:イントロダクション
- ゴキブリの逃避行動はかなり賢明に見える。ゴキブリは捕食者が原因の風と、通常のそよ風や気流とを区別して感知しており、前者の場合のみ逃避行動を取る。だが、ゴキブリの脳が「穏やかなそよ風は危険ではない」といった言語形式の文章(表象)に似た知識を使って、世界に対する巧みな応答を生み出していると考えるのは間違っている。そのような知識の活用は、実際の行為に必要な迅速な応答を作り出せないだろうからだ。
ゴキブリの身体化された知識でさえそうならば、一人の恋愛中の人間の大人が知っていることをすべて書き下したら、どれほど膨大な量の明示的なリソースを食うだろうか。人間の心身の謎が、よくできた常識的知識の巨大なデータベース、明示的なコード化と論理的導出によって解決されるだろうか。野生の認知、動物のリアルタイムな現実世界での応答性は、これとはちがうということをわれわれに教えてくれる。
第1章:自律的なエージェント
- 恋愛エージェントの基礎にあるのは、リアルタイムの応答、さまざまな運動および感覚機能の統合、ミスコミュニケーションへの対処の必要性、などだ。
恋愛エージェントは、データの中央貯蔵庫や、中央計画器あるいは中央推論器に頼ってはいない。その代わりとしてあるのは、「競合しあう自分の行動可能性の便覧」であり、それが異性からの入力によって統制されていると考えられる。知覚と認知とのはっきりした線引きはない。恋愛エージェントは、知覚入力をどこかの点で中央集権的コードに翻訳し(言語化)、高度な推論装置で結論を出して応答するようなことはしていない。
恋愛エージェントとしては、古典的な計画装置のモデルはコストが大きいうえに脆弱である。異性の態度が急に変わることが日常茶飯だからだ。必要となる大量の情報の処理には、現状ではいかなるプログラムによるシステムでも及ばない。
恋愛エージェントは、比較的自己完結的な行動生成サブシステムを使い、その単純な相互連絡の結果として、複雑かつロバストなリアルタイムの行動を創発させている。サブシステムを制御しているのは、自分が行動することによって現れる相手の異性の特性で、その制御はかなり直接的である。ここに、中央からの制御および(告白や性交や結婚などを目的とした)全体計画は存在しない。その代わりに相手の異性そのものが、いくつかの決定的な行動による反応を引き出すことで、恋愛を成功へと導いてくれる。感覚入力から応答の動作までをつなぐ経路は最小であり、ほとんど霊感的反射に近い。
恋愛エージェントの恋愛回路は、摩擦、慣性、ノイズ、遅延などに満ちた現実世界のなかにおいてもロバストでなければならない。ならば、回路そのもの、行動をつかさどるルールそのものは簡素であるはずだ。恋愛エージェントのシステムは、単一目的の準独立問題解決ルーチンを複数利用しながらも、整合性を維持するシステムである必要がある。
行動をつかさどるルール(例:相手の嫌なことはしない、言わない)および知覚世界の制約が必要なのは、それで情報処理の負荷を大幅に減らすことができるからだ。いくら知覚と認知のはっきりした区別がないとしても、毎回高解像度の入力が必須なのでは、やはり応答速度は落ちる。低解像度の手がかりでも利用するためには、異性の或る特定の側面に対してのみ敏感であることが理想である。──スポーツにおける一例。打球を捕ろうとしている野球選手。彼は打ち上がったボールの動きを見て能動的に計算によってその軌道を求め、捕球できる場所に向かって走っていくのだろうか? そうではない。最近の研究で判明したのは、野球選手はボールを見上げた角度の正接に注目し、その加速度をゼロに保つようにただ走っている、ということだ。そうすればボールが地面に落ちる前に落下点に着くことができる。野球選手は実際に無意識にこの方法を取っている。彼は捕球という特定の動作を実現するのに必要な、最小限のパラメータを分離して扱っている。
感覚入力の隙間は、世界の側の隙間を意味しない。恋愛相手を理解せよ、とはよく言われることだが、その際われわれは、相手が目の前にいなくても維持されるような相手の詳細なモデルを作らなければならないわけではない。理解するとは、必要に応じて特定の場所を詳細にサンプリングすることだ。それは断片的な知覚がさらなる探索を導くという、行為を含んだサイクルである。「絵に描いたような」異性の内的表象ではなく、われわれは異性の一連の不完全表象だけを抜き出している。ここに、熟考する中央計画器の所在はない。
恋愛エージェントは、理性的熟考者ではなく、うまく変装した「適応的反応者」である。
第2章:状況に置かれた幼児
- 認知は身体化している。知覚・行為・認知のあいだの常識的な区別は最終的に意味をなさず、恋愛エージェントは世界に対して肉体として埋め込まれており、異性と相互作用しているのだ、と考えないかぎり、恋愛エージェントの発達・成長の過程は謎にとどまるだろう。
