resume:ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
- 【この書物はどのように作られているか】
恋愛のディスクール(言述)は恋愛物語から区別される。恋愛のディスクールとは、恋愛主体がその愛を生きているあいだ、彼の脳裡にまったく無秩序に、偶然的にあらわれてくる文の断片のことだ。たとえば、恋愛主体が愛する人に待ちぼうけをくっているとする。文の外観のごときものがひっきりなしに彼の脳裡を訪れることだろう。「それにしてもひどい……」「彼/彼女には……できたはずだ」「彼/彼女にはわかっているのに……」──こうした言語的幻覚・発作的言語活動によって、恋愛における「待機」の状況は形成される。ひとつひとつの断片は、メロディーから切り離された単独の音のように炸裂する。あるいは、楽曲の構成モチーフのようにあきあきするほど同じものがくり返される。興奮し、衝突し、静まり、立ち戻り、かつ遠ざかる。いかなる論理によっても特定の断片と断片がつなぎ合わされることはない。これらの文は、物語の外にあるのだ。
恋する者はいくつもの文の束を用いて語る。そうした文を、因果律あるいは目的律にのっとって解釈し、より上位のレベルへ、つまり作品へと統合すれば、いわゆる世間で言うところの恋愛物語が出来上がるだろう。それは極端な力はすべてこれを評価しようとせず、怪物を生み出す事件の偶発性についても、秩序も目的もなしに主体を通過するあの大いなる想像力の流出についても、病理的危機としてしか語らない。そこから教訓を引き出すことさえ可能かもしれぬ。「わたしは狂っていたのだ、今は治癒している」、「愛とは罠である、今後は避けて通らねばなるまい」、云々。これとまったく異なるのが恋愛のディスクールである。それらは、まるでさいころを振るようにして出現する。整理され得ぬこと、順位もなければ筋道もないこと、最初もなければ最後もないというのがこのディスクールを構成する原理である。ここで問題になっているのがひとつの恋愛物語ではないことをわかってもらうため、絶対的に無意味な順序が必要であった。以下の見出し語は、すべて恣意的操作によって並べられている。
- 【絶望】
恋愛主体は傷心、あるいは歓喜のあまり、底なしの淵へと沈みたくなることがままある。
恨みつらみのせいではない。格別なにがあったというわけでもない。漠として、自分の消滅を思う。おそらくそのとき恋愛主体が思っていることは、自分の弱さに圧倒されてしまいたい、世間に負わされた傷に負けてしまいたい、ということであろう。自分自身の勇気のなさを引き受けること。
- 【不在】
恋愛主体は不在の人に向けて、その不在にまつわるディスクールを果てどなくくり返す。
不在とは相手についてのみ言えることだ。出発するのは相手であり、わたしはとどまる。あの人はたえず出発し、旅立とうとし、逃げ去ろうとする。逆に、恋をしているわたしは、本来が引きこもりがちで、不動で、受身で、待ちつづけ、その場に押しひしがれ、取り残されている。恋愛における不在とは一方通行なものであり、不在を語るとは、したがって、主体の場と他者の場が交換されないことに基づく。つまり「わたしは自分が愛しているほど愛されていない」ということだ。
歴史的に見ると、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきた。「女」は家にこもり、「男」は狩りをし、旅をする。そこで、女性ではなく男性が不在を語るとなると、そこには必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているからである。
ときとして不在を耐え忍べることもある。そのとき恋愛主体は世間的には正常と見なされる。立派に乳離れできた人間というわけだ。待っているあいだも、ひとりで、母乳以外で栄養を摂ることができるようになったのだ。しかし、こうして耐え忍ばれる不在とは、忘却以外のなにものでもない。つまりわたしは一時的に不実となるのである。実際、恋する者はときどきは忘れることがないと、記憶の過剰と、疲労と、緊張とで死ぬ。
この忘却から目覚めると、恋愛主体はまた不在を嘆く。溜息をもらす。相手を熱望して吐息をつく。相手のもうひとつの吐息と混じり合おうと望んでいるかのように。溜息は接吻のイメージに近似する。
- 【素晴らしい!】
愛する人への欲望を名付けえないままに、恋愛主体はいささか馬鹿げたこの語にたどりつく。素晴らしい!
