■第一部
▼第一章
-
一・1
前口上。これはわたしが人生の舞台にのりだした当時の記録。
一・2
「わたしはこの記録を去年の九月十九日から書きおこすことにする、いや、そうしたいと望んでいる。それはちょうどわたしが、はじめてめぐり会った日なのである……」
一・3
説明的ディエゲーシス。わたしは何者か。九月十九日の朝に至るまでのわたしの経歴。わたし=ドルゴルーキー。父はヴェルシーロフ家の家僕。私生児(法律上は嫡子)。今二十一歳。彼は自分の姓を呪わしく思っている(有名な公爵家と同名なので)。
彼が生れる直前のヴェルシーロフの話。当時彼は二十五歳。「私生児」というはヴェルシーロフの私生児という意味。
一・4
両者ともヴェルシーロフ家の家僕であったわたしの両親、父マカール・イワーノヴィチ・ドルゴルーキーと母ソーフィヤ・アンドレーエヴナが結婚した経緯について(ソーフィヤの父──これもヴェルシーロフ家の家僕だった──との約束)。そこには、ヴェルシーロフの領地の隣人で女地主のタチヤナ・パーヴロヴナが一枚噛んでいる。このタチヤナは何故か「伯母さん」と呼ばれていた。
ヴェルシーロフが村に戻って来たのは、マカールとソーフィヤの結婚式があって半年後のことだった。
一・5
ヴェルシーロフの性格「この陰気な閉鎖的な男、必要と見てとると、いったいどこから出てくるのか、急にやさしい純真さをあらわすこの男」
ヴェルシーロフと母ソーフィヤの馴れ初めについて。なぜヴェルシーロフはとくに母を選んだのか? 母は別段美人ではなかったというのに。「かわいそうでたまらなかった」からか? 「とにかくかわいそうに、かわいそうに、と思っているうちに、いつのまにか惹きつけられてしまう……」
いずれにせよ二人の関係は不幸からはじまった。しかしヴェルシーロフは母を捨てなかった。
一・6
ヴェルシーロフはマカール・ドルゴルーキーから母を譲り受けると、村を去って、ペテルブルグにおちついた。わたしが生れたのは二人が村を去って一年後。さらに一年して妹が生れた。
だがマカール・ドルゴルーキーとの関係は切れなかった。主に文通によって。マカールは修道院に住む巡礼になっていた。
わたしは生れるとすぐ家族から離され里子に出された。
一・7
「こんどは全然別なことを述べよう。……」
一月前、つまり九月十九日の一月前、わたしは、モスクワ(わたしはモスクワで育った)で、彼らすべてから離れて、大学にも進まずに、自分の理想に去る決意をした。この「自分の理想」については後でいやというほど語ることになろう。〔読者の興味を掻き立てる先説法〕この理想はまだ中学の六年生の頃にわたしの頭の中に創り上げられた。
しかしわたしが彼らすべてとそれまでの縁を切ろうと宣言した矢先に、ヴェルシーロフがそれに答える形で、個人の秘書の勤め口があるからとペテルブルグへわたしを呼んだ。それがあまりに意外だったので、わたしはペテルブルグ行きを承諾した。
『なにが出るか、ひとつ見てやろう……いずれにしても、おれが彼らと接触するのは一時のことだ、それもごく短いあいだかもしれぬ。おれのこの一歩が、おれを本命から後退させると見てとったら、直ちに彼らと手を切り、すべてを捨てて、自分の甲羅にとじこもるのだ』
わたしのヴェルシーロフに対する情動・憧憬について。「ただ親父というだけなら──別にどうということはないし、やさしくされるのはわたしは好かなかった。だがこの男は、わたしが何年ものあいだむさぼるように夢に描いていたのに、わたしをかえりみようとせずに、完全に無視していたのだ。わたしのあらゆる空想は、ほんのいたいけな幼子のころから、彼を呼び彼のまわりをさまよい、結局は彼に帰してしまうのだった。わたしが彼を憎んでいたのか、愛していたのか、わたしは知らない。がしかし彼は、わたしのすべての未来を充たし、人生に対するわたしのすべての期待を充たしていた──そしてこれはひとりでに生れ、年とともに成長していったのである。」
わたしにモスクワを去る決意をうながしたものに、もう一つ強力な事情があった。それは出発の三ヶ月前にすでに判明していたこと、つまりペテルブルグへ行くことなど夢にも思わなかったころから判明していた事情〔伏線〕。というのは、極めて重要な「文書」をわたしは懐中にしていたのだ。このことについてはまたその時が来たら語ることになろう。〔読者の興味を掻き立てる先説法〕
一・8
「いよいよ、十九日へ最終的に移る前に、簡単に、わたしが彼ら、つまりヴェルシーロフと母と妹に会ったときのことを述べておこう。……」このとき彼らはセミョーノフスキー連帯の横町の小さな木造の傍屋に、いっしょに住んでいた。彼らは貧しい暮らしをしていた。にもかかわらず、ヴェルシーロフはわがままを言い、昔からの高くつく生活習慣をそのまま残していた。母も妹もタチヤナ・パーヴロヴナ伯母も、死んだアンドロニコフ(三月ほど前に死んだ〔注意、これは「わたしにモスクワを離れる決意を促したもう一つの事情」が生れた時期と一致する〕ある役所の課長で、ヴェルシーロフ家の財産問題を扱っていた男)の遺族たちも、ヴェルシーロフを暴君のように恐れていた。
この貧窮はヴェルシーロフの人生上の失敗の結果だが、彼は今ソコーリスキー公爵家を相手どって遺産相続の訴訟を起こしていて、これに勝てばまだ近い将来に七万ルーブリほどの価値のある領地が手に入る見込みがある。この訴訟事件の決着も間近であった〔タイミング合わせ〕。
「さて、……ヴェルシーロフが社交界からしめだされてから、もう一年以上になる。……」この事件の全貌は、わたしがペテルブルグに来てから一ヵ月手をつくして調べたものの、いまだ謎である。発端は一年すこし前にドイツで起こったらしいあるきわめて卑劣な、スキャンダル的な行為だったらしい……おまけにそのとき、ソコーリスキー公爵一門の一人から公衆の面前でみごとな頬打ちを受けたのに、決闘をもって応えなかったらしい……。彼の子供たち(本妻が残した息子と娘)まで彼に背を向けて別居している……。〔伏線〕なんとしても真相を突き止めねばならぬ、なぜならわたしがペテルブルグに来たのは、この男を裁くためでもあるからだ。
わたしが彼らといっしょに暮したこの一ヵ月の間、ヴェルシーロフはわたしに対して一種不真面目な態度を取った。要するにわたしをくちばしの黄色い青二才扱いしたわけで、わたしはそれにどう対処していいか分からなかった。
わたしはひたすら、一人の人物を待っていた。その人物がペテルブルグに来れば、わたしは完全に真相を知ることができるのだ……〔決定的なことを明言しないままの伏線〕。
▼第二章
- ---------------------------------------------------------------1日目(九月十九日)
二・1
十九日は、わたしが個人秘書のポストに勤務してからちょうど一ヶ月目でもあり、俸給をもらう日でもあった〔タイミング合わせ〕。
説明的ディエゲーシス。この秘書のポストってのはソコーリスキー老公爵の家。このソコーリスキー家は、ヴェルシーロフが訴訟問題を起こしている(および一年前のスキャンダル的事件に関わっている)ソコーリスキーとは血のつながりはまったくない。しかし老公爵は彼らに関心をもっていて、とくにその一門の長兄である若い士官に目をかけていた。
ヴェルシーロフとこの老公爵は親友。とはいえ、彼らはしばらく顔を合わせていなかった。なぜなら、ヴェルシーロフが非難され社交界から追放された一件には、この公爵家の一人が関係していたから〔ヴェルシーロフに平手打ちをした、血のつながりのない例のソコーリスキー公爵一門の一人のことではなく、老公爵の娘カテリーナのこと〕。もちろんわたしの秘書の勤め口はヴェルシーロフ+タチヤナ・パーヴロヴナの口利きのおかげだ。「老公爵はある将軍の未亡人になっている自分の娘の留守のあいだにこれを決めたのだが、もしその娘がいたらおそらくこの一歩を老公爵に許しはしなかったろう」〔カテリーナの主人公に対する感情がはじめから敵意あるものであろうことの暗示〕。この勤めにつくことによって、わたしは一年前のスキャンダルについても何か究明できるかもしれないと期待した。
タチヤナ・パーヴロヴナについて。彼女はわたしの人生の転機──トゥシャールの寄宿学校に移る時や、中学へ入りにニコライ・セミョーノヴィチ〔意外な重要人物〕の家に下宿する時──になるとどこからともなく現われ、わたしの面倒を見るのだったが、いま、ここペテルブルグでも彼女は現われた。彼女はヴェルシーロフに奴隷のように仕えていた。彼女は顔が広く、尊敬されていた。ソコーリスキー老公爵でさえ彼女を尊敬していた。
老公爵について。まだ六十は越えていない。一年半ほど前に、不意に発作を起こして精神の錯乱をきたした。五ヶ月ほどで健常に戻ったが、発作後、なぜか彼は早く結婚したいという奇妙な欲望が強くなった。これは老公爵をとりまく人々の利害とまっこうから対立することだった。すでに亡くなっている彼の妻のほうのつながりで、一人娘をはじめとして、彼には養子や養女のたぐいが沢山いた。もし老公爵がいま結婚するようなことがあれば、彼ら全員遺産のおそすわけにあずかることが難しくなるのだ。