思考と行為は相互に影響する。ジグソーパズルを解くときのことを考えてみよう。われわれは一個のピースの形状を熟視によって分析し、それがどこに当てはまるかを推論だけで決定しはしない。そのピースがどこにはまりそうか、手を動かして試してみる戦略を混ぜるのが普通だ。このような身体的操作ぬきにピースのはまる場所を確信できるほど、われわれはピースの形状の詳細を頭のなかに保持してはいない。つまり、ジグソーパズルを完成させるという現象は、こんがらがった反復ダンスを伴う。これは「行為のループ」として知られるものだ。
思考と行為のあいだの相互影響は、さらに根源的なものだ。われわれの乳幼児時代の発達のすべては、或る状況の流れのなかで起きる知覚と行為の、同時的相互作用を通してできあがる。斜面への乳幼児の反応についての研究は、乳幼児は、行為をなすことによって世界について学習する(乳幼児は失敗をくり返し、ハイハイで登れる角度の斜面とそうでない急な斜面との違いを覚える)だけでなく、乳幼児が獲得する知識の多くが、行為に特化している(歩行しはじめた幼児は、ハイハイ時代の学びを捨てて斜面についてもう一度覚え直さなければならない)ということを教えてくれる。そして、これが根源的だというのは、成人の知覚補償の仕組みにおいても同様に、行為に特化した面があるということだ。知覚入力に大きな変化が起こったとき(例えば片目を失う)、どんな運動をするときにも問題ないよう入力データを計算・修正するような、一般的で高次の適応は起こらない。適応が起こるのは、特定の行為ループにおいてのみである。
要約すると、知覚は、そのはじまりからすでに、特定の行為のためのルーチンに向けて準備している。発達と成長の問題は、知覚中心ではなく、運動中心的な枠組みで考える必要がある。
- 恋愛現象には自己組織化が山ほどある。異性のどちらかが主でどちらかが従なのではない。相互に相手の振る舞いに基づいて、自分の振る舞いを決めている。それが何かの目的に向かって動いているとしても、その流れは、局所的相互作用の集積によって創発したものだ。つまりそれは、どちらかが頭のなかに表現した何らかのプランによって統制されているのではない。二人の稠密な連続的相互因果関係。因果カップリングの相互調整と創発ダイナミクス。恋愛現象の説明は、いかなる単一の制御要因も仮定することなく、この複数のフォースの複雑な作用を説明できなければならない。
「柔らかな組み立て(ほぐれたフレーム)」という概念を導入しよう。古典的プログラムで動く従来の工業用ロボットは、固い組み立て(固いフレーム)の例である。それらは一揃いの動きを操れるが、動きの正確性は、部品の位置、向き、大きさ、その他の特性によって決まる。これに対して、恋愛現象は柔らかく組み立てられていて、問題空間のかなり大きな変化もリアルタイムに埋め合わせてしまう。どんなミスコミュニケーションが発生しても、そのつど違ったパターンを創発して、恋愛の喜び(相手の幸福)というおおまかな目標を達成する。
詳細な内部モデルや仕様書に基づいた中央集権的制御は、概して流動的で状況に依存した適応には不利であり、早晩行き詰まる。反対に、柔らかく組み立てられた、複数要因からなる分権的解決システムは、ロバストで状況に依存した適応を、「対等のパートナー」アプローチから作り出す。そのシステムでは、新たな状況そのものが、統制の手助けをしてくれるからだ。また、柔らかな組み立ては、個々の身体の(四肢の長短、関節の硬さなどの)ダイナミクスから制約を受けるのではなく、それらを活用しながら、適応的な振る舞いを学習する。それは、身体を矯正して内的に表現された詳細な命令を実行できるようにすることではない。適応はシステム中立的ではない。
そして、異性の身体像は、行為志向的表象の例である。それは単なる鏡映ではない。それは世界の或る側面を記述すると同時に、リアルタイムにこちらが取りうる行為を規定する。だから誰に対しても同じものではありえない(例えば、椅子が、人間に対しては座ることをアフォードする一方、ハムスターにはよじ登ることをアフォードするように)。この表象は、同時に両方向を向いている。つまり相手がどのような人かについて「私」に語りながら、適応的な反応の余地を処方している。くり返そう。認知は身体化している──知覚は異性についての客観的記述ではなく、そこに潜んだありうる行為や干渉のモードの、「私」の身体活動と結びついたものの具体的な指定なのだ。
女性を知覚する男性という受動的なイメージを、われわれは、超えなければならない。男性の行為は女性の振る舞いに対して連続的に応答するだろうが、その女性は同時に男性の行為に連続的に応答してもいる。どちらの性も何ら特権的な地位にはないのだ。
