resume:アラン『スタンダアル』
- 自我至上主義(エゴチスム)のための断章
文体の効果。──いまだスタンダールの突き抜く文体の効果はくみ尽くされていない。この文体は人間の魂を開く最も甘い最もやさしい情緒を呼び起こす瞬間においてさえ、人をかんがえさせる。そのとき読者は、自分がまだ十分理解していないことを発見するのである。
反-懐疑主義。──スタンダールにおける率直はじつに稀なものであるから、あらゆる場所に偽善を嗅ぐ疑い深い魂にとってすでにしてこれは友情でなければならぬ。それはヴォルテールの寛大とは似ても似つかないものである。ヴォルテールにあってはいつも、かれ自身に対してすら、皮肉と軽蔑の臭いがする。反対にスタンダールにおいては一つの発見をするたびに人は愛し確信することを学ぶ。スタンダールには懐疑主義の片鱗すらみとめられないのだ。
信念によって明晰に見る。──スタンダールは信念によって明晰に見るという驚くべき素質を持っていた。かれの眼には、力を持つ者にあってはすべてが自由で寛大で、他者はその反射にすぎぬ。峻烈は愛であり、言いえべくんば恩赦である。
自我至上主義者の普遍性。──成功を求めるスタンダールはかんがえられない。自己の快楽以外のものを求めるかれはかんがえられない。これがかれの出発点であり、同時にかれがひきこもった牙城である。音楽であれ、恋愛であれ、人間の探究であれ、かれはつねにかれ自身の眼で見たことを正確に知るという点に帰ってくる。他人は無視されている。他人は裁判官ではない。かれの主人公たちはみんな他人に気をかけない男ばかりだ。何をする必要があるか、何をする義務があるか、何をかんがえるべきかを決して他人にたずねない。「くそっ! 名声がおれに何の役に立つ」とジュリアンは言う。これが利己主義者(エゴイスト)ならぬ自我至上主義者(エゴチスト)である。スタンダールは他人を必要としないわけではない。そうではなく、かれは他人が自己についてかれに向かっていうことを信じないが、かれ自身見た上でかれが他人について他人に向かっていうことは、全部信ずるのだ。これは普遍的に感じることだ。スタンダールは普遍的自我を一種の確信によって発見したのである。この自我こそおそらくかれ独特の天才であり、ひとを動かす意図の下に書きながら、かれがかれ自身興味があったことしか書かなかった所以であり、また、かつて他人の気に入るために表現を変えず、気に入らないといってもおどろかない所以である。
美化もしない、阿諛もしない。──モスカ・デラ・ローヴェレ伯爵という作中人物について。スタンダールはモスカを美化もしないし、阿諛もしない。かれは鮮明な筆致で、認識の困難に起因する例の安易な留保をしないで、容赦なく描く。一体かれは決してこの種の用心を濫用しないのだ。かれの諸人物ではすべてが明るみに出る。注目すべき点だ。私はここで大変にいきわたっている一つの陳腐な意見について考察しないわけにはいかぬ。すなわち他人を知ることはできないという意見だ。スタンダールには片鱗も見当たらぬかんがえだ。まったく反対に、かれは片端から目前に現われる男女をつらぬく。ナント付近の緑色の帽子の女(漫遊者の覚書)のようにとおりすがりに見た女でさえつらぬくのだ。
自己に忠誠な魂。──モスカはおもいやりのある確固たる人物で、友人のためでないとうごかない。したがって友人たちはかれを心から信頼することができる。ファブリスはかれを信頼してあやまたなかった。が、パルム大公は信頼するとひどい目にあう。伯爵は尊敬の念なく大公のことを人に語り、恋と友情のためには一挙にして裏切った。ファブリスの脱獄のあいだ「伯爵は共もつれず徒歩だった。かれは二時間たってあたりがすっかり静かになるまで城砦の付近を去らなかった。(とうとう大裏切りだ)と喜びに酔いながらかれはひとりごちた」(パルムの僧院、二十二章)。表現の至上の力(しかもこんなに短く簡単である)に諸君の注意をうながさずにはいられぬ。人間を不意に襲うようにして裸にする、こうしたやり方は、長い分析によって構成するやり方よりも秘密を暴くには効果的だとおもわれる。この政治家の嫉妬の真に怖るべき描写を見られんことを(七章)。危機はすべて行為と言葉に現わされ、すべて表面に出てそのはげしさのために初めて強力となる。かれ自身と向きあってもっぱらかれ自身のために伯爵は自己と格闘する。偽善の痕跡もない、下劣さも悪意さえないのだ。ただ重大な危機がある。真に人間の名に値する人物、ジュリアン・ソレル、リュシアン・ルーヴェン、ファブリス、モスカたちの運命である。かれはただかれ自身から発して危機に曝され、恐怖にとらわれる。危機にあって、ただかれにとってのみ重大な人知れぬ問題の解決に専心する。この自己の自由を望み、自己に忠誠なはげしい魂にあって罪悪はありえない。空想と偶然からきたものはたちまち忘れられる。「ファブリスはうつり気だった……」(十九章)。この力づよい孤独者に対照すれば怯懦な下劣な性格は容易に定義される。かれらは単に性格というものを持たないにすぎぬ。かれらはしたがい、屈し、阿諛する。ラッシ、コンチ、クレセンチ、「リュシアン・ルーヴェン」のなかの大臣と知事たち、ド・レーナル氏、ヴァルノ等々。この滑稽と醜悪の混合のなかに段階はありえない。内心の自由を失った完全な廷臣にすぎぬかれらについて、何ごとかを語ることは不可能である。
