diagram:ドストエフスキー『白夜』(小沼文彦訳)
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●第一夜
--------------------------------------------一日目
「すばらしい夜であった。……」星空の下を出歩いている主人公。「私はこの日一日の自分の品行方正な行状のことを思い出さないわけにはいかない。」この日の朝から感じているわびしさについて。ここ最近の孤独感について(夏になり、ペテルブルグじゅうの人々が別荘へ行ってしまったため)。
「家にいてもさっぱり気分が落ち着かない。……」主人公の暮らしぶりについて。使えない女中マトリョーナについて。外に出ても気分が悪い(あの男もいなければ、この男もいない、いったい誰それはどこへ行ってしまったのだ?)。ペテルブルク全市が無人の地になりそうに思われる。すっかり悲しくなってしまった……。
「私は長いことさんざん歩きまわった。……」気が付くと町はずれの城門の前。そこからさらに畑のあいだをぶらついた。
しかしこの夜素晴らしい出来事があったことを予告。「それはつまりこういうわけである。」
「私が市内に戻ってきたのはだいぶおそくなってからで、自分の家の近くへやってきたときには、時計はとっくに十時を打っていた。……」運河に沿った道を歩く。そこで、運河のらんかんに身をもたせかけた一人の女性に遭遇。女性は泣いているらしかった? 主人公は一旦通り過ぎたが、引き返しかける、しかし掛ける言葉が見つからずまごまごする。その隙に娘は私のそばをすべりぬけて、運河沿いの道を歩き出す。私はそのあとを追う。娘はそれに気づいて反対側の歩道へ。そこで思いがけない偶然事が。
反対側の歩道にもう一人、娘に目をつけているらしい年配の紳士が。娘はせかせかと歩いてその紳士との距離を離そうとする。しかし、とつぜんその紳士は駆け足になって娘のあとを追いかけはじめた。娘も走ったが、距離がちぢまり、ついに紳士が追いついた──その瞬間、主人公もそこへ飛び込んでいき、手に持っていたステッキで紳士を追い払う。
「さあ、手をおだしなさい、そうすればもうあの男もうるさくつきまとうこともないでしょう」
娘はふるえながら手をつなぐ。歩きながら話す。
主人公も有頂天になってふるえる。いきなり自分のことをべらべらしゃべりまくる。「まったくあなたはたったひと目で相手を見抜いてしまいましたね。確かに、ぼくは女性に対してひどく臆病です。ぼくは興奮しています、それは否定しません。……まるで夢みたいですよ。……」
自分は女の人と話したことがない、女の人と親しくしたなんかまるでない……と熱に浮かれたように喋りまくる。「ぼくには女の人とどんな話をすればいいかもわからないんですよ。現にいまだってわかりゃしません──なんかあなたに馬鹿なことを言いはしなかったでしょうか?」娘はそこに主人公の善良さを見出して安心する。
主人公はあまりにもあけすけに女性への憧れと自分の感激を語る。「とにかく嘘じゃありません、女性は一人も、それこそ一人も、ぜんぜん知らないんです! まったく付き合ったことがないんですよ! そしてただ毎日、やがていずれは誰かに会うにちがいないと、そればかりを夢にえがいているんです。ああ、あなたはご存じないでしょうが、ぼくはそれこそ何度今までにそんなふうに恋をしたか知れやしません!……」
娘の問い。なぜそんなに臆病なのに、あたしに話しかけようなどとしたのか?