第3章:心と世界──移ろう境界
- 脳と世界は協同している。「私」の脳と相手の異性の脳は協同している。その協同を、私か相手のどちらか一人にだけ焦点化し、その単独の認知エンジンの入出力を使って説明しようとしても、当然失敗するだろう。
脳がやっている規則正しい問題解決は、実際は「プログラムとしての計画」に従っていない。個々のエージェントの展開している戦略には、一応、明示的に形式化された(紙に書いた)計画も入っている。しかし計画がある場合でも、その計画は成功に至る完全なレシピではなく、どちらかと言うと振る舞いを外から制約する機能を担う。そして、個々のエージェントの問題解決活動は、タスクを単純化する目的で、能動的に環境を構造化し操作することを、本質的に含んでいる。
たしかに意識と経験の座は相変わらず個々の脳である。だが、思考についてはどうか? 思考の流れと推論の「適応的な」成功には外部リソースとのあいだでくり返される相互作用が決定的に重要だ。その相互作用によって、入力は変換され、捜索は単純になり、認識は助けられ、連想想起が促され、記憶を肩代わりされる。人間という推論器は、本当の分散認知エンジンである。思考の流れは、個々の脳が独り占めしているわけではない。単独的な脳に結びついている特定の思考もあるとはいえ、推論の流れと、そこに含まれる情報変換は、脳と世界(私と相手)を縦横に行き交っている。真の思考は、肌や頭蓋骨で仕切られてはいない。アインシュタインが空間と時間という独立した概念を統一的構成概念(時空)で置き換えたように、認知科学は、物理空間と情報処理空間という独立した概念を、統一的な物理情報空間で置き換える必要があるだろう。
言わば脳は、問題解決能力の拡張のため外部の世界に寄生して、適応的な振る舞いを色々なかたちで創発しようとする。そして、寄生の対象は、無生物にとどまらない。異性のエージェント個体もまた、われわれの適応的成功の鍵を握っている。
余談だが、この延長線上にカップルにとってしか意味をなさないデートスポットという文化的制度、および男女の婚姻という社会的登録の、外部環境としての構造化がある。
第4章:集合の叡智、粘菌流
- 自己組織化の定義。複数の単純な構成要素の相互作用から或る種の高次のパターンが創発しており、それがリーダー、コントローラー、統制者のおかげではないようなシステムは、自己組織化するシステムである。
新しい現象がリーダーや中央計画器なしに複数の活動から創発するには、二つの方法がある。一つは直接創発。この創発は、主に各自の要素の性質によるもので、環境条件は裏方の役割しか果たさない。直接創発には、多数の均質な要素によるものもあれば、異質な要素によるものもある。
もう一つは間接創発。この創発も個々の要素の相互作用によるが、その作用を、動的で大抵の場合かなり複雑な、環境の構造が仲介している。したがって間接創発の現象を説明するには、個々の要素の性質だけでなく、かなり具体的に環境(異性が纏う衣服や化粧や香水などを含む)の詳細に注目する必要がある。ただし直接創発/間接創発の区別は決して絶対的なものではないし、あらゆる現象は或る程度は背景となる環境条件に左右されていると言える。
間接創発の一例が、シロアリの群れの巣作りだ。彼らは泥玉でアーチを建築する。そのやり方はこうだ。すべてのシロアリは泥玉を作れる。だが、それをはじめのうちはランダムに積んでいる。その泥玉にはそれを運んだシロアリがつけた化学物質が残っている。シロアリたちは、この化学物質の跡が一番濃い場所に自分の泥玉を落とすのを好む。すると、新しい泥玉は古い泥玉の頂上に積まれやすくなるが、そのことによってさらに誘引力は強くなる。こうして柱が形成される。そして任意の二本の柱が近接していると、化学的誘引物質が隣の柱から流れてきて、泥玉の積み上がり方に影響する。シロアリたちは近くの柱に面した側に好んで泥玉を積もうとするのだ。このプロセスがつづくと、柱は高くなるにつれ互いに傾斜してきて、アーチができる。──このプロセスのどこにも、アーチの設計図や青写真に従っているところは、ない。リーダーの役割をするシロアリもいない。シロアリたちは、自分の活動が生み出した環境を通してしか、話し合ってはいない。このような環境に基づく協調は、言語による記号化や解読を必要とせず、記憶に負荷を書けることもない。シロアリ個体が従っているのは、周りの環境の特定のパターンに出会ったときの反応のルール、それだけである。まさに、自己組織化。
- 要するに、創発的集合現象の支えによって、リーダー、プラン、中央計画器を必要としない複雑な適応的行動が可能になるわけだ。しかしそのご都合主義的なデザインは、どのようにして実現したのだろうか?
