:「感情教育」の美学
- 「感情教育」は、「ボヴァリィ夫人」によってその十全な表現を見出しうるような小説美学の文脈において、判断を受け、評価されてきた。
- しかし、「感情教育」は「ボヴァリィ」とは全く異質な美学によって書かれた作品である。
- 「ボヴァリィ」……「現在」の美学、現実世界の再体験・リアリズムという小説の力
- 「感情教育」……文体それ自身、書く行為そのものによって、「現在」という、あらゆる近代的イデオロギィの住まう処を解体し、従来の「文学的創造」についての概念に再考を迫り、近代から現代へ、その閾を超える試み
:細部の発見と文体の創造
- 細部を、その書くべき対象から、世界からいかにして引きだすかという問題は、文体の創造と密着して文学入門者にとっての大きな課題である。あらかじめの意味体系や先入見に縛られた世界を多様性へ開くことは、一つ一つの細部を通してしか行なわれ得ず、その時にいかに豊かで変化に富んだ細部を世界から、描写の対象から引き出し得るかが、作家の文体的努力となる。ただの物として存在している対象にどうやってエクリチュールを絡みつかせてゆくか。
- この細部を用いての、エクリチュールによる世界の再現という奇蹟がどのようになしうるかという青年作家の問いは、通常、先行作家のテキストに対する参照を要請することになる。
- このような事態は、作家フローベールの第一作としての「野をこえ、磯をこえ」においても変わることはないし、それどころか、幾つかのあからさまな書き写しの指摘すらなしうる。
- そして、フローベールの、半ば偏執的で、その生涯ついてまわる資料への執着は、細部の生産に奉仕するためになされるのであり、文体的必要に要請されているのである。
- ナントの博物館で、「夫人の肖像」をメリメにならって、その細部の引き出しを借りながら定着する時そこにはフローベールとしての独自性はどこにもないように思える。しかし作家の独自性とは、先行作家や資料から取り出した細部を、自らの、独特の秩序の中に定着し変性することにこそあるのではないだろうか。
- 獲得された細部をあらかじめ存在する体系や意味作用から解き放ち、新しい多様性のうちに定着することが、文体の創造なのである。
- 「聖アントワーヌ」が、その光輝と共に一人の作家の誕生を告げているとしたならば、それは何よりも作品の中で、書く事を通じての世界との新たな関係の結び直しがまさに行なわれつつあるからだ。
- フローベールの作家としての自己確立は、多用な細部の生産と、そしてその細部の、一面性や平板さから逃れた、多様性と異質性を保持しうるパースペクティヴにおける呈示として考察できる。
- そしてそのようなパースペクティヴはフローベールに二重の解放をもたらした。
- 第一には青年作家フローベールの、個人としての成り立ちそのもの、自己同一性を具えた主体としてのあり方からの脱出である。フローベール個人の様々な境遇的な状況、例えば野心の成就を望んだり、他のあるべき姿に自らを投影したりする閉塞からの脱出。
- それは自然への、空間への発散、汎神論的恍惚として、テキストのうちに再現的に表現される。
- この解放における第二の側面は、テクスト上に観察される。様々な読書体験によって獲得された先行する文学作品や、習作を通じて自ら書くことで身につけてしまった紋切り型、意味形成やドラマ、メッセージの結節点としての「私」からの解放としての文体の創造、独自のスタイルとしての、細部の再配置、世界の再構成である。
:熟視=言語によって細部を作りだすこと
- 汎神論的恍惚(Pantheisme feeling)は、「聖アントワーヌ」において感触、嗅覚、呼吸、視覚、聴覚、そして意識における想念によって、対面し、その中に或る世界との結びつきが生みだされるのだが、そのような五感の中でも、卓越した位置を占めているのが視覚である。
- フローベール自身が、このような恍惚を、「熟視によって心が溢れだして行く事」と名づけているのであり、この一語は、様々な哲学的呼称以上に、「アントワーヌ」の性格を規定している。