発作が起きて以降、老公爵は疑い深くなっている。社交界の連中すべてが以前の健康なときの彼に対する態度とは別な態度をとるようになった、つまり自分が狂人と見られているという疑惑が彼を苦しめていた。だからもし彼が狂人になったという噂をひろめているとか、それを肯定しているような人物がいたら、老公爵の敵意を免れずにはいなかったろう。「ここのところを読者によく記憶しておいてもらいたいのである。」〔読者の興味を掻き立てる先説法。「文書」の伏線と関連〕
わたしの勤めは、ほとんど老人を『慰める』だけのものだった。実務は一人の官吏が取り仕切っていた。
二・2
わたしは月五十ルーブリの俸給で勤めていたが、何も言われなかったので、それをどんなふうにもらうことになるのかまったく分からなかった。俸給を請求することの嫌さについて。しかももうわたしは辞職を決めていたのでなおさら気が進まない……。
「その朝目をさまして、二階の自分のきたない部屋で着替えをしながら、わたしが胸があやしく高鳴るのを感じた、……」今朝こそ「あの女」が、その到着を待ってわたしが自分を苦しめているいっさいの問題を解明しようとしていたその当人が、ついに来ることになっていたからだ。それは老公爵の娘=アフマコーワ将軍未亡人カテリーナ・ニコラーエヴナ(彼女はヴェルシーロフに激しい敵意を抱いている)。「とうとう、わたしはこの名を出した!」
娘が今日帰るだろうことは老公爵さえ知らない。わたしは昨夜偶然にそれを知った。将軍未亡人から手紙をもらったタチヤナ・パーヴロヴナが、わたしのいるところで母にそれを漏らしたので〔タチヤナとカテリーナの関係を暗示〕。
この一ヵ月の間、わたしと老公爵は何を話していたか? ヴェルシーロフの話題は老公爵が避けたがるので、例のスキャンダル的事件のことはわたしから持ち出すまいと決めていた。老公爵とわたしは、世の中のさまざまなことについて、風変わりな意見を交わした。主に、神の問題と、女性の問題を論じ合った。老公爵には素朴すぎると思われるほど子供っぽいところがあった。
「わたしがその朝彼の書斎へ入ると……」から現前的場面開始。老公爵は女性の話題を持ち出す。わたしは俸給の問題で気が縺れていた。
二・3
「ぼくが女がきらいなのは、女というものは無作法だからです、気詰まりだからです、自主性がないからです、みだらな衣装をつけているからです!」……わたしは自分の女性観をかっと熱くなってまくし立てる。わたしは不断からこらえ性がないのだ……。
女性嫌悪の長広舌。一度だけ、本気で婦人を罵倒したエピソード。老公爵は驚いて聞く。
さらに、トゥシャールの寄宿学校にいた頃の友人、ラムベルトについて。わたしが中学校に行っている時に、二年ぶりにラムベルトが訪ねて来た。母親に対する憎悪。カナリヤを鉄砲の的にして遊んだこと。ラムベルトが娼婦を呼んだこと。その醜悪さについて。
老公爵、わたしの子供のころの不幸を思って同情する。
老公爵の結婚がどうの、機知がどうの、女どもの生活がどうの、という話。
わたしは突然俸給の話を切り出す。
老公爵は一瞬呆然とする。彼はわたしが俸給をもらうなどと考えたこともなかったのだ……老公爵は五十ルーブリを出そうとするが、わたしは侮辱を受けたように感じてそれを拒否する、俸給のことは間違ってわたしに伝えられたにちがいない、勤めらしい勤めをしていないのだから、俸給をもらう理由のないことが、あなたの反応によってはっきりわかった……いや、そんなことはない、きみは実によく勤めてくれた、俸給のことをタチヤナ・パーヴロヴナと約束しておきながら、うっかり忘れていたのは許しがたいことだ……押し問答。
老公爵はわたしへの友情を口にする。「きみはまるで身内みたいなのだよ、それも息子じゃなく、弟みたいだ、そしてきみが反抗するときが、なんとも言えず好きなんだよ、きみは文学を解する、きみは本を読んでいる、きみは感激ということを知っている……」
「して、お父さんはどうしてるかね?」珍しくヴェルシーロフが話題に。今日例の訴訟事件が決着する。前述の通り、老公爵はセルゲイ公爵(訴訟問題でヴェルシーロフと対峙しているソコーリスキー公爵家の長兄。ヴェルシーロフに頬打ちを食らわせた本人でもある)に目を掛けている、その若い公爵が今日訴訟の件でここに来るという〔タイミング合わせ〕。「そう、金といえば、今日彼らの一件が地方裁判所で判決が下るはずだが、わしはセルゲイ公爵を待っているんだ。そのことでここへ来ることになっているんだ。裁判所からまっすぐここへ来るといっていた……」
今日裁判の決着がつくというのは、わたしは初めて知る。しかもヴェルシーロフに頬打ちを食らわせた男がやってくる……
老公爵、ヴェルシーロフの話。相変わらず神の宣伝をしおってからに、それに、まだ羽の生えそろわぬ娘たちを追いまわしとるんだろう……
この非難はわたしにとって初耳。わたしは憤怒で真っ赤になる。そんなことは全部嘘です、忌むべき姦計の捏造です、敵どもの中傷です、といっても一人の敵、最大の敵のやったことです──それはあなたの娘です!
逆に老公爵が激昂する。ヴェルシーロフの名前とならべてわたしの娘の名前を出すことは絶対やめてもらいたい!……あのけがらわしい事件!……わしは信じなかった……ぜったい信じたくなかった……だが……
そのとき不意に来客が告げられる。〔技巧的な対話の切り上げ〕
二・4
二人の婦人が入って来る。そのうちの一人はアンナ・アンドレーエヴナ・ヴェルシーロワ、ヴェルシーロフの本妻の娘で、わたしの三歳年上。ファナリオートフ家に暮している。このアンドレーエヴナは老公爵のお気に入り(ヴェルシーロフと老公爵の交際はそれほど過去のものからなのだ)。
アンドレーエヴナの外貌描写。「背丈が高く、ほっそりしたほうで、顔は面長で、気になるほど蒼白いが、髪は漆黒で、豊かで、目は黒く、大きく、深いまなざしで、唇は真赤で、小さくて、みずみずしい口をしていた。その歩きぶりがわたしに嫌悪感をあたえなかったはじめての女である。とはいえ、細くて、すこしぎすぎすしていた。顔の表情はいちがいに善良そうだとはいえないが、人を威圧するようなところがあった。」兆候的。
アンドレーエヴナはわたしににっこりと会釈。
アンドレーエヴナとわたし、表面的な会話を交わす。
アンドレーエヴナはあまりにも興味深げにわたしを見ていた。わたしはその意図を考察せざるを得ない。「彼女はあまりにも興味ありげにわたしを見すぎた。あたかもわたしにもできるだけよく見てもらいたいと望むかのようであった。」兆候的。
老公爵、いきなり「何、今日だって?」
「あらおじさまご存じなかったの?」……「あら、お見えになったわ!」
そして──あの女が現われた。
わたしはすでに肖像画で彼女の顔を知っていた。そうでなければ、この短い面会によって彼女の顔について何の印象も持ち帰ることができなかったろう、それほどに動揺していたので。「わたしがこの三分間でおぼえていることといったら……」目のさめるような美しい婦人、それがわたしを汚らわしそうに見たこと、小ばかにしたようにふふんと笑ったこと……
わたしは体中をがくがく震わせながら、「いましごとがありますので……」と言って遑を告げた。部屋を出た。
▼第三章
-
三・1
外へ出る。わたしは満足していた。あの女の侮辱や高慢な冷笑さえもわたしを喜ばせた。彼女の考えでは、わたしは『ヴェルシーロフの廻し者』であろう。それほどにヴェルシーロフが彼女にとって大きな存在なのは、ヴェルシーロフがただちに彼女を破滅させる一通の文書を持っている(と彼女が信じている)からだ。〔手紙の内容はまだ謎だが、伏線はすでに一・7で張ってある。情報開示設計の巧みさ〕……だからこそ、わたしは侮辱を感じなかったのだ。むしろ喜びさえ感じた。くもが捕らえようと狙いをつけた蝿を憎むことができるだろうか? かわいい蝿! 誰でもその生贄は愛するものだ……。つまり、あの女はわたしの生贄なのだ。ヴェルシーロフの、ではなく、わたしのだ。「……あのときのわたしの考えと喜びを伝えるとしたらこのような表現になる。」
三・2
「この十九日にわたしはもう一つの『一歩』をふみだした。」これはコロンブスがアメリカ発見に乗っていた船を造るときの、最初に置かれた一本の丸太である……。
元手はさっき受け取った俸給。昨日のうちに新聞で調べておいた、裁判所による動産の競売が行なわれる場所へ。午後一時過ぎ。
競売開始。様々な品物が競売にかけられる。わたしは度々気が動きかけるが、我慢する。そしてついに、赤いモロッコ皮の表紙のアルバムを二ルーブリ五コペイカで競り落とす。
入手したアルバムをすぐに開いて調べるが、かなりお粗末なもの。失敗したか? だが、不意にわたしのそばで次のような声が。「あっ、おくれたか、あなたがお持ちですね? あなたが落とされたのですね?」紳士がわたしに話しかける。
外へ出て、歩きながら会話。紳士はアルバムを譲ってもらいたいという。「十ルーブリでお譲りしましょう」紳士仰天。二ルーブリで入手したものなのに……それにこんなものを欲しがるのはわたし一人ですよ?……
わたしは二十五ルーブリと最初は言おうとしたのだが、わずか十ルーブリで譲ってあげることにしたのです。一コペイカも引きません。わたしは振り向かずに歩いていく。
紳士が追ってくる。とりたまえ!と憤然として十ルーブリを突き出す。
これは不正行為ですぞ!