答えは明らかに「準-進化的プロセスによって」である。進化の重要な特徴は、小さな変化が事前のデザインなしに起こり、その変化の保たれやすさは、それが生物としての成功(恋愛としての成功──相手の喜び)にどれだけ寄与するかの程度によって決まる、ということである。進化的変化は、小さな行き当たりばったりな変化の、わずかずつの積み重ねである。人間集団のあいだで起こる創発も同様だ。或る定まった認知的集合体(或いはカップル)が予期せぬ事態に遭遇したとき、そして対処のために一堂に会して最善策を思案する暇はないとき、その集団が新しい社会的分業を集合的・並列的に探索し、全員がそれぞれ自分が得意なことをしながら、周りの手助けや手順の変更が必要なら何でも折衝し、効率のよい均衡点のようなものへ辿りつこうとする、そのプロセスは、準-進化的である。成員の誰一人として、仕事の再配分について全体計画を思案するものはいないのだから。多数の局所的な決定の効果として大局的な問題が解かれる、この方法は、古典的で中央集権的なデザインよりも、一種の進化的適応に似ている。
かつては、人間の問題解決行動は身体性のない入出力のくり返しだと考えられ、認知は受動的な計算として捉えられてきた。生物の認知に対する著しい歪曲だと言えよう。それに代わってわれわれは、以下の指針を元に、身体性能動的認知を研究しなければなるまい。
●現実世界とリアルタイム性への着目……恋愛行動は、生物学的に現実的な時間枠内に制約される。
●分権的解決に対する意識……調和のとれた知性的な行為が必ず詳細なプランを伴うとはかぎらない。むしろ、大局的に知性的な行為(=口説く行為)が、複数的でより単純な相互作用の結果生じることの方がありがちだ。
●認知と計算についての拡張された見方……思考プロセスはしばしば、個体の頭の外にまで拡張され、外部の支えを使って達成される変換操作を含む。さらに集合的問題解決の状況においては、外部の支えに複数個体の頭と身体が含まれる場合がある。
第5章:ロボットを進化させる
- 自然に進化したシステムは、人間がデザインしたとすれば絶対にそうはならないやり方で機能している。なぜなら、一つには、進化による解決策は分散したものになりがちだからだ。人間がデザインすれば、新たな認知の装いを一枚布から作ってしまう。必要な機能をすべて環境から独立した一個の装置に組み込んで、問題を解決しようとする。対して進化は、有機生命体或いは装置と環境とのあいだの境界を無視し、問題解決はすぐに、生命と世界のあいだにまたがって分散したものになる。
ただしこれは、自然のデザインは要素分解できないということではない。とはいえ、自然選択によるデザインが示す要素分解は、進化的全体論の制約を反映した要素分解であって、非常に奇妙である。進化の経路の各点は、過去の構造や戦略を手直しして、間に合わせて仕立てたものなのだ。例えばわれわれの肺は魚の浮袋を元にして進化した。それは論理的には泳ぐための装置としてデザインされたもので、呼吸には複雑すぎるシステムである。今日われわれが胸膜炎や肺気腫に感染しやすいのは、浮袋の適応の名残りだと言われている。
より乱雑で生物学的に本物らしい、相互作用に基づく解決策……見逃せないのは、現実の進化的適応においては、問題と解決策が共進化しうるということだ。典型的な例は、ちがう動物種のあいだでの追跡技能と逃走技能の共進化だ。自然選択は、ただ固定した問題を解決するのではない。そうではなく、問題自体が置き換わり、共進化的変化の因果網のなかにあって進化する。
自然のデザインにおいては、物理特性の役割も無視できない。身体化された存在は、現実世界の特徴や性質を驚くべき方法で活用する。或る物質の弾性や「たわみ」のような生々しい物理特性に依存した、間に合わせの解決策。ここから、センサーは計測装置ではなく、むしろ入力に対するフィルターであるという見方も出てくる。センサーの分解能をひたすら上げつづけると、結果、それほど重要でない環境の変化にも過剰反応する装置になりかねない。この場合、精密でない部品を使うことによって、その物質としての特性(摩擦、電気的ロス)によって応答が減衰し、望ましくない変動を回避できることがある。「世界」とセンサーのあいだでの完璧な情報の流れというのは、幻想だと言えよう。
- 以上から、一つの立場から導かれる。反表象主義。脳は基本的に、身体性のない知能の座ではありえない。言い換えれば、認知/身体/世界のあいだの常識的な境界を前提としつつ、脳が、何か内部シンボルの場を持ち、そこで現実世界の事物や出来事の代役である「表象」を計算論的に変換し推論していると見做す──そういう考え方を捨てなければならない。現実の脳、現実の身体性を持った知能は、世界と交わるための手段である。世界の側にたくさんの情報の跡を残す能動的な戦略を用い、リアルタイムでの身体と世界の相互作用をうまい具合にくり返しながら、問題をロバストかつ柔軟に解決する手段が、知能である。エージェントと環境という二つの複雑なシステムがあり、その組み合わさった活動が問題に取り組む──このような想定下であれば、一方のシステムが他方を「表象する」という言い方には、ほとんど意味がないはずだ。
