プロシア士官

The Prussian Officer

デイヴィド・ハーバート・ロレンス
David Herbert Lawrence





1


 彼らは明け方より、白熱した道──ときおり灌木の茂みが束の間蔭を差すかと思えば、ふたたび赫々とかがやき出る道を、もう三十キロ以上も行軍していた。道の両側には、広大で浅い谷が、熱をひらめかせていて、暗緑色のライ麦の小さい畠が、青く未熟な小麦が、眠っている耕地と牧草地が、そして暗い松の群々が、白い輝きを放つ空の下に、くすんだ、熱れた絵模様に広がっていた。正面の彼方にはしかし、淡青にかすむ、深い静寂にひたった山脈が、横切るようにつらなり聳え、大気の深処から、雪の微光を穏やかにゆらめき放っていた。そしてその山脈へと向って、ライ麦畑と牧草地とのあいだを──道の両側に整然と並ぶふしくれだった果樹のあいだを、中隊は休む間なく行軍しつづけた。つやに輝く深緑のライ麦は、重苦しい熱を吐き、山脈は、徐々に徐々に近づくにつれ形姿を露にする。兵士たちの足裏は熱に蒸し、汗がヘルメットの下の彼らの毛髪を伝うのだが、彼らのナップザックは、もう灼けつくように彼らの肩に触れることはなく、そのかわり、冷たい、苛々と刺す感覚を発しているようだった。
 前方の山脈を見据えながら、彼は一言も口にせず一歩一歩踏み出しつづけた──大地から真直ぐにそそり立ち、幾重にもかさなりそびえ、なかば大地であり、なかば天空であり、あるいはほの青い頂きに柔らかい雪の裂け目をもつ、天の障壁のような山脈を、見据えながら歩いた。
 彼は今や、痛みなしで脚を運べるようになっていた。出発の折、彼はけっして足を引きずって歩くことはすまい、と決めていた。歩き初めの数歩から、痛みに苛まれ、それから一マイルあまり歩くあいだ、ずっと彼の息づきは締めつけられるようで、冷たい汗の粒が彼の額に浮んでいた。しかし歩くうちに痛みは薄れた。所詮それらはただの打ち傷にすぎなかったのだ。彼は朝の起きしな、よくその傷を眺めてみた──腿の裏に深い打撲が出来ていた。そして彼が今朝、歩を踏み出したときから、それらの傷は、彼の意識に疼き、この時までずっと、抑えつけられた痛みとともに、ひき絞るような熱が彼の胸裡にくすぶり、それを彼は、自身を押し殺して、堪えていたのだった。息をしても、彼にはまるで空気が無いように感じられていた。だが、今はもう、ほとんど彼は軽快に歩を進めていた。
 朝方、コーヒーを飲む大尉の手はふるえていた──彼、隊長付きの従卒は、ふたたびその手を目に浮べた。そして彼は今、先駆けて農家のところでぐるりと向き変えた大尉の、馬の背に乗った立派な風貌──緋色の襟章のついた、淡青の軍服の品格ある大尉の姿を、それから、黒いヘルメットと剣の鞘の鈍いひらめきと、絹のような馬の鹿毛につく汗の暗い濡れた筋とを、眼にした。従卒は、馬の背上で不意に揺れうごくその人影に、自身が結びつけられるように感じていた。彼はもの言えず、不可避の流れのように、大尉に影と添い、あたかも罰せられているかのようだった。そしてまた大尉の方でも、背後の、兵士たちのなかに埋もれて行軍している、彼の従卒の歩調を、つねに敏感に感じ取っていた。
 大尉は四十がらみの背の高い男で、こめかみに白髪がまじっていた。彼は整った、堂々と引き締った容姿をして、西部地方ではもっとも優れた騎手の一人だった。つねからその体をマッサージする務めのある従卒は、大尉の、乗馬者に特有の、素晴らしい腰回りの筋肉に感嘆していた。
 それ以外の点では、従卒は、自分自身を気にかけないのと同じように、ほとんど上官のことを意識していなかった。彼は稀にしか上官の顔を見なかった。ましてよく見つめることなど絶えてない。大尉は短く刈った、赤茶色の硬い髪をしている。彼の口髭もまた短く断ってあり、堅剛で、顔一杯に広がる獣じみた口を覆う。ひどくいかめしい顔つきで、頬は痩せている。おそらくは、生と格闘している男という外貌を彼に与えている、彼の顔の深い皺と、癇の立った張りつめた額とが、彼の威をなおさら増していた。冷たい炎のひらめく、彼の明るい青の瞳の上には、鮮やかな眉毛が深く生えていた。
 彼はプロシア生まれの貴族で、ひどく尊大で倨傲だった。母親はポーランドの伯爵夫人だった。若い頃に賭け事にいれこみ、多く借金を負ったことで、軍における前途を失い、いまだに歩兵中隊の長にとどまっていた。彼はまだ結婚をしたことはない。彼の境遇がそれを許さなかったし、どんな女性も結婚の想いへと彼をかり立てることはなかったのだ。彼は自分の時間のほとんどを、乗馬に費やし──時には彼は自分の持ち馬で競馬に出ることもあった──、でなければ士官クラブで暇を過ごした。時として、あえて情婦と遊ぶこともあった。しかしそうした色事の後に、日々の職務に戻って来ると、彼の額はいよいよ張りつめ、ますます眼は敵意を帯びて痛ましくなるのだった。とはいえ、兵士たちといるときには、彼は、事に触れて鬼のようになる時もあるが、大概ただ無関心な様子をしている。それだから総じて、兵士たちは、彼を畏れていたけれど、彼にひどい反感を向けるということはなかった。大尉を、彼らはただ避けようのないものとして受け入れていた。
 従卒に対しても、彼は初めのうちはただ冷静に、公平に、何気なく振舞い、些細なことで咎め立てなどしはしなかった。したがって彼の部下も、上官がどんな命令を下そうとしているか、どのように服せば気に入るのかを、察するより外は、何事も大尉について知ることがなかったのだ。二人の関係はきわめて簡潔だった。その関係の変容は、段々に、ゆっくりとやって来た。
 従卒は中背で、よく鍛えられた体をもつ二十二歳の若者だった。彼の手足は頑強で重みがあり、肌は浅黒く、黒く和らいだ、幼げな口髭をそなえていた。なにか完成された暖かみと若さとが、彼をとりまいているようだった。彼は、暗く、表情の乏しい眼──あたかもこれまでどんな思想も懐いたことがなく、つねに、自身の感覚のみを通して直に生に触れていて、彼の振舞いも、いつも本能そのままであったことを語るような──無表情な眼の上に、はっきりと目立つ眉を持っていた。
 大尉はすこしずつ、彼のまわりでゆらめく、その従卒の、若く、精力に溢れた、無意の存在感に、敏くなってきていた。従卒に身の回りの世話をさせているとき、若い人間の精気がそこにあるという意識が、彼に執拗にとりついた。ほとんど生き生きしさを失い、膠着した、張りつめて剛直な彼の老いた体に、若者の存在は、温もりある炎のように感じられた。従卒にはどこかしら気ままで、自分自身で充足しているところがあり、そして、若い男の身ごなしにあるそんな様子が、士官の意識を惹き付けるのだった。プロシア人の神経は刺立ちはじめた。彼は、従卒の生き生きした存在によって、自分が生に触れさせられることを望まなかった。しかし、部下を別の男に変えることは容易であろうのに、彼はそうしようとしなかった。今では彼は、従卒を正視するのもごく稀になり、相手の姿を避けるようにつねに顔を逸らしていた。それでもなお、若い従卒が彼の部屋を不覚に動いていると、年高の男は、彼を見つめ、従卒の、青服の下の頑強で若々しい肩の動きに、首の屈曲に、意識を凝らそうとするのだった。そしてそれらはますます彼を苛立たせた。従卒の若々しく、褐色で、労働者のものである形良い手が、ひと塊のパンや、ワイン・ボトルを掴むのを見ると、年高の男の血漿に、嫌悪と怒りのひらめきがふるえ伝わることさえあった。その若者が、愚図だからというわけではなかった──むしろ、束縛されぬ若々しい獣の、盲目で、本能的な確かさをもつ仕種と動きが、そこまで士官の神経を苛立たせていたのだ。
 或る時、ワイン・ボトルが倒れ、赤い液体がテーブルクロスの上に広がり散ってしまった折、大尉は、不意に罵って立ち上がり、燃える青い両眼が、取り乱した従卒の眼を一瞬捉えたことがある。この出来事は、若い兵士にとって衝撃だった。彼は、それまでにいささかも触れられたことのなかった自分の魂の内に、深く、深く、何かが滲み入ってくるのを感じた。それは彼の心を、少し、ぼんやりした戸惑いに沈ませた。彼の内にある生来の純粋さは、いくらか失われ、かすかな狼狽が、それに取って代わった。そしてその時以来、未知の情感が二人の間に籠りはじめたのだった。