この語によって恋愛主体は、相手をひとつの全体として感じ取っている。恋愛主体の心に美のヴィジョンを生み出しているのは相手の全体像だ。素晴らしい!には具体的な美点のあれこれは何ひとつ入ってこない。ただ全体としての情動だけがある。相手のすべてに欲望を抱いている自分を得意に思う。また相手も自分と同じように、部分的な美点のあれこれでなく、そのすべてを愛されたいと願っているのだと想像する。
恋愛主体が欲望を抱くのは厳密に「ひとりだけ」だ。この人生でわたしは幾百万の人間と出会うだろう。なぜそのひとりが選ばれたのか。それは大いなる謎であり、この謎を解く鍵はついにわたしの手に入ることがない。愛する人の部分はその理由になりえない。わたしとしては、あの人のすべてに素晴らしいを言いたい。「これなんだ、まさにこれなんだ(わたしの愛しているのは)!」。この言語活動は無益である。語から語へと自分が相手に惹かれた理由を言い換えてゆくことに疲れ、自分の欲望を不的確にしか表現できぬことに疲れ果てた後、わたしは、最後に同語反復にたどりつく。素晴らしいものは素晴らしい。わたしはあなたを愛しているからあなたを愛する。言語活動の果てに、恋愛主体はその最後の語をまるで傷付いたレコードのようにくり返すほかない。
- 【幸かつ不幸】
恋愛とは馬鹿げた情熱だ。さまざまな常識や世論や現実主義がそう論じる。それでも恋愛主体は固執するのだ、「よくわかっている、でも、それでもやはり……」。
恋愛主体は同時に矛盾して、幸せであり、しかも不幸である。成功も失敗も、わたしにとっては偶然かつ一時的な意味しかもたない。わたしを衝き動かしているものは決して戦術ではないのだ。真と偽の埒外で、成功と失敗の埒外で、わたしはすべてを受け入れ肯定する。いかなる目的からも身を遠ざける。偶然に身を委ねて生きている。わたしのおこないはすべて「批評家」の手に委ねられぬことのありえぬものだ。成功か失敗か、幸か不幸か、という二者択一にわたしは異なった論理によって抗議する。
恋愛にあって思わしくないものにはすべては価値がある、とわたしは頑固に言う。疑惑や葛藤や不安や悲嘆にさえも、価値がある。
- 【変質】
変質は恋愛の領野によく見られる現象だ。恋愛対象についての反-イメージの瞬間的産出。恋愛主体は、ほんのささいなできごと、かすかな表情などが原因で、相手のイメージが突如として変質し転覆するのを見る。
わたしの洞察力、あるいは錯乱をもってして捉えられるごくささいなものを通じて、突如あの人の姿が、不意に、あの陳腐な世間へと結び付いてしまう。あの人の優美さと比類のなさをほとんど敬虔なまでに讃えてきたのに、所詮はあの人も凡俗の人であったのか。突然のあの人の言動が、内なる別人を露わにする。世間が恋愛をおとしめようとして宣揚している俗悪さに、あの人みずから従うかのようだ。わたしは驚愕する。不協リズムが聞こえてくる。なめらかだったイメージの皮膜に走る一筋の亀裂。
多くの場合、相手が変質をきたすのは言語活動を通じてである。語とは、猛烈な化学変化を引き起こす微細物質のようなものだ。わたし自身のディスクールというまゆの中で長く抱かれつづけてきたあの人が、今、何気なく洩らした語を通じて、変質する。あの人は集団的な存在と化す。相手はもはやあの人ではなく、どこにでもいる他人のひとりになる。
恋愛のディスクールとは、「イメージ」にぴったりと合ったなめらかな包みであり、愛する人を包む優しい手袋だ。それは敬虔で保守的なディスクールである。ところが、「イメージ」が変質をきたすとこの崇敬の包みが破れる。とある衝撃がわたし自身の言語を転覆せしめる。そして、主体の唇に突然冒涜のことばがのぼり、不敬にも、恋する者に与えられた祝福を破壊する。「イメージ」のおぞましき引き潮。
- 【苦行】
愛する人に対し罪を犯したと感じるとき、自分が不幸であることを見せて相手の心を動かしたいとき、恋愛主体は、自己懲罰という苦行者の振る舞い(生活態度、服装など)に出る。それは軽度の隠遁生活となる。
それはまた脅迫でもある。苦行は他者に向けられている。あなたがわたしに何をなさったか、ごらんなさい。わたしは相手の眼前に、わたし自身の消失という兆候を突き付けているのである。
- 【独自性】
愛する人は、恋愛主体にとって分類不能なものであり、測りがたい独自性をもつ。それはまさしく唯一者である。というのは、相手の肉体や精神に唯一の特徴があるということではなく、相手が、わたしの特別な欲望に呼応する真実のイメージであるということであり、他人たちの真実によってはついにそれが捉えがたいということである。
したがって、真の独自性の場は、相手にもなければわたしにもなく、二人の関係にこそある。獲得すべきは関係の独自性なのだ。みんなと同じように恋し、みんなと同じように嫉妬し、みんなと同じように懐疑するとき、心の痛手が生じる。ステレオタイプな関係が恋愛主体に苦痛をもたらす。
- 【待機】
わたしは待っている。何を。ときにはごくつまらぬことであるかもしれず、遅れはほんのわずかかもしれない。しかし苦悩に変わりはない。すべてが深刻なのである。わたしにはつりあいの感覚がないのだ。
プロローグ。わたしが相手の遅参を確認する。第一幕。さまざまな推測。ひょっとして時間を、場所を間違えたのではないか。お互いに何を確認したのだったか。探しにいくか。でもそのあいだにあの人が来たら……。第二幕。怒り。不在の人に非難を向ける。「それにしても彼/彼女には……できたはずだ」。ああ、今ここに彼/彼女がいて、なぜ来てくれぬのかと責めることができたら! 第三幕。純粋苦悩。見捨てられたと本気で信じ込む。わたしの心は蒼白となる。
「わたしは待つものである」。これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。相手の方はけっして待つことがない。自分も待つことのない者として振る舞ってみようと思う。別のところで忙しくして、遅れてゆこうと努めてみる。しかし、この勝負はいつもわたしの負けに終る。なにをどう努めてみても、結局のところわたしは暇なのであり、時間に正確で、早めに来てしまっている。