最近の認知神経科学は、神経制御構造の役割をますます重要なものと認めている。他の神経回路、神経構造、神経プロセスの活動を調整するための回路・構造・プロセス、それが、神経制御構造である。神経制御構造は、外で起きた出来事の状態をたどったり、身体活動を直接制御したりはしない。それはただ内部の情報の流通を制御している。つまり或る割合の神経細胞群の役割は、他の細胞群のあいだの活動の流れを調節しているのだ。これによって、脳は計算を大幅に節約しているらしい。なぜならこの調節によって、身体部位のどこかに運動命令を送り込むとして、個々の場合に別個のシグナルを生成するより、単一のシグナルリソースを発生させ、それが柔軟にさまざまな場所を標的にすることができるからだ。
この話を表象に置き換えるとこうなる。脳は、インターフェースの手段として中心的表象を用いない。その代わり、ただ単純なメッセージ、活性化、抑制、阻害のためのシグナルにすぎない単純なメッセージをやりとりする。そしてそれぞれの準独立的なモジュールが、情報をタスクに特化した方法でコード化して利用している。分権的制御というわけだ。
第10章:言語
- 仮に反表象主義の立場に立つとしても、われわれが認知において言語的なリソースを利用している事実は残る。が、言語もまた、われわれが問題解決のタスクを変換するとき能動的に構造化した環境の一つ、複雑な相互作用のシステムが、整合的な振る舞いができるよう支えにしている外部の足場の一つ、と考えることが可能だ。
言語は単なるコミュニケーションの手段を超えた働きをする。というのは、われわれは言語のおかげで、様々な難解なタスクを、人間の脳の基本的な計算能力にぴったり合うフォーマットに作り変えることができる。話すこと、書くことは、端的に環境の操作であり、問題空間を人間の脳のために変換していることに等しい。言語のおかげで、われわれはパターン認識とパターン変換という認知能力を活かして、行動と知性の新しい地平に達したのだ。
さらに言語の役割と機能について考えよう。われわれの学習ルーチンは、極端な経路依存性がある。文法でも数学でも何でもよいが、学校の教科書を想い出してもらえばいい。新しい文法事項や算術規則を学ぶのに、いきなり複雑な例文や計算問題を出されると、学習は間違った方向へ進んでしまう。或る考えは、別の考えが整って初めて理解できる。先立った学習が適切であればこそ、新しい規則性を学ぶ作業はやり易くなる。あなたはどこからどこにでも行けるわけではなく、あなたが今いる場所はこれからのあなたの知性の行方を強く制約する。
認知の経路依存性。しかし、公共の言語には、人間の認知を集合的なものにし、個人の認知が持つ経路依存性を超越させる役割がある。言語があると、考えがまとまりになって、個人のあいだを移動する。そのような移動は、非常に繊細で困難な知の道筋と進展を共同構築することができる。太郎のそれまでの経験がなければ生まれなかった考え、だが花子の脳が今提供する知のニッチでなければ育つことない考え、そんな考えが、今や太郎と花子のあいだを必要に応じて旅することで、その可能性を花開かせる。優れた考えに至る経路は、今や複数個人の学習履歴のあいだを縦横に駆け巡る。言語的に記録された部分的な解決が、別の人に回覧され、修正され、仕上げられる。ときには千年以上の時を隔てた他人によって。
さらに指摘しよう。言語によって、人間の思考にはかなり独自の複合的特徴が付与されている。すなわち、それは二次的認知ダイナミクスを伴う。二次的認知ダイナミクスとは、自己評価、自己批判といった「考えることについて考えること」の謂いであり、それによってわれわれは、単なる単線的な(自動的な、機械的な)時間ではない、真剣な自問自答を積み重ねた高次の歴史性を生きることができる。わけても恋愛においては、相手の異性との関係を「これでいいのか、このままでいいのか」と自ら問い直すことによって生まれる歴史性がある。相手を取り替え不可能と感じる自他未分な感覚は、この複雑な時間性なしにはありえない。これは明らかに言語がなければ獲得不能な感覚であるはずだ。
- ところで、進化的適応においては問題と解決策が共に進化しうる。ということからすれば、公共の言語も、われわれのような存在にとって獲得と使用がしやすいように進化した面もあるはずだ。例えば、あまりにも煩雑な動詞の分類は学習が難しく、何世代かの学習を経ると文法から失われがちになる。言語が存続できるのは、言語の宿主である人間にとって学習と使用が容易な場合だけであるというのは、端的な事実だろう。この共生関係が、言語にもまた進化し適応することを促すのだ。
使用の面から言えば、公共の言語は、文脈性を最小限にするように(ほとんどの言葉が、それが現れる様々な文のなかで本質的に同じ意味を保つ)、様相から中立であるように(考えを引き起こしたのが視覚、聴覚、触覚入力のどれであっても、同じ言語形式を使って保たれる)、単純な文字列の丸暗記が容易なように、進化してきたと考えられる。そして自分自身の考えを、暗記可能で、文脈抵抗性があり、様相を超越した、文章フォーマットへと「凍結」することによって、われわれは、種々の認知的角度からの吟味に耐え、新しい入力や情報にさらされても改まったりすることのない、感覚個別の詳細からは抽象化された、特別な種類の外部の足場構造(懸想文!)を作り出していると言えるのである。