 爾来従卒は、上官との深い接触を畏れるようになった。大尉のあの鋼のような青い眼とどぎつい額の印象は、彼の意識の奥処に刻みこまれていて、従卒は、二度とそれらに出くわしたくないと思った。だから彼は、つねに相手越しの遠い彼方に目をやり、上官を避けようとした。そうしながら、彼が兵役を終える三ヶ月後がくるのを、かすかな不安に戦きつつ、待ちわびた。従卒は、大尉が身際にいることに圧迫を感じるようになり、大尉がそう望んでいたより以上に、自分の身ひとつの孤独を──従卒という中立な立場にそっとしておかれることを、望んでいた。
 彼はすでに一年以上も大尉に仕えていて、務めを熟知していた。あたかもそれが彼の本性であるかのように、彼にとって、仕事をこなすことは容易だった。まるで陽差しや雨風を受けるように、彼は大尉を穏やかに遇し、下される命令に難なく服従した。それは彼の個我をかき乱すことはない。
 しかし仮に今、大尉との私的な交わりを強いられるとしたら、彼は、囚われの野生の動物のような想いを味わうだろうし、そうなれば、その場から逃げ出さねばならないと考えるはずだった。
 ところが若い従卒の存在の精気は、すでに、士官の従来の、頑なな生の習わしに、深く彫り入り、士官の内なる自我を荒くゆさぶっていたのだった。士官は、すらりと繊細な腕を持ち、動止の洗練された紳士であり、彼の内の、本来の自我のおもむくままに振舞うことなど、およそ自分に許そうとはしなかった。士官は不断に自身を抑えつけている、烈しい気性の持ち主だった。時とすると、自制と情動とが咬み合い、兵士たちの前で感情を破裂させることもある。彼はいつも自分が堪忍の切れる瀬戸に立っているように感じていた。だが、軍人としての威儀が彼をかろうじて縛っていた。それに対して、若い従卒の方は、彼自身の暖かい生と満ち足りた本性をまっとうしており、その暖かい本性を、野生の動物ののびやかな動きに似た、魅力ある、まさに彼固有の、しなやかな動きのなかで発散しているかのようだった。そしてそれこそが、士官に我慢ならず、彼を苛立たせる当のものなのだった。
 思うにまかせず、大尉は、従卒に対しての平静な態度に戻ることができなくなっていた。のみならず、ただ従卒を放っておくこともできなかった。強いられるように、彼は従卒に目をつけ、厳しい命令を与え、従卒の時間をあたうかぎり奪い尽くそうとした。ときおり大尉はにわかに激昂し、従卒をむごく虐げた。そういう場合には、従卒は、あたかも上官の怒声が遠い響きであるかのように、自身を閉ざし、鬱々と、紅潮した面差しで、騒ぎがしずまるのを待った。どんな言葉も彼の理解に触れることはなく、彼は鈍い殻に隠り、上官の情思が彼に流れこむのをふせぐのだった。
 従卒の左手の親指には、付け根の関節まで及ぶ縫い目のような傷跡があった。士官はそれが痛いほど気にかかって、以前からずっと、それを詰ってやりたいと考えていた。今もそれは、従卒の若々しい、褐色の手の上に、醜く、惨たらしい痕を見せている。そしてついに、大尉の自制は折れた。或る日、従卒がテーブルクロスの折り目を伸ばしている最中に、突然、上官はその親指を鉛筆で突き、圧しとどめ、そして、訊ねた。
「その傷跡はどうしたんだ?」
 若い従卒は怯え、身を引いて直立の姿勢をとった。
「木斧による傷であります、大尉殿、」と彼は答えた。
 さらに続きの説明を士官は待った。しかし、それで終いだった。従卒はまた自分の職務にもどっていった。年高の男は、鬱勃とした怒りを陰にこもらせた。彼は、部下に避けられているのだ。明くる日、彼はその親指の傷跡を意識しないためだけに、意志の力をすべて集中させなければならなかった。できるなら彼は、その指を握りつかんでやりたかった、そして、そして……。赫とした熱が彼の血を駆けめぐるようだった。
 士官は、遠からず、従卒が兵役を終え、解放の歓びを迎えるだろうことを、知っていた。これまでのところずっと、従卒は、自身と上官とのあいだに隔てをつくっていた。大尉の忿恨は悍しいまでにつのった。従卒が姿をあらわさなくても、従卒が傍にいても、彼の気は休まらず、彼は従卒を苦しみに歪んだ眼でにらみつけた。士官は従卒の、翳りのない暗い眼の上を走る、細い、黒々とした眉を憎んだ──また、軍の規律に縛られることのない、従卒の、形良い手足のしなやかな動止を眼にすることは、士官を赫怒につき落とすのだった。彼はいよいよ酷薄に、無体に、侮罵と嘲弄の言葉をもちいて威張り散らした。若い従卒は一に、ただ言葉すくなに、無表情になっていくばかりだった。
「人の眼をまっすぐ見られないとは、一体どんな躾けを受けて来たんだ、お前は? 俺が話しているあいだは、俺の眼を見ろ。」
 すると従卒は暗い瞳を相手の顔へ向けたが、しかし、それは何も見ていない眼差しだった──彼はできる限り目色をかすかに抑え、眼差しを虚しくし、上官の青い瞳を認めてはいても、そこからどんな視線も受け取らぬようにしていた。年高の男の顔は青ざめ、赤茶けたその眉は、ひきつり顫えた。それから彼は、無要な命令を従卒に与えるのだった。
 或る時、突として、士官は重い軍用手袋を若い従卒の顔に投げつけた。すると、日頃動じなかった従卒の黒い眼のうちに、藁が燃え立つときのような、光熱が、輝きゆらぎ、それを見て、士官は満足の戦きを覚えた。彼は幽かに震えながら、嘲り笑った。
 だがそれも、あと二ヵ月が過ぎるまでのことのはずだった。若者はつねに自身を荒れさせぬよう、本能から気を配っていた。士官をあかたも人間ではない、抽象的な権威であるかのように遇して服していた。彼は本能的に、個我の交わりを避け、明らかな悪心も懐かぬようにした。ところが、彼の意に反して、憎悪は積み重なっていき、彼は、士官の激情にゆさぶられるようになってきていた。ともかくも、彼はそうした情念を奥処へ沈めた。そんな情念は、彼が軍隊を離れてから省みればよいものだった。生来の気性から言えば、彼は快活な男で、多くの知人友人もいる。しかも友人たちはみな驚くほど気のよい連中だった。今はしかし、知らず識らず、彼は独りでいるのを好んだ。この孤独癖は一層濃くなっていた。その孤独が彼に、兵役を最後まで堪え抜かせてくれるだろう。しかし今や、士官は日に日に尋常でない苛立ちを帯びていくかに見え、若者は、それにひどく脅かされつつあった。
 若い兵士には恋人がいて、それは、山の家に育った、自分自身の働きをもっている、素朴な娘だった。二人はとても静かに、連れ立って歩いた。彼は言葉は無しに、けれど彼女の肩にまわした手で肉体の触れ合いを交わしながら、歩いた。それは彼に安らぎを与え、大尉のことを遠い出来事のように感じさせる。彼の胸に重みをあずける彼女としっかり抱き合うのは、彼にとって憩いの時だった。彼女もまた、もの言わぬやり方で、彼と交感した。彼らは互いに愛し合っていた。
 大尉はそのことを知り、狂おしく憤激がつのった。彼は幾日もつづけて、夕刻のあいだずっと、若者を務めに従事させ、暗い表情が従卒の顔に浮ぶのを、喜びをもって眺めた。時として彼ら二人の目線は交錯した──若者の、頑なに隔てをつくる暗鬱な眼差しと、年高の男の、絶えず侮慢を帯びた、嘲りの眼差しとが交錯した。
 士官は自身をとらえ尽くしている情動を、必死に認めまいとしていた。従卒に対する彼の感情が、決して、ただ愚かでひねくれた部下に対しての不満などではあり得ないことを、彼は知ろうとはしなかった。したがって、平素のごく無難な感情はよく把握していながら、その裏の激情は、嵩じるままにさせていた。彼の神経はしかし、切羽詰まってきていた。ついには彼は、故意に従卒の顔を、革ベルトの端で打ち叩いたことさえあった。そしてそういう時、後ろへ引き下がった若者の、眼に痛みの涙が浮び、唇に血が滲むのを見ると、一時に、震えるような歓びと羞恥とが、士官の身内を衝くのだった。
