自意識と非意識との弁証法解析のための注目点
:半初対面という契機と空想
- ●ドストエフスキーの小説内において、登場人物間の関係が久し振りの対面だったり、前々から名前は知っていたけれどまともに話すのが初めてだったり、出会ってからまだ間もなかったりというふうに、「半初対面」とでも言うべき形で結び付けられていることが多いことに注目。純粋に初対面というパターンも少なくない。そして日常的に主人公と接している友人・知人が重要な役割を果たすことはほとんどない。常から主人公に近しい知人よりもむしろ半初対面の他人を優先させるということ。
●「半初対面」という契機を可能にする小説空間=情報空間=郵便空間に注目。それは相手のことを知ってはいるけれどもまだ会ったことはない関係性、或いはもう長いこと会っていない関係性、まだ出会ったばかりで相手のことをよく知らない関係性、というのを実現する空間でなければならない。つまり、相手の情報は伝わっているけれども相手の身体は接近していないという距離感を可能にする小説空間。
●「半初対面」という契機によって、登場人物間で、他者に対する過剰な空想や幻想や憧憬や恐怖が働く距離感が可能になっていることに注目(疑心暗鬼!)。しかも登場人物それぞれでひとりよがりな幻想・空想はそのベクトルにおいて格差があり、それらは相互にすれ違いながら交錯する。また単純に、初対面に近い間柄だからこそより貪欲に相手のことを観察し=描写し認識しようとする動機が生ずるというところもある(もはや初対面とは言えないような間柄では出会う前からの幻想や関心が育つなんてことはないだろう)。「彼は、すべての出来事を必ずしも全部解釈できないから、それだけいっそう注意深く出来事を描写し、重要な細部を細大もらさず描きだそうとする」(『欲望の現象学』50頁)。そして、こうした幻想や関心が主人公の上に多重に折り重なって現実に烈しくぶつかり合うという点が物語の要だ。
●半初対面的な出会い以前に登場人物たちがどのように情報を受け取り幻想を育んでいるか、その順不同のプロセスに注目。半初対面という契機で結ばれた人物間には関係性の歴史というものは存在しないが、代わりに、多角的で偶然的で偏向的な情報解釈の歴史が双方に存在する。例えば人物αは人物βが金持ちであるという情報をどこから得て、それをどのように解釈したか? その構想も作者の芸術的創造の努力に含まれる。そのプロセスがどのように叙述されているかよく読むこと。
(情報についての偏向的な過剰解釈の例として次を引用しておく。「《だめだよ、ドゥーネチカ、おれはすっかり見通しだ。おまえはおれに話したいことがたくさんあるそうだけど、それが何だかおれにはわかっているんだよ。おまえが一晩中部屋の中を歩きまわりながら、何を考えていたかも、母さんの寝間にあるカザンの聖母の像のまえで、何を祈っていたかも、おれにはわかるんだよ。……》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●半初対面を可能にする情報空間の中で登場人物たちが抱く空想や関心が、兆候的描写へと結実するさまに注目。客観的な描写は意味がない。なぜなら登場人物たちの眼差しは彼ら自身の空想や関心によって偏向を被っているはずだからだ。しかも同時に彼らの知覚器官としての目や耳は対象の現実を直に捉えてもいるので、彼らが現前的に受け取る印象は必ず空想と現実とで二枚重ねになっている。従って彼らの眼差しはつねに動揺しており(不必要な、意想外な細部による中断)、客体とそれを観察する主体といった静的な図式には決して収まらない。
●小説空間内で情報の位相が変化することによって主人公の空想・幻想・憧憬・恐怖にどのような変化が起こるかに、注目。とくに半初対面的な関係で相手の情報が限られている状態では、スライディングブロックパズルのように情報の位相が組み替えられることによって、主人公の空想は大幅に変化してしまう。当人の想像力が過剰であればあるほど、その変化はほとんど強制されたように起こる。しかも、その新たな空想(の過誤)によってさらに間違った行動への切迫性が生まれることもある。
●登場人物たちの空想・幻想・憧憬・恐怖がどのようにコミュニケーションに影響しているかに注目。それがあからさまに打ち明けられるまでは、空想や幻想は基本的に「見えてないもの(目-無意識)」「メッセージ内容として伝わってないもの(声-無意識)」として兆候的にのみコミュニケーションに現われるが、とくに空想における相手とのベクトルの格差が言葉のやり取りの背後で作用する場合には、「言いたくないことを言ってしまったり思いも寄らないような感情的反応を出してしまったりする」ような闘争がほとんど自意識上の自覚をともなわずに、生じ得る。空想は単独的に主体の内部に抑圧されているのではなく、他人との半初対面的な関係性の中で死角にありながら相互的に作用する。
(言葉としてあらわれた空想=声-無意識の例として次を引用しておく。「「あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人ですから、きっと自分からわたしに同居をすすめ、もうこれからは娘とわかれわかれになんて暮さないようにと言ってくれるにちがいありません、わたしはそう信じこんでいます。いままでそれを言いださないのは、むろん、言わなくてもわかっているからでしょう。……」「ドゥーニャはおまえに会える喜びで、まるでそわそわしていて、一度なんか冗談に、このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ、なんて言いました。……」(『罪と罰』第一部第三章)。)
●小説空間=情報空間内でのコミュニケーションによって登場人物間でどのように空想・幻想が変化したかに注目。というか批評的コミュニケーション(批判・懐柔・籠絡・挑発・要求・告発・同意・迎合・嘲弄・はぐらかし・労り・慰め・訓示・攻撃的議論・告白・言い訳・弁明・反省・吟味・嘘)は必ず情報量の漸進的増加をともなうはずだから、作者がいかに情報と空想の相関性を考慮しながら対話場面を構想しているかを注目して読むこと。当然、変化は相互的に起こり得る。
●主人公にとって自分の空想を露呈させられる相手との出会い──半初対面的な遭遇──が決定的な意味を持っていることに注目。ドストエフスキーの小説においては、主人公が自分が長年秘密のように抱えている空想、ほとんど彼自身の人格と一体化しているかのような空想を、半初対面の相手に対して吐露することが重要な事件となることが、よくある(それは恋の告白に似る)。相手は誰でも良いというわけではなく、もともとの空想の中でその特定の相手が間接的な登場人物となっていたというケースが多い。そこに上述の対人幻想が加わるとさらに事態は興味深いものとなる。空想は悪魔的でも天使的でもあり得る。無邪気なものでも邪悪なものでもあり得る。主人公たちは苦しいくらいに空想を膨らませていて、そこから現実的な何かが生じることを求めている、密かに。もちろん、主人公が「半初対面」的な他者から過剰な空想を打ち明けられるというパターンもある。空想・幻想の相互作用。
●半初対面を可能にする情報空間の中で登場人物たちが抱く空想が「間違っている」ことに注目。悪魔的なものであれ天使的なものであれ、それは現実から乖離しているという意味で間違っている。対人幻想──自分が相手をどう見ているか──の場合は他者(の現実)に対してアンフェアで偏向的であるという意味で間違っている。当然「半初対面」のような相手への理解がまだ深まっていない段階でこそより空想の過誤の比率は高い。結晶作用のような愛情に基づく空想でさえアンフェアで「間違っている」のだ。