内心の法規。──スタンダールにおいては、何事も公衆の意見をおもんぱかって行われはしない。すべて、犯罪でさえも内心の法規にしたがう。人の好悪を無視し単に自己の自由な部分から判断し軽蔑することをあえてする。もしファブリスの死、あるいはジュリアンの死に何か足りないものがあるとすれば、それは悔悟である。「自殺に救いを求めるには、ファブリスはあまりに恋していたし信心深かった。無論かれはあの世でクレリアに再会することを期し望んだが、なおいろいろ取りつくろう余地があるのを感じないほど馬鹿ではなかった」(パルムの僧院)。スタンダリアンであるか、そうでないか、その中間はゆるされぬ。
自己への忠誠。──スタンダールが再発見したもの、後代の幸福のために再生させられるべきもの、それは自由人の観念、自己に対する義務の観念である。
称讃する振りをしない。──「私は万人を疑えと勧める。この私さえもだ。肝心なのはじっさい快楽を与えたものしか称讃しないこと、そこらの称讃する連中は諸君をあざむくために買収されているのだとおもい込むことである」(「ロオマ散策」)。「猫も杓子も感歎した振りをし文句を並べる。ロオマ中でぶつかるこれらの情熱的感歎を演じている退屈した顔つきほど愉快なものはない」。
罪知らず。──スタンダールはあらゆる対象を怖れることなく底までかんがえる。スタンダールは自由な魂のなかで、不安もなく恐れもなく後悔もなく幸福で、このゆえに崇高であり確実に救われている。反対に、月並みな罪悪の観念と外部の宗教こそスタンダールに似てもにつかない「罪人」をつくり上げる。
反-外部的道徳。──スタンダールにおいて心を正視する怖れは消え失せている(この怖れこそあらゆる外部的道徳につきものの下劣さであった)。あらゆる貸借金は御破算となり、あるいはあらゆる判断が情熱をもって公平となる。道徳の外部的規律をかれは嘲笑する。魂の力と自己に対する忠誠こそ徳である。サント・ブーヴのような文学の従僕には理解できないことだ。サント・ブーヴは徳は存在せず、すべては売買されるとくり返した。誰しも要するに奴隷なのだから、サント・ブーヴ自身も奴隷であることをゆるされたいというわけだ。
人間嫌いではない。──スタンダールの高邁な偉大さと内的自由は、せいぜい人間嫌いの域をでない高ぶった軽蔑と同一のものではありえない。だが、スタンダールの愛読者でも後者を讃美する者がいる。事実、サンセヴェリーナ公爵夫人の偉大さについてはあまり論議されない。
全的不信=全的信仰。──スタンダールは朗々と歌い上げない悲劇作家だ。スタンダールは読者に何かを信じさせようとしているのか? スタンダール独特の響きとかれの散文の足取りを聞きわける者に対しては、かれは何かを信じさせようとは意図しない。かれはすべてを信じさせるのである。全的不信と合致した全的信仰のニュアンス。そこでは思考の時間だけが真実であり、過去と未来は一つになってわれわれに従属しているが、なおわれわれは依然一種の運命から逃れることができない。人は自由であればあるほど、自分自身に忠誠で、いつも同じ生活をふたたびはじめるものだからである。
疑う者だけが確信する。──スタンダールの信じかつ疑う技術。それはおそらくまた感じる術でもある。彼は他人から自己の感情について教えられでもしたかのように知ったと信じている人間ではない。無暗に自分や他人を信じ込んでしまうとき、どうして恋をすることができようか。疑う者だけが確信することができるのである。
明かさないこと。──かなり騒々しく陽気だったスタンダールは、しかし声高に語る人たちを嫌悪していた。かれの文体は決して声高に語らぬ。そして、誇張が明かしとなるようなところでも、言いえべくんば声を低めるのが常である。おそらくかれは明かしを避けているのだ。すべて新しい人物の特質である。
ジュリアンの野性。──スタンダールはジュリアンをどのように描いたか。この点について躊躇すべき何ものもない。ジュリアンは貧民収容所長と晩餐を共にしている。かれは哀れな監禁されている者のことをかんがえている。「(今、かれらは飢えているにちがいない)とかれはおもった。喉がつまって、食べることも、ほとんど口を利くこともできなくなった。十五分たつと状態はさらにわるくなった。はるかに流行唱の節々が聞えてきたからである」「乞食ども」は黙らされた。「この言葉はジュリアンにはつよすぎた。かれは身分にふさわしい態度を身につけていたが、心はまだそうはいかなかった。かれの偽善はじつに頻繁に修練の機会をへたものだったにもかかわらず、かれは大粒の涙が頬をつたうのを感じた。その涙をうまく緑色のグラスでかくそうとしたが、ラインの葡萄酒はとても喉をとおらなかった。(歌までやめさせるなんて、ひどいことをしやがる。そしておまえはそれを見ぬふりをしている)」。このはげしい姿を見て、読者が狼狽するがいいとおもう。