どうして不正です? 市場ですよ!
こうしてわたしは第一歩で、七ルーブリ九十五コペイカもうけたのだ。わたしは手に入れた十ルーブリ紙幣に接吻した。
三・3
わたしはこの日エフィム・ズヴェレフに会うことになっていた〔突然出現したプロット展開のためのトリガー〕。中学時代の友人の一人。彼はクラフトの落ち着き先を知っている。クラフトはわたしにとってはきわめて重要な男で〔これもプロット展開のためのトリガー〕、もうじきリトアニアから帰ってくることになっていた。
ズヴェレフに会う。クラフトは昨日こちらに着いている。曰く、クラフトは今おそらくデルガチョフのところにいる? だから、そのデルガチョフのところへ行こうや、とエフィム。
デルガチョフのところではいつも知り合いが集まって、何かをやっている……。ワーシン(わたしは彼のことを前から知っているらしい)も来ている……。
「デルガチョフはある女商人の木造の邸宅の庭にある小さな離れに住んでいた……」
中ではすでに議論が始まっていた。
わたしの人の集まり嫌いについて。わたしは議論しないことを自分のモットーとしていた……。
わたしはクラフトに挨拶(会うのは初めて)。クラフトの外貌描写。クラフト曰く「ぼくはあなたに関係のある手紙を一通もっているのです。ここにしばらくいて、ぼくのところへ行きましょう」〔これはあの「文書」ではない。ミスリード。だが後にヴェルシーロフに嘘を言うとき、このミスリードが使われる〕
議論続行。ロシア人は二流の民族? ロシア人はより高尚な民族のための材料? われわれは人類更生の前夜にいる? 人類のために、自然と真理の法則に従って行動せよ?
ワーシンの意見。論理的結論がときとして強烈な感情に転化することがある、そのような結論を改めさせるには論破するのではだめで、より強烈な別の感情を注入するよりない……(それに対して反論も。理性における正しさは感情における正しさも生むはずだ……)
ワーシンのこの意見を受けて、わたしは突然喋り出してしまう。ワーシンの意見を実例で敷衍しようとする。
三・4
冒頭から説明的ディエゲーシス。わたしがデルガチョフたちを恐れていたのは、理論家の彼らが『わたしの理想』を粉砕するかもしれないからだった……。わたしは自分の『理想』が動揺するのを恐れて、ここ二年間は本を読むことさえやめていた……。「ところが今不意に」、ワーシンの意見が彼に啓示を与えたのだ。美しい思想を論破するだけではだめだ、同程度に力強い美しいものを代わりにあたえねばならぬ──そうでないかぎりは、彼らが何を言おうと、わたしが自分の感情=理想と別れる筋合いはない。
しかしわたしが自制を失って語り出してしまったのは、みなの『首にとびつきたい』という願望があったからだ。それをわたしは恥じる。そんなことでわたしの『理想』を保持していけるものだろうか……。
三・5
現前的場面続き。わたしは急にたまらなく喋りたくなってしまう。誰でも自分の感情をもつ権利がある……もしそれが信念から生れたものなら……誰にも文句を言われる筋合いはない……
みな、にやにや笑いながら茶々を入れる。わたしはかっとなる。僕は人類に奉仕しようと望むかもしれないし、そうしないかもしれないが、いずれにせよ自然と真理の法則(功利主義?)などに強制されたくはない……あなた方は神を否定している……それなのに僕に何を強制できるというのか?……
わたしは彼らのコミューン主義を否定する。だが議論は消沈して、皆帰り支度。
わたしもクラフトと一緒に外へ出る。
三・6
わたしはワーシンを見るとワーシンに追いついて、会話。ワーシンがヴェルシーロフ(ぼくの父)をどう思っているか訊く。傲慢な人間。だが、非常に傲慢な人間はえてして神を信じるものだから、彼がカトリックに改宗したとしても不思議はない……「彼らは人間のまえに頭を下げたくないから、神を選ぶのですよ」
わたしは感激している。ワーシンを褒め、有頂天に喋りまくる。「おお、ぼくは承知しています、ぼくは人々に対して大いに寡黙であるべきだったのです。あらゆる醜行の中でもっとも卑劣なもの、それは──人の首にぶら下がることです、それはぼくが今夜彼らに言ったばかりです、それなのに早くもこうしてあなたにぶら下がっている!」
ワーシンはわたしの妹リーザを知っているという。
わたしはクラフトのところへ戻る。クラフトの住居に着く。
▼第四章
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四・1
説明的ディエゲーシス。「クラフトは以前どこかに勤めていたが、そのかたわら亡くなったアンドロニコフの手伝いをして個人のいろいろな問題もとりあつかっていた。」だからクラフトならわたしの知らない何かを知っているだろうという期待。しかも、中学時代にわたしが寄宿していたニコライ・セミョーノヴィチの妻マーリヤ・イワーノヴナ(アンドロニコフの姪にあたる)から、クラフトがわたしに渡すなにかを『託されている』と知らされていたのである。〔情報伝達設計〕
クラフトの住居内。クラフトとの会話。デルガチョフたちについて。ロシアのニヒリズム。
突然クラフトは用件を思い出す。わたしに一通の手紙を渡す。ヴェルシーロフとソコーリスキー公爵家の間の訴訟事件は、ヴェルシーロフが勝訴で終わるだろうが、この手紙はまさに遺産を残した故人そのひとの手紙で、ソコーリスキー公爵のほうに有利な証言となっている。アンドロニコフとクラフトが保管していたもの。アンドロニコフの死後、マーリヤ・イワーノヴナがそれをわたしに渡すように言って来た。
わたしはこの手紙をどうしたらいいのか? 良心が問われている。ヴェルシーロフに渡した場合は、ヴェルシーロフの良心が問われることになろう。
用件は終わった。さらにわたしは、一年半前にヴェルシーロフとカテリーナ=将軍未亡人の一家(アフマーコフ家)とのあいだで起こった事件のことを、クラフトに訊ねる。クラフトもその時当地にいたらしい……。
「知っていることは喜んで語りましょう、ただあなたを満足させることができますかどうか?」
〔登場人物を利用した情報開示〕
四・2
「彼の話をそのままここへうつすことはやめて、簡潔に要点だけを記すことにする。」
一年半前にヴェルシーロフは、ソコーリスキー老公爵を通じて、当時ドイツのエムスに滞在していたアフマーコフ将軍と親しくなる。この一家がエムスに滞在していたのは、(カテリーナでなく)先妻とのあいだに生れた十六歳の娘の療養のため。この娘がどういうわけかヴェルシーロフに惹かれた。
当時のヴェルシーロフは「何か熱情的なもの」を鼓吹し、「高い意味の宗教的な心境にあった」。彼はカテリーナにも強い感銘を与えた。だが二人のあいだにやがて互いに憎みあう気持ちが生れた(それは誰もが肯定している)。ヴェルシーロフは将軍の頭に、カテリーナがソコーリスキー若公爵と穏やかでないという考えを植えつけた? その上、突然十六歳の娘がヴェルシーロフと結婚したいと言い出した(これもみなはっきりと認めている事実)。娘からこう言われて将軍は当然びっくりしたが、この結婚の可能性にもっとも激しく反対したのはカテリーナ・ニコラーエヴナだった。そして家庭内の衝突、口論、悲嘆など、あらゆる忌まわしいことが起こった。この辺りからその後誰にも理解できなくなった酷いもつれがはじまる。以降はクラフトの推測の話。
ヴェルシーロフは娘にこんなことを吹き込んだ?──カテリーナが結婚に同意しないのは、彼女自身が彼にほれ込んでいるからである……。しかも彼はこのことを将軍にまで、若公爵は単なる慰みものにすぎなかったのだという説明とともに、ほのめかした。家庭内は地獄と化した。
別バージョンの推測もある。わたしもこちらの方を信じるが、それは、前の説とは逆で、ヴェルシーロフの方からカテリーナに愛を訴えたのだが、拒絶された、だからヴェルシーロフはあてつけがましく彼女の義理の娘に手を出したというのだ。カテリーナのヴェルシーロフに対する憎悪もそこから説明される。
事態は、娘が亡くなったことによって悲劇として収束した。娘はマッチの燐を飲んで自殺したのだという噂も流れたが、定かなことではない。その後間もなく父親の将軍も発作を起こして死んだ。ところで、娘の埋葬がすんだ後、ソコーリスキー若公爵が、パリからエムスに戻って来て、公衆の前でヴェルシーロフに頬打ちをくらわせた、だがヴェルシーロフは決闘の申し込みをもって応えなかった。ここにいたって人々はみな彼に背を向けた。ペテルブルグにおいても。
こうした事情の詳細に通じていたのは、死んだアンドロニコフだったろう。そして彼がクラフトに語ったところでは、「……いまここにひとつの文書があって、それをカテリーナ・ニコラーエヴナが極度に恐れているというのです」
その件についてもクラフト説明。
カテリーナ・ニコラーエヴナは、父の老公爵が外国の療養生活で狂気の発作がそろそろ回復しかけていたころ、アンドロニコフ宛てに或る手紙を書き送った。回復しかけた老公爵に、金を空中にばらまきかねないような浪費癖があらわれたので、法律家であるアンドロニコフに『法律によって父を禁治産者と宣告することができるか』と相談の手紙を送ったのだ。アンドロニコフはすぐ彼女をいさめたし、その後老公爵もすっかり健康を回復したので心配は杞憂に終わったのだが、その手紙はアンドロニコフの手もとに残ってしまった。アンドロニコフの死後、もしその手紙──実の娘が老公爵に狂人の宣告を下そうとした証拠──が故人の書類の中から見つかって、老公爵の目に触れるようなことがあれば、彼は彼女を永久にしりぞけ、遺産の相続権を奪い取るだろう。
クラフトはその手紙がどこにあるか知らない。アンドロニコフの未亡人や娘たちとヴェルシーロフが親しかったことから、彼の手元にあると推測している。そしてカテリーナ・ニコラーエヴナもそう信じている? 彼女は依然としてその手紙の行方を捜し続けている……。
わたしの訊きたいことは概ね明らかになった。うんざりするような醜い話。わたしは憂鬱になる。勝手にいがみ合うがいい……俺の知ったことか……。クラフトに遑を告げる。「さようなら、クラフトさん! あなたを望んでいない人々のところへ、なぜもぐりこもうとするんです? すべてをたち切ったほうがいいのじゃありませんか──え?」
別れ際、クラフトのテーブルの上にあるピストルを話題にする。
四・3
「要するに、これが、何年間もわたしが胸をときめかせて待ちつづけたその人なのだ! そしてわたしは、なにをクラフトから待ち望んでいたのか、これがどんな新しい情報というのか?」
クラフトの家を出ると、夕方。昼食を取っていなかったので、ペテルブルグ区の或る小料理屋へ。食事を食べた後、窓から外を眺めながら物思いに耽る。母のこと、妹のこと。
いよいよ決断するべきではないのか? すべての人々と縁をたち切ることを?