(他者に対するアンフェアな空想の実例として次を引用しておく。「《ところで、ルージン氏は勲章をもっているだろうか。賭けをしてもいい、ぜったいに聖アンナ勲章が襟穴についている、そして請負人や商人のところへ食事に招かれて行くときは、それを胸に光らせて行くことはまずまちがいない。ひょっとしたら、自分の結婚式にもつけかねない!……》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●ただし空想・幻想は「嘘」ではないことに注目。つまり空想・幻想が間違っているとしても、それは意図的に虚偽なものとして構築されているのではない。むしろ空想している本人にとってそれは真実と同じくらい強い感化作用を帯びている。これもドストエフスキーが言っていることだが、「真理というものは──この世のいかなるものよりも詩的なものである、それが最も純粋な状態におかれているときにはことにしかりである。いやそればかりではない、とかくふらつきやすい人間の頭が捏造したり勝手に想像したりするどんなものよりも、ずっと幻想的であると言ってもよい」。打算的な嘘には幻想性はない。だが真理はほとんどつねにまったく幻想的なのだ。
●間違った空想によってその空想を抱えている人物自身が苦しんでいることに注目。というのも自意識の自己欺瞞はその空想を促進する方向に働くが、だが同時に自意識は非意識との自己関係的なズレにおいてその空想が間違っていること(卑劣であること・恥ずべきものであること)に薄々気付いているからだ。しかし自分自身の気付きだけでその空想が膨らんでいくことを止められるわけではない。そこで空想家は奇妙な分裂的な苦しみに苛まれる。その苦しみを理解出来るのは同じように過敏な別の空想家だけだろう。
●間違った空想の誤謬がさらなる間違った行動の引き金となる点に注目。第一に、その空想を現実に作用させようとして当人が行ってしまう行動において(この場合他者との空想ベクトルの格差が問題となる)。第二に、その空想が現実に作用してしまった結果引き起こされる行動において(空想は意識的にであれ無意識的にであれそれが他者に伝われば何らかの作用を相互にもたらさずにはいない)。その後に来るのは行動の追想、後悔、現実からの復讐、そして非常に複雑な自己処罰だ──「そこまで俺は恥知らずで卑劣な男なのか?」。いや、自分自身の断罪さえさらに空想的で偏向的で「間違っている」こともあり得る。
●間違った行動が大抵の場合失敗することに注目。失敗するのはそれが情報空間内での偏った不充分な認識(失念も含む)に基づいているからで、仮に成功したとしてもすべての状況を吟味した上での沈着な行動だったからではなく、賭事のように僥倖に依ったに過ぎない。だから、そこには賭事と同じく短絡的決断によって現実を手懐けようとする非意識的な享楽も含まれている。それは読者をハラハラさせる。そしてその失敗は当人に後になって泣きたいような屈辱をもたらすことだろう。
●主人公の空想の過誤と間違った行動を審問する他者の存在に注目。主人公の間違いとアンフェアネスに対しては他の登場人物が──ときには無言のまま──「あなたは恥ずかしくないんですか?」と審問する存在として立ち現われることがある(やはりそれも「半初対面」の相手だろう)。その他者はあたかも鏡のように主人公に己の間違いをまざまざと見せつける。ただし人によってその鏡の曲率は異なり、主人公の「恥知らず」を断罪する理由はそれぞれ異なる。従って主人公はすべての他者に自分を断罪し審問する権利を認めるわけではない。主人公の廉恥心の方がそれを非難する人間よりもはるかに繊細で深いということはあり得るからだ。何より自分の空想の過剰に最も苦しんでいるのは彼自身なのだから。
:置き去りにされる自意識
-
●空想家の主人公が自らの空想と現実との乖離を痛感し、その遅れを過剰に取り戻そうとしてますます現実から置き去りにされる、という瞬間に注目。情報の接近にせよ物質の接近にせよ身体の接近にせよ、自意識の期待を裏切る形でほとんどの出来事は進行していくので、己の空想の能動性に固執すればするほど彼は遅延していくのである。そこから生まれる「間違った行動」も自意識が翻弄された果ての不自由なものでしかない。そのパラドックスをどう文体化・物語化しているか。
●主人公が自分と他人との相互認識の格差、および空想ベクトルの格差を痛感し、しかしそうした他人の空想の複数的な作動をどうすることもできずに苦しむさまに、注目。他人たちの空想もまた彼自身の空想が現実から乖離して間違っているのと同様に、アンフェアで間違っていることがしばしばだ。しかし、その過誤を彼はどうすることもできない。彼の自意識はそれに抵抗できない。そのため彼は苦しみ、動揺する。
(主人公が他者との空想ベクトルの格差に苦しむ例として次を引用しておく。「《ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》」(『罪と罰』第一部第四章)。)
●主人公が自分自身についても幻想を抱いていることに注目。その自己の現実から乖離した空想は、大抵自分自身の言葉ではなくて他者の言葉によって鎧っている。しかもそれは強制された空想であり、自分でもそれが間違っていることに薄々気付いている。だが主人公は内省によってはその幻想を除去できない。その自己関係的なズレの受苦性がいっそう彼を衝動的な間違った行動へ使嗾することもあるだろう。
●主人公が間違った行動の最中に却って自己中心的なカタルシスを感じていることに注目。いずれにせよ突然の行動化の中には、葛藤や苦悩を超克したという能動感がある。たとえそれが間違っていたり恥ずべきものであったり自己破壊的なものだったり取り返しのつかないものだったとしてもだ。さらに言えば、その行動が自意識のコントロールを離れた──「なぜか知らないが……してしまいたいという気がむらむらと私の心の中で頭をもたげた」──空想と現実に翻弄されただけの受動的な行動に過ぎなかったとしてもだ。
ダイアグラム解析のための注目点
:プロットの原型に注目
- ●プロットの原型に注目。(1)全貌を知らない主人公がそれを知るために人々に会う──人々に曝される。自分の自意識だけでは決定不能な、完結できない他者性の手応えがある。自分の都合よく決め付けることのできない何ものか。現実との視差が無意識から主体をブレさせる。その決定不能性の故にこそ主人公は人々の言葉を求める。他者と決闘しようとする。「おまえとはいずれ決着をつけようぜ、フランス野郎!」。一つ不安なことがあるだけで、人生のすべてが謎めいて見えてくるものだ。自分の内部にこそサスペンス要素がある、それを徹底的に解明していくことこそ、長篇小説の肝だ。
●プロットの原型に注目。(2)主人公が心理的に追い詰められた(「敷居の時間」!)すえに、自分でも何のためにそんなことをするのか分からぬまま、ある思考化・行動化が実現されてしまう。まるで着物の裾が歯車に巻き込まれてしまったみたいに。最終的には、主人公の無意識の欲望が剥き出される?
●プロットの原型に注目。(3)ずっと或る心理を否認し、抑圧してきた主人公(の自意識)は最後にその嘘の罰を受ける。その因果が分かるようにプロットを構成する。たとえば自分がこれまでついてきた嘘を一貫させることによって、却って事態が自分の欲望とは反対の方向に進んでしまうようなケース。また、他者を理解しないこと、認識の限界、共感力の限界に留まっていることも、罰せられる。
●プロットの原型に注目。(4)主人公が介入する前に、すべての人間関係は構築され尽くしている、トランプタワーのように、しかし主人公の介入によってそれがカーニヴァル的に崩落していく……。というかトランプタワーより入念な正確無比のビル解体に似ているか。それがプロットの目的になっている。
:隠された全貌の構想に注目
-
●抑圧されている現実=全貌の、心理分析的な、具体的な“手順”まで含めての設計に注目。そしてそのサスペンスフルな見せ方(魅力的なミスリード)に注目。他者と他者が出会うためにどんな“手順”が具体的に構想されているのか。どんな過去があったか。全貌はどんなふうに具体的に絡み合っているのか。こんなふうになってしまった具体的な手順はどうだったのか。なぜそれが抑圧と不安と饒舌を生まざるを得なかったのか。
