歌姫ヨゼフィーネまたは鼠の一族


Josefine, die Sängerin oder Das Volk der Mäuse


フランツ・カフカ
Franz Kafka

















 私たちの歌姫はヨゼフィーネという。彼女の歌を聴いたことのない者は、彼女の歌声の力を理解することはできない。そして、一度聴いてしまえば、彼女の歌声に熱狂しない者など誰もいない。この事実は私たち一族が音楽に対する嗜好をほとんど持っていないだけに、より一層瞠目に値することだろう。もとより私たちにとっては、平和な静寂こそ最愛の音楽であった。私たち一族の生活は辛く、苦しい。かつてはそうした生活上の苦慮を紛らすために様々なことが試みられたものだが、今ではもう私たちは、日々の実際の生活のやりくりからかけ離れた物事、例えば音楽のようなものに対して、高揚する心を失っている。しかし、私たちは大してそれを嘆いていないし、そもそも嘆くというところまでもいかないのだ。私たちは、極度に切迫した必要性から身につけた或る種の実践的な狡猾さを、自分たち一族の最大の長所だと見做している。もしかしたら、そこから音楽さえ生じるような、強い幸福感への渇望を抱くこともありえた私たちだったかもしれないが、実際、そんなことは起こりそうになく、やはり今も、自分の身に降りかかる艱難すべてを、小賢しい微笑によってやり過ごして済ます私たちである。ヨゼフィーネだけが例外なのだ。彼女は音楽を愛しているといい、それを伝えることができるという。その点で彼女は唯一無二だ。したがって、彼女がいつか亡くなるときに、私たちの生活から音楽もまた──どれほどの長いあいだであろうか、永遠にか──失われることだろう。
 ヨゼフィーネの音楽をめぐる事情について、私はしばしば考察してみたものだ。私たち一族は、音楽的感性というものを完全に欠いている。ならば、どうやって私たちがヨゼフィーネの音楽を理解することが、或いは、周知のように彼女は私たちの鑑賞力を否定しているので、どうやって彼女の音楽を理解したつもりになることが、可能なのだろうか。最も簡潔な答えは、彼女の歌声があまりに素晴らしくて、どんな鈍い感性の持ち主も心を動かされずにいないということだが、この答えは納得いくものではない。仮にそれが事実なら、私たちは、彼女の歌を聴いて、当初から、度々何か途方もない芸術を前にしているという感慨を抱いたはずだし、彼女の喉が発する、これまで一度も聴いたことのないような、それを鑑賞する能力さえ自分にはないと痛感するような、そして私たちにそれを聴かせられるのはほかでもない、ただヨゼフィーネ一匹だけに許されたことなのだ──と感銘させるような響きを受け取るはずだろう。しかし正直に言えば、この仮定は成り立たない。私自身そんな感慨を抱いたことがなく、他の鼠たちを見ても、そんなふうに感銘を受けている様子はない。むしろ、気心の知れた仲間内では、ヨゼフィーネの歌は実は芸術として大したことがないんじゃないかと噂し合っている。
 そもそも、彼女のあれは本当に歌なのだろうか? 私たちの音楽性の欠如にもかかわらず、一族のあいだでは、歌の伝承の記録が残っており、はるか昔の時代には私たちも音楽に馴染んでいたことが分かっている。言い伝えの語るところによれば、歌唱曲のようなものまで存在していたということだが、もちろん現在それを歌える者は誰もいない。とはいえ、それゆえにこそ、私たちも歌とは何であるかということについておぼろげな輪郭を掴んではいる。しかし、その印象とヨゼフィーネの芸術とはおよそ重なるところがないのだ。ヨゼフィーネの歌は、本当に歌なのか? ひょっとすると、あれはただのチューチュー鳴きではないのか? チューチュー鳴きであれば、一族の誰もがよく知っているものだ。それは私たちが生来得意とする技であり、もっと正確に言えば、得意というほどのこともない、単なる生活上の習癖である。私たちはみなチューチューと鳴き、それを敢えて芸術だと称する者など誰もいない。私たちは自分の鳴き声に注意を向けたりしないし、それを意識することもなく、私たちの多くは、チューチュー鳴きが自分たちの種族の特性の一つであることも知らないままでいる始末だ。ところで、もしヨゼフィーネがまったく歌えておらず、単にチューチュー鳴いているだけであり、しかも、私の判断するかぎりでは、それが月並みなチューチュー鳴きの域も超えないのなら──いや、それどころか、彼女の芸術が、ありふれた土木の労働者たちが終日の仕事のあいだ何気なく行なっているチューチューにすら劣るかもしれないのなら──もしそうなら、さしあたって芸術家だという彼女の自称は論駁されることになるだろう。しかし、それだけになお、なぜ彼女の歌の影響力がこれほどに大きいのか、その謎が解かれなければなるまい。
 いや、やはり彼女が生み出しているものは、単なるチューチュー鳴きではないのだ。彼女の歌声が他の鼠たちの鳴き声に混じって聴こえるとき、彼女から遠く離れた場所からそれに耳を澄まし──というより、彼女が本当に芸術家かどうか試すつもりで──ヨゼフィーネの声を聴き分けようと苦心してみたところで、畢竟耳に付くのは、ごくありふれた、細くてか弱いほんの少し注意を惹くばかりのチューチュー鳴きにすぎない。にもかかわらず、彼女の眼前でその声を聴くと、やはりこれは単なるチューチュー鳴きではないと感じる。彼女を芸術を理解するには、聴くだけではなく見ることも不可欠というわけだ。とはいえ、事実、それが私たちの日毎のチューチュー鳴きと変わるところがないのなら、依然として謎めいたことが起こっていることになる、つまり、ごく当たり前のことをするために、やたら勿体ぶったことが行なわれていることになる。これはこういうことではないだろうか──例えば、くるみ割りという行為にはどこにも芸術的なところがない、それゆえ、わざわざ観客を集めて、彼らを楽しませるために敢えてくるみを割ってみようとする者など、誰もいない。しかしもし、それでもなお、そんな意図で以ってくるみを割ってみせる者がいたとしら、たしかにその行為は、もはや単なるくるみ割りではないと言えるだろうし、或いは、それが単なるくるみ割りだとしても、彼は、その行為によって、私たちが普段速やかに行なっているので見過ごしてしまっているくるみ割りの芸術性に気づかせてくれたのだと、そして、このくるみ割りの大家は、私たちに初めて真のくるみ割りの姿を顕現させたのだと──そう言えるのではないだろうか。その場合、彼がくるみ割りの実技において私たちの平均より少しばかり劣っていれば、却って芸術的効果は高くなると言えそうである。
