diagram:夏目漱石『明暗』
- ------------------------------------------1日目
一
医者に手術台から下ろされる津田。
「やはり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行き留りだとばかり思って、ああ言ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
痔(とは開示されないが)の症状が悪化していることを知らされる津田。
手術が必要と言われる。
津田は診察所へ入ったときに物珍しさでのぞいた顕微鏡で見た細菌を思い出して、自分の痔が結核性のものではないかと心配して問うが、医者は無表情に否定する。
「津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。」
手術の日取りについて言葉を交わして、津田は外へ。
〔※津田の痔が想像以上にひどくて手術を受けなければならない羽目になる、という事象がこの小説における「集約的事象」であり、日常からやや逸脱したこの単起的な事象に刺激されてこの後金策の苦労や親類間での不和や吉川夫人の使嗾や「あの女」をめぐるサスペンスなど、これまで津田の日常に潜在していたさまざまな派生的事象がつづけざまに起こることになる。つまり津田の痔の手術・入院という特殊事象は、『カラマゾフの兄弟』における僧院での親族会議、『白痴』におけるナスターシャ・フィリポヴナの名の日の祝い、『罪と罰』におけるルージンとドゥーニャの婚約、に匹敵するプロット上の契機と言える。〕
二
病院の帰り、電車のなかで吊り革につかまりながら沈鬱な想いに耽る津田。
〔※東京下町の地名が出てくるので、津田が住んでいるのが東京だと分かる。ただ「(当時の)東京らしさ」のような印象的なディティールは描かれない。土地勘についてはかなり記号化されている。〕
最初に痔の激痛を感じたときの記憶。その予告のなさが恐ろしい。
「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ」
さらに考えを展開させ、肉体だけでなく精神もいつどう変わるか分からないという結論にいたる。過去に「あの女」に裏切られた経験を持っているから。
「どうしてあの女はあそこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違いない。しかしどうしてもあそこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違いない。しかしおれは未だかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーの所謂複雑の極致? 何だか分からない」
〔※二番目に出てくる「あの女」は最初の「あの女」とは別で、津田の妻のお延のこと。この内語でついでのように津田が結婚していることが開示される。〕
電車を降りる津田。
三
家まで歩いていく津田は、門前で出迎えている細君の姿を認める。
細君が何を見ていたかを問う津田。
家のなかへ入る二人。夫婦の会話。
そして今日診察を受けた話に。
一端話題は途切れるが、「同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。」
〔※津田に夕食後自分の部屋へこもる習慣があることが開示される。〕
手術の話。手術をすれば日曜でなければならない。しかし次の日曜には二人とも親類から誘われて芝居見物に行く約束がある。
〔※この親類というのは、この時点では開示されないがお延の叔母の家。派生的事象が重なっていく。〕
津田は細君一人で行けと言う。
四
細君の容貌の描写。一瞬目に怪しい表情が宿るが、すぐにそれはあとかたもなく消える。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。……」
細君は一人では行かない、芝居の誘いを断ると言う。
手術についての詳しい説明。肛門を切開するので、手術後五六日は寝ていなければならない。仕事を一週間ほど休まなければならないので、吉川さんに相談して日取りを決めると言う津田。
〔※重要人物である「吉川」の名が出てくる。重要なのは吉川夫人の方だが。ここでの会話では、大体「吉川」が津田の上司なのだろうというのが推察される程度。〕
入院、という言葉をめぐって夫婦でちょっとした面白いやりとり。
五
自室へこもる津田。そのときの細君の「また御勉強?」という言葉に内心やや固執する津田。
津田が細君の前から消えようとする直前にまた細君が言う。「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
〔※ここで親類の名を開示。「岡本」=お延の叔母の家。〕
津田は二階の自室で本を読もうとするが、集中できない。仕事でなく単に教養のために読んでいる本。それは結婚後三四ヶ月目に手にした洋書で、それから今日まで二ヶ月以上経っているのに全然読み切れていないことを省みる。
〔※ということで、津田がお延と結婚してから約半年が経っていることが開示される。〕
煙草をふかして、また階下へ。
六
「おいお延」と細君に声を掛ける津田。
〔※ここで初めて細君の名が開示される。これ以降地の文でも細君ではなく「お延」と指示される。〕
お延は帯と着物を茶の間に広げている。
津田はちょっと皮肉を言って厠へ行き、また二階へ上がろうとするが、細君の方から呼び止める。
「貴方、何か御用なの」
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
津田の父親から手紙が来ていれば机の上にのっているはずだが、それがなかったので確認しに下りてきたわけだった。
郵便箱をもう一度探そうと言うお延。しかし書留のはずだから郵便箱には入っていないはず、と言う津田。
お延が玄関へ行って郵便箱を探してみるとたしかに一通の書状が見つかる。で、実際それが父親からのものだったが、書留でないことに津田は失望する。
すぐに書状を読む津田。
「困るな」
七
見栄の強い津田は手紙の内容をまだ結婚して間もない細君に話したくなかったが、話さざるを得ない。
内容は、臨時費がかさんだせいでいつもどおりの送金ができないからそっちで都合してくれ、とのこと。「年寄りはこれだから困るね。そんなそうと早く言ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんなことを言って来て……」
〔※津田の手術のために金が要るという事象の上に、父親からの手紙という派生的事象が重なる。これによって夫婦間の齟齬が鋭く表われてくるようになる。ところで、この時点では二人の夫婦仲がどうなのかはまだまだ分からない。津田があまりお延を愛していないことは「二」での「おれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう」という彼の内語からも分かるが。〕
〔※もっと先になると分かるが、津田の父親の言う臨時費がかさんだから送金できないというのは実は口実で、これは父親からの借金を賞与で償却するという約束を津田が破ったことへの見せしめとしての送金停止の意味合いがある。そうするよう父親の怒りに油をそそいだのは津田と折り合いの良くない妹のお秀。しかしこうした裏事情を、津田は虚栄心から妻のお延に詳しく話していない。〕
津田の実家の倹しさは、派手好きなお延から見れば理解不能なものかもしれない。逆にお延の金銭感覚は、津田の実家から見れば不要な贅沢と映るのかもしれない。その微妙な齟齬を怖れる津田。「津田はふだんからお延が自分の父を軽蔑することを恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。」
〔※「軽蔑」という言葉が出て来て、登場人物間の微細な差別があらわになっていく。〕
とりあえず金策をどうするか。
「藤井の叔父に金があると、あそこへ行くんだが……」
〔※津田方のまた別の親類の名を開示。〕
津田は「岡本さん」に金を融通してもらえないかとお延に切り出す。
八
にべもなく断るお延。
津田はショックを受けるが、岡本家に対する見栄でお延が断ったと分かって(「いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって言われてつけているところへ持ってきて、不意にそんな御金の話なんかすると……」)、納得する。
〔※「見栄」という言葉もたびたび出てきて、登場人物間の微細な齟齬を示唆する。〕
結局良い金策の案は浮かばない。
お延が着物と帯を質に入れようか、と言うが、津田は自分の細君にそんな真似はさせたくないと思う。お延の心根は嬉しく思うものの。
結論が出ないまま津田は二階へ。
------------------------------------------2日目
九
翌日、津田は例のごとく勤め先へ。
正午前に、吉川の室へ行くが、忙しいと言われる。
午後になって行くと吉川はもういない。
仕事を終えて、吉川の自宅に寄るかどうか迷う。
行くことにする。吉川は不在かもしれないが、一種の義理や虚栄の気持ちから。
〔※津田が吉川と特別な知り合いであることが示唆される。〕
十
吉川家の玄関。案内を頼むがやはり吉川は不在。
「奥さんは御出でですか」
津田は実は吉川よりも吉川夫人と懇意なのだった。実は最初から無意識に吉川夫人を会う気でいた。
応接間に通される。すぐに吉川夫人が出てくる。
夫人は結婚してからうちに寄らなくなった、といきなり当てつけを言う。年下の男に対する遠慮のなさ。
結婚生活についての遠慮ない質問。津田はそれに耐えるように答えつづける。
〔※途中、津田の年齢を問われ、三十歳であることが開示される。ついでにお延が二十三歳であることも開示。〕
十一
吉川夫人の軽妙な機知にからかわれる津田。相手の真意をつかもうとする津田。
「彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。」
〔※津田の態度から、この二人のあいだでも微細な差別が働いていることが分かる。痛いところを付かれても、津田は単に弱さを見せたり卑屈になるということはない。〕
結局吉川夫人が「あの女」のことを津田に憶い出させようとしていると気付く。
「お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだ外にもう一人あるはずよ、きっと」
〔※「二」で張られていた伏線を回収。吉川夫人のこうした容喙も津田の手術を契機にした派生的事象の一つと言えよう。ちなみにまだ「清子」という名前は出てこない。〕
津田は無反応。吉川夫人はさらにお延を批評するようなことを言う。
十二