:APPENDIX 平倉圭「布置を解く」変形抜き書き
- 《……言語による思考には、それを統制する理性の論理がある。では恋愛の思考を内的に統御する「論理」はあるだろうか? ──ない、というのが第一の答えだ。恋愛の思考には、それぞれ特異で具体的な形の布置自体のなかにある。……だがそのうえで、たとえば詩がそれぞれに異なる姿をもちつつも共有する「韻」のシステムのような、恋愛の思考を導く基本的な形式を想定することはできるだろうか? 人類学者グレゴリー・ベイトソンはその一つの候補を挙げている。「モワレ〔二つの周期的パターンが重ねられるときに現れる第三のパターン〕」である。
…………
ベイトソンは……前言語的な思考の論理を、モワレ構造をなすものとして描いている。それは古典的な「バルバラの三段論法〔人は死ぬ/彼は人である/彼は死ぬ〕」と対比して「草の三段論法〔草は死ぬ/人は死ぬ/人は草である〕」と呼ばれる。……草の三段論法は、主語が属するカテゴリー「人」の同一性ではなく、「死ぬ」という述語の同一性によって人と草を同一視してしまう。……
言語を離れたところには「人」・「草」・「死ぬ」のようなカテゴリーも、その同一性も存在しない。草の三段論法は、前言語的世界に現れるパターン間の関係を、むりやり人間の言語に書き下したものだ。実際には、前言語的世界では「主語」と「述語」は区別されず、動的パターンの中で一体化している。また、草の三段論法において、複数の事象を結びつけるのは言語的同一性ではなく、類似したパターンの反復である。つまり草の三段論法の論理とは、同一の述語の下に複数の事象を包含することではなく、複数の非言語的パターンが差異を伴いつつ重なりあい、「モワレ」を生むことなのだ。その「論理」は線的ではなく、重なりあうパターンの至るところで同時双方向的に、さまざまな度合いで働く。このパターン間の同時双方向的で度合いをもった結び合いが、前言語的な恋愛の思考を内的に統御している。
……モワレ……それは差異のなかに隠れた類似だ。ヒナギクとヒトは種を超えて「韻」を踏むのだ。
前言語的精神は、理性(reason)ではなく、韻(rhyme)を通して思考する。恋愛の思考の論理はモワレであり、モワレから現れる韻である。韻とは、複数のパターンを共鳴させるあざやかな結び目のことだ。……
…………
……パターン間の関係は、全体ではなく局所から見れば、破壊的・闘争的・簒奪的なものでありうる。生きている局所的パターンはただ「〔調和的に〕結び合う」のではなく、互いを奪い、引き込みあう。……すなわち「韻」は、恋愛の思考の論理であるだけでなく、見る者のパターンをそこに引きずり込んで変形する、恋愛の力の原理でもあるのだ。
…………
……私はそのとき、いったい何を読んだことになるのだろうか。……恋愛の思考=力に取り憑くこの不確定性……たんなる偶然の一致……塵がただの塵であった可能性は残り続ける。……二つのパターンの偶然の暗合に宿命を見出さずにはいられないことは、狂気と隣接した「押韻」の感知である。……恋愛の兆候の解読は、この狂的な押韻感知を避けることができない。恋愛的思考の少なくとも一部は、韻の論理によって構成されているからだ。》
- 《恋人の目を見るのは魂の独立性を放棄するときだけ》
《知覚を可能にする二重化というのがあるだろうか。恋人をよく見ようとするとき、目でそれを「なぞる」。それは内的な二重化だ》
《対象をよく見ることは私にとって性の問題だと感じられる。非性器的な(性器に局限・焦点化されない)性的身体が生身の身体をはみだし、例えば画面に描かれた枯葉に着地して、それをほとんど自分の身体の感受体にする》
《対面だと、人の身体に落ちる陰翳の深さ美しさにいちいち動揺してしまう》
《対面の導入は、先取された結論から離れて観察を始めるために有効》
《私が「いま・ここ」にいることは恋愛の内容ではなく形式で、「かつて・よそ」との間で簡単に短絡・圧縮できない(短絡するときはいま・ここを内容として捉えている)。韻は踏める》
《異性を見る時間は圧縮できない。ここは自分を過信してはダメだ。。》
*
《心情や感傷を信じるのではなく、恋愛が根ざすところの物質的過程を信じる。これは簡便な基準だ》
《まずは発見、発見するまで地道な観察と調査、そして発見したと思えたものの確からしさを複数の角度からしつこく検証。書くのはそれから/よく検証した発見があれば、「通常恋愛についてはこのように語られている」という層を、自信を持って突破できる》
《身体の直感に深々と従おうとするという意味で、自分の素の傾向は超保守だと思う。ので、恋愛を言葉や図で表すときには否定形にする、根を切ってばらばらにする》
《自分自身を「中身のわからない(ブラックボックスの)パターン認識機」として扱うことは多い。異性の強調点や参照するコンテクストを変えながら、繰り返し読み込ませることで、パターンが次第に・自ずと現れてくる(と信ずる)》
《異性が「わかった」と感じられる瞬間は不確かで流動的で、自分にとってもなかなか再現できない。文章を書くのはそれを仮固定するため/ほとんどの場合、見ている異性のことが私はわからない、というか、わからなさに着地することがきわめて重要で、集中力を要する》