ヴェルシーロフについて。彼が憧憬したヴェルシーロフ(それは子供の頃彼と初めて出会った時に生れた幻想)と、実際の彼との落差。こんな男のためにわたしは自分の理想をほとんど忘れてペテルブルグに来たというのか? わたしは彼を助けて中傷を排し、敵どもを粉砕するためにやってきたのだ……なぜなら、クラフトが語った「文書」、カテリーナがかつてアンドロニコフに書き送り、今では彼女の運命を破滅さえるかもしれないあの手紙は、わたしが持っているのだから! この手紙を保管していたのはマーリヤ・イワーノヴナで、彼女独自の考えてわたしに渡すことにしたのだった。「それはひとえに彼女の見方であり、彼女の意志であって、それを説明することはわたしの義務ではない。」このようにまったく思いがけなく武器を与えられて、わたしはペテルブルグへ乗り込みたい、彼を援護したいという誘惑に抗することができなかった。……だがわたしの空想の中の偶像は破壊された。では何のためにまだ引き止められているのか?
「だが、他の人々に正直を求めるのだから、自分も正直になろう。……」この「文書」を入手してわたしの胸に湧き上がったのは、ヴェルシーロフを援護したいという熱情だけではなかった。もう一つ、上流社会の高慢な貴婦人=カテリーナの運命を自分が握っている、それでいて相手はそれを知らずにわたしを侮蔑し、嘲笑うだろうという考えが、わたしを酔わせたのだ。だがこんなことはもちろん恥ずべきことだ……そんなことに誘惑され、さきほどあの女と会った時のように目の前で蒼白になったりするような真似はまったく必要なかったのだ……わたしの『理想』はいったいどうなったのか?……「わたしがそのとき小料理店で考えたのはこうしたことであった。」
もう夜も七時をまわってから、家に戻った。わたしの期待したとおり家にヴェルシーロフはいなかった。
四・4
ここでいよいよ舞台にヴェルシーロフが登場してくるわけだが、その前にヴェルシーロフの履歴を紹介。大学を卒業すると近衛騎兵隊、軍職を去って、外国にあそび、先妻死亡、わたしの母とのエピソード、土地調停裁判所の調停印に。アンドロニコフともその時知り合う。また外国へ。ソコーリスキー老公爵と知り合う。等々。
「ところで、今、わたしの手記がここまできたところで、わたしは『わたしの理想』も語っておきたいと思う。」
▼第五章
-
五・1
わたしの理想──それはロスチャイルドになることである。その方法論は、偉大な修道僧の域にまで達する「貯蓄における忍耐と持続」による。あとは目的をどこに設定するからだ。わたしはロスチャイルドになるまで「忍耐と持続」を保つ意志力が自分にあると信じている。
五・2
競売での「第一歩」は、別段本格的な一歩ではないが、将来わたしがどのように歩むだろうかちょっと試験したまでのことだ。
実際に『理想』へ踏み出したときの生活計画について。食事、寝床、衣服。そして街頭に生活してチャンスを待つ。或る程度の蓄えができたら、ブローカーや仲買いなどを抜け出して、相場、株、銀行に手を出す……。必要なのは『望み』を中断しないこと、不用意なリスクをおかさないこと。たえまない観察と頭脳の明晰と、自制と節約と、若々しいエネルギーがあれば、富豪にならないのが不自然である!
『最後には、なにも達成できなくてもいい、わたしの計算がまちがっていて、自爆し、破滅するようなことになってもかまわぬ、やはり──わたしは行くのだ。行くことを望むから、行くのだ』
五・3
しかし何のためにロスチャイルドを目指すのか?
わたしの目的の中には復讐の気持ち、呪い、孤児の嘆き、私生児の涙、そうしたものはいっさいない。
わたしの『理想』の起源は、わたし自身の人間嫌いな質であろう。「中学校へ入ったばかりのころから、学友の誰かが勉強とか、気がきいた返答とか、体力とかで、すこしでもわたしを抜くと、わたしはすぐにその生徒と遊んだり話したりすることをやめた。その生徒を憎むとか、しくじりをねがうとかいうのではない。ただ背を向けてしまう。それがわたしの性分なのである。」だからわたしは孤独と威力を求めた。そして「金」こそが、どんなくらだない者をも最高の地位にみちびく唯一の道なのだ。
わたしの『理想』の中に暴力的なものはなにもない。わたしは金=力によって人々を圧しつぶし、復讐をすることなど望んでいない。そもそも金自体がわたしに必要なのではない。わたしに必要なのは、威力がなければ決して得られないもの──すなわち、一人だけの静かな「力の意識」である。わたしの手には力が握られている。わたしはロスチャイルドである。わたしは静かだ。たわしはそれを知っているだけで十分なのだ。わたしは誰も苦しめはしないだろう。しかし、或る人物を滅ぼしてやろうと思えば、そこには何の障害もないだろう。そのことを自覚しているだけで十分なのだ。
もしわたしがロスチャイルドになったら、古洋服を着て、貧相な身なりで街を歩くだろう。傲慢な将軍がわたしを侮辱し、外国の伯爵だか男爵だかがわたしを奴隷扱いし、華やかな名門貴族の令嬢がわたしを蔑んだとしても、わたしは何の侮辱も感じないだろう。させておけ! わたしがロスチャイルドであることを彼らがちらりとでも耳にしたら、彼らの方からおどおどとわたしにすり寄って来るにちがいないのだから。
この『理想』の仕上げの段階において、わたしは巨富をすっかり人々にくれてやるだろう。ロスチャイルドの数字にまで達した富を、一コペイカもあまさず全部なげうつ。わたしは完全な乞食となるが、しかし自分の手に握られていた数百万の富を惜しげもなく手放したという、前代未聞の行為の意識が、わたしの心を養ってくれるであろう。コペルニクスでさえ、ナポレオンでさえ、シェイクスピアでさえ、そんなことができただろうか? これがわたしの思想の極致だ。
五・4
『理想』の記述は以上。さらに二つの逸話について。
一つ目は、ペテルブルグに発つ二ヶ月前、自分の行なった野卑な行為について。どうしてあの時あれほど自分をおとし、あんな恥ずかしい行為ができたのか? どうやら、自分の中には「おれには『理想』があるのだ、それ以外はみな些細なことだ」と言い訳して済ます傾向があるらしい。わたしの『理想』はわたしの認識を歪ませてしまうこともあるのだ。
二つ目。去年の四月。わたしは突然情に駆られて、軒先に捨てられていた乳呑み児の養育を引き受けると宣言してしまったのである。その赤ん坊は十日ほどして病気で亡くなったが、その埋葬の費用もわたしが持ち、わたしは咆えるような大声で泣いた。しかしこんな突発的に情に駆られるようなわたしでは、いずれ『理想』のために蓄えたものをまた何か胸をしめつるけるような出来事のためになげださないとも限らないではないか……。
これらの出来事はわたしを深く考えこませた。
▼第六章
-
六・1
(四・3の末尾からの続き)わたしが家に入っていったとき、家にいたのは母と妹とタチヤナ・パーヴロヴナ。
住居の間取りの説明。客間の描写。かつての贅沢さの名残りとしての聖像(ヴェルシーロフはその宗教的意味を否定しているが、母にとっては大事なもの)。わたしは屋根裏部屋に住んでいる。
わたしはいつも〔括複法〕とは違って『ただいま、母さん』と言う。タチヤナ・パーヴロヴナに嫌味を言われる。
母に対する態度をめぐってタチヤナと口論になる。母はそれをはらはら見守る。
妹のリーザも入ってくる。ワーシンのことを話題にする。またタチヤナと口論に。「自分が小熊のくせに、人の作法の講釈があきれるよ」
わたしは母に今日もらった俸給五十ルーブリを渡す。
「ついでにうかがいますが……」今日裁判所で例の訴訟問題の判決があったことをご存じですか?