スタンダール嫌い。──ジュリアン・ソレルを愛しない才人たちを私は知っている。とくにジュリアンを名指すのがかれらのおきまりだが、ついでにマチルドも侯爵もピラール師も生き生きとしたレーナル夫人も愛しないと言ったらよさそうなものだ。一般に、すべてこれら幸福を急追する野蛮な疾駆者を愛しないと言えば、なおいい。この作家は相も変らず気に障るのだ。
思想と文体の合致。──ひとりスタンダールの文体のみがかれ自身の大胆な思想を担いうる。かれの文章にあっては何者も不用でなく、何者も一時代を描出せず、しかも一時代をはなれていない。よく言えば、思想と事物の合致によって真実以上のものとなっている。この稀な奇蹟はもはや何物もわれわれに信ぜよと強いはしない。ただ感覚をあたえるだけだ。
想像の推理をしないこと。──大抵の政治学の欠陥は物理学でないことだ。すでにわれらの作家が「パルムの僧院」のなかで言ったように(八章)。「現実はかれにはまだ平板で不潔に見えた。誰しも現実を見つめることを好まぬのを私は認めないわけにいかないが、それなら現実に対して推理すべきではない。とくに無智の様々の断片をもとにして異議を申し立ててはならないのである」。
事物を正確に写す。──スタンダールの智慧は一つの道をひらいてみせる。すなわち絶対確実の経験にもとづかずして推論することを好かぬということ。スタンダールの指摘はすべて生きたうごかすべからざるものに向けられる。かれはいつも自分自身のためにかんがえ、あやまたぬように注意する。魂を売り物として叩いて音を出して見せる人たちとはちがう。すすんでそれに価値を付与するのだ。自由で率直で、友愛に満ちていながら取り入ろうという気のないこの人物は、模倣しない、事物を正確に写す。この労働者の仕事はかれを気楽にし、他のことを忘れさせる。ここからかれの特徴である簡潔深奥な名句がうまれる。
スタンダールの公正。──スタンダールは決して取るに足らぬ連中を軽蔑しなかった。かれの偉大さはもっぱら単純と明確、さらにすすんで言えば、あらゆる思想のあいだにかれが置いた平等という点にあった。
感歎を期待しない、弱点を待ち伏せしない。──スタンダールの無類の小説家の才能は、一部はこの諸人物(作中人物)がかれの前にひとまず平等であるということにある。私はこれが大人物に対する礼儀だとかんがえる。なぜなら、尊敬すれば、人は大人物の言うことを理解する前に、ほとんど聞く前に、信じてしまうからだ。これは不当だ。人に好かれることは誰しも望むところだが、必ずしも家柄とか職分とかの権利としてそれを望むのではない。私はこのスタンダールの政治学を、かれが大人物、たとえば枢機官の周りを回るときはっきりと見る。かれは感嘆を期待しない。と同時に弱点をも待ち伏せしない。かれはただ何らかの真実が現われるのを待っている。これはちょうど画面の掃除のような効果をもつ。色は不意に新鮮となり、人物は生きてくる。物語はどんどんすすむので、人はその源泉を見る暇がない。今や諸君はこのかくも人を動かす剥き身の文体の奇蹟を了解しはじめたこととおもう。政治的文体、まさにかれ自身言ったようにナポレオン民法の文体である。
準備は無感覚をみちびく。──スタンダールは権力の手段を明示している。手綱をゆるめた専制主義はありえない。これが結論だ。モスカはファビオ・コンチに言う、「もしファブリスがあやしい死に方をすると、私の仕事とおもわれます。私は嫉妬やきということになって、どうも人の物笑いのならねばならん。私には我慢できませんし、第一、私は断じて人にそんなことを言わせておきません。ですからもしあの男が病気で死ぬようなことがあれば、あなたを私の手で殺してあかしを立てますから、そのつもりでいてください」。スタンダールはつけ加える、「ファビオ・コンチは立派な返事をし、自分の勇気についておおいに喋った。が、伯爵の目つきはかれの頭を去らなかった」(十九章)。この調子はスタンダール的である。もともとこの活気ある人物生得のものだから、このするどい文体と結合して言わば倍加している。誰が何と言おうと、まず刺さねばならぬのは肉であり、皮膚はその次だ。つねにつよく打たねばならぬ。最初の一撃で突きとおさねばならぬ。大抵の作家の文体は準備のあいだに鈍ってしまう。準備は無感覚をみちびく。スタンダールにおいて不意打ちの効果は珍しくないが、いつも新しい。予見する間もなくわれわれは打たれつらぬかれる。
