英国、わが英国(1915年版)

England, My England (1915 version)

デイヴィド・ハーバート・ロレンス
David Herbert Lawrence





1


 夢想は現実よりもいよいよ鮮明になってゆく。夢のなかで彼は家に居り、夏の暑熱の午後、囲いのない荒れ地のはずれで、庭の小径を、庭の隅を流れる小川を越えてその荒れ地まで伸ばすために働いていた。彼が野生の芝と蕨を刈ってゆく後には、生傷のような土壌が顔を出した。新たにつくった小径がどうしても真直ぐにならないので、彼は苛立っていた。棒杭を幾つも立てて、巨きい松の樹のあいだを目印にねらいをつけているのだが、何故かしらうまくいかなくて径は曲がってしまうのだ。彼はふたたび、不安気な、きつい眼差しで、あたかも門戸から眺めるように、がっしりと悍ましい松の樹の間から、小川にかかる丸太の橋に発し、陽光にきらめく花々、丈高く白と深紅に色づく苧環の群れを縫って、古びた、美しい田舎家の端にまで伸びている、緑を敷いた庭の小径を見やった。花々の沸き返る庭と田舎家のかたむいた旧い屋根は、遮るような影を透かして見ると、たえず不安で張りつめている彼の眼には、まるで蜃気楼のように映った。
 そこへ子供たちの呼び合う声、話し声が響いてくる。甲高くて子供じみた少女の声、訴えかけるような、そしてかすかに厳めしく、依怙地な命令調の声色だ。「ほうら、小母さん、早く来ないと、私、蛇がうようよいるあっちの方まで行っちゃうわよう!」
 こんな風な、相手を従わせようとする争いが日々繰り返され、それが子供たちの振舞いにまで及んでいるのだ! そう考えると、彼の心は幻滅でこわばってしまった。食い入るような苦渋と忌々しさに堪えながら、彼は働き続けた。
 忌々しさにとらわれると、鋭い屈託が彼から離れなくなる。陽射しは地上に真下りに灼きつけていた──燃えさかる草木と花々の剥き出しの生彩、そして荒れ地の静けさの真只中にいるという痛ましい孤絶の感じが、あたりを領していた。緑に息づく庭の小径は優美な紫と白の花々のあいだを這う。悠々と傾いた屋根をもつ田舎家は、空虚で秘めやかな永遠の陽光のなかでいつまでも眠りつづける。それが彼の住む場所だった──花々と陽光と、屋根の傾いた屋敷に彩られた、悠久の過去から不変の無慈悲な素白。脱殻のようなその屋敷は、樹の上に掛った鳥の巣みたいにいつでも均衡を保ち、静穏に充ち、ただ無窮の天空のみを戴いている。それは人の世といかなる関わりも繋がりももたず、自らの運命をただ天空の下でのみ極め、平和と陽光と清麗とに永久にみたされている。
 他の方角には何処もささくれた、古代ふうの荒蕪地が広がり、青白い丘陵となり、彼方で空の青さとせめぎ合って、風景を苛烈に閉ざしている。すべては天空にむかってのみ捧げられている──人世が忍び寄ってくる余地はない。
 ところが、彼の心のうちへは人世も忍び入って、ぐさりと突いてくるのだった。彼の心をつねづね突くのは、彼の妻、彼と愛し合っているはずの彼女のことだった。彼の妻は陽を浴びて燃えさかる焔のような生命に色づいて、健やかで、美しく、若々しい。彼女のしぐさにつれて、赤い花を咲かす樹がまさに花開きつつある瞬間の、あの溢れる力に似た魅力がゆっくりとひらめく。彼女もまた、彼らの生活の清白を一に愛している。しかし、それでいて彼女は、彼に対して武器のようでもあり、鉄のかぎ爪のような脅嚇で、彼を平和な棲み処からたたき出そうとするのだ。彼女の魂は鉄のように堅固になって彼をたえず押退け、押し出す。それに逆らって、彼の心もまた鉄のように堅くならざるを得ない。
 今ではもう、二人して一日たりとも武器を下ろすということをしなかった。時には数時間だけ、彼らがいがみ合うのを止めようとすることもある。二人は自分の内の愛情を表に呼びさまそうとする。すると、一時に愛は燃え上がり、彼らの田舎家をとりまく、花々と巨大な天空にはさまれた古来の静けさと空虚が情熱に充たされる。
 だが、その情熱は数時間しかもたないのだ。愛が過ぎ去れば、不変であったのは、ただ常に美しさを失わない蜃気楼のような田舎家だけで、彼はきまって蜃気楼の傍らに取り残された自分を見出すことになる。実在すると言えるのは、彼と妻とのあいだの無言の争いの緊迫だけだった。彼らはまるでそれが宿命であるかのように、武器を構え、互いを破壊するために力のかぎりを尽くしていた。
 なぜそんなことをするのか?──明らかな理由はまったくなかった。彼は中流階級の出の、背の高い、痩躯の、無愛想な色白の男で、身振りのうちに何かを積極にはっきり表すことをせず、つねに打ち解けない固い沈黙を身に帯びているという男だった。自分の内にきつく閉じこもり、干渉に動じず屈しもせず、しかしそれでいて、その拷問のような抑制にみずから苦しんでいた。
 彼の妻が彼に対して口に出して言う不平は、彼が家族を養うために一銭の金も稼ごうとしないということだった。もとより、彼には年毎に百五十ポンドの収入があったから、それ以上何かしようという気にはなれなかった──彼はただ当て所なく日々を過していた。彼女は彼が怠けているというので彼を非難しているわけではない。実際、彼はいつも庭で汗を流して、庭を綺麗に保つために働いている。しかし、それが彼の為すべき仕事のすべてなのだろうか? 二人のあいだには三人の子供がいた。もうそれ以上産むつもりはありません、と彼女は彼に厳しく言い渡していた。子供たちの乳母に賃金を払い、季節がめぐるたびに金銭で彼ら家族を助けてくれているのは、彼女の父親だった。彼女の父親の援助がなければ彼らの生活は立ちゆかない。裕福な家庭で生まれ育ったために、金銭について細かく算段することを厭う彼と彼女、そのあいだに三人もの子供がいる、そんな彼らがはたして年に百五十ポンドで暮らしてゆけるものだろうか? ゆけるはずがない。どれほど生活を簡素にしても、彼ら家族は年に二百五十ポンドを必要とした。しかも今はまだ子供たちは幼い。彼らが学校へ通い始める頃には一体どうなることだろう? にもかかわらず、彼は──イーヴリンはさらに収入を得るための何の行動も起こそうとしなかった。
