▼第一編
- -------------------------------------------------------------1日目
1
十一月末、朝九時、ペテルブルグ行きの列車の三等車。
窓際に向かい合って坐っている若い二人。口をききたそう? 一人は二十七歳の青年、「灰色の目は小さかったが、火のように燃えていた」。浅黒い顔。不遜。がっちりした体格。憔悴。もう一人は二十六、七歳の青年。ブロンド。「その大きな空色の瞳は、じっと一点を見つめており、その眼差しの中には何かしらもの静かではあるが重苦しいものがただよい、人によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちであることがわかる、あの奇妙な表情にあふれていた。」寒そう。
寒そうだね?という問いから会話開始。ブロンドの青年は外国帰り。病気の療養で四年もロシアにいなかった。
横にすわっていた男が「まったくそのとおりですな!」と同意する形で話に口を挟んでくる。四十がらみの小役人の風体。
ブロンドの青年の恩人で仕送りしてくれていたパヴリーシチェフは二年前に亡くなった。ロシアの遠戚にあたるエパンチン将軍夫人に手紙を書いたのだが返事はなく……。つまり、今、彼は一文無し。二人の聞き手は笑い転げる。青年は笑われても気を悪くする風もなし。
だが役人がエパンチン将軍夫人という名前を聞き逃さない。本当に親戚なのか? いや、ほとんど他人と言ってもいいくらいで……
この役人はパヴリーシチェフのことさえ知っている。「このような物知り紳士には、ときどき、いや、かなりひんぱんに、ある特定の社会階層においてお目にかかれるものである。」事情通。
浅黒い顔の青年はそわそわしている。「何か心配事でもあるのか、見た目にも奇妙な様子にさえなってきた。ときには聞くことも耳にはいらず、見ることも目にはいらなかった。また、ときに笑いだすことがあっても、何を笑ったのか、自分でもわからなかったし、思いだすこともできなかった。」
役人がブロンドの青年に名前を聞く。ムイシュキン公爵。
役人はこれも一応知っている。だがムイシュキン公爵家の者はもう居ないはずだが。
自分と、エパンチン将軍夫人が一門最後の者なので。
浅黒い顔の青年がいきなり、「ロゴージン家を知っているかね?」
この青年がロゴージン。役人は当然ロゴージン家を知っている。一月ばかり前に亡くなって遺産を二百五十万残した名誉市民セミョン・パルフョノヴィチ・ロゴージンの家の者? そんなことまで知っている。凄い財産がもう直ぐ手に入りますね?
そんなことお前には関係ないだろ。
公爵に自分の身の上を語り出す。五週間前に親父のところから伯母のところへ逃げ出した。そこで熱病で寝込んだので、親父の死に目に会えなかった。弟のせいだ。
「ロゴージンはとくに好んで公爵を話し相手に選んだ。もっとも話し相手がほしかったのは、精神的な欲求からというよりもむしろ機械的なものらしかった。つまり、気さくなためというよりも、むしろ落ちつかない気分のためで、不安や興奮に耐えきれなくなって、ただもう誰でもいいから人の顔をながめ、なんでもいいから舌を動かしていたいという気持からであった。」
ロゴージンはナスターシャ・フィリポヴナの件で親父に怒られた。
ナスターシャ・フィリポヴナ──これも役人は知っている。姓はバラシコーワ、身分は高く公爵令嬢といったところ、トーツキイという財産家と特別な関係にある……。
この野郎、ほんとに知ってるじゃねえか。
なぜ知っているのか? リハチョフと一緒に旅をしていた時に会ったことがある……。リハチョフ風情ではナスターシャを口説き落とせなかったが。
そのとおりなんだ、とロゴージンは話を受ける。ロゴージンもたまたま通りでナスターシャを見て一目でいかれてしまったのだが、まだ親がかりの身で、手を出しようがなかった。知人に聞いた話では、あの女は今トーツキイと一緒になっているとはいえ、トーツキイが五十五歳の身でペテルブルグ一の美人と結婚しようとしている〔伏線〕ので、別れるかもしれない。彼女にいかれたロゴージンは、親父から使い走りとして渡された額面五千ルーブルの債権二枚を、勝手に換金してダイヤモンドのついているイヤリングを買い、ナスターシャのいるホールへ入って行って、プレゼントしたのだった。さて、親父になんて言い訳すればいいのか? 聞いている役人も身震いする。故人は物凄い吝嗇だったから。
むろん親父に説教される。親父はその後ナスターシャのところへ出かけていって土下座して返してくれと頼んだそうな。その間に母親の気転で、ロゴージンは汽車で伯母のところへ発った。
だが、今となっては、ナスターシャ・フィリポヴナも色よい返事をいたしますぜ、と小役人。
汽車が停車場につく。ロゴージンは公爵を気に入った? おれのところへ来いよ、と言う。とびきりの服を仕立ててやるよ。それからナスターシャ・フィリポヴナのところへ行こうぜ。
ありがとう、時間さえあれば、今日明日のうちに伺うかもしれません。
ところでおまえは女好きかね?
いや、自分は生まれつきの病気で、まったく女というものを知らない。
神さまはおまえさんみたいなのをかわいがってくれるのさ。
レーベジェフはロゴージンの後についていく。公爵はリテイナヤ街のほうへ。
2
エパンチン将軍はリテイナヤ街の自分の持ち家に暮していた。エパンチン将軍の財産状況、地位について説明的ディエゲーシス。教育はないが如才ない。五十六歳で、健康そのもの、まさにこれから男盛り?
将軍の家庭について。夫人と三人の娘。夫人はムイシュキン公爵家の出で、由緒の古い家なので生まれのために自尊心が強かった(という説明では、彼女のエキセントリシティの何事も説明しないな)。夫人は何人か身分の高い貴婦人を庇護者として持っている。
三人娘、アレクサンドラ、アデライーダ、アグラーヤは長女二十五歳、中の娘二十三歳、末娘は二十歳。三人とも美人。末娘が一番美人だが。社交界とは距離を置いている。結婚に対して悠長に構えているのが、多少社交界からは特異に見えて目立った。三人娘が読破した書物の量をさも恐ろしいことのように吹聴する者もいた〔伏線〕。
公爵が午前十一時頃、将軍家のベルを鳴らす。急用のために将軍にお会いしたい。身なりが粗末なので、召使にうさんくさい目で見られる。
応接間で待てと言われたのに、控室で召使と話したがる。召使不信に思う。
あなたは本当にムイシュキン公爵なんですか、と尋ねたくなる。
そう尋ねたくなるのも当然ですよ、こんな服装なんですから。でも嘘ではないです。
煙草を吸っていいか、とムイシュキンが言うので召使怒る。
あなたは当家に逗留するつもりなのか?
いいえ、ただお近づきになりたいだけで。
ならなぜ用事があると言われたのか?
いや、用事というほどじゃないが、ちょっとご意見を伺いたいことがある。〔伏線〕もっとも肝腎なことはご挨拶に上がったということだ。エパンチン将軍夫人もムイシュキン公爵家の出で、自分もそう。そう取り次げば、夫人は会ってみたいとお思いになるだろう。
言い方があまりに飾り気がないので、この相手はただのおばかさんかと召使思う。
直接将軍に取り次ぐのでなく、秘書にまず引き渡す。その秘書というのは「ガヴリーラ・アルダリオノヴィチさま」。じきに見える。
雑談。ロシアの冬の部屋の中は、外国よりかなり暖かいという話。長いこと外国に? 四年ばかり。聞くところによると、最近はやたらに新しいことが多くなって、みなもう一度改めて勉強しなおしているということじゃないですか……近頃裁判についてもいろいろ言われている……
外国では公正に裁判をやっているか? さあ、だが、ロシアには死刑がないが、フランスにはある。それを見た。ギロチンでの処刑。あんなむごたらしいことを……。人が人を殺したからといって、その人を殺してもいいものだろうか。話しているうちに活気付いてくる。召使も興味を持ち始めたのかもしれない。
ギロチンは痛みはないが、いちばん強い痛みというものは、傷なんかの中にあるのではなくて、自分があと十分たったらもう二度と人間ではなくなるんだということを、確実に知ることのなかにあるのではないか。判決文を読みあげて人を殺すことは、強盗の人殺しよりも恐ろしい。なんとしても人間をそんな風に扱ってはならない。〔ここで、もし死刑の宣告を読み上げられてさんざん苦しめられたあげく、許された男がいたとしたら、そういう苦しみを話してくれるだろう、と言うのだが、ムイシュキン自身そんな男を実際に知っていることが、後に明らかになる。〕
召使も話を理解し、感動。煙草を吸ってもよいという。
ところがそこへ秘書が入ってくる。召使から話を聞く。「あなたがムイシュキン公爵でいらっしゃいますか?」(「その眼つきは、とても快活で見るからに正直そうであるにもかかわらず、なぜかあまりにじっと動かず、何か探りをいれているように思われるのだった。」)
公爵は、この人は一人でいるときには笑うことなんか決してないのかもしれない、と直覚する。
秘書はムイシュキンが出した手紙のことも知っていた。閣下へお取次ぎします。
ちょうどそのとき、書斎から客が出ていく。代わりにガヴリーラが呼ばれる。ガーニャあわてて書斎へ。二分ほどたつとまたドアが開いて、公爵が呼ばれる。
3
エパンチン将軍は好奇心の表情。公爵は名前を告げる。
で、どんな用件で?
お近づきになりたいので。たったいま汽車をおりてきたばかりで……。
何か目的があるのでしょう?
特別の目的はありません。
私達のあいだに共通点というか、因縁というものがありますかな、見出せないのですが……
特にないです、奥様と私が同じ一門の出だということ以外には。一つの用件もあるのだが、そもそもそれをどこへ相談したらいいかも分からない。
宿はどこへ? 宿はとっていません。私を頼ってきたのでは? いえ、そういうお招きがあっても、ご厄介にはならないでしょう。
となると、もうこれ以上何も話すことはない……
ではおいとますることになりますね。ではごきげんよう。
その時の公爵の眼差しがきわめて優しかったので、将軍はこの客をなんとなく違った目で見始めた。家内が同族のあなたと会いたいと申すかもしれないので、お待ちになりませんか。私は忙しいので、いまもまたこれから机に坐って仕事をしなければなりませんが……
そして公爵について色々訊く。財産は? 仕事はどうする?
何もない。お金もない。そこで用件があって、相談に乗っていただきたいのだが……〔伏線〕
それをさえぎって、当分のあいだどう生活するつもりなのかと訊く。働く。何か才能とか技術とかお持ちか?
さらに深く色々と訊ねる(要約法)。公爵はすっかり物語る。パヴリーシチェフのことから、一切合財。度重なる発作で白痴のようになってしまったが、一応教育はなされた。その後、白痴の治療でスイスにやられたが、その間にパヴリーシチェフは遺言も残さずに死亡。だがスイスの医者は彼をなお二年ばかり養って治療につとめてくれた。まだ全治していないが、このたび、急にある事情がおこったので〔伏線〕、医者は彼をロシアに帰すことにした。
将軍びっくり。じゃ、ロシアにまったく一人ぼっちなのですか?
いまのところは。ただ手紙を一通受け取りましたので……〔伏線〕
またさえぎる将軍。何か勉強はしたのか。職につくためには必要だが。
読み書きはできる。「筆跡ならすばらしいものですよ。きっと、私の才能はこれにあるのでしょう。」ためしに書いてごらんにいれるという。
将軍、公爵の気さくさを気に入る。
将軍、ガーニャに言って公爵にペンと紙を渡させる。それを命じたとき、ガーニャは自分の鞄からちょうど大判の肖像写真を取り出して、将軍に差し出した。「や、ナスターシャ・フィリポヴナ! これを自分で、自分できみに送ってよこしたのかね、自分で?」将軍興味津々。
さっきガーニャがお祝いに行った時にくれたという。自分が贈り物もくれなかったことに対する当てこすりかもしれない。
将軍は、あの女が当てこすりなんかするものか……君の頭はどうかしている……と言う。
「ときに、イワン・フョードロヴィチ、あなたはむろん、今夜の集まりのことを覚えておいででしょうね。なにしろ、あなたは特別に招待された人の一人なんですから。」
覚えている。むろん出席もする。当たり前じゃないか、(ナスターシャの)二十五の名の日の祝いなんだから。それに、あの女は、今夜こそイエスかノーの返事をすると、将軍とトーツキイに言ったのだ。
ガーニャどぎまぎする。本当にそんな約束が? しかしあの女はガーニャに最後まで決定の完全な自由を与えると言った。だからたとえそのときになっても、最後の決心はガーニャ次第……
将軍「じゃ、きみは……じゃ、きみはまさか……」冗談じゃない! ガーニャが断ったら一大事だ! いまいましげに。ところでガーニャの家のほうはどうなっている?
ガーニャの家族の反応は、自分の自由になるのでどうってこともない。ただ親父が馬鹿なことばっかりやっていて。母親は泣いてばかり、妹は癇癪を起こしてばかり。
将軍曰く、ガーニャの母は、この一件を不名誉なことででもあるかのように思っているね、いや、ナスターシャ・フィリポヴナの悪口を言ったり後ろ指をさしたりなんかできるやつがいるものか!(将軍はかなりナスターシャに肩入れしている)
ガーニャ曰く、嵐はやってきそうだ、最後のひと言が言われるとすると、何もかも洗いざらい明るみに出るだろう……
書き終えた公爵が紙をもってテーブルに近づく。「それではこれがナスターシャ・フィリポヴナですか?」写真の中のナスターシャの美貌の描写。瞳は底知れぬふかさをたたえた暗色で、額はもの思わしげ。ガーニャと将軍はびっくり。
なんでナスターシャのことを知っている?
公爵はロゴージンとの邂逅と、ロゴージンの痴話を伝える。
ガーニャ曰く、大したことじゃない、商人の小倅が与太っているんでしょう。
将軍曰く、だが、今度は実際に百万ルーブルというものが控えているからな……。
ガーニャが、ロゴージンをどう見たかと公爵に訊ねる。(「その時、ガーニャの心の中に一種特別なものが生れた。まるで何か新しい特別な想念が脳裏に燃えあがって、こらえきれずに両の眼にひらいたかのようであった。」)
ロゴージンには病的な情熱といったものがあるように見えた。
ガーニャは薄笑いをして、きょうのうちに、何かとんでもないことが起こるかもしれませんね、と。
将軍はどぎまぎする。いいかね、ガーニャ、今晩はあまりあの女に逆らわないように、相手に気に入られるようにするんだぞ……なんだってそんなに口をゆがめるんだね? いいかね、この件についての私の利益はもう保証されているんだ、トーツキイさんも決心しているのだから。わしはきみの利益のことだけを考えているんだよ……
ガーニャは毒々しい皮肉な笑い。将軍激怒。きみという男はまったくおかしいやつだな! いやなのかね、もしいやなら、そう言いたまえ、なにも遠慮にはおよばんよ、誰もきみに強制してるんじゃないからな、きみをむりやり罠にかけようなんてやつはいないよ、もしきみがここに何か罠でもあるように思ってるならの話だがね。
これらすべての話を公爵は聞いていた。
将軍は公爵の差し出した筆跡の見本を見る。感心する。公爵生き生きと筆跡の説明し始める。
あなたは月に三十五ルーブリくらいは取れるだろう。どこか役所の口を当たってあげましょう。また、ガヴリーラ君の家族が家具付きの家を貸しているので、紹介してあげるから、それを借りなさい。ガーニャの父は、退職したイヴォルギン将軍、わけあって自分は今は交際をやめているが……。
(もう十二時半。)
公爵はお礼を言う。そしてまた用件を言い掛けるが、将軍にさえぎられる。もう一分も余裕がない。あなたのことを家内に伝えておきましょう。せいぜい気にいるようにやってください。
将軍出ていく。ガーニャと二人きりに。耐え難い雰囲気。
公爵はナスターシャ・フィリポヴナの写真に見とれる。ガーニャは、「あなただったら、こんな女と結婚しますか?」
病身なので、誰とも結婚するわけにはいかない。
ロゴージンは結婚するでしょうか?
たとえ結婚したにしても、一週間もたたないうちにあの女を斬り殺してしまうでしょう。
ガーニャ激しく身震い。
その時、召使が、奥さまのところへどうぞと伝える。召使の後についていく。
4
また章始めの説明的ディエゲーシス。エパンチン家の三人娘は、母親リザヴェータの意見をもう尊重しようとしない。リザヴェータは年を追ってだんだん気まぐれがひどくなり、今では一種の変人。
十二時半には、昼食のテーブルに娘たちと母親一緒。この日も食堂でみんなそろって将軍を待つ。夫人はもし将軍が一分でも遅くなったら、すぐにも迎えをやろうと考えていた(これが「一分も余裕がない」せいで公爵の用件を聞けなかった理由か!)。将軍は時間通りにあらわれたが、夫人の顔に並々ならぬ表情が浮かんでいるのに気付く。なぜか?
「ここでしばらく筆を休めて……」現時点でエパンチン将軍一家がおかれている状況について、説明。娘の嫁入り問題。長女はもう二十五歳。ここで、トーツキイという上流社会の紳士が結婚の希望を表明。器量好みで、仕事上エパンチン将軍と親密な間柄になった。娘との結婚の希望を将軍に告げた。
とはいえ、正式な申し込みができない事情があった。それ次第では何もかも滅茶苦茶になってしまうかもしれない、厄介この上もない出来事があるのだ。
十八年前に遡る。トーツキイの領地の隣に、貧しい地主がいた。その地主の家が焼けて、子供たちは無事だったが両親死亡。その子供たち、六つと七つになる二人の女の子をトーツキイが義侠心から引き取って養育することに。一人は百日咳で亡くなった。五年経ってトーツキイが自分の領地を覗いてみると、そこには一人の美しい女の子が。トーツキイは認識を新たにし、少女の教育を充実させた。少女は十六歳になると、「慰めの村」と呼ばれる村の瀟洒な静かな家に連れて行かれた。その家にはトーツキイも姿を見せ、夏ごとに訪れては、二ヵ月も、三ヶ月も滞在していくのであった。
それからかなり長い時間が経ち、トーツキイがペテルブルグで華々しい縁組をしようとしている(今回の件ではない)という噂が、ナスターシャのところに伝わると、突然ナスターシャは田舎の家を出てペテルブルグのトーツキイのところへ現れた。この女は、並はずれてたくさんのことを知っており、理解していた。法律上のことさえ心得ていた。世間のしきたりも。罪のない内気な女学生どころではない。
「彼女は、相手にむかって、いままで自分の胸中にはふかいふかい侮蔑の念のほかは、あの最初のおどろきにつづいてすぐあとからわきおこった侮蔑の念、吐き気を催すような侮蔑の念のほかは、いかなる感情をも彼にたいしていだいたことはなかったと、はっきり宣言したのである。」トーツキイの結婚を許すつもりはない。憎しみからそれをぶちこわす。
トーツキイの判断。自分はもう世間的評価の定まった、上流の紳士である。自分の地位の平穏を何にもまして愛している。これを破壊するようなスキャンダルは到底耐えられない。だが、自分の目の前にいる女は単に口で脅すだけでなく、かならず実行するだろう。世界じゅうの何ものにも重きを置いていないから、捨て身で何でもやろうとするだろう。誘惑して考えを変えさせることも不可能。実際には、法律的な意味では、そこまで大した危害をナスターシャがトーツキイに与えられるわけではないとしても、自分自身をさえ大事にしないこの女(そのことをトーツキイは洞察した上で判断した)は、何をしでかすかまったく予想できない。保守的でスキャンダルを何よりも嫌うトーツキイは、ナスターシャに譲歩して和解した。
それから数年経った今も、トーツキイの心は休まらない。ナスターシャを押さえつける? いや、この女は利益などというものには、それがかなり莫大なものであっても、決して屈することがないのだ。彼女は提供されるままにペテルブルグで安楽な生活は送ってはいるものの、生活はつつましく、何ひとつ蓄えなかった。男によって誘惑する? だが、どんな理想的な若い富豪から詩人とか社会主義者のような者でも、ナスターシャには何の感銘も与えなかった。彼女は世間から遠ざかって暮していた。トーツキイは足しげく顔を出し、エパンチン将軍、フェルディシチェンコ(官吏)、プチーツィン(高利貸し)といった人間も彼女と近づきになった。
そしてエパンチン将軍の娘とトーツキイの縁談。彼はエパンチン将軍に一切の事情を告白、親友として意見を求めた。二人はナスターシャのもとへ出かけていった。心に訴えかける作戦。トーツキイ曰く、すべては自分の色好みの質の責任だ、今自分が希望している世間体のいい上流社会の結婚の運命はナスターシャの高潔な心にかかっている……エパンチン将軍曰く、自分の娘の運命のことも考えてほしい……そしてトーツキイの提案。ガヴリーラという青年が君を愛しているので、彼と結婚してはどうか(自分はかつてひどく脅されたので、ナスターシャが結婚するまでは安心できない)。「トーツキイの観察に誤りがなければ、青年の愛情はずっと前から当のナスターシャ自身も感づいているはずであるし、彼女としても相手の気持ちを受け入れてもいいような気持ちでながめているように見える。」われわれはナスターシャの幸福を望む念もあるのだ。このままではあなたの生活は破滅ではないか。ナスターシャの運命を安全にするために、お恐れながら、七万五千ルーブリを差し上げるつもりである──これは将軍も知らない、今はじめて申し出たことだ。
ナスターシャの返事。以前の冷笑や敵意はなし。自分も昔から真心のこもった忠告が聞きたいと思っていたが、自分の誇りがそれをさまたげていた。もう以前のようなことは起こらない、トーツキイさんがそんなにびくびくしているのはかえって不思議だ。エパンチン将軍の令嬢のことは前々から尊敬していた。自分も愛情というものに望みがないならば、せめて家庭の人として復活したい、だがガヴリーラについては何ともいいようがない。彼の真実の愛情については分からない。彼が働いて自分一人で一家をささえている事実は評価するが。母ニーナ・妹ワルワーラについてもプチーツィンから聞いている。ただ向こうの方で自分を歓迎してくれるかどうかは分からない。七万五千ルーブリは、感謝していただく(辱められた処女の純潔のためなどではなく、ただ単にゆがめられた運命に対する賠償として)。だが、ガヴリーラやその家族の思惑を見極めるまでは、彼とは結婚しない。返事を急がせないでくれ。
エパンチン将軍はこれで話はまとまったものと思ったが、トーツキイは依然としてびくびく。肝心の点は、ナスターシャの心をガーニャになびかせることができるかどうか。ナスターシャはガーニャと話し合い、相手の愛情は認めたが、それでもなお、結婚式のまぎわまでも、最後の瞬間においても「否」という権利を双方保有することを主張した。実際には、ガーニャの家族がナスターシャに快くない感情を抱いていることもナスターシャに伝わった(ガーニャはいつその話をされるかとびくびくしていたが、彼女の方からはおくびにも出さなかった)。世間にさまざまな噂もたった。たとえばガーニャの結婚はただ金ほしさのためであり、自尊心が強く、ナスターシャを憎んでさえいて、それをナスターシャも承知の上である、とか。ナスターシャは今度の自分の名の日の祝いの晩に、最終的な返事をするとトーツキイに伝えた。
奇妙な一事もあった。エパンチン将軍が、ナスターシャの名の日の祝いとして、きわめて高価な真珠を用意したというのだ。この真珠のことが、将軍夫人の耳にも入ってしまった。この前の日に、ちょっとした皮肉の言葉が将軍に掛けられた。だから今日こそは細かい説明を求められるだろうと恐れていた。将軍は、食事の席で家族に会うのが億劫だった。が、そこへ公爵があらわれたわけだ。
5
説明的要約法。将軍夫人は家柄について常日頃関心を持っていたので、同門の一人があらわれ、しかも白痴同然の人間だと聞かされると、興味を持たずにはいられなかった。このおかげで、真珠の一件を回避できた。
リザヴェータ夫人の外貌描写。「かなり大きな灰色の目は、ときには、まったく思いがけない色を浮かべることがあった。」
将軍が公爵の話をする。リザヴェータ夫人はオーバーリアクションで答える。「ひとつおまえさんがたにあの男の試験をしてもらおうと思ってね」「し、け、ん、ですって?」
娘たちも可哀そうな公爵にご馳走してあげることに同意。
公爵呼鈴を鳴らして公爵を呼んでくるよう命じる。
「ほら、本人がやってきた! さあ、紹介しよう……」
将軍は忙しいので、と言って退出。
将軍が少し口にした能書家ということから僧院長パフヌーチイの話に。丁寧に説明する。僧院長パフヌーチイは十四世紀の人で……。その筆跡が気に入ったので、習った……。さっきも筆跡を見せてほしいと言われたので……。
食事をしましょう。お話してくださいな、ほんとうにおもしろいかたですこと。
そこで身の上話(要約法)。みな興味深げに聞いていた。
食事が終わり、お茶の間へ。ここは主人がいないときに娘たちと集まって、めいめい自分勝手なことをするんですよ……長女はピアノ、次女は絵描き、末娘は何もしない。もっとお話を聞かせてください、あなたのことはこの度ベロコンスカヤ公爵夫人に聞かせてあげるので……。
娘たちも茶の間のソファに坐って、話を聞く姿勢になる。
アグラーヤ「あんなふうに催促されたら、あたしだったらなんにも話してやらないわ」
リザヴェータ「どうして? 何か変なことがあるの? さあ、何か話して聞かせてください。スイスはお気に召しまして、第一印象はいかがでしたの?」
ムイシュキン「印象は強烈なものでしたよ……」
リザヴェータ「それ、ごらん、おはじめになったじゃないの」
自分の病気について。発作について。憂鬱症。だが、スイスのバーゼルの驢馬の鳴き声が私を呼びさましてくれた……
驢馬というところに引っ掛かるリザヴェータ夫人。娘たちは笑う。公爵も笑う。
あなたはとてもいい方のようですね、でも驢馬の話はもうたくさん、何か別の話を。
公爵曰く、自分は湖のような自然を目の前にすると、重苦しい不安な気持になる。
アデライーダも外国へ行きたい、絵のテーマを探しているので。公爵、絵のテーマを何か見つけてくれません?
一旦スルー。向こうではいつも同じスイスの田舎に暮していた。ほとんど幸福だった(アグラーヤがここで突っ込む)。不安もあった、真昼間にどこかの山にのぼって、たった一人で山の中に立っていると……空は青く、こわいような静けさ、「そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持になったのは。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空が接している向うがわまで行けたら、そこではありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力づよい、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。」「それからあとになって、私は牢獄の中でも偉大な生活を発見できると思うようになりましたよ」
妙に読書家らしいアグラーヤが言葉じりを捉えて突っ込んできたので、少し議論。「あなたのおっしゃる牢獄の中の偉大な生活も、これとまったく同じことですわね」「牢獄の中の生活についてはまだ賛成しかねる点があると思いますね」去年会った別の人の話。政治犯として銃殺刑の宣告を読み上げられた後に、罪を減じられた男。この二つの宣告の間に男が経験したことについて。「いま自分はこのように存在して生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり、誰かにか、何かにか、なるのだ、これはそもそもなぜだろう、この問題をできるだけ早く、できるだけはっきりと自分に説明したかったのです。誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に解決しようと考えたのです!」
なんのためにそんな話を? アレクサンドラは教訓を引き出そうとするが……。
アグラーヤが突っかかる。まったくあなたのような寂静主義の信者でしたら……
公爵、あなたが死刑をごらんにならなかったのが残念ですわ、という話から、私は死刑を見たことがありますよ。フランスのリヨンで。で、実は先ほどアデライーダが絵のテーマをたずねたときに、思い浮かんだことがあるのだ。ギロチンの落ちてくる一分前の死刑囚の顔をお描きになっては。(「私は最近バーゼルで一つの絵を見ました。この話しはぜひともしたいのですが……」とも。伏線)
その死刑囚について、一週間も牢獄の中で刑の執行を待っていたところから想像し始める。実際にあった話らしいが。《ここには何万という人間がいるのに、誰も死刑になるものはいないのに、このおれだけが死刑になるのだ!》こうしたのっぴきならない場合に人が気絶しないのは不思議だ。断頭台に片足をかけた、何もかも承知している男、そして十字架を差し出している神父。これが絵のテーマだ。
話し終えると三人娘はやいのやいの言い出す。今度は恋物語を聞かせろ。
リザヴェータ怒る。「娘たちの言うことを真にうけてはいけませんよ、あの娘たちがあなたをいじめようとかかっているなんてお思いにならないで、三人とももうあなたが好きになっているんですから。それはあの娘たちの顔を見ればわかりますよ」と公爵に謝る。
すると、「私もあのかたたちの顔をよく知っております」と公爵〔外貌直覚力+伏線〕。
それはどういうこと? あとで申しましょう。
じゃ、恋物語を話してください。
それじゃひとつお話しましょう。
6
「あちらには子供ばかりがおりました……」不幸なマリイの話。ムイシュキンはマリイを愛しているのではなかったが、ただとてもかわいそうに思っていた。
自分は世間の人、大人といっしょにいるよりも、子供といる方が好きだ……。山にひとり登って物思いに沈んでも、子供たちの姿を見ると、胸の中のもやもやを忘れて幸福になれる。
スイスで一生暮すつもりだったが、医者の先生が面倒を見切れなくなり、またある一つの事件が起こったので、ロシアへ帰って来た。この件については誰と相談したものか今思案している……。
今日ここへ入ってきて三人娘の顔を見て、子供たちと別れて以来はじめて公爵の心は軽くなったような気がした。
アデライーダの顔、幸福そうな顔。アレクサンドラの顔、美しいが何か秘められた悲しみといったものがある。リザヴェータの顔、あらゆる点においてまったくの子供。
7
公爵が話終えると、みな上機嫌。これで試験も済んだ?
ところでアグラーヤの顔については?
まれに見る美人。ほとんどナスターシャ・フィリポヴナのように。
一同びっくり。どこでその名を? さっきガヴリーラが写真を将軍に見せていた。
その写真を見たい、とリザヴェータ夫人。公爵、ガーニャから写真を借りてここへ持って来てくれ。
ガーニャはまだ書斎にいた。写真を貸してほしいと頼まれると、ガーニャ狼狽。なんだってそんなことをおしゃべりしたんだ!この白痴め……
つい言葉がすべって。(公爵はトーツキイとエパンチン将軍とナスターシャの話は、全然知らないはずだから。)
ガーニャ考え込む。公爵写真のことを催促する。
すると、ガーニャは公爵に頼み事をする。自分はリザヴェータ夫人に腹を立てられているらしいので、奥へ行きたくはないのだが、いまなんとしてもアグラーヤさんに話をしたい……。この手紙を、アグラーヤに、誰にも見つからないように、手渡してくれ。
公爵気が進まないが、引き受ける。封がしてありませんが……とガーニャ念を押す。「いえ、私はよみませんとも」
ガーニャ一人きりになると、両手で頭をかかえる。「あの女のひと言で、おれはほんとに破談にしてしまうかも……」
公爵は客間までいかないうちに、再びナスターシャの肖像写真を見る。「彼はその顔の中に秘められていて、さきほど自分の心を打ったあるものの謎をなんとしても解きたいような気がした。さきほどの印象はあれからずっと彼の心を去らなかったので……」急いで写真に接吻する。一分後には落ち着いて客間へ。
その手前の部屋で、客間から出てくるアグラーヤに出くわす。ガーニャの手紙を渡す。
改行後「将軍夫人はしばらく無言のまま、それほど気にもとめぬといった顔つきで、ナスターシャ・フィリポヴナの写真を見つめていた。」
あなたはこういう美人がお好きなんですのね? ええそういう…… どうしてですの? この顔のなかには……じつに多くの苦悩がありますから……
アグラーヤ戻って来る。
将軍夫人、呼鈴を鳴らして、召使にガヴリーラを呼ぶように言いつける。娘たちは驚くが、夫人は、こういう秘密事は我慢ならない、こんな縁談は気に入らない、と公爵に言う。
ガーニャ入って来る。「ごきげんよう! あなたは結婚なさろうとしているんでしょう?」といきなり夫人。
ガヴリーラはうろたえて「いいえ」と嘘をつく。すると、羞恥の念で顔が真っ赤になる。その返事を覚えておきましょう、と言ってからリザヴェータ夫人は公爵に別れの挨拶。将軍夫人、アレクサンドラと一緒に出ていく。
ガーニャは毒々しい顔つきをする。ガーニャは公爵に、今から家に帰るから、自分の家に部屋を取るつもりなら一緒に、と言う。
アグラーヤがちょっとお待ちください、と。自分のアルバムにその達筆で何か書いてもらわなければ、と言って、アルバムを取りに部屋を出る。アデライーダも公爵に挨拶して出て行く。
みんなが出て行ってしまうと、ガーニャは公爵に食ってかかる。あれはあなたがしゃべったんですね?
それは誤解ですよ。じゃあの人たちはどうして知ることができたんです? 私は一口だってそんなことは言いませんでしたよ。
手紙は渡してくれました? 返事は?
そこへアグラーヤが入ってくる。公爵がアルバムに書いている間、ガーニャはアグラーヤに近寄り、耳打ちせんばかりに話しかける。「ひとこと、たったひとこと、あなたがおっしゃってくれれば……」
アルバムには何を書けば?という公爵の問いに、『あたくしは駆引きのご相談には乗りませぬ』と。
最後に、お礼の品を渡したいから、と、アグラーヤ公爵を一緒に連れ出す。食堂に入る前に、アグラーヤは足を止めて、ガーニャの手紙を公爵に渡す。「これを読んでごらんなさい。あたくしあなたに読んでいただきたいんです」
内容は、今日こそ自分は取り返しのつかない約束をすることになる、どうぞただひとこと、以前と同じように、いっさいを破ってしまえといってください。そうすれば、きょうこそいっさいを破るから。その言葉に何かの希望を見るわけではない、ただあなたの同情とあわれみのしるしを見るだけだ、ただそれだけのことなのだ。ただそのひとことで、自分には今の貧困に甘んじる勇気が出る……どうかこのあわれみの言葉をわたしに送ってください!
アグラーヤ曰く、みっともない手紙だ。あたしの言葉なんか待たずに、自分一人ですべてを破ってしまったなら、あたしもあの人にたいする見方を改めるのに。いや、そのことを承知の上で、決心がつかずにこんな手紙を寄越してくるとは。やっぱり保証が欲しいんでしょう。持参金の代わりに、あたしから希望をとっておきたいというわけ。あと以前と同じようにって言っているけどそんな言葉を掛けた覚えはない。厚かましい奴だからどうせ何かの言葉にすぐこりゃ希望があるぞと早合点したんだろうが。もううんざり。この手紙をそのまま返して。返事はなにもありません。
アグラーヤと別れる。
公爵とガーニャ往来に出る。「で、返事は?」公爵は黙って手紙を返す。「こいつ渡してもくれなかったのか!」
失礼ですが、手紙をうまく渡すことはできた。それが今ここにあるのは、さきほど返されたから。私に読むようにと言ってから。
ガーニャ度肝を抜かれる。そんなはずはない! あのひとがあなたに読めなんて言うはずない! あなたが勝手に読んだんだ!
私はほんとうのことを言ってるんです。
少なくともそのときあのひとはあなたに何か言ったでしょう。言ってください、こん畜生……
さっきのアグラーヤの科白を要約して伝える。
憤怒のとりこになるガーニャ。ふん、あの女が駆引きの相談に乗らなくたって、こちらにはまだたくさん……見てるがいい……!
しばらく二人は歩いていく。ガーニャはふと思いつく。どうしたわけであなたはわずか二時間足らずのうちに、そんなにまで信用されるようになったのか?
公爵があそこで話したことについて。スイスの話、死刑の話、あわれな村娘の話、顔の表情の話から、ナスターシャの話に。
だとすると公爵は何も喋っていないことになるが、いったい、どうして……「ひょっとすると、あなたが自分で気づかなかったことが何かあるんじゃないですか……ちぇっ、とんでもない白痴めが!」
ガーニャは気付いてもよかった、自分が鼻先であしらっているこの『白痴』が、どうかすると驚くほどの認識力を持っていることに。「ふいにそのとき、まったく思いがけないことが起った。」
公爵は冷静に、白痴と罵倒されるのは少々不愉快だ、もうここでお別れしたほうがよさそうですね、と言う。
ガーニャは面食らう。謝る。自分がひどい不幸に陥っているので、もし事情をすっかり知ってくださったら……と言い訳。
そんなおおげさなお詫びなどはいらない、それじゃ、お宅へ参りましょう。
ガーニャの内語。《いや、もうこいつをこのままにしておくわけにいはいかん……。よし、いまに見てろ、何もかも決着をつけてやるから、何もかも、何もかも! それもきょうじゅうに!》
二人ともガーニャの住居に着く。
8
ガーニャの住居について説明的描写。母親と妹が下宿屋をやるために借りた家だが、こうしたいじましい収入のための努力がガーニャの自尊心を傷つける。「いつのころからか、彼はまったくなんでもない些細なことから、並みはずれてひどく腹をたてるようになった。たとえ彼が一時的なりとも譲歩し辛抱する気になったとすれば、それは単に彼が近い将来においてそうした状態をすべて変革し改造しようという決心がついたからに過ぎなかった。」ガーニャの性格まで説明。間取りも解説。下宿人用の三つの部屋(そのうち一つに、ナスターシャに気に入られているというあの官吏、フェルディシチェンコ)。退職将軍イヴォルギンと弟コーリャ(父親の監督役)の部屋。食堂を兼ねる広間、客間兼書斎、母と妹の部屋。
公爵をまず客間に案内。母、妹、プチーツィンがいた。母(病身・感じはよい)、妹(やせぎす・不屈・きまじめ)、プチーツィン(しゃれた青年)の外貌描写。プチーツィンは高利貸しで、ガーニャの親友。
以上の説明を受けて、「ガーニャの行き届いてはいるが、とぎれとぎれの紹介に対して……」から現前的場面。コーリャが入って来る。
ガーニャはプチーツィンを連れて外へ。ニーナ夫人はコーリャに公爵を部屋へ案内するように頼む(要約法)。
案内しながら、コーリャと公爵の会話。ワルワーラもそこに加わる。コーリャは一家の中で「おばかさん」扱いされている?
コーリャとワルワーラ出ていく。入れ違いにガーニャ。入り口のところでぶつかったコーリャに、「親父は家かい?」と訊ねる。
ガーニャと公爵の会話。公爵、さっきのわたしとアグラーヤの件を、家族にしゃべらないようにお願いいたします。いや、私はあなたが考えていらっしゃるほどおしゃべりではありませんよ。
ガーニャはまだ何か言いたいことがあるのに、切り出せず、プチーツィンに呼ばれてまた出ていく
公爵が身じまいを正したところに、新しい人物が入ってくる。三十ばかりの男。厚かましげ。フェルディシチェンコ。いきなりお金をお持ちですか?とたずねる。あらかじめ警告しておきます、私に金を貸してはいけませんよ。
彼が出ていくとまた新しい客が入ってくる。五十五歳くらいの肥った男。イヴォルギン将軍。公爵の顔を見覚えがあるらしく見つめる。……あの男だ! さきほどなつかしい名前、ムイシュキンと聞いたもので……自分のあなたの父とは竹馬の友だった。「わしはあんたをこの手に抱いて歩いたもんですよ」「ほんとですか?」
将軍は昔話をするが、公爵の記憶とは若干食い違う。
コーリャが公爵を呼ぶが、将軍は公爵の肩に手を乗せていかせまいとする。わしどものところにある一つの悲劇の話を聞いてくれ。ある縁談。身元の怪しい女とガーニャとの縁談。そんな女をこの家へ立ち入らせてなるものか……「わしは入り口の敷居に臥てやるから、はいりたけりゃこのわしをまたいでいくがいいんだ!」
今度はニーナ夫人が公爵を呼ぶ。将軍は夫人に話しかける。わしはこの公爵をこの手に抱いたことがあるんだ。
夫人無言で公爵つれ出す。客間へ。だが将軍客間までついてくる。「親友のご子息なんだよ!」自分の記憶の方が正しいと言い出す。パヴリーシチェフについても法螺をふきはじめる。「でも、父は裁判中に死んだんじゃないんですか?」父の死の原因になった裁判のことも「確かなことを知っている」と言うので、公爵も素朴に興味を持ちはじめるが……。よく分からないありうべからざる事件の話が始まる。
ワルワーラが将軍を呼ぶ。事件の話をしながら、将軍出ていく。「いやどんなに調べてみても……」
夫人が謝る。将軍の欠点について。主人に下宿代は渡さないように。その科白の最後で、「……なんなの、それは、ワーリャ?」
ワーリャが部屋の中へ戻ってきて、母親へナスターシャの写真を渡す。ニーナ夫人苦しむ。「今晩、あの家で何もかも決ってしまうんですって」ガーニャが話してくれたのではない、そんなわけはない。話してくれたのはプチーツィン。写真は勝手に持って来た。
ニーナ夫人、「あなたはずっと前から息子をご存知だったんでしょうか?」という問いから、公爵の身の上を聞き、ガーニャのことを聞き出そうとする。ガーニャは先ほど、「公爵はなんでもみんなご存知だから、いまさらもったいぶってもだめだよ!」と夫人に言ったらしい……。
そこへガーニャとプチーツィンが入って来たのでニーナ夫人黙る。ナスターシャの写真がガーニャの目につく。ニーナ夫人「きょうなんですね?」
ガーニャぎくりとするが、公爵にくってかかる。あなたには黙っていることができないんですか?
