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試論:知覚について













 知覚についての言明には日常的にどのようなヴァリエーションがあるだろうか。例えば自分が知覚している世界に対する素朴な信頼にヒビが入った時、我々は次のように云うことがある。「この紙は赤いと思っていたが、実は白かった、先の知覚は誤りであった」「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」──すなわち前者は知覚の誤謬、後者は知覚の相対性の表明である。ここからの単純な帰結は、認識の不確実性とその背後にあるものとしての実在の措定、そして実在と区別される知覚独自の対象「知覚表象」の概念化である。この結果、知覚の対象(表象)と物自体との間に乖離が挿入され、両者の関係をめぐる認識論的問題が惹起される。本稿は知覚に関して「強い主観性」「弱い主観性」「弱い客観性」「強い客観性」の四つを区別する。この区別は知覚に伴う様々な混乱を解消するのに有用である。



 知覚の相対性ということから検討してみよう。「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」と云うことで実際何が云われようとしているのか。それはまず個人的な意味理解に関する言明「私の意味している赤と貴方の意味している赤は違う(かもしれない)」とは異なる。そして実は「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」という言明は端的に間違っている。それは〈実は〉私と貴方で赤に結びつけている知覚表象は異なるのだが、それを確認する(伝達する)手段がないから、という理由から間違っているのではない。たとえ私と貴方とで片目を交換して互いの視野の相違を確認し合う状況を想定しても、そこでも「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」とは云うことはできない。なぜか。語「赤い」が表現する事態は決して主観に従わないからだ。どういうことか。もしある対象が赤いことを、我々がそれを主観的に赤いと感じることで説明できると仮に想定してみる。この説明が斉合的であるためには、少なくとも誰かが或る物を赤いと感じるために、その人は「赤い」という概念を必要としないのでなければならない。しかしそれは可能だろうか。例えば子供が「赤い」という語を習得する場面ではどうか。その子供が赤いポストを見ているといった態勢の最中に、教える者はその子供が当の対象を赤いものとして観察していると判断し、「赤」という語を教示するのだろう。この場合しかし子供が実際どのようにポストを見ているか(どのような知覚表象を持っているか)は問われない。その子供は自分が知覚している何かと「赤い」という語を経験的に結び付けるのではなく、赤いポストを見ているとき子供が知覚しているのが「赤」であるというのが教える側にとっての必然だからだ。勿論これは子供の、或程度の色彩を差異化できる能力への信頼が教える側にあるからこそ成り立つのだが、しかしその見込みもただ教える側に属するものであり、同じ信頼を言語を習得する以前の子供が自分自身に適用することはできない。つまり何かしらの主観的な知覚表象と、対象が「赤い」ことにつながりはない。「赤い」という言語表現は、端的に赤いことであり、逆に赤いという事態は、「赤い」という言語表現を通してしか理解できない。そしてまたこれは言語習得段階の子供だけでなく、成人に関しても同様である。再び互いに片目を交換したAとBという人物を考えてみる。彼らが、互いの知覚世界のあまりの違いに驚いたとして、そして「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」と云うことができるかどうか。Aとってはそのように思われるかもしれない。今までポストは赤く見えていたが、Bの目の方で見ればそれは青く見える。従って「私の知覚している赤は、Bの知覚している青である」とAは云いたくなる。しかしそれはできない。まずこの発言はBの反論にあう。Bにとっては片目を交換前も交換後もポストは赤いままだ。AとBは「ポストは赤い」という判断において一致している。つまりAの知覚している赤はBの知覚している赤である。では第三者CにAの視野をそのまま見てもらい(つまり、片方はA、片方はBという二つの目を、Cの両目と交換することになる)Aの発言を確認できるか。これも迷うことなく否である。第三者CがAと同一の視覚世界を持っているとは限らないからだ。Cにとっては全く見知らぬ色世界を二つ提示されるだけである(例えばCは、Cにとっての赤が一方では黄色に見え、一方では緑に見えると云いたくなるかもしれない。勿論そのように云うことはできないが)。Aにとっての赤がBにとっては青く見えるという判断は誰にも確認できない。同様にAの「赤」がBの「赤」と異なることも確認できない。これが意外に思われるのは、こういう想定の際、我々はどうしてもAといった単一の個人に感情移入してしまうからだが、繰り返せばA個人の主観的な知覚表象と「赤」に結びつきはない。またこれは自然言語特有の出来事ではない。表現を変えたとしても矢張り次のような発言は禁止される。「私の知覚している380ナノメートルのスペクトル光は、貴方の知覚している383ナノメートルのスペクトル光に等しい」「私の知覚している380ナノメートルのスペクトル光と貴方の知覚している380ナノメートルスペクトル光は異なっている」つまり色彩の物理的客観性とは、それがどのように知覚されていれば〈正しい〉のか、といった事柄には関わらないということだ。「この光は460ナノメートルのスペクトル光である」の客観性は、厳密さの程度の違いがあるだけで、「このポストは赤い」と通底する客観性である。



