1:言語学の問題としての失語症
- 失語症が言語の障害であることからして、失語症の症状の記述はその異常性において言語のどの側面がそこなわれるのかという問題から出発する。失語症の諸事実の解釈と分析は、言語の科学に大いに貢献すると思われる。最近になって小児の言語の詳細な観察に匹敵するような研究が、失語症患者についても行われるようになり、そこから、失語症的退行は、小児の言語音声習得の鏡像をなすことがわかってきた。つまり小児の発達を逆の順序で示すのだ。
2:言語の二重性格
- 発話には、一定の言語単位の「選択」と、それらをより複雑で高度な言語単位にまとめる「統合」の、二つの側面がある。語彙のレベルで言えば、発話の際に話し手は語を選択するということと、それを自分の用いる言語の文法にしたがって文に統合するということを同時に行なっている。とはいえ、話し手は語の選択において完全な自由を持っているわけではなく、自分と相手とが共有している語彙の貯蔵庫からこれを選ばなければならない。本当の新造語という稀な場合を除き、利用できるあらゆる可能性は共通のコードによって網羅済みである。語から文を作るに際しては、常套句の圧力はあるけれども、話し手はそれほどには制約されていない。そして文を結合してさらに長い文章を作る場合には、新しい脈絡を作る個々の話し手の自由は大幅に増加する。
言語記号はいずれも、「統合」と「選択」の二つの配列様式を含む。受信者は、与えられた発話が、構成部分(単語)の統合であり、構成部分は、あらゆる可能な構成部分の貯蔵庫から選択されたものであることを知覚する。統合される脈絡の諸構成要素は「隣接 contiguity」の状態にあるが、選択される代置集合の構成要素は、類義語の等価性から反義語の共通核に至るまでのあいだで揺れ動く、いろいろな程度の「相似性 similarity」によってつながれている。
3:相似性の異常
- 失語症は言語単位の統合と選択に関する個人の能力をいろいろな程度に冒す。H・ヘッドは失語症の症例を明確な類別に分類することを試みた。彼にしたがうと、失語症には二つの基礎的なタイプがある──主たる欠如が選択と代置にあり、統合と結構のほうは比較的安定しているか、あるいは逆に主たる欠如が統合と結構にあり、正常な選択と代置とが比較的保持されているか、である。
第一のタイプ(選択力の欠如)の失語症患者にとっては、発話の脈絡だけが前景化する。このような患者は、会話相手がいれば──相手が会話の脈絡を与えてくれるならば、自分も話を続けていくことができるが、相手からのきっかけもなく、実際の場面に対する反応でもない文は、発話ができない。語や文の断片を与えられると、彼はたちどころにそれを完成することができるが、他方、ひとりごとのような閉じた談話を行うこと、あるいはそれを理解することさえ、彼にとっては困難である。
文章においては、一つの語が同じ文の他の語に依存していたり、文法的脈絡に関係していたりすればするほど、彼のなかでその語が失語症から影響を受ける度合いが少ない。反面、主語は省かれる傾向がある。それらは、実際上または層状上の対話の相手から受け取る、先行文から供与される脈絡に呼応し後続する非常に一般的な名詞、「(何とかという)やつ」、「もの」で置き換えられたりする。また、代名詞や代名詞的副詞のようにもともと脈絡を参照する語や、接続語や助動詞のように脈絡を構成するためだけに役立つ語は、生き残る傾向が特にある。あるドイツ人患者の典型的な発話が例証になるだろう。「Ich bin doch hire unten, na wenn ich gewesen bin ich wees nicht, we das, nu wenn ich, ob das nun doch, noch ja. Was Sie her, wenn ich, och ich weess nicht, we das hier war ja......」。このように、このタイプの失語症では、重症の場合、枠組み、すなわち伝達のつなぎ目だけが残される。
今問題にしている症例では、孤立した語は実際意味のない「云々」にすぎない。さらに、このような患者にとっては、同一の単語の二度の現われは、それぞれの語が乗っている脈絡が違っている場合、同音なだけの二つの別の単語である。このタイプの失語症患者の中には、一つの語を複数の脈絡で使い分ける代わりに、それぞれの脈絡に応じてわざわざ違う用語を使い分ける者もいる。たとえばある患者は、「ナイフ knife」という単語を使い回すことができず、その用途や周囲のものに応じて、「鉛筆けずり pencil-sharpner」、「りんご剥き apple-parer」、「パンナイフ bread-knife」、「ナイフとフォーク knife-and-fork」のように言った。「ナイフ」という語が孤立した存在ではなく、それ自体で脈絡を統合している存在に変えられてしまったのである。