プチーツィンが、自分が話したのだと言う。「そのほうがいいじゃないか」
ニーナ夫人はもう自分はすっかりあきらめてしまいましたからね、とおだやかな口調で言う。もうすべてを運命にまかせてしまいましたからね、わたし一人(ワルワーラは別)の心は、一つの家に住もうと、別居しようと、いつだってあんたといっしょにあるんですよ……。
ガーニャ曰く、ぼくが生きているあいだは、誰だろうとあなたに無礼なまねはさせませんよ、たとえ誰が家の敷居をまたいではいってこようとも……
ニーナ夫人、一つだけ質問、あんたはあの女を愛していないのに、それほどまでにあの女の目をくらますことがでたのか?
もうよしましょう、ほんとによしましょう……いや、もうほんとに、たくさんですよ!
ワーニャが口を出す。もしあの女がここへやってくるのなら、あたしは家から出て行きます。
そんなおどしはちっとも怖くないぞ。なんならいますぐその計画を実行したらどうだ? おや、どうしたんです、公爵! わたしたちをうっちゃってどこへ行こうというんですか、公爵!
憤懣の情に溺れていくガーニャ。公爵は何も答えずに出ていく。公爵が出ていくと、言葉のやりとりがいっそう騒々しく、いっそう露骨になったのが感じられる。
彼は自分の部屋へ帰るつもりで、広間から玄関へ。ドアのそばで、誰かがドアの外で一生懸命ベルを鳴らそうとしているのに気付く。ベルはこわれているらしく鳴らない。公爵は掛け金を外してドアを開ける。愕然。目の前にナスターシャ・フィリポヴナ。
ナスターシャは公爵を召使扱いして突き飛ばす。外套を持たせる。取次ぎをしろ、という。公爵は外套を持ったまま客間へ歩いていく。「なんて白痴なんだろう!」
「誰が来たって取りつぐつもりなの」「ナスターシャ・フィリポヴナ」「おまえどうしてあたしを知ってるの?」
客間ではまだ喧嘩している。
「公爵がはいっていったのは、かなりきわどい瞬間であった。ニーナ夫人はいましがた『何もかもあきらめました』と言ったのを、もう忘れかけていた。彼女はワーリャの肩を持たずにはいられなかったのである。ワーリャのそばには、いつのまにか鉛筆でいっぱい書きこんだ紙切れをそっちのけにしたプチーツィンが立っていた。当のワーリャも決して臆してはいなかった。いや、もともとそんな気の弱い娘ではなかった。しかし、兄の悪口雑言はひとことごとにますます乱暴に、ますます耐え難いものになっていった。……ほかならぬこの瞬間、公爵は部屋へはいってきて、披露した。/「ナスターシャ・フィリポヴナがお見えになりました!」」
9
「一座は急に沈黙に支配されてしまった。みんなは公爵の言うことがさっぱりわからないかのように、いや、むしろわかりたくないかのように、彼の顔を見つめた。……」
初めてやってきたナスターシャ・フィリポヴナ。最近では(時間幅を広くとった文脈の導入)ガーニャの身内なんてこの世にいないもののようにふるまっていたのに……。またナスターシャの耳に彼の家族が彼女をどう思っているか、噂が入っているらしい以上、彼女の方から訪ねてくるなんて夢にも思えなかった。
ガーニャあわてて駆け寄る。
まずナスターシャをワーリャに紹介するが、ワーリャは礼儀としての微笑さえ見せない。ガーニャがおどかすような視線を見せると、ようやく兄に妥協して微笑してみせた。ニーナ夫人の挨拶も聞かず、ナスターシャは片隅のソファに腰を下ろした。
下宿屋はもうかるの?と無礼に問う。そのあと、ガーニャが物凄い顔つきをしているのを見て笑う。
ガーニャの顔はおそろしく蒼ざめる。
「そこにはもう一人の観察者がいた。」公爵がガーニャの顔が蒼ざめて悪化していくのに気付く。機械的に二、三歩踏み出して、「さあ水をお飲みなさい……」とささやく。
この言葉はガーニャに並々ならぬ影響を与えた。彼は相手の肩をつかんで、憤怒を一挙に公爵に浴びせかけるようににらみつけた。一座は動揺。が、ガーニャはとっさにはっと気付いて、われに返って、高笑いした。
「いや、どうしたんです、公爵、あなたがお医者さまとでもいうんですか?」
ナスターシャに磊落な調子で公爵を紹介する。
フェルディシチェンコもそばへ寄ってくる。
一座のものは、あのばつの悪い状態からみなを救い出してくれるきっかけをつくった人物として、公爵を変わった目で見始める。
公爵とナスターシャの会話。公爵、なぜあたしだってことがわかりましたの? 写真を見たし、エパンチン家でも噂をした、ロゴージンもあなたのことを話してくれた。それから、私はあなたはきっとこんなかただと想像していたものですから……
フェルディシチェンコが茶々を入れる。ナスターシャ、好奇の色で公爵を眺める。
そこへ燕尾服を着たイヴォルギン将軍が入ってくる。
「これはもはやガーニャにとって耐えられないことであった。」
なぜなら彼はナスターシャが彼のことを《辛抱づよくない乞食》と表現したらしいことを知って以来、その仇を返そうと、少しでも自分を礼儀正しい上品な人物に見せてくれるようなものはないかと捜しまわっていたからだ、しかし今この情景において、自分の身内に対する羞恥が拷問のように彼にのしかかることになった。今こそナスターシャは彼の家族に嘲笑を浴びせかけるにちがいない……。虚栄心が強いために、ガーニャは彼の父親とナスターシャ・フィリポヴナの会見の不幸を誇大に考えていたのかもしれないが。ともかく彼はナスターシャが来たことに度肝を抜かれて、将軍のことを忘れていた。
フェルディシチェンコが将軍をつかまえて引きずって行く。将軍はナスターシャに挨拶。何か変なことを口にし始める。
ニーナ夫人が、ナスターシャに将軍を失礼させていただけないかと言う。「とんでもございませんわ、だってあたしはいろいろお噂を伺っていましたから、もうずっと前からお目にかかりたいと思っていたんですもの!」
ナスターシャははしゃぎはじめた。将軍もナスターシャという聞き手に上機嫌になって滔滔と弁じたてる。
コーリャまでが公爵に、なんとか将軍を連れ出してくれと頼む。
将軍の駄弁。エパンチン将軍と今は亡きムイシュキン公爵は、一時も離れることのできぬ三人組でしたよ……。ところが、エパンチン将軍とは、狆がもとで汽車の中で起こった三年前の事件以来、永久に絶交してしまったんですよ。
「狆がどうかしたんですの? それから、汽車のなかでですって?……」ナスターシャは何か思い出した様子〔伏線〕。ぜひとも話して。フェルディシチェンコも言う、ぼくも聞きたい!
汽車で同席した夫人が彼の葉巻を窓から棄ててしまったので、こちらも婦人の犬を慇懃に窓からほうりなげてやりましたよ……。
ナスターシャ、話に大声で笑う。フェルディシチェンコも、プチーツィンも、コーリャまでブラボー、と言う。
その婦人がベロコンスカヤ公爵夫人家の家庭教師だった。エパンチン将軍夫人とベロコンスキー家の関係は周知のこと。で、エパンチン家とも仲たがい。
「でも失礼ですが、これはどういうことでしょう?」それとまったく同じ話が、五、六日前の新聞にのってましたけど。明るい水色の服という細部まで同じ!
一同赤面。ガーニャは苦痛を耐えしのびつづける。
わたしの事件は二年前におこったという点に注目していただきたい……
ガーニャは、ひとこと申し上げたいことがありますから、ちょっと外へ出てくれませんか、と父親の肩をつかむ。その目には憎悪。
ちょうどその時、大きなベルの音が。コーリャが玄関へ。
10
玄関に大勢の人の気配。「客間から耳にするかぎりでは、幾人かの人が外から押しいってきて、まだ続々とつめかけている様子であった。」公爵にとって聞き覚えのある声が。「あっ、このユダ野郎め!」
ロゴージンとレーベジェフ。ガーニャ呆然。ロゴージン一団広間へ。ロゴージンには何かもくろみありげ。
ロゴージンはナスターシャに気付いて、蒼ざめる。「そうすると、やっぱりほんとうだったんだな!」ガーニャに敵意をもやす。
ロゴージンは公爵にも気付くが、すぐに忘れる。
ガーニャは広間の方へ行け言うが、ロゴージンはガーニャに難癖をつけはじめる。おまえが三ヶ月前にトランプでいかさまをやって、親父から二百ルーブル巻き上げたから、それがもとで親父は死んじまったんだ……。きさまはいじきたない野郎だ。いまも俺はきさまを金で買いに来たんだよ。
ロゴージンはナスターシャに必死に訊く。こいつと婚礼を挙げるのか?
決してそんなことはしませんわ。
ロゴージンは嬉しさのあまり気も狂わんばかりになる。あいつらは婚約したと言ってたが……
ガーニャは出て行け酔っぱらい、と叫ぶ。
ロゴージンは、ナスターシャの前に白い紙で包んだ札束をだす。一万八千ルーブリ。
ナスターシャ笑う。「一万八千ルーブルを、あたしに、お里が出たわね!」暇をつげようとするかのように傲慢に立ち上がるナスターシャ。ロゴージンあわてる。それじゃ四万ルーブルだ! プチーツィンとビスクーブが七時までに四万こさえてくると約束したんだ。……そんなら十万ルーブルだ! プチーツィン、頼んだぞ、おい高利貸し。
将軍怒鳴る。コーリャ泣く。ワーリャ叫ぶ。「この恥知らずな女をここから引きずりだす人が、あなたがたのなかにはほんとに誰ひとりないんですか!」
その恥知らずな女というのはあたしのことなんですか。ねえ、ガヴリーラさん、あなたの妹さんはあたしのことをあんなふうに……
ガーニャは妹に怒る。おい、なんてことしたんだ!
あの女がお母さんに恥をかかせ、あなたの家を侮辱しにきたことにたいして、あの女にお詫びでもしなくちゃいけないというんですの? ああ、けがらわしい!
ガーニャは妹の腕をつかんだまま離さない。「ワーリャは一、二度力いっぱい自分の手をひっぱった。しかし、力が足りなかった。と、どうにも我慢ができずに、いきなりわれを忘れて、兄の顔に唾を吐きかけた。」
まあ、たいへんなお嬢さんね!とナスターシャ。
目の前が暗くなったガーニャ、満身の力を込めて片手を振り上げた。その拳骨は間違いなく妹の顔に当たるはずだった。と、ふいにもう一つの手が、ガーニャの手を宙でおさえた。
止めたのは公爵。いいかげんになさい!
ガーニャの怒りは極限に。きさまどこまでもおれの邪魔を……。ガーニャは公爵の横つらを張り飛ばす。
一同おどろく。公爵は両手で顔を覆いながら、片隅へ退く。あなたはきっと自分のしたことを恥ずかしく思うようになりますよ!
ガーニャ呆然。コーリャ、ロゴージン、ワーリャ、プチーツィン、ニーナ婦人、将軍までが、公爵のまわりに集まる。
ナスターシャもガーニャの振舞いとそれにたいする公爵の態度に心を打たれた。彼女の顔が新しい感情にかきみだされている?
公爵はナスターシャも責める。「いや、あなたもまた恥ずかしくないんですか! 前からそんなかただったんですか。いいえ、そんなはずはありません!」
ナスターシャは面くらって、にやりと笑う。いくぶんどぎまぎして。一旦客間を出るが、また取って返して、ニーナ夫人の手をとって、接吻する。あたしはほんとうはこんな女ではございません……。熱をこめて言ったが、またすばやく客間を出て行く。それを聞いていたのはワーリャだけ。
ガーニャは見送りに行ったが、「お見送りはけっこうです!」
ロゴージンも一団を連れて、プチーツィンと相談しながら出て行く。
11
公爵は自分の部屋へ。
すぐコーリャが来る。最近のガーニャ一家の紛糾ぶりについて愚痴る。「何もかもみんな自分たちが悪いんですから。じつは、ぼくに親友が一人いるんですが……」でイポリートの存在を示唆(伏線)。
先ほどのワルワーラの話をしていると、ワルワーラが入って来る。お礼かたがた、お伺いしたいことがあって来た。あなたはナスターシャのことを前から知っていたのか? そうでなければ、なぜ「あなたはそんな女じゃない」と言ったのか? それはどうやら当たったようだが? あなたはあの女に感化力を持っているんですわ……
そこへガーニャ入ってくる。先ほどの行為を謝る。公爵感激する。だがワーニャには謝らないという。
ワーニャは許すという。そして、ナスターシャはあなたを笑いものにしたのだ、これじゃ七万五千ルーブリの値打ちはない、どうせうまくまとまりっこない、と言って出て行く。
ガーニャ苦笑する。そんなことは承知の上だ。
では何故結婚するのか?と公爵。この《苦しみ》は七万五千ルーブリの値打ちはないでしょう。
それを聞くと、ガーニャは意地になったように、それならぼくは絶対に結婚してやりましょう。今決心しました。「いや、もう何も言わないでください、あなたの言おうとしていらっしゃることはちゃんと知ってますから」
しかし、公爵「いえ、私の言いたいのは、あなたの考えていらっしゃることとはちがいますよ」……私はナスターシャ・フィリポヴナが必ずあなたのところに嫁いでくるという自信がどこから出て来るのか、わからない。また七万五千ルーブリも細君に握られてガーニャのポケットには入らないということになりましまいか……。
ガーニャは不安そうになる。
公爵がそう疑問を抱くのは、先ほどのナスターシャの態度に照らしてのこと。ガーニャ「しかしですね、あれは陳腐な女の復讐というやつですよ、それ以上のことはありません……このぼくにたいして軽蔑の念を見せたかったのでしょうよ……でも、それでもやっぱりぼくのところへ嫁にきますよ、人間の自尊心というものがどんな手品をやらかすものか!……」ぼくはあの女と金のために結婚するが、ごまかしがない分卑劣漢ではない、卑劣漢というのは自由進歩的な思想をふりまき、「自分がきみと結婚するのは、きみの高潔なる心と不幸のためだ」などと言いながら金目当てで結婚するような奴のことだ。なのに、なんだってあの女はぼくを軽蔑するのか?
公爵は思案する。ナスターシャは利口な人のようだし、金目当ての私欲と軽蔑しかないようなところに自ら飛び込んでいくような真似はするはずがない。ほかの人とも結婚できるのだし……
ガーニャ、あなたはそこのところの事情をよくご存じないのだ(確かに。トーツキイのことを公爵はまだ知らない)。ナスターシャは軽蔑しながら自分に心底惚れているのだ。さっきの一件でも、僕がワーリャよりナスターシャを取るということが証明されたわけだし……。こんなことをあなたに話すのは、あなたを高潔な人だと見るからですよ、卑劣な者は潔白な人間を好むのです、いや、しかしぼくはいかなる点で卑劣漢なんでしょう? あの女をはじめとして、みんながぼくのことを卑劣漢と呼ぶのです……
公爵曰く、私はもうこれからさきあなたのことを決して卑劣漢だなんて思いませんよ、あなたは悪党でないばかりか、堕落した人間でもない、ごくありふれた平凡な、気の弱いだけの人。
ガーニャはこの批評を気に入らなかった。
イヴォルギン将軍の話を少し。妾を囲っている。ガーニャ笑う。それを見て公爵「あなたにはまだ子供らしい笑いが残っているんですね。それなのに……」
公爵は忠告する。あなたはこの結婚に関して、あまりにも軽率に物事を処しているのではないか。
ガーニャの自尊心傷つく。自分は打算から結婚するのではない。情熱によってだ。七万五千ルーブル手に入れたら、一挙に資本家として行動する、十五年後にはユダヤ王イヴォルギンになってやる。僕が平凡? これほどの侮辱はない。しかし金さえ握ったら、ぼくだってとびきりきわだった人間になるだろう。金は人間に才能まで与えてくれる。最後に笑う者が勝つというわけ。……そろそろ食事の時間ですね。コーリャがさっきから二度も覗きこんでいますよ。ぼくとあなたとは親友となるか、でなければ仇敵になるような気がしますね……ナスターシャ・フィリポヴナに惚れちゃいましたか?
公爵動揺。
ガーニャは上機嫌になって出て行く。
コーリャがまた顔をのぞかせる。食事はいりません。コーリャが将軍からの手紙を渡す。金の無心。
コーリャ、私をお父さんのところへ連れてってください、私も用件が……。
12
コーリャはリテイナヤ街のカフェへ公爵を連れて行く。イヴォルギン将軍は例の新聞を読んでいる。
公爵は金を渡す。二十五ルーブル札がありますから、これをくずして十五ルーブルお釣りをください、でないと私は一文無しになってしまいますからね……〔伏線〕。そしてナスターシャ・フィリポヴナの家を知らないかどうか訊く。「何べんも行きましたとも!」今晩自分をナスターシャのところへ連れていっていただけないか? 私には用事がある。だが、公爵自身は招待されたわけではないので……。
じゃ九時に出掛けましょう。それから将軍の駄弁がだらだらつづく。「将軍はすっかり酔っぱらって、おそろしく雄弁になっていた。そして、たえず胸の中に涙が浮ぶといった、思い入れたっぷりの調子で、しゃべりつづけるのであった。」公爵はこんな相手を信用したことを後悔し始める。日が暮れる。
ようやく外へ。「ここですよ」とか言うのだが、ほとんどでたらめ。ソコローヴィチ将軍家? ただ将軍の心をいらだたせないために、公爵は大人しくついていく。留守だった。「アレクサンドラ・ミハイロヴナには、その……要するに、木曜日の晩にショパンのバラードのひびきのなかで、あのかたがお望みになったことを、こちらも心底から望んでいたとお伝えください……」
公爵曰く、私はもうあなたをあてにするのはやめた方がいいのでしょうか?
将軍曰く、あなたはイヴォルギンをよくご存知ないんですな、イヴォルギンと口にするのは、《鉄壁》と言うのと同じことなんですぞ、イヴォルギンを鉄壁のように頼るがいい……
チェレンチェフ大尉の未亡人(マルファ・ボリーソヴナ)のことを話す。妾? その家へ行く。イポリートはその一家の一員? そこでコーリャと出会う。コーリャ「父さん、もうここへ来るのはやめたほうがいいですよ! なんだってお金なんか約束するんです?」
家へ入って行く。婦人が怒鳴る。「卑怯者の意地悪じいさんがやってきたよ!」どうもこの婦人が、イヴォルギン将軍の借金を払っていたらしい。イヴォルギンはさらに家のものをかっさらって、質に置いたりしていたらしい。「返事をおし、意地悪じじい、欲張りめ、わたしはどうやって父親のいない子供たちを養っていけばいいんです?」
将軍は二十五ルーブルをそっくり渡す(もとは公爵がエパンチン将軍に貰った金だな。公爵に十五ルーブル返すはずだったが)。イヴォルギン将軍はソファの上で寝てしまう。
コーリャが次の間から姿を現す。公爵、自分をナスターシャの家へ連れて行ってくれないか? ご案内しましょう。それにしても、あなたが父を頼るとはね……父はナスターシャのところへ一度だって行ったことはありませんよ。
午後九時半。歩いていく。辻馬車をやとう金さえなかったので。
コーリャはイポリートに公爵を紹介したかった、という。先の大尉夫人の長男。身体のぐあいが悪い。肺病。イポリートは先のガーニャと公爵の一件を聞いて、決闘を申し込まなかった公爵のことを卑劣な奴だと感じたらしい。
ところで公爵はナスターシャに招待されたのか? されていない。
じゃ用件があるということ? もし何の意味もなくあんな夜会に出かけるのだとしたら、あなたを軽蔑しますよ。それにしても、ロシアには尊敬するに足る人間が一人もいなくなってしまいましたね。それでも、うちの将軍は潔白な人に思えるんですがね。高利貸しとかに比べればね。イポリートは高利貸しは経済界に必要だ、などと言っているが。そのくせ、イポリートの一家はニーナ夫人の援助を受けているのだ。
ということは、きみのお母さんは尊敬に値する人間ではないですか……
たしかに、ぼくは尊敬してますよ……イポリートでさえ実はそれを感じていますよ、はじめは、お母さんのやり方を卑劣だと言って冷笑していたが……ところで、公爵、ぼくはあなたが大好きですよ。いまにぼくが仕事を見つけたら、ぼくとあなたとイポリートの三人でいっしょに暮しましょうよ。
「私は大賛成ですがね。でも、もう少し様子をみませんとね。私はいまとても……とても頭が混乱してるんです……え? もう着いたんですか? この家に……ずいぶんりっぱな車寄せですねえ! それに玄関番も。でも、コーリャ、これからどうなることやら私には見当がつきませんよ」
「じゃ、あした話してきかせてください! そんなにびくびくするもんじゃありませんよ! ……じゃ、さようなら。……あなたを通してくれることは間違いありません。そんな心配は決していりません! なにしろ、あの女はとっても風変りな人ですから。この階段を上って、いちばんはじめて階ですよ。玄関番が教えてくれますよ」
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公爵は階段を上がりながらも不安。自分を通してくれるか? 通してくれても笑いものにされるのではないか? 「いや、実際、彼はこんなことについてはそれほどびくびくしていたわけではなかった。しかし、《自分はあそこで何をするためにたずねていくんだろう》という問いにたいしては、どうしても得心のいく答えが見つからなかった。たとえなんとか機会をつかまえて、ナスターシャ・フィリポヴナに『あの男のところに嫁にいって、わが身を滅ぼすようなことをしてはいけません。あの男はあなたを愛しているのでなく、あなたのお金を愛しているのです。これはあの男が自分でも言ったことですし、アグラーヤさんも私にも申されました。私はそれをお伝えに参ったのです』と言うことができたとしても、これはあらゆる点において正しいことであろうか? いや、もう一つどうにも解決のつかない問題があった。それは公爵にとって考えるのさえ恐ろしいほど重大なもので、公爵はあえてそれを自問するだけの勇気がなかった。また、それにどんな形を与えていいかもわからなかった。いや、ただそのことを考えるだけで、彼は顔を赤らめて、震えていた。」無意識の陰謀。
時間幅を広くとって、ナスターシャの住居について記述。トーツキイが快適な暮らしを提供することでナスターシャを篭絡しようとしたのだが、単純にそれは失敗。彼女は決してそれに溺れなかった。いまだに彼女の中にはトーツキイを魅惑するなにものかがあった。
公爵はナスターシャに取り次がれる。そこに集まっていた面々は、トーツキイ、エパンチン将軍。ガーニャ(彼は既に、ナスターシャに水を向けられて、将軍やトーツキイにさきほどの公爵との出来事、自分が謝罪したこと、公爵が決して白痴でないことを、語っていた)、プチーツィン(ロゴージンについての情報を提供した)、フェルディシチェンコ、あとは他の客たち。
ナスターシャは公爵が来たと知って驚く。ということは招待はなかったということで、一部の者は奇妙な表情を浮かべた。だがすぐにナスターシャが満足の色をあらわしたので、多くの者が公爵を歓迎しようと考えた。
雑談。あの男の無邪気から来たことだろう。まあ、座をにぎわしてくれるだろう。フェルディシチェンコと将軍がやりあう。僕は機知がないのであります。その代わり真実を口にしてもいいという許可を得ました。将軍はクルイロフの《獅子と驢馬》という寓話をご存知ですか?
ナスターシャはこのフェルディシチェンコの道化ぶりを気に入っているらしい。
ナスターシャは優しく公爵を迎える。公爵は彼女の美しさにうたれる。「あなたのなかにあるものは、何もかも完全無欠です……やせていて、肌の蒼白いところまでが……どうしてもあなたのところへ来たくてたまらなかったので……私は……」
彼女は公爵を一同に紹介。
みな、何で公爵が来たのかは一目瞭然だと考える。惚れているのだ……。
酒を飲もうという勧めから、夜会は陽気になっていく(要約法)。ただガーニャは酒を飲まなかった。ナスターシャは熱があると思われるほど、よく喋った。と思うと、暗い顔つきで黙り込む。
みながナスターシャの健康を心配する。「みなさん、そのご心配にはおよびません!」それに今晩はとりわけ重要な夜会だから……。
みなに緊張が走る。将軍とトーツキイは目配せ。ガーニャは身震い。
突然、一人の客が何かサロン遊びをやろうと言う。
フェルディシチェンコが提案。めいめいがこれまでの生涯のなかで犯したいちばん悪い行いを、正直に話さなければならないゲーム。以前一度だけやったことがあるが、全体としては面白かったですよ……
ナスターシャが乗り気になる。まずは男どもから。さっそくフェルディシチェンコの帽子を使って、籤を引かせる。
誰もこの思いつきを気に入らなかったが……。ナスターシャは強く希望している。みんなも同意した。
ガーニャは言う、嘘をつく人がいたらどうなるんだ? トーツキイも、こういう場合にほんとうのことを言うには、一種独特の雰囲気が必要だと抗議するが……、結局全員籤を入れる。一番、フェルディシチェンコ、二番プチーツィン、三番将軍、四番トーツキイ、五番公爵、六番ガーニャ。
フェルディシチェンコ、ああ、ついてない!と叫ぶ。手本を示さなきゃならないわけだが、自分は取るに足らない人間なので、自分が悪いことをしたからといって何の面白味もありゃしませんよ……。
ナスターシャは気難しげに苛々としていた。トーツキイは苦しんでいた。将軍は平気な顔で、順番が来たら何か話すつもりでいるようでさえあった。
14
「機知がないんですよ、ナスターシャ・フィリポヴナ」から始まる、フェルディシチェンコの物語。何のためかわからないまま、たまたま出かけて行った家の机の上で見かけた三ルーブル札を盗む。女中に嫌疑がかかる。彼は彼女に並々ならぬ同情を示し、自白をすすめた。みんなのいる前で。しかし札はちゃんと彼のポケットに入っていたのだ。女中は追い出された。
「むろんそれは、あなたのいちばん悪い行いじゃないでしょうね」
「そんなのはちょっと魔がさしただけで、ちゃんとした行為とは言えませんな」
「で、あなたはそのままにしておいたんですか?」
「まさか、ぼくがのこのこ出かけていって、ぼくが犯人ですなんて言えますか?」彼は自分の話がすべての人に不愉快な印象を与えたことにいくぶんびっくりした。
次のプチーツィンは、話はしないという。
これで将軍まで断ったら、後につづくものがいなくなるだろう。そうなったら残念だ、自分もいちばんしんがりに《あたし自身の生涯のなかから》ある一つの行いについて話そうと思っていたので。とナスターシャ。
将軍、自分は一つのアネクドートを準備しましたよ……、と。
ナスターシャの憂愁と焦慮は、ますます募っていくようだった。
将軍の話。或る老婆が死ぬ直前に、つまらないことでそこへ怒鳴り込んでいった。それを思い返すと心苦しいので、その後、二人の病身の老婆を自費で養老院に入れてやった……。
フェルディシチェンコ曰く、「最も醜い行為のかわりに、これまでの生涯で最も立派な行いの一つを話されたわけですね!」
将軍、まんざらでもない様子。
次にトーツキイの番。みな、一種の好奇心を持って、ナスターシャ・フィリポヴナの様子を伺いながら、トーツキイの話を待っていた。
トーツキイは物静かな愛想のいい声で、その物語をはじめた。二十年前。友人の恋路を、相手が入手した情報に基づいて先回りして芽を摘むという形で、邪魔した。そのせいで友人は卒倒して、その後コーカサス行きを志願して戦死。自分が恋の相手に横恋慕していたのならまだしも、単にいたずらで邪魔しただけだったので、余計に良心の呵責がひどい……。
「トーツキイの話が終わったとき、人びとはナスターシャ・フィリポヴナの瞳がなぜか怪しく輝いて、その唇までが震えているのに気がついた。」
ナスターシャは投げやりな調子で言う、もうこんなゲームは切り上げてしまいましょう。さっきお約束したことを、お話します、それからみんなでトランプでもして遊びましょうよ。
ナスターシャはふいに公爵に話しかける。この将軍とトーツキイさんはあたしを嫁にやろうとしている。あたしは嫁にいったものでしょうか? あなたのおっしゃるとおりにします。
トーツキイ、将軍、ガーニャ、さっと緊張する。
誰のところへ? ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギンのところへ。
沈黙の数秒。
「い、いけません……お嫁にいってはいけません!」
じゃそういたしますわ。ガーニャ、この話はこれでおしまいにしましょうね!
将軍とトーツキイ狼狽。ナスターシャ、あなたは約束してくださったじゃありませんか……しかもこんな問題を、こんなふうに決めてしまうなんて……
あたしは真面目でしたわ。もし公爵が「いい」とおっしゃったら、あたしもすぐに承知しましたわ。
なぜ、この際なぜ公爵が出てこなければならないのか?
公爵は、心からあたしに心服している人として、あたしが生れてはじめて信用することのできたたったひとりのかたですもの。……あと、トーツキイさん、あの七万五千ルーブリは自分でおとりになってください。あたしはただであなたを自由な身体にしてさしあげますから。将軍、あなたもご自分の贈り物(真珠)をもって、奥さんにさしあげてください。あしたからはすっかり新しい出発です。夜会はもうこれでおしまいです、あしたになれば、あたしもこの家から出て行きます……
みな興奮しながら席を立って、彼女を取り囲む。
その瞬間、けたたましいベルの音。「十一時半! とうとう来たのね! みなさんお座りください、これで大詰めですから」
プチーツィンがつぶやく。ロゴージンと十万ルーブルだ。
15
まず小間使いの報告から。あちらに十人ばかりの男どもがどやどやと……。
みんなをすぐ通しておくれ。そして客に向かって、あんな連中を通したりして、気を悪くなさるかもしれませんが、どうにもこうしなければならないんですの。それからみなさんには、この大詰めの証人になっていただきたいのです……。
客たちはみな驚いていたが、ナスターシャの意図を覆させることはできないことはわかっていた。「ガーネチカはまだわれに返ることができないでいたが、それでもなお、自分にとってさらし柱のようなこの場に最後まで立っていなければならないという激しい欲求を、ぼんやりながらも感じていた。」トーツキイもその場を立ち去るにはあまりにも興味をひかれすぎていた。将軍は屈辱を感じていた。将軍はトーツキイに耳打ちする。あの女は気が違ったんじゃないでしょうか?
同じ顔ぶれのロゴージンの一団が入ってくる。拳骨の旦那とか。レーベジェフ。
ロゴージンの頭の中にはただ一つのことしかなかった。十万ルーブリは調達されていた。彼は客間にナスターシャの姿しか認めなかった。彼は「テーブルに近づくと、客間にはいるときから両手にささげもっていた奇妙な代物をその上に置いた。」
これはいったいなんですの?
十万ルーブルですよ!
まあ、それじゃ、約束を守ったってわけね。
ロゴージンは次第に客を見分けた。公爵がそこにいるのを見てびっくりした。
ナスターシャがみなに語りだす。これが十万ルーブルですよ。さっきこの人が約束したので、あたしはそれをずっと待っていたのです。この人はあたしを競り落とそうとしたってわけ。最初は一万八千ルーブル、次は四万、最後に十万ルーブル。ガーニャ宅で起こったことでね。ガーニャの妹さんは「誰ひとりこの恥知らずな女をここから追い出す人はいないんですか!」と怒鳴って、兄の顔に唾を吐きかけたんですよ。
将軍は事の真相を理解しはじめた?……
もうもったいぶるのはたくさんですわ! ロゴージンはあたしに十万ルーブルの値をつけた! ガーニャ、あなたはほんとにあたしを自分の家へ入れる気だったんですの? このあたしを、ロゴージンの女を?
公爵は、あなたはロゴージンの女なんかじゃありませんと言う。
客の中の一人の婦人、ナスターシャの友人が、いくら十万ルーブリのためだからって、ロゴージンについていくなんて!と叫ぶ。
ガーニャを馬鹿にしはじめるナスターシャ。あたしがあなたのお宅へ行ってみなさんをからかったのは、ガーニャ、あなたがどこまで辛抱できるか試すためだったんですよ。でもあんなことがあったあとで、さらに将軍があたしに真珠を贈って、ロゴージンがあたしを商品扱いしたのに、それでもなおわたしと結婚するつもりで、のこのこやってくるんですからねえ。そこまで七万五千ルーブルが欲しかったの? そのためだけに自分でも憎んでいる女を家に入れようとしたの? こんな男ならお金のために人殺しでもするでしょうよ。あなたは恥知らずだ、そりゃあたしも恥知らずだけど。トーツキイ(あの花束屋さん)のことはもう今更言いませんがね……
将軍は心から悲しむ。あなたのようにデリケートで優しい気持ちを持っている方が、そんな口のきき方を……
ナスターシャは笑いだす。こんどはトーツキイを標的に。あの人は自分よりあたしの方が悪いと思っている、なにしろお金をずいぶん掛けてやったんだから、ってわけ。四年ばかり前、面当て半分にトーツキイさんのところへお嫁にいこうかと考えたこともあった、でもそんな面当てをするだけの価値もないと考えたのだ。やれやれ、いったいなんのためにこの五年間を、そんな怨みがましい気持ちですごしたんだろう! 相手はそうされるだけの値打ちもない人だったのに。もう虚勢は終わり! 明日からは、洗濯女になるか、ロゴージンといっしょに騒ぎまくるか。トーツキイには何もかも叩き返してやりますわ。で、一文無しのあたしを、いったい誰がもらってくれるでしょうね? ガーニャどころか、フェルディシチェンコだってもらってくれないでしょうよ……
でも、そのかわり公爵がもらってくれますよ、とフェルディシチェンコ。「あなたはそうやってじっとすわったきり、泣いていらっしゃるけれど、まあ、ちょっと公爵をごらんなさい! ぼくはさっきからずっと観察していますがね……」
ナスターシャは好奇心にかられて公爵のほうを振り向いた。
ほんとうですの? もらってくださるの?
ほんとうです。
まったく善良な心から言っているんでしょうね……でもどうやって暮していくおつもりなの、ロゴージンの女に公爵さまがそんなにほれ込んでしまって?
私は純潔なあなたをもらうのであって、ロゴージンの女なんかじゃありませんよ。
あたしが純潔? そんなのは寝言ですよ、いまじゃ世間がお利口になりましたから、そんなことはみんなたわごとになってしまったのよ! どうして結婚なんかできるの?
公爵の告白。「私はなんにも知りません、ナスターシャ・フィリポヴナ、私はなんにも世間を知りません、あなたのおっしゃるとおりです、しかし私は……私は、そうすることによって私があなたにたいしてではなく、あなたが私に名誉を与えてくださるのだと考えています。……あなたはさまざまな苦悩のあとに、その地獄の中から清らかな人として出てこられたのです。これはたいへんなことですよ。それなのに、何をあなたは恥ずかしがって、ロゴージンといっしょに行こうというのです? それはただ熱に浮かされているせいですよ……あなたは、トーツキイさんに七万ルーブルを返して、ここにあるものをすっかり捨てていくとおっしゃいましたが、ここにそんなことのできる人はひとりもいませんよ。私は……ナスターシャ・フィリポヴナ……あなたを愛しています。あなたのためなら死んでもかまいません、ナスターシャ・フィリポヴナ。私は誰にもあなたの陰口はきかせません、ナスターシャ・フィリポヴナ……もし私たちが貧乏になったら、私だって働きますよ、ナスターシャ・フィリポヴナ……」
反応。フェルディシチェンコとレーベジェフは苦笑。将軍も。プチーツィンとトーツキイは笑いをこらえる。他の人々はただあいた口がふさがらなかった。(ナスターシャの反応は不明)
でも、ひょっとすると私たちは大金持ちになるかもしれません、スイスにいたときモスクワのサラースキンという人から手紙をもらった、そこには莫大な遺産について書かれている……
公爵はうわ言でも言っているのか? だがプチーツィンが、サラースキンのことを知っていた。彼の筆跡まで知っている。彼は有名な代理人だ。ちょっとその手紙を検証させてください。
手紙を渡す。
みなの視線は、手紙を読んでいるプチーツィンに集中する。ロゴージンは恐ろしい不安と疑惑にかられる。
16
「「間違いありませんね」プチーツィンは手紙を折りたたんで、公爵に渡しながら、ようやくはっきりと言った。「あなたは伯母さんの確かな遺言状によって、なんの面倒もなく、莫大な遺産を受け取ることができます」」
みなあいた口がふさがらない。
プチーツィンの説明。公爵の伯母の父の実兄が金持ちの商人で、その商人パプーシンは男やもめで、息子は二人とも死に、さらに伯母には身よりが誰一人なかった。商人が亡くなり、莫大な遺産を受け取った伯母も死に掛けていたが、なんとか彼女はサラースキンに頼んで、遺言状を作成しておいたのだ。この件はまったくあらそう余地がない。もうポケットに百五十万からの現金を持っているとお考えになっていい……。
ウラー! 全員が公爵にお祝いを言う。
しかし公爵はナスターシャに結婚の申し込みをしたばかりだ……。「そうなると、事件は前よりもさらに三倍も、気ちがいじみた並々ならぬものに思われてくるのだった。」「この瞬間から、ナスターシャ・フィリポヴナは気が狂ったのだと、あとになって一同は断定した。」ナスターシャにはそれらのことがすべて冗談か嘲笑のように思われた……だが公爵の態度は確かだ。彼女はちょっと考えこんだが、やがてまたにっこりとほほえんだ。もっともなぜほほえんだのかは自分でもわかっていない様子だった……「それじゃ、ほんとうに公爵夫人になるのね!」
友人の婦人は、「せっかくの運をのがしちゃだめよ!」と言う。
シャンパンを持ってこさせる。「さあ、お酒も来ましたよ、みなさんお祝いしてくださいな!」
ウラー!
「将軍、あたしはもう公爵夫人ですからね、ねえ、こういう夫を持つのは得でしょう? 百五十万ルーブル、そのうえ公爵さまで白痴(これは最初の紹介時にフェルディシチェンコがナスターシャに耳打ちしたこと)ときているんですからね……」ロゴージン、その包みをしまいな。
ロゴージン呻く。「手をひけ!」と公爵に。いますぐ何もかもくれてやるから……
ナスターシャと公爵の会話。
ロゴージンがまたあなたの花嫁を競ってますよ。
あの人は酔っ払っているんです。
あなたの花嫁があやうくロゴージンと駆け落ちしようとしたってこと、あなたはあとで恥じるのでは?
それはあなたが熱に浮かされていたからですよ。
あとになって、あんたの女房はトーツキイの妾だったといわれたら?
