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菊の薫り

Odour of Cherysanthemums

デイヴィド・ハーバート・ロレンス
David Herbert Lawrence





1


 小型機関車第四号が、荒く身を揺すぶり、鋭く軋みながら、荷を満載した七輛の貨車を引いて、セルストンから下ってきた。威嚇するような轟きをともなう速度で、曲り角から出現したそれに驚き、子馬が、底冷えのする午後の風色のなかで朧ろに明滅する、ハリエニシダの茂みから跳び出して、諾足で機関車を引き離して行った。アンダーウッドの方へ線路を歩いていた一人の婦人は、生垣のなかへ身を避け、手籠を脇に抱え、機関車の踏み板が近づいて来るのを見つめた。緩慢な、強いられたような動きで、貨車が一輛ずつ鉄の重々しい響きを立てて過ぎる間、その婦人は、震えながら進む黒い車輛と、生垣とに挟まれ、身動きできず、小さくなって佇んでいた。やがて機関車は、線路の弧に沿って、樫の枯れ葉が音もなく落ち重なる雑木林の方へ、段々と消えて行き、線路の脇の紅い茨の実を啄んでいた鳥たちも、木立を静かに包みはじめた黄昏を目ざして、飛び去った。機関車が吐き出した煙りは平原に沈み、荒草にこびり付いた。野原は暗澹とし、寂然として、岸に葦の生い茂った、炭鉱用の溜め池につづく、狭い沼地の上、榛の木立を走り回っていた鶏たちも、すでに黒塗りの鳥小屋で眠りについている。その溜め池の向こうには、竪坑口がぼうっと浮かび上がり、午後の淀んだ薄明のなかで、赤い創痍のような焔がその灰色の片陰を舐めていた。さらにその直ぐ背後には、ブリンズリー炭鉱の先細の煙突と、不格好な二本の滑車塔が突き立ち、その二つの滑車が、天に向かって勢いよく捲き上げられると、昇降機が小刻みに喚いて震えだす。そして坑夫たちが引き上げられて来るのだった。
 機関車は汽笛を鳴らしながら、炭鉱の片辺りの、貨車が幾列にも連なって待機している、広い線路だまりへ向かう引き込み線に、入って行った。
 坑夫たちはくたびれて足を引き摺りながら、独りで、或いは群れになって、影のように歩み去り、家へつづく小径へと折れて行く。──待避線が畝のように並んだ平ら地の端、石炭殻を敷いた路から幾つか段差を下りたところに、一軒の粗末な家がうずくまっていた。太く節くれ立った蔦が、あたかも瓦の屋根を引き剥がすかのように、その家に絡み付いている。煉瓦敷きの庭の周りには、冷たい桜草が咲いていた。そしてその先には、庭が坂になって、薮に覆われた小川の湾曲までつづいている。その斜面には痩せた林檎の樹や、冬に凍えて裂けた樹々や、屑のように散らばるキャベツの骸があった。庭を通る小径の傍らには、薮に引っかかった桃色の襤褸布のような、醜く、見境なく蔓延った桃色の菊が漂っていた。その庭の中程にある、フェルトの屋根を被った鶏小屋から、一人の女性が、身を屈めて出て来た。彼女は扉をしめて錠を掛けると、白いエプロンの羽毛を払って、毅然と姿勢を正した。
 彼女は鮮やかな黒い眉を持ち、見目に美しさをとどめた、高慢な物腰の婦人だった。そのなめらかな黒髪には、綺麗な分け目がつけられていた。線路に沿って過ぎ去って行く坑夫たちを、彼女はしばらく身じろぎせず、佇んで眺めていて、それから、向き変えて小川の方を見やった。固く、静かな表情をした彼女の口許は、なにか気落ちしたように結ばれていた。やがて彼女は声を上げた。
「ジョン!」応えはなかった。待ってみて、ふたたび彼女は声を張り上げた。
「どこにいるの?」
「ここだよ!」と、不貞腐れた子供の声が、薮から聞こえて来た。婦人は黄昏の奥に目を澄ませた。
「どこ? 川の側にいるの?」彼女は厳しく訊ねた。
 それに応える代りに、子供は鞭のようにしなるラズベリーの灌木の前に、姿を現した。小柄で、健康そうな五歳の少年だった。彼は冷静に、利かん気を見せて立っていた。
「おやまあ!」と、母親は苛立ちを解いて言った。「小川の縁まで降りてったかと思ったわよ。いいこと、前にも言ったとおり──」
 少年は静かに立って、何も応えずにいた。
「まあいいわ、こっちへおいで、」と、彼女は優しげに言った、「もう真っ暗よ。それにお祖父さんの機関車ももうすぐ来るわ!」
 男の子は剥れた顔で、渋々と、のろくさした足取りで従った。少年は、子供の服にしては厚くてごわごわした生地の、スボンとベストを着ていた。それは明らかに大人の服を仕立て直したものだった。
 二人がゆっくりと家に向かって歩いて行く途中、少年は伸び盛った菊を幾本か摘み取り、手でもいだその花びらを、小径に落として行った。
「そんなことしないの──ひどく意地悪いことよ、それは、」と母親は言った。少年が悪さを止めると、彼女はふっと可哀想に思って、三、四の青白い花の咲いた小枝を折り取り、目の前にかざして見た。二人が家の内庭まで来た時、彼女の手は少しためらったが、その花を脇に放っておく代わりに、自分のエプロンの帯に差し込んだ。母親と息子は、段差の上がり口に佇み、鉄道の引き込み線の向こうを歩き過ぎてゆく、坑夫たちの帰り姿を眺めていた。やがて小編成列車の低く喚く音が迫って来た。そして突然機関車が、家の先に不気味に姿を現わし、門口の向かい側に止まった。
 機関車を運転していた、柔らかい灰色の髭を持つ背丈の低い男は、婦人の頭上高く、運転台から身を乗り出した。
「紅茶を一杯もらえるかね?」と彼は陽気な、かくしゃくとした声で言った。
 彼は婦人の父親だった。今淹れます、と言って彼女は家の中へ入った。それから直ぐに戻って来た。
「日曜には寄れなくて済まなかったね、」と、灰色の髭をした小男が、口を開いた。
「多分来ないと思ってたわ、」と娘は言った。
 運転台の男は、少したじろいで、それから、ふたたび快活で軽妙な態度を取り戻して言った。
「それじゃ、もう聞いているのかい? ──で、おまえはどう思うかね?」
「まだ早すぎると思うわ。」彼女は応えた。
 この素気ない非難に対して、小男はきまり悪げな仕種をして見せ、それから、宥めすかすように、しかし険しい冷やかさを含んだ声で、言った。
「そうかい? といって、他にどうしろって言うんだ? 自分の家の炉端に、独りで不具みたいに坐ってるなんて、俺くらいの年頃の男にとっちゃ、生きているとは言えんような様だよ。俺が再婚するとしても、むしろ遅すぎたというもんさ。それに、それで誰に迷惑がかかるというんだね?」
 婦人は返事をせずに、背を向けて家の中へ入って行った。彼女が一杯の紅茶と、一切れのパンとバターを載せた皿を持って出て来ても、運転台の男は、強面をつづけて立っていた。彼女は段差をのぼり、蒸気に軋る機関車の踏み板の側に立った。
「パンとバターまで付けてくれる必要はなかったんだがな、」と父親は言った。「だが紅茶はありがたく頂こう、」──彼はゆっくりと紅茶を啜った──「こいつは美味い。」彼はしばらく紅茶を味わってたが、その後、「今夜もまたウォルターは、酒場で飲み惚けてるみたいだな、」と言った。
「そうじゃなかった日がありますか?」と婦人は苦々しげに言った。
「聞いたところじゃ、奴は持ち金をあらかた飲むまでは帰らねぇと、《ネルソン提督亭》で息巻いてたそうじゃないか。握ってたのは、半ポンド金貨だったらしいがな。」
