第一章 ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈
〔00 「詩学」とは?〕
- 詩学[poetika/poetics]とは、ここでは狭義の詩に関する理論ではなく、言語芸術の創作において題材、ジャンル、プロット、文体等の選択を支配する、作者の創作姿勢の全体を意味する。
〔01 語り手の機能や筋書き上の因果関係が存在するのみでは十分ではない〕
- ドストエフスキーは、自らを創った者と肩を並べ、創造者の言うことを聞かないどころか、彼に反旗を翻す能力を持つような、自由な作中人物たちを創造した。
- それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴である。
- 彼の作品の中で起っていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれていく。
- ドストエフスキーの主要人物たちは、単なる作者の言葉の客体であるばかりはなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもある。
- したがって、主人公たちの言葉の役割は、通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能(=動機づけの機能)に尽くされはしないし、また作者自身の信念(=イデオロギー)を代弁しもしない。
- 主人公の意識は、一つの、他者の意識として提示されるが、同時にそれは物象化され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体になってはいない。
- 結果としてドストエフスキーの世界にとっては、事物や人間心理の秩序に基づいた通常の、筋の運びのためのプラグマチックな因果関係が存在するのみでは十分ではない。
- なぜならそのような関係は、まず作者の構造において主人公たちが客体化され、物象化されているという前提にたって、その完結した人間像を、モノローグ的に把握され理解された単一の世界の中で結び合せ、組み合わせるためのものであり、それぞれの世界を持った複数の対等な意識同士を結び付けるためのものではないからだ。
- ドストエフスキーの小説においては、通常の筋書き上の因果関係は第二義的な役割を果たすに過ぎず、その担う機能も普通とは違った、特殊なものである。彼の小説世界に統一性を与えている重要な要素は、もっと別の種類のものだ。
- ドストエフスキーの小説構造のすべての要素は、根本的に独自なものである。
- そこでは、叙述の仕組みそのものが──それが作者による叙述であろうが、語り手の叙述であろうが、あるいは主人公の一人によるものであろうがいっさい関わりなく──モノローグタイプの小説の叙述とはまったく異なっている。
- そこから物語が語られ、描写が組み立てられ、あるいは情報が与えられる立場が、この新しい世界、すなわち客体ではなく一人前の権利を持った主体たちの世界に対して、新しい関係に立っている。
- それこそがドストエフスキーの世界──既存のヨーロッパ的な形式、つまり本質的にモノローグ的(単旋律的)な小説を破壊した後に獲得された、ポリフォニー的な小説世界だ。
〔02 「ポリフォニー小説」についての通俗的解釈を斥ける〕
- ごく最近まで、ドストエフスキーに関する批評は、その新しい小説構造の芸術的な特性を捉えることができなかったばかりでなく、その世界を一般的なタイプに合わせて単声化する、すなわち根本的に新しい芸術意図で創られた作品を、旧来馴染みの芸術観の観点から曲解する以外のことをやっていなかった。
- 批評家たちは、ドストエフスキーの世界を、ヨーロッパ風の月並みな社会・心理小説のような世界として理解してきた。つまり、十全な価値を持つ意識同士の相互作用としての出来事の代わりに、一人作者の単一な意識との相関においてモノローグ的に捉えられた客体世界を読んでいた。
- これらの批評は、ドストエフスキーが開示した複数の意識の世界を、単一の世界観のモノローグ的体系の枠に押し込めようとして、あるいは二律背反原理に、あるいは弁証法に依拠せざるを得なかった。
- つまり、互いに融け合うことのないいくつかの意識の相互作用としてあるものが、単一の意識を充足させるべき複数の信念(=イデエ)、思考、仮説同士の相関関係に置き換えられてしまっていたのだ。
- ドストエフスキーの世界には、弁証法も二律背反も確かに存在する。 実際彼の主人公たちの思考は、時として弁証法的であり、あるいは二律背反的である。
- しかしあらゆる議論上の争点は、個々人の意識の枠内にとどまるものであり、複数の人物間の出来事レベルの相関関係を支配するものではない。
- どんなに深刻な意見の対立が見られようと、作品の内容を規定するテーマが討議的・弁論的であろうと、主人公に他者の意識を定立する(主人公の意識の唯我論的な孤立の破綻)というだけでは、いまだ小説の新しい形式、新しい構成原理を作り出すには足りない。そのようなテーマは純粋にモノローグ的なタイプの小説においても十分に追求可能であるから。
- 複数の哲学的なテーゼの相剋、複数の視点からの現実の相対化、ダイナミックな弁証法の劇的配置といったことを越えて、ドストエフスキーが初めて解決してみせたポリフォニー小説の構築という芸術的課題を明らかにせねばならない。
〔03 ロマン主義的モノローグから遠く離れた「小説構成」〕
- 作者の人格や倫理的感覚が色濃く反映された主人公が、俗世間と対立しながら強いられた運命を克己しようとし、結末において改めて作者のモノローグ的な教訓に回帰するというパターンは、ロマン主義的なタイプの小説に典型的である。
- 例えば「自らの個的な本質をその極限まで発揮した者は、悪党であれ聖人であれ、ただの罪深き人間であれ、みなある意味で同等の価値を持つ。それはすべてを平準化してしまう環境という濁った流れにあがらう、人格としての個の価値である」という主張はロマン主義且つモノローグ的だ。
- だが、ドストエフスキーの独自性は、彼が人格の価値をモノローグ的に宣言したといったことにあるのではない。
- 彼の独自性は、人格としての人間を芸術的な仕方で見いだすことができたこと、そしてそれを抒情化することも、そこに自分の声を混入させることもなく、しかもそれを物象化された心理学的事象におとしめることもなく、別の、他者の人格として表現し得たことにある。
- 他者の人格を芸術的な形象として描くこと、さらには数多くの人格が相互に融け合わぬままに、ある種の精神的な事件の総体として一つにまとまっている様を芸術的に描くことは、彼の小説をもって初めて完全な形で成し遂げられた。
- ドストエフスキーの主人公たちは驚くほどに内面の自立性を持っているが、それは一定の芸術的手段によって初めて可能となったのである。
- ドストエフスキーの主人公たちの自立性。それは、何よりもまず小説の構造自体の中で主人公たちが作者との関係において持っている自由さと自立性である。
- より正確に言えば、通例人物を外側から枠づけ、完結させてしまおうとする方向に働く、作者による定義との関係における自由さだ。このような新しい主人公の位置づけは、ドストエフスキーによって初めて導入された小説構成・芸術様式の総体によって達成されたものである。
- このことは無論、主人公が作者の構想の外に出てしまうことを意味するのではない。逆にそうした自立性と自由こそが、まさに作者の構想に含まれている。主人公が相対的に自由であるとは、構成が厳密に規定されていることと矛盾しない。
- それはちょうど、厳密に規定された数学の公式の中に無理数や超限数が存在しても、公式自体が損なわれはしないことに似ている。
- 文体の同一性ということをモノローグ的に捉える立場からするなら、ドストエフスキーの小説は多文体的もしくは無文体的であり、また語調の同一性についてのモノローグ的認識からすれば、ドストエフスキーの小説は多アクセント的で価値論上の矛盾を含んでいる。つまり彼の作品の一語一語の中に、相互に矛盾したアクセントが接合されている。
- ドストエフスキーの題材に含まれたちぐはぐな諸要素は、いくつかの世界、それぞれ完全な権利を持ったいつくかの意識世界に分かれて存在している。すなわち単一の視野の中に提示されるのではなく、いくつかのそれぞれ完全で等価な意識の中に提示される。
- したがって個々の題材そのものがじかに一つにまとめられるのではなく、そのそれぞれの世界、それぞれ独自の内省能力を持った意識世界同士が、いわば第二次的なレベルにおける高度な統一を、ポリフォニー小説としての統一を得る。
- こうした多世界性のおかげで、個々の題材はそれぞれの独自性と特殊性を極限まで展開しながら、しかも全体の統一性を乱さず、それを機械的なものと化してしまうこともない。
〔04 モノローグ的な劇的対話 ⇔ ポリフォニックな究極的な対話性=複数の意識が相互作用する「事件」〕
- 近代小説に馴染みの劇的対話は、単なる叙述の一形式、教訓的な様式にまで衰弱した対話に過ぎない。
- それは常に確固不動のモノローグ的な枠に収められている。劇の対話(戯曲における劇的対話および物語形式における劇化された対話)の応酬は、描かれた世界を分割することも多次元化することもない。
- それどころか対話が本当に劇的であるためには、描かれる世界が一枚岩の同一性を備えていることが必要である。劇においては世界は単一の素材からできあがっていなければならない。世界の同質性が少しでも緩むと、それだけ劇的性格は減退してしまう。
- 劇の主人公たちが対話的に出会うのは、作者、舞台監督、観客それぞれの単一な視野の中においてであり、背景となるのは単一構造の世界である。それが純粋にモノローグ的なものである以上、それは複数の次元を結びつけることも許容することもできないだろう。
- 劇(的対話)においては、それぞれに一貫性を持った複数の意識が超越論的次元で一つに結びつくことは不可能である。それは多元的構造を許容しない。従って、逆に言えば、ドストエフスキーのポリフォニー小説で本来の劇的対話はごく二義的な役割しか与えられない。
- ドストエフスキーのポリフォニー小説において重要なのは、単一の具象的世界の確固たる背景において対象をモノローグ的に認識し、その枠内で展開してみせるという意味での、ありきたりの対話形式ではない。問題は究極の対話性、すなわち究極的な全体にわたる対話性である。
- ドストエフスキーの小説は、複数の他者の意識を客観的に自らに受入れる単一な意識の全体像として構築されているのではなく、いくつかの意識の相互作用の全体としてあり、その際複数の意識のどれ一つとして、すっかり別の意識の客体となってしまうことはない。
- この相互作用の世界は、観察者に対しても、普通のモノローグタイプの小説のように出来事の全体を(プロットのレベルでも、抒情のレベルでも、認識のレベルでも)客体化するための足場を与えず、したがって観察者をも参加者としてしまう。
- 実際、ドストエフスキー作品のどの切片をとっても、無関係な《第三者》の視点から作られたものはない。小説自体の中にも、そうした無関係な《第三者》はけっして登場しない。その全構造が、対話的な対立を出口のないものとするべく仕組まれている。
- それは作者の弱みではなく、非常な強みである。それによってモノローグ的な作者の位置を越える新しい作者の位置が獲得された。
- ドストエフスキーの小説においては世界のモノローグ的な一体性が破られているが、かといって現実から切り取られた多数のリアリティの断片が直接結びついて小説の統一性を形成しているわけでは、ない。
- それらの断片はそれぞれに一貫した主人公たちの内省を満たすものであり、それぞれの人物の意識の平面で意味づけられているのだ。ポリフォニー小説が主題とする「結びつき」は、それぞれの世界を持った自立した意識同士の結びつきにある。
- そこにおいて得られるのは、何人かの十全な権利を持った参加者を含む「事件」の統一性である。
- ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによって(感情、抒情による)ホモフォニー的統一性よりも高度な統一性を実現することにある。