 ヨゼフィーネの歌についても、同じことが当てはまるのではないか。私たちは、自分たちがそれをするときにはいささかも称賛しないことを、彼女の場合には称賛している。ちなみに私たちのそれが称賛に値しないという点だけは、彼女も同意見である。私は一度、次のような場面に出くわしたことがある。それはしばしば避けられないことだが──或る者が彼女のチューチュー鳴きは私ら一族にとってありふれたものじゃないか、とふと指摘したとき、その発言は、遠慮がちに言われたにもかかわらず、彼女に我慢できないことだったらしく、彼女の顔に高慢な、嘲弄的な微笑が浮かんだのだ。あのとき彼女がしてみせたような冷笑を、私はかつて見たことがない。本来なら、心根の優しい女性像について多くを知っている私たち一族のなかでも、うわべはとびきり完璧な優しさを保っていた彼女が、あのときだけは俄然下品な女に見えたものだ。とはいえ彼女も、持ち前の聡明さですぐ自分の表情に気づいたらしく、取り繕ってみせたが。それはともかく、ヨゼフィーネは自分の芸術と、単なるチューチュー鳴きとのあいだのいかなる関連も否定している。それに反対する意見を持つ者には、彼女は軽蔑だけでなく、表に出ない憎しみさえ抱いているようだ。しかし、この彼女の態度は、卑俗な虚栄心とは言えない。というのも、彼女の反対者たちもまた──私もそれに半ば与する者だが──彼女の歌を賛美することにかけてはその他大勢と変わらないのだが、彼女にとっては、称賛など何ほどのことでもなく、彼女が望んでいるのは、単なる称賛ではなくて、彼女の指定したとおりの芸術的解釈で称賛されることであるからだ。そして、誰しも彼女の前に坐れば、それだけでそんな彼女を理解する。彼女の前に坐っただけで、反対意見などどこかへ吹っ飛んでしまい、誰しも即座に理解するのだ、この彼女のチューチュー鳴き、これはまさにチューチュー鳴きなどではない、と。
 ところで、チューチュー鳴きが私たちの無意識の習性であるからには、ヨゼフィーネの聴衆からもチューチュー鳴く声が上がりしまいかと、危惧する向きもあろう。私たちは彼女の歌のおかげで上機嫌になることがあるし、そして上機嫌になれば、私たちはチューチュー鳴くものだ。しかし、彼女の聴衆が鳴き声を上げることは決してない。聴衆は静まり返り、まるで私たちが普段チューチュー鳴いているときには訪れることのない、待ち焦がれていた平穏が今訪れたとでもいうかのように黙り込む。この場合、彼女の歌が私たちをうっとりさせているのか、それとも彼女のか弱い声を包む荘厳な静けさが私たちを恍惚とさせているのか、どちらか判別がつかない。一度こんなことがあった。ヨゼフィーネが歌っている最中に、突然、一匹の馬鹿な女の子鼠が、底抜けの無邪気さでチューチューやりだしたのだ。このとき、女の子のチューチュー鳴きとヨゼフィーネの歌声は完全に一致していた。一方は、私たちの前方から聴こえる、長年の熟練によって鍛えられてはいるが依然として迫力を欠くチューチューであり、もう一方は、聴衆のあいだで響く、無神経な子供の上擦ったチューチューであり、その二つに認めうる何らの相違もなかった。しかし、私たちはすぐその子をシーッと叱りつけ、邪魔しないよう黙らせた。おそらくそんなことをする必要はなかったのだが。というのも、ヨゼフィーネが両腕を広げ、それ以上伸ばせまいと思われるほど首をもたげ、勝ち誇ったように歌いつづけていれば、いずれ、その女の子鼠は恐れをなして、自分のやったことを恥じて身を隠したであろうから。
 このように彼女はいつも、どんな些細なものも、どんな偶然も、聴衆のざわめきも、床をキシキシ鳴らす音も、歯ぎしりの音も、照明の故障でさえも、自分の歌の邪魔にならないものとして扱ってしまえる。彼女に言わせれば、彼女の歌を聴いているのはおよそ無趣味な連中だ。これも彼女の語るところによれば、聴衆の熱狂や喝采は事欠かないが、彼女はとうの昔に、自分の芸術が真に理解されることを断念すべきだと知ったという。だからこそ、彼女は、あらゆる妨害を自分のために利用できる。外部から彼女の歌の純粋さを妨げようとするあらゆる存在を、彼女はわずかな抵抗だけで、或いは抵抗せず、歌声を対峙させるだけで、退けることができるし、それで却って、聴衆に芸術への理解を抱かせるまではいかなくても、彼女の歌に対する不思議な敬意を引き出すことができるのだ。
 そして些細な妨害でもそうであるなら、甚大な妨害は、なお一層彼女の歌に好都合となる。私たち一族の生活は危難に満ちている。昼夜問わない常時の同胞の助けがなければ、一匹一匹では到底生き延びられないような、不意打ちの、気遣わしい、予感と恐怖に満ちた出来事が、毎日のようにやってきて、しばしば仲間の助けさえ役に立たないほどの脅威、しかも、たった一匹を襲った脅威が、その威圧で私たち幾千匹の肩をがたがた震えさせるということまで起こったりするのだ。こういう危機的状況になると、ヨゼフィーネはまさに自分の出番が来たと悟って、立つ。彼女は華奢な姿で、襟を正し、あたかも全身全霊を歌に込めるかのように、まるで歌と関係ないものについては、いかなる力も、それを意識する力も割かないでいるかのように、まるで芸術以外のすべてに見捨てられ裸になったかのように、まるで美の精神の加護にだけ身を委ねているかのように、そして、歌うことによって彼女自身を超えて、完全に歌と一体化した彼女は、もはや、死の冷たい息吹から紙一重の場所にいるとでもいうかのように、胸の下部をすさまじく波打たせながら、立つ。こういう光景を見ると、私のような反対者はぶつくさ言う、「チューチュー鳴きすらまともにできない彼女が、どれだけ必死になってみせたところで、歌などではなく──われわれはあれを歌とは認めない──ありふれたチューチュー鳴き、しかも、辛うじてかたちばかりのそれを喉から絞り出すのがせいぜいじゃないか」と。とはいえ、そうした印象を毎度毎度受けるにもかかわらず、その印象は長くつづかず、急速に過ぎ去ってしまい、やはり、私たち反対者でさえ、身を寄せ合った、生温い群衆の雰囲気に呑まれ、彼女の声に息を詰めて耳を澄ますことになるのだが。
