:外界と内面世界、土地と習俗
- 一つの地域でもってあらゆる世界の用を足すというのが、小説家が負う特異な任務である。なぜなら、彼が一つの世界を浮かび上がらせるのは、彼の力量で真実さを持たせうる生活の具体的な細部をとおしてだからだ。
- これは何よりも、作家の天職が、限定する力であるということにかかわる。作家は、何を自分の筆で生かせるかを選ぶことはできない。或る作家は、醜い人物は生かせるが、見目麗しい人物を生かすことができないかもしれない。そして、醜くても生きた人物はそれでいいが、五体完全でも死んだ人物は受け入れることはできないのだ。作家は、その才能がどれほどのものであろうと、本来の限界の外で行使しようとしてそれを駄目にするようなことは、みずから進んでするべきではない。
- 作家がかかわるのは、もちろん、彼をもっとも直接に取り巻く地域だ。別に言えば、作家が作品に利用できるほど熟知し、しかも、確固たる習俗を備えた country である。
- 習俗は、作家にとって非常に重大なものであって、だからどんな種類の習俗でも用に足りるのだ。野卑な習俗だって、ぜんぜんないよりよい。それを一つの究極的な関心に照らして観察してみなければならない。むろん、郷土作家の名簿に名をつらねられるか否かということは、どうでもいい。
- 或る作家を生み出した土地について語るとき、われわれは、それがどれほど特別な土地であろうと、作家を取り巻く外側だでけなく、作家その人の内面にも及ぶものであることを忘れがちである。芸術の要請する外界との内面世界の調節は非常に微妙で、両者の本質を変えることなく一方を通じて他方が見えるような具合にならないといけない。だから、自分を知ることは、自分の属する土地を知ることにもなる。それはさらに、世界を知ることにもつながる。そして、自分を知るということは、とりわけ、自分にないものを知るということである。真理に照らして自分を測ることであって、決してその逆ではない。
- 作家の内面への下降は、同時に、作家の属する土地への下降でもあるのだ。
- われわれ自身について知ることが多くなればなるだけ、われわれはより深く未知の方向に小説の前線を推し進めていくのである。
:倫理感覚に基づく観察力、想像力
- 想像力の最深部には倫理的判断が潜んでいる。最高の小説作品にあっては、作家の倫理感覚はその劇的感覚と一致する。しかし、作家の倫理的判断が、観察するという行為の一部になっていず、また自由に、一貫してその判断力を行使することができないのならば、二つの感覚の一致など望めるわけがない。
- たとえばキリスト教教義の信仰は、一つの倫理感覚である。キリスト教信仰の光りでものを見る作家は、もし感性と信仰が別々になってしまっていないのならば、一つの眼の持ち主だ。すなわち、グロテスクなもの、異常なもの、受容不可能なものをもっとも容赦なく探しだす眼の持ち主である。しかし、彼がこれほど異常なものに注目するのは、彼らの信仰と読者の信仰の懸隔の度合が大きいからだと言ったほうが、当たる場合が多いだろうと思う。
- キリスト教を心に留める小説家は、自分にとっては不快な歪みを現代生活の中にきっと見出すものだ。そして彼は、その歪みを当然と見ることに慣れた読者に、歪曲を歪曲と見させることを自分の問題とするはずである。そんな敵意ある読者に、作家が、自分の想像を誤りなく伝えるために、いやましに暴力的な方法をとらざるをえなかったとしてもそれは当たり前というものである。読者が自分と同じ信仰を持っていると安心して想定できる場合は、作家は少しばかり緊張を解き、語りかける方法もずっと尋常なものになるはずなのだ。逆に、読者にそんな用意がないと考えねばならぬとき、作家は、自分のヴィジョンを明確に伝えるために、衝撃を加えるという手段に頼らざるをえないのである。耳の遠い者には、大声で呼びかけ、ほとんど目の見えぬ者には、図を示すとき大きくぎくりとさせるような形に描かねばならぬのと同じ道理である。
- ただ現状を肯定するものだけを見たいのならば、広告代理店が提供するものを鵜呑みにしていればよい。
:何故小説を読み、書くのか
- 小説家の性格づけは、彼の機能によってではなく、彼が自分の想像力で捉えるものによってなされるべきである。このヴィジョンこそが、どうしても読者に伝えなくてはならぬ本体なのだが、その読者の力の限度と鈍さのゆえに、小説家が自分の見るものを提示できる方法は確実に制限されるのである。これを記憶しておかなければならない。現代小説に見るグロテスクへの傾斜に、拍車をかける一つの事情である。
- 一度、私はカリフォルニアに住む年寄りの女性から手紙をもらったことがある。彼女の言うところによれば、「私の心は、あなたの作品のどれを読んでも明るくなりませんでした。あなたの作品は私の要求に応えませんでした」、だそうだ。彼女の要求とは、もちろん、気分の高揚である。倒れたものが元通りになるチャンスを与えられるというような救済措置、そうした救いを、今日の読者は要求している。それも理解できることではあるが、読者たちが忘れているのはその代価だ。彼らには、悪とは何かについての感覚が、希薄であるかぜんぜん無かったりするので(悪というのは解かれるべき問題であるだけでなく、耐えなくてはならぬ神秘でもある)、正しさを知るためにいかほど犠牲が必要かを、忘れているのだ。小説を読んで、官能がひどく揺さぶられたり、重い気分を引き上げてもらうことを期待する。読んですぐさまお手軽に、まがいの地獄に堕ちたり、まがいの純真さを手に入れたいというわけだ。
- 教養を身につけるために、精神を高めるために本を読む、という女性もいる。これは安全な道をとっているのだが、勇気があるとは言えない道である。そもそも、自分の精神が高まったかどうか、自分でわかりっこないからだ。だが、もし彼女が、ふだん取りあげるものとはちがう種の偉大な作品を、まちがって読むようなことでもあれば、自分に何かが起っているのをはっきり知るはずである。
:作家の進むべき方向
- 作家にもし何か権利があるとしたら、彼が自分の作品の中で自力で叩きだした権利の外にはない。今われわれのまわりにあふれているのは、作家が正当に得たのではない自由の上にあぐらをかいた、情けない小説ばかりである。
- 小説家が従うべき不動のものと決まった文学の正当などは、存在しない。フローベールですら正統たりうるものではない。しかし、次のことは言えるだろう。すなわち、未来の偉大な小説は、一般読者が必要と考えている小説や批評家連中が要求するような小説ではない、ということだ。なぜならそれは、いまだかつて書かれたことない小説であるはずだから。作家に最大の要求をし、その知性と才能を絞りつして働くことを求めるような小説、創作という仕事の特殊な細目に絶対の忠誠を要求するような小説、われわれ作家の進む方向は、それ以外ではあり得ない。
- 自分の仕事が生き残れるかどうかは、流行などは考慮の対象から完全に閉め出すような誠実さにかかっている。社会的身分は無傷のまま書けもするが、芸術家としての良心が決して筆を執るのを許さない小説というのもあるのだ。
- 芸術は、己れを民主的なものにしようという人の企てに決して従順に応じたりはしない。芸術は、あらゆる人間のためにあるのではなくて、それを理解するのに必要な努力を進んでする覚悟のある人のためだけにあるのだ。自分を低めるために必要な謙遜さについて、非常に多くを聞くが、自分を向上させ苦しい労働を経て、より高い水準に達するためにだって同じくらいの謙遜さと真理への本物の愛が要るのである。