「いつの話?」
「土曜の夜さ──確かな噂だぜ。」
「ありそうな事だわ、」と、彼女は憎さげに笑った。「ウォルターは、二十三シリングしか私に手渡さないもの。」
「まったく! 大の男が獣みたく呑んだくれるほか、金の遣い道を知らんとは、結構なことだな、」と、灰色の頬髭をした男は言った。婦人は顔を脇へそむけた。彼女の父親は、紅茶の最後のひと滴まで飲みほしてから、彼女にカップを返した。
「まったくな──、」と、彼は口を拭って、溜め息をついた。「見下げ果てたもんだな。」
 彼はレバーに手を添えた。小型機関車は軋み、唸り出し、踏切に向かってよろめき進み始めた。婦人はふたたび、線路の向こうを眺めやった。鉄道と貨車の並び連なった土地に夕闇が降りて来ている。家路を帰ってゆく、灰色にくすんで群れる坑夫たちの姿は、まだあった。捲き上げ機は小止みを挟んでは、急くように小刻みに鼓動していた。婦人は──エリザベス・ベイツは、陰鬱に歩く男たちの連なりを、しばらく眺めていてから、家の内へ戻った。彼の夫はまだ帰らなかった。
 小さい台所は暖炉の火明りに充ちており、積み上げられた赤い熾は、熱のゆらめきを煙突口まで重ねていた。その部屋の生気は、すべて、仄白い暖かな炉辺と、鉄の前囲いに映える赤い焔に集まっているかのようだった。お茶のためにテーブルクロスが広げられ、影ろいのなかにカップが煌めいていた。その奥、ちょうど階段の最下段が部屋に突き出たところには、ナイフを片手に、シナノキの木切れを一心に細工している少年が腰掛けていた。彼の居る場所はほとんど火明りの陰になっていた。時間は、すでに四時半だった。それでも父親が帰って来るまでは、お茶を始めるわけにはいかない。木端を相手に手こずっている息子を眺めていた母親は、その息子の無口で、根気強いところに、彼女自身の面影を見出した。そして自分の事より外にはまるで無関心な、息子の様子に、父親の面影を見た。彼女は夫の事に思いを馳せた。おそらく彼は家庭のことを見ぬ振りして、こそこそと我が家の戸を素通りして、ないがしろにされた彼の夕飯が冷め、台無しになるのも構わずに、帰る前に酒を飲みに行ったのだろう。彼女は時計を一瞥し、ジャガイモのゆで汁を内庭に捨てにゆくため、鍋を手に取った。庭と、小川の先の野原は、不確かな暗闇に閉ざされていた。背後の闇夜に、湯気の立つゆで汁を捨て去って、鍋を持って胸を起した彼女の眼に、丘を這い上がり、平野と鉄道の敷地を越えて伸びてゆく街道に沿って灯る、黄色い明りが映った。
 そして彼女は、列をなして家路を歩く男たちの、ますます疎らになってゆくのを、もう一度見つめた。
 家の中では暖炉の火が衰えつつあり、部屋は臙脂色に薄暗くなっていた。婦人は鍋を暖炉の横棚に置き、バタープディングをオーブンの入り口近くに据えた。そうして、じっと身じろぎせずに立っていた。──間もなく、婦人の不安を打ち消すように、敏捷で元気一杯の足音が戸口から聞こえて来た。しばらく戸の掛け金を弄る音がして、それから直ぐ、帽子の下、金色から茶褐色へと色づきつつある豊かな巻毛を、眼に掛かるように垂らした、小さな女の子が、上衣を脱ぎかかりながら部屋へ入って来た。
 学校からの帰りが遅くなったことで、婦人は女の子を叱り、冬の暮れ方には家に居なければなりませんよ、と言った。
「でも、なんで、お母さん? 外はまだ少しも暗くないし、ランプだってまだついてないじゃない。それに、お父さんもまだ帰ってないし。」
「そう、お父さんは帰って来てないわね。でももう五時十五分前よ! おまえ、どこかでお父さんを見掛けなかった?」
 娘は真面目な顔つきになった。娘は不安げな大きい青い眼で、母親を見つめた。
「ううん、どこでも見なかったわ。どうして? お父さん、家に寄らないで、オールド・ブリンズリーの方へ行ったの? でも私、お父さんを見掛けなかったし、別のところへ行ったのかしら?」
「いや、お父さんはおまえが帰ってゆく姿を目にしたんだろうね、」と母は苦々しげに言った、「それでおまえに見つからないよう、こそこそ隠れたんだよ。まあ、安心しなさい、お父さんは《プリンス・オブ・ウェールズ亭》に居座ってるんでしょう。そうでなければ、こんなに遅れるはずないもの。」
 娘は悲しげな顔で、母を見上げた。
「それじゃ、もうお茶にしましょう、ね、お母さん?」と彼女は言った。
 母親はジョンをテーブルに呼んだ。彼女はもう一度戸を開けて、家の外、線路の上に立ちこめた夕闇の彼方を見やった。あたりの一切が荒涼としており、捲き上げ機の音も、もう彼女の耳には聞こえなかった。
「多分、──」と、彼女は自分自身に言い聞かせた、「あの人は、幾らか酔いが廻って頭がぼんやりするまで、帰って来ないつもりなんだろう。」
 彼らはお茶のために席についた。テーブルの片隅、戸口に近いところに坐っているジョンは、火明りの届かない暗がりに消え入りそうになっていた。お互いの顔が薄闇に没して見えなかった。女の子は炉の前囲いに身を屈めて、パンの厚い一切れをゆっくりと焔に翳していた。陰のなかに顔をぼんやりと揺らめかせている男の子は、焔の輝きを受けて、いつになく生き生きとしている女の子を、坐ったまま眺めていた。
「焔って美しいのね! 見てて飽きないわ、」と娘は言った。
「そう?」と母親は言った。「どうして?」
「とっても赤くて、小さな裂け目がいっぱいあって──側に居れば暖かいし、それに匂いも素敵だわ。」
「けれど、いつでも火の気が絶えないよう気を配るのは、大変ですよ、」と母親は応えた、「それなのにお父さんは、家に帰って来れば来るで、炭鉱で必死に働いて帰った亭主を迎えるのに、ついぞ火の気があったためしがないって、喚き散らすんだからね。──居酒屋で十分暖まって来たくせにね。」
 しばらく三人とも黙りこくっていた──少年が不満げに口を開くまで。「アニー、早くしてよ。」
「ええ、今やってるわよ! でも、焔に早く仕事させようったって無理でしょ?」
「何言ってんのさ、わざとぐずぐずしてるんだろ、」と男の子は不平がましく言った。
「ジョン、そんな捻くれたこと言うんじゃありません、」と母親が口を挟んだ。
 やがて、パンを噛みこなす乾いた忙しげな音が、薄暗い部屋に充ちた。しかし、母親は少ししか食べなかった。彼女は端然と紅茶を飲み、椅子に腰掛けた姿勢で考えつづけていた。それから、彼女が立ち上がった時の、真直ぐに保たれた彼女の頸筋の険しさには、はっきりと怒りが表われていた。炉の前囲いの側にあるプディングに目をやって、彼女はわだかまりを破裂させた。
「一家の主人とあろうものが、夕食のために家に帰って来ることさえ出来ないなんて、情けないったらありゃしない! プディングが焦げて消し炭になろうと、もうあたしの知ったことじゃない! あの人は自分の家の戸口を無視して、居酒屋へもぐり込みに行く、それであたしは、夫の夕食を前に坐って、家で大人しく待っているのだ──」
 彼女は一旦部屋の外に出た。それから戻って来た彼女が、石炭のかけらを一つひとつ炉の赤い火にくべると、影が壁にゆらめき、部屋はほとんど真暗闇になった。
「これじゃ何にも見えないよ、」と、闇に紛れてしまったジョンが文句を言った。胸の内の苛立ちに反して、母親は思わず笑みをこぼした。
