:APPENDIX 大杉重男「古井由吉の「神の手」」からの引用
- 《かつて酒鬼薔薇事件が起きた時、『文藝』が「人を殺してはなぜいけないか」を特集したことがあったが、「人を殺す」ということは、文学の中では今はありきたりで陳腐で、最初から答えの用意されている安全な問いに過ぎなくなってしまった。それよりは「人を犯してはなぜいけないのか」が問わなければいけないのではないか。……
……「犯す」ことと「殺す」ことの違いは何か。それは前者において被害者が加害者に対して応答可能性を持つのに対して、後者では応答可能性を持たないことである。「殺す」ことは、その意味で「犯す」ことより無責任であり、文学的カタルシスによって美化しやすい。……
小林秀雄・秋山駿から山城むつみ、そして大澤〔信亮〕氏と、ドストエフスキーに触発された批評家たちは、みなそれぞれの仕方で「加害者の神権」を文学的に称揚して来た。「加害者」は「人殺し」になることで「神」となりうる。「被害者」は「被害者」であるが故に「神」になりえず「人」でしかない。「殺す」ことを問うことは「人」を「神」に引き上げ、「犯す」ことを問うことは「神」を「人」に引き下げる。》
:APPENDIX 2024年12月24日(日)@ShinHori1のポスト
- https://x.com/ShinHori1/status/1871352445110276225
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不当な性的行為等で精神的被害を受けたことの救済は、刑事裁判ではなく民事裁判での損害賠償が本来は想定されている
被害が実際にあっても行為者が刑事裁判で有罪とされるにはハードルが高く、それよりは民事の損害賠償の方が認められやすい
(たとえば伊藤詩織氏の例参照)
それには理由があり
1.元々刑事裁判で「犯罪」とされる範囲と、民事裁判で損害賠償義務が認められる範囲(不法行為)とは違っており、後者の方がはるかに広い
(わかりやすい例としては、交通事故など)
2.証拠の取扱いも刑事裁判より民事裁判の方がはるかにゆるやか
3.刑事裁判はあくまで「検察官VS被告人」であり、被害者は直接の主体にはなれないが、民事裁判は基本的に「被害者=原告、加害者(行為者)=被告」であり、被害者が直接の主体として自分の主張を基本的に出すことができる
4.民事裁判は故意のない「過失」でも損害賠償請求ができるが刑事裁判では「過失」では罪にならない場合も多い
刑事裁判で「性行為の合意があると本当に思い込んでいた」で無罪となることは確かにあるが、民事裁判の場合「合意と思い込んで性行為をした」としても「過失」として損害賠償請求可能
例えば例の高裁判決で「被告人は、合意があると思い込んでいた可能性がある」とされて無罪になったとしても、民事裁判の場合は損害賠償義務が発生する可能性がある
「合意があると誤解して性行為をさせた」としても、それはいわば下手な運転で歩行者をはねたようなものだからである
5.刑事裁判の場合、裁判官が有罪を確信できないと無罪なので「有罪か無罪(=有罪の証明に至らない)か」の二択しかないが、民事裁判の場合、裁判官の認定、心証の度合いに応じて損害賠償の金額を増減させて判断を調整できる
6.民事裁判の場合、判決だけでなく和解による解決も場合によっては可能。
例えば被告(=加害者とされる側)からの一定の金銭の支払い、謝罪などで「和解」で終わることもある。
判決よりも柔軟な扱いが可能
ここでいう和解は「仲直り」ではなく「妥協による手打ち」ということ
posted at 午前9:29
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:序
- 一体に、法学を専攻していない者にとって「罪」と「不法行為」の区別はそれほど明確でないと思われる。例えば、ミシェル・フーコー著『ピエール・リヴィエール──殺人・狂気・エクリチュール』の邦訳のなかには次のような一節が出てくる。「一見するとこうした二つの系列は、犯罪が栄誉に、不法行為が愛国心に、死刑台が不朽の名声の誇示に対立するのと同様のやり方で対立しているようにも思われる」。軽く読み流すと問題がないように見えるが、この一節で取り上げられているのは殺人という犯罪の話なので、「不法行為」という訳語が出てくるのは不適当だ。少なくとも日本の法律体系においては、「不法行為」とは、被害者が被った損害を加害者が賠償しなくてはならない民事責任の起因となる行為を意味し、契約、事務管理、不当利益と並ぶ四つ目の債権の発生原因として定義される。原文は分からないが、おそらくピエール・リヴィエールの尊属殺人について、フーコーが地味な損害賠償請求のことを念頭に置いていたはずはないと思うので、訳語は「違法行為」である方がより正確だったろう。「罪(犯罪)」についてならそれを「違法で有責な行為」だと法学的にはっきり定義しうる。