:小説家一人ひとりのリアリズム
- 私はこれまでいつも、現実のジョージアの生活は、私が描くようなものではぜんぜんないと指摘されてきた。脱走した犯罪者が街道をうろついて、出会った家族を皆殺しにするなんてことはないし、聖書のセールスマンが木製の義足をつけた娘をさがして徘徊するなどということもない、と言われてきた。
- 深いリアリズムにもとづいた小説であれば、出てくる人物たちは、内面的な一貫性を持っている。その一貫性は必ずしも彼らに与えられた社会的位置づけに相応するものではない。小説の人物としての彼らの特質は、社会的パターンの典型などとは無縁に、神秘、そして予期されざるものの方に向かうのだ。
- 小説家は誰も、根本的には現実を追求し、現実を描くものである。だが、小説家ひとりひとりのリアリズムは、現実の究極的なひろがりをどこまでと見るか、その見方にかかっている。人間の行動は精神構成や経済的境遇、あるいはその他のなにかの決定力を持つ要素に前もって決められるものだ、と信じている小説家もいる。そのこだわりは、もしかしたら偉大な悲劇的自然主義に至りつくかもしれない。他方、人生は、現在も未来もつねに本質的には神秘的であると信じる作家もいる。この種の作家にとって小説作品の意味は、適切な動機あるいは適切な心理、その他いろいろの決定要因が検討しつくされ効力を失った深みにおいてしか、動き出さないであろう。そのような作家は、われわれが現に理解できる事柄より、われわれの理解の及ばぬものの方に関心を寄せる。十分な蓋然性より不分明な可能性に興味を持つ。否応なく外に出され、悪に遇い、恩寵に出会う人物たち、自分が何に従って行動しているのか明確に知っている場合もいない場合も、自分よりずっと大きな存在を支えに動く人物たち、これらの人間像に彼はひかれる。
- とはいえ、どんな意味においてであれ小説が具象を軽んじてよい理由はないが。小説作品は、人間が感覚によってものを認識するところから、すなわち五感ではじまる。そのことにあらゆる小説家は制約されている。が、なかには、具体物を使うにしても、ふつうよりずっと思い切ったやり方で使う作家もいるだろう。彼は、或る二点を結びつけ、通い合わせ、一体化するためのイメージを探す。ところが、一方は具象界にある点であり、他方は肉眼では見えない(しかし現実であることにかけては、もう一つの点となんら変わりがない)。その二点の懸隔が甚だしいものである以上、作品の様相が狂気じみ、ほとんど必然的に過激な喜劇性を帯びることは、いまさら指摘するまでもない。
- 世間的批評のおおくに、あらゆる小説は「平均的人間」を中心にすべきだという考えが、いまも力を持っている。平均的で平凡な日常生活を描くべきで、あらゆる作家は、かつて「人生の一断面」とよばれていたものを生みだすよう努力すべきだ、というのである。そこで言われているような生活が、われわれにとって申し分ないものだとしたら、そもそも文学を生みだす意味などありはしないだろう。
:想像力と理性の一致から発する暴力
- 小説作家はあらゆる芸術の中でもっとも地味でもっとも具象的であって、もっともロマンチックな色づけが不可能なものに携わっている。というのは、彼は、周囲と土地柄から断絶して、世間を見下ろす高みに登ったりすることはできないということだ。さらに言えば、作家が土地を離れて帰らずじまいでいる場合、彼は主義と現実あるいは判断と観察の間の均衡を崩す大きな危険を承知の上でそうするほかはない。この均衡は、創作物が真実であろうとするならば、どうしても保たねばならぬものだが。土地と疎遠になった想像力は、すぐに観念の毒にやられる。
- 或る土地の作家であると名乗ることは、確かに一つの制約を公表することになる。だが、あらゆる制限について言えるように、この制約は実在に至る道なのである。他所に出かけなければ見つからぬものを、自分の土地で手に入れられるのならば、作家としては幸いだ。そもそも、多くの人たちは、ものを書くとき、その土地のもの、特殊なもの、慣れたものによって支えられるのであり、そのためにわれわれの主義や理性が損なわれるなどということはない。
- そんなに以前ではないが、或る南部大学で短編小説をいくつか読ませてもらったことがある。作品はすべて南部作家によるものだった。しかし、たった一編を除いて、全部がどこの土地であってもかまわない、従ってどこでもない合成的な場所に源をおくようなものだった。それらの作品には、外界の力によって動かされたところがまったくない。あるのは、テレビの影響だけだ。ああした傾向から推し測れば、未来は暗いというほかはない。
- いや、それは、いわゆる地方色などという問題ではないし、郷土史や南部料理などといった問題でもない。そんなものでつかめるのは表面にすぎないから。人間の本体というのは、平均的なもの・典型的なものではなくて、隠れたもの・多くは甚だしく極端なものからできているのだ。それは流転せず、真理に関わるものである以上、表面の移り変わりとは別に根本が持続する。それは非常に深いところにあり、神以外では芸術家ほどそれに接近できる者はいない。
- 芸術家にとって、理性的であるということは、対象の中に、状況の中に、事象の継続の中に、それらを独自の存在たらしめている精神を見ることである。これは容易ではないし、単純な仕事でもない。それは想像力と理性の一致から発する暴力によってしか達成できない業である。
:創作物の質=人間の感覚器官の質、小説家の習慣=五感を使いこなす習慣
- 芸術は、題材と方法どちらにおいても真実を基礎とする。自分の仕事で芸術を目指す人は、想像力によって真実を追求するのであり、それ以上でもそれ以下でもない。
- 問題は「物語」である。物語とは何だろう? 私は、小説の形をとったものだろうと、それより短いものだろうと、特定の人物と事件が互いに影響しあって、物語として意味ある一体をなしていれば、何でも物語と呼ぶつもりである。ところが大抵の人は、物語とは何かを知っているつもりで、自分で一つものしようと身構えたとたん忘れてしまうらしい。そして、自分の書いているものが、エッセイまじりの小説下書か、小説の粗筋を織りこんだエッセイか、人物が登場する論説か、教訓含みの身の上話か、何かそんな雑種であることに気づくという寸法だ。自分が物語を書いていないと分かった彼らは、今度は、それを打開するために、「短編小説の技術」とか「小説の技法」とかを覚えればいいと決める。彼らの言うところの「技術」は、何か素材の上に押し付ける公式のようなものであるらしい。しかし、最上の作品にうかがわれる技術は、素材そのものから出てくる有機的なものである。つまり、これまで書かれた価値ある作品すべてに共通する技術というものはないのだ。
- 物語についてもっとはるかに基本的なことから考えはじめてみよう。創作物に関する最小要素──それは具象性だ。この答えには、根本的な意味で人間としての読者が関わってくる。なぜなら創作物の質は、大部分、人間の感覚器官の質によって決まるからだ。人間の知識は、まず感覚を通してくる。だから創作家は、人間の知覚のはじまるところから始める。すなわち、感覚を通して訴えるのだが、むろん抽象概念でもって五感に反応させられるわけがない。現実にある対象を描写し、再創造することに比べたら、抽象思想を述べることはずっとやさしいと言える。小説作家の世界は物質に満ちていなければならない。ところが、駆け出しの作家が筆の力で創りだすのを非常に嫌うのが、この物質なのだ。彼らは、何よりも肉付けのしていない思想や感情を取りあげたがる。彼らは、議論や論争の種はよく知っているが、生活の実際の相なぞには気を配らない。心理的・社会的側面から個人の歴史を探るだとか、社会学的色のついたものは何でも意識しているが、この地上にわれわれがいるという神秘を目に見える形にしている生活の具体的細部は、すっかり忘れている。