《「恋愛」と呼んでいるものも、実際には経験や記憶や具体物で編まれた、準抽象的な機械なのかもしれない》
《感覚の個人性を守らない者たちを信用しない/その上で──感覚の個人性とは、むしろ個人の中での分裂、動揺、流動の領域を指す。それが他人に奪えないものだ。「異性がわかる」ことより「異性がわからない」ことが圧倒的に重要である理由》
《文字があるので他人の心が分かる、ということの方が、分からないということよりよっぽど恐ろしい》
*
《恋人の声と言葉遣いと姿勢のスタイル。恋人が記憶されているのはこのスタイルによってであり、スタイルには生産性があり(夢の中では、恋人が現実に言ってないことをスタイルが生み出す)、それは半ば自分の中に移植された恋人だ》
《恋人の話すことばより恋人の身体の状態に関心がある/ことばに集中するのは特別な・投げやりな集中を必要とする。が、結局、ことばを通して身体を聴いているだけだ》
《言語なしのコミュニケーションが、閉じたままコミュニケーションすることの一つのあり方だと直感していて、動物論に関心があるのはその点だ/他人が嫌いなわけでは全くなく、他人の身体的存在感は基本的に好きだが、言葉で話すことはしばしば苦痛だ。どういう種類の苦痛だろう》
《身-言の分離不可能性は呪いのようなもの。呪いの徹底操作か呪いの解除しかない/恋愛論は呪いの濃い分野だ。恋文ではなく呪文を書いていると考えることもできるだろう》
《「意図的」と言えるのは「日常言語で言える」解像度の運動までで、それより細かい解像度の運動は意識的には「意図していない」》
《異性は少しも視覚的ではない。このことは今日、むしろ分かりにくくなっている》
《共感覚者ではないのだが、異性を「耳で見る」ことはよくある。これは異性を「音」で捉えるということではまったくなく・・・正面の姿態に注意を全集中するのではなく、両耳方向の沈黙に注意を向けながら、その響きを介して正面のテクスチャーを見るということだ》
《音の経験は触覚的・彫刻的で、裂いたり、押し広げたりする肉の動作として感じられる。こういう言い方がありうるとすれば、音は聴覚的ではない》
*
《記憶の中で知覚は続く。異性の細部を記憶の中で繰り返し観察して知覚が進む、ということが実際にある。記憶は知覚の一部なのではないかと思う/恋愛の知覚は一次的な感覚刺激の受け取りではなく、種々の感覚からなる異性の「構造」の把握なので、記憶の中で構造がだんだん把握されていくということがある》
《恋愛状況の構造に没することによる主体とその(認知)世界の変容を極端に重視する、「物質的-記号論的変容主義」》(構造=要素の相互依存的連関によって全体を成り立たせる組み立て)
《私の肉は、物理的に離れた恋人の肉と、ある意味でつながっている(そういう回路がある)……肉を分解し分析し再構成してみせることは、距離を取る一つのやり方だ》
《自分が可動化したら──可動化する仕組みに触れたら──そこに恋があるということになるだろう》
《恋愛が、安定した世界からどよめきを引き出す。……実際には世界は安定していない。恋愛ほど全方向に流動的ではなく、深く習慣化しているが(崖はめったに崩れない、など)。恋愛の不安定性を、世界の不安定性に再度埋め込む》
《恋愛は少しも動きの形の問題ではない。世界振動の問題であり、世界とは端的に日々の生活(労働や性や散策や沈黙…)の環境のことだ/ここに異性が組み込まれている世界があり、そうでない世界がある》
《近代的恋愛の諸概念を手放すのではなく、内側から拡張変形することにより、自分が生きている生活形式自体が内側から動かされる》
《恋愛の存在論……自分がすでに飲み込まれているひと続きの振動を、内側と外側から知る》
《異性の表現(表情)に関心がある、とは言える》
《表情には、それを身体的-物質的に体感・内観するものと、そのかたちを外から外観するものが二重化している》
《恋愛を非制度的に、力の作用で定義したが、……実際には制度としての恋愛と力としての恋愛が同じ人の中でも二重化して作用するのだと思う》
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《青年のときは強力な一枚岩に感じられた体はだんだんほどけて、分裂するさまざまな動きが展開する地形のように感じられてくる。崩れとメンテ》
《呼吸は肺だけで起きているのではなく、肺を動かすために/とともに体の広い範囲の筋膜が動く》
《恋愛には「舞う」「踊る」というより、「組む」と呼ぶ方が適切な動きがある。これは特定の時代を超えた一般性がある。(その中に心が据え付けられた)構造物としての身体の探求。/組み手……》
《相手のリズムに乗るというとき、それは与えられたリズムに(遅れて)合わせる・規定されることではなく、自分で同時に、あるいは微細に早いくらいに、リズムを産出していくことだから、荒々しく相互巻込的で、根本的にはアナーキーだ》
《やってみるをやらないと開かれない》
《体が(個体が)閉じていないという前提で恋愛をする》
《快楽を生きる動機とすると、自己の内〔非恋愛〕に閉じがちなのではないかと思う》