わたしが待っているのは現実の存在ではないかもしれない。わたしはその存在を、自分の愛の力によって、その存在に対して抱く欲望によって、いくどとなく創り上げ、創り直しているのかもしれない。そして、万一あの人が来なければ、わたしは妄想と幻覚によってあの人を捉えるだろう。待機とは錯乱のことでもある。
- 【情熱を隠す】
恋愛主体は迷う。愛する人に自分の愛を打ち明けるべきかどうか、ではなく、自分の情熱の荒れ狂いを、自分の欲望を、自分の悲嘆を、要するに自分の過熱ぶりを、どの程度に隠しておくべきかを。
相手によってわたしは不安に陥ってしまった。そのとき、一方でわたしは自分にこう言い聞かせる。相手にそのまま自分の苦悩を攻撃的にぶつけてもいいのではないか。あの人自身もわたしに詰問されることを必要としているかもしれない。つまり、わたしが自分の情熱を文字通り表わすことこそ正当なのだ。過熱と狂気こそがわたしが選ぶべき道ではないか。それこそが、ついにあの人の心を動かすのだとしたら……。
他方でわたしは、こうも言い聞かせる。いや、自分の情熱をさらけ出しても、あの人を息苦しくさせるだけかもしれない。まさにわたしがあの人を愛していればこそ、どれほど深く愛しているかは伏せておくべきではないか……。
あの人を愛しているなら、あの人のため、よかれと望むのでなければならぬ。しかし、そうなると自分を苦しめるほかない。そこでわたしはごまかしをおこなう。自分の情熱を、ほんの少しだけ見せることにするのだ。自分の情熱に平静さの仮面をつけること。言語活動においては、黙すること。涙のたまった眼に黒眼鏡をかけるとしよう。とはいえ、ここにはパラドックスがある。情熱というものが、そもそも見られるためにできているのだから。情熱を隠していること自体が見られるのでなければならない。「わたしが今なにかを隠していることをわかってください」。わたしは禁欲を保持しようとしている。それでいて、矛盾したことだが、やさしく問いかけてもらいたいとも思ってもいる。わたしは子供であると同時に大人である。
- 【こころ】
恋愛において人が与えたがったり欲しがったりするのは本来のこころである。こころとは、欲望の器官であり、ふくれ上がったり充ち溢れたり衰えたりする。恋愛対象との関係において。
恋愛主体が誇りに思っているのは、自分の才能や教養や地位ではなくて、こころだ。わたしの才気や才能などをわたしのこころ以上に評価などしてほしくない。ところが世間と同様に、あの人はわたしのこころになど関心をもたない。こころこそわたしが与えたいと思っていたものなのに、この贈物が送り返されてくる。こころとは、わたしの手元に残ってしまったもの、なのだ。それは重く悲しい。恋する者と子供だけが重いこころを持つ。
- 【過剰】
恋愛主体にとって適度は不十分を意味する。過剰こそが恋愛の想像界のありようである。過剰のなかに身を置けなくなると、わたしはたちまち自分が飽きてしまったのだと感じる。恋愛の快楽は、欲望のかいまみた可能性を超え出るのでなければならない。それは奇蹟でなければならない。ありふれたもの、一般的なものの外へと運び出されるのでなければならない。
この奇蹟は語られざるものである。だからこそ、恋愛関係は長い嘆きにつきるなどと誤って考えられることになる。充足した恋愛主体は、書くことも、伝達することも、再現することも、まったく必要としない。「幸福が記憶を残さないのに、どうしてそれを描けようか」(スタンダール)。
- 【デリカシー】
愛する人が恋愛関係とは無縁の理由で悲しんだり苦しんでいるのを見る、感じる、知るたびごとに、恋愛主体はもちろん共感する。が、その同一化は完全ではない。なぜならわたしは、相手の不幸のなかにわたし抜きという事態のあること、あの人が自分だけのことで不幸になったのであり、したがってわたしは見捨てられているのだということを読み取ってしまうからだ。わたし以外のことで苦しんでいるからには、わたしなどものの数に入っていないということだろう。あの人の苦悩は、あの人をわたしの外部で存立せしめる。ならば、なぜこのわたしがあの人の身になって苦しむことがあるのだろう。少しは身を隔てることにしよう……。
したがって、わたしの共感は情動的であると同時に醒めたものとなる。愛情こまかやであると同時にまことに冷静なものとなる。これをデリカシーと名付けることができよう。
- 【熟慮】
どうすればよいのか。少しでも希望があるのなら行動する。まったく希望がなければ行動しない。健全な主体ならそうする。ところが恋愛主体はこう答える。「希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……」。
あの人が何気なく電話番号を教えてくれた。たちまちわたしは苦悩する。電話をかけるべきか、かけざるべきか。恋愛主体たるわたしは、目新しいもの、心を乱すものは、すべて客観的事実ではなく、解釈を下すべき記号として受け取ってしまう。恋愛主体の視点において、事実は、ただちに記号へと変容する。あの人の電話番号。それは何の記号だろうか。気が向けばいますぐかけてくださいという招待か。それとも、やむを得ぬときにだけ、必要があればかけなさいということだったのか。どうひねくっても結論は出ない。無益である。
ときとして、なんでもないこと(と世間が言うもの)をあれこれ考えすぎたあげく、わたしは疲れ切ってしまう。そこでわたしは、溺れる者が海底を踵でけるように、最後の力をふりしぼり、衝動のまま決断しようと試みる。いいじゃないか、電話したら、そうしたいのだから! しかし、わたしは行動しない。恋愛の時間は、衝動と行動が直結することを許さないのだから。恋愛主体は、単純な行動発散型の人間にはなりえない。結果を恐れてしまうからだ。予期しえぬ結果をもたらす恐怖に比べれば、行動の責任が一切自分にかかってこない熟慮の状態は、どれほど息苦しいとしても、一種の平安である。
