(※以下は一参加者が四日間のうちに取った殴り書きのメモの書き起こしに過ぎません。当然ながら広田淳一さんの発言の正確な再現ではなく、文言を勝手に補っているところもあります。)
:【全般】
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演劇における基本的な人間関係。舞台上でわれわれはいきなりビンタしたり、キスしたり、罵り合ったり、抱き合ったり、と普通の「初めまして」の間柄だったら絶対にできないことをやることになる。通常の場合、初対面ならわれわれは相手に自分の非常識な逸脱した部分は見せないでかかわっていくことになる。「自分にはおかしなところはありません」ということをアピールして相手に安心感を与えるところから関係がはじまる。だが、演劇をやるためにはその安心感にとどまってはいられないのだ。相手がどんな異常なことをやっても、相手がどんなに自分と気が合わなくても、多少のミスコミュニケーション程度では相手との縁を切らないという関係性をつくらないと、演劇はできない。それは要するに互いを信じ合う、信頼感をつくるということだが。
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輪になって、拍手を飛ばして行くゲーム。拍手を相手に飛ばすとき、しっかりとオファーを出してフォーカスを定めなければならない。ゆっくりやっても意味ない。滅茶苦茶速く。失敗するか失敗しないかのぎりぎりの速度で攻めていく。というか、稽古場では真剣にやるのはもちろんだが、一方でエラーしてもよいのだという精神的余裕を持たなければならない。ミスしたくない、なんて気持は稽古場では要らない。
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自分に酔っているうちは俳優にはなれない。実際、舞台上において、人が他人には見せたくないものを、他人に見せたら傷つくものを見せて欲しいからこそ、われわれは劇場に足を運ぶのではないか。当人が見せたいもの、いくら見せてもいいものを見せられたって、われわれは何も感じはしない。人が他人に見せたくないものを視線を引き受けて、自ら傷ついて見せてくれるからこそ、われわれは心を動かされる。だから、まったく他人の視線が怖くないという状態では意味がないのだが、他人の視線を恐怖し避けてまわっているだけでも駄目なのだ。そりゃ視線を受けない方が楽ですよ。でも他人の視線のプレッシャーを引き受けつつ、それを乗り越えて自己を他者の視線に曝さなければならない。
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舞台上で俳優はさまざまな制約の下にある。動きの線も科白もあらかじめ決まっている。しかしその制約を守るならば後は自由なのだということも知ってほしい。その自由を引き出すことこそ俳優の仕事なのだから。禁止されていないことは禁止しないこと(そうしないと予想外のパフォーマンスなんて出て来ようがない)。では何をやるのか? 規準は、自分がやっていて楽しいかどうかということだろう。他方で、飽きたら飽きたでいいと切り上げられる力も持つべきだ。その上で楽しいこと・面白いことを見つけていく。
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四人組をつくって、最初に一人が動き、次に二人で動き、次に三人で動き、次に四人で動き、次に三人で動き、次に二人で動き、次に一人で動き……とやるゲーム。複数人の動き出しと動き止めのタイミングは完全に同時でなければならない。また、間違った人数が動いてしまった(動く人数が足らなかった)場合にもアウト。このゲームのポイントは、全員で全員の身体をコントロールするような意識を持つこと。神経を研ぎ澄まして誰が動き出そうとしているかを察知しないと、絶対に成功しない。また自分の立ち方自体もオファーになる。「こいつ絶対に動き出しそうにない。ならば自分が動かなければ……」みたいなことを思わせる雰囲気オファーを出したり。動き出すタイミングはいくら待ったっていい。複数の身体による共時リアクションが生まれる瞬間を掴まえること。
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アマヤドリの方法論「全員で動く」。これはどうやったら観客を巻き込んでいけるかという課題に対する一つの答えである。観客を巻き込むには、まず舞台上の俳優同士の身体の関係性、俳優が俳優同士で互いを巻き込みながら影響を与え合う関係性がしっかりしていることが必須だろうということ。全員で同時に「歩く/止まる/走る」のシフトチェンジを行うのと並行して、「流行(ある特殊な動作が発生源から模倣されることによって広がっていく。ウィルスが感染していくようなイメージ。発生源がわからないような、誰からともなく広がっていくような広がり方が望ましい。さらに高度になるとこの「流行」は身体相互のコンタクトや即興での役割分担へと発展していく)」を作ることも行う。ポイントは、起きたことを否定しない・無視しないこと。偶然や事故で起こったことでも他の人が拾えばパフォーマンスになっていく。或る動きがあった時に、リアクションでその動きを1.1倍にして返していくのが大事。さらに1.2倍に、1.3倍に、1.4倍に。「流行」が高度になっていくと、戯曲のト書きに書き直そうとしたら複雑すぎて無茶苦茶大変なことを、俳優たちが即興のリアクションだけでやっているという状態になる。それが、舞台芸術の真髄なのだ! お互いを見て、リアクションして、リアクションを倍増して、一分先にはなにが起こるか予測不能な即興(動作流行パフォーマンス)の面白さ。俳優はこれほどに自由に動けるのだ。