上記のミスはささやかな訳語選択のミスにすぎないのだろうか。そうは思われない。というのも、このミスの背景には、「罪」を特権的に扱い美化しがちな文学的感性は往々にして民法の「不法行為」に無関心である、という事情があると思われるからだ。共同体を支配する法に違反し、権力によって裁かれ罰を科される犯罪者という存在は、異端や反社会性を称揚する俗っぽい文学的感性によって、絶えず何か特別な意味があるかのように見做されてきた。「小説の形式を規定する基本の志向は、小説の主人公たちの心理として客観化される。(略)別の表現を用いれば、それは犯罪か狂気かでありうる。(略)なぜなら、犯罪と狂気とは、先験的な無故郷性を客観化したものにほかならないからである。言い換えれば、社会的諸関係という人間的な秩序のなかにおけるひとつの行為の無故郷性と、超個人的世界体系という当為的な秩序のなかにおけるひとつの心情の無故郷性とを客観化したものにほかならないからである」(ジェルジ・ルカーチ『小説の理論』)。現にある秩序に挑戦し社会から疎外される瀬戸際に立たされた犯罪者たちの行為には、単なる法益侵害という以上の、何か芸術的に語るに値するものがあると考えられてきたわけだ。フーコー(とその訳者)もまた、十九世紀の殺人者のエクリチュールであるところのピエール・リヴィエールの手記に大いに魅力を見出し、感じ入っている。しかし、仮にピエール・リヴィエールが殺人者ではなく、これがただ或る女性を事故死させてその損害賠償を請求されているだけの事件だったとしたら、フーコーが彼に興味を持つことは、ありえただろうか? 逆に言えば、権力が強制的に介入してくる要素のほとんどない、当事者同士で債権や過失の有無を争う民事訴訟の手続きには、フーコーのような思想家が興味を持つほどの文学的意義はないのだろうか?
とまれ、以上は導入にすぎない。フーコーの興味の行方などどうでもいい。『ピエール・リヴィエール──殺人・狂気・エクリチュール』以外にも刑事事件、とりわけ殺人事件を扱った文学作品は数多あるが、私はもはやそれらに本質的な興味を持つことができない。端的に、刑法の厳格な退屈さに比べると、民法(不法行為法)の融通無碍な面白さは別格であるということをここで言いたい。加害者の神格化や殺人の美化などもううんざりだ。そうやって安易な文学的カタルシスに淫する人々が総じて見逃している、「罪」とは区別された「不法行為」の文学的可能性を提示するのが、本稿の目的である。
──余談として一点。アイディアレベルで「不法行為」の文学的応用について示すとしたら、例えば、フランツ・カフカの『審判[Der Proceß]』は、逮捕のシーンからはじまり処刑のシーンで終わるために、(非現実的な)刑事訴訟の話のように思われているが、実はプロットの進行上は、Kがまったく勾留されなかったり、弁護士を付けず本人訴訟をやっていたり、訴えの取り下げによる訴訟の中断の可能性が示唆されていたりと、むしろ民事訴訟に近似するということを指摘しておきたい。この場合、冒頭の逮捕は原告が裁判所に訴状を提出し、裁判所によりKのところへ訴状が送達され、口頭弁論期日への呼び出しを食らったことと類比的になる。とはいえ肝心のKの不法行為によって被害を受けた人物であるところの原告は、『審判』の物語のなかには姿を現わさない。しかし、それを抽象化して描いたことこそカフカの独創と言ってよいはずだし、誰が訴追しているのか不明な点は、物語を刑事訴訟と解釈した場合でも同じだ。それを官僚機械などと解釈する──Kの罪の“反権力”的な美化──よりも、不可視の被害者=原告と解釈した方が、私は納得がいく。自分には身に覚えのない咎によって、なぜか突然被告になってしまうこと。それを、逮捕される政治犯が恣意的に選ばれるような全体主義のアナロジーとして捉えるよりも、本人訴訟が可能で、訴状が裁判所の審査を通れば裁判を起こすことができてしまう民事事件のアナロジーと捉えてなぜいけないのだろうか。民事訴訟に関して言えば、誰もが訴えられる可能性を持っている。誰もが明日にも法的な紛争に巻き込まれうる。『審判』の、明確な敵が存在せず、法と不法の区別も判然とせず、日常と法廷が地続きであるかのような小説空間は、民事訴訟由来の物語装置として読む方がふさわしい。