- グノーシス的に物質すべてを悪とし、純粋な霊を追求するような考え方では、小説を書くことが不可能だとは言わないが、なかなか困難であるにちがいない。なぜなら小説というのは、非常に具体的な肉づけを必要とする芸術だからだ。
- 真に優れた感受性と鋭い心理的洞察力に恵まれた人が、それらの特性だけを武器に小説を書こうとしている姿は、大変ありふれていて、しかも哀れである。このタイプの作家は、激しい感情のこもった文や鋭角的な感性に満ちた文をたたみかけるように書き並べる。そして、結果として現れるのは退屈きわまる平板さである。実のところ、小説家の素材は、とりわけ地味なもので、大仰には扱えぬものなのだ。小説は、どこまでも人間に関わるものであって、その人間が土でできていることを忘れてはいけない。泥だらけになるのがいやな人は、小説なぞ書こうとするのはやめたほうがいい。そんなに偉い人間のすることではないのだ。
- 以上のような考えを頭に叩きこみ、自分の習慣──精神の或る特質・長所のこと──科学者は科学者の習慣を持ち、芸術家は芸術の習慣を持つ──の中に組みこんではじめて、小説を書くということがどれほど厳しい労働であるかが見えてくる。
- 小説を書くことは、恐ろしい経験である。小説を書くことは現実からの逃避だと、暗に言う人には、私はいつも非常に腹がたつ。創作は、現実への突入なのであって、体にひどくこたえるものなのだ。もし、小説家が、書いている間、金銭名誉の希望によって己れを支えているのでないとしたら、あとは、魂の救済の希望によって生きていくほかはない。
- 結末も物語の展開もなにもわからずに書きはじめる、ということは十分あり得る。そんな見掛けはでたらめなやり方で、物語が出てきて、しかもほとんど書き直しが要らずに書き上げられた経験を、私ももっている。書いている間じゅう、統制がよくとれて、手から逃げるところがなかった。この統制は、必ずしも意識的ではないので、どのように起こるものか不思議に思うのも当然である。
- 答えは「習慣」にあるのだ。小説家を書くということが、意識的、無意識的精神の両域を含めて全人格が参加する何かであるというのは、明らかな事実である。小説は、小説の習慣なのだ。そして、他のすべての意識的習慣と同様に、芸術の習慣も、長い時間をかけて、経験をとおして養われなくてはならない。或る意志をもって、創られたこの世界を見ること、ものの中にできるだけ多くの意味を見出せるように五感を使いこなす習慣。
- 小説を書く方法を学ぶ唯一の道は、小説を書くことである。そして、自分がそこに仕上げたものを検討してみることだ。
:『ボヴァリイ夫人』の素晴らしさ
- 『ボヴァリイ夫人』の中の文章は、検討してみればすべて驚嘆すべきものばかりだ。とくにこの一節。自分をじっとみつめているシャルルを傍らに、エンマがピアノに向かっている場面だ。フローベールはこう書く──「彼女は落ち着きはらってキーを叩いた。そして、鍵盤の端から端まで一息に手を渡らせた。弦のブンブンいうその古ピアノは、こんなに叩き揺すぶられて、窓でも開いていれば村はずれでも聞こえるほど響いた。ときどき執達吏の書記が、帽子もかぶらず、へり地の靴で街道をやって来て、片手に書類を持ったまま、立ちどまって聞いていたりした。」
- この文章を読みながら、われわれは、エンマ、および「その弦がブンブンいう」実在感ある楽器とともにありながら、他方、村の中に出て、へり地の靴をはいた非常に具体的な書記と出会う。この場面を除く物語全体の中でエンマに起ることとの関連性からいったら、そのピアノの弦がブンブンいったり、書記が紙を一枚手にしていた、などというのはどうでもいいことに思われるだろうか。だが、フローベールは、エンマを入れておくのに、いかにも存在が信じられる村を創りだす必要があったのである。小説作家は、もったいぶった思想や張りつめた感情などより、ピアノの弦や書記の靴を実在させることの方を、ずっと急務だと心得ているものである。
:ひと所をじっと見つめること、すぐさま要点を掴んでしまわぬこと
- 物語の意味を深めるために作家が持つべき、あるいは伸ばすべき想像力は、神秘的想像力といわれるものである。一つのイメージ、一つの状況の中に、現実をその異なった段階で捉えその諸相を見る想像力のことだ。中世の聖書注釈者は、聖典の文面を三通りに解釈した。作家は同じようにして、多くの可能性を孕む自然を、人間状況に対する拡大された視野をもって読み取らねばならないのだ。逆説的に聞こえようが、作家個人の視野が大きく複雑になればなるほど、それを圧縮して作品に入れることがそれだけやさしくなるのである。
- ヘンリー・ジェイムズは、或る素人から原稿を送りつけられて、こんな感想を返したという──「あなたはいい主題を選ばれて、それを率直な手法で処理された。」この評言はジェイムズが自分の口にのぼせるものとしては最も辛辣なものであった。なぜなら優れた主題の複雑な含みに対して、率直な手法は十分な効力を持つものではないということを、彼は知っていたのだから。或る主題を語るのに可能な手法は多くある。そして、芸術においては、或ることを表す方法は表現されたものの一部分になるのだから、あらゆる手法は独自なもので、注意を新たにして取り組まねばならないのだ。
- おそらくは、少量の愚鈍さというものが、作家にはどうしても必要なのだろう。愚鈍さ、つまり、ひと所をじっと見つめなければすまない特質、すぐさま要点をつかんだりはできない特質のことである。対象を長く見ればみるほど、その中に多くの世界が見えてくる。覚えていていいことだが、真剣な作家は、その描く場景がどれほど限定されたものだろうと、つねに世界の全体について書くものである。彼にとって、広島の上に落ちた爆弾は、現在のオコニー河あたりの生活にも影響を持つものであり、この相関は必定であり、それはどうとも動かせることではないのだ。
- 作家の精神とは、つねに、現実との接触によって神秘を視る感覚を深め、神秘との接触によって現実を視る感覚を深める用意のある精神である。
- いくらかでも値打ちのある作家なら、その作りだすものは、彼の意識的精神が囲い込めるものよりはるかに大きい領域に源を持つものであり、つねに読者よりも作者自身にとって大きな驚きであるはずなのだ。
- 言うまでもないが、どんな学問でも、書く上で助けになる。論理学、数学、神学、そして無論のことだがデッサンがとりわけ有益である。見る力を増すもの、意識して目を向けさせるものなら何だっていい。作家は、絶対に凝視することを恥じてはならない。注意しないでいいものは何もないからだ。
- 作家がみな、外に出て人生について直接に資料を集めることをせず、大学に籠ってとりすました暮らしをしているのは嘆かわしい、という声をこのごろよく聞く。しかし、人生の知識のことなら、子供時代をぶじに生きてきた人であれば、それで残りの一生のあいだ十分間に合う。わずかの経験から何かを生みだすことができない人なら、多くの経験をもとにしても大したものは作れまい。作家の本務はじっくり眺めることであって、その中にどっぷり浸ることではないのだ。