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リーディング。一番やってはいけないのは、テキストを「さも分かったかのように」語ること。文章の意味が分かったからといって、それでもう「こう読むに違いない」ということを一義的に決めてしまって、それ以上の発展性を削いでしまうこと。おこがましいと思わないか? 他人との会話でも、「あーそれわかりますわかります」と言ってしまったらそこで終わってしまう。それ以上理解が深まらなくなってしまう。そうではなくて、テキストに対しても「分からない、何だこの文章は?」という感覚を大事にして理解を深めていかなければならない(理解とはそもそも、深まったと思ったら取り逃がしてしまうようなものではないのか?)。言い換えると、自分で出すのではなくて、受信と発信を両方同時にやるということ。何が書いてあるのか分からないテキストをとにかく受信して、それを肉声として発信する。もっと分からないように読んでいい。発信よりは受信の方が大事。これを実感するには、初見で読んだときの感覚を大事にすること。まだどう読むかが固定していないので、テキストの内容を弄ぶようなほど良い距離感が生まれ、受信→発信が自然に出来ているはずだ(で、実は聞き手もその方が内容についていきやすい)。とくにテクストを読む際の感情を一つに決めて、それにとらわれてその感情でべったりやってしまうと、むしろつまらない、むしろ真実味がなくなって、読む上での自由度がなくなってしまうので注意せよ。誰かに対する憎悪を必死に語っているテキストだって、爆笑しながら読んだっていいし、子供が駄々をこねるみたいに読んだっていい。「分かりきった」感情ばっかりに終始して読むくらいなら、感情をとりあえず脇において読んだ方がいい。
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戯曲を読んでの役作り。スタニスラフスキー的に言えば動機を見出すことが重要なのだが、さらに考えてほしいのは、その動機を共演者と共有するということ。リクエスト-レセプション-リアクションでそれを共演者に引っ掛けるということ。共演者を引っ掛ける=ちゃんと相手にリクエストを出す。そして自分のリクエストに対する相手の反応をしっかり見る。共演者の持っているものに応じて、動機が同じでもリアクションは異なるはずだ。そして相互リアクションによって当初想定していたものとは全然別なものが出て来たら本当に面白い。一人がなんかやる、もう一人がそれに反応する──相手次第、その場のノリで、起きたことを無視しなければ、どんなことでもパフォーマンスとして成立する。要するに「全員で動く」と同じで、ここでも共演者を注意深く見なければならない。科白が入ってもやることは同じだ。その場で生まれてくるものを大切にしよう。理解して決めたことをやるだけなら、演劇は戯曲読解にとどまってしまう。
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自分の重心を相手の重心にかかわらせるということ。たとえば相手を動かそうとするとき、重心を後ろに残して手だけで押しても、全然怖くない。そうではなく、手なんか使わないでも、自分の重心を相手の重心にかかわらせるように身体全体で迫っていった方が相手には怖い(後退りせざるを得ない)はずなのだ。或る意味こうして重心の重みを乗せて相手にかかわっていくというのは、相手に自分を預けるということに近く、預けられる方にしてみれば「迷惑」だということになる。ただし互いに迷惑を掛け合わなければ成立しないポーズや関係性というものがある。そして舞台上で俳優がやっていることは、お互いに迷惑を掛けまくるようなことでもある。あまりにも責任感が強い人は、他人を支えてあげることはやるけれども自分を預けることはやらない、という傾向があるようだが、舞台上では、それでは駄目だ。自分一人で自立している時の状態だけが重心のあり方ではない。支えてあげる/支えてもらう時の人の重心のあり方はもっと多様で柔軟性に富んでいる。自分の重心を変えれば変えるほど相手の重心も変えることができる。そうした重心のあり方に慣れなければならない。これは、科白のやりとりにも通ずることだ。ひとりよがりにならず、相手がどうしたいのか、相手に自分のオファーが伝わっているのかどうか、注意深く見つついかにして相手にかかわっていくかということ。相手を注意深く見て、何かもらって、それで湧いてくるもので科白を言う。自分でスピーカーにならなくていい。むしろ良い鐘となって鳴れ。
