:序
- 著者が公衆の寛容を乞うのは無益な行為である。出版という事実がこのにせの謙遜を裏切る。むしろ読者の正義、忍耐、公平に委ねるにこしたことはない。
私は百人の読者のためだけに書く。私の読んでもらいたいと思うのは、不幸な愛すべき、魅力ある人たち、少しも偽善的ではなく、道徳的でもない人たちだが、私はやっとその一人か二人しか知らない。
私はこの本を読もうとなさる方におたずねしたい。諸君はこれまでに恋のために六ヵ月不幸だったことはなかったか、と。
作者が以下で私という書式を使って、自分の知らない多くの感覚を報告するのは、ただ短くするためと、魂の内部を描き出すためにほかならない。作者はなんら引用に価する個人的経験を持たなかった。
彼はした、彼は言った、と三人称で書くことも、もちろんできただろう。しかしそれではどうして魂の内部の動きを描きだすことができようか。
:1 恋愛の種類
- 恋愛には四種類ある。
(1)情熱恋愛。
私は大情熱の証拠として、なにか滑稽な結果を生むものより認めない。たとえば度外れな臆病のようなもの。ただし私は、学校を出たての連中のつまらないはにかみのことを言っているのではない。
(2)趣味恋愛。男女は恋愛のさまざまな場面に処すべき態度を前もって心得ている。この恋愛では情熱や思いがけないことは何もない。ほんとうの恋よりも繊細さがある。いつも才知にあふれているからである。これはカラッチの絵にも比すべき綺麗で冷たい細密画である。そして情熱恋愛が我々にあらゆる利害を越えさせるのに反し、趣味恋愛はいつもそれと折れ合うことができる。そこに情熱は全然ない。二人の美男美女が、互いに自分が相手に与える効果を楽しんでいるだけである。それは、便利な道具を手に入れた喜びにも似る。
(3)肉体的恋愛。快楽に基づく恋愛。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなればここから始める。
肉体的快楽は自然の中にあるものだから誰でも知っている。しかし優しい情熱的な魂の眼には従属的な位置しか持っていない。
(4)虚栄恋愛。ブルジョワにとって、公爵夫人は三十歳以上には見えない、とショーヌ公爵夫人が言った。公爵とか王族とかそういう男をかわいいと思わないではいられない女もいる。この恋愛から虚栄心を除くと、残るところはいくらもない。この場合、捨てられると自尊心の傷みと悲哀が生じる。そして人は虚栄心から自分が偉大な情熱を持っていると思い込む。
ときどき、虚栄恋愛では、習慣もしくはこれ以上いい相手は見つかるまいと思う心が、一種の友情を生じさせる。
情熱恋愛と自尊心の刺激による恋愛を区別する決定的な実験がある。女の場合、相手の浮気は前者なら恋を殺すが、後者の場合は倍加する(嫉妬の苦しみがマゾヒスティックな快楽に転じることによって)。
自尊心の傷みは虚栄心の働きの一つである。私は相手には負けたくない。したがって私は敵が生きて、私の勝利の目撃者たらんことを欲する。これは恋敵が袖にされればたちまち消えうせる偽の情熱だ。情熱恋愛においては話は別である。情熱恋愛の荒れ狂う嫉妬は、端的に恋敵の死を望む。あるいは絶望から黙って引き下がる。
我々がすてて顧みなくなった恋人でも、彼女が他の男を好いているような態度を示すと、我々はたちまち落着きを失い、我々の心はあらゆる欲望の兆候を示してくる。これもまた自尊心の刺激である。
恋愛とは離れるが、こういう例もある。精神と感覚の落着いているときにはある種の手術に際して大声をあげる負傷者も、あらかじめ一種の準備を与えておくと、かえって冷静さと魂の偉大さを示すということである。準備というのは、名誉心を刺激することである。最初は遠まわしに、つぎには反駁によっていらだたせながら、君は声を出さないで手術に耐えることはできないだろうと主張するのである。
相手に情熱恋愛の息吹があることほど、趣味恋愛と虚栄恋愛を殺すものはない。
情熱のしるしは、すべてが予想外で、その担い手自身が犠牲者になっていることである。反対に趣味・虚栄においてはすべてが取引におけると同様、打算である。
情熱恋愛には平等ということがない。愛し合う二人のうちかわるがわる一方がより強く愛しているものである。それは表面上は喧嘩に似る。そして夢中になるのはどっちかというと女のほうである。でなければ幾らか女性化した男性だ。
情熱に囚われた人間は自分のことしか考えない。尊敬を望む人間は他人のことしか考えない。
ばかけた自尊心はつねにみずからに問う。「私の幸福を隣の人はどう思うだろうか」と。ところが情熱の幸福は虚栄心の対象となることはできない。外に現われようとしないからである──虚栄恋愛は打明け話によって燃えたち、情熱恋愛はそれによってさめる。
恋愛は自尊心を忘れさすのでなければ真の情熱とはいえない。
情熱はみずからに仕事を課する。しかも心のあらゆる力を使わねばならないような激しい仕事を要求する。恋の讃歌は高くつくほど素晴らしい。
二週間追いかけ三ヵ月守る美しい女のそばで味わう快楽は、三年追いかけ十年守る恋人とともにする快楽とは、違う。三年恋こがれた恋人は、最も強い意味での恋人である。近づくときは慄える。しかし、慄える男は退屈しない。(私は長い不幸に耐えた情熱しか情熱と呼ばない。小説が描くのを避け、また描くことができない、そういう不幸。すぐれた男はみな生活の第一歩において、滑稽な熱狂家か不運な男か、どちらかだった。)