津田はそろそろ切り上げようと思い、用件を伝える。手術の日取りについて。
〔※これで吉川夫人にも津田の手術に関与する糸口ができることになる。これがまた派生的事象を生む。〕
津田は吉川夫人の表面的なからかいには動じないだけの自己を持っている。
帰り際に吉川夫人から見舞いに行くかもしれないと告げられる。
「行きますよ、少し貴方に話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
〔※伏線。派生的事象のなかではもっとも重要な線。〕
十三
吉川家を出てからも、さきほどの会話のことを考えつづける津田。
吉川夫人は「あの事件」について自分に何か話をするつもりなのかもしれないと考える津田。「その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
〔※「あの女」「あの事件」という表現で周到に謎の外堀をつくっていく。具体的内容はまったく明らかにされない。このサスペンスの構築は『罪と罰』において強盗殺人の計画を主人公が内省においてはずっと「あれ(の実行)」と指示しつづけるのに似ている。〕
さらに吉川夫人の真意を想像しようとする津田。「もしあの細君があの事件についておれに何か言い出す気があるとすると、その主意は果してどこにあるだろう。……おれをからかうため?……もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため?」
電車に乗る津田。
今度はそのままになっている金の工面について思案する。苦しい気分になる。
十四
自宅の門前まで来る津田。お延が彼の帰りを予期していたかのように戸口を開ける。
津田が定刻に帰らなかったことについて、夫婦の会話。
お延は津田が吉川家に寄っていたことを当てるが、もともと前日に手術の日取りについて吉川に相談するとは言っていた。
しかし手術するなら、金を工面しなければならない。
津田は神田にいる妹のことを思い浮かべるが、彼女を頼る気にはなれない。妹も父親に味方して津田の結婚後の家計について非難の眼を向けているから。
自分の病気の事情をまじえつつ父親に催促の手紙を書くしかないと結論する津田。同意しかねる様子のお延。
津田は二階へ。
十五
津田は手紙を書こうとして、気難しい父親のことを思いめぐらす。京都に隠棲している父。
父親は「誰のためでもない、みんなおまえのためだ」というのが口癖だった。
〔※「……のため」というのが行動の動機になって却って厄介がられている、という人物造型は面白い。非常に人間的。〕
ぎこちない思いをして父親宛ての手紙を書く津田。到底成功しそうにないと予感しながらも、下女に手紙をあずけて、床の中へもぐり込む。
------------------------------------------3日目
十六
翌日の午後、仕事中に吉川に呼ばれる津田。吉川に病状を説明。
都合がよければ明日からでも入院しろと言われる。
雑談で、津田の父親のこと、岡本のことが触れられる。
〔※吉川と岡本が知り合いであることが分かる。〕
十七
その日の帰りがけに、医者に寄る。
診療所の控え室で、去年の暮以来この医者の家で偶然出会った二人の男のことを思い出す。そのうちの一人とは性と愛という問題について難しい議論をしさえした。
〔※その議論の相手とはその後異常な結果が生まれたと書かれている。おそらく『明暗』が未完で中断されたために回収されなかった伏線で、その相手が清子が嫁いだ男である可能性が高い。〕
明日か明後日に入院するかもしれないがいいか、と告げて、帰宅。
十八
出迎えに出ていないお延。家に入ってお延を呼ぶと、二階から彼女が下りてくる。
何かぼんやりと考え事をしていたというお延。
津田が湯に行こうとすると、お延が呼び止めて褞袍を津田に着せる。津田が病院に入るときのためにこしらえたものらしい。津田が頼んだわけではない。
それに袖を通しながら、明日か明後日に入院することにしたと告げる。
お延は自分は病院についていってはいけないのか、と言う。
------------------------------------------4日目
明くる日、もう十時を過ぎてから眼を覚ます津田。完全に休日気分。
朝飯を取る前に、手術を受ける前の日の注意事項を思い出す津田。
簡単な食事しか取れない。
今日の午後は、病気の報告がてら藤井の叔父に会いに行く、と津田。
二十
藤井について地の文で説明。津田の父の弟。津田との関係は第二の親子と言えるほど。
父親と正反対な生き方をしていて、給与所得者になったことのない叔父。今は活字で飯を食っている。
叔父は津田の父のことを「緩慢なる人生の旅行者」とつねづね皮肉っている。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別の開示。〕
二十一
東京の郊外で暮らしている叔父。津田の家からは歩いて一時間掛からない近距離に住んでいる(もちろん電車を利用した方が便利だが)。
歩いていく津田。途中、一群の人々を見掛け、観察する。
途中、学校帰りの叔父の子と出くわす。
二十二
子供に何か買ってくれとねだられる。しかし今の津田には小額でも惜しい。
二十三
結局一円五十銭の空気銃を買ってやる羽目になる。
叔父の子が、岡本の子と同級だということが分かる。
二十四
岡本の家は裕福らしい。
藤井と岡本の暮らし向きの格差について考える津田。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別の開示。〕
叔父の家に着く。
二十五
靴を見るに、先客がいるらしかった。
縁側の方に回ると、先に叔母に出会う。
叔母は吉川夫人とほぼ同年齢だが、まるで違う。叔母は中性的でまるで色気がない。
二十六
声から、叔父の先客が誰か気付く津田。小林である。
小林なら遠慮する必要はないと津田は思う。
〔※かなり興味深い登場人物の小林だが、ここで叔父の知り合いとして初登場。早速津田の態度からして軽く扱われていることが分かる。登場人物間に設定されている微細な差別がさらにあらわになる。〕
この夏小林に会ったときに金を七円貸してくれと頼まれたことも思い出される。小林が泥棒に服を盗まれ、それに同情した別の友人が自分の質入れしている夏服を受け出せるなら小林にやってもいいと言ったのだ。そのための金を貸せというのだった。
小林の用件は何か。藤井家の下女のお金という女の結婚問題に小林が噛んでいるらしい。
〔※この段階では開示されないが、お金は小林の実妹。〕
その結婚は藤井家の家計に新たな負担となってくるだろう……。
二十七
ここで嫁入りの費用をいくらか負担しようと津田が言い出せれば叔父夫婦への恩返しにもなるのだが、今の津田の財力では無理だった。
お金の嫁入りの話から、津田自身の結婚の話へ。「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰ったの、お前さんは」
〔※津田の下の名が出てくるのはここが初か。〕
叔母は、「真面目さが足りない」というふうに津田を評する。
どうも叔父夫婦の娘(津田の従妹)を津田が嫁に貰おうとしなかったことを遠回しに非難されているらしい。
だが津田はべつにそのことをやましいと思いはしなかった。
二十八
柱時計が鳴ったのをきっかけに、津田は客間へ。
小林と挨拶。互いに冷笑し合うようなやりとり。
叔父の前で薬を飲み、それをきっかけに入院予定の報告。
小林がそれを馬鹿馬鹿しくまぜっかえす。
「つまらないことを言うなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
二十九
叔母が津田を夕食に誘う。
小林のためにご馳走が用意してあるという。「何ね、小林が今度──」
小林は詳しいことを語りたがらない。思わせぶり。単なるお金さんの結婚問題ではない? また今度津田のうちへ伺うと言う。津田が明日から入院することを言うと、ならば病院に見舞いに行こうと言う。
〔※伏線。小林という奇怪な人物が津田の手術という集約的事象に関与してくることに。〕
三十
話題は、お金さんの縁談についてに移る。
叔母が結婚一般について口にすることはあまりに紋切り型で、先程津田の真面目さを疑うような素振りを見せた叔母こそ根本的に真面目さを欠いているじゃないか、と津田は思う。
叔母とちょっとした口論になる。どっちが不真面目か。
叔母は踏み込んで「事実の上であたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。色々選り好みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ち着かずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか分かりゃしない」と当てこすりを言う。
〔※ここで、叔母の「真面目さが足りない」という非難が実は叔母の娘ではなく「あの女」「あの事件」に絡んでいたことが判明する(叔母は清子の件を知っていたのか? 今なお津田が清子のことで悩んでいることまで推察しているのか?)。この点でも対話を通じて登場人物間の微細な差別があらわになっていくようで、面白い。つまり叔母はかねてから結婚前後の津田の態度を見て津田を道徳的に差別していたわけだ。〕
三十一
叔父が仲裁に入る。「何だか双方敵愾心をもって言い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」
そこから叔父ののろけ話に。口論は頽落。
三十二
話はもうはずまなくなる。
津田は先程の叔母との口論を思い出して、不快な気持ちになる。吉川夫人やお延といった女性のことを思う。
暇を告げる前の雑談で、父親の話題が出る。送金してくれない父親のことを悪く言う。ついでに「一体お秀がまた余計な事を言ってやるからいけない」と妹の悪口も言う。まあ父親に借りた金を返せていない自分の落度は津田も認める。「どこの国に親父から送って貰った金を、きちんきちん返すやつがあるもんですか……」。叔父は笑うだけ。「兄貴は怒ってるんだろう」
〔※初めて妹の名が出た。津田の手術のために生計が逼迫するということから、父親の態度、そして妹の態度というところまで事象が派生していく。この津田の態度からして、この兄妹は互いに相手の振る舞いについて何かしら差別心を抱いていることは間違いない。〕
小林と一緒に外へ出る津田。
三十三
戸外での小林との会話。「何といってももう秋だからな」で作中の季節が分かる。
小林は、津田が学生の頃に着ていた外套がまだあればゆずってくれと図々しく頼む。
「欲しければやってもいい」と津田は冷ややかに答える。
〔※小林と津田が昔からの腐れ縁であることが知れる。ところで、この外套をやるという話は後につながっていく。〕
小林と少し問答する。「訊き方が少し手厳しすぎるね」と小林。