- 小説家は誰も、特別の自分だけの心を領する問題を持っている。あらゆる事物を見て、すべてについて書くなどという業は誰にもできない。観察が局所的になるのは当然とされなければならないが、部分に限られた視野といっても、それが外から押しつけられたものでないかぎり、不誠実とは言えないのである。
- 私は南部のカトリック系大学で話したことがあるが、そのとき一人の紳士が立ち、「カトリック教小説」というのは狭く範囲を限るものであって、小説家たるもの、ホイットマンを見習い、すべてを受けいれるようにすべきであると発言した。彼に対して私は、「さあ、私には受け入れられぬものがとてもたくさんあります」としか言えなかった。われわれは、限界を決められた人間なのである。そして小説は、われわれの持つ限界のうちの、もっとも恵み多い制約によって生み出される。小説家は、全人格をもって書く。ということは、全人格の限界を無視して書こうとすれば、それはきっと実在の不十分な把握に終わるだろうということだ。
:人物と事件で語るのであって、人物と事件について語るのではない
- 小説に共通する第二の特色は、それが報告ではないということだ。小説はその世界が読者のまわりに展開すると感じさせるような方法で作られる。つまり小説は報告よりも、表して見せるところが大部分でなくてはならぬ。物語る芸術としての小説は、劇の要素によりかかるところが非常に多い。演劇ほどに極端な形はとらないとしても、小説の歴史において、小説は劇的統一の方向に進んで来たことは間違いない。
- 以上はまた、作品は意味を持たなければならぬ、ということでもある。意味とは、抽象的に表現された信仰、道徳、憐れみなどではない。説明される主題でもない。意味を見出す手がかりは、作者がどんな世界を創りだしているかその種類によるのであり、作者がその世界に付与する性格と細部の種類を見ることである。作者は、あるものを提出するのだが、それは作品全体でしかどうにも表しえないものなのだ。つまり、小説を書くとき、作者は、人物と事件で語るのであって、人物と事件について語るのではない。作家の道徳的感覚は、その劇的感覚とつねに一致する。
- 物語のなかでは何かが起らなければならないのだ。これは大前提である。知覚でとらえたものが、そのまま物語になることはない。そして、物語る才能が明白に欠けている場合、人がどれほど感受性に富んでいようと、それで物語作家になれるということはないのである。
:「物語」とは何か
- 私はいまでも、たいがいの人は物語を語る或る程度の能力を持って出発するのだが、途中でそれをなくしてしまうのではないか、と考えている。もちろん、言葉の力で生を描き生じさせる能力は、本質的には天与のものである。そもそもの出だしからそれを持っている人なら、それに磨きをかけて伸ばすこともできる。だが、はじめから持っていない場合には、そんなこと一切をさっぱり忘れたほうがいい。
- しかし、書く才能がない人たちのことは措くとしよう。現に才能を持ちながら物語というものが本当にはわかっていないために、失敗を重ねている人たちが他にいるのだ。
- 明白な事柄こそもっとも見極めがむずかしいもののようである。誰も、自分では物語とは何かということがわかっている、と思っている。しかし、作家志望の勉強しはじめの学生に、物語を書けと言ってみるといい。ほとんどあらゆるもの──思い出、エピソード、意見、逸話、その他この世のありたけのものを見ることになろう。だが、そこに物語が含まれていることはないのだ。物語とは、完結した劇的行為である。優れた物語の中では、その行為をとおして人物が示され、行為は人物によって統制されるのだが、そこから結果として出てくるのは、提示された経験全体から発する意味である。
- 私なら、物語の定義として次のように言ってみたい。物語とは、或る人が人間であり、同時に個としての人間であるがゆえに、すなわち一般的な人間状況を共有し、さらに特定の個人の条件も兼ねて所有するがゆえに、その或る人間を巻きこむ劇的出来事である、と。物語は、つねに劇的な方法で人格の神秘に関わるものなのだ。私の家からちょっと行った所に住む田舎暮しの婦人に、短編をいくつか貸したことがある。返してくれたときに彼女は、「そうですね、小説ってのは、或る人たちがどうしても自分の好きにやってしまうところを見せてくれるんですね」と言った。そのとおりだ、と私は思った。或る特定の人たちがどうしても自分に従って行動し、どんな支障があろうとも本来の自分なりに動いて行く様を示すこと──物語を書こうと思ったら、まさしくこんなつまらぬことから始めるのだと覚悟しなければならない。
- ところが、この出発点はいかにもレベルが低いので、物語の書きたいと思う人の大半はここから始めるのに気乗りがしないようである。彼らは、人間についてではなく、思想や、感情や、横溢する自我について書きたいらしい。そのことによって世間に自分の知恵を与えられると考えている。いずれにせよ、彼らは物語を持っていず、持っていたとしてもそれを書くのはいやなのだ。こうして物語の部分は空白のまま、彼らは「小説の技術」を探しに出かける。
- だが、小説作家に特別の問題は、自分の描く劇的行為をとおして、どのようにしたらできるだけ多くの生の神秘を露わにできるかということである。
- 行為こそが人間を深く現実につなぎ止める。
:都合良い了解を拒む「物語」、信念・思想・感覚の一致
- これは強調しておくが、物語と、作家の日ごろの道徳的姿勢、倫理的判断は無縁ではない。ただしその判断は視覚と一致している必要がある。信念や道徳はものを見るさいの明かりであるが、信念や道徳そのものは見られる対象ではない。小説作家にとって、あらゆるものの検査の要点は、それが目によってなされるということなのである。そして、目は、究極的には全人格に関わるものであり、その視野に収められるだけの世界とつながり合う器官である。それは、必然的に判断をともなうのでなければならない。もしそうでない場合、すなわち、判断が視覚と別れているとき、その人の精神に混乱があるのであって、そんな状態で物語を書けるはずはないのだ。
- なぜ、みんなが物語を書くのをあれほど難しいと思うのか──それは、小説が、感覚をとおして働くものだからだろう。みんは忍耐づよく時間をかけて感覚から納得させるということを忘れているか、さぼっている。しかし読者の誰も、作者が口先で言うことなぞ親切に信用してくれはしない。小説の中で語られることが、読者によって読むさなかに経験されず、また、むりにでもそれを感覚で受け止めてしまうということが始めにないのだったら、作家は、読者に対して罪を犯しているのだ。小説の特色の中、もっとも重要でしかももっとも明白なものは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によってとらえられるものをとおして小説は現実を扱う、というところにあるのだから。
- 以上のことは、頭で覚えればよいというものではない。芸術の習慣のなかで身につけるべきものだ。どうしてもものをそういうふうに見るということが、決まった生き方になっていないといけない。大前提は、情緒を情緒で、思想を思想で書きだすことはできないということ、感覚をとおして実現するしかないということ、作家はそれをしっかり認識しておくべきである。感情、情緒、思想、いずれの場合であっても、それに具体的な体を与えねばならぬ。創りだす世界に、重みと広がりがなければならないのだ。