肉体的恋愛の不幸は倦怠である。情熱恋愛の不幸は絶望と死=人生の行き止まりだ。
しかしこうした分類上の区別は以下の推論を少しも変えはしない。すべてこの世の恋愛は同じ法則によって生れ、生き、死に、あるいは不滅にまで高まるのである。
:2 恋の発生について
- 恋は最もよき小説のあらゆる魅力をそなえている。
心の中では次のことが起る。
(1)感嘆。(自分独自の仕方で相手の美点を見出し、それを愛おしむべき相手の本質として感受できるように思うこと。ただし真の感嘆、掛け値なしの感嘆が起ることは稀である。真の感嘆こそが真の希望につながる。むろん「相手の美点」というのは一様ではない。各人の快楽はそれぞれ異なるどころか、しばしば相反している。また、ここでわざわざ「自分独自の仕方で」と断っているのは、結晶作用は紋切り型の男によっては起らないからである。)
孤独に倦み疲れた状態にある魂においては──たとえば片田舎の人里離れた城館に住む娘──最も小さな驚きでも軽い感嘆を起すことができる。そしてごく弱い希望でもそれに続けば、恋と結晶作用を生む。恋の渇きは、偶然目の前に現われる飲み物の性質について、あまり文句をいわない。
音楽は、それが完全なものであれば、我々の心を、愛する者に会って喜ぶときと正確に同じ状態におく。音楽を聞き、または聞きながら夢みるという習慣は、恋の下地をつくる。
恋は初対面において、男に何か尊敬をうながすと同時にどこか同情をそそるようなもののあることを示す顔つきを好むものである。
(2)「あの人に接吻し、接吻されたらどんなにいいだろう」などと自問する。このとき肉体的快楽は最も鋭い。
この段階で醜が障害となってはならない。結晶作用を不可能にするからだ。恋が発生すればまもなく男は美などには眼もくれず、恋人をあるがままで美しいと思うようになる(注意力は醜いものにはいっさい眼を閉じる一方、絵画的にいえば、ごくつまらぬ美点、たとえば豊かな髪の美しさのようなものに強くひかれる)。しかし、恋が生れるまでは美は誘起剤として必要である。
美は看板にもなる。美は将来愛することになる対象に人々の賞讃を集めることによって、この情熱を準備する。趣味恋愛、そしておそらく情熱恋愛でも、最初の五分間においては、女は恋人を選ぶにあたって、彼女自身が男を見る気持よりも、他の女が彼を見る態度を重んじる。
美とは一種の近づきがたさでもある。誰にでも微笑をふりまく者には、誰も好感を持たない。あまりにも気軽に相手の希望に応じると、相手は気抜けがして、恋を永遠に不可能にするか、少なくとも自尊心でも刺激しないと回復できないものとする。社交界において、うわべは女に飽きたといった様子を見せる必要があるゆえんだ。
しかし美は最終的には情熱とは縁がない。美は一人の女に関して確率しか与えない。絶世の美人も二日目にはそれほど驚かせない。彼らの値打は誰にもわかり、勲章みたいなものである。これが却って結晶作用を頓挫させる。最も激しく美の効果を感じる男は、おそらく情熱恋愛を感じえない男だ。
(3)希望。
美しい女を見るだけでは十分ではない。反対に極度の美は優しい魂の勇気をくじく。諸君を愛するとまではいかなくとも、せめて女がその威厳を脱ぎすてるのを見なくてはならない。女王が誘ってくれないのに、女王に恋しようと思う男がいるだろうか?
だが、希望はほんの少しでよい。恋が生れてしまえば、希望が二、三日のうちになくなってしまってもかまわない。恋を確実に持続させるのは第二の結晶作用であるから。果断で、むこう見ずで、激しい性格と、人生の不幸に遇って発達した想像力があれば、希望はさらに少なくてもよい。
希望がより早く消えても、もし恋する男がすでに不幸を知り、優しいもの思いにふける性格で、他の女に絶望し、恋する女に強い感嘆を感じていれば、月並の快楽はとうてい第二の結晶作用を妨げることはできないだろう。彼は俗な女の与えうるすべてを得るよりは、いつの日か愛する女の気に入るという、あてにならぬ機会を夢みることを好むであろう。
冷静で慎重な人にあっては、もっと強い希望があり、しかも長く続く必要がある。年配の男にあっても同様である。
(4)恋が生れる。
恋するとは、自分が愛し、愛してくれる人に、できるだけ近く寄って、見たり触れたりあらゆる感覚をもって、感じることに快楽を感じることである。
不幸は恋の発生に幸いする。もしそれまでにいろいろの不幸を経験してきた人なら、悲しい思い出しか残っていない人生の他の事件に飽きた想像力が、わき目もふらずに結晶作用を営む。
溌溂たる想像力を持つ大詩人はだれでも臆病である。他人が彼の甘美な夢想を中断し妨げるのを恐れているからだ。注意力をそらされはしないかと恐れおののいている。俗人は卑俗な利害をもって彼をアルミダの園から引出し、悪臭にみちた泥地に押しやる。彼らは詩人をいらいらさせないでは、その注意を自分のほうに向けることはほとんどできないのである。感動的な夢想で魂を養う習慣と、俗人に対する嫌悪とにより、大芸術家は恋愛に近い。
この段階であまり相手を知りすぎるのは、つづく結晶作用を壊すことがある。
自分と相手の双方が認める価値において、一方があまりにもずば抜けている場合、他方の恋は死なねばならぬ。なぜなら軽蔑されるという恐れが、やがて結晶作用を一気に止めるからである。でなければ、劣者が優者にすげなくする必要がある。さもないと優者は相手に侮辱を感じさせることなく、窓一つしめることはできないだろう。(公理:情熱恋愛にあっては、金を分かち合えば愛を増し、与えれば愛を殺す。)