 こういうとき、大部分が四六時中、大した目的もなくあちこちうろちょろしてばかりいる私たち一族を一箇所に集めるのに、ヨゼフィーネはただ、頭をちょっと後ろへ反らし、口を半開きにして、中空を見つめ、例の、これから自分が歌うぞということを示唆する姿勢を取るだけでいい。彼女はどこでもこの姿勢を取ることができる。その場所が、とくに見晴らしの良い場所である必要はない。あまり目に付かない、無造作に気紛れで選ばれた一隅であっても、かまわない。彼女が歌うぞ、という報らせはたちまち広められ、私たちは行列をなしてそこへ集まっていく。もちろん、ときにはそれが容易でないこともある。彼女は歌いたい気分が高まったらただちに歌おうとするので、日々、さまざまな苦悩や心配に追われて散り散りになっている私たちは、最善の努力を払っても、彼女が望むほど早くは集合できないことがあり、そうなると、彼女は十分な聴衆が集まるまで、例の示威的な姿勢をしばらく維持しなければならず、やがて、当然ながら、彼女は腹を立てはじめ、両足で地面を踏み鳴らし、乙女らしさをかなぐり捨てて悪態を吐き、そばにいる誰かに噛み付くことさえする。だが、こんな振舞いも彼女の評判を落とすことはないのだ。彼女のかなり過大な要望が撥ねつけられることは滅多になく、私たちはいつも、それを叶えようと全力を尽くしている。聴衆を集めるため、彼女には隠して使いを派遣することだってある。道に一定間隔で見張りが立ち、近づいてくる者たちに、急げ急げと手振りで合図しているのを見たことがあるだろう。そんな努力が適当な数の聴衆が集まるまでつづけられるわけだ。
 こんなふうに、私たち一族をヨゼフィーネへの献身へと駆り立てるものは、何なのか。この問いは、これと関連する、ヨゼフィーネの歌の魅力の謎と同様、解くのが難しい。人によっては前者の謎を、後者の歌の魅力の謎に完全に解消できると考えるかもしれない。たしかに、私たちが無条件にヨゼフィーネの歌の魅力に心服しているのならそう考えてもよいのだが、しかし、それは実情とは異なる。無条件の心服というものは、私たちの知るところではない。何よりもたわいない狡猾さを愛し、いつも口先だけの、悪意のない噂話を無邪気にささやき合っているこの一族、そんな種族が、何かに無条件に帰伏したりすることはないものだし、それはヨゼフィーネだった承知していることだ。そしてこの不服従こそ、彼女がか弱い喉を振り絞って克服しようとしている当のものである。
 とはいえ、この不服従をどんな場合にも当てはまるものとして、過度に一般化して考えてはならない。要は、私たち一族は彼女に心服しもするが、ただ無条件にではないということなのだ。例えば私たちは、ヨゼフィーネを笑うなんてことはできないだろう、ヨゼフィーネの姿には大いに笑いを誘う要素があるとしても。また、いつも自分たちの身近に笑いをただよわせ、幾多の生活の苦しさにもかかわらず、微笑むたびに本来の自分に返ったような気持ちになる私たち一族だが、それでも、ヨゼフィーネのことは笑わない。これはどこかしら、私たち一族がヨゼフィーネのこと、すなわちこの傷つきやすい、庇護を必要とする、そして何らかの意味で傑出した──彼女に言わせれば歌の才能において傑出した──存在を、自分たちに捧げられたものであり、自分たちが世話しなければならないものだと捉えているかのようである。なぜそんなふうに感じるのかは不明だが、事実としてそうなっている。そして誰だって、自分に捧げられたものを笑ったりはしないものだ、そんなことをしたら義務に反することになるのだから。私たちのなかでもとくに性悪な者たちが、「ヨゼフィーネを見るたびに笑いが止まらなくなっちまうぜ」などと口にするのは、彼女に加えうる最大の侮辱だと言っていい。
 こうしてみると、私たち一族は、あたかも、懇願のためか要求のためか自分に向けて手を伸ばしてくる子供をあやす父親のように、ヨゼフィーネに接しているようだ。私たち一族はそんな父親的な義務を担うのに適していない、と主張する向きもあろうが、しかし、少なくともヨゼフィーネに関しては、私たちは模範的にこの義務を遂行している。これは個々の鼠にできることではなく、私たちが一丸となっているからできることだ。一匹の鼠と比べては種族全体の勢力は非常に大きいから、どの被保護者も、集団の温かな親密さに引き入れられるだけで、しっかり庇護される。だが、このことを敢えてヨゼフィーネに告げる者はいない。「あんたたちに守ってもらう必要はないわよ」と彼女が言う。すると私たちは「そう、そのとおりだね」と思う。もちろん、だからといって本当にそう思っているわけではなく、彼女の反抗、というよりは単なる子供じみた癇癪と、子供っぽい恩知らずを、父親らしい流儀で意に介さないというだけのことだ。
