)で構成されており、思考もまたシニフィアンによって表現されたり形成されたりするほかはない。無意識と思考は一般に初めから結び付いている。こうして、気分が沈んで、憂鬱、不安で悲しいと訴え、罪悪感に圧倒されているがその理由はまったく分からないという患者に臨床家は出会うことになる。抑圧のせいで彼らの情動と思考は切り離されてしまっているのだ。
或る思考は一度抑圧されても、眠ったままでいるわけではない。それは関係ある他の思考と結び付き、いつでも表現を求めていて、夢や言い間違い、錯誤行為、症状となる。「抑圧されたものと抑圧されたものの回帰はまったく同じものである」とラカンは述べている。つまり、回帰の形がどんなものにせよ、抑圧が存在していることの唯一の証拠は、破綻や中断などの形式で表れる回帰なのである。
強迫神経症では、抑圧されたものが心のなかへ回帰することが多く、ヒステリーでは抑圧されたものが身体へ回帰する。強迫神経症者は思考が乱されることによって悩まされ、ヒステリー者は時期によってかなり変化する身体的な不快に悩まされる。とはいえ、思考も身体もシニフィアンによって支配されているので、これは強迫神経症とヒステリーを区別する決定的な特徴ではない。
フロイトが提案した区別のうち最も印象的なものは、強迫神経症者は罪悪感 guilt と嫌悪 aversion によって反応し、ヒステリー者は不快感 disgust と反感 revulsion によって反応する、という定義だ。フロイトは、或る事例では性行動が罪悪感に支配され、別の事例では性行動が反感によって支配されていることを発見した。
さらにラカンによって強迫神経症とヒステリーの構造的差異を理解する基礎が与えらえた。それは根源的幻想──主体と対象αの関係──に関わる。ヒステリーの根源的幻想の構造は、強迫神経症に見出される根源的幻想とは根本的に異なっている。ヒステリーと強迫神経症の差異は、主体の位置の根本的な差異として定義でき、互いに《他者》および対象αへの関係が対立的になっている。
強迫神経症者の幻想は、欲望の対象との関係をともなっているのだが、その対象が《他者》と関連していることを彼は認めない。強迫神経症者にとって対象は自分の外部からやってくるものではない。彼は《他者》の存在、ましてや《他者》の欲望を認めようとしない。強迫神経症者は《他者》を無効にしようとする。或いは自分の欲望の対象を代替可能で恣意的なものとみなすことを好む。彼はそうやって、自分自身を一つの全体的で完全な主体だとみなしているのである。彼は、勇敢にも自分を《他者》に頼っている者として理解することを拒み(日常的にも強迫神経症者は他人に助けられることを拒む)、誰にも依存することなく欲望の原因との幻想的な関係を維持しようと試みる。強迫神経症は「不可能な欲望」によって特徴付けられる。なぜなら、強迫神経症者が自分の欲望の実現(たとえば、誰かとセックスすること)に近付けば近付くほど、《他者》が彼よりも優位に立ち、主体としての彼を凌駕してしまいかねないからだ。その脅威を避けるために、強迫神経症者が行う典型的な一つの方策は、たとえばまったく完全に近付きがたい誰かに恋をすることである。
一方、ヒステリーの幻想では、自分自身が、《他者》を全体或いは完全にするために必要な対象として構成される。ヒステリー者は自分を《他者》に欲望される対象として構成するのだ。彼女(ヒステリー者の大多数は女性である)は、主体の側において自分自身を対象αと同等視する。ヒステリー者の根源的幻想はしばしばパートナーを必要とするが、それは想像的な他者──彼女が自分自身に似ているとみなす者──ではなく、象徴的な《他者》或いは主人──知と権力が浸み込んでいる誰か──である。ヒステリー者はパートナーを支配するために自らを《他者》の欲望の原因とし、自分をいつまでも対象としての役割のままにしておこうとして、《他者》の欲望が満足しないことが確実にとなるような方法によって事態を統御する。《他者》の欲望はヒステリー者によって満足させられないままとなる。ヒステリーは「満たされぬ欲望」によって特徴付けられる。ヒステリー者はしばしば《他者》の性的満足を不愉快なものと思い、《他者》が自分という対象によって満足を得ることを避けようとする(性的行為を一切拒否していることもある)。ヒステリー者は、相手の享楽を否定する。欲望それ自体を維持するために。