恋を殺す最上の法は、この時期に、相手を軽蔑すること/相手から軽蔑されることである。ただし、これは情の深い魂には役に立たないかもしれない。
(5)第一の結晶作用がはじまる。
人は確かに、相手が自分を愛していると期待=自信がもてるとき、その女を、千の美点で飾るのを喜ぶ。自分の幸福の詳細をたどって飽くことを知らない。さらに、この天から降ってきたような財産、何だかわからないが、しかしそれが自分のものであることは確実なすばらしい財産を、誇張して考えるようになる。楽しい誇張である。
私が結晶作用と呼ぶのは、我々の出会うあらゆることを機縁に、愛する対象が新しい美点を持っていることを発見する精神の作用である。
例。旅行者が灼けつく夏の日、ジェノヴァの海岸のオレンジ林の涼しさを話したとする。彼女といっしょにその涼しさを味わったらどんなにいいだろうか!(情熱恋愛は人の眼に自然をその崇高な姿で見せ、まるで昨日造られたような新しさを感じさせる。自分の魂に向ってひらかれたこういう異様な風景に、それまで気がつかなかったのに驚く。すべては新しく、生き生きとしていて、最も情熱的な興趣をそそる。恋する男はあらゆる風景の水平線に愛する女の姿を見る。何をしても、何を見ても、彼はつぶやく。「あの女がここにいたら、なんていうだろう。この景色について私は彼女とどんな話をするだろう」。百里も離れながら、彼は彼女に話しかけ、その答えを聞く。彼女のいう冗談に笑う。彼よりは正気なのが、ベドラムの精神病院にもいるだろう。)
私があえて結晶作用と呼ぶこの現象は、快楽は愛する対象の美点とともに増加するという感情、彼女は自分のものだという考えとから生れる。
人はそれぞれ快楽が違うものだから、各人の頭の中で作られる結晶は、当然その人の快楽の色を帯びる。
以上はすべて想像上のことである。愛する女を高める──愛する女の欠点を消失させる──のは想像力のほかにはない。想像された事物も恋する男の幸福に及ぼす効果から見れば実在の事物なのである。真に恋する男の恋は想像することを享楽し、それによって戦慄する。「すべて想像された事物は存在する」。
いつまでも飽きないためには想像力に頼るほかはない。
(似たことが人気俳優について認められる。観客は俳優の演技を見て感じた快楽に対する感謝と思い出から、彼らの想像力が俳優に付与した美しか見ない。喜劇俳優が登場すれば、観客はその顔を見ただけで笑う。いわゆる「感動」は、すぐ醜さをおおいかくす。「尊敬」も同様。偉人ミラボーの醜さは誰の眼にも不愉快な印象を与えなかった。)
肉体的恋愛しか知らない者はこの作用を待つ暇がない。というより官能への期待が、想像力のかれた人たちにとって唯一可能な結晶作用である。彼らが将来のために現在を犠牲にすることはめったにない。この犠牲を行なわせる力ほど、魂を高めるものはないのだが。彼らにあっては、心にときおり目ざめる義務の観念も、睡眠中現われるとりとめのない幻影のように消え去るに任せておくのであろう。(人生のほとんどあらゆる事件において、高邁な魂は平凡な魂が思いもかけない行為の可能性をみつける。彼がこの行為の可能性を見た瞬間、それを実行することが彼の義務となる。彼がそれを実行しないなら、自分を軽蔑し不幸に陥る。人はその精神の大きさに応じて義務を持つ──情熱恋愛もその一つである。)
恋をした瞬間から、最も賢明な男も対象をあるがままには見ない。諸君は女が優しければいいと思う。彼女は優しい。次には彼女がコルネイユのエミリーのように傲慢であればいいと思う。すると、優しさと傲慢は元来共存しえないものであるにもかかわらず、彼女はたちまちローマ人の魂をもって現われる。これが恋愛をもろもろの情熱の中で最も強いものとする精神的な理由である。他の情熱では欲望は冷たい現実の折れ合わなければならないのに、ここでは現実のほうがすぐ欲望に従ってみずからを形づくる。したがって激しい欲望が最大の喜びを得るのは恋の情熱においてである。小説的な魂にとっては、彼女が崇高な魂を持っていればそれだけ、諸君がその腕の中に見いだす快楽は天上的であり、あらゆる俗な考慮の泥沼を脱したものとなるだろう。
ただし結晶作用の幸福は永遠につづくわけではない。突然次のことが起る。
(6)疑惑が生れる。
十か十二の眼差、一瞬の、もしくは数日にわたり示される一連のしぐさ、そうしたものがまず希望を与え、ついでそれがあだではないと思わせたのだった。しかし、やがて恋する男は最初の驚きからさめ、その幸福に慣れ、または、ごくありきたりの場合に基づいていて、ただ浮気な女にしかあてはまらない通説に導かれて、彼はもっと確かな保証を求め、幸福をさらに押し進めようと思うものだ。(粗野な教養のない男、あるいは極度に激しい気質の男にあっては、この疑惑、懸念はすぐ粗暴なふるまいとなって現われる。)
恋人は今まであてにしていた幸福を疑いはじめる。この眼で見たと思っていた希望の根拠に対して厳しくなる。
彼は人生の他の快楽に転じようとするが、気がつくとそんなものはどこにもない(恋が幾月も続き、絶えず確信を噛みしめる習慣がついたあとで、どうして愛するのをやめようなどという考えを持ちえようか。性格が強ければそれだけ心変わりはしないものである。逆も然り。はじめ恋人を結びつけたもののなかに、肉体的快楽が入っていれば、それだけその恋は心変りと、特に裏切りの危険がある)。恐ろしい不幸に陥るのではないかという懸念が彼をとらえる。それとともに深い注意力が生れる。