- 次のように言うことも可能であろう、つまりポリフォニーの芸術的な意志は、複数の意志の結合への意志であり、「事件」への意志であると。
〔05 ドストエフスキー小説の多次元性 ⇔ 単一の精神の弁証法的な成長〕
- エンゲリガルト「ドストエフスキーは個人の意識と社会の意識における信念(=イデエ)の生活を描いている。なぜなら彼は信念の生活こそが知識人社会の決定要因だとみなしたからだ。しかしだからといって、彼が一定の方向性を持った思想小説を書いた傾向的作家であり、詩人というよりもむしろ哲学者であったと解釈すべきではない。彼は十八世紀的な趣味における思想小説や哲学小説を書いたのではなく、信念(=イデエ)についての小説を書いた。(略)彼はまったく特殊なタイプの小説を非常に高度な段階にまで発展させた。それを冒険小説やセンチメンタリズム小説、心理小説、歴史小説などと対比させて、信念(=イデオロギー)小説と名づけることができるだろう。」
- 通常の小説なら、伝記的要素が主人公の造形の主調音となる。ところがここに、信念が描写の対象であり、主人公像の構成の主調音となっているような小説が存在する。信念小説──その小説世界は、それぞれの支配的な信念によって編成され形作られる複数の主人公たちの世界へと分散するであろう。
- エンゲリガルト「ある環境における主人公の位置づけは、世界に対する彼の信念(=イデオロギー)的態度の取り方次第で決定される。ちょうど主人公の造形の主調音となるのが、彼を支配している信念(彼の信念は、全能の権力を持って彼の意識と生活を規定し、歪めてしまう力を持つ!)の複合であるように、周囲の現実を描写する際の主調音となるのは、主人公がその世界へ差向ける「言葉」である。個々の主人公は世界をそれぞれ別の様相において内省するわけであり、それに従って世界の描写も構成される。ドストエフスキーにおいては、いわゆる外部世界の客観的な記述なるものを見いだすことはできない。(略)そこにはある環境なり土壌なり土地なり風俗なり都市なり生活なりが、登場人物たちがそのすべてをいかなる相において眺めたかに従って描かれているのみである。そのせいで一つの芸術作品における現実の多次元性が生じている。」
- エンゲリガルトはドストエフスキーの小説における信念(=イデエ)の位置に対して、初めて確実な定義づけを行った。
- すなわち、信念とは(あらゆる小説におけると同じような)描写の原理でもなければ、描写のライトモチーフでもなく、また(思想・哲学小説におけるような)描写の結論でもなく、描写の対象である。
- ある信念が世界の見方や解釈、描写の原理として働くのは作中人物たちにとってのみであり、作者ドストエフスキーにとってではない。
- いわゆる《否定的》な主人公であれ《肯定的》な主人公であれ、主人公たちの信念(=イデエ)はどれ一つとして作者の描写の原理とはならないばかりか、全体としての小説世界を構成するものでもない。
- ここで我々は一つの問題に直面する。
- すなわちそれぞれの根源的な信念(=イデエ)を内包した主人公たちの世界が、いかにして作者の世界、つまり一つの小説世界へと統合されるのかという問題である。
- 多次元間の関係は、小説そのものの中でけっして一つの弁証法的な連鎖をなすものとして、つまり単一の精神の生成の各段階として提示されているわけではない。もしかりに個々の信念(=イデエ)群れが単一の弁証法的連鎖として配置されていたとしたなら、得られるのは、よくして哲学小説であり、悪くすると小説の形を借りた哲学だということになる。
- だが実際はそうではない。ドストエフスキーの小説のどれ一つとして、単一の精神の弁証法的な生成などは含んでいないばかりか、そもそも生成など存在しない。
- それは、ちょうど悲劇が成長を含まないとのまったく同じように、成長を含まない。個々の小説に提示されているのは、弁証法的に解消され得ない複数の意識の対立である。
- 小説の枠内では、主人公たちの世界は「事件」を介した相関関係に入るが、しかしその関係は、すでに述べたごとく、けっしてテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの関係に帰し得ないものである。
- この時点で主張できることの一つは、ドストエフスキーが多次元性や矛盾性を発見し、理解することができたのは、主観的精神においてではなく、客観的に社会的な世界においてであろう、ということだ。
- 言わば、時代そのものがポリフォニー小説を可能にした。ドストエフスキーは自らの時代の矛盾をはらんだ多次元世界に、主観的に関与していた。彼は次々と所属集団を変えていった。
- その意味では、一つの客観的社会性格の中に並存する複数のレベルとは、彼個人にとってみればその人生の道程の、そしてその精神の成長の各段階ではあった。しかし、彼が描き出したのは、社会的現実の多次元性と矛盾性が、個人の人生がたどる上昇・下降の段階としてではなく、対立し合う複数の人間集団に対応しているような世界である。
- ドストエフスキーは自らの創作において、自分の個人的経験に、単線的な人生の道程の再現すなわちモノローグ的な表現を与えたわけではない。そのような経験は、彼が矛盾の認識を深めることを助けただけに過ぎない。
〔06 ドストエフスキーにとって本質的なもの、共存と相互作用〕
- ここで我々は従来のドストエフスキー研究文献においてはまったく理解されてこなかった、あるいは不当な評価した与えられてこなかった、彼の創作ヴィジョンの一大特性に直面することになる。
- 彼は自らの世界を主として時間の相においてではなく、空間の相において観察し、考察した。彼は得られる限りの意味的素材および現実の素材を、同一の時空の中で劇的に対置するという形式で組み立て、広範に展開しようと努めた。
- ドストエフスキーはゲーテとはまったく反対に、様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えたうえで、劇的に対置し対決させようとする。
- 彼にとって世界を探求することは、世界の構成要素すべてを同時存在するものとして考察し、一瞬の時間断面におけるそれらの相関関係を洞察することを意味した。
- すべてを共存するものとみなし、あらゆるものを時間相ではなくあたかも空間相において、同時並列的に把握し、提示しようとするこの頑固な志向から、彼は必然的に一人の人間の内面的な諸矛盾やその内的発達の諸段階をも、空間において劇化しようとする。
- すなわち主人公たちをして彼らの分身、悪魔、もう一つの自我、戯画像などと談話させる(イワンとアリョーシャ、イワンとスメルジャコーフ、イワンと悪魔、ラスコーリニコフとポルフィーリイ、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフなど)。
- 主人公たちがペアとして登場するというドストエフスキーによく見られる現象も、彼のこの特性によって説明される。端的に言えば、ドストエフスキーは一人の人物の内に含まれる矛盾した要素のそれぞれから、二人の人物を作り出すことによって、その矛盾を劇化し、広く展開しようとしている。
- この特性はドストエフスキーの集団シーンへの嗜好にも現れている。すなわちしばしば現実現実的な意味でのもっともらしさを犠牲にしてまで、一つの場所一つの時間にできるだけ多数の人物、できるだけ多数のテーマを寄せ集め、一瞬の時間に可能な限り質的に多様な要素を集中させる手法である。
- ドストエフスキーが小説において劇におけるような時間の一致の原則を守ろうとするのも、ここに原因があり、事件の破局的な速度、《竜巻のような運動》といわれる彼のダイナミクスも、またそこから生まれてくる。
- ダイナミクスや速度とはこの場合、時間の勝利ではなく時間の克服のことである。なぜなら速度こそ時間の内において時間を克服する唯一の手段だからである。
- 同時的な共存の可能性、あるいは並列しあるいは対立しながらともにあることの可能性こそ、いわばドストエフスキーが本質的なものと非本質的なものとを選り分ける際の基準であった。
- 意識の上で同時的に把握し得るもの、意識上同じ一つの時間の中で相互に関連し得るもの──それのみが本質的なものとしてドストエフスキーの世界に入り込んでくる。《以前》とか《以後》という形でしか意味を持たないもの、一瞬一瞬に自足しているもの、過去としてあるいは未来として、もしくは過去と未来に対する現在としてかろうじて正当化されるもの──そのようなものはいっさい彼にとっては存在せず、彼の世界には入り込まない。それゆえにこそ彼の主人公たちは何事も回想しないし、過去において十分に経験し尽されたものという意味での「伝記」を持たない。
- 彼らが過去の中から思い起すのは、ひとえに彼らにとっていまだ現在であることをやめず、現在として経験され続けている事柄、すなわちいまだ贖われていない罪、犯罪、許される侮辱など。ドストエフスキーはそのような事実のみを小説の枠内に持ち込むが、それはそれらが同時性という彼の原則に見合っているからである。
- だからドストエフスキーの小説には因果律も発生論もないし、人物の過去や環境の影響や教育などに立脚した説明もない。主人公の行動のすべてはまるごと現在に属し、その意味であらかじめ決定されていない。それは作者によって自由なものとして考えられ描かれている。
- 共存というカテゴリーにおいて世界を見るドストエフスキーの思考の内には、発生論や因果律のカテゴリーが存在しない。彼はいわゆる環境論というものに対しては、それがどんな形をとっていようと(例えば環境によって罪を正当化する弁護士の手口でも)、常に論難したし、しかも一種の生理的な敵意を込めて論難した。
- また彼は問題の解決に際してほとんど一度として歴史そのものに訴えようとしたことがなく、あらゆる社会的・歴史的な問題を、現在の平面において扱おうとした。
- すべての事象を共存と相互作用の相において観察するという、きわめてドストエフスキーに固有の芸術的特性は、彼の最大の強みであったと同時に最大の弱点でもあった。
- そのせいで彼はきわめて多くの重要な事象に対して盲目であることを強いられた。
- しかし別の面から言えば、この特性は現象をある瞬間の断面において把握する能力を格段に研ぎすまし、他の人々には一つの同じようなものしか見えないところに、多くの多様なものを見出すことを可能にした。
- 他人が単一の思想を見出すところに、彼は二つの思想すなわち思想の分裂を発見し、感触することができたし、単質的と見えるものの内に、それとは正反対の別の性質が隠されているのを暴くこともできた。
- すべて単純と見えるものが、彼の世界の中では多くの構成要素を持った複雑なものと化した。
- 一つ一つの声の中に、彼は論争し合う二つの声を聞き分け、個々の表現の内に屈折を、つまりすぐにでも別の、正反対の表現に移行し得るような要因を感得することができた。
- あらゆる身振りは彼にとって自信とためらいを同時に表現したものであった。
- すなわち彼はすべての現象の奥に隠れた両義性あるいは多義性を感受した。
- このような矛盾や多義性はどれ一つとして弁証法的な関係をなすものではなく、一つの時間軸にそった生成の過程としての運動に組み込まれるわけでもない。それらは一つの平面上に併置もしくは対置される。
- そして相互に協調しながら融合しない関係として、あるいは出口のない対立関係として、また融け合うことのない声同士のハーモニーとして、あるいはやむことを知らぬ無限の論争として、様々に展開される。
〔07 他者の信念、他者の思想、他者の意識との間の境界線上〕
- ドストエフスキーの多元世界を単一の精神の成長段階を描いたものだと解釈したエンゲリガルトの根本的な過ちは、彼がそもそもの出発点においてドストエフスキーの小説を《信念(=イデオロギー)小説》と定義したことにある。
- 描写の対象としての信念=イデエはドストエフスキーの創作においてきわめて重大な一を占めているが、だからといって信念が彼の小説の主人公であるわけではない。
- 彼の作品の主人公はただ、人間である。結局のところ彼は人間の内なる信念(=イデエ)を描写したのではなく、彼自信の言葉を借りれば《人間の内なる人間》を描こうとした。
- 彼にとって信念とは、あるいは人間の内なる人間を試みるための試金石であり、あるいは内的人間の暴露の一形式であり、あるいは、人間の意識がその深層の本質を開示してみせるための《媒体》であった。