- 駆け出しの作家の物語には、たいがい情緒があふれかえっている。というか、情緒しかない。しかも、それが誰の感情なのか判断するのが非常にむずかしいことが多い。会話が、実際に読者が見ることのできる人物に支えられぬまま進行することはしょっちゅうだし、中にくるみこめない思想が物語の至るところから漏れだしていたりする。その原因は、作家志望者の全注意が、自分の感情や思想のほうに行ってしまい、劇的行為には関心を示さないところにある。また、怠惰か傲慢であるかして、小説の動く場である具象のレベルに下りていくのを嫌うのも原因になっている。初心の作家は感覚的印象は感覚的印象として、判断は判断として、別個のものだと思っている。真の作家にとっては、判断は、自分の目に見える細部からはじまるのだが。
- こういう具体的な細部に関心のない作家は、ヘンリー・ジェイムズの言う「明確化の不足」という失敗を犯して恥じない。そんな作家の書く言葉は、素通りする読者の目をとらえられず、相手の注意を眠らせてしまうばかりであるというのに。小説の中で登場人物が現れたと思ったとたん、新聞一部売る暇もなくその印象が消えてしまう。滑稽なことである。
- 小説を書くという仕事を、ものについて話すことだと勘違いしてはならない。いかに見るかを覚えることは、音楽を除くあらゆる芸術を習う上での基礎である。書くとなれば、いやでもものを見なければならない。絵画と同じだ。小説を書くという仕事は、ものを示すという問題なのである。
- もちろんそれは、単純に機械的な観察と細部を積み重ねるということではない。芸術は、自己の中に取りいれるものを厳しく選ぶ。物語の中にある細部の一つ一つは、本質的なもの、動き(劇的運動)を創りだすものだけである。優れた小説にあっては、細部のあるものが、物語の劇的運動から意味を蓄えるということが起こる。
- ときおり学生には、不完全な劇的運動で満足し、残りの部分は暗示にまかせられると考えている人がいる。作品の主要な経験に本質的にかかわるものは、どれ一つでも、小説から省かれてはならない、ということを学生に悟らせるのは容易ではない。何かを省略できれば、それで自分は巧者だと思い込んでいるからだ。何かを存在させようと思ったら、まず何かを投入しなければ、と言おうものなら、この感受性不足の馬鹿がと思われてしまうのである。だが、優れた物語は、本来、縮小できない。つねに拡大されるだけだ。
- 私は物語の主題についてなんかより、物語の意味について語りたい。物語を矮小な芸術に終わらせないのは意味である。人びとが主題について話すのを聞いていると、主題とはまるで鶏の飼料袋の口を閉じる糸のようだ。袋の閉じ糸を引っぱる要領で主題を拾いだせば、物語は裂けて口を開け、鶏は餌にありつけるわけである。しかし小説の中での意味は働き方は、そんなものではない。
- 物語の意味は、作品の中で体を与えられていなければならない。具体的な形にされていなければならない。小説の持つ意味は、抽象的な意味ではなく経験された意味である。物語は、他の方法では「言う」ことのできない何かを「示す」方法なのだ。作品の意味が何であるかを伝えようとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。声明の形では不適切だから、物語で表すのだ。それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない。
- 説明的な言い替えにあくまで抵抗し、読者の胸にしつこく残ってひろがっていくというところがなかったら、どんな物語も本当は優れたものと言えないのだ。
:才能の誠実な行使を妨げるものは
- 昨年の春、私がここで講演したさい、或る女性がこんな質問をした──「オコナーさん、あなたはどうして小説を書くのですか?」で、私は、「なぜって、私にはそれがうまくできるからです」と答えた。すると、すぐさま会場にかなり強い非難の空気が生じるのが感じられた。聴衆の大多数が、この答えを品格に欠けるものと思ったようである。しかし、あれは、私に思いつくただ一つの答えだったのだ。
- まず才能があって、それによって書くという使命を与えられるのでなかったら、一般が読む小説を書いていい口実なぞ、誰にもありはしないのだ。作品の本体そのものが優れているのでなければ、何に対しても大した用にはたたないものなのであって、これが小説に備わった特質なのである。
- どんな種類のものであれ、才能は、一つのかなり重い負担である。それは、まったくいわれなく無償で与えられるものであり、本来、なぞめいたものだ。芸術家は、自分の才能を誠実に使おうとすれば、ふつう、いくつかの不自由に耐えなければならぬ。作家は、自分を、第三者の目で第三者の厳しさをもって採点しなければならぬ。
- 才能の真摯な行使を不可能にしてしまうのは、たいていの場合、或る種の増上慢であると私は思う。これは、改革者や理論家にみる思いあがりに似ている。
- まがいの情緒や虚偽の感情、自己中心主義を心から取り去れば、少なくともそれだけの妨害物が精神の働く場から減るだろう。安っぽい考え方をやめれば、優れた作品が書けるわけではないが、書いたものから少なくと安っぽさがなくなるだろう。
- 学生が互いの原稿を批評しあうような授業は私はいいと思わない。そのような批評は、たがい無知と追従と悪意が等分にまじりあったものだ。盲人が盲人の手を引くようなもので、これは実に危険である。そして、特定の書き方を押しつける教師も危険である。幸い、私が知っていた教師の大半は、怠惰のせいでそんなことはしなかった。
:具体的な細部への厳密な注意
- 小説は、実在のものに最高度に緊張した注意を払うことを要求する芸術である。この要求は、作家が自然主義の物語を書いていようと、幻想物語を書いていようと変わらない。つまり、作家はつねに、現実に在るものからはじめる、あるいは、真実の可能性の際立ったものからはじめるということである。幻想物語、というものはない。非常に現実的であるがゆえに、或るものは幻想的になるのであり、あまりにも現実的である結果、幻想味を帯びるのである。
- グレアム・グリーンは、自分には、「私は底なしの穴の上に立った」とは書けないと語った。それが真実ではありえないからであり、また、「私は階段を駆け降りて、タクシーに飛び乗った」とも書けないと言っている。やはり真実ではないからだ。しかし、エリザベス・バウエンは、自分の作中人物についてこう書ける──「彼女は髪の毛の中に何かを聞いたかのように、それをぐいとつかんだ。」なぜなら、これは大いにありうることだからである。
- 空想的作品を書く人は、自然主義のスタイルで書く人より、具体的細部にもっと厳密な注意を払うべきだとまで私は言いたい。物語の真実性にむりが加われば加わるほど、中の道具立てに説得力がなければならないのである。
- このよい例に、フランツ・カフカの『変身』がある。或る朝目をさますと、一晩のうちに、人間性はそのままに油虫に変わってしまった男の物語である。人間性を持った虫としての男の生活、感情そして最後の死が作品を領するのだが、具体的細部に非常な説得力があるため、読者はこの状況を受け入れるのである。実際この物語は、ほとんど耐え難いほどに写実的な手法で、人間の二重性を描いていると言える。ここにあっては、真実が歪められているのではなく、かえって真実に達するために或る歪曲が用いられているのである。外見と真実が同じものではないということを、そして当たり前のことながら認めるとすれば、自然の様相を少しばかり変える自由を芸術家に与えなくてはならない。そうした自然の再編成が、より深い洞察力を結果として生むのならば、そんな許容は当然のことである。そして芸術家自身は、自分が組みかえているものが自然なのだということを忘れてはいけない。いやしくも自然をいじる権利を自分のものとするためには、自然を知り、自然を正確に表現する能力を持つことが先ず必要である、ということをつねに思いださなければならない。
