#001 バールーフ・デ・スピノザ『神学・政治論』

Baruch De Spinoza "Tractatus Theologico-Politicus"
畠中尚志訳・岩波文庫



 四十四歳の若さで肺を病んで死んだスピノザの生涯は、同じく気管支炎によって早逝したD.H.ロレンスの享年と時の韻を踏む(それ以外にもこの二人には共通する点が多い。定住を許されなかった生涯、民衆の無理解、発禁処分、聖書の批判的解釈、および後世の捩れた高評価)。
 その生涯の大半の時期にわたりスピノザの頭上では、オランエ家を支持するカルヴィン派新教徒の怒号が渦を巻き、それに対立する共和派の冷たい炎のような自由思想が空へと立ち昇り陰翳をなしていた。そんなスピノザには自身を取りまく十七世紀のネーデルランドが、後にその内政的諸紛争よりもむしろカルヴィニズムと自由思想の稀な共存によって、市民社会の先駆と評価されることなど思いもよらない。まして彼が苛烈な言辞でもって擁護した政治形態が、三百年の後に彼自身が根をおろしていた土地において「安楽死」という名の他殺を合法化するに至ることは、知るよしもない。ただ、彼の目には当然の真理を述べただけの言葉がなぜか義務として受け取られ、当面の必要を指摘しただけの言葉がつねに正義や道徳として聴取される、不可思議で不可避な光景だけが見えていた。肺の痛みを堪えて片手を額にあて、もう片方の手で背後の椅子の背もたれを掴んで立ち上がり、彼は、仮宿の窓から街路に蠢く民衆の群れを見下ろして、ゆっくりと暗い濃い眼をしばたたく。
 アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれ、ユダヤ人学校で教育を受けたバールーフ・デ・スピノザは、しかし、青年の齢にして──「ヨシュアが太陽の方が地球を廻り地面の方が静止していると信じていたのは、聖書の記述からして明らかである。また智慧において卓越していたと思われるソロモン王でさえ、円周と直径の正確な比を知らずにいた。われわれが聖書に対し敬虔たるべきとしても、彼らの科学的無知までも模倣しなければならない謂れはない」──と断言し得る率直をおそらく具えていた。一六五六年、まだ紅顔を残す二十三歳の彼に、ユダヤ教会は破門を言い渡すことになる。もとより聖書を文献学的に読み込む試みは、スピノザ一人が先鞭をつけたものではない。多くがマラーノ(カトリックへの改宗を強いられた末に亡命を余儀なくされたユダヤ人)から成るアムステルダムのユダヤ人社会も、一概に因習的な共同体ではなかった。しかし、スピノザの率直さは、より良く幸福に生きること、人々の間に立ち交じってより有意義な生を送ることで満足する十人並みの誠実を、遥かに越えており、彼は、態度の率直さは発言の内容によるのではなく、その言葉が発された後に実行される彼の振舞いによってこそ試されること──そのことを生涯にわたり銘記していた。二十三歳の齢にしてすでに言葉の正確無比な厳しさがそのまま浮彫りになった彼の横顔、決して妥協することのない凝結した理性、どんなに温い湯を注ぎ足されても濁ることのない、彼の低温の平静さこそが、聖書批判の言説自体よりも人々を激昂させたのではないか、と推測される。破門追放の令と悔悛すれば赦すという譲歩を組み合わせて差し出す和解ゲーム、信者と懐疑派の間で行われていた、ユダヤ人共同体内部での互酬のお遊びに見切りをつけて、彼らのじくじくした沼気に一条の清潔な風を吹き込んだだけで(「シナゴーグ離脱の弁明書」)、スピノザは、父と母とも訣別し、糊口を凌ぐレンズ磨きの手職を身に付けつつ、もっと乾いた土地を、粘つく寄生植物の育たない自由な土地を求めて逃れて行く。
 スピノザに対する社会からの第二の破門は、一六七〇年に上梓した『神学・政治論』によって惹き起こされる。一六六五年の第二次英蘭戦争以後、経済の疲弊と国家の凋落に憤懣を抱きはじめた民衆とともに、カルヴィン派の小鬼たちは時勢の変わり目を待っていた。フランスやイングランドとの拮抗関係から生ずるさまざまな力の流れの交錯の「結果」に過ぎないネーデルランドの危難が、あたかも、共和派の政治指導者ヤン・デ・ウィットの政策の「原罪」であったかのように歪曲され、その不道徳が非難されはじめる。カルヴィン派の説教僧は隠微に自分の言葉を尖らせて、敵手ヤン・デ・ウィットをこき下ろし、若いオラニエ公のオランダ総領職への復帰を望むように民衆を使嗾する。この政治情勢に応じて、ヤン・デ・ウィットの友人でもあったスピノザは、人々の感情と言葉を詐術的に屈折させている当の原因を剔抉し、あり得べき別の光景を掴み出して提示するための新たな仕事に着手する。『神学・政治論』。彼の暗い濃い眼には、曖昧に光と影が交錯しさまざまな褒貶の飛び交う社会の中に、やはり不動の一つの光景が見えていた。スピノザは世の中で怒り・正義・希望の名のもとに烈しく主張される言辞のどれ一つとして、確固たる真理への情熱によって語られていないことを、人々が状況を真摯に見つめるよりもあちらこちらで色めきながら、ただただ情緒的な偏りだけに固着して蜷局を巻いていることを、透視した。彼は言う。「民衆は信念を持っていないのではない。むしろあらゆる信念を持っている。同一種類の信念ではなく、つねに新しい信念、まだ駄目だと分っていないがゆえに自分たちの気に入る幾多の信念を、民衆は行き当たりばったりに身に纏う」。彼は静まり返った仮宿の窓から、人々が不確実な幸福を夢見るがゆえに真の現実から目を逸らしていく光景を、致命的に口を噤んで見下ろす。
 賢明な母親ならば、子供たちに外から帰ったらうがいをして手を洗いなさい、と教えるだろう。彼女は、戸外にいる間に病のもととなる微小な何かが喉の粘膜に、手の皮膚に付着したとしても、よく手を洗いうがいをすれば、それらが身体の奥に入り込み病を発症させてしまうのを防げると認識しているがゆえに、そう教える。だが子供たちは、手を洗うことの必然性を十分には理解しない。ともかく外から帰ってきたら手を洗わないと、お母さんに叱られてしまう、だからこそ彼らは手を洗うのだ。彼らは叱られることを怖れるあまり、もはや病の危険のないところでもしきりに手を洗い続ける。母親が真理に基づいて提示した教えを、子供たちは真理としてではなく義務として把握する。──この真理(哲学)から義務(宗教)への屈折を、『神学・政治論』においてスピノザは、聖書を題材に、ヘブライ人の国家を例にとり、幾何学的に明示したのだった。さらにその筆は当然ながらカルヴィン派の政治的反動、ネーデルランドの衰運をヤン・デ・ウィットの涜神的態度に重ね合わせてあげつらう疑似宗教論争の欺瞞にも及んでいる。だがもう彼にはあまり時間は残されていない。彼が咳をすると肩に力が入り、痩せた背中が震える。あと十年も生きられない自身の宿命を知ってか知らずか、彼の面差しには静かな死との絆がときどき浮び上がる。しかしそこに恨めしさは微塵もない。『神学・政治論』上梓後の、数多の宗教団体からの論難の槍にも、彼は微笑と沈黙をもって応える。一六七二年、オランエ家のウィレム三世が民衆に歓呼して迎えられ、それに勢いを得た弾劾者たちの策動によって『神学・政治論』に発行禁止令が下された時も──社会からの第二の破門──もはや出版の望みの断たれてしまった『エチカ』を、彼は悠々と書き継いでいた。ただ、浮薄な民衆によって、天の咎めと称して親友ヤン・デ・ウィットが虐殺された時にだけ、彼の悲しみは鋭く噴出し歴史に彫りつけられた──「汝ら卑劣きわまる野蛮人」。
 今、二十世紀を通過した眼で『神学・政治論』を読む場合、「国家における恊働の有益性が保たれるかぎりで、全民衆が自己の自然権(自己保存のために必要なもの一切をあらゆる手段を用いて獲得する権利)を、自分がその一部であるところの社会の最高権力に委譲する」政治形態として「民主制」を賞揚するスピノザに、全体主義の予兆を見ないことは、難しい。しかしここでも真理を義務と読み変える「迷信」を批判する幾何学的視座が有効である。「このような政治形態であれば多くの民衆にとって利益になるだろう」という洞察が、秘かに「この政治形態が多くの民衆にとって最大の利益とならなければおかしい」という迷信にすり替えられる──そしてこの迷信から、全民衆の自然権を委譲された国家が政治的に価値のある生/無価値な生を仕分けして淘汰する「最高権力」を僭称しはじめるまでは、ほんの一歩だ──ことは、スピノザの批判精神を理解しないことによってのみ、可能となる。スピノザには、つねに真理を義務として、必要と正義として屈折させて受け取る人々の眼に接着した奇妙なレンズが見えていた。誰もが生まれながらにして濁った眼鏡を掛けているように、しかも好んで情熱的にそれを身に付けていると思われる中で、彼一人が、現実の生のままの色彩を味わっていた。カルヴィン派の神学者が、あらゆる理性の光を遮る黒眼鏡で『神学・政治論』を読んで裁こうとしていた同時期に、哲学と神学の結合を目論むマイモニデス亜流のユダヤ教徒も、神についてデカルトが述べたことを金科玉条としていたデカルト主義者も、それぞれの色眼鏡を掛けて、ゆらめく情緒的な色彩で自分好みの一節を『神学・政治論』の中に読んだ。スピノザは顔を上げて、首を後ろに反って彼らを柔らかな目付きで眺めやる。彼はただ、自分はきみたちの掛けているレンズが破砕した後にしか、その真の実行も実践も試されないと考えているだけなのだが、とひとりごちる。今もなお、私たちが熱烈な政治的関心を持ってスピノザの著作を読もうとする最中、墓を持たず自由に飛び廻るあの暗い濃い眼が、背後からじっと見つめている、何らの恨みも憎しみもなしに。









#002 スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』

Stendhal "VIE DE HENRY BRULARD"
桑原武夫/生島僚一訳・岩波文庫



 ローマの冬空は突き抜けるように青く、青過ぎて冥い。彼の肉体はその青黒さをひしひしと受け止め、彼がひとりホテルの自室に閉じこもる時にも、その感受された青さは持続している。部屋はひどく寒い。銀の燭台の中では蜜蝋のろうそくが干涸びている。そよ風がグルノーブルの小さな町を吹き抜ける。叔母セラフィーの悪魔的な躾の眼を逃れてほんの一時の自由を享受しつつ、少年の彼はル・ロア氏の家まで駆けて抜けて行く。しめった陽光が心地良い。乾き切った冷気が彼の皮膚と粘膜に食い込む。牢獄のような天井の高いそのホテルの部屋には小さな暖炉が一つあるきりで、牛乳入りの熱々のコーヒーも胃の炎症のせいで飲むことができず、彼を内部から暖めてくれるはずの恋の情熱も、失われて数年を過ぎた(ジュリア・リニエリとの破局)。窓から垂直に射すほの白い光の中で机に埃が舞っているのが見える。栗の屋台の売り子のよく透る声が聴こえる。刈り込まれた垣根の灌木のむっとする匂いが漂う。ポンプで水を汲むきゅっきゅっという清潔な音。中空に金色の線を描く聖堂の鐘の音。彼の指先までの限界を持つ子供の肉体は、春に祝福され快い汗でちくちくする。だが、彼は埃が静かにみだれ動くのをじっと見据えている。冷たい白光に暖炉の鉄柵がこまかく錆びている。彼は自分の胸裡に青年期に問うた問いが、新鮮な痛覚とともに甦ってくるのを感じる──「果たして、この地上にまだ一つでも幸福があり得るだろうか?」……この時、祖国における共和主義者や王党派の政治的鳴動も、ユゴーやラマルチーヌらフランス文壇のロマン派の隆盛も、五十歳間際でようやく外地の駐在領事という定職を得たスタンダール(アンリ・ベール)には、最早遠々しい花火のようなものにすぎなかった。去年意欲を持って取り組んだ『リュシアン・ルーヴェン』も、執筆中途で放棄され、後には傷んだ視力だけが残った。苦しんでいるのは彼の肉体なのだった。彼は、乾いて枯葉色になった唇を舐める。ふと、きつく顔をしかめてくしゃみをする──その破裂音が孤独に壁に反響する。強く鼻を啜り、ふたたびくしゃみが出そうになるのを、ぐっと俯き込んで堪える。身震いは収まって、彼は安堵の表情で細く息を衝く。机にはレモン水の瓶と煎じ薬、そして阿片の吸入器がある。彼は立ったまま上半身だけを向け変えて、手を伸ばしてそれを取る。「阿片は私の病気を治してくれるわけではないけれど、苦痛は中断してくれる。私はひどく弱っているのだ……」(マレスト宛書簡)彼は今、自分のこめかみに想像上のピストルが突き付けられているのを知る。彼の小説の登場人物をつねにしぶとく生き延びさせてきた、そして餓死しかけた一八一二年のロシアで、女に拒絶された一八二一年のミラノで、経済的不如意を忍んでいた一八二六年のパリで、彼自身をもつねに苛烈に生き延びさせてきたあの「こめかみをぶち抜く」ピストルが、いよいよ彼を運命に従わせようと狙いをつけていることを、知る。今度こそ、その想像上のピストルが現実のものとなるのだろうか……? だが彼はいつしか、引き締まった腿を持つ一人の雌鹿のように活溌な女を、憶い出している。ドフィネ地方の因循なカトリックの湿気の中で、朗らかに自由にダンテを原文で愛読していた彼女、すでに失われて四十五年もの歳月を経た彼の最愛のもの、彼の母親、アンリエット・ベールは、家の中で近道をするために赤ん坊の彼の上を軽々跳び越えるようなイタリア気質の女だった。一八三五年、彼もまた、かつての牡鹿のような弛まぬ生命力を取り戻さなければならない、“記憶”によって。
 ──これが彼、スタンダールが、自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』を書き始めた時に陥っていた状況だ。彼は、ただ生き延びるためにこれを書いた。まだ自分に何が愛せるか、自分に何が信じられるかを確かめるために、これを書いた。或いは何者かへの嫌悪によって、却ってその何者かと自分が相似してしまう愚を避けるために、これを書いた(当時、彼はユゴーやアレクサンドル・デュマに喝采する民衆を侮蔑していたが、その侮蔑はこの回想記には見られない。わずかに諦念が洩らされるだけ──「五十年後には私の『赤と黒』は一体どこへ行っているだろう?……地獄へでも行っているだろう」)。正当化の試みではなく、自己救済の試みでもない。そこに描かれるのも、親密な修辞にくるまれて綺麗に均された幼年期-青年期ではない。五十三歳の彼は安楽椅子に腰掛けてなどはいない。彼は、突如机の前から離れ、部屋の中を歩きまわり、壁に苛立ちをぶつけては俯き込み、顔を上げ、机に駆け寄って一瞬のうちに数行を書き留める。その飛躍の多いブツ切れの叙述は、追憶にともなう輪郭の曖昧な、少しばかり痴呆的な快楽に浸ることを妨げるだろう。彼がインクで紙に書き付ける散文には、ただ「できるだけ錯覚を抱かずに」敬虔に自己に向き合うことが賭けられていた。自己への敬虔さ。「私は自分の運命に不平を言うべきでない。」彼の感受性は触れれば燃え上がるが、奇妙な固着はしない。強烈な歓びも憎しみも、速やかに揮発するだけで、彼の皮膚は生白いまま──情念の残滓にしがみつく卑しさは彼にはない。たとえば彼が、八歳の頃嫉妬に駆られて女に石を投げた事件、それを女が立っていた斜面の高さ(十フィート)や、そばにあった枝が二股になった桑の木や、林檎の木、コップがないので女が鼈甲のタバコ入れの蓋で果実酒を飲んでいたことまで、一つ一つ細かく描写した上で、しかし嫉妬の原因となったお嬢さんの名前は忘れてしまった、とあっさり書く時、ふと清潔なユーモアの響きが読者の胸に落ちる。「驚くべき愚行の数々……しかし、驚くべき、とは自分に対して言ったので、読者に対してではない。だいいち私は後悔などしていない。」書き手の意図しないこの無頓着なユーモアは、回想記中に数多散りばめられている。苺を掬った匙を手に持ったまま四十五分も喋りつづけたシェラン師。「私はしびんの暗殺者です」などと自称する年寄りの下男。イエズス会神父のつくった牛乳の壷の中で溺れる蠅の詩(ラテン語の教材)。大法螺ふきで画家としてはあまりにも無能だったジョー氏(中央学校の教師)。優秀な若者として故郷からパリへ送り込まれて来たにもかかわらず cela を cella と綴る間抜けた書記(スタンダール自身)。最愛の母を亡くすという深刻な悲劇のさなかでさえ、清潔なユーモアがちらっと閃く。彼の母の死はお産の時の藪医者の不手際のせいだったのだが、「この馬鹿はどうやら才知と手腕のある産科医に対する反感から選ばれた」──彼はただそう素気なく書き綴る。最愛の母親の死という出来事に始まり、一八〇〇年のロンバルディアに踏み入った時の歓びの炸裂をもって閉じるこの回想記の円環は、反省や後悔によって遅らされることなくなめらかに廻り、その都度彼の肉体を柔軟にして、新たな息吹きで世界と精神を更新していく。スタンダールの危惧に反して、われわれがこの書の「私」の氾濫にまったく反感を抱かずにすむのは、それゆえだ。
 五十三歳のスタンダールはまだホテルの黴臭い一室で、かじかんだ手を擦りながらペンを走らせている。窓から射す光はもう黄昏の淡い真珠色に変わっている。祖父にかつて「醜い」と評された彼の横顔は、すでに自己を取り戻した男の顔だ。そして、数年の後に彼は、休暇で滞在したパリにおいて、生涯で最も書きたかった小説を──彼にとって本質的な興味を持ち得ない七月王政時代を描いた『リュシアン・ルーヴェン』の倦怠とは真逆の──十九世紀初頭のイタリアを舞台にした、信仰と情熱の物語を書くだろう。その物語の冒頭、主人公が二歳の時にナポレオン率いるフランス軍がサン=ベルナール山を下ってミラノに入城する場面の熱狂は、『アンリ・ブリュラールの生涯』の最終章、青年少尉のスタンダール自身がミラノに入城した時の完全な幸福の一瞬と、重ねられる。だが、われわれは彼をそっと一人置いて部屋を出て行かねばならない。評伝的事実としてすでに成否の明らかになった彼の試みと賭けについて、これ以上詳しく知る必要はない。彼の青春の回想記を閉じた後には、今度は読者一人一人が、明日への試みを迫られているのだ、阿片でも吸わなければとてもやっていられないような状況で、乾いた唇を舐めながら、それでも尚しぶとく生き延びるために、「汝自身」を掴み直すというあの困難な試みを。









#003 フラナリー・オコナー『烈しく攻むる者はこれを奪う』

Flannery O'Connor "The Violent Bear It Away"
佐伯彰一訳・新潮社



 この世界には無名の虐げられたものたちが、我が身に被った悪を遂に償われることなく消えていく数多くの押し拉がれたものたちがいる──いた、のに違いない。虐待されて一人便所に閉じ込められ、夜明けには凍え死んでいた五歳の女の子。事故を装って父親に海で溺れ死にさせられた白痴の子供。一体に迷信家で不吉に蒙昧な存在であるとされ、審問官からサタン麾下の兵士と名指され「魔女の鉄槌」を受けた、中世の文盲の女性たち。工場の送風炉の爆発に巻き込まれ両眼を失いながらも、何の補償もなく放り出された、黒人労働者。そして、人間だけとは限らない──人々を癒す医学の発展に寄与するべく捧げられた犠牲、たとえば、身体を固定され、薬物を投与され、皮膚を裂かれ、剥き出しになったぴくぴく脈打つ内分泌器官を幾度も刺激されてはホルモンを放出する様を観察・記録されていた、あの培養ブタたち。
 紅斑性狼瘡は、それまでは致死の病であったものが少なくとも抑制可能になったという点で、ステロイド剤の登場によって最大の恩恵を受けた疾患の一つである。だがフラナリー・オコナーの父、エドワード・フランシス・オコナーが一九三八年にこの病に罹った当時は、まだステロイド剤は存在せず、ミネソタ州ロチェスターのケンドル博士が、副腎皮質からコルチゾンの分離に成功していたに過ぎなかった。一九四八年、六十二歳のケンドル博士は、その物質が何に有効か分らぬままコルチゾンの工業的製造に成功する。同年、彼の同僚のヘンチ医師が、コルチゾンの未知の薬理活性に着目し、関節リウマチの患者に投与したところ著しい効果が得られた。翌年、ヘンチ医師は臨床例をもとに治療研究を発表、合成ステロイド(コルチゾン)は「奇蹟の薬の発見」として世間を賑わせ、翌々年の一九五〇年には、ケンドル博士、ヘンチ医師両名にノーベル医学賞が与えられる。同一九五〇年の十二月、既に幾つかの雑誌に短篇を発表して高い評価を得、長篇小説の出版も約束され、その執筆にいそしんでいた二十六歳のフラナリー・オコナーの全身を、重い疲労感が襲い、筋肉と関節に灼熱の痛みが走り、医師から貴女は父親と同じ死病に罹ったと診断された危難の時、ロケットのような衝撃で何本も注射を打ち込まれながらも、彼女が辛うじて命をとりとめたのは、このケンドル博士とヘンチ医師がお互いを称えて上げた祝賀の声の余波である。以後、フラナリー・オコナーは終生ステロイド剤によって狼瘡の症状を抑えながら暮すことになるが、彼女が、その自分の運命を嘆く言葉を周囲に洩らした形跡は、一切ない。一九六四年、腎感染症の併発で病勢が悪化し、健康が急速に破壊されていく死の間際にも、彼女は病院のベッドにノートを持ち込み、執筆を続け、亡くなる一週間前まで粛々と短篇「パーカーの背中」の推敲をしていた(享年三十九歳)。酷い浮腫みや骨の損傷という副作用があったとはいえ、父親と異なり、最初の発病の後も十四年間彼女を生かしめ、最終的には、二つの長篇小説と二つの短篇集を完成させることを可能にしたこの「奇蹟の薬」について、彼女は、友人への手紙で次のように言っている。「もし豚がドレスを着ていたら、私はそのドレスの裾にキスするにも値しないでしょう。……私が存在し、生の喜びを味わっていられるのも、毎日シカゴで喉を切り裂かれている豚の下垂体のおかげです。」──二十六歳の折、ほとんど死の瀬戸にいた彼女を奇蹟的に生き延びさせた薬剤、ステロイド系抗炎症剤のため、過去に実験台になった数千匹もの豚たちへの感謝の念を、冗談めかして口にする彼女。正確に言えば、ステロイド剤の実用化に至る歴史のなかで、特に豚ばかりが殺されてきたわけではない。一九三〇年、実用化研究の方向性を決定づけたハートマンの論文が参照したのは、子牛の副腎皮質抽出物であった。だが旧約聖書中で不浄な動物とされ、その屍にも触れることを禁じられている豚の犠牲によって、自分が生かされているという密やかな事実の痛覚は、オコナーの信仰を奇妙にささくれ立たせ、微細に歪ませる。この世界に、償われぬまま紛らされた悪が存在するということ。或る生が、他者の命の犠牲の上に成り立っているということ。日々の習慣の流れのうちに眼から口から秘かに入り込んでくる、粗く辛い砂粒のような原罪意識、それを、ドレスを着た豚と、その裾に接吻する自分自身というイメージの重ね合わせにおいて提示してみせる、オコナーの視角、それは無意味で確率的な悪の記憶がさらにグロテスクに無意味化されていく過程の中でのみ、信仰が信仰不可能なものに滑り落ちていく過程の中でのみ信仰を試みる、“聖書地帯(Bible belt)”の南部で、カトリック教徒の彼女が掴み取った、小説家としての視角にほかならない。
「現代小説で非常に多くの暴力が使われる理由は、作家によってちがうと思うが、私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つということに気がつくからである。人物たちの頭は非常に固いので、暴力の他に効き目のある手段はなさそうに見える。──真実とは、かなりな犠牲を払ってもわれわれが立ち戻るべき何かである……。」(『秘儀と習俗』)
 オコナーの作品では、いつも「差別」の線が登場人物の間を縫って、鋭利に分断する。その線がぞっとするほど急速に形を変えて、新たな裂け目を小説空間につける時、人物たちは、それまで自分が居ると思っていた地帯にもはや自分が居ないことに気がつく。時間が極点化され、忍び寄る神の足音がするのはそんな時だ。たとえば──あなたの知人の中に、あなたが心の底から軽蔑している或る男がいるとする。愚かさと卑しさの権化のようなその男の振舞いを見るにつけ、あなたは、自分の肉体まで穢されたかのような烈しい憎悪を覚え、絶対に自分はあんな男とは違う人間であると、一毫もあんな男と共有するものがあってはならないと強く銘記し、あの男とは真反対に良心的な行為を、誠実な振舞いを日々実行していく。やがて、あなたは人々から義人の誉れを受けている自分を見出し、今やあの悪徳の男を侮蔑する正当な権利さえ、自分にあると思うようになる。いや、侮蔑するにも値しない。あなたは彼に憐憫さえ覚える。あのような愚昧と否定的感情のみを糧として生きているような男が、幸福になれるはずはないのだから。いずれ彼は誰からも見捨てられ面目を失い、見るも哀れな境遇に陥るに違いない(それが正義というものだ!)。そのあかつきには、多少は彼を人間扱いしてやってもいいだろう……。あなたは、そんな風に考えている。鋭い線があなたとあの男の世界を清潔に分断している。ところが、ふと気がつくと、あなたは袋小路に追い込まれており、あなたの目の前には、ピストルを持ったあの男が立っている。男は何の感情も抱いていないように、唇の端をだらりと垂らし、爬虫類のような目付きで、あなたの顔をじっと見ている。助けを呼ぼうにも、あたりに人気は皆無だ。あなたはいつしか、分断線の内側に、相手は外側にいて、何の軋轢もなく、彼は単に興味本位であなたを殺せる立場にいる。強いて殺す理由はない。だが、あなたが幾ら自分の善行に誇りを持っていようと、自分とは違う者として相手を見下していようと、イエス・キリストの復活を信じていようと、境界の反転した地帯においては、何ら無意味であり、相手はただ端的にこの世界が絶対的な不正に満ちていることを、償われなかった悪が有史以来夥しくあり、今もまた生起しつつあることを証明するためにだけ、あなたを殺すかもしれない。男はゆっくりと肘を曲げ、あなたに向かってピストルを構えていく……。しかし、ここでは、あなたが遂に生き残ることができるか否かが、問題なのではない。ここで第一に問われているのは、自分がもっとも嫌悪すべき相手の前で弱者として曝される経験に耐え抜く力だ──それがあなたにあるか、否かだ。「悪とは解かれるべき問題であるだけでなく、耐えなくてはならない神秘でもある。」自身カトリック教徒であるオコナーが、と或る講演において、良心と希望と社会正義を臆面なく掲げる教会を批判しつつ、「われわれはあまりにも精神の動揺から守られており、満ち足りて怠惰だから、自分からは何も発見できなくなっている」と言う時、彼女が形骸化したカトリックに欠けている──対して、南部の根本主義にはまだ息衝いている──と見たものが、この種の悪への感受性であった。しかも、オコナーの想像力はこの暴力的二者関係にとどまらない。登場人物たちのあいだの分断線が滅茶に折れ曲がり、彼らの足許を動揺させる瞬間には、特に長篇において、さらに第三の眼が介在する。この眼は壁に秘かに穴を開けて、あなたと相手の男がピストルを持つ/持たないことによって不均衡な力関係に曝されているのを、覗き見る。あなたも相手の男も知らないことだが、この第三の眼は、実は、あのピストルが玩具のピストルであることを知っているのだ。だがその事実を教えてやるつもりは、この第三者にはない。眼前で展開する、この緊張で焼き切れんばかりになっている白熱した時間が、まるごと茶番であるのを知りながら、にやにや笑い、あなたが何をし始めるか──情けなくも命乞いするか? 絶望のあまり罵り声を上げるか? それとも自分でも訳が分らぬまま恐怖に笑い出してしまうか?──意地悪な興味で、ぞくぞくしながら待っている。もしそのピストルが本物であるならば、あなたにもまだ、暴力を被りながらも悲劇的な英雄になれる可能性があったろう。しかし、ピストルが玩具と判明してしまえば、感極まった悲劇は逆立ちして、あなたはねばねばした卑猥な喜劇の中に頭から突き落とされる。そして、それによって忍び寄りかけた神は不興げに去って行ってしまうのだろうか? 否だ。オコナーにとっては、恩寵がおとずれるのは、すべてがグロテスクな喜劇へ裏返った、その後でしかない。ドレスを着た豚が、裾をひらめかせて、踊り出す。「最大のまじめさは最大の喜劇を許容する。」オコナーは、登場人物たちに限りなく肉迫しながらも、それをねじれた角度で遠くから見つめ返し、距離を自在にする視力によって、暴力のもたらす悲劇と喜劇のあらゆる側面を捉え尽くして、描写する。もちろん、第三の眼とは、小説家としての彼女のこの視力の謂いである。
 先に引用した『秘儀と習俗』所収の論文からの一節につづけて、オコナーは、次のように書いている。「暴力は善にも悪にも使える力である──暴力によって奪い取られるものの中には、神の国も入っているのだ。」言うまでもなく、この言葉は旧約マラキア書の告げる神の使い、洗礼者ヨハネがユダヤの荒野で「神の国の時は来た」と叫んで以後に起こったこと、天の国が「烈しく攻められ、烈しく攻める者がこれを奪う」という事態を踏まえている(マタイ伝、第十一章、十二節)。一九五二年、彼女が紅斑性狼瘡を発症して後に着手され、完成まで七年の時を要した第二長篇の表題は、新約聖書中に異物のように挿し込まれた、この不吉な文言から取られた。
 オコナーはつねに人物と事件についてではなく、人物と事件によって語る。長篇『烈しく攻むる者はこれを奪う』の登場人物たちは、それぞれが嫌悪すべきものを抱えており、自己の周囲に分断線をめぐらせ、しかもそれが人物間で差し違えになっているので、線が折り返されるたびに凄まじく「悪」が乱反射し、嗜虐と被虐が交錯する。その中心に置かれているのは、ヨルダン川のヨハネから連綿と受けつがれた「洗礼」という名の暴力だ。長篇中の主要人物の一人、ターウォーター老人(大伯父)は、自ら神の召命を受けたと称する宗教狂人である。彼はかつて、街中に立って神の子たちに世界の破滅を大声で告げ知らせた、にもかかわらず翌日以降も太陽が上がりつづけ、災厄は訪れず、人々の前で馬鹿面を曝し嘲弄されたという屈辱の過去を持っているだけに、その信仰は歪に凝り固まっている。そんな狂信の磁場に耐えられず、彼の妹は家を出て、街の凡庸な保険屋として子を生む。大伯父は、その子供レイバーを七歳の時に誘拐し、洗礼をほどこし、神に選ばれた預言者としての自覚を吹き込む。その時深く信じ込んでしまった神への飢えを、レイバーは、父親に連れ戻されて後に否定するが、大伯父の言葉は彼の血の中で蠢きつづけ、それを抑えつけるために、彼はひたすら合理的な教育を自身に叩き込み、みずからも小学校教師となる。同じ合理性でもって彼は、両親(母親の方はレイバーの妹)を自動車事故で亡くした甥を引取り、教育しようとするが、同時にターウォーター老人も自分の家に引取って、その狂信を心理学的に解明・矯正してやろうと目論む。その目論みに気付いた大伯父は猛り立ち、赤児の甥を誘拐して、「わしの手で預言者に育てられた子供が、お前の眼を焼き浄めるだろう!」という呪詛を残して、故地の森へ去る。甥を取り戻すことを諦めたレイバーは、結婚して子供を儲ける。が、それはあたかも生き物としてのレイバーを打擲する侮辱であるかのような、獣じみた吼え声しか出すことのできない、白痴の子供であった。レイバーの妻はその子供の面倒を見切れないと言って、離れていく。大伯父はこのレイバーの不幸を知って、当然、小躍りし、合理的な教育など端から受け付けないその白痴の子に洗礼をほどすことが、ターウォーター少年の、すなわち、老人自身の手で誘拐し、洗礼をほどこし、預言者たるべく育てて来たレイバーの甥の最初の使命であると、指嗾する。少年は、そんなことが自分の召命であるはずがないと抵抗するが、自分では真に主の授け給う使命とはどんなものか、皆目分らない。ターウォーター少年は、イエス狂いの大伯父の教導に疑義を感じつつ、教師レイバーの奉ずる現代的教育もまっぴら御免だと考えている。──以上の概略からでも、信仰をめぐる大伯父とレイバーの間の分断線、そのレイバーの中での抑圧された信仰と常識性のせめぎ合い、伯父と甥の血縁が自乗する大伯父/レイバー/ターウォーター少年の三者関係、世俗的な人間社会から分断された白痴の子供、大伯父から発してレイバーとターウォーター少年を貫き、白痴の子供まで達する「洗礼」の暴力、老人もレイバーも共に斥けるターウォーター少年の自恃、それでいて「白痴の子供に洗礼をほどこせ」という馬鹿馬鹿しい召命に感染している少年の怖気、……これらすべての、寸断されては畸形に交錯する関係の渦が、登場人物を巻き込み、暴力の震源へと幾度も連れ戻していく絵図が、描ける。彼らの足掻きは、あなたに黒々とした銃口が突き付けられていた、あの耐え難い袋小路の奥につながっているのだ。だが、ここまではまだ小説の第一幕にすぎない。
 オコナーは、ぎりぎりまで高めた暴力の圧力を次々に破裂させ、滑稽へと崩落させて行く。ターウォーター少年が十四歳の時に、大伯父は死ぬが、その復活を否定するためにだけ、少年は屍体を焼いて灰にする。もし灰になったら復活できないのであれば、火事で自然に焼け死んだ人はどうなるのか? 焼くにも埋めるにも何一つ遺らなかった人たちは? 「主の救いだって、本当かどうか判るもんか」。そして、少年はレイバーの元へと赴く。ここから先はすべての場面が目を離せない。ターウォーター少年の老人そっくりの顔付きは、レイバーの血の中の信仰の暗流を、じりじりと掻き立てる。他方、白痴の子供の菫色の瞳は、少年に自身が拒絶したい「洗礼」の召命を、呼び醒す。レイバーと少年は二人して、街中の小宗派の教会堂で十二歳の少女の巡回説教師の話を聴き、特にレイバーは、自分の内の厚顔な欲情を暴露される。レイバーは白痴の子供をかつて事故に見せ掛けて溺死させようとした過去を、少年に告白する。少年は洗礼をする代わりに、白痴の子供を湖で溺れさせ、これによって洗礼の強迫を断ち切ると同時に、レイバーよりも自分が優れた人間だと証明したと思う。だが、その少年を──大伯父の呪いも、レイバーの情けも振り切り、これからは一切を自分の思い通りに生きるのだと意気を上げた彼を、途上、車に乗せてやった男が、睡眠薬で眠らせて、性的な慰みものにしてしまう──神の飢えから癒され、遂に独り立ちして生きて行けると確信した瞬間に、もっとも忌み嫌っていた罪(「少年は肉体上の悪に屈服したことは一度もなかった」)に穢され、握られ、弱者の側に転げ落ちた屈辱の経験が、少年の感情を、知覚を、狂憤で焼き尽くす。そして最後の最後、故地の森に辿り着いた少年は、自分が家ごと燃やして灰にしたと思っていた老人の屍体が、火をつける前に、自分の目を盗んで隣り家の黒人によって、きちんと埋葬されていたことを知り、つまりは、自分の神への抵抗がはじめから梯子を外され空転しつづけていたことを知り、とどめの一撃を受ける。暗さを加えていく夕闇の中で、アベルの血から自分の血へとつながる神の慈悲の恐るべき速度の警告を、少年が沈黙のうちに聴取するのは、この時だ。オコナーは言う。「私の作品では、恩寵の訪れに先だって必要な基礎作業を、悪魔が受け持って果たしている。」自分は自分ひとりでやっていくというターウォーター少年の自負を、内側から衝き上げ、外へ放り出す、大伯父の預言の息吹きに始まり、クリーム色の車に乗っていた下司な男に至る悪戯けの連鎖、それら一続きの神へと宿命づけられた悲喜劇の道程に、オコナーの凝視を逃れる存在は、何ひとつない。オコナーの第三の眼に彼方から睨めつけられている主人公たちは、誰一人、ついに癒されることがない。それは、太古からの償われなかった悪の記憶が地霊となって噴き出す土地、虐げられた人々の苦痛が凝固し、看板となって、神を呼び、酸敗した血の悪臭で「JESUS IS MY LORD」「JESUS saith unto him」「REPENT/JESUS/SAVES」「TRUST JESUS」「TRY JESUS」という文字が森の入口に、ハイウェイの道脇に、トンネルの壁に出没する、プロテスタントの南部に堅く根付いた彼らには、あたかも、不可避のことであるかのようだ。むしろ、こう言うべきだろうか、償われぬ悪のデッド・ストックを引きずって歩く人々、神の記憶を担い支える人々、彼らは、決して癒されてはならないのだ、と。長篇第一作『賢い血』と較べて、ミスティフィカシオンの度が減じた『烈しく攻むる者はこれを奪う』は、その南部の信仰の証明のように書かれている。
 フラナリー・オコナー自身もまた、決して癒されることのなかった一人、自分の描く登場人物たちと共に、神の飢えに苦しんだ者の一人にほかならなかったが、その苦しみを分かち合う存在の中に、あの数千匹の豚たちが含まれていることが、彼女の苦悩のロマンティックな色合いを微妙にくすませている。長篇『烈しく攻むる者はこれを奪う』によってジョージア作家協会賞を受賞した際、スピーチの壇上で、彼女は、「誰がいかに料理して仕立てようと、豚は豚である」と断言した。折も折、その傍らで、一九四八年から一九五五年の長期に渡りジョージア州知事の座にあったハーマン・タルメッジ氏の出身、名門タルメッジ家は、何千匹もの養豚から、タルメッジ印のハムを日々精製していた。アメリカはジョージア州の州都であろうと、日本は横浜の副都心であろうと、近代化された高度な医療の恩恵を受ける時、或いは、スーパーマーケットの冷蔵棚に「熟成された旨味!」とシールを貼られた、燻製ハムの肉桂色の陳列を見る時、われわれは、自分たちが決して癒されることのない存在であることを、知る。だがその時、豚と人間とを分断する線が敏速に折り返される瞬間もまた、間近にあるのだ。
「先月は四回輸血をしました。問題なのは腎臓で、プロテインから毒素を除く働きをしなくなっていて、造血の力が不十分になっている、または、血液が足りなくて貧血している、とかなんとか。医者たちは良くなることを期待して希望を口にします。私自身については、あのタイプライターさえあれば、もう十分です。」(一九六四年六月二十四日、セシル・ドーキンズ宛書簡)
 難病にも劇薬の副作用にも耐え抜かせる力は、あの張りつめた時間経験の向こうから、不意打ちのように、訪れる。