欲望よりも重大なこと。──モスカ伯爵が恋をするとは意外である。かれ自身にとってもこれは事実意外で、何よりかれ自身の意外がつよい。かれは人目をはばかりながらスカラ座に入るかれ自身のありさまにおどろき恍惚とする。「この恋人にとって待つあいだの二時間は少しも長くおもわれなかった。人に見られる心配がなかったのでかれは幸福にあらゆる気ちがい沙汰をやって見た。かれはひとりごちた、老年とは要するにこんな楽しい子供らしいことができなくなることではないか」。少し後で伯爵夫人の桟敷を訪れながら「不意にかれはそこへ顔を出したくないような気がした。ああ! これは愉快だ、とわが身を笑いながら叫んだ。そして階段で立ち止まりながら、これは本当の臆病だ、こんなことがなくなってから二十五年目だが」。こうした他人の勢力の支配の経験は注目すべきだ。ファブリスは一種の恐怖を経験する。「かれは大胆を失った、かれはクレリアの気を損なうことを非常に怖れていたから、かの女はかれにどんなきびしい罰でも与えることができたはずだ」。何でも怖がる者は恐怖に気がつくまい。自分が恋していることを発見した者は、今までありえようとはおもわれなかった一種の弱点を自己のなかに発見する。かくのごとく愛の情熱は、自分を不落と看做している傲慢な魂において、はじめて十分な発展を示すものである。一個の人間の幸福を突然他人の幸福に従属せしむるこの種の関心は、たしかに欲望より重大である。サンセヴェリーナ侯爵夫人はファブリスのことを欲望とともに考えたことはなかった。そういう気持ちはかの女に嫌悪をもよおさせたろう。かれに比べてかの女は自ら老婆とおもう(六章)。この恋愛はだから自らを知らず、あるいは無邪気な幸福のときに初めて意識される。この例によって、いかに感情が、低級な満足に立ち返らずまったく独りで(あるいはほとんど独りで)発展するものであるかを、かなり明瞭に見ることができるとおもう。この経験によって人は自らの魂を発見する。言わばそれがうまれるのを見るのである。このやさしい情熱のこもった夢想は絶対にそれ自身のなかで生長する。夢想の幸福がその証左である。牢獄のなかでファブリスは完全に現在の不幸を忘れる(十八章)。
英雄の嫉妬、月並みな嫉妬。──モスカ伯爵はあるとき嫉妬したが、十分その理由があった。かれの位置は次のような意味で悲劇的であった。かれは侯爵夫人がファブリスを愛していると自分でかんがえたことがあるかどうかは知らぬ、が、もしかの女がそうかんがえたとき、かれはすべてを失わねばならぬのをよく知っている。この嫉妬の研究(パルムの僧院、七章)は、今までに書かれたなかでも最も強烈なものの一つである。第一の苦痛は、かれにもファブリスが愛らしいと映るということだ。こんな競争者とどうして闘うことができる? この苦痛は恋愛の持ち前である魂の偉大さと関連するが、この偉大さの概念を今私はわが作者にしたがって形成しようとしているところだ。なぜなら、月並な嫉妬の解釈は全然ちがうからだ。あんなやつと見変えられるのは屈辱だと人は言う。が、こうしたかんがえはじつは恋愛以下のものだ。競争者を引き下げる、これは同時に自身自己を辱めることにほかならぬ。この下劣さの色合いは突如女たちの目を覚まし、英雄を失墜せしめる。愛するに足る真の英雄はまったく反対の行動をとる。言いえべくんば公平を重ねて気ちがいじみた偏頗に到るものだ。かれを侮辱しようとする高慢なマチルドと格闘する苦悩のとき、ジュリアンに起こったのもこれである(喜歌劇)。「要するにおれは他人の目には平凡で野卑で退屈で、自分自身には我慢ならない男なのだ」。
反-自惚れ。──自惚れる者たちは言う、われわれはわれわれ自身を愛する、もしわれわれがそれに値するならばそれで結構だ、と。が、スタンダールの主人公にはこの自己愛の片鱗だに見当たらぬ。かれが恋するやいなや、自己の内部は眼を開けていられぬつよい光で照らし出される。その結果、人に好かれぬことが心配になる。私がいささか主張しすぎるのをゆるされたい。私は精神の高貴を探究している。おもうに、そこには不滅の自由と、誓いの尊重と、酷薄な自己軽蔑があるはずだ。この感情はわが哲学者諸君の本にはあまり書かれていない。バルザックにおいてさえ、偉大なる魂は世論と社会と義務のお仕着せの下に埋れている。スタンダールの主人公な自己の前にただ一人で立つ。ただ一人自己に向かって答えようとしている。ちょうどスタンダール自身がただ一人であったように。これが讃嘆したいとねがう男の位置である。そして明らかに愛するよろこびは当の愛する人間の上には帰ってこない。愛する人間は自己を愛しない。かれが愛する者を愛する以外のよろこびはないのである。この位置には虚栄心は全然ない。なぜなら、第三者の意見は何ものも変ええないから。