- 【接触】
あらゆるものに意味がある。恋愛主体は意味の祭典を生きている。
相手の指がうっかり自分の指に触れる。二人の足先がテーブルの下でぶつかり合う。普通はこうした偶然のもつ意味など考えずにすますだろう。しかしわたしは恋愛主体なのだ。わたしは、たえず、いたるところでまったくなんでもないものについてまで意味を創り出す。そうした意味こそがわたしを戦慄させる。わたしは意味の炎につつまれている。恋する者には、あらゆる接触が、答えやいかにとの問いを惹起する。手のひらのなかでの微妙な身振り、開かぬ膝、長椅子の背にさりげなく伸ばされた腕、少しずつ寄りかかってくる頭。精緻な記号の楽園。
恋愛の領域には行動発散などありはしない。いかなる衝動も、おそらくは快楽すらもない。あるのはただ記号ばかり。
- 【肉体】
恋愛において愛する人の肉体はどんな意義を持つのか。
たとえ目覚まし時計を分解しても「時間」が何であるかはわからない。同様に、わたしの欲望の原因はあの人の肉体の内部にはない。肉体に対してはわたしは人形愛好のような、冷静で倒錯的な欲望しか持ちえないようだ。しかし、あの人が何かを考えている様子が見られるとき、たちまちわたしの欲望は倒錯的でなく想像的なものとなる。わたしは「イメージ」へ、ひとつの全体へと立ち戻る。
- 【対話】
比喩的に言うと、言語とは肌なのだ。わたしの言語は欲望に打ち震えている。わたしは、わたしの語のなかにあの人をくるみ込んでいる。あの人を愛撫し、あの人に触れ、二人の関係に加える注釈を持続させようとする。指のかわりに語をもつというか、語の先に指をもつというか。
- 【贈物】
比喩的に言うと、贈物をするとは触れることだ。あなたはわたしが触れたものに触れるだろう。第三の肌がわたしたち二人を結びつける。わたしは相手にスカーフを贈り、相手はそれを身につける。相手はわたしに対し、わたしの贈ったものを身につけるという贈物をしてくれるはずである。だからこそ、わたしは狂おしい興奮に捉えられながら店から店へと駆けまわり、贈物を探し出し、買い求めるのだ。
しかし実際、贈物をするとは触れることと等価ではない。せっかくの贈物がうまく機能しないとき、わたしはそれに気付く。大体そうなりがちである。贈物はわたし自身とイコールではなくなり、もはやたんなるがらくたとなった。
いさかいの典型的原因は、自分が相手に与えたものを数え上げてみせることだ。そのとき贈物は、力くらべの手段でしかない。「あなたのためにわたしがどんな犠牲をはらってきたことか!」「しかしそんなものをもらってどうしろというのか!」──贈物についてむやみに語るべきではないのだ。
- 【自傷】
恋愛主体はしばしば、自分で自分を苦しめようと努める。自分の内に自分を傷付ける(嫉妬の、拒絶の、屈辱の、自信喪失の、見捨てられることの、面目を失うおそれの)イメージを呼び起こそうとして、忙しく立ち回る。そして傷口が開けばこれを維持し、さらにもろもろのイメージを供給しつづける。
あの人への想いと、欲望と、後悔と、怒りとが、わたしの心を動揺させてやまない。
- 【経済】
恋愛主体は備蓄も補充も一切考えず、毎日のように自分の愛を浪費する。他方、善良な市民は自分の財産と幸福の倹約にこれ努めている。
恋愛のディスクールにも計算はある。わたしもいろいろと理屈をならべたてたり、計算したりする。このわたしが相手のためにどれほどの努力(譲歩する、隠す、傷付けない、楽しませる、など)をむなしく浪費していることか、ひそかにわからせようとするために。しかしこうした計算は要するに焦燥のあらわれなのであって、最後には儲けてやろうなどという想いはみじんもない。浪費と熱狂の倒錯的経済学。その歯止めのない浪費が、悲哀や意気沮喪や自殺の衝動によって断たれることもある。
恋愛のディスクールとは、けっしてさまざまな精神状態を計量経済学的に平均したものではない。
- 【脱現実】
恋愛主体にとって、愛する人と関係のない現実は後退していく。愛する人から切り離された苦しみのなかにいるときは、大好きな画家の画集でさえも灰色に見える。
わたしは現実を耐え忍ばなければならない。恋愛主体にとって現実は無作法だ。恋愛をしていない状態であれば週刊誌は面白く、レストランの食事は素晴らしく、画家の絵は美しく、祝日の祭りは楽しく、政治事件には興奮させられるだろう。だが恋愛をしているとき、これら現実の体系はひたすらわたしに押し付けられてくる、共感しえぬものとして。そのとき世界は「脱現実」化する。
非現実については千もの小説があり、千もの詩がある。しかし脱現実は語られたことがない。
- 【ドラマ】
恋愛主体がみずから自分の恋愛小説を書くことはできない。書けば陳腐さがあらわになるばかりだから。「XがYと一緒にいるのに出会った」「今日Xは電話をくれなかった」「Xは機嫌が悪かった」等々。誰がそこに物語を認めようか。できごと自体はいたってささやかで、それがわたしに引き起こす巨大な反響を通じてのみ存在しているのだ。書けるのはただ、わたしの気紛れの日記だけだ。「他人」ならわたしについての小説を書くことができるだろうか。
- 【急所】
恋愛主体は特別に敏感である。そのせいでごく軽い傷にも痛みを感じやすく、無防備になっている。何がいつわたしの痛点に触れるかわからない。世間が楽しんでいることもわたしには不吉と見える。恋愛主体は癇癪もちというべきか、過敏症というべきか、いや、むしろ、ある種の樹木の繊維と同じように、柔らかく崩れやすいというべきか。
- 【抱擁】
恋愛主体にとって、愛の抱擁という身ぶりは、しばしば愛する人との全的合一を成就するかのように夢見られる。
生殖のための抱擁は脇に置こう。それ以外に、もう一つ、不動のからみ合いとも言うべき抱擁があるのだ。そのとき恋愛主体は、心を奪われ、魔法にかけられたようになる。眠りこまずして眠りのなかにいる。まどろみがもたらす小児めいた官能のただなかにいる。子供が母親からお話を聞いているのと同じだ。この心地良き幼年期のなかで、なにもかもすべてが不動のままに宙づりとなる。時間も、掟も、禁忌も。なにひとつ消耗されるものがない。なにひとつ欲望されるものもない。あらゆる欲望が決定的に充たされてあると思えるからだ。