「口のありかくらい分るでしょ、」と彼女は言った。彼女は塵取りを戸の外へ出した。そして炉床を這う影のように、彼女が部屋に戻って来ると、男の子はまたも不満げに、不貞腐れて言った。
「何も見えないったら。」
「まあまあ!」と母親は棘立った声で言った、「ちょっと暗いからって、もうそんなお父さんみたいに拗ねるのね!」
 しかしそう言いながらも、彼女はマントルピースに載せてある紙縒りを一つ取り、部屋の天井の真中からつり下げられたランプに、灯りをともそうと近づいた。ランプに手を伸ばした彼女の姿は、にわかに、身籠っている女を思わせる円みを帯びた。
「あ、お母さん──!」と、少女が声をあげた。
「何?」と、炎にランプの火屋をかざそうとする手を止めて、母親は言った。銅の部分に閃く焔の反映が、手を伸ばしながら娘の方を振り向いた彼女の立ち姿を、綺麗に照らした。
「お母さん、エプロンにお花が差してあるじゃない!」と、思い掛けない発見に、子供は少しはしゃいで言った。
「おやまあ!」と、緊張を解いて、婦人は甲高く言った。「そんな声出したら、ご近所がうちから火が出たかとでも思うじゃないの。」彼女は火屋を元どおりに被せ、ランプの芯の明りをより強くする頃合いを見はからって、しばらく待った。淡い影が、部屋の床の上を漂うかのように朧ろに見えた。
「匂いを嗅がせてよ!」と、少女はまだはしゃいで、近寄って顔先を母親の腰に触れさせようとしながら、言った。
「ちょっと、馬鹿な真似しないで、あっちへ行って!」と、母親はランプの火を強めようとしながら、言った。火明りに彼らの縺れた姿がひらめき、母親はいよいよ我慢ならなくなった。アニーはなおも彼女の腰にくっつきつづける。癇が弾けて、彼女はエプロンの帯から花を抜き取ってしまった。
「あ、お母さん──抜き取っちゃ駄目だよ!」と叫んだアニーは、母の手を掴み、若枝を再び元の場所に差そうとした。
「何やってるのよ!」と、母親は子供を追いやった。娘は青白い菊の花を唇に押し当て、呟いた。
「なんていい匂い!」
 母親は短く笑った。
「そうかしらね──お母さんにはそうは思えないけど、」と彼女は言った、「お父さんとお母さんが結婚したのも菊の季節、おまえが生まれたのも菊の咲く頃で、それからまた、酔っぱらったお父さんがはじめて人に担がれて家に帰って来た時も、お父さんは茶色い菊の花をボタンの穴に差していたものよ。」
 彼女は息子と娘とを見据えた。子供たちは怪訝そうに口を空けて、視線を返した。母親はしばらく静かに、身体を微かに揺すりながら坐っていた。それから時計を見やった。
「もう六時二十分前!」彼女は痛烈な、投げ遣りな口調でつづけた、「ああ、こうなりゃ誰かに担ぎこまれないかぎり帰って来ないわ。酒場にへばり付いてるんだ! もう塵に汚れた格好で、家に千鳥足で帰って来たって許すもんか、誰が身体を洗ってやるもんか! どこか適当に床で寝ればいい!──ああ、なんて無駄な苦労をして来たんだろう、なんて馬鹿だったんだろう! 自分の家の戸をこそこそ避けるような男のために、鼠だの何だのの湧く、薄汚れた穴ぐらに、わざわざ結婚して生活しにやって来たってわけね、あたしは! 先週だって二度も──、こんなこと、こんなことばっかりだ──」
 ようやく彼女は気を鎮めると、テーブルを片付けるために立ち上がった。
 さらに一時間もの時が過ぎる間、子供たちは、声をひそめて遊びに没頭しながらも、鋭敏な想像をめぐらして、母親の鬱勃とした怒りに対する怖れと、父親が帰って来ないことへの不安とで、一つの気持ちに寄り添っており、一方、ベイツ夫人は、肘掛け椅子に坐りながら、クリーム色の厚地のフランネルで、男の子のための下着を縫っていたが、彼女がその灰色の端を裂いて引っ切るたびに、鈍い痛々しい音が響いた。そうして彼女が、熱心に手元の縫い物仕事に取り組みながら、子供たちの動息に耳を立てているうちに、やがて、彼女の怒りも萎れて、沈んで落ち着き、もう時折目を配って見澄ましたり、やや耳を傾けたりする程度になった。そして何時しか、怒りは弱々しくなり、怯んだように弊え、彼女もふと、着物を縫う手を止めて、戸外の、線路の枕木に沿って移る重い足音の行き先を、耳で追う──それから咄嗟に、鋭く頭をもたげ、子供たちに「静かに!」と言いつけそうになるが、しかし間もなく我に返り、足音も戸口を通り過ぎてゆき、そして、子供たちも遊戯の世界から引き出されずに済むのだった。
 しかしとうとうアニーは溜め息をついて、不安に堪えきれなくなった。室内穿きを積んだ籠に目をくれた彼女は、もう遊びを続けるのが嫌になっていた。女の子は物悲しげに母親の方を振り向いた。
「お母さん!」──と、しかし彼女の声はくぐもって響いた。
 ジョンは蛙みたいにソファーの下から這い出て来た。母親は目を上げてちらりと見た。
「ジョン、」と彼女は言った、「ほら、このシャツの袖を見てごらん!」
 男の子はもの言わず、そのシャツを持ち上げてと見こう見した。そのとき線路向こうの下方から、誰かが嗄れた声でなにか呼び立てるのが聞こえて、その声の主の二人の男が、話し声を交わしながら外を通り過ぎてゆくまで、部屋には、不穏な切迫が充ちた。
「もう寝る時間ですよ、」と母親は言った。
「でも、お父さんが帰って来てないわ、」と、アニーは辛く、悲しげに言った。しかし母親の方は、この事態に対して心構えができていた。
「気にすることないわ。いざとなったら、みんながお父さんを担いで連れて来てくれるわよ──丸太みたいにね。」と、彼女は、何も大事など起こりはしないのだ、と諭した。「それで、目が覚めたら床で寝ていたってことになるでしょうよ。まあ、こんな様子じゃ、お父さん、明日は仕事には出られそうもないね!」
 子供たちは手と顔をとタオルで拭いた。彼らはとても静かにしていた。そして寝間着に着替えてから、彼らは就寝の前のお祈りを呟いたが、とりわけ男の子の方はもぐもぐと曖昧な声音だった。娘のうなじにかかる、豊かに絡み合った、すべやかな褐色の巻毛を、そして男の子の小さな黒髪の頭を見下ろしていた母親は、自分を含めた三人を、こんな風に気落ちさせている父親への怒りで、胸が裂けそうになった。子供たちは寝る前に、彼女のスカートに顔を押し付けて甘えた。
 階下におりて来たベイツ夫人には、部屋は、一段と人気が無く、差し迫った予感に充ちているように見えた。彼女は縫い物仕事を取り上げると、しばらく、顔を上げずに丁寧にそれを仕上げていた。そのうちに彼女の怒りは、段々に不安の色を帯びていった。




2


 時計が八時の音を打った時、彼女ははっと顔を起し、手に持っていた縫い物を取り落とした。彼女は階段のところまで行って戸を開き、耳を澄ませた。それから外へ出て、背後の戸に鍵を掛けた。