自己に対する厳格さ。──真に愛する者はあたかも武装解除されたかのごとく、もはや闘わないものだ。裸の胸をさし出す。私は前にモスカの気おくれを指摘した。そのつづきを読まねばならぬ。「かれはほとんど自己を鞭うつようにしながら桟敷に入った。才智のある男として突発事件を巧みに利用する心がまえで、気楽さを見せたり面白い話に口を入れて才智をひらめかすなどということをしなかった。かれは臆病になる勇気を持っていた。才智をはたらかせて滑稽にならない程度で当惑を見せるようにした」(六章)。このうごきは決して自己に満足している人間のものではない。ジュリアン・ソレルは無論全然べつのやり方ではじめた。しかしかれが自己に対して正しい意見を持っていたとは言えないのである。かれが自分を滑稽で軽蔑されているとおもったのは正当である。かれは、かれが自由にできる唯一のものである勇気をもちいる。この勇気はすこぶる現実的なものだが、人は気がつかない。「(決心した以上、この手をとるべし)。かれの死ぬほどの苦しみのうちでは、ほかのどんな危険でもまだましだとおもわれたくらいだった」。しかもこの非常な努力をただかれ自身のためにするのである。誰も気づかぬ点だ。このやや野蛮な主人公には自己愛の片鱗だに見当たらぬ、むしろ、もしや自分が軽蔑に値いしはしないかと疑う、自己に対する厳格さがあるのだ。
魂の活力としての恋。──モスカにしろファブリス、ジュリアン、リュシアンにしろ、恋する人は決して自惚れない。不器用な素朴さで自らと語る。かれは偉大をもとめる。少なくともかれが愛するものの偉大をもとめるのである。まるでただ恋したというだけで礼儀や政治の些細ごとが作用しないべつの世界がひらけたかのように。私の知るかぎりこの思想は追求されなかった。情欲はむしろ病気あるいは過失として描かれ、徳はそれに打ち克つこと、つまり慎重と礼節において欠くるところなきことを意味した。これに対して、スタンダール流の恋は魂の活力であり、あらゆる徳の根本原理である。ここから私はジュリアンがマチルドを愛していなかったことを理解する。かれは自然のなかの一つの力に依存するようにマチルドに依存する。かれは不幸を期待していた。反対にド・レーナル夫人からは幸福を期待し、期待は外れなかった。かの女は欽仰〔仰ぎ慕うこと〕させたが畏怖させはしなかったからである。これらの王国は人に知られていない。スタンダールはしたがって、あのルイ十三世風の不撓の血統に属しているのだろう。この高貴な魂では、愛は、疑惑をおしのけつねに相手の過失を自己の過失とひき比べて正当化するあの偉大さによって、初めて完全な保証を得ることができるのだ。
スタンダールとヴォルテール。──対照するならばスタンダールとヴォルテールだ。かれらは同じ時代に生き、同じ言語を喋り、同じ種類の偽善者を嘲笑していたのだから。しかしスタンダールの抱いた愛の観念はヴォルテールには見当たらぬ。私はスタンダールの愛を、崇高をもとめること、あるいはお望みなら欽仰をもとめることと定義してもいい。情けの深い魂に対し、かぎりなく他者を嘲笑することをゆるすものだ。ヴォルテールはもっと真面目である。が、一種の意味においてであって最上の意味の真面目さではない。真の真面目さはかれにはむしろ少ない。宗教の片鱗もなく、深刻に人間嫌いな魂だ。この種の愛には少量の憎悪が混じっている。この狂気から醒めたいと人がねがう所以だ。これに対しスタンダールの主人公はそれを美しい狂気と呼び、勤勉な瞑想を以てそれを育てる。その目的は愛する女の美しい天才を発見し、それの「完成」について学ぶことにある。かくしてザルツブルグの小枝は塩坑に長いあいだ置かれたあと、その各々の枝先にかがやく星をつける。自然のあらゆる細部は美と変ずる。有名な「結晶作用」の比喩はこういう意味にとって初めて正しく解明される。意のままにならぬ、精神の機械的な部分に住む憑きものを意味するのでない。まったく反対に結晶作用は意志され、誘導されるものである。そして依然として幸福をうみ出すことを止めない。
愛人は奴隷ではない。──スタンダールの思想。真にその名に値する愛人は決して奴隷ではない。あらゆる限界を越えて自己の主人であり君主であり、つねに意志して自己をあたえることを止めない。これは恋の病の正反対である。病とは弱点だ。逆にかれは愛によってつよく、打ち克ちがたい。
恋の信仰。──スタンダールはまた愛する幸福について書いている。「私には、私が愛するような仕方で私を愛してくれる……大きな天才を持った女(ピエトラグリユア夫人の類)」(「断想」一八〇四年七月三十一日)。こうした天才を見つけるだけでも十分な報酬である。が、それにはまずそれを見ようとねがわねばならぬ。しかも眼、頬、歩きぶりなどのしるし、当てにならぬしるしから見るのである。かくして人は美の信仰とは何か、あるいはいかに美がそもそも信仰を必要とするかを理解するに到る。
愛なき快楽。──真の恋愛を探究するには、まず世間で恋愛と呼ばれているものを完全に軽蔑しなければならない。恋愛について非常に高いかんがえを持った男は、自然、愛なき快楽、王冠をうばわれた快楽を軽薄にあつかうようになるものだ。これはかれが恋愛できないことを示しはしない、その逆である。
