▼第一部
- ------------------------------------------1日目
1 26枚(10332字)-26枚
七月、夕暮れ、青年は部屋を出て、「下見」へ。
運河近くの大きな建物へ。ドイツ人官吏の一家が引っ越すのを見る。
四階に住む質屋の老婆のところで交渉。と見せかけて、下見。
懐中時計を質入して一ルーブリ十五コペイカ得る。二、三日のうちにまた来るという。
自己嫌悪が嵩じる。いつのまにか、居酒屋へ。喉が渇いていたのでビールを飲む。
汚い居酒屋。退職官吏らしい気になる客が一人。
2 55枚(22140字)-81枚
退職官吏風の男が、ラスコーリニコフに或る印象を与える。
その男もラスコーリニコフの方を見て、話しかけたそうにしていた。で、とうとう話しかけてくる。
マルメラードフ、と名乗ってからラスコーリニコフが学生と聞いて喜ぶ。
貧乏は罪悪という話、自分は五晩もネワ河の乾草舟に寝ているという。
自分の悲惨さを自慢・暴露するかのよう。「わたしは豚でもかまいません」娘が売春婦であることにも言及。
家内のカテリーナ・イワーノヴナについて。憐れまずにはいられないから飲まずにはいられない。
カテリーナの素性について。一旦寡婦になってからマルメラードフと再婚。が、マルメラードフが職を失い。ソーニャに身売りさせ。ソーニャは別居。再就職。再失職。いまこのざま。
亭主や他の客が囃し立てるのに答えて、「おれみたいな奴ははりつけにすりゃいいんだ!」から新生の希望を語る。
マルメラードフをラスコーリニコフが家へ連れていく。
貧しい暮らしぶり、子供たちもいる、息苦しい部屋。
カテリーナは夫を発見して気狂いのように怒る。ラスコーリニコフもとばっちりで追い出される。小窓の台へ、居酒屋でくずれた小銭をのせる。
自分の家のほうへ歩きながら、考え込む。ソーニャのことを想像しながら。善悪なんてものが世の中にあるのかどうかと。
------------------------------------------2日目
3 42枚(16974字)-123枚
翌朝おそく、自分の部屋でラスコーリニコフは目をさます。
女中のナスターシャがお茶を持って来る。おかみが警察にラスコーリニコフを訴えるつもりだと伝える。
昨日ラスコーリニコフの留守中に手紙が来ていたことを伝える。
R県の母からの手紙。一人きりになってから、読む。
満足に仕送りもできない母の窮状。この二ヵ月の間に何があったのか? 妹のドゥーニャがスヴィドリガイロフとのスキャンダルで辞めさせられ、町中の噂で辱められた。が後にスヴィドリガイロフの方が悪かったことが判明し、名誉回復。そのついでで、縁談が持ち上がる。そしてラスコーリニコフに相談するまえに、もうドゥーニャは承諾を与えてしまった。相手の男は七等文官ルージン。実務家で忙しいのでさっさと返事をとのこと。財産はある。生活は安定している。年は四十五だが、礼儀はある。だからいずれペテルブルグでラスコーリニコフがルージンに会うことになっても、あまりせっかちにきびしい判断をしないように。母にはたしかにルージンの性格が高慢なように思われるが、ドゥーニャは決めてしまった、たいていのことは我慢できると言って。それでも母にはルージンがあまりに率直すぎて、嫁にもらうなら貧しい娘、夫を恩人と思うような娘がいいなどと言う。だがそのことについても、「言葉はまだ行いじゃないわ」とドゥーニャは断言。彼女の嫁ぐ決意は固い。
ルージンは将来ペテルブルグに法律事務所を開く考えなので、ラスコーリニコフの将来の仕事はもう決ったようなもの(といっても、まだルージンにはそのことを話はいないのだが)。母とドゥーニャも近いうちにペテルブルグに行くので、家族は三年ぶりに会うことができる。これだけでもルージンとの結婚は素晴らしいと言える。この婚約のおかげで母親の信頼も増したので、二、三日のうちに仕送りすることができる。旅の費用のことを考えなきゃならないので、そんなに送れないが。汽車の駅まで馬車で、そこから三等車で、旅費を節約。ともかく、もうすぐ会える。妹のドゥーニャを愛せよ。
手紙を読み終えるとラスコーリニコフ蒼白に。外へ。
4 41枚(16236枚)-164枚
歩きながら内語で思索。
ルージンとの結婚はさせない。「いい人らしい」などと言っているがどう考えても愚劣な男だ。
花嫁と母親の旅費も払ってやらない。ルージンが人情を見せる気配はない。この嫌らしいトーンが、結婚後のトーンともなるだろう。母親は相手が善人であればいいと期待しているだけだ。
ドゥーニャの方はすべてを見抜いているはずだ、生活の安定のために自分を売るような女ではないはずだ、だが、長男のラスコーリニコフのために犠牲になって結婚するというわけだ。ソーニャと変わらない。ドゥーニャの犠牲など要らない。
だが翻って自己批判すると、自分にどんな将来があるのか? 何を妹と母親に約束してやれるのか? 何もない。自虐。
いよいよすべての問題を解決しなければならない……と考える。すると「あの計画」のことが頭をよぎる。
ベンチを探す。二十歩ほど前を歩いている女に気づく。十五、十六ぐらい? 正体がない。
一人の紳士が下心ありげに少女を見ている。「立ち去れ!」と言う。巡査が割って入る。
事情を説明して、少女を保護してもらう。少女はうるさいといって片手を振る。
突然、ラスコーリニコフは気が変わって、あの紳士に手渡してやれよ、という。
一人になるとベンチに坐って、あの少女の行く末のことを考える。堕落。
ところで俺はどこへ行こうとしていたんだっけ? ラズミーヒンのことを思い出す。大学の頃の友人の一人。
5 31枚(12546字)-195枚
ラズミーヒンのところへ行くのはナンセンスだと思い直す。
「あれ」の翌日でラズミーヒンのところへ行こうと考える。自分でその考えにびっくりし、苦しくなる。
足の向くままに歩く。色々見て歩く。安食堂で何か食べる。道端の草の上で寝てしまう。
病的な夢を見る。百姓馬が虐待される夢。
夢を見たあとに、自分は本当に老婆を謀殺するつもりなのか?とはっきり自問する。きない、と結論。重荷が払いのけられた気分。
しかし帰りにセンナヤ広場を(理由もなく)通りかかったとき、老婆の妹リザヴェータが商人夫婦と話しているのを立ち聞き、明日の七時リザヴェータは出かけ、老婆一人きりだと知る。
いっさいが決定されてしまったと直感。
自分の部屋に帰る。
6 37枚(14760枚)-232枚
回想。質屋の老婆のことを知った経緯。はじめて質入に行った時、老婆に嫌悪を感じて、ある事を考えながら、帰り道、飲食店に寄った。
そのとなりのテーブルに大学生と若い士官がいて、あの質屋の婆の話をしていた。老婆がどんなにひどいか。あんな老婆を殺してあり金を盗んでも良心の呵責なんて起きないぜ。それこそたまたまラスコーリニコフが考えていたことだったのだ。宿命的暗示?
回想終わり。センナヤ広場から戻ると、寝る。
------------------------------------------3日目
翌朝十時に茶とパンを運んできたナスターシヤに起こされる。また寝る。
午後二時にナスターシヤがスープ運んで来る。すこし食べるが、また寝る。
不意に時計を打つ音を聞いて目をさます。うろたえつつ、準備開始。斧を下げる輪と、偽質草。
午後六時をすぎた。超自然的な力でひっぱられるかのように、行動開始。
だが斧を入手する予定の台所に女中がいやがる。だが代わりに、庭番小舎で見つける。
怪しまれないように、落ち着き払って通りを歩いていく。もう七時半? あの建物の門をくぐる。階段のぼる。二階の空室でペンキ屋を見かける。ついに老婆の部屋へ。呼鈴二度鳴らす。もう一回鳴らす。鍵はずされる。
7 37枚(14760枚)-269枚
老婆に入れとも言われないのにどんどん入っていく。
不安だが、堂々と振舞うことによって相手の警戒をとく。偽質草を老婆に渡す。
老婆が結び目を解くのに苦労している間に、(力が入らないので)ほとんど機械的に老婆の頭に斧を落とす。老婆死亡。
老婆のポケットを探って鍵をとりだす。物色する。老婆の死体がほんとに死んでいるか確認したついでに、財布を奪う。
長持ちを発見。抵当物の金物をポケットに詰め込む。
不意に、老婆が死んでいる部屋に人の足音が。思い切って躍り出ると、リザヴェータが。殺す。
ますます狼狽。放心。台所のバケツで斧と手を洗う。やはり意識が朦朧として、自分のやっていることが重要なことなのかさえわからない。なにをすべきか? 逃げるのだ!
ドアのところへ行くと思いがけないことに、ドアが開いていることを発見。ドアへ飛びついて掛け金を下ろすが、「いやちがう!」ドアをあけ、外の気配を窺う。
静寂。階段を下りかけたところで、足音。それがこの四階の老婆のところへくることを直感。足音さらにのぼってくる。部屋の中にすべりこみ、ドアをしめて掛け金下ろす。
客は呼鈴ならす。婆出て来い、という。ラスコーリニコフは頭がくらくらする。
もう一つの足音が上ってくる。二人は知り合いらしい。婆の方から時間指定したのに、どこへ出歩いているのか?疑問に思う。
コッホが取手を引っ張ったことから、もう一人の男が、ドアは鍵がかかっているのじゃなく、内から掛け金がさしこんであることに気づく。誰か部屋の中にいるということ。これはきっと何かある、と、コッホを残してもう一人の男は庭番を呼びに行く。
しばらくして、コッホが待ちきれなくなって、下へおりて行く。
「助かった、さてどうしよう?」ラスコーリニコフは廊下へ出て、階段をおりる。
下で物音がして、「ミチカ! ミチカ!」のわめき声。誰かが部屋を飛び出していった。さらに、数人の声が騒々しく階段をのぼってくる音。あいつらだ。
やぶれかぶれで階段をおりていくラスコーリニコフ。二階のペンキ屋がいた部屋が空になっているので、そこへすべりこんで、あいつらをやりすごす。
誰にも見られずに外へ出られた。横町の方へ。ここまでくれば、もう安心。人ごみにまぎれた。
自分の家に戻ってくる。斧を戻さなければならないが、庭番小舎には誰もいなかったのでこれも上手くいった。
自分の部屋へ。ソファに身を投げ出す。
▼第二部
- ------------------------------------------4日目
1 57枚(22878字)-326枚
午前二時。飛び起きる。帽子さえもぬがずにソファに寝転がっていたことに狼狽。
身なりをチェック。ズボンの裾の血痕をナイフで切り取る。
ポケットの中の品物を、壁紙のかげにある穴に隠す。でもこれでは隠したとはいえない。
また悪寒におそわれ、外套に包まって眠る。
すぐ飛び起きる。何とかしなければならないが、思考力が鈍る。ズボンから切り取った血のほころびが部屋のど真ん中に落ちているのにやっと気づく。
さらに服をチェック、ポケットの裏地の血に気づき、それをひきちぎる、靴下の血の痕にも気づく。しかしこれらのものをどう処分すればいいのか?
また悪寒に襲われ、外套に包まる。
いますぐ何とかしなければならないという考えにうなされ続けながら、寝る。
ナスターシヤが起こしに来たので起る。午前十時。
ナスターシヤと庭番が一緒にいる。警察からの呼び出しの通達を渡される。「何故?」
ナスターシヤと庭番が去ってから通達を読むが、わけがわからない。頭痛がひどい。大したことではないと思うが、何かの計略ではないかとの猜疑も。
階段をおりる途中で品物をそのままにしていることを思い出すが、もうどうにでもなれという気分。
警察署へ。警察の前へ出たらいっさいを告白しようという気分に。
控室へ。さらに奥の部屋へ。書記に呼び出し状を渡す。事務官のところへ行かされる。婦人がいる。待たされる。おそろしく不安な気分。
副署長が入ってくる。ラスコーリニコフとにらみ合う。「なんだおまえは?」
ラスコーリニコフの用件が話題になり、金の支払いの催促だと分かる。副署長と言い合いになる。
借用証書によって借金の返済を要求されているとの由。下宿のおかみから。とにかく不安に思わなくてよいようだと、彼は安堵。
すると副署長(イリヤ・ペトローヴィチ)が婦人をいじめはじめる。婦人が出て行くと、副署長の怒鳴り声を聞きつけた署長ニコージム・フォミッチが入って来る。
副署長が、ラスコーリニコフのことを署長相手になじる。さっきの言い合いで言い負かされた腹いせ。署長は愛想がいい。突然、ラスコーリニコフは署長相手に自分のことを弁解しはじめる。おかみの娘とは結婚の約束もしていた……娘は亡くなったが、おかみはこれからもまたいくらでもお貸しすると言ってくれた……。そういう感傷的な事情はどうでもいいと、イリヤ・ペトローヴィチはにべもない。
とにかくラスコーリニコフは金を払うという証書に署名。ラスコーリニコフに突然心境の変化。今さっき、なぜ自分の感情をこいつらに押し付けようとしたのか? 今はそんなことはまったく無意味と思われ、心は空虚になり、孤独と疎遠の暗い感情が彼を満たす。二度とこんあんなことはすまい。血を分け合った家族に対しても。恐ろしく孤独な感覚。
署名を終えたが、頭痛がひどい。もうニコージム・フォミッチに昨日のことを告白しようかという気分に。
だがそのために立ち上がったとき、ニコージム・フォミッチとイリヤ・ペトローヴィチが偶然次のような会話をしているのを聞く。つまりコッホともう一人の男が捕まったが、方面になるだろうということ。彼らの証言の矛盾は、犯人が中にいて、コッホが離れたわずかの間に逃げ出したからだだろうとのこと。事務官も意見を言う。ラスコーリニコフぶったおれる。
気が付いてから、イリヤ・ペトローヴィチに尋問される。昨日外出したかどうか。何時頃に。どこへ? 事務官も何か言いたげに緊張している。
だが、ひきとめられずに済む。だが、俺を疑ってやがる、すぐにでも捜索がはじまるぞ!という恐怖にとらえられるラスコーリニコフ。
2 35枚(14022字)-361枚
部屋に戻る。品物をつかみ出してポケットへ。
外へ。尾行が怖い。どこへ捨てる? 運河に捨てようとするが、どこも人がいっぱいで目につく。
ネワ河へ。森の中へ捨てたらという考えも。だが、たまたまV通りから広場へ出たところで、左手のほうに壁に囲まれた外庭へ通じる入り口発見。中へ。わびしい庭。
壁のわきにあった石の下のくぼみに品物と財布を隠す。証拠隠滅。
だが、自分のやってきたことへの自己憎悪が募る。何のためにやったのだ? 財布の中身すら確かめずに河に捨てようとしではないか!