#004 アントン・チェーホフ「ふさぎの虫」

Антон Чехов “Тоска”
池田健太郎訳・中央公論社版『チェーホフ全集 第4巻』所収



 一八六〇年一月十七日、南ロシアはアゾフ海に面する港町タガンローグに生まれ、医師であり且つ篤実な慈善家でありながらロシア文学史上有数の散文の書き手に数え入れられもするかのアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフについては、これまで数多くの人が数多くのことを語ってきた。なので、ここで一つ新たなデタラメをそれに付け加えたとしても、大した罪にはならないだろう。
 古代ローマにマルクス・ウァレリウス・マルティアリスが居たというのと類比的な意味で、アントン・チェーホフはロシア最大の墓碑銘作家である。この印象はいわゆる「初期短篇群」として一括りにされる夥しい短篇の数々──とりわけ雑誌・新聞におけるジャーナリスティックな仕事(探訪記事、ゴシップ記事、劇評等)を止めて小説執筆に専心しはじめた一八八五年から、文壇の要請に従って長篇『曠野』を発表する一八八八年までの間に書かれた作品群──を一挙に通読することによってより鮮明となる。これらの作品は、通例チェーホフが真のチェーホフへと成熟する過渡に書かれたものとして、家族を養う入費を稼ぐことだけを目的とした埋め草の安易な作品もあれば、傑作になろうともがいている個性の鋭い佳品も含まれるものと見なされているが、ヴォスクレセンスクでの郡医勤め及びモスクワで開業医を営む傍らに、これらがほぼ一定のペースで書かれた(文壇の大御所グリゴローヴィチを感激させた「お抱え猟師」でさえチェーホフは風呂場で書いた)事実を踏まえた上で、玉石を選り分けるような蒐集家じみた読み方をせず、この二百篇以上の作品すべてを一つの総体として捉えるならば、そこから伝わってくる、チェーホフ独自の感覚、──十九世紀後半のロシアの民衆、しかも歴史の網に引っ掛かることなくさらさら零れおちていくあまりに無名な人たちの、単なる「poor」ではない、鉛ガラスのように太々しく煌めく不幸、自ら窮地に追い込まれ何もかも台無しにして行きながらも、驚くほど個性的で表情のある絶望への道程を生きる人々の生活の総量を、蓄積し、素早く刻み込む、チェーホフに固有の寸鉄の感覚はまぎれもない。チェーホフがそこで描いてみせる小さな人物はみな限りなく凡庸な人々だ。しかし自分の幸福に対して小心翼々としてはいず、人生における無念をあまさず噛み締める勇気を具えている点で、彼らは一人一人が小さな英雄であると言えるかもしれない。例えば黄昏れ時──「街灯は今ともったばかり」──ぼた雪の舞い降るさなか、背中を曲げられるだけ曲げてぴくりとも動かず御者台に坐っていた、あの辻橇屋のイオーナ・ポターポフを想起しよう。彼は頭や肩の上に積もる雪を払い落とす気力もなくどこまでも憂鬱になっていくが、その理由を直視することができないでいる。ただ乗客を得て孤独から引出される束の間だけ、彼の口許から悲しみが吐き出される。「旦那、あっしは、この週にせがれに死なれちまってね……」。だが乗客の軍人は聞く耳を持たず、橇が掠め過ぎるのを避ける通行人たちの怒声──「どこを走ってるんだ、魔物め!」「右へ寄りやがれ!」──につられて興奮し、「きさま、馬を扱えんのか! もっとしっかり追え!」と後ろから御者を罵るばかりだ。イオーナの絶望をさらに研ぐために、チェーホフはきわどい精確さで、次の乗客として、死んだ息子と同じ年格好の三人の青年を連れて来る。三人のうちの一人、せむしの小男が醜い声で怒鳴る──「三人で、二十コペイカだ!」三人分の運賃としてはこれは安過ぎる値段であるとチェーホフは注釈しつつ、同時に、無感動に言い値を受け入れるイオーナの表情を示すことで、割り砕かれた彼の心の零度の冷たさを暗に伝える。橇に乗っている間、座席が狭いので一人立つことになったせむしの青年は、例の醜い声で、臭い息で、イオーナの後頭部に横柄な悪罵を浴びせつづける。「おい、こんな調子でずっと行くつもりか? 首根っこどやされたいのか?」「きさまはそれで馬を走らせているつもりか? やい、老いぼれコレラめ!」それから野卑な笑い声とともに交わされる女の噂話、三人で互いを嘘つき呼ばわりする罵り合い、普段ならとても我慢ならない彼らの騒々しさ、猥褻さも、今のイオーナには、やり切れない孤独を紛らす若々しい陽気さと感じられる。実際せむしの青年に「しっかりしろ!」と首を殴られても彼はぎこちなく笑うだけなのだった(痛ましさの気配だけを際立たせる、チェーホフの筆致に注目せよ。「そしてイオーナは、首を殴りつける音を、感じると言うよりはむしろ聞く。/『ヒヒ……』と彼は笑う。」)。だが客が去って、ふたたび彼に静寂が訪れると、彼はどこまでも憂鬱の底へと落ちて行く。短篇は、ついに誰も語る相手のなくなった彼が、しかし息子の死という果てしのない闇にひとりで直面することもできないまま、言葉も事情も理解できないはずの馬に向かって、おずおずと自分の不幸について物語りはじめるところで、終わる。「……そうさ。……おれは御者をやるにゃもう年を取りすぎたよ。……御者をやるのはせがれで、おれじゃねえんだ。……あいつは立派な御者だった。……生きてさえいてくれたらなあ……」。読了後、読者は、おそらくこの辻橇屋イオーナ・ポターポフが息子を失った悲しみから癒えることなく、遠からず亡くなったであろうことを、想像させられる。だが、イオーナの喉を引き攣らせて笑う「ヒヒ……ヒヒ……」という声音や、馬の瑪瑙色の瞳に向かって溜息混じりに語る彼の坐りこんで身をこごめた姿は、精巧に組み合わされた細部を極度に圧縮したチェーホフの八頁(「ふさぎの虫」)によって、黄昏れ時のぼた雪の冷感とともに、読者に永く銘記されることになるのだ。そうであればこそこの小品は「初期チェーホフの代表作の一つ」でも「トルストイの賞讃を勝ち得た佳作」でも「雰囲気において後期の傑作群を予告する興味深い一篇」でもなく、イオーナ・ポターポフという一人の男の墓碑銘として、寄り集まった言葉の小さな煌めきをなし、その墓碑の前に立った読者自身の小さな生を鮮やかに照らし返すのである。
 けだし、アントン・チェーホフは、他の長篇を志向する作家たちよりもよほど多くの人々の墓碑銘を書いてきた。それらは総体において、切籠細工のようにチェーホフが生きた十九世紀ロシアの社会を、モスクワを、地方都市の郊外を、療養地の田舎村を、小さな人々の俯いた目線で多角的に映し出す。白樺の生えた或る暗い森の中では、死体を見張る役を頼まれた白痴の五十男が眠りこけている(「死体」)。その森の側を通りすぎる機関車の動力について、乞食の少女が靴屋のテレンチイおじさんからあやふやな説明を受けている(「郊外の一日」)。町の靴屋の腰掛けの上では、不幸な奉公少年が主人の目を盗んで祖父に手紙を書いている(「ワーニカ」)。ウォトカ工場に隣接する或る屋敷では、甘ったるいジャスミンの香りの籠る部屋で、蒼白い肌をしたユダヤ女が朴念仁の中尉を挑発している(「泥沼」)。同じ頃、郡庁所在地N市の裁判所で、妻殺しの嫌疑をかけられた百姓が、百姓仲間たちの証言によって有罪へと追い込まれていく──あきれるほど杜撰な審理にもかかわらず(「裁判」)。同じN市に滞在していた或る若い統計学者は、不愉快な恋心をひねり潰して、自分の青春をも葬り去る(「ヴェーロチカ」)。同じ町のさびれた劇場では、昨夜酒を浴びるほど飲んでメーキャップをしたまま眠り込んだ喜劇役者が、今飛び起きた(「コロス」)。ちょうどその頃産気づいた婦人のところへ出向いた或る助産婦は、その夫の厳格すぎる几帳面さにじりじりと苛立ちを隠せない(「変り者」)。同じように苛立ちを募りに募らせた貧しい老人ゾートフは、自分が餌をやっていた馬と犬とを腹立ちまぎれに皮剥ぎ屋に売ってしまい、後で我に返って呆然とする(「居候ども」)。一方で、裏町の或るアパートの主人は妻の尻に敷かれる不自由な身空を嘆いて、住人の一人と酒を酌み交わす(「アパートの住人」)。また別の家庭では、逆に妻の浮気に気付いた夫が、暇つぶしに、本当に妻を愛していて裏切られ傷付いた夫を演じて、浮気相手の男を散々苛めている(「退屈のあまり」)。さらに別の家庭では、それともまったく違った光景、息子の前でしきりに自己卑下して泣いたり笑ったりし、そのようにいかにも不幸な父親らしく見せ掛けることさえ演技だと告白して噎び泣く父を、それでも莞爾として赦す、息子がいる(「父」)。町中を流れる川に落ちて溺れた百姓は、幸い助け出されたが、野次馬の誰一人として正しい手当の仕方を知らなかったので、身体を揺すられたり、焦げた羽毛でくすぐられたりしたあげく、死ぬ(「応急手当」)。同じ川の上流の水車小舎に住む偏窟な粉挽きは、魚釣りをする修道士たちに悪態を吐き(「水車小舎で」)、その下流では、溺死人を上手く演じてみせる芸を商売にしている男が、三十コペイカを貰って、溺れている(「溺死人」)。その他にも、自分が法律違反の悪を犯したことをついに理解できない愚昧な村民(「わるもの」)、結婚する前から自分の子供がジフテリアで死ぬ様を透視する、あまりにも悲観的な女(「鏡」)、泣くべき時を逸して愛人の墓の前で間抜けに佇む五等官の建築家(「老年」)、眠たいあまり夢現つのまま赤ん坊を殺し、これでぐっすり眠れる!とにこにこ笑う子守りの少女(「ねむい」)、四十年間勤めて、これまでに感嘆符を一度も書いたことがないのに気付いて驚愕する十等官の書記(「感嘆符」)、──これでもまだごく一部に過ぎないが、ここに書き切れなかった多くの人物たちを含め、チェーホフに短く生の断片を切り取られて作品として彫りつけられた人々に共通して、唯一つ言えるのは、彼らは、みんなもう死んでしまったということだ。長篇小説の主人公たちのゆっくりと膨れ上がっていく生の熱量とは異なり、彼らの生命の火は、じつに滑らかに消えて行く。それを気に留めて書き綴るには、アントン・チェーホフのように小さな巨人でなければならない──蝋燭の炎の穂が一瞬揺らいで消える直前の形さえ摘み取る、小さく力強い眼と指がなければならない。かの次男坊フョードルのように、苛烈に喋りまくる、切り裂くような声音であってはならないのだ。
 以下は余談になる。一八九〇年、三十の齢になったチェーホフは、突然ロシア東端に住む徒刑囚の実態を調査するためサハリンに赴くと周囲に告げ、家族や編集者たちの度肝を抜いた。当然のごとく、友人らや文壇仲間が旅行に反対するさなか、彼は、半年もの時間をかけて着々と準備を進め、四月二十一日、シベリア横断の旅へ発つ。この文学好事家たちの多くをいまだに戸惑わせている、サハリン島への調査旅行の動機も、初期の墓碑銘的短篇からの延長線上で解釈することが可能ではないだろうか。現地でのチェーホフの超人的な努力については、ここでは触れない。それは、旅行記『サハリン島』の本文に表われる、移住村の耕地面積や植物相から刑務所の便所の通風装置の構造にいたるまで筆を及ぼす、徹底性、綿密さ、文学者の余技とは到底言えない、あらゆるものを見尽くそうとする彼の執拗な記録の熱意として、厳然と読者の前にある。だが、『サハリン島』を読了して後、目を閉じたわれわれに印象されるのは、壁を黒布のように覆う南京虫の群れのざわめきや、島全体が燃えているかのような真夜中の森火事の眺めや、波止場にころがるフジツボと苔に覆われた鯨の骸骨、といったマジック・リアリズムばりの夢幻の風景を突き抜けて迫り来る、「不幸な人々」、無名の囚人たち=英雄たちのどぎつい生彩だ。十メートル以上もある丸太を引きずって歩くうちに凍死する、あの労役囚たち。雨にずぶ濡れになりながら、外に突っ立って「ああ、やりきれねえ!」とばかり呟く歎願者たち。妻帯者かどうかというチェーホフの質問に、「女房はいましたけど、その女房を殺しちまったんでさ」と答える移住囚。「整列!」「やめ!」という掛け声で囚人ごっこをしている男の子たち。サハリンのグレートヒェンこと、移住囚ニコラーエフの娘ターニャ。哲学者を自称し「ノミのいるところに子供あり」という文句を連発するキスリャコフ(身綺麗にしているが労役囚)。赤ん坊を地中に埋め、「殺したわけじゃなく、埋めたんです」と法廷で言い張ったが、二十年の刑を申し渡されてサハリンに来た、老女ウリヤーナ。そして、移住村では稀な色恋沙汰──エレーナという女子流刑囚に惚れ込んで結婚をせまったが袖にされ、絶望のあまりトリカブトの毒を呑んで自殺した、あの忘れがたいヴコール・ポポフ、その断末魔。「くそ、女、女め! 俺が懲役に来たのも女のことからだったし、今度もきっと女のことで死ななきゃならねえんだろうな!」──これもまた鮮やかに墓碑に刻まれるにふさわしい。









#005 ギュスターヴ・フローベール『感情教育』

Gustave Flaubert "L'Education sentimentale"
生島遼一訳・岩波文庫



 フローベール第三にして最大の長篇小説『感情教育』においては、すべてがダイアグラムである。因果関係が前景化されつつ単線的に進む田舎町の姦婦の運命(一八五六年)の後に、文献学的建築物としてのカルタゴの歴史(一八六二年)を経由して、ダイアグラムの加速度にあらゆる要素がねじ曲げられ、連結されながら巻き込まれていく『感情教育』の世界が登場する(一八六九年)。いみじくもプルーストが述べたように、『感情教育』は一つの画期をなした。『感情教育』の登場人物たちは舞台上でぶつかり合って事件を生む原子としては存在していない。彼らはもはや、ダイアグラムを駆動するエネルギーをそれぞれの曲率で伝えるための媒質にすぎない。細部の配置と性格描写の巧みさに腐心する作家の努力は終わりを告げ、ダイアグラムの内的推進に必要なかぎりで現実の地平を緻密に削ぎ整えることが、それに取って代わる。青年期に親から買い与えられたクロワッセの別荘で、或いはタンプル大通りに面したアパルトマンで、ときに亡き妹の胸像に見下ろされながら、ときに悪趣味な装飾の高価な家具を背にして、十五頭の牛のごとく猛烈に執筆しつづけたフローベールの作為は、なべて主人公、フレデリック・モローの内に、複数の両立不可能な期待と欲望を喚起し、それを感染し拡散させ、ダイアグラムの加速度を最後まで維持することに賭けられていた。ジョルジュ・サンド女史に倣ってこれを「生きた現実さながらの多様性」などと言うより先に、われわれは、ほとんど自己目的化しているような『感情教育』のこのダイアグラムの精妙な自働運動に、それを可能にした作者の小説工学に、まずは驚いてみる必要があるだろう。
 例えば、仕立屋オランプ・ルジャンバールだ。多くのお針子を従えてせっせと働き、政談にばかり首を突っ込んでロクに仕事をしない夫を自分の身一つで食わせている、この小柄で利発的な婦人の姿を、『感情教育』読了後、一体何人の読者が記憶にとどめるだろうか。だがこの婦人は、小説の終結部、第三部第五章、結婚する間際のフレデリックとダンブルーズ夫人(未亡人)とを訣別させるに至る過程で、決定的な役割を果たす──逆にこの婦人が存在しなければ、フレデリックとダンブルーズ夫人は無事結婚し、従って、続く第六章でのアルヌー夫人との美しい再会の場面も生じなかったとさえ言える。フレデリックがダンブルーズ夫人と別れる決意をするのは、夫人がアルヌーに対する債権を利用して、アルヌー家の家具を売立てに出したことを知るからだが、その行為は、そもそも友人のためと嘘を吐いて、アルヌー夫人を窮地から救うための一万二千フランを、フレデリックがダンブルーズ夫人から借りたことへの復讐であり、ダンブルーズ夫人はその嘘を、以前から裁縫の仕事を頼んでいたルジャンバール夫人の告げ口によって見破るのである(一万二千フランを携えアルヌー夫人を探して奔走し、ルジャンバールにその消息を尋ねに行ったところを、まさにオランプ・ルジャンバールに目撃されてしまったことが、フレデリックにとって致命的となる)。すでに第三部の第四章で、ダンブルーズ夫人と裁縫師が内通し、フレデリックの色恋沙汰について少なからず知識を夫人が得ていることは、示唆されていた。もっと遡れば、第二部第三章、ダンブルーズ家の晩餐に顔を出したフレデリックが、席上でアルヌーのことを話題にした時、「奥さんはきれいなひとですってね」と呟くダンブルーズ夫人の口吻に、早くも将来の恋敵への彼女の関心は暗示されていた──しかもこの時、ダンブルーズ氏の姪のセシルの服を仕立てるために、たまたまルジャンバール夫人が呼鈴を鳴らす(姿は現わさないが)。さらに言えば、ルジャンバールがアルヌーの友人として初めて小説世界に導入された箇所、第一部第四章における注釈、この奇妙な紳士について、「誰も、友人でさえ彼がどんな仕事をしているのか知らなかった」と述べられた時、すでにその背後に、「マダム・ルジャンバール」の愛情のこもった眼差しが──自分の働きで夫を養っている小柄な婦人の存在が、叙述の死角に隠れていたと見なし得る。言わば彼女は、作者フローベールによって、フレデリックとダンブルーズ夫人の絆を断ち切るため、第一部で初めてルジャンバールの職業が謎であると告げられた箇所からはるばる送り込まれて来た、刺客なのである。
 以上のような、矢鱈に念入りに企まれたプロットの仕掛けを知って、なお『感情教育』をその副題(「或る青年の物語」)どおりに受け取ることは可能だろうか。或いはフローベールが書簡で言うモティーフを、素朴に信じることは可能だろうか(「これは恋愛、情熱についての本です。ただし現代にも存在し得る恋、行動に出ない恋なのです」)。是非ともはっきりさせておくべきことは、作中、主人公フレデリック・モローの恋愛が、実際に如何なるものであったかだ。長篇『感情教育』に含まれる主題の一つ、アルヌー夫人とフレデリックの恋愛は、彼がバシュリエ試験に合格した帰り、パリから郷里ノジャンへの船旅の途上の一目惚れに始まり、その後パリで夫のアルヌーを介して様々の機会を重ね、二人の親密の度は徐々に増していきながらも、操の固い彼女をついに不義の恋へと踏み出させることはできず、二月革命直前の逢引の破約をもって、フレデリックの想いも収束してしまい、一八六七年の十六年越しの再会の折には、プラトニックなままでいられたという甘美な想い出だけが顧みられ、二人の仲に終止符が打たれる──といった具合に教科書的に要約し得るが、このあらすじに欠けているのは、二月革命直前の逢引の約束に至る前、アルヌー夫人の貞潔の鉄壁にあらゆる恋の仄めかしをはね返され、一度は、フレデリックの恋心が完全に冷え切ってしまったという事実である。一度は《馬鹿な女だ。人でなし! あんな女のことをもう考えるものか!》と心に誓ったにもかかわらず、それでもフレデリックの恋が進展していくのは何故なのか? これは要約によって理解するにはあまりにも精巧で微妙な謎だ。謎を解く鍵は、デローリエ、ルイズ・ロック嬢、シジー、ユソネほか多数の登場人物たちの内それぞれに的確に配分されている。
 今、フレデリックは、失意に茫然として、アルヌー家から出て来たところだ(第二部第三章)。それまで、友人デローリエと仲違いしてまでアルヌーに大金を融通してやり、或いは、夫人が署名したダンブルーズ氏払渡しの約束手形の取り立てを待ってくれるよう、ダンブルーズ氏に直に依頼する務めも果たし、過分の奉仕をして来たにもかかわらず、夫人からは通り一遍の感謝しか引き出せず、自分と夫人の情の交わりを無下に否定され(「彼は溜息をついて言った。/『ではあなたは男が……女を愛するということをお認めにならないのですね?』/アルヌー夫人は応えて言う。『その女が結婚できる相手だったら、結婚します。もしほかの人のものであったら、男のほうから遠ざかるはずです』」)、そのあまりに厳然たる望みの無さに項垂れて、彼は、猫背になって歩いている。彼は心のなかで夫人を罵り、もう二度と彼女に会うまいと、決心する。しかしそんな彼を再び恋路に引き戻すために、フローベールの監督の下、幾多の登場人物たちは、秘かに散らばって、もう動きはじめている。まずはロザネットとシジーだ。ロザネットはパリの高級娼婦でアルヌーの情人、シジーはフレデリックの大学の同窓として第一部第二章から出てくるが、この頃には、つれないアルヌー夫人への意趣晴らしでロザネットに言い寄ろうとするフレデリックを邪魔する役回りで、再登場している。しかも、ロザネットはフレデリックよりもシジーに好意があるかのように振舞うので、単純な嫉妬から、フレデリックはシジーに反感を抱く。この感情の縺れが、或る夜会で同席したシジーとフレデリックの間の口論を招き、相手の言うことにいちいち食ってかかり、強情に反対するフレデリックが、アルヌーのことを見下して言うシジーに抗弁してアルヌーを擁護し、勢いアルヌー夫人の悪口まで言ってしまったシジーに殴りかかる、という仕儀になる。この騒ぎを収拾するため、決闘が提案される。だが、決闘の当日、シジーの剣とフレデリックの剣がぶつかり合う寸前に、介添人のルジャンバール経由でこの事件のことを知った(そして事の起こりが自分自身の名誉のためだと誤解した)アルヌーが慌てて駆け付け、仲裁に入り、シジーとの争いは、間抜けな形で落着する(第二部第四章)。この一件が梃子になり、ロザネットへの執着も醒めてしまったフレデリックは、今度はもう一つの野心、ダンブルーズ氏の助力で政界に打って出るという欲望に心を傾け、ダンブルーズ夫人の常例の夜会に顔を出す。しかし、ここで利いてくるのがユソネという駒だ。彼は、シジーと同じく以前からのフレデリックの知人だが、自分の主宰する新聞への資金援助をフレデリックに断られた恨みで、過日の決闘を、アルヌーとシジーとフレデリックが艶女ロザネットをめぐって争ったものと読み替え、ゴシップ記事を書き立てるのだ。この記事はダンブルーズ夫人の夜会の出席者の間でも周知になっていて、フレデリックは、無言の揶揄が自分のまわりに犇めくのを感じ、居たたまれない思いをする。ダンブルーズ夫妻を足掛かりに出世しようという野心も萎えてしまう。そしてパリの何もかもに嫌気がさし、ダンブルーズ邸を後にしたフレデリックの心に、この時、自ずと旧友デローリエへの友情が甦るのだ。
 弁護士シャルル・デローリエ。思春期以来のフレデリックの親友として、小説内に早くから登場するこの男は、あたかも、振子みたいに一定の周期でフレデリックの生活に介入してくる。自分の論壇誌を立ち上げる着手金の提供という約束を反古にされ(第二部第三章。その金は結局アルヌーに融通された)、フレデリックと喧嘩別れしていた彼も、思うままにならないパリでの暮らしに疲れて、やはり同じく、恋も処世の野心も潰え鬱々していたフレデリックと再会し、易々と友誼を取り戻す。その安意な親しみに誘われ、フレデリックは、アルヌーに渡した金を法に訴えて取り戻せないかと相談を持ちかける。同じ頃、郷里の母親から手紙が届き、それには保養のため田舎に帰ってこいということ、幼馴染みのルイズ・ロック嬢──財産家ロック老人のたった一人の娘──と結婚するのも満更ではないということ等が書かれてある。パリに失望しはじめていたフレデリックは、アルヌーからの金の取り立てを旧友に任せ、帰省する。この時点では、いよいよフレデリックの心はアルヌー夫人から離れ去っていき、彼がこの恋愛に立ち返ることはもはやないかと思われるのだが、ここでフローベールは、デローリエに一世一代の大活躍をさせるのだ。以前から友人の色恋沙汰の話を聞かされていたデローリエは、アルヌー夫人に対し、野卑な憧憬を抱いていた。それが、自分に委任された金の取り立てという役目と結び付き、彼は、友人に背いて(その程度の友情なのである)支払い命令を脅迫に用い、アルヌー夫人を籠絡しようという、気違いじみた企みを思い付く。「この計画を実行したい欲望がもう寸時も頭をはなれなかった。彼のやってみたいのは、自分の力の実験である。──そこで、ある日、にわかに自分で靴を磨き白手袋を買って、フレデリックの身代り、というよりもほとんどその人自身となった気持で出掛けていった。復讐と同情と模倣と図々しさの入りまじった不思議な知的進化によって、そうなったのである。」(第二部第五章)狷介な性格で、それまでおよそ女に積極な関心を示さなかった、この貧しい身なりの男が、突然欲情に取り憑かれて、靴を磨き白手袋をはめるこの場面は、或る意味『感情教育』の圧巻だ。当然ながらアルヌー夫人はデローリエをけんもほろろに追い返すが、不埒な欲望を辛辣に撥ね付けられた男は、腹立ちまぎれに、フレデリックはルイズ・ロック嬢と結婚するだろうと、皮肉っぽく夫人に告げる──つまり、自分が失敗したのは、アルヌー夫人がフレデリックにまだ気があるからだと考え、水を差そうとしたわけだ。この点に関しては、デローリエの洞察は当たっていて、アルヌー夫人はその事実を衝撃とともに聞く。そして、ようやくここにきて、恐ろしい動揺のさなか、夫人はずっと抑圧されていたフレデリックへの恋情を、はっきり自覚するのである。デローリエの突拍子もない振舞いが惹き起こした結果は、はなはだ大きかったと言わねばならない。一方、その頃フレデリックは、ルイズ・ロック嬢とセーヌ河岸を散歩しながら、親密な言葉を交わしていた。パリの美しい女たちを見慣れたフレデリックは、この田舎娘に何の魅力も見出さないが、彼女が寄せる素朴でひたむきな愛情は、傷付いた彼の自尊心に快く、母親やロック老人や旧知の人たちが彼をルイズの《お婿さん》のように扱うのも、そのままにさせておく。それに、彼女にはロック家の財産という後ろ盾もある……(ここでロック老人が果たしている役割に注目せよ。そもそも、フレデリックがダンブルーズ氏に取り入ることができた初めは、隣人のロック老人が紹介状を書いてくれたおかげにほかならない。この懇意は、ダンブルーズ氏の援助によっていずれ高い地位に就くことになるだろう青年を、ルイズの婿にすることで、自分の娘を上流婦人にしたいという老人の虚栄心に由来することが、この時点で明かされる。ルイズとフレデリックの仲には、自然に芽生えた娘の初心な恋心だけでなく、第一部第三章ですでに仕組まれていた、ロック老人の狡智が一役買っている)。フレデリックはルイズの告白を曖昧に受け入れておいて、再びパリに戻る。これは母親やロック老人の急き立てを一時逃れするために過ぎず、その時も、フレデリックの内に、アルヌー夫人との関係を強いて気に掛ける契機はない。だが、ここでフローベールは決定的な引き金をひく──ルイズ嬢に、パリで彩色人形を買って来てくれとフレデリックに頼むよう、仕向けるのだ。商標からして、それはアルヌーの店でしか買えないものであった。このルイズ嬢の依頼が最後の一押しとなり、意に反して、フレデリックはアルヌー夫人と再会することになる。そして彼の前にいるのは、もはや以前の勿体ぶった既婚婦人ではない──自身の恋心を自覚し、愛する男の前で過敏に震えている一人の女だ。フレデリックの恋愛においてもっとも幸福な時期が訪れるのは、この後である(第二部第六章)。
『感情教育』においては、すべてがダイアグラムだ。それも何かを表現するためのダイアグラムではなく、ただダイアグラムに奉仕するためのダイアグラムである。現代的な恋、主人公の「行動に出ない恋」を描くために、震えながら剣を構えるシジーや、鼻眼鏡を曇らせるユソネや、白手袋をはめたデローリエが必要だったと主張するのは、馬鹿げていよう。上記の圧縮した系譜には書き切れなかったが、この一連の推移には、デュサルディエやセネカルやペルランやマルチノンやコルパンやアルヌーに囲われている女工といった連中が、さらに参画してくる。何のためにこんな遠々しい迂回が必要なのか? 再度アルヌー婦人との恋愛に希望を見出すため、フレデリックが経由しなければならなかった人数の多さは(そこにルイズ嬢の注文した黒ん坊の彩色人形を加えてもいい)、フローベールにとって「恋愛小説」、「現代風俗小説」といった文句が口実に過ぎなかったことの、何よりの証拠ではないか。しばしば批評家たちは『感情教育』を、無力化された青年を軸にした、「凡庸さ」を主題化した小説として、語る。シェイクスピア的な、エンマ・ボヴァリーのような典型的人物を欠きながら一八四八年の時代精神を写し得た点を、『感情教育』の新奇性として、語る。だがスノッブなおしゃべりは、倦怠した好事家たちに任せる。フローベールが見据えていたのは、現代の精神史ではなくて、小説空間の幾何学を歪める、ダイアグラムの加速度を生成し伝播する、主人公の力の発見であったはずだから。端的に言う、『感情教育』の中核に、「性格」や「精神」は存在しない。ただ、小説内のあらゆる要素を連鎖させていくために、限定された人間関係の網目に無数の意図を込めた結節点(=はち合わせ)をつくるために、フローベールは、次々と欲望を取り替えることのできる“八方美人”な人物を、両立不可能な複数の期待を抱き、期待外れの落差さえ別の期待に釣られるためのエネルギーに変換することのできる人物を、幾度も死に、幾度も甦る人物を、あまりにも首尾一貫して不真面目な青年を、プロットのダイナモとして、要請した。主人公フレデリック・モローという一青年の造型こそ、フローベールがこの長篇に施した、隠れた最高の秘術にほかならない。
「小心者のマキァヴェリスト」という、従来のフレデリック評を斥けることから、まず始めよう。確かに、われわれは現実に出くわす人々を或る性格類型で把握する(「彼女はなんと親切で憐れみ深いひとだろう、彼は叔父に似て、不屈で頑固だ……」)。もしフレデリック・モローと現実に知り合い、その行状一覧を眺めるならば、彼は、ちょっと首を傾げたくなるような不実な青年と見えるだろう。しかし、ジョルジュ・サンドが強調したのとは違って、『感情教育』の世界は決して生きた現実の世界ではない。一つ、サンド女史への反証を挙げる。『感情教育』における主要な人間関係は、不自然なことに「当初からの知り合いの知り合い」という繋がりで、ほぼ完結する。それも全員が、故地の隣人ロック氏(彼はダンブルーズ氏の土地の管理人をしている)からダンブルーズ氏という系と、アルヌーから派生するアルヌーの知人たちの系、デローリエやマルチノンといった学友の系、これら三つの系列を追うことで、尽くされてしまう。サン=ジャック通りの辻で偶然知り合ったとされるユソネとデュサルディエも、前者はアルヌーの店の広告の仕事を請け負っていること、後者はアルヌーの知人のヴァトナ嬢と過去に因縁のあったことが、のちに明かされる。唯一の例外は、フレデリックとアルヌーの系を結び付けるアルヌー夫人との出会いであり、従って、これこそが、フレデリックがアルヌー夫人の姿を一度見ただけで強烈に惚れ込まなければならなかった理由──偶然を必然に転じる、プロット上の最速の早業だ。そして第一部第一章が、この一目惚れの場面とともに、ロック老人とルイズ嬢への言及(「フレデリックは従僕の話すことを聞いた……家では若旦那のお帰りをたいへんな待ちかね方だ。ルイズ嬢さんは自分も馬車に乗ってゆくって泣いた。/『ルイズ嬢さまって、誰のことだ?』/『ロックさんのお嬢さまでがすよ、そら』/『ああ、忘れていた』フレデリックは気のない返事をした」)を含むのであってみれば、しかも章の末尾で丁度デローリエからの手紙が届くことを考え合わせれば、『感情教育』のあらゆる登場人物は、冒頭の一章ですでに予告されていると言えるのだ。他方、作中ダイアグラムの進捗にかかわらない要素は、入念に排除されていく。例えばフレデリックの父親は彼が生まれる前に逸早く、死ぬ。「〔モロー〕夫人は今ではあとの絶えた古い貴族の家に生まれた。親の意志で嫁いできた、平民だった夫は、妻の妊娠中に剣で傷つけられて死んだ。」主人公の家族のしがらみはシンプルに母親との関係に限られる。このような人間関係の限定は、あからさまに作為的なものだ。「知り合いの知り合い」程度の関係性で小説世界が完結するからこそ、出来事が共振し、各々の線を動いている登場人物が折り重なり、暗黙に交錯し、だからこそデローリエを通じて、アルヌー夫人との恋愛が再活性化され、ルイズ嬢からの依頼で夫人との再会の道が開けもするのである。小説内事件が連鎖し発散していく地平を、フローベールは、あたかも、微分幾何学を駆使するみたいに現実を湾曲させ、貼り合わせ、振動させることで作り出した。この細密な架空の多様体を「現実さながら」の社会絵図と見なすことは、作者への敬意ゆえにも、慎重に避けるべきだろう。
 だが『感情教育』の地平を隈なくまとめ上げるのは、最終的には、フレデリック・モローという、たった一人の青年の存在につきる。この男がいなければ始まらない! 主人公があのような男でなければ『感情教育』中の事件は何一つ起こらなかったと言ってよいのだ。彼は、まさに超人だ。仮に古今の長篇小説の主人公たちを一堂に集めて生存競争をやらせたら、最後に生き残るのは、コイツだろう。それはともかく、瞬時に甘い期待を抱いてそれに釣られる能力において、彼は天才性を発揮する。アルヌー夫人に初対面で惚れ込む能力。デローリエに一言吹き込まれただけで、ダンブルーズ夫人に欲望を抱く能力。当てにならない伯父の遺産を胸算する能力。娼婦ロザネットの愛敬らしい仕種を誘惑と早合点する能力。文学の志望を捨てずに処女作『文芸復興史』を構想する能力(執筆はされない)。革命熱にあてられて断乎として共和制支持へと変節する能力。逢引の約束の場所にアルヌー夫人は当然来るだろうと信じる能力(来ない)。彼の欲望の被感染力は無限大である。期待から失意へ、失意から期待への彼の度重なる飛翔がダイアグラムを牽引する。それだけではない。複数の期待を心にとどめつつそれを適宜染め変える敏捷性も、また彼の身上だ。第一部第四章、進展の兆しのない自分の恋、及びアルヌーの無礼さに腹を立て鬱屈していたところ、彼を追ってデローリエもパリへ状況するとの報を受けたフレデリックは、昔からの友情を、途方もなく高貴なものとして思い描く。「親友のあの男は、世界中の女をそっくり集めたほどの値打ちがあるのだ!」ところが、丁度デローリエを出迎えようという矢先、アルヌーから晩餐への招待状が届き(=夫人に会えることを意味する)、彼はデローリエの歓待もそこそこに、アルヌーの本宅に駆け付ける。そして深夜、夫人の美しさにたっぷり魅了されて帰って来た彼は、自分の部屋と戸を閉めて、思う──「隣の暗い小部屋の中にいびきを立てている人間があった。デローリエだ。もうそんな男はどうでもよかった」。高貴な友情から高貴な恋愛への、すみやかな変わり身。この間わずか数頁に過ぎない。さらには、二人の女を同時に愛することさえもこの男の心理的敏捷性をもってすれば、可能だ。第二部第二章ではアルヌー夫人とロザネットを、第三部第三章ではロザネットとダンブルーズ夫人を、とくに後者のケースでは、一人を妊娠させつつ、もう一人と結婚の約束を交わし、代わるがわる愛を語り、二つの表情を巧みに使い分けて愛を分割するのを、彼は興がりさえする。「ある日、たまたま彼にいるときに両方の女がほとんど同時に訪ねてきた。彼は、母が来るはずだと言ってロザネットを外に出し、ダンブルーズ夫人を隠した。/間もなく、こうした嘘をつくのが彼には面白くなってきた。」さて、以上見て来た点は、フレデリックの軽佻浮薄を示すのだろうか? 否だ。もとより、矛盾した複数の期待と欲望が通過する交点として、フレデリックという主人公は存在している。しかも彼は他人から自分へ向けられた期待を、しばしば否定せずに放置するので──他人の欲望が投影された自己像に媚び、それを保持したがるので──フレデリック以外の登場人物も、各々自身に都合のよい甘い見通しを抱いてしまい、機が満ちると、過剰に備給された多種多様なエネルギーが「たまたま」はち合わせ、裏切りと失意と期待外れとが、彼の上で、炸裂する。アルヌーの招待とデローリエの上京がはち合わせる偶然の一致を筆頭に、デローリエへの資金提供の約束とアルヌー家の経済的危機が重なる偶然の一致、ロザネットと一緒に居るところをアルヌー夫人とダンブルーズ夫人に目撃される、シャン・ドゥ・マルスでの偶然の一致、アルヌー夫人との逢引の約束と政治仲間からの集合の呼び掛け(一八四八年二月二十三日)が重なる偶然の一致、ロザネットのアルヌーに対する勝訴と、アルヌーがミニューに詐欺罪で訴えられることが相前後する偶然の一致、等々が、その好例だ。いずれの場面でも、フレデリックの内で猥雑にせめぎ合い、張りつめた複数の野心と欲望が、溢れ、劇的に可視化され、彼を引き裂くに至る。事後的に、彼は優柔不断な男と化す。登場人物を置き去りにする速度でダイアグラムの内的推進力が振り切れるのは、そんな瞬間だ。無論、どの人物にどのようなエネルギーを備給し、どのタイミングでどのようにはち合わせるかは、なべて、フローベールの精確で強烈なクラフトに委ねられていた──一分の隙もなく。
 長篇『感情教育』の執筆は、一八六四年九月から一八六九年五月までの、四年半の期間に渡る。陶器製造所や小児病院での取材を挟みつつ、逐次現代史の資料を集めながら書き継がれたこの作品は、日本語訳の原稿用紙換算で約千百枚、一日当たりの執筆速度は、一枚に充たない。ここではその鈍重なペースの理由を、厖大な歴史的素材の処理に手間取ったからというよりも、頭から終いまで、淀みなく自働で動きつづけるダイアグラムの確度を高めることに、フローベールが苦慮した所為だ、と考えたい。一八八〇年五月八日、彼はクロワッセの自宅で亡くなった。死因は脳卒中とも癲癇の発作とも言われる。そして、彼の死後、文学史上で「物語」は幾度も復権されたが、『感情教育』のあの非人間的なまでに精巧なプロット工学が反復されたためしは、ない。だが、ヒキガエルを象ったインク壷にペンを浸し、緑色のクロスを掛けた机にのしかかり、彼が創作の煉獄をくぐり抜けて生み出したこの周到綿密な小説装置は、後世の作家志望者たちへの、紛れもない最高の贈り物である。遺憾ながら、われわれはまだ十分それに返礼したとは言えない。