●ドストエフスキー作品においては、或る登場人物の内密的な過去の経緯、その全貌は、その登場人物の口を通してしか語られないことに注目。或る登場人物=主人公=語り手「私」であれば、説明的・後説法ディエゲーシスの中でそれを明かせるが、或る登場人物≠主人公≠語り手の場合、ディエゲーシスにおいては外側からしか語れないし、その人物の内密性にまでは至ることができない……いや、至れるとしても限界がある(その人物が──《内語》においても、《内語》は大抵現在に拘束されているものだから──語ってくれる範囲でしか記述できない)。だからナスターシャ・フィリポヴナのケースやトルソーツキイのケースのように、理由が部分的にしか記述できない複雑な行動化というものが出てくる。
●「手紙」というアイテムが持つ効果の間接性に注目。「手順」の構成上重要な意味を持ってくるだろう。「欲望が直接に告白されたり、説得されたりするのではなく、手紙や日記という不完全な・間接的なメディアを媒介にすると、その表出を相手が受け取るかどうか、その結果相手の欲望がどのように変化するのか、一切が蓋然性に委ねられる」(斎藤環)。例:ガーニャが他の人の目に触れないように渡してくれと公爵に頼んだアグラーヤ宛ての手紙──の内容と、それに対するアグラーヤの反応。
●全貌の見えないコミュニケーションの緊張感に注目。
●「どんなことでも三人介すると本当らしくなる」という法則に注目。裏事情しかり、遺産の相続しかり。
●きちんとした「曰く」つきの、主人公の心理的死角に注目。その「曰く」は複雑に構成されている必要があるが、その提示は作中で後に延ばされてもいい。
●遡行的同情的想像力=想像力に注目。同情的、というのがポイントだ。「そう、もうこいつは……することはないだろう……。」「そう、これはいかにも彼が考えそうなことだ……。」「あるいは、彼は子供のころから、この日の食卓に子豚が出るのを見慣れていて、この日は子豚はなくてはならぬものだ、と思いこんでしまったのかもしれない。」
●ちゃんと心理学的・無意識的な原因・伏線がロジカルに設計されているということに注目。
●何が起こったのか、どうしてそうなったのか、に関する「手順」の語り口に注目。まずは結果(主な理由)を先行的に要約してから具体的な経緯の詳細を語るのが一般的。なんでもご都合主義的偶然で済まされては困るので。
:「事件」の連鎖に注目
-
●事件が連鎖して起こっていく「きっかけ」「引き金」の連鎖のはちゃめちゃさに注目。実は、つながり方は別に突飛でもいい(「引き金」の効果は間を置いての場合もある)。とにかくまずは繋げることが第一であり、その「事件」が独創的であればあるほどいい。フィクションとして繋げなければならないということは分かっており、あと必要なのはリアリズムよりは個性だ。「ドストエフスキーにプロットがない」と言われるのはそういうことだ。
●とにかく出来事を繋げることが重要だとはいえ、事情の均し(手順の補強)は必要なので、そこに注目。つまり「こうしたことが起こるのも不自然ではない」という状況も一応フィクションながらフォローしていくこと。本当は或ることを書いたり、ないしは或ることを書くのを避けるために偶然を利用しているのだが、その虚構が不自然でないように周到に整備する必要がある。
●事情の補完、ただし、フィクションである以上、どうしても不自然なところ、突っ込みどころができるのは仕方がないと割り切るべし。ということに注目。まあ本当にしっかりやるなら、後説法で過去の手順をじっくり敷衍しなければだめだ。ディエゲーシスを挟む頃合を見計らうのが重要だが。『罪と罰』第一部第六章など。
●とにかく事件を連鎖させようという時の、先説法の利用にも注目(語り手が分離しているからこそできること)。先説法には、「この予告がなければ偶然的で根拠のないものと思われるはずのエピソードを正当化する」効果がある。登場人物による「予告」の場合、無意識のそそのかしという効果も持つ。
●「事件」。すなわち、主人公の自意識を上手に“刺激”する出来事である。そのように虚構されていなければ事件とは言えない。
●プルースト「何事も望んだようには起こらない。恐れたようにも起こらない。」/ジャン・アメリー「すべてが予期していたはずのことでありながら、何一つ予期したとおりには起こらない。現実に投げこまれて、現実の光に目がくらみ身体のしんがほてる。」「まったくのところ、われわれが出来事、つまり現実と面をむかって対面するのは、人生において、ほんのかぎられた瞬間にとどまるのである。」
●そしてもちろん事件の連鎖は、最終的にはインパクトのある(取り返しのつかない)劇的クライマックスに向けて収束していくものだということに注目。
●ドストエフスキーの小説家としての力量に注目。分裂的に共存する人間関係を巧緻に張り巡らした上で、爆発的に事件を連鎖させる。事件においては(自己防衛的に維持されていた)人間関係・立場の配置転換や交替が起こることにも注目。
:情景設計に注目
-
●情景設計とダイアグラム・タイミング合わせに注目。人物の出し入れ、会話の向かう先も含め、情景設計は、その順番でなければならないのだ。タイミング合わせは、年単位で行われることもある(結婚適齢期など)。分単位で行われることもある(長話の終わり目、列車の到着時刻など)。時間単位で行われることもある(「いよいよね! 十一時半か!」)。もちろん最も重要なのは、小説そのものをどの時点・どの切り口から開始するか、である。まじで推理小説なみの計画性が必要。
●行動の導出、思考の導出(行動の変遷、思考の変遷のためのダイヤグラム)に注目。主人公の意識・情動がどのような「手順」で変化することによって、どのような行動化、思考化がなされるか。大抵の場合それが分裂的に構造化されていることにも注目。しかも、主人公にとって「何のために?」が分からないままに行動化・思考化が起こることもあるということに注目。
●ダイアグラムを組む上でかなり長期的な視野が必要とされていることに注目。或る一つの心理的な変化を実現するにも、五個ぐらい伏線を積み重ねないと無理だから。何をどの順番で持ってくるかにはかなり繊細な構成力が要求される。さらに高等な技術としては、その変化・態度変更自体に皮肉を含ませたりすることができる。無邪気な「借金なんていけません!」→「借金してください!」
●情景設計における時間稼ぎにも注目。ダイアグラム・タイミング合わせがあまりにシビアでぎちぎちにならないように、時間幅に余裕を持たせるような情景設計を心掛けたい。「家内のリザヴェータも、おそらく同姓の方とお目にかかりたいことでしょう。……いかがでしょう、もしお時間が許せば、どうかお待ちいただけませんか。」──情景設計からすれば、この“待ち時間”によって何かを起こすことは可能だ。
●ちゃんと一つ一つの情景に構成上の役割が決っていることに注目。アドホックな展開というものはありえない。すべては全体構成から帰納して決ってくる。
●舞台に登場人物を出し入れするために、どのような細部・伏線が利用されているかに注目。とりわけ、或る人が同席しているかいないかで態度が豹変するという契機の利用に注目。(例:リザヴェータやアグラーヤがいなくなってムイシュキンと二人きりになったときのガーニャ。)
●情景への登場人物の出し入れは、とりあえず「たまたまの出入り」でも構わないことに注目。たとえば、『白痴』第一部第八章末尾で、たまたま席を外したムイシュキンは、ナスターシャにいち早く出会う……。あとで事情を補完すべきだが(「公爵は広間を抜けて玄関を目指した。いったん廊下に出て、そこから自分の部屋に行こうとしたのだ」)。空間設計とも密接に関わるね。
●ほとんど演劇的な「情景」「人物」のめまぐるしい変化にも注目。基本的に情景の流れるような転換がうまくいくのは、主人公が何らかの属性によって人々にとって意味のある存在となっていて、中心人物と化しているからである。そのように主人公を造形する必要がある。話の分かる男? 最悪、強引にでも「(主人公の属性の一つである)○○を見るのが好き」といった特徴を主人公を好く側に付与して、「気に入る」関係性を仮構してしまっていい。それが小説世界を多元的に開くために必須なら。
●人物の存在の兆候性に注目。会うべきだったが会わないでいた相手との対峙、噂だけは聞いていたが初めて(久しぶりに)会う相手との対峙、ずっと会うのを避けていた相手との対峙、そうした緊張感ある文脈を作り出せるのは、出会いの以前の段階からふんだんに相手の兆候が振りまかれているからだ。そうした虚構のテクニックを注視せよ。