なにもかもつくづく嫌になりながら歩いていく。
ふと気づくと、ラズミーヒンの住居のそばに。無意識に、自分からラズミーヒンのところへやってきた?
訪ねる。相手は無論驚く。ラスコーリニコフはうわごとを言う。ラズミーヒン気遣う。
嫌悪がつのってラスコーリニコフ去ろうとする。ラズミーヒンひきとめる。良い儲け口(翻訳仕事)があると言って。ラスコーリニコフは一度原稿を受け取ってからまた無言で返して、去っていく。ラズミーヒンは「勝手にしろ!」
ラスコーリニコフ通りをさまよう。馬車に轢かれそうになって、御者に鞭で殴られる。そのあわれさが乞食っぽく見えたのか、商家のおかみに二十コペイカほどこしを受ける。
ネワ河へ。壮大な光景を目にする。不安な想念が彼をとらえる。二十コペイカを投げ捨てる。「そしてそのときを境に、彼はわれとわが身をいっさいのものから鋏で切り離してしまったような気がした。」
家へ戻ると日暮れ。ソファで寝る。
------------------------------------------5日目
イリヤ・ペトローヴィチがおかみを殴っている夢を見る。
ナスターシヤがろうそくとスープを持って入って来る。
また気を失う。
3 46枚(18450字)-407枚
熱病で苦しみ悶える。幻覚にうなされる。忘れてはならない何かを忘れているような恐怖。だが「あのこと」は思い出せない。
------------------------------------------8日目
「それは朝の十時頃だった」。彼ははっきり意識を取り戻す。
彼のそばにはナスターシヤ、ラズミーヒン、そして母親からの送金を持って来た事務員。
ラズミーヒン喋りまくる。もう今日で四日。ゾシーモフも診察に訪れた。
スープを飲む。ラズミーヒンは下宿のおかみが気に入ったらしい。
ラスコーリニコフはもう健康だったが、しばらくは意識がすっかり回復していない振りをして、何がどうなったかを見極めようと考える。
ラズミーヒンは警察の住所係でラスコーリニコフの居場所を突き止めた。
ラズミーヒンはニコージム・フォミッチ、イリヤ・ペトローヴィチ、ザミョートフ(事務官)とも知り合いになっている。
借用証書に関する事情も、おかみからラズミーヒンは聞きだしている。娘が死んで、ラスコーリニコフを身内として面倒を見る理由がなくなった。ラスコーリニコフも、家庭教師の口をやめて寝ころがってばかりいる。追い出そうと考えた。そこへ手形の現金化のためチェバーロフという男が介入。ラズミーヒンがうまく収めた。
ザミョートフも見舞いに来たという。ザミョートフの方から知り合いになりたがったという。
ラズミーヒン、用事(ラスコーリニコフの洋服を買う)と言って出て行く。
ラスコーリニコフ、一人きりになるとしごとにとりかかる。血のついたぼろきれは、ペチカの灰の中にあることを確認。ザミョートフは何も気づかなかったろう。だがなぜザミョートフが?
一刻も早く逃げようと考える。が、ビールを飲むと、悪寒が。疲労が酷いので、すぐ深く眠る。
ラズミーヒン帰ってくる。服の包み持っている。もう夕暮れ。
帽子、ズボン、靴、下着。着せ替えさせられる。
そこへゾシーモフが入ってくる。
4 37枚(14760字)-444枚
ゾシーモフ、ラスコーリニコフの容態を聞く。散歩に連れ出したいのだが……(「ユスポフ公園に、それから《水晶宮》に寄ってみよう」)まだ動かさない方がいいという。
今日はラズミーヒンの引っ越し祝いなので、残念だという。
その引っ越し祝いには、ゾシーモフは勿論、予審判事で法律家のポルフィーリイも来るという。ザミョートフも来る。
なぜザミョートフが? ザミョートフとラズミーヒンとの間には一つの共通の話題がある。例の塗装師問題。
それについてのラズミーヒンとゾシーモフの会話。金貸しの老婆が殺された事件(ゾシーモフも新聞で読んで知っている)で、ペンキ屋は巻き添えを食った。「ラスコーリニコフも知ってるだろ、きみが警察で、この話しているのを聞いて失神した例の……」
ペンキ屋の件。ドゥシキンという百姓の告発で、ペンキ職人ミコライが金の耳輪と宝石類を持っていたことが発覚。ドゥシキンはそれを老婆殺しと結びつけた。ミコライ捜索。自殺しかけているところを捕まる。「すっかり白状する」とミコライ。とはいえ、老婆殺しのことは知らないというのだが、裁判が怖いなどと矛盾した供述。金の耳輪は、いたずらをして部屋から逃げ出した中庭でミトレイと取っ組み合いの喧嘩をして、後始末に一人で部屋にとってかえしたときに見つけた。
警察はミコライを真犯人と決めてしまったが、ラズミーヒンは反対。殺人と取っ組み合いの喧嘩がどうしても心理的に両立しないから。
では事実をどう説明する?とザミョートフが問うと、真犯人は室内にいて、コッホが下りてから部屋を出て、ペンキ屋のいた空室に隠れて庭番たちをやりすごした。耳輪はその時落としたのだと。
そこまで話すと、ドアが開いて、見知らぬ男が入って来る。
5 39枚(15498字)-483枚
気難しげな年配の紳士。ラスコーリニコフは誰かを聞く。ラズミーヒンが答える。
紳士はルージンだと名乗る。自分のことは知っているはずだという。
ラズミーヒンが会話をとりしきる。ラスコーリニコフは病気だった。
ラスコーリニコフはルージンに話しかけられると何も聞きたくない、と怒る。
おめかしの目立つルージンの外貌は、確かに何か不快なものがあった。
ルージンは母と妹が「今日明日にも」来るのを待っている。場所は、ユーシンの家で。ラズミーヒンがひどいところだ、と横槍を入れる。ルージン自身は、マルメラードフと同じ建物で、あのレベジャートニコフと同居している。レベジャートニコフのような若い人たちに会うのが好きだ、という。若い世代の功利主義的な思想を賛美する。ラズミーヒンがまぜっかえすが、ルージンはこの思想の有益性を心から信じている。ラスコーリニコフは嫌悪を示す。
ルージンは功利主義の思想(「わたしはもっぱら自分一人だけのために儲けながら、そうすること自体によってみんなにも利益をあたえていることになる」)を滔滔と語る。ラズミーヒンはそんなひとりよがりのおしゃべりなんか下らんと言う。
ルージンは辞去するつもりになる。
ラズミーヒンはゾシーモフとさっきの老婆殺人事件の話をつづける。質をあずけた奴の中に犯人がいる(という話をすると、ラスコーリニコフが反応する)。犯人は、腕っこきの悪党ではない、腕も経験もない不慣れな男だろうという。あまりにも偶然だのみだから。被害も微々たるもの。
ルージンが二人の話に入ってくる。この殺人事件の犯人は、上層部に属する人間だろうという。貴金属を質入する貧乏人なんていないから。文化的頽廃が起こっている? どんな方法で金を儲けてもいいと?
ラスコーリニコフが口出し。さっきの功利主義の思想どおりのことが起こっているじゃないか。功利主義的犯罪、功利主義的殺人。ルージンは反論するが、ここで、ラスコーリニコフは「貧乏人の娘を嫁にもらって恩を着せたほうがいい」という言葉を取り上げる。
ルージン怒る。それを伝えた母親が曲解したのだといって、母親を批判する。
今度はラスコーリニコフが怒る。喧嘩別れ。
ラスコーリニコフ、俺を一人にしてくれとわめく。
ゾシーモフ、ラズミーヒン、出て行く。「例の殺人事件の話をするとラスコーリニコフが反応した……」とひそひそ話。
ナスターシヤも追い出す。
6 70枚(28044字)-553枚
ナスターシヤが出ていくと、突然起き出し、着替える。テーブルの上の金をポケットへ。誰にも気づかれずに外へ。
午後八時。どこへ行くのか、彼自身でも知らない(無意識の歩行)が、「こんな生活はもういやだ」という想念だけに苛まれている(自殺を考えている?)。
習慣で歩いていく。歌っている流し芸人に五コペイカめぐんだりする。
センナヤ広場をすぎて、横町へ。そこの界隈には色んな飲食店、居酒屋。
ラスコーリニコフ足をとめる。下のほうから聞える歌声や騒ぎに心を引かれる。
別な通りへ出る。《水晶宮》を目にする。ラズミーヒンがさっき、自分を散歩に連れていく場合の候補として挙げていた店。無意識にここを目指していた? 自分が何をしようとしていたのか思い出す。新聞を読むこと。
こぎれいな飲食店=《水晶宮》に入って、お茶と新聞を頼む。例の報道の事件を見つけ、読む。
そこへ「不意に誰かがそばへ来て、テーブルをはさんで向い合いに腰をかけた。ちらと目をあげると──ザミョートフだった。」
この出会いはラスコーリニコフは予期していた。ラスコーリニコフの方から老婆殺しの事件の話題を出す。新聞で何の記事を読んでいたかも自ら暴露。ラスコーリニコフは興奮し、斧を手にしてドアのかげに隠れていたときのことを思い出す。
ザミョートフが自分を疑うように自ら仕向けていく。モスクワで贋札つくりの一味の話。自分ならもっと上手くやれるという話から、しかし老婆殺しの犯人は(奇跡を利用してしか逃走できなかったことからしても)上手くやれなかったようですね、これを聞いてラスコーリニコフはむっとする。そして、仮に自分がその犯人だったら、品物をどこに隠すかという仮定の話を。その後、一瞬でも自分をその犯人だと想像したろうとザミョートフに指摘する。ザミョートフ狼狽、否定するが、さらに挑発、警察署で失神した話まで自ら言及する。ラスコーリニコフ出て行く。
その飲食店=《水晶宮》の出入り口のところで、ラズミーヒンとすれ違う。「きみはこんなところ(=《水晶宮》)にいたのか!」と怒鳴られるが、ラスコーリニコフは俺を放っておいてくれ、自分は健康だから、という。ラズミーヒンは、自分の引っ越し祝いには来いと言う(自分の住所を告げる)。
ラスコーリニコフはN橋の手するにもたれかかる。水面を眺める。失神しかけるが、自分の隣にいた女が身投げするという事件で我に返る。野次馬が集まる。その様を見て、身投げはするべきでないと改めて思う。
どうやってけりをつければいいのか? 警察署へ行くか? だが決断できず、目的もなく歩く。不意に自分が事件の夜以来一度も来なかった「あの家」の門の前に来ているのに気づく(無意識に?)。
四階へ。あの部屋へ。あの部屋は模様替えされて、職人が入っている。部屋を見てまわる。職人が怪しむ。部屋を借りたいのだと偽る。職人たちと事件の話をする。
下へ降りて、庭番と話をする。庭番にも怪しまれる。自分の名前を堂々と告げる。「いっしょに署へ行こう、あちらへ話してやるよ」「警察へ行くのがこわくなったのかい?」言っていることがおかしいので、相手にするだけむだだと言われる。通りへ突き飛ばされる。
さて、警察へ行こうか行くまいか? しかし、二百歩先の通りで騒ぎがもちあがる。人ごみの方へ歩いていく。自分ではもう警察行きをほとんど決意していたのだが……。
7 61枚(24354字)-614枚
通りの真ん中に馬車。傍らに巡査。ラスコーリニコフが人垣に分け入ると、文官が馬に踏み潰されている。それがマルメラードフ。自分はこの人の身元を知っている、と叫ぶ。まるで自分の父のことのように、夢中になる。
野次馬の幾人かに手伝ってもらって(金さえわたして)そこから近くのコーゼルのアパートへ。
カテリーナは子供たちに愚痴混じりの昔話をしていた。そこへ血まみれのマルメラードフがもちこまれる。
ラスコーリニコフは自己紹介。医者を呼びにいったことも告げる。カテリーナはマルメラードフの傷を確認。
カテリーナは下の子に、ソーニャを呼びに行かせる。アパートの住人も集まってくる。
ここじゃなくて病院に連れていけというリッペヴェフゼル夫人とカテリーナの口論。その中で「この親切な若いお方(ラスコーリニコフ)は立派な身分……」みたいな出鱈目が。
医者が来る。ぜんぜん見込みなし。司祭が入ってくる。
ソーニャも来た。場違いないでたち。初めてここで、ソーニャの外貌描写。「青い目はとくにすばらしかった」。
カテリーナは神を冒涜しはじめる。慈悲深くったってわたしたちにゃとどきませんよ。
許すって! 言うだけならなんとでも言えますよ。
マルメラードフは事切れる前にソーニャに気づいて、許しを乞う。
ラスコーリニコフ、カテリーナにマルメラードフと初めて会った時のこと(「ぼくとご主人は親しい友だちになったのです」)を話し、葬式代に二十ルーブリ渡す。
帰り際、ニコージム・フォミッチとすれ違う(もう彼には警察に自首する考えはなくなっている)。
さらに帰り際、ソーニャの妹(ポーレチカ)に呼び止められる。家庭の話を少し。用件は、ラスコーリニコフの名前と住所を訊くこと。少女に好かれる。
通りに出た時には、午後十時。また橋の上にたたずむ。生命の感覚が戻って来る。老婆は死ぬべきだったのだ。自分は生き延びるべきだ。挑戦的な気持ちになる。
ラズミーヒンの新居が近くだと気づく。こうなったら、ラズミーヒンのところへも行ってやる。
ラズミーヒンの部屋へ。自分が来たことを取り次がせる。ただ、中へ入るつもりはないという。
ラズミーヒンが送っていくことに。帰り道での会話。ラズミーヒンはあの後《水晶宮》でザミョートフと話をした。イリヤ・ペトローヴィチが発端となった、「あの嫌疑」が、ラスコーリニコフとザミョートフとの会話で晴れたということ。「あれはまったく申し分なしだぜ! まずおどかして、ふるえあがらせる! あのばかげた無意味な想像をあらためてほとんど確信するところまで、あいつをひっぱっていってさ、そのあとで、突然、──舌を出して、《おい、どうだ、まいったかい!》完璧だよ!」ポルフィーリイもラスコーリニコフと知り合いになりたがっているという。
ラスコーリニコフの家まで来るが、階段ののぼり口で、ラスコーリニコフの部屋に明かりがついているのに気づく。急にまたとりみだすラスコーリニコフだが、部屋にいたのは母と妹。ルージンの言ったとおり、「今日明日にも」来たわけだ(何故そのことをまったく予期していなかったのか?)。二人はナスターシヤからほとんどの事情を聞いていた。ラズミーヒンがどれだけ尽くしてくれたかも。
歓喜の叫びがラスコーリニコフを迎えた。ラスコーリニコフは驚きで意識を失う。
▼第三部
-
1 46枚(18450字) 660枚
ラスコーリニコフ気が付く。
母と妹がこちらに着いたのは夕方だと。宿へ帰ってくれ、明日会おうという。