反-化粧。──化粧を凝らした媚態はまさにスタンダールが恋の恋と呼んだものの正反対である。なぜなら恋をもとめる者は美の最初の印象、なかんずく健康と若さからくるにすぎない外観には信頼しないからである。単にこのために愛されるのは屈辱であり、いつまでも欺かれることにほかならぬではないか。有名な「アストレ」のデュルフェは、本当に愛されているかどうかをたしかめるためにダイヤモンドで顔を切った娘の話を物語る。これは夢にすぎないが、しかし、われわれの思考をおしすすめていけばかならずここにいき当たるはずだ。ラミエルは人の気に入るのは容易すぎると判断し、取るに足らぬ愛を怖れた。旅行や劇場で彼女が柊の緑をつけた所以である。かんがえてみれば偉大な無礼であり、美しい大胆ではないか。高慢な女はまずかの女が愛され、あるいはおそらくまずかの女が愛したときでないと人の気に入ろうとはつとめないものだ。じつにかくのごときものがわれわれの幸福と同時にかれ自身の幸福のために、スタンダールがひろげて見せる「優雅」の国である。奴隷の恋、病気の恋はかれの本には見当たらぬ。
自然なままの感情。──スタンダールの驚異に充ちた文体についていずれ後述するが、その前にも私はかれの物語がいかに単純で裸であるか一再ならず注意するつもりだ。言わば警察の調書の文章だが、この単一な文体が感情の瞬間のひらめきをおのずから現わすのである。これが自然のままというものだ。何よりも稀で、うっかりすればたちまち失われるものである。
自己によって判断すること。──スタンダールの警告にしたがって、人は知識は果して音楽の趣味を損なうか、かくして最もつよい理性をそなえた者が最もあやまつ者であるか、ともう一度心に問うべきである。感じることが学べないというのではない。反対にスタンダールは、ある数の画の研究に没頭することにより、あるいはある数の音楽をつづけて聴くことによって、新しい快楽を獲得するに到ることをみとめている。しかしこの種の修行は画筆を持って、あるいはピアノに向かってする修行とははっきり異なったものである。少し注意すれば音楽鑑賞家は二つの対立した道があるのに気がつくはずだ。第一のは一番容易な道で、つまり音楽を習うことである。第二は美しい音楽に馴れて自己の感情の最上の経験をすること、すなわち最上の自己認識を行うことである。スタンダールは後の道をすすむ。私はこれがいい道だと言い切る勇気はないような気がする。それほど音楽に通じているという自惚れは近代の判断をあやまらしてしまったのだ。かくして、われわれは自己によって判断することから大変はなれてしまう。われわれは理性によって判断することが、自己によって判断することだとおもっているが、じつはこれはまず他人と一致しようとねがうことだ。スタンダールの決してもとめなかったところだ。絵画を見て退屈する人に向かってかれがよく言うように、趣味を育成するにはたった一つの手段しかない。すなわちどんなに未開でも自己の趣味に勇敢にしたがうこと、そして自ら感じることを正確に自己に告白すること。あらゆる教養はだから虚栄心と対立するはずだ。スタンダールはすべて虚栄心と対立する。その結果かれは決して人を驚かそうとしないという長所を得た。一人の作者において稀に見る特質である。
正確に感じること。──正確にかんがえるだけでは十分ではない。スタンダールは正確に感じもする。かれの眼には、立派な出来栄えだという理由から、立派な音楽を楽しむと自負するようなひとは正確に感じていない。この偽物くさい感情にはもう少し近寄って見れば、ただ虚栄心だけが見つかる。空ろなる感情とは何か。もっぱら他人によって教えられた感情である。正確に感じる者は逆にその感じることを他人に教えるばかりでなく、さらにじっさいに他人のなかに入って感じるのである。完全には恋愛のみが実現するところのものだ。一個の情事を宇宙的小説に変えてしまうこの感情の詩。
心のなかの冒険。──正確に感じること、すなわち誠実に、仮装せず、強制せず、軽減せず、調理しないで感じることである。すべて霊感から発する。私はモスカ伯爵の殺人的な嫉妬の衝動と、ファブリスの鐘楼における恍惚を引用したい。心のなかの冒険はここではひとがそれを予見も拒否もできないという意味で、事実冒険なのである。
音楽という宇宙。──音楽に特有なのはまず肉体的な感動であり、個人と瞬間に準ずるものでありながら、しかも宇宙的である。音楽の天才たちがそれを証明している。音楽はスタンダールの全精神を侵した。大音楽を自然に感じた者はもうそれだけであらゆる絵画彫刻建築に対して苛酷になるにちがいない。
生き生きとした感動のしるし。──「私が簡略に多少きれぎれに語ることを許していただきたい。一語をもっていうべきところを三語をもってすれば、ときによって多少外形をやわらげることができるかもしれないが、それはつまりこの旅行を三巻にしてしまうことにほかならない」。この簡略な文体は一問題だ。生き生きとした感動のしるしとして、あるいは、あえて言えば真情の発露と打ち明け話のしるしとして、スタンダールにはいたるところに見当たる簡略さだ。スタンダールが自己のとっさの動きのほか自己に信頼していないことを十分理解しないかぎり、これは一問題となるのである。