しかしながら、この小児めいた抱擁のただなかにも、生殖的なものが出現することがある。それはこの近親相姦的なまどろみの官能を断ち切る。所有願望が働きはじめ、小児に成人が重ねられてゆく。そのときわたしは、一時にふたつの主体である。
- 【世間】
いかなる恋人も世間から遊離して生きることはほとんど不可能だ。世間はあつかましい人々で充ちているが、そうした人々ともあの人を分け合わねばならない。世間はわたしのライバルである。レストランで隣り合わせた連中があの人に話し掛ける。あの人は社交的な儀礼として、腹だたしい邪魔者に対しても優しい心根を見せる。相手が事物でも同じことだ。あの人は俗っぽい書物に夢中になる。わたしはその本に嫉妬する。わたしたち二人だけの関係に疵をつけ、せっかくの結びつきをゆるめてしまうようなものは、すべてが腹だたしい。
わたしは他人に対し、あの人に対し、わたし自身に対していらだちを覚えている。そこからいさかいも起こってくるのである。
- 【罪悪感】
恋愛主体は、とるにたらない日常的状況において、不意に愛する人に対する義務を怠ったと思い、罪悪感をおぼえる。
献身における後退はすべてが罪である。罪悪感は、恋愛対象に対して漠然と不服従の態度を取るだけで生じる。服従の状態から逃れるべく自分を怠惰にするたびに、わたしは罪を犯したと感じる。逆説めくが、そのときわたしが有罪と感じるのは、わたしのあの人への献身の重荷が軽減されるからだ。要するに、「うまくやる」(世間の忠告に従って)ことが罪なのだ。恋愛主体のわたしを有罪と感じさせるのは、自分にそなわった常識人としての自制力である。
- 【祝祭】
恋愛主体は、愛する人との出会いをすべて祝祭のごとく生きる。その喜びは強力だが秘めやかなものであって、爆発するような喜びではない。わたしは、夕食を楽しみ、会話を楽しみ、やさしさを楽しみ、たしかな約束を楽しむ。幼児が目の前のできごとに笑い声をあげるように。
- 【想像的同一化】
いろいろな恋愛関係を眼にするたび、恋愛主体はこれを凝視し、自分が当事者だった場合を想像しがちである。Xに対するわたしの関係が、Zに対するYの関係に相同することを確認する。
この最悪のパターンは、わたしが自分では愛していない人から愛されるというものだ。それは、わたしにとって助けになるどころか、むしろ苦痛である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを自覚せざるをえないからだ。わたしの愛する人は、たとえ無意識にもせよ、このわたしをますます錯乱のなかへ押し込み、愛の傷口が塞がらぬよう、その痛みがますます鋭くなるようにひたすら振る舞っているかのようだった。わたしがやっていることも同じではないだろうか? わたしには自分が、犠牲者であって同時に死刑執行人であるとも感じられる。
- 【イメージ】
恋愛におけるもっとも深刻な痛手は、知ったことよりも見たことから来る。
「あの人はわたしを避けるように身をかわした。そして別の人間と親しげに話し込んでいる」。イメージはくっきりと切り取られる。まるで文字のように鮮明に。それは、わたしを傷付け苦しめる事柄についての文字なのだ。明確で、完全で、入念で、決定的で、わたしの立ち入る隙はない。わたしは締め出されている。
イメージは断固として決定的なものである。いかなる認識をもってしても、イメージに反駁したり、これを修正したりすることはできない。たとえばわたしは、あの人がわたしを嫌ってはないことをよく知っている。にもかかわらず、あの人がわたしを避けたというイメージによって、わたしは稲妻に打たれる。
イメージ自体には色彩も厚みもない。ただ、恋する者が全体として、総体として、良い気分でいるか悪い気分でいるかによって、実に多様な光と熱のニュアンスがイメージにそなわる。
- 【不可知】
恋愛主体は矛盾した信念を持っている。わたしは誰よりもあの人のことを知っていると信じているし、あの人に向かって誇らしげにそう断言もする。そのくせ、しばしばわたしはあの人の理解不能な側面によって不意打ちを喰らうのだ。愛すれば愛するほどよくわかる、というのは真実ではない。恋愛対象は本質的に知るべき対象ではない。わたしは永久に未知のままでありつづける人を愛している。わたしにはついにあの人のことがわからないだろう。
裏返し。「どうしてもあなたのことがわからない」とは、つまり、「あなたがわたしのことをどう考えているのか、どうしてもわからない」ということだ。
恋愛とは、原理的に相手の不透明性を望むものであると言えないか。
- 【誘導】
恋愛主体が特定の対象を愛するに至るのは、実は、誰か(他人、言語、書物、友人)からの誘導があったからである。いかなる恋愛も初源的なものではない。「恋が生まれるまでは、美は看板として必要である。美は将来愛することになる対象に人々の賞讃を集めることによって、この情熱を準備する」「趣味恋愛、そしておそらく情熱恋愛でも、最初の五分間においては、女は恋人を選ぶにあたって、彼女自身が男を見る気持ちよりも、他の女が彼を見る態度を重んじる」(スタンダール)。
だから親友が愛していた人に恋するというのは、ありふれた挿話である。競争相手というのは、最初はみな師でありガイドであり、友人であり仲介人であったのだ。恋愛体験に特有の難題は、「誰を欲すべきか教えてください。でも、そのあとは立ち退いてください」というものである。
- 【相思相愛】
あの人は、わたしがいつも身近におり、しかも、ほんの少し自由にさせてくれるよう望んでいる。おりおり姿を消す柔軟な存在であって、しかも、あまり遠くへは離れてゆかぬよう、望んでいる。つまり、わたしは常に或る程度欲望を禁じられていなければならない。静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親でなければならないのだ。「うまくいっている」カップルの構造とはそうしたものであろう。いささかの禁止と多くの自由。