●情報伝達設計、登場人物間の情報量の違い、そして情景設計においてどの人物とどの人物をぶつけるかということは、密接に絡み合っていることに注目。
●「どんな偶然でも三つ同時に重なると(その帰結は)必然になる」という法則に注目。訴訟事件の解決とゴルシコフの死とマカールの腰痛の発症とワルワーラの結婚と……。或いは、「たまたまガーニャがたまたまその日贈られたナスターシャの肖像画を見ていて、たまたまその場に、ロゴージンとたまたま列車に乗り合わせて、たまたまのレーベジェフの容喙のおかげでたまたまナスターシャの話を知ることのできたムイシュキンが、たまたまガーニャとナスターシャの婚約にとって決定的な意味を持つ今日この日にエパンチン家を訪れて、居合わせていて、たまたまガーニャとエパンチン将軍が今夜の夜会の話題を出した瞬間に、たまたま耳をそばだてていた」という偶然=必然。或る状況を(直接)書くのを避けるために、わざと偶然を起こして利用することもある。
●「どんなストレスでも三つ重なるとクレイジーになる」という法則に注目。ドストエフスキーのダイアグラム・タイミング合わせはまさにこのクレイジーな瞬間=カタストロフを目指している。
●心理分析的ディエゲーシスが、まさにプロットを進めるために不可欠となっている箇所に注目。『永遠の夫』第二章など。とりわけ具体的状況に際しての具体的部分的心理の組み合わせ(しかも特徴的)がプロットに寄与する箇所に注目せよ。『賭博者』第十四章など。「手順」そのものが心理的プロットになっている場合もある。
●主人公の無意識にかかわる偶然の利用法に注目。つまり、たまたま起きる出来事の原因に部分的に(何もあずかり知らない)主人公が加担している、というケース。すると、たまたま確率論的に出来事が重なったというよりは、実は無意識に主人公がそれを望んでいたのではないか、という形で出来事=偶然の発生を印象づけることができる。すなわち、ダイアグラム・タイミング合わせは、主人公の無意識(心理的タイミング!)をも考慮すべきだということ。いわゆる無意識の陰謀、だ。
●心理的タイミングの不意打ち、すなわち主人公の自意識を超えた偶然の介入に注目。『罪と罰』第一部第六章における、斧入手の経緯など。
:伏線にかかわる技術に注目
-
●すべては伏線であることに注目。ドストエフスキーの凄さは、二度目に読んだ場合、すべての叙述が伏線として、後の展開がどうなるかを一挙に予見させるように仕組まれていることだ。この長期的射程、全体論的な伏線設計こそ、小説の最後の武器だ。
●皮肉に作用する伏線に注目。「公爵、おまえさんは女は好きなほうかい?」→後にナスターシャ・フィリポヴナを公爵に取られる。こういう「皮肉」の効果は、二度読まないと分からないが、明らかに作者が意図的に仕掛けている。皮肉効果の伏線設計=皮肉効果の情景設計、でもあるね。
●伏線としての兆候的外貌描写に注目。表情描写の持つ暗示力に注目。外貌描写は、(主人公ないしは語り手の心理的意味に彩られつつ)ほとんど心理分析的ディエゲーシスが形を変えたものである場合がある。例:「ただしこの人物の笑顔は、愛想より雰囲気にもかかわらず、なにかあまりに繊細すぎるものを含んでいた。」(『白痴』第一部第二章)──これなんかもう、過去の事情と以後のストーリー展開についての意味ありげな暗示だな。すべては周到に構想されたこと。
●伏線の中継、並行的な継続ということに注目。この観点からすればすべては必要だから起こる(語られる)のであって、アドホックに起こる(語られる)出来事はない。
●開示された情報がほとんど伏線になっていることに注目。社会的リアリティを補強するための水増し細部というものはない。後の展開のための無駄な要素などない。或る人物だって、後のストーリー展開で或る役割を果たすからこそ、或る職業に就いているんだ。
●細部(小道具・小特徴・小兆候・遡行的小事情)のプロット計画上の必然性に注目。すべての設定にどのような事情の「紐」がついているのかに注目。何気ない事実の記述が、後に起こる重大な出来事の前触れ(兆候的伏線)であったりする──それはその重大な出来事が起こってからまた補完的に再説されることもある。周到!
●逆に言うと、すでに潜在している伏線しか発展させることができないことに注目。だから伏線設計・情景設計の計画性が必要なんだ。計算し切って、周到であって当たり前。一つの伏線が終息しかける頃にはもうすでに別の伏線を浮上させていないと不味い。
●伏線は忘れた頃に利いてくる、ということに注目。伏線は単にリレー的に繋がっていくのではなく、複数の伏線が、それぞれ違った速度で、並行的に進行しながら絡み合う! 将棋でも、その場その場の局面だけで対応してたら負ける。緊密なダイアグラムを組み、曲線的に複数の伏線を同時並行的に進行させタイミングを調整しつつ絡ませろ! 一つの伏線は一つの種のようなものである。たとえば、単に主人公へ情報伝達が行われたとして、そのこと自体は伝達の時点でほとんど何の意味を持たなかったとしても(いかにもついでのようにその情報に触れられただけだったとしても)、主人公がその事実を知っているということが後々重大な意味を持って来る=伏線となることがある。
●伏線の仕込みについては、二つの伏線が繋がっているにも関わらず、初読者には分からない(作者だけが分かっている)というケースもあることに注目。例えば『白痴』第一部第一章でロゴージンの話の中に出て来る、トーツキイが結婚しようとしている「ペテルブルクで一番の美人」というのはアレクサンドラのことなので、その後の第二章の冒頭でエパンチン家について詳しくディエゲーシスが展開されるのはそれ自体伏線の「中継」なのだが、初読者には分からない。その時点でそこまで明かしてくれないのでね。後にはもちろん明らかになるが、二つの伏線が並んだ必然性については事後的にしか分からないわけ。また第二章で言及される「秘書」ことガーニャの役回りを考えればこれもまた伏線なのだが、初読者には分からない。いわゆる、「まだ出てきていない登場人物についての伏線」が、第一章のロゴージンの話の中にはたっぷり仕込まれていたのだ。(だがロゴージンはすべてを語ったのではないし、またロゴージンもすべてを知っているわけではないということ。すべてを知っているのは作者だけだ。)
●射程の長い伏線に注目。二歩も三歩も先を見て仕込まれる伏線というものがあるのだ(或る一つの心理的な変化を実現するにも、五個ぐらい伏線を積み重ねないと無理だから)。まだ登場していない人物に関する出来事の伏線がすでに張られていることもある!──『白痴』第一部ではそれが普通だ。四、五章程度先の伏線を張るなんてことも珍しくない、しかもさりげなく! アドホックには不可能。射程が長いってことは、つまり遥かに前の段階で伏線が言及されているということだね。
●その状況を実現させた「手順」が不明である場合、その状況そのものがすでに伏線であるということに注目。たとえばロゴージンがペテルブルクへの列車に乗っているのは何故か? それが開示されないうちは、ロゴージンの存在そのものが伏線である。同様に、背景の事情が(遡行的に)明かされることのないまま展開される会話のやり取りも、それ自体伏線である。「まさか君は……」「私は大丈夫です」──何の話?(トーツキイ/ナスターシャ/ガーニャの関係性) この技法は小説特有のもので、語り手が介在しない分、難しい。
●仕掛けられた伏線はすべて消化されなければならない、ということを踏まえた上で、全伏線が消化される前と後での「引き返すことのできない」変化の構想に注目。たとえば『賭博者』では、おばあちゃまがすってんてんになり、わたしがポリーナに手紙を書き、将軍がブランシュ嬢に袖にされ、デ・グリューが立ち去り、デ・グリューがポリーナに最後通牒を突き付け、わたしがポリーナのために二十万フランを賭けで勝ち、それをポリーナが受け取らず……という伏線の組み合わせの結果、なんとわたしがブランシュと一緒にパリに赴くことになるのである!