(7)第二の結晶作用。
すると第二の結晶作用が始まって、
「彼女は私を愛している」
という確信を結晶させる。
疑惑の発生に続く夜、恐ろしい不幸のひとときの後、恋する男は十五分ごとにつぶやく。「そうだ、彼女はやっぱり私を愛している」。結晶作用は転じて新しい魅力を発見しはじめる。と、またものすごい眼をした疑惑が彼の心をとらえ、急に彼を立ちどまらせる。息が詰りそうだ。彼はつぶやく。「しかし彼女は本当に私を愛しているだろうか」。こうした心を引裂く、しかし快い交互作用の中で、哀れな恋人ははっきりと感じる。「彼女が私に与える快楽は、彼女のほか誰も与えてくれはしない」。人は他のどんな行為よりいっそうの快楽を与える行為をしないではいられないものだ。
この真理の疑う余地のないこと、片手は完全な幸福に触れながらたどるこの恐ろしい絶壁の路、これこそ第二の結晶作用を第一の結晶作用よりはるかに重大なものとするゆえんである。
恋を確実に持続させるのはこの第二の結晶作用だ。この間は始終愛されるか死ぬかという問題と顔を付き合わせることになる。
恋人は、たえず次の三つの考えの間をさまよう。
一、彼女はあらゆる美点をそなえている。
二、彼女は私を愛している。
三、彼女から最も大きな愛の証拠を得るにはどうしたらいいか。
彼女はもはや諸君の所有物ではなく、諸君の価値の審判者である(女に愛されている自信があると、男は彼女がほかの女と比べてどれほど美しいか、美しくないかを検討する。しかし、もし女の心がわからないときは、顔のことを考える暇はない)。自分が女の眼につまらない男と映ってはいないかとびくびくする。諸君は理性を失う。自分の利点を過小に見積り、愛するものの些細な好意を過大に評価する。危惧と希望がたちまち一種の小説的な・きまぐれな調子を帯びる。なにものももはや偶然には帰せられない。彼は確率の感情を失う。
あまり早く身を任せる女との恋(それは肉体的快楽は最も大きいはずだが)には、第二の結晶作用はほとんどない。
もし愛されている女が馴れ馴れしい態度に出て、相手の危惧の念を殺すという過失を冒すと、結晶作用は一時やむ。だが男が捨てられるとまた結晶作用が始まる。そして感嘆、つまり彼女が諸君に与えることができるかもしれないが、今はもう思いもよらぬ幸福を一つ一つ数えてみる、そういう感嘆の諸段階は次のような痛ましい反省に終る。「こんな楽しい幸福に自分は二度とあえないだろう。しかもそれを失ったのは自分が悪かったからだ」。他の感覚に幸福を求めようとしても(たとえば肉体的快楽)、諸君の心はこわばったままだ。恋の情熱においては、他の多くの情熱とは反対に、失ったものの思い出は、将来に期待できるものよりはつねによく見える。
初心な恋の最も痛ましい瞬間は、彼が誤った推論をしていたことを知り、あらゆる結晶作用の一つ一つを破壊しなければならないと気がついたときである。
彼は人間そのものを疑うにいたる。
諸君に不実を働いた愛人と和解すること、これはたえず生れようとする結晶作用にとどめの一撃を与える。情熱的に恋をするならば、和解しない力を持たねばならない。「出ていくとなれば、ぼくは本気なんだ。忍び足でもどってきて窓からのぞくようなまねなんかしない」。
(1)と(2)の間には一年たつことがある。
(2)と(3)の間は一ヵ月。もし希望がすぐ続かないと、将来の不幸ばかり思われて、いつのまにか(2)を捨て去る。
(3)と(4)と(5)の間には間隙がない。
(5)と(6)の間もそれほど間を置かない。
(6)と(7)の間は一瞬。
かつて幸福を与えてくれた女を忘れがたいのは、想像力が再現し美化するのに倦まない瞬間がいくつかあるからである。
:3 男と女の相違について
- 女は自分の与える恩恵によって男に執着する。女たちの日々の夢想の二十分の十九は、恋に関するものだから、肉体の関係のあとでは、夢想はただ一つの対象のまわりに集まる。なぜなら、それはこれほど異常な、これほど決定的な、これほど羞恥心の習慣に反した一つの行為の正当化に没頭するから。こういう作用は男には存在しない。やがて女の想像力は暇に任せて、あの甘美な瞬間の詳細を繰り広げる。
恋は最も明白なことをも疑わせる。したがって身を任せる前には、恋人が俗な人間と違うことを確信していた女も、もう何も拒むものがなくなったと思うと、男がただ恋のリストにもう一人を加えようとしたにすぎなかったのではないかと考え、慄える。
このときはじめて第二の結晶作用が現われる。
私は第二の結晶作用は女のほうがはるかに強いと思う。なぜなら疑惑はいっそう強く、虚栄心と名誉が危うくされているからである。
この第二の結晶作用は浮気な女にはない。
十八歳の娘は十分の結晶作用を持つ力がない。人生について経験がないため、あまりにも限られた欲望しかいだきえないから、二十八歳の女ほどの情熱をもって男を愛することはできない。
十六歳にはなかった不信があること、これはきっと第二の恋に別の色彩を与えずにはおかない。最初の青春においては、恋は大河のようなもので、あらゆるものを押し流す。抗うことはできないような気がする。ところで優しい魂は二十八になると自分を知る。もし彼女にとって人生になお幸福があるなら、それは恋に求めるべきだということを悟る。この哀れな動揺する心の中には、恋と不信の恐ろしい闘いが始まる。結晶作用はゆっくり進行する。しかしたえず恐ろしい危険を見つめながら、魂がそのあらゆる動きを経験するこの苦しい試練に打勝った結晶は、若さの特権から陽気で幸福な十六歳のころの結晶より、千倍も輝かしく堅固なものだ。