 彼の妻──ウィニフレッドは美しくて烈しい気性の持主で、すべての情熱を厚い道義心に注いでいた。彼女の父親は、クエーカー教徒の貧しい家の生れだった。青年になるとニューキャッスルからロンドンへ出て来て、そこで懸命に働き、ささやかな財産を築き上げたのだ。クエーカー教徒としての信仰は捨てた彼だったが、その精神は彼のうちにしぶとく根づいていた。また、彼の本性はもともとは御しがたく官能的で、都会で学んだ義務の観念にしたがって生きてきた彼ではあったけれど、彼の生活に真実、息を吹き込んでいたのは、詩情や詩文学から受けた感銘だった。暮らしの流儀においては商業の人だった彼は、その内奥に過敏な感性をもち、真の歓びを与える詩文を前にして跪拝するような敬虔な男でもあったのだ。それゆえに、一方では印刷会社と小さな出版社を着実に運営し成功をおさめながらも、他方家庭においては、彼はかつてのクエーカー教徒の廉恥心を、新たな敏感な美意識のよそおいで発揮し、彼は我が子をその官能の情熱で育て上げた──その情熱の火は、同時に因習的な倫理の暖炉の鉄囲いのうちで保持されてきたクエーカーの焔でもあったわけだが。
 ウィニフレッドは夫を情熱的に愛しつづけた。イーヴリンは英国南部の旧家の生れで、立ち居は垢抜けて、ディレッタントじみた振舞いが身についている男だった。すらりとして仕種の精妙な彼は、古風な行儀良さのもつ謎めいた美しさをそなえ、また、強情で衒いがなく、激しやすい、道義的なウィニフレッドの本性にとってはほとんど理解できない、奇妙な無力感、ふてぶてしさ、禁欲的とも言える無関心にとりつかれてもいた。彼女に堪えられなかったのは、彼ら二人の身を焦がした強烈で肉体的な官能がすべて退いてしまった後に、二人の結婚生活が、徐々にこのイーヴリンの無力感にひきずられて散り散りになってしまうのではないか、という危惧だった。それゆえに彼女の情熱は道義的な野心に向けて執拗になっていった。彼女は何かしらの成果が欲しかった、何かしらの創造を、肉体の熱い喜びのうねりでもなく、子供たちの世話でもなく、それ以上の、人間の世界における未知の勇ましい行動を求めていた。
 だんだんと彼女が夫に不満を持つようになったのも無理はない。一体彼はどんな信念を持っているというのだろう? なれ初めの頃は、彼女は彼を深い畏敬の念で見つめていた。しかしその畏敬はゆっくりと摩耗していった。彼の暮らしの無意味さがまざまざと感じられて来た。夫は不可解なほど何も為そうとしない。そして彼女の内奥の、荒々しい、未熟な道義心はまったく黙殺されている。
 そんな時に、痛ましい悲劇が起こった。二人のあいだには金色の髪をしたひらひらと軽やかな生き物、三人の娘がいた。三女はまだ産まれたばかりの赤ん坊だった。両親の寵愛をもっとも受けているのは、長女だった。彼らは一人くらい男の子であってくれてもよかったのに、と思うこともあった。
 ところが或る日、この長女が、庭に放置してあった、使い古された鎌で膝を切ってしまったのだ。悪いことに彼らは都会を離れて暮らしていたので、はじめのうち娘に十分な手当をすることができなかった。長女は敗血症に罹った。ようやく自動車でロンドンの病院に運び込まれた少女は、起き上がれず、すさまじい悪熱に苦しみ、生死の境をさまよった。誰もが彼女の死を覚悟した。少女が病苦をきりぬけたのはまったくの幸運だった。
 この恐ろしい時が過ぎゆくあいだ、ウィニフレッドは、最初からちゃんとした医者を呼んでさえいればこんな災難は避けられたのに、とひたすら悔い、朝な夕な悲痛の念に憑かれていたのだが、その一方で、彼女の夫は、以前よりよそよそしくなったようで、存在感が薄れ、まるで蚊帳の外に居るかのようだった。彼は背景に紛れ、何事にも無関心に、隔てられたように突っ立っていた。そんな彼を見て彼女はぞっとした。彼女はどうすればよいのか、助言を求めるにも、不安を宥めてもらうのにも、父親に頼りきりになった。父親は長女のために専門医をつれて来てくれたし、ウィニフレッドのそばに寄り添って肩を抱き、気遣わしげに彼女の名を呼び、温かい声で彼女を安心させてくれたのだが、他方、夫のイーヴリンはといえば、よそよそしく、無口で、始終醒めた表情で突っ立っているだけだった。単に何もできないでいるだけならまだいい。しかし、イーヴリンの酷薄なよそよそしさ、この悲劇のさなかで麻痺したように超然としている彼の態度は、彼女に、憎しみの念さえひき起こした。彼女の魂は夫に対し嫌悪で冷え切った。イーヴリンはただ居るだけで災難の種を呼び込み、あらゆるものを無機的に、非人間的に、醜悪にしてしまう。夫が今回の悲劇を不必要に助長し、つめたく耐え難いものにしたことが、彼女には許せなかった。もはや彼女の眼に映る彼は、永遠に閉ざされた口元、無感動な顔つきをした、冷淡で孤独であるよう運命づけられた、蒼白い虚無の怪物であるかのようだった。
 長女はやがて起き上がれるようになったが、足はびっこになっていた。娘の脚はちぢこまって、もう強ばりがとれない。いつも肉体の官能を中心に生きてきた両親二人にとって、これは痛ましい結果だった。だが母親はその悲しみを、烈しく、まざまざと身振りに表したのに対し、父親の方は沈着に、不動の、空ろな表情を見せただけであったが。イーヴリンは、まるで自制したかのように子供のことについて語ろうとせず、稀に口を開くときも、投げやりな、ぞんざいな口調でそうするのだった。もはや、修復し得ない亀裂が二人のあいだで露わになっていた。二人は互いに敵意の隔てをつくった。とりわけウィニフレッドは、イーヴリンの無力さを、まるでそれが罪悪であるかのように憎みつづけた。