 何かが、庭をはしこく掠める音がして、彼女はぎくりとした──それが辺りにはびこる鼠だと、分っていたにもかかわらず。夜陰は深かった。広く錯綜する鉄道の線路だまりには、貨車がひしめき、薄らとした光りさえ射さず、そしてそのはるか向こうには、わずかに炭鉱の頂きの黄色い灯りと、灼けているような竪坑口の赤い蠢きが闇夜に浮かび上がるのが、見えるだけだった。彼女は線路の端に沿って急ぎ足で歩いて行き、線路の集中して交わる場所で向う側へ渡り、白い門扉の傍らの踏み越し段を越えて、街道に出た。すると、それまで彼女の身を引き締めていた不安が、ふと鎮まった。通りを歩いている人々は、みなニュー・ブリンズリーの方へ向かっていた。家々から洩れる明りが彼女の目に入った。二十ヤードほど先きには、《プリンス・オブ・ウェールズ亭》の幅広の窓が、いかにも暖かくまばゆく輝き、また、紛れもない男たちの騒がしい声も聞こえて来た。ならば、夫に何か起こったのではないかと案じた彼女の気苦労は、無駄だったのだ! 彼はあの《プリンス・オブ・ウェールズ亭》で飲み過ごしているだけなのだ。とはいえ、彼女は躊躇した。彼女は今まで、夫の首根っこを捉えて連れ戻すようなことはしたことがなかったし、今も決してそんな真似をするつもりはなかった。それだから彼女は、歩を止めず、街道沿いに疎らにつづく、脱け殻のような家並みの方へ、足を向けた。そして家々の間の小径へ折れて行った。
「え? リグリー?──ええ、うちですけど。うちの主人に会いたいの? 残念ね、今ちょっと家を空けているわ。」
 角ばった身体つきの婦人が、皿洗い場の暗がりから前へ乗り出す格好になって、相手の、台所のブラインドから溢れる明りに朧ろに照らされた婦人を、目を凝らして見据えた。
「ああ、ベイツさんなの?」と訊ねた彼女の声には、恭しい色があった。
「そうです。ご主人が家にもういらっしゃるかと思って……。うちのは、まだ帰って来てないんです。」
「あら、そうなんですか! いえいえ、うちのジャックはとうに帰って、夕飯を食べてからまた出掛けて行きましたがねえ。ジャックはいつも、寝る前に半時間ぐらいぶらりと出て行くんですよ。《プリンス・オブ・ウェールズ亭》は当たってみましたか?」
「いいえ──」
「そうねえ、貴女はああいう場所、お嫌いだものね! あんまり良い場所じゃないものね──」相手の婦人は宥めるように言った。しばらくぎごちない沈黙がおりた。「ジャックは、何も──貴女のご主人と一緒かどうかとか──何も言ってませんでしたよ。」婦人は言った。
「いいえ! どうせあそこに居座ってるに決まっているわ!」
 エリザベス・ベイツは、苦々しげに、自棄的にそう言った。庭向こうの家の女が、戸の裏に立ち、耳をそばだてていることも、彼女は気づいていたが、構うことはなかった。そうして、エリザベスが立ち去りかけると──
「ああ、ちょっと待ってて! あたし、ひとっ走り行って、ジャックに何か知っているかどうか訊いてきますから、」とリグリー夫人が言った。
「あら、そんな──そんなことしてもらっては悪いわ──!」
「いえいえ、構いませんよ、貴女に、ちょいとうちに上がってもらって、二階の子供たちが炉火に悪戯しないよう、見張ってもらえるんでしたらね。」
 エリザベス・ベイツは、申し出を断るような言葉を口ごもりながらも、家に上がった。相手の婦人は、部屋の散らかりようを詫びた。
 確かに台所は、申し訳が必要なほど乱雑だった。小さいワンピースやズボン、子供用の肌着が、床やソファーの上に放って置かれているだけでなく、玩具もあちらこちらに転がっていた。テーブルにかけられたアメリカ風の黒い布には、パンやケーキの幾切れと、パンの皮の欠片、零したお茶の痕が散らばり、冷えた茶の入ったティーポットがのっていた。
「いえ、うちだって同じようなものですよ、」と、エリザベス・ベイツは、家のなかを見回さず、ただ婦人に目を向けて言った。リグリー夫人は、ショールを羽織ると、すばやく外へ出た。
「すぐに戻りますよ!」
 リグリー夫人が出て行って後、ベイツ夫人は、部屋のどうしようもない乱雑さにちらりと目を向けては、かすかに眉をひそめながら、坐っていた。そのうちに知らず識らず、床に散らばっている、とりどりの大きさの靴の数を数えていた。全部で十二足だった。彼女はため息をつき、取り散らかった部屋を見やりながら、独りつぶやいた──「散らかるわけだわ!」 そのとき庭に、二人の人間の忙しげな足音が立って、それからリグリー夫妻が入って来た。エリザベス・ベイツは立ち上がった。リグリー氏は大柄な、非常に武骨な男だった。とりわけ彼の頭は骨張って見えた。その顳かみには、炭鉱で受けた創傷が元になった青黒い痕──刺青のように、炭鉱の塵が青くこびりついた傷痕が、一筋走っていた。
「ウォルターは、まだ家に帰ってねえんですかい?」と、挨拶の仕種抜きに、しかし敬意と同情を込めて、男は訊ねた。「奴がどこへ行ったか、俺には分らねえが──あそこには来てなかったですぜ!」──彼は《プリンス・オブ・ウェールズ亭》を指し示すかのように、頭をねじってみせた。
「ご主人は、ひょっとしたら、《水松亭》に立ち寄ったんじゃないかしら、」とリグリー夫人は言った。
 ふたたび言葉が途切れた。リグリー氏には明らかに、何か気掛かりなことがあるらしかった。
「ふうむ、俺らは、割当て仕事を最後までやろうとしてたウォルターを残して、先に上がったんだ──」と、彼は語り始めた。「俺らが持ち場を離れたのは“終業”から十分ほど過ぎた頃だった、で、俺は奴に向かって『ウォルター! まだ上がらねえのかい?』と叫んだら、『先に行ってな! 俺もすぐ行くが、もうしばらくだけやってくよ』って、奴は応えたんです、だから俺らは、奴を底において行った──俺とバウアーズは、ウォルターは俺らのすぐ後ろを付いて来てるんだろうと思ってたし、次ぎの捲き上げ機に乗って来るもんだと思ってた──」
 彼はあたかも、仲間を見捨てて来た咎を問い質されているかのように、まごついて立っていた。今や、ふたたび惨事の予感にとらわれ始めたエリザベス・ベイツは、相手を安心させるように、急いで言った。
「あなた方のおっしゃるように、多分、ウォルターは《水松亭》に行ったんでしょう。別に珍しいことじゃありませんわ。こんな風に酷く気を揉んだことが、以前にもありましたもの。結局は、酔いつぶれた彼を、家まで、皆が運んで来てくれるということになるでしょうよ。」
「ええ、ええ、本当にしょうもないことですわね!」と、リグリー夫人は憂わしげに言った。
「ちょっくら、ディックの家まで行って、ウォルターの奴が来てないかどうか見て来ましょうか?」と、自分の危惧を悟られぬように、不躾な調子にならぬように気遣いながら、男は申し出た。
「あら、そうまでして頂くことはありませんのよ、そんな大ごとじゃありませんわ、」と、エリザベス・ベイツは強く言ったが、男には、彼女が自分の申し出を嬉しく思ったのが分った。
 路地の入り口までつまずきながら上って行く時、エリザベス・ベイツの耳に、リグリー夫人が中庭を駆け抜けて、隣家の戸を開ける物音が聞こえた。すると、不意に、彼女の体中のすべての血が、奔湍となって心臓から流れ出てゆくかのように感じた。
「危ねえ!」とリグリー氏は鋭く言った。「この、玄関んとこの轍、早く埋めなきゃならねえと何度も言ってたんだが──そのうち、誰かがつまづいて足を折っちまうな。」
 気を取り戻した彼女は、急ぎ足で坑夫の後について行った。
「子供たちを寝かしつけては来たんだけど、心配だわ、誰も家に居ないんですもの、」と彼女は言った。
「そう、そうでしょうな!」と、彼は思いやり深げに言った。彼らは間もなく家の門口に着いた。
「さあ、奥さん、俺も後でまた伺いますから、あまり気に病まんでくださいよ。大丈夫、奴はぴんぴんしてるに違いないですぜ、」と、この気のいい男は言った。
「ほんとうにありがとうございます、リグリーさん、」と彼女は応えた。