- ドストエフスキーが描こうとしたのは、孤立した意識の内側における信念=イデエの生態でも、信念同士の相関関係でもなく、信念の領域に限られない、意識と意識の相互作用であった。
- 主人公の個々の経験、個々の思考は、単に自己の対象に集中されてはおらず、具体的な他者への不断の気遣い(例えばマカール・ジェーヴシキンの場合であればワルワーラ、ヴェリチャーニノフの場合であればトルソーツキイ)を伴っている。
- ドストエフスキーの世界では、意識はその生成・成長の過程において提示されるのではなく、別の様々な意識と並列的に置かれる。意識は自己自身にも自己の信念にも、また信念の内在的な論理的展開にも集中することはできず、他の意識との相互作用の内に引込まれてゆかざるを得ない。
- ドストエフスキーの主人公たち(《地下室の人間》、ラスコーリニコフ、イワン等々)のそれぞれの思想は、そもそもの初めから自らをある未完の対話における応答の言葉だと意識している思想である。
- そのような思想は、完結したまとまりを持つモノローグ的体系を志向するものではない。それは他者の思想、他者の意識との間の境界線上に、緊張した生を生きている思想である。それはきわめて「事件」に満ちた、人間と切り離しがたい思想である。
- キルポーチン「ドストエフスキーの世界は、客観的に存在し、相互に作用し合っている多数の意識たちの世界である。それゆえにそこにはブルジョワ的(プルースト的?)な退廃趣味に特有の、心理過程描写における主観性もしくは唯我主義が入り込む余地はない。」
〔08 機械的な関係に対立する、対話的な関係〕
- ドストエフスキーは客体としての人間たちの形象を描こうとしたのではないし、彼が求めたのは登場人物たちの客体的な(個性的で典型的な)台詞でもなく、また表現力に満ちた、明晰で断定的な作者の言葉でもない。
- 彼が求めたのはまず第一に極めて十全な意味を持ち、あたかも作者から独立しているかのような、主人公のための言葉なのである。
- それは主人公の性格類型や一定の生活環境における彼の立場を表す言葉ではなく、世界における彼のぎりぎりの意味的(イデオロギー的)立場、彼の世界への態度を表す言葉である。
- 一方作者のためには、そして作者としては、彼は人物たちを挑発し、苛立たせ、試練にかけ、対話に誘うような言葉とプロット設定を捜し求めた。
- ところでドストエフスキーの小説において我々は主人公およびその対話の内的な不完結性と、それぞれの小説が示している外面的な(ほとんどの場合プロット構成上の)完結性との間の独特な葛藤を目撃する。
- ここでこの困難な問題を深く検討することはできないが、ただ言えることは、ほとんどすべてのドストエフスキーの小説は文学的な約束事として、かりのモノローグ的な結末を持っているということだ(この意味でとりわけ特徴的なのが『罪と罰』の結末である)。
- ところでドストエフスキーの本質的な対話性は、けっして彼の主人公たちの外面的な、構成的に表現された対話に尽きるものではない。
- ポリフォニー小説は全体がまるごと対話的である。小説を構成するすべての要素の間に対話的関係が存在する。すなわちすべてが対位法的に対置されている。
- そもそも対話的関係というものは、ある構成のもとに表現された対話における発言同士の関係よりももっとはるかに広い概念である。それはあらゆる人間の言葉、あらゆる関係、人間の生のあらゆる発露、すなわちおよそ意味と意義を持つすべてのものを貫く、ほとんど普遍的な現象である。
- ドストエフスキーはあらゆるところに、すなわち意識され意味づけを与えられた人間生活のあらゆる現象のうちに、対話的な関係を聞き分けることができた。すなわち彼にとっては意識の始るところに対話も始る。
- 対話的でないのはただ純粋に機械的な関係のみであり、ドストエフスキーは人間の生活と行動の理解と解釈にとってのそうした関係の意味を断固拒絶したのである(それは機械的唯物論、流行の生理学趣味、クロード・ベルナール、環境決定論等に対する彼の闘いに現れている)。
第二章 ドストエフスキーの小説における主人公および主人公に対する作者の位置
〔00 メモ〕
- (※ジェラール・ジュネットとの関連で言えば、叙法のパースペクティヴの問題を「作中人物の視点」という形ではなく「作中人物の対話-内省的な言葉」という形で処理したのがポリフォニー小説ということでは。視点人物が変化する際にカメラを受け渡しているというよりはあたかもマイクを受け渡しているかのような。作中人物の身体でも感情でもなくただひたすらその「言葉」だけに焦点を合わせること。)
〔01 描写の対象は主人公の自意識の機能〕
- いまや前章で述べた命題をドストエフスキーの作品に即して、より詳しく検証していくべきだろう。
- ポリフォニー的構想における主人公とその声の総体的な自由さや独立性の問題、をまず考察する。
- ドストエフスキー作品の主人公──彼らは一定の確固たる社会的タイプや個人的性格のしるしを持った、社会の一現象として、或いは《彼は何者か?》という問いに答えを与えるような、一義的で客観的な特徴から形成された、一定の人物像として、ドストエフスキーの関心を惹いているのではない。
- 主人公がドストエフスキーの関心を惹くのは、世界と自分自身に対する特別の内省主体としてであり、人間が自身と周囲の現実に対して持つ意味と価値の立場としてである。ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかとういことではなく、何よりもまず、主人公にとって世界が何であるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということだ。
- したがって創作の「人物造形」を通じて解明され性格づけるべきものも、従来の小説とは異なって来る。それは、主人公という一定の存在、彼の確固たる形象を目指さない。それが目指すのは、彼の内省および自意識の総決算、つまりは自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な「言葉」である。
- ドストエフスキーの作品において、主人公像を形成する要素となっているのは、現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴ではなく、それらの特徴が彼自身に対して、彼の自意識に対して持つ意味である。
- 主人公の確固とした客観的資質のすべて、すなわち彼の社会的地位、社会的・性格論的に見た彼のタイプ、習性、気質、そしてついにはその外貌まで──つまり通常作者が《主人公は何者か?》という形でその確固普遍のイメージを形成する際に役に立つすべての事柄が、ドストエフスキー作品においては主人公自身の内省の対象となり、自意識の対象となっている。
- したがって作者の観察と描写の対象とは、主人公の自意識の機能そのものとなる。
- 通常の場合には、主人公の内省・自意識は単に彼の現実の一要素、彼の全一的な形象の一要素に過ぎないのだが、ここでは反対に現実のすべてが主人公の内省・自意識の一要素となる──主人公に関する本質的な規定、その個性や細かな特徴も含めて、作者が自分専用に、つまり自分の全知の眼にだけ見える事柄として留保しているようなものは、何一つ存在していない。
- 作者はすべてを主人公自身の内省に導入し、その自意識の坩堝に投げ込む。そうすることで主人公の純粋な自意識もそっくりそのまま、作者自身の創造性の内に観察と描写の対象として残るわけだ。
- 創作活動の初期にあたる、いわゆる《ゴーゴリ時代》においてすでに、ドストエフスキーが描こうとしていたものは《貧しい役人》そのものではなく、貧しい役人の自意識であった。
- ゴーゴリの創作観にあっては、客観的な特徴の総体として主人公の確固たる社会的・性格論的風貌を構成していたものが、ドストエフスキーによって主人公自体の内省に導入され、そこで主人公の苦悩に満ちた自意識の対象となった。例えばゴーゴリが描いた《貧しい役人》の外貌そのものを、ドストエフスキーは自らの主人公が鏡の中に見ることを強いている。
- しかしそのおかげで、主人公の確固たる特徴のすべてが、内容的には何ら変らぬままに、一つの描写次元から別の次元へと置き換えられ、まったく異なった芸術的な意義を獲得したのだ。
- 我々が眼にするのは、彼が何者かということではなく、彼がいかに自分を意識しているかということであり、我々の読み取るものは、主人公の現実ではなく、その現実を内省する彼の意識の純粋な機能になる。
〔02 小説創作上の焦点としての《夢想家》《地下室の人間》〕
- ドストエフスキー作品においては、主人公自身の現実のみならず、彼を取り巻く外的世界や風俗も、彼の内省・自意識のプロセスに導入され、移し換えられる。
- それらは主人公と同じ平面上に、彼と並んで、彼の「外部」に置かれているのではない。したがって主人公を規定する因果律的・発生論的要因でもあり得ず、作品の中で説明的機能を担うこともできない。
- すべてを呑み込む主人公の意識に作者が対置し得るのは、ただ一つ、主人公と同等の権利を持った別の意識たちの世界のみだ。
- つまり、具象世界のすべてを自らに取り込む主人公の自意識と同じ平面にあって、それと並んで存在し得るものは、別のもう一つの意識のみであり、彼の内省に対しては別のもう一つの内省が、彼の世界への「言葉」に対しては別のもう一つの「言葉」が、それぞれ併置できるのみである。
- 注意せよ。主人公の意識を社会的性格論の平面で解釈し、意識を単に主人公の新しい特徴(例:自意識過剰な男)と捉えることは、誤りである。
- ドストエフスキー以前の小説において自意識とは、主人公の性格に肉付けを与えるもの、他のいろいろな特徴と並んで、通例通り客観的な、確固たる主人公のイメージの中に収まってしまうものであった。しかしドストエフスキーにおいて、自意識とは主人公の造形における小説創作上の焦点であって、彼のその他の性格特徴と同列に置くことはできない。
- ここで言っておかなければならないのは、必ずしもどんな人物もドストエフスキー的な意味で内省の主体として描くことが可能なわけではない、ということだ。例えばゴーゴリ風の役人では、小説創作上の焦点としてその自意識を描写の対象にするにはあまりにも乏しい可能性しか与えない。
- ドストエフスキーは自分のポリフォニー小説の構想に合致するような人物を、内省を主たる活動としているような人間、つまり生活のすべてを自己と世界を意識するという純粋な機能に集中させているような人間を捜し求めていた。そこで、彼の創作の中に《夢想家》や《地下室の人間》が出現するのである。
- 《夢想性》も《地下的性格》も人間の社会的・性格論上の特徴ではあるが、しかしドストエフスキーの小説創作上の構想に見合うものである。
- 「ああ、僕の何もしないのが、たんに怠惰のせいであったなら! ああ、そのときには、ぼくはどれほど自分を尊敬したことだろう。たとえ怠惰にもせよ、自分のうちに何かをもちえたとなれば、尊敬したくもなるではないか。たとえひとつだけにせよ、ぼくもまた、自分で納得のいくような、しかも、どうやら積極的な特性をもつことになるわけなのだから。あいつは何者だ? と問われて、なまけ者だ、と答える。自分についてこんな評言を聞けたら、さぞかしたのしいことにちがいない。なにしろ、積極的な評価が定まり、ぼくについていわれるべき言葉ができたのだから。《なまけ者!》──これはもう一個の肩書きであり、使命であり、履歴でさえある。冗談にしないでほしい、事実、そうなのだ。」(『地下室の手記』)
- 《地下室の人間》は、自分のあらゆる明確な特徴を内省の対象とすることによって、それらを自らの内部で溶解させてしまっているばかりではなくて、そもそも彼の内にはすでにそうした特徴も、はっきりとした定義も存在しないのである。
- 作者もまた、彼の自意識に対しては中立的な立場にしか立てず、その人間像を完結させることのできるような、何らかの天下りの力を行使することはできない。
- というより作者が描き出したものこそ、まさに主人公の自意識、そしてその自意識の絶望的な非完結性と無限の悪循環そのものなのだ。
- 芸術世界のモノローグ的な単一性を解体するためには、主人公像の造形における内省と自意識を梃子としたコペルニクス的転回が必要だが、しかしそれには条件がある。