●人物の存在の兆候性に注目。会うべきだったが会わないでいた相手との対峙、噂だけは聞いていたが初めて(久しぶりに)会う相手との対峙、ずっと会うのを避けていた相手との対峙、そうした緊張感ある文脈を作り出せるのは、出会いの以前の段階からふんだんに相手の兆候が振りまかれているからだ。そうした虚構のテクニックを注視せよ。
●人格的・性格的伏線というものに注目。劇的クライマックスの細かい手順の噛み合わせで利いて来る。
:空間設計に注目
-
●ほとんど解剖学的な空間設計に注目。特に部屋についての論理的描写。法廷的議論的描写? 大抵は、その人物の部屋というのは、その人物の衣服と同じように当人に相応しいものだ。何故なら心理的空間だから。
●場所性の設計がほとんど「移動しながらの情景法(のための空間経路)」にゆだねられている点に注目。『白夜』など、散歩している間に見えたものの描写のみで舞台となっている場所についての記述は済ませて、あと重要になるのは人物のみ。社会学的視点は要らない。
●当然空間設計は情景設計と裏合わせであることに注目。
:会話・振舞い設計に注目
-
●会話の流れの計画的なつくりに注目。あたかも即興で生成されていくようで、必要な内容を語っている無作為の作為という計画性。会話設計。会話は単に代わる代わるな科白の羅列ではない。会話には必ずその向かう先(話題の転換先)、その流れによって照明される対象、というものがある。例えばその場にいるのだがそれまでずっと喋らずに照明が当たらずにいた重要人物に、突然「頼み事」が言い渡され、それによってその人物が前景化したり。その後のストーリー展開のもっとも重要な場面の引き金が引かれたり──「ところで閣下、本日の夜会の件」。これ、自然にやるのは難しいけれどね、語り手の柔軟性にも頼れないから。小説に特有の技術が必要だ。
●あからさまでもいいのだ、とにかくそれ以降の内容を可能にする呼び水的・撒き餌的「科白」にも注目。「是非聞かせてください!」と言わせれば、喋らさせずにはいられないだろう。そういう計画性もあり。即興的対話なんて糞喰らえ。
●劇的クライマックスにおける、科白・心理・振舞いの細かな“手順”の組み立てに注目。パニックに陥っているときこそ(パニックに陥らせるためにこそ)細かい手順の一つ一つがくっきり印象されるので、疎かにできない。また、そこには当然登場人物各々の人格の一貫性も関わってくる。(ということは、人格的伏線というものも重要なのだ。)
:情報開示設計に注目
-
●情報開示設計に注目。一人称の語りの場合、「わたし」にとって不明な点は他者から情報が与えられる(質問に対しての答えという形式が一番オーソドックス──もちろん語り手は最初から全貌を把握している)。「わたし」にとって自明な点は流れの中で示される(その場合でも他者の口が用いられることがある)。登場人物の誰にとっても自明なことを開示するには、流石に「語り手」に登場願うか、あるいは情景設計に一工夫必要。また、読者にとって既に自明なことは、要約法ではしょるのが自然。あと、別に何故を掘り下げる必要のないフィクショナルな設定についてはさっさと開示してしまっていい。
●情報開示のための霊感的細部の工夫に注目。これは情景設計とも重なるが、主人公の感情や、現在状況を読者に伝えるために或る細部を仮構するだけで十分なことがある。たとえば『貧しき人びと』冒頭における、「窓のカーテンの隅をまくっておく」という細部。これはマカールの部屋とワルワーラの部屋が中庭を挟んで窓を向かい合わせていることを伝えると同時に、マカールがどうやら片思い的にワルワーラを愛しているらしいことも伝える。しかもその事実がすでに、「わたしがこんな部屋を借りたからといって、わたしについて妙に勘ぐったり、疑ったりしないでくださいよ。これは便利のためにしたことで、便利さという点だけに誘惑されたのですから」という言葉に含まれている否認・二重性を暗示する! まあ、とにかく語り手が介在しない情報開示は滅茶苦茶難しい。
●情報開示・情報伝達は一度で達成されるのではなく、「徐々に分かってくる」という風に漸進的な場合もあるので注目。高度な構想力が要求される。
:情報伝達設計に注目
-
●情報伝達設計に注目。今まで「情報」というと読者に対する開示ということしか考えてこなかったが、プロットを推移させる手順を考えた場合、登場人物から登場人物へ伝わる情報というのもまた設計の対象になるのか。テクスト上でそれが(要約されず)行われればどのみち読者には伝わるし……。情報の伝達は、聞くともなしに聞いてしまったプライヴェートな会話という形でなされることもある──そういう情報は、決定的に人物たちを結びつける。情報的引力。
●登場人物に与えられている情報量の違いに注目。これは小説の初期には非常に重要である。情報量の差異が、「……を知っているか?」という問いを生み、人と人とを結びつけ得るからだ(「ではこれがナスターシャ・フィリポヴナですか?」「いったいあなたはもうナスターシャ・フィリポヴナのこともご存知なのですか?」)。情報的引力。というか他人との会話のきっかけなんて、ほとんどが知らない情報の交換だろう。いきなり深刻な感情問題なんかに入り込むことはない。そして、主人公は大抵多くを知らないよう設定されることに注目。また、レーベジェフのような事情通が一人いると、小説の初期に非常にスムースに新情報=伏線を引き出すことができることに注目。
●つまり情報伝達設計、登場人物間の情報量の違い、そして情景設計においてどの人物とどの人物をぶつけるかということは、密接に絡み合っていることに注目。
●ちなみに、語り手による説明的ディエゲーシスを主人公は聞いていない(主人公のあずかり知らない情報の開示)こともあり得るので、注目。読者に開示したからといって、主人公に伝達されているとは限らない。まあ、既に知っている場合が多々だが。
●情報を持っている、すなわち「手順」を細かく具体的に知っているということでもあることに注目。また、詳しい情報を得ているということについても「手順」がなければ不自然である(だからそこまで虚構しなければならない)。「レーベジェフは知っております!(Why?)」──情報伝達の経緯自体がまた情報であるということ。
●何が起こったのか、どうしてそうなったのか、に関する「手順」の語り口に注目。まずは結果(主な理由)を先行的に要約してから具体的な経緯の詳細を語るのが一般的。なんでもご都合主義的偶然で済まされては困るので。
●もちろん、主人公が情報伝達上重要な役割を担う場合、読者の了解も順調に進むことに注目。
●情報開示・情報伝達は一度で達成されるのではなく、「徐々に分かってくる」という風に漸進的な場合もあるので注目。
:「章」単位の構成力に注目
-
●第一章の内容、工夫に注目。掴みは重要。何でもそうだろ?
●第一章→第二章という章から章の中でどのような状況の(引き返しのつかない)変化が起こったか、それは設計の段階で最初から計算されているだろうということに注目。しかし、その具体的・心理的な手順の設計は、決して単線的でないということに気をつけよう。とてもじゃないがその変化は一行で要約できるようなものではないし、複数の変化が同時並行的に込められているはずだからだ。
●しかも章から章への変化の設計は、かなり長い射程を持っていなければ駄目だ。ということに注目。例えば『白痴』第一部、第九章で公爵が初めてナスターシャと出会うためには、公爵がガーニャの下宿に泊ることが決らなければならないが、その決定=変化は第三章で起こるのである。この変化の設計の射程は、直線的でも段階的でもない、飛躍的。
●章と章(一章30〜40枚程度)のつなぎ方にも注目。或る章の末尾のところで、次の章のテーマを先走って語り始めたり。次の章の始まりを前の章の末尾にズラす技巧などは、短期的な伏線の効果と言えるか。
●無時間的でない「語り手」の説明的ディエゲーシスに注目。これは、ディエゲーシスが情景法に挟まれてるからそういう風な効果になるというのが基本。例えば『白痴』第一部第二章の説明的ディエゲーシスは、ムイシュキンがエパンチン屋敷に着くまでの時間を利用して語られる記述となっている(そして「公爵が将軍の家の玄関ベルを鳴らしたのは、もうかれこれ十一時近い頃だった」で、現前的場面に引き戻す)。或いは、無時間的なディエゲーシスをそのまま取り入れるには、章始め、部始め、ともかくプロットが一段落したときでないと無理だということか。
●ドストエフスキーの改行の上手さにも注目。というか省略法と絡んでの一行段落の扱い方が上手い。
:主人公の造型に注目
-
●かっとなりやすい、傷つき易い主人公への感情移入可能性に注目。主人公が傷つかないかどうか、読者をして心配してハラハラさせるように出来ていれば成功だ。主人公が周囲の人間の配慮によって面目丸つぶれになるのを回避できて読者がほっと安心するなら成功だ。それは自己防衛的で鈍感な人物を主人公に据えては不可能である。
●自己防衛的でない主人公像はまた、何らかの意味で干渉好きであることに注目。ラスコーリニコフでさえも。内気で自己防衛的な男はそのように他者と関わることは決してない。情動的引力とも無縁だ。そんな男は主人公に相応しくない。
●また、選択の自由にやたらこだわる人間、前向きな未来ばかりを好む人間、つねに自分に選択の余地があると思い込んでいる人間にも魅力がないことに注目。そんな奴はせいぜい脇役しかつとまらない。主人公たるキャラクターは、逆に、自分の運命を自ら引き受け、同時にその運命に反抗を企てるような人間であるだろう。究極的には、被差別という状況を自ら望んだもののように能動的に引き受ける「成熟」すらあり得るのだ。
●「救いようのない奴」という人物類型に注目。彼は永遠に等身大の人間である。社会的経済的な制度や規則、階層、階級、家庭状況、年齢、それらはすべて彼にとってたまたま置かれている状況にすぎない。彼の人格は、実人生上の目的、その生きる場所によって限定されない。救いようのない奴らが結びうる関係の範囲、彼らが当事者となり得る事件の範囲は、彼らの性格によっても社会によってもあらかじめ定義されない。だからこそ彼らは試練としての「異常で思いがけないシチュエーション」を実現させる。一種の愚かしい子供っぽさ? 火薬のような爆発しやすさ?