- もしも、フローベールのリアリズムが存在するとしたなら、その「外科医のメス」のような現実把握とは、このような熟視の中で、自明性を奪われた、迫り来るような現実感を細部として取り出し定着することに他ならないだろう。
- 自我が、熟視によって失われ、噴出し、その倦怠に疲れた生活を動揺させる、現実の、世界の細部としての怪物があふれだす。その世界はもはやかつて自我と対峙していた世界ではなく、「視線に引きつけられ」た、破裂した自我にとって代られた世界であり、そしてそのような「私」の消滅とは、すなわちテクスト平面における、あらゆる紋切り型、文学的記憶からの、文体の発生に他ならない。
- ブルターニュの片隅で海岸を歩くフローベールをおそった恍惚と、自室に戻りついたフローベールがテクストの上で展開している恍惚は、同じものであると同時に、同一の場所において経験されたものではもちろんない。
- では熟視による恍惚、と言われる熟視とは、何を「見る」ことなのだろうか。このような疑問は、小説等の、作者が現実に対峙したことのある世界を参照可能な形で持っていない虚構について、熟視の概念を展開してゆく時に、より本格的なものとしてあらわれてくる事になる。
- 虚構の中で熟視の経験について考える時、それは作者フローベールの、言語による細部の生産の努力と、その再編成という“視る”ことに他ならず、この熟視の“いま”と“ここ”は、書かれつつあるテクストの上にしかないことになる。極限すれば、現実には全く恍惚を味会わず、何の感動も受けなかったとしても、それを様々な細部を記憶や資料から取り出しつつ、その書きつつあるという行為の中で「私」を、それまでの個人としてのフローベールを離れて、細部の立ち騒ぐ渾沌を作り出し、恍惚をテクスト上に展開することもできるだろう。
- この時熟視とは、その作家的苦闘の中で書く事以外の何ものでもない。それはまた、書くという行為が、単に様々な情報の呈示や伝達、或いは再現といった参照対象をもった営為(何らかの“内容”を書く)から、書くという事がいずれの対象に対して差し向けられた行為ではもはやなくなり、その中であらゆる言語や文学の必要や探求のためのみに繰り広げられる、書く事の経験、書く事によって学び、自らが書いたテキストを読み、また書く試みに向う、書くという行為の経験そのものに変わってゆくことに他ならない。
- 「ボヴァリィ」冒頭のシャルルの帽子の描写は、従兄ポンスの冒頭における奇妙なジャケットといった現実の風俗に対する参照や、そこから生じる読者の了解といった一連の指向とは全く異質なもの、別個のものである。その描写は了解とは異なった存在感を与える。現実のイマージュや、すでに見たことのある参照の対象を喚起することなしに、否み難い、分厚い存在感を持ち、様々な細部が列記された呼称の間をさまよいながら、統一された自明性を持たず、単なる“帽子”という名称によって作り出されるような了解とは無縁に、事物の当たり前さをはぎ取り、目の前につきつけるようなこの描写こそが、小説作品においてフローベールが行なった“熟視”ともいうべきではないだろうか。
- ここでは熟視は、世界の中の参照可能な対象に視線を集めることではなく、言語によって細部を作りだし、あるいは名付け、分析してゆくうちに、そこに当然あるべき指向対象や意味作用、風俗や伝達のコードからはずれ、そしてそのような逸脱によって不気味な存在感、現前性を獲得することである。
- もちろんそれは、「野をこえ」や「アントワーヌ」の恍惚と無縁ではない。しかし小説の中で機能している熟視は、より言語に、書く行為にその本質を重ね合わせて、「私」を強く圧殺する方向にむかっており、そしてこのような自明性、世界性の喪失は、現実──日常において生活の中でやりすごされ、流れてゆく現実ではなく、生き生きとした強度によってまとわれた現実をこそ呈示する。
:近代的リアリズムと現象学的還元
- このようなフローベール的な描写の力を、様々な現象学的なアプローチと関係づけて考察することで「生き生きとした現在」として呼ぶことも可能であると思われる。なぜなら、このような“瞬間”は、つまるところ、そこにおいて“目くるめき”を、“いま”“ここ”で味わることの“現在”の他ならないからであり、認識されることなく均質に流れてゆく時間のなかに突き出た、生々しい、“現在”の経験に他ならないからである。