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そりゃ確かにわれわれの日常で「この人が自分の最愛の人だ!」なんてことは滅多にないけれども。あってしかるべきだけどね。だが、舞台の上にいる間だけは「愛してください!」という態度でやって欲しい。「私のことなんか気にしてませんよね。私もあなたを放っておくのであなたも私を放っておいてください」なんていう態度の演技は一切要らない。舞台の上にいる間だけでも、人に期待し、人に頼れ。そこにはむろん羞恥心があっていい。大変だ。恥ずかしい。緊張する。逡巡する。だが、その壁を演劇では越えてくれ! しっかりと相手に期待して、オファーを出し、リクエストを出すのだ、「……して欲しい」と。
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相互のリアクションの重要性ということで言えば、「相手の見ているものを見ろ」と忠告したい。劇中のやりとりのさなかでも、相手が自分をどう見ているかをちゃんと気づき、感じなければならない。リアクションの前にまずレセプションがある。相手の中で自分がどう思われているのかを感じることができれば、それによって態度を変化させざるを得なくなるはずだ(レセプションがちゃんとしていれば、リアクションも出てくる)。そのようにして関係性が生まれてくる。相手が自分をどう見ているかまったく気にしないのなら、何をやったって傷付かずに済む。だがそれは、「お芝居」だから傷付かないというだけのことだ。或いは、演技として身体を触られる場合においてもそうだ。その局面で相手に触られて自分が何を感じるかを受容できなければ、触られようが触られまいがまったく態度が変わらないということになってしまう。でもそれも、「お芝居」で触られているから何も感じないで済んでいるだけのことだ。
:【個別的なダメ出し】
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あなたのオファーがどこへ向かっているのか。その意識なしに声を出してはならない。どこへ向けるともなく、なんてのは駄目だ。オファーを出すときのフォーカスは嗅覚鋭く。あいまいでは駄目。
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科白へのダメ出しで、よく言われるのが「歌うな!」。つまり、テキストを音や音階で覚えるなということ。テキストは運動しているものだから。
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二重の空間を意識する。三百人の前で喋るなんてことは日常ではほとんどないが、三百人の客の後方の席まで声が届くようにするためには、日常の距離感の芝居では使うはずのない(相手役に聞こえるのに必要な声量以上の)大音量を使わなければならない。(1)相手役に聞こえればよい音量、(2)客全員に聞こえる音量、という二重性を、発声時には意識しなければならない。あなたの耳も目もちゃんと客席に置いておかなければならない。どう見られ聞こえているかを計算しながら自分の役に没頭するという二重性を、俳優は生きなければならない。
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言葉の魔法によってこの空間を変えてくれ。そしてその変わった空間を自分自身で見てくれ。
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あなたの癖として、首を動かしすぎる。また、脚を踵を浮かせてしょっちゅう重心を左右に揺らしている。これはおそらく、人前で演技することのストレスをそういう仕種で逃しているということだと思う。対処法としては、動かさないようにするのではなく、大元のストレス自体を取らなければならない。もし客の前で変な身振りをする必要のない、客の前でまったくリラックスできる瞬間があるのなら、なぜその状態になれたのか、自分で分析してみるといい。とはいえ、緊張感は必要なことだが。リラックスしつつ末端のエネルギーはぐっと溜めておくというのが理想だ。
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怒る時、ストレートに「怒っている」という演技にしてしまうと、幼稚に見えるし、見辛い。われわれは普段怒る時には、その作用と同時に反作用も感じ取っているはずだから。どれほど怒っている時でも、その怒りを抑制しようとする反作用が働く。「好き」という感情を出そうとする場合も同様。
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何のために相手に寄るのか。寄るためだけに寄っているから、お芝居じみて見える。相手役を見ないで答えている。なぜ相手を見ないで答えるのか、その動機は? 相手とどうかかわるのかという意識をつねに持たなければならない。
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喋る時は動いて、聞く時は止まっている。お芝居でありがちなアクションになってしまっている。実際には、われわれはリアルでは相手の話を聞いている時に坐り直したり、貧乏揺すりしたりするよ。そこはうまいこと意識の配分ができるといい。演技においては、いろんなタスクを同時にやらなきゃならない。喋って、見て、すべてを聞いて、変化を察知して……。相手の話を聞いている時にどれだけ動けるか。