 語の意味は各主観がそれに何を像を結びつけているかに拠らず、あくまでも公共的すなわち客観的である。この結論の延長線上で、知覚の相対性を表現した(と思われた)言明と区別された、個人的な意味理解に関する言明「私の意味している赤と貴方の意味している赤は違う(かもしれない)」も危うい言明となる。この発言は意味の個人的な理解があり得ることを前提としている。確かにそのような事態を想定しうるように思える。例えば意地の悪い両親によって「赤」と「白」という語を全く正反対に教え込まれた子供がいる。その子供がポストを白だと云い、紙を見て赤いと云うのを見て、その誤りを訂正しつつ、我々は自分達の使っている言葉の意味の客観性の強固さをも、脆く感じることだろう。しかしそれが即意味の主観性を導くことにはならない。上記の例のように語の意味の訂正がありうることから、或る語について大多数の人で一致する公共的な意味と、ばらばらで多様な個人的(主観的)な意味があると断定できるだろうか。こうした憶断の背景は「語」と「意味」を独立したものと見、その結びつきを経験的・偶然的と捉える傾向である。しかし繰り返すが「語」と「意味」の関係、或は「語」とそれが表現する事態の結びつきは、このような経験的関係ではない。つまりその子供は訂正された後は勿論、訂正される前も「赤」「白」の意味を客観的に使っていた。当の語がその語が現に持つ意味を持つのは、個人が主観的にその意味を付与しているからではなく、その意味こそが客観的にその語が持つ意味だからである。だが急いで付加えれば、この客観性は確かに絶対的なものではない。したがって言語の意味の持つ客観性は「弱い客観性」であると、結論される。



 上述の結論を言い換えれば、意味の相対性の否定である。それと類比的に「赤い」知覚の相対性もあり得ない。だが知覚の相対性それ自体までもは否定されない。なぜか。「私の知覚している赤と貴方の知覚している赤は違う」という言明が退けられたとしても、「私の知覚している〈この〉色と貴方の知覚している〈この〉色は違う」と云うことは有意味に思えるからである。さて、この発言は二つの意味で有意味である。どういうことか。まず、この発言は色の状況的性格について述べているととれる。状況的性格とは何か。例えば白い紙に赤い照明が当たっている状態で、その紙が私に赤く見えることは、紙が白いことの客観性に対して主観的な判断である、ということにはならない。なぜならこの紙が白い場合と、紙が赤く見える場合とでは状況が異なるからだ。同様に、私だけが赤い眼鏡をかけており、皆が白だという紙が私だけに赤く見える、という場合でも、私の判断は主観的でない。もし私が赤い眼鏡をかけていることに気づいていないとしたらその紙が赤く見えるのは客観的であるし、それを知っているなら「赤い眼鏡をかけているので、白い紙が赤く見える」ことは矢張り客観的である。こうした色の状況的性格を主観に帰してしまうと、まさに今生々しく感じているこの感覚が「赤」だということになるが、そうであり得ないことは繰り返し強調してきた。そして私と貴方で「〈この〉色」が異なるのは、私と貴方で別々の(はずすことのできない)眼鏡をかけていることに等しい。異なる人物(眼球)で色が微妙に違って見えることは、色の定義上、客観的な事柄である。その違いを「私の知覚している380ナノメートルのスペクトル光は、貴方の知覚している383ナノメートルのスペクトル光に等しい」と主観的に捉えようとする越権を犯さなければ、理論的にはその違いが微妙でなく極端であっても何の問題もない。先に我々の言語習得の際には、子供に或程度色彩を差異化する能力が生まれつき備わっている必要があると述べたが、その差異化能力はただ或色を或色から区別する分類が位相的に言語体系と類似しているだけでよく、〈実際の〉色をどのように分類しているかで、私と貴方の生まれつきの類似を必要とするわけではない。繰り返せば私と貴方で色の状況が異なるのは、すなわち知覚の相対性は、二つの主観性の故ではなく一つの「弱い」客観性の故だ。