- すなわち、描写が、そこに言語によって描きだされてゆく情景や事物の、全体像や統一とは関わりなく、そこに何かがあるという、命名以前の現前性が渾沌を生み出し、それはもはや描写の対象とは無縁に、何よりもそこで何かがまきおこりつつあるという体験であり、その現在を生き生きと体験することによって描写の世界との参照による了解の助けによることなく、テクストそれ自体を読者にとっての“経験”として成立させるような、生き生きとした現在のあらわれを、「私」や様々なコードからの解放を可能にする(現象学的)還元の現在と重ねあわせてみること。
- フローベール以前の小説が経験したことのない細部の配置によって、「ボヴァリィ」の情景は一種の解体を受け、断片化し、あらかじめ意味を持たせられることも、ドラマの部分としてはめこまれることもないまま、読者によって経験される。
- ここでフッサールの「生き生きとした現在」を持ち出すに至ったのは、ジャック・デリダからの大きな示唆によっている。リアリズムにおける、描写や文体の努力が一貫して現実の再現を目指してきた時に、最終的には「表現と意義作用との純粋な機能は、伝達すること、通知すること、告知すること、すなわち指標することにあるのではなく」、「それら(再現の)作用が《同じ瞬間にわれわれによって体験される》」(『声と現象』)ことにあるのであるから、究極的なリアリズムの到達は、この作用の、経験の瞬間としての「生き生きとした現在」を「同じ瞬間にわれわれによって体験させる」ことに他ならなくなる。これが「ボヴァリィ」における経験そのものとしての文体が達成したところのものである。細部を決して統一された秩序にはめこまず、そのままの在り方で、整理しえない渾沌として呈示し、この現在を作品の中に持ち込むこと。
- ついでに附記するならば、「生き生きとした現在」における文体の生成、従来の文学的コードや紋切り型等の交錯の中での還元としての独自性の創造こそ、近代に捉え込まれたイデオロギィに他ならない。
- つまり、フローベールの「没我主義」とは、フローベール的描写の達成としての「生き生きとした現在」による、透明な語りの主体の確立に他ならず、またこのような“作者”の成立によってこそ、虚構空間が、小説が成り立つのである。
- 個人から透明な語りの主体への移行こそが、従来の文学作品や紋切り型の結節点としての「私」からの脱出に他ならず、エクリチュールの「現在」としての「生き生きした現在」が、文体の創造を可能にした。
- このような強力な“現在”の現前は、「ボヴァリィ」においては恍惚(Pantheisme feeling)や官能的高揚のみならず、エンマの痛ましい倦怠としても現われる。毎日のエンマの、逃れ難く閉ざされた牢獄としての現在と、彼女に訪れる目くるめきとしての現在。フローベールは両者を、視覚や聴覚を通しての細部が様々な様相の下に立ち現れる“現在”のうちに克明に描き出す。
- 言うならば「ボヴァリィ」は、倦怠から官能へ、また官能から倦怠への、“現在”と“現在”、描写から描写への往復運動として構成されており、描写以外のエピソードや来歴の説明、会話や分析は、このような現在の立ちあらわれを準備するロマネスクな要素として扱われる。
- このようなアイディアをより主題的に、標題的に実現したものが、「無意識的回想」から「無意識的回想」へ、様々な感覚の経験を通してロマネスクな細部を展開する「失われた時を求めて」であると言える。
- フローベールが、「ただ文章だけ」で出来た、「何もない」小説を目ざしながら、「なやまされるのは、筋のからくりや効果の工夫を考えること、いろいろ設計を立てて頭をなやますことだ。しかも、こうしたこともやはり芸術なのだ。文体の効果もまったくこれに依存しているのだから」と言うときに、これらの「設計」、「筋のからくりや効果の工夫」こそが、ロマネスクな要素に他ならない。
- 言い換えれば、小説とは、フロベールにとってはまさに、「設計を立てる」ことによる描写の強化、描写の純粋化に他ならない。
- 「ボヴァリィ」のような小説作品においてこそ、作家は透明な語りの主体へと身を移すことが可能になり、書く事の経験そのものをテクストに「現在」としてあらわすことが可能になるのである。