 しかしこんなことを、彼は今までについぞしたことがなかったし、それを自分でも分っていた。もはや従卒の存在は、彼に苛烈な刺激となって触れてくる。このままでは彼の神経はきれぎれに滅してしまうに違いなかった。士官は幾日か休暇をとり、女のところへと逃れていった。
 それは、かりそめの慰みだった。彼はいささかも女の感触を求めてなどいなかったのだ。が、休暇のあいだずっと、彼は女のところにとどまっていた。そしてそんな一時が過ぎ去ると、彼は焦げるような、身悶えするような苛立ちと、惨めな苦痛をかかえて、ふたたび帰って来た。夕刻のあいだ馬を駆りつづけ、彼はそのまま夕食の卓におもむいた。従卒は出かけていた。士官は、すらりと繊細な腕を卓の上に横たえ、まったき静けさのなかにじっと坐り、自分の体の血という血が、みな錆びていくかのように感じていた。
 従卒も晩く戻って来た。逞しい、しなやかな若々しい体つきと、濃いまっすぐな眉と、ゆたかな黒髪が、士官の眼に映った。一週間のうちに若者はかつての健やかさを取り戻していたのだ。士官の腕は硬くひきつり顫え、狂おしい炎につつまれたようにさえ見えた。若い従卒は直立の姿勢で、動じず、静かに立っていた。
 夕食の時は無言のうちに流れていった。しかし、従卒はいそいそと焦っているようだった。従卒の食器はかちかちと耳立つ音をたてた。
「なにを急ぐんだ?」と、士官は、部下のひたむきな、上気したような顔をじっと見て、訊ねた。従卒は応えなかった。
「おい、俺の質問に答える気はあるのか?」大尉は言った。
「はっ、」従卒は、重ねた深皿を持って立ったまま、応えた。大尉は、しばらく間をおいて、相手を見据えてから、ふたたび訊ねた。
「急いでいるのか?」
「はっ、」と応えが返った。それは閃光のように聞き手を衝いた。
「なぜだ?」
「外出の用があるのです、大尉殿。」
「だが、今晩はお前は仕事だ。」
 戸惑いの一息があった。士官は奇妙に強ばった顔つきをしていた。
「はっ、」と、咽喉にこもった声で、部下は応えた。
「明日の晩も、お前には居てもらわなくちゃならない──、いや、それだけじゃない、俺が許可を出すまで、今後、お前に晩の自由な時間はないものと思え。」
 若々しい髭をもつ口許がきつく結ばれた。
「はっ、」束の間唇を解き、従卒は答えた。
 従卒はまた戸のほうへ向き直った。
「それと、お前はなぜ、耳に鉛筆を挟んでるんだ?」
 従卒は、少し躊躇ってから、問いに答えぬまま、自分の動作の流れに沿った。戸の外にある皿の重なりに、自分の皿を置き、耳に挟んでいた短い鉛筆を服のポケットに収めた。彼はその鉛筆で、恋人のバースデイ・カードに詩の一節を書き写していたのだった。彼は卓を仕舞いまで片付けるために、ふたたび戻って来た。士官の眼は震えており、かすかな、じりじりした笑みを顔に浮べていた。
「なぜ、鉛筆を、耳に、挟んでるんだ?」彼は訊ねた。
 従卒の手は積み上げた皿でふさがれていた。上官は、緑色の大きい暖炉の傍に立ち、かすかな笑みを浮べ、顎を突き出している。それを目にすると、若い従卒の心臓は、かっと燃え立った。目が眩んだ。彼は問いに答えないで、覚束ないまま、戸口に向って歩いた。彼が皿を下へ置こうとかがみ込んだ、その瞬間、不意に、背に、蹴りの一撃を受け、彼は前へ吹っ飛ばされていた。皿の山が階段をなだれ落ち、彼はかろうじて手すりの柱を掴んだ。しかし、起き直る前に、ふたたび彼は獰悪な一撃を受け、蹴られ、また蹴られ、彼は、息も絶え絶えに手すりに縋りついた。やがて上官は、素早く部屋の中へ消え、戸を閉めた。階下の料理女が、瀬戸物の破片の散らばった階段を見上げて、鼻白んでいた。
 士官の心臓は躍り上がるように打った。彼は幾らか床にこぼしながら、自分でワインを注ぎ、緑色の、冷えきった暖炉に寄りかかって、それをぐいと呷った。階段で従卒が皿を拾い集めている音が聞えた。淵酔したような、蒼ざめた顔で、彼は待ち受けた。彼の部下はふたたび部屋に戻って来た。従卒が畏怖の表情で、痛みに足をぐらぐらさせているのを見ると、大尉の心臓に、喜びの疼きが、鋭く差し込んだ。
「気をつけ!」と彼は言った。
 兵士はややもたついて直立の姿勢をとった。
「はっ。」
 若者は士官の前に、痛ましい幼げな口髯と、暗く滑らかな額に、くっきりと綺麗な眉を見せて、立っていた。
「俺はお前に質問したんだ。」
「はっ。」
 士官の声は、酸のような尖りを帯びて来た。
「なぜ鉛筆を耳に挟んでいたんだ?」
 ふたたび従卒の心臓はかっと燃え立ち、息もつけぬほどになった。暗い、はりつめた眼で彼は、あたかも憑かれたように士官を見つめた。そして彼は茫漠と、堅く根を張ったように立ち尽くしていた。脅すような笑みが、大尉の眼にゆらめき、そして大尉は片足を持ち上げてみせた。
「わ──、忘れました──、大尉殿、」と、従卒は息急しく言った。彼の暗い眼と、相手の輝き揺らぐ青い眼とは、堅く交わっていた。
「その鉛筆を何に使ったんだ?」
 応えの言葉を探そうとして、若者の胸落が苦しくうねるのを、士官は見た。
「書きものをしたのであります。」
「何を書いてたんだ?」
 ふたたび兵士の眼差しは動揺した。士官に、従卒の苦しい喘ぎが伝わった。笑みがその青い眼に浮んできた。兵士は、涸れた咽喉に力を入れたが、声は出なかった。突として、嗤笑が士官の顔を火のように走り、と思うと、重い蹴りが従卒の腿を打った。若者は脇に一歩よろめいた。彼の黒い両目は張りつめ、顔色が死んだ。
「で、どうなんだ?」士官は言った。
 従卒の口腔はからからに乾き、舌を這わせても、まるで枯れた茶色の紙を擦るようだった。彼は咽喉に力をこめた。士官は足を上げた。従卒は身を凝らした。
「ちょっとした、詩であります、」彼の声はひび割れ、あやふやな響きだった。
「詩? 何の詩だ?」病的な笑みのまま大尉は訊ねた。
 ふたたび従卒は咽喉が詰まった。すると急速に、大尉の心は、重く淀んで、そして彼の立ち姿に衰色と疲れとがあらわれた。
「恋人に宛てたものであります、」と、乾いた、非人間的な響きを、士官は聞いた。
「そうか。」と彼は言い、体を背けた。「テーブルを片付けろ。」
「ごくりっ、」という音が、一度ならず、従卒の咽喉を下っていった──「ごくりっ。」それから、やや明瞭な声が立った。
「はっ。」
 部屋を去った若い兵士は、足を重たげに運んで、まるで老い込んだようだった。
 独り残された士官は、身を強ばらせ、何事も想い乱さぬようにしていた。彼の本能が、今は何も考えてはならないと告げていた。彼の内奥では、満足した強烈な情動が、まだ後を引いて波打っていた。だが、それから、揺りもどしのように、彼の内で、何かが無惨に裂け崩れていき、反動の凄まじい苦しみが襲った。彼はその場に一時間あまりも、身じろぎせず、飛び交う感覚に揉まれながら、しかし、何事も把握せぬよう意識を頑なに空白のままにして、立っていた。ひどく重い圧痛が過ぎ去るまで、彼は身を持し、それから酒を飲みはじめると、正体を失うほどに飲み、すべてを眠りのなかへなだれ消してしまうまでに、飲んだ。翌朝、目を醒した彼は、本能の根方まで動揺している自分に気づいた。しかし、彼は必死に彼が為したことの自覚を遠ざけた。彼は、ひたすらその事実を意識に寄せつけず、本能とともに深く抑えつけてしまい、自分はそれと何の関わりもないのだと思い込んだ。泥酔の後のような膿んだ気分はあったが、しかし、あの事件はおのずと輪郭がぼやけたようで、形を取り戻すことはなかった。激情に心を喰われてしまったという記憶を、彼は巧く自分から隔てた。従卒がコーヒーを持って入って来た時にも、彼は、それまでの朝と同じ態度をとった。彼はあたかもそれが起らなかったかのように、昨夜の出来事を、記憶から葬り、否認しとおした。彼はそんなことをした覚えなどないのだ──彼に咎はない。何が起ったにせよ、もとより、あの愚かで、反抗的な部下の咎なのだ。