#006 ルネ・デカルト『省察』

René Descartes "Meditationes de prima philosophia"
所雄章訳・白水社版『デカルト著作集 第2巻』所収


──だが、この立派な人物の著作は十分には読まれていない。正しく読まれてもいない。世間はデカルトの名から一個の衒学者をでっちあげ、そうして背を向ける。しかし、真のデカルトが教えてくれるものは、手さばきの軽妙と、剣士たちがいみじくも自制の姿勢と呼ぶ慎重な拒否の身構えである。
(アラン『感情 情念 表徴』)
 全体が六つの「省察」に句切られ、その「第一省察」において先ず今まで「私」が受入れてきた認識のうちで少しでも疑惑をさしはさみ得るものはすべて(私の感覚しているもの、私の身体の存在、果ては二に三を加えれば五になるという認識までも)が偽と見定められ、そのような徹底した懐疑の後、つづく「第二省察」においてはそれでもなお疑い得ない確実な認識として「我思う、ゆえに我あり〔我あり、われ存在す〕」、つまり思惟する事物としての「私」の存在が導き出される哲学的著述、と言えばもはや説明の必要のないほど広く名の知られている古典──デカルトの『省察』──を最後まで一通り読んでみれば、それが時代を相前後するトマス・アクィナスやカントの哲学的古典と比してみた場合に様異であるだけでなく、現代のどの哲学者の著作と類えてみても特異な書物であることを、読者は理解するだろう。しかし、そう感じられるのは何故か。今めいた眼から観てデカルトの哲学が異種にされてしまう原因はどこにあるのか。この見え難い根を精確に測定するには、人間の判断する能力が、認識する能力(知性)と選択する能力(意志)との二つの能力の協働だと語られる、「第四省察」の判断論を糸口に『省察』を読み解くことが、必須である。それによってわれわれは、アランの称揚した真のデカルトの、一に男性的で怜悧な剣さばきを目の当たりにすることになるだろう。書物と歴史へのこだわりを捨てたこのオランダの軽騎兵は、時代を超えても尚われわれの情念を酔わせ、つらぬく。
 ここで必要と思われる程度に「第四省察」を要約しておく。「第二省察」までの徹底した懐疑のはてに見出された「思惟するかぎりで、存在する私」から、「第三省察」ではそのように思惟する私を在らしめるもの、創造したものとして、完全で誠実な「神」の存在が証明される。そして「第四省察」は、省察を遂行している「私(=デカルト)」が、自分のうちに「判断」をする或る種の能力がそなわっているのを自覚することから始まり、またその能力は、なにがしかの悪意や欺瞞は似つかわしくない完全で誠実な「神」が私に与えた能力なのだから、過誤や虚偽の原因となるような能力ではないはずである、とも述べられる。だが私は私が「判断」する場面において無数の過誤にとらわれがちであったことを経験してきた。神はこの上なく完全な存在なのだからそうした過誤は神に依拠するものではないとしても、しかし神が私の創始者であることには変わりはない。「神が私を、けっして誤ることのないような、そのようなものとして創造することのできたことにも、疑いはないし、また神が常に最善のものを意志することにも、疑いはない。そうであるなら、私が誤るということは、私が誤らないということよりも、いっそう善いことなのであろうか。」 このようにして、私が判断する場面で犯してきた「過誤」が、一体どのようなものであるかが探究されるべき問いとして掲げられる。そして、ときに誤りときに真である私の「判断」が、ともに協働する二つの能力、認識する能力(知性)と選択する能力(意志)とに依拠することが、気づかれるに至るのである。言い換えれば、「知性」によってある認識が会得され、さらにそれが「意志」によって肯定されあるいは否定されることよって「判断」は成立する、とされる。さて、デカルトに従えば、独り知性のみでは「私」は認識を会得するにすぎず、それだけを切り離して観られた「知性」のうちには、いかなる過誤の原因も見い出されない。また、私が神から与えられた「意志」する力も、それ自身で観られたならば過誤の原因ではない。それならば「私」の過誤はどこから生ずるのか。デカルトの回答は、「意志を〔知性と〕同じ限界の中に私が引き留めないで、また私の知解(=会得)していないものへも私が拡げるという、この一事から」過誤が生まれる、とするものである。すなわち、知性によってはまだ十分に分明に認識されていないものについて、それを肯定するべきか否定するべきかいずれの側にも確実な根拠はないにもかかわらず、意志によって(肯定あるいは否定の)判断をくだしてしまうという脱逸から、私の過誤は構成される。それでもし偽である側に私が向っているならば私は全面的に誤ることになるだろうし、他の側に私が向ったのだとしても、それで偶然に真理とは出会うだろうがやはり私の内に咎科が無いことにはならない。何が真であるかまだ十分に明晰判明に会得していないなら、判断をくだすことをひかえるのが最も正しい対処であり、それが過誤という事態を避けるための唯一の方策である。
 しかし上のように「過誤」の由因が理解されたとしても、未だ疑問は残る。私の過誤は、十全に認識してはいないものについてまで判断をくだしてしまうという、ひとえに私の不完全性に由来するのはもちろんだが、では何故、明晰判明に会得していない認識については必ず判断を差し止めるようなものとして、神は私を作ってくれなかったのであろうか。この疑問に対するデカルトの回答はこうだ。確かに私が不用意な判断を差し止めるものとして作られていれば、或る面では今そうであるより私はいっそう完全になると言える。しかし今のままの私であっても、注意深い省察を再々繰り返すことによって、真理の明瞭でないときには判断をひかえるという習性を獲得し、過誤をさしとめることはできる。そしてむしろその点にこそ、「人間の最大で独自の完全性」が存するのである。
 以上のデカルトの回答はどのように解すべきだろうか。私見では、第四省察の判断論からだけでは今述べられたことの完全な理解は得られない。とりわけ、人間が始めから誤らない存在としてではなく、誤りもするが、それを注意深さによってさしとめることができる存在として作られてあることが、何故「人間の最大で独自の完全性」なのか、このことを理解するには、判断における「意志」の側面を第六省察の視座から見なおすことが必要であると思われる。すでに第四省察においても、知性によって会得された認識を肯定するあるいは否定する能力としての「意志」は、単に「肯定」と「否定」の対立に関わるだけでなく、「為す」と「為さない」、「追求する」と「忌避する」の対立とも関わるものとされていた。「……意志は、同じ一つのものを、為すか為さないかが(言いかえるなら、肯定しあるいは否定すること、追求しあるいは忌避することが)われわれにはできるという、そのことにおいてのみ存立する……」(「第四省察」) そしてここに言われている「追求しあるいは忌避する」の対立は、「快楽の感覚をもたらすもの」の追求、「苦痛の感覚をもたらすもの」の忌避、という形で第六省察において再びとりあげられるのである。先回りして言えば、『省察』に忠実であれば、あくまで判断する行為との関連で言われたに過ぎない「最大で独自の完全性」を、意志による「肯定」と「否定」がまた快楽の「追求」と苦痛の「忌避」と重ねられもする、第六省察の叙述から読み直すことで、新たに解釈しよう、というのがこの小文の目的である。
 喉が渇いたから、水を飲む──これは正常で健康的な行為である。今の自分に不足しているものを正確に把捉し、その不足を埋めるもの(快楽)を追い求める健全な「意志」をもち、それを達成する。また第六省察のデカルトの説述によれば、水を飲めば飲むほど喉の涸きにおそわれて、それで水を飲んでしまえばさらに涸きは昂進し、病状が悪化してしまうという「水腫病」にかかった患者が、「喉が渇いたから、水を飲む」行いを為すこと、これすらも健全な「意志」に基づく追求と見なされる。つまり、健康な身体が欲求するものであろうが、疾患のある身体が欲求するものであろうが、そこで追求されるべきもの(快楽の感覚をもたらすもの)が追求されている限りで、相違はない、とするのがデカルトの見解である。言い換えれば、病人が自分の害になるものを「快」として追求することは、病人が薬を「快」として追求するのと相違はない、したがってそれは病人の過誤ではないのである。では、意志による快楽の追求/苦痛の忌避の場面で、意志による肯定判断/否定判断の場面で生じる「過誤」と似たようなものを探すとすれば、それは何だろうか。第六省察で第四省察への明示的な言及がほとんどない以上、ここから先は過ぎた解釈に頼ることになるが、第四省察における人間の「過誤」への洞察をここで適用してみれば、快楽の感覚をもたらすものを追求するにあたって「過誤」と呼び得るものがあるとすれば、それは自分が欲しているものを未だ明晰判明に理解していないにもかかわらず、性急に何かを追い求めようとする「意志」を持ってしまう姿勢、それこそが「過誤」と目されるのではないか。つまり、何が真であるかを十分に明晰判明に(知性によって)会得していないにもかかわらず、軽率に(意志によって)判断をくだしてしまうことから私の過誤が生ずる、と言う第四省察と類比的に、何が自分に快楽の感覚をもたらすかを十全に理解してないのに、軽率に何くれとなく実現・達成を追求してしまうことから、私は過誤に至る。この上になおアナロジーをつづけてみれば、ただ認識を会得するにすぎない知性には、過誤の原因は見い出されなかったのと同様、ただ自分の中に沸き起こる欲求それ自身は、過誤の原因ではない。自分の欲求によって表されているものにのみ「意志が拡がりゆくように、そのように私が引き留める」ことをしないからこそ、私は過誤を犯す。……しかしこうしたアナロジーはやはり単なるアナロジーに過ぎないだろう。
 だが、このアナロジーにもう少しく集中してみたい。今述べた欲求と意志の協働に依拠する「過誤」、意志を欲求と同じ限界の中に私が引き留めないために生じる「過誤」を、精確に見れば、これは自分の欲求を誤認することと等価ではない。たとえば自分の肉体や内面生活に現れる様々な徴候に気を配らず、「証拠」不十分なままに自分の求めているものを(意志によって!)憶断してしまうのは、判断をくだす際の過誤と言える。しかしただ自分の欲求を誤認したり、正確に認識したりするだけにとどまっているなら、私はまだ何の追求や実現や達成のためにも動きだしていないし、そこで言われる「意志」も「知性」によって会得された認識を肯定する/否定するためのものでしかない。したがって第六省察において「意志」が飢えをおぼえて食物を所要とする、渇きをおぼえて飲料を所要するといった、快楽の追求あるいは苦痛の忌避とむすびつけて語られたときに、その「意志」は、知性と協働して判断を形成する能力とされた第四省察の「意志」とは別の意味を担うのではないか、との仮説がうまれる。すなわち、当て推量で自分の欲求を判断するか、注意深い内省によって自分の欲求を慎重に判断するか、ないしは自身の欲求についての判断を差しひかえるか、いずれにせよこの(「知性」と「(第四省察の)意志」の協働としての)判断のレベルで何が為されるかに関係なく、私は、何彼の実現・達成をめがけると自分自身に宣言する──つまり「(第六省察の)意志」する──ことが可能である。漠然と不充足感をおぼえて「水を飲もう」と「意志」することも可能であり、自分がここ数時間水分をとっていないことを悟り「水を飲もう」と「意志」することも可能であり、まして自分が何の欲求も持っておらず、満ち足りた気分でいるときにさえ「水を飲もう」と「意志」し、それを達成することも、可能である。繰り返せばこれは判断のレベル、自分の欲求を正しく認知しているか/誤認しているかのレベルとは別次元にある話だ。第四省察に見る「意志」と第六省察に見る「意志」が別種のものではないかという仮説はここから要求される。
 ところがこの後者のように理解された意志、要するに知性とともに判断を形成する(第四省察の)意志ではなく、私が「水を飲もう」とするときの意志として解釈された(第六省察の)意志の方が、第四省察の叙述に符合すると思われる場合がある。第四省察の中腹で、デカルトが意志とともに「自由」の各種を論じている箇所がある。そこでデカルトは、得られた認識についてそれを肯定するべきか否定するべきか思いあぐねるなら判断をさしひかえてよいとする非決定の(決定を強制されない)自由と、「肯定」か「否定」いずれか一方の側を選び取るようやはり外的な強制なしに自然と自らを赴かす自由、二つの自由を区別し、後者により完全な自由であるとの地位をあたえている。ところで、この選択の非決定の自由、および選択へと駆りやられる自由、いずれにせよその「選択」ということで肯定の判断をくだすかあるいは否定の判断をくだすかの間で揺れる選択のみが考えられるならば、後者の、より完全な自由と目された、外的な力によらずに決定へと自らを赴かす自由とは、言い換えればすべてが明晰判明に会得されもはや選択の自由のないところで発揮される自由の謂いではないだろうか。──前もって言っておくが、この指摘は日常的な「自由」という語の使用・意味からするとデカルトの「自由」概念が奇異にうつるといった素人考えの疑義を呈したいための指摘ではない。とはいえデカルトの術語が通常の理解を越えるというだけでもまた、納得できはしない。そして私見ではこの最高度の「自由」、判断に迷わない、思案しないという意味での「自由」は、第六省察にあらわれた「意志」と裏合わせで考えるとより納得がいくものになると思われるのである。私が「水を飲もう」とするとき用いる「意志」は自分の欲求をどのように認知しているかと無関係に発揮できるものだとは既に述べた。だから私はまるで見当違いのところに自分の欲求を見い出し誤った目的の実現を志しもするし、或は自分で自分の欲求をうすうす感付いてはいても周囲の動向に釣られてそれとは別所へ意志を差し向けもする。つまり私は不自然な「意志」を持つことがある。逆を言えば、自身の欲求とくいちがいない「意志」を持つならば私は自然な状態にあると言えるだろう。しかし、そのとき、私が何かを「意志」していると言い做すのは適当だろうか。欲求によって示されているものにのみ意志が拡がり行くとき、迷いや躊躇や焦燥や自己欺瞞とは無縁な私は、むしろ意志を持たずただ欲求にのみ従って行動しているのではないか。たとえば私がある目的の実現のために患苦をつみかさねなければならない場合、その目的の実現は確かに自分の欲求から目指されたものだとしても、他方では「苦しみから逃避したい」という別の欲求に私は逆らってもいる。私が何かを「意志」していると言うに適当なのはこのような場合だろう。ところが同じように私が何彼の実現を追求するのにも、その実現へと向う過程が私にとって楽しくて楽しくて仕方がないという事態も稀ではあるが起こり得る。このとき私は自分の欲求にあらゆる意味で何の箍(たが)もかけずに意志しているが、だが欲求と実現にほとんど距離がないという点では、このとき「意志」を持つ間もなく私は自らを追求へと赴かし、それと同時につねに目的を実現しつつある状態にいると見なせないだろうか。そしてそのような追求と実現に乖離がない幸福な様態こそ、「自由」における完全性の謂いにふさわしいのではないか。
 これまで解釈を組み留めておいた第四省察末尾の「人間の最大で独自の完全性」の言葉も、上のように捉え直された「自由」概念から理解可能と思われる。決して思案しないような存在、あるいは自身の意志を誤って使用しないような存在としては神は私を創造してはくれなかったが、だが「注意深い省察を再々と繰り返すことによって」私は意志の使用をさしひかえ過誤を回避することはできる。まさにこのことにおいて「人間の最大で独自の完全性」が存立していると見る背景は、おそらくは以下に述べるような人間観の先入を含んでいる。すなわち、人間の情念は欲求が満たされれば幸福のままで欲求が満たされなければすぐ気が塞ぐといった類いの動物的素朴を越えて、欲求とはまったく別様のあり方をしている「意志」のレベルにもわたる複雑な相貌をもっている。われわれは自分が何を欲しているかをつねに誤解し、覚束無い努力を重ね、不適当な見込みに期待しては当てが外れたと失望し、手当たり次第に不満をあてつけ、もはや自分が何に怒り何を妬んでいるかの制御すらままならず、不安にとらわれ、恩知らずになり、疑い深くなり、意地悪になり、あげく自己嫌悪から自己憎悪をはぐくみだすようになる……。こうした欲求と意志の食い違いがもたらす人間の醜態は或る意味では人間の不完全性を証し立てる。しかしそれだからこそ私は自分自身の感情や情念を完全に自分で処したいと願う。思いのままに手際よく何事も熟して行きたいと所望する。過誤を差し止めたいと切に思う。ここから「注意深い省察を再々と繰り返すことによって」「過たない或る種の習性を獲得する」ための労きが開始される。第四省察でデカルトが述べる「過たない或る種の習性」とは、何が真であるかを明晰判明に私が会得していないなら判断を差しひかえねばならぬとの戒めをつねに意識しつづけるよう自分を習わすという意味の「習性」だが、いけずうずうしい読みがゆるされるならば、それは、欲求と意志が疑いもなく合致する完全な「自由」の幸福に常に・誰もが行き届くとは限らない人間、欲求と意志の絶え間ない剥離に苛まれざるを得ない人間が、それでも自身の不完全性から今以上の不適切な行動をくり返さないために獲得する「習性」、つまり自身の憎悪や不安や恐れや悔恨を抑制する「技術」としての「習性」のことでもあると、解釈できるのではないか。そして完全な「自由」の完全性とはまた別に、こうした自制の「技術」を極めつくし、自分で自分を意のままに処するという意味での完全性も人間には許されており(動物には許されていない)、それをデカルトは「人間の最大で独自の完全性」と呼んだのではないか──そのように私には思える。
 さて、こうした解釈に立てば、デカルトが『省察』の著者でありまた『情念論』の著者でもあったことはほぼ必然と言えるだろう。長々とつづけてきたこの小文もようやくここで冒頭にあげた問いに連絡する。デカルトの哲学は、人間の情念そのものに対する認識と、その情念を抑制する技術を領域とする、哲学的思考の可能性を示している。それが現代の眼から観て如何に様異にみえようとも、かつてそのような思考が「哲学」と呼ばれていた時の程があった。そしてまた現代にあっても人間の情念に対する探討を「哲学」として開始することは不可能ではない。