 ウィニフレッドは、彼女の父親が長女のために高額の治療費を引き受けてくれているのにもかかわらず、あなたは無為のままで、働いて稼ごうともしない──という咎で、イーヴリンを責めた。一体あなたには自分の子供を自分で面倒みるという気骨はないのか? このまま私の父親に生活を助けてもらうばかりで良いと思っているのか?と焚き付けた。さらに、ウィニフレッドの六人の兄弟たちが、家の財産が彼女の子供のためだけに費やされるのを快く思っていないことも、言って聞かせた。
 なら、僕に何ができるんだい?──彼は逆に訊ね返した。彼女はこの問題を逐一父親と議論した、というのも、父親ならイーヴリンのために適当な職を容易に見つけることができるだろうから。イーヴリンは働かねばならない、この点では誰しも意見が一致していた。彼は怠け者ではないのだから、世間並みの仕事ができないはずがない。ウィニフレッドは一つの働き口を見つけてきて、彼に勧めた──さて、彼はそれを受け入れただろうか? 否! しかし、何故? 彼の言い分では、その仕事は自分向きとは思えないから、断りたい、とのことだった。この応えにウィニフレッドは激怒した。そもそも彼らは今ロンドンで暮らしているので、生活費は二倍かかっている、しかも子供は贅沢な治療を受け続けており、彼女の父親はもう不満を隠さない、にもかかわらず、イーヴリンはあらゆる勤めの申し出を頑に断わろうとするのだった。そしてついには、彼は何もかもを黙殺して、田舎の家に引きこもってしまった。
 ウィニフレッドの魂のなかで、何かが固く凝結しつつあった。彼女は自分の感情を夫からきっぱり切り離した。もうあの空ろな男のことは考えず、自分の血縁の者とともに、独力で暮らしを支えてゆかねばならないのだ、と彼女は決意した。
 以上は、ここ一年のあいだに起きたことである。彼ら一家の中心はロンドンに遷された。少しでも脚の力をとりもどせたらという希望のもと、長女への施術はつづけられていた。しかし、彼女の脚が完全に治ることはないというのは、明らかだった。彼女が脚をふるわせ、脚を投げ出すようにして歩く様は、或いはこんなにも幼く、聡く、焔のような少女が、歪んだ器物みたいに肩を無理に動かす様は、眼をそむけたくなるような光景だった。だが、母親はその辛さに耐えた。娘は、この不幸について何かの埋め合わせを得られるはずだ。娘のいのちは弱まってはいない。むしろ頑強になった。彼女は自分なりに人生を作ってゆくことができるはずだ。魂と精神においてこそ彼女は充実を得るだろう。なぜなら肉体の領域で損なわれたものは魂の領域で報いられるはずだから。そのように考え、母親は始終娘に付添い、医師の忠告どおり、娘が足の片端だけをつかって歩いたり、片足で飛び跳ねたりしないように、厳しく、忍耐づよく気を配りつづけた。他方、父親のイーヴリンにとっては、娘のこの不幸は耐えられなかった。彼は、なにか人生の途上で破産したように感じていた。肉体的な官能に導かれる生活だけが、彼の人生のすべてだった。自分の娘のいびつになった身体を見ると、その畸形が、彼には悪意あるもののように見え、汚辱と虚無が生を打ち負かしてしまったように思われるのだった。これ以後は彼はもう無価値なゼロにすぎない。それでも彼は生きねばならぬ……。いつしか、奇妙な冷笑が彼の唇に浮かぶようになっていた。




2


 彼ら一家がそんな事態におちいっていた、折も折、戦争がにわかに起こった。戦慄がイーヴリンの魂の上を走った。彼はそれまで、幾週ものあいだ、ほんのわずかでさえ何事も気にとめず不覚のまま過していた。自分のうちにじっと閉じこもっていたために、感情は鈍麻しつつあった。そしてまた、妻のウィニフレッドの、彼に対する態度もいよいよ頑なになっていた。彼女は彼の存在自体を無視した──無視することによって軽蔑を示していた。彼女はもはや彼の着物を繕おうとしなかったので、彼は襤褸のように肩口が裂けたシャツを着なければならなかった。或いは、彼女は彼の食事だけ配膳しようとしないので、彼は自分でそれを台所へ取りに行かねばならなかった。苛烈な憎しみのせめぎ合いが、彼ら二人のあいだの常態になっていた。その周りで子供たちは、不安げにおどおどし、さもなければ利かん気で野卑な目つきをした。彼らの住処は虚無に圧し伏されて、荒廃し、不穏になっていった。ただ一人、ウィニフレッドだけが、彼女の義務に、そして肉体的官能を犠牲にするという修身に従う、道義の情熱にひたすら没入していた──彼女自身でも薄々その功徳を信じていなかったにもかかわらず。
 それでいてこの夫と妻は互いに愛し合っていたのだ。というより、彼ら二人は、外部からのあらゆる感情の干渉を締め出してしまっていた。
 戦争が始まったとき、彼ら一家は田舎の屋敷に戻ってきていた。はじめ彼はこのニュースを、いつもの、無感動な、鈍々しい態度で受け止めた。「戦争? それが僕に何のかかわりがあるっていうんだ?」とでも言いたげな様子だった。にもかかわらず、戦争という事実は彼のうちに深く沁み入ってきていた。戦時下という非常の興奮が、彼の生活の振幅をすべて惹き付けてしまった。淡い歓喜のような目立たない鋭さ、棘立った熱意が彼の声音にひらめくようになった。庭で働いていても、彼は戦争の熱気が彼のなかで渦巻くのを感じることができた。今や、彼の意志は目指すべき領野を見出したのだ。彼の魂のうちに生まれた衝迫は彼の無力感を打ち消し、彼に新たな積極の態度を強いた。そう、荒れ野のうねりの狭間、樹々の濃い緑に隠されたこのなだらかな庭の、純一な平和の中心で、彼は、破壊という果断な行為の可能性に目覚め、擦れるような焦燥、真正面からぶつかってゆく暴力の奔流、戦闘へ突きすすむ軍隊の速度に取り憑かれたのだった。魂を運び去るこの衝迫に、もう彼は逆らうことはできなかった。