 従卒はその日の宵を、ずっと茫漠とした無感覚のなかで過ごした。涸びた咽喉をうるおすためにビールを飲んだが、幾らも飲まぬうちに、アルコールは昨夜の記憶を抉り出し、彼を苛んだ。あたかも、彼の内の息精が九割の余失われてしまったかのように、彼の身体は、重たるくなった。彼は憔悴したように、辺りを歩きまわった。今なお、士官に蹴られたことを想い出すと、彼は鬱屈し、また、あの部屋でさらにその後揮われた脅しを想うと、彼の心臓は燃え立ち、気が遠のき、そして彼はあの時経験したのと同じ熱をふたたび感じて、息が上ずるのだった。彼は「恋人に宛てたものです、」などと応えることを強いられたのだ──そのあまりの陰惨さに、彼は泣きたい気も起らなかった。彼の口許はまるで白痴のように、しまりなく垂れた。彼の意識は濁り、荒廃した。そしてその晩の彼の仕事ぶりは、不様に、鈍くさくへまばかりして、とりとめがなく、箒を意味なく無闇に弄ったりし、或いはまた、一度椅子に腰をおろすと、彼はふたたび立ち上がる気力をほとんど失ってしまうのだった。彼の四肢も彼の口許も、生気無く、痺れていた。しかしそんな風でありながら、彼は疲れがひどかった。ようやく寝床へつくと、身体の強ばりは緩み、彼は鉛のように眠り込んだが、それは、安らかな眠りというよりは、むしろ昏睡のようであり、ほの光る苦痛だけが射し込む、生から切り放されたような夜の眠りだった。
 明くる朝には、演習が予定されていた。しかし従卒は、起床のラッパが鳴るより早く、目が醒めた。疼くような胸の痛みが、咽喉の渇きが、たえまない惨めな懊悩が、目を醒すやいなや、彼を暗澹とさせた。憮然として、彼は自分の今の状況をさとった。またもや一日が始まるのだ──彼がやり過ごさなければならない一日が。夜の闇の最後のひとひらが、部屋から追い出され消えようとしている。いずれ彼は、脱け殻のような身体を動かし、この一日を切り抜けなければならない。彼は若く、生の困難と苦しみとにいまだ無知であったので、自分の重い気分を訝しんだ。彼はただ、ずっと夜が夜のままとどまってくれればいいのにと思った──それなら闇に覆われたまま、彼はずっと静寂のうちに横たわっていられる。しかしもはや、日が昇るのを妨げ得るものはなにもなく、起床し、大尉の馬の鞍を準備し、大尉のためにコーヒーを淹れるという務めから、彼を逃れさせてくれる何ものもないのだった。すべては不可避なことだった。そして彼は、もうそれらに堪えられないと感じた。だが逃れるすべはない。床を出て、大尉へコーヒーを持っていく務めが彼に課せられている。彼はその事実をのみ込もうとして、頭がひどく眩んだ。彼が分ったのは、自分がどれほど永く無為に横たわってようとも、それらは不可避であるということだけだった──不可避なのだ。
 ようやく、彼は重い気怠さに伏した身体を、引き上げるようにして、起きた。しかし彼は身の節々に力を凝らして、意気を絞って起き上がらねばならなかった。彼は茫然と、空ろさと不如意とを感じた。それから彼がベッドの手すりを掴もうとした、その瞬間、突然、鋭い痛みが走った。腿を見ると、彼の浅黒い肌に濃く黒ずんだ打ち傷が目に入った──その傷は、指で圧せば、堪えられないような激痛を発するだろうと思わせるものだった。しかし彼はそんな苦悶をあらわにしたくなかった──誰に何ごとも知られたくない、と思った。今まで誰も、彼と大尉のあいだの不穏に気づいた者はないはずだった。彼と大尉だけが、対峙しているのだ。今やこの世には二人の人間しか存在しない──彼自身と、大尉と。
 そろそろと、傷をいたわりながら、彼は身じまいをして、ともかく歩き出した。彼の手近にあるものの外は、なにもかも朧ろに感じられた。しかし、どうにか一つ一つ彼は仕事をこなしていった。脚の激痛が却って、鈍くひろがっていこうとする彼の感覚を、呼び戻してくれた。もっとも避けたい仕事が最後に残った。彼は盆を手に大尉の部屋へ向った。士官は、蒼ざめた顔で、ものものしく卓に付いていた。士官に敬礼する際、従卒は突然、自分の実在がどこかへ失せてしまったように感じた。彼はじっと立ち尽くして、薄れていく自身の存在感に意識を凝らした──しばらくの後、彼の実在の手応えはふたたび寄り集まり、取り戻された、と思うと、今度は大尉の方が実体を晦ませはじめ、消え入っていき、それにつれ若い兵士の動悸はたかまった。彼は、この状況──大尉の存在感の消失という状況、彼を生き延びさせてくれるであろうこの状況──を固守しようとした。だが、コーヒーを飲もうとする士官の手が震えているのを見ると、彼の内で、すべてがまた砕け散ってしまった。分解されて、散り散りになったような自身を感じながら、彼は部屋を去った。そして、ライフル銃とナップザックを肩に突っ立ち、痛みで朦朧となっている彼の目に、大尉の、馬の背上で命令を発している姿が触れると、彼は、目を瞑らなければならない──周囲のなにもかもに対して目を閉ざさなければならない、と思うのだった。涸れ乾いた咽喉で、長い長い行軍の苦しみに身をゆだねるうちに、彼の意識は、ついには、一つの、微睡みのような、鬱勃とした意志に憑かれていった──すなわち、どうしても自分を救わねばならない、という意志に。




2


 彼は咽喉の渇きにも、徐々に慣れつつあった。雪が覆う山の頂きは、空に閃きを放ち、そのふもとの谷の、青くかすんだ浅みを、緑色を柔らかく帯びた白い凍った河が縫っている──それは、深い神秘につつまれた光景だった。だが、熱きれと渇きとが彼を朦朧とさせていた。彼は苦しみを堪えて、足元を見ながら歩いた。彼は口をききたくなかったし、誰に話しかけたくもなかった。水と雪の薄片のように、二羽の鴎が河の上をゆれていた。陽差しのなかに充ちた、緑のライ麦の芳香は、すこし胸をむかつかせる。中隊は前へ前へと、単調に、辛く持続する微睡みのように、進みつづけた。
 次の、道沿いに平らに広く建っている農家までたどり着くと、飲み水を湛えた桶が兵士たちのために出されてあった。兵士たちはそのまわりに群がった。ヘルメットを外した彼等の、汗みずくの毛髪から、湯気がたちのぼった。大尉は馬の背に乗ったまま、目を凝らしていた。彼の眼は従卒の姿を求めていた。大尉の明々とした、獰悪な両眼は、ヘルメットの影に隠れ、口髭と唇と顎が陽差しにさらされ輪郭を明らかにしていた。その馬上の人影の存在に、従卒は、始終圧迫されつづけた。彼は畏れ、怯えていたわけではない。彼はまるで内腑を抜き取られたかのように、空虚を──空の貝殻のような空虚を感じていたのだ。自分は無であり、陽光の下を匍う影にすぎない、と彼は思った。大尉の存在が身際に感じられて、彼は、咽喉が渇いていたにもかかわらず、ほとんど水を口にできなかった。彼はヘルメットを脱いで濡れた髪を拭おうともしなかった。彼はできるなら、影の存在にとどまりつづけ、正気に返りたくなかった。出発の折、士官の踵のひらめきが馬の腹を打つのを、彼は眼にした──大尉の馬はゆるい駆け足で遠ざかっていき、彼はふたたび、自己を行軍の放心のなかへ沈ませていった。
 だがもはや、この熱い、陽光に充ちた午前に、彼は自分を生ける存在として見出すことができなくなっていた。彼と、外のものすべてとの間に隔てができたようだった。その一方で、大尉は、なんの憚りなく、威儀を誇っている。光熱が、若い従卒の身体を射抜いた。大尉は確乎として自己の生を奢り、対して、彼の方は影のように空ろだ。ふたたび光熱が彼を衝き、意識を眩ませた。しかしそれによって、彼の心臓の鼓動は、幾らか、確かさを取り戻した。
 中隊は一まわりして折り返すために、丘を登りはじめた。すその方から、農園の鐘が、木々の上を響きわたった。密に茂った草を、裸足で刈り取っていた人夫たちが、作業を離れ、丘を下っていくのが見えたが、大鎌を肩に担いで歩くその姿は、彼の目に、長く鋭い爪の煌めきが、弓なりに人夫たちの背を貫いているかのように映った。彼らは、従卒とは何のかかわりもない、夢の中の人物のようだった。彼は冥々とした夢を見ているように感じた──まわりのものすべては形をもってそこに在るのに、彼自身は、たださまよう意識にすぎず、ただ考え知覚することのできる泡沫であるかのように、感じていた。