主人公には彼女が泣いているように思われたから。「それでぼくは……黙って聞いていられなかった……胸がしめつけられるような気がして……ああ! しかしぼくはあなたを気の毒だと思ってはいけなかったのでしょうか? あなたに対して同胞としての同情を感じるのは、はたして罪なことだったでしょうか?……」
娘は彼の気遣いにむしろ感謝する。「……ほらもう家のところまできてしまいましたわ……」別れの挨拶。
主人公「しかしまさか、これっきりお会いできないのじゃないでしょうね?……」
主人公はまた自分は明日ここへ来る、と言う。「ぼくは空想ばかりしている男でしてね。……」自分は明日の晩どうしてもまたここへ来ないではいられないのだ……。今夜のような珍しい出来事があったあとでは、その感激をまたここへ来て空想のなかで繰り返さずにはいられないのだ……。ぼくはあなたのことをこのさき一年間ずっと夢にえがいて暮すだろう……。自分にはそういう特別な思い出と結びついた場所がペテルブルクにもう二三箇所ある……。あなたにもまたそういう場所があって、十分前にはなにかの思い出にひたって泣いていたのかもしれませんね……。
「よろしいですわ」と娘は言った。明日の晩もまた九時ごろここへ来る、と告げる。誤解しないでほしい、ランデヴーの約束をしたわけではない。しかし、ひとことあなたにお話したいことがある……。今のあたしには相談相手がいないのだ……とはいえ相談相手は往来でさがすものではないけれど、あなただけは例外だ……(「さっきのあなたの心からの叫び声はほんとによかったわ。たとえ同胞としての同情でも、いちいち他人の感情に合槌は打てませんものね! そうですわ、じつに感情のこもった言いかただったので、このかたなら信用できるっていう考えが、すぐに頭にひらめいたんですわ……」)。ただし、前もって一つだけ約束してほしい、あたしに恋をなさらない、と。お友達にならいつでもなります、でも恋だけは駄目!
「誓います!」と主人公は叫ぶ。
相談の内容は明日まで秘密。主人公も「ぼくは明日にも早速、自分のことをすっかり話してしまうでしょうよ!」
お互いにおやすみを言って別れる。
主人公は非常な幸福感に浮かれて夜通し歩きつづけた。
●第二夜
--------------------------------------------二日目
いきなり会話からスタート。娘はいろいろと考えてきた。やはりまだ主人公は娘にとってぜんぜん未知な人間だ、だから主人公自身のことをまず詳しく聞かなければならない。「ねえ、あなたはいったいどういうお方なんですの? 身の上話をお聞かせくださいな」
ずっと一人きりで暮してきた、と主人公。
娘「あなたにはきっとお祖母さんがおありなんでしょう、あたしと同じように」。それでお祖母さんの世話で釘付けにされて家にばかりすわりこんでいるんでしょう……。
そうではない。ただ自分はそういうタイプの男なのだ……空想家なのだ……、と主人公。
(ここで名前を名乗りあう。)
空想家というタイプについて説明する主人公。ものすごく理想主義的なものと散文的な月並みなものとが混合した生活。他人のせいで自分の空想を邪魔されると恐ろしいほどに動揺し取り乱してしまう。そのためどんな知人も彼には寄り付かなくなる。
さらに自分自身の空想の内容について長々と語りはじめる。「ああ、ナースチェンカ、ぼくは自分が言葉を飾って話していることを知っています。しかし──失礼ですが、ぼくにはこれよりほかの話し方はできないんですよ。いまのぼくは、ねえ、ナースチェンカ、いまのぼくは七つの封印をほどこされて、千年ものあいだ箱の中に閉じこめられていて、やっとのことでその七つの封印を取り除かれたソロモン王の霊みたいなもんですからね。……」たとえば、仕事を終えた夕映えの時刻、ペテルブルグの通りを歩いていく彼……しかし彼は何も見てはいない、なぜなら彼は「自分の一種独特な生活によって豊かな人間」なのだから……。いまや空想の女神が彼のために見たことも聞いたこともない人生の絵模様を織りはじめる……。彼は自分のねぐらに嬉々としてもぐりこむ。彼にとってもはや現実などなんだろう……そんなものは彼の生き生きとした空想に比べれば無意味だ……。詩人、聖人、英雄、大僧正、伯爵夫人、クレオパトラ、等々。そして魅惑的な幻の中で彼が恋焦がれる女性……。「ところがどうでしょうね、ナースチェンカ、その折も折、どっかののっぽでがっしりとした体格の男が、つまり呼んだ覚えもない友人がひょっこりドアを開けて入ってくる、そして『ぼくは、ねえ君、たったいまパーヴロフスクから着いたところさ!』……思わずとびあがってどぎまぎしながら顔を赤らめずにはいられませんよ……」
主人公の長広舌終わり。笑われるかと思ったが、意外にもナースチェンカはおずおずした同情のこもった調子で話しかける。
主人公は感情を抑えられなくなって叫ぶ。「(空想癖のせいで)ぼくは自分の生涯でも最良の何年かをみすみす失ってしまったんだ!」
ナースチェンカは主人公に対し強い同情の念を見せる。
主人公は自分のこれまでの「陰気で俗悪で臆病な空想の生活」をはげしく悔いはじめる。「月日のたつのはなんて早いものだろう! いったいお前は自分の年月をどうしてしまったのだ? 自分の最良の年月をどこへ葬ってしまったのだ?」
ナースチェンカは同情の涙を流す。「ねえ、あたしに涙を流させるのはもうやめにしてちょうだい! もうこれで話は決まったのよ! こうなったらもう二人はいつも一緒、たとえあたしにどんなことがあっても、あたしたちはもう決して別れることはないんですわ。……」娘は主人公の中に見出していた善良さを確信し、いまや主人公の中に魂の同類を見出す。いや、主人公に尊敬に似た感情さえ抱きはじめている?