- モノローグ的な構想に従えば、主人公は閉じられており、はっきりとした意味上の輪郭で囲まれている。彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり「リアルな」人物として描写された自己イメージの枠内で行われる。
- 彼は自分自身であることをやめない。自分の性格やタイプや気質の境界を逸脱すれば、必ずや彼に関する作者のモノローグ的な構想を破壊してしまうから。
- ドストエフスキーはすべてのモノローグ的な前提を拒否している。
- 『地下室の手記』の主人公に関して、我々は彼本人が知っていることを除いては、文字通り何も語るべきことを持たない。彼が属する時代および社会階層に照らした彼という人間の典型性、その内面的特徴の心理学的もしくは精神病理学的な客観的定義、性格論的に見た彼の意識の類型、その喜劇性と悲劇性、その人格に関するありとあらゆる倫理上の判断等々──こうしたもののすべてを、ドストエフスキーの意図によれば、主人公自身が十分に知っており、そして自分の内側から湧き上がってくるそのような定義の一つ一つを、彼はまるで腫物を散らすように、やっきになって散らそうとしている。
- あたかも外側からの視点はあらかじめ無力化されていて、最終的な発言権を奪われているかのようだ。
- 《地下室の人間》はもっぱら自分が他人にどう思われているか、どう思われ得るかについて考え、それぞれの他者の意識、他者の自分に関する意見、自分への洞察のすべてに先回りしてしまおうとしている。その告白の重要な瞬間瞬間において、彼は自分に対してなされるであろう他者の定義や評価を先取りし、その評価の意味やニュアンスを推察することに努め、自分に関してあり得べき他者の言葉を丹念に検討しようとするので、彼自身の言葉は想定される他人の言葉によって絶えず中断させられてしまう。
- 地下室の主人公は自分についての他者の言葉の一つ一つに耳を傾け、いわば他者の意識の鏡のすべてを覗き込み、ありとあらゆる形に歪められた自らの像を認識している。
- 彼はまた自分という人間の客観的で中立的な定義についても、それが他者の意識にとってのものであれ、また自分の自意識にとっての定義であれ、よくわきまえていて、第三者の視点をいつも計算に入れている。
- だが彼は同時に、主観的なものであろうが客観的なものであろうが、そうした定義のすべては彼が自分で把握しているものであり、そして彼自身がそれを意識しているという理由によって、どんな定義も彼を完全に規定することができないと理解している。つまり彼はそうした定義の枠を乗り越えてみせ、それらが不十分なものだということを示し得る。
- 彼の自意識は、その不完結で非閉鎖的で非決定的な生を生きている。
〔03 主人公=言葉〕
- ドストエフスキーが作り上げたのは主人公の性格でもなければタイプでも気質でもない。
- そもそも彼は主人公の客観的な像をこしらえたのではなく、まさに自己と世界についての主人公の「言葉」を構築したのである。ドストエフスキーの主人公とは客体的な人物像ではなく、掛け値のない「言葉」、純粋な「声」だ。そうした「言葉」と較べれば、肉体どころか感情でさえも二義的なものとなる。
- ドストエフスキーの作品から「主人公の言葉」を除けば、残るものはすべて非本質的なものでしかなく、言葉の素材として言葉の中に飲み込まれてしまうものか、あるいは言葉の外部に残って、それを刺激し、挑発するファクターでしかない。
- 筆者が確信するところによれば、ドストエフスキーの長編小説の芸術的な構成の全体は、そっくりそのままこの「主人公の言葉」の解明と説明に向けられており、それを刺激し、方向づける機能を担っている。
- ドストエフスキーが自分の主人公たちから、そのぎりぎりの限界にまで達するような自意識の言葉を搾り取ろうとして、彼らに対して行う一種の精神的な拷問は、人物描写に含まれるあらゆる物質的かつ客体的なもの、確固として不変なもの、外的で中立的なものを、その人物の自意識と自己告白の領野で溶解させてしまう。
- ドストエフスキーの《残酷なる才能》の熱心な追随者たちは、たいていの場合ヒステリーもしくは各種のヒステリックな狂乱の域を出ていない。
- 彼らには、自己を対話的に開示し、説明し、他人の意識に映った自分の諸側面をつかまえようとし、抜け道をこしらえ、具体的な他者の意識との緊張した相互作用の過程で、自らの最後の言葉を引き延ばそうとして、かえって本音を露呈してしまうような、そんな作業を主人公に強いる、きわめて複雑微妙な社会環境を主人公の周囲に作り出すことが、できない。
〔04 「幻想的な速記者」のような仮構の必要性〕
- 主人公の自己説明や自己開示、自分に関する彼の「言葉」が、あらかじめ彼のニュートラルなイメージによって決定されているのではなく、小説構成の最終目的として設定されているという事情が、ドストエフスキーの作品においても、時に作者の狙いを《幻想的なもの》とすることがある。
- ドストエフスキーにとって主人公の真実味とは、純粋に自分自身に関する彼の内的な言葉の真実味を意味していたわけが、しかし彼の言葉を聞き分け、示し、その内省の中に潜り込んで膚接するような近さで把握するには、意識の境界の侵犯が必要とされる。
- 言い換えれば、 通常の人間の意識は、他人の客体的な像を受け入れることはできても、他人の自意識を全体として取り込むことはできない。ここで問題が生じる。作者は一体どのような観点に立てば良いのだろうか。
- 例えばドストエフスキーは『おとなしい女』の作者前書きで次のように述べている。
- 「もちろんこの話は、途中で途切れたり休んだりしながら延々と何時間も続くものであり、形式にもまとまりがない。主人公は独り言を言っていたかと思うと、急に目に見えぬ聴衆に向って、あるいはまるでどこかの裁判官に向って話しかけるような口調になる。まあ我々の現実の振舞いも、いつもまさにそういったものなのだが。そこでかりにどこかの速記者が、そっと彼の話を盗み聞きして、彼に代わってすべてを書き留めることができたとしたなら、結果はここにお見せするものよりもいく分あら削りで粗雑なものになるだろうが、私が思うに、心理面での前後関係はたぶん変らないだろう。つまりそのような速記者がいてすべてを書き記す(そして後に私が原稿に手を加える)という仮定こそが、私がこの小説における幻想的要素と呼ぶものだ。」
- ドストエフスキーの主人公が自らに自体を説明しながら到達することになっている、そして結局実際に到達する《真実》とは、作者の立場から見ればそもそも、この人物自身の意識にとっての真実に過ぎない。
- それは自意識に対してニュートラルではあり得ない真実である。だからもし他人の口から語られたとしたら、内容的にはまったく同じ言葉、同じ定義でも、別の意味と語調を帯びてしまい、すでに真実ではなくなってしまうだろう。おそらくはただ告白的自己表現という形式を通じてのみ、一人の人間の内省の全過程に釣り合う、彼についての最終的な言葉を得ることができる。
- そのような告白を、その自己主張の語調を保存したまま、多声的な長編小説の全体にわたって導入するという課題ために、ドストエフスキーは、『おとなしい女』における幻想的な速記者といったような仮構を、そのつど努力して案出しなければならなかったのだ。
- この芸術的努力はトルストイには無縁のものだった。トルストイにおいては「『主人公の言葉』を小説に導入するにはどうしたらいいか?」という問題自体が発生しない。トルストイは、主人公の死の直前の思考、彼の意識の最後のきらめきやその最後の言葉を、作者の立場から直接物語の生地の中に平然と導入して、それが「写実的」「客観的」だと高をくくることができる。
〔05 ポリフォニー小説における作者の特殊な位置づけの問題〕
- 自意識が主人公像の構築における主調音となるためには、描写される人物に対する作者の位置関係が根本的に新しいものとなることが前提とされる。
- 繰り返すが、問題は何か新しい人間の特徴とか新しいタイプを解明することではない。ここで問題なのは、まったく新しいトータルな人間の視点──すなわちドストエフスキーの言う《人間の内なる人間》の視点──の解明なのである。
- このためには人間を扱う作者の立場そのものも、それにふさわしく新たなトータルなものとならなければならない。
- ここでこのトータルな立場、人間観のまったく新しい形式というものについて、もう少し詳しく検討してみよう。
- すでにドストエフスキーの処女作『貧しき人々』において、いわゆる《小さな人間》を当事者不在の傍観的な視点から規定し、総括してしまうような文学の姿勢に対する、主人公自身の小さな叛逆のようなものが描かれていた。
- 「今月の六日にお借りしたご本〔ゴーゴリの『外套』〕を取急ぎお返しいたします。と同時に、この手紙でひとつ釈明しておきたいことがあります。いけませんね、ワーレンカ、こんなにわたしを追いつめるなんて、ほんとに、いけませんね。まあ、聞いてください、人間の境遇というものは、だれでも至高の神さまからきめられているのですよ。ある人は将軍の肩章をつけ、またある人は九等官として勤めるように運命づけられております。ある人は他人に命令をくだし、ある人は不平もいわずに戦々兢々としながら、その命令に服従するようになっています。これはもう人間の才能によって決っているのです。ある人にはこれこれの才能があり、また別の人には別の才能があるのですが、その才能は神さまによって与えられているのです。わたしはもうかれこれ三十年近くも役所勤めをしております。勤めぶりも非難されたことがなく、品行の方正で、規律にそむいたこともありません。一個の市民として、わたしは欠点もあるが、同時に長所もある人間だと自覚しております。上司の人びとにも尊敬され、閣下からも満足していただいております。もっとも今まで上司の人びとから特別の好意を示されたことはありませんが、わたしに満足しておられることは承知しております。白髪になるまで生きてきましたが、顧みて大きなあやまちを犯したとは思いません。もちろん、小さなあやまちのない者はいないでしょう? 誰だってあやまちはあるもので、きみにだってあやまちはありますよ! でも、大きなあやまちや、大それた行い、つまり、法にふれたり、公安を害するようなことは、一度も見つかったことがありませんし、また、そんなことはしたこともありません。十字勲章さえ貰おうとしたんですから。でもそんなことはどうでもかまいません! こういうことはきみも良心にかけて、ちゃんと知っていてくださるはずですね。いや、あの男〔ゴーゴリ〕だって知っているのが当然です。なにしろ、物を書こうとするからには、なんでも知っておくべきですからね。いや、ワーレンカ、きみからそんなことをいわれようとは思いませんでしたよ! ほかならぬきみからあんなことを聞かされようとは思いませんでしたね。」
- この叛逆の深刻な、深い意味合いを、次のように表現することができる。──生きた人間を、当事者抜きで総括してしまうような認識の、もの言わぬ客体に帰してしまうことは許されない。人間の内には、本人だけが自由な自意識と言葉という行為をもって解明することのできる何ものかが存在しており、それは人間の外側だけを見た本人不在の定義ではけっして捉えきれないものである。
- 『貧しき人々』において初めてドストエフスキーは、いまだ不完全で曖昧な形ながら、人間の内部にあってけっして完結しない何ものかを示そうとした。それはゴーゴリその他の《貧しき官吏たちの物語》の作者のモノローグ的な立場からは示し得ないものだった。
- ドストエフスキーの後年の作品には、主人公達がみな、他者(他の作中人物)の口にのぼる自分の人格の定義に対して、やっきとなって闘っている様が見て取れる。
- 彼らは、己れを外見だけで決めつけようとするあらゆる定義を内側から突き破って、それを虚偽としてしまうような自分自身の可能性を感じている。彼らは常に、彼を決めつけ、死人扱いするような他者の評言の枠を打ち破ってやろうとしている。
- 場合によってはその闘いが(例えばナスターシャ・フィリポヴナにおけるように)、その人物の生活の重要な悲劇的モチーフとなる。