#007 セルジュ・チェリビダッケ『音楽の現象学』

Sergiu Celibidache "Über musikalische Phänomenklogie"
石原良也-鬼頭容子訳・アルファベータ



 一九一六年十二月初頭、以前から帝国の戦時局長官グレーナーの「労働者に刃向ってはこの大戦は勝ち抜けない」という一声により導入が検討されていた祖国奉仕法が、紆余曲折の末ドイツ国会で制定される。その制定に携わった誰もが予期していなかったことだが、祖国のためという名分で男子労働力を軍需工業へ強制的に動員する代わりに、労働組合の大幅な地位向上を認めるという、総力戦に向けてのナショナリズムの励起と政治的社会的平等の実現との二つの志向のアマルガムであったこの法律の内奥には、十五年の後ワイマール体制を駆逐し、議会の第一党の座を占めることになる或る政党の呼称、「国民-社会主義」という奇妙な複合語に込められるイデオロギーが、すでに含まれていた。総力戦は、それまで共同体の底辺として蔑ろにされていた貧しい労働者層出身の兵士たちにさえ、国家のための死を要求する。このあからさまな矛盾、愛国的連帯感情と社会的不平等との絶望的な相剋に対する痛烈な自覚から、やがてナチズムが醸成したとするならば、或いは、近年の研究で見直されてきたように、ナチ党の支持基盤が小市民層(手工業者、小商店主、ホワイト・カラー)にとどまらず、裕福な上層中産階級から下層のブルー・カラーまでをも含み多岐にわたり、支持者の社会構成からしてワイマール期のすべての政党の中でもっとも均衡のとれた統合政党の体をなしていたこと、加えて、その影響力の拡大が反近代主義的イデオロギーによって──都市生活の画一性と近代工業生産の無限定な利潤の追求を批判し、有機的な生命の源としてのドイツ民族文化への回帰を謳い、社会の階層間の自発的な協力のもと、一人一人の無私で良質な労働力が生かされ、あらゆる紛争のない調和的・安定的な民族共同体が樹立されるであろうという理想と願望によって、担われていたとするならば、──ナチズム National-Sozialismus への熱狂は、自身の属する社会の分断と解体とを案じ云為しているわれわれのまわりでも、二十一世紀の今なお、秘かに発火を待って燻っていないとは言えない。そして、そのようなわれわれが、「政治と芸術は別である」と信じ、ヒトラー政権下のベルリン国立歌劇場で『マイスタージンガー』前奏曲(これは手工業の黄金時代を讃えるものとして、自由主義経済を排撃するナチ党の反近代的アンセムの一つだった)を指揮したフルトヴェングラーのように素朴に振舞ってよいものかどうかは、西欧文化の精華である西洋古典音楽に耳を傾ける時、いまだ、アクチュアルな問いであり続ける。
 セルジュ・チェリビダッケは、この問いに、自身の研ぎ切った聴覚の精度によって、答えた。それは彼が思想的にナチズムの熱狂と対決したことを意味しない。戦後ヨーロッパを代表する指揮者の一人であり、一時はフルトヴェングラーの後継とも目されていたルーマニアはヤシ市出身のマエストロ──このセルジュ・チェリビダッケという名前のまわりには、様々な逸話がとり付いているけれど、そのどれ一つを取っても、彼の思想的な堅固さを証し立てるものはない。ナチスの靴音の響く戦時下のベルリンを音楽大学の一学生として過ごし、「ほんの少しのパンと代用コーヒーだけで」音楽の猛勉強に明け暮れ、自分の資質を覚醒させ錬磨していくことだけに打ち込んでいた彼は、終戦直後、政治的に無垢であったが故に、戦争犯罪への関与を疑われていた指折りの音楽家たちをすり抜けて、自分の才覚だけで名を顕わすことができた(一九四五年八月)。もちろん、この無垢は相対的なもの──勝利者の連合国側にとってたまたま彼の経歴が非の打ちどころがなかったというに過ぎず、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に抜擢されるきっかけとなった指揮者コンクールは、ソ連占領軍の指示のもと行われたものだったし、その一年の後、彼は同じ軍隊の司令官を前に、ベルリン・フィルを率いてショスタコーヴィチの交響曲第七番『レニングラード』を指揮し、熱烈な喝采を受けることにもなるのだ。畢竟、チェリビダッケはフルトヴェングラーと同様、右顧左眄せず「政治と芸術は別である」と断言できるほどに純粋であり、政治的に無邪気だった。われわれの胸に食い込む National-Sozialismus の欲望を忘れた気になって、チェリビダッケの反時代的言辞(電気録音技術の峻拒、音楽業界の現状に対するペシミズム、「音楽を人間化する」という強い言葉、アメリカやイタリアでは得られない「ドイツ的な響き」への忠誠……)と素朴に共鳴しないためにも、先ずそう指摘しておくことは、必要と思われる──そしてまた、彼の闘いが、他の人間ならば決して対立を見出さないところに差異と不和を見出し、それを「一」の緊張へと研いでいく聴覚の真摯な努力に賭けられていたこと、そのことを、見落とさないためにも。
 セルジュ・チェリビダッケの傑出した聴覚。いかなる記録や回想記の類によっても否定された例しのない、彼の精髄はそれだ。これは単に彼がピッチの誤りに厳格だったというようなことではない。彼の耳はイントネーションの正確さということを越えて、仮に楽団員が百人いれば、スコアに対するその百通りの反応の調和と不調和とが織り成す音色の肌理を、聴取した。彼の演奏やリハーサル(そのほとんどは無料で一般公開された)に接した人々が口にする、彼独特の方法に共通の特徴が幾つかある。第一に、そのリハーサルの回数の多さ。大抵の指揮者が月曜と火曜に各五時間の練習で本番を迎えるところ、チェリビダッケは日曜を除く毎日五時間、二週間にわたるリハーサルを実施してみせる。貴方は一種の完璧主義から、細部に彫琢を施すために幾度もリハーサルするのか、と或るインタビューで問われたのに対し、彼は、次のように答えている。「違う。そういうありきたりの考え方で判断しないでほしい。もしオーケストラの質が優れていて、一人一人の奏者が何百通りもの音色を出せるのなら、彼らの音から全ての差異を取り除いてまとまった響きにするため、どこまでも繊細な要求をすることができる(その目指すべき響きの総体は探り当てるのでなく真実としてあり、私はそれを予め知っている)。逆にオーストラの能力に限界があるなら、短い練習しかできない。そういう短い練習は私は嫌いだがね。」多く時間を取って入念にリハーサルを行う指揮者は他にもいるが、フル・オーケストラの響きから全ての雑味が除き去られた「(統)一」の響きから逆算して、一人一人の奏者への要求を微分する(結果、リハーサルの回数が増える)などということを言っているのは、彼だけだ。第二に──これは第一の点とも関連するが──彼が常に徹底していた「お互いの音を聴け」という指示。ベルリン、シュトゥットガルト、ミュンヘン、いずれの奏者(や見学者)の回想にも必ず現われる指示である。これは現在どのミュージック・ラインがより重要でどのパートが背後に廻るか、曲の構造を奏者自身がその都度意識せよ、といった内容にとどまらない。チェリビダッケが晩年その首席指揮者の位に就いていたミュンヘン・フィルのファゴット奏者、フリードリヒ・エーデルマンは、それが「各々の楽器固有の音を超えた音色を作り出させる」ための指示だったと証言する。例えば、チェリビダッケは、チューバ奏者にコントラバスの響きを要求し、ファゴット奏者にハープの音色を、クラリネットの入りにアップ・ボウ(弦楽器の奏法)の柔らかさを求めた。プロコフィエフの「古典交響曲」におけるファゴットのスタッカートとコントラバスのピチカートがユニゾンを奏でる箇所では、この二つの楽器の音色が融合し純一な響きになるまで、長時間リハーサルが行われたという。そして「チェリビダッケ以外のどんな指揮者も、奏者にそんな要求をしたことはなかった」。言い換えれば、通常難なく素通りされるファゴットとコントラバスのユニゾンに、彼の耳であれば僅かな雑味を聴き取ることができ、その裂け目へ分け入ることができたのだ。第三に、時に「遅過ぎる」と揶揄されもする、彼の指揮のゆったりしたテンポ。ここでも要の役を果たすのは彼の耳である。今リハーサルの指揮台の上で目を澄まし、下降拍子でアクセントを送る彼の前には、フル・オーケストラの音の密雲がある。それは自然に遍在する雑音から切り出された、ピタゴラスコンマの誤差をなめらかに調節しながら倍音を重ねる揃った響きだが、彼は、まだそこに微妙な不和が散らばっているのを感じ取る。巧みな指示によってその粗さを除き去ると、しかし今度は、却って、また別の息苦しい対立が中空に聳える──鋭い緊張にまで磨かれた音一つ一つがぶつかり合う、音の接合、アーティキュレーションにおける、無二の葛藤だ。初めの響きに微妙なズレを見出させなかったのなら、単に「綺麗である」「整っている」という以上の調和や結合は、あり得ない。だがその不純が除き去られ響きの厚みが切迫する時、音と音との、和声と和声との、調性と調性との断層が開けて、新たに一次元上の対立を激化する。調和が対立に組み込まれて、さらに対立が差異と統一の入れ子になり、無数に接触してニュアンスを侵蝕する。或る箇所で築き上げた緊張が、別の時間的構造の中では柔かすぎて崩れる。太陽系のように巨大で揺るぎないト長調のシステムがニ長調に転じる時、何が起こるかは、もはや誰にも予期できない。だが、時空間内のあらゆる葛藤と摩擦を耳によって精確に測深することから、真の演奏テンポについての検討は、始まるのだ。チェリビダッケは言う──「多数の共通するパラメーターを持っている対立の実際の大きさを、惑わされずに認識すること。テンポは、時間内に次々現われる響きと対立を、それと同時に進行しつつ維持される一つの統一体へまとめ上げるための、条件をなす。無数の対立を明晰に聴き取り、それらを互いに補足し補い合わせる時にだけ、唯一可能な音楽が生成するのだ。だから、間違ったテンポや正しいテンポというものはない。テンポは、無だ。テンポは速度ではない。演奏されたテンポが「遅い」か「速い」かを議論することは全く無意味だ。」(要約)──テンポは、音響現象を統一するための操作時間と相関する。これは、自分の聴覚に絶対的な自信を持ち、教育や練習の場でその能力を広く示してきたチェリビダッケにのみ、辛うじて許される断定であろう。
 このような彼の耳の具体的な実践、スコアから立ち現われる響きと対立の陰翳を隈なく精査する能力は、彼の名を著者として持つ唯一の書、『音楽の現象学』中の二つのテーゼ──「作品の中のすべての音は開始《どこから来て》と結末《どこへ向かうのか》を含んでいる」「音楽におけるクライマックスは一つしかなく、作品はその頂点から機能的に組み立てられる」──に、じかに繋がっている。この書は一九八五年六月二十一日、ミュンヘン大学で行われた講演を、チェリビダッケの死後にテープから書き起こしたものだ(二〇〇一年刊)。興味深いことに彼は、大勢の聴衆を前にしたこの講演を、人類が骨笛によって自然界の雑音から「響き」を判じ分けた瞬間の話から、始める。かつて人間は、自身を取巻く荒々しい混沌から、偶然同一の振動を保つ「音」を剥ぎ取った。人間が意志的に起こしたこの現象はしかし、永続することはなく、生じたそばから再び自然に取り返されてしまう。雑多な騒音のぼんやりした拡散から突出したこの「響き」の輪郭は、それだから、たった一つだけでは音楽にはなり得ない。生まれた条件に応じて、倍音を濃くしては薄れて消える音一つ一つを対置し、時間的に絡み合わせ、さらに互いに反発しながら引き留め合う音響現象を構築することで、初めて聴き手の心に「音楽」という連なりが生まれる。それは、ア・プリオリにわれわれの手許にあったのではない。音楽とは、絶えず生まれては消滅する対立的調和の謂いなのだ。「対立こそが命を与える力の源です。」人類の中で音楽家を名乗る者たちは、その対立と差異の諸力によって、一つ一つの響きが単独では持ち得ない異様さを帯びつつ互いに浸透し合うよう、巧みに強調し、倍加し、或いは抑制する(響きが豊饒になるまでに、フルートは長い時間を、ホルンはもっと長い時間を要する……対してオーボエは短く、スピカート奏法で撥ね散る弦の響きはもっと短い時間しか必要としない……)。しかもその対立の力は、一つの作品を通じて活性化と沈静化の二つの極に別れ、際どい均衡を維持しつつ、緊張が高まりに高まる一点で、潮力の中心を刻み込む。この頂点を把握する時、人類は、神と宇宙の混沌から一筋の音の秩序を奇蹟的に盗み取れる。音楽家が目指すべきは、ただその瞬間だけだ。差異と不和の塊の中に一つの大きな波動へ向かう諸力を見、また、見かけ上の調和の中に力強く新鮮な差異を穿つこと。スコアを立体化した音と音の関係の生成に精緻に介入し、響きのダイナミズムの最大値を通過する膨張と圧縮の、統一された全体をつくり上げること。それこそが、音楽家の耳に課せられた責任にほかならない。──このように俯瞰すると、チェリビダッケの実践はフッサールよりもむしろ、「相異なるものからもっとも美しい調和が生まれる」と説いた、古代ギリシャのヘラクレイトスに近似していると分る。そして、万物の流転を語るヘラクレイトスと類比的に、チェリビダッケにとっては達成された音楽の統一もまた、直ぐに消え去ってしまう運命にあるものだった。彼は一九八三年のインタビューで、こう語る。「音楽にとっては生成することだけが全てです。音楽は生成し、生成し、そして何らかの存在形式に至ることなしに、消え去る。一体どこにベートーヴェンの交響曲第五番が存在しているでしょうか? どこにも。レコードの中にも、スコアの上にもそれは存在しないのです。」衒学的な装いで音楽の起源を語りつつ、現象学を突き抜けて秘かに哲学の起源にまで触れてしまうところに、図らずも、チェリビダッケの聴覚の妥協のなさが顕われているように思われる。だが、怨むらくは、後世の不完全な資料である『音楽の現象学』は、やはり彼の耳に裏打ちされてのみ、書物としての説得力を持ち得るものだった。彼が生前その出版を意図しなかったのも、故無しとしない。
 しかしここまで来れば、チェリビダッケの理想とした「調和」と National-Sozialismus が欲望した「調和」の違いを聴き取ることは、易しい。敵-味方、希望-絶望、貧-富の格差といったあまりにもどぎつい対立は、彼の耳を聾してしまうのだ。逆に、対立と差異が微妙であればあるほど、チェリビダッケはそこに集中でき、宇宙から音楽が奇蹟的に盗み取られる瞬間を、忍耐づよく待ち続けることができる。あらゆる微細な兆候を聴き逃す政治的言説が、対立を人工的に均していく、偽りの「一」への昂揚を求める傍らで、対立が多様に錯綜しながら洗練されていく響きの「一」を、彼は追う。たとえ独裁者の前で愛想笑いをするとしても、彼の音楽家としての聴覚が、そのイデオロギーを破砕するだろう。そして彼の耳にそれ以上の政治性を負わせることは、無い物ねだりというものなのだ──恐らくはフルトヴェングラーについても、また同様に。「フルトヴェングラーは単なる耳ではなく、一切の現象の複合性を聴き取る、精神的な耳を持っていました。そして必要な現象が出揃うまで、彼は決して手を弛めなかったのです。」(チェリビダッケ談)









#008 『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』

"Pedro Costa Film Retrospective in Sendai 2005 Program Book"
せんだいメディアテーク



 一九九四年末、リスボン北西はフォンタイーニャス地区に──かつてポルトガルの植民地であった土地からの移民が多く住むスラム街に、一人の精悍な男が足を踏み入れる。同年、アフリカのカーボ・ヴェルデ島で、そこに暮らす人々の習俗や歴史を取り入れつつ映画制作をした彼の大きな鞄には、島の人々から託された手紙や煙草やお菓子、カーボ・ヴェルデ島からリスボンへ移住した家族や友人に渡してくれるよう頼まれたとりどりの品が、一杯詰まっていた。それらをサンタクロースのように人々に配って廻るうち、彼は、フォンタイーニャス地区に生きる彼らの色彩や臭いやささくれた空気に徐々に魅かれ始める。この次に何が起こるのか、一分、一秒後に訪れる出来事については何も分らない、次はどこに住んで誰と出会うことになるのかを想うと不安になる──そのような恐怖と隣接することこそ映画作家の条件と考えている彼は、何時しか、明日はどうなるとも知れないスラム街の若者の寄る辺無さや、もはや社会から興味を持たれることのなくなった人々の孤独の内に、真の映画の仕事に値するものを、見出した。やがて彼は、街に住む者を素人俳優として起用しつつ、まだ表題に隠喩的な曖昧さを残す『骨』という作品を撮った後、今度は、明瞭にただ一つの場所を名指すだけの削ぎ抜かれた表題を持つ約三時間の長篇映画を、やはり街に住む人達とともに、創り上げる。その場所の名は、『ヴァンダの部屋』。
 以下、試みにペドロ・コスタ監督の長篇第四作、映画『ヴァンダの部屋』から、文字どおりヴァンダの部屋で起こることを撮影した場面を、特に被写体の仕種を拾うのに力を入れつつ、書き起こしてみる。DVDのタイムラインで言うと01:58:31以降の場面に相当する。

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ヴァ「気持ち悪い
(ヴァンダ身体を深く折って何かを吐き切った後のような、舌打ちのような声を出す。目を瞑ったまま身体を起こして、苦しげに息を衝く。膝を少し上げ、額に手を当てて俯き、鼻を啜って、口から息を吐く。額に当てていた手をこめかみに移し、顔を横に向ける)
(ヴァンダ咳をする。「う…」と苦しげな声を出しつつ、顔を向け変えて今度は頬に手を宛てがう。目を伏せて鼻を啜る)
(ベッドの上に片手をついて上半身を倒し、激しく咳をする。もう一方の手で毛布を取り上げて、俯き込んだ顔に押し付ける。顔を拭ったらしい。鼻を啜ってまた起き上がる。ベッドに付いていた方の手で髪を掻き上げる。目を瞑ったまま、さらに額にかかった髪を撫で付ける。鼻が詰まっているらしく、口で息をする)
(脇を向いてまた咳をする。喉に何かが詰まったようなくぐもった音がする。ヴァンダ顎を引く。しばらく顔を顰めて我慢しているが、口を細く開き、喉に何かが込み上げてくるゴロゴロという音とともに床に屈み込み、何かを吐瀉する。さらに喉を絞り切るように吐き続ける)
(ヴァンダしばらく屈み込んだまま。唇の滴を振り落とすように、唾を吐く。鼻の詰まった苦しげな声を出す。口の中の粘つきを噛み殺しているかのよう。強く鼻を啜る。荒い息をする。「畜生」というような唸り声を出す)
(ヴァンダ身体を起し、口で息を衝きながら顳かみに手を当て、肘を下げて俯き込む。「い…」という苦しげな声を出す。息を吐くたびに大儀そうな声を出す)
(くしゃみが出る。それが治まると顔を向け変えて、手は頬に宛てがわれ、頬杖のような形になる。その格好のままくしゃみをする。顔が手に強く押し付けられるような格好になる)
(鼻を強くすする。頬にやっていた手で毛布を取り上げて鼻の下を拭う。拭っている最中にもくしゃみが出て、手を下ろして俯き込む。また毛布を取り上げて鼻に当てる──当てたままくしゃみをする。くしゃみをするたびに上半身が収縮する)
(さらに二つのくしゃみが出て、その自分でもままならないくしゃみの激しさに、「おい…」と、自分で自分の身体に文句を言うような苛立ちの声を出す。ようやくくしゃみが治まり、俯いて息を衝く。顔を上げて前髪を払う)
(だがふたたび喉に何かが込み上げる音とともにヴァンダの眉がきつく寄り、くしゃみが出て下を向く。ヴァンダきつく目を瞑ったまま顔を覆うように手を翳す。だが、それでくしゃみは止まる)
(部屋の外では誰かの話している声、そしてテレビの騒がしい音がしている)
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 周知のように、『ヴァンダの部屋』には台本が存在しない。前々作『溶岩の家』や前作『骨』で試みられていた、現場を共にする人々の記憶やインスピレーションをシンプルに映画に組み込んでいく方法が純化され、ついに全く台本が無くなった時、カメラの前では、俳優(被写体)の肉体的存在が前景化する。くしゃみ、苦しげな息遣い、鼻を啜る音、喉の奥から絞り出される多量の痰……。もとより、人間の身体には実際無数の運動の線が詰まっている。ペドロ・コスタ監督は、台本という最低限の枠組みを解除することによって、またできる限り時間を掛けることによって──編集前の素材は百三十時間以上──人間の肉体に散らばるそれらミクロな運動を、急いでしまえばすぐ毀れてしまうものを、注意深く、静かに、静かに、そっと把捉して写し取った。この作品においては言葉はもはや台詞ではない。ヴァンダの口にする切り詰められた言葉は、いくら探しても見付からないクスリ、点かないライター、低い気温、止まらない咳、鼻水、気怠さ、自意識ではどうにもならないもの全てに圧倒されて肉体が吐き出す、状況の追認、苦痛の表出の声でしかない。『ヴァンダの部屋』の登場人物──ヴァンダやニューロやジータ等の肉体は、あまりにも重苦しく疲れ切っていて、言葉による伝達、対話、明快な問いを投げ掛けては応答するような言語的構築性からは完全に零れ落ちて、或いははみ出して、ただ分裂的に、相手に何かをやらせたいか、自分の辛さを訴えたいか、不平を言うか、その程度のことにしか言葉を用いようとしない。同様に彼らの身振りはもはや行動ではなく、彼らの姿勢はもはやポーズではない。その肉体の微差な動きはあたかも、闇に慣れたあとにようやく見えてくる細かな文目のようであり、あらゆる意識的-言語的な演出を洗い落とされて、多数の肉体的-物質的な流れとして浮び上がる。しかし、それでいて、観客がスクリーン上に見る映像には技巧的な、格調を保つための精確な配慮が漲っている──そう、この点が肝要だ。もし登場人物たちがカメラを意に介していないのなら、ことは簡単だ(隠しカメラによる撮影に近くなる)。逆に彼らがヴィデオに収められる自分の振舞いを意に介しているのなら、これも簡単だ(通常カメラを向けられた時の反応、ないしは劇映画)。だが『ヴァンダの部屋』では、被写体が自分では意に介していない仕種の多く、それが少なからず当の人物が意に介しているであろうカメラによって、捉えられている。時にはヴァンダの吐瀉という肉体的なもの、一種の生理現象が撮影されることがあるにもかかわらず、適正な方法論に基づいた精緻な配慮がそこにはあり、被写体がそれを了解し、協力していて、撮影者との間に礼節をわきまえた関係のようなものが生まれているのだ。何故このようなことが可能になったのだろうか。何故、ペドロ・コスタだけがそのような肉体と世界の関係を捉え得たのだろう。
 言うまでもなく『ヴァンダの部屋』は、ドキュメンタリー映画ではない。コスタ監督自身がそう明言し、幾つかのシーンで如何にテイクを重ね、妥協を排して撮ったかを語っている故のみならず、完成した作品を直に見れば、その精巧な作為は紛れもないからだ。前者の例で言えば、ニューロが離れて住む母親のことをしみじみ語った後掃除を始めるシーン(DVDのタイムラインでは01:02:18〜)では、話の内容がデリケートなだけに、どうしても重く感傷的になってしまいがちなのを、試行錯誤し、最後にちょっとばかりの軽味を加えるため、話をした後部屋を掃除してみてはという俳優からの提案を受け入れ、ぎりぎり上手く撮り切ることができたと、監督がその苦労を語っている。後者の例で言えば、ヴァンダの暮らしぶりを誹る男との口喧嘩のシーン(02:04:03〜)では、それに先立つ、ジータと母親が炊事場で鶏を捌いているショットの背後で、まず環境音のようにヴァンダと男の声が聴こえ、そこから切り替わって、「自然に」ヴァンダの部屋での扉を隔てた口論の現場に繋がるのは、無論、撮影の段階で或る程度モンタージュを予想しつつ、事後の編集で組み立てられた偽の持続だ(加えて、ここで扉の隙間からヴァイオリンがちらりと覗いているため、観客はその男が誰かを推測することができる)。しかし、このような穿った分析──英語版Wikipediaの"No Quarto da Vanda"の項では、この作品が一見ドキュメンタリーのように見える点を「人を惑わせるような妙技」「知的な狡猾」などと書いている──とは全く無縁に、『ヴァンダの部屋』は、本質的にドキュメンタリーとフィクションとの区分の埒外にある。恐らく、そのことはまだ広く理解されたとは言えない。監督自身が公けの場で口にしている、ジャーナリスト達への苛立ちも、この作品が暗々裡に被っている無理解を示唆している。「日本人でもアメリカ人でもイギリス人でもいいのですが、ジャーナリストが私にいつも尋ねる質問があります。〈あなたはこの映画を劇映画に近いものとお考えですか、記録映画に近いものだとお考えですか〉。私自身は、この質問が別のことを意味しているのではないか、別の問いを隠しているのではないかと思うことがあります。彼らが聞きたいのは〈この映画は本当ですか、嘘ですか〉ということなのではないかと。」端的な例では、二〇〇八年に日本で行われた或るインタビューだ。そこで聞き手は、監督がDVカメラを選択した理由の一つに、被写体にカメラの視線を意識させないためという意図があったのか、と問い掛け、コスタ監督の方は、直接それに応えずに別の理由を挙げているのだが、「被写体にカメラの視線を意識させない意図があったか」ということへの回答であれば、断然「否」以外ではあり得ない。より被写体の実態に迫るために、彼らの私生活に巧く溶け込むために──そのような意図は、『ヴァンダの部屋』のどこにも存在せず、それはDVカメラを選択した理由の一つですらない。この点、さらに二つの対談を参照し、そこに走っている細微なズレに着目することによって、つづけて敷衍してみたいと思う。
 第一に参照したいのは、二〇〇四年三月に青山ブックセンターで行われた評論家・蓮實重彦氏との対談だ。啓発的な知見を数多含むこの対談の終わり近くになって、蓮實氏は、コスタ監督に次のような問いを投げ掛ける。「コスタ監督は、『ヴァンダの部屋』で、それまで使っていたイネス・デ・メディロスという女優をいわば捨て、ヴァンダ・ドゥアルテのほうに接近されました。……若い女性として、イネスからヴァンダへのこの移行はどうだったのでしょうか?」『血』と『溶岩の家』ではヒロインとして、『骨』でも重要な役で、一貫して自身の監督作品の若い女性役に起用してきた女優イネス・デ・メディロスではなくて、『骨』で初めて起用した素人俳優のヴァンダ・ドゥアルテを、ペドロ・コスタ監督は、第四作の中軸に据えた。その変化の意味を蓮實氏は問う。この問いにコスタ監督は答えずに、同時に質問されたエディット・スコブ等年輩の女優のことを主に話し、ヴァンダについては「彼女自身には年齢がない……ある瞬間ヴァンダは自分自身の母親になり、祖母になり、姉妹にもなります」とのみ言及して、“若い女性”という形容を暗に否定するだけにとどまるが、実は、この問いに対し、彼は別の場所で既にはっきりと答えている。『ヴァンダの部屋』制作後、ポルトガルの新聞に掲載されたインタビューで、『ヴァンダの部屋』に職業俳優が一切出て来ないことの真意を訊ねられた監督は、次のように言っていた。「……でも、『ヴァンダの部屋』にもこれまで一緒に仕事をして何かを学ばせてもらった俳優たちは出ているんだよ。彼らはみんなこの映画に出ているんだ。ペドロ・エストネス、イネス・デ・メディロス、ルイス・ミゲル・シントラ、カント・イ・カストロ、イザベル・デ・カストロ、イザベル・ルース、みんなだよ。よく気をつけて見ていれば、画面の隅に見つかると思う。彼ら自身も自分たちがこの映画に出ているし、これからの映画にもいつも出ることになると分っているんだ。」──したがって、彼は『ヴァンダの部屋』においても、それまで起用してきたイネス・デ・メディロスを「捨てて」はいない。これが、蓮實氏の問いに対する答えだ。ここでは怖ろしく真剣なことが言われている。実際にはペドロ・エストネス(『血』の主役)、ルイス・ミゲル・シントラ(『血』の叔父役)、カント・イ・カストロ(『血』の父親役)、イザベル・デ・カストロ(『血』の老婦人役)、イザベル・ルート(『骨』のエドゥアルダ役)も、『ヴァンダの部屋』に出演していないことが自明なだけに、尚更そうである。さらに、この言葉を文字どおり受け取れば、『ヴァンダの部屋』の次々作の『コロッサル・ユース』にも彼らは出ていることになり、最新作の"Ne change rien"でも、ヴァンダやヴェントゥーラたちも含め、皆画面の隅に見付かることになる。そう、たとえ被写体がスラム街の人々からフランスの女優に変わろうとも、ヴァンダもヴェントゥーラも、スクリーンの中で、誰一人見捨てられてなどいない。そのことを理解するためには、撮影者と被写体との関係を新たに定義し直すことが必要になるだろう。
 その手掛かりとして、第二に、二〇〇八年四月におけるコスタ監督と日本の若手映画監督・舩橋淳氏との談話を参照したい。この談話はペドロ・コスタ監督の来日に合わせて、渋谷はシアター・イメージフォーラムで交わされた(WEB上で公開され読むことができる。後註参照)。共に充分な教養を具え映画の作り手でもある二人の対話は、始終快活に、和やかに進むが、一箇所、鋭い緊張が生まれる瞬間がある。舩橋氏が「撮影する者は被写体に対して責任を持たなければならない」と、穏当と思われる発言をしたのに対し、コスタ監督が、突如「でも僕は、〈映画の作り手の責任〉という言い方には怒りを覚える」と切れ込む箇所だ。つづけてコスタ監督は言う。「……責任は分ち持たれることができるし、またそうあるべきです。/映画制作のもっとも大きな問題は、カメラのこちら側と向こう側のバランスです。作り手はもちろん責任を持たなければならない。自分の仕事に対して。同時に、カメラの向こう側にいる人間も責任を持たなければならない。そしてここには教え学ぶという側面もあります。……映画の作り手は、同時に先生であり、生徒であります。私はヴェントゥーラやヴァンダに多くのことを教わりました。」ペドロ・コスタは常識として受け入れられている考えを屈折させ、被写体は撮られることに責任を持たなければならない、と説く。つまり、カメラの前で出来るだけ自然に、私生活そのままに振舞ってよいという無責任は、彼が被写体に要求することではあり得ない。ここには、映画がどのようにあるべきか、被写体とどのような関係を築くべきかについての峻烈な確信が表われているが、他方、何かを撮影することが何かを傷付けることであり得、さらにはそれが犯罪の域にまで昂じることを危惧するならば、「それでも、作る側の責任の方が重要であると思います」と言い、特に素人を被写体とする場合、小さな部屋でホームヴィデオのようなカメラでさりげなく撮影する場合、(被写体となる人物は観客と間接的な関係しか持ち得ないので)その半ばプライヴェートな映像をどう扱うか、作り手・撮影者の責任が問われてくる、と主張する舩橋氏は、或る水準では全く正しい。だから、この二人のささやかなすれ違いの原因は、議論の正しさの点にはない。コスタ監督自身は『ヴァンダの部屋』を、小さな部屋でホームヴィデオのようなカメラで、被写体が寛いでいてさりげなく撮影された作品では絶対にない、と考えているのに対し、舩橋氏は多分、そうした軽快さや寛ぎが被写体との関係を親密にすることと不可分であり、『ヴァンダの部屋』を撮るためにコスタ監督が必要とした小規模なチーム、長い撮影期間は、先ずもってそのさりげなさを可能にするため、被写体のプライヴェートに入り込むために遣われたのだ、と考えている、──そこに相違があるのだ。『ヴァンダの部屋』はさりげなく撮影された、半ばプライヴェートな作品では、ない。『ヴァンダの部屋』(と『コロッサル・ユース』)の製作過程について、それがオフィス仕事のようなルーティンワークの継続であったと、コスタ監督は省みている。月曜から土曜まで朝は決まった時間に起き、決まった時間に俳優たちと顔を合わせ、解散の時間が来るまで、映画の製作に勤しむ。どのようなシーンを撮るか、良いアイディアが得られるまで一緒にテーブルに着いて話し合う。場所とポジションを決めるのに一週間、或いは一ヵ月掛かることもある。さらにそれぞれの人物が何をやり、どう動くかについてイメージが共有できたとしても、適確なショットに至るまで、根気よくリハーサルを重ねねばならず、時に素人俳優たちは音を上げもした。『ヴァンダの部屋』はそのようにして撮られたのであり、被写体たちも意志的にベストを尽くさねばならず、もし撮影が上手くいかなければ、自身も深く責任を感じなければならなかった。だが、その責任の分かち合いがあってこそ、真に教え学ぶ瞬間がそこにあり、また、映画を作り出す仕事そのものの喜びを分かち合うことができたのだ。コスタ監督自身の言葉を、以下引用する。「……『ヴァンダの部屋』は、私に映画の仕事をする喜びをよみがえらせてくれたのです。そのことがスクリーンを通じて見て取れるのではないでしょうか。この映画で、私ははじめて俳優たちと何かを共有することができたような気がします。つまり、映画作りの喜びを伝えることにはじめて成功したのです。映画で、真に美しい、すばらしいことを考えさせ、実行させることができる。また、世界のもっている奇妙な部分、不思議な部分を見せることができる。このような喜びをもって分かち合う仕事、それを伝えることにこの作品は成功しました。」既存の映画制作システムに、同じように批判的に言及する二人ではあっても、「日常のリアリティーへと開いていく」「自分が愛着を持つ人達を、その実生活の延長で捉える」と軽々口にしてしまう舩橋氏と、「彼らと何かを作り出す行為そのものが重要だと考えている」と言い切るペドロ・コスタ監督とでは、リアリティーの審級において、撮影者と被写体の関係に対する感度において、少なからず、隔たりがあるように思われる。二人の談話の軽妙な言葉のやり取りに一瞬亀裂が生まれたのも、この差異に由来しているのではないか。
 もはや、コスタ監督がDVカメラを選択した理由への問いは、“ドキュメンタリー的手法への接近”などという、安易な解説に拠らず、別の次元で扱わねばならない。その鍵は二〇〇四年三月に東京は映画美学校で行われた、ペドロ・コスタ監督みずからの短期集中講義──それを採録した『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』(二〇〇五年刊)──にある。というのも、そこでコスタ監督は明白に、俳優という肉体的存在を前にした作り手の責務について、語っているからだ。通訳を介した講義という性格ゆえか、話柄が次から次へ移り変わっていき、チャップリン、ターナー、ブレッソン等への細に入った言及を挟みつつ、映画に関する思考が矢継ぎ早に詩的な表現で語られていくこの講義を要約することはほぼ不可能だが、その中から、敢えて最も重要と思われる言葉を一つ取り上げてみるならば、「感情」の語になるだろう。俗な手垢塗れのこの言葉を、コスタ監督は驚くべき確信の深さをもって使用する。「あなた方自身のなかに、適正な感情を、本質的で、おそらくは非常に繊細なものを見つけなければならないのです。」(112頁)「事物を感じることがないのだとすれば、技術的なことを活用することもできません。編集や画面構成や録音といった技術のなかにも、感情が存在しているのです。」(113頁)「映画において、私たちがすることのできないたった一つのことがあります。それは、感情の取り引きです。」(116頁)「何故こんな話をしたかというと、映画を作る仕事は、非常に真剣かつ厳粛なものだからです。厳粛という言葉は、しばしば重々しい感じを与えますが、実際、物の重さと同じように、感情というのもかなり重さを持ったものであり、バランスと常識をもって扱わねばならないものがある。」(117頁)──ここでペドロ・コスタ監督は何を言おうとしているのだろうか。「感情」という言葉で、どんな致命的なことを彼は伝えようとしているのだろう。監督本人に問い訊ねることができない以上、推測するより仕方ないが、同じ講義中の次に引く一節と接続することによって、「感情」の重要性を説く彼の発言が、具体的な映画の制作過程から掴まれた洞察であることを、示せると思う。それはこのような一節である。「ところが、俳優に指示を出すとき、つまり目の前に役者がいるときには、感情によって作業することしかできないのです。」(111頁)──一見読み過ごされてしまうようなささやかな言葉であり、人によってはその直前の「映画学校の学生の作業とは、結局のところ、とても孤独なものです」という言葉の方に強く惹かれるかもしれないが、こちらこそが、決定的な洞察ではないか。われわれは動き、食べ、飲み、騒ぎ、疲労し、時には不随意にもなる重たるい肉体を持っている。善について語るにせよ悪について語るにせよ、隣人の肉体の厄介さを無視することはできない。況んや自分独りでは何もできず、俳優たちに腰を上げてもらい、彼らの肉体に強いて何かをしてもらうことを必要とする映画監督にとっては、尚更そうだ。目の前に役者がいる。頼るべき台本はない。普段どおり自由気侭に振舞ってもらうつもりも、ない。それでもなお、物質的-肉体的存在としての相手に働きかけ、或る何事かを成し遂げたい──「真に美しい、すばらしいことを考えさせ、実行させ」たい──と思うならば、適正で本質的で、限りなく繊細な感情の綾を、自分と相手との間に築き上げ保持しなければならないのだ──「目の前に役者がいるときには、感情によって作業することしかできないのです」。「感情の取り引き」は、潔癖に排される。俳優の「感情の重み」に向き合う緊張から、逃げることは許されない。コスタ監督が軍隊のような大掛かりな撮影現場と訣別して、すべてを少人数で制作する方法を選択せざるを得なかった理由の第一は、そこにある。われわれは、次のように想像することができる──多分、しかしほぼ間違いなく、コスタ監督は、『ヴァンダの部屋』の撮影中にヴァンダやニューロやパウロたちに麻薬を止めるように忠告はしなかっただろう、と。無論、彼らの実態をそのまま撮影するため、といったような下世話な動機のためではない。そのような善意の指示、忠告、隠微な強制によって、多くの微細で微弱なものが損なわれてしまうと知っているからこそ、ペドロ・コスタは、何も言わない。相手の具体的な肉体を前にして、何かをしてもらい、何かをしてあげようと思う時、しかも「感情の取り引き」、すなわち、一種のプロスティテューションに似た取り引きを行使せずにそうする時(それを暗に行使してしまった一例として、作品『骨』の、横暴な夫に売女扱いされる妻を演じるヴァンダ=クロティルデのショットを挙げよう。その画面がどれほど清潔に、美しく構成されていようとも、『ヴァンダの部屋』と比較してみれば、そこで作り手の頭の中にある主題に強いて俳優の肉体を従属させたという痛ましい印象は、否み難い)、感情の機微を無視した常識的な善悪の基準は、何の役にも立ちはしない。自分の感情と肉体に鈍感な青年が、人工的で男性原理的な現代社会のシステムを非難している傍らで、疲れ切った娘が、蒼い憂い顔をして目を瞑る……そんな光景の愚かしさとは、ペドロ・コスタ監督は永遠に無縁だ。彼が、自身の短期集中講義の始まりにどんな言葉を置いたかを、ここで憶い出してみてもいいだろう。「愛というものを信じるには、血の通った肉体を持った実際の人間に会わなければなりません。」(100頁)──このように臆せず「愛」や「感情」について語ることができなければ、妥協を排して俳優たちと責任と喜びを分かち合うこともまた、不可能なのだ。
 だが、真に決定的な飛躍、映画史における『ヴァンダの部屋』の真の新しさは、感情の面だけではなく形式の面でも起こっている──その点に触れないわけにはいかない。すでに上に引用した発言で、コスタ監督は、『ヴァンダの部屋』において初めて自分は俳優たちと何かを分かち合うことができたと、そして、「そのことがスクリーンを通じて見て取れるのではないでしょうか」と言っていた。つまり、コスタ監督と俳優たちとの間の血の通った感情の綾が、本来なら観客にとっては不可視のはずの制作過程に属する領域が、スクリーン上に可視的になっているのではないか、ということだ。それは映画美学校の短期集中講義では、より確信をもって語られている。「ここで重要なのは、人間が人間に対して行っていることに関するドキュメンタリーです。」(108頁)「人々が互いに行い合うこと、つまり、私が誰かにしてあげることと、誰かが私にしてくれることがある。……そして、善悪は天上にも地獄にもなく、人々のあいだに存在しており、映画はそれを見せるものではないか。……善悪が私たちのあいだで生じるものならば、カメラによってそれを見ることができ、あなたが私にもたらした害悪の証拠や、私があなたに行った善行の証拠を保存しておくことができるのです。」(117頁)「映画というのは、つねに撮影や制作過程のドキュメンタリーなのです。」(108頁)──恐らく、ペドロ・コスタ監督は、『ヴァンダの部屋』を制作する以前には、このように断言できはしなかっただろう。彼は、ヴァンダやニューロたちとの交情を通じて、革命的に繊細な感情のスペクトルを獲得したと同時に、撮られる者の献身と撮る者の節度をそのまま映像に定着させる公正で強烈な方法論を、一挙に掴んだ。そのリアリティーの審級は、メタドキュメンタリーと呼ばれていい域にある。『骨』では、まだカメラの捉える善悪は、登場人物間のことに過ぎなかった(夫に凌辱されるクロティルデ、それを見て「あなたの痛みを分かち合いたい」と囁くティナ)。だが『ヴァンダの部屋』においては、映画的フィクションの中で真正さを高めていく技巧の洗練が解除され、現実それ自体を、善悪の紛れもないドキュメンタリーへと変えていく、高次の時空間の構築へと向かっている。この点、駆け足で論じることしかできないが、単なる印象批評に終わらせないために、一九八三年、八五年に分けて二巻本として現われたジル・ドゥルーズの映画論を参照することで補助線を引き、形式的に整理しておきたいと思う。参照するのは第一巻『運動イメージ』の第五章で短く触れられ、第二巻『時間イメージ』の第六章、ダイレクト・シネマやシネマ・ヴァリテを論じる箇所で再び取り上げられる、映画イメージの主観性-客観性、ルポルタージュ-ドキュメンタリー、仮構-真正の諸問題、「自由間接話法的ヴィジョン」の議論である。
 ちなみに、ペドロ・コスタ監督はドゥルーズの映画論を読んでいると思われるので、彼の発言の中にドゥルーズのそれと通じ合うものを見つけるのは、トリヴィアルな指摘でしかない。ここではむしろドゥルーズとペドロ・コスタの相違を一先ず明るみに出すためにのみドゥルーズを参照する。
 さて、ジル・ドゥルーズは、『シネマ1*運動イメージ』の中でベルグソンとフッサール現象学の決定的な差異を論じた後に、「映画において、客観的な知覚イメージと主観的な知覚イメージは、それぞれどのように現前するのか」という興味深い問いを立てている。とりあえず、カメラ・アイが或る匿名性を帯びつつ環境・状況・人物を捉える時に、イメージは客観的であると言え、逆に、登場人物の視覚がカメラ・アイにおいて映し出される時──眼を負傷した人物がソフトフォーカスで物を見る──イメージは主観的になる、と言えるだろうか。しかしこの区別が便宜的なものですらないのは、向き合った二人の人物の切り返しショットにおいて、カメラが客観的に提示する一人の登場人物の顔が、相手を眺める者(一つの主観)であるのと同時に、相手に眺められるという意味での主観性を帯びて観客に知覚されてしまうことからも、明らかだ。つまり、カメラは、人物を必ず眼差す必要があるのだが、見られる人物と人物が見るものを与えるのも、また同じカメラなのだ。映画的な知覚イメージは、主観-客観のどちらかに均される等質なものではあり得ず、劇中、絶えず主観的なものから客観的なものへ、客観的なものから主観的なものへと、しなやかに移行する。この映画的な知覚イメージに独特の有り様を、ドゥルーズは、映画監督と小説家を兼ねていたピエル・パオロ・パゾリーニの議論を取り上げることで、さらに文体論の問題として、捉え返す。パゾリーニの用いる類比に従えば、主観的な知覚イメージは直接話法に相当する。──「《私は処女を失うくらいなら、拷問を受けた方がましだ。》」また、客観的な知覚イメージは間接話法のようなものである。──「彼女は気力を振り絞り、処女を失うくらいなら、拷問を受けた方がましだ、と言った。」これらに対し、登場人物と同化せずに登場人物の間を反射し転位しつづける映画的な知覚イメージは、まさに、小説における自由間接話法に等しい、とパゾリーニは考える。──「彼女は気力を振り絞る。私は処女を失うくらいなら、拷問を受けた方がましだ。」カメラが見るものである人物が見るものもまた、カメラの見るものの内にある。映画はつねに、主観-客観という二つの非対称なプロセスの複雑な絡み合いを駆動させる。その独特の有り様は、文法論(三人称と一人称の置換可能性)では手に負えず、自然的知覚に似たものを見出せない以上、現象学でも扱えず、むしろ、小説の自由間接話法の条件(登場人物達は作者の言説において自己を表現し、作者は人物達の言説において間接的に自己を表現する……)、「彼(女)」と「私」の対立、拮抗、分裂、相関に応じるものとして考えることでより詳らかにできるだろう。言わば、知覚イメージは「小説化」することで映画になる。もし映画がフィクションであるとしたら、撮影された映像の真正さとは無縁に、小説の文体が自由間接話法の駆使によって通常の発話(直接話法、間接話法)から懸け離れているという事態と類比的に、フィクションなのだ。これがパゾリーニの提出した観点である。
 続巻『シネマ2*時間イメージ』で、ドゥルーズはこの“自由間接話法的”という観点の射程をさらに拡張する。やはりパゾリーニに従えば、小説の自由間接話法というスタイル、主観-客観の二重化ないしは分化というスタイルにおいて起こっていることは、或る匿名的な主体による、登場人物の一人称の「擬装」である。つまり「彼女は気力を振り絞る。私は処女を失うくらいなら拷問を受けた方がましだ。」──といった表現の後段において、三人称的に彼女を眺めている匿名の主体が、秘かに彼女自身の一人称を擬装していると考える。そして、この匿名的な主体をカメラ・アイと類比することから導かれるのは、映画において、登場人物の主観性とカメラの客観性が重なり揺らぐ時、カメラ・アイが人物のものの見方を擬装する内的視覚を獲得し始める、という解釈だ。ここに映画の基本的な条件がある。いかにルポルタージュが純粋な主観性を、ドキュメンタリーが純粋な客観性を誇示しようとも、それが映画であるかぎり、そこで生じている異なる二つの主体の分離と共存、自由間接話法的な主観-客観の止揚、二種類のイメージが互いに伝染しつつ位置を変えながら擬装する、映画にとって本質的な仮構は、排除することはできない。「真正さとはいつも一つのフィクションだったのだ」。ドゥルーズはこの「擬装」という作用が孕む“偽なるものの力能”を、肯定的に評価する。物語を斥け、生な現実・実在そのままを見せると称した数多の映画作品のいずれもが、映画的フィクション──カメラの見ているものがあり、人物の見ているものがあり、両者は拮抗し、また必然的に相関する──に無自覚に依存していた。ならば、むしろ映画の創造性は、フィクションを抑圧している真実のモデルからフィクションを解放し、映画的イメージの精髄であるしなやかな擬装の機能にドライヴを掛け、みずから憑依し、陶酔し、境界を越え、怪物化し、虚構化を極限まで推しすすめることによって、現実・実在が生成し始めるその瞬間を捉えることの側にあるのではないか。ディオニュソスの自由間接話法、ランボーの「私は一人の他者である」話法、或いは双頭の話法、無数の頭脳の話法。あらゆる真なるものの理想が破棄された後には、偽造者=創造者だけが生き残る。作家自身を自由間接話法が追い越していく。映画作家と彼の人物は、共に一人また一人と他者になる。擬装する物語はまた擬装され、私は獣であり、白人は黒人であり、皇帝は劣った人種であり、映画と非-映画の境い目がどこにあるかは、もはや誰にも分らない。その時、映画全体が、現実の中で作用する自由間接話法となるだろう。不動の真理に代わって、無垢な生成のための唯一のチャンスが生じるだろう……。と、「自由間接話法」という語を随意に用いつつ、加速度を増していくドゥルーズの思考の理論的可能性については、これ以上問わない。小説と映画を類比的に論じることの妥当性も、やはり問わない。ただ、「自由間接話法」という観点でのみその類比を考察する時に、必ず見逃されてしまう一つの話法の可能性を、ささやかながら示唆してみたいと思う。それは、二人称の話法である。──「彼女は気力を振り絞る。処女を失うくらいなら拷問を受けた方がましだ、ときみは考えている。」すなわち「彼(女)」と「きみ」の対立、拮抗、分裂、相関だ。これは、あまりにも突拍子もない示唆だと思われるだろうか。だがこの二人称の話法を決定的な仕方で用いているのは、誰あろう、ペドロ・コスタ監督その人だ。次に引く一節は、コスタ監督がかつて自身が口にした言葉を回顧して語ったものである。蓮實重彦氏との二〇〇四年三月の対談から──「……俳優に〈この中にきみの息子がいる〉と言うのはとても難しい。控えめに演出するしかないのです。そこで、〈ここでは子供と外出するが、きみは袋のなかに子供を入れる。きみは袋しか持っていないからだ。だから、自分の体になるべく近付けて持つように、あまり低く持ちすぎないように。それを保護する気持ちを持つように。たぶん、歩く動きときみの体温で赤ちゃんがよみがえるから〉と俳優に言いました。」──ここで「きみ」と呼び掛けられているのは、『骨』においてヴァンダと同様非職業俳優として起用されたスラム街に住む一人の青年である。そして同時に、この「きみ」は、『骨』の作中の父親役の「彼」を擬装しつつ二重に響く(青年自身には息子はいない)。ここでは小説的な自由間接話法とは別の仕方で、二つの主体の拮抗と相関が働いており、前景化しているのは、作家と登場人物の視点の揺れ動きではなくて、映画監督の感情と俳優の肉体の間にせめぎ合う緊張感である(できるだけ身振りを強いずに、ショットを貫く感情を役者と共有しようとする、コスタ監督の指示の出し方の濃やかさに注目せよ)。パゾリーニの議論では、創作行為を行うものが他者の肉体に何を強いてよいのか、という微妙な感情の領域への感度が完全に捨象されていた。それを受け継いで、「自由間接話法」のヴィジョンをパゾリーニに接ぎ木しながら展開するドゥルーズの議論にもまた、或る欠落が紛れもなく、ある。直ぐ後に論じるが、『ヴァンダの部屋』の画面は直接話法的にも間接話法的にも、自由間接話法的にも構成されていない。繰り返せばコスタ監督は、ドゥルーズの映画論を読んでいると思われるし、例えばドゥルーズの「映画は世界を撮影するのではない、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなければならない」といった言葉は、ペドロ・コスタ監督の志にそのまま連なるものと読めもするが、しかし、ドゥルーズが「自由間接話法」という語を縦横に用いて、真理を僭称する作家を相対化しつつ、映画的フィクションの力能を一に言祝いでいるのは、単にミスリーディングであるばかりでなく、被写体と撮影者との絶対的な差異、「彼(女)」と「きみ」との危うい緊張から真の創造性を掴もうとするペドロ・コスタ監督の二人称的実践と較べると、少しばかり、時遅れの考察のように見えてくる。演技について指示を受けた素人俳優の青年が、歩道をぎごちなく歩いているうちに、無意識に手に提げた袋を抱えてしまう──何故なら、そこにはきみの赤ん坊が入っているから──という『骨』の移動撮影のショットで起こった奇蹟について、ドゥルーズの映画論は、何も語れない。ないしはペドロ・コスタの実践の妥協のなさは、そこまで突き抜けている。彼はクラフトの錬磨によって自ずと哲学的映画論の地平から逸れていく。最後に問わなければならないのは、その彼の実践が、『ヴァンダの部屋』において具体的にどんな強度にまで到達したか、だ。
 この世界には微小な伏線が散らばり、犇めいている。暗闇の中で脈打つ不可視の物質的-肉体的な流れ、それが複数あり、充ち、溢れ、しかも意識的-言語的な流れとは分離して一瞬ごとに生まれつつあるということを、われわれは、そっと語らねばならない。歯の隙間で虫歯が肥大していく。蠅の卵が次々と孵る。マンションの修繕積立金は無駄に取り崩されていく。好きだったあの娘はもう結婚してしまった。置時計は俺の心臓に合わせてチック・タック・チック・タックと鳴っている。子供の頃使っていた吸入器はどこへ行ってしまったのだろう……。この動作は、この現象は、この痛みは、一体何の悲劇の伏線だろうか。確かに、映画は、カメラ・アイを形式的に内包する。しかし直接話法であろうと間接話法であろうと自由間接話法であろうと、たった一つに中心化したその「話法」に対し抵抗し、脱臼させ、分散させ、多様な流れを解き放つことにより、──例えばアルミ箔を弄ぶ仕種と、ゆっくり煙草を口許へ持っていく動作と、苦々しげに首を振る顔の表情と、顎を引いた奇妙な上目遣いと、「もう最悪よ」という無愛想で惨めな相槌とを、すべて平等に並行的に扱うことによって、映画はまた、世界についての原初的な肯定の証言にもなり得るのだ。映画は、カメラのこちら側とあちら側のバランスを厳密にとり、指示を受け、何かをしたり或いはしなかったりする俳優の肉体と、その背後に遍く在る、あらゆる固着したものを引き攫い洗い去っていく巨大な世界との、新たな関係を、ショットで焼き付け、引き受けることができる。すなわち、メタドキュメンタリーによる、大文字の世界から隠され埋没してしまったものの新たな掘り起こし。その可能性の実現に、現状の映画制作システムと訣別するため止むを得ず手にしたDVカメラの特性が、実に相応しいことを、ペドロ・コスタ監督は、『ヴァンダの部屋』の製作中に事後的に見出した。
 小型DVカメラは、単に技術的に人間の視覚を模倣することが難しい。これが、コスタ監督が発見した小型DVカメラの具える最も実り多き制約である。周知のように、映画用カメラより撮像素子のサイズの小さいDVカメラは、被写界深度が深く、レンズ操作が限られ、始終広範囲に無難にピントが合ってしまうため、否応なく切れ味のないのっぺりした画面になる。つまり、小型DVカメラでは一つの表情や一つの所作、一つの静物や一つの立体面を鋭角のエッジで捉えることが、ただ光学設計上の理由から、できない。これは平常人間の眼球が行っている、或る対象を注視・凝視することによって地から図を浮び上がらせる能力、そして映画用カメラがフォーカスを丁寧に操作することで鮮やかに模倣しているあの基本的な効果を、小型DVカメラが持ち得ないことを意味する。しかしこの点こそが、むしろ小型DVカメラの武器だ。何故なら、丁寧なフォーカス操作のみならず、パン(首を振って視野を変えることの模倣)やズーム(強く関心を持って見ることの模倣)、移動撮影(歩きながら移ろうものを眺めることの模倣)等様々な撮影技術によって、カメラ・アイを人間化することの根底は、人物が主観的に見るものとカメラが客観的に見るものとの区分の消滅、登場人物の主観=一人称をカメラが秘かに模倣する、あの映画的フィクションの条件、自由間接話法における主観-客観の共犯性に、連なっているからだ。作品『骨』は、まだその巧緻な映画的フィクションの内にあった。背景がぼやけて、クロースアップされたヴァンダの表情に悲しみがくっきり刻み込まれ、彼女が「あのバカ……」と閉じた扉に向けて呟く時、彼女の一人称の痛覚を、われわれは自らのものとして止揚する。だが、少なくとも『ヴァンダの部屋』の中で“人物の見ているもの”がカメラ・アイの自己同一性と拮抗するほど重要性を帯びることは、もはやない。彼らの目線の動きや表情は、肉体を貫くミクロな伏線の一つに過ぎなくなっており、カメラがただそこに置かれただけのように、静かに散り散りの出来事を捉え切っているのと同様、彼らの眼差しは、全く集中を解かれている。一度喋り掛けて麻薬を口から離し、ライターを持った手先をひょいと振るヴァンダの目は、ジータを見据えている。ジータは少し俯いて、煙草の灰を落とし、その姿勢から静かに睨むようにヴァンダを見る。ヴァンダが麻薬を銜えて俯いてライターを点けると、ジータはヴァンダから目を逸らし、正面の中空をぼんやり見ながら、怖ろしく真剣な顔になる。「クスリさえあれば、お金は要らない」と、しみじみ言う。そしてまたゆっくりと黒目をヴァンダの方へ向けていく。ヴァンダは、吸い終えた麻薬とアルミ箔とライターをジータとの間に投げ捨て、片肘を膝につき、上目遣いにジータと目を合わせながら、もう一方の手でジータの煙草を奪い、頬を窪め、目を瞑って、それを強く吸う。ジータは目を落とし、置かれたばかりのアルミ箔と麻薬を手に取る。そして麻薬を口に銜えながら短く笑う……。『ヴァンダの部屋』においては、登場人物たちが何かを眼差すことは、麻薬を吸ったりライターを点けたりする仕種と変わりはしない。彼らに仮構の人称を付与する「話法」の強制は解体され、カメラのこちら側の自己同一性と凝視の強さは、拡散する。地面、部屋、壁、影、肉体、顔は奥行きのない冷たいカメラ・アイの平面にふつふつ泡立ち、スクリーンの上に時間と物質の微差が折り立ち始める。──それだからこそ、カメラは、たった一つのポジションに不動のままで居なければならなかったのだ。だからこそ、小型DVカメラは、“ヴァンダの部屋”という一つの場所に入り込み、その限定された視野の中で、何かが起こるのをじっと待ち続けねばならなかったのだ。『ヴァンダの部屋』を鑑賞した誰もが、口を揃えて、その固定ショットの美しさを誉め称える。だが、コスタ監督が「カメラ位置を見付けるのには長い時間がかかる、適した言葉を見付けるにも時間がかかるように。それは私の映画が人に頼っているからだ。空間の中の人間に。別に美しいフレームを作り上げるためではない。……」と真摯に語るのを聴く時、われわれは、監督にとってアングルや距離による美学的効果よりもむしろ、カメラのこちら側にいる人間とあちら側にいる人間とが、その居場所で見出す或る繊鋭なバランスこそが、真に重要であったことを、知る。『ヴァンダの部屋』で不動なのはカメラの物理的・幾何学的な位相や、フレームの内の線や角だけではない。不動なのは、人々だ。彼らは、震えながらも不動でありつづける。口を固く噤み、眉を顰め、低く溜息を吐き、上着の袖で鼻をかみ、髪を掻き上げ、掌で顳かみを拭い、口を微かに開いたり閉じたりし、眼を伏せて俯き込みながらも、彼らは不動でありつづける。時にプライヴェートな面を見せたりそれを取り繕ったりということもなく、ただ、不動でありつづける。その不動性は、カメラのこちら側にいる或る一人の精悍な男への、かつて届け物をもってこの街区を歩いて廻った男への、畏れることなく彼らの側に近づき、共に恐怖し、共に不安を抱き締め、共に何が起こるかを見極めるために彼らと映画を創ることを決意した男──ペドロ・コスタという名の男への、確たる信頼として、スクリーンの向こう側から観る者の方へ、切り返される。DVカメラの粗い視覚を震わせ、映画の“偽なるものの力能”をも突き抜けて、「きみ」との不動の信頼の輝度だけが、画面に、結晶する。すべては、そのために準備されたのであった。
「……みなさんに変なことばかり話してきました。恐怖、神、悪魔、善、悪。これらについてお話ししたのは、映画とは何か、どのようにすれば映画を作ることができるかということを話したくなかったからです。というのも、私が知っている唯一のことは、先程言ったように、映画を作る際に何が起きるかなど誰も知らないということだけなのです。……ここにいる全ての人が映画を作ることに少しばかりとはいえ恐怖を抱き、どのように映画を作ればいいのか分らない。おそらく、映画を作ることとは、この地球という惑星に住む人々と共に生きていくことを考えることなのでしょう。カメラや録音機といった機械は、死の恐怖に抵抗し、恐怖を少しばかり和らげてくれる良きものに違いない。そう考える方が、私には本当に分りやすいのです。」(123-124頁)
『ヴァンダの部屋』から六年の後、二〇〇六年に公開された長篇『コロッサル・ユース』のスタッフロールの前には、二つの文言が置かれている。『コロッサル・ユース』は、やはりフォンタイーニャス地区の変遷をそこに住む人々と共に撮った作品で、ヴァンダをはじめとして、ニューロ、パウロ等の若者たちが続けて出演し、目を伏せ、自棄気味に笑い、自身の肉体を圧し伏すもののやり切れなさを、彼らは言葉によって静かに表出するのだが、そこには、或る一人の女性の姿が欠けている。だが、小型DVカメラは、彼女がどこへ行ってしまったか知っているのだろう。映画の中では誰一人迷子になってなどいない。ロー・アングルの固定ショットで、白い壁紙の新しい部屋に住むヴァンダが、娘と戯れる──「踊ってごらん!」と先ず娘の尻に手をやり、次に自ら尻を揺すって踊ってみせ、それを見て昂奮した娘が拍手し始めると、突然「イェイー」と歓声をあげ、娘の顔を覗き込み、娘の喉に唇を当ててブーブー鳴らす──そんな様から溢れて来る、数々の動きの線の奔流が、スクリーンのこちら側へと切り返され、観る者の現実をより感情の深いところで微細に波立たせる時、その時、「彼女」もまた、われわれの世界の片隅に現われる。ヴァンダもペドロ・コスタもそのことを知っている。ドキュメンタリーであろうとフィクションであろうと、映画は、一切を妥協のない忍耐と十分に公正かつ精確な方法論に委ねて、死んでしまった物質に、再び生命を与えることができるのだから。無駄に消尽される時間を止めることができるのだから。映画を創るということは、われわれの誰もが願っている、慎ましくも誇り高い仕事の一つなのだから。あまりにも使い古され、嘘とポーズに塗れてしまった行為に新鮮な息吹きを吹き込むための、撃ち抜くこと shot と切り替えること cut の真率を、記憶し直すことと人々を思い出すことの厳粛さを、ペドロ・コスタは、スクリーン上の微震で、煌めかせる。「彼女(たち)」の魂の行方は、その映画の作り手の真率に釣り合うべき観る側の真率にも担われているだろう。──“para a Cila, para a Zita”