 兵士たちは重い足音を響かせ、ぎらつく丘の斜面を登っていった。段々に彼の頭は、小刻みに、揺れるともなく揺れはじめた。ときおり、世界が曇り硝子を透かして見られたように──非現実の毀れやすい影と化したかのように、彼の視界が暗くなった。彼の頭はもう、一歩毎に鋭い痛みを覚えるようになった。
 風は絶え、大気には香りが濃く満ちていた。あたり一面に茂った青々とした草木は、空気を青ずんだ臭気で染め、ひどく淀ませるかのように漿液を放っている。混じりけない花蜜と蜂のように芳しい、シロツメクサも見かけた。それから、かすかにつんとくる香りが、鼻を刺す──ブナノキが近くにあるのだ。やがて奇怪な騒々しい音が耳についた、と思うと、むせるような怖るべき悪臭だ。彼らは、羊の群れと、黒い仕事着の、柄の曲がった杖を持つ羊飼いの傍を通りかかったのだ。しかしなぜ羊たちは、この灼けるような陽の下で、押し合いへし合いかたまっていられるのだろう?──彼の眼に羊飼いは映っているけれど、羊飼いには自分が見えてないのではないかという気が、彼はした。
 ようやく休憩の命が出された。兵士たちは銃を叉銃に組み、そのまわりに装備を無造作に下ろして、思い思いに、丘の斜面の小さい土のつばくみの上に坐った。無駄口が交わされはじめた。兵士たちはみな、むっと熱に火照っていたが、元気だった。従卒は静かに坐って、二十キロも先きにある、大地からまっすぐに聳えている青白い山脈を、眺めた。それは山並みのあいだに青い襞を重ねて、そこからふもとへ向けて、薄ぼんやり見える河が敷きひろがり、暗い松の木の群々にかこまれた、桃灰色の砂州の上を、白とも緑色ともつかぬ水が条になって流れているのだった。その河は果てしなく伸びて、彼のいる丘の下方までも至るようだった。一マイルばかり先きには、誰かが筏を漕いでいる。いかにも言い知れぬ眺めの土地だ。もっとそばには、赤い屋根の、白い土台と点のような四角い窓をもつ、幅広の農家が、森の端の、ブナノキの茂った葉の壁に触れるように、うずくまって建っている。ライ麦とシロツメクサと、瑞々しい緑色をした小麦の植わった、細長い畠も見える。そして彼のすぐ足元、土のつばくみの裾には、暗色の沼があり、幾つものキンバイソウが、きゃしゃな茎で張りつめたように立っている。ほのかな金の粒子が、あたりにまばゆく撥け、砕け散っては、空中にただよう。彼は眠ってしまいたい想いに襲われる。
 しかし不意に、彼の目前にかすむ幻の彩りのなかに、何かがひらめいた。小麦の畠のあいだを、大尉の、明るい青と緋色の、小さな形姿が、丘の平らな崖端に沿って、落ちついた速足で馬を駆けさせていた。やがて、信号旗手が大尉に近づいていった。馬に乗った大尉の姿は、尊大に、端然と動き、午前の明るさの一切を身に帯びたように、輝いて、敏捷な存在で、あたかもそれ以外のすべては繊弱な陽炎になってしまったかのようだった。朴訥に、無為に、若い従卒は坐り込んで、それを見据えていた。しかし大尉の馬が駆け足をゆるめ、こちらへ向かう険しい小道にさしかかったのを見ると、すさまじい閃光が従卒の身体と魂の上を爆ぜた。彼は坐って待ち構えた。彼の後ろ頭は、まるで残酷な熱のはためきを負って重くなったようだった。彼は何の食べ物も口にする気がなくなった。動かすたび、彼の手はかすかに顫えた。その間にも、ゆっくりと、威儀を誇って、馬の背に乗った士官は近づいてくる。従卒の魂に緊張がこもった。そして大尉が鞍の上で安意にくつろいでいるのを見ると、彼の内をまたも熱い閃光が脈打つのだった。
 斜面に群がり散った、明るい青と緋色の斑々を、そして無数の暗い頭を、大尉は見やった。彼は喜びを覚えた。兵士たちに対する彼の優越が、彼を嬉しがらせるのだ。彼の自尊心は昂っていた。彼の従卒も、そうした兵士の一人として、目立たず服従している。彼はよく眺めるため、鐙を踏んでちょっと腰を浮せた。若い従卒は顔を背けて、口を噤んで坐っていた。鞍の上で大尉は晴れ晴れしさを感じた。引き締った脚をもつ、ブナの実のような茶色の毛をした、美しい彼の馬は、誇らしげに道を登って行った。大尉は兵士たちの人いきれのなかを通った──男たちの、汗の、皮革の臭いがむしむしと立ちこめていた。それは彼になじみ深い熱気だった。中尉と言葉を交わしてから、もう少し先へと登って、それから馬を降りて、坐った──まさしく、彼は今、尾をしならせる、汗の跡のついた彼の馬をそばに、支配者然として、兵士たちに臨んでいるのであり、対して、彼に見下ろされている従卒は、兵士の群れに没してもう何者でもなくなっていた。
 若い従卒の心臓は、胸裡で火と燃え、彼の息づかいは低く苦しくなった。丘を見下ろしている士官のもとへ、水を湛えた二つの桶を間に持った、三人の若い兵士が、輝く緑の野を横切って、よろつきながら登って行った。樹の蔭に食卓が組まれていて、痩躯の中尉が、勿体らしくせこせこ指図していた。大尉は、少し勇気の要る行動に出るため、意識を整えていた。そうして、従卒を呼び寄せた。
 命令を聞くや、若い従卒の咽喉に、ぱっと炎がこみ上げた。彼は片息でゆらりと立ち上がった。士官の下手に、彼は敬礼して立った。彼は目線を合わせなかった。が、大尉の声の震えの尖りは伝わった。
「一走り居酒屋へ行って、何か持って来い……、」と士官は命を下した。「今すぐだ!」追い立てた。
 その大尉の声が耳を過ぎると同時に、従卒は、目が眩み、心臓が跳ね、暗い力が自分の身体にみなぎって来るのを感じた。しかし彼は、機械的な従順さで向きを変えると、熊さながらに、弛んだズボンが軍靴にかぶさったままに、重い駆け足で、丘を下って行った。士官は、その従卒の、自己を失ったように、夢中に駆けおりる姿を、視界から消えるまで、ずっと眺めていた。
 ところがそんな風に機械的に屈従していたのは、従卒の身体の外面に過ぎなかった。彼の内部では、若々しい生命の精気のすべてが、密に凝結し、ゆっくりと核をなしはじめていたのだ。課せられた命をはたして、彼は疲れた足取りで、急いで、丘を登って行った。歩くたびに鋭い頭痛がし、知らず識らず顔を顰めていた。だが彼は胸の奥の芯のところでは、自分自身を一に、しっかりと固持し、けっして自己を細かく散らさないようにしていた。
 大尉はすでに森の中へ行ってしまっていた。兵士たちの熱く、濃い息吹きのなかを、従卒は俯いて通り過ぎた。得体の知れない精気の波が、彼の内でうごめいていた。もはや大尉が彼以上に強く実在しているとは思われなかった。彼は緑の濃い森の入口に近づいた。そこで、陰日向の境に立っている馬を彼は目にした──日の光りと、葉の茂りの蔭のはためきが、馬の茶色の体躯の上をちらちら踊っていた。あたりは過日樹木が切り払われたばかりらしい、空き地になっていた。そして、眩しい陽光が傾げられているすぐそばの、緑金の葉蔭のなかに、青と桃色と、二つの人影が立っていて、その桃色の人影が少し輪郭を露にした。大尉が、中尉に向けて話しているのだった。
 従卒は、空き地の縁に──皮をはがれ、むき出しに輝いている巨きな樹の幹が、まるで手肢を伸ばした、褐色の肌をした裸身のように、幾つも倒れている、明々とした空き地の縁に、立っていた。踏みしだかれた地面には、木の屑が、こぼれ落ちた光りのように散っていて、そこここに生えた木の切り株は、生のままの平らな断面を見せている。向こう側、日に照らされて煌めくのは、ブナノキの緑だ。
「では、俺は馬で先へ向かうことにしよう、」という大尉の声を、従卒は耳にした。中尉は敬礼して、大股に去って行った。従卒は、意を決して進み出た。重い足取りで士官に近づいていくあいだに、熱い閃光が彼の腹で発火した。