:違法と不法
- 日本の六法全書のなかの刑法は全四十章、264条にわたり、私たちの社会における犯罪と刑罰を規定する。「罪(犯罪)」と見做される行為は、あらかじめ刑法でその要件を定められている必要があり、法によって禁じられていない行為を処罰することはできない(罪刑法定主義)。罪を犯した者には統治権力によってその生命や自由や財産を害する刑罰が科せられるが、そのような特別な措置が取られる根拠は、法益保護という観点で説明がなされる。国民一人一人にとってかけ替えのない利益(生命、身体、自由、財産)を、法的に保護しなければならない利益=法益と解釈し、それを侵害する、ないしは侵害する危険をもたらす行為を罪として禁止し処罰するというわけだ。したがって、刑罰を科すに値すると見做される行為の類型は、刑法によって保護の対象になっている法益、その行為が侵害しうる法益の種類に比例して多岐にわたる。生命という法益に対する罪(殺人罪)、身体という法益に対する罪(暴行罪、傷害罪)、自由という法益に対する罪(脅迫罪、監禁罪)、秘密・名誉・信用という法益に対する罪(名誉棄損罪、信用棄損罪)、財産という法益に対する罪(窃盗罪、詐欺罪、横領罪)、公共の安全という法益に対する罪(騒乱罪、放火罪、公然猥褻罪)、取引の安全という法益に対する罪(通貨偽造罪、文書偽造罪)、国家の存立基盤に対する罪(内乱罪、外患誘致罪)、国家の作用に対する罪(公務執行妨害罪、公務員職権乱用罪)、等々。これらの網羅的な罪のリストから漏れる、私たち社会の構成員にとって有害となりうる行為が種々あるとしても、国民の自由を不当に阻害するべきではないという考えから、罰則の処罰範囲は限定されなければならないだろう。例えば、姦通は一種の反社会的行為であるかもしれないが、刑法に処罰規定がないので違法ではなく「罪」でもない。くり返せば、刑法のそれぞれの条文が輪郭付ける犯罪類型の構成要件に該当する行為のみが、「罪(犯罪)」として裁かれる。それ以上でも以下でもない。
翻って、民法における「不法行為」は民法のなかの一部、709条〜724条のわずか十六ヵ条によって規定されているにすぎず、しかも、不法行為の成立要件をどのように理解するかについて、解釈の元となる条文はおおむね次の二つだけが中心となっている。
《第709条(不法行為一般・要件と効果)──故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。》
《第710条(非財産的損害の賠償)──他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。》
不法行為法は債権法の下位カテゴリーに位置付けられ、契約関係のない当事者間の損害賠償請求権(債権)を定める。不法行為法は条文は易しいが、学ぶのは難しいと言われる。というのも、簡潔な条文をめぐって様々な学説の対立があり、「過失」とは何か、「損害」とは何か、賠償されるべき損害の範囲はどのように決定するのか、一意に決まっているわけではなく、また、時代によっても解釈が移り変わるからだ。例えば三つ目に挙げた「損害賠償の範囲」の問題は、判例上は民法416条の債務不履行の場合の損害賠償の範囲を定めた条文(通常生ずべき損害+予見可能な特別事情から生じる損害)を類推適用することになっているが、そのように契約違反を対象とした規定を不法行為に妥当させることはおかしいという学説も最近は有力だ。いずれにせよ、「不法行為とは何か」という問いに対する答えは、「犯罪とは何か」という問いへの答えに比べると一向に明快になりそうにない。
つまり、語彙としては近似しているように見える「罪」と「不法行為」だが、刑法上の前者と民法上の後者は、まったく別物だと言わなければならない。それは社会秩序の維持のための公権力の行使である刑事訴訟と、私人同士での争いの調停である民事訴訟とではあり方が異なる、というだけの話ではない。そもそも犯罪が犯罪として認定されるときの法的な立論と、不法行為が不法行為として認定されるときの立論が、まったく異なるのだ。言うまでもなく、犯罪の方がその輪郭はより鮮明である。