- 【科学】
愛する人について意味もない情報を注進する「科学者」は、わたしに対し、ひとつの秘密をあばいてみせることになる。彼がわたしに伝えるメッセージは、どれほどあたりさわりのないものであろうとも、わたしの相手を、どこにでもいる他人たちの一人に還元してしまう。そうした情報は苦痛である。陰鬱で不快な現実の破片が、わたしの頭上に降りかかってくる。恋愛の繊細さにとって、事実というものはすべて、なにかしら攻撃的なところをそなえている。「科学」は常に「想像界」を侵略する。
- 【辛抱強さ】
理性的感情においては、いかなるものもけりがつき、いつまでもつづくことはない。
恋愛の感情においては、いかなるものもけりなどつかず、いつまでもつづく。あまりの鋭さゆえに、ついに衰えることのない不幸。
- 【愛しています】
「愛しています」──この表現を一方に「わたし」があり、もう一方に「あなた」があって、そのあいだに合理的な情念の関係がある、というふうに捉えるとおかしくなる。本来「愛しています」は一気に投げ出されたものだ。いかなる保証もなしに。しかも、この表現は体験的にみて不可能なことを求めている。「愛しています──わたしも」。恋愛主体はわたしたち二人の発語がまったく同時になされることを求めている。どちらが主でどちらが従でもなく、先後して言われるのでもないことを。わたしが差し出す「愛しています」を、あの人は定式通り、断定的に、漏失なしに、そのままのかたちで発語してくれるのでなければならない。それは要するに革命だ。改良主義は恋愛主体の気をそそらない。
- 【憔悴】
恋愛主体の欲望はたちまちに充たされることを求めない。それは直接性と対極にある。恋愛主体は、ただ待つことしかない。「わたしはあなたを欲しつづけていた」という憔悴が、恋愛状態における欲望の常態だ。恋愛主体にとって欲望とはとめどなき出血であり、ここちよい火傷ででもあるかのようだ。癒されることのない餓え。愛の疲れとはそうしたものである。
- 【恋文】
恋愛主体が愛する人に宛てて書く手紙は、一つの情報しか持たない。「わたしはあなたのことを想っています」。それがさまざまに変奏されるだけだ。
「あの人のことを想う」とは、あの人を忘れるということを必然的に含む。そしてしばしばその忘却から目覚めるという意味だ。わたしはあなたのことを常に考えているわけではない。ただ、ときどきあなたに立ち戻る。あなたを忘れている度合いに応じて。この再来のリズムこそ「想い」であり、手紙の内容それ自体としては空虚である。その文面には相手に気に入られようという戦略すらない。せいぜいのところ、相手におもねる程度である。
ただし、欲望としての恋文は返事を期待する。相手に対し、答えを寄越すよう、暗黙のうちに命じている。それは愛する人についての単なる独白と同一ではない。
- 【多弁】
恋愛主体の多弁を止められるものは何もない。ほんのささいな痛手が原因で、わたしの脳裡に、言語の熱というか、さまざまな理由づけと解釈と長広舌のつらなりが突発する。わたしの意識に、相手なしにひとり語りつづける機械が腰を据える。恋愛の多弁にあっては、くり返しを妨げるものはなにものない。「正当な」表現だとわたしが思える文が脳裡に生じると、それがもたらす安らぎに応じて、それをいくどとなくくり返す。おのれの傷をいくどとなく飲み下しては吐き戻す。はなばなしく涙を流す。万一、涙がおとろえをみせてきたら、わたしはすぐさま自分に対し、あらためて涙をかきたてるような苛酷なことばを投げつける。
いわば、われとわが傷口をいじくりまわしているのだ。
- 【共鳴】
恋愛関係とはいわば精密機械だ。そこでは音楽的な意味での振動の合致と共鳴の正確さが根幹をなしている。くいちがったものは、即、余計なものなのだ。
わたしが送ったことば(話、手紙)に対するあの人の答えが、ことばを惜しむものであったり、まったく返ってこなかったりするとき、わたしのことばは余計なものとなる。売れ残りのようなものだ。貨幣がくず紙となる。わたしの感情が、反応ひとつない空間のなかで弱まり、消え失せる。このように冷ややかな聴き手を前にするとき、決意の苦悩が生じる。長い沈黙を前にして、なお追いつづけ、語りつづけるべきか。あきらめるべきか。
完璧な恋人とは、思うに、あなたの周囲に最高の共鳴効果を作り出してくれる者のことではないか。愛情とは完全な音響空間のことだと言えないだろうか。
- 【不機嫌】
恋愛関係において嫉妬はつきものである。しかしそれが露骨にあらわれれば関係の輝きを曇らせてしまう。所詮それは自分自身に対する不満でしかないのだ。嫉妬をそのままあらわせば、なにかと不都合な事態を引き起こしかねない。
だがわたしはその黒い感情を押し隠せるほど立派な人間ではない! そこでわたしは、嫉妬のあらわれる方向を微妙に変える。派生的で、和らげられた、あいまいな、中途半端な表現を与えてみる。真意はあからさまに述べられないが、形式だけは放棄せずにおく。このあいまいさの所産が不機嫌である。暗々裏に読み取られるべきものとしての。「なにかがうまくいっていないことを、あなたはここに読み取るべきである」。わたしはただ、自分の感情をテーブルの上に置くだけだ。ただし、この包みをひろげることは保留しておく。
不機嫌とはそうしたものである。微妙な恐喝のための露骨な記号。
- 【現代性】
現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。「恋」という語が頻繁にくり返されることは軽蔑の対象にすらなっている。今や、性的なものはそれほど下品だとは言われない(それは大手を振って世間を歩いている)。むしろ、恋愛主体がわが身ひとりで引き受ける感傷性こそ、より下品だと見なされている。わたしが性生活について深刻な問題をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかしわたしが自分の感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心を持とうとしない。
