(※※※メモの内容はすべて一参加者の個人的な記憶、個人的な解釈に基づいています)
▼講演メモ
- ・ドキュメンタリーとは何か。今言える一つの答えは「見えないものをビジュアル化したもの」、それがドキュメンタリー。映像なんだから見えているものは見えているじゃないかという素朴な思考を超えて、日々目の前で生起して目に入ってくる様々な問題のなかに実は見えないものがある、それを手掴みで取り出し、映像化してみせること。その、見えているはずなのに見えていないものというのは何か。歴史と構造。現に存在しているにもかかわらず或る角度から切り込まないとよく見えてこない構造、そしてその構造が生まれてきた見えにくい歴史的経緯──それらをなんとかしてビジュアル化すること。スクープドキュメント『沖縄と核』もそういった志で制作した。
・『沖縄と核』を制作しようとしたモチベーションについて。NHKでは数年単位での転勤が多い。自分は入局以来ずっと沖縄局へ行きたいという希望を出していて、それが叶って2013年に沖縄局に配属になった。NHKには大別して二つの部門がある、一つはニュース報道やNスペなどを制作する硬派な部門、もう一つはバラエティ番組や教養番組を作る若干軟らかい部門で、自分は主に後者の方で番組を作ってきたのだが、並行して沖縄戦および沖縄の基地問題に自分なりに向き合って番組を作りたいという想いはあった。それだけでなく、沖縄局に来ると基地問題に関する報道をしない日というのはほとんどない。毎日何かしら基地問題に関わるニュースがある。日々そのように米軍基地を意識して暮らさざるを得ないなかで、一体なぜ沖縄にこれほどの多くの基地があるのかという疑問に自分もやがて突き当たった。これは沖縄にいるジャーナリストがそれぞれ自分なりの答えを出そうとして苦闘してきた根本的な疑問でもあると思う。
・最初に着手したのは、コツコツと年表を作ること。一日の仕事が終わってから家で二、三十分ずつ、琉球王国の時代から2010年代までの数百年のあいだに起こった出来事を詳細に年表に書き込むという作業をつづけた。『歴史秘話ヒストリア』という歴史番組を制作していたときも、きっちりと年表を作るプロセスを必ず踏まえていた。それによって初めて気付くことができるものがある。その経験則を拡大的に応用し、沖縄、日本本土、アジア、世界の四つの軸で同じ時期にどういう出来事が起きているかを並列的に精査し、地道に年表に書き込んでいった。最終的にはノートの厚さ10センチ分ほどになったと思う。その作業を経てまず気づいたことは、1950年代に奇妙な符合があること。この時期に沖縄の米軍基地は倍増している。「島ぐるみ闘争」という軍用地問題の激化、沖縄本島北部のキャンプ・シュワブ建設用地の接収などもこの時期。しかも沖縄での基地の急増は日本本土からの海兵隊の移転=沖縄配備でもあった。そこで何があったのか。
・年表を作って50年代に注目しているうちに、米軍基地の日本本土からの移転と沖縄での基地急増の理由は「核」ではないかという仮説が、自分のなかに生まれた。この仮説はその時点では妄想に近かった。「一体なぜ沖縄にこれほどの多くの基地があるのか」という疑問にそんな答えを出したひとは他にいなかった。それでも、東京へ出張のたびに国会図書館や外交史料館に足を運び、「海兵隊部隊」にターゲットを絞って史料を調査することを2015年以降もつづけた。また、自分の仮説を研究者の方に話して考えを伺うこともした。そのなかで、たまたま野添文彬さんという若くて優秀な外交史・政治史の研究者の方が、国会図書館に米軍の海兵隊が出していたニューズレターが揃っていることを示唆してくれた。実際それはあった。米軍海兵隊のニューズレターが50年代前半から所蔵されていた。自分ともう一人の取材者とで何日も掛けてその英語の史料を何千ページと読み込んでいった。それで、驚くべきことが分かった。
・核兵器、というと通常思い浮かべられるのは空軍のそれだろう。広島、長崎において高度約九千メートルの上空から投下されたあの原爆のイメージからすればそうなる。しかし、核兵器は海兵隊とも密接に関わる。国会図書館に所蔵されていた海兵隊のニューズレターを読むと、海兵隊と核との関係が浮かび上がってくる。すなわち「戦術核」との関係が。戦術核について理解するには1953年にアイゼンハワー大統領とダレス国務長官が導入したニュールック政策──核兵器重視の軍備方針──を踏まえる必要がある。朝鮮戦争以後、ソ連含む共産圏の地上兵力がアメリカ側を圧倒していることが認識され、その劣位を埋め合わせるために戦力として「使える」核兵器の構想が生まれた。広島、長崎に落とされた原爆はいわゆる戦略核で戦力として使うのではなく「使われたら使う」という抑止力名目の核兵器だったが、戦術核はそれよりも遥かに小型で、大都市を破壊するというのではなく相手の軍隊のみに損害を与えることを目的とした「使える」核兵器。ロケットに載せてシンプルに発射することさえ想定されている。そして戦略核ならぬ戦術核を使う部隊に位置づけられるものとして、海兵隊が浮上してくる。海兵隊は海軍・空軍・陸軍に次ぐ第四の軍隊と呼ばれ、そもそも「海兵隊とは何か」という存在意義をそれ自体で模索しているような部隊なのだが、その海兵隊がニュールック政策の追い風を受けて以後、海兵隊=戦術核を使える軍隊として自分たちをアピールしはじめた。その様相が海兵隊のニューズレターからは見えてくる。毎号毎号、戦術核をいかに使うかというメソッドについての詳細な記事が載っていたのだ。われわれが入手し番組でも引用した海兵隊の内部映像でも、ネバダ砂漠で戦術核訓練を行う海兵隊の姿を確認することができる。