:主人公≒言葉
- 物語の上の住所、たとえばアトランタとかジャクソンビルなどの地名が、簡単にピッツバーグやパサイクに変えることができ、そのため作品のどこかを別に手直しする必要がまったくないというのであれば、何かが桁外れに間違っているのだ。
- 小説を成り立たせる二つの特質がある。一つは、秘義に対する感覚であり、もう一つは、習俗に対する感覚である。作家は、自分のまわりの生活構造から習俗を取りだす。南部の作家であることの大きな利点は、習俗を探してどこか他所へ出かけなくてもすむことである。よいものか悪いものかは別にして、南部には濃密な風習がある。われわれが住む南部の社会は、矛盾の点で、アイロニー、対照の点で、幅があり豊かである。とくにその話し言葉が、多様性に富んでいる。
- だが、そうした利点がひどく乱用されるのを見てきて、いざ自分が使うとなると自意識過剰にならざるをえないということはあるだろう。たしかに、地域の話し言葉の豊かさを利用するどころか、その中に浸り切ってしまう作家ほど始末の悪いものはない。
- とは言っても、われわれを現実に取り巻く生活がまったく無視されたり、われわれの話し言葉の型がすっかり見落とされたりした場合は、何かが狂っているのである。そんなとき作家は自問してみるがいい、自分はいま自分にとって不自然な生活に手を伸ばしているのではないか、と。
- 小説家は、自分の属する文化の蓋然性によって制限されるのではなく、その妥当な可能性の許すところまで自由なのだ。
- 方言は、或る社会を特色づけるものである。その特有の語風を無視してしまうと、意味深い人物を生んだかもしれない社会組織全体を無視することになりやすい。人物たちをその社会から切り離しておいて、個人としての彼らについて多くを語るということは無理なのだ。存在が信じられて、意味もある社会的な場に人物を入れなかったら、その人物のはらむ神秘について中身のあることなど何も言えない。言おうと思ったら、最善の方法は、人物自身の言葉を使うことである。アンドルー・ライトルの短編で、老婦人が「私は、バーミングハムより年をとったらばを持っている」と軽蔑した口調で言うが、あの一行の中に、或る社会とその歴史の感じが出ているのである。南部の歴史はわれわれの話しぶりの中に生きているのだから、南部作家のすべき作業の多くは、彼が書きだす以前にすんでいると言うべきだ。ユードラ・ウェルティの作品の一つで、人物の一人がこう言う──「私の出てきた所では、番犬のかわりに狐を使い、鶏の用はふくろうが足すんです。だけど、私らの口から出るものは本当ですよ。」この文ひとつの中に、優に一冊分のものがある。周囲の人びとがこのような話し方をするときに、それを無視したりすれば、それはただ自分の持つものを利用していないということなのだ。われわれの話し言葉の響きは、あまりにも明確な特性を持っている。これを捨てたりすれば、必ず重大な欠落に悩むだろう。この響きを手放す作家は、自分の創作力の大部分を無効にしかねないのだ。
- 人物の内面を描いたからといって、その人物に人格があることを表したとはいえない。これは、またもや、一部分、話し言葉の問題に帰着する。自分の内部を開示するのに定まった言葉をもたない人物では、顔の区別がつくかもあやしい。そもそも、人格がないから人格の表現もできないのだと感じてしまう。
- よくできた作品のほとんどにおいて、劇的運動を生むのは人物の性格である。そんな小説を読むと、たいていの場合、作家はまず作品の劇をなす行為を思いつき、それからそれを遂行する人物をひねりだすのではないかという気がする。しかし、それは逆だろう。真の性格、真の人物を得て書きだせば、何かしらが必ず起こるものだ。どんな事件かは筆を下ろす前に知らなくったっていい。それどころか、何が起こるかを前もって知らないほうがいいかもしれないのだ。自分の書く物語から、作家は何かを発見する。さもなければ、他の誰もそこに何も見つけられないだろう。
- 小説家は一般的な信念について書くのではなく、自由な意志を持った人間を中心に書く。最後の息で「否」と言えるほどに自由な人間の存在を中心に。小説の尊厳は人間のそれに似て、神の怒りにもまっ向から対して働く態の自由意志に基礎をおいている。
:物語を物語として自立させるもの
- 私の場合、どうしても、信仰が感覚を働かせる原動力になる。
- 物語に効力を生じさせるものは何か、物語を物語として自立させるものは何か、私はよくこんなことを自分に問うてみる。それは、或る人物のする、物語中の他のいかなる行為とも異なった或る仕業、或る身振りではないかと思い定めた。物語の核心がどこにあるかを指すような行為のことである。これは、完全に適切で、完全に予想外の行為・身振りでなくてはなるまい。人物の性格に合致すると同時に、それを超えるものであり、この世と永遠の二つを示すもののはずである。私のいう行為・身振りは、神秘的次元において現れるほかはない。何らかの意味で神秘と接触する身振りだ。そうした行為のどれ一つとして前もって見当のつくものはない。それは、人物の各々に対しての恩寵の作用を表している。
- ところが現代は、ほとんど感覚ではとらえられない恩寵の入来を見る鋭さを失っているばかりか、その入来に先行し、また後につづく暴力の性質に共鳴する心ももはや持たない。ボードレールが言ったように、悪魔のもっとも狡猾な企みは、悪魔が存在しないとうまくわれわれに信じこませることなのだ。
- 小説作家は、いつも物語を「動かす」ものは何かについてしゃべっている。物語を「動か」そうとしてみた自分の経験から、私は、必要とされているものが、まったく予期されないけれど完全に信じられる一つの行為であることを発見した。そして私の場合、この行為はつねに、恩寵が差し延べられていることを示すものであった。そして、その行為の中では、悪魔がいやいやながら恩寵の顕現のための手段になっていることが多いのである。
:秘義=実際の経験として在る神秘
- いろいろな種類の芸術家の中で、小説家はもっとも大衆にいじめられるものである。画家や音楽家は、誰でも知っていることを取りあげるわけではないので、かなり寛大に扱われている。しかし、小説家は、生活について書くのである。生活している者は誰でも、自分は生活についての権威であると思うのだ。つまり自分を小説についての権威であると思っている。そして、小説家は、ベーコンとは何かを知らない豚のように扱われている。
- 小説の中に、医者は病気を探し、牧師は説教を、貧乏人は金を、金持ちは口実を探すのである。自分の望むものが見つかったり、少なくとも自分に意味のわかるものが見つかれば、その作品を優秀と判定するわけだ。
- 近頃では、高校生の非常に多くが、文の終わりにはたいていピリオドがくるということさえ知らないで大学に進むというので、驚かれている。しかし私にとってもっと強い驚きは、器用なジュニア向けの小説を愛好することにかけて決して熱意の衰えを見せずに大学を出て行く人の数である。
- ともあれ、そんな大衆の要求とはかかわりなしに、習俗をとおして秘義[mystery]を具体的に表すのが小説の務めである。この秘義というのは、現代人をひどくまごつかせるものらしい。これは、学問の目的が神秘の除去であると教え込まれてきた世代にすれば当然の反応だろう。そのような人たちにとって、小説はとても無気味なものになりうる。なぜなら、小説作家は、実際の経験として在る神秘に関わるからだ。作家は、五感による経験の具象界で目に見える形をとった究極的神秘に深い関心を持つのである。