WEB上の参考資料:対談者、インタビュアー、翻訳者の方々の学恩に深謝します。
映画「ヴァンダの部屋」公式サイト
映画「コロッサル・ユース」公式サイト
FLOWER WILD ペドロ・コスタ×舩橋淳対談
BOID.NET ペドロ・コスタ インタビュー by 樋口泰人
OUTSIDE IN TOKYO ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』インタビュー
nobodymag ペドロ・コスタ インタビュー
imageF INTERVIEW ペドロ・コスタ









#009 川端康成『天授の子』

新潮社



*0

「自分を人に押しつけがましい、
 あわよくば後世にまで自分を押しつけようとする、文学者でありながら、
 私は自分が忘却の世界に消え去るという空想に、恍惚とする。」
(「故園」)



*1

川端康成をめぐる幾つかの逸話は、文字通り、本人のあずかりしらないところで流布する「逸」話としての興趣だけでなく、おそらく偶然がなければ世に知られることがなかっただろうという点においても、稀有である。

それらはほとんど同じ体裁を持っているから、最も有名な例一つだけを挙げておく。大正九年、帝大に進んだ川端康成は菊池寛より文芸雑誌『新思潮』を引き継ぐつもりはないかと持ちかけられる。『新思潮』は帝大文科の学生が作品を世に問う舞台として、谷崎潤一郎や芥川龍之介らを出して来た同人誌で、文壇への有利な足掛かりであったから、川端は友人とも相談した上で引き受けることにした。しかしその返事をする際、同人に今東光をも加えることを告げると、菊池寛は今東光の中学中退、素行不良を不審がって難色を示す。つまり『新思潮』を継承するなら今東光を同人から外せというのだった。そこで川端は言う。
「それじゃ私は『新思潮』をお受けできません。今と私とは、一高時代から文学を一緒にやってきて、一番信頼し合った仲です。彼をのけるくらいなら、やめます」
そうしてきっぱりと一時間も黙り込んだ川端相手に、ついに菊池寛も折れて、今東光を同人に入れることを認めさせられる。

内容だけ追えば、文壇に出る機会をみすみす逃してさえ友情を裏切らない川端康成──という美談として聞き流せるものである。今東光も凡そそのような美談として語り、書いて来た。

ところが今東光は、自分を同人に加えることを条件に引き継ぎの折衝が行なわれたことを、川端自身の口からはついに聞かされることがなかった。詳しいことを言わずに「君も一緒だよ」と当たり前のように川端から告げられたのを、その当時は少しも不思議に思わないで、ただ単純に喜んでいた。実際の詳しい経緯を知ったのは、後々に人から聞かされてのことであり、「あいつは、ついに死ぬまでわたしに一言も話さなかった」のである。「それが本当の友だちというもんだろうけど、わたしも良い友人を持ったもんですよね」「わたしが会った男の中で“男の中の男”と言えるのは、川端でしたね」

「親切な」ことがしたいときには、相手にそうと悟られないようにすべきである。
もし誰も今東光にあの経緯を話すことがなかったら、
川端の「親切」は完全犯罪に似て川端の死とともに消えたろう。

川端の逸話にまつわる「親切」は、
すべてこのように当人自身の完全な沈黙をともなっている。

それだから川端は死を恐れない。
死とともに断たれるものを惜しまない。



*2

川端 まあしかし、ほんとうに書きたいものは書かないでいるから丈夫なんです。
中村 もう死んでもいいと思ったら書くわけですか。
川端 でもないでしょう、死んでもいいとはいつでも思っていますが、どうでしょうね。
(昭和三十七年『文芸読本川端康成』)

ほんとうに書きたいものは書かないでいる。
死んでもいいとはいつでも思っている。
こんな奇妙な事を静かに言い放った作家は古今を通じても川端一人だ。

さて、死を恐れないことは幸福であるだろうか?
もっと言えば悲惨と苦しみの果てに誰からも見捨てられて死ぬ末路、
それさえも平然と受け入れることができるとしたら、幸か不幸か。

川端の答えはただ簡潔だ。
人間の心に宿るあらゆる死生観は、結局はただ甘さである。
いかなる死生観も死そのものを裸にすることはできず、死と生のまわりをやさしい霧で包んでいるにすぎない。
死を悲惨と思うのも、希望か救済と思うのも、人の力で動かせると思うのも、動かせないと思うのも、不死を妬むのも生を愛するのも、病み衰えることに恐れをなすのも、敗北を憂うのも、楽天への途を求めるのも、ただ浅い夢──虚空から歌声が聞こえるだけだ。

「ああでもない、こうでもないと思う。
 しかも、言葉によって思うのである。
 言葉によって思いながら、言葉と実在と、何のつながりがあろうかと思う。
 実在はわれわれの言葉の彼方にある。
 言葉でどこまで追っかけて行っても、なお彼方にある。」
(「故園」)

言葉と実在の絶対的な分離、その確信が川端の底にはある。
死への恐怖、また生への恐怖(老衰への、悲惨への恐怖)も所詮言葉が言葉の上に描いてみせた、縹渺とした虚妄にすぎない、ということ。
それだから川端は死を恐れない。

それだけではない。
私の知るかぎり、川端康成は老年の痴呆によって言葉が失われることを恐れなかった、唯一の作家である。

この点では、舌が利かなくなり、右手もしびれて、もう字というものを一切書かなくなった老作家と「私」(語り手)との対話が描かれる短篇「無言」が参照されるべきだが、ここではもう一つの不思議な短篇「夢がつくった小説」を引照しよう。
「私はそう多く夢を見る方ではない」と書き出されるこの短篇の話者は、ほとんど川端康成本人と考えられる。小説書きの「私」は何の因果か、小説を書く夢をしばしば見る。けれどもそれは寝ても醒めても小説に憑かれているという風な暗澹・苦痛としては感じられず、「肉体労働」のともなわない夢の書き物は、むしろ楽しい。そして「私」は、いずれ自分が老衰して小説を書けも読めもしなくなったとき、それでも小説を書く夢は見るだろうか、と考える。作家の老境は、うつつと夢の区切りも締まりもなく、小説を書く夢のあの楽しさがつづくだけの生なのかもしれない。「その時の夢がつくる小説はもはや書くという苦しみもないし、人に読まれるという憂えもない。花にたわむれる胡蝶のようなものである。その時こそ真の作家の境にはいれるのかもしれぬ。そう思うと作家の老年もかなしむにはあたらない。」

ここから、川端が「ほんとう書きたいものは書いていない」と言い放った真意が、理解される。

言葉の虚妄を完全に逃れた小説、
不死の願い、不幸の忌避、新生への希望、救われぬ絶望、愛の可能性、
──そうした浅い夢から自由に飛び去った果てで書かれる、
書く苦しみも読まれる憂いもない、区切りも締まりもない、
「夢がつくる小説」。
それが、川端の「ほんとうに書きたい」小説だった。

それだから川端は、自分が言葉を失うことさえ恐れない。



*3

いつだって、川端康成のこの言葉に立ち戻らざるを得ないと思う。

「動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てていることには、悲しい純潔があり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。」(「禽獣」)

とりあえず文脈を無視して、引用部分だけを敷衍してみよう。
一つの理想を定め、その鋳型へと生命を流し込むこと。
その理想以外の生命を侮蔑し、否認すること。
「動物」を「人間」に置き換えれてみれば、この一節の反ヒューマニズムの語調は明らかである。そしてそのような置き換えを許す想像力も川端は示している。「房子が生れた時にも、妻の姉に似て美人になってくれないかと、信吾はひそかに期待をかけた。妻には言えなかった。しかし、房子は母親よりも醜い娘になった。/信吾は妻に秘密の失望を持った。」(『山の音』)
生命をおもちゃにし畸形化してでも、例えば五体満足な子供や、白痴でない子供を、さらには不器量であるより美人の娘を乞い願うこと。
それは人間の悲劇であるが、川端の眼はその悲劇を越えて、「純潔」と「神のような爽やかさ」を見出し、冷笑を浴びせながら糾弾はしない。
なぜだろうか。

「禽獣」は主人公が「彼」という三人称で書かれる。川端の他の短篇の例にもれず、それをそのまま「私」と置き換えても何ら問題なく読める。さらに「禽獣」の場合はその「私」を川端康成という作家本人と置き換えても矛盾なく読めてしまう、身辺雑記に近い短篇だ。川端の小説の主人公にはほとんど例外なく川端の人格が反映しているが、中でも「禽獣」はその反映の度合いが濃いと言いうる。
では「禽獣」の主人公はどのような人物なのだろうか?
作中語られるのは、「四十近い独身者の彼」と、彼の飼う禽獣との触れ合いである。彼は幾羽もの鳥と柴犬とを飼っており、それらの生きて動くさまから瑞々しい感興も時折得るのだが、造化の良さを失ったものには直ぐ興味を持たなくなるという、有り体に言って、薄情な飼い方をしている。行く末鳴鳥として見込みのない屑鳥は見捨てる。雑種の犬の子は、強いて生かそうという努力をしないでおいたので、母犬の下敷きとなって死んでしまう。事故で足の指が縮かんで強ばってしまった菊戴は、はじめは両足を口の中に入れて温めてやったりと、しきりに世話してやったが、看病が一向ききめがないので、段々怠けがちになり、足指が縮んだまま、糞にまみれて死なせてしまう。
彼の薄情は、雑種の犬の子が死んだ折の次のような感慨に率直にあらわれる。「彼は子犬が死ねばいいと思ったわけではなかった。だが、生かさねばならないとも思わなかった。」

死ねばいいと思ったわけではない。
でも生かさねばならないとも思わない。
この正直さが「神の爽やかさ」だろうか。

この問いには後でもう一度立ち戻ることにしよう。



*4

初対面の人に川端康成を愛読してます、
と言ったら大抵つづけて訊かれる質問。
では、好きな作品はどれでしょうか。

とりあえず、『雪国』って言っておくのが無難ではある。
ヒロインに歴としたモデルがいるからリアリズム小説として瑕疵なく読めるし、これが川端の最高傑作だといっても、反論はし難い。
少し慧眼を気取るなら『みづうみ』だろうか? 三島由紀夫が拒否したというので裏返しに評価が高い。確かに、三島由紀夫とは交わり得ない川端文学の陰の面がわりと露骨に出ている。
でも本当に川端が好きな奴なら『山の音』を何度も読んでるだろうと思う。作家本人でも反復不可能だった全盛期の文体の密度は、この作品に極まる。その助走として破綻すれすれの格調をほこる『千羽鶴』も。
誰も挙げなそうな作品だったら、「父母」など。これは相当の川端好きでも読んでないだろうけれど。一人の男が二人の別の人物に宛てて出した手紙を並べた書簡体小説なのだが、その設定自体も手紙の文面の微妙な照応性から読み取らなければならないという、滅茶苦茶技巧的な短篇だ。しかも相手からの返事の手紙は省略されているので、それも想像しながら読み解いていかなければならない。といって推理小説風な論理的に腑に落ちる仕掛けで締めくくるのでなく、あくまで文学として虚と実の皮膜を感得させる結末は、小林秀雄も時評で激賞したほど。ただ代表作として挙げるには短過ぎる。
それなら、『掌の小説』はどうかって?
悪くはない。悪くはないのだが……

百二十二篇の掌編の中で唯一つ、
感覚によってではなく認識によって書かれた作品がある。
それが、「神います」。
この掌編を好きだと言うことは当人の認識が試される。

話の展開は単純なもの。
主人公の「彼」が旅先の宿で温泉に入ると、
同じくその宿に湯を浴びに来た鳥屋の夫婦と一緒になる。
妻は手足が不自由なようだけれど、鳥屋は器用に片手で肩を抱きながら、石鹸を流して彼女の体を洗ってやっている。
「彼」はなんとなく見ては悪いような気がして眼を逸らしている。
しかし鳥屋と言葉を交わしながら、ついちらりとその妻の顔を見る。
そして愕然とする。
なぜならその妻は、五六年前の旅先で彼が傷つけた少女だったからだ。
その罪のために、五六年の間彼の良心が痛みつづけていた当の少女と、しかもさらに痛ましい姿になった彼女と湯の中でめぐりあわせるとは、何という残酷な偶然だろう。
彼女は彼に気づかないようだ。
彼は湯気の中に身を隠しながら、祈るように許しを求める。
彼女の手足が不自由になったのも、彼のせいではないだろうか。
そんな彼におかまいなく、鳥屋は彼女を抱き上げて湯へ浸からせ、ふたたび抱き上げて湯を出て、彼女の体を拭いてやり、櫛でおくれ毛を掻き上げてやり、着物ですっぽりとくるんで、帯を結ぶと、柔らかく彼女を負ぶって河原伝いに帰って行った。
その鳥屋の後ろ姿を見送りながら、彼は呟く。
「神います。」