 ただ、ここでもう一つ、私たちとヨゼフィーネとの関係性からして、より説明の難しいことに言及しておく必要がある。というのは、彼女が私たちとはさらに異なった意見を持っているということだ。彼女の言うところ、信ずるところによれば、彼女は、被保護者であるどころか、彼女の方こそ一族を庇護している。一体に歌には政治的危機や経済的危機を一族に克服させる力があると、紋切り型のように言われるが、それは真実そのとおり起こっており、たとえ彼女の歌によって災厄を免れることはできなくても、歌によって一族に苦境に耐える力を与えることはできているはずだ、というのである。一言一句、彼女がそう主張しているわけではない。そもそも彼女はお喋り好きの私たち一族のなかにあっては寡黙で、何かを口にすることなど滅多にないのだが、それでも、彼女の両眼の閃きから、或いは彼女のぎゅっとつぐまれた口から──私たちにはひたすら口をつぐんでいることなんて無理だが、彼女には可能なのだ──彼女の主張を読み取ることはできる。ときに、何かしらの事件の報らせが届くと──これらの報らせは互いに互いを否定するように、間違ったものから半分正しいものまでごた混ぜになっていることがしばしばだが──彼女はただちに、立つ。たとえ疲労で床にへばりつきそうになっているときでも、彼女は立ち、昂然と首を伸ばして、まるで雷雨を予感した羊飼いのように、聴衆の群れを率いようとする。たしかに頑是ない子供も同じように、放恣な、やりたい放題の振舞いをするものだが、ヨゼフィーネの場合はそれと似ているようで、どこか根拠のある振舞いのように感じられる。もちろん、彼女が私たちを庇護しているという事実は一切なく、彼女は私たちに一切力も与えておらず、もとより、この苦境に慣れ切った一族、生死にこだわらず、諦めが早く、死に親しみ、外見だけはびくびくしているようでも、つねに大胆不敵に危難を受け入れ、しかもその蛮勇に見合った繁殖力を誇るこの一族の、救済者を気取ることは、しごく容易いことであろう。そう、後から歴史研究家たちが顧みたら(もっとも私たちは歴史研究というものを軽視しがちであるが)恐怖で凍りつくような犠牲を払ってでも、日々、どうにかこうにか生き延びようとしている、そんな一族の救済者を気取ることなんて、とくに意味のあることではない。それでも私たちが危機の迫っているときほどヨゼフィーネの歌に聴き従うというのは、事実ではある。迫り来る脅威を前に、私たちはじっと立ち、声を潜め、まるでヨゼフィーネの命令に従うかのように大人しくなる。脅威が迫っている事実を一旦忘れられる機会を歓迎するように、私たちは密集し、互いに押し合いへし合いする。それは、あたかも大きな戦闘の前に、平和の杯をみなで急いで──そう、急ぐことは必須だ、それをヨゼフィーネはどうしても理解してくれないのだが──飲み干そうとしているかのようだ。だから、その場はヨゼフィーネのコンサート会場というよりも、むしろ種族集会会場に似る。実際それは或る種の集会なのだ、お喋りなどに費やしてはならないほど貴重な時間の流れる、一匹のか細いチューチュー鳴きが聴こえるだけの、静謐な集会だ。
 いずれにせよ、ヨゼフィーネは一族が彼女の芸術を遇するそのやり方に、満足してはいない。それで、いつまで経っても自分の芸術家の地位が確立されないことに、苛々と不機嫌を隠さない彼女ではあったが、いつしか、彼女は度を超えた自尊心によって、聴衆の無理解を否認するようになり、今や何の苦労もなくその否認をやってのけ、というよりも、聴衆の無理解にまるで気づかないかのような境地に達している。これには、彼女の取り巻きのおべっか使いたちが、まさにおべっかを使う効用を十全に発揮して、一役買ってもいる。一体に種族集会会場の一隅を与えられ、ちょっとした余興で歌うだけのことでも、それなりに意義深いことのはずだが、彼女の自負からすると、その程度のことに自分の歌を捧げる気にはならないのであろう。
 しかし、彼女はそんなふうにお高く止まる必要はなかったのだ、なぜなら、彼女の芸術が注目を集めないことなど決してなかったのだから。コンサートのあいだ、私たちは、とくに彼女のためを思って静かにしているわけではなく、むしろ徹底して歌とは無縁のことに気を取られ、多くの者は彼女の方を見上げもせず、隣りの者の毛に顔をうずめて蠢いているばかりで、それゆえヨゼフィーネも、舞台上で空しい努力をしているだけだと思われるのに、にもかかわらず──これは否定できない──やはり、彼女のチューチュー鳴きには何か抗しがたいものがあり、私たちはそれに惹きつけられるのだ。彼女以外の全員に沈黙を命じるように響くこのチューチュー鳴きは、あたかも私たち一族の天子のメッセージのように、個々の鼠に届く。迫り来る危機のさなかに響く彼女のか細い声は、私たち一族の、この天敵に満ちた世界の騒乱における、生存の辛苦を象徴するかのようだ。ヨゼフィーネが一生懸命、まるで何でもない歌、貧相なパフォーマンスを繰り広げ、それが私たちに受け入れられているというこの事実は、惟うに、奇蹟的なことではないだろうか? むしろ逆に、いつか一族のなかから真に優れた音楽家が現われ出ようものなら、私たちは、きっとその音楽家を嫌悪するだろうし、彼の大仰なパフォーマンスを誰もが拒絶するはずだ。私たちが彼女の歌に聴き入るという事実、それこそが彼女の芸術性の反証になっているということに、ヨゼフィーネが永遠に気づきませんように──と私たちは願う。とはいえ彼女も薄々気づいてはいるだろう、でなければ、なぜ彼女はあんなにも聴衆を否認しようとするのか? ともかく彼女は、この気づきを抑え込むかのように、くり返し懸命に歌い、チューチュー鳴きつづける。
 いや、考えようによっては、もしかするとここには、彼女にとって名誉となる要素だってなくはないのかもしれない。というのも、私たちは実際、或る意味で、真の音楽家に聴従するのと同じように彼女の歌を聴いていると言ってよく、しかも、ヨゼフィーネの歌は真の音楽家であったらどんなに苦労しても得られないような、まさに彼女の稚拙な歌い方によってのみ達成できる影響を、私たちに与えている、ということだ。そしてこのことは、おそらく私たち一族の生活様式と相関している。