ヒステリー者は享楽に否定的だが、同じことが強迫神経症者にも当てはまることに注意しよう。強迫神経症者の性的関心は本来自慰的であり、《他者》は無化されている。ヒステリー者の戦略も強迫神経症者の戦略も、「《他者》に享楽はない!」として特徴付けられよう。言い換えれば、神経症者のモットーは「《他者》は決して私に満足しない、《他者》は決して私に夢中にならない」である。
とはいえ、ラカンによれば、それにもかかわらず神経症者は嫌々ながらも享楽を排除しない。神経症者はあたかも超自我から「享楽せよ」と命令されているかのようなのだ。神経症者は、その超自我の命令に従うことで、自分自身のためにではなく、《他者》のために享楽を得ているかのようだ。たとえば、今日の名声のためではなく、後世の名声のためにすべて(今ここでのすべての満足)を犠牲にしようとする無名作家のように。
神経症者は《他者》を満足させよという命令に従うことで(のみ)享楽に関わっている。つねにすでに彼らは《他者》に多くの犠牲を払ってきたつもりなのだ。そのことの帰結として、神経症者は《他者》の満足に対して恨みに満ちた態度を取りがちである。「私の両親は私に十分な愛や承認を与えてくれなかった」といった具合に、《他者》に対する神経症者の要求には際限がない。神経症者はどれほど多くのことを成し遂げようとも、決して休むことはできない。神経症者は自分の不満足に固執しつづけ、《他者》が享楽することを自己の心的経済において認めず、恨むことをやめない……。
補遺。強迫神経症者の欲望もまた《他者》の欲望なのだが、その《他者》はしばしば彼と同性である。ヒステリー者ではしばしばそれは異性である。ヒステリー者の分析では、売春幻想やレイプ幻想は非常によく出てくるものだが、それは世俗的な性的な非対称性に基づいている。
:第十章 欲望から享楽へ
- ラカンの初期の仕事に見られる特徴は、分析は象徴的秩序を経由することで成功裏に終わるという信念だ。つまり、患者の「欲望」が分析が成功することの鍵であると信じられていた。欲望はシニフィアンの現象であり、言語活動なしには人間の欲望は存在しえないのだから、欲望の隠された決定要因は言語という象徴的構造──患者が何を語ったか──に痕跡を残す。エドガー・アラン・ポーに関するラカンの論文「盗まれた手紙」は、小説の登場人物のそれぞれの欲望が、シニフィアンの構造のなかで各人物の立場によって決定されていることを描いている。ラカンは、患者の人生もまた彼ら自身の「盗まれた手紙」によって決定されていることを強調する。
この時期のラカンは、分析の過程を分析主体の欲望の結び目をほどくことと定式化し、分析の目標を、主体の欲望の発言を明るみに出すことに置いた。分析が成功すると、分析主体は、《他者》によって邪魔されたり揺るがされたりすることのない欲望、もはや制止に従属しない無意識の欲望が展開できるようになる。自分自身の欲望よりも《他者》の欲望を優先させないこと(それを優先させることが罪悪感や反感の源泉となる)。
この時期のラカンの著作では、欲望には或る種ユートピア的な力があると考えられていた。欲望は私たちを神経症の彼方へ連れて行くことができるはずだというわけだ。「みずからの欲望を諦めないこと」。
ラカン後期の仕事で変化しているのは、分析の目標ではなく、その目標を表現する用語だ。
分析の目標は依然として分析主体が《他者》から分離することであり、内在的な《他者》の欲望の主体化である。しかしラカンは、無意識的欲望はかつて信じていたような根本的な変革をもたらす力ではないと考えるようになった。欲望は、その欲望の存在を可能にした《法》に(すなわち《他者》に)依存している。欲望それ自体が《他者》から完全に解放されることはない。代わりに用いられる用語が、「欲動」である。以下、初期ラカンと後期ラカンを最初に理論的に区別したジャック=アラン・ミレールの言葉を引こう。