ルージンに対して今日自分がどんな態度を取ったかも伝える。ドゥーニャに結婚を断れと言う。「ぼくか、ルージンかだ!」
ラズミーヒン、ドゥーニャ、母の三人は、熱にうかされてのうわ言だと思う。
ラズミーヒンはドゥーニャの美しさにぎくッとする。
ラズミーヒンが二人を送っていく。ラスコーリニコフの容態の話を饒舌に。ドゥーニャがいるので、のぼせあがっている。少し酒も入っているので。
ラズミーヒンは、二人を宿まで送ったら、ラスコーリニコフを医者のゾシーモフに診させて、二人のもとへまたその報告に来ることを約束。一晩中ラスコーリニコフを看ることも約束。おかみが自分とドゥーニャを見たら妬くだろう、といった余計なことまで言う。二人のことを愛しているなどとも言う。人間論までぶつ。二人に用意した住居にケチをつけて、ルージンを腐す。「あんなやつがあなたに似合いますか?」
送り届けて、すぐラズミーヒンは引返す。
母と妹の対話。兄は、結婚についての見解を明日になっても変えないだろう、とドゥーニャ。
ここで初めてドゥーニャの外貌描写(+母親の性格描写も)。ラズミーヒンのような男では一度も見たことのない誇り高い鋭い美しさ。
ラズミーヒンが戻って来る。報告。
また一時間ほどして、今度はゾシーモフとともにラズミーヒン登場。ゾシーモフは母と妹を安心させる。ゾシーモフとラズミーヒン辞去。
帰り道、ドゥーニャの美貌について、二人で話す。おかみと縁を切りたいという話も。
------------------------------------------9日目
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翌朝七時。ラズミーヒン起きる。昨日の自分のはしゃぎぶりを思い出して、後悔。
何もかも駄目になったと思う。あとは自分の義務を果たすだけだ。
顔は丁寧に洗ったが、下心があると思われてはいけないので、髭は剃らずに。
ゾシーモフと会話。ラスコーリニコフは本当に発狂しかけているのか? まさか。だが、ペンキ職人の話を彼の前でしたのはまずかった。イリヤ・ペトローヴィチに嫌疑をかけられていると知っていたらそんな話はしなかったのだが。(ついでのように、ザミョートフVSラスコーリニコフの話を、引っ越し祝いの席でポルフィーリイが聞いていたことも触れられる。)
九時にラズミーヒンは二人の宿を訪ねる。母に問われるのに応えて、ラスコーリニコフのここ数年の生活のこと、彼の病気の詳細を語る。二人はむさぼるように聞く。
そしてラスコーリニコフの性格について。ふさぎこんでいる。疑り深い。自尊心が高い。「彼は誰も愛しませんからねえ。おそらく、永久に愛することはないでしょう」母「あの子は誰一人思いもよらないことを、突然しでかすでしょうよ、あの子にはそういうところがあるんです……」
家主の娘との結婚について。傍からはまったく理解不能な結婚だった。
ルージンについて。昨日とはうってかわって、ラズミーヒンは尊敬しているような調子で語る。
さらにルージンについて。今朝早々、この宿にルージンからの手紙が届いた。ラズミーヒンにも読ませる。気になることがあるので。
手紙の引用。明日の午後八時なら会える。面会の席にはラスコーリニコフに同席してほしくない。ラスコーリニコフの昨日の行動(マルメラードフの事故に遭遇したこと)を、「醜業を職としているその家の娘に、葬儀費用の名目で二十五ルーブリわたした」と告げ口している。
ドゥーニャの意向では、明日の面会の席にラスコーリニコフも来させる。母は反対。
午前十時。母、妹、ラズミーヒン、ラスコーリニコフのもとへ。母はラスコーリニコフに会うのを怖いと感じると言う。(また、ついでのように、最近マルファ・ペトローヴナが死んだことに触れられる。伏線。)
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ラスコーリニコフは身だしなみをととのえて待っていた。元気。部屋は一時に一杯になった。
ラスコーリニコフの顔には苦悩が。だが、自分の感情を抑制できる力が戻っている。
やさしく母と妹に接吻。
ゾシーモフの忠告を神妙に聞いている振りして冷笑。
ゾシーモフとラズミーヒンに礼を言うラスコーリニコフ。感傷的になっている? いや、全然そんなことはない。
母親にも謝る。妹に対しても和解の握手。
ナスターシヤに服についた血(マルメラードフの)を洗わせたという話から、昨日の一件の話。葬式の費用に母から送金された金を与えたことをことわる。少し毒々しい言葉が出る。「だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……」
和解は不自然に終わる。離れていたときにはあんなに母と妹を愛していたのに……。
(マルファ・ペトローヴナが亡くなったという話題が突然。スヴィドリガイロフのことを少し話題に。)
もういまとなっては誰ともぜったいに語り合うことなどでない、ということを恐ろしく感覚するラスコーリニコフ。
ゾシーモフ辞去。
十二時。ドゥーニャの時計をルージンからのプレゼントだと思った、ということから、結婚の話。かつてラスコーリニコフがおかみの娘と結婚しようとしたことについて。……しかしともかく今日中に解決しなければならないのっぴきならぬ問題が一つある。
改めて、「ぼくか、ルージンかだ」と言い渡す。
妹の反論。自分を犠牲にするつもりはないと。自分のために結婚するのだ、ルージンも自分の人格を認めてくれるだろう。
ラスコーリニコフの反論。嘘だ。おまえにルージンを尊敬できるはずがない。
妹の反論。ルージンを尊敬できるということが確実に信じられなかったら、私は結婚しない。それを今日確認できるだろう。
ルージンの手紙をラスコーリニコフに見せる。読む。「まるででたらめだ」
意外にも非常に冷静に指摘。まず「私が退出するのはあなた方の自業自得」という表現。これは脅迫だ。もう一つひっかかる点。わざと事実を曲げてラスコーリニコフを中傷している。それを問題化してラスコーリニコフと母妹を口論させようという腹か。しかしそう指摘するのはただドゥーニャの参考にと思ってのことだ……あとのことは、自分が決めることじゃなくて、ドゥーニャ自身が決めることだ。
ドゥーニャはその対面の席に兄にいてもらえるよう頼む。「行くよ」ついでにラズミーヒンも誘う。
母はもう反対しない、ドゥーニャがそう決めたことなら。「こうなったら、ピョートル・ペトローヴィチが怒ろうが怒るまいが、かまやしないよ!」
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そのときドアが静かに開いておずおずと一人の娘が入って来る。ソーニャ。服装が変わっていたのでラスコーリニコフもすぐには気づけない。
母と妹に弁解しなければならないかとふと思うが、ソーニャの身なりの貧しさに苛酷な暮らしぶりがありありと現れているのを見て、憐憫が先に立つ。
カテリーナ・イワーノヴナが、明日の葬式に出て欲しいと願っていることの言伝。
改めてソーニャの外貌描写。
ソーニャはラスコーリニコフの貧しい暮らしぶりに打たれる。
これで妹と母の疑念も晴れた。ラスコーリニコフは用事があるという。妹と母は辞去。妹は去るとき、ソーニャに丁寧に会釈。
〈一行空き〉
ドゥーニャと母の会話。ルージンに断られたらどうなるか、という話を母が蒸し返す。「それだったら、あのひとの人間はゼロよ!」
ソーニャのことも母は心配する。「わたしはすっかりびっくりしてしまったんだよ、わたしを見つめるあの娘の目の、真剣なことったら、……」
〈一行空き〉
ラスコーリニコフの部屋。ラスコーリニコフとラズミーヒンの会話。ソーニャが帰ろうとするが引きとめる。
ラスコーリニコフ、自分もあの殺された老婆に質入れしているのだが、(父の形見だから、母親に気づかれる前に、直ぐ)その品を取り戻したい。届け出を出すのでは遅すぎる、ラズミーヒンの親類で知人の予審判事ポルフィーリイがこの事件を担当しているそうだが、彼に直接言って取り戻せないか?
取り戻せるさ、一緒に署に行ってポルフィーリイに頼みに行こう、とラズミーヒン。ラズミーヒン興奮する──「これでまんまとすっかりひっくりかえったぞ!(と思わず口にする)。ポルフィーリイも知り合いになりたがっていたよ。早速行こう。
ソーニャと一緒に部屋を出る。ソーニャに住所を訊く。
通りの門のところでソーニャと別れるが、別れ際の会話、ソーニャ、マルメラードフから聞いてすでにラスコーリニコフのことを知っていたという。
別れてから一人で歩いていくソーニャ。あまりにも新しい印象を得た。
そのとき、彼女をつけてくる一人の男が。この男は、門のところでラスコーリニコフ・ラズミーヒン、ソーニャの三人でいたときから目をつけていたのだ。五十がらみの男。「空色のひとみは冷たく、鋭く、そして深かった」。
しかしソーニャが入っていった建物は、その男も間借りしている建物だった。さらに、ソーニャ(9号室)とその男(8号室)は隣同士だった。
〈一行空き〉
ポルフィーリイのところへ向かうラスコーリニコフとラズミーヒン。
ラズミーヒンはラスコーリニコフが老婆のところへ質草を入れていたことを知って喜ぶ。なぜなら、熱病で寝込んでいた間指輪とか何だとうわごとを言っていたことに、説明がつくから。してみると、やはりラズミーヒンでさえラスコーリニコフへの嫌疑を完全には拭い去れなかったわけだ。
ポルフィーリイについての話。利口。懐疑論者。毒舌家。腕利き。最近のラスコーリニコフの病気の話をしたら、ひどく会いたがったという……。
昨日ラスコーリニコフに話したことについて。「あのとき言ったほかのこと」明言されないが、イリヤ・ペトローヴィチおよびザミョートフの殺人嫌疑のこと。ラスコーリニコフはわざとそんなことは聞きたくない、というふうに苛々してみせる。
ポルフィーリイの住む建物が見えてくる。ラスコーリニコフはポルフィーリイのことが不安になる。とんで火にいる夏の虫か? 昨日犯行現場をラスコーリニコフが再び訪れたことも、すでに掴んでいるだろうか?
計略。ラズミーヒンがドゥーニャに惚れていることを、からかいはじめる。「今日これをどっかですっぱぬいてやろう、そうだ、母を笑わしてやろう……」
ラズミーヒンは取り乱し、怒りはじめる。それを見て、ラスコーリニコフはわざと大笑いする。そのまま笑いながら、ポルフィーリイの住居へ入る。控室でもまだ笑っている。
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ラスコーリニコフはなんとかして噴出すまいとこらえている風を装う。憤懣をこらえているラズミーヒンの格好と、それがよい対照になる。ポルフィーリイと握手。自己紹介しかけて、ラスコーリニコフはまた噴出しそうになる。「ラスコーリニコフの笑いも無理はないと思われた。」そしてついに爆笑。ラズミーヒンは異常に激怒。その場の雰囲気に自然な愉快さが生れる。
部屋にはポルフィーリイ、隅の椅子にザミョートフ。
まず謝罪から入る。それからポルフィーリイと二人で、すこしラズミーヒンを揶揄する。ラズミーヒンもようやく笑いだし、態度を直す。「これでおしまい! みんな阿呆だよ。用件にうつろう。」
ポルフィーリイの外貌描写。「まるで誰かに目配せでもしているように、たえずぱちぱちしている白っぽい睫毛の下から、妙にうるんだ光をはなっている目の表情」。態度は真剣そのもので、ものものしい。
ラスコーリニコフは落ち着いて用件を説明。品物を買い戻したい。いかにも問題の金銭的な面を気にしているように。ポルフィーリイの対応はあくまで事務的。だが一瞬、ラスコーリニコフを愚弄するように(演技を見抜くように)目配せした?
間の悪いことに、ラズミーヒンが、昨日ポルフィーリイが老婆に質入れした連中を喚問していると聞いてラスコーリニコフがぎくっとしたことを、口にする。
ラスコーリニコフは、ラズミーヒンに対する怒りを、自分が質入れした品が自分にとってどんなに大事かを理解しないラズミーヒンを非難するという形で演技的に発散。そして父の形見の銀時計がいかに大事かをことさら強調する。《自然らしく見えただろうか?》
ポルフィーリイが冷ややかに、自分は前々からあなたが来るのを待っていた、と告げる。だからあなたの品物がどこへいくかなどという危惧は無用だったのですよ。
ラスコーリニコフはぎごちなくうす笑いして、質入れした連中は多くいたはずなのに……ところがあなたは……
取りに来なかったのがラスコーリニコフだけだったので。「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、そしてそのつつみ紙に鉛筆であなたの名前がはっきりと記してありました、彼女がそれをあなたからあずかった月と日もいっしょに……」。
身体の調子が悪かったから……。
ラズミーヒンが横槍。身体の調子が悪いくせに、昨日は、夜中こっそりどこかへ抜け出した!
ラスコーリニコフ曰く、ラズミーヒンたちの顔を見たくなかったから、別の部屋を探そうと思って〔実はこの時点では、ポルフィーリイはラスコーリニコフが犯行現場を再訪したことを掴んでいない〕。ザミョートフにも会ったということを、ザミョートフに確認。
また、みずから自分にわざと嫌疑を掛けるようなことを言う(わざとすぎるから、裏の裏でさらに潔白に感じられるだろう、ということだ)。
ポルフィーリイ興味津々。
ラスコーリニコフ、高速内省。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフに嫌疑を掛けていること、ラスコーリニコフにとりわけ注目していることを、隠そうともしない? それともこれは自分の一人合点か? 「彼女の部屋」という言い方も引っかかる。俺が昨日犯行現場を訪れたことを知っているのか否か? 別の部屋を探そうと思って、と言ったのを何故聞き流したのか? 《やつはおれをさぐっている、しっぽを出させようというんだ。なんのためにおれは来たんだ?》(自分が嫌疑が掛けられているかどうかという不安に白黒はっきりつけるため?)