だからその恋は若いときのように陽気ではないが、いっそう情熱的であろう。
初恋の映像は凡庸である。それは誰にとっても懐かしいものだが、それゆえに最も情熱的なものではない。
両性間における恋の発生の相違は、希望の性質が同じではないというところから起るようである。一方は攻撃し、他方は防ぐ。一方は要求し、他方は拒否する。一方は大胆で、他方はきわめて臆病である。
男はつぶやく、「私は彼女の気に入るだろうか。彼女は私を愛してくれるだろうか」。
女はつぶやく、「あの人は私を愛してるなどといったけれど、冗談じゃないかしら。気の変らないたちの方かしら。自分の感情がいつまで続くのかわかっているのかしら」。多くの女が二十三歳の青年を子供扱いするのはこのためである。しかし、これが六度も修羅場をくぐってきた男だと、万事が変ってくる。(堅固な性格を持つとは、人生の誤算と不幸について、長い確かな経験を持つことである。そのとき人はあくまでも望むか、全然望まないか、どっちかである。)
女は男よりずっと疑い深い。恋の発生の時期におけるあらゆる精神の動きは、女にあっては、その習慣から男より甘く臆病で緩慢で、果敢ではない。それだけに心変りは少ない。一度始まった結晶作用を男ほどさっぱり思いきることはできないようである。
女は心で愛しながらも、まる一年、愛する男に十か十二の言葉しかかけずにいることができる。彼女は何回男に会ったか心の底に記しておく。私はあの人と二度劇場へ行った。二度いっしょに食事をした。あの人は三度散歩道で私に挨拶した。
女らしい優しさを失わないまま、思想を持っている女性は稀有である。彼女のまわりで恋の魅惑と喜びはますます大きくなるだろう。結晶作用の成立する基盤は拡大されるだろう。男は愛する女のそばで、あらゆる思想を楽しむだろう。二人の眼に、自然はまったく清新な魅力を帯びるだろう。そして思想はいつも性格のニュアンスを反映するものだから、二人はさらによく理解し合い、無分別なことはしなくなるだろう。恋はより盲目的でなくなり、その不幸も減るだろう。
男に好かれたいという欲望があるかぎり、羞恥心や繊細さなど、あらゆる女らしい優しさは、どんな教育によっても冒されはしない。
私が書物に要求するのは、女たちに正しい興味ある思想を与えることである。
:4 恋の不条理について
- 愛する女に会いに行く夜、大きな幸福を先に控えているため、そのときが来るまでの一刻一刻は耐えがたいものになる。
熱に浮かされたように、いろいろ仕事に手をつけては、放り出す。しじゅう時計を見る。ちょっと見ない間に十分もたっていようものなら大喜びだ。ついに待ちに待ったときがきた。ところが、いざ彼女の家の玄関に立って戸をたたくときになると、留守だったらかえってほっとしたろう。要するに、待つ間のつらさがこんな変な気持にしてしまったのである。
普通の人が恋の不条理というのはこういうことである。
これは想像力が、一歩一歩が幸福だった甘い夢想からむりに引きずり出され、厳しい現実の前に据えられたということである。
女に会うとすぐ始まる闘争では、少しでもぼんやりしていたり、少しでも注意力や勇気を欠くと、たちまち負けになる、そしてそれは、以来、永く想像力の夢想を毒するということを、優しい魂はよく知っている。「私は気がきかなかった、勇気がなかった」と心につぶやく。しかし恋する女に対して勇気を出せるのは、恋が少しさめたときだけである。(男の恋が激しければそれだけ、女になれなれしくさわったり、怒らせるかもわからないことをあえてするためには、大きな努力が必要となる。)
結晶作用の夢想から残った少しばかりの注意力を奮い起してみても、恋する男は、愛する女の前で無意味なこと、または自分の感じたこととは反対の意味のことをしゃべりまくるのが落ちである。そしてさらに痛ましいのは、自分の感情を誇張して、それを自分自身の眼にも滑稽なものとしてしまうことである。自分のいうことに十分注意が働いていないのを漠然と感じるから、発作的に科白を飾ったり強めたりする。といって沈黙は気まずい。黙りこむわけにはいかない。黙っていても、それだけ女のことをよけい考えていられるわけではない。そこで自分の実際には感じていないことを、感じたふうを装ってしゃべりまくる。もう一度いってみろといわれれば、さぞ困ったことだろう。
野心において勇気を持つことはやさしい。結晶作用は獲得したいという欲望によって制約されないから、それはむしろ勇気を強める。しかし恋愛においては、結晶作用は我々がそれに対して勇気を奮い起さねばならない対象のために働いているのである。
恋をすると、人はしばしば自分の最も信じているものも疑う。ほかの情熱では、いったん自分で確かめたものを疑うことはない。
こうしたことから、情熱恋愛と色事の相違、優しい魂と散文的な魂の相違は、女によくわかるはずなのである。