 よろよろと迫ってくる、若い従卒の鬱勃とした姿を見ると、同じく、大尉の脈管にも火がめぐった。二人は直に向き合おうとしているのだ。大尉は従卒の、頸を屈曲させ、ゆらめいている頑強な姿を前にして、圧迫を感じた。従卒は身をかがめて、切り株の水平な断面に食べ物を置いた。従卒の、赫灼とした昂りを秘めているような、その裸の手から、大尉は目を離さなかった。彼は話しかけようとしたが、言葉が口に出なかった。従卒は腿で瓶を支えて、コルクを引き抜き、ジョッキにビールを注いだ。やはり彼は頸を屈曲させていた。大尉はジョッキを受け取った。
「今日は暑いな!」と、大尉は親しげに語りかけた。
 炎が従卒の心臓で弾け、熱い鋭気が外へ溢れそうになった。
「はっ。」彼は、奥歯をかたく噛んだまま、応えた。
 大尉が咽喉を鳴らしてビールを飲む、その音を聞いていると、従卒の腕首に恐ろしい衝迫がこみ上げ、彼は固くこぶしを握りしめた。ジョッキの蓋を閉める、かすかな高い音が立った。彼はふっと目を上げた。大尉が彼を見つめていた。従卒はすぐに目を反らした。それから大尉は、切り株の上のパンを手に取ろうと、身をかがめた──それが彼の目に入った。傍らにかがむ、強ばった肉体を見下ろすうちに、またも、従卒の内を炎が爆ぜ、彼の手は引き攣りふるえた。彼は顔を横へ向け変えた。彼にも、士官がどこかぎくぎくしているのが伝わった。ちぎろうとして、士官はパンを落とした。士官は別の一切れを手にした。静止した、今にもひび割れそうな張りつめた空気のなかに、二人はいた──上官は苦慮しながらパンを噛みこなしていて、部下は、こぶしを握りしめ、顔を背けつつも目をそばだてている。
 不意に若い従卒はびくっとした。士官はふたたびジョッキの蓋を開けていた。その蓋と、そして白い手がジョッキの柄を掴むのを、従卒は惹き付けられるように見た。ジョッキが持ち上げられる。従卒の眼がその動きを追う。そして彼の凝らした眼に、士官の、細い、屈強な咽喉がビールを飲むにつれ上下に動き、その頑丈な顎が次第に傾くのが、映った。と、思うと、不意に、前触れなく、彼の腕首に込められていた衝迫が解き放たれた。従卒は、おぞましい炎に自分が焼き切られたように感じながら、飛びかかった。
 靴の踵が根に引っ掛かった。士官は、身体の重みで倒れ、いきおい背の中心を切り株の鋭い縁に激しく打ちつけた。ジョッキが吹っ飛ぶ。すかさず、下唇を噛んだ、必死な、おそろしく真剣な顔で、従卒が、士官の胸を膝で抑え、相手の顎をそらし、角張った切り株の縁を梃子にして圧し曲げた──圧すと同時に、彼の心はくまなく安堵に覆われ、彼の腕首の緊張は、快さにえも言えぬほど高まった。手のひらの付け根をあて、彼は渾身の力をこめて士官の顎を押し込んだ。以前から髭でざらざらと荒れていた、士官の顎に、こうして手を触れていることは、彼には爽快だった。彼は一毫も力をゆるめなかったが、士官の顎を突くたび、彼の血漿に充ちた気力すべてが歓喜し、彼は、相手の頸をさらに圧し曲げ、「ごりっ」という細い音と、骨の砕ける手応えがくるまで押し込みつづけた。ついには彼は、自分の意識が蒸散してゆらめくように感じた。突然、弾けるように士官の身体がふるえて、若い従卒を驚かせ、冷やっとさせた。しかしそれを息絶えさせるのも、彼には喜びだった。手のひらで相手の顎を圧しつづけ、自分の頑強な若々しい膝の重みで、息根がつぶれるまで相手の胸を抑えているのだと感じ、そしてまた、ねじ伏せられた士官の身体がおそろしく痙攣して、のしかかる自分の重みに抵抗するのを感じるのは──彼には快かった。
 しかしやがて、大尉の身体は静まった。従卒は相手の眼をおそるおそる避けて、鼻孔をのぞきこむようにした。いかにも異様に、大尉の口は突き出されて、唇は浮腫んだように膨らみ、その上を、口髭が逆立っている。彼は不意にぎくりとした──徐々に鼻孔に濃い血の波が充ちてきたのに気づいたのだ。その赤い波は、縁まで達してから、一時張りつめてふるえ、あふれ出し、それから細い滴りになって顔を眼の凹みへと伝った。
 それを見て彼は動揺し、痛ましく思った。ゆらゆらと立ち上がった。大尉の萎えた身体は、鈍く痙攣し、四肢を醜く投げ出していた。黙りこくって彼はそれを見下ろした。「それ」がこんな風に壊れくだけてしまったことに、彼は哀しさを感じた。今やそれは、かつて彼を足蹴にし、酷く苛めた存在というより以上の何かを表わしていた。彼は死体の眼を見るのに勇気がいった。それは醜怪に、ただ白目だけが見え、垂れた血に沈んでいた。恐怖で従卒の顔の色は引いた。だが、それは表情だけのことにすぎなかった。心の内では、従卒は満足を感じていたのだ。もとより従卒は大尉の面差しを嫌っていた。今やそれは空ろな死顔にすぎない。従卒の魂に深い安堵が充ちて来た。この顛末は起るべくして起ったものなのだ。だが、軍服につつまれた身体が、細い指をよじらせ、打ち砕かれて切り株の上に横たわっているのを、彼は永く眺めてはいられなかった。どこかへ隠してしまわなければ──。
 すばやく、忙しげに、従卒は死屍を抱きかかえ、切り倒されて丸太の上に両端を乗せた、長々と美しい、なめらかな木の幹がつくる陰へ、それを押しやった。死体の顔はおぞましく血に塗れていた。彼はヘルメットでそれを覆い隠した。それから、見苦しくないよう、よじれた手肢を伸ばしてやり、綺麗な軍服にかかった落ち葉を払ってやった。それで死屍は、樹の蔭のまったき静けさにつつまれた。大尉の胸の上へ、丸太の裂け目から、空の光りが僅かにさしていた。従卒はその傍にしばらく坐り込んだ。こうして、彼のものである生もまた終わりを告げたのだった。
 やがて、彼のかすみがかった意識に、中尉の大声が響いて来た──森の外で、中尉が、丘のふもとの河にかかった橋が敵に占拠されたという、仮定の状況を、兵士たちに説明しているのだった。これから彼らは、かくかくしかじかの隊形で橋へと進撃しなければならぬ、云々。だが中尉の説明はいかにも不味かった。習慣から耳を傾けていたが、従卒の意識は濁ってきた。中尉がもう一度すべてを説明し直しはじめると、彼は耳を閉ざした。
 いつまでもそこにとどまっているわけにはいかなかった。彼は立ち上がった。すると、木々の葉が太陽に煌めき、地面の木の破片に白々と光りが反映しているのが、彼を驚かせた。彼にとってもう世界は別様に変じてしまった、にもかかわらず、彼以外のすべてにとってはそうではない──万事それまでどおりだった。世界から立ち去ったのは、彼ひとりなのだ。そしてもう戻ることは出来なかった。ビール・ジョッキと瓶を片付けて中隊へ引き返すのが、当然の彼の務めだった。が、彼には出来なかった。彼はそうしたもの一切から自分を切り離したのだ。中尉はしわがれた声で、いまだ説明をつづけている。彼は去らねばならない、さもなければ、向うからいずれやって来る。そして今の彼は、いかなる類いの触れ合いにも堪えられない。
 指で眼を拭って、彼は自分がどこにいるのか把握しようとした。それから向きを定めて歩き去った。小道にたたずんでいる馬が目に入った。彼はそれによじのぼり、またがった。鞍の上に腰をおろすのに、彼は苦痛をおぼえた。その苦痛は馬に乗ってゆるやかに森を駆けていくあいだ、ずっと彼を苛んだ。そして、なにもかもが漫然と意識を流れていったが、自分が外のものから隔てられてしまったという感覚は、彼を去らなかった。小道は森の外へ通じていた。森と外との境で彼は手綱を引き、馬を止めて見渡した。広漠とした陽差しを受けた山間を、兵士たちの小さい群れが動いていた。ときおり、畝をまぐわでならしている男が、あたりをうろついている牛に向って怒鳴るのが聞えた。村と、白い尖塔を持つ教会は、陽光におし伏されて小さく見える。そして、彼はもうその世界に属してはいないのだった──もはやそれらの及ばない、暗闇の彼方へ逃れて行った者のように、彼は、そこに居る。来たり巡る日々の生から、未知の世界へと、彼は立ち去ったのであり、もう戻ることは出来ず、また、戻りたいという気持も彼にはなかった。