「なに、構わんですよ!」と彼はその場を離れながら、もぐもぐ言った。「それじゃまた後で、伺いますからね!」
 家の中は静かだった。エリザベス・ベイツは帽子と肩掛けを脱いでから、炉床の絨毯を巻いて片付けた。それを終えると、彼女は椅子に腰を下ろした。時間は九時ちょっと過ぎになっていた。彼女は時折、炭鉱の捲き上げ機の不意に素早く軋る音や、下へ送られてゆくロープがブレーキに酷く唸る音を、耳にしては、はっとした。ふたたび自分の血が痛みに尖るのを感じて、彼女は腕を脇に垂らし、大声で言った──「まったく! あの音は、九時の保安係が降りて行く音じゃないの──何も心配することなんて無いのよ!」自身を叱るような調子だった。
 彼女は身じろぎせず、坐って、耳を澄ましていた。そして半時間ほどそうしていると、彼女は全く倦み疲れてしまった。
「何のために、こんなに気を揉んでいるんだろう、あたしは?」と、彼女は情けなさにひとりごちた、「どうせ自分の身体に障るだけだっていうのに。」
 彼女はまた縫い物仕事を取り上げた。
 十時十五分前になって、外に足音が立った。やって来たのは一人だ! 彼女は戸が開くのを兢々として待った。黒い帽子と黒い羊毛の肩掛けを身にまとった、老齢の女性が現われた──それはウォルターの母親だった。彼女は六十がらみの、蒼然とした肌の、青い眼をした女性で、顔には深く皺が刻まれて、醜かった。戸を閉めた老婦人は、遣る瀬なげな顔を義理の娘に向けた。
「ああ、リジー、どうしたらいいんでしょう、ほんとうにどうしたらいいんでしょう!」と彼女は嘆いた。
 エリザベスは虚を衝かれて、身を引いた。
「どうしたんです? お義母さん、」と彼女は言った。
 老婦人はソファーに腰を下ろした。
「分らないわ、あなた、分らない、ああ、何て言ったらいいのか分らないの!」──老婦人はゆっくりと頭を振った。エリザベスは坐ったまま、不安げに、困惑して、相手を見つめた。
「分らないの──」と老婦人はくり返して、深い溜め息をついた。「でも私の気苦労に終りはないんだわ──そう、決して終わらないのよ。ああ、これまで経験してきた不幸だけで、もう十分だっていうのに──!」溢れるままにまかせた彼女の涙が、頬を流れた。
「でも、お義母さん、」とエリザベスは遮って、「何の事を言ってるんです、何が起こったんですか?」
 老婦人はゆっくりと目を拭った。あまりに率直なエリザベスの物言いに、とめどない涙はおさまった。くり返し、ゆっくりと彼女は涙を拭いた。
「ああ、なんて可哀想な息子でしょう! それに貴女も! なんて可哀想なんでしょう!」と彼女は悶えた。「もうこれから一体どうしたらいいやら分らない──分らないわ──それに、貴女も身重だっていうのに──おお、恐ろしいことだわ、本当に恐ろしいことだわ!」
 エリザベスは、続きの言葉を待った。
「あの人、死んだんですか?」と彼女は訊ねた、そしてその自分自身の言葉に、彼女の心臓は激しく揺さぶられた──とはいえ、その問い掛けの突拍子の無さを恥じて、微かに顔を赤らめた彼女でもあったのだが。このエリザベスの言葉は、急激に目を醒されたかのような鋭い恐怖を、老女に引き起こした。
「エリザベス、そんな! そんな酷いことを想像するなんて──いいえ、主が私たちを御護りくださいますよ、エリザベス。私が寝酒を飲んで休もうとしてた頃、ちょうどジャック・リグリーがやって来て、言ったのよ、『万が一のために、線路下って、ベイツさんのところに居た方がいいですぜ。ウォルターの奴、事故に巻き込まれたみたいなんです。俺らが奴を連れて戻るまで、ベイツさんと一緒に待ってた方がいいでしょう。』それ以上のことを訊く暇はなかったの。だから私は帽子を被って、すぐさまここへ来たの、リジー。来る途ずっと、こう思いつづけていたわ──『ああ、あの可哀想な娘に主の御加護を! この不幸のことを知ったら、どんなにあの娘は動揺するだろう、どんなに狼狽するだろう!』って。リジー、気をしっかり持つのよ、ねえ、大事な身体なんだから。そう──お腹の中の子供はもうどれくらいになるの──六ヵ月──いえ、五ヵ月かしら? ああ!」──老婦人は頭を振った──「時間が経つのはなんて早いんだろ、なんて早いんだろう!」
 エリザベスの考えは忙しげに彷徨っていた。もし夫が死んだのだったら──果たして、小額の恩給で生活してゆけるのだろうか、それに、自分にどんな賃仕事が出来るだろうか?──彼女はそれを素早く胸算してみた。或いは、夫が怪我をしたのだったら──彼を入院させる余裕は彼らの家には無し──夫が、家で看護する彼女に、どれほど喧しく横柄になることか、想像するまでもない! でも、ともかく夫が家で寝込んでいる限りは、酒飲みや悪習と縁切りさせることもできるだろう。そう、彼が寝込んでいるうちに、彼を変えさせることができたら──。そんな将来を想い描くうちに、彼女は涙がこみ上げて来た。しかし、それはいかにも虫のいい、甘い感傷ではないだろうか?──彼女は子供たちのことに考えを向け変えた。何はともあれ、子供たちが彼女の庇護を必要としないということはあり得ない。子供たちを惟みることが、彼女の務めだ。
「ああ!」と老婦人はふたたび叫んだ、「あの子が初めて、お給料を私に持って来てくれた日から、まだ一、二週間も経ってないと思えるのに……。昔は、あの子はほんとうに良い子だったのよ、ほんとよ、エリザベス、あの子なりの誠意を持っていたわ。それが何であんな素直じゃない子になってしまったのか──ほんとに、どうしてでしょう。家に居たときはとても明るい、周りを陽気にさせる、楽しい子でね、でも、困ったくらいに元気が良すぎたのが、悪かったのかねえ、こんな風に手に負えない、恥ずかしい子になってしまうなんて。ああ、あの子が誤った途を改められるよう、主が命を助けてくれるでしょう、きっと、きっと! エリザベス、あの子の我が儘で、あなたは苦労なさったでしょうね、本当に大変だったでしょうね、でも、あの子は私と居たときは、とても良い子だったのよ、ほんとよ、それは請け合うわ。でもどうしてこうなってしまったのか、分らない、どうしてまた、ほんとに……。」
 そうやって老婦人が、苛立たせるような曇った声音で、鬱々と、物思いをつぶやき連ねる一方で、考え事に意識を凝らしていたエリザベスは、不意に、捲き上げ機が軋み、ブレーキの切り裂くような唸りが響いたのに、ぎくりと身を竦ませた。しかし機械の立てる切れ切れな音は、次第に間遠になって、やがてブレーキの音も消え入った。老婦人は何も気づいていないようだった。不穏な気掛かりに、エリザベスは身構えた。義理の母の繰り言は、段々に滅裂になっていった。
「あの子はあなたの子供じゃないものね、リジー、だから、私の言うこと、分らないかもしれないけれど……。でもあの子が今どうあろうと、私はあの子が小さかった頃の事を忘れないし、あの子の身になって、あの子を理解してあげようと思うの。あなたもできれば、あの子の悪いところを許してやって──」
 もう十時半になっていたが、老婦人は呟きつづけた──「でも人生は、始めから終りまでずっと苦労続きなのよ、ほんとよ、年を取っても、苦労から見放されることはないの、決してないのよ──」その時、門扉の乱暴に開かれる音が響き、それから踏み段を下りてくる重い足音が聞えて来た。