娘はもう主人公の人物がすっかり分かったと言う。次は自分の身の上話をしたいと言う。「それがすんだらあなたはあたしに忠告をしてくださるのよ、……あたしには心のこもった、親身の忠告が必要なのよ、いままでずっとあたしを愛していらしたような!」
ナースチェンカの物語──
ナースチェンカは両親をなくして小さい頃に盲目の祖母に引き取られた。しかしナースチェンカが十五の頃にあるいたずらをして、それがもとで祖母の服と自分の服をピンで留められ、おまえがいい子になるまではこうして暮すんだと宣告された。それ以来ずっと祖母につきっきりの生活。
祖母は中二階がついている自分の家で暮している。あるとき、その中二階に新しい間借人が引っ越してきた。若い男。そして、その間借人の男が何かの用件で彼女たちのところへやって来たとき、彼女は自分が祖母にピンで留められていることを忘れて立ち上がってしまい、すべてを間借人に見られてしまう。恥をかいて、大声で泣き出してしまった彼女。それ以来、彼女はその間借人の視線を恐れるようになった……。
その間借人は女中を通じて小説の本を彼女たちにくれたりした。あるときには祖母と一緒に劇場にさそわれた(最初は彼女一人がさそわれたのだが、どうやらそれは彼女が祖母をだまして遊びに行くような娘かどうか、試したのだったらしい)。それ以降男は彼女に親しげに接してくるかと思ったが、そんなことはなく、日は過ぎていった。つまり彼女にはただあの男が自分のことを可哀そうに思っているだけだということが分かってきた。そう考えると彼女は憂鬱になった。
そして今からちょうど一年前の五月に、間借人が一年ほどモスクワに行かなければならないので部屋を出ると祖母に告げるのを、ナースチェンカは聞く。彼女は愕然。彼女はさんざん悩んだ末に、いよいよ男が明日出発するという日の夜、荷物を風呂敷につつんで、生きた心地もなく中二階の間借人のところへ。間借人驚く。彼女は、何を言い出す前からもう泣き出してしまう。だが、それで男は何もかも理解したらしかった。しかし、自分は貧乏な人間だから、今のところあなたに何もできない、たとえ結婚したって暮してゆくあてもないと言う。だが彼女はもうこれ以上お祖母さんのところで暮すことはできないから、逃げ出したい、一緒にモスクワへ連れ出してくれともの狂わしく言う。「恥ずかしさと、恋しさと、プライドと──それが一度に口をついて出たのです」。若い男は涙ながらに、いや、ぼくはこれからモスクワへ行って一年の間になんとか暮しを立てる、それからここへ戻って来てあなたと結婚しよう、と約束する(「いまはどうにもなりません、駄目なんです、どんなことにもせよ約束をする権利がぼくにはないんですから」)。加えて、この約束であなたを縛り付けるつもりはない、と言い添える。男は翌日発って行った。
それからきっかり一年経った。あの男はこちらへ戻って来ている。こちらへ来てからもう三日になる。だが……「でも、いままで姿を見せないんです……さっぱり音沙汰がないんです……」
泣き出すナースチェンカ。
私はおどおどしだす。いや、なんであなたは彼が帰って来ていることを知ってるんですか、もしかしたらまだ……
帰って来ていることは確かだという。そして約束では、こちらへ着いたらすぐにその足でうちへ来るということになっていたのに……。
ますます泣きじゃくるナースチェンカ。途方にくれて主人公はいろいろ提案する。ぼくがその人のところへ行ってみたら……。駄目よ! そりゃそうだ……ならば、ひとつ手紙を書いてみれば……。駄目よ、できないわ! どうして駄目なんです?