訂正を排す。──「なんという自己に対する無礼だ。この決心をした日より今日の自分の方が才智があるとおもうとは」(パルムの僧院、二十二章)。スタンダールはまずこのかんがえに魅了された。そして疑いもなくかれはこのかんがえを突き詰めた。かくしてかれは一切訂正を排し、いつも即興家の位置を保ちながらむしろつねに新たにはじめるのである。
模倣の危険。──作品とはまさに出来上がった判断に対抗する一つの方法である。たとえば崇高な美に感歎したすぐあとで中庸の美を味わうことはできぬ。そういうときはひとは眼を伏せてとおる。軽蔑するのは正確に感じることではないし、感歎するのはなおさらそうだからである。大切なのは是認したりくり返したりするばかりで、何ものも愛さない社交人を警戒することだ。「赤と黒」の一題辞を思い出していただきたい。「情熱のために身を滅ぼす、よかろう。が、自分が持っていない情熱のために身を滅ぼすとは。悲しき十九世紀よ!」(二十九章)。同じ思想はくり返し現われる。自分が愛しているかいなかを知り、同時に愛する対象を知る、自分が感歎しているかいなかを知り、同時に感歎する対象を知る、とは何という奇妙な困難であるか。そして美的情緒は(スタンダールにあっては第一に音楽的情緒は)いっそう混成された情緒の一種であるから、もし模倣によって感歎しはじめるなら、あらゆる内部的存在にとって危険は多い。たとえ献身が行為によって証明された場合でさえ、虚栄心にすぎない。「赤と黒」のノルベール・ド・ラ・モール、クロアズノアその他の侯爵は、愛するに「相応しい」女を愛し、生命より高く評価するに「相応しい」事情のために勇敢に死んでいく。しかもかれらは何も感ぜず、愛していない。かれら自身の存在の真実はかれらには絶対に見えない。かれらは自己に嘘を吐いている。おそらく万事に嘘を吐く。スタンダールが自己を見る眼は明らかに観客の眼でない。疑い深い、ほとんど悪意をもった眼だ。つまり健康な理性は安価で手に入るものでないわけである。合法的権力にとってはまことに不便な事情だ。ジュリアンは上役を敬う義務があるとはかんがえない。ブリュラールもこの点おとらず勇敢である。このシニシズムは一見ひとの気を悪くするが、それ自身では大して不都合なものではない。やさしい魂が求めるものを理解しなくてはならぬ。その魂は正確に感じたいと願っているので、決して他人の教えにしたがって感じたいとは願ってはいない。真の恋愛の特色は自然にそうした掃除がおこなわれることにある。が、この作業も全然幻想をともなわないわけにはいかない。牢獄に入って初めてジュリアンは一度もマチルドを愛したことがなかったと悟る。と同時に、どんな証拠があるにせよマチルドもかれを愛していないことを見抜く。「マチルドの尊大な魂にとってはいつも公衆と他人が入り用だった」(三十九章)。
他人と同じように感じないこと。──音楽に対する感歎は今や恋愛における感歎と等しい。これは最も貴重な最も高尚な感情である。しかも孤独においてはじめて発見されあるいは再発見されるものである。スタンダールが口を酸っぱくして他人と同じように感じようとするなと忠告する所以である。かくしてスタンダールは反抗を勧告することによって共通の感情に到達する。恋愛であれ(恋愛を民衆の常識にしたがって描き出したのはかれ一人である)、音楽であれ、絵画であれ、この態度は変わらない。
自己の崇高な部分。──スタンダールの力と自己に対する決意に充ちたこの足取りにしたがって、私はついに自己認識が一種自己との戦いを前提することを理解した。いわば自己の崇高な部分に対する賭けである。こうした事情はあまりに新しすぎたから、すぐさま注目されるというわけにはいかなかった。スタンダールの光栄がはじまったとき、批評家たちは正確な筆致と、忘れられすぎていた情熱の相貌、二、三のごくありふれた言葉の持つ無限の反響に気がついた。いわば言葉の詩歌の新しい一次元として姿を現わしたのである。この技術はほとんど弟子を作らなかった。モロアは私に言った、「パルムの僧院」の冒頭はかれの眼には現代のイリアスと映ったが、同時にこの手本はかれを絶望さした、と。
粉飾を拒絶する勇気。──「イタリア絵画史」。ここにはいっそうの熱と若さと持続がある。「……このレオナルド・ダ・ヴィンチの崇高な作品について、二、三私と同じかんがえを持つひともいるだろう。が、大多数は牽強付会の説とするにちがいない。わたしはこの大多数の人びとに本を閉じてくださいとお願いしよう。われわれがこれ以上いくら知り合ってもますます気が合わなくなるにきまっているから」。私が引用した部分だけで十分この重大な、内容の詰まった文章における表現の極度の露わさの観念を与え得たこととおもう。それは同時に人間性(ただし野蛮な人間性だが)の抗うべからざるある衝動と結合している。そしてもし注意深い人がこの文章で言葉の選び方のつたなさと、さらに正確には粉飾の拒絶を見つけるならば、ここにスタンダールにおける文体の問題は最もよく設定されたわけである。私はただわが作者がまったくかれ一個の理由から憤激し、見物にかまわず、ぴったりと画面と向かい合っているのを忘れないことを望むだけだ。おそらく文学者において空前絶後の勇気である。