話が変わる。昨日、ラズミーヒンの引っ越し祝いの席で議論したこと。社会に犯罪はあるか否か。ラズミーヒン、ラスコーリニコフの意見を聞かせてくれ、という。社会主義者たちに言わせれば、犯罪はなべて環境への抗議=公正な社会になれば犯罪もない。ポルフィーリイは社会主義者たちの肩を持った? ラズミーヒンは反対。
ポルフィーリイ。犯罪とか環境とかいったことについて、一つの論文、ラスコーリニコフの論文を思い出しましたよ。二月前に。ラスコーリニコフはそれが掲載されたことを知らなかった。
論文の内容。犯罪遂行間際の犯罪者の心理について(第一部6章)。だがポルフィーリイが興味をもったのは付記の思想。特殊な人間なら無法行為を行う権利がある云々。
ラスコーリニコフはポルフィーリイが何故この論文のことを持ち出したかを理解し、苦笑い。その挑戦を受けることにする。
自分の論文をみずから解説。正確には、無法行為は、その特殊な人間にとってその偉大さを発揮する場合にやむを得ないなら許されるということ。ナポレオンでも万引きは許されない。だが、革命のための流血なら……? 良心の声にしたがって、血を流す許可が与えられるのだ。
ポルフィーリイは神を信じるか、キリストを、ラザロの復活を信じるか、と問う。YES.
ポルフィーリイ、ではその特殊な人間と凡人をどう見分けるのか、と問う。凡人が自分を特殊な人間と勘違いして無法行為をしだしたら……
ザミョートフ噴出す。
それは僕の罪じゃありませんよ、それに大した危険はないでしょう、とラスコーリニコフ。流刑や監獄や予審判事や苦役などで社会は十分保証されている。
その男の良心は?
あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。
さらに、ポルフィーリイは不躾な質問をする。ラスコーリニコフ自身、自分が特殊な人間だと思ったことはないか? 未来のナポレオンと自分をみなしたことは? ほんのちょっぴりでも?
大いにあり得ることです。
とすれば、あなたも、全人類を益するためとかで、障害とやらをふみこえるかもしれませんな、殺して盗むというようなことを……
ザミョートフ曰く、先週アリョーナ・イワーノヴナを斧で殺したのも未来のナポレオンじゃないかね。
ラズミーヒンもようやく感づいて、不機嫌になってくる。
ラスコーリニコフ、帰ろうとする。
気味悪いほどの愛想よさをみせて、片手をさしのべる。そして、またちょっと話をしたい、「あなたなら、最近あそこを訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことをおしえていただけるのではないかと……」明日また尋問?
そして、ポルフィーリイの最後の姦計。「そうそう、ちょうどいい!」「いいとき思い出したよ、……ほらあのミコライのことだよ……あの若者が白だってことはぼくだってわかってるんだよ……そこで、それなんですよあなたにお聞きしたかったのは。」
あのとき、あなたがあそこへいらしたのは、七時過ぎでしたね?
ラスコーリニコフは「七時過ぎです」と答えるが、これは危うい。
それで、七時すぎに、あのとき階段をとおりながら、せめてあなただけでも、二階の開けはなされた部屋に、二人のペンキ職人を、その中の一人だけでも、見ませんでしたか? それが、彼らにとって重大な証言となるのですよ!
やっとラスコーリニコフも罠を見破る。いいえ、見なかった、見たのは、四階で官吏の家族が引越ししていたのだけ。ペンキ職人なんて見なかった。
ラズミーヒンが我に返って言う。「ペンキ屋がしごとをしていたのは事件のあった当日じゃないか、彼が行ったのはその三日まえだ! きみは何を訊いているんだ?」
ポルフィーリイ、ついうっかりして。
ラスコーリニコフとラズミーヒン、不機嫌になって通りへ出る。
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ラズミーヒン憤慨。ラスコーリニコフは早くに気づいていたが。物証がないから、心理作戦で来るわけだ。
ラズミーヒン、必死でラスコーリニコフを弁護。すべては熱病のせいだ。失神だって嫌疑の根拠になるもんか。
ラズミーヒンふと疑問に思う。ところで、なぜ職人のことを聞くのが心理作戦なんだ? 実際の犯人だって、職人がいたのを見たと口をすべらすわけがない。
ラスコーリニコフ曰く、逆だ。もし僕が犯人なら、職人がいたのを見たと言うだろう(実際見たのだ)。機転を利かしたつもりで、ほんとうらしく見せるために、外部的な事実は白状するだろう。ポルフィーリイは馬鹿ではない。
二人は母と妹の住居の前まで来るが、ラスコーリニコフは急に不安を感じ、用件があるといって、突然自分の家の方へ戻る。
自分の部屋に来ると、あのとき盗品を隠した壁の穴を調べる。何か証拠が残ってないかと不安になったのだ。
やがてまた部屋を出て行く。すると、門のところで、庭番に指さされる。町人風の男が、どいつがラスコーリニコフかと訊いている? だがその町人は、何も言わずに門から通りへ出て行く。
ラスコーリニコフは後を追って行く。追いついて何用か尋ねるが、町人返事もしない。不意に、突然「人殺し!」とはっきりした声で言う。「おまえが人殺しだ」
町人去っていく。ラスコーリニコフ立ち尽くさざるを得ない。
ラスコーリニコフ、がくがく震えながら自分の部屋へ戻る。ソファにくずおれる。横になる。
しばらくしてラズミーヒンが来るが、そっと寝かしておくことにした模様。
一人きりになり、ラスコーリニコフ内省。自分がやったことのあまりの愚劣さ。ナポレオンが婆ぁの長持ちを漁る? 自分が殺したのは人間じゃない。主義だ。社会主義にだって自由主義にだって満足できない。何も望むな。だが、俺は気取ったしらみだ。神どころじゃない、ただのしらみ、しかも、殺してしまったあとで自分に「おまえはけがらわしいしらみだ」と言うだろうと、前から予感していた。婆ぁがさらに死ぬほど憎くなる。
やさしいリザヴェータのこと、従順なソーニャのことを考える。「いっそ言ってしまおうか? おれの気持ちひとつだ……フム! あのひとはおれと同じような気性のはずだからな」意識を失う。
悪夢を見る。もう一度老婆を殺す夢。しかもあまたの目撃者が現れる。
目がさめる。が、夢がつづいているような気がする。まったく見知らぬ男が戸口に立っていたから。その男は、ソファのそばの椅子に腰をおろす。
「何用です?」「スヴィドリガイロフです、よろしく」
▼第四部
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スヴィドリガイロフが語り出す。ラスコーリニコフを訪ねた理由(ドゥーニャに用があるので、その口利きを)。かつてドゥーニャとの間であった事件の弁解。マルファ・ペトローヴナの死について。マゾヒズムについて。「しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」よく喋る。
ラスコーリニコフは嫌悪丸出し。だが、好奇心も。
「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたには何かがあります」と探ってくる。
昔話。マルファ・ペトローヴナとの馴れ初め。ユスポフ公園の気球の話。《この男はなにを言っているのだ、まじめなのだろうか?》
マルファ・ペトローヴナの亡霊を見るという。
また、部屋に入ったとき、ラスコーリニコフに対して「これこそあの男だ!」という宿命的なものを感じたという(さらには今日、一度ソーニャといるところを見掛けた時に。「あなたにはわたしに似た何かがある、どうもそんな気がしましてねえ……」)。
亡霊は存在するか否か問答。蜘蛛だらけの小部屋=永遠。こいつは気ちがいか?
ようやく本題に。ルージンはドゥーニャにふさわしい男じゃない、と。ドゥーニャは家族のために自分を犠牲にしているのでは。できれば自分からドゥーニャにルージンの本性を伝えて、さらに先日の不快のお詫びに一万ルーブリ差し上げたい。自分はもうじきある娘さんと結婚するので、これには何の裏もない。
よくもそんなことが言えたものだ。ドゥーニャに伝えるのは断る。
なんとしてもドゥーニャにお会いしたいですな、と繰り返す。
最後にマルファ・ペトローヴナがドゥーニャに遺言で三千ルーブリを贈ったと伝える。
出しなに、スヴィドリガイロフはラズミーヒンと出会う。
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もうすぐ午後八時。ルージンとの約束の時間(9日目は、ソーニャの訪問やポルフィーリイとの対決やスヴィドリガイロフとの出会い、さらにルージンとの対決、ソーニャ部屋での対話まで、色々あるな)。
今のは誰かとラズミーヒン訊く。妹に恥をかかせた例の地主。
母と妹のところへ。廊下でルージンと出会い、三人一緒に部屋に入る。
円卓に全員つく。ルージン不愉快げな態度。
道中はお変わりもなかったことと思いますが、と型どおりの挨拶から。
ラズミーヒンに助けられた、という話から、ラズミーヒンの紹介。昨日既に会っているが。
母が、マルファ・ペトローヴナが亡くなったという話題を出す。
ルージンが、それを機にスヴィドリガイロフがペテルブルグへ来ていると知らせる。特に危険はないだろう、ドゥーニャの方から関係を持とうとしなければの話だが。あの男は悪事に身をもちくずした連中の中でももっともたちの悪い男。彼に関する一つの刑事事件。レスリッヒという女の姪が自殺をした、それはスヴィドリガイロフが彼女を陵辱したから?
さっきスヴィドリガイロフは自分のところへ来た、とだしぬけにラスコーリニコフ。スヴィドリガイロフの用件・提案(ルージンの前では言えないという)と、マルファ・ペトローヴナの遺した三千ルーブリのことを伝える。
ルージンが席を立とうとする。ラスコーリニコフがルージンのいるところではスヴィドリガイロフの提案を話すことができないのと同様、ラスコーリニコフのいるところでは自分も重要なことを話し合うことはできない。
ドゥーニャ。兄を呼んだのは自分がしたこと。二人に仲直りしてもらいたいから。もし兄がほんとうにルージンを侮辱したのなら、兄はあなたに許しを請うだろう。自分はできるかぎり公平に判断したい。もし仲直りできないということになれば、自分は兄かルージンかどちらかを選ばなければならない。わたしは選択をあやまりたくない。
ルージンは、兄と自分を同列に置くのはすでに侮辱だ、わたしは同列に置かれることはごめんだ、と言う。ドゥーニャの提案を相手にしようとしない。
「それはともかくとして」母親に一つの釈明を求めたい、とルージン。母親の手紙から伝わった「貧しい娘と結婚した方が有利」の一件(ラスコーリニコフ「貧乏人の娘を嫁にもらうと、あとでおさえがきくし……それに恩を売りつけてしめあげられるから、ずっととくだ」/ルージン「もう生活の苦労を知っている貧しい娘と結婚したほうが、何不自由なく育った娘と結婚するよりは、道徳という点から見てもいいことだし、従って夫婦生活をいとなむうえにおいてもずっと有利だと思う」)。
母は、自分とドゥーニャがここへ来ている以上、自分たちはルージンの言葉を悪く取ってはいない、という。
さらに母。ルージンこそ、昨日の手紙でラスコーリニコフについて間違ったことを書いたじゃないか。
ラスコーリニコフが解説。
憎悪に身をふるわせつつルージン、ラスコーリニコフが金を浪費した点、気の毒な家庭にはちがいないが、あの家庭にけがれた人間がいた点、それに一行でも間違いがあるか?
ラスコーリニコフは(すでにソーニャに感銘を受けているので)あなたなんかあなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しない、と。
これじゃ意見があうわけがない!と呆れたようにルージン(二人の意味レベルの違い)。
辞去しようとするルージン。別れ際に、母がラスコーリニコフに彼の手紙を見せて話し合ったことを、揶揄する。
母親はいささかむっとする。ドゥーニャの提案を擁護し、自分たちの寄る辺のない立場に心遣いを見せてくれてもいいではないか、と。
ルージンは、マルファ・ペトローヴナに三千ルーブリを遺してもらった以上、弱い立場とは言えませんな、スヴィドリガイロフの秘密の申し出もありますしね、と。
この侮辱に対して、全員怒る。「おい妹、おまえはこれほどまで言われて恥ずかしくないのか?」「恥ずかしいわ、ロージャ、……ピョートル・ペトローヴィチ、おかえりください!」
自分の権力を信じていたルージンには思いもよらぬ結末。「わたしはもう二度ともどりませんぞ」などと脅すが、その尊大さがますますドゥーニャと母の怒りを買っただけ。「無礼な、あなたのような男に、うちのドゥーニャをやれますか?」
最後の棄て科白、自分がドゥーニャを貰う決意をしたのは、ドゥーニャについて世間で悪い噂が立ったあとのことだったのだ、そして自分の婚約によって名誉を回復してやったのだから、その報酬と感謝を期待したいどころだが、こんなことになるとは、世間の悪い噂の方が正しかったようだな……
ラズミーヒン殴りかかりそうになる。最後に、ラスコーリニコフが「出て行ってください!」と声を殺してゆっくり言う。
このため、ルージンは、自分の復讐心を徹底してラスコーリニコフ一人に負わせる。しかも、まだ女二人だけならまだもとに戻せると思っている。
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ルージンの心理。あまりにも自惚れていたので、こんな幕切れがあろうとは想像だにしなかった。貧から身を起しただけにそういう性格なのだ。
悪い噂を無視して求婚? 実はそんな噂がすでに覆されたって知っていたけどね。でも、ドゥーニャを自分の位置まで引き上げるという自分の功績を信じていた。だからこそ、今彼は「好意を無視された」などと考えている。
ドゥーニャ(というか彼に恩を感じ隷属する一人の気の弱い教養のある上品な娘)にとろけるような想いを寄せていたのも、裏切られた。ドゥーニャを使えばペテルブルグの社交界にも乗り出すことができたろうに。何とかしなければ! あの青二才を抹殺しなければ!