 そう、私たち一族は一体に、青春期を知らず、ごくわずかな幼年期さえ持たない。一応私たちのあいだでも、一族の子供たちは責務から解放され、特別に保護されるべきではないか、ちょっとした安逸の権利、少しばかり無心にはしゃぎ回る権利、遊び心を持つ権利などが、子供たちに認められるべきであり、その実現が支援されるべきではないか──という要望がしばしば持ち上がる。そして誰もがその要望はもっともだと思う。しかし、もっともだと思うこと以上のことは、何も起こらない。私たちの現実生活においてその要望ほど実現の余地のないものはない、それだから、誰もがその要望はもっともだとうなずき、色々思案してみるものの、結局すべて元の木阿弥になるのだ。子供が少しでも走れるようになったら、周囲の世界を理解するようになったらすぐ、成人と同じく、自分で自分の面倒を見なければならないのが私たち一族の流儀である。生存効率を考慮し、ばらばらになって生活する私たちが棲む土地は、とても広く、私たちの天敵は多く、いたるところで私たちを襲う脅威は、あまりにも予測不能だ。これでは子供たちを生存のための闘いから遠ざけることはできないし、それが彼らの短命の原因にもなってしまっている。悲しい現実と言うほかないが、これはまた別の驚くべき現象をもたらしてもいる。すなわち、私たち一族の多産性を。私たちの種族の一つの世代は──どの世代もおびただしい鼠を含むが──生まれた先から、他の世代に子供でいる時間を与えずに、下から上の世代を押しやっていく。これが他の種族であれば、子供たちは手塩に掛けて養育され、さらに、学校というものまであって、一族の未来を担う子供たちは日々そこに通い、長い期間にわたって子供でありつづけながら学校を出入りするのだろう。しかし、私たちには学校なんてものはない。私たちの種族からは、ひどく短い間隔でくり返し膨大な数の子供たちが溢れ出ていく──チューチューと鳴けないうちはシーシー、ピーピーと無心に鳴くばかりの、走ることを会得しないうちはのたうつか、転がって進むことができるばかりの、まだ目が開かないうちは自分の体重を不器用に引きずっていくだけの、私たち一族の子供たち! この子供たちはあの日々学校に通いつづける子供とちがって、いつも新しく、新しい世代に生まれ変わり、いつまでも、途切れることなく生まれ、子供として現われるや否や、たちまちのうちに子供でなくなり、しかもすでにその背後には、あまりの数と忙しさで見分けもつかないが、バラ色の頬をした、次世代の子供たちの未知の顔が群がっている。この多産性がいかに素晴らしいものであろうと、たとえ他の種族から羨まれるものであろうと、それと引き替えに、私たちは自分たちの子供らに普通の子供時代を与えることができない。そして、このことからまた重大な帰結が生まれている。というのは、どうやら私たち一族のなかには、不滅の、尽きることない子供っぽさが持続しているようなのだ。私たちの長所であるところの、実践的な知性と矛盾するように、私たちはときおり、完全に、途方もなく馬鹿げた振舞いに及ぶことがあり、しかもそのやり方が、無意味で、向こう見ずで、何でもありの軽率さで、子供が悪ふざけするのとまったく同じだったりする。そういうときの私たちのはしゃぎ振りは、当然、真の子供らしさが持つ活力をもう欠いているだろうが、それでも何か、子供の喜びと通底するものはそこにあると言いたい。そして従来、ヨゼフィーネの芸術も、私たちのこの子供っぽさによって支えられていたと思われるのだ。
 とはいえ、私たちは必ずしも子供っぽいばかりでなく、或る面では恐ろしく早熟でもあるのだが。つまり、私たちにおける幼年と老年は他の種族のそれと大いに異なっている。私たち一族は思春期を省略し、逸早く大人になってしまい、それ以降成人でいつづける時期があまりに長いので、そのため、総じて打たれ強く前向きな力に満ちている私たちの生き方にも、薄く広く、何かしら徒労感と絶望感が浸透している。これには、おそらく私たちの非音楽性も関係していよう。私たちは音楽に感銘するにはあまりに老いており、音楽的な感興、音楽的な高揚は、私たちの生の深刻さと反りが合わず、私たちはただそれを弱々しく拒絶するのみなのだ。私たちは、自分のチューチュー鳴きから一歩も出る気がない。自分たちに音楽の才能があるかどうかなんて、知ったことではないし、仮にその才能があったとしても、そんなものは開花するより先に、一族同胞の気質によって圧しつぶされてしまう。これとは反対に、ヨゼフィーネは好きなようにチューチュー鳴いている、というより、彼女の自称するところでは「歌っている」わけだが、この音楽は、私たちの気質に抵触せず、私たちにも十分受け入れられうるもの、私たちに分相応のものだと言える。ひょっとしたら、そこにもいくばくかの音楽性が含まれているかもしれないが、だとしても、それは限りなく無に近い水準に切り詰められている。要するに、そこには或る音楽の外形だけがあるのだ──いささかも私たち一族の気には障らないものとして。
 だが実は、ヨゼフィーネがこの非音楽的な種族にもたらしているものは、外形ばかりとはかぎらない。彼女のコンサート、とりわけ脅威が迫っているときのそれにおいて、この歌い手に注目するのは、若い鼠たちのみであり、ヨゼフィーネが唇を震わせ、小さな前歯のあいだから息を吐き出し、自分で自分に酔っているような声音で絶頂し、あまつさえ、その痙攣をさらに新たな、意味不明のまま生成しつつある自分のパフォーマンスを鼓舞するために利用するのを、若い連中が呆気に取られて眺めている、その一方で、一族の大多数の者は──これは疑いないことだが──ひたすら自分自身の想いに耽る。ヨゼフィーネのコンサートという、生存の闘争のさなかの小休止において、私たち一族は、白昼夢をさまよい、あたかも個々の鼠が四肢をゆるめ、この落ち着きのない一族が、一旦家郷の広々とした暖かいベッドに寝そべり、思う存分伸び伸びとくつろぐことを許されているかのようなのだ。そしてヨゼフィーネのチューチュー鳴きは、この白昼夢のなかに響き渡る。それを彼女は玉が転がるような響きだと言い、私たちは肉を打つような音だと言う。いずれにせよ、彼女の歌はこの場にふさわしいものとしてある、ほかでもない、かつてほとんど音楽などお呼びでなかったような場所に初めて現出した、音楽として。彼女の歌には、痛切な短い幼年期を想わせる何か、もはや忘れられ二度と見出すことのできない幸福の一欠片が、しかもそれと同時に、今日の実践に通ずる何か、ささやかな、出所不明の、それでいて屈することのない、充ち溢れるような快活さの一欠片もまた、含まれている。それらのすべては大仰な声で伝えられるのではなく、儚く、親密に、ときおり掠れる声で囁くように伝えられる。もちろんあれは単なるチューチュー鳴きだ。どうしてそうでないことがありえようか。しかし、チューチュー鳴きは私たちの口語であり、誰もが一生涯意識せずやっていることであるにもかかわらず、彼女のコンサートにおいて、そのチューチューは、日常の生活の桎梏から解放されているかのようで、私たちにさえ、つかの間の自由を与えてくれるように思われる。それゆえにこそ私たちは、彼女のコンサートを決して聴き逃したりはしない。