小林は津田を強引な理屈で飲みに誘おうとする。
三十四
津田が別れようとすると小林はついてくる。酒場を見つけて、ここに入ろうなどと言う。津田は断る。入院しなければいけないほどの病身なのだ。
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」とか無理矢理な受け答えをする小林。ついには「そんなに厭か、僕と一緒に飲むのは」と追究される。
実際厭だったのだが、そのように指摘されると、突然意向が反転して、「じゃ飲もう」と津田は言ってしまう。
酒場へ。客のなかに社会的地位のありそうな者は一人もいない。
津田は周囲を差別的に見るが、小林は上機嫌。「僕は君と違ってどうしても下等社会の方に同情があるんだからな。……見たまえ。彼等はみんな上流社会より好い人相をしているから」
無理矢理な理屈で周囲の客たちを褒める。津田は昂然として応じない。
〔※差別意識ゆえの強情。相手をしてやるということは同レベルに堕すということだ、という自尊心。〕
「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見くびっているんだ」と小林。
三十五
鳥打ち帽をかぶった男が酒場に入ってくる。
あれは探偵だと小林が言う。
だったら君みたいに上流社会の悪口を言っていると社会主義者と間違えられるぞ、と津田が言う。
上流社会の人間や探偵よりも自分の方がよっぽど崇高で純粋な人間だ、と主張する小林。
津田は小林の毒舌に巻き込まれたくないので黙っている。
小林はドストエフスキーの名前を出す。
「ロシアの小説、ことにドストエフスキーの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ、いかに人間が下賎であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程ありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
涙をこぼしはじめる小林。
三十六
津田は相手の感激につり込まれない。
小林は凄まじいことを言い出す。「君は僕が汚い服装をすると、汚いと言って軽蔑するだろう。またたまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと言って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
〔※登場人物間で差別意識と強情が強烈に乱反射する。〕
津田は迷惑がる。
話題は小林が新調した背広の話になる。津田は調子を合わせるだけ。小林は朝鮮へ行くという。朝鮮の新聞社に雇われる事になったという。津田はびっくりする。
三十七
下女がテーブルの上を片付けたので、津田はすぐ腰を上げる。戸外へ。
朝鮮の話。いつ行くのかはっきり答えない小林。
「実を言うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも言うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止したらいいじゃないか」
まったく同情を見せない津田。
「津田君、僕は淋しいよ」と小林。
〔※面白い。常人を超えた弱さ=淋しさのようなものが、他人を苛立たせる小林の奇行の中核にあるということか。或る意味彼は嫌味を言って嫌われる相手を必要とするほど根源的に淋しいのだ。〕
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんなところにいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽどましだ」
お金さんの縁談の話に。ここで初めて明らかになるが、お金さんは小林の妹。
朝鮮に行く旅費がない、という話。
二人は別れる。津田はさっさと自宅の方角へ。
三十八
門が締まっており、潜り戸にも鍵が掛かっていて入れない。世帯を持ってから初めてのことだ。
戸を叩くと、お延の返事がして玄関から潜り戸の方へ彼女がやってくる。彼女が掛け金を外す。
お延は実家へ手紙を書いているところだった。しかしなぜ門を締めたのかと問うと、下女が夕方に締めっぱなしにしていたのだろう、との答え。
下女に問いただしてまで責任者を追求するつもりはなく、津田は寝る。
------------------------------------------5日目(日曜日)
三十九
明くる朝、九時に起きる津田。茶の間であでやかに化粧し盛装たお延に出くわしてたじろぐ。
もちろんお延は病院までついて行くつもり。津田は辟易しながらも認めるほかない。
入院のための荷造りをする津田。
四十
出掛ける途中でお延が忘れ物を取りに帰るという一幕もあったものの、問題なく診療所に着く。
すぐに二階へ通される。
四十一
津田とお延二人で茶を飲みながら、手術の話をする。お延は立ち会うつもりらしいが、津田はやめてくれと言う。
手術の支度が出来ると、お延は電話を掛けようとする。同じ区内にある津田の妹の家(診療所からも遠くない)へ報せると言うのだが、津田はそれもやめてくれという。
「年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見た或る意味の苦手であった。」
〔※「苦手」という言葉が出て来て、登場人物間の微細な差別があらわになっていく。〕
ではお秀に掛けるのは止すが、岡本へ掛けると言うお延。前から電話をする約束があったという。
四十二
浣腸をして、手術開始。
幸い局部麻酔はうまくいった。
四十三
手術終了。傷口に詰め込んだガーゼが重苦しい。
二階に戻って安臥。
お延と会話。今から家に帰っても仕方ないから、おまえもここで食事を取ったらどうだと津田は言うが、お延の返事はあいまい。
どうやら電話で岡本から「今日是非芝居へ一緒に来い」と言われたらしい。
それで津田は今朝からのお延の様子すべてを思い起こす。病院についてくるにしては派手な衣装も、岡本へ電話を掛けたことも、ことごとく芝居のためだったのか。
四十四
「岡本へは断ったんじゃなかったのか」
津田は不平な声を出す。
お延は断ったのに是非来いと言われたと言う。嘘を吐いている様子もない。津田はそれ以上追究のしようがなくなる。
「貴方まだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑られちゃ」
「疑りゃしないが、何だか変だからさ」
行くか止すか。それは津田次第だとお延は言う。
「お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃお出でよ」
四十五
(ここから焦点人物はお延になる)
手術後の夫をおいて病院の外へ。そのまま俥で劇場へ。
席へ向かうと、岡本の姿はないが、岡本の細君と娘二人(継子・百合子)がいる。妹娘の百合子が十四歳であることも地の文で開示。前にも藤井家との比較で言及があったが、たしかに岡本家は裕福そうであると知れる。
舞台を観る。
四十六
幕が引かれてから、会話。
継子には何か話したいことがあるらしいが、みなくすくす笑ってはっきり口に出さない。
継子はきまり悪くなって出ていく。
要するに継子に縁談が持ち上がっているということ。
四十七
そこから不意に津田のことを思い浮かべるお延。
〔※ここで初めてお延が津田をどう見ているかが詳しく語られる。〕
自分の献身を日々当然のように受け取る津田は手前勝手な男のように思われるが、夫婦関係とはもとよりそういうものなのだろうか。このことを相談できる相手はお延には目の前の岡本の細君=叔母しかいない。しかし一種のやせ我慢と虚栄心から、お延は夫に不満を持っているということを言い出すことができない。しかも津田の薄情をお延自身の不行き届きのせいだと解釈される恐れもある。二十三歳にもなって夫に対する腕を持っていない女と見下される恐れもある。
〔※叔母からの微細な差別を恐怖しているお延の心理。ついでながら岡本の細君がお延の叔母だということはここで初めて開示。つまり岡本家とお延の関係をここで開示。〕
百合子が不意に客席に吉川夫人が来ていると指摘する。
しかもその吉川夫人は双眼鏡を自分の席の方に向けていた。
お延は廊下へ出る。
四十八
お延は継子を見つけて話し掛ける。
叔父はどうしたのかと問う。百合子と入れ替わりで来るという。吉川と約束があるのだという。
お延には岡本と吉川の家族がそれほど接近していることが意外。
不意に彼女たちのそばで立ち止まった青年紳士が無言で鄭重な態度を見せる。
再び中へ入っていくお延と継子。
四十九
舞台は幕間のままで変わっていない。
客席にいた吉川夫人の姿は消えている。
百合子が蓮葉な言葉づかいをする。「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前くらい肥ってるんだから、すぐ分かるはずだけれども、やっぱりいないわよ」
お延は、吉川夫人に挨拶した方がいいだろうかと叔母に尋ねる。
〔※ここでお延が吉川夫人をどう見ているかが詳しく語られる。登場人物間の微細な差別がまた一つあわらになる。吉川夫人がお延に冷たいのは清子との比較ということもあるかもしれない。〕
「実を言うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向こうでもこっちを嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起こったのだという朧気な理由さえあった。自分が嫌われるべき何等のきっかけも与えないのに、向こうで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。先刻双眼鏡を向けられた時、既に挨拶に行かなければならないと気の付いた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起こし得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易く果たさせるために、叔母が自分と連れ立って、夫人のところへ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。」
だが叔母は食事で一緒になるからあとでいいと言う。そういう約束があるのだ。
五十
岡本が来る。入れ替わりに百合子が出ていく。舞台が再開。雑談。
実はお延を呼んだのには芝居を見せるためだけじゃなく、理由があるという。
約束の時間になり、吉川との食事へ。
五十一
食堂へ。お延まで呼ばれているということは、その席で何かがあるはずだった。継子は話してくれない。
従妹の継子とお延が並ぶと、継子の容姿がより引き立つように思われる。お延は軽い嫉妬の眼で見る。