ドゥーニャや母やラスコーリニコフの方へ場面が移る。みな喜んでいた。ラズミーヒンが一番喜びに戦いていた。
ラスコーリニコフは憂鬱。今の出来事にさして関心を持っていないかのように〔明記されないが、あの謎の町人のことがずっと引っ掛かっている〕。
スヴィドリガイロフの話を簡潔に語る。ドゥーニャはスヴィドリガイロフを恐れる。
十五分後にはみんなひどくにぎやかに話し合っていた。ラズミーヒンは、ルージン無き今、将来の見通しについて熱弁をふるう。出版業者をやる? 資本はある。
話は盛り上がるが、ラスコーリニコフは帰ろうとする。みな驚く。
「今はぼくを一人きりにしてください、ぼくをかまわないでください……」
母は悲しむ。妹は怒る。「意地悪のエゴイスト!」
ラズミーヒンがラスコーリニコフのあとを追う。「ぼくを見捨てろ、だがあの二人は見捨てないでくれ、ぼくの言うことがわかるかい?」
ラズミーヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。何か異様なものが二人の間を通り抜ける。「やっとわかったか?……」とラスコーリニコフ。
もうラスコーリニコフを引き止めることもできない。ラズミーヒンは戻ると、二人をなぐさめる。
4 59枚(23616字)-1068枚
午後十一時頃。ラスコーリニコフはその足でソーニャの住居へ。(第三部4、すなわち9日目に、すでにラスコーリニコフは「ぼくは今日にもお宅へよります、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、失礼ですが、どちらにお住まいかだけ、おしえてくださいませんか?」と言っているので、伏線回収。)
ラスコーリニコフの思い掛けない訪問に驚いて、ソーニャは言いようのない興奮に包まれる。
ソーニャの部屋──物置みたいな部屋。隣の住居に通じるドアがある。
ラスコーリニコフ、これはぼくの最後の訪問だと、言い出す。ぼくは一言あなたに言いのこしたいことがあってきたのです……
家主のカペルナウモフ一家について、雑談。マルメラードフの話も。
カテリーナ・イワーノヴナを愛しているかどうか? 「きまってるじゃありませんか!」飽くことを知らぬ同情とでもいうものがソーニャの顔にみなぎる。「あれはそれは不幸なひとなのよ、ああ、なんて不幸なひとかしら!」
だがこれからはどういうことになるのか? 父は亡くなり、子供はいる。ソーニャを当てにしているということか?
「じゃ、あなたはかわいそうだと思いませんの? かわいそうじゃありませんの?」
カテリーナに見せた襟と袖当ての件で、古着屋リザヴェータの話が少し出る。
またカテリーナの話。肺をやられているから、長くはないだろう、と冷酷にラスコーリニコフ。で、子供たちはどうなる? 或いはソーニャが先に病気になって病院にでも収容されたら? 一家は野垂れ死に…… 或いはポーレチカもソーニャと同じ運命に……
「おお、やめて!……神さまがそんなことを許しませんわ!」
神なんか存在しないかもしれないよ。五分ほどすぎる。不意にラスコーリニコフ、ソーニャの足に接吻する。彼女の中に深い大きな苦悩を認めたと。
春を売ろうがどうにもならないことは分かっているはずだ、自殺した方がよっぽどましではないか?
ソーニャもそのことを真剣に考えたことがなかったわけではない。
河に身を投じることができなかったとすれば、こんなに長いあいだ気ちがいにもならずに、彼女を支えていたのは、いったい何なのか? 奇跡でも待っているのか?
神の話を切り出す。《やっぱり、そうだった! ばかな女だ! 狂信者だ!》
タンスの上の聖書。リザヴェータが持ってきてくれたもの。「きみはリザヴェータと中がよかったのかい?」「あのひとは神さまにお会いになるでしょう」
ラザロの復活の箇所を読んでくれ、という。「どうしてあなたに? だってあなたは信じていないじゃありませんか?」「読んでくれ! ぼくは読んでもらいたいんだ! リザヴェータには読んでやったんだろう」
彼女は熱意を込めて読む。《彼も、彼も──信じない盲者だ、──彼ももうすぐこの先を聞いたら、信じるようになる、そうだ、それにきまっている! もうじき、もうじきだ》
聞き終えてから、ラスコーリニコフは言う。「いまのぼくにのこされたのはきみ一人だけだ……ぼくらは二人とも呪われた人間だ」「きみがしたのだって、同じことじゃないか? きみだって踏みこえた……きみは自分に手を下した、自分の……生命を滅ぼした」
明日ぼくが来なかったら、一切のことがきみの耳に入るだろう〔というのは、あの謎の町人の告発によって警察が彼を捕らえるだろうということ〕。明日来たら、誰がリザヴェータを殺したか教える。と言って出て行く。
一人残されたソーニャはラスコーリニコフの恐ろしい言葉の意味を考える(だがラスコーリニコフが殺したという考えはゆめにも思い浮かばなかった)。一晩中熱にうかされる。
スヴィドリガイロフが一部始終立ち聞きしていた。
------------------------------------------10日目
5 65枚(25830字)-1133枚
省略。一気に翌朝十一時。ラスコーリニコフ、警察署の捜査課へ出頭。
あの謎の町人の告発のせいで、警察はてぐすねひいて待っていたろうと思ったが、そんなことはなかった。まだ告発していないのか、それともあの男は実は何も知らないのか?
ポルフィーリイ・ペトローヴィチの部屋へ。なぜか、ポルフィーリイは、不意をつかれたようにうろたえている。
時計を受け出すための書類を持って来た。ぼくを老婆殺しの件で尋問しないのか、と自分から口に出してしまう。興奮する。
関係ない雑談。しかし眼差しは別のことを語っている。ここには明らかにラスコーリニコフの知らない何かがあるのだ、ということを洞察する。
いつまでも中身のない話をつづけるポルフィーリイ。百姓のことや斧で脳天に……といったほのめかしを挟む。
ポルフィーリイは何かを待っているのではないか?とラスコーリニコフ考える。
ポルフィーリイは自分の捜査方法について語り出す。あるケースにおいては、「証拠をにぎっていたとしても」すぐ容疑者を勾留するより、泳がせておいた方がいい。それ以上に異論の余地のない証拠を得る機会が失われることもあるから。
「まあ仮に、わたしがある男を勝手に泳がせておくとしましょう……」その男に、四六時中警察がおまえを監視し、尾行しているぞという疑惑を持たせるだけで、向こうからひっかかったり、はっきりした物証を残してくれたりするものなのだ。なんとも可笑しな話だが。そいつは泳がせておいても逃げない。心理的に逃げない。「蛾がろうそくの火のまわりをまわるみたいに」。
ラスコーリニコフは、こんな誇示に一体何の意味があるのかと必死で考える。
「仮のケース」の話をつづけるポルフィーリイ。巧みに嘘をついたとしても、ある瞬間に失神してしまう。自分の疑っている男をからかって、わざと蒼白になってみせる、しかしその蒼白さがあまりにも自然すぎる。勝手に呼ばれもしないところへ顔を出す。黙ってなければならないことをぺらぺらしゃべる。
ラスコーリニコフはっきりと言う。老婆とリザヴェータ殺しの件でぼくを疑っていますね。こういう風にぼくを愚弄することは許さない!
なぜかポルフィーリイ、ラスコーリニコフを必死でなだめる。
ポルフィーリイ、ラズミーヒンが昨日あのあとまた文句を言いに来たことをラスコーリニコフは知っているか?という話から、「そんなんじゃないもっと大きなあなたの行為を知ってますよ。あなたが部屋を借りに出かけたことを……」と言いだす。そんな風に自分を興奮させてはいけない、警察からの言われない侮辱のせいで、ほとんど自分が殺人犯だと思い込んで、職人や庭番をびっくりさせたり。そんなんでは自分を気ちがいにしてしまいますよ、という気遣いを見せる。
ラスコーリニコフは、相手が自分を疑っていないということを一瞬信じたくなる。《そんなことはあり得ない、あり得ない!》
ポルフィーリイがラスコーリニコフが言ってもないことを取り上げてラスコーリニコフを弁護したので、やはり何かしらの裏を感じ取る。「あなたの言うのはみな嘘だ!」
「嫌疑をかけていたら、部屋を借りに出かけたこと、呼鈴を鳴らしたこと、庭番に血のことを訊いたことをすでに知っていると打ち明けただろうか? これはつまり、あなたに嫌疑をかけていないということですよ」
「からかうのはよしてくれ!」激怒するラスコーリニコフ。
立ち去ろうとするラスコーリニコフ。「ところで思いがけぬ贈り物は見たくありませんかな?」
逆上するラスコーリニコフ。「さっさと出せよ!」
ドアの向こう側で人の騒ぐような気配。証人でも来たのか、とラスコーリニコフは考える。「おれは覚悟はできてるぞ、びくともせんぞ!」
しかしラスコーリニコフもポルフィーリイも予期しないことが起こった。
6 28枚(11070字)-1161枚
ポルフィーリイが「どうしたんだ?」とドアに向かって叫ぶ。未決のミコライを連れて来たという。ポルフィーリイはいかん、向こうへ連れてけ!と言う。明らかにこれがポルフィーリイの言う「贈り物」ではない。
必死な形相の庶民風の男がポルフィーリイの事務室に入ってくる。ミコライ。ポルフィーリイは怒る。どうして呼びもしないのに連れて来たんだ?
ミコライは不意にひざまずいて、俺が殺したんだ!俺が老婆とリザヴェータを斧で殺したんだ!と大声で。ラスコーリニコフ呆然。
先走ったまねしやがって、とポルフィーリイ、憎悪を込めてミコライをののしる。
簡潔な尋問。一人でやったのか?なら何故庭番はおまえら二人を見たと言っているんだ? 適当な答え。「ふん、やっぱりそうだ! つくりごとを言ってやがる!」
ポルフィーリイ、ラスコーリニコフがそこにいることを思い出して狼狽。
ラスコーリニコフは、すでに自分を取り戻している。贈り物は結局見せてもらえないわけですな。
事務室の外へ。ミコライがせっかく自白したのに、「つくりごとを言っているのだ」と言ったことに対して皮肉。また会いましょう、といった挨拶を交わして別れ。
すぐ家へ帰って、ソファに寝る。内省。ポルフィーリイはラスコーリニコフの性格の病的な弱点を攻めてきた。恐ろしい。彼は一体何を準備していたのか? そして今日はソーニャに自分は……?
そこへドアが開いて客。昨日のあの謎の町人。男はまず謝る。昨日のことを。この男は、ラスコーリニコフが老婆のアパートに言って庭番に警察へ行けとそそのかしたり血のことを言ったりしたのを聞いていた。それだけ。それだけでラスコーリニコフに腹を立て、「人殺し!」と言ったのだ。
(第二部6参照。たしかにあの場面で、庭番や職人や女たちのほかに、「ガウンを着た町人」がいた。しかもその目の前で、庭番に訊かれてラスコーリニコフは自分の名前、住所まで口にしている。上巻302頁)
すると、ポルフィーリイには何の手掛かりもなかったわけだ。しかも、もしかすると、ポルフィーリイはこの町人に会うまで、ラスコーリニコフが犯行現場を再び訪れたことさえ知らなかったかもしれない。
町人がポルフィーリイのところへ出頭したのは、今日、ラスコーリニコフが来る直前。町人の話を聞いて、もちろんポルフィーリイは興奮した。「人殺し」と言われてラスコーリニコフが何も答えられなかったことも。むろん思いがけぬ贈り物というのは、彼のことだった。
町人去る。
また何もかもがあいまいに戻った。《さあ、またたたかうぞ》
しかし自分の小心さに対する自己憎悪の念は消えぬ。
▼第五部
- 1 57枚(22878字)-1218枚
10日目のルージンサイド。レベジャートニコフと同居している。
つまり同じ建物の中でマルメラードフの法事の準備が進行している。
ラスコーリニコフも招待されていることをルージンは知る。
その日までレベジャートニコフに媚びていたルージンの態度はすっかり変わり、口論。レベジャートニコフ「あんたは何もわかっちゃいない!」
レベジャートニコフがソーニャに言い寄ったというのは誤解? 教化しようとしただけ? どうやらレベジャートニコフはソーニャを好いている、その性格を尊敬しているらしい……(つまり、彼女が盗みを働くなどとはまず信じないということ。伏線)。
レベジャートニコフを通じてソーニャを呼んでもらう。レベジャートニコフには立ち会ってもらう。
不幸なカテリーナを援助する気はあるが、それをカテリーナには伝えないように、と。
そしてとりあえずこれを、と言って十ルーブリを差し出す。ソーニャはそれを受け取る。
レベジャートニコフは、一部始終を見ると、握手を求める。「僕はすっかり聞きました、すっかり見ました、これが高尚ということです、人道的ということです、あなたは感謝をさけようとなされた、ぼくは見ていました! ……ぼくはあなたがこういう行為をなさろうとは思いもよりませんでしたよ」
しかしルージンはほとんど聞いてさえおらず、何か興奮しながらもみ手をして考え込んでいる。
2 42枚(16974字)-1260枚
カテリーナの意地から発した豪華な法事。
カテリーナの気質について。「カテリーナ・イワーノヴナが誰かの縁故関係や財産を自慢したとしても、それはなんらの利害も、個人的な打算もなく、まったく私心をはなれてのことで、いわば心がみちてくるままに、ただ無性に相手をほめあげて、ますますその価値を高めてやるという、一途の喜びからなのである。」
法事にはアパート中の連中を招待したにもかかわらず、ろくな奴が来なかった。ラスコーリニコフが全部の客の中で一番ましなくらい。カテリーナ、ラスコーリニコフに様々なことを愚痴りまくる。ソーニャをラスコーリニコフの隣りに坐らせる。
ソーニャがルージンの詫びの言葉を(創作して)伝えると、カテリーナ嬉しがる。
ソーニャの職業を揶揄する一事が持ち上がる。カテリーナ騒ぎ立てる。法事が無事にすまない予感がする。
カテリーナとアマリヤの間で口論。ついにアマリヤが黄色い鑑札がどうのと言い出したのでカテリーナが掴みかかりそうになるが、そこへルージンが現われる。
カテリーナはルージンの胸にとびつく。
3 50枚(19926字)-1310枚
カテリーナはルージンに、父との知遇を思い出して、この馬鹿女(アマリヤ)に思い知らせてやってくれ──と頼むが、ルージンは無下に、カテリーナの父との知遇を否定して、自分は自分の用事で来たという。
一分ほどしてレベジャートニコフも来る。
みなさんよく聞いてください、と言ってからソーニャに、わたしの百ルーブリ紙幣が一枚なくなったが、それが今どこにあるか言ってくれたら、この事件はなかったことにする、しかしそうでない場合は、重大な手段に訴えざるを得ない……と告げる。
知りません。とソーニャ。
さきほどの部屋であったことを、レベジャートニコフに確認しつつ、語って聞かせる。ソーニャが落ち着かない様子で話の途中に三度も立ち上がったことも、正確に。
なくなっていたのは、テーブルの上に置いてあった五百ルーブリのうちの一部。数え間違いはあり得ない。今朝両替したばかりの金で、ソーニャが来る前に一度数え終わって確認したのだから。そして、「あなたの社会的立場とそれに関連する習慣というものを思いあわせた場合、或る疑惑を抱かざるを得なかったのです!」ソーニャの忘恩行為を非難する。「目をさましてください! 強情をはると、ほんとに怒りますぞ!」
ソーニャは知らないという。
警察に知らせるほかないようだ、とルージン。
カテリーナ猛然と暴れ出す。「ソーニャが泥棒だって! へっ、ソーニャのほうがおまえにくれてやるよ、ばかめ!」でルージンをののしりまくる。ソーニャを調べてみたらどうなの!