 しかしこのことから、ヨゼフィーネが主張するとおり、彼女の歌が鼠族に生き甲斐を与えている云々と結論するまでには、飛躍があると言わねばならない。だが、これは一般的な鼠にとっての話であって、ヨゼフィーネの取り巻きたちからすると、話がちがってくる。「実際そのとおりじゃないか?」──彼らは厚かましくも放言する──「そうでなければ、彼女の歌に生き甲斐を見出しているのでなければ、一族が危機の瀬戸際にかぎってコンサートに殺到する、しかも、ときにはそのせいで、脅威や敵に対する十分な、適切な守備ができないことだってあるのに、なぜ彼女の歌に聴きに行くのか、説明できないじゃないか?」と。たしかに彼女のコンサートのせいで、防御の備えがままならないということは事実である。しかし、それを彼女の誉れとして顕彰するのは、──こうした種族集会が予期せぬ敵の襲来で蹴散らされ、多くの者が命を落とす一方、チューチュー鳴きによってその敵を惹き寄せたのかもしれない、すべての元凶であるところの当のヨゼフィーネは、小さな安全地帯を確保し、そこに取り巻きたちに守護されながら息を潜め、いつも、誰よりも早くその場から逃げ出してしまう、ということを考え合わせても──どうかしていよう。こうしたことのすべてを、私たちのみなが腹の底で理解している、それでもなお私たちは、ヨゼフィーネがいつ何どき至るところで、気分次第で歌おうと立ち上がったのを見るや、彼女のもとに駆けつける。以上の現象を傍観する者は、この種族のあいだで、ヨゼフィーネは法律を超えており、彼女は何でもしたいことを、一族全体を危険に曝すことでも、何でもすることを許されていて、無制限の自由があると推論するかもしれない。そして、もしこの推論どおりなら、彼女のたびたびの要求は、完全に正当なものであり、傍観者は、一族が彼女に与えているこの放免、誰もいまだかつて認められたことのない例外的な、法律と本質的に矛盾するこの恩恵のなかに、私たち一族──ヨゼフィーネに言わせれば彼女の芸術を解さない、ただ彼女の歌になすすべもなく熱狂し、自分たちがおよそ彼女にふさわしくないと感じているこの一族が、彼女に対するその疚しさを、まさに苦し紛れの返礼によって埋め合わせようと努めていること、つまり、彼女の芸術が一族の理解の範疇外にあるように、彼女の個性と彼女の要求もまた治外法権の状態にある、というそのことの言わば是認を、この放免、この恩恵のなかに見て取ることだろう。実際には、まったくそんなことはないと断言させてもらおう。たとえ個々の鼠において、気紛れにヨゼフィーネに心服することはあっても、一族全体は、誰にも全権を委任したりはしないし、それはヨゼフィーネに対してもそうである。
 これまでに──遡ればひょっとするとヨゼフィーネが歌い手として名を顕わした当初からずっと──長いあいだ彼女は、歌声の調子に障るあらゆる労働の免除を獲得するため、争っている。一族みなが、日々の生活の糧の心配を彼女から、さらには、この種族の生存のための労苦に関わる一切を彼女から取り除けてやるべきであり、言い換えれば、それらをみなで進んで分担してほしいと彼女は言うのだ。早合点しがちな者たちは──そのような者は若干いた──この要求の珍しさ、こんな要求を案出できる精神への驚嘆だけでも、この要求を認めようと結論しかねなかった。しかし、私たちが一族として引き出すのは別の結論であり、この要求に対する断乎たる拒絶である。彼女の要請の言い分を論駁するのに、私たちはわざわざ労力を使いもしない。ヨゼフィーネは例えば、労働の苦役は彼女の声を傷めるという点、たしかに働くことは彼女の取り組む芸術の試練に比べれば大したことはないが、働いているかぎり、コンサートのあとで休む暇がなく、新しい歌に挑戦する気力を回復できないという点、そして、労働のせいで疲労が蓄積してしまえば、歌唱力で彼女自身の最高の水準に二度と到達できそうもない点、等々を指摘する。私たちはそれらを神妙に聞き、ただ無視する。いつもは心を動かされるのに敏なこの種族が、ときにはこれほど頑なになりうるのだ。この拒否はあまりに厳然としているので、ヨゼフィーネも多少はひるみ、反逆を止め、しかるべき労働に従事する。とはいえ、それも一時のことにすぎず、しばらくすると彼女は──どうも彼女はそのための気力は無限に持っているらしい──また新たな労働争議を開始する。
 ここで明らかなことが一つある。ヨゼフィーネは、文字どおりの彼女の要求の実現を望んでいるのではないということだ。というのは、私たちは、そもそも労働を厭うことを知らないし、だからこそ彼女もまた、労働を厭うはずがなく、仮に、彼女の要求が受け入れられたとしても、おそらく彼女の生活は何も変わらず、労働が彼女の歌の支障にならない上、労働があろうとなかろうと彼女の芸術が向上しないことが判明してしまう──それを予想できないほど、彼女も無分別ではないと思われるのだ。したがって、むしろ公的に、異論の余地なく、時間の風雪に耐えるよう、過去に知られたどんなものより抜きん出て彼女の芸術が高尚だと承認されること、それこそが彼女の望んでいることである。しかしその公認、特権だけは、大抵のことは許されている彼女にも、決して認められることはない。たぶん彼女は最初に向ける要求の矛先を間違えてしまったのだ、そしてたぶん、彼女自身でもその誤りに気づいているが、今になって矛を収めることは、自分の信念を裏切ることに等しいため、もはや引き下がることはできず、彼女はこの要求と一蓮托生になるほかない仕儀に立ち至っている。