 それから彼は屋敷に戻り、鋭い熱情をともなう声で妻に向かって言い放った──
「僕も志願するべきだと思うんだ。どうだい?」
「そう、そうね!」と彼女は応えた、「それこそ、あなたに相応しい仕事だわね。軍隊というところは、あなたのような人をまさに必要としているのよ。あなたは馬も乗りこなせるし射撃もできるし、十分健康で身体も強くて、それにあなたを家に引き止める何ものも無いし。」
 彼女は野太くて感じやすげな、そしてかすかに敵意を含ませた声で、まるで自分の言葉の正しさを微塵も疑っていないみたいに、堂々と、さわがしくしゃべった──実際には、彼女にとって正しいと信じられることを言っているにすぎないのだが。
 鋭い笑みを浮べて彼は目を細めた。あたかも、棘立った、冷やかな笑みを自分自身に向けているみたいだった。この表情に対抗するのに、ウィニフレッドは、自分の観念的な道義心の一切をかき集めて身にまとわねばならなかった。
「そりゃ結構だね──」と彼は棘立った、耳障りな声で言った。
「お父さんにも相談してみなきゃならないわね、」と彼女は言った。
 結局決定は父親の権威次第というわけだった。鋭い笑みが彼の若々しい顔にとどまって消え去らなかった。
 義理の父親はこの案に心から賛同した。国は、今このような軍への志願者をまさに必要としている。この行為はイーヴリンにとって誉れとなるだろう、と彼は考えた。というわけで義理の父親が、イーヴリンの無気力にケリをつけ、戦争へ送り出すという形になった。
 イーヴリン・ドートリーは、チチェスターに駐屯していた連隊に志願兵として入隊し、すぐさま砲兵隊に配置された。そこで強いられた服従を、生活の無意味でとるにたらない点にまでおよぶ逐一の束縛を、彼は、ひどく嫌った。彼個人が軍隊のなかで十把一絡げの存在でしかないことに、嫌気がさした。しかしそれでいて、偉大なる破壊のうねりに参与しているという本能的な満足感が、彼を優れた兵士に仕立て上げた。兵士として経験をつんでいくその都度の嫌悪感にもかかわらず、彼の魂は軍隊に従順になっていた。
 やがてウィニフレッドの夫に対する態度は変化し、彼を夫として尊重するようになった。というよりも、彼女はほとんど彼を怖れはじめていた。彼の前で彼女はまるでへりくだるようにした。つねにすらりとして清潔な四肢をもち、仕草の優雅だった彼が、粗野なカーキ色の軍服につつまれ、武骨な姿をして帰ってくると、彼女はそれをもう別人のように感じるのだった。夫が身につけた、兵士としてのこの新たな尊大と非情とを前にして、彼女は下僕のように振舞った。今や彼は人生において何かしら意味のある数であり、無ではないのだ。それとともに彼は、もはや彼女の手に負える存在ではなくなった。そんな彼を彼女は愛した──ほとんど彼に自分の価値を認めてもらいたいといわんばかりだった。おそらくは彼女は、兵士になった彼を見たとき、わくわくするような戦きを感じたのだ。おそらくは、彼女は、夫によって自分の不充足を満たされたのだ、今や破壊の使徒となり、殺戮者の側に立った彼の存在によって。
 イーヴリンは彼女の愛情と敬慕をまるで当然の貢ぎ物のように受け入れた。そして、そんな風に愛情を被る自分をも嫌悪していた。とはいえ、その貢ぎ物のような愛情を、彼は拒まず、楽しみもしたのだが。休暇のはじめの一日だけなら、彼は彼女の愛人でいられた。そこには馴れ初めのころの敏感な優しさの瞬間さえ含まれていた。ところが、そんな優しさは過ぎ去るのも早く、自分の欲望が満足してしまうと、彼はすぐさま彼女に背を向けてしまう。その愛情にもかかわらず、彼女に対する冷淡さは、依然として彼の内にあった。魂の根方では、自分が兵士になったからというので愛情を向けてくる妻を、彼はひたすら嫌悪していた。真実、彼は兵士としての自分を嫌っていたのだ。そうしてやがて、ウィニフレッドは、休暇のあいだ長く家にいる夫を眺めていて、彼の兵士という装いの下に、以前と変わらない、彼女に対してよそよそしく、彼女の道義心を黙殺し、そして今や破壊の衝動においてのみ積極になっている男を見出すのだった。
 彼が軍隊を離れて家にもどれば、二人のあいだには、以前と同じ愛と情熱の日々がおとずれた。しかしその周囲には、彼が踵を接している死の影が仄めいていた。その死の影にとりつかれると、彼らはお互いの欲望と情熱のほかは、何もかも麻痺したように視野に入らなくなった。だが、そんな風に彼らは密に見つめ合うべきではなかったろう。死を想いながら、緊密に愛を交わしつづけることは、恐ろしいほどに神経をささくれ立たせるのだったから。
 イーヴリンは確固たる兵士だった。彼は魂で軍隊の意義というものを理解していた。彼は破壊へと引き絞られた、張りつめた衝動の矢と化した。その張りつめた破壊欲こそが今や彼の実存の中心にあるのだ。そんな彼が、愛情や人生の創造的な側面に関することで、もはや何ができるだろう? 彼には自分の満足のために生きる権利がある。彼の悍ましい精神はひたすら破壊へと突き進んでゆくだけだ。となれば、彼が何かを手にとって楽しむことのできるのは、それが破壊されないでいるかぎりでのことだ。つまり、彼の生の喜びは、何かを彼が破壊するか、彼が破壊されてしまうか以前の過程のなかにしか存在しない。論理的に言えばそうなる。結局のところ、一切はいずれは無に帰してしまうのだとすれば、破壊だろうと何だろうと、各人の思うがままにさせて悪い訳があるだろうか?