タチヤナびっくり。わたしにつめよる。
「そら、本人のお帰りですよ! 多分自分で話すでしょう」
廊下に足音。リーザは彼にささやく、母さんのことを思って、どうかヴェルシーロフと仲良くして……
六・2
満足の様子で入って来るヴェルシーロフ。服装描写。括複法的記述「彼はこの一年、タチヤナ・パーヴロヴナの言葉によると、服装もさっぱりかまわなくなって……」帽子を取るヴェルシーロフ。「わたしは彼が帽子をぬいだときの髪を見るのが好きだった」(括複法)。
ヴェルシーロフ、上機嫌でしゃれをとばす。
裁判に勝ったことの報告。千フランさっそく借りて来た。
リーザに内職を止めるように言い、女が働くことに関して保守的な持論を饒舌に展開する。
ヴェルシーロフ、わたしに同意を求めて、「きみは現代の青年として、いくぶん社会主義にかぶれているだろうから……」からこんどは労働論をぶつ。そのついでで、一昨日新聞から切り抜いた一つの広告に言及。〔伏線〕「『当方女教師、すべての学校の受験準備を指導し、算数を教えます』──たった一行だが、傑作じゃありませんか! これはもはや純然たる飢餓です、貧困の最底辺なのです」
さらに饒舌に。持って来たおみやげについて。胡桃も。「わたしは子供の自分からずっといまだに胡桃が好きなんですよ……」ここから子供の頃の話に。
そしてわたしの幼年時代の話に。ヴェルシーロフはわたしの子供の頃についてほとんど知らなかった。
訴訟の結果について。ヴェルシーロフの勝ちに終わったが、故人が遺言の中であのソコーリスキー公爵家の人々に触れていないのは変ですね、とタチヤナ。
いや、本当は全部彼らにのこしてわたしは除け者のはずだったのさ、故人が遺言状というものの書き方を知っていればね……でも彼らに情けをかけるのは嫌ですよ
わたしは、クラフトからもらった文書のことを考える。わたしの決意ひとつにかかっている……
ヴェルシーロフがわたしの服装に注意したことから、ちょっとした口論、そして今日の俸給の話に。それで双方とも腹を立てる。「あなたのせいでぼくは今日卑劣なことしてしまいました……ぼくはあなたとのあいだを清算しなければならなかったのです……」
訣別の雰囲気が漂う。
ヴェルシーロフが突然ついでのように言う、「きみのすべての秘密がその正直な顔に書いてあるよ。彼には『自分の理想』があるんですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ……わたしの考えでは、彼の望みは、ロスチャイルドか何かそうしたものになって、自分の偉大さの中にひきこもることですよ……」
わたしはぎくりとした。偶然にしても、なぜこんなふうに正確に言い当てることができるのか?
さらに険悪な雰囲気に。
ヴェルシーロフがこの一ヵ月のわたしの振る舞い(「わしらにむかって鼻を鳴らしとおした」)を皮肉る。彼はヒポコンデリー患者なのですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ
ぼくがどこで育ったのかさえ、知らなかったあなたですもの、──そんなあなたに、人間がなぜヒポコンデリー患者になるかなんて、どうしてわかるはずがありますか?
なるほどここに謎の答えがあったのか。きみがどこで育ったかわしが忘れていたので、きみは屈辱を感じたんだな!
ぜんぜんちがいます、そんなばかげた考えをぼくが持ちますか。お母さん、……お望みならぼくの逸話を披露しましょうか? 幸い、アンドレイ・ペトローヴィチ〔ヴェルシーロフ〕はぼくの過去をなにも知らないようですから
わたしは今宵かぎりだと思うと、すべてを言ってしまおうという気を抑えられない。
リーザがわたしの肘を突いた。
六・3
「ぼくがあなた方みなさんにありのままに語りたいと思うのは……」わたしが父親と初めて会った時のこと。
タチヤナを茶化しながら、ヴェルシーロフの横槍が入りながら、話しが進む。
わたしは六、七つまである村で育った(その時母にも会っている)。その後、モスクワのアンドロニコフ家に。五年ほどそこで暮して、その家から連れ去られるときに、わたしは初めてヴェルシーロフに会った。或る朝タチヤナ・パーヴロヴナがわたしを迎えに来て、わたしをある邸宅で行なわれる家庭劇に連れて行ったのだが、その前の日にすでにわたしはヴェルシーロフに会っていた。その時はヴェルシーロフも大変喜んだ。番の家庭劇は素晴らしいものだった。わたしは感激。だがその日の次の日にはヴェルシーロフはもう別の土地へ出かけてしまっていた。債権者に会うため。その明後日には、わたしはトゥシャールの寄宿舎へやられた。
さてどうです、話をつづけましょうか?
はじめなさい、アルカージイ、きみの新しいものがたりを……心配せでいい、わしはその結末を知っているのだよ
六・4
わたしは寄宿舎を逃げ出してヴェルシーロフに会いに行こうとしたのだった。
金銭の問題で、彼は寄宿舎で悲惨な扱いをされていた。
ヴェルシーロフ曰く、「トゥシャールをわしはちゃんとした筋から紹介されたのだったが……」
だがそのトゥシャールがわたしを小姓扱いしたのだった。ほかの生徒からも馬鹿にされた。
ヴェルシーロフは、わたしが恨み言を言い連ねるのかと思って牽制するが、「いや、ぼくはあなた方を責めてはいません、ぜんぜんちがいます、そしてトゥシャールを非難してるわけでもないのです!」
五ヵ月後に逃亡計画を立てた。暗くなってから逃げ出す。人に道を訊けばなんとかなるはず……。だが夜闇の暗さが怖くなって、結局実行できなかった。「……そのままそっと引き返して、そっと階段をのぼり、そっと服をぬいで、包みをとき、寝床に突っ伏しました。涙もからっぽ、頭の中もからっぽでした、そしてその瞬間から、ぼくは考えるようになったのです、アンドレイ・ペトローヴィチ! その瞬間に、ぼくは下男であるばかりか、そのうえに腰抜けだ、と意識して、そこからぼくのほんとうの正しい成長がはじまったのです!」
そこまで聞いてタチヤナがいきりたつ。そうですも! おまえはそのとき下男だったばかりか、今もおまえの心は下男根性です! ヴェルシーロフを責めることはお門違いですよ、ヴェルシーロフはおまえを靴屋の弟子にやることぐらい簡単に出来たんですからね……おまえはありがたいと思わなきゃいけないんだよ!……苛められたから、人類に復讐を誓ったって……あきれたやくざ者だよ!
わたしは度胆を抜かれる。
たしかにそのとおりですね……。あわただしく話をまとめはじめるわたし。じゃ、おやすみお母さん、タチヤナ・パーヴロヴナ……。そして余計なことを付け加える。「ところで、ぼくがまた卑しい下男根性をさらけだして、現在生きている妻がありながらさらに人妻と結婚してもかまわないなどということまで、ぜったい許せないなどと言いだしたら、どうしますかね? ところがこれが、エムスでアンドレイ・ペトローヴィチの身にあぶなく起こりかけたのですよ! お母さん、明日は他の女と結婚するような良人のもとにとどまるのがいやないなったら、永久に誠実な息子であることを誓っているあなたの息子あいることを、思い出してください、そして思い出したら、ぼくといっしょにここを出てゆきましょう、ただし条件は一つ、『彼か、ぼくか』です──いいですね?……」
わたし取り乱す。母蒼白。タチヤナ金切り声。ヴェルシーロフは黙って真剣な顔。リーザはなじるような目。わたしは自分の屋根裏へ引き上げた。
▼第七章
-
七・1
屋根裏の自分の部屋。鎖を断ち切ってせいせいした気持ち。
遺産に関連したあの手紙をどうしたものか。ワーシンにでも渡そうか?
わたしは寝ようとするが、思いがけなくヴェルシーロフが部屋にあがってくる。
ヴェルシーロフ、特別な目的があって来たという。問い。さっきの話は、あれだけ長々と前置きしておきながら(いや、この一ヵ月ずっと黙りとおしていて、ついに蓋をあけてみせて)、何を伝えようとしていたわけ?
別に、あれがすべてです
わたしはまだヴェルシーロフにつっけんどんな態度をとる。ヴェルシーロフはそれを宥める。これ以上母さんを悲しませるべきではないだろう、せめて母さんの前ではわれわれは和解のふりだけでもしようではないか。
……信用できませんね、あなたにはお母さんの気持ちなんかどうでもいいんですよ
ヴェルシーロフはさらに、わたしの幼年時代の苦しみやら、わたしにヴェルシーロフの苗字を譲らなかったことなどについてくどくど言うが、わたしはせせら笑う。そんなことはどうでもいいですね
ならば、きみはいったい何に対してわたしを非難するのかね?
ヴェルシーロフは先ほどの階下でのわたしの言動を非難する。それはわしに対する攻撃にならないで、母さん一人を苦しめる結果になっただけだ。ついでに、きみは私生児ではない、きみはちゃんと正式の結婚によって生れた子供だ、ドルゴルーキーだ……きみのお母さんは個人として何の罪もないのだ……彼女がヴェルシーロワを名乗らない理由は、まだ良人が生きているからだよ
もう結構です……
さらにマカール・ドルゴルーキーや母のことを話題にする。
七・2
ヴェルシーロフ自身の口で、母との関係を語り出す。「わしらの二十年のすべての関係の最大の特徴は──無言ということだった。一度も口論すらしなかったように思う。……」ヴェルシーロフは、母をこの世で会ったあらゆる女性の中でもっとも立派な女だとさえ言う。
マカール・ドルゴルーキーの話も。どうやって母を譲り受けたのか? 「わしとしては力のおよぶかぎり、人道的に処理した。」
わたしは皮肉を言う。
「ずいぶん疑り深い男だなあ、きみも……」当時彼をとらえていた美しい情熱について。現代の功利主義的な理想ではない……。
マカール・ドルゴルーキーとヴェルシーロフとの間で交わされた金銭的な約束について。その後マカールは巡礼に出かけた。……
七・3
「なぜかわからないが、そのとき不意に猛烈な怒りがわたしをおそった。総じて、わたしはこのときの自分のいくつかの突飛な言動を思い出すと、大いに不満を感じるのである。……」
もうぼくを一人にしてくれ、とわたしは言う。
ヴェルシーロフの最後の質問。きみはほんとに老公爵のところをよしたいのか?