《欲動は禁止をほとんど気にかけない。禁止については何も知らないし、それを侵犯しようなどとは夢にも思っていない。欲動は自身の傾向に従い、常に満足を得る。欲望の場合は「彼らがそうしてくれというからやらないのだ」とか「私がそうするとは誰も思わないから、そうしてみたいのだ」などと考えては苦しむのである。……/理論を練っていくあいだずっと、ラカンは欲望に基づく生の機能を支持しようとしている。しかし、彼が欲望と欲動を区別したとき、欲望の重要性は薄れた。このことは、ラカンがとりわけ、欲望の基礎が「ではない not」にあることを強調したことに現れている。反対に本質的なものとなるのが、享楽を生み出す喪失対象に関わる活動としての欲動である。……/欲望にとって本質的なのは、行き詰まることである。ラカンは、欲望とは不可能なものであるということが最も重要なのだと述べている。その活動は本質的に暗礁に乗り上げるものだと言ってもいい。「私たちの行き詰まりとは、無意識の主体の行き詰まりである」。こうも言えるだろう。私たちの行き詰まりとは、欲望の主体の行き詰まりである、と。欲動の重要なところは、不可能性にあるのではない。……欲動が行き詰まることは決してない。》(「ラカンのテクストへの注釈」)
要するに、後期ラカンにとって、主体が《他者》から分離するときに一番重要なのは、もはや欲望の多様な、換喩的な運動ではなく、満足そのものである。欲動としての主体(「現実的なもののなかの主体 subject in the real」とも言われる)。この主体は、分析以前には、自我と超自我によって、そして《他者》の欲望、価値観、理想を伝える《他者》の語らいに基づいて言語的に形成される欲望によって、全力で閉じ込められ、抑え付けられている。神経症者との臨床での分析の目標は、分析主体の欲望を支える幻想を変容させることである。なぜなら、その欲望こそが満足の追求を妨げているのだから。分析主体は、《他者》の欲望ないし要求との関係ではなく、満足をもたらす部分対象、対象αとの関係で自分自身を再構築しなければならない。
欲動は象徴的な領域、《他者》から完全に切り離すことはできない。しかし、欲動は分析の過程で或る種の変容をこうむる。神経症者は多くの場合、《他者》の要求に縛り付けられたまま分析にやってくる。そして何をしたらいいのか分析家にたずねる。それもまた要求である。それを拒否することによって分析家は無意識の欲望の場所を開こうとする。そこでまず、分析主体の欲望は《他者》の欲望に従属する形で前面に現れてくる。次に、分析家は対象αの役割を演じることを通じて、分析主体が根源的幻想のなかでどのように《他者》の欲望を解釈しているかを問題にし、その解釈を変容させて、もはや主体が満足を求めることを妨げない解釈をもたらそうとする。つまり、最終的に分析主体の欲動が前面に出る地点まで導こうとする。分析主体は、分析過程のそれぞれの段階で異なった変容を経験することになる。
欲動を強調することで、ラカンは何も主体がノンストップで快を追求するマシンになる、などと言っているのではない。主体が満足を得ることを、(《他者》の)欲望が制止しなくなる、ということなのである。神経症者は自分の享楽を享受することができずにいる。満足しようにも、不満足や不快さといった感覚が同時に湧いてきて、すっかり駄目になってしまう、或いは汚されてしまう。
ラカンは、神経症者が欲動を圧迫する象徴的な制約(つまり自我や超自我)をすべて投げ捨ててしまうところまで行くべきではない、という主張を堅持している。ラカンは、分析主体は最終的に、新しい仕方で欲動と、その欲動の求める満足を受け入れるところまで行くべきであると主張している。それは、満足することが強制的に命じられている状態ではない(「享楽せよ」と命令されて、後世の名声のために今ここでのすべての満足を犠牲にしようとする無名作家の例を想起せよ)。それでは超自我に屈従することへの逆戻りである。そうではなく、欲望が口を閉ざし、享楽を優先させることを主体は学ぶべきなのだ。欲望ではなく享楽の側からエロスを見ること。欲動が、伝統的なモラリストの観点から倒錯と考えられるような満足の形を求めているときには、その倒錯を許す必要もあるだろう。欲動が求めるものは、異性愛的で性器的な生殖を目的とした性行動ではなく、享楽を与える部分対象なのである。