- ラスコーリニコフ、ソーニャ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン、ドミートリーなどの主導的人物、すなわち大きな対話の主役たちは、自らの不完結性と非決定性の深い意識を、イデオロギー的思考や犯罪、あるいは偉業の形で、非常に複雑な道筋を介して表現する。
- ドストエフスキーの芸術構想によれば、人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身と一致しないこの一点である。
- 人格の真の生を捉えようとするなら、本人不在のままそれを分析するのではなく、ただそれに対話的に浸透するしか道はない。
- 対話姿勢を欠いたまま他人の口から語られるある人間に関する事実、すなわち本人不在の真実は、もしそれがその個人の《神聖不可侵》の部分、つまり《人間の内なる人間》に関わってくる場合には、彼をおとしめる致命的な虚偽となる。
- 個人の生を捉えるための対話的浸透の姿勢、これこそがポリフォニー小説の作者に要求される態度なのだ。
〔06 作中人物の自由と自立性に矛盾しない、ポリフォニー小説の作者の積極性・能動性〕
- 創作期の一番最後のノートの中で、ドストエフスキーは自らのリアリズムの独自性を次のように定義している。「完全なるリアリズムにおいては、人間の内なる人間を見出すことが目標となる……私は心理学者と呼ばれるが、それは誤りだ。私はただ最高度の意味でのリアリストに過ぎない。つまり私は人間の心の深層の全貌を描こうとしている。」
- この見事な公式について以下の三つの点を強調しておく。
- 【1】ドストエフスキーは「人間の心の深層の全貌」を、自分の外部に、つまり他者の心の内に見出そうとしている。
- ドストエフスキーは自身をリアリストとみなしており、自身を自己の意識世界の内に閉ざされた主観的ロマン主義者とはみなしていない。
- 「人間の心の深層の全貌を描く」という新しい課題を、すなわちその深層なるものの在処を、自分の外部に、つまり他者の心の内に見出そうとしている。
- 【2】ドストエフスキーは、この新しい課題を解決するために、《最高度の意味でのリアリズム》を必要とした。
- ドストエフスキーは自らの新しい課題を解決するためには、通常の意味のリアリズム、つまりモノローグ的リアリズムでは不十分であって、《人間の内なる人間》への特別のアプローチ、すなわち《最高度の意味でのリアリズム》が必要とされると考える。
- 【3】ドストエフスキーは、自分が心理学者であることを断固否定している。
- ドストエフスキーは人間を描こうとするとき、常に相手を最後の決断の土壇場において、つまりある危機に直面して、その心が一向にまとまりのつかない、したがって予断を許さない展開にある状態で描いた。
- しかし心理学は、そうした人間の生きた人格の核心を捉えず、その代りにいわゆる《心理学的法則》によって、言葉も行動もすべて《自然に》あらかじめ決定されてしまっているような、出来合いの決まりきった人物像を扱おうとしている。
- 『罪と罰』の腕利きの予審判事ポルフィーリイ・ペトローヴィチ(彼こそは心理学を「諸刃の剣」と呼んだ人物である)が指針とするのは、そうした心理学ではなく、一種独特の対話的洞察であった。
- ポルフィーリイとラスコーリニコフの三度の対面はすべて、見事なポリフォニー的対話となっている。彼がラスコーリニコフの未完結で未決定な心を見抜くことができたのはそれ故だ。
- このようなわけで、ドストエフスキーのポリフォニー小説が開いた主人公に対する作者の新しい芸術的立場とは、ひたむきに実践され、とことん推し進められた対話的立場であり、それが主人公の独立性、内的な自由、未完結性と未決定性を保証している。
- 主人公の内省の終わりなさは、作者の構想の一部をなす。
- 「主人公の言葉」は作者によって作られるが、作者はそれを比類ない他者の言葉、すなわち作者自身の言葉とは異質のものとして、それ自身の内的論理と自立性を究極まで展開する力を持つものとして創造する。
- ポリフォニー小説の作者の主観的な見解は、示されない。作者の共感や反感も、個々の主人公への賛成や反対も、作者個人の思想的立場も、いっさい示されない。
- しかしこれは作者の立場を消すことではなく、作者の立場を根本的に変化させることである。
- ここでもう一度、作者の不在という消極性だけでなく、ポリフォニー小説の新しい作者の立場の積極的な意味での能動性を強調しておく。
- ポリフォニー小説の作者の意識は、小説中に不断に遍在し、そこで最高度に能動的な役割を果している。しかしその意識の機能と、その活動の形式は、モノローグ小説におけるのとは異なっている。
- 作者が他者の自意識(つまり主人公たちの意識)を凍りつかせ客体と化してしまうこともなく、また彼ら抜きで彼らに総括的な定義を下すこともない。
- 作者は客体たちの世界をではなく、それぞれの世界を持った他者の内省・自意識を受け取り、再現する。しかもその本来の完結不能性(そこにこそ他者の意識の本質がある)の相において再現する。
- それが可能なのは作者の対話的な姿勢のためだ。客体として扱い、分析し、定義するわけにはいかない他者の自意識というものに対してできるのは、対話的につきあうことだけだ。
- 他者の自意識について考えるとは、それらと語り合うことである。さもなければそれらはすぐさまこちらに客体としての・物象化された・決まりきった側面を向けてよこす。
- ポリフォニー小説の作者は、極度に張りつめた大いなる対話的能動性を要求される。自分の共感していないような見解のすべてに対して、それを客体化するようなニュアンスを投げかけることは慎まねばならない。
- 作者の対話的能動性が弱まると、すぐさま主人公たちは凍りつき、物象化し、小説中にモノローグ的に形式化された生の断片が出現する。
- そのようなポリフォニー的構想からこぼれ落ちた断片は、ドストエフスキーのあらゆる小説に見出すことができるが、しかしもちろんそれらが全体の性格を規定しているわけではない。
- 作中人物の思索や内省をとことんまで突き詰められるのも、他者の自意識、他者の存在への積極的な対話的浸透という基盤に立ってこそ可能なのだ。
- ポリフォニー小説の作者が用いる言葉、それは本人不在のままなされる対象分析の言葉ではなく、つまり《第三者》の言葉ではなく、《第二者》の言葉としてある。
〔07 作中人物間のミクロな対話〕
- ポリフォニー小説の作者は、作中人物たちに対して対等な対話者としての立場を取る。
- が、当然対話的関係は作中人物相互の間にも生ずる。作者は重要な事柄を全部、主人公たちに見させ、認識させるが、それらの認識はまた別の作中人物=他者(例えばマカール・ジェーヴシキンに対してはワルワーラ、ヴェリチャーニノフに対してはトルソーツキイ……)の真実と突き合わされ、対話的接触を強いられるのでなければならない。
- したがって小説の言葉は複声的になり、一つ一つの言葉の中に議論(ミクロの対話)の声が響き、ある作中人物の言葉のイントネーションには別の人物のイントネーションが重なり、さらにそこに大きな対話の反響が聞こえることだろう。
- ミクロな対話の例を挙げる。
- ラスコーリニコフの第一の大きな内的モノローグ(『罪と罰』の冒頭部)の断片を参照しよう。問題となっているのはルージンに嫁ぐという妹ドゥーニャの決意である。
- 《(略)そして何もかもが白日のようにはっきりしている。この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが登場し、しかも主役であることも、はっきりしている。なにいいさ、彼の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやることができる、もしかしたら、彼はのちに金持になり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり、しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ! だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かげないのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう! おお、なんとうやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ! 犠牲というものを、犠牲というものをあんた二人はよくよくはかってみましたか? どうです? 堪えられましか? とくになりますか? 分別にかないますか? ドゥーネチカ、おまえは、ソーネチカの運命がルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて、すこしもいやしいものでないことを、知っているのかね? 〈愛情というものがあったわけではない〉──と母さんは書いている。愛情ばかりか、尊敬もあり得ないとしたら、それどころか、もう嫌悪、侮蔑、憎悪の気持が生まれているとしたら、どうなるだろう? そうなれば、またしても、〈身なりをきれいにする〉ってことが必要になってくる。そうじゃないかね? わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。いやもしかしたら、もっと悪く、もっといやらしく、もっときたないかもしれん、というのは、ドゥーネチカ、なんといってもおまにはすこしでも楽をしようという打算があるが、あの娘は餓死というぎりぎりの線に追いつめられているからだよ! 〈ドゥーネチカ、このきれいというやつは、高くつくよ、ひどく高くつくんだよ!〉あとで力にあまるようなときがきたら、どうする? 後悔してももうおそいよ。どれだけ悲しみ、なげき、呪い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか、だっておまえはマルファ・ペトローヴナのような女じゃないもの! そうなったら母さんはどうなるだろう? もう今から心配で、胸を痛めているというのに、何もかもがはっきりわかるときがきたら、いったいどうなるだろう? ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》(略)
《さもなければ、生活を完全に拒否するのだ!》彼は不意に狂おしく叫んだ。《あるがままの運命を、永遠に、おとなしく受け入れて、行動し、生活し、愛するいっさいの権利を拒否して、自己の内部のいっさいを押し殺してしまうのだ!》
《わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どういう意味か?》不意に彼の頭にマルメラードフの昨日の質問がうかんだ。《なぜって、どんな人間だってどこか行けるところがなかったら、やりきれませんよ……》 - ここに断片的に引用したラスコーリニコフの対話化された内的モノローグは、ミクロの対話の見事なサンプルである。そこではすべての言葉が二つの声を持ち、一つ一つの言葉の中で、声たちの論争が生じている。
- 実際引用場面の冒頭で、ラスコーリニコフは独特な価値観と信念のイントネーションを持ったドゥーニャの言葉を再現しながら、彼女のイントネーションの上に、自らの皮肉な、苛立った、警告を発するようなイントネーションを重ねている。つまりこの言葉の中には同時に二つの声が、つまりラスコーリニコフとドゥーニャの声が響いている。そしてそれに続く言葉(「でもいまはロージャが第一だ。かげないのない長男のロージャさえよくなってくれたら!」)には、すでに愛情と優しさのイントネーションを伴った母親の声が、そしてそれと同時にラスコーリニコフの苦いアイロニーと(相手の犠牲精神への)苛立ちと、自分の側からの暗い愛情のイントネーションを伴った声が響いている。さらに後のラスコーリニコフの言葉の中には、ソーニャとマルメラードフの声さえも聞こえる。
- 一つ一つの言葉の内部を対話が貫き、そこで声たちの闘争と挌闘が引き起されている。これこそがミクロの対話だ。
- そして小説のこれ以降の展開においても、その内容に入り込んでくるもののすべてが──人間も、思想も、事物も──ラスコーリニコフの意識の外部に置かれることはなく、意識に対置されて対話的にそこに反映される。