とにかくぼくにまかせてくれ……ぼくを信頼してくれ……と口走る主人公。
「ところで、あなたならどんなふうにお書きになって?」
「なにをですか?」
「その手紙をですわ」
「ぼくならこう書きますね……」わたしの短気をお赦し下さい、でもわたしに罪があるでしょうか、あなたがすでにこちらへお帰りなった今……わたしはあなたを非難するつもりはありません。しかしこれを書いている娘は一人きりで、あわれな娘なのです、あなたに対する疑いの念が忍び込んだことをお赦しください、でも決してあなたはわたしを侮辱するなどということはできないはずです、あなたはそんな方ではないはずです……云々。
「そうよ! あたしが考えていたのとそっくり同じですわ!」とナースチェンカ。「あなたこそあたしのために神様がお送りくだすった方ですわ!」
どういう意味か?
彼女は自分と男との間の約束を正確に説明する。二人の約束では、男がこちらへ帰ってきたら、まずは彼女の知り合いを通じて連絡するということになっていた。その連絡ができない場合は、こちらへ着いたその日の夜十時に、あらかじめ決めてあった場所に出向く。しかし男は姿を見せず、もう三日が経った……。「あたしは朝からお祖母さんのそばを離れるわけにはどうしてもいかないんです。それでいまお話ししたその親切な人のところへ、明日あなたがあたしの手紙をもっていってくださいな。そうすればあの人の手にわたりますから。それでもしも返事があったら、夜の十時にあなたがここへもってきてくださればいいわ」
しかしその手紙は?
彼女は主人公の手の中に一通の手紙を押し込んだ。もうずっと前に書かれて、すっかり用意され、封をしてあったのだ。彼女は顔を真っ赤にした。
「さ、これが手紙、届け先のアドレスもここにありますわ。では、これで失礼! さようなら! また明日ね!」
彼女の後姿を見送る主人公。
●第三夜
--------------------------------------------四日目
「今日は悲しい日だった。……」曇り日。今日は恐らく彼女に会えないだろう。昨夜彼女が言ったとおりだ、「もしも雨だったら、あたしたちお会いできませんわね!」。しかし前方に希望と幸福だけを見たいと思っているナースチェンカは、自分の今の気持と正反対であるような悪天候など否認してしまっていたかもしれないが。いずれにせよ、今日の夜彼女は姿を見せなかった。
--------------------------------------------三日目(回想)
昨夜は私たちの三度目のランデヴーだった、私たちの三度目の白夜だった。
昨夜の幸福にわきたった彼女の表情は素晴らしかった。その幸福感は主人公にやさしさとなって伝染した。彼女は主人公に対して媚態さえ見せた。それはほかの男との再会の喜び、自分の幸福を人にも分け与えたいという感情のあらわれにすぎないはずだが……「それなのに私は……。すべてを額面通りに受け取って、彼女は私を……などと思っていたのだ。」
しかしその夜も男は姿を見せなかった。彼女の動作も表情も明るさを失ってきた。そして不思議なことに、彼女は私に対して以前に倍する注意を払うようになったと思われた……。彼女もどうやら、私が彼女を愛していることに気づきはじめたらしかった……。
主人公としては、その男が来ないなどということはありえないと思いながら、彼女の喜びを祝福するつもりでランデヴーの場所へ駆けつけたのだった。「彼はここへこなければならない。彼女の呼び出しに応じて走ってこなければならないはずだった。」
彼女は待ち合わせ時間より一時間も早く来ていた。はじめのうち彼女は極端に陽気だった。「ああ! ほんとにあなたはすばらしいお友だちですわ!……あたしのために神様がお送りくだすったんだわ! なんてあなたは公平無私な方なんでしょう! なんてご立派な愛し方なんでしょう! 血をわけた兄妹のように、あたしあなたを、あの人と同じように愛しつづけますわ……」などと大はしゃぎ。
主人公は悲しくなる。《ナースチェンカ、そういう愛はね、時と場合によっては、相手のハートをヒヤリとさせ、心苦しくさせるものなんですよ……》
彼女はますます躁状態に。