- 事情や条件のロマネスクな集積の後に、(時間に支配された)ゴリオの死やジュリアンの発砲が現れる従来の小説に対して、「ボヴァリィ夫人」は「現在」という時間性の小説なのであり、ロマネスクな要素に支えられて「描写」があらわれる、「生き生きとした現在」の経験にむけられている小説なのだ。
- 「ボヴァリィ夫人」は、描写の現在性と客観主義が相互に強く結びつき、その緻密な関係において、両者が互いに純粋なものとなった、現在=没我主義の傑作である。
- 今後の、フローベールの小説作品、そして文体は、この紐帯を解消、あるいはより稀薄なものにしようと試みることにより、その差異とずれの多様性を含んだ経験に到達しようとすることになる。
- そしてまた、書く事自体の「現在」、作家の確立としての透明な語りの主体発生の「現在」、細部の独自な配置としての文体創造の「現在」、言語がその細部の渾沌としてたわむれあう世界の中心点としての「現在」、言語がそこに刻みこまれ、その熱や光彩を描き出す肉体としての「現在」、読者の“共感”の拠りどころとなる「現在」、小説の物語のうえでの「現在」、フローベールの文体的営為を支え、その一貫性を保証してきた「現在」──それらが一致している「ボヴァリィ」の構成は、近代小説のある意味での完成と呼ぶべきであり、この「没我主義」の克服は、一つの近代性の超越に直面せざるを得ないだろう。
:fataliteの小説のヘーゲル=フロイト的経験
- 「感情教育」における没我主義のあり方を、その不断の回想による現在の侵犯から考察してみると、フレデリックの抱いている回顧的心性が、また(透明な語りの主体の)叙述のうちにも浸透しているのではないか、という仮説が得られる。
- 「感情教育」の叙述は、例えば「ボヴァリィ夫人」における登場人物の視点借用とはまったく異なった仕方で、強くフレデリックの意識と関係している。つまり、回顧的心性と描写の一種の共犯関係──フレデリックの意識の展開と世界のあらわれを同一の運動性の中ではたらかせてゆくこと。
- また「船はいつでも停まることができるのだ。二人は下りさえすればいい。だが、この何でもないことが、じつは太陽を動かすくらいに難しいのだ!」という無力感と不可能性が主人公の意識を取りひしいでいることは、過去という、すでに生起し、時間の経過の中で取りかえしのつかない事柄として決定されてしまっている、時間性の持っている性格に、フレデリックが強く支配を受けていることの結果である。
- この“過去”、回想における過去は、歴史の過去とは全く異質である。歴史の過去は、因果性によって現在と関係づけられ、常に現在から何らかのパースペクティヴによって見透かされ、現在によって決定される。それに対して、回想の過去は、現在に侵入し、現在に介入することで現在を変質させるのである。
- このような回想の過去の特質は、今一度fatalite(致命的な因縁・宿命)の小説の、その結末を感情教育のそれと比較することで際立たせることができる。
- 「赤と黒」において、ジュリアンがレーナル夫人との最期の逢瀬で見せるのは、強烈な自意識、自己認識を通じて自分であろうとする欲求の厳しさである。スタンダールにとって偽善は幸福の最大の敵なのだ。
- ジュリアンとレーナル夫人の会話によってジュリアンの経験は完成する。それは野心の達成は幸福の到来をもたらさず、その野心に汲々としながら、田舎ブルジョワの家庭教師をして夫人と会っていた時が一番幸福であったという認識であり、「未来」の敗北と現在の勝利である。
- それは、意識の、知と対象についての弁証法であり、また自分こそが罪人であったと認識する、自分の欲望と挫折を自ら認めるオイディプスの、ヘーゲル=フロイト的経験なのである。
- 同様の、小説的自意識とも言うべきものを、凄惨なエンマの死の描写に見出すことができる。
- それに比して、フレデリックは、その生涯を支配した恋の最期の場面において、幻想を傷つけないよう幾つもの嘘をつくのである。あたかも、ジュリアンにとって肝要であった“真実”が、フレデリックにおいては虚偽にとって代り、虚偽こそが幸福を保証しているかのようのである。