- 彼の人格、個性、思想、行為に対するありとあらゆる評価や見解が、彼の意識にまでもたらされ、ポルフィーリイやソーニャやスヴィドリガイロフやドゥーニャといった人物たちとの対話の場において、彼に突き付けられるのである。
- 具体的に立ち現れる他者の世界像が、彼の世界像と交錯する。
- ペテルブルクの貧民窟も、その壮麗な町並も、偶然の出会いや小さな出来事も、彼が見かけたり観察したりすることのすべてが、この対話に導入され、彼の問いに答え、新しい要素を彼に提示し、彼を挑発し、彼と議論したりその思想を肯定したりするのだ。
第四章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴
〔01 社会心理小説、風俗小説、家庭小説、伝記小説、冒険小説〕
- 以上の章で解明を試みてきたドストエフスキーの詩学の諸特徴が成り立つためには、当然ジャンルやプロット構成といった要素も、彼の創作においてまったく新しい扱われ方をされていることが前提となる。
- 伝記小説とか、社会心理小説とか、風俗小説とか、家庭小説とかのジャンルおよびプロット構成上の形式、つまりドストエフスキーの時代の文学を支配し、トゥルゲーネフ、ゴンチャローフ、トルストイといった同時代人たちによって開発された形式には、彼の主人公も、全体構成のためのポリフォニー原理そのものも納まりきらない。
- 社会心理小説、風俗小説、家庭小説、伝記小説の筋立ては、主人公同士を単に人間同士として結びつけるのではなく、父と子、夫と妻、ライバルとライバル、愛する男と愛される女、あるいは地主の農民、資産家とプロレタリアート、裕福な小市民と階級を外れた放浪者などといった形で組み合わせる。
- 家庭的な要素、人生の浮沈や伝記的な要素、社会階層や階級的要素などが、筋立ての一部始終を完全に規定する堅固な基盤となっている。だからそこには偶然ということはあり得ない。
- そして主人公たちは一人の具体的な人間、社会的・性格的に規定され、完全に生きた肉体をまとった人間として登場する。彼らは、人生のある特定の場所にいる人間としてプロットに参加するのであり、自分の階級や階層、家庭状況、年齢、実人生うえの目的といった、具体的で堅固な殻にくるまれて、結果、筋立てを決定するような影響力を持つことがない。
- 逆に筋立てが彼らを定義付ける。主人公たちはプロットに従って配置されていて、ただ一定の具体的な土壌の上でしか互いに出会うことはできない。彼らの相関関係はプロットによって組み立てられ、プロットによって完結されるのである。
- 人間としての彼らの自意識および内省の言葉が、プロットを離れていささかでも本質的な関係を互いに結ぶことは不可能である。
- ドストエフスキーのポリフォニー小説は、別のプロットの構成の基盤の上に作られ、ヨーロッパ芸術散文の発展史の中の別種のジャンル伝統に結びついている。冒険小説というジャンルだ。
- 冒険小説のプロットは、人物を例外的な状況に置き、彼の内面を開示し挑発して、異常で思いがけないシチュエーションの中で彼を他の人物たちと出会わせ、衝突させる。
- それはみな《人間の内なる人間》を試練にかけることを目的としている。そのおかげで冒険小説が、一見それとは無縁な告白や伝記その他のジャンルと、結びつき得るようになる。
- 実は冒険小説的要素を、鋭い問題提起性、対話性、告白、聖人伝、説教の要素と組み合わせることは、まったく新しい、空前の事柄だったわけではない。新しいのはただドストエフスキーがこうしたジャンルうえの異種混交を、ポリフォニーとして利用し、意味づけたことであって、こうした現象自体の根は、古くは古代にまでさかのぼる。
〔02 《ソクラテスの対話》、《メニッポスの風刺》〕
- 筆者がかりに《対話的》と呼んでいる小説の出発点である文学ジャンルとして、例えば《ソクラテスの対話》を挙げられる。
- 《ソクラテスの対話》というジャンルの要素の内で、我々の論点にとって格別の意味を持つものをいくつか検討しよう。
- 【1】このジャンルの根本には、真理および真理についての人間の思考が対話的性格を持つという、ソクラテス風の考えがすえられている。
- 真理とは一人一人の人間の頭の中に生まれ、存在するものではなく、ともに真理を目指す人間同士が対話的に交流する過程において、人々の間に生まれてくるものだ、というわけだ。
- ソクラテスは個人としての自分だけがある出来合いの真実を所有しているとはけっして考えなかった。彼を交えた対話は、新参者を教育するための問答形式(教理問答)ではあり得ない。
- 【2】《ソクラテスの対話》の二つの基本的な方法は、《シンクリシス》と《アナクリシス》であった。
- シンクリシスとは一つの対象に対する様々な見方を対比することを意味した。
- 《ソクラテスの対話》では一つの対象に対する多用な言葉や意見を対比する技術に非常に大きな意味が与えられている。
- アナクリシスとは対話の相手をけしかけてその言葉を導き出し、相手が意見を言わざるを得なくしてしまう、しかも最後まで言いきらせてしまう方法を意味した。
- ソクラテスはこうしたアナクリシスの一大名手であって、彼は人々に語らせることで、その無知ゆえの頑固な先入観に言葉をまとわせ、言葉の光でそれを照らし、そうすること自体によってその虚偽と不十分さを暴いてみせた。
- アナクリシスとはつまり、言葉によって(プロットの状況によってではなく)言葉を挑発することに他ならない。
- 【3】《ソクラテスの対話》においては、時としてアナクリシスつまり言葉による言葉の挑発と並んで、対話の置かれているプロット上のシチュエーションが同じ役割を果たすことがある。
- プラトンの『弁明』では、裁判および予想される死刑宣告というシチュエーションが、ソクラテスの発言に土壇場に立つ人間の釈明・告白という特殊な性格を与えている。そこには、ある異常な状況を作り出し、言葉を日常のオートマティズムや客体性から解放して、人間にその人格と思想の深層を開示せしめようという作為が存在している。
- 文学ジャンルの土壌には、《ソクラテスの対話》の時点ですでに、特殊なタイプの《境界線上の対話》が発生していたとみなすことができる。
- 【4】《ソクラテスの対話》における思想は、それを担う人物像(ソクラテスおよびその他の対話の重要な参加者たち)と有機的に結びついている。
- 《ソクラテスの対話》の中での対話による思想の試練とは、すなわち思想の担い手たる人間の試練であった。
- 以上が《ソクラテスの対話》の基本的な特性である。
- ここから我々はこのジャンルが、ヨーロッパの芸術的散文および小説の発展史の内の、ドストエフスキーの創作に通ずる系列の、一つの源泉となったと判断できる。
- ドストエフスキー作品に連なる、古典古代末期、およびその後のヘレニズム期に存在していた文学ジャンルとして、ほかに《メニッポスの風刺》──とりわけそこに取り込まれたソリロキウム──を挙げよう。
- ソリロキウムというジャンルの際立った名手と言えば、エピクテトス、マルクス・アウレリウス、アウグスティヌスである。
- ソリロキウムのジャンルは自分自身への対話的態度を特徴とする。自分自身と対話的に付き合うこと──つまり自己との会話だ。
- このジャンルの根底には、内なる人間つまり《自分自身》の開示という目標があるが、それは受動的な自己観察によるのではなく、積極的な自己自身への対話的アプローチによって達成されるとされる。外皮とは他人のためにあるもの、他人の目から見た人間の外面的評価を定める役割をするものであり、したがって純粋な自意識には邪魔ものでしかない、というわけだ。
- そしてこの自己対話的態度こそ、抒情詩、叙事詩、悲劇の人間像の根底にある素朴で一貫した自己というイメージを破壊する。この問題設定がきわめてドストエフスキーであるのは明らかだ。
- (※とはいえドストエフスキーにおいて決定的なのは具体的な他者(マカール・ジェーヴシキンに対するワルワーラ、ヴェリチャーニノフに対するトルソーツキイ……)の声に対する応答であり、単に自己対話の相手として呼び出される匿名的・社会的・想像的他者ではないはずだ。)
〔03 カーニヴァル的世界感覚〕
- 次に我々は文学のカーニヴァル化の問題に移らねばならない。
- カーニヴァル(カーニヴァルタイプの様々な祝祭、儀式、様式を総称してこう呼ぶ)の問題、すなわちその本質、人類の原始的な体制と原始的な思考に深く浸透したその根源、階級社会の条件下でのその発展、その比類ない生命力と不朽の魅力に関する問題は、文化史においてもっとも複雑で興味深い問題の一つである。
- ここでは無論この問題を本格的に論ずることはしない。そもそも本書の関心はカーニヴァルの文学に対する、特にそのジャンル面に対する決定的な影響の問題に限定される。
- カーニヴァルそのものは、もちろん文学的現象ではない。それは儀式的性格を帯びた多種混合の見せ物の一つの形式である。カーニヴァルは象徴的かつ具体的・感覚的な形式の言語体系を作り上げたが、それは大規模で複雑な大衆劇から個々のカーニヴァル的身振りに至るまでを包括している。
- このカーニヴァル言語の文学言語への移し換えのことを、本書では文学のカーニヴァル化と呼んでいる。
- カーニヴァルの個々の要素と特徴を抜き出して検討してみよう。
- カーニヴァルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見せ物である。
- カーニヴァルでは全員が主役であり、全員がカーニヴァルという劇の登場人物である。
- カーニヴァルは鑑賞するものでもないし、厳密に言って演ずるものでさえなく、生きられるものである。
- カーニヴァルの法則が効力を持つ間、人々はそれに従って生きる、つまりカーニヴァル的生を生きる。
- カーニヴァル的生とは通常の軌道を逸脱した生であり、何らかの意味で《裏返しにされた生》《あべこべの世界》である。
- 【自由で無遠慮な人間同士の接触】
- 通常の、つまりカーニヴァル外の生の仕組みと秩序を規定している法や禁止や制限は、カーニヴァルのときには廃止される。
- 何よりもまず取り払われるのは社会のヒエラルキー構造と、それにまつわる恐怖・恭順・崇敬・作法などといった形式である。つまり社会のヒエラルキーやその他の要因(年齢も含む)からくる不平等に基づくものすべては取り払われる。
- 人間同士の間のあらゆる距離も取り払われ、カーニヴァル特有のカテゴリーである、自由で無遠慮な人間同士の接触が力を得ることになる。実生活では堅固なヒエラルヒーの障壁によって隔てられていた人々は、カーニヴァルの広場において自由で無遠慮な接触関係に入る。
- あけすけなカーニヴァル的言葉は、この無遠慮な接触の原理によって規定されている。
- 【人間相関関係の新しい様態】【常軌の逸脱】
- カーニヴァルでは、半ば現実、半ば演技として体験される経験的・感覚的形式の中で、外部の生活では万能の社会的ヒエラルヒーと真っ向から対立する、人間の相関関係の新しい様態が作り出される。
- 人間の振舞い、身振り、言葉は、外部世界でそれらをまるごと規定していたあらゆるヒエラルヒー的与件(階層、地位、年齢、財産)の支配下を脱し、それゆえに通常の外部世界の論理に照らすと、常軌を逸した場違いなものとなる。
- 常軌の逸脱こそカーニヴァル的世界感覚に特有なカテゴリーであり、それは無遠慮な接触というカテゴリーと有機的に結びついている。
- 【カーニヴァルにおけるちぐはぐな組み合わせ】
- 同じく無遠慮な接触と結びついているのが、カーニヴァル的世界感覚の第三のカテゴリー、すなわちカーニヴァルにおけるちぐはぐな組み合わせである。
- カーニヴァル外のヒエラルヒー的世界観の中で閉ざされ、孤立し、引き離されていたもののすべてが、カーニヴァル的接触や結合に突入する。叙事詩や悲劇における距離は破壊される。
- それが対話的系列の散文小説の中に移し換えられると、すなわち実際プロットやシチュエーションの組み立てに反映されると、(高尚なジャンルでは不可能な)主人公に対する作者の立場の格別の無遠慮さを生み、ちぐはぐな組み合わせや冒涜的な格下げの論理が炸裂する。
- 【交替・再生の不可避性と生産性】
- カーニヴァル劇の主流は、カーニヴァルの王のおどけた戴冠とそれに続く奪冠である。王の戴冠と奪冠という儀式劇の根底には、カーニヴァル的世界感覚の核心をなす交替と変化、死と再生のパトスが存在する。