くり返せば、「犯罪」とは、刑法により犯罪として決められた行為の類型(構成要件)に該当する行為であり、かつ、そこに違法性が認められる行為だ。構成要件に該当する時点ですでに法律上違法であることは想定されているが、正当防衛や正当業務行為といった違法性阻却事由があれば、その行為は犯罪にはならない。そして、なぜ或る特定の行為が刑法上犯罪の類型と規定されるかといえば、それが法益の侵害を結果する(ないしは、法益の侵害の危険を結果する)からだというのは、上でも記したとおりだが、それゆえ行為と結果とのあいだの因果関係が証明されなければ構成要件に該当しないことは当然である。また、刑法38条にあるように──「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」──故意もまた犯罪の構成要件の一部だ。故意が認められるためには、当人が自分の行為の結果法益侵害が生じると知っていたことは必要ではなく、「これは法益を侵害するかもしれない」という予見があっただけで十分とされる。つまり、故意とは、行為を思いとどまる可能性があったにもかかわらず行為に出たことを意味する。非故意である過失は、さらにそれよりも「意思」が薄く、法益侵害の予見はなかったが注意すれば予見できた状態──注意義務違反・結果予見義務違反──を指す。38条にもあるとおり過失犯の処罰は例外なので(過失致死罪、失火罪など)、故意ではなく過失だったのでその行為は犯罪ではないというケースはもちろんある。責任能力の議論は省略する。以上、まとめると、「罪」とは「立法者が規定した犯罪行為の類型(構成要件)に該当する、違法で有責な行為」と定義される。構成要件のうち法益侵害や因果関係は客観的構成要件要素、故意・過失は主観的構成要件要素に分類される。
他方、「不法行為」の定義は民法709条から導かれる。再掲しよう。
《第709条──故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。》
これだけでも、刑法における罪と刑罰とは微妙に異なったロジックが読み取れるはずだ。まず、犯罪行為の結果は法文上規定された保護法益の侵害ないしその危殆化だが、不法行為の結果は、加害者と契約関係にない被害者に生じた「損害」である。したがって、その償いも公権力が下す懲罰ではなく、損害を金銭的に評価したときの額面での金銭による損害賠償となる(精神的苦痛のような非財産も損害賠償で償われうる)。そして何より、刑法における犯罪とちがって、不法行為法における不法行為はその要件が明確でない。不法行為に当たる事例は医療過誤、製造物責任、公害、殺人や傷害、名誉毀損、詐欺的な商売など数多く存在するが、それらすべての不法行為に共通の要素を見出すことは困難だ。したがって、何が不法行為であり何がその行為による損害になるのかは事例ごとに考えなければならないが、それではあらゆる損害が不法行為を成立させ賠償の対象になりかねない。その歯止めを掛けるために、709条の条文には「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害」という一節がある。これは不法行為によって生じる損害の認定を、他人の権利の侵害、ないしは法律上保護される他人の利益を侵害したことによって生じる損害に限定するという意味だ。しかしこの要件は、その前にある「故意又は過失によって……生じた損害」以上の積極的な意味を持たないので、不法行為の要件は「過失」に一元化して考えた方がよいのではないかという学説があり、個人的にはここでもそれを支持したい。つまり、加害者の「過失」によって被害者に「損害」が生じたため、加害者はその賠償責任を負わなければならないというのが、不法行為法の最も重要なロジックだと考えるわけだ。
私たちの日常において、損害は基本的に本人負担が原則となっている。仮に私が自分の所有している高価な壺を誤って割ってしまったとしても、その被害は私自身で甘受するほかはない。しかし、不法行為法と損害賠償の仕組みは本人損害負担の例外として、本人に生じた損害を他人(加害者)に転嫁することを可能にしている。その場合、なぜ加害者が損害賠償責任を負わなければならないのかという問いに対して、伝統的に民法が説明原理として持ち出すのは、加害者に「過失」があったからだ、という過失責任主義だ。もちろん、未だよく知られていない公害による被害のケースなど、被害者の救済のために無過失でも損害賠償責任を認めることはありうるが、民法709条を字義どおり解釈すれば、損害賠償責任は「(故意又は)過失」という根拠によって基礎付けられていると読める。とはいえそこから先の、「過失」とは一体何なのか、どういう場合に過失があったと言えるのか、という問題は一向に明らかになっていない。