欲望と享楽のこの区別は、シニフィアンと享楽の区別と言ってもいい。(無意識的)欲望はシニフィアンの展開のなかでのみ表現される。欲望の主体はシニフィアンの主体である。他方、享楽の主体は情動の主体である。情動のあるところ、享楽があるのだ。
付言すれば、ラカンは「享楽は、言葉を話すものには禁じられている」(『エクリ』邦訳第三巻)とまで述べている。
初期のラカンは、分析主体は《他者》との象徴的な関係のなかで、想像的なものの介入を乗り越えなければならないと主張していた。後期のラカンは、分析主体の象徴的関係それ自体をさらに乗り越えていかなければならないと主張する。後者の観点においては、無意識的欲望としての主体は乗り越えられるべきものであり、分析主体と対象αとの関係に干渉し主体の満足を妨害するものである。欲望は満足に背反する。欲望としての主体は、こうしてみると欲動としての主体に対する防衛であるということになろう。
無意識の解読は、後期ラカンにおける分析の理論化においても依然として重要だが、それだけでは十分ではないものとされる。すなわち、ラカンが求めている変容としては不十分だとみなされている。精神分析は、主体の位置の具体的な変動をもたらさなければならない。ラカンはそれを根源的幻想の横断 traverse と呼んだ。
分析主体の無意識的な欲望は、これまで見てきたとおり、《他者》の欲望への反応(拒絶という形を取るときでさえ)である。治療者がそこに焦点を当てていると、分析主体が満足という問題をごまかすことを容赦する羽目になる。分析主体は満足をもたらすような活動について語りながら、すぐにそれに対する不快感や不満を表すことが非常によくある。「本当に興奮できた恋人は一人だけでした、でも彼女の仕事には我慢がならなかった」。「映画の登場人物にすごく興奮したが、自分がそういう関係に実際なりたいわけではない」。これらの語らいは享楽に対して主体が取る防衛を語っているにすぎない。
分析主体には、満足を忘却、或いは誤認し、それについて釈明する自然な傾向がある。これを「自然な」と形容するのは、幻想というものが私たちに享楽を見えなくさせるものだという意味においてである。神経症者が自発的に「私は享楽の主体として存在したい!」「私はその欲動なのだ、その熱望なのだ!」と言い出すことは決してありえない。分析主体はいつの間にか享楽を何か別のものとして言いつくろうものだ。たとえば不安として。しかし、フロイトの言うように、すべての情動は不安に転換されうるという意味で、不安は情動の普遍通貨だ。不安は、満足が存在することを示す信号なのだが、これは、或るレベルにおいては歓迎されず、厄介者扱いされるような情動なのである。
分析主体がこう言ったとする。「何だか変な感じがします」。このとき主体は認識されていない或る種の満足について話しているのかもしれない。分析主体が苦悩やひどい悲しみを語るとき、実は享楽が問題となっている場合もある。情動と享楽のあいだには、等価性のようなものがある。その等価性は、幻想によって組織的に誤認されることになってしまうのだが、分析家は、分析主体が「苦痛な」情動として特徴付けているもののなかに潜む満足を指摘する機会を逃してはならない。そのためには、享楽の存在を探求することに対する患者の抵抗を解除することが必要になる。この抵抗を超えることによってのみ、分析主体は、満足を与える欲動に対してそれまでとは異なった位置を取れるようになるのだ。すなわち、「自分自身の」満足の追求の制止を放棄することができるようになる。
当然ながら、分析家は分析主体の欲動を道徳的に、ふしだらだなどと言って非難してはならない。それは、分析主体に「あなたは禁止とその違反である」すなわち「あなたは欲望の主体であり、欲望の主体であるにすぎない」と言うのと同じことになってしまうのだから。それは分析主体の享楽に対する防衛を強化するだけである。