それはあなたの意志で起ったことじゃないんですから……責めませんとも。
公爵また静かに長科白。名誉を与えるのは私ではなくあなたなのです……私のさきほどの言葉は、言い方が滑稽だったかもしれません、しかし私は自分がほんとうのことを言ったと信じています。……あなたには罪はない……ロゴージンが来たことも、ガヴリーラ君があなたを騙そうとしたことも、あなたには罪はない……。……あなたは誇り高いお方です、でも、あなたは不幸のあまり、実際に、自分に罪があるのだと思っていらっしゃるのかもしれない……あなたには、よほど親切に面倒を見てくれる人がいなくちゃいけない……あなたの写真を見たとき、まるで昔なじみの顔に出会ったような気がしたんです……私は、一生あなたを尊敬するでしょう……。
トーツキイは、心の中で、白痴だがお世辞がいちばんだということは知っているな、と考える。ガーニャは公爵を睨みつづける。「救われない男だなあ!」と将軍。将軍とトーツキイは席を立とうとする。
ナスターシャが語りだす。ありがとう公爵。お聞きになりまして、トーツキイさん? 公爵が今おっしゃったことを、どうお思いですか? ロゴージン! ちょっと待て、あたしはおまえと一緒に出かけるかもしれないからね。
ロゴージン身震い。友人の婦人は叫ぶ。「まあ、どうしたのよ、あんたってば!」
ナスターシャ、笑いころげながら。「こんなお坊ちゃんを駄目にするなんて、できるわけないでしょ。ロゴージン、出かけましょう。まずお金だけは寄越しなさい、まだあんたのところへお嫁に行くと決めたわけじゃないからね。なにしろあたしは恥知らずな女ですからね! トーツキイの妾だったんですからね! 公爵、あなたに必要なのはアグラーヤ・エパンチナで、ナスターシャ・フィリポヴナじゃありませんよ。あたしはあなたをだめにして、あとで責められるのがこわいのよ! ガーニャ、あんたはアグラーヤさんのことを見損なったわね、あんな駆引きなんかしなければ、きっとあの人はお嫁に来たのにね!……」
全員総立ち。
まさかそんな!と公爵。
じゃ、こんなことにはならないと思ってたの? あたしはひょっとすると恥知らずな上に、高慢ちきな女かもしれないわ。完全無欠だなんてとんでもない。ただの空威張りのために、百万ルーブルと公爵の位を踏みにじって、貧民窟へ入っていく、こんなことでどうしてあなたの奥さまなんかになれるの? さあ、トーツキイさん、あたしは百万ルーブルを窓から放り投げましたよ、七万五千ルーブルと結婚するのをあたしが幸福と思うなんて、よくもそんなことが考えられたものね。さて、ガーネチカはあたしが自分で慰めてあげるわ、いい考えが思いついたから。ロゴージン、さあ、支度をおし、さあ、出かけましょう!
ロゴージン喜ぶ。「おれの女だ! 女王さまだ!」
誰もそこから立ち去れないでいる。
ナスターシャ、ロゴージンに命じて十万ルーブルの包みを取らせる。公爵、ごらんなさい、あなたの花嫁はこのとおりお金を取りましたよ、だってあばずれ女なんですから。なぜ泣いているの? さあ、お笑いなさいよ、あたしみたいに(とはいえ当人も泣いていた)、時間というものを信じるのよ──何もかも変わってしまうわ! たとえ結婚しても、いずれはあたしをさげすみ出して、あたしたちはとても幸福になんかなれやしませんよ、「決して責めない」なんて誓うのはお止しなさい、あたしは信じないから! さっぱり別れることにしましょうよ、でないとあたしも空想家だから、どんなことをしないとも限らない……そう、あたしだってあなたみたいな人、正直で、人が好くて、親切で、そしてやっぱりすこし間が抜けていて、いきなりやってきて「ナスターシャ・フィリポヴナ、あなたに罪はありませんよ、私はあなたを尊敬しています」と言ってくれる人を、よく夢見てたんだわ。よくそんな空想に苦しめられて、気が変になりそうになることもあったわ……そんなところへトーツキイが毎月二月ずつ泊っていって、けがらわしい、みだらなことを……あたしは何べんも池へ身を投げようと思ったんですけれど、怖気づいてできなかったんです……ロゴージン、用意はいいの?
ナスターシャは金の包みを手に取る。ガーンカ、いい考えが浮かんだわ。あたしあんたにご褒美をあげようと思うのよ。お名ごりにあんたの根性を見せて。この十万ルーブルの包みをみなさんの前で暖炉に放り込む。火がこの包み全体にまわったら、火の中から素手でこの包みをひきだせ。うまく引き出したら、十万ルーブルが全部あなたのものよ。ちょっとばかり火傷はするでしょうが、なにしろ十万ルーブルですからね! あたしはあんたの根性を見るのが楽しいのよ。お金を取りに火の中に手を突っ込むのがみたいのよ! 包みがあんたのものになるってことは、みんなが証人よ! 手を突っ込まなければ、それっきり燃えてしまうのよ、ほかの人は駄目ですよ。
フェルディシチェンコに火を掻き立てるように言うのだが、フェルディシチェンコは動けない。
まあ、だらしのない!とナスターシャ自ら火を掻き立て、火の上に包みをほうりなげる。
あたりに叫び声がおこった。
レーベジェフがナスターシャの前にはいつくばって、号泣する。「奥さま、女王さま! わたしにとびこめと言いつけてくださいまし! 身体ごと暖炉の中へもぐりこみます、足なえの女房に餓鬼が十三人、みんな孤児でございます(?)、先週、親父の葬式を出したばかりです(?)……」
ナスターシャ、レーベジェフを突き飛ばす。ガーニャに言う、なにをぼんやり突っ立ってるの。恥ずかしがることはありませんよ。さあ手を突っ込みなさいよ!
「しかし、ガーニャはこの一日、この晩、あまりにも多くの苦痛を耐えしのんできたので、この最後の思いがけない拷問にたいする心構えができていなかった。人びとの群れは二人を前にして左右に分かれたので、彼はナスターシャ・フィリポヴナと三歩の距離をへだてて顔を突きあわせて立つことになった。彼女は暖炉のすぐそばに立って、火のように燃える凝視を彼から離すことなく、じっと待ち構えていた。燕尾服を着、帽子と手袋を手にしたガーニャは、両手を組みあわせて、じっと火を見まもりながら、答えることもなく、黙々と彼女の前に立っていた。狂気じみた微笑が、そのハンカチのように蒼ざめた顔にただよった。たしかに、彼は炎から、ちょろちょろと燃えはじめた包みから、その眼を放すことができなかったが、しかし、何かしら新しい何かが、彼の心に芽ばえてくるように思われた。彼はまるでこの拷問を耐えしのぼうと誓った者のように、じっとその場を動こうともしなかった。数秒間が過ぎたとき、彼は包みを取りにいかないだろう、そうしたくないのだということが、みんなにはっきりしてきた。」
ついに包み全体が暖炉の中で燃え上がる。思わずみなあっと叫ぶ。
レーベジェフがまた号泣して前のほうへ飛び出そうとするが、ロゴージンが引き戻す。ロゴージンはもう夢中。これこそほんとの女王さまだ! やい、これがおれたちの流儀さ! 誰かあんたがたのなかでこんな芸当のできるやつがいるかよ!
拳骨の旦那曰く、こ、こん畜生! 燃えてる、みんな燃えてる!
フェルディシチェンコはガーニャに、はいこむんだ! 燃えちまうじゃないか! この野郎!
ガーニャはフェルディシチェンコを突き飛ばす。そして戸口の方へ歩み出すが、ぶったおれる。気絶。
ナスターシャは、ガーニャへの気つけ薬を女中に命じてから、火かき棒で紙包みを取り出す。三重に新聞で包んでいたので、金は無事。みんなほっとする。
お金はみんなガーニャのものです、みなさんが証人です、とナスターシャ。「取りにいかなかった、我慢できたのね! 自尊心のほうがまだお金の欲よりも強いということなのね!……あたしはご褒美として、あの人に完全な所有権をあげるんです……」さあ、ロゴージン出発よ、さようなら公爵、生れてはじめてほんとの人間を見ました! さようなら、トーツキイさん! メルシー!
ナスターシャはロゴージンの一団と一緒に出て行く。
公爵は一目散に駆け出す。将軍はそれに追いつく。うっちゃっておきたまえ、大変な女じゃないか!
だがそれを振り切って駆けていく公爵。将軍は、公爵が最初に通りかかった辻馬車に、先に行った三頭立橇の跡を追っかけてくれと叫んでいるのを見分けた。
一方、しばらく歩いていくことにしたトーツキイとプチーツイン。会話。あの女には素晴らしい素質がある……あの女がトーツキイに浴びせかけた色々な非難に対する一番の弁明は、あの女自身だろう。どうかした拍子に、理性も何もかも失うほどあの女のとりこにならない男がいるでしょうか! ああ、あれだけの気性と、あれだけの美貌があったら、どんなことでもできるのに……みがかれざるダイヤモンド……わたしは何度そう言ったか知れません……
▼第二編
- -------------------------------------------------------------あの夜会の後日談
1
あの夜会から二日経って、ムイシュキン公爵は遺産相続の件でモスクワへ。
ムイシュキンは六ヶ月ペテルブルグを留守にしていた。
ロゴージンの一団も、モスクワに出発していた。
ナスターシャ・フィリポヴナもどうやらモスクワへ発ったらしかった。
エパンチン家では、公爵のことを決してしゃべらないようにしていた。エパンチン家には、何かしら不愉快な、重苦しい雰囲気がただよう(トーツキイの件も破談になったし)。逆に言えば、それだけの印象を公爵はエパンチン家に残していったとも言える。
町にひろがっていた噂は、白痴の公爵が思いがけなく莫大な遺産を譲り受けてパリの踊り子と結婚した、とかいった胡乱なもの。
ガーニャはやはり町の噂の中で悪評をたてられる予定だったが、重い病気にかかって、一ヵ月ばかり寝込んで、将軍のところも、株式会社の勤め(仕事振りはまったく描写されていなかったが……会社員だったのか)も一切辞めてしまったので、ガヴリーラを悪く思っている人々も悪口を言うのは遠慮したといったところ。実際、彼は病気以来人が変わってしまったようだ。妹のワルワーラは今冬にプチーツィンと結婚した(これで、ガーニャが失職しても、ガヴリーラの家族が路頭に迷うことは当面なくなった)。
ガーニャに関する一つのニュース。あの夜会の後、ガーニャは家へ帰って公爵の帰宅を待っていた。公爵は明け方の五時に戻って来たが、そこで彼はナスターシャから送られた金をナスターシャに返してくれと、公爵に頼んだ。二人はその後二時間も話しこみ、別れる時にはほとんど友人のようになっていたという。──このニュースはワルワーラによって、夜会のことも含め、エパンチン家の人々にもたらされたようだ。
-------------------------------------------------------------一ヵ月後
エパンチン将軍夫人のところへ、ベロコンスカヤ老公爵夫人から一通の手紙。老公爵夫人(ベロコンスカヤのおばあさん、とリザヴェータはかげで呼んでいた)は、「例の公爵」の消息を知らせてきたのだ──以前リザヴェータがムイシュキンのことをベロコンスカヤ夫人に……と言っていた伏線回収だな。第一編5章119頁、第一編7章185頁。公爵はベロコンスカヤ夫人に気に入られ、毎日の訪問を許されているという。さらに《おばあさん》の紹介で二、三の立派な家庭へ出入りしているという。
こうして公爵についての沈黙の氷は破れた。エパンチン将軍もあわてて打ち明け話。後見役のサラースキンの監視を信頼のおけるモスクワの二、三の勢力家に頼んでおいた。遺産の事実は本当のことだったが、遺産の額はそれほど莫大でもなかった。これは公爵が怪しい債権者の要求のすべてを聞いてしまったことにも由来した。
-------------------------------------------------------------二ヵ月後
リザヴェータは公爵のことを気に入ったふうに口にした。その上、急にアグラーヤを可愛がりはじめた。ところがナスターシャ・フィリポヴナにかんする噂が入ってくると、また気難しくなった。ナスターシャはロゴージンのところへ嫁に行くと約束した後に逃げ出し、田舎へ姿を隠してしまった、それと同時にムイシュキンもモスクワから姿をくらましたという。また公爵についての話題は沈黙の氷の下に閉ざされた。
-------------------------------------------------------------春が近づく
モスクワからペテルブルグへШ公爵がやってきた。活動家。役所勤め。三十五歳。最上流社会の人間。そして財産を持っている? まず将軍と、そして将軍の家族とも近づきになった。Ш公爵はアデライーダに自分の恋を打ち明けた。結婚式は夏の中ごろと決った。さらにШ公爵は彼とかなり親しいエヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・Rという二十八歳ぐらいの侍従武官、美男子、名門の生まれ、財産を持った(将軍「実際、どうもそうらしい、もっとも、もう一度よく調べてみなければならないが」)男を連れてきた。彼はアグラーヤを一目見てからというもの、エパンチン家にいつも坐りこむようになった。
-------------------------------------------------------------六ヶ月後
コーリャの暮らし。下宿人は公爵もフェルディシチェンコもいなくなった。ニーナ夫人とガーニャとワルワーラはプチーツィンの家へ。将軍は、例の大尉夫人によって債務監獄へ。コーリャはイポリートと付き合いつつ、ほうぼうをぶらついて一種の不良中学生みたいになった。しかもコーリャはエパンチン家の娘たちと親しくなったらしい。リザヴェータ夫人にも気に入られた。アグラーヤには軽んじられていたが。復活祭近く(四月末)になって、コーリャはアグラーヤに一通の手紙を渡した。ムイシュキン公爵の手紙。「私は三人のなかであなたのことばかりを考えてきました。あなたは私にとって必要な人なのです。」彼女はその手紙を『ドン・キホーテ』の本の中に隠した。コーリャは公爵がペテルブルグを去るときに自分の一定の住所を教え、何か用事があったら言いつけてくれと告げていた。アグラーヤ「それにしてもこんな小僧っ子を信用して頼むなんて滑稽だわ」
-------------------------------------------------------------(六ヶ月後)第二編1日目
2
六月はじめ。エパンチン家の人々がパーヴロフスクの別荘に引っ越してしまった翌々日。モスクワ発の朝の列車で、ムイシュキン公爵がペテルブルグへやってきた。「彼を停車場に出迎えた者は誰もいなかったのに、公爵が車を出るとき、その列車で到着した人びとを取りかこむ群集のなかから突然、誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。彼が瞳をこらして見つめたときには、もうそこには何も見きわめることはできなかった。もちろん、ただそんなふうに思われただけであったが、それは不愉快な印象をとどめた。しかも、公爵はそれでなくてさえ沈みこんでおり、何やら心配事がある様子であった。」
辻馬車でホテルへ。部屋を二つ借りると、すぐ外へ出て来る。
「もし半年前に、彼がはじめてペテルブルグへやってきたときに知り合った人が、いま彼の姿を見たならば、彼の風采がずっとよくなったと断言するにちがいない。」服装はすっかり変わっていた、流行の型すぎたけれども。
また辻馬車をやとってペスキへ。ロジェストヴェンスカヤ街の一つの通りで、一軒の木造の建物を発見。庭へ入って、小さな階段を上る。レーベジェフ氏は在宅か? はい、あちらに、と料理女。
客間へ。濃いブルーの壁紙。レーベジェフ氏は公爵に背を向けて、何か雄弁をふるっている。聞いている者は、十五歳くらいの少年、乳呑児を抱えた喪服姿の二十歳の娘、同じく十三歳の女の子、そしてもうひとり、二十歳くらいの青年が、レーベジェフの雄弁に横槍を入れている。
公爵を見ると、レーベジェフは卑屈そうな微笑を浮かべながら客のほうへ駆け寄る。だが落ち着きをとりもどせず、喪服の娘に飛び掛っていく。逃げていく子供のうしろでじだんだを踏む。公爵の視線に気付くと、「その……あなたさまに敬意を表するためでして……」そんな敬意の表わし方があるかよ。
レーベジェフ、燕尾服を着に出て行く。娘が最近のレーベジェフの話をする。五週間前に母が亡くなった。それ以来、レーベジェフは夜寝る前に涙を流しながら聖書を読んで聞かせてくれる。青年曰く、あの男はあなたに一杯食わせるにきまっていますよ。
レーベジェフ戻って来る。みんな孤児でございますよ。
子供を紹介していくが、青年のところで言葉につまる。「なんだってつまっちゃったんだい?」
レーベジェフ、公爵に訴えかけるように、ジェマリン家の人々が皆殺しにされた事件を新聞でごらんになりましたか? じつはこの男が殺人事件の犯人なんです。アレゴリックに申し上げると、第二のジェマリン家殺人事件がおこったら、その犯人というわけですが……陰謀をたくらんでいるんですよ!
その青年はレーベジェフの甥。
青年曰く、レーベジェフは弁護士をはじめて、訴訟事件を手がけようと思い立ったんですよ。家では子供相手にも雄弁術です。五日前にも治安判事の前でしゃべったんですが、高利貸しの弁護をしてましたよ。その弁舌を法廷でやったのと寸分たがえず、毎朝子供たちに聞かせている。「あなたはどうやらムイシュキン公爵のようですね。コーリャが話してくれましたよ、この世であなたほど賢い人にはまだ出会ったことがないって……」
ひとつあの人とぼくを裁いてくれませんか。
公爵頭痛がしてくる。レーベジェフは公爵の用件がのびのびになっていくのが嬉しい様子だし。
この青年は以前ロゴージンの仲間だった拳骨の旦那(ケルレル)と知り合いらしい。ケルレル相手にトランプで負けて金をすってしまう。彼は伯父のレーベジェフに十五ルーブル無心した。だが貸してくれなかった。これから三ヶ月のあいだにきれいさっぱり返すと約束しているのに。ぼくの良心はきれいなものだ、利子をつけて返します。レーベジェフの方こそ何ひとつためになることもしない、やくざ者じゃありませんか。高利貸しの弁護なんかしやがって。「法廷じゃやくざの弁護をやりながら、ご当人は一晩に三度もお祈りに起きるんですからねえ。ほら、この広間で膝をついて、三十分間も床にこつこつ額を打ちあてながら、誰かれの見境なく手当たりしだいに、息災を祈ってやって、あることないこと唱えるんですよ。」
公爵曰く、あなたの言い分は少々まちがっているようですね……
こいつは私を侮辱してるんですよ、公爵!とレーベジェフ。「たとえこのわたしがデュバリ伯爵夫人の魂の安息を祈って、額に十字を切ったといっても、そんなことはきさまの知ったことかよ。」だいたいきさまはデュバリ夫人がどんなご婦人だか知っているのか?
青年は知らなげ。
夫人がお亡くなりになったときのことを知ってるか? ギロチンにかけられる直前に、「もう一分だけお待ちになって、もう一分だけ!」と叫んだ。人間の魂をこれより悲惨な目にあわせるなんて、とても考えることもできないじゃないか。わたしはまるで心臓をくぎ抜きでぎゅっとはさまれたような気がしたよ。わたしはこう言ってお祈りしたんだ、「神よ、偉大なる罪びとデュバリ伯爵夫人と、彼女と罪を同じくする人びとの魂に安らぎを与えたまえ」なにしろ、こんなふうな偉い罪びとや、すっかり運命の狂った人たちや、不幸を耐えしのんできた人たちがたくさんいて、それがみんないまあの世でもがいたりうめいたりして、安息を待っているんだぞ……。
うるせえ、誰でも好きなやつのために祈ればいいのさ!と青年。
公爵はこの青年が嫌になってきた。
公爵はきっぱりとレーベジェフに語り始める。あなたはその気にさえなれば、かなり事務的な人だと承知しています……もしあなたが……「失礼ですが、あなたのお名と父称はなんと言いましたかね、忘れてしまいましたので」
チモフェイ・ルキヤーノヴィチです。と嘘をつく。全員笑う。こいつはもう嘘をつくのが癖になっているんですよ。
まさか?
ルキヤン・チモフェーヴィチです、そのとおりです。……自分を卑下するあまりついその。「レーベジェフはますますおとなしく頭を垂れながら、つぶやいた。」
ああ、どこへ行ったらコーリャに会えるか、それさえわかったらねえ!と叫びながら公爵出ていこうとする。
コーリャがどこにいるかぼくが教えてあげましょう、と青年。コーリャは《はかりや》というホテルか、パーヴロフスクのエパンチン家の別荘にいますよ。ところでなんであなたは金なんか出して、イヴォルギン将軍を監獄からもらいさげしたんです?
レーベジェフが公爵を引っ張っていく。
向き合って、公爵本題を話す。レーベジェフさん、言うまでもないでしょう、私はあなたの手紙のことでやってきたんですから。……もういいかげんにしてください。ロゴージンがここへきてもう三週間になることは、私だって知ってますからね。
あの女は、婚礼の間際になってまた逃げ出したんです……。
いまあの女はどこにいるんです?
いまでも相変わらず、ペテルブルグ区の、わたしの家内の妹の家におられますよ、先日手紙でお知らせしたとおりです。
いまでも?
いまでも。もっとも、もしかするとパーヴロフスクにあるダリヤ・アレクセーエヴナ(例の友人の婦人)の別荘においでになるかもしれませんがね。
あなたがお会いになったとき、どんな風でした?
「……さしせまった結婚のことを考えただけでも胸が悪くなり、腹がたつらしいんですよ。あの男のことなんかは蜜柑の皮くらいにしか思っちゃおりませんよ。それ以上ってことはありませんね。いや、それ以上ですね。なにしろ、こわくて恐ろしいという気もあるんですから。あの男のことは口にするのさえ禁じているのでして、顔を合わせるのは、よくよくのっぴきならない用事のときだけですよ……あの男のほうもそれには気がついているんですからねえ。このぶんじゃ、一騒動なくちゃすみますまいよ! もともと、落ちつきのない、人をばかにしたような、よく二枚舌を使って、すぐかっとなる女でしたからねえ……」
二枚舌? かっとなる?
ええ、先日も私が『黙示録』で説教しようとしたときも……
なんですって?
私は『黙示録』の購読にかけちゃちょっとしたものでして、もう十五年も購読しているんですよ。その解釈であの女と意気投合したんです……。レーベジェフなんか敬ってくれる人はいませんが、この購読では私も高官と肩をならべられるのです。ある高官なんぞは、私の噂をお聞きになって、ピョートル・ザハールイチを通じて、わたしを当番室からわざわざご自分の書斎へお呼び寄せになりましてね。『きみは反キリストの先生だというがほんとうか?』……
公爵は腰をあげようとした。レーベジェフはびっくり。ずいぶん冷淡になられましたね、へ、へ!
気分がよくないんですよ、妙に頭が重くて。
別荘にでもおいでになっては? 私も三日ばかりしたら、パーブロフスクの別荘へ参るつもりなんで。
当地の人はみんなパーヴロフスクへ行くんですか? あなたもあっちに別荘を持っているんですか?
なにもみんながパーヴロフスクへ行くわけじゃありませんが、プチーツィンさんが格安で手に入れた別荘の中から一軒を譲ってくださったんですよ。もっとも、私は離れの方に入って、別荘の母屋のほうは……
貸してしまったんですか?
い、いえ、まったく貸して……しまったというわけじゃないんです。
じゃ、私に貸してください。
このことを狙って、レーベジェフは遠まわしに話をしたらしかった。実は別荘を貸す約束はあったのだが、相手がまだ「たぶん借りるだろう」としか言っていなかったので、別荘を公爵の手に渡そうと考えた。《これからいろんな衝突がおこって、局面がうんと変化するぞ》と彼は想像をめぐらした。
公爵とレーベジェフ、庭を出て行きながら会話。公爵はホテル住まいなんで、早ければ早いほどいい。ならば、今日にでもホテルを引き払って私どものところへ移られては。そして、明後日私どもと一緒にパーヴロフスクへ参りましょう。
慇懃なはずの公爵、挨拶もせずに門を出て行く。
3
もう午前十一時。エパンチン家に行く前に、彼にはどうしても訪問したいところがあった。
「もっとも、この訪問は彼にとって、いくぶん危険を帯びていた。彼はしばらく思い迷っていた。彼はこの家についてそれがサドーヴァヤ街にほど近いゴローホヴァヤ街にあるということだけ知っていた。彼はそのそばまで行くうちに最後の決心がつくだろう、と考えて歩きだした。」〔無意識の陰謀〕
「サドーヴァヤとゴローホヴァヤの十字路に近づきながら、公爵は胸が異常に高鳴っていることに、われながらびっくりした。心臓がこんなに激しく動悸するとは思いもかけないことであった。と、一軒の家が、その風変りな外観のせいか、かなり遠いところから、彼の注意をひきはじめた。これは公爵があとになって思い出したことだが、彼は『きっとあの家にちがいない』とひとり言を言った。彼は自分の勘が当たったかどうか確かめるために、異常な好奇心にかられてその家へ近づいていった。もし自分の勘が当たっていたら、きっととても不愉快な気分になるにちがいない、となぜか彼は思った。」
「その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった。……」愛想がない感じ。標札を見ると、《世襲名誉市民ロゴージン家》。
ドアを開けて、二階へ(ロゴージンが母親や弟といっしょにこの家の二階全部を住居として使っていることを、彼は聞き及んでいた)。広間を通り抜け、いくつかの小部屋を通りぬけた。ようやくとある部屋のドアにたどり着く。ドアを開けたのは当のロゴージン。「公爵の姿を見ると、彼はさっと真っ蒼になって、その場に棒立ちになってしまった。しばらくのあいだじっとおどろきの視線をひとところに据え、口をゆがめて、どうにも合点のいかないといった薄笑いを浮かべながら、石像のように突っ立っていた。まるで公爵の訪問なぞまったくありうべからざる奇跡的なことのように思われたようであった。公爵のほうも何かこの種のことを予期しないではなかったが、それでもあまりのことに面くらってしまったほどであった。/「パルフョン、どうやら、私はまずいところへ来てしまったようだね。なんならすぐ帰ってもいいよ」公爵はもじもじしながら、やっとのことで言った。」
いや、どうぞどうぞ。
モスクワではよく二人で話し込んだものだった。が、もう三ヶ月以上も顔を合わせていない。
ロゴージンの動揺はいまだ続いている。彼は公爵を椅子へ導く。「公爵はふと何気なく彼をふりかえったが、たとえようもなく奇妙な、重苦しい視線に出会って、立ちどまった。何かが彼の胸を突き刺したような気がしたが、それと同時に別なものが心に浮かんだ。──それはさきほどの重苦しい陰気な感じであった。彼はすわろうともせずにじっと突っ立ったまま、しばらくのあいだロゴージンの眼をまともに見つめていた。……」ロゴージンにやりと笑う。坐れよ……。
公爵は腰をおろすと早速訊ねる。はっきり答えてくれ、きみは今日私がペテルブルグへやってくるってことを、知ってたのかい?(「停車場での燃えるような視線」を伏線とした緊迫した会話。伏線を張ったからこそこうした緊迫感の演出が可能。)
あんたがやってくるだろうとは考えていたが、まさに今日やってくるなんてことはおれには分かりゃしないさ!「この答えのなかに含まれていた何か鋭いひびきを秘めた爆発的な調子と、妙にいらいらした感じは、さらに公爵をおどろかした。」
ロゴージンの問い、なぜそんなことを訊くんだね?
さっき汽車から降りた時、たった今君が後ろから私を見つめたときの視線と同じものを見たんでね。
へえ! で、そいつはいったい誰の眼だったんだね?
知らないね……。人込みのなかだったから……。どうも最近身体の調子が悪くて……まるで五年前によく発作が起こっていた時分みたいで……〔伏線〕。
「ロゴージンの顔には愛想のいい微笑が浮かんだが、それはその瞬間の彼にはひどくそぐわないものだった。まるでその微笑にはほうぼうに欠けたところがあって、どんなに苦心しても、彼にはうまく継ぎあわせることができないといった感じであった。」
じゃ、またスイスへでも行くかね?とロゴージン。覚えてるかね、おれとあんたが初めて会った時のことを?
「そう言うとロゴージンは、いきなり大声で笑いだした。今度は何かしらあけすけの憎悪を隠そうともしなかったばかりか、かえってそれをあらわす機会が到来したのを、まるで喜んでいるみたいであった。」
きみはここにすっかり落ち着いたのかい?と公爵。そうさ。きみがあの仲間の連中を追っ払って、親の家に引っ込んでいるとは……。
二人はしばらく黙る。
私はさっきここへ来るとき百歩くらい前から、きみの家を当ててしまったよ。きみがこんな家に住んでいるなんて考えもしなかったけれど、初めて見た時には、たしかに、彼はきっとこんな家を持っているにちがいないって思ったんだ。この書斎は暗いねえ。きみまで陰気みたいだ……。
書斎の描写。テーブルの上に書物(ソロヴィヨフの歴史の本。〔伏線〕)。壁には油絵。亡父の肖像画? 亡父についての会話〔伏線〕)。突然、
「例の結婚はここで挙げるつもり?」
「こ、ここだよ」ロゴージンは思いもよらぬ質問に身体をぎくりと震わせて、答えた。
「もうすぐかい?」
「おれしだいじゃないってことぐらいわかってるじゃないか?」
公爵の長科白。私はきみの敵じゃない。モスクワでもきみの結婚を邪魔しはしなかった、あのときは「助けてくれ」と彼女のほうから身を投げかけてきたんだ。それからまた私のところから逃げ出して、それをきみが捜しだしてまた結婚までこぎつけた、ところが噂ではまた逃げ出したっていうじゃないか。レーベジェフがそう教えてくれたのだが。私がここへやってきたのは、あの女を健康回復のために外国にやろうとおもってのこと。あの女には看護が必要だ。ただ、もしきみとあの女の仲がうまくいっているのであれば、私はもう決してあの女の前に出やしないよ、……私がきみをだましたりなんかしないことは、きみだって知っているだろう。ざっくばらんに言えば、きみと一緒になるのは、あの女にとっても、きみ自身にとっても、身の破滅だと思うけれど、私はきみたちの話を邪魔しようなんて気持ちはこれっぽちもない。だから、きみも私を疑うのはやめてくれ。あの女が私のところへ逃げこんだときも、別々の町で別れて暮していたんだ。私はあの女を恋で愛しているのじゃなく、あわれみで愛しているんだから(前にも一度言ったが)。おい、そんな憎々しそうな眼つきをして私をにらむなよ! 私はきみを安心させるためにやってきたんだ。……じゃ、もう帰るよ、これっきりやってこないよ、さよなら。
もうすこし一緒にいてくれよ、とロゴージン。おれはあんたが目の前からいなくなると、すぐにあんたに憎しみを感じるんだよ……。
私がいなくなると、すぐ信じるのをやめる……きみはお父さん似なんだね……「公爵は親しそうに微笑を浮かべて、自分の感情を隠すようにつとめながら、答えた。」
おれはあんたと坐っていると、あんたの声を信じたくなってくるんだよ……。そりゃあんたとおれを比較するわけにはいかないが……。おれとあんたがあの女に惚れるのだってやり方はまったく違うだろう。可哀そうだから好きだなんて俺にはこれっぽちもないからね。それにあの女はこのおれを何より憎んでいる。……おれはもう五日もあれのところへ行ってないんだぜ。行く気になれない、「なんの御用でいらしたの?」なんてきかれると思うと……あの女には随分恥をかかされたからな。
恥をかかされたって? そんなことはないよ!
あんたといっしょにいるときは、あれもそんな女じゃないだろう、ところが、このおれにたいしてはそんな女なんだからねえ。ほら、あのケルレルとの一件だって……。ところで金ときたら、おれはどれだけつぎこんだかしれんよ……。
だったらなぜいまも結婚しようという気でいるんだ……。このさきどんなことになるか分かっているのかい……。「公爵はおそろしくなってたずねた。/ロゴージンは苦しそうにものすごい眼差しを公爵にむけたが、ひとことも答えなかった。」
さっきの話の続き。おれはもう五日もあれんところへ行ってない。『あたしはまだ自由な女なんですからね』と口癖のように言っている……。おれはいつも追いだされやしないかと思って、びくびくしているんだ。……あの女はおれを見ているとおかしくてたまらないらしいんだね。……花嫁のところへ出かけていくのをびくびくしてるなんて、それでも花婿と言えるのかね?……一度はこんなことを言った、『もしあたしがあんたをだましていることがわかったら、あたしをどうするつもり?』『そんなこと自分でもわかってるだろう』
何がわかってるんだね?と公爵。
このおれがそんなこと知るもんか?とロゴージン。
「モスクワで、一度はあの女をつかまえて訊いたことがあるんだ……」から、公爵の知らなかったケルレルの一件。気違いじみた喧嘩。あんたの女房になんかならない……殺すかもしれない?……そんなことは恐れていない、寝室に鍵もかけずに寝てやる……一晩中寝なかったロゴージン……『あんたもきっと、何か誓いをたてたのね──こいつがおれのところに嫁にきたら、すっかりこの仕返しをしてやって、せいせいしなくちゃ承知しないぞ、なんてね!』『なんだかわからんけど、そんなことを考えてるかもしれんよ』『なぜわからないってことがあるの?』『いや、ただわからないんだよ。そんなこといまは考える気がしねえからな』『それじゃ、いま何を考えてるの?』……『それじゃ、もしあたしがどうしても勘弁しないで、あんたの女房にならなかったとしたら?』『身投げして死ぬって言ったじゃないか』『でも、きっとその前にあたしを殺すでしょうね』……その後、結婚の承諾を与えられたのだったが……一週間経つとまた逃げてここにいるレーベジェフのところへ行ってしまった。ロゴージンがやってくると『あたしはどうしてもあんたがいやだというのじゃありません、ただ自分の気のすむまで待ってほしいの……あたしはまだまだ自由な女なんだから……もしあたしが望みなら、あんたも待たなくちゃだめよ』まあ、これがざっと現在の状況だ。
公爵曰く、いずれにせよ自分はきみの邪魔はしない。
なんだってあんたはこのおれに譲ろうとするんだね? 今度だってこうしてこのペテルブルグに駆けつけて来たくせにさ?
私がきみを騙しているとでも?
いいや、だがよくわからない、確かなのはあんたの憐れみの方が俺の恋よりも強いってことだ。
きみの恋は憎しみとすこしも区別がつかないものなんだね……。もしその恋が消えてしまったら、恐ろしいことが起こるかもしれないね……。
「じゃ、このおれが斬り殺すってことかね?」公爵はぎくりと身を震わせた。
公爵の長科白。あの女がまたあんなことのあとできみと結婚しようという気になったのが、不思議でならないよ……。だって、きみはほんとうに殺しかねないからね。なぜきみはそんなに彼女を……。
ロゴージンは公爵の表情の変化を見逃さない。また親父の肖像画を見て笑ったようだな?
なぜ笑ったかって。こんなことを思い浮かべたんだ。もしこんな恋が起こらなかったら、きみはこの親父さんと寸分たがわぬ人物になっただろうってね。おとなしい細君とたった二人で、この家にむっつり座り込んで、ただ金もうけに汲々として……。
「まあ、うんとからかうがいいよ。でも、あの女もつい最近この絵をつくづくながめながら、いまとそっくり同じことを言ったよ! じつに、不思議だねえ、あんたたち二人は何から何まで同じだってことは……」〔因果性とは無縁な、心理的必然性〕
あの女はもうここへ来たことがあるのかい?
あるさ。この絵を眺めながら、死んだ親父のことをいろいろと尋ねた。それからこの家を検分してまわったんだが、なんだかまるでびくびくしているふうだったよ。おれがこの家はすっかり建て直して手入れをするって言ったら、『いえ、なにも建てかえることはないわ。このままで暮すことにしましょう。あんたの奥さんになったら、あんたのお母さんのそばで暮したいの』だとさ。あれをおふくろのところへ連れていったら、まるでじつの娘みたいに優しく振舞った。このおれの本を見つけたときには、あんたはロシアの歴史の本なんか読み出したの?と言った(あいつがモスクワにいる時に、すこしは自分に教養をつけたらどう、せめてソロイヴョフの「ロシアの歴史」でも読んだら?って言ったんだが)。『でもけっこうなことよ、そのままつづけるといいわ』……あれがあんな態度を取ったのは初めてだったので、おれはびっくりした、あのとき初めておれは人間らしくほっと息をついたものさ……
私もそれを聞いて嬉しいよ……あの女はきみにいろんな長所があることもちゃんと見抜いているのさ……。そうでなかったら、あの女がきみのところへ嫁に来るのは、わざと水の中へ飛び込むか、それとも刃の下をくぐるのと同じことになるじゃないか……。
ロゴージンは嘲笑。
なぜきみはそんな痛々しい眼つきをして私を見ているんだね?と公爵。
ちぇっ! あの女がおれのところへ来ようってのは、おれのうしろに刃が隠されてるからこそなんだぞ! 公爵、これがどういうことだかほんとに気付かなかったのかい?
分からないね……。
あの女の惚れてるのはほかの男なんだよ。誰だかわかるかね? あんたなんだぜ! あの名の日の祝いのときから、あの女はあんたに惚れこんじまったのさ。ただ、あんたの嫁になるわけにはいかないと思ってるのさ、そんなことになればあんたの一生を滅茶苦茶にしちまうわけだからな、だけどおれの一生なんかだったら平気だ、嫁に行っても大丈夫だ……とまあそんなふうに考えてるのさ。
じゃあ、彼女はなんできみのところからも、私のところからも逃げ出したんだ?
あの女はまるで熱病に浮かされるみたいなものさ。……いや、俺という男がいなかったら、あの女はとっくに身投げをしていたろうよ。なにもかも腹立ちまぎれの末なのさ……。
そんならなんだってきみは……なんだってきみは……と公爵。彼は恐ろしそうにロゴージンを眺めた。
「なんだって終わりまで言わないんだい?」ロゴージンはにやりと笑いながらつけくわえた。「なんなら、このおれがあんたの腹の中の考えを言ってやろうか。《ああ、いまとなってしまっては、あの女をこの男といっしょにするわけにはいかん。どうしてそんなことをあの女にさせられるものか!》なあに、あんたが何を考えてるかぐらい、ちゃんとわかってるのさ……」
私はそんなことのために来たんじゃないよ……はっきり言っておくけれど、私はそんなこと考えちゃいなかったよ……
「そりゃ、きっとそんなことのために来たんじゃなかったろう、そんなことは考えてもみなかったろうよ。でも、たったいま、たしかにそれをしにやってきたのさ。へ、へ!……」
それはみんな嫉妬だよ、きみの病気のせいだよ、きみが誇張して考えているんだよ……「きみはどうしたんだ?」
「やめろよ」ロゴージンは言って、公爵は本のそばにあったのを取りあげて持っていたナイフをすばやく取りあげて、もとの場所へ置いた。
「私にはさっきペテルブルグにはいってきたときから、なんだかそんな気がしたんだよ……」公爵は言葉をつづけた。「だから私はここへやってくるのが気が進まなかったんだ。私はこの土地であったことを何もかもすっかり忘れてしまいたいんだよ。胸の中からえぐりだしてしまいたかったんだよ。じゃ、さようなら……おい、きみ、どうしたんだい!」
公爵は放心した様子でこんなことを言いながら、またもや例のナイフを取りあげようとしたが、ロゴージンはまたそれを彼の手からもぎとって、テーブルの上へほうりなげた。それは折畳みのできない鹿の角の柄がついた、ありふれた形のナイフで、刃わたり十三センチばかり、幅もそれに似合いのものであった。
公爵が二度もこのナイフをもぎとられたことに特別の注意を払っているのと見てとったロゴージンは、憎々しげないまいましさをあらわしてそれをひっつかむと、本のあいだへはさんで、それをぽんとほかのテーブルへ投げだしてしまった。
きみはあれで本のページを切るのかい。
ああ。
でもこれは園芸用のナイフじゃないか。
園芸用のナイフでページを切っちゃいけないって法があるのかい?
それにあれはまだ新品じゃないか……
ならどうだっていうんだ? おれはいま新しいナイフを買っちゃいけないとでもいうのかい?