 ウィニフレッドは、彼もその一人であるイギリス軍は人類を救う使命を帯びているのだ、といった御託を彼に吹き込もうとした。そうした言葉に彼は耳を傾けた──それらは、彼の自尊心を大いに満足させる言葉だった。しかし、それらの御託一切が偽善であることを、彼は知っていた。彼が出掛けるのは殺戮と破壊のためだ。救済の天使の役目をつとめるつもりなど彼にはまったくない。女子供ならそんな物語を素直に信じ込むこともできるだろうが、彼に幻想は一切ない。それが現実だ。最も善意に解釈したところで、戦争は殺すか殺されるかの現場でしかない、と彼は思っていた。人類の救済者ということについていえば、イギリス人と同じようにドイツ人もまた人類なわけだ。そこに何の違いがあるだろう? われわれも彼らも、殺戮者として出掛けてゆく、だからこそわれわれを別の名称で呼ぶことは止めてもらいたいものだ。
 ついに彼は家族から離れて遠くフランスへ征くことになった。家族との別離の時は、彼にはじりじりと居たたまれなかった。というのも、今や彼は純粋に破壊衝動のみに生きる人間になっていたにもかかわらず、この告別は、愛情と創造的な希望に満ちたかつての彼自身を、呼び醒しかけたからだ。もう二度と妻や子供たちに会えないだろうことが、彼には分かっていた。だからといって、そのことについて涙を流したりすることは無意味なはずだった。別れ際に、感傷的な発作をおこして涙する妻に、彼はいらいらした。彼女自身が、こんな風に、彼が出征することを望んでいたのではなかったか? 彼女こそこんな事態のお膳立てをしたのではなかったか? だとすれば、何故この期におよんで愁歎をさらす必要があるのだ? 彼女にこそ、しっかり前を向いて、自分が先鞭をつけたものを最後まで見届けてもらいたいものだ!
 フランスに来て初めの数日は、軍の組織は滅茶苦茶に混乱しており、イーヴリンはその苛立たしい騒動をひたすら耐えねばならなかった。それがおさまって後、彼は実戦に投入された。彼は恐怖したが、その実、戦闘では目覚ましい能力を発揮した。彼が忌み嫌っているはずの獰猛さ、それが今や、人生における可能な唯一の手応えを彼に与えるものになっていた。人間が人間と相争うこと、それが彼を深く心の底まで充足させるのだ。彼の内奥の欲望を満足させられるのは、ただ一に、この殲滅行為をおいて外にない。
 それから二か月が経ち、そのあいだに彼は二度ばかり軽傷を負った。そして今、彼はふたたび危険な戦線に立っていた。連隊はこれで何度目かの後退中で、彼はその後衛を三機のマシンガンという装備で守っていた。マシンガンは、村外れの、わずかに薮におおわれた小山の上に据え付けられていた。あたりを領しているのは、遠い彼方で轟く大砲の音にもかき乱されることのない、冬の午後のもの憂さで、ほんのときたま──それがどの方角からのものかを知ることは不可能に近かったが──小銃の火の細かくはじける音が、空気を顫わすばかりだった。
 イーヴリンはマシンガンの扱いを任されていた。彼の頭上には、空のなかに聳えるように、中尉が、視界を確保するため梯子の上の小さい鉄の床にのぼって立ち、眼下の銃手たちに命令を下しては、甲高い、切羽詰まった声で叫んでいた。まず空から方向を指示する喚き声が降ってくる、それから三、二、一と数字が呼び立てられ、次に「撃て!」の怒声だ。引き金がひかれる、銃のピストンが反動で揺れ、鋭い爆発音が弾け、ほのかな薄もやの糸が煙る。それにつづいて隣りの二つのマシンガンも発砲され、後には凪のひとときだ。見張り台の上の士官はどうやら敵の位置をあいまいにしか把握していないらしい。激しい交戦の轟きが響いているのは遥か彼方でのことで、それがあまりにも遠いので、彼らの周りはおおむね平和だ。
 あたりを取り巻くハリエニシダの藪は、暗緑色で寒々としていながらも、咲き残った僅かな花々をひらめかせ、そして、撫でるような風はつねに止むことがなかった。イーヴリンは銃を前に姿勢を変えずに待ちつづけながら、なにか永遠的な真実について思いめぐらしていた。彼には万物が実体なく鋭利なもののように感じられた。イーヴリンはもはや、自分自身のことも妻のことも気に掛けず、ただ、風のように絶えず触れてくる非実体の真実だけが、彼の意識を呼び戻し、彼の関心を惹くのだった。彼は、外界との接触を、一種の抽象として受け取った。完全な孤立、そして微動だにせず、彼はマシンガンと他の兵士たちと共にいる。そこには身体的な相互作用はあれども、精神的な呼応は一切ない。イーヴリンの実体は、ただ彼自身の潔癖な孤絶と真実の内にのみ存する。目に見えて切実に存在していると思える、他の兵士たちとの戦友としてのつながりさえ、もうイーヴリンの個我の魂をわずらわすことはない。たしかに、他の兵士たちとの肉体的な一体感はある──しかし限りなく、純粋に他から隔てられた時間の内でのみ、イーヴリンの精神と魂は生きて動く。
 彼の顔を向けた先には、野草と藪に覆われた高い土手の間を抜けてゆく道路が伸びていた。英国の連隊が通り過ぎていった後の、その冷え冷えとした道路の上には、よく見ると、白くぬかるんだ轍、細くて深い溝、抉られた跡、ひづめの凹みがついていた。しかし今は、何もかもが冴え返って静かだ。音の響きはなべて別の世界からとどいて来るように思える。そしてそれらの響きは、彼の立っている、冷え切って純一な、完全に孤立した一点には、決して触れてくることはない。