「なるほど! そうくると思ってましたよ、あなたには特別の目的があるのだ……」
「つまりきみは、わしがここへ来たのはなにか自分の利害にかかわることがあって、きみを公爵のもとにとどまらせるようにするためだ、そう思っているんだな……」おどろいたね、きみはなんという疑り深い男だろう!〔いや、実際この疑いは当たっているはず〕
ヴェルシーロフは財政も立ち直ったことだし、わたしの援助をさせてくれと言うが……「ぼくはあなたを好きません、ヴェルシーロフ」
ヴェルシーロフはまた母との関係を弁解し始める。「……また話はもどるが、わしだって人妻〔母〕と結婚することはできなかったろうじゃないか、自分で考えてごらん」
「なるほど、それでどうやら人妻でない女と結婚しようとしたらしいですね?」
軽いけいれんがヴェルシーロフの顔を走る。
それはエムスのことを言っているんだな……階下でもそのことを言っていたが、きみは亡くなったリーディヤ・アフマコーワの事件についてはほとんど何も知ってはいない……きみは途方もないことを聞きかじりで言っているんだ
老公爵が今日言ってましたよ、あなたはまだ青っぽい少女をあさるのが好きだって……
ヴェルシーロフは出て行きかける。
わたしは、「あの文書」ことを口にする。やっとあなたの訪問の秘密の意図がわかりましたよ……「さっきぼくは、タチヤナ・パーヴロヴナにあてたトゥシャールの手紙が、アンドロニコフの書類にまじって、彼の死後、モスクワのマーリヤ・イワーノヴナのところで見つかったと、ちらと言いましたね。ぼくはそのときあなたの顔にちらとなにかけいれんのようなものが走ったのを見ました、そして、今またそれと同じようなけいれんが、ちらとあなたの顔をかすめたのを見て、やっと思いあたったのです。さっき、階下で、とっさにあなたの頭に来たのは、アンドロニコフの手紙の一つがマーリヤ・イワーノヴナのところで見つかったとしたら、どうして他の手紙もないわけがあろう? とすると、アンドロニコフの死後に重要な手紙も残されたはずだ、という考えでしょう? ちがいますか?」
ヴェルシーロフの顔が蒼白に。
それはきみが自分で推量したのじゃあるまい、これにはある女の暗示がある点手んだからきみの言葉に、きみの粗雑な推量に、これほどの憎悪がこもっているのだ!
「気をつけることですね、ヴェルシーロフ、ぼくを敵にまわさないように!」
ヴェルシーロフ部屋を出て行く。まったく、この一ヵ月わしはきみを気のいい男だと思っていたんだからなあ……ところが、たいへんな思いちがいだったよ!
七・4
わたしは一人とりのこされると、憂鬱になる。なんのために自分はあれほど彼を辱めたのか……。「彼がひじょうにわたしを愛した瞬間が、ときにあったような気が、わたしはいつもしていた。なぜ、なぜ今わたしはそれを信じていけないのか、ましてすでにこれほど多くのことが、今はもうすっかり明らかにされたではないか?」
また、自分が過失を犯したのではないかという疑問も。アンドロニコフの手紙のことを自分から言い出したのは、却って彼のその手紙の行方を具体的に考えさせる結果になってしまったのではないか?
▼第八章
-
---------------------------------------------------------------2日目(九月二十日)
八・1
翌朝。八時にもう家を抜け出していた。行動のプランはもう決まっている。
まずエフィム・ズヴェレフをつかまえる必要があった。出かけようとしているところの彼をつかまえる。
相談内容は、一年前にエムスでヴェルシーロフに頬打ちの侮辱を加えたことに関して、父にかわって、近衛中尉ソコーリスキー公爵に決闘を申し込むつもりなのだが、そのための介添人&使者を頼むこと。
しかしなぜきみがヴェルシーロフの問題に介入するんだ?……
何かこまごまと理由をつける。ヴェルシーロフは彼のためなら生命もなげだそうとする人間のいることを知るであろう……彼と永遠に別れようとしていながらも、なお……
そんなことはみんなくだらん、と無下に扱う。そもそも、ドルゴルーキーがヴェルシーロフとどういう関係なのだ?という意地悪をエフィムは言う。
語り手「エフィムはそのくだならさといえ、役にたたないことといえ、実にいやな男だった。ところがその彼が後にかなり重大な結果をもたらすことになったのである。」〔読者の興味を惹きつける先説法〕
八・2
エフィムのところを追い出されてから、コーヒーを飲みに料理店へ。
次はワーシンの住居。十二時に着く。遺産に関する手紙の問題で、ワーシンの判断を仰ぐため〔伏線〕。ワーシンに尊敬を示すことにもなるし。「すると不意にこんな考えが頭にきた──わたしは自分の行動に対する助言をあれほど渇望しながら、ここへ来たはずなのに、実は目的はただ一つ、そのことによって自分がどれほど高潔で私心のない人間であるかを彼に見せつけ、同時にそれによって昨日彼のまえで自分を下げたことへの復讐を彼にしてやりたいということではないのか。」
この考えによってわたしは腹立たしくなる。ワーシンはいなかったので、やむなく待つことにする。ワーシンの部屋の中の描写。それも気に入らない。
一時間以上待つ。すると不意に、どこかすぐそばで、ひそひそささやく声が聞える。突然異常な唸り声と悲鳴。わたしは廊下へ出る。わたしのいた部屋のとなりのドアが開いて若い女がとびだして行く。その部屋の中には、初老の女がとりのこされている。「オーリャ、オーリャ、どこへ? ああ!」
また部屋へ戻る。十五分ぐらいして、ワーシンの部屋のドアが開いて、見知らぬ長身の紳士が姿を現わす。不遜な男。表情が散漫。
わたしはこの紳士がワーシンの義父のステベリコフだろうと思い当たる。わたしはすでにそのよくない噂を聞いていた。
ステベリコフとの会話。相手は薄笑いしながら話す。くだらない話ばかり。相手はわたしが何者か知っているらしい。「ヴェルシーロフ! まんまとせしめたじゃありませんか、うまいことやりましたな! 昨日判決があったんでしょう、ええ?」
わたしは驚く。相手は痛快そうにわたしを見る。
まあ、ヴェルシーロフのことならわたしに訊くんですな!……一年半ほどまえ、あの赤んぼうをつかって、彼はみごとな大仕事をやりとげることができたはずだったが、惜しいところでへまをやって、結局だめでしたな……
赤ん坊?
もちろん、彼の子供のことですよ、マドモアゼル・リーディヤ・アフマコーワに生ませた……
ばかな!
わたしは呆然とする。
さらにステベリコフはヴェルシーロフの話をつづける。「……もしヴェルシーロフのことをもっともっと知りたかったら、わたしの家へ来ることですな」
ちょうどその時不意不意にドアがなって、誰かが隣室に入っていったらしい。女の大きな声が聞える。「ヴェルシーロフはセミョーノフスキー連隊のそばの、モジャイスカヤ街リトヴィーノワ・アパートの十七号に住んでるわよ、わたし自分で警察の住所係へ行って調べてきたのよ!」〔タイミング合わせ。新聞の広告の切り抜きという伏線は張ってあったが〕
おやおや、こちらで噂をしてたら、もうあちらでも……
わたしはまた驚く。ステベリコフは隣室の声に聞き耳をたてていたが、我慢できなくなり隣室へ行く。「重大な用件があってうかがった者です、ぜひお目にかかりたいのですが……」ドアが開く。話し声を聞いていると、ヴェルシーロフがどうのとか、知っていることはすべて教えますとか。部屋の内部へ通される。わたしにいは全部は聞き取れない。若い女の声は何かを訴えている様子。だが十分ほどすると二人の女の叫び声が炸裂し、ステベリコフは追い出される。『出てゆけ! このごろつき、恥知らず!』
わたしも廊下へ飛び出る。ステベリコフは捨てゼリフのように、「これがヴェルシーロフの息子ですよ!」と言う。
若い女は狂憤している。「息子ならどうだというの……あなたがヴェルシーロフの息子なら……わたしがこう言ってたとあなたのお父さんに伝えてください、あんたはごろつきです、軽蔑すべき恥知らずです、わたしはあんたの金なんか要りませんって……」
ドア閉まる。
ステベリコフは考え込んでいる。
これはどういうことです?