- 作家の目的が以上であるからには、小説の意味は、それがどんな次元のものだろうと文学が具体的に示すもののレベルで見出されるべきであり、事実のその傾向はますます強くなってきている。小説の本体の中に、憐れみにしろ敬虔さや道徳の表現にしろ、抽象的操作の入る余地はないのだ。言い換えれば、作家の倫理的感覚は、劇的感覚と一致していなければならないということになる。
:本質的な意味での「貧しさ」と生活習慣
- 現代の小説家は、良心を調べるよりも、統計数字を調べることからはじめよ、と要請されているかのようだ。どうしても良心を調べたいと言いはれば、統計数字に合わせてそうしろ、と言われるわけである。しかし小説家は、自分の眼をそんなふうには使わないものだ。彼にとって、判断は、見る行為の中に内在している。彼の視覚は、彼の倫理感覚から切り離せないのである。
- 小説家は自分の見るものを描くのであって、見るべきと思うものを対象にするのではない。
- 作家はなぜか貧乏人が好きだ。金持階級について書くときでさえ、彼らが持つものより彼らに不足しているもののほうに目がいくのである。この原因はずいぶんおもしろいものだし、小説家がどのように世界を見るかについて多く説明するだろうと思う。
- 小説家は、表面に見えるものについて書く。だが彼の視線は、対象の表面に至る前に見ることをはじめ、表面を通過してもなお見ることをやめないというようなものだ。彼は、自己の存在の深いところから見はじめるのだが、その視座は、あらゆる人間経験の根底であるにちがいないもの、すなわち限りがあるということの経験、(もしそう呼びたければ)貧困の経験の上にあるように思われる。
- キプリングは、もし物語を書きたいと思ったら、貧乏人を家の前から追い払うなと言った。あの意味は、貧しい人びとは、人生の荒々しい諸勢力と自分たちの間に緩衝としてなんら手立てを持たないということ、まさにその理由で、作家たちはいつも貧乏人と共にあるだろうということは、小説家にとって満足の源になるのだ、というのだろうと思う。しかし、小説家がいつも貧乏人と共にあるのは、彼らがどこにでもいるからなのだ。神の目からすれば、われわれすべてが子どもであるように、小説家が見れば、われわれはみな貧しいのである。そして、現実の貧しさは、彼にとってあらゆる人間の状態の象徴でしかない。
- 物質的困窮を示すためにだけ貧乏人を取りあげて書く者がいるとすれば、彼は社会学者と同じことをしているのであって、芸術家がすべきことをしているのではない。芸術家が書く貧困は、非常に本質的な意味のものであるから、金銭とまったく関係がなくてもいいのである。
- 生きてあることの神秘は、彼ら貧乏人の生活様態、生活習慣をとおしてつねに現れている。この理由で、彼らは小説家にとって抗し難い魅力があるのではないかと思う。
- もし小説中の異常な人間が、われわれを不安にさせるとしたら、われわれも彼らの畸形な状態を共有している事実を、彼らの存在がいやでも思い出させるからだ。
- 真剣な作家は、これまでつねに、人間性にあるあの欠点を自分の出発点にしてきた。その欠点というのも、たいがいは、それを除けばみごとに整った人物の中に見つかるものである。小説家は、真空状態にある人間について書くのではない。彼は、何かが明らかに欠けている世界、不完全さという一般的な神秘の見える世界、そしてわれわれの時代に特徴的な悲劇を現して見せるべき場としての世界、そのような所にある人間について書くのである。さらに小説家はいかなるときでも、本の形において、人間性についての一つの経験の総体を与えようと努力する。この理由で、偉大な劇は、必然的に魂の救済あるいは魂の喪失ということに関わっていくものである。魂の存在が信じられていないところに劇はない。
- 真の小説は、人間を決定されたものとは見ない。人間を、まったく堕落したものと見ることもない。かわりに、本質的に不完全なもの、悪に傾きやすいもの、しかし自身の努力に恩寵の支えが加われば救済されうるものと見るのである。人間の魂には、可能性を受け入れ、予期せざるものを入れる通路がつねに開けていると見るのである。
:視覚と信仰と現代
- 小説を書く者はあらゆるものを目で評価する。目は、最終的には全人格と視野に収まる限りの世界を巻き込む器官である。比喩的にでなしに、目は心臓に根を持つと言ってもよい。できるだけカメラの流儀で見ることが目を自由に使うことだ、という誤解がしばしば見られる。あいにくなことに、視覚から信仰を(見ることから判断を)断ち切ろうとする試みは、作家の人格全体に暴力を加えることに等しい。書くという行為には、全人格が参与するものなのだから。
- 作家が自分の見るものと見まいとするものを選び分けると想定するのは間違いだろう。人が見るものは、状況とその人独自の知覚の働きで決まるのであり、すなわち、目は、それが具体的状況によって対象に与えられるものを見るだけである。作家は、たまたま自分に向き合ったものに目を凝らすものだ。そして、もし小説家が何かを発見するとして、現に彼に発見できるのは、抽象的真実のために現実を動かしたり、でっちあげたりすることは自分にはできないという一事である。作家は、おそらく読者よりも早く、現実を成すものの前で身を低くすべきことを学ぶのである。そしてしまいに、小説は自己を制限するものの中にとどまってこそ、その限界を越えることができるということを作家は悟る。
- 作家が自分の作品に課す制限は、小説そのものの性質から必然的に出てくるものなのだ。そして一般に、宗教が課すどんな制限より厳しいものである。
- 世間では、作品を救うより世界を救うほうが正しいことのように考えられているようだ。しかし、作家がそれを自分の意見とすることはありそうにない。
- 一定の教義(キリスト教であれ、反キリスト主義であれ)によせる信仰が、人生において生起するものを固定することはないし、それを見る信仰者の目を隠すこともない。それどころか、それは、多くの者が正直のところ存在を認められぬ新しい次元を作家の観察に加えるものである。その新たに加えられた次元の実在は、作中にある自然の出来事の真実さと完全さによって確認される。
- 個人の信仰が強いときでなく、むしろ弱まっているときにこそ、人は小説を通じての人生の正直な描写を恐れるものである。みな或る型の人生で満足してしまうから。
- いずれにせよ、束の間に変わる信念に人びとがあちらこちらと揺れている時代には説得力ある寓意物語は存在できないのであって、そのわけは、それを読む者が一人一人ちがった読み取りをするからである。倫理観が、なされる行為の一つ一つについて変わる場合、道徳的価値を指し示すことはできない。なぜなら、そこには一般に認められた判断の基礎がないのだから。
- 小説家と信仰者は、それが同じ人間の中で一緒になっていないとしても、多くの特質を共有する。抽象的なものへの不信、限界を画するものへの敬意、現実の表面を突き入ろうとする欲求、ものをものたらしめ世界を一つに合わせている霊を、あらゆるものの中に見出そうとする欲求などがそれである。
:小説の記述を生み出す制度・伝統・外界