或る患者は、「このアパートには独身者が住んでいます」とは言えたが、より明示的な「結婚していない人が住んでいます」とは言わなかった。彼は、独身者用アパートについての習慣的会話の脈絡に支えられているかぎりで「独身者」という語を使えたのだが、「結婚していない人=独身者」という代置集合を発話に利用することはできなかったのだ。自律的な選択と代置の能力が冒されていた彼に、「独身者は結婚していない人を意味する」といった等式叙述を発話させようとすると、困難が生じる。
検査員が指差したり手で触れたりしたものの名前を患者に言わせようとした場合にも、同じ困難が生じる。「指されたそれ=鉛筆」という等置ができないのだ。彼は「これは鉛筆です」とは言えず、「それで書く」というふうにそのものの用途に関する注釈を後続させることができるだけである。すでに指を指す身振りという記号が生じている以上、それと代置される「鉛筆」という語は余計なものとなってしまうのだ。物の絵を見せた場合でも同じことがある。或る患者に磁石の絵を見せると、「磁石」という名前は抑圧され、「これは……どういうものかは知っています……でも、専門的な言い方は思い出せない……これは……方角を示す、針が北を指します」と答えた。このような患者は、パースの言葉で言えば、指標 index あるいは写像 icon から、それ相当の言語的な象徴 symbol への移行ができないのである。
このような失語症患者は、或る語からその類義語や迂言法への切り換えも、その語の異音語すなわち他の言語での等価表現への切り換えもできない。多言語能力の喪失と、一言語の一方言のみへの局限は、この種の異常の徴候的な現われである。
先に述べたとおり、脈略の構成要素を合体させるものは隣接性という外的関係であり、代置集合の基盤となっているものは相似性という内的関係である。相似性に異常を起こしているタイプの失語症患者においては、相似性を含む操作が、隣接性に基づく操作に屈してしまう。つまり、単語の意味分類が相似性ではなく空間的、時間的な隣接性によって導かれる。たとえば、このタイプの一女性患者は、動物の名前をいくつか列挙するように言われると、自分が動物園で見たとおりの順序で並べた。また、彼女は、いくつかの物を色、大きさ、形によって並べるようにとの指図にもかかわらず、それらを台所用品、事務用品のように空間的な隣接性によって分類した。色、大きさ、形の相似性によっては分類できなかったのである。さらにまた、彼女は、原色の名称──赤、青、緑、黄──を挙げることはできたが、これらの名称を中間的な変種にまで広げることを拒否した。つまり、彼女には、単語は、相似性によって第一義的な意味と関連づけられた、付加的な、ずれた意味をになうことができないのである。 このタイプの患者は、単語をその文字通りの意味で捉えることはできても、その同じ語の隠喩的特性を理解できない。彼らは、比喩的な言い方をまったく理解できないわけではない。比喩には、隠喩と換喩という両極がある。このうち換喩は隣接性に基づくもので、これは選択と代置の能力を冒された失語症患者によって、むしろ多用される。「ナイフ」の代わりに「フォーク」、「ランプ」の代わりに「テーブル」、「パイプ」の代わりに「吸う」、「トースター」の代わりに「食べる」の代用が起こったりする。これは習慣的な脈略によって誘発された換喩と言えよう。つまり、knife and fork、table lamp、to smoke pipeといった句の脈絡、或いはto eat toastとそれを作る道具との関係が、これらの換喩を誘発したのである。もっと極端な例では、「黒」という名称を思い出せなかった患者は、それを「死んだ人に対して行うこと」と呼んだ。死者の喪に服するときに着る服(の色)という慣習の脈絡によって、色の名称を示そうとしたのである。こうした隣接性への逃避が極端になると、与えられた語を類語反復するように指図されて換喩で答える症状にまで至る。或る患者は、「窓」を反復せよと言われて「ガラス」と答え、「神」を反復せよと言われて「天」と答えた。
選択能力が強度に損なわれて、統合の能力が部分的に保存されている場合は、隣接性が患者の言語行動全体を規定する。このタイプの失語症と、相似性の異常 similarity disorder と命名することができよう。
4:隣接性の異常
- 逆に、統合の能力、より単純な言語単位を結構してより複雑な単位を作る能力の損傷は、前章で論じたタイプとは反対のタイプの失語症を特徴づける。この症例では、語彙は保存される。その代わりに、文法が失われる。このタイプの失語症は隣接性の異常 contiguity disorder と命名することができる。