逆に、分析主体に欲動を自分自身の欲動として認識させること、それをラカンは主体化と呼んでいる。欲動を主体化するとは、欲動に場所を与えることであり、おそらく、そうしなければ拒否したであろうほどの重要性を欲動に与えることである。或る意味では主体はつねに幸福なのだ。主体は不満足であるときでさえ、獲得された満足が「何かちがう」とみなされているときでさえ、幸福である。つまり享楽に対して防衛しているときでさえ、幸福である。私たちはみな、症状から、そして自分自身を批判することなどから、或る種の幸福感(代理満足!)を得ているのだ。ラカンのアプローチはその幸福に介入し、満足と欲望との関係、欲動とその制止、享楽の主体と欲望の主体とのあいだの関係を修正することをともなう。そして、神経症の彼岸、いまだほとんど探求されていない領域へと主体を導いて行く。
:APPENDIX スラヴォイ・ジジェク「《現実界》とその運命」要約
- ラカンの言う《現実界》の役割は曖昧である。たしかに《現実界》は外傷的帰還という形をとって出現し、われわれの日常生活の均衡を狂わせるのだが、同時にその不均衡を形式化する力も持っているかのようだ。
今日われわれが直面している「生態危機」もまた、《現実界》の外傷的帰還だと言えるかもしれない。というのは、生態危機がまさに深刻で人類の存亡がかかっているからではない。生態危機は深刻だが、何よりもまず危機にさらされているのは、われわれがいちばん疑問を感じない前提、すなわち自然は規則的で律動的な営みであるというわれわれの通常の「自然」理解なのである。生態危機は、われわれの生活上それに疑問を覚えることすら無意味な自明性を腐食している。だからわれわれは生態危機を本当に真正面からは受け止めることができず、それに対するほとんどの態度はと言えば、「自然破壊は深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっていることをよく知っているが、それでも……心からそれを信じているわけではない、それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから生態危機が私の日常生活にずっと影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ」──という典型的な否認である。
一方で、生態危機を本当に深刻に受け止めている人たちの反応は、おおむね強迫的になる。強迫神経症者は精力的に活動し、年中熱に浮かされたように働きつづける。なぜか。自分が活動をやめてしまったら何か大変なことが起きるにちがいないと考えるからだ。「もし私がこれ(強迫的儀式)をやらなかったら、必ず言葉では言い表せないほど恐ろしいXが起きる」。ラカン流に言えばこのXは《他者》のなかの欠如、すなわち象徴的秩序の矛盾である。この場合、それは自然の均衡の取れた回路を乱すことを指している。その矛盾が暴露されないように強迫神経者たちはつねに行動的でなければならないのだ(実際には、彼らが本当に恐れているのは最終的に破局が起こらないことである)。
生態危機に対する第三の反応は、それを、「記号」として読むことができるような何か発見的な《現実界》の欠片とみなす。たとえば、震災をわれわれの罪深い生活に対する天罰とみなすといった具合に。この視点に立てば、生態危機とは、われわれが自然を自分たちの存在の基盤としてではなく、使い捨てできる物や資源の山として扱ってきたことに対する「罰」だということになろう。このように反応するひとたちは、われわれは自然の一部として自然に根付いた生活をしなければならないというディープエコロジー的教訓を生態危機から引き出したりする。