 ふたたび、嘶くような士官の声が頭上から発せられ、迷いのない機械的な反応で、彼の肉体は銃の操作という動きだけを導き、閃光が爆ぜる。この無意志の抽象的な動作は、快活な喜びさえ伴っていた。実際、これこそもっとも快い自由、至上の爽快ではないだろうか? イーヴリンは彼自身の真実への苛烈な孤絶に、マシンガンを操作する肉体の無意志の動きに、ほとんど自己の極致を見出したかのように、恍惚となる。
 彼は不死の存在になったのか? そう思われるほどに周囲のすべては強烈な、圧搾されたような無音に浸っていた。瞬間の純美な停止はそれを永遠にする。主要道路が小さな田舎道と合流する角のところで、路傍の十字架像がぬっと突き出て傾いでいた──ということは、それもまた、永遠の内で傾ぎつづけるのだ。冬の原野と陰々とした森を端まで見渡して、彼は何もかもが、確かに、永遠の内に置かれていると感じた。ここは時間の弊える場所なのだ。遥か彼方、野のうねりの頂きに、微小な、馬に乗った三人の騎兵が現われた。彼らもまた彼ら自身で孤立した存在なのだろう──つまりそれもまた永遠だ。やがて、その小さな騎兵たちは消え去った。彼をとりまく気配は永遠に変わることはない──白霜のように研がれて、不動のままで。
 ドイツ軍の接近の徴候らしきものは何一つ見られなかった。見張り台の上の士官は待ちに待っていた。それからまた突然に「照準!」の鋭い嘶き、宙を疾駆する銃弾、そして一段と銃と一体化してゆく兵士たち。
 しかし、そのような単調な動作が繰り返されるさなかにも、いつしか、未知の響きが混じりはじめる。なにか、未知のくぐもった、大砲の「ドン!」という響きが、彼の脈打つ肉体組織を震わせているみたいだ。省みれば、変わらず、冷静で不可侵の世界に浸っている自身を見出す。だがくぐもった「ドン!」という響きは、たしかに彼の肉体の感じ易い部分に差してくる──不断のマシンガンの操作にひたすら打ち込んでいる彼の肉体に。
 そして不意に、その静謐で不可侵な核をつらぬいて、戦慄が訪れる、砲弾の空を切り裂くきれぎれな、怖ろしい鳴動が、つんざき、痛烈に、彼の魂の膜を散り散りにしてしまうような轟音にまで募り切る。爆風の余波がイーヴリンの脈打つ肉体にあまねく沁み入る。しかし、それでいて、彼の冷え切った神経はいささかも動揺しなかった──凍り付いた孤絶の内からすれば、一切は隔ての向こう、別の領域での出来事にすぎないのだ。逸れた砲弾が後方に墜ち、壮絶な音で爆発するのを彼は耳にする。騎馬兵たちの苦悶の声をも耳にする。しかし彼は振り向いて見ようともしない。そんなことに時間を割く必要はないのだ。彼は一切のものに対して醒め切って、自身の孤独のなかで無傷だった。彼はただ、下方の道路に、赤い実のついたヒイラギの小枝がまるで賜物のように落ちて、そのままそこに横たわっているのを、見るともなしに見ていた。
 ドイツ軍は、大砲でもってこちらに狙いをつけているのだった。この場を離れるべき時機だろうか? イーヴリンは意識の上辺だけでそう独り自問した。無論、彼自身の実体は何についても関心を動かしはしなかった。彼は一つの孤絶した抽象だった。
 もう一度砲弾の空を切り裂く音が兆すのを、彼の血はそよとも波打たずに感知した。砲弾は、先よりも身近いところを掠め過ぎ、爆風は彼に急迫し、彼の血は熱に尖った。しかし、依然として彼の神経は凍り付き、触れられないままで、不可侵の非現実の内にあった。黒々とした砲弾が地上に襲いかかり、はるか右方の荒蕪地を抉って土砂を宙に巻き上げるのが、彼の目に映った。しかし時が経てばその土ぼこりも地に均される──彼の魂と同じ平坦さ、同じ侵しがたさ、同じ零度の永遠性に落ち着くのだ。
 不可解にも彼らは後退しようとしなかった。一時の沈黙の後に、突然に発せられる見張り台からの士官の癇の強い声、素早く目標に向けられる銃、射撃の予告、そして「撃て!」の怒声──そうしていつまでも繰り返される夢のような運動のさなか、砲弾はまったく注意を惹かずに掠め過ぎてゆく。しかし、そのように未来永劫つづくかと思われた無感動と、揺るぎのない空虚な活動にも、いつか終わりは来る──突如、炸裂した、轟音と眩暈と、灼けるような痛みと怖ぞ気、生命と永遠は瞬間にまで切り詰められて燃え上がり、それから、彼に覆いかぶさって来たのは、底無しに沈鬱な暗闇。
 その暗闇のなかで何かが、おそらくは痛覚と吐き気のうねりが、仄かに形をとり、彼の意識に揺らぎはじめたとき、イーヴリンは、田舎家の我が家にいる自分を見出した──彼は何かしらうまくいかないことで苛立っているようだった。むかつき、幻滅し、すっかり苛立っているようだった、まったく何の希望もなしに。自分は何にそれほど苛立っているのか? 彼は意識を凝らして、それを知ろうとした。何かしら不毛で重苦しくて絶望的なものがそこに立ちはだかっていた。しかし、それを知ろうとする努力は空転しつづけた。
 やがて、何かの鋭い木霊が彼を揺さぶったが、その感じは幻のように朧ろだった。だが、その鋭い響きは止まずにつづいた。彼の意識はしだいにその音に敏くなった。コノ音ハナンダロウ? 耳を澄ますにつれて、その音は、彼の意識を圧倒するかのような、鋼鉄が鳴り響くような凄まじい轟きにまで募った。一体コノ音ハナンナンダ?