 ところでこの色の状況的性格とは別に、「私の知覚している〈この〉色と貴方の知覚している〈この〉色は違う」ということが有意味となる考え方があるように思う。それは、私の知覚している〈この〉色と、貴方の知覚している〈この〉色が客観において一致している、さらには全く同一であるとしても、なお何かが違っていると云いたくなるような相違を考えることだ。この場合、知覚の現われの違いではなく、「私の」「貴方の」という性質の方が重視される。むしろ知覚とは完全に切れたところで、この互いに互いが排他的であるような「主観性」は理解されうるように思われる。発生史的な考察は省くが、実際、このような主観性を我々は生きている。そしてこの排他性は、「私」と「貴方」との知覚の現われの相違(それは色の状況的性格である)とは別次元で働く。したがってこの主観性は言語の「弱い客観性」に対して立てられる主観ではない。また、この主観性は私と貴方が同一の身体感覚を持っていても、さらには空間的には同一の身体を共有しているとしてもなお機能する主観性だが、一方で、この主観性は絶対的にア・プリオリに存立しているのではなく、互いに互いが排他的であると知られてはじめて成立する主観性だ。ゆえにこの主観性は「弱い」。この主観性を、弱い客観性とは別次元で、しかし並列して機能する「弱い主観性」と見なすことができる。



 さて、この弱い主観性に対し、個々の人間の知覚世界一切から独立な客観性=「実在性」の措定を考えることができるかもしれない。この実在性は、最早私の知覚世界の外、他者の知覚世界でもない、まさに誰の知覚世界からも隔たった外部であるが故の客観ということになる。しかし実はこのような、例えば人間が、生物がその知覚を始める前から端的に存在しており、今も常にすでに知覚の背後にあって、弱い主観各々で相貌を異にする世界を、しかしそれが同じ世界であるという、その「同じ」ことを保証する「何か」を、早々と措定してしまうのは飛躍である。そのような「同じ」は全く客観的である必要はないからだ。弱い主観性は先程述べたように成立した時点で常にすでに他の主観を認めている。つまり各々の主観は別個のものでありながらすでに同型となる。そのような主観の一つに何かしら単独的な知覚世界を結び付けてしまう(「強い主観性」)ことが、その知覚世界を裏で支えている絶対的な実在性(「強い客観性」)を想定したくなる誘惑の端緒であろう。しかし、ある観点に立てば(例えば「自殺」)、このような想定もあながち完全に退けられるとは思われない。つまり、それが「弱い主観性」「弱い客観性」と概念的に混同されないかぎりで、「強い主観性」「強い客観性」というリアリティ──単独的な主観が対峙している超越的実在──について語るのは有意味ではある。「強い主観性」「弱い主観性」「弱い客観性」「強い客観性」の「強い/弱い」は、互いに互いを限界づけて棲み分けているというのが、最も偏りの少ない見方だろう。しかし、それが一体何であろうか。どうやらこの論文も四分法で考えることに偏りが過ぎた。だがそれを回避するのにこの論文では汲み尽くせぬ知覚の側面があると云ったり、思考しようとしても思考できぬものを仄めかしたりする必要はない。ただここで語り終えればよいだけだ。語りたいときに語りはじめた私は、ただ語り疲れてここに筆をおく。









  • 書いた人:稲富裕介(゚Д゚)

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