お延は吉川夫人の前で、相手を自分の夫が一方ならぬ恩顧を受けている人間として、あたうかぎりの礼儀を示さなければならない。気を引き締める。
五十二
食堂には吉川夫婦が先に来ている。先程の若い紳士も一緒にいる。
簡単な挨拶。お延は吉川夫人の前の席に坐る羽目になる。
雑談。
五十三
三好という若い紳士を中心にして、会話が弾む。吉川夫人がこの青年紳士を後押ししているらしい様子がうかがえる。
お延は謹聴者として沈黙しつつ、吉川夫人の社交術を批評する。その切っ先に危険を感じる。
五十四
舞台がまた再開するが、食事の席を立たない一同。
吉川と岡本が想い出話に耽る。他愛もない話。
その中でお延は完全に吉川夫人の眼中の外に置かれている自分を意識する。
逆に継子は吉川夫人によってさかんにみんなの前へ引き出されるが、その機会を継子は上手く利用できない。それに対しお延は軽侮の念を抱く。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別があらわになっていく。〕
五十五
ようやく席を立とうとする一同だが、その直前に吉川夫人が突然お延に話し掛ける。
「延子さん、津田さんはどうなすって」
社交辞令ではなく、裏に何か意図がありそうだと感じるお延。
手術について尋ね、津田が入院している診療所の住所を聞き出す吉川夫人。見舞いに行くとも言わなかったが、そのために聞き出したのではないかとお延は推察。
食堂を出る一同。
五十六
その後はとくに波乱はなかった。
津田のことを考えるお延。食事をする前は津田のことを考えもしなかったから、これは吉川夫人から何かの暗示を受け取ったせいだと思うが、それが何だか分からない。
芝居が終わる。
岡本は自宅に泊まりに来いと言うが、お延は断る。しかし数日中に今日のお礼かたがた伺うと約束する。叔父に用件があるのだとも告げる。
〔※伏線。〕
五十七
お延帰宅。下女は居眠りしている。
夫がいないことに、やはり淋しさを感じる。明日は必ず見舞いに行こうと思う。しかし津田のことを薄情だと思う気持ちも消えずにある。
------------------------------------------6日目
五十八
朝。主婦としていつもやる通りの仕事を済ますと、別々の電話を三人に掛けるお延。
一人目は津田。しかし津田は電話口に立つことができないので間接的に病状を聞くだけ。異常なし。津田が自分をどのくらい待ち受けているか探るため、今日は見舞いに行かなくていいかと尋ねてもらうと、「何故?」という返事。昨日からつづいている夫への不満が突発的に胸を刺して、思わず「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって言ってください」と言ってしまう。
続けて岡本家へ電話を掛けて今から言ってもいいかと聞き合わせる。
最後に津田の妹を呼び出し、津田の現状を報告する。
五十九
朝食を兼ねた昼食を食べるお延。下女と雑談。
岡本家へ。藤井の家と同じ方向にある。
往来で偶然継子と行き会う。継子は稽古へ行くところ。
「軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度振り返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とをつき交ぜたその人に対するいつもの感じが起こった。」
六十
岡本家に着く。叔父は庭いじりをしている。
茫洋とした叔父夫婦を見て、自分たち夫婦の行く末を思うお延。
雑談。
六十一
過去回想もまじえつつ、叔父について。
奇妙な諧謔趣味があり、それはお延にも多少影響している。叔父と悪態をまじえて剽軽にやり合っている方が、津田と生真面目に言葉を交わすよりも自由だとお延は感じる。そのことを悲しくも感じる。
しかし彼女は他人の前では何一つ不足のない夫を持った妻として自分を示さなければならないと思っている。
六十二
叔父の話のつづき。異性をどう取り扱うべきかを叔父から学んだつもりでいたお延は、それが津田に全然通用しないという経験をしている。その苦労について叔父夫婦に告白する気にはなれない。
また、どうやら叔父は口に出さないが彼女の夫の津田を好いていないようだった。そのことをお延は敏感に感じる。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別の開示。〕
かつてはお延は自分が津田を精一杯愛し得るし、同時に津田から精一杯愛され得るという自信があった。しかしそれが揺らいでいる今、あらためて叔父と津田を比較することは辛いことだった。
六十三
その気分を紛らすために、昨日の一件を尋ねるお延。
まあ尋ねるまでもなく、三好と継子の見合いだったことは分かりきっている。
お延が呼ばれたのはなぜか。吉川夫人とお延との一種微妙な関係を度外視してまで呼ばれたのはなぜか。
六十四
「実はお前にお婿さんの目利きをして貰おうと思ったのさ」
お延は自分が目利きだとは到底思えないので苦笑する。現に、自分は結婚前に津田の性質を見抜くことができなかった。
結局三好についても、叔父が期待するような直観的意見を述べることができないお延。自分は嫁に行ってから直覚がすり減ってしまったようだ、などと弁解する。
六十五
しかし考えてみれば、津田を嫌っている叔父がそんな津田と結婚したお延の眼を信頼しているというのはおかしい。むしろ自身の津田評が正しいことを確認したいがために、お延にこんなことを言うよう追いつめているのではないのか。
ともかく自分が津田と結婚したときはまったくすべて彼女自身の責任で事を進めたのだった。誰にも目利きなど頼みはしなかった。
継子だってそうするべきではないのか。
六十六
継子のことを考えるお延。
従妹の彼女との関係においてお延はつねに先輩であり優者だった。継子から一段上に見られている自分を意識していた。かつて「女は一目見て男を見抜かなければいけない」などということも彼女は継子に吹聴していた。それだけの自信もあった。津田との半年の結婚生活でその自信は崩れたが、まだ継子の耳にはあのかつての自信満々のお延の断言が響いているにちがいなく、まだ継子の眼には津田とお延の恋愛が理想的に映っているにちがいなかった。継子はあくまでもお延を信じているのだった。
その信頼が今は重荷だ。だがその不満を叔父や継子にぶつけることもできない。
六十七
一旦話題が逸れるが、また継子の話に戻る。
お延は自分(姪)と継子(娘)の境遇の違いを思う。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別の開示。〕
昨日の見合いに引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったか、とさえ猜疑する。
六十八
思わず叔父に向かって「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」と言ってしまう。
叔父はお延の心の動きにまったく鈍感で、「そんなにひとが悪うがすかな」と空っとぼける。
叔母も笑う。
が、お延は抑えつけていた感情がふくれあがり、涙をこぼしてしまう。
わけが分からず叔父も叔母も当惑する。叔母は不機嫌になる。叔父は自分に原因があったかと思ってお延を気の毒がる。
〔※登場人物間に設定されている微細な差別の開示。叔母とお延には微妙な不和がある。〕
お延は本当のことを告白もできず、ばつの悪い空気になる。
六十九
そこへ継子が帰ってくる。
話の転換のきっかけをつかんでみんな喜ぶ。
下女が風呂のわいたことを知らせる。
お延に晩飯を食べていけという叔父。
継子が自分の部屋に来ないかとお延を誘う。
七十
継子の部屋というのは、津田に嫁に行く前のお延の部屋でもあった。
その処女時代の過去から見ると今の自分はあまりに予期を外れた未来を生きていると思う。
継子にはどんな運命が待ち受けているだろうか?
七十一
結婚以前のように継子とたわむれるお延。
しかしいつまでも遊戯的感興にひたっていられない。
「継子さんは気楽でいいわね」
とはいえ自分の不遇を継子に説明できるわけもない。
「だってあなたがご自分で望んで入らしった方じゃないの、津田さんは」という継子の無邪気な言葉を肯定するほかない。
七十二
話題は継子の結婚問題へ。やはり継子からも三好をどう見たかを訊かれる。
継子に対し、他人の意見じゃなくて自分の信念で夫を選べ、そうしてただ夫を愛して夫に愛させろ、そうさえすれば結婚で幸福になれる、と強弁するお延。まるで自分で自分に向かって言っているかのように。
継子はあまりお延の言葉に感銘を受けない。
「誰だってそうよ。たとい今そのひとが幸福でないにしたところで、そのひとの料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
〔※どんどんお延の境遇の心理的苦しさがあらわになっていく。これは伏線で、このお延のきかん気は後に爆発する。〕
七十三
そこへ学校から百合子が帰ってくる。
百合子と他愛ない雑談。
お延の感化で継子が津田を尊敬しているらしいことが知れる。
七十四
下女から食事の用意が出来たとの知らせ。
末っ子の一(藤井家の息子と同級)もまじえて夕食。
七十五
津田とお延が結婚してから、藤井家と岡本家は交際が密になったらしい。
岡本の方が普通の成功者として裕福な分余裕があり、岡本の方から藤井を訪ねていくこともあるらしい。「批評家って言うんだろうね、ああいうひとの事を。しかしあれじゃ仕事はできない」というのが岡本の藤井評。
〔※登場人物間の微細な差別があらわになる。〕
藤井の話から男女の不和の話へ。
七十六
男女の不和の話のつづき。お延は津田のことを連想せざるを得ないので同感できない。
話が終わる。叔父は明日病院へいくなら、津田にこの本を貸してやれと言って本を渡す。
そのついでに、「これはさっきお前を泣かした賠償金だ。ついでに持ってお出で」と小さな紙片=小切手をお延に渡す。「男女の不和のときには、これが一番よく利く薬だよ」と上手い事を言う。
〔※伏線回収。これがまた後に向けた伏線でもある。〕
七十七
帰っていくお延を途中まで送っていく叔父。
電車のなかで不安のイメージが彼女の頭のなかをめぐる。
お延帰宅。
留守中何も用はなかったか、誰も来なかったかと下女に尋ねると、小林というひとが来たと知らされる。
夫の知人として小林の名はお延も知っているが、お延は彼を好いていなかった。津田が小林を軽侮していることもよく心得ていた。
〔※登場人物間に設定された微細な差別がまたあらわに。〕
小林は外套を取りに来たのだという。お延には意味がよく分からない。
七十八
お延はその晩、実家の両親に宛てた手紙を書こうとする。
だが、新婚の自分と津田の消息について書こうとして、筆が止まる。自分の現状をどう考えるべきか?