カテリーナみずからソーニャの服のポケットを外へ引っ張り出す。すると、紙切れが飛び出す。ルージンがそれを皆に見えるように高くひろげてみせる。百ルーブリ紙幣。
四方から「盗人! 警察を呼べ!」の大騒ぎ。
ソーニャ「わたしじゃない! わたしは知りません!」
カテリーナは「わたしは信じないよ!」と叫び、ソーニャがどんなに自己犠牲精神にあふれているかを訴え、最後には「神さま! あなたにおすがりするほかありません、どうかこの娘を守ってあげてください!」と絶叫。
ルージンはそれを見て同情を感じ、まあ貧しさがソーニャにこんなことをさせたのだろう、今自分が受けた個人的な侮辱には目をつぶって、この件は許してあげてもいいと思っている、と公言。「いまの恥辱があなたの将来に対する教訓になるでしょうからな」
ルージンが出て行こうとしたとき、レベジャートニコフが「なんという卑劣さだ! ……あなたはよくもぼくを証人にするなどと言えましたね?」
ラスコーリニコフ注意を研ぎ澄ます。
ソーニャに百ルーブリ紙幣をやったのはこの男自身だ、と証言する。ソーニャを送り出すとき、彼自身が百ルーブリ紙幣をポケットに押し込んだのだ。そのときは、ルージンがこっそり恵んだものだと思い込んでいた。
それを本当にはっきり見たのか? 見た。ルージンが百ルーブリ紙幣をテーブルの上から取って、手に握りこんでいたところから見ている。そのことはしばらく忘れていたのだが、ルージンが立ち上がりかけたときに、それを右手から左手にもちかえて、危なくおとしそうになった、その時また彼は思い出し、ルージンがソーニャにこっそり恵んでやろうとしてやるのかと考えた……だからこそ、特に注視していたのだ。
カテリーナがレベジャートニコフの前にひざまずく。
でたらめを言うな……。何の目的で? それこそ、それがよく分からないからこそ、目撃したあと本当に色々なことを考えた。レベジャートニコフに隠そうとした? それとも思いがけぬ贈り物で家に帰ってからソーニャがびっくりするようにと? それとも、後からソーニャが気づいて御礼を言いに来るかどうか、彼女を試そうとした? そもそもお礼を言われることを避けようとした? とはいえ、この秘密を知っていることをルージンに打ち明けるのは慎みがないと考えた。……実際ルージンがソーニャのポケットに百ルーブリ紙幣を入れているのを見なかったら、こうしたすべての推論や考察をもつことができただろうか?
しかし何のためにルージンはそんなことを? そこでラスコーリニコフが口を切る。なんなら、ぼくも宣誓してもいい。要するにルージンにはソーニャの名誉がラスコーリニコフにとって非常に大切なものであると考える根拠があるということ。だからソーニャを盗人であると証明することが必要不可欠だった。
さらにレベジャートニコフが補う、ルージンは、先にラスコーリニコフがこの法事の客の中にいることを尋ねた。この現場に、ラスコーリニコフにいてほしかったわけだ。
ルージン完全に窮地。ソーニャもカテリーナも細かいことはよくわからないままにぼうっとしている。
逃げるルージン。
ソーニャはこのように自分を意図的に傷つけるようなことがありうるという驚愕と絶望の苦痛に耐えられなくなり、部屋をとびだすと自分の家へかけもどった。
カテリーナ、発狂。子供をおいて、「正義」を見出すために往来へ駆け出していった。
ラスコーリニコフはソーニャの住まいへ足を向ける。
4 59枚(28782字)-1369枚
カテリーナ・イワーノヴナの部屋から出しなには、ソーニャに殺人を告白したら相手はなんと言うか?と考えて挑戦的な気分になっていたのに、ソーニャの住居まで来ると、急に恐怖におそわれた。《誰がリザヴェータを殺したかなんて、言う必要があるのだろうか?》 しかし、言わずにはいられないばかりか、その機会を先へのばすこともできないと、感じる。何故かは分からないが。
ソーニャはそそくさとラスコーリニコフを迎える。
ルージンがその気になったら、あなたを監獄にぶちこみもしただろう、自分とレベジャートニコフがソーニャを救ったのはまったくの偶然だ……。その場合、ルージンが死ぬべきか、ソーニャが監獄にぶちこまれて一家が路頭に迷うか、どっちか決定しなればならないとしたら、どっちを選ぶ?
どっちとも決められない。誰が自分を裁判官にしたというのか?
ラスコーリニコフは何しにきたのか? うなだれる。あの瞬間が来たことを感じる。「この瞬間は、彼の感覚の中では、老婆の背後に立って、輪から斧をはずし、もう《一瞬の猶予もならぬ》と感じたあの瞬間に、おそろしいほど似ていた。」
自分がどうなったのかわからない。ソーニャ怖くなる。「どうなさったの?」
おぼえているか? 昨日きみに言うと予告したことを?
いったいどうして、あなたはそれを知ってるの? なぜ?
あててごらん。
ソーニャの顔にあのときのリザヴェータの顔を見たような気がする。子供のような恐怖。ほとんどそれと同じ状態がソーニャにもおこる。左手を前につきだす。彼女の恐怖がラスコーリニコフにも伝わった。
わかったかね?
「彼はこんなふうに彼女に打ち明けようとはまったく考えていなかったが、こういう結果になってしまった。」
錯乱するソーニャ。あなたより不幸な人は世界中にいない! 涙するラスコーリニコフ。じゃ、ぼくを見捨てないでくれるね?
だが彼は流刑地に行くつもりはまだない?
急に殺人者としてのラスコーリニコフが恐ろしくなるソーニャ。
そもそも何故殺したのか。盗むため? 母を助けるため? いや、完全にそうとも言い切れない。というか、盗むためと言いながら何もとっていない……。説明したって何もわかるまい……。「ぼくを見捨てないね、ソーニャ?」「でもなんおためにおれは、なんのためにこの女に打ち明けたんだ!」「ぼくたちは別々な人間なんだ! どうしたっていっしょにはなれやしない。それなのにどうしておれは来たんだ!」
ナポレオンになろうと思った、だから殺した。かりにナポレオンがラスコーリニコフと同じ立場にいたら、という問題。いや、ナポレオンだったら、もしそれより他に道がなかったら、ためらいもせずにあっという間にやってしまったに違いない。しかしラスコーリニコフは、考え抜いた末殺した……。
たとえラスコーリニコフの状況では、どんなに苦労しても母に不幸を、妹に屈辱をもたらす運命は避けられない。なぜそれをおとなしく忍ばなければならないのか? 老婆を殺して、その金で大学で学び、資本をもとに第一歩を踏み出せば……。しかし今いったのは全部嘘だ。
学資がつづかなかった? いや、やっていこうと思えば、やってゆけたはずだ。ラズミーヒンだってうまくやっている。それを意地になって、やろうとしなかったのだ。そして働きもせず、ただ寝てばかりいた。そこで暗い信条を育てた。愚かな人間をまともな人間にすることはできない、ただ頭脳と精神の強固な者を立法者にして支配させればいい……。
「権力というものは身を屈めてそれをとる勇気のある者にのみあたえられる、そのために必要なことは、ただ一つ、勇敢に実行するということだけだ! そのときぼくの頭に一つの考えがうかんだ、生れてはじめてだ、しかもそれはぼくのまえには誰一人一度も考えなかったものだ、誰一人! ぼくは、ぼくは敢然とそれを実行しようと思った、そして殺した……」
だがわかっていたのだ、権力をもつ資格が自分にあるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力をもつ資格がないことだ、ナポレオンならやっただろうか?なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまりぼくがナポレオンじゃないということだ、それはすっかり知っている、そうした苦しみをもうすっかり肩から払いのけたくなったのだ……
ぼくは母を助けるために殺したのではない、金のためでもない、権力を握り人類を救うために殺したんじゃない、ただ自分のために殺したんだ、自分一人だけのために。
ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだ。
ソーニャは十字路で大地に接吻して、「私が殺しました!」と告白せよという。「そしたら神さまがまたあなたに生命を授けてくださるでしょう」
つまりは自首しろと。
いやだ。なぜ行かにゃならんのだ? 誰に対して何の罪があるというのだ? あんな連中は全員ずるがしこい卑怯者じゃないか……。やつらは何故殺したのかさえ理解できないだろう。
でも勾留はされるかもしれない。そうなったら面会に来てくれるか? 行きますとも!
ソーニャの愛をラスコーリニコフは重苦しく感じる。ここへくるまでは彼女に自分のすべての希望と救いがあるような気がしていたのだが今では以前よりもはるかに不幸になったようだ。
ノック。レベジャートニコフの訪問。
5 50枚(19926字)-1419枚
レベジャートニコフ、カテリーナが発狂したことを伝える。「官吏を父に持つ上品な子供たちが物乞いをして歩くさまを見せてやるんだ」?
ソーニャ部屋を飛び出す。ラスコーリニコフ、レベジャートニコフ、後を追う。
ラスコーリニコフは自分の家の前まで来ると、帰ってしまう。自分でも何のために戻ってきたのか分からない。内省。痛切な孤独を感じる。ソーニャをますます不幸にしたのは卑怯だった。もう自分は一人きりになるしかない。いや、監獄に入るほうがましかも?
不意にドゥーニャが入って来る。
「兄さん、わたしはいまはもうすっかりわかりました、すっかり」何故ラスコーリニコフは妹と母を遠ざけようとするのか?謂われない嫌疑を受けているからだ。そうしたことがどれほど兄を怒らせるかは分かる……がたまには母に顔を見せにきてくれ。
それだけ言ってドゥーニャ去る。
ラスコーリニコフはドゥーニャにも告白しかけたのだが、思い直した。
彼は不意に帽子をつかむと、外へ出た。あてもなくさまよう。もう夕方。さすような寂しさ。
またレベジャートニコフに会う。カテリーナはフライパンを叩いて子供たちに物乞い踊りをやらせている、との報告。
橋からあまり遠くない堀端に群集。そこにはカテリーナのかすれ声。完全に狂女。子供たちには芸人風の衣装。ラスコーリニコフを見るとカテリーナ駆け寄る。「ロジオン・ロマーヌイチ! ほんとに聞き分けのない子供たちだよ! つくづくいやになる……」
ラスコーリニコフは説得しようとするが……。カテリーナの長広舌炸裂。
巡査が来る。街頭でこういうことは禁止されている。
子供たち逃げ出す。カテリーナ泣きながらその後を追う。血を吐いて倒れる。もうだめ。ソーニャの住居へ運ばれる。やじうま集まる。やじうまの中にスヴィドリガイロフも。ラスコーリニコフ驚愕。
カテリーナ、「わたしはもうたくさん!……舞踏会は終わった……!」臨終。
スヴィドリガイロフがラスコーリニコフに耳打ち。葬式は私が引き受けよう。ポーレチカと二人の子供は、どこか小奇麗な孤児院に入れてやりましょう。成年になるまで一人千五百ルーブリずつつけてやりましょう。ソーニャにも金を与えて泥沼から引き上げてあげましょう。そしてドゥーニャにはあなたにあげるはずの一万ルーブリをこのようにつかった、と伝えてください。
ラスコーリニコフが疑うと、スヴィドリガイロフはソーニャにラスコーリニコフが言った言葉「しらみ」「ルージンを殺すか一家を路頭に迷わせるか」を用いて、自分が助けなかったらあの一家がどうなるかを語ってみせる。ラスコーリニコフ青ざめる。
自分が隣りに間借りしていて、立ち聞きしていたことを明かす。「たしかあなたに言いましたね、わたしたちは親密になるだろうって、そう予言したはずですね。──どうです、ちゃんと親密になったじゃありませんか。いまにわかりますよ、わたしがどんなにできた人間かってことがね。わたしとなら、まだ結構生きていけますよ……」
▼第六部
- ------------------------------------------11〜13日目
1 33枚(13284字)-1452枚
カテリーナ・イワーノヴナが死んでから二、三日。また殺人直後の日々のような錯乱した状態がおとずれる。
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフを非常に恐れていたが、ここ二、三日、ソーニャのところで会っても、スヴィドリガイロフは決して重大な点にはふれようとしなかった。
カテリーナの埋葬もその遺児たちについても、スヴィドリガイロフがしかるべき手配をした。ソーニャの処遇については、ラスコーリニコフと相談したい……などと言う。「どうなさいました、ロジオン・ロマーヌイチ、人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が……何よりもね!」
スヴィドリガイロフの指図で追善の祈祷もしっかり行なわれていた。
この数日、ソーニャはラスコーリニコフに一言も言葉をかけようとしなかった。
この頃、彼はいつでも自分が一人きりだと感ずることができない。
つかの間の凪が彼には不安だ。こんなふうにしているよりは、ポルフィーリイとやり合うか、スヴィドリガイロフの攻撃を受けたほうが、戦ったほうがましだ……。居酒屋に行った帰りに、クレストフスキー島の茂みで寝込む。家に戻ったのはもう白々と夜が明けかけたころだった。
------------------------------------------14日目
午後二時頃目をさます。ナスターシャが食べ物を運んで来たのでむさぼり食う。気分はここ三日ほどのうちでいちばん落ち着いていると感じる。
ドアが開いてラズミーヒンが入ってくる。苛々している。先日の彼の妹と母に対する態度をまだ非難している。実際、昨日は母親がラスコーリニコフに会いたいというので三人でここに来たのだが、君は留守だった。それでいて、今はけろりとして子牛の煮たのを食っている。きみには何か秘密があるのだろう。だがそんなことは聞こうとは思わない……。
それで立ち去ろうとする。ラスコーリニコフは、こないだ妹にここであった時、ラズミーヒンのことを話したという。きみがあれを愛していることはすでにあれが知っている、妹もきみを愛するにちがいない。
ラズミーヒンは有頂天になるが、「で、きみはどこへ行こうというんだい? それも秘密というなら、ぼくは秘密を探り出すよ……」
放っておいてくれ、とラスコーリニコフは言い、ある男(スヴィドリガイロフ)のところへ行ってみるつもりだ、とも言う。
ラズミーヒンは、政治的な秘密結社の同志だな、と推測する。それにドゥーニャも巻き込んでいるのだと。「すると、あの手紙もその筋から来たものだな」と漏らす。
ラスコーリニコフ尋ねる。今朝、ドゥーニャは一通の手紙を受け取った。ラスコーリニコフ考え込む。
ラズミーヒン出て行きかけるが、また戻ってきて、ついでだが!とあの殺人事件の話をする。犯人が見つかった。ペンキ屋だ。自白した。庭できゃっきゃっ笑いながら喧嘩してたのは、目をごまかすためだとさ! ラズミーヒンはまんまと一杯くったというわけだ。
ラスコーリニコフは動揺する。ラズミーヒンはどこからそんな話を聞いたのか?