- フレデリックもアルヌー夫人も自分達を見つめようとはしない。むしろ、いかにして巧妙に自分達の姿から目をそらし、一編の虚偽を作り上げるのかということに、その情熱は傾けられているようである。しかし、そのような努力の中で、フレデリックが欲望に負けてしまい、アルヌー夫人を抱いたなら、いやでも最終的なものに直面し、彼の生涯の“結果”を認識せざるを得なくなったかもしれない。しかし、彼は抱かないのであり、それによって夫人との恋を幻想の中に塗りこめることに成功する。
- このようにして、虚偽として、糊塗としてあらわれる自己認識は、真の経験、自らの乗り越えを形成しない。真の経験が、未来の敗北(それはまた、何らかの目的のために現在を犠牲にすることが、即自性に敗北するということである)と現在の勝利を宣するのに対して、虚偽の経験は、過去の、思い出される回想の過去の優位を証立てるのである。
:エクリチュールの時間的構成・現在
- 「感情教育」における「現在」の解体は、二つの側面を指摘できる。
- 第一は、回想の“過去”による現在の侵犯。
- 第二は、行動や反省を可能ならしめる見晴らしの良さを持った現在の成立の不可能。
- そしてその双方において、フレデリックの意識と、小説の地の文、描写や叙述の、“没我主義”にはあるまじき共犯関係、相互浸透が観察された。
- ではそのような現在の解体は、エクリチュールの、フローベールが書く行為自体の現在に、どう影響するのだろうか。
- 「ボヴァリィ」においては、文体の行なう、細部の撹拌運動が、生々しい渾沌として書く行為の現在をテクスト上に顕在させた。
- だが「感情教育」においては、様々な細部がめくるめくような運動を行なう「撹拌」の挙作は、叙述そのものが見つけ出し展開してゆく運動ではなくて、つまり文体そのものの運動ではなくて、夢想し、眺め、注視する主体であるフレデリックを媒体として現れている。「感情教育」において「生き生きした現在」が引き出されるのは、常にフレデリックを通してであり、話者の叙述や描写が直接そこに到達することはない。
- 「感情教育」において、叙述と、描写の様々な位置から、どのように現在があらわれるのか。
- 「感情教育」において「現在」を作り出しているのは、文体の運動ではなく、叙述や描写、そして会話を、様々な長さの段落にもりこみ、それをつらねることで、過去を喚起し、或いは夢想を引き出し、多くの事情やエピソードを提供し、目の前で会話を行ない、事物や光景を描写して、意識の加速ともいうべきものを操作することで、フレデリックの(読者の)意識に、受動性と受容性を芽生えさせる、リズムとでも言うべきものではないだろうか。
- こういったリズムを考えるうえで、段落の果たす役割は極めて大きい。というのは、その長さや構成が、テクストのリズムに大きな影響を与えているということである。
- 「ボヴァリィ夫人」の、細部の渾沌とした運動そのものとして対象をそのまま経験させるような、文体の「生き生きとした現在」に対応する形で、「感情教育」における、エクリチュールの時間的構成、“現在”を、段落のリズムによる幻想の効果、特に、「と、それは一つの幻のようであった。」に代表されるような“一行”の文章に見出せるのではないか。
- その“一行”は「生き生きとした現在」とは異なり、いかなる客観的対象も描き出さず、幻想を吹き込む、不意打ちとしての現在を提出する。
- この一行によって示される現在は、極めて写真と似通っている。写真は、現実を、映像として、瞬間に、切り取られた、延長を持たない一点に作りかえる。あたかもその凝固したイマージュは(錯覚として)あたかもその姿が、彼がそうである生の、賭けられた不易の一瞬であるかのように思わせる。
- あらゆる細部を取捨選択されることもなく、またパースペクティヴによって整えられ調子をとけられたものでもない反映が、あらゆる人間の手を加えられず、技術によって“制作”の遅延を経ずに(真実には、絶対にその遅延は存在するのだが、無いと錯覚されて)あらわれるために、“真実”の像と信じ込まれる。