当然だが故意と区別される「過失」の概念は刑法にもある。しかし、不法行為法における「過失」は、それとは若干位置付けが異なる。第一に、不法行為法においては、故意だろうと過失だろうと、法律効果にあまり違いがない。つまり、故意を理由に責任を追及しても過失を理由に責任を追及しても、最終的に認められる損害賠償責任にほとんど差異が生じない。不思議なことのようだが、故意の不法行為というものが過失による不法行為に比べれば圧倒的に少なく、民事訴訟において故意の立証がほとんどなされないことが、不法行為法の分野で加害者の故意があまり論じられないことの背景になっているようだ。故意か過失かが重大な意味を持つ犯罪とは、まずこの点で大きなちがいがある。そして、そこから導かれることだが、過失の不法行為においては、主観的側面を切り捨てて要件をすべて客観的要件へと統合することが可能になる。刑事の違法行為の証明においては、その行為(があったという事実)、因果関係、結果という客観的要件とは区別されて故意・過失の証明は主観的要件と呼ばれていた。それに対し、民事の過失の不法行為の証明では、「過失」を心理状態ではなく客観的な行為様態と捉えることで、すべてを客観的要件として扱ってよいという学説が有力となっている。
故意と過失の境界をどう定めるかは、刑法と不法行為法とでおおむね変わらない。故意のなかでも「結果(犯罪においては法益侵害、不法行為においては被害者の損害)が発生するかもしれないことを認識しながら行為に出た」状態、いわゆる「未必の故意」は故意に含まれ、その手前の状態、結果を予見していなかった状態は過失になる。その点は刑法でも不法行為法でも同じだが、故意の方が例外で原則として過失があれば責任を問われることになる不法行為の民事裁判では、刑事裁判以上に過失の有無をどう証明するかが、重要になってくる。さて、今述べた故意と過失の区別を敷衍するならば、過失は、「結果の発生を予見すべきであったが予見しなかった」状態、すなわち加害者の心理的な予見義務違反として解釈できるだろうか。その場合、加害者は予見できたはずだったという判断を何を基準(普通の人間の注意深さ?)にして下すのかという問題が出てくる。むしろ、不法行為法の分野では、過失を結果回避義務違反という行為の様態として捉え、心理状態とは関係なく客観的に判断を下すべきだというのが現在の有力説になっている。つまり、過失は、「結果を回避する行為をするべきだったが行為しなかった」状態として解釈され、過失の有無は加害者の行為が妥当だったかどうかによって客観的に判断されることになる(=主観的側面は切り捨てられる)。この場合、「行為をするべきだった」という判断の基準になるのは、私たちの社会の構成員は他人を害さないための一定の行為義務を前提として生きているという信頼責任である。過失による加害はその信頼を裏切ったに等しいからこそ、損害賠償責任を発生させるのだ。逆に言えば、被害者は、自分の属する社会の構成員が合理的な行動を取るだろうと信頼して生活を営んでいたにもかかわらず、他人の行為によって損害を被ったのだ。このような考え方を延長していくと、刑事事件で或る時点での一つの事実の厳密な証明を求めるのとは異なり、事実認定のなかに「……すべき」という行為への規範的な評価を含めることになるが、民事訴訟の判例はその方向性を支持している。客観的要件といっても、民事の過失の有無の認定は一定の規範的な評価を必要とするわけだ。
(ところで、この論点は刑事における不作為犯──保護責任者不保護罪のように不作為が明示的に構成要件になっている真正不作為犯とは区別される、不真正不作為犯──の処罰の根拠の問題に近似すると思われる。そこでも作為と同程度に不作為を犯罪と見做すために、結果回避の作為義務があるという法文にない規範的評価(結果回避の作為をするべきだったがしなかった)を先行させているからだ。ただし、刑法でそのような作為義務が法的に要請されるのは、放火罪、殺人罪、詐欺罪などの限られた犯罪についてだけである。)