「自分が彼女を不幸にしたと信じていたのは誤りであることが分った。身の程を知らない考えであることが分った。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分った。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分った。傷つけたが故に高い立場にいる者が傷つけられたが故に低い立場にいる者に許しを求めると言う心なぞは驕りだと分った。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分った。」

作品の個別的な状況を離れて、川端は自分の認識を語っている。
人間が人間を傷つけ得ると信じることは、過信である。
人間が人間を不幸にできると信じることは、過信である。

「生かさねばならない」と思うことは、
「死ねばいい」と思うことと同様に、驕りである。



*5

もっとも想像つかない川端康成とはどんな川端だろうか、
と想像してみる。
一応全集を幾度か通読した身として、ほとんどの川端の言動には触れて来たと思う。記憶の力の繊弱な私であるので、その概ねをけろりと忘れてしまっていると言えば言えるが、何年もの間、川端康成の文章に触れない日はないという毎日だったから、私の願望や憧憬とは無関係に、頭のなかで川端康成はもう一つの性格をなしていつでも動いている。
その私の頭のなかの川端康成が絶対にやりそうもないこと、持ちそうにない欲望とはどんなものだろうか、という思考実験。

もちろん色んな想像をめぐらすことができる。
他人の同情を惹こうとする川端、
怪我を酷く怖がる川端、
嫉妬する川端、
饒舌な川端、
兇漢に襲われて動揺する川端、などなど。

しかし私にとってもっともありうべからざる川端は、
自慰をする川端である。

これは童貞であるかどうか、妻帯者であるかどうかとは切り離して考えるべきことだ。
D.H.ロレンスが現代の病弊として指摘したとおり、自慰行為という常習は結婚をしようが恋愛をしようが、その他どんなことが起ってもつきまとい、老年に至るまで継続するものである。なぜなら自慰に通ずる好色性とは、隠れた秘密を持つことの快楽だからだ。秘密を持つこと自体は、時に慎みにも通じるような一つの節度であり得るが、その秘密が他人には見えざる覗き穴となり、なんともいえない鋭いスリルを惹起する時、われわれは想像力の内部に、自らに都合のよいスクリーンをそなえた居心地よい隠れ家を見い出す。
想像力が不可避的に引きずる負の滞貨、それが自慰の秘密性である。

一体に「想像力が欠けている」という倫理の声は、
大抵の場合、文字通りの意味ではなく、
想像力があるのに何故それを正しく使わないか、という非難である。
想像力の内壁に自らを安んじさせる密かな穴とは別の穴を穿ち、
そこから流れ込んで来る身を切るような冷たい空気に肌を曝し、
穢らわしき想像力の秘密を追い払うこと。
想像せよ!さらに想像せよ!今までとは別の仕方で!
と内なる倫理の声は言う。

ところが、川端康成は、想像力を欠いている。文字通り。
川端本人はただこれを「麻痺」と呼ぶのだが。

(以下はちょっと長い引用になる。川端康成を論じる上で、かつてほとんど言及されたことのない一節である。)

 出水はしばらく黙っていたが、なにを思い出したのか、
「時に、君の今のライバルは誰なの?」と、薮から棒にたずねた。
「ライバルって……?」
 御木はとまどった。
「君の生涯のライバルさ、仕事の上の。」
「ああ……?」
 御木は虚を突かれた思いだった。
「つまり、君の作家仲間の好敵手とか競争相手とかだよ。」
「ないね。僕らの仕事は勝負もないし等級もないからね。」
「そんなことは僕も英文科の教師だからわかっているが、君たちの世界だって生存競争はずいぶん激しそうじゃないか。」
「少しも激しくないさ。生存競争なんてありゃしないよ。僕はそんな競争をしたことがない。高等学校の入学試験以来、僕は誰ともなんの競争もしたことがないようだ。入学試験は、これは競争試験だからしかたがないが、相手が誰とはっきりしてないから罪が軽いだろう。その時から後、人と競争したおぼえはないね。」
「君がそう思っているのなら、しあわせだが……。」
「幸か不幸か知らんが、そうだな、君に言われてみると、ありがたいことかもしれないね。」
「ありがたいことだよ。生存競争を自覚しないというのは、まあ成功者の太平楽なんだろうが……。君は才能もあるし、個性もあるから……。」
「ある方じゃないね。勤勉なだけなんだろうと思うんだ。天才とは勤勉だというようなのではなく、凡才の勤勉なんだな。しかし人の才能を嫉妬したり羨望したりすることはないね。そういう必要がない。他人の仕事に素直に感心することが、僕たちの勤勉のもとなんだね。英文科の主任教授が一人で、助教授が二人というようなのとは違う。」
「太平楽だね。」と、出水は口をゆがめて苦笑した。「自由職業にもやはり職業病があって、君のようにどこか麻痺するんだろうね。」
「麻痺って……? 好敵手か競争相手があるかと聞くから、心あたりはないと言っただけじゃないか。君はそれを信じないの?」
「信じないと言うのでもないが……。君は競争も嫉妬も羨望もないとすると、人にたいして敵意も憎悪も感じないかね。」
「感じないな。」と、御木はまた立ちどころに明るく答えた。「特定の人にたいして感じることは、まあないね。」
「ふむ。それはさびしいだろう。人を憤ったり憎んだりすることは、人生のいいことだがね。」
「人を憤ったり憎んだりすることは、確かにいいことだろう。敵があるというのはね……。しかし、それがないからと言って、別にさびしいとは思わないな。ないからこそ楽天的でいられるらしいんだ。厭世的でないのはむしろ僕の欠陥じゃないかと考えているんだが……。」
「欠陥かもしれないよ。厭世的か楽天的かの別れは、そんなことにはないだろう。君のはやはり一種の麻痺だな。被害妄想の反対の妄想じゃないのか。」
「さあ、妄想とすれば、妄想がないのが妄想かね。」
(『ある人の生のなかに』)

『ある人の生のなかに』の主人公は、例によって現実の川端の面影をとどめた御木という男だ。職業も作家であると明言されており、彼の一日の時間の過ごし方など、川端のそれをそのまま描写の基礎にしていると思われる箇所もある。
自分自身の資質に積極的な個性を見ているわけではないが、四十八の歳になるまでともかく小説を書き続けて命をつないできたということに、消極的な自負を持っている点も、川端康成その人をしのばせて余りある。
その彼が言う、「人と競争をしたおぼえはない」。
なぜなら彼には「妄想がない」から。
もちろん話し相手の揶揄する「被害妄想の反対の妄想」とは、
彼の想像力の欠如を端的に意味している。

彼には自慰的な妄想の猥褻が欠けていると同時に、
倫理の誇り高さも欠けている。
彼が自慰を知らないのは、禁欲ではなく、そもそもそれを意志できないから。

川端康成は想像しない。
想像の中で密やかなイメージをなでさするということをしない。
おなじく他者の幸福を、快楽を、川端は想像できない。
おなじく他者の不幸を、苦痛を、川端は想像できない。



*6

「私を温かい薄情と見、冷たい親切と思う人も少くないだろう。私は何人にも憎悪や敵意を持つことの出来ぬ哀れな人間だ。昨日の敵と今日同舟すると人には見えても、私はもともと敵なんかないのである。恋を打ちあけて拒まれても、翌日はその女とけろり遊んでいる。」
(「文学的自叙伝」)

川端康成は誰にも悪意を持つことができない。
というのは、自分自身にも悪意を抱いた覚えはないということだ。
他人を憎めぬ人間が、まして自分をまともに憎めるはずがない。
さらに発言を裏返してみよう、
川端康成は誰にも好意を持つことの出来ぬ人間だ。
自分自身に好意を抱いた覚えはない。
そう、自分の作品に対してさえも。

川端康成のことを少しずつ調べていくと、
川端が執筆の際自分に特殊なルールを課していたことが分って来る。
たとえば、川端は単行本にまとめるとかいった必要に迫られるまで、
自作を読み返すことを絶対にしなかった。
また、人に読ませる予定のない文章は書かなかった。
私的な日記を書く事を否定している。
或いは、描写は必ず具体的に近場にあるものに限った。
或る土地を舞台とするならば実際その土地へ行って書き、
作中の季節も執筆時期のそれと一致させる、という具合である。
或いは、良い作品を書こうという想いを棄ててからでないと
第一行を書き起こさなかった。川端の起筆は自己放棄を主音とする。
そして、川端は作中で決して自己を究明も告白もしなかった。

これらのルールはすべて、自分の文章に愛着を持たないために意志的に設定されたルールである。

ここで再び「禽獣」のエピソードを引合いに出してみる。

「独身者の彼」は鳥屋から番いで買った菊戴の夫婦を籠に遊ばせる。毎晩、二羽の鳥は寄り添って、それぞれの首を相手の体の羽毛のなかに突っ込み合い、微笑ましい寝姿だ。ところが或る朝、餌をやろうと籠を開いた時に、雄の方が逃げ出して、遠くへ飛び去ってしまう。菊戴夫婦のきれいな寝姿を気に入っていた彼は取り乱し、鳥屋に催促してふたたび雄を手に入れようとするが、鳥屋が持って来たのは番いであった。「番いでしか売れません。雌の方はただで差し上げます」。三羽になった菊戴は案の定、籠のなかで大騒ぎし、夫婦は端から端へと飛び回り、古い雌は恐怖の余り縮こまる。それでも日が経つにつれ、古い雌も新しい夫婦も段々に慣れ、三羽で一緒の眠り姿も安らかに見られるようになった、と思うと、明くる朝、一羽の雌が、足を伸ばし、細目をあけて死んでいた。
どちらの雌が死んだのだろうか? ほとんど見分けはつかないはずなのだが、彼の眼には生き残ったのは古い雌に見えてくる。しばらく飼いなじんだ雌の方にはどうしても愛着があるからだ。
彼はそんな自分の慾目を憎む。

そのような慾目にしばられるよりは、
「動物の生命や生態をおもちゃにして、一つに理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育て」ることが、「神のような爽やかさ」として語られるのである。

ここで、
生き残った雌が優れた方か否かを問わず
飼い馴染んだ鳥が生き残って欲しかった──と願う慾目と、
自作への愛着と、自分が他人を不幸/幸福にしたという過信は、
同質のものである。

何人もまともに憎んだことのない人間が、
もっとも慾目から、愛着から、過信から、遠い。



*7

人が人を傷つけたりなどできないという認識に伴う「神」。
生かさねばならぬという我執が消えた時に訪れる「神の爽やかさ」。
同じ神が、今度は「神の目」として、別の出来事にも現れる。

山辺三郎という男が、以前から知り合いの娘の部屋へ、
ほんのいたずら気分で嚇かすつもりで忍び込んだ。
手には短刀を持っていた。でも娘とはもう気を許した仲でもある。
寝ている女にちょっと短刀を突きつけて、ただ戯れにびっくりさせるつもりなだけのはずだった。
仰向けに寝ている女の胸のあたりに跨がる三郎。
気分は、暗がりに潜んでわっと相手を嚇かす子供心に似たものだ。
ところが「起きろ。」と言っても目を醒さない女を、片手で揺り起こしたはずみ、突然起き上がった彼女の胸に、下向けていた短刀の先が心臓をあやまたず深く突き立った。

「……それが、滝子の起き上がるのといっしょになって、右手に持っていた短刀が乳の下に突き立ったんです。これは、と私も気がついて短刀を抜きますと、滝子も起きてきちんと坐って(三郎さん、おどかしちゃいやよ。)と言って、寝間着を掻き合わせるような風に、胸をおさえておりましたが、見ると、滝子さんは起き上がる時に短刀を握ったんですか、親指から血が出ておりました。(三郎さん、手を切ったわ。)と、手の傷が痛いと言っておりました。その時私は滝子の寝間着の胸をまくって、傷を見ますと、一寸二三分も口が開いていましたから、こりゃあえらいことになった、心臓を突き刺したから、とても助からんだろう、いっそのこと殺してしまって逃げようという気が起ったんです。」
(『散りぬるを』)

夢現のあいだに何の抵抗もなく行なわれる、
しかも理由なき殺人。

言うまでもないことだが、川端康成は文学的に色づけされた、もったいらしい殺人の描写に対置するつもりでこの喜劇的な殺人事件を構想したのではない。もとより川端の視角からすれば、殺人はこのようにしか描き得ないということだ。ちょっとしたはずみに浮かせた胸に、たまたま下を向いていた白刃の先が刺さること。「殺すな」という異議も聞かれず、また殺人によって何の簒奪も、死によって何の犠牲も行なわれず、松の枯れ枝が朽ちて落ちるのと同じ響きで、男に胸を刺された女が(おどかしちゃいやよ。)と呟くこと。ほんの戯れだと信じて、息が止まるまで殺されると思わず、逆らいひとつせず、絶望も希望もなく屠られる生。その場には「自己」も「他者」も居ないと言おうが、宙吊りされたような虚無と言おうが、清潔な無意味と言おうが、「根も葉もない花だけの花、物のない光だけの光」と言おうが、「言葉でどこまで追っかけて行こうと」死と生は言葉の彼方にある。

しかし神の目は、言葉の彼方から「滝子」の屍を映し直す。

この短篇の語り手は山辺三郎ではなくて、作家の「私」である。
「私」は滝子の知人であり、上京してきた彼女の面倒も幾らか見ていたので(滝子は作家志望者だった)、親代わりに彼女の葬儀も取仕切り、山辺三郎の聴取書にも目を曝し、そして、兇行の現場臨検の写真も見せてもらうことになる。
その写真があまりに奇怪なのに、「私」は目をみはる。
もちろん兇行の血はきれいに拭き取ってあった。そのために白い平面のようにぼやけてみえる肌色の体の、ところどころ、腋の下の皺や、眉や鼻の穴はくっきりとなまなましく、首を思い切りのけぞって、耳のうしろから襟首まで見える生え際は鮮やかに写っている。肉づきのいい肩は首に直角に近い豊かな線でつらなり、仰向けだから、胸は広がって、乳嘴も乳暈も大きく熟して見える。傷口は乳暈の下にえぐれて黒い。
小説の叙述を追っていくと、確かに異様な湿深さの立ちのぼってきそうな写真ではある。しかし奇怪なのは、むしろ写真を見ての「私」の次のような感慨である。

「私が顔をしかめて横向いたのは傷跡のせいだったけれども、それはただの偽善に過ぎなくて、本当は彼女のあらわな生命への驚嘆をごまかしたのであろうと、今は思う。恐怖や苦痛の蔭もなく放恣に体をあけひろげて歓喜の極みのように見えた。(略)血の一滴も残っていないような死骸自体があの写真のように甘い若さにあふれているはずはなかった。いったい死骸のどこから写真機はこんなむれるような生命をとらえたのか、不思議でたまらなかった。感情のない機械の方が神の目で見るのであろうか。」

「感情のない機械」であり「神」の目であるという、
二重に人間性を否定された目が映し直した彼女の死骸が伝える、
「生命」。

荒唐無稽な話ではない、ここで言及される「生命」とは
「おもちゃにして人工的に、畸形的に」変形された生命のことだから。

語り手の「私」が、つづけて
「私は生きている滝子から、こんなに女のほんとうの姿を見たことは、ついぞ一度もなかった」と語る時、
川端の言う「生命」は、
殺人によっても犠牲によっても
もはや与えられも奪われもしないのだということを、
読者は覚る。

それは「美」の別名でもあった。



*8

川端は自分の薄情を誇示することがないように、
自分の美意識もまた誇ることがない。
自己の感性の省みてまさぐる陶酔は川端にはない。

以下に引用するのは、おそらく川端康成のもっとも知られていない側面の一つである。大正時代の川端康成の文芸時評だ。
(残念ながら講談社文芸文庫の『文芸時評』は、耳目を集めやすい話柄(対象)を扱っている時の時評ばかりを集成しているために、二十代前半の、川端康成の本当の苛辣な相貌を捉え得ていない。)
川端の人格を善良と解することは、
これらの言葉においては不可能である。

「●●は、楽な形式を選んで、逃げを打ったとしか見えない程、作者の態度も筆致もはなはだ安穏で、いい加減なもので、熱誠を欠いた、投げたものらしい。そして幾ら不熱心だとしても、所々に洩らした作者の観照が、こんなに常識以下では致方がない。」「●●を読んだが、読んでいる方で恥かしくなって、眼を外らしたくなる。もうこうなると何と云っていいか分らない程の下らない作品だ。たとえいかなる心身の状態の下に書かれたにしても、かかる心とかかる表現を示したことは、諸氏の創作家としての死滅を意味していい程の低劣さだ。」「●●は、年齢二十に満たない、美文好きの詠嘆好きの子供の書いたものとしか思えない。強いて取るならば、言葉の綺麗さと稚さだけだ。感覚描写も、女の姿態描写も平凡以下だ。作者が痛々しく感ぜられるほどの稚拙なものである。」「此作は○○氏の一つの弱点を露骨に現している。それは氏の感覚が鈍い事だ。一例を引くなら自然描写なぞは小学生が叙景文を書く時頭に浮べるような景象しか捉えられていない。文章の句法は自由で言葉の無駄は少ないかもしれないが個文の無駄が多い。それから久保田万太郎氏なぞの用いる棒線が沢山挿入されているのは滑稽なだけで殆ど効果を挙げていない。」「○○氏の●●で新しいのは、作者の名のみである。かかる手法は、十年以前でも既に古い。かかる材題に文芸的な価値を持たせることも今日では作者の仕事としては、困難である。この困難であると云う点を、作者は忘れている。古ぼけた材題と古ぼけた作者である。」「この退屈でなまぬるい説話体風な表現には、苦情を持出さずにすませない。朝起きて、手水を使って飯を食い、学校に行き、一時間目が算術、二時間目が読方──いわばこんな風な「詳悉癖」で、平凡な、長たらしい、色彩や音律の変化に乏しいセンテンスが行列しているのだから、こちらが神経的な時なら、頁を横なぐりに読んでしまいたくなる。」

これを暴力と呼ぶのは容易である。
他者への慮りが無いどころではない。
作品の弱点を一糸たりとも見逃さない、拒絶的で、
文壇そのものを壊滅させようとするかのように仮借ない筆鋒。

当時、時評家、月評家と呼ばれた存在は数多くいながら、
川端のこの峻厳を共有したものは誰一人いなかった。
「なかなかの力作である。しかし……」などといった微温的な留保をつけながら、自己の好みに媚びつつ、曖昧に切先を出したり引っ込めたりする評者ばかりのなかで、川端だけが神のごとく無私に、真下りに対象を裁断しつづけた。
あたかもそれが彼の宿命であるかのように。

ところで、
「私は何人にも憎悪と敵意を持つことができない」
という言葉と同様に、直截に川端の人格を示すと思われる言葉がある。
「私は一体に後悔ということをしない」
がそれだ。

「あの時ああしないでこうすればよかったのにとの思いで、
 過ぎし日を振り返ることはしない。
 そういう思いは成り立たないと信じている。
 なぜなら、ああしたのであって、こうはしなかったのである。
 もしこうしたらどうなったか。
 こうはしなかったのだから、それは誰にも分らないのである。」

外の時評家たちが共有できなかったのは、川端のこの宿命なのだ。
仮に自分の無私の独断によって自分が滅びたとしても、他の誰かが滅びたとしても、文学そのものが滅びたとしても、川端は後悔することをしなかったろう。
もとより川端には悔悟もなければ、不幸も悲惨もなく、
罰も救いもあり得ないのだから。

その水準で批評を引き受けられない者だけが、
自分の趣味を誇り、
自分の厳切に酔い、
自分を傷つけながら相手を傷つける。
すなわち、暴力である。



*9

「この世に滅びぬものはないのです。
 それよりも、この世にあらわれたからにはなにものも滅びはしないのです。
 滅びても滅びないのです。」
(「日本文学の美」)

この川端康成の不分明な言葉も、読者を試みる分水嶺である。

上の言葉を慰めの歌として誤読しないように、
あらかじめ補助線を引いておく必要があろう。
「滅びても滅びない」とは、人々が過去を振り返る眼差しのなかで、現在までに失われてきたものの多くが蘇る──というような祈念の言葉ではあり得ない。

古美術に川端が関心を持っていたことはよく知られているが、或る時、若い売り手が、茶碗は井戸と長次郎があればほかのものはいらないだろうと言うのに、川端は賛同している。最高のもの以外は川端には生きた美と感じられない。時を越えて長生きできない二流、三流の品は欲しいとも思わない。そして「文学も井戸と長次郎とがあれば、ほかはいらぬようなものであろう」と当然のように結論する。『源氏物語』をはじめとした、時代を越えて新鮮な生命を保つものだけが、日本文学の美として残ってゆけばよく、二流、三流の作品は書かれた短い時を終えれば忘れられてゆくのもやむなしと川端は考える。
また、ノーベル文学賞を受賞したとき、アメリカの作家が川端には受賞の資格がないと言っているがどう思うか、と記者会見で問われて、その結論は三十年後、五十年後に出るだろうと川端は答えている。作品が自分の死後も変らないで読まれ続けるかどうかという時の審判を、川端は素朴に信じる。

作品の真価は後の歴史の目によってはかられる。
これが川端の率直な信仰だ。
あり得た過去の可能性を夢みることを禁欲し、「ああだったのであって、こうではなかった」と淡白に言う川端は、それを「芸術の宿命」とさえ呼ぶだろう。

そして、さらに川端は徹底する。
この川端の突き放すような冷眼は、永遠の芸術といった観念にまで及ぶからだ。
そう、『源氏物語』ですら永遠不朽ではない。
後の、本当に想像を絶する彼方の「後の歴史の目」からすれば、小説も、日本文学も、今古典とされているいかなる芸術も価値を失って見捨てられることはあり得る。いや、その時は必然的に来るだろう。『源氏物語』が永遠に読み継がれるだろうなどという期待は、単なる想像の不徹底のもとに生まれる夢想に過ぎない。「永遠不朽の芸術も仮の姿と考えられます。」

「この世に滅びぬものはないのです。」
「そのような思いはわたくしのうちにあります。空、虚、そして否定の肯定です。」

それならば、
「この世にあらわれたからにはなにものも滅びはしないのです。
 滅びても滅びないのです。」
のは何故か。

川端が言っていることは、実は当たり前のことである。
あまりに当たり前を突き詰めたために、注意深くない目にはもはや当たり前と見えないほどだが、徹底して文字通りに解する外ない言葉だ。

流転する世界の中で万物は生まれ、消えてゆく。
人の細胞が新陳代謝によって少しずつ生まれ変わってゆくように、世界の流転の中で生まれる新しい物は、その新生の力で、過去の事物を朽ちさせてゆく。新しきものが古きものを滅びへと向かわせるのは避けられない運命である。現在は、世界が喪失と生成を繰り返して進み続けてきた結果であり、その今もまた、変わりゆく世界の連続の中での一刹那の姿でしかない。不滅なのは世界の流れそのものだけである。……
川端の言葉は、そのような考えの否定として響く。

川端康成の世界には「時間」が無い。
「やぶれおとろえた私の心ではかねてから過去と現在と未来との差別がはっきりしないのであります」。
それは究極的には、原因と結果のあいだの歩みが無いということだ。
別の言い方では、そこでは原因と結果が同時に存在する。
過去と現在と未来が同時に存在する。
簡単な比喩として一冊の書物を想像するとよいだろう。
手にした一冊の書物。もちろん読者ははじめのページから読み進む。はじめからでなくても、どのページかを選んで前から後ろへと読み進む。目的のところまで読み終えたらば本を閉じる。しかしそれでいて、読み終えたページは消えるわけではない。本も消えない。書かれた/読まれたすべての細部が読者の記憶に刻まれるわけではなく、印象の強弱によって失われるものも永く残るものもあるだろうが、書物そのものは、ページそのものは、読者の記憶にかかわりなしに、読者がどこをどう読んでいるかにかかわりなしに、いつでも存在している。読者の記憶を離れてのページの存在に後か先かの区別はない。過去から未来への歩み、未来から過去への振り返りは、書物と無関係に読者の心の虚空に描かれた路に等しい。
では、世界が一つの書物だったら?
過去から未来まで、すべての生成変化が書き込まれた、一つの地層のような書物だったとしたら?

このように把握するとき、
世界は文字通り
「なにものも滅びはしない」、
「滅びても滅びない」相貌を示す。

「永遠不朽の芸術も仮の姿と考えられます。
 この世に滅びぬものはないのです。
 それよりも、この世にあらわれたからにはなにものも滅びはしないのです。
 滅びても滅びないのです。
 そのような思いはわたくしのうちにあります。空、虚、そして否定の肯定です。」

川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」は、日本文学の古典の多くの引用からなる。その最後の引用は鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵の言葉だ。
「紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。
 白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。
 しかれども、虚空は本明らかなるものにあらず。
 また、色どれるにもあらず。」
虹のたなびいている空は色づいたように見える。
白日の輝く空はそれ自体が明るむように見える。
しかし空はもとより明るいものではない。
また色のあるものでもない。

空の色、空の明るさ。
すなわち人々の記憶が虚空に描く「時間」の幻と流転の物語。
しかし空はもとより明るくはない。
世界はもとより流転しない。

川端は、しばしば人間を離れた「自然」について、語る。
しかしそれが、
唯物論的な万物の生成変化すら否定された自然であることを、
時間の彼岸に位置する自然であることを、
解する者はどれだけいるだろうか。

滅びても滅びない、
虚の肯定。



*10

近世最高の哲学者の一人、イマニュエル・カントは、
「時間」が事物に付随している客観的規定ではなく、
われわれの内感の形式であることを喝破した。
時間は、それだけで存立する或るものではない。
われわれの主観を除きさってなおも残る或るものではない。
時間とは、われわれが内感に線を描き出す、その筆先の傷痕である。

さらにカントは、時間が可能になる条件として、
すでに現前・現在から失われたものを保持する能力、
対象をそれの現存なしに直観において表象する能力、
Einbildungskraft がわれわれに必要だと考えた。
すなわち、想像力。

カントの死後、約一世紀を隔てて生まれた英資の哲学者、
かのマルティン・ハイデガーは、
この Einbildungskraft に注釈して、
時間を「自己の純粋な触発」として定義した。
曰く、
想像力は能動的に発揮されるものではなく、
外からの原因によって励起される受動的なものでもなく、
或いは己みずからを傷つける能動的な受動性でもなく、
受動性と能動性の純粋な一致、
受動性が能動性となって受動性を触発する点においてのみ、
世界を現象させ、時間の流れを生み出すことができるのだ。

受動性による受動性の触発。受動性の二乗。
それが、われわれの想像力がもつ本質的な構造である。

想像力が可能にする、
われわれの内的感覚の形式としての時間の、
受動性の自乗、自己の純粋に純粋な触発。

そして、

二十世紀の終わりまであと数年をかぞえるのみとなった、一九九八年、
イタリアはローマ生まれの一人の批評家が、
それをさらに「マゾヒズム」として敷衍する。

古代ギリシアの同性愛においては、
愛する者(能動的主体)は愛される者(受動的主体)から峻別され、
愛される者は快楽を感じることを禁じられていた。
能動性はまさにすべての能動性を果てまで追求し、
受容する者は柔らかい蝋のようにただ受動的でありつづける。
したがってそこでは誰も辱められることがなかったのだ。

ところが、

愛されることに快楽を感じることが許されたとき、
つまり、能動性を被ることに快楽を感じ、自分の受動性に夢中になることが許されたとき、
古代の愛の禁忌は崩れ、自己を恥ずかしく思いながら自己の恥に夢中になる、マゾヒストの主体が実現した。
そのマズヒストの恥ずかしさは、
カント以降、時間と同一視されたわれわれの内的な自己触発に、
そっくりそのまま相当する。
世界に時間を生じせしめるはずの想像力は、
不可避的に恥へと結びつく。
なぜなら想像力はその本性として、受動者の快楽を生むからだ。


しかし、
川端康成は端的に想像 einbilden しない。

それだから川端は、
あくまで能動者の能動性、
受動者の受動性しか描かない。

たとえば、『眠れる美女』の江口老人と眠れる美女の関係のように。
あるいは、『みづうみ』の銀平と宮子の関係のように。

川端が描き出す恋愛は、
西欧のサド-マゾヒズムの関係からもっとも遠い。



*11

少しばかり哲学に脱線してみた前節で触れた「イタリアの批評家」とは、言うまでもなくジョルジョ・アガンベンのことである。彼は著書『アウシュヴィッツの残りのもの』において、アウシュヴィッツを生き延びた者の証言に慎重で細心な注釈を付し、「アウシュヴィッツ以後に倫理の名を思いあがって自称しているほとんどすべての理論を一掃する」ことを目論んだ。

ところで川端は倫理の名において何かを語ったことがあるだろうか。
日本の戦時を生き延びた作家として、彼も一応ヒロシマについては言葉を残している。それを引照してみよう。

と、その前に、言葉の真意を読み取る補助仮説として、
川端の別の言葉を次のように言い換えてみる。
別の言葉とは、すでに一度引用したことがあるものだ。

「アウシュヴィッツの記憶も仮の姿と考えられます。
 ヒロシマの記憶も仮の姿と考えられます。
 この世に滅びぬものはないのです。
 それよりも、この世にあらわれたからにはなにものも滅びはしないのです。」

引照する作品は「天授の子」である。
よく知られているように、子供のなかった川端夫婦は親戚の娘を養女として引き取っている。「天授の子」はその娘と実母の話をもとにした小説だが、娘を引き取った家の主である川端の身辺の話が叙述をふくらまして、「禽獣」と同じく、半ば川端自身のエッセーのようにも読める作品だ。例えば作中、話者が自らを省みて、「私はなにごともつきつめて考えないし、敵が持てず人が憎めないから、厭世と言っても浅く、嫌人と言ってもあまい」と言う言葉は、「禽獣」の話者に限らず、川端の影の濃い作中人物たちの胸にいつでも谺している響きだろう。
小説は尾道の駅に降りた川端(「私」)が、娘の実母が危篤であるとの電報を渡される場面を端緒とする。川端はちょうど広島の原子爆弾の惨禍の跡を見て来たところだった。日本ペン・クラブの会長として、折があれば海外の文学者に広島のことを伝えて欲しいというので広島市長に招かれた、その旅行先だった。川端はその電報から、自分が養女を迎え入れた経緯や、それ以降の暮らし、或いは実母の生涯を振り返り、想起してみる。例によって時間軸を自由に飛び去った、話者の連想のままに展開していく、「禽獣」その他の短篇でもなじみの叙法だ。「民子をもらうのに私は無造作なものであった。なにもむずかしくは考えなかった。一宿一飯の縁でもよかったのだ。無常の世は所詮一宿一飯の縁だ」といった感慨なども、やはり川端のすべての作品に反響している無造作を憶わせる。

その「私」が、見て来たばかりの広島市の印象を想起し、
やがて、平和についての独自の考えをめぐらしはじめる。

川端はまず明言する、
「原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希う心をかためた」。

ところがこの希いは、つづく言葉によって現実味を失わざるを得ない。 「私は太平洋戦争の日本に最も消極的に協力し、また最も消極的に抵抗したという風で、今後の戦争と平和についてもまたおそらくはそんな風なことになるのかもしれないが、……」

しかも、川端の希望する平和とは、極めて抽象的なものである。
「国境もなく、人種の偏見もなく、すべての民族が世界のどこでにでも自由平等」に住むことができる状態としての、平和。
この抽象性は、川端が広島の講演会で朗読した、世界の文学者の平和宣言にも相通ずる。「ペン・クラブ第二十一回大会の作家たちは、すべての人種、政治、社会上の相違を超えて、文化と芸術との名において、新しい戦争の脅威に対する反対を表明し、すべての意見の相違と諸民族間の争いとは、平和な国際的討議によって解決することが出来るし、また解決しなければならないことを再び宣言する。」

「しかし、理想であり希望であって、現実は複雑だ。」

自分の平和の理想を現実に照らして、当然ながらそう懐疑する川端。 そして彼は、さらに思考をおしすすめる。

「『今は平和運動そのものが戦争なんですからね。』と私はよく言うが、世界の二つの勢力の戦争が避けられないものとすると、世界の平和運動は敵方の戦力を弱める運動になるわけだった。……私たちの内心にも戦争がないとは言えない。」
「また武装のない日本の中立は、いざとなれば無抵抗しかないであろう。今の日本の平和運動からして、温室のなかの、あるいは檻のなかの運動なのかもしれない。私が平和を言ったところで、身に圧迫も危険も感じない。」

あくまで論理的に思考を進める川端。
所詮自分が平和を念じたところで、無害無益であり、戦争を避ける力にはならないという明晰な認識。

ならば、なお平和の望むには、どうするべきだろうか?
「身に圧迫も危険も」まざまざと感じる、真の平和運動を決起するべきだろうか?
或いは、平和のための運動そのものが他者の抑圧になってしまうような悪循環を内破する、別の闘いをはじめるべきだろうか?