反-誇張。──誇張はスタンダールの敵だ。証拠は無数である。「私は Cheval(馬)と書くべきところを Coursier(駿馬)と書くのは大嫌いだ。私はこれを偽善と呼ぶ」(「アンリ・ブリュラール伝」一七九六年〜九九年)。「軽々しく大画家の冷たさを非難してはならぬ。私は今までに五つか六つの偉大な行為を目撃したが、そのときの英雄の単純な様子に打たれた」。
散文の崇高。──スタンダールの文体の効果、もっぱら自然の正確な線に沿ったあらわな文体の効果は、全然音楽の力を借りずに音楽的崇高を見出すことにある。いったいこの散文はそもそも歌うことを拒絶しているのだから。偽善はなく、われわれをひたすら誠実にみちびく。この文体は二つの敵のあいだで死ぬ。すなわち誇張と機智。誇張に対してはかれは正歌劇より喜歌劇にいっそう容易にいっそう快く感動すると言い切るほど警戒を厳にしている(「アンリ・ブリュラール伝」四十章)。機智には一応身を任せる。が、かれはその毒を知っている。「笑いたいとおもえば警句が浮かぶ。そのとき私は生活をフランス流に見る。美術に対しては、もはや相応しくない人間だ」(「漫遊者の覚書」)。
決して朗誦しない文章。──憤慨と雄弁を散文に変じたのはルソーとディドロである。かれらのやり方は俳優のやり方に似る。まず憤激を身振りをともなった独白によって表現し、俳優の流儀にしたがって自分自身に朗読して聞かせたことを記憶に止め、ついで紙に書き移す。スタンダールのやり方はまったく逆だ。かれはよく癇癪を起こしたが、何の問題にかんするものであれ、最もひねくれた読者にさえ興味を起こさずにはいなかったあのおどろくべき文章を準備したのは、そういうときではなかった。スタンダールが憤慨したり、嘲笑したりするときは全然文学者ではない。むしろかれの身振りたっぷりな天性は、決して朗誦しないかれの文章自身の力に意外にも対抗しているのである。饒舌は力はあるが色合いがあるとはかぎらない。スタンダールの驚異は、かれが身を空ろにして書いた文章にある。書くという動作自身思想を喚び起こす。幸福な句が句自身のおもい出のなかにいっそうの幸福を予見し、それがつづいて文章になる。六週間で書かれた「パルムの僧院」はたしかにこの自ら生長し、むしろ終わるのを怖れる即興の完成した姿である。「パルムの僧院」の最初の頁は大気の乗り出す。それは終わらないという純粋な幸福を感じさせる。
運動と進行の再現。──自己の絶えざる取り消しにすぎないあのくどい饒舌を、取り消しの正反対である書くという運動と比較していただきたい。叙事詩的特徴。叙事詩の本質は、第一に事件の変更不可能な進行であり、行為は中止せず、取り返しのつかないことをあげつらおうとはしない。反対に、それは人間に与えられた短い現在において、無駄な後悔をしないで最上をなしつづける行為である。即興の筆の運動はあらゆる思想の運動と行為の進行を文字どおり再現するということはとくにここで注意する必要があろう。このかくも単純な文体がそのうしろに事物と人間の大群をしたがえる所以である。
思想の叩き売りをしない。──スタンダールはわれわれを狙ったりしない。かれは読者狩りをやらない。むしろ有利な証拠さえ打ちこわそうとする。証拠のあいだに閉じこもりはしないのだ。バルザックの「田舎の医者」には王政主義があり賛否を要求する。「パルムの僧院」にも同じ思想がある。が、賛否は別問題だ。それはただその正当な位置にとどまる。この文体は叩き売りはやらない。いく人の読者がいったいこの文体に与することができるだろうか。いつも無礼で文章はわれわれの鼻先で閉じる。
何物も広告せず。──飾ろうと欲しないことから由来するこの種の透徹の例。「いや、わかったよ。わしは君が好きだ、……。神様だけを頼りにしなさい。神様が君の不遜を罰するために、他人から憎まれるという必然をお与えになったのだ、……。ピラール師はかれに両腕をひろげた。この瞬間は二人にとって甘美だった」。装飾を欠き、広目屋の技巧を自ら禁じてしまったので、スタンダールは崇高な真実に飛び込まざるを得なかった。そしてピラール師の簡潔な教訓は万人の胸に反響したのである。本来の形式の美はどこにも見つからぬ。短い意味を詰め込んだ言葉があるだけだ。ときとして高貴なものをその位置から引きずりおろすものが、ふくれ上がった文体の単調な誇張であるということは注意しなければならぬ。わが作者が嘲ったように、馬というところを駿馬ということであり、いわば道化芝居の呼び込みのごときものである。スタンダールには片鱗も見当たらぬところだ。むしろ何物も広告せずという決意がある。一種の名調子だが、それが私が前に名優について指摘したように悲劇的な瞬間が近づくにつれて逆に減少していくのである。この文体は声が低い。おそらく馴れない読者は平土間の見物が怒鳴るように「聞こえないぞ」と叫びたくなるだろう。が本は聞かぬ振りをする。
- 書誌情報:アラン著、『スタンダアル』、大岡昇平訳、創元選書、1948年
トップページに戻る