- 戴冠式のそもそもの最初から奪冠の様子が予感される。そして奪冠はまた新たな戴冠を予感させる。
- カーニヴァルが祝うのは交替そのもの、交替のプロセスであり、何が交替されるかは関係がない。
- カーニヴァル的笑いは交替する二つの極を一挙に捉えながら、交替のプロセス自体を、つまり危機そのものを笑う。そこには深い両義的性格がある。
〔04 ドストエフスキーの長編におけるカーニヴァル化〕
- ドストエフスキーの長編におけるカーニヴァル化のその他の特質をいくつか検討してみよう。
- カーニヴァル化──それは出来合いの内容の上にかぶせる表面的な不動の図式ではなく、芸術的なものの見方の非常に弾力性に富んだ形式なのであり、それまで見たことのない新しいものの発見を可能にする、一種の発見の原理である。
- 交替と更新のパトスを伴ったカーニヴァル化は、表面的に堅固な、完成された、出来合いのものをすべて破砕し、ドストエフスキーに人間および人間関係の最深層をのぞき込ませた。
- カーニヴァル化は実際、成長過程にある資本主義的な諸関係を芸術的に理解するためには、驚くほど生産的な方法である。
- 資本主義的関係においては、以前の生活形態、道徳的基盤、信仰が《腐った紐》に成り下がり、それまで隠されていた人間、および人間の思想の両義的な非-完結性が、白日のもとにさらされることになるのだから。
- 人間および人間の行動はもちろん、その信念(=イデエ)までが、閉じられた階級的な住処を離脱し、《絶対的な》(つまり何ものにも制約されない)対話における無遠慮な接触の中で、互いにでくわすことになるのだから。
- かつてのアテネの市の立つ広場の《仲介者》ソクラテスのように、資本主義は人間同士、自意識同士を引き合わせる。
- 『罪と罰』を始めとするドストエフスキーの長編のどれを取っても、例外なく対話の徹底的なカーニヴァル化が行われている。
- 長編『罪と罰』では、人間の運命、体験、信念(=イデエ)のすべてが、それぞれ存在の境界線ぎりぎりの地点まで押しやられて、まるでいまにもその正反対の存在に移行してしまいそうであり、すべてが極限まで、その限界まで引き寄せられている。
- そこには安定し、それ相応に自足し、通常の伝記的な時間の流れに身を任せ、その流れの中で成長できるだろうようなものは何一つない(ラズミーヒンとドゥーニャにそうした成長の可能性があることを、ドストエフスキーは小説の末尾で示唆しはするが、もちろんそれを描いてはいない。そうした生は、彼の芸術世界の外のものだから)。
- そこではすべてが、交替と生まれ変わりを要求しており、すべてが、完結することのない移行の瞬間の中に描かれている。
- 『賭博者』『死の家の記録』に見られるのは、若干違ったニュアンスのカーニヴァル化である。
- ルーレット賭博と徒刑の照応性はきわめて本質的である。徒刑囚の生活も賭博者の生活も、そのあらゆる内容的な相違にもかかわらず、等しく《生活から切断された生活》(つまり、一般的な日常生活から切断された生活)だから。
- 徒刑囚たちも賭博者達も、カーニヴァル化された集団である。賭博場でも徒刑場でも、常識的な生活条件では同一平面上で同等の権利を持って一堂に会することなどないような様々な地位の人々が、無遠慮な人間関係という条件下に置かれてしまう。
- そして、徒刑の時間も賭博の時間も、そのあらゆる極端な相違にもかかわらず、同一タイプの時間なのであって、それは処刑寸前の、あるいは自殺寸前の《意識の最後の瞬間》の時間に、要するに危機の時間に似ている。すなわちそれは、すべて「敷居」上の時間であって、「敷居」から遠く離れた生活空間内部で経験される伝記的時間ではない。
- 長編『白痴』におけるカーニヴァル化は、表面的な一目瞭然性と深く内部に浸透したカーニヴァル的世界感覚とを伴って現れている。
- 長編の中心に立っているのは、カーニヴァル的な両義性を付与された《白痴》の形象、ムイシュキン公爵である。
- この特別な最高の意味における人間は、その行動を規定しその純粋な人間性を制限し得るようないかなる地位も、現実生活の中に占めてはいない。日常生活の論理から見れば、ムイシュキン公爵の行動と経験はすべて、場違いで極端にエキセントリックなものである。
- 例えばナスターシャ・フィリポヴナとアグラーヤに対する同時の愛を、生活の中で結び合わせようとするムイシュキンの試みは、日常生活の論理から見てあまりにパラドキシカルだ。
- ムイシュキンのこうした日常生活的諸関係からの切断性、彼の個性と行動のこうした不断の場違いさは、一貫したほとんどナイーヴな性格を帯びており、彼はまさしく《白痴》に他ならない。
- 長編のヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナもまた同様に、生活および生活上の諸関係の常識的論理から逸脱している。
- 彼女もまたいつでも、何事においても、自分の生活上の地位に逆らって行動する。
- カーニヴァルの幻想的雰囲気が長編全体を貫いている。
- 第一編の事件は夜明けに始り、深夜に終っている。
- この時間は悲劇的な時間でも(タイプとしては非常に近いが)、叙事詩的な時間でも、伝記的な時間でもまったくない。これはカーニヴァルに固有な時間の一日、あたかも歴史的な時間から切断されたかのようにその独特なカーニヴァルの法則に従って流れ、無限の抜本的な交替と変身を内包した時間による一日である。
- 他ならぬそうした時間──確かにそれは、厳密な意味ではカーニヴァルの時間ではなく、カーニヴァル化された時間ではあるが──それこそドストエフスキーがその特殊な芸術的な課題を解決するために必要とした時間である。
- ドストエフスキーが描いた深遠な内的意味を秘めた「敷居」、あるいは広場での出来事、それにラスコリーニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった人物群は、常識的な伝記的・歴史的時間の流れの中では到底開示できなかったであろう。
- カーニヴァル化はまた、大きな対話の開かれた構造を作り出すことを可能にした。ドストエフスキーは正真正銘のポリフォニー小説の創始者でもあるのだ。
- すなわちカーニヴァル化は、従来は主として単一かつ唯一のモノローグ的な意識が、つまり(例えばロマン主義におけるように)単一不可分で自己増殖的な精神が支配していた精神と知の領域の中に、人間の社会的な相互関係を持ち込むことを、ドストエフスキーに可能にさせた。
- カーニヴァル的世界感覚の助けがあればこそ、ドストエフスキーはその創作において、倫理的および認識論的な独我論を克服できたのだ。
第五章 ドストエフスキーの言葉
〔01 受肉された言葉による対話関係〕
- ドストエフスキーの多声的な長編小説においては、言葉づかいの差異、すなわち様々な言語スタイル、地域的な方言や社会的方言、職業上の隠語等々が、L・トルストイ、ピーセムスキー、レスコフ等々といったモノローグ的作家に比べてはるかに少ない。
- ドストエフスキーの小説の主人公たちは、同じ一つの言語を、ほかならぬ彼らの作者の言語を話しているかのように見紛うほどだ。
- だが実は、主人公たちの言葉づかいの差異や《発話のキャラクター性》が最高に芸術的な意味を持つのは、客体的で完結した人物像の創造にとってに過ぎない。人物像が客体的になればなるほど、その発話の特徴づけはますます鮮明になされるというわけだ。
- ポリフォニー小説においては、言葉づかいの多様性やキャラクター性の存在意義は依然残ってはいるものの、その意義ははるかに減少しており、しかも重要なことに、そうした現象の芸術的機能が変化している。
- ポリフォニー小説にとって問題なのは、純粋に言語学的基準を援用して確定される特定の言語スタイルや社会的方言等々の存在そのものではない。問題は、それらが作品の中でどのような対話的視点から比較対照され、衝突させられているかである。
- しかし、この対話的視点は、純粋な言語学的基準の援用によってはまったく確定できない代物だ。言語学(統辞論・意味論)の対象としての言語には、いかなる対話関係も存在しないし、存在し得ないのだから。
- 「人生は素晴らしい」「人生は素晴らしい」──これは二つのまったく同一な判断、つまり実質的には二度にわたって書かれた(あるいは発音された)たった一つの判断であるが、この「二」という数は、言語表現だけに関わっているのであって、判断そのものには関わってはいない。
- もしもこの判断が二つの異なった主体の二つの言表の中に表現されるならば、それら二つの言表の間には対話関係(賛成、承認)が生じるであろう。
- 対話関係は、論理的関係や対象指示的な意味関係なしには成立し得ないが、かと言って対話関係はそうした関係に還元されないどころか、固有の特性の持っている。
- 論理的関係および、対象指示的な意味関係は、それが対話関係になるためには、前述したように、受肉されなければならない。つまり異なった存在圏に参入して言葉すなわち言表となり、自らの作者を、つまり自らの立場を表現するようなその言表の創造主を獲得しなければならない。
- (相対的に)まとまった言表同士の間に対話関係が成立可能であるばかりではなく、言表の任意の有意部分に対しても、対話的なアプローチは成立する。
- 個々の語に対して、もしもその語がある言語に含まれる中立的な単語としてではなく、他者の意味的立場の表現として、他者の言表を代表するものとして知覚されるとすれば、すなわちそこに他者の声を聞き取ることができるとすれば、そのときには対話関係が成立する。
- 対話関係は、言表内部に、個々の語の内部にまで、もしもそれらの中で二つの声が対話的に衝突しているならば、入り込むことができる。このミクロの対話についてはすでに言及した通りだ。
- 言語学はこうした、対話的交流の諸条件のもとで、すなわち言葉の真の生活の諸条件のもとで不可避的に生じて来る複声的な言葉を、知らない。
- 実際の日常生活的な対話においては、話す者が相手の主張を文字通りに反復しながら、そこに新しい評価を組み入れたり、疑義や憤慨、アイロニー、嘲笑、愚弄等々といった自己流の様々なアクセントづけを施したりすることが、少なくない。
- 我々の発話の中に導入された他者の言葉は、否応なくその体内に新しい我々の理解、我々の評価を引き込んでしまう、つまり、複声的な言葉になってしまう。
- 言わば、我々の実際の日常生活的な発話には、他者の言葉が満ち溢れている。
- 我々は、ある他者の言葉については、それが誰の言葉であるのかを忘れて、それに自分の声を完全に融合させたり、また別の他者の言葉については、それを自分にとって権威ある言葉として受け取り、それによって自分の言葉を補強したり、さらにまた別な他者の言葉については、そこにその言葉に無縁な、あるいは敵対的な自分自身の志向性を組み込んだりしているのだ。
〔02 ドストエフスキーの作品の言葉〕
- 対話的応答の言葉において、他者の言葉は語り手の発話の枠外にとどまっているが、しかし語り手の発話は他者の言葉を考えに入れ、それと関係づけられている。
- そこでは他者の言葉は、作者の言葉の枠外にとどまりつつ、作者の言葉に作用し、影響を与え、何らかの形でそれを規定してもいる。
- とりわけ内的な論争の言葉──敵対する他者の言葉を意識した言葉──は、実際の日常生活的な発話においても、文学的な発話においても、きわめて広く普及しており、また大きな文体形成上の意義を持ってもいる。
- この内的な論争の言葉には、《他者に対するほのめかし》を含んだ言葉、《棘》を含んだ言葉、さらには卑屈な、もってまわった、あらかじめ自分を放棄しているような発話、いくつもの留保、譲歩、逃げ道等々を含んだ発話(それらは者の言葉、他者の返答、反駁を目の前にして、あるいはそれらの予感の中で、あたかも痙攣して身をよじらせているかのようだ!)のすべてが含まれる。
- 個々人がその発話を組み立てる方法は、大体において、その人に固有な他者の言葉の感じ取り方と、それに対する反応の仕方によって規定されている。
- 内的な論争に類したものに、あらゆる本質的で深遠な対話における応答がある。
- そうした応答における言葉はどれも、対象に向けられているとともに、具体的な他者(例えばマカール・ジェーヴシキンに対してはワルワーラ、ヴェリチャーニノフに対してはトルソーツキイ……)の言葉に過敏に反応し、それに答えつつ、それを先取りしようとする。