 彼女の語るとおり、もし実際彼女を虐げる「悪者」がいるのなら、彼女の懲悪の闘いは、自分は手を出さずにいる衆人にも面白い、スリリングな見物であったろう。しかしそんな「悪者」は端から存在しないので、至るところで見られる彼女の労働争議の諍いも、何らスリルはない。いや、それ以前に、この一族が普段は見せない遵法精神一点ばりの冷たい態度で、ヨゼフィーネをはねつけているのを見るだけでも、面白がって見物する気など失せてしまう。その態度は、それを見た傍観者が、一族が同じように彼自身に対し振舞うと想像しただけでも震え上がってしまうような、無慈悲な態度である。ここで注目すべきは、私たちが要求を拒否しているという事実そのものではなく──ヨゼフィーネの要求も文字どおりの実現に向けられているものではなかったのだから──、そうではなく、私たちが同胞に対し、これほどに心を閉ざすことができるという不可解さ、日頃私たちがヨゼフィーネという同胞に父親らしく、いや、父親という以上に臣下のように振舞っているからこそ、より増していく不可解さだ。
 種族全体を一個人に模して、その心理を考察してみよう。こんなふうにも考えられるかもしれない──そいつは長いあいだ、ヨゼフィーネの傍若無人な、矢継ぎ早の要望になしくずしに従ってきたのだが、実は最後にその従順さを覆すつもりでずっとそうしていたのだ、と。彼女の要望の数々に機械的に従いつつ、いつかはこの跪拝も限界を迎えるだろうと、彼は確信してそうしていた。日に日に、以前よりも多くの要望を叶えてやり、ヨゼフィーネを甘やかし、彼女を増長させ、つねに新たな欲望へと彼女を駆り立ていた彼は、ついに、彼女が有頂天になって、この「労働免除」の要求を掲げるに至ったとたん、かねてから準備していた端的で冷徹な拒否を最後通牒として彼女に突きつける──最初からずっとそのつもりだったのだ、と。まあ、およそ的外れな考察ではある。私たちの彼女に敬服する気持ちは素直な、真正のものだし、私たちはヨゼフィーネに対してそんな策を弄する必要はない。それに、彼女の持ち出す要望というのはあまりにあからさまなので、馬鹿の一つ覚えの子供をあしらうように、誰であれ、それにたじろいだりはしないものだ。そのあしらいのせいで、彼女のこの件に関する解釈が被害妄想的なものになり、要求を拒否された彼女の屈辱に、さらに苦味を付け加えたということはあるかもしれないが。
 とはいえ、そんな被害妄想も、彼女が闘争を断念する理由にはならなかったようだ。むしろ近頃では、彼女はこの闘いをより先鋭化させている。これまではあくまで言論で闘ってきた彼女だが、今や、何らかの実力行使、彼女に言わせれば実効的な、私たちに言わせると彼女自身を傷つけるだけの、実力行使に打って出ようというのだ。
 私たちのなかには、ヨゼフィーネは自身の老いと声の衰えを感じはじめ、それで、今が彼女の芸術の公認を得るための最大の闘争を仕掛ける最後の機会だと思い込んでしまうほど、彼女は追い詰められているのだ──と昨今の情況を捉える者もいる。私は、そうは思わない。そんなヨゼフィーネは、もはやヨゼフィーネではない。老いや衰えといった外的な条件など、彼女にとっては何ものでもないはずだ。彼女が何かを求めるときはいつだって、外的な条件に強いられそうするのではなく、彼女の芸術の内的必然性にしたがって、そうする。彼女が手に入れようとするのはつねに高いところにある栄誉であり、それが手の届きやすい位置にあるからではなく、それが最も高い位置にあるからこそ、彼女は手を伸ばす。むしろ、それが手の届く位置にあれば、わざわざもっと高い位置にぶら下げ直す──それがヨゼフィーネなのだ。
 ところで、このように外的な条件を軽視しながらも、彼女は、闘いのために卑陋な手段を用いることにはためらうことがないらしい。彼女自身の目的に疑問の余地はない、ならばどのようにそれを達成しようと問題はなかろう、とりわけ──彼女に言わせれば──高貴な闘い方の一切通用しないこんな腐った世間においては、というわけだ。おそらくこうした考えに基づいて、彼女は労働免除をめぐる争議の論点を、歌の芸術性ということから、別の領域に移そうとしている。これは彼女の取り巻きたちが、彼女の発言として広めていることだが──彼女の歌には、一族のあらゆる階級、密かに彼女に反対している連中も含めたすべての鼠を満足させる力がある、それも、一般の鼠がすでに彼女の歌から得ていると称する満足感ではなく、彼女の言う意味での、真の喜びを与える力があるのだ、という。しかし、と彼女は付け加える──彼女は芸術を故意に歪めたくはないし、また敢えて大衆の理解力に合わせたくもないので、歌うなら、やはり今までどおり歌うほかないのだ、という。こうなってくると、同じ労働免除をめぐる争議といっても、様相がちがってくる。依然として争点は彼女の歌のことなのだが、もはや彼女の歌の芸術性が直接争点になっているわけではない、したがって、理解力のない大衆を誑かし、求める権利を引き出すためなら、どんな手段を用いたってよかろう、という次第である。
 それで例えば、一族が譲歩してくれないので、今度から彼女は歌のコロラトゥーラ〔高い音域の装飾的、技巧的な歌唱法で歌われる音節〕を短くするつもりらしい、という噂が流れてきたりする。私はコロラトゥーラとやらに無知なので、かつて彼女の歌のなかにそれらしきものを認めたことはない。ともかく、彼女はコロラトゥーラを、省いてしまうのは忍びなく、ただ短くするつもりだという。そして実際そのとおり脅迫を実行したらしいが、当然ながら私は、以前の彼女の歌との相違を、何ら見出すことができなかった。また、総じてコロラトゥーラについて云々せずに歌を聴いてきた一族全員、彼女の脅迫によって何ら対応を変えなかったことは、言うまでもない。しかし、ヨゼフィーネの考えることには、彼女の立ち姿と同様、どこか愛らしいところがあったりするのだ。そんなわけで彼女は、或るコンサートのあと、コロラトゥーラに関する彼女の決断が私たちにとってあまりに酷薄で、性急であったので、あらためて次のコンサートからコロラトゥーラを完全な長さで歌うことにする、と声明を発表した。だが、その次のコンサートを終えたあとには、よくよく考え直したと言い、やはり高度な技巧を要するコロラトゥーラの披露は止めにする、この中止は例の争議が彼女にとって有利な決着を見るまで覆ることはない、と宣言した。このように、彼女が宣言において、決意表明において、くるくる手のひらを返すのを、私たちはあたかも、大人が子供のお喋りを原則としては好意的に、しかし内心ではまともに取り合うつもりがなく聞き入れるのと同じように、聞き流すのだった。