●ほとんど演劇的な「情景」「人物」のめまぐるしい変化にも注目。基本的に情景の流れるような転換がうまくいくのは、主人公が何らかの属性によって人々にとって意味のある存在となっていて、中心人物と化しているからである。そのように主人公を造形する必要がある。話の分かる男? 最悪、強引にでも「(主人公の属性の一つである)○○を見るのが好き」といった特徴を主人公を好く側に付与して、「気に入る」関係性を仮構してしまっていい。それが小説世界を多元的に開くために必須なら。
●金銭が自意識の延長として用いられている箇所に注目。貨幣とは、現実を抑圧する自意識の延長である。われわれは貨幣を溜め込むことによって自分の罪悪感を覆い隠す。さらに言えば、貨幣を失って丸裸になることで、われわれの恥はさらけ出される。これは衣服を失う恥ずかしさと等価である。そして、基本的には裸になることを極度に恐れない人間の方が、魅力的である(内気で、根暗でない。傷つくことを恐れて自己防衛に走らない。また本質的な教養がある)。
●登場人物間の金銭の受け渡しに注目。金銭を恬淡に与えることの人物は、魅力的である。
:主人公の自意識=饒舌に注目
-
●必ず現実とズレてしまう、というよりその差分を不安として抱え込む主人公の自意識=饒舌に注目。言葉は常に真実と一致しない。自らを自分の言葉で騙している? だが、饒舌のないところに人間関係(好悪)もない!
●しかし饒舌だけでは印象の強い作品にはならない(結局は『貧しき人びと』のインパクトは限定的)、印象づけるには『罪と罰』の殺人、『賭博者』の賭博、『白痴』のナスターシャ夜会、『カラマゾフの兄弟』の会合、といった劇的クライマックスが不可欠なので、そこに注目。その他、作品の衝撃を限定的・一時的なものにしないためには──時代の深淵に触れるような生々しい暴力性が不可欠だ。
●なぜ饒舌だけでは印象の強い作品にはならないかというと、大抵の場合饒舌は傷つかないための自己防衛として発揮されるからであるが、そこを超えて自らの内密性を曝け出す「分裂的饒舌」というものもあるので、注目。やはり『未成年』は凄い。また、ルバテ的な「攻撃的饒舌」というものもある。
●分裂的饒舌に注目。二つの矛盾し合うメッセージの同居によって起こるのだが、大抵本人はその矛盾に気づいていない。というよりうすうす気づいていながらはっきりと意識することができない──つまり突き詰めて葛藤を引き受けて内省することができない──ために、「フェードラはきみのことをとても心配しているんでしょう」「いや、フェードラの言い草では、大きな幸福がきみを待っているそうですが……あれは鼻っ柱ばかり強い女で、このわたしを破滅させようとしているんです」という正反対のメッセージが一つの手紙の中で同居するのだ。ちなみに、それぞれのメッセージは、それぞれの意味レベル=認識の枠組み=世界観を持っていると言ってよい。大抵片方は通俗的で良識的だ。
●対話的内省の情景法の文体にも注目。疑問符を多用し、あたかも誰かを前にしているかのような語りになっているはず。また、内省すればするほど分からないことが増えてくる(何が謎であるかがはっきりしてくる)のが一般的である。この疑問符は感情値を持っている。あらかじめ決っている答えを導くためのポーズの「?」ではない。
●無時間的でないと言えば、対話的内省のミメーシスはほとんど移動しながらの情景法と重なっていることに注目。
●無意識の陰謀に注目。対話的内省のミメーシスにおいても、主人公自身が自分の語ることを聞きたいタイプの声ではなく、無意識の呻吟というものがある。『永遠の夫』第十三章参照。「リーザは? リーザは?」
●単なる饒舌ではない、「不安を埋めるための饒舌」に注目。それはモノフォニックな文体と一線を画す。老いてますます盛んな、不安な、執拗な饒舌家。
●「恥」という情動に注目。引き受けることのできない他性=恥。人は「恥ずかしさのあまり死んでしまう」こともある! 恥ずかしさこそ、あらゆる主体性とあらゆる自意識の隠れた構造である。心理的分裂を生成する。(フロイトが自意識の構造としたのは「罪」だったが。)
:語り手の審級に注目
-
●ドストエフスキーの詩学に注目。というのは、端的に言って、「語っているのはジェーヴシキンであって作者ではないということ、ジェーヴシキンはああいう語り方しかできないのだということ」の仮構の謂いだ──もちろんこれは文体の問題ではなく、認識の問題である!
●主人公から分離される語り手の審級に注目。語り手が用いられるのは、主人公の直接的知覚・知識・情報・通念の範囲を超える内容・伏線展開を作品にもたらすため。作者が主人公の自意識にミスリードを仕掛けるということさえ可能になる。社会的現実を取材すればリアリティがでるというものでもない、たとえば語り手の位相によって作品世界に「ズレ」を生むことも小説的リアリティの源泉だ。語り手は主人公の認識の偏りを、誤読を、中立的に見抜いている(それを記述するために心理分析的ディエゲーシスが用いられる)。主人公が自分の感情の原因に気付いていないということさえ(わざと)間接的に描くことができる、語り手の立場からは。
●語り手の審級の時間に注目。特に挿入的なタイプについて。これは後置的なタイプよりも物語内容と語りの時間が近接していて、軽度の時間的ズレ=「今日の私の身にこんなことが起こった」と、絶対的同時性=「それについて今夜の私はこんなふうに考えている」とを合わせ持つようになっている。あるいは、「その時は知らなかったのだが、後で聞いたところによると……」などといった言い回しも典型的。現前的な場面にいきなり「いまでも覚えているが……」と回顧的文言が入ったりするのもこれによる。また、『賭博者』の語り手の審級は、挿入的なタイプの時間性を帯びているが、これによってたとえば第十三章ではパラレルな「補完的内的後説法」が可能となっている。つまり錯時法の多彩化が。
●挿入的なタイプの語り手の審級の時間が、テクニックとして重要な先説法も可能にしていることに注目。
●主人公と区別されつつ、ほとんど分身的に主人公に寄り添う幻想的な語り手の位置づけに注目。饒舌の自己回転に亀裂を入れるのは語り手だ。
●主人公の「誤解」「誤読」に注目。語り手と主人公が分離しているために、心理的プロットのために主人公の自意識に作者がミスリードを仕掛けるということも可能になっている。主人公は何を敢えて誤読しようとしているのか?
●“言葉の嘘”に注目。「人間は何がなんでも罪を犯そうとする動物ではなく、罪を糊塗するためなら自意識的に何でもしようとする動物だ」。語り手と主人公が分離している小説でなければ、罪=現実が抑圧されている事態を全体的に撃つことはできない。純粋知覚は必要ない。
●あたかも語り手から主人公へマイクを受け渡すかのような、焦点化のスイッチングに注目。ちなみに、心理分析的ディエゲーシス(ないしは要約法的ディエゲーシス)は語り手に、対話的内省の情景法は主人公に属する。それらのサンドイッチ、律動効果が小説の文体である。対話的内省でなく、現前的な会話の情景法へのスイッチングの場合は、マイクの受け渡しというよりもICレコーダーのスイッチのオン/オフに近くなる。ICレコーダーのスイッチをオンにすると情景法の会話がミメーシスで記録されるというわけ。また、語り手(情況分析的ディエゲーシス)と主人公(対話的内省のミメーシス)が共に一つのマイクを握っているように協働して語る、というパターンもある。『賭博者』第十一章など。
●心理分析的ディエゲーシスと、対話的内省のミメーシスの「矛盾-葛藤」に注目。対話的内省のミメーシスの方が無意識と自意識の影響を受け易いので、心理分析的な記述の正確さを裏切って情動を迸らせることがある。この「矛盾-葛藤」がただ主人公の言葉の中でのみ生じると、マカール・ジェーヴシキン的な分裂的饒舌となる。
:対話的に浸透してくる他者に注目
-
●客体的な「他人」ではなく、つねに対話的・解釈学的に浸透してくる「他者」に注目。そのような他者に対して主人公の自意識(=饒舌)は応答し、摘発し、承認し、愚弄し、否定し、暴き立て、またその過敏な接触によって、主人公は自分自身に対しても自分の正体(無意識)を曝け出す。「対話的内省の情景法」の利用もここに関わってくる。饒舌のないところに人間関係(好悪)はない!
●他者から言われたことに「まごつく」人間は、やはり他者の言葉を求める、という契機に注目。まごつかないほど鈍感な人間では主人公になれない。つまり他者に引っかきまわされることのない人間は。まごつけ! うろたえろ!