川端の結論は、通常の倫理のロジックを越えたものである。
「しかし平和への理想と希望を、現実に照らして懐疑を持ち矛盾を知り逡巡を感じるところがあるのは、平和の望むねがいがまだ痛切でなかったからだと、私は広島で思った。私などの平和への愛が現実の政治でなくてもよい。私ひとりが生きるための心の糧として平和を念じているだけでもよい。」

なお平和を望むには、ただ平和を念じているだけでよい。
もちろん「現実の政治」としてはそれで何も変らない。
だから他人からすれば、戦争を念じている姿とそれは何の違いもない。
平和への愛は、川端ひとりの心に「秘密」として在るだけである。

この現実的には噴飯ものの結論、
このあまりにも川端的な結論は、
つづく「見えない愛」のエピソードによって、
さらに強力に変奏される。
(「天授の子」が「禽獣」と並ぶ重要な作品である所以だ。)

連想に連想をかさねる「天授の子」の話者は、民子の姉が自分に好意を寄せてくれていたことなどを思い出しながら、ふと、二三ヵ月に受け取った手紙のことを考える。その手紙の差出人は、おぼえのない女名前だったが、文面を読むと、女は二十八年前、ということは「私」が学生の頃、一度私と出会っているという。そのときに私のなにかの親切が心に沁みて、彼女は私に密かな恋心を抱いたらしい。しかし、その出会いは親戚の家での偶然の落ち合いで、その後も会えるかと思って、女はその家に通ったが、恥ずかしくて私のことを誰にも訊けず、待つばかりで、会うこともなく、手紙なども出せずじまいにおわった。けれども私の体が弱そうに見えたので、私が丈夫になり、長生きし、出世するようにと願をかけて、三十年間牛肉を断つことにした。やがて結婚もしたが、牛肉を食べない嫁として怪しまれながら、二十八年通した。後二年で満願になる。そうしたら私に会いに行こうと思っていたが、近頃母に死なれて無常を感じ、私に手紙を書いたのだという。
「私」はその女を思い出せない。三十年も牛肉を断った女の愛、それを「私」は気づかずに過ごして、今はまったくその女を忘れている。「これはその人にとって、また私にとって、どういうことなのだろう。」
しかし川端はその人の愛が徒労であるとは考えない。
そしてそのような「見えない愛、知られない愛」が、他にも虚空を流れていることを、幽かに感じ取る。

この「見えない愛」の境域、
想像力が内部に蔵する秘密とは別の「秘密」の境域においてしか、
川端は倫理について語らない。
言い換えればそれは「滅びても滅びない」ものの領野、
見えないアウシュヴィッツ、知られないヒロシマが、光りを放つ虚空である。

それが現実には何の倫理でもないと言われても、
川端が反論することはない。

昭和四十五年、
故郷の茨城市から『名誉市民』に推された折、
「自分はいつ無道無徳の言行するか分らないから」という理由で、
川端は辞去した。



*12

できれば私も、
川端康成が好きなことを、
秘密にしておきたいのだが……。

「竹の声桃の花」について。
川端康成の最後の短篇小説は昭和四十六年、「新潮」十一月号に載った「隅田川」だが、これは昭和二十三年に書かれた「反橋」から始まる連作の一つと考えられるから、実際に川端が最後に着想を得て起筆した短篇は、「隅田川」より約一年あまり前に書かれた、この「竹の声桃の花」ということになるだろう。

「竹の声桃の花」の作中人物は宮川久雄という男一人だけだ。
例によって川端康成の匂香の移った、「宮川」を「私」と置き換えても読まれうる主人公による、三人称一元の語りである。
或る日の夕暮れ、家の裏山の松の木に止まっている鷹を宮川はたまたま見掛ける。思いもかけないことだ。彼の住む都会の街に鷹が棲むのを見たことはないし、聞いたこともない。たけだけしい、姿の大きい鷹が、胸を張り、首を真向きに立てて静かにとどまっているのに、宮川は息をのんだ。
ほのかな夕空には、鷹が飛んで来た道も、帰ってゆく道もありそうもない。まわりと縁もつながりもないものがそこに忽然と出現したかのような姿、それは焔のなかの白い蓮華のように不可思議な力で宮川の胸に迫った。
「竹の声桃の花」は次のような一節で“終わる”。

「鷹は二度と来なかった。来たのかもしれないが、宮川は見なかった。/しかし、あの鷹は自分のなかにあると思うようになった。この町に、まして自分の家の裏山に、鷹が来ていたと言っても、人はまず信じそうにないので、人には話さないことにしている。」

実際、川端の終の住処の鎌倉の家には、裏手に山があった。
もしかしたら鷹そのものではないかもしれないが、川端がこの短篇を着想した端緒に、裏山で見掛けた何かがあることは間違いない。
しかもそれは人がまず信じそうにないもの、
したがって見掛けたと人に話すつもりのなかったもの、
したがって、小説として書かれなければ秘密のまま消えていったはずのものである。

別の例をひこう。
昭和二十五年に書かれた「花は眠らない」の書き出しはこんな風だ。 「ときどき、なんでもないことを不思議に思う。」
疲れていた川端は熱海の宿に着いた早々に寝る。目を醒したのは夜中の四時だ。見ると、部屋の海棠の花が咲き開いていた。
そう、夕顔や夜来香、朝顔や合歓のような花もあるにはあるが、大抵の花は夜昼咲き通しなのだ。花は夜眠らない。
「花は眠らないと気がついて、私はおどろいた。わかりきったことだが、初めてはっきりそう気がついて、夜なかの四時に海棠の花を眺めると、なお美しく感じられた。」
無論、一輪ざしの花なんていつでも見ている。花が夜通し咲いていることも既に理解していたはずである。ところが宿屋にひとりいて、夜中に目を醒してながめた海棠が、なぜかしら、初めてのように不思議の啓示をもたらす。

川端はいつも、
人がまず信じそうにない、
それだから人に話すつもりもあまりおきない、
密やかな、不可思議な、既知の中の未知の予兆で
小説の素白の空間を満たしている。

名篇「片腕」の中の、
主人公に身を任せた一人の娘の、思い出にまつわる一節。
「私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのがどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この歳になっても、私はふしぎでならない。」

……こんな会話もある。
若い恋人の会話だ。作品は「小春日和」。
「こんどはいつお会い出来るの?」
「僕はいつでもいい。明日でもいい。思いがけなく会えたら、なおいいね。」
「思いがけなく会うのには、どうすればいいの?」
「さあ。僕にも分らないね。」

……こんな会話もある。
情を通じた男女の会話。作品は「人間のなか」。
「人間のなかには、いろいろなものがいるわ。いっぱいいるのよ。」
「人間のなかにって、桃代さんのなかに……?」
「そう。あたしのなかに……。こわいわ。」
「桃代さんのなかには、桃代さんがいるだけだろう。」
「そうじゃないの。桃代のなかに、桃代はいないの。」
「これは誰なの。」抱きゆさぶる。
「桃代だわ。」

その他いろいろあるが略す。

花が眠らないと気がついて驚く男についても、
女がなぜ身をまかせるのか不思議に思っている男についても、
いつも変な会話ばかり作中人物に交わさせる男についても、
ほんとうは、そんな男が存在しているとまず信じてもらえなそうで
私はわりと口を開くのに逡巡する。



*0

「文芸春秋の五十年は、すなわち、私の文筆生活の五十年である。その半世紀のあいだには、いろいろのことがあった。そして、いろいろのことを忘れた。おおかたは忘れた。もの忘れのひどいのは、不幸せであるが、幸せな面もある。」
(「夢 幻の如くなり」)









#010 D.H.ロレンス『息子と恋人』

David Herbert Lawrence "Sons and Lovers"
伊藤整訳・『カラー版世界文学全集 第28巻』所収・河出書房新社



 彼はどういう人間か? 彼はすこしばかり頭がにぶい。彼の頭のなかではいつも多くの音が鳴っていて、人間の話し声とうまく調子を合わせるのに幾らか苦労が必要だ、とでもいうかのようである。彼は多くの人から愛されている──とりわけ少し年上の女性に。彼の黒く大きく見開かれた、よく動く目は、卑俗な関心を抜きにして、相手を異性と見るよりもその奥にある貴重な種子をさぐりあて、見透かすような、生き生きした光をもっている。それが同じ年頃の娘には恐怖を呼び起こすのが、ちょうど、友人たちの姉ぐらいの年頃の娘には、非常にめずらしい、好ましいものに思われるらしい。女たちと一緒にいる彼の姿はよく見られた。それでも、彼が嫉妬をかわないのは、彼が、誰にたいしても不愉快な声音を使わないからである。誰に話すときでも彼の声は深みのある、歌うような調子を帯びる。意地悪く、嘲笑するような、歪めた声で彼が口をきくのを、誰も聞いたことがない。怒る時でさえ、彼は魔王のように真っすぐに怒りをぶっつけるのであり、追いつめられた鼠の卑しさは少しもない。人とちがった速度で考え、大声で話し、人よりも大股で歩き、一つ一つの仕種が大振りな彼は、どこに居ても目立ってしまうのだったが、彼の色白な、目鼻立ちの離れたぽかんとした顔つき──しかし、それが感情を表わすときには、雪の冷たさのように恐ろしく引き締まるのだが──は、見る者を威圧することがなく、どこへ行っても彼は大抵歓迎され、邪魔者扱いされなかった。そして、彼はみなから奇妙なあだ名で呼ばれていた──「D.H.ロレンス」と。
 彼が衆人のなかで目立ってしまう理由はほかにもあった──たとえば彼のはく白いズボンである。何本も替えがあるのか、どんなに汚れてしまっても、彼は、翌日には、真っ白な、ぴっちりと腿に張りついたズボンをはいて来た。その彼がさらに白いシャツを着て、持ち前の機敏さで階段をのぼってくるところは、あたかも白い稲妻が屋内を通り過ぎるかのようで、驚いて脇へ退く者もいた。彼は身体がやわらかいのか、どんなに急いで歩いていても、背筋に芯が一つとおっており、その挙動はしなやかな直線から成っていた。おまけに彼は背が高いのだ──脚が棒のように長かった。しかし、彼の外貌のうちでもっとも生彩を放っていたのは、やはり目である。彼の黒い目が澄み、明るく輝き、それが彼の自然な、無理強いすることのない、敏感な性格を要約しているために、ときに人を驚かせて恐れさせる彼の長身も、大風な立居振る舞いも、その目を中心にして、ただよいひらめく焔のように、優しい印象で受け止められるのだ。
「僕が間違っているなら言っておくれ、僕はいつでも、悪いところは直そうと思っているから」と、彼はその目をしばたたいて、男友達に言うのだった。「僕は女の子から甘やかされることに慣れているんだ、だから、君たちは、少しぐらい厳しくしてくれるのがちょうどいいんだ」
 彼はまもなく十七歳になるところであった。土曜日の午後には、彼はまたも女の子に招かれて家へ遊びに行った。陽が強くて、草木の根元から蒸し蒸しと熱気の立ちのぼる午後だった。彼が戸口のところにやって来ると、前庭に、その女の子の母親が生垣の下のプランターにかがみこんで、何かやっているのが見えた──彼はこの母親ともすでに顔見知りだった。彼は飛ぶように歩み寄って、すばやく顔を近づけた。
「アブラムシですか? たいへんですね」と彼は微笑しながら言った。
 彼はもちろんこの母親にも好かれていた。
「そう──そうなのよ、ほんとに大変で」と母親は答えた。「一匹でも残っていると、またどんどん増えてしまうんでね、ずうずうしい、困りものの虫たちですよ」
「僕も手伝いましょう」彼はすわりこんで、早速、勢いよくのばした指で、一度どきに三匹ものアブラムシをつかまえ、つぶした。指が汚れるのもかまわない様子で、ピンセットを使っている母親の数倍のはやさで、アブラムシを次々とむしり取って行った。しまいには口笛を吹きはじめた。
「こうしてると神さまになった気分ですね」と彼は肩をゆすって笑った。「罪深きアブラムシたちにのろいあれ」
 とうとう待ちかねて、娘のほうが庭に出て来た。
「あんまり遅いんで何があったかと思ったら、一番厄介なものにつかまっていたわけね」娘は腹をたてながら言った。「うちのお母さんは、もうあんたを放さないわよ」
「いいえ、この人が進んで手助けしてくれたんですよ」と母親は言った。
「ふん」と娘は言って横を向いた。
 彼は立ち上がってその様子を面白そうに見ていた。娘は、イチョウの葉に似たくすんだ金色の服を着て、古めかしい意匠の細いベルトで胴を締め、スカートのうしろをつかむように手をうしろに廻し、胸を反っていた。彼女の腕は陽に洗われて、蜂蜜色に輝いていた。すっきりしたその頬の線には、産毛がつめたく光っていた。彼はすぐに、あたかも自分がその場にいないかのように、感情を空にして、吸い込むように娘を見つめた。その娘──彼女は彼の学校での先輩だったが──の持っている、煉瓦の粉のようにざらざらした熱っぽさと、野罌粟のような荒々しい魅力が、静かなよろこびを彼に呼びさました。なぜこんなにも、彼は女に魅惑されてしまうのだろう? この世に大地と天空があり、風の吹きはじめる気配にかすかな花気があり、節木のうちに樹液が満ち、葉の尖に痛みのような光が溜まり、夜気のなかで森がうごめき、そして、世界の裏側に暗い神々の幽姿があることを、──要するに、彼にとって、世界が喜ばしいものであるということを示してくれるのは、つねに女性たちであった。彼の視野のなかで、男たちは影のような存在にすぎなかった──壁面にうつろう影で、光源に近い場所には、つねに女たちがいた。
 その娘の名は要子といった──彼女もまた古代に、アジアの東端で、黒曜石で鳥獣を射た女たちの子孫のひとりだった。その女がクロシェ編みチュニックを着ていようと、キャミソールを着ていようと、刺繍入りスカートをはいていようと、彼を惹きつけるのは、女ひとりひとりで異なる、粘土や赤土のように生々しいその雰囲気だった。彼は女の趣味よりもその食欲に興味を持ち、女の知性よりも、その肌の香に興味を持った。彼はいつも屈託なく、率直に目の前の女を賛美していた。
 そして、──彼はもうすぐ十七歳になるのだ。確たる未来はまだ遠い先にあり、彼自身少しも損なわれていない。しかし、自分の将来を想うと、彼はしばしば、寄る辺ない不安にさいなまれるのだった。女たちが、自分にとってどのような意味をもつのか、彼はまだはっきりと分らなかった。女の子たちの賑々しさに導かれて、彼は、一体どんな淵にたどり着くのだろうか? 彼女らは自分を破滅させるだろうか、それとも、未だ知りえない喜びへと、彼を運び去ってゆくだろうか? あるいは、とりどり魅力にあふれた女の中から、いつか一人を選ばねばならないのだろうか──「結婚」は、彼にはあまりに観念的なものに思われたのだが。
 彼の大義そうな顔つきは、娘をおもしろがらせた。
「D.H.ロレンス!」と彼女は叫んだ。「あなた、おあずけをくった犬みたいな顔してるのね」
「そうさ」彼はすこし笑った。「君が、飲み物を持って来てくれないんで、がっかりしてるんだ。二階の窓から僕がやって来るのは、見えたろ? でも君は着飾るのに夢中で、麦茶を注ぐことも思いつかなかったらしいな」
「私があなたのために着飾るなんて、さぞ見物でしょうね」彼女はむっとして言った。
「さあ、こいつをあげよう」と彼は、ポケットから薄荷キャンディーを取り出した。「さあ、機嫌をなおしておくれ──握手しよう」
 それから二人は、あたりを散策するために外へ出て行った。遠いかなたに、不思議に白い雲が壁のように盛り上がり、空をくっきりと二色に分けていた。まったく、日の光りは降り注ぐといってよいほどに戸外にあふれていた。蔭は熱にゆらめき、彼の肩や肘は陽に濡れて、生き生きと動いていた。彼は彼自身の独特な感じ方に忠実であるように、ときに敏捷になり、ときにゆっくりした足取りになって、ひらめくような、弾力のある歩き方をした。娘はそれに振り回されたが、そのように激しく動きまわる、機敏な彼が好きだったので、何も言わなかった。
「見なよ、これを」と彼は有頂天になって叫んだ。「紫陽花の硬い、硬い蕾があらわれはじめてる。しっかりした緑色だ──口を閉じているんだ。ほかの花の蕾みたいに、傷つきやすそうなところがない。でも、こいつはほんとうは、なかなかに敏感なんだ、初夏の暑さを待って、おそるおそる顔を出したんだ、かたつむりの触覚みたいにね」
「ということは、もうすぐ梅雨なわけね」彼女は皮肉っぽく言った。
「ふん──ふん」と、彼は落ちつかずに首をふった。「先のことなんて、どうだっていいじゃないか? 君は物事のそんな側面ばかり見るんだね。──ほら、こいつらは肌がないけれど、ちゃんと暑さというものを知ってるみたいだよ──君よりもはるかにね」
「あんたは、野の百合でも恋人にしたらいいでしょう」と彼女が言った。
「野の百合とじゃ、一緒に散歩できないからだめだな」と彼は、温かい大声で笑った。それからまた歩き始めた。「行こう、今日は、あの秋楡公園の向こうまで行くつもりなんだ」
 やがて、彼らは「HAPPY TIME!!」と赤い文字で書かれた、横長の看板の下にならんでいる、自動販売機のところで、ひと休みした。舗道に人気はなくて、自販機のうわべの透明なプラスチックは、水面のように、静かな街路樹の姿をうつしていた。それはかすかに波打っていて、二人の周囲で、空から降る光をやわらかに撓めた。娘は、汗のつたう彼のこめかみをちらりと見やった。彼は飲み物をのむときでも、投げやりにではなく、熱心に、精妙なしぐさで、それを吸い込むように飲むのだった。そして口を缶から離すと、真剣な表情で歯をむきだして、充ちたりた息を吐いた。その雰囲気が、彼女のうちに奇妙な憐れみを呼びさました。彼はまだ純粋で、表情の線は美しいけれども、それは脆く、長く持たないだろうという薄命の印象を与えた。彼は血色がよかったが、こめかみの皮膚は透けるように薄かった。それが今、微細な泡のような日の光を受けて、青白くはりつめていた。
「あなたは何をしたいのかしら」と娘は思わず訊いた。「将来の話よ。あなたは──あなたは何も出来ないような気がするわ」
「僕が何をしたいかだって」彼はおうむ返しに言った。
 彼は頭をちょっとかしげ、悪だくみするような、すばやい微笑を浮かべた。
「僕は生活がしたいな。熱をいれてとことん真剣に生活するんだ──貧乏でもかまわない、でも、どんなことも余念なくやるんだ」
 彼女は笑った。しかし彼女の顔は痛ましげだった。
「意味がわからないわ」
「今は僕自身の生活を持っていないから無理だけど──」と、彼は考え込みながら言った。「たとえば、お皿でも、茶わんでも、スプーンでも、鍋でも、テーブル掛けでも、生活に使うものは、すべて念に念をいれて選びたいんだ。それらを僕の肉体の一部みたいに感じたいんだ。部屋がどんなに変わっても、生活に不可欠の身のまわりのものは、僕から切り離せない、不変のものとしてずっと大事にしていく──僕の言うのは、そういうことさ」
「たいへん立派なことね」と彼女は悲しそうに言った。「私の訊いたのは、そういうことじゃないわ」
「いいや、違わないさ」と彼は言った。「君だって、自分によく似合う服は、まるで生きている感じがするだろう? 毎年見かける野草は、もう知り合いみたいな気がするだろ。生きて行く上では、そういう感じを集めることが大事なんだ。魚みたいに、口をもぐもぐさせてばかりいたんじゃだめだよ」
 唇をもぐもぐ噛むのは、彼女の治らない癖であった。
「魚になったら、海豚みたいに飛び跳ねてやるわ、あなたの頭上をね」彼女はいらいらして言った。
「そう、結構だ──間違っても鮫みたく鼻先の尖った魚になるなよ」
 彼は木のベンチに腰をおろした。娘は、彼がくれたキャンディーの包み紙をいじっていた。彼女は、心のなかで彼に腹を立てていた。彼はこれから生きて行く上で、非常に多くの人からの愛を必要とするだろう──さもなければ彼は根を失って、その魅力はしぼんでしまうだろう──にもかかわらず、彼は誰からも、どんな女性からも、直接の愛情を受け取ろうとはしないのだった。彼は、何でもひとりで頑張り抜く、という男ではなかった。彼には首尾一貫した野心がなかった。彼はあまりに感じ易すぎ、一つの意志に無理に自分をしたがわせるということが出来なかった。ほんとうは、誰かが、彼のそばに居てやる必要があるのだ。彼にとって最大の味方であり、同時に最大の仇敵でもあるような、新しきイヴの一人が。そうすれば、彼の黒い目も生彩をたもちつづけるだろう。彼の魅力も、巨きな軌道を描いて鮮やかにのびてゆくことだろう。しかし、今のままではだめだ、と彼女は思った。
 彼は黙ってすわっていた。彼はとまどったときの癖で、しきりに手のひらを揉んでいた。彼女が不きげんになったのを知って、彼自身も、叫び出したいような、嫌な力が身のふしぶしにこもってきた。かちっと音を鳴らして、彼は歯をかみあわせた。──なぜ女たちは、彼の首に愛情のくさりを巻きつけようとするのだろう? そしてなぜ、彼は、それを素直に喜ばないのだろう? 「畜生め」と彼は心のなかでつぶやいた。「なんで、僕は女の子の前で、自分を保つことができないのかな? 僕は彼女たちの前で非常なよろこびを感ずる、と同時に、彼女たちほど、僕を苛々した、残忍な気持ちにさせる存在はほかにない。彼女たちが差し伸べてくれる愛の手に、僕は親しみと同時に、嫌悪を感ずる、だからこそ僕は、彼女らに惹かれるのだが──この苦いときめきを求めて。でも、こんなこといつまでも続けられるはずがない。こんなふうに分裂した、ちぐはぐな感じを、僕はいつまでもつづけていたくない──」
 街路樹の桜は午後の陽にくすぶり、緑の精気をあたりにこぼしていた。風の吹きすぎる先から、葉の一枚一枚が、流れるようにゆすられ、冷たい音を鳴らした。汗がひいて、彼らの肌はひえた。そして、彼のこめかみは、ますます青白くはりつめてきた。その薄皮の下の神経のふるえが見えるようで、それに指でふれられるかのようで、またちらりと目をやると、彼女は、怖くなった。
「行きましょう」と彼女は懇願した。「汗でひえてしまうわ──氷みたいになってしまうわ」
 彼は気をとりなおしたように、短く笑った。
「氷! もし氷みたいに生きられたら、素敵だね。僕はいつも吹き上がり過ぎてしまうから──悪霊にとりつかれたサウルだ」
「そんなこと言わないで」と、彼女は弱々しい笑みをうかべた。
「気をつけて。──それは見え難いけど、細かい棘があるから」と彼は、コウリゾナに手をのばした彼女に、注意した。彼らは長い道のりを歩いて、街はずれの秋楡公園に来ていた。その公園は小さくて円い丘を秋楡で囲って、そのまま公園にしたところで、季節ごとに草が刈られ、とりどりの野草が見られた。いま丘はコウリゾナやブタナ、月見草、ニワゼキショウ、ナガミヒナゲシの季節だった。陽の光が透った、つややかな緑金色の草むらの中に顔を出している、コウリゾナのレモンイエローの花に、彼女は惹かれた。彼女は言われた通り、棘の薄くなっている茎の根のほうを持って、それを折り取った。彼女は息を詰めて、それを彼の前にさしだした。
「きれいじゃない?」と彼女は無意識にきいていた。
「うん。匂いもいいね。とにかく植物らしい匂いだ」彼はそっけなく言った。
 彼女はけげんそうに彼を見あげて、立ち上がった。
「これ、あまり好きじゃなかった?」と彼女はきいた。彼女はまだ彼がなにか思い詰めているらしいのを、見て取った。
「そんなことないよ──毎年見るのが楽しみな花の一つだ」と、彼は口ごもって言った。「でも、今はちょうど花がきれいな時期だけれど、もう少したつと、花の代わりに綿毛があわれる──それが恐ろしいんだ。タンポポみたいに可愛らしいものじゃない、白熱した、鋭い火花みたいで、まるで怒っているように見える。それが花の代わりに幾つも幾つもあらわれる。コウリゾナは、あたかも僕たちと同じように、漿液ではなくて血が流れているみたいだ。だから恐ろしいんだ」
 彼の目はきびしく、静かで、自分の生来の明るさを押し殺しているかのようだった。彼は悩んでいる自分を脇において、女の子のごきげんを伺うような、わざとらしい仕草や、道化た表情をつくることはできなかった。無理に明るいことを言おうとしても駄目だった。こういうとき、彼の中では真黒なもやもやしたものが渦巻きはじめ、すると、彼は女の子の前で、自分が心臓のふくれた、非人間的な獣になったような気がするのだった。娘のほうは、自身はなにも悪くないにもかかわらず、彼に非難されているような気がして、悲しくなった。彼女は彼に優しくしてやりたかったが、とりつくしまもないようだった。彼女はまぶたを伏せた。散歩をはじめたときの温かい気分は、もう戻って来ないのだろうか。
 ふたりは丘のすその草むらから草むらへ、眺めて歩きまわった。花を見つけるたびに彼は少しかがんで、価値のあるものだけ選び取るように、残忍なまなざしで、それを見つめた。一つ一つの花には、あまり長くとどまっていなかった。娘はほとんど孤独なような気持ちで、彼について行った。それから彼は、葉を虫にくわれ、さらに花びらも虫食いの穴だらけにされている月見草を見ると、ぎくりと立ち止まった。生きながら腐ったような、花弁の繊維だけが残った花が風に揺れている──彼はやはり、冷たい黒い目をして、その花に同情心が起こるのを、無理に耐えているような、硬く、まっすぐな表情をしていた。すると、娘はとっさに、その花を引き抜き──根は抵抗せず、何なく抜き取られた──投げ捨ててしまった。石のような彼の顔つきは、変わらなかった。
「何をしているの」と彼は無表情に、ゆっくりと言った。
「わたしは──」と彼女は言いかけて、怯えてあとじさった。
「あなたがそんな顔をしてるのは嫌よ。そんな顔をつづけるのなら、もう今日はお別れにしましょう、D.H.ロレンス」
 彼は彼女が苦しんでいることに、ようやく気づいた。
「やあ、どうして今日、僕はこんなに不きげんなのかな?」彼は重い声で笑った。「来たかった公園に来られて、歓びで泣きたいほどなはずなのに」
「どうやら、わたしのせいらしいわね」と、彼女は低い声で言った。
「白薔薇〔処女の象徴〕にはふさわしい場所じゃなかったかな」と彼は応えた。この軽口は、うまくなかった。
 午後の陽ざしはなめらかになってゆき、秋楡の樹皮が黄味をおびて光りはじめていた。草花の影がこぼれるように伸び、熱を持ってうつろった。ふたりは埃っぽい道を、その砂地に足跡をつけながら、丘の向こう側へまわって歩いて行った。娘の黄色い服の襞は、だらんと垂らした彼女の両腕のさきの指のように細かく動き、金色の水沫のように、静かにゆれた。彼はまた心の上に重いものを感じながら、低い、おだやかな声で話しはじめた。
「僕たちのあいだに恋愛ということはないね──そうだろ?」それは彼が自分自身に向かって言った言葉が、そのまま表にあらわれたふうだった。
 娘は短く笑って彼を見た。
「あなたが、どんな女の人とでも恋愛できるとは思えないわ」と彼女は言った。「とにかく、あなたは普通の人とは違うわ──なにか激しい才能があるというわけじゃないけど。わたしは、あなたが近くにいると、自分のことに集中できなくなってしまうのよ、だから仕方なしにあなたに構うの。ほかの人もそうなんじゃないかしら? あなたには人をいらいらさせるところがあるけど、それが醜い、卑しい、傲慢なものじゃないから、みんなあなたを許しているのよ」
 彼は普段から、この一つ年上の娘の意見を尊重していたので、黙って聞いた。
「あなたは今のままじゃ駄目よ」と、彼女はくちびるを噛んだ。「偉くなってほしいとか、変な期待を掛けているわけじゃないけど。でもあなたが変わってしまったら、今あるようなあなたでなくなってしまったら、私は一つの季節、一つの時間が失われたかのように、悲しむと思うわ。あなたの中には、もっとも旧い氷塊にも似たような何か、非個人的な、生き生きと美しいものがあるのに、それはまったく壊れやすくて、しかも、あなたはそれのための防御もなにもしていない──しようともしない──あなたはちっとも自分のことを構わない。ああ、神さまがあなたを救ってくれますように! わたしはこれ以上何も言わない。わたしは──わたしは、あなたを救うことはできないわ」
「僕が、恋愛しないほうがいいって言うのかい?」彼は笑って言った。
 彼女はむずかしい顔をして彼を見た。
「ああ」と、彼女はつぶやいた。「わたしは真面目に言ったのよ」
「わかっている──そんなふうに言ってくれるのは君だけだ」
「ほんとうに真面目に言ったのよ」
 彼はまた、わかっている、と口の中でつぶやいた。
 東の空は、薄い青銅色になりつつあった。彼らがふたたび彼女の家の戸口まで戻ってきた、別れ際、頭上の街灯が、あるかなきかに白くまたたき、つめたい匂いを放った。生垣のツツジの葉はやわらかくなり、夜のもったりした香ばしさが足元から広がりはじめ、さまざまの音が、夕闇の向こうに籠って聞こえた。最後のほうは二人とも、黙って歩いていた。ふたりは、あたかも踝のところで繋がれているかのように、均衡をやぶるまいとするかのように、静かに歩調が合った。彼はまたすこしばかり、気が落ちつかなくなっていた。別れの言葉を言う直前、彼の口もとには、すばしこい、皮肉な微笑がうかんだ。
「じゃあ、さようなら。どうか今日の僕を勘弁してくれ──僕を憐れんでくれ。君の忠告はもっともだ、僕はまるでフルーツ・パイみたいに間抜けなんだ。女の子の前で、こんがり焼き上がった生地ばかり見せて、食べてしまえばなくなっちまう、軽薄な思想しか持ち合わせてない。いつか僕は、ショーケースにしまわれ、埃をかぶって台無しにさせられる運命にあるのかもしれないな──きれいな外見だけを保って──まあ、それでも、いいさ! 君が友達でいてさえくれればね。僕らはおたがいに、互いの魂を注意深く気づかっていよう。──ではまた会おう」そう言って、彼は握手のための手を差し出した。それから、彼が去っていく間じゅう、彼女は祈るように、暗い彼のシルエットを見ていた。彼はしっかりと足早に歩いて行った──それは彼女を傷つけるかのようだった。その歩き方は、あまりにも張りつめ、あまりにも積極的でありすぎたのだ。
 結局のところ、彼は誰のことも気に掛けることができず、それゆえに自分のことも気に掛けないでいるのかもしれなかった。だとすれば、彼は一体何を気に掛けているのだろう? あの秋楡公園への散歩があった後にも、彼はいつと変わらず、女の子たちの間で、明るく、じゃれつくような馬鹿笑いでふざけていた。美しい、重々しい声のおかげで、彼が何を言っても下品には聞こえなかった。ときたま、彼はその場から居なくなった、というのは、彼の性的潔癖感があまりに自然で、自分や女たちの肉体などまるで無視してしまって、雰囲気や感覚のように、その場に融けきってしまえたからである。そして、女の子たちが「D.H.ロレンス!」と呼びたてると、彼は当惑ぎみに、その空ろな肉体の眠りから目覚めて、ゆっくりとまた稲妻のようなひらめきを表情に取り戻す、しかし彼は、そのとき、幾らか肌膚に傷を受けたように感じている、というのも、「D.H.ロレンス」というあだ名は、本名以上に彼に近しいものと感じられ、自分の肉の一部のように思われ、それが他人の口をついて出るとき、彼は、自分の肉体をすこし啄まれるような感じがするのだった。そういうとき、彼は顔をこすって、落ちつきなくにやにやと笑った。