主人公はこらえきれなくなって、今日一日自分の身にあったことを喋る。今日一日はずっと苦しかった……。「ここへ歩いてくる途中も、なんだがぼくに関するかぎり時の歩みがとつぜん止まってしまって、ただ一つの感覚、ただ一つの感情だけが、そのとき以来ぼくの胸の中に永遠にとどまるべきである、ただ一つの瞬間だけが永遠につづくべきであって、まるでぼくのためには全生活が停止してしまったような気がしてなりませんでした……」
ナースチェンカとまどう。いったいなんのことですの? おやめになって、もうたくさん!
彼女は一瞬のうちに悟ってしまったに違いなかった。抜け目のない女!
彼女の陽気さは、単なる喜びを越えたふざけたものになってきた。彼女は急に妙な媚態を見せだす。「あのねえ、あなたがあたしに恋をなさらないので、あたしは少々おかんむりなのよ」とまで言い出す。
そこに十一時の鐘が聞こえてくる。彼女から笑顔が消える。
主人公はあの男が出てこられないさまざまの理由を考えだし、彼女を慰めにかかる。あの人は待ち合わせの時間を忘れてしまったのだ……手紙を受け取ったかも怪しい(手紙が届いたとき、あの男は家にいなかったかも)……手紙の返事を書いたとしても、それが届くのは早くても明日じゃないか……いずれにせよあらゆることが起こりうる……。
「そう、そうね!」と納得したように返事をするが、彼女の声にはなにかそれとは裏腹な別の考えのようなものが腹立たしい不協和音となってひびいていた。
とつぜん彼女は主人公に対して、ひどくやさしいおずおずとした態度をとるようになった……。ふとみると、彼女は泣いていた。
彼女は笑顔を見せて気を落ち着けようとした。だがその下顎はふるえ、胸は相変わらず波を打っていた。
「あたし、あなたのことを考えているんですの……あなたはとても親切な方ね、それを感じないようだったら、あたしは木か石みたいな人間よ……」彼女は頭の中で主人公とあの男を比べてみた、と言い出す。どうしてあの人があなたでないんでしょう?などと言う。あの人はあなたより劣っていますわ……。あたしはいつもあの人をこわがっていたような気がする……あの人はいつもひどく高慢ちきみたいだったし……。そう見えるだけなんだろうけれど……。でも、なんでも口に出して兄妹同士みたいになる代わりに、自分自身を実際の自分よりも堅苦しく見せかけようとするのは、なぜなんでしょう……。どんなにいい人でも、いつもなんだか隠し事をしているみたいで、自分の思っていることをざっくばらんに言ってしまったら、自分の感情をはずかしめることになりはしまいかとびくびくしているみたいなのは、どういうわけなんでしょう……。
それは色んな理由があってそうなるものですよ、と一般論で答える主人公。
でも、現にあなたは、ほかの人とは違うじゃありませんか!とナースチェンカ。彼女は胸になにか感情を秘めた震える声で、主人公のことを褒め上げる。「……もしもあなたがいつか愛する人をお見つけになったら、どうぞお二人で幸福にお暮らしになりますように! その女の方のためにはあたしはなにもお祈りしません、だってあなたとご一緒なら幸福になるに決まっていますもの。……」
彼女は主人公の手をぎゅっと握りしめる。
今夜はもうあの男はやって来ないだろうということで、別れる。「それじゃ、さようなら! また明日! もしも雨だったら、ことによると、来られないかも知れませんわ。……」
《おお、ナースチェンカ、ナースチェンカ! 私がいまどんな孤独を味わっているか、それが君にわかったならば!》
--------------------------------------------四日目
夜の九時になってじっとしていられなくなり、主人公は例の場所へ行ってみるが、むろん彼女には会えなかった。私はいまだかつて味わったことのない淋しさを胸にいだいて、家へ戻った。
それにしても、今日も手紙は来なかった。いや、あの二人はきっともう一緒にいるに違いない……。
●第四夜
--------------------------------------------五日目
「ああ、すべてがこんな結果に終わろうとは! なんという結末をつげたことか!」
私が着いたときは九時だった。彼女はすでにそこに来ていた。
彼女はいきなり、さあ早く、手紙を出して、と言う。
手紙はありませんよ……あの人はまだ来ていないんですか?