・日本にはオネストジョンという地対地ロケットが配備され、北富士演習場で海兵隊の戦術核の訓練が行われていた。しかしこれに住民が猛反発した。この背景には、1954年のビキニ水爆実験に際して第五福竜丸の乗員が被爆する事件が起き、日本での反核世論があまねく強大だったということがある。オネストジョンは核弾頭を搭載できるロケットであり、そんなロケットを発射するのは本土で核兵器の訓練をするようなものではないかという批判が巷間に湧き起こったわけだ。当時の反核世論の強さは、1955年、野党に追及された重光外相が「将来も米国は日本の承諾を得なければ原爆を持ち込まないという日米合意がある」と苦し紛れの虚偽の国会答弁を強いられたほどだった(実際にはそんな合意はなかった。単なる希望的観測)。
・日本本土にいた海兵隊が沖縄にやってきた歴史的経緯に関しては、山本章子さんの優れた研究がすでにある。山本さんは、台湾海峡危機の影響、設立された自衛隊に軍用地を明け渡す必要性、基地周辺での米軍による暴行事件(群馬のジラード事件など)への怒り、といった複合的な要因があって50年代に海兵隊が沖縄に配備されたのだと論じている。われわれはそこにさらに戦術核という要因もあったと考えたい。当時日本にいた海兵隊は第三海兵師団。その史料を読むと、「これからは戦術核に注力していかなければならない、しかし日本本土では訓練ができない、ならば日本の施政権外の沖縄はどうか……」といったことも書かれている。
・こうして沖縄に海兵隊が移転し、沖縄本島の北部の広大な土地の接収がはじまった。そのなかでもいわゆる“銃剣とブルドーザー”によって接収が行われた伊江島は、まさに戦術核の投下訓練のために接収された土地だったということができる。小型の戦術核の投下は、超高度から投下する戦略核とはちがって、相手のレーダーを低空でかいくぐって宙返りする上昇途中で目標に向かって投下するような(核爆弾が爆破するころには爆撃機は上空に逃げているという次第)、アクロバティックな操縦技術を要求する。LABS(Low-Altitude Bombing System)というのだが、この訓練のためにダーツの的のような線が伊江島の地上に描かれていたことが、当時の海兵隊の史料からはっきりと分かる。
・不幸はそれだけではない。核があるとそこにまた核が呼び込まれるという悪循環がある。たとえば番組でもスクープしたが、1959年に那覇近郊で核弾頭を搭載したナイキミサイルが誤発射され海に墜落する(が不発)という事故が起きた。このナイキミサイル、ナイキ・ハーキュリーズは地対空ミサイル。つまりそれは上空に向けて発射する戦術核であり、戦術核を貯蔵した基地を攻撃してくる(本来の)戦術核に対抗するために開発された戦術核だった。核を持つことで核を呼び込み、核を守るためにまた核を持たなければならなくなる、という増加一方の核兵器という悪夢が沖縄では生じていた。最終的に1000発以上もの核兵器が復帰前の沖縄にはあった。ちなみに、このナイキミサイルの誤発射事故は当時の地元紙では単なる誤発射と報じられ、それが核弾頭を搭載していたことは隠されていた。その事実を今になって明らかにできたのは、2015年の米国防総省の、復帰前の沖縄に核兵器を配備していたことを認める情報解禁通知のおかげ。沖縄に核兵器が配備されていたこと(そして沖縄返還に際して一旦撤去されたこと)は、1961年のメースBをめぐる小坂外相の発言からしても、或いは佐藤=ニクソン共同声明の第8条からしても、ほぼ暗黙の了解だったわけだが、公式には米軍関係者たちには沖縄の核兵器に関する機密を口にできない縛りがあった。その縛りが2015年に解け、複数の証言を得て当時の事故が核弾頭を搭載したミサイルの誤射だったことをわれわれは検証した。証言者の一人は、「ずっと言いたかったけれど言うことができなかった」「沖縄の人々はこのことを知るべきだ」と語っている。
▼質疑応答メモ
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・(再度沖縄に核兵器が配備される可能性は?)
・まず、戦術核の時代は一旦は過ぎ去っている。冷戦後の91〜92年に、戦術核が撤廃され漸次その構想が放棄されていったことが世界各地で確認できる。そして二十一世紀における核兵器はICBM(大陸間弾道ミサイル)かSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)で語られる時代がつづいた。ところが今年になってから戦術核、小型でスマートな核兵器の時代が再来する兆候がある。なかでも小型核兵器の開発を打ち出したトランプ大統領の核戦略見直し(NPR)は無視できない。これは前オバマ政権からの連続性がある。オバマは核の拡大抑止に尽力したが、議会の核推進派の突き上げに最後まで抵抗しつづけることはできなくて、60年代、70年代に大量に製造した核兵器を小型でスマートな核兵器にリユースするという政策に数十兆単位の予算を付けた。これによって地表には害を及ぼさず地下の施設だけ破壊する核兵器や、ステルス性の核兵器といった新しくて「使える」戦術核の開発がはじまっている。そのことを考えたとき、再び日本に戦術核が持ち込まれる可能性がまったくないとは言えないだろう。