恋する者は錯乱している。その錯乱はおろかしい。恋する者ほどにおろかしい者があるだろうか。電話がかかってこないからというので、わたしは本気で自殺を考える。そのあまりのおろかしさゆえに、小説、演劇、あるいは精神分析といった媒体抜きには、あえて恋する者のディスクールを称揚しようという者がいないほどだ。心理的なみすぼらしさ。そこには壮大さがないのだ。
おろかしさとは、不意打ちを喰うということである。恋する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、整理したり、検討を加えたりしている余裕がない。たぶん彼にも自分のおろかしさが分かっているだろう。しかし彼はそれを非難することをしない。ニーチェのロバと同じように、彼は、自分の恋愛領野にあるかぎりはすべてに諾を言う。頑固に学習を拒み、いつまでも同じ行為をくり返す。
「この世界には飢えて死ぬ人々が数多くいて、多くの民族が自由のための苦しい闘争をつづけているというのに」、恋愛主体は相手が不在をよそおっただけで涙に暮れている。恋愛の極度のおろかしさを引き受けることは、反時代性の象徴でありうる。
- 【涙】
恋愛主体は涙に堪え性がない。想像界に支配された恋愛者は、今日の成人を涙から遠ざけているあのマッチョイズムを頭から無視する。
一切の拘束抜きに涙を解き放つ恋愛者は、ひたすら肉体の命ずるところに従っている。小児が肉体に従うように、と言ってもいい。
泣くことでわたしは、誰かに印象を与えたい、圧力をかけたいと思っている(場合によっては自分自身に。自分の苦痛が幻覚でないことを自分に証明すべく)。泣くことによってわたしは、わたしの言語のメッセージではなく、わたしの肉体のメッセージを受け取ってくれる、強力な対話者を想定しているのだ。やはり幼年期のように。
- 【うわさ話】
恋愛主体にはうわさされることも、うわさすることも耐えがたい。
うさわ話のディスクールは容赦がない。うわさ話とは、いたって気軽で冷淡なものであり、だからこそ一種の客観性を帯びてくる。その声は科学の声と重なり合うようにさえ思える。科学のディスクールもまた、わたしが愛する者のことを、気楽に、冷淡に、客観的にしゃべりまくり、真実と称して下世話に語ろうとする。
うわさ話はあの人のことを、三人称の彼/彼女に還元してしまう。この還元こそがわたしには許せない。
- 【ひとめぼれ】
狩猟においては略奪する者は常に能動的である。恋愛においてはどうか。わたしは恋に落ちた。あの人はわたしの魂を奪った。ところがあの人の方はなにひとつ望まず、なにひとつ行動したわけではない。動こうともしないのだ(イメージ)。この略奪の真の主体は、略奪されるわたしの方である。拉致の対象が愛の主体となるのだ。そして略奪した主体は、愛される対象の側へと移行する。
ひとめぼれとは不意打ちの催眠状態のことだが、わたしを魅惑するのは、なんらかの状況下にある身体のイメージ、仕事中の姿、すなわち、わたしのことなど気にとめていない姿である。仕事中の姿はわたしに、イメージの無垢さとでもいうべきものを保証してくれる。相手が忙しさと無関心(わたしの不在に対する)の記号を差し出せば差し出すほど、わたしは、それだけ確実に不意打たれることになるのだ。
- 【知り合う】
出会ってからまだ間もない頃、二人はまだ互いを知らない。したがって、互いに語り合わねばならない。「わたしはこういう人間です」。物語ることの喜び、知を充たしては遅らせる喜び、知を軽やかに打ち返す喜び。語り合いを通じてわたしはあの人のなかにたえずもう一人のわたしを見出す。あなたはこれが好きなのですか、わたしもです。あなたはあれが嫌いですか、わたしもです。
知り合う過程のなかでわたしは愛する人の完全さ、わたしの欲望に対する適合性を探査する。それは恋愛関係に傷心、苦悩、悲嘆、恨み、絶望、困惑、そして数々の罠が生じる以前の、はじまりの甘美さの時期である。恋愛が終ったあと、この時期はしばしばもっとも至福な時間として思い返される。
- 【内的な嵐】
恋愛主体の主観においては、ひとつの語、ひとつのイメージが、苦痛にみちた反響を惹起する。
恋愛の想像界では、何事につけ、とるにたらぬきざしと本物のできごととの区別がない。わたしの脳裡にさまざまな破局の予言があらわれる。わたしは恐怖とともに微細で鋭利な記憶を呼び覚ます。なにかがあまりにも強力に反響すると、肉体の内部に大変な騒音が沸き起こり、わたしは活動を停止するほかない。内的な嵐の通過を待つしかないのだ。昼のベッドに身を投げ出す。自分の内部から一切のイメージを抹消しようとする禅僧たちとは違い、わたしは、たえずイメージに充たされつづけ、イメージがもたらす苦痛をとことんまで味わおうとする。
- 【いさかい】
恋愛におけるいさかいは同意を目指しているわけではない。説得を目指しているわけでもない。弁証法はない。いさかいにおいて真実なのは、どっちにも順番が来るということだ。相手の言うことに耳を傾けるのではなく、ことばの富の公平分割に二人ともどもしたがう。この対決は無分別である。子供ができる怖れのない楽しみのように。
いさかいは相違をめぐってはじまる。一方は困惑し、他方は興奮している。こうした不均衡状態が始動するには、ひとつのおとりが必要である。いさかいのパートナーのいずれもこれを自陣に惹きつけようとする。そうしたおとりになるのは、ひとつの事実(一方が認め、もう一方が否認するもの)か、ひとつの決定(一方が迫り、もう一方が拒むもの)である。この相違はいさかいに先行してすでにある。つまりいさかいには説得的な決着などなく、ただ起源があるだけで、しかもこの起源というのが、ついに直接的なものでしかない、それが口論というものの特質である。