「ああ、誰か来た、リジー、出なきゃ、出なきゃ!」と老婦人は悲鳴をあげて、立ち上がりそうにした。しかし逸早く玄関へ向ったのはエリザベスだった。戸口には、炭鉱の作業服を着た男が立っていた。
「奥さん、今、みんなでウォルターを運んで来てますから、」と彼は言った。エリザベスの心臓は一瞬きゅっと押しつまった。それからふたたび、胸苦しいまでに脈打ちはじめた。
「ウォルターの具合は……酷いんですか?」彼女は訊ねた。
 男は目を逸らし、闇の奥を見つめた。
「医者の言うところでは、奴はもう息絶えてから数時間経ってます。医者は、ランプ小屋で奴を診てそう言ったんです。」
 エリザベスのすぐ後ろに立っていた老婦人は、椅子にくずおれ、手を組み合わせて叫んだ、「ああ! あの子が! 私の息子が!」
「大声出さないでください!」と、エリザベスは眉尻を強くして言った。「お義母さん、静かにして、子供たちを起さないように。今、あの子たちを下へおりて来させるわけにはいかないから!」
 老婦人は身を震わせ、呻き声は密やかになった。男は立ち去ろうとして退いた。エリザベスは前へ踏み出した。
「一体どうしたんでしょう?」彼女は訊ねた。
「いや、俺も確かなことは分らんのです、」と応えながらも、男はひどく動揺していた。「他の連中が行っちまった後も、奴は残って仕事していた。その上で、岩崩れが起こったんです。」
「それで、その下敷きに?」エリザベスは総毛立って口走った。
「ちがうんです、」と男は言葉をつづけて、「岩は、奴の背後で崩れ落ちたんです。奴は切場にいたから、崩れた岩には当たらずに済んだんですが、閉じ込められてしまった。そうしてそのまま、そこで窒息したみたいなんです。」
 エリザベスは目が眩んだ。後ろで、老婦人が悲鳴を上げるのが聞えた──
「ええ?──何て言ったの、あの子に一体何が起こったっていうの!」
 男はもう一度、声を張り上げて応えた、「奴は窒息したんです!」
 途端に老婦人は激しく啜り泣きはじめ、それが却って、エリザベスの心持ちに余裕を与えた。
「駄目よ、お義母さん、」と、老婦人の肩に手を添えて、エリザベスは言った、「子供たちが起きてしまうわ、起さないように、静かにして。」
 老母が身を震わせて、泣き声が低い呻きになってゆくにつれ、エリザベスも知らず識らず、かすかに、細く涙を流していた。しかし彼女は、男たちがいずれウォルターを運んで来ることを、そして遺体を迎え入れるために部屋を整えねばならないということを、思い出した。「ああ、遺体を客間へ置くことになるんだわ、」と彼女はひとりごちながら、想いは乱れて、青ざめた顔でしばらく立っていた。
 やがて彼女は蝋燭に火を点し、小さな客間の戸をくぐった。部屋の空気は冷やかに湿っていたが、暖炉が無いために、火を起こすことはできなかった。彼女は蝋燭を据え付けて部屋を見回した。蝋燭の明りは、虹彩ガラスの上に、桃色の菊の花を活けた二つの花瓶の上に、マホガニーの家具の上に、ひらめき映った。死を想わせる冷たい菊の薫りが、部屋に充ちていた。エリザベスは立ったまま菊の花を眺めていた。やがて彼女は顔を向け変え、この客間の床──長椅子と戸棚の間に、どうやって夫を寝かせるだけの余地を作ろうかと、思案しはじめた。彼女は椅子を脇へ押しやってみた。それでどうやら、夫の遺体を横たえ、そのまわりを立ち動ける空間が出来たようだった。つづいて彼女は古びた赤いテーブルクロスと、さらに他の古い布切れを取って来て、絨毯が汚れないようにそれらを敷き広げた。客間を出ようとした時、冷えきった肌に身震いした彼女は、衣装箪笥の抽き出しから真更なシャツを取り出し、暖炉の火に晒して乾かした。その間ずっと、義母は椅子の中で身体を震わせながら、呻き声を上げていた。
「お義母さん、こっちへ来てください、」とエリザベスは言った。「みんながウォルターを運んで来てくれますから。この揺り椅子に坐ってて下さい。」
 機械的に立ち上がった老婦人は、暖炉の側の椅子に坐りなおすと、またしきりに嘆声をこぼしはじめた。もう一本の蝋燭を取りに、食料庫へ──瓦がむき出しの、差掛け屋根の下の小屋へ入って行ったエリザベスは、そこで、彼らがやって来る気配を感じた。彼女は食料庫の戸口にじっと立ち、耳を澄ました。彼らが家の端をまわって、要領悪く段差を下りて来る、引きずるような乱れた足音と、彼らの交えるつぶやき声とを、彼女は聴いた。老婦人は静かになっていた。男たちは内庭に姿を現した。
 炭鉱監督のマシューズの声が、エリザベスに聞こえた、「そら、ジム、おまえの方から先きに入ってくれ!」
 ドアがゆっくりと開かれ、二人の婦人は、担架の端を持った一人の坑夫が背を見せ、後向きに入って来るのを、そしてその担架の上に、遺体の足先の鋲を打った坑内靴がのぞいているのを、目にした。運び手の二人は一旦止まったが、頭の方を支えている男は、ドアの上の横木にぶつからぬよう腰を屈めていた。
「どこへ彼を運びしましょうか?」と、小柄な、白く短い髭をたくわえた監督は訊ねた。
 彼女は自ら強いるようにしっかりと気を保ち、まだ火の点していない蝋燭を持って、食器室から出て来た。
「客間の方にお願いします、」と彼女は言った。
「ジム、そっちだ!」と監督が指示し、運び手の二人は後ずさりして、小さな部屋の方へ廻って行った。彼らが下手糞に、二つの戸口を斜めにくぐろうとした時、遺体に被せてあった外套がずり落ちたので、仕事の最中の格好そのままに衣服を剥いで、腰まで肌を露わにした遺体の様を、婦人たちは目の当たりにした。恐れに圧し伏された声で、老母は呻いた。
「担架をそっち側に横たえるんだ、そう、そっち側にな、」と監督は五月蝿く言った、「そう、そう、その布の上に横たえるんだ。おい、気をつけろ、おい、危ない! 気をつけろって!」
 しかし運び手の一人は、身体を菊の花瓶にぶつけて倒してしまった。男はきまり悪げに花瓶を見ていたが、担架を先きに床に下ろした。エリザベスは夫の姿に目をやろうとはしなかった。部屋に入って来るなりすぐに、彼女は毀れた花瓶の欠片と花を拾い上げた。
「ちょっと待っててください、」と彼女は言った。
 彼女が雑巾で床の水を拭くあいだ、三人の男は黙って待っていた。
「いやはや、とんだことになりまして……何と申し上げてよいのやら……!」と、監督は当惑と気詰まりを浮べた眉を拭いながら、言った。「私もこんな事件に出くわしたのは初めてなんです、ええ、まったく! なにも、彼は残ってまで仕事をする必要はなかったんですが……、それが、こんな信じられないような事故になるなんて……! ほとんど突風みたいに、一時に岩崩れが起きて、彼を閉じ込めてしまったんです。四歩と歩ける余地のないような場所に、閉じ込められたのに、彼の身体には掠り傷一つついてないんですよ。」
 炭鉱の塵まみれの、うつ伏せに横たわった、半ば裸の屍体を、彼は見下ろした。
「死因は窒息だと、医者は言ってます。いや、こんな恐ろしい事故は、まったく、まったく初めてです。まるでわざとのようにこんな事になったみたいで……。鼠獲りの罠のように、彼には触れずに、閉じ込めてしまったんですからねえ、」──その鋭い岩崩れの様を、監督は手振りで示してみせた。
 坑夫たちは、無念の気持ちを表すかのように、顔を脇に背けて立っていた。