 陽光の燃え立つ山間に背を向け、彼は森の奥処へと馬を駆った。灰色に、身じろぎせずに立っている人間に似た木々の幹は、通り過ぎていく彼に何の表情も見せない。光りと蔭の飛び火のような牝鹿が、斑らに散った蔭のなかを、駆け抜けていた。葉の茂りは、緑の裂け目のように輝いている。それからあたりが松林に変わると、冷え冷えと暗さが増した。そのうちに、彼は苦痛で弱ってきた──頭に堪え難い苦しみが脈打ち、彼の気力は失われてきた。今までに彼はこんな苦痛を経験したことなどなかった。彼は自分の意識と感覚を領しているものを、不可解に思い、途方に暮れはじめた。
 馬からおりようとして、痛みと、身体のぐらつきに驚き、彼は落馬した。馬は不安げに身をゆすった。彼は手綱をぐいと引き、馬を、彼を離れて駆けさせてやった。そしてそれは、彼を措いた世界との、最後のつながりが断たれたことを意味した。
 彼はただ、身体を横たえ、何からも煩わされないことだけを欲していた。木々の間をよろぼい歩き、彼はようやく、静かな場所──ブナノキと松の木が生えている斜面に出た。たちまち彼は横になって瞼を閉じ、意識が彼の意志をはなれ、乱れていくままに任せた。まるで地上全体に響き伝わるかのように、吐き気の激しい脈動が彼の内で打った。熱が鬱積して、彼の身体は灼けるようだった。しかしそれらを意識できないほどに、彼は、錯綜する想いの切れぎれな流れに、掻き裂くような朦朧に、追われていた。




3


 不意打ちのように、彼の目は醒めた。口の中はからからに渇いてこわばり、心臓は大きく脈打っていたが、彼には、起き上がる力がないようだった。動悸が烈しい。自分は何処にいるのか?──兵舎だろうか──自分の家だろうか? なにかこつこつと叩く音がする。どうにかあたりを見回してみた──木々があり、青葉の茂りが入り乱れて、ほの赤く輝く陽の光りのひらめきが地面に注がれている。彼は、信じがたいものを眺めているような気がし、自分の気は確かなのかどうか、いぶかしんだ。何かがこつこつという音を立てている。彼は意識を一つに凝らそうと努めてみる、が、また後戻りしてしまう。もう一度意識を集めてみる──すると、徐々に四囲の動きが彼とのつながりをはっきりさせてくる。とたんに、激しい恐怖の痺れが心臓を衝いた。何かがこつこつという音を立てている。上向いた彼に、黒々とつみ重なったぼろ布のようなモミの木が見えた。やがて、すべてが瞑眩に沈んでしまった。しかし彼が眼を閉じたのではないはずだった──事実、彼は眼をつむってはいない。冥暗からふたたびゆっくりと視界が輪郭をあらわにしてきた。やはりなにかこつこつと叩く音がする。するととっさに、彼が憎んでいた大尉の、血に塗れて醜怪な顔が目に浮んだ。恐怖に彼は身をじっと強ばらせた。しかし、大尉の死は起るべくして起ったものにすぎず、必然の成り行きだったことを、彼の内奥では理解していた。だが身体の戦きはおさまらなかった。なにかがこつこつと音を立てている。彼は恐怖にひたって、死んだように静かに横たわっていた。そして彼の意識はとりとめがなくなっていく。
 ふたたび彼が目を開いたとき、木の幹をなにかがそろそろと機敏に登っていくのが目に入り、彼ははっとした。小鳥だった。彼の頭上で鳥がさえずっている。こつ、こつ、こつ、──小さくて敏捷な鳥が、まるで頭を可愛らしい円い金槌みたいにして、嘴で木の幹を軽くたたいている。彼はそれを物珍しげに眺めた。忍ぶような足取りで、小鳥は不意に場所を移った。それから、鼠のように、むき出しになった木の幹をすべり降りた。そのはしこい歩み振りが、ふと、厭嫌の念を、彼の内にひらめかせた。彼は頭をもたげた。ひどく重たるい感じだった。それから、小鳥は蔭から駈け出て、陽の光りの静かな斑らを横切って行った──その小さい頭は敏捷に跳ね、束の間その白い脚が鋭く煌めいた。その姿形はとても端正で、翼に白の断片を乗せていながら素朴だ。一羽だけでなく、小鳥は数羽いた。たいそう可愛らしかったが、彼等は、すばしっこくて無作法な鼠のように、どんぐりの上を、あちらへこちらへ、こそこそ歩いていた。
 彼はくたびれてふたたび横になり、意識が沈みこんでいくにまかせた。彼はこそこそ歩き回る小鳥たちに、嫌悪を感じた。頭のなかをすべての血が疾駆し、這い回るようだった。なおも彼は起き上がることができなかった。
 疲労から来る、さらにひどい鈍い痛みで、彼は正気づいた。頭に苦痛がこもり、吐き気がし、身体を動かす力もなかった。こんな病熱は、彼は生まれてこのかた経験したことがない。ここは何処で、自分が何者なのさえ、彼には定かでなくなっていた。おそらくは、自分は今熱射病にかかっているのだろう。それから他には?──そうだ、自分は大尉を殺してしまった──しばらく前に──いや、ずいぶん前のことだ。大尉の顔には血が垂れ、眼は裏返っていた。まあ、それはそれでいい。そのことは彼に平穏を与えたのだから。しかし今、彼は、どこかへ投げ出されてしまっている。今までおよそ足を踏み入れたことのなかったところに、自分は来てしまっている。これは生であるのか、それとも生ではないのか? 彼は今たった独りきりだ。他の者たちはみな広々とした、明々と輝く場所にいて、自分はその外にいる。町を含む、その土地のすべては、広々とした光り輝く場所で、──彼はその外、今ここに、おのおのが孤独に隔てられてしまう、法外な闇の世界にいる。しかし他の者たちも、いずれはその明々とした世界を出て、この闇の世界へやって来なければならないのだろう。他の者たちはみな、彼に置き去りにされて、遠く小さくみえる。──かつて彼には父や母、そして恋人がいた。だがそれが一体なんだろう? 彼は今やこの彼方の土地にいるのだ。
 彼は体を起した。なにかが小競り合っているような騒ぎが聞える。それは小さな茶色のりすだ。りすが、地面を、可愛らしく起き伏しながら跳ねて走っていて、その赤い尻尾は、体の起き伏しにつれて、流れるように靡く──と、思うと、りすはぴんと立って、尾が巻いたり伸ばされたりする。彼はそれを眺めて楽しくなった。ふたたび、りすは、愉快そうに、じゃれるように走り出す。一方がもう一匹にみだりに飛びかっては、ちょっと怒っているような騒々しさで、互いに追いかけまわっている。兵士はりすに話しかけたくなった。しかし、咽喉から出たのはしわがれた声音だけだった。りすは弾けるように逃げて──木の上に駆け上がってしまった。そのうちの一匹が、木の幹のなかばで彼に向き直り、じっと見下ろしているのが、彼の眼に映った。すると突然、彼は戦慄を覚えた──みずからりすを見て楽しんでいたにもかかわらず。りすは尚もとどまっていて、その小さい、敏感な顔は、木の幹をなかば登ったところから彼を見つめつづけ、その小さい鋭い耳は逆立ち、その爪のある小さな手は、樹皮にとりつき、白い胸はふくらんでいる。彼は弾かれるように怯え、恐慌におちいった。
 脚に力を込めて、彼はなんとかその場をよろめき離れた。彼は歩いて、さらに歩き続け、何かを探し求めた──何か飲む物を。彼の脳は暑さに参り、焦がれるように水を求めていた。彼はつまずきながらも歩きつづけた。そのうち、彼は何事も感じられなくなってきた。歩くにつれ、彼の意識は遠のいた。それでもなお彼は、口を開いたまま、よろめき歩いた。
 そしてふたたび、彼が眼を見開いて世界を眺めたときには、もの言えぬ驚きで、もはや彼は、その光景が何であるかを考えようとはしなかった。燦然とした緑金の色彩の背後に、濃密な金色の光りがあり、そして切り立つような灰紫の条がならび、その奥には冥色がおりて、彼をとりまくように、より深く、濃さを増していく。──ついにどこかに辿り着いたのかという意識が、彼にきざした。彼は今現実のただなかに、現実の深淵にいるのだ。しかし灼けつくような渇きはまだ彼の脳裏をめぐっていた。やや身体が軽くなったようにも感じられる。なにか新しいものが開けつつあるのだと、彼は考えようとした。大気は稲妻にとどろいている。彼は自分の足取りがふしぎなほど機敏になり、充たされる喜びへ向けて、真直ぐに進んでいるように感じた──果たして彼は、水のある場所へでも向っているのだろうか?