 そして、ようやく彼は、自分が戦地の真只中にいるのだということに、気づいた。そう、彼は小山で連隊の後衛を守っていたのだ。彼はまた、自分が負傷していることも判った。彼はまだ瞼の裏の暗闇を見つづけていた──いずれにせよ、彼の眼界はもう随意にならなかったのだが。激烈な痛みの響きが彼の頭のなかで鳴り渡り、それよりほかには、何も意識できなかった。彼はただそれに耐えて身体を横たえていることしかできない。イーヴリンは身じろぎもせず、横たわりつづけていた。反響する痛みは巨大に湾曲し、苦痛の意識のみが彼を突き刺す。だが、いずれその繰り返す痛苦もわずかに緩み、頭のなかでの反響も少しだけ鎮まった。自分ハドンナ傷ヲ受ケタノカ? 彼は敢えてそれを探り当てようとした。怪我をしたのは、頭のようだった。彼はその現実を受け入れるために、しばらくじっとしていた。そう、怪我をしたのは、頭だ。彼はふたたび力を振り絞って、そのことを意識に留めようとした。不確かながら彼は、眉の上に亀裂ような、凹みのような傷があることを感じ取れた。傷の正確な位置を探ろうとした。ひりひりと灼けつくような痛みが輪郭をあらわにする。傷を受けたのは、左の眉の上だ。彼はひたすら静かに、暗闇のなかに横たわり、ともすれば切れ切れになってしまう意識を凝らした。今、自分は左の眉の上を負傷している、そして顔の皮膚が血に濡れてこわばっているのも感じられる。多分今も、脈打つ血が流れつづけているのだろう──確かなことは判らないが。彼には横たわり、ただ待つことしかできなかった。やがて、ふたたび悍ましい吐き気と、鳴り渡る痛苦の轟きが彼を襲い、彼の脳髄を切り裂くかのような錯乱と振幅で、痛みが繰り返しつづいた。
 そうして横たわっている彼の脳裡に、いつしか、妻と子供たちのことが呼び醒まされた──どこか遙か遠くにいる存在として、もはや再会する見込みのない存在として。彼にとって、妻と子供たちは、今彼を領している痛みに次ぐ、第二の実在、そして、より彼の本質に親しい実在のはずだった。しかし、それはもはや手の届かない彼方にあるのだ。
 自分の頭の傷はどれほど深いのだろうか? 彼はふたたび痛みの響きを感じ分けようとした。今や苦痛の木霊は耐え難い震えをともない、また彼は、自分の身体の根方まで冒す悪熱をも感じた。辛いような吐き気が拭えなかった。自分の頭の傷はどれだけ深いのか? しかし彼は、辛いような体感とともに、非常な安らぎも同時に感じていたのだった。今や彼は、究極の静けさに包まれているようだった。やがて自分はもう痛みを感じなくなるだろう、そう考え、彼は世界が鮮鋭に拡散し、希薄になってゆく感覚を味わった。
 彼は瞼を開いて、日の光りを受け入れた。すると彼の意識はより毀れやすげになり、淡く揮発してゆくかのようだった。身を捩って横たわった彼には、もはや乱反射して煌めく陽光が知覚できるだけだった。それから彼はまた目を閉じ、待った。と、彼は俄かに目を覚ました、もはや自分の目は散乱する光りのほか何も知覚できないのか、という恐怖が、彼を戦慄させたのだ。もはや自分の世界には闇と混沌しかないのか、という想いが、逆に彼に意志の力を取り戻させたのだ。彼は何かしらを目に見ようとして、力を振り絞った。
 視界がよみがえった。地面に生える草が彼の目に映った──さらに枯草の斑らにまとわりついた道路の一部も見分けることができた──どうやら、彼は主要道路の上にじかに倒れているらしかった。一旦目を閉じ、視界を取り戻す意志をふたたび胸の内で引き締めてから、瞼を開いても、やはり同じ光景が彼の眼前にひろがっていた。苦しみに抗いつつ意識の力を集め、彼は、自分をとりまく状況に形を与えて、客体としての世界にもう一度向き合うことができた。今、彼は脇腹を下にして倒れている、そして彼はじかに道路の表に触れている。土手は視野の外、上方にあるに違いない。ともかくも、彼は自分の現状を把握した。彼はふたたび自分を現実世界のなかに位置づけることができた。彼はわずかに頭を持ち上げた──もちろんそこは主要道路の上だった、そしてその同じ道路には、うつ伏しに、背の腰部から流れ出て周囲に溢れひろがりつづけている血溜まりに浸った、士官の屍体もまた、横たわっていた。その屍体も彼は視界のなかではっきりと見分けたのだ。さらに、彼の目はすぐそばに砕けて粉ごなになっている十字架像をもとらえていた。十字架像はあたかも最初からそうして砕け朽ちていたかのように、彼には見えた。
 全身に及ぶ苦痛にもかかわらず、彼の意識は澄んで明晰になっていた。まるで、自分が限りなく明るくて淡くて、繊細な第二の現実を生きているような気がした。あたりの地面は、滅茶に裂け崩れていた。彼はそれをくまなく見て取りたいと思った。
 繊細微妙な、明澄な意識のまま、彼は視界をひろげるため少し身を起こし、自分のからだの状態を確かめた。おびただしい血に濡れた土に、両腿を覆われているという姿の自分を、彼は、見出した。その血に染まった土を、彼はぼんやりと眺めたが、即座に、なにか致命的な感情が、彼の胸を衝いた。自分の人生が重荷にひきつぶされてしまったかのような、不安を感じた。なぜ彼の腿をおおう土はこんなにも血に濡れているのか? 彼の坐った姿から力が抜けていった──被さった土の向こうに突き出ている脚が、奇妙に偏って重なっているのに気づいたのだ。彼は蒼然となり、生きる力を奪われ、灰色の虚無のなかに取り残された気持ちになった。しかし、彼はみずから、自身に起こった仮借ない事実に向き合わねばならない。敏感な、震える指で、彼はまず無傷な脚に被さっている土を払いのけ、次に、もう一方の脚からも土をのけた。その土はたっぷりと血を吸っていた。その傷付いた脚は、折れてねじれていた。彼はそれをほんの少し動かそうとした。だが、微動だにしなかった。彼の存在に、測りがたい裂け目が生じたかのようだった。その片方の腿と自分とのつながりが、断ち切られてしまったということが、彼に判った。彼は、あたりにひろがる大量の血については、まともに考えることさえできなかった──あたかも、彼自身が流動し、撥ね、滲みひろがる赤い液体と化したかのように、感じていたのだ。精妙で明澄な彼の意識的存在は、彼から乖離してしまっていた。その明るくて繊細な意識的存在は、ぱっくりと開いた赤い裂け目から、蒸発して散り散りになったかのようだった。彼は坐りながら、傷付き、損なわれた身体から遠のいてゆく自分を感じていた。