いさかいに停止を強要するものはなにもない。ひとたび相違が与えられれば、その拡張は無限に更新可能である。出発点となったそもそもの相違が、ひとつひとつの応酬に常に分割的に見出される。いさかいを中断させられるのは、外的で偶然的な情況のみだ。パートナー二人の疲労。第三者の到来。欲望から攻撃への唐突な置換……。
いさかいのパートナーは、みな自分が最後のことばを言いたいと思っている。ひとつひとつの応酬によって、何かの事実があらわになっていくということはない。ただ、最後のせりふが勝利を収めるというだけのことである。重要なのは、さいころの最後の一振りにすぎない。したがって、いさかいはチェスとはいかなる点でも似ない。いさかいはむしろ、輪回し遊びに近い。ただしここではルールが逆で、ゲームが終ったときに輪を手にしていた者が勝者となるのだ。
- 【記号】
「わたしは愛されているのだろうか」。それを証明するものなど、ありはしない。あるのはまず突如として来たるイメージと、そのイメージから恋愛主体がとめどもなく出現させてゆく良い記号/悪い記号だけだ。「心から尊敬していますわ、か。あの言葉は何を言っているのだろうか。まったく昔のままの親密さに戻ったことを言っているのか。口説き文句をやめさせるための丁重なあしらいなのか」。わたしにはついに、何が正常であるのかわからない。「とんでもない、彼女がそんな当てこすりをするなんて、正常なはずがない」、「でも、彼女がわたしにそういう当てこすりをするのは、まったく正常なことだ」。真実を望む者に、答えは常に強烈で鮮烈なイメージで与えられている。しかし、そうしたイメージを記号に変換しようとすると、たちまち曖昧かつ浮動するものになってしまう。
記号は証拠にならない。誰だって、偽りの記号、両義の記号を作り出すことができてしまう。だからこそ、「告白」が重視されるのだ。わたしはたえずあの人に、自分があの人を愛しているということを言わなければならない、なんの暗示や解釈もなしに、真実の記号として。
- 【あるがままに】
わたしはあの人のあるがままを愛しているのか? 実際にはわたしの心は狭量だ。実を言うとわたしは、あの人のことをなにひとつ認めず、なにひとつ理解していない。あの人のことでわたしと直接かかわりのないものは、すべて奇妙で敵意あるものと見える。そこでわたしは、あの人に対し、恐怖と非難のないまぜになった感情を抱くのだ。
不思議なことに、あの人が自分自身であろうとする「自由」が、わたしには、常同不変の強情さと感じられる。このような意味での「あるがまま」は、わたしにとって苦痛なものである。それがわたしたち二人を分離させるから。
- 【真実感】
恋は盲目。この諺は間違っている。恋はしっかりと両眼を開いている。
世間が「客観的」とするものを、恋愛主体はまがいものと見る。世間が狂気、幻覚、あやまりとするものを、恋愛主体は真実だと思う。錯覚の一番奥にこそ、奇妙にも真実感の訪れがあるのだ。一切に逆らって無限に肯定されるとき、「錯覚」がひとつの真実となるだろう。要するに、情熱恋愛のなかにこそ、真の真実の一端がある。
真実とは、それが取り除かれたあとには死だけしか見出せないようなものであるだろう。そのとき人生は、もはや生きるに値しないものとなるだろう。
- 【非-占有願望】
愛する人をわがものにしようと望みつづけるからこそ、自分は苦しむのだ。そう悟った恋愛主体は、決意する。ベッドに身を投げ出し、あれこれと思いあぐねたすえ、心を決める。今後、あの人については、なにひとつ占有を望むまい。
この「非-占有願望」は自殺を逆向きに代償するものである。あの人から愛されないのに自殺しないでいるとは、つまり、あの人を占有すまいと決断するということだ。断念するか、さもなくば死だ。
しかし「非-占有願望」は善意だろうか。献身ではありえない。わたしはいまだに欲望が自分のなかを循環するにまかせている。ということは、断念したふりをしながら、わたしは相も変わらず(秘かにではあるが)あの人を征服しようしているのではないか。わたしが遠ざかるのは、より確実にあの人を捉えんがためではないか。非-占有願望とはひとつの戦術なのだ。
わたしは自分の情熱を退化させたわけではない。非-占有願望は、きわどい運動を通じて、たえず欲望をそそぎこまれている。わたしの脳裡には「愛しています」がある。しかしわたしはそれを唇の裏に封じ込めておく。わたしは発語しない。非-占有願望もまた、相手に悟られてはならない。わたしは沈黙のまま言うのだ、「わたしはあなたを愛することを堪えているのです」と。
- 【破局】
不謹慎な言い方かもしれないが、恋愛主体の体験する激烈な絶望は、絶滅収容所に収容された人びとの状況に似ている。自己の存在が無価値化し(相手から・世界から見捨てられたものとして)、全面的に崩壊する。友人たちや知人たちの影はすでに遠い。あの人との関係だけがわたしにとって意味のある関係なのだ。わたしは、いつもあの人の裁定を逃れられないと感じる。あの人がいかに偉大で、自分がいかにとるに足りないかという自己の無価値化を身に染みて味わう。わたしは自分が見捨てられてしかるべき、魅力のない、好かれない、ひとりぼっちの存在であるというふうに思い込む。絶滅収容所では、この状態からさらに一歩進めば、自尊心も自己決定も何もない、殴打の痛みも拷問の痛みも感じない、生ける屍となり果てるという。
恋愛の破局は、予告なく訪れる。ときには耐えがたいイメージのせいで。ときには唐突な性的拒絶のせいで。「親しさの瞬間は美しい五月の日のようなもので、微妙な一時期である。それはどうかすると恋の命とりともなりかねない一時期で、最も美しい希望を一瞬のうちにしぼませてしまうことがある」(スタンダール)。
- 書誌情報:ロラン・バルト著、三好郁朗訳、『恋愛のディスクール・断章』、みすず書房、1980年
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