公爵は急に我に返って笑い出す。いや、勘弁してくれたまえ……あんなことを訊こうなんてつもりはなかったんだ……じゃ、さようなら。
そっちじゃないよ、こっちだ、こっちだよ。いっしょに行って教えてやるよ。
4
またいくつかの部屋を二人は通り抜けて行く。やがて大きな広間に。壁に何枚かの絵。次の部屋に通ずるドアの上には、奇妙な一つの絵。たった今十字架からおろされた救世主の像。公爵はさっさと通り抜けようとするが、ロゴージンがその絵の前で足を止める。
この絵を五百ルーブルで譲ってくれという商人もいるのだが、おれは手もとに置いておくことにしたのさ。
ハンス・ホルバインの模写だね。外国で見たことがある……と公爵。でもなんだってきみは……
ロゴージンは急に会話を打ち切って、絵をほったらかして先へ進む。
数歩行ってから、ロゴージンが訊ねる。あんたは神を信じているかね?……おれはあの絵を見ているのが好きでね。
あの絵をだって! 人によってはあの絵のために信仰を失うかもしれないのに!……私が神を信じるかなんて、どういうつもりで訊いたんだい?
前から訊いてみたいと思ってたんだよ、だって近頃は信じてないやつが大勢いるじゃないか。ところでほんとうかね、ある男が酔った勢いで俺に言ったんだが、おれたちのロシアには、ほかのどこの国よりも神を信じねえ人間が多いってのは……。
「ロゴージンは皮肉な薄笑いをもらした。彼は自分の質問を言ってしまうと、急にドアをあけて、取っ手を握ったまま、公爵が出て行くのを待っていた。公爵はびっくりしたが、そのまま外へ出た。相手はそれにつづいて階段の降り口まで出て、うしろ手でドアをしめた。二人はたがいにむきあったまま、自分たちがどこへ来たのか、さしあたり何をしなければならないのか、まるで忘れてしまったように突っ立っていた。/「じゃ、さようなら」公爵は片手をさしのべながら言った。/「さようなら」ロゴージンは自分にさしのべられた手を、かたく、とはいえまったく機械的に、握りしめながら言った。」
公爵は一段おりてから、またふりかえった。
さっきの信仰の話だけれど……。長科白。自分は先週二日ばかりのあいだに四度も変わった人に会った。一人は無神論者の学者。その晩田舎ホテルに泊ると、前の晩人殺しがあったばかりという話を聞く。二人の百姓、以前から友人同士の男が、一緒にお茶を飲んで同じ部屋で床に入ろうとした時、片方の男が、もう一方の男が銀時計を持っていることに気付いた。その時計がつい気に入ってしまって、ふらふらっと、相手の男が向こうを向いた隙に、ナイフを取り出して、『主よ、キリストに免じて許したまえ!』と言ったかと思うと、ただ一刀のもとに自分の友人を斬り殺して、相手の時計を奪ったというのだ。
ロゴージン爆笑。気味が悪いくらいに笑いこける。すばらしいじゃないか! 神を信じないってやつがいるかと思えば、人を殺すときにもお祈りをあげるほど信心深い奴もいるんだな……。こんなすばらしい話はねえよ!
ロゴージンが笑い止むのを待って、話のつづき。次の朝。酔っぱらいの兵隊が、銀の十字架を買ってくれと寄ってくる。一目で見てまがいものの錫製とわかるものだったが。自分はすぐ買ってやった。兵隊はいかにも満足したという顔つき。その金で一杯ひっかけに行ったのだろう、間違いなく。自分はロシアの印象で胸がいっぱいになっていたから、歩きながらこう考えた、このキリストを売った男を非難するのはもう少し待とう、こうした酔っぱらいの弱い心に何があるかは、神のみの知るところだから……。一時間ばかり経って、今度は乳呑児をかかえたひとりの百姓女に出会った。赤ん坊がはじめて母親に笑顔を見せたらしい。彼女は信心深そうに十字を切った。自分が尋ねると、『いえ、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪びとが心の底からお祈りするのを天上からごらんになった神さまの喜びと、まったく同じことなんでして』と答えたものだ。この思想の中にはキリスト教の本質のすべてがことごとくいっぺんに表現されているじゃないか……しかもそれを言ったのが、ただの百姓女なんだからね……ひょっとしたら、この百姓女はあの兵隊の女房かもしれないんだからね……。きみはさっきたずねたけれど、自分の返答はこうだ、宗教的感情の本質というものは、どんな論証にもどんな過失や犯罪にも、どんな無神論にもあてはまるものじゃないんだ。そんなものには何か見当ちがいなものがあるんだ、いや、永久に見当違いだろうよ、そこには、永久に人々が見当違いな解釈をするような、何ものかがあるんだ……この何ものかはロシア人の心にこそ誰よりもすぐはっきりと見分けられるのだ……。私の言うことを信じてくれたまえ、私たちがかつてモスクワでよく顔を合わせて話しこんだことを、思いだしてくれ……。それじゃ、さようなら! ごきげんよう!
公爵は降りていく。
「レフ・ニコラエヴィチ!」公爵が最初の踊り場までおりたとき、パルフィヨンは上から叫んだ。「兵隊から買った例の十字架は、いま身につけているのかい?」
ああ。
見せてくれよ。
奇妙なことになった。彼はまた上へあがり、首にかけたまま十字架を見せる。
おれにくれよ。
公爵はこの十字架と別れたくなかったが……
かわりに自分のをはずすから、あんたかけろよ。
十字架を取替えっこしたいというわけだね? いいよ、そういうことなら。これで兄弟の契りができたじゃないか!
「公爵は自分の錫の十字架をはずし、パルフョンはその黄金の十字架をはずして、たがいに交換した。パルフョンは黙っていた。さきほどの疑いの色や、痛ましい、冷笑的とさえ言ってもいいような薄笑いが、この新しい義兄弟の顔から依然として消えずに、少なくともときおり稲妻のように激しくその顔にあらわれるのを見て、公爵は重苦しいおどろきの念にかられた。やがて、ロゴージンは無言のまま公爵の手を取ると、何事かを決しかねるように、しばらくじっとたたずんでいた。と、ふいに彼は相手をうしろにひきたてるようにしながら、やっと聞えるくらいの小声で『行こう』と言った。……」ロゴージンは公爵を、二階にある別の住居のドアへ連れて行く。呼鈴を鳴らし、中へ。また幾つかの部屋を通り抜けて行く。そして客間らしい小さな部屋へ。客間の片隅にはひとりの小柄な老婆が肘掛け椅子に坐っている。傍らにはもう一人居候らしい老婆が靴下を編んでいる。最初の老婆は、ロゴージンと公爵の姿を見ると、満足の意をあらわしながら何度も頭をさげてみせた。
おっかさん、とロゴージンはその手に接吻しながら言う。これはおれの親友のムイシュキン公爵だよ……おっかさん、この人を祝福しておくれ、じつの息子と同じように。おれがうまく指を組ませてやるから……。
だがロゴージンが手を出す前に、老母は自分から公爵にむかってうやうやしく十字を切る。
じゃ、出よう。ただこれだけのためにあんたをここに連れて来たのさ……。
またドアの外、階段のところへ。
ロゴージン曰く、おふくろはもう人の話なんか分からないんだ。それなのにおふくろはあんたを祝福した、これはおふくろが自分から望んでしたことだ……。「じゃ、さようなら。おれもあんたももう別れていい時分だよ」
「じゃ、お別れにきみを抱こうじゃないか、きみはおかしな人だなあ!」公爵はやさしい非難の眼つきで相手をながめながら、彼を抱きしめようとした。ところが、パルフョンは両手をあげたかと思うと、すぐにまたおろしてしまった。彼は決しかねていた。公爵を見ないように顔をそむけていた。彼は公爵を抱きしめたくなかったのだ。
「心配するなよ。あんたの十字架をもらったからには、決して時計のために斬り殺したりなんかしないよ!」彼はふいに妙な笑い声をたてながら、曖昧な調子でつぶやいた。と、急に彼の顔色は一変した。おそろしく蒼ざめて、唇は震え、両の眼はぎらぎら燃えだした。彼は両手をあげると、しっかり公爵を抱きしめ、息を切らしながら、言った。
「もしそれが運命の約束なら、あんたがあの女をとれよ! あんたのもんだよ! 譲ったよ!……このロゴージンを忘れるなよ」
そう言って、公爵を突きはなすと、あとをも見ずに、自分の部屋へはいって、ぱたんとドアをしめてしまった。
5
「もうだいぶおそく、かれこれ二時半だったので、公爵がたずねていったとき、エパンチン将軍は留守であった。」名刺を置いて《はかりや》へ。コーリャはいない。「もし三時半になっても帰らなかったら、汽車でパーヴロフスクのエパンチン将軍夫人の別荘へ出かけたものと思ってくれるように」と言われる。公爵は食事をして待つが、三時半どころか四時になってもコーリャはあらわれない。公爵は外へ出て気のむくままに歩き出す。初夏のペテルブルグ、明るくてからりと暑い静かな日和。目的もなくぶらぶらと歩く。通行人をながめる。「しかし、通行人にも気づかず、自分がどこを歩いているのかも知らずにいるときのほうが多かった。彼は苦しいほど緊張した不安な状態にあったが、それと同時に、たったひとりでいたいという並々ならぬ欲求をも感じていた。彼はたったひとりだけになって、たとえどんな小さな出口すら求めず、この悩ましいまでの緊張感に、受身の態度で没入したいと願った。自分の心と魂にどっとふりかかってきた多くの問題を嫌悪して、それを解決しようという気にもなれなかった。《それがどうしたのだ、なにも自分が悪いわけじゃないじゃないか?》彼はほとんど無意識のままひとり心の中でつぶやくのであった。」
「もう六時になろうというころ、気がついてみると彼はツァールスコエ・セロー鉄道のプラットホームに立っていた。……」ひとりでいることが耐えがたくなった。パーヴロフスク行きの切符を買う。だが何ものかが彼を悩ませる。彼は汽車へ乗り込んで席につこうとしたとき、いきなり買ったばかりの切符を床へたたきつけて、また停車場を出てしまった。「しばらくたってから彼は往来で、ふいに何事かを思い出したふうであった。何か長いこと自分を苦しめていたある不思議なものの正体を思い起こしたみたいであった。彼は自分がある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識したのである。それはもう長いことつづいているにもかかわらず、いまのいままですこしも気付かないでいたのだった。もう何時間も、まだ《はかりや》にいた時分から、いや、ひょっとしたら《はかりや》へ行く前から〔ということは三時間以上〕、彼は自分のまわりに、何ものかを捜しはじめたのであった。ときには長いこと、半時間も忘れることがあったが、やがていきなり不安そうにあたりを見まわして、身のまわりを捜しまわすのであった。」
「ところが、自分の心の中にだいぶ前から生れていながら、しかもいままでまったく自覚せずにいたこの病的な働きに気がつくと、突然もう一つの彼の興味をひく事柄が彼の眼の前にひらめいたのである。……」というのは、彼は何ものかを捜しもとめている自分に気付いたつい先ほど、彼はちょうどある小さな商店の飾り窓に近い歩道にたって、そこに並べられてある品を好奇心をもって眺めたのだ──そのことを、今思い出したのだ。だが、わずか五分ばかり前にその店の窓ぎわに立っていたのは、はたして現実のことだったろうか? それともそんな風に想像しただけだったろうか? 「彼はきょう、とりわけ自分が病的な気分にとらえられているのを感じた。それはかつて彼の病気の激しかったころ、発作がおこるまぎわに経験したのとほとんど同じ気分だった。こうした発作のおこりそうなときは、おそろしくぼんやりしてしまって、よく注意して見ないと、物や人の顔を混同してしまうことさえあるのを、彼は承知していた。」だがあの店の前に立っていたかどうかを突き止めたいと焦ったのは、特別の原因があった。彼は飾り窓の中の一つの品物に眼を止めたからだ。銀六十コペイカ、と値踏みまでしたことを覚えている。彼はその品物のためにのみそこへ足をとめたのだ。つまり、その品物は、彼が停車場を出たばかりの重苦しい心の動揺を感じているときでさえ、彼の注意をひきつけたほど強い力をもっていたことになる。彼は引き返し、歩きながら右手のほうを眺める。心臓は高鳴る。やはりその商店はあった。彼は五百歩ばかりしか離れていなかった。そこには定価六十コペイカの品物があった。《むろん、六十コペイカくらいのものさ、それ以上の代物じゃない!》彼は笑い出したが、「すっかり重苦しい気分になった。彼はいまこそはっきりと、さきほどこの窓ぎわに立っていたとき、けさ停車場でロゴージンの視線を背中に感じたときのように、急にうしろをふりかえってみたことを、思いだした。彼はそれが思いちがいでなかったことを確かめると(もっとも、その前から確信してはいたのだが)、その商店の前を離れ、急いで立ちさった。こうしたことはすべて、ぜひとも早く考えてみなければならないことである。あの停車場でのこともただぼんやりそんな気がしただけではなく、何かしらしっかりと現実に根ざしたものが、以前から彼を苦しめている不安の念と結びついておこったものだということが、いまや疑う余地のないほど明らかになった。ところが、心の中の耐えがたい嫌悪の情がまた力を増してきて、彼はもう何ひとつ考えたくなくなってしまった。彼はそのことを考えるのはやめて、まったく別な物思いにふけりはじめた。」
「彼はさまざまな物思いにふけるうちに、こんなことを考えてみたのであった。」主観的経験としての癲癇について。至高の実在の稲妻とひらめき。そのためなら全生涯を投げ出してもいいと思えるほどの一瞬。それは単なる破壊的な病的状態? いや、これが病気だとしても、どうしたというのだ? それを健全な時に思い出し仔細に点検してみも、そこに最高の生の総合を思わせる法悦しか見出せないとしたら、病気かどうか異常かどうかなどは問題ではない。第一これはハッシシュや阿片や酒がもたらす異常性ではない。もっとも、彼は自分の結論の弁証的方面をあまり擁護しようとはしなかった。ともかくこの感覚の現実的なことは彼には疑い得なかった、なんといっても、それは実際にあったことなのだから。彼はモスクワでロゴージンにこんな話をしたこともあった、あの癇癪もちのマホメットが水がめからまだ水の流れださぬさきに、アラーの住居をくまなく見尽くしたというのも、こうした一瞬だったのに違いない……。モスクワではロゴージンといろいろな話をした。「《ロゴージンはさっき、当時は私を兄弟みたいに思っていたと言ったが、きょうはじめて、それを打ちあけたわけだな》と公爵は心の中で考えた。」
「彼がこんなことを考えたのは、夏の園の木陰のベンチに腰かけながらであった。……」もう七時ごろ。彼は目に映るあらゆる事物にたいして、思い出を感じ、理性を働かせてそれにとけこんでいった。彼は何かしら目前にせまった現実を忘れたいと思うが、しかしあたりを見回すたびにあの暗い想いにすぐまたとりつかれる。彼は先ほど食事したとき、近頃非常にさわぎになっている或る殺人事件〔ジェマリン家の一家惨殺〕について、ボーイ相手に話したのだが、それを思い出す。「だが、そのことを思い出したとたん、ふいに彼の心の中には何かしら特別なことがおこったのであった。」
激しい発作的な欲求が彼を捉える。公園を出てまっすぐペテルブルグ区へ。すでにネヴァ河の河岸通りで通行人をとらえてペテルブルグ区への見当を教えてもらっていたのだが、そのときは行こうとは思わなかった、そもそも今日行かねばならぬ必要などない。どこへ? レーベジェフの親戚筋の女の家。たぶん留守だろう。パーヴロフスクへ行ったんだろう。「そんなわけであるから、彼がいま出かけていくのは、もちろん、その女に会うためではなかった。それとは別の暗い悩ましい好奇心が、彼を誘惑したのであった。ある一つの新しい思いがけない考えが彼の頭にふと浮かんだのであった……。」(黙説のミメーシス)
「しかし、彼にとっては、もう自分が歩きだしたということが、そして、どこへむけて歩いているかちゃんと承知しているということだけで、十分すぎるくらい十分であった。一分後にはもう、彼はまたほとんど自分の歩いている道に気付かずに歩いていた。彼にとっては自分の《思いがけない考え》をさらに吟味していくのが、急にいまわしく、とてもできないような気がしてきた。彼は苦しいほど張り詰めた注意をもって、自分の目に映るすべてのものを眺めた。……」空、ネヴァ河。子供。遠雷。むし暑い。「ときにはばからしくなるほど聞きあきた音楽のモチーフが心に浮かんでくるように、」さまざまなことを思い浮かべる。レーベジェフの甥。ジェマリン家の殺人事件。さきほどのボーイ。ロシア人の魂。──ここから公爵の意識の流れが始まる、ただし地の文が公爵の内語をトレースするという珍しい形式なので、「おれ」「彼」の人称が混じるし、全面的に意識の流れを展開するわけではない──「ああ、彼はこの六ヶ月というもの、自分にとってまったく見当のつかない、いままで聞いたこともない、思いがけないような多くの出来事に耐えてきたのだ! しかし、他人の心は闇であり、ロシア人の心もまた闇である。現に、彼はロゴージンと長いこと親しくしていた、それもごく親しくしていた、《兄弟同様に》親しくしていた──だが、彼はロゴージンという男がわかっているだろうか? しかし、ときにはすべてのものが渾沌として、でたらめで、不体裁きわまることがある。それに、さきほどのレーベジェフの甥という男はなんといういまいましいにきび野郎だろう、あの自信満々たる様子はどうだろう。ところで、このおれはどうしたというのだろう?(と公爵はなおも妄想をつづけた)なにもあの男があの六人を殺したわけでもないのに、おれはなんだかそれを混同して考えていたようだ……まったくおかしなことだなあ! なんだか頭がぐらぐらする……それにしても、レーベジェフの上の娘、あの赤ん坊を抱いて立っていた娘は、なんて感じのいい、かわいい顔をしていたんだろう。それに、あの罪のない、子供らしい表情や子供らしい笑い方ときたらどうだろう! いままであの顔のことを忘れていて、いまやっと思いだしたのもおかしなことだ。レーベジェフは子供たちにじだんだを踏んだりしていたが、やっぱりみんなをかわいがっているらしい。しかし、二、二が四というよりも確かなことは、レーベジェフが例の甥をも内心ではかわいがっていることだ!/だが、彼がこれらの人たちについて、こんなにもはっきりと断定してしまうのはどうしたことだろう、きょうはじめてやってきたばかりの彼が、こんな憶測をするのはいったいどうしたことだろう! それに、きょうはレーベジェフがまた彼に問題を提出したのだ。いや、彼はレーベジェフをあんな人物だとは、思いもよらなかった。昔の彼はあんな男ではなかった! レーベジェフとデュバリ夫人──いや、これはどうしたことだ! しかし、もしロゴージンが人殺しをするにしても、少なくともあんな乱脈な殺し方はしないだろう、あんな混乱はおこるまい。設計して注文してこしらえさせた凶器と、まったく意識を失った六人の家族! ロゴージンが凶器を設計して注文するなんてことがあろうか……彼のところには──いや、ロゴージンが人殺しをするというのは、はたしてもう決ったことなのだろうか? 公爵はそう思って、ふとびくっと身を震わせた。《こんなふうに恥知らずにも露骨な憶測をするのは、自分にとって一種の罪悪ではなかろうか、卑しむべきことではなかろうか!》と心の中で叫んだ。と、羞恥の紅がぱっと彼の顔を染めた。……」彼はこちらに着いた停車場での《眼差し》から、ロゴージンの家であったこと、眼差しに関する問い、十字架、母親の祝福、最後の抱擁とあきらめの言葉、それからさらになお彼がたえずあたりに何ものかを捜していること、あの商店とあの品物〔いまだにそれが何であるかは黙説〕のことをも、……一時に思い出した……その上自分は今ある特別の目的、《思い掛けない考え》を抱いて、あるところを目ざして歩いている……!「絶望的な苦しみが彼の心をしっかりとつかんだ。彼はすぐに自分のホテルへ引きかえすつもりで、すこしその方向へ歩き出したが、すぐまた立ちどまって、思案をめぐらし、またもと来た道へ取ってかえした。」
彼はもうペテルブルク区まで来ている。もうすぐ例の家。──またここから意識の流れ──「しかし、いまの彼がそこへ行くのは以前の目的があってではなかった。いや、《特別の目的》をいだいて行くのではなかった! いや、どうしてそんなことがありえただろうか! たしかに、彼の病気は再発しかかっている、これはもはや疑いのないことだ。ひょっとすると、きょうじゅうにまちがいなく発作がおこるかもしれない。この闇もその発作のためかもしれないし、あの《考え》も発作のためかもしれない! しかし、その闇はすでに晴れわたり、悪魔は追いはらわれ、疑惑も消えうせて、彼の胸は歓喜にあふれている! それに──彼はもう長いこと彼女に会っていなかった。いまはぜひとも会ってみなければならなかった。それに……そうだ、いますぐにもロゴージンに会って、その手をとって、二人いっしょに出かけていきたいものだ……彼の心は清らかであり、絶対にロゴージンのライバルではなかった! あすにも自分でロゴージンのところへ出かけていって、彼女に会ったと告げよう。なにしろ、彼がここへ飛んできたのは、ロゴージンが言ったとおり、ただ彼女に一目会うためだったのだから! いや、ひょっとしたら、彼女は家にいるかもしれない。だって彼女がパーヴロフスクへ行ったというのは、それほど確実なことではないのだから!/そうだ! いまこそすべてのことをはっきり片づけねばならない。みんながおたがいの胸のうちを読みとれるようにしなければならない。さきほどロゴージンが口にした、あんな暗い熱狂的な断念の叫びを、いっさいなくしてしまわなければならない。しかも、それを自由な、そして……明るい方法でやらなければならない。ロゴージンだって明るい解決ができないわけではないだろう? 彼は自分から、おれの愛し方はまるっきりちがっている、おれには同情とか『そんなあわれみなんてものはすこしもない』と言っている。もっとも、そのあとで『あんたのあわれみはおれの恋より強いかもしれない』とつけ足したけれど。しかし、彼は自分に言いがかりをつけているのだ。ふむ!……ロゴージンが本を読んでいる──いったいこれが《あわれみ》じゃないというのか、《あわれみ》のはじまりではなかろうか!……」以下、さっきのロゴージンの話を思い出しては考察。あれは単なる情欲ではない。それにあの女の顔は単に人の情欲をそそるだけのものだろうか? ……自分は彼女が自分のところからロゴージンのところへ走ったとき、どうしてそのまま彼女を放っておいたのだろう……? ロゴージンの狂気じみた嫉妬……さっきはあんな憶測〔彼女が公爵に惚れている〕をして何を言おうという気だったのだろう? 「なんだってこんなことを思いだす必要があるのだろう?」 いや、ロゴージンはただ自分に言いがかりをつけているんだ。彼は苦悩も同情もできる男のはずだ。彼女が可哀そうな存在であることも納得できるはずだ。同情こそロゴージンの眼を開かせる。しかし、自分はそのロゴージンについてあんな恐ろしい想像をたくましくして……。自分はなんという卑劣な……いや、これは病気のせいだ、たわごとだ、それにしてもさっきロゴージンが『信仰が失われかけている』といった声は、なんと暗いひびきだったろう! 彼は情欲だけの人間ではない、失われた信仰を力ずくで取りもどそうと欲しているのだ……「……そうだ、なんでもいいから信じたいのだ! 誰でもいいから信じたいのだ! それにしても、あのホルバインの絵はなんて奇妙な絵なんだろう……あ、もうこの通りじゃないか! ほら、きっとあの家だ、やっぱりそうだ──十六番地の《十等官夫人フィリーソワの家だ。ここだ!》公爵は呼鈴を鳴らして、ナスターシャ・フィリポヴナに面会を求めた。」
が、ナスターシャは朝のうちにパーヴロフスクのダリヤ・アレクセーエヴナのところへ行ったと。自分の名前をナスターシャに伝えてくれ、としつこいくらい頼む。それからホテルへ引き返した。「しかし、彼が出てきたときの様子は、フィリーソワ家の呼鈴を鳴らしたときとはまったくちがっていた。彼の心の中にはまたもや、一瞬のうちに、並々ならぬ変化がおこったのであった。彼はまたもや蒼ざめて弱々しく、思い悩んで興奮した人のように歩いていった。その膝はがくがくと震えはっきりしないたよりなげな微笑が、紫色を帯びた唇にただよっていた。彼の《思いがけない考え》は急に事実となって確かめられたのである。そして──彼はまたもや自分の悪魔を信じはじめたのであった。」
「しかし、それははたして事実となったのであろうか? はたしてその正しさが確かめられたのであろうか? それにしても、この震えは、この冷たい汗は、この心の闇と悪寒は、どうしたというのだ? いまあの眼を見たからだろうか? だが、夏の園からまっすぐやってきたのは、ただあの眼を見ようとしてではなかったか? 彼の《思いがけない考え》というのも、じつはこのことだったのではないか。彼はここで、この家で、まちがいなくあの眼差しが見られるということを決定的に信じたいがために、あの《さきほどの眼》を見たくてたまらなかったのではなかろうか。それが彼の発作的な欲求だったのだ。では、いまさらその眼をほんとうに見たからといって、なぜそんなにびっくりして、うちひしがれているのだろうか? まるで思いもよらなかったことのようではないか! ああ、これこそあれとそっくり同じ眼だ。(これがあれとそっくり同じだったことは、もういまとなってはすこしも疑う余地がない!)けさ彼がニコラエフスキー停車場で汽車をおりたとき、群集のなかでひらめいた眼にちがいない。それからさきほどロゴージンの家で椅子にすわろうとしたとき、肩ごしに視線をとらえたあの眼差しである。(まったくあれとそっくり同じものだ!)あのときロゴージンはそれを否定して、ゆがんだ氷のような薄笑いを浮かべながら、『それはいったい誰の眼だったんだね』とたずねたものである。いや、公爵はついさきほどまでも、アグラーヤのところへ行くつもりで汽車に乗ったときツァールスコエ・セロー鉄道の停車場であの眼を、その日のうちでもう三度目に見つけたとき、彼はロゴージンのそばへ行って、彼に面とむかって『この眼はだれの眼かね』と無性に言ってやりたかった。しかし、彼はそのまま停車場から逃げ出して、例の刃物屋の店先にしばらく立ちどまって、鹿の角の柄のついたナイフを見て、六十コペイカと値ぶみをしたときにはじめてわれに返った。この奇妙な恐るべき悪魔はついにしっかりと彼に取りついて、もはや離れようとはしなかった。この悪魔は彼が夏の園で菩提樹の木陰にすわって、忘我の境をさまよっていたとき、彼の耳にこうささやいたのであった──もしロゴージンがこうして彼のあとをつけていく必要があるとすれば、彼がパーヴロフスクへ行かないと知ったなら(これはロゴージンにとって、運命を決するほどのニュースにちがいない)、ロゴージンはかならずやあすこへ、ペテルブルグ区のあの家へ駆けつけて、ついけさほど『もうあの女には会わない』とか、『そんなことのためにペテルブルグへやってきたんじゃない』とりっぱな口をきいた公爵を見はっているにちがいない。いや、現に、公爵は発作的にあの家をさして駆けだしていったのだ。そして、案の定そこで彼はロゴージンと顔をあわせたとしても、それがいったいなんだというのか?〔彼が公爵を殺すとでもいうのか?〕 彼はただ陰気ではあるが、十分その気持を察することのできる、ひとりの不仕合せな人間を見たにすぎないのだ。しかも、この不仕合せな人間は、もはや逃げ隠れようとはしなかったではないか。いや、ロゴージンは、けさほどはなぜか強情をはって嘘をついたが、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場では、ほとんど姿を隠そうともせずに突っ立っていたのだ。むしろどちらかといえば、公爵のほうが身を隠したので、ロゴージンのほうではなかった。だが、今度のあの家のそばでは、五十歩ばかり斜めに隔てられた反対側の歩道に、腕組みしながら待っていたのであった。彼はもうすっかり全身をあらわして、どうやらわざと眼にとまるようにしていたが、その様子は告発者か裁判官のようで、とても……〔殺人者〕のようではなかった。では、いったいなんのようでなかったのか?
いや、なぜ公爵は今度も自分のほうから彼のそばへ近寄らずに、二人の眼がぴったりと合ったにもかかわらず、それに気付かぬふりをして身をかわしてしまったのか?(たしかに、二人の目はぴたりと合ったのだ! たがいに顔を見合わせたのだ) いや、そればかりか、公爵はついさきほど彼の手を取って、いっしょにそこへ行こうと思ったのではなかったか! あすはロゴージンのところへ行って、あの女に会ってきたと言うつもりだったのではないか。またそこへ行く途中、急に歓喜が胸にあふれて、彼はみずから悪魔をふるいおとしたのではなかったか? それとも、ロゴージンのなかに、つまり、きょう一日のこの男の行動のなかに、その言葉、動作、行為、視線などの総和のなかに、何か公爵の恐ろしい予感や悪魔のささやきを肯定するようなものがあったのではなかろうか? それは、なんとなく自然に感じられるばかりで、それを分析したり説明したりすることも、十分な理由を挙げてその正しさを証明することもできないものだが、しかも、このような困難と不可能があるにもかかわらず、そのあるものは非常にはっきりした打ちけすことのできない印象を与えて、それがいつしかしっかりした確信に変っていくのであった。
だが、確信といっても、なんの確信だろう? (ああ、この確信の《卑劣な予感》の並みはずれた《卑劣さ》がどんなに公爵を苦しめたことだろう。そして、彼はどんなに自分自身を責めたことだろう!)《さあ、言えるものなら、言ってみろ。なんの確信なんだ?》と彼はみずから譴責し、いどむようなつもりで、絶え間なく自分に言ってきかせるのだった。《自分の考えていることをすっかり、はっきりと、正確に、なんの躊躇もなしに、きちんと系統だって言ってみろ! ああ、おれはなんて恥知らずなんだろう!》と彼は頬を染めながら憤然とくり返した。《おれはこれからさき一生、どの面さげてあの男に会おうというのか! ああ、きょうはなんという日なんだ! ああ、ほんとになんという悪夢なんだろう》」
もうすぐホテルだ。彼はいますぐにもロゴージンのところへ言って、恥ずかしさと涙にくれながら彼を抱きしめ、すべてを打ち明けたいという気持ちになるが、すでにホテルについた。さっきも気に食わないホテルだったが、今はさらにいやな予感がする。彼はこの日幾度となく、またここまで戻ってこなければならぬということを思って嫌悪の情にかられたほどだ。門口へ。自分は薄情な人間だ!という羞恥の念で一瞬立ち止まるが、また歩き出す、だがすぐまた立ち止まる。
門のなかはとても暗い。雷雨を告げる黒雲まで空には立ち込めている。彼は門の奥の暗がりの中に一人の男が立っているのに気付いた。その男はすばやく身をひるがえした。彼は、あの男はまちがいなくロゴージンだという確信を得た。相手のあとを追って階段へ駆ける。
階段は二階と三階の廊下へ通じている。石柱のまわりをまわっている石造りの階段。最初の踊り場に来たとき、石柱の中の窪みに、人が隠れているのを、見分けた。公爵はそのまま通り過ぎてしまいたくなったが、どうにも我慢できなくなってふとふりかえる。
さきほどの二つの眼、あれとそっくり同じ眼が、彼の視線とぶつかる。公爵は相手の肩をつかんで明かりに近い階段のほうへねじまげた。はっきりその顔を見たかったのだ。
ロゴージンの目はぎらぎら輝く。と、右手がぱっとあがって、その中で何かがひらめく。「彼はただ自分がつぎのように叫んだらしいのを覚えているばかりだった。/「パルフョン、私には信じられないよ!……」」
それにつづいて、癲癇の発作。彼自身でも、自分自身の恐ろしい悲鳴の最初のひびきを、覚えていた。
「癲癇の発作というものは、とくにひきつけ癲癇の場合は、周知のように、その瞬間には急に顔面が、とりわけ眼つきがものすごくゆがんでしまう。」……その様子を見た人は、なにかしら神秘的なものさえ含んだ、激しい耐え難い恐怖を抱くものだ。その印象が、このときのロゴージンをも立ちすくませ、すでに公爵の頭めがけてふりおろされた避けることのできないナイフの一撃から、彼を救ったものと想像しなければならないだろう。公爵はよろよろと後ずさりして仰向きに倒れ、頭を階段に打ちつけて転がり落ちていった。それを見るとロゴージンはまっしぐらに下に駆け下り、無我夢中でホテルから逃げ出した。
公爵の身体に大勢の人が駆け寄る。頭部におびだたしい血。二、三の者がこれは癲癇ということに気付いた。この騒ぎは、ある運のいい出来事によってうまく収拾した。
というのは、コーリャは、一旦はパーヴロフスクへ出かけたのだが、ふと気が変わって夕方の七時頃にまた《はかりや》に顔を出したのだ。置手紙によって公爵がこの町へ来たことを知ると、あわててホテルへやってきた。公爵は外出中だったので、ホテルの食堂でお茶を飲みオルガンを聞きながら待ち受けることにした。そこへ、誰かが発作で倒れたという知らせ。彼が駆けつけると公爵。すぐに公爵は応急の手当てがとられ、自分の部屋へ運ばれた。呼ばれた医者は、怪我のための危険はすこしもないと診断。それから一時間後、公爵の意識がだいぶ戻ってから、コーリャは公爵を馬車でホテルからレーベジェフの家へ運んだ。レーベジェフな並々ならぬ熱意と誠意をもって病人を迎え入れた。三日後には、もう一同はパーヴロフスクのレーベジェフの別荘に引き移っていた。
-------------------------------------------------------------第二編4日目
6
「レーベジェフの別荘はあまり大きくはなかったが、便利で、美しいと言ってもいいくらいであった。……」レーベジェフが貸間を念入りに手入れしたことについて(時間幅を広く取った過去の文脈の導入)。公爵は別荘をとても気に入った。公爵はまだ発作から回復しきってはいない。
-------------------------------------------------------------第二編7日目
パーヴロフスクに来てからの三日間。引っ越してこっちに着いたのは夕方、客が色々来た。(同じく別荘に来ている)ガーニャ、ワーリャ、プチーツィン。ペテルブルグにいるときも見舞いに来てくれたイヴォルギン将軍(レーベジェフの友人になっている──この三日間に、ときどき二人は学問的な問題について議論していた)。コーリャはほとんどつきっきり。
この三日間、レーベジェフは、公爵を監視しているかのように、家族の者をそのまわりから追っ払っていた。そのくせ、自分はひっきりなしに公爵の部屋へやってきた(どうも、事の成り行きに関心を持っているらしい)。
公爵は、自分を監視するようなことはやめてくれ、自分は誰とでも会って、どこへでも好きなところへ出かけていく、と言う。それにいつもなぜ秘密をこっそり耳打ちでもするような格好をして、爪先立ちで私のところへやってくるのか?
さっきも誰かを私を来させまいとしていたが、ということから、将軍の話。
「あなたはどうも将軍をあまり厚遇しすぎているんじゃありませんか」とレーベジェフ。嘘ばかり言っている……
「ときに公爵、あなたはさっき秘密とおっしゃいましたね、」じつはその秘密がわざとのことのようにあるんですよ。例のおかたが、あなたにこっそりお目にかかりたいと申してよこされたんですよ……
別に秘密にする必要はありません、私が自分からあの人のところへ出かけて行く。
ときに、あの悪党〔ロゴージン〕が、毎日のようにあなたのお加減を聞きにまいっておるんですよ。いや、私が言いたかったのは、例のおかたがあの悪党ではなくてまるっきり別な人を恐れていらっしゃることなんですよ。
いったい何のことです?
そこが秘密なんですよ。
誰の秘密なんですか?
あなたさまの秘密ですよ。……相手が病的に苛々したのに満足して、レーベジェフは言う。「アグラーヤ・イワーノヴナを恐れていらっしゃるんですよ」
私はもうこの別荘を出ていきますよ……で、ガヴリーラさんとプチーツィンご夫妻はどこにおいでになるんですか?