このタイプの失語症においては、文が単語の集積へと退化する。語順は乱れ、接続詞、前置詞、代名詞、冠詞のように純粋に文法的な機能だけを持つ語は、相似性の異常の場合には最もねばり強かったのに反し、まっさきに消える(他方、主語詞は決して脱落しない)。発話は電報のような文体と化す。さらには幼児のような一文発話、一語文へと向かう。そして患者は語の相似性ばかり扱い、彼の近似的な同一化は隠喩的性質のものとなる。たとえば「ガス灯」の代わりに「火」と言ったりするのが、こうした擬似隠喩表現の典型例である。
ところで、語という言語単位は、さらに小さい構成要素、すなわち形態素や音素を統合したものである。彼らの場合このレベルでの統合の破損も発生し、たとえば、動詞から変化系・時制が失われる。これは語を五感と語尾・接尾辞に解体して再統合する能力の喪失に基づく。また、名詞の格変化も失われる。彼が/彼の/彼を he/his/him のような格は、同一の意味内容を隣接性によって互いに連合した異なった観点から示すものであるから、隣接性の異常の失語症患者がこのような変化を放棄するのも理由なしとしない。同様に、同一の語源から派生した派生語──たとえば grant 授与する/grantor 授与者/granteem 被授与者──も彼らにとっては分解不可能なものとなる。さらには二語から成る複合語さえも、彼らにとっては分解不可能なものとなる。たとえば「Thanks giving 感謝祭」といった複合語を理解し発話した患者が、「thanks 感謝」と「giving 与えること」をそれぞれ推論・理解できないという例が観察されている。こうした症状は、小児が言語の音素的構成要素を習得する順序を規則的に逆転している。
5:隠喩と換喩の両極
- 隠喩は相似性の異常と、換喩は隣接性の異常と相容れない。
発話の進展は、一つの要素から他の要素への相似性によってか、隣接性によってか、いずれかによって進行する。前者を隠喩的方法、後者を換喩的方法と呼ぼう。両者はそれぞれ隠喩と換喩において最も典型的な表現を見出すからである。失語症においては、これら二つの過程のうちのどちらか一方が制限されるか全面的に妨害される。そして実は、正常な言語行動においても、文化型や個性や文体などの影響のもとにいずれか一方の過程が他方より好まれるということが起こっている。たとえばロシアの抒情歌では隠喩的構造が支配的であり、英雄叙事詩では換喩的方法のほうが優勢である。
ロマン主義と象徴主義の文学流派での隠喩的過程の優位はくり返し認められてきたが、ロマン主義の衰退と象徴主義の台頭との中間段階に位置して、両者に対立する、いわゆる「写実主義的」傾向の根本にあり、これをあらかじめ決定づけるものが換喩の優位性であることを、ここで指摘しておきたい。写実主義の作家は、隣接的関係をたどっていき、すじから雰囲気へ、人物から空間的・時間的な背景へと、換喩的に離脱していく。彼は、提喩的な詳細を好む(提喩[synecdoche シネクドキ]とは:時空間的な全体と部分の関係に基づく比喩表現──たとえば「白帆」で「船」を表わす──が換喩だが、それに対して、概念的な全体と部分、すなわち類と種の関係に基づく比喩表現が提喩である。たとえば「人はパンのみによって生きるのではない」というような表現において、「パン」という種は食物という類全体をあらわす提喩である)。
換喩と隠喩の両手法のあいだの拮抗は、個人内であれ社会内であれ、あらゆる象徴過程に見られる。たとえば、夢の構造の研究で、決定的な問題は、象徴や用いられた時間的順列が、隣接性(換喩的な「転位 displacement」と提喩的な「圧縮 condensation」)に基づいているか、それとも相似性(「同一化 identification」と「象徴化 symbolism」)に基づいているかである。ところが、この両極の問題は大体においていまだに等閑に付されている。相似性は隠喩的表現を、それが取って代わる表現と結びつける。この単語レベルでの代置という言語現象を、メタ言語によって文章で記述することは容易である。ところが、換喩は違った原理に基づいており、解釈を容易に近づけないために、隠喩に関する豊富な文学研究に匹敵するようなものは、換喩についてはほとんど存在しない。同じ理由で、ロマン主義が隠喩と密接に結びついていることは一般に認められているが、写実主義と換喩との、同じくらい密接な結びつきは、いまだに気付かれないままである。
相似性の原理が詩の根底にある。行と行と韻律的平行性、あるいは押韻する語の音的等価性が、意味的相似性と対照性とに注意を促すのである。散文はこれと逆に、本質的には隣接性によって進められる。散文の本質は思想である。