●「裏切り」というエレメントに注目。あまりにも致命的な裏切り(交替)は人間を分裂させてしまう。許すのか?/許さないのか?──両方の感情が同居する。また、裏切りの事実そのものが、外傷的なので、抑圧されることもある。「裏切り」と「皮剥ぎ」の近接性。裏切りとは、また「辱められる」ことでもある。
:否認のコミュニケーションに注目
-
●全貌の見えないコミュニケーションの緊張感に注目。
●会話場面において、両者が口に出して言わないのに理解し合っている事柄があるということ=無意識の連結に、注目。自意識では理解していない(誤解している)のに無意識では理解しているという事柄がある。
●会話場面において、「否認のコミュニケーション」に注目。実際には、否認すればするほど、否定したメッセージは無意識を介して強力に伝わってしまう(言うまでもなく、読者にも)。また、否認があからさまになればなるほど、振る舞いは真の感情とは逆ベクトルを向くのだろうか。悲しみ・怒り→楽しげ・喜び。激しい悪意→深い沈着さ。
●「否認のコミュニケーション」においては、相手の複数的・分裂的な声をあえて見ないでその一面・表面だけに単声化して読むということが起こる(そう作者が虚構している!)ことにも注目。わざと気づかない振りをすることも。実質、否認のコミュニケーションの現場では複数の声、複数の感情が行き来する。われわれはしばしばそれを事後的に平板に解釈してしまうが……。
●「否認のコミュニケーション」において、否認が破れて思わず素朴な言葉が出てしまう瞬間にも注目。ついには相手の否認を非難するような決定的な言葉を漏らす瞬間にも注目。これぞ小説的瞬間。
●「否認のコミュニケーション」からの派生で言えば、登場人物における、科白と態度の不一致にも注目。たとえば相手を見てにやりと嘲りの微笑を浮かべながら、「あなたは高潔な人柄ですね」と言うなど。登場人物の心理と振舞いを平面化せず、ダブルバインド状況も視野に入れること。馬鹿の一つ覚えの「誠実」じゃ意味がない。
●「貧しい同意のコミュニケーション」というのにも注目。言葉の上辺では同意している──「ご自分の胸でよくよくお考えになってください」「わたしはよく考えてみました、よく考えてみましたとも」──が、実質的に相手のメッセージを表面的にしか理解できていないケース。知性において受動的なキャラクターにおいて起こる。
●そもそも「いやちがいます」という否定の言辞の効果に注目。大抵そこでは現実の抑圧が働いている。また、本人がやけに自信満々に語っているところには、大抵認識の限界か共感力の限界がある。
●端的に相手に拒絶されることも肯定されることも回避する、それ自体が間接的な「ほのめかしコミュニケーション」の存在に注目。当然、誤読も生まれ易いコミュニケーション形態。
:意味レベルの位相差に注目
-
●意味レベルの位相差がどのように構造化(精密に制御)されているかにも注目。どの立場も、どの面目も、読者には納得可能でなければならない(その上で、どの意味レベルが正しいか──ワルワーラ>マカール、ナスターシャ>トーツキイ──も納得可能でなければならない、とはいえ肩入れが露骨だと結局意味レベルは平面化してしまう)。これはやはり、登場人物にセットされている認識の限界や共感力の限界が基盤になっている。そして、作品がそこで成立している意味レベルは、たった一人の登場人物の自意識・饒舌を追っているだけでは決して分からないことに注意!(一個人の饒舌の中にはその意味レベルのすべては書き込まれていない。) 対話・交渉・対決、を発生させなければならない。或いは単に「併置・共存」させるだけでもいい。
●意味レベルの正しさとは? 人物Aの解釈を弁証法的に人物Bの解釈が上回った場合、人物Bの意味レベルがより正しいとされる。という法則に注目。解釈学的小説。
●世間の噂、という意味レベルに注目(「人の話によれば……」)。大抵間違っていて、「良識的」で、低俗である。とはいえ、情報開示や情報伝達の役割を担うこともある。
●「俗でさえある通念や観察」から発している記述に注目。
:登場人物たちの分裂的共在に注目
-
●小説内出来事における登場人物たちの「共在性」に注目。一人の人物の内面的葛藤をひたすら掘り下げるよりも、その諸矛盾を複数の分身的人物へ割り振って全員を同時並列的に出会わせる方法論の方が小説としては正しい。段階的な成熟といったものはまったくつまらない(アンチ成長物語)。登場人物たちに分裂してなりきること……。社会的通念、思惑、性格、自尊心、羞恥心(のズレ)の四者四様といった状況も、実際には諸矛盾の分散である。それだけの豊かな心理を作者は持たなければならないということだ(逆に言えば、登場人物の描き分けをそれぞれの単一の個性としてしか造形できない作家は、心理が貧しいわけだ)。
●登場人物たちの共在性が、「ミスコミュニケーション」をもたらすことに注目。対話が円滑に成り立っていることがポリフォニーなのではなく、各々が自分の関心事ばかりにかまけてそれのみを相手に語りたがっていることこそがポリフォニーか。そして、「(相手の兆候的態度に)気づかないこと」、これもミスコミュニケーションの端緒だ。
●登場人物にセットされている自意識・認識の限界、共感力の限界、知識の欠如、通念に注目。この「通念」は一個人に対する偏見・先入見としても機能し得る。また、「羞恥心(気位・名誉心・意地・何を気にし過ぎるか)」の偏り、というものも登場人物の個性を形づくる。とんでもないような行動化は、或る種の欠如からしか生まれてこない。こうした欠如をセットして、四者四様の状況を作り出すことが可能なのは、「語り手」の柔軟性のおかげである(作者の心理的豊富さも必要である)。また、それら個々を単一として見るのでなく、複数の併置・共存として把握せよ。
●登場人物の欠如、とりわけ、本来なら強者の立場にある人間が何かを極端に恐れたり、弱みを持っていたり、といった偏りの個性を付されることでカーニヴァル的な奪冠のチャンス、四者四様の分裂的共存が可能になることに注目。やっぱり、厳しい男でもどこか「愚かしい子供のごとき」ところがあるようでなければ。例:エパンチン将軍
:登場人物たちを結び付ける解釈学的引力・情動的引力に注目
-
●登場人物の四者四様の共在性の結果、通念VS通念、誤解VS誤解、饒舌VS饒舌、言い訳VS非難の局面が見られることに注目。解釈学的引力。まさに「誤解の設計」によってモノローグ的コミュニケーションが打破される。「カーテンのことはあたくし気がつきませんでした。きっと、鉢を置きかえたときに、ひとりでにまくれたんでしょう、お気の毒さま!」 ちなみに、誤解を解くためには相手に疑問を投げかけなければならない(「何故ですの?」)わけで、「誤解」はまた人々を結びつける端緒であるのだ。まあ双方に高度な言語能力が必要とされるが。異なる解釈がぶつかり合う時も、やはり「何故そんなことを考えるのですか?」と疑問を投げかけることになるから、人々を結びつける端緒である。そこから出発せよ!