もうすぐお見えになりますよ……
コーリャがテラスに姿を現す。リザヴェータ夫人と三人の令嬢という客の来訪を告げる。
まもなくエパンチン家の人々、さらにプチーツィン夫妻、ガーニャ、イヴォルギン将軍が姿をあらわす。
ここで時間幅を過去に広くとって、エパンチン家の事情を説明ディエゲーシス。彼らは公爵がパーヴロフスクに来ていることをコーリャにいま教えられたばかり。一昨日公爵の名刺が届いたが、それによって今にも公爵が自分のところへ来ると予感したリザヴェータ夫人は朝から待ち構えていた。ようやく晩になってコーリャが自分の知っているかぎりのニュース、公爵の身の上に何が起こったかを物語った。公爵の病気を知って夫人は動揺した。で、すぐに見舞いに来たわけ。Ш公爵もお伴に(Ш公爵はムイシュキンとはすでに知り合いだった)。エパンチン将軍は留守、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチはまだ到着していない。
リザヴェータ夫人、公爵に話しかける。なんでレーベジェフなんかから別荘を借りたの?……
レーベジェフは身の置き所もないようにうろうろしていたが、そこへヴェーラが乳呑児を抱えてあらわれると、彼はいきなりヴェーラにおどりかかって追い出す。
「あの人は気ちがいなの?」と夫人。だが、ヴェーラを可愛い子ね、仲良しになりたいわ、と言う。
するとその賞賛の言葉に反応して、もうレーベジェフは自分のほうから娘を紹介しに連れて来た。「かわいそうな母なし児でして」「でもあんたのほうはただのおばかさんね」「まったくそのとおりで」
ねえ、レーベジェフさん、あなたが『黙示録』の講読をなさるって話はほんと?とアグラーヤ。
まったくそのとおりで。
じゃ、お願いですから、近いうちにあたしにも講読してくださいな。
いや、そんなことはみんなこの男のでてらめですよ!とイヴォルギン将軍が口を挟む。……おや、あなたはわたしをびっくりして見ておいでですな? 自己紹介いたしますが、わたしはイヴォルギン将軍です。アグラーヤ・イワーノヴナ、わたしはこの腕に抱いてあなたをお守りしたものでしたよ。
リザヴェータ夫人は腹を立てる。あなたがあの娘を抱いてお守りをされたことなんか一度だってありませんよ。
ママは忘れていらっしゃるのよ、ほんとに抱いてくださってよ、トヴェーリで、といきなりアグラーヤ。あたくしは六つでしたけれど、覚えていますわ。
アデライーダとアレクサンドラも、覚えている、と相槌を打つ。
「将軍がアグラーヤにたいして、あなたをこの腕に抱いてお守をしたことがあると言ったのは、ただ単に会話の糸口を見つけるための方便にすぎなかった。彼はいつも若い人たちと知り合いになる必要があると思ったときには、こんなふうに会話をはじめるのであった。ところが、今度はまるでわざとのようにほんとうのことを言ってしまったのである。しかもまたわざとのように、それがほんとうであることを自分では忘れていたのである。……」将軍は思い出を取り戻し、ひどく感動してしまう。覚えております、わたしは当時二等大尉でした、わたしはお宅へ出入りさせていただいておりました……
「それなのに、まあ、あなたはいまなんということにおなりになったの?」とリザヴェータ。奥さんに苦労をさせて、債務監獄に入ったりして。さあもうここから出ておいきなさい、どこか隅っこのドアのかげに立って泣きながら、昔の罪のない時分のことを思い出したらいいでしょう……
感じやすい将軍は、おとなしくドアのほうへ歩き出す。リザヴェータ夫人はすぐに相手が気の毒になった。「「イヴォルギンさん、ちょっと!」夫人はうしろから呼びかけた。「ちょっとお待ちなさいよ。あたしたちはみんな罪ぶかい者です。良心の呵責が少なくなったようだと思ったら、あたしのところへおいでなさい。ごいっしょに昔話でもいたしましょうよ。このあたしだって、ひょっとすると、あなたより五十倍も罪ぶかいかもしれないんですから。でも、いまはどうぞあちらへ。ごきげんよう。ここにいらしてもしようがありませんわ……」夫人は将軍が引きかえしかけたので、急にびっくりしてしまった。」
「公爵のもとに集まってきた客たちの相互の関係は、だんだんに決ってきた。」プチーツィン出て行く。まもなくガーニャも出て行く〔銘記せよ〕。ガーニャがずっとつつましく振舞っていたことが、みなの話題になる。「ずいぶんお変わりになったわねえ、それもとってもいいほうへ」
『あわれな騎士』よりりっぱなものなんてほかにありませんよ!というコーリャの突然の発言から、アグラーヤが機嫌をそこねる。アグラーヤの小学生じみた子供っぽさについて。
コーリャが言う。アグラーヤ自身の言葉を基にして言っているんですよ。一月ほど前にアグラーヤは『ドン・キホーテ』のページを繰りながら、『あわれな騎士』よりりっぱなものはないと言ったじゃありませんか……。
その『あわれな騎士』とは何者か? エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ? それとも……
『あわれな騎士』という呼び名によって、誰が意味されているかが分かり始めたリザヴェータ夫人は、苛々しはじめる。「もうそんなばかな話をやめませんか? それとも『あわれな騎士』のわけを聞かせてくれますか、くれませんか?」
Ш公爵が解説する。一月ほどまえに、食後にみんなで笑いながら、アデライーダさんの次の画題を捜していた。そこで、アグラーヤが『あわれな騎士』と言いだした。それだけのこと。いまなんのためにコーリャ君がそんなことを引き合いに出したのか、合点がいきませんがね。
なにか毒々しい皮肉なんでしょう、とリザヴェータ夫人。
ふいに、思い掛けなくアグラーヤが言う。「とんでもない、深い尊敬のほかには、皮肉な意味なんかこれっぽっちもありませんわ」どうも彼女もこの冗談を面白がっているらしい。公爵の困惑がだんだん激しくなっていくからだろうか。
リザヴェータ夫人が問い詰める。深い尊敬とはこういうこと。或るロシアの詩の中で、『あわれな騎士』は理想を信じ、そのために自分の一生を捧げることのできる人物として描かれている。その理想というのは、《清純な美の化身》で、銘はА、Н、Бという……
コーリャが、А、Н、Дではないかと訂正するが、アグラーヤは直そうとしない。『あわれな騎士』は、自分の姫君が誰であろうと、あとでその女が泥棒であると分かっても、変わらずその《清純の美》を信じ続けるのだ。ドン・キホーテと同じような人物。あたくしはこの『あわれな騎士』を尊敬している……
「こうアグラーヤは言葉を結んだが、その顔つきを見ていると、彼女がまじめに言っているのか、茶化しているのか、なかなか見分けがつかなかった。」
その男はおばかさんですよ、それに、いったいどんな詩なの? 読んでちょうだいよ。
アグラーヤはテラスの真ん中へ進み出て、公爵の前に立つ。全員びっくりし、何かの悪戯を予期して不安に眺めていた。そしてまさにアグラーヤが詩の朗読にとりかかろうとした瞬間、二人の新しい客が。エパンチン将軍と、ひとりの青年。
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「将軍と連れだってきた青年は、年のころ二十八歳くらいの、背の高い、すらりとした、とても美しい利口そうな顔だちの男で、大きな黒い瞳は機知と冷笑にあふれていた。」だがアグラーヤは公爵一人に向けて詩の朗読を続ける。新来の客は朗読を邪魔しにないようにと立ち止まった。青年もまたどうやらこの『あわれな騎士』のことを知っているようだった、もしかしたらこの男が考え出したことなのかもしれない……。
アグラーヤは誠実な、純朴な調子で朗読を続ける。伝わってくるのは尊敬の念を表わそうという態度ばかり。
詩の引用。(プーシキン作)
しかしこの朗読には、毒々しい嘲笑の要素もあったのだ。なぜならアグラーヤはА、Н、Дの頭文字をわざとН・Ф・Б(ナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコーワの頭文字)に変えたからだ。リザヴェータ夫人はその当てこすりには無論気付かなかった。だが多くの人々は真相を理解した。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチは理解したことを表情に出そうとさえつとめた。
公爵はエパンチン将軍と挨拶。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチの紹介。
エヴゲーニイは武官であったはずなのだが、平服を着ている〔伏線〕。この服装の変化に、みな(エパンチン家の人々とШ公爵)が非常な驚きと不安を感じた。
エパンチン将軍が人々の問いに答えて言う。エヴゲーニイは退職したのだ。
「しかし、話題はまもなくほかのことへ移っていった。もっとも、傍観者として公爵の見るところでは、あまりにも度を超えた〔みなの〕不安はいつまでもつづいていて、そのなかにはたしかに何かただごとではないものが感じられた。」
プーシキンについての雑談。
ヴェーラがプーシキンの本を持って来る。娘の肩のかげからレーベジェフが飛び出してきて身をくねらせる。本をリザヴェータ夫人に謹呈する。
そこでヴェーラが言う、「父さん、なんであの人たちのことをおっしゃらないの? ぐずぐずしていると、あの人たちは勝手にはいってきてよ、ほら、もう騒ぎだしたわ。ムイシュキン公爵さま、もうずっと前からあちらへ誰だから四人ばかりあなたさまのところへ人が見えまして……」
ガヴリーラとプチーツィンが説得しようとしている(イヴォルギン将軍まで加わって)のだが、帰りそうにない。
パヴリーシチェフさんの息子だ、とレーベジェフ。
公爵、それを聞いて狼狽する。私はこの事件を全部ガヴリーラさんに委任しているのだが……
みんながこの問題に興味を持つ。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチはもちろん、エパンチン将軍やアグラーヤやリザヴェータ夫人(「あたしこの話を耳にたこができるほど聞かされたので、あなたのためにずいぶん気をもみましたよ」)やШ公爵(「この件については聞いています、わたしもやはりその連中の顔がとても見たいんですよ」)まで。ほとんどの人が事情を知っている?
「あたくしたちはみんなあなたの証人になりますわ。公爵、あなたの顔に泥を塗ろうとする者があるからには、あなたもりっぱに身の証しをおたてにならなくちゃいけませんわ。……」とアグラーヤ。
連中はニヒリスト?
それは中傷ですよ……あの人たちは思いちがいをしているまでのことなんですから……さあ、どうぞ、みなさん!
「だが、彼はそれよりもむしろもう一つ別な苦しい想いに悩まされていた。それはほかでもない、ひょっとしたら、この一件がちょうどいまこのとき、来客たちの眼の前でもちあがるように、しかも彼の勝利とはならず、大恥となるのを予期して、前もって、誰かが企んだのではなかろうか、という想いがちらりと頭をかすめたのであった。しかし、彼は自分の《怪しむに足りるほど意地悪い疑りぶかさ》を感じて、すっかり沈んだ気持ちになった。彼は自分の心の中にそんな想いが潜んでいることを誰かに知られたら、とても生きてはいられなかったにちがいない。そこで、ちょうど新しい客たちがはいってきた瞬間、彼は自分をそこにいる人びとのなかで、最も道徳的に下劣な人間なのだと思いこもうとしていた。」
入ってきたのは新顔四人+イヴォルギン将軍。四人の中にはイポリートもいて、コーリャがそれについてきた。
客は席につく。事情を知らないエパンチン将軍は四人が若過ぎるのを不愉快に思う。
四人のうちの一人は三十過ぎの拳骨の旦那。主役は、アンチープ・ブルドフスキーと名乗る例のパヴリーシチェフの息子。だらしない身なり。「その顔には、すこしの皮肉も、反省の色も見えなかった。いや、それどころか、自分の権利にたいする完全な、と同時にいかにも間の抜けた陶酔の色と、その一方、つねに、自分は辱められている、と考えたがる、一種不思議な欲望にかられているみたいであった。」
あとはレーベジェフの甥と、イポリート(肺病やみ)。
公爵に面してずらりと一列に坐り、何かに対し身構えている四人。
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公爵から話し出す。おいでになるのは思ってもみなかった……この件はガーニャに任せているので……もっとも自分で直接説明するのを避けているわけではない……私といっしょに別室へ来ていただけませんか……ここには私の友人諸君もいますし……
われわれはあなたの友人がどんな人たちだろうと、すこしも恐れていない、われわれにはちゃんとした権利があるのだから!
とにかく別室へ……
そんな権利はありません!
ふいにリザヴェータ夫人が、公爵にこれを読め、あなたに関係あるから、といって一枚のユーモア週刊誌を突き出す。これは客たちが入って来た時、レーベジェフが〔伏線!〕ご機嫌を取るかのように夫人に見せたもの。
公爵はあとで、ひとりで読む……と言うが、夫人はもどかしそうに、コーリャに新聞を渡して、声に出して読め、と命じる。
記事の引用。スイスから帰って来た地主階級の末裔で白痴の話。父親は軍隊の金をトランプにつぎこむような男だったが、何かの事件で裁判沙汰になっているうちに死亡。白痴はПという富豪に引き取られた。この富豪がとりたてた年貢の三分の一は「花の城」の経営者のふところへ収まった? П急死。相続人は誰もこの白痴のことを歯牙にもかけない。だが、母方の親戚が死んで莫大な遺産がこの白痴のポケットへ。こうなると、かつては美人の妾さんを追っかけていた彼のまわりに、結婚に飢えている名門の令嬢がぞくぞく集まってきた……。
公爵は読むのをやめてくれ、と言うのだが、リザヴェータ夫人は読め読めと言う。
その白痴のもとに上品で威厳のある一人の紳士=弁護士がやって来る。Пには私生児がいたのだ。だがその子供についても何の措置も取らず死んでしまった。この私生児は今貧しい暮らしをしている。さて白痴はどう判断すべきか? 自分はП氏の恩恵を受けてきた。ところが、私は今百万の金を持っているのに、П氏の高潔なる息子は、貧しく身を滅ぼそうとしている。私のために費やされたものはすべて、道義上その息子に費やされるべきものであった? 何らかの金額をこの息子(青年)に分け与えてやるべきでは?(そうでなければあんまりに打算的でなさすぎる?) だが白痴は耳を傾けようとしない……代わりに五十ルーブルを恵んでやっただけ……。これは法的な問題ではないから、公衆の批判を待つばかりである!
読み終わる。コーリャ含め、みんな居心地の悪い思いをする。
エパンチン将軍がこの文章をけなすと、イポリートや拳骨の旦那が抗議する。侮辱だ! 無礼だ!
公爵がやるせない思いを抱きながら喋りはじめる。おたがいにすっかり理解できるように、話しあおうじゃありませんか……。あの記事のことは何とも思いません。でたらめだらけです。もし万一、みなさんのうちの誰かがあの記事をお書きになったとしたら、おどろくほかはありませんね……。
パヴリーシチェフの息子の反応からして、彼らのうちの誰かが書いたらしい。
公爵はおどろく。まさかそんなことが! しかし、もうみなさんがこの問題を世論に訴えられた以上、……
レーベジェフが口を出す。こんな連中は一刻も早く玄関から追い出したらいいんですよ!
「いや、失礼ですが、公爵、もういまとなってはそんなふうにはおさまりませんよ」とレーベジェフの甥。この問題をはっきり片をつけましょう。もちろん法的にはわれわれは何もあなたに請求する権利はない。「それがわからないほど間抜けだとぼくたちのことを考えているんですか? いや、とんでもない、ちゃんと心得てますよ、たとえ法的な権利はないにしても、そのかわり人道的な自然の権利があるってことをね。……」つまり良識のある人間の義務というやつがね。だからこそぼくたちは、玄関から追い出されることすら恐れずに、無心をしにきたのではなく、単なる誇りに満ちた自由な要求をしに来ているのです。「ぼくたちは品位ある人間として、あなたの前に一つの問題を提出します。あなたはこのブルドフスキーの問題について自分を正当と思いますか、不当と思いますか?」あなたが良心とか呼んで、ぼくたちが「常識」とより正確なる名で表現するものをあなたが持っているならば、いますぐぼくたちの要求に応じてください。もっともそれに応じたからといって、ぼくたちはなにもわざわざお願いしているんじゃないから、べつにお礼なんか申しませんよ。あなたがそうするのは、ぼくたちのためでなく、正義のためですからね。応じないのであれば、ぼくたちはいますぐに帰りますが、「ただ、ぼくたちはあなたのお友だちの眼の前で、あなたのことを頭脳の弱い程度の低い人間だと言うだけですよ。もうそうなったら、今後あなたは、名誉と良心のある人間だと名のるわけにはいきませんよ。そんな権利はありませんよ。この権利はそう安々と手にはいるものじゃありませんからね。」
要求しているんです、要求しているんです、無心しているんじゃありません……とブルドフスキー。
レーベジェフの甥に向かって、かなり穏やかな調子で、公爵。あなたのおっしゃったことは半分くらい正しいでしょう。もし、あなたの言葉に何か省略されたところがなかったら、まったく正しいといってもいいくらいです。しかし完全に正しいというには、あなたの言葉には、何か欠けているところがあるんですね。「しかし、そんなことより早く用件にかかりましょう。ひとつみなさんにおたずねしますが、いったいなんのためにこんな記事を新聞にのせたんです? だって、ここに書かれていることは、一語一語みんな中傷じゃありませんか。ですから、私に言わせれば、あなたがたは卑劣な振る舞いをしたんです」
イポリートが反論する。あの記事を書いたのはこの拳骨の旦那。だが、彼にも、個人の意見を公表する権利はあるでしょう。ともかく、ぼくたちは実際のところ、立会人(それがあなたの友人であろうと)を望んでいるのです、だってあなたは絶対にブルドフスキーの権利を認めないわけにはいかないでしょうからね。なにそろ、それは数学的にはっきりしているんですから。
拳骨の旦那が言う。あの記事を書いたのは私。個人の意見を公表するということは一般に認められた高尚な権利です……。
しかし考えてもごらんなさい、あなたの文章は……
辛辣だとおっしゃりたいんですか? しかしあの文章は社会の利益ということを目的にして書いたんですからね。悪いことをした当人にとっては都合が悪いかもしれないが、あれは社会の利益という目的が肝心であって、大切なのはその有益な例証なのだから、枝葉末節のことはあとで調べたらいいんですよ。文体とユーモアということもありますしね……
いや、まったくの邪道ですよ! あなたがたは私がブルドフスキー君の要求を容れないということを見越して、その意趣返しのためにあんな中傷の記事を書いたのです。しかし、私は、ブルドフスキー君の要求を容れるつもりなんですよ……
それでこそ賢明で高潔な人物と言えましょう!と拳骨の旦那は歓声を上げる。
リザヴェータ夫人とエパンチン将軍は抗議の声を上げる。
「ちょっと待ってください、みなさん、ちょっと待って。私が事の次第をお話しますから」と公爵。事の始めは五週間も前。公爵がЗにいた時、チェバーロフというブルドフスキーの代理人があらわれた。ケルレル(拳骨の旦那)はあの男を上品で威厳がある、などと書いていたが、実際にはまったく鼻持ちならぬ男で、公爵はこのチェバーロフこそ事件の張本人で、彼がブルドフスキー君が純情なのをいいことに、今度の事件を惹き起こしたのかもしれないとまで考えた。
ブルドフスキー、レーベジェフの甥、イポリートがこれは侮辱だ!といきりたつ。
公爵はただチェバーロフの印象から判断して、ここには詐欺じみたものがあると考えて(ここでまた連中がいきり立つ、「……まあ、そう腹をたてないでくださいよ、みなさん、お願いですから腹をたてないでください!……誓って申しますが、私はあなたがたを侮辱しようなんて気は、これっぽちもないんですから」)、ガーニャに問題を処理する全権を委ねた。
公爵がびっくりしたのは、パヴリーシチェフ(それにしても氏にまつわるあの記事の中での歪曲は酷すぎた!)の息子が存在したということ。しかもその息子が、軽々しく自分の誕生の秘密を公に暴露して、自分の母親を辱めるようなことをしたということ。それがあまりにも不自然に思われたので、公爵はあのチェバーロフこそ悪者で、ブルドフスキーはけしかけられているだけだと確信した。
客たちは抗議の声を上げる。
みなさん、聞いてくれ、むしろ、そのようにやすやすと詐欺師の手にかかるような寄る辺ない人物だからこそ、その人を《パヴリーシチェフ氏の息子》として、自分は助けてあげる義務を感じたのだ。こうしてまずチェバーロフ氏の活動を封じた上で、パヴリーシチェフ氏が私のために使ってくれた金の全額であろう一万ルーブルをその人に渡すことに決めた……。
たったの一万ルーブリ!とイポリート。
あなたは算数もできないのか……とレーベジェフの甥。
公爵が弁解。自分が受け継いだ遺産はそれほど莫大ではない。自分のためにスイスで数万ルーブルも使われていない。自分の考えでは、私のために使われた金額は一万ルーブルよりずっと少ないのだが、とにかく一万ルーブル渡すと決めた。これ以上はあげることはできない、これは負債の返済としてあげるのであって、決して贈り物ではないから。ともかく私はブルドフスキー君の運命に同情している、だって明らかに悪者に騙されているのだから、でなければ、自分の母親のことを新聞に公表するなんて、あんなまねに自ら賛成するはずがない!
客どもは激怒せんばかり。
そしてこの件を委任しておいたガヴリーラからも、つい一時間ばかり前に、チェバーロフの悪巧みとその証拠についての報告を貰っている。チェバーロフはやっぱり私の想像していたとおりの人でした……「しかし、肝心なことは、まあ、みなさん、最後までよく聞いてください、最後まで!」……肝心なことは、さらにブルドフスキー君が絶対にパヴリーシチェフの息子でないことがわかったと、ガヴリーラさんが断言したことです。ねえ、いいですか、確実な証拠があるんですよ! 私はまだ詳しいことを聞いていませんが……チェバーロフが山師なのは、もはや疑いの余地がありません。これは詐欺じゃありませんか!
ブルドフスキーの一団は名状しがたい混乱に陥る。
そう、もしブルドフスキー君が《パヴリーシチェフ氏の息子》でないことが分かったら、彼の要求は明らかに詐欺行為じゃないですか! が、ブルドフスキーは真実を知らなかったので、つまり騙されていたことになるんです。そうでも解釈しないと、ブルドフスキー君はこの事件でやはり詐欺師ということになってしまいます。だからこそ、私もこうやって彼の弁護をしようと躍起になっているのです。……そしてこの事件の一切が詐欺と分かった後でも、私はブルドフスキー君に一万ルーブルを返済するつもりです……。ねえ、みなさん、どうぞガヴリーラさんの話を聞いてください、それでおしまいにしましょう、いや怒らないでください、興奮なさらないでください!
すべてを早口で夢中で言い切ってしまったが、公爵は腰をおろしてから後悔した。特に一万ルーブルの提供のことを大勢の前で公言するべきではなかった……《明日まで待って二人きりのときに話すべきだった……でも、もうきっと手おくれだろう! ああ、おれは白痴だ、ほんものの白痴なんだ!》
脇のほうに控えていたガヴリーラが前に進み出て語り始める。
9
ガヴリーラ、「あなたはもちろん否定なさらないでしょうね」といきなりブルドフスキーに切り出し、ブルドフスキーが母が父と結婚してからちょうど二年後に生れたことを確認する(例の記事の中では私生児が生れてから母が結婚したことになっていた)。
ガーニャは偶然故パヴリーシチェフの三通の手紙を手に入れた。この手紙の日付と内容によって、氏がブルドフスキーの誕生より一年半前に外国に出発し、そのままずっと三年間滞在したことが数学的に証明できる。そしてブルドフスキーの母親は国外に出たことがない。
ブルドフスキーは立ち上がる。ぼくはだまされていたんです……一万ルーブルも辞退します……さようなら……
五分だけでもお待ちください、まだこの事件に関連してきみにとって興味あるだろう重大な事実が二、三ありますから。まず、ブルドフスキー君が、パヴリーシチェフがそのころ外国へ行っていたことをまったく知らなかったとは断言できる。自分が知りえたのも偶然だったのだから……。
イポリートは苛々しながらいう。なんでそんな無駄なことを言うんですか? ご自分の調査の手際を自慢してみたいんですか? それとも厚かましくもブルドフスキーの弁護でもするつもりですか?
ガヴリーラ曰く、そういうことでしたら、もうおしまいにして、ごく手短に報告するだけにしましょう。ブルドフスキーの母親の姉がパヴリーシチェフと恋仲にあったのは本当。その姉は急逝したが、パヴリーシチェフは母の養育のために金をつぎ込み、また彼女が測量技師と結婚した後も、その息子のブルドフスキーの教育の援助をしていた。こうした事実が、ブルドフスキーの周囲で彼がパヴリーシチェフの息子ではないか(父親は単に妻に欺かれた夫にすぎないのではないか)という噂が立つ原因となった。今現在、ブルドフスキーの母は貧困にあえいでいて、ただ息子ひとりをたよりにしている……。
なんなんだこのお喋りは!とイポリートやレーベジェフの甥は苛立つ。
ここから引き出せる結論──まずなぜブルドフスキー君がパヴリーシチェフ氏に愛されたていたのか、真の理由を知っておく必要があった。また、チェバーロフも実際には詐欺を働いている意図はなかったらしいことを述べる必要があった。ブルドフスキー君自身は、自分の利益のためというよりも、むしろ真理と進歩と人道にたいする責任として、今度の事件を始められたのであろう。彼は清浄潔白だ。だからこそ、公爵からの親友としての援助を受け取ってもよい……
ガヴリーラさん、もう止めてください!と公爵は言うがもう遅い。
ブルドフスキーは金なんかいらない、受け取りません、畜生!と言う。
二百五十ルーブリを返す。「あの記事には五十ルーブリと書いてあったのに!」とコーリャ。
公爵は卑下してブルドフスキーに語りかける。とてもすまない……詐欺は思いちがいだった……私は知らなかったんです……一万ルーブルの件もあんなふうにするべきではなかった……
みんな色々と言いあっている。エパンチン家の人々は総じて怒っている。
ガヴリーラが気付く……二百五十じゃなくて百ルーブリしかない。
公爵はもういいもういい、と両手を振る。
レーベジェフの甥が食ってかかる。正々堂々と申しますがね、あるのは百ルーブルだけで、二百五十ルーブルじゃありません。どっちみち同じですがね
ガヴリーラ「い、いいや、同じことじゃありませんよ」
話の腰を折らんでください、弁護士さん(皮肉)……百ルーブルは二百五十ルーブルではない、たしかにそうです、だが、重要なのは主旨ですからね。重要なのは、ブルドフスキーがあなたの贈り物を受け取らずに、かえってあなたの顔へたたきつけたということですよ。この意味では百五十ルーブリ足りないのはささいなことだ。ブルドフスキーは一万ルーブルさえ拒絶した。これが卑劣な奴なら、百ルーブルだって持ってはこなかったでしょうよ。百五十ルーブルはチェバーロフの交通費に使われたのだ。しかしいずれお返ししますよ……かならず返してみせます……利息をつけて……ぼくらは勝訴を期待していたんですが……誰だってブルドフスキーの立場になったら、他にやりようがありますか?
エヴゲーニイが笑い出す。これは『この被告が殺人を思い立ったのはきわめて自然なことであります、誰であろうと被告の立場に立ったならば』という先日評判になった裁判での弁論と同じだな。
リザヴェータ夫人が怒り出す。「もうたくさんです!」リザヴェータ夫人を知っている人びとは、夫人の心の中に何か特殊なあるものが生れたことを直感した。
リザヴェータ夫人の独壇場。ひどうございますね、ひどうございますね、これはまるでめちゃくちゃですよ! それで公爵、あなたはあの連中に謝るというんですね(公爵の方を向いて)、『失礼、きみに金なぞ提供しようとしました』だなんて……あんたはなんだって笑っているの、大風呂敷さん!(とレーベジェフの甥にくってかかる)『ぼくらはそんな金なんかお断りします、ぼくらは無心するのではなくて、要求しているんです』だなんて! きっとこのおばかさんがあすにもあの連中のところへ出かけて、また友情とお金を持ち出すのを当てにして、もうお金がポケットにはいったつもりで大風呂敷を広げているのよ、わたしはごまかせませんよ、いい子だからどこかほかへ行っておばかさんを捜すといいわ!
全員度肝を抜かれる。レーベジェフは有頂天になっている?
レーベジェフの甥は少々慌てながら──なあに、でたらめやめちゃくちゃなことは、どこにだってありますよ……
でもこんなのってありませんよ! とんでもない! エヴゲーニイ、あなたまで変なことおっしゃいましたね、どこぞの弁護士が、貧しさのために人を殺すほど自然なことはないとかなんとか。そうすると、いよいよこの世の終わりが来たんですわね。……あんたがたはなんで首をえらくそっくりかえして入って来たの? まるで、『殿様のお通りだ、そばへ寄ることはならんぞ、ぼくらにいっさいの権利をよこせ、ぼくらにいっさいの尊敬を払え、そのかわり、おまえなんか最下等の下男よりもひどい扱いをしてやるからな!』といった調子じゃありませんか。真理を求めるだの権利を主張するのと言いながら、悪口を新聞で公爵に浴びせかけて。『ぼくらは要求しているので、無心じゃありません。ぼくからはひとこともお礼なんて聞けませんよ、だってあなたは、自分の良心を満足させるためにするんですからね!』だとさ、とんだ道徳があったものだね! あんたが公爵にひとこともお礼を言わないなら、公爵だってあんたにこう返事をしてもいいわけですね。『わたしはパヴリーシチェフさんに対して少しも感謝しておりません。なぜならパヴリーシチェフさんが善根を施したのも、やはりご自分の良心を満足させるためでしたからね』とね。ところが、あんたは公爵がパヴリーシチェフさんにたいしてもっている感謝の念ばかりを勘定にいれているんじゃありませんか。だって、この人はあんたから借りたんじゃありませんよ、あんたに義理なんてないのよ。そう考えてくれば、この人の感謝の念のほかに何を勘定にいれているの。よくもまあ、お礼は決して言いませんよなんて口がきけたものだこと! それじゃ、気違いですよ! 神さまを信じない人たちですよ、キリストを信じない人たちですよ! あんたたちはとどのつまりはお互いに共食いするのが落ちですよ。でたらめじゃないの、めちゃくちゃじゃないの、不作法じゃないの! それなのに、公爵ときたら、まだ性懲りもなく、あの連中のところへお詫びにいくなんて言ってるんだから! 何にやにやしてるの?(とイポリートに食ってかかる) じゃ、公爵、あなたは出かけになるんですね、あしたあの連中のところへお出かけになるんですね?
参ります。
そんなことをしようものなら、もうあなたなんか見るのもいやですよ!
イポリートは皮肉な冷笑でリザヴェータを見ている。リザヴェータ、イポリートに飛びかかる。みんな止めようとする。
イポリート咳き込んで血を出す。ぼくはあと二週間も生きられないんですよ。お別れにひとこと申し上げたいんですけれど……。
イポリートが自分語りを始める。
実はイポリートは以前からコーリャにリザヴェータ夫人のことを聞いて近づきになりたいと思っていた? あなたのお嬢さんのアグラーヤさんは美しいですね……。この世の名残に、せめて美しいかたなりとようくながめさせてください。
イポリートは夫人を引き止める。公爵がお茶を出してくれるだろうから、それを飲みましょう。夫人はしかたなく承諾する。将軍も、令嬢たちも残ることにした。公爵はさっそく一同に、居残ってお茶を飲んでいくようにすすめた。エパンチン将軍はだいぶ愛想がよくなった。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチとШ公爵は、陽気になった。アグラーヤ以外の人間は、とにかくリザヴェータ夫人の癇癪が通り過ぎたことを喜んでいた。イポリートの帰りを待つ形で、ブルドフスキーたちも居残った。
時計が十一時を打った。
10
「イポリートは、ヴェーラ・レーベジェワのすすめる一杯のお茶に唇をうるおすと、茶碗をテーブルの上へ置いたが、急にどぎまぎした顔つきで、当惑したようにあたりを見まわした。」
この茶碗はレーベジェフの細君の嫁入り道具で……みたいな話をし出す。
イポリートはリザヴェータ夫人に、実はレーベジェフがさっきの新聞記事を推敲したのだということをバラす。リザヴェータ夫人それを公爵におおっぴらに言う。「公爵、なんだってあなたは黙ってるの?」
公爵はレーベジェフを許す。
レーベジェフは胸をたたき、頭を低くたれながら、「卑劣なことで、いや、じつに卑劣なことでした!」
ケルレルまでリザヴェータ夫人の前に飛び出す。自分はただ高潔な心から、さきほどレーベジェフが自分たちを追い出そうとしたにもかかわらず、レーベジェフが例の記事を直したことについて口に出さなかったのだ……。といっても、レーベジェフが手を加えたのは、ペテルブルグへ来たばかりの時の公爵の様子といった、ケルレルは知らないがレーベジェフは知っている事実などについて(だからこそ、妙な部分であの記事は詳細だったわけだ──こんなところで伏線回収!「われらが末裔氏は半年ばかり前、外国風のゲートルを巻き、裏もついてない外套にくるまって震えながら、いままで白痴の治療に滞在していたスイスから冬のロシアへ帰ってきたのである」)が主だったが。
「だからあの文章でまずいところは、決してわたしのせいじゃありませんので……」
「この男が気をもむのはそんなことくらいなのね!」
リザヴェータ夫人、あんたのプーシキンなんかもう要らない、ヴェーラももう気に入らない、と言いだす。
イポリートはそんなリザヴェータ夫人を笑い、また自分語りを始める。ぼくはすっかりあなたを尊敬しているんです……ご自分の身分もお考えにならないで、ぼくらの仲間と一緒に残られた……
エパンチン将軍は怒る。家内がここに残っているのは、ムイシュキン公爵との友人付き合いのためと、病人への同情のためだ。そんなことも分からんのか?
リザヴェータ夫人はまだ二分ほどここに居るという。イポリート、またしゃべりだす。あなたたちはブルドフスキーが自分の母親に対して醜い振る舞いをしたと考えてらっしゃる、しかし、みなさんのうちの誰だってブルドフスキーほど自分の母親を愛してはいないでしょうよ! それにしても公爵、ガーニャをつうじてこっそりブルドフスキーの母親にお金を送ったのは、デリカシーに欠けているんじゃありませんかね……
イポリート、いきなりエヴゲーニイに食ってかかる。「なんだってぼくのことを笑いものにするんです?」実際、エヴゲーニイは笑っていたのだ。
イポリートとエヴゲーニイの議論。
「ぼくはまだ大いにこう言いたいんですよ」エヴゲーニイ・パーヴロヴィチは微笑しながら言った。「きみの友人たちが言われたすべてのことと、いまきみが疑いもない才能をもってあざやかに述べられたすべてを総合してみると、ぼくの考えでは、要するに権利謳歌の理論に帰着するようですね。あらゆるものに先行し、あらゆるものを放棄し、あらゆるものを除外さえして、ことによったら、権利そのものが何に起因するかも研究しないでおいて……ねえ、ちがいますか、ぼくの解釈は?」
「もちろん、ちがっていますよ、ぼくにはあなたのおっしゃることがわからないくらいですよ……それで?」
「いや、もうほとんど言うことはありません」エヴゲーニイ・パーヴロヴィチが言葉をつづけた。「ただひと言いっておきたかったのは、そうした理論からすぐ力の権利が、つまり拳骨を唯一絶対とする権利と個人的欲求の権利へ、一足飛びに飛んでしまうということなんです。もっとも、世間ではそれでたいてい片がついているんですがね。プルードンだって力の権利というものに立っていましたからね。アメリカ戦争のときにも、最も進歩的な自由主義の人たちが、農場主たちの利益を護るために、黒人は黒人、白色人種より下に立つべきもの、したがって、力の権利は白色人種の側にある、と宣言したんですからね……」
「それで?」
「つまり、きみも力の権利を否定しないでしょうね?」
「それから?」
「きみはいやに理屈をこねますね。ぼくの言いたかったのは、力の権利というものは虎や鰐の権利、ダニーロフやゴルスキーの権利とさえもあまり遠いものではないってことなんですよ」
「知りませんね、それから?」
議論は尻切れとんぼに。
さあ、もうお話はたくさんですよ、とリザヴェータ夫人。
イポリートはどぎまぎしだす。ぼくはあなたがたにすっかりしゃべってしまおうと思ったんですが……ぼくが考えてたことは、あなたがたみなさんが……最後のときに……でも、それもこれもみんなぼくの妄想でしたよ……
「見たところ、彼は発作的に元気づいて、ほんの数秒間、夢うつつの状態からわれに返り、ふいに完全な意識を取りもどしてはさまざまなことを思いだして、口にしているようであった。それらの言葉の多くは断片的で、おそらく長い孤独な病床の眠れぬ夜のつれづれに、思いをこらし、そらんじていたことだったようだ。」
ではさようなら!とイポリートは言い、エパンチン将軍にどうかぼくの葬式に立ち会っていただけませんか、と頼む。
また自分語り。ぼくがここへやってきたのは公園の木立〔伏線〕を見るためだったんですよ……ぼくは長いことベッドに寝ていて……死人には年齢がないってことをご存知ですか……あなたはぼくたちをばかにしておいでなのに、ぼくたちの誠実を何よりも恐れていらっしゃる!……みなじきに死んでしまうのだ、永久に、残るのはただ煉瓦の壁……ぼくの窓の真向かいにあるマイエル家の赤い壁ばかりです……自然というのは皮肉なものだ……なぜ自然はただ嘲笑せんがためにのみ、最もすぐれたるものを創造するのでしょう……ぼくはただ万人の幸福のために、真理の発見と伝道のために生きたかったんです……ぼくは用のない人間なんです……一つの事業もなく、たった一つの信念を広めることもできない……ねえ、こんなばか者を笑わないでください、忘れてしまってください!
イポリート泣き出す。リザヴェータ夫人は彼を抱きしめる。リザヴェータ夫人「いったいどうしたらいいんです!」
公爵がイポリートに泊っていけという。
だがふいにイポリートは羞恥の色を見せ立ち上がる。歪んだような冷笑を浮かべる。そのままブルドフスキーとレーベジェフの甥といっしょに帰ろうとする。
「ねえ、ぼくはこうなりゃしないかと心配していたんです! きっとそうなるだろうと思ってました」と公爵。
イポリートは憎悪の色を浮かべて、公爵の方を振り向いて言う。『きっとそうなるだろうと思っていた』だって? ぼくがここにいる人の中で誰かを憎んでいるとすれば、あなたですよ、仮面をかぶった、口先だけうまい、白痴の、百万長者のあなたをですよ! ぼくはもうずっと前から、まだ噂に聞くだけだった時分から、あなたを憎んでいたんです。 ぼくが気後れしたのもあなたが悪いんです。あなたのお慈悲なんか結構です……
涙を流したのが恥ずかしくなったんだろうよ、とレーベジェフ。
リザヴェータ夫人は公爵に別れの挨拶。
イポリートたちのところへ辻馬車がやってくる。レーベジェフの甥がさっき呼びにやらせたもの。
エパンチン家の者たちが帰ろうとする。と、ふいにアグラーヤが公爵に早口で耳打ちする。どうやらイポリートたちに対して、さらに彼らに対する公爵の態度に怒っている模様。
「しかし、この晩のさわぎはこれだけではまだ終わらなかった。リザヴェータ・プロコフィエヴナはもう一つ、まったく思いがけない人との邂逅を経験しなければならなかった。」
夫人が往来まで出ないうちに、りっぱな幌馬車が公爵の別荘のそばを疾駆(これはたまたまではない。後に伏線回収される)。馬車の中には貴婦人が二人。馬車がとまり、そのうちの一人が後ろを振り返って言う。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ! やっとあなたを捜し出せたわ!
その声を聞いて公爵は身震いする。いや、身を震わせたのは誰かもうひとりいたようだ……。
エヴゲーニイは雷に打たれたように階段の途中で立ちすくむ。
女はさらにつづける。クプフェルの手形はロゴージンが三万ルーブルで買ったから、心配しなくていいわよ。あと三月ばかりは。ビスクープやそのほかの連中のほうも、知合いということで話がつくでしょうよ。じゃごきげんよう!
エヴゲーニイは怒りのために真っ赤になる。何の話をしたのか見当もつかない! どんな手形のことだ! あの女は何者だ!
公爵は病的な緊張に襲われていた。
11
あの晩から三日ほど、エパンチン家の人々は公爵に反目していた。
公爵は暗い気持ちになっていた。とりわけ気にしていたのは、幌馬車の中から貴婦人がエヴゲーニイ・パーヴロヴィチに話しかけた突拍子もない出来事。
-------------------------------------------------------------第二編8日目
あの晩の翌朝、さっそくШ公爵とアデライーダが訪ねて来た。主として公爵の健康をたずねるために。リザヴェータ夫人のこともアグラーヤのことも話題に出なかったが、別れ際にШ公爵が「ゆうべの夫人」が誰だか知らないかと訊く。
「あれはナスターシャ・フィリポヴナです」
あの女が言ったことは何だったのか? エヴゲーニイが振り出した手形をあの女の頼みでロゴージンがどこかの高利貸しから引き取った、それでロゴージンが猶予してやるということでしょう……。しかし、あんなに財産があるのにエヴゲーニイが手形を振り出すなんて? それにナスターシャと関係があるなんて?
「いや、これは疑いもなく、あの婦人が人の見ている前で、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチが現にそなえてもいないし、またそなえているはずもないような品性を持っていると公言して、彼の妨害を計ったのにちがいありませんよ」とШ公爵。
二人は立ち去る。
心理分析的ディエゲーシス。「ところで、われらの主人公にとって、この訪問はきわめて重大な意味をもっていた。かりに彼自身も昨晩以来(あるいはもっと前からであったかもしれないが)、いろいろと疑っていたとしても、二人がたずねてくるまでは自分の危惧を全面的に肯定する気はなかった。ところが、いまでは何もかもすっかり明らかとなった。Ш公爵はもちろんこの事件を誤って解釈していたが。それでもとにかく真実の近くまでいっていたのだ。いずれにしても、そこに陰謀のあることを見抜いたのである。《ひょっとすると、彼の心の中ではほんとうのことを理解しているのかもしれない》と公爵は考えた。《ただそれを明言したくないので、わざと間違った解釈をしたのかもしれない》しかし何よりはっきりしていることは、人びとが(ほかならぬШ公爵が)、何か事実を明らかにするために自分のところへやってきたことである。もしそうだとすれば、自分はこの陰謀の一味と考えられているにちがいない。いや、そればかりでなく、もしこれがそれほど重大な事実とすれば、あの女には何か恐ろしい目的があるはずだ、それは、どんな目的だろう? じつに恐ろしいことだ! 《どうしたらあの女をひきとめることができるだろう? いや、あの女がいったんこうと思いこんだら、どんなことをしてもひきとめることなんかできやしない!》公爵はこのことを自分の経験から承知していた。《気ちがいだ! 気ちがいなんだ!》」
彼はすっかり気がめいる。彼のところにヴェーラが顔を出した。レーベジェフの中学生の息子も。彼は『黙示録』の或る一節は、父親の解釈ではヨーロッパ一円に広がっている鉄道網を指すという……。ヴェーラは、この家にきのうからケルレルが居座っていると報告。コーリャはペテルブルグへ行っていて、一日中家にいなかった。レーベジェフもいない。公爵は、今日必ず自分のところへ立ち寄ることになっているガーニャの来訪を待ち受けていた。(以上すべて要約法)
ガーニャは午後六時すぎにやってくる。二人の関係は風変わりなものだった。信頼はあるのだが、「おたがいにそれについては何も言及すまいと決めてでもあるようなことが、いつも二人のあいだにあるようであった。」
公爵の反応はにぶかったが、ガーニャは辛抱強く話をつづける。彼の言うことには、ナスターシャはここパーヴロフスクにやってきて四日にしかならないのに、早くもみなの注目を浴びて、崇拝者を集めているとのこと。
ガーニャはエヴゲーニイのことも報告。ナスターシャとはつい四日前に知り合ったばかりだ。手形の件は、もちろんそんなことはあるはずもない。エヴゲーニイの財産は莫大なものであるが、領地のほうの財政はいくぶん乱脈になっている……。ワルワーラも入ってくる。彼女の報告では、エヴゲーニイは今日明日のうちに、プチーツィンと一緒にペテルブルグへ行くという。何か事件が起きたらしい……。また、不思議なことに、アグラーヤがエパンチン家中の人(二人の姉とも)と喧嘩をしているらしい……。(以上すべて要約法)
二人は去る。公爵はひとりきりになったのを喜ぶ。外へ出て公園へ。もうこんなことにかかずらわずに、遠い田舎にでも引っ込んでしまいたい、と考える。だが、自分の前にはある問題が横たわっており、その解決から逃げることはできない、と決意する。〔無意識の陰謀〕「その瞬間彼はじつに不幸な人間であった。」
散歩から帰ってきてもレーベジェフ不在。ケルレルが公爵のところへやってくる。ケルレルは自分の生涯を公爵に告白しようとする。対話場面。部分的に要約法。最後に公爵が言う。「肝心なことは、きみはどこか子供っぽいほど人を信じる気持ちと、並みはずれて正直なところがありますね……」「高潔なんです、高潔なんです、騎士のように高潔なんですよ!」
しかしなんだって私にそんな告白なんか?