この決定的な瞬間には、一方が失うだけそれだけ他方は得をする。散文的な魂は、正確に彼がふだん持っていないだけの熱を得る。一方哀れな優しい魂は過度の感情のため気が変になり、そのうえそれを隠そうとする。自分の逆上を抑えるのに気を取られ、機会を利用するために必要な冷静さを持つことができない。そして散文的な魂だったら大進歩をしたに違いないような訪問から、思い乱れて暇を告げるだけである。自分の情熱にあまり密接な関係のあることとなると、優しく気高い魂は愛する者の前で雄弁になることはできない。やりそこなう恐れが強すぎるからだ。これに反し俗な魂は成功の機会を正確に計算し、失敗の苦痛を予想するのにむだな時間を使ったりしない。自分の俗物たることを誇りとし、十分才知はありながら、ごく簡単なことをいうだけの気安さがなく、最も確実な成功すら取りにがしてしまう優しい魂を嘲笑する。優しい魂はどうせ力ずくで取るなどということはできないのだから、愛する者の慈悲によらねば何一つ得られないと諦めねばならない。とはいえ、情熱が他の確かなしるしで現われないかぎり、その態度はただ恥じいっているような、冷たいような、うさんくさいものとしか見えないだろう。
十五分前に感じたことを語ったり、その一般的な興味ある描写をしようと努めたりしないで、素直にそのときに感じることを表現すればいいのである。ところが彼はけっしてそうはしない。ひどくむりをして、ちっとも成功していないのだ。いうことにはほんとうの感情がこもっていないし、記憶も混乱しているから、そのときはうまいことをいったつもりでも、じつは最も恥ずべき滑稽なことをいったにすぎないのである。
会わないでいれば、想像力は女と楽しい対話を交わし、最も優しい最も感動的な興奮に浸る。こうしてつぎに会うまでの十日か十二日の間に、彼女に話す勇気ができたと思いこむ。しかし幸福であるべき日の二日前から熱病が始まり、恐るべき時が近づくにつれて倍加していく。
恋する男の言葉には錯乱がつきものだから、会話の一部を切りはなし、そこからあまり性急な結論を引出すのは賢明ではないだろう。彼らは思いがけない言葉によってしか、自分の感情を正しくは洩らさないものだ。そのときそれは心の叫びである。いずれにしても何か結論が得られるのは、彼らがいった言葉の全体の綾からである。深く感動している人間は、多くの場合、その感情をひき起した相手の感情を見ぬく暇を持たないものだということを忘れないようにしよう。
……
この試論を百ページばかり読み返してみたが、私は真の恋愛についてじつに貧弱な観念しか述べていない。すなわち魂全体を占める恋、ときには最も幸福な、ときには最も絶望的な、しかしつねに崇高な映像で魂を充たす恋、あらゆる他の存在に対してまったく無感覚にしてしまう、そういう恋だ。自分ではこんなにはっきり見えるものを表現すべき術を知らないのだ。私は自分の才能の不足をこれほどつらく感じたことはない。身ぶりと性格の単純さ、深い真摯、かくも正しくかくも無邪気に感情のニュアンスを描き出す眼差、特に繰返していうが、愛する女以外のすべての者に対するこのなんともいえない無関心など、どうすればこれを人にわかるように書けるだろうか。恋する男の口から洩れる一つの「否」一つの「諾」は、他の男には見いだせない、またその男でも他のときには見いだせない、感動を含んでいるものである。
世の中には二つの不幸がある。情熱を拒まれた不幸と死の空白 dead blank の不幸。
恋をすると、私は二歩先に無限の幸福、私のあらゆる願いにもまさる幸福があるような気がする。しかもそれはただ一つの言葉、一つの微笑にかかっている。「あの人の心に僕の心ほどよく合う心はないのだ」。
情熱を拒まれた後の悲しい日々には、私はどこにも幸福を見ない。そんなものが私にとって存在するかどうかとまで疑う。私は憂鬱に陥る。そもそも強い情熱なぞ持たず、ただ多少の好奇心か虚栄心を持つほうがいいのだ……。
恋のいちばん大きな幸福は、愛する女の手を初めて握ることである。(男が深く恋していればそれだけ、愛する女を怒らせる危険を冒してその手を握るためには、強く自分をはげまさなければならない。)
これに反して色事の幸福ははるかに現実的であり、冗談の種になりがちなものだ。
情熱恋愛において、親密な関係はそれに至る最後の一歩ほどには完全な幸福ではない。
恋は甘い花である。しかし恐ろしい断崖の縁まで行ってそれを摘む勇気を持たなければならない。人目に滑稽に映ることは別としても、恋はつねに愛する者からすてられるという絶望をかたわらに感じる。そして人生の他のすべてのことに対して、死の空虚 dead blank しか残らない。(不信・不幸を恐れる心から、手に入れてからでないと女を愛さないのは、虚栄的である。)
自己の充たされない大きな欲望を示すのは、自己の劣等を示すことにほかならない。フランスでは最下層の人たちでなければできないことだ。これはあらゆる嘲罵に自分の身をさらすことである。自分の心を警戒する若者が娼婦をほめあげるのはこのためである。自己の劣等を示すことをむやみと恐れること、これが卑小な者の会話の原理である。(怯懦は、いつも自分の価値を自分に確かめたがるけちな心から生れる。いつも機嫌の悪い者は、しばしば勇気に欠けるゆえに幸福への道を裏切っているのである。)
フランス人は、一人で過ごさなければならなくなると、自分をきわめて不幸な、ほとんど滑稽な男と思いこむ。ところが孤独のない恋愛とはいったい何だろう。
情熱的な人間は彼自身に似ているだけで、他人には似ていない。平凡な思想を持たないからだ。これがフランスでは嘲笑の原因になる。
偉大な魂はそとからは見えにくい。ふつうはちょっと独創的に見えるくらいなものである。それはみずからを隠す。偉大な魂は人の考えるよりは多い。