「誰でもかまわない、自分のこうと思い込んだひとを飽くまで愛する事によって、そのひとに飽くまで自分を愛させなければやまない」とあらためて心に誓うほかなかった。
幸福そうに暮らす津田と自分、という物語を勢い良く手紙に書き連ねるお延。
心の中で「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘や、気休めや、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐き掛けます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上辺の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ分かっている真相なのです。しかし未来では誰にでも分からなければならない真相なのです。私は決してあなた方を欺いてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺きの手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲人です。その人こそ嘘吐きです。どうぞこの手紙をあげる私を信用して下さい。神様は既に信用していらっしゃるのですから」と父母に断るお延。
〔※激しく希求するがゆえに「憎しみ」さえ辞さないと誓い、どんどん自分を苦しくしていくお延。これは弱さであり一種の悪でもあるだろう。この激しい希求自体、継子や叔母に対する差別意識や、津田や吉川夫人(やお秀)からの被差別意識に由来しているのだろうから。〕
七十九
床について、初めて京都で津田に会った時のことを憶い出すお延。
共に京都に住んでいる津田の父とお延の父はもとから知り合いで、父に用事を頼まれて津田の家の玄関に立ったとき、彼女は初めて津田(由雄)に出会った。礼儀正しく、義理堅く、年齢以上に沈着で怜悧な男という印象を持つ。
今の津田はそのときからどう変わったろうか?
------------------------------------------7日目
八十
翌朝、強い意志とともに目覚めるお延。いつも以上の早起きで、朝の支度を済ませる。
下女と岡本家について雑談。継子の器量について。「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら利巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」
〔※実は継子だけでなく、お延は津田の妹のお秀にも器量の面で劣等感を抱いている。或る意味伏線。〕
お延が外出のために着替えていると、戸外から客の足音。呼び鈴。
八十一
不意の訪問者は、小林。小林の性格について地の文で説明がある。「小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、大抵の人に引けを取らないように、天から生み付けられた男であった。お延の時間が迫っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、何時まで坐り込んでいても差し支えないものを独りで合点しているらしかった。」
小林はこのあいだ津田と出会ったことについてお延に語り聞かせる。露骨な語り口に、お延もつり込まれる。だが際限がないのでしまいには何のために来たのか、用事を切り出させる。
用事。津田から貰うと約束をしていた外套の件。しかしお延は津田から何も聞いていない。
下女に電話で病院の津田に確認させる。
そのあいだ二人きりでしかたなく談話。だがそれがお延に意外な衝撃を与える。
八十二
津田は結婚してから人間が生まれ変わった、と小林は大袈裟なことを言う。
そこから小林自身が独身であるということについて話が移る。「僕だって朝鮮三界まで駆落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、済んだかもしれませんよ。実を言うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く言えば人間がないんだと言われるでしょうが」
〔※自分で自分を差別しはじめる小林。それによって他人全体を差別してやろうとでも言うかのような。登場人物間の差別意識という点でいうと小林はかなり特異な位置にいる。〕
お延は生まれて初めてこんな奇怪な人物を見るような気がする。気味が悪くなって話題を変える。
八十三
津田がだいぶ変わったという話に戻る。
小林は津田が変わった変わったと言うが、お延は腑に落ちない。どういう意味か?
小林は好い方に変わったという意味で言っているようだが、お延が感じている結婚以後の津田の変化──津田が自分を愛そうとせずにむしろ離れていっている──というのは、そういうものではない。
なので、小林の言う「変わった」を否定するお延。小林は笑い出し、いや、やはり変わったのだと言い張る。
小林は、お延は結婚前の、さらには初対面以前の津田のことを知らないから「変化」が分からないのだ、とまで言う。
八十四
話題は津田の過去にさかのぼっていこうとする……が、いざ聞こうとすると小林は肝心のところはぼかす。意味ありげににやにや笑うだけ。お延をじらしているのか?
お延は普段から小林を軽侮していた。それは津田の評価と自分の直覚を信用してのこと。さらに言えば、小林が貧乏であり社会的地位がないという点でも、無意識に侮蔑していた。だがそういう階級の人間に慣れないお延は、彼のことを不気味にも思っていた。今彼を目の前にしてもそう感じる。小林は単に貧乏だというだけでなく、自分の身分をわきまえずあえて横着に振る舞うというようなことをし、むやみに上流社会の悪態をつく。そんな人物にはお延は会ったことがなかった。相手はただの馬鹿ではなさそうだ。
〔※登場人物間に設定された微細な差別がさらにはっきりする。〕
「奥さんまだ色々残ってますよ。あなたの知りたい事がね」と小林は挑発する。
お延はその挑発には乗らない。
しかし下女が帰ってこないので小林の話に付き合わざるを得ない。
「どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
〔※お延は気付かないことだが、津田の過去ということで言えばやはり読者は「あの女」「あの事件」のことを連想せざるを得ない。それを小林は言おうとしているのか? 潜在するサスペンス。〕
小林の嫌らしい態度に感情を概して、自分の知りたいことがあろうがなかろうが構わない、と言い切るお延。
八十五
だが小林は皮肉の表情を隠さない。どうしたって知りたいはずだ、という優越の素振りを示す。
嫌悪感を抱いて小林とにらみ合いをするお延。
すると突然小林が話題を転じる。
「奥さん津田君が変わった例証として、是非あなたに聴かせなければならないことがあるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後回しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変わらないところを少しご参考までにお話しておきますよ。これは厭でも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。──どうです聴いて下さいますか」
「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。さっきからいうとおり津田君は大変変わりましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変わらないのです。これだけはいくら悧巧な奥さんの感化力でもどうする訳にもいかないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
「いや別に変わってもらいたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんのご尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、ご安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有り体に言えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
「しかしそりゃどうでもいいんです。もともとヤクザに生まれついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰も恨む訳にもいかないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたはご承知ですか」
「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるようなことを言ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせることができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な敵討ちができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでもみようと思うのです。それが僕の志願なのです」
「奥さんはさっきから僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分かるんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、何故僕がこんな厭な奴になったのか、その原因をご承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生まれてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分かりませんけれどもね」
自分に向けられた小林のこんな超絶的な僻み言を、お延はどう受け取っていいのか分からない。誰からでも愛されたいし誰からでも愛されるように仕向けてきたお延にとって、小林のような人間はまったく理解できない。
〔※登場人物間に設定された差別、ということを通り越して、理解の断絶。〕
八十六
小林はこれでも自分は天然自然だと開き直る。それでお延に嫌がられるのなら本望だと。
「僕は自分の小さな料簡から敵討ちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明してあげただけです。天がこんな人間になってひとを厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう言ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともないことをあなたに承認していただきたいのです。僕自身ははじめから無目的だということを知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされることがまた僕の本望かもしれません」
小林のロジックに翻弄されるお延。自分が嫌がらせをするのは世間やお延や津田のせいだと言わんばかりの詭弁。
〔※このロジックは『地下室の手記』の主人公の「おれがこんなになったのはおまえらのせいだ」というロジックを想起させる。他人に理不尽な負い目を負わせようとする言動は常識を遥かに超えた捨て身の弱さ=悪ゆえの強弁。差別するのも差別されるのもおまえのせい、というわけだ。不器用でねじれた詭弁。〕
八十七
下女が帰ってくる。下女は病院まで言っていたらしい。電話では取り次ぎが上手くいかなかったから。
茶の間の箪笥から問題の外套を出してくる。
小林は「思ったよりだいぶ汚れていますね」などと言う。
「お気に召さなければ、どうぞご遠慮なく」
「置いていけと仰るんですか」
「ええ」