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不必要に相手から視線を逸らさないこと。それによって芝居がとぎれてしまうから。どうやらあなたは科白がすっと出て来ない時に目を逸らす癖があるようだが、その癖は直そう。相手役との関係をずっと途切れさせないこと。
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そんな意味深にやらなくていい。脚本的には伏線を張っているところでも、登場人物はそれを伏線だとは知らないんだから、もっとさらっと、シンプルにやっていい。
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あなた本位で動かない。相手本位で動くこと。どんなに演技プランを練っていても、相手との関係性の中で納得できるタイミングでやるのではなく、あなた一人でのやりたいタイミングでやってしまうなら、それはまったくひとりよがりなパフォーマンスに過ぎない。観てる側としては「なんでそこでそうするの?」という印象を持たざるを得ない。
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ポケットに手を入れるのは、入れないなら入れないでやって欲しい。その登場人物がポケットに手を突っ込むような人間ではない場合だってあるのだから。その方が手首から先の演技ももっと自由になる。
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あなたは自分が言うことに対する相手の反応を見ていない。見ないまま科白を喋っている。あなたがその科白を言うときに「こいつは帰ってくれるだろうか?」というリクエストが感じられない。「自分の言うことを聞いて帰ってくれるかな?」と様子をうかがう感じがまったくない。相手役にもっと頼らなければならない。
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やたら腰に手を当てたり、指で何かを指したりするのは、初心者っぽい。
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リアクションをもっと早く。テンポ早く。一個おいて〜一旦受け取って〜こねくり回して〜また出して〜というテンポではやらないでくれ。演出家としても間をたっぷり取るよりもシュッとしていた方がいいのだ。観客だって、同じ内容なら上演時間が短い方が良いはず。ゆっくりする、溜めに溜めるなら、ゆっくりするだけの理由がなければならない。
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全身を演技に参加させること。言葉のやりとりと身体をつなげること。全身が参加してないから声量も小さい。姿勢として腰が落ちている。腰が引けている。やたら相手の肩をポンポン叩いても全然作用していない。腰で押していけば相手に触らなくても相手を動かせるのに。腰が引けていて、手先だけで触れて、演技しようとしている。それでは無責任な関わり方にしかならない。
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単純に声量が小さいのは、口のまわりの筋肉、顔の筋肉が足りない、腹式呼吸ができていないということもあるのだが。これはもう、自分の声を遠くにとどかそうという意識をつねにもって、慣れていくしかないね。
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あなたは気持を切り替えるときに瞬きをする癖がある。
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科白が入っているから止むを得ないということでもないのだが、あたかも相手がどんな言葉を返してくるかを知っているかのような雰囲気を出しては、駄目だ。たしかに情報としては知っていることなのだが、それをまったくの新しいものとして受け止めなければならない。そのためにはフィーリングに着目しよう。相手の言うことをどう理解するか、ではない。相手にそう言われてどう感じるか。そのフィーリングを毎度毎度喚起するようにし、フィーリングの流れで自然に気持・態度の変化が演技にあらわれてくるといい。
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テキストの意味を理解してそのままやろうとすると、その場で生まれた感じがしない。決めたこと、解釈したことを忘れる勇気を持て。
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あなたの癖としてやたら首を動かすということがある。首で喋ってしまう。首が動いてしまう。顔で動いてしまう。顔で演技してしまっている。
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状況を理解しよう。ここでこの登場人物は自分の家という空間でリラックスしているはずだから、「お芝居」としての身振りではなくて、ノイズとしての動きが欲しい。お芝居としての身振りへのエネルギーをノイズの動きに逃がしてみてほしい。