フランスでは熱狂に我を忘れた男は滑稽すぎる。あまりにも幸福そうだからである。
ところが、「滑稽」はイタリアにはない。
おしゃべり causerie という言葉は、イタリア語には訳せない。ある情熱のために言いたいことがあるときはしゃべる。しかし、なにか巧いことを言うため、または、虚栄心を闘わせるためにしゃべることは、イタリアではめったにない。
:5 恋する技術について
- 自然さはいくらほめてもほめたりない。少しでも気どりを持つ男こそ禍なるかな! ほんとうに恋しているときでも、そのすべての才知を傾けても、彼はその幸福の四分の三を失う。一瞬でも気どりに任せると、一分の後には味気ないときが来る。
恋する技術とは結局その時々の陶酔の程度に応じて、自分の気持を正確にいうことに尽きるようだ。つまり自分の魂に聞くことである。真に感動した男は知らず知らずさまざまのうまいことをいう。自分では知らない言葉でしゃべっているのである。
これがあまりたやすくできると思ってはならない。ほんとうに恋している男は、恋人からうれしい言葉をかけられると、口をきく力がなくなる。
こうして彼は自分の言葉から生れる行為をしそうなら、時宜にかなわぬ甘い言葉を口にするよりは黙っているにこしたことはない。十秒前には適切であった言葉も、今はもうそうではなく、むしろまずい。私がこの規則を踏みはずして、三分前に頭に浮んでおもしろいと思ったことをいうたびに、レオノールは必ず私をきめつけた。帰り道で私はつぶやく。彼女が正しい、ああいうことが繊細な女にはいちばん気にさわるのだ、これは感情の冒涜というものだ、と。
自分が愛する者にいう言葉の一つ一つの無限の重さを、恋する男は感じる。一つの言葉が自分の運命を決するように思われる。どうして彼がうまくいおうと努めずにいられようか。少なくとも、どうしてこれはうまくいえた、という感情を持たずにいられようか。しかし、そのとき純真さはもうないのだ。したがってそれを衒ってはならない。
大部分の男の陥る誤謬は、何か小ぎれいな気のきいた感動的なことを言いたいと思うことである。ところが実際、彼がしなければならないのは、自分の心を社交界の気どりから解放し、その時々に感じたことを率直に表出するという親しさ、自然さに達することなのである。もし彼がそういうことをあえてする勇気を出せば、すぐ一種の和解によって報いられるに相違ない。
恋の情熱が他の情熱に優っているのは、男が愛する女に与える快楽がただちにまた無意識にむくいられるということである。
逆に言えば、この情熱が幸福に達するには、自分が幸福と感じると同じ程度まで、相手に幸福を感じさせなくてはならない。
言うまでもなく、愛する者に対して偽ってはならないし、少しでも真実の純粋な姿を美化してはならない。なぜなら、美化すれば注意は美化することに集中され、もう女の眼に現れる感情に対して、ピアノの鍵のように素直に答えることができなくなるからだ。女はたちまちなんともいえない冷たさを感じるだろう。
男は、あまり才知のなさすぎる女を愛することはできないのではなかろうか。そういう女のそばでは男は下手な気どりを見せても罰せられることはない。そしてたいていは気どりを装うほうが都合がいいから、それは習慣となって、ついに自然さを欠くことになる。こうなると恋はもう恋ではなく、普通の取引と選ぶところはない。
芝居をしても見ぬかれるおそれのないような女に対して、一種の軽蔑を感じないでいられるものではない。
さてこの自然さという言葉だが、自然さと習慣は別のものである。習慣は人間の生き方、行為に対して、自然さより弱い影響力しか持てないしし、人間のほうがその時々の事情に応じて習慣より強い。冷たい人間の生活はどのページもみな同じだ。昨日も今日も、同じ木の手だ。
敏感な男は、一度その心が動かされると、もう自分のうちに行為を導くべき習慣の跡を見いだすことはできない。どうして感じをなくした道をたどることができようか。
情熱に囚われた人間にとって、嵐の中で唯一の頼りになるものとしては、どんなことがあっても真実を変更せず、正しく自分の心を読むという決意を固く守るほかはない。
気どらないこと、これが我々のなしうるすべてである。とにかく自然さを欠くことが最も大きな不利で、すぐ最も大きな不幸のもととなるものだということを納得しなければならない。さもないと諸君の愛する女の心は、もう諸君の心を聞かなくなり、諸君は率直さにこたえる率直さというあの神経的、無意識的な衝動を失う。これは女を感動させるあらゆる手段を失うことだ。
魂がつまらないことにコンプレックスを感じ、それに打勝つのに専心するなら、快楽を感じることはできない。快楽は一つの贅沢であるから。それをたのしむためには卑屈であってはならない。
:APPENDIX アラン『感情 情念 表徴』要約
- 愛とは怒りだ。
第一にそれは愛に背反するすべての紋切り型に対する怒りであり、機械的な怠惰に対する怒りでもある。
動物は愛を持たない。つまり怒りを知らない。動物は刺激に応じて、噛みついたり逃げたりするだけだ。自己と自己とのあいだの抑制、懸念、分裂、格闘、これらがあってはじめて愛があると言える。
習慣もまた、人間を動物のように機械的で無感覚にしてしまう。いつも愛は、懐疑によってのみ目を覚ます。
愛は──怒りは──心の葛藤によって激化される。距離を取れば薄れていく怒りは、やがて去っていく怒りにすぎない。決して逃げることができない怒り、原因を求めて目を離せなくなっていく怒り、これが本物の怒りだ。恋の苦悩のおおむねは、自分自身との戦いから、自分自身の容認しなかった事柄への激怒から生まれる。