しかし小林は外套を離さない。
小林はお延の目の前で外套に袖を通してみる。「どうですか」と言う。
畳みじわが目立って滑稽な後ろ姿だったが、お延はわざと逆を言う。「ちょうどよいようですね」。その姿を軽侮する人間が自分一人しかいないのを残念に思う。
すると小林がまたぐるりと向き直って、お延の前にどっさり胡座をかく。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を締めた。
「奥さんのような困ったことのない方にゃ、まだその意味が分からないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方がよいと思います」
小林は何も答えなかった。しかし突然言った。
「ありがとう。お陰でこの冬も生きていられます」
八十八
最後に捨て台詞を吐く小林。そんなに言うならあなたも他人から笑われないようにした方がいい。
余計なお世話だと思うが、また小林は津田の過去のことをちらつかせる。
お延は怒りを抑えつつ、小林に「早く帰って下さい」と言う。
しかし帰っていく後ろ姿を見て我慢ができなくなったお延は、また呼び止める。
そこまで挑発したからには、すべてを話す義務があるはずだ、そうでなければ無礼だ、と小林を非難する。
小林は平然として前言を取り消す。「僕は恥を恥と思わない男として、一旦言ったことを取り消すくらいは何でもありません。津田君に対する失言を取り消しましょう。そうしてあなたに謝りましょう。そうしたらいいでしょう」「僕はさっき奥さんに、人から笑われないようによく気をお付けになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意など受ける必要がないと言われました。それで僕もその後を話すことを遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。あわせて取り消します。その他もし奥さんの気に障ったことがあったら、すべて取り消します。みんな僕の失言です」
そうして小林は去る。
八十九
お延は津田の部屋にこもって泣く。
そして不意に疑惑の炎が胸に燃え上がって、津田の部屋を物色するが、何もない。津田宛ての手紙なども読んでみるが何も見つからない。
そこでふと、以前庭で一束の古手紙を燃やしていた津田の姿がお延の脳裏に浮かぶ。
下女が昼飯の催促をするまで、お延はそんなことを考えつづけてじっと坐り込んでいた。
九十
さっさと形ばかり食事を済ませるつもりのお延だが、下女が小林の訪問を聞いたときの津田の反応を話しはじめて、興味を持たざるを得なくなる。
津田はお延と小林が直に会話すること自体を嫌がっていたようだ。しかも何を話していたのかを知りたがったという。もちろん下女には答えようがなかった。お延は着替えているところだったのだから、玄関で応対できず座敷に通さざるを得なかったのだが、そういう事情についても津田は不服であるらしかった。
そして、津田は「小林が何を言っても決して取り合っちゃいけない、みんな嘘だと思え」とお延に伝えるように言ったという。
ちなみに、そのとき傍らに「堀の奥さま」=お秀もいたという。
九十一
津田の妹について、地の文で説明。まあお延の知っている情報の開示という赴きだが、お秀視点の記述もある。
彼女はお延より一つ年上で、結婚しており、もう二人の子持ち。夫は金に不自由しない道楽者で呑気で楽天的。妻のお秀にも大して執着していないようだが、それは早くも母としての自覚を持ったお秀も同様だった。器量望み(一つ年下のお延とくらべても若く見える)で貰われたお秀はお延ように自分が夫から愛されているかどうかなどに拘泥せず、さっさと人生の興味を夫から子供に移していた。精神においてはお秀の方がお延より老けていると言えたかもしれない。つまり早くも所帯染みていた。
ところで、そんなふうに所帯染みたお秀の視点から見ると、彼女は兄夫婦に対して不満があった。それは根底においてはお延という女──「誰からでも愛されたいし誰からでも愛されるように仕向けてきた」自負心の強い女──に対する反感であり、そんな女と結婚した兄に対する批判だった。この不満から、お秀はつねに京都の父母へ兄夫婦の批判を吹聴していた。彼女自身の内部では自分は正しいという良心が働いており、これは兄のためだという正当化もあった。自分自身の価値観を省みるようなところはなかった。
〔※ここで、お秀がお延の振る舞いに対してかねてより隠微な差別心を抱いていたということがあらわになる。差別心というか、お延の気性そのものに対する反感か。継子や叔母に対する振る舞いなどでお延がどういう気性なのか読者も分かっているので、この設定が説得力を持つ。〕
お秀がお延の電話を受けて、翌日病院へ兄の見舞いに出掛けたのは、下女の行く小一時間前、小林がちょうど訪問してきた時分だった。
九十二
(「四十四」以来の、津田視点へ切り替わる)
この日の朝、朝食を取ったあとうとうと半睡状態でいた津田のところへ、お秀はやってきた。
彼らは愛嬌を売り合うような兄妹ではなかった。互いに好く思われようなどという意識はとっくに捨てていた。今更社交のために上辺の手数を掛けるなどということは無意味だった。
といって、兄妹仲が悪いわけではなかった。しかしどこか彼らは調子の合わないところを持っていた。
病室の汚らしさにお秀は眉をひそめる。掃除の行き届いた自分の家から出掛けてきたのだからなおさら。
しかし自分の思っていることをすべて言い切らないお秀。
どうやら兄に少し話したいことがあるという。
九十三
ところで津田のお延への考えはというと、彼は籠の中の鳥のように彼女を取り扱うのは気の毒だと思っているはずなのだが、しかしお延が彼の好意に感謝して病床を離れるやいなや、彼はお延に不満を感じるのだった。お延が一日見舞いに来ず芝居を観に行ったそのあいだに、自分の病状は悪化したぞ、と駄々っ子のような当てつけを言いたいくらいだった。実際、彼は局部に痛みを感じていた。お秀を前にした今もその痛みを感じていた。
痛みを我慢しつつ、「一体お前の用というのは何だい」と訊く。
だが津田にもおおよその見当は付いていた。
九十四
要するにまた京都の実家から何か言ってきたのだった。
津田は自分から催促したくせにもう聞きたくないという顔をする。それがお秀には腹立たしい。
しかし月末の支払いや病院の入り費を考えると、お秀の知っていることに無関心でいられるはずはなかった。
お秀はいかにも兄に打ち勝ったような得意の色をほのめかすように見えた。それが津田には癪だった。器量が好いだけになおさら。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢する気なんだろう」と言ってやりたい気もある。
〔※登場人物間の微細な差別があらわになる。差別というか一時的な劣者の僻みに近いが。〕
「兄さんはお父さんが快く送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
お秀はもったいぶって嘆息する。
九十五
ようやく実家からの手紙の内容(お秀には主に母から消息が伝えられる)を伝えられる。父親は彼が思っている以上に怒っているらしい。今後送金そのものを見合わせるということすら言っているらしい。
お秀は「一体兄さんが約束通りに返済なさらないから悪いのよ」などと言うが、それは津田が最も聞きたくない言葉だった。そんなことを他人から教わる必要を認めなかった。
〔※もとから予告されていたことだが、登場人物間の微細な差別があらわに。津田の弱味につけ込んだ道徳的差別。津田にも自分が悪いと分かっているから憤懣やるかたない。〕
お秀は自分の夫にも迷惑が掛かっているなどと言う。というのも、勤倹一方の津田の父を口説いて、当面生計を補助してやることを取り決めたのは堀だったからだ。堀の方は呑気なものだったが、津田の父は堀をこの件の責任者扱いにした。
しかもその頃、津田の財力には不相応のはずの立派な指輪がお延の指に輝きはじめた。お秀はそれをめざとく見つけて、お延に媚びてその出所を聞き出した。自分が津田にどれだけ愛されているかお秀に示そうとしてお延はありのままを語った(津田が自分の細君に対する虚栄心から実家との約束をお延に打ち明けていなかったことが裏目に出た)。普段からお延を派手すぎる女として多少悪く見ていたお秀はその顛末を京都に報告した。生計の補助の償却が遂行されないまま、妻に高価な指輪を買い与えたというわけだ。しかもお秀はお延がわざと夫を唆して返される金を返さないようにさせたというふうな報告の仕方をした。それは彼女自身の誤解であり、虚偽報告ではなかったが、それがそのまま京都に伝わってしまったのだった。「従ってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田というよりもむしろ嫂のお延だと言った方が適切かもしれなかった。」
〔※登場人物間の微細な差別、とりわけお秀のお延に対する差別──「多少悪く見ていた」──が現実を誤認させてはからずも陰謀のように働いてしまうという、プロットの詭計。無意識の悪意というものの恐さ。〕
「一体嫂さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんどの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何も話しやしないんだもの」
「そう。じゃ嫂さんが一番気楽でいいわね」
芝居に行く前の晩に着物を質に入れようか、と言っていたお延の姿が津田の記憶にはあるので、お秀に同調しない。
九十六
「一体どうしたらいいんでしょう」などとお秀は津田に同情する口ぶりで、自分の立場(夫の
堀が責任者扱いされている)を嘆いてみせる。
津田はお秀に同調する気がまるで起こらない。その態度が、お秀には兄が新しく貰った細君のことばかり考えて、その細君を甘やかしているがゆえだというふうに受け取れる。
〔※登場人物間に設定された微細な差別と反感ゆえの、誤認。〕
しかし津田からすれば、「兄さんの困っているのは自業自得だ」と言われているようにしか感じない。
「津田はお秀の補助を受ける事を快く思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情を持っていなかった。その上夫や姑への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片付けていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。」
九十七
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと言うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同じことだがね」
「あら、嫂さんのことをあたし何とも言ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今更説明を伺わなくてもよく兄さんには分かってる。だからいいよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんなことができて」
お秀の兄を嘲るような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起こした。
「できなければ死ぬまでのことさ」
津田に取りうる一つの手段は、お延に今までの経済事情をすべて打ち明けて岡本家に援助してもらうことだった。しかしお延の岡本家に対する体面、またお延の自分に対する信用を突き崩すことを考えると、その手段には踏み切れなかった。実家には金が実際有り余る程あるのだ。それなのに、なぜわざわざ細君の前で自分をおとしめるようなことをしなければならないのか。
「できなければ死ぬまで」とは言ったが、その言葉通りの断乎たるものは腹になかった。お延に事情を打ち明けるのと、お秀から補助を受けるのと、どちらが苦痛でないか。後者の方か?