第一にはあなたが徳のある人物だからです、第二には……
たぶんお金でも借りたいと思ったんでしょう。〔直覚的理解〕
ケルレルはぎくっと身を震わせた。「いや、まったくその調子であなたは人の度胆をぬいてしまわれるんですな! 公爵、お手柔らかに頼みますよ。いつもは黄金時代にも耳にしたことのないような、あんな飾り気のない無邪気な態度をとっておられるかと思うと、いきなりそんな深刻な心理観察をやってのけて、まるで矢でもって人の心を突き通されるんですからねえ。……」でもこれには説明がいるんですよ……
公爵に何もかも心の底から告白して、自己の向上をはかろうと昨夜、胸の中で涙にくれながら考えた時、その瞬間、《どんなものだろう、あの人から金を借りることはできないだろうか、懺悔をしたあとで》と考えてしまったことについて。告白の涙で道筋を滑らかにしておけば、金をねだるのも難しくない……
公爵、それはどちらが真の考えというのではなく、二つの考えが同時に浮かんだのだ、と公爵。そういう二重の考えは自分も覚えがある、人間とは誰でもそういうものではないかと考えてしまったほどだ……
「いや、それにしても、こんなあなたのような人間を、なぜ世間では白痴と言うんでしょう、合点がゆきませんよ!」とケルレル。
レーベジェフが帰ってくる。ケルレル逃げ出す。レーベジェフは公爵にケルレルのことを中傷する。いや、あなたの言葉は公平を欠いていますよ、あの人はほんとうに心から後悔していましたよ……
そんな後悔が何になるんです? 昨晩のわたしとまったく同じじゃありませんか!
じゃ、あなたの後悔も口先だったんですか?
「では、ひとつあなたに、まったくあなたおひとりだけにほんとうのことを申しあげましょう。なにしろ、あなたは人の腹の中をお見通しになるかたですからね。じつは口先も実行も、嘘も真実も──わたしの場合にはみんないっしょになっていて、みんな心から出たことなんです。真実と行いとが、ほんとうに心から後悔したときに出てくるんですよ。……」
ケルレルもそれと同じことを言いましたよ、しかもあなたがた二人は、まるで自慢でもしているみたいに言うんですね!
しかし公爵はレーベジェフに訊ねたいことがあって、一日中待っていたのだ。「どうか一生に一度だけでも、はじめからほんとうのことを答えてください。あなたは昨晩の一件にいくらか関係あるんですか、どうなんです?」
関係がある。あの晩に自分の別荘でこういう集まりがあって、こういう人がいるということを、中学生の息子を使いにやってナスターシャに知らせたのはレーベジェフだったのだ。
「それにしても、小細工をやったものですねえ!」
わたしの小細工じゃありませんよ……
では、いったいどうしたわけなんです?
だってあなたはわたしにほんとうのことをすっかり言わせてくださらないじゃありませんか……わたしはもう何度もほんとうのことを申しあげようとしていましたのに……
じゃ、わかりました、ほんとのことを言ってください、と公爵苦しげに。
アグラーヤ・イワーノヴナが……〔小細工した〕
お黙りなさい! そんなことがあるはずはありません!!!公爵怒り出す。
その晩おそくなって午後十時過ぎ、コーリャがニュースを抱えてやってくる。彼はペテルブルグから帰ってきてからまっさきにエパンチン家の別荘にいった。あそこではひどいさわぎ。何かが起こったらしい。興味深いことに、アグラーヤがガーニャの肩を持って、家族の人たちと口論した。リザヴェータ夫人はもう二度とこの家に来るな、とワルワーラを追い出した。あの兄妹は何かを企んでいるんだろう。
公爵の推測をコーリャが否定する。「あなたはアグラーヤさんのことで、ガーニャにひどく嫉妬していらっしゃるんですよ!」コーリャ高笑い。
-------------------------------------------------------------第二編9日目
公爵はのっぴきならぬ用事で、午前中をペテルブルグで過ごす。
午後四時にパーブロフスクへの帰途についたが、停車場でエパンチン将軍と顔を合わせる。一等車の中で話し込む。
わが家はまるで地獄だよ……これに関してはきみは一番罪が軽いようだがね……エヴゲーニイについてのあれは、とんでもない中傷だよ……アグラーヤとの結婚の話はまだひとことも出ていないが……あの女はこの結婚話を邪魔しようとしている?……自分の手元にエヴゲーニイをひきとめておこうとしている?……繰り返して言うが、あの手形のことはまったく作り話なんだ!……私の考えでは、あの女は昔の私の行為を根にもって、個人的な復讐心からこんなことをやったのでは?……とにかくあの女がまたもやあらわれたってわけさ……
将軍は途方にくれていた。が、公爵にはまったく嫌疑はかけていなかった。最後に、「ペテルブルグのある役所で長官を勤めているエヴゲーニイ・パーヴロヴィチの伯父」に関する話をした。病気にかかっている?〔伏線〕
そしてようやく三日目にエパンチン家の人々と公爵の間に正式の和解が成立することになる。
12
-------------------------------------------------------------第二〜三編10日目
午後七時。リザヴェータ夫人が一人で公爵のところへやって来る。
「まず最初にお断りしておきますがね、わたしがお詫びに来たなんて、思わないでちょうだい。とんでもない!……」
ここにやって来たのはお尋ねしたいことがあったから。あの憎たらしい小僧っ子たちのことは、一言も聞きたくないので口に出さないように。
で、訊きたいこと──公爵は二ヵ月半前、復活祭の頃にアグラーヤあてに手紙を書いたか?〔上巻425頁〕
書きました……でも大したことは書いていない……公爵はその手紙をそらで読んで聞かせる。
何の意味があるのそれ?
単に喜びの気持ちが溢れて書いただけです……
「恋してるんじゃないの、ねえ?」
「い、いいえ。私は……私は妹に書くようなつもりで書いたんですから……」
ほんとうに? たぶん、まったくほんとだと思います……
でもよくあの娘があなたになんか興味を持ったわねえ? だって、あの娘は自分であなたのことを『片輪』だの『白痴』だのと言ってたんですからね……まあ、そう怒らないで。あの娘は甘やかされて育ったものだから、気が強くて、気違いみたいなところがあるのよ、誰かが好きになると、きっと大声で悪口を言ったり、面とむかってからかったりするんですから……ただ、どうか、そういい気にならないでちょうだい、あの娘はあなたのものじゃありませんからね……
で突然に、「ねえ、誓ってちょうだい、あなたはあの女と結婚はしていないんでしょうね」
「奥さん、なんてことをおっしゃるんです!」椅子からとびあがる公爵。
「だって、もうすこしで結婚するところじゃなかったの?」
「もうすこしで結婚するところでした」公爵うなだれる。
「それじゃ、あの女に恋してるんでしょう? 今度もあの女のためにやってきたんでしょう?」
ちがいます……誓って。
あなたの言うことを信じましょう……でもね、アグラーヤはわたしの目の黒いうちはあなたのところへ嫁がせませんよ!
わかりました。
わたしはあなたをベロコンスカヤのおばあさんに匹敵する親友と思っているんですよ……一昨日あの女がなぜ馬車の中から怒鳴ったか、知ってますか?
誓って申しますが、知りません。
きのうの朝あたりまでは、何もかもエヴゲーニイ・パーヴロヴィチが悪いものと思っていたんですよ……でも今では何だったのか見当もつかない……いずれにせよ、エヴゲーニイのところへはアグラーヤはやりません、これはあなたにもちゃんと言っておきます! たとえあの人がいい人であっても、同じことです。
ガーニャのことに話が移る。ガヴリーラ・イヴォルギンがアグラーヤと交渉があるってことを知ってましたか?とリザヴェータ。
公爵おどろく。知りませんでした……そんなことはあり得ない!
ワルワーラが一冬かかってあの男のために道をつけてやったんですよ、鼠のように立ち回って。
公爵まだ信じられない。リザヴェータ夫人は、あなたはガーニャに騙されているんですよ……と忌々しげに。
あの人が時々私を騙していることは知ってますよ、あの人のほうでも私がそれを知っていることは承知してるんです……
リザヴェータは怒る。まあ、それはご丁寧なこと! あ、そうそう、あのガーニャかワルワーラが、あの娘をナスターシャ・フィリポヴナと結びつけたんですよ。
また公爵仰天。
わたし自身でも信じられないが、ちゃんとした証拠がある(おそらく、三編1で言及される「匿名の手紙」のこと)……アグラーヤのことは、もう手に負えません……あんな意地悪い娘……で、なぜあなたはこの三日間、うちの方へ来なかったんですの?……誰も彼もがあなたを騙しているんですよ……あなたは今日あのブルドフスキーのところへ行って一万ルーブル受け取ってくれって頼んだんでしょう!……と、リザヴェータ夫人苛立たしげに。
いえ、ブルドフスキーを見かけてすらいません。ただ、手紙を貰っただけ。
手紙を見せる。ムイシュキン公爵は誰よりもすぐれた人物であると確信している、この確信ゆえにレーベジェフの甥と訣別した。あなたから一コペイカも貰うつもりはないが、母を助けてくれたことには感謝する……。等々。
リザヴェータは怒っている風だが……「あなたはなぜそんなににやにやしてるんです?」
あなたはこの手紙を読んで喜んでいらっしゃるくせに、それを隠そうとしていらっしゃる……なぜご自分の感情を恥ずかしがったりするんです?
「まあ、あなたって人はこのわたしにその頬っぺたをぶたれたいの?」
リザヴェータ夫人は怒り狂う。これからはあなたを絶対にわたしのそばへ来させやしないから……
そうはおっしゃっても、三日もしたら、ご自分からうちへ来いとおっしゃいますよ……それはあなたの優れた感情じゃありませんか、なぜそれを恥ずかしく思われるでしょう?
たとえ死んでもあなたなんか呼びませんよ!
リザヴェータ夫人出て行く。そのあとから公爵つい口を滑らせて叫ぶ。そうおっしゃられるまでもなく、私はアグラーヤさんにお宅へあがることを禁じられているんです!
なあーんですって!!
アグラーヤから公爵は手紙を受け取ったのだ。それを夫人に見せる。「あなたが来てもあたくしはあなたを歓迎しません」といった内容。
リザヴェータ夫人は少し思案していてから、ふいに公爵にとびかかって引き立てていく。「さあ、すぐに、おいでなさいったら!」
?????
今度こそわたしがすっかり見抜いてやりますからね……
「でもせめて、帽子だけでも手に取らせてくださいよ……」
「さあ、ここですよ、あなたのきたないやくざ帽子は。さあ、行きましょう!……」
リザヴェータ夫人はこの手紙をはしたないものと思っている。公爵が来ないから癪にさわって出したのかもしれないが、白痴にはこんな風に書いちゃいけないんですよ、なにしろ言葉どおりに受け取るんだから。……「「……おや、あなたは何を盗み聞きしているの?」つい口をすべらせてしまったのに気付いて、夫人は叫んだ。「あの娘にはあなたのような道化役者が要るんですよ、長いこと会わなかったものだから、それであなたを呼んでいるんですよ! あの娘がこれからあなたをとっちめるのが、わたしもうれしいんですよ、うれしいんですよ! あなたなんかそれがお似合いなのよ。それに、あの娘はそれくらいできますからね。ええ、できますとも!……」」
▼第三編
-
1
「わが国には実務的な人物がいない、……」から長いディエゲーシス。
平穏でりっぱな幸福というものからほど遠いエパンチン家。もっともそんなことを気に病んでいたのはリザヴェータ夫人ひとりかもしれなかったが。エパンチン家の人々は、社会一般の尊敬を受けていることは間違いない。だが、それでもやはり、この家庭は普通尊敬すべき家庭とされる姿とはどこか異なったところがあった。リザヴェータ夫人は確かに変人だった。しかも、娘たちも彼女と同じような変人になってきた?
それでもやっとこの家にも通常の幸福が訪れようとしている? 次女がようやく嫁に行こうとしているのだから。
ともかくリザヴェータ夫人の最大の悩みの種はアグラーヤのことだ。《わがままで、いやらしい悪魔だこと。ニヒリストで、変人で、気ちがいで、意地悪ときているほんとに意地の悪い、意地の悪い娘だよ! ああ、あの娘はとても不仕合せになるでしょうねえ!》 それでもエヴゲーニイ・パーヴロヴィチという相手があらわれて、事が上手く運びそうに思われた……
「ところが、そこへ……/あのいまいましい公爵が、とんでもないお白痴さんがあらわれてから、急に何もかもめちゃめちゃになって、家じゅうがまるでひっくりかえったような有様になってしまったのである!/それにしても、いったい何がおこったのだろう?」
ここでリザヴェータ夫人の内語に切り替わり、第二編の最後に接続する。「リザヴェータ夫人は公爵を引きたててくる道すがらも、家に着いて、家族の者が集まっていた円テーブルに公爵をすわらせながらも、やはり心の中でずっと考えつづけていた。」
ほとんどリザヴェータ夫人の意識の流れ。《それによくもあんな匿名の手紙をわたしによこして、あの売女のことを──あれがうちのアグラーヤと関係があるなんて厚かましくも書けたものだ》《これはひょっとした、あのワーリカが書いたのかもしれない、ちゃんと知ってますよ》(これが二編の最後でリザヴェータ夫人がナスターシャとアグラーヤの関係を断言した元の「証拠」か。書いたのがワーリャではなくレーベジェフだということは第四編で明らかになる)《みんなあなたのせいですからね、イワン・フョードロヴィチ!》《わたしたちはもうこの事件に巻きこまれてしまったんですよ》《それに、なんだってアグラーヤが三日もヒステリーを起こして、もうすこしで姉たちと喧嘩するところだったのだろう?》《なぜあの娘はきのうもきょうも、ガヴリーラ・イヴォルギンのことをほめちぎったあげく、泣き出してしまったんだろう?》《それから、なぜ……なんのためにわたしは公爵のところへ火傷した猫みたいに駆けつけていって、自分からわざわざあの男をここへひっぱってきたんだろう?》《それにしても、ほんとにアグラーヤはあんな片輪者に夢中になったのかしら!》《それにしても、あの娘はなぜあの男をいじめないんだろう?》《あなた、わたしは決して容赦しませんよ、イワン・フョードロヴィチ、どんなことがあってもあなたを容赦しませんからね!》《あのいまいましいエヴゲーニイ・パーヴロヴィチのおしゃべりがひとりで話をきりまわしてるじゃないの! まあ、しゃべることしゃべること、……》
公爵は真っ蒼な面持ちで坐り、アグラーヤの視線を恐れている。エヴゲーニイが喋りまくっている。その場にはШ公爵もいる。
場所は、エパンチン家の別荘のテラス。「みんなは公爵の家でと同じように、テラスに腰かけていた。」
エヴゲーニイが議論を先導しているのだが、この議論のテーマは二、三の人にしか気に入っていないらしかった。
「「失礼ですが」とエヴゲーニイ・パーヴロヴィチは激しく反駁した。「わたしはべつに自由主義に反対だなんて言ってやしませんよ。自由主義は決して悪いものじゃありません。……しかしですね、わたしが攻撃しているのはロシアの自由主義なのです。……」
「公爵、わたしはあなたがいらっしゃるちょっと前に、こんなことを断言したのです」──とすこし時間幅を過去へ広くとって議論の敷衍。ロシアの自由主義者たちはロシアにたいする憎悪が最も有益な自由主義だと勘違いしている……。
「私にはあなたのおっしゃることも、いくぶん正しいように思われます……」と公爵。
公爵のその反応にエヴゲーニイは興味を持つ。「エヴゲーニイ・パーヴロヴィチはもうずっと前から一種特別の冷笑的な態度で公爵にたいしていたのに、いまこの答えを聞くや、急におそろしくまじめな顔つきになって彼をながめた。どうやらこんな答えを彼から聞くのは、まったく思いがけないという様子であった。」
「「……(ねえ、公爵、あなたはとてもわたしの興味をひきました。それに、誓って申しあげますが、わたしは絶対に見かけほどからっぽな人間じゃありません、もっとも、ほんとのところは、からっぽな人間ですがね!)、みなさん、もしよろしかったら、わたし自身の好奇心を満足させるために、ひとつ公爵に最後の質問をしたいと思います。これでおしまいにしますよ。この質問はまるでお誂えむきに、二時間ばかり前にふと頭に浮かんだものです(ねえ、公爵、わたしだってときにはまじめなことも考えるんですよ)。わたしはその疑問を自分で解いたのですが、ひとつ公爵がどんなふうにおっしゃるか伺いたいもんですね。……」
六人殺した若い男を、「被告の置かれた貧困状態からして、殺人行為は自然なことだ」と弁護した弁護士。こうした物事の理解や確信の倒錯は、特殊な例だろうか一般的なものだろうか?
アデライーダ、アレクサンドラ、Ш公爵は特殊な例に決まっている、という。わが国にはもっと立派な弁護士は大勢いる、そんな奇妙な弁論は、もちろん千に一つの例外に過ぎない。
だが公爵はこれは特殊な例ではない、と言う。「……ところが、いまエヴゲーニイ・パーヴロヴィチのおっしゃった人たちは、自分のことを犯罪者と考えようとしないばかりか、そうする権利があったのだ……いや、自分のしたことは善いことだ……と、まあ、そんなふうに考えているんですからねえ。つまり、この点にこそ恐ろしい相違があるのだと私は思います。それに、どうでしょう、これはみんな若い人たちなんですからねえ。あの年頃が最も思想の歪曲におちいりやすい危険な年齢なんですねえ」
エヴゲーニイ唖然。それだけの見識を持っていて、なぜ先日の、ブルドフスキーとかいった連中の欺瞞に気づかなかったんですか?
リザヴェータが代わって答える。しかしあの連中の一人は、いまではあの仲間と絶交して、公爵を誰よりも信頼しているという手紙を寄越してきたのだ。欺瞞に気づく気づかないということで得意になっていたら、こんな手紙を受け取ることができるだろうか?
「それに、イポリートもやはりこのかたの別荘へたったいま引っ越してきましたよ!」とコーリャ。第二〜三編9日目に公爵が午前中ペテルブルグで片付けてきた用事というのは、コーリャを別荘へ招待することだったのか。そして、たったいま引っ越してきたと。
なぜかここでアグラーヤが公爵の近くへ寄ってきて、怒りの眼差しで彼を眺める。
みんなが散歩に行こうと立ち上がる。
エヴゲーニイがイポリートのことをくさす。あの男はとにかく死に様を雄弁で飾りたくてたまらないんでしょうよ。
それがどうだとおっしゃるんです?……あなたが、あの人をゆるしてやりたくないとおっしゃるんなら、あの人もあなたにかまわず死んでいくでしょう……と公爵。
みな音楽を聞きに出かけて行く。
2
だが出しなに奇妙な一幕が。
公爵がエヴゲーニイに近寄っていって、いきなり謝りだす。「あの三日前の私の振る舞いを、どうかもう思い出させないでください! この三日間、私は恥ずかしくてたまらなかったのです……」「私はいますぐ出ていきますから、どうかご安心ください……」
リザヴェータ夫人がびっくりする。
「どうぞご心配なく、奥さん、……私はいますぐ出て行きますから……私は病人なんです……私はこの社会において余計者なんです……私はこの三日間いろいろ考えたすえ、あなたがたに会ったら、おりを見つけて、誠実な高潔な態度でご報告しなければならないと決心したのです……私には礼にかなったジェスチャーがないのです、感情の節度というものがないのです。私の言葉はすべて見当違いで、その思想にふさわしくないのです……」
全員この突飛な公爵の振る舞いに気まずくなる。「だが、このとっぴな振る舞いは、ある奇妙なエピソードの原因となったのである。」
アグラーヤが憤激して叫びだす。なんのためにそんなことを今ここでおっしゃるんです? ここにはそんな言葉を聞くだけの値打ちのある人なんか、ひとりだっていませんよ! ここにいる人はみんな、あなたの小指ほど値打ちもないのです。あなたの叡智にも、あなたの感情にも! あなたは誰よりも潔白で、誰よりも高潔で、誰よりもりっぱで、誰よりも善良で、誰よりも賢いかたなんです!……
まったく思いがけないこと。
もう見境なくヒステリックな状態に陥るアグラーヤ。「よくもみんなあたくしに恥をかかせたわね!……なんだってみんながみんな、このあたくしをいじめるんです?……公爵、なんだってこの人たちはこの三日間というもの、あなたのことでうるさくあたくしにつきまとうんでしょう? あたくしはたとえどんなことがあっても、あなたとなんか結婚しませんからね!……いったいなんだってこの人たち〔実際には、ナスターシャのはず〕は、あたくしがあなたと結婚するなんて言って、あたくしをいらいらさせるんでしょう?……公爵、あなたもやっぱり、この人たちとぐるになっているんでしょう!」
誰もそんなことは言ってない!
「みんなが言いましたわ、ひとり残らず、この三日間のあいだ!」泣き出すアグラーヤ。
弁解しはじめる公爵。私はあなたに求婚したことはないし、これからも結婚を申し込むつもりなんかない……この点については私には罪はない……きっと誰か意地の悪い人間が、私のことをあなたに中傷したのでしょう!……〔って、ナスターシャ・フィリポヴナだろ?〕
アグラーヤのそばに寄っていく公爵。するとふいに大声で笑いだすアグラーヤ。アデライーダも笑いだし、妹を抱きしめる。それを見て、公爵までがにこにこ笑い出した。「いや、よかった、ほんとによかった!」
みんな笑顔になる。
アデライーダ曰く、「散歩にまいりましょう、散歩にまいりましょう! みんなも一緒に、公爵もぜひいっしょに、お帰りになるなんて法はありませんわ、とてもいい方なんですもの! ねえ、アグラーヤ、なんていい方なんでしょうね! ねえ、そうじゃありません、ママ! それに、あたくしはぜひともぜひともこの方を接吻して、抱いてあげなくちゃなりませんわ……だって……いまアグラーヤに説明してくださったお礼に。……」
アグラーヤ曰く、「さあ、まいりましょう! 公爵、あたくしの手を取ってくださいな。ママ、かまわないでしょう、あたくしを断った花婿さんですもの? だって、あなたは永久にあたくしを拒絶なさったんでしょう、公爵?いいえ、そうじゃだめ。そんなふうに婦人に腕を貸すものじゃありませんわ。まあ、婦人の手をどういうふうに取るかもご存知ないんですの? ええ、それでけっこう、まいりましょう。みんなの先頭になろうじゃありませんか、先頭になるのはおいや、二人っきりでは?」
みんな出かけていく。
Ш公爵は、エパンチン家の人々は妙な人たちだなと考える。
エヴゲーニイはすっかり陽気になっているらしく、停車場までの道すがら、アレクサンドラとアデライーダを笑わせつづけていた。
先頭を歩いているアグラーヤと公爵。アグラーヤが公爵に謎をかける。右手をごらんなさい……あの公園の緑色のベンチに、あたくしたときどき朝早く、みなが眠っている自分に、ひとりきりで坐りにくるんですのよ……
「ベンチの話を聞いたとき、公爵の心臓はおそろしくどきどきしはじめた。が、一瞬後には思いなおして、恥じいりながら自分の愚かしい考えを追い払った。」
パーヴロフスクの停車場には、別荘住まいの垢抜けした人々が集まっていて、音楽(公園のオーケストラ)を聞きに来ていた。
リザヴェータ夫人一行は停車場の左入り口そばの椅子に席を占めた。みな雑談。知り合いの誰彼と視線を交えたりしながら。エヴゲーニイ・パーヴロヴィチの友人たちが寄ってくる。その中の一人に美しい青年士官がいた。エヴゲーニイは公爵にこの友人を紹介した。「エヴゲーニイ・パーヴロヴィチの友人は何か質問をしたが、公爵はそれにたいしてどうやらまったく答えなかったようだ。あるいは答えたのかもしれないが、何やら口の中でぶつぶつつぶやいたばかりであった。その様子があまりにも奇妙だったので、その士官は長いことじっと相手の顔を見つめていたほどであろう。やがて彼はエヴゲーニイ・パーヴロヴィチのほうへ視線を転じたが、なんのためにエヴゲーニイ・パーヴロヴィチがこんな紹介を思いついたのかを察して、かすかな薄笑いをもらし、またアグラーヤのほうをむいてしまった。そのときアグラーヤがさっと顔を赤らめたのに気が付いたのは、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチひとりだけであった。」〔難解〕
公爵はまわりのことに気づかないかのように物思いに耽っている。一人きりになりたいと考えている。ときどき、アグラーヤを見つめ、五分もその顔から視線を放さないこともあった。
「なぜあたくしをそんなふうにごらんになるの、公爵?」
みんなが公爵のことを笑う。公爵は返事をしなかったが、みんなが笑っているのを見て、自分も笑い出してしまう。あたりの笑い声はいっそう大きくなる。「アグラーヤは急に腹立たしげに口の中でつぶやいた。/「白痴!」」
ふいに公爵は身震いした。《白痴》と呼ばれたからではない。群集のなかに、自分の坐っている席からほど遠くないどこか隅のほうで、一つの顔が、渦を巻いた暗色の髪をした、見覚えのある、じつによく見覚えのある微笑と眼差しを持った蒼ざめた顔が、ちらとひらめいたからだ。気のせいだろうか? 印象にのこったのは、その男のひんまがったような微笑と、その男の明るい緑のネクタイだけだ……。
公爵はそわそわしはじめる。あの最初の幻影は、第二の幻影の前ぶれではなかったか? いや、はたして彼はここへ出かけてくるときに、ひょっとしたらある男に邂逅するかもしれないということを気づきもしなかったのか? 実際彼がこの停車場へ歩いてくる途中は、自分でもどこへ向かっているのかまるで知らずにいる様子ではあったが……。だが彼がもう少し注意深くしていたら、それより十五分も前に、アグラーヤも何か不安そうにあたりを眺め回しているのに気づいたはずだった。「彼の不安がおそろしく目だってきたいま、アグラーヤの動揺と不安もそれにつれて大きくなっていった。そして、彼がうしろをふりむくやいなや、ほとんど同時に彼女もそのほうをふりむくのであった。その不安はまもなく解決された。」
停車場の横手の出口から、一群の人々が姿を現す。その先頭には三人の女。あとの連中はその崇拝者? 多くの人々がその連中に気づいたが、見て見ぬ振り。連中はこれみよがしに大声でがなる。酔っ払っている奴もいればおかしな格好をしている奴も。
婦人の一人が先頭を切って、オーケストラの陣取っている広場を突っ切っていく。その先には誰かの馬車が人待ち顔に待っている。
「公爵はもう三ヵ月以上も彼女に会っていなかった〔黙説法〕。今度ペテルブルグへ出てきてからはずっと彼も彼女をたずねるつもりでいたが、何か神秘的な予感といったものにいつもひきとめられてしまったのである。少なくとも、彼には近いうちにおこるであろう彼女との再会の印象がどんなものになるか、なんとしても想像することができなかった。彼は恐怖の念を覚えながらも、ときおりその場の情景を心に描いてみようと努めてみたが、ただ一つはっきりしていたことは、その出会いが重苦しいものであろうということであった。彼はこの六ヵ月のあいだに、自分がはじめて彼女の写真を見たとき、その顔からひきおこされたあの最初の感銘を、幾度となく思い浮かべたものであった。……公爵はロゴージンと話しあったときに、その感じを限りない憐憫の情として説明したが、それは事実そのとおりであった。……しかし、公爵はロゴージンに言って聞かせただけの説明だけでは、まだ不満足であった。ところが、いまや思いがけずに彼女が姿をあらわした一瞬、おそらく一種の直感によってでもあろう、彼はロゴージンに話した自分の言葉に何が不足していたかをさとったのである。この恐怖の念を言い表すには、われわれの言葉はあまりにも貧しい。そうだ、恐怖なのだ! 彼はいまやこの瞬間にそれを完全に直感したのである。……」アグラーヤが公爵に「どうなさいましたの?」と急いでささやく。
「公爵はアグラーヤのほうに頭を向けて相手をながめた。一瞬、彼は自分には合点のいかぬほどぎらぎら輝いている相手の黒い瞳を見つめながら、にっこりと笑いかけようとしたが、ふいに、まったく一瞬の間に彼女のことを忘れてしまったように、ふたたびその眼を右のほうへ移し、またもやあの恐ろしいこの世のものとも思えぬ幻影を追いはじめた。……」ナスターシャ・フィリポヴナはその瞬間令嬢たちの席のすぐそばを通り抜ける。アグラーヤが何かをつぶやく……。
「それだけでもう十分であった。」(おそらくはアグラーヤのつぶやきをきっかけとして)ナスターシャは急に彼らのほうへ振り向くと、いま初めてエヴゲーニイに気づいたように、「あらまあ! この人はこんなところにいるじゃないの!」使いを出して捜したのに……あんたの伯父さんは自殺しちゃったんですよ! 公金を三十五万ルーブル使い込んだんですって、もう町の半分のひとが知ってますよ……あんたもいい潮時に退職したのね、抜け目ない人!」
「たとえそれが傲慢でうるさいつきまとい方、ありもしないつきあいの押し売りであはったにしても、そこには何かある目的が潜んでいたのである。いや、それはもはやなんの疑いもないことであった。〔黙説法〕」エヴゲーニイは最初は無視しようとしていたが、伯父の死を聞いて蒼白になり、思わずナスターシャの方を振り返る。リザヴェータ夫人はほかの人々を急きたてながら、走るようにしてその場を離れる。ムイシュキンとエヴゲーニイは立ちすくむ。「ところが、エパンチン家の一行がまだ二十歩と離れないうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがったのである。」
エヴゲーニイの友人の士官が大声で言う。「もうこうなりゃぴしゃりとやらなくちゃだめだ、それよりほかにあんな売女をやっつける法はない!」
ナスターシャ振り向く。怒りに燃えた眼。青年からステッキをひったくって、相手の顔を打ち据える。士官がわれを忘れて飛び掛る。彼女の取り巻きはみんな後方にいる。「一分もすれば、もちろん警察もとんできたであろうが、その瞬間、もし思いがけない助けがはいらなかったら、ナスターシャ・フィリポヴナは恐ろしい目にあうところだったであろう。」(反実仮想?)公爵が士官の腕を捕らえる。士官は公爵を突き飛ばしたが、その隙にナスターシャのそばに二人の保護者があらわれる。一人は拳骨の旦那。「ケルレルです! 退役中尉です!……我輩がか弱い女性に代わってお相手いたします……」
もう士官は激情から我に返っている。人込みからあらわれたロゴージンがナスターシャを連れて行く。
公爵と士官の会話。あの女は気違いなんです……!
「士官は一礼して立ち去っていった。警官が駆けつけてきたのは、この出来事に関係した最後の人たちが姿を消してしまってから、ちょうど五秒後のことであった。」事件自体は大した騒ぎにもならず、月並みに終わった。公爵はエパンチン家の一行を追っていった。「もし彼が士官に突き飛ばされて椅子に倒れたとき、右手を見る気になるか、それとも何かの拍子で右手をながめたら、自分から二十歩ばかり離れたところでアグラーヤが、もうずっと先へ行っている母や姉の呼び声を無視して、じっとこの騒ぎを見つめているのに気づいたことだろう。」(反実仮想)
3
「停車場での出来事は、夫人と娘たちにとって、ほとんど恐怖に近いものであった。……」冒頭からディエゲーシス。前章の最後の段落も要約法的だったが、この章も始まりから要約法であのあとに起こったことを記述していく。リザヴェータ夫人が家に帰るまでの間に考えたことによれば、あの出来事の中では多くのことが暴露された。Ш公爵は暗い顔をした。アグラーヤは一度だけ自分たちを追ってくる公爵を振り返った。
別荘のそばで今しがた帰って来たばかりのイワン・フョードロヴィチと遭遇。彼はエヴゲーニイ・パーヴロヴィチのことを訊ねたが、リザヴェータは夫には目もくれなかった。将軍はШ公爵と言葉を交わした。「やがて、テラスへあがって、リザヴェータ夫人のところへ行ったときの二人の気がかりそうな様子から察して、何か尋常でないニュースを耳にしたことが想像された。」みな二階へ上がっていったので、テラスに公爵ひとり残された。ぼんやり坐っている。二階では心配そうな話し声。あたりがすっかり暗くなってから、突然、アグラーヤがテラスへ姿を見せた。アグラーヤはそこに公爵がいるとは思いもよらなかったらしい。「そんなところで何をしていらっしゃるの?」
アグラーヤは公爵のすぐそばの椅子に腰を下ろす。公爵どぎまぎ。
妙な会話がはじまる。ねえ、公爵、誰かがあなたに決闘を申し込んだら、そのときはどうなさいます?〔伏線〕
誰も私に決闘なんか申し込みませんよ……
ねえ、普通は二十歩のところで撃ち合うんでしょ? 人によっては十歩のところでですか? つまり、間違いなく殺されるか、傷つけられるかするわけですのね?
決闘ではたまにしか当たらないようですよ
いつかある兵隊さんと話をしたんですが、その人の話では、散開して射撃するときには半身をねらうように命令されているんですって。……射撃はおできになりますの?
私は一度も撃ったことがありません
じゃ、ピストルに弾丸をこめることもおできになりませんの?
できません
ねえ、あたくしの話をよく聞いてお覚えになるといいわ。まず第一に、湿り気のないピストル用の火薬を買う。ピストルはお持ちですの?
いいえ
まあ、なんてことを! ぜひともお買いなさいな。それから、火薬を耳掻きに一杯か、二杯くらい取り出して、それをつめるんですの。それからフェルトをつめるんです。これは蒲団のようなものからでも取れますからね。そこでフェルトのきれをつめてしまったら、弾丸を入れるんですよ──いいですか、弾丸があとで、火薬が先ですのよ。でないと撃てませんからね──何をお笑いになるんです?
公爵は笑っていた。彼は目の前にアグラーヤがいるという意識だけで何も考えてはいなかった。
将軍が下りてくる。「ああ、公爵ですか……いま時分どちらへ?」公爵のほうではその場を動こうとも考えていないのに、彼はそうたずねた。「いっしょに出かけましょう」
アグラーヤはお別れの握手。(この時手紙を渡した)
別荘の外へ。将軍と連れ立って歩く。将軍は色々話すのだが、ムイシュキンは上の空で聞いていない。
「正直のところ、わたしにはリザヴェータの考えや心配がさっぱりわからんのだよ。……いろいろとわけのわからんことも多いが、決してスキャンダルなんかにはなりはしないよ……」
エヴゲーニイ・パーヴロヴィチの伯父が死んだのは確か。彼は前からその破局を知っていた。だがそのことで彼を責めようとは思わないが。リザヴェータはそんなことには耳も貸そうとしない。とにかく、これはもうなんと言ったらいいのか……「公爵、きみはなにしろわが家の親友だから、打ちあけて言うんだが、もっとも、これはまだ確かな話じゃないが、どうやらもう一月以上も前に、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチがアグラーヤにじかに求婚して、あの娘からきっぱり断られたらしいんだよ」
いったいどうなっているんだか。アグラーヤは、じつにわがままで、夢の多い娘でね、とても話にならんよ! とにかくきまぐれで、皮肉屋なんだね、ついさきほども、母親を面と向かって嘲笑する始末さ。
公爵は右手を握り締める。〔伏線〕
ねえ、公爵、わたしはきっみを愛し尊敬しているが……先ほどアグラーヤがこんなことを言った……『あの気違い女が、たとえどんなことがあってもこのあたくしをレフ・ニコラエヴィチ公爵と結婚させたい、と決心して、そのためにエヴゲーニイ・パーヴロヴィチをあたくしたちの家から締めだそうとしていることを、あなたがたはほんとに気がついてないんですか?』〔気づくわけがない、手紙のことを知っているのはアグラーヤだけなんだから〕まったくのところ、あの娘はきみのことをからかっているんだよ……悪く思わないでくれたまえ……「「……ところで、わたしはいまここへ寄っていかなきゃならん、さようなら! ほんとに、こんな居心地の悪かったことはめったにないよ(こんな言い草があったねえ?)……楽じゃないね、別荘住まいも!」/十字路でひとりきりになった公爵は、あたりを見回して、急ぎ足で通りを横切って、とある別荘の明るくともっている窓辺に近づくと、……右手に握り締めていた小さな紙切れを広げて、弱々しい光をたよりに目を通した。」
『明朝七時に、あたくしは公園の緑色のベンチのところで、あなたをお待ち申し上げます。あるとても重大な件について、あなたとお話ししようと決心いたしました。それは直接あなたに関係した事柄です。
二伸 この手紙は誰にもお見せにならないように。こんな指図がましいことをするのは心苦しいのですが、あなたには、そうする必要があると考えましたので、あなたの滑稽な性格を思い浮かべて顔を赤らめながら、書き添えました。
三伸 緑色のベンチというのは、さきほどあたくしがお教えした、例のところです。ほんとに、恥ずかしいとお思いなさい! あたくしはこんなことまで書き添えなければならないんですから』
ふいに公爵は自分の肩のうしろに立っている男にぶつかる。
「あなたのあとをつけているんですよ、公爵」ケルレル。
「さあ、あなたの御意のままに、どうぞこのケルレルに命令してください、必要とあれば、喜んで犠牲になります」なんのために?「だって、きっと決闘の申し込みがくるに決まっているじゃありませんか。」あの青年士官が。きっとあすにもあの男の友人が、あなたのところへやってくるでしょう、私を介添人に選んでください……
「それじゃ、きみもやはり決闘のことを言ってるんですね?」と公爵はふいにからからと笑いだした。
あの人は私の胸を突き飛ばしたんですよ……私達はなにも決闘なんかする必要はありません! 私があの人にお詫びをすれば、もうそれでいいのです。もしどうしても決闘しなければいけないのなら決闘するまでです、いや、望むところですよ、は、は! 私はもういまではピストルの弾丸こめぐらいできますからね! ケルレル君、きみはピストルの弾丸こめができますか?……フェルトをつめたあとではじめて弾丸をこめるんですよ、弾丸を火薬よりさきにこめちゃいけません、それじゃ発射しませんからね、は、は!……
面食らったケルレルを残して、公爵は通りを横切って、公園の中に姿を消してしまった。
「公爵は長いこと暗い公園の中をさまよい歩いていたが、ようやくある並木道のところで《ふとわれに返った》。その並木道を例のベンチから、高くそびえ立っている一本の老木のところまで百歩ばかりのあいだを、もう三十ぺんか四十ぺんも、行きつもどりつしていた記憶が、意識の底に残っていた。この少なく見つもっても一時間のあいだに、彼が公園で考えたことを思いだすのは、たとえ望んでもできない相談であった。しかし、ある一つの考えにとらわれている自分にふと気づくと、彼はいきなり腹をかかえて笑いだした。なにも笑うほどのことはなかったけれども、彼は何か無性に笑いたかった。彼の頭にはちらとこんな考えが浮かんだ。決闘についての想像は、ただ単にケルレルの頭にだけ浮びうることではなく、したがって、ピストルの弾丸こめの一件も、偶然とは言えない、と……。〔伏線回収〕《なーるほど!》と彼はまた急にほかの考えに心を照らされて、立ちどまった。《さっき私が隅っこのほうにすわっていたとき、あの女がテラスへおりてきて、そこに私がいるのを見ると、ぎょっとして、急に笑いだしたっけ……そしてお茶のことなんか言いだしたっけ。でも、あのときもうあの女の手の中に紙きれはあったんだから、そうなるとあの女は、私がテラスにいることをたしかに知っていたにちがいない。それじゃ、いったいなんだってあんなにびっくりしたんだろう? は、は、は、は!》」
彼がポケットの手紙に接吻する。
彼はわびしい気分になる。ひどく疲れていた。ベンチに腰をおろした。時間は、もちろん午後十一時半より早いことはないだろう。夜は静かで、暖かくて、明るかった──六月はじめのペテルブルグの夜であった。しかし、彼のいる深々と繁った木陰の多い並木道は、もうほとんど真っ暗であった。〔描写これだけ?〕
「もしもその瞬間、誰かが彼にむかって、きみは恋をしているのだ、熱烈な恋をしているのだと言ったら、彼はびっくりして、そんな考えを否定したにちがいない、ことによったら、腹さえたてたかもしれない。またもし誰かがそれにつけくわえて、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し出だと言ったとしたら、彼はその男にたいする羞恥の念に、顔を真っ赤にして、その男に決闘を申しこんだかもしれなかった。いや、これはまったく嘘いつわりのないことで、彼は一度だって、そんな疑いをもったこともなければ、あの娘が彼に恋するとか、あるいは彼のほうが恋するかもしれないといったような、《二通りの》考えなんかいだいたことはなかった。こんな考えがおこったら、彼は恥ずかしくてたまらなかったにちがいない。自分にたいする、《自分のような男にたいする》恋愛の可能性を、彼は奇怪きわまることだと思ったにちがいない。……しかし……当の彼はそれよりもまったく別なことに心を奪われ、かつ心配していた……」(反実仮想)
並木道にきしむ静かな足音。一人の男がベンチに近づいてくる。ロゴージン。
「どうせどこかこの辺をうろういているだろうと思ったよ」
ディエゲーシス。対話的かつ立体的?「二人はあの居酒屋の廊下で顔を合わせて以来はじめて出会ったのであった(時間幅を広くとった文脈)。思いがけないロゴージンの出現にびっくりした公爵は、しばらくのあいだ考えをまとめることができなかった。やがて、悩ましい感触が彼の心によみがえった。見たところ、ロゴージンは自分が公爵にどんな印象を与えたか、よく承知しているふうだった。彼ははじめしかつめらしく、妙にわざとらしい、くだけた調子で話していたが、公爵は、相手の言葉がすこしもわざとらしくなく、またべつに取りみだしているところさえないことに気づいた。もし彼の身ぶりや話しぶりに、何かぎごちないところがあったとすれば、それはただ外見上のことだけであった。この男が内面的に変るはずもなかった。」
おれはケルレルからあんたが公園にいることを聞いたのさ〔ケルレルも伏線だった〕……「ふん、そんなことだろうと思ったさ」
「何が『そんなことだろう』なんです?」
公爵は相手の言葉尻を気がかりそうに捉えたが、ロゴージンは答えない。
ロゴージン曰く、あんたの手紙を受け取ったよ、あんなのは無駄だよ……ところで俺はあれのところからやってきたんだが、ぜひあんたを呼んできてくれって頼まれたのさ。今日直ぐという頼みでね……
明日参りましょう、もう家へ帰らなくては……きみも来ますか?