ふん、あほな! 処女を失った娘ってなとこさ……
ステベリコフはふん、くそめ!などと言いながら出て行く。
わたしももうワーシンを待たず、おかみにドルゴルーキーが来たことの連絡を頼んで、外へ。
八・3
わたしは貸間を探してあるいた。だが暗くなるまで歩き回っても、良い物件が見つからなかった。安食堂で食事。
しかしわたしの腹はもう決まっていた。ヴェルシーロフに遺産に関する手紙を渡し、荷物をまとめ、今夜は宿屋へ泊るのでもいいから、家を出るのだ。
「ところが、もう工芸専門学校のまえを通りすぎようとしたとき、なぜかわたしはふっとタチヤナ・パーヴロヴナの家に寄ってみようという気になった。……」〔プロット展開のための重要なトリガー〕なぜだろうか。自分でも分からない。タチヤナと『赤ん坊』のことで口論でもしたかったのか。
ベルを鳴らすと女中のフィンランド女が出てきて、ものも言わずにわたしを室内へ通す。「ここでこまごましたことをくどくど述べるのは、今後の推移にあれほどまでも大きな影響をもつことになったあのような狂気じみたできごとが、どのような経過をたどって起こりえたのかということをわかってもらうためである。……」〔読者の興味を惹く先説法〕坐らないで二三分待つ。タチヤナの住居の描写。次の間が寝室で、厚いカーテンで仕切られている。女中が何も言わなかったので、タチヤナはそこからいまにも出て来るのだろう、とわたしは考えた。
「こうして、わたしはすこしも怪しまずに待っていると、不意にベルが鳴った。」話し声で二人の婦人の客が通されたのが分かる。というか一人はタチヤナ・パーヴロヴナで、もう一人は──『昨日の女』だった!〔タチヤナとカテリーナが知り合いであることはすでに暗示されていた〕 わたしはどうしたらよかったのだろうか? 「今でさえどうしてあんなことになったのかまったく説明ができない」のだが、わたしはとっさにカーテンのかげへ飛び込んで、タチヤナの寝室に隠れていた。それと同時に、婦人たちが入ってきた。というかなぜわたしは隠れたのか?……とっさに、完全に無意識にそういうことになったのだ……。〔無意識の陰謀〕
寝室には台所へ抜けるドアがあった。災厄からの出口! ところが、ああ、ドアは鍵が下りている……。こうなると、いやでも盗み聞きしなければならない。会話の調子から明らかに秘密の話であることが分かる。「あの手紙はアンドレイ・ペトローヴィチ〔ヴェルシーロフ〕の手元にはありませんのよ……そんなことはもさっぱりとお忘れになってしまいなさい……」「手紙はありますわ、そして彼はどんなことでもしかねない男ですわ……」みたいな話。「昨日父のところへ行ったら、まっさきに出会ったのが彼が父につけたスパイじゃありませんか……」「スパイですって、とんでもございません、あの田舎者はまるきりのばかですのよ……」とわたしのことも話題に。カテリーナはマーリヤ・イワーノヴナが嘘を言っていると確信している。だからあの不幸な手紙はどこか危険なところにあるのだ……。マーリヤはぬけぬけとこちらにいるクラフトとかいう男に会えと勧めたらしい。「ところが、クラフトは拳銃で自殺してたのよ! 昨夜!」
これでわたしは寝台からとび降りる。彼はずっと息を殺して待っているつもりだったのだが、クラフトのことを聞くとがくがく震えて、我慢できなくなった。彼はカーテンを上げて二人の前に立った。
大騒ぎ!
「おまえどこにいたの?」
「やっぱりスパイだって言ったでしょう!」
「嘘だ! でたらめだ! あなた方ときたら陰謀の中に住み、虚偽、欺瞞、姦計のまわりをうろうろして……もうたくさんです!」
あなたは笑ってますね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、たぶんぼくの容姿がおかしいのでしょう……。なんでこんなところに隠れていたか弁解する。あのフィンランド女が悪いのですよ……女の寝室からとびだすことがぼくにはなんとも不体裁なことに思われて……あなたはまた笑っていますね、カテリーナ・ニコラーエヴナ?
出てゆけ、出てゆけ!とタチヤナ。
もうたくさんです、……ぼくのどこに罪があるのです? ましてぼくはあなたのお父さまのところの勤めは明日でやめるのですから、あなたがおさがしになっていらっしゃる手紙の件は、もうご安心なさって結婚です!
それはなんのことですの?……どの手紙のことをあなたは言ってますの? カテリーナうろたえる。
わたしは部屋を出る。わたしは二人に謎をかけたのだ……
▼第九章
-
九・1
家路を急ぐわたし。いろんな考え、感情が湧いてくる。
わたしが門に入らないうちに、きんきん声を立てている女が目に付く。「○○はどちらですの?……」〔タイミング合わせ〕
「ぼくはその○○へ行くのですが」とわたしは彼女に話しかける。「……あなたはぼくがわかりませんか?」
ヴェルシーロフに会いたいのでしょう? 彼に用があるのですね、ぼくもですよ
あなたはあの人の息子さんでしょう?〔これでこの女性がさっきの「オーリャ」だということが間接的に分かる〕
仮に息子だとしても、ぼくはドルゴルーキー、私生児ですよ……あの男には私生児は無数にいますよ……良心と名誉の要求があれば、実の息子だって家を出るでしょうよ……〔オーリャにこう告げたということ自体が伏線〕
家の中へ。ヴェルシーロフがいる。母と妹も。「わたしは外套もぬがないで入っていった。彼女もである。彼女はおそろしくみすぼらしい服装をしていた。……」ここでオーリャの身なりの描写。
まず女から話し出す。あたしいろいろと考えてみました……どうしてあなたが昨日あたしに金をくれようという気になったのか……。わめく女。いきなり金を投げつけるようにヴェルシーロフに返す。母に向かって、この男は家庭教師や女教師がなけなしの金をはたいて新聞に出した広告を切り抜いて、そうした不幸な女たちをさがし歩き、金を餌にして恥ずべき堕落を強い、不幸におとしいれているのです……、と告発。
ごろつき、悪党!とののしって女出ていく。
わたしは「あれが『算術を教えます』という昨日の女教師なんですね?」と訊く。
そう、その女だよ。一生に一度いいことをしたのに……ところできみの用事は?
クラフトから手渡された手紙をヴェルシーロフに託す。ヴェルシーロフがそれを読んでいる間に、わたしは屋根裏で荷造りして出発する準備を整える。妹が屋根裏部屋に入ってくる。
別れの挨拶。どこへ? とりあえず宿屋へ……。あんな不幸な女を連れて来たりして、兄さんは恥ずかしいと思わないの! 誓って言うけど、ぼくは門のところで会っただけなんだ。 いいえ、よく考えて、自分に訊いてみるといいわ、そしたら兄さんが原因だってことがわかるから……。
「ぼくはただ、ヴェルシーロフが恥をかかされたのが、無性に嬉しかっただけさ。おどろくだろう、彼にはリーディヤ・アフマーコワに生ませた乳呑み児までいるんだぜ……」
何言ってるの? そんな誹謗をどこから聞いたの? 兄さんはなにも知らないくせに、アンドレイ・ペトローヴィチを、そしてお母さんまでも侮辱したりして……
まあいいさ……
わたしはソコーリスキー公爵と決闘するつもりだと口にする。するとリーザが蒼ざめる。
わたしは辻馬車を呼ぶ。荷物を運び出す。
ワーシンのところへ向かう。
九・2
なぜ? ワーシンはクラフトの自殺のことをもっと詳しく知っているかもしれないと思ったので。はたしてそのとおり、ワーシンは詳細を彼に語ってくれた。クラフトの自殺についての会話(最初要約法、後半情景法)。
わたしにはワーシンがクラフトに対して冷淡なように思われる。どうもワーシンはクラフトの自殺は理性の弱さからだと考えているらしい。
「……ぼくはあなたに不満です! ぼくはクラフトがかわいそうです」
わたしは一晩泊めてくれるように頼む。それから手紙をヴェルシーロフに渡したこと、オーリャの一件、ステベリコフのことを話す。
ワーシンが語る隣室の女たちのこと。三週間ほどまえに地方からやってきた。どうみても非常に貧窮しているらしい。ヴェルシーロフが訪ねて来たことはある。それはワーシンが留守のときのことで、彼はそれをおかみから聞いた。
ステベリコフが語った『乳呑み子』について。それは間違っている、赤ん坊がヴェルシーロフの子供であるというのは、彼の推測にすぎない、実際は違う。
わたしはしつこく聞いて驚くべき事実を知る。その子供はセルゲイ・ソコーリスキー公爵の子供? それを引き取ったのはたしかにヴェルシーロフだが。そしてヴェルシーロフがリーディヤ・アフマコーワに結婚を申し込んだというのも事実のようだ。〔さまざまな認識レベルの存在〕
しかし、その公爵はなんてやつだ!……
だがワーシンは公爵を弁護する。ここにはいきなり卑劣とかたづけてしまわれない要素がたくさんあります……
ワーシンの公爵評。誠意は十分にあるが、行動においては軽薄、自分の欲望を制御するだけの理性もない……。(公爵はわたしの妹とも親しくしていた?)
それにしても一年前の事件はますます謎だ。妹もその事件に関わっていたのか? 母は? ヴェルシーロフが結婚を申し込んだのが本当だとしたら、母は自分の良人を他の女にゆずることを認めたというのか?