- また写真の特性は、その瞬間に対する過誤と同様に、またそれによって過去を、かつてこのようであったという事をイマージュとして、そのままに呈示する。この過去は現在からのパースペクティヴによって構成される歴史とは何の関係もないし、どちらかと言えば反対物である。
- 写真は、単なる像を真実であると信じ込ませ、固形化した“過去”を示し、それを受け入れさせようすることでかきたて、視る者が生きている持続としての時間を、瞬間化することで、“過去”そのものに変えようとする。
- このような事情は、プルーストの「失われた時を求めて」とロラン・バルトの遺著「明るい部屋」を比較するだけで理解できる。
- 「心の間歇」の中で、編み上げ靴を結ぶべくかがんだ主人公の身に襲う祖母の死は、過去の現在に対するよみがえりとして、強く祖母の思い出をかきたてて、主人公を苦しめる。この無意識的回想は、現在における、過去の生々しい回帰として主人公の身にこうむられるのであり、それは一種の「経験」として、主人公の生存にふりかかるのであるが、その「経験」がおこるのは、この「現在」に他ならず、それはまた現在における生々しい経験なのである。
- 対して「明るい部屋」のバルトは、母の死亡直後、まだ自分を生む前の母の娘時代の写真を眺める。それは自分の知らない母の面影であり、そのイマージュは決して彼に生々しいなつかしさや悲しみの感情をもたらさない。ただそれを「愛する」だけであり、この写真は彼に、かつての母が“こうであった”という姿を、その時間の空溝や彼の無知、母の不在を超えて呈示することで、彼の現在を、今この写真を眺めているという現在を変質させる。
- 写真は、生々しい経験として過去を現在によみがえらせるのではなく、不思議な魅力と共に過去を現在にふきこみ連続させるのである。
- この連続が写真の時間特性であり、「感情教育」のパリの時間なのである。
- フローベールが「ボヴァリィ夫人」で達成した、エクリチュールの「現在」(世界と書く主体の言語を通しての接触の経験の現在と、小説の物語的側面の現在の一致)は、「感情教育」では強い解体を受けている。
- 物語の側面では、回想によって過去が侵入することで、主人公が正確な認識や決然とした行動を示し得ないという形で行なわれ、また描写の側面では、従来の細部の運動の経験としての現在に代って、様々な段落のリズムを使用することで読者の受容性を喚起しつつ幻想を吹き込む、写真的現在となることで真正な現在と微妙なずれを起している。
- そして、この現在の毀損には両方の側面においてフレデリックと叙述の共犯によって行なわれているのである。ここにおいて、透明な語りの主体の解体が、また小説の現在の解体と密接に結びついている事を認めざるを得ない。
- フローベールは「感情教育」において、Patheisme feeling(言語と世界の渾沌における一体感のもたらす恍惚)に取って代る新しい感覚を作り出した。それが、フレデリックという主人公を把える、文体の写真装置を通して味わわれる「あらわれ」の、幻影の甘美さであり、回想の過去の輝かしさなのである。
- そして、今まで見てきた通り、アルヌー夫人の魅力はいささかも実在の彼女、客観的に描き出された彼女のものではなく、段落や視点の移動によって、そのあらわれをフレデリックの意識に吹き込み、そしてその時にはフレデリックの意識が読者の意識と重なるようにした文体の努力にすべてを帰すべきなのであるから、ここでの恍惚は、実際の世界には全く依らない、全く文学的な魅力なのであり、それが何ものかの再現でもなく、そして段落の様々なリズムそれ自体が一種の効果として恍惚への過程であり、それはもはや再現や分析でなく「文体の効果」だけの小説なのである。
- すでにフローベールの残した取材ノートから、「感情教育」のどのような細部にもその参照対象としての“事実”が存在していることが証明されている。つまりフローベールのおこなった創作行為とは、シナリオと、それらのノートを彼の文体に流し込むことにすぎないのであり、文体だけがここではフローベールの創作とも呼べる行為になっている。
- 翻って、最初期からつづいたフローベールの、調査、事実の集積への執拗な密着は、彼にとってその創作行為を文体の創出のみに限定し、書く事を文体の努力そのものと変えるための手段だったのである。