一方、お秀の方は兄が心から後悔していないのを飽き足らなく思っていた。さらには兄の背後にお延が澄まして控えているのを憎んだ。だから津田の窮状を理解しながらも、自分から積極的に援助しようという気にならなかった。
しかし津田の方でもみだりにお秀の前に頭を下げるわけにはいかなかった。器量望みで裕福な家に貰われた妹に、成り上がりものに近い臭みを彼は感じていた。それを侮蔑する厳めしい気分が彼にあった。
〔※登場人物間に張り巡らされた差別意識がそのまま、援助するかしないかという二人の強情と自尊心のせめぎ合いへ発展する。〕
この膠着状態が壊れたのは下女の闖入による。
九十八
だがそれより先に津田へは自宅から電話があった。津田はそれを昨日につづき今日も見舞いに来ないというお延の伝言かと早とちりして、不満に思い、電話を放置した。そのため下女が直に来ることになったわけだ。
下女は津田にとって予想外の報告をして帰っていった。
津田は驚かざるを得なかった。外套のことはどうでもいいが、それにかこつけてよく知りもしないお延にじかに会おうとする小林の魂胆が、不気味だった。小林が自棄になったら何をやり出すかしれない。普段から小林を軽蔑することにおいて何の容赦もしなかった自分が、そういう自棄的攻撃の的になる可能性は十分あった。
〔※登場人物間に設定された差別が下地となって、事件的な行動が連鎖していく。自棄的攻撃というのはナスターシャ・フィリポヴナみたいだな。〕
津田の不安は、お秀にはくだらないとしか思えなかった。お秀は小林のことをほとんど知らない。
九十九
しかし小林がお延に何を言ったかを気に掛けつづける津田を、お秀は不審に思いはじめる。何か特別な事情でもあるのか?
〔※また遠回しな触れ方だが、「あの女」「あの事件」に関するサスペンス。〕
「一体小林さんがどんな事をどんなふうに嫂さんに持ち掛けるって言うの」
津田は言を左右にして答えない。
小林が何を言おうと嫂さんが取り合わなければ何もないはずだ。一体兄は嫂さんのことをどう思っているのか?
しかし津田は問いをはぐらかす。自分の言ったことに深い意味はないと言う。
二人ともまた黙る。
百
しかし津田は当座の金の工面のためにお秀をそのまま帰すわけにはいかなかった。病院で飯を食っていかないか、と言う。お秀は承知する。
それでまた話がはじまるが、肝心のことには全然触れられない。お互いに相手の胸中を突き刺してやろうと機会を窺っているふう。
不意にお秀が言う。「兄さん、あたしここに持っていますよ。兄さんの入用のものを」
だが津田は取り合わない。その冷淡さは彼の自尊心に比例していた。
津田は妹に頭を下げるのはごめんだった。しかし、金は取りたかった。
逆に妹は金をやろうがやるまいがどうでもよかった。しかし、兄に頭を下げさせたかった。
〔※登場人物間に設定された微細な差別意識が、敵愾心をふくれあがらせ態度を冷淡にさせる。〕
結局、お秀が津田をじらすということが延々つづく。
津田は絶対に頭を下げようとしない。
「あたしが持って来たって言うのよ」
「僕をじらすためにかい、または僕にくれるためにかい」
お秀は涙ぐむ。しかし津田にはそれが悔し涙としか見えない。
なぜ兄は昔のように人の誠意を受け入れようとしないのか。兄が変わったからだ。嫂さんを貰ってから兄は変わった。とお秀は津田を感情的に責める。
百一
しかしそれは津田から見ればお秀の偏見だった。実際、津田はお秀が思っているほど「嫂さん」を重視していない。なぜ妹は津田が自分のためにやっていることをお延のためなどと解釈するのだろうか。
津田は腹の中で舌打ちした。「だからこいつに電話を掛けるなと、あれだけお延に注意したのに」
お秀は自分の指摘が兄にとって図星だと勘違いしてさらに攻めてくる。嫂さんと一緒になってたしかに兄さんは変わったのだ。
津田としてはそう思うなら好きにしろと答えるしかなかった。そして後悔の素振りは全然見せない。
お秀は津田が小林がお延に何を告げたかを気にするのは津田が嫂さんを恐れているからだ、とまで言い出す。ついこのあいだまで小林なんか鼻にも引っ掛けなかったのに、今日に限ってそんなに気にするのは、小林の相手が嫂さんだからだ。
津田は好きに解釈しろ、と冷笑する。
百二
苛立ちでお秀の態度も取りつく島がなくなる。「兄さんは私を妹と見做していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係することでなければ、私には兄さんの前で何もいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も言いません。しかし言わなくっても、眼はちゃんと付いています。知らないで言わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
しかし津田には妹の前で後悔してみせるなどという芝居じみた真似はできるはずもなかった。「そのくらいのことを敢えてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。従っていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、生温い表現を通して伝わるだけだった。」
〔※普段から相手を低く見ていて遠慮なくそれを外に出しているので、どういう態度を取っても今更軽蔑としか受け取られないという状況。登場人物間に設定された差別意識が完全に対話を支配している。〕
お秀はさらに攻める。今度は矛先を背後のお延ではなく、兄そのものに定めて、兄の人格について意見しはじめる。
「何を生意気なことを言うんだ。黙っていろ、何にも分かりもしないくせに」
津田の癇癪は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が分かるか。たかが女学校を卒業したくらいで、そんな言葉をおれの前で人並みに使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑なさるなら、ご注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。言うだけのことは言います。兄さんは嫂さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかもその怖がるのは──」
お秀がこう言いかけたとき、病室の襖がすうと開いて、蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
〔※これで津田自身、吉川夫人、叔母(藤井)、小林と遠回しに触れられてきた「あの女」「あの事件」のことにお秀も触れることになる。しかもそれをついに折悪くお延に聞かれる。「あの女=ほかにも大事にしている人」という津田の秘事を虚焦点にしたサスペンスの構築。〕
百三
少し時間を戻して、お延視点から。玄関の沓脱で女下駄を目にしたお延はショックを受けていた。小林の話で暗示を受けて、一体どんな女が津田を見舞いに来ているのかという疑念で頭がいっぱいになる。
津田の病室から感情的な声のやり取りが聞こえてくる。お延は足音を忍ばせて階段をのぼる。
階段の上がり口で女の方がお秀だと気付いて少し気が緩むが、「嫂さん」という言葉が聞こえてまた緊張する。二人は明らかに喧嘩をしていた。しかも自分もそこに絡んでいるらしかった。
前後の文脈が分からないので正確にどう自分が問題になっているかは分からなかったが、お秀の口から出てきた「兄さんは嫂さんより外にもまだ大事にしている人があるのだ」という言葉に、震え上がる。彼女はどうしてもその後を聞かなければならないはずだったが、しかし同時に、とても聞いてはいられなかった。したがって彼女は不体裁を承知で病室に入らざるを得なかった。
百四
津田とお秀はぴたりと黙った。その無言のなかには、もの凄まじい何かが潜んでいた。
津田の表情にはしまった、という不安と、助かった、という安堵があった。そこからお延は或る疑念についての確証を得た。しかし今はそれを無視してただ夫の半面に応じて振る舞うことをここへ来た目的としなければならない。
軽い挨拶。お秀はお延の指に輝いている指輪をやはり見逃さない。
お延はまず一通の手紙を懐中から出す。京都の父からのもの。内容はほとんど知れたもの。
「お延駄目だとさ」
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
お秀はそれ見たことかという態度を見せる。「あたしの言った通りでしょう」
百五
お延にはお秀に頭を下げたくない夫の気持ちが読めた。だが、それならなぜあれほどの激しい言い合いになっていたのかが不思議だった。平生の夫の沈着さからすればあり得ないことだった。そこに何があったのだろうか?