 それから突然、彼は恐怖に立ちすくんだ。いっせいに燃え立つ黄金の輝きが、途方もなく、眼の前に広がった──ただ幾つかの縞のような暗い樹幹が彼を隔てているだけの間近に。あたり一面、瑞々しい小麦の平原が、その柔らかな緑の上に、磨かれた純金のまばゆさを放っているのだった。丈の長いスカートを穿いた、黒い布を頭飾りに巻いた娘が、あたかも影の人型のように、緑の小麦のあいだを、漲る光りを浴びながら通り過ぎていく。農家も見える──薄青い影と立ち木の黒の色調だ。金のさざなみに溶け去ってしまいそうな、教会の尖塔も見える。娘はさらに移ろい、彼から遠ざかっていく。彼はその娘と通じ合えるどんな言葉も持っていなかった。彼女はまばゆい、一個の非現実の存在だった。彼女の発する言葉の響きは彼を当惑させるだけだろうし、彼女の眼は彼の姿を映すことなく彼を見つめることができるだろう。彼女は右から左へと横切っていく。彼は木にもたれてただ立ち尽くしていた。
 ようやく彼がその光景に背をむけ、振り返ると、眼前には草のまばらな林が下って広がっていて、その樹下の平らな地面には、もう夕闇がただよい、そしてさほど遠くないところに、ふしぎな光りにつつまれた山並みが、輝きに充ちて見えた。手前にある山の、柔らかな灰色の尾根の奥には、さらに山々が、金色に、蒼然とそびえ、まるで純粋で細やかな黄金のように深雪が発光していた。山々は、空に微光をゆらめかせ、ただ一に空の光りの鉱石から織りなされたように、沈黙して輝いている。彼はその光りを顔に受けながら、立ち止まって山々を眺めていた。そして、黄金の光沢をもって輝く雪に呼応するように、渇きが、彼の内で冴えた。彼は木にもたれかかり、立ったまま凝視していた。それからなにもかもが虚空へ滑り去っていった。
 夜どおし、雷光が絶え間なくひらめき、空一面を白く照らしていた。いつしか彼はまた歩き出していた。落雷に、世界は、彼の周囲で青黒く冴え、野原は水平に薄緑の光りにさざめき、木々は暗い巨体のようになり、黒々した雲のつらなりが白い空を横切る。しばらくすると鎧戸のように闇がおりて、すべてが夜に沈む。幽かにはためく世界の断片は、もう暗闇から現れ出ることはない──と、思うと、地面を、青白い流れがさっとかすめ、暗い物影が浮び上がり、頭の上を雲のつらなりが渡っている。世界はもはや、不断にすべてを満たし尽くしてしまう純粋な闇の上に、束の間投げかけられる、幽冥の影にすぎない。
 吐き気と病熱はまだ彼のうちで入り乱れていた──彼の脳裏は周囲の夜の闇のように明滅し──そしてときおり、木の陰から何か巨きな眼に見据えられているように感じて、寒気立ち──永い行軍の苦痛を思い起こし──彼の血を爛れさせた太陽の熱を想い──或いは、大尉への激しい憎悪が胸を刺しては、安堵と憐れみの痛みが生ずるのだった。あらゆるものがいびつになり、痛苦から生まれては痛苦へと還っていくようだった。
 朝になると、彼は、はっきりと目を醒した。とたんに、彼の頭は咽喉の渇きを怖れる気持に灼きつくされた。彼の顔は陽光を浴びて、露に濡れた服は湯気に烟っていた。彼はなにごとも考える間もなく、立ち上がった。彼の真正面に、明け方の空の薄青い縁に沿って、青々と、冷涼に、優しげに、山脈が連なり横たわっていた。すると、その山々を、ただそれだけを渇望する想いが、彼に生まれた──彼は自身を離れて、その山々と一つになりたいと思った。山々は身動きすることなく、沈黙して和らぎ、白い、穏やかな雪の光輪を持っている。彼はじっと立ち尽くし、狂わしい苦痛を堪え、手を固く震わせては握りしめていた。それから突然、発作に襲われ、草の上に身をひねって倒れた。
 彼は夢に魘されるように、もの言わず身を横たえていた。そのうちに、彼の咽喉の渇きそれだけが、彼から離れ去り、一つの欲求のように独立の存在になった。つづいて、彼の感じていた苦痛も、一つの孤立した存在になった。また、彼の肉体に支えていた錘りのようなものも、彼から切り離された。彼はあらゆる類いのものに自身が分断されていくように感じた。そのとりどりの孤立した存在のあいだには、なにかしら奇怪な、痛いような繋がりがほのかにあったが、しかし、すべては互いに、遠くへ、遠くへ離れさっていく。そしていずれ一切が散り散りになるのだろう。彼を真下りにつらぬく太陽の礫が、その結びつきをも焼き切る。そうして何もかもが手放され、落ちしきり、永遠に推移する空間をくぐって落ちていく。──と、そのとき、彼の意識がふたたび力を取り戻した。彼は肘で体を起して、ゆらめき光る山脈を、見つめた。それらはまったき静けさと驚くべき姿で、天空と地上との境に連なり浮んでいる。彼は、眼が暗むまでずっと、それらを見つめつづけた──完璧に清く冷たく、美しさを帯びて聳えている山並みは、あたかも彼の内で失われたものを所有しているかのようだった。




4


 三時間の後に兵士たちが彼を見つけたとき、彼は腕に顔を乗せて身を横たえ、彼の黒髪は太陽に炙られ熱を放っていた。だが、彼はまだ生きていた。彼をかかえあげるとき、兵士たちは、その黒々と開かれた口を怖れ、おもわず彼の体を取り落とした。
 彼は二度と目を開くことなく、夜中に、病院で息絶えた。
 医師たちは、彼の腿の裏に打ち傷があるのを見たが、何も言わなかった。
 大尉と従卒の身体は、遺体置き場に、隣り合わせに横たえられた。一方の身体は、蒼白くほっそりしていたが、死にひたり、固く強ばったまま横たわり、対して、もう一つの身体は、まるで今にも昏睡から醒めて、生へ呼び戻されようとしているかのように、若々しく、無垢に見えるのだった。








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