- 小説家としての私の仕事の大部分は、究極的な関心事とやらいうものも含めてあらゆるものをできるだけ具体的に中身に形を与え、明確な特徴を持たせることである。小説家の仕事の出発点は、人間の知識のはじまるところ、すなわち五感である。彼は物体の持つ制約を利用して働くのであり、幻想物語を書いているのでなければ、彼の属する文化が許す具体的な可能性の範囲からはみ出さぬようにしなければならない。彼は独自の共同の過去と、この過去から彼の社会が受け継いできた制度と伝統によって縛られている。
- もし数学者として話をするのであれば、自分のひととしての部分の大半を抜きにして、ただ数学者としての話し振りを通すことも可能だろう。しかし、小説家として語る場合は、書くときと同じように、全人格を投入してしなければならない。
- 小説家の仕事は、人間がどんな感じ方をするかを示すことだと主張する人が多くいる。それらの情緒は、現に見るがとおりのものであり、小説家はそれを、あるがままに示せばいいというのである。こうした言説は、そのかぎりではまことに結構であるが、それでは、小説が要求するものはとても満たせない。偉大な小説は、人間の判断の全領域を巻き込むものであって、ただ感情を写しとればいいというものではない。優れた小説家は、もちろん感情を担う象徴を探しはする。だが、或る象徴の発明と同時に、それを読む者の胸に叩き込む方法をも見つけだすのである。知性ある読者に、そこに盛られた感情が適切か不適切か、道徳に合っているか反道徳的であるか、善であるか悪であるかを読みとらせずにはおかないような表し方を探すのである。
- たとえば、この世界が神の創造的な業によって生まれたと著者が信じている場合と、世界および作品は宇宙的偶然の産物だと信ずる著者の場合とでは、作品の様子に大きな差異が生じてくる。作家が、われわれは神の姿に似せてつくられたと信じているか、あるいは、われわれは自分たちの姿に合わせて神をつくるものだと信じているかでも、小説に大変なちがいができてくるのだ。
- 近代の小説家の多くは、精神の外の客観的世界よりは意識の過程のほうに関心を寄せた。二十世紀の小説にあっては、無意味で不条理な外界は、作者や作中人物の神聖な意識にとって害であるというような考えが幅をきかせている。作家も作中人物も、今では外に出て世界を探り、潜り込もうとはめったにしない。その外界こそ、神聖なるものは映しだされるものなのに。
- 小説家は、つねに一つの世界を、しかも倫理感覚に照らして納得できる世界を創りだす義務がある。芸術の力は、信仰の力に似て、知性の限界を越えて進み、作家が抱いているかもしれぬ単なる理論の及びもつかぬところまで届くものである。もし小説家が、芸術家として必ずすべきことをしているならば、その究極的な実在のイメージを、人間状況の或る面で束の間とらえられる姿のまま、きっと示してみせるにちがいない。この意味では、芸術は啓示の働きをする。
- 小説家は、自己を表現するために書くのではない。自分の見るものを真なりと信ずるから、それを描きだそうとして書くのでもない。むしろ、自分の見るものをできるだけそのまま彼の読者に伝わるように表現するのである(「現実を整理する」などということは、まさに傲慢の罪に陥ることだ)。読者の好みなど無視して差し支えないが、その性質と忍耐心のなさだけは無視できない。作家の信ずるところと読者の信ずるところとの開きが大きくなればなるほど、作家の抱えた問題はむずかしさをますのである。
- 読者の感覚が骨の中にしかないとしたら、その骨にでも、この小説において何か重要なことが起こりつつあるということを感じさせなければならないのである。この目的のために、私は、言葉・構造・劇的運動の全体にわたって小説をねじ曲げなければならない。ここでの歪曲は、方便である。啓示のための、または啓示するはずのデフォルメである。
:土地に束縛された想像力、社会環境に既に深く感応している五感
- われわれが見、聞き、嗅ぎ、触れるものは、われわれが何かに対して信仰を持つことなどよりずっと以前にわれわれに影響を与えているのであり、作家の生まれた土地は、われわれが一つの音を聞き分けた瞬間からわれわれの上にその姿を刻印している。小説のために想像力を働かすことができるようになるまでに、われわれの五感は、或る一つの現実と、もう取り返しのつかぬほど深い感応の関係をうちたてているものである。この感覚をとおして、或る特別な社会、或る特別な歴史、特別な音、特別な言葉づかいと自分が結びつけられているという事実の発見は、作家にとって一つの認識のはじまりなのであって、この認識が、彼の作品をまず最初に真の人間的パースペクティヴの中におくのである。自分が生まれた土地は、同時に自分とは異質の土地でもある。人は、そこで想像力が無限に自由なのではなくて、束縛されたものだと知るのだ。
- 多くの若い作家にとってこれは楽しい発見ではない。彼らは、いいものを書くためにまず第一にすべきことは自分を縛る土地の力を振り払うことだと思っているからだ。彼らは、表現すべきことと自分で思うものの精神に、より近い生活様式を持った土地を設定し、そこに自分の物語をおきたがるのである。でなければ、さらにいい方法として、土地の要素は一切抜きにして、無限なるものに直接近づくのを好んだりする。しかしそんなことは、単なる可能性ですらない。
- 小説作家が、すぐにではないにせよ、おいおい気のつくことがある。それは、自分の五感の中に入りこんで独自に生きだした風景や音を、自分から切り離したりすればまったく前へ進めないということである。小説家は、人格の神秘を関心の対象にするのだが、納得できる社会環境によって作中人物の存在が特徴づけられているのでなかったら、この神秘について意味のあることは大して言えないのだ。書く努力に値する小説にとりくむことは、一種の個人的な対決、作家の想像力を形成した状況との対決である。そして、この状況というのも、実際に書く段階になってはじめて秩序だてられるものなのだ。
- 不成功に終わった小説には、たいがい、いま述べたたぐいの戦いが欠けている。それは、どんな特定の文化とも真剣に組み合うことのない小説である。場所の感覚がなく、その分だけ感情も減少している。その劇的行為は、どことも言えるしどこでもない、抽象的な環境の中で起こる。このため作品の幅も奥行きも極端に削られ、虚構作品をなめらかな安直さから守る内的緊張が縮小してしまう。
- 疎外というのは、かつては一つの特性の指摘であったが、現代の小説の多くにあっては、それはロマン主義的理想になっている。現代小説の主人公は、アウトサイダーなのだ。彼の経験には根がない。彼はどこにでも行けるが、どこにも帰属しない。何にも違和感を持たない結果、彼は、共通の美的価値観と関心に基礎をおく社会のすべてから疎外されて終わる。彼が属する地があるとすれば、それは、彼の頭蓋骨が包みこむ内側だけである。
- 優れた物語作者になるためには、自分を測る基準となるものが必要なのだが、これこそ目立って現代に欠けているものである。人びとは今、自分がたまたましていることによって自分を判定する。したがって、伝統的な生活様式は、いかに不安定なものであっても、まったく生活様式を持たないというのよりいい、ということにもなるのだ。
- 小説という目的のためには、その導きとなるものは具体的な形で存在するものでなければならぬ。或る社会全体に知られ、神聖なものと認められてあるものでなくてはならぬ。われわれが自身について持つイメージと判断に影響する物語の形をとって存在しているものでなくてはならない。抽象観念や公式、法則は、ここでは役に立たぬ。われわれは、われわれの背景に物語を持たなければならないのだ。物語を作るためには、物語が必要である。