彼女は恐ろしく蒼白に。
「もうあんな人はどうでもいいわ!」
激しく泣き出すナースチェンカ。「こんな残酷な、血も涙もない棄て方をするなんて、なんてひどい人なんでしょう!」一行の返事もよこさないなんて!……この三日のあいだ、あたしはどんなに辛い思いをしたことか!(彼女の黒い眼がキラキラ光りだす)……こりゃきっとなにかの間違いよ!……ひょっとすると、あの人はいまでもまだなんにも知らないんじゃありませんか?……あの人があたしにしたような、野蛮な、乱暴なことができるはずないじゃありませんか!〔とはいえ、物理的な暴力は何もないはずだが〕……ひとことも返事をよこさないなんて!……ことによると、誰かがあたしのことをあの人に中傷したのかもしれない?……」
主人公おろおろする。ある感情で胸がいっぱいになる。
ナースチェンカ主人公の手をつかむ。「ねえ! あなたならあんなことはなさらなかったわね? あなたなら、か弱い、愚かな娘心に、面と向かって恥知らずの嘲笑を投げつけるような真似はなさらなかったわね?……あなたならよくわかってくださったわね、その娘は一人ぼっちで、相手に対する愛から自分をまもることができず、その娘にはなんの罪もないのだってことを……」
とうとう抑えきれずに主人公叫ぶ。「ああ、ナースチェンカ! ぼくは黙ってはいられません! ぼくはどうしても言わずにはいられない!……」
彼女びっくりする。
これからぼくが言うことはなにもかも馬鹿げきったことですが……。
いったいどうなさったの?
「こんなことは実現するはずはないけれど、ぼくはあなたを愛しているんです、ナースチェンカ! それだけのことです! さあ、これでなにもかも言ってしまいました!」
さらに何か言おうとした主人公をさえぎって、ナースチェンカ言う。そのことはあたし前からちゃんと知っていましたわ……「ただね、あなたの愛情は、単純な、漠然としたものだとばっかり思っていましたわ……。ああ、どうしましょう!」
主人公、今の自分は風呂敷包みを持ってあの男のところへ行ったときのあなたと同じ境遇なのだ、と言う!