 起こった事態の空恐ろしさが、彼ら皆を総毛立たせていた。
 そこへ突然、二階から女の子の高く震える声が聞こえた。「お母さん、お母さん──誰か来てるの? 誰なの、お母さん?」
 エリザベスは階段のすそに駆けて行って、戸を開けた。
「寝てなさい!」と彼女は鋭く言いつけた。「何を大声出してるの? 早く寝なさい、何も起きちゃいないんだからね──」
 彼女は階段を上がりはじめた。彼女が板張りの床を踏んで行き、次いで小さな寝室の漆喰の床を歩くのを、階下の彼らは耳にした。彼らに、彼女の声ははっきりと聞き取れた。
「どうしたっていうの?──何を愚図ついてるの、悪い子ね──」と、ぎごちない優しさを帯びた彼女の声は、却って動揺しているように聞こえた。
「だって、誰かが家に来たような気がしたんだもの、」と哀しげな子供の声が応えた。「お父さん、帰って来たの?」
「ええ、そうよ、皆が連れて来てくれたの。だから何も心配することはないのよ。さ、早く寝なさいね、良い子だから。」
 階下の男たちは、寝室のエリザベスの声を耳にしながら、彼女が子供たちに毛布を掛けて寝かせてやるあいだ、じっと待っていた。
「お父さん、酔っぱらってるの?」と、女の子はおずおずと、弱々しい声で訊ねた。
「いいえ! 酔っぱらってなんか──お父さんは──お父さんはね、眠ってるのよ。」
「下で? 眠ってるの?」
「そうよ──だから、大きい声なんか出しちゃ駄目よ。」
 しばらく静かになっていたが、男たちは再び、子供の怯えたような声を聞いた──
「あの音は何?」
「なんでもない、なんでもないわよ、言ったでしょ、何も気にすることはないのよ。」
 その音は、老母の呟き声だった。彼女は身も世もなく、わななき呻いていた。監督が彼女の腕に手をやって、「シーッ!」と言いつけた。
 老婦人は目を見開いて彼を見つめ返した。そんな風に制止されることなど思いも寄らず、彼女は訝しげな顔をした。
「今何時なの?」と子供は、訴えるようなか細い声で、不安を抱えたまま、眠りに落ちそうになりながら、最後の問い掛けをした。
「十時ですよ、」と、母親は一層優しげに言った。そしていつも通りに、腰を屈めて子供たちにキスしたようだった。
 マシューズは男たちに外へ出るよう手で合図した。彼らは帽子をかぶり、担架を抱え上げた。屍体の上をまたいで、彼らは足音を立てぬよう、家の外へ出ていった。子供たちの敏い耳から十分離れるまで、彼らは一切言葉を交わさなかった。
 再びエリザベスが下りて来た時には、義母は独り床に跪き、遺体に身を凭れかけさせて、涙を溢していた。
「お義母さん、お葬式のために、ウォルターを綺麗にしてあげなくちゃ、」とエリザベスは言った。彼女は薬缶を火にかけると、すぐ戻って遺体の足元に膝を付き、靴の固い革紐から緩めはじめた。たった一本の蝋燭の明りしかない部屋は冷え冷えと薄暗く、彼女はほとんど床に触れるように、手元へ顔を屈めねばならなかった。そうしてやっと、彼の厳めしい靴を脱がせて、脇へ片付けた。
「お義母さん、手伝ってください、」と、彼女は老婦人の耳元にそっと言った。それから二人して彼の服を脱がせにかかった。
 それを終えて立ち上がった二人の前に、彼は、蔽いない死の尊厳をたたえて横たわった姿を、曝していた。彼女たちは恐れと畏敬の念に衝かれて、立ち竦んだ。二人はしばらく、身じろぎせず、目を落し、そして老母は啜り泣きつづけていた。エリザベスは、否定の力に圧されたように感じていた。彼女の目に、彼の姿はいかにも、神聖不可侵な、自らの内に充足したような姿と映った。もはや彼女と彼との間には、何の関わりもあり得ない。それは、彼女には受け入れ難いことだった。膝を付いて、彼女は何か乞い求めるように、彼の上に手を添えた。彼の倒れた場所は坑内の熱が籠ったところだったのだろう、彼の身体は、まだ暖かかった。老母は彼の顔を手のあいだに挟んで、とりとめない声で囁きかけていた。あたかも水を含んだ葉から滴るように、老いた女の目から涙が絶え間なく伝ったが、もはや彼女に泣き声は無く、ただ涙を流れるに任せているのだった。エリザベスは、頬と唇とで夫の身体に触れた。彼女は耳を凝らしているようであり、尋ねかけているようであり、彼と何かの繋がりを得ようとしているかのようでもあった。しかし、何も応えて来るものは無かった。彼女は遠ざけられてしまった。彼は確固として不動だった。
 エリザベスは起き上がると、台所へ向かい、鉢に湯を注ぎ、それと石鹸とフラノ地の布と柔らかなタオルを一緒に持って戻った。
「体を拭いてあげなければ、」と彼女は言った。
 老母は辛そうに起き直り、エリザベスが余念なく彼の顔を拭き、フラノ地の布で、口元を覆う彼の豊かな金の髭を丁寧に擦ってやっているのを見つめた。底知れない畏怖の念に憑かれたエリザベスは、ただ一に夫に仕えていた。その姿に、妬心を揺さぶられた老婦人は、言った──
「あたしにもやらせてちょうだい!」──そして老婦人は反対の側に跪き、エリザベスに倣って、のろのろと息子の汚れを拭きはじめ、時折エリザベスの黒々とした髪の毛と、老婦人の黒く大きい帽子とが触れ合ったりした。永い間、彼らは物言わず、ひたむきに作業をつづけていた。彼が死に包まれているということは、二人の想いから決して離れず、そうして男の死んだ身体に触れているのは、彼女たちに、それぞれで異なった、未知の情感を呼び醒していた。苛酷な畏怖の念を二人で分ち持ちながらも、老母の方は、自分の子宮の欺瞞を暴かれて、彼女自身の存在を否定されたように感じていたし、また妻の方は、自分が産もうとしている子供の重みからさえも切り離された、人間の魂からの全き孤立を感じていた。
 ようやく二人は、彼の身体の汚れを拭い終えた。彼は元来均斉の整った肉体の持ち主で、そして今はもう、彼の顔は大酒呑みの跡をとどめてはいない。彼は金髪の、肉感にあふれた、引き締った四肢を持つ男だった。だがそれでいて、彼は死んでいた。
「この子に主の祝福を……、」と、彼の顔から目を離さずに、老母は囁き、そして純粋な畏怖に押されるように言葉を接いだ、「あたしの大切な息子に──この子に主の祝福を!」彼女は恐怖と、母親としての愛の恍惚に我を忘れながら、仄かで擦り切れるような声で、呟いた。
 エリザベスはふたたび床に腰を下ろし、顔を彼の項根に寄せて、おののき震えた。しかし、またも彼女は彼が遠退くのを感じるだけだった。彼は死んでおり、彼女の生き身の肉体は彼と交わる余地はない。苛酷な不安と疲れとが、彼女を捉えた──何もかもが徒労のように思えた。そして彼女の人生も、そんな徒労のままに過ぎ去ってゆくのではないか。
「牛乳みたいに白い肌で、十二歳の時みたいに綺麗で、なんて愛しいの、ああ、この子に主の祝福を!」と老母は独り呟いていた。「掠り傷一つない、こんなに綺麗で輝いてて、白くって──、こんな美しい子は外にはいないわ──」と、彼女の独り言は誇らしげな調子を帯びて来た。エリザベスは自分の表情を隠すようにしていた。
「安らかな顔してるわ、リジー──まるで眠っているみたいに。ねえ、ほんとにこの子は美しいじゃないの──そうよ、この子は主のお赦しを得たんだわ。あんな風に閉じ込められてたあいだに、悔い改めたんだよ、リジー。その時間があったんだよ──、そうでなければ、主のお赦しを得たのでなければ、こんなに綺麗な顔しているはずがないもの。おお、可愛い子、あたしの愛しい息子! この子の朗らかな笑い声を思い出すわ。あたしはそれを聞くのが大好きだった。ほんとに暖かな心のこもった笑顔でね、リジー、ほんとに優しい子で──」