- 返答と先取りの契機は、緊張した対話の言葉の内部に深く浸透している。そうした言葉は、あたかも自分の中に他者の応答を取込み吸収しようとして、懸命になってそれらを加工しているかのようだ。
- 作中人物と区別された、(異質物語世界的な)語り手の言葉の中でも、こうした対話的なニュアンスの持つ意義は大きい。
- 「語り手」の言葉においても、鋭敏にその聴衆なり読者なり批評家なりを感じ取り、彼らからの予想し得る反論や評価、視点といったものを、自分の内に投影させることが可能である。
- ドストエフスキーの作品で何より驚くのは、その言葉のタイプとバリエーションの異常のまでの多種多様さだが、そこで歴然として優勢なのは、多方向的で複声的な、内的に対話化された言葉、および投影された他者の言葉──隠された論争、論争的色彩を帯びた告白、隠された対話──である。
- ドストエフスキーの作品では、他者の言葉への緊張した気遣いが欠如した言葉はほとんど存在しない。と同時に客体的・普遍的な言葉もまた彼の作品にはほとんど存在しないが、それは主人公たちの発話からその客体性がすべて奪われてしまうような設定が施されているからである。
- ドストエフスキーにとって本質的な人間相互の対話関係とは、一つのモノローグ的な言表の平面における言葉同士の関係などではけっしてない。
- それは言表同士の、すなわちモノローグ的な単一の文体、単一の調子による言葉の意味の独裁的支配に従属しようとしない、自立した、完全な権利を持った発話と意味の中心同士の、ダイナミックにして極限的に緊張した関係である。
〔03 ラスコーリニコフの選択〕
- ラスコーリニコフのモノローグ的な言葉が人を驚かすのは、それが極度なまでに内的に対話化されていること、および彼が考え話すすべての対象に対し、生き生きとした個人的な呼び掛けを行っているからだ。
- 彼は自分自身に対しても呼び掛け(時には他者に対するように「お前」で呼び掛ける)、自分を説得したり、苛立たせたり、摘発したり、愚弄したりしている。
- 特徴的なのは彼の内的発話の中に、彼がいまし方聞いたり読んだりした他者の言葉が溢れ返っていることだ。
- それぞれの人物=他者は、そこでは一つの性格として、彼の実生活上のプロットを構成する人物(妹、妹の婚約者、等々)として、彼の内的発話に登場するわけではない。彼らは、ラスコーリニコフを悩ませている問題の、ある種の実生活的な解決の象徴として登場し、ラスコーリニコフは自分の内に他者の言葉(特に彼の痛いところを衝いている言葉)を詰め込み、それらと生々しく情熱的に応答することで内的発話を展開・構成していく。
- それぞれの人物=他者は、そこでは一つの性格として、彼の実生活上のプロットを構成する人物(妹、妹の婚約者、等々)として、彼の内的発話に登場するわけではない。彼らは、ラスコーリニコフを悩ませている問題の、ある種の実生活的な解決の象徴として登場し、ラスコーリニコフは自分の内に他者の言葉(特に彼の痛いところを衝いている言葉)を詰め込み、それらと生々しく情熱的に応答することで内的発話を展開・構成していく。人物は、ラスコーリニコフの視野の中に姿を現すや否や、即座にラスコーリニコフにとっての問題の解決の権化、彼自身が到達した解決とは相容れない解決の権化と化してしまう。
- だからこそ、どの人物も彼の痛いところを衝き、彼の内的発話の中で確かな役割を振られている。彼はこうした人物全員を互いに関連づけ、対比し、対決させ、互いに応答し合い、呼び掛け合い、あるいは暴き立て合うことを促す。
- すでに指摘しておいたようにドストエフスキーの作品には思想が形成されていく過程がない。
- 個々の主人公たちの意識の枠内でもそれは存在しない。
- 意味的な素材は主人公の意識にいつでも一挙に与えられてあり、しかも拡散した思想や命題としてでなく、様々な人間の様々な声として与えられているが、そこで問題なのはただ、そうした声の中からどれを選択するかということだけだ。主人公が繰り広げる内的なイデオロギー闘争は、既存の意味的可能性の中からどれを選択するかの闘争に等しい。
- そしてその選択肢の数は小説全編を通じて殆ど変らない。主人公たちは最初からすべてを知っており、気づいている。──「そんなことはすべて自分で自分と何度も議論してみたんだ、細部の細部にわたるまで徹底的にね。だから全部自覚してるんだ、全部ね!」
- 確かに主人公はしばしば自分の知っていることを自分から隠し、気づいていないといったふりを(自分に対して)してみせる。しかしこうした場合にこそかえって、これまで指摘してきた特性がより鮮やかに露呈してくる。
- 繰り返す。新しい素材、新しい視点に影響されて思想が形成されていく事態は、ドストエフスキーの小説には生じない。
- 問題なのはただ、選択すること、《私は誰か?》《私は誰とともにいるのか?》の疑問を解決することだけだ。
- 主人公の言葉は自分を見つけ出し、具体的な他者の言葉たちの真只中で、きわめて緊張した相互的な位置づけ合いの中で、自分を開示してみせなければならない。
- これらの言葉同士の位置関係や組合わせは小説の内的、外的な事件の展開のプロセスで様々に変化するが、しかし一番最初に与えられたその量は不変である。主人公の自意識の中で、物語を通じてアクセントの交替が生じているだけだと言い換えても、差し支えない。
- 例えばラスコーリニコフは殺人を犯す前すでにマルメラードフの話からソーニャの声を知っていて、即座に彼女のところに行こうと決心する。最初から彼女の声と彼女の世界はラスコーリニコフの視界に入っていて、彼の内的対話に参加している。そして彼はそうした声たちの真只中で自分を探し求めようとし(犯罪も自分を試すためのものだった)、結果、自分の言葉の置きどころの転換が幾度も、小説の過渡的瞬間に生じることになる。
〔04 意識的な無知〕
- すでに述べたように、ドストエフスキーの主人公は最初からすべてを知っており、揃って与えられた意味的な素材の中から選択しているだけである。
- それでも彼らは時々、実際にはもうすでに知っていることや目にしていることを、自分から隠し立てする。
- 中編『おとなしい女』は、意識的な無知というモチーフの上にじかに構成されている。
- 主人公のモノローグは、彼の内部にあって、《真実》として彼の思想や発話を規定しているものを回避しうようとする、主人公の絶望的な試みに支配されている。彼は初め、その真実の反対側にある「一つの点に自分の思想を終結ささえよう」とし、彼が最初から知っているもの、目にしているものを入念に排除しようとする。
- しかし結局彼は自分の思想を、彼にとっては恐ろしい《真実》の側の一点に帰着させることを余儀なくされる。
- こうしたモチーフがもっとも深く掘りさげられているのは、イワン・カラマーゾフの発話においてである。
- 小説中に描かれるイワンの内的生活のプロセスの大半は、彼がそもそも昔から知っていたはずのことを、自分自身と他者のためにいま一度再認識し、最確認していくプロセスに他ならない。
- 主にそのプロセスが展開されるのは、対話において、何よりもスメルジャコーフとの対話においてである。
- スメルジャコーフはイワンが自分から隠そうとしているイワン自身の声を、次第にマスターしていく。スメルジャコーフがその声を自由に操ることができるのは、イワンの意識がその声の方を見ないばかりか、見ようともしないからに他ならない。そして遂には、彼はイワンから自分に必要な行為と言葉を引き出すまでに至る。
〔05 「人間の魂の深奥」への呼び掛け〕
- ドストエフスキーの主人公の自意識は不断に対話化されている。
- それはどんな場合にも外部に向けられており、自分自身、相手、第三者へ緊張した呼びかけを行っている。いや、そもそも自分自身および他の者たちに対するそうした生々しい呼びかけなしでは、自意識それ自体も存在しない。
- そのような主人公《について》語ることは不可能であり、ただ呼び掛けることができるだけだ。ドストエフスキーがそれを描くことこそ自身の最高の意味でのリアリズムの課題であると考えていた、「人間の魂の深奥」は、こうした緊張した呼び掛けに初めてあらわされるものだろう。
- 具体的にその「呼び掛け」を実現するということ──それは主人公と他者との接触交流を描く以外ではない。
- ただ接触交流においてのみ、人間と人間の相互作用においてのみ、《人間の内なる人間》は他者に対しても、その人自身に対しても、その正体を曝け出す。人間は対話において(既成の性格としてのそれではない)自分自身を外部に向って呈示するばかりか、そこで初めて、他者に対してだけではなく自分自身に対しても、自分を曝け出す。ドストエフスキーにとって人間が実在するということ──それは他者との対話的接触交流の内に在るということだ。
- 《人間の内なる人間》を冷静沈着な中立的分析の客体として掌握し、観察し、理解することはできず、また彼と融合し、彼に感情移入することによっても彼を把握することはできない。《人間の内なる人間》に接近しその正体を暴き出すには(より正確には彼に自らを曝け出させるためには)彼と対話的な接触交流を持つ以外に手立てはない。
- ここではドストエフスキー作品に独自の対話的接触交流の例として一つ、ラスコーリニコフとポルフィーリイの対話を挙げる。
- ポルフィーリイはほのめかしを駆使した話し方でラスコーリニコフの隠された声に呼び掛ける。対してラスコーリニコフは自分の役割を、計算し尽した上で正確に演じきろうとする。
- ポルフィーリーの目的は、ラスコーリニコフの内面の声を爆発させ、計算され見事に演じられている彼の応答の中に中断を引き起すことだ。
- ラスコーリニコフの演技の言葉やイントネーションには、だから絶えず彼本来の声の真の言葉やイントネーションが割り込んでくる。ポルフィーリーもまた、ラスコーリニコフに疑いを持たない予審判事という役割を演じながら、その自信に満ちた人間の素顔をのぞかせる。
- こうして二人の対談者の見せかけの応答の内では、二つの真の応答、二つの真の言葉、二つの真の人間的な視線が突然姿を現し、交錯し合うことになる。
- 結果、対話は一つのレベル、すなわち演技のレベルから、時としてもう一つのレベル、すなわち真実のレベルへと、ほんの一瞬ではあるが移行する。
- そして最後の対話に至って、ようやく演技のレベルのあの印象的な破壊が実現し、言葉は完全に、最終的に、真実のレベルへと脱出することになる。
- それはこんな具合だ。──ポルフィーリイは、ミコールカが自白した後のラスコーリニコフとの最後の対談の初めの方で、一見すべての疑惑を捨てたかのように振る舞うが、対談が進むとラスコーリニコフにとって思いがけなくも、ミコールカには殺人なんてとてもできなかったはずだと表明する。
- 「……いいえ、ミコールカなんか何の関係があるというんですか。ねえ、ロヂオン・ロマーノヴィチ、あれはミコールカの仕業じゃありませんよ!」
以前語られたすべてのことの殆ど撤回と言っていいような言葉の後の、この最後の文句は、あまりに思い掛けないものだった。ラスコーリニコフは刺し貫かれたように全身をぶるぶる震わせはじめた。
「だったら……いったい誰が……殺したんですか?」彼は耐え切れなくなって喘ぐように尋ねた。思いがけない質問に唖然とするように、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは椅子の背にどんともたれかかってしまった。
「誰が殺したか、とはどういうことです?……」彼はまるで自分の耳が信じられないかのように同じ言葉を繰り返した。「もちろんあなたが殺したんです、ロヂオン・ロマーノヴィチ! あなたが殺したんですよ……」彼はほとんどささやきながら、確信に満ちた答でつけ加えた。
ラスコーリニコフはソファーから飛び上がり、数秒間立っていたかと思うと、一言も言わずにまた腰を下ろした。かすかな痙攣が突然彼の顔に走った……。
「殺したのは僕じゃない」ラスコーリニコフはさながら悪いことをした現場でつかまってびっくりしている子供のように、呟きかけた。 - こうした対話的世界感覚なしには、内省する人間の自意識とその対話的存在圏を芸術的に把握することはできない。
- それらは、ドストエフスキーのポリフォニー小説において初めて描写の対象となり得たのである。