ナースチェンカまごつく。顔を真っ赤にする。
仕方ありません、ぼくが悪いんです、いやそうじゃない、ぼくはなにも悪くない……ぼくはあなたの親友でした、いまだって親友です、ぼくはあなたを裏切るようなことはしていない……
ぼくはもうこれ以上ここにいるわけにはいかない、すぐにここに立ち去ります、と主人公。「あなたが悪いんです、なにもかもあなたが悪いんで、ぼくが悪いんじゃありません……」
ナースチェンカ狼狽。
「あなたが自分は棄てられた、自分の愛ははねつけられたのだといって苦しんでいらしたとき、ぼくはこの胸にあなたに対するあふれるほどの愛を感じたのです、はっきりと思い知らされたのです。ナースチェンカ、ほんとにあふれるほどの愛情でした!……。するとその愛でもあなたを助けることはできないのかと、ぼくは悲しくなりました……胸が張り裂けそうになって、ぼくは、ぼくは……黙っていられなかったんです。ぼくは言わなければならなかったんです……」
ナースチェンカ、「なんとも説明のつかない身の動き」をして、主人公にさらに話すように促す。
主人公はさらに自分の奥深くに押し込んでいた想いを曝け出す。口から出した言葉はもう取り返しがつかない!……あなたがここに坐って泣いていたとき、ぼくは心の中でこんなことを考えたのだ……あなたはもうなにかの拍子で、あの人を愛さなくなったのではないか……そうだとしたら、あなたがぼくを愛してくれるようにはたらきかけたとて悪いことがあろうか?……そりゃもちろんぼくは貧しい、平凡な人間です……しかし問題はそんなことじゃない、問題はあなたに対する愛、愛し方だ……。ああ、ナースチェンカ! ナースチェンカ!
彼女はハンカチで主人公の涙を拭いてやる。
さあ、もう泣かないでください……今となっては、ことによると、あたしからあなたに何かお話することがあるかもしれませんわ……。もしもほんとにあの人がもうあたしを棄ててしまったのなら、あたしはまだあの人を愛していますけど……でも、まあ、かりに、もしもあたしがあなたを愛するようになったら……でも……でも……、あたしは、あなたがあたしに恋をしなかったと言ってあなたを侮辱したりして……どうしてあんな馬鹿だったのでしょう……
いえ、ぼくはもうあなたのそばを離れることにします、あなたに自分を責めさせ、これ以上苦しめるのはしのびない!
「待ってちょうだい、あたしの言うことをお聞きになって。あなたはいましばらくお待ちになれて?」……あたしはあの人を愛しています、でもその愛はいずれ冷めるでしょう……。ひょっとすると、今日にもすっかり冷めてしまうかも……。あなたはあの人のように、あたしを突っぱねるような真似はなさらない方ですわね……あたしだってあなたを愛しているかもしれませんわ……だって、あなたはあの人よりもいい方だから、あの人よりも立派なのだから……
はげしい興奮で彼女は終いまで言葉をつづけることができなかった。また彼女は泣き出した。二人は歩き出した。
彼女がまた話し出す。どうかあたしを浮気で移り気な女だなんて思わないでください……あたしはまる一年間もあの人を愛しつづけたんですから……それなのにあの人はそれを軽くみてあたしを裏切ったんですから……あんな人どうとでも勝手にするがいいわ……あたしはあんな人なんか愛してはいません……だってあたしの愛することのできる人は、心がひろく、あたしを理解してくれる、立派な人だけなんですもの……あたし自身そういう女ですからね……あの人はあたしに愛される値打ちのない人なんですわ……
いや、でも、あたしの愛情だってはじめから終いまで気の迷いだったのかも、錯覚だったのかもしれませんわね……ことによると、あたしはあの人ではなく、ほかの人を愛すべきなのかもしれない、あんな人ではなく、ほかの、あたしを憐れんでくれるような、そして、そして……。
ナースチェンカは興奮で息をあえがせた。もしもあなたが、あたしがあの人を愛していたにしても、そんなことに構わずに、それでもまだ……あなたの愛情が大きくて、ついにはあたしの胸から以前の愛を追いだすことができるとお感じでしたら……もしもあなたが、これからいつまでもあたしを愛していきたいとお思いになったら、その感謝の念だけでも、誓って、あたしの愛は、やがては、あなたの愛に価するものになると思いますわ……。
「ナースチェンカ!……おお、ナースチェンカ!」主人公も涙に息をあえがせて叫ぶ。