ここから次のように言えるだろう。何にでもすぐ同意する人間は、恋には無縁だ。逆に、みずからの自由を守ってゆるがぬ人間には、ささいな恋の痛手も激しい屈辱となる。恋から逃れようとするものこそ、真に恋する人である。
恐怖に耐えることは難しくない。愛(する幸福)に耐えることは難しい。愛の表徴が私たちに引き起こす懸念、疑惑、戦慄、血の騒ぎをどうやって耐えたらよいのだろうか。
愛とは引っ掛かりであり、差異だ。愛する人が紋切り型の意見を口にするのを見ることほど、恋人にとって嫌なことはない。なにも感じていないのに、上辺をとりつくろうためにお義理になにか言うような態度が、愛への最大の裏切りである。それを親しさと勘違いする人もいるだろう。しかし主人と幇間の関係は決して恋愛にはなりえない。
恋心は折り合いも妥協もしない。ほかのなにものでもない、相手自身の魂を見出そうとして、恋する男は相手の心をノックする。しかし、こういう思いは相手のコケットリーにぶつかって失意に突き落とされるのが普通である(たとえば、軽いさげすみはコケットリー特有の手段である)。恋する人間は、相手に期待しすぎるための人間ぎらいに陥りがちだ。
嫉妬は性欲(生殖本能)や独占欲とは何の関係もない。むしろ、相手を自分が愛するに値するほどの人間だという確証が持てないことが、嫉妬の苦しみの本質である。だから、なびきやすい女のために苦しむこともあるし、貞節な女のために苦しむこともありうる。
微笑、しとやかさ、礼儀正しさ。まさしく愛とは正反対のもの。
相手に突っかかっていかないではいられないものが、愛だ。情熱と憤激は近似する。心を落ち着けた高邁な愛、などというものは観念上の恋、自慰にすぎない。恋する相手の前に立ったときのあの激しい幸福感をどう表現したらよいのだろう? せっかくの覚悟も決心も何の役にも立たなくなってしまう。危険のない恋というものはありえないのだ。
恋の暴力、とは比喩ではない。恋はそのつど痛手を負う危険を乗り越えていかねばならない。移り気な人間は、少しも心を傷つけることのない見慣れた日常に戻ることによって、この危険から逃げてしまう。しかし真の情熱の持ち主は決して逃げない。おのれの情動の暴力と闘って、それを乗り越えようとする。「心[coeur]」という語が「愛」と「勇気」の二つの意味を一語のなかに持っていることは偶然ではない。
恋は人の気に入ろうとする企てと相容れない。人の気に入られようとする技術は、端的に不快だ。相手に媚びるゆえにでなく、相手との差異において自然に気に入られることこそ、微妙な恋の喜びなのだから。
むやみに人に気に入られようとする派手な美しさには、恨みが混じっていなくはない。そういう美しさは相手に打ち勝つことを、屈辱を与えることを狙っている。しかし、そのせいで、相手の称賛の言葉が申し分なく嬉しい言葉とは受け取れない。お互いさまというわけだ。
恋の力は、自由であればあるほど洗練されてくる。羞恥のなかには、ひょっとして気にいられはしないかという不安がふくまれている。コケットリーのなかには、多くの場合、気に入られまいとする拒否がふくまれている。これは、人の心を支配したり無理強いしたりすることの拒否だ。相手の気に入られようとする負い目など抱かないで愛されたいからこそ、却って相手の気に入らないことばかりしでかそうとする。相手の自由を犯さないために。そのとき、美の光は明らかに人の心をうつ。
人はおのれを与えようとするならば、あくまでもおのれであらねばならない。人々と同じように笑い、人々と同じように泣き、人々と同じように怒るのであってはならない。
真の情熱は隷属の状態にあるものを軽蔑する。それを愛することができない。つまり、人が欲しがったり欲しがらなかったりするのは、相手の本来の心なのだ。相手の自由な魂なのだ。この点に関して不審の念があるならば、愛を買ってごらんになるがいい。廷臣[courtisan]という男性名詞を女性にすると娼婦[courtisane]という意になるのは、やはり偶然ではない。
厳密に言えば、相手のことなど何もわかりはしない。問題は、恋する人自身のことである。彼は恋すればこそおのれを知る。恋すればこそおのれを裁く。自分自身に責任をもたねばならない。弱い心に挑戦しなければならない。恋の苦しみのなかで、彼が自分を見つめて決意を新たにし、もう疑いようもないぎりぎりの自分の姿を見出さないならば、あらゆる認識はゆらぐ。あらゆることは疑いうる。自分自身に信頼がもてないで、どうして相手に信頼がもてるだろう。この弁証法は、万人に、しかも時を移さず当てはまる。
勇気のない恋する人は、恋しないことを選ぶことさえできない。ただ恋の装飾と雰囲気を楽しむだけだ。そして各瞬間ごとに罰される。これに反して、真摯さは、すみやかに報いられる。ただし、条件つきでなければ愛せない人は、これを信じることができない。
愛は同情を拒絶する。なれなれしさが同情の罪である。
同情が好きな人々向きに描写された「愛の物語」というものがある。同情と愛は一見似ているから、それらが俗受けするのも無理はない。しかし直截な判断力の持ち主には、違いがたちまち読みとれる。
同情の心理分析。「他人を窮状から救うために自分を犠牲にする人物は、密かに、自分が救い手になれるよう他人の苦しみを望んでいる」。