この規範的評価は、行為と結果のあいだの因果関係の認定にもかかわる。因果関係の認定をめぐっては、通常或る結果の現実化(ないし現実化する危険性)が被告の行為によって惹き起こされたのかどうかが争われるが、不法行為の場合、その「結果」というのは、必ずしも範囲が明確でない「損害」である。その損害の範囲を確定するためには、ただ加害者の行為と損害とのあいだに事実的な因果関係があるというだけでは足りない。過失を行為義務違反(結果回避義務違反)という観点から捉えるならば、被害者の損害は、元々その行為義務によって保護されていた利益が損なわれたということであり、加害者が義務に適合した行為をしていれば得られていた利益として、その具体的な範囲が限定されることになるだろう。つまり、被害者の損害の範囲の確定は、そもそも加害者にどのような行為義務があったか、実際それに加害者が違反したのかという規範的評価と切り離せない。例えば、被害者の利益の逸失という結果と加害者の行為に、事実的な因果関係があったとしても、そもそも加害者にその結果を全面的に回避する義務はなかったと見做されれば、損害賠償責任は否定されるか、部分的にしか認められないだろう。或いは、行為義務はあったが加害者が十分損害を予防するための手段を講じていた(が損害が生じた)と見做されれば、やはり損害賠償責任は否定されるか、部分的にしか認められないだろう。事実的因果関係という争点は単なる事実の認定だが、損害賠償責任を生ずる原因としての行為義務があったか、義務違反をしたかという争点は、規範的評価を重ねなければ認定できるものではない。不法行為のもたらす結果が「損害」という無限定なものであるがゆえに、その具体化の過程で、裁判官が規範的な性格の強い裁量的判断に踏み込むことは必須となるわけだ。この点、刑事責任を追及する際の因果関係の認定の仕方とはかなり異なっている。
一体に、裁判官にとって刑事より民事の方が相対的に難しいとされている理由も、上述のような事情と関連するだろう。基本的に刑事訴訟は真実の発見を目的とし、民事訴訟は私人の紛争の解決を目的とするという点、また、刑事責任を追及することは検察官に委ねられているのに対し、民事責任の追及は当事者に委ねられているという点で、刑事と民事には大きな相違があるが、もっとミクロなレベルで、刑事における事実認定と民事における事実認定とのあいだに小さくない相違があるように思われる。言わば、刑事における事実認定は、事実の純度がより高い。そこでは、ポイントを絞った精密な認定が直接的な裸の事実を対象に行われる。証人の証言も記憶違いや虚証は徹底的に排され、認識論に適った信用性を求められる。翻って、民事における事実認定では、刑事ほど高い証明度は要求されず、背景事情や長期間にわたる事実関係を踏まえて帰納的に判断が下される──下されざるをえない。認定の対象となるのは、原子的な事実であるよりは、対立当事者(被害者/加害者)の主観によって彩られたストーリーの大筋と枝葉の整合性だ。証人も被害者側か加害者側か、どちらかのストーリーに寄り添って党派的に証言することが多く、自分に都合の良いように記憶を改変していることもあり、或る程度偏見や虚偽が含まれていることは許容しつつ、双方のストーリーに板挟みになりながら裁判官は心証を形成していくことになる。すなわち、民事訴訟のプロセスは、主観によって事実が変容するという真実の相対性を受け入れている。その上で裁判官がバランスの取れた──絶対的な真実に近い、ではなく──判断を下すためには、過失の認定にせよ被害者の過失(過失相殺)の認定にせよ、損害の範囲の確定にせよ証拠に対する心証にせよ、各裁判官自身の規範的評価の枠組みを用いることは避けられないだろう。裁判官の視野の広さや物事の本質を見極める能力によって、民事訴訟の帰趨が劇的に変わることもある所以だ。
それだから刑事訴訟よりも民事訴訟の方が、「罪」よりも「不法行為」の方が文学的に面白い、というのがここでの主張である。この主張をさらに敷衍するために、以下、刑事でも民事でも争いうる「名誉毀損」を題材に具体的に不法行為の機微をたどってみるつもりだ。ちなみに、名誉毀損行為は刑法では230条で問題とされ──「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する」──、民法では709条と710条を元に問題とされることになる。また、名誉毀損行為は名誉毀損罪として刑事責任を問われるケースより、不法行為として民事責任(損害賠償責任)を問われるケースの方が圧倒的多数である。
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- (以下、随時更新)