 自身の脚の不具という認識から遠く隔たって、彼の心は虚ろになり、凍り付いた不易の状態に閉じこもった。彼の存在はまたも、抽象的で無時間的なものと化した。限りなく透明な論理性に貫かれて、孤独で、純一で、削ぎ抜かれた抽象として、彼は坐っていた。零度の、無色の抽象、それが今の彼だった。そのような存在として、彼は自身に判断を下そうとしていた。生き続けるべきなのか死ぬべきなのか、答えがどうであれ、それは混じり気なく明晰で神的なものになるはずだった。彼はまず、自分の妻への想いを胸に呼びさまし、それが強い情動となって彼の心を揺さぶるかどうかを、感じ測った。彼は静かに待った。たえだえに脈打つ彼の心臓は、冷たくこわばったままだった。答えは、否だ。彼と妻のあいだにはもはや何のかかわりもない。彼はもう死に片足を踏み入れているのだ。しかしまだ見極めるべきことはある。子供たちのことだ。彼は子供たちの姿を思い浮かべ、子供たちへの感情を胸に呼びさましてみた。しかし、いかなる熱情もやはり彼の内に蘇ることはない。子供たちへの愛情、子供たちの想い出は、冷やかで白々とした抽象の彼から切り離され、どこか彼方の生の現実のなかで明滅するのみだ。彼はじっと身じろぎもしなかった。では、これが最後の答えなのだろうか? 凍り付いた沈黙の底から、一つの結論が導き出された、すなわち、彼は今や紛うことなく、不可侵のまま置き去りにされている、「死」のなかに。
 純粋無雑な超然とした状態のまま、彼は身動きせず、苦痛のことも戦争のことも念頭になく、ただ、死に至る虚無の深淵のことのみ考えていた。
 ついには、息詰るほど苛厳な崩落の苦しみが、残酷な自己崩壊の怖ぞ気が、揺り返しのように襲って来た。
 そのように滅びてゆく自己の無惨な痛苦に圧し伏され、冷たい身体を横たえていた、彼の意識に、だが不意に、何かの火花が、爆ぜた。彼は幽霊じみた、現実から遊離した動きで、ふたたび目を開いた。もはや人間ではない、非実体の抽象と化した男が、目を見開いた。
 馬に乗ってやって来た二人のドイツ人兵士が、士官の屍体のそばで道路に降り立ったのを、彼は目にした。
「Kaput?〔死んでるか?〕」
「Jawohl!〔死んでるな!〕」
 超然とした意識のまま、横たわって彼は眺めていた。ドイツ兵は士官の屍体をひっくり返した。彼らが腕を動かすたび、その肩の筋肉が膨れるのを彼は目にした。
 何もかも明瞭に見てとりつつ、沈着な、無意志の珍らかな動きで、彼は自分の拳銃に手をかけた。二人の兵士の他にもう一人、兵士が馬に乗って土手の上にいるのも、彼には判っていた。この一切が鮮明に見て取れる世界から全く遊離していたにもかかわらず、彼は、自分の為すべきことを、明快に理解した。身を横たえた姿勢で、彼は注意深く、ぎりぎりの際どさで、ほとんど宿命的に狙いを定めた。一人のドイツ兵はすでに身体を起こしていたが、もう一人の兵士はまだ屍体の上にかがんで何かを探っていた、その兵士が、突如、痙攣し、前につんのめって、頽れた。宿命は遂げられたのだ。澄謐な、神々しい息吹きが、仄白い微笑となって英国の男の口に浮かんだ。その微笑──仄めくようなこの不可思議な英国の男の顔に表われた、抽象的な微笑を見て、もう一人のドイツ人兵士は、奇怪な、滑稽ともいえる焦りに憑かれて、自分の拳銃を抜き取り、走って近づいて来た。だが次の瞬間には、二つの銃弾が、一発はドイツ兵の胸郭を、一発は腹部を、撃ち抜いた。手放された拳銃は宙を舞い、喘ぐような、咽ぶような、苦悶の息の音を立てて、兵士の身体は前によろめき、そのまま膝を折って、地面に打ち付けられた。依然として晴朗な笑みを浮かべながら英国の男は、倒れた兵士の頭に向けて、発砲した。銃弾は兵士の後頸を砕いた。
 先に撃たれた方のドイツ兵は、辛うじて馬にまたがり、恐怖に手綱を握りしめて馬を走らせようとしていた。英国の男はその陽に焼けた、絶望したような顔に、狙いを定めた。兵士の肉体が驚愕して跳ね上がり、ゆっくりと傾ぎ、鞍からずり落ちて倒れた──銃弾は彼の脳髄を貫いていた。
 だが同じその瞬間に、英国の男は、自分の身体にも鋭い衝撃を感じていた──そして自分もまた撃たれたのだと、知った。それはまったく非現実的な衝撃だった。土手の上にいたドイツ兵が撃ったのだ。相手を見ようと彼は苦労して寝返った、しかし、再び銃弾が打ち込まれた、痺れるような鈍さが彼の身体をむしばみはじめた。ふと気がつくと、彼を見据えるドイツ兵の赤ら顔の真中の青い瞳が、彼の間近にあった。それから、短刀が、自分の肉に突き立つ感覚が走る。灼き切るような鋭利な激痛、そして今度こそ最後の、絶命の痛苦の暗黒。
 ──ドイツ兵は、すでに屍体となった男の顔を、まるでそれを消滅させねばならないかのように、なおも無下に切り刻んでいた。彼は男の顔を十文字に斬りつけた、それは抹殺の印、相手のそれが顔であることを否定する印だった。彼には耐え難かったのだ、相手のその曇りのない抽象の表情が、その悪魔的にひらめく微笑が。そのぼんやりとした、しかし恐ろしいものを暗示する相手の顔が、彼を物狂わしくさせたのだ。それから、ようやく我に返り、生きて動くものがその場に自分一人しかいないと気がつくと、兵士は、急ぐように足早にそこを立ち去った。








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