なんのために? あんたはおかしな男だなあ……
ロゴージン毒々しく笑う。
いったいどうして私に毒づくんだね?と公爵。きみの憎悪は根拠のないものだってことはわかっているじゃないか……きみは一度この私の生命をとろうとしたから、そのためにきみの憎しみは消えないのか? しかし、私にとってのきみというのは、あの日、十字架を取替えっこして兄弟の誓いを立てたパルフョン・ロゴージンだ。だからきのうの手紙にもそれを書いた。……いったい何のために二人は憎しみあわなければならないんだい?
あんたのほうにはどんな憎しみもありゃしないさ!──とロゴージン。彼は両手を隠して立っている。
おれはあんたのとこへ出入りするわけにはいかないよ
それほどまで私を憎んでいるのかい?
おれはあんたを好かねえのさ、レフ・ニコラエヴィチ、だからあんたのとこへ出かけるわけもねえよ。……おい、おれがあんたを信じてないとでもいうのかね? あんたの言うことは一から十まで信じている。あんたが一度もこのおれを騙さなかったことも、これからも騙したりしないことも、ちゃんと承知しているよ、それでもやっぱりおれはあんたを好かねえんだ……おれは、ひょっとすると、あのとき匕首を振り上げたことについちゃ、その後一度だって後悔したことがないかもしれねえよ。それなのにあんたは兄弟としてゆるすなんて手紙を寄越すんだからねえ……どうしてあんたはおれの心持がわかるんだね? ひょっとすると、おれはあの晩匕首を振り上げたからって、あんたが想像しているのとはまったく別な考えがあったのかもしれねえぜ……
いや、あのとききみはたった一つのこと以外何も考えることができなくなっていたさ。あの日、朝からきみの顔を見ているうち、そんな予感がした。十字架を取替えっこしたにもかかわらず、そのことを考えつづけていたんだよきみは……。なんだってきみは私をおっかさんのところへ連れて行ったんだ? そうすることによって自分の手を抑えようと思ったんだろう? ……あのとききみと私は偶然同じことを感じていたんだ、あのとききみが私にむかって手を上げなかったら、私はきみにたいして卑劣な邪推をした罪で今顔も上げられないほどだろうが……いずれにしても、私はその点できみを疑ったんだから、二人とも同罪だよ。同じことなんだよ! ……『後悔しなかった』だって? そりゃ、後悔しなかったろうよ、きみは私を好いていないんだから、それにあの女が愛しているのはきみじゃなくて私だと思いこんでいるんだから……。「しかしね、ついこの週になって、私はこんなことを考えついたんだよ、いいかね、パルフョン、ねえ、あの女はいまではきみをほかの誰よりもいちばん愛しているのかもしれない。いや、きみを苦しめれば苦しめるだけ、それだけいっそうきみを愛しているのさ。……あの女はまさにそうした性格なんだよ! それに、きみの性格と愛情はかならずあの女を感動させるだろうよ! いいかい、女ってものは残酷なことをしたり、冷笑を浴びせたりして男を苦しめるくせに、ちっとも良心の呵責を感じないんだからね。なぜかといえば、男の顔を見ながらいつも心の中では、《いまはこの人を死ぬほど苦しめているけれど、そのかわりあとでたっぷり愛情を注いで埋合せをするからいいわ》って考えているからさ」
ロゴージンは大声で笑いだす。そんな話はどうもあんたの言いそうもないことだね……いや、公爵、あんたも何かの拍子で、そんな女〔アグラーヤ〕の手に落ちたことがあるんじゃないのかね? ちょっとそんなことを聞いたことがあるんだが……あんたのことであんな噂を耳にしなかった、おれもこんなところへやってこなかったろうよ……
なんのこと?
あれはずっと前にあんたのことをいろいろ話してくれたんだがね、特に、公爵はアグラーヤ・エパンチナに首ったけだってしつこく言うんだ。で、あれはどんなことがあってもあんたをあの娘といっしょにしたいんだとさ、その言い草がふるってるよ、『それでなけりゃ、あんたといっしょになりませんよ、あの人たちが教会へ行ったら、あたしたちも教会へまいりましょう』だとさ。いったいこりゃどうしたことだい? おれにはさっぱりわけがわからない……いや、一度だってわかった例はねえよ、あんたに首ったけに惚れてるのか、それとも……
あの女は正気じゃないんだ
そんなこと知るもんか……もっとも、おれが彼女を楽隊から連れて帰ると、いきなり自分で結婚の日どりを決めたんだよ、三週間後。だから、もういまはあんたの了見次第だよ、へ、へ!
そんなことはみんなうわごとだよ
どうしてあれは気違いなんだ? ほかの人から見れば正気なのに。あれはあそこへ手紙なんか出してもいるのに……
どんな手紙?
あすこへ出しているのさ、あの娘〔アグラーヤ〕によ。あの娘はちゃんと読んでるぜ。ほんとに知らねえのか? じゃいまにわかるよ、きっとあの娘が見せてくれるから
そんなことは信じられないね!
まあ、もうすこし見てみるがいいや
もうやめてくれ! そんなことは二度と言わないでくれ!と公爵。それから「ねえ、パルフョン、私はいまきみが来るちょっと前に、ここをぶらぶらしていたんだが、急に大声で笑いだしてしまったのさ。なぜそうなったのか、自分にもわからない。でも、ただそのきっかけとなったのは、あすがちょうど自分の誕生日だってことを思いついたからなのさ。ところで、もうかれこれ十二時だろう。さあ、いっしょに行こう。行って、誕生日を祝おうじゃないか! うちには酒があるんだ、酒を飲もうじゃないか。私にはいま自分が何を望んでいるかわからないんだよ、それをきみは私のために望んでくれたまえ。ぜひともきみに望んでもらいたいんだよ。〔難解〕私のほうもきみに限りない幸福を望むよ。いや、十字架を返すようなことはしないでくれたまえ! いや、きみだってあの翌日、すぐに十字架を送り返しはしなかったじゃないか! いまも身につけてるんだろう? いまでもつけてるんだろう?」
「つけてるよ」とロゴージン。
「それじゃ、出かけよう。私はきみがいなくちゃ、新しい生活を迎えたくないんだよ。なにしろ、私の新しい生活がはじまったんだからね!……」
-------------------------------------------------------------第二〜三編11日目
4
ロゴージンと連れ立って自分の別荘へ近づくと、テラスに大勢の人が集まってがやがや騒いでいるのが見える。みなシャンパンを飲んでいる。公爵は誰も招んでないのに、まるで招かれてきたかのように、みな一度に集まっていた。
みな誕生日のことを知っていたわけではなかった。レーベジェフによれば、「みんなはまったく自然に、偶然といってもいいぐあいに集まった」。イポリート、ブルドフスキー、エヴゲーニイ、イヴォルギン将軍、ガーニャ、プチーツィン、ケルレル、コーリャ、フェルディシチェンコ(「フェルディシチェンコを覚えておいでですか?」)。みなは公爵にお祝いの言葉を述べる。
公爵が来るまで、みな抽象的な問題についての議論をしていたらしい。
イポリートは公爵に対して「あなたを待っていたんです」と言う。
エヴゲーニイは、公爵にささやく。青年士官の件は彼がおさめた(「あの男はじつに冷静に事件を受け取ってくれましたから」)。エヴゲーニイは明日にも伯父の一件でペテルブルグへ行かなければならないが、その前に二、三の事柄について公爵と相談しなければならないことがある……あの人たちが帰った後で、二十分、三十分ほどお時間を頂きたい。
どうぞご随意に……
エヴゲーニイかすかな嘲笑を顔にうかべる。ねえ、公爵、ぼくがここへやってきたのは、あなたに一杯くわせて、何かを探り出そうとするためじゃないか、疑ってもみないんですか?
あなたが何か探り出そうとしていらしたのは、疑いもない事実ですがね……しかしそんなことは問題じゃありませんよ……私には何もかもどうだてかまわないような気がするんですから。それに……、私はとにかくあなたがちゃんとした人間だと信じてますから。いずれはほんとうに親しい間柄としておつきあいねがうようになるでしょうよ……
あなたとお話しするのは実に愉快ですよ、とエヴゲーニイ。
ついでのように、エヴゲーニイ、イポリートのことを訊く。彼はお宅に滞在するために引っ越してこられたんですか? まさかいますぐ死ぬというわけじゃないでしょうね?
イポリートはそわそわしていた。彼の議論は辻褄が合わず、嘲笑的でいいかげんな逆説に満ちていた。公爵と会話。
ねえ、ぼくはきょうという日があなたの誕生日にあたっているのが、うれしくてたまらないんですよ!
どうして?
いまにわかりますよ……ひょっとするとぼくはお祝いの品をたまたま持ってきているのかもしれません……夜が明けるまでにはまだだいぶ時間がありますか?
夜明けまでには二時間もありません──とプチーツィン。
太陽がのぼって、おおぞらに鳴りそめたら、ぼくたちもすぐに寝ることにしましょうよ。レーベジェフ! だって太陽は生命の源なんでしょう? 『黙示録』では《生命の源》というのはどういうことになっているんです?
この科白から、レーベジェフが前面に飛び出してくる。彼はそれまで続いていた長時間の学問的な議論のために、すっかり興奮していたのだった。
「まあいいからしゃべりたまえ、しゃべりたまえ。誰もやっつけやしないから」と声が起こる。
ガーニャとエヴゲーニイがレーベジェフの論敵になっているらしい。「つまり、あなたの意見によると、……ということになるんですね?」
「いや、違います!……」「お若いのになかなか勇ましいですな……」レーベジェフが議論し始める。
誰ともつかぬ茶々が入る。
「もううんざりしましたよ!」
「さあ、先を続けて、続けて!」
「何と比較して?」
「私は壮大な結論を導きだそうとしているんですよ」……とレーベジェフ。ところが最後に客のために用意した前菜の話にもっていくことによって、議論を茶番にし、論敵の機嫌を直してしまう。
ロゴージンはずっと坐っている。「彼は一晩中一滴の酒も飲まないで、ひどく考えこんでいた。ただときたま眼を上げて、みんなの顔をひとりひとり眺めているだけだった。いまになってみると、彼は何か自分にとってとても重大なことを待ちわびていて、それまではどうしても帰るまいと決心しているように見えた。」
イポリートは長椅子の上で寝ている。エヴゲーニイがまたそれを揶揄する(「いったいなんだってこの小僧っ子は、お宅へ押しかけてきたんです、公爵?」)。
5
イポリートが目を覚ます。彼はあたりを見回すとさっと蒼ざめる。もう太陽は昇ってしまったのか?……
イポリートが寝ていたのはせいぜい七、八分程度。客たちが席を立ったのは、前菜をとるためでしかなかった。彼はロゴージンの夢を見ていた?
公爵とイポリートの会話。
みなさんぼくはある文章を読もうと思うんですがね……。イポリート、上着のポケットから大きな赤い封筒のある大形の事務封筒ほどの紙包みを取り出す。
一座の人々はおどろく。
これはぼくがきのう自分で書いたものなんですよ……公爵のところで厄介になると約束したすぐあとに……
読むのはおよしなさい、と公爵。
イポリートは二十コペイカ玉をテーブルの上に投げ、それにゆだねる。「鷲が出るか格子が出るか──鷲だったら、読みますよ!」鷲が出る。彼は蒼白になる。
朗読を始める。『必要欠くべからざる弁明』。さあ、謹聴してください……
「前口上が多すぎるな!」とロゴージンが口を挟む。「こういうことはそんなふうに細工するもんじゃねえ、なあ、お若いの、そんなふうじゃいけねえよ……」
なぜかこの言葉はイポリートに恐ろしいほどの印象を与えた。「それじゃ、あれはあなたなんですね……先週ぼくのところへやってきたのはあなたなんですね、ぼくが朝のうちあなたのところへ行ったあの日の夜の一時すぎにやってきたのはあなただったんですね!」
ロゴージンは身に覚えなし。
「このことは、みなさん、いますぐおわかりになりますよ、ぼくは……ぼくは……さあ、聞いてください……」
朗読開始。「はじめのうち五分ばかりのあいだ、この思いがけない文章の作者は、相変わらず息をきらしながら、しどろもどろの読み方をしていた。だが、やがてその声はしっかりと落ち着いてきて、読みあげられる内容の意味を十分表現できるようになってきた。ただときおり強い咳がそれをとぎらせるばかりであった。文章の半ばごろから彼の声はひどくかれてきた。が、朗読が進むにつれて、ますます激しく彼を捉えた異常な活気は、終りごろにはその頂点に達して、聞く者に与えた病的な印象もその極に達した。……」
文書は、「きのうの朝、公爵がやってきた」から始まる。つまり第二〜三編10日目に書かれたわけだ。
何故人々は自分に《木立ち》を押し付けようとするのか?(自分で言ったから)
イポリートの《悪い夢》。
二、三週間生きのびたところで意味がないという考え。
なぜほかの連中はあんなに長い生涯を与えられながら、金持ちになることができないのだろう。貧乏人ども……ぼくはこんなばか者どもにたいして、いかなる憐憫の情も感じたことはない。
ただ健康さえあれば、ぼくは世間をあっと言わせてやったものを!……
6
コーリャが公爵の《キリスト教的謙虚さ》を模倣しはじめたのは滑稽なことだ……
スリコフを苛めたこと。
財布を拾ったことから、ペテルブルグへ請願に来ていた或る元医者を助ける話。感覚的なことは描写しないが、部屋の描写はやたら詳細。「その部屋は前の部屋よりもっと狭く窮屈で、体の向きを変えることさえできないほどであった。片隅にある幅の狭い一人用の寝台が、おそろしく場所を取っていたのである。のこりの家具といっては、ありとあらゆるぼろをのせた飾りのない椅子が全部で三脚と、思い切り粗末な台所用のテーブルと、その前にある古い模造皮張りのソファだけであった。テーブルと寝台とのあいだはほとんど通りぬけができなかった。……」「要するに、恐ろしい乱雑さであった。一目見たところ、二人とも、その紳士も夫人も、ちゃんとした人たちだったのが、貧困のためにこんなにもひどい屈辱的な状態にまで追いこまれてしまったように見えた。そして、ついには乱雑さに圧倒されて、それと戦おうという気力すら消えてしまって、日に日につのるこの乱雑さの中に、何かしら復讐的な満足感を見いださずにはいられないといったふうな、苦い要求を覚えるところまでに立ちいたったものらしかった。」
元同窓生のバフムートフの力を借りる。
バフムートフに話した、個人としての善行はいつだって存在する……という持論。《将軍じいさん》。「いや、来たるべき人類の運命の解決にきみがいかなる役割をはたすかなんて、とてもわかりゃしないのさ」。
その日の晩に彼の《最後の信念》の最初の種子が投じられた……。
この信念の提起する問題を解決する決断力は、或る奇怪な事情から生じた。ロゴージンがある用事で彼のところへ立ち寄った。ロゴージンが彼の興味を惹いたので、翌日、彼の方からロゴージンを訪ねた。「ロゴージンはすこぶる無愛想であるにもかかわらず、どうやら賢い人間であるらしく、関係のないことにはすこしも興味をもたないけれど、いろんなことを理解しうる男のように思われた。」ロゴージン家で見た一枚の絵は脳裏に残った。家へ帰ってからもそのことを考える。「この絵を見ていると、自然というものが何かじつに巨大な、情け容赦もないもの言わぬ獣のように、いや、それよりもっと正確な、ちょっと妙な言い方だが、はるかに正確な言い方をすれば、最新式の巨大な機械が眼の前にちらついてくるのである。その機械は限りなく偉大で尊い存在を無意味にひっつかみ、こなごなに打ちくだき、なんの感情もなくその口中にのみこんでしまったのである。……」
夜中十二時すぎごろ、ロゴージンがはいってきた? 彼は嘲笑の色をうかべて彼を見つめていた。幽霊なのか? ついにロゴージンは立ち上がってゆっくり出て行った。翌朝九時過ぎ、マトリョーナがドアを叩く音で眼を覚ます。ドアを叩く──ということは、ドアにちゃんと鍵がかかっていたのに、どうしてあの男は入れたのか。幽霊?
「ぼくがいまくわしく描写した奇怪な出来事こそ、ぼくが断固として《決意をかためた》原因なのである。したがって、この最後の決意を促したものは、論理でも演繹でもなく、嫌悪の念にほかならなかった。このように奇怪な形をとってぼくの心を傷つける人生に、ぼくはもうとどまってはいられない。あの幽霊がぼくを卑小なものにしてしまったのである。……」
7
ぼくは懐中用の小型ピストルを持っている……ぼくはパーヴロフスクで日が昇る頃、別荘の人々に迷惑をかけないように、公園へ行って死ぬことにしたのである(この《弁明》の写しの一部を公爵に、もう一部をアグラーヤ・イワーノヴナ・エパンチナに渡されるように公爵にお願いする)……
ぼくは自分に加えられる裁きなるものを認めないし、いまや自分があらゆる裁きの権限外にいることを承知している。余命幾ばくもない人間をいかなる刑で裁くというのか? ぼくは何事であろうとも、人にゆるしを乞ういわれはない……。
もしかりにぼくが健康と力に恵まれながら、《身近な人の役にたつことのできる》自分の命を縮めようとするのだったら、まだ話はわかる。そうした場合なら、世間の道徳も断りもなく勝手に生命を扱ってはならぬとか、なんとか言って、ぼくを非難することができる。しかし死の期日まではっきり宣告されてしまっているいまはどうだというのだ?
それよりこう想像したほうがはるかに確かなことだろう。ちょうど数百万の生物が残りの全世界をささえていくために、毎日のようにその生命を犠牲にしているのと同じように、何かの全体的な普遍的調和のためにぼくの取るに足りない原子の生命が必要になっただけのことだ。……いったんもう《われあり》ということを自覚させられた以上、この世があやまちだらけであろうと、そのあやまちなしにはこの世が立っていけまいと、そんなことはぼくにとってなんの関係があるというのだ?……
いまぼくのまわりで日光を浴びながら、うなっているこのちっぽけな一匹の蝿すらも、この宴とコーラスの一員であり、自分のいるべき場所を心得、それを愛して幸福でいるのに、ただぼくひとりだけは除け者にされているのだ……
もうこれ以上生きたくはない! もしかりにぼくが生まれなくともよい権利を持っていたら、こんな人を小ばかにしたような条件のもとで生を享ける権利を放棄したにちがいない。しかしながら、ぼくはもう余命幾ばくもない人間であるが、まだ死ぬ権利だけは持っているのだ……
朗読は終わった。
聴衆はみな小ばかにしたような、腹立たしげな顔をしている。
ふいにイポリートが椅子から飛び上がって言う。「太陽が昇ったぞ!」
「じゃ、きみは昇らないとでも思ってたんですか?」
「これでまた一日じゅう暑いのさ」と欠伸する者も。
「ではおやすみなさい、公爵」と帽子を手にする者も。
イポリートはびっくりして、蒼ざめてぶるぶる震える。「あなたがたはぼくを侮辱しようと考えて、わざと無関心を装っていらっしゃるけれど、あまり上手なやり方とは言えませんね……ろくでなしですよ!」
イポリートの弁明をまともに受け取ったのはヴェーラとコーリャ(+ケルレル、ブルドフスキー)だけ。「まあ、あの人はいまにも自殺しようとしているのに、あなたがたときたら!」
「自殺なんかするもんか!」
イポリートは席を離れようとするが、まわりを取り巻いていた人間か彼を抑える。みながどっと笑う。「自分の手をおさえつけてもらうためにやったのさ。そのために手帳を読んだってわけさ」
エヴゲーニイはフォローするようなことを言うが……。イポリートは眼を放さず、きびしい顔つきでエヴゲーニイを眺めながら黙りこくっていた。しばらくのあいだ、まったく意識を失ったのではないかと思われるくらいであった。
「じつにけしからんですな、『誰にも迷惑をかけないように公園で自殺する』なんて! 階段を三歩ばかり庭へおりたら、もう誰にも迷惑をかけない、とでも思ってるんですかね」とレーベジェフ。
レーベジェフは断固として主張する。イポリートが所有しているピストルを取り上げなければならない。病気に免じて今晩だけは泊らせるが、明日になったら出ていってもらう。ピストルを渡さないというのなら、警察を呼ぶ!
一座は騒がしくなる。イポリートは眼をぎらぎら輝かせる。「ぼくがみんなからこんあに憎まれることを予想していなかったとお思いですか……?」と公爵に言う。
もうたくさんです!と彼は叫んで、レーベジェフに鍵のついた鉄の輪を渡す。これがぼくの鞄の鍵です……その中の小さな箱の中にピストルと火薬筒がはいっています……〔実際には、ピストルはすでに彼の懐中にある〕
レーベジェフは鍵を掴んで隣の部屋へ駆け出していく。
イポリートはひどい悪寒にでも襲われているかのように震える。公爵と会話。
この連中ときたら、そろいもそろってとんでもないやくざ者ですねえ!
あの人たちのことは放っておきなさい……
イポリート、公爵を抱きしめる。
あなたはきっとぼくを気違いだとお思いでしょうねえ?
いいえ、だってきみは……
いますぐ、いますぐぼくは出て行きますよ……いますぐですから、黙っててください、何もおっしゃらないでください、ただじっと立っててください……ぼくはあなたの眼を見たいのです……ぼくはほんとうの《人間》と別れを告げるんですから……
彼は蒼ざめた顔で、十秒ばかり無言のまま公爵の顔を見つめる。
イポリート、イポリート、きみはどうしたんです?
いますぐ……もうたくさんです……もう横になります……放っておいてください!
彼はさっと席を離れて、あっという間にテラスの降り口のほうへ近づいていった。公爵はその跡を追ったが、わざとのようにその瞬間エヴゲーニイが暇を告げるために彼に手をさしのべて邪魔した。「一秒がすきた。と、いきなりテラスでどっとみんなの叫び声がおこった。つづいて異常な混乱の一瞬が訪れた。」
つぎのような事態が起こったのである。
「テラスの降り口まで来たとき、イポリートは左手に杯を持ったまま、右手を外套の右側のポケットへ突っ込んで、足をとめたのである。あとでケルレルが主張したところによると、イポリートはまだ公爵と話していたときから、ずっと右手をポケットへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたときも左手だったという。そして、このポケットへ突っ込んだままの右手が、まず彼に不審の念を呼びおこしたと、ケルレルは主張した。いや、それはともかく、妙な不安にかられた彼は、イポリートのあとを追って駆け出したのである。しかし、その彼もやはりまにあわなかった。彼はふいにイポリートの右手に何やらきらりとひらめき、その瞬間、小さな懐中用のピストルがこめかみにぴったり押しあてられたのを見たばかりであった。ケルレルはその手をおさえようと身を躍らせたが、その瞬間イポリートは引き金をひいた。と、鋭いかわいたような撃鉄のかちりという音が響いたが、発射の音は聞えなかった。……」イポリート倒れる。ケルレル抱きとめる。ケルレルピストルを拾い上げる。みなが集まってくる。イポリートは椅子に坐らされ、大声で呼びかけられる。撃鉄のかちりという音は聞えたのに、当の本人は生きているどころか、かすり傷ひとつ負っていない? 当のイポリートもどういうことになったのか分からずに、ぼんやりしている。
ケルレルがピストルをあらためる。
不発だね?
装填してなかったんじゃないか?
いや、装填してある! しかし……
不発じゃないのか?
雷管がまるっきりなかったんです。
「つづいておこったあわれな光景は、話にもならないぐらいであった。」みな意地悪く大爆笑。イポリートはヒステリックにしゃくりあげ、自分の手を激しくねじくりまわし、誰かれの区別なくとびかかって、両手で相手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだと誓いまくる。『ついうっかりして忘れたんです、わざとじゃありません!……はじめから入れておかなかったのは、万一ポケットの中で暴発しては困ると思ったからで、必要なときにはいつでもまにあうと考えていたのに、ついうっかり忘れてしまったので……』さらにケルレルに泣きついてピストルを返してくれと哀願し、いますぐにも『廉恥心が……廉恥心があるってことを』見せてやるんだとか、ぼくは『もう永久に恥辱を受けた!』と叫んだりした。
イポリートはとうとう意識を失って倒れる。運び出される。
ケルレルは部屋の真ん中で叫ぶ。「諸君、もし我輩の面前で、あれはわざと雷管を忘れたんだとか、あの青年は不幸な喜劇を演じたにすぎんなどと言うものがあれば、お相手は我輩がいたしますぞ」
しかし誰ひとりそれに答えず、みな散っていった。
エヴゲーニイは予定を変更して、公爵とも何も相談せずに去っていこうとした。「またあとでご相談しましょう、ひょっとすると、三日ばかり待ったら、わたしにとっても、あなたにとっても、事の真相がはっきりしてくるかもしれませんからね……」
なぜか彼は何か不満でいらいらしているようだった。
エヴゲーニイと公爵の会話。さっきのイポリートについて。よく人はほめてもらいたさに、あるいはほめてくれない面当てに、わざと自殺することがあるって話は聞いたことがありますけれど、実際に見たことは一度もありませんでしたね……ああいうロシア風のラスネール(殺人犯)どもには気をつけた方がいいですな……。
「では、いずれまた、もう行かなくては! ところで、あなたはあの男が例の《告白》の写しを一部アグラーヤ・イワーノヴナへ送るようにと遺言したのに、お気づきになりましたか?」
エヴゲーニイは笑いながら、出て行った。
「一時間ほどたってもう三時をすぎたころ、公爵は公園へおりていった。彼はわが家で眠ろうと試みたが、胸の動悸が激しくて眠られなかったのである。もっとも、家の中はすっかり片付いて、かなり落ち着いていたのであるが。病院は寝入ってしまったし、来診の医者はこれという危険はないと診断してくれた。レーベジェフとコーリャとブルドフスキーは、交代で看病するために、病人の部屋で横になっていた。そんなわけで、もう心配することは何ひとつなかったのである。」
だが公爵の不安はなぜかつのる。公園の中をさまよう。人気のない聴衆のベンチやオーケストラの譜面台に怯える。「逢引きに指定された緑色のベンチのところまで行き、そこへ腰をおろすと、いきなり大声をあげて笑いだした。が、たちまち、そうした自分自身にたいして、たまらない嫌悪の念を感じるのだった。」〔難解〕彼はふと例のイポリートの書いた《蝿すらも自分のいるべき場所を心得ているのに、ぼくひとりだけが除け者なのだ》という一節を思い浮かべる。そいて、スイスでの治療の最初の年に彼が感じた苦しみをとつぜんはっきりと思い出す。「彼は長いことこの風景に見とれながら、苦しみを味わっていた。彼は自分がこの明るい果てしない空の青にむかって両手をさしのばしながら、さめざめと泣いたことを思いだした。彼を苦しめたのは、これらすべてのものにたいして、自分がなんの縁もゆかりもない他人だという考えであった。ずっと昔から──ほんの子供の時分からいつも自分をひきつけているくせに、どうしてもそれに加わることをゆるさないこの饗宴は、このいつ果てるとも知れぬ永遠の大祭は、いったいいかなるものであろうか?……」
彼はベンチの上で眠ってしまう。不安な夢をみる。ひとりの婦人がそばへ寄ってくる。その女は彼を片手で招く……。彼はいますぐ何かしら恐ろしい、自分の生涯を左右するような事件がおこりそうな気がしてくる……。彼はその跡についていくつもりで立ち上がる……。「と、突然、誰やらの明るい生き生きした笑い声が彼のすぐうしろで響きわたった。ふと気づくと、誰かの手が彼の手の上に置かれていた。彼はその手を取って、きつく握りしめたかと思うと、さっと眼がさめた。彼の眼の前にはアグラーヤがたたずんで、声高に笑っていたのである。」〔ということはもう四時間も経ったのか? 徹夜している公爵が眠るのは自然だとしても、時間の経過のスピードがばらばらだな。〕
8
アグラーヤは笑っていたが、腹も立てていた。眠っていらしたのね!
つい眠ってしまいまして……ここに別の女の人がいませんでしたか?
そう言ってから公爵はようやく我に返る。いや、あれは夢を見ただけなんです。
アグラーヤ坐る。
あっ、そうだ、イポリートがピストル自殺をやりましたよ!
アグラーヤはさほど驚かず。そんなことがあったのによくこんなところで眠られましたわね?
いや、あの人は死ななかったんですよ、弾丸が出なかったものですからね
アグラーヤの願いで、さっそくその一件を話して聞かせる。
いえ、もうたくさんですわ、急がなくちゃなりませんから……あたくしたちはここに八時まで一時間しかいられないんですの……あたくし、用事があって参りましたのよ……
「彼女は早口にききかえしたり、せかせかとしゃべったりしていたが、どうかすると妙にまごついて、最後までいいきらないこともしばしばであった。たえず何かを知らせようとあせっていた。だいたいにおいて、彼女は異常な不安にかられていて、きわめて大胆で、いどみかかるようなところがあったが、ひょっとすると、いくぶん怖気づいていたのかもしれなかった。彼女はきわめて平凡な普段着を着ていたが、それがまたとてもよく似合っていた。彼女はしょっちゅう身震いしながら顔を赤らめてベンチの端にすわっていた。……」
イポリートの自殺の話。あの人は(《告白》を届けるようにと頼んだ)あなたばかりでなく、われわれみんなにほめてもらいたかったんでしょうがね……あの人はみんなが彼を取りまいて、われわれはきみを愛しているし、尊敬もしているから、どうぞ生きていてくれと説得するのを、期待していたにちがいありませんね……それに、あの人が誰よりもいちばんあなたをあてにしていた、ということは大いにありうることですね、なにしろ、あんな瞬間にあなたのことをふいに言い出したんですからね……もっとも、ことによると、自分ではあなたをあてにしていることを気が付かなかったかもしれませんが……
アグラーヤ曰く、あなたのやり方は、どうもとてもよくないことだと思いますわ、あなたがいまイポリートをながめていらっしゃるように、人間の魂をながめて批評するなんてことは、とてもぶしつけなことですわ。あなたにはやさしい心づかいというものがありませんのね。ただ真理一点ばりで──そのために不公平ということになりますわ。
ところでどんな女のかたの夢をごらんになったんですの?
それは……あの……あなたもお会いになったことのある……
「わかりますわ、ようくわかりましたわ。あなたはとてもあの女を……あの女のどんな夢をごらんになったの、どんな様子をしておりましたの? でも、そんなこと、あたくしちっとも知りたくありませんわ」彼女はいきなりいまいましそうに、きっぱりと言った。「あたくしの話の腰をおらないでください……」
彼女は元気をだしていまいましさを払いのけようとでもするかのごとく、しばらくのあいだじっと耐えていた。
彼女は用件を切り出す。あなたに親友になっていただきたいんです……しかし言い終わらないうちから、「まあ、なんだってあなたは急にあたくしをそんな眼でごらんになるんです?」と腹を立てんばかりの勢いで言う。
「公爵は、彼女がまたおそろしく顔を赤らめたのに気づいて、自分でもそのとき実際に相手の顔をじっと見つめていたのであった。こんな場合、彼女は顔を赤らめれば赤らめるほど、ますます自分自身に腹を立てるらしかった。それはぎらぎらと輝く両の眼にはっきりあらわれていた。ところが、ふつう一分もたつと、彼女はその腹だたしさを相手のほうへ持っていき、その相手に罪があろうとなかろうとおかまいなくたちまち喧嘩をはじめるのであった。彼女は自分でもこうした慎みのなさと恥ずかしがりな性質を心得ていたので、ふだんはあまり話の仲間入りをせず、二人の姉に比べると口数も少なく、むしろ無口すぎるくらいであった。ぜひとも口をきかなければならないときには、とくにこうした慎重さを必要とする場合には、おそろしく高慢な、まるで何かいどみかかっていくような調子で話しだすのであった。彼女は自分が顔を赤らめかけるか、赤らめそうなときには、前もって予感を覚えるのであった。」
あなたはきっとこのお願いをきいてはくださらないでしょうね?──「彼女は相手を見下すような眼差しで公爵を見つめた。」
いや、喜んで……でもあなたがそんなお願いをするなんて思いもよらなかった……
まあ、それじゃどう思っていらしたの? いったいなんのためにあなたをここへお呼びたてしたと思ったの?……もっとも、あなたはあたくしのことを、うちの人たちと同じように、かわいいおばかさんだと思っていらっしゃるのかもしれませんわね?
私は……私はそう思いませんね
お思いにならないんですって? あなたとしては上出来ですわね、とってもお利口な言い方ですわ
「いや、私の考えでは、どうかするとあなたのほうこそとってもお利口なことがありますよ……さっきもだしぬけに、とってもお利口なことをおっしゃったじゃありませんか。私がイポリートのことで憶測していたら、『真理一点ばりで、そのために不公平なことになる』っておっしゃいましたね。私はこの言葉を覚えていて、いろいろ考えてみようと思っています」
アグラーヤはふいにふれしさのあまり、さっと顔を赤らめた。こうした彼女の変化はいつもきわめてあけ放しに、きわめて急激におこるのだった。
彼女はふたたびしゃべり出す……あなたがあちらからお手紙をくださったあのときから、何もかもすっかり話そうと長いこと待っていた……あたくしはあなたをいちばん正直で、いちばん正しいかただと思っております……いちばん大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、あなたはずとすぐれていらっしゃる……で、肝心なお話なんですけれど、あたくしは長いこと考えつづけて、ようやくあなたを選びだしたんですの……あたくしは……あたくしは……あのう、家を飛び出してしまいたいんですの、それを手伝っていただこうと思って……それであなたを選んだんですの。
「家を飛び出すんですって?」公爵は叫んだ。
「ええ、ええ、そうですとも、家をとびだしてしまうんです!」彼女は並々ならぬ憤怒の情に燃えながら、いきなりこう叫んだ。あなたにならあたくしもなんでもすっかりお話しますわ、ですから、あなたのほうもあたくしに何ひとつ隠しだてしちゃいけません……あたくしは勇気のある女になって、なんにも恐れないようになりたいんですのよ……あの人たしの舞踏会なんかには出歩きたくありませんわ……あたくしは何か人の役にたちたいんですの……それで、もうずっと前から家を出ようと思っていたんです……ローマへ行ってみたいわ、学者たちの書斎も見たいし、パリで勉強もしたいわ……この一年間、ずっと準備のつもりで勉強もしましたわ……あたくしは教育事業をやってみようと決心して、あなたをあてにしているんですよ、だって、あなたは子供たちが好きだとおっしゃいましたからね……あたくし、将軍の娘なんかでいたくないんです……あなたはあたくしを指導してくださいますわね? だってあたくしはあなたを選んだんですもの。
「そりゃ、まずいですね、アグラーヤ・イワーノヴナ」
「あたくしはどうしても、どうしても家をとびだしますわ!」彼女は叫んだ。と、その眼はふたたびぎらぎらと輝きはじめた。「もしあなたが承知してくださらなければ、あたくしガヴリーラ・アルダリオノヴィチのところへお嫁にいきますわ。自分の家で、けがらわしい女だと思われたり、とんでもないことで非難されたりするのは、もうまっぴらですからね」
「あなたは正気なんですか?」公爵はあやうく席からとびあがらんばかりであった。
「なんで非難されるんです、誰が非難するんです?」
「家の人みんなですわ、母も、姉たちも、父も、Ш公爵も、あのけがらわしいコーリャまでが! たとえ口にだして言わないまでも、心の中ではそう考えているんですよ。あたくしはみんなに面とむかって、ええ、父にも母にも、そう言ってやりましたわ。ママはその日一日じゅう病気になってしまいましたわ。すると、つぎの日に、アレクサンドラと父があたくしにむかって、あたくしがどんなでたらめをしゃべっているか自分でもわかっちゃいないのだ、と言うじゃありませんか。ですから、あたくしその場ですぐ言ってやりましたわ──あたくしもう子供じゃないから、なんだって、どんな言葉だってわかるし、もう二年も前に何もかもすっかり知るために、わざとポール・ド・コックの小説を二つも読んじゃいましたよ、って。ママはそれを聞くと、あやうく気絶するところでしたわ」
公爵の頭にはふと奇妙な考えが浮んだ。彼はアグラーヤの顔をじっと見つめて、にっこり微笑した。
彼には眼の前にすわっているのが、かつてガヴリーラ・アルダリオノヴィチの手紙を高慢な調子で読んで聞かせた、あのお高くとまった娘と同一人物だとは、どうしても信じられなかった。あの不遜な近寄りがたい美人のなかに、どうしてこんな子供が、ひょっとするといまなおすべての言葉はわからないらしい子供が、隠れているのかと、理解に苦しむのだった。
アグラーヤ・イワーノヴナ、あなたはどこか女学校で勉強なさったことは?