これら生態危機に対する三つの反応──(1)「よく知っているが、それでも……」、(2)強迫的活動、(3)何か隠された意味をもった記号と捉えること──を、《現実界》との遭遇を回避しようとする三つの態度と捉えることができる。(1)は物神的分裂、すなわちその象徴的実効性を相対化するように危機の事実を認識する。(2)は危機を外傷的核へと神経症的に変形する。(3)は《現実界》そのものへの精神病的な意味の投射。第一の反応が《現実界》の物神的否認であることは明らかだろう。第二、第三の反応も、《象徴界》の矛盾から《現実界》が噴出しかかっていることを目に入れようとしていない。ラカン的アプローチにおいて正しいと言える態度は、物神的否認によって危機を保留状態にしておこうとしたり、強迫的活動によって変形し隠しておこうとしたり、象徴的メッセージを《現実界》に投射することによって《現実界》と《象徴界》との溝を埋めようとしたりせずに、われわれの人間の条件と規定するものとして、この危機を、無意味で統御しえない現実として受け入れることである。人間は本性からして構造的に狂っており、過剰であり、その言語活動が形成する《象徴界》という建物にはけっして埋めることのできない亀裂が走っているのだ。
時として、この亀裂はびっくりするような姿で出現し、《象徴界》という建物の脆弱性を暴露する。その一例がチェルノブイリである。
チェルノブイリ原子力発電所事故。そのとき、日常的な必然性は破砕した。徹底的偶然性の侵入。まるで原因と結果という正常な連鎖が一時的に停止されたようであった。その結果が正確にどのようなものになるのか、誰にも分からなかった。専門家たち自身が、「危険区域」の決定が恣意的なものにすぎないことを認めた。大衆はといえば、将来的な大惨事を予想してパニックに陥ったり、とくに心配することはないと不遜に構えていたり、その態度はあれこれ揺れ動いた。まさにこの象徴化の機能不全が、放射能を《現実界》の次元に近付ける。われわれがそれについて何を言おうと、放射能は広がりつづけ、われわれを無力な傍観者にしてしまう。放射線は表象不可能であり、どんなイメージも当てはまらない。放射線は《現実界》として、そのまわりのどんな象徴化も失敗する「固い核」として、純粋な見かけとなる。われわれは放射線を見ることも触ることもできず、ただ科学の言説を介してそれは知られるのみである。
チェルノブイリは、ラカンの言う象徴的秩序そのものの崩壊、「二度目の死」の脅威をわれわれに突きつけた。科学の言説が支配的になったおかげで、サド侯爵の時代には文学的空想にすぎなかったもの(生成と消滅という生命の過程を妨害する徹底的な破壊)が、今ではわれわれの日常生活を脅かす脅威となったのだ。放射能による死においては、まるで、物質そのものの根拠が、すなわち生成と消滅という永遠の循環を支えているものが崩壊し、消えてしまうかのようだ。放射能による破壊は「世界の開いた傷口」であり、われわれが「現実」と呼んでいるものの循環を狂わせ乱す傷口である。「放射能とともに生きる」ということは、われわれの存在の基盤そのものを揺るがすような偶然的な《物自体》がチェルノブイリのどこかで出現したことを知った上で生きる、ということである。生態危機を意味のない現実として受け入れるとは、そういうことだ。われわれの世界の土台そのものが崩壊してしまうように見える表象不可能な点に、主体が、その存在のいちばんの核を見出さなければならないということ。なぜなら、この「世界の開いた傷口」とは結局のところ人間自身に他ならないのだから。すなわち、死の欲動に支配された人間、生命過程の規則性において支えを失ってしまった人間自身に。
自然と人間の欲動の力とのあいだには最初から絶対的に修復不可能な裂け目がある(そして人間の出現ということも「自然」に含めるならば、現実はつねにすでに本質的に乱れており、不均衡なのだ)。人間の活動から過度な性格を取り除き、人間と自然のあいだに均衡を回復しそれを一致させようとするあらゆる努力は、不毛である。フロイトによれば、この不一致は生物学では説明がつかない。人間の欲動は、最初から徹底的に脱自然化されていて、《物自体》への外傷的な執着によって狂ってしまっている。《物自体》、すなわち空っぽの場所は、生命の循環運動から人間を永遠に追放し、肉体の死を超えた徹底的崩壊──「二度目の死」──の内在的可能性を開いたのである。
フロイトの文化論、すべての文化は究極的に妥協の産物に他ならず、人間の状況に特有のまったく非人間的な恐ろしい次元に対する反動であるという文化論の基本的前提は、上述のような点に求めるべきだろう。