 エリザベスは顔を上げた。横たわった男の顎は引かれ、口髭の下にのぞく唇は薄く開いていた。半ば閉じられた眼は、薄闇に埋もれて、ぼんやりとした眼差しさえ見せていなかった。燻るような命の炎は彼から消え失せ、残ったものは、彼女から隔てられた、彼女にとっての全くの異者でしかない。そして彼女は今になって、彼が自分にとってどれほど不可知な存在であったかを知ったのだった。自分がこの何の繋がりもない、見知らぬ存在と、結婚して、一つの肉体のように暮して来たことを考えると、彼女の子宮は恐怖に凍り付いた。生活に追われて見えなくなっていた、この純粋で厳然とした二人の疎隔──それが本当だとしたら、一体どういうことになるのだろうか。彼女は戦慄を覚えて顔を背けた。その真実はあまりに恐ろしいものだった。彼らは互いにまったく隔絶していながら、共に暮し、繰り返し裸体を抱き合って来たのだ。彼が彼女をわがものとした時にも、彼らは二つの孤絶した存在であったのだ──今こうして懸け隔てられているのと同様に。それは、二人のどちらに咎があるということではないのだ。彼女の子宮のなかの子供の重みが、冷たい氷のように感じられた。この死んだ男を見つめていると、彼女の冷えきった、孤独な意識に、はっきりと言葉が浮び上がって来るのを、抑えられなかった──「私は一体何なのだろう? 一体、今まで何をして来たのだろう? まともに存在さえしていなかった夫と諍ってきただけなのだろうか。いや、実際、彼はずっと存在していたのだ。なら、私が何か間違っていたのだろうか? 私は誰と暮していたつもりだったんだろう? ここに今横たわっているものこそが、実在だ、これが彼なんだ。」──そうして、彼女の魂は胸の内で恐怖に縊られていった。彼女はついぞ自分が彼を直視したことがなかったのを知った。同じように、彼もまた彼女を見つめたことなどなかったのだ。彼らは相手が誰なのか、誰と争っているのかも知らないままに、暗闇のなかで対峙し、暗闇のなかで争っていたのだった。しかし今ようやく、彼女は彼を直視し、そしてただ見るということの内で言葉を失った。彼女は今まで自らを偽って来たことを、認めた。彼女は、彼が実際そうでないところのものとして、彼に遇し、彼に親しみさえ感じていたのだが、真実、そのあいだ始終、彼は彼女から隔てられていたのであり、感情も生活も、彼女と共にすることは決してなかったのだ。
 恐れと羞恥に襲われながら、彼女は、自分が誤って理解しつづけて来た、彼の裸の肉体を見つめた。その彼はまた、彼女の子供たちの父親でもあった。彼女の魂は、肉体から裂き放され、散り散りになっていた。彼の裸体に眼を据えた彼女は、自分がそれをずっと否認してきたかのように感じて、自分を恥じた。いずれにせよ、それはそれ自身で存在していた。それは彼女にはおぞましいものと思えた。彼女は彼の顔に目をやり、次いで壁の方へ背けた。もはや彼の姿は、彼女には異質のものであり、彼の途は彼女の歩む途と同じではない。彼女はこれまで、あるがままの彼──今彼女の前に曝されている彼──をずっと否認して来たのだった。彼女は、あるがままの彼を受け入れることはついぞなかった。それが、交わることのない彼の生と彼女の生の真実だった。この真実を明らかにしてくれた死に、彼女は、ありがたみを感じた。そして自分が死んではいないということを、まざまざと実感した。
 そのあいだも彼女の胸は張り裂けそうに、悲嘆と彼に対する憐れみの想いで、充ちていた。どれほど彼は堪えていたのだろう。助けの来ないまま、残酷に募ってゆく恐怖にどれほど苦しんだことだろう! 痛ましい考えに、彼女の身体は強ばった。彼女はどうやっても彼を助けることはできなかった。この裸の男、彼女にとっての不可触の存在は、ただ無惨に損なわれたのであり、彼女にはもう何の償いもできない。彼の子供たちは遺された──だが、子供は生に属するものだ。この死んだ男は、子供たちと何の繋がりもない。彼と彼女は単に、子供たちに生を注いで現われ出させた、結節点であったというに過ぎない。母親である彼女──しかし、それが同時に妻でもあるという事実は、今や彼女には耐え難いものだった。また、すでに死んだ彼にとっても、自分が夫であるということは、耐え難い事実であったに違いない。もし死後の世界があるのならば、彼女はそこで、彼をまったく見知らぬ人間と感じることだろう。現世の彼方で、もし彼と彼女とが出会ったとしても、二人は、かつて自分たちが夫であり妻であったということを、一に恥ずかしく想うだけだろう。確かに、人のあずかり知らない、謎めいた理由によって、彼らの交わりから子供たちが生まれはした。しかしそれによって、彼らが結び合わされたということはなかった。彼が死んだ今、彼女は、如何に彼が自分から確として懸け隔てられているかを、そして彼が自分にとって、もはや永遠に何ものでもないということを知る。彼と関わった人生の挿話は、彼女のなかで今終ったのだ。彼の生と彼女の生は、互いに相手を否定し去った。彼はすでに背を向けてしまっていた。辛い痛みが、彼女の心を掴んだ。そう、すべては終ったのだ──いや、彼が死ぬよりもずっと前から、彼らの間には絶望しかなかったのかもしれない。それでも彼は彼女の夫であった。ただごく形ばかりの意味で。
「この子に着せてやれるシャツはあるの? リジー?」
 エリザベスはこの問いに応えずに、身体を向け変えた。義母の期待するような表情をしようと、嘆き悲しんでみせようと努力していたエリザベスだったが、どうしてもそうすることができず、彼女は口を噤んで黙ってしまった。台所へ行った彼女は、手に一揃いの衣服を持って戻った。
「ちゃんと乾いてますから、」と告げた彼女は、その木綿のシャツのあちこちを掴んで引っ張り、なんとか彼に着せようとした。だが、そんな風に彼の身体を弄ぶのは、彼女にはいかにも居たたまれなかった。彼女であろうと、誰であろうと、彼の身体に手を下すどんな権利があるというのだろう?──しかし彼女の手の触れ先には、彼に対する謙恭がこもっていた。彼にシャツを着せるのは一仕事だった。彼の身体は重く、鈍い。彼に触れている間ずっと、凄まじい畏怖に彼女は憑かれていた──彼がこれほどにも重々しく、完全に不動で、何の手応えもなく、孤絶していることが、彼女を怯えさせた。彼と彼女とを隔てる恐ろしい深淵は、彼女にもう耐え難いほどだった──彼女が見はるかさねばならない、その裂け目は、あまりにも測り知れなかった。
 永い時間が過ぎてやっと、彼に服を着せ終わった。二人は遺体をシーツでくるみ、顔に覆いをかけて寝かせたままにした。それからエリザベスは、彼の姿が子供たちの目につかないように、客間の戸にしっかり鍵をかけた。それでようやく、平和な疲れに胸が安らいだ彼女は、台所へ行って片付けをはじめた。彼女は、生という差し当たりの宿命に身を委ねたのだった。死という究極の運命からは、彼女は怯え、恥じるように顔を背けていた。








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