ポルフィーリイから。彼一流の心理的方法で説明してもらった。ポルフィーリイが自分から進んで説明したのだ。
ラズミーヒン出て行く。階段を下りながら、内語。政治秘密結社だ、間違いない。なのに俺は事欠いて、なんてことを考えかけていたのだ。気の迷いだった。あのとき(第四部3)のラスコーリニコフの様子から、そんな考えを持ってしまったのだ。ミコライ、よく自白してくれた……
ラスコーリニコフはラズミーヒンが出て行くとすぐ、自分の部屋を歩き回って高速内省。やっと闘い開始か? ソーニャのこと、スヴィドリガイロフのこと。しかしともかくポルフィーリイだ、奴がミコライが犯人だとちらッとでも信じたとはとても考えられない。おれとあいつの間にあのような対決があったのだから。では、なぜラズミーヒンに「心理的に説明」したのか? 何の裏があるのか? あの対決の朝からかなりの時が過ぎて、あれきりポルフィーリイのことは聞かない……これはよくない……
部屋を出る。とりあえずスヴィドリガイロフとの決着をつけるつもりで。
が、入り口のドアを開けたとたん、ポルフィーリイとばったり。素早く心構え。《これで結末がつくか?》
ポルフィーリイ、ちょっと寄ってみただけだという。
ラスコーリニコフ、ごく親しげな態度で椅子をすすめる。が、それは勇気の最後の残りかすをしぼっての振る舞い。そして対峙。
2 48枚(19188字)-1500枚
煙草はよくないという話から。《いったい何を言っているんだ》
釈明に来たんですよ、と言う。あなたに非常にすまないことをした。
前回の対話について。あのときは、町人が部屋の仕切りのかげにすわっていたが、あなたが予想したようなこと〔企み・準備〕、それはなかったんですよ。別に何の指図もあの町人にしていたわけじゃない。ただ、自分は一つのことに望みをかけていた、ラスコーリニコフの性格に。ひじょうに怒りっぽい性格(これはもう或る程度わかったつもりでいる)。そりゃもちろん、いきなり人間がべらべら秘密をしゃべるようなことがざらにあるとは思わないが、何かしら動かぬ証拠は現われるかもしれない……「あのときはすっかりあなたの性格に望みをかけていましたよ」
あなたのような癇の強い人間を、わたしはあんな風に苦しめた、そのことを、今日はすっかりありのままに説明するために来たのだ。わたしも善悪をわきまえた人間なのだ……
まさか自分を無実と考えているとは思われないが……ラスコーリニコフは迷いはじめる。
なぜラスコーリニコフに嫌疑をかけるようになったのか。まず噂。警察署での一幕。老婆の質草の覚書。ラスコーリニコフの論文(読後感──さて、この男はこのままではすまんぞ!)。疑いが百あつまっても証拠にはならないが……。あなたが訪ねてきたときは、口を割らせるためにからかうようなことを言った。「おや、とんでもない! わたしがいま何か肯定してますか? わたしはそのときちょっと気になっただけですよ。おそらく、ぜったいに何もありゃすまい」。こんなことを説明するのも、あのときのわたしの意地悪い行動を許してもらうためですよ。
実はラスコーリニコフが病気で寝てる間に家宅捜索もした。何も見つからなかったが。しかし、この男は、自分からやってくる、もしこの男が犯人なら、自分からやってくると考えました。ラズミーヒンを刺激して、あの事件の噂がラスコーリニコフに伝わるようにさせたのも意図的。ザミョートフを退けたのはお見事、「そこでわたしは考えましたね、もしこの男が犯人とすれば、おそるべき相手だ!(そのときはそう思ったというだけのことですよ)」。そしてついにラスコーリニコフがやって来たときの、あの笑い声! あの笑い声からあることに気づいたのです。それからラスコーリニコフによる論文の説明、それはまさにあの事件のことを指しているかのように聞えた……。しかし、毛筋の証拠もない。すべての嫌疑は不確定な地盤に乗っているだけだ。町人から呼鈴のこと、「人殺し!」にラスコーリニコフが一言も言い返せなかったことを聞いたときは、これこそが証拠だと思った! そこへわざわざラスコーリニコフがまた訪れて……あのときミコライが突然現われなかったらどうなったでしょうな? ミコライは色々と手際よく白状しましたがね、よせよ、あの寸足らずめ! あんなミコライに何ができるか!
ラスコーリニコフはまだどっちとも取れる相手の言葉に苦悶する。ラズミーヒンによれば、今ではあなたもミコライを犯人と認めているということですが……
ラズミーヒンはよしましょう、ここじゃ役者違いです。ミコライについて言えば、たんなる未成年の小僧ですよ。分離派信徒でね。《裁かれる》ということばに震え上がって自首してから、ありがたい長老の言葉を思い出して、苦難を受けようと決意したわけ。まあそのうち自供をくつがえすでしょうな。細かなポイントになると、まるでつじつまの合わないことばかり供述している。いや、これは病的な頭脳が生み出した暗い事件ですよ。鐘楼から飛び降りるようなつもりで決意したが、犯罪中は足が地につかず、理論に従って二人も殺したが、金をとる勇気もなく、後から犯行現場に戻って呼鈴の音を思い出しにやってくる、背筋の冷たさをもう一度経験したいというわけだ、その上殺人を犯していながら、なお人々を軽蔑して歩き回っている、これはとてもミコライなんかのできることじゃありませんよ!
じゃ……誰が殺したんです?
そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ!
ぼくじゃない
あれはあなたですよ
また例の手をつかいやがって、と毒づくが、別にあなたを捕まえるためにここに来たんじゃない、とポルフィーリイ。自白なさろうがどうでもいい。
もとより、自分の確信以外の何の証拠もない。町人の証言だってせいぜい心理面のことだけだ。だがいずれ逮捕することにはなるでしょう……
というわけで、自首を勧めます。楽になりますよ。もしかしたら、今のわたしもあなたに何か隠しているのかもしれませんよ。今はまだあなたに対する嫌疑は表面化していないのだから、今自首することの利益は大きい。命を粗末にしちゃいけません!
ラスコーリニコフは減刑なんて要らないと言うが、さらに説得。「……わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです、信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸をえぐりとられようと、毅然として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていなさい。」(人物批評)
ぼくが逃げたらどうします?
逃げませんよ。逃げてあなたが何を求めようというのです?
ラスコーリニコフは外へ出かけようとする。散歩にお出かけですか?
もし自殺するつもりなら、要領のよい手記をのこしていただきたいのですが。石のことをお忘れなく。
ポルフィーリイが先に出て行く。それからラスコーリニコフも。
3 35枚(14022字)-1535枚
スヴィドリガイロフのところへ。しかしこの男から何を期待できるのか? だがこの男には何かがあり、いまはそれを解決しなければならない。
スヴィドリガイロフとポルフィーリイのつながりを考慮すべきだろうか? しかしそんな懸念に頭を悩ますのは、もうあきあきしてしまっていた!
しかしスヴィドリガイロフに一体何を求めるというのか。
もう一つの心配。スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して何かたくらんでいるはずだ。しかも兄の自分の秘密を握っている。それを利用されたら?……そういえばドゥーニャが手紙を受け取ったと言っていた……
いずれにせよスヴィドリガイロフに会わねばならぬ。
彼は気が付くとN通りに。何故自分はこんなところに? 引き返そうとしたとたんに、左手の建物の居酒屋の端の窓際にスヴィドリガイロフを見る。スヴィドリガイロフはじいッとこちらをうかがっている。つづいて、自分に気付かれないように逃げ出そうとしている……。だがラスコーリニコフがこちらを見ているのに気付いたらしい。「さあさあ、よろしかったら入ってらっしゃい!逃げませんよ」
居酒屋へ。スヴィドリガイロフは小さい奥の部屋にいた。食事中。部屋にはほかに、手風琴をもった少年と、歌うたいの少女。居酒屋も含め、みなスヴィドリガイロフのなじみのよう。
実はこの居酒屋のことは、スヴィドリガイロフがここ数日の間にラスコーリニコフに教えたのだ。無意識にN通りに来たのは、だから偶然ではない。
ペテルブルクについて。スヴィドリガイロフの観察したラスコーリニコフについて。
ラスコーリニコフはつくづくスヴィドリガイロフを眺める。
いきなり胸の内をぶちまける。もしあなたが最近発見したものを利用して、妹に対する野心を遂げるため脅迫しようなどと考えているとしたら、ぼくはあなたを殺す。あと、何か言いたいことがあるなら言え。
何か特別なことを話し合いたいなんてつもりはありませんな。
自分はこれからあるところへ出かけようとしている、とついでのように言う。退屈さについての駄弁。女についての駄弁。淫蕩について。「ついでですが、あなたはシラーが好きですか?」
ラスコーリニコフは席を立ちかける。相手をつまらん悪党とみなしたため。
まだしばらくいいではないか、と引き止める。そして「ある女がわたしを救ってくれた話」をしようという。これは妹についての自分の野心を問題視しているラスコーリニコフに対する一つの返答になるだろう。
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スヴィドリガイロフの昔話。マルファ・ペトローヴナについて。嫉妬深い女だった。スヴィドリガイロフははじめから、彼女に夫として完全に操を立てとおすことはできないと宣言したのだが、いくつかの口約をして、結婚した。決してマルファ・ペトローヴナを棄てず、永久に彼女の良人であること、決った愛人を持たないこと、等々。ドゥーニャを家庭教師に呼び込んで、彼女にほれ込んだのもまずはマルファ・ペトローヴナだったのだ。
ここでラスコーリニコフはルージンから聞いた、スヴィドリガイロフが少女を陵辱して死に追いやったという話を出すが……
ドゥーニャは最初スヴィドリガイロフを嫌っていたが、ついには、彼をあわれに思うようになった。これは危険な兆候だ。スヴィドリガイロフはうまく芝居した。ドゥーニャの非難に対して、光明を渇望するふり。そしてお世辞によってドゥーニャの心に取り入る。「お世辞にかかっては尼さんだって誘惑されますよ。」だがスヴィドリガイロフは気が急いて欲情を爆発させてしまったため、すっかりぶちこわしてしまった。そして別れた。「わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。」だから、マルファ・ペトローヴナが小役人ルージンとの結婚話をまとめかけたのを知った時の、スヴィドリガイロフの狂憤はいかばかりであったか!
ここまでの話を聞いて、ラスコーリニコフは、こいつは全然妹への野心を棄てていないと判断。
いまのはみなたわごとですよ、一言で自分はあなたの疑惑をはらすことができる、とスヴィドリガイロフ。というのは、結婚するという話のこと。相手もいる。話も決っている。
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフの企みを見逃すまいと集中。
間借りしているレスリッヒ夫人の口利き。退職官吏の家の娘、十六歳。こちらは五十歳だが、地主で、妻にしなれ、由緒ある家柄で、財産もある。「親父おふくろさんを相手に、わたしが熱を入れて話し込んだところは、実際あなたに見せたかったですよ!」娘は朝やけのようにぽっと頬をそめる、二人きりになったら首にとびつく……男冥利につきるじゃありませんか。
さらにカテリーナの遺児に金をやったという話から、こちらペテルブルグに来てから、舞踏会で侮辱されていた田舎から出て来たばかりの母娘を、財産のあることを匂わせつつ助けて、今も交際がある、などという話を。
ラスコーリニコフうんざり。
あまり話ができなかったのが残念ですな……と言いつつ、スヴィドリガイロフ居酒屋を出る。
ラスコーリニコフは去り際のスヴィドリガイロフの態度をあやしみ、跡をつけることに決める。
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スヴィドリガイロフ、あとについて来るラスコーリニコフをとがめるが、ラスコーリニコフはもう離れないと言う。
自分は今朝妹が手紙を受け取ったことも知っているのだから……。
警察に言うぞ、と脅しをかけるがラスコーリニコフの態度は変わらない。
スヴィドリガイロフは態度を変えてにこやかに。自分は一旦家へ戻り、金をとって、馬車を雇って島の方へ行くだけですよ。
ついていく。
「そら、もう家ですよ。」歩きながら、スヴィドリガイロフが立ち聞きしたことについて。
出るところへ出て、自分はこれこれこういうわけで事件を起こした、理論にちょっとしたまちがいができたためです、と自白するんだね。あるいは早くアメリカへでも逃げなさい。わたしが旅費をあげよう。あるいはピストル自殺をするんですな。
「そらもう来ましたよ。どうぞ階段をのぼってください。」「じゃ、わたしの部屋に行きましょうか。」「いいですか、わたしはデスクから五分利の債券を一枚とります、両替屋で現金に変えるんですよ」「また階段に出ました」「さあ、よろしかったら、馬車を雇いましょう」
スヴィドリガイロフ馬車に乗る。ラスコーリニコフは、自分の疑惑が今は間違っていたと判断、センナヤ広場の方へ戻る。途中で一度でも振り返ったら、スヴィドリガイロフが馬車から降りているのが見えたはずなのだが。だが彼は《あんな好色で卑劣な道楽者》に何かを期待していた自分への嫌悪でいっぱいだった。「ラスコーリニコフがこの判断をあまりにも軽率に急ぎすぎたことはたしかだ。スヴィドリガイロフの様子には、秘密とは言えないまでも、少なくともどことなく変ったところがあったはずである。」
橋のところで、手すりにもたれて瞑想。その背後を、ドゥーニャが通りかかった。声を掛けていいものかどうかわからず、立ち止まった。するとセンナヤ広場の方からスヴィドリガイロフが来る。ドゥーニャに、兄に声を掛けないでこっちへいらっしゃいと合図。
二人で角を曲がる。もう兄から見えないのだから、ここで話せ、とドゥーニャ。通りで話せることではない、とスヴィドリガイロフ。ソーニャの話も聞くべきだし、ここに持ってきていない証拠品もある。さらに言えば、部屋までこないならば、一切話をするつもりはない。
二人で住居へ。庭番へ挨拶。「なにを恐れることがあります?」
実は異常に興奮してきているスヴィドリガイロフ。
部屋へ。大事な証拠をお見せしましょう、と部屋へ。スヴィドリガイロフの部屋は、直接廊下からは続いておらず、主婦の部屋を二つ通らなければならなかった。その二つが今は空室だ。
いかに自分が立ち聞きしてソーニャとラスコーリニコフの話を聞いたかをせかせか説明。
ドゥーニャ、主婦さえいないことに身の不安を感じるが、とにかく手紙を突っ返す。殺人を兄が犯したかのようなほのめかしは滑稽な嫌疑だ。証拠があるなら、見せてください!