「どこへも一度も通ったことはございません。まるで壜の中にいれられて栓をされたようにいつもずっと家の中にばかり閉じこもっていましたわ。そして壜の中からまっすぐお嫁に行こうというんですのよ。なんだってまたお笑いになりましたの? どうやら、あなたもまたあたくしをばかにして、あの人たちの肩を持っているようですわね?」彼女は気難しそうに眉をしかめてつけくわえた。「どうかあたくしのことをお怒りにならないで。それでなくてさえ、自分がどうなっているのかわからないんですもの……〔突然転換〕あなたはきっとこのあたくしがあなたに恋して逢引きに誘いだしたのだとすっかり信じきって、ここへお見えになったんでしょ、あたくしそう確信しておりますの」彼女はいらだたしそうに言った。
いや、ほんとにそうじゃないかと心配してたんです……
「なんですって!」アグラーヤは叫んだ。と、その下唇が急に震えだした。「あたくしがそうじゃないかと心配したんですって……よくもあたしが……だなんて……まあ、とんでもない! あなたはきっとこんなことを考えていたんでしょう──あたくしがあなたをここへ呼びだして、網にかけたところを、誰かに見つけられれば、あなたはいやでもあたくしと結婚しなければならなくなる、なんて……」
「アグラーヤ・イワーノヴナ! よくもまあ恥ずかしくありませんね? あなたの清らかな罪のない胸に、どうしてそんなけがらわしい考えが浮んだのです? 私は誓って申し上げますが、あなたは自分でおっしゃった言葉を、何ひとつ信じてはいられないんですよ……あなたはご自分で自分が何を言っているか、おわかりにならないんです!」
アグラーヤはわれながら自分の言った言葉におどろいたかのように、かたくなに眼を伏せたまますわっていた。
「すこしも恥ずかしくなんかありませんわ」彼女はつぶやいた。「どうしてあたくしの胸は汚れがないなんておわかりになるんですの? じゃ、なぜあのときあたくしに恋文なんかおよこしになりましたの?」
あの恋文(手紙)についてちょっとした言い争い。
「もうけっこうです、けっこうですとも」彼女はふいにさえぎったが、その調子はもう前とはまったくちがって、すっかり後悔したような、というよりむしろおびえているような感じだった。そして、相変わらず彼の顔をまともに見ないようにしながら、彼のほうへすこし寄りかかったほどであった。そして、どうか怒らないでくれと頼むかのように、彼の肩にさわろうとさえした。……彼女は恐ろしく恥じ入りながら言う、あたくし、どうやらとてもばかげた言い方をしたようですわね……あれはあなたをためそうとしてやったことなんですの……もしお気を悪くなさったのなら……ゆるしてくださいまし……あなたはけがらわしい考えだっておっしゃいましたけれど、あれはあなたをちくりと一針ついてじらしてあげようと思って、わざと言ったことなんですのよ……あたくしどうかすると、自分でも恐ろしいようなことが言いたくなって、つい口に出してしまうんですよ……。それはそうと……
あの恋文(手紙)の話からナスターシャ・フィリポヴナのことに。また剣呑な雰囲気に。「あなたは当時あのけがらわしい女といっしょに駆け落ちして、まる一月のあいだ一つ部屋で暮しておいでになったんです……」
蒼ざめて唇を震わせるアグラーヤ。一分ばかりの沈黙。
「あたくしあなたなんかちっとも愛していませんわ」いきなり彼女はたたきつけるように言った。
公爵は返事をしなかった。二人はまた一分ばかり黙っていた。
「あたくしはガヴリーラ・アルダリオノヴィチを愛しているんです……」彼女は頭を低くうなだれて、やっと聞えるか聞えないくらいの小声で、早口に言った。
「それは嘘です」公爵もやはりささやくような声で言った。
それじゃあたくしが嘘をついてることになりますのね? いえほんとうです、一昨日この同じベンチの上であの人に誓いましたわ
嘘です、そんなことはみんなあなたの作り事です
アグラーヤ、その時の様子を語ってみせるが、すぐに公爵につっこまれて(「それじゃ、なんですか、もしそんなことがここであったとしたら、あの人はここへ蝋燭を持ってきたんですか?」)ぼろが出る。
アグラーヤは眉をしかめて、ふたたび自分は何もかも知っている、と言いだす。
公爵曰く、「あなたは私にたいしても……またさきほどあなたが恐ろしい言い方をなさったあの不仕合せな女にたいしても、じつに不公平な考えを持っていらっしゃいますね、アグラーヤ」
だってあたくしは何もかも承知している……半年前にあなたがみんなのいる前で〔あの夜会〕あの女に結婚を申し込んだことも……どこかの村だか町だかであなたがあの女といっしょに暮していたことも……ところがあの女があなたをおいて誰かのところへ逃げ出してしまったことも……あの女がロゴージンのところへ舞い戻ったことも……それからあなたが、たいへんお利口なあなたが、あの女がペテルブルグへ戻ったと聞くとさっそくそのあとを追ってこちらへ駆けつけてきたことも……ゆうべもあの女をかばおうとしてとびだして行ったし、今は今で夢にまで見ている……「ねえ、あたくしは何もかもすっかり知ってるでしょう。だってあなたはあの女のために、あの女のためにこちらへおいでになったんですのね?」
ええ、あの女ためです(公爵は物思わしげに頭を垂れ、アグラーヤが彼をどんな眼で見つめているかなど思いもよらない)……あの女ためですが、ただちょっと知りたいことがあったのです……あの女がロゴージンと一緒になっても幸福になれるとは信じられないので……もっとも、あの女ために何をしてやれるかさっぱりわからないのだが、それでもやってきてしまった……
アグラーヤは憎悪の色を浮かべている。
なんのためにかわからないくせにいらしたというのなら、つまり、あなたはあの女に首ったけということですわね
いやちがいます、すこしも愛してなんかおりません、ああ、あの女といっしょに暮していた自分のことを想うと、どんなにぞっとするか、それをあなたに分かっていただけたら!
すっかり話してください、とアグラーヤ。
公爵の長科白。ナスターシャは自分のことを世界中の誰よりも堕落した罪深い人間だと信じている……私はその迷いを追い払ってやろうとしたが……あの女は逃げ出した……それは、ただ自分が卑しい女だということを私に証明するためなのだ……しかもその自覚すらなく、彼女は自分に《ほら、おまえはまた新しく卑劣なことをしでかしてしまった、やっぱりおまえは卑しい売女なんだ!》と自分で言い聞かせるために逃げたのだ……たえずこんな風に自分のあさましさを自覚するのが、あの女にとっては復讐に似たような快感になっているらしいんですよ……「ああ、あなたにはきっとこんなことはお分かりにならないでしょうね、アグラーヤ!」……私に対しても彼女は酷い非難をぶっつけてきて……私の結婚申し込みには、《私は人を見下したような同情も、援助も、或いは自分と同じ高さまで引き上げてやろうという親切心など決して恵んでもらおうとは思いません》ってはっきり言うんですよ……ああ、私はあの女を会いしていました、とても愛していました……でも、あとになって……あとになって、あの女はすっかりさとってしまったのです……
何をさとってしまったんですの?
私はただあの女をあわれんでいるだけで、もう……あの女を愛してはいないってことをです……
彼は両手で顔を覆った。
「ところで、あの女がほとんど毎日のようにあたくしに手紙をよこすのをご存じですの?」
「それじゃ、ほんとなんですね!」公爵は不安そうに叫んだ。「ちらと小耳にはさんだんですが、それでも信じたくなかったのです」
誰からお聞きになったの?
ロゴージンから
その手紙にどんなことが書いてあるかご存じですの?
どんなことが書いてあっても驚きませんよ……あの女は気違いですからね……
これがその手紙ですわ、とアグラーヤポケットから三通の手紙を取り出す。もうまる一週間というもの〔レーベジェフがアグラーヤとナスターシャの関係をほのめかしたのは二〜三編4日目だったので、計算は合う〕、あたくしにあなたたのところへお嫁に行くようにって、しつこく頼んだり、おだてたり、そそのかしたりしているんですのよ……あの女ときたら、わたしはあなたを恋しく思っております、せめて遠くからでもお顔を拝見したいものとその機会をお待ち申し上げておりますなんて書いてよこすんですからねえ……それからまた、公爵はあなたを愛していらっしゃいます、自分はそれを知っております、自分はあちらにいる時分、公爵とあなたのことをお噂していました、なんて書いてあるんですの……あの女はあなたが幸福になるのが見たいんですって、あなたを幸福にできるのはこのあたくしだけだって、あの女はかたく信じているんですよ……これがどういう意味かおわかりになって?
それはあの女が気違いだって証拠ですよ……
じゃ、あたくしはどうしたらいいでしょう?
あの女のことはうっちゃっておきなさい! 私はあの女がもうこれ以上あなたに手紙なんかよこさないように、全力をつくしますよ
もしそんなことをなさったら、あなたは心のない冷たいかたということなりますわね! あの女が恋こがれているのは決してあたくしなんかじゃなくて、あなただってことが、あの女はあなたひとりを愛しているってことが、ほんとにおわかりにならないんですの! あの女ことなら何もかもすっかりご存じだというのに……この手紙の意味、それは嫉妬ですよ、嫉妬以上のものですよ! あの女はロゴージンの嫁になんかならずに、あたくしたちが式を挙げたら最後、その翌日に自殺するに決まってます!
公爵はぎくりと身を震わせる。
ねえ、アグラーヤ、誓って言いますが、私はあの女が安らぎを取り戻して、幸福になれるものなら、自分の命を投げ出してもいいと思っています……しかし……私はもうあの女を愛することはできません!
それなら、ご自分を犠牲にして慈善を施すといいわ! それからあたしのことを『アグラーヤ』なんて呼びつけにしないでください……あなたはなんとしてもかならずあの女を更生させなくちゃいけませんわ……もう一度あの女といっしょに駆け落ちしなくちゃいけないんですわ……あなただってほんとはあの女を愛していらっしゃるんですから!
私はそんなふうに自分を犠牲にするわけにはいかないんです、もっとも、一度そうしたいと思ったことはありますけれど……私は、自分といっしょになったら、あの女の破滅だってことを、たしかに知っているんです、……二人とも身を滅ぼしてしまうんですよ! これは不自然なことですが、この件では何もかもいっさいが不自然ですからねえ……あなたは、あの女が私を恋しているとおっしゃいましたが、あれがいったい恋と言えるでしょうか? 私があれほどの仕打ちを受けたからには、とてもあれを恋と言うわけにはいきません! いいえ、まったく別なものです!
まあ、なんて蒼いお顔ですこと!
いえ、なんでもありません、寝不足のせいでしょう……。私は……私たちはほんとにあの時分あなたのことをお噂したんですよ、アグラーヤ……
それじゃあの手紙に書かれていたことは本当だったんですのね、あなたは本当にあの女とあたくしの噂をすることができたんですのね、それなのに、どうしてあたくしのことを愛したりできましたの、だってあのときたった一度あたくしをごらんになったきりじゃありませんか?
どうしてだか自分でもわかりません。あのころの私の真っ暗な心の中に曙のように浮び上がったんです……どうしてあなたのことをいちばんはじめに考えたのか、自分でもわかりません……あの手紙に自分でもわからないと書いたのはほんとのことなんですよ……私は三年間はこちらへ来ないつもりだったのですが……
つまりあの女のためにいらっしゃったんですのね?「アグラーヤの声のなかには、何か震えるようなものが感じられた。」
ええ、あの女のためです
二分沈黙。アグラーヤ席を立つ。もしあなたのおっしゃるように、あの女が気違いだとすれば……その人の気違いじみた空想なんかあたくしになんの関係もありませんからね……お願いですから、この三通の手紙を、あたくしからだと言ってあの女にたたきつけてください!……「もしそれでもあの女がずうずうしくももう一度あたくしのところへただの一行でも書いてよこしたら、あたくしは父に頼んで、監獄へ入れてもらうからって、そうあの女に伝えてください……」
公爵とびあがる。あなたがそんなふうに感じるはずはありません……それは嘘です!
いえ、ほんとうです、ほんとうですとも!とアグラーヤ我を忘れて叫ぶ。
「いったい何がほんとうなの? 何がほんとうなの?」と、二人のそばで誰かのびっくりした声。
二人の前にはリザヴェータ夫人。
「ほんとうというのは、ああくしがガヴリーラ・アルダリオノヴィチのところへお嫁にいくってことですわ! あたくしがガヴリーラ・アルダリオノヴィチを愛していて、あすにでもいっしょに駆け落ちするってことですわ!」アグラーヤは母親に食ってかかった。「おわかりになって? お母さまの好奇心は満足されまして? このことに賛成してくださいます?」
そう言うと彼女はわが家へ駆けていく。
いけません、ねえ、あなたはいま帰ってはいけません、とリザヴェータ夫人が公爵をひきとめる。どうかお願いですから、宅へ寄ってわけをきかせてくださいな……
公爵は夫人のあとからついていく。
9
エパンチン家の別荘へ入るリザヴェータ夫人と公爵。
時間幅を過去へ広くとって、リザヴェータがアグラーヤを捜しに公園へ行った経緯について。
だが夫人は、アグラーヤが公爵と公園で話しこんだからといって、何かの事件だと思うのは考えすぎではないかと反省し始める。
「いや、それにしても、やっぱりどうして私がきょうアグラーヤ・イワーノヴナに会ったのか、お聞きになりたいんでしょう?」
「ええ、そりゃ、ききたいですよ!」
別に大したことじゃない。ゆうべ渡された手紙で呼び出されただけ、ちょっと相談に乗っただけ。
そこへふいにアグラーヤが入ってくる。「まあ、ごりっぱなこと、公爵!……お母さま、もういいじゃありませんか、それともまだ何かおききになるつもり?」
リザヴェータ夫人曰く、では失礼、お騒がせしてすみませんでしたね、公爵……
公爵は午前九時頃に家に帰ってくる。ヴェーラと女中が二人できのうの大騒ぎの片付けをしているところ。
ヴェーラは公爵に言う。「公爵、どうかあの……かわいそうな人を不憫に思ってくださいね、あの人をきょう追い出さないでくださいね」
「どんなことがあっても追い出しなんかしませんよ……」
ヴェーラ部屋から出ていく。
公爵はテラスの片隅に腰を下ろすと、両手で顔を覆って十分ばかりそうしている。それから三通の手紙を取り出す。
そこへコーリャが入ってきたので、公爵は手紙をもとへ戻す。
コーリャと、イポリートについての会話。あの人はどんな具合です? 眠っていますよ……。コーリャはイポリートの《告白》に感動したと言う。「余命わずかに十分と確実に承知している人間があんなことを言っているんですからねえ──じつにいさぎよいことじゃありませんか! これこそ自己の品位の最高の自主性を発揮したものじゃありませんか!」イポリートについてはもう危険はありませんよ……
「きみたちの誰がゆうべあちらにいたんですか?」
「ぼくと、コスチャ・レーベジェフとブルドフスキーです。ケルレルはしばらくいましたが、じきレーベジェフのところへ寝にいきました。なにしろ、あの部屋にはもう横になれる場所がなかったものですから。フェルディシチェンコもやはりレーベジェフのところで寝たのですが、けさ七時に出かけていきました。将軍(おやじ)はいつもレーベジェフのところにいるんですが、いまはやはり出かけています……〔伏線〕。レーベジェフはたぶんじきにここへやってきますよ。なんの用か知りませんけれど、あなたを捜していましたから。二度もたずねていましたからね。おやすみになるんでしたら、あの人を通したものでしょうか、どうでしょう?〔伏線〕……あっ、そうでした、ひとつお話ししたいことがあったんですよ。ぼくはさっき将軍にびっくりさせられちゃったんですよ、ブルドフスキーが交代のために六時をすぎたころ、いや、ほとんど六時でしたが、ぼくを起こしたんですよ。ぼくがちょっと外へ出てみると、将軍にばったり出会ったんです、えらく酔っ払っていて、ぼくの見分けもつかないくらいなんです、まるで棒みたいにぼくの前に突っ立っていましたが、ふと正気づくと、いきなり『病人はどうかね? わしは病人の様子を見にきたんだ』と食ってかかるじゃありませんか。ぼくがあれこれ教えてやると、『いや、それはけっこう。ところで、わしがこうして起きてやってきたのは、前もっておまえに注意しておきたいことがあるからなんだ。これは確かな根拠のあることなんだが、フェルディシチェンコのいる前では、何もべらべらしゃべってはいかんぞ……控え目にしておくんだぞ』って言うじゃありませんか。〔伏線〕なんのことだかわかりますか、公爵?」
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将軍(おやじ)がこれくらいのことでわざわざぼくを起こしにやってきたのに、却ってびっくりしましたよ。
フェルディシチェンコは出かけたって言いましたね?
「七時でした。ぼくのところへちょっと寄っていきましたから。ぼくが寝ずの番をしていたときですよ! ヴィルキンという飲んだくれがいるんですよ。さて、もう行きますよ! あっ、レーベジェフがやってきましたよ……公爵はおやすみになりたいそうですから、レーベジェフ、さあ、帰った、帰った!」
「ほんのちょっとだけ、公爵さま、わたしの眼から見てとても重大な件がございますので」はいってきたレーベジェフは妙に何か含むところありげな声で、しかつめらしく言うと、もったいぶって会釈した。
ゆうべの一件ですか?
いやそうじゃございません、ある要件をお知らせしようと思いましてね……わたしはとんでもない災難に見舞われましてね……
昨日の午後五時に債務者から受け取った四百ルーブル、それを財布に入れておいたのだが、昨晩、略服に着替えるときに、財布をフロックのほうへ忘れた。で、やっとけさの七時ごろ眼をさましたとき、何よりさきにフロックを調べたところ──ポケットはすっからかん!
「ああ、それは不愉快なことですねえ!」
「まったく不愉快ですとも。いや、あなたもじつにうってつけの言葉をすばやく発見なさいましたな」レーベジェフはいくぶん小ずるそうにつけくわえた。
「なんですって、しかし……」公爵はふと考えこんで、気がかりそうに言った。「だって、これはまじめな話じゃないですか」
「いや、まったくまじめな話でして──もう一つ含みのある言葉を発見なさいましたな……」
酔っ払ったときにポケットから落ちたのでは?
考えられますな、あなたが誠意をこめておっしゃったとおり、酔っ払った時にはどんなことでもおこるものですからな、公爵さま!……しかし、ポケットから落としたものなら、落ちた品は床の上にころがっているはずじゃありませんか……
箱の中は? 戸棚の中は?……そうなると、誰かが床の上から拾ったというわけですね? それじゃいったい誰が……
「いや、たしかに、それがいちばん肝心な問題ですな。いや、まったくあなたは言葉や考えをおどろくほど正確に発見されて、はっきり状況をお決めになりますなあ」
「いや、ルキヤン・チモフェーヴィチ、冗談はやめにしてください。」……あなたは誰を疑っているんです?
とてもこみいった問題ですな!……お客の中のだれか、どうしてもそういうことになりますな。しかも、それは大勢集まっていたゆうべのことではなくて、もう夜中か明け方になってここへ泊った人の誰かがやったものと考えなくちゃなりませんな。
ああ、なんということでしょう!
レーベジェフの部屋をのぞきもしなかったコーリャとブルドフスキーは除外。容疑者は、わたしと、将軍と、ケルレルと、フェルディシチェンコ、われわれ四人のうちの誰か。
いや、三人のうちのひとりでしょう
わたしは公平と順序を重んじて、自分のことも勘定に入れたんでございますよ……
「ええ、レーベジェフ、じれったいですね! 早く本題にはいってください、何をだらだらと引きのばしているんです!……」
残るは三人ということですな、まずケルレル氏を疑った。わたしが朝の七時すぎに飛び起きた時、フェルディシチェンコはすでにいなかった。一緒に起きた将軍の手を借りて、寝ていたケルレルの身体検査をした。が、一サンチームの金すら出てこなかった……青い格子縞の木綿のハンカチと、どこかの小間使いからの恋文、例の三面記事の切り抜きのみ。……あの男じゃありませんな!
ああそりゃよかった! 私はあの人じゃないかと心配していたんですよ!と公爵。
心配していらした? とすると、もう何か拠りどころがあったので?
いやちがいますよ……私はただ……心配していたなんて、とんでもないばかげた言い方でしたね……お願いですから、レーベジェフ、誰にも言わないでください……
「公爵、公爵! あなたのお言葉はこのわたしの胸の中にちゃんとしまっておきますとも……胸の奥ふかくに! ここは墓の中も同然でございますよ!……」レーベジェフは帽子を胸に押しつけながら、感激した調子で言った。
けっこうです、けっこうです!……で、今後はフェルディシチェンコを疑っているんですね……
「ほかに誰がおりましょう?」レーベジェフはじっと公爵の顔を見つめながら、低い声で言った。
「ええ、むろんそうですね……ほかに誰が……いや、その……つまり、何か証拠がるんですか?」
第一に、七時以前にあの男は姿を消していますからな
知っています、さきほどコーリャが言ってましたから……誰だったか、名前を忘れましたが……友達のところへ行ったんでしょう
ヴィルキンのところへ。それじゃ、コーリャがもう話されたのでございますな?
でも盗難のことは何も言いませんでしたよ
「あの子は知らないんですよ、と申しますのは、いまのところこの件は秘密にしておくつもりなんでして。……」フェルディシチェンコが、まあ自分と同じような酔っぱらいのところへ出かけていくというのは、何も不思議はないように思われますが、わざわざあの男は自分の行く先をコーリャに告げていった、それがむしろ怪しいんですよ……『おれはなにも自分の行き先を隠さないんだから、泥棒なんていわれるはずはないさ』というわけですな……
でも、それだけじゃ不十分でしょう?
第二の証拠は、その行き先というのが嘘っぱちだったこと。わたしはヴィルキンのところへ行ったが、フェルディシチェンコはいなかった、もっとも、女中に聞いたら、一時間ばかり前に誰かが扉をたたいたことはたたいた(が、ヴィルキン氏を起こしたくなかったので扉をあけなかった)そうですがね
それであなたの証拠は全部ですか? まだ不十分ですね
「公爵、それじゃいったい誰を疑ったらいいんでしょうな、よくお考えになってください!」レーベジェフは感じいったような様子で結んだが、その薄笑いのなかには何やらずるそうな色が浮んでいた。
もう一度よく部屋の中や引き出しの中を調べてみたらどうです……それにしても残念ですね……あなたがフロックを着替えたのは……
あなたはわたしだけでなく、犯人のために……あのろくでなしのフェルディシチェンコ氏のためを心配して、苦しんでおいでになるんですね?……
ええ、そうです、そうですとも……それで、いったいどうしようというおつもりなんです? かりにそれがフェルディシチェンコにちがいないとあなたが信じておられるならば?
「公爵、公爵さま、ほかに誰がおりましょう?」レーベジェフはますます感じいりながら、身をくねらして言った。さしあたりフェルディシチェンコ氏以外疑いをかけられる人がいないのは、これまたフェルディシチェンコ氏に不利な有力な証拠と申せましょう……なにしろ、しつこいようですが、ほかに誰がおります?……まさか将軍でもありますまい、へ、へ、へ!
なんて乱暴な!と、公爵は腹立たしげな調子で言う。
「何が乱暴なもんですか? へ、へ、へ! いや、あの人、つまり、将軍には、笑わせられましたよ! さきほどわたしはあの人といっしょに、ヴィルキンのところへ生々しい跡を追ってまいりますと……ここでちょっとお断わりしておきますが、わたしが盗難を知って、いのいちばんにあの人をたたきおこしたとき、あの人はわたしよりもずっとびっくりして、顔色が変わったくらいでしたよ。赤くなったり、蒼くなったりしていましたが、とうとうわたしが思いもかけないくらい、いきなりものすごく憤慨したんでございますよ。じつになんとも高潔な人物ですな! もっとも、しょっちゅう嘘ばかりつくという欠点はございますが、見上げた心もちの人物ですよ。しかも、あまり物事をふかく考えない人ですから、罪のない気質ですっかり人を信用させるところがありますな。前にも申し上げあげましたが、公爵さま、わたしはあの人に好意ばかりでなく、愛情さえ感じておるのでございますよ。さて、将軍はいきなり往来の真ん中に立ちどまると、フロックをさっとひろげて、胸をあけてみせるじゃありませんか。『さあ、わしを調べてくれ、きみはケルレルを調べたのに、わしを調べんという法はない! 公平ということからも、それが当然だ!』と言うんですな。そういうご当人は手足がぶるぶる震えていて、真っ蒼な顔をして、いや、その格好のものすごいことといったら。わたしは大声で笑って、こう言ってやりましたよ。『いいですか、将軍、もし誰かほかの男があんたのことをそう言ったら、わたしはその場でこの手で自分の首をもぎとって、それを大きな皿の上へのせて、そんな嫌疑をかけているやつらの眼の前へ自分で持っていって、《おい、この首を見てくれ。これこのとおり、わたしは自分の首であの人の潔白を保証しますよ。いや、首ばかりじゃない、火の中へだってとびこみますよ》ってね。いや、こんなにまでして、あんたの潔白を保証する覚悟なんですよ』と、言ってやりました。するとあの人はいきなりとびかかって、わたしを抱きしめましてね──これもやはり往来の真ん中なんですからね──涙をはらはらと流して身を震わせながら、このわたしをぐっとその胸に抱きしめましてね、わたしはあやうく咳きこむところでしたよ。『きみこそ逆境の身にあるわたしの唯一の親友だ!』と言うじゃありませんか。いや、感じやすい人物ですな! ところで早速、もちろん、例のお得意のアネクドートをついでに披露しましたよ。それはなんでもまだ若い時分に、やはり一度五万ルーブル紛失の嫌疑をかけられたことがあったそうですが、しかし、そのつぎの日、さっそく火事で燃えている建物の炎の中へとびこんで、自分に嫌疑をかけた伯爵と、当時まだ嫁入り前だったニーナ・アレクサンドロヴナの二人を火の中から救いだしたんだそうです。すると、伯爵はいきなりあの人を抱きしめて、そこですぐさまニーナ・アレクサンドロヴナとの結婚が成立したんだそうですよ。ところが翌日になって、紛失した金のはいった小箱が、焼け跡から見つかったんですな。それは鉄製の英国式の小箱で、秘密錠がかかっていたそうですが、どうした拍子か床下へ落ちたのに、誰も気づかずにいて、やっと火事騒ぎで見つかったというわけなんですね。なに、真っ赤な嘘ですとも。それでも、ニーナ・アレクサンドロヴナのことを言い出したときには、しくしく泣き出す始末でしたよ。ニーナ・アレクサンドロヴナはじつにごりっぱな奥さまでございますね。もっとも、このわたしにたいしては腹をたてておいでになりますけれど」
知り合いじゃないんですか?
違いますね、お近づきにはなりたいと思っています、将軍は私にとっては親友ですからね……私はもうあの人を決して見殺しにはいたしませんよ……最近ではあの人の行くところへはわたしもついていくという具合でしてね……この頃の将軍はもうあの大尉夫人のところへも、ちっとも出かけないくらいですからね……もっとも心の中では、行きたくてうずうずしているようですがね……どうかするとあの女のことを想って、うなりだすことさえあるんですから……しかし、お金は持っておりません、それが弱みでして。お金がなくちゃ、あの女のところへ出かけるわけにはいきませんからな。公爵さま、あなたにお金の無心をいたしませんでしたか?
いたしませんよ
恥ずかしいのですよ、借りたいのは山々なんでしょうがね……
あなたはあの人にお金を貸してやらないんですか?
公爵、公爵さま、お金どころか、あの人のためなら命だって……いや、こんな大げさなことは申しますまい……ただ、いざというときには、お金だけじゃなく、熱病でも、腫れ物でも、咳でも、かならずわが身に引き受ける覚悟でございますよ……
というと、お金を貸してやるんですね?
「いいえ、お金を貸してやったことはございません。あの人もわたしが貸してやらないことを、ちゃんと自分でも承知しています。しかしそれも、あの人が品行を慎んで立ちなおるようにと、思ってのことでございますよ。今度も〔きょうこれから〕わたしのペテルブルグ行きについていくことになりましたよ。じつは、フェルディシチェンコ氏ののっぴきならぬ証拠を取りおさえるために、わたしはペテルブルグへ行こうとしているのですがね。なにしろ、あの男がもうあちらへ行っているのは、確かなことですからね。わが将軍ときたらもういきりたっておりますが、ペテルブルグへ行ったら、わたしを出し抜いて、例の大尉夫人をたずねるのではないかと、心配しておりますよ。白状しますが、わたしはわざとあの人を解放してやろうかとさえ思っていります。いや、事実、ペテルブルグへ着いたらすぐ、フェルディシチェンコ氏をつかまえるのに都合がいいように、てんでに別れようと約束したわけでしてね。いや、こうして、まずあの人を解放しておいて、今度はいきなり寝耳に水で、大尉夫人のところで現場をおさえてやろう、と思っておりますよ──これはつまり、家庭をもつ人間として、いや、一般普通の人間として、恥を知らせてやろうというわけですよ」
大きな騒動にはしないでくださいよ……レーベジェフ……
決していたしませんとも。ただあの人を辱めて、どんな顔をするか見てやりたいんですよ、なにしろ、公爵、顔つきでいろんなことがわかりますからねえ……じつは公爵さまひとつお願いがありますので。あなたはイヴォルギン家とお知り合いで、あの家で一緒に暮したことさえおありですからね、このわたしに手をかしてくださいましたらと思いまして……
いったいなんのことです? 手をかすってどうするんです?
いや、将軍に恥をかかせるのに、ニーナ夫人のお手を借りましたら、きき目があるだろうと思いましてね、閣下の言動をその家庭のふところで観察したらと思いましてね、ところ不幸にして、わたしは夫人と知り合いではございませんので……
い、いけません……ニーナ夫人をこんな事件にまきこむなんて、とんでもないことですよ!……もっとも、私はまだあなたのおっしゃることがよくわかっていないのですが……
「なに、わかるもわからないもありません! ……事情をいっそうはっきりさせるために、ひとつ毎日の暮しぶりから取ってきた実例を引いてお話し申しあげましょう。よろしいですか、将軍はこういう男なんでございますよ。あの人にはいま、お金を持たずにたずねていくことのできない大尉夫人という弱点があります。わたしはきょうあの人をこの夫人の家で取りおさえようと思っているのですが、もっとも、それはただあの人の幸福のためにやることですがね。しかし、かりに大尉夫人ばかりでなく、あの人がほんとうの犯罪を、いや、その、何かとても破廉恥なことをしでかしたといたしましたら(もっとも、あの人にはそんなことはできっこありませんがね)、その場合でもやはり、わたしは断言いたしますが、上品にいわゆるやさしさをもってすれば、あの人をあやつっていけるのですよ。なにしろ、とても情にもろい男ですからな! とても五日と辛抱できないので、泣きながら自分から口を開いて、何もかもすっかり白状してしまうにちがいありません──とりわけ家族のかたやあなたの助けを借りて、いわゆるあの人の一挙一動を監視するように、巧みにしかも上品にやりましたならば、なおさらのことでございますよ……ああ、ご親切な公爵さま!」レーベジェフはまるで何か感激したように、急にとびあがった。「わたしはなにもあの人が間違いなく……なにしたなどと言ってるのではありません。わたしはあの人のためならいますぐにでも、その、なんなら、体じゅうの血をすっかり流してもいいとさえ思っているわけでしてね。しかしですな、不節制と、酒と、大尉夫人と、こう三拍子そろったら、実際、どんなことをしでかすか、わかったものじゃありませんからな」
そういう目的なら、いつでも手をかしますが……ただ正直のところ……レーベジェフ……あなたはやはりまだ……いや、要するに、フェルディシチェンコ氏を疑っていると、ご自分でおっしゃいましたね……
「ええ、ほかに誰を、ほかに誰を疑えばいいのです、公爵さま?」レーベジェフは感じ入ったように微笑を浮べながら、しおらしく両手を合わせた。
公爵眉をひそめる。
ねえレーベジェフ、ここに一つ恐ろしい間違いがあるんですよ……あのフェルディシチェンコですがね……私はあの人のことを悪く言いたくはないんですが……しかしあのフェルディシチェンコは……その……ことによったら、彼の仕業かもしれませんよ! ひょっとすると、あの人はそれをいちばんやりかねないと……
レーベジェフは眼をみはる。
じつはですね……と、公爵はますますふかく眉をひそめる。……私はこんな知らせをもらったことがあるんですよ……フェルディシチェンコ氏の前では万事控えめにして、余計な口をきかないほうがいい、というんです……わかりますか? 私がこんなことを言い出したのは、ひょっとすると、あの人は誰よりもいちばんそういうことをやりかねない男かもしれない……それが割合間違いのない考えかもしれない、と思うからなんです……
ところで、いったい誰がそのフェルディシチェンコ氏のことをあなたに知らせたんです?と、レーベジェフは驚く。
いや、ちょっと内密に教えてもらったんですよ……もっとも私自身はそんなことを信じちゃいませんがね……こんなことはくだらない話ですよ……ちえっ、私はなんてばかなまねをしたんだろう!
レーベジェフ身震い。ねえ、公爵、これは重大なことですな! つまりその、フェルディシチェンコ氏に関してではなく、どんなぐあいにしてそれがあなたのお耳に入ったかということが、重大ですよ。……じつは公爵、それに関連して、わたしもひとつ話したいことがありますので、というのは、さきほど将軍がわたしといっしょに例のヴィルキンの家へ行く道すがら、例の火事の話のあとで、いきなりおそろしく憤慨して、フェルディシチェンコ氏のことについて、それと同じことを匂わしたんですよ。ところが、その話が支離滅裂で辻褄が合わないので、わたしは何気なく二、三質問してみました。結果、このニュースも要するに閣下の霊感が生み出したものにすぎないってことを確信しました。……さて、そこでおたずねしたいのは、たとえあの人が嘘をついたにしても、どうやってそれがあなたのお耳にはいったか、ということですな。これはあの人の胸に浮んだ例の霊感ですよ、それをいったい誰があなたに知らせるんでしょう?
たったいまコーリャから聞いたんです……コーリャは父親から聞いたんですよ、今朝の六時か六時すぎに……
「はあ、なるほど、これこそいわゆる足跡と言われるものですな!」レーベジェフは手をこすりながら、声をださずに笑った。「わたしもそうじゃないかと思っておりましたよ! これはつまり、閣下は五時すぎに、わざわざご自分の安らかな夢を破って、愛するわが子をゆりおこし、フェルディシチェンコ氏のような人物を隣人に持つのはきわめて危険なことだと、知らせにいったわけですな! そうなると、フェルディシチェンコ氏はじつに危険な人物であり、また閣下の親心は量り知れないということになりますなあ、へ、へ、へ!……」
公爵はすっかりどぎまぎする。いやね、レーベジェフ、頼むから、穏便にやってくださいよ……騒ぎを起こさないでください!……後生ですから……そういうわけなら、私もお手伝いしますから……ただ、誰にも知られないようにね、誰にも知られないように!
「ご安心ください、ご親切で、誰よりも心の正しい公爵さま」レーベジェフはすっかり感激して叫んだ。「ご安心ください、万事はこのわたしの高潔きわまりない胸におさめてしまいますから! ご一緒にそっと足音を忍びましてね! ご一緒に足音を忍びましてね! わたしは体じゅうの血をすっかりでも投げ出して……では、公爵さま、いずれのちほど。そっと足音を忍んで……そっと足音を忍んで……ご一緒に」
10
公爵は夜になるまであの三通の手紙を読むのを延ばした。
あの手紙の内容は、不自然な夢に似ていた。夢の中で理性と推理力と判断力は極度に緊張しているにもかかわらず、同時に起こる不合理や不可能事とすみやかに妥協してしまう。目覚めてから、すっかり現実の世界に戻ってからも、自分にとって不可解な謎を残してきたような気が夢の後味となって残る……。手紙の読後感もそれに似た。
ぶらぶらさまよい歩きながら物思いに耽る公爵。あの女はどうしてあのひとに手紙をやろうなどと決心したのか? どうしてあの女はあのことをかけたのか? 「しかし彼にとって何より意外だったのは、彼がその手紙を読んでいる間じゅう、彼自身がほとんどその空想の可能性を信じ、その空想が正当であるとさえ信じたことである。むろんこれは夢である、悪夢である、狂気の沙汰である、しかし、それにもかかわらず、それには何やら悩ましいまでに現実的な、受難者のように正しい何ものかがある……」
手紙からの引用。
『……じつのところ、あなたさま(アグラーヤ)はわたしを愛してくださっているような気がしてならないのでございます。あなたさまはわたしにとりましても、あのかたにとりましてもそうでありますように、光り輝く天使なのでございます。……』
『……あなたさまに対するわたしの恋情など、あなたさまにとってなんだというのでしょう? でも、あなたさまはもうわたしのものでございます、わたしは一生あなたさまのおそばを離れることはございません……わたしはまもなく死んでいくのでございますから』
『……わたしがこのようにあなたさまにお手紙をさしあげることによって、自分で自分を卑しめているとか、またたとえ自尊心からにせよ、自分を卑しめて、それに満足を感じているような人間のひとりだなどと、わたしのことをお思いにならないでくださいまし。……』
『……あの男の家は陰気でもの寂しく、その中に秘密を隠しているのでございます。あの男の引き出しの中には、きっといつかのモスクワの人殺しみたいに、絹のきれで包んだかみそりが、隠されているにちがいないと思うのでございます。……わたしはあの男の家に暮していたあいだじゅう、わたしはこんな気がいたしたものでございます。この家のどこか床の下あたりに、あの男の父親がまだ生きていた時分に隠した死骸がころがっていて、やはりモスクワの人殺しのように油布で覆われ、そのまわりには防腐剤の壜が並べてあるのではないかしら、と思ったものでございます。わたしはその死骸の端のほうを、ちょっとあなたさまにお目にかけることさえできるような気がいたします。あの男はいつも黙っております。……わたしは恐ろしさのあまり、あの男を殺しかねないくらいでございます……でも、あの男のほうがさきにわたしを殺してしまうことでございましょう……』〔伏線〕
-------------------------------------------------------------第二〜三編12日目
公爵は長いあいださまよい歩いたすえ、暗い公園から外へ出た。あれこれ考えながら歩いているうちに、エパンチン家の別荘の前に来ているのに気づく。テラスへ足を踏み入れる。誰もいない。やがてドアが開いてアレクサンドラが入って来る。アレクサンドラびっくり。どうしてこんなところに? ちょっとお寄りしたんです……。もう十二時半ですよ、うちではいつも一時には休みます。えっ、私はまだ九時半くらいかと思っていました……。どうしてもっと早くいらっしゃらなかったんですの? あなたをお待ちしていたかもしれなかったんですのに、ではさようなら!
公爵は自分の別荘のほうへ歩いていく。想いは乱れ、あたりのものがすべて夢のように思われる。「と、ふいに、さきほど二度までも夢の切れ目となったあの同じ幻が、またもや彼の前にあらわれたのである。あのときとまったく同じ女が公園の中から出てきて、まるで彼を待伏せしていたかのように、彼の眼の前に立ちはだかったのである。……」いや、夢ではなかった。
「こうしてついに彼女は公爵と別れて以来はじめて、顔と顔を突きあわせて彼の前に立ったのである。……」彼女は気でも狂ったように、いきなり彼の前にひざまずいた。
お立ちなさい、お立ちなさい!と公爵。
あなたはお仕合せ? お仕合せなの?
彼女は立ちあがらなかった。
あなたのお言いつけどおり、あしたここを発ちますわ。あたしはもう決して……あなたにお目にかかれるのもこれが最後ですわ、最後なんですわ! 今度こそは、もうほんとうに最後ですわね!
彼女はむさぼるように彼の顔を見つめる。
さようなら!
急ぎ足で彼女が離れていく。いきなりロゴージンの姿が彼女のそばにあらわれ、彼女の手を取って連れていく。
ロゴージン一人で公爵のところに戻って来る。
さっきあんたが書いてよこしたものは、間違いなくあれに渡しておいたよ……もうあの娘のところへ手紙を出すようなことはしないよ……それに、あんたの望みどおり、あすはここを引き払うそうだ……お別れに一目会いたいというんで、ここであんたの帰りを二人して待伏せしていたのさ……ところで、例の手紙は読んだかね?
そういうきみこそほんとにあの手紙を読んだのかい?──公爵はぎょっとする。
当たり前だよ……かみそりの話を覚えてるかね、へ、へ!
あのひとは気が狂っているんだ
誰がそんなことわかるもんか……じゃあばよ。達者でな!
ロゴージンは急にふりかえって、つけくわえた。なんだってあんたはあれに返事してやらなかったんだい? 『あなたはお仕合せ、どうなの』ってきいてたじゃないか
いや、ちっとも、ちっとも!と公爵、悲哀を込めて。
もちろん、『ええ』なんて言うはずはないやね!
ロゴージン憎々しげに笑って、ふりかえりもせずに行ってしまう。