#011 アンドレア・ドウォーキン『インターコース』

Andrea Dworkin "Intercourse"
寺沢みづほ訳・青土社



 まずは、歴史をかるく振りかえることからはじめよう。
 ラテン語のフェミナ(femina=女性)から派生した呼び名をもち、主に男女平等や女性の権利拡張のための運動・思想として定義される「フェミニズム」は、よく知られるように、歴史上に二つの波をもっている。第一の波は、近代市民革命のあともつづいていた男女間の社会的および経済的な権利の格差の自覚にはじまり、組織的に協力しあってねばり強く多様に運動を盛りあげていった女性たちが、ついに、女性参政権やその他の権利拡張を実現させた一九二〇年代ごろまでの、百年あまりに及ぶ、女性解放のための社会運動の潮流のことをさす。教科書的に確認しておけば、イギリスで女性参政権が実現したのは一九一八年、アメリカでは一九二〇年で(日本での男女平等の参政権の制定はGHQ五大改革指令を契機とした戦後の一九四七年)、その成果をもって以後しばらくは、つまり、おおよそ一九三〇年から一九六〇年までのあいだ、女性運動の波は、最盛をすぎて沈滞していく。フェミニズム思想が世界的に浸透する局面もあり、運動としての変節や断絶があったわけではないにしても、この間、新たな目ざましい問題提起は見られなくなる。時機を得て、ふたたびそれに苛烈な社会変革の自覚があたえられたのは、フェミニズム運動の第二の波、一九六〇年代以降に、世界同時的に勃興した、俗に言うウーマン・リブ(Women's Lib/Women's Liberation Movement)によってである。
 ひと口に言えば、この第二派のフェミニズムは、参政権も獲得し政治活動の空間で対等の立場で男性と共闘できると考えていた女性たちが、それでもなお、日々のいとなみのなかで強いられる、性差を利用した隠微な抑圧に気づいたことを端緒として、はじまった。“個人的なことは政治的である”というウーマン・リブのスローガンは、そのような問題意識をじかにあらわす。そこにはたとえ参政権を獲得しても、女子への教育が向上しても、例えばデート・レイプといった現象が暗に見すごされるのであれば、依然として女性は二流市民として位置づけられるのではないのか?という痛覚がこめられている。この第二波フェミニズム運動の担い手は、第一波のフェミニズムでは主題化されなかった批判、社会規範や伝統的慣習が自明のものとして女性に作用することが、実は一種の「差別」だ、という不吉な告発を敢行してみせた。そんな彼女たちの批判と告発は、さまざまなかたちであり得たけれども、その多彩な運動の中核をになった思想的潮流として、結婚・生殖・異性愛・母性といった私的な領域で女性を抑圧する権力の蠢動を「家父長制」と名ざした「ラディカル・フェミニズム」の流派を、第一に挙げなければならない。このラディカル・フェミニズムの思想は、ちょうど一九七〇年に『性の政治学』『性の弁証法』『女同士の連帯は強い』といった古典的著作が出そろうことで、時代にその主張の輪郭を刻印し、以降、他のリベラル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズムなどの流れと対論しつつ、あるいはレズビアン・フェミニズムやカルチュラル・フェミニズムなどの流れへ分岐しながら、フェミニズムの現代史を活気づける重要なモチーフとなっていった。彼女たちの第二波フェニミズムへの知的・政治的・思想的な貢献は、まぎれもない。もっとも、それ以上の説明はここではひかえておく。ここはラディカル・フェミニズムの意義について熱心に解説しようという場ではないから。それはまた別の物語だ。そうではなく、ここでとくに注目したいのは、そのラディカル・フェミニズムから生まれた一つのアプローチ、フェミニズム内部でも異論のすくなくない、いや、場合によっては「フェミニストに分断をもたらした禍いの種」とさえ言われる、ある問題ぶくみの思想運動のことである。──ポルノグラフィ反対運動という鬼子が、それである。
 時空間的にはポルノグラフィ反対運動の起源は、ウーマン・リブの先駆でもあったアメリカの一九七〇年代後半に存している。では、そのポルノグラフィ反対運動の思想的起源は?というと、筆者の浅学もあって特定するのは困難なのだけれども、しかし、ロビン・モーガンが一九七四年につくった、「ポルノは理論で、レイプは実践」という人口に膾炙した言葉を参照することで、あいまいな推定くらいはできるかもしれない。「ポルノは理論で、レイプは実践」という言葉は、女性にたいする男性の性暴力の淵源にポルノグラフィが位置しているという非難に、ほぼひとしい。イギリスの「強姦に反対する女たち(WAR)」グループの結成とアメリカでの「ポルノグラフィに反対する女たち(WAP)」グループの結成も、時期的に近接している。おそらく、七〇年代をつうじて、レイプ被害者の救援活動と並行して闘われた「レイプ」を再定義するラディカル・フェミニズムの言論闘争、レイプにまつわる古い神話を破壊し、レイプをたんなる犯罪ではなく男性至上主義的なイデオロギーの象徴と見なして批判するフェミニズムの言論闘争のなかから、ポルノグラフィへの反感も徐々に醸成されていったのではないか、と考えられる。なぜなら、ポルノグラフィの中でステレオタイプに描かれる、男性に従属してみずから性交をのぞむ女性たちの姿は、まさに旧弊なレイプ神話を愚直になぞり、あるいは、レイプの犯罪事実の認定において被告人が固執する「お互いに合意の上での性交だった」という無神経な思いこみに、不可避的にかさなるように見えるからだ。もちろん、ここには飛躍がある。レイプや実際の性暴力への怒りと、ポルノグラフィにむけられた憎悪は単純に連続しない。「ポルノは理論で、レイプは実践」という宣告には、現実の性暴力への抗議をふみこえて、女性を性暴力の客体として、途方もなくまちがったステレオタイプ──避妊などこの世の存在しないかのように男性を膣内に受け入れる女性や、前戯もくそない強姦じみた男性の行為にはじらいつつ快楽を感じる女性、等々──のもとに描きだすことさえも弾圧しようとする過剰な意志が、みなぎっている。その過剰さにおいて、ポルノグラフィ反対運動は、売春(セックスワーカー)や結婚(家父長制下でのカップリング)を非難する他のフェミニズムのロジックとは異質なものになっている──さしあたり分けて考えるべきだということを、一応確認しておこう。
 ところで、後世から見れば、ポルノグラフィ反対運動はフェミニズムの主流にはついになり得なかった、と言える。それはつまり、そのあまりの急進性と過剰さがフェミニストさえも尻ごみさせたということなのだろうか。例えば、ポルノグラフィ反対運動の中心的人物であるアンドレア・ドウォーキンは書いている。「ポルノグラフィは、不平等と虐待をつくり出すことによって、集団としての女性に被害をあたえる、性的搾取のはっきりとした独特のシステムである」。おなじく、彼女の同志であるキャサリン・マッキノンは次のように書く。「ポルノグラフィはセックスを侵害行為にし、レイプと拷問と侵害行為をセックスにする」。このような彼女らの断定が、フェミニズムの最右翼のひとびとをもたじろがせる物騒さをおびていることは、たしかである。ポルノグラフィの製作現場での性暴力や、ポルノ業者による女性への経済的搾取に早急に対処すべき、と考えるフェミニストは多くいるだろうが、そのひとびとも、ポルノグラフィそのものが人権侵害だから表現規制せよ、という主張には眉をひそめる。あるいはまた、性犯罪には厳罰をもって対処せよと主張する人間も、ポルノグラフィが引きがねになってレイプがおこるという行動主義的見解にくみすることは、ほとんどない。そして、現実には、ドウォーキンとマッキノンが起草したモデル法にもとづく「反ポルノグラフィ公民権条例」が、一九八六年に連邦裁判所から違憲判決をくだされたことによって、ポルノグラフィ反対運動は、もはや政治的な実践の道をほぼふさがれてしまった。すくなくとも、ポルノグラフィ反対運動のための組織的な運動はすでにマイナーなものと化した。フェミニズム内でその主張が具体的に省みられることもあまりない。とくに、ポルノグラフィを規制する法的措置に一貫して反対しつづけてきたフェミニストのグループ(Feminist Anti-Censorship Taskforce=FACT、等)は、ポルノグラフィそのものが女性差別であるか否か、ポルノグラフィそのものが性暴力であるか否か、などといった議論は、もう過去にとっくに決着のついたものだと見なしている。「ポルノグラフィ反対運動、あれは要するに現代によみがえったピューニタリズムにすぎなかったんですよ!」と、ひとことで済ます論者もいる。
 もうすでに終わった議論? 「そうだ、そのとおりだ!」と、ポルノグラフィ規制に反対するリベラル・フェミニストたちは、言うだろう。「もう蒸しかえすのはやめにしていただきたい! いったい、フェミニストの課題としてポルノグラフィを標的にして何が得られるというのか? 何も得られやしない! ポルノグラフィを検閲したところで社会に蔓延する女性蔑視も性暴力も以前のままだ。そんな単純な措置で女性迫害が減るなら、誰も苦労しやしない。もう、うんざりだ! われわれはもう、ポルノグラフィ恐怖症にかかった連中の、安易な示威活動になどかまってはいられない! 終わりだ! 終わったんだ!」──いや、これほど極端な拒絶でないにしても、ポルノグラフィ反対運動にたいしフェミニズム内部から出てきた異論は、とりどりある。その主要なものをまとめると、以下のようになるだろう。(1)表現の自由の侵害への批判。よほど切迫した危険性がないかぎり、憲法で保障されている表現の自由に例外をもうけることはゆるされない。連邦裁判所は一九六九年の“ブランデンブルグ対オハイオ州”裁判の判決文において、支持者たちのまえでユダヤ人・黒人差別を煽動する演説をおこなったKKKの指導者に、言論の自由をみとめた。ポルノグラフィの場合のみ、検閲や統制を正当化できるという理由はない。(2)原因のとり違えへの批判。女性の経済的・社会的地位のひくさや女性への性暴力には、あきらかにさまざまな要因があるのであり、ポルノグラフィはその主要な要因でも、唯一の要因でもありえない。ポルノグラフィのみを標的にすることは、真の問題から目をそらさせることになるだけだ。(3)行動主義的前提への批判。ポルノグラフィによって(もともと女性に害意のない男性においても)レイプが触発され、実行されるという主張には、なんら裏づけになる根拠がない。そもそも人間のセクシュアリティという複雑な領域で、それほど単純な因果性モデルを採用することは不合理である。(4)最後に、やや抽象的な批判になるが、平等の理想の実現のために法的なポルノグラフィ規制に訴えることは、ポルノグラフィを前にしたわれわれの無力を、法のなかに書きこむことになってしまうのではないか、という批判がある。つまり、「犯されるのを望む女性」や「ところかまわず勃起する男性」といった主流のポルノグラフィのファンタジーに屈することなく、われわれは、女性として、男性として、レズビアンとして、ゲイとして、自分のジェンダー・アイデンティティを自由に想像し書き換えられるはずなのだ。ポルノグラフィ規制という法的措置は、われわれのこの自由なジェンダー・アイデンティティの生成力を、あらかじめポルノに敗北したものと決めつけることになってしまう。
 こうした批判にたいして、ポルノグラフィ反対運動に参与したフェミニストたちは、私見では、いまだに有効な反論を提示できていない。ゾーニング(zone+ing)による陳列規制すら許容しないドウォーキンとマッキノンの硬直的な主張は、やはり、視野狭窄の感をまぬがれない。「児童ポルノが犯罪であるなら、ある種のポルノグラフィも女性虐待の一形態として犯罪だ」「ポルノが性犯罪を誘発するという証拠はないが、誘発しないという証拠もない」「現に、ポルノグラフィと同じ行為を強制され虐待された女性がいる」──といった実感へのうったえかけも、イデオロギーあらそい以上には発展しそうになく、大勢を説きふせることはないだろう。世紀の境い目をこえて新たなアンチ・ポルノグラフィの思想戦略が生まれたということもなく、ずっと表現規制に反対してきたフェミニストたちの主張をしりぞける決定的弁証は、いまなお、ありそうにない。ならば、たしかに反ポルノグラフィのフェミニズムは、議論としては、もう一旦終っている話ということになる……のだろうか。「そうだ、そのとおりなのだ!」
 いや、はたしてそうなのだろうか? そもそも初発にあった、主流のヘテロセクシュアルな男性向けポルノグラフィのなかに見られる、途方もなくいびつな女性観への異議申し立ては、いったい、どうなってしまったのだろう? ──実は、ドウォーキンやマッキノンらの過激な主張は敬遠されたとはいえ、一九九〇年代以降、リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(性と生殖にかんする健康と権利)の概念や、セクシュアル・ハラスメントの問題の前景化にともなって、かつてのポルノグラフィ反対運動がうち立てた男性の性的ファンタジーを相対化しようとする視座は、自覚的にせよ、無自覚にせよ、現に、多くのフェミニストによって受けつがれ、共有されているのである。この事実は、もっと強調されていい。例えば、ジャック・デリダに師事し、リベラルな立ち位置から法・政治哲学者としてフェミニズムの問題系に切りこんでいるドゥルシラ・コーネルは、次のように書く。「私には、ポルノグラフィのメッセージが《直接ペニスに働きかけ、勃起をつうじて促進され、現実世界の女性に働きかける》というマッキノンの因果関係の前提は受け入れがたい。しかし、ポルノグラフィがどんなふうに男性の想像界において見られているかは、当の男性がポルノグラフィについて有することになるヴィジョンの中で露呈する、という点で、彼女の議論には賛成する」(『イマジナリーな領域』)。いく人かの批判者が見逃していることだが、ポルノグラフィが社会に浸透していることの自明性をはじめて疑ってみせた点で、ポルノグラフィ反対運動の、フェミニズムへの貢献は、明白に存在するのだ。新時代のフェミニストたちが、もはやポルノグラフィの法規制を声高にもとめることはないにしても、である。たしかに、ドウォーキンやマッキノンらの運動は、いち早く挫折に終った。しかし、男たちがそのことに胸をなでおろし、自分たちの性的ファンタジーが無傷にまもられたと安心しているのを横目に、新時代のフェミニストたちは、男たちの欲望をメタに把握し、それを相対化する理論と戦略を、ねりあげつづけている。そこではデリダの脱構築も、ラカンの精神分析も、ロールズの正義論も、縦横に、怜悧に駆使される。いかにも周到なことに、彼女たちは男性が加害者であり女性が被害者であるという非対称の図式に、もう固執はしない。彼女たちは、なぜ男性と女性とが社会的に異なって位置づけられるのかの分析および説明さえ、省略する。つまり、非対称から出発して、男性の権利と女性の権利を実体的に均していくことを目ざすのは、もはや理論としては愚直にすぎるというわけだ。「等価性〔実体的な平等〕の要求の基盤として類似性へと訴えることをめぐる問題は、リアルな差異──ふたたび言うが、明確な例は妊娠である──が存在するとき、平等への訴えが挫折するということである」(ドゥルシラ・コーネル、前掲書)。むしろ、どのような個人も、自身のセクシュアリティにもとづいて人格を格下げされたり、性的恥辱を強いられたりするべきではない、という普遍的な反差別の規準をつくり上げることによって、女性のみならず、ゲイ、レズビアン、そして社会から押しつけられたジェンダーに違和を感じている男性とも共闘しつつ、平等の理念を構想し、個々の差別と闘っていくべきなのだ──と、新時代の(リベラル派の)フェミニストたちは、口にする。フェミニズムの躓きの石になっていた、男性へのルサンチマンを解毒すること。ゲイやレズビアンを除外しないリベラリズムのアプローチを、発展させること。差異が格差として固定される瞬間に介入して、男-女の格差を、差異をともなった共存へと変化させること……。
 つまり、あえて要約すれば、男女の非対称性を埋めあわせる形での平等ではなく、男性と女性がそれぞれ性的主体として、一方から他方へのステレオタイプの押しつけによらずに尊重されることを、平等に保障し、公正で自由な社会を実現するというフェミニズム──それこそが、ドウォーキンやマッキノンらの主張を消化した、もっとも現代的なポルノグラフィへの対抗思想をふくんだフェミニズムとなるだろう。言わば、平等性の規準を、性差から個人の尊厳へと移行させたフェミニズムである。そこにおいて、ポルノグラフィはどうなってしまうだろうか? もちろん、厳格な表現規制が課されることは、ない。それは男性をレイプにかり立てないのだから。それは女性にたいする人権侵害ではないのだから。ただ、そのイメージがむきだしになって、女性に性的恥辱を強いるような光景だけは、忌避されなければならない。問題は、女性が、自分自身の性がおとしめられモノとして扱われるようなイメージに、望まないのに対峙させられることのない「自由」の保障だ。したがって、新時代のリベラル派のフェミニストが要求する、ポルノグラフィにたいする現実の施策も、せいぜい、公共空間でゾーニングを徹底するといった対処にとどまるだろう。しかも、それはもっとも暴力的なポルノグラフィにかぎってのことであろう。それは、かつて「ポルノが理論でレイプが実践」と弾劾した時代のフェミニストたちの憤怒からは、とおくへだたっている。一九八六年の違憲判決に苦渋の涙をのんだドウォーキンとマッキノンらの辛酸からは、さらにとおい。……だが、それでかまわないのではないか? それでなにが不足なのか? すくなくとも、セックスの客体へ還元されるステレオタイプな女性観に抗議する声は、いまや社会的な支持を得ているじゃないか? ヘテロセクシュアルな男性の性的ファンタジーも、いまだ根づよいとはいえ、以前のように社会にわがもの顔でのさばることは、ためらわれつつあるじゃないか? リプロダクティヴ・ヘルス/ライツだって市民権を得た。セクシュアル・ハラスメントが許容されることももはやない。これが、第二波フェミニズムの成果でなくてなんだろう? なぜ、これらの成果で満足してはいけないのだろう? きわめて聡明なリベラル派のフェミニストたちは、言うだろう。「ドウォーキンやマッキノンのラディカリズムは、その役目を終えました。ポルノグラフィの廃絶などと言った不可能で不気味な夢を見ることは、もう止めようではありませんか。血なまぐさい過去はふり返るな。眼前にひろがる未来を見つめよう。大事にしなければならないのは、私たちひとりひとりの関係性のありようと、気持のもちようです。これからは、個々人のセクシュアリティの自己尊重について、女性と男性と同性愛者とで共有可能な平等の理想をさぐることが、政治的に必要な唯一の実践であり、愛に満ちた未来をひき寄せる、唯一の手段なのです。さあ、今こそ真率な和解のとき! 私たちはともに手を取りあいましょう! ともに前を向いてすすんで行こう!」……
 だが、こんな裏表のない理想主義で、はたして、アンドレア・ドウォーキンの魂を成仏させられるだろうか(ドウォーキンは二〇〇五年に五十八歳で没)。
 いいや、もちろんできるはずがない。
「『うしろを振り返るな。前を見つめよう。愛に満ちたすばらしい未来を!』曇りのない目で未来をみつめるなどのことは私には不可能だった。昨日の迫害者たちがやすやすとそれをするからには、なおさらである。……私は迫害した者たちのよき理解者などになりたくない。むしろその者たちがみずからを否定して、その後に私に合わせることを要求する。すべきことは、ルサンチマンを押しとどめることによって、私たちと彼らとの間に横たわっている死体の山を処分することではないだろう。まさしく逆である。それを活性化すること。いいかえれば、未解決の問題を歴史的な実践の現場に運び出すこと。」
 ジャン・アメリー。ウィーン生まれの文学者であり、かつアウシュヴィッツ絶滅収容所を生きのびたユダヤ人の一人である彼は、戦後二十年間の沈黙ののちに、ドイツ文化とドイツ人全体を断罪する犠牲者としての内省を結晶させた最初の著作、『罪と罰の彼岸』を、ドイツ語圏の文壇に、投げこんだ。右の引用は、その著作からの一節である。彼の一切の妥協をこばむ決意──右に引用した言葉にひびいている、迫害者たちに刃を突きたてるような鋭利の感触を、ここで、ポルノグラフィ反対運動に参与した女性たちの呪詛とかさねることによって、ふたたびわれわれは、男性と女性とのあいだの葛藤に連れ戻されるように思われる。そうではないだろうか。一九九〇年代以降の理論的に洗練されたリベラル・フェミニズムも、男女の非対称をカッコにいれることで、まさしく、男性と女性のあいだに横たわっている「死体の山」を粛々と片づけることに精を出すのに、終始したのだった。たしかに、もっともらしい自由と平等の規準は明確にされた。リプロダクティヴ・ヘルス/ライツも、市民権を得た。セクシュアル・ハラスメントがおおやけに許容されることは、もはやない。だが、女性差別は依然として存在する。ヘテロセクシュアルな男性の性的ファンタジーは、いまだその主流の地位をあけ渡してはいない。性犯罪被害者の多くは女性であり、加害者のほとんどが男性である。なぜ、そうなのか。なぜ、世界はこうなっているのか? なぜ、そんなことがゆるされているのか? 惟うに、ポルノグラフィ反対運動の根底には、ジャン・アメリーのルサンチマンに近似するこの世界との非-和解の意志があった。彼女たちには、男性の性的ファンタジーを許容するつもりなど、ハナからなかった。むしろ男性たちが女性たちにあわせて、女性がいだくポルノグラフィへの嫌悪──本来男性にとっては経験的に想像不可能な嫌悪──を理解し、みずからの享楽と性的ファンタジーを否定し破壊するように、要求した。「ポルノグラフィに明示される男の性支配の制度の中では、欲望や生殖を実現したところで、出口も救済もまったくない」(アンドレア・ドウォーキン)。男性は敵である。偽りの和解はいらない。リベラル・フェミニズムが永遠に把握することのないその叫びが、ポルノグラフィ廃絶要求というラディカリズムの核心には、まちがいなく存していた。
 先まわりして、結論めいた私見を述べよう。なぜ彼女たちは、まさにポルノグラフィを標的にしなければならなかったのか。なぜレイプ被害者の救済ということから飛躍して、一切の男性の性的ファンタジーの峻拒というところまで言説を先鋭化したのか? その鍵は、あかたも主流のポルノグラフィーとリベラル・フェミニズムが結託してなしとげているかに見える、現実のある側面の、「否認」にある。
 アンドレア・ドウォーキンの亡霊は、次のように口にすることだろう。女性は、男性とは絶対に、絶対に、同じ存在ではあり得ない。“女性であること”は、“男性であること”にはない傷つきやすさを、なぜかともなってしまう。その痛ましい亀裂こそ、あなたがたリベラル派を自称する女性たちが抑圧して直視しようとしない現実、そして、主流のヘテロセクシュアルなポルノグラフィが、嬉々としてねじ曲げて否認する現実なのだ、と。注意しなければならないが、このように見出された女性性の傷を性急に普遍化してしまうと、「女性に男性にはない弱さがあるというのなら、男性の優位を認めよ」「女性が子供と同様に気づかいまもられなければならない存在であるなら、女性は永遠に主体性をもてない」といった差別の固定に、容易に短絡する。それだから新時代のフェミニストたちが、平等の理想に男女の非対称性を直接関連づけようとしなかったのにも、一理はある。無論、アンドレア・ドウォーキン自身も、そんな差別の固定に加担するもりは毛頭なかった。自身の思想的闘争のうねりの先に、ポルノグラフィ反対運動という道を見出した彼女が言いたかったのは、女性はつねに非力で弱い存在ではないということ──しかし、男女の非対称性、女性であることの傷つきやすさは、性愛の場面でこそ極度に前景化してしまう、ということである。
 “女性であること”の傷つきやすさ。パラフレーズすればそれは、「女性が男性に性的対象として見られたときの傷つきやすさ」を意味する。別にむずかしい話ではない。まず第一に、女性は妊娠し得る。出産にせよ堕胎にせよ、身体への負担はときに生命をおびやかすほどのリスクになる。そして一〇〇パーセント避妊する方法は存在しない(ところが、女性を性的対象としてしか見ていない男性は、そのようなリスクを織りこんだ上で行為におよぶどころか、そもそも避妊にたいして非協力であることが往々にしてある)。第二に、女性と男性をくらべての肉体の強弱を無視できない。小柄で一見非力なような男性であっても、普通の女性なら圧倒できるほどの力の優位をもつ。日常生活のなかでは意識されることのないその格差も、性愛の場面、無防備のまま密室で二人きりになるという状況では、ひとつまちがえば、凶器と化す。他者にもっとも間近で面接する性愛の瞬間は、女性にとっては、もっとも暴力に膚接して屈従させられる危険のたかまる瞬間でもある(まして、相手が女性の肉体を性欲を解消するためのモノとしてしか見ていないとしたら、望まない行為を強制されるデート・レイプの危機は、すぐとなり合わせである)。そして、言うまでもなく、これらのリスクは、男女で対称的ではない! 妊娠することもなく相手の力に怖じる必要もない男性が、「女性に性的対象として見られたとき」のリスクは、女性のそれとはおよそつり合わない。この残酷なまでに不均衡な性愛のクリティカル・ポイントで、ポルノグラフィが断罪されなければならない所以が、浮上する。考えてもみてほしい。はたして、男性が避妊に協力的であることをしめす描写が挿入される作品が、ポルノ・ビデオの主流となることがあり得るだろうか。あるいは、男性がある行為を要求したのにたいし、女性の側が拒むと、男性が殊勝にみずからの態度を反省して、相手の拒否を尊重するような描写が挿入される作品が、ポルノ・ビデオの一つのフォーマットになることはあり得るだろうか。あり得ない。なぜならば、それは、男性の享楽の邪魔になるからだ。男性が女性に一方的に負わせているリスクを意識に浮上させないことが、ポルノグラフィの虚構の消失点だからだ。ポルノグラフィのなかで性的対象としての肉に還元された女性は、妊娠のリスクも不本意な行為を強いられる不安も、なにも思いおよばないかのように、あけっぴろげに性を享楽する姿で、描きだされる。男女の苛烈な非対称性は、あいまいにぼかされる。もちろんそれは、ファンタジーである。ヘテロセクシュアルな男性に都合のよい性的ファンタジー、“女性であること”の傷つきやすさに配慮する描写は、視聴者に面倒くさがられ売上げがさがるだろうことを懸念する、ポルノ業者に益するファンタジーだ。その愛嬌らしい女性たちが身もだえする極甘のファンタジーの皮一枚下には、迫害された女性や、生きたまま母胎から排出された幼体のしかばねが──現実のものも想像のものも──累々と横たわる。その腐臭の否認こそ、ポルノグラフィ反対運動に参与した女性たちが、決してゆるすことのできなかった最大の罪にほかならない。
 言うまでもなく、われわれの社会は、いまだヘテロセクシュアルな男性の性的ファタジーが主流に居座っている世界であり、その傾向はとうぶん退くことはなさそうだ。男女の非対称性をあいまいにしたまま、性愛は共同体の再生産に必須のものとみなされ、独り身の女性には、結婚や子供をもつことへの圧力が、周囲からおしよせる。ポルノグラフィ産業は、依然としてビッグ・ビジネスである。性犯罪についてのあやまった偏見は、正しい知識(性犯罪者が目をつけるのは派手な服装や外見ではなく、無抵抗そうなおとなしい女性である/顔見知りによる性犯罪が三割以上をしめる/性犯罪被害は現場だけで完結せず、その後も長期にわたって身体・精神を外傷的にむしばむ/性犯罪の被害申告率は約十五パーセントと非常にひくく、認知されない暗数が相当ある)によって解除可能なはずなのに、被害者を愚弄する偏見は、くみつくしても、くみつくしても、湧いてでてくる。男性がみずからの性的な主体性をほとんど生得のものと見なして、そのことを得意がりさえするのにたいし、女性の性的主体性は、いまだにエネルギーを費やし闘い取らなければならない、なにものかである。なぜ、こうなのか。いや、もちろん女性の性的主体性を尊重する優しい男性も、数多く存在するにちがいない。さほど女性の人格に侮辱を加えないポルノグラフィも、ありはするだろう。身近な男性の援助によってすくわれた性犯罪被害者も、いるだろう。しかし、つねに性愛に呪われた男女の非対称がつきまとい、しかも、あたかもそのことが自然であり、普通のことであるかのようにヌルく肯定され、あるいは男性にも女性にも性欲はあるのだからお互いさまだ、というような脂下がりが社会に瀰漫しているかぎり、なしくずしに異性愛の歯車は回転し、性差はたびたび悪用され、性暴力の死角と盲点は、増殖していく。個々の誠実をつみ重ねようと、その過悪の底なしの浸透を、どうしようもない。なぜ、こうなのか。なぜ、世界はそうなっているのか。
 たしかに、ラディカル・フェミニズムのポルノグラフィ反対運動は、まちがっていた、と評価し得る。ポルノグラフィの実在が、男性の性的ファンタジーが主流であることの原因であるというよりは、その結果であると見なすならばだ。たとえポルノグラフィが法的に禁じられた社会でも、やはり男性の性的ファンタジーは、別のかたちで噴出し、男女の非対称は否認されるか、あるいは社会に取りこまれ悪用されるだろうことは、想像にかたくない。つまり、法的措置によって今の社会構造が根本的に転回することは、ない。おそらくラディカル・フェミニストたちも、そのことはわかっていたように思われる。マッキノンはともかく、アンドレア・ドウォーキンの著作のなかには、ポルノグラフィを禁じることによっておとずれる新しい社会への希望よりは、凍りついた、絶望へのまなざしが透徹している。いや、ここでわざわざ勿体ぶる必要はない。アンドレア・ドウォーキンの思想について、すでに多くの論者によって指摘されていることを、以下の引用によってしめそう。「性交されることと所有されることは、不可分の同一事であり、その同一事の二つが合体した時に、男性優位という社会制度の状況下での、女にとってのセックスが生じる。そのような性交において、男は、おのれの支配の地勢を表現する。女のセックスも女の内側も、男としての彼の領土の一部になる」「今日セックスは、犯す者の優越性を表現する作り話などを必要としない、あからさまな権力なのだから、セックスは必ずしも情熱や情愛を要しない。セックスは、女に対する男の侮蔑心の、不毛だが混じり気のない、正式な表現形態である」──そう、『ポルノグラフィ』のほかに『インターコース』という主著をもつアンドレア・ドウォーキンが、ポルノグラフィ以上に敵視していたのが、性行為そのものであった。ヘテロセクシュアルな男性の性的主体性が自明とされるような共同体の、細胞となっている「家庭」という領域、その起源である「性行為」そのものに照準を合わせた、攻撃。二つの性が交錯すること自体の、拒絶。ラディカルの自乗。もとよりポルノグラフィの撲滅という理念が、たんに人権の尊重や平等の理想へむけた進歩の是認ではなくて、女性にはゆるされず男性にはゆるされてきた主体的な性的ファンタジー(異性の性的客体化)そのものの破壊をまで、望んでいたとするならば──つまり、ジャン・アメリーがすべてのドイツ人に要求したのとおなじく、全男性の自己否定をこそ、望んでいたとするならば──その理念は、ついに、性行為の廃絶にまで不可避的に突き抜けずにはいない。そうではないだろうか。ドウォーキンが著作のなかで具体的なヴィジョンを描きだしているわけではないが、かりそめに忖度し、彼女の絶望が唯一とりうる希望の形態を構想してみるならば──それは、世界の全女性が連帯しての「ゼネラル・アンチセックス・ストライキ」というヴィジョンに結実するように、思われる。すべての女性が性交を拒絶することによる、共同体の内部破壊。放射能で染色体をずたずたにされた身体と類比的に、共同体の人口を更新し新たにうみだす環を断ち切ること。未来を望まない革命という、遅効性の黙示録。そのようなおぞましいヴィジョンこそ、ポルノグラフィ反対運動の至点なのだとしたら、どうであろう。ドウォーキンが、そして彼女の周辺にいたフェミニストたちが、「正義よ行わしめよ、たとえ男性すべてが亡びようとも」と不可能な願いを抱いたことがなかったと、言えようか。そのような彼女たちが、性行為があるかぎり性の平等はないとまで絶望した彼女たちが、法的に何かを実現すれば差別がなくなるなどという期待を、本当に抱くことができただろうか。……いいや、そんなはずはなかった、とやはり筆者には思われるのだ。
 くりかえせば、反ポルノグラフィのフェミニズムは、一旦は終った議論である(忘れられたころ蒸しかえされる可能性はあるが)。だからもし、かつてのポルノグラフィ反対運動に参与した女性たちの意志をつぐ女性が、今あらわれたとしても、「彼女」はもはや、「女性をセックスの客体と見なすことはゆるされない」とは言わないだろう。あるいは、「レイプはゆるされない」とも、「女性差別はゆるされない」とも、言わないだろう。なぜなら、そんなことは言葉のうえでは誰もが承知しているからだ。性犯罪者でさえ、フェミニストたちの正義を要求する声に無知ではない。そして、その「……はゆるされない」「……すべきではない」という戒めの声に、一応は耳をかたむけながらも、依然としてそれとは反対の事態が潜行し浸透しつづけるというのが、われわれの社会の常態だ。だから「彼女」は、「……はゆるされない」とは言わない。「……すべきでない」とは言わない。そうした正義の言葉による社会変革の希望を削ぎおとしてしまった彼女の姿勢は、たとえば、「たとい僕がまちがっていようとも、むしろ僕は恨みをはらすことのない苦しみと、いやされぬ怒りを抱いたままでいようと思う」と吐き捨てた、あのイワン・カラマゾフの姿勢に近似する。彼女はやがて、今なお性差を悪用して女性に揮われるさまざまの暴力を、ひとつひとつ掘りおこして掲示する作業に、身をうち込むだろう。そして、それらの悪業の目録によって男どもを告発し、次のような問いをつきつけるだろう。「なぜ、こんなことがゆるされているのか」。なぜ、世界はこのようになっているのか。なぜあなたがたには、女性をセックスの客体とすることがゆるされているのか。なぜ、あなたがたにはレイプがゆるされているのか。なぜ、あなたがたには差別がゆるされているのか。禁止の言葉ではない。彼女は「このようになっている」世界にたいして、おそらく「家父長制」「男性支配の性制度」といった呼称をつけるだろうが、そのこと自体はさほど重要ではない。彼女は、何かを達成すればその「家父長制」的な世界がくつがえるだろうなどといった、浅い希望をもつことはないのだ。それほどに男性に絶望している。ただ彼女は、不正が厳然として存在するという事実の証人として、「いやされぬ怒り」を抱いたままでいようと、決意する。男女共同参画社会なぞ欲しくない。そんなものは、すでに迫害された女性たちの苦しみに値しない。なぜ、女性たちを苦しめることがゆるされているのか。なぜ、女性をセックスの客体とすることがゆるされているのか。なぜ、レイプがゆるされているのか。なぜ? なぜ? なぜ? この「なぜ」にとどまることによって、彼女は、世界全体の倫理の関節がはずれていることを証言しつづけることを選ぶ。平等権修正条項には意味があるだろうか。男女雇用機会均等法は意味があるだろうか。性犯罪の厳罰化は意味があるだろうか。相対的な意味はある。しかし、その達成によって、ラディカル・フェミニズムの「なぜ?」の問いの切迫が消えてしまうのならば、ふたたびリベラル・フェミニズム的な妥協がくりかえされ、あるいは反動的で倨傲な男どもによって女性差別がミクロに行われる卑劣を押しとどめることはできず、男女のあいだに横たわる「死体の山」は、また秘かに増殖していくことだろう。われわれはもう「ハーモニー」など望むべきではない! なぜ、世界はこのようになってしまっているのか。なぜ、こんなことが現にゆるされているのか。この問いを擦り切れさせずに、つねに清新なものとしてよみがえらせるにはどうしたらいいのか。それを考えるべきではないのか。「彼女」はそのように問いかけ、そのように闘おうとする。その姿勢こそまさに、かつてポルノグラフィに反対した女性たちが発明した、ぎりぎりの異形の闘い方の継続なのである。
(しかし最後に、ここでひとつ問うておきたい。それはほかでもない、もし彼女のその闘いの意義を理解し、男性にむけた全的な告発という彼女のこころざしを我が身に引き受けることのできる「男性」がいるとしたら、それはどのような人物であるのか、という問いだ。穏健なリベラリスト? 同性愛者? 女性に性的な関心を持たない不能者? いや、どれもしっくりこない。むしろこんなふうに考えられるのではないだろうか。ポルノグラフィ反対運動にはじまる女性たちのラディカリズムを理解できるのは──しかも完璧に理解できるのは──おそらく、かつてもっとも忌まわしい性犯罪に手を染めたことのある男性だけ、女性にたいする暴力がみずからの生の一部となっているようなおぞましい男性だけ、ではないだろうか? 「彼女」にとっての最悪の敵こそが、実は性を反転させた彼女の似姿なのだとしたら、どうであろう! だが、この認識はまだここでは推測のままにとどめておこう……。)
 反ポルノグラフィ急進主義としての、ラディカル・フェミニズム。それは、すでに私刑のための銃口が自分にむけられている瀬戸際からの、思想だった。傍観者的に、「斜めから見て」、銃の保有を議論するようなところから発せられた思想ではなかった。おそらく、戦争の廃絶が不可能なように、性交の廃絶もまた不可能だ。その極致においてゼネラル・アンチセックス・ストライキという黙示録さえ夢みたかもしれない、彼女たちの思想は、勝利を断念することによってのみ(未来を望まないことによってのみ)固持することが可能な、一種の敬虔主義に近いものであった。その公的な挫折は、彼女たちの誤算だったとは言えない。ぎりぎりの当事者性に賭ける思想は、つねにゲリラ的な少数派の闘いを強いられる。もとより敗北することが信仰の証しだ。それゆえに、彼女たちの誤算は、それとはまた別のところにあったように思われる──本当に彼女たちの認識を身をもって生きる男性、彼女たちの怒りをじかに理解してしまえるような男性があらわれたとき、一体何がおこってしまうのか、という想定のもとで、彼女たちのリミットは、あらわになるように思われる。














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