お延は喧嘩の相手を自分に引き受けようとする。京都の父親が怒るのも無理はない。もともとこちらが悪いのだ。などと言う。とにかく愛嬌を振りまく。無邪気に喧嘩の理由を尋ねる。
「兄さんはあたしたちが陰で、京都を突っついたと思ってるんですよ」
〔※或る意味事実だが。お秀の敵は実はお延だ。〕
「大方見せしめのためだろうよ。おれにはよく分からないけれども」
「何の見せしめなの?」
「なに兄さんが強情なんですよ」
百六
嫂に対して説明をしなければならない立場に追いつめられたお秀は、なおのこと、その嫂を憎んだ。このときほどお秀にお延の指にある宝石が光って見えたことはなかった。
〔※登場人物間の差別意識が鋭利になって、なんでもない科白さえ気に障るという現象が起きている。〕
お延は「あなた本当に強情よ。秀子さんの仰るとおりよ。その癖だけは是非おやめにならないといけませんわ」などと言うが、それがお秀にはますます空々しく映る。
「一体何が強情なんだ」
「そりゃあたしもよく分からないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも言っていやしないじゃないか」
「そうね。そんなこと仰るはずがないわね。また仰ったところで効き目がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく分からないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
馬鹿と言われたお延は却って心地好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなた何故あたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」
「素直にも義剛にも、取るにも取らないにも、お前の方で天から出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになると仰らないから、出せないんです」
「こっちから言えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取ってくださらなければ、あたしの方だって厭ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「分かってるじゃありませんか」
三人はしばらく黙っていた。
お秀は自分の立場を正当化するために言葉を尽くす。自分は兄夫婦に対して義務を尽くしているつもりだ。自分が京都を突っついたせいで送金が止まったなんて思われるのが厭だから今日は好意でその金をどうかしてあげようというつもりで来たのだ。しかし自分の心遣いは兄に全然通じていない。それが残念でならない。
お延は穏やかに、津田に向かって妹に親切にお礼を仰しゃいと言う。
津田はこれしきの金で恩に着せられるのはごめんだと言う。
恩に着せるなんて言ってないじゃないかとお秀が癇走って言う。
百七
この悶着にどう決着をつけたらいいのか。困り果てる三人。とくにお秀と津田は自分の強情を引っ込めることがもうできない。席を外すなんてことも無論できない。
ついに津田とお秀のあいだで以下のような問答が起こる。
「はじめから黙っていれば、それまでですけれども、一旦言い出しておきながら、持って来たものを渡さずにこのまま帰るのも心持ちが悪いですから、どうか取ってくださいよ。兄さん」
「置いていきたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取ってくださいな」
「一体どうすればお前の気に入るんだか、僕には分からないがね、だからその条件をもっと淡白に言っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが快く受け取ってくだされば、それでいいんです。つまり兄妹らしくしてくだされば、それでよいというだけです。それからお父さんに済まなかったと本気に一口おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもう済まなかったと言っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの言うのは、そんな形式的のお詫びじゃありません。心からの後悔です」
津田はたかがこれしきのことにと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫び様が空々しいとでも言うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えてもごらんな」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは言わないさ」
「それでお父さんに謝ったんでしょう」
「でなければ何も謝る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気が付かないんですか」
津田は口を閉じた。お秀はすぐのしかかっていった。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだってあげられないわ」
「じゃお止しよ。何も無理に貰おうとは言わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうと仰るじゃありませんか」
「いつ」
「さっきからそう言っていらっしゃるんです」
「言い掛かりを言うな、馬鹿」
「言い掛かりじゃありません。さっきから腹の中でそう言い続けに言ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡白でないから、それが口へ出して言えないんです」
津田は一種険しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪が輝いた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚かされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対のことを言った。
「お秀お前の言うとおりだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いていってくれ」
〔※強情が極まった果てに相手に対し一挙に言動が反転するが、全然それに心がこもっていないというのがありありと知れる。面白すぎる。〕
お秀の手先が怒りで震えた。両方の頬に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれがいっそう鮮やかだった。しかし彼女の言葉遣いだけはそれほど変わらなかった。怒りの中に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝いた眼をお延の上に注いだ。
「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああ仰るものですから、置いていってあげましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんのご随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だと仰るのね」
「ええ良人には絶対に必要かもしれませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別っこなのね」
「それでいて、ちっとも別っこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何まで一緒くたよ」
「だって──」
お延は皆まで言わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」
彼女はこう言いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。
〔※伏線回収。〕
百八
このお延の作為的な一手は、この場でお秀に自分たち夫婦が気脈が通じていることを示すためのものだった。だからこの機転に対し、津田がしっくり呼吸を合わせて、当然のように小切手を受け取るか、満足そうな笑顔で妻に礼を言うということをしてほしいと彼女は願った。
が、不幸にして津田は驚くばかりで、冷ややかにお延を詰問した。「こりゃ一体どうしたんだい」
「どうもしないわ。ただ要るからこしらえただけよ」
お延は冷や冷やして、お秀の前で夫婦の気脈の通じていないことが暴露されることを恐れた。
「たかがこのくらいのお金なんですもの、こしらえようと思えば、どこからでも出て来るわ」
普段から金をほしがりながらも金を珍重しない津田にとって、お延のその言葉は都合が良いものだった。しかしそれだからお延にお礼の一口も言わなかった。
お延は物足りなかった。自分たち夫婦が互いを頼りにしていることに比べれば、お秀のお節介などなにほどでもないというような態度を示してくれればいいのに、と腹の中で思う。
すると、不意にお秀が懐から紙入れを出して、「あたしの持って来たものをここへ置いて行きます」と言う。
お延は遠慮して断るが、そんなこと言わずに受け取ってくださいと言う。
津田はにやにや笑う。「妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。一体どっちが本当なんだい」
「どっちも本当です」
そう言い切ったお秀の態度には、悔しいとか無念だとかいう以上の何かがあるようだった。津田もお延も気圧される。
そしてお秀が言葉をつづける。
百九
さっきから言おうか止そうかと思っていたことを今こそ言ってしまう、と宣言するお秀。これは今までの話とは少し意味が違うから、今まで通りの態度で聞いてほしくない、とまで言う。
「少しゃ真面目に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
お秀の話は以下の通り。
前々から言おうと思っていたのだが、あなた方二人はご自分のことばかりかまけていて、自分たちさえよければいくら他人が困ろうが迷惑しようが、まるで取り合わずにいる。兄は自分を可愛がるだけで、嫂さんは兄さんに可愛がられるだけだ。妹のことも父も母もまったく眼中にないのだ。
(これは津田には痛くも痒くもない批評であり、お延には意外な批評だった。)
私はそういう二人の姿勢をもはや改めてもらおうなどとは思わない。そんな時期は過ぎてしまった。そしてその結果あなた方は決して他人の親切を受けることの出来ない人間になってしまったのだ。他人の親切に応じる資格を失ってしまったのだ。あなた方は、それでもかまわない、と居直っているのだろう。しかし私から見るとそれはあなた方にとってとんでもない不幸なのだ。人間らしく生きる能力を奪われたと同様に見えるのだ。
兄さんは、私の金は欲しいと言う。しかしこの金を出す私の親切は不要なのだろう。それがまさに非人間的なのだ。人間として断然間違っており大変不幸なのだ。しかも兄さんはその不幸に気付いていない。また、嫂さんも、私が持って来たお金を兄さんが受け取らないことを得意に思っている。さっきから貰わせまい貰わせまいとしている。私の親切を排斥しようとしているわけだ。嫂さんには妹の親切を受けるよりは自分の得意の方が何倍も大事なのだ。しかしその姿勢もまさに非人間的なのだ。
お延にはまったく納得のいかない批判。
百十
お延をさえぎってつづけるお秀。
私はなぜもっと早くこのお金を兄さんに渡さなかったのか? そして今になって何で差し出すのか? 私はこのお金で兄さんを人間らしくしたかったのだ。そのための出来るだけの努力をしたのだ。しかしそれは見事に失敗した。ことに嫂さんが来てからその失敗は目立ってきた。したがって私はもう妹としての兄さんに対する誠意を永久に放棄するほかはない。
(津田とお延からすれば、これは詭弁にしか聞こえない。)
私はこのお金をちゃんと紙に包んでいる。当然渡すつもりで家から用意してきた金だ。しかもこれは夫とは関係ないお金だ。京都で責任者扱いされている夫からのお金では兄さんも快く受け取れないだろうから、私自身のお金を持ってきたのだ。これが親切というものだ。しかし兄さんが人間らしくしないから、私はこの親切を親切とは無縁にここに置いて行くほかなくなった。さあ、私の親切は受け取れなくても、お金は受け取れるだろう。もはやお礼を言われるよりも黙って受け取ってくれる方がいい。もう兄さんは問題ではない。私だけの問題だ。私のためにこれをここに置いて行く。
これだけ言ってお秀は立ち去る。
百十一
- 書誌情報:夏目漱石、『明暗』、新潮文庫、1987年
トップページに戻る