ワーシンにもこうした問題の判断はつかない。
わたしはソファに寝床を敷いてもらって、横になる。長いこといろいろ考える。
九・3
「たしかに考えることがたくさんあった。……」
カテリーナ・ニコラーエヴナのこと。
わたしは隣室の娘との件で、ヴェルシーロフが色魔の役割を演じたことを信じて疑わなかった。
夜の十二時。
---------------------------------------------------------------3日目(九月二十一日)
九・4
眠りに落ちてから二時間ほどたって、わたしははね起きる。隣室からものすごい叫び声や泣き声。聞えるのは初老の女の声だけらしい。ワーシンが慌しく入ってくる。どうしたんです? あの若い娘が、部屋で首を吊ったんだよ!〔たまたま主人公が居合わせている時に。プロット上のタイミングと場所の制御〕
わたしは廊下へ走り出たが、隣の部屋へ入ってゆく勇気がなかった。間借り人たちは残らず集まっていた。
わたしは明け方までふるえどおしで、横にならず起きていた。わたしはおかみを説得して、初老の女(母親)を一人きりにせずおかにも部屋へ移すべきだと言った。わたしもおかみの部屋にずっと座り込んだ。最初の慟哭の発作がすぎると、不幸な母親は自分からすすんで語り出した。初老の女の描写。
九・5
不幸な母親の話を要約。
夫死亡。死後に何も残らなかった。だが夫がこのペテルブルグの商人に四千ルーブリ貸して、それがそのままこげつきになっていた。証文はあったので、その請求をしにオーリャとこちらへ来た。
ところが商人はまったく彼女らを相手にしてくれない。弁護士に相談しても金を無駄にしただけ。オーリャは恐ろしいほど憤懣を溜め込んでいた。
今度はオーリャ自ら承認のところへ。今度は「なんとか考えておく」という返事だったが、要するに身体を売れば五十ルーブリやろうとかいう話。娘激怒。しかしいよいよ金が底をつく。オーリャ新聞に広告を出す。
つい四日前、ある女が家庭教師の広告を見てやってきたという。姪の勉強を見てくれ……さしつかえなければ家へいらしてください、あちらでご相談しましょう……。オーリャは喜んで出かけていったが、二時間たって真っ青になって帰って来た。その女は娼家の女で、それを知ったオーリャが帰してくださいと叫ぶと彼女を殴り、『とっととお帰り、なにさ、食うに困って、自分でたのみに来たくせに、おまえみたいなぶす見たくもない!』と怒鳴ったという。オーリャ、ヒステリーの発作を起こす。三日目にようやく気がしずまったころ、ヴェルシーロフがやってくる。
オーリャは人を信じられなくなっていたが、ヴェルシーロフの態度が真剣な、いかめしいほどの態度だったので、とりあえず言うことを聞いた。新聞に出した広告文は書き方がおかしいということから始まって、熱心に色々な話をした。ヴェルシーロフは女学校の校長にも知り合いがいるというのだ……。家庭教師の口をわたしが見つけましょうとのこと。「今わたしになにかあなたのお役にたつことができませんでしょうか? なにかあなたのお役にたつことをさせていただけますと、わたしがあなたにではなく、その逆に、あなたがわたしに、そのことによって満足を感じさせてくれることになるのです。……」など。オーリャは感激。ヴェルシーロフは当座の金として六十ルーブリ置いて去る。だがやがてオーリャは悩み始める。六十ルーブリは受けとるべきではなかったのではないか? あの男は実は娘を辱めようとしているのではないか? 段々疑いは確信に変わる。『きっとそうだわ、あれは卑劣な男だわ!』 翌朝、娘はあの金を返しに行きたく思うが、ヴェルシーロフの住所が分からない。警察の住所係へ行って調べて戻って来る。そこへちょうど『ヴェルシーロフのことならよく知ってますよ』とのたまうステベリコフが入ってきて、ヴェルシーロフのことを色魔のように言い立てる。こうしてオーリャの悪意が確証された(その後ステベリコフも恥ずべき『援助』を申し出て追い出された)。その日の夕方、オーリャはヴェルシーロフに金を投げつけて戻って来る。『お母さん、恥知らずな男にしかえしをしてやりましたわ!』その夜、自殺。
〔一行空き〕
もう午前五時。
ステベリコフがいなかったらこんなことにはならなかったかも……とわたしは考える。
わたしは四時間ぐらい眠る。
▼第十章
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十・1
午前十時半ごろに目をさます。なんと部屋にはわたしの母が、自殺した不幸な娘と並んで坐っていた。ドアが開いてワーシンとヴェルシーロフも入って来た。
話のつづきのようにヴェルシーロフ語り出す。残念だ……昨夜のうちに娘の誤解をとき、すべてを解決しておけば……しかしいまいましい用事〔遺産に関連した手紙〕に邪魔されて……一生に一度やった善行のつもりだったのに……
ヴェルシーロフは出て行った。わたしはじっとしていられない気持ちで外へ出た。下宿を探す。希望にぴったりの部屋を見つけて、午後一時ごろトランクを取りにまたワーシンのところへ戻って来る。
ワーシンは部屋にいて、わたしにある事実を知らせたいという。クラフトが保管していて昨日ヴェルシーロフにわたった手紙があるのだが、その手紙に基づいて、昨夜まっすぐにソコーリスキー公爵の弁護士のところへ出向いて、せっかく勝った遺産を全部拒絶したというのだ。
わたしは唖然とする。ヴェルシーロフが手紙を湮滅してしまうものと勝手に信じていたので。『あんな男』は『わたしが憧憬していた心正しい人ではなかった』というわけで。だが今ヴェルシーロフの勇気ある行為をきいて、わたしは感動。
その感激を口にするが、ワーシンはそれに同調はしなかった。いきなりすべて拒絶するというのは早計だったのではないか……示威がありはしないか……こんなふうにしなくてもよかったのではないか……
わたし曰く「でもね……ぼくはこのほうが好きなんだよ!」
その後もややはしゃぎ気味に会話をつづけ、気持ちよくワーシンと別れる。
トランクを新しい住居へ運び込む。
わたしはその足で老公爵のところへ向かった。
十・2
二日ぶりの面会。老公爵は喜んでわたしを迎えた。
「ヴェルシーロフはどうです! お聞きになりましたか?」
もちろん老公爵は聞いていた。あれは実に高尚な、尊いことだ……
ヴェルシーロフの話。カテリーナ・ニコラーエヴナの話。二人は敵同士?……
「……でもよしましょうこんな話……」
「よそう、よそう、わしもこんな話はよしたほうが嬉しいのだよ……」
そこへ、セリョージャ公爵=若い士官が入って来る。外貌描写。美しい。決意に充ちた目つき。柔和でやさしい表情になることもできるが、心底からの陽気さというものがない。
二人は互いに紹介される。
ぼくは去年ルガであなたのお妹さんのリザヴェータ・マカーロヴナとお近づきになる喜びを持ちましたが……、と公爵。相手が喜んでいるように見えたのでわたしは驚く。
わたしは、公爵に決闘を申し込むつもりだったことを口にする。一年半前にエムスでヴェルシーロフに加えられた侮辱を理由に。
公爵は自分の真情を語る。ぼくはもうかなりまえからエムスにおける自分の不幸な行為を深い悔恨をもって見ていることを、名誉にかけてあなたに言明します……。しかしぼくはあなたにお知らせしなければならないことがある──そのために老公爵を訪ねたのでもあるのだが──三時間前、アンドレイ・ペトローヴィチの代理人がぼくの家に現われ、エムスの事件にもとづく決闘申し込みの正式の書面を届けたのだ……
わたし驚愕。
で、一時間後にまたヴェルシーロフの手紙が届き、さっきの申し込みを忘れてくれ、『小心とエゴイズムの瞬間的な爆発』を後悔している、と書いてよこした。この件の相談で老公爵のところへ来たのだ。
わたしは公爵の態度に誠心を見て、完全に相手を信頼した。二人は握手。
公爵と老公爵は五分ほど席をはずして話し合ってから、また戻って来た。公爵はわたしを自分の家へ招待した。
そうした二人の様子をみて老公爵も上機嫌。
十・3
セリョージャ公爵(セルゲイ・ペトローヴィチ公爵)は軽馬車でわたしを自分の住居に案内した。上流社会の人らしい豪華な住まい。わたしは自分の身なりが恥ずかしくなる。
ヴェルシーロフの手紙を巡っての会話。決闘の撤回のこと。ワーシンのこと。わたしが父の代わりに決闘を申し込んだことを滑稽と思うか?……等々。
わたしは公爵のおくゆかしさに圧倒される。ほんとうにこの公爵はわたしをいささかも滑稽だと思っていないのだろうか?……
公爵が席を外す。それが長くかかったのでわたしはもう帰ろうと思って、間違って入って来たのとは別のドアを開ける。なんとそこにソファに坐っている妹のリーザ。わたしは急いでドアを閉めた。戻って来た公爵に別れの挨拶をして、急いで辞去。
十・4
街中へ出て、足の向くままに歩く。うしろからリーザが追いついてくる。なにやらひどく楽しそう。
会話。なぜ公爵のところにいたのか? アンナ・フョードロヴナのところを訪ねて。アンナ・フョードロヴナ(ストルベーエワ夫人)というのは、ヴェルシーロフの遠い親戚にあたり、母もすでに知り合い。またセリョージャ公爵の祖母でもあるのだ。公爵自身が、ストルベーエワ夫人のところに住んでいる。さっきの家は夫人ものだった。
わたしも上機嫌になってくる。兄妹として和解する。リーザは思ったより多くのことを見抜いていた。わたしにとってヴェルシーロフがどんな大きな意味をもった存在であるかも。「あら、どうして知らないというの、すっかり知ってるわよ」
さらに言えば、「ヴェルシーロフか、僕か、どちらかだ!」なんて言葉がどうせ不発に終わるだろうとも予想していた。「あたしとお母さんは、よくひそひそ話し合ったものよ、『なんて変わり者でしょう、ほんとにおもしろい変わり者だわ!』なんて。ところが兄さんたら、それを知らないで、ほらあいつらびくびくしてるぞ、なんて考えていたんでしょう」
「へえ、おどろいたコケットさんだ!」
わたしは別れ際、リーザに新しい住居のアドレスを渡した。
十・5
なにもかも丸く収まったように思われるが、一つだけ気がかりなこと。
わたしは昨日、家の前でオーリャに会った時、「ヴェルシーロフには私生児がわんさといる」などと言った。息子が父のことをこんなふうに言えば、当然ヴェルシーロフに対する彼女の疑惑を高めたことになるだろう。ステベリコフ以上に、彼女の侮辱の火に油を注いだ主犯はわたしではなかったろうか?
この考えはながく疼いた。『なにかで埋め合わせをしよう……なにかいいことをして……ぼくの前途にはまだ五十年も人生があるのだ!』