 彼女がくり出す手管はこれだけではない。最近では、例えば、労働中に足を怪我してしまい、コンサートのあいだ立ちつづけることが難しくなってしまった、しかし、立って歌うのは自分に必須のことなので、今後は歌自体を短縮するほかない、と彼女は宣言しもした。実際、彼女は取り巻きたちに支えられながら、片足を引きずって歩く姿を見せていたが、私たちの誰も本当に彼女が怪我をしたとは信じなかった。仮に彼女の体質の虚弱を認めるにせよ、彼女もまた、私たち働き者の種族の一匹なのだ。擦り傷のようなささいな怪我をしただけのことで、いちいち片足を引きずるのを認めていては、一族全員が片足を引きずって歩くことになりかねない。それに、たとえ彼女がままならない肉体を抱え、いじましく舞台に立つ姿を度々見せたところで、私たち一族の、感謝の念、彼女の歌への称賛の念が、大して増すわけではなかった。したがって、彼女の歌が短縮されることに対し、何の騒ぎも起こらなかったのは当然であった。
 彼女にしても、四六時中片足を引きずるわけにはいかないので、別の口実を見出す必要があった。それで彼女は、疲労、気分の悪さ、体調不良を口にしはじめた。今度は私たちは、コンサートに加えて、一悶着の小芝居を見せられる羽目になった。まず、ヨゼフィーネの背後に群がる取り巻きたちがしきりに平伏し、彼女に歌ってくれと懇願する。私だってそうしたいの、でも無理なの、と彼女が応える。取り巻きたちはヨゼフィーネをなだめすかそうとし、口々に褒め、ほとんど担ぐようにして、歌い手のために用意された場所へと彼女を連れていく。何やら意味不明の涙を流しながら、ようやく歌うことを承知した彼女は、しかし、いかにも最後の力を振り絞っているというふうに、華奢に震え、両腕も普段どおりに広げられず、生気なく垂れ下がるばかりで、見ようによっては、まるで彼女の腕が短くなってしまったかのようだ。そうして何とか歌おうとする彼女ではあったが、やはり無理があるらしく、嫌々と頭を振る仕草でそれを示したあと、私たちの見ている前で、へなへなとくずおれる。それでもとにかく、ふたたびやっとのことで立ち上がると、彼女は、歌う。私見では、以前とまったく変わり映えしない歌を。もしかしたら、感受性の繊細な耳の持ち主であれば、そこに若干いつもと異なる刺激を聴き分けたかもしれないが、その相違も、とくに彼女の疲労、不調を感じさせるものではなかったと思われる。そして歌い終えた彼女は、却って、歌う前よりも元気になったかのように、しっかりした足取りで──あのちょこまかした彼女の早歩きをそう呼べるならば、だが──会場を去って行くのだった。駆け寄ってくる取り巻きたちの手をはね退け、彼女のために恭しく道を空けた群衆を、険しい眼差しで、試すようにじろじろと睨みながら。
 以上は、先日までのことだ。しかし最新の情況は異なっている。彼女は、不意に、歌の聴き手である私たちの前から消え去ってしまい、彼女の取り巻きたちばかりでなく、多くの者が彼女の捜索に向かったが、いまだに彼女は見つかっていない。ヨゼフィーネは失踪してしまった。もはや彼女が歌うことはなく、もう彼女の歌を聴く当てもない。彼女は今度こそ、私たちを決定的に見捨ててしまったのだ。
 これほどに彼女が分別を失うとは、奇妙なことだ。あの智恵の働く彼女がこんな無謀な行動に出るとは。これでは、彼女がいつも打算的に振舞っていたというのは間違いで、彼女は彼女自身の宿命、現世においては悲しいものでしかありえない宿命に、ただ押し流されていただけの犠牲者のように思えてくる。彼女は歌を捨てたばかりか、一族の琴線に触れる彼女の影響力をも投げ打ってしまった。ここまで私たちの心情を無下にする彼女が、なぜ私たちにあんなに影響力を持つことができたのか、謎である。いずれにせよ、ヨゼフィーネは行方をくらました。彼女が歌うことは二度とない。しかし、私たち鼠の一族、この穏やかな性格をして、どんな憂苦にも屈せず、威厳を保ち、内輪の親しさにすっかり休らっていて、加えて、一見そう思われているのとはちがって、文字どおり誰からも、ヨゼフィーネからも何も受け取らず、ただ他者に与えてばかりだったこの種族は、これからも自らの道を歩きつづけるであろう。
 他方、ヨゼフィーネにおいてはそうはいかない。彼女の行く手にあるのは零落であり、そう遠くない将来、彼女の最後の一声が鳴り響き、途絶するときが来るだろう。そして彼女は私たちの長々しい歴史の一挿話となり、一族は、この喪失を乗り越えていく。今となっては、なぜあんなことが可能だったのか分からない。どうやったら全種族の集会があれほどに静粛でありえたのか。単にヨゼフィーネがいるだけで沈黙を強いる力があったのか。彼女のチューチュー鳴きは、私たちが覚えているのより、そんなにも素晴らしく澄み切って、生き生きしたものであったろうか。当時でさえ、現前する彼女の歌と、想起のなかでの歌にそれほどちがいがあったとは思われないのだが。いや、むしろ、私たち一族にあまねく具わっている狡智の力が、彼女の歌を高尚だと私たちに思い込ませていただけではないのか……。
 ともあれ、私たち一族が、彼女の失踪をひどく嘆き悲しむということは、ありそうにない。そしてヨゼフィーネは、この現世での責務、彼女の自認によれば芸術の天才に課せられた責務から解放され、私たち一族の偉人の列に晴れやかに加えられることになり、さらに、私たちが歴史に無頓着なことからしても、彼女はやがて、忘却という高次の救済にも与ることになるだろう。














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