一人で来るとは、あなたが勇気ある娘さんだということは間違いありませんな……
ラスコーリニコフがソーニャに懺悔した話を。
嘘だわ! 兄が強盗するなんて!
ラスコーリニコフの動機について。一つの理論。大きな目的が善を目指していれば、一つくらいの悪業は許される? そこに惨めな境遇、社会的地位が重なり……。ナポレオンへの傾倒。幻想的なロシア人。
ドゥーニャも雑誌で読んでその理論を知っていたが……(ラズミーヒンが貸してくれた。そんな論文があることは、スヴィドリガイロフは知らなかった)
ソーニャに会いたいとドゥーニャ。だが、夜おそくまでもどらんでしょう、とスヴィドリガイロフ。
じゃ、さっきのは嘘? あんたの言うことなんかみんな嘘だ! 気が狂ったように叫び立てるドゥーニャ。
「どうなさいました……」
「わたしを帰してください」
「どこへ行くんです、どこへ?」
「兄のところへ行きます、どうしてこのドアは鍵がかかってますの?」
もう一度坐りなさい、兄を救う方法を考えてみようじゃありませんか、とスヴィドリガイロフ。坐るドゥーニャ。
どんな方法で兄を救うのか? ドゥーニャ次第。スヴィドリガイロフには金と手づるがある。彼を逃がすことができる。ラズミーヒンなんか何になる? わたしはあなたを愛しているのだ……狂気じみた告白。
開けてください!とドゥーニャは夢中でドアを叩く。
主婦は外出しましたよ。叫んでも無駄ですな。
あ? じゃ力ずくで私を!
そのつもりなら、その手筈はもうできている。後で訴えようとしても無駄だ、暴行ってやつは判定がひどく難しいんですよ……それに兄さんを裏切る気にはなれんでしょう? あなたの兄と母の運命はあなたの手の中にあるんですよ。あなたのおっしゃるとおり、暴力は卑劣な行為と言っていい。というのは、あなたの良心に何もしこりがのこらないようにという配慮だが。あなたは意に反して力に屈服したというだけですよ、結果として兄さんを救うことになったとしても……。
拳銃を取り出すドゥーニャ。
射ちたまえ、とうす笑いを浮かべながらスヴィドリガイロフ。一発撃つが当たらない。
二発目を打とうとするが、不意に拳銃を投げ出す。
スヴィドリガイロフ、何かみじめな暗い感情(死の恐怖ではない)から解放される。
彼はドゥーニャの傍へ寄って片手を彼女の胴にまわす。「わたしを帰して!」とドゥーニャ。
スヴィドリガイロフはぎくっとする。じゃ、愛してはくれないんだね?
ドゥーニャ否定。
スヴィドリガイロフの中で無言の闘い。
これが鍵です、と言って外套のポケットから鍵を取り出すと、テーブルの上に。
「これで開けて、早く帰ってください!……早く! 早く!」
その「早く」にはおそろしい響きがあった〔あとからの回想によると、この瞬間の彼女がかわいそうになって、胸がしめけられたような気がしたとのこと〕ので、ドゥーニャは大急ぎでドアを開けて、部屋を飛び出した。
悲しい、弱々しい笑いを浮かべたスヴィドリガイロフ、部屋に一人。
ドゥーニャの拳銃を拾い上げ、まだ射てることを確認し、ポケットへ入れると、部屋を出る。
6 44枚(17712字)-1664枚
その晩は午後十時頃まで居酒屋、魔窟を飲み歩いた。また歌うたいの少女を引き連れて。終いには遊園地に。
十時近くになると雨が。家に戻り、金を取って部屋を出る。ソーニャのところへ。
ソーニャはスヴィドリガイロフが言ったとおり(下巻374頁)、孤児院を管理している婦人に会って来た。三千ルーブリをソーニャに渡す。あなたに入用になる金だ。ラスコーリニコフは自殺するか、監獄行きか二つに一つしかない(ソーニャ呆気に取られる。盗み聞きされていたと初めて知ったわけなので)。監獄行きになれば、ソーニャは後を追うだろうし、そうなれば金が入用になる。金を私にもらったとは誰にも言わないように……。
ラズミーヒンにスヴィドリガイロフがよろしくと言っていたと伝えてくれ、と別れ際に。去る。
「この同じ夜、十一時を過ぎた頃、彼はもう一つのまったく風変わりな思いがけない訪問をしたことが、あとで分かった。」というのは許婚の家。もう寝てしまっていた許婚を起こしてまで会う。しばらくペテルブルグを離れなければならないと伝え、一万五千ルーブリを渡す。
------------------------------------------15日目
その後スヴィドリガイロフは街を歩き回る。零時ごろ、馬車で通りがかりに見た覚えのある、アドリアノポールとかいう屋号の宿屋を見つけ、入って行く。部屋を借りる。
下男に子牛肉と茶を頼む。
奇妙な宿屋だと思う。
物思いに沈む。食欲がなくて、肉はひときれも食べられなかった。熱がある。毛布にくるまって横になる。奇妙な想念が浮かぶ。小ネワ河。マルファ・ペトローヴナ。ラスコーリニコフ(《たしかにおれはラスコーリニコフに読まれたとおり……》。ドゥーニャ(《いけない、こんなものはもう捨ててしまわなきゃ》)。
うとうとする。鼠がいる? 夢だった。
幻覚。少女の棺。また目が覚める。警報。午前三時。宿を出ようと廊下を歩き回る。女の子に出会う。淫蕩の幻覚。また目がさめる。一晩中悪夢にうなされた。
五時になろうとしている。手帳の切れ端に数行書いて残す。部屋を出る。
望楼のある大きな家の門の前へ。その門番の前で、ピストル自殺。
7 31枚(12546字)-1695枚
昨夜一夜、ラスコーリニコフはどことも知れぬ場所で、雨にうたれて過ごした(一晩中、河に身を投げることを考えていた)。
今はもう夕暮れの六時過ぎ。ラスコーリニコフは母と妹の住まいの近くまで来ている。
ドゥーニャはいなかった。母と面会。母は彼の論文を三度も読んだという。
母はラスコーリニコフの頭と才能を尊敬しはじめている。
ドゥーニャは出かけてばかり、何か隠し事があるらしい?
母泣き出す。
ラスコーリニコフは言う、何があってもぼくを愛してくれますか? ぼくはいつも母さんを愛していたことを母さんにはっきり知ってもらうために来たんです……
どうしたというの、ロージャ。昨夜はドゥーニャも一晩中うなされていた……
さようなら、とラスコーリニコフ。どうしてもすまさなければならない用事がある。
すすりなく母。母親はおそろしい瞬間が息子に近づいているのだと直覚する。
自分の家へ戻る。
ドゥーニャが帰りを待っている。その目を見ただけで、彼女がすべてを知っていることを悟る。
ドゥーニャは今日はソーニャの部屋にいて、兄が来るものと思って待っていた。
間接的に自首について話す。「ぼくはこの恥辱を逃れるために河へ身を投げようとしたんだよ、……だが、いままで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、いま恥辱を恐れてどうする……それが誇りというものだろうな?」「誇りだわ」
しかし自分の罪が分からない。貧乏人の生血を吸う害毒を流す金貸し婆を殺した。これを罪というのか? 血が流された? 世の中でいつでもある血、誰でも流す血だ。ぼくは善行をしようとしたんだ、ぼくは失敗したが、ぼくの思想自体は、愚劣なものではなかった……ただぼくは卑小で無能なだけだ、自首するのもその方が得だからだ、おれは自分の罪が理解できない。
しかしドゥーニャはラスコーリニコフの身を案じて苦悩するだけ。
ぼくが間違っていた。さようなら。
最後に思い出し、彼のかつての許婚、熱病で死んだ下宿の娘の肖像画を取り出し、ドゥーニャに渡す。ぼくは、あのことも、この女にだけは話したんだ。
しかし……それでも、何のためにこんな無意味な試練が必要なんだ? 何のために生きる必要があるのか?……二十年たったら、おれの心もすっかり慣らされて悔い改めるとでもいうのか?……
二人は別れる。
自問。何のためにそこまでして生きなければならないのだ?
8 37枚(14760字)-1732枚
ソーニャの部屋へ。ドゥーニャはソーニャと親しい仲になっていた。ドゥーニャは、運命が兄を送るところへソーニャはどこまでもついていくだろうと確信した。
ソーニャはずっとラスコーリニコフは自殺しはしまいかと恐れていた。
ラスコーリニコフは会うなり無理につくった態度を取る。自首するのがとくかも知れないから自首するんだよ。やつらに後ろ指をさされるのはむかむかする……。自首するって君も勧めたじゃないか、だからきみの願いがかなえられるってわけだよ……。
彼の話は支離滅裂。
リザヴェータの十字架を受け取る。
ソーニャを不憫に思う気持ちが彼に生れる。
別れの言葉もかけずに、一人で出て行く。内省。自分は何故ソーニャのところへ行ったのだ? おれは、あの女を、愛しているとでもいうのか? そんなばかな? いやちがう、おれにはあの女の涙が必要だったのだ……
通りを歩いていく。人ごみの中へ。不意にソーニャの言葉を思い出す。十字路で大地に接吻して、わたしは人殺しですと言いなさい……それは何かの発作のように彼を襲った。
地面に接吻した。回りの人々が彼を酔っぱらいだと思ってわらう。「わたしは人殺しです」の言葉は出なかった。
彼は自分の五十歩離れたところにソーニャが付いて来ていたのに気付く。
警察署へ。三階へ。火薬中尉のところへ(ポルフィーリイのところは御免だ)。まさしく、ザミョートフでもなく、ニコージム・フォミッチでもなく、火薬中尉が出て来る。
雑談。われら一家は文学愛好家。学問によってあなたの精神は高く羽ばたく……。リヴィングストンの手記はお読みになりましたか? ろくでなしのザミョートフについての愚痴。最近自殺が多くなった。つい今朝も、スヴィドリガイロフという紳士が。
顔色が悪くなるラスコーリニコフ。部屋を出て引き返す。しかし出口のところでソーニャのけわしい目に出くわす。彼はまた振り向いて警察署へのぼって行った。
火薬中尉の前で自供。
▼エピローグ
- 1 22枚(8856字)-1754枚
シベリアの大河の岸の町の監獄にいるラスコーリニコフ(第二級流刑囚)。
彼の裁判は大した障害もなく過ぎた。被告が犯行をごく些細な点まで詳しく供述し、それを正確明瞭に裏付けたから。もちろん石の下の盗品についても。
問題とされた点は、被告が自分で盗んだ品物・(財布の中の)金額をよく覚えていないこと。つまりは確かめなかったのか? ならば、この犯行の目的は何だったのか? 一時的な精神錯乱のせいだったのか? これは多くの証人たちによって補強された考えだったが、被告自身は乱暴なほど端的に、強盗のために殺したのと述べた。
判決は寛大なものだった。犯罪をおかすまでの被告の病的な悲惨な状態は疑う余地がなかった。嫌疑もなかったのに自首した。また、被告に有利なさまざまな慈善のエピソードも出てきた。情状酌量で八年の刑期の強制労働。
裁判の始まる前から母は熱病にかかった。ラズミーヒンとドゥーニャがラスコーリニコフが「遠くへ行ってしまう」物語をでっちあげるまでもなく、自分で自分を納得させていた。だが母は何かを疑いつづけていた。
ラズミーヒンとドゥーニャはシベリアで生活の基盤を作ろうという決意を固めていた。ソーニャはスヴィドリガイロフの遺してくれた金で、とうに囚人の護送班について出発する準備を終えていた。
ラスコーリニコフがシベリアへ行った二月後にドゥーニャとラズミーヒンは結婚。
母の不安はとうとう限界にまで達し、やがて熱病で死亡。
シベリアのラスコーリニコフとの通信はソーニャを介して行なわれた。ソーニャによると、ラスコーリニコフはいつも気難しい。監房の中は酷いものだが、ラスコーリニコフは自分の運命にも健康にも不注意で無関心だ。彼は獄舎内で他の囚人たちに嫌われている。とうとう、彼はひどく重い病気にかかり、監獄内の病院に収容された。
2 26枚(10332字)-1780枚
彼にとって辛かったのは獄中生活の苦しさでも労働でも油虫のういたシチューでも足枷でも囚人服でもなかった。
だが自尊心は傷ついていた。何故自分はこんな無意味な判決に大人しく屈しているのか? 誰にでもあるようなありふれた失敗をのぞいては、自分の罪を見出すことができなかった、だから自分を自分で罰することもできなかった。悔恨も皆無。獄内で再検討してみても、自分の思想がそれほど愚劣だとは思われない。少なくとも中途半端なところで立ち止まっている五コペイカの否定論者や賢者どもに比べれば。つまりは、自分の思想を持ちこたえられずに自首した弱さ、凡庸さが、おれの罪だ。
絶え間なく無駄な犠牲、未来は何の実りももたらさぬ。こうして八年過ぎたとして、さて、何のために、何を目的として生きるのか?
何故自殺しないのか、自殺しなかったのか? 「彼は苦しみながらしきりにこの疑問を解こうとしてみたが、もう河の上に立ったあのときに、自分自身と自分の信念の中に深い虚偽を予感していたのかもしれない、ということがわからなかった。彼は、この予感が彼の生活における未来の転換、彼の未来の更生、彼の未来の新しい人生観の前触れであったかもしれない、ということがわからなかった。」
彼は囚人としての民衆たちの中に聡明さを認めた。だがそんな彼は、みなから不信と敵意の目で見られていた。「おめえは旦那だよ! 斧を持って歩きまわる柄かよ。旦那のすることじゃねえよ」だが囚人たちはソーニャを大変に愛した。ソーニャは彼らのために家族への手紙を書いて送ってやった。《やあ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、おめえさんはおらたちのおふくろだよ、やさしい、思いやりの深いおふくろだよ!》
病院に寝ている間に、ラスコーリニコフは夢を見る。人々の自尊心と自負心を誇大なまでに強化する奇妙な疫病。人々はみな自分だけが真理を知っていると考え、善と悪もなく、ただ互いに殺しあった。人も文化も残らず滅びた。
退院するとソーニャが病気で寝ていると聞かされる。彼はひじょうに心配した。
河岸に作業に出た時にソーニャに会う。彼は泣きながら彼女の膝を抱きしめた。一瞬にして彼女はすべてをさとった。
彼はよみがえった。
自意識の弁証法の代わりに生活が全面に出て来た。
ここにはもう新しい物語がはじまっている──だが、この物語はこれで終わった。