:文体の夢
- このようにして、「感情教育」における文体努力の純粋化の過程を考察してきた時、非常に不気味な事実として浮び上がってくるのは、ここにおいてフローベールの遂行している行為は、いかなる形にしろ一つの経験を創りあげようとしていた「ボヴァリィ」はもちろん、従来考えられていた創造、作品の制作という行為の範疇から大きくはずれてしまっているということだ。
- 或る側面から言えば、フローベールは何も作ってはいない。作品の出来事には参照の、裏付けの目録がつきまとい、あらゆる人物にはモデルが確実に存在している時に、一体何をフローベールが“創造”したと言い得るのか。そのように隅から隅まで調査することができる時代として、自分が生き、生活をし、その場にいた時代が舞台として、そもそも選ばれているのならば。
- この事はまた、幾度となく指摘してきた「感情教育」の中における偶然の偏在についても説明してくれるように思われる。フローベールは物語を作ることを拒否したために、出来事の原因と結果を結ぶことを放棄し、あらゆる事件が“偶然”としてしか生起し得なくなった。一つの出来事に結果としての性格を賦与し、原因を反省し、両者の間に筋道をつけることは、物語をきちんと創りあげることに他ならないのだから。
- この制作の不在は、写真の類似とも呼応する。つまり写真にはテクノロジィによって「創作」行為がない。
- 写真家にとっては、いつ、どこで、何を写すかという点にしか表現の可能性は残っていず、換言するならば、いかなる位置に自らの身を置くか、という選択にしか表現たりうる可能性が存在しないのである。
- 「創造行為」の不在から来る写真の透明さがまた、現代芸術論の中における、写真批評の優位を保証している。他のメディアは、(映画すら)一度破壊か不毛の認識に到達しなければ「創造の不在」に立ち会うことが出来ないが、写真はそのままで創造の不在を露呈している。
- そして、このような創作の不在、創造行為の変化は、作品と作者の関係をも全く別なものにしてしまった。このことは、自伝性としての、作者と作品の密着であると共に、没我主義の崩壊という、テクストと作者の関係の変化としてあらわれる。
- 「ボヴァリィ夫人」において、没我主義、作品と作者、テクストと語りの主体を厳しく峻別しその間を分つことは、「48年以後」の、神なき世界において、「天啓」を欠きながらも、なんとか創造行為を行なうこと、つまり表現の内容を提出するのではなく、表現行為そのものを経験させるという、「生き生きとした現在」の創出と不可分だった。
- しかしフローベールはさらに普遍的な問いに向う。つまり、創造の敗滅の後にいかなる文学が、芸術が可能であるのか。彼の理想は、作らない事における創造につきまとわれていたのだ。
- この「創作」の不在によって、作者は、作家の実人生と切り離すことができず、また、透明な語りの主体たりえなくなり(フレデリックとの一致)、同様にまた「現実」の性質も変わらざるを得なくなったのだ。
- 「ボヴァリィ」の中では「現在」が制作のあらゆる側面を保証していた。
- しかし「制作」がなくなった後の「感情教育」においては、「現在」もまた日常生活の時間と同じく、意識されることなく流れてゆく厖大な“今”の一つにすぎなくなり、またよるべなき意識の勝手な連接によって、つねに過去と入り混じってしまうのである。
- 「感情教育」は、表現行為の自己認識において、近代の枠を越え、「創造」の不可能と直面しなければ何一つ生み出すことのできない「現代」の芸術家達の意識と結びつく。
- 「作ること」の絶望として、「現実(自分の生きた時代)」の大幅な侵入を作品の中に許容した結果、フローベールはより強い幻想を、いかなる幻滅(主人公が現実世界と軋みをたてて接触し、その中で強い現実認識と自己認識を得ること)によっても失われない夢を「創り」出した。その夢とは、「文体」の夢であり、「文体」そのものである。
- 偶然を受け入れ、「現在」の不在を学び、「経験」すら成立しないことに耐えながら、そのような「物語」性、「現在」性の解体そのものとしての「文体の効果」が、そのような夢想を可能にしている。