そうして二人して幸福になり、笑ったり、泣いたりしながら、連絡もなければ意味もない無数の言葉を口から出まかせに喋りつづけた。これからの私の仕事について。住む場所について。お祖母さんについて。歩道を歩いているかと思えば、急に後戻りしたり、往来を横切ったりと二人の歩きぶりも滅茶苦茶だった。二人はまるで子供のようだった……。「彼女はためいきをついて、またまた涙がその眼にあふれてくる。私は急に怖気づいて、思わずヒヤリとする……。だが彼女はすぐさま私の手を握って、ぐんぐん引っぱるようにして歩きだし、取りとめのないお喋りがはじまる、夢中になって話しこむ……。」
もう帰らなくちゃならないと口にはしても、なかなか別れられない二人。「あの空をごらんなさい、ナースチェンカ、まあ見てごらんなさい! 明日はきっとすばらしい天気ですよ!……」と主人公。
しかし、そのとき、ナースチェンカは空を見てはいなかった。無言のままその場に立ちすくんで、ふるえだした。
一人の青年が私たちのそばを通り過ぎたのだ。彼は足をとめて、じっと私たちの姿を見つめていた……。
「ナースチェンカ! ナースチェンカ! やっぱり君だったのか!」
ああ、なんという叫び声! ギクリとふるえた彼女のからだ! そして私の手を振りほどいて、彼のほうへ走り寄った彼女の素早い動作! 私は打ちのめされてぼんやり立っていた。だがあの男と抱擁し合ってから、ふいに彼女はまた私のほうへ戻って来て、すばやく接吻で私の唇を封じた。それから私にひと言も声をかけずに、ふたたび彼のほうへ身をおどらすと、その両手をつかんでずんずん向こうへ行ってしまった。
主人公は長いことその場に突っ立って、二人のうしろ姿を見送っていた……。
〔結局、あの男がなぜすぐにやってこなかったのか、その理由は不明。プロット的にはナースチェンカと彼の出会いを遅らせて、その時間差内で主人公に希望を持たせることだけが重要というわけか。〕
●朝
--------------------------------------------七、八日目?
「私の幾夜かは終わりをつげて朝になった」。いやな天気。雨が降っている。女中が市内便の手紙を持ってくる。ナースチェンカからのものだった。
『おお、お赦しください、どうぞあたしをお赦しください!……あたしはあなたをも、自分をもあざむいていたのでございます。あれは夢でした、まぼろしだったのでございます……。どうかあたしをお責めにならないでください、だってあたしはあなたを裏切るような真似はしなかったのですもの、あたしはあなたを愛しつづけると申しました……ああ! あなたがたお二人を同時に愛することができたならば!……あなたが今、辛い、苦しい思いをなさっていらっしゃることは、あたしにもよくわかります……でも、あなたはいつまでもあたしを恨みに思うことはなさらないはずです……あなたはあたしを愛していらっしゃるのですもの! ありがとうございます! そうです! その愛情に対してあたしはあなたに感謝いたします……あなたがあたしを赦してさえくだされば、あなたが兄妹のようにあたしを愛してくださったことは、永久にあたしの記憶に残るに違いありません……。あなたもどうぞこちらへお出でください、あなたは永遠にあたしの親友、あたしの兄なのですもの……そうですわね? あたしを前と同じように愛していてくださいますわね?……おお、どうぞあたしを愛してください、見棄てないでください、だってあたしはこの瞬間もこんなにあなたを愛しているんですもの、あたしはあなたの愛に価する女ですもの、その愛にむくいることのできる女ですもの……ああ、あなたはあたしの親友です! あたしは来週あの人と結婚いたします……あの人はふたたび恋する人として帰ってまいりました……あの人のことを書いたからといって、あなたはお怒りになりませんわね……あなたはきっとあの人を好きになってくださるでしょう、ねえ、そうですわね?……どうぞあたしたち二人をお赦しください、どうぞお忘れにならずに、いつまでも愛してくださるように、あなたのナースチェンカを』
主人公はその手紙を何度も読み直して、涙を流した。悲しみに心が塞いだ。
主人公は女中の顔を見た。その顔はとつぜん凄まじく老けたように見えた。いや、女中だけでなく、主人公自身の部屋もなにもかもが色あせ、蜘蛛の巣が増え、いやさらに、窓の向こうに見える家々もまた急に古ぼけてくすんだ色に変わってしまったように見えてきた……。
- 書誌情報:フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー著、小沼文彦訳、『白夜』、角川文庫、1958年
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