《身体の感覚が多少向こうに移るかもしれない/自分自身が、喜んで明け渡してしまうだろう》
《「皮膚には、身体中心座標系における位置センサがない。圧力の強さと方向に準ずる視覚情報が与えられれば変異は野放図に積分されていく。自己と非自己の中間にある、神経系にとっては半ば「モノ」のような位相。」》
《女性器を蝶になぞらえたりする。ありふれた比喩だが、種を越えて身体が左右相称性に貫かれているという、そのことを指している/だから五放射相称(ウニやヒトデ)の体の開かれ方を想像すると世界の外に出る。左|右にあたる分かれが五方向にある》
《海の中にいるということは、ずっと「揺らされている」ということだ。そうでなければ「岩にぴったり張り付く」。意志概念は海の中では変質しそうだ》
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《情動=態勢は、生身の個体的身体とは異なる輪郭をもち別の身体に相互陥入するということだ。恋愛する身体(及び目-口)が、その個体と相互陥入の界面にある》
《異性を外から/内から触ることについて考えてる。「異性にどういう感覚が保持されているか」は一瞥では分からず、「異性がどういう感覚を自分に与えるか」しか分からない。後者が外から触ること。前者はある種「実験的に見ること」を要求する》
《「巻き込み/巻き込まれる相手が生きていたらどうなるのか?」「巻き込まれる身体と意識はどういう関係にあるのか?」というのが自分のいまの問いなのだろう》
《恋人同士は「似ている」。私などは、否定できない「体の実感」を基点にそう言っている──恋愛経験について「体の実感」が有意味な記述のレベルだと考えている》
《身体をどのような「機械」として想定するかに関わりそうだ。男女が「似る」というとき、局所の同調がそのまま身体全体に波及することを止められない連続した生体として身体を考えている/「類似」概念に反対する人は、ある種の全体性の先取りに反対しているのだろう。全体性を先取りせずに、部分の同調が全体へと波及していく、それがいくつも重なっている、という状態を概念化できればよいのかもしれない》
《性器といえども全身の連続のなかにある》
《異性の知覚はつねに全面的、総作動的で、そのうちいくつかを抑制することは歴史的・制度的な訓練によってしかできない。それさえ「抑制」であって、つねに解除されうる》
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《個々人の身体に独特な恋愛がある》
《「恋愛歴」というのは限定しすぎだ。恋愛に限らず、生きてきた身体の歴史による。しかし「この身に蓄積した歴史はかなぐり捨てて新生したい!」というのが恋愛をする理由でもある》
《パースペクティブが動くと今まで現実的に感じられていたものが現実だと感じられなくなる。一種の、模様のように感じられる/恐れや欲望、熱望を動かすような模様が現実(私の体に影響する模様が現実)/人生が動いていて(習慣から逸れ始めていて)、どの模様を現実-化したらいいのかわからない》
《なぜ恋人に触発されるんだろう。──と考えても割れそうにないので、どのように、と問うべきなんだろう。触発はとても個人的なもの。》
《恋愛記述というのは、独異なパターン(異性)と独異なパターン(私)の間の、独異な絡まり方の記述以外ではありえないと思う/独異な絡まりの記述から、なんらかの普遍性を持つ思考が生み出されるのはどのようにしてか。独異といえども自他双方が様々なスケールで歴史的に構成されており、両者の出会いが多様に媒介されているということを具に見ることによってか。ともあれ始めから「客観的」記述を前提にすることはありえない》
《結局同じ人(恋人)を見てるといっても同じものを見ているわけでは全くない、名前が同じだけで中身は違うということを、常に当然の前提にすべきだ》
《あえて言うべきではないことを言う、それを意図的にしなければ恋愛的出来事は生じない》
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《恋愛そのものより恋愛にまつわる噂話が好き、という環境を見たら、早く抜け出したほうがいい》
《恋愛をそのまま思想的な課題として捉えていくだけだ》
《異性の身体に特定の「効果」を引き起こそうとするとき、性愛は「手段化」する……手段としてだけでなく目的として「も」扱え、というのは、正しいことである。。》
《技術の否定よりも、技術と考えられているものの範囲を広げることが重要なんだろう(性愛)》
《いまようやく気がついたが、生活に無理をかけても恋は続かないのだ》
《異性を見るのは何かを豊かにするためでなく捨てるため。身投げの対象を探す、というのが自分にとって恋愛モデルであったが、最近はそれもうまく見つけられない》
《「生きる目的を他人から渡されたい」という部分が、人にはあると思う》
《よくできすぎた説明が自他の恋愛の発達を止めることがあるという危険》
《異性を手段として扱うことは生きていれば避けがたい…。だから異性を、同時に目的〔自分が幸福にする存在〕として「も」扱えというカントの言い方が重要なのだ、と学部生のとき教わった》