●「救いようのない奴ら」の間で発生する特有の情動的引力に注目。彼らは自分と同じく救いようのない奴と、階級や階層や家族関係や社会状況を離れて関係を結ぶことができる──知り合いになることができる。その場合性格の違いはほとんど問題にならない。高潔で救いようのない奴もいれば、傲慢な救いようのない奴もいる。
●救いようのない奴らの間で発生する情動的引力には、外貌描写(によって予告される性格)も決定的な役割を果たすことに注目。
文体分析のためのメモ
-
感覚に定位するのではなく感情に定位すること。
感情に定位する──もっと言えば、感情の変化に定位する。心理的プロット(“手順”)の骨格はそれだからだ。
ドストエフスキーにおいては、人間が“無-心理”のまま行為したり行動したりすることはあり得ない。
ドストエフスキーは具体的な人間のいない「場所」そのものには何の興味も持っていない。歴史的な伝統も、社会学的な人口統計も抽象的すぎてドストエフスキーの視野には入らない。この男が興味があるのはただ人間、その場所に備え付けられているかのように具体的な人間である。
「純粋知覚」など要らない。自意識=言葉=感情的存在としての人間、そのリアリティ。
或る事件について、“全貌を知り得ない”ということがエセーを書く本質的動機であるか。
目標は「老いて益々不安な、益々執拗な分析家」だ。この難解さ、一筋縄ではいかない手応えこそ、散文家の精髄だ。人生そのものの難解さ。それを忘れるな。
全貌を確定できない言葉=他者と出会った時に、都合良く自己中心的に片付けることのできない事象に見舞われた時に、心理の分裂と内省が始まる、強制的に。
ドストエフスキーの「?」=疑問符は、全貌が見えないからこその本質的なものである。
ドストエフスキーが持っている日常生活から逸脱させるような文体感覚は、他者に強いられての心理の動き=心理分析を前面に持って来ているからこそか。それは夢の中での他者との交渉に似ているか。現実以上に機知に富んでいて、しかも現実以上に複雑でロジカルであったりする。
心に感じ取られる真実を再生する文体ではない。心に感じ取られる“問い”を展開する文体、読者の同意・不同意・異和を意識しつつ。
“問い”の起点は、言葉と現実が一致していると思い込んで自意識に安住しないこと。
エセーにおいては、或る“誤解”を示して、それに対する別の解釈を心理解釈学的に提起するという構成。事実(エビデンス)からではなく誤解から出発すること。もちろんこの解釈は“人世”にまつわるものだ、ドストエフスキーにおいては。
解釈の決め手になるのは、人間心理に対する豊かな“想像力”、豊かな解釈学的推測。具体的な細部の“手順”を突き詰めて考えれば、新聞記事でからでさえ多くのことが想像=創造できるだろう。
想像力は、自分に都合良く陽性転移・陰性転移するための偏見強化に用いられるのでは不毛だが、他者の“被害”について感度を高めるために用いられるなら賢明だ。
ポーズだけの解釈では意味がない。苦しみながら徴候の読解を強制されることが必須。それはつまり、心理的分裂(罪、ないしは外傷的現実の抑圧)という思索のトリガーが端緒にあるということ。
別の解釈を提示する、というのは常に通念との対決だ。
誤解? すなわち、他者との関係性・事態を自分に都合良く了解すること。願望思考。ないしは性急な一般化。
「対決」において、しばしば対話は対話というよりは「交渉」に近似する。
一人の人間の内面的な諸矛盾もまた、空間相において、二つの解釈として同時並列的に出会う。
同じ「気立ての優しさ」という言葉であっても、実際用いられた時の文脈に沿って意味内容が異なってくる。それは背反するものにもなり得る。
我々人間は自分を脅かす存在に対し饒舌によって戦おうとする傾向がある。つまり饒舌のないところには愛憎もない。他者に惹きつけられ他者を憎むという心理的分裂が生じるには、通念=饒舌を引っかき回さねばならない。
「騙されている」というのはまんまと騙されているわけではなく、自分で自分を騙している側面もある。
“辱められ”、“裏切られ”もまた外傷的現実であり、抑圧されることがある。
何故ドストエフスキーの描写は要素の寄せ集めになっておらず、身体的なリズムがあるのか。
精緻な心理分析を常にまつわりつかせることで描写のリアリティを確保する。人物描写においても、場所(ちなみに「街」「土地」より「部屋」を重視せよ)、習俗、社会環境の描写においても、心理分析をまつわりつかせる、“同情的”に(感傷的に、ではない)。
+αで、シャーロック・ホームズ的な観察・推理能力も必須。例えば、ブイコフの振舞いと台詞といった“手掛かり”からだけでも伝わる、ブイコフの人格(の限界)。ブイコフ自身の自認と現実の振舞いとのズレまでも描写し尽くす。それを再現可能にする作者=ドストエフスキーの観察眼・戦略性。セリーヌのように嫌悪を剥き出しにする必要はない。ただブイコフの言動を正確に冷静に観察しつづけるだけで、ブイコフの嫌らしさを完璧に表現できるのだ。
ドストエフスキーの「描写」「記述」は単なる文飾ではない。人間の自意識による上書きと、上書きされる前の真実の姿との二重性が響く「描写」。解釈の複数性、真理のレベルの多層性に常に開かれている。“決定不能性”。それを描写可能にする精緻な観察眼を持っている。具体的、あまりに具体的な。
他者の(自覚していないという意味での)無意識の把捉・分析・観照。
現実は常に糊塗と偏見で二重化されている。
《このことを肯定せざるを得ない》《このことを否定したい》という決定不能性。その究極の形が、“打ち消し分裂文体”。分裂的に凝縮された心理。文体そのものもリアルタイムに分裂する……!
或る対象を記述する時、その“表情”を個性的に描き出せるかどうかに定位せよ。すなわち記述対象の“顔貌化”、“解剖学化”。
ドストエフスキー文体の突出した特徴A。自分の言葉に対する同意・不同意・異和・疑問を折り込みながら進んでいく文体。「私はいつも何だか彼が可哀想でたまらなかった。彼を見さえすれば、私はかならずこういう気持をおぼえたが、何故可哀想かと訊かれたら──自分でも返事に困っただろう。」
ドストエフスキー文体の突出した特徴B。「……を想像してみるといい。」読者への命令的な呼び掛け。「それがどれほど囚人たちを驚かしたかを見逃してはならない。」「しかし虚栄心も忘れてはならない。悪罵の達者な男は尊敬されていた。」
ドストエフスキー文体の突出した特徴C。“想像的仮定”による思考。「さて今度は、かりに当の犯罪人が「お前さんは不幸な男だ」という言葉を民衆が口にするのを聞いて、自分は犯罪人ではなく、単に不幸な人間と見なすようになったとしたらどうであろう。そのときこそ民衆はこのような誤った解釈に背を向けて、それを民衆の真理と信仰に対する裏切り行為と呼ぶに相違ないのだ。」「……したとしたら、いったいどうなることになるだろう。それでも民衆はこの男のことを「不幸な人間と呼ぶだろうか!/あるいは、そう呼ぶかもしれない。……」
「もし明日まるで正反対のことをせよと命じられたら、彼は前日に反対のことをしたのとまったく同じく、きわめて従順に、しかも入念にそれを実行するにちがいない。」想像的仮定による人格描写の敷衍。徹底している。
“要約法”を上手く用いること。エセーにおいても。上手くはしょること。
心理分析的ディエゲーシスと要約法のコンビは極めて有効なパターン。そんな時こそムード・アスペクト・副詞節・文修飾句の有効利用だ。
情景法的記述においては、「最初に大掴み、次に詳しく」という基本を守ろう。
情景法は常に移動しながら(五官・感情に入ってくる順番に)。ドストエフスキーにおいて「静観」ということはない。
順を追って、五官に入ってくる順番に、入り口から出口まで──流れるような叙述を心掛ける。心理分析的ディエゲーシスにおいても、顔貌描写においても。基本中の基本。(中井久夫──「ものの成り行きや仕事の手順は読んで目に浮ぶ順、頭の中で組み立てられる順、極言すればビデオに撮れるように。」)
自意識的・対話的な記述の流れに上手く事実を溶け込ませること。──饒舌の流れの中に。
何でもさっさと情報を与えるのではなく、情報開示の“魅せ方”を工夫せよ。まだ登場していない人物に関する出来事の伏線を張ることだって可能なのだ。
解釈の複数性、真理のレベルが多層的であることを利用した“ミスリード”も有効。
プロットというより、ダイアグラム。
情景設計の周到さ=エセー設計の周到さ? 状況の多層的・高密度の記述を実現せよ。
「一人の人間の行動が或る人間関係の中で連鎖的に事情の縺れを惹き起こして、最終的にすべてがひっくり返るようなカタストロフに至る」という事態への敏感な観察眼。小説家的。
騙し、騙されている人間関係を巧緻に張りめぐらした上で、爆発的に事件を連鎖させる。それができれば小説家としての力量の証明になるだろう。
延々と段落が繋がっていく叙述において興味を惹き付けるには、先説法を襞のように折り込み、段落冒頭で(その段落全体の内容を予告)、段落末尾で(次の段落の内容を予告)、あるいは数段落に跨がった予告をするといった具合の工夫が必須。複数のモティーフを同時並行的に進めて交互に記述する、そしてそれらを最終的に絡め合わせるといった戦略も有効。さらには「しかし」「ところが」の裏切り逆接で繋がる二段落構成を用意することも有効。
すなわち、直線的でない曲線的な工夫が事前に必須。
脱線はあってもいいが、綺麗にフォローすること。
法廷的コミュニケーション。相手の言っていることに真正面から反駁するのではなく、単に相手の言っていることとは別の事実を提示することによって、暗に不同意を示すこと。そういう形でのコミュニケーションもある。
